1 :
世界@名無史さん:
世界的には必ず各国、基本となる宗教があって日常生活にかなり影響してますが、日本の場合とりあえず仏教信仰があるものの、相当いいかげん。
冠婚葬祭の時だけ形骸化した宗教行事をあまり深く考えずに執り行うけど、日常生活で宗教感じることはない。てゆーか色々な宗教の行事がごっちゃでわけわからんうえに、単なる経済活動の一部でしかない。
なんでこんなに節操の無い、無宗教国になったの?
(でも個人的には宗教大嫌いなので、そんな日本に萌え萌えです♪)
2 :
世界@名無史さん :2001/08/25(土) 03:02
>>1 とりあえず、いっておきます。
これからつけられるであろうレスを見ても
おそらく納得できないと思う。
めちゃくちゃ長い話になることも確実。
簡単に答えを出すやつの発言も信じてはいけません。
以上、単なるアドバイスでした。(笑
808万も神様がいるのだから、10や20宗教が増えたところで
たいしたことは無いってこと。
無宗教ではなく多宗教ってやつだな。
このレスは上記
>>2に該当するな(藁
4 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 05:30
日本人が仏教を受容したころの話が知りたい。
なんでわざわざ?って感じがする。
しかし、なぜ世界史板で?
6 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 06:02
>>4 そりゃー経典宗教と違って仏教は現地宗教を取り入れるコトが
可能だからでしょ
8 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 07:09
宗教はあるよ。
例えば「事故などで死んだら、必ず遺族はそこへ行って冥福を祈る」。
また、遺骨を非常に大事にする。
もう遺体は収容されているのに、既に何もない事故現場へ行って祈ったりする。
これ、日本人特有とまではいかなくても、割と珍しいらしい。
無宗教というのは、「特定の宗教団体に属して信仰するのは嫌」と
言っているだけだと思う。唯物論者にまではなり切れない、といった所じゃないか?
9 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 08:33
>>1 先ずさ、宗教板でも日本史板でもなく、世界史板にこのスレを建てた
理由を説明してよ。
平成最大の迷宮事件候補、富山コーラン破り捨て事件。
11 :
1:2001/08/25(土) 09:50
宗教板で立てても電波な返信されるの目に見えてる。
日本史板で立てるのは別に良いけど、
世界史的な経緯をしりたいから。ってゆーか世界史的な経緯からその国の宗教ってきまるのではないの?一国で自然発生的に宗教始まることなんて少ないでしょ?
12 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 12:37
仏教=中国最新文化だから当時、受け入れたんだろ。
それでも反対はあったが、結局は仏の御力によって受容された。
ノウマク サンマンダ ボダナン アビラウンケン
13 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 12:38
日本の宗教人口は200000000人と統計にあったはず。
無宗教国家ではない。
「日本人はなぜ無宗教なのか」って本がちくま新書に入ってたような。
読みましたけど、結構面白かったですよ。
15 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 13:14
無宗教なのではなくて宗教とは何かを教えてもらってないだけです。
>>8の例を見ても古代神道や道教などの残骸はいくらでも見つけられるし信仰心を
無理に煽ってないから気が付かないだけさ。
怨念、言霊思想などは根強く残ってると思うがね。
だいたい、中国でも儒教やら道教やら仏教やら色々ありますし。
現在日本は狂信的でないだけで宗教色は立派に有りますからね。
>>12 そのころから日本人って「最新」、「直輸入」って概念に弱かったのか?(藁
そもそも天皇の存在からして宗教的なような。
アマノウヅメじゃなくて
22 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 16:20
なんで皆下げてるのかな。
日本にはキリスト教のような濃い宗教は入ってこなかったけど
それは幸せななことでべつに恥じる事じゃない。
ある十分日本的な意味で宗教は存在しますよ。
23 :
世界@名無史さん:2001/08/25(土) 16:30
>>13 旧仏教と旧神道が国民のほとんど全員を自分の信者として数えているためと思われ。
24 :
T・S:2001/08/25(土) 20:45
宗教は心の隙間を埋める重大なサービス産業と、江戸時代に庶民が自覚してしまった
んじゃないかと。
>>23 正月の初詣とか、盆の墓参りに来るヤツとかも信者に数えてんだろうな。
信仰心ないけど、某宗の檀家。
27 :
世界@名無史さん:2001/08/26(日) 04:49
1の
>世界的には必ず各国、基本となる宗教があって日常生活にかなり影響してますが
ってカキコみて思ったんだが、信仰でなくとも
日常生活にかなり影響してる伝統思想という面では儒教はどうだろうか。
韓国ほどではないにしろ、今でも日本人の道徳の基礎と言っていいのでは?
28 :
儒教の影響は大きい:2001/08/26 06:49
武士道なんて朱子学なくして有り得ない。
何故か陽明学の方が武士道源流とのイメージ強いが。
「韓国人は朱子学信じているからドキュソ」なんていう意見を見ると
頭抱えたくなる。
29 :
ネコが好き:01/08/29 21:53 ID:/AR2T5cU
オレにも言わせて。>1に戻るんだけど、仏教や神道なんかは表層だけだとオレは
思っている。旧石器時代か縄文か弥生か、起源はよく知らんが、素朴な祖先崇拝
がオレたちのほとばしる血潮にドクドクと流れているようだ。お盆にはご先祖様が
戻ってくると信じている。仏典にはこんな考えないぞ。(ウラボン経は偽経)
神社にしても平安時代の国家統制以前は、産土神でそのあたりを開発した連中
(=ご先祖様)だしな。子供は6歳まで「神の子」だったし。
日ごろ、仏教や神道の行事を行っている積もりでいるが、ちらちらと先祖崇拝
「アミニズム」が顔を見せているんだ。
ここからが本題・・・これが実にローマの宗教に似ているんだ。
ローマの家長(大カトーと思いねえ)は毎朝、ご先祖様や屋敷神(ラレス)、
守護神(ぺナテス)の神棚に向かってパンパンとお祈りしていた。(パンパンは?だな)
あと横丁のかどのお稲荷さんならぬヤーヌスに賽銭あげたり。
でもキリスト教によって、多神教(異教って差別してる)は絶滅してしまった。
残ったのは日本だけだ。(ちょっと?だけど)
あいつらは1神教が宗教のもっとも発展した形と思っている。オレたちアミニズム
は「悪魔」の宗教なんだ。そういう意味で、イスラムやユダヤ教もキリスト教の仲間だ。
アフリカあたりじゃあ、「私たちヨーロッパ人みたいに文明国、文明人になりたければ、
唯一神イエス・キリストを信じなさい」とやってんだぜ。
というわけで、あの異教時代の最後を締めくくる抒情誌「ウェヌスの宵宮」を
口づさんで、かつての栄華を想い、涙しているというわけさ。(長くてごめん)
国家神道が表層的かは知らないけど、神道自体は先祖崇拝な
側面があるんじゃない。そもそも土着宗教だし。
あと、ヒンズーは多神教だよ。大乗仏教も実質多神教だし。
31 :
タクアン:01/08/29 22:26 ID:wB/ja2ao
これ、読書中、、、
「神道と日本人」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4393299124/ref=sr_aps_d_1_1/249-3683048-0216339 神道って「万物に感謝する」という、シャーマニズム的側面がある
そして「万物に神は居る」という点から、他の宗教を排他する事がない。
以下引用、、、
キリスト教でも仏教でもいいんですが、それらの宗教がどうして出てきたかと言うと、キリスト教はイスラエルの砂漠地帯からできてきたわけですね。
仏教はインドの混沌とした大地から釈迦が出てきたでしょう。
だから結局、環境の厳しいところから出てきたものだから、自分の回りを変えなければ生きていけない。
そのために祈る。
これがキリスト教でも仏教でも、宗教の核心になっているわけです。
ところが、日本は違います。
自然に恵まれている。
自分の回りを変えなくても自然が豊かにある。
だから、なにもそんなことをしなくていい。
ただ感謝していたらいいんです。
これが神道と他の宗教との違いです。
発生した風土が違うんですね。
32 :
ネコが好き:01/08/29 23:19 ID:/AR2T5cU
>30 そのとうりだね。祝詞なんかみると、政治ショーぷんぷん
でそう思ったけど、もともと、神道は先祖崇拝だね。
それと、文句出るかもしれないけど、「先進国で多神教の国は日本
だけ」だよ。
>31 一部同意できないな。僕は神道は世界中にあるシャーマニズム、
アミニズムなどの多神教とあまり変わらないと思っている。
むしろ、特殊なのが、ユダヤ、キリスト、イスラムで、もとになった
ユダヤ教なぞ、聖書によると、多神教傾向との戦いで、イザヤなどの
優れた宗教者の努力によって、1神教が守れたと思う。そうでなければ、
バール信仰(し、神殿売春!)の世界にどっぷりつかり、いつのまにか
民族霧消となったと思う。宗教的道徳が民族の存続にいかに重要か、
他山の石ですな。(選民思想って思い上がりで偏狭で嫌われるけど)
仏教は奥が深くてよくわからん。
33 :
世界@名無史さん:01/08/29 23:29 ID:slMkGpIs
34 :
世界@名無史さん:01/08/30 00:24 ID:ckwzN62Y
>32
>し、神殿売春
もしかして神殿売春を特殊なことだと思ってます?
神道が残ったのは個人的には侵入してきた仏教が
融和指向だったのと平安時代の鎖国政策のおかげだった思うけど。
先進国での多神教国か。仏教はどうなんだろ。儒教思想は
天帝がいるから1神教?
36 :
梵阿弥:01/08/30 09:14 ID:yb5oNdE6
一神教を名乗っていても聖人崇拝はざらなので。
国家神道は神に序列をつけて天皇を頂点に秩序を持たせようとしていたので
一神教的な色合いがある。
37 :
世界@名無史さん:01/08/30 09:40 ID:aKFlw5Qo
神道は宗教か?という論議が国際的な宗教学会で行われた事が昔あったらしい。
結果からいうと神道が宗教なのはかなり迷惑らしい。あれは古い形態を残す儀式
だとする論議になったはずです。
神道を宗教と考えたくないのには訳有りでして、通常宗教は他の宗教には厳しく
認めないのですが、神道を否定すると自分自身(その儀式の形態や物への感謝と
いう部分など、全ての宗教の原形が神道にある)の基礎部分が否定されてしまう
のだそうです。
一応神道のえらい先生とカトリックのえらい先生から別々に聞いた話しですが、
同じ事を言ってました。
汎神論的なアニミズム多神教から唯一絶対な一神教という形で
宗教が発達したという西欧宗教学の考え方がそんもそも誤りじゃないか。
神道は万の神々の多神教といわれるが、天皇家の神道は必ずしも
そうとはいえない。むしろ一神教的だ。
39 :
梵阿弥:01/08/30 12:32 ID:yb5oNdE6
多神教といわれるものでも最高神のそれぞれの要素の顕現が他の神々という観念は多い。
政治的に求心力の求められる状況では一神教的な色合いが濃くなる。
国家神道が一神教的なのは明治以後の日本に求心力が強まったため。
日本においてキリスト教が一神教と思われがちなのは、西欧発の世界均一化(他の地域の
服属化)の思惑を持つ勢力でもないと布教に来なかった為。
40 :
世界@名無史さん:01/08/30 12:40 ID:9JFsEcI.
コレは面白いスレですね。良スレage!といきたいところだけど、
何か話題を提供しないとね。
僕が言いたいことは、結局は
>>2さんの意見に還元されてしまう
のだろうけど、宗教という現象それ自体が非常に捕まえにくい
ものであること。これは、森安達也さんの受け売りなんだけど、
宗教というのは、単なる教義や思想だけでなく、儀式、聖職者の
位階組織、聖職者と俗人信徒の区別といったものまですべてを
含んで捉えないと、その全体像は捕まえられない。
>>37さんが、神道は宗教でない、「古い形態を残す儀式」である
といっているけど、僕からみるとちょっと狭い捉え方のように
感じます。神前結婚(これはキリスト教の結婚式をまねて明治
33年に出来たものなのだそうです)や葬式仏教を、「形骸化
している」と批判する向きもあるかもしれないけど、人生の節目
節目において、意味付けを行うというのは、宗教の重要な機能で
はないでしょうか。
それと、昔はともかく、現代の自由な社会では、宗教の問題は、
結局は個人の信念の問題に還元されてしまうので、社会全体として、
無宗教云々するのは意味があるのでしょうか。
ただ、鎌倉仏教にあったような宗教的情熱が、段々希薄になっている
ことは確かかもしれません。あと、戦争に負けて、国家神道への
アレルギーなんかもひょっとしてあるのかも。(国家神道自体、どの
程度支持されていたのか知れたモンじゃないしね。)そこらへんの
歴史的経緯は詳しく知りたいですね。
41 :
T・S:01/08/30 18:29 ID:VaubdAhQ
「神道」は仏教の伝来以後にできた用語だと聞きました。元々先祖崇拝や自然崇拝の
ような雑多な祭祀はそれぞれ適当にあったものの、本格的な思想体系である「仏教」の
に比べられるものではなく、それで「神道」と言う用語を出してきて一つのカテゴリー
にくくったもののようです。
「教義」とよべるようなものが成立するのも中世の頃だそうで、それまでに存在した両部神道
や日枝神道のようなものは、いずれも仏教の立場から構築した祭祀だったようです(他にもあった
ような気もするけど、資料が手元にないので勘弁)。
ちなみにいわゆる「古神道」は、江戸時代に国学が盛んになった頃、現存していた「神道」から
「仏教」や「道教」「儒教」のような外国より伝来した宗教の要素を取り除き、「本来の神道」と
してしあがったものです。
42 :
世界@名無史さん:01/08/30 19:00 ID:jFqph9Y6
>>41 神道の成立経過は面白いですね。仏教の渡来に対抗して、あるいは習合
して生き延びていく姿は、不純かもしれないけど、宗教のヴァイタリティ
として評価してあげるべきものなのでしょうね。もちろん、神道が日本古来
のものであるといったイデオロギー(まさに「虚偽意識」!)に対しては
敏感であるべきでしょうが。
いわゆる古神道が国学の興隆に伴い生まれたということですが、それって
今でも影響力があるのでしょうか。
本居氏の古道解釈は、確かに仏教や道教をさかしらとして退け、「日本古来の」
道の発見をめざしたものでしたが、その中身は、世の中は突き詰めればわかんない
ことだらけで、死や病といったものに対しては、厭い、苦しみ、悲しむしかない
といった調子で、慰めを求める民衆心理から遠いような気がします。
ただ、彼自身の神の定義は、良きにつけ悪しきにつけ、常軌を逸した卓越した
ものをさしており(この神解釈は、なかなか独創的と思います)、その結果、
釈迦や孔子も神であることになるので、仏教信仰や儒学に対しては寛容だった
みたいですね。
43 :
世界@名無史さん:01/08/30 19:21 ID:NLFJpfvE
日本人ってクリスチャンじゃなかったの?
12月の終り頃と、2月の中ごろだけな。あ、あと結婚する時もそうかな?
>>43 クリスチャンは、1%ぐらいだったはず。
確か、100万チョット。
仏教と神道の合計での合計なら、2億3千万だったはず。
もう何年も前の記憶なので、間違っているかも。
マジレスして良かったのかな?
46 :
45:01/08/30 19:47 ID:VEGyHHH2
ついでに言うと、
宗教に入っている人の合計は、2300万人だった気がする。
数はうら覚えです。
47 :
世界@名無史さん:01/08/30 21:25 ID:A6YlAE3c
>>45 文化庁編『宗教年鑑・平成7年版』によると、
神道系 117,378,185人
仏教系 89,828,502人
キリスト教系 1,519,396人
諸教 11,112,595人
―――――――――――――
信者総数 219,838,678人
です。
48 :
T・S:01/08/30 21:28 ID:VaubdAhQ
>42
>いわゆる古神道が国学の興隆の伴いうまれたということだそうですが、それって今でも影響力があるのでしょうか。
うにゅう。
ちょっと意味が解りにくいですけど・・・・・・今でもナショナリズムな運動によって宗教はでっちあげられているか、と
言うことですか?
本居氏の研究はともかく、古神道の成立に欠かせないのがその後の平田先生です。彼を祖とするいわゆる「平田国学」
の影響はでかいですね。
49 :
世界@名無史さん:01/08/30 21:45 ID:M9U2xqRI
いわゆる「悪魔」ってやつは、戦争に敗れた民族の神話らしい。
敗者の神を悪魔とし、やがてはその民族自体を消滅(同化)させてしまう。
それを思えば戦前の神道(国家神道という名の悪魔)がネガティブイメージを
抱かれるのもある意味必然なのだろう。
もっとも、勝者の神(キリスト教)も大して普及してないだけマシかもしれない。
(それに代わって宗教っぽいイデオロギーや現世利益の新興宗教が蔓延る世になったのは残念)
あ、私はウヨサヨは関係無いですよ(w
50 :
耶蘇吉ジョーカー:01/08/30 21:47 ID:mbnWznXc
私の家内は改革派・長老派の教会に通っているよ。
年末には洗礼を受けるらしい。
51 :
世界@名無史さん :01/08/30 22:01 ID:EEwT7xZU
>>49 それは大和朝廷が正義で古来からその土地その土地に土着していた豪族や原住民
を征伐したというのと同じだな。
実際は大和朝廷が侵略者以外何物でもなかったが、歴史は勝者が常に作っていく
もの。
「古事記」でもさも大和朝廷が正義であるかのように記述されているが、事実は
原住民を屈服させ支配した。
経典がない宗教というのは珍しいよね。
やはり神道というのはただものではないとみる。
日本中どこにいってもいたるところにある神社。
やはり日本は言魂の幸わう神道の国だとつくづく思う。
神道は日本人に意識されないところにしっかと根を
はっているものだ。
>>49 悪魔なんて概念は、神道にはないでしょう。一神教の発想ですね。
神道を擁護するわけじゃないけど、仕事で多少かかわった体験から
して、もともと理屈であれこれ考えるようなものではないです。
古学の興隆から神道が展開されたというのは、少なくとも神社神道
のことではなく、教派神道、理論面のことでしょう。
ただの神社は、そこにあって祭られるだけという存在です。それに
国家神道系の祭神をあてはめていったという経緯はあっても、素朴
なもので、教義や経典があるわけではありません。
また、敗者を悪魔として捉えるというのは神道というか日本の宗教
文化的にはナンセンスで、むしろ怨念を残して死んだものを祟らぬ
ように祭るというのが普通のあり方です。
怨霊信仰、ケガレ、言霊といった概念は、理論化されていはいませ
んが、文化として日本人の生活に関わっています。
神道が儀礼なのか、宗教なのかは難しいところですが、初詣や彼岸
の墓参りを見れば、本人たちの意識はともかく、日本人が無宗教で
あるとは、いえないでしょう。
54 :
世界@名無史さん:01/08/30 22:29 ID:M9U2xqRI
>>51 そのとーりだが、地元の神社なんかに行けば分かるが、征伐された側の神が
依然としてちゃんと奉られている。諏訪神社なんかそうだよね。
そもそも神社毎に祭神が違うわけだし・・・。
勝者が敗者の宗教を根絶やしにして、歴史からもサクジョというのは
あんまり日本人の伝統には無いのだろう。
ところが、それが一神教の国に敗れると、これまでの宗教を否定され、
あまつさえ日本人からもその尻馬に乗るものが出る始末。
欧州の古代宗教ってこうやって滅びていったんだろうなあ・・・と思う次第です。
もっとも、国家神道なんぞは日本人の精神に根付いた宗教ではないため、
それを潰したところで一気にキリスト教とはならなかった・・・といったところでしょうか?
いや、珍しくもなんともないよ。もともと神様ってそういうものでしょ。
もともと世界の宗教は全部神道だった。土地の神であり、共同体の神で
あるもの。守り神。
それを体系化すると、役割分担が生まれ、最高神は誰かなんて話になり、
よけいな争いがおきる。自分の神様をかえりみず、力ある神に媚びる。
後には変な哲学者が詭弁を弄して唯一神をでっちあげ、さらによけいな
争いがおきる。
国家神道を神道サイドから批判する人がいるのは、権力の都合で神様を
体系化しこねまわす、その不信心を憎むから。
ああ、全然歴史にならないな。すまん。
56 :
51:01/08/30 22:34 ID:EEwT7xZU
>>54 それはおそらく大和朝廷が原住民の懐柔策のひとつとして征伐された側
の神を奉ったのだろう。
天津神と国津神だっけ?
天津神は大和朝廷が奉った神々で国津神はその土着の原住民が信仰して
いた神々だった気がする。
57 :
世界@名無史さん:01/08/30 22:36 ID:M9U2xqRI
>>53 あ、悪魔云々ってのは世界史的(?)に見た話ね。私の考える日本人の宗教観ってのは
>>54参照。
さらにすすめて、
神道は、人間の最初の宗教形態を現在に伝える
生きた化石のようなものだ。
(なぜ、それが日本に残されているのかはわからない)
経典をもった現在の宗教はみなそこから生まれたものだ。
母体のようなもの。
しかし、これは発達でなく、退化、縮退とみる。
>>56 懐柔策云々ということも、まったくなかったとは言えないでしょうが、どう
でしょうか。
出雲大社や諏訪大社は神話伝説の世界ですから、征服された集団の
神を祭っていることは確かでも、その経緯はいまとなっては、懐柔のた
めであったのか、他の目的であったのかはわかりにくいですね。
起源の明確な神社を調べれば、必ずしも敗者を祭るのは、残った者の
懐柔がすべてではないことがわかると思いますよ。
よく知られている事例では、東京の神田明神、太宰府の天満宮などが
ありますが、両者とも怨念をもって死んだ者を祭っていますが、どちら
も懐柔しなければならないような、政治勢力としての残党など存在して
いません。
そのまま太古にあてはまるかどうかは断言できませんが、それほど単
純に判断しないほうが良いと思います。
世界史からだいぶんハズレてきたので、サゲ。
60 :
51:01/08/30 22:55 ID:EEwT7xZU
>>59 ほうほう、なるほど。
もうひとつ考えられるのは、征伐された側の神々を奉ることで原住民
に敬意を表したということも考えられる。
しかし、その頃の日本史は謎が多すぎてイマイチ解釈しづらい。
ああ、まるで日本史板のような話題だ・・・
>>59 スレタイトルが「日本の宗教」だからね・・・。
63 :
世界@名無史さん:01/08/30 23:12 ID:V53nBpzU
>>51 先住民の信仰は抹殺されております。実際現在の日本で土偶の文化や
銅鐸の文化は全く残っておりません。
数多くの自然信仰を整理し統一化したものこれが神道なのだと思います。
64 :
ど〜でもいいけど:01/08/30 23:13 ID:9JMHrQPk
>>58 まぁ、話を面白くするために煽っているんでしょうけど、アミニズ
ムやシャーマニズムに近いから、神道が遅れた宗教で、教義・経典
を持つ宗教が進んだもの、もっと言えば、一神教のほうが進んだ宗
教である、というのは、ユダヤ・キリスト教文化からの一方的な発
想でしょうね。
ユダヤ・キリスト教の伝統の中にマルスク主義も包含されるから、
進歩的インテリと自称する人々からも支持されている見方のようで
すが。
宗教というのは、すぐれて文化に属することですから、優劣などと
あげつらうのはナンセンスです。
それと、清浄を価値とする神社神道の儀礼は、ある意味では洗練さ
れています。
ギラギラと脂ぎってエネルギッシュなものを宗教と捉えると、神社神
道は宗教として物足りないでしょうが、もともとそういうものなのです
から。
まあ、現世利益を売り物にしている神社も少なくはないですけどね。
>>59 ほんとうに宗教心のないヒトなんですね。
ものごとを、すべて近現代の政治行動のアナロジーでしか解釈でき
ないんですか。
歴史的に怨霊信仰が確認されているのは平安以降ですが、精神的な
行為として、抹殺した相手を自分達に祟らないように祭り、なだめたと
いう発想もあるのですよ。
日本人は今も昔も、神が許したと言って、ユダヤ人がそうしたように、
1つの都市の住民を皆殺しにしてから、そこに平然と住むような神経は
持っていません。
65 :
51:01/08/30 23:14 ID:EEwT7xZU
>>63 え!?
ど〜でもいいけど氏とまるで正反対のことを言っているようだけど・・・
どっちなんだ?
66 :
51:01/08/30 23:25 ID:EEwT7xZU
>>64 ん?
>>59は自分に対してレスしているけど、俺に対してレスしてんの?
まあ、そういうこともあるんだろうが政治的な発想が当時の大和朝廷
に全くなかったとも言い切れまい。
そういう怨念とか憎悪をそらすためにも土着の神々を奉ることもあった
んだろう。
ところで俺は日蓮宗。信仰心は平均的な日本の若者よりあるほうだと
自分では思うよ。
神がいるかどうかを別にしても自分が今いるのはご先祖様がいたから
自分は存在しているんだし、宗教は心のよりどころであらなければ
ならないと思うよ。
持論だけど宗教というのはキリスト教であれ神道であれ仏教であれ
イスラム教であれ人々に生きる希望を持たせ人生の指針を失わせない
ようにするのが宗教の本来の役目のひとつだと思う。
それがマイナス方向へ働くとカルト教団のようになってしまう。
宗教は薬にもなるけど毒にもなると思う。
>>65 3Cの銅鐸文化の消滅→古墳時代の始まりは日本史上の最大の謎のひとつ。
銅鐸が破壊されて発見される事が多いので、北九州の勢力に滅ぼされたという説もありますが、
実際のところは何にも分かっていないというのが真実。
面白いことに、諏訪大社には銅鐸に似た鉄鐸という祭器が有ります。
ますます板違いになっていくので、sage
68 :
51:01/08/30 23:51 ID:EEwT7xZU
>>67 ほうほう、なるほど。
ところでど〜でもいいけど氏、
>>66に書いた俺の意見に対する反論は?
>>63 土偶は縄文人の文化ですね。縄文人と弥生人の入れ替わり(紀元前後?)
も大きな謎。ただ、縄文人が大量に殺害された形跡がないので、侵略というより、
弥生人が持ちこんだ伝染病に耐性の無い縄文人が激減して、のこりは弥生人に
吸収された・・・という説もあり。
いずれににしろ「抹殺」されたかどうかは、未だ研究を待つしかありません・・・。
70 :
51:01/08/31 00:04 ID:0oP8A8LY
うーん、ますますわからん・・・
>>68 ん?確かに政治的な意図もあったと思いますよ。
ただ、太古は政治は宗教に従属していたわけで・・・。
意思決定に関して政治的思惑(懐柔策とか)が宗教的な動機を上回るのかどうか・・・。
ただ単純に相手の祭祀を根絶やしにする宗教的動機がなかった・・・ということではダメですか?
72 :
71:01/08/31 00:09 ID:w4ZwiTfw
あれ?IDが変わったぞ?M9U2xqRI=w4ZwiTfwです。
73 :
51:01/08/31 00:12 ID:0oP8A8LY
>>71 サンクス。
当時は政教一致だからな。
あなたのいう通りだと思うよ。
ただ信仰心ばかり注目して政治的意図に対してあまり言及しなかったことが、
俺的にちょいと納得いかなかったから、スマン。
74 :
T・S:01/08/31 00:31 ID:iKfkyOTM
>66
宗教は心のより処・・・・・・ええ、まったくそのとおりだと思います。ただ、古代から
日本人が宗教に求めてきたのは、「死者の管理」だったと思います。古代に屈葬されて
いた死者の中には、足の骨を折られたり、身体を縛られているものもあるそうです。
これはとにかく死者が起きてくることを恐れていた証拠で、「蘇るな」「祟らないでくれ」
と真剣に考えていたようです。
どうしてこれほどに死者を恐れるのかは解りませんが、被征服者が神として祭られている
のもその形の一つだと思われます。恐らくは後世の御霊信仰の原型になったのではないでしょうか。
非業の死を遂げた者は祟る・・・・・・と言うことで。
そういうワケで、古代に日本に伝わった仏教は、民間に広がっていく過程でニーズに合わせて
死者の供養なども兼ねるようになったのだと思います。既存の信仰に成り代わっていくと言うこと
は、既存の信仰が司っていたことをやるということとほぼ同義ですから。これがキリスト教のように
押しの強い宗教ならたいがい「迷信」と退けたでしょう。そのキリスト教にしてからがクリスマス
などをやってしまうあたり、民間に残る信仰はなかなかに強力のようです。
日本の場合は伝来してきた宗教をアレンジしてしまった上、さらに明確に残った祭祀に
「神道」と名前を冠することによって、「同じ目的とをもった別の宗教」を作り上げてしまったように
私は思います。まさに「言霊」!
ただ、江戸期になると宗教はサービス産業として消費されるようになり、「流行神」なんて
現象を生み出すようになってしまったのですが・・・・・・。
75 :
世界@名無史さん:01/08/31 00:37 ID:giKO6RfA
日本全体が宗教的に興奮してたのはやっぱり戦国時代?
76 :
51:01/08/31 00:40 ID:0oP8A8LY
>>74 おお、T・S さんだ。
そういやドイツや北欧に伝わる土着の原始宗教もキリスト教が広まる
につれて廃れてしまったとか。
たとえばドイツでの魔女狩に関してもキリスト教とは異質の宗教を
消滅させるためのもあったんでしょうな。
まあ、こればかりではないけど。
77 :
T・S:01/08/31 01:27 ID:iKfkyOTM
>76
繰り返しますが、地域と密着している民間信仰はしぶといです。根絶するために
キリスト教側からは「害をなす妖精を鎮める聖人」の伝説を作ったり、「神の宿る
と言うオークを切ったが、異教の神の力など及ばなかった」・・・・・・と言う話を作った
りして廃絶に努めましたが、結局はずっと後まで残り、後世に文学作品や芸術の
モチーフとして復活します。
この辺は日本における「古神道」にも共通してますし、世界的にも同様の現象が
あるのではないでしょうか(あんまり自信ないっす)。
キリスト教に伝わっている異教的要素を詳しくしりたければ、某「XXの証人」の
人達に聞くと、かなり詳しく教えてくれます。あの連中は自分等の正統性を示すために
そういう研究してますから。自分等の都合のいい風に。
それで洗脳もされずに概要がわかったら、知識の補強のために図書館か2ちゃんにGOです!
・・・・・・あんまりお勧めの方法じゃないですけどね。
78 :
トキオ:01/08/31 06:37 ID:V0yjJjtg
ヨーロッパにおいて一神教が徹底された、と思うのは間違いだと思う。
例えばアイルランドなどは、敬虔なカトリック教徒でありつつも、
今でもケルト神話が息づいて、妖精物語の世界が残っている。
それにだいたい、聖パトリックを祭る、というのは、
本来の一神教なら変だもの。形を変えた土着神信仰だと思うよ。
それと、仏教が多神教だという書き込みがいくつかあるけど、間違いでしょ。
むしろ、仏教は本質的には無神教。非常に特殊な宗教。
超人的存在はいるけど、仏教において世界を救うのはそれらじゃない。
個人の努力と行い、それに宇宙の理。
超人たちは、その手助けをしてくれるだけ。
79 :
( ´D`)ノ:01/08/31 06:51 ID:QCUln6wc
>>78 でも時代がたつにすれ、次第に密教化・秘儀化して旧来のヴェーダ
の神々を護法仏として取り入れ、中国・ティベットや日本に流入
して土着神と習合するに至って、仏教は完全に定型化された多神教
になってるような気がするのれす。
確かに今でも「本質的には無神教」の側面は色濃く残ってるんれす
けどね。
あ、でも上座部仏教もあったのれす。大乗に比べればいくらかは
多神教色が薄いような気がするのれす。上座部にはあまり詳しく
ないんでよくわからないのれす。スマソなのれす。
81 :
トキオ:01/08/31 07:24 ID:V0yjJjtg
>>79 確かに、一神教のカトリックにおけるマリア信仰などの偶像崇拝と同じ、
無神教(こんな言葉はないんだけど)の仏教の観音や大日如来信仰など
時代とともに崩れていく一面はあるのは認める。
でもやっぱり、多神教といわれると抵抗があるな。
82 :
世界@名無史さん:01/08/31 08:45 ID:oTJGYWv6
日本人は宗教を独自に持ってるよ
・モノには魂が宿る
・拝めば御利益がある
・死んだら神になる
結局、日本は国家が生まれて1000年ぐらい経っても
日本独自の宗教のままなのでは??
現実今の日本の宗教って、本来のものとは似て非なるもの
(よーするに日本的に納得できる表層のみを習得もしくは改変)
ばかりだもん
ただ、イスラムが日本に入ってこなかったのは疑問
単純に発生が遅かったせいか、それとも当時の国際情勢のせいか
はたまた、日本に受け入れられない何かがあるのか・・・
83 :
梵阿弥:01/08/31 09:14 ID:WN2zsPIw
神道は道教。
84 :
世界@名無史さん:01/08/31 09:25 ID:oTJGYWv6
このスレみて思ったけど、「神道」を一まとめに考える時点で
おかしーんじゃない??
今ある「神道」って明治以降に制定された「国家神道」で
本来は地方によって全く異なる「宗教」のはずだよ??
現在は死滅(多少の残りカスはあるが)してしまったけど。。。
85 :
世界@名無史さん:01/08/31 10:05 ID:S9FAX5ZA
「気まぐれな天気」とかいうのも宗教心からくる発想!?
86 :
世界@名無史さん:01/08/31 12:30 ID:.BxZaRrk
>>48 >>42です。拙いカキコにレスしてくださってありがとうございます。
平田先生にまでは目配りしていませんでした。早速探して読んでみます。
人から聞いた話だけど、本居氏が彼一流の不可知論で片付けた問題
(たとえばあの世の構造など)について、大衆の好奇心(という言葉は
キツイかな)に訴えかけるような形で説明したところに平田先生の人気
の秘密があるということですね。
余談ですが、平田先生の「古神道」と、明治以降の「国家神道」及び現在
の神道との関係についてご教示いただければ幸いです。
87 :
:01/08/31 12:39 ID:ZQ56bmbE
長く使ったものをなかなか捨てられないってのは
日本人の立派な宗教だろうね。
このへんの観念を語り出すとキリないけど。
とりあえず1はバカ
88 :
梵阿弥:01/08/31 13:16 ID:WN2zsPIw
「〜は宗教ではない」という言い回しは多いが、他から見てうなずけぬことを
当然と思うのが信仰そのもの。「○○教の信者」にとってはその教条は合理的
で真理そのものなのだが。
89 :
T・S:01/08/31 13:25 ID:iKfkyOTM
>86
・・・・・・平田国学に付いては「私はこう思っている」程度なので、読んでみて
「違うじゃないかこのヤロウ」と思われるかも知れません。
本地神仙道(こう言う字だったかな)やその他、「古神道」を生み出す「下地」に
なったと考えていますが、あなたはどう思われるか?
「国家神道」と「古神道」の関わりに関しては、幕末の攘夷運動の際、地方の国学者
は「とほかみ講」(うろおぼえだから、間違ってても勘弁)などを開いていて、それ
を促進したり、攘夷の志士を匿ったりしていたと言う経緯があります。
開国政策に走る時、彼等のような地方の宗教者(国学者で真剣に学者だったのは本居
氏と平田先生ぐらいまでだと私は思ふ)の反感をできるだけ押さえるため、(報いようとは考えていなかったらしい)、
あるいは神輿に乗せていた天皇をより神格化するために作ったのが「国家神道」・・・・・・らしいです。
すいません。
現在の「古神道」や「神道」関係の書籍には「国家神道」に対して否定的な文章が
多くのっているのですが、どれも「国家神道」を詳しく言い表したものではなく、それ
をテキストにしている私も「国家神道」には興味が余りありませんから、「ご教授」
なんてとても無理っす。とにかく「国家神道」には神道サイドからの反発もあり、
その後の「教派神道」の勃興(っていうか、存続?)も、その一つだと言うことです。
現在の「神道」は神社関係の宗教をまとめてくくっての宗教と言うほどの意味しか
ありません。
仏教のインドでの呼び名の一つはアナースチカ(無神論)。
90 :
世界@名無史さん:01/08/31 13:56 ID:oTJGYWv6
>83
道教とは??
なんか風水の印象だけで、教義や目的って聞いた事ないんで
91 :
梵阿弥:01/08/31 14:32 ID:WN2zsPIw
>>90 哲学的には万物の存在を裏付ける原理があって「道」と名づける。人の意思と
関わり無いので何かを拝んでもしょうがない。己を見つめ「道」に適う暮らし
による平安を目指す。
俗人にとっては欲望追求のまじないに近いものとなっていて、こうなると
両極端に見える。
要は己と己でないものとの折り合いを時代や環境がどう捕らえているか
によって姿を変えるといってよいだろう。
によって
92 :
T・S:01/08/31 14:39 ID:iKfkyOTM
ああ〜、なんか南方の道教の影響が古代の祭祀や呪術にあるとは聞いた
ことがありますね。最近では雲南とかあの辺りから日本に来たグループが
あるのではないかといわれていますが。米とかもどうやら、半島経由じゃ
なくて、そっちから直で渡ってるらしいし・・・・・・。
94 :
世界@名無史さん:01/08/31 14:58 ID:oTJGYWv6
>91
なんか、仏教思想と変わらない気がするけど・・・
「道」=「因縁」
95 :
梵阿弥:01/08/31 15:30 ID:WN2zsPIw
>>94 変わらないと思います。共鳴できる人にとっては科学的なものだけど縁遠い人
にとってはただのまじないです。
シク教はイスラムの造像禁止=神の遍満性とヒンドゥの輪廻=万物の一体性
の融合です。
96 :
世界@名無史さん:01/08/31 16:04 ID:oTJGYWv6
>95
では何故、>83において
仏教≠神道=道教=仏教
と、なるのでしょう??
矛盾してません??
97 :
梵阿弥:01/08/31 16:44 ID:WN2zsPIw
上の式は何を表しているのですか? とりあえず
>>83では仏教には触れていませんが。
万物の存在にはなにやら裏付けがあって、粗末にすると己を損なう(罰が当たる)という
観念は世界に広く見られるという事です。日本にあるものを日本にしかないとすぐ思い込む
向きが気になるので。
儀式=まじないの些細な違いを以って異質なものとみなすより本質を見たいもの。
先祖供養や自然畏怖、神仏習合はシナにおいても盛んでした。
98 :
1:01/08/31 18:13 ID:N8pbOSDU
宗教など心の弱い奴の拠り所でしかなく、どこの馬の骨が決めたかもわからん神をありがたいと思い込んで、自分の心の寂しさを紛らわす。
坊主・宣教師側からみりゃ単なる飯の種だろ?って昔から思うのですが。特に日本坊主(韓国も)は高級車に乗り回してるのを見てると腹立つよ。彼らは何様ですか?
スレ主がせっかく出てきたので一言。
あなたの書き込みをみていると、なにか矛盾したものを感じる。
もしかしたら宗教を内心強くもとめているのではないか。
すくなくとも君よりは役に立っていると思われ。
>>98
101 :
世界@名無史さん:01/08/31 18:30 ID:b3FZKgr6
俺も
>>1に矛盾を感じる。
堕落した宗教しか見てないんじゃないか?
宗教は人が存在し続ける限りなくならないし、
存在しなければならないと思う。
1は、本当の意味での宗教を求めているような気もする。
かわいそうな1にシャクティーパットをしてあげよう
103 :
世界@名無史さん:01/08/31 19:24 ID:.KBHbN5o
>97
>83において「神道は道教」とおっしゃってますね??
それ以前のスレの流れを読んでいると、仏教と神道は別物という
考えで流れています。
しかし、あなたは神道は道教であり、道教は仏教であると
理論しているのですよ??矛盾では有りませんか??
ただ、「物を大切にする」という考え方が世界的であるというのは同意します。
しかし、それは神道とはなにも関係無いのではないでしょうか??
少なくても神道に対する日本人の目的は現世でのシアワセ、つまり
「ご利益」な訳です。「モノを大切する」などはどちらかと言えば
道徳観みたいものでしょう(だから世界的)
104 :
耶蘇吉ジョーカー:01/08/31 23:07 ID:a0/c7y4g
私は住まいの近くの神社と勤め先の近くの神社に参拝しているよ。
105 :
世界@名無史さん:01/08/31 23:22 ID:RemrYvXc
韓国等では、針供養が理解不可能なんだと、
他の外国人も、理解できないのかな?
106 :
T・S:01/08/31 23:39 ID:iKfkyOTM
モノに対して人格があるかのような発想はないのかな?
その話、突き詰めれば面白そう>105
現在の坊さんが高級車を乗り回したり、葬式しかしないのは、江戸時代に
檀家のない寺をお取つぶしにしたから。つまり「あんたらは葬式だけやっとれば
ええんじゃ」と時の政権に押し付けられた結果。上でもカいたけど、日本人が心の
安寧を求めた時、問題になるのは「死者の管理」。本来の仏道修行とは関係のない
仕事(むしろ神道の仕事)を押しつけられた坊さんらは、それでもそれが集衆のため
だと自分らに言い聞かせて現在に至り、何時の間にか「本来の仏教」なんか関係なく
なってしまった・・・・・・と。
これは80%以上は私見なので、そのまま信じたりしないでください(って、そん人いないか)。
それと、いつの時代でも真面目にやっている人達はいるので、上の限りでもない、と。
宗教がなんのために必要なのかが問題なら、マンガだけど「玄奘西域記」でも読んでみると
いいですよ。考証がどうこうよりも、どうして人は宗教を必要とするのか、結構真剣に描写して
ますから。
107 :
世界@名無史さん:01/08/31 23:44 ID:RemrYvXc
九十九神信仰は、流石に日本だけの気がする。
勿論気がするだけ。
シャーマニズムが有る国だけかな?
108 :
日本宗教史概説:01/09/01 00:07 ID:UlggZ6zw
1;他国と陸続きの場合、国家や民族は、向こうの民族と「我々」は別だ、という、自意識を必要とする。
その自意識の拠所として、「宗教」は発生する。
(例;ユダヤ教は、エジプトやバビロンなどの先進民族とユダヤ民族を区別する自意識のために生まれた)
2;古代帝国は、国内を統一する際、国民ができるだけ似た思考法をしてくれているほうが
統治しやすい。そのため、「国教」が生まれる。
(例;東ローマ帝国とギリシャ正教)
3;日本の場合、海で他国と離れていたため、1の要請は希薄だった。
2の要請にしたがって、奈良時代、仏教が国教化したが、輸入哲学である仏教に刺激され、
土着信仰であった神道が、仏教を手本として宗教としての形式を整え、
仏教と神道が並存することになった。
4;3から明らかなように、日本においては、宗教より政治が優位にある。
これは、インドより西では考えられないことだ。インドより西では、宗教が政治より優位にあり、
宗教は原則的に国境を越えている。
日本では、宗教は国境を越えず、原則的に日本列島の中で、日本列島の政治権力の枠内で盛衰する。
ここに他国との条件の大きな違いがある。
109 :
日本宗教史概説:01/09/01 00:08 ID:UlggZ6zw
5;ヨーロッパの宗教改革運動に比されるべき、日本の宗教改革運動は、鎌倉時代に始まった。
2の古代宗教は「世界を測る枠組」だが、中世宗教は「個人の信仰」が特徴だ。
プロテスタント(聖書を元とした個人の信仰)がカトリック(古代帝国の残滓)の権威を
否定したように、鎌倉仏教(法然、日蓮など)は奈良仏教(古代律令制の残滓)を否定し、
あくまで日本列島という地域限定はあるものの、16世紀日本の一向宗は、俗世の王権である
織田信長と激しい戦いを繰り広げた。
6;ヨーロッパ宗教改革運動は、ドイツ30年戦争などを経て、俗世の王権(政治)は、
プロテスタントかカトリックかという個人の信仰(宗教)に、干渉しないという結論に辿り着いた。
(政教分離)
7;日本では、織田信長の一向宗への勝利、徳川政権のキリシタン弾圧、徳川政権下の檀家制確立
などにより、宗教は政治に敗北し、宗教は政治より下位に位置することが再び確定した。
8;明治維新後、伊藤博文は欧米を視察し、近代化にはキリスト教が大きく関わっていることを
痛感した。伊藤博文は帰国後、大急ぎで欧米のキリスト教の代替物を日本で作ることにした。
それが「国家神道」である。
「国家神道」は明治政府が国内統一するための国教として作成された。(2参照)
国家神道は、それまで各地の神社が細々と伝えてきた伝統や儀式を全て明治政府用に作り変え、
政府の都合のいいように序列化・再編した。
9;1930年代、日本政治が外交と経済政策にしくじり、混迷した際、日本政府は2の傾向を
更に強め、あらゆる「主義者」を弾圧し、国内にあるキリスト教団体も仏教団体も含めた
全ての宗教団体を、「護国」の名の元に政治的に組織しなおした。
10;以後、1945年までその体制が続き、その体制(「国体」)崩壊後、日本に残っていたのは
政治によってズタズタにレイプされた宗教だけだった。
だから日本には、宗教は屍骸としてしか存在していない。
110 :
世界@名無史さん:01/09/01 05:58 ID:avNdX5GY
なんか、どんどん宗教板になってるなー・・・
宗教の目的って結局3つのタイプしかないでしょ??
1、天国(は語弊があるが)での永遠の生(経典宗教)
2、永遠の死(仏教)
3、現世での幸福(ヒンズー、神道)
(番外として、目的は無く単純に自然や祖先を敬う原始宗教)
んで、日本人は、現世の幸福を願いながら死後は死後で
永遠に生きたいっていうスゴイ都合のイイことを考えてる。
そーするとどの宗教を取り入れても、結局和風に染まってしまい
「無宗教」にみえてるんじゃないかな??
拝むだけで極楽行きの「仏教」や、奇跡を信じない「キリスト教」とかね・・・
>>109 国家神道の説明および結論には、あまり同意できない。
112 :
世界@名無史さん:01/09/01 09:42 ID:vv/8u5co
>>110 宗教には詳しくないが、
仏教は輪廻転生だった筈だが?
>>112 輪廻は苦
その輪からぬけて涅槃に至るのが目的だと思われる。
永遠の死という表現が妥当かどうかはともかく。
114 :
世界@名無史さん:01/09/01 10:05 ID:jC0u/Sjc
>111
明治維新後の歴史を眺めると割合納得できる説と思うが??
「脱亜入欧」に始まって、「八紘一宇」思想、そして戦後の
日本人のアジア系人へ発想は、まさにキリスト教国と同じ。
キリスト教国でない日本がキリスト教国の文明を目指したとき
その宗教を吸収もしくはそれに近いものを創作することは
十分考えられます。(仏教伝来も然り)
115 :
世界@名無史さん:01/09/01 10:09 ID:jC0u/Sjc
>113
六道界のどこにも存在してないから、死んでいると考えます。
116 :
世界@名無史さん:01/09/01 10:39 ID:JYlxFujY
脱亜入欧を目指すなら、キリスト教の代替の国家神道を作るのではなく、
キリスト教そのものを取り入れればよかったと思うが、そうしなかったのは
なぜか?
>>116 敵性宗教だから。それと
キリスト教が日本人になじまない。
仏教はなんじんだのになぜかな。
118 :
世界@名無史さん:01/09/01 11:08 ID:JYlxFujY
明治時代には敵性ではなかったと思うが。
119 :
世界@名無史さん:01/09/01 11:16 ID:jC0u/Sjc
>116
当時の国際情勢からです。
また、仏教が国民の間まで浸透するのに
ざっと500年以上かかってます。(7世紀〜12,3世紀)
そんな時間は明治政府にありませんでした。
120 :
世界@名無史さん:01/09/01 11:18 ID:TPGtULZQ
>>108-109
世界史板らしい整然とした分析だけど、結論は同意できないな。
国家や民族統合の軸としての宗教という観点や政治と拮抗する勢力
としての宗教が日本で発達した例が少なく、今日では残滓しか残っ
ていない、というのは正しいだろう。
だが、国家国民の統合や政治を左右することは、歴史的に見れば重
要なことで、それがなければ歴史的には存在価値?がないように見
えるだろうが、宗教の目的や存在意義は必ずしもそれらがすべてで
はないな。
文化・儀礼として宗教の存在は、希薄なように見えても充分な存在
意義を持っていると思う。
その意味では、仏教的神道的な考え方、行動規範は充分に日本人の
中に浸透していると思うね。これは生きている宗教と考えていい。
121 :
世界@名無史さん:01/09/01 11:25 ID:bbrRigrw
>>119 国が力を入れればそんなにかかるかな?
