【歴史好き=サヨ】か?

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33845
>>326
『「歴史学的手法」そのものが歴史的な構築物だということ』は別に否定しません。

>>326
> 皇国史観の提唱者にしても、まさか自分たちが政治的立場のために
> 歴史学的手法を逸脱しているとは思わなかったはず。

皇国史観を奉ずる場合は、>>337で述べた第2段階以降の手順において「皇国史観」なバ
イアスがかかっていたでしょうね。

>>326
> 過去の歴史家が誤っていたのは政治的立場によって、史料を捻じ曲げたからである、
> 政治的立場を抑えて、客観的な研究のルールを守っていれば、そのような事はない、
> というのは現在を歴史の最終地点とみなす考え方のように思える。

ある一つの史料が含んでいる情報量は一定です。
一定ですが、それを正確に読みとることの困難さに謙虚な姿勢をもつのが、少なくとも歴
史家の有るべき態度だと思います。

そして、ある史料が含んでいる情報をどこまで正確に、どの量まで引き出せるかは、ひと
えに読み手の能力にかかっています。その史料が内蔵する情報を正確に、最大限に引き出
す能力を身につけるためには、「歴史学的手法による研究の蓄積」に努力する以外の方法
はありません。そしてその努力には永遠に終わりはこないといってよいでしょう。

ある歴史家の「政治的立場」と、その人物の史料解析能力とは直接には関連はありません。
ある歴史家が行った史料解析の結果を評価する際に、その歴史家の「情報の引き出しや読
みとりの妥当性」以外の指標を云々するのは、歴史学とはいえないと思います。

「現在を歴史の最終地点とみなす考え方」というのは、意味が分かりません。