フラグの西進VSマムルーク朝バイバルス

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1世界@名無史さん
アインジャールートの戦いで負けましたね、フラグ。知ってる?
2世界@名無史さん:2001/04/01(日) 00:27
モンゴルを撃退したのは日本の鎌倉幕府とヴェトナムの陳朝と
エジプトのマムルーク朝だけですな。日本とヴェトナムは地理的に
モンゴル騎兵の活動が制限されてましたが、マムルーク朝はそういう
利点なしに勝ったんですから最強かも。その割にバイバルス、マイナーですね。
高校世界史じゃ名前出てこないんじゃないでしょうか。
3世界@名無史さん:2001/04/01(日) 02:28
さらにマイナーな話で申し訳ないが、
バイバルスはかのサラディンですら落とせなかった聖ヨハネ騎士団による堅城、
クラック・デ・シュヴァリエを落としています。
結構すごい人なんですねえ。
そのくせ世界史には・・・。
だいたいマムルーク朝自体・・・。

まあこんな事世界史に出てこなくて当然ですがね。
何せ「かのサラディン」と言わないとどれだけすごいのかわからないような話ですから。
4世界@名無史さん:2001/04/01(日) 02:52
世界史は英雄伝とは違うからねえ
でも叙情的な面をなくせば歴史はつまらなくなる
5日本@名無史さん:2001/04/01(日) 03:02
つまんねぇよアインジャールート。
モンゴルが短期間でどんどん膨張してくさま痛快だったのに。
なんかついにここで勢いが止まっちゃったみたいな。
バイバルスも余計なことしてくれた。

もっと西進しろよモンゴル。エジプトは地中海支配の要だ。
そっからマグリブを席巻して、そのうちピレネーも超えて
そんでもってドキュソフランク人どもを皆殺しにしてくれれば
その後の世界史も少しはマシなものになってたのになぁ。
なんにしても惜しかったなぁ。

61:2001/04/01(日) 03:38
5の馬鹿は放置して、そう、2さんのおっしゃる通りなんですよね。フラグの西進はイスラム教圏への侵略と解することができましょう。フラグはホラズム王国・アッバース朝を滅ぼしました。いよいよ、アフリカ侵入という時、バイバルスが見事撃退したんですよね。彼は隻眼で傭兵出身なんですけど、最後は無念なことに部下に暗殺されています。山川出版社の「世界史用語集」か「世界史人名用語集」に載ってた記憶がありますが。で、Dだったよ。一部教科書には載ってるんじゃないのかな。レスくれてうれしいです。おやすみ。
71:2001/04/01(日) 03:49
ついでに言っとくと、赤羽尭の「復讐、そして栄光」光文社(上・下巻)という本がバイバルスを主人公にした小説でとても面白いです。上巻では十字軍が、下巻ではアインジャールートの戦いが詳しく書かれています。上下巻で約800ページあります。ただし、家にあるのは出版日が1990年となってますが・・。参考までに読んでみてください。それじゃ、おやすみ。
8世界@名無史さん:2001/04/01(日) 21:30
>>7
そんなもんが出てるとはちっとも知りませんでした。
珍しいんで探してみます。日本で歴史小説ていうと、
中国史関係が圧倒的ですからね。
9世界@名無史さん:2001/04/02(月) 12:07
そのアインジャールートの戦いの詳細は?
なんで勝てたのか知りたいっす
10世界@名無史さん:2001/04/12(木) 04:37
 アインジャールートで負けたのはフラグではなくて、分遣隊を
指揮していたキトブカですよ。もっともバイバルスはその生涯で
何度もモンゴル軍を破ってますけどね。

 
11世界@名無史さん:2001/04/12(木) 19:49
岩村忍の「イスマーイール派」のニザール派の本は(正確な題名忘れた),

このキトブカ(彼の本ではキドブハかなんかだったような)を,出発点
として書かれた本。優秀だが悲劇的な人物で,著者が妙に深く
愛着を感じたらしい。
12世界@名無史さん:2001/05/31(木) 15:43
それに正確に言えばアイン・ジャールートの時はバイバルスはまだ
先鋒隊の指揮官にしか過ぎなかった・・・
マムルーク朝側の司令官はクドゥスでんがな。
だからアイン・ジャールートはフラグでもないしバイバルスでもなし。

ま、でもこの戦いの数日後にバイバルスがクドゥスを刺殺して第五代スルタンの
座に就くんだけどね。
13世界@名無史さん:2001/05/31(木) 15:47
>6

ホラズム滅ぼしたのはフラグじゃないっしょ。
それにバイバルスの死因は酒の飲み過ぎじゃなかった?
暗殺されてたの?
14バイバルス大好き:2001/05/31(木) 16:16
>9

アイン・ジャールートの戦いは、1260年9月3日の出来事。
1258年にバグダードを陥れ、曲がりなりにも500年間続いて来た
イスラム世界の象徴のアッバース朝を滅ぼしたモンゴル軍は
その後も西進を続け(但しフラグの本隊はモンケの死去により引き返す)、
キトブカを司令官にアレッポ、ダマスカスを占領。シリアを制覇する。
さらに南下しエジプトを窺う気配を見せたため、マムルーク朝第四代スルタンの
クドゥスはこれの迎撃を決定。
モンゴル軍の使者をカイロで斬り、その首を晒して徹底抗戦の意志を表明する。
そしてバイバルス将軍が先鋒隊の指揮官に任じられ、マムルーク朝軍は出撃。
そして遂に1260年9月3日、両軍はパレスティナの小村アイン・ジャールートで
激突する。(アイン・ジャールートとは「ゴリアテの泉」の意)
1万2000のモンゴル軍に対し、マムルーク朝軍は12万の兵力を結集。
そしてさらにモンゴル本土よりずっと最前線にあったキトブカ軍は、疲労困憊の
極みにあった。

戦いの結果はモンゴル軍の惨敗、マムルーク朝軍の圧勝であった。
指揮官キトブカは戦死、将兵の大半を失いモンゴル軍はシリアよりも駆逐される。
蒼き狼達の末裔は、アフリカの土を踏むことはなかったのだ。
それに対しこのイスラム世界の命運を賭けた戦いに勝利したマムルーク朝は、
アッバース朝に代わりイスラム世界の守護者となる。

因みにこの戦いは、初めて西方でモンゴル軍が敗れた戦いである。
また、この翌年ホムスでモンゴル軍は再び敗れるのであった。
15しかし:2001/05/31(木) 16:57
エジプトはすごい国だな。
アッシリアだのバビロニアだのヌビアだの海の民だの
ローマだのイスラムだのモンゴルだの
トルコだのフランスだのドイツだのイスラエルだの
一体いくつ攻めてきたんだ?
そーいや世界史板でエジプト5千年の歴史統一スレッド
だれか立てろよ。
最初から最後まで全部答えられる猛者おらんのか?

16バイバルス大好き:2001/05/31(木) 17:34
12=13=14=オレ だけど、

結局フラグとバイバルスの二人が直接
あいまみえることはあったのかな?
フラグは1265年、バイバルスは1277年まで生きてるから
二人が戦場で出会うことは充分考えられるが・・・
17しかし:2001/05/31(木) 18:23
川中島の戦いみてえだな。
18世界@名無史さん:2001/05/31(木) 19:10
>>17
どの辺が?
19バイバルス大好き:2001/06/01(金) 01:14
後で調べて見たら、アレッポの陥落時まではフラグが司令官だった。
スマソ。

それにしても、自分の部下がけちょんけちょんにやられて殺されたって
聞いたフラグは、仇を討とうとか思わなかったのだろうか?
フラグ自身の本隊が出撃していれば、マムルーク朝の運命も変わっていただろう。
何故フラグはこれ以降の対モンゴル戦で指揮を執ることをしなかったのか?

それとも戦場には出たが戦果を上げられなかったのだろうか?
20世界@名無史さん:2001/06/01(金) 05:21
>12=13=14
以前別の所でも書いたのですが、
1260年の時点でマムルーク朝が12万の兵隊を集めることは不可能。
サラディンの時代のアイユーブ朝軍は2万(うろ覚え)だし、
バイバルスの最盛期でも4万人が最高だった。
クトゥズ時代にはせいぜい2万人というのが定説なり。

フレグ本隊が復讐に来られなかった理由
1.ジュチウルスやチャガタイウルスとの争いでそれどころでなかった。
2.シリア・エジプトの砂漠で大量の軍馬を一年中養うのは無理。冬の間しか遠征に出て来れなかった。

フレグもバイバルスも死んだあとですが、1299年にはイルハン軍がホムス近郊でマムルーク朝軍をこてんぱんにし、再びダマスクスを征服しますが、例によって大将のガザンハンが帰ってしまい、まもなくマムルーク軍に奪還されました。まあこの辺の歴史は面白いやね。
21世界@名無史さん:2001/06/01(金) 06:40
>15
古代エジプト好きは往々にしてイスラムが苦手、
イスラム以降のエジプトが好きな人は古代が嫌い、
さらに近現代も絡んでくるともう完璧に把握出来てる人は
いないんじゃないでしょうか。
エジプト人の「国史」学者くらい?

