中国起源の意外なものの数々

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73通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:46 ID:IiIBbzzE
蟻の手も借りたいとは?

「実用動物辞典」 民明書房

甲冑軍隊蟻(かっちゅうぐんたいあり)

学名(エジプティアン・キラー・アント)
隊長20ミリ 別名「砂漠のピラニア」といわれるほどの凶暴性と集団性に特徴がある
百匹のこの蟻が集まれば 駱駝一頭を三分以内に白骨化してしまうという
知能も高く 飼育すれば人間の命令にも従うようになる為 古代エジプトでは麻製の手袋にこの蟻を詰め 労働力の補助としていた
ちなみに現代でもエジプトでは忙しくて人手が欲しい時 「蟻の手も借りたい」と表現するのはこれに源を発する

74通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:47 ID:IiIBbzzE
盃野郎とはいったい?

「世界残虐刑罰史」 太公望書林

死頭盃(しょうたおぱい)

古代中国拳法界において その規律の厳しさで知られた功なん(ごんべんに南)寺(こうなんじ)で行われた制裁法
本来は硫酸を満たした盃を頭上に乗せて戦い 平衡感覚を養うと同時に 恐怖心を克服する修行法であった
それが 相手に毒を盛り 頭上の解毒剤を取る為に戦わせるという一種の拷問に変化した
この制裁を受けるのは 拳法家としての名誉を著しく傷つけられた場合に限られ 決して報われぬ絶望的努力をしながら死んでゆくのである
ちなみに 現代で無駄な努力をする人のことを 盃野郎というのはこれに源を発する

75通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:47 ID:IiIBbzzE
Velt's Invention!?

「英国貴族の習慣・風俗」 太公望書林

膨漢丹(ぼうかんたん)

現代科学でいうプロタイン系アスコルピンマイシン
18世紀末 英国貴族の間ではその富と権力を象徴する証は太っていることだった
そのため 当時の貴族達は腹部の大きさを競いあった
こういう時代背景にあって 各貴族の御用科学者達が腹部を膨張させる秘薬の開発を命じられたのは当然のなりゆきであったといえよう
そして その薬を最初に発明したのがエジンバラ公お抱えのE・ベルツ博士であった
この薬は現代では当然無用の長物であり 役に立たない物のことを英語でVelt's Inventionというのはこれが語源である

76通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:48 ID:IiIBbzzE
男たちが回し飲みする風習の起源は?

「エーゲ海 〜古代格闘史の浪漫〜」 太公望書林

蛇血誓闘(スネーク・ブラッド・コントラクト)

古代ギリシャのコロシアムにおいて 因縁のある試合に完全な決着をつけるために行われた決闘法
その起源は ギリシャ格闘士史上最強の勇名を競いあっていた ヘドビウスとダビウスがミロス王の発案により行ったのが最初とされる
ちなみに あまりに有名なギリシャ特産のシラキューズ酒には グリーク・ティナコンダの血が入っており 男たちが景気をつける時にこれをまわし飲みする風習は これに由来する

77通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:49 ID:IiIBbzzE
ケッペルの法則とは?

「中国拳法 〜その科学性〜」 民明書房

無明察相翫(むみょうさつそうかん)

中国拳法 その三千年の歴史において 最大の秘技として知られている
その特色は 現代でいう行動心理学のケッペルの法則を応用し 相手の動きを完全に予測することにある
ケッペルの法則とは 人間がある一定条件下で心理的圧迫状態に陥った時 年齢・性別・知力・体力・性格にかかわらず 全て同様の行動パターンをとることをいう
これは人間以外の動物にもあてはまり 一例をあげれば 箱の中につくった迷路にネズミを放しある刺激を与えると 全てのネズミは同じ順路を通り逃げ回る
現代最高峰の心理学理論を応用した拳法がすでに存在していたとは 驚嘆のほかはない

78通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:50 ID:IiIBbzzE
毛利三綱の情!?

「戦国武将人情譚」 民明書房

抛托生(ほうたくしょう)の業

戦国時代 屈指の名将といわれた毛利元就が 天下分け目の砥石が原の合戦の折りに洗浄に送り出した 隆元・元春・隆景の三人の息子と危険と苦しみをわかちあい 戦勝を祈願するため中国秦代の韓信将軍の故事にのっとり おこなったのが最初とされる
戦場にある者に対する深い愛情なくしてはできない荒行である
ちなみに 現代でも使われる 親が我が子を思う気持ちの強さをたとえていう 「毛利三綱の情」とは これより発する

79通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:51 ID:IiIBbzzE
借金で首が回らなくなるとは?

「中国拳法大武鑑」 民明書房

辮絞旋風大車輪(べんていせんぷうだいしゃりん)

中国清代初期 辮髪の習慣を活用した幻の拳法があった
修行には重さ100貫20寸角の雫鋼鉄(だこうてつ)を吊るし 頭髪と首を鍛えたという
この拳法を会得するためには 最低3個の雫鋼鉄を持ちあげ 自在にふりまわすだけの技量が要求された
ちなみに 現代でいう 「借金で首が回らなくなる」という表現は 当時 雫鋼鉄が非常に高価なため 途中で買えなくなり 修行を断念した者がいたという事に由来する

80通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:53 ID:IiIBbzzE
ラオロウとはなんでしょうか?

