1 :
世界@名無史さん:
2 :
世界@名無史さん:2012/09/28(金) 18:07:03.84 0
お前ら誰も立てる気ないのな
今度のスレでは、
三国志登場人物のAAを集めようぜ
たまには変わったことしようぜ
わたくし甄氏がいちおつ宣言しておきますよ
張遼、徐晃、楽進、張コウ、于禁の序列ってどうなってるの?
于禁>>徐晃=張コウ=楽進≧張遼?
なんとなくイメージですが・・
ほとんど横並び
信頼のされかたでいえば于禁だけが頭ひとつ抜けてるくらい
華々しさ、単純な武功、武勇伝でいえば張遼>その他になるが、そんなに簡単な話じゃない
高順とかどうなのよ?
陳留王家って、ずいぶんしぶとく生き延びてるんだな。
宋末に斉高祖にどうぞ即位してくださいって陳情団の一応筆頭。
これが一番最後か?
卑弥呼ってどんな人物だったんだろぅ
13 :
世界@名無史さん:2012/10/06(土) 15:47:59.96 0
おまえら、「関羽」でgoogle画像検索してみろ
「丹羽長秀」よりかはまし、13点
そんなはずはなくて、若い頃もあったはずだが、
なぜかずっと婆さんだった気がしてしまう卑弥呼。
謎っすね
楊奉って実は偉い奴なんじゃない?
そりゃあ、車騎将軍様だからな。
19 :
世界@名無史さん:2012/10/17(水) 00:37:10.33 0
yo-ho
yo-ho
橋下市長と朝日の争いは曹操と陳琳の逸話を思い起こさせる
>>20 というより小牧長久手の秀吉と榊原康政じゃないか?
ま、なんにせよスレチだが。
橋下「子の資質を問うのに親を問題にするのか?」
朝日「子の株を100%保有しているからと言って、親は無関係」
橋下「え?」
朝日「え?」
こうですか?分かりません><
>>21 榊原康政は秀吉本人を叩いただけでその祖先までは叩いていない
陳琳は曹操の買官オヤジと宦官ジイサンも叩く檄文を書いた
>>22 朝日が橋下のオヤジやジイサンの事まで遡って叩いていることに関してでしょ
24 :
22:2012/10/19(金) 00:08:03.41 0
スレチだけど最近ここ過疎っているから、もうちょい引っ張るかw
文句ある香具師は、話題ふれ!
>>23 「ハシシタの奴」と下品な言葉で煽っているのが週間朝日で朝日新聞は
朝日新聞社の100%持ち株会社である週間朝日を問題にするなら当事者間でやれ、グループ会社の新聞社やTVは関係ないと言っているんだろ
最後の一行は茶化すときの常套句
何か俺の書き込みで分からない事があるのか?
レスない方がましなんで、黙ってもらえますか
はい
ナショジオとかディスカバリーの視点から
当時の船・輜重車・剣弓戈・食事内容や一般的な戦争の流れ、軍編成のセオリーの検証とかしてくれねーかな
現地地形の解説とかもあれば想像力が広がる
欧米のメージャーな会戦とかはやってくれてんのになあ・・・
やっぱり言葉の壁か?
中国はそう言う番組作れないんだろうし、作る気もないんだろうな。
同時代というにはちょっと遡るが、
トイトブルクの戦いなんて場所の特定から始まって
金属探知機を使った入念な調査で
どのような形勢を辿ってローマが大敗まで至ったかまでわかってるからなあ
共産党政府が非協力的だから番組つくれんのだろう
視聴者がそもそも白人だからやっても不評というのもあるだろうが
非アジア圏の人達は三国志(演儀や二時創作含む)知ってんのかな?
日本みたいに外国の歴史物にまで興味持つヲタとかいないんだろうか。
質問ですが。
呂布や賈詡がもらった「都亭侯」っていう爵位は列侯なんですよね?
あと、これは「都の亭の侯」という意味で「都」は洛陽とかを指すんでしょうか。
イギリス人が古代ローマとか古代ギリシアもの読むような感覚じゃないの。
タキトゥスとかスエトニウスとかあのあたり。
亭侯の一種ではあるらしい。○○亭侯との違いはいろんな説があって不詳。
魏の当時(正確には後漢末から)だと列侯の中に、県侯・郷侯・亭侯の三段階有り。
後漢の頃にも事実上その区分はあったが、
制度としてのランクまでにはなってない模様。
都は亭内の中心部って説が有力のような。
2行目の解釈は聞いたことがないけど、案外あたりかも?
>>32 非アジアのオタク連中なら日本のゲームとかアニメとかに興味あるから
三國無双とか蒼天航路のアニメとかで知ってるかも
そういう奴らは多分三国志の物語を日本が作ったものだと思ってるんだろうけど
演義原典や中国史に興味持つような奴は居ないとは断言出来ないがごくわずかだろうな
カンフーみたいな中国武術や武器とかなら興味ある奴もいるようだが
レッドクリフはアメリカでも上映されたようだが全然人気無かったらしいな
昔見たサイトは、英語のサイトだけど
参加者が三国志の話題をバンバン応酬してたな
貼ってあるリンク先が漢文のページだったりして
こいつら欧米の東洋史学者か?と思ったくらい
早々に立ち去りましたが。URLは忘れた
たしか「三国志」は「Three Nations」とかなんとかだったかな?
>>33 以前、関中侯だか亭侯だか関内侯だったかで検索してたら、
守屋美都雄氏の「曹魏爵制に関する二三の考察」って論文見つけた。
>>37 正史
Records of the Three Kingdoms
演義
Romance of the Three Kingdoms
演義でいいから、西洋人の三国志ファンに会ってみたいね。
「Oh!KAKOHBOW!」
欧米だと、発音が中国に忠実らしいので曹操はツァオツァオになるんやで。
日本人は現地発音できる奴は少数だが人名を間違うことはないだろう
ローマ字圏の人は同音人物とかどうやって区別すんだろw
そうそう。劉岱とかね。
アザナで判断するんだろ
孔明ってだけ書いてあったら諸葛亮なのか独火星の兄かわからなくなる訳だな
胡昭「……」
しゃーねーな
49 :
世界@名無史さん:2012/10/26(金) 20:10:59.76 0
一方で、日本人は古代ローマ人やギリシャ人のことを、原語のラテン語やギリシャ語に忠実に読んでいるらしい。
ま、文化が近いほどいい加減になるということで・・・。
録音があるわけじゃや無し、
どうせ古代の、いあや中世・近世ですら、
発音はあくまで推定に過ぎないんだから、
好きなように呼べば良いのさ。
直接呼びかけるわけじゃないから、間違ってたって失礼じゃないし。
確度が高いとしても、確実ではあり得ない。
発音は、ツァオツァオ
実際に聞くとさおさおって聞こえるんだが
いみなとあざなの漢字による組み合わせによって出来る命名に込められた意味とか、
アマチュアでもハイレベルな漢字知識がある奴じゃないと分からないだろうな。
普通に同姓同名扱いで問題なかろ?
やっぱり、漢字は優秀だな
イナイレというサッカーアニメで孔明が女になってたが良かったと思った
オネショタ萌えだったし劉備との掛け合いも萌えたパートナーw
今までドラマ化するなら劉備女かなと思ってたが孔明女もいいかもしれんな
西遊記と比較するなら玄奘=孔明 ゴクウ=劉備 ハッカイ=張飛 ゴジョウ=関羽みたいな
正史とあわせるなら劉備ゴクウもしっくり来るし
周喩を翻弄する孔明w尚香に嫉妬する孔明w
なんのこっちゃ
59 :
世界@名無史さん:2012/10/28(日) 22:47:54.84 0
見てないなら調べたほうがいい再放送もしてるし
イナズマイレブンというテレ東でやってるアニメで
サッカーを消そうとする奴らと戦うために歴史上の人物の力を借りるんだと
それで劉備と孔明が選ばれて孔明は少年とミキシマックスして力を貸す
三顧の礼が舞台で孔明は劉備に水魚の交わりを自ら持ち出して私とあなたは対等よ的にS女ぶりを発揮(そこに萌え
アニメの展開より二人のその後の関係が気になる話だった
次からは幕末編がやる
激しくどうでもいい
竇礼の妻の盈が可愛そう
>>60 患者は見なくて結構
姦賊さんもかませに使われるだけだし
患者の統合失調症に悩まされ続けてる蜀ファンにはおすすめだよ
久々にまともな劉備孔明が見れた
所で最近三国志と仏教の関連について調べてるんだが
なかなか強い影響を持っていたらしいな仏教
清談にも仏教の影響が強かったと俺は見ているが
いきなり訳わからんアニメの話されてもなー
65 :
おっさん:2012/10/30(火) 14:50:28.03 0
アニメをみる奴は馬鹿だ。
アニオタキンモー><
どこにでも現れてアニメの話始めるからな
専門板でやる必要あるのかと
68 :
世界@名無史さん:2012/10/30(火) 17:52:25.78 0
お前らだってソウテンで患者になり田中にブヒリ、
銀英なんぞを歴史の入門書に最適とかぬかしてるくせに何言ってんだw
俺は世界史おたくだし三国志の本を読んでも大半が姦賊マンセーだから
新しい見地を求めてこのアニメを見たんだよ
ま、少なくともソウテンなんぞより余程三国志入門には相応しいアニメだったよ
大体歴史なんてアニメや漫画で知る方が一番いいんだよ
本だと洋の東西を問わず妙な偏見混じった糞本ばっかだからな。
患者とか姦賊とか頭おかしいわ
上のほうの統失云々は自己紹介か?
以前ニュー即かなんかで見たなこいつ
三戦板で暴れてるとか聞いたわ
病人はほっといて華歆の良いところでも考えようぜ
華キンって董卓の遷都まで付き合ってるけど、そのあとなんで南に行ったの?
故郷の青州に帰るわけでもなくふらふら。
袁術に策を献じてみたり、そうかと思えば馬日テイの属官になってたり・・・気が付いたら太守になってた。
74 :
世界@名無史さん:2012/10/31(水) 01:17:16.85 0
>銀英なんぞを歴史の入門書に最適
初めて聞いた
>>73 乱世の処世だな。生き方が上手い。
演義で悪者になっちゃうのは仕方がない。本人も気にしさそう。
>>75 乱世で生き抜いて出世するのが目的なら、わざわざ南に行く必要ゼロだし。
そもそも素早く辞めすぎ、転職しすぎ。
甘寧だって、不満を持ちながらも何年も黄祖に仕えてるのに。
顔良と文醜と華雄はどこまで強かったか…
78 :
世界@名無史さん:2012/10/31(水) 18:51:26.56 0
春秋戦国では長江の南の呉越も一応一国として扱われてるけど、
前漢後漢の頃になると思いっきり蛮族化して山越になっちゃったのはなぜ?
歴史書にも長江の南側はほとんど登場しないし
79 :
世界@名無史さん:2012/10/31(水) 19:50:52.44 0
>>76 名士たるもの悪逆の主君に使え続けるのは名声を低下させるから。
>>79 献帝見限って袁術にアドバイスしたかと思えば、今度は献帝の部下の馬日テイに仕え、今度は詔で太守だよ。
節操なさ過ぎだろ。
カイ通は韓信に独立を勧めた罪で劉邦に煮殺されかけた。
袁術に董卓(=献帝)を討つことをそそのかした華キンが無事なのはいかなることか。
董卓に捕まってたら煮られてたかもよ
都合よく董卓が死んでくれる保障なんて、ないじゃん。
なのに袁術の元をも離れたら、もう誰も守ってくれない。
三国時代って史実や演義は面白いけど
人口の半分以上が戦乱やそれによる飢餓で死んでいるから
実際に生きた人間にとっては
この世の地獄以外の何ものでもなかったたろうな
>>69-71 孔明についての本を読む
「孔明は天才軍師でもなんでもない、演義による歴史の歪曲である」
姦賊について
「ファビョッ、曹操は偉大、曹操は素晴らしい、曹操を貶める奴は
精神病院にいくべきである。羅漢中死ね!劉備死ね!ファビョッ、ファビョッ、ファビョッ」
大体こんな感じ
>>74 実際2ちゃんで見たことあるぜ、お前らのお仲間じゃねえのかw田中大先生も患者だしなw
まあ何度もいうけどソウテンの100倍増しってことだけは確かだから
あとそのアニメの中でも三国志オタクがいるけど
絶対レギュラーになれそうに無いキモめがねwお前等とくりそつw
>>62 呉に支謙という西域出身の僧がいて経典の翻訳を盛んに行っていた
魏でも経典の翻訳が行われていた。それらは現代にも残っている
レスがつかないから自演かよ
荒れてますな
曹操好きの自演でしょう
メール欄が自演丸出し
m9(^д^) プギャー
アニオタの自演キンモー><
スルーできなさすぎなのがまず問題
2chでキチガイに立てる戸なし
>>79-80 そもそも董卓も袁術も華キンの主君じゃない。
皇帝を輔弼して政治を正せれば良いが、長安遷都の頃にそれが無理だと判断して安全を求めた。
官職を歴任している辺り、独立した群雄として成長するほどではなくても
のちに形成される秩序で地位を得るという、それなりの野心はあったんだろうな。
列伝されてる人間の半分はこんなもん。
「名士」たらんと志すほど、直近の上司に「忠」を払い続ける思想的義務は少なくなっていく。
名の高い人物ほど、収入も名声も充足しているから公務員としては短期雇用傾向だったのは漢代の平時から。
乱世になればなおのこと。
特別の恩義があれば別だが。
メール欄まで見るとはさすが患者w飼いならされてるなw
魏や呉のような簒奪国家でなぜ訳経が行われたかは疑問だが
仏教が当時強い影響を持っていたことの証だろう、お前らの曹痴でさえ
仏教を中国的思想で解釈することの危険性をこの頃すでに指摘している
後漢代は儒教精神が高まりクンニ学が盛んになった時代だが何故か?
仏教という新思想が伝わったからではないか?
そこから忠だの考だのうるさくなっていく。仏教思想に対抗するために
世界史屋は総じて遊牧民が大嫌いである
しかし一般人やそのほかのエリート層は遊牧民を平和の民だと思っている
こないだのルパンを見ても分かる。フビライは平和を望んでいた
これが一般人の感想である
俺もアニメは上質なものしか見ないから安心しろw
とくに銀英みたいなゴミはなwこれに参加した声優さんスタッフさんかわいそ
三国志をパクってクラシックをただじゃんじゃん流して何のインパクトも無い銀英w
聖書を基にし日本中を騒動に巻き込み、終盤の第九の演出は圧巻のエヴァ
三国志<<<<<<<エヴァ
>>96 フビライは平和を望んでいたかもしれないけどチンギスは虐殺しまくりだろw
>>76 当時は中央より揚州や益州の方が安定していたから、
朝廷に留まることに危険を感じるとそちらの太守や刺史を求める官僚が多かった。
馬日テイは、本心はともかく死ぬまで袁術の拘束の下にあったから、
彼の節の許での任命は全て袁術の承認を得ていると考えるべき。
だから豫章太守就任は、華キンの処世術であると同時に袁術の揚州政策の一環でもある。
しかし一旦太守や刺史として外に出れば、袁術が指一本で動かせるような強制力はなくなるし、
離反や完全独立は日常茶飯事だったから、同じような立場の孫策とは緊張が生じる。
そのため孫策の豫章進駐と葛布での奉迎という儀礼が行われた。
華キンは建安から魏初に掛けての屈指の名士であったろうけど、
その中でも三国志上で特筆される地位に置かれているのは、
「漢魏交替を是認し、一連の儀礼で中心的な役割を果たした大功ある名士」だから。
漢魏交替に否定的な史観の下では「悪役」になるのは仕方がない。
というか、独行の隠士を含む諸儒を列伝十一、十二に置き、十と十三を分けている辺り、
「統一王朝晋の許で『三国』志を執筆した蜀漢の故臣」陳寿の史観もなかなか一筋縄ではいかない。
>>99 >当時は中央より揚州や益州の方が安定していたから、
年がら年中反乱祭りの揚州が「安定していた」とかありえんし・・・。
一度後漢の年表見ればいい。
数年単位で乱が起こりまくってるから。
>>101 益州とか酷いよな
200年代入ってからも反乱連発で赤壁前に劉璋の腹心まで裏切って反乱しとるし
年表見ると、後漢中後期の飢饉・流民増加は青州辺りから始まって徐々に周辺に拡散してるんだよね。
中原人もその流れに沿って避難した。逆は起きていない。
魏・呉・蜀の本拠がそこにあるのは偶然じゃないんよ。
104 :
世界@名無史さん:2012/11/05(月) 15:53:07.77 0
塩婆のローマ人の物語を見ても分かるとおり
古代人は搾取しまくりのクズ人間が多い。キケロも億単位で財産を持ってたが
それでもつつましいといわれてたくらいだし
姦雄の親父も十億金で官位を買ったとかいうしそしてその親父が清廉だって
いう位なんだから中国古代も相当腐ってたんだろうな
そんな連中ばかりの時代の名士なんてのも相当怪しそうだな
搾取の仕方が上手い奴ほど名士と言われるんだろうな
>>100 なぜいまだに患者は被害者ぶりたがるんだろう
阿Qの人も矛盾論の人も皆患者なのに。もう100年経つのに
現在の三国志論も患者の論であふれかえってるのに
自分を特別だと思いたいのかな
この時代の文学について触れないのは
それがあまりにも仏教文化の注釈的だからだろう
仏教文化からもっとも遠かったのが出師の表ぐらいなんだから
まさしく蜀漢は中華文明の正統後継者だったのだな
ローマ史においてのキリスト者のように魏や呉を非難して
ほしいものだが塩婆は魏や呉派なんだろうなw
距離的に考えて、仏教に一番近いのは蜀のはずなんだが
>>107 距離的にはそうだが、蜀は南部が不安定でインド方向と上手く南と連携できないからなぁ
三星堆文化を見るとインドの影響は昔は相当だったらしいが三国時代になると大分薄まる。
蜀が仏教文化の中心になっていれば、天下も取れたと思うしなぜ積極的に
導入しなかったかは疑問だ(劉備孔明の平和主義と仏教は融和しやすいだろうに)
上にも書いたが宗教と密接な関わりを持ったのは姦雄と孫権だ
支謙に頼んでまで経典を翻訳させたのは孫権で、
黄巾兵(仏教の影響のもとに成立した)と親密だったのは姦雄だ
文学への影響については仏教に深い関心を示していたのは曹痴で詩にも色濃い
姦雄の人生いくばくぞやなんてのは、無常観を表してるといえよう
劉備孔明の平和主義って具体的に何の事?
