★★★★康煕帝・雍正帝・乾隆帝★★★★

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1ヌルハチ
ほんとに彼らの時代は良い時代だったのでしょうか?
2世界@名無史さん:2001/03/20(火) 23:09
よかったって何が? 誰にとって?
3名無しのオプ:2001/03/22(木) 22:17
まあ、清朝の最盛期っていうのには間違いないと思うよ。
ただし康煕前半と乾隆末期は除く。
4世界@名無史さん:2001/03/22(木) 22:27
個人的には康煕帝の父で、愛情の深かった順治帝が好き。
顎皇貴妃との悲恋は胸をうつ。
5名無しのオプ:2001/03/22(木) 22:29
>>4
ちなみに董顎皇貴妃な。

     Λ_Λ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 キャー (・∀・ )<  みんなちゃんと勉強するんだよ
  _| ̄ ̄||_)_\____________
/旦|――||// /|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ̄| . |
|_____|三|/
6世界@名無史さん:2001/03/23(金) 01:12
中国の人たちにとって、いい時代だったと言えるでしょう。
少し前の、明朝末期がひどすぎたので、特に。
7名無しのオプ:2001/03/24(土) 01:10
経験者?
8青海モンゴル人:2001/03/24(土) 05:07
太祖グシハン様がオイラト本国では芽のでる見込みのない部屋住みたちを集めてチベット征服の大業に着手され、この国に自らの王朝を開かれた。

吾等はお供をつかまつってチベットに移住し、ダライラマ法王とハーンにご奉仕する槍の切っ先として、支配階級として、いい気分で暮らすことができた。

あにはからんや、五世法王の後継を巡ってハーンとご連枝衆が争いを始められ、あまつさえ、ご連枝衆の一部がジュンガルを引き入れてハーン様をたてまつった。

康煕皇帝は「ダライラマ法王を擁するハーン」という政体の再建を支援しようとお考え下さり、ご連枝衆にハーンの後継者を選出するよう仰せになったが、ご連枝衆が候補者として選出されたロブサン・ダンジン様といえば、ジュンガルを引き入れて先代のシャジンバリクチ・チンギス=ハーン様を弑した張本人。ラサにいるお旗本衆はチベット人大臣たちと連帯して断じて拒否、ロブサン・ダンジン様は冊封の沙汰をいただけず、すごすごと青海にお帰りになられた。

ロブサン・ダンジン様は元は青海におけるご一族の旗頭で、ご自身がハーンとなってラサに移住なさったあとはダイチンホショジ様に 青海の指導権を委ねることを約束なさっていたが、ハーンに成れずに青海へお帰りになり、ダイチンホショジ様と青海の支配権を巡って大喧嘩を始められた。

このお二人、先代ハーンを弑するのにジュンガルを引き込み、文殊皇帝がジュンガル排除に派兵されると、ジュンガルを裏切って清朝に付き、挙げ句に互いに争い合うという定見のない方々。

雍正皇帝は、お二方のあまりの定見のなさにあきれ果て、彼らがジュンガルとまた結託でもしようものなら、青海西寧より雲南にいたる長大な線がジュンガルとの前線になってしまうと危惧なさり、ロブサンダンジン様が清朝に「反乱
を起こされたとの口実で青海に出兵された。

その結果われら青海モンゴル人は、チベット人諸侯から貢ぎ物をとりたてたり、所領を安堵してやる権利を取り上げられ、チベット内に生活する一介の遊牧民になってしまった。

ラサのお旗本衆も、ダイチンバートル、ミワン・ポラネー、ダライバートルなど先代ハーンの遺臣衆に属した後、乾隆皇帝がダライバートルを滅ぼされた折に駐藏大臣の所属となったらしい。
9青海モンゴル人:2001/03/24(土) 05:11
第三段落最終行                  。。
「ご連枝衆の一部がジュンガルを引き入れてハーン様を弑したてまつった。 」
と訂正でござる。
10名無し:2001/03/24(土) 11:04
で、あんたは何がいいたいの?
11あやめ:2001/03/24(土) 20:08
>5
ちなみに「董顎」は「董鄂」が正しい字です。
なお「清史稿」では「棟鄂」に作っていますが、一般的には董小宛と混同
されるくらいだから「董鄂」の方が通用してますけど。
124=おサル:2001/03/25(日) 00:10
すみません、「ことえり」では見つかりませんでした。
13名無し:2001/03/25(日) 03:17
雍正帝の帝位継承にも風聞があるよね。
康熙帝の遺言を改竄したとか。
14あやめ:2001/03/25(日) 12:02
康熙帝の遺言を改竄したというのは原文に「皇位傳十四子胤禎」とあった
のを「十」字を「于」に、「禎」字を「メvに筆画を書き加えてしまった
という話です。しかし当時の書式では皇子をいきなり「十四子」と称する
ことはなく、必ず「皇十四子」のように表記するはずなので「十」字だけ
改竄しても意味をなさず、また当時の雍正帝の名は「胤メvではなかった
ので全く根拠のない妄説なんだそうです。因みにこの康煕帝の遺詔の原件
は北京の第一歴史トウ(木偏に當)案館に保存されてるそうです。
序でながら雍正帝は衛某の妾が康煕帝に幸されて生んだのだとか、実父は
年羹堯だとかいった怪しげな噂も伝えられています。
15世界@名無史さん:2001/03/25(日) 12:51
雍正帝つーと、宮崎センセのあれだよな。実に面白かった。
16世界@名無史さん:2001/03/25(日) 15:39
ある高官がマージャンやってたら、なぜか牌が1枚足りなくて、お開きに
なった。
翌日、その高官が雍正帝に呼び出され、昨日何をやってるか質問された。
その高官が正直に答えると、皇帝は
「なくなったその牌はここにある」
と出して見せたとか。つまり、高官の家に皇帝のスパイが入り込んでいて
そいつが牌を隠し持ってた。もし高官が正直に答えなかったら、ヤバいこ
とになってたところだったわけ。
こんな皇帝の下では、働きたくないなあ。
17あやめ:2001/03/25(日) 16:27
その話の出典は禮親王昭レン(木偏に連)の「嘯亭雜録」です。当時の
麻雀牌は骨牙製ではなく紙牌だったので亡失し易かったのです。なお
この高官は王雲錦という状元出身者です。
18名無しのオプ:2001/03/25(日) 16:56
つーか、康熙帝の遺言は漢文なのか?
漢文じゃなく満州語で書かれていたなら、
「皇十四子」云々は意味を為さないのでは?
そもそも康煕帝が遺言を文章で残すヒマあったの?
急死したんじゃなかたっけ?
19名無しのオプ:2001/03/25(日) 17:09
>>14
ちなみに年羹尭の方が雍正帝より年下なので
年=雍正帝の父親説は成立しない。
20あやめ:2001/03/25(日) 17:54
雍正帝の方が一つ上だったと思います。
因みに年羹堯は「児女英雄傳」の仇役の紀献唐のモデルとされている人物
です。紀=年・獻=羹・唐=堯という謎解きになってますが詳細は省略します。
21世界@名無史さん:2001/03/25(日) 18:19
知ってることは言わないと気が済まないのか、この人は・・・。
年齢差の話と『兒女英雄傳』はまったく関係ないだろ。
22青海モンゴル人:2001/03/25(日) 18:22
>で、あんたは何がいいたいの?

つまり我々にとって「康煕帝・雍正帝・乾隆帝の時代」というのは、一国の支配民族から、一介の遊牧民へと地位が下落した、不幸な時代ということでござる。
23あやめ:2001/03/25(日) 18:51
「聖祖實録」によれば康煕帝は康煕六十一年十一月七日に違和を覚え十三
日戌刻に升遐されたので、暴崩の事態ではありません。十三日の崩御の直
前くらいに皇子たちが呼び集められました。雍正帝が駆けつけた時点では
誠親王・淳親王・アキナ(第八皇子)・サスヘ(第九皇子)・怡親王など7人と、
理藩院尚書のロンゴドがいました。その場で病床の康熙帝は皇四子つまり
雍正帝が大統を継ぐべきことを一同に宣明したということです。このこと
は雍正帝本人が語っていることだそうですが、同席者が大勢立ち会ってる
の上ですから満更うそは言ってないでしょう。崩御の翌日にこのことは公
にされたのですが、遺詔として頒布されたのは十六日です。もちろん王言
ですから然るべき詞臣が苦心して立派な文章に作るので、満語の副本も作
られるんでしょうが基本的に漢文であって、作文上のいろいろな制約とい
うか書式に従わなくてはなりません。その一つが「皇*子」という表現と
いうわけです。言うまでもなく天子が親筆で遺詔を書くなんてことはあり
得ません。
24あやめ:2001/03/25(日) 18:58
>21
「知ってることは言わないと気が済まない」性格ってことはないとも言えません。
ただ年羹堯なんてあんまり馴染みの乏しい人だと思うので「因みに」ってことで
付け加えただけ。歴史オタクにも一つの癖は許してたもれ。
25十三妹:2001/03/25(日) 20:12
児女英雄伝自体、日本人にはあまりなじみがありませんから、
ちなみにって言われてもよく知らないひとも多いんじゃないでしょうか。
26世界@名無史さん:2001/03/25(日) 20:51
雍正帝って三人の皇帝の中では一番マイナーなんですよね。
乾隆帝の功績はほとんど父親が一生懸命国力を蓄えてくれたからですよ。
でも乾隆帝の方が世界史的に影響力を行使したのでそっちの方が持て囃される。
宮崎市定先生の本をよく読んだからですけど、私的に中国で一番えらい皇帝だと思います。
27名無しのオプ:2001/03/25(日) 21:04
>紀=年・獻=羹・唐=堯という謎解きになってますが
これは知らなかった。
あやめ、詳しいね。あと、アキナ・サスヘというのは宮崎先生の
本ではたしか満洲語で犬・豚の意味だと思ったんだが、先生が何を
根拠にしたのかが不明だったような。 ご存知?
28日本@名無史さん:2001/03/25(日) 21:48
清朝自体ドキュンの王国じゃないか。
明朝からそのまま近代に行かなかったことが最大の問題。
康煕・雍正・乾隆だろうが関係ない
29世界@名無史さん:2001/03/26(月) 00:33
>28
お前がドキュソ
明朝は元朝で始まって通貨経済&海外貿易をつぶし
100年は中国経済を後退させたドキュソ国
明朝→近代はありえない
30世界@名無史さん:2001/03/26(月) 05:47
明朝末期は、皇帝から役人まで、腐敗がひどすぎた。
万暦帝なんて、25年も政治の場に出なかった。
それも、平和な時代ならともかく、内憂外患の多事多難な時の皇帝だ。
そのくせ、金は使い放題。当然財政が傾く。
明朝政府は鉱山開発でこれに対処しようとするが、これが民を苦しめた。
「ここから金が出そうだ、立ち退け」と言いがかりをつけて賄賂を役人がせ
びる。そんなことだから、もちろん実際には鉱山が開発されるわけがない。
結局、財政をささえるために、増税につぐ増税。
税を払えない民が流賊化し、治安が悪化して、これを鎮めるために金がかか
るのでさらに増税するとういう悪循環だ。
中国の民衆にとっては、明が滅びてくれて万々歳だったのだ。
彼らから見れば、明末のでたらめな統治に比べ、弁髪の強制以外、清朝初期
の統治は素晴らしいものだったのである。
31名無し:2001/03/26(月) 06:31
>>30
江南征服の際の、満州軍による漢民族の
大虐殺はどう評価する?
32世界@名無史さん:2001/03/26(月) 17:15
30>31
征服の過程としてしていることは「統治」とは言わないでしょう。
少なくとも、私が30で「統治」と言っているのは征服完了後の話。
33日本@名無史さん:2001/03/26(月) 17:37
>明朝は元朝で始まって通貨経済&海外貿易をつぶし
>100年は中国経済を後退させたドキュソ国

ドキュンはてめえだ。明末清初研究くらい読め。
お前のレベルは島田『近代的思惟の挫折』以前だ。

>中国の民衆にとっては、明が滅びてくれて万々歳だったのだ。
>彼らから見れば、明末のでたらめな統治に比べ、弁髪の強制以外、清朝初期
>の統治は素晴らしいものだったのである。

どうしようもないクズだな。おまえの議論。
清朝の初期の統治がそれなりにまともであったことと、
明朝の次が民国に以降、すなわち「近代」に突入すべきでった
という「近代」という課題から判断されるべき清朝評価、
この2つは全く矛盾しねえだろうが。
てめえの議論は反論になるか、アホ。

清朝は明朝の統治をパクッただけ。学術も衰退した。
技術も経済も繁栄せず、低位均衡の罠に陥った。
清朝を評価するのはバカだ。

と近代主義者の観点からのべておく。
(むろん、わたしは組みしないのだが)


34あやめ:2001/03/26(月) 18:42
>25
んー、言われてみれば違いないですね、余分な話題を提供してスレに新た
な展開を期待したものとか、好意的な理解をしていただけたら有り難いわ。
ダメかにゃー(ーー;;
さすが十三妹女侠恐るべし!
一応27さんが反応してくださったわ。
>27
「清史稿」の「聖祖諸子傳」によると聖祖の皇八子は本名を允イ(示偏に
異)と言い、雍正帝の即位直後に廉親王に封ぜられましたが、帝に疑われ
雍正四年二月に王爵を削られ名を「阿其那」と改めさせられました。そし
て九月に病死しています。皇九子は本名を允トウ(示偏に唐)と言い貝子に
封じられていましたが、雍正三年に爵を奪われ翌年五月に「塞思黒」と改
名させられ、八月に腹疾で死亡しています。この阿其那と塞思黒が犬だ豚
だというのですが、満語で犬はインダフンで豚はウルギヤンなので宮崎さ
んが何を根拠にしたか不明です。なお2人とも乾隆年間に原名と宗籍を復
されました。
35世界@名無史さん:2001/03/26(月) 18:53
30>33
>てめえの議論は反論になるか、アホ
私は一言も、30が君への反論だなんて言ってないんだが。
すっげえ自意識過剰だね、君。
ここは康煕帝・雍正帝・乾隆帝スレ。私は清朝初期の統治が
なぜ評価されたかをその直前の明朝と比較して論じただけ。
1に対して書いたもので、28への反論でないのは当たり前。
ちなみに、29は私ではない。
36世界@名無史さん:2001/03/26(月) 19:06
オッケーオッケー、なんか続いているように見えたんでね。
そんならそれで反論しようか。
やっぱりわかってないと思うから。

>明朝末期は、皇帝から役人まで、腐敗がひどすぎた。
>万暦帝なんて、25年も政治の場に出なかった。

バカでも総理大臣はつとまるよ。森が良い例だ。
明朝の皇帝独裁もまた、どんなアホでもバカでも英明でも
つとまるようにできていた。それこそが25年も朝廷に
出なくても政治が運営できていた秘訣。
つまり官僚制による政治の安定だ。

あんたは清朝を誉めているようだが、
皇帝が朝4時におきて夜12時に寝るまで政務に励み続けなければ
運営できない官僚制をおかしいと思わないのかね。
これが異常でないと?

清朝の皇帝こそ異常なんだよ。
明朝のアホたれ皇帝をかついで政治が運営できたことの方が、
常識だし、模範だし普通じゃないのかね。

逆にみる必要があるんじゃない?
37世界@名無史さん:2001/03/26(月) 19:09
清朝初期の統治の評価、
明朝後期の統治の否定。
これは明らかにあらためる必要があると思うよ。
そもそも皇帝の資質にもとめることは非常に無理がある。
38世界@名無史さん:2001/03/27(火) 14:04
あやめさんはどこで満語習ったの?
39世界@名無史さん:2001/03/27(火) 16:41
35>36
私と君とでは見解が違うようだ。
異論はあるのだが、どうせそれを述べても反論が返るだろうし、
それに反論してもきりがないし、荒れるだけなので、これだけ言
うにとどめておく。

もしも私がタイムスリップして、明末か清初のどちらかの中国に庶民
として住まねばならないとしたら、私は迷わず(君の言うところの模
範で普通の明末よりも、異常な)清初を選ぶね。

これに対するレスは不要。こっちももうこれ以上は何も言わない。
40メフメット2世:2001/03/27(火) 17:30
皇帝はバカ揃い・内輪もめばっか・賄賂あたりまえ・異民族に
やられまくり・そんな明を支持する人っているんdeathね。
あんた、漢民族至上主義者ですか?
41世界@名無史さん:2001/03/27(火) 18:24
明末の頽廃ぶりを知らない36はバカ。
このスレの常識です。
42世界@名無史さん:2001/03/27(火) 20:05
もはや41のアホにはつける薬がないな。
明末の学術の爛熟、貨幣経済の発展は異様だぞ。
大混乱は、この異様な発展と爛熟のない混ぜ現象なんだよ。
戦後史学の常識をしらないおまえこそ厨房だな。
どうみたって、明末の方が圧倒的に面白い。
李卓吾とかがいるんだぜ?