例えば「李氏朝鮮第4代国王世宗」
この人物は、儒教や朱子学根付かせる為に、
仏教を大弾圧し、見事儒教や朱子学を根付かせる事に成功している。
日本にも廃仏毀釈が有ったのだから、出来ない事も無いだろう。
122 :
金正男:01/09/01 11:30 ID:0zbD9Wr2
>>121 日の本では、我がチョソンの様な野蛮な宗教弾圧は
本来の民族性にそぐわない。
123 :
世界@名無史さん:01/09/01 11:39 ID:JYlxFujY
>>121 それに、古代や中世と違って、近代では、交通の発達や中央集権制のため、
数十年あれば、学校で教育勅語のかわりに聖書を教えたりして、キリスト教を
定着させることは可能だったはず。
124 :
:01/09/01 11:42 ID:VBPndvIc
現在神道と呼ばれる信仰は、縄文より続く日本と周辺の太平洋の島々共通の宗教だった。
125 :
ネコが好き:01/09/01 11:52 ID:3j9l5Exo
げっ、2日ほどあけたら、すごい書き込み。ウラシマになっちゃった。
とりあえず問題提起。>108,109
宗教って進歩するものなのか? 宗教信者がおれみたいな庶民、田夫野人(おれ半分農民
でーす)である。頑迷固陋で変わらんぞー。宗教組織論とゆー立場じゃわかるけど。
>78 「ヨーロッパにおいて一神教が徹底された、と思うのは間違いだと思う。」
正しくもあり、間違っているとも言えるんじゃないかな。宗教指導者側からみれば、
古い習俗をなんでも「異端だ」といって弾圧すれば宗教が成り立たなくなるし、手綱
をゆるめれば、宗旨がわけわからんくなるし。宗教者は結構悩んでいるとおもうよ。
無知な輩は手におえんと。 反応めちゃおそくてゴメン。
>121
逆に言えばキリスト教である理由も無い気が。天皇中心の政府だし、
最近まで弾圧していたことを考えるとキリスト教より神道の方が
いいんじゃない。
あと、キリスト教だと対外的な関心を集めて教義の改竄や教会の統制が
出来ないのも。
127 :
@名無しさん:01/09/01 12:30 ID:JQ48zZxc
日本の仏教って、親鸞とか日蓮とか、大作とか、
広報係をあがめていて、おシャカさんの地位が
低いな。哲学的な本質を追求するのは、にがてで
アイマイさが好きらしい。
128 :
世界@名無史さん:01/09/01 13:16 ID:jC0u/Sjc
>121
廃仏毀釈は神社にも適応されてます。
天皇家縁以外の神社は現在、その本来の儀式はほぼ
抹殺されてます。
>123
>数十年あれば
明治維新から終戦まで100年弱であることを
お忘れなく!
国家神道が、帝国主義を倫理面から支えていた西欧列強のキリスト教に倣
ったものであることは、正しいと思います。
実際に、明治の元勲達の日記などの記録でも、国民倫理を統合するための
宗教をどう構築するか、キリスト教を導入することを含めて検討されてい
たことが確認されていますね。
ただ、なんでキリスト教を導入しないで新しい宗教「国家神道」を構成し
たのかについてははっきりした理由はないようで、キリスト教でもよかっ
たのではないでしょうか。
単に「宗教まで西欧のものを導入するのはいくらなんでも」というような
意見が大勢を占めたといった事情のようですが。和魂洋才ということです
か。
あとは、明治維新を支えた勢力のひとつでありながら、思想的に時代に置
いていかれてしまっていた、国学系の人材の処遇ということも、理由とし
てあったと推測されますね。
130 :
T・S:01/09/01 15:46 ID:ns15rDQ.
キリスト教を導入しなかった理由としては、天皇を神輿にしていたからと言うだけで
いいんじゃないかな。明治天皇は宮廷祭祀の伯家神道の作法を伝授されていた人だし。
131 :
世界@名無史さん:01/09/01 15:53 ID:jC0u/Sjc
個人的には、1から教えるよりベースのあるモノを
変質させて教えたほうが楽だ!という元勲達の合理的な
発想だと考えたい。。。
132 :
上岡士文:01/09/01 17:10 ID:lUnp2Sc2
維新政府の宗教弾圧は仏教やキリスト教のみならず、天皇と直接結び付かない民間信仰や部落民の白山信仰にまで及んだのですよね。
133 :
T・S:01/09/01 17:29 ID:ns15rDQ.
修験道系の寺も随分な目にあったらしいです。筑波だったか、天狗信仰
の寺があったのだけど、政府に改革を迫られ、戦後に天狗研究で名高い
知切光歳がたずねたときには住職もそれを知らず、地元の古老に話を伺って
ことの次第を聞いたとか。
他にも似たような話はあちこちにあったらしいですが、仏教のようでもあり
神道の要素も強い修験道は、「どちらかにしろ」といわれればその本質を見失い、
相当数の修験者が明治に還俗したとか。
134 :
世界@名無史さん:01/09/01 19:23 ID:brfNDsho
>125
>宗教って進歩するものなのか?
頑迷固陋な方がいらっしゃるので「変質」はします。その土地にあった宗教に変質しなければ
生き残るコトはできません。実際、ヨーロッパのキリスト教は
本来のものとかけ離れています。(十字架とか修道院とか・・・)
で、
>78 「ヨーロッパにおいて一神教が徹底された、と思うのは間違いだと思う。」
>正しくもあり、間違っているとも言えるんじゃないかな。
にも関わってきます、実際キリスト教はヨーロッパにおいてはほとんど
土俗宗教と融合してしまったと考えるのが正しいでしょう。
これが、正式なキリスト教に取って代わられてのは、「宗教革命」と「活版印刷」が
可能になった時代から。それでも、土着宗教と共存の上でというのが精一杯でした。
思うに、現在の欧米諸国の人間はほとんど日本人同様、「上辺だけ」でしか
宗教を捉えていないといえるのではないでしょうか??
もし居るなら、プロテスタントの遺伝子学者とか考古学者という方に会って
お話ししてみたいものです。
135 :
108:01/09/01 19:34 ID:S/kxIAt6
蛇足になりますが、
>>117 キリスト教が日本人に馴染まない、仏教は馴染んだ、というのは違うと思う。
日本の政治は仏教は統治に利用し、キリスト教は統治上邪魔だという理由から
排撃した、と見るほうが正しいと思う。
(キリスト教が日本人に馴染まなかったわけではない、という参照例として
『鎖国』和辻哲郎著、岩波文庫を挙げておきます)
>>118 明治10年に外圧によりやむなく「信仰の自由」が教部省通達されましたが、
それまではなお隠れキリシタンは発見されれば流罪にされていました。
「敵性」という語が用いられていますが、「敵」であるかないかの枠組は、
この場合宗教的枠組というより、明治政府官僚から見た政治的枠組だと思います。
>>120 うん。君の意見を否定しません。
>>120さんの視点は、「日本の個々の民衆にとって宗教が生きているか死んでいるか」、
という枠組。
オイラの視点枠組は、「宗教」と「政治」を、それぞれ世界統治を目的とする勢力の抗争
(「宗教」対「政治」の主導権争い)と見立て、以下のように比較しています。
1;欧州では「政教分離(内面=信仰の問題と、外面=政治参加の問題は別)」
という勢力住み分けに至り
2;イスラム社会では「宗教」が一元的に「政治」を支配し
3;日本では、主に地理的要因から、「政治」が「宗教」を支配しつづけた。日本では
「宗教」は「政治」に負けっぱなしだった。
オイラの視点では「日本の個々の民衆にとって宗教が生きているか死んでいるか」は捉えることが
できないので、
>>120さんの視点は私の捉え方とは別次元で補完的なものとなると思います。
136 :
108:01/09/01 19:37 ID:S/kxIAt6
>>125 社会学には「宗教進化論」というモデルがあるので、
>>108-109ではそのモデル
を下敷きにしました。
【宗教進化論概説】
宗教分類の基準
「誰にとっての、何にとっての宗教なのか」…主体は何か
「何を宗教は扱うか」…対象は何か
「主体」は、国家などの「共同体にとって」か、「個人にとって」か、で分類します。
「対象」は、「個別の災厄をそのたびごとに」なのか、「全ての物をまとめて1つの枠組で」
なのか、で、分類します。
すると、以下のようになります。
1;原初的宗教【共同体が、個別の出来事を】
シャーマン信仰や、日本の古い土着信仰はここに分類されます。
この段階で重要なのは「儀式」です。
「なぜこの村に災厄が訪れるのか? それは昨年の儀式に不手際があったからだ」と、考えます。
儀式は共同体全員参加し、「聖」(ハレの日・祭)と、「俗」(ケの日・日常)の
区別が生まれます。
また、分裂症患者・狂人を、シャーマンとして「聖」の側に隔離することで、日常(「俗」)への
脅威を解消します。
2;古代的宗教【共同体が、全ての物をたとえば「経典」という1つの枠組で】
ユダヤ教やヒンズー教がここに分類されます。
この時点で重要なのは「戒律」です。
何がいいことであり何が悪いことなのか、何が祝福すべきことで何が神の呪いなのかは
全て宗教が判断します。
たとえばユダヤ教はこう考えます。
旧約聖書は、神との契約を守ればユダヤ人は災厄に合わないことを約束しているが、
不信心なユダヤ人によって、神との契約は常に破られる。だからユダヤの民は神により
さまざまな災厄を与えられる。だから神から与えられた戒律を、ユダヤ人は守らなくては
ならないし、戒律を破るユダヤ人を、ユダヤ人は追放しなくてはならない。
なお、奈良仏教は中国から伝来した時点ではここに分類されますが、
最澄が比叡山開山のさい肝である「戒律」を否定したため、ある意味原初的宗教に退化します。
(土着神道…たとえば比叡山と日吉神社…の習合)
137 :
108:01/09/01 19:38 ID:S/kxIAt6
【宗教進化論概説】続き
3;中世的宗教【個人が、全ての物をたとえば「念仏」という1つの枠組で】
原初キリスト教、プロテスタント、イスラム教、鎌倉仏教がここに分類されます。
この時点で重要なのは「個人の信仰」です。
個人がいかに神にcommitment(献身、遂行、明確な主義を持つこと)するか、という問題です。
ユダヤ教徒は、皆ユダヤ民族です。共同体と宗教が同じです。
その中で、イエスが救世主であることを信じるかどうか、という個人の信仰の問題へ進化したのが
原初キリスト教です。
社会学的には、当時、ユダヤ共同体の階層化が深まっていた。戒律を守っても生活できる者と、
生活するためには戒律を守っていられない者とがいた。
イエスのロジックは、二つ。
一つは、戒律の否定。戒律を守っていられる豊かな暇人だけが救われるのなら、
それはトートロジー(同語反復)だ。救われている者だけが救われることになる。
むしろ、戒律に従えない者こそが救われるべきだ。戒律に従えるほど恵まれた者は、救われない。
もう一つは隣人愛。これは親を捨てよ故郷を捨てよ、という厳しい主張だ。
自分を突き飛ばそうとする他人を、自分を殺そうとする他人を、愛する。
見も知らない他人のために命を捨てる、これが隣人愛だ。
ユダヤ共同体からの、脱共同体化が、ここでなされる。
キリスト教を地中海世界に布教したパウロは、隣人愛(共同体を超えた愛)を拡大した。
地中海商業圏の、ギリシャ語を話す他民族に布教した。共同体を持たない人々へ、浸透していった。
なお、カトリックは6世紀から16世紀まで、ゲルマン民族の土着信仰と一部習合して、
原初宗教へ退化しました。宗教改革以降中世的宗教へ進化します。
さらに「近代的宗教」という段階を主張する人がいますが、私はあまりその説に同意しないので
その説の説明は割愛します。
以上のモデルはあくまで思考するための補助線、仮想の枠組なので、「そういう宗教分類もあるのね」
と、頭の片隅にでもいれておいて下さい。長文失礼しました。
138 :
@名無しさん:01/09/01 20:03 ID:mGCtT/HE
日本でどんな宗教でも入信した人達を分析すると、
病気などの追い詰められた状況があることが多い。
日本は気候もおだやかで、餓死の危険も少なく、
島国で他民族との、負ければ皆殺しといった戦いも
少ない。常になんとかなりそうで、絶望が無い。
こういう所では、本格的な宗教は育ちにくい。
139 :
世界@名無史さん:01/09/01 20:36 ID:tmgRaqhk
>>135 ≫日本の政治は仏教は統治に利用し、キリスト教は統治上邪魔だという理由から
排撃した、と見るほうが正しいと思う。
それは間違いというか、被害妄想ですよ。
それなら戦後に、キリスト教徒が増えても可笑しくない、
ですが、今現在でも150万人しかいない。
新興宗教でさえ、かなりの信者を集めているんですよ。
例えば韓国では、戦後キリスト教が本格的に入ってきましたが、
日本と比べ多くの信者を、獲得しています。
社会的にもかなりの権力を持ち、教会内には警察も踏み込めない。
新興宗教も殆どキリスト教系です。
日本は仏教系が殆どなんですよ。
この違いをどうやって説明するんですか?
日本にとって、キリスト教が合わなかったと見るのが普通です。
140 :
( ´D`)ノ:01/09/01 21:30 ID:CGEBmDGw
>>139 でも戦国時代末期には相当数の信者を獲得していたのれす。
もしあのまま禁教政策をとらずにいたら、日本人の大多数が
クリスチャンになっていたと思うのれす。(今の韓国のように。)
でも「日本にとってキリスト教は合わなかった」というのは事実
(というか日本人はアクの強い宗教全般が苦手)れすから、仏教も
そうなったように、時代を経るにつれ神道(あるいは仏教)と習合
していたと思われるのれす。
ではなぜ戦後、日本では韓国ほどにクリスチャンが増えなかったか。
>>109さんの言うように、「戦後、日本に残っていたのは政治によ
ってズタズタにレイプされた宗教だけだった」のもあるのれすが、
>>24でT・Sさんが言うように、「宗教は心の隙間を埋める
重大なサービス産業と、江戸時代に庶民が自覚してしまった」
というのが何よりも一番大きいと思うのれす。
141 :
( ´D`)ノ:01/09/01 21:33 ID:CGEBmDGw
>>139 >新興宗教も殆どキリスト教系です。
>日本は仏教系が殆どなんですよ。
>この違いをどうやって説明するんですか?
日本じゃキリスト教はスタンダードではないからだと思われ。
なのれす。
>でも戦国時代末期には相当数の信者を獲得していたのれす。
>もしあのまま禁教政策をとらずにいたら、日本人の大多数が
>クリスチャンになっていたと思うのれす。
禁止にしなければ、まちがいなく欧米の植民地になっていたのれす。
やつらの常套手段だよ。キリスト教を広めてから、侵略するのは。
秀吉もそれに気付いて禁教にした。
ののたんも自分の意見もっていたんだ。
143 :
世界@名無史さん:01/09/01 22:08 ID:Zx2iIZJA
ののたんの言っていることも一理あるな。
だけど仏教もあれじゃん、完全に外来宗教じゃん。
なぜ仏教は浸透したんだということになる。
あれも見方によっては当時の大和朝廷が政治的に日本統一の道具として
利用したのかもしれん。確証はないけど。
>>139 >日本は仏教系が殆どなんですよ。
これは、事実誤認だと思います。
団体数からいくと、日本の新宗教の多数派は教派神道系や神仏習合の諸教系です。
仏教系の場合には日蓮宗系が多いようですね。
145 :
世界@名無史さん:01/09/01 22:16 ID:tmgRaqhk
なんか突込みばかり、入れてるみたいなんだが。
>>140 その当時有った、一向宗を越える事は無理だったと思われ。
弾圧などもあったが、そんなに信者を集められなかったんだが。
ザビエルの手記などに有るように、中々理解できなかった。
大友氏等は、逆に仏教に弾圧を加え家臣からの信頼を失ってますからね。
少なくとも中々受け入れがたかったのは、間違い無いと思います。
キリシタン大名の中には、貿易に有利というだけで、
改宗した大名もいましたから。
(勿論切腹が出来ないほどの敬虔な人もいた)
まさか島原の乱が、キリシタン一揆だと思っていたんですか?
≫日本じゃキリスト教はスタンダードではないからだと思われ。
なのれす。
韓国でキリスト教はスタンダード何ですか?
146 :
世界@名無史さん:01/09/01 22:18 ID:tmgRaqhk
>>144 ご指摘ありがとうございます。
確か日蓮系が増えてたと思ってので。
147 :
世界@名無史さん:01/09/01 22:18 ID:Zx2iIZJA
>>145 俺、韓国旅行した時結構教会が目についたよ。
日本よりは教会の数は人口と比較しても多いと思うよ。
148 :
( ´D`)ノ:01/09/01 22:24 ID:CGEBmDGw
>>145 >まさか島原の乱が、キリシタン一揆だと思っていたんですか?
いやん。日本史は専門外なんで、そこらへんの知識不足には突っ込
まないでほしいのれす。(藁
>韓国でキリスト教はスタンダード何ですか?
李朝時代から息も絶え絶えだった仏教は論外としても、時代の流れ
にそぐわなくなってきた儒教に代わるものでは、キリスト教が一番
スタンダードに近いと思われるのれす。(それでも依然として儒教の
影響力は大きいれすね。クリスチャンでもお葬式な儒教式で行うこと
が多いそうれすし。)
訂正なのれす。
お葬式な儒教式 → お葬式は儒教式
150 :
世界@名無史さん:01/09/01 22:30 ID:tmgRaqhk
≫確か日蓮系が増えてたと思ったので。
スマソ誤爆。
>>147 日本であれだけキリスト教が、布教してないんですよ。
韓国ではスタンダードに成りつつある。
日本では新興宗教レベル。(チョット言い過ぎか)
中国は表向き禁止みたいだが、どうなんでしょうね。
白蓮教ぐらいしか知らない。
キリスト教が増えてるのかな?
>>145 韓国の宗教事情ですけど、キリスト教系の信者数は人口の30%程度
に達していて、その活発さは日本の比ではありません。
また、内容的にも日本のキリスト教信者が比較的インテリ層を中心とし
ているのに対して、庶民レベルへの布教に成功しています。というか、
説教の内容なども日本とはだいぶん違っていて、アジテーションに近い
ようなレベルで熱狂的な信者も多いということです。
もともとの精神風土として、朱子学的な衛正斥邪の観念が強いですか
ら、自分達の宗派が絶対正義で他はみな邪宗というような主張を受け
入れやすかったのではないでしょうか。
キリスト教を受容するにあたって問題となる先祖祭祀については、儒教
を宗教ではなく儀礼であると位置づけることが、日本の仏教や神道より
はるかに容易、というか、儒教は宗教ではないとするほうが一般的です
から、この面での障害もより少なかったということだと思います。
152 :
世界@名無史さん:01/09/01 23:34 ID:LUrMa32Q
ところで、韓国のキリスト教の宗派は何??
153 :
世界@名無史さん:01/09/01 23:39 ID:Zx2iIZJA
>>152 カトリックが多いんじゃない?
まさかギリシャ正教とは思えんし・・・
ちなみに韓国の聖書にはハングル版と英語版の両方あるをソウル市内の
書店で見かけた。
154 :
世界@名無史さん:01/09/01 23:49 ID:LUrMa32Q
>153
プロテスタントだったら、おもしろいのにな
隣人を「きっちり」愛してください♪
155 :
ど〜でもいいけど:01/09/01 23:51 ID:TPGtULZQ
>>152-153
カトリックもいるのですが、主体はプロテスタントですね。
比率は1対4くらいではないかと思います。
>>154 いえいえ、プロテスタントの牧師が教会の説教で「日本は神に見放された
国である」と絶叫して、信者が喜んで沸き返るといった状況のようです。
なんでキリスト教会の説教でそんな話題が出てくる?とは思うんですがね。
157 :
154:01/09/02 00:02 ID:SV1bnhl.
>156
ひどく納得しました(^^;;
でも、真面目な話し>151のいうような理論では
キリスト教受け入れに対して韓国がOKで日本がNOというのは
おかしいんでないかい??
日本も十分朱子学にハマって訳だしさ
158 :
森元総理:01/09/02 00:20 ID:5VSDFk7g
159 :
世界@名無史さん:01/09/02 00:27 ID:ahw9C5HM
>>157 吉本隆明の説だけど明治の没落士族にはキリスト教は
結構アピールしたらしいですよ。ルサンチマンの宗教
だからね。その辺で考えると韓国で受ける理由もわか
る気がします。
160 :
T・S:01/09/02 00:33 ID:/bpTLxoM
うにゅう。
朱子学にハマってたのも武士とかのインテリ階級が多かったように思いますから、
151さんの理論でほぼ間違いないかと。つまり今のキリスト教の信者になるような人は、
江戸時代に朱子学にハマっていたと。けど、まあ、日本に入ってきてある程度定着した
時点で外来宗教は結構変質してしまうようなので、朱子学っつっても、韓国のそれとは
またちがうんでしょうね(わたしはその辺あまり知らない)。
儒教の影響を受けた神道なんてのもできるぐらいだし。
どのみち、「宗旨の争い釈迦の恥」なんて言葉が生まれるような日本に、押せ押せの
キリスト教は決定的に広まらなかったような気もするけど・・・・・・。
>>157 儒教・朱子学の受容度の違いはあるでしょうね。韓国では先祖の祭祀は
原則として儒教によって行われます。
仏教徒は日本の統治下でかなり増えており、数だけならキリスト教徒と
おなじくらいなのですが、仏教徒であっても、葬式などは儒教形式によっ
て行なうようです。
つまり、生活文化の基礎にまで儒教が入り込んでいるところが違うので
はないでしょうか。
相対的に朱子学に染まっていたのでは、と考えられる日本の旧士族から、
明治期のキリスト教徒が輩出しているというのも事実ですね。
162 :
世界@名無史さん:01/09/02 00:39 ID:SV1bnhl.
>161
ということは、今でも韓国には「泣き女」の商売が
ちゃんとあるんですか??
(韓国の実情には疎いので。。。すいません)
163 :
酔鯨ジョーカー:01/09/02 00:43 ID:ssfoDJpg
私は神社に参拝し、家内はプロテスタント教会に通っているが今のところ何の問題もない。
>>160 >押せ押せのキリスト教は決定的に広まらなかったような気もするけど
日本人の多数派の無意識下の宗教意識として、他宗派の存在を認めな
い独善性を嫌い、人間中心の価値観をくずさないという点があるようです
ね。
簡単に言ってしまえば、一神教やそれに近い排他的な宗派は多数派に
なれないような精神的風土があるということだと思います。
キリスト教や自派しか認めない仏教系の一部などは、宗教としては強固
に見えても、この風土の下では多数派を形成しにくいのでしょう。
これが「アクの強い宗教は嫌われる」という形で現れ、見方によっては「日
本にはまともな宗教がない」とも見られるようです。
ただ、宗教心が薄いと考えられているこのような意識も、独善的宗派を排
斥するという意味での意思はそれなりに強固で、国家権力によって簡単
に変えられるようなものではないということです。
具体例のひとつとして、明治の国家神道形成期に政府が土着の神社を
大量に整理しようとして失敗した経緯があります。
いわゆる神社の格付けにより、村落共同体ごとに存在した神社を、村社、
郷社、府県社、官幣社という分類の下に無格社として位置づけ、制度面
などから締め付けて、整理統合を図ったのですが、人々の反発と抵抗
によってほとんど実効をあげずに終わっています。
>>162 最近、韓国で葬式をテーマにした映画がつくられましたが、実は見てない
ので、断言できないです。
ただ、洋の東西を問わず、葬祭の儀礼様式などは、そう簡単には変わら
ないものだと思います。
どなたか、実際に見分された方がいらっしゃったらコメントをどうぞ。>ALL
日本人は無宗教と揶揄されるが、
日本人ほど天性の宗教心をもっている民族はいない。
しかも、それを自覚していない。
このスレで不満なのは、
「国家神道」の評価が低いことだ。
「国家神道」が戦争遂行の道具に使われたという経緯からきているのはわかるが、
「国家神道」とは若干の改変、強調はあるものの、天皇家の神道そのものでは
ないだろうか?
167 :
世界@名無史さん:01/09/02 19:26 ID:1oP9gd.U
>166
小村直樹は「天皇教」っていう説を展開してるよね<国家神道
168 :
世界@名無史さん:01/09/02 19:27 ID:1oP9gd.U
>167
「小村」→訂正「小室」
169 :
世界@名無史さん:01/09/02 20:48 ID:mgNOXf2U
日本人は体系化された「神話」をあまり好まないような。
共同体内で完結する「民話」や「伝承」は数多く残ってて、
それを収集する作業はずっと行われてるんだけど、一つの物語に
まとめてしまおうってのは、国家神道まではなかったわけで。
やっぱり「民族」を意識する機会が明治までほとんどなかったってのが
大きいのかな。
>>166 >日本人ほど天性の宗教心をもっている民族はいない。
レトリックとしてはともかく、日本人が宗教心にかんして他民族と比較して
突出しているということはないでしょう。
無宗教的、あるいは宗教心が薄いと自ら考え、そのように見られているのに
対して、それほど宗教心が無いということもない、といった程度でしょうね。
自覚がないというのは、そのとおりだと思いますが。
国家神道については、どうしてもにわかづくりの疑似宗教の臭いがしますね。
確かに祭祀として伊勢神宮はありますけど、天皇家の宗教は、歴史的にはずっ
と仏教だったと思いますよ。
171 :
世界@名無史さん:01/09/02 21:33 ID:pc2wNzls
神道と国家神道はだいぶ違うだろ。
172 :
170:01/09/02 21:35 ID:S67hiv8k
>>170 無自覚だから宗教心の程度は自分でも推し量れない。
神道が日本人の宗教心の要。
天皇家の出自も宗教(神道)も現状では
よくわかっていないというところでは。
(後者は公開もされていない)
173 :
170:01/09/02 22:04 ID:qlGh.BFs
>>172 >天皇家の出自も宗教(神道)も現状では
>よくわかっていないというところでは。
>(後者は公開もされていない)
現在の天皇家の宗教については知りませんが、歴史上の天皇につい
ては、神仏併祀か、仏教中心だと判断してよいと思いますが。
少なくとも、聖徳太子の頃から幕末まではそうでしょう。
174 :
T・S:01/09/02 23:30 ID:nepdJA0A
>173
なんせ後水尾天皇が土葬にするのしないので揉めたそうだし。彼もそうだけど、歴代の
天皇で法王をなのっていた人は結構いたと思う。
中世から近世にかけての宮廷祭祀には吉田家が関わっていたと思うけど、幕末頃ではハク家
が中心だったような・・・・・・。
結局、天皇家は時代時代に適当な宗教をやっていたんじゃないかな。
175 :
@名無しさん:01/09/02 23:43 ID:R5rShdrs
>>170にほぼ賛成
日本古来の宗教性は情緒的で思想、哲学まで
追求されていない。温暖な気候、安全な環境
のためか!
ナショナリストには嫌われる考えだろうな。
176 :
世界@名無史さん:01/09/03 08:12 ID:TU5rzm.g
>175
>温暖な気候、安全な環境のためか!
これはかなり疑問
なぜなら、日本よりもさらに過し易いインドでは
仏教が開かれてるから。
向こうは、それこそ布一枚あれば事足りるし、食料も
(昔は)有り余るほどあった訳だしさ
(働かなくても「御布施」だけで生活が成り立った)
日本の仏教の場合、修行のためにやってるけど、実際は別に
収入あるもね。
177 :
梵阿弥:01/09/03 09:34 ID:PgBKzc4E
>>103 神道も仏教も同じです。道徳のうち時代の大勢から外れても組織によって命を保っている
のを宗教と呼ぶことが多いのです。道徳というのは集団の秩序を保つためのものですね。
本来一人一人異なるはずの利害を重ねるために、人々の信頼や信用の核とするものを神とか
道とか言うのです。神道はおおむね道教の日本での呼び名と考えます。
現世の利益を担うことが専らなのはそういう時代や社会の背景によります。
明治以後は経済成長が半ば約束されていたために仕事や金に信頼を置いていたので
働き者や金持ちが徳のある人になったのです。
>>177 宗教のある一面をとらえているが、すべてではない。
179 :
@名無しさん:01/09/03 12:17 ID:RcByfXes
>>176 インドが日本に比べて、生きて行きやすい環境と
いうのは、どうでしょうね。私は行ったことがないので、
断定しにくいですが、他民族の衝突や階級性など、絶望を
経験しやすい環境のように思うんですが、ほかの方いかがでしょう?
>>179 日本の穏やかな環境と神道は確かに関係があると思う。
日本のような神道をもつ国はほかにあるだろうか?
神道が、自然崇拝、アニミズム、土着信仰から生まれた
というか考えは、ワンパターンではないか?
今のところ神道(の成立)に関しては何もわかっていないのでは
ないだろうか?
神道の研究はまだこれからだと思う。
181 :
梵阿弥:01/09/03 12:48 ID:PgBKzc4E
インドでは道教のような素朴な精霊観念から発展してウパニシャッドという哲学が生まれた。
宇宙の本体をブラフマンと呼び、われわれに内在する原理をアトマンと呼ぶ。この2つを
一致させて得られる平安を理想とした。仏教やジャイナ教はこの延長で社会の枠組みを
問いつつ実践してゆくのが新しかった。これを支えたのは盛んになりつつあった商業者だった。
後にインドの商業が衰えると(ローマ衰亡の影響とする説がある)商業者の合理主義が後退し
呪術的な風潮が強まりインドの仏教は密教化しながら衰え消滅した。後にインドの商業は
アラブ人が担ったため仏教復活はならなかった。
日本においては精霊崇拝の延長が哲学に達する前に仏教を受け入れた。
>>181 >日本においては精霊崇拝の延長が哲学に達する前に仏教を受け入れた。
「日本においては精霊崇拝の延長が哲学に達する前」が神道とお考えですか?
183 :
世界@名無史さん:01/09/03 13:12 ID:TU5rzm.g
>177
>神道も仏教も同じです
それは「融合してしまった」と言う意味でしょうか??
それとも「もともと同じだった」と言う意味でしょうか??
前者ならともかく、後者なら同意しかねます。
おっしゃられる通り「道徳とは集団の秩序を保つ」ものですが
「全集団の」ではありません。地域によって異なるのです。
つま道徳を出発点としてる宗教(政治や価値観、哲学もですが)において、
別地域で生まれた宗教が伝わった先の宗教と同じであるというのは不自然です。
>働き者や金持ちが徳のある人になったのです。
「働き者」は地域や時代によっては美徳と称えられましたが
「金持ち」は古今東西「悪徳」(は、いいすぎかも)がでないでしょーか??
少なくても「長者番付け」を見て徳を計る人は居ないと思いますよ。
184 :
梵阿弥:01/09/03 14:31 ID:PgBKzc4E
>>182 そう考えております。地縁や血縁を超えた人類や生物の存在意義を問う域には
達しなかったように思います。個人としては居たかもしれませんが大勢に
知られ後の人が見習うことがあったでしょうか。
社会が変わり自分たちのあり方を問い直さざるを得ない出来事が少ないまま
先端技術の一つとして仏教が入り上にかぶさったのでしょう。
こういった棲み分けはインドですでにありました。
教派神道の中には哲学への萌芽もあるやも知れません。
185 :
182:01/09/03 15:30 ID:oS16pY.I
神道についてはこう思う。
日本人の宗教心の基底にあるのは神道であり、
仏教はそれをおおうメッキのようなもの。
メッキはすぐはがれる。
>>184 >教派神道の中には哲学への萌芽もあるやも知れません。
かなりあると思う。仏教と比較して劣るものではない。
186 :
梵阿弥:01/09/03 15:34 ID:PgBKzc4E
>>183 「もともと同じ」です。違って見えるのは道教が庶民の手軽な欲望や地縁・血縁
の一体感の確認を、仏教が哲学的な面を受け持ったので離れていった為です。
道徳は人を縛るので時代の変化についていけません。ゆえに社会が動き出すと
新たな価値観を正当化する思想、ひいては新たな道徳が生まれ、古い方との
差を意識するようになります。
貴方とちょっと噛み合わないのは、一本の樹の梢を見るか、幹を見るか、根元を
見るか、地中の根を推し量るかの違いだと思います。
187 :
182:01/09/03 15:53 ID:oS16pY.I
道徳と宗教ねえ・・・・
似て非なるものじゃないか。
道徳から宗教が生まれてと思いますか?>梵阿弥
わたしは逆だと思うが。
道徳は宗教のほんの一部だと思います。
188 :
T・S:01/09/03 16:28 ID:jG5Mv3ko
なんだか梵阿弥さんの意見はずばっと言い切ってしまう上に言い回しが少し難しい
のですぐのは同意しずらいですが、大体そんなもんじゃないかと思いますね、書き込む
を全体的に見て。
でも、もちっと解りやすくお願いできるでしょうか?
189 :
梵阿弥:01/09/03 16:28 ID:PgBKzc4E
>>187 我々にとって「宗教」というと胡散臭い気がしますが、内側の人にとっては
常識であり真理であり科学であり人たる資格なのです。
利害が重なる人たちは同じ価値観を持ち、異なる人たちに対抗して団結の
確認を色々やるわけです。
190 :
世界@名無史さん:01/09/03 16:30 ID:TU5rzm.g
>186
確かにかみ合ってませんね(^^;;
っていうか、何の話をしてるかわからなくなりそーなのです
私は「宗教は伝わった地域にあわせて変質する、よって神道と道教は別物」と
いう視点からあなたの意見を反対してたのですが??
あなたの視点はどこでか??一言でどうぞ
191 :
182:01/09/03 16:35 ID:9ll7Q3uo
>>189 別に異論はないが、
>>187のレスなのでしょうか?
価値観という言葉がありますが
道徳のことをいっているのですか?
192 :
梵阿弥:01/09/03 17:43 ID:PgBKzc4E
>>190 いろいろ書かせてもらったので、何を付け加えましょうか。
皆さんの意見も読みたいし。
一言というなら、「名前が違っても違うものとは限らない」ということで。
>>191 物が余っていれば物欲は誉められるし、足りなければ卑しまれます。よそから
奪うことを称えるかもしれない。価値観とはそういう意味で、同じ地域でも
身分や職能や時代によって異なります。本音を霞で包んだものを神とか
いうことも多いようです。
193 :
182:01/09/03 17:54 ID:nCVgO0js
>梵阿弥
それがあなたのスタイルということはわかるが、
質問に対するレスは単刀直入にしないと真意が
伝わりませんよ。
194 :
190:01/09/03 19:12 ID:ULMxDiW.
>192
>「名前が違っても違うものとは限らない」と
ということは、あなたの考えを私の書き方で書くと
「宗教は表層は異なっても根本は永遠不偏のものである、故に神道と道教は同一」
と言う意味で認識してよろしいのでしょうか??
この認識であってるとすると論点は変わらないのですが、
それに対する解答は対極にあるとなりますね(^^;;
ちなみに私は別にあなたを全面否定してる訳ではありません。
ただ、この話題に関して(宗教は変質するのかしないのか)
自分と対極の意見ゆえにお聞きしてるだけですので、念の為
195 :
ど〜でもいいけど:01/09/03 21:43 ID:ruROmB06
>>177 >神道はおおむね道教の日本での呼び名と考えます。
一口に神道といっても、神社神道もあれば修験道など、密教と習合
したものもあるし、かなり多様です。
神社神道を見ていくと、アミニズムに近く、教派神道の修験系に近い
ものにはシャーマニズムの要素が強いし、神仙的なものへの志向が
見られますから、その意味では道教に近似していると言えないことも
ないでしょう。
ただ、一度、神社は宗教にあらずという国家神道の建前をくぐってし
まった現在の神社神道系についていえば、あまりまがまがしいものは
受け付けなくなっていることも確かです。
神社神道とそれ以外を分けて考えたほうが、現実的ではないかと思い
ますが。
ただ、日本人のほとんどが仏教徒で神道信者というカウントの場合に
は、心理的には仏教形式の葬祭を忌避せず、神社の祭りや初詣に違
和感を持たないといった程度であって、現実的にはほとんどの家庭が、
墓のある寺の檀家として、また居住する地域の神社の氏子にカウント
されているということを反映しているのですから、神道についての意識
は、むしろ神社神道が中心でしょうね。
196 :
酔鯨ジョーカー:01/09/03 23:12 ID:WIUm7mrg
私は、毎日 勤め先近くの神社に、週に一回 居住地の神社に
参拝しているが、特に自分を神道の信者だとは思っていないなぁ。
ましてや、神社本庁の極右ぶりには嫌悪感すらいだいている。
>>196 自分が神道信者であると意識している日本人はほとんどいないのでは
ないかと思いますけど。
198 :
世界@名無史さん:01/09/04 00:07 ID:GilTL1YM
199 :
世界@名無史さん:01/09/04 00:16 ID:NNi3g08I
>>196 「神社本庁の極右ぶり」って何のこと?。君が極左じゃないの?。朝日新聞を標準と思い込んじゃいかんよ。
それにしても、神社に参拝する極左なんて珍しいね〜
>>196 >>199 極右かどうかは知りませんけど、神社本庁などは「正統右翼」ないしは
「伝統右翼」ということでよいのでは。
まあ、カトリックなどは南米あたりに極左の神父がいたりするようですけ
ど、左翼の神主というのはあまり聞きませんね。
氏子は地元の地域住民ですから、氏子総代あたりでも、普通の市民の
世話役といったところですし、必ずしも右翼的な人々が中心になる、とい
うこともないでしょう。
逆に、自分が右翼だと自負する人は意識的に神社に参拝などするので
しょうが、地元の神社でなく、護国神社や靖国神社あたりに行きそうです
ね。
201 :
T・S:01/09/04 01:18 ID:nBjJNnrc
世間的には近所の寺とか神社って、地域の共同体とかに溶け込んで「お寺さん」とか「お宮さん」とか呼んでいたりで、
「宗教」って感じしませんよね。
1さんの言う「宗教」ってそう言うんじゃなくて、ワイドショーに出てくるような新興の団体とか、教科書に出てくる
ようなキリスト教やイスラム凶みたいなのを指している感じがします。
そう言う認識をしてしまう日本人の感覚が、外国の人達にしてみれば「無宗教」に見えるのかも。
202 :
世界@名無史さん:01/09/04 01:47 ID:PzzSTEJw
多神教は、似たのがあると、どんどん混ざってしまう。
もともとたくさんあるのが、ちゃっとくらい増えても、あんまり困らない。
というか、神様が増えて、おめでたい。
役割が近いと、同じ役割の別の神様か、同じ神様の別の名前なのか、判ら
なくなる。いきすぎると、古代ギリシャと古代ローマのかみさまがごっちゃ
になってしまったような状態になる。仏教でも、婆羅門の仏さんが混ざって
るし。
多神教というのは元々ひとつであった神が
役割分担で複数の神に別れたのだと思う。
名前がちがっていても実はひとつの神であることが多い。
204 :
108@脱線:01/09/04 02:16 ID:Bi.VJEs.
>>177 個人の宗教観・信仰告白としてはその言説はOKだけれど、学問的には
(あるいは他の理念体系・信仰体系から照らすと)かなりそれはメチャです。
どこがメチャかというと、梵さんの主張は原則本地垂迹説ですが、
本地垂迹説に疑問を感じないのは教義(信仰体系)のない「原初宗教」信者か、
あるいは自分以外の信仰体系に対峙する心構えのないことの表明に過ぎないからです。
「神道はおおむね道教の日本での呼び名」だという主張は、
「神道も道教も、ともに仏教説話もとりこんだモザイクな本地垂迹説宗教だ」と
するなら同意できますが。
「何でもとりこむモザイク信仰の寛容」は、「とりこまれることを否定する
(キリスト教や日蓮宗不受不施派やマルクス主義のような)一貫した信仰体系」
に対しては、恐ろしく不寛容になりますからね。
(仏教は一貫した哲学体系ですが、日本では哲学として根付いたというより、
徳川政権の末端機構として葬式を管理した、という根付き方の方が大きいと思う。
仏教が哲学として根付いているのなら、「輪廻転生は呪わしいこと」だという
死生観になっているはず)
>>201 かなり乱暴に意訳すると、
>>1の問題提起は、
「なぜ日本では信仰体系(信念体系)を持てないのか」なのだと思いますが、
この主語を「日本国は」と解する人(共同体主義)と、
「日本の人々は」と解する人(個人主義)では、かなり落差が生まれると思われ。
もちろん「主義」も(原則的には宗教観をベースとした)信念体系。
私は個人主義を尊しとするけど、日本ではまだまだなかなか個人主義という信念体系は
根付いていないからにゃあ…
205 :
政治的な面も:01/09/04 03:01 ID:t0fjhuh.
>>203 前にどこかで読んだ話で、ギリシャ神話は・・・
古代のギリシア半島では女神を信じる、農耕民族の国々があったそうです。
それを唯一神ゼウスを信仰する遊牧民族(アーリア系だったか?)が征服したらしい。
侵略者は被征服の民族と融合するため、ゼウスがその土地の女神と結婚する神話を造るという政策を取ったんだそうな。
統合された共通の神話で、国を統治しようとしたのでしょう。
そして、この遊牧民族は破竹の勢いで当時のギリシア半島の国々を席巻。
結果、あちこちの国の女神とゼウスは結婚し、ギリシア神話によくあるゼウスの浮気話の元になったそうです。
インドなんかでもある、多神教の1つのパターンでしょうな。
206 :
断片的だが、:01/09/04 04:46 ID:4ShJqcQc
確か「宗教」って単語は明治の翻訳語だったと思う。語源はレリジョンかな。
江戸以前は何と呼んでいたんだ?
あと弘仁格式かなんかに「仏教は凶事を事とせよ」かなんかあったはずだが。
ここで仏教の役割は決まってしまったんでは?
207 :
世界@名無史さん:01/09/04 05:43 ID:DfAIcHq2
>204
>「なぜ日本では信仰体系(信念体系)を持てないのか」
ある意味日本人って信仰心を持ってる故にかなり「不寛容」ではなかろうか?
どこの人間も外からの教えをある程度拒否しつつ徐々に受け入れて行くものだが
日本人の場合、自分達に合う様に教えを変えてから受け入れる(気になる)・・・
これは無意識の内に独自の「信仰」を持ってるためと考えることはできない??
(「体系」にはなってないけど)
208 :
梵阿弥:01/09/04 09:35 ID:bI3r9OJY
>>194 道徳観念は社会の変質に伴い変わらなければなりませんが自ら変わるのを拒む傾向があります。
なぜなら道徳は人の行いに正解があるという立場から他人にたがをはめる事なので昨日の正解
が今日や明日の不正解となっては困るからです。絶対性の保証として神とか法とか真理とか
常識とか言って格好つけるわけですが、この無謬性の強調が宗教と呼ばれがちなものの特徴
でしょう。
変質を拒みながらもやはり世につれた道徳観念は必要で、価値観の分裂に伴い分派が起こり
ます。只、倭が大陸の先進文明を受け入れる事による社会の変質に際してはまさにその一つ
として入ってきた仏教が新たな道徳を担ったので在来の観念の変質が起きなかったのです。
似ているものを同じとみなすか違うとみなすかがその人らしさなのでしょう。
209 :
アマノウヅメ:01/09/04 10:13 ID:8CJboIQ6
>203
同感です。
氏子総代というのは、地域的なもので大体なる人は決まっています。
古くから住んでいる家の当主が、ある程度の年齢になると
氏子総代になってくれと頼まれるのが通例です。
仕事は町内会長とあまり変わりません。
国宝とか重要文化財の指定を受けているような格の高い大きな神社
には、氏子総代は10人以上います。
思想は特に関係ありませんね。
若い頃は労働組合の闘士だったひともいます。
210 :
アマノウヅメ:01/09/04 10:20 ID:8CJboIQ6
すみません。
>200
でした。
ついでに言って置くと神職は国学院大学出身の人が多く理論的です。
私の知っている範囲では極右はいませんね。
実感としては、やや右翼というところです。
211 :
世界@名無史さん:01/09/04 11:41 ID:7bMNj23A
>208
自己矛盾されてます。
1.道徳観は変質する
2、道徳観の中でも変質しないものがある(無謬性の強調)=宗教
しかし、次に
>価値観の分裂に伴い分派が起こります。
と、おっしゃってますがこれの主語は何をさしているのでしょうか?
文面からして「宗教」と思われますが、それではあなたの「無謬性の強調=宗教」が
成り立ちません。変化しないのが「宗教」なら「分派」はありえないのです。
あなたの考えは、価値観がどんなに変わっても変わらないのが宗教でしょ??
>>211 道徳、価値観、宗教という言葉がよく出てくるが
それらの間の関係の説明が不十分というか、かってに
論が進んでいって、結果としてわかったようなわから
ないような、あやふやな印象しか残らない。
スマソ。
212は208に対するコメントです。
214 :
梵阿弥:01/09/04 12:34 ID:bI3r9OJY
>>211 無謬性を強調して変化しないと主張しているという意味です。自分で言い張って
いるだけという意味です。
どこで誤解を招いたのかわかりませんが社会につれて変わり行くのが価値観であり
道徳であって、外側の人がそれらを宗教と呼ぶのです。
私の宗教の定義としては「現実への精神的対応」としておきましょう。
215 :
T・S:01/09/04 12:42 ID:ciIVvdXU
>214
>私の宗教の定義としては「現実への精神的対応」
それを最初に言ってくだされば誤解はなかったでしょうが・・・・・・しかし、
随分と広いっつうか、曖昧模糊とした定義ですな。これでは政治イデオロギーも、
下手したらカウンセリングも「宗教」になってしまいますが?
(個人的にイデオロギーは宗教だと思ってますし、個々のカウンセリングは現在に
おける宗教の代用品候補だとは思っていますが・・・・・・)
「社会につれて変わり行くのが価値観であり
道徳であって、外側の人がそれらを宗教と呼ぶのです。」
こういう定義でいいのですね。
すると、宗教も社会につれて変わり行くのですね。
217 :
世界@名無史さん:01/09/04 12:57 ID:1rKbhnCQ
>>208 >道徳観念は社会の変質に伴い変わらなければなりませんが自ら変わるのを拒む傾向があります。
>なぜなら道徳は人の行いに正解があるという立場から他人にたがをはめる事なので昨日の正解
>が今日や明日の不正解となっては困るからです。絶対性の保証として神とか法とか真理とか
>常識とか言って格好つけるわけですが、この無謬性の強調が宗教と呼ばれがちなものの特徴
>でしょう。
「無謬性の強調が宗教」なら「宗教も社会につれて変わり行く」ではまずいのでは>梵阿弥
218 :
梵阿弥:01/09/04 13:04 ID:bI3r9OJY
>>215 無謬性を強調し組織化(一体感作り)を図っていれば宗教と呼びたくなりますね。
>>216 口では変わらないといいながら変わっていくのです。道徳(常識)は世の鏡です。
変わるまいとする側が旧派を支え変わろうとする側が新派を支えます。しかし世の
変化が鈍ると全体の価値観が収斂するので対立が和らぎ似通ってきます。
219 :
世界@名無史さん:01/09/04 13:07 ID:1rKbhnCQ
>口では変わらないといいながら変わっていくのです。
まるで禅問答だよ。
議論にならない。
220 :
梵阿弥:01/09/04 13:21 ID:bI3r9OJY
それまでの神格化された老子に代わり六朝梁の頃に元始天尊(別称上皇、玉皇等、宇宙の
神格化)が第一格となる。大元玉女が自生し精気を通じ天皇、地皇、人皇、次いで三皇五帝
が生まれると説く。北宋から黄帝が神格化され聖祖、玉皇等と呼ばれ中心格となる。
北極星を玄天上帝、太一、天帝、天皇等と呼び(星の中軸のため)皇帝は天子。
五胡十六国には王や皇帝の前に大単宇天王と称した胡の首長が多い。
道教は統一見解が無いので上に書いたのはおおよそです。
>>220 あんたは老子だね。
老子に突っ込みいれてもせんないことだった(笑い)
222 :
世界@名無史さん:01/09/04 13:34 ID:7bMNj23A
>214
>212の方がおっしゃることはもっともです
はっきり言って、あなたは「道徳」「宗教」「価値観」が
ごっちゃになってます。
>社会につれて変わり行くのが価値観であり 道徳であって、
>外側の人がそれらを宗教と呼ぶのです
(私訳:宗教は変質する道徳である)
と、あなたはおっしゃっていますが、>177において
>道徳のうち時代の大勢から外れても組織によって命を保っている
>のを宗教と呼ぶことが多いのです。
(私訳:宗教は変質しなかった道徳の一部である)
全く異なる捕らえかたをされています・・・・
誤解でもなんでも有りません。
あなた自身が混乱してるのです。
223 :
梵阿弥:01/09/04 15:31 ID:bI3r9OJY
>>222 前のほうから読んで下さって有難うございます。
分派や統合を繰り返して姿を変えながら人の世に常にあるという事なんですが。
体制に合うのが常識と呼ばれ、合い難いのが宗教と呼ばれる事が多いという事。
>>220 皆さん道教について知った上での異教説なのですか。
>>223 レスなのだろうか????