「鉄拳記」 民明書房

竜盆梯网闘(りゅうぼんていもうとう)

中国拳法完成期といわれた明朝末期盛んに行われた二名対二名で闘う連帯組手(現代でいうところのタッグ・マッチ)の一種 直径三十米の大器になみなみと濃硫硝酸を満たし その上に長さ二十五米の梯を組む
この梯は山東省白新山で伐採された 非常に軽くもろい老柔杉(ラオロウすぎ)でつくられ 三名以上が同時にその上に乗ると割れ落ちるように強度が計算されている
つまりその梯の上で闘えるのは両軍一名ずつで 選手が交代する場合は今まで闘っておった者がこの梯を完全にでてから 次の者が入らねばならない仕掛になっていた
なお余談ではあるが 現代でもこの老柔杉を用いて家屋を建造することは 強度不足の為法によって厳しく取り締まられており 安普請の貧乏屋をさして「ラオロウ」というのはこの所以なり

81通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:54 ID:IiIBbzzE
たっグマッチ妄想

「偉大なる中国拳法」 中津川大観著、時限出版

磁冠百柱林闘(じかんひゃくちゅうりんとう)

中国宋代 四川省拳法家達によって盛んに行われた異種格闘技
当時は杉木立の枝をはらい 頂部を切断してその切口を足場とした
その杉は最低でも高さ15米以上 直径は十センチから三米までと変化に富み 落下しようものなら即死はまちがいなく まさに命がけの勝負であった
後に四川省青陽山(チンヤオさん)で強磁石が発見されるにいたり 杉の頂部に鉄板をかぶせ 磁靴(じか)をはき二名対二名で戦う磁冠百柱林闘が完成した
千変万化の中国格闘技にあっても この磁冠百柱林闘は最高の技術とチームワークを要求される高度な闘いの一つである
現代のプロレスに見られるタッグマッチは この磁冠百柱林闘を彷彿とさせる

82通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:55 ID:IiIBbzzE
てんびん肉とは?

「中国三千年の歴史に学ぶ現代人の知恵」 民明書房

天稟掌波(てんびんしょうは)

中国武術三千年の歴史を誇る南朝寺教体拳最大の秘技とされている
この技を極めたという明代最高の拳士林周明(りんしゅうめい)は 百米頭上を飛ぶ鳥を気合いもろとも一閃のもとに落としたと伝えられる これから俗に落鳥拳(らくちょうけん)とも呼ばれている
因みに林周明は料理人としても当代随一といわれ この天稟掌波で落とした鳥は肉がよくしまり これで作られた料理は最高の宮廷料理として珍重された 現代でも最高の鳥肉をテンビン肉というはこれなり

83通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:55 ID:IiIBbzzE
忘六者(ぼうろくもの)とは?

「古代刑法全」 民明書房

六忘面痕(ろくぼうめんこん)

二世紀 中国漢代後期 大罪を犯した咎人に科した刑罰のひとつ 孝・忠・信・義・仁・礼の六つの徳を忘れた反逆の徒という証に 左右あわせて六条の傷を顔面に切り刻んだという
現代でも不逞の輩を指して忘六者(ぼうろくもの)というはこれで語義を発する

84通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:56 ID:IiIBbzzE
有名な話を一つ

「世界気象大鑑」 民明書房

俗にいう「昇竜風」(しょうりゅうふう)… 気象学上は主に二千メートル以上の山の北斜面断崖絶壁に於いて発生する風速百メートル以上の上昇気流をいう
一九二四年 スコット大佐の率いる英国エベレスト登山隊の一員が その北壁に於いてザイルが切れ危うく命を落としそうになった時 この昇竜風によって救われたという奇跡は登山家の間ではあまりに有名な話である

85通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:57 ID:IiIBbzzE
極道社会の風習

「日本風俗奇譚」 民明書房

男塾血誓痕生(けっせいこんじょう)

その由来は 中国大陸をかけめぐりその勇猛果敢なことで名をはせた蒙古ジンギス汗の一族が 仲間に戦死したものがでるとおのれの腕にその名を刻み 永遠の復讐を誓い必ずカタキをとったという故事にちなむ
近代日本でも 極道社会に於いては殺された親分の名を腕に刻み 復讐を誓う風習が残っているという

86通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:58 ID:IiIBbzzE
らぐびー

「ヨーロッパ中世スポーツの起源」 民明書房

男塾名物『羅惧美偉(ラグビー)』 その起源は遠くヨーロッパ中世ラグビー発祥の地 イギリス・イングランド地方にあるという
その頃王侯たちの間で ラグビー(その原型というべきか)のチームを持ち競い合うことが流行し 自分のチームを強くする為にそのような残虐な練習方法がいくたびか行われたと記録にある