清初は「康熙穀賤」といわれるデフレで経済不振だ。
おまけに文字獄で締め上げられる時代。
43世界@名無史さん:2001/03/27(火) 22:06
42は時代錯誤の大キチでございまぁす!
明末に生まれて李自成の乱に巻き込まれて死ねばよかったのにね。
44名無し:2001/03/27(火) 22:13
>>42
中途半端なバカは一番始末が悪い。
45世界@名無史さん:2001/03/28(水) 17:25
おまえだろ、中途半端な馬鹿は(藁)>>43-44
おれは少なくとも一切「よい時代だった」とは書いてないぞ。
「面白い時代だ」とは書いたけどな。
分かってるかな?
中途半端な歴史かぶれはお前だよ(藁藁、藁人形〜
46青海モンゴル人:2001/03/29(木) 00:26
>ちなみに年羹尭の方が雍正帝より年下なので

こいつだこいつ。年羹尭!
こいつのせいで、我々は「チベットの支配者」から、チベットに暮らす「一介の遊牧民」に・・・・。
47世界@名無史さん:2001/03/29(木) 01:24
44>
おいおい違うよ、42=45は中途ハンパなバカじゃなくて、本物の
バカなの!
48名無しのオプ:2001/03/29(木) 02:10
>>46
結局、年羹尭は栄華の絶頂で
自殺を命じられました。カンベンしてやって。
49名無しさん:2001/03/29(木) 02:21
>どうみたって、明末の方が圧倒的に面白い。
>李卓吾とかがいるんだぜ?

もう少し論理的な文章を書きましょう。
5039:2001/03/29(木) 04:12
もう何も言わないと宣言しといてなんだが。
もう、やめようや。
こうなることがわかってたから私はこの話題から抜けたのに。
ここは、意見の異なる者を互いに罵倒するスレッドなのか?
議論するならするで、論理的、紳士的にやってくれ。
議論が無駄な相手だと思ったら、無視しよう。
意見が異なるからといって「アホ」「バカ」とけなしあうのでは
他のスレッドのウヨクサヨクと変わらない。
5142:2001/03/29(木) 09:09
39さん、あんたもずっこいぞ(藁)
そもそも、おれは問題提起として、官僚制からみた
明清政治体制の評価を「あえて」ひっくり返して提言したのに、
反論できる能力のある人間がいないから、44=49みたいな
馬鹿よばわりしかできないアホが、このスレッドに跋扈するこ
とになったんだよ(藁)。

一応この時代を専門としていないからこそ、提言できたといえる面もあるんだが…。
あなたもそう思うなら、なんか書いて発展させてくれ。
52世界@名無史さん:2001/03/29(木) 12:21
>>50 51
自作自演ウザイ。
53名無しのオプ:2001/03/29(木) 23:16
>どうみたって、明末の方が圧倒的に面白い。
>李卓吾とかがいるんだぜ?
かれの存在を、どうしてあなたが「面白い」と
思うのか書いてくれないと、議論もできません。
54世界@名無史さん:2001/03/30(金) 01:38
腐れきった明末を擁護するバカがいるとは(絶句
55世界@名無史さん:2001/03/30(金) 17:47
なんだ、それだけか。
つまらん。

>かれの存在を、どうしてあなたが「面白い」と
>思うのか書いてくれないと、議論もできません。

53さん。私は明末が面白い、という明末論の例としてあげただけで、
李卓吾論を語れる人間ではないのですが(藁)。
李卓吾については、常識の範囲で面白い思想家としかいえません。
別に他の「林居漫録」・「漫録駁正」あとえんえん続く大論戦でも、
なんでも良かったのですが
56世界@名無史さん:2001/03/30(金) 18:01
39=50>51
よう、久しぶり。ずっこい51だ。
しゃあないなあ。じゃあつき合ってやるか。
私が抜けても抜けなくても、どうせ荒れてるようだから。
このスレたてた1は、「清初はよい時代だったか」と問いかけていた。
私はこれに対し、明末に比べよい時代だ、と断言した。
君は、清初の統治は異常、明末の方が正常と反論した。
結局のところ、これは視点の違い、見方の違いだ。
なにをもって、「よい時代」と呼ぶか、その基準があいまいなのだから
いろんな意見が出るのは当たり前。おっと、君は別に「よい時代」を論
じてるのでさえなく、「面白い時代」と言ってるんだったっけ。
明末が、さまざまな個性ある人物を生み出した、面白い時代であること
は私も否定しないぞ。だいたい、荒れてる時代ってのは面白いもんだ。
戦国時代とか幕末の日本もそうだもんな。
だが、それをもって明末と清初の評価をひっくり返すというのは無理が
あるんでないかい?
まあなんにせよ、人を「アホ」よばわりするのはどうかと思うぞ。

といったところで、36への反論だ。
>つまり官僚制による政治の安定だ。
明ってのは、官僚の給料が安かった時代。官僚は賄賂を取らなきゃ
やっていけなかった。そんな官僚に頼ってるというのも、ある意味
異常な状態だと思うが。
雍正帝の仕事ぶりが異常というのは確かにその通り。しかしだから
といって、清初の官僚制度が、皇帝が仕事しなけりゃ機能しなくな
るものだったわけではない。
ついでに言うと、私個人は、森喜朗よりも雍正帝に政治をとってほ
しいぞ。

>43、44、47、54
51の態度にも問題あるが、だからといって「バカ」等の罵倒で応酬す
るとは、あまりに情けないぞ。

>52
自作自演とちゃうよーん。
57世界@名無史さん:2001/03/30(金) 18:32
ふむふむ

>明末が、さまざまな個性ある人物を生み出した、面白い時代であること
>は私も否定しないぞ。だいたい、荒れてる時代ってのは面白いもんだ。
>戦国時代とか幕末の日本もそうだもんな。
>だが、それをもって明末と清初の評価をひっくり返すというのは無理が
>あるんでないかい?

評価というのは、統治形態の評価に関することだ。
つまり明末=皇帝アホバッカ…内政が乱れに乱れた=悪い時代
清初=英邁な皇帝ぞろい…内政が安定した=良い時代
これはほとんど定式化してるといって良い。
たしか、「さつ記」か「考異」だか、忘れたが
明の滅亡は万暦にはじまる、という史論もなかなか洒落た見解だ。

でもね「…」の部分は果たしてつながるかどうか?は問題としてまずあるよね。
なぜなら皇帝が統治するわけではなく、官僚制が厳然たる組織として存在する
のだから。そこでだが、

>明ってのは、官僚の給料が安かった時代。官僚は賄賂を取らなきゃ
>やっていけなかった。そんな官僚に頼ってるというのも、ある意味
>異常な状態だと思うが。

これは清朝でも変わらないよ(笑)明の制度をそのまま受け継いだのだから。
僕が清代は停滞の時代と書くのは、こういうところにもあるんですよ。

>清初の官僚制度が、皇帝が仕事しなけりゃ機能しなくな
>るものだったわけではない

清初に大きく変わった点がある。それまでの通政司を通し台本を
やりとりする文書行政から、奏ショウ(字がみつからない、ごめん)
による皇帝と直接のやり取りをする制度に代わったのは他でもない、
康熙帝の頃であり、雍正帝で頂点に達する。超人的な全国1500県
の地方官とのやり取りを毎日行ない13年で死んでしまう。
清朝というものは、何か背後に皇帝の英邁さがなければ維持できない
体制であることをうかがわせるに足る事例ではないでしょうか?
明は、あれだけひどい政治をやらかしながら、万暦中期から数えて
50年も経たないと崩壊しなかった。
明の政治のひどさを、強調すればするほど明朝の安定した体制が
浮かび上がってこない?

これは明と清という二つの王朝を考える上で、きわめて示唆的だと思うけど。
暗愚な皇帝といえるものが一人として現れなかったにもかかわらず、
武昌起義一発でもろくも崩れ去った清朝を考えるにつけて、
清朝の政治システムの弱さが見えてくるのですが?
58世界@名無史さん:2001/03/30(金) 21:23
むろん、明末と清末は客観的な状況が違うのは承知しております
59世界@名無史さん:2001/03/30(金) 22:47
話としてはボロボロの明が新興の清に圧倒されていくっつう事で
面白いけど明を擁護する気はないな。明は変な皇帝がいっぱいいて
ダメなんだけど面白い。絶対あの時代には生まれたくないけど。
60名無し:2001/03/31(土) 02:18
56と57が別人だとして、その見解を読むと、
57により説得性があるかな。
ただ、
>清初に大きく変わった点がある。それまでの通政司を通し台本を
>やりとりする文書行政から、奏ショウ(字がみつからない、ごめん)
>による皇帝と直接のやり取りをする制度に代わったのは他でもない、
>康熙帝の頃であり、雍正帝で頂点に達する。超人的な全国1500県
>の地方官とのやり取りを毎日行ない13年で死んでしまう。
の箇所は事実とちょっと違うと思う。
61名無しのオプ:2001/04/01(日) 00:50
あげちゃおう。
62名無し:2001/04/02(月) 02:41
雍正帝あげ。
63名あり:2001/04/02(月) 03:12
鄭成功萌え〜
64名無しさん:2001/04/03(火) 02:46
乾隆帝が位を譲って上皇(?)になったのは
なぜなの? 中国の歴代皇帝でも珍しくない?
皇帝家業に嫌気がさした徽宗みたいなものかね?
65名無しのオプ:2001/04/04(水) 01:07
>>64
尊敬する祖父康熙帝の在位61年を
越すのはおそれおおいとおもったのです。
66名無しのオプ:2001/04/04(水) 09:24
しかしながらそれを名目に、
皇帝稼業にイヤケがさしたともおもわれ。
67名無し:2001/04/04(水) 20:55
>>64 乾隆帝は自らの出自の秘密を知ったから。
68名無しのオプ:2001/04/05(木) 23:14
>>67
書剣恩仇録だっけ?
文庫化されるんだよね、もうすぐ。
69名無しさん:2001/04/08(日) 09:43
↑ 発売されました。
70名無し:2001/04/10(火) 07:59
文庫化されるの遅いよー。
71名無しさん:2001/04/11(水) 08:03
文庫化に5年かかってる。
72世界@名無史さん:2001/04/11(水) 11:37
乾隆帝が実は漢族だったってこと?
すごく漢族の思い上がりを感じる。
73世界@名無史さん:2001/04/11(水) 16:21
「書剣恩仇録」、おもしろいけど小説としてのスタイルが古いなあ。
水滸伝みたい。
74かきつばた:2001/04/11(水) 22:31
乾隆帝70才の万寿盛典の折に、祝賀におとずれたパンチェンラマをチベット仏教の儀礼に基づき阿弥陀仏の化身として扱い、自身は文殊の化身として演出し、諸仏は「仏法」という真理の前には上下の関係はない、という理念を示すために同じ高さの座に座り、群臣や諸国の使臣に臣礼をとらせた。

「中華思想」からみれば大きな逸脱に該当する上記の次第は、儒教理念に脊髄まで染まっていた朝鮮使節の随員の一人が、悔しさのあまり明末の崇禎年号を用いて書いた『熱河日記』の「班禅始末」の一章に詳しい記事がある。

ふるまいからみれば乾隆帝は非常に「漢族」離れしてるね。
75名無しさん:2001/04/12(木) 08:04
>>74
石浜裕美子でも読んどけ。
76かきつばた:2001/04/12(木) 20:11
>>75
元ネタが石浜裕美子さんです。
77世界@名無史さん:2001/04/12(木) 20:14
>>75
出典はかいておくように。
78名無しさん:2001/04/13(金) 11:57
>>75
その人だれ?
79かきつばた:2001/04/13(金) 15:54
※出典の内容紹介
http://www.interq.or.jp/neptune/amba-omo/nlisihama.html#i-06-01

※著者本人による自著解説
 http://webclub.kcom.ne.jp/ma/yfukuda/ishihama/OurPublication5.html
 >本書は、中国と関係を、チベット語、モンゴル語、満洲語の一
 >次資料を縦横に駆使して描き出したものであり、これによって
 >提示された関係像は従来の、「チベットは古から中国の一部で
 >あった」という例の珍説を論外なものとして斥け、一方「近代
 >以前の中国とチベット・モンゴル・満洲の関係にはチベット仏
 >教的価値観がベースにあった」という少数ながらも存在する良
 >識派の「隔靴掻痒」の説をきちんと民族側の価値観にのっとっ
 >て解析したものである。
80名無し:2001/04/14(土) 04:07
でも、清朝はチベットを軍事的に征服して
保護していたわけでしょ? 乾隆帝が個人的に
チベット仏教に心酔してとはいえ、チベットが
清朝と、その領土を継承した現代中国の領土であることは
間違いないんじゃないの?
81ダライバートル:2001/04/14(土) 13:53
>>80
清朝は「中国の歴代王朝のひとつ」などではありません。このころ、「シナ・満州・モンゴル・チベット・トルキスタンを構成要素とする中国」という観念など存在しません。この観念の成立は20世紀に入ってからです。

チベットやモンゴルからみれば、シナは文殊皇帝に臣属する諸国のひとつにしか過ぎませんでした。ですから辛亥革命によって清国が滅亡する際、シナの漢人共和主義者と北洋軍閥が結託して「清朝から政権を譲りうけた」という名義を獲得し、「中国」の「中央政府」を自称してチベットやモンゴルの民族政権に対して服属を求めてきた際には、そんな「中国」なる枠組みなど知らない、ということで「チベット・モンゴルの二国は文殊皇帝の支配より離脱し、シナとは別個の国家となった」と冒頭に掲げる相互承認条約を締結しています。

この二国のうち、チベットは近代国民国家体制の樹立に後れをとったため、後に中国人民政府の手によって併合されてしまいましたが、モンゴルは当初の立場を貫徹し、国連加盟国としての地位を獲得することに成功します。
82ダライバートル:2001/04/14(土) 14:15
1912年以後の清国の遺領再編は、

 ※文殊皇帝の退陣により、臣属していた諸国はそれぞれ対等・別個の国家となる

という立場(チベットやモンゴルが採用)と、

 ※この時点までに列強諸国の領土になっていなかった地域に「中国」という枠組みを設定する立場(漢人共
  和主義者と北洋軍閥、国民党、共産党等が採用)

の二つの立場のせめぎあいによって展開されます。
そして現在、前者の立場をとる国連加盟国としてはモンゴル国が、後者の立場を継承する国連加盟国としては、中華人民共和国が存在します。
83漢人共和主義者には:2001/04/14(土) 14:29
1906年の段階で、漢人共和主義者の中には、自分たちが樹立を目指す共和国の枠組みについて、シナだけを領土とする漢人国家として構想する見解が有力でした。

たとえば「革命三尊」のひとり章太炎は、中国革命同盟会の機関誌「民報」に掲載した「中華民国解」という論文の中で、ありうべき「中国」のメンバーを「黄帝の子孫」と規定し、朝鮮やベトナムなどの漢字文化圏を「中国が絶対恢復すべき領土」と規定する一方で、チベット・モンゴル・東トルキスタンについては、シナとは縁の薄い「三荒服」の地に属するということで、中華民国に参加するのも独自の道をゆくのも、彼らの自由にまかせればよい、と述べていました。
84世界@名無史さん:2001/04/14(土) 15:06

        /⌒ヽ⌒ヽ
           ;∴ Y ∴
       ;∴;  八 ∴ヽ
     (∴; __//.;ヽ,, ,)
      丶1;∴; 八.; !/
       ζ,サヨ 八.∴j
        i∴ ; 丿 、;j
        | 童貞八 ∴|
        | ! ;∴ i 、;|
       | i  " i∴ ∴'|
      |あげ荒らし常習犯|
      川| /∴;\|〜 プゥ〜ン
     ‖|‖∴◎---◎|〜  プゥ〜ン       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     川川‖;∴ ∴3∴;ヽ〜 プゥ〜ン      < 欲求不満気味でぇ〜す!
     川川;∴ ∴)д(∴)〜  プゥ〜ン       \________
     川川 ∴;∴ ∴〜∴/〜 プゥ〜ン
     川川‖∴;∴;〜∴/  プゥ〜ン
    川川川川___/  /|
      / ∴ \   //
     ||;∴゚;゚∴  /⊂//
      \\_ ∴/⊂//
        \_⊃/
      (∴//;|
       |∴|○○\\
       |∴|     \\
       | /       | |
      //        | |
     //         U
     U   
85世界@名無史さん:2001/04/14(土) 16:12
>>81
モンゴルとロシアの関係をまったく語っていないのはあまりにも痛い
86ダライバートル:2001/04/14(土) 21:23
>>85
清国の遺領の配分を巡り、中華民国に対してチベット・モンゴルがいかなる理念を採用した理念・立場の説明には、「ロシア」もソ連も出てこない。

