民明書房的プロレス用語解説

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1お前名無しだろ
かけ
2お前名無しだろ:04/05/14 13:19 ID:dKG2ee0Z
まずお前から
3お前名無しだろ:04/05/14 13:27 ID:P/xCuUiy
なんだ民明書房って。そういう方が出てんのか?
4お前名無しだろ:04/05/14 13:47 ID:FjWYzX6S
・出癒男乱婆騨(でゅおらんばだ)

清朝末期、清に仕える殺し屋・脛雷狩(けいらいしゅ)として
名高い木村聖裔(パクチュー)が考案した、
美声から放たれる超音波により身体の内部から破壊する殺人拳。
反清復明の急先鋒だった藤波(トウハ)との激戦を経てついに完成。
「大晦日は予定を入れずに空けておく。」や「らしくもないぜ。」
という暗号入りの言伝を反清の活動家達に流布し、彼らを震え上がらせた。

民明書房刊「パクチューとピカチューの違い」より
5お前名無しだろ:04/05/14 13:52 ID:Sz1ZYvmy
濃安岳和我血 (ノアだけはガチ)

古代中国に存在した封建民族「斬日凡」が民族内闘争により分裂した。
その後、民族の一部が濃安岳(現在の三澤山)へ移住したときに
その緑の映える木々の美しさに感動し
「濃安岳和我血(濃安岳は争いで怒りくるった我が血を和ませてくれる、の意)」
と叫んだという。その後、争いにより焼け爛れ禿山となった
武道山に残った残りの「斬日凡」民族が濃安岳の緑の木々を羨み何度も攻撃を仕掛けたり、
「異乃騎薪日凡」民族が濃安岳を侵略しようとしてきた。
そのたびに「濃安岳和我血」と叫びながら闘い、他民族を撃破したことにより
他民族の攻撃は次第になくなっていったといわれている。
また濃安岳の民族は鎖国的だとも言われていたが、他民族の太香弥真や猪宇埜らとも交流を
もち、発展に至った。

民明書房刊『濃安岳の歴史〜緑を守れ』より
61:04/05/14 14:05 ID:MvMvNHkc
>>2
スマン がんばってみる
なんか気合はいってるカキコがでてキンチョーしてる
7お前名無しだろ:04/05/14 14:50 ID:C3nHja6z
伝流麦派(でんりゅうばくは)
戦国時代中期、米作りが中心の百姓の中において、麦を専門に扱う異端の一族がいた。
鬼田を頭とする栄富永務田仏(えいふえいむだぶ)一族である。(彼らの生活様式、農作技術を総称して栄富永務田仏流(えいふえむだぶりゅう)と言う)
彼らが後の歴史書に語り継がれるようになったのは、彼らが世界的にも珍しい農作に火薬を用いる唯一の農作民であったからである
その手法の多くは未だに謎のままであるが
彼らの儀式の中に、火薬を縄に結びつけ、縄に体当たりし大きな爆発を起こす事で、男気を試し
一番大きな爆発を起こしたものにその年の耕作を任せる
伝流麦派(でんりゅうばくは)と言う過激な儀式があった事が確認されている。
これが後のプロレス団体FMWの大仁田によって形を変えて復活され、世に衝撃を与えたのはあまりにも有名すぎるエピソードである
民明書房刊『江戸時代の農作技術〜番外編〜』より
8お前名無しだろ:04/05/14 14:51 ID:XNlGaYxV
>>1はディーノ
9お前名無しだろ:04/05/14 15:37 ID:s8TH7OHh
駄無瑠痔永嶽波勘弁仕手管祭(だぶるじぇいだけはかんべんしてください)

五胡十六国時代、北方より南下し侵入した顎卑族に従軍した奴隷部族の兆周族。
彼らは混乱に乗じ顎卑族の国、「塩」の支配階級に食い込むも宦官餓居(噛夷とも)の乱により失脚、
砂漠の西へ逃れ「荒」を建国する。
ウイグル商人の拭狗駄と組み、中原の地を狙うが、
作物の育たない不毛の大地を襲う天災と悪政により1年あまりで滅び歴史から名前を消す
(数年後「塩」も慶碗により滅ぶ)

18世紀末、イギリスの探検家D・ボビ卿いるボビ隊の大規模な発掘調査により
「荒」遺跡より「勘弁レ駄無瑠痔永」の石版と寄り添うように蹲った親子のミイラが発掘される
これらは大英博物館に持ち帰られるが、後に清国に返還
荒の王宮があったとされる痔永嶽に祀られ、現地(別民族である)の祭事「仕手管」と一体化し
駄無瑠痔永嶽波勘弁仕手管祭と呼ばれるようになる。
鳥を祭る祭事としても有名。

民明書房刊『埋もれた文明〜祭事の章〜』より
10ルビ〜ニョ♪:04/05/14 15:51 ID:0FfD6Rbm
スーパージャンプで貰えますか?
11お前名無しだろ:04/05/14 20:12 ID:6fmHiIYO
「茶乱」

中国は秦の時代、茶座村出身の名将軍、昆平(こんぺい)が編み出した戦法。
まず味方陣中に「昆平の鞄には若干の余裕がある」、つまり軍資金が底を尽きかけているという
噂を流した。噂が敵陣に広がった頃を見計らって、敵陣から見えるような場所で夜な夜な大規模な酒宴を催し続けた。「昆平の陣は軍資金不足で士気も下がりやけくそで酒に溺れている」、
敵軍はそう思い込み、ある日その酒宴の場に総攻撃をしかけた。しかし、兵士が飲んでいたのはみな茶だったのである。
「一、二、三、茶乱!(『一二の三で乱を片付け茶を続けよう!』の意)」の掛け声と両手を上げる合図とともに
昆平の兵は皆反撃に打って出た。不意を突かれた敵軍は全滅し、その夜、昆平軍は悠々と酒宴ならぬ茶宴を続けたという。
後世の兵法家は「これぞ戦の焦点なり」と昆平の兵法を絶賛した。

現在テレビ番組「笑点」において某落語家が奇妙な掛け声を観客に強制する行為は、実はこの故事に由来している事はあまり
知られてはいない

民明書房刊「ノア中継と笑点は日テレ」より
12ZERO−ONEこそが、最高のリアルファイト。 :04/05/14 20:30 ID:NX0S53B3
最高のイリュージョンであるZERO−ONEこそが、最高のリアルファイト。
13お前名無しだろ:04/05/14 21:04 ID:fZ7Z0RXR
土蔓奈火(どまんなか)

奴隷部族の兆周族の発祥の地「兆扇」で
広く歌われている歌。
兆周族は紫の馬を操り、宇魯(うろん)と呼ばれる携帯食を持ち、
長距離の遠征をもろともせず、
「土蔓奈火」を高らかに唄いながら戦いを挑んだとされている。
農耕民族の大把脂(おおはし)族とは、
しばしば馬の飼料調達の際トラブルがあったことが、
最近発掘された石版で明らかになった。
西夏文字研究の第一人者として有名な日系考古学者T耶麻元氏の、
兆周族の大臣「怨彰」とその側近「碁麻脂夫」の悪政によって
「荒」が滅んだとする説に、
日本考古学会の重鎮である厳虞大 金澤教授は、
「怨彰」は劉邦に匹敵する人物だと真っ向から反論しており
考古学会のみならず、一般マスコミをも巻き込んだ大論争へと
発展したことは記憶に新しい。

民明書房刊『四面楚歌〜「歌」に見る栄枯盛衰〜』より
14お前名無しだろ:04/05/14 21:18 ID:zRyWwHSg
風呂列酢(ぷろれす)
古来発祥の自称力自慢の大男たちが、裸で組みし合う見せ物。
格闘風情だが、勝負事としての勝ち負けは無く、全ては決め事
として、執り行われた。しかしその事実を知る者は数少なく、
風呂列酢を行う者たちの間でも、暗黙の約束事として、他言無用は
勿論、外部にその旨を漏らすことは決して許されなかった。
風呂列酢の開祖と言われる篥銅山(リキドーザン)は、この
裸行事を全国各地で行い、八百の大男たちを組み伏せ、その長に
治まったという。このことから、初めから決め事があるにもかかわらず、
さもそうでは無いように装おう様を「八百長」と呼ぶようになった。
「八百長」という言葉は相撲用語から来たとする説が一般的だが、
近年、風呂列酢八百長語源を推す学者たちも増えてきている。

民明書房刊『風呂列酢 男達の裸踊り』より
15お前名無しだろ:04/05/14 22:21 ID:zXdPBDaM
オモロイw
16ブライアン五月:04/05/14 22:23 ID:G0bcPVgC
これぞ良スレ。
最高w
17お前名無しだろ:04/05/14 23:17 ID:r24lYWEs
あげていいか?
18お前名無しだろ:04/05/14 23:27 ID:BDe6meMa
剣道家心(けんどうかしん)

古武道の一つである剣の道を志す者達の心構えののことである。
己の道をただひたすらに突き進むがごとく、己の意志を曲げず、
武道に精進し精神修養に励む。この道を志すものにとって
名誉とは頂点にたつものでなく、己自身を信ずることであり、
他人に束縛されるものでもない、己自身の器量、度量こそ誉れである
と「剣道長崎流宗家 桜陀嘉寿旺斎(さくらだかずおうさい)」は記している
その理念に基づき、心得を体得、体言するものが現在の「剣道家心」の免許皆伝
を授かり、奥技・秘技を駆使し時には猛獣をも馴らし得るまでに至る猛者も
存在するようである。

民明書房刊「古武術列伝 奥技を伝える者達」より
 
19ブライアン五月:04/05/14 23:33 ID:G0bcPVgC
>時には猛獣をも馴らし得るまでに

爆笑w
20お前名無しだろ:04/05/15 00:08 ID:zD2K2q0/
みんな良く考えるなあw
21お前名無しだろ:04/05/15 00:14 ID:wOdjqsvl
雲古那蟹師(うんこなかにし)

若き頃より古武術・錬守凛倶(れすりんぐ)の修行に心血を注ぎ、其の者は芭瑠世論那御輪火倶(ばるせろなおりんぴっく)
出場の栄誉を得るに至る。
其の後、幼き頃よりの夢であった神爾奔腐魯錬守(しんにほんぷろれす)入門許可を得る。其の者、常人を遥かに上回る
腕力を持ち、人を軽々と担ぎ、恐れられた事から耶陣(やじん)の名を冠すようになった。その後には、錬守凛倶三汁神(れす
りんぐさんじゅうし)の一柱に数えられる事となる。
暗御瑠裳暗(あんごるもあ)の大王降臨の季節、神爾奔夏の祭典にて、遂に天才と謳われた男・無糖刑痔(むとうけいじ)を
破り、優勝を我が物とする。歴史書から推察するに、ここがこの者の絶頂期であった。
兆周族に耶陣戦法の封印を強要され、木偶の坊と化す。其の後、耶陣戦法解禁も、上昇成らず。
神爾奔へと来襲した異民族迎撃へ参戦するも、流天、徒悪、暗黒肉弾魔人、腐痔多とたて続けに敗れる。其の頃より、
いつしか人は男の事を雲古那蟹師と呼び、恐れるようになる。
同じく錬守凛倶三汁神の一柱・那我多酸(ながたさん)は天敵であった。

民明書房刊「無常 雲古那蟹師の繁栄と衰退」より
22お前名無しだろ:04/05/15 00:55 ID:AERGrA5B
自慰腕蔵威魔楠(じいわんくらいまっくす)

古代中国、唐の時代には科挙と共にもう一つ、宮廷の衛兵を募集する試験があった。
それがこの自慰腕蔵威魔楠である。
毎年夏に行われたこの試験は、中国全土から腕に覚えのある男達が集まって来たという。
その試合内容たるや壮絶の一言で、時には死者すら出たと言われている。
この大会で勝利した者は、宮廷の衛兵に選ばれるだけでなく、
その後も皇帝の厚い寵愛を受けることが出来、必ず将来出世できた。
尚、745年の楊貴妃の誕生日に合わせて催された自慰腕蔵威魔楠は、
七連戦という史上最大の苛酷さでもって行われた事で有名である。


民明書房刊「中国の試験大全」より
23お前名無しだろ:04/05/15 01:22 ID:3lstOZWV
「云 阿霊陀南運 」うんあれだなうん

穏照経磨倶真弔宗(おんしょうきょう まぐまちょうしゅう)
理揆教典(りききょうてん)第五十五万七千八百参拾壱巻の序に記されている
磨倶真神(まぐましん)崇拝の経文の一部である。
「云 阿霊陀南運」とは「磨倶真の神よ我等を貴方の身許へお導き下さい」
と和訳され、磨倶真弔宗信徒の信仰根本となる聖なる経文であり、磨倶真神への
絶対的帰依の象徴としての位置づけをされている。
理揆教典(りききょうてん)第五十五万七千八百参拾壱巻の一部抜粋
「云 阿霊陀南運 陀無留慈咏法界 理揆羅理唖津斗 云 迦南坐輪 阿霊陀南
 阿霊 云 御磨慧之迦磨世衣濡邪無存 ・・・・」以下略
(うん あれだなうん だぶるじぇいほうかい りきらりあっと うん かなざわ
 あれだなあれ うん おまえのかませいぬじゃないぞ)

民明書房刊「穏照経磨倶真弔宗理揆教典改訳版解説」より 

24ブライアン五月:04/05/15 03:03 ID:4M270SVT
今日、いちばん笑ったのはこのスレ読んだとき。感謝。
職人さんがプ板に戻って来たっつーかんじ。
ブックマークに登録したっすw
25お前名無しだろ:04/05/15 09:07 ID:/Rps6yUI
駄不流痔永(だぶるじぇい)

かつて格闘演武の世界で革命を起こした戦士、嘲臭(チョーシュー)が
その波瀾に満ちた人生の晩年に起こした第二の革命。別名、世界大和。
大国、真二本、打倒を掲げ、数々の英傑を集めたとされる。
嘲臭は思い込みの激しい性格で「怒膣内(どまんなか)」「これだけの千両役者を集めた国は無い」
などと自画自賛するも、集まった者どもは見かけ倒しもいいとこの粗塩ばかり。
様々な政策を打ち出すも、ことごとく失敗。役者が稽古中に死亡するなど、
やることなすこと全てが裏目に。やがて、配下の者に給金を払うことも
ままならず、人材がひとり、またひとりと嘲臭の元を去っていった。
それでも嘲臭は「俺が生き残れば、それが駄不流痔永」とウソぶくも
信頼していた一番の懐刀、塩介の離反。更には最もちょう愛し、嘲臭最後の
弟子と言われた、奈加志摩薫(なかじまくん)にも去られてしまったことが
決定打となり、革命は失敗に終わる。しかしその後も嘲臭自身はひとり革命
運動を続けるもののかつての英気は失われていたという。
これらのことから、何をやってもウマくいかない。やることなすことが全て
裏目に出ることを「駄不流痔永だけは勘弁して下さい」の語源になった。

民明書房刊 「新説!駄不流痔永」より
26お前名無しだろ:04/05/15 10:27 ID:rUarQ/Bz
WJネタが多いな
27お前名無しだろ:04/05/15 10:52 ID:O/8NvwZ0
マジ最高!
28お前名無しだろ:04/05/15 10:54 ID:RgWPX+Rh
(・∀・)オモロイ!
29お前名無しだろ:04/05/15 12:15 ID:aE31use8
羅利圧刀(らりあっと)
(1)天下無双の宝剣。
渡来人、須鍛坂泉(すたんはんせん)の作。
巨人、餓鬼すら斬ると伝えられる切れ味と、豪壮かつ美しい刃文からなるその作風は
当時の武士の憧れであった。
柄の入る部分に「上須鍛(うえすたん)」の銘が刻まれている。
 