>7
赤羽たかし(と読むのかな)が大カアン・モンケ暗殺事件
(もちろん架空の話ですが)を題材にとって書いた
小説もありますね。題名忘れましたが。
「暗殺教団」も絡んできてなかなか面白かったです。
あの作家って今どんな本書いてるんでしょうか?
頑張ってあのあたりのこといっぱい書いて欲しいです。
22バイバルス大好き:2001/06/01(金) 10:57
>20さん

<1260年の時点でマムルーク朝が12万の兵隊を集めることは不可能

僕もそう思います。
この12万という数は確かマムルーク朝側の史書に見られる記述
でしたから、かなり誇張して書いてあることは明白でしょう。
別に本当に12万居たとは思ってませぬよ。

<フレグ本隊が復讐に来られなかった理由
どうも有難うございます!!
なるほど、モンゴル勢力との抗争に忙しかった訳ですな。
あと、中東方面ではモンゴル軍は冬の間しか攻勢に出られなかった
ってのは、どっかで聞いたことがあるような気がします。
モンゴルは寒いですからねー。
何かナポレオンやドイツ軍と逆なのが面白い。
そう言えばアイン・ジャールートは9月上旬・・・
もしかしたらこの「季節」もモンゴル軍の敗因の一つか?
「冬将軍」ならぬ「夏将軍」・・・??
23世界@名無史さん:2001/06/01(金) 14:34
ちょうどアイン・ジャールートのころに
大ハーンのモンケが死んだんじゃなかったっけ?
モンゴル帝国が全体で一致した行動が取れたのはモンケまでだったから、
これ以後西進が(ほぼ)停止したのもしょうがないのかも。

>>15,>>21
イスラム教の考え方では
古代エジプトはジャーヒリーヤ(無明時代)だし
キリスト教時代もダール・アル・ハルブ(戦争の家)で
歴史と見なす価値もない不信心者の世界だからね。
つい最近までエジプト人自身からしてその時代について無知だった。
あと、アラブの征服以降はアラビア語の時代になっちゃうから
史料からして全く雰囲気を変えてしまうのも
全体のイメージを掴みにくくしているのだと思う。
24じゃ:2001/06/01(金) 15:53
誰かエジプト統一スレをつくって〜〜
無いじゃない
それぞれの時代に詳しい人が答えるという形式で
スレが散逸しないように2chに知識を貯めていくという試みはどうですか?
そらHPとか図書館に行くとかはあるけどな〜〜
スレが乱立しても過去ログで消えるだけだから
パート何々と続くと後年来た人にすごく参考になると思うのね。
出来ればローマ帝国統一スレッドロシア統一スレッド
大航海以前の古アメリカ両大陸統一スレという風に
全部統一すると分かりやすくて良いと思うなり。
というか今思いついた・・・・・

2520:2001/06/01(金) 16:44
>バイバルス大好きさん
負けた側もわざとマムルーク側の兵員を誇張して書いたりしてますからたちが悪い。
アルメニア語史料には30万いたとか書いてあるそうです。

「夏将軍」って言葉いいですね〜。
バイバルスが即位した後、アッバース家のカリフをたった三千騎
くらいの軍勢をつけてバグダードに送り返したことがあります。
夏の間にモンゴル兵がほとんどイランに帰ってしまったのを
バイバルスは敵が撤退したと解釈して、「三千騎あればへっぽこの
カリフでもバグダードは十分奪還できる」と踏んでいたのでしょう。
しかし今度は時期が遅すぎ、秋になって大軍がバグダードに戻ってきて
しまい、あわれカリフは返り討ちにされてしまったそうです。
2620:2001/06/02(土) 03:44
ところで皆さん、イルハン朝とかマムルーク朝とか
そんなマイナーな国の歴史について、どう言った本で
情報を仕入れていらっしゃるでしょうか。
やっぱり東洋文庫の『モンゴル帝国史』?
27バイバルス大好き:2001/06/02(土) 13:23
>>25>>26さん

さ、30万・・・
いくらなんでも多過ぎですな(笑)。

アッバース家のカリフのエピソードは僕も聞いたことあります。
確か3000騎も無かったような・・・
ま、それはいいとして、バイバルスはむしろアッバース家の
カリフを殺そうとしたのではないかという説もありますよ。

最初、バイバルスは10000騎の騎兵をつけてカリフの
バグダード奪回を援助しようと考えていたが、しかし
「もしカリフがバグダードに政権を樹立すれば、
必ずやあなたと対立する日がやってくるでしょう。
あなたをエジプトから追放してしまうかもしれません」
と忠告をされ、バイバルスはカリフをろくな護衛も与えずに
モンゴル軍のひしめくバグダードへ送り出したのであった。

と。
まあ、何にせよバイバルスは必要以上に権力を持つカリフを
目障りな存在だと考えていたと思われます。
実際、それ以降のカリフはスルタンの権威づけをするためだけに
生かされてるただの「道具」とされてしまうんですからね。
哀れなりアッバース家。

どういった本で情報を仕入れたか、ですか?
そうですね・・・自分は去年の夏から少しイスラムに関心持って
中央公論社の『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』
とか、あとは『世界の都市の物語 カイロ』とかですね。
主立ったのはこんなもんです。
まだ自分この時代は初心者なので(一番好きなのは世界の近代史)
大して本は読んでませんね・・・。
それに日本だと絶対的な資料の数が少ないですし。
その東洋文庫の『モンゴル帝国史』って読んだことないですね。
今度探して見ます。
あとはこのスレッドの上の方に書いてあった、光文社の
『復讐、そして栄光』って小説を読みたいな、と
考えているのですが・・・ どうやら絶版になったみたいで
インターネット書店でも扱ってないんですよね。
近所の本屋にもないし、入手は困難なようです。

無念。
28世界@名無史さん:2001/06/02(土) 16:51
>>27
マムルーク朝について解説した本って少ないですよね。
『イスラーム世界の興隆』の著者佐藤次高さんの『マムルーク』という本は知ってます?
もっとも、これはマムルーク朝史というよりはマムルーク制度の概説書ですが。
バイバルス個人の伝記なら『世界の都市の物語 カイロ』の著者牟田口義郎さんが
『オリエント史講座』という論文集に寄稿しています。
新しい情報は乏しいかもしれないけど。
29天之御名無主:2001/06/02(土) 18:04
『オリエント史講座』

この本いいですよね。いろいろマイナーなところをカバーしてる。
第二巻のオリエントの諸宗教とか、笑えるくらいマイナーどころ
満載。
30ガザン好き:2001/06/03(日) 04:02
>>26さん
今年の初めに岩武昭男著『西のモンゴル帝国―イルハン朝―』
というリブレットが関西学院大学出版会から出ています。

リブレットなので70頁しかないのですが、
値段は750円でお買い得かと。
私は東京の学生なので生協で取り寄せました。

ちなみに、この先生のHPを紹介しときます。
http://members.aol.com/aiwatake/HP.index.htm

ところで、本を読んでわかったのですが、
本人は去年亡くなられたそうです。合掌。
モンゴル―イルハン朝研究の貴重な人材が
失われてしまったと思うと、ひじょうに残念です。
31世界@名無史さん:2001/06/03(日) 07:59
え、岩武さん亡くなったてたんですか…。
知らなかった。
HPは最近知ってちょくちょく見てたけど、
なんで更新されてないのかと思ってた…。

日本は本田実信以来『集史』専門家がわりと多いので
イルハン朝史研究は比較的進んでいるんじゃないでしょうか。
概説書はまだあまり刊行されていないようですけどね。
32世界@名無史さん:2001/06/03(日) 23:31
モンゴルって草原の戦いはめちゃ強いけど
それ以外の場所(砂漠とか海)じゃあダメダメだね。
3326:2001/06/07(木) 00:05
>28
佐藤次高氏といえば、聖者イブラーヒーム伝説が出てますが
どんな感じでしょうね?私はまだよんでませんが。

>ガザン大好きさん
え、そんな本出てたんですか!
岩武先生の訃報にはホント驚きました。
HPも面白かったので見てたんですけどね。
3428:2001/06/07(木) 00:39
>>33
佐藤さんの新刊は私もまだ読んでないです。
あれ? この人、イクター制の専門家じゃなかったっけ?
って見たときは思ったけど、どうなんだろ。
35ガザン好き:2001/06/07(木) 05:17
岩武先生の『西のモンゴル帝国―イルハン朝―』を
ちょっぴり紹介します。目次は以下のとおり。

はじめに
T モンゴルのロマンと実態
U モンゴル台頭期のユーラシア
V イラン文化とモンゴル
W モンゴルとイラン

Tでは、日本人のステレオタイプなモンゴルイメージに対し、
修正を迫られています。
Uは、モンゴル侵入以前のイスラーム社会制度とイラン社会について
述べられたもの。
Vは主にモンゴル期のペルシャ語史料についての論考。
Wでは、まず、フレグ政権と並立した「ホラーサーン総督府」について、
それからイルハン朝について、その成立と政治的位置を論じられています。

なぜか、アイン・ジャールート会戦については、
ほとんど触れていません。
「イルハン朝軍は、1260年のアイン・ジャールートを初めとして、
軍隊での戦闘では、一度もマムルーク政権軍に勝つことができなかった」
とおっしゃってはいますが‥‥

あと面白かったのが、
「フレグ・ウルス」という呼称について
異議を唱えているところですね。
岩武先生に言わせると、
イルハン朝国家を「フレグのウルス」として規定するのは
史料に即したものではないそうです。
杉山正明先生に対抗されようとしていたのでしょうか‥‥
3628:2001/06/07(木) 13:22
>>35
おっ、ありがとうございます。
その本、かなり面白そうですね。

>なぜか、アイン・ジャールート会戦については、ほとんど触れていません。
岩武さんは元来イラン社会史がご専門で
ワクフ文書なんかを史料として扱っていた方だったようですから、
政治史のなかのひとコマに過ぎないアイン・ジャールートについて
いちいち過大な紙数を割く理由がなかったんでしょう。

>「フレグ・ウルス」という呼称について異議を唱えているところですね。
たしかに、イル・ハン国はフレグ家の家産とは言い切れない面があるかも。
アブーサイード・ハンが死んでフレグ家が断絶してからも
有力遊牧貴族の傀儡としてアリクブケの子孫が
イル・ハンに立てられてしばらく続いていますし。
3726:2001/06/09(土) 01:54
>>35,36
近年の杉山先生などの活躍で、「フレグ・ウルス」という呼称が
定着するのかと思っていましたが、そう簡単ではないんですなあ。
なるほど。

呼び方なんてどうでもいいじゃん、という見方もありますが、
「フレグ・ウルス」と呼ぶか、「イルハン朝」と呼ぶか
はたまた「イル汗国」と呼ぶかで、その人のよって立つところが
見えてきますからかなり大事なポイント。
今のところ、どのような呼び方が一番妥当なんでしょね?
私はガッコで習った「イルハン国」というのを今もひきずってますが。
38ガザン好き:2001/06/09(土) 05:12
>>37
たしかに、「イルハン国」って呼び方も定着してますね。
高校の世界史教科書では、いわゆる四汗国の一つとして、
「イル・ハン国」か「イル汗国」のどちらかがのってるみたいです。

イランにあったモンゴル国家を歴史学の術語としてどう呼ぶか。
モンゴル、イラン、イスラーム。どの側面を強調するか、ですね。

個人的には「フレグ・ウルス」という呼称が好きなんですが、
やはり、「イルハン朝」のほうが妥当なんですかね。
「イルハン」でモンゴル系国家であることを、
「朝」でイスラーム諸王朝の一つであることを表す、とか。

ところで、「イルカン朝」という呼び方はありそうでないですね。
響きがよくないからでしょうか。


3928:2001/06/09(土) 15:00
「フレグ・ウルス」だとフレグの子孫による家産的遊牧国家という印象。
「イル・ハン国」は「イル・ハン」の統治する国という意味。
「イル・ハン朝」は「イル・ハン」の王朝って感じ…かな?