よって語る必要ナシ!
87うわ、はずかし:2001/04/14(土) 21:25
訂正

清国の遺領の配分を巡り、中華民国が採用した立場に対抗してチベット・モンゴルが採用した理念を説明する場合には、「ロシア」やソ連に言及する必要はない。

88名無し:2001/04/15(日) 01:57
とりあえず文殊皇帝ってどういう意味?
89ダライバートル:2001/04/15(日) 02:15
1912年以降における、君のいう「モンゴルとロシアの関係」、そしてチベットとイギリスの関係については、こちらでさんざん書いているので、関心があれば参照されたし。

 http://kanazawa.cool.ne.jp/dalaibagatur/dblist01.html

*********
さて、話題をスレッドのテーマにもどして・・・。

1654-58に編纂されたダライラマ政権の法典では、清朝の皇帝は一つの時代ごとに出現する仏と一対になり、仏法によって世界を安寧に導く「転輪聖王」として描かれています。

儒教理念では「天子」は全人類の君主ですが、「転輪聖王」といえば経典でも君主の中の君主とされているので、チベット仏教思想を背景にした国際関係においても、清朝皇帝の地位は格別のものがあったといえます。

ただし「転輪聖王」は「仏」に奉仕して仏法を授けてもらうという立場なので、チベット仏教思想からみれば、ダライラマのほうが清朝皇帝よりも上位にくることになります。
90ダライバートル:2001/04/15(日) 02:19
清朝の皇帝は満洲語では「マンジュシュリー・デルギ・アムバ・エジェン」、チベット語では「ジャムヤン・コンマ・タクポ・チェンボ」、モンゴル語でもこれらとパラレルに翻訳できる称号をなのりました。この略称「ジャムヤン・コンマ」を訳して「文殊皇帝」。
91名無し:2001/04/15(日) 02:22
88>>大勇者どの。
なるほど、納得しました。
92名無しのオプ:2001/04/15(日) 02:26
>>90 U
93名無しのオプ:2001/04/15(日) 02:32
>>90 途中でフリーズしてしまった。
 
   雲南・四川省あたりでは清朝皇帝のことをチベット語で
   呼んでいたのは本当ですか?
94ダライバートル:2001/04/15(日) 17:24
>>91
私のHNであるダライバートルは「海の勇者」という意味で、元来の持ち主の本名はギュルメナムギャル。清代の漢籍では「珠爾黙特那穆扎爾」と書かれました。

>>93
雍正帝は1723-24年にグシハン一族を征服してチベットに対する支配権を接収し、支配民族のオイラト系モンゴル人と、彼らに貢納して所領を安堵されていたチベット人諸侯を、1725年に、ダライラマ領と、シナの「内地」各省に分属させました。

ダライラマ領は1642年にグシハンがヤルンツァンポ河流域を寄進したことによって成立しましが、この本来の領域に雍正帝による加増分を併せた範囲が「西藏」と呼ばれる地域です。「西藏」とは、チベットの西南部の3分の1ほどの面積をしめるダライラマ領に対する漢語の呼称です。

 チベットの再編は次のように行われました。

旧ダライラマ領 + ホル三十九部 + カム西部 →→ 西藏

アムド地方 →→ 青海 * 甘粛南部 + 四川西北部
カム地方 →→ 四川西部 + 雲南西北部 + 西藏東部

チベットに対する中国の現行の行政区画は1725年のチベット再編の際の区画をほぼ踏襲したものになっています。

1725年以降の「雲南省・四川省」にはチベットの東南部が含まれており、そこのチベット人住民は、当然、清朝皇帝をチベット語で呼んだと思います。
95名無し:2001/04/15(日) 18:48
雍正帝って外征せずに内政ばかり
してたと思ったが、ちがうのね。
かれ自身は避暑山荘に行かず宮中内で
政治に励んでいたらしい。まったくの中華皇帝。
96海勇者:2001/04/16(月) 16:33
>>まったくの中華皇帝。
漢人や、礼部を介して清朝とつき合っていた儒教圏の諸国にとってはね。

モンゴル人やチベット人からみれば、シナにかぶれた「転輪聖王」「文殊皇帝」。
97水野出羽守:2001/04/17(火) 00:13
わが君家斉公は、50数年にわたる将軍職ご在位の間、積極的に政務を
取ろうとはなさらず、もっぱら我々臣下にその責を委ねられた。
そして、もっぱらセクースに専念なされたのだ。
その結果、わが日の本にかつてない繁栄をもたらされた。
上国清国の雍正帝が政務に励まれる様、某も尊敬の念に耐えぬが、国
主が政務に励まれなくても繁栄したわが国のほうが優れているとは思わん
かのう?
98名無しさん:2001/04/17(火) 01:30
>>96
モンゴルやチベットは理藩院だっけ?
99海勇者:2001/04/17(火) 07:38
>>96
モンゴルは全面的に、そのとおりだけど、172年以降のチベットは、ダライラマ領と青海三十旗が理藩院で、その他のチベット人諸侯は兵部です。
100海勇者:2001/04/17(火) 07:38
>>96
モンゴルは全面的に、そのとおりだけど、1725年以降のチベットは、ダライラマ領と青海三十旗が理藩院で、その他のチベット人諸侯は兵部です。
101名無し:2001/04/18(水) 02:48
雍正帝が康熙帝の遺言状を改竄したというのは事実なんですか?
102名無しのオプ:2001/04/23(月) 23:42
そうです。
103名無しさん:2001/04/25(水) 01:35
うそです。
104名無し:2001/04/25(水) 02:24
うそだそうです。
105世界@名無史さん:2001/04/25(水) 03:27
そうだうそです。
106名無し:2001/04/26(木) 03:32
かんだうのです。
107名無しさん:2001/04/26(木) 03:39
康熙帝は若くして即位して、重臣の専横を
経て、治世を行うようになった。そして
三藩の乱・台湾征服・モンゴル遠征を経て、
屈指の名君と呼ばれるようになった。
……本当ですか?
108名無し:2001/04/26(木) 04:03
>>107
台湾征服って、なんかヘン。要するに当時そこに立てこもって
清朝に反抗していた鄭成功が降伏しただけでは。
109名無しさん:2001/04/26(木) 04:07
↑ いえ、康熙帝がやたら名君だって言われてる
  理由が知りたいのです。若くして即位した人間が
  簡単に偉業をいくつも成し遂げられますか?
110名無し:2001/04/26(木) 04:09
>>109
あなたの挙げた康熙帝の事跡は即位直後に達成したものではなく、
即位後数十年にわたって成し遂げたものです。べつに幼少で即位しても
問題ないのでは。
111名無しさん:2001/04/26(木) 04:10
しかし、若くして即位した場合、重臣たちの傀儡
とされて、成年後も重臣の影響から脱出できない
のが世界史の法則なのではないでしょうか?
112名無し:2001/04/26(木) 04:13
もうレスがついてる(笑)。
107であなたが言ってるように、康熙帝は即位後に幅を利かせていた
大臣クラスを粛清したんだよ。だから、みんなびびって康熙帝の言うことを
聞くようになったの!
113名無しさん:2001/04/26(木) 04:14
↑即レスありがとうございます。
 実はあまり詳しくないので、少し
 勉強してから出直します。
114名無し:2001/04/26(木) 04:15
おお、待ってるぜ!
115名無しさん@1周年:2001/04/26(木) 13:32
溥儀の自伝によると、雍正帝はクロもしくは灰色なようだが。
彼は幼少の頃、兄弟と遊んでいた時に、
紫禁城のとある宮殿の高い梁の上に置かれていた雍正帝の自筆の書簡を見つけたそうだ。
そこには即位、その他にまつわる真実が書かれていたとか。
116115:2001/04/26(木) 13:36
なぜ雍正帝がそんなことをしたのかについて、
溥儀は「後悔、慚愧の念の為であろう」と推測している。
普通ならば発見される可能性のない場所で、
見つかるとしたら、それは王朝が倒れ、宮殿が打ち壊された時だったろう。
117名無しのオプ:2001/04/27(金) 02:01
>>116
出典をぜひ教えてください。
118名無し:2001/04/27(金) 22:16
あげち
119名無しさん:2001/05/01(火) 22:55
康熙帝って、吉宗と同時代なんだね。
120世界@名無史さん:2001/05/02(水) 03:25
康熙帝 在位 1661-1722
徳川吉宗 将軍在職 1716-1745

ちょっとずれてる。
雍正期は吉宗の治世にすっぽりかぶってるけど。
121名無し:2001/05/03(木) 16:39
じゃあ、アジアブックスの「康熙帝と吉宗」という
タイトルは不適ですね。
122名無しさん:2001/05/04(金) 11:20
↑ まあ、2人とも偉大な統治者ということで。
  「雍正帝と吉宗」ではしっくりこないでしょ?
123名無しさん:2001/05/17(木) 18:08
康熙帝と在位年代がほぼ重なるのは、フランスのルイ14世。
124名無しさん:2001/05/18(金) 18:36
この時代って、西南の少数民族にとってはどういう時代だったんだろう。
125名無し:2001/05/18(金) 20:57
とくになにも、な時代。
126名無しさん:2001/05/19(土) 01:35
>>124
雍正帝の時には貴州省や雲南省の少数民族の土司に対する改土帰流が行われているよね。
乾隆帝の時には四川省のチベット族の土司の一部が廃絶されているし、彼等の居住地には漢族の屯田兵が送りこまれている。

近年明清時代の西南の少数民族史に関する研究が日本でも盛んになってきており、その際にポイントとして改土帰流や漢族移民との関係があげられている。

個々の地域差を無視しておおざっぱな言い方をすれば、中華王朝や漢族の圧力が一段と強まっていく時代、ととらえられるかもしれない。
127124:2001/05/19(土) 02:48
>>126
レスどうもです。でも土司とか改土帰流って何ですか。
128ダライバートル:2001/05/19(土) 04:22
「土司」
雍正帝が1725年にチベットのグシハン王朝を取りつぶしてチベット東部を「内地」に組み込んで隣接する各省に分配した(現在の青海全域・四川西半部・雲南西北部・甘粛西南部)とき、兵部を介して武官職の称号を授かって所領を安堵されることになった土着領主の総称。

貴州・雲南・湖南・広西・広東などに分布するタイ系民族の土着領主達も「土司」と呼ばれることがあるが、清朝の制度下では、正確には、吏部を介して文官職の称号を授かる「土官」という範疇に属し、「土司」とは別個である。

「改土帰流」
六部官制のオーソドックスな雇用形態は、官僚は、中央の命ずるまま数年置きに任地を転々とする。とりわけ出身地で地位につけない
「廻避」という原則があり、彼らを総称して「流官」と称する。これに対し、「少数」民族地区で中華王朝から文武官の称号を授かり世襲的に伝来の所領を統治する領主たちを「土司・土官」という。

「改土帰流」とは、土司・土官の所領を没収して流官を配置すること。漢人の移住がすすんで一定比率に達すると行われることが多かった。
129126:2001/05/19(土) 04:35
>>127
説明が足りなくてすみません。

土司というのは中華王朝の官職の一種です。中華王朝の官制には流官と土官の二つの種類があります。流官というのは科挙に合格した人間が就く官で、本籍地には任官できない、官職の世襲を許されない、というきまりがあります。これに対して土官の場合は本籍地での任官や、官職の世襲が認められました。土官は吏部に管轄される文官ですが、兵部に管轄される武官にも同じタイプの官がありましてこれを土司といいます。主に西南や西北の少数民族の有力者が任じられました。
これを東洋史では土司土官制度と呼びます。この制度が初めてできたのは元代で、明代に完成しました。

この土司や土官の支配地域では、王朝の律令は適用されず独自の法律の適用が認められるなど、土司土官による事実上の自治が行われていました。

まあ、独自の文化や政治制度を持ち、漢族地域と同じやりかたでは統治を受け入れ難い少数民族を上手く支配するためには都合の良い制度だったのです。

ところが、土司土官の支配地域が戦略的に重要になったとか、その地域で産する鉱物資源を開発する必要が生じたとか、その地域に対する支配を強化しなければならない場合には、土司土官を廃して中央から派遣した流官に交代させる事もありました。これが「改土帰流(土官を改め流官に帰す)」です。
130126:2001/05/19(土) 06:05
>>128
あっ、かぶってしまいました。
でもダライ・バートルさんの解説の方がより専門的で、そちらの方が良いですね。

ただ、細かい話になりますが、
>>貴州・雲南・湖南・広西・広東などに分布するタイ系民族の土着領主達も「土司」と呼ばれることがあるが、清朝の制度下では、正確には、吏部を介して文官職の称号を授かる「土官」という範疇に属し、「土司」とは別個である。

という箇所は疑問です。今、手元には光緒『清会典』しかありませんが、それを参照したところ、巻四十五に記載されている兵部管轄の土司の中に、雲南のタイ族系の土司が含まれていました。また同書の吏部に関する部分を見てみたところ、土司を管轄するという記事はありませんでした。土司土官の分布ははっきりと区分できるものではないと思います。

また、
>>「土司」
雍正帝が1725年にチベットのグシハン王朝を取りつぶしてチベット東部を「内地」に組み込んで隣接する各省に分配した(現在の青海全域・四川西半部・雲南西北部・甘粛西南部)とき、兵部を介して武官職の称号を授かって所領を安堵されることになった土着領主の総称。

という説明も、その通りとは思いますが、少し不十分だと思います。これでは土司職が1725年以後のチベット族という限られた対象にしか与えられなかった印象があります。実際は土司土官制度は元代に始まり明代に完成したもので、土司職も1725年以前から様々な民族に与えられています。例えば、井上祐美子さんの小説「女将軍伝」の主人公で、明末に土家族兵を率いて北京の警備等を行ったりした秦良玉は、土司職である石チュウ(石+主)宣撫使の職務を代行していました。
131名無しさん:2001/05/20(日) 03:43
少しずれた質問ですみません。

グシハン王朝を雍正帝が滅ぼしたことはわかりましたが、康煕帝との関係はどのようだったのでしょうか。

康煕帝はジュンガル遠征を行いましたが、その時に青海・西藏・西康を支配しているグシハン王朝って結構重要になってきますよね?

中国史に興味のある方にはあまり関係無い話題ですみませんが、周辺諸民族からみた清朝っていうのも面白いテーマじゃないかと思いまして。
132ダライバートル:2001/05/20(日) 11:05
>>130 =126
>今、手元には光緒『清会典』しかありませんが、それを参照したところ、 巻四十五に記載
>されている兵部管轄の土司の中に、雲南のタイ族系の土司が含まれていました。また同書の>吏部に関する部分を見てみたところ、土司を管轄するという記事はありませんでした。

私の情報源と、その記載内容を紹介します。

『清国行政法』巻1−下のpp.63-64より、まず土官の解説です(ただし漢字は常用漢字に改め、適宜句読点や読み仮名をおぎなった)。

************
広西・四川・雲南ノ諸省ノ或部分ニハ古昔ヨリ苗子及其他ノ原始種族の棲息スルモノ甚多ク到底一般行政制度ヲ此地ニ行フヘカラザルヲ以テ明ノ遺制ニ沿ヒ分チテ土州県ト為シ該族中ノ酋長タリシ者ノ子孫ヲシテ知府州県ノ職ヲ世襲セシメ名付ケテ土知州・土知県ト為ス。茲(ここ)ニ土官ト云フハ即チ是レナリ。而シテ土官モ亦文官タルノ故ヲ以テ其襲職ノ事ハ吏部験封清吏司ノ管轄ニ帰シ該官死亡シタルトキハ督撫ヨリ其嫡子ニ命ジテ権(かり)ニ事務ヲ摂セシメ半年内ニ宗族及隣境土官ノ証明書ニ吏部ヨリ予(あらかじ)メ下付セラレタル号紙即チ職銜世系及承襲ノ年月ヲ記入スルモノヲ添ヘテ差出サシメ督撫之ヲ吏部ニ転送シ吏部ニ於テ審議ノ上該摂事者ニ承襲ヲ命スルモノトス。若(も)シ一族中ニ相続スベキ者ナキトキハ妻若シクハ女婿ニシテ土地ノ信用ヲ得タル者ヲシテ之ヲ襲(つ)カシメ又相続者尚ホ幼ナルトキハ督撫ヨリ部ニ照会シ本族中ヨリ人ヲ選ヒテ一時代理セシメ其十五歳ニ達スルヲ待チテ承襲セシムルモノトス。又土官ニハ州同県丞等ノ補助官アリテ其所管事務ヲ補助ス。此等補助官ノ任免ハ一般官吏銓叙ノ規定ニ依ルモノヽ如シ。(後略)
133ダライバートル:2001/05/20(日) 11:07
同じく土司の解説(前掲書pp.64-65)
**********************
甘粛・四川・広西・雲南・貴州等ニ於ケル蛮族ノ酋長ニシテ国初ヨリ部族ヲ率ヰテ降リ戦陣ニ従ヒテ功アリシ者ニハ世襲シテ其ノ部落ヲ治メシメ称シテ土司ト云ヘリ。畢竟懐柔ノ方便ニ出ツルモノトス。其世襲タル点ニ於テハ土官ト異ナルコトナシト雖モ土官ハ文官タルニ反シ土司ハ武官として取扱ハル。故ニ会典其他ノ書ニモ兵部ノ條項中ニ入レ襲職ノ手続モ兵部武選司ノ掌ル所ト為レリ。又土官ハ一ノ行政官庁タルニ反シ土司ハ自ラ其ノ蕃民ヲ治ムルニ止マリ或ル地方ニ在リテハ銭糧及貢者ヲ上(たてまつ)ルノ外其他ノ事務ハ所在ノ府若クハ州県庁ノ管轄ヲ受クルヲ以テ一ノ官庁トシテ記述スヘキ価値殆ト之ナシ。唯其品秩ヨリ云フトキハ土官ノ官位低キカ如クナラス、指揮使、宣慰司等ノ大名ヲ有シ三品乃至五品ノ官位ヲ受クルコトヲ得。其ノ補助官トシテハ同知、せん(験から馬を取る)使、せん(同)事アリ。又品秩ノ稍下リ一部落ノ長トシテ蕃民ヲ治ムルニ過ギサル者ニハ千戸、副千戸、長官司長官、副長、長官司吏目等アリ。