(2)坂泉の弟子たちによる刀剣、また模造刀
坂泉の羅利圧刀は後世の刀剣の作風に大きな影響を与えて多くの流派を生む
塩州の刀工長臭(チョシュ)は尺を短くし低い技量でも使いやすくした脇差、利奇羅利圧刀を鍛え弟子たちに広める。
また坂泉が居を構えた喘州では坂泉自身より弟子の小羽伺(こばし)に羅利圧刀が秘伝が継承される
小羽伺はもっともよく坂泉の作風を理解したとされるが、師すら越えるために無理をし
鍛冶場での怪我がもとで自身が納得する羅利圧刀が打てなったと伝えられる
戦国の世のならいか塩州・喘州はともに分裂し羅利圧刀の流派は拡大する
塩州を出奔、分裂により衰えた喘州に入った、孤児枯地(こじこじ)などは
竹に銀箔を巻き刀のようにみせかけた竹光を「坂泉直伝の羅利圧刀」であると称していたが
あくまでも体裁を整えるための道具であり、刀ではないため攻撃力は低い
 
民明書房刊 「武芸大全〜刀剣〜」より
30お前名無しだろ:04/05/15 12:17 ID:wBxgiJ+h
>>29
螺裏亜斗(らりあと)

明朝末期、中國北西部では現代の総合格闘技の基礎とも言える格闘技『腕競(わんきょう)』
と呼ばれる競技が存在していた。
勝者には地位も名誉も富も手に入れられる、貧困家庭の子供はスパルタ教育を受け
この競技に出場し勝つことが義務付けられているようなものであった。

出場していた全ての選手がスポーツマンシップにのっとり正々堂々と勝負していたかと
言えばそうではなかった。他の者の目の届かないところで目に指を入れたり性器に
危害を加えると言うのは日常茶飯事であった。

そんな中、反則技を一切使わずに己の腕一本で腕競のトップに上り詰めた男がいた
「趙(ちょう)」と名乗るその男は自分の腕を相手の首筋に当て破壊する殺人技
『螺裏亜斗』という技でたちまち腕競のトップ競技者となった。

趙の家庭は貧困家庭であったが腕競から得た収入で一気に上流階級に名を連ね
地位も名声も富も手中に収める。

ちなみに現在のプロレスで使われている必殺技『ラリアット』は言うまでも無く『螺裏亜斗』
が語源である。

民明書房刊「中国歴代格闘技全書」より
ttp://magma.s40.xrea.com/index.php?%CD%E6%CE%A2%B0%A1%C5%CD%28%A4%E9%A4%EA%A4%A2%A4%C8%29
31ブライアン五月:04/05/15 12:18 ID:H4C17JBu
高のイリュージョンであるZERO−ONEこそが、最高のリアルファイト。
32お前名無しだろ:04/05/15 13:26 ID:xGEIo3Tz
奈仁誇螺 多枯誇螺(なにこら たここら)

法螺をふくの「螺」は誇螺(こら)が語源であるというのが
現代ではよく知られている。
誇螺は読んで字のごとく、「法螺をふいてまで自己を誇る」の意である。
隣国「是炉腕」の覇塊王に接見した際、覇塊王とその側近芳愉鬼(よしゆき)に
「荒」の惨状を侮辱された怨彰が精一杯に強がって発した言葉。
怨彰のお供の雅賛(まささん)は怒りのあまりぷるぷる震え、
その震えは生涯治まることはなかったという。

なお、余談であるが「家計が火の車」という表現の「火」は
財政破綻し、わずか一年で潰れた「荒」の戦闘歌「土蔓奈火」
の「火」が語源であることはあまり知られていない。

民明書房刊「声に出して読みたい兆扇語」より
33ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/05/15 13:31 ID:4M270SVT
今日もおもしれーw
永田関係リクエストしていい?
34(○^J^○) :04/05/15 13:37 ID:MBLwthRd
(○^J^○) 自分でネタを作れないくせにリクエストとは
        さすが知的障害者の珍日ヲタでし
        はやく死んで欲しいでし
35お前名無しだろ:04/05/15 13:39 ID:P6JKqLJ8
腐汚(ぷおた)

 裸の大男たちの組みし合いに魅入られた亡者。長髪、肥満、眼鏡、童貞などの
特徴を持ち、女性と縁遠い者たちが、陥る業の道でもあると言う。
 物事の考え方が保守的で頑固。自らの贔屓の勢力には狂信的な支持を仰ぎ、
反勢力には徹底的な誹謗中傷を浴びせかける。裸男たちのためならば、
人の迷惑など顧みない図々しさも合わせ持つ。
 一般社会では日陰者扱いではあるが、本来、気が小さく、内向的。
自らの小心度合いを大男たちの活躍ぶりにスリ変えて、精神的享楽を得ようと
必死に生きる愛すべき存在でもある。

民明書房刊「腐汚 〜その非業なる人生〜」より
36お前名無しだろ:04/05/15 15:25 ID:O3w5MedL
出重詠(でええい)

古来より、薪仁奔地方に伝わる戦の出陣・戦地での更なる意気高揚の時等に
大将の合図とともに揚げる言葉を「出重」でえ と言い出陣を重ね、意気を
高めるという意味があり、その「出重」の歓声を発することを「出重詠」と
言う。江戸時代に入り、この「出重詠」が戦勝祈願の祝詞として語り継がれる
ようになり、その儀式を司る主として「那賀太家一族」ながたけいちぞく 
に代々伝承された。現那賀太家当主十八代目「那賀太 幽磁」ながた ゆうじさん
は薪仁奔地方のみでなく全国各地の戦場跡にてこの祝詞を詠じる事を生業
としている。
「出重詠」によく似た祝詞に「辺恵詠」(ぺええい)というものもある。

民明書房刊「地方風土記 薪仁奔地方伝記その2 語り継がれる出重詠」より
37お前名無しだろ:04/05/15 15:33 ID:/RkfcV93
やや斜め後ろのネタが多いのが悲しい
38お前名無しだろ:04/05/15 16:27 ID:IwsMDUH7
滋亞萬(じあまん)

戦国時代、武将達の間で流行した娯楽の一つに
重さ三十貫(100kg近く)を越える巨大な槌を投げる槌投げ(つちなげ)と言うものがあった。
最初は小規模なものであったが、益荒男の豪快な様を目にした時の将軍が槌投げを大層気に入り、御前試合を執り行う事となった。
全国の腕自慢が一同に集い、思い思いの槌投げを披露したが
その中において将軍を特に驚嘆させたのが滋亞萬(じあまん)と言う辺境の野武士であった。
滋亞萬は巨大な槌を抱えると後ろに放り投げ、槌を抱えたままその体勢を維持し続け、観客はおろか参加した武士達をも驚かせた。
その怪力ぶりに感心した将軍は滋亞萬に御槌(ごつち)という姓を与え槌投げの家元に任命し
御槌滋亞萬は御槌道場で槌投げの指導に務めた。
また、槌投げの技法は鎧を着込んだ重厚な武士を倒すのに適していた為
槌投げは戦における徒手空拳に盛り込まれ、滋亞萬の手法は滋亞萬投げと呼ばれ、敵国に恐れられていたと言う。

民明書房刊『戦国時代の徒手空拳とその由来 第2巻』より
39お前名無しだろ:04/05/15 16:59 ID:J50DfK0J
>>38
上手い。座布団2枚
40お前名無しだろ:04/05/15 17:16 ID:w6Tyqq+E
八須留(はっする)

 古代日本において、八人の男が須佐之男命(スサノオのみこと)の扮装をし、
相撲をとって神前に奉納した。当時の相撲は現代のものとは違い、突き、蹴り、
関節技なども認められ、むしろ今で言う総合格闘技に通じるものがあった。
 この荒々しい競技を神前に奉納し、須佐之男命の御霊を留め置かんという意味
を込め、この神前相撲は八須留と呼ばれ、代々高田家の神主がこれを取り仕切って
来た。八須留に関して現存する最古の史料は奈良時代初期のものだが、これによれ
ば、八須留は勝ち抜き戦で、渡来人も参加することができ、ある年の八須留では、
高田家と渡来人が結託し「悶須汰軍」と名乗って日本人と激闘を繰り広げたという、
その年「悶須汰軍」を倒して八須留を制したのが、稚欣鞍弩朴玖という力士で、一説
ではこれは協力して「悶須汰軍」と戦った二人の力士の名を合わせたものとも言わ
れる。稚欣鞍弩朴玖が果たして一人の人物か二人の人物だったのかを証明する史料
は未だ発見されていないが、「悶須汰軍」を倒した稚欣鞍弩朴玖が喜びを表すため
に、土俵の上で「八須留!八須留!」と雄たけびを上げたということは、前述の
資料だけでなく、郷土史などいくつかの史料に同様の記述が見られる。


民明書房刊『神道と相撲 その歴史的意義の研究』より
41お前名無しだろ:04/05/15 17:29 ID:Fx42+vGV
印泥(いんでぃ)

中国の諺。
泥の上に描かれた印はすぐに消えてしまう、転じてすぐに消えてしまう儚いものの意。

民明書房刊『中国の諺辞典』より
42お前名無しだろ:04/05/15 17:41 ID:Fx42+vGV
非射-る-(ひいる)
相手の都合の悪いところばかり責める事、相手の弱点ばかりを射抜き手柄を立てた弓矢使いの故事から
米備平す(べいびへいす)
米の蓄えが足りなくなってきた時、米の分配を公平に行う事
転じて、公正な人、善人の例え

民明書房刊『民明辞典』より
43お前名無しだろ:04/05/15 17:50 ID:nWPCMovw
蕪璃坐娃堵(ぶりざあど)

唐代、山水画の名家であった邇穎(じえい)、爾嬰(じえい)、蛇孔諏(じゃくす)の
三兄弟が、外国商人の買付依頼の為に港市に派遣した
亥伊酢香(いいづか)と称される代理人に、
盗賊等の襲撃に見舞われた際の護身術として伝授した狡滑拳法。
失神を装い、油断した相手が背を向けた瞬間に飛びかかり、
首を絞め落とす睡浬簸(すりぱ)という絞殺術や
自分の頭部が相手の脇に滑り込むように密着し、遠心力によって
後方に投げ飛ばす慧駆州斧櫓威駄(えくすぷろいだ)という投げ技は、
次第に蒙古の琵駆斗屡(びくとる)族や阿騎弥馬(あきやま)族、
毬禎(きゅうてぃ)族にも伝播して
燦葡(さんほ)という関節技・絞め技・投げ技を複合した格闘術に変貌を遂げ、
これが後にロシアの格闘技・サンボへと発展するのである。
また、清朝の時代にその名を馳せた武術家・蘇化子は、
蕪璃坐娃堵を参考にして酔拳を編み出したのではないかという説もある。
44お前名無しだろ:04/05/15 18:20 ID:61qyO0D+
黒古魔(くろぶるま)

 格闘演武において、闘士たちが着用した衣装。古来の猛将、古魔王が黒い
腰簑(こしみの)を着用し、数々の武勇を挙げたことから、彼の強さにあやかろうと
時の裸闘士たちが着用しだしたのが始まりと言われる。本来、全裸で行われていた
裸踊りであったが、黒古魔の着用によって、裸闘士たちの股間がより強調され、
「裸の時より扇情的」「ふくらみや陰影がたまらない」と、客人たちに大好評。
黒古魔は裸闘士たちの間に瞬く間に流行して行った。しかし、近代に入り若い闘士
たちには黒古魔を嫌う物が続出し、着用を拒否。長尺股引(ろんぐたいつ)などと
いう下半身を覆い隠す衣装をまとう者が増えていった。
狂信的な黒古魔愛好者としても有名だった徴集(ちょーしゅー)は最後の弟子と
言われた中地間(なかじま)の初陣にこの黒古魔の着用を、猛烈に推しつけたが、
中地間は頑なまでにこれを拒否。時代の流れとともに黒古魔も歴史の中に
埋もれて行こうとしているという。

民明書房刊「股間の美学」より
45お前名無しだろ:04/05/15 18:52 ID:J50DfK0J
覇州留(はっする)

古代中国、清王朝時代。当時の皇帝は乱れていた国政を1つにまとめ上げようと政策を打ち立てた。
もちろん広い国土の清であったのでまとめる事は困難を極めた。そこで当時の国防長であった
御賀倭(オ・ガワ)が仕切り、州全体を1つに留め、世界を制するとの意味から覇州留と名づけられた。
他国にも覇州留を広めようとした御賀倭は、両手をグーの形にして腰に当て、「覇州留!覇州留!」と叫び
PRした。そして見事に成功し、1つになり、他国にも真似をするところも出てきた。
我が日本にも広まり、挙仁藩の長でもある基世胎(きよはら)も真似をするまでに浸透した。

民明書房刊『中国の政策〜覇州留』より
46お前名無しだろ:04/05/15 19:31 ID:aE31use8
黒猫剋斗(くろねこかつと)
体を物にぶつけても触れてもいないのに、額にカミソリで切ったような切り傷ができ流血する現象。
小さな旋風によって起こる自然現象とされるが原因は定かでない。
かつては、麦酒腹の黒い猫の仕業・黒猫の祟りと恐れられた。
 
民明書房刊『脅威の自然現象』より
47お前名無しだろ:04/05/15 20:14 ID:zD2K2q0/
異様に漢字の多いスレだなw
48お前名無しだろ:04/05/15 21:30 ID:J50DfK0J
潮臭離器(ちょうしゅうりき)
中国の諺。
当時は海水で食器を洗っていた為、食器が塩(潮)臭く、鉄でできた器は、錆び付いてしまい、
使い物にならなくなった。もちろん、皆、鉄の食器だけは「勘弁、勘弁」といって敬遠した。
そのことから無くてもいいものの意。
49改訂版:04/05/15 22:01 ID:J50DfK0J
潮臭離器(ちょうしゅうりき)
中国の諺。
当時は海水で食器を洗っていた為、食器が塩(潮)臭く、鉄でできた器は、錆び付いてしまい、
使い物にならなくなった。当初は丈夫で話題を集めたが皆、鉄の食器だけは「勘弁、勘弁」といって敬遠した。
そのことから「無くてもいいもの」の意として潮臭離器がうまれた。

 民明書房刊『中国の諺大百科』より
50お前名無しだろ:04/05/15 22:15 ID:QFPXL18n
珂那阿弥出巣末地(かなあみですまつち)

古来中国において、部族の長が己の力を誇示する為に行ったとされる決闘方法。
他者の介入を断ずる為、お互いが鉄の柵により囲まれた決闘場に入り、雌雄を決する。
しかし、あまりにも危険な決闘方法の為、後の皇帝により禁止された。
その後、古代日本にもこの決闘方法が流布し「刑事末地(けいじまつち)」と呼ばれ合戦の際に用いられた。

ちなみに現在の牢屋は、「刑事」が逮捕の「末」に送る「地」という意味として、
この決闘方法が起源となっている事はあまり知られていない。

民明書房刊『大門が狙っている〜fromヘリ』より
51お前名無しだろ:04/05/15 22:22 ID:p9P0FCMH
皆さんうまいねー
52お前名無しだろ:04/05/15 22:30 ID:77Y3Zi1h
巖愚裏胤(がんぐりおん)