杉山さんがしつこく指摘してますが、イル・ハンってのはトルコ語で、
イルがウルスと同義の「くに」、ハンはモンゴル語のハーン・カンと同じ。
ほとんど一般名詞なのは確かですけど、
この国家の支配者がイル・ハンと名乗ったのは事実だし、
フレグの王朝と言い切れないのであれば
イルハン朝でいいんじゃないかなぁ。

イルカン朝にならないのは少なくともイラン方面のトルコ語・ペルシア語では
カン・ハーンはKhan/Hanになるのでハン・ハーンと発音したほうが妥当だから。
40世界@名無史さん:2001/06/09(土) 16:01
中央のモンゴル側からみれば、あくまでフレグウルスに過ぎないんじゃないの?
はたしてイル汗国の一介の「カン」が、
そうではない、と中央の「カアン」に向かって抗弁できたか、疑問。

そりゃ国内的には現地との融合とか事情によっていろいろあったろうけど、
そんなの黄金のオルド(ジョチウルス)でも元朝(ダヤンウルス)でもいっしょなのでは?
4128:2001/06/09(土) 18:41
>>40
だからフレグ王朝と規定しきれないから
フレグウルスという言い方に疑問が出てるんだってば。
そりゃイスラム史の見方からしては
モンゴル中心的な「フレグ・ウルス」って言い方をされるのが
気に食わないってのもあるかもしれないですけどね。
42よくわからんが:2001/06/09(土) 20:52
モンゴル語のウルス(国)が、我々が想像するような意味での国ではない、というのはわかるけど
ともかくたんじゅんに直訳でいえばウルス=国なんだよね。
その上、称号が皇帝でも王でもないカンだってのだから
「チャガタイ汗国」「オゴタイ汗国」ってのは実にまっとうな訳。
より実態に即して「〜汗朝」もいいと思うし。
なんなら、この汗国・汗朝にウルスとルビをふればよい。

ところで英訳では「〜汗国」ってkhanateだよね。
これ征夷大将軍の将軍職をshogunateっていうのと同じようなもの?
これだとたぶん「〜汗朝」に近いんだろうね。
フレグ汗国を「フレグ王朝と規定しきれない」というのはどういう意味?
フレグの子孫が途絶えて王朝交代でもしてるの?
ならば「イル汗朝」でもやっぱり無理なのでは。で「イル汗国」に落ち着くような。

43匿名希望さん:2001/06/09(土) 21:05
shogunateは幕府
4428:2001/06/09(土) 23:28
>>42
おっしゃる通り、汗国・ハン国はKhanateの訳だと思います。
イル・ハン国はIl Khanateの訳語だったかな。

>フレグの子孫が途絶えて王朝交代でもしてるの?
王朝交替はしてないんだけどフレグの子孫が絶えてから
別の系統のチンギス・ハンの末裔が引っ張り出されてきて
イル・ハンになってます(王朝末期の20年ほど)。
それから、王統の家系が変ったことで「〜朝」って言い方ができなくなるなら
「マムルーク朝」がダウトになってしまうんですが…。
45ガザン好き:2001/06/10(日) 00:11
私も今まで、アブーサイード没後にはフレグ裔のイル・ハンはいないと
思ってたんですが、どうも違うみたいです。

たしかに、アブーサイード没後に
アリク・ブケ裔のアルパ・ケウンが
宰相ギヤースッディーン・ムハンマドによって
擁立されますが、すぐに殺されてしまい、
ジャライル部やスルドゥス部によって
フレグの血統(傍流か)が再び傀儡のイル・ハンとして
推戴されたそうです。

つまり、モンゴル貴族にとって、イル・ハンは
チンギス裔であれば誰でもよかったわけではなかった。
彼らは、ウルスがフレグ家のものであり、したがって、
フレグの血統がイル・ハンになるべきだという意識を
持っていたんじゃないでしょうか。

一方、ムスリムにとっては、君主は「イル・ハン」というより、
「スルターン」であったわけですよね。モンゴル以外のムスリム、
たとえば、宰相のギヤースッディーンのような人々にとって
イル・ハンは必ずしもフレグ裔でなくてもよかった、
と考えるのですが。どうでしょう?

もうひとつ。
研究者によって、王朝(ウルス)の滅亡の年を
1335年、あるいは1353年とする見解に分かれていますよね。
1335年のほうはアブー・サイードの没年とわかるのですが、
1353年というのは、ジャライル朝がイラン全土を掌握した年と
考えればよろしいのでしょうか。この辺詳しくないもので。

それと、三省堂『世界史B』にはイル-ハン国(1258〜1411)
とあるのですが、これはどう考えればいいのでしょう?
1411年って既にティムール朝のシャー・ルフの治世ですよね。

>>39
>イルカン朝にならないのは‥‥
なるほど、やはり発音の問題でしたか。ありがとうございます。

>>44
>マムルーク朝がダウト‥‥
「マムルーク国家」とよぶ人もいるみたいです。
デリーサルタナトの奴隷王朝にも似たような問題ありますね。
4628:2001/06/10(日) 00:43
いまちょっと検索にかけて調べてきたら
日本語の「マムルーク朝」にほぼ対応する言い方であろうと思われる
"Mamulukid"っていう言い方はほとんどしないみたいですね。
ほとんど"Mamuluke Dynasty"みたい。
イル・ハンの国家の方には"Il Kanate"と"Ilkhanid"と二種類の言い方があるようですが。

>>45
今思い出しましたが、志茂碩敏さんという集史研究者の方が
「集史の『モンゴル史』の原型は自分がフレグ-バカの嫡流を引く
フレグ・ウルスの正統継承者であることを主張するために口述したもの」である
という説を述べてらっしゃいます。
やはりフレグ王朝だったと見るべきか、
いやフレグの王朝という意識が薄かったがゆえに
あえてフレグ家の嫡流の支配の正統性を強調したのだと見るべきか…。

滅亡年についてはフレグ家の王朝としてはアブー・サイードで絶えた、
イル・ハンが統治する国家としては1353年に滅亡した、と理解してますが…。
1411年までなんらかの形で末裔の政権が残っていたんでしょうか?
4726:2001/06/10(日) 09:05
岩武先生のご本がなかなか手に入らずしくはくしてます。やはり大学生協に問い合わすべきか。

>>46
ようやくマムルーク朝の話に戻ってきましたね。マムルーク・ファンとしてはうれしいかぎり(ワ
日本語の「マムルーク朝」と言う用語はMamluk Dynasyの訳語でしょうか。
英語だとMamluk Sultanateとか、単にMamluksというのもあります。
今のところ日本の学者のコンセンサスは「マムルーク朝」と呼ぶことで
一致してるようですが、王様(スルタン)がほとんど2代目で交替してしまう
あの国家を「朝」と呼ぶのは確かにダウトっぽい感じがします。
まあ、奴隷と主人の関係を擬似的な親子関係と考えることも出来ますが...
ただ、バイバルスの後にスルタンになったカラーウーンについては
彼の曾孫までスルタンになって100ほど彼の家系が続くのでカラーウーン朝
と言う呼び方もあります。
48名無しさん@1周年:2001/06/10(日) 09:10
長文uzeeeeeeeeeeee!!!!!!!!!!!
また来年成人式荒らすぞゴラァ!!!!!
49世界@名無史さん:2001/06/10(日) 10:40
また来年成人式荒らすって…
あんた、成人式もう一回出るの?
変わったお子様だこと。
50世界@名無史さん:2001/06/10(日) 13:27
モンゴルネタにもどして恐縮ですが。

ウルスウルスとしつこくいわれるのは
モンゴルにとって、「くに」のような土地のくっついた概念がなく、
ただ、人間のつながりとか財産とかをしめすウルスという言葉しかなかったからじゃないでしょうか。

モンゴルウルスのなかにチャガタイとかのウルスがあり、
さらにその下にアミールとかノキョルとかのウルスがあり、と、
「モンゴルウルスの中はさらにこまかいウルスまみれ」なモンゴルの状況を
あらわすにはウルスで統一しとく必要があるということでは。
5128:2001/06/10(日) 14:22
>>47
私も「マムルーク朝」っていう呼び方をなんの疑問もなく使ってましたが、
冷静に考えると確かに「王朝」の概念からするとおかしいかもしれませんね。
王朝というのが同一の王統によるものだという常識からすると。
マムルーク朝のように王の家系がせいぜい2代程度しか続かなかった体制というと、
ポーランドの「シュラフタ共和制」を思い出されますが、
その一時期を取って「ソビエスキ朝」とか言わないですよね、たしか。

