幻の共和国 台湾民主国について語ろう!

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1【^▽^】酔鯨ジョーカー武蔵之守
下関条約による、日本への台湾割譲に抗議して、
清からの独立を宣言し、日本軍との激戦の末に
滅亡した台湾民主国。
余り知られていない上に、ウヨもサヨも無視している。
2名無的発言者:2001/03/15(木) 22:47
うーん。
台湾民主国を設立した唐景ッ(台湾巡撫)一派は、ろくに抗戦せずに
大陸へ逃げた、っていうバージョンもあるらしいけど。どっちが本当
だったのでしょうか?
3【^▽^】酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/15(木) 22:52
>2
レス有り難う御座います。
唐景松一味は、福建に逃亡したそうですね。
やはり「外省人」の役人だからかなぁ?
4世界@名無史さん:2001/03/15(木) 23:05
当時、「外省人」「内省人」という区別があったのかな?
でも大陸から派遣されていた役人には変わらないでしょうね。
“台湾民主国”にはどういう政治理念があったのだろうか。
5【^▽^】酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/15(木) 23:11
>4
当時は「外省人」・「本省人」の区別―少なくとも、
そのような用語―は有りませんでしたが、
自分の地元民と派遣された役人とでは意識が大きく
異なったでしょう(それは台湾に限らず)。

政治理念については、私もよく知りません。
誰か教えて下さい。
6【^▽^】酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/15(木) 23:23
訂正:自分の地元民⇒地元民
補足:台湾民主国の貨幣は、写真で見た事は有るのですが。
7名無的発言者:2001/03/15(木) 23:53
役人に見捨てられても残されたほうは立派に戦ったようで、
約一万人が戦死したとか。
しかし日本への割譲がそんな抗争を引き起こす動機になるんだねえ。
8世界@名無史さん :2001/03/16(金) 00:02
残されたほうってのは、台湾に駐屯していた大陸の兵士、それとも
地元民で編成された軍?

なんかこのスレ質問ばっかりになってきたね......
9【^▽^】ジーモン@ケー二ヒスベルク:2001/03/16(金) 00:12
>8
立てた張本人(=私)が無知だからね。
無責任で済みません。
10私も無知:2001/03/16(金) 00:22
>9
超短命だっただけに、あんまり資料が残っていないんじゃない?
超短命でありながらも、貨幣を作っていたのはなかなかだと思う
けど。
11:2001/03/16(金) 00:40
『図説中国近現代史』(法律文化社)によると
1895年5月29日日本軍の上陸開始
6月4日民主国総統唐景ッが台北離脱、9日大陸へ逃走
残った兵士は台南で態勢を整えようとする(6月下旬)が
10月19日には台湾民主国大将軍劉永福(太平天国に参加、のちに清仏戦争ではフランスと対決
、、、この人の経歴も詳しく知りたい)も福州に脱出、21日日本軍台南占領。
その間に投入された日本軍(軍夫含む)は8万、で、殺害された中国人(この本ではこういう表現になっている)
は一万人。