江戸時代、徳川幕府に仕えた
隠密忍者・郭光雄(かくこうゆう)が左瞼の内部に隠し持った武器。
郭は、忍者としては定番の全身を纏う黒装束ではなく、
通気性と動き易さを徹底的に追求する為に
局部を保護する黒い三角巾と白足袋のみという軽装姿で、
垢や日焼などによって褐色に変化した地肌は、
そのまま夜景と同化し身体を隠す事を可能にした。
また武器は基本的に使用せず、腕力と瞬発力に依存した
蠅守破亞斗(はいすぱあと)と呼ばれる殺人術で幕府の反逆者達を始末した。
巖愚裏穏は、周囲に粘土状の毒液をまき散らし、
集団戦を回避する為に使用される。


民明書房刊『世界の変態忍者図鑑』より
53お前名無しだろ:04/05/15 22:30 ID:byOg3tkW
御冷駕田植(おれがたうえ)
古くは中国、周の時代。北部に国を構え、周王朝を脅かしていた野蛙(のあ)という独立国家が有った。
野蛙の国は武力こそ周王朝にひけをとらないが、大陸北部という寒冷地の為、
稲作を始めとした農作物の収穫量はとても低く、一部の上流階級以外は、毎年の様に飢饉が起きていた。
そんな時、野蛙の国の皇、三沙和(み・さわ)より稲作の現状を打破する様、指令された、秩父の汰胡衛(た・うえ)は、
火山より噴き出た土は、熱を逃がしにくいという発見をし、見事安定した収穫の出来る土壌を作り出した。
三沙和は「御冷駕田植」(冷えを凌駕する田植が出来る)と、大変喜び、汰胡衛を士官として迎えた。

民明書房刊「古代の農耕文化」より抜粋
54お前名無しだろ:04/05/15 22:43 ID:HpYfxOY6
ソレっぽい文章が書けないから割って入れないのが残念。それにしても
力作揃いだな。濃安岳和我血なんて「お前宮下だろ?」ってくらいイイ。
55お前名無しだろ:04/05/15 22:43 ID:AEq9eG7J
このスレを読む時よかったと思うこと。
テレビブロスのなべやかんのおたく連載を我慢して読んでいたことで
民明書房の存在を知っていたこと。
当時の小学生から書店や集英社に民明書房について問い合わせが相次ぎ、
ジャンプにクレームがきたという豆知識をここで書けたこと。
56お前名無しだろ:04/05/15 22:44 ID:Tbb3/SO2
>>52
隠密忍者ワロタ
57お前名無しだろ:04/05/15 22:50 ID:byOg3tkW
周詫阿亜紗湖(しゅうたああさこ)
中国、いんの時代末期、いんの皇帝暗殺を企て、見事に王朝を崩壊に導いた農民の若者が居た。
その者、名を亜紗湖、字を紗斗琉と言い、周王朝建国への立役者となったが、建国と同時にその姿を消した。
周王朝の人々は一人の英雄の失踪に、声を上げ泣き、自分達だけが幸せになってしまった事を、亜紗湖に詫びた。
民明書房刊「中国、隠された裏歴史〜最高の痛み編」より抜粋
58お前名無しだろ:04/05/15 23:41 ID:Fx42+vGV
『達譜』(たっぷ)

古くは明の時代、戦における情報交換には太鼓が用いられていた。
各国ともに三里先まで届くと言われる太鼓の達人を雇い、彼らの演奏により情報を伝達していた。
その演奏方法を記したものが『達譜』である。相手国に悪用されぬように単純ながらも模倣は困難
正に、達人にのみ演奏が可能な曲目であったと言う。
初期においては単純な号令のみであったが、後期においては各国ごとに暗号化され、高度な情報戦が行われていた。
これが後のモールス信号、戦争における情報伝達の暗号化に繋がったのは言うまでもない。

その殆どは清の時代への移り変わりの中で姿を消していったが、その中で唯一残されたのが、敗戦を認め、撤退を命ずる「敗北の達譜」である。
しかし、それは戦によって使われたのではなく、清の皇帝と識者達によって改良、考案され
民間レベルで、犯罪や諍いにおける被害を最小限に食い止める為に、敵意のない事を表し、見逃してもらう為に用いられた
簡略化された、庶民の為の緊急避難方法であった。
太鼓のかわりに相手の体や地面を三回叩くと言うシンプルなもので
広い中国においては言語も様々、その中において死を防ぐ共通の手段として「敗北の達譜」は多いに活用され
これが後々の格闘技における「タップ」の原型となったのは言うまでもない事である。

民明書房刊『中国王朝悠久の歴史〜戦における情報伝達〜』
59お前名無しだろ:04/05/16 00:13 ID:/54r635O
蛙舟(のあ)

御大・場馬の庇護下の武将、緑豚蛙(ミサワ)が、御大の死後、独立蜂起した
新興勢力。「今風」「自由」を旗印に新風を巻き起こすべく旗揚げ。
緑豚蛙の言う「今風」とは「楽をすること」を真理とし、稽古厳禁。暴飲暴食を
美徳とし、配下の武将達はみな、見る間に肥満化。屈強さを売り物とする
益荒男にあるまじき、その様は、城下町の町人たちの嘲笑の的でもあった。
しかし、本来、決め事を、さも無きがごとく装おう、肉体演芸の世界において、
彼等のだらしない肉体は、不摂生の真実の姿とされ、嘘偽りの無い様から
「蛙舟だけは真実(のあだけはがち」の言葉が生まれたという。

民明書房刊 『蛙は何処へ行った。豚は何故太ったのか』より
60お前名無しだろ:04/05/16 00:48 ID:0GKOFbJS
卦実刈滋陰図(けみかるじーんず)

時の二大武将の猪木・馬場の影響が薄れてきた明後期に独自の魅力で
一部民衆の支持を受けていた野阿(ノア)党の党首 見嵯倭(ミサワ)が虎覆面として
地下活動を行っていた時代より愛用している普段着の種類の事。
世間一般では農村部又は地方都市の勘違いをした少年ぐらいしか着用する事は無いが、
見嵯倭(ミサワ)は、晩年までこの卦実刈滋陰図を愛し民衆の前でも恥ずかしげも無く着用し続けたと言う。

民明書房刊『酔って候〜無断飲食は蜜の味』より
61お前名無しだろ:04/05/16 00:54 ID:s45tqCor
夢雲去人(むうんさると)

魏呉蜀の争いが熾烈を極めた頃、軍師が考えた戦術が戦局を大きく左右した。
軍師は大勝利を収めれば多大な報酬と名誉を手に入れたが
敗走するようなことがあれば命を落としかねない、そんな重圧とも闘っていた。
歴史的にも有名な軍師・無陶(むとう)は霧の多い山岳地帯で
風上から特殊な香を焚いて毒霧と変化させ
その幻覚作用により相手の戦意は喪失、たやすく勝利をものにした。
雲が消える頃にはまるで夢を見ていたかのように人が消え去るその戦術を、
人々は敵味方関係なく「夢雲去人」と呼んだ。
なお体操の鉄棒種目の金メダリスト・塚原光男の9・90をマークした世界初の月面宙返りに
当時のライバルであった中国の選手がその夢のような光景に「夢雲去人」とコメント、
これが現在のムーンサルトという呼び名の発祥であることは諸君もご存知だろう。

民明書房刊『世界戦術大全〜歴史を変えた戦術家たち〜』
62お前名無しだろ:04/05/16 01:14 ID:ZIkfLxwR
擬味付(ぎみっく)

太古より戦士が舞台に上がる前、衆人より目を引くために
着せられた衣装・言動の型。文字が示す通り、戦士の
本来の出生とは全く関係ないことも少なくない。

主な型は、魔神型・酋長型・人は誰でも嘘つき型ほか。

これらを考案するのは真土(まつち)と呼ばれる、
名家の士であり、真土名家(まっちめいか)と呼ぶ。
また、真土名家は戦いの流れを人為的に作る
暗繰(あんぐる)も考案する重責を持つ。

民明書房刊『誰も知らなかった風呂列酢と格闘技の真実』
(著:只死星田中)


63お前名無しだろ:04/05/16 01:26 ID:FOz8Y470
>>59
蛙舟、イイね。
64お前名無しだろ:04/05/16 01:34 ID:0B01vHLl
ちょっとノアをちゃかし過ぎじゃないですかね?
65お前名無しだろ:04/05/16 01:38 ID:dq+sWQ9I
「天敵」について教えてください。
66お前名無しだろ:04/05/16 01:40 ID:G5elIHBa
霊付離(れふり)

 古来から中国では神に豊作を祈願する神事として猛者たちが
格闘演舞を行っていた。その際、トランス状態で神との交信を行う
依代(よりしろ)役の少女に神を降ろす、及び還す儀式を霊付離と呼んだ。
 現代では格闘演舞の神事としての性格は薄れたが、その名残が
審判の呼称である「レフリー」に受け継がれている。広く用いられる
「レフェリー」と言う単語はこの「レフリー」が訛ったものである。
 また、格闘技中継において一見全く格闘技に興味が無さそうな
女性ゲストをリングサイドに招き試合中に無駄な悲鳴を上げさせるのは、
依代役の少女の名残であると現在は考えられている。

民明書房刊「格闘演舞の発生と発達(II)」より
67お前名無しだろ:04/05/16 08:55 ID:ZYJvezMi
麗我守(れがーす)

清朝末期、纏足と共に貴族の間で流行した装飾具の一つ。
主に脛当てである。最初はただの布を巻いたような物が多かったのだが、
やがて家の格により、家紋や文字、装飾を施したようなものが多くなった。
中でも中国東北部は那賀田産の青色に白いフサフサをつけた麗我守は、
最高級品として、貴族達の間でもてはやされた。
尚、日本プロレス界において佐山サトル氏が初めてレガースを導入したが、
これはアメリカの野球のキャッチャーがつけていた物を参考にしていて、
ここでいう麗我守とはまったくの別物である。

民明書房刊 「格闘技とその装飾具にまつわるエトセトラ」
68お前名無しだろ:04/05/16 09:11 ID:QhmbXyvq
男塾をはじめとする宮下漫画を読んだ事がなくて書き込んでいる人もいるかも。
69お前名無しだろ:04/05/16 09:21 ID:B8ssJvep
>>68
オレは男塾あたりはリアルタイムだけど、最新の漫画は全然知らない。(ワンピースとか・・・)
だから、いつかプ板にそっち系でネタスレ立っても理解できないだろうなぁ。
70お前名無しだろ:04/05/16 11:54 ID:KU7eJ4t4
>>69
俺も似たようなものだからこのスレ理解できん

レスラーをHUNTER×HUNTERの念系統で判断するスレ
http://sports7.2ch.net/test/read.cgi/wres/1079777899/
71お前名無しだろ:04/05/16 16:23 ID:yTQAD41w
age
72お前名無しだろ:04/05/16 18:22 ID:x2j/D2uI
この程度でワラタとか
プ板は本当に瀕死状態だな・・・
73お前名無しだろ:04/05/17 03:59 ID:cSCxkv0G
>>72
それはあんたの胸の内にしまっておく事
わざわざ書き込むなよ
74お前名無しだろ:04/05/17 10:46 ID:sIBzEu9f
もちつけ
75お前名無しだろ:04/05/17 13:28 ID:KxpNClmH
駄負流次永(だぶるじぇい)

中国の諺
世の中に必要でないものは、必然的に人々の心から流され永遠に現れることは無い
の意。
76お前名無しだろ:04/05/17 17:18 ID:exH2dsGA
禄妊経愚(ろくにんたっぐ)

明王朝で生まれた各々の軍より三人ずつを選出し行う武闘形式。
なぜか両軍の大将は討たれないため、格や面子を重んじる
将たちの間で好まれる。

国の中央ではなく、地方での戦いはほとんどと言っていいほど
この形式で終わることが多く、中央での一騎打ちへと流れ込んでいく。
手抜きをしても、地方であるため武将の評を落とすことは無い。

例外として、大将を討たねば戦いが終わらない、
伽不転不負留(きゃぷてんふぉーる)と呼ばれる形式も存在する。

民明書房刊 「格ミシュラン」
77ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/05/17 18:21 ID:al3rFp5B
馬獲流旅異遣流(バトルロイヤル)

大勢の大男が一頭の馬をめぐって争う神事。
神事としての歴史は古いが、もっとも盛んに行われたのは古代馬王朝。
高洛宴(こうらくえん)と呼ばれる宗教施設において、
年始を祝う行事の役割を果たしたことは言うまでもない。
当初は一人の勝利者が名馬を所有するという栄誉の影で、
大勢の敗者が異国への派遣という名目で事実上の島送りにされるという過酷なものであった。
後に島送りの習慣は無くなり、馬ではなく賞金をめぐる形式へと変更。

なお、「無事これ名馬」の格言は、この荒々しい祭事において、
馬の無事を確認することで神官・観衆が安堵したことが由来。

民明書房刊『祭事における格闘演舞』より〜

78お前名無しだろ:04/05/17 19:03 ID:C06OVLV1
>>72
その台詞とともに、みんなを唸らせるネタを書き込んでいればカッコいいんだけどな。
批判だけなら馬鹿でも出来るよ。
791:04/05/17 19:15 ID:sIBzEu9f
俺のためにあらそわないで〜(;;)
80ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/05/17 19:23 ID:al3rFp5B
んだんだ。
EYEこそすべて
81お前名無しだろ:04/05/17 19:32 ID:46GLu3Zu
>>72 が瀕死
82お前名無しだろ:04/05/17 21:32 ID:3VUVi1/3
落栗(らっくり)

「荒」の武将たちの訓練方法のひとつに、イガの付いた栗を四方から投げさせ、
それを剣で弾き返すというものがあった。失敗して地面に栗を落としてしまう
ことは武将たちにとって大変な恥辱とされた。
ある時、「荒」の首領である「怨彰」自らこの訓練に挑んだが、たまたま
「醜腐炉」族の語り部が見物に来ていたため、見栄っ張りの「怨彰」は止めるに
止められず延々と続けていたが、疲労も限界に達し、もう栗を落としても
いいと思い、「もう落栗(らっくり)したいよ」と叫んだことから、「荒」では、
困難なことを避けてゆっくりくつろぐことを“らっくり”と言うようになった。

現代でもwjスレ住人が落ち込んだ人などに、「まあ、ラックリしていけ」と
声をかけるのはこの名残である。

民明書房刊『落栗と荒、跨ぎながら』より
83お前名無しだろ:04/05/17 22:19 ID:rGiLGA3h
展乱寺逢(てんらんじあい)

古代中国では、兵士達がいかに武術の訓練をしているかを皇帝が直に見る展乱寺逢
という事が行われていた。各地方の腕自慢が神聖なる寺院に集まり、披露した。
特に有名なものが、光烙園(こうらくえん)で行われた展乱寺逢である。
中国最大の軍隊、拠陣軍の大将、那賀史摩(ながしま)は皇帝が見ているという大舞台の中で、
作余納裸保無濫(さよならホムラン)という心を裸にして無の状態する大技を披露した。
これには皇帝も驚きのあまり、立ち上がって拍手し、最大級の賛辞を送った。
那賀史摩と対戦したライバル武羅谷磨(むらやま)はショックが大きかったのか、「あれは反則だ!!」
とうそぶくことしかできなかったという。
これにより那賀史摩は「身守多亜(みすたあ)」(アジア最大の国、中国の多くの人を守るの意)の称号を
授かり、拠陣軍に那賀史摩あり。と中国全土に知らしめた。