>>50
その通りだと思いますが、
モンゴル時代に限ってなんでもかんでもウルスウルスと言われると
抵抗があるんじゃないでしょうか。
遊牧国家はモンゴルの前にも後にもたくさんあるわけですし。
結局フレグ・ウルスというかイル・ハン朝というか、
ダヤン(大元)ウルスというか元朝というかは
その王朝を支配者がモンゴルであった特殊性に着目してみるか、
あるいはその地域の歴代王権の中のモンゴル時代として理解するかの
違いってことですかね?
52ガザン好き:2001/06/10(日) 18:32
イルハン朝は、例外はあるものの、
事実、フレグの王統で受け継がれてきたし、
ガザンら当事者も、イル・カンはフレグ嫡流が継ぐものと
主張したわけだから、「フレグ・ウルス」と呼んでもいいと思うのです。

ところが、岩武先生によると、ペルシャ語史料において、
フレグ以降の時代に「フレグのウルス」と名のる例は
ほとんど見当たらないんだそうです。

ということは、少なくとも、王位はフレグ家のものであっても、
国家―そういう概念を持っていたかどうか分かりませんが―の全体は
フレグ家のものではないと考えられていたのでしょうか。
53世界@名無史さん :2001/06/10(日) 18:55
本によっては「マムルーク政権」って書いてある場合もある。
でも「マムルーク朝」を、「マムルークの」「朝」だととらえれば、
「マムルーク朝」という表記もなんとか割り切れなくは無いね。
54ガザン好き:2001/06/10(日) 18:57
>>52の続き
というより、「ここはフレグ家代々のウルスだ」と
宣言できないわけがあったのかもしれません。
とすれば、その原因は国家成立の事情に発しているのではないでしょうか。

@フレグの政権樹立じたいが皆に認められたものでなく、
クビライによって事後承認された。
→イル・カンみずから「カアンのダルガ(代官)」を称した。

Aフレグ西征軍があちこちから借りてきた軍団で
構成されていたため、遠征の目的を失ったとたん、
統率がとれなくなった。
→「フレグ家のウルス」などと公言しようものなら、内乱が起きる。

以上の二点から、「フレグ家のウルス」をうたうことが
できなかったのではないでしょうか。
55世界@名無史さん:2001/06/10(日) 19:34
>ペルシャ語史料において、 フレグ以降の時代に
>「フレグのウルス」と名のる例は ほとんど見当たらない

それがもともとの理由?
漢文史料においてフビライ以降の時代に「ダヤンウルス」と名のる例はないのでは?
ペルシア語では「イルハン国」、モンゴル語は「フレグウルス」でだめなの?
5650:2001/06/10(日) 20:17
>>51
>その通りだと思いますが、
>モンゴル時代に限ってなんでもかんでもウルスウルスと言われると
>抵抗があるんじゃないでしょうか。
>遊牧国家はモンゴルの前にも後にもたくさんあるわけですし。

逆にほかの遊牧国家について同様の視点の導入を
提起したものでしょう。
ほらこれで研究課題ができた。ダメですか?
57ガザン好き:2001/06/10(日) 21:02
>>55
>ペルシア語では「イルハン国」、モンゴル語は「フレグウルス」でだめなの?
「イルハン国」に相当するペルシャ語はないと思われます。
「フレグ・ウルス」と呼んでいるモンゴル語史料があれば、
岩武説への有力な反証になるでしょうが、
同時代のモンゴル語史料は少ないのでは。

逆にペルシャ語は、文章語としてトルコ(モンゴル)語の語彙を
大量にとりいれていますので、「チャガタイのウルス」は、
「ウルーセ・チャガターイ」となるそうです。

史料が史料がというのは、
「イルハン国」のような後世の造語より、
当時の呼称で無理のないものがあれば、
それを使うのがいいんじゃないかと思うからです。
まあ、「国号」のたぐいをもたない国のほうが多いんでしょうけど。
58ガザン好き:2001/06/10(日) 21:40
>>55
こっちに答えるのを忘れてました。すいません。
>漢文史料においてフビライ以降の時代に
>「ダヤンウルス」と名のる例はないのでは?

ダヤン=大元、ウルス=国だから、
「大元國」がそれに相当するんじゃないでしょうか。
5928:2001/06/10(日) 23:52
>>45
>それと、三省堂『世界史B』にはイル-ハン国(1258〜1411)
>とあるのですが、これはどう考えればいいのでしょう?
>1411年って既にティムール朝のシャー・ルフの治世ですよね。
平凡社の『東洋史事典』『アジア歴史事典』という
それぞれ戦時中と昭和40年代出版のかなり古い事典にあたってみたところ、
「イル汗国の国土は次第に分裂し、1411年にティムールによって併合された」
とだいたいそのようなことが書いてありました。
推察するに日本でまだイル・ハン研究が行われていない頃に、
最初にこの国家のことを日本に紹介した(イル・ハン専門でない)研究者か、
あるいはその研究者の拠った海外の研究書が
誤って1411年にしてしまったのが踏襲されたとか、
そんなところじゃないでしょうか。

>>53
確かに論理的には間違ってないですね。
マムルークは家名じゃなくて身分(?)だから。

>>56
そうなんだけど…。
ウルスってモンゴル語なわけで、
突厥の場合はトルコ語のイルを「くに」の意味で使ってるのを
ことさらにテュルク・イルと呼ぶべきではないか、
と考えると必要もないと思うんですが…。
私見ですが、フレグ・ウルスという呼び名を普遍化して使うには
モンゴル帝国時代を特殊視しすぎてるんじゃないかと。

>>57
たぶんペルシア語史料ではイール・ハーンとだけ書いてあるんだと思います。
自分で史料にあたったわけではないんで違うかもしれませんが。

それと、同時代の呼称にあまりこだわっても仕方ないと思います。
歴史叙述の上での政治体の呼び名は
結局ほとんど慣用で決まってるんじゃないでしょうかね。
結局フレグ・ウルスと呼ぶかイル・ハン朝/イル・ハン国と呼ぶかは
視点の違いの問題になるのかなあ…。
60ガザン好き:2001/06/11(月) 03:57
>>59
>平凡社の『東洋史事典』『アジア歴史事典』という
>それぞれ戦時中と昭和40年代出版のかなり古い事典にあたってみたところ

ありがとうございます!! 誰も答えてくれないと思ってました‥‥
私も教科書執筆者の事績をしらべたところ、
栗原純さん〔東京女子大学講師(当時)〕が
東アジア近代史を専門にされていることがわかりました。
おそらく、この人が東洋史全般を執筆されたのだとおもいます。
おっしゃるとおり、イルハン朝などは専門外のため、
謬説を引いてしまったのでしょう。おかげで解決しました!!

それにしても、この『三省堂世界史B』は平成七年初版なのに、
こんな古い説をのっけているとは‥‥
最近も、本屋で帝国書院の資料集をみたら、
「ティムール:自らチンギス・ハンの子孫と称した」
とあって、ひっくり返りそうになりました。
オスマン朝史の鈴木董先生が監修されているのに‥‥
61ガザン好き:2001/06/11(月) 04:41
>>59
>それと、同時代の呼称にあまりこだわっても仕方ないと思います。
>歴史叙述の上での政治体の呼び名は
>結局ほとんど慣用で決まってるんじゃないでしょうかね。

たしかにそのとおりなんですが、慣用されている歴史叙述上の呼称が
当時のその国家の実態や自国認識などと、あまりに掛け離れていると分かった場合には
やはり修正される必要があると思うのです。

つまるところ、フレグ・ウルスにしてもイル・ハン朝(イル・カン国)にしても、
それを無批判のまま用いてしまうのはどうかと言いたいだけなのですが。

ところで、そろそろ皆さんも飽きている様子なので、まことに勝手ながら
イルハン朝の呼称問題はこの辺で収めたいと思うのですが、どうでしょう?
言い出しっぺの私がいうのもなんですが‥‥
62おいおい・・・:2001/06/11(月) 06:00
>「イルハン国」に相当するペルシャ語はない
> ペルシア語史料ではイール・ハーンとだけ書いてある

なんかイライラするのは漏れだけ?
要するにペルシア語では「その国」をなんといっているのだい?

ひらべったく要約すると岩武説では「フレグウルス」という用例がないからダメだってことでしょ。
だったら「イールハーン」じゃだめなのか?

(歴史用語なのだから必ずしも同時代呼称・同地域呼称にこだわる必要はないという立場も
ひとつの見識とは思うが、それを前提にするとここまでの議論が無意味になるので
「仮りに」岩武説の立場を貫徹させる方向で立論してみた)
6328:2001/06/11(月) 12:00
前回からの議論を引っ張ります。
ルネ・グルッセというフランス人が1939年に出版した
L'Empire des steppes; Attila, Genghis-khan, Tamerlanという本の邦訳
『アジア遊牧民族史』(昭和19年刊)にあたったところ、
「フレーグ家」の王権は「ペルシアに於る蒙古汗国」もしくは
「ペルシア汗国」と訳出してありました。
どうも西洋でも常に"イル汗国"と呼ばれてたわけではないようです。
なお、ガザン好きさんの>>45
>1353年というのは、ジャライル朝がイラン全土を掌握した年と
>考えればよろしいのでしょうか。この辺詳しくないもので。
という疑問についてですが、
ジャライル朝の版図はイラクからせいぜいアゼルバイジャンまでのようです。
ティムール侵入以前の旧イル・ハン(フレグ家)領地域は
上述のジャライル朝のほか、
北イラク-東アナトリアには黒羊朝(カラ・コユンル)、
イスファハン以南のファールス-キラーンにはムザッフェル朝、
ヘラート(アフガニスタン西部)-ホーラサーン東部にはクルト朝、
ホーラサーン西部にはサルバダール朝…と各地に分裂政権があったとのこと。
もうひとつ、1353年滅亡説の根拠ですが、
チンギス・ハンの次弟ジョチ・カサルの後裔トガ・ティムール
(モンゴル風にいえばタガイ・テムル)がホーラサーン地方に拠って
1337年よりハンを名乗っていたものが、1353年にサルダバール朝に滅ぼされた…
という事件がどうやらそれらしいと思われます
(1337年の段階ではどうもまだフレグ家傍流系統のハンも存在したようですが)。
つまり、この年がイル・ハンを名乗る君主の最終的な消滅年なのでしょうね。
6428:2001/06/11(月) 12:02
>>61
>イルハン朝の呼称問題はこの辺で収めたいと思うのですが、どうでしょう?
私は>>59の最後のところでいちおう議論を自己完結させてしまったので構いませんが。(笑)
でも、他に話題がなくなりかけてませんか? このスレ…。