やはり老子様のようだ。
225 :
世界@名無史さん :01/09/04 15:55 ID:vIUwWjgk
ありゃ、2,3日来ない間にすっかりウラシマ状態に。
宗教は、人間や世の中の真理や人生哲学の追究、また人々の魂(心)やの救済の
ために発生して存在し続けたのではないだろうか。
もちろん、神の存在や死者を恐れ敬うためにも存在していることも当然だけどな。
特にアフリカとかの原住民の宗教は自然現象なども信仰の対象にしているから、
天候や火山などの現象も神や精霊のしわざだと思い、それを畏怖して奉ることで
自然と付き合ってきたんだろう。
原始宗教はこういう特色が強いけれども、仏教とかは宇宙の真理とか人生の真理
とかが発達してややこしいからねえ。
中国も道教と仏教が融合してますますややこしくなっているからなあ。
俺には解釈しづらいや。
そういや「知ってるつもり」を見たけど、玄奘がインドで得た仏教哲学を中国に
伝えた「唯識」という概念は、後に鎌倉時代の宗教改革を行った法然や道元など
の宗教改革者もそれを学び独自に理解して自分の真理追究に役立てたそうだ。
その「唯識」は今日の日本仏教に基本なんだそうだ。
「色即是空 空即是色」という言葉は色々な意味があり解釈も難しいんだなあ。
226 :
T・S:01/09/04 16:02 ID:ciIVvdXU
>変わらないといいながら変わっていく
行く川の流れは絶えずして・・・・・・ですか。
しかし、梵阿弥さんの文章はやはり捉えずらいですな。私の読解力が低いせい?
>223
道教っつったって、大昔の五斗米道と台湾に残る張天道だってかなり違ってると思うし
(とは言いつつも実態はよく知らないのだけども)、南方と北方とでも結構違うと聞きま
すが。
227 :
梵阿弥:01/09/04 16:36 ID:bI3r9OJY
>>225 唯識論はインド生まれです。無著(アサンガ)と世親(天親、ヴァスバンドゥ)の
兄弟がまとめました。玄奘が学んで帰ったのは主に僧護法の解釈とされています。
宗派では法相で、日本では興福寺ですね。北円堂の運慶作の無著・世親像は見事。
鎌倉仏教との関わりは初耳です。
私も道教に詳しい訳でもないので教えていただきたいのですが。
228 :
世界@名無史さん:01/09/05 00:12 ID:nDwABd4M
>>223 これまでのあなたの考えを追って行くと、もし全く同じ思想ならば「分派」は起こりません。
しかし「分派」が現実に起こったのそれは体制に合うためではないでしょか??
また、その考えからすれば「分派」したものはすでに「宗教」ではないと
なりますが??(変質してしまって常識もしくは道徳になってるのですから)
あくまで、個人的な意見ですが
道徳=古代からある特定の地域における社会の秩序、ただし、時代と共に移り行く
宗教=ある特定の地域における道徳観、他地域に伝わる場合もしくは時代とともに「道徳」同様変質する
価値観=道徳もしくはある特定の時代おける道徳観
よって私は「宗教は変質する」と考えてます。
神道(と、一まとめにするのは問題ですが)と「変質した」道教は「イコール」かも
しれませんが、中国本来の道教とは違うものではないでしょうか??
あなたはどのようにお考えなのでしょう??申し訳無いですが、「私的」にお答え下さい。
>225
番組を見ていないのでなんともいえませんが、「唯識」とかけ離れすぎてます。
「唯識」とは「世の中自分の「意識」以外は幻に過ぎない、故にそれを断ちきることに
より悟りを開ける」というものです。
決して極楽浄土を目指すものではありません
229 :
世界@名無史さん:01/09/05 09:24 ID:LiFueKqQ
>227
>私も道教に詳しい訳でもないので教えていただきたいのですが。
「仏教」の間違いですよね??(^^;;
230 :
梵阿弥:01/09/05 09:33 ID:nVC4MZmc
>>228 結局は先人の思想の解釈の問題で一人一人皆違うからには一人一派でもおかしくありません。
只、人には永続性や普遍性への帰属欲求がある上、生存競争の損得で固まるのだと思います。
前の定義を一歩進めて上の一行を宗教の定義としてもよいでしょう。
根本に損得がある以上現実に対応して行動に変質も起こります。私が皆同じとか不変だと言
うのはこの根本の事なのです。当り前過ぎると思い書かなかったのですが。
ユダヤ教から分派してキリスト教が出来ましたがお互いに自分側を常識とか真理とか思って
相手を邪教扱いしていましたね。ヤヴェの意に適うにはこうすれば、という点から見れば同
じです。お互い自分たちが正しいと「思い込んで」いるわけです。
自分たちの 常識=常識 道徳=道徳 価値観=真理
他人たちの 常識=宗教 道徳=宗教 価値観=宗教
となりがちだと考えます。貴方は道徳、宗教、価値観を極めて近いものと捉えておいでの
様で、勝手に我が意を得ているのですが差し支えありませんか。宗教というと自分には関係
無いという風潮が気になりまして、当人が常識と思っている事が他人には宗教とみなされ
得るという点を問い掛けてみたのです。
231 :
世界@名無史さん:01/09/05 10:05 ID:LiFueKqQ
>230
>229の答えは??
232 :
梵阿弥:01/09/05 10:37 ID:nVC4MZmc
>>229 道教です。でも仏教もマニ教もグノシスも喜んで教わります。ただ客観的に
お願いします。団体の宣伝になるとつまらないので。
>>228 私は「認識自体幻なので欲望にも実体は無い」と唯識を捉えてますが。
>根本に損得がある以上現実に対応して行動に変質も起こります。
「根本に損得」ねえ・・・
同意できません。
そういう場合もあるが、でない場合もあると思います。
234 :
梵阿弥:01/09/05 12:54 ID:nVC4MZmc
魏史東夷伝によると邪馬台國の女王卑弥呼は鬼道を用い能く惑衆すとある。魏史で他に鬼道や
惑衆の語は張魯率いる五斗米道の所でしか使われていないという。五斗米道は入社の時に五斗
(文字通り柄杓五杯)を取るが後は出自を問わぬ共産社会だったらしい。土木工事を滅罪の
功徳として勧めたという。祈祷による治病も売りだった。鬼は亡者や自然の恐るべき霊で、
道は方法といった意味ではないか。惑にはふらふらする意味があり、共同体を抜けて入社
するものが相次ぎ苦々しいといった様子が伺える。190年から国家と目されるようになり215年
に曹操に投降したが張魯は篤く遇された。
長江下流に倭人が住んでいたという記録もある。魏の役人がこの2つのみ同じ用語を用いた
のは共通性があったからではないか。
五斗米道は後には正一教と呼ばれ道教団の源流の一つとなった。
>>230 >貴方は道徳、宗教、価値観を極めて近いものと捉えておいでの
>様で、勝手に我が意を得ているのですが差し支えありませんか。
これはあなたでないの?老子様。
236 :
梵阿弥:01/09/05 13:20 ID:nVC4MZmc
>>235 228の方に私の見解との共通性を感じ、わが意を得たり、と喜ばせてもらってる
のですが。
老も子も共に尊敬の念を表す言葉で、老子という人が居た訳ではなかろうと
されています。その上に様まで付けてもらっては生きた心地がしないので勘弁
してください。
237 :
世界@名無史さん:01/09/05 14:06 ID:LiFueKqQ
>230,232
お願いですから、御自身のスレと他の人のスレをちゃん読んでください。
まず、あなた>83において「神道=道教」説を展開しましたね?
私は>228に書いた理由により反対をします。
しかし、あなたは>230において「当人が常識と思っている事が他人には宗教とみなされ
得るという点を問い掛けてみたのです」と問題のすり替えをしてるのに気づきませんか?
本質うんぬん以前に人の話を聞きましょう。
もう一つあなたに反対をする理由として、説得力がないからです。
>223において「皆さん道教について知った上での異教説なのですか。」と
道教を完全に理解されてるように見受けられる発言えおされてましたが>227において
「私も道教に詳しい訳でもないので教えていただきたいのですが」
とおっしゃってます。
つまり、あなた自身道教を知らないのに、なぜ「神道=道教」説が断言できるのでしょう?
最低限自分自身の根拠を示してください。
238 :
世界@名無史さん:01/09/05 14:33 ID:LiFueKqQ
>232
>私は「認識自体幻なので欲望にも実体は無い」と唯識を捉えてますが
確かにそーいう考え方もできますよね
私は文字どおりの唯識(意識のみ)を書いたのですが
これこそ「人それぞれで捉え方が違う」考え方なのでしょう。
239 :
梵阿弥:01/09/05 14:50 ID:nVC4MZmc
>>237 >83においては呼びかけであって話のきっかけとすることが狙いです。
>88からずっと自他の意識の差について書いてきたはずですが。
>223知っているふりをした覚えはありません。根拠を示す前にほかの話題で
盛り上がったもので。
240 :
世界@名無史さん :01/09/05 18:32 ID:SATMnMPk
なんか議論のプロでもいるのか?
白熱しとるのう。それとも本物の宗教哲学者でも紛れ込んでいるのかな?
>>240 いや、議論がかみ合わないで、白熱してるだけ。
242 :
迷子の子羊:01/09/05 19:15 ID:QkPjFNyU
しろうとの割り込みです。
神道と道教の関連が興味深いです。
相撲の儀式なども、神道というより、
道教の儀式みたいだと思っていました。
243 :
世界@名無史さん:01/09/05 19:59 ID:MfyvDwvo
>>242 ここまで、拝見したところでは、玄人筋のかたはいらっしゃらないと思います。
神道と道教の類似性というと、どちらも土着の信仰に理論や様式が形成される
のに、外来宗教である仏教の影響が大きかったという点でしょう。
違いは、神社神道の重視する「清浄」の価値観でしょうか。
>相撲の儀式なども、神道というより、
>道教の儀式みたいだと思っていました。
これ、良くわかりません。道教の儀式って、鳴り物入りだったりして、かなりハデ
なものだと思ってました。
相撲の儀式に道教的な要素って、具体にはどのあたりでしょう。
245 :
迷子の子羊:01/09/06 00:08 ID:cAS.o.pw
道教的と思う相撲の儀式
行司の服装、神道の神主よりケバケバしい。
土俵の上の屋根のようなものなど
>>245 >土俵の上の屋根のようなものなど
天幕じゃないの?
247 :
T・S:01/09/06 03:54 ID:g2kzOMEU
相撲が道教的?
って言うと、四股はウ歩の簡略式とか、そういうことになるんですか?
確か、現代の相撲の原型は近世・・・・・・元禄辺りでしたか。当時から戦後まで、かなりの
長い間、吉田神道の吉田司家が取り仕切っていたといいます。十何年か前までは、横綱に
なるには吉田司家の承認を必要としたとかどうとか。
現代でも行司は力士の土俵入りに際し、傍では聞こえないように何やら呪文らしいこと
をぶつくさ唱えているそうです。その内容は口伝でのみ伝えられ、完全に秘密にされている
とか。
しかし、簡単に道教的とはいうものの、具体的にどう言うのが「道教的」なのか、私には
ちょっと分かりません。日本神話における桃の聖性や、天帝思想の影響を受けた天之御中主
の存在は、確かに日本の古代に道教が強い影響を与えていた証拠にはなりますが・・・・・・。
248 :
もっさり@108:01/09/06 06:31 ID:LvMwPmI.
道教とは、
1;原型は中国の雑多な民間信仰群である。
2;その民間信仰群を、中国仏教をモデルとして諸神の序列を作り
(諸神の序列は仏教哲学の本質とは全く関係ないオマケの説話だが)
3;「老子」「荘子」を開祖として権威付け、
4;行動に規範を与え官僚哲学として発展した儒教に対し、内面に癒しを与える
民衆哲学として発展した。
249 :
梵阿弥:01/09/06 09:29 ID:goLWIiwc
>>242 江戸時代の錦絵を見ると行司らは髷の武士で、神主めいてきたのは明治以後の神国観念の
反映です。横綱の綱は注連縄でしょう。人間の代表である事を示していますが根には異能者
への畏怖があります。江戸時代の横綱は9人だけで、不知火諾右衛門などはろくに勝ち越し
たことがありません。今の横綱は気の毒です。
>>245 けばくなったのはひょっとしたらテレビ時代になってからかもしれません。
変わるとか変わらぬとか矛盾してるとのご意見が多いですが
「分派や、新解釈による変容を繰り返しながら、存在意義を保つ仕組みになっている」
というのはいかがですか。意義を保っている事を変わらぬといっているのです。
250 :
アマノウヅメ:01/09/06 10:02 ID:B3UiE9cY
>>254 力士のまわしがカラフルになったのは、カラーテレビが普及
してからですが、行司の衣装もケバくなったのは同じ時期のような。
以前はただの直垂って感じだったはずです。
江戸時代の相撲はお寺の境内で興行することが多かったのですが
道教の影響はどうでしょうか。
神道色が強くなったのは、明治以降です。
251 :
あやめ:01/09/06 10:57 ID:VZT9OCXM
相撲の故実に詳しい方、ちょっとお尋ねします
横綱のことを「日下開山」て言うでしょ
初代の明石志賀之助が名乗って以来とか聞くんだけど
どうゆう由来なのか開山なんてお寺っぽいし
神道と関係あるのかしら
なんで天下じゃなく日下なんだろう?
252 :
梵阿弥:01/09/06 11:33 ID:goLWIiwc
>>251 横綱のうち明石、2代の綾川五郎次、3代の丸山権太左衛門の三人は、4代の
谷風梶ノ助と5代の小野川喜三郎に将軍上覧相撲で綱を締めさせようとして、
前例にうるさい幕府を納得させるために捏造されたといわれます。特に明石は
実在しなかったといわれます。谷風以降で9人です。
253 :
あら播磨灘:01/09/06 12:31 ID:pDBM1Bo.
254 :
梵阿弥:01/09/06 12:43 ID:goLWIiwc
>>245 元々相撲(に限らず猿楽能なども)は野外で行っていて屋根があるのはその名残。
客席ごと屋内になってから(明治以後)柱が邪魔だと取っ払って、雰囲気を残す
為に房を下げ、五行説に則った東青、南赤、西白、北黒の色(中が黄)に染めた。
>>251 ひのもと開山という語は確か中世以来色々な分野で使われていたと思います。
商工業が発達して職能団の象徴を欲しがる気運が高まったのでしょう。ただ
やはり始祖に限られたと思いますが。優れた個人(能面打ちの河内ら)には
天下一の称号が許されました。
日下は河内に在った物部氏中心の国の名だったという説もあります。後に日本の
字にとって変わられて草鹿という限られた地名に変わったと。
255 :
梵阿弥:01/09/06 13:32 ID:goLWIiwc
黄河下流で張角が黄帝と老子の道を継ぐと称して結社太平道を建てる。共同生活
し呪文や符水による治病を行う。神仙思想が色濃かった。火徳の漢政権に対し
土徳の黄布を頭に巻く。184年の黄河氾濫後蜂起。188年には40万を数える。204年
頃収束するが210年頃まで残党が各地で抵抗。鎮圧に当たった曹操は投降者を再編
し青洲兵30万といわれ魏軍の核となる。太平道は消滅したが山東は今日まで道教
が盛ん。
卑弥呼は魏から黄旗を賜った。魏も土徳なのでその為かも知れないが。魏史
東夷伝には倭の持衰を記す。航海の安全の為身だしなみをしない者を1人乗せる
のだがシナ由来の風習とされる。6世紀の九州の装飾古墳に持衰や道教的観念が
見られる。江田船山古墳出土の刀の銘書者は張安。
256 :
名無しさん:01/09/06 14:27 ID:YfqYbQqA
>251
>日の下開山
天の岩戸が「高天原」に有ったからじゃないの?(をぃ)
257 :
世界@名無史さん:01/09/06 14:41 ID:FFYg9s1c
258 :
◆MJjykzAc :01/09/06 15:23 ID:9sK4qu.c
武芸者や芸能者らが"日下開山"を使い始めた切っ掛けの"天
下一"の禁止は、信長の時代じゃなくて天和2年(1682年)だっ
たと記憶してるんですけどね。手元に史料が無いので確認出
来ないのですが、勘違いだったらゴメンナサイ。
それで由来の方は、"日下"はもちろん天下の意味で、"開山"は
梵阿弥さんも言っておられるように、"寺の開祖"や"宗教の権
威者"を意味したところから、無双の優れた者の代名詞となった
ものです。
なお、当初は横綱に限らず強豪力士を"日下開山"と呼んでい
たそうで、横綱免許を受けた大関力士だけを指すようになっ
たのは、だいぶ後代になってからのようです。
259 :
梵阿弥:01/09/06 15:34 ID:goLWIiwc
>>258 1682年であれば信長死後100年ですな。日下は元々は「ひのもと」と読んだのでは?。
「ひのした」に変わったとしたらいつ頃でしょうね。
260 :
あやめ:01/09/06 16:48 ID:VZT9OCXM
皆様レスありがとうございます。
念のためGoogle検索やってみましたところ、教えてくださったように
力士のみならず、小具足の竹内流2代目の竹内常陸介久勝・宮本武蔵・
杖術の夢想権之助などの武芸者、更には野州逆面の獅子舞や阿波徳島
デコ人形作者の天狗久こと吉岡久義なんてところまで「日下開山」を
称していたようです。
なお目下あやめは下記サイトで「日下という漢語」というタイトルで
連載カキコをしています。興味のある方のぞいてみて。
http://www.tcup5.com/538/midoriko.html
261 :
あやめ:01/09/06 17:18 ID:VZT9OCXM
>>259 確かに「ひのした」という読み方は他に例がなく異様な感じがします。
当初はやはり「ひのもと」と読んでいたのかもしれません。だとしたら
いついかなる事情で読み替えるようになったのかは知りたいです。
一つの推測ですが以前ぼんやりと日本史の年表をめくっていたら、江戸
時代に「日本や日本一などの呼称を商品などに用いるのを禁ずる布令が
出た」というような記述に見当たったことがあります。とすると日本と
同義の「ひのもと」は禁に触れるので、「ひのした」と読み替えて回避
したといったとこかもしれません。
因みに江戸後期の俗文芸の中には「最高だ」とか「一押しだ」といった
意味に、「にっぽんだ」という文句が使われていることが屡見します。
「にっぽん国がひとっところへ寄る」というのは頗る猥褻な意味に用い
られる言葉でした。
262 :
T・S:01/09/06 18:06 ID:g2kzOMEU
>260
日下開山宮本武蔵流ってのはありますけど、一般に「宮本武蔵」とされる
玄信はそれとは関係ないです。確か(書いてて自信なくなってきたけど)。
263 :
あやめ:01/09/06 18:17 ID:VZT9OCXM
>>258 今「日本文化総合年表」(岩波書店刊)を引っ張り出してチェックしたら、
天和二年七月十六日の条に「諸職人・芸人の『天下一』と号することを
禁ずる」とありました。
すごい記憶力に恐れ入りましたm(__)m
264 :
あやめ:01/09/06 18:33 ID:VZT9OCXM
265 :
T・S:01/09/06 19:31 ID:g2kzOMEU
>264
せっかくサイトを紹介してくれたのに、私の使ってる奴じゃよめません(泣
でも、玄信と政名は別人です。ちなみに同一人物説は「本朝武芸小伝」から。
お前ら宗教板に逝け〜
>239
結局自分の根拠はないのですか??
>248
>91で道教の理念を語られてますが、「民間哲学」の内容は
これで良いのですか??
道教思想に付いて、語られたのは>91のみなので、
念のためお聞きします。
>249
>「分派や、新解釈による変容を繰り返しながら、存在意義を保つ仕組みになっている」
これは全宗教に当てはめているのでしょうか??
またあなたの宗教観は「表層の教えは異なっても、根本は皆同じ」ですか??
(経典、仏、道、神、儒・・・・)
>>268 私一人で決め付けてもつまらないのでして、入り口として天皇、上皇の語源や弥生時代の列島の
一段面をシナの時事と絡めて紹介しました。評価は様々でしょうが。>248の中国を日本に置き
換えても何ら違和感在りません。こういうのを期待していたのです。
諸氏百家の道家、太平道と五斗米道の衰退後11世紀に興った道教団、非漢人を含むシナ全体の風習
をどう結び付けるかはこれからの課題となっています。なお、>248では内容まで踏み込んでは
いないと思いますが。
>249の「」は度々書いている通り「宗教」と呼ばれないものも含んでいます。元々>1のような方々
を念頭に置いているので。それゆえ、せっかく問い質しても自分に向けた返事ではない、といった
印象を与えてしまう事もあったかもしれません。
>269
>一段面をシナの時事と絡めて紹介しました
また話し変わるし、、、私は「根拠」をきいてるのです。
それで、今度は「神道と道教は別ものだが、民間信仰群と言う点で似ている」
とおっしゃるのですか??
とりあえず、「主語」は必ず入れてください。
どうとでも取れる文章になり、議論がかみあいません
>248では内容まで踏み込んではいないと思いますが。
だから聞いてるのです。
ちなみに他の方達はどーなのでしょう??
>自分に向けた返事ではない、といった
>印象を与えてしまう事もあったかもしれません。
そーお思いなら、明確に返答を!
(「表層の教えは異なっても、根本は皆同じ」ですか??)
>>270 「一断面」でしたな、失礼。話が変わるとおっしゃるが、貴方だけに向けて書いている
訳ではありません。根拠と考えるかどうかは人それぞれでしょう。おいおい他の点にも
触れていきます。
>271
>貴方だけに向けて書いている訳ではありません
確かにその通りです
しかし、御自分の説に対する質問を相手に納得させたり検証したりするための
場所でしょう、ここは??
結局>239にあった
>83においては呼びかけであって話のきっかけとすることが狙いです。
この1文に尽きるのでしょうか・・・
(訳:「ネタとして書いただけで、考えのない思い付き」)
それ自体に問題はないのですがその後の
中身のない仮説を相手に押し付けようとする姿勢はいかがなものでしょう??
今後この私の批難を覆し確固たる「神道=道教」説を検証される事を期待します
273 :
もっさり@248:01/09/07 15:12
>>269 期待していたレスだったの? それは光栄。
オイラは梵さんには
>>237=
>>272さんへのきっちりした誠実な返信を期待するよ。
ついでに言うと、
>>211に対する梵さんの
>>214の返信は誠実さに欠けると
オイラは判断するよ。
>>270への、梵さんの
>>271での返信も、誠実さに欠けると思うな。
古神道の精神は、誠実さは神に通じ、不誠実はケガレで払われるべき、が基本だと
オイラは思うのでね。梵さんが何を信じているのか判らないけど。
(というか正直に言うと、梵さんは雑然としたバラバラな雑学を持っているだけで、
理念体系として陶冶されていないと思う。そのことに謙虚に向き合わおうとする
勇気を持たない限り、梵さんに祝福が訪れないと思うよ)
>264
やっと読めたけど、どうやら台湾の剣道家が書かれたサイトのようですね。
漢文は苦手ですが、どうやら五輪書とか本朝武芸小伝とかをごっちゃにした内容の
ようです。私の見た感じでは史料としてはあんまりよくないです。
「神道=道教」と言う図式は視点によっては成立したりしなかったりすると思います。
ただ、それをちゃんと示しておかないから、混乱の元になってますね・・・・・・。
>>272 わかりにくいと評判なのでまとめましょう。
「人々の己の存在への不安が帰属意識を生み、その柱としての無謬なものがあると
仮想する。仮託されるものは個人の暮らしの延長にあるので、暮らしぶりが異なる
(利害が重ならない)集団ごとに、異なるものに仮託するので他者意識が生まれる。
己にとっての無謬の象徴は常識などと呼ぶが他者にとっての無謬の象徴は宗教と
呼ぶ事が多い。暮らしが変われば諸々の価値が変わるので無謬自体の形やそれを
仮託する対象も変わる。表面的には分派や新解釈として現れる。しかし生きている
人は必ず死ぬので儚さを紛らすために無謬(不変)な存在を仮想し己との繋がり
を確かめようとする意識や行動は生きた人が居なくなるまで繰り返される。」
変わらないとか、同じと私が書いてきたのは、「繰り返される」という処です。
しつこいようですが、自分は宗教なんて関係ないという方は、その人が自分を
客観視する機会が少ないゆえの誤解ではないかと書かせてもらいます。
道教=神道については、上にあげた視点のみならず直接の交流が目に付くので、
いくつか材料を挙げました。
長くなったので、続きはまた。
>>275 >暮らしが変われば諸々の価値が変わるので無謬自体の形やそれを
>仮託する対象も変わる。
「無謬自体の形やそれを 仮託する対象」とは具体的に何?
無謬(不変)といっているが、
「不変自体の形やそれを 仮託する対象」も変わるのか?
無謬(不変)といっているが、
それは慣習・常識と言い換えた方がいいんじゃないか?
278 :
日本@名無史さん:01/09/07 22:15
中道アゲ
279 :
@名無しさん:01/09/08 01:47
非常にアカデミックなような、くだらないような
高級なような、低級なような
よく解らないところが面白い。
衒学的というのかな?
神道を道教と同一だとするのは無理じゃないの。
よく似ているぐらいにしといたら?
神ながらの道と言うと大和言葉で表現しても同じかいな?
それに、そもそも自然信仰が起源だろうから
風土や環境が違えば違った宗教になるんでないの?
281 :
世界@名無史さん:01/09/08 08:26
>275
「宗教とは同族意識から派生する」ってことだよね??
確かに一理あるかな
ただ、それだけで神道=道教(=全宗教?)とは、ちと暴論
>280の方の意見がもっともだ
あ、まだ続くんだ<275
勇み足、失礼しました
283 :
世界@名無史さん:01/09/09 02:16
すごい面白い議論なのでage♪
>>275 無謬とは、ある集団において真理とか、正義とかされているものです。それに則っていれば
誤り無いとされるものが最大公約数的にあるでしょう。あくまでその集団の中で、ですよ。
仮託する対象とは、神とか、本尊とか、正典とか、開祖や聖人です。
真理そのものをだれにでも見たり触ったりすることは出来ません。神や本尊の表現によって
象徴され、正典によって解説されますが、指導者の役割が極めて大きい。彼らの解釈次第で
どうにも成るので。指導によって、客観的には変わったとしか見えなくても、集団自身は
変わっていないと思い込むのです。新たな分派が指導者自身をあがめる傾向が強いのは
その為だと思います。
285 :
世界@名無史さん:01/09/10 10:10
続きをどうぞ<梵阿弥
>>280 「風土や環境にふさわしい形を整える」という点では意見があっていると考えて
よろしいですか。
ちなみに「神ながら」という言葉は日本書紀の孝徳紀の惟神という言葉を訓読み
したもので、道教の書から採ったとされています。
>>283 お、面白いのですか。抽象語を積み重ねるのはくたびれました。
287 :
世界@名無史さん:01/09/10 10:58
>>286 それなら、フツーに書けばいいジャン(藁
288 :
世界@名無史さん:01/09/10 11:58
風土から言えば、日本の神社は農耕文化の産物で、捧げ物は穀類と
決まっている。畜類を殺して犠牲することには抵抗感がある。
神域を清浄に保つ感覚にそぐわない。
でも日本にも狩猟民はいたのだから、狩猟民のための神社もある。
諏訪神社がそうで、狩猟の成果を捧げられた。
http://homepage1.nifty.com/anecs/spirit/zinzya/miya/suwa.htm >諏訪神社にはもうひとつ奇祭があります。「御頭祭」です。これは猪や
>鹿の頭を75個、板にのせて神供するというものです。
外国でこういう祭儀があったら、われわれは日本人には理解できない
信仰とみなしてしまうのではなかろうか。
はっきりいって論理的にメチャクチャだよ。>梵阿弥
[抽象語を積み重ねるのはくたびれ]たのなら、287
諏訪の神話は、高天原に敗れた建御名方神が、逃れて諏訪の国津洩矢神
と戦ってこの地に居座り、洩矢神は山に引きこもったと伝えている。
それが歴史を反映しているかどうかはこの際どうでもいい。古代に神話
体系を作るときに、外部の神をくみこむ操作が必要だったということだ。
神話体系化されたものが神道だとすると、神道はもとの諏訪の信仰の
コアではなく、外部からおしつけられたメッキだということになろう。
もともとあったのはばらばらの神だ。国家が政治的動機から体系化した
ときに、政治の視界の範囲内にいた神が神道になった。体系化をうけお
った知識人の思想や宇宙観も大切だろう。それにもとづいて国家が新しい
神社を建てたりもした。しかしほとんどの神はそこから流れ出たものでは
ない。高天原の神も、体系化の前から生きていたのだ。
神社信仰にとっては、個別に本質があり、体系化すればするほど本質
から離れていく。かように主張したく思います。
>>288 あわびや魚等は盛んに捧げられます。また日本書紀の皇極紀や古語拾遺には牛を
屠っての雨乞いや魔除けを記します。捧げ物に稲が多くなったのは徳川幕府の
稲至上主義による影響ではないかと思うのですが。源流を辿ってゆけばシナとの
共通性が濃くなってゆくと考えます。
>>290 それぞれ本質を宿すとされる個別のもの、それが血縁や地縁を象徴していたと
考えます。人間の本質を問い、全人類や世界全体の一体性への取り組みが不十分
である点が基層信仰としての限界でしょう。道教には頂点に道家の思想が
ありますが、民間には真髄が伝わりきらなかった辺りにシナと日本の共通性を
見ます。
292 :
世界@名無史さん:01/09/10 15:16
>>291 あ、やっと神道=道教の話に近づいてきた!!
古墳時代の供物の中には馬とかもあったと聞いたような覚えが・・・・・・。
そういえば、その時代は大王の死の際には多くの奴隷だかなんだかが殺されて
埋められたとか言う話があった、ことの真偽がどうあれ、そう言う風習が話だけでも
伝わっていたんでしょう。
294 :
世界@名無史さん:01/09/10 16:17
>>291 「基層信仰」って何??
初歩的な質問、スンマソ・・・
>>294 血縁や地縁の一体感を強調することで身近な不安を紛らわせようという段階のものを指して
います。一体感の依代として自然の力の象徴を用いることが多いようです。世界の中の私
という点から見れば視野が狭いとされるのは止むを得ないでしょう。
相撲の話続けませんか。結構盛り上がってたんで。
議論しなくちゃ。
単なる知識の開陳ではつまらない。
297 :
@名無しさん:01/09/10 18:04
>>295 これらの話は、究極は天皇と道教の関係に行き着きそう。
天皇が国技館へよく行くのが理解できるかもしれないですね。
298 :
世界@名無史さん:01/09/10 18:49
>>295 なんでもいいから、ケリつけなよ
(道教=神道)
それから、相撲とからませたほうが良さげ
>>298 けりはつきません。なぜなら道教の実態がわかっていないのです。>248で紹介されているのは
日本での主流の見解であって、シナや、フランスに代表される欧米の見解と異なります。特に
民衆に密着した部分が分かっていません。これからの課題なのですが、共産政権は迷信めいた
物の研究を喜ばないでしょうから、見通しが立ちません。
私ごときの手におえないのでお力を借りたいのですが、なんか風当たり強いですね。
300 :
世界@名無史さん:01/09/11 11:24
>>299 >シナや、フランスに代表される欧米の見解と異なります。
「資料提示しろ」なんて野暮な事言わないから、
とりあえず内容はどんなもんなの、中国欧米の見解??
っていうかさ、道教と神教が「似て非なるもの」主流の中
唯一「同一」を唱えてる訳でしょ??
なんでそー思ったかさえ言えば、それでけりつくよ。
賛意を得られるかは別だけどね
>>300 諸子百家の道家(前2世紀)と太平道・五斗米道(ご2世紀)以来の教団の関係は
@日本 無関係で、後から箔付けの為(特に仏教との対抗上)名を借りた。
Aシナ 長い時間のうちに曲解され堕落したと見る。
Bフランス 基本的に一体のものと見る。
いずれも一面において正しいと考えます。この得体の知れなさが道教的とも
いえましょう。また、道教をどう捉えるかによって捉えている側が何者なのか
が分かります。なぜ三つに割れているのかについては思う処もございますが、
とりあえずフランスの見解を重視します。
容易に答えの出ない事を答えがあると思い込み、身近な人々に思い込ませよう
とする心構えが宗教とか呼ばれるものに連なってゆくのでしょう。
貴方はなぜ答えを急ぐのですか。
302 :
世界@名無史さん:01/09/11 12:59
漢書に「秦の武王、角を好み」とある。角力、角抵、角觝と書いた。
宮中行事の五節会の一つ七夕において、740年頃聖武天皇の代に作詩の余興として相撲を
行った。相撲の節会と呼ばれ、平安時代には唐の儀式に則り行った。先立って全国を役人が
巡り見込んだものを強制徴収した。精兵の募集も狙いだったという。宮中紫辰殿で行い、観客は
天皇他高官のみだった。土俵と行事はなく、約40人の力士が褌の上に袴と狩衣を着た。判定が
微妙で審判が割れたときは天皇が最終の裁決を出した。この辺りが国技の座や天覧相撲の根拠
となっている。1174年を最後に宮中では行われなくなった。
五節句はシナ由来の行事で、織女は西方崑崙山に住む西王母が元になっている。笹に五色の短冊
に願いを書いて結ぶのも五行説や南シナの風俗から来ている。
でも、「国技」なんて呼び名が出てきたのは戦後って聞きましたが?
>>304 明治以後、でなくて敗戦後ですか。とすると野球に対抗してかもしれませんね。國といえば
山城と駿河とか肥後とかだったし。それらをまとめて天下といったのでしょう。天下の語は
胡人の観念が漢人に入って道教の骨組みとなったのが倭や日本に入ったのでしょう。
よそで天文・遁甲を書き込みなさっていたのを見ましたが。
306 :
アマノウヅメ:01/09/11 16:34
平安時代にはプロの相撲取りがいたようで、『今昔物語』に出てきます。
どういうところで相撲をとっていたかは分かりませんが。
307 :
( ´D`)ノ:01/09/11 16:42
相撲と言えば、やっぱり「野見宿禰と当麻蹶速の御前試合」なのれす。
日本で最初の格闘試合なのれす。
知識の開陳はつまらん>コテハン
意見をだしな。
>>308 さっきから知識の開陳、知識の開陳ってウルサイんじゃボケ!
流れを読めや、流れを。第一、世界史板が衒学的なのは今に
始まったことじゃないだろ。太陽が東から昇ることに文句つけてる
ようなもんだぞ。衒学的じゃない世界史板など世界史板とは言わん。
っていうか、まずお前が意見だせや。
>>309 なにをいっているかわからん。
衒学的?
なにを指していってるのだ。
308は306,307に対してね。
平安時代の相撲取りの話は、夢枕獏の「本朝無双格闘家列伝」と言う
本に楽しげなエピソードが載っていたように思います。タイトルがあって
るかは今ひとつ自信ないけど(こんなんばっか)。
うろ覚えですが、平安時代の相撲のルールは「足の裏以外の部位が地面
に触れたほうが負け」のような、単純なもので、かなり当身も許されていた
と思います。資料が手元にないのでかなり怪しいですが・・・・・・。
でも、野身宿禰と当麻蹴速の勝負は、当初から蹴りの応酬で、さらに蹴速
を蹴倒した宿禰は、蹴速を踏んで勝負を付けたといいます。このことからこの
二人の試合は「相撲の最初」ではなく、「拳法、柔術の最初」とする見方もあり
ます。また蹴速は「能く角を云々」と描写されていますが、これは大陸の角抵の
ことではないかと言う説もあるそうです。また宿禰は大王の死に伴い墳墓に埋め
られる者達を哀れみ、埴輪をもって代用にすることを提案したそうです(脳裏に
ヒバス姫とか言う名前が浮かぶが、何を意味するのか思い出せない)。
さらにその末裔が菅原家だそうです。
313 :
@名無しさん:01/09/11 18:08
少しとげとげしいので気分転換。
朝鮮の人は鬼神(くぃーしん)というのを信じていて
人間が死んだあと、子孫がよく供養しないと、うまく
あの世へ行けないで、鬼神としてさまようそうだ。
在日が日本国籍をとると、この連鎖が切れるのが
日本国籍をとらない理由でないかと、思っています。
中国では、子孫がお墓へ言って紙幣を燃やして
ともらう習慣を中国政府がとりしまるというニュース
をみました。これらの土着信仰も道教的でしょうか?
>>311 きちんとコテハンを名乗れよな、元さん。(ワラ
>>314 はずれ。
元という男は必ずコテハンで書き込むやつだな。
自己顕示欲が強いからな。もっともコテハン全員にいえることだが。
スマン、スレと関係ないことで。
さあ、どんどん書き込んでくれ。
>>312 今の相撲も拳骨殴り、みぞおちへの頭突き、腰から上の蹴りは禁じられてますが、後は他の格技
でも禁じそうなのを除けばおおむね認めています。やはり地に着いたら負け、というのが自ずと
流れを決めるようで、なかなか合理的な判定法といえましょう。野見宿禰の子孫が土師となり
そこから菅原等が出たわけですが、土器の殉葬や漢籍の学問と角力がどう繋がるのでしょうね。
>>313 冥土の使者に献げて紙で銭を作って珍味や酒と共に水辺で燃やす風習は冥報記などに記されて
いるシナの風習で、道教的と呼んで構わないでしょう。日本にも六連銭として伝わりましたが
地方によっては紙銭を用いるそうです。 米国籍なら朝鮮系の人もすんなり取ってないの
ですか。やはり過去へのわだかまりと、国家の民主度への評価の反映ではないかと。
前1100年頃姜姓の呂尚は周の武王を助けて殷を討ち、山東の地に封ぜられて斉王となった。
彼は東海岸の出身で世を避け渭水に釣り糸を垂れること三年、周りの呆れ果てるなかで大魚を
吊り上げ腹中の兵法書から得た智謀により活躍したという。前386年に臣の田氏に乗っ取られる
迄代々斉王として続いた。彼は仙食し二百歳生きた、棺から遺体が失せた(尸解)、六韜を撰す
等の伝説が生まれ、封神演技でも活躍する。山羊髭の釣竿持つ老人の姿に描かれ、戎の原型とも
考えられる。戎は三歳まで足が立たなかったといい、烏帽子(大陸の風習)を冠り船に乗って
やって来る。他に白髭明神との関連も考えられる。
>>317 梵阿弥さん快調だね。
こういうの衒学的っていうのかも知れないけど、
賛否は別として自分の意見があるから許す。
319 :
世界@名無史さん:01/09/12 14:55
>>318 >賛否は別として自分の意見があるから許す。
コピペばっかでないの??
山東半島の琅邪は神祀りの盛んな処だがなかに兵主を祀るものがある。兵は武器の意
でその主の蚩尤を指す。日本の近畿地方にも兵主(頭)社は多い。武器を祀り魔除けと
したようだ。近江の野洲の兵主社は矛を祀り天之日矛伝説を伝える。他所では近年は
神名を野見宿禰とする処が多い。三皇の神農は姜姓で山東の曲阜に都したという。
>>319 どこか詳しいのがあるなら教えて下さい。参考にしたいので。
>>319 そうでなくて、
ひととおりの知識の披露後、自分の考えも述べるということさ。
梵阿弥さんは気にしないで続けてくれ。
322 :
世界@名無史さん:01/09/12 16:31
まだ、不明だが今回の「イスラム特攻作戦」(?)の特攻隊員と
日本の特攻隊員の心境はやはり同じなのだろーか・・・
(祖国のためーーーー!!ってなカンジで)
323 :
世界@名無史さん:01/09/12 16:32
>>321 まだ、知識の披露しかしてないと思うのだが??
>287=>289=>296=>302=>308=>310=>311=>315=>319=>323
でしょう。たぶん。
なんか全部で2人ぐらいが入り混じってそうな気もするけど。
まいっか。(藁
梵阿弥さん頑張って下さい。煽りに負けるな!
326 :
@名無しさん:01/09/12 16:48
知識の披露だけでも充分興味ぶかい。
文化系の学問は、数学の証明問題のような手法はとらない。
周囲から一つ一つ固めていく。
327 :
世界@名無史さん:01/09/12 17:05
>>325 298=302=319=323だよ
あとは俺の預かり知らぬところ
っていうか、匿名をわざわざ解読して何になる??
とりあえずなんか書きなよ
んで、何を証明したいかさっぱりわからないので
その辺を聞きたかったんですけど??
そーでなきゃ議論にもならんし、、、
やっぱ、知識の披露??
>>322 ぜんぜんスレと関係ないが、似てるんでない。
パールハーバーというやつもいるくらいだから、
旧日本軍とだぶってみえる。
スマソ、話の腰をおって、無視してくれ。
>>328 スレは「日本の宗教」なんで書いてみました
というのも、国家神道を日本国内で人造的に作り出した
「キリスト教」と見た場合、「特攻」は現在においては理解不能な
「隣人を愛せよ」を地で行ってる行為なのではないか、と??
(特攻を美化する訳ではないが「自己犠牲」ね)
とするなら、今回も悪役(アメリカ)に対する気持ちは同じかなぁ〜ってね
もし同じならば、明治の時代なんでイスラムは受け入れられなかったんだろう?
>>329 何を持って隣人とするかが問題になります。よろしければ
>>291の後半でもお読みください。
彼らの地球儀には神国の外は鬼畜の荒野か金はあっても道を外れたソドムみたいな処しか
無かったのでしょう。思い込みというものは怖いし、靖国だのを通じて思い込ませた者達は
まことに罪深い。…私から見て、ですよ。
貴方はなぜあの頃「隣人愛」とされたのがその後そうみられなくなったとお考えになりますか。
>>329 イスラム、確かに日本ではまったく流行らないが、
それならキリスト教も同じこと。
332 :
世界@名無史さん:01/09/12 19:34
>>330 すいません、イマイチ内容がわかりにくいのですが???
(煽りでは有りません、ホントわかんないのです)
「彼ら」とは??「あの頃」とは??
333 :
世界@名無史さん:01/09/12 19:35
>332=322です
今日、ふいと読み返した資料に、相撲の語源は「素舞い」であり、元々は神前で裸で舞う
ことから来ているとありました。名前を挙げるのも怪しい資料なのですが、古えの相撲は裸
で行なわれていたのは確かで、現在でも裸相撲の伝統が残っている地方もあるそうです。
元々相撲は四股と言われる呪術的な動作で場を鎮めて邪気を追い払い、神を迎えて力比べを
奉納するという行事だったようです。勝負のかたちにするのはその年の吉凶を占うためだった
りしたそうですが、現存する賭け事や勝負ごとの多くはその手の呪術や占いがルーツと言いま
すから、別に珍しくありません。
・・・・・・ああ、自分が何をかくつもりだったのか、途中でわかんなくなってしまった。
335 :
世界@名無史さん:01/09/12 20:00
なんか、梵阿弥さんしか書いてないのでとりあえず自説をば
まず、宗教とは「心の隙間」を生めるもの。
この点からすれば、全宗教は「同一」と考えれる。
しかし、各宗教は生まれた土地における「価値観」から出発していることより
その教義もしくは救済方法が全く異なる場合が多い。
(価値観の違いは気候風土の違いから起こる)
ただ、隣接地域においては気候風土が近いコト、また交流が頻繁で
あることから、互いに影響を及ぼしあい本来異なっていた教義も「収斂」されていく。
で、道教だがその本質は2つ
1、老荘から来る「無為自然」「絶対虚無」思想(仏教思想にかなり近い)
2、「抱朴子」(字が違ったらスマソ)で体系化された中国古くからの神仙思想
この相反する(ある点では融合したが)2大理論から成り立ってると考えると良い
「2」に関しては日本列島へ渡ってきた渡来人達の風習に紛れ、かなりその影響を
及ぼしている。(天皇、3種の神器など)しかし、「1」は仏教同様その難解な理論のため
受け入れられることは無かった。
自説結論;影響を受けてるため神道は限りなく道教に近い。
しかし、だからと言って同一視するのは問題である。
(また老荘思想に関して日本は一切取り入れていない)
なぜなら「宗教」は本来各地域において異なる「価値観」の一端だからである。
336 :
@名無しさん:01/09/12 22:49
博識の人の手にかかると、道教、相撲、天皇が結びついて
くるからすごい。日本史も結局は世界史の一部なのだ。
>>332 彼らというのは自殺攻撃をさせられたりさせたりした日本国民他で、第二次大戦の時を指します。
私は古のスパルタ人等に良く似た行動や思考の様式を見出しており、範囲をはっきり区切らずに
書いたのですが。貴方の書き込みを踏まえて…分かりにくかったですか。
>>334 広辞苑だったか、「すまう」は妨げるといった意味としています。神事と言うのは建前で、人々の
競争意識を消化する為が本音だと思います。そして勝負の判定役の権威(神意とされた。要するに
箔付け)の再確認だったと思います。古代オリンピックも建前は神事で、全裸で行っていましたが
本音は軍事教練と代理戦争でした。ウィンブルドンテニス等で貴族が、〇〇杯大会で企業が授杯
するのも彼らの権威や支配力を勝者への祝福と一体化して箔付けしてると思います。
>>335 >「心の隙間」を埋めるものでこの点からすれば全宗教は「同一」
同感です。私は「宗教」とめったに呼ばれないものを含めますが…。
>教義または救済方法が全く異なる事が多い
この点は、教義等は異なって見えても実に良く似ていると思います。
風土という基盤の共通性からよく似た育ち方をする事、直接の接触が拍車をかけている事は
まさにその通りだと思います。
老荘思想はシナにおいても理想人(真人とか言います)でもなければ実現できないと受け止め
られていて、庶民からは高嶺の花的だったことは日本と変わらないと考えます。また老荘思想は
日本に入ってきています。
私はまず同一視した上で矛盾がないか探しているところです。
いずれにせよこうやって他の方の論や構想が出てくるとなんか嬉しいですね。
>338
そう言えば、聖徳太子の著書にも老荘に言及したのがあったように思います。
道教の定義を大陸の「民間信仰から生まれた民族宗教」と考えた場合、古代から
すでに渡来して来た日本人の先祖が持っていた信仰や呪術は、「道教」のそれであっ
たと考えられます。それが経典や道士の不備から(きっと識字率も低かったのでは
ないかと思います。文字のない言語は変化が激しい)土地の風土に合わせて土俗化し、
たのではないかと。それらがいわゆる「神道」と言う語にくくられたのではないで
しょうか。元々「神道」は大陸で3世紀以後から道教・仏教を含めた宗教全般をさす
用語だったらしいのですが、仏教伝来後の日本では、「仏教以外の祭祀や呪術」を一
まとめにくくり、整理していく際に方便として使用されたようです(方便は仏教用語
だけど)。体系化もされてないし、実体と呼べるようなものもありません。これを
「原始道教のバリエーションの一つ」として認識することはそれほど間違ってもいない
ような気がします。
ただ、日本人の祖先は大陸以外からも数多くあるし、時代時代ごとに新に流入してくる
「道教」の要素は、それ以前から伝わっていたそれとの格差を主張し、中世の段階でほとんど
別ものになってしまったのではないでしょうか。
340 :
@名無しさん:01/09/14 01:53
ほら貝を吹く山伏や、修験道、天狗などは、密教関係で
道教とは無関係でしょうか?