87通常の名無しさんの3倍:03/06/10 11:58 ID:IiIBbzzE
魂剣石をも斬るの語源

「剣史記」 民明書房、1905年

一文字斬岩剣

世に灯籠切りといふ 江戸時代剣聖とうたわれし一文字流神泉正宗(ごういずみまさむね)が家康に請われ 一度だけ御前にて石灯籠を一刀両断 世間(あたり)を驚かせたといふ 以来三百余年剣道界に於いて幻の業とされ これを極めたるものなし
余談ではあるが 不可能を可能とする意の「魂剣石をも斬る」といふことわざはこれをいふなり
88_:03/06/10 12:02 ID:???
89通常の名無しさんの3倍:03/06/10 12:24 ID:???
わしが男熟塾長江田島平八であーーーーるっ!!!!
90通常の名無しさんの3倍:03/06/10 13:44 ID:???
驚くほど面白くない。
男塾は大好きだったのにな。
91通常の名無しさんの3倍:03/06/10 18:14 ID:???
>>1よ。
君の熱意は確かに認める。
ヤマオカなんぞよりよっぽど建設的である。が、しかし。
よく聞けよ。
ここはシャア専用だ。
>>14も言ってる通り、ガンダムと絡んだネタを展開してくれたまえ。

頼んだぞ。
92通常の名無しさんの3倍:03/06/10 22:35 ID:???
ネタって言うか全部コピペだしな。
93通常の名無しさんの3倍:03/06/11 00:18 ID:+ZaOOfEg
ピクニックとは?


西遊記で三蔵法師が目指した天竺とはインドではなく、
実は古代中国に栄えたといわれる幻の都、毘郁(ピイク)地方であったという説がある。
毘郁地方は近代ビルが立ち並びながらも広大な野山などの自然にも恵まれ、
争いの全くなかった平和な土地であったといわれている。
ちなみに、現在で言うピクニックとは、「毘郁に行く」がなまって出来たものだということは
誰もが知るところである。



民明書房刊「古代中国の幻の都蝶々」より
 


94通常の名無しさんの3倍:03/06/11 00:19 ID:+ZaOOfEg
ちゃらんぽらんとは?

日本における落語の「よたろう」とも言うべき人物が中国にもいた。
その男は名を茶蘭放(チャ・ランポウ)といった。
何をやってもダメな奴、口にすることはめちゃくちゃ。
現在そういう人を「ちゃらんぽらん」と言うのは、
茶蘭放に「乱」をつけた「茶蘭放乱」が語源なのはいうまでもない。


民明書房刊「秘密の人物史」より
 
95通常の名無しさんの3倍:03/06/11 00:19 ID:+ZaOOfEg
ロックンロールとは?


音楽におけるドラム、そしてエレキギターの考案者が中国人だということは
余り知られていない。呂九龍(ロ・クーロン)という人物である。
この二つの楽器の考案によってそれまでの牧歌的な音楽から攻撃的な音楽を作りだした彼は現在でも中国ではその名を知らぬ人はいないといわれ、音楽の神様として伝説となっている。
なお、「ロックンロール」というのは、彼が作り出した音楽のジャンルであり、
呂九龍流(ロ・クーロンりゅう)が訛ってできた言葉だという説が今のところ最も有力である。


民明書房刊「音楽と気孔」より
 

96通常の名無しさんの3倍:03/06/11 00:20 ID:+ZaOOfEg
ビスケットとは?

2月28日は「ビスケットの日」である。
この日は中国で最も有名なお菓子職人、「毘須慶頭(ビス・ケイトウ)」の誕生日である
という説が今のところ最も支配的である。


民明書房刊「中華料理四方山話」より
 

97通常の名無しさんの3倍:03/06/11 00:21 ID:+ZaOOfEg
インターネットとは?
 
紀元前一六世紀頃、現在の中国は殷という王朝が治めていた。
そして当時、気功術の達人に太(たあ)という男がいた。
彼は独自の情報網を唱え、それを気功術の広布に使ったという。
この情報網のおかげで気功術法も中国全土に知れ渡り、 これが後の太極拳に発展した。
現在、コンピュータネットワークにも、 この太氏が唱えた情報網が元になっており、
殷時代の太氏によるネットワークという意味から、 殷・太・ネット(インターネット)と呼ばれるようになった。

民明書房刊『コンピュータ中国史』より
初版発行1999年2月19日

98通常の名無しさんの3倍:03/06/11 00:22 ID:+ZaOOfEg
ぐうたらとは?
 
14世紀のヨーロッパでは、中世のキリスト教中心の考えから、 ヒューマニズム思想へと文化の変化が見られた。
いわゆる文芸復興…ルネッサンス運動である。
 ヒューマニズム思想とは、人間性を求めた思想であり、 『人間らしさ』を尊重し人間の能力を重んじる。
そして芸術・技術・運動など、 様々な分野で活躍する天才を理想とし、 そういう万能の天才を「万能人」と呼んだ。
 そんな中、スコットランドの グウタル・マッキャリオンも万能人を目指し、 あらゆる分野で学業を積んだ。
 だが彼は怠け者で何事も長続きせず、 何一つとして突出するものがなかった。
万能人どころが何も出来ない彼は、 そのうち怠け者の代名詞となってしまった。
人々は一般に怠け癖のある人を彼の名にちなんで「グウタラー」と呼び、軽蔑した。

 なお現在でもスコットランドの一部地域では怠けることをグウタルといい、 怠け者をグウタラーと呼ぶ。 日本語で怠け者を「ぐうたら」と言うのはこれが語源という説が有力である。


民明書房刊『ナマケモノがまだ見てた』より
初版発行2001年6月2日

99通常の名無しさんの3倍:03/06/11 00:23 ID:+ZaOOfEg
ストロボとは?