>>62
>要するにペルシア語では「その国」をなんといっているのだい?
私はペルシア語の原資料を直に読んでいないので以下は間違っているかもしれませんが…。
http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/~yyajima/rashid.html
こちらの『集史』(もちろん原文はペルシア語である同時代史料)翻訳によると、
フレグ家から輩出される「この国」の君主の称号は、
フレグ・ハン、アバカ・ハンを指して「イルハン」と呼んでいる個所があるので
「イルハン」(綴りに正確に写すなら「イール・ハーン」)で確実。
一方「イルハン」の国家のことは「ウルス」ないしは「王国」としています。
ウルスはモンゴル語をそのままペルシア文字(アラビア文字)に
写していたものだろうから良いとして、
「王国」のほうですが、これはおそらくアラビア語-ペルシア語で
「王朝」「国家」「政府」を意味する「ダウラット」"dawlat"の訳語だと思います。
ところが困ったことにこの訳文の中には「この国」を指す言葉として
「フレグのウルス」(ウールーセ・フーラーグかな?)とか
「イルハンの王国」(ダウラッテ・イール・ハーン?)という形では一度も出てこないんですよ…。

>だったら「イールハーン」じゃだめなのか?
現実に海外では「イル・ハン」とだけ呼ぶ例があるみたいですが、
日本語として馴染まないんじゃないかな?
だからイル・ハン国ないしイルハン朝という呼ばれ方がされているんだと思います。
…と、思いつつ確認のため検索にかけたら
Ilkhan SultanateやらIlkhan Dynastyだのという言い方が。
ややこしいなぁ。
65世界@名無史さん:2001/06/11(月) 23:07
>ところが困ったことにこの訳文の中には「この国」を指す言葉として
>「フレグのウルス」(ウールーセ・フーラーグかな?)とか
>「イルハンの王国」(ダウラッテ・イール・ハーン?)という形では一度も出てこないんですよ…。

だったら岩武説ではフレグウルスだけがアウトなんじゃなくてイル汗国もアウトになるわけですよね?
いったい岩武説ではなんという呼称を提唱しているのですか?
6628:2001/06/11(月) 23:37
>>65
>いったい岩武説ではなんという呼称を提唱しているのですか?
>>35からするとたぶん「イルハン朝」。
イル・ハンが統治した王朝、という意味になるから良いという判断では。
日本ではエジプトのマムルーク政権を「マムルーク朝」と呼ぶ例があるので
それほどおかしい言い方ではないと思われます。
…と、それ以前の問題として、訳文といっても膨大なペルシア語史料の中の
『集史』という一編の書物のそのまた一部分の話ですから、
ペルシア語史料全体でどうなっているかまでは判断する基準にならないですね。

でも、冷静に考えたら岩武さんの所説を直接読んでいない私が
「イル・ハン朝」呼称説をことさらに擁護するのはおかしいですね…。
だらだらと議論を引き伸ばしたことを反省してお詫びします。
67あほらし:2001/06/12(火) 00:02
君号がイールハーンで確実ならイル汗朝でもイル汗国でも問題ないだろうに。
イルハン朝がよくてイル汗国がダメってのは理屈にもなんにもなってないよ。
6828:2001/06/12(火) 00:39
>>67
それはそれでまったくその通りだと思うけど。

結局、岩武さんの説というのは
多くのモンゴル史研究者(というか杉山正明さん)が
「『イル・ハン国』『イル・ハン朝』は俗称だ! 『フレグ・ウルス』が正しい!」
って声高に主張してるのを、別に『フレグ・ウルス』って呼び名だって
同時代にあったものでもないんじゃないか、
という意見でもって批判していたんじゃないかと思うんですよ。
繰り返しますが直接所説を読んだわけではないのですが。
別に『イル・ハン国』では絶対にいけない、
という視点ではなかったと思うんだけど…。
違うかな?>ガザン好きさん

この議論は終ったと言っておいて引っ張ってしまったのでsageておきます。
69ガザン好き:2001/06/12(火) 05:25
61で呼称問題を収めたいなどと言ったのは、
なんだかスレッドが下がりかけていたので、
話題を変えたほうがいいのかなと感じたもので、つい‥‥
でも、みなさんまだ全然やる気をもってらっしゃる(?)みたいですね(笑)
とりあえず、議論の発端となった岩武先生の御説を以下に要約します。

@「フレグ・ウルス」という呼称はとくに正式な「国号」というものでもない。
Aペルシャ語史料においては、「チャガタイのウルス」という語は
一般に用いられるものの、フレグ以降の時代に「フレグのウルス」と
名のる例はほとんど見られない。
Bしたがって、イルハン朝国家を「フレグ」の「ウルス」と規定することは
史料に即したものではなく、この政体のモンゴル的要素のみを見た研究者の
考えに基づくのである。
(『西のモンゴル帝国―イルハン朝―』 54〜55頁)

28さんがおっしゃるとおり、岩武先生の批判は杉山先生あたりに
向けられたものだと思います。史料に用例が見えないにもかかわらず、
ウルスというモンゴル語を使って、「フレグ・ウルス」と名づけてしまうと、
事情を知らない人がそれを正式な国号だと思い込んでしまったり、この国家を
モンゴルの側からしか見なくなったりする、と危ぶまれたのではないでしょうか。

>>62
「イール・ハーン」だと「国王」という意味にしかならないのでは?
>>63
28さん、たびたびありがとうございます!
こういう政権の過渡期って理解しづらいもので。
>>68
岩武先生は、この本では「イルハン〔カン〕国」という呼称にはまったく
触れられていません。とくに否定されているわけでもないので、両者に
さほどの違いを認めていないのかもしれません。  
7028:2001/06/12(火) 18:38
あら、結局続けるんですか…?

>>69
>「イール・ハーン」だと「国王」という意味にしかならないのでは?
ちょっと整理しましょうか。
ペルシア語史料にあらわれる「イール・ハーン」は
トルコ語/モンゴル語「イル・ハン」「イル・カン」の
ペルシア文字(アラビア文字)綴りです。
イルはトルコ語で古くはエルとも発音し、
モンゴル語の「ウルス」とほぼ同義で
基本的に人間の集団としての「国」を指します。
カン/ハンは一般的な遊牧君主の称号ですが、
モンゴル帝国以後の旧モンゴル支配地域では
基本的にチンギス・ハンの子孫しか名乗ることが許されない称号になっています
(オスマン皇帝の称号のひとつにハンがあるし、
ムガル朝では軍人の称号になってしまっているのですが…)。
そのためか、イル・ハンを名乗った君主は>>63で触れたように
1353年で絶えてしまい、以後のペルシア語史料では
単純に「イール・ハーン」と呼ぶと
フレグ以降のイル・ハン政権君主を指したはずです。

長文ですので切ります。
7128:2001/06/12(火) 18:44
>>70の続きです。


また、ペルシア語史料ではイル・ハン政権君主以外のモンゴルの諸「カン」を
「イール・ハーン」と称している例もおそらくないのでしょう
(少なくとも『集史』では無いようですね)。
ただしカラ・ハン朝などモンゴル帝国に先行するトルコ系の「ハン国」が
イル・ハンと称したことがあるもしれませんが、不勉強にしてわかりません。

以上のことから推察すると、(杉山正明さんが言うように)
「イル・ハンは語義からいって国王という意味に過ぎず、不適当」という見方は
確かに一理あるとは思われるのですが、
しかしイル・ハンという語が空間的・時代的に限定して用いられたことを
無視していまいか、ということになります。

岩武説を私なりに理解するなら、
ペルシア語史料においてイル・ハンといえば特定の王権を指したのであり、
一方で「この国」を指す語として「フレグのウルス」という語が使われたわけでもないから、
「フレグ・ウルスでなければならない」という見方はおかしいのではないか?
ということです。
72世界@名無史さん:2001/06/13(水) 04:00
要するに「イル汗朝」でいいようだな・・・
ただ現地人(モンゴル人のぞく)の感覚(=地誌の一部としての世界史)を無視していえば、
現時点で考えうる限り、帝国中央からの視点では(=世界史の視点では)
やはり「フレグウルス」にすぎないとは思うけど。
叙述の文脈によって「イル汗朝」と「フレグウルス」を使い分ければいいわけでしょ?