  民明書房刊「中国、拠陣軍伝説の那賀史摩」より
84お前名無しだろ:04/05/18 02:04 ID:4b8Oy11M
巣遁貧愚(すとんぴんぐ)

明朝末期、中國北西部では現代の総合格闘技の基礎とも言える
格闘技『腕競(わんきょう)』と呼ばれる競技が存在していた。
勝者には地位も名誉も富も手に入れられる、貧困家庭の子供は
スパルタ教育を受けこの競技に出場し勝つことが義務付けられて
いるようなものであった。

その競技の過酷さ故か、すでに地に伏している相手に対してさえ、
その戦意を根こそぎ削ぐ為の技が存在した。

「巣遁貧愚」はまさにその代表技といえ、その過酷さは熾烈を極めていたらしい。
倒れた対戦者の名を連呼しつつ、公衆の面前でその対戦者の肉体に対し強烈な
踏み付けを長時間繰り替えすのである。
これは肉体的よりも精神的な痛手を狙った鬼畜な技といえ、
「巣遁貧愚(さっさと巣に帰れ、この貧愚め!の意)」という名がつけられた。

『螺裏亜斗』で一時代を築いた腕競戦士「趙(ちょう)」はこの「巣遁貧愚」の
第一人者だったと記録にある。
彼の長髪を振り乱しての巣遁貧愚は、当時の民の目には鮮烈に映ったようだ。
しかしながら、時代が経るにつれ、巣遁貧愚は試合を組み立てられない
未熟な腕競戦士の技と認識され、 この技の連発をすることは、
2流戦士の証といわれるようになってしまったようである。

ちなみに現在のプロレスで使われているつなぎ技『ストンピング』は
言うまでも無く『巣遁貧愚』が語源である。

民明書房刊「中国歴代格闘技全書」より
85ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/05/18 02:06 ID:JrJ7W5FZ
寝る前に爆笑w
「巣遁貧愚(さっさと巣に帰れ、この貧愚め!の意)」ってw
ありがとー!
86お前名無しだろ:04/05/18 09:31 ID:AfvttCI6
藤原阿亜鵡刃(ふじわらああむば)

 室町後期の武将。出生年不明〜没年不明。
 藤原阿亜鵡刃は戦国時代に活躍した武将だが、謎が多く、その正体については未だ
不明。陸奥の国出身といわれ、奥州藤原氏の後裔を自称していた。
 戦場での組討に優れ、とくに、切りかかってくる相手の腕を取って、今の柔道でいう
脇固めにとり、肩や腕を砕くのが得意であった。
 何人かの大名につかえた後、自立して「藤原組」を名乗ったが、臣下の相次ぐ離反に
あい、あえなく崩壊。更に、戦場での主役が鉄砲に移り変わるにつれ、藤原のような
古武士の存在価値も薄れていった。
 晩年は各地を周り、大名の前で組討を披露したり、武芸を好む大名の指導をしたようだ
が、やがて人前に姿を見せなくなった。
 一説では南蛮船にのってヨーロッパにわたって、イギリスに至り、後に「キャッチ」と
呼ばれるレスリングに影響を与えたとも言われ、今日アメリカのプロレスで使われる
「フジワラアームバー」こそ、藤原阿亜鵡刃が伝えたものではないかという人もいるが
真相は定かではない。

民明書房刊『知られざる戦国武将マニアック』より
87お前名無しだろ:04/05/18 11:06 ID:gX7xul54
足取(たーとる)

時は鎌倉、処々の武将があつまり力比べを行うことがあった。
その時、相手が取るに足らない相手であったさい、腕を丸め
それをアピールすることがあった。それを取るに足らない相手
から「足取」と呼んだ。
近年では新日本プロレスサイキョ戦士の永田氏がロシアのヒョードル選手
相手に行ったのが有名。
後にあのときは死を覚悟したとヒョードル選手はいっている。
88お前名無しだろ:04/05/18 13:32 ID:/jxcxqw2
狗逸狗(くいっく)

神話時代、小兵の神である、坂佐尾佐枝命(さかさおさえのみこと)が
自らよりも遙かに大きな格上の神を封じ込める事の総称。
小狗(こいぬ)が大きな狗に勝つ様に似ていることからこう呼ばれる。

勝つには勝つが、あくまでも一時的に封じるだけであり、
格上の神の威厳が傷つかないため、格下の神の信者は
喜び、格上の神の信者の誇りは守られる、という有用な終戦方法。

他の使い手としては、隻眼の神である湖筒実片目命
(こづつみかためのみこと)などが有名。

民明書房刊『やっぱり怖いよ山の神』
89お前名無しだろ:04/05/18 15:17 ID:OgdBa19n
挫弧武羅(ざこぶら)

中国宋代末期、異民族の侵攻に悩まされた時の皇帝は
屈強な修羅達を徴集、特に武術に秀でた修羅を選抜、
「武羅」として新たに名を与えた。
 しかし、武羅の任務は過酷で単身敵対勢力に乗り込
んでかく乱するというもので本名、出生は一切伏せられ、
覆面をして人相を隠すという異形であったと言う。
 挫弧(ざこ)という武羅は出陣前に杜撰な変装と
特徴的な肉体と動きから正体が錠持(じょうじ、古代中国の門番)の
尭埜(たかの)であることがバレた。
人は彼を見つけると「錠持尭埜!」とさげすむように呼び捨てにし、
時には集団で「尭埜!尭埜!」と罵声のような連呼を叫んだと言う。
 哀れ、尭埜は皆が正体を知りながら素顔をさらすことも出来ず
覆面のまま寂しく任務につき、宋朝滅亡後も行方はしれなかった。

 この故事から中国では下手な芝居のことを「挫弧武羅」といい、
日本にもこのままの意味で伝わったが年月とともに、下手なものや
取るに足らないもの総称とされた。気性の荒い関西の泉州地方の漁師が
しけで不漁のときに「なんや!雑魚(挫弧)ばっかりや!」と使い出した
のが雑魚の語源であるのはご存知のとおりである。

 また、四国、中国地方では情けないものや女々しいものを「なんじゃ、
武羅じゃぁのう!」と言っていたのがやがて女性的なもの総称をさす
意味に変化。女性の下着ブラジャーの語源になったのは賢明な読者の
よく知るところである。

 民明書房刊 「歴史に消えたトホホな武人達 上巻」より



90お前名無しだろ:04/05/18 21:29 ID:demxLvWw
あげときますよ
91お前名無しだろ:04/05/19 00:37 ID:OCe3qlr0
銅鑼厳素突不(どらごんすとっぷ)

平安時代末期、音症(おんしょう)氏と箸不(はしふ)氏が
骨肉の争いを繰り広げていた際、立会人であった不二並絶身
(ふじわらのたつみ)が突然巨大な銅鑼を叩き、その唐突さで
周囲を混乱させて事態を収拾した故事に基づく停戦方法。

しかし、収拾出来たと思うのは本人だけであり、火種が
燻ったままになるため、何の解決にもならない。結果として
音症氏と箸不氏はともに国を捨てることとなった。

民明書房刊『ちょっと、お米食べにこない』
92お前名無しだろ:04/05/19 10:20 ID:iHzLFvIS
age
93ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/05/19 15:00 ID:B2v5szZJ
上芸(age)

時は江戸時代。戦国の時代が終わり、武士に求められる素養が
武芸から処世術へと変わってしまった。
幾ら腕に覚えがある者でも、其れのみでは立身出世が困難であった事実は
宮本武蔵伝説や池波正太郎「剣客商売」の読者なら御存知の通りである。

世が世ならと嘆く武芸者、それも主に小規模な道場の経営者や浪人者の間で、
芸ある者の地位を向上させるべし、という「上芸」運動が沸き上がったことは
極めて自然な流れと言えよう。

民明書房刊『知られざる武士階級の反乱』
94お前名無しだろ:04/05/19 19:59 ID:7IxnoqBs
逸弐山打阿(いちにさんだー)

蜀の欺将軍、闇倒二夫(あん・とうにお)が次元の低い戦いが続き、
士気が低下した際に唱え兵を高揚させたと言われる経。
晩年はこの経を唱えるだけで、現在の数百万円相当の俸禄を
得ることができ、闇は裕福に生活出来たと言われる。

これに追随し、二匹目のドジョウを狙い、「逸弐山庶阿(いちにさんしょあ)」
を唱えた拷流馬(ごうりゅう・ま)という武将もいたが、後に男色戯画の
対象、老婆より財を盗み投獄されている。

民明書房刊『パクってハニー』より
95お前名無しだろ:04/05/20 10:07 ID:0cUOQeJy
奈我田労区(ながたろっく)

時は太平の唐の時代、一人の農民が他人の田からさも自分のものの
ように米を栽培し、それで栄えたことから、他人のものを盗み、
さぞ自分のもののように振舞う態度のことをいう。

我田引水もこのことばから出来たというのはいうまでもない。

民明書房刊『教えて!永田サン9つのナゾ』より
96ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/05/20 17:50 ID:AdSyt2BF
逆巣遁貧愚で蹴りage
97お前名無しだろ:04/05/22 14:23 ID:M7VjNuhx
帯圧府(たいあっぷ)

中国は宋王朝の時代、比類無き身のこなしで名を馳せた
鞘馬(さや・ま)が猛虎の仮面を被り始めたとされる舞踏装飾。

大河のような動きの速さに鞘馬の体が透けて見え、
「大河馬透(たいがますく)」と呼ばれた。その鮮やかな
動きは童たちの信奉を集めた。

舞踏装飾を作成するにのは王朝よ特別な保護を受けた
工業都市、帯圧府(たいあつふ)に店を構える職人たちであった。
この都市の名前が装飾の名前の由来である。

また、戦より身を引いた鞘馬は甘味狂であったため、動きを
圧迫するほどの贅肉を身につけてしまい、かつての姿は見るべくも
なかった。そのため、「体圧不」こそが正しいと主張する学者も多く、
むしろ近年ではこちらが主流である。

民明書房刊『とっさに使える「ちょっちゅねー」』
98お前名無しだろ:04/05/23 11:14 ID:XhM9VryB
雷電「馬鹿な!信じられん!」
J「どうした、雷電?顔色が悪いぞ!」
雷電「あれぞまさしく…」
99ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/05/24 12:10 ID:gbeUTjKc
上芸(age)・その2

気に入ったスレッドが消え去りそうなのに、
ネタが思いつかないときに使う芸。
100100:04/05/24 12:10 ID:ZwNUKSMa
100
101お前名無しだろ:04/05/24 12:16 ID:PmIkVOSr
叉芸(sage)

清代の中国において清を支配していた満州民族が行なっていた、
三叉槍を用いて舞われた演舞の一種。
槍の回転や上方への突き上げをもって見せ場とする通常の演舞と異なり、
下方への突き下げ、及び地面へ槍を刺す事によって行なうアクロバティックな
動きを肝とする。
皮肉にも後の清国の停滞に伴って盛んとなり、保守的考え方の象徴として扱われる事となった。

後のスレッドフロート式大型掲示板群におけるsageとは、叉芸がその語源となっている
事は言うまでもない。
102お前名無しだろ:04/05/24 12:18 ID:7uakHzdt
永田「な なんじゃあれはーっ!
み 見るからにおそろしそうな武器をひっさげた野郎が 横から出てきたぞーっ!」

中西「あ あれを一体どうやって使うっていうんじゃーっ!!」
103お前名無しだろ:04/05/24 12:37 ID:PmIkVOSr
鎖蛙辺流大河(さあべるたいが)

蛙を鎖に繋いで大河の元に置くと、例え大河の急流に流されようとも
鎖によって引っ張り上げられれば溺れる事無く済む。

中国明代の陽明学者にして戦略家であった猪安都(ちょ・あんつ)が、
その終生のライバルであった大盗賊信十斗(しん・じっと)が、実は明の奸臣
の援助を受けていただけで、実際は小物であったという事を見抜き、「まるでお前は
鎖に繋がれ大河の辺を流れる蛙のようだ」と例えた事から、自らの実力が無いにも
関わらず、他人の手によって大物のようにふるまわされる滑稽なさまを例えて、
鎖蛙辺流大河と称する事となった。

後の世のプロレス界で猛威を振るったタイガージェットシンのテーマ、
サーベルタイガーが、牙持ちし虎とこの故事とのダブルミーニングである事は言うまでも無いことである。
104お前名無しだろ:04/05/24 13:22 ID:iji9L3Es
亡我足(ながた)

明朝末期、中國北西部では現代の総合格闘技の基礎とも言える
格闘技『腕競(わんきょう)』と呼ばれる競技が存在していた。
多くの猛者が己の技量を高め合う中、究極まで研ぎすまされた精神力は
「亡我足(ながた)」と呼称され、修行の最終目標の一つであったと記録にある
「我を亡くして足る。」つまり無心の境地を得る事である。

この「亡我足」の境地を得たものは、眉間の間に「第3の目」が覚醒するといわれ
試合中にその第3の目を発動させるために、片手を額にかざす「型」を取るようになるという。
第3の目より発せられる光の矢は対戦相手の「心」を折ったといわれ、
精神力がものをいう関節技の取り合いの際に、この「亡我足の型」が用いられた。
特に「炉苦」(ろっく。後述)といわれる絞め技の際に多用されたといわれている。

現在新日本プロレスで活躍中の永田選手が、よく額に手をかざす「敬礼」のポーズをとるのは
この「亡我足(ながた)」の故事にちなんでいることは言うまでもない。

民明書房刊「中国歴代格闘技全書」より
105お前名無しだろ:04/05/24 13:25 ID:PmIkVOSr
>>104
上手いなぁ・・・。
106ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/05/24 13:28 ID:gbeUTjKc
職人さんが続々と^^
107お前名無しだろ:04/05/24 15:00 ID:/V6QhWVm
馬射口(まいく)

中国は晋時代、武将が戦いの後(まれに戦いの前)に
馬上より民に向けて放つ言葉。これにより民の心が大きく
動くため、武将にとっては戦闘力と同等の重要性を持った。

殆どが高揚させるものであるが、羅氏焼邑(らっしゃーきむら)が
晋(晋日本)に攻め込んだ際は、その人の良さから挨拶を
してしまい、戦場でありながら場を和ませたという。その
蛮勇さから「御名様坤蛮話(みなさんこんばんわ)」という
物語が編纂されている。

声の通り・滑舌の良さが重要な要素であるが、後にコンニャクの
英霊として扱われるようになる、銅鑼厳(どらごん)の様な、
何を言っているのかよく分からない馬射口を行う武将も現れた。

だが、銅鑼厳のそれは完成度の低さと絶妙なタイミングで
発せられたため、一部の民に熱狂的に支持を受け、芸人
百合岡張突休(ゆりおかちょうとっきゅう)に
一種の芸として昇華された。

