義和団は成功できたのか?

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1匿名太郎
なんか、初めは義和団が優勢だったようですが日本軍の参戦で形成が悪くなったようです。
軍備は劣っていたでしょうがその頃の世界情勢だと列強はあまり軍隊を派遣できなかったようだし
日本が参戦しなかったらどうなっていたのでしょうか?

いろんな意見が聞きたい。
2:01/09/05 19:06 ID:cd9GDh2w
あくまでも「もしも・・・」の話
中国を持ち上げるいみはない。
義和団も汽車を爆破したりしていたので長期戦になれば負けるのは確実だったろう。
3世界@名無史さん:01/09/05 19:09 ID:vb6ZQv4s
別のスレで民族主義の観点から義和団を弁護したものです。
弁護はしたけど、成功する可能性が少しでもあったとは思えない。
日本の攘夷運動のようなものですから。
4世界@名無史さん:01/09/05 19:44 ID:MfyvDwvo
1900年のことですよね、日本が出て行かなければ、ロシアが大軍を送ったでしょう。
5世界@名無史さん:01/09/05 19:46 ID:PBFihWEM
軍の派遣が遅れたら、北京の公使館が全滅する可能性はあったでしょう。
しかしもしそんな事態になってたら列強も半端じゃない規模の軍隊を
増派して、中国は半植民地じゃなく本物の殖民地になったかも。
6世界@名無史さん:01/09/05 20:27 ID:1jSSCCXM
袁世凱のような軍閥(この頃は知らない)の援助無かったから無理でしょ。
あの婆の命令だけじゃね〜。
7世界@名無史さん:01/09/05 21:21 ID:ptuExVCo
中国全土が─ハイになればともかく─灰になっても、というだけの覚悟が清朝側にあったとは思えません。
よって中国からはまともな政体が消え、列強の進出が深まっただけかな〜。
イギリスやアメリカ、フランスと言った地球の裏側の諸国が常時大兵力を送るようになればそれはそれで日本にとって戦略的な変化があったでしょうが。
8世界@名無史さん:01/09/05 22:10 ID:m57npCno
婆に戦略がなさすぎ
9世界@名無史さん:01/09/06 00:49 ID:LNdqRyoQ
>>1
かなりの部隊が派遣されています。
オーストリア・ハンガリー帝国…海兵隊400名(指揮官の一人がゲオルクvトラップ)
フランス…インドシナ第一旅団、第11海兵連隊、第12海兵部隊、インドシナ砲兵連隊
     ハノイ第1大隊、第9海兵連隊第2大隊
ドイツ…第3海兵大隊、海兵砲兵、上陸コマンド、極東軍
英国…ベンガル第1旅団、ベンガル第2旅団、ベンガル師団
イタリア…8個連隊
ロシア…12個シベリア大隊、6個コサック連隊、14個砲兵大隊、1個竜騎兵連隊
アメリカ…9個連隊、4個騎兵連隊、2個砲兵連隊、海兵連隊
10はて:01/09/07 20:41
>>9
北京占領時の、8ヶ国連合軍の総兵力は34000程度で、日本軍がその
うちの22000で最大兵力って読んだことがある。
日本以外の列強の派兵数は12000程度ということだろう。

19世紀末の軍編成だと、1個師団が平時編成で1万、戦時編成で1万5
千という見当だとして、旅団が6000程度、歩兵だと連隊で3000、大隊
で1000、騎兵や砲兵が大隊で500、連隊編成で1000程度というところ
だね。

ここにある兵力の総数は、1個師団、3個旅団、17個歩兵連隊、13個歩
兵大隊、16個騎兵・砲兵連隊、その他で概算10万になるけど、1桁違う
ね。どこか違っているのかな。
11世界@名無史さん:01/09/07 20:47
>>10
34000という数字は信憑性なさ過ぎです。日本軍が22000名で
当時北京に立て篭もった8カ国が4000名です。これだけで26000
に達してしまいます。残り7カ国が約1000名づつ?
12世界@名無史さん:01/09/07 20:50
6さんも触れてるように、
中国各地に勢力を持つ清朝の実力者達は、
北京の宮廷を応援するどころか、
逆に列強と接触して、被害を北京周辺のみに抑えることに
全力を尽くしたようです。
13世界@名無史さん:01/09/07 21:09
>>4
ロシアも大軍送ってます。主力は日本軍とロシア軍で、勿論、大活躍
したのは日本軍でした。それに、欧米軍が略奪をかなりやったが、
日本軍は規律が整い、ほとんどなかった。
これを見た英国は日英同盟に傾いた。
1410:01/09/07 22:20
>>11
そう言われると、自信がなくなるけど、アメリカの派兵数は2500だったという記述を見つけた。

ttp://www.smplanet.com/imperialism/fists.html
After a month of no news from their diplomats, the foreign powers had grown worried.
They assembled an international relief force of soldiers and sailors from eight countries.
The United States, eager to rescue its ministers and to assert its presence in China, sent a contingent of 2,500 sailors and marines.
After rescuing another besieged delegation in Tientsin, the international force marched to Beijing, fighting Boxers and imperial soldiers along the way.