「同時代人が…」っていうけど、漢帝国だって、当時の人は漢という国に住んでるって意識はなくて
たんに「天下」と認識してたわけで、現在の王朝が「漢」朝だというのは司馬遷以降。
同時代主義・同地域主義にこだわったところで適切な言葉が見出せるとは限らない。
あくまで歴史用語として割り切った方がよいと思われメ。
73世界@名無史さん:2001/06/13(水) 04:02
っつーか、重箱の隅をつつく学者にありきたりの悪癖で、
岩武氏のすぐれた部分とあまり関係ないと思われメ。
74ガザン好き:2001/06/13(水) 06:10
>>70>>71
>あら、結局続けるんですか…?
そうですね、なんのかんの言いつつも続けてますね‥‥
岩武説に対する28さんの理解は当を得たものだと思います。

ところで、私も「イール・ハーン」ないし「イル・ハン」は「国王」
という意味であったとしても、普通名詞的に使われたのではなく、
フレグ王統固有の君号として限定的に用いられたと承知してます。
69は少し誤解を与える言い方だったかも‥‥
しかし、岩武先生は「イル・ハン」という称号について、少し違った
考えをお持ちになっていたようで、次のように述べられています。

@「イルハン」の称号は、バトゥの尊称「サイン・ハン」やクビライの
「セチェン・ハン(カアン)」と同様に、フレグの個人的な尊称として
用いられていた。
A従来、一部の説でいわれていた「イル」の語が「部民」または「臣従」
などを意味し、大ハンモンケとの関係で「部民のハン」や「臣従するハン」
という下位の立場を示すものとは考えにくい。「イル」は「力」を意味する
「イルリグ」「エリグ」の転訛形と考えるべきである。「イルリグ・ハン」
「エリグ・ハン」はカラハン朝のイスラーム史料に現れる呼称としても
知られている。

イスラエルのイルハン朝史研究者やトルコ語学者の説を引いて、
自説を展開されています。
私の理解では「部民のハン」=「国王」だったんですが‥‥
「イル・ハン」の君号は直接カアンと関係するものというより、
むしろイランのウルスに向けたものですよね。
もちろん、カアン>カン(ハン)の関係はありますけど。
75ガザン好き:2001/06/13(水) 10:19
>>74の続き。
最後の部分がちょっと分かりにくくなってしまいました。
私が思うに、岩武先生がいわれる、「部民のハン」をカアンに対して下位の立場
を示すものと捉える見解は少数であって、「部民のハン」とした場合はあくまで、
みずからのウルスに対して「国王」と称したものとするのが大方の見解ではないか
ということです。
7628:2001/06/13(水) 10:36
>>73
確かに瑣末でまったくどうでもいい話ですが…。
まあ、ここではあえて話題にしてるわけですから。

>>74
なるほど…。
やっぱり問題の本を読まないで論じてたらダメですねぇ。

@について。
>>64で紹介した『集史』日本語訳を読み返してみました。
これだけを見る限り、確かにイル・ハンの語は
フレグ個人のことを指して用いられていますが、
アバカや「この国」のハンの位について指す用例はたしかにありませんね…。
とくにアバカ・ハン紀の
「彼(アバカ)の棺はシャーフーの丘に運ばれ偉大なイルハンの側に埋葬された。」
なんて文章を見る限りでは、
イルハンというのは明らかにフレグ個人を指しているように感じられます。
もっとも、この訳の担当者の中には岩武さんもいらっしゃるので
そういう考え方が入っているのかもしれませんが…。
ともあれ、そうすると、イル・ハン朝と呼ぼうとも
フレグによって創始された王朝という意味になるわけで、
フレグ・ウルスと呼ぼうがフレグ朝と呼ぼうがイル・ハン朝と呼ぼうが
みな一緒ではないかという事になりますね。
嗚呼、私が今まで盛んに論じてきたことはなんだったんだ…。(笑)


また長くなりますので切ります。
7728:2001/06/13(水) 10:38
>>76の続き。


(>>74の)Aについて。
イルは普通に考えればトルコ語「イル」だと思ってたんですが…。
古代トルコ民族史研究の泰斗、故・護雅夫先生によると、
突厥第二帝国の残したいわゆるオルホン碑文において
イル/エルは突厥の「国家」を指す語としてあらわれています。
また、遠く離れた現代共和国トルコ語では国・地方などという意味。
どちらからみても(人中心か土地中心かのニュアンスの違いはありますが)
「イル・ハン」は「臣従するハン」という解釈の説は
まず誤りとみてよいのではないでしょうか。

ただ、「イルリグ」は力を意味するという説は
(ガザン好きさんのご紹介の範囲を見る限りでは)賛同しかねます。
突厥の初代可汗、土門(ブミン)個人の称号は伊利可汗と言うのですが、
これはイル・カガン(すなわち「国のカガン」)あるいは
イルリグ・カガンの音写だとされています(護雅夫説)が、
護さんの説によると「イルリグ」というのは
「イル」に抽象名詞化語尾-ligを付けた形で、
すなわち「国もてるカガン」の意味であり、
また突厥以降の中央アジアの君主が称号に用いた
「イリグ」(エリグ)はilligのlがひとつ脱落したものです。
とうことで、本来イルリグ・ハンであったとしても結局イル・ハンの語自体は
「国(部民)のハン」という意味で理解して問題ないと思います。

やっぱり瑣末な話かなぁ…。

>>75
たぶんその通りです。
最後の問題は本当に「イル・ハン」がフレグ個人の称号だったのか、ですね。
78ガザン好き:2001/06/13(水) 13:22
>>76
>フレグ・ウルスと呼ぼうがフレグ朝と呼ぼうがイル・ハン朝と呼ぼうが
>みな一緒ではないかという事になりますね。
「イル・ハン」=フレグとすると、あら、ホントですね‥‥

矢島さんのHPをみたところ、「フレグ・ハン紀」にこうありました。
「(アバカ・ハンは)父の皇太子、後継者として玉座と帝王位とウルスと軍隊
を相続した。」
ウルスを相続したということはつまり、ウルスがフレグ家の家産と見なされていた
ということですよね。なのに「フレグのウルス」と呼んだ形跡がない。
研究者の方にはなぜそれがないのかを是非考えていただきたいです。
偉そうな言い方ですけど。

>>77
「イル」が「力」を意味する「イルリグ」「エリグ」の転訛であるというのは
イスラエルのトルコ語学者M.エルダルの説だそうです。
私はトルコ語についてはまったくの素人ですが、やはり「国もてるカガン」
のほうにひかれますね。

>最後の問題は本当に「イル・ハン」がフレグ個人の称号だったのか、ですね。
イスラエルの研究者アミタイ=プライスという人が同時代のアラビア語史料を
精緻に調査した結果、「イル・ハン」がフレグの個人的尊称であったことが
明らかになったそうです。
7928:2001/06/13(水) 13:54
>>78
>イスラエルの研究者アミタイ=プライスという人が同時代のアラビア語史料を
>精緻に調査した結果、「イル・ハン」がフレグの個人的尊称であったことが
>明らかになったそうです。
あら。
それじゃあイル・ハン=フレグでいいんじゃないですか?
結局同時代史料にこれといって国号がないのなら、
イル・ハン朝でもフレグ・ウルスでも見方次第で可、と。
でもイル・ハン国という言い方はちょっと不利になったかな。
その説では「歴代イル・ハンの統治する国家」という意味が本義である
「イル・ハン国」に根拠がなくなってしまうかも。
それに類する言い方なら>>63で本から引っ張ってきた
「ペルシア・ハン国」のほうがまだ良さそうな気が。
まあ定着しきった慣用ですし、
私には絶対いけないとまでは思えないですけどね。

>ウルスを相続したということはつまり、ウルスがフレグ家の家産と見なされていた
>ということですよね。なのに「フレグのウルス」と呼んだ形跡がない。
何故でしょうね…。
やっぱりウルスの根元が征西軍であったことが関係してるんでしょうか?
80ガザン好き:2001/06/13(水) 13:59
それにしても、モンゴル時代史の研究というのは、まずペルシア語で書いてある
史料が読めなければならないし、さらに、トルコ語、モンゴル語、アラビア語、
アルメニア語、ロシア語、漢語、ラテン語‥‥もやるとなると、冗談でなく、
過労死するかも。岩武先生は突然の心臓停止で亡くなられたそうですから。

遅レスですが。>>72
>同時代主義・同地域主義にこだわったところで適切な言葉が見出せるとは限らない。
こだわりと言われてしまうとそれまでですね‥‥
くどいですが、その国家ないし政権の呼称を考える上で、同時代の人々の意識に
思いをはせるのも、それなりに意味のあることじゃないかなと思うわけです。

たしかに、庶民レベルでは国家どころか、おらが村(町)という感じでしょう。
また、自分は「イランの地」に住んでいると考える人もいるでしょう。
やはり、国家(ウルス)を意識する層というのは、支配者であるモンゴル人
のはずです。
そこで、彼らの国家に対する認識がどういうものであったのか、国家をどう呼んで
いたのかを知ることで、現在の我々がその国家の歴史的性格をより具体的に把握する
ことができるんじゃないかと思うのです。やっぱり、こだわってますかね‥‥
81ガザン好き:2001/06/13(水) 14:54
>>79
あ、28さんのレスが‥‥すいません。
>でもイル・ハン国という言い方はちょっと不利になったかな。
「イル・ハン=フレグを始祖とする国」と考えればどうでしょう。
ダメですか?「ペルシア・ハン国」って呼び方ははじめて聞きました。
意味的には、ぺルシア王国 というのと変わらない気がしますね。
時代が分からなくなりますけど。

>やっぱりウルスの根元が征西軍であったことが関係してるんでしょうか?
前にも書きましたが、「フレグのウルス」と宣言できる正統性(正当性)
がないことと、常にウルスが分裂の危機にあるということに尽きるのでは
ないでしょうか。

ところで、話題を変えて、といいますか、質問なんですが、
イランにスルターニーヤという、オルジェイトゥ・カンが建設した都市が
ありますよね。どなたか行かれたことがあったら、教えていただきたいのですが
そこは今も、モスクや霊廟などの建築物が残っているのでしょうか。
ガイドブックなどをみても、とくに記述がないので、現状がわからないのです。
いつか、イランに行った時には、ぜひ訪れたいと思っているのですが。
82ガザン好き:2001/06/13(水) 16:10
たびたび話が前後して、相済みません。
岩武先生は「イル・ハン」称号の論考のあとで、こんな記述がありました。
「このフレグの個人的な別称が、その後を継いだアバカ以下の歴代ハンに
よって継承されていったのであるが、このような例で史上もっとも有名なものは
ローマ皇帝の称号「カエサル」であろう。」
つまり、「イル・ハン」はフレグ個人の尊称であるとともに、歴代ハンの君号
でもあると考えていいみたいです(北條義時に始まる「得宗」と同じ?)。
とすれば、「イル・ハン朝」「イル・ハン国」「フレグ・ウルス」のどれでも
歴史用語としては可となりますね‥‥
これをもっと前にいえばよかった‥‥申しわけない、鬱です。
83ガザン好き:2001/06/13(水) 16:18
>>82
二行目
「こんな記述がありました」→「こんな記述をされていました」
文法めちゃくちゃですね、さらに欝です‥‥
8428:2001/06/13(水) 19:26
>>80
想像するに、当時の遊牧部民・定住民の意識では
「イル・ハン様のご一族の領民」ってくらいじゃなかったのかなぁ。
前近代では国名が絶対あるというわけではないでしょうから。