別のかんがえでは、密教の呪文やあやしげなところは、
インドからだけでなく、中国にきてから、道教に影響
されたのかもしれない。ヒンズー教の知識も必要ですね。
僭越なしろうとの想像です。
一般に修験道の祖と目される小角は賀茂家の出とされるから、道教系の
呪法を使っていたかもしれないです。彼が孔雀明王呪を使ったとされるのは
少し後の僧侶の業績とごっちゃになってるそうですが・・・・・・。
【神道の語】
津田左右吉に依れば「神道」の語は易に自然の理法の意で用いられたのが最古。魏晋時代に
道家の思想と混和した意味を帯び、東晋の慧遠(白蓮社を創りシナ浄土宗の祖)は自らの思想の
表現に用い、道教団成立後は宗教一般や呪、仙術の意となった。日本古代(平安時代まで)は
一般に神の力や存在を表す言葉だった。日本書紀の用明記に一度、孝徳紀に地の文と注に一度
づつ出てくるが編纂時720年撰)に日本で初めて用いられたか、とする。
いずれも仏法との対比で用いられるのだが敏達紀では文(儒教だろう)を好み仏法を嫌うと
あって用明紀と孝徳紀の神道もこの意味かもしれない。漢代以後儒教は先祖祭祀の要素を強めて
いたし、日本書紀は各巻ごとに用語や用字の統一性がない。
なお712年撰の古事記には一度も出ない。
本日、日本でモスクなどイスラム関連施設への攻撃が
始めリます。
>>335 老子荘子は道教寺院で祀られますがあくまで民衆の願いを仮託する依代であって、老荘思想は
シナの民衆にとって難解だったようです。一方で極めて抽象的(老子には固有名詞が出ない)
な故に高い普遍性を持っており、
>>91で哲学として紹介したのもその為です。つまり時代や
空間を越えて受け入れられる面があり、朝鮮や越南、ここ100年程は欧米でも数百種類もの老子
(短いせいもあるようですが)の訳が出ています。日本での受容の歴史も長く、律令の大学の
課程には入らなかったものの平安時代は盛んに講釈されました。今昔物語集と宇治拾遺物語にも
荘子から取った話が入ってます。老子では「道」を表現して無為、自然、玄、冥、寂、寥、静
としますがこれらの語や観念は日本人のまさに骨肉となっています。道教団そのものは
華僑由来のものだけですが老荘思想を受け入れなかったという主張は解せません。
>>339 識字率は低かったでしょう。しかし、文字のないほうが変化が激しいとは言えないと思います。
文字があっても文語と口語の乖離は世界的に見られます。また、田舎のほうが古い言葉を良く
残している。都市を中心に同心円状に古態を保っています。文字の無くとも困らぬ社会程言葉の
変化は少なかったと思います。祭祀等は風土に合わせて変容するわけですがシナでの時代や
地方差も大きい。土俗化、すなわち日本化もそういった道教の一地域版として捉えています。
シナの道教団はかなり権力と癒着してまして、様々な特徴は権力との結びつきを誇示する要素の
現れだとすれば日本人にとって教団道教が今見てなじめないのも当然でしょう。非公認の団体や
宋代までかなり居た白服の巫に対しては親しさも湧くかもしれません。
庚申講や陰陽道など共通性がいかにも多いと感じます。
>>340 修験道の位置付けも定まらないのですが、日本版道教とする学者も居ます。
>>327 オイラの視点からすると、「知識の披露」が問題なのではなく、
(知識の交換はむしろ望ましいことである。世界史板の主旨はそれである)
日本では体系化した(一貫した)思想・信念体系をもつことは
「日本教(政治の宗教へ対する優位)」によって避けられ、
モザイクな置き換え可能なバラバラな情報を雑多に持っているオタク的
情報収集に耽溺するようになる(どんな政治強者に対しても尻尾を振る用意がある)
というのが、個人的問題焦点だったりする。
だからもし君の批判のポイントが、「焦点化しない情報羅列に対してイライラする感情」
だとしたら、オイラは判る。
この視点から見た場合、梵さんの発言はメタレベルで日本的「知識」が、
いかに不誠実な精神と結託しやすいか、の証明として読解できたりする。
コテハン叩きは本意ではないので、オイラはここまで。
人の尻馬に乗って「こいつは叩いてオッケーなヤツだ、他の人間が叩いているなら、オイラも叩くぞ」
と、責任を仮想の「世間」に転嫁する思想も「政治(暴力装置による統制)が
宗教(個人の信念)より優位」であることのメタレベルでの証明だったり。
347 :
@名無しさん:01/09/15 01:16
もともと宗教という思い込みの問題に理論を期待しても
それこそ、神学論争になるだろうから、知的な
エンターテイメントということで許していただけると
ありがたい。
>>330 >貴方はなぜあの頃「隣人愛」とされたのがその後そうみられなくなったとお考えになりますか。
なぜか、1を見て10を知ったという感じがしますが、とりあえず
当時の日本人全てがあなたの言うような考えではありませんでした。
なぜ特高や治安維持法があったかをお考え下さい
さて、一般の市民達の考えはどちらかというと「自分がやらねば、家族が殺される」という
考え(もちろんある程度は妄想ですがある程度は現実に起こる可能性有り)がメインと思われます。
また軍としても、どーせ新兵だから弾は当てれず、無為に撃墜されるくらいなら、特攻させるほうが
マシという暴論に結びつけてしまいました。(大西中将は1回限りの「邪道」と自ら語ってました)
で、今回のテロの実行犯も「国や家族が貧しいのは、アメリカのせいだ、
今ここでやらなければ一生このままだ!!」って考えて実行されたと考えるなら、特攻もテロも
似たようなものではないだろーかと思います
ただし、首謀者はこんな単純な考えとはかけ離れた思考していると思いますが(日本においても)
それはさておき、隣人愛の基本は「結果平等」ではないでしょうか??
つまり自分達と同じくらいになればシアワセになれるというコトです
この考え方は経典教に多く(十字軍、ジハード)、はっきりいって
押し付けられる方にはかなりの迷惑です(まさに大きなお世話!!(笑))
八紘一宇の精神はまさにこれと類似していると思いますよ。
349 :
世界@名無史さん:01/09/17 06:28
>>339 日本人は数千年前にすで日本本土に到達しています。
つまり渡来人とともに道教が入る以前からすでに土俗的な宗教を持っていたと
考える方が自然でしょう。
ただ、明治以前の神道と一まとめされて呼ばれる各宗教がほぼ完全に消滅してしまったため
それを証明するのはかなり難しいと思われますが・・・
>>344 私が言いたかったのは「入って来ただけで受け入れられていまい(理解してない)」というスタンスです
また、自分でも書いた天皇、3種の神器の由来や梵阿弥さんの言ってる
今昔物語集と宇治拾遺物語の逸話も基本的には「抱朴子」などの神仙思想の中に
あるもので、老荘思想とはあまり関係がありません。
漢代に神仙思想と荘子のいう真人を混ぜてしまったために、わかりにくくなっていますが
これは原理主義的な視点から見た場合、全くの別物と見たほうが良いでしょう。
余談ですが、本来の老荘思想(道家)からするなら「道教が真理」という考えそのモノが
「無為自然」思想から「間違っている」ことなりますね。
↑は335です、書き忘れました
>>329 暴力装置による統制を行うために多数が同じ信念を共有していると見せかける為に、
連帯感醸成のため行事などを行う。同じ怪しい行事をやっても主流派のそれは
社会の中で理性的な事とされる。非主流派のは宗教とか呼ばれ唾棄される。
長々書いてきてもわかって貰えないのは私の筆力の無さゆえですかねえ。
太平道では「至誠」を重んじていたので誠実を重視なさる貴方は主観的には
合格でしょう。
>>348 私は機会平等と捉えています。教祖死後は歪曲されて結果とか
一挙手一投足の平等と歪曲されがちなようですが。
>>349 縄文時代は1万3千年ほど前から2千年余り前までですが、当時の日本列島の人口は20万人程と
されています。祭祀用とおぼしき土器が末期になると急に増えまして、気温の低下による
社会不安の為であろうと考えられています。東北北部以北は続縄文時代と呼ばれまして、
アイヌ人はその中で北方の影響を強く受けた集団を母体として形成されたのではないかと
考えられています。木を薄く削ってポンポンのようにして神に備える慣わしと本州中部
以北の「削りかけ」は同じ物で、幣の原型とされています。つまり根底部の風習に北東アジア
との共通性があるのです。
前2世紀辺りから弥生時代となり、500年の間に人口は500万人に増えました。大陸から200万人
程渡って来たのではとされています。どの時点で列島固有の精霊観念と風習があったとお考え
になりますか。或いは今の国境を意識しすぎでは。
入ってきても理解されていない、というのは私が「依代」の語で指す状態でしょうか。その
傾向はシナにもありまして、道観(道教寺院)にイエスやムハンマドを祀ったりします。彼ら
の教義を理解し共感した上で祀っているとも思えません。なんか偉い人にあやかろう、と依代
(記号)として祀っているのでしょう。この辺りは世間並みの無自覚な日本人と同じです。
私は日本の好事家や思想家には老荘思想は理解されていたと考えます。庶民が真髄の理解に
至らなかったのはシナも同じです。また禅宗はシナ生まれで老荘思想を源流としており、
禅を通じても入って根付いています。
道家からみれば確かに祭祀は無駄ですね。でもその点の混同や歪曲は環シナ世界共通です。
道教は哲学的なところがある。
神道はより素朴だ。だから、日本人にはなじみやすい。
流れとしては、神道ー>道教と考えたほうが自然に思える。
>>352 >或いは今の国境を意識しすぎでは
私からみれば、なぜそんなに中国に求めるのかが不思議です
そーいえば、お隣り韓国では弥生期の人口増加と日本人の体内ウイルスの種類から
「日本は古朝鮮人の征服王朝に過ぎない」って説が一般的でしたね。
ま、水掛け論はこれぐらいにして(笑)、
>どの時点で列島固有の精霊観念と風習があったとお考えになりますか。
と言う点ですが、私は「日本人が固有の価値観を持った時」と考えます。
ただし、時期となると漠然的で少なくても渡来人が来る前には成立してたと考えます。
漠然的と言う理由は「言語」にあります。価値観を共有するためにはそれを伝える手段が
必要であり、そのためには固有言語は必須です(この点はWW2以降の民族自決の要点の1つになってます)
ところが、日本語と言うのは現時点においてその語源も成立時期もはっきりしていません。
そのため時期に関しては漠然的にしかお答えできません。
>というのは私が「依代」の語で指す状態でしょうか。
多分、そーだと思います(老壮は偉い人程度)
この辺は、「道家」が「道教」に取り入れられた時点ですでに老荘思想とは
かけ離れたと見るべきでしょう(老子、荘子=仙人は本来の老荘思想から見てナンセンス)
つまり、大半の渡来人ですら理解してないものですから、日本には
最初から正しく伝わっていなかったと考えます。(当然理解できません)
その思想はせいぜい後代の好事家たちのおもちゃに過ぎず、「日本人の観念の骨肉となった」とする
考えは言い過ぎでしょう。
355 :
世界@名無史さん:01/09/17 16:55
>351
結局のところ、テロと特攻は違うってこと?
356 :
アマノウヅメ:01/09/17 17:07
>>355 特攻は民間人を対象にしてないから、テロではありません。
もっともイスラム圏に住んでいる日本人は、自爆テロがあるたびに
「カミカゼ」と言われるので閉口していると聞きますが。
357 :
@名無しさん:01/09/17 17:10
どうも議論をいろいろ聞いていると
もののけ姫や火の鳥を連想してしまう。
>>356 テロが民間人ばかりねらうわけでもない。
アメリカの駆逐艦爆破テロもあった。
特攻で日本の特攻だよな。なら確かに民間人をねらってはいなかったな。
>>355 あの、>351は自殺攻撃について書いてないと思うのですが。
ただ、自殺攻撃に至る構造は同じだと思います。
>>356 シナ等で民間人を盛んに襲ってるのであまり区別できないと思いますが。
360 :
アマノウヅメ:01/09/17 18:10
>>358 >>389 説明不足ですみません。
私が言っているのは、元祖特攻の神風特別攻撃隊のことでして。
それから、私は南京中虐殺くらいは在っただろうと考えていますが
テロとは別物だと思います。
>351
そーいや、
>貴方はなぜあの頃「隣人愛」とされたのがその後そうみられなくなったとお考えになりますか。
について、何もお答えしてませんでしたね。
これは実に簡単な事です。
東京裁判及びアメリカ軍による占領政策のためです。
それまでの国家神道を根底から否定し(人間天皇とか)、排除した事に起因します
関係ないですが、厳密な話アメリカの日本占領は明らかに不法行為でした。
もちろん、それに対して文句を言う力は日本には無かったのですが・・・
テロと神風特攻は表面的には違うのかもしれませんが(軍事関係のみ、無差別)
根本はやはり「自己犠牲」とかではないでしょーか??
また同時にこの精神は経典教に多く見られると。。。
【道家のおこり】
前90年頃成立の史記の著者の司馬遷は諸子百家を6派に大別し陰陽、儒、墨、名、法、道徳
を立てる。道徳家が後世の道家の事とされる。
○著者の父の司馬談は老子、荘子のほかに文子、関尹子、列子、老莱子などを挙げるが業績は
不明。彼が類似の思想を集め一派とみなした始まりではないかとされる。
○著者の遷は同じ6派を挙げるが道徳家が申不害や韓非子ら法家の思想の基礎となったと見る。
○別に斉において黄帝から老子由来の道を河上丈人から数代経て蓋公に伝えると記す。劉邦の
臣の曹参は斉の相国(王は韓信か)の時に蓋公からこの道を学び漢の相国となったときに
政治に生かしたという。
なぜ道徳家が法家の思想の元としたのかは分からないが厳罰主義の法家が徐々に緩くなって
いったのかもしれない。文子や列子はあまり個人の名という気がしない。総じて道徳家という
のは人格性が薄い。記録に現れる前の長い歴史と地域の広がりを想定したい。陰陽家と
分かれているのも気になる。
太公望呂尚の斉の地の特殊性も気になるところ。神仙卿視されていた様子が伺える。老荘と
神仙を厳しく分けることは実はできない。何故なら老荘は環境に合わせのんびり生きる事を
説いたがそのまま神仙で暮らせば浄化され常人の域を脱するという思想に連なる。
>>354 言語は決め手になりません。たとえばソクラテスの思想はギリシャ語の分からない人々にも
伝わりました。知識人は漢文を読めました。また倭の4〜6世紀頃の鏡や剣などの刻文
では聖徳や長寿など道教的観念を記し絵柄も西王母などが好まれました。
侘びとか寂とか隠遁とかは老荘的観念で、実行できる人は少ないものの人々の
憧れとなっています。そしてそれが外来の観念であることを意識する人もまず
いません。日本人として当然だと思っている。根付いていますよ。
>>362 改めて私の説を述べますと
1、道教と神道は別物である
2、発祥地域が近く、また互いに交流しあっていたのでお互いに影響しあっている
3、ただし、老荘思想(道家)は伝わっていない、伝わったのは神仙思想(道教)
この、3点です
次に、なぜ老荘思想が伝わっていないかと述べる理由とし、日本に影響している
思想は「私が認識している」老荘思想の解釈とはかけ離れているためです。
ここで、老荘思想と神仙思想について
1、私が解釈している老荘思想とは
老子:無為自然とは:真理(道)とは人為的に見つけたり考え出すことはできない
人為的な「道」がある前から存在する。人為的な道を排したならば自ずと理想郷がある
荘子:虚無絶対、真人とは;無為自然の境地に達成するにはあらゆる人為的なものを
排しきった人間が必要である。人は真人を目指さなければならない
さて、ここで問題なのがどちらもその方法については何も語られていないことです
「真理は人間には見つけれない」と言ってるのだから当然です
つまり、ここで老荘思想の行き詰まりが起こってしまう訳です
続き
2、民衆道教と成立道教
道教とは中国古来からのもので、基本的に原始宗教であり
中国大陸において祖霊信仰、無病息災など不偏的な信仰となっていました
これが、2世紀末の中国への仏教伝来に伴いその宗教基盤の弱さから
一気に衰退して行きます(太平道、五斗米道などのカルト的な道教団は
大きく躍進しますが、どちらも混乱の時代故と見るべきでしょう)
さて、この宗教基盤の弱さを補ったのが、神仙思想と道家です
まず、本来病気治療を大きく掲げ得ているため、その効能の確かさを求めて神仙思想を
そして論理基盤を道家へと結び付けて行きます
ここに「成立道教」が勃興します。
問題はここからです。
確かに道教は老荘思想を取り入れた訳ですが、ベースはより民衆道教に近い神仙思想に傾き
道家の表層的な部分しか摂取しませんでした(例えば、真人=神人=神仙)
「詫び」「寂び」「隠遁」も仙人になるための修行であって、「真人」への道とは
全く関係有りません(本来、真人になる方法なんて誰にもわからないのですから)
余談ですが、これはキリスト教からカトリック教が派生した状況と非常に似ていると言えます。
(私はキリスト教とカトリックは別物と捕らえていますので)
で、このような中途半端な老荘思想が道教と共に日本に流れ着いてきた訳ですが、
それは果たして「老荘思想」と言えるのでしょうか??
私が「道教は伝わったが道家が伝わっていない」と述べた理由はここに起因します
最後に「言語」について
どーも「文字」と誤解されてるようですが??
「言語」かなり大きな決め手となるでしょう
なぜなら、「思想」とは発生した土地における「言語」によって構築されるからです
つまり、プラトンやソクラテスは自らの理論を「漢語」で思考したわけではないでしょーし
また、逆に老子や孔子は「ギリシャ語」で理論展開をした訳でも有りません
後代にその「思想」がすばらしいものであったからこそ、それを伝えるべくして
わざわざ翻訳したのです
しかし翻訳には限界があり、言語間におけるニュアンスの差が生まれどーしても
本来の思想本質から離れていく傾向があります
結局、その本来生まれた土地における言語を習得し「原典」を読むことが最適といえます
さて、まず意思疎通のための言語がなければ文化は生まれず、文化が生まれなければ
同一の価値観も生まれません、この逆も同様です
よって、多数の渡来人が日本列島に渡ってきたにも関わらず、その母国語に取って代わられるコトなく
現在まで日本語が存在していると言う時点で、渡来人が来る前からなんらかの価値観が生まれており
その価値観の一端である日本古来の宗教は渡来人が来る前から存在してたと考えられます。
話し言葉としての日本語が有った時点でもう既に違う宗教なんじゃない?
宗教も言語も観念そのものでしょ。
新しい話で恐縮だが、「社会」などと言う言葉も
明治期の翻訳語らしいが、ソシアルとは似て非なるもの。
翻訳と造語により事実上全く違う観念になっているようだが。
同じことは文化の輸入の際よくあることだ。
もっと卑近で恐縮だが年賀状も明治期に郵便制度普及のため
クリスマスカードを真似たもの。
日本古来の風習や伝統と勘違いしている人が多いと思う。
しかしキリスト教でなく日本の伝統的信仰の中に吸収されていて
日本の習慣といっていい。
そんなものじゃないの?
変質してその土地のより古いものに同化するんだよね。
>>365 >よって、多数の渡来人が日本列島に渡ってきたにも関わらず、その母国語に取って代わられるコトなく
>現在まで日本語が存在していると言う時点で、渡来人が来る前からなんらかの価値観が生まれており
>その価値観の一端である日本古来の宗教は渡来人が来る前から存在してたと考えられます。
に同意する。
>>366 年賀状はまだ日本の習慣までいってないだろう。
おれは年賀状など何十年も書いてない。
>>363-365
貴方の老荘認識やキリスト教解釈には見所も在りますが問題は当事者がどう捉えたかでしょう。
シナと倭〜日本で同じように老荘を理解(貴方に依れば誤解)していたとすればどこがどう違う
のですか。それから、道は遍満しているのだから人にも内在しているという解釈が一般的ですが。
貴方がカトリック宗非キリスト教を唱えるのは自由ですがどこが違うのか、何時から分かれた
のか、理由は何なのかを示せなければなりませんね。この辺はお互い様なので急ぐことは
ありませんからそのうちよろしく。
奈良時代において百済や新羅とは通訳を介さなかったことについてはどうお考えですか。また
イタリアとフランスのキリスト教は言葉が違うゆえに全くの別物ですか。
369 :
世界@名無史さん:01/09/19 10:00
>>368 >おれは年賀状など何十年も書いてない。
とはいえ、年間の葉書の配達量が一番多いのは正月なんだし
一部の頑固者(笑)と不精者以外はみんな出しているんだから
(日本の)習慣といってもいいんじゃない??
ちなみに私は毎年書いてますよ、枚数は少ないけど
関係ないのでsage・・・
>>368 今、外なんでもろもろのご質問に答えれませんが、1つだけ・・・
私はあなたの「弟子」ではありません
私の説に興味を持たれたことは非常にありがたいのですが、
「見所がある」とは無礼ではないですか??
さて、この「礼」を日本人の「私」は大切に考えます
(問題は現在一般的な「日本人」はどーなのかという考察は抜けていますが(笑))
「礼」は儒家の発想で、「礼」を排斥する事も老荘思想の根幹となってます
卑近な話で申し訳ないですが、こーいうところからも日本人は老荘思想を
理解していないと考えられます
あとはまた後程。。。
あ、ところで「当事者」とは?
私は天皇から庶民までを含めた全ての「日本人」のつもりですが?
>>370 私には見下しているつもりはないのですがね。興味があるもののとりあえず賛同していない
時には例えば貴方はどのように表現なさるのですか。まあこれも同じ「言葉」とか感覚を共有
しているか実は解らないのになんとなく連帯感を持っている例といえるかもしれません。
弟子扱いしてるわけではないのですがねえ。
儒教が儒家の思想そのものでないことは、貴方はご存知でしょうね。
儒家の思想である礼(何が礼なのかの解釈が大問題ですが)を貴方が個人としてよりむしろ
「日本人としての当然の資格」として重んじなさるということですか。すなわち日本人は
儒家の思想を取り入れて骨肉としているとお考えなのですか。
当事者というのは極端に言えば老荘思想やキリスト教という言葉を耳にした事のある人々
ですが、より狭めれば自らを老荘やイエスの示した理想に則るべく暮らしていると思い込んで
いる人々のことを指しています。
>>371 「見所」という言い方が誤解をまねく表現だったのよ。
>興味があるもののとりあえず賛同していない
>時には例えば貴方はどのように表現なさるのですか。「貴方の老荘認識やキリスト教解釈には見所も在りますが」
→「貴方の老荘認識やキリスト教解釈には興味深い所も在りますが」くらいにしておけば。
>>372 誤解を招いてしまうのですかねえ。例えば貴方は私の意図をどのように
捉えらえなさいましたか?いまだに良く解らないもので。言葉は難しいですねえ。
>365 移民の言葉に置き換わった可能性にはどのようにお考えですか。
音は残らないし漢文以外のこってないので。
うみゅう。
自分の適当な見解に梵阿弥さんや他の方々が適切な解説や訂正、注意を加えてくださると、
我が身の未熟がよく分かります。でも、まあ、気になるレスがあったのでちょっと。
>365
において言語が変わると翻訳の過程でニュアンスが異なり、本来の思想本質が離れていくので、
その原典を読むのが最適である・・・・・・・のようなことをおっしゃってましたが、ちとそれを言い
きるには問題があると思います。
まず、当時の思想を理解するために原典を読んだとしても、時代によってその解釈は異なるはず
です。例え同じ言語を話す者であっても、個人によっては別の思考をするのが当然ですし、時代が
異なれば同じ言葉でも違う意味になりますし、拡散していく過程で情報は劣化していくものですから、
厳密な意味の正しい「老荘思想」なんてのは存在していたとは思えません。しかも現在のように当時
の背景を知り学問的に追求するなんてことは、かなり最近になって行われるようになった行為です。
よって「老荘思想」が伝わったかどうかは、史料から推測して「それっぽい」と判断する他はない
と思います。
それから渡来人がくる前に日本語が成立していたと御考えのようですが、渡来人を弥生期のそれ以降
のものとするのはちと短絡的だと思います。っていうか、この場合は定義もせずに使用した私に問題が
ありました。「大陸から渡ってきた人間」程度の意味だと思ってください。
史書に残る範囲で日本にやってきて定着した人の歴史的名義は「帰化人」で、それを弥生期以前の者
達に使用するのは少し不適当に思ったもので。
今回も少々長くなります、すいません
まず、>368の質問への解答
>シナと倭〜日本で同じように老荘を理解(貴方に依れば誤解)していたとすればどこがどう違う
ですが、私は>370において「当事者とは何か??」とお聞きしています。
それに対して、>371の解答を頂きました
とするならば、すでに私と同意見をご自身で述べられ納得されているのでは??
あなたは>352において以下の様に述べられています
>私は日本の好事家や思想家には老荘思想は理解されていたと考えます。庶民が真髄の理解に
>至らなかったのはシナも同じです。
次に
>カトリック宗非キリスト教を唱えるのは自由ですがどこが違うのか
という問いですが、スレとあまり関係無いので簡潔にいきます(細かいことその都度ってことで)
キリスト教の本来の教義は「聖書、福音書等を信じれば救われる「かも」しれない」です
言いかえるならば、「信じさえすれば何をしてても良い」となります(極論ですが)
ところが、4世紀前後から(ローマ帝国からの逃亡の意味もありますが)修道院に篭り
修行することが始まり、ここからカトリック教会が成立して行きます
この後数々の「秘蹟」(結婚式なんかもそーです)を取り行うのですが、「信じる」が教義である
キリスト教とは全く関係ありません(どちらかというと4世紀末に滅んだミトラス教に近い教義です)
また宗教改革と活版印刷の導入される16世紀くらいまで聖書は聖職者すらほとんどお目に掛かれないもの
だったことからも、全く別物に変わってしまったと考えるべきでしょう。
>奈良時代において百済や新羅とは通訳を介さなかったことについてはどうお考えですか。
正直はっきりしたことは言えませんが、それは一部の人の話しではないでしょうか??
それとも、当時の農民、悪ければ奴婢(は、もっと時代は前ですね)はたまたはアイヌ系の住民までも
(アイヌ系はアイヌ、朝鮮、大和3カ国語!!)バイリンガルだったという記録が残っているのですか??
少なくても、私はそんな話しは聞いたことありません
ただ、弥生期からの大量移民の点からあり得ない話だとは思います(疑問点はかなり残りますが)
続き
>371の質問に対する回答
>儒教が儒家の思想そのものでないことは、貴方はご存知でしょうね
これは訂正します、私が>370で言っているのは「儒家」はなく「儒教」です
しかし、この論法がお分かりならなぜ「道教が道家の思想そのものではない」と
いうことを理解していただけないのでしょう??
>儒家の思想を取り入れて骨肉としているとお考えなのですか。
ストレートな「儒家思想」は取り入れていないと思いますが、「儒教」はかなり導入されていると考えます
特にまだごく最近の徳川時代からの教育の影響ですので、現代人にとっては
かなり影響を及ぼしています(少なくても、私は(笑))
ちなみに、現代の少年犯罪者達は仁礼智等を一切排する道家思想を突き詰めた
ある意味「真人」の体現者かもしれません。。。
あと、質問ではないのですが
>当事者というのは極端に言えば老荘思想やキリスト教という言葉を耳にした事のある人々
というのはかなり無理があるのでは??
単純に「老荘」「老荘」と言っただけで、その真髄まで納得できる人なんて居ないと思うのですが・・・
>373
>移民の言葉に置き換わった可能性にはどのようにお考えですか。
その可能性「ほぼ」ありえません(こじつければ可能性を何個か考えることはできます)
なぜなら、もしどこからかやってきた住民の言語に取って代わられた場合
かならずその周辺地域との比較によりその言葉の経歴や「祖語」の割りだしが可能です
しかしながら、日本語はオーストロネシア語族とアルタイ語族の特徴が見られるとぐらいしか
わかっていません。つまり、単純な移民論などは成り立たないのです。
>374
>厳密な意味の正しい「老荘思想」なんてのは存在していたとは思えません。
これは全く持ってその通りだと思います
「千差万別」、「十人十色」というように思想は生まれた創造主が他人へ伝えた瞬間
すでに微妙な差が生まれると考えられます
そこで>268の
>イタリアとフランスのキリスト教は言葉が違うゆえに全くの別物ですか
という問いですが、厳密に言えば「違う」と言えるでしょう
(同一言語を話す個人間ですら変わってしまうのですから)
しかしながら、伊仏語は同じ祖語を持ちその言語形態がわかれてから1000年少々と
短期間であること、またキリスト教そのものが同じ祖語をもつ言語から構築されたことより
全く祖語の異なる言語から構築された思想を理解するよりは間違いが少なく理解されていると考えます
>渡来人を弥生期のそれ以降のものとするのはちと短絡的だと思います。
では弥生期から史書が残るか残らないか間(紀元前3世紀〜4世紀)に渡ってきた人達は「渡来人」でいいのですか??
日本列島の急速な人口増加はまさにこの間なのですが・・・
>>375-376
本来のキリスト教と言うからにはてっきりイエスその人の思想を語られるのかと思いました。
イエスの教えを継いで、と言うのがキリスト教の建前ですね。またキリスト経典はイエスが
書いたのではないのですが。
日本語の成立は時期もいきさつも解っていません。列島全体で同じ言葉だった訳でも
ありません。従って列島を一体化する、しかも大陸の影響のない価値観があった、というのは
根拠に乏しいと言わざるを得ません。
あなたはどうも宗教なり思想なりをかなり限られた範囲のものと捉えておいでのようですが、
極端に言えば教祖の名前だけ掲げていて実態はかけ離れている、というのも含めなければ
見えるものも見えてきませんよ。何故なら名前だけ名乗る資格を社会が認めたからです。
私は別に本家・元祖争いを裁こうとしているわけではないので。
儒教がお好きなようですね。なんとなく判るような気がします。
379 :
世界@名無史さん:01/09/20 10:25
>>378 >従って列島を一体化する、しかも大陸の影響のない価値観があった、というのは
>根拠に乏しいと言わざるを得ません。
逆にずっと影響を受けていたというのも根拠が乏しい
不特定多数が見ている板で名指しするのもなんですが、とりあえず
>梵阿弥さんへ
1、大量移民(移民先の人口以上の)が起こったにも関わらずなぜ日本語が現在まであるのですか?
2、あなたの周りの「実社会」で見られる老荘思想を具体例を挙げて教えてください
(「道教思想」ではないですよ、私自身道教は「入ってきた」と思っていますから)
3、よく「自説」ではなく「一般的な説」と言いますが、それは誰と誰の説ですか?
資料名もしくは著者を提示してください(客観的な資料はいりません)
4、あなた自身(私は原典ではなく邦訳本のみ)、老子、荘子、聖書等を一度でも読まれた事はありますか?
お答えください
> あなたはどうも宗教なり思想なりをかなり限られた範囲のものと捉えておいでのようですが、
>極端に言えば教祖の名前だけ掲げていて実態はかけ離れている、というのも含めなければ
>見えるものも見えてきませんよ。何故なら名前だけ名乗る資格を社会が認めたからです。
どうもあなたの批評はいいっぱなしの傾向がある。
もうすこし丁寧な反論ができないものか?
(説明不足ということ。最初から決め付けているということ)それと、あなたは他人の質問に対してちゃんと答えない。
その結果、議論にならない。議論がかみ合わない。
あなたを批判しているのではなく、残念なのである。
>>380 1.移民の使っていた言葉が日本語のもとになったと考えております。いろいろな方面から
来ております。
2.>364において「侘び」、「寂び」、「隠遁」を仙人になるための修行であって…
とありますが荘子は漆園役人を少ししたのみで田舎で悠々自適したとされています。
それが手本になっているので「真人」=「仙人」と言う解釈も成り立つのです。貴方や
私がその解釈に同意するかどうかは歴史的経緯を考える際はどうでも良いことです。
老荘思想の反映の具体例はこの項冒頭をどうぞ。
3.わたしが参考にするのは百科辞典類や解説書です。
4.思想信条にかかわるのでむやみに聞かないほうがいいですよ。
なんか名乗ってもらえますかね。しばらく付き合うことになりそうなので。
顔が見えないので親しみを引っ掛ける鉤があると雰囲気変わるかなと。
>>382 > 3.わたしが参考にするのは百科辞典類や解説書です。
知識源はそうらしいが、結論はあなた独自のものでないの?
それはちっとも悪くない。
>4.思想信条にかかわるのでむやみに聞かないほうがいいですよ。 なんか喧嘩腰(笑い
別に答えてもいいと思うが。
335さんは「33」5となのっているんじゃないの?
【老子道徳経(老子)】
「老子道徳経」は老子が西方の関を通る時に長官の尹喜に道について尋ねられた時に託した
ものとされる。本より信ずるに足りないが伝説には尾鰭がついて老子はそのままインドに至り
釈迦に道を教えたとされ「老子化胡経」なるものも創られた。
司馬遷は老莱子と周の大公のセン(イ+・)を挙げ或いは老子の事かとするがこの二人の事跡も
判らない。
内容として韻を踏んだ成語とそれを繋ぐ文、それらを敷衍した文から成っていて、口承の伝統と
後のまとめ役の存在が想定されている。前半で道について語り後半で現実での実行法について
論じている。
道を人智によって捉えられぬとするが、道は宇宙に遍満しているので人の存在自体が道の反映
なので小賢しい事をしなければ道に則って生きることができると説く。
後半では政策として民の精神的充足による完全支配を説くとみなされている。有名な小国寡民
はむしろ例外的な記述となっているが、前半部分との整合性が高いのでよく引用される。
おおむね民の智を嫌っていて反知的観念の集合と言った感が強い。
よって記録に現れる以前の長い伝承が考えられている。恍惚、玄、冥、寂、寥といった語が多く
蔵書の管理人だったと言う伝承もあるので、その職に多かった盲人による伝承の可能性も考え
られている。嬰児の素朴や静、弱を尊んでいる。
今回はコテハン叩きっぽいです(笑)
無論その意思はありませんので、念の為!
>>382 >1.移民の使っていた言葉が日本語のもとになったと考えております。
では、なぜ日本周辺に日本語と同じ祖語を持つ言葉が見つからないのでしょう?
>老荘思想の反映の具体例はこの項冒頭をどうぞ。
多分>362のことと思うのですが、これは私への明確な回答になってません
(「詫び寂び」が老荘思想的であるということとを根拠になさってると思うのですが)
私が聞いたのはあなたの「実体験」から日本にも老荘思想が入ってきているなって
感じた事例を聞いているのです
で、改めて「詫び寂び」を自分なりに解釈して「この世の儚さ」と解釈するならば、
老荘思想の第1歩とするあなたの考えに納得がいきます
これとは別に、あなたの解釈での老荘思想は
>老荘は環境に合わせのんびり生きる事を説いたが
と言われていますが、一方の神仙思想における仙人への道は非常に厳しいもので
それこそ死にそうな目に(もしくは死んでしまう)修行を大量にこなす逸話が目白押しです
仙人になるなら、「のんびり」なんてしていられません
つまり、あなたの老荘思想の解釈からも神仙思想と明確に分離することが可能です
>3.わたしが参考にするのは百科辞典類や解説書です。
ならば、あまり「一般論」的な書き方は辞めておいた方が良いでしょう
あくまで「あなたの持論」なのですから
>4.思想信条にかかわるのでむやみに聞かないほうがいいですよ。
多分、「3」のことと絡めて読んだことが無いのだと思いますが
一度目を通してみたら如何でしょう??意外におもしろいですよ♪
最後に、とりあえず私が発言する場合「335」と名乗って
混乱を避けているつもりですが、それではダメですか??
個人的にコテハンを名乗るのがあまり好きじゃないものですから(苦笑)
386 :
世界@名無史さん:01/09/21 16:06
今回の自衛隊派遣で、万が一自衛隊員に死者が出た場合
靖国に奉られる事になるんだろうか・・・
そういえば、戦時中に戦死した人たちはみんな2重に奉られてるの??
靖国神社+自分の家の墓
>>386 25年程前まで厚生省が靖国社に名簿を送っていたそうです。
生前の本人や遺族が止めてくれといっても強引に祭っていて問題になっています。
388 :
アマノウヅメ:01/09/21 16:46
>>386 戦死者は実家が神道でない限り、二重に祀られます。
私の伯父の骨箱も(空ですが)家の墓に入っています。
仏教はそうでもないけど、キリスト教の家庭では神社に祀られるのを嫌がります。
自衛隊員で殉職した人が(戦死じゃなくて事故)クリスチャンだったので
靖国神社に祀るのは信教の自由に反し、人権侵害であるといって、その人の
奥さんが裁判を起こした事がありました。
あの、皆さんにお願いがございまして。
度々書かせてもらったとおり私は日本国にも宗教的精神構造は在ると考えています。ここ百年程
あまりはっきり姿を顕さなかったのは社会の変化が少なくそれゆえ社会への損得勘定を経て
出来上がる価値観の変化も当然少なかったためと考えています。
普遍とか無謬とか仮想されていたものが疑われなかった、価値を失わなかったという事です。
それが何なのか、当てっこしませんか。皆さんのご意見をお聞かせください。
加えて、従来の無謬と仮想されていたものがここ十年程で疑われだしました。換わって春頃
から或るものが無謬性を仮託される依代として現れてきたようです。
●従来無謬と考えられてきたもの
●春頃からの依代
ちょっと抽象的で悪いのですけど。鋭いご意見をお待ちしています。では火曜日…。
どーでもいーけど「当てっこ」という「概念」はあまりに厨臭いので少しご考慮
されるのがよろしいのでは?
学問的には「当てっこ」は不可能です。
…「春頃からの依代」って…そういうネタはオカルト板が適切かと思われます。
「日本の宗教的精神構造」とはえらい乱暴な言葉です。
古神道の信仰枠組と、国家神道の信仰枠組と、鎌倉仏教の信仰枠組と、朱子学の信仰枠組と、
密教の信仰枠組は、それぞれ重なりつつも別のものです。
どれを差しているのですか?
ちなみに日本の思想には「無謬」とか「普遍」といった概念はそもそも希薄ですが
(いいことではない)そのことを自覚した上で発言されていますか?
春頃からの依代? 何を言われたいのかさっぱり解りませんが>389
そう言えば「サクラ」は「サ・クラ」で、サは穀霊を示し、クラはその宿る場所を示す。
その花が散る頃に田植えだか苗代を作るのが古代の頃からの習慣で、北の地方では桜のかわり
にコブシなどが「サクラ」と呼ばれる・・・・・・ってな話を思い出しましたが。
392 :
世界@名無史さん:01/09/22 05:50
>>389 根本的にここ100年に「社会的変化が無い」と仮定している時点で間違いだと思う
明治維新と敗戦がどれだけ社会に大きな変化をもたらしたことか!!
393 :
世界@名無史さん:01/09/22 06:00
>390
「当てっこ」って言い方は悪いが、資料を元にした「推論」を
述べるのは学問ではないかな?
394 :
簡単に言えよ:01/09/22 07:51
憲か帝。ばか小泉。
だけど一神教的ファナティシズムにはなりません。
あったりー!かな?
日本人は、
一に生業(経済的安定)
二に娯楽(遊び)
三に宗教(思考)
なわけで、結局それで国がもってきたのです。
それが全てだ!!
396 :
世界@名無史さん:01/09/23 15:34
age
397 :
世界@名無史さん:01/09/23 15:42
思想にしても文化にしても
伝わった後に日本文化に合うように変化していったと言う事は
「日本」と言う枠組みに何らかの独自性がないと
成り立たないと言う事?
398 :
世界@名無史さん:01/09/25 05:29
age
中国も少数民族の王朝元も清も漢民族的になっていった。しかし元はモンゴル
民族としての独自性はあったろうし清には辮髪とかの風習はあったし外来の
思想文化も日本の独自性にあわせて変化したのでは。
400 :
世界@名無しさん:01/09/25 05:48
400get
>389
●従来無謬と考えられてきたもの
「成長神話」「安全神話」「土地神話」「官僚神話」「単一民族神話「皇軍不敗神話」
ここ百年ほどの日本國はおとぎの國だったのです。まあ國家などというものはすべからく
形而上的なものかもしれませんが。
>392直線的な経済成長の出発点となったという点でその2点は同じですね。
その直前は大変でしたが。
●春頃からの依代
小泉純一郎
この頃色褪せてきましたが、どれだけ足掻いて見せかけの無謬性を保とうとするか
見ものではあります。とりあえず米従属で「尚武の人」を打ち出すかもしれません。
>394さん、お見事です。
ご意見をお待ちしております。
>>401 ただの糞ヴォケが、エラソーな書き込みをするんじゃねェ!!
このピンボケじじい!逝ってよし!
403 :
394のご意見:01/09/26 05:17
日本は一神教じゃなくってよかった。
バイブルじゃなくて「神話」の国だよ。
初めに言葉ありきなんて言っている国々
とは距離置いた方がイイよ。
>>403 「神話」と呼ぶ時点である程度の客観視が為されているとも言えますが。事実と思い込んで
いる人々は「神話」という呼び方はけしからん、とか言いそうですね。満洲事変の頃から
そういう動きがありませんでしたっけ。敗戦後の諸々の「神話」呼ばわりは信じ込む人々と、
成長その他に疑問を持っている人々との玉虫色の妥協点だったかもしれません。
言葉ありきというのは他者への伝達と合同を意識した観念であって、通過儀礼や年中行事を
通じて一体感の演出を図る基層的信仰とそれほど差があるとも思えません。差といえば、
風習という感覚的なものでなく言葉という抽象的な要素を強く打ち出すことによる汎用性
でしょうか。しかし根付く上では習合が欠かせませんでしたが。
あらゆる集団から距離をとっているつもりで書き込みにも現れているのではないかと思って
いましたがそうでもないでしょうか。
>>404 うだうだとうっとうしいぞ、ヴォケ!
民俗・神話板にでも逝きやがれ、ただのアホがしたり顔して書き込むな。
>>404 あいかわらず、日本語がまともでないという点には、あえて寛容をもって
臨んでも、サヨぼけしたひとりよがりの腐れ爺のたわごとです。
2CH的に表現すれば、「逝ってよし」というところでしょうか。
>405-405
はいはい。
その「サヨぼけしたひとりよがりの腐れ爺」に論破されたからって
いつまでも粘着質にこびり付いてんじゃねーよ。厨房が。
コテハン叩きなんざ今日び流行んねーんだよ。バカ。
とっとと世界史板から失せやがれ。極東板あたりでテメェの汚ねぇ
チムポでもグジグジいじくってやがれ。カスが。
説教を まじめに垂れれば 糞坊主
垂れずに馴れれば 厨坊と言い
>>407 梵阿弥さんは一度足りとも相手を論破したコトありませんよ
あくまで自分の世界観を展開しているだけです
>>407 世界史板の古参コテハンのひとりであるジーモン氏を騙るのはやめなさい。
文体からして、ご本人ではありますまいに。
まあ、たしかに某氏の書き込みは、私にも理解できません。
ひょっとして、自分の国語能力が劣るため、通常の人々に自明の文章が理解
できないのかと、密かにコンプレックスを感じていたのですが、他にも解らない
とおっしゃるひとがいるようで、少々安心しました。
>>410 >まあ、たしかに某氏の書き込みは、私にも理解できません。
主語があいまいなのよ。名文なら主語なしでもわかるが、
平凡な文章ではさっぱり意味がとれなくなる。
>>404
412 :
神話的に言うと、、、:01/09/27 03:48
ピューリタンの猿真似は仕方ないよ。守り神だからね。
どうせ今回の愚にこりて直ぐに大きな島国にお篭りになるだろ。
向こうから距離置くよ。
日本的みんな同じ教は失敗して目覚めるよ。みんな同じ教はそれこそ神話以外の中心ないんだからさ。
神話の後継者でも生まれれば目覚めるでしょ。つなぎの寓話だよ。
みんな同じ教は観念信じないよ。だから予言者信じない。
観念論者のような暴走もしない。
どうせ周り見なきゃ何にもできない。
前と違って周りには色んな宗教あるし、前は恐い神様周りにいなかったしね。
悪さしたらまた破壊神ピューリタンがお篭りから出てきて怒られて終い。
で、また神話の続き。
西洋人はこういう神学論争をえんえんと何百年もやって
今日の議論の得意な民族になっていったのであろう。
もっとも、朝鮮もやってたけど。どこがちがうのか?
414 :
世界@名無史さん:01/09/27 11:00
>413
朝鮮人もかなり議論好きだぞ
415 :
世界@名無史さん:01/09/27 11:08
朝鮮人は議論好きではあるが議論巧者ではない。
彼等の議論は感情や固定観念が先走って論理性や客観性に欠ける。
>>412 ちょ、ちょっとお尋ねしたいのですが。
大きな島国とは何処なのでしょう。日本列島でしょうか。あるいはパナマ運河の北の陸隗?
詩を作者に解説頼むなどという野暮な事はしたくはないのではありますが。
それと、「みんな同じ教」は「みんな同じ」が観念(幻想)だと思います。
確かに捉えにくい文というのは自分が試されますなあ。
417 :
世界@名無史さん:01/09/27 11:37
あまり関係ない話なんだけど、
道教と神道のことで思い出したが
本居宣長に対する同時代の批判で最も
多かったのが本居の思想は道家の焼き直しに
過ぎないというものだったらしいね。
418 :
世界@名無史さん:01/09/27 11:44
的が定まりきらず、荒れてきた模様なので
1、日本人が宗教と認めるものは何か、また日本人以外の人々と異なるのか
2、日本人は独自の宗教を持っているのか(もしくは持っていたのか)
3、宗教と現在の日本(世界でも可)社会との関連性
4、今後の宗教の盛衰について
スレ趣旨と離れそうだけど、まずはこんなとこでどお??
>413-414
キリスト教文化圏では「神の実在」を証明する必要があり、アリストテレス論理学
が知的資源として存在したので、「議論する」風土が発達した。
朝鮮の場合、朱子学が半ば国教化し、朱子学は非常に理屈っぽい学問だったので、
「議論する」風土が生まれた。
日本は論より政治力学が常に優先したので、議論は比較的発達しなかった。
421 :
世界@名無史さん:01/09/27 12:31
>>420 平安時代を通じて論争が続いた三一権実論争のような例が日本にもあるぞ。
また鎌田茂雄によると朝鮮の華厳宗は実践を重んじる傾向が強いのに対して
日本の華厳宗は理論を重んじるという。
また仏教論理学の因明の研究が近代まで続けられたのも東アジアでは
日本だけという中村元の指摘もある。(論理学としての発展はあまりなかったらしいが)
理屈っぽい学問のあるなしでは日本人の議論下手は説明出来まい。
>>417 本居宣長自身老荘思想を尊んでいます。彼は道家が殊更に自然を強調するのは時流に抗う事
であって老荘の本道から外れると述べています。ここには老荘思想への深い理解が伺えます。
しかしそれならば彼自身が佛儒を殊更退けようとするのも道に抗う事になりますが。おまけに
古事記は当時の支配者の視点でまとめられた物であって古代の実相からかけ離れていますが。
自分の客観視はかくも難しいようです。
自称神道の魁は中世の伊勢(度会)、両部、吉田、ですが全て道教の教義を中心に据えました。
>>418 一応>401でここ百年余については私の見解を示しておきました。内容に触れず頭ごなしの
誹謗が目立ちますがこれもまた私の着眼点の妥当性の傍証と考えております。
>>422 >内容に触れず頭ごなしの誹謗が目立ちますがこれもまた私の着眼点
>の妥当性の傍証と考えております。
~~~~~~~~~~~~~
ワラタ
424 :
世界@名無史さん:01/09/27 13:03
>>422 宣長は老荘思想を尊んでなんぞおりませんぞ。
あなたが挙げた批判は道家に対する批判ではなくて老荘そのものに
対して宣長が行ったものです。
「老子の自然とまをすは、真の自然に候はず、実は儒よりも甚だしく誣たる物に候」
この言葉からしてもわかるでしょう。
>しかしそれならば彼自身が佛儒を殊更退けようとするのも道に抗う事になりますが
これもどうやら違うようです。
宣長の言うには自分の道は神の道だあって自然の道ではないそうです。
そして儒仏もまた神のしわざであるから儒教で治まるときは儒教で治め、
仏教で治める時は仏教で治めるのがその時々の神の道なのだそうです。
つまりは現状肯定の思想ですな。
彼の思想は超越的存在に対する素朴な信仰心という感じがしますな。
信仰だから客観性などは結局持ち合わせないのかも。
神様信じて周りに合わせて普通通りに生活しとけばよいということでしょうか。
なんか現代の日本人の原形を見るような・・・
>>424 「甚だしく誣」というのはどのような点についての評価なのか教えて頂けますか。彼の著を
読んだ事はないのです。
現状肯定というのは玄学の輩が道家ながら孔子を最高の聖人と位置付けたのと似ているかも
知れません。
「超越的存在に対する素朴な信仰心」というのは「渾沌」への同化と同じに見えます。
「普通」というやつが厄介なのですよね。だれが判定するのかという辺りが。
426 :
世界@名無史さん:01/09/27 13:27
>422
勘違いされてると思いますが、みなさんは
「思い込みだけで根拠も無しに反論するな」
「文章が難解でわかりにくい」
と言ってるのであって、あなたの「着眼点」そのものには
興味を持たれているようですよ
そういえば道教と神道は同じと言う話はどうなったのでしょう??
「335」氏に論破されたまま立ち消えてしまったようですが
>418の「2」の観点から資料を元に改めて展開してみてはどうでしょうか
427 :
世界@名無史さん:01/09/27 13:59
>>425 宣長の老荘に対する批判はあなたが
>>422で書いたのと全く同じもの。
時流に逆らうことへの批判です。
自然を尊ぶならば人為のままであることが自然であるという考え。
この世の現象は人為も含めて全てが神の仕業。
それに対して人為で逆らって太古に戻ることなんて出来ない。
だからそのまま受け入れてそのままの社会で生きていくしかない。
当然社会批判なんてこんな考えからは出てこない。
まあ運命論者ってとこでしょうか。
似てるとしたら老子よりは荘子の方に近いでしょう。
428 :
世界@名無史さん:01/09/27 14:33
後、安岡力也がイタリアマフィアがルーツってのはウソね
母親ただのパンパン
よって彼も米兵の子
>>427 私は或いは逸話化、偶像化された老子・荘子への違和感だったのかとも思ったのですが
そうでもないようですね。安藤昌益もそうなのですが、主観的には彼らは老荘を批判して
いても客観的には老荘思想の実行者そのものに見えます。同時代の批判はまさに客観評価
ではないかと思いますが。
本居は古代を理想化しその頃の習慣の復活を願っていたと思っていたのですが
そうではなかったのですか。門人たちの歪曲もあったかも知れませんが。
>>426 いつのまにか論破されていたのですか。どのような点でそう判断なされたのか
教えて頂けませんでしょうか。本当に気が付かなかったので。
430 :
世界@名無史さん:01/09/27 15:07
>>429 あんた何でも老荘と同じだと思ってない?