現在のプロレス・格闘技におけるマイクパフォーマンスの
源流となっていることは、意外と知られていない。

民明書房刊『ひと手間加えてびっくりパフォーマンス』
108お前名無しだろ:04/05/24 16:48 ID:w0fGWuut
依虞奈娼婦 いぐなしょふ

古の長安の都に「依虞奈」と言う名の娼婦の伝説がある。
この女性は「慧王」けいわん という娼婦宿に居たといわれ、膝の魅力で男性を虜に
したと言われたほどの「美膝」の持ち主であったと言う。言い伝えられている所では、
最も愛されていたとされる「那科武良太子」なかむらのたいし 
と言う若い武将との恋愛が有名である。初対面の大晦日の夜すぐに太子は
「依虞那」の膝に魅せられ、膝に顔をすり寄せ顔が真っ赤に腫れ上がる程だったといわれる。
しかし、宿の主である「峪臥琶」たにがわ の元に太子の父君「上井守」より
太子との交際を絶ちきらせる申し入れがあり暫くの間2人は再会を期しつつ
泣く泣く別離した。その間「依虞那」は「羽入編州」ういりあむすと言う武将を「美膝」の
虜にしていたが1夜の契りのみで別離している。しかし、再会の時が来た。
もう一度愛しい恋人に会いたい一心の「那科武良太子」は皐月22日の夜、再び
出会えた。「重務得無詠」えむえむえい という旅荘の大広間で太子は再会した。
しかし、もはや「依虞那」には「美膝」の面影も無くなっていた。嘆き悲しんだ
太子は「依虞那」を「義露沈蝶九」ぎろちんちょうく と呼ばれる武器にて、
頸をはね、その変わり果てた「依虞那」の膝を永遠に己の物とすべく大切に持ち帰った
と言う。

現在、プロレスにての「ナカムラ・シンスケ」の先祖が太子であり
あれくせいいぐなしょふの先祖が「依虞那」娼婦であるといわれ
今日になっても、この2人の悲恋の伝説に縛られ続けているという。

民明書房刊「美しき膝の魔性の女」より 

 
109お前名無しだろ:04/05/24 21:00 ID:Dgo9T2r5
>>108
ネ申
110お前名無しだろ:04/05/25 00:58 ID:8Gm7++EV
裸衣牙(らいがー)

明朝末期、中國北西部では現代の総合格闘技の基礎とも言える
格闘技『腕競(わんきょう)』と呼ばれる競技が存在していた。
多くの腕競猛者が相手を圧倒するために様々な技を編み出すなか、
試合に用いる「衣」に執着を示す選手達も少なくなかった。
読者は、血みどろの腕競試合において、この「衣」の選択なぞ必要なのかと感じると思うが、
当時の為政者や聴衆に対し、己を素早く認知させるためにも、派手な「衣」は有効な手段であったといわれる。
そして人々はこの「衣」を着る選手を「裸衣牙(らいがー)」と呼称した。
「裸体に牙の衣装」といったところであろうか。

しかし、当時はこの「裸衣牙(らいがー)」は半ば嘲笑をこめて呼ばれていたらしい。
というのも多くの「裸衣牙(らいがー)」は、その「衣」に表されるように自己顕示欲が高く、
負けた試合の後でさえ、尊大な態度を示していたからだ。

記録によれば、全身を赤く染めるもの、黒く染めるもの、角を生やすもの、そして仮面をつけるもの等
さまざまな「裸衣牙(らいがー)」が存在したようだが、
この「衣」にも難点があったらしい。それはこの「衣」の長期の着用は蒸れをおこすため
多くの「裸衣牙(らいがー)」はハゲ頭であったと伝えられている。

現在、新日本プロレスで活躍中の獣神サンダーライガー選手のリングネームが、
この「裸衣牙」に由来していることは言うまでもないことである。

民明書房刊「中国歴代格闘技全書」より
111ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/05/25 01:07 ID:DC3SUW2h
おもしれーw
裸衣牙(らいがー)最高。
職人さんたち、笑わせてくれてサンクス!
また明日^^
112お前名無しだろ:04/05/25 15:51 ID:ZiCkg0KW
達腐(たっぷ)

明朝末期、中國北西部では現代の総合格闘技の基礎とも言える
格闘技『腕競(わんきょう)』と呼ばれる競技が存在していた。
この過酷な腕競においては、現在でいうギブアップはまれであった。
というのも、多くの腕競選手は「達人」の域まで技量も精神も鍛え抜かれたおり、
自らの意思で降参するものは殆ど存在しなかったからだ。

その中、「総裁(そうさい)」と呼称されるほど民衆より敬われていた
中興の腕競達人「田蚊唾(デン・ブンダ、和名:たかだ)」選手は
ある異民族戦士との果し合いの際に、民衆の期待に背き降参をしてしまう。
これに失望した民衆は、彼のことを「達腐(たっぷ)」と罵倒した。
つまり「腐った達人」の意である。

後の世に、この「達腐」田蚊唾(デン・ブンダ、和名:たかだ)選手が、
降参の際に脅威的な速さで地面を連打したことから、
降参の合図として地面を打つことを総じて「達腐(たっぷ)」
と呼ぶようになったといわれている。

しかしながら、これまでの歴史において、
田蚊唾(デン・ブンダ、和名:たかだ)選手ほど、高速に「達腐」したものはなく、
それは腕競の伝説と化している。


現在、PRIDE本部長である高田選手も、現役事態は高速タップの名手であったが、
彼が「田蚊唾(デン・ブンダ、和名:たかだ)」選手を意識していたかどうかは
定かではない。

民明書房刊「腕競の戦士:その光と闇」より

113お前名無しだろ:04/05/25 16:28 ID:SI8x40WB
>>112
マジ最高、よく思いつくな。
あんた等。。。
漢(おとこ)だよ。阿羅漢(おとこの中のおとこ)だよ。
114お前名無しだろ:04/05/25 17:51 ID:WwP8MaDv
徐朱 場阿熱斗(ジョシュ・バーネット)

中国三国時代、徐朱という若者が己の武を極めんと修行に励んでいた時
突然、落雷が彼に襲った。徐朱が目を覚ますとそこには、北斗という神が、
一人座っており、彼は徐朱にこう告げた。

「ここは、あの世…お前はもう死んでいる…しかし、お前さんみたいな若者、
災害なんぞで命を落とすのは余りにも惜しい…わしの力で蘇らせてやろう」

そして徐朱は奇跡にも蘇った。

一度、死を経験した徐朱は、戦場ではどんな相手でも怖い物知らずと化し、勇敢な将として称えられた。
徐朱は戦の度に、お前はもう、死んでいる、死人に恐怖無し!と叫び、自分を鼓舞していたという。

それから彼の事を、戦場で熱い漢としていつの日か場阿熱斗と呼ばれるようになった。

民明書房刊「隠された中国神話」より

115お前名無しだろ:04/05/25 17:57 ID:Piv+88Uf
(異説)「御瑠粉黒骨粉」 みるこくろこっぷん

江戸末期、清国より輸入されていた現代で言う「滋養強壮剤」である。
最初の輸入は武道家であり回船問屋でもあった「伊椎屋」いしいや 
であったが御禁制抜け荷の罪にてとがめられ没落し後に「伊椎屋」
番頭であった「田仁河」某が店を継承し「田仁河競椀屋」たにがわけいわんや
と屋号を変え、「御瑠粉黒骨粉」を商っていた。
この「御瑠粉黒骨粉」は御瑠という漢方薬由来の薬草と米の粉を混ぜた
ものに「露西亜のヒグマ」の腕の骨の粉末・・・これが黒かった事から
黒骨粉とよばれた・・・を調合したものである。これを服用すると
手足腰の弱った者、さらなる体力、筋力増強、特に豪腕健脚になる効果が
あるとされ、当時の幕府の役人達に好まれ、納入していたらしい。
副作用として、「自分の意志とは無関係に手や足を振り回して暴れる」
「服用中に顔を叩かれると一瞬にして気を失う」等の記述もある。
後にこの「御瑠粉黒骨粉」は幕府認定の御用達となって、「田仁河競椀屋」
は豪商としての地位を築いていった。
余談だが「伊椎屋」「田仁河競椀屋」が商っていた物の記述もあるので
一例をあげておく。
「捨不安冷粉」すてふあんれこ・・・精神安定剤の一種だったといわれる
「磨育鐘鳴土」まいくべるなるど・・・植物の異常な発育促進させる肥料
「火板亜蛙温」ぴいたあああつ・・・カエルより抽出したエキスを含んだ風邪薬
「安泥婦具」あんでいふぐ・・・女性用の生理痛、解熱鎮痛剤
「牡武刹粉」ぼぶさっぷん・・・野獣のごとく男性を瞬時に猛々しくさせる精力剤
「痔衛露無冷万納」じえろむればんな・・・痔や周囲の炎症を抑えるという軟膏
「嗚呼音酢十宝素登」ああねすとほうすと・・・食材に調合すると「ああ、食の王なり」と
                      言われたほどの調味料

なお、現在の格闘家達がこれら薬品の服用、活用、また一般家庭での使用等の
記述が一部で見受けられるが、「御瑠粉黒骨粉」の服用に関してが格闘家である
議員某に対して「禁止薬物」の対象となりうるかで審議されるらしい
116お前名無しだろ:04/05/25 20:24 ID:bg9b45QC
舞連無婆棄侘阿 ぶれんばすたあ

殷の時代より伝わる戦場における卜いの舞踊の一種。
上下二人組みで舞うのが基本。上で舞う者の両足が天に向かって
綺麗に伸びきっている姿が美しい。下で支える者とうまく呼吸を
合わせる事が重要。そのまま後方に倒れこみ、着地の状態により
吉兆を占う。

応用型で
賭利富屡舞連無婆棄侘阿 とりぷる(3人一組で舞う)
名誰史記舞連無婆棄侘阿 なだれしき(高所で舞う)
等がある。

往年の舞い手としては 
出射駈馬亜毒(でぃっくまあどっく) や
張李麗州(はりーれいす)が有名。
倭国では、腸臭痢奇(ちょうしゅうりき)が
この舞を多用した。
古くは、馬亜手伊軽崇富麗苦棲(ばあてぃかるすうぷれっくす)
が源流とされる。
117お前名無しだろ:04/05/25 20:41 ID:TiAPS/tK
輪利曳剣(わりびきけん)・消耐剣(しょうたいけん)

明王朝時代、戦が起こった際は民は持参金と共に戦場に
集うものであった。しかしながら武将・国に吸引力が無い
場合は、国が剣を民に与え金銭的な負担を軽くしようとした。
主に市場や温泉などにこの剣が置かれていた。

持参金を全く必要としない消耐剣(しょうたいけん)という
剣も存在したが、国と関係の深い商人や、口裸部(くらぶ:
店の女性と酒を酌み交わし、場合によっては交わる)に
贈られるものが多い。

また、少年兵や貧しい民が輪利曳剣をこの消耐剣と思いこんで
持参し、戦場に入ることが出来ない、ということも起こるため
剣の配りすぎが求心力を衰退させる場合もある。

輪利曳剣で戦場に入っても、座ることの許されない
絶身(たちみ)、または座っても最も武将より遠い
時遊(じゆう)という位しか与えられないが、追加金を
出すことにより、士底(してい)や徳倫(とくりん)などの
位に昇格することも可能であった。

銘者(めじゃー:大国の意)であっても、陰泥(いんでぃ:小国)でも
地方で戦が起こる場合は、輪利曳剣のバラ撒きは日常
茶飯事であった。

民明書房刊 『他人の負傷は蜜の味』より抜粋
118お前名無しだろ:04/05/25 22:56 ID:iyMPUFKi
天龍長腐(てんりゅうちょっぷ)

 戦国時代の名将武田信玄が南信濃の天竜川の水を合戦時に
持参したが天龍の水は耐久性に優れ、常勝武田軍に非常に
重宝された。しかし、世に名高い永禄4年(1561年)の
川中島の合戦で上杉謙信軍と長いにらみ合いが続き、
さしもの天龍の水も腐ってしまった。
これを大量に投棄したところ、翌朝は気温が下がった朝で
濃霧が発生。そこを上杉軍に攻められなんとか撃退した
ものの武田軍では甚大な被害が出た。信玄は苦悶の表情で
「天龍長腐か」とつぶやいた。その際、信玄が咳き込んだため
「てんりゅうちょ、ゲホッぷぅ」と発音したため
「てんりゅうちょっぷ」と記憶された。

 この故事から重宝なものでもある時期から無用、無駄な
ものへ変じることを「てんりゅうちょっぷ」と言う。
 
 余談だが力士からレスラーへ転じて間もない天龍が
力士時代の突き押しで意味もなく相手をコーナーへ押し込む
様をこの故事をしる歴史好きのG・馬場が「天龍はレスラーに
なっても天龍チョップか」と言い放ったマニアックな
おやじギャグが「天龍チョップ」の誕生であることは
プロレスファンのよく知るところである。
 この故事を即座に理解したのが中央大出のG・鶴田で
全く理解出来なかった付き人の大仁多は馬場の機嫌を損ねた。
大仁多が近年、無意味な明大進学や議員出馬した背景には
この日の屈辱が秘められていることは知る人ぞ知るエピソード
である。

民明書房刊『出世に響く失敗談・・プロレスラー編』より
119お前名無しだろ:04/05/25 23:42 ID:CGs01l8o
銅鑼言泝闘溥(どらごんすとっぷ)

一般にレスリングの起源が古代中国発祥の拳法「烈燐蠱」であることは広く知られている。
この烈燐蠱で禅仁寺と二大総本山を形成していたのが心仁寺である。
ある日この心仁寺の拳士で日頃から対立していた梯賦(はしふ)と李覬(りき)の二人が
御前試合で決着をつけることになった。
庵敦(あんとん)大僧正直々に見守る中御前試合は始まったが遺恨に燃える両者の
戦いはおよそ拳法とは言い難い殴り合いであった。
「このままではどちらかが死ぬことになる」そう察した僧正の昏若(こんにゃく)は
銅鑼を鳴らし試合の中止を言い渡す。
突然の試合中止に激怒する庵敦大僧正に対し昏若は「我等不殺合(我々は殺し合いを
しているんじゃない)」と弁明するが大僧正の怒りは収まらず以後昏若の僧正としての
信頼は大きく失われた。

以上の故事に因んで「はっきりとさせるべき物事をうやむやにする」という意味としてこの諺が
用いられている。
ちなみに現代でも発言が二転三転する人を「コンニャク」と表現するがこれはこの昏若僧正が
由来である。

民明書房刊「サラリーマン諺事典〜こんな会社やめてやる!〜」より
120お前名無しだろ:04/05/26 03:36 ID:3gml2vIh
江美利屋円弧 雹弗(えみりやえんこ ひょうどる)

蒙古騎馬軍団が全世界を席巻し露西亜も「タタールのくびき」としてキプチャック汗国の圧制下に
苦しんでいたがやがて露西亜公国が汗国の内部分裂によって力をもつようになり東羅馬帝国の皇女
と結婚したイヴァン3世がやがてツァーリを称するようになる。後を継いだイヴァン4世、つまりイヴァン雷帝
が侵略戦争によって領土拡大政策を取り国力は増大していく。しかし雷帝の死後息子は次々に死亡、
世継ぎが絶えやがて貴族のボリスがツァーリに即位するがやがて雷帝の血縁者を名乗る僭主が各地に
現れ動乱時代へと突入する。やがて波蘭軍が国内に侵攻、露西亜は最大の危機を迎える。
この危機を救ったのが肉屋の主人江美利屋円弧 雹弗とされている。彼はモスクワ市民に国の危機を訴え
国民軍を結成、自ら手本になり対人格闘技術を教え一介の市民軍を精鋭部隊に仕立て上げた。
やがて貴族と共に波蘭軍を撃退、国の危機を救う事になる。しかし彼はロマノフ王朝が成立するのを見届ける
と全ての官位恩賞を断り風のように去っていった。その後彼の姿を見たものはいない。
しかし彼の残した格闘技術が露西亜各地に広まっていった。その奥義は長らく秘伝とされ一子相伝ではないかと
噂されたが近年雷帝もしくはツァーリの再来という者が日本に降臨しその卓越した格闘技術を披露してることから
もしかして江美利屋円弧 雹弗の子孫なのではないかと露西亜一部歴史家の間でまことしやかに囁かれている。
ただ彼は兄弟がいる為に江美利屋円弧との相関関係について更なる検証が待たれるところだ。