>それにしても、モンゴル時代史の研究というのは‥‥もやるとなると、冗談でなく
『集史』を使った研究が盛んになったせいか、
一次史料としては漢文、モンゴル語、ペルシア語あたりは必須だろ?
という風潮になってきた感がありますね。
そして研究文献はドイツ語、フランス語、ロシア語、トルコ語が多い…。

>>81
>「ペルシア・ハン国」って呼び方ははじめて聞きました。
私も>>63で引いたルネ・グルッセの本で初めて聞きました。(笑)
地名に「ハン国」を冠して使う用例はモンゴル帝国崩壊後に
広く一般的に用いられていますから、それをイメージすれば良いのでは。
ジョチ・ウルス(あるいはキプチャク・ハン国)の後継国家に
クリミア・ハン国やカザン・ハン国などがありますが、
これは彼らジョチ裔の諸ハンたちが地名を冠して
「クリミアのハン」「カザンのハン」と呼ばれていたことに由来するはずです。
それなら同じように「ペルシアのハン」って言えるんじゃないか、
ということですが、やっぱり苦しいですね。

>>82
>つまり、「イル・ハン」はフレグ個人の尊称であるとともに、歴代ハンの君号
>でもあると考えていいみたいです。
あららら。
ということは、その説の通りだと解釈すると、
>>79で否定的なことを書いたイル・ハン国もまったく問題なくなりましたね。(笑)
結局やはり歴史家の意識の違いということになると思われます。
そして、慣用として特に歴史教育では「イル・ハン国」が
イスラム史研究の立場では「イル・ハン朝」が
モンゴル帝国史研究では「フレグ・ウルス」が使われるでしょうね、当面は。
8528:2001/06/13(水) 19:30
余談ですが、『岩波講座 世界の歴史』というシリーズがありますが、
この中で岩武さんの論文は杉山正明(編)のモンゴル帝国関連の巻ではなく、
「イスラーム世界の発展」という巻のほうに収録されています。
このことが岩武さんの拠って立つポイントが根本的に
杉山さんのようなモンゴル史研究者とは違うところを示しているのではないかな。

まあ、国名の話はこれくらいで終りにしましょう。


>>81
>ところで、質問なんですが、
>イランにスルターニーヤという、オルジェイトゥ・カンが建設した都市が
>ありますよね。どなたか行かれたことがあったら、教えていただきたいのですが
>そこは今も、モスクや霊廟などの建築物が残っているのでしょうか。
>ガイドブックなどをみても、とくに記述がないので、現状がわからないのです。
>いつか、イランに行った時には、ぜひ訪れたいと思っているのですが。
スルターニーヤ…。
イル・ハン建築の精華と言われているのだから、なにか残ってそうですが。

http://www.artarena.force9.co.uk/ilkhan.htm
とりあえずGoogleうならせて発見。
8650:2001/06/13(水) 21:49
スルタニーヤ
2000年12月の情報
ゴンバデ・スルタニーヤ(オルジェイトゥの霊廟)
●スルタニーヤの村はタブリーズ〜カズヴィンの街道沿いにあり、村は街道から5キロほど離れているが、そこに残されているゴンバデ・スルタニーヤは、何もない荒野が村と街道の間にひろがっているだけあって、街道をはしるバスの中からでも、それと気をつけていれば視認できる。それほどおおきい。
●入場料は三万リアル(400円あまり・外国人料金・自分は学生だとがんばって半分にしてもらった)。イラン政府はここを観光名地にしようと現在がんばって修復(改装?)している。したがって、なかにはいれば足場だらけ、そとからながめるとドームも足場だらけ。とても85のリンク先の写真ような好景はのぞめなかった。ちなみにその写真は自分の持っているイスラム美術の解説本にものっていて、おそらくは革命以前のものを流用しているのだろう。
●くりかえしのべるが、そうとう大きい。イスタンブールのアヤソフィア並。荒野のどまんなかにぽつんとたっているので、大きさが実感できない。修復が進めば、ドームはすべてタイルで覆われるだろう。周りの回廊はかなりがきれいに貼りなおされている。いづれ今はかなり崩れている尖塔もたてなおされるだろう。イラン政府の修復はそういう「修復」だ。
●イランに行くとあちこちで華麗繊細な後代のタイルワークをみれるので、ここのものは物足りないと思う。タイルの繰り返しのパターンでアリーとかマホマドとかかいてあるけど・・・。しかもタイルの色は青緑がおおい。写真では青く見えますが、外面はまちがいなく青緑。セルジューク建築でいやというほどみる色です。
●地下に墓があります。職人が作業してばたばたしてたけど、文化庁の役人?か、学芸員か学者か学生なのか(きいたけどわすれた)、英語をつかうおねーちゃんがいて(もちろん黒チャードルかぶってる)、ひとまわり案内してくれました。
●照明がなく暗かったので、上にいくほどよくみえなかったのが残念。ただ、うえのほうのあれ、漆喰細工なんでしょうね。外面の回廊のタイルは後代に貼られたものがおおく、したがって、色の種類もふえています。
●こんなもんでどうでしょうか。みどころはでかさと周りの何にも無さ。いちおうむらはひろがってるんですが・・・。イランの大きい町は山を背後に構えているところがおおいんですが、ここスルタニーヤは遊牧民がえらんだだけあって、荒野のど真ん中。山はとおくにみえてるんですけどね。
●ついでに、このスレに沿うようなことを言っておくと、カイロはマムルーク印のモスクだらけですよ。
87世界@名無史さん:2001/06/14(木) 09:47
ふう。まさに「神学者の論争」だったねェ。
88ガザン好き:2001/06/15(金) 01:21
遅レスすいません。
>>84
>前近代では国名が絶対あるというわけではないでしょうから
たしかに。岩武先生も国号という概念自体中国のものだと書かれていますから。
>それなら同じように「ペルシアのハン」って言えるんじゃないか
なるほど。では「タブリーズのハン」なんてのもありですかね?
「カタルーニャ地図」に「タブリーズの王」とあったので。

>>85
>このことが岩武さんの拠って立つポイントが根本的に
>杉山さんのようなモンゴル史研究者とは違うところを示しているのではないかな
岩武先生の本を読んでいるうちに杉山先生との違いが明確に分かってきました。
>まあ、国名の話はこれくらいで終りにしましょう
賛成です。話を変えましょう。
>とりあえずGoogleうならせて発見。
ありがとうございます。拝謝!わたしもGoogleうならせたのですが、全然見つかりませんでした。
おお、オルジェイト廟の写真もあるぅ!感激です。
89ガザン好き:2001/06/15(金) 01:32
>>88の続きです。

>>86
50さん、ありがとうございます!深謝!ゴンバデ・スルタニーヤっていうんですか。
>したがって、なかにはいれば足場だらけ、そとからながめるとドームも足場だらけ。
当分はその状態が続くんでしょうね。ちょっと残念。
>イラン政府の修復はそういう「修復」だ。
ウズベキスタンでやっているティムール朝建築の修復もそんな感じだと聞きました。
やはり、タイルは剥がれやすいんでしょうね。
>セルジューク建築でいやというほどみる色です。
そうなんですか。モスクなどに青や青緑のタイルをはるのは、
てっきりモンゴル時代からだと思っていました。

>外面の回廊のタイルは後代に貼られたものがおおく、したがって、色の種類もふえています。
なるほど、必ずしも、モンゴル時代当時の色とは限らないわけですね。
>ここスルタニーヤは遊牧民がえらんだだけあって、荒野のど真ん中。
>山はとおくにみえてるんですけどね。
まったくの荒野なんですか?草原は全然ありませんでした?
>カイロはマムルーク印のモスクだらけですよ。
マムルーク朝スルターンの建てたモスクはあまり多くないのでは。そのかわり、
マドラサがひじょうに多いと聞きました。揚げ足をとるようですみません。

>>87
>ふう。まさに「神学者の論争」だったねェ。
不毛な議論ってことですか?傍からはそう見えたかも‥‥
でも、多少はためになることもあったでしょ?
90世界@名無史さん:2001/06/15(金) 01:45
白熱しとるのう。ところでこのスレ立てたの誰か御存知かな?トホホ・・。
91世界@名無史さん:2001/06/17(日) 02:47
イル汗国かフレグウルスかの議論が終わったらイキナリさがりまくり?(藁
9226:2001/06/17(日) 23:36
>>89
>マムルーク朝スルターンの建てたモスクはあまり多くないのでは。

あの時代、モスクもマドラサも厳密な線引きは出来ないので
「マムルーク印のモスクだらけ」と言っても間違いではないと思います。
現代ではマドラサも修道場(ハーンカー)も「スルターンだれそれのモスク」
と呼ばれてますし。
93世界@名無史さん:2001/06/18(月) 00:33
もしかして英語ではマスジドもジャーミーもマドラサもハーンカーも全部「モスク」とか?
94ガザン好き:2001/06/18(月) 06:44
>>92
>あの時代、モスクもマドラサも厳密な線引きは出来ないので
>「マムルーク印のモスクだらけ」と言っても間違いではないと思います。

ちょっと調べなおしてみたところ、どうやら26さんのご指摘のとおりのようです。
変なこと書いてすみません。
マムルーク朝の「スルタン・ハサンのマドラサ」はスルタン・ハサンの墓と
マドラサを兼ねたものであるが、ミフラーブを持ったモスクでもあり、
「スルタン・ハサンのモスク兼マドラサ」ともよばれているそうです。

イスラームでは墓のあるところで礼拝をしてはならないはずなんですけど‥‥
これがいわゆるイスラームの寛容さというやつなんでしょうか。
それとも、トルコ人もしくはエジプト人がいいかげんなだけなのか。
9528:2001/06/18(月) 07:33
>>87
不毛でしたかねェ…。
当事者はわりと楽しんで書いてたんですけどね。