無の思想や自然回帰の思想は人類共通のありがちな思想だから
老荘と共通する部分がある思想なんて珍しくもなんともないんだよ。
>いつのまにか論破されていたのですか。どのような点でそう判断なされたのか
>教えて頂けませんでしょうか。本当に気が付かなかったので。
論破もなにも、いつものことながら梵阿弥氏との論争は噛み合わない
ままあやふやに終わるのが常でして。(笑い
432 :
アマノウヅメ:01/09/27 16:12
>>429 本居宣長は本質的には争いを好まない人です。
古代を理想化していましたが、そのために政治を変えるべきだとか教育がどうこうとか
そういう発言は一切していません。
男尊女卑は唐の流儀で我が国は男女平等であるという見解も述べていますが
男女平等にするためのビジョン等も全くありません。
日本の男尊女卑がたいしたことなかったせいもあるでしょう。
しいていえば女性の学問を奨励しましたが、この面なら藤原道隆・道長兄弟や
その一族のほうがはるかに功績が大きいはずです。
宣長の文章はやまとことばだらけで国文科の学生はあまりの読みにくさに
宣長アレルギーを起こすほどですが、宣長の普通の書簡等はごく普通の文章です。
あまり過大評価されないほうがいいと思います。
弟子たちは国家神道の基礎作りに直接・間接に役立っている人が多いのですが
幕末の尊皇攘夷運動や明治初期の廃仏毀釈を本居宣長が積極的に支持しただろうかと
いうと、NOと答えるしかありません。
>429
冒頭部に注意を向けてほしかったのですが
>いつのまにか論破されていたのですか。
「355」氏の反論と根拠を崩せず、ただ「〜は間違いだ」「〜と思う」に
終始されたことと、議論途中にも関わらず韜晦されたので自論に息詰ったのでは?
と思いました
あまり関係ないので流してください
>>432 本居宣長は荻生徂徠の流れを汲んだ古文辞学の人ですものね。ああいった人の文章は日本語の
「やまとことば」による逐語訳、といった印象を持っていました。考古学的成果が今と比べて
微々たる時代に古代の社会をさも解っているかのような彼らの態度はなんか妙ですね。
そういえば師の賀茂真淵(彼は老子を評価)とはけっこう万葉集の解釈で争っていたそうです。
本居の死後勝手に弟子を称した平田篤胤は本居の鬼神観を批判するとともに自らは老荘や神仙
の研究に没頭し各地の怪異譚を集めシナと日本の鬼神観の共通性を(自國中心で短絡的ながら)
主張しました。国学者とか神道家なる人々がこぞって道教に靡くのは面白いですね。
なびくどころか・・・・・・本地神仙道と言う名前だったか、ある古神道の一派は仙術の
起源は大陸ではなくて日本だと主張していたぐらいです。確か倭姫を始祖としていたん
だったかな。
>>433 335氏の主張は、日本人として民族固有の価値観がある筈で宗教は価値観の延長なのだから
日本の宗教は異民族である漢人の宗教と同じ筈がない、と捉えています。しかし民族形成の
時期などは
>>354の通りはっきり示しておられません。民族の象徴としての言語を主張
なさっていますが民族自決などというものは200年程前から起こってきた概念なので
2000〜1000年前について論じる際に用いなさる方がおられるとは思っても見ませんでした。
根拠の定まらないまま個人への誹謗中傷の気が見えましたので、泥仕合を避けたいのです。
冒頭部については、私自身に手ごたえが帰ってこないもので。
437 :
世界@名無史さん:01/09/27 17:26
>>434 それは仏教に対する反動じゃないかね?
仏教には密教のような強烈な呪術的要素があったりするじゃん。
それに対して神道のご利益を保証するものを求めるなら
それは道教に求めようということになってくるのでは?
ちなみに老荘と仏教ではかなり異質な思想だと俺は思います。
>>420 >朝鮮の場合、朱子学が半ば国教化し、朱子学は非常に理屈っぽい学問だったので、
>「議論する」風土が生まれた。
間違いではありませんが、さらに歴史的には李氏朝鮮特有の「党争」の
存在を考慮する必要があると思います。
朱子学を主体とした科挙制度の導入で、国政を担う者はすべて朱子学で
教育を受け、理論を組み立てていました。何が正しいかを判断するのは
朱子学の論理です。
そして、この朱子学の師弟関係を軸とした党派間での権力闘争は議論に
よって行われました。
別に平和的であったわけではなく、議論に負ければ一つの党派ごと追放
されたり、主要なメンバーは死刑になったのです。つまり、この論争は党
派単位の命懸けのものでした。
議論の対象は妃の服喪期間をどれだけにするかといった、同時代の日本
人から見れば、およそどうでもいい内容であったのです。この党争の結果、
有為な人材が大量に失われています。
ですから、どう見てもバレバレのことや、日本人なら「そういう見方もあるか
な」とあっさりゆずるようなことまで、議論に負けまいとする、あるいは負け
を認めようとしない姿勢は、このような厳しい歴史に由来する文化と考えた
ほうがよいと思われます。
439 :
世界@名無史さん:01/09/27 21:14
宣長の重要性は古典学者とか思想家よりも文学理論の部分だろう。
440 :
世界@名無史さん:01/09/27 21:20
>>437 呪術は関係ないのでは?
やっぱり当時の日本を支配してたのは仏教的な世界観と
儒教的な世界観でしょう?
神道などは仏教から切り離してはこれらに対抗出来るような
強力な世界観は持ち合わせて無かった。
そこで眼をつけたのが道教だったということではないでしょうか?
どちらにしても外来思想に支えられてしか教理体系を展開出来ない
ような脆弱な思想的基盤しか持ち合わせないのが神道という宗教だったのでしょう。
441 :
世界@名無史さん:01/09/27 21:29
----------ここまで読んだ----------
なんか、久々に書きこみます(笑)
復帰第一として>418に則った自分の解釈をば
「1」について
まず宗教とは「価値観」の一端というのが私の概念
しかし、一般的な日本人が意味する「宗教」とは常識を逸する集団を指すものと思われます
私の概念の「宗教」としては全人類不偏の概念と考えますが、実社会においての日本人の宗教概念は
宗教を基準とした人々をとにかく歪なものとして捉えていると思われます
例えば、イスラム教徒に対する偏見など
「2」について
これはとりあえず特定の集団が価値観を持った時点で宗教が派生するという考え方と
「1」のことから(宗教=価値観の一端)も日本人は固有の宗教を持っていたと考えられます
私はとりあえずこの根拠として価値観を伝える手段の「固有言語を有する」としております
「3」について
根本的にその風土に根付いた価値観により宗教の性質は決定されます
例えば、日本においてはニューギニアにある食人風習は存在しません、というよりもむしろ忌避されます
もし、全て人類の価値観が同じならばある地域において存在する価値観を別に地域では否定される現象は
起こり得ません
「4」について
少なくとも日本においては当分迷走すると思われます
WW2以後、明治維新より培われた宗教観が破壊され、それに変わるものは未だに見つかっておりません
一時期のバブルなどの狂乱の時代もありましたが全て夢の如く弾けてしまいました
現在、価値観が定まらないコトが犯罪率の増加の一端であると思われます
最後に人類に優越は存在しないと考えます
つまり、誰かの思考を全く離れた土地で別の誰かが思いつくコトは十分にありえます
例えとしてはヘンですが、進化においても全く異なる生物がほぼ同様の形態へ収斂するコトは
よくあるりますが、これは同様の環境で同様な生態地位についたための偶然であり、決して真似した訳では有りません
なんか、人の枠で文章を書いてるので推敲の甘い文章になってしまった気がします(苦笑)
お気付きの点、論法の甘い点をご指摘してもらえれば幸いです
443 :
神話的に言うと、、、:01/09/28 04:36
みんな同じ教はみんな同じ一体感ほしがんだよ。感覚だよ。
哲学的観念なんて求めないしそもそもわかんない。
ピューリタンは、島国からおいだされた唯一神クロムウェルの落とし子で、
外界の事情に実は疎い。だから下手な予言はするが直ぐ武に頼る。
そんで失敗。今度の予言は異教徒討伐の為の十字架への誓い。
馬鹿丸だし。司祭たちが頭抱えちゃってる。
あと、直ぐ大声でどなる太った「タオ」の神や酒が好きで普段は酔っ払いの
イワンの馬ッ鹿ス神も恐い予言者が出ると力が強いので恐い。
しかもみんな「女神の盾」をも打ち破る矛を持っている。
みんな同じ教は大和武尊を望んでいるようだが似非予言者に過ぎないから
内なるヤマタノオロチ退治さえできません。
逆に退治されて自分の頭かかえて黄泉の国行き。
ハリウッド神話のゲーリークーパーもそうだったでしょ?
どうでもいいけど、「荒波吐」が一瞬「アラファト」に読めてしまったよ
テロ事件に染まったかなぁ(´¬`)ノ
445 :
世界@名無史さん:01/09/28 10:10
>>437 そりゃ老荘と仏教では全然違うわ。
そんな当たり前のことを何で今更?
>>437 一言で仏教とか道教とか言っても大きな幅があります。密教は現世利益的要素を法華宗と共に
最も強く持っています。呪術だからこそ現世利益の追求となじみやすいと思います。
道教というのははじめは道徳とか善道とかいった意味で儒家、墨家、佛僧も自らの思想を道教
と呼んでいました。後には純粋?な儒教、佛教以外の「学問」といった意味となりました。
その為に呪術から医術や冶金術まで含む捉えどころのないものと成っています。ただ一貫して
現世的傾向が強く、シナの民族性の特徴とされています。その現世嗜好は日本も同じです。
私は佛教の無常観は荘子の渾沌そのものではないかと考えています。
447 :
世界@名無史さん:01/09/28 10:59
空の思想という面では共通する面もあるけど方向性が根本から違うよ>老荘と仏教
老荘と仏教が同じならバラモン教と仏教だって同じことになる。
448 :
世界@名無史さん:01/09/28 11:19
法華宗ってのは天台宗のことを言ってんのか?
日本天台は確かに現世利益的傾向はあるがあれは密教だろう?
>>448 最澄の法華経至上主義は渡唐前からのものです。法華の現世利益的傾向は「誰でも佛に成れる」
という前提で利他業を尊ぶところから来ています。中世に商工業者達の相互扶助意識と結びつき
特に京都で広まりました。その一方で法華経を持ったり読んだりするだけで大きな現世的功徳
(富裕、出世、長寿等)を得るという観念がシナで盛んになった時期があり、日本にも大きな
影響を及ぼしました。もう一つ、他者との協力の思想の延長が神國意識へ連なり、護國経として
尊ばれました。比叡山は平安京の傍らに在ったので貴族の現世利益実現と護國寺院の性格を
強く持っていたので法華経の呪術的側面が強調されたようです。延暦寺のその性格から円仁以来
密教を大幅に取り入れました。日本天台宗の寺は國家権力との結びつきが強く地域の拠点の大寺
は天台系が多いようです。比叡山がそもそも山である事も密教的性格を強めています。
日蓮以来の法華も上の3つの性格を併せ持っていますが日本天台宗に薄い理性的な相互扶助の
性格を強く持つ派も在るようです(時代によりぶれますが)。
なお、道教上清派(茅山派)の大成者の陶 功景は法華経を最上の聖典としました。
450 :
世界@名無史さん:01/09/28 13:45
博学なのはわかるが論点をはっきりさせてくれないか?
一瞬何が言いたいのかわけわからんかったぞ。
しかし法華経自体は現世利益とほとんど無関係な内容なのに
なんでそういうことになっていったのかな?
観音経あたりの影響もあるのかな?
【荘子(前)】
荘周(前370〜300頃)は宋國蒙(商丘)の人。宋は商(殷)の末裔の国で優れた文化的伝統を
持つが周に 滅ぼされ被征服民の悲哀をなめた。交易で身を立てる者が多く商人の語源となったが
或いは価値観相対化の一因かもしれない。何故なら同じ品でも場所や時により価格は変わるし、
各地を廻る事により様々な習慣に触れ自らを客観視しやすくなる。
根本の斉物論では「知る」を対象の二分、差別と捉える。「分かる」は「分ける」、「判断」は
「半分に断つ」という事で本来一体の物を自分の都合で差別するのは作為であり、上下、是非、
善悪等を相対化し万物斉同を説く。無差別な渾沌は遍在するが実体はなく体験できても知る事は
出来ない。「道」を変化そのものとし何物の影響も受けぬので「自ら然り」とする。運命的である
自然に人為による対抗の愚を説く。恐れ、憂い、禍などの苦を強調し有限な存在からの個人的解脱
を目指す。自然の理法である道に従い生きる人を至人としあらゆる差別を捨て生と同じく死を愛し
逍遥遊すると説く。
452 :
世界@名無史さん:01/09/28 16:58
プッ
453 :
世界@名無史さん:01/09/28 18:56
454 :
世界@名無史さん:01/09/28 19:06
万物斉同の立場から仏教と神道と道教の宥和でも唱えてるかな?
455 :
アマノウヅメ:01/09/28 19:28
>>449 最澄の法華経重視が渡唐以前からかどうかは証拠がないと思いますが。
ただし、密教に傾いたのは渡唐後、というより帰国後でしょう。
天台宗が段々密教の色を濃くしていって台密といわれるようになったのは
最澄より後の時代です。最澄が空海に密教の書をたびたび借りたので
空海がもう貸さんと縁切状を叩きつけたのが現存してます。
書道の手本になっているので「書道」で「風信帖」を探せばでます。
ついでにいっておくと最澄の教えを発展させたのは円仁で、密教的な傾向を強めた
のは円珍ですが、この人は空海の親戚です。
最澄が密教をみずから取り入れようとしていたとは考えにくいのですが。
456 :
世界@名無史さん:01/09/28 20:25
密教を取り入れ出したの円仁からでは?
そして円珍が密教と法華を同等に置き、
安然に到って密教を法華の上に置いて台密教学が完成した。
ちなみに仏教と老荘は似て非なるものです。
実体否定や相対主義などの共通する部分もありますが、
因果の理を根本に置く仏教は老荘の自然説とは本来相容れないとされます。
また、仏教はあくまで有為、実践の宗教であってこの点でも
無為自然を強調する老荘とは大きな違いがあります。
空思想とは因果の理の拡張であって実践を裏付けるものとされます。
徹底した否定の論理のもとに(竜樹は悟りや解脱をも否定してます)
仏になるための道ではなく、修行に修行を重ねる姿にこそ仏を見るのが
元来の仏教の思想だと道元は語っています。
もちろん中国仏教は老荘の思想の大きな影響を受けていますし、
仏教は異常に幅広くて多様な思想が混在した宗教ですから
区別がつかない部分も多々あるのですが。
>>420 神学論争とアリストテレス論理学に関し:
アリストテレス論理学には全く知識がありませんが、
高校レベルの知識では、ルネッサンスでギリシャ、ローマの
思想が復活したと思っていましたが、お説のようなら、中世
神学論争においてもギリシャ的思考がベースにあったという
ことでしょうか?
458 :
世界@名無史さん:01/09/28 22:06
>最澄より後の時代です。最澄が空海に密教の書をたびたび借りたので
>空海がもう貸さんと縁切状を叩きつけたのが現存してます。
有名な「理趣経は貸さないよ」と言う奴ですね。
まぁ、密教なので内容的にアレの部分があって誤解されるのを
恐れたとか説明されているようですが。
>>457 なんか「秘教的」なイメージで延々と続いていたという風に聞きました。
460 :
アマノウヅメ:01/09/28 22:33
>>458 そうです。
しかし、ただ誤解を招くとかいうより、このような高度の理解を必要とするものは
書物だけでは理解できないという考えの方が妥当だったと思います。
文章で(しかも翻訳だし)わかると考える方がむしろ傲慢では?
461 :
世界@名無史さん:01/09/28 23:14
>>457 十字軍遠征でイスラムの文化が西洋に入った時に
アリストテレス関係の著作ももたらされたそうです。
イスラム教の神学者達によるアリストテレス解釈は西洋の
神学者達に大きな影響を与えました。
トマスもアリストテレスを深く研究して盛んに注釈をほどこしてます。
462 :
かきつばた:01/09/28 23:32
アマノウヅメさん(@455)
>最澄より後の時代です。最澄が空海に密教の書をたびたび借りたので
>空海がもう貸さんと縁切状を叩きつけたのが現存してます。
河口慧海が報告していますが、チベットでは、お経を勉強するにあ
たり、まず師匠が弟子に最初から最後まで音読する、ということを
やります。これを「ルン(lung 口伝)」といい、文面の解説をした
りされたりするのより、重要視されたりします。
「結集」以前、釈迦の教えが口伝えで伝承されていたことをふまえ
た伝統で、何らかの事情で「ルン」がとぎれてしまった経典は、文
献自体は残っていたとしても、「伝承が途絶えてしまった」と見な
され、宗教上の聖典としては「終わってしまった」ものとみなされ
ます。
とりわけ、密教経典の場合は、経文の表面的な字面の裏にある真意
は、師の指導のもと、修行のカリキュラムを段階的にこなしなが
ら、師から弟子へ順次「口伝」でつたえられるという型式をとりま
すから、経文の文字面だけ読んでもわかるものではないことは、顕
教経典以上です。
最澄が、書物を借りようとするだけで、空海に師礼をとって口伝を
授けてもらう、というプロセスを省いたとするなら、空海が腹をた
てるのも当然で、密教の世界的標準からしても、「台密」は根本が
欠落したマガイモノだという酷評も可能になります。
463 :
アマノウヅメ:01/09/28 23:45
>>かきつばたさん
ありがとうございます。
464 :
世界@名無史さん:01/09/29 01:48
しかし円仁は中国で密教も学んでるからな。
円仁から台密が始まったとしたら密教の標準から台密が
外れてるとも言い切れないのでは?
空海と最澄の絶縁が決定的になったのは、理趣経のそれではなく預かり弟子の帰還問題
からではなかったかな? 理趣経の時は絶縁というほどのものではなかったように思いますが。
466 :
世界@名無史さん:01/09/29 02:48
ああ最澄を裏切っちゃった弟子のことね。
でもあれは決定打ではあったけど根本はやっぱり思想的な対立ではないか?
手紙もそれが表に出た結果だと思う。
>464
> 円仁から台密が始まったとしたら密教の標準から台密が
> 外れてるとも言い切れないのでは?
ちゃんと口伝も将来しているなら、その通りですね。
> 天台宗関係の皆様
とてつもないヒボウ中傷を謝罪し、撤回します。
日本の宗教ではないのでサゲます。
>>461 西欧のアリストテレス受容ですが、これは少なからず緊張関係を
含んだものでした。
例えば1270と1277年には、パリ司教がアリストテレスの一部の命題を
禁止するという措置を行っています。
また、件のトマス・アクイナスですが、ドミニコ会の方ですよね。
おのずとフランシスコ会系とは意見の相違があったと思われます。
また、アリストテレス受容を語る上で、十字軍同様、スペイン経由(トレド)
も忘れてはならない気がします.アベロエス主儀とか。
スレ違いだとは思うけれど、重要かつ誤解されがちなことなので、西欧のアリストテレス受容及び、
「アリストテレス論理学と欧州中世の議論の伝統」の持つ意味について述べてみたい。
最初に「受容」についてだが、これは時代もルートも様々であって単純なことは言えないものの、
ルネッサンス期になって入ってきた、などというのはアリストテレスの場合、完全な間違いだし
またアリストテレス哲学の伝搬は全てイスラム経由だ、などというのも不正確である。
(1)まず、ローマ末期におけるボエティウスのラテン訳が存在する。これは比較的限られたものだが
アリストテレスの論理学のうち「カテゴリー論」と「命題論」はこの時点で訳され、中世を通じて
ヨーロッパで利用されてきた(いわゆる「旧論理学」)。古くから用いられてきたニコマコス倫理学
の一部のラテン訳もボエティウスによるらしい。これらは当然ギリシャ語からの直接訳である。
(2)ついで東ローマ帝国と関係の深いヴェネツイア経由ルートがあり、アリストテレス論理学の
残りの主要部分「分析論」「トピカ」「詭弁論駁論」は、ヴェネツイアのヤコブによって1128年頃
ギリシャ語からラテン語に直接訳された(いわゆる「新論理学」)。
(3)三つ目のルートはシチリア経由で、ここで行われた多くの翻訳の内、「気象論」の一部などは
やはりギリシャ語からラテン語へのアラビア語を介さない直接翻訳である(12世紀中頃)。
(4)そしてスペインのトレド経由ルートがある。ここは翻訳の一大中心地であり、12世紀から
13世紀にかけてアリストテレスの主要著作を含む多くのギリシャ古典が翻訳された。
ここの歴史的地理的環境からその翻訳がアラビア語経由であるのは当然であるが、これらのテキスト
の少なからぬ部分がギリシャ語→(シリア語)→アラビア語→(スペイン語)→ラテン語という経路を
辿って訳されたという悪条件にもかかわらず、アヴィチェンナ、アヴェロエスのような優れた注釈者が
経路の中間に存在したため、彼らの注釈をも含め、アラビア語からの翻訳は歓迎された。
このようにアリストテレスの著作はアラビア語経由で訳される以前にも、しばしばギリシャ語
からの直接訳が行われており、またアラビア語からの訳が出たあとにもギリシャ語からの訳が
すぐ出たこともあり、それらは共にヨーロッパのアリストテレス受容に大きな役割を果たした。
もちろんこれ以外のルートも存在し、アラビア語からもギリシャ語からもラテン訳が作られた
わけで、両者の実際の影響力の比率については、まだ決定的なことはいえないらしいのである。
スコラ学におけるそれ以前の主流であったアウグスティヌス学派からアリストテレス体系の
全体的受容が行われるようになったのは13世紀のことであるが、これは簡単ではなかった。
まずトレド系翻訳の経緯の複雑さによって、他人の著作(プロクロスやプロティノスなど)が
アリストテレスの著作として紛れ込んでいたり、さらにはイスラムの学者が影響を受けていた
新プラトン主義的なアリストテレス解釈が教会の伝統的ドグマと衝突したため、1210年には
パリ管区会議によって公的にも私的にもアリストテレスの自然哲学やその注解を教えることが
禁止されている(破れば破門)。その後、ギリシャ語からの直接訳の増加と偽書の除去により
異端解釈につながる要素を持った新プラトン派の影響が取り除かれたりしたこともあって、
トマス・アクィナスの体系を通じて世紀後半にはアリストテレス受容が進むのである。
(「受容」に関するこれ以上の問題はすでに哲学史の領域に属するので省略する)
次に「論理学と議論の伝統」という問題に移るが、「ヨーロッパ中世のスコラ哲学は神学を
論じる際のツールとしてアリストテレスの論理学を教えており、それにより論理的に議論する
風土が生じた」という考えは実のところ正確ではないのだ。ではどこが問題なのだろうか。
(1)中世前期までならともかく、中世後期からルネッサンス前期(13〜15世紀)にかけての
スコラ哲学のツールとしての論理学は、厳密にいえば「アリストテレスの論理学」ではない。
それは中世論理学と呼ばれるアリストテレス論理学を継承しつつもそれよりも遙かに発展し、
独自の個性を持った論理学であり、この15世紀における中世論理学の水準は19世紀後半
から20世紀初頭にかけて記号論理学が成立するまで凌駕しえないほどのものだった。
(実を言えばこのあと、スコラ哲学の衰退とともに論理学の水準はがた落ちする)
(2)論理学そのものの存在によって議論する風土が生まれたわけではない。論議すべき事柄
自体(神学論争)があったため、論理学をそういった目的のために役立てようとする精神が
生まれたのである。中世論理学には論理学書の内に付加されてはいるけれど論理学そのもの
とは一応区別しうるような、論理に沿って議論を正しく行うための様々な討議のためのルール
(レトリック的方法ではなく)があり、これらアリストテレス論理学にはなかった要素こそが
議論する風土を支えていたのだし、その風土を作っていたのもラテン語という共通言語の存在と、
(聖書等のデータを真と見なす)基本的価値観の共有だった。つまり正しい結論を得るため
正しい議論方法を求める文化風土の存在と論理学そのものの存在とは分離可能なのである。
見事な解説ありがとうございます。
教えられる事が沢山ありました。
忙中閑話
論理学にくわしい方は説明も論理的ですね。
日本人も論理的ないい議論ができるようになると
いいですね。小さい時から学校で正しい議論の仕方を
教育するのですかね。
学校教育における数学教育の目的は、日常生活に必要な
計算以後は、論理的思考のトレーニングだそうですが、
受験数学は、似たような過去の問題の記憶を使って反射的に
とかないと間に合わない、記憶力の勝負になってしまっていて
目的を見失っている。
世界史板のコテハンの典型をみせてもらった。
スレ違いがひどいがね。
>>435 宜しければ詳しく教えていただけませんか。成立の経緯、支えた人々の階層、現況など。
>>438 私などはそういったお話を聞くと、景気の関係で役人の人数が増えず、一方教育の普及で
科挙の合格者は増えていたので競争が激しかったのかなあ、などと考えてしまうのですが
そういった景気や社会の動向の影響は無かったのでしょうか。李朝は鎖国をしてましたね。
>論理に沿って議論を正しく行うための様々な討議のためのルール
インドもそうしたルールが厳密に定められてたらしいね。
決め付けちゃうと中国好きの人に叩かれそうだけど、
やっぱり日本人とか中国人とかは議論は相手を言い負かせばいそれでいい
みたいな雰囲気があって、あまり論理的な印象はないなあ。
>>450 法華経を根本とするはずの天台宗が何故密教化したかの簡単な解説だったのですが。
法華経は経中で自らを諸経の王と自賛し理屈抜きの帰依を説いています。自他の存在意義など
の分析が何も無く只持ったり読んだりをたたえるのでその点が呪術性と成ったのでしょう。
さらに、無生物をも含めて佛性を認めるので、泉やら大木やら巨石やらも佛という事になり
精霊崇拝にそのまま連なるといえます。悪をも含めた万物に佛性を認めるという間口の広さ
から幅広く受け入れられたようです。シナの天台宗は止観を基本とするので呪術性は無い
といって構わないでしょうけど。
観音菩薩の成立は謎なのですが、中央アジアまでは男だったのですがシナでは女性的要素が
顕著ですね。娘娘(ニャンニャン)神あたりとの習合かも知れません。
>>455 最澄は得度後故郷坂本の裏山の日吉の山に篭って一乗止観院としているので天台大師智を
手本に法華一乗の思想で止観を行っていた訳です。その後の半年の留学で急に宗旨を替えた
訳ではないでしょう。
片手間で学んだ密教だけが受けたので戸惑ったでしょうね。最澄の信念として聖教は万人に
開かれている事になるのでそもそも密教とは相容れなかったといえます。空海が貸さなかった
のは、行の成果を師が(最澄は空海の密教の弟子になった)認める必要が有ったのに最澄が経
だけ読んで片付けようとしたからですね。この辺を見ると最澄自身は法華経の呪術的機能は
評価していなかったといえそうです。
>>402 円仁と円珍は五台山や長安で灌頂を受けているので紛い物ということは無いと思います。
円仁は念仏を導入した事も功績といえましょう。
【荘子(後)】
>>451の続き
天地自然の理にあるがままに「因循」すれば無窮の境地に冥合すると説く。実践法として
心斎(心の物忌み)、坐忘(居ながらにして一切を忘れる)をあげる。心斎は浄土教の、
坐忘は禅宗の土台となった。
後半部分は後の人々の手によるとされ自然を人間の本性と捉える考察が進み分化している。
@天分を知り安んずる「知足安分」
A人の真性として感情を重んじ規範を無視→清談へ
B欲望を退け体内の自然を守り長生→神仙説と結合
C自然を本能的欲望と捉えその充足を図る快楽主義
総じて弱者の思想で社会への批判と逃避、内面の凝視と自由の確立による個人主義、
生命尊重、言語の軽視と体験重視といえる。全編に軽妙な寓話が多くシナや日本の多くの
人々の心を捉えた。松尾芭蕉は荘子に傾倒、江戸時代の知識人の必須の教養となった。
とりあえず老荘思想の日本への定着の検証の真似事なのですが。
>>456 因果というのは全体の一体性(どんな部分でも他のあらゆる部分と関連している)の
思想ではありませんか。また特に最初期の仏教では修行は苦行ではありません。
479 :
世界@名無史さん:01/10/01 20:02
苦行と修行をごっちゃにしてどうすんのよ?
>>456のどこに苦行が仏教だなんて書いてるの?
因果思想が全体の一体性の思想?
それはあくまで因果思想の拡大によるものだよ。
坐忘、心斎に関しても非常に都合の良い解釈をしてるみたいですね。
少なくとも老荘そのものを読む限りではそれらについては
具体的なことはほとんどわからないはずですが?
480 :
世界@名無史さん:01/10/01 20:12
うーん、老荘は俺も昔読んだけどな。
文学的には面白いとは思ったけど思想部分は曖昧だよね。
梵阿弥氏の解説を見ても何でもありのごちゃごちゃ思想って感じもする。
だから仏教とも神道とも一緒になるんじゃないの?
日本の「何でも一緒教」の精神はつまりは老荘の曖昧さに由来するものなのかも。
481 :
世界@名無史さん:01/10/02 07:56
道家の自然説は偶然説につながり、
仏教の因果説は必然説に立つということはよく言われるね。
ただし盤珪禅師の不生禅などは老荘そのまんまって感じがするな。
盤珪の禅は達磨や臨済に似てるそうだから禅宗は初期から
老荘的な雰囲気を持ってたんだろうね。
それに対して反発をしたのが道元や白隠。
必然だ偶然だよりも結局は修行に対する態度の違いではないかなぁ。
自然そのままを尊ぶならばなぜ戒律や学問が必要なのか?
そいした疑問が仏教者の中にはあったわけで、
それが鎌倉新仏教や白隠の思想につながっていったんですよね。
仏教思想で一番老荘に近いのは親鸞なのかもね。
>>479 貴方が修行と苦行を同一視なさっているかどうかは分からなかったのですが、修行というと
苦労の要素を少なからず含むといった印象を持つ人は多いのでは在りませんか。良い機会
ですので貴方の因果説や修行の定義なり見解なりを教えていただけませんか。
心斎が浄土観想と、心斎が座禅と関連しているというのは別に私一人の見解ではありません。
直に読むのも大切ですが歴史的に或る存在がどのように評価されてきたかも大切でしよう。
>>481 白隠は厳しい修行から体調を崩し肺病となりました。京都白川の白幽真人のもとで内観法と
軟そ(酪を煮詰め作る物)法を学び復調しました。真人の号から判るように白幽は道士です。
白隠著の閑船夜話はこのいきさつを記したものですが道教的語と観念に溢れています。白隠
は和風の考案を作って禅の日本化に功績ありとされます。また白隠以後の臨済禅はほとんど
の系列が白隠に連なります。曹洞宗の良寛は仏典ではなく「荘子」のみを持っていたと
同時代の見聞に記します。
483 :
世界@名無史さん:01/10/02 10:31
梵阿弥氏の道教と仏教の同一性の説明の方がずっと興味あるな。
全然説明もせずに一緒だ一緒だと言ってるだけにしか見えんが。
ついでながら良寛は道元の正法眼蔵を常に持ち歩いてたはずだが・・・
484 :
480=483:01/10/02 10:41
つーか道教と仏教って何なの一体?
そこからして全然わかんない。
485 :
世界@名無史さん:01/10/02 11:07
因果ってのは原因があって結果が生ずるってことじゃないの?
486 :
世界@名無史さん:01/10/02 11:19
心斎、坐忘に大きな違いはありません。
この二つが実践法として座禅と同一視されたのは仏教伝来後です。
禅法の起源はインドのヨガです。
487 :
世界@名無史さん:01/10/02 11:59
>>477 円仁が灌頂を受けたのは揚州と長安でした。五台山は当時念仏が盛んでその風を持ち帰った
訳ですが密教の灌頂を受けるような処ではなかったようです。円珍は長安で灌頂を円載と
伴に法全から受けています。失礼しました。
>>482 心斎が浄土観想と、坐忘が座禅と でした。下から3行目の考案は公案です。
>>483 時期によるのかもしれません。彼は道元に私淑しますが深刻な挫折を味わったそうです。
良寛といえば何と言っても子等と戯れる出雲崎在住の時期でしょう。
>>486 ヨガの流れを引くのは禅定でしょう。これは律僧たちが禅宗成立以前に行っていました。
六祖慧能以後禅宗は南北に分かれまして、北宗は僧神秀が体制とつながり一時盛んになり
ますが程なく消えます。神秀は博学で諸宗兼学の傾向があり漸悟を旨としました。これは
禅定の流れを引くと考えられます。北宗の一時栄えた洛陽は古くから西域を通じて
インドの佛教が根付いていて、インド佛教の主流である漸悟を採ったのもその為でしょう。
一方の南宗は破佛を乗り越え今に続きます。文字を軽んじ頓悟を旨とする点、僧も雑事を
行い明確な聖俗の区別をつけぬ点はシナの民族性とされ、それ故連綿と続いたとされます。
そして南宗の様式を生んだのは老荘的世界観だとされています。
私はこのシナの民族性とされるものが果たしてシナだけなのか、日本の民族性とも
通じているのではないかと考えているのです。
489 :
世界@名無史さん:01/10/02 15:09
というか結局は仏教と老荘は別物なんじゃないの?
中国の思想を受けて中国で仏教が変革したということは・・・
禅定の起源がヨガなら尚更坐忘は坐禅の元ではないような・・・
中国仏教が老荘の影響を受けたというだけで。
良寛が永平録を読んで感涙の涙を流す詩を書いたのは
出雲時代でなかったか?
夜船閑話を根拠に白陰を道教思想と主張するのも強引なような・・・
それは単に道教の方法を取り入れただけで
根本の思想が同じという意味ではないと・・・
老荘と日本の民族性が共通するという考えには同意。
神道は古代から道教と同じような傾向を持ってたとおもう。
>>489 佛教がシナに伝わったのは2〜3世紀頃のようです。従って紀元前に著の荘子の坐忘はそれ自体
は禅定とは無関係ですね。ただ私が気になるのは、インド〜中央アジアの禅定を受け継いだ
北禅が破佛後あっさり消えたのに対し、南禅は教団道教にも影響を与えながら今に続いている
事です。シナに佛教は常に北から入ってきました。従って北の佛教ほど非シナ的であり南ほど
シナ的です。禅宗も浄土教も南で盛り上がったのです。坐忘がどのように受け止められて来た
のかはあいにく存じないのですがインド由来の禅定がシナ的な座禅に変わってゆく上で土台と
なったという巷間の説に賛成します。
491 :
世界@名無史さん:01/10/02 16:07
禅の基本となった円覚経は中国で作られた偽経らしいですね。
道元が円覚経を偽経だと主張していたのも有名な話です。
彼の思想が老荘と対立するものだとしたら、
やはり円覚経に老荘的なものを嗅ぎ付けたのかもしれません。
だとしたら当然円覚経を尊重する禅宗は老荘の影響を
多く受けてるということになりますね。
これは近世の古文辞学派が朱子学を否定して孔子に帰ろうと
したのと同じような純粋性という、
これまた日本の民族性の一面である気がします。
一方で純粋なものを求める性向を持ち、他方では何でもあり
の複合宗教になっていく。
この日本の思想の傾向はおもしろいです。
寛容さに対する反発としての純粋性ということなのでしょうか?
それと私は456ですがまぎらわしいけど479氏は別人です
【老荘思想のその後】
淮南王劉 安(劉邦の孫、?〜前122)ら著の淮南子は老荘の哲学を基軸として、教育を重んじる
儒家と法治を重んじる法家、さらに兵家などの思想を取り込み政治、経済等の動きの体系化を
試みる。老子と易の説を混合し、無→道(太極、元気)→陰陽→万物 の宇宙生成論を説く。
後に儒家が宇宙論として採用した。また不老長寿の呼吸法を紹介し神仙説へ連なる。
3〜4世紀
@玄学:王 弼や郭 象ら、万物の本体を無に求める形而上学の立場から哲学を儒家に対し
確立。無→道→太極(一元気)→陰陽→万物 とし太極から切り離して道を理として
重視。釈迦佛が道を得てしかも衆生に応じて道を説く姿に影響を受けたと見られる。
社会、政治的に完成されたものを聖人とし隠遁を軽んじ孔子を最高の聖人とする。
儒佛道の三教一致の基礎を用意。
A清談:六朝に流行。逍遥遊、音声と感情、言語と思考と才能、養生法など、後には儒佛
も論じる。社会の混乱の中で山林で優雅に暮らす。典型とされる竹林の七賢人は
「万葉集」や「懐風藻」以来知識人の憧れの的となった。
B列子:紀元前の列子の名を借りたもので雑多な論の集合だが、荘子的道の宿命論の
延長の快楽主義が中心。
5〜6世紀 浄土教と禅宗が形成される。
11世紀 宋学に理の理念が取り込まれる。以後一家としては衰退するが調和、簡素、平和、
自然愛好、自由な個人主義はシナ人の民族性として揺ぎ無い。美術、造園、詩、喫茶法
などに顕れている。日本の美意識もこれを受け継いでいる。
494 :
世界@名無史さん:01/10/02 20:06
むしろ道家が仏教全盛時代に仏教の影響を受けて
座禅と坐忘を同一視して解釈し、
それが逆に禅に影響していくことで禅の中国化が進んで行ったのでは?
495 :
時任 サブ:01/10/03 00:28
北島サブさんの「まつり」を聴くと、
国風のアニミズムの昇華を見い出す。
落語家の円生とか夏目漱石なんかは道教の影響を
受けてそうな感じ。
>>481 凡夫が固定観念に囚われた目で見ると偶然でも覚った物=佛陀から観れば必然という事では
ありませんか。「荘子」の庖丁の話なんかを見ると目の前の現実を体得して道に至ると言って
いる訳で同じ事ではないかと思いますが。
無量寿経は道教的語や観念が非常に濃いのだそうです。翻訳の時期や場所の影響ではないかと
考えられています。一方、観無量寿経はインドやチベットに無いのでシナ製ではないかとされ
ています。心中に浄土を観想することは自然賛美や心斎に連なります。親鸞の徹底した
他力本願を含め浄土教と老荘の関連は色々ある訳です。
>>483 >>489 良寛が書物は荘子一つしか持たなかったというのは若い頃の諸国行脚時代の話の
ようです。その前後のことはいまは存じません。
>>496 どんな点なのですか?
>>470 スコラ哲学ひいては論理学の水準ががた落ちしたの原因はどのようなものなのか
おしえていただけませんでしょうか。
私としましては正しい議論方法を求める文化風土の水準と論理学そのものの水準とは
比例関係にあるのではないか、したがって分離しがたいのではないかと思うのですが。
>>491 ドイツのルテルや北米のイエス再臨派、イスラムのワッハブ派、ラスタファリズムなど皆
原点に返ろうと唱えています。新たな分派は皆原点回帰を唱えるという構造があるようです。
従って日本ならではの傾向とは思えません。寛容さに対する反発ではなく社会の変化に対し
教条の乖離が激しくなった時に現実的立場の人々が昔の有名人を担ぐのでしょう。また単に
担ぐというより教祖と目される人はその時代の現実をを鋭く洞察し人々に示したわけで、
その方法論を異なる時代や地域に当てはめれば出てくる答(教条その他)は当然異なる。
方法論が同じであれば同じ思想的団体と見なして良いと考えます。私は教条より方法論に
注目します。教条がなぜ変わり難いのかについては無謬性を表すとされるからです。
…別のお方でしたか。紛らわしいですね。
499 :
世界@名無史さん:01/10/03 14:40
>>497 斉物論編では明らかに荘子は必然説を否定してますよ。
自然=自ずから然り、とするわけだからやっぱりその点では
仏教(特に原始仏教)と荘子は違うのでは?
仏陀は縁起を悟ったから覚者と呼ばれたわけで、
覚者の眼から見たら物事は必然だという説は逆だと思います。
仏教は元々は苦悩の原因を突き止めて一つ一つそれを排除しながら
生きていくという宗教だと思うのですが。
そのための具体的な方法、条件として戒律等が考え出された。
道家思想というものは元来非常に楽観的な思想だと思います。
無為にして自然にうち任せればいい、ではほとんど現実的な力を
持ち得ないし、また人は現実から離れては生きていけません。
そこに具体性、現実生を持たせるために仏教や儒教などが道家に
大きな影響を与えていったのではないでしょうか?
その途上で荘子や老子の解釈が仏教的なものになっていったのだと思います。
>>499 まず荘子の自然(じねん)というのは儒家が周の礼(法制等)を貫こうと躍起になっているの
に対してもっと現実をみよ、一人一人が時代に沿って生きよという事なのではないでしょうか。
なにもひたすら横になって餓死せよとした訳ではありませんね。司馬遷が道家と法家を関連
付けるのもその為で、周礼と異なる、時代に合った決まりを國家の手で運用するというその現実
主義からきています。もっとも法家の申不害と韓非子は荀子の弟子なので複雑ですね。
佛陀(Budda)とは覚った者(497で物と書いてしまった)という意味ですが、何を覚(悟)った
かと言えば縁起や因果の必然性という事なのではありませんか。そして荘子の自然は人為では
いかんともしがたい運命的な動きなのですが、先入観に囚われない眼で現実を観て体得せよ、と
説いている訳で…私にはちょっと違いが解りませんね。
戒律の類が無かったらしいのは確かで、歴史に現れるのは3世紀の太平道と五斗米道からですね。
これらは治病が売りでしたが、病はその人の以前の悪行の顕れとし懺悔した上での御札や聖水の
祈祷を行いました。既にそういった善悪観があった訳です。ただインド以来実績を持つ佛教の
具体性が老荘に大きな影響を与えたのは確かです。浄土教と禅宗の興隆もその点から理解出来
ます。一方で漢人が佛典を翻訳するに当っては当然在来の用語や観念に則っています。盂蘭盆経
や仁王般若経、観無量寿経のようにシナ製とされる経もあります。この融合の様子は私には捉え
切れませんがさほど異質な物の継ぎはぎの印象は受けません。勿論異なるからこそ役割分担的に
融合が進む場合もありますが。
道家のある種の無責任さは法家との関連性を調べる事によって何か見えてくるかも知れません。
502 :
世界@名無史さん:01/10/03 16:37
>先入観に囚われない眼で現実を観て体得せよ、と
>説いている訳で
荘子を読む限りではとてもそうは思えないけど・・・
それこそ後世の解釈ではないですか?
それに何故それが縁起や因果と同じに見えるのかもわからない・・・
白幽(?〜1709):石川丈山の師友。白川の山中に住し老子と金剛経と中庸を座右とする。
筆法超凡仙境人の如し。長寿で2百余歳説。白隠に内観と軟酥授け肺病を治す。
…とされるもののまとまった記録は白隠の夜船閑話しかなく、東山の一隠者に仮託して
白隠が創造した人格ではないかとも言われています。もう一人の白隠なのかも知れません。
名前も似ています。
>>502 庖丁や木鶏の話はどうでしょう。技術の習得を通して道の体得を説いているのでは?
504 :
世界@名無史さん:01/10/03 17:46
包丁の話は単なる例え以上のものには見えない。
それに無為自然とか自然礼讃は行き着くところは
横になって餓死するとかじゃないと思う。
行き着くところは天台本覚思想のような形になるんじゃないの?
505 :
世界@名無史さん:01/10/03 18:16
うーん、俺は仏教も道家もどっちもよく知らないけど、
やっぱり道家思想っていうのは儒教に対する反発から出てきたんだろなぁ。
506 :
世界@名無史さん:01/10/03 18:19
とりあえず仏教も道家も全体としては矛盾が多そうだし、
解釈によって色んな宗派があるんでしょう?
同じか違うかなんて議論は果てしがないんでないの?
単純な話、名前が違うから違うっていうか・・・
俺からしたらキリスト教と仏教の違いさえわからんしなあ。
日本の宗教の話に戻しましょうや。
>>498 >スコラ哲学ひいては論理学の水準ががた落ちしたの原因はどのようなものなのか
>おしえていただけませんでしょうか。...............................................(前半部)
>私としましては正しい議論方法を求める文化風土の水準と論理学そのものの水準とは
>比例関係にあるのではないか、したがって分離しがたいのではないかと思うのですが。..(後半部)
質問の前半部と後半部との意味的なつながりが少し分かり難いのでバラバラに回答することにする。
まず後半部への回答:20世紀において論理学は爆発的な発展を遂げ、百年前と現在とを比較すれば
大学院生と小学生ほどの学問水準の差があるといえる。だが「正しい議論をする文化風土の水準」
は百年前と比べさほど変わっていない。従って「正しい議論方法を求める文化風土の水準と論理学
そのものの水準」とが比例関係に無いことは明らかで、両者の分離可能性もまた経験的事実である。
次に前半部への回答:16世紀以後19世紀半ばに至る「ヨーロッパ近代」においてスコラ哲学と
ともに論理学の水準ががた落ちしたのは疑う余地のない端的な事実であるが、その原因については
他の歴史的出来事に関する原因と同様に多様な見解があり得る。普通挙げられる原因は以下である。
(1)宗教改革において、カトリック教会内でそれまで積み重ねられてきたスコラ哲学の理論的内容
のみならず、そのツールである中世論理学にまでプロテスタント側からの批判が及んだ。その結果、
カトリック内の改革派であるポールロワイヤル学派やプロテスタント内のピュリタンは新しい内容を
持った神学を提示するだけではなく、中世論理学に代わるツールとして新しい論理学をも提示した。
前者のそれはポールロワイヤル論理学、後者のそれはラミスト系論理学と呼ばれるものであるが、
両者とも外見こそ新しいものの論理学そのものとしては中世論理学より遙かに水準の劣るものだった。
要するに坊主憎くけりゃ袈裟まで憎い、と単なるツールである中世論理学まで否定してしまったこと。
(2)経験的事実を軽視し、自らのドグマを基準たるべき真としていたスコラ哲学が、経験科学の発達
に対ししばしば反動的な役割を果たしたため、近代における経験科学の勝利とスコラ哲学の没落の後
後者の理論的内容だけではなく、そのツールである中世論理学もまた煩瑣で無意味なものと考えられ
軽視される傾向が助長された。つまり(1)と似た現象がこちらからも中世論理学に対し生じたこと。
(3)これらと関連して進んだ(しばしば聖書の俗語への翻訳が原因となる)各「国語」の誕生により
ラテン語という統一性が崩れスコラ学の長所たる国際性が維持し難くなり水準の低下を招いたこと。
>>507 コテハンを揶揄するつもりはないが、
待ってましたとばかりレスしてくるね。
>>507 丁寧なお応え有難うございます。私はスコラ哲学も論理学も存じないのでよく解らないのですが、
○「後半部へのご回答」に:学問の発達には時間がかかります。100年前と今と比べ「正しい議論
を求める文化的水準」がさほど変わらなくとも「論理学そのものの水準」が小学生から大学院生
まで高まるには時間が必要であって比例関係に無いように見えるのはその為では無かろうかと
思うのですが。宜しければ爆発的発展のきっかけが何だったのか教えて頂けませんか。また学会
内の水準と別に学会の水準自体への世間の評価というものが長期的には影響するように思えます。
○「前半部へのご回答」へ:中世論理学が高度であったにもかかわらずスコラ哲学が現実と乖離
したのは何故なのでしょう。式に代入する要素が誤っていたという事なのでしょうか。
論理学の急激な発展ってのは記号論理学の登場によるものじゃないの?
もはや正しい議論を求めるとかのレベルを超えた専門的な次元に突入して
しまったのではないかと。
スコラ哲学が現実と乖離するのは不思議じゃないでしょ。
聖書からの演繹推理ではいくら論理学が発展しようと現実的なものにならんでしょ。
科学の基本は帰納推理なんだし。
とか偉そうに書いたけどハンドル通りの素人厨房なので中身は適当です。
512 :
世界@名無史さん:01/10/04 15:20
論理学が発達したら現実から乖離しないという発想が謎だ。
【契沖】:「やま川の亀の心をこころにて 尾をひくことをならひてぞすむ」荘子中の
尾をひく亀の故事を引く
【賀茂真淵】:「老子てふ人の、天地のまにまに言はれしことこそ天が下の道には叶い侍るめれ」
「天地とともにおこなはるるおのづからの事こそ生きてはたらく物なれ」共に國意考
「異朝の道は方なり、皇朝の道は円なり。ゆえにかれと甚だ違ふを、孔子などの言を信ずる故に
聞きがたし。老子荘子などを見候はば、少し明らめも出来ぬべし。是は天地自然なれば、神道に
かなふ事あり」書簡
【本居宣長】:「かの老荘はおのづから神の道に似たること多し。これさかしらを厭て自然を尊む
が故なり」くず花
【平田篤胤】:赤県太古伝で老子道徳教、淮南子、列子、山海経、呂子春秋、漢武帝内伝、
三五暦記、術異記、枕中記、岳とく(ミ+賣)名山記など引用し日本とシナの神道の同一性を
考証。東海少童君=少名毘古那など。「老子の伝えし玄道の本はわが皇神たちの早く彼処(以前
シナ:私注)に授けたまいし道にして」「我が神典の神ながらの道、神道と異なることなし」
>>483>>498 近藤万丈の「ねざめの友」に良寛が荘子しか持っていなかったと記すそうです。
514 :
世界@名無史さん:01/10/04 20:04
子供達と遊び、詩を読み、気侭に暮らす生活。
誰もが思い浮かべる良寛像。
だがそんな自分に対して良寛は満足していたわけではなかった。
最後までそんな自分に対して自嘲的だったようだ。
当代の堕落した僧達への怒りと自分自身の仏道修行での挫折感、
そしてそれが故に後世への期待は良寛が最後まで強く抱き続けたものだった。
おそらく荘子は風流の道に生きることで挫折感を紛らわせていた
良寛のなぐさめの一つだったのではないだろうか。
515 :
世界@名無史さん:01/10/04 20:07
>>513 あの・・・・
がいしゅつですけど宣長は同じ「くず花」の中で老子批判を行ってるんですが・・・
あなたの説によると宣長も安藤昌益も仏教も全て道家思想なんですよね?