 時は戦国時代、日々の戦闘の中、間者(忍者)は忍術の開発に余念が無かった。
 そして火遁(かとん)の術といった、 火や光を扱うものは忍術の中でも効果が高いとされ、
使いこなすにも高度な技術が必要だったとされている。
 中でも閃光を発するのは、目くらまし・目潰しの術として特に研究・開発されていた。

 これを実用化したのが、真田昌幸に仕えた栖瀞坊(すとろぼう)である。
彼は燧石(すいせき)を使用し、一瞬で強烈に点灯する光源を編み出した。
 但し強すぎる光は目潰しに有効ではあるものの、 忍者として目立ってしまうことになる。
そのため、この忍術はやがて使われないようになってしまったと言う。

 今ではカメラなどの光源に使われる「ストロボ」の名に当時の名残が見える。 また彼が水遁の術で水中に潜るために使用した管は、「ストロー」と呼ばれているのは周知の事実である。


民明書房刊『火遁の術でバーベキュー』より
初版発行2000年9月28日

100通常の名無しさんの3倍:03/06/11 00:25 ID:+ZaOOfEg
ミレニアムとは?
 
19世紀後半、それまで歴史画が主だった絵画で、自然画をモチーフにした画家たちが現れた。
コロー、ルソー、トロワイヨンを始めとする彼らは、フランスのその地名からバルビゾン派と呼ばれた。
 この中で、最も有名な一人にミレー (ジャン=フランソワ=ミレー Jean Francois Millet 1814〜1875)が挙げられよう。
 彼は農民の働く姿や生活を敬愛と詩的情感をこめて描いたと言われ、 『落穂拾い』『晩鐘』『種まく人』などは誰もが御存知と思う。
 そして彼の作品は後期に多くの影響を及ぼし、 ミレーの画風は来世まで1000年に渡って評価されるといわれ、 彼の名にちなんでミレニアム(millennium)と呼んだ。
(語尾の〜iumとは、pentiumなどと同様、接尾語である)
 そして1世紀以上が経った現代でも、彼の評価は落ちるばかりか、 未だにバルビゾン派の第一人者として評価が高い。

 なお1000年もの間評価されるという意味が転じ、 1000年間、そして千年の節目をミレニアムというのは周知の事実である。
ミレニアム(千年)もの間、 価値を落とさないと言われたミレーの天才ぶりには驚くほかない。

民明書房刊『最速!ミレニアム』より
初版発行2000年3月21日

101通常の名無しさんの3倍:03/06/16 19:00 ID:???
空手
102通常の名無しさんの3倍:03/06/17 12:27 ID:4OsMu1zm
短放砲と富乳妄忍

中国東部手礼都の朝暁寺に伝わる奥義のなかには三身一体の連携を極意と
する奥義が二つある。
ひとつは「短放砲」もうひとつは「富乳妄忍」である。
短放砲は大、中、小の体格の者で構成され、中の者が敵の気をそらしている
間に、大の者が小の者を砲弾のように放り投げ敵にぶつけるという荒技である。
歴史上代表的な使い手は「知 瓶婆」「黒 江彩」「華 王倫」らである。
富乳妄忍はまさに三身一体の連舞であるが、途中で仲間割れを起こしたかのよう
な寸劇を交え、油断した敵の隙をつくのが持ち味である。
代表的使い手は「呉 糖巻」「安 打刑」「偉 地位」があげられる。
短放砲については2名で使っていたという記録もあるが、定かではない。

(民明書房刊 「集団戦術の歴史」より)

103通常の名無しさんの3倍:03/06/17 12:27 ID:4OsMu1zm
世苦死光波

中国東部手礼都の朝暁寺に伝わる奥義の中でも最も習得が難しいと
されていたのがこの「世苦死光波」である。
長い朝暁寺の歴史の中でもこの奥義を使いこなしたのは、開祖である
「妄 忍愚」と「知 瓶婆」の2名だけであったといわれる。
特に「知 瓶婆」は150cmに満たない身長ながら、この奥義で百人組手
を制し、師範代にまで昇りつめた。
奥義の仔細は定かではないが、文献には
「ソノ波動 緑色二シテ 是 浴ビシ者 脱力シスベテ傀儡ト化ス」
とあり、気功を用いた集団催眠のような奥義であったことが覗える。

(民明書房刊 「中国奇拳百選」より)