ま、少なくとも民を大量虐殺しなかったし
内治においても善政を布いた
漢後期からシナの文化の内容が変わっていく
生への苦しみをうたう詩が増えてきた。特に今まで抑圧されていた
民が苦しみをうたう詩が増えた。まるでなにかよりすがれるものが出来たかのように
何に希望を託していたのかは興味があるが、それ以後の例えば建安の詩など
民の苦しみの発露をパクッただけのものだ。
権力者への不満の詩だったのに、権力者側に盗まれ、権力者の自己顕示のために使われたのだ
シナのいつものパターンだが高度な文化に触れても
その真髄を見極めることが出来ず、実用品としてしか使うことが出来ない
科学文明もそうだったし、仏教もそうだ
魏晋のときの衒学者達も仏教を、自分達の偽善性を擁護してくれるものだけだとみて
礼儀など無視してもいいのだと勘違いし、周囲の諸民族の反感を買い
結局ボコボコにされることになる
ところでお前ら、あと1週間ほどで聖書を基にしたあの某超有名アニメの
映画が始まり、日本がいや特にネット上でその話題で持ちきりになるけど
お前らはそんなときでも黴臭い姦雄をマンセーしてんの?w
なんか変な人に居座られたね。
角田一家の人?
当分ROMるから早く巣に帰って。
>>107 魏晋の時代の仏僧って西域や中央アジア出身者ばかりだし、蜀が一番近いってことはない
>>101 青徐出身者が多く江南に避難しているのは事実
>>102 そうは言っても三輔や南陽から益州への疎開者は多い
>青徐出身者が多く江南に避難しているのは事実
避難って言うか、大半は袁術にひっついてきた連中だろ。
アニオタの荒らしキンモー><
久々に伸びてると思ったらみんなして荒らしにかまってるとか…
>>117 そんなことないよ
淮南じゃなくて江南/江東に避難されたと記述されてる連中は袁術関係ない
青州出身者は劉ヨウ関係者が多いだろうけど
>>120 それ諸葛兄だけじゃん。
二張は孫家がまだ袁術配下だった頃の就職だし。
>>115 三戦板でも素っ頓狂なこと書いているから
誰も相手にしていないけどwwwwwwwwww
建安の詩などどうせ民の文化、仏教文化のパクリなのであろうし、そう価値も見出せないが
もしこういう理由ならばそこそこの評価を下してやれなくもない詩がある。短歌行だ
これの制作年代は不明で、演義では赤壁のときに詠まれたものとなっている
だがこの詩はあるものへの弔いの詩ではないだろうか、あるものとは関羽である
人生幾何ぞ たとえば朝露の如し 去る日苦だ多し (ふむ、無常観)で、次だ
青青たる子が衿 悠悠たる我が心 ただ君の為の故に 沈吟して今に至る
ここでいう子だとか君だとかは関羽のことを詠っているのではないか
荊州での戦の後、関羽の首が送り届けられ、そのときに酒を片手にこの詩を詠んだ
だとするならば一代の英雄に対してのレクイエムとしてならばまあ上出来だろう
俺はまず漢詩、漢文の愚痴っぽい調子、ストレートでない表現が嫌いで
ましてやこの姦雄の詩なぞもよりひねくれていて真意が分かりにくい
だが関羽との交流はやはり良い、演義では関羽の顔が見開いて恐怖させたり
亡霊にになって苦しませたりするが、それはむしろ関羽の品位をさげている
そんな悪霊みたいな奴では無いだろう。姦雄も関羽だけには敬意を持って接したと思うし
関羽もまた敬意をもった、関羽の死を目にして人の世の儚さを感じそしてこの詩が生まれた
弔うといってもやはりひけらかしの面もあるが、関羽は目をつむって黙ってそれを聞いたろうな
>>121 諸葛兄以外にも袁術に関係ない青徐出身者は
魯粛、太史慈、徐盛、歩?がいる
魯粛・・・元袁術の部下で県長をやってた。袁術死後に混乱する揚州を見限って北に帰ろうとするが、周瑜の斡旋で孫策の元にいっただけ。
太史慈・・・「こいつをつかったら許劭殿に馬鹿にされるよ」と劉ヨウに言われる軽い扱い。孔融の評価も役に立たず。ただの軍人。
徐盛・・・こいつもただの部隊長。
歩シツ・・・諸葛瑾、厳シュンと友達だが、最初に官についたとき仕えた相手が不明。袁術の可能性あり。
北来名士たちは、孫策には出仕しないで、孫権には出仕したものたちが多いが、この空白は一体何?
>>116 中国は世界の文学、思想の翻訳のほとんどが遅れていて
日本に頼りっぱなしなのだが仏教経典だけは中国が先だ、が、
訳経したのはほとんどイラン人やインド人や西域人
でやはり中国人は文化の移入というものが苦手なようだ
>>127 孫策嫌われてたんじゃない?無茶するし。
でも孫策→孫権への権力移譲がスムーズに行ってるから、名士層から支持はある程度はあったのか?
周瑜(魯粛)→呂蒙→陸遜
の黄金リレー
>>122 何の関係も無いただの通りすがりだけど
多分その人のレベルに住人がついてこれないだけでは?
結局三国志語ってる奴ってせいぜい正史の後追いだけでなんの独創性も
ないもんね。それが学者レベルでもそうなんだから困る
正史の後追いどころか劉備の欠点あげつらって姦賊マンセーしてるだけだもんね
なんの進展もない。ネットより遅れてる学会なんて無いけど、中国古典文学の世界だけは
ネットの方が進んでることを認めざるをえないな。権威に対して常に反抗する
WEB住民にとっては普通だったらざまあwなんだろうけど
患者にとってはアダなんじゃないの?なんといっても三国志関係の学者どもが
全員馬鹿でしかも自分達と同じ患者ときてるんだからwwwwwwwww
まあ、僕も
>>128さんみたいに仏教に、注目するなりしてこの時代の研究を
少しでも進め、この時代そのものについても、この時代の研究についても
創造性を強めたいと思ってるどちらかといえば
蜀びいき(けっして病気になるほどではございません)の
通りすがりがお送りしました〜 ペコリ
あのな・・・
世の中、思い通りにならないこともあるんだと受け止められるくらいには大人になろうや
すごいニューカマーが出てきたものだ・・・
ここは2chだぞ。
三国志が好きで、三戦板より落ち着いて正史の話がしたいからここにいるだけだぞ。
あなたのような意見、立ち位置も、決して否定はしないが、板にとっては正直異物だ。
とにかく、自分の感性を他人に押し付けるのはやめてくれ。
皆で議論できるような話題の提供なら大歓迎だが。
以上、皆さん長文申し訳ない。
135 :
世界@名無史さん:2012/11/09(金) 21:19:26.55 0
↑こうやって、
マンガ家はマンガ登場人物のデッサンをおこすのかぁ
>>135 自作自演で自画自賛しているバカより全然おもろいわー
>>129 全然スムーズじゃねぇ
というか孫権は親族内で出血こそ見ないもののずーっと主導権争いを静かな形でやっとるよ
馬玩w
>>121 いや、「袁術にひっついてきた」というのを否定してる
あの時点で袁術は江南を抑えていない
淮南をスルーして江南に避難した連中はいる
二張しかり
>>127 単に時差的なものが一番大きいと思う
孫策に出仕せず、孫権に出仕した連中は二グループに分けられるだろう
ひとつは孫策時代は年齢的に若かったというだけの連中
もうひとつは劉ヨウの遺臣団だが、これも時間が経てば仕えたと思う
孫策の末期は西に東に軍事行動が忙しかったのも関係あるかも知れない
>>143 張紘の場合、袁術に好意的だった可能性すらある。
張紘を孝廉に挙げた趙cが、サク融に殺害されているから。
サク融は袁術の敵だった。
袁術はあれだけの名声と勢力があったのに、どうして徐州方面は影響下に置けなかったんだろ?
名声と勢力がどんな性質のものだったか考えればわかるんじゃね?
陶謙がいたから?
>>145 袁術助けたら袁紹と曹操に睨まれちゃうだろ。
>>145 劉備が強かったからってのが意外と妥当な理由だったり。
陶謙時代→連携。後に仲たがい。
劉備時代→交戦状態
呂布時代→友好?袁術側が没落
徐州を影響下に置くには劉備時代だが、戦争で優勢で、劉備を徐州から追い出すことができても、戦略的には成功しているとはいえない。
該当の州内部の名士衆とつながりなしに
外部勢力が純粋に軍事力のみで
一州を制圧・実行支配するということが事実上不可能な時期だ
もうちょっと後の曹操と袁紹でさえ、複数の州の統治ができるようになっても
完全に掌握できていたのはそのうちの一部
袁術は大勢力にみえても、その実行支配力は傘下にある「個の人」に依存するんだよね
袁術の力の根源は地方自治体の任命権・人事権であって中央集権的な軍事力ではない
だから袁術は献帝の権威を徹底的に否定しようとした
節を奪ったのも単なる幼稚性の悪意ではない
献帝の権威の正統性が広がり始めた(関東諸侯の間で回復しはじめた)のと淮南での袁術勢力の分解はほぼ反比例している
>>150 最後おかしくないか?
袁術はむしろ献帝の権威を利用してたように思うんだが
馬日テイは袁術に協力したとして孔融に批判されたように
曹操と袁紹が献帝を確保する以前は袁術は献帝の権威を自分の権力拡大に利用してたと目されてる
袁術の勢力分解はむしろ自分が保持してたはずの献帝の権威が
曹操と袁紹に確保されてしまったことによるアドバンテージの消失からで
その消失を補うための皇帝即位ではないの?
袁紹が劉虞を奉戴しようとした際は親献帝にみえるが
小康状態の長安政権に対して陶謙や曹操が示した姿勢や行動の記録がない
この時点で何もしないというのは事実上、反献帝だろうな
劉焉・曹操・張楊・陶謙・公孫サンなど時期は違えど何れも親献帝の立場をあらわした
あからさまに黙殺したのは袁紹劉表
それに袁術
初期こそ周囲にたいしては袁術は「親」を演じたかもしれないが、
帝から正規に任官された者とバッティングしても
蹴散らした上にまるでフォローをしない(この点が曹操と決定的に違う)点からして、
「漢の忠臣・名門」から「実力者」というふうにスライドしていったのだと思う
>>152 親献帝に見えるというよりは反袁紹として袁紹が権威ある存在を手に入れることを嫌ったんでは?
あと袁術は黙殺したんじゃなくて李カクとやり取りして色々便宜図って貰ってるよ
当時の李カクは献帝を擁立してる
官爵を与えることと受け入れることで相互に正統性を補完してる
袁術が何もしなかった、というけど袁術は普通に献帝から受け入れてるから
親献帝として曹操が献帝を手に入れるまで動いてるよ
むしろ問題になるのが曹操で袁紹の命令に従ってあちこちの防衛に駆出されてて
何もしとらんどころか嬉々として袁紹に従っとる
そこまで袁紹に従ってるイメージないな
たとえば公孫サンと戦ったのは
東郡所属の発干に進駐されたからなんだろうし
袁紹包囲網も袁術派の動員力っていうよりパワーバランスの結果だからな
曹操の立場もまたしかり
例えば欧州戦線でドイツはソ・英・米と戦って負けたが
その実はソ連に対して100個師団300万人以上を投入し
それに比べれば西部戦線や地中海なんか「バカンス」の土地といってもいいくらい力をいれてない
公孫サンは間違いなくドイツに対するソ連であって袁紹包囲網のコアを占めるわけだが
そのソ連の力は対独打倒を最初から叫んでいた英(袁術)の力ではない
ドイツが四方八方から総攻撃を受けたら同盟国のイタリア(曹操)は
当然のようにその一方面くらいは分担しようとするだろう
それをもってしてイタリアはドイツの属国であったかというとそうじゃない
>>155-156 いや曹操は青州まで遠征しとるがな
方面持ったってレベルじゃなくて普通に袁紹に率いられてあちこち連れ回されてる
158 :
世界@名無史さん:2012/11/15(木) 17:44:27.29 0
献帝手に入れるまでは曹操は袁紹隷下の軍閥じゃないの?
大内氏と毛利氏とかモンゴル帝国と漢人4大軍閥とかローマ帝国とヘロデ王とか、そんな感じ。
徐州大虐殺やその発端となった曹嵩SATSUGAIも
袁紹系の曹操と公孫サン系の陶謙との争いだろ?
陶謙は独立独歩系
皇帝僭称の賊と結んだり
予州に食指をのばしたり
朱シュンを後援したり
名士を弾圧したかとおもえば死後悼まれたり
なかなかレベルが高い妖怪の類だな
こいつこそ「若ければ乱世に覇を・・・」みたいな感じだ
>>160 陶謙の薫陶を受けた劉備が堂々登場!
でも呂布のせいですぐ退場!
そして裏切り負け残り疫病神人生へ。
公孫さん配下の劉備が陶謙の救援に行ったのは、自陣営に引き入れようとしてたのか?
でも救援に来た劉備の妖怪っぷりを陶謙が気に入って、妖怪の後継者に。
実際劉備が陶謙勢力を引き継いだ時点で
袁術-公孫サン系から袁紹系に鞍替えしてるからな
しかし陶謙という男は曹操の恥部を隠すために必要以上に悪に書かれたり
劉備の正統性を示すために大人しい無害な老人に書かれたり
孫策とはよろしくなかったけど孫呉陣営の北方名士とはパイプがあったりと
各々が自由にイメージできる素材だなw
軍人として世に出て茂才に推挙されてるし、某KOEIゲームでの能力値ももっと上げて欲しい。
三戦みたいなレスしてごめん。
>>160 今手元に史料がないのでうろおぼえだが、公孫サン伝あたりで厳綱・単経・田楷の3羽烏と並んで出て無かったっけ?