でもこの三つが同じ思想だなんて考える人間は誰もいないと思いますが・・・
>>509 >学問の発達には時間がかかります。100年前と今と比べ「正しい議論 を求める文化的水準」が
>さほど変わらなくとも「論理学そのものの水準」が小学生から大学院生 まで高まるには
>時間が必要であって比例関係に無いように見えるのはその為では無かろうかと思うのですが。
私は論理学は現に急速に進歩したのに「正しい議論 を求める文化的水準」の方はさほど変わっていないから、
両者の水準が比例関係にあるとは思えない、と論じたつもりなのだが、意味が通じていないのだろうか?
何度読んでも上記の引用部分の意味が理解できずに困惑しているのは私だけではないと思う。
あと、残りの部分については、私は基本的に510氏(「素人厨房」氏)が言われる通りだと思う。
即ち、論理学発展の原動力が記号論理の登場であり、それにともなう数学化の進展であること、
また科学の基本は、特定の経験的(諸)事実をもたらした原因を考える帰納推理と、
そこから得られた仮説を確かめるための実験による検証との、理論的実践的な組み合わせであって、
これは聖書の内容を真として、ここからの演繹を専らとする中世論理学の得意な分野ではなかった、
という510氏のご意見には私も全く同意である。
ただ、あと一つ論理学発展の理由を付け加えれば、まさに論理学の水準そのものが上がったために、
再びそれがいろいろな方面で「使える」強力なツールになったことが挙げられると思う。
なお論証においては、たとえ形式面では正しい論理法則や推論方法に基づいた妥当な論証が
行われていたとしてても、そもそもの前提となる事柄が間違っていれば正しい結論は得られず、
その論証は失敗に終わる。この点は梵阿弥氏が想像されている通りである。
>>501 buddaでなくBuddhaでした。どうもすいません。
>>513 並べて書きましたのは、本居宣長、平田篤胤のいずれも師を批判している事、賀茂真淵を含め
いずれも自身こそが自然であり他を賢しらと見なしているという共通点が見られる為で
>>498 の後半に書いたように権威に対し歪曲していると批判しながら原点回帰を唱えるという一例と
して取り上げたのです。本居や安藤の老子荘子自体への非難もその枠組みで捉える必要が
あります。一体何故同じ事が繰り返されるのでしょうね。
道家とは佛教よりバラモン教のウパニシャッドの方が実践性の薄さからより近いと言え
そうです。ただ佛陀自身が過去の賢者の道を辿っていると考えていたらしいので、佛教と
道家の共通性を考えるのは大いに意味があると考えます。
【倭〜日本における老荘思想の定着:前】
厩戸太子が定めた官位は徳=紫、仁=青、礼=赤、信=黄、義=白、智=黒で道教で尊ぶ徳と
紫を最上とする。儒は紫を卑しむ。十七条憲法に荘子斉物篇からの引用。
「懐風藻」に竹林の七賢人への憧れ中心に老荘由来の語や観念多出、作者に隠士民黒人の名。
大伴 旅人は万葉集に竹林の七賢人に因む歌読む。
空海は「三教指帰」で佛、道、儒の順で評価。
仁明天皇は老荘を通覧、父淳和と共に金液丹などで治病。
醍醐天皇の兼明親王や慶滋 保胤は隠遁し老荘的詩を詠む。
西行や吉田 兼好の作品に老荘由来の語多数。
室町時代に禅僧が老荘を研究。それを受け林 羅山ら経て荻生 徂徠と門下が研究。以後徂徠派
と折衷派が多数の注解書、幕末の帆足 万里、岡谷 甕谷に至る。太宰 春台、服部 南郭、
海保 青陵、亀井 南冥ら老荘由来の号。
荘子に傾倒した松尾 芭蕉以来俳諧は軽妙を旨とする。蕉門のみならず小林 一茶も愛好。
南宋画の流れを引く南画(文人画)は元来老荘、禅的で中山 高陽、池 大雅、与謝 蕪村ら
好んで題材に老荘等をとりあげる。
丈艸、惟然房、幻阿、良寛ら禅僧も老荘的詩作多数。
洋風画家の司馬 好漢は生前に死亡通知を知人に配るが、老衰し老荘の如きを楽しむ、と書く。
【倭〜日本における老荘思想の定着:後】
安藤昌益:「自然真営道 」は荘子の表現や相対化の観念と関連し身分制を批判。
老子荘子自体は不耕貪食として排撃。
三浦梅園:「玄語」を著し反観合一で宇宙の構造を究明する条理学をなす。息子に黄鶴、
玄亀と命名。上清派の陶 功景を慕う。
1628年「醒酔笑」:安楽庵策伝、荘子を引用。
1727年「田舎荘子」:佚斎樗山、程なく外篇も刊行。
1743年「面影荘子」:冥山・田長子(田中甚助)。
1753年「都荘子」:信更生。
同時期に「都老子」:梨春、「夢中老子」:燕志堂、「老子形質」:新井 祐登、
「造化問答」:安居斎宗伯 ほか通俗的解説。
上田 秋成の剪枝畸人、大田蜀山人など戯作者に老荘由来の号は多い。
坪内 逍遥、相馬 御風、中江 兆民、幸田 露伴、幸徳 秋水、吉井 勇、岡倉 天心、
双葉山、湯川 秀樹など近代にも老荘愛好者は多い。
520 :
世界@名無史さん:01/10/05 19:13
いくらなんでも昌益が老荘っていうのは暴論だと思うぞ。
三浦梅園も全然違うし。
521 :
世界@名無史さん:01/10/05 19:27
老荘と仏教の一致する部分は無常観と実体否定でしょう。
しかし老荘は実体を否定しながらも道という
人智で捉えられない実体との一体化を目指しているようにも見える。
華厳思想などはその意味で老荘に似てる気がする。
ただ華厳思想のような諸物間の関係性の論理は老荘には稀薄だと思う。
元々「これあるがゆえにかれあり」の縁起の思想と
「これはかれにもなりうる」の相対化の思想は違うものだからね。
そこから導き出される結論に共通性があっても論理の展開において
違いが出てくるものなんだろう。
ここには理論的抽象的な思考を好むインド人と具体性を重んじる
中国人との民族性の相違が現れてるのでは?
522 :
世界@名無史さん:01/10/09 08:24
宗教はかなりの確率で根本的な部分では共通するものがあると思う。
>>516 はい、>509のご指摘頂いた所は解りにくいですね。自分でよく解っていない事を安易に人に
尋ねるとああ成ってしまいます。で肝心な事を書き忘れていました。論理学の爆発的発展に
先立ち「正しい議論を求める文化的水準」が揚がっておりそれを追いかける形で論理学の水準
が上がったという見方は成り立たないのかな?と思ったのです。私が証拠を握って居る訳では
なくてほんの思いつきですが。
「正しい議論を求める文化的水準」はどのようにして測ることが出来るのでしょうか。宜し
ければ取っ掛かりだけでも示して下されば幸いです。
>>521 老子荘子に於いては韜晦されていた関係性の論理は後に陰陽五行による理論化が図られた
といえますね。ただ安易に図式化した印象がありますが。
524 :
冥府の"管理"人:01/10/09 13:56
霊魂などないし、転生もない。天国もなければ、地獄もない。ただ、冥府があるのみ。
人間は家電製品のようなもの。ある種のエネルギーが肉体に宿ると動き出す。
つまり、肉体にエネルギーが宿ると「生」、失うと「死」ということになります。
一度、エネルギーを失っても、再びエネルギーが宿れば肉体は復活します。
エネルギーは外から与えられることもあれば、肉体が自家発電を行なうこともあります。
原料は感情です。怨みの情が最も強いエネルギーを生み出します。
よって、怨みをもって死んだ人間は、怨みのエネルギーで復活することがあります。
死者は地中に埋められると、冥府の職員が回収しに行きます。そして、少量のエネルギーを与えられて、しばらく冥府の職員として働いてもらいます。
さだめられた期間を過ぎると、死者の肉体は再び地中に戻され、大地の糧となります。
これが、日本の(新興)宗教です。みなさん人から怨まれないようにしましょう。
"管理"ってダメなんだっけ。
忘れてた。
526 :
世界@名無史さん:01/10/09 16:04
老子荘子においては韜晦されていたんじゃなくて単になかっただけだろう。
陰陽五行説も関係性の論理というよりは宇宙論だと思うが。
527 :
世界@名無史さん:01/10/09 16:06
なかったというか関心が薄かったからほとんど追求されなかった。
【岡倉 天心】「宗教について、ここであなた方―欧米人―が意味されるようには、東洋における
我々は考えない。この用語は西洋諸国ではより狭義の意味で理解されている。我々にとってそれは
必ずしも礼拝の形式を意味せず、神の概念すら含んでいない。その点、我々の意味では、ある人間
が不可知論者でもなお宗教的である。より高い理想のためには死にいたるも堪えうるような、俗世
を超越できるそのような信念を、我々は宗教と理解するのである」「禅宗は老子の影響による」
「茶道は変身した道教であった」「変化こそ唯一の永遠なるものである」老荘(老子教と呼んだ)
に傾倒、幼名角蔵から道教的な覚三、天心、渾沌子などの号を用いる。
【井原 西鶴】道教的墓に葬られ銘に仙皓西鶴と刻む。
【池 大雅】富士山、立山、白山に登り三岳道者と号す。
江戸時代の人谷口 一雲は道師を持って任じ神仙術等を講ずる。
>>520 安藤 昌益は男女、善悪など互いに相対的関係でお互い活かし合い存在し成長=互性活真
を説いています。万物斉同の一解釈といえると思います。また安藤にの住んだ八戸に
神山 仙確という弟子が居て、安藤の在りし日を語っています。名前が神仙的で、
そういった要素を悉く毛嫌いした訳でも無かったかもしれません。
三浦 梅園自身は西王母を好んだり、道教的なものがとにかく好きだったようです。
彼の独特の思想とどう繋がるのか興味深いですね。
529 :
世界@名無史さん:01/10/09 17:43
そりゃ万物斉同じゃねーよ。
互性っていうのは相対性とは全くの別物じゃないのか?
対立する物は相互依存の関係にあるが故に二対をもって一とする。
そしてその対立関係が生み出す変化によって世界は成り立っている。
そういう思想だろう?
荘子流の相対論だと対立関係に見えるものは見方を変えれば
対立関係にはないという方向に議論は発展していくはずじゃん。
依存関係と相対関係を一緒くたにしてんじゃないの?
530 :
アマノウヅメ:01/10/09 18:29
>>519 井原西鶴のお墓はごく普通の作りとしか見えませんでしたが。
生涯にに書き残したモノから見てもとても老荘思想を奉じていたとは考えられません。
仏教・儒教・神道をほどほどに信じていたようで、宗教面においてはごく普通の
インテリ町人でしょう。
安藤昌益には共産主義者という解釈もあり、それは極論だとしても老荘思想よりは
まだ理解できるように思われます。
あんなに激烈に為政者を非難するのは老荘の道から外れます。
531 :
世界@名無史さん:01/10/09 18:45
老荘は儒教や仏教と共に日本の文化の基盤になってるんでしょう?
欧州の文化をキリスト教やギリシャ文化から切り離して考えられない
ように、日本の文化も老荘につながるものはそれぞれ持ってる
ことは持ってるのでは?
532 :
世界@名無史さん:01/10/09 18:57
湯川秀樹が荘子を深く愛していたという話は有名ですな。
533 :
アマノウヅメ:01/10/09 19:14
>>532 それは湯川氏自身がはっきり表明してますから疑う余地はありません。
しかし、老荘が好きですという日本人は例外的でしょう。
どの政権も奨励しなかったし。
自然に入ってきたということを全面的に否定はしませんが、仏教、儒教とも
外来思想として学問的な形で入ってきているので老荘の影響を過大に考えるのは
行き過ぎでしょう。
534 :
世界@名無史さん:01/10/10 08:47
国学の敵は当時の支配的思想だった儒教だった。
それなら同じく儒教に反発することによってその思想を形成していった
道家に国学が接近していくのは自然な流れだったのでは?
日本の民族性に道家が深く関わっていたからというよりは、
その成り立ちにおいて国学は老荘と近親性を持っていたのではないか?
このスレ読んでると手塚治虫の「火の鳥太陽編」を思い出す。
さて、老荘思想の日本への定着、消化吸収の点は一段落つけさせてもらおうと思います。
>>301に於いて道家と道教団の関係への見解が3つに分かれていると紹介しました。何故分かれた
のか謎解きしてみましょう。
@日本:老荘思想は深く根付いているが道教団との接触はほぼ無かった。陰陽道など呪術面での
関係は深いのだが9世紀頃から交流が薄くなり風土に合わせてそれぞれ変容した為見かけが
違ってきた。シナの権力と癒着した有力教団への違和感はむしろ当然。脱亜入欧の気運もあり
シナの風習への評価も低くなり日本の風習との共通性など考えたくも無かった。
A中華人民共和国:共産政権のせいもあり呪術的な要素への公式の評価は低い。しかし私的には
長年の風習には根強い愛着がある。一方で老荘思想は人格神の否定など近代的に評価できる面
も有り國際的に評価も高い。そこで教団が堕落と捉えることになる。
Bフランス:ヨロッパから見ると老荘と道教団の微妙な差が解りにくい。また東洋人は非理性的
で当然といった思い込みがある。
私がフランスの見解を重んじるのは、何も無い所から老荘のような高度(実践性は有りませんが)
なものが出て来ることは無かろうという考えによります。アンリ・マスペロ氏は老荘を生み出した
団体が神秘的修行を行っていたのだろうとしています。その根拠は知りませんが。私はむしろ
法家や墨家との関連を考えています。記録上道家が道教団より500年程早く現れるのも他の団体
等に埋もれて居た為ではないかと考えます。法家の一派といった形で君主を取り巻いていた人々
から文書として老子荘子が現れ、一方壊滅した墨家の中から道教団の母体が生まれ、民衆的で
あったが故に記録に出るのが遅れたとすれば時間差の説明となり得ます。道家、法家、墨家、と
はっきり分かれる前を想定すれば同一の世界・人間観が生み出したものと捉えることができ、
その後の融通無碍さの説明にもなり得るでしょう。
537 :
世界@名無史さん:01/10/10 10:21
うーむ、バラモン教が仏教を生み出したようなもんか?
>>529 荘子を文字通り解釈すれば貴方の見解の方が素直でよいと思います。ただ淮南子以後は陰陽五行説
と結びつき斉同の一段前に陰陽を置いています。また、例えば甲は乙に対しては陽だが丙に
対しては陰、と循環的に存在していると話を進めれば五行説に連なります。荘子も、いまの此処は
自分があそこに行けばあそこになって、今のあそこが此処になる、と説いているので理論的一進展
といえるでしょう。三浦 梅園の反観合一も万物は正反対の性質を共に持ち、他との関係で或る性質
を顕しながら他の性質を内蔵して存在するというものですね。依存と相対の観念が決して相容れぬ
とは思えません。
>>530 井原 西鶴の墓は半円形の土饅頭ではありませんでしたか。岡倉 天心の墓がそうで道教的墳墓
なのだそうです。日本に於いて「ごく普通」の人が道教なり老荘なりに心を寄せてた一例です。
老荘思想そのものではありませんが白蓮教など道教団は反権力的組織として常にあり、度々蜂起
しています。かれらは弥勒菩薩などと共に老荘になずんでいたはずです。反権力的(どう行動
するかは別として)なのは特に荘子の特徴です。
>>533 どの政権も奨励しなかったのに根付いているのは何故なのでしょう。だからこそ日本の風土や
心象との類似性、親和性を感じるのです。また、松尾 芭蕉(造化に従い…等々作品内で度々
触れています)や池 大雅などは人々に大変好かれていると思いますが。「老荘だ」と意識せずに
似たような振舞いをする所に業の深さを見ます。
【道教と日本文化 著:福永 光司】
目次:日本の古代史と中国の道教、日本古代の神道と中国の宗教思想、八角古墳と八稜鏡、
聖徳太子の冠位十二階、山上憶良と病気、平安時代の道教学、風に乗る仙人、中江藤樹と
神道、江戸期の老荘思想、益軒の「養生訓」と梅園の「養生訓」、三浦梅園と「荘子」と
陶 功景、三浦梅園と道教、日本人と老荘思想、岡倉天心と道教、「木鶏」の哲学、
「観音経」と道教、京都と大陸の宗教文化、道教の研究と私
帯より:〔道教とは何か〕
「道教とは、中国のシャーマニズム的呪術信仰を基礎とし、その上部に儒家の神道と祭祀の
儀礼・思想、老荘道教の「玄」と「真」の形而上学、さらには仏教の業報輪廻と解脱、ないしは
衆生済度の教理・儀式などを重層的・複合的に採り入れ、隋唐の時代において宗教教団としての
組織と儀礼と神学とを一応完成するに至った、”道―世界と人生の根源的な真理―の不滅”と
一体となることを究極の理想とする中国民族の土着的・伝統的な宗教である。」
(本書あとがきより)
刊行:人文書院 京都市伏見区竹田内畑町9 075-603-1344
筆者は、日本に於いて「道蔵」原点に当っての研究を長く続けてこられた数少ない方です。
540 :
世界@名無史さん:01/10/11 09:14
>>538 相容れないものでがないけど違うものだと言ってるのよ。
相容れさえすればどんな思想もあんたにとって同じなのか?
昌益や梅園が五行説を利用して自己の思想を展開したのは
有名な話だけど、だからと言って昌益や梅園が老荘の徒だなどと
主張するのは無理がありすぎる。
そんなことを言い出せば当たり前の話ながら、
昌益や梅園には仏教の影響も朱子学の影響も見出せるよ。
道教だって他の思想の影響を受けまくって変質していってるんだから、
共通するものを見い出そうとすればどこかに見つかる。
541 :
世界@名無史さん:01/10/11 10:22
>>540 ムキになるなよ・・・・
老荘思想は儒教とともに中国文化の土台となった思想だから、
中国文化に多大な影響を受けた日本の文化に老荘的なものが見られる
のは当然のことではないか?
仏教、儒教、神道等と共に日本人の精神的な部分には老荘的な部分が
あるものなんだろう。個々の思想が老荘かどうかというのは
別問題で、欧米の文化や思想がキリスト教的なものを無視して語れない
のと同じだろう。
ていうかスレ本題に話を戻さない?
【斎しょう(酉+焦)】
道教に於いて、斎は斎戒、「しょう」は祭祀の事。 祭祀を行う前に願主は数日の斎戒を保つ。
「しょう」は、願主が道観に赴き山海の珍味と燈明を捧げる。道士が(願主が全て自ら行う
事もある)経文を唱え神を招く。そして道士や願主が願文を唱え神に聞かせる。最後に神に対し
降臨してくれた(勿論姿は見えないが)事への礼を述べ、経文を唱え神を送り返す。
私が神道は道教の一地域版なのだろうと信ずるに至った理由の大きなものが、斎しょうと神祇
祭祀の共通性です。神は普段は天上なり滝壷の奥なり人々とは離れた(異次元と言う程ではない)
処に在って、潔斎して呼び出せば磐座などの依代に降臨する。珍味や燈明を持って迎え、言葉
より敬虔な態度(見えなくても降臨したと信じる。坐が狂うことも有るが)や一方通行的な呪文
がものを言う事、神に長居してもらわず感謝と共に神を送る辺り、形式のみならず神と人との
距離感といったものがそっくりです。日本は辺境だったので道教(或いは組織化される前の、
シナに於ける神祇祭祀、精霊観念)の古態を色濃く残しているという事なのではないかと考えて
います。時代と共に変容していったシナの神祇祭祀の要素(専ら形式面)を次々に取り入れて
しかも要素毎の関連性を考えず(民間中心の受容だった為でしょう)体系化もさほど成され
なかった為に道教との関連性、共通性が人々の意識に挙がらなかったのではないでしょうか。
543 :
世界@名無史さん:01/10/11 14:41
神道も道教も特殊なものじゃなくて基本的には世界のどこにでもある
原始的な民俗宗教なんじゃないの?
他の地域に依代とか言霊とかが存在しないならともかくねえ。
>542続き しょう(酉+焦)が終わると籤を引くのですが棒が1mもある事を除けば所謂おみくじ
と構造は全く同じ、棒に記す記号と同じ紙を受け取って真意を知るところまで全て同じです。
>401への誹謗はあっさり止んでしまいましたね。>422の後半通りそれこそが私の着眼点の妥当性
の傍証なので、はて私の着眼点はてんで外れてたのでしょうか。或いはまだまだ私は小物という事
ですかね。荒らして下さいとお願いしている訳ではないのですが。今後精進させてもらいます。
545 :
世界@名無史さん:01/10/11 18:50
おみくじが後から神道に取り入れられたってだけだろう?
道教を過大評価しすぎだと思うが。
>>542 で挙げられてるような特徴は世界中のアミニズム系宗教の特徴だと思うし、
道教が複雑に体系化される以前に他国に影響を与えるほど強力な宗教だったとは
思えないんだけど。
【斉の独自性】
紀元前2900年頃、山東半島に質の良い黒陶器に代表される竜山文化栄える。呉から青蓮崗文化も
及んでおり南船北馬のぶつかる場所だった事がわかる。
前1100年頃、太公望呂尚、斉に封じらるとの伝承。斉は製塩、漁、木材、狩猟、製鉄など盛ん。
前651 斉の桓公、覇者となる。宰相の管仲は製塩、絹織物業を奨励し商人集め交易勧める。
前550頃 山東半島の莱夷は殷代以来遼東と通じる文化を持ち莱子城に封ぜられていたが
斉が併合。
前481 宰相家の田 常が簡公を殺しその弟を立てて平公として後見。
前473 越王勾践が呉王夫差を倒す。山東の琅邪に遷都したという。
前386 田 和が姜姓の公を廃し自ら大公となり田斉成立。
前334 田 因斉は魏の公と互いに王を称す、威王。次代の宣王にかけて斉の最盛期。首都臨し
(輜の車でなくミ)の人口60万。稷門の下に各派の思想家を集める。「稷門の学」
前314 斉は燕の都を攻め落す、燕王敗死。
前311 燕の昭王即位、郭 隗の進言容れ中原の人士招き厚遇。樂 毅、鄒 衍、劇 辛ら集う。
前288 秦の昭王が西帝を称し対抗して斉のみん(ミ+民の下に日)王が東帝を称す。
前284 燕が斉を攻めほぼ全土を占領。また、東胡を討ち遼東を併合。
前246 贏 政が秦王に即位。
前221 秦が斉を滅ぼし中華統一。三皇五帝から皇帝号を定め自称を朕とする。
稷門の学、威王〜襄王(在位前283〜264)の頃。陰陽家の鄒 衍、黄老通じた環 淵と慎 到、
道家の田 広、儒家の孟子と荀子ら集う。
産業や学問の大変盛んな処だったと言えます。
【諸子百家と道家】
鄒 衍:斉の出身。易の陰陽と五行を組み合わせ陰陽五行説を始める。社会の変化を
五徳終始で説明。漢代に讖偉説に発展。
黄老の道:道家の無為主義による統治。臣が法律の定め通り行えば君主は無為にして
天下収まると説く。
荀子:性悪説を唱え一般人が偽(人為)を重ねて聖人に至るとし、外からの規制である礼による
統治を説く。礼を定める主体が國家であれば即ち礼=法なので、弟子の李斯と韓非は法家と
される。また現実の政治は昔の聖王でなく近い時代の立派な王に倣えとした。祭祀を有意義な
自己満足と捉え國家による祭祀に理論的根拠を与えた。
法家:道徳や学問より法律を重んじ厳罰主義で権勢を君主に集め、貴族を抑え学者の批判を禁ず。
申 不害:韓の相、黄老の流れを引く、術=君主は大筋示すのみで無為正常を旨とする、
刑名=名と実つまり臣の役職と実務の一致による能率化、の2点を勧める。
韓非:信賞必罰で望めば、人の本性は利を求め外を去る、なので安定した統治となると説く。君主
が私情を挟む事を有為として退ける。民は法に支配されるが私情が入らない以上自然であり充足
するとし、この点が老子との関連性だとされる。商工業を卑しみ軍人と農民を重んじた。
墨子:墨刑(刺青)を受けたか、宋の人か、等言われるが不明。天を唯一的人格神の昊天上帝とし
兼愛(自分を愛するように万人を愛する)を上帝の意思とする。非攻(侵略否定)、節用(権威
的浪費の否定)、尚賢(身分を廃し人材登用)、交利(相互扶助)等を説く。上帝の意思に叶う
行いを義、反対を不義とし義を重ねれば福を得るとする。漢代に董 仲舒が儒教に取り入れ、
道教の功過格との共通性も論ぜられる。キリスト教との類似性もよく言われる。土木などに高い
実用技術を持っており、そういった技術者集団を母体とするかとも言われる。古代社会の形を
否定する事になる為に孟子が激しく非難した。その頃はかなりの勢力だったらしいが戦国末期に
衰え後に消滅した。無頼の気風としてのみ残ったと言われる。
548 :
世界@名無史さん:01/10/13 07:02
とにかく梵阿弥氏は老荘の熱烈な信奉者だということみたいね。
差異を無視して共通する部分だけを重視し、
一部をもって全体に適用するというのがこの人の方法か。
しかもさして意味があるとも思えない衒学的な記述の連続・・・
こういのをオナニーっていうんだろうな。
前221 秦が中華統一
前219 始皇帝の巡幸、斉の泰山で封禅(天神地祇を祭祀)の後に渤海湾岸へ。山東半島を廻り
之罘に石碑を建て琅邪で3ヵ月逗留、当地に庶民3万戸を12年間賦税免除で住民誘致。斉の方士
の徐 市らが東海の三神山の話をすると船を出して探させる。見えたが行き着けなかった、と
言った報告が多かった。
前218 第2回山東巡幸。
前215 燕の渤海岸の碣石山へ。燕の方士の盧 生らに遷人探させる。
前212 盧 生が、居場所を知られると神気に害があり真人には成れないので居場所を秘しては、
と提案。始皇帝は居場所を隠すと共に自ら真人と称す。後に盧 生は逃亡。
前210 越の会稽を経て山東へ巡幸。琅邪に着くと徐 市が現れ、大鮫の妨害で渡海出来ないと
言う。始皇帝は山東を廻り之罘で自ら大鮫を仕留めるが餡用咸陽への帰路没す。
後684 天武天皇は八色の姓を定める。@真人A朝臣B宿弥C忌寸D道師E臣F連G稲置、真人は
皇族のみ与えられた。道師は道教団の指導者で、八は道教の聖数。
後686 天武天皇没。諡号、天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)、天上の水原の沖の
真人、と言った意味。始皇帝になぞらえたといえる。即位前の大海人皇子の名も後から遡って
替えられた物かもしれない。天皇号を始めて名乗ったのは彼だろうとされる。
天皇号:道教における北極星の神格化で674年唐の高宗が天皇、后の武昭が天后と号す。683高宗
没、諡号、天皇大聖皇帝のち天皇大聖大弘孝皇帝。唐は道教が國教。
「史記」によると斉の威王と宣王、燕の昭王らは東海岸の方士から渤海中の三神山の話を聞き船
を出して探させたと言う。三神山とは蓬莱、方丈、瀛洲であり、鳥獣は全て純白で金銀の宮殿があり
遷人が住み不老不死の薬があると言う。遠くからは雲のように見え近づくと海中にあり、俗人は風に
戻されてしまう。蓬莱は非常な高山、方丈は頂に龍が住み瀛洲の玉醴泉は酒泉で飲めば長寿を得ると
いう。渤海湾に良く立つ蜃気楼が立ち、朝鮮や列島との交易が説話の土台と成ったかと言う。
三神山(島)とも壺の形をしているとされ、前方後円墳の形と取り巻く濠は東海中の蓬莱などを表す
とも言う。また正月の飾り物に蓬莱と言うものがある。天武天皇の縁の深い美濃に養老の瀧があり
酒泉であり長寿を得ると言う。なお私は富士は蓬莱が訛ったのではないかと考えている。竜宮伝説
との関連も考えられている。
徐 市は斉の方士で始皇帝の命により童男童女を連れ東海に出て、広地(一説に亶州、或いは耽羅、
現済州島か、徐 市伝説あり)に着き、遷薬を得られぬ為に始皇帝の怒りを恐れ戻らずに当地で王と
成ったと言う。江蘇省連雲港市の徐阜村がかつての徐 福村で徐 市の出身地で、薬地跡が在る。
日本では徐 福といい、有明海岸、串木野、延岡、熊野新宮、丹後、富士山麓、八丈島などに渡来
伝説がある。殆どが秦氏系の居住地で、前210年頃は弥生時代であり大陸からの大量移民の反映
とかんがえられて居る。蘇民将来説話との関連も考えられる。
梵阿弥 さんは、ワープロの一行を少し減らせば
字あまりがなくなって、読みやすくなるんだけど。
>>402 >ただの糞ヴォケが、エラソーな書き込みをするんじゃねェ!!
>このピンボケじじい!逝ってよし!
>>405 >うだうだとうっとうしいぞ、ヴォケ!
>民俗・神話板にでも逝きやがれ、ただのアホがしたり顔して書き込むな。
>>406 >あいかわらず、日本語がまともでないという点には、あえて寛容をもって
>臨んでも、サヨぼけしたひとりよがりの腐れ爺のたわごとです。
>2CH的に表現すれば、「逝ってよし」というところでしょうか。
>>548 >とにかく梵阿弥氏は老荘の熱烈な信奉者だということみたいね。
>差異を無視して共通する部分だけを重視し、
>一部をもって全体に適用するというのがこの人の方法か。
>しかもさして意味があるとも思えない衒学的な記述の連続・・・
>こういのをオナニーっていうんだろうな。
上記のように、内容の検証を経ず頭ごなしに「糞ヴォケ」「ピンヴォケ」「逝ってよし」
「ただのアホ」「サヨぼけ」といった、自分たちとは相容れない悪魔的存在と決め付ける。
共存の可能性など考えず生命を奪おうとする。これは所謂一神教的思考そのものといえます。
もっとも私は一神教や多神教と呼ばれるものに本質的な差を認めませんが、所謂典型的な、
という意味で。「熱狂的な信奉者」というのもねえ。自分に理解しがたい主張や見解の持ち
主は頑なでどうしようもないやつに違いない、と思っておられる訳でしょう。皆さんが
梵阿弥はおかしい、間違っているとし、一方で自分は正しい、つまり無謬なものに連なって
いる、聖性を帯びていると言う意識の顕れなのです。こういった現象を見れば、>389に
書いた様に日本國にも宗教的精神構造が有るという事が良く解ります。
>>551 私は「スレッド一覧はこちら」から繋いでいまして、そうすれば行に納まっているので
すが。いずれにせよ読んで頂いているのですか。この頃反響がさっぱりなので。また
新たな話題もさっぱり出て来ませんね。
「老子」に大気を吸う、長生、と言った記述がある。また「恍惚」といった語から
エリアデ氏は神秘的修行者の存在を考えている。「荘子」に北海中の藐古邪山の神人が
風を吸い飛龍を御する話、踵を持って呼吸する真人を描く。
【神仙思想】
@説話時代:自然神話の延長で遥かな楽園があり遷人が住むとし、次第に東海上や西方崑崙山
を当てる様になる。山東半島琅邪の巫の説話に鄒 衍の五行説や九州説が結びつき発展か。
A方士時代:斉、燕、秦の君主らが東海岸の方術士の勧めで海上の神山に不老不死の遷薬を
求める。漢の武帝は数万の方士を集め特に李 少君の錬金術による長寿を信じる。
淮南王の劉 安も数千の方士を集め「淮南子」を著す。漢〜魏時代には五行説の影響で
神仙郷は次第に五岳と考えられる様になる。東岳泰山(山東)、中岳嵩山(河南)、南岳
霍山(安徽)、西岳華山(陜西)、北岳常(恒)山(河北)、前漢以後国家が祭祀。6世紀
に南岳は衡山(湖南)、17世紀に北岳恒山(山西)となる。
B道教による摂取・体系化:後漢の張 道陵以来、讖偉・占星などの予言説と共に道教団に取り
込まれる。魏 伯陽の「周易参同契」、葛 洪の「抱朴子」に仙人になる法を具体的に記す。
後に佛教との接触により更に多彩を加えた。陶 淵明、顧 ト之、? 康、王 羲之
ら一流の文化人が関心を持つ。
琅邪山は古くからの名山で八神を祭る。古くからの良港を持つ。漢の武帝は2度巡幸し祭祀。
青(斉)巫で知られる。
崑崙山は西方の高山で古くは世界の中心と考えられ絶対神の性格を帯びていた。下が狭く上が
広い三層構造で弱水が取り囲むとする。黄河の水源と考えられたこと、付近の于(門+眞:
ホタン、現新疆の和田)が名玉の産地である事から神聖視された。「荘子」に崑崙の虚(丘)
に黄帝が登ると記す。前方後円墳の三層構造と環濠の模式と成ったかと考えられる。
【泰山府君】別名太山府君、東岳大帝、嶽帝。斉の泰山は死者の魂の集まる冥府 であり、ここ
の山人が人の寿命を司るとされた。道教では元始天尊の孫で冥界の王を任されるとする。佛教
に取り込まれ冥界の主催者閻魔王の配下で常に人々の行いを察知し帳簿に記しておく。庚申講
はこの観念からきている。記紀説話に大山祗神が天孫の寿命を定めたと言うのがある。
素盞鳴神との関連が指摘されている。地蔵菩薩とも習合した。
【地蔵菩薩】Ksiti-garbha、大地の根源の意。インドでは後期大乗にようやく現れるが中央
アジアには根付かなかったと見られる。シナに於いては末法に入ったとされる隋代に庶民の間に
信仰が盛り上がりそのまま日本へ及んだ。冥府での審判に僧が立会い閻魔王に情けを請い極楽へ
導くという観念から諸菩薩の中で只一つ僧形で表される。三途の川や冥界のように全くのシナ的
神格で、地蔵の名前と僧形のみ借りたと言ってよい。後に泰山府君と習合し地蔵延命菩薩と呼ば
れる。更に日本に於いて賽の神(道祖神、異界との境に立つ)と融合した。
555 :
世界@名無史さん:01/10/17 19:13
>>552 ただの嫌味だろうけどわけわからん。
あんたの宗教の定義を教えてくれ。
【西王母】王母=祖母、「山海経」:玉山または崑崙山に住み人面虎歯豹尾。「荘子」:得道
の真人。「淮南子」:不死の薬を持っていたが恒 娥が盗んで月に逃げるとし、かぐや姫説話
との関連がある。次第に仙女視され、前3年に華北一帯に西王母の御告げの札が広まり大きな
騒ぎとなる。後に東王父という配偶者が創造された。魏晋南北朝の道教団は西王母を神仙とし
て取り込み、道士の本に西王母が降臨し教えや経典を授ける観念が出来る。後代には教団より
むしろ民間に於いて不老不死の神として崇信を集める。丹波 康頼の「医心方」に幼児の様に
若返る処方として西王母を載せる。牽牛・織女説話では天界の支配者として登場、また三千年
に一度だけ実る蟠桃が熟す時に神仙が集まり西王母の長寿を祝う蟠桃会の伝承などが出来た。
インドの観音菩薩は男性格だがシナで俄かに女性化し、観音信仰の中では絶対的救済者と
なった。西王母との習合が考えられている。
>320で琅邪八神の兵主を祭る兵主社が近年は祭神を「野見宿禰」とすると書きましたが相撲
で彼に敗れた「当麻蹶速」でした。訂正します。…負けた方を魔除にするとは思いません
でした。野見宿禰は出雲系とされるので何らかの史実を象徴しているのかも知れません。
>553のBの?は「けい」(禾+尤の下に山)でした。失礼しました。
周の太王の長子太伯(泰白)と次子仲雍は末子の季暦(王季)に継承権譲り梅里(江蘇省
無錫県、太湖近く)で文身断髪し蛮人の長となり句呉と号したという、呉建國の伝説。
前506 呉王闔閭は楚を破り覇者となったともいう。
前496 越王勾践は闔閭を敗死させる。会稽に都した越も短髪文身の中原と異なる民だった。
前494 呉王夫差が越を破り翌々年に中原に進出。
前473 越王勾践が呉を滅ぼす。山東琅邪に遷都し会盟し覇者と成ったともいう。勾践の後は
衰え分裂したらしい。
前330頃 楚が越を併合。この頃九州北部に弥生文化興る。朝鮮半島や淮河・長江下流域
からの移民の手によると見られる。
前300頃 九州北部に大陸系の支石墓が作られる。
前250頃 燕出身の漢人が満洲南部から朝鮮半島北西部に入植し國家を成したという。箕子
朝鮮建國の伝説。この頃日本列島各地で環濠(防御用)集落が現れる。
前223 秦が燕を滅ぼす。翌々年斉を滅ぼし中華統一。
前218 秦が南越地方征服。
前210 始皇帝没。翌年陳勝と呉広の率いる農民反乱。項羽と劉邦の挙兵。
前202 劉邦が項羽を倒し中華統一。東甌、びん(門+虫)越、南越は漢に封ぜられる。
前195 燕人の衛 満が燕と斉の亡命者を集めて朝鮮侯の箕 準の本に身を寄せる。後に箕 準
を追放し衛氏朝鮮を建國。この頃九州北部で青銅製武器・鏡を副葬し始める。
前183 南越の武王趙 佗が漢と反目し武帝を称す。後に帝号を止め再び冊封。
前154 呉楚七國の乱、越諸國にも影響。この頃九州北部で青銅製武器製造開始。畿内では
銅鐸を製造開始。
前135 漢がびん越を滅ぼし東越と、よう越を置く。東甌は解体し住民移住させる。
前112 漢が東越を滅ぼし、よう越は解体。両國の住民移住させる。
前111 漢が南越を滅ぼし、たん(イ+・)耳や珠崖などの郡を置く。
前108 漢が衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪などの郡を置く。この頃倭人は百余國に分かれ定期的に
楽浪郡と交渉をもった。九州北部で漢製鏡が副葬され始め、規模から王墓と見られる墓
が現れる。弥生時代中期に入る。
魏史東夷伝倭人条では倭人は皆、黥面文身すと記す。風俗たん耳と珠崖に同じとする。
会稽東bフ東に在りとする。
【観音菩薩】別名観世音、光世音、観自在、梵名Avarokitesvaraで自在に遍く観る者。
起源は良く判らず、自在天=シヴァか后のウマー、或いはイランの河神アナヒターかとも言わ
れる。慈悲に溢れ様々な姿に変化し衆生を救うとされる。その中には女の姿も含むがあくまで
男性格で(男性名詞なので)だがシナでは白衣観音や楊貴妃観音などが生み出され土着化そし
て女性化し、西王母との習合が考えられる。華厳経では南海の補陀落山(ポタラカ=光明山)
に住みインドでは最南端のコモリン岬、シナでは浙江省船山島の普陀山を当てるが他にも山や
海の断崖に観音霊場が多数生まれた。日本では那智山を当て、熊野の補陀落渡海信仰は船山島
から伝わったとされる。そして海上の霊地観の原型は東海の三神山とも言える。シナに於いて
観音菩薩は絶対的救済者の地位を確立した。特に安全、治病、富裕など現世利益的性格が顕著
で、厭世的傾向を持つ佛教の中では際立っており、道教の福、禄、寿の具現化といえる。日本
での観音信仰も(阿弥陀如来の脇侍としての浄土信仰もあるが)シナの福、禄、寿をそのまま
受け継いだ。佛教の中の要素にも道教由来、或いは強調されたものは多い。例えばインドの
「佛國土」を訳すに「浄土」の語を創造したのは清浄を重んずるシナの観念の顕れと言える。
>557の最下段の東bヘ東冶の誤りでした。訂正いたします。
東甌(於越、越東海):勾践の子孫という揺が神を滅ぼすのに功あり東海王に封ぜられ都を東甌
(浙江省永嘉県)に置く。呉楚七國の乱の余波でびん(門+虫)越に攻められ漢に救援要請。
びん越滅亡後に王が移住を願い4万戸が江淮(江蘇省)に。
びん越(西甌):始皇帝がびん越國を廃しびん中郡を置き王の無諸を君長に任ず。楚漢の争いに
漢を助け前202年びん越王に封ぜられる。都は東冶(福建省びん侯県)。次第に強勢となり
前138年に東甌、3年後に南越を攻める。漢の攻撃に、王の弟の余善が兄を殺し投降し滅ぶ。
東越:びん越を滅ぼした漢が、無諸の孫のよう君丑を越王ようとするが余善が衆望集めびん江王
を称し漢も認め東越王に封ずる。前112年漢の南越遠征に際し南越に通じたので、漢はよう越
と共同で東越を攻め、余善死に滅ぶ。統治困難な為に遺民を江淮に移す。
南越:秦滅亡に、派遣されていた趙 佗が自立。前190年代に漢から封ぜられ武王となる。都は
番禺(広州)。前183年漢の呂后の鉄禁輸に反発し武帝を称し冊封から抜けるが後に復帰。
王室の内紛に介入し漢が攻め滅ぼす。王族他は船で脱出を図った。
晋書や梁書などには、倭人は呉の太伯の子孫だと自ら謂うとする。また、度々江淮に移住させ
ているが元の住民はどこかへ行ってしまったのだろうか。江南と列島西部の海洋民的性格を
考えると今の國境を当てはめる事のつまらなさを感じずにいられない。
近頃反響有りませんね。御迷惑でしたらもう止めようかと思います。
560 :
世界@名無史さん:01/10/19 18:14
仏教の中に道教的要素が含まれてるとしても、
あくまでメインは仏教じゃん。
いくらなんでも道教の影響を過大評価しすぎだよ。
大体道教なるものが元々一つの宗教だったということ自体怪しい気がするが。
前202 漢が中華統一。漢初は秦の反動で清浄無為の政治が望まれ黄老の思想が喜ばれた。
蕭 何を継いで相と成った曹 参も斉の相時代に学んでいた。
前141 漢の武帝即位、在位 前87まで。
前136 董 仲舒の献策で五経博士をおき儒学を國教とする。 天人感応説により皇帝神聖化。
其れまでは黄老的法家が主流。一方で神仙説にも惹かれ方士を集め特に李 少君を重用。
前110 山東の泰山で封禅を行う。在位中に山東琅邪に2度巡幸。
前104 太初暦を作る。
前99 この頃から華北で農民反乱頻発。都の長安で巫蠱の乱起き市街戦。皇太子戻は逃亡中没。
以後武帝は神仙道に耽る。
前89 亀茲地方の屯田を中止。
前74 戻太子の孫が即位し宣帝、民間で育ち法家を好むが晩年は神仙道に耽る。この頃には
陰陽と五行は十干十二支や星占を含み完全に融合し繁多な禁忌生む。
この頃倭人は百余國に分かれ楽浪郡と交渉持つ。九州北部に王墓現れる。漢製鏡を副葬。
前37 高句麗の建國。
後2 前漢地理志によると楽浪郡は25県62812戸406728口。
後8 漢帝室の外戚の王 もう が真天子たるべしとの符命が在ったとし漢王朝を廃し新を建國。
符命を尊厳化する為に周礼に依った政策を進めるが失敗。発行した貨泉が九州で出土。
17 緑林山(湖北省)に集まった農民が暴徒化。
18 山東琅邪の農民が蜂起、五行説に則り眉を赤く染め長安に進撃。
23 緑林の賊が劉 玄を戴き長安を攻め落し王 もう を倒す。劉 玄即位し更始帝。
25 更始帝が長安で赤眉軍に殺され、豪族軍率いる劉 秀が即位し光武帝。漢王朝復興し
洛陽に遷都。翌々年赤眉軍を投降させる。
【儒教】聖王を想定、聖徳を備えた権力者で、伝説化・理想化された太古の王を先王として
崇める。次善として無権力の説教人か聖徳不在の君主を権威とする。権威性を解説するのが
経典であり、経典とそれを説明する学者も権威となる。元々人間である先王が非人格的な「天」
の道を体現して聖王になり、徳が無く民に見放された王は天命により倒れる、という理性的な
点が流動化した時代の知識人に受けた。一方で秩序への強い指向を持ち親族間の愛情・連帯を
押し広げて國家に満たす事を説くが、この宗族連帯の強調は職能と階層の固定なので保守・支配
に受けた。この二面性による分裂を統合するのが、太古を理想と仮想し規範としての周礼の励行
と成る。仮想化された聖代の具現化・視覚化する為の國家による形式的祭祀を不可欠とした。
元々在野の理想論だったが董 仲舒と武帝以来國教となり天と皇帝と孔子を神格化する役割を
果たした。また國教化された為に様々な要素を取り込んだので、國家を世界の秩序と同一視し
強調する事と、聖俗つまり教政の不可分性、の他は総合的であって独自性は薄い。ただし唐が
道教を國教としたので儒教は再び在野性を強め、宋代には理知的・非神秘的傾向が強まった。
>>560 シナや日本に於ける観音菩薩信仰はいかにも佛教的とお考えになるのですか?
563 :
世界@名無史さん:01/10/22 16:51
慈悲という面が強調されてる分、仏教的な部分は基本的には
受け継いでるんじゃないの?
【董 仲舒】天人感応説を唱え武帝に用いられる。天志に適う行いには賞瑞、反すれば災異が有る
と説くが、墨家の人格神的観念である上帝の復活といえる。陰陽の理に則り雨を操り人事を予告
したとされ、元は巫ではなかったかとも言われる。陰陽は元は暦学だが既に道家の宇宙論と融合
していたので彼により儒教は神秘化した。
【天人感応説】天=自然、人=社会、の現象が相互に対応すると説く。自然災害は社会への応報・
予告とし一方祭祀によって自然に影響を及ぼせるとする。人の代表が皇帝なので、天と皇帝を連動
→一体視であり、皇帝と権力を神聖化した。一方で皇帝の横暴を戒める機能も持つ。また儒教は
神秘化し讖偉説へと繋がっていた。皇帝の健康も重大になる。
【讖偉説】讖は予言。偉は横糸で、経=縦糸に対する解説。國教化・神秘化(空洞化)された儒教
への対応として陰陽五行、天文(暦)による儒経典への解説として生まれる。だが前漢→新→後漢
という激動への対応として予言の欲求が高まった為、讖偉説も神秘化し天人感応説を益々強調。
また孔子を神格化した。黄巾の乱の思想的支柱でその後も初期道教で発達。晋代以後権力から度々
禁じられ唐代以降思想の表面からは消える。陰陽道はこの技術面が日本で根付いたものといえる。
【封禅】前219年始皇帝、前110年漢の武帝、以後光武帝、唐の高宗・玄宗、宋の真宗がおこなう。
山東の泰山の頂上で天神、麓の丘で地祇を祭祀。泰山は死者の魂の集まる処で天への通路と見なさ
れ、武帝以来不死登仙の観念を伴う。なお、飛鳥浄御原宮の多武峰(丹峰)、藤原京の天香久山、
平城京の春日山、平安京の比叡山、と東の山を重視している。寿命を司る山神泰山府君を赤山権現
として比叡山上・麓に祭る。高句麗では東方の邃穴に住む邃神を十月に國を挙げて祭った。
【巫蠱】木の人形を土中に埋め巫に祀らせ現世利益・呪殺などを謀る。漢では執左道と呼び不道罪
に問うた。武帝と皇太子の不和から後宮で巫蠱が流行り互いに密告、一般人にも広がり数万人が
処刑された。後729年、長屋王は左道を行い呪詛したと疑われ一族自害した。平城京跡から大量の
木製人形が見つかっている。丑の時参りも同じものといえる。
【李 少君】竈を祀り穀食を避けて不死を得る方を知るとし武帝に重用される。丹砂(水銀鉱石?)