>>94
>イスラームでは墓のあるところで礼拝をしてはならないはずなんですけど‥‥
いちおう墓の本体と礼拝所のあるところは別れてるんじゃないかな?
自分の墓のそばで礼拝や神学の講義をしてもらうと御利益(?)がありそうって
言うんで墓とくっつけてモスクやマドラサを作るんでしょうね。
イスタンブルなどのオスマン朝建築もそうなってるはずです。

ところで、イスラム教の中にはイマームや聖者の墓そのものを崇拝する
「聖廟信仰」ってのもありますよね。
それに比べたら…。
(かのワッハーブはこれを異端として激烈に批判しましたが)
96世界@名無史さん:2001/06/19(火) 20:34
またさがってるよ…
9787:2001/06/19(火) 22:58
神学論争よばわりした>>87だが。

いやおもしろかったよ。
漏れも興味があるからこそしつこく聞いたわけで。勉強になったし楽しかった。

べつに悪意でいったわけじゃなかったんだが・・・漏れをもふくめた好き物連の自嘲を装った自慢かな。
9828:2001/06/20(水) 23:07
たびたび話を戻して恐縮ですが。

『西のモンゴル帝国―イルハン朝―』を入手しました。
まだざっと目を通しただけだけど、
「イル・ハン」の名称についてなんてさらっと触れてるだけですね。(笑)
借り物なので今晩中に読んじゃいます。
しかし、ブックレットだけにずいぶん薄い本…。
これじゃアイン・ジャールートに無駄なページなんて割けないでしょうね。
99世界@名無史さん:2001/06/26(火) 20:49
『モンゴル帝国の戦い』はなかなか面白かった。
まあ、一度読んだ話も多かったけど。
100世界@名無史さん:2001/06/27(水) 07:19
>>99
著者は誰?
101世界@名無史さん:2001/06/27(水) 16:29
>100
たしか日本人ではなかった。
102100:2001/06/27(水) 19:32
うーん。
Googleで検索してもヒットしないし…。
10326:2001/06/28(木) 22:14
中公新書から牟田口義郎先生の『物語 中東の歴史』なる本がでましたが、
「風雲児バイバルス」なる一章にかなりのページが割かれています。
これから読んでみますが、表題から察するところ、以前の講座オリエント
(だったかな)の焼き直しかも。
それにしてもまたバイバルスのことを「片目」とか書いてるし、
ちょっと読んだだけですでに萎えなえです。
10428:2001/06/28(木) 23:09
>>103
あれ、そんな本でましたか。
立ち読みしてこようかな。

>以前の講座オリエント(だったかな)
それであってますよ。
何巻だったかは忘れましたけど・・・。

>それにしてもまたバイバルスのことを「片目」とか書いてるし、
牟田口さんは『世界の都市の物語 カイロ』では
バイバルスは片目が白内障だったと書いてますね。
10599:2001/06/29(金) 04:23
>>100
『モンゴル帝国の戦い 騎馬民族の世界制覇』
著者・ロバート・マーシャル
出版・東洋書林
106100:2001/06/29(金) 12:07
>>105
ありがと!
107世界@名無史さん:2001/06/29(金) 14:28
>>103
>それにしてもまたバイバルスのことを「片目」とか書いてるし、

ドキュンな質問をして申し訳ないのですが、ということは、バイバルスって本当は
片目じゃなかったってこと?
私もてっきり、隻眼の名将だとばかり思ってたもので……
10828:2001/06/29(金) 14:47
バイバルスは「片目に白い斑点があった」そうです。
見えなかったかどうかまではわからないですが…。

牟田口さんは白い斑点→白内障→見えなかったと判断して
書いてるんでしょうね。
10926:2001/06/29(金) 23:46
佐藤次高『マムルーク』には「片目に白そこひの斑点があった」とか
書いてありましたよね。確か。
白そこひ(白内障)が「片目」にあたるのかどうか分かりませんが
どうなんでしょうかね。
すくなくとも現代エジプトの大河ドラマの中では、バイバルス役の
俳優は片目にはなってませんでした。あんまり関係ないですけど。
110世界@名無史さん:2001/07/01(日) 08:36
あの、話しの腰を折るようで恐縮なんですけれども
私、バイバルスに興味をもって調べていくうちに
彼の側近でありバハリー・マムルーク朝第八代スルタンである
カラーウーンに関心が沸いてきたんですよ。
彼について詳しい本ってありますか?

ネットで検索しても殆どヒットしないし・・・

宜しければご教授願いたいと思います。
11128:2001/07/01(日) 11:54
>>110
おそらく日本語では読めないでしょうね…。
バイバルスですらほとんど記述がないんですから。

"Qalawun" "Qalaun" "Kalawun" "Kalaun" で検索してみれください。
エンサイクロペディア・オブ・イスラムが置いてある図書館など知っていれば
それで引くのが一番手っ取り早いのですが。
112世界@名無史さん:2001/07/01(日) 13:19
ここのスレは初カキコになります
>>110
カラーウーン・アル・アルフィーのことでしょうか?
近藤出版社から発行の「世界史研究双書22 エジプトマムルーク王朝」、大原与一郎著
という本に詳しく書いております。
11328:2001/07/01(日) 16:26
大原与一郎ってそうとう昔の人では…。

あ、でも都立図書館のOPACでヒット。
大きい図書館で探せば見つけられそうですね。
114110:2001/07/01(日) 23:03
>>111さん
>>112さん
>>113さん

どうもありがとうございました。

そうですよね・・・やっぱり日本じゃあカラーウーンの資料って少ないですよね。
でも自分は英語の成績もドキュン並みなんで(笑)、外国の資料も読めない・・・

取り敢えず高校入ってから英語を勉強せねば・・・

「世界史研究双書22 エジプトマムルーク王朝」ですね。
今度大きな図書館で探してみます。

ありがとうございました。
11528:2001/07/01(日) 23:11
>>114
おや、いまは中学生ですか。
そりゃさすがに英語文献は大変かも…。
116112:2001/07/01(日) 23:21
手元に紹介した本はあります。初版が1976年10月だそうです。
東京の小平市立中央図書館に「世界史研究双書22 エジプトマムルーク王朝」がありますので、都内在住でしたら探してください。
なお閉架ではないので、貸し出し中ではなかったら閲覧可能と思います。
頑張ってくださいませ。
117世界@名無史さん:2001/07/09(月) 04:56
>>112
近藤出版社はなんだか変な売れそうにない本ばかりつくってますね。
118112:2001/07/10(火) 12:42
>>117
手元にある近藤出版社刊の世界史研究双書は「22、エジプトマムルーク王朝」、
「26、トルコの歴史(三橋冨士男著)」があります。
世界史研究双書の既刊として、「キリスト教の成立」、「騎馬遊牧民」、「大運河−中国の漕運」、「騎士団」、「沖縄の歴史と文化」
「オランダ東インド会社」、「修道院」、「長安」、「ヨーロッパの荘園制」、「南北戦争」、「中国とキリスト教」、「華僑経済誌」
「万里の長城」、「ニューディール」、「フランス人民戦線」、「近代露清関係史」、「フロンティア」、「イラン現代史」、
「イタリア民族革命」、「ローマ法とその社会」、「西欧社会と市民の紀元」(1974年当時の既刊)
と一部の愛好家にはツボを突くような内容になってますね。
間違いなく万人に売れない本でしょ。
本スレと関係ないので、sageますね。
119世界@名無史さん:2001/07/14(土) 09:50
近藤出版社マンセーage
12028:2001/07/14(土) 19:15
『エジプト・マムルーク王朝』、見てみたけど
カラーウーンの記述はそんなに多くもないですね。
3〜4Pぶんくらいかな?
まあ、あるだけマシか。

ところで、アミン・マアルーフの『アラブが見た十字軍』にも
多少詳しく記述がありました。
対十字軍戦争のことばかりのようですが。
121世界@名無史さん:2001/08/12(日) 01:45
>「世界史研究双書22 エジプトマムルーク王朝」

これって売ってる? 見た事ないぞ。
12228:2001/08/12(日) 05:09
>>121
古い本ですから新刊書店にはないでしょう。
1976年刊です。
123121:2001/08/17(金) 15:27
>>122
ありがとうね。
古本屋で探してみる。ちょっと厳しそうだけど。
124世界@名無史さん :2001/08/17(金) 16:54
アインジャールートの詳細誰か教えて。

NHKが取り上げたとき、マムルーク朝がもの凄く重い鎧を装備して戦ったとしか、

言わなかったけど・・・
125テーブルクロス:2001/08/18(土) 07:44
マムルーク関連の論文とかってありますか?
126世界@名無史さん:2001/08/20(月) 21:22
>>124
「重い鎧」ってことは砂漠でフルアーマーか〜
127世界@名無史さん:2001/08/20(月) 21:38
ここ、モンゴル史好きの私にはたまらないスレッドです!
皆さんもゲームの「蒼き狼と白き牝鹿」シリーズやってます?
各国王の絵とか見てると、本物はどういう顔してたのか想像しちゃいますよ〜。
(スレ違いっぽくてごめんなさい)
128世界@名無史さん:2001/08/20(月) 21:55
>>127
端的に言うと、ステップ騎兵同士のテクニック抜きガチンコパワーファイトだった
129128:2001/08/20(月) 21:57
訂正
× >>127
○ >>124
13028:2001/08/20(月) 23:58
マムルーク朝初期のマムルークは
キプチャク草原出身のトルコ遊牧民で、
モンゴルと変わらない騎兵らしいですよ。

>>125
専著があります。
佐藤次高『マムルーク』東大出版会、1991年

>>127
3と4でバイバルスの顔が全然違う…。

http://yasai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=game&key=990138661&ls=50
↑PCゲーム板の蒼き狼スレです。
131127
>>130
>>130
どーもです!
キプチャク人はトルコ系だとすると、白人に近い顔つきなんでしょうか?
(もっともトルコ人の定義自体難しいと思いますが・・・。)
それと、イスラム教徒は皆、髭を蓄えるのが一般的なのですかね?
確か男らしさの象徴だとかの理由があったような・・・。