確か徐州に陶謙配置したのは公孫サンだったような…。
劉備が死にそうになって、諸葛亮に「せがれが駄目ならお前取ってかわれや」といったのは、陶謙の影響だろう。
>>165 陶謙は厳綱・単経・田楷のような有象無象のローカル人士じゃなくて中央エリート街道の出だ
公孫サンが横に並ぶことはあっても上に立つことはできない
陶謙は元幽州太守だっけ
>>168 確かそうだったはず。
だけど、細かいけど州なら「刺史」な。
>>165 陶謙は東郡の発干に進駐してるけど、発干は黄河北岸。
同姓同名の別人か、他の武将と書き間違えたと見る方が整合性がある
>>169 陶謙は泰山太守応劭等と朱儁(シュン)を擁立したから,泰山郡は仲間の圏内。
曹操は東郡太守から兗(エン)州牧になったけど,東平や済北で青州黄巾と戦って降伏させたばかり。
別人や地名誤りの可能性もあるけど,決してできないことはないのでは。
陶謙は中牟にいる朱儁に兵士の供与したりしてたしね。
後に任城に侵入したりもしてるし、発干まで進軍できた可能性はある。
曹操・袁紹を牽制するなら発干にまで陶謙自ら出張るのは不自然だと思うよ
それこそエン州を南方から圧迫した方が、相手方戦力の分散にもなる
発干まで行くコスト、撃退されて帰還するコスト、どちらも甚大
エン州刺史の単経が平原ではなく発干におり、
代わりに平原にいたのは田階だと考えた方が自然
同姓同名の別人の陶謙だった場合は置いとくとして
同一人物で、徐州から発干に出兵したとしても別に公孫サンの部下だから出兵したわけじゃないからな
まぁその後の田楷への援軍要請の成り行きからして陶謙本人だった可能性が大だけど
陶謙話おもしろい。
陶商、陶応はその後どうなったんだろね。
徐州で勢力を残した風じゃないし、丹楊は孫家の影響下に入ってるから帰れないよね。
帰れないってか、そもそも徐州に来ていたかどうかも分からんよ
孫静や孫策だって孫堅に同行してなかったわけで
軍の世襲でも難しい(孫堅)時代に一州まるまるを世襲なんて無理
外界と遮断されてる劉焉がやっとできるくらいで
子が親の権力を受け継ぐという概念が通用するのはもっと時代が下ってから
そう考えると劉表って凄いよな
だから袁紹が我が子たちに重責を与えるってのはおかしくないんだよね
ボスが生きているうちから政権運営に高いレベルで参与させておくと
死んだあとに遠縁や重臣の台頭を防げるからね
本命が袁尚にしろ袁譚にしろ一人に絞ってしまうと不慮の際に
(大本命の織田信忠死後のように)
残りの織田家に力が無く秀吉に操られてしまう結果をみるに、なんともいえないね・・・
>>178 劉表の場合ほとんど「王位継承」だもんね。
>>179 劉キが江夏太守になったのも権力継承の一端?劉ソウは当時、官職持ってたっけ?
あまり詳細のわからない倉亭が袁譚の政治生命終らせたのかなと推測してみるテスト
倉亭の戦いは青州方向から攻め込んでいるがこれに負けたので
勢力内での信望失って後継の道が断たれたとか
182 :
世界@名無史さん:2012/11/23(金) 03:12:42.84 0
青州って不服従勢力が強くて、袁譚は全土治められてない。
やっと治めていた少しの領土を戦争で荒らされたら再起不能だ罠。
しかしこんな馬鹿な商売やって味をしめたら真面目な稼業にはつけないわなw
統治しづらい青州をうまく治めたぞという箔をつけて後継者にでもするつもりだったのか
186 :
世界@名無史さん:2012/11/27(火) 04:39:07.03 0
後継争いになったら、一番貧弱な袁譚が真っ先に潰されて終わるやん
袁紹の勢力圏てどこも不安定では?
冀州は豊かだけど反乱も多いし。幽・并は辺境だから、掌握できてたのは青州と変わらないかそれ以下。
まぁ袁紹が冀州を統治したのは10年足らずで
しかも袁紹とは、もともと縁もゆかりもない土地・・・どころか、かなり際どく乗っ取った土地
曹操もそうだし、日本の戦国時代もそうだけど、
土地の実質的な領主である土着の名士人を完全にコントロールできるまでが難しいんだよな
劉表も劉璋も孫策も呂布も陶謙も劉備もみ〜んなそう
袁譚は伯父の家を継いでたから後継者権はないのでは?
あと、これって漢晋春秋に書かれてるだけだっけ?
>>189 誰の家を継いでようが勢力を引き継いだり同等の官位を引き継いだりすることは出来るだろ
出来ないのは爵位の相続だけ
庶子の袁紹の家をついでも・・・
譚を送り込んで乗っ取った形ではないのか
そんじゃ譚と尚の兄弟は何の地位や権利を争ったの?
後漢だと、父親が有能で地位を持ってても、息子はしょっぱい閑職になることが珍しくない。
孫の代になると名前しか分からないというのも多数。
「親子で相続できない」んじゃない?
三国志君主の資格は「世襲相続権を持つ」だ。
有資格者は曹操、袁紹、劉備、孫権、劉エン、劉表。
前に誰かが言ってたが、勢力の継承ってのは大分時代が進まなければ無理だったんじゃないかと。
だから継承の可否で「資格」を問うのはちょっと違うんじゃないか?
軍勢のみ息子に継がせて、自身は中央政界に行った馬騰は他とは違う戦略を持ってたんじゃないか?
袁煕…
200 :
世界@名無史さん:2012/11/29(木) 00:30:45.49 0
公孫氏は世襲をやったので君主ではあるが、三国には数えられない。
交州の士ショウと同じ程度の存在。
地方の太守や州刺史(牧)が独立勢力になるのは理解できるが、将軍位しかないやつが勢力をつくるのってどういう流れ?
地方にいて、軍勢握ってたとかならまだわかるが、袁術が南陽で勢力を作った基盤が良くわからない。
名声だけで統治権は確立するものだろうか?
>>202 袁術はばっちり軍団引き連れてきただろw
曹操に追い回されて目減りしていただろうが、質量ともに袁術軍は揚州第一だよ。
0
206 :
202:2012/11/30(金) 16:36:48.87 O
>>204 楊州じゃなくて、董卓の難を逃れるため南陽にいた時の話。
>>203 張咨の後釜として南陽を支配するまでは、後将軍とはいえ軍勢は率いてないのでは?
孫堅が張咨を殺さなければ、袁術の勢力の基盤はできなかったのか?っていう疑問です。
袁紹と同じで、董卓打倒を旗頭に義兵を募ったんじゃないの?
身一つで飛び出した袁紹よりは、しばらく都に残ってた袁術はいろいろ準備していそうな感じ。
後将軍号もきっちりもらってるしね。
袁紹が反董卓連合の盟主っていわれてるけど、ホント?
連合の中では地位も爵位も貧弱だし(自称奮武将軍の曹操よりはましだが諸侯の中では話にならない)、
曹操みたいに先手を打って主導権を発揮したわけでもなし。
袁術傘下の孫堅が洛陽入城を果たしたりして袁術の方が活躍目立っている
でもその軍団は孫堅のものであって袁術のものではないからな
>>209 少なくとも三国志(武帝紀、袁紹伝)にはそう書いてある。
袁紹がすごいのはないない尽くしのところから冀州ぶんどりやったところでね。
曹操と同じ成り上がりタイプでしょ。
名門を武器にしてないよ。
袁術が袁氏の本流として汝南を基盤に揚州や荊州へと勢力を伸ばした
汝南は曹操に取られたし、ていうかその前から黄巾も跋扈してるしで、とても袁術の基盤として役に立ったとは・・・。
汝南袁氏って董卓によって全滅してるだろ。
二袁に袁氏一族の人材が乏しい、っていうかほぼいないのをみても根絶やしにされてるようだ。
これでは汝南が基盤でも使えない。
>>216 全滅って豪族舐め過ぎでない?
棟梁格の袁隗、袁基は死んどるが地元に残ってる連中はいるはずだぞ
袁遺、袁胤辺りもいたから「ほぼいない」というのはおかしいと思うんだ
ちなみに袁術は袁術で後に殺される兄の基が家継いでたから
反乱当初は分家扱いなんだよな
>>217 >地元に残ってる連中はいるはず
誰一人でてこないが。
>袁遺、袁胤辺りもいたから「ほぼいない」というのはおかしいと思うんだ
二袁とあわせて4人しかいないってのが絶望的。
曹操のほうがまだましだぞ。
>>218 王朝残して親族の記録が詳細に残ってる連中と一緒にするなよ
首魁の袁紹、袁術ですら嫁の記録ほとんど残ってない袁氏に対して
妾の名前までいくつも残ってる曹操とその一族の親族の記録量比較するのはバカげてる
孫堅死亡で衰微した孫氏だって、当時の袁家よりは人材が多いぞ。
当時の袁家は劉備とタメ張るぐらい人材が枯渇してる。
>>220 子孫が生き残って王朝打ち立てて記録残す側に回ってるからね
お前バカだろ
でも、劉表劉ショウよりも一族の影が薄い
そういう目線で見ると、
蜀陣営に吸収されたとはいえ馬一族初めとする涼州軍閥の一族武将率は異常
>>222 代を重ねて土着化に成功してる例と土着化する前に
放逐された一族じゃ比較対照として間違ってるだろ
いい加減そのくだらない勘違いをやめろ
>>223 逆だろ
一族くらいしかまともに動員できる戦力がなかった零細ってこった
一族すらろくに動員できなかったのが二袁w
>>224 劉表は一代だし
劉ショウの方は劉エンから数えても2代目なんだが・・・
>>225 そらそうよ
二人とも一族の総帥じゃねーんだから
一族動員できる立場だった袁隗と袁基が死ぬまでは一族動かせないし
死んでからも本家争いするからそうそう動員できねーよ
そんな中でも親族の名前出てるんだから二袁はやはりたいしたもんだよ
>>226 劉表は子の劉キと劉ソウがおるし赴任が189年頃だから20年くらいずっと荊州におる
二袁は袁術が10年もたんかったし袁紹とて精々10年を超えた程度だ
ここの差がでかい
しかも劉表の親戚が蜀の重鎮として滅亡するまでずっと出ずっぱりなんだから
記録も残ろうもんよ
>>227 劉表の親族で、蜀政権の重鎮って誰?
伊籍?
なぜ一番重要なのを忘れるのか
>>229 マジでわからんので御教授を。
劉磐じゃないし、劉エンも血縁じゃない。
劉キの子とかが出てきたっけ?
231 :
230:2012/12/05(水) 10:23:28.58 O
ごめん「親戚」って書いてあったね・・武侯祠逝ってくるorz
まあ、袁紹、袁術の直系を除いて、袁遺、袁胤、袁渙ぐらいしかいなかった点、
極めて厳しかった。他は皆殺しになったんでしょ。袁隗、袁基、袁滂など、有力な
のは董卓によって皆殺しにされたからね。
ちなみに、傍系には高幹、高柔などがいる。高柔は魏時代に三公にまでなっている。
楊修とかもいたね
諸葛亮が劉表の親戚の親戚ってのはどうにも眉唾だと思うけどな
なんで裴松之が注に入れないんだっていう
いつだかこのスレで指摘してる人がいたけど
現存する襄陽紀は、すでに散逸したものを清代に再編集したものなんだと
>>232 袁渙は汝南の袁氏じゃない
新唐書宰相世系ではかなり近い親族のように書かれてるけど
それを否定する碑文があったはず
>>234 諸葛亮の妻方の一族が蔡氏と結婚して、蔡氏が劉表と結婚して・・・という関係じゃなかったか
そんな関係では逆に裴松之としてもそれをわざわざ収録する必要があるのか、っていうことも言える
>>235 でも結構、瑣末な事柄も注で収録してたりするからなぁ
零陵先賢伝を引いて、諸葛亮が荊南3郡を統治した時に居住した県名を記したり
あと襄陽記(紀じゃなかった)を引いて黄承彦のことに触れてる箇所があるけど
なんでそこでついでに書かなかったのかと思う
でも諸葛亮って劉表生前から劉キに近付いたり劉備に近付いたり
内部で相当動けてるんだよなぁ
20代の若造が簡単にできることではない
孟達に殺された諸葛亮の姉の旦那もカイ良とカイ越と同じ一族でしょ?
>>237 魏晋南北朝期は評判がモノを言うからなぁ。
司馬徽門下の将来有望な逸材として名は通っていたんだろうな。
就職活動中の学生がOBの会社訪問するみたいな感じで、案外簡単に会えたのかもしれん。
ところでお前らは諸葛亮と諸葛瑾が兄弟じゃない説についてはどう思ってるの?
>>239 そういうお前はどう思ってるんだ?
少なくとも正史には兄弟だとわかる記述が載ってるが。
実際の血縁や生育環境はわからんが、一族的には兄弟なんじゃないか?
>>239 ありえない話ではないが肯定する理由はない思い付きの域を出ない珍説だろ
>>240、
>>241 正史にははっきり「兄弟」って書いてあるし、
孔明マニアの陳寿の言うことだから、信じるべきなんだろうけど。
でも瑾、亮、均ってやっぱり統一感がないんだなぁ。
珪と瑾で、排行が違うのに同じ玉へんなのも気になるし。
珪、瑾、璋で兄弟で、
孔明にとって瑾は「親戚のお兄ちゃん」だった、というのはオレにとっては説得力のある説なんだが。
>>239 眉唾
字に統一感が無かったりするけど
憶測の域を出ない話だと思ってる
>>242 曹操と曹拠も本当は兄弟だって言うなら諸葛亮と驢馬が兄弟じゃないっていうのも信じてもいいけどな
司馬懿の兄弟:朗懿孚馗恂進通敏
司馬懿の息子:師昭亮伷京駿幹肜倫
司馬炎の息子:衷柬瑋乂允晏遐穎熾
こちらも統一感はないと思う
あざなは共通字があるけど
結論:高島某とその説を信じる奴は語るに及ばない
248 :
世界@名無史さん:2012/12/19(水) 14:24:03.93 0
岡大でそれだと親が泣くぞ
そもそも排行とかいつ成立したんだっけ?
日本だって通し字の成立は意外と遅くて平安後期なのだが
曹休と曹真も逆なんじゃねーのって話をどっかで聞いたような
字が文烈と子丹だから
甄子丹って香港アクション俳優いるね
そんな人したん
この時代って正月祝ったりしてたのかな?
記録ないし
南北朝時代まで下っていいんなら、
北魏末の爾朱兆は正月の宴会やってた隙に強襲されて高歓に滅ぼされた
宴会というより部族内での年頭集会の意味合いが強いんだろうが
当然祝ってるよ
三国志の中に何回か出てくるだろ
正月中に日食があった事件の描写もあったような記憶があるが
文帝の二年に、
「春正月、天地明堂を郊祀す。」
とあるな。
2月っていうほど春か?って昔の奴らに言いたい
1月2月3月が春だから
現代日本の暦と日本の風土の感覚で語られても
>>259 旧正月って大体今で言う二月の頭から中頃だから
春って「一番寒い時期が終ってこれから暖かくなる時期」という認識だよね
日本でも二月中頃過ぎると一気に暖かくなるから国は違えども感覚的には理解できると思う
263 :
世界@名無史さん:2013/01/05(土) 17:34:38.49 0
爆竹等で祭るのが春正月だっけ?
265 :
世界@名無史さん:2013/01/13(日) 21:43:28.49 0
保守
スレチだが話題がないので。
池上遼一の三国志漫画完結したね。
期待と迷走と消化不良のまさに怪作でした。
ここの住民の方は、世に溢れるああいう三国志の二次創作モノは嫌い?全否定の人もいると思うけど、俺は面白いければそれはそれとして楽しめる。萌えはいらないが。
ここは「三国志なんでも雑談スレ」じゃないのでおかえりくだちい
そんなことより今期アニメの話しようぜ
一般的に知られている三国志=三国志演義で二次創作モノだからな
だからここは正史三国志のスレなんでしょ?
関係ないよね
蒼天航路や覇(LOAD)みたいな正史ベースの漫画はありだと思う。
今期アニメは終わっているものばかりだけどね。け○おんで、アニメは完全に死んだ。
あの名作、蒼天航路さえ満足にアニメ化できない連中の力量なんて、たかが知れている。
そういうのは三戦とか漫画系の板でやれば良いじゃあないか
なんで急にアニオタやら漫画オタが湧いてんの?
どこでも勝手に話題をねじ込んできて、さっさとくたばってね
>>271 まずどっちも正史ベースじゃないし、もしそういう漫画があったとしても他のところでやってよ
たしか蒼天航路をベースに陳寿って奴が二次創作したものが三国志なんだったな
277 :
266:2013/01/19(土) 23:44:27.83 O
なんにせよレスが増えて良かったよ。
気を取り直して徐庶について話そう。
あいつが曹操陣営でそれなりに出世できたのはやっぱり穎川出身だからだよね?