民明書房刊「クマでもわかる露西亜史(2)」より
121お前名無しだろ:04/05/26 15:29 ID:BtQrSRrZ
盆馬家(ぼんばいえ)

中国は殷王朝時代、武将から策士になった杏敦(あんとん)が
毎年末に行った武闘会。地方豪族であった盆馬氏の邸内競技場で
行われたことから盆場家の名が付いた。

武将達の普段は見られない戦いが観戦でき、民は多いに沸いた。
だが、杏敦は盆場家をあっさり裏切り、主催する場をトントン拍子で
変えていった。そのため、民や武将はその浮気心に右往左往された。

余談ではあるが、旅の楽士、衛蒸衛底(えむしえいてぃ)が
盆馬の治める民に平和を祈って「盆馬平(ぼんばへい)」と
歌った言葉が好評を博し、とりあえず意味もなく「盆馬平!」と
叫んでしまう現象が起こった。

m.c.A・Tが歌った「Bomb A Head!」はこの盆馬平が
ルーツであることは一部の好事家のみに知られている。

盆馬氏が関わったとされる文化は多く、これからの
学説の発表が期待されている。

民明書房刊『あなたはお口の恋人、私の恋人ではないの』
122お前名無しだろ:04/05/26 15:53 ID:i4C6DZ+u
余脂餌(よしえ)

江戸時代末期、深川界隈で使われだしたとされる、並外れた肥満体の者を罵る言葉。
「テメエのだぶついた肉を豚の餌にしちまうぞ」の意。
またそのような人間は「余脂餌者(よしえもん)」と呼ばれ嘲笑された。


先日、筆者が知人の誘いでプロレスリングを観戦に行った折り、
心ない観客達が、リング上の選手に対して「余脂餌」と連呼しているのに驚き、
悲しい気持ちになった。


民明書房刊「江戸の流行りことばとリンゴダイエット」より
123お前名無しだろ:04/05/26 16:50 ID:NWvxrHL6
余・脂・餌!
余・脂・餌!
124お前名無しだろ:04/05/26 22:54 ID:FjfhZyL7
あげるか
125ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/05/27 00:09 ID:Rm4m945Z
>>121
>盆馬氏が関わったとされる文化は多く、これからの
>学説の発表が期待されている。

お前さんくらい笑いのセンスがあれば、
おれも学説発表しまくりたいわー。

今日もおもしろかった。サンクス!
126お前名無しだろ:04/05/27 00:59 ID:J0XOOK6j
悪素盆馬(あっくすぼんばー)

中国は殷王朝時代、後先を考えずに悩亜(のあ)を
出奔し、様々な国を渡り歩いた武将、央護太佳央
(おおもりた・かお)にまつわる故事である。

彼は盆馬家(→ぼんばいえ)に滞在し、その際に風呂転院
(ぷろていん:筋肉を最も聖なるものと崇める寺)の法願(ほうがん:
風呂転院の祖)の神像が持っていた斧を奪い去った。

しかし、盆馬邸に戻った後、央護太は鏡に写った自らの顔は
悪素(あっくす:人が持つ根源的な悪)にまみれていた事に
気付き、鏡を斧で粉砕する。人は多くの不安に駆られたとき
それを壊してしまう、これが悪素盆馬である。

現在、フリーとして絶賛活動中のレスラー、大森隆男が使う、
アックスボンバーはこの故事に由来した技である。
同氏がこの技を放つ時に、どこか寂しげな瞳なのは
この故事を彷彿とさせる。

民明書房刊 『世界の中の日本、日本の中の世界日本』
127お前名無しだろ:04/05/27 01:26 ID:J0XOOK6j
悪素斬狼鎮(あっくすぎろちん)

中国は殷王朝時代、後先を考えずに悩亜(のあ)を
出奔し、様々な国を渡り歩いた武将、央護太佳央
(おおもりた・かお)にまつわる故事である。

央護太は悪素盆馬(→あっくすぼんばー)の後、斧を携え
零湾(ぜろわん:豚と鶏の二大将軍を筆頭に、猿や天狗、牛と
いった魔獣に満ちた港町)に攻め入る。

獣の生命力は非常に強く、完全に潰さなくては倒すことが
出来なかった。そこで、央護太は傷ついた獣の股間に
自らの頭を差し入れて持ち上げ、獣の体を垂直にに支えて
断崖から飛び降り獣の頭を完全に潰した。

悪の権化である獣を斬り捨て、かつ鎮めるということから
悪素斬狼鎮(あっくすぎろちん)の名が付いた。

今でも中国の一部の農村ではこの方法で、家畜を屠殺
しているが、それはこの悪素斬狼鎮の名残である。しかし、
その姿勢から雑菌が目に入り、視線が定まりにくい病気に
なってしまうことが多く、一種の職業病となっている。

現在、フリーとして絶賛活動中のレスラー、大森隆男が使う、
アックスギロチンドライバーはこの故事に由来した技である。
同氏の目がいつも泳いでいるのは、激しい練習の代償だろうか。

民明書房刊 『日本の中の世界日本、世界日本の中のど真ん中』
128お前名無しだろ:04/05/27 14:51 ID:Wm+prp34
巨婆婆(じゃいあんとばば)

時は後漢。北京の南東、海を隔てた島の東京(とんきん)には、
水軍・陸軍に加え『巨人軍(じゃいあんつ)』という軍隊があった。
その名の如く巨人揃いの軍隊であった。中でも、婆婆(ばば)は、
並外れた上背の持ち主で、大陸と東京(とんきん)を隔てた海を一跨ぎ
で渡ったという。

当時、力道(ちからみち)は、二風呂(にっぷろ)という銭湯を営んでいた。
力道(ちからみち)は、広く人材を集めていた。
軍役に嫌気が差してきた婆婆(ばば)は怪我を理由に退役し、力道(ちからみち)
の誘いに応じて二風呂(にっぷろ)へ加わることになった。
皆からは、 『巨人軍(じゃいあんつ)』の婆婆 と呼ばれていたが、いつしか
「じゃいあんつのばば」が「じゃいあんとばば」に変わっていった。

力道(ちからみち)亡き後は、巨婆婆(じゃいあんとばば)が二風呂の中心
となるも、言葉はうまく話せず時折、「亜歩ー」(あぽー)等の音を発していたという。
その恵まれた身体をいかし、椰子の実を潰す(ここなっつくらっしゅ)、手刀で唐竹を割る
等は日常的に行い、機嫌が良い時には、ロケットになって飛んで見せ民衆を喜ばせていた。
そのユーモラスな言動は広く愛されたという。

民明書房刊 『東京映像電波塔伝説』
129お前名無しだろ:04/05/28 16:29 ID:CVdReEVe
牢屋屡乱曝(ろうやるらんぼう)

越後流軍学で知られる上杉軍の軍師、宇佐美定満が考案した兵士の鍛錬法。
まず竹光を持った兵士二人が牢屋に入り稽古を始める。その後一定時間ごとに次々と兵士が
牢屋に入り最終的には十数人入り乱れての戦いとなる。
この鍛錬は熾烈を極め時には死者を出すほどだったが戦場を想定した鍛錬として大きな成果を
上げ川中島の合戦において武田軍と互角に渡り合えたのもこの牢屋屡乱曝のお陰であると
伝えられている。

現在WWEなどのプロレス団体でよく目にする「ロイヤル・ランブル」はこの牢屋屡乱曝を
取り入れた試合形式である。

日本曙蓬莱武術協会理事長 盛田慎之介 談
130お前名無しだろ:04/05/28 16:30 ID:CVdReEVe
出不淫(でるふいん)

風撰和歌集に収録された和歌の一節、詠み人は藤原定子(ふじわらのていし)。
藤原道隆の長女である定子は14歳で一条天皇に入内し中宮に立てられた。
しかし道隆が死に弟の道長が権力を握るようになるとその道長らによって定子は都を
追われてしまう。
その後も二人は人目を忍んで逢瀬を重ねていたがその短い逢瀬の盛り上がりを定子は
「宵のまに 過ぐる契りに 出不淫 うつろふ心 夜はかなしき」
(通釈:夜も暮れないうちに終わってしまう契りでは淫らな気持ちになれません。(一条
天皇が)他の女性に心を奪われるのではないかと不安になり私の夜は悲しく過ぎていきます)
と詠んだ。
その後定子は宮中に戻ったが24歳の若さで生涯を閉じた。

現代においてその場だけ盛り上がろうとする平成プロレスファンの気質を「デルフィン」と
表現するがこれは言うまでもなく「出不淫」が由来である。

民明書房刊「平安貴族 その光と影」より
131お前名無しだろ:04/05/28 17:54 ID:Ua1QJreu
いまんとこ>>108が一番の神だと思う
132お前名無しだろ:04/05/29 09:39 ID:jeKHKyfP
ageとくぜ
133お前名無しだろ:04/05/29 14:56 ID:Mse4SphM
蟻蹴(ありきっく)

“五虎大将軍加壱(ごこだいしょうぐんぷらすわん)”である李鬼憧(り・きどう)は
南米 珈琲国(現在の伯剌西爾)で 亞誤(あご) と呼ばれる青年を捕獲した。
本国へ連れ帰り厳しい訓練(しごき)で戦士へと育て上げた。亞誤は優れた運動能力を持ち、
数々の敵と戦い勝利を収めていた。
時を同じくして、殴合世界王者(ぼくしんぐせかいちゃんぴおん)に "蟻”(もはめど あり)
という史上最高の殴者(ぼくさー)がいた。
こともあろうに亞誤は、蟻に戦いを挑んだ。大金を使いなんとか蟻をおびき寄せることに成功した。
しかし、いざ戦いが始まるとマンドクサクなってしまい、亞誤は寝転んでしまった。
じたばたと足を動かし、蹴っている様なしぐさをみせた。ふざけた戦闘姿勢であった。なすすべもない
蟻は、舌出(あっかんべー)と呼ばれる技で応戦したが、亞誤は立ち上がることさえしなかった。
亞誤は、『あれは、蟻蹴(ありきっく)という蹴り技だ』と自分を正当化したが、残されたのは、
蟻を呼び寄せるために使った莫大な借金であった。この一戦は『世紀の凡戦』として世界へ伝えられた。
蟻は、遠路はるばるわざわざ足を運んで来たが、相応の報酬を得ることができた。

亞誤が足蹴りの為に金を払ったようなものであった。これが転じて後年、相手に交通費や食費等費用を
負担させることを「あごあし そっち持ちでよろしく」等使われるようになった。

ちなみに、亜誤は蟻と戦う前に、鬼退治に成功している。 
「留守か?」と言う名の赤鬼であったそうな。

民明書房刊「あごと愉快な仲間たち 蟻・赤鬼編」より
134お前名無しだろ:04/05/29 16:53 ID:sI+y8AbE

アリキックの説明になってないよね
135お前名無しだろ:04/05/29 16:58 ID:Mse4SphM

ごめんなさい 以後きをつけまる
        
136お前名無しだろ:04/05/29 17:19 ID:sI+y8AbE

俺も言い過ぎた、ごめんね
137お前名無しだろ:04/05/29 18:02 ID:fxnjVvdq
136と137が仲たがいしなくて良かったよ。
明日はいいことありそうだ。
138お前名無しだろ:04/05/29 18:05 ID:fxnjVvdq
なんつって俺も間違えてるしさ。
いいことなんてあるわけないよ。
139お前名無しだろ:04/05/30 10:15 ID:v1h0f8VB
男塾って感じやね
140ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/05/30 11:35 ID:waNQhAGU
このスレで一番人気を得た職人さんのこと、
おれは塾長と呼ぶぞw
141お前名無しだろ:04/05/31 06:28 ID:UbhSOI4r
142お前名無しだろ:04/05/31 22:39 ID:q1slwel4
そろそろつまってきたか?
143お前名無しだろ:04/06/01 12:40 ID:J/gvsxBS
獣六門気空(じゅうろくもんきっく)

中国は清の時代、武具は己の身体のみとする備具武闘(びっぐぶーと)
という名の武将が存在した。備具の蹴りはいかなる相手をも打ち砕き
富と名誉を彼に与えた。

だが、彼も加齢による衰えは避けられず、晩年はその脚も輝きを失った。
呪術師である淵屋(ぶっちゃー)との闘いのため、そこで彼はある一つの
決断を下した。彼の足そのものに呪術を施したのである。

結果、備具の足の裏には穴が開き、そこから吸気を発するようになった。
いくら避けようとしても、足に吸い寄せられ、嫌でも蹴りを受けてしまう、
百発百中の足を得た備具は淵屋を倒し、病に倒れる時まで人々の
希望であり続けたという。

獣六門気空(じゅうろくもんきっく)とは備具の足の裏に開いた
いかなる獣であろうとも吸い寄せる六つの穴の名である。

平成11年に逝去した、不世出のプロレスラー、ジャイアント馬場氏が
愛用した技「十六文キック」は、どのような不自然な位置取りで
あっても相手レスラーが馬場の足に吸い寄せられていったが、
獣六門気空との関係は馬場氏がこの世を去った今、確認することは
出来ない。

民明書房刊 『モテたい君のための足技ハンドブック』
144お前名無しだろ:04/06/01 16:18 ID:/VXRw6TB
莫賢楼(まっけんろう)

中国武術において、「楼」とは相手の突きや蹴りを払う事を指し、
ボクシングにおける「パリング」に相当する防御法であるのだが、
これを攻撃として用いるのが莫賢楼である。

発祥は古く宋代に遡る。
子供たちに拳法を教えていた男が「楼手」の練習をさせるために
「腕で相手の脚を払え」と言ったのを、
ある一人の弟子が理解できず、
立っている相手の軸足を払ってしまったのが始まりである。

師は弟子の間違いを指摘したが、
弟子は「間違いではない。自分の編み出した新しい技だ」と悪びれる事が無かった。
呆れた師はこの技に莫賢楼と名付ける。
莫賢とは「賢きことなし」の意味であるが、
弟子は意に介さなかったも理解できなかったとも言われている。

尚、件の弟子は長じて海賊となり、
格闘においては莫賢楼を終生の得意技として暴れまわったが、
本名が記録に無く、
ただあだ名として「吽胡(うんこ)」と呼ばれていたという一文が残るのみである。

太公望書林刊 石沢常光著「学校であった怖い中西―トイレのウンコさん―」より抜粋
145お前名無しだろ:04/06/01 17:42 ID:SWnzzzzd
馬飼苦楽舞 まかいくらぶ

