>>502 定石の闘い、よーは「〜が来たら〜を使う」という類の理屈は確かに一つの方法論にはなる。
三竦みとかジャンケンにも通じる。
この方法を最重視して敢えて描き続けているのがH×Hの様な理屈漫画と言われる種類。
昨今、この系統のジャンルを「頭が良いバトル漫画」とするファンを沢山見るけど、その理屈は一人の主観中心に働いている為
ある意味では、最も漫画的な漫画と言える。あくまで漫画的な心理戦であり、漫画的な結末に終始する。
オレが何を言いたいかって言うと、作者にとっても対カイオウにおいて魔闘気論破はさして重要では無いって事。
あの闘いで北斗的視野に重要なのは、北斗神拳発祥の謎とそれにまつわる悲話だった。その事実を知ってケンシロウはまた自分を知る事にもなった。
言うなれば、魔闘気攻略はそれで十分だった。ただでさえ、怒り・愛・執念が決定打を打つ北斗の拳に置いて、上記の様な攻略法を作者自身に
「考えられなかった」と結論するのは非常に寒い見解に思う。「合理的に解釈する」という言葉を使っていたが、そこがかなり狭量だと感じる。
もし、この作品について個人的に「考えられなかった」部分があるとするなら、それは作者自身が最後の最後まで「ラオウ」という存在を超えられなかった事。
それはネガティブにもポジティブにも。あまりに大き過ぎる存在が自分の作品の中で素材としてでなく、壁として闊歩する。
オレはその部分に、ケンシロウと作者を被らせて面白かった。