104通常の名無しさんの3倍:03/06/17 12:28 ID:4OsMu1zm
朝暁寺の分裂と統合
歴史上常に一枚岩の団結を誇っていた朝暁寺一派であるが、一時期三派
に分裂、抗争していたことはあまり知られていない。
時に玄穐十二年三月、時の権力者突九帝が朝暁寺最強の拳士を決定する
御前試合を開いたことがこの分裂のきっかけである。
元来実力伯仲であった朝暁寺の師範、師範代たちはこの御前試合をきっかけ
に互いに対抗意識を強く持ち、独自の流派を開き分裂していった。
多くの流派が乱立したが、血で血を洗う抗争の結果大きく三派に統合され、
その後しばらくは三派抗争の時代が続いた。
分裂した三派はそれぞれ赤、黄、青の道着を用いていたことから、
「赤派」「黄派」「青派」と呼ばれていた。
最終的にこの分裂抗争は赤派の勝利に終わり朝暁寺は再び統一される。
しかしこの抗争により各派の棟梁(「呉 糖巻」「菜 通知」「偉 地位」)
らがその権力を強め、朝暁寺一派は分権政治の色彩を強くしていくことになる。


青派流と戯打

朝暁寺分裂時代の三派の中でも最大勢力を誇っていたのが、青派である。
青派流の特徴はその「御威!御威!御威!」という独特の掛け声と「戯打」
と呼ばれる独特の武具を用いていた点にある。
「戯打」がいかなるものであったかは定かではないが、かなりの重量であっ
たらしく、小柄な「知 瓶婆」などは逆にこの武具に振り回されていたとい
う記録が文献に残っている。
歴史上「華 王倫」がこの「戯打」の名手であったらしく、文献には
「其レヲ 振回ス姿 貞子ノ如シ」
とあり、鬼神のような活躍ぶりが覗える。
<「貞子」はどうやら中国民間伝承に登場する鬼神の一種のようである>

(民明書房刊 「拳法と武具発達の歴史」より)

105通常の名無しさんの3倍:03/06/17 12:29 ID:4OsMu1zm
妄無素と網異誤の抗争の歴史(1)

玄穐十一年七月、時の拳法家「網 異誤」と武道集団「妄無素」
による果し合いが行われた。両者は共に中国東部手礼都の朝暁寺の
出身であることで知られている。
「妄無素」は、当時最強の使い手だった「菜 通知」を中心に
七身一体の攻撃を仕掛け、「網 異誤」は師匠直伝の拳法を取り入れ
これに立ち向かった。
結果は「網 異誤」の勝利に終わったが、「妄無素」はこの敗戦を
乗り越えて、以後、勢力を拡大していくことになる。


黄派の敗北と富乳妄忍同盟の暗躍

三派分裂抗争の中で当時最も勝利に近いと考えらていたのが黄派である。
黄派流の特徴は跳躍力を生かした攻撃にあり「文!」の掛け声と共に10m
以上跳躍したという記録がある。
黄派は当時朝暁寺の師範であった「菜 通知」を棟梁とし、実力的には
他の二派を凌駕していた。
しかし、黄派は完全勝利を目前としながら赤派の天才拳士「呉 糖巻」の
潜在能力と「安 打刑」の裏切り、そして青派残党の攻撃により敗北する
ことになる。
この黄派潰しの一連の動きを裏で操っていたのが青派「偉 地位」であった。
この敗北で「菜 通知」は朝暁寺における絶対的地位を失い、「偉 地位」
ら「富乳妄忍同盟」の朝暁寺における政治的影響力が強まり、分権政治の時代
が幕を開ける。

(民明書房刊 「朝暁寺一派の盛衰」より)

106通常の名無しさんの3倍:03/06/17 12:29 ID:4OsMu1zm
赤派の天才拳士・・・呉 糖巻

三派分裂時代に最も小勢力だったのが赤派である。赤派はその地盤を固める
のが他の二派より遅く、朝暁寺の覇権を争う上で大きく水を開けられていた。
しかし、1人の天才拳士の登場から赤派の勢力は巻き返しを始める。
その拳士の名は「呉 糖巻」。当時の朝暁寺師範代中最年少の拳士であった。
当初、「呉 糖巻」は三派分裂抗争に関心がなく中立の立場を保っていた。
しかし時代はこの天才拳士を放って置かず、本人の意思と関係無く赤派の
棟梁に祭り上げられてしまう。
「呉 糖巻」を得た赤派は、青派を打ち破り勢いに乗る黄派を倒し、朝暁寺
の再統一を成し遂げる。その後、「呉 糖巻」は朝暁寺の師範の座に就くが、
あまり政治には関心が無かったようである。
文献に残る「呉 糖巻」のエピソードは「修行をしていたところを見たことが無い」
であるとか「寺の縁側で寝てばかりいた」といったものばかりである。この辺が天才
拳士と呼ばれる所以であろう。
しかしこの天才拳士も師匠にあたる「偉 地位」には頭が上がらなかったという。
意外な一面としてまめに日記を記しており、彼女の綴った「赤派日記帖」は当時の世
相を知る上で重要な史料である。

(民明書房刊 「驚愕!寝るだけで強くなる!?」より)