>>262 日本と中国の暦が作られた地方は気候が全然違うよ。
日本だと立春は1年で1番寒い時期とほとんど変わらない。
日本の多くの地域なり主要な地域で春になるのは、早くて春分から。
最近だともっと遅い感じだけど。
坂井三郎に対する海軍の同僚の人からの評価も、
「列機を1機も失わなかったというけど・・・。列機が優秀だったから」
「腕はともかく頭はよかった」
「明るいが腕は「並み」のおとなしい、目立たない男」
「相手が死んでから昔の上官の悪口を言い出すなんて人間の風上にも置けない」
三四三空では、杉田上飛曹が 「あんなインチキはぶん殴ってやる」 と息巻き、それが隊上層部
でも問題になり、「杉田に上官暴行の汚名を着せるわけにはいかない」ということで、横空に戻る
ことになったが、横空では「あいつが戻ってくるのか」という空気だったとか。元搭乗員の方が
坂井氏のことを良く仰るのは僅かなようです。よく海兵出身の士官の批判をされていましたが、
ご本人が嫌っていた士官よりもむしろ、仲間のはずの下士官搭乗員に嫌われていたようです。
また戦後、大西中将夫人を商売で表に立てて利用したり、某有名戦闘機乗りの海軍の退職金を
持ち逃げ騒動、財団法人「天下一家の会」(いわゆるネズミ講)の広告塔となって元搭乗員を
勧誘したり、そのことが旧零戦搭乗員会を解散させたりなど評判は良くなかったそうです。
なんのスレチだ
保守。
282 :
世界@名無史さん:2013/01/28(月) 13:18:42.73 0
助太刀いたす
保守。
孫権と孫静、孫賁ら親族って当初は対等っぽいよね。
それが孫権を頂点にした体制に変わる契機ってなんだろう?
黄祖戦?赤壁?それとも漸進的な以降?
孫権が孫策の跡を継いだ時、反乱(対等勢力の争い)があったって記述はないよね?
孫策→孫権の権力委譲ってすんなり書かれてるけど、結構重大な出来事だよね。
対等というか、単純に一族の「頭領」である孫権が弱すぎただけ
赤壁からが権力回帰の始まりだね
巨大な脅威の前にはまとまらないといけないという認識ができた
日本でも守護大名で似たようなケースが多い
第4話で敵前逃亡した1年生チームが9話でフラッグ車の
盾になったシーンやバレー部が必死になってチームの
勝利を望んで逃げ回ったところ、JS-2登場時の砲塔の
インパクトなどなど・・・細かな演出を上げればきりが無いです。
もちろん、主人公補正によるご都合主義なのは否定しませんが。
少なくとも、私は頼りなかったメンバーが戦車道を通して
成長していく様子に感動した一人です。
いいアニメですよ、ガルパンは。
孫賁家は多分自分達が一家のあるじだと思っていただろうな・・・
孫策はまだ孫賁に気を遣ってたきらいはあるけどね。
孫権が討虜将軍兼会稽太守になったのが、孫氏勢力の後継者としての公認だったのかな。
だとしたら曹操に感謝だな。
孫策が孫権を後継指名して、宿将や江南名士がそれを守って盛りたてて行ったのが大きいだろう
つまり孫策に大きな求心力があったというのが一番の要因だと思う
崇高なビジョンを持たぬ人間の喜怒哀楽なんて
真の感情には程遠く、それらは感情未満、
本能以上の低劣な反応に過ぎないからな。
孫策の勢力圏って丹陽、呉、会稽が中心だけど、
丹陽は陳禹や厳象など揚州刺史の勢力、呉は他の孫一族の勢力が強く、
事実上自ら切り取った会稽が本拠になってたのかもな。
本人も孫権も太守になってるし。
292 :
世界@名無史さん:2013/02/05(火) 22:17:24.25 0
赤壁を疫病のせいだけにする正史は
逆にあやしい
>>292 呉書の方に疫病以外の理由あるやろ
アホかいな
294 :
世界@名無史さん:2013/02/05(火) 22:51:17.27 0
295 :
世界@名無史さん:2013/02/09(土) 00:14:20.12 O
保守アゲ
話題がない…
三国時代の合戦って一年中やってたのかなあ。農閑期だけとかじゃないよね。
袁紹・曹操共に天下を治めるチカラを有していた。
只一つ、両者にとって決定的に無かったものは、
許攸の才知を発揮させるだけの器量である。
嗚呼 惜しい哉 許子遠
許攸のような古いタイプは
袁紹や曹操のことを「あるじ」とは見ずに
せいぜい「同期の出世頭」くらいにしかおもわなかっただろうな
「役職上は上司だが人となりの格は同じ」とかね
そういうのはえてして後漢の価値観のまま乱世に突入してしまい
結局適応できずに(時代が進むにつれてそういうのは全部粛清された)淘汰されたといえる
荀ケみたいに確信的に抗って粛清されたわけじゃないしね
時勢を読めなかった無能というのは言い過ぎではないと思う
この当時って400年続く、しかも一度滅亡しながら復活した漢朝の存在があって
現代の感覚よりも易姓革命が遠い世界だったろうから
我々の目から見て遅れた価値観に見えるものでも
当時としては一般的なものだったかもしれない。
孔融なんて曹操のことを完全に格下だと思い込んでいたのではないか
とうぜん宦官野郎の孫のくせにwって思ってたでしょ
実際に仕官した年やキャリアを考えると孔融のほうが先輩で格上だからな
孔融は正真正銘、正規の北海太守で早くから名士中の名士に評価されてきた人物だが
曹操は宦官の孫でかなり怪しくつっこみどころがある?州刺史
ただ、曹操の実力を完全に見誤った
禰衡は有吉
>>301 青州とか辺境じゃん。
より中原に近い曹操の方がまだまし。
>>289 孫策は反逆者の袁術と縁切って、ちゃんと後漢(曹操)の部下やってるから、名士に支えてもらえた。
孫権が権力握って後漢との対立を始めたとき、名士たちは総出で反対したわけだからね。
賛成したのは軍人グループと魯粛ぐらい。
>青州とか辺境じゃん。
>より中原に近い曹操の方がまだまし。
貴方の価値評価と当時の後漢の身分差別の現実との遊離
青州の価値なんて後漢にとっては低いだろ
青州は
・人口少ない
・人材少ない
・後漢にとって価値ある土地(漢中とか長安みたいな)でもない
・黄巾がうじゃうじゃ
・文化遺産もない
どう考えても後漢の中での地位低い
で?
>>303 中原じゃないけど当時の青州は斉以来の大都会臨シのある場所でしょ
何でそんな辺境扱いに?
>>309 その辺を根城にした勢力が活躍したという話はとんと聞きませんなw
>>310 活躍しないことと辺境かどうかって関係ないじゃん
益州って漢全体から見れば辺境だけどここを中心に成立した蜀漢があるから辺境ではないと言うつもりかえ?
>>311 益州の人口、人士の輩出ぶりは青州とは比較にならないほど上ですな。
三戦板に帰れw
>>312 そりゃ三国の一つの国家の中心になりゃ人材も出るだろ
青州と益州は面積も違うし
記録が残るところにいた人が一杯いたから益州の方が上て
土地評価としたら全く最悪の頭の使い方ですな
315 :
世界@名無史さん:2013/02/13(水) 09:02:34.17 0
>>314 「記録にはないけど青州は優れた土地なんですぅ」ってかw
316 :
世界@名無史さん:2013/02/13(水) 12:15:32.69 0
318 :
世界@名無史さん:2013/02/13(水) 13:06:41.50 0
後漢書に登場するって青州の事績ってろくなものがないぞ。
青州黄巾が大暴れしたぐらい。
地理的に要衝だったのか袁紹と曹操の間で争奪戦が激しく行われた
320 :
世界@名無史さん:2013/02/13(水) 21:03:04.75 0
>>319 劉備みたいな新人が送り込まれただけだが?
>>318 人口とかそういうのを見ろよ
>>320 新人じゃない
しかも孝廉でも辟招でもない若造のくせに
いきなり県尉から経歴が開始しててありえない出世してる
青州は価値ある地域だろ
なにせ曹操が「あの」臧覇を遣わしたくらいだからな
323 :
世界@名無史さん:2013/02/13(水) 23:21:00.73 0
県尉とか官僚としては下の下だろwww
326 :
世界@名無史さん:2013/02/14(木) 00:08:59.48 0
>>325 県尉経験者で名前が残ってるのは劉備だけ。
袁紹は長男を袁譚を派遣して曹操から逃げた劉備を収容している
329 :
世界@名無史さん:2013/02/14(木) 01:02:03.37 0
英雄記曰 卓父君雅 由微官為潁川綸氏尉
英雄記に曰く、董卓の父である董君雅は、木っ端役人から潁川郡綸氏県の尉となった。
董卓の父親だからわずかでも名前が残っただけ。他の例はまったくなし。
県尉は辛うじて下の中ぐらいの地位だね。
>>326 何でそう思うの?って聞かれたら秩石でええやん
官僚としたら下っ端だけど曹操ですらスタートは洛陽北部尉で似たようなもんなんだけど
>>330 首都の警察署長と田舎の警察署長じゃ違いすぎるだろ。
利権的にも。
>>332 いまのところ劉備のほかは董卓の親父だけしかでてきてないがw
>>331 え?君の主張はそんな下っ端から劉備が経歴スタートさせたからどうだと言うのだ、ってことじゃないの?
「中央政界の勢族の長男」が「孝廉になり」「郎を経験して」それから着く地位と
同格に近い地位にいきなりその前提のない劉備が着くって異常だと思うんだけど?
そして
>>320で主張する「新人」では全くない
335 :
世界@名無史さん:2013/02/14(木) 13:39:00.39 0
ところで孫堅がなったって言う仮の尉は県尉?
後に県の丞になってるから、たぶん県尉。
しかし仮の尉ってなんだ?
仮の尉とされたじゃなくて、仮に尉とされたって読むべきなのかな?
本当はその地位にふさわしくない人に任命する際に
「変なことしたらやめてもらうけど任命するよ」ってニュアンスかと思う
尉クラスの任免権持ってるのって誰だっけ?
建前上は命官なので皇帝、守尉(代行)の場合は太守。
けど、通常は県尉の人事までいちいち皇帝が関与しないよな。
特別に関心がある場合以外は、人事案に承認出すだけでしょう。
後漢末期あたりだと、だれが人事案作るんだろう?
守尉も、実質は功曹が決めるときもあるんだろう。
ちなみに守尉→正規の尉と言う昇進人事は通常はあり得ない、
少なくとも通例ではない。(大庭修氏)
もっとも後漢末みたいな乱世はまた別だろうけど。
>>307 後漢の青州出身者
(後漢〜三国)
国淵(九卿)、太史慈、華キン(漢尚書令、魏三公)、王修(九卿)、王基、孫乾、孫邵(呉丞相)、滕胤(呉丞相)
(後漢のみ)
欧陽氏(欧陽尚書を伝える一門)郎(京房易の大家)鄭玄(中国儒教史上最高クラスの重要人物)、
牟融(司空)、孔融、劉岱、劉ヨウ、劉寵(三公)、劉勲、管寧
あと外戚伏氏の封国は青州にある
大ざっぱにみてこれだけ大物居るのに人材居ないってどういうことよ?
まさかネットでよくある、反乱頻発などの乏しい証拠で学術的な定説をひっくり返した気になってる
一部個人サイトの大袈裟な仮説とかを信じてないよな
>>341 でもみんな青州のためには働いてないというw
>>342 劉徹の時代と違って本籍地回避徹底されてるんだから青州に関われる訳ないだろ
>>341 多少見るべきところがあるのは認めるが、悲しい辺境国家の踏ん張りに過ぎないと思う。
>>344 そもそも黄巾の活動が存在すると言う時点で辺境とは言い難いが
黄巾は冀州や予州、荊北と言った都市部が中心の都市型の反乱だからな
いわゆる黄巾の乱と青州黄巾って別物では?
張角が指導した黄巾は、豫州と荊州と冀州が基盤だから、確かに都市部の反乱に近い。
303 :世界@名無史さん:2013/02/12(火) 20:56:26.76 0
>>301 青州とか辺境じゃん。
より中原に近い曹操の方がまだまし。
この論がそもそもアレすぎるだろ
これをもとに青州がどうこう話してもバカバカしいと思う
確かにw
ド田舎の交州のどっかの太守だろうと正規の太守と
怪しげな経緯で就任した中原の州刺史では
前者の方が格上じゃないの?
怪しいか怪しくないかはともかく、戦乱期の現地推戴の州牧と
太守だと、純粋な漢朝内の格では後者の方が上ではあると思う。
ただし個人的に孔融は蜀での評判も悪かったようだから、
名士内の風評については一時期以降急速に悪化させたのではないかとも思う。
多分禰衡との(従来の儒教的価値観からは外れる)対談が漏れ聞こえ始めるのを皮切りに。
× 太守だと
○ 正規任用の北海国相だと
あくまでも、中央における形式的な格の問題ね
354 :
世界@名無史さん:2013/02/21(木) 02:54:12.16 0
諸葛亮はなんで勝ち目がなさそうな北伐を繰り返したんですか?
勝ち目はあったよ
一回目で成功してれば繰り返す必要も無かったし
諸葛亮の命令に背いて街亭を失った馬謖が悪い
356 :
世界@名無史さん:2013/02/21(木) 06:46:14.30 0
後詰に諸葛亮の本隊がいただろ。
何で援軍を突っ込まなかったの?
>>355 馬謖指揮官に任命してた諸葛さんが(ry
358 :
世界@名無史さん:2013/02/21(木) 20:55:36.60 0
街亭取られたら作戦全部終わりなのに、なんでそこで帰っちゃうんだよ諸葛亮は
取り返しに行けよ
取られて終わったから帰ったんだろw
360 :
世界@名無史さん:2013/02/21(木) 21:16:59.83 0
張コウが手勢だけで街亭まで出てきてるんだから、むしろ討ち取るチャンスだぞ。
馬謖をエサに敵の大将を釣り上げたのに、なぜそこで決戦を挑まないのか。
>>360 何のために「先鋒」を送るのかもう少し考えましょーね
>>362 何のために先鋒を送ったのか?
遠すぎる街亭抑えて何の得がある、っていうか戦力的に抑えられるのか。
>>363 わかってないなら批判する資格ないからもう少し考えましょーね
>>364 正史のどこに諸葛亮が街亭を押さえた理由が書いてあるのかw
>>365 はぁ?
諸葛亮が街亭に送った理由なんてハナから問題にしてませんが?
本隊と先鋒を別に移動させる理由というのを知らないならおべんきょしましょーね
>>367 先鋒というものが何で本隊と別個に動くかもう少し考えましょーね
「なぜ先鋒を送ったか」じゃなくて「本隊と先鋒が別に動くのはなぜか」ということだよ?
第一次北伐の場合は先鋒本隊というよりも
隴西各地の制圧に蜀軍が分散してて
街亭へ向かった部隊は隴西制圧の時間稼ぎ
または魏軍反攻の際に隴西各地へ向かった部隊の集結を待つための時間稼ぎでは?
亮使馬謖督諸軍在前とあるから先鋒にはしたんじゃない?
その企図がどこにあるかは想像するしかないけどさ
しょーねクンは実に馬鹿だなw
諸葛亮の人物は、おまいらよりは上だから、心配すんな
「仕掛け爆弾入門」
「みんなで作るIED」
「お得!なんと材料費1万円で1億円の装甲車がぶっ飛ばせます!」
375 :
世界@名無史さん:2013/03/02(土) 00:23:21.87 O
保守
377 :
世界@名無史さん:2013/03/04(月) 14:18:46.74 0
張飛が殺されたのって別に部下に無理な命令したからじゃないんだね
やはりネットのこんな末端の末端で情報探すよりちゃんと原典にあたるべきだね
でも平凡社のしか無いんだよな・・・
中華書局のがあるだろうが。
白文読めないならちくま学芸文庫から日本語訳が出てるぞ。
張飛が部下を残虐に扱ってたのは事実だし、呉討伐の直前に殺されてるから、
演義のように無茶な命令を出したことが原因となったのは十分に考えられることだと思うが。
張飛ってちゃっかりしてるよね。
娘を次期皇后にしちゃってるし。
張飛が殺されたのは部下に無理な命令したから
381 :
世界@名無史さん:2013/03/04(月) 16:50:47.67 0
つうか。
呉の工作じゃないのかな?
382 :
世界@名無史さん:2013/03/04(月) 17:03:15.73 0
元々暴力癖があった張飛が、部下に恨まれて殺されただけ
あ
張飛が生きていたら
黄権の代わりに別働隊を率いることになって黄権は劉備直属になったであろうか?それとも主力を任せられて史実では抜けなった孫桓を撃破することになったであろうか?