アメリカ…9個連隊、4個騎兵連隊、2個砲兵連隊、海兵連隊
にしては、少ないと思うな。

もうちょっと調べてみよう。

そんなもんじゃないかな。
15世界@名無史さん:01/09/07 22:25
>>14
なるべく少なく数をあげて、自分はあんまり迷惑をかけなかったと言いたいのだろう。アメリカ。
1610:01/09/07 22:48
こんなのもありました。

ttp://www.geocities.com/CollegePark/Pool/6208/title_page.htm
The Boxer Rebellion of 1900

Of the 20,000 troops in the 2nd International Relief Column, 10,000
were Japanese, 4,000 Russian, only 3,000 English, 2,000 American,
800 French and 200 German troops, with a combined total of not
quite 100 Italians and Austro-Hungarian stragglers.

う〜ん。天津から北京に進撃した第二国際救援部隊の構成は、総兵力
20,000で内訳として、日本軍が10,000、露軍が4,000、英軍が3,000、米軍
が2,000、仏軍が800、独軍が200、イタリアとオーストリアが100となって
います。

これが北京攻撃の主力軍ですから、総数が34,000でもおかしくないと思
うんですけど、どうなんでしょう。
17世界@名無史さん:01/09/07 23:38
っていうか、>>9氏の元資料は何なのだろう?
フランスやイギリスは植民地軍を持ってきたということだろうが、イタリアは8個連隊、2万を超えるような兵力をどこから持ってきたんだ。
義和団の全体兵力が10万から30万とされているのに、鎮圧する側の正規軍が10万以上も必要なのかな。
18世界@名無史さん:01/09/08 10:29
義和団事件に関しては整理する必要がある感じがします。そこで年表…(ゴソゴソ

1899年
11月清国各地で梅花拳などが広まる
12月英国人宣教師が殺される
1900年
4月義和団北京入り
5月日本公使及びドイツ公使が殺される
5月30日ドイツ政府武力行使を決定
6月英国公使マクドナルドを中心に北京立て篭もりを決定
6月17日ドイツ・オーストリア海兵隊大沽砲台を攻撃占領
6月20日清国兵が北京で発砲
6月21日清国政府各国に宣戦布告
6月23日清国軍天津撤退
7月1日義和団南側城壁占領。米海兵隊ルイス少佐の活躍で撃退
7月13日城内に天津の連合軍が壊滅の噂。柴中佐、火薬庫を襲撃爆破。日本軍が天津に到着。
連合軍救援部隊40000名に達する
7月15日天津完全制圧
7月17日義和団攻撃停止
8月14日救援軍北京の義和団殲滅。ロシア軍満洲制圧
8月15日米軍新鋭部隊到着
8月28日戦勝パレード実施
12月まで各国援軍到着
1901年
3月北京議定書調印
4月列強10ヶ国北京&天津に駐留軍を配備

1937年
7月7日日本軍北京駐留部隊に対して中国38軍と思われる部隊が発砲
19世界@名無史さん:01/09/08 10:54
>>11
おお、サンキュ!

北京の55日という映画のせいもあって、この事件のイメージとして、北京
篭城から8ヶ国連合軍の北京制圧までを中心に考えていたけど、実際の
兵力としては事実上の戦闘が終わってからも各国の援軍が到着して増加
しているようですね。

北京占領時の兵力は34000程度でも、天津に待機していた兵力もある
だろうし、北京制圧後に到着した部隊をふくめた全体であれば、9氏のリ
ストでもおかしくないということですね。

日本軍を除いても10万以上が派兵されたってことですか。

ところで、

1937年
7月7日日本軍北京駐留部隊に対して中国38軍と思われる部隊が発砲

ってなに?
20世界@名無史さん:01/09/08 11:30
>>19
知りませんか?盧溝橋事件と呼ばれる発砲事件です。
21世界@名無史さん:01/09/08 13:21
>>20
知らないヒトは、ここにはいないだろうけど、義和団事件との関係が理解
できないということでわ?
22世界@名無史さん:01/09/08 13:36
支那派遣軍が北京議定書に基づいて駐兵してたことは
意外と知られていない。
23世界@名無史さん:01/09/08 20:04
そして、日本軍に発砲したのは、中国軍に紛れ込んだ共産分子。
明らかに中国側の挑発行為だった。
24世界@名無史さん:01/09/08 20:15
話をスレの本旨に戻すと、8ヶ国連合軍が大軍を派遣していた。

ロシアと日本を除いて10万程度、ロシアや日本は清国分割ということに
なれば、もっと大軍を派遣することになっただろう。

ということで、3〜4万の連合軍に義和団30万+清国正規軍が敗北して
ケリがついてしまったけれど、長引いても勝ち目はなく、植民地化が徹底
しただけだろうってところかな。

その場合は、日露戦争はどうなったんだろう。列強の軍事プレゼンスのあ
る中での日露対立ということかな。

満州の門戸開放を日本が要求していたりして(
25世界@名無史さん
>>24
長引いても結果は同じではなかろうか?