約800年前中国全土を元国が支配していた時、中国各地方をドサ回りしていた
舞踊劇団が沢山あり。その中の一団に「清仁翻」しんにほん という劇団の記録
がある。「清仁翻」劇団の出し物の一つに「馬飼苦楽舞」という題名の舞踊劇がある。
この舞踊劇は馬と生活を伴にし、飼育・調教・利用に勤しむ遊牧民の物語である。
(当時馬は大切な戦闘用の乗具であり、移動用の手段であった) 劇中登場するのは
甫篠(ほしの)、字名を祖羽西(そうさい)とよばれる初老の飼い主、そして馬
(初演は市豪、仁豪、山豪、読豪、呉豪とよばれたが後に脚本が書き加えられ、
矢守堕 やすだ→怠惰で傲慢、群咬 むらかみ→暴れ出すと狂ったかの如く止まらない
、市豪―肥裸太 ひらた→馬清 ましん とも呼ばれ牝馬とも間違われた体格、
仁豪―逐然 ちくぜん→後に居なくなったという、山豪―梁戯茶倭 やなぎさわ→
後足で人を蹴ってばかりいた、読豪―士馬汰 しばた→血統は良いがまだわかく
粗雑、呉豪―那該 ながい→南流畝 なるせという牧童に乞い慕われたねという
想定に改変されている。又、士馬汰と那該の二頭は読豪、呉豪となっていた
時より「針馬横津」はりまおうず として二頭で独自に演じる時もあった) である。
この暴れ馬を甫篠は時には喝破し誉めながら飼育した。甫篠の「尾歯菱!」びっしびし
というかけ声のもと戦闘にかり出され暴れ回りもした。これを舞踊にて表現したのが
「馬飼苦楽舞」である。「尾歯菱」の台詞は「馬飼苦楽舞」の大見得の極め台詞でもあった。
この舞踊は各地でそこそこに評判をとったが、あまりにも粗雑な演出である公演が多く、
だんだんと廃れていったという。実物の馬を用いていたので率いる飼い主である甫篠役の
韓詫露 かんたろう という役者は馬たちの世話をしたり移動させたりと劇さながらの忙しい
日々を送っていたという。
現在伝わるところの話で某プロレス団体の「魔界倶楽部」の面々がこの舞踊を
知り、また実用出来うるものとして研究しているという事も、この舞踊より自分たちの
「魔界倶楽部」の名称等に反映されていることが既知であるかどうか全員口を閉ざして
いるので定かではないのは残念である。
民明書房刊【赤い魔界は夜会で和解】より
146お前名無しだろ:04/06/01 17:44 ID:SWnzzzzd
145だけど
なにげに漏れのID zzzz
眠たいぞ
147お前名無しだろ:04/06/01 18:26 ID:eZ9WZX/f
シャイニングウnzzzzードか。もう少しだな。
148お前名無しだろ:04/06/01 20:53 ID:VZeMx/oI
>>29
>>30
羅李阿斗(らりあと)
時は三国の時代。蜀の劉備が生まれたばかりの息子、阿斗(後の劉禅)を連れ散歩を
していたところ、魏の羅利(らり)という刺客に襲われた。すぐさま関羽、張飛が劉備らの前に出て羅利の
武器を叩き落し、切りつけた。しかし傷ついた羅利はなお素手で劉備の命を狙おうとし、劉備の抱いていた
阿斗を二の腕で叩き落として絶命。阿斗は命をとりとめたものの落下の際に頭を強打し脳に障害をきたしてしまい、
その後劉禅となって皇帝に即位し蜀は滅びの歴史を歩む。
この羅利の執念の一撃の話は後に「羅利、阿斗の変」と言い伝えられたが、時の武術家たちがそれに目をつけ
それまでの中国拳法に無かった腕部での打撃を技として編み出し、「羅利阿斗」と呼ぶようになったという。
その後、羅利の血を引く刀鍛冶の須鍛坂泉(すたんはんせん)が自らの作に羅利圧刀(らりあっと) と
名づけたことも歴史書にて確認されている。

ちなみに現在、覚醒剤などでトリップ状態になることを「ラリった」というのは
これに由来する。
149お前名無しだろ:04/06/02 07:23 ID:ovVTyZzw
>>144
意外な副業が・・・w
150お前名無しだろ:04/06/02 09:30 ID:FzqJOpbl
得不得無打武龍

古代中国殷の末期、紂王は政治を顧みず、宮廷で酒池肉林の宴を催すなど暴虐の
限りを尽くした。自身も武芸を好む紂王は、しばしば屈強な兵を闘わせ、それを見て
楽しんだという。
始めはただ、2人の兵を闘わせるだけであったが、やがて格闘用の雷台と呼ばれる
リングが作られ、四方が縄で囲われるようになり、格闘の方法も、1対1だけではなく、
2対2や3対3という形式も行われた。また、紂王の前で格闘を行う専門の力士も養成
されるようになった。
あるとき、紂王はそれまでの格闘では満足できなくなり、雷台を囲む縄に、茨のツタを
からませて、その中で格闘させることを思いついた。力士たちは恐れ、茨の雷台に入る
ことを拒否したが、拒否した力士は炮烙の刑に処された。
力士王仁侘(おおにた)はそれ以上仲間の力士が殺されるのに耐えられず、自ら志願し
茨の雷台に入った。相手には王仁侘のライバルであり友でもあった力士汰亜斬悟倒
(たあざんごとう)が志願した。
紂王を無言で諌めるため王仁侘は茨の縄に自ら体を叩きつけ、満身血だらけになって
闘った。心あるものは、この闘いを、2人の龍が得るものもなく闘ったとし「得不得無打武龍
(えふえむだぶりゅう)」と呼んだ。だが、王仁侘の心は紂王には伝わらず、殷王朝は
周に滅ぼされた。
元プロレスラーの大仁田厚氏は、この王仁侘の子孫だと考えられ、彼の必殺技、サンダー
ファイヤーパワーボムこそ、王仁侘が使った奥義「雷火力弾」が秘伝として伝わったもの
だと言われている。

民明書房刊 『実話封神演義 宮廷潜入レポート』より
151お前名無しだろ:04/06/02 09:34 ID:aRS6kn/7
職人さん続々きぼん
152:04/06/02 11:47 ID:W3F1zLtZ
雄尾喪離  おおもり

今は昔、大和を善弐知国と神弐知国が支配していた時代、
善弐知の将に雄尾喪離という野心の塊の様な男がいた。

その後、善弐知内で内紛が起き、善弐知一の武勇を持つ未鎖倭(みさわ)が離反し、
野亞を建国した。
未鎖倭は離反する際、多数の兵を共にし、
中には戦働きを期待できない老兵を多く含んでいたともいわれ、
その兵の中に雄尾喪離もいたとある。

しかし雄尾喪離は未鎖倭からの待遇に不満を感じ、
ついに一人下野し、海を渡ってしまう。

幾月後、志半ばで帰国した雄尾喪利にはすでに居場所は残っていなかった。

駄武竜辞獲亥、善弐知と食い扶持を求め彷徨った尾雄喪離であるが、
この頃になるともうはっきりとした文献も残っておらず、これ以降の足跡を辿るのは困難を極める。

現代においても、身の程をわきまえず欲をかき失敗する人が多い事象を「おおもり」というのは上記の古事に由来する。
しかしながら、「おおもり」が主に食事関係にしか残っていないのは悲しい事でもある。


類義語・券酢毛(けんすけ)
反義語・拳蔵(けんぞう)・蛇地狸(たじり)


民明書房刊 「善弐知部隊 聖鬼軍」より

153お前名無しだろ:04/06/02 17:34 ID:ZTujimGP
埜亜経流酢倶楽部(ノアヘルスクラブ)

古代中国、戦乱の時代に屈指の池沼として
名高い埜亜の秋山(シュウザン)将軍が
考案したといわれる人材活用法
役に立たない中堅の武将を3人ほど用意し
倶楽部を結成させ、経流(血の流れ)に
酢を流し込み奮起を促す。

ただ、秋山将軍がしょっぱく、3人がすっぱく
なったのは大誤算ともいえよう。

民明書房刊 「埜亜 誤算記」より
154お前名無しだろ:04/06/02 18:59 ID:PLeiSaEw
みんなすごいな。
つまらんのが一つもない。
特に>>152は唸った。
155:04/06/02 21:14 ID:W3F1zLtZ
>>154
ありがとうございます。
感想頂けて嬉しいです。
156お前名無しだろ:04/06/03 21:30 ID:XJi54Fhv
餓鬼腹賢人(ガキハラケンジン)
 戦国時代に出現したといわれる妖怪。
戦のとき、どこからともなく現れ、次々と誰もが納得する優れた作戦を立案するが、
いざ本番になると誤算続きで、この妖怪がついた勢力は必ず滅亡したといわれる。
大名は、戦いに敗れてまさに腹を切らんとするその瞬間に、次々に献策をした男の
腹が、餓鬼のように膨らんでいたことに気付くことから餓鬼腹賢人と称される。
ちなみに垣原賢人(かきはらまさひと)選手の所属した団体が次々と消滅したこととは
今のところ無関係と思われる。
民明書房刊 「戦国秘話」より
157ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/06/04 00:20 ID:tQ9ROc5X
最近、とくに大作が揃ってるねえ。
まじ尊敬。
158お前名無しだろ:04/06/04 10:04 ID:ITH50m2Y
兎賄(うわい)

中国明の時代、節度使田仁川(でん・じんせん)将軍が
政治を取り仕切っていた頃に行なわれていた、特徴的な
賄賂の方式。それが兎賄である。
当時、政治の大部分をその手中に収めていた田将軍であったが、
唯一財政にだけは触ることができなかった。
というのも、前王の頃からの忠臣である中邨祥(ちゅう・とんしょう)が
財政の一切を取り仕切り、奸臣である田に付け入る隙を
与えていなかったからである。
その為、田将軍への賄賂として送られた金品も、中の手によって
田将軍の手に渡る事なくとどめられ、田将軍は私腹を肥やす
事が叶わなかったという。

そこで田将軍は一計を案じ、当時乱獲によって稀少となっていたある種の兎の皮を
懇意の商人などに大量に贈らせ、これを市場へ卸す事によって金と換えた。
中は当然大量の兎の毛皮をいぶかしんだが、「我が私軍の防寒の衣とするものである」と
抗弁されては問いただす事もできず、どうしようもなかったという。

これが兎の衣を用いての賄賂、すなわち兎賄である。

その後田将軍は私財にて私兵を強化し、ついには朝廷に反旗を翻したが、失敗。
末路に関しては諸説分かれるが、海を渡り、日本で嘆きながら余生を過ごしたとの説が有力である。

現代のプロレス界において、兎賄と音を同じくする上井なる人物が、
選手をK-1への供物のごとく扱っている事は、奇妙なる一致といえよう。

民明書房刊 『アルティメットクラッシュ、あっというまクラッシュ』
159お前名無しだろ:04/06/05 00:39 ID:MckUYFdG
>>158は完全に知性の無駄遣い
160お前名無しだろ:04/06/05 00:40 ID:MckUYFdG
ノアだけはガチ

古来からノアはガチだった。

161お前名無しだろ:04/06/05 09:01 ID:kcdsZGUU
ガチだとはなあ。
162お前名無しだろ:04/06/06 11:19 ID:k846vcEC
あげとくよ
163お前名無しだろ:04/06/06 13:39 ID:89TLcJuJ
左民具(さみんぐ)

秦の時代、始皇帝が中国を統一すると、皇帝の権威誇示のため、大規模な土木
工事が次々と行なわれた。そのため税金は跳ね上がり、工事に動員されるため
の民衆の負担も異常な水準に達した。民衆は、さまざまな手段で徴用を逃れよ
うとしたが、その中で、河北省是夫羅(ぜぶら)の村人は、白黒縦縞の布を身
につけて林の中に逃げ込み、徴税吏の目をくらますことを常としていた。その
効果は絶大で、この布は、「民を左(たす)ける道具」の意味で、「左民具」
と呼ばれた。当然、皇帝は左民具の使用を禁じたが、時の武術家がこれに目を
付けぬはずはなく、相手の目をくらます秘技として、多くの流派が左民具を使
用した。やがて元来の意味は忘れられ、広く敵の視覚に損害を加える手段が左
民具と呼ばれるようになり、この言葉はマルコ・ポーロによってヨーロッパに
まで伝わったのである。
こんにち、プロレス技の目潰しが「サミング」と呼ばれるのは、もちろんこの
「左民具」の転用である。また、サミングを得意技とするレスラーが白黒縦縞
のタイツを着用するのが、この故事に由来していることは言うまでもない。

民明書房刊『徴税暗闘史』より
164お前名無しだろ:04/06/06 14:25 ID:TM+qMiyr
>>163
いいね。よく考えたら、民明書房って、こんな風に武術の歴史のことを書く
ものだったんだよね。
165お前名無しだろ:04/06/06 19:51 ID:vWOTifhZ
ゼブラ小川
166お前名無しだろ:04/06/07 08:37 ID:Kh9a+CBb
背吉句(はいきっく)

中国、宋の時代、廂軍(囚人を使役する雑役部隊)ではさまざまの私刑が行な
われていたが、その中に、恨みのある相手を思うさま蹴りまくるという、素朴
ながら残酷な私刑があった。そのさい、相手の頭を蹴りながら、呪いの言葉を
投げかけるのが通例であった。この呪いの言葉は「背吉句」(はいきっく)と
呼ばれた。「吉に背(そむ)いた句」、すなわち不吉な呪いの文句、の意であ
る。やがてモンゴル族が中原を支配したとき、通訳の手違いから、相手の頭を
蹴ることを「背吉句」と呼ぶのだと誤解してしまった。そしてこの言葉は、モ
ンゴル帝国の西漸とともに、ヨーロッパにまで伝わったのである。
こんにち、格闘技において上段蹴りが「ハイキック」と呼ばれるのは、もちろ
ん、この「背吉句」の誤用に基づくものである。また、蹴りを出すときに「シ
ュッ」「シャァッ」「でぇぇぃ」などの呪文を唱えるのが、「背吉句」の正し
い伝統を汲むものであることは言うまでもない。

民明書房刊『東西私刑残酷史』より
167お前名無しだろ:04/06/07 12:29 ID:wSHkRUhq
ハシフカーンきぼんぬ
168お前名無しだろ:04/06/07 21:19 ID:mNUFzkaY
御前裸男駄世(おまえらおとこだよ)
唐の時代、大変に徳の高いと評判だった多寡堕(たかだ)という僧侶が噂を聞いた
帝に召し出され、今の世をどう思うかと聞かれたところ、
「御前ではございますが、例えれば全裸の男が局部をぶらぶらさせつつ、往来を
闊歩するような、乱れた駄目な世の中になってしまいました。」と言ったところ
帝の逆鱗に触れ、その高僧(タカダ)は首を刎ねられてしまった。しかし、その
話が一般に流布すると、高僧の天子をも怖れぬ物言いが評判となり、やがて自ら
をかえりみず、立派な行動を取った人のことを指して「御前裸男駄世」
(おまえらおとこだよ)というようになったという。なお、この高僧・多寡堕と
プライド統括本部長との相関関係は不明である。
民明書房刊 ハシフ・カーン著「ヒトさんはハーフダイ」より
169お前名無しだろ:04/06/08 00:57 ID:oiSc7vZR
>>166
呪文ワラタ

>>168
お前はいい意味でバカだよ
170お前名無しだろ:04/06/08 01:18 ID:PTgJO8Gq
職人様方、心からお願いします。

ハシフ・カーン
稲妻劣具羅李阿斗
不痴
171お前名無しだろ:04/06/08 01:48 ID:eQm/43yw
>>167
ハシフ・汗(はしふかーん)

13世紀、ユーラシア大陸を席巻したモンゴル帝国の王、
成吉思汗(ジンギスカン)には5人の子供がいた。その一人がハシフ汗である。
蛮勇を誇り、大飯喰らいで汗っかき、上の言う事を聞かないなどから父親の成吉思汗には嫌われていたが、
部下や領民からの人気は絶大で、9つの戦争で大きな戦功を立てたといわれている。
しかし、遠征先で小川の水を飲んだ途端に死亡してしまい、多くの領民は悲しみに暮れた。
一説にはハシフ汗の人気を妬んだ父成吉思汗の仕業ではないかと言われている。
その後、ハシフ汗は0番目の息子にされ無かった事にされたが、
ハシフ汗を慕う領民達は1番目の子としてハシフ・汗を崇め奉った。
尚、プロレスラー橋本真也氏が米国遠征時にハシフ・カーンを名乗った事や、
自身が立ち上げた団体の名前がZERO-ONE(01)であった事などは奇妙な一致と言えよう。

民明書房「トリビアの湖」
172お前名無しだろ:04/06/08 01:54 ID:PTgJO8Gq
>>171
ありがとうございます!
これからもよしなに、よしなに!