すくなくとも黄権か張飛のどちらかが劉備の側にいて同じ火計による大敗というのはありえなかっただろうな。
そもそも張飛は長い対峙のあとに張コウの軍が「長く伸びきって連携が疎かになった状態」であることを看破したのか、それともそうなるよう仕向けるようにしたのか、どちらにせよそれを攻撃して破った将帥だから劉備が同じような状況になったら違いなく制止するはず。
たらればNo.1は「法正が生きていれば」なんだろうが、
張飛や黄権が劉備の陣立てに意見するのは考えにくいかな。
黄権は実際ケチをつけようとしたけど、支作戦に回されて発言を封じられたし、
張飛はイケイケドンドンだろう(正史厨でも張飛が前線に出ず、参謀の役割を担うのは違和感があるのでは?)。
何より関羽の弔い合戦は心情的に張飛・劉備が担うもので、黄権が何を言ったところで無駄だった。
張飛が例え生きていたとしても曹丕にpgrされる程度の陣立てて敗北は必然かと。
曹丕に馬鹿にされたってのが残念の極みだよね。
戦の実績ほとんどないくせにベテランに向かって何を言ってるのかと。
頭は良かったんだろうけど、皇帝じゃなきゃ諸葛カクみたいな扱いだったんじゃないか曹丕。
いや、大好きなんだけどね。
馬鹿にされることやったんだから仕方ないさ
ベテランに向かって何を言ってるのかとって言っても
実際曹丕が正しかったんだし黄権が正しかったんだし
仰る通り
スレチだろうけど
ここの人詳しそうだから、あえて
晋メインに扱った本あったらタイトル教えてくれませんか
晋書だね
スットコどっこいな馮習張南に任せたのは失敗だが
ちょっとこのスレの識者に質問させて下さい。
「曹操が最初は袁紹の部下で、曹操が袁紹を裏切って戦争を仕掛けた」
という説をネット上で目にしたのですが、これは本当なのでしょうか?
もし本当なら何で三国志ではそう書かれないのでしょうか?
ご教授よろしくお願いします。
>>393 某板の某スレの流れか
基地害の妄言だから気にすんな
>>394 いえ、個人のblogからです。
よければその某板の某スレをご紹介いただけませんか?
非常に興味のある説なので参考にしたいものですから。
別にそんなに奇抜な説でもないので、そんなに気にしないでいいよ。
「是非はともかくまあそんな風に解釈するのはわかる」程度のものだから。
「三国志で書かれない」って二次創作のこと?上記の説も正史の解釈だから、そういう意味では「三国志に書いてある」。
二次創作は詳しくないが蒼天航路とかそんな感じじゃなかった?
>>393 マジレスすると、献帝を保護して袁紹との仲は一気に破綻したんだろうな。
袁紹は打倒唐卓軍(=献帝の即位を認めない)の盟主だったし、更に劉虞を
立てようとした(当時部下の曹操が反対して実現せず)わけだから、献帝の
保護が許せなかったんだろう。これを袁紹が裏切りと表現してもおかしくない。
また、名士の意外に多くが袁紹を支持し、袁紹と運命を共にしたことから
(その中には、荀ケの弟や郭嘉の兄などもいる)必ずしも袁紹の戦略が間違って
いたとは言えない。
だから「部下」という定義が
・体系的な命令系統の有無
・人事・任命権の実効力
だとしたら
曹操は一度足りとも袁紹の部下になってないって
袁紹は一度たりとも曹操と曹操勢力下に対して任命権限を発揮したことがないし
曹操を自分のシステマティックな命令系統の中に入れることはできてない
精々「格が落ちる盟友」程度
直江兼続は上杉景勝の「部下」だが、徳川家康は織田信長の「部下」じゃない
>>398 訂正
>袁紹は一度たりとも曹操と曹操勢力下に対して任命権限を発揮したことがない
東郡太守の際は影響力を発揮したが、翌年には曹操は自分の力でローカル勢力の支持を得てエン州牧と自称しているから
やはり曹操は袁紹の部下ではない
曹操が袁紹の部下でなく、勝手にエン州を乗っ取ったなら、敵だよ。
自分の息のかかったエン州牧を送りつけて、曹操を追い出さないといけない。
が、そんなことはまったくやっていない。
>>397 劉虞擁立に失敗したのは曹操の反対じゃなくて劉虞本人の拒否が原因だろう
>>399 後漢書で後になって曹操をエン州牧にしたのは俺、と袁紹が上表してるし自称じゃないでしょ。
部下って言葉の定義次第だけど、
少なくとも格下の同盟者とか、影響下の人物、
まあ簡単に言うと弟分子分であった時期がある、
そこまで否定できないでしょう。
曹操本人の意識はともかく、世間はそう見てる。
袁紹側から見れば裏切りと見えるのは当然。
393です。
皆様ご返答どうもありがとうございます。
今まで三国志は正史を含めて創作物などもいくつか読んだのですが、
曹操が袁紹の部下だという説を先日初めて目にして驚きのあまり質問させていただきました。
色々な見方があるのだということが良くわかりました。
頂いたレスをもう一度しっかりと調べて自分なりの答えを出して行こうと思います。
>>404 劉備は袁紹の部下だとか、孫堅は袁術の部下だというか
呉は豪族連合政権だとか、諸葛亮は戦が下手だとか
劉備は偽善者だとか、劉備は戦が下手だとか
他にも珍説を唱える人間もいっぱいいるから注意してな
>>405 >劉備は袁紹の部下だとか
官渡の戦い前後に限っては事実。それ以外でいうのは変だが。
>孫堅は袁術の部下だというか
え?間違ってる?
>呉は豪族連合政権だとか
これも一面ではあるだろうね。全部ではないが。
>劉備は戦が下手だとか
講談を読む限りは事実、と言うだろうね。実は意外に多いけどね、劉備の勝ち戦。
>>406 勝ちまくりだろ
印象的な負けがあるからやたら負けてる気になるだけでさ
曹操後半生の黒星の内二つは劉備絡みだし一国の皇帝になるだけのことはあるよ
劉備が戦った頃の袁術は、揚州を制圧し終え、孫策や周瑜のような強い武将を従えたスーパー袁術様だ。
赤壁で戦った時期の孫権+αの勢力を持っていたということだ。
劉備が勝てないのも当然だ。
>>408 ありがとうざいます。
明日ゆっくり読んでみようと思います。
はーいっ
三戦のノリをこっちに持ち込まないでくれよ
晋書を見ていたら、蘇峻の父が安楽相って出たけど、
つまりは劉禅一族の領地を治めていた長官ってこと?
妙なご縁だな。
袁譚と袁尚
曹丕と曹植
なんで仲悪いんだろ
逆に仲の良い兄弟の方が思い付かない。
曹爽兄弟とか仲良さそうな勝手なイメージ。
名前からして爽やか
古代中世においては兄弟なんて敵であることの方が多いよね
権力者の家に生まれた兄弟は取り巻きが仲を悪くさせるからしゃーない
一触即発の後継ぎ争いを混乱させたまま親父が死んだ割には曹丕は曹植殺さなかったんだから慈悲深いくらいだ
普通なら殺しちゃうとこだよ
曹丕は献帝も殺さなかったし慈悲深いよ
その慈悲を受けられなかった奴もいるんだよなあ…
ウキンがヘマこかなかったら、魏が関羽をやっつけて荊州ゲット→三国時代終わってただろ
孫権は藩臣になりますと申し出てきていて、魏が荊州を取れば、もはや残るは劉備だけ。
蜀攻略に全力をかけて三国志終了、統一王朝魏誕生。
曹丕は苦手な戦争もせず、皇帝として優雅に文化政策をやっていただろう。
それをすべてぶち壊しにした張本人
甄氏殺したから許せん奴
甄氏は殺されてないがな
殺したようなもんだろ
師と昭の兄弟も数代後の子孫達があそこまでむごい殺し合いをするとは思わなかっただろうな
八王で最初に消えたのは師昭兄弟の弟だったな
本来なら司馬家の当主になるはずで実の兄貴より優秀だった攸ちゃんが皇帝になってれば・・・
434 :
世界@名無史さん:2013/03/18(月) 09:12:12.69 0
曹丕が冷酷とかいってるやつらは、
あのとき荊州を失って孫権を優遇しなきゃいけなくなったことで、
三国鼎立が完全に成立してしまったということをどう考えるのか。
怒るの当然だろ。
曹丕批判ばっかり目立つけど、于禁への批判がないのはなんか変。
だって、どう考えても于禁が負けたせいで、三国志になってしまったわけで。
曹操だって于禁をばっちり批判してるのにね。
于禁の忠義だの晩節だの、曹丕の非常だの残酷だの、そういう論争で真実が隠されているのではないか。
陶筰は知らんけど「元本」は元朝の大徳年間のことでは
司馬光が言うには
責任とらせるならさっさと殺ってしまえば良いのに
許すと見せかけて手の込んだ仕掛けで恥を掻かせるなんていい大人のやることじゃない
冷酷は違うかもしれないけど、なんか陰湿というか陰険というか。
クルルみたいな。
439 :
世界@名無史さん:2013/03/18(月) 20:30:49.61 0
>>438 父親の曹操譲りだろう
謀殺してないだけむしろ慈悲深い
こりゃほぼ謀殺だろ。親父の曹操だったら斬殺だろうが。
曹丕は冷酷じゃないっていう擁護は他所でも見たことあるがなんでなんだろう
仮に冷酷じゃなくても性格悪いと思うんだけど
流石に慈悲深いとかない
まずどの辺りが性格悪いと思うの?
>>441 殺さないと王朝が危ない曹彰でも罪をかぶせずに謎の病死で片づけて彼の名誉を守ったし、後ろだてさえ消せば殺さなくてもどうにかなりそうな曹植は殺さずに済ませた
テンパランス戦の承太郎並に慈悲深いよ
殺してたら西晋の八王の乱が魏の時代に起きていた
圧倒的に兵権が足りないので起きません
毌丘倹や諸葛誕のような将軍が皇族を担いで反乱起こして呉や蜀と結んだと仮定
>>446 どんな仮定でそんな妄想に至るんだよ
前提が違うだろ
二人とも司馬家との確執で反乱に至ってる
ちょっと無理がありすぎる
そして魏建国当初の軍権て物凄い勢いで曹氏夏侯氏が握ってるから
そう簡単に外様が皇族かついで反乱とか起きんぞ
華佗を殺しちゃってから後悔した曹操の方が、
なぜか陽性な感じがするのが人間の微妙なところ。
449 :
世界@名無史さん:2013/03/19(火) 22:25:31.90 0
于禁は実は後漢支持者で、禅譲を認めない立場だった
しかし、魏に帰ってみれば、曹丕が禅譲によって皇帝になってしまっていた
曹丕に会って、後漢が滅んだ原因が自分の敗北にあると気づき、後悔のあまり病気になり、死んだ
だって、于禁が関羽を討てば、孫権が自立することもなく、劉備が残るだけだったから
ストレートに後漢が天下統一できたはずだから
ひょっとしたら漢臣としての抗議の自決だったのかもしれない
だから魏の臣として祭ってもらえなかった
>>433 そのページだと後漢書を根拠にして、陶謙は余姚県の人と記述してるけど
後漢書の注に引く吳書では、陶謙の父は故餘姚長であるから、余姚県出身ではないんじゃないか
三国志でも後漢書でも陶謙は丹陽の人であると記述されており、
三国志集解では、これは丹陽郡丹陽県の人なのであると解説している
>>435 于禁が負けたから三国志になったというのは意味不明
>>443 曹彰の死を暗殺とする根拠はない
あと八王の乱をよく知らない人間が多いと思う
八王の乱の前半はただの(?)中央政変の連続なので、これは魏でも呉でも何度も起きたこと
八王の乱の後半みたいなのは、意志薄弱の皇帝がいるのが前提なので
曹丕・曹叡が存命の間は起きない
452 :
世界@名無史さん:2013/03/21(木) 19:54:55.37 0
>>451 于禁が勝ってれば、荊州を拠点とした蜀攻略が可能になる。
荊州→益州はかつて光武帝が公孫述を討つときに使ったルートであり、
蜀の天険に突っ込むより簡単に蜀を降せた。
後漢が健在のうちに統一できるのだから、魏国へ禅譲する意味がない。
>>452 ならない。
于禁は水没しただろ?船持ってないんだよ。
樊の曹仁は救出可能だが襄陽は救えない。
>>451 世説新語でははっきり毒殺と書かれてるよ
それを信じるかどうかの問題はあるが、根拠はないというのはただの不勉強
関羽が水軍を引き連れてきているのに、なんで曹操軍は水軍持ってないんだよ
曹操は赤壁で持ってた艦船を(といっても元は江陵にあった旧劉表のだが)ほぼ全て焼いたor焼かれ、
更には大型船の新造などの余裕はおそらくなかったであろうが、
もともと関羽は襄陽の艦船を掻っ攫って逃げた上に新造の余裕は普通にあった、というか地理的に不可欠であった。
三国時代の「戦闘船の建造」の費用と難易度は十分注目に値する対象だとおもうが、
何故か大抵の人は船くらい直ぐ造れると思ってる節があるんだよなw
>>457 曹操軍に水軍がないはずがないだろ。
濡須口の戦いで、孫権は降伏を申し出るほどの苦戦をしてるんだから。
水軍なかったら孫呉はここまで追い込まれなかったはず。
何処の話してんの?
淮水水系の船の話と、漢水の船の話に何か関連が?
>>459 >淮水水系の船の話と、漢水の船の話に何か関連が?
なんで淮水の水軍は用意できたのに、漢水の水軍は再建できなかったのか?
北荊州って経済力に優れたところなのに。
南荊州の関羽ですら水軍を用意してきたのに。
>>460 反乱起きる程に苛斂誅求を極めてたのにその経済力のカタログスペック通りに行くとでも?
>>461 苛斂誅求も淮水方面のほうが激しいじゃん?
袁術がやってきて無茶苦茶やり、
その後は孫策・孫権と不服従勢力との抗争が何年も続き、
次は赤壁。
以降、淮水では曹操と孫権の衝突が繰り返された。
戦闘が続いていた期間が長すぎる。
荊北水軍の拠点は襄陽と樊城にあったんだろ
樊城の包囲を解けば、その水軍をつかって渡河できるのだし
樊城を解放するのに水軍は必要ではないだろう
>>455 世說新語の曹彰毒殺の話の末尾にはこうある。
太后曰:「汝已殺我任城,不得復殺我東阿。」
曹植が東阿王になったのは曹丕死後だから、与太話だろう
>>462 淮水方面の船って戦艦じゃない。許昌から潁水系の船に兵を乗せてさらに淮水に出たという記述。
これらの川に戦艦はない。というか、長江ほどの水嵩も幅もないので「川で船にのって戦闘する」という概念がない。
そもそも記述が出てきたのは、曹丕が蒋済に船の回送を命じた222〜223年。
おまけに曹魏は濡須口に船で陣取ったという記述はない。というか、この方面は陸戦。
>>462 じゃ、どっちも疲弊してたから船建造できるような経済力がない、で終わりだろ
「どっちが疲弊していたか」なんて問題じゃない、どうでもいい
「どこが疲弊していたか」というのが大事
黒海北岸の諸部族をスキタイが隷属させていたなら
ペルシャ軍の侵攻においてスキタイに叛旗を翻し
ダレイオスに協力するはずだが傍観する姿勢の部族はいても
積極的にダレイオスに協力する部族は現れなかった。
夷陵の時の五溪蛮の話か?それともただのスレチか?
誤爆でしょ
王チョウ伝を読めば荊北の水軍の実情が分かる
話ぶった切って申し訳ないですが、後漢末の頃に強兵とされたのは
丹陽兵とか涼州兵あたりですか?
三国志に関連する書物持ってないので、良ければ教えて下さい。
呂布や張遼がいた幷州兵も強そう
>>471 関連する書物を手に入れてからまた来て下さい
>>471 煽りとかでなしに三戦板の方が食いつきいいと思う
476 :
世界@名無史さん:2013/04/06(土) 00:06:35.39 O
保守
477 :
世界@名無史さん:2013/04/08(月) 14:39:10.92 0
あんた等の議論は素晴らしい、恐らく2ちゃんねる内でも飛びぬけた情報量を
このスレは持っている、だがここの議論を世の中に還元する気は無いの?
俺などは正史三国志、魏晋代の詩、詩経を読んで不覚にも素直に泣いてしまったのだが
内容以前に文章が美しすぎて
魏晋代の詩と詩経とでは、えらく時代が離れてるんだが
479 :
世界@名無史さん:2013/04/08(月) 16:22:35.53 0
詩経の時代と魏晋代には連続性がある
青き衿つけたる人よ ひたぶるに慕うはわが心
という曹操の詩の一節は詩経の引用
ここ急激に過疎ってたんだな、じゃあ魏晋詩が現代文学の誰と比べられるか
ぐらい書けよ、俺はカフカかドフトエフスキーだな
何故なら言ってることが同じ厨二っぽいからw
現代人でも詩経から引用するが
482 :
世界@名無史さん:2013/04/10(水) 19:36:37.03 0
じゃあ詩経はいいよ、魏晋詩でも泣いたし、三国志も文章十分美しいし
泣いたといってもやはり厨二臭いがなw
曹操の一族は、みな一流の文人で
名文を残してる
皆、ではない
三人しか知らない
テスト
487 :
世界@名無史さん:2013/04/14(日) 17:50:34.86 0
てか、一族で3人も出してれば充分。
天津人民美術出版社の「洛神賦図」もってるが長すぎw
490 :
世界@名無史さん:2013/04/15(月) 09:30:15.88 0
>>488 人生いくばくぞ、去りし日ははなはだ多し
って太宰治かとw
曹ヒ、曹植は女に託して心情を表現してるし、ますます太宰治w
かんかんとつれなくみさごは河の州に
たおやかのよき乙女こそよき人のよきつれ・・・か
なんと軽やかな詩であろうか、この詩風、伝道の書を思わせる
太宰治の批判は、そこまでだ
浮萍偏が好き
孫皓の帰命侯は名号侯だって説もあるようだけど、
それだと随分劉禅より格が落ちるな。
なんでだろう?