********

清国官制の入門書としてありふれた本ですから、県立図書館クラスの公立図書館または中国文学や東洋史の専攻が設置されている大学の図書館なら、まず備え付けていると思います。会典のほうが典拠として上ではありますが、簡潔に清制を概観できるのが、便利です。
>>130 =126
> これでは土司職が1725年以後のチベット族という限られた対象にしか与えられなかった印
> 象があります。実際は土司土官制度元代に始まり明代に完成したもので、土司職も1725年
> 以前から様々な民族に与えられています。

私の視点がチベットから周囲を見渡すので、>>128 のような記述になりましたが、ご指摘のとおりです(チベット人諸侯に限っていえば、清のもとではみな「土司」を受け、「土官」職はうけなかった、ということです)。
134世界@名無史さん:2001/05/20(日) 11:08
>>131
> グシハン王朝を雍正帝が滅ぼしたことはわかりましたが、康煕帝との関係はどのようだったのでしょうか。

グシハン王朝に対する康煕帝の姿勢は、「危機に陥った朝貢国を救援する」というもので一貫していました。近世チベット史の専門家(石濱裕美子・手塚利彰)の研究によれば、ダライラマ六世の廃位(1706)を巡ってグシハン一族は分裂、チベット=ハンのラサンに反発する一派はジュンガルと同盟し、1717年にラサを奇襲させます。ラサンは戦死、皇子たちは捕虜としてイリへ拉致され、グシハンの嫡系はチベットから消え去りました。

ラサンの要請によって清朝が介入すると、反ラサン派はジュンガルを裏切って清朝軍とともに中央チベットに進撃、ジュンガル軍は6000の兵力の半数を失って中央チベットから撤退しました。

1720年秋、康煕帝は、ラサに参集したグシハン朝の傍系皇族たちに、ハン位の継承候補者を選出するよう要請、傍系皇族はロブサンダンジン(グシハンの十子タシバートルの子d)を選出しました。ただしこの候補選出をしきったのは反ラサン派の連中で、嫡系一族のアラブタンワンボ(ラサンの父・第3代ダライハンの兄弟)を脅迫して辞退させるなど、無理な工作を行ったので、ロブサンダンジンのハン位継承には、カンチェンネー(ラサンの重臣で、捕虜としてイリに護送される途中で脱走し、3000人のゲリラ軍を組織してガリ地方からツァン地方にかけてのジュンガル軍を一層)らラサンの遺臣たちから激烈な反対運動がおこりました。

康煕帝はこの様子をみて、ロブサンダンジンを新たなチベット=ハンに冊封することなく、チベットに派遣した軍隊や官僚を撤退させました。ロブサンダンジンはそのままラサで放置され、なにも得るものないまま1722年に青海へひきあげました。

反ラサン派内部の密約では、青海における一族の旗頭だったロブサンダンジンが、ハン位の継承にともない、その地位をチャガンダンジン(これも反ラサン派)に譲ることになってしまいましたが、あてが外れて帰還したロブサンダンジンはチャガンダンジンと衝突しはじめます。

雍正帝は、この衝突を「清朝に対する反乱」だときめつけ、グシハン一族のチベット支配の排除に乗り出す口実としたわけです。

*********
以上の経緯を、>>8 でも物語風にまとめたので、よろしければ御覧ください。
135うざくてすみませんが。:2001/05/20(日) 19:10

126です。メールで送ろうとしたのですが、送り先に接続できなくてこうしてカキコさせていただきます。

ダライバートルさん、詳細なレス有り難うございます。

僕の反論が、ダライバートルさんのおっしゃりたかったこととずれていたようです。
 >>128のレスの
   >>貴州・雲南・湖南・広西・広東などに分布するタイ系民族の土着領主達も「土司」と呼ばれることがあるが、清朝の制度下では、正確には、吏部を介して文官職の称号を授かる「土官」という範疇に属し、「土司」とは別個である。

という箇所を読んで、僕は、ダライバートルさんが、チベット族系の領主に授与された土司職は兵部に管轄されるが、タイ族系の領主に授与された土司職は吏部に管轄されるものと考えていると受け取ってしまいました。


しかし>>132>>133のレスを読むと、ダライバートルさんはタイ族系の領主にも兵部管轄の土司が存在したことは承知の上で、土司・土官の区別を厳密にするためにこのような言い方をされたように思われます。確かに日本では土司制度という呼称のほうが一般的で、土官との区別は見落とされてしまう可能性がありますね。中華人民共和国の研究書でも、土司土官制度を述べるときに一括して土司と呼称している場合が多いです。例えば、各地の土司土官について網羅的にまとめた'キョウ(龍が上+共が下)蔭『中国土司制度』雲南民族
出版社1992 でも土官という用語を使わず、土司と土官をわける必要がある時は武職土司、文職土司という用語を用いていますしね。的外れな反論すみませんでした。

しかしダライバートルさんお詳しいですね。専門に研究されている方でしょうか。僕はただの少数民族史ヲタですけど。

マニアックでマイナーな話を長々としてすみません。これでsageます。
136131:2001/05/20(日) 20:09
詳しいレスありがとうございます。なるほどです。
137名無しさん:2001/05/21(月) 02:21
あやめさん最近来ないね。
138名無しさん:2001/05/21(月) 05:50
>>8の青海モンゴル人さん、あなた達はその後どうなったの?
139名無しさん:2001/05/21(月) 09:21
実際のところ、大清帝国は満・蒙・漢の
多民族国家ではなかったのか。
140青海モンゴル人:2001/05/21(月) 10:12
>>138
今でも、青海湖畔とか、中央チベットのナムツォ(納木錯)湖畔で細々と遊牧やっとりますよ。青海湖畔の我々もチベット化と漢化の波に洗われているけど、中央チベットの連中は二十世紀の初めにすっかりチベット化してしまいました。

>>139
文殊皇帝は、我が国をはじめさまざまな諸国を臣属させていることは知ってましたが、シナに成立した漢人の共和政権が、「シナやチベット、モンゴルなどの諸国が歴史的に「中国」なるひとつの多民族国家を形勢していた」と主張しはじめた時にはビックリしましたよ。あまつさえ「われわれはその「中国」の「中央」政府だからお前達われわれに従え」と言い出したときには、あきれかえりましたな。

文殊皇帝の家来だったのは我が国もシナ国も一緒だったではないか。文殊皇帝がガミンとやらで退陣なさったからには、上下もない別個の国家になったはずだ、と考えてガンガン連中とはやりあいましたが。。。。今は昔のこと。

141名無しさん:2001/05/21(月) 14:35
>>8の青海モンゴル人さん、シャジンバリクチ・チンギス=ハーン様というのはラサン・ハーン、ダイチンホショジ様というのはチャガンダンジンの事ですよね?
142チベット人諸侯:2001/05/21(月) 15:41
いや、我々も青海モンゴル、ダライ・ラマ、清朝という三つの勢力の間で世渡りに苦労しました。

特にムリ(現四川省木里藏族自治県)の領主なんか自分の地位を認めてもらうためにこの三つの勢力に顔つなぎしていたんだからね。

143名無しさん:2001/05/21(月) 16:07
>>139
清皇帝の旗本ともいうべき八旗がすでに他民族集団だからね。

入関前の満・蒙・漢の三民族構成はもちろんだが、入関後もウイグル人、ロシア人、ビルマ人を構成員にくわえているんだから。
144青海モンゴル人:2001/05/21(月) 21:20
>>141
>青海モンゴル人さん、シャジンバリクチ・チンギス=ハーン様と
>いうのはラサン・ハーン、ダイチンホショジ様というのはチャ
>ガンダンジンの事ですよね?

そのとおりであります。

>>142
ムリの領主どのといえば、簒奪をもくろむ一派との対決に際しては、チンギス・ハーン様が七世法王様を確認する為に派遣された巡察団に直訴なさったり、ラサのチャクポリの法王様に教権の確認を受けたり、四川の提督や青海のタシバートル様の御前で対決したり、青海のタシバートル様から領主としての冊封を受けたり、と、じつにご苦労でしたなあ。

そのご苦労の模様を記した史書が、最近入手しやすくなりました。

阿旺欽饒『木里政教史』四川民族出版社1993
ngag dbang mkhyen rab, mu li chos 'byung/ , si khron mi rigs dpe skrun khan
ISBN7-5409-0884-x

>>143
文殊皇帝陛下に諸国が服属していたことと、それらの諸国がはたして行政組織上あるいは法律制度上、「一つの多民族国家」として組織されていたかどうか(そしてその「多民族国家」の枠組みが「中国」という呼称で同時代の人間に認識されていたかどうか)とは、全く別個の問題でござるぞよ。

145名無しさん:2001/05/21(月) 23:32
青海モンゴル人殿
>>8にある「ダイチンホショジ」は『欽定外藩蒙古回部王表伝』の漢文版の巻八十二にあるチャガンダンジンの列伝に「號は岱青和碩齎・・・」とあることから解りました。

しかし「シャジンバリクチ・チンギス=ハーン」がどこを典拠にしているのか解りません。チベット文史料の『mtsho sngon lo rgyu』にはそういう呼称はありませんでした。また『清聖祖実録』康煕四五年十二月丁亥の条には「拉藏(ラサン)を封して翊法恭順汗と為す。」とありますが、この呼称のモンゴル語訳でしょうか。出典をお教え願います。

そしてその呼称がハンなのかハーンなのかという音声学的な説明もお願いしたいのです。
146141:2001/05/21(月) 23:36
青海モンゴル人殿
>>8にある「ダイチンホショジ」は『欽定外藩蒙古回部王表伝』の漢文版の巻八十二にあるチャガンダンジンの列伝に「號は岱青和碩齎・・・」とあることから解りました。

しかし「シャジンバリクチ・チンギス=ハーン」がどこを典拠にしているのか解りません。チベット文史料の『mtsho sngon lo rgyu』にはそういう呼称はありませんでした。また『清聖祖実録』康煕四五年十二月丁亥の条には「往(さき)に拉藏(ラサン)を封して翊法恭順汗と為す。」とありますが、この呼称のモンゴル語訳でしょうか。出典をお教え下さい。

そしてその呼称がハンなのかハーンなのかという音声学的な説明もお願いしたいのです。
147141:2001/05/21(月) 23:42
二重投稿すみません。下のが正式なものです。
148143:2001/05/22(火) 00:07
>>144
いや、まったくその通りです。

ただ、僕は旗人という清朝の支配者グループが様々な民族から構成されていたことから、この政権の他民族性を言いたかったのです。
149チベット人諸侯:2001/05/22(火) 00:22
>>144
おお、そんな本が出ていたとは!

最近、中華人民共和国でも我々について書いた論文は多くなっているが、
一次史料を発掘、校訂、公刊してくれた仕事はまだまだ少ないですからなあ。
150チベット人諸侯:2001/05/22(火) 03:22
ちなみに我々に関する史書で中国から公刊されているものは次の通り。

tshe dbang rdo rje rig 'dzhin,sde-dge chos-rgyal rim-byon gyi rnam-thar/ (徳格土司伝) (四川民族出版社1989)
si tu chos kyi 'byung gnas,sde dge'i bka' 'gyur dkar chag/(大藏経<<甘珠爾>>総目録)(四川民族出版社1989)
現在の四川省甘孜藏族自治州徳格県一帯を支配していたデルゲの領主に関するもの。後者はデルゲの領主が開版した大蔵経の目録だが、その中にデルゲの領主の歴史を述べた部分がある。
なお、前者の史料をもとにデルゲ領主の歴史を述べた 任乃強「徳格土司世譜」『民族研究論文集』民族出版社1990(中文)がある。

また
dkon-mchog-'jigs-med-dbang-po,co-ne bstan-'gyur-gyi dkar-chag/(卓尼丹珠目録)(甘粛民族出版社 1989)
は現在の甘粛省卓尼藏族自治県一帯を支配していたチョネの領主の歴史に関するもの。チョネの領主が開版した大蔵経の目録であるが、その中にチョネの領主の歴史を述べた部分がある。

他に知っている方がいらしたら情報キボンヌでござる。

これらの史料を検討していくことによって、周辺民族からみた清朝が明らかになっていくでござろう。
151名無しさん:2001/05/22(火) 03:32
いつのまにかチベット史スレになってるね。ここ。

漢族や満洲族について詳しい人も何か書き込んでほしいな。
152青海モンゴル人:2001/05/22(火) 03:37
>>146 = 141

歴代のチベット=ハーン様は、法王猊下より「護教ハーン」の称号をお受けになるのが通例でした。太祖よりラサン様までの称号を列挙しますと、下記のとおりであります。

初代(御諱トゥルバイフ)
チベ:テンジン・チューキ=ギャルポ
モン:シャジンバリクチ・ノムン=ハーン

第二代(御諱ダヤン)
チベ:テンジン・ドルジェ=ギャルポ
モン:シャジンバリクチ・オチル=ハーン

第三代(御諱チベ:コンチョク、モン:グンチュック、梵:ラトナ)
チベ:テンジン・タレー=ギャルポ
モン:シャジンバリクチ・ダライ=ハーン

第四代(御諱 テンジンワンギャル)

第五代(御諱 ラサンルーワン、ラサンルーペル)
チベ:テンジン・ジンギル=ギャルポ
モン:シャジンバリクチ・チンギス=ハーン

第四代はチンギス=ハーン様の兄君にあたられる方で、『パクサムジョンサン』にも第四代ハーンとしてご即位なさったこと、大摂政サンギャムが弑したてまつったためチンギスハン様が皇位をご相続なさってサンギャムを滅ぼしたことなどが明記されております(ちなみにイタリアの史家ペテック氏がこともあろうに兄君を弑したのがチンギス=ハーン様だというとてつもない誤訳をし、チベット語を読めぬ史家が未だにこの謬説を引用したりして誤読を再生産しているので、まことに迷惑しております)。

さて、チンギス=ハーン様の称号に関しては、『一世ジャムヤンシェパ伝』に、1703年に「ジンギシ=ヘン」の称号をお受けになったことが記載されております。このころ我が国に滞在していたデシデリなる宣教師もハーン様の称号を正しく「チンギス=ハン」と記しています。『二世パンチェンラマ伝』には御称号が「テンジン・ジンギル=ギャルポ」と出ておりまして、これこそ「シャジンバリクチ・チンギス=ハーン」というモンゴル語の称号をパラレルにチベット語訳したものであることは疑いを要しませぬ。
153146:2001/05/22(火) 04:48
詳細な御研究の成果をレスしていただき有り難うございました。『一世ジャムヤンシェパ伝』、『二世パンチェンラマ伝』にあるとは知りませんでした。

ところで蒙文版の『欽定外藩蒙古回部王表伝』にはこの称号は書かれていなかったのでしょうか。私はモンゴル語が読めないもので・・
154名無しさん:2001/05/24(木) 18:34
ここに書き込んでるオタクは、
W大かT大の院生とみた。
155名無しさん:2001/05/25(金) 01:59
ヲタクうざい
156名無し:2001/05/27(日) 19:34
ワセダのバカだろ。
157名無しさん:2001/05/28(月) 01:31
Wセダって?
158世界@名無史さん:2001/05/28(月) 04:23
>>154 - 157