107通常の名無しさんの3倍:03/06/17 12:29 ID:4OsMu1zm
三派抗争と周辺異民族

朝暁寺の分裂時代を語る上で各派に協力していた周辺異民族の存在を無視
することは出来ない。
青派は「嶺風亜族」と「彌牙族」
赤派は「堕尼得族」
黄派は「亜椰夏族」
をそれぞれ従え、戦力に組み込んでいた。
青派に属した「嶺風亜族」と「彌牙族」は言語の違いからコミュニケーシ
ョンが困難な上、元が陽気で平和的民族だったため、戦力にならなかった
ようである。
赤派に属した「堕尼得族」は幻の一族とよばれていた移動民族で、言語は
全く通じなかったものの、皆恐るべき体格とパワーを誇っていた。
特に赤波に協力した酋長は「悪炉波!」の掛け声と共に十数人を一度に吹
き飛ばしたという。
黄派に協力した「亜椰夏族」は交易民族であったため、言語コミュニケー
ションが可能であった。戦闘力のみならず、物資補給においても役に立つ
亜椰夏族を黄派はかなり頼みにしていたようである。
実際、対青派戦の勝利は亜椰夏族の力が大きかった。
「〜にあやかる」という言い回しの由来はこの黄派と亜椰夏族の故事から
きている。

(民明書房刊 「涙の亜椰夏乱舞」より)

108通常の名無しさんの3倍:03/06/17 13:39 ID:???
コピペを初めて覚えたから嬉しいんだろな…。
109通常の名無しさんの3倍:03/06/17 18:21 ID:???
で、どうガンダムと絡むんだ?(マラ

削除依頼の用意があるから、早めに答えるように。
110通常の名無しさんの3倍:03/06/17 19:51 ID:???
>>1
頑張ってください。私はもう来ませんけど。
111通常の名無しさんの3倍:03/06/17 21:31 ID:4OsMu1zm
(特別寄稿)番外編・阿羅死

中国東部手礼都には秘密の犯罪結社が存在した。その名を「邪尼頭」といい恐るべき数の
暴力で犯罪を行っていた。その中でも有名な一派が「阿羅死」である。
その見境の無い所業に手礼都の住民は恐怖した。
事態を重く見た突九帝は朝暁寺の「妄無素」に討伐を依頼する。
激しい死闘の末、「妄無素」は「阿羅死」を倒し、手礼都はとりあえず平安を取り戻した。
この際「安 打刑」は「阿羅死」の一員「唖 井馬」を生け捕りにし食ったという伝説が・・・
民衆の噂話にはあったがどのように食ったかは定かではない。
ちなみに現在娘。板を覆う荒らしの由来は、この「阿羅死」から来ていることは言うまでもない。

(民明書房刊 「年下男の食いかた」より)
112通常の名無しさんの3倍:03/06/17 21:31 ID:4OsMu1zm
「羅武魔神」

時に玄穐11年9月、手礼都のみならず中国全土を震撼させた怪異がこの「羅武魔神」で
ある。この羅武魔神、古くは殷の時代の文献に出現しており妲妃と並んで殷滅亡の原因を
作ったといわれた。
しかし後にこの魔神は道士である太公望に壷に封印され土中に埋められる。
しかし、手礼都の好事家がこの壷を発掘、そして誤って割ってしまったためこの魔神は
再び世に出てしまう。
復活した魔人は中国全土の覇権を高らかに宣言。手始めに手礼都の王宮に向かって進撃を
開始した。
暴れる魔神を止めるため手礼都、そして周辺諸国の軍隊までも出動するがあっさりと全滅
させられ手礼都は半壊滅状態となる。
最後の賭けとして突九帝は朝暁寺一派に救援を依頼、朝暁寺の精鋭「妄無素」の8人が魔神
退治に向かう。王宮近くの湖のほとりで魔神と妄無素は対峙、7日7晩に渡る死闘の末
「黒 江彩」が己の身を犠牲にして魔神の動きを止め他の面々が生命を削って放った究極
奥義「絶 短放砲」が魔神の急所を捉える。
魔神と黒 江彩は湖に沈み、二度と上がってこなかった。大きな犠牲を払いながらも魔神
は倒され、この事件で「妄無素」の名声は中国全土に知れ渡ることになる。
なおこの魔神は後の世の日本にも出現した記録が有り、その時は「安倍晴明」以下7人の
道士に倒されたとされる。

(民明書房刊 「みんなも社長さんも分かる陰陽道」より)
113通常の名無しさんの3倍:03/06/17 21:31 ID:4OsMu1zm
雌論氣燃火

朝暁寺の奥義の中でも比較的知られていないのがこの「雌論氣燃火」である。
この奥義は読んで字のごとく体内の「氣」を燃焼させて発火させる炎の拳であった。
この奥義の最大の特徴は「氣」を練る際の独特の構え「馬鈴理南の構え」と掛け声にあり、
「安!動!斗炉唖!」の掛け声とともに周囲は紅蓮の炎に包まれたといわれる。
現代バレエの動きはこの「馬鈴理南の構え」を源流としており、バレエをする者を
「バレリーナ」と称するのはこの構えに由来することはいうまでもない。

(民明書房刊 「初歩のステップ(戯曲「暗黒魔王」)」より)