から金を作り食器とすれば寿を益すとする。自分は安 期生から器を得たので長寿を得たとした。
武帝は竈を祭り方士を海上に遣わして安 期生を探した。竈を祀る風習は東南アジアから日本列島
などにかけて広く見られ、神としての格も高い。また佛教に取り込まれ三宝荒神と呼ぶ。日本では
奈良県の野迫川村の立里荒神山を本山とする。
【呉越の巫】神に仕え祭事を司り降神・祝祷・禁呪・治病など行う。巫女は朱の袴を穿き鈴を手に
握り振る。鈴は3・5・7の三段に纏めるが3・5・7は道教の宇宙観から来ている。
【斉(青)巫】琅邪八神の兵主は魔除に武器を祭る。日本にも伝わる。
後25 劉 秀が即位し光武帝、漢王朝復興。前漢末の社会不安は神秘主義をはびこらせ、
自身熱烈な儒教信徒だった王 もう の簒奪もその気風に乗ったもの。後漢王朝もその
讖緯的儒教を引き継ぐ。
後27 光武帝が赤眉軍を投降させる。
後30 漢が山東一帯を平定。一方で楽浪郡の東岸7県を放棄。
後32 高句麗が漢に入貢。
後37 漢が江南を平定し中華統一。光武帝も封禅を行った。
後57 倭人が漢に入貢し光武帝より金印を賜う。シナの冊封に入るには漢語の上表文を提出
せねばならず読み書き出来る者がいた事が判る。光武帝没し明帝が即位。
後59 明帝が孔子廟を各地の学校に設け祭らせる。儒教神秘化の表れ。この頃吉野ヶ里など
大規模環濠集落(防御用)発達。
後65 明帝の詔によると、義弟の楚王劉 英は黄老の微言を誦し浮屠(佛陀)の仁祠を尊ぶ、
とある。佛教帰依の最古の記録だが道家と佛教を共に奉じていたことが判る。また寺院?
を仁祠と書いており三教一致の萌芽が見られる。英は方士を集め謀反企てたと疑われ自殺。
後79 章帝が五経の古儀解釈の「白虎通」編纂させる。儒教教義の欽定であり、内容は儒教の
讖緯化。活力失った中央に対し地方豪族の清議、民間の自由な訓古学興る。
109 倭國王帥升等が生口(奴隷か)160を安帝に献上。この頃瀬戸内中心に高地性集落
(防御用)が現れる。弥生時代後期に入る。
140 楽浪郡は18城(県)、61492戸、257050口。
147〜184 倭國大乱という。邪馬臺國の女王卑弥呼を共立し収まったという。九州中心に
鉄器が普及し石器が用いられなくなる。
184 山東中心に黄巾の乱起こる。中核となった太平道の指導者の張 陵が病死し勢い衰えるが
204頃まで各地に余波。
190 遼東の太守の公孫 度が自立し渤海湾の対岸の山東半島の東莱の諸県も領有。
191 曹 操は青州の黄巾残党を自軍に編入。彼は神祇祭祀を嫌い淫祠を廃する。方士を
招くが実質監視。
204 公孫 度の子の康が南下し楽浪郡を併合。韓、わい(ミ+歳)を討ち南方を帯方郡とする。
この頃近畿の銅鐸、以西の青銅製武器、と文化圏が分かれる。
220 讖緯説に基づく符瑞報告により漢の献帝が禅譲し魏の曹 丕が即位し文帝と成る。孫 権が
文帝から呉王に封ぜられる。父孫 堅以来江南の乱を平定。
【赤眉の乱】山東琅邪で新打倒を唱え農民が蜂起。眉を赤く染めて火徳の漢復興を表す。
各地の叛徒を巻き込み十数万となり長安へ迫るが一足先に緑林軍が新を倒し目標を失った。
一旦更始帝に帰順するが後に対立し、更始帝を見放した緑林軍主力を編入し河南で蜂起。
30万と号し劉盆子を天子として戴き長安を攻略。周囲の豪族に糧道断たれ山東に戻ろうとする処
光武帝の急襲を受け投降。自然発生的でごく素朴な組織構成だった。城陽景王(劉 章)を祭り
巫によって高揚していた。景王は不遇のまま没し怨霊・復讐神として泰山の祠に祭られていた。
劉盆子はその子孫の少年で泰山で暮らしていた。農民の間にも五行思想や泰山・怨霊信仰が
浸透していた事が判る。
【神佛混交】後漢末の王墓では仏教図像が西王母などの神宣に混じって表されており、佛教が
どのように受け止められたかを示している。墓や鏡背には鬼神や神仙の画が多く、同じ性格の
者と捉えられていた事が判る。
【三角縁神獣鏡の銘】
「新作大竟(鏡) 幽律三剛 配徳君子 清而且明 銅出徐州 師出洛陽
彫文刻鏤 皆作大章 左龍右虎 師(獅)子有名 取者大吉 長宣子孫」
「陳是作竟(鏡)甚大好 上有神守及龍虎 身有文章口銜臣
古有聖人東王父西王母 渇飲玉せん(ミ+全)飲食棗 長相保」
「吾作明竟(鏡)甚大工(巧) 上有王喬以赤松
師(獅)子天鹿其(麒)麟龍 天下名好世無雙」
など西王母など神仙を取り上げたものが多い。銘が韻を踏んでいなかったり、形状から
倭で造られたと考えられている。
>>563 観音菩薩は確かに慈悲に溢れ自らを頼む者を救うとされています。しかし、インドに於いては
命の危機を救い平穏な暮らしをもたらすのであって、シナの様に「金をもたらしたまえ」「出世
させたまえ」といった願いまで受け持っていましたかね。で、何故慈悲を打ち出す観音菩薩が
他の神格を押しのけて圧倒的な人気を博したのかという事なのです。インドの佛教の内の全体を
そのまま引き継いだ訳ではありません。シナで生き残った要素は佛教そのものというよりシナの
価値観を表しているのです。もっとも、敦煌では観音菩薩像が非常に多いそうなので、シナに
入る前にかなり人気を集めていたようですが。
インド後期大乗佛教の直系の子孫といえるチベット佛教では、観音はあくまで男格です。なぜ
シナで女性化したとお考えになりますか。
>>160 >大体道教なるものが元々一つの宗教だったということ自体怪しい気がするが。
私もそう思います。名前が同じでも同じものとは限らないし、名前が違っても違うものとは
限りません。では、佛教はどうでしょうか。元はともかく、今は一つですか。キリスト教は
どうですか。そして、日本列島に於ける神道なるものは一つですか。
じつはあと数日で電脳広場から暫くおいとまする事になりました。何か直に言って
やりたい事が御座いましたらお聞かせ下さい。
【道教団の成立】後漢代に鬼道と神道が融合、佛教の影響で太上老君を主神とする結社の
黄老道が興る。後漢末期の混乱の中で農民の間に広まりその中から道教団がうまれる。
【鬼道】鬼は死者の魂や自然の脅威で、山川や祖霊祭祀・呪術類こと。
巫祝道ともいい、シャマニズムといえる。
【神道】儒教に於ける形而上的要素で、元来は天壇への通路を指すが後に祭り方の意となる。
後漢の儒教は讖偉説(予言・運命論)が主流で宇宙観は陰陽五行と老荘の混合から成った。
【太上老君】漢代に黄帝と老子も理想的仙人となるが徐々に神格化され、後漢後期には「老子
は永遠に存在し続けその変化身が何度も降臨し人々の苦しみを救う」という観念が興る。弥勒
菩薩下生の影響が考えられる。後漢の桓帝は太上老君の廟を設け度々祭る。後代には最高神
元始天尊の化身または別号とされた。
【太平道】于 吉が開き張 角により組織化。呪術と倫理を統合し治病。山東中心に信徒は
数十万人。184年蜂起し黄巾の乱となるが同年張 角没し勢い衰え曹 操に投降。残余の相当数
は五斗米道に合流。>255にも書き込みあり。
【于 吉】山東琅邪の人。泉水のほとりで太上老君(一説に天神)から「太平清領書」を得た
と称し、精舎を建て香を焚き治病を行い多くの信奉者を得た。順帝(在位125〜144)の頃
から活動。晩年呉に移るが孫 堅に疎まれ殺される。
【張 角】太平清領書により太平道を行い大賢良士と号す。十余年で信徒は数十万人となる。
自ら天公将軍と号す。184年蜂起するが同年病死。
【黄巾の乱】太平道が政権の解散令や河川の氾濫もあり蜂起。火徳の漢を倒そうと土徳を表す
黄布を頭に巻き黄巾の乱と呼ばれる。張 角が病死し勢い衰え主力は191年曹 操に降ったが
青州兵と呼ばれ30万の精鋭として魏軍の中核と成った。各地の反乱も204年に収まる。
【五斗米道】張 陵が四川で始める。自らは新出正一明(盟)威之道と称す。張 魯が教義・組織
を大成し漢中に共産的國家をなす。老子を読み静室で天地水の神祇に罪を懺悔し治病。作った
老子の注釈書が敦煌で出土。流民の為に義舎を設け食物を供した。215年に曹 操に降るが教団の
存続は許され天師道と改称し、鏡と剣を神器とし代々張氏が教主を勤め今に至る。晋代には
徐々に神仙色強めながら江南に教勢広げ王 羲之ら貴族も帰依。北魏が新天師道を國教とした。
元代以降は正一教と称す。>234にも記述あり。
【張 陵(張 道陵)】太学の書生だったが長生を学び、天人から新出正一明威之道を授けられ、
能く治病し信奉された。天師と呼ばれ彼の教法を天師道とも呼んだ。後世伝説の仙人とされる。
【張 魯】張 陵(天師)の子が張 衡(嗣子)でその子、係子と呼ばれ合わせて三師とする。
漢中を中心に宗教王國を成し30余年自立した。自ら師君と号し、治頭、大祭酒、姦令、鬼吏
など置く。入道者は老子を習い鬼卒となる。曹 操に降り侯に任じられる。魏志には鬼道と記さ
れ、邪馬臺國の卑弥呼の鬼道との関連が考えられている。
明日の夕方でお別れですので。
>>15 古代神道や道教などの残骸はいくらでも見つけられる
教えていただけませんか。因みに地鎮祭は道教の鎮地そのもので、残骸というより現役かなと。
>>92 南方の道教の影響が古代の祭祀や呪術にあると
教えていただけませんか。雲南あたりは入墨の風習がいまだに残ってますね。
>>139 韓国では、戦後キリスト教が本格的に入ってきました
一応開國後から入ってきて信者も居たようです。本格的になったのは解放後かもしれませんが。
1958年に興った純粋福音協会というのは単立では最も信者が多いのですが、熱心な祈祷による
治病を売りにしています。何となく、巫が着替えただけでは?という気もします。
>>161 韓国では先祖の祭祀は原則として儒教によって行われます。
儒教と言っても色々ですよね。ひょっとして巫がまじないするのではありませんか?
>>206 「宗教」って単語は明治の翻訳語
宗教という語自体は日本に於いては〜宗の教え、という文字通りの意味でした。諸宗を束ねて
佛道と言っていました。佛教以外を含めて何と言っていたのかは存じません。
>>225 「唯識」という概念は、後に鎌倉時代の宗教改革を行った法然や道元などの
<宗教改革者もそれを学び独自に理解して自分の真理追究に役立てたそうだ。
法然は比叡山で浄土教に興味を持ち、奈良に行き法相宗や華厳宗の僧を尋ねました。どう
いう訳か法相や華厳では新羅伝来の念佛を研究していたそうです。念佛と言っても源信のは
観想念佛(心に浄土を思い描く)で、法然が善導由来の称名念佛に転じたのは奈良での遊学が
切っ掛けなのだそうです。私には法相宗の唯識と善導→法然の称名念佛がどう繋がるのか良く
解りませんが、事実として法然と奈良の諸宗の出会いが日本の浄土教を産んだ事になります。
道元は奈良にはいっていないと思いますし、唯識との関わりも存じません。
>>243 違いは、神社神道の重視する「清浄」の価値観
道教では清浄を重んじます。病は過去の罪が自身を汚した為とします。水を用いて体と心を
洗い流せば(本来のきれいな心に戻れば)病は治り万事うまくいくとします。12世紀頃成立の
教団の浄明忠孝道は名前の通り浄と忠孝を重んじます。他の教団も似たようなものです。
《《続く》》
572 :
世界@名無史さん:01/10/25 13:04
>>568 観音信仰の人気は法華経や浄土経の人気と関連があると思いますがどうでしょうか?
573 :
世界@名無史さん:01/10/25 13:08
>>568 もちろん神道は一つではないですね。
仏教やキリスト教は基本的には同じなんじゃないでしょうか?
道教や神道は土着の宗教思想が時代とともに纏められていったような
ものではないでしょうか?
だから神道には当然、道教や仏教の外来思想の影響は大きいと思います。
しかし道教そのものかといわれるとどうかと思いますね。
共通する部分が多いのだとしたら、
むしろ影響関係や伝播よりも、東アジア全体での共通する土着宗教の
形態があるのではないかと想像したいのですが。
>>572 関連あると思います。ただ、法華経は元来厭世的な(現世的、即物的なインドでの神祇祭祀
への改革運動として生まれた為)佛教の中でかなり自然賛美、現世肯定な傾向が強いと言え
ます。従って、シナに於いて特に法華経が好まれたと言うことは内容が道教的だったから
と言えるでしょう。
>558に記しましたとおり、佛國土を浄土と訳したのはシナの観念の反映です。浄土往生と
いうのは輪廻転生よりむしろ永遠の神仙郷に親しい観念に思えます。浄土教の翻訳は古く、
格儀佛教と言いまして翻訳に主に老荘の語を用います。従って経典の理解が老荘的に
自ずとなります。鳩摩羅什の後はそうでもなく成って来ますが浄土経典は新訳は余り
なされませんでした。
以上のように、法華経や浄土経典は佛教の中の道教的な面を代表しているからシナで人気を
博したと考えます。従ってシナの観音信仰は道教的(非佛教的という訳では無い)と考えます。
日本に於ける法華経や浄土経の人気、観音信仰の人気はシナのそれを引き継いでいます。
>>573 佛教やキリスト教などについては、同じとも言えるし時代や宗派による違いもれっきとして
在りますね。私はどうも「違う」という声が多ければ、いや共通面が広いよ、というし、
「同じ」の声が多ければ、いや結構差があるよ、と言いたくなりまして。
「神道」が一つでないのに「神道」と呼んで一括りにするなら道教も一括りに出来るし、
道教と「神道」は構造的に同じなのだからこの二つを一括りにして何ら構わないでしょう。
その際に何と名づけるかは問題ですが、陰陽道や養生思想などの圧倒的な影響、頂点を成す
哲学面が老荘思想であること、等から道教の名で代表させて構わないと考えます。
道教自体が非漢人の観念の影響を大いに受けています。従って東アジアなり環シナなりの
土着宗教を道教と表現しても良いと思います。念のため書いておきますが、教団道教は
道教(的風習・要素)のあくまで一部です。
私は、文化を考える際に伝播や影響を軽視しては労多くして得る物少ないと考えます。
576 :
世界@名無史さん:01/10/25 14:53
神道と道教を構造的に同じだとするのにあまり説得力がない気がしますが。
神道なり道教なりの本質が何なのかというのがはっきり見えない。
577 :
世界@名無史さん:01/10/25 14:59
神道、道教というものは本当に何か正体のある宗教なのでしょうか?
特に神道は雑多な民俗信仰を勝手に一括りにして総称してるだけのように
思えて仕方がありません。
おそらく神道の日本固有の宗教として仏教や儒教に対比させようと
した時に道教の教義を多いに利用して総合しようとしたということは考えられる
と思いますが。
>>576 構造的に甚だ異なるとお考えですか?どのような点が異なるとお考えなのか教えて頂けませ
んでしょうか。本質は例えば>539に福永氏の見解を示して置きました。私もおおむね同意
します、というより大きな影響を受けています。
>>577 例えばまじないも年中行事、といった観点から系統立てて世界観を読み取る事は出来ないで
しょうか。節分、雛祭、鯉幟、七夕など皆シナ由来の風習で陰陽五行説の表現としての催し
であり道教的行事といえます。これらは別に佛教などに対抗して形を整えた訳ではありま
せん。>562・>564に書いた様に陰陽五行は儒教とも関連はあります。しかし道教とも
大いに関連はあります。というより儒教と道教を厳密に分けようとしても実は出来ません。
しかし朱子学以降の儒教は呪術的要素は軽視しているので、節分などを道教的と呼んで何ら
構わないと考えます。
>>288 神域を清浄に保つ感覚
因みに延喜式によると月並祭などに於いて熊皮、鹿の皮・角を用いる事になっていました。
>>300 「似て非なるもの」
どの辺りが非なのか教えて頂けませんでしょうか。
>>340 山伏や、修験道、天狗などは、密教関係で道教とは無関係でしょうか?
大正12年に既に修験道は道教日本版だという説が出ています。本屋で「中国の修験道」という
本があり手にとると只の道教の解説でした。年々そういった見解が強まっているようです。
>>341 孔雀明王呪を使ったとされるのは少し後の僧侶の業績とごっちゃになってるそうですが
実は道蔵は孔雀明王呪を含んでいます。内容は似ているものの佛典その物ではないようです。
従って道教の孔雀明王呪を用いたのかもしれません。また、佛教の孔雀明王呪を用いた可能性
もあると思います。孔雀は羽を広げた姿から星や太陽や天体の象徴とされ占星術と密接な関係
にあり、古代インドやバビロニアの系譜を引く可能性があります。道教や雑密は共に占星術を
重要な構成要素としていますから。
>>366 話し言葉としての日本語
地域や階層が異なるとなかなか通じなかったと思いますよ。で、九州は朝鮮や江南、太平洋岸
は南洋、東北は沿海州あたりと人や物の行き来が盛んで言葉も良く通じたのではないですかね。
>>515 「忘れられた思想家」を著したノーマン氏は安藤 昌益と老荘の共通性に注目していました。
もっとも欧米人としての東洋の微妙な差への鈍さは免れなかったかも知れないし、ノーマン
当時は今より遥かに資料が少なかったのも確かですが。
>>543 神道も道教も特殊なものじゃなくて基本的には世界のどこにでもある原始的な民俗宗教
そういう面が強いと思います。だから区別してもしょうが無いと思います。
いや、本質が見えないから構造がどうとかがわからない。
ただ神仙思想のようなものは神道ではないかどうかは知らないけど
弱い気がします。
>>204 「とりこまれることを否定する(キリスト教や日蓮宗不受不施派や
>マルクス主義のような)一貫した信仰体系」
遅くなりました。是非議論したかったのですけど本格的な御提言であるだけにこちらにも
心構えが必要で、書きそびれてしまいました。
キリスト教は取り込まれる事を拒んでいるでしょうか?必ずしもそうとは言えないでしょう。
何故なら、取り込まれ無かったとすると何故地域的に差があるのか、度々新派が興ったのか
説明がつきません。ローマに於いて皇帝崇拝を拒んだ為に迫害された訳ですが皇帝がキリスト
教徒になれば教会を通じて皇帝を称えている訳ですから。日本に於いてキリスト教の不寛容の
印象が強いのは、もうすっかり欧州の風俗と融合した後に、欧州優位の時代に日本人と接触
した為では無いでしょうか。
マルクス主義は良く解らないのですが、当主義を標榜する國家がレニン廟をこさえたのを
見ると不寛容の主張も怪しいと思います。あれは本来の形ではない、という見方もあるで
しょうけど、当事者がそう信じていた事は軽視してはならないと思います。
法華宗不受布施もよく存じませんが、当初は京都の江戸への反発が支えていたのではないで
しょうか。暫くして隠さねばならなく成ってからは先祖の供養の為に先祖の法を続けたので
しょう。例えば隠れキリシタン達がそうで、いまだに隠すべしという年寄も少なくあり
ません。いずれも隠さねば続かなかったし、隠した故に広がりませんでした。広げようという
気が無ければ習合する必要性も無い訳です。因みにイスパニアは國土回復後ユダヤ教を弾圧
しますが或る山中に隠れユダヤ教部落があって、明るみに出たのは20世紀のことです。
以上のように、あらゆる信仰体系は習合しながら広まってゆく性質を持っているし、あくまで
習合を拒めば広まらないと考えます。また習合を徹底的に拒むにはそれなりの社会的状況が
或る集団をそこへ追い詰めたからで、本来的な教義とは関係ないと考えます。
【主な道教団の歩み】
新天師道:天師道(五斗米道)は華北へも広まるが寇 謙之が天師道の呪術面を削り佛教の儀礼
を取り入れ新天師道を提唱。拓跋魏の太武帝が國教とする。皇帝権力礼賛の護國教で、太武帝は
破佛を行う。以後隋・唐と國教の地位を占めるが玄宗が上静派を盛り立てた為に衰え消滅。
上静派(茅山派):神仙説や讖緯説を母体に4〜5世紀にかけて江南で成立。気を用いた冥想行い
佛説も取り入れる。玄宗以後唐室に盛り立てられるが教勢は大きくならず、後に儒教も取り入れ
今に至る。太湖ほとりの茅山が本山。
太一教:12世紀に蕭 抱珍が始め山東から華北に広まる。呪符による治病を行うが養生・神仙説
は採らない。日常倫理を重んじ葷酒妻帯を禁じる。金朝宗室と結びつき元室とも繋がったが
元代後期に消えたと見られる。
真大道教:12世紀に劉 徳仁が山東で始める。呪術性抑え道儒佛三教混合。天に祈り、忠孝誠、
清貧、虚心を尊び邪淫、賭博、葷酒を禁ずる。元室に盛り立てられ栄えるが後に内紛起こし
14世紀半ばに消えた。
全真教:王 重陽が12世紀に始める。老子、般若経、孝経など用い三教一致の傾向が強い。
呪術や神仙説を退け出家主義、心の清浄を尊び禅の影響が強い。山東に拠点移しチンギスハン
に全道教の管理を任される。世祖(フビライ)の時に江南は正一教(天師道)の管轄となるが
華北は依然当教が管轄。全道教中最大の勢力となり今に至る。北京の白雲観は当教の施設。
浄妙道:晋代の許 遜以来の呪法を13世紀に劉 玉が大成。当初は呪術性濃かったが徐々に抑え
心の浄妙、行の忠孝を説き三教一致の傾向持つ。在家主義、社会実践重視。同じ江南の正一教
が明室に盛り立てられ、当初の勢い衰えるが消えずに今に至る。なお、日頃の行いを功(善)
と過(悪)に分け点数を付け、功多ければ福ありとする目安の書「功過格」を産む。功過格の
内幾つかは江戸時代の日本でも刊行された。功過の観念は墨家の人格的上帝の復活ともいえ、
また庚申講はその年中行事化といえる。
>571
今更レスがつくとは思わなかったですが、とりあえず
【道教と古代日本 著:福永光司】参照のこと。
【道教と日本文化】と同じく人文書院の本ですが、江南道教が日本にどのような影響を
与えたのかなどについて書かれている箇所があります。他にもなにかテキストを持って
いたような気がするのですが、売ってしまったのか見当たりません。目次なども手元に
ないので勘弁してください。
>579
孔雀明王呪もありだとは、道蔵もなかなか懐が深い(笑
もっとも役小角の最初の記録ののってる続日本記(だったかな)では、
昔、役小角と言う人がいて、妖術で人々を誑かすとその弟子・韓国連広足から
讒訴があったから伊豆に流した・・・・・・というほどのことしか書いておらず、賀茂氏
の出であるとかどんな呪を使ったとかは全部後に付け加えられたみたいです。
時代別にどんな伝承が付加されていったのかに興味がある人は、
【役行者伝記集成 著:銭谷武彦】
を見られるといいです。著者名は間違ってるかもしれないですけど。
隠れキリシタンは明治にカソリックに帰依しなおした人達は結構いたそうですが、
しなかった人たちもかなりいるそうです。
現在のキリスト教自体が欧州の土俗信仰とかなり習合していることは、上で少し
かいたような気が・・・・・・。
>>583 実は私も【道教と古代日本】は持っています。江南の呉越の巫や上清派(茅山派)との関連
が書いてありますが、ただ雲南には触れていません。ひょっとして雲南の風習に道教的な
要素を見出しておられるのかな?と思ってお尋ねいたしました。もっとも>92をよく読むと
「雲南の道教が」とお書きになっている訳ではありませんでしたね。
韓国連広足は呪禁師です。後代の陰陽師と同じような職ですね。韓国という姓からも大陸
との繋がりが考えられます。となれば役 小角と道教との関連が説得力を持って来ます。
クリスマスツリーは北欧の樹木崇拝との習合だと聞いた事があります。復活祭は春の祭り
ですね。
うみゅう。
ご期待に添えられなくて残念です。でも、雲南の方の風習については
その地方の研究をしていらっしゃる大学の人から何やら聞いた覚えがあり
ます。全然思い出せませんが。解放出版社の「日本文化の源流を探る」だった
かな? 何かそれに関連する記述を読んだような覚えが・・・・・・。
韓国連広足は物部連に連なる一族の出で、先祖が韓国相手の戦役で功を
たてて韓国の姓を賜ったとか。後に広足は高原氏をなのるようになった・・・・・・
と新撰姓名録にあるそうです。
呪禁師は一応陰陽師と同時期にも存在してました。ただし典薬寮に所属して
いたそうです。その仕事は片手に呪符、片手に剣を持って病人の傍らで祈祷を
行い、病魔退散の方術を扱う・・・・・・と何かの本で読んだような覚えがあります
が詳細はしりません。吉川弘文堂の「古代日本の神祇仏教陰陽道」という本には
(タイトルうろ覚えだけど)、呪禁師は平安末期に流行る天宮信仰にかかわりが
あるように書いてありましたが、それもどういう根拠があるのか記されてはいま
せんでした。
十字架も太陽信仰のシンボルの名残だと、エホヴァの証人の姉ちゃんが力説して
いました。
>>585 物部連でしたか、葛城は物部氏の奥津城ですからね。
天宮というのは天皇大帝の住む紫宮かも知れません。平安貴族は方違えとか陰陽五行説に
囚われていましたね。徐々に下層にも広まったのでしょうか。
十字架は…死刑の道具ではないのですか?
天宮さまって名前の馬の頭をした神様だそうです。天狗の元になったんじゃないか
という意見も聞いたことがありますが、詳しい記録はあんまりないようです、
十字架は死刑の道具ですが、十字は欧州の法で風や太陽の信仰のシンボルだった
そうです。エホヴァの証人の姉ちゃんは、死刑の道具を信仰の対象にするはずがない、
土俗の信仰と習合したからこそ信仰のシンボルとして残ったのだといっとりました。
クリスマスは冬至か何かじゃなかったじゃな。イエスの誕生日は六月だったように
思いますが・・・・・・全然自信ないです。
そういえばケルトの石碑で十字のが在りましたね。
ではやんごとなき訳ありて抜けさせてもらいます。たまに冷やかせるかも知れませんが。
梵阿弥さんがこないだけで上がらなくなるってのもなんだか寂しいので
日本宗教四方山話その1
日本で最初にできた(って言うか、まだ一つしかないのかな?)イスラム教徒用土葬墓地は、
山梨の仏教寺院のところにある。
「古え吾は震旦の神にして今は日域の神となれり」天平年間の宇佐八幡神の宣託です。
震旦はシナの一呼称です。八幡は伏見の3万2千についで2万5千社で日本で二位です。
三つの神殿が並んでいて、3を尊ぶ、「幡」など道教的が認められます。
>>589 山梨にはムスリムが多いのでしょうか?
>589
山梨にはいまだ土葬ができるから。
ちょっと訂正すると、山梨のその墓地は仏教寺院にあるんじゃありませんでした。
ただ、山梨の小さな寺の住職が、ムスリム達と知り合って「山梨にムスリムのための
墓地をつくれないでしょうか」と相談され、市や県、国などに働きかけて実現したと
いうことでした。墓地自体は小さくて簡素なものらしいのですが。
この話を聞いた時に感心したのは、異教徒のために奔走した住職さんもそうですが、
異教徒に墓地の手配を依頼したムスリムの存在です。まあ、このムスリムも日本人だそう
ですから、その辺の感覚は外国のムスリムと違っているのかも知れませんけど。
日本宗教四方山話その2
沖縄には大量のキリスト教の宗派の教会があるけど、中には世界でも沖縄にしか
ないという宗派の教会も幾つかある、らしい。
593 :
世界@名無史さん:01/11/13 23:29
>>591 日本人以外のムスリムだったら異教徒に墓地の手配を
依頼することはありえない?
その辺は解らないですけどね>593
私自身は外国人ムスリムと直接話したことはありますけど、そう言う話題は
聞いたことがないし。
海外でも土地によっては異教徒との対応は違ってるはずですから、一概に「ムスリムはこう」
という決めつけはちよっと危険でしょう。でも、多分、パレスチナ辺りは難しいんじゃないかな。
まあ、日本のこのエピソードは、なんとなく土地柄みたいな感じはしますけどねぇ。
沖縄は道教が根付いていました。歴史的な経緯を考えれば当然ですが。一方でノロとか
ユタとか琉球王朝の「聞え大君」なんかもいて(宜母 愛子氏は現役?)祭祀の古俗を残して
いて倭〜日本の神祇祭祀を考えていく上で貴重ですね。
596 :
世界@名無史さん:01/11/16 00:47
日本は多民族多宗教国家
それなのに国家神道でまとめようとしたので大日本帝国は自滅した
国家神道は色々無理がある宗教だったと思うけど、だから大日本帝国が自滅したって
言う論はちと難しいと思ふ・・・・・・。
道教の構造、と言うのは表現しづらいですね。はっきりした構造を持たないのが特徴とも
いえそうです。整合性が無くとも気にしない、というか。「神道」もその点は同じですね。
或る創始者を立てない、というのがこの両者の構造の原因なのか結果なのか…。
取り敢えずの思いつき見たいな物なのですが、「引き算的」という印象をもちます。勤めて
知識や能力を徐々に身に付けるというよりも浮世の垢を洗い流して本来の自分に戻れば
うまくいく、という指向が強いように思います。錬金術等、そうではない要素もありますが。
>>596 >>597 そうですね。原因より結果だと思います。処で教派神道は敗戦後勢いを無くしますが、
國家神道の無理からこぼれた要素を受け持っていたので、共倒れしたのかもしれません。
途中まで読んだだけだけど・・・・
「道教と神道が(元々は)同一かどうか?」
知識なし素人丸出しの自分なりの感想をまず言うと、
「そうかもしれない可能性はある。でもわからない」
です。
ただし、ある仮定や、定義した上でです。
まず「宗教」の定義。
「体系化した思想」に昇華してはじめて「宗教」とするならば、
道教と神道、さらには仏教は完全に別物でしょう。
しかし、「ある集団が持つ価値観・思考傾向・文化・儀式・行動様式など」を
他者から見て「宗教」と呼ぶことができるとするならば、
道教と神道は(元々)同一である可能性はあると思います。
後者の定義には異論・違和感は生じると思いますが、
たとえば「神道」を宗教と定義する場合、
国家神道などを除いて、後者のような見方で捉えるのがわかりやすいのではないでしょうか。
かなり乱暴ではありますが、
「日本人の思考・行動様式(の大部分、あるいは一部)の根底に共通して流れているもの」=「神道」
として。
で、そのような見方で「道教」を捉えてみたいと思います。
次に、ある仮定を行います。
(自分にとっては魅力的に見える仮定なのですが、あくまで仮定です)
紀元前後〜?世紀の東アジアにおいて、
日本列島(西日本?)〜朝鮮半島〜中国大陸南部(楚あるいは呉の領域?)に
「倭人」の文化圏があった、とします。
もちろん列島には別の文化圏(縄文?)もあったでしょうし、
「倭」は統一した国家の形をとっていなかったかもしれません。
ここで、当時の大陸に住む人たちに共通する「思考・行動様式」があったとします。
中原に住む人々と、(仮定での)倭人との思考・行動様式には、相違点もあったでしょうが、
根本部分で共通する部分も多くあったのではないでしょうか。
そこに、「原初道教」的なるものを見出せるとします(かなり強引)。
中原においては、すでに紀元前に道家などの思想家によって
「原初道教」はある程度体系化・思想化が行われます。
老荘思想などです。
もっとも一般民衆はそうした思想を思想として意識・理解することは
ほとんどなかったでしょう。
現在の日本人が自らの思考傾向や行動様式を「神道的」として
意識することがほとんどないように。
その後、大陸の民衆の「思考傾向・行動」は、長い歴史の中で変化していきました。
しかしおそらく、長い歴史の中でもあまり変化せず、
原初道教的な部分も残っているのではないかと思われます。
「倭人」はその後、その勢力を日本列島内に閉じ込められました。
あるいは半島・大陸における倭人は他民族と同化・消滅しました。
日本列島においても、他民族(原日本人他?)との交流や地理環境によって、
倭人→のちに日本人の思考傾向・行動は変化していきましたが、
やはり原初道教的な部分も残っていると考えられます。
また、大陸の道教思想とは別に、
おそらく仏教伝来を機として日本人の思考傾向・行動様式を
未熟ながらも「神道(思想)」として体系化・思想化しようという試みも行われます。
そうした「神道」の中にも、あるいは根本にも、
おそらく原初道教的な部分がかなり含まれている可能性はあるのではないでしょうか。
ついでに仏教について。
日本列島に仏教が伝来しても、
少なくとも民衆レベルにおいては仏教は本来の仏教の体を亡くし、
日本仏教としか言えないものとなります。
そしてその実態は、仏教の影響を受けた「神道的なるもの」であり、
かつ「原初道教的なるもの」である可能性もあるかもしれません。
また中国大陸の民衆レベルでの仏教の受容も、
中国人の思考傾向・行動様式に合わせて仏教を咀嚼し一部導入したものであり、
中国仏教(民衆レベル)は仏教の影響を受けた
「原初道教的なるもの」であるかもしれません。
仮定も視点も無茶苦茶強引ですが、
以上のような意味で「神道」「日本仏教」「中国仏教」は
根っこに共通部分を持っている可能性があります。
その共通部分を抽出したものがもし
「道教」あるいは「道教的なるもの」であるなら、
「神道は道教の一派」と言えなくもないのではないでしょうか。
「キリスト教はユダヤ教の一派」と言えなくもないように。
「神道(的なもの)」はかなり日本人の生活に密着したものであり、
日本人自らはおそらく「神道的なもの」というものは
自覚しにくいものであるかもしれません。
もしキリスト教圏から見て
「道教」と「神道」にかなりの共通性が見出せるのであれば、
もともと同一のものから派生した可能性はなくはないと思います。
>>599-
上手くまとめておられますね。波紋を呼びそうな点は仮定であることを強調されていて
手堅いですね。私が散々書き散らしてきた事と似ているようにも思われるのですがいかが
でしょうか。教えていただけると嬉しい。(お呼びでないなら放っといて下さい)
宗教の定義と言うのは難しい。私は「思想体系を日々の暮らしを通して表現した(振りを
している)もの」と言った具合に捉えています。
>599−602
しばらくきていない間に中々に面白い論を展開なされていますね。
まあ、梵阿弥氏同様に私も似たようなことは考えていましたが、「原初道教的なもの」
の定義が難しくて、到底論にできませんでした。共通する思想があったのか? の証明は
現状の資料ではちょっと難しいような気がしますから。むしろ風土的なものから考えた方が
いいのかも。明確な四季がある世界と、そうでない世界とでは宗教観が異なるんじゃないか、
と今思いつきました。ただ思っただけなんですが。
それとちょっと上の方で誰かがいっていたけど、日本ではかつて宗教と言う言葉がなかった
と誰かがおっしゃってましたが、ひょっとしたら日本人にとっては全く別の宗教であっても
「異教徒」ではなく「他宗派」程度に認識してたんじゃないかなぁと。
今の日本人が「宗教」と聞いていかがわしいイメージを持ったりする場合があるのは、
慣れ親しんできたそれらの行事、習慣とは異質なものと感じるからではないかな? と。
605 :
世界@名無史さん:02/02/09 13:16
age
祝春節、平安の昔はこんな寒い時に除目を行っていたのだった。
おまえら日本人のくせにキリスト教なんかに改宗するんじゃありませんよ。バカデスカ?。
神社にお参り。帰りは相撲を見る。これですよ。これ。日本人の醍醐味ネ。
祭りのときは神輿をしょって練り歩き最後は川に飛び込む。これ最強。
>>604 四季が循環的世界観・時間論を生んだ、というのは成る程と思ったものの、
同じく四季の有る欧州はキリスト教とか、マルクス主義とか直線的時間論の栄え、生んだ所
なんですよね。尤もキリスト教も随分年中行事に取り込まれて変容したようですし、
マルクス主義は都市という自然を軽視する環境で生まれたものでも有ります。してみると、
日本でも都市化が進めば直線的時間論が流行るのかもしれません。
取り敢えず、四季は循環論の母体となるが都市化は四季の影響を打ち消す事が有る、
といったところで如何でしょうか。
>608
キリスト教の布教段階で重要な影響を与えたのはギリシャ文化ですから、その辺に問題がありそうな気が。
それにむこうの四季は地方によって相当異なる上に国境を超えて行き来していましたから、
閉塞された日本とは季節に対する観念が固定化しにくいのかもとか思ったりします。
ただ思っただけですけど。
マルクス主義に関しては、その登場以前からヨーロッパでは「理想社会」の雛型として
社会主義みたいなモデルが考えられていたように思います。トモス・モアの「ユートピア」
なんてまさに社会主義な世界観だし。マルクスはひょっとしてそう言う世界観に説得力を
もたせることができた経済と言う観念を導入したことによって大きな支持を集められたのかも、
とか高校の頃に考えていたことがありました(かなり適当ぶちかましてるけど)。
>四季は循環論の母体となるが都市化は四季の影響を打ち消す事が有る、
といったところで如何でしょうか。
というのも面白いですね。
日本と違って全体的に自然の脅威が圧倒的でなかったのが、そう言うのを助長していたのかも。
嵐に見舞われるということはあっても、定期的に訪れる台風とかとは、やはり違っているのでしょうね。
まあ、こんな感じで。
もう少し時間とテキストが間に合えば、思想史の源流としてのギリシャ文化とかぶちかましたいとか思ったりすめけど、
さすがに手におえないからパスです。
タイの仏教徒を見ていると、とても日本の仏教と同じには見えない?
帝国と宗教って、歴史の2大萌えテーマだなあ
612 :
世界@名無史さん:02/02/27 18:28
>>610 そりゃそうだ。あっちは上座部(小乗)。
大乗仏教はそこから分派してから2000年も経ってる。
他の宗教もそうだけど、伝来していく過程で変化していく上に、
土地に根付くと地元の民間信仰なんかと混交しちゃいますから。
別に大乗とか上座部とかだけの問題ではないと思います。
>>609 ギリシャ文化は都市(と交易)の申し子といった印象を受けるのですがどうなのでしょうか。
勿論古代ギリシャの文化と東ローマのギリシャ文化には差もあるのでしょうけど。
>>610 実は今の上座部仏教は全てセイロン経由なんですよ。一度衰えたのをセイロンの師を招いて
復興したものなんですね。タイの場合は国王ラーマ4世が主導(19世紀頃?)したもので、結構
新しい。それまではタイの仏教は呪術的要素が強く、列強の脅威や近代化の摩擦を乗り切る為に
本場から招来したのです。
615 :
世界@名無史さん:02/03/04 14:37
タイ仏教は復興派と旧来派に分裂して両方残ってるんじゃなかった?
>614
ギリシャ文化についてはそれこそ素人だけど、聖書の初期普及版も確かギリシャ語だったし、
その時点で都市で栄えた文化の影響とか受けてるとしたら、608の梵阿弥さんの論は的を得ているかな、と。
ちょいと「日本の宗教」から外れてきたから、それを修正する感じでちょい質問。
熊野のフダラク渡海みたいなのは、海外に例はありませんか?
なんかちょいと気になるもので。
神社かあ、懐かしいなあ。昔は建物など無くて岩とか木とかを結界して供え物して…
この辺はシナの神祇祭祀の…、道教の…
>>616 起源としては
>>558を挙げて置きましたが、海外で現実に行われたかは存じません。ただ熊野では
インドから来た裸形上人が初めと伝えています。
補陀落渡海そのものではありませんが、朝鮮ではある王が「亡骸を東海に沈めよ、護国の竜とならむ」
と遺言し沈められたそうです。当地の仏教は護国的性格が強かったですね。また竜は東方聖獣です。
生きたまま沖へ漕ぎ出した熊野の穂陀落渡海とは異なりますが。
梁の武帝は捨身供養を行いました。これは帝が寺に篭り国家が請け出すというもので、金銭的喜捨の
要素が強いのですが、帝王の捨身を尊ぶという点では朝鮮の海竜王や厩戸皇子の篭りに影響を与えた
かも知れません。さらに辿れば、出家前の釈迦の捨身に行き着くのでしょうか。ただ、そういった
教義上の建前としての捨身伝説だけでなく、佛教以前からの行者の伝統が有りはしないか
気になります。湯殿山に多い即身仏(ミイラ佛)も大きく見れば…
618 :
世界@名無史さん:02/03/20 23:24
特集/歴史を偽造する創価学会
○池田大作[履歴]の偽造
○[創価教育学会は反戦団体]の虚偽
○[大作の代作]と揶揄される[池田本]の実態
連載/信濃町探偵団[創価学会最新動向]
巻頭[閻魔帳]
世論調査の構造と怪が述べられ、米国が地球温暖化問題での「京都議定書」からアメリカの一方的離脱、
「悪の枢軸」発言。さらにベルリンオリンピックでヒットラーさえやらなかった、ソルトレイクでの
「国威発揚開会宣言」。アフガニスタンへの攻撃に際して、イスラム教徒をいたく刺激する作戦名をつ
けたブッシュ大統領の問題等、そして、我が国の不良債権にかんし、グローバリズムを旗印にアメリカに
有利な方法を押しつけられていることを指摘している。
この小誌、なかなか骨がある。購読申し込みは下記↓
〒 162−0822 東京都新宿区下宮比町2−28−326
販売部 TEL 03−5206−6440 FAX 03−5206−6344
1部250 消費税込み、送料別
619 :
世界@名無史さん:02/03/21 16:01
age
620 :
世界@名無史さん:02/03/27 19:04
★公明党に気をつけよ★山本夏彦のコラムより(「週刊新潮」)
もともと国民は食えるかぎり政治に無関心である。
年々投票率は下がるばかりである。
ひとり公明党・創価学会は、名誉会長池田大作(昭和3年生まれ)の命令一下投票する。
学会員のすべてが投票して、他がしなければ国会は公明党の支配するところにやがてはなる、げんに公明党を友にしなければ多数派になれなくなっている。
それを新聞ははっきり書かない。創価学会批判はいまだにタブーなのである。
……(中略)……
昭和44年藤原弘達は「創価学会を斬る」を書いて言語に絶する出版販売の妨害を受けた。
学会はその本を売るなと迫って書店に返品させた。
全国の学会員に書店を回らせ、売ったら今後池田大作のベストセラーは売らせないぞと威嚇した。
それを大新聞は沈黙して1行も書かなかった。書いたら学会員何百万を新聞Aから新聞Bに移すぞ、と脅したからである。
ひとり共産党の「赤旗」は党の機関紙だから、その脅しは効かない。
連日書きたてた。大新聞は先んじて書いたのは赤旗で、わが社ではないからと恐る恐る書いたら大反響で、しまいには一番槍はわが社だと言い出す始末である。
ついに創価学会の言論出版妨害は国会でも問題になった。
これで創価学会の息の根はとまったかと油断していたら学会はこれを「法難」と言いぬけた。
法難にもかかわらずなお学会を去らないのは、志いよいよ固い信者である。
信者は選挙のつど総動員され池田の推す候補者に投票した。
各政党は公明党を抱き込まなければ多数党にはなれなくなった。
学会員は一人も棄権しない。このままでは国会は創価学会に乗っ取られるぞと新聞は書かない。
いまだに創価学会批判はタブーなのである。
>>617 遅レスですが……どうもご丁寧に。
>>558 は見逃していましたね。正直、あの文章の奔流には大意を掴むので手一杯だったから。
湯殿山の即身仏ですか。
多くは江戸時代に盛んに行われたと聞いたような覚えがありますが、例によってソースが思い出せない。あんまり偉くない行者が多かったとも。
しかし、そー言えば出羽三山の開祖である能除太子は祟峻天皇の皇子であるとか言う伝説があったりしますな。
貴種流離の物語のバリエーションと言えばそれまでなんだけど、なんでわざわざ暗殺されたと言われる天皇の皇子なのか……。
なんだか少し気になったり。
622 :
世界@名無史さん:02/04/25 21:58
age
創価は好きじゃないが、熱心な創価叩きの奴って
どうせ他の宗教か共産党だろ。
創価カルトも反創価カルトもカルト政党もまとめてどっか逝け。
相撲かあ、懐かしいなあ。格闘技としてはともかく、宮中行事としてはハイカラの聖武天皇の時に
始まって、唐物好きの嵯峨天皇等のときに唐制を元に整備され、中世に断絶、明治になって日本の
伝統行事だったかのように再生された。この辺は雅楽と同じ。ともかく年中・宮中行事としての
相撲は唐制の、シナの…、道教の…
>>615 その通りでした。モンクット親王(即位しラーマ4世)の改革運動は高度であった為に広まるのは
遅く、また従来の呪術的な派ものこっていました。改革派はタマユット・ニカイ(正法派)、
非改革派はマハ・ニカイ(大衆派)と呼びます。失礼しました。
>614はぼけてましたが、しかし実は上座部は全てセイロン起源だったりします。今上座部圏でも、
例えばタイやミャンマ、或いはイスラム圏のジャワなども先ず大乗的な仏教が定着したことが判って
います。その後に王権主導で「堕落」した佛教をセイロンから導師を招いて改革したのです。大体
10世紀辺りになります。その後15世紀にはセイロンで佛教の混乱があり、タイから導師を招いて
セイロンでも改革がありました。セイロンでもこの改革を受け入れた派と容れなかった派とあり
ます。18世紀にはタイがセイロンから招来の導師により改革ですから、上座部佛教はこうして
歴史的に交流していて、僧の姿等似ているのはそれも一因なのでしょう。セイロンという島が
無ければ、一体どうなっていたのでしょうね。こうしてみると上座部も大衆化=呪術化という圧力
みたいなのを常に受けていたことが判ります。大衆化が大乗化とならなかったのは何故でしょうか。
改めてちょっとだけ、調べてみたのですが、今のところ補堕落渡海行が例えば
>>558で挙げた
コモリン岬や普陀山で行われていたという記述がありません。ですから取り敢えず観音菩薩の
聖地補堕落山の起源、であって渡海行の起源とはいえませんでした。T・Sさんはご存知でしょうけど
補堕落(ふだらく)→二荒(ふたら→にこう)→日光(にっこう)なんて例もありますね。
渡海行が佛教先進地で行われた記録が無いらしい、というと(私が知らないだけでなく歴史上なかった
として)やはり日本の宗教的・精神的要素は独自のものなのだ、という声が出そうですが、私はそうは
思いません。日本列島はユラシア大陸世界の東端であると共に、太平洋世界の西端でもあります。
ポリネシア辺りには「カーゴ・カルト」なるものがあります。私も詳しいわけでは無いのですが、
「常世の国」や「ニライカナイ」などに象徴される海上他界の観念と共通点が多いのではないで
しょうか。この海上(海中)他界観は東海の三神山や徐 フツ(廾+市)渡海といった漢人の観念、
つまり道教にもみられる(取り込まれた?)ものです。浦島子伝説はこの海上他界観がシナ的に
脚色されたものといえるでしょう。日本列島を考える際には、太平洋も忘れてはなりません。
>>614で「裸形上人が初め」と書きましたがこれは誤りでした。那智の裸形(行)上人は天竺渡来
伝説はありますが仁徳天皇の頃とかしていてそのままでは受け取れませんし那智からの出航説話
はありませんでした。最初は868年の慶竜上人です。お詫びします。
裸形伝説とか補堕落渡海行の変遷はいろいろ面白いのですが、私からはまた機会があれば。
能除太子(蜂子皇子)はなんか天狗を思い起こさせますね。大陸からの鉱山技術者が住み着いて、
山を拓いたなんてことは無いでしょうか。
>>625 補堕落渡海に類する行事はありませんか。私は船に乗せて流すということからイザナギが蛭子を流したという行為を連想しました。
もしかしたら何処かに船に乗せて流すという葬送儀礼があったのではないかと。そしてそれが補堕落渡海に繋がっていったのではないかと思っているのですが。
そう言えば精霊流しのような行事でも、霊(タマ)を船に乗せて皮から流しますね。
レデや三途の川に代表される冥界へと至る川のイメージは、そのままたどり着く先が異界であり、常世である海へと繋がっているように思います。
私はそういった形で渡海に転化していったのではないかと考えています。
天狗については魔王大僧正の履歴などに興味がありますが、なかなか。
東北地方といえば十三湊などから結構海外との交流があったといいますから、あるいはそう言う可能性があったのかも。
木地師やサンカなどがその起源に天皇やそれに準じる貴種を始祖とすることから考えて、能除太子を始祖とする出羽三山の修験者は、元々からして何かの職能集団だったというのはありそうな話です。
627 :
世界@名無史さん:02/05/10 14:23
age
628 :
世界@名無史さん:02/06/05 20:43
浄土真宗関連のHPをみてると、こんな記述があった。
ttp://www2.big.or.jp/~yba/QandA/00_10_04.html いまだに友引を避ける、という迷信がはびこっている。
「ご冥福を祈る」という故人を侮辱する言葉が平然と使われている。
(冥土とは暗い世界のこと。本当は浄土・無量光明土)
「幽明堺を異にして」という言い方しかできず、「お浄土に生まれる 」という
見方ができていない。
葬式の最中に世間話をする参列者がいて騒々しい。
塩を撒く(これも故人や死を侮辱する)風習がはびこっている。
すべて葬儀社任せで、肉親が遺体に触れる機会が無さ過ぎ、死を実感として
重く受け止めにくい。
こういうのを、ふだん迷信と感じずに行っているのが大半の日本人。
629 :
世界@名無史さん:02/06/05 20:53
>>628 いかにもキリスト狂屠が言いそうな科白だな。
630 :
世界@名無史さん:02/06/05 22:06
>>628 実際に家族とか親戚とか
身近な人が人が死んでいない、ある意味幸せな人じゃないかな?