自作自演。バカはおまえ。
159名無し:2001/05/28(月) 22:15
>>158
おまえもばか。
160世界@名無史さん:2001/05/28(月) 22:21
 / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄\ / ̄ ̄ ̄ ̄\
| ここの1最悪〜.|l 1は氏ね!.|l キモイですね.| ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
 \______/ \____/ \____/ 」」」」」」」」」
      V           V        V   |(6 B-B|
               / ̄ ̄ ̄\  ____  l::::lヽ  J イ  / ̄ ̄ ̄ ̄\
    / ̄ ̄ ̄ ̄\ ( (((((((^))))))´      `ヽ.T´  (=)/ < 逝ってよし!l
   (  人____) lミ/ _=_l 「ノノノノノノノノノリ \;;;;;;;;;;/\  \____/
   |./  ー◎-◎-)_.(6ー[¬]-[¬]ノ ー□-□ lリ      |.\__∩__
   (6     (_ _) )/|  ̄、」 ̄l\. ∴)`_´(∴)  EVA /\____lEl ̄´
  _| ∴ ノ  3\):::::\ (ー /::::::l、___イヽ     /
 (__/\______ノ::|::::::::\_/:::l_l:::l___l::::l_l    /
 / (  ‖      ll)|ZUNTATA||ヒカ碁命:l |三[]ミ]
[]__| | どれみ命ヽ l::::::::::::::::::::::::||::::::::::::::::::::l |::::::ll:::l  オマエガシンデモ
|] |_l ______)l 三[□]三(__):::::::::::::::::::l__):::::::::l  ダレモカナシマナイヲタ
 \_.(__)===[□]=)l:::::::::‖::::/  \::::::Y::::::::l  \:::::l  _/)_/)_
  //__ll \::::::::::::::ll:::::::l |:::::::::「 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l:l:::::::::l ̄ ̄ ̄ll  (∴)◎∀◎(∴)
 |Sofmap.|:::::::::/:::::::/..|:::::::| さくらや |:::::::::lアニメイト.ll.⊂) ̄ 葉鍵命 ̄(つ
 (_____):::::::/::::::/.. |:::::::|..      | ̄ ̄l.   ‖ (~ ̄ ̄ ̄) ̄ ̄~)
     (___[)_[)  (___(l______l二二二)__l⊃.(____)___)
161名無し:2001/06/04(月) 09:17
まじめな話し、この時代の概説書で
よいものを教えてください。
162名無しのオプ:2001/06/04(月) 20:47
宮崎市定「雍正帝」(中央公論社)。
163世界@名無史さん:2001/06/04(月) 22:34
清朝が滅んで弁髪をそられそうになって、反抗したらしい。
朝鮮も文明開化で髪型でもめた。
日本の中学も茶髪でもめる。
164世界@名無史さん:2001/06/04(月) 22:52
結論。

髪は女の命。・・・ちょっと違うか。
165世界史@名無しさん:2001/06/05(火) 00:47
>>164
藁!
166名無しのオプ:2001/06/07(木) 09:13
石橋崇雄「大清帝国」(講談社)。
167アマノウヅメ:2001/06/07(木) 13:01
>>163
清朝にになって、弁髪にするときおおいに揉めた。
儒教では神も髭も長くしてなきゃならんから。
弁髪を止めるときも大騒ぎだった。
日本人は順応性がありすぎて、いつから月代剃ってるのかも
わからない。
168かきつばた:2001/06/08(金) 09:18
>日本人は順応性がありすぎて、いつから月代剃ってるのかも
>わからない。

「北条時宗」見てると、鎌倉武士も庶民も、誰も月代剃ってないねえ。
169愛新覚羅 孔暦:2001/06/09(土) 13:18
質問
高宗乾隆帝の時代すでに清帝国はガタがきており、当時対清貿易を進めるべく来清し
ていた大英帝国の使節団が、清を壊れかけた船に例えて、船長(皇帝)がしっかりし
ていなければいつ沈没してもおかしくない(確かこんな感じのことを言っていた)、
との給わっていたそうです。
では、いつからこんな状態になったのかしら?
170名無しのオプ:2001/06/09(土) 19:03
ちなみに弘暦ね。
171世界@名無史さん:2001/06/21(木) 23:28
>>169

明の万歴時代からだよ。
172世界@名無史さん:2001/06/22(金) 00:49
>167、168
月代を剃るのは、兜をかぶって激しく動いて汗をかいた時に、頭が
蒸れないようにするためという実用的な意味があります。
実戦が多くなった戦国時代に普及したと考えるのが自然でしょう。
173アマノウヅメ:2001/06/23(土) 01:25
>>168
テレビの時代考証真に受けるんですか?

あの時代に脇明けの着物着ていたのは子供だけですよ。
テレビじゃどういう根拠か女性は皆脇明け。
174アマノウヅメ:2001/06/23(土) 01:46
>>173
兜をかぶるほどの身分の武士が人口の何パーセントいますか?
戦場で敵を倒しても、兜をかぶっていると兜首といって
手柄の度合いが違います。

その頃馬乗りの身分の武士が実用面から月代を剃りだしたとしても
身分の低い者が真似をすると咎められて記録にのこるはずです。

ところが、江戸初期には公家以外の男はみな月代を剃っている。
百姓が月代を剃るのは容易なわざじゃありませんよ。

床屋でも見習いはそらしてもらえない。
初めは徳利のそこを剃って次に自分のひざを剃って何年も掛かって
客の頭をそらしてもらえる。
それでも慣れないうちは客に怪我をさせたといいます。

兜をかぶる必要の無い身分の者が何でそんな苦労をするのか、
合理的な説明がありますか?

本題とは関係ないのでこれで終わりにします。
175世界@名無史さん:2001/06/23(土) 03:10
172>174
私が「普及した」と言ったのは、まさにその、兜をかぶるほどの身分の
武士の間に普及したという意味においてです。
農民など庶民にまで普及するのは、当然、時間差があったでしょう。
兜かぶらなくてよい者がなぜ剃る苦労をするのかについては、私もわか
りませんが、まあ流行なんてのはそんなものかもしれませんな。
確かに本題と関係ないので、その話題はこれまでということで。
176名無しさん@1周年:2001/06/24(日) 12:40
26〜60の議論を再開していただけないでしょうか?
僕としては議論の方向を
民衆の幸せ
政治システム
近代化
の中の一つに絞らないと結論が出にくいと思うのですが。
177名無しさん@1周年:2001/06/29(金) 19:02
age
178名無しのオプ:2001/07/02(月) 08:17
明朝治下より、清朝治下で民衆が平安に
暮らしてたことは確かだろう。税率が高く
賊の横行する明朝は最悪。
179名無しさん:2001/07/03(火) 13:29
>>178
「揚州十日記」読め。
満州人が蛮人だということがわかる。
180名無しのオプ:2001/07/03(火) 14:19
>>179
それはごく初期の征服戦のときのことでしょ。
康熙時代以降は、民衆は平和に暮らしてた。
一定の人口以上に増えた分には課税されなかったし。
181>180:2001/07/03(火) 23:03
国税だけはね。
地方におちる税金部分は「ロウ規規礼」(手数料・つけとどけ)や
ヨウ役の増徴で対応したから税金はふえてったよ。

岩井茂樹が1996年頃に京都産業大学の紀要に書いていた
「よう役と財政の間」(だったとおもう)でも読みなさい。
182世界@名無史さん:2001/07/04(水) 02:27
                  ∧∧                     ∧∧
.           ∧∧  = / 秦 \.            ∧∧  = / 晋 \
    ∧∧  =/ 周\ = ( `ハ´)     ∧∧  =/三国\ = ( `ハ´)    ∧∧
= / 殷\ = ( `ハ´) _( ヽつTつ   / 漢\ = ( `ハ´) _( ヽつTつ =/南北\
= ( `ハ´) _( ヽつTつ ◎−>>┘◎  ( `ハ´) _( ヽつTつ ◎−>>┘◎= ( `ハ´)
_( ヽつTつ ◎−>>┘◎        _( ヽつTつ ◎−>>┘◎       _( ヽつTつ
◎−>>┘◎          ∧∧   ◎−>>┘◎          ∧∧   ◎−>>┘◎
.           ∧∧  = / 宋 \.            ∧∧  = / 清 \
    ∧∧  =/ 唐\ = ( `ハ´)     ∧∧  =/ 明\ = ( `ハ´)     ∧∧
= / 隋\ = ( `ハ´) _( ヽつTつ   / 元\ = ( `ハ´) _( ヽつTつ =/ 中\
= ( `ハ´) _( ヽつTつ ◎−>>┘◎  ( `ハ´) _( ヽつTつ ◎−>>┘◎= ( `ハ´)
_( ヽつTつ ◎−>>┘◎        _( ヽつTつ ◎−>>┘◎       _( ヽつTつ
◎−>>┘◎                ◎−>>┘◎               ◎−>>┘◎
183神聖ローマの間者愚礼:2001/07/06(金) 00:08
ああ、なぞが解けた。
要は、中国もチベットも
「文殊皇帝」こと清皇帝に忠誠を誓う
一民族であったと。
清の冊封の説明に力入れたのはそのわけですか。
まあ、そんなことヤップの連中に言っても、聞く耳持たないだろうなあ。

で、青海モンゴル人どの
グシハンはやはり、にっくきチンギスハーンの
遠孫に当たるのでしょうか?
184世界@名無史さん:2001/07/06(金) 03:26
たしか、グシ・ハンは系譜の上ではチンギス・ハンの弟カサルの子孫。
だけどこの家系の所属氏族はボルジギン氏
(チンギス・ハンの諸子・諸弟の子孫の氏)じゃなかったり
系譜は別のカサルの後裔部族のものの引き写しだったりで
本当のところは怪しいんだって。

グシ・ハンのホショト部に限らずオイラト諸部の歴史については
宮脇淳子さんの『最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡』という
講談社の選書メチエから出てる本に詳しいので
関心があったらそれを読んでくださいな。
185世界@名無史さん:2001/07/06(金) 16:20
>> 康煕帝

┌────────────────────────┐
│    ( ̄ ̄)                                │
│     )  (       優 良 君 主 認 定 証       │
│   / 2ch \                           │
│   | .ΛΛ..  |./ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ 認定番号第33号.│
│   | ( ゚Д゚)< や…やるじゃねぇか….│..           │
│   \__/ \________/.           |
│                                    │
│ この人物が、2ch歴史板優良君主認定委員会の定める. │
│ 認定基準(第6項) を満たしていることをここに証する。  │
│                                    │
│ 平成13年 7月  2ch歴史板優良君主認定委員会.    |
│                理 事 長  ひろゆき@管直人      |
└────────────────────────┘
186なあり:2001/07/06(金) 20:39
テレビでみたようなきがするんだけど、
中国の人口が昔からずっと変わらないで来て、
明清になって、急激に増加した?
食料が増産したのかな?
おせえてください。
187神聖ローマの間者愚礼:2001/07/06(金) 22:13
明代に比べると、二倍以上に増えたそうです。
理由はいろいろあるんでしょうが、一番は
清の康熙帝から続く三代の統治よろしきをえたからでは?

が、その一方で人口は四倍に増え、それに
パイ(経済、具体的には農業生産)が追いつかなくなり
乾隆帝末期には完全なインフレで社会は不安定に。
嘉慶帝の時代(?)に白蓮教の反乱が起き
一時は宮殿も占拠したらしい。
その当時の抗争の時の鏃が、紫禁城の額に今も刺さっているとか。
188ナポレオン:2001/07/06(金) 22:37
人頭税が廃止されたから隠れてた人が出てきた、
と聞いたことがあるが。
189名無しのオプ:2001/07/08(日) 14:02
あと、食い物。
トウモロコシやら何やらが栽培されるようになって
食物事情も好転。
190世界@名無史さん:2001/07/08(日) 22:55
トウモロコシは保存が利かないんだよ。
だから商品作物には全然ならない。

山間部の開墾農民(炭焼き業他)が、生きながらえるために
栽培した、手のかからない食べ物だったのであって、
食物事情の好転というより、限界食料水準の一層の切り下げ
かもしれない
191そして:2001/07/08(日) 23:54
山間部の農耕が広がったおかげで
環境破壊に拍車がかかったという説もあり。
192世界@名無史さん:2001/07/08(日) 23:58
かな〜り厳しそう。。
193なあり:2001/07/09(月) 20:19
テレビというのは放送大学でした。
その先生も山間部の農耕ーーーー棚田の
ことをいったようなきがする。
194名無しのオプ:2001/07/12(木) 18:48
>>188
人ではなく土地に課税されるようになったんだよね。
地丁銀。
195世界@名無史さん:2001/07/13(金) 21:32
上田信あげ
196名無しのオプ:2001/07/14(土) 14:31
やっぱりこの時代の研究者では、
岸本美緒・上田信が第一人者なんでしょうか?
197世界@名無史さん:2001/07/14(土) 14:42
>>196

テーマにもよるけど、全体的にはそうでしょうね

T大で掃除のおばさんと間違えられた岸本美緒萌へ〜
198世界@名無史さん:2001/07/14(土) 22:44
森正夫、ハマーリンを忘れるな!
199世界@名無史さん:2001/07/14(土) 22:52
>ハマーリン
濱島さんのこと?
200名無し:2001/07/17(火) 14:08
浜嶋さんはいま台湾の客員教授。
201事情通:2001/07/17(火) 14:43
>ハマーリン
濱下武志氏は、今年度から京大の東南アジア研究所にご所属です。

よその大学からもぐりにいっているんですが、京大で開講されている講
義・ゼミには、京大東洋史の学生・院生がちっとも受講しにこないのが
面白い。

京大東洋史の師匠たちからのしめつけがあるんでしょうね。。
202世界@名無史さん:2001/07/18(水) 21:27
浜下先生ってスターリンのような人なんでしょうか…(汗
203名無し:2001/07/19(木) 17:35
京大のばか
204世界@名無史さん:2001/07/20(金) 20:42
浜島先生は昼寝を今もしているのか
205日本@名無史さん:2001/07/21(土) 13:30
愛新覚羅烏拉煕春さんて京大関係者なんですが?
206名無し:2001/07/30(月) 18:44
>>205 九州にいます。
207名無し:2001/07/31(火) 23:27
>>196
明清研究者ベスト7

1岸本美緒
2森正夫
3黒田明伸
4浜下武
5足立啓二
6山本進
7山田賢

後はカスばかり!!
208名無し:2001/07/31(火) 23:27
あ、上田信忘れてた。
209世界@名無史さん:2001/07/31(火) 23:34
ハマーリンは糟なのか?????????
こええ、学会で吊し上げられるぞ!!

浜島先生は怖いぞ〜
210世界@名無史さん:2001/08/01(水) 00:13
石橋はくずだと、俺も思うよ
211世界@名無史さん:2001/08/01(水) 02:49
>>207
濱下武志、だろ?
212名無しさん:2001/08/01(水) 12:42
>>210
ダレソレ?
213世界@名無史さん:2001/08/01(水) 20:22
元九州大学の和尚さんはクズなの?
214世界@名無史さん:2001/08/01(水) 20:40
>207
浜下さんって明清史なの?
215世界@名無史さん:2001/08/01(水) 22:09
日本女子大を退官された山根先生は糞だと(笑)
216名無し:2001/08/01(水) 22:13
207です。
山根先生はランクイン。
川勝和尚はランク外。
217世界@名無史さん:2001/08/01(水) 22:36
阪大の濱島先生は?
218世界@名無史さん:2001/08/01(水) 22:39
なんか社会経済史に偏ってる気がするんだが…
檀上先生とか井上進先生とかは?
219名無し:2001/08/02(木) 10:40
あげとく。
220名無し:2001/08/02(木) 11:27
>>218
このお二人は十両クラスですな。
濱島先生ってそんなにすごいか?
221名無しのオプ:2001/08/02(木) 11:40
近代史や御大・退官クラスを除いてみよう。
 1 岸本美緒
 2 黒田明伸
 3 足立啓二
 4 山本進
 5 井上徹
 6 山田賢
 7 岩井茂樹
 8 山本英史
 9 檀上寛
 10 臼井佐知子
222名無しさん:2001/08/02(木) 16:27
岩井>山本進はまちがいない。
223名無し:2001/08/02(木) 16:47
ワーストも挙げようぜ。
224世界@名無史さん:2001/08/02(木) 17:41
>>221
10位の臼井はどんなものか。
新宮さんとか、三木さんとか
滝野さんとか大勢いるのに。
225世界@名無史さん:2001/08/02(木) 18:02
>>223
じゃあ、こっそりと。

K士館のI教授。
T大学のK教授。
A学院のO教授。
226世界@名無史さん:2001/08/02(木) 18:57
徽州文書研究だけじゃん、って感じがするんだけど。>臼井

濱島先生は土地研究じゃすごいと思うけど。
「社」研究はよくわからん。
227名無しのオプ:2001/08/02(木) 19:01
>>226
退官されたので浜嶋さんはランク対象外。
228名無しのオプ:2001/08/02(木) 19:06
221だが、上田信を入れ忘れた。
5位以内は確実。
よって臼井さんはランク外。
229世界@名無史さん:2001/08/02(木) 19:14

                         ,.......、       ヾ;"ヾ
         /| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(;;;: ;:) ̄ ̄ ̄"ヾ; ヾ;'"ヾ" ̄ ̄|
       |  | 田田 □ 田田 □ (;;: (::: ;;:::)□ "ヾヾ";ヾ "  田 .|
       |  |            (;;: (:: :;;):;;゙゙);;)ヾ"; ヾヾ"; ヾヾ";   |
       |  | 田田 □ 田田 □ (:: ;;;;;);;;:::) □ ヾヾ";ヾヾヾ" 田 .|
       |  |                ヾ;;;ii/     ヾヾ"; ヾヾ""     |
       |  | 田田 □ 田田 □ 田 |:;;i|   □ 田""ヾ" /田田  |
    | ̄ ̄ ̄:| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|  "   "     |:;;!| .| ̄ ̄ ̄ ̄
    |      :|                  | ∧_∧" ∧_∧ | |.2 |
    |      :|                  |(,, ´∀`)"(・∀・ ,,) | |.c |
   \   . :|                  |(     ) .(     ) | |.h |
.     \  :|                  || | |  | | | | |校|
       \|____________|(__)_)..(_(__).|____

no
230名無しさん:2001/08/02(木) 19:44
>>225
実名でお願いします。
231世界@名無史さん:2001/08/02(木) 21:09
山本英史って何した人なの?あまり知らないんだけれど。
海関史を通史的に描いた岡本隆司は、どうなるのでしょう?
232世界@名無史さん:2001/08/03(金) 14:26
山本英史って何した人なの?あまり知らないんだけれど。
海関史を通史的に描いた岡本隆司は、どうなるのでしょう?
233世界@名無史さん:2001/08/03(金) 14:29