当時の台湾にも「士紳」がいるので島民を組織して民主国に参加したのではないかな。
12【^▽^】抗日烈士@台湾民主国:2001/03/16(金) 01:15
>7(11)さん
有り難う御座います。
13世界@名無史さん:2001/03/16(金) 01:29
最近話題の蔡焜燦著『台湾人と日本精神』(日本教文社、2000)
によると、唐景ッ脱出後の台湾民主国には3万5千人の陸軍部隊を
中心とした現地義勇兵が10万程度残っていた、とのこと(39−
40頁)。当時の台湾の人口がどんなものだったかは知らないが、
イメージしていたよりは兵力は大きい。装備は分からないけど。
14宅七郎:2001/03/16(金) 11:47
日本軍の台湾進駐時には一方で民衆の激しい抵抗があったがその一方でこ顕栄(こ
振甫氏の父,リチャードクー氏の祖父)のように台南城を自発的に日本軍に明け渡した
土豪もいた。陳舜臣あたりは彼を相当きらってるらしい。
15【^▽^】滅満抗洋:2001/03/16(金) 14:24
建国党だが建国連盟だか、台湾独立派(その多くは親日派でもある)
は、台湾民主国をどう考えているのだろうか?
16名無しさん:2001/03/16(金) 14:59
「琉球共和国」並にマイナーですね。
17あやめ:2001/03/16(金) 18:37
>11
>劉永福(…この人の経歴も詳しく知りたい)
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=whis&key=971075645
ここのあやめのレス31@`38を見てください
18あやめ:2001/03/16(金) 18:57
>宅七郎さん
辜顕栄・辜振甫の「辜」の字は「無辜」という単語で変換すると表示され
ますよ。辜姓の有名人としては辜鴻銘という清朝の遺臣で、最後まで辮髪
をぶら下げてた大学の先生がいました。
19日本@名無史さん:2001/03/16(金) 22:02
>18 はMS−IMEですね、ATOKでは出ません。
20あやめ:2001/03/20(火) 12:08
ATOK12で出ましたよ
21【^▽^】酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/21(水) 19:27
>11
劉永福は、太平天国の後、上海の天地会系の人達を集めて黒旗軍を
指揮し、活躍しましたよね。
あっ、あやめさんのレスが有るか。見てみよっと!
22【^▽^】酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/21(水) 20:02
>あやめさん
黄昏の清朝スレでの、貴方のレスを拝見させて頂きました。
劉永復は、匪賊出身ながら、愛国烈士だったんですね。
でも、昔の中国では幇や土匪が革命や外国への抵抗で
活躍ないしは暗躍する事も多かったから、
特に異例な事とは言えないかな?
23【^▽^】酔鯨ジョーカー武蔵之守:2001/03/21(水) 20:27
21の訂正:上海ではなく、広西でした。←確か・・・
      
24【^▽^】ジョーカー:2001/03/27(火) 23:30
もっと光を!>台湾民主国
25ぽん:2001/03/27(火) 23:46
>>18-20
無辜が旧ATOKでは出ないんですか。へっへっへ。仮名漢字変換の性能
では、バカにされまくっている「ことえり」でも「むこ」くらいは、
ちゃんと出ますぜ。無辜の民と、おお、一発で変換できた。
26世界@名無史さん:2001/03/28(水) 07:22
無辜がでないのは旧ATOKじゃなくて、PDA用のPocketATOKです。
27宅七郎:2001/03/28(水) 18:48
あやめさん、レスどうも。無辜あっつ、本当だ。
ところで、その辜鴻銘という方はどういう方ですか?ひょっとして、1917年
の張勲の清朝復へきに関わった方とか?まあ、スノーの「中国の赤い星」によると
延安辺りには1930年代ねなっても弁髪をしてた人達がいたそうですね。
28あやめ:2001/03/29(木) 13:18
辜鴻銘の本名は湯生で鴻銘は字です。1857A.D.にペナンの華僑の子とし
て生まれエディンバラ大学を卒業、その後も独仏伊などに遊学し帰国後
湖廣総督であった張之洞の秘書に招かれ、外交事務に従うとともに張の
儒学の弟子として研鑚しました。張は広い学識を持ち著述の「書目答問
は支那の伝統諸学の入門書として知られています。その後は西洋の新知
識を朝廷に用いられ外務部左丞にまで至りました。革命後は官途に就か
ず著述に従事し自ら前朝の遺臣をもって任じていましたが、張勲の与党
には多分なっていないと思います。当時は北京大学で英文学を講じたり
していますので、実際運動に参加したら大学から逐われていたでしょう。
しかし復辟論者であったことは事実で宗社黨のメンバーだったかもしれ
ません。大正十三年には来日し大東文化学院の講師を4年ほど勤め親日
家となって帰国し、張作霖の顧問や張宗昌の山東大学長を歴任して民國
十七年に亡くなりました。このように彼は終始保守勢力に協力し5・4運
動には大反対でしたが、英文の著述で支那の文明や儒学を欧米人に大い
に顕揚したことで有名です。
ます。
29あやめ:2001/03/29(木) 13:22
書目答問 の後に閉じ括弧が抜けて、末尾にカキコ滓が残っちゃたわ。
30宅七郎:2001/03/29(木) 17:27
あやめさん、レスありがとうございました。それにしても、随分ユニークな経歴
の人ですね。
31【^▽^】ジョーカー
劉永復萬歳!