遠慮なさらず、どんどんアゲてくださいませ!
173お前名無しだろ:04/06/08 07:14 ID:akgff28P
>>171 小川の水を飲んだ途端に死亡
超ウケチマッタヨ^^;
174お前名無しだろ:04/06/08 11:01 ID:TSplKU9r
秀戟七番勝負! の巻
「な、なんじゃありゃ〜! 見るからに恐ろしげな奴らがぞろぞろ出てくるぞ!」
「ひい、ふう、みい……あわせて七人おるぞ!」
「フフフ、方舟塾のカス諸君、よくぞここまで生き延びてきた。しかし浮かれてい
 られるのも今のうちだ。秀戟七番勝負、見事受けてみるか?!」
「な、なに?! 秀戟七番勝負だと?!」「知っているのか、ゼブラ?」
「うむ、まさかこの目で見ることになろうとは……」

 秀戟七番勝負(しゅうげきななばんしょうぶ)
  古来、禅日寺では修行僧に、七人の強敵に立ち向かうという試練を与えていた。
  ある時、秀戟(しゅうげき)という生意気な若者が、「俺の考える七番勝負は
  あの人の七番勝負とは違う」と言い出して、より過激な七番勝負を行なった。
  その方法とは、自ら遅効性の毒を飲み、敵一人を倒すごとに解毒剤七分の一を
  飲むもので、もし一人でも倒し損なったら、毒が回って死んでしまうというわ
  めて苛酷なものであった。
  秀戟は苦闘の末に七人の敵を倒したが、戦いに時間がかかりすぎ、最後の解毒
  剤を飲む前に毒が回ってもだえ苦しみながら地面に倒れ、自ら倒した七人の横
  に、八人目として横たわって亡くなったという。当然、この残酷な勝負は時の
  皇帝によって禁じられ、長らくその実態を知る者はなかった。
  なお、現在、苦しみにもだえることを七転八倒と言うのは、この秀戟の故事に
  由来する。  民明書房刊『毒の花は夜開く』より

「何だか知らねえが、俺の出番だぜ!」「うるせ〜、俺の出番じゃ!」
「この勝負、俺が出る!」「お、お前は、KENTA〜〜〜〜!」
(プロレス用語解説じゃなくなったような……)
175174:04/06/08 11:14 ID:TSplKU9r
間違えた
×わめて>○きわめて
176お前名無しだろ:04/06/08 11:20 ID:hF5Y0adK
>>171
> しかし、遠征先で小川の水を飲んだ途端に死亡してしまい

うまい!
177お前名無しだろ:04/06/08 21:44 ID:z8LSan1Z
>>174みたいなのもいいな
178お前名無しだろ:04/06/08 22:48 ID:pn+EkRvI
なんか名前が超最凶プロレスファン列伝みたいだなw
179お前名無しだろ:04/06/09 21:13 ID:C9jLkB+o
周風呂(しゅうぷろ)

古代中国には、湯につかり体を清潔にするという習慣が
なかったと言われている。
しかし、あまりにも人々の体臭がきつくなったことにより、
周の時代、国を支配していた他山(たあざん)が、沐浴せよとの
命令を出した。しかし、当時の周は、日照り続きで飲み水にも
事欠くありさまであった。
他山はそれでも沐浴令を発し続けたため、反乱が起こり、
ついに他山は城と共に炎上し果てた。
その後十年ほどの歳月が流れ、王が左糖(さとう)に替わっても、
水不足は相変わらずであった。
しかし、獅子が多く生息していたことから「獅子倉(ししくら)」
と呼ばれていた岩場から、温水が出ているのが発見される。
人々は争ってこの岩場に殺到した。この周の時代から始まった沐浴の週刊が
「周風呂」であるが、現在も当時の末裔たちが週に一度、この獅子倉を訪れ
「周風呂」に入る。入浴前には必ず「冠堂鎖畝手余(かんどうさせてよ)」と
いう、当時からの呪文が必要なのは言うまでもない。
なお、現在の「週プロ」と「周風呂」に因果関係はなく、偶然の一致である
というのが定説となっている。

民明書房刊「密着ドキュメント/4・4鈴木みのるはどこに」の前文より抜粋
180お前名無しだろ:04/06/09 21:29 ID:WN3qFDTd
怒羅琿巣凸府(ドラゴンストップ) 時は三国志時代までさかのぼる。ときの大将軍・曹操の側近・典亥と許猪が喧嘩したのを曹操が寵愛した怒乱琿(ドランゴン)が仲裁したのが始まり。現在では某社長が[塩マグマ対ポーク]の試合で行なったのが有名である。 民明書房刊「ドングリ君の三国志」ヨリ
181お前名無しだろ:04/06/11 08:56 ID:ZAjZRHfa
age
182お前名無しだろ:04/06/11 22:31 ID:4k1ti/pr
足負(たっぷ)
負けるに足る、から転じて一人前になったことを意味する。ある中国の少数騎馬
民族に伝えられたイニシエーション(通過儀礼)。
最強を誇った多寡駄(たかだ)という族長が、卑苦損(ひくそん)という男に
自分の跡目を継ぐよう言った所、偉大な族長の後を継ぐ事に卑苦損の腰が引けた
様子を見て取った多寡駄が、素手での決闘を申し込んだ。
組み打ち、寝技ともに多寡駄が圧倒していたが、苦し紛れに卑苦損が馬乗りから
十字固めを極めると、多寡駄は手で地面を打ち、すぐに降参してしまった。
不審に思った卑苦損が「なぜあんなにあっさりと降参したのですか」と聞くと、
多寡駄は言った。「卑苦損よ。確かにあの十字は全く決まっていなかった。
しかし、わし以外のものであれば間違いなく腕が折れていたはず。わしはお前の
その技量を見こんで負けるに足るとし、降参したのよ。」
卑苦損は偉大な族長の懐の深さ、そして自分のことを「負けるに足る」と認めて
くれたことに感動し、涙を流しながら次期族長となることを承諾したという。
なお、現代の足負名人・高田延彦氏とこの族長との相関関係は未だ不明とされている。
民明書房刊「こんなにやせてイイかしら・ヤマト編」より

183お前名無しだろ:04/06/13 23:38 ID:FyTNVEia
>>144
ウケタ
184お前名無しだろ:04/06/16 16:01 ID:2wfiS5lP
浮上
185お前名無しだろ:04/06/21 03:56 ID:bXHlJ00P
保守
186お前名無しだろ:04/06/23 19:00 ID:L6SZhtas
劉猪 按沌(あんとん)

一般では、劉備玄徳の子供は劉禅阿斗(りゅう・ぜん・あと)一人と言うのが定説になっているが、
実はもう一人、闇に葬られた子供がいた。名を劉猪按沌(りゅう・ちょ・あんとん)と言う。
古来より漢民族は、生まれた子供の人相でその子の一生を占っていた。

最も忌み嫌われた相が、 『長大なアゴ』である。
『長大なアゴを持つ相は信を欠く。人の下に付けば上を裏切り、部下を持てば、己の欲望の
 為に部下を裏切る。又、怪しげな術を用い大衆を騙す輩もこの相の特徴である』とされていた。

按沌はまさしく『長大なアゴ』をもってこの世に生を受けたのであった。困り果てた玄徳は、
表向きは死産と言うことにし、案沌を秘密裏に育てた。この事実を知らされたのは、関羽・張飛・
趙雲の3名と甘婦人・び婦人だけであった。正史・演義三国志ともにこの事実はタブーとして記載
されなかったのだ。

有名な『長坂波の戦い』の際、趙雲が甘夫人と阿斗を救い出し、足を怪我した び婦人は井戸へ身を
投じたと伝えられているが、真実はこれだけではなかった。
趙雲は玄徳軍の武将の中でも『忠』の人。その人柄ゆえ『信に欠く長大なアゴ』を持つ按沌に対し、
(今後主君玄徳に災いをもたらすに違いない。時機を見て始末・・・)と日頃考えていたのだった。
び婦人が井戸へ身を投じた後、残されたのは按沌と趙雲だけであった。誰も見ていない。
「この期をのがしては!」決心した趙雲は按沌を井戸に放り込んでしまった。
玄徳には「案沌の君は流れ矢にあたり御落命あそばされました」と報告し玄徳も追及はしなかった。
しかし井戸に放り込まれた按沌はその長大なアゴが引っかかり一命を取り留めたのであった。

成人してからは、軍隊に所属したり、自ら軍を立ち上げたりしていたが、占いのごとく『信に欠く』
所業の連続であったことは言うまでも無い。
又、果し合いの際も相手の後頭部から延髄にかけて、蹴りがあたってないにも拘らず相手が倒れ悶絶
する妖術や、己の都合に合わせ時間を遅らせたり速めたりする妖術を多用し民衆を誑かしたという。
20世紀のプロレスラー、A猪木氏と共通点が多く指摘されているが、その関係は明らかでない。

民明書房刊「裏三国志 あんとんはうそつき」
187お前名無しだろ:04/06/24 08:56 ID:Amur0whb
>>168
『自らをかえりみず、立派な行動を取った人のことを指して「御前裸男駄世」
(おまえらおとこだよ)というようになったという。』

胸に刻み込まれました。上げさせていただきます
188お前名無しだろ:04/06/27 02:47 ID:PallE2bl
age
189ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/07/01 12:29 ID:8QGSNHRY
上芸
190お前名無しだろ:04/07/01 22:50 ID:pjLkTZ/2
ブライアンさん、偽物糞ぴろぴととのバトルお疲れ様でした。
191ブライアン五月 ◆DietT3mf1M :04/07/01 23:52 ID:8QGSNHRY
>>190
そんな、はは^^;
応援してくれてた方でしょうか?
ありがとうございました。

これからは呼び捨てにしてください^^
192お前名無しだろ:04/07/08 15:48 ID:DCbtOIri
age
193お前名無しだろ:04/07/08 16:44 ID:QkwRc8Aw
>>1

キュ〜ンキュ〜ン×2

わた〜し〜の彼は♪
194お前名無しだろ:04/07/21 03:11 ID:e60kVqUt
age
195お前名無しだろ:04/07/26 22:26 ID:OHP2yly9
覇和威王(ハワイおう)

戦国の世、佐々木健介という一人の若武者がいた、
新日藩にて生を受けるも幼くして両親を戦で亡くし、長州将軍に養子として引き取られる。
彼の指導により健介は、羅履悪刀(らりあとう)と呼ばれる剣技を習得した。
やがて健介は将軍となり、名家であった北斗家の一人娘、晶と婚姻を結ぶこととなる。
その際、北斗家に伝わる名刀「脳斬雷斗」(のうざんらいと)を受け継ぎ、数々の戦で武功を挙げた。
しかし、彼は猪突猛進に攻めるか、逃げることしかできなかったことから、当時の軍師、西村治朗には
「その戦ぶり、潮のごとし」と評された。

やがて時は過ぎ、国を揺るがす大事件が起きた。長州将軍の反乱である。 各藩から優れた武将を引き抜く大規模なものであり、健介も参加した。
だが、猛将ばかりで軍師がいなく、民を無視した政治を行い、その上領地に害鳥非路死が繁殖したことでその年は凶作となり 多くの将軍が脱北し、軍は崩壊した。
そんな中健介もまた俸禄をもらえなかったことで長州を見捨て、残党の一部を率いて朝廷に攻め込む。
しかし時の大将軍永田裕志郎に敗れ、妻子とわずかな家来とともに船に乗り込み、海を渡った。

数日間もの漂流の果てに、健介たちはとある島にたどり着き、その地の原住民と交戦する。少数だが精鋭であり、
優れた武具を持っていた健介軍と、いまだ石器を使っている原住民とでは勝負にならず、原住民の王は健介に屈服した。
その後健介が新たな王となり、原住民達を鍛え上げ、妻の晶が良政を行ったことで島の力は強大なものとなり、
ついに、健介は軍を率いて、再度日本へ侵攻することとなる。上陸の際臣従を申し入れてきた若武者、中島勝之彦や、
軍師としても優れた手腕を発揮した晶の力により、健介は大将軍、天山広吉を激闘の末に破った。
その後、さらなる外敵である慶湾国の歩武殺布(ぼぶさつふ)に敗れるまでの間、短いながらも王位につき、その名を轟かせた。
彼はのちに覇和威王(和を制覇するほどの威をもった王)と呼ばれ、彼が力をつけた島は、覇和威島と呼ばれるようになった。
なお、覇和威島は現在のハワイであるとされているが、証拠は見つかっておらず未だ不明である。

民明書房刊「新訂まんが日本の歴史 長州の反乱と覇和威王の台頭」より
196お前名無しだろ:04/07/29 00:11 ID:2/oSIMc7
age
197お前名無しだろ:04/07/29 04:29 ID:pdqvn0Ne
良スレage
198お前名無しだろ:04/07/29 16:09 ID:eEHsuNUu
怒呂布蹴撃(ドロップキック)

中国は後漢末期、名士エン紹を始めとした連合軍と、まだ幼い帝を擁した暴君董卓の軍とが激突した。
後の世に言う虎狼関の戦いである。
その戦の中、董卓の養子で史上最強の武将といわれた呂布は、敵将を次々と討ち取り、連合軍を震え上がらせていた。
しかしそこに、一人の大男が立ち塞がった、当時はまだ公孫讃の客将であった劉備の義弟、張飛である。
二人の武力はほぼ互角だったが、これまでの戦いでいくらか消耗していた呂布は、張飛の攻撃を受けきれず、落馬してしまう。
これを機に張飛は止めを刺そうと斬撃を加えようとした、しかし、人生で初めて落馬させられた呂布は激怒し、本能のままに跳躍してそれをかわした。
そして驚いた張飛の体に両足で蹴りを食らわせ、そのまま回転して再騎乗し、武器を構えなおすと、一騎打ちを再開したのだった。
その後張飛の義兄弟、劉備と関羽の介入によって呂布は撤退するが、二人の一騎打ちは両軍の兵の度肝を抜いた。

その後、呂布は董卓を裏切り殺したが、曹操との戦に敗れ、絞首刑となってしまう。
しかし、二人の戦い、特に呂布が放った蹴りは怒呂布蹴撃として劉備軍の間で伝説となり、蜀の地に伝わった。
時が流れ、怒呂布蹴撃は後世の拳法家達によって改良が加えられ、下段への攻撃を回避しつつ上段に強力な攻撃を加える技として各地に広まった。
そしてそれはマルコ・ポーロによってヨーロッパに伝えられ、怒呂布蹴撃⇒ドリョフキック⇒ドロップキックと呼ばれるようになった。

民明書房刊「ドロップキック〜腕を折らないために〜」より
199お前名無しだろ:04/07/31 12:58 ID:gt4xvzva
全く俺達は恐ろしい大将を持ったもんだぜ
200お前名無しだろ:04/08/04 16:46 ID:2IZQuAJG
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201お前名無しだろ
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