           (人)
       ∧ ∧..| |   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 シコ   (  ゚Д゚)| | < 山本英史氏はこんな風に
      /    | |ヽ ..\___________________
 シコ  ( ) ゚ ゚| ⊂川
      \ ヽ川つ⊂川
        \川つ.|
        (   | |\
        |  |○○ \
        |  |   \ \
        |  )    |  )
        / /     / /
       / /     (_)
      (_)
234世界@名無史さん:2001/08/03(金) 17:25
慶応の先生らしいがいまいち影が薄い。
235名無し:2001/08/04(土) 07:00
>>234
そうか?
かなりスゴイと思うが。
少なくとも五指には入るよ。
236名無しさん:2001/08/04(土) 11:00
岡本隆司の方がすごいよ。
でも、かなりマイナー。
237世界@名無史さん:2001/08/04(土) 17:40
足立啓二って宋代史〜近現代史だからイメージ的にそぐわないなあ
238名無しさん:2001/08/04(土) 18:03
個人的には
 岸本美緒
 岩井茂樹
 上田信
がベストスリーだと思ってる。
239紫苑:2001/08/04(土) 21:05
うーん、岸本先生も最近実証論文が少なくありませんか?
240名無し:2001/08/05(日) 11:51
>>239
いろいろ忙しいんだよ。
241世界@名無史さん:2001/08/05(日) 21:46
岩井茂樹と山本進の論争ってどうなったの?
242名無しさん:2001/08/06(月) 13:34
>>241
? そんなのあったけ?
243daibadatta:2001/08/07(火) 17:02
岡田英弘の{康熙帝の手紙}を読んだ者だけど、オイラートのガルダン汗
って強すぎ?というよりは、しぶとい。やつはほんとうに自殺なのかな?
康煕派にとっては自殺であってほしい。
244世界@名無史さん:2001/08/07(火) 23:00
>>221
石濱裕美子をぬかしているぞ!
245世界@名無史さん:2001/08/08(水) 07:23
>>243
岡田英弘さんの奥さんの宮脇淳子さんは
「ガルダンは活仏だから自殺するわけがない!」
って『ジュンガル部の興亡』で書いてたよ。
246名無し:2001/08/08(水) 12:44
>>244
あのヒステリー女がそんなにすごいか?
247αジョーカーω:2001/08/08(水) 13:09
モンゴル民族は世界で一番強いのだ。
彼らと比べれば日本民族とて腰抜け。
関係無いけれども、数日見ていない間に、2ch全体が
凄いスレ・レスの量・・・
248αジョーカーω:2001/08/08(水) 13:10
満洲族とて蒙古人の敵では無い。
漢人など論外。
249世界@名無史さん:2001/08/08(水) 15:14
243ガルダンって自殺とすると、タイミングよくない?
事実上、敗北が康煕帝によって決まった時期に病死したんだから
、まるでガルダンの面目をたもつふうにしむけられたようじゃない

確認も火葬したのでうやむやになったって話だし。
250249:2001/08/08(水) 15:17
訂正249
2行目 病死>自殺
251あほめ:2001/08/08(水) 15:20
>>246
東洋史学者としての力量は、「ヒステリイ」がどうかとか、ゼンゾクがあるかどうかとは全く関係ないわい。

このアホめ。

ちゃんと著作内容を批評してみぃ。
252名無しさん:2001/08/08(水) 16:57
>>251
石浜がヒスであることは認めるのね。
253名無し:2001/08/09(木) 14:36
そんなにひすてりいなの?
254世界@名無史さん:2001/08/09(木) 19:23
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            |  ゝノ               
           __|_______|_   ■■■■■■■■
           |iiiiiiiiiiiiiiiii|  ■■■■■■■■■
           |iiiiiiiiiiiiiiiii| ■■■■√ === │
           |iiiiiiiiiiiiiiiii|■■■■√ 彡    ミ │
           |iiiiiiiiiiiiiiii|■■■√   ━    ━ \
           |iiiiiiiiiiiiiiii|■■■  ∵   (●  ●) ∴│  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
           |iiiiiiiiiiiiiiii|■■■    丿■■■(  │< ageするぞageするぞ
           |iiiiiiiiiiiiiiii|■■■     ■ 3 ■  │  |  徹底的にageするぞ
           |iiiiiiiiiiiiiiii|■■■■   ■■ ■■ ■   \_________
           |iiiiiiiiiiiiiiiiii■■■■■■■■■■■■__
           \iiiiiiiiiiiiiii■■■■■■■■■■■■iiヽ
             \iiiiiiiiiiiii■■■■■■■■■■■iiiiiii|
              |iiiiiiiiiiiiiiiii■■■■■■■■■■iiiiiiiii|
□□■□□□□■■□□□□□□□□□□□□■■□□□□□□□□□□□□
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255er4wew:2001/08/09(木) 20:12
256世界@名無史さん:2001/08/09(木) 20:38
>>246
>あのヒステリー女が

無知なアホ発見。

石濱裕美子氏は「いしはまひろみつ」と読んで、男性。
祖父は高名な石濱純太郎氏で、早世したご父君の遺言だからという
理由で、女性風の漢字表記をつけられる羽目になったらしい。
257名無し:2001/08/09(木) 20:52
>>256
あんた、最高にオモシロイ。
258あやめ:2001/08/10(金) 11:46
259名無しさん:2001/08/10(金) 17:15
おまえらワセダの学生か?
260世界@名無史さん:2001/08/10(金) 17:27
>>258
具体的にはまったく知らないくせに、女性というだけで脊髄反射的
に女性専用のレッテルを貼るノウテンパアをおちょくってるんですから、まじレスしないで下さい。
261256:2001/08/10(金) 17:47
>>260
石濱先生は男性だよ。

>>258のサイトは同姓同名の別人のもの。
262世界@名無史さん:2001/08/14(火) 22:01
ジュンガルの生き残りは
現在いないのですか?
263ダライバートル:2001/08/15(水) 00:55
ね、ネタスレになりかかってる・・・!

>>262
>ジュンガルの生き残りは
>現在いないのですか?

いますよ。
青海オイラト三十旗のうちの北中旗がジュンガルの系統。

この旗の始祖ジョリクト=ホショジは、バートルホンタイジの第二子で、兄弟
であるガルダンがジュンガル部およびオイラト本国の制圧を開始した際、彼と
抗争するのを避け、チベットに自分たちの王朝を開いていたグシハン一族の庇
護を求めてチベット東北部のアムド地方に移住、青海オイラトの一部となって
現在に至っています。
264age:2001/08/15(水) 00:56
age
265世界@名無史さん:2001/08/15(水) 08:27
トルグト・ホシュト・ドルベト・ジュンガルの4部族で「 4オイラト」というのでしょうか?
266世界@名無史さん:2001/08/15(水) 08:28
青海オイラトはホシュト部族だけじゃあ
なかったのですか?
267ダライバートル:2001/08/15(水) 13:59
>>266
グシハンがホショトの指導者なのでホショト部が最有力ですが、ジュンガルのほか、
ホイト・トルグートと、全部そろっています。
268ダライバートル:2001/08/15(水) 14:02
オイラト本国にいては芽のでる余地のない、傍系庶子とか4・5男とか各部
のミソッカスを率いて自分たちの新天地をきり開いたのが、「グシハンのチ
ベット征服(1637‐42)」のもう一つの側面だと思います。



年の
269ダライバートル:2001/08/15(水) 22:07
青海三十旗の内訳

オイラト系が28旗、カルカ系が1旗、チャガンノムンハン所属のラマ旗が1旗よりなる。

 オイラト系
  ※ホショト部
   グシハンの子孫の諸旗
    ・オチルハン=ダヤンの系統
      1 南左翼後旗
      2 南右翼後旗
      3 北前旗
    ・オンボの系統
      4 南左翼末旗
      5 北右翼末旗
      6 西右翼前旗
      7 南右翼末旗
    ・ダランタイの系統
      8 前左翼頭旗
      9 南左翼次旗
    ・アユシの系統
      10 東上旗
    ・イルドゥチの系統
      11 南右翼中旗
      12 南左翼中旗
      13 前頭旗
    ・ドルジの系統
      14 西後旗
      15 西前旗
      16 北左末旗
    ・フルムシの系統
      17 北右翼旗
      18 西右翼後旗
    ・サンガルジャの系統
      19 北左翼旗
   ハナクトシェトゥ(グシハンの兄)の系統
      20 西右翼中旗
   セレンハダンバートル(グシハンの弟)の系統
      21 西左翼後旗

  ※ジュンガル部
   ジョトババートル(ガルダンの異母兄弟)の系統
       22 南右翼頭旗
   ジョリクトホショジ(ガルダンの異母兄弟)の系統
       23 北中旗

  ※ホイト部
       24 南旗

  ※トルグート部
       25 南中旗
       26 西旗
       27 南後旗
       28 南前旗
 ハルハ系  29 南右翼
270世界@名無史さん:2001/08/16(木) 08:28
ここのスレッドフアン必読

『最後の遊牧帝国 : ジューンガル部の興亡 』/ 宮脇淳子著. -- 講談社, 1995. -
- (講談社選書メチエ ; 41)
271世界@名無史さん:2001/08/16(木) 08:34
『中央ユーラシアの世界』 / 護雅夫, 岡田英弘編. -- 山川出版社, 1990
(民族の世界史 ; 4)
272名無しさん:2001/08/16(木) 11:38
ワセダのオタクども、うぜえ。
273世界@名無史さん:2001/08/16(木) 13:01
以前にへこまされた↑ドキュソ厨房↑がくやしがっております。
274かきつばた:2001/08/16(木) 13:12
17-18世紀にかけて展開された、チベットと満州人、モンゴル人諸国の交際の背景となった「仏教思想に基づく国際関係の理念」についてしりたければ、

 石濱裕美子
  『チベット仏教世界の歴史的研究』
  東方書店(2001)
  ISBN4-497-20103-1

が必読。
275名無しさん:2001/08/16(木) 16:06
>>274
「国際関係」だって。
ププッ。
276かきつばた:2001/08/16(木) 18:47
17世紀中葉のチベット仏教圏諸国
 ・ダイチン=グルン
 ・ハルハ
 ・オイラト
 ・グシハン朝チベット
 ・ブータン
 ・ラダック
 ・シッキム
etc.
277名無しさん:2001/08/16(木) 18:50
>>275=ドキュソ厨房がまたへこまされておりますワラ)
278名無し:2001/08/16(木) 21:06
当時の情勢をすべて
「チベット仏教的世界観」の論理
で捉えるのはどうかと思う。
279かきつばた ◆RJTXcpFI:2001/08/16(木) 21:16
>>278
「すべて・・・捉える」のは確かに無理でしょうが、
「かなり・・・捉える」ことは充分に可能だと思います。
280かきつばた ◆RJTXcpFI:2001/08/17(金) 04:56
>>276の補足・追加です

※17世紀中葉のチベット仏教圏諸国※

 ・ダイチン=グルン(満州人が樹立し、「ニカン」や「モンゴの一部」も支配)
 ・ハルハ(モンゴル系)
 ・オイラト(モンゴル系)
 ・チベット (1642年グシハン王朝による統一)
   ※1642年以後も自立を保っていたチベット系諸国
 ・ジャン(支配者はナキ族。1670年代にグシハン王朝第3代ダライハンの攻撃をうけ、
  国土の大部分を喪失し、臣従)。
 ・ブータン (チベット系。1616年建国。グシハン王朝の侵攻をしばしば撃退。現在
  も国連加盟国として存続)
 ・ラダック (チベット系。1680-83年、グシハン王朝との抗争により国土の東半を喪
  失。1840年滅亡)
 ・シッキム (1643年建国。ダライラマに朝貢。1974年滅亡)
281世界@名無史さん:2001/08/17(金) 05:44
「ニカン」

とは、何のことでしょうか?
すんません。私素人です。
282世界@名無史さん:2001/08/17(金) 10:16
nikan = 漢人
満州語ナリ。
283世界@名無史さん:2001/08/18(土) 18:33
旧満州のシン陽(奉天)にあった
ラマ寺院は未だあるのでしょうか?
284世界@名無史さん:2001/08/18(土) 18:35
「切り奉天」というお菓子がありますよね?
あれは、日露戦争に関係が有るの?(正露丸のように)
285世界@名無史さん:2001/08/22(水) 02:14
あげ
286世界@名無史さん:2001/08/22(水) 12:29
age
287初心者:2001/08/23(木) 02:29
『康熙帝の手紙』どこを探すと読めますか。
288名無しさん:2001/08/23(木) 11:12
>>287
ポオの「盗まれた手紙」を思い出そう!
それがヒントだ。
289世界@名無史さん:2001/08/23(木) 18:27
agegege
290あやめ:2001/08/23(木) 19:17
「康熙帝の手紙」は中公新書に入ってますが、20年以上前の本だから
絶版かもね。その場合はネットで古書店のサイト検索したら見つかるかも。
291世界@名無史さん:2001/08/23(木) 19:24
このスレ本格的で凄いね〜。
そして皇帝の子沢山な様子はナイスだねえ。
292世界@名無史さん:2001/08/23(木) 21:40
あで
293世界@名無史さん:2001/08/24(金) 09:01
aerge
294世界@名無史さん:2001/08/24(金) 18:22
ヌルカン都司て
どんな役所・実態だったのですか?
295世界@名無史さん:2001/08/24(金) 22:35
あげ
296名無し:2001/08/25(土) 11:22
あやめ検算!
297世界@名無史さん:2001/08/25(土) 14:32
あげる
298世界@名無史さん:2001/08/25(土) 19:40
ade
299世界@名無史さん:01/08/26 20:27 ID:IIdBmoP6
age
300 :01/08/27 02:06 ID:bHQKWWq6
盛り上がりに欠けるな。
301世界@名無史さん:01/08/27 04:07 ID:3KgihlQk
八旗は
満州族だけで構成されていたのですか?
302世界@名無史さん:01/08/27 04:07 ID:3KgihlQk
あげ
303かきつばた ◆RJTXcpFI :01/08/27 07:01 ID:0TwUmGKU
満州八旗・蒙古八旗・漢軍八旗の計24旗。
304世界@名無史さん:01/08/28 12:14 ID:JDVTQ4ss
最近になって
中華人民共和国では、満州八旗の子孫のみならず、
漢軍八旗の子孫も、
少数民族「満族」として認定すぅるようになったそうです。
305名無し:01/08/28 20:28 ID:TGCwtfVQ
>>304
最近ではない・
306世界@名無史さん:01/08/29 03:19 ID:M2QkPUzc
長い事
中国政府は、「民衆の反発」を理由に、
満族の名の付く自治県を作らなかったそうですが、
現在でも満族への差別はあるのでしょうか?
307世界@名無史さん:01/08/29 03:21 ID:M2QkPUzc
太平天国革命軍は満族を片っ端から皆殺しにしたそうですが、
辛亥革命の時に、満族虐殺は無かったのでしょうか?
308名無し:01/08/29 07:16 ID:MvgH452Y
満族は満洲族ではありません。
309世界@名無史さん:01/08/29 10:04 ID:px7E8XdM
>>308
>>304のような理由で?
310名無し:01/08/29 19:35 ID:a9XNiuYs
うん。
311リトル愚礼:01/08/29 23:31 ID:rSLiC7Ig
一旗いくらの軍勢ですか?
記憶が正しければ、1000位だったと思うが。
三十旗なら、3万。
獰猛なモンゴル騎兵が3万なら、かなりのものだろう。
312世界@名無史さん:01/08/30 23:18 ID:kjXGLWMs
age
313世界@名無史さん:01/08/30 23:22 ID:h0imxzvQ
314世界@名無史さん:01/09/01 03:47 ID:cQ.HUc6I
age
315世界@名無史さん:01/09/01 20:04 ID:HF4whgnk
あげ
316名無し:01/09/07 20:29
大学院今年も挑戦するぞ!
317世界@名無史さん:01/09/07 21:40
age
318名無しさん:01/09/09 14:18
>>316
ぜひ東大に!
319名無し:01/09/10 22:07
ぜひ阪大に!
320世界@名無史さん:01/09/10 23:35
今は満族差別はないな。
というより辛亥革命の後、姓を中国風に変えた満族が多かったので
区別がつかなうということもあったね。
321世界@名無史さん:01/09/26 03:03
宮崎市定先生への評価は、
現在の学会ではどーなんでしょーか?
322名無し:01/10/12 18:03
実際のところ、社会経済史じゃない
明清の研究者だと、誰が一級なの?
やっぱり岸本美緒?
323栄華の夢:01/10/17 17:28
明と清とでは、何となく明のが親しみがもてる。皇帝の質では劣っているみたいだけど暮らすにはどっちが暮らしやすかったは解らない。
金瓶梅と紅楼夢では金瓶梅のが好きだな。余り立派な上司のしたでは息がつまちゃうよてな感じだけど。
324名無し:01/10/24 00:28
明清は研究分野が細分化していて、この人が一番!とはなかなか言いがたいです。
ただ、とてもおおざっぱにわけてみると・・・