114通常の名無しさんの3倍:03/06/17 21:32 ID:4OsMu1zm
妄忍愚硬皮

朝暁寺一派の奥義の中でも防御に特化した奥義がこの「妄忍愚硬皮」である。
この奥義は読んで字のごとく体内の「氣」を体表に集め、皮膚を鋼のごとく
硬質化するというものであった。
しかし「氣」のコントロールが極めて難しく、習得できる者が少なかった上
この奥義を使っている間は一切身動きがとれなかった。
この奥義が真価を発揮するのは、奥義「短放砲」を用いるときであり、弾丸
になるものはこの「妄忍愚硬皮」でまさに鋼の矢と化す。
代表的使い手はやはり「知 瓶婆」であり、独特の香辛料の効果で「氣」を
集中させていたようだ。この「硬皮豆」と呼ばれた香辛料が現代における
珈琲の原料「珈琲豆」の起源であることは最近知られたことであり、珈琲の
発祥の地は南米、アフリカではなく中国であるという説が現在では支配的で
ある。

(民明書房刊「大嫌い大嫌い大好き・・・乙女の珈琲占い」より)

115通常の名無しさんの3倍:03/06/17 21:32 ID:4OsMu1zm
娘。塾「獲着伝」

日本の管理教育から外れた若者達を受け入れ教育しているのがこの私塾「娘。塾」
である。その厳しい教育方針は幾度となく物議をかもしている。
娘。塾年間行事の中で特に厳しいものがこの「獲着伝」である。42.195kmを5人
でリレーする所は通常の駅伝と変わらないが、各々が甲冑の1部を身に付け、次の
走者へと引き継いでいく。最終走者はすべての箇所を身につけることになるのでそ
の重さは50kg以上になる。故に最終走者には強い下半身が要求される。
なお、この行事は古の中国「朝暁寺」の修行が源流のようである。

(民明書房刊 「ピンチランナー・・・乙女の太股大ピンチ」より)

116通常の名無しさんの3倍:03/06/17 21:33 ID:4OsMu1zm
品知乱菜

古代中国において「獲着伝」という武術大会が存在したのはあまり知られていないが、
玄穐十二年四の月に中国奥地の「火達仲」で行われた大会は、時の拳法集団「妄無素」
が戦ったこともあり武術書にその記録が残されている。
それによれば、「火達仲」の「獲着伝」は中国全土から五十五組もの猛者達が集い、
覇を争ったという。「妄無素」はもともと「獲着伝」に不慣れであったので苦戦が
強いられた。
記録によると、副将「知 瓶婆」は「世苦死光波」で次々と敵を倒したらしいが、
大将「菜 通知」が武具の重みに苦しみ、結果は惨敗に終わった。
なお「菜 通知」は戦闘終了後、口から謎の液体を吐き出す新奥義を使い他集団を
威嚇したと云われるが、文献に残っておらず定かではない。
品格ある「知 瓶婆」の走りと、予定外の乱れを見せた「菜 通知」にあやかり、
この戦いは「品知乱菜」と名付けられ永く後世に語り継がれることになる。
一方、吟遊の才にも恵まれていた「妄無素」が愚にもつかないことをするべきでは
ないという意見もあり、「女吟愚」という言葉が生まれ、現在の「ジョギング」
の語源になっている。

(民明書房刊「絶対にゴールするのだ」より)

117通常の名無しさんの3倍:03/06/17 21:33 ID:4OsMu1zm
今日の大東亜日報3面「朝暁寺十六傑、天挑五輪大武會に出場か? 」
先日開催が発表された天挑五輪大武會に中国伝説の武術寺である朝暁寺チームが
出場する可能性があることが本誌記者の取材で明らかになった。
政財界の実力者、藤堂兵衛氏主催によるこの大会には既に日本の男塾チームの出場
が決まっており両者の激突が期待される。

118通常の名無しさんの3倍:03/06/17 21:34 ID:4OsMu1zm
矢鞭野郎
「矢鞭野郎」とは、古代中国に伝わる伝説の七匹の悪魔のことを指す。
文献に「背には白色の羽をはやし、食物を貪り食らうこと悪鬼の如し」とある
通り、毎日のように人家を襲い食料を食い荒らすという悪行を行っていたらしい。
魔物達は、弓矢やムチなどの武器を使用していたことから、やがて「矢鞭野郎」と
呼ばれるようになり、民衆の恐怖の対象になった。
「矢鞭野郎」が暴れ出して一ヶ月ほど経ったとき、耐えかねた人々は退治を試みる。
魔物の住処には結界が張ってあり近付けないので、その近くに全く同じ外観の
別の入口を用意して誘い込み、中に用意した巨大な壺に「矢鞭野郎」を封じ込めて
退治したという。
その後、その壺から採れる「矢鞭野郎」のエキスは、極上の茶であることが
判明し、当時の上流階級の間で盛んに飲まれた。
この飲料こそが、現代の「飲茶楼(ヤムチャロウ)」の発祥なのである。
また、魔物達の墓場となった壺は「別戸墓獲」と呼称され、これが今で言う
「ペットボトル」の語源となっていることは言うまでも無い。