631 :
世界@名無史さん:02/06/07 10:20
632 :
世界@名無史さん:02/06/07 10:55
日本の与党に公明党が入っていますので事実上国教は創価学会でしょうね。
世界中の宗教の教義を比較検討して日蓮の教えがもっとも素晴らしいそうなので
当然といえば当然の話ですが。
はて?
学会教義に基づいた国家祭典の儀式など何かありましたかな?
例えば英国国教会が執り仕きる戴冠式のようなものが我が国ありましたかな?
>>626 うわあ御免なさい。「補陀落」「陀」でした。堕だなんて地獄に堕とされてしまうかも。他人まで
巻き込んでしまった。しかし元はポタラカの音訳だし、観音様はやさしいからな…
蛭子説話や精霊流しと確かに似ています。紀伊の加太には淡島神社があり、全国から要らなくなった
人形が贈られてきます。しかしプラスティック製だと流せないし燃やせないので困っているとか。只
蛭子や精霊流しの海は不要なのを捨てるところですから、観音や阿弥陀如来の元へ行くという
補陀落渡海とは正反対にも見えます。しかし恵比寿神は元は蛭子だったと言う説話があったように
思います。ここには海を舞台とした死と再生の物語が在りそうです。また渡海行の盛んだった中世は
浄土=死後の世界、の価値がひっくり返ったとも言えますから、差についてはそんなに気にしなくて
良いのかも知れません。また日本書紀の一書にいざなみ神は紀伊の有馬に葬られた、というのがあり
紀伊は死者の世界への入り口と言う見方は在った様です。
しかし漁師や海運業者にとっては海は富の源泉でもありますし、紀伊には太陽信仰の聖地が多い。
そういった面からも考えてみたいと思います。
鯉幟が揚ってましたね。あれは江戸時代中期に始まりました。元々端午(月の初めの午の日)の節句が
午は五に通じることから5月5日に行われるようになり、季節がら菖蒲の節句と呼ばれるようになり、
「菖蒲」は「尚武」に通じる事から武士が門前に家紋を染め抜いた幟を立てたのに対し、町人が紙で
鯉の幟を立てたのによります。鯉が滝を登り玉門に到り竜と成る、というシナの説話を表現したもの
です。シナと日本の風習の共通性を示す一例です。つまりシナでは鯉幟は行われませんが、しかし
こういうのも共通性の顕れといえます。また道教と「神道」は諸宗教の中でも民俗儀礼との一体性が
特に強いですから、道教と「神道」もまた深い共通性を持っていて、違って見えるのは単なる地域差
では無いかと主張するのです。また「教団道教」や「教派神道」といった創導性の有る運動を共に
生み出してもいます。
>>633 そのうち法華経をやぶくと逮捕されるとか、私刑を受け、警察がろくに捜査しない、とか
成るのでしょうか。この辺が事実上の国教としての目安でしょう。
>>634 >うわあ御免なさい。「補陀落」「陀」でした。堕だなんて地獄に堕とされてしまうかも。他人まで
巻き込んでしまった。
いや、こちらこそすいません。
実は面倒だったので一発で出そうにない文字はコピペして貼ってたんです(^_^;
自分で書いてたらきづいたと思うですから、これはこちらのミスです。
さてさて。
海の彼方にあるとする「常世」と地下にあるという「根のかたす国」とは別のものであるように思います。
描写について何やら異なるというのもありますが。
そう考えると舟に乗せて流すというのは葬送儀礼とは違っていたのかも知れません。
日本人にとっての死生観――というよりも、冥界に対する観念は地域差がある上に多層化して解りにくいですが。
古い時代の南方系の神話が色濃く残っていた頃は、沖縄のニライカナイの信仰のように、海の彼方にある「常世」は魂の還る異界というだけのところだったのかも知れません。
あるいは舟に乗せて流すというのは流れ着いた漂流神のように別の地に至っての復活を願っての行為だったのかも知れません。
今思いついたんですが。
>>1 オウム真理教の話をしたらあかんのか?
もうそろそろ総括してもええ頃やろ。
638 :
世界@名無史さん:02/07/16 00:23
>611
>帝国と宗教って、歴史の2大萌えテーマだなあ
これは古代と中世、あるいは近代と21世紀の2大テーマ、と同じ意味ですね
639 :
世界@名無史さん:02/07/16 00:52
1の
11 :2001/08/25(土) 09:50
宗教板で立てても電波な返信されるの目に見えてる。
日本史板で立てるのは別に良いけど、
世界史的な経緯をしりたいから。ってゆーか世界史的な経緯からその国の宗教ってきまるのではないの?
一国で自然発生的に宗教始まることなんて少ないでしょ?
は結構深いと思った。やっぱり世界史板面白い。
640 :
世界@名無史さん:02/07/16 01:00
んー。
ここはもうちょっとみなの書き込みがあってもいいと思うけどなぁ。
八ヶ月のブランクがあるけど。
日本宗教四方山話その3
宗教と言う語は元々仏教の用語だった。
642 :
世界@名無史さん:02/07/24 14:01
次いってみよー!
あー、久々に上がってる……。
日本宗教四方山話その4
ってーか、3の続き。
元々は仏教というのは「宗教」の語が広まってからで、それ以前は仏法と呼んでた……。
日本宗教四方山話その5
浄土真宗には呪法の類は伝わってないし、親鸞もそんなこと教えていないのに、どう言う訳かその息子はじゅ術を伝えていたりする……。
夏も近づく八十八夜、と相変わらず話題が遅れ気味ですが、二番茶三番茶もあるし…
近頃「中国緑茶」なる物が売り出されてますね。容器を見ると「中国独自の釜炒り製法」云々とある。
確かにあちらは摘んだ茶葉を釜で炒る。日本では蒸す事が多い。この違いによって、炒れば香りが豊かに
なり、蒸せば苦味や渋みが強くなる。何故製法が異なるか。シナでもかつては蒸していました。確か
明代に釜炒り製法が普及しあちらはすっかり塗り替えられたのですが日本では釜炒り製法は伝わったものの
余り流行らなかった。日本への茶の伝来は、平安時代ころまでは製品輸入の薬湯で、鎌倉時代頃禅僧が種
を持ち込み喫茶法と伴に広めたもの。当時のシナは宋代でしたね。これも文明地辺縁では中心地の古風が
残るという一例と言えましょう。しかし日本でも釜炒り茶はあり、九州北部を中心に四国、広島県辺りに
広がっています。生産地での消費が殆どで、東京や京阪といった文化発信地と無縁の為に影が薄いですが。
何故北部九州中心なのかといえば、要は同地が大陸に近く、日本列島における文明先進地だからです。
大麦焼酎(焼酎自体は琉球の泡盛を経て東南アジアの焼酎文化に連なるものですが。暑いと醸造酒は
傷み易いので保存の為に蒸留する。ただ大麦は朝鮮北部では多用される食材)や明太子などもそう。
もう1つ釜炒り製法が日本では西南部に限られるのは香気成分は暑い所で育てないと増えないから、
というのも考えられますがね。ですから「中国独自の釜炒り製法」というのは明らかな誤りで、
不当表示です。生産組合は抗議(便乗)しても良いのでは。特にアサヒ飲料は残念。元々
アサヒビールの子会社で、つまり大阪の会社でしたから西日本の食文化に何の理解もないのは御粗末。
食品表示が問題になっているときに困ったものです。サントリーじゃあるまいし。
宗教と何の関係があるんだよ、という貴方へ。喫茶は禅や道教と関連し(禅自体道教の佛教化)ています。
「老子」は柔や弱といった割と植物的な生き方を尊んでいますし、尹 喜が老子に杯を奉げ、なんて説話も
ある。荘子は漆園役人を勤めた時期があるらしいのですが、例えば「竹取物語」は漆職人の伝えた話が
元になっているという説がある。禅や、道教の竹林の七賢人のような具合、或は千 利休が竹製の匙や
花活けを用いたように、老荘と山里文化そして道教、禅、茶の湯というのは繋がりがあります。
また道教の重要な要素に外丹や服餌による仙化や養生がある。いずれも薬物を取って体調を調整するもの
です。かつては水銀や砒素等危険なものが用いられましたが次々死者を出し効き目の弱いものに替わって
いきます。また体内の気を調節する内丹も盛んになり呼吸法や体操が行われますが、「神道」の呼吸法や
体操と共通しています。こういうのは文明の力量差を考えれば、たまたま似たわけはないんですね。
喫茶自体は「神道」ではさして行われないようですが、これは「神道」の儀式が伝わった年代や、茶の
貴重製に拠るのでしょう。佛教的であるとして神職に嫌われた面もあるかもしれません。なお、朝鮮では
茶は殆ど飲まれません。佛教の俗文化への影響力の低さもあるようですが、やはり日本列島よりも涼しい
ので茶樹が良く育たないようです。
そういえばボストン茶会事件なんてありました。イランのタバコ不買やアヘン戦争といったように
世界史のそこここで嗜好品が姿を見せます。寒い欧州では貴重だった砂糖入手の為にカリブ海に黒人奴隷
を導入し、解放奴隷の反乱から初の?黒人国家ハイティ独立、何てことも。
んー。
そもそもからして「服用」というのは、神農が薬草を身体に服のように張り付けていたという、古い漢方の処方から来ているといいますからな。
時折どこかで見かける神農の像は、まるで「木の葉男」のように体中に葉っぱをいっぱい貼り付けてます。
神道の儀式とかにお茶のようなものがでてこないのは、より「清浄」を強調する概念であったからかも知れず。
「禊」とか「祓い」は大雑把に言って「除去」のための方法論であって、内外合一とか丹の服用のような「混濁させる」っーか、「あわせる」という観念とはちと違うような?
共通項をあげていくだけではなく、何処が総意しているかなどもあけながら、文化史とか精神史を追っていくのは面白いかも。
647 :
世界@名無史さん:02/08/17 15:36
age
>>641 宗教という語ですか。佛教内では字の如く宗の教え、であって、「宗」は真理とかいう意味で、「教」はその解説法
といった意味でしたね。ここには「教」は多様でも「宗」は1つではないか、といったある種インド的共存観念が
あるようにも思えます。イスラムでも登り口は違っても頂点は1つ、といった言い方はしますが。
佛法の他にも佛道の語も用いられました。また佛教内部での「佛教」の語は文字通り佛の教え、であり組織とか
そういうのは関係ない。佛説、という語とほぼ同じでしょう。
>>648 宗旨の争い、釈迦の恥という言葉もありますからねえ。
ま、それはともかく。
日本宗教四方山話その6
告別式という言葉は、中江兆民の時にはじめて行われた。
……なんでも遺言で「葬儀は行わないで欲しい」とのことだったのだけど、仮にも「東洋のルソー」だかなんだか言われている人物の死に際して何もとり行わないというのはちと不味いということで、政府だか家族だかは忘れたけど、「告別式」というのをでっちあけだそうな。
当時の新聞には「古今稀に見る珍妙な儀式」ってな感じで酷評されたらしい。
詳しい文面は知らないけど。
うーん。
日本宗教四方山話その7
江戸時代の寺院は檀家に対して絶大な権威を持っていたが、その根拠とされる「御条目宗門檀那請合之掟」は徳川家康発行とされているが、寺院側からだされたものだった……。
具体的内容は書かないけど、なんか色々と強制してたみたいです。
こんなスレッドがあったのか。
日本の宗教というと最初に思い浮かぶシーン。
以前、ある神社に行ったときのこと、
神社の本堂に入るとクリスマスツリーが飾ってあった。
宮司さんがボーイスカウトの指導者をやっているそうで、
その少年たちと一緒に本堂でクリスマスパーティーをやったらしい。
例えばイスラム教のマスジッドにクリスマスツリーが置かれることは
絶対にありえないわけだが、日本の宗教ではそれがありうる。
日本人の宗教意識を論じるには、ここが出発点になると思うけど、
思いをうまく言葉にまとめることが、俺にはできない。
熊野の裸形(形)伝説ですが、海の向こうから船でやって来て海辺で沐浴していると清水が漂ってきた、流れの本を
辿って行くと那智川を遡り大滝に至り千手千眼観音像を感得した、というものです。奈良時代の
興福寺の永興禅師だ、といった伝承もあるのですがもっと古い(例えば仁徳時代)といった謂れが多い。こういった
伝説はそもそも集団の長期にわたる活動を個人に集約したものですから実在したと考えないほうがいい。しかしまた
元となる出来事や集団がやはり何か有ったのでしょう。もちろん段々大げさになっていきます。
熊野速玉社のある新宮にも裸形は足跡を残しています。新宮というと徐 市(福)渡来伝説が有る。また蓬莱山と
呼ばれる丘も在り大陸の気配の濃厚な所です。種子島の鉄砲伝来後翌年あたりに速くも根来(現和歌山県岩出町)で
鉄砲を製造しているように紀伊は西・南方と中々近い。
下川 巳六氏の「熊野の伝承と謎」に拠ると平符将軍という表現が出てくる。この平符というのは太平道・五斗米道
以来の道教の呪符の使い手の事であり、将軍も山伏的集団である「軍」を「将いる」という意味で、裸形の道師的
性格が読み取れるとの事。更に氏は裸形というのはジャイナ教の裸形派等にも触れインドのバラモンだったかと
して居ます。確かに裸形は天竺から来た、という伝承はあります。また、釣りをしたという伝承もあり、氏は
白髭明神伝説のように神となった裸形が新たな神仏に主役を譲ったことを表しているのだろうと。
私としては直にインドから来たとは思えませんが東南アジアからなら何人か来たかもしれません。また釣りは海民の
神である事、及び戎のように漂着神であることを表すと思いますが。
裸形が補陀落渡海を行ったという説話もある事はあるようです。真面目に受け取ってもしょうが無いですが。
ただ渡海行者は那智川河口の補陀洛山寺で前行を行った例が多い。当寺の開基は裸形と鎌倉時代の智定坊の2説。
こういうのは段々古くなっていきますから智定なのかもしれません。しかし渡海行は平安時代にも行われていたと
伝えます。従って草庵位は在って大きくしたのが智定かも知れません。
裸形伝説は紀伊の道成寺や小栗判官、役の行者といった他の説話と比べて何故か広まらなかった様で、原像の構築を
難しくしています。ともかく熊野は海洋的・大陸的・道教的気配の濃厚な所です。
>>646 茶というものはシナの禅宗では睡魔を「払う」物として用いられました。栄西も「喫茶養生記」でそう紹介
しています。また蓬餅や菖蒲湯は邪気を払うとされています。こういうのは恐らく植物の芳香が腐敗を遅らせる
事から来たのでしょう。つまり腐敗は邪気が執り憑くからであり、香草は聖なる仙草な訳です。そうすると
こういった草の香を「摂る」事は邪気を「払う」事な訳で、「神道」の引き算的な達成感・救済感と矛盾しません。
私は「神道」なるものの巫もかつてはもっと色々な薬物等を用いていた筈だと看ています。何故なら、洋の東西を
問わず巫という者は医者だからです。日本においてそうではないのは恐らく奈良時代以降新来の道教・佛教者の
薬学に対抗できなくなったためにそういった物質面を捨ててしまったのではないでしょうか。次第にそして終に
極端なまでに唯心的に成って行ったと考えます。非物質的、つまりグノーシス的とも言える。止めを刺した?のが
明治以降の国教化であり、西洋伝来の科学の進歩と組み合わせるにはむしろ唯心的で都合が良かった。
>>651 私の近所で祭りがあったとき、神輿を地元の大本教会にもっていったのでびっくりしたことがありました。
なんでだろうと思っていたですが、ここも氏子だからとのこと(^_^;
そりゃまあ、大本教は神道ですから、地元の祭りに参加してもおかしくはないですがね(笑)
春日さんの氏子で大本教分教会長ってのはいいのかなぁ。
いかにも日本的な話ではありますが。
>>652 梵阿弥さんお久しぶりです。
熊野の地方の持つ海洋的な特異性というのは面白いですね。
ずっと時代をくだりますが、熊野には八幡(貿易と海賊を生業とする者達)といわれる一党がいて、中世などには随分と暴れ回っていたようです。
海洋的に大陸と行き来しやすい場所だったのかも知れません。熊野八幡に関わりが深い愛洲移香斎の創始になる陰流の伝書が戚継光の手に渡ったのは倭寇が持っていたのを得たという話ですが、あるいは佐官に交流があったことを示しているのかも知れません。
恐らくは古代にも何がしかの行き来があったのでしょう。
>>653 なるほど。茶の持つ「薬」としての薬効よりも、魔よけとしてのシンボルイメージを考えているわけですか。
確かに香りの強い植物は世界的に見てそのように使われることが多いですから、古代の巫が使用していたとするのはあり得ることですね。
新来の道教、仏教者に対抗できなくなったというのは、もしかしたら物部守屋の反発もそれに端をはっしているのかも知れませんね。
確か仏教の伝来を同じくして大陸より呪禁師がきたはずです。
守屋が恐れたのが「仏教」に象徴される大陸の医学、文化と仮定することも可能ではありますか。
いささか小説的な発想ですが。
まあ、廃仏論争自体にも検証は必要ですし。
ああ、それと「ほとけ」というのは、疫病が流行った際に守屋がつけた不吉な名前だったはず。
少なくともそのような伝承があったと思います。
意味はちょい思い出せませんが。
医療関係での対立があったとしたら、疫病は排斥の口実としてはもっともらしいなぁとか。
うーん。
655 :
山野野衾 ◆NDQJtGoM :02/09/09 10:22
「ほと」は女陰に通じ、「け」はその気を表す。従って「熱あるもの」という意味
では無いかという説あり。
>>654 お久しぶりです、いつも。近頃私のまれ人ぶりもお馴染みに成って来たか、何処かに書き込むと
「奴着たな」と私向けの話題を書いておられる気配もあります。ただ私は「お待ちください」の画面を
右上×で消してしまうので揚げて頂いても気付かぬ事もありましょう。
八幡船というのは倭寇の被害者側のPa-Fan(破船や奪販当諸説あり)が日本でばはんと訛り、八幡の字を
当てた物とか。或いは息長帯姫(神功皇后)の遠征伝説を意識した当て字でしょうか。
愛州 移香(惟考)斎といえば剣術の陰流の祖ですね。彼自身明に渡っていたともいわれます。また明人の
陳 元贇の伝えた拳法が柔術の元となったとも言われます。とするといかにも日本の精神文化の象徴の様に
思われている武術もシナのそれの土着化、一種の亜流とも言える。「兵法家伝書」や「五輪書」等理論面は
禅ですし空手はそもそも唐手。亜流だっていいじゃありませんか。
<茶の持つ「薬」としての薬効よりも、魔よけとしてのシンボルイメージ
はい、寧ろ護符等も当時の人はある種科学的に効能を信じていた、と言った方が良いのではないでしょうか。
今の我々には茶のカフェイン、タンニン、カテキン、フラボノイドといった成分ゆえに効くと知っている。
一方で護符等は情緒的刺激による内分泌改善位のものだ、と考える。しかし昔の人にとってはどちらも現実に
訳解らないが偉い人が効くと言っている、と思って用いた訳です。我々のほうからこういった迷信家の方に
近寄ってゆくことも必要でしょう。
<物部守屋の反発
物部氏はなんか気になります。私は物部氏の信仰はかなり道教的、雑密的だったと思います。基盤とした
河内はそもそも非常に大陸色濃い所ですから。河内の奥座敷の葛木は後に役 小角が出ます。
>>655 佛(ぶつ)が訛って「ほと」となってどういう訳か「け」が付いたという説あり。
>>651 よく言われる事ですが、しかし日本でクリスマスは信仰の表現として行われてますかね。単に年末の
若者向けの祭りのように思われます。(学期終わりだし。基督教徒のは別)
日付が同じだから、というのなら12月25日に祝う人はみなミトラス教徒になってしまう。
659 :
山野野衾 ◆NDQJtGoM :02/09/29 23:22
>658
歳神に対する行事と習合していると指摘する民俗学者も居ます。それ
と巫=医師という御意見についてですが、日本では専ら山伏や僧侶が
民間薬を出していましたね。
藪医者という表現も野巫医者から来たという説があります。
>658
サトゥルヌスも忘れんな!!
>梵阿弥
まだ懲りずに世界史板にくるのか。この既知害は。
>661
モーニング娘が好きでも、B.スピアーズが好きでも人それぞれ
好みがあるんですよ。
>>657 こちらこそお久しぶりです。
あと、熊野と言えば紀州の徐副渡来伝説を抜かしていましたが、それは梵阿弥さんが何処かでフォローしておられましたかね?
日本武術の原初については大陸からの影響は何がしかあったのは確かなのですが、直接的なものであったかはどうも私には思えません。
大陸の武術と日本のそれは共通点もありますが、相違点の方が目立ちますし。
土着化が激しかったと言えばそれまでなのですが。
愛洲移香斎の渡明の話は、伝書が向こうに伝わっていたことからの類推だったと思います。
禅は確かに大陸産ですが、日本で大成したとも考えられますし、そもそも「五輪書」は別として、多くの伝書が仏語などに拠っているのは、兵法者自身に教養がなく、伝書の作成に当たって僧侶や神官に協力を求めたからと言う話もあります。武蔵のような人間はまれだったかと。
空手については別スレ
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1026203983/656参照のこと。
物部氏については日本史板で専門のスレが最近たっていましたね。
ちょっと専門的すぎてなかなか手出しできないですが(笑)
ただ、短歌に八十物部という枕詞があることからも、非常に数多くの係累がいたことは明らかです。
もしかしたら大和王朝以前の支配政権だったというのはいささか小説的ではありますが、そういうこともあるのではないかなぁとか思ったりします。
小角は一応賀茂氏の祖先ということになっていますね。
物部と関連するのは上でも書きましたが韓国広足ですが……実際問題、どういう間柄だったのでしょうね?
>>659 私が聞いた話では、昔、藪という名の名医がいて、それにあやかってみんなが藪を名乗ったとか。
そして江戸期の医者というのがなんの許可もいらなかったということもあり、とんでもない医者でも藪を名乗るようになり、そんなこんなでとうとう「藪」といえば酷い医者のことをさすようになってしまったという……。
いかにも俗説っぽいなぁ。
666 :
ふにゃぽん:02/10/07 18:16
668 :
世界@名無史さん:02/10/20 23:26
そろそろキチガイの梵阿弥が降臨するのであげておこう
>>659 その「歳神に対する行事」とはどういうものか教えて頂けますでしょうか。また習合説もご紹介頂けると
有難いです。私は年末賞与で子供におもちゃを買ってやって、とかそんなもんだと思いますけど。
>>663 徐 福渡来伝説は一応
>>652出しておきました。他にも渡来伝説は九州、丹後等にあり、秦氏の分布地と割と
重なるそうです。
弓削の道鏡は呪術を能くしましたが、弓削といえば物部の地盤でした。彼自身山岳修行を行ったという伝承
も有るようです。物部、葛木、道教の関連が気になりますね。
物部が失脚し、庇護されていた道教・雑密行者が葛木山上に逃れ、別に大陸と海洋の祭祀が定着していた
熊野と連携し…なんて小説的に考えたりします。役 小角が葛木と吉野に橋を架け、なんて伝説もあります。
>>669 熊野と言えば九鬼神流の祖、薬師丸隆真は、紀州熊野の別当の子で、家は代々別当職を
継承する藤原氏の末流。水軍を率いて源平合戦にも活躍した。父、道有から修験道を学んだ後、
京に上り、三藐院の僧、定海に就いて真言秘密禁厭の法を修めるとともに鞍馬に於いて兵法を
修行し、九字秘法、及び隠形の術に通じたと伝えられる。
九鬼の「九」は九字の「九」、「鬼」とは「鬼神」の意味でこれを「カミ」と読む。
本来、「クカミ」と称するのが正式だという。ところで、九鬼家に伝わる、古事記以前の
超古代史「九鬼(クカミ)文書」というものについて知っている人はいないか?
>>669 秦氏というえばユダヤの末裔とかとうとかいう説を出した人が戦前にいたそうですが、まあ、それはかなり無理がある話として。
弓削の道鏡についていえば、宿曜道の呪術を使っていたと言われていますが、北辰妙見の呪術を使っていたというのもネットでみたことが。
後者の方はあてになりゃしませんが。
弓削氏と物部のかかわりについての参考に。
http://www.lint.ne.jp/~saruru/tyoko/yugejinjya.htm ……そういえば、ソースは思い出せないけど、道鏡が山岳の修行で得た神通力は天之一箇目神とかいう鍛冶神によるとかどうとか。
そーいえば、妙見とか八幡も鍛冶関係の神で、弓削氏は武器製作に関連する氏族だったか……。
呪術云々はそこいらからこじつけられたのかも知れず。
道鏡、雑密の行者を物部氏がかくまっていたというのはどうですかねぇ。
いっそ物部氏の衰退によって、そちらの物部系統の呪術師が大陸系のに乗り換えたとか、大陸伝来の賀茂氏がその勢力を塗り潰そうとした話を象徴しているとかでもいいのではないかと。
>>670 九鬼神流とは、また……。
武芸流派大事典にあれこれ載っていますが、九鬼姓は後醍醐天皇より賜ったというのもありますな。
「九鬼(クカミ)文書」については確かそれらしい本を持っていたと思うけど、すぐには出せないです。
ただ、記憶によれば「九鬼文書」の「鬼」は上の点というか一角がなかったと思う。
これは「鬼」と違って角がない、という意味合いでの造語だとするのなら、そんなに古くはないでしょう。
鬼に角というのはそんなに古くまで遡らない、はず。
お役に立てませんで。
672 :
邊羅阿弥 :02/10/21 17:10
「九鬼文書」の他、超古代秘史資料について、比較的詳しく書かれた本をみつけました。
吾郷清彦著『日本超古代秘史資料』(新人物往来社)です。それによると、
古書4書 「古事記」「日本書紀」「旧事記」「古語拾遺」
古伝4書 「ウエツフミ」「ホツマツタエ」「ミカサフミ」「カタカムナのウタヒ」
古史4書 「九鬼神伝精史」「竹内太古史」「富士高天原朝史」「物部秘史」
異録4書 「但馬故事記」「東日流外三郡誌」「忍日伝天孫記」「神道原点」だそうです。
最後、「神道原典」です。
675 :
世界@名無史さん:02/10/24 13:43
九鬼文書なんてのは竹内文書とかと同じ偽書の類だよ。
なんせ古代日本とユダヤの関係とかが書いてあったりするんだとお話しにならない。
676 :
邊羅阿弥 :02/10/24 14:01
>>675 ユダヤばかりか、インド、エジプト等世界中の宗教に関する記述が、上記「古史4書」の
すべてにみられます。 それが「お話にならない」とする根拠(文献、もしくは研究者)の
ソースをお願いします。
677 :
世界@名無史さん:02/10/24 14:13
>>676 ソースも何も「ウエツフミ」だの「カタカムナ」だの「ホツマツツタエ」だの全部、近世(早くても江戸期以降)に作られた偽書でしょうが。
ましてや、竹内文書みたいに三千億年前に初代天皇がいたり天皇がアマノウキフネとかいう空飛ぶ船で世界を観覧したり、
「ヨハネスブルク」「サンフランシスコ」「オストラント州メルボルン浜」だの
怪しい記述がある書物なんてお話しにならないでしょうが?
678 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/24 14:33
>>677 九州の日本史マニアは邪馬台国で頭一杯だけど、東北の方は違うようですね。
津軽ナントカ史とかいうのがあって、マニアが随分いるそうです。
私は2〜3ページ読んでこけた。
仮名遣いの間違い方が江戸末期から明治初期なんだから。
679 :
世界@名無史さん:02/10/24 15:00
ネット検索した結果以下のサイトをみつけました。
ttp://f1.aaacafe.ne.jp/~megalith/kukamimonjyo.html このサイトには、確かに以下の記述がみられます。
<古史古伝にとっては、これは最も弱い部分なのかもしれない。筆跡鑑定をしようが、
紙の製造年代測定をしようが、ごく最近の物であるという結果が出てくるのはある種、
致し方のない事なのである。とはいっても、この書の内容を全面的に信用するのも、
常識的にも歴史学的にも、全く信用できない。>
しかし、この説に私は賛同を示すことはできません。同じサイトに以下の記述があります。
<ウガヤ(ウガヤフキアエズ)朝が73代続き、第73代天皇を大和朝廷初代の
神武天皇に置くのは上記、竹内文書と共通である(ウガヤ朝の存在は宮下文書にもある)>
大和朝廷時代以前に、高度な文化(国家)が日本で発達していた形跡はありません。
上の記述は、記載された「国」を、現在、日本国となっている小さな島に限定している
ようですが、おそらく、「古史4書」に記述された「国」はノアの箱舟伝説等で表される、
全世界的な大洪水によって海底に沈んだ、アトランティス大陸に存在したとされる
「ムー帝国」を意味していると考えるべきでしょう。帝国が沈没することを予想した
支配階級の優れた人々が、宇宙船のような船を考案し、沈没前に、陸地として残ると
推測された地域(ユダヤ、エジプト、インド、北欧、インカ、中国、日本etc・・・)へ
移住し、それぞれの地域に「舟に乗って降臨する神々」と「その子孫である統治する王」
の伝説の原型を作ったものと思われます。
それらの伝説に共通しているのは、太陽を象徴する王が殺され、その子を宿した
女王が(そのことによって死んだ王と一体化する場合もある)新しい土地の宗教上の
最高神となり、その「子」が初代の「統治する王」となるパターンです。それは、
上記のすべての地域の神話に様々な「神の名」によって表現されています。
「バベルの塔」の伝説(それぞれが別の言語を持ち、別の地域とは会話が成立しない)
は、各地域に散った同族のものたちが、勢力争いに陥らぬよう、との配慮であったと
思われますが、翻訳という作業が盛んになるにつれ、「宗教戦争」はあとをたたなく
なってしまいます。
ユダヤ王家の石棺には日本国皇室の紋章である菊花紋と同じ模様がみられますが、
「菊花」が太陽を表していることは疑いもありません。そのことからも、日本とユダヤの
統治者は、同じ血族であり、日本の超古代史書と旧約聖書は、同じ出来事に由来している
ものと思われるのです。
また、これらの文書は、文字として紙等に書かれたものであるため、本来、口伝えで
伝えられたものが、それぞれの地域、時代の人が理解しうる形で、書き直されてきたもの
と思われますので、書かれた時代が明治以降であるから、「偽書」とするのは、
「旧約聖書」が、ラテン語訳された年に書かれた「偽書」であるとするほど、愚かな
推測と言わざるを得ません。
日本の場合、「古事記」のみが、日本神話の正伝であると考えがちで、他の文書は、
すべて「偽書」であると決め付ける傾向にありますが、「古事記」が編纂されたのは
712年であり、そう古い時代のことではありません。「古事記」には、太安万侶の
手による序文がつけられていますが、それによると第40代天武天皇が「古事記」編纂を
思いつき、第43代元明天皇の時代にやっと完成したとされています。それは、第31代
用明天皇(橘豊日命タチバナノトヨヒノミコト)を「天照大神」にみたてて、女帝が
即位したことの正当性を表し、第32代崇峻天皇(長谷部若雀命ハツセベノワカサザキ
ノミコト)が暗殺された事件を「天岩戸」事件にみたて、第33代推古天皇
(豊御食炊屋比売命トヨミケカシキヤヒメノミコト)が即位することを「岩戸開き」
にみたてて、「天照大神」が再び統治することを印象付ける目的があったと思われます。
さらに、「魏志倭人伝」の卑弥呼統治→男王時代の戦乱→巫女壱与(表記は様々)の統治
という、500年前の故事もオーバーラップさせて印象付ける必要があったのではないでしょうか。
従って、この一連の出来事に関係のない神話は、ほとんどカットされてしまい、「偽書」
という形で、古代に神事を行なっていたいくつかの家(物部氏など)に伝えられている
のではないでしょうか。
何よりも、天武天皇にとって必要だったのは、前天皇妃である元明天皇即位の正当性
であったことは、いうまでもありません。
683 :
世界@名無史さん:02/10/24 15:44
オカルト板か民俗・神話板に行ったら?
最後の2行、訂正します。
(「古事記」編纂にどの程度、天武天皇が関与したかは明らかではないので・・・)
「推古天皇→文武天皇→元明天皇という流れを正当化する必要性があったことは
いうまでもありません」としてください。
>>683 ここは「日本の宗教」スレでしょう?
日本の宗教の話をしているつもりですが・・・。
民族・神話板はともかく、オカルト板は関係ないと思います。
>>681 んー。
日本の天皇家で菊が家紋になったのって、わりと新しかったみたいな気がするですが……。
つーか、菊は外来の植物ですって(^_^;
ついでに旧約聖書ったって、外典とか色々あって、現在伝わっているものだけを基準にしてると辛いです。
さらに言えば、ムー帝国って……まあ、それはいいとして。
古史古伝の類には中国でいうところの野史のように、民間に伝えられた話とかがあるのではないかなぁとか思いますが。
そもそも日本では考証しようとする考え方自体がないですからねえ。かなり恣意的に情報は歪められるは後から付加されるはしているでしょうから、色々と検討はしないと駄目じゃないかなぁと。
>>686 菊花紋というのは、紋章の形が菊の花の形に似ているからそう呼ばれているだけで、
ユダヤ王家の石棺の模様も、日本の皇室の紋章も、実際には植物の菊を表している
わけではないようです。おそらく、太陽、天体、方位、天皇家に縁のある神々の
御柱の数等を(曼荼羅のように)象徴的に表しているものと思われますが、
具体的な意味は、もう少し詳しく調べてみないとわかりません。
天皇家の儀式は、戦後、天皇が「象徴」となるまで、決して明かされることは
なかったわけですし、使われている「図像」も極秘のものであったと思います。
現在、天皇家の紋として、目にふれる「菊花紋」も、実際の儀式に使われている
図像とは違っているということを聞いたことがあります。(花弁の数が少ないとか…)
旧約聖書に関しては、「古事記」以外の古史のほとんどが、外典、偽書とされている
ように、キリスト教会で認められた「聖書」のみが正典、他は異端、外典とされて
いるのとよく似た状況なのではないでしょうか。
クムランから出土した「聖典」にも旧約聖書と似た記述がみられ、聖書にはない
記述もあるので、論議の的になっていますね。
「ムー帝国」のことは、「日本の宗教」と大幅にずれてしまうので、ここでは
やめておきます。(また他板へ行け、といわれてしまうので…)
古史古伝にはもちろん民間伝承もありますが、上に挙げた四書は、古代の神事を
祭司として行っていた家に、「秘伝」として伝わっていたものなので、他の文書とは
区別されているのだと思うのですが…。
688 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/10/24 22:25
>686
確か菊の御紋が採用されたのは後鳥羽院の時代です。
>>688 わあ、ありがとうございます! 無知を晒して恥ずかしい…。
「天皇家」の歴史って何故か拒否反応があって、実はものすごく疎いんですよね。
別にサヨクじゃありませんが、実際は「万世一系」じゃないのではないか…、と
考えてみたくなってしまう方で…。かといって今まで調べてみる気もなかったもの
ですから。「熊野」とか「徐副」とかには異常反応してしまうのですが(笑)
あと、「大本教」が丹後由来だということも興味があります。「大本教」の
「お筆先」に現れた「神」は、実は藤原不比等である、と書いた本があったように
思います。今手元にないですが、著者は友清(?)ナントカ…。
(信者ではありません。念のため…)
690 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/10/24 22:53
>689
とりあえず本当に歴史に興味がおありでしたら歴史書をお読みになった
上で大学の史学科にお入りになられる事をお勧め致します。
>>687 天皇家の菊家紋は十六曜八重面菊華紋……でしたっけかね?
そんな名前でしたが、ちょっと思い出せないですな。
天皇家の儀式は、例えば伯家神道なんてのがあったりしますが……。
まあ、それはそれとして、日本で公式な歴史書でいうと、「古事記」ではなくて「日本書紀」の方じゃないかなぁと……。
「古事記」の方は、太安万侶の、どちらかといえば私的な感じでなかったですかな?
>旧約聖書に関しては、「古事記」以外の古史のほとんどが、外典、偽書とされている
>ように、キリスト教会で認められた「聖書」のみが正典、他は異端、外典とされて
>いるのとよく似た状況なのではないでしょうか。
新約の方も今の形に落ち着いたのは少し後になってからですから、別に初期キリスト教にかかわりがあったかも知れないクムラン教団に新約聖書とことなる文書化背あっても全然不思議ではないように思います。
>古史古伝にはもちろん民間伝承もありますが、上に挙げた四書は、古代の神事を
>祭司として行っていた家に、「秘伝」として伝わっていたものなので、他の文書とは
>区別されているのだと思うのですが…。
残念ながら、「秘伝」というだけではなんら「捏造されていない証明」にはならないです。
本来秘密敵要素が高い武術の世界なんかでもそうですが、歴史的に辻褄が合わない話や、明らかに捏造と思われる話は混入されているのが常ですから。
まあ、まったく外部から接触がなった場合、劣化が少なく情報を保持できる可能性もあるわけですが。
例えばエスキモーの中には、マンモス狩りの様子を伝承していたと言う話もありますしね。
>>688 あ、どうもありがとうございます。
大本教?
それはまた……とりあえず、出口王仁三郎とかは調べてみると楽しい人です。
なんとなく。
日本宗教四方山話その9
茶道は利休による成立以前では、禅院での茶礼が源流っぽい。
693 :
世界@名無史さん:02/10/24 23:13
菊の肛門ですか
肛門を菊座という話は、東方朔の話が由来だったと思うけど、詳細はすっかり忘れてしまったです。
誰か知っている人います?
まあ、スレ違いだけど。
695 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/10/24 23:33
>694
ホウソが若い頃菊侍童と呼ばれて周の穆王の寵愛を受けていたような。
696 :
世界@名無史さん:02/10/24 23:43
ホウ素は殷の伝承じゃね、別人か?
697 :
世界@名無史さん:02/10/26 15:36
あげ
日本人の宗教観という言い方は不適当かも知れないけど、日本の社会では徹底して議論するということはあまりされないっぽいのかも。
山本七平だったか、収容所で英国兵が進化論について話をしだしたことがあって。
その時に彼は中学校で習った、知っていると言ったのだけど、ひどく驚かれたとか。
「お前達は現人神が猿の子孫だと認めていたのか!?」
って。
言われて「そう言えば」と彼も気づいたという(笑)
つーか、欧米の人間は、当時の日本は進化論を認めていないと思っていたのか……。
日本の宗教を語る上でヒンドゥー教文化を無視できないだろう。
>>671 物部氏は中々道教と縁が有ったようです。物部は冶金と非常に縁が深い。この点は谷川 健一氏が
精力的に考証されているようです。生駒山西麓の日下近くに石切剱箙(いしきりつるぎや)社の祭神は
物部の祖の曉速日ですが名の通り剣の特を称えた所です。また奈良県天理市に石上神宮が在りここも
物部系施設ですが大和朝廷の武器庫とも言われ、かの七支刀が在ります。また垂仁紀だったか、
物部 某が出雲の鏡を鑑定した,とある。また土佐国香美(かがみ)郡に物部郷が在り領主は物部鏡連
と延喜式だか何かに在る。剣も鏡も共に金属製品であるとともに、道教で天皇(天帝)の神器とします。
また物部系の神社は鉱山傍に多いそうです。石見国一之宮の物部神社は大森銀山の近く。物部宗家没落
後は一族や配下は冶金術を生かして各地に散っていったとも言われます。数年前に移植手術を受けに
米国に行き、順番待ち中に亡くなったのが秋田県の物部さんでした。:続く
続き:吉野は古くは金の御岳(かねのみたけ)と呼ばれました。修験道の交流に物部遺臣達が一役
買ったというのは有り得ると思います。
冶金術は結局大陸から導入する訳で、そうすると道教が錬金術中心に入ってくる。昔の人にとっては
科学的な技術と呪術に区別はありません。従って冶金に堪能な物部は道教も(錬金術を中心に)
大陸の流行を追って導入していたのではないでしょうか。また河内は渡来系の西漢(かわちのあや)氏
が居て大陸的な所です。また河内鋳物師は有名です。土佐も打刃物で知られます。
現高知県香美(かみ)郡物部(ものべ)村に「いざなぎ流」というのが在り、陰陽道を中心にした
民俗祭祀です。陰陽道は広い意味での道教ですね。
弓削の道鏡は少し不親切だったかもしれません。というのは、日本書紀には「物部弓削守屋大連」と
出てくる。つまり守屋は弓削の人です。道鏡は系譜が良く判らないんですが、物部系ではないかと
する見解も在る。たとえそうでなくても弓削の出身でしょうから、道鏡の活動を知ることで守屋当時の
物部の祭祀形態に迫れるかもしれない。先ず妙見ですが北極星の神格化(北斗は北辰)です。全天の
中心たる事から天帝とされ、宿耀つまり暦学とも関わりますが暦学は陰陽道ですね。また星は光る。
そこで冶金師が、うまく行くように、つまり星の光が製品に宿るようにと拝む。鉱山の近くに妙見や
北辰の霊場があるそうです。摂津ですが能勢に妙見がありますね。佛教化した物としては薬師霊場が
ある。正式名を「薬師瑠璃光如来」と言い光の属性が在る。何故なのか不思議ですが。
続き:また薬師の脇侍は日光・月光両菩薩です。また七佛薬師、十二神将と何故か西方の聖数と縁があり
不思議ですね。或いは虚空蔵菩薩霊場となる事もある。虚空蔵尊(アカシャ・ガルバ)は地蔵尊と対を成す
存在ですが天体の神格化です。因みに架空蔵霊場の周りでは鰻を食べないそうです。眷属だからだと。
また孔雀明王霊場となる事もある。羽を広げた姿が天体と星、或いは太陽の放射光と見なす為です。
月山、朝日岳、大日岳、金剛山等も鉱山由来の例が多いそうです。そして修験道場となっている所が多い
ですね。廃佛毀釈で大分様変わりしましたが。
天之一箇目(あめのまひとつ)は風の神で、いかにもつむじ風由来の様に思えます。しかし「一本だたら」
と言う片目・片足の妖怪が山に居ると言う話あり。冶金師は溶けた金属(湯)や炎の温度を見極める為に
見つめるので片目を潰す者が多かった。また炎の温度を上げる為に鞴(足で踏む蛇腹)を踏み続け、片足が
聞かなくなる。一本だたらはその老いた冶金師殻来るとも。「たたら」も一本足で立っていると言うより
溶解炉である「たたら」から来ているのかもしれません。因みに北伊勢の多度(たど)社の祭神は
天之一箇目です。と言う訳でお説の通り道鏡と冶金は縁が深い。
弓削氏の事は存じませんが「今昔物語集」には陰陽師の弓削 是雄が出て来ます。ですから弓削と陰陽道は
縁有りでしょう。そもそも道鏡は「どうきょう」ですからね。鏡は道教の重要な祭器です。
かの安部 清明は和泉の信田の人でしたかね。母が狐とか。この説話の起源は勿論色々有り得るんですが、
例えば「天狗」はそもそも「天の狗」で流れ星の事。また伏見の稲荷社は渡来系の秦氏のものでしたが
狐が出て来ます。道教と狐は何か縁があるんですかね。ともあれ河内(摂河泉)と道教は極めて縁が深い。
ですから物部以来の道教導入がこうした形で花開いたと見たい。:続く
続き:道教は公式には否定され、大王・天皇家の秘術とされますが、「朝敵」物部の祭祀だったからかも
知れません。そこで山と言う異界で展開し修験道となったのではないでしょうか。なお物部の廃佛の
話は全くの捏造で、勝者による歴史の典型でしょう。物部の本拠の渋川辺りで大寺院の遺跡が
見つかっています。そもそも東漢氏と蘇我氏が結び、対抗して物部と西漢が結んだとされています。
ですから物部が全くの鎖国的な守旧派だったわけはありません。
役 小角が葛木から吉野への架橋をさせたのは葛木の一言主神ですが、雄略紀に土佐に流されたとか。
いつの間に戻って来たのか謎ですが、土佐一之宮の土佐神社の祭神は一言主です。土佐と言えば
香美郡の物部ですね。と言う訳で物部と道教・修験道は幾重にも繋がってます。
そう言えば陰陽道の加茂家と古代の賀茂家、小角は関わりあるんですかね。また確か賀茂(鴨)氏の
祖は八た烏だったと思いますが、あれはシナの太陽神ですね。
704 :
世界@名無史さん:02/11/29 07:43
あげ
705 :
世界@名無史さん:02/11/29 07:51
パソコンの調子が悪かったので……。
>>700‐
>>703 そういえば物部の本拠の難波は古くから大陸とのやりとりがあったですね。
迂闊でした。
その後を聖徳太子が所領にしたのでしたっけ?
何やらその辺りに件の論争の真相が隠されていそうな気も。
十二神将は玄武上帝の配下である六甲六丁からきているようなのですが、よく解りませんね。
一本だたらとかはギリシャ以来の鍛冶神の特徴を受け継いでいるように思います。
片目の巨人ヘパイトスとか。
狐と道教の関わりというと、狐は泰山娘々の下に行って修行して仙狐になるといわれていたりするようですし、何やら格の高い生物と思われていたのかもしれません。
賀茂氏とのかかわりは後になってでてきているので、何処まで正確なものかはわかりません。ただ伝説を取り入れただけという可能性もありますし。
八た烏は熊野の方で祭られてませんでした?
……って、それは漫画か(笑)
>705
そこの122こそオカルトにはまった基地外にしか見えないんだが
>>686 最初の家紋は橘でしたかね。橘も外来植物です。「左近の梅、右近の橘」(平安前期に梅は桜に変わられる)
なんてのも有り、国風文化といわれる平安時代も奈良時代と比べればそうなのであって陰陽道の広まりとか
やはり外来要素の定着が見られます。
橘は「日本書紀」で田道間守(たじまもり)が「常世の国」へ行き持ち帰ったとあります。そしてこの常世の国
と言うのは道教の仙境の倭的表現だろうと言われてますね。この常世が仙境だとすると重大な問題が出ます。
それは伊勢祭祀に関ります。機会があればまた。
橘姓は藤原 不比等の妻の県犬養 美智代が賜ったんでしたかね。そして家紋とした。私は実は藤原氏は
鎌足以後は渡来系化も知れないなどと思っています。物部 守屋に唯一味方したのが中臣 勝海で、一度
滅んだらしい。「大鏡」には鎌足は常陸の出だと書いてある。なんか怪しいんですよ。
それはともかく、橘を通して奈良・平安期の貴人の道教趣味の一端を見る事も出来ないでしょうか。
>>706 <その後を聖徳太子が所領にしたのでしたっけ?
そうですね。一応守屋の妹辺りが蘇我 馬子の妻で遺領は蘇我の物となったとも言われては居ます。しかし
厩戸皇子が斑鳩等やたらと土地を持っているのも妙な話で、詰り彼の土地と言うのはそれまで物部領だった
所が多いのかもしれませんね。
<狐と道教の関わり
私は取り合えず、道教の占星術から狐を含む狗を天の使いと考える観念があり(実はあるかどうか存じ
ませんがあるとして)暦法に堪能だった安倍 清明の母が狐、と言う説話が出来たのかなと。その舞台が
和泉の信太ですから和泉にも占星術の伝統があったのかなと思ったんですよ。しかし改めて考えてみると
狐は佛教の荼岐尼天と同一視されますね。これは女神で人の寿命を司る。詰り暦法と接点ありです。母は勿論
女ですからこちら起源の説話かもしれません。ただこれがまた道教に取り込まれて伝わったのかもしれない。