(1)漢文史料に依拠した研究
 (a)明朝の政治史・・・・檀上 寛
 (b)社会経済史・・・・・森 正夫、岸本 美緒、寺田隆信
 (c)華南の少数民族史・・谷口 房男、武内 房司

(2)満文史料に依拠した研究

 (a)清初政治史・・・神田信夫、細谷良夫

・・・今思いついた限りですが。
325名無しさん:01/11/01 23:31
>>324
神田信夫って70過ぎてるよね。
細谷由夫も60過ぎでしょ?
いまだにかれらが第一人者なの?
終わってるね、この分野。
326世界@名無史さん :01/11/02 01:36
>>325
40〜50代では石橋崇雄、加藤直人、楠木賢道、松浦茂?・・・清初政治史
それと松村潤はお幾つぐらいだったっけ?
327名無しさん:01/11/02 20:22
加藤・楠木ってダレ?
328世界@名無史さん:01/11/02 20:26
熊を素手で倒したとか・・・・・いろいろ武勇伝はあるみたいだけど、
絶対ウソ!じゃあ乾隆帝後期は何で衰退した?
329世界@名無史さん :01/11/03 16:47
>>325
現在の明清史の主流は社会経済史で、かろうじて
清初期の政治史が研究されているにすぎない。
この方面では、唯一、国士舘大学の石橋教授が精力的に
頑張っておられるが、それ以外は全滅状態です。
講談社選書メチエの『大清帝国』は、まさに名著。
これからのスタンダードといえるでしょう。
330世界@名無史さん:01/11/03 18:01
記憶違いでなければ『大清帝国』はどこかのスレで貶されていたような…。
石橋先生は毀誉褒貶定まらない方なのでしょうか?
331名無し:01/11/03 19:57
>>330
石橋先生はこの分野の第一人者ですよ。
岩波講座・「しにか」とかの企画だと、必ず執筆依頼がいく。
まあ、ほかに人がいないということもありますが、
客観的にいって政治史関係ではナンバーワンでしょう。
332名無し:01/11/03 20:06
>>327
加藤先生は日本大学の教授。
楠木先生は確か茨城大学。
お二人とも清初の東北アジア史を研究してます。
333世界@名無史さん :01/11/03 23:28
>>332
楠木先生は筑波大学だと思いますが・・・
334世界@名無史さん:01/11/03 23:47
>>332
楠木先生は清初の満洲?bホルチンモンゴル関係やシボ族史、加藤先生は雍正朝の青海モンゴル政策についての論文を書かれておられましたね。

加藤先生は清初の東北アジア史についての研究もされているのですか?清末の興安嶺の民族問題について扱った論文は見たことがありますが。
335名無しさん:01/11/04 00:33
一応院生だが、まったく知らん。
だれ、それ?
336世界@名無史さん :01/11/05 01:57
マニアックなやつが紛れ込んでるようだが、
院生のおれに言わせれば明清史なら、東大の岸本美緒がピカイチ。
社会経済史・社会史・政治史にも対応できる唯一の人材。
近年岸本の書いた概説書が数冊出たから、一読をお勧めする。
同じく東大出身の石橋崇雄は、岸本の欠けた部分(清朝の満州族的観点)
を補う著作を出している。明清史の最新の動向をつかむためには、
両氏の著作をとりあえず抑えるべし。
337世界@名無史さん:01/11/05 02:03
>>330
石橋の『大清帝国』の難点は、やや専門的な事柄を説明無しに
書いてしまうこと。この欠点に目をつぶれば、清朝の成立から
乾隆期までの流れを過不足なく網羅しているため、きわめて
優れた概説書になっていると思う。一般の読者の興味を引く
豊富なエピソードは、博学な石橋ならではの叙述である。ただ
冒頭で書いたように、あるていどの専門性が目に付くが、これは
概説書が常にかかえるジレンマであり、むしろ『大清帝国』は優良な
部類であると思う。
338名無しさん:01/11/06 01:24
>>37
この時代の概説書だと宮崎市定先生の
『雍正帝』が定番だけど、それ以上ですかね?
339名無し:01/11/11 22:05
そんなこたーない。
340世界@名無史さん:01/11/11 22:47
政治史なら井上進とか他にもいくらでもいるような気がするが…
341世界@名無史さん:01/11/12 14:38
門外漢が恐縮ですが
かの岡田英弘先生の清朝概論(一般読者向けの概説書にありますよね)は
院生や専門の研究者の方からみて失礼ながら電波っぽいのでしょうか。
モンゴル史では世界的な権威と伺いましたが
清代の漢人の満洲化には触れても満洲人の漢化には一向に触れられてないようです。
なんか為にするような論調ですし、よしりんが『戦争論2』で披露する
清朝中国認識の元ネタになっています。
岡田先生の中国史論は目を奪われる記述が多くて惹きつけるものがあるのですが…
342世界@名無史さん:01/11/13 16:10
age
343カウニッツ:01/11/15 00:04
私は中国史は詳しくないですが、康熙帝・雍正帝・乾隆帝がどんな治世を
行ったかくらいは知っています。この三帝に自分的に順位をつけさせて
頂くなら、一位・康熙帝、二位・雍正帝、三位・乾隆帝じゃないでしょうか?
十全○○(←忘れた)とも言われた乾隆帝が三位というのは納得されない方も
居るでしょうが、彼の晩年には清朝は衰退の兆しを見せていましたし、
嘉慶帝に引き継がせるタイミングも悪かったと思います。>>341さんじゃありませんが、
門外漢が失礼しました。
344名無し:01/11/15 12:52
1位康熙帝というのは納得やね。
寛大すぎず厳しすぎず。
うまくバランスがとれてたと思う。
345名無しさん:01/11/16 01:34
雍正帝はどーよ?
346世界@名無史さん:01/11/16 04:27
生真面目で陰気な君主は人気が出ないもの。
ヨウ正帝、フェリペ2世、アウグストゥス…
ちょっと気の毒。
347世界@名無史さん:01/11/16 23:48
宮崎市定の『雍正帝』を読み感動。
次は岡田英弘の『康熙帝の手紙』に挑戦
しようと思うが入手できない。
乾隆帝の概説書をご存知の方は教えてください。
348>>343/347さん:01/11/17 00:02
>>十全○○(←忘れた)とも言われた乾隆帝
これは『十全老人』ですね
乾隆帝が晩年に用いた自称ですね^^

>>『康熙帝の手紙』
かなり古い書籍ですので
無理に購入しようとはせず、
図書館などを利用しては如何でしょうか?
私の家の近所の松戸図書館にも置いてありますよ(笑)
349世界@名無史さん:01/11/17 00:05
347>>348
ありがとうございます。
絶版のようですね。気長に探してみます。
350世界@名無史さん:01/11/17 13:35
>>341
おっしゃる通り電波です。
351世界@名無史さん:01/11/18 05:32
デムパでウヨクです。
352世界@名無史さん:01/11/18 05:36
デムパでサヨクです。
353名無しさん:01/11/19 00:46
>>341
たしかに岡田氏は世界的にも有名なのだが、
頭が切れすぎて、「細かい実証なんてやってられるか」
と結論のみを述べる傾向にあるので、研究者としては
引用しづらい。云ってることは正しいと思うのだが。
354世界@名無史さん:01/11/19 01:06
がいしゅつだろうけど:

これ民のおるところ
濁清

その他、筆禍事件について情報きぼん。
また、乾隆帝は実は漢人だという「俗説」もあるとか
(司馬遼太郎と陳舜臣と金達寿の鼎談に話が出て来た)
これについても情報きぼん。
355名無しさん:01/11/19 05:57
>>354
ハゲガイ
356あやめ:01/11/19 19:35
>354
>乾隆帝は実は漢人だという「俗説」もあるとか
この話題は「中国板」の「武侠小説」のスレッドで取り上げられたことがあります。
コピペしときます。

47 名前: 胡桂南 投稿日:2001/02/04(日) 15:25
(中略)
さて、>>5にて話題の提供をしたのですが、実際、
手を付けてみると、これが中々難しかったりします。
例えば、《書劍恩仇録》で話の中心的な役割を担った、
乾隆帝の出生秘話ですが、民間伝承のせいか、
参考となる様な資料を探し当てられません。
そもそも民間伝承として有名な話だったのでしょうか?
出生や皇位継承の正統性にまつわる逸話は、
確かに中国では多いのですが。
乾隆帝に近い所では、
先帝、雍正帝の継承についても、逸話がある様です。
つづく・・・?
(後略)
続きます
357あやめ:01/11/19 19:39
「中国板」の「武侠小説」スレのコピペ2

60 名前: 西麗風 投稿日:2001/02/08(木) 12:44
(中略)
さて、《書剣恩仇録》の逸話でしたけど、
《清朝野史大觀》にそれらしい記述がありました。
句読点がないので、どこで切れば良いのか分かりませんでした。。。
でも取り敢えず、全文になってます。

  【高宗之與海寧陳氏】

浙江海寧陳氏自明季衣冠雀起漸聞於時至之lin始以降清位至極品厥後
陳説陳世[イ官]陳元龍父子叔姪並位人臣遭際最盛康煕間世宗時爲皇子
與陳氏尤相善會両家各生子其歳月日時皆同世宗聞悉乃大喜命抱以來久
之始送歸則竟非己子且易男爲女矣陳氏殊震怖顧不敢剖辨遂力秘之未幾
世宗即位即特擢陳氏數人至顯位[辷台]乾隆時其優禮於陳者尤厚嘗南巡
至海寧即日幸陳氏家升堂垂詢家世將出至中門命即封之謂陳氏曰厥後非
天子臨幸此門毋輕開也由是陳氏遂永鍵其門或曰高宗實自疑故欲親加訪
問耳或曰世宗之子實非男入宮比視妃竊易之世宗亦不知也或又曰高宗即
自知非滿人在宮中嘗屡屡穿漢服欲竟易之一日mianliu袍服召親近曰朕
似漢人否一老臣跪對曰皇上於漢誠似矣而於滿則非也高宗乃止

清朝野史大觀(上)・巻一・三六頁・江蘇廣陵古籍刻印出版・1994
(後略)
358あやめ:01/11/19 19:46
前カキコの「清朝野史大觀」の引用文の大意は下記のようなものです

浙江海寧の陳氏は明末から代々高官を輩出し康煕時代には位人臣を極め
るまでになっていた。当時はまだ一皇子に過ぎなかった世宗雍正帝は
陳氏と非常に親密な間柄だった。たまたま両家それぞれで子が生れたが、
その出生の年月日時刻が全く同じであった。世宗は聞くとたいそう喜ん
で抱き連れてくるように命じた。それからだいぶ経ってからやっと送り
返されてきたところ、自分の子とは違うことに気付いたが男の子であっ
たものが女に掏り変えられていた。陳氏は震えあがってしまったが敢え
て騒ぎ立てず極力これを秘していた。間もなく世宗は即位すると陳氏一
門の数人を抜擢して顕官に任じた。乾隆帝の時代になると陳氏に対する
優禮は殊に厚いものになった。嘗って南巡して海寧に至った折には即日
陳氏の邸に行幸し、中門に至るとこれを封じ陳氏に向って「今後は天子
の臨幸でなければ軽軽しくこの門を開けてはならぬ」と申付けました。
これから陳氏は遂に永くその門には錠を卸してしまったそうな。一説で
は高宗も自らの出生に疑いを懐いていたので親しく訪問しようと思った
のだという。また一説では世宗の子は男子でなかったのだが妃が入宮の
際にこっそり掏り変え、世宗は知らずにいたのであるとも、また一説に
は高宗は自分が満人でないことを知っていて宮中ではしばしば漢人の服
を着たりしていた。あるとき近臣に向かい「朕は漢人に似ているか」と
問うたところ、中の一老臣が跪き「皇上は漢に於いては誠に似たり、し
かれども満に於いては則ち非なり」と答えたので、高宗は漢服を止めた
という。

続きます
359あやめ:01/11/19 19:56
「中国板」の「武侠小説」スレのコピペ3

1 名前: 西麗風 投稿日:2001/02/14(水) 11:33
(中略)
>61:あやめ女史
(中略)
ところで、海寧陳氏と乾隆帝の話というのは、
むこうではケッコウ有名な話なのでしょうか?
私としては金庸が海寧出身なので、
地元関係から知っていた話である、と思ってましたけど。

続きます
360あやめ:01/11/19 19:58
「中国板」の「武侠小説」スレのコピペ4

74 名前:あやめ投稿日:2001/02/16(金) 18:39
>71:西麗風さん
>むこうではケッコウ有名な話なのでしょうか?
みたいですよ、「明清宮廷疑案」には「在清代提起浙江海寧的陳氏家族、上至皇帝
下至市井平民、真是無人不知、無人不暁」とあって全国的に著名な一族らしいです。
明代の中期から出世が始まり清初には推しも推されもせぬ地位に成ってたそうです。
300年間に進士二百数十人を出し、内閣首輔に至る者三人を始め各部尚書・侍郎・
巡撫・布政使に任ぜられた者が十一人という全盛ぶりです。
最初の姓は渤海の高氏だったそうです。これも一応南北朝以来の郡望です。明初に海
寧に居を遷したそうです。海寧の趙家橋のほとりに豆腐屋の陳明遇というお爺さんが、
ある日の夢に青龍が橋下に蟠っていると見て目が醒めると、橋から落水した人がいる
ので急いで助け揚げると高諒という窮書生、嗣子がない陳爺さんは家に住まわせたう
え一人娘と娶わせます。高諒も入り婿となって男子を儲け爺さんの姓を継ぎ陳榮と名
を付けます。陳榮は成長すると豆腐屋商売に精を出していましたが、ある早朝むこう
の野原から灯りが二つこっちへやって来る様子、不思議に思い門口に出てみると一人
の儒生と一人の道士で近所の空き地まで来ると、道士「ここは縁起のいい土地だ、墓
地にしたら家族は位人臣を極めるじゃろう、その他の芝麻官さらに一石八斗の数があ
る(意味不明)」儒生「どういう証拠があるんじゃ」すると道士は「鶏卵を二つ置いと
くぞ、明日の今ころは雛が孵ってるはずじゃ」と言って二つの卵を取り出し土中に埋
めると、二人ともふいっと立ち去ってしまいます。翌朝いつものように早起きして豆
を研いでいた陳榮は昨日のことを想い出し、卵の埋まってるとこへ駆けつけますと果
たしてもう二羽の雛が孵っている、驚いてるとこへ二つの灯りが近づいてくるもんで
すから、陳榮は慌てて家に戻り二羽の雛を元の場所に埋め戻しました。昨日の二人は
やってきて掘り返してみると何とやっぱり二つの卵のまんま、儒生は道士に向かって
霊験がないことを責め道士も不思議がり、「こりゃまだ気運が巡って気とらんのかな」
とかぶつくさ言いながら立ち去って行きました。そこで陳榮は父の高諒をそこに葬り
ましたが、これから二代の後に陳家に挙人進士が出始めて止まず、遂に海内の名門と
なりました。陳榮はこの墓地に檀樹を植えておきましたが芽出度い木ということで、
風水先生はこれを「海寧陳氏檀樹墳」と呼んだという一席のお噂でございます。
361あやめ:01/11/19 20:04
「中国板」の「武侠小説」スレのコピペ5

75 名前:あやめ投稿日:2001/02/16(金) 20:25
「芝麻官」の意味が不明ですが「小役人」といったとこなんでしょうね、李莫愁さん
が挙げられた「九品芝麻官」は恐らくこれと関係があるのでしょう。
乾隆帝との関係について「明清宮廷疑案」は「清朝野史大観」に出ているのと同様の
伝説を記述しています。そして天子の行幸でなければ開けてはならないことになった
のは陳氏の安瀾園の正門で、そこに掲げられた扁額の「安瀾園」の題字は乾隆帝の御
筆だそうです。またあの圓明園の中には安瀾園のコピーが造られていたとも言われて
います。陳氏の屋敷の中にも「愛日堂」「春暉堂」という乾隆御筆の扁額の懸かった
建物があるとかで、この「愛日」「春暉」という句は子供が父母に孝敬を尽くすとい
う故事に基づくものなので、世間ではさてこそ乾隆帝は陳氏の実子であるからだろう
という推測を生んだようです。そしてそのような説の背景には満洲人には長久享国の
隆運があるわけがない、一代の盛世は漢人の血統なればこそという意識が働いている
のだろうと「明清宮廷疑案」の著者は考察しています。ある人の詩に「鉅族鹽官高渤
海、異聞百代毎傳疑、冕旒漢制終難復、曾向安瀾駐翠ズイ(毅の殳を生に代える)」と
いうのはこれを詠んだものだそうです。
また雍正帝が陳氏の男児とすり替えた女児は、陳家に養育された後に常熟の蒋氏に嫁
しましたが、蒋氏は彼女のために楼を新造したのを世間では「公主楼」と呼んでいた
そうです。そして雍乾二代に亘り蒋氏は顕貴を極めたうえ、朝廷からは公主の嫁入り
先としての礼遇を受けたと伝えられています。
というお話の後に「明清宮廷疑案」は大マジでこれら伝説に対して否定的な考証を展
開しています。