(民明書房刊 「あとあじスッキリ、おまけでガッカリ」より)

119通常の名無しさんの3倍:03/06/17 21:34 ID:4OsMu1zm
酎 裕姐〜伝説の酔拳

「菜 通知」の前に朝暁寺の師範の座に就いていたのが「酎 裕姐」である。
「酎 裕姐」は中国拳法史上でも5本の指に入る酔拳の使い手であり、酒が
入ると誰も手がつけられなかったという。
しかしその酒量の多さが祟ったのか体を壊し、26歳の若さで朝暁寺師範の座
を「菜 通知」に譲り渡した(この際酒の勢いで決めたという説がありこれ
が後の三派抗争の引き金となる)。
三派抗争時は自らの責任を感じたのか、影で赤派結成、抗争終結に動く。
その後は朝暁寺の長老に名を連ね、後進の指導に当たったという。
また、朝暁寺の影流といわれる「六暴家裏主斗」の伝承者の座を「丙 卦道」と
争ったとも言われ、結局伝承者の座は「丙 卦道」に譲りわたしたものの、以
後も好敵手として朝暁寺裏手の原野「夷坂野」で9度に渡る戦いを繰り広げた。
人々はこの戦いを後に「夷坂野闘九」と呼び語り継いだ。

(民明書房刊 「ドランクモンキー〜酒ぐらい飲ませてや!」より)

120通常の名無しさんの3倍:03/06/17 21:34 ID:4OsMu1zm
「羽多晩」と「地 四尊」

中国武術史上、圧倒的な武力を誇っていた「妄無素」だが、その武芸を披露する
のは殆ど「手礼都」に於いてのみで、他の地方に出向くことは少なかったらしい。
しかし「帝美意絵州」で開催される「羽多晩」という武会には不定期であるが
参加し、かなりの活躍をしていたという。
この「羽多晩」は、「多 火産」と「名 改訓」の両名によって定期的に運営
されており、大規模なものなると「徒苦晩」と称されることもあった。
また「名 改訓」という名が記すとおり、「羽多晩」では参加者の名前を改造して
独自の呼び名を作る風習があり、「妄無素」の「黒 江彩」もここでの呼び名が
一般化した一例であるという。(ちなみに学会では、実際の命名は主に「多 火産」
の方が行っていたとする説が有力である)
また、古来中国に於いて、宴や軍議などでの席順は、非常に重要な意味を持って
いたが、これは「羽多晩」でも例外ではなく「妄無素」も幾度と無く席次を争った
記録がある。この席獲りにおいて常に異様な力を発揮していたのが「華 王倫」
こと俗称「地 四尊」であった。「地 四尊」の猛勇ぶりはすさまじく、たとえ
破れたとしても見るものを魅了せずにいられなかった。
蛇足だがこの「地 四尊」には「喜怒哀楽の四つの感情を地で行うのは尊敬に値する」
という意味が込められていて、本人はそれを知らなかったというのだから面白い。

(民明書房刊 「母さんニックネームが好き」より)

121通常の名無しさんの3倍:03/06/17 21:35 ID:4OsMu1zm
「妄無素」と「雄妄」

中国全土にその名を轟かせていた「妄無素」。
ある日一人の小柄な若者が朝暁寺の門をたたいた。
当時の師範は「菜 通知」。
自分の2〜3倍はある師範から稽古をつけてもらい、瞬く間に腕を上げた。
あまりにも稽古熱心だったので、師範より「席取り」の名をもらう。
しかし、この若者がいつも素っ裸にまわし姿で稽古していたので、
手礼都の住人は「御素妄さん」と呼んで親しんだ。
数年の修行を経て故郷に帰った若者は新しい武道集団を結成し開祖となった。
故郷の人々は、女性の武道集団「妄無素」に対抗して、
新しい男の武道集団を「雄妄」と呼んだ。

時が経つに連れて彼の心の中で抑えきれない思いが湧き上がってきた。
稽古熱心な自分とは正反対に寺の縁側で寝てばかりいた「呉 都餡」と
仲間内で呼ばれていた「呉 糖巻」への恋心。
「安 打刑」に描いてもらった似顔絵を懐に忍ばせて谷町通いの日が続いた。
行く店行く店でその絵を出しては『「呉 都餡」です、「呉 都餡」です』と絡むので、
どこの店主も金を取ることはなかった。
これが悪習となり、今でも「ごっつあんです。」の一言で、
谷町を渡り歩いている「席取り」が後を絶たない。

(民明書房刊  私を変えた一言「土俵には金が埋まってるべ」より)

122通常の名無しさんの3倍
<解説>
どすこい!作品ごっつあんです!
相撲の起源はモンゴルではなく中国であるというのが定説なのですね。
「御素妄さん」はその後三派抗争の際、師匠のいる黄派に付くか憧れの
「呉 糖巻」のいる赤派に付くか悩んだ末、赤派に付いたといわれています。
その際の彼の活躍ぶりは「赤派日記帖」に詳しく記されています。
このように「菜 通知」から「呉 糖巻」に乗り換えた者達が多く居たことも
黄派敗北の一因であるといわれています。