県公>開国侯〜男爵>県侯〜亭侯>関内侯>名号侯
暴君として名高い&9割がた統一完了してる状態で最後になってやっと降伏したような奴にそんなに高い地位をやる必要はない
孫皓と司馬炎が絡むエピソードは劉禅より多い
たぶん個人的に司馬炎が優遇していたのだろう
>>485 曹操曹丕曹叡で三曹にかぞえられることもある
ほぼ同時期に全滅する建安七子の面々
だから建安○子と云う
甄氏の裸?を見た劉禎は死ね
そういえば曹丕が嫁さんを宴会に出した事件、曹丕自身は曹操に怒られたの?
それは不明だな
>>497-499 詩を残した凄い、だけじゃなくて内容にも踏み込めよ
現代文学との比較とかさ、俺はこの時代の文学は戦前の日本文学と似てて
それでいて日本には負けてると思うが
>>500 それ陳寿の三国志に載ってんのか正史に載っていなければ語る価値は無いな
>>496 孫皓の詩もいいよな
昔は汝と隣為(な)り 今は汝の臣為り
汝に一桮(いっぱい)の酒を上(たてまつ)る 汝の寿を万春ならしめん
やはり太宰治的だが
505 :
世界@名無史さん:2013/05/09(木) 19:40:37.68 0
三国志板でやれアホどもが
三国に分裂してるほうが中国人にとって一番ちょうどいいと思うのだが
もちろん荊州は蜀政府の領土で
>>506 よりポピュリズムに走って三国が競って反日行動するから
まとまってた方がありがたい
まとまりながら少数民族が独立して分解してく方がいい
例えば台湾は中国の分国だが、
現在は北京政権に対抗するために国策としては親日だろ。
同じように三国に別れてお互いに脅威を感じ合ってたとしたら、
魏は反日でも呉はそれに対抗するため親日とか別れてたんじゃないだろうか。
>>508 じゃあもう一方の反日する側はより過激な反日になるってことでもある
ってか考えてもみろよ
中国人が三分割されたとしてあいつら核持って睨みあうんだぞ?
どうなるかわからんじゃないか
キチガイに刃物
最近の政府見てると、外交の大変さと大事さが良くわかる。
三国志世界でも外交の成否で人物が評価されてるしね。
激しくスレチなのは自覚してる。ゴメンね。
孫子も戦争とかなんとかの前に敵を作るな、
と縦横家でもないのに外交の重要性を説いていたぐらいだからな
512 :
世界@名無史さん:2013/05/15(水) 20:05:57.14 0
>>511 孫子には兵站の概念がない
孫子の兵糧調達法は「敵から奪え」w
>>512 概念あるが
読んだことないの白状しなくていいから
>>513 兵士1万人を養うには穀物○○石、輸送に牛車××台が必要という基本的なことが書いてない
人間が食べる量なんて基本的に変わらないのにね
孫子はそういう具体的なデータを挙げて、
具体的な行動について述べている本じゃ全然ないんだが。
>>514 孫子曰、凡用兵之法、馳車千駟、革車千乘、帶甲十萬
千里饋糧、則内外之費、賓客之用、膠漆之材、車甲之奉、日費千金、然後十萬之師舉矣
はい、兵站の概念
孫子の論旨は兵站は大事だけどそれまじめに全部自分で費用負担すると死ねるから
とっとと戦争終わらせるか、継続するにしても極力敵から略奪して自分の財布の負担は小さくしましょうというもの
この略奪しろってところだけ読んで孫子は兵站の概念がない!とか言うアホは死んだほうがいいと思うよ?
いや孫氏信者には悪いが、孫氏は非常にミクロなレベルで戦争を語ることで
マクロ的なことに対応してるから結構穴があるんだよね。
兵站もその一つで、孫氏に兵站についてのまともな概念はないよ。
行間まで読まなくても兵站が必要不可欠な状況についての言及はないなんて素人でも分かる。
孫氏は、「古代ローマ軍のような兵站が必要なような戦争はするな」が答えとなってる。
ただこれ自体は、間違いじゃないし、孫氏アンチが言うような孫氏欠陥論の論拠とはならないけどね。
孫氏自体も「兵站作れればいいけど、そんなの無理でしょ?」
「兵站が必要な戦争=長期化=下策」って事で
兵站構築の選択は、まず始めに除外しているだけで兵站自体は軽視はしていない。
ただこれじゃあ必要な場合どうすんの?って話に対応できないし戦う場合選択肢が限られるわけだ。
そもそも同時代に、ノスタルジックを完備することで、戦争を勝っていた同等の文化レベルの国があるわけだから
強力な兵站を構築することで、勝利を得られるのも一つの答えで、状況によっては孫氏が放棄した選択肢も大正解なわけ。
なんでニワカ的な孫氏信者が否定する兵站重視の戦い方も全く間違っていないってこと。
>>517 ノスタルジック?懐かしさで戦争に勝つの?
輸送の事言いたいならロジスティックとかだろ
あと孫子信者とか意味わからんこと言われても困惑するんだが
孫子読んでない奴が難癖付けてるけどその難癖が間違ってるって指摘してるだけだろ
そもそも兵站重視の戦い方が間違ってると主張してる現代人はここにはおらん
正史三国志には輸送と輸送路の確保について結構記載があるしこのスレにいるような連中は
皆大事だってわかってるよ
言葉も知らないようだし、誰も主張してない事まで勘違いするってのは知能が疑われるから
素直に一回退散して本を読んだりして勉強し直すことをおすすめするよ
是故軍無輜重則亡、無糧食則亡、無委積則亡(軍争篇)
だから軍は輸送がなければすぐに負ける
食料がなければすぐに負ける、軍資金がなければすぐに負ける
凡火攻有五、一曰火人、二曰火積、三曰火輜、四曰火庫、五曰火隊(火攻篇)
およそ火攻には五種類があって、一が兵の焼き討ち、二が屋外物資の焼き討ち、
三が輸送物資の焼き討ち、四が屋内の焼き討ち、五が輸送部隊の焼き討ち
このように物資や兵站の重要性を説きつつ
相手の兵站を破壊しろと説いており孫子には兵站の概念がしっかりあるよ
520 :
世界@名無史さん:2013/05/17(金) 19:32:33.02 0
ノスタルジックわろた
一番兵站に熱心だったのは曹操だな
曹操の計算だと送った量の5%くらいしかたどり着かないのが兵站の現実らしいけど
そのせいかあれこれ工夫してたな
>>519 >是故軍無輜重則亡、無糧食則亡、無委積則亡(軍争篇)
>だから軍は輸送がなければすぐに負ける
>食料がなければすぐに負ける、軍資金がなければすぐに負ける
食料を確保して輸送して配分するために何が必要か、どうやれば効率的に輸送できるのかとか、具体的なことは教えてくれない。
一般論過ぎる。
孫子を真に受けたバカエリートがそのまま軍を指揮するから、中国の戦はみんな餓えまくりなんだよ。
貨殖伝でも読んだほうがまし。
>>522 当たり前じゃん
孫子ってそういう現場の仕事を指南する書物じゃないんだから
万能の書物だと思ってるならそいつが低脳過ぎる
>>523 戦争でもっとも重要な兵站に関する記述が一番いい加減とか、孫子は戦争をなんだと思ってるんだ?w
謀略考える前にやることあるだろ。
>>524 戦争で最も重要なのは兵站じゃなくて外交
そこんところ勘違いしてるから話にならんのだな
>>521 確かに任峻とか夏侯淵とか、兵站任務の記録が残ってるな。
劉備のところは諸葛亮がいるし。
孫家はどうだったんだろう?
>>526 物資横流しで儲けてる奴がいたりしてどうも適当な印象受けるけど
横流しできるだけ物資をしっかり集積して分配してるので起こる現象かもしれん
その場合はやっぱり結構兵站しっかりやってたんだろうなぁ
戦争で兵站が最も重要で、それがなきゃ絶対に死ぬなら
どうして洋の東西を問わず、実際に補給が自前で賄えるようになったのは
WW1ぐらいからなんだ?
それ以前は兵站が完全に出来ないから戦争を自分からは起こさなかったのか?
違うだろ。
補給はある程度で、後は略奪で賄えるから
補給が完璧に出来なくても戦争起こしていたんだ。
現地調達の略奪が基本の時代でも
そっちの方が効率がいいし楽だからそうしていただけで
兵站の概念はある程度が略奪の時代からでも存在していたんだよ。
そもそも戦争の主たる目的自体が略奪という場合がけっこう多いわけで、
すると、この場合はいかに効率よく略奪し続けるのかということ自体が
戦略ということになるのではないか。
>>525 外交力がなくても兵站が続く限り戦えるが、
食料がなければ外交官も餓えて死ぬわw
>>530 戦ってどうするの?
戦争ってのは目的があってその目的を果たすためにするものなのに
最終的に外交で終わらせなきゃどうしようもないじゃん
戦争のために戦争を続けるって話だな
普通戦争なんて特に開始前は戦略目標を果たすことを考えて起こすのに
外交官とかある程度の特権階級も飢えて死ぬレベルだと
北朝鮮以上の劣悪な食糧事情ってことで、
歴史的なウクライナのホロモドール以上に酷いんだが
>>531 弱小国の天才外交官が舌一枚で情勢をひっくり返した例はあまりにも少ないが、
補給の潤沢な国が戦争で勝った例はごまんとあるだろうw
>>533 は?
潤沢な物資の国が戦争で勝った時に外交してないというのであればそれでいいけどね
してるから
ていうかスレ違いなんで
三国志に関係ない話が続くならよそでやれ
質問スレにも書いたのですが三国志時代の教育水準は宋代にも匹敵すると
おもうのですがどうでしょうか
537 :
世界@名無史さん:2013/05/19(日) 19:44:14.85 0
いくら孫子が「食料は敵から奪え」といったって、もう三国志の時代には適応してない。
なんで曹操があれだけ必死こいて軍屯やったのかと。
まあ敵の食料を焼くのはよくやってたけどな。
五胡以降はまた略奪の時代に戻ったけどね
出土した呉の戸籍が有るらしいけど、
それには爵(民爵)とかって記載されたの?
>>537 やはりそれこそ教育水準の高さを表明してますよね
それだけ三国志時代のモラルが高かったと
五胡以降は本当に清まで略奪ばかりですからね
>>540 モラルの問題じゃないよ
三国時代は生産力が低下してて略奪で補給なんて真似出来るほど民力が高くなかった
そこまで生産力が落ちていた時代とは思えませんが
民力が低いならあれほど文化が栄えた理由がわからない
衣食足りて文化も栄えるものではありませんか?
貧しかったのはむしろその後の時代でしょう
なぜ貧しかったかといえばイデオロギーの調節が下手だったため
三国志時代の文化ですが、中国には史上6度の文化変革が起こったのですが
その内二度、この時代に起こっているのです、建安期と太康期
この時代の文化水準はもっと高く評価されてもいいのではないですか
この時代をよく調べると後世に与えた影響は想像以上に大きい
仏教の導入期でもある、曹植が仏教を中国的に解釈することに
異議を唱えているし、この時代はそこまで仏教理解が進んでいた
>>542 あんたが思うのは自由だけど農村の逃散や大量の疎開、移民は三国時代初期の特徴
こんな状態でまともな民力が残ってると思い込んでもしょうがないだろ
文化が繁栄は為政者の趣味、それから正統性の弱い簒奪王朝が文化で権威を勝ち得ようとしてるだけだ
そもそも同じ地域で連続して戦う場合や、
自分の領土を横断する時の解決にはならないからね
徴発に時間を食えば迅速な移動も出来ないし、飢饉もある
孫子が「一たび将軍として任命を受けた以上、陣中にあっては君命でも従わないことがある」といったのは、シビリアンコントロール軽視ではないか。
軍隊が暴走したら誰にも止められなくなる。
それは真面目に言ってるのか?
>>545 移民は中国史全体の特徴でしょう
三国時代がほかの時代と比較して多かったとは思えない
権威づけのためだけに文化が栄えるのだとすれば五胡の時代に文化が栄えなかった
理由がわからない、やはり三国時代は特別な時代なのでは
>>549 五胡は別民族の歴史だろ
南部に割拠した漢民族王朝は相変わらずだし
ただそれ以前の文化が集積されていた北部が占領され
動乱の中でそれ以前の時代の文献や石碑など多数が失われ
途絶とまではいかないけど大きな断絶のような時代
三国時代を特別に思いたい気持ちはわかるが、別にそうでもない
「中華」の崩壊直前の時代だから崩壊後と比べると何となく特別に思えるだけ
別民族ならばなおのこと権威付けが必要では?
そして中華が崩壊して現代ですら回復してるとはいいがたいでしょう?
ということはやはり三国志時代が文化の最盛期では?
多分に文化のうち詩文や変革ってのばかりに注目しすぎ
確かに後漢末〜晋初は詩文の変革期の一つだし清談の流行期であって
文化面で着目されるべき重要な時代の一つだけどね
さらなる洗練や発展・継承も文化の要なんだし
そういうところは社会の繁栄・豊かさがモノを言う
唐・宋の詩文の充実とか、宋や明・清の大衆まで巻き込んでいく文化とか
これらも同じく「あれほど栄えた文化」なんだぜ
文化が権威付け〜は言われたことに返してるだけだろうけど、
五胡諸国はどれも短命で安定していないので上流層でさえ文化どころじゃない
それと胡人たちが最終的には漢文化の継承者になっていくので
彼ら自身の文化が見えにくくなっていったというのもあるだろうね
(仏教とかは元々は彼ら寄りの文化だね)
安定を勝ち取った後の北魏の文化人は漢文化の復興に力を入れている
梁の武帝なんかは胡族と軽視していた北魏に文化的に肩を並べられたことに
愕然としてたりもする
晋代には女性さえ詩を作ったのですよ
五胡以降文化の質という面においては繊細さが足りず、デカダンだ
五胡以降は中世の暗黒時代と見るべきで今なお中国はその情態から
抜け出ていないとも言えるし、やはり中華の文化の最盛期は西晋代と呼べるのでは
何よりここのスレの盛り上がりがこの時代の文化程度の高さを表明している
>>553 文化の最盛期?
じゃあ今だわ
インターネットに触れる人口だけで数億いる今の中国ほど
文化が栄えてる時代って他にないよ?
要約すると
ボクちんの大嫌いなシナチクどもは罵倒したいけど、
ボクちんの大ちゅきなサンゴクムソウとソウテンコウロは手放ちたくないモン!
そうだ三国志より後は別のモノってことにすればいいんだ!
そうすればボクちん矛盾しないモン
ということだな、きっと
>>554 そのインターネット文化の中からなにか生まれてるのですか
日本でさえその知的水準は原始人のレベルに下がっているというのに
>>555 私に対していっているのだとするとそれは見当違いです
私は五胡以降の中国史を否定する気はありませんよ
むしろ肯定するために特別視しようとしているのです
五胡以降の歴史については少々違った見方が必要でしょう
たとえば民族移動後のヨーロッパが聖書の世界の中に閉じ込められたように
中国も仏典の世界に閉じ込められたのでしょう
ゆえに仏典越しに中国をみていくことが重要でしょう
>>556 よくわからなくなってきたから君の言う「文化の水準」の定義を教えてくれ
何がどうなると文化の水準が高くて、どうなると低いんだ?
そもそも文化に高低なんてあるのか?
文明ならある程度は比較できるかもしれないが。
それもパッチワーク的発達だったりするし。
仮に文化に高低があったとしても、それは客観的に比較できるものなのか?
同系統なら洗練されているとか、改良されてる程度は言えるかもしれないけど。
そもそもこの人(ageてごねてる人)、
文化と言うべきものの一部分だけしか文化と認めようとしないし、
良し悪しも根拠が薄弱な主観でしかないしなー
最初が「三国時代の教育水準は宋と同レベル」だったのに
いつのまにか「三国時代は中国史上最高の文化水準を持ってた」になってるし
「ここのスレの盛り上がりがこの時代の文化程度の高さを表明している」とか
もうアホかと
文明程度でいっても三国時代は清代と比較できるよ
文化水準の高さは民衆レベルでの教育水準の高さ、とそれに伴うエリート層の
知的水準の高さ、武人が史上に残る程の詩を残した時代はこの時代以外ない
また略奪も少ない、それだけ民衆レベルでモラルが高かった、教育が充実していた
ことを表している、文化の高低についてはあんたがたは曹操はマンセーしても
セキロクやフケンを讃えることはしない、それがなぜか考えてみろ
>「ここのスレの盛り上がりがこの時代の文化程度の高さを表明している」
それだけ資料が豊富で上質、つまりそれを残したこの時代の
文化水準が高かったということだ
>いつのまにか「三国時代は中国史上最高の文化水準を持ってた」になってるし
後漢代が宋代と匹敵する文化程度だ、そしてそれを平和裏に継承した魏晋はさらに高次だろうということだ
ロクに賛同者もない三国時代の文化最高レベル説を延々と語るアホってキモいな
まあこんなところでいくら進歩的な意見を述べたところで意味は無いと自分でも思うが
三国志の解説本といったところで劉備叩きの曹操マンセーに終わる
大学教授様の意見よりかはましだと思っているが
ここには大学行ってるやつはいないのか?大学で普段何やってるんだ
>そしてそれを平和裏に継承した魏晋はさらに高次だろうということだ
そうですよね。司馬家なんて学者の家柄だし、少なくとも西晋代には教養のないような
皇族なんて一人もいませんでしたよね
後の時代は寂しすぎる
五胡の動乱が起こらなければどれほどの芸術作品が残ったことだろう
それを考えるとあまりに惜しい
>>566 基本的に蛮族は文化水準が低いからね。中国を襲ってきたのはトルコ人、
ハンガリー人、フィンランド人、チベット人が主だが、ハンガリー人が文明化した
のは奥州に定着した1000年近く後の事だし、トルコ人も小アジアに定着するまで
文化水準は低かった。フィンランド人は今でも蛮族そのものだし、チベット人も
最後まで文化水準は高くはならなかった。
わけがわからない
>>568 わけがわかったらびょういんにいかないといけなくなります><
三国志って意外と魅力ないな
やっぱり陰湿な宮廷闘争もののほうがいい
二宮の変とかまさに宮廷闘争じゃん。
>>570 魏の末期とか呉の中期以降とか宮廷闘争満載じゃん
演義であんま描かれてないけどさ
黄巾の乱から董卓までの流れとか
一般ウケしないからはしょられてるだけで、かなり面白い宮廷劇を繰り広げられてるよ
まあ魏末は司馬一族が強すぎる割りに政敵が弱すぎて逆に魅力が薄いかもしれないが
>>567 争いなどすべてイデオロギーによるものだ
その中では蛮族も文明人も末端概念に過ぎない
胡人たちの失敗は仏教を活かせなかったことだろう
演義を読んだ人は劉備を善玉、曹操を悪玉(ただし魅力のある)として
見るはずだ、だがその基準のまま正史を読むと拍子抜けするだろう
なぜなら正史にはどれが善で悪かの区別がないからである
さらに演義は劉備等蜀勢を主人公としているが、正史にはその主人公がいないのである
正史はいわば遠近法における消失点がないのである、中心が無いのである
伝毎に分かれているのに面喰ってそれどころじゃないと思う
蜀が史官を置かなかったってのはなんでだろうなあ。もったいない。
生き残りは大勢いただろうし、成都も焼き討ちされたわけじゃないから
記録は残ってると思うのだが。
>>577 置いてるから瑞兆とかちゃんと記録されてるだろ
陳寿みたいのがいた蜀に史官がいなかったと思うとは凄いヤツだな
おいおい、田中芳樹先生の「白日、斜めなり」を読んでないのかよ。
ちゃんと夏侯覇が「成都へ来て驚いたのは史官を置いていないことであった」
と書いてある。例として趙雲に次ぐといわれた陳到の資料がほとんどないために
伝も立てられていないことを指摘してるよ。
蜀書の伝がやたらと短いのも傍証になるんじゃないかな?
なんだギャグか
>>580 ならん
一時どうも史官廃したようではあるが天文も史官の仕事だから
瑞兆が記録されてる時点で史官存在してなかったとしても相応の仕事する何者かは存在してる
趙雲すら別伝以外はお寒いだろ。
まともな分量があるのは劉備、諸葛亮、関羽、馬超ぐらいで、張飛あたりから分量すっかすかだよ。
三国で最弱にして最も短命に終わった国の人物たちにそんな分量割いてられるかって話だな
正史には主人公なんかいないよ
だから劉備という主人公になってしまった人にのしかかるのはもうやめてほしい
正史だけを読め、裴松之の註も飛ばせ、純粋な部分だけで話をしろ
はいはい正史正史
大学生だか知らんが若いって良いなあ
まあここは正史スレだから仕方ないか
正史正史いってないで彼女作って精子だせ
そして子供が生まれたら劉備のように投げ捨てろ
劉邦「なんだ、同姓の後世人が俺の伝説をパクってやがんのか!
正史を読めば善悪など無いという次元にあるのがわかるだろ
そろそろ文学として正史を読むやつはいないのか
自分で実践してサイトなりブログなりやればいいのに
ここが諸悪の中心なんだからここでレスしてったほうが改善につながるだろ
もっと言えば研究者が変わってもらわねば困るのだが
どうやら三国志研究史家もここみてるみたいだし
こんな過疎スレをみてどうする
曹植の子の曹志、父の曹植は最終的に陳王3500戸だったようだ。
曹志が継承し、済北王に移封、何度か加増されて990戸とあるが、
むしろ減ってるんだけど。
4990戸とか、前が抜けてるんじゃないのか?
あるいは9900戸の間違いとか。
>>594 同じ事を集解でも指摘してて脱字あるって書いてあるな
聞きたいんだけど劉備が悪で曹操が善であることの論理的根拠って何?
>>594 晋書のことまで取り扱う必要はない
科学的根拠でもいいよ
>>593 二十八巻までつづいてるスレを過疎スレとか
体制派が善で、反体制派はテロリスト論なら曹操は善になるかも
統一されるべき本来の国家は魏で、蜀漢とか呉は地方反乱勢力とするなら
まあ反体制派はテロリストとまで思ってるかどうかはわからんけど、
統一されるべき本来の国家は魏 っていうのは無意識のうちに思ってるんじゃないかな
>>594 魏と晋で戸のカウント方法どうなっているんだろうな。字が抜けたというのが、一番考えられる原因だろうが
>>598 十分過疎地だよ
なぜ正史だけを扱えというのか?
・スレ違い
→「正史」の定義は?
→三国志正史と晋書の比較検討はスレ違いなのか?
・史実考証上で正史がもっとも史実に近いから
→本人の残した手紙や漢詩を無視する理由は?
→文学や漢詩分析なら、別にサイトなり作ってやれ
あれは解釈次第でどうとでもなるので、一人で眺めて楽しむのが一番だ
曹叡って自分の母親を謀殺されてあんなに哀しんでたのに
自分も毛皇后を殺しちゃったね
>>601 妻を殺して初めてパパの気持ちが分かったのかもしれない。
>>600 だらだら並べてるけど結局反論になってないよ、
ここ以外で最大のスレはローマの11なんだから28も続いてるここは十分過密地帯だ
ここは陳寿の書いた正史三国志のスレなんだからそれだけを扱うのは当然だろ
晋の話したけりゃ晋書のスレたてろよ
文学に関しちゃお前らがあまりにマンセーするんで、じゃあ内容はどうかって所に踏み込んだんだが
ちっとも触れないってことは大したものじゃない、あえて言うなら中二臭い内容だって分かってんだろw
こんな内容なら書いて無いも同じだな、つまり文化的功績でいうなら蜀が一番だ
>>599 まず定義が不明確すぎる、どちらが体制派か反体制派かがわからんのだが
劉備が悪にされねばならぬ理由はないな、曹操が善である理由も
それにこっちは科学的に絶対な根拠を教えろといっているんだ
体制なんて用語は全然科学的じゃないな
> 聞きたいんだけど劉備が悪で曹操が善であること
そもそも誰が言ってんの?何の評価?善悪だとかどの記述を元にしてるの?
>>596 >
>>594 >晋書のことまで取り扱う必要はない
三国志本文の話、それも子孫関係の後日談でもなくて、魏代の話なんだけど。
確かに曹志の伝は晋書にあるが、それで三国志には出てないって誤解してるのか?
短絡的に返さずにもう少し調べてから書いた方が良いと思うよ。
それ以前にあんたの三国時代は、前後の時代と一切関係ない孤立した存在なの?
なんでそこまで頑ななのかよくわからない。
体制派・反体制派ってそんな非科学的な言葉か?
善とか悪とかそれこそとる人によって変わる判断に
絶対に科学的な根拠とかあるわけねえだろ
善悪に分類される他の歴史の人間とか勢力だして
説明してみろよ
これってもしかして単に演義から入ったばかりの子が背伸びしに来て荒れてるだけなんじゃないかしら
そういうの増えたよな……最近の蜀下げ傾向もどうかと思うが。
善だの悪だのは儒教の講釈ぐらいで終わらせておけと。歴史ってのはそんな
簡単に割り切れるようなものじゃない。
諸葛亮と劉備の関係だってある種の緊張感をはらんだ物だと指摘されてるしね。
司馬防は何を考えて曹操を北部尉に推挙したのか
612 :
世界@名無史さん:2013/06/02(日) 19:06:08.61 0
>>611 当時の普通の配属先の一つとして配属しただけだろう
洛陽なんだから有力者の子弟であることへの配慮も十分だ
613 :
世界@名無史さん:2013/06/02(日) 19:50:54.53 0
後漢末は超中央集権時代だから、地方でそれなりの地位につくより、北部尉でも中央の役職の方がいいだろ。
結果論だが、地方勤務だと黄巾賊の蜂起に巻き込まれてすぐ死んでたかもしれない。
太守クラスですらかなり殺されてたから。
劉備も安熹県の尉や下密県の丞の地位を捨てて、中央に戻ってる。
彼らが中央志向を失うのは、董卓の乱のせい。
董卓は西涼の辺境で力を蓄え機会を伺っていたし
孫堅も長沙で流賊を討伐しつつ勢力を築いた。
董卓が力を蓄えたのは西涼でなくて河東でしょ
董卓のキャリアの大半は并州でのものだし涼州出身とか言うけど
根拠地はむしろ并州じゃねーかって感じなんだよな
董卓は涼州の軍閥で刺史は別に居たんだよね。演義では涼州刺史になってるけど。
配下には異民族傭兵も多かっただろうから涼州で力を蓄えたといってもいいのでは。
涼州の豪族出身ではあるけど
涼州にいた頃は軍閥と呼べるほどのものではないでしょ
配下に異民族傭兵が多かったかもしれんが
それをもって涼州で力を蓄えたという根拠も解らない
并州(=河東)は匈奴もたくさん住んでいたし
長城のすぐ南だから鮮卑族もいただろうから
涼州と変わらず異民族兵を簡単に雇える土地だったわけなんだけど
何であんなに南下に失敗し続けたのか。
曹丕は運が無さすぎだが、
曹操の時期は曹丕の時期以上に乱世で疲弊しすぎてたのが原因なのはわかるが
それにしてもあの勢いが止まったのが不思議。
結局曹操が躓いて曹丕が早死して、
国力がまともにチャージされるまで統一はお預けになってしまった。
善だの悪だので割り切ることが非科学的だということはこっちも重々承知してるよ
だが先に劉備は偽善者だといって暴れまわったのはそっちのほうだろ
過去スレで見たがゲームの三国志のシナリオに、超三国志があるだけで暴れまわってたバカ曹操患者を
俺は見たことがある、それくらい真っ当な三国志ファンは善悪で分けられてることに迷惑していたんだ
で、改めて聞くが劉備が偽善者と呼ばれなばならない科学的根拠はなんだ?
>>619 曹丕だけでなく曹操もあれが限界だからしょうがない
戦術の基本が長江を渡れるように構築されてない
曹操が淮南の徙民やっちゃったのがまずかったんじゃないかな。
あれのおかげで淮水以南は合肥のほか兵無しって状態になっちゃった。
徙民政策って曹操以前にあったっけ?
後漢からの継続した政策ですが何か?
郭嘉の爵ってなに?
没後に800戸加増されて、1000戸になったとか、
貞侯と贈り名されたとかは有るけど、封名がよくわからない。
>>626 誰がって程特筆すべきことじゃなくて必要があれば誰でもやってる
光武帝を初めとして、とりあえず住民とか支配下の人間移動させといた方がいいと思ったらとりあえず徙民してるし
宋建、平漢王とか名乗って百官を置き、30年以上も割拠。
名分から言ったら真っ先に討伐すべきじゃないのか?
ねえ、曹操さん。
曹操が小男で見栄えがしなかったって出典はどこだっけ? どこかで読んだ記憶が。
あと、蛮族の使者がやってきたんでイケメンを身代わりにおいて自分は隣に居たら
使者「曹操の隣に居た小男はただものではないぞ」とか言ったという話。
>>620 無視ってことは返す言葉も無いってことか(笑)
というわけはお前たちは劉備が偽善者で無いことを認めるんだな
では、これからはくれぐれもそういった発言は控えてもらおうか
曹操患者さん(笑)
三国時代の兵士の一般的な武装を教えてください
一般的な兵士ってのは何を想定してるの?
>>630 どもです。あれって高いし上中下巻だからまだ読んでないんだよなー。
>>631 そもそも三国志の世界には演義にしても正史にしても絶対善、絶対悪というのが無い
極力避けられているのだ、それこそが三国志を魅力的にしている要素だといえよう
中国人は東洋人である、東洋人は善悪の境界を曖昧にする種族だ
だから三国志にも絶対善、悪は無いのだ
更に正史三国志を読むともっと驚くべき感想を抱く
正史には絶対善、悪を想定しながら、そのような愚かな思想を抱く勢力と
戦おうとする姿勢を読み解くことができるのだ
だから俺は正史に次元を超えた美しさを感じたのだ、正史は善悪の彼岸に立っているのだ、
そういう美しさが正史の美しさ凄さなのだ、この時代の文章、詩を読んでも
それがある、信者達の醜さで大分減点されてしまうが曹操の詩にも
絶対善、絶対悪を決めようとする輩と戦おうとする姿勢がある
信者があれなので本心かはどうかは不明であるが
主人公である劉備に魅力が無いという奴らがいるが、それに私は甚だ疑問を抱いていた
そもそも主人公にそれほど魅力はいらない、魅力あふれる存在にされるのは敵方になるほうが多い
ウルトラマンなどがそうである、敵役である怪獣や宇宙人に同情が集まったりするものだ
ガンダムもジオンのほうが人気があったりする、こういう風に敵役に魅力があるほうが
名作とされることが多い、三国演義もその典型ではないだろうか
突然三鮮の落書きみたいなレベルに一気に落ちたな。どうしたの?
三ですら相手して貰えない子が、自作自演を交えてまで背伸ばしに来てるぽい
コテつけるか黙ってくれてくれれば嬉しいがな
>>634 原文でよけりゃ台湾の中央研究院のサイトで見られたはず
質を選ばなければ、国会図書館など国内サイトでもあるかも
そういえばこの時代はまだ銅器?鉄の剣とかは無かったのかな。
移行期とされてるけど武器はもう鉄がメイン
643 :
世界@名無史さん:2013/06/14(金) 20:47:00.93 0
いうまでもなく
劉備は大儒の盧植に学び○
曹操と一緒に兵を集めて反董卓軍を立ち上げた×
645 :
世界@名無史さん:2013/06/14(金) 21:48:58.13 0
英雄記にかいてあるじゃんw
英雄記に云う:霊帝の末年、備嘗て京師に在り、後曹公に與して倶に沛国に還り、募召して衆を合す。
霊帝の崩ずるに会いて、天下大乱、備また軍を起こし董卓を討つに従う。
英雄記のその記述を信じる人って超少数派の変わりものだと思うの。
>>646 面白すぎて信じにくいけど否定する根拠が明確にないのがな
この時期の劉備は何やってたかわからんので史家が創作し放題
英雄記が本当に王粲編纂なら事実の可能性があると思う
曹操直接の関係者だし曹操への取材も、曹操からのチェックもあるだろうからな
でも英雄記が本当に王粲編纂であるという事実がないのでそこが苦しい
伝王粲編纂でしかないんだよなぁ
劉備は袁紹に徐州手土産に頭下げる以前は公孫サンの元で戦っているし
それ以前も朝廷側として反乱軍である袁紹、曹操らとは敵対してる筈だから
反乱軍として曹操と一緒に兵を集めて朝廷に弓を引くってのはすっごく考えにくいとは思うんだが
英雄記は面白すぎてなあ。
ところで、義兄弟の契りを交わす場合にどっちが兄になるかは年齢が基準?
立場や官職は関係ない?
>>648 親子兄弟って官職じゃなくて年齢じゃね?と思うのだが
650 :
世界@名無史さん:2013/06/15(土) 01:24:04.91 0
その時期の劉備の経歴が他史料だと不明になってる
英雄記を否定するのは文献史料の異同という面からは結構難しいよ
あんだけ細かいことに一々文句言ってくる集解ですら英雄記の記述に関しては文句無し
逆にこの記述は何時頃の話であるかという事を武帝紀と合わせて曹操が都落ちの時の事だと補強する方向
651 :
世界@名無史さん:2013/06/15(土) 04:52:40.03 0
曹操が後に劉備を左大臣に引き立ててやったりしてるのをみても、このときコネができたんじゃない?
英雄記で一緒に募兵にいったとき仲良くなった。
ところで
>霊帝の末年、備嘗て京師に在り
なんで劉備は都にいたの?
何進幕府の人材集めに連動したか
連動したように創作したんじゃね
先主伝本文でも何進が募兵の為に派遣した都尉毌丘毅に随行していたと書いてるから、
募兵活動に従事する前は洛陽にいた可能性はありそう。
猟官運動だろ
655 :
世界@名無史さん:2013/06/15(土) 07:25:13.26 0
>先主伝本文でも何進が募兵の為に派遣した都尉カン丘毅に随行していたと書いてる
騎都尉の曹操が無名の劉備と同僚のはずがない。
曹操と同格の都尉カン丘毅の部下として同行しただけだろう。
だが劉備万歳の先主伝では、さも曹操と劉備が同格であるかのように粉飾した。
>>655 劉備は無名ではないぞ
安熹尉を経験してしかも自分から官を捨ててさっさと去ってるというところだけ強調されて
現代人からするとあまり地位があるように見えないけど
能力が認められて職を得るけど自分に相応しくないのですぐやめてもっと上のオファー待ちってのは
後漢での出世方法の一つだ
それで劉備の場合辞めた後もまた別のところで名前と顔売って次第に出世している
下密丞、高唐尉、高唐令と着実に出世してる
>>655 劉備が曹操と並んで募兵したように書いてるのは英雄記でしょ。
先主伝の方は曹操との関係に触れてない。
先主伝だと、黄巾の乱での劉備の上司は雛靖。このときの功績で安熹県尉。でも督郵をぶんなぐって逃亡。
官吏を殺しかけて逃亡なんてことしたら、フツーお尋ね者だろ。
なぜ出世できたのか。
>能力が認められて職を得るけど自分に相応しくないのですぐやめてもっと上のオファー待ちってのは
>後漢での出世方法の一つだ
郡の督郵ぶんなぐって逃げたのに、「もっと上のオファー」なんてくるわけないだろw
そんな出世方法はない。
>>658 平時なら100%お尋ね者だが、まだ乱世の認識まではないにしても、
混乱期だからねそのくらいの方が元気有ってよろしい。
毒を制すには毒をもって、ってやつなんでしょう。
元末だけど、方国珍なんか起こすたびに出世。これも最初は県尉でしょ。
張温に逆らいまくっても出世できた陶謙や黄巾戦で功績がなくても
涼州戦でまた起用された董卓など、戦争ができるやつは何度でも
チャンス与えられている。
仮に曹操と一緒にいたとしても
居候のゴロツキみたいなもんだったんじゃね?
曹操と一緒で新進気鋭の若手として見られてたんじゃないかな?
曹操だって洛陽北部尉やどっかの県令の時も相当な真似してる。
歴史には残ってないけど、劉備は大侠客として有名だったかもしれないし。
多少素行が悪かろうが、人格がひね曲がってようが、
とにかく戦争に強いやつが必要とされる時代。
白い猫だろうが黒い猫だろうが、ネズミを捕る猫がよい猫だ。
ただその後劉備は公孫賛陣営に行って袁紹傘下の曹操と戦うに至る
経過がよくわからない。河北出身の劉備がどうして同窓の公孫賛か冀州
に割拠した袁紹のところに行かず洛陽で曹操なのか。何進が宦官討伐
のために辟召した連中の属官だった形跡もない、それまでの経歴から見て
官界に志がないわけでもないのに。
時系列ぐちゃぐちゃ過ぎるだろ
>>637 ようやく正史三国志をすべて借りられた、やっと患者どもを論破出来そうだ
裴松之の註はすべて無視する方針で大体読んだ
そしてまず一つ目髀肉の嘆は註にしか載ってない、劉備への非難はこれで一つ消えるw
二つ目諸葛亮に国を奪ってもよいとの言は、諸葛亮伝にあったが群臣の前とは
書いてない、劉備が予防の為に言ったわけではない
呉の動向は正史を読んでも分かりにくい、確かに何度も合肥を巡って争うが常に負けてる、実に情けない
孫堅の廟号は武烈帝だ、二文字だな
ざっと読んでみた感じだと正史は実に淡々としている、しすぎている
故に誰にも感情移入出来ない、もし残されたものが正史だけだったら
曹操派劉備派の醜い争いは無かっただろう
あと劉備が偽善者であることの科学的根拠を早くおね
劉備は負け続きだったといわれるが、劉備伝にはそんな重苦しさは無い
乱世を軽快に渡り歩いてる感じ、武帝紀、呉主伝 先主伝をざっと読んだが
一番ノリが軽いのは劉備だ、もしついていくとしたら劉備だな
付録の月報に面白い話が載っていた、旧制高校の教師をしていた解説者が
生徒に今何を習ってるかを聞いた、生徒は「漢文です」「何の漢文か」
「諸葛孔明の出師の表です」少し知識はあった解説者は
「あれは名文である、あれを読んで泣かざる者は人にあらず」といったところ
生徒は「漢文の授業では今どきこれを読んで泣くものは阿呆である」と返したそうだ
戦前の昔からこれほどまでに蜀憎悪の歴史があったのだなw
とすると曹操の評価はつい最近まで低く蒼天が出てやっと再評価されたとの
患者の言はどこから出てくるんだ?
>>670 最後までついていければ蜀の重鎮だが、9割がたその前に脱落する。
どうでもいいけど偽善者って言葉の意味わかって言ってるの?
なんだかんだ言って皇帝まで自称しちゃって
よく臣下がついていったな
日本には後漢皇帝の末裔を自称する輩が住み着いてたようだけど
蜀に皇族は集まら無かったんだろうか
自己満足のオナニーは三線かVPでやってこい
世界史板でやるな。ガチで迷惑
劉埼が病死したり劉璋が乗っ取られたり劉封が死罪になったり
劉封は寇氏だろ
>>669 正史が淡々としすぎて「事実を隠蔽している」云々で裴註が付いたんじゃなかったっけ?
劉禅の蜀など懐かしくない発言は註にしかないじゃん
よってボツだなこれも、巫に頼ったとも書いてない、これもボツ
そして相変わらず泥臭さが他と比べてない、住むとしたらやはり蜀
何の話してるか分からん
三戦に「住むならやっぱ蜀だよな」ってスレ立ててそこでやれ
正史三国志呉主伝を読んだら神々を祀ったと何度も出てくるが
どんな、何の神々なんだ?この時代道教はまだ普及してないだろ
>>680 魏に囚われても涙ひとつ流さずここが楽しいといったというのは
裴松之の註にしか載ってない、つまり捏造の可能性が高いってことだよ
正史を読んで来たって姿勢はいいが、いろいろと理解していないな
>>681 正史自体も陳寿による捏造が入っている疑惑があるで
自分は相互に矛盾があるか、発掘などで何かの証拠で否定されない限りは、
基本的に記録が残っていることは信じる派だな。
情報量は多い方が良いって考え。
注記は一切信じないって言う考え方も個人の自由だから否定はしないけど、
話がかみ合わないと思われるのでそう言う人と議論する気はない。
神様=道教って言う発想なの?
伍子胥とか項羽とか道教以前に祭られてるしな
伍子胥は明らかに「祟らないで!」という恐怖から祭られたんだろw
三帝じゃないの?
陳寿の記述が捏造としたってそれと比較できる資料が無い
ほとんど100年後とかの資料ばかり、裴松之の註の信憑性は低い
曹操が関羽の侵攻にびびって遷都しようとしたことは本当
張飛が死んだのは無茶な命令をしたせいではない
詩経楚辞や当時の発掘品等々を無視して神って何だとか言い出す奴だぞ
というか自演ならともかく、いい加減相手するなよ
実際中国って何度もいわれるが神話が無いじゃん
伏羲、女カも実は統治者、人間だし
詩経楚辞を読んだって神観わかんないよ
漱石の起源になった石に枕し流れに漱ぐって
蜀の彭ヨウ伝が元だったのか
石で漱いで、流れを枕す
じゃなかったっけ
間違って言ったのをこじつけて正当化したやつだろ
曹操の詩が初出みたいよ。秋胡行。
我居崑崙山,所謂者真人。 我居崑崙山,所謂者真人。
道深有可得。 名山歷觀,遨游八極,枕石漱流飲泉。
沈吟不決,遂上升天。 歌以言志,我居崑崙山。
696 :
世界@名無史さん:2013/06/29(土) 18:34:18.27 O
保守
司馬懿が孟達を征伐するときに使ったやり方って
これまでの中国にもあったの?
それ以前も以降も余裕であったよ
で、揚げ足取られて粛清されたり立場が悪くなったり
岳飛なんて司馬懿以上に独裁の権限与えられてたのに疑われて粛清されてるじゃん
司馬懿の場合、事後報告が法律上はOKでもやると不味かったのは
曹魏のころはまだ国境付近にコントロールの効かない豪族が少なくなかったし
権限与えすぎて軍閥化してコントロールできなくなるのをかなり恐れたんだろうな。
実際蜀滅ぼした後に反乱起きてるわけだし。
中国の地方豪族って具体的なイメージが湧かない。
日本の戦国時代の国人・地侍とは違うんだよね。
横山光輝の漫画のイメージしかないんで、あんな人達が官僚になって働くなんて、とても想像つかない。
>>700 国人、地侍が武家の当主にお仕えするのはイメージできる?
>>701 国人・地侍の場合は、その土地土地のトノサマだけど、こまめに働いてるイメージがあるんで、その延長で宮仕えもできそうな気がする。
中国の豪族はなにも働かないイメージなんで、官僚のような実務をするのが想像つかない。
いや、俺の官僚のイメージが間違ってるかもしれんが。
>>702 この時代の豪族は、子供を幼い頃から勉強させて地元の太守等に推挙されて
官職につくのが出世コース。もちろん土地支配してその収入で食ってる「働かない」
奴もいるだろうが、そんなどら息子は一握り。
この時代の官僚は「学者で詩人で地主」というのが基本。日本の武士階級みたいに
武器持って農耕と戦争ばっかして文字も読めない……というイメージではない。
例外はあるけどね。
日本の豪族だって大概中央とつながってて結構な文化人だぞ、基本的に
中国の場合は軍閥というんだ
江戸時代前の武士は武器を持った農民だったからな
>>707 いくら世界史板住人だからって日本史の知識欠如したまま日本史語っていい免罪符にはならんわ
知らんなら語るな
豪族っていうより
名門氏族と考える方が想像しやすいのでは
この時代のことを深く知りたいのですが、おすすめ書籍を教えてください。
日本語文献に限る。官職や地理・文化がよく分かるのが良いな。
横山三國志やで
しばちゅうさん
真面目に教えて欲しいんだけどな。
官職が現在で言うと何に当たるのかとか詳しく知りたい。校尉とかって参謀?
司隷校尉は首都の警察長官なのか、とか。そういう書があるとうれしい。
それやりだすと荒れるだよな
当時首都駐屯を許される軍隊の近衛兵が警察兼ねてたりして
現在と全然事情が違うわけで、当てはめるのが難しいかったり
時期によって付与されてる権力が違ったりもするわけで喧嘩の原因になる。
大体何に当たるってのは当然あるけど
日本史板/世界史板両方の官職を現在のものに当てはめる話題で定期的にこの話題で荒れるんだよね。
そもそも無駄とは言わないけど、現在に当てはめることがナンセンスなんで、煽り合いとか抜きで不毛ったらない。
警察相当って執金吾じゃないの?
そもそも現在の役職がよく分からないという問題が…
普通にちくま三国志八巻巻末の官職説明でよいのでは?あるいは後漢書百官志の邦訳箇所。
ああ、続漢書百官志ね
それそれ。門外漢ゆえにずっと気になってて訊けなかったことなんだけど。
後漢書って范曄の「後漢書」の紀伝と司馬彪の「続漢書」の志を劉昭がニコイチにした奴やん?
二十四史としての「後漢書」はそのニコイチで1コンテンツとして認定されてる訳でしょ?
だから俺は二十四史として認められている現行の形での「後漢書」の中の百官志だよってことで
先に
>>717に書いたんだけど、やっぱ飽くまでも此れはニコイチなんだから続漢書の百官志だって
書くのが流儀なん?
今まであちこちで続漢書百官志て書いてるのを見るときは「ああ、この人は原典の方の司馬彪の
続漢書の百官志を参照したってことなんだなあ」と単純に思ってたんだけど、何かそういう流儀
ってか礼儀ってかルールってか決まりごとみたいなのがあるわけ?
無知蒙昧な輩ゆえそこんとこ教えて貰えたら助かるわ。宜しくお願いします。
>>719 続漢書百官志と書く方が流儀と言っていいと思うよ
流儀というよりあくまで別モノを合刻してるんだから呼称も区別するしかないのでは
とりあえず「後漢書百官志」などと言おうものなら教授から最低の人間であるかのごとく罵倒された
さらに言えば論文で後漢書を引用するときに通巻の数を示さないのも後漢書と続漢書との区別を前提としてるわけだし
かなり昔の研究者で通巻を示す人もいたけど志の部分を後漢書と呼ぶことはないんだよね
なんで曹操は武帝なんだろう?
親不孝ものだなあ。
次が文帝だから
意味がわからない
魏武の強、ここよりはじまる
このスレ住民レベル高いからやっぱり曹植の10巻の詩集も嗜んでるの?
>>724 そんな下らん流儀の話を知ってるんなら
>>671の話はどう思うの?
書き忘れたけどその生徒にそう教えてたんだと昔からいる患者教師がw
あと関羽の北伐について一つ、正史にはこうある
関羽の軍が撤退したのちも、襄陽は連絡を完全に断ち切られていた
その時孫権が関羽の輜重を襲撃して奪った
それを聞いて関羽は、すぐに退却して帰った、と
やはり呉さえ裏切らなけりゃって所だな
*その輜重は元々呉の倉庫から関羽が奪ったものです
呉というか、孫権も呂蒙もアホだわな。まず魏を潰してから存分に蜀とやりあえば
良かったのに。おかげで後世でも呉は不人気。孫権って初期はともかく中盤以降
は完全に暗君だな。
733 :
世界@名無史さん:2013/09/01(日) 16:32:25.67 0
呉が不人気なのは、呉が帝号を称すことに正統性が欠けているという点もあると思う
匈奴の劉淵の漢の方が正統性があるんじゃないかと思うくらい
734 :
世界@名無史さん:2013/09/01(日) 19:21:33.29 0
魏を潰せれば苦労せんよ
>>730 >>671 を読んでも、出師の表を高く評しないという話がなぜ
> 戦前の昔からこれほどまでに蜀憎悪の歴史があったのだなw
になるのかわからんね。
まあ、よく堅守していれば、魏も晋もその内自潰していただろうけどな
黄巾の乱以後の疲弊した中原では、民族大移動の時代を乗り切ることは出来なかっただろうから
大敵よりも身近な、利害対立してる勢力の方に
憎しみが行ってしまうのは人類の常だな
仮に荊州を蜀が放棄するか、呉が放棄するかしてたら
二国は合作して魏に当たれたと思う
そういう擦れ違いの部分を利用して呉に蜀を攻撃させた
魏の外交手腕はさすがと言うべきだな
蜀は長安を攻めれば良かっただろうけど
呉はどうやって魏を攻めれば良かったかと言うと難しい
長江を守ることはできても攻め登ることができない
孟達や遼東も司馬懿が速攻で征伐しちゃうし
司馬一族の魏乗っ取りが見事過ぎてつけ込めない
むしろ孫権と呂蒙を敵にまわした関羽が馬鹿すぎ
>>735 吉川幸次郎とか知らねえか?凄まじい蜀憎悪、曹操マンセー
呉が攻めるとしたら揚州側は淮水まで
荊州側は襄陽までってとこかね
史実だと益州から長江を下って侵攻する水軍と
北から侵攻する陸軍のコンボでやられたけど
淮水と漢水まで国境を押し上げればこれは防げるだろう
まあ淮水が普通に突破されて建業が落ちそうな気はするが
バカ、呉