続きます
362あやめ:01/11/19 20:13
「中国板」の「武侠小説」スレのコピペ6

78 名前:李莫愁投稿日:2001/02/17(土) 00:18
(中略)
>>74-75 あやめ女史
「芝麻官」はご推察の通り「ごま粒みたいにちっぽけな役職」てな意味です。
古典劇の題目にもたしか崇禎帝の時代の話で≪七品芝麻官≫というのがあって、
チャウ・シンチーの映画はそれをもじっているのかなと思ってみたり。
(話の中身は≪包青天≫のパロディでしたが)

海寧陳氏といえば宮崎市定の≪雍正帝≫に、
雍正帝が陳世[イ官]をぼろくそに叱り飛ばした[石朱]批諭旨が紹介されていて、
思わずにやりとさせられました。

80 名前: 胡桂南 投稿日:2001/02/17(土) 15:16
感謝爲了大家好好理解麗風小妹、李女侠、昌裙女史的合作。
《書劍恩仇録》には福康安が実は乾隆帝の実子であった、
 という話もありましたね。
“原来乾隆的皇后是大臣傅恒的姉姉。
 傅恒之妻十分美貌,進宮来向皇后請安之時,
 給乾隆見到了,就和ta私通而生了福康安。
 傅恒共有四子,三个儿子都娶公主爲妻。
 傅恒mengdong,数次請求讓福康安也尚主而爲額fu,
 乾隆只是微笑不許。他儿子很多,對這私生子偏生特別鐘愛。
 福康安與陳家洛面貌相似,只因兩人原是親叔姪,血縁甚近。
:第二十回 忍見紅顔堕火窟 空余碧血葬香魂
 これは金庸による全くの創作だと思うのですが、
 もしかすると民間伝承にもあるのでしょうか?
(僕は知らないのですが。)
 ちなみに、この福康安は《飛狐外傳》でも登場しますね。
363あやめ:01/11/19 20:18
「中国板」の「武侠小説」スレのコピペ7

87 名前: 西麗風 投稿日:2001/02/21(水) 11:29
>>74:あやめさん
分からない箇所もありますが、お返事して頂いてありがとうございます(講談まで紹介して頂けるなんて。
海寧陳氏って(実は)そんなにも有名な家系だったんですね。改めて驚きましたよ、陳家洛の系図に。
金庸の作品《書劍恩仇録》は、そんな海寧陳家の逸話を知らなくても話全体に影響はなさそうなんですが、
背景として知っていると、どうして若輩者の陳家洛が紅花会の総舵手になれたのか、
どうして陳家洛と乾隆帝が兄弟であり得るのか、といったことが理解しやすいと思います。
>陳氏の屋敷の中にも「愛日堂」「春暉堂」という乾隆御筆の扁額の懸かった
>建物があるとかで、この「愛日」「春暉」という句は子供が父母に孝敬を尽くすとい
>う故事に基づくもの
上のこの逸話も《書劍恩仇録》に描かれていた記憶があります。
陳家洛が家の扁額を見て、妙だな〜と思う箇所だったのではないでしょうか。
本当にあったんですね(見たことはないのですが。。。
そしたら《書劍恩仇録》で描かれていた場面、ひいては金庸の作品の端々においても、
きちんとした背景があって、中国人が読んだ時には、あぁ〜あれのことね!なんて思うんでしょうね。
分かる人には分かるんでしょうね。うぅ〜ん、、、私には修行が必要みたいです。

続きます
364あやめ:01/11/19 20:26
「中国板」の「武侠小説」スレのコピペ8

98 名前:あやめ投稿日:2001/03/01(木) 16:50
またしても海寧陳氏ネタです。
最近叔父が買った「王國維学術随筆」(社会科学文献出版社刊)に収めら
れている「閲古漫録」に「清諸帝相貌」という記事があります。
奉天(瀋陽)の崇謨閣に蔵されている「太祖高皇帝実録」には礼親王代善
と太宗の肖像が描かれているが、いずれも極めて魁偉でデップリしてい
る。ところが敬典閣に蔵されている高宗・仁宗・宣宗の諸像は老諸生のよ
うな枯れた姿だ。世間では世宗が生まれた女児を陳氏の子と取り替えた
と伝え、荒唐無稽な話だが天下に普及している。恐らく高宗の骨相が列
祖とちょっと違うからだろう。元末の順帝が実は宋の瀛國公ケン(顯から
頁を省く)の子であるという話が言いはやされている。これも順帝の相貌
が元の諸帝と似ていないからだ。明の袁忠徹の「符臺外集」には明の成
祖が通集庫の宋の列帝の遺像を模写させ、「宋の諸帝は胡羊のような鼻
をしているが、雰囲気は枯れていて医者みたいな感じだ」と語ったが、
その後まもなく元の列帝の像を見て「みな綿羊の肉を食ってた連中だな」
と言ったが、順帝の像を見ると「これだけ医者に類しているのは何故か」
と忠徹に下問した。忠徹には自信が無く俯いて黙っていたが後に元の史
傳を研究してみて、成祖の炯眼に感服し当時は答えられなかったのを恥じ
たということだ。
元代にも似たような伝説があったわけだが、父子兄弟でも長短肥痩必ずし
も同じではない。況んや数世以後に於いておやだ。
この王國維の随筆は話題が多岐に亘っていてたいへん面白かったです。
たとえば劉海(少女が眉まで垂らしている前髪)は子供が父母につかえる意
味のもので、太古からあるヘアファッションであるという考証なんかまで
あります。

おしまいです、長々とコピペ御免なさい
365あやめ:01/11/19 20:36
師走も迫り本業の納期が厳しくなってきました
心残りですが年内は御無沙汰いたすことに致します
年が明けたらまたお目にかかりたく存じます
それまでは皆様お元気でスレッドの維持をお願いします
366Cavabien:01/11/19 20:38
‥中国板って結構マジメな話してるんだな。今度見てみよう。
つか武侠小説も筋金入りの人にはもう一段深い楽しみがあるんだねぇ。
367名無し:01/11/21 00:40
金曜おもしろいよ。
368 :01/11/21 00:47
>>366
武侠小説スレ以外は荒れ放題ですよ。
369名無し:01/11/21 21:46
>>367
土曜はどーよ?
370@名無しさん:01/12/17 22:21
12月17日午後11時30分NHK[清朝末期」ですね。
371名無し:01/12/22 22:23
いまどき皇帝制度の研究なんてしてる
研究者なんかおらへんで。
康熙帝? 雍正帝? 乾隆帝?
かれらが中国人の生活にどう関与してたというのだ??
372世界@名無史さん:01/12/23 21:42
>>371
それを言ったらおしまいだよー。
373世界@名無史さん:01/12/23 23:47
>371
べつに皇帝達が中国人の生活にどう関与してたかを語るスレではあれへんがな。
374世界@名無史さん:01/12/24 13:40
明代の政治史で著名な研究者って誰かいる?
永楽帝や武宗(なんて年代だっけか・・・)のことをちょっと知りたい
んだが・・・。
375世界@名無史さん:01/12/24 19:17
周恩来という人は、雍正帝の軍機処政治の制度を参考に、数十人の秘書を
使い、文化大革命の中国を維持してたんだね。周恩来という人は歴史に
詳しかった。ところで、ことわざに「賢者は歴史に学び、愚者は経験を
学ぶ」とかなんとかが、あったね。皇帝制度を研究するのも役に立つ。
376世界@名無史さん:01/12/24 19:23
>>373
わたしは、このスレは皇帝たちが、いかに中国人の生活に関係したか
というスレだと思います。とくに、雍正帝の政治の関心は人の生活を
いかにより良くするかという事に全力を傾けて、とうとう過労死した
人だし。
377世界@名無史さん:01/12/24 19:25
>>373
歴史を学ぶのも結構おもしろいから、ひねくれずに勉強してみれば?
378世界@名無史さん:01/12/24 19:34
>>374
だんじょうひろし
川越なんとか
379世界@名無史さん:01/12/24 23:35
川越泰博
380世界@名無史さん:01/12/25 09:31
>>376
それはどうだろう?
たとえばどんな政策のことを言ってるの?
381世界@名無史さん:01/12/31 00:37
>>380
朝日新聞がやっているような「文字の獄」。雍正帝はさすがだ!りっぱ!
382ヌルハチ:02/01/05 16:55
子孫のことだけでなくワシのことにも触れてほしいのお。
383世界@名無史さん:02/01/06 01:11
>>382
ヌルハチのスレあるやん。
384世界@名無史さん:02/02/04 12:51
雍正帝ageる
385名無し:02/02/05 23:14
いま、学会では明代史が流行です。
386世界@名無史さん :02/02/05 23:19
お、ひさしぶりにこのスレ上がってるね。
昨日宮崎先生の『雍正帝』を再読。
やっぱりすごくおもしろい!

>>384 流行のテーマはなんですか?
387権力闘争マニア:02/02/12 09:37
明朝史の面白さは20世紀の全体主義の
プロトタイプのような専制権力を巡って
男性と中性と女性が相争う所であり、
清朝史の面白さは明朝から受け継いだ
専制権力を巡って
満洲人と漢人とモンゴル人とが相争う所だな。
漏れ的には。
388権力闘争マニア:02/02/12 09:41
>>387の追伸
んでもって、一筋縄で行かないのは
それぞれの社会集団内に派閥ができたり例外がいたりで、
輪切りに各集団を横断した形で、離合集散が繰り広げられる所だな。
389世界@名無史さん:02/02/13 00:58
派閥っていうのは結局いまも昔もいっしょなのね
390世界@名無史さん:02/02/14 02:55
乾隆帝の愛娘、和孝公主萌えは
漏れの他にいない?
女だてらに男装して父の側に仕え
十人力の弓を引く侍衛(SP)として
目を周囲に光らせていたんだってさ。
なんか中華圏の武侠小説や、最近のジュブナイル風中華小説の
登場人物になっても不思議でないけど、
なぜか見聞したことがないな。
詳しい情報を御存じの方はレスをプリーズ。
ソースは清朝皇族が19世紀に書いた本だけど、
書名著者名は失念してスマソ。
391世界@名無史さん:02/02/14 11:56
久々にこのスレ覗いて
つくづく思った。
カムバック、あやめさーん!
392世界@名無史さん:02/02/20 23:27
乾隆帝って名君なの?
江南巡行ばっかしてたような。
393世界@名無史さん:02/02/21 03:38
>392
治世が長すぎて60代の頃から
ゴマスリ無責任一代男を寵愛するように
なっちゃたのが運の付きだったよな。
あの人は長生きすべきでなかったようね。
394世界@名無史さん:02/02/23 17:03
>>390
皇女がボディガードか、
自分を溺愛する父親の為なら
死力を尽くしそうで
ほんとに「十人力」なら、ある意味最強。
ただ周りの同僚たちが
彼女の警護に力を割かなければ
ならないのが玉に傷。
まあ話に尾ひれがついたって感じだけど。
395世界@名無史さん:02/02/25 14:42
>>394
何か萌えるシチュエーションだよね。
田中芳樹先生でも誰でも構わないから
(個人的に藤水名子先生希望)
短編でも構わないから
お忍びの乾隆帝を護衛する侍衛を仕切る彼女と
反清朝の秘密結社の若者とに芽生える
憎しみの果てのラブロマンスなんて
初版を表紙買いしそうだけどなあ〜
確か大陸の時代劇でも彼女が脇役で出てたのが
あったはずだが…
396世界@名無史さん :02/02/26 06:36
秘密結社と言えば、天地会の成立時期に関して、康煕年間説と乾隆年間説が
あるそうな。前者を取れば、その起源は「反清復明」を目的とする政治結社
になるし、後者を取れば人口の増大と流動化に伴って発生した相互扶助
の組織、ということになる。

また、嘉慶年間の白蓮教の乱の原因の一つは、乱の中心だった四川省の山岳地帯
の人口が、移住につぐ移住で飽和状態になっていたことがある。つまり、
条件の良い土地はもう先住者が占拠しているので、後から来た人間はいい目を
見れない「負け組」となってしまう。そこで、彼等のくすぶっていた不満に
火をつけたのが、現世秩序の転覆を唱える白蓮教と言うわけ。



397396 :02/02/26 06:52
まあ、「反清復明」に起源を持つというのは秘密結社によくある由来だが、
それが本当なのか、作られた歴史だったのかというのが問題なわけ。

ただ、秘密結社というのは細胞分裂的に増殖するからAという会がどのような
歴史的背景のもとで形成されたのか、という事を探るのは難しい。
例えば、河北省にあった天門会という組織は、辛亥革命の時に結成されたが、
その後、軍閥によって解散させられる。これはカリスマ教祖のもとに結成された
宗教結社的な要素が強かったらしい。
しかし、日中戦争の時に生き残りの会員によって再結成させられる。
今度は前者とは違って日本軍の進攻に対する郷土防衛隊の要素が強く、
指導者も地域の有力な郷紳がなっていた。この時の天門会はかなり
強い組織力を持っていたらしくて、それを背景に日本軍・国民党・共産党
と五分の外交交渉を行っていた。
398世界@名無史さん:02/02/26 06:59
>>390
和考公主は知りませんが、
「児女英雄伝」の十三妹と「紅楼夢」の王煕鳳萌えです。
そういえば彼女達も満洲人。
399仮雨村:02/02/27 03:32
中国史における白蓮教の活動については鈴木中正氏の
『中国史における革命と宗教』に概括して述べられている。
嘉慶朝の白蓮教の乱については同書や『清朝中期史研究』
にその経過が述べられている。

ただ、同氏の研究には時代的な制約があって、史料が実録や方略しか
用いられていない。しかし、最近、山田賢氏が『移住民の秩序』で、
地方志や档案史料を用いて、乾隆年間の人口増大による移住の活発化と
白蓮教の乱がどのような関係にあったかを詳しく論じている。

同氏はまた、講談社メチエで『中国の秘密結社』を出しており、これは
近年の日中双方の秘密結社研究の成果を盛り込んだ内容になっている。

あと、明代の白蓮教徒の活動については野口鉄郎氏、白蓮教等の教門系
結社の教義書である宝巻では沢田瑞穂氏の研究が有名だね。
400世界@名無史さん:02/02/27 21:44
「中国近世の霊魂泥棒」て知ってる方いますか?
401世界@名無史さん:02/02/27 21:47
>>400
キューンのでしょ?
たしか京大の谷井さんが翻訳してた。
402世界@名無史さん:02/02/27 22:01
>>400
なんか、ミヒャエル・エンデ原作みたいなタイトルだな。
403世界@名無史さん:02/02/27 22:48
素直に言うが雍正帝に憧れている。あの人ぐらいに仕事に精励してみたい。
404世界@名無史さん:02/02/27 23:02
>>403
ああいう性格になると友達いなくなるよ!
405世界@名無史さん:02/02/27 23:53
>>401
読みましたか?
406世界@名無史さん:02/03/03 20:53
401>>405
読んだよ。
なかなかおもしろかった。
最初「フンリ」って誰のことかと思ったが。
407世界@名無史さん:02/03/04 01:41
>406
乾隆帝の悲劇か…
どんなに素質の優れた為政者でも
何十年も独裁者をやってると
どこか調子が狂ってくることが
よく分かる良著だよね。
この場合、晩年の倦怠感以前の、
壮年時代の被害妄想だけど。
408世界@名無史さん:02/03/08 22:52
乾隆帝ってべつに親父やじいさんほどには優秀だったと
思われないけどね。
409世界@名無史さん:02/03/17 05:05
ロイド・E・イーストマンの概説書ってどうよ?
基本文献として使ってる人ってどれくらい?
410世界@名無史さん:02/04/03 02:47
小燕子万歳万歳万万歳!
小燕子を中国の女帝に!
世界がうらやむ中国の将来を!
411世界@名無史さん:02/04/20 00:37
中華人民共和国でスレタイトルの方々の大河ドラマがヒットするなんて、
政治闘争の時代が終わったことを痛感させるものがあるよね。
412YP
今更ですが、このスレ立てたヌルハチが、
「ほんとに彼らの時代は良い時代だったのでしょうか? 」
と言う処がなんとも奥ゆかしく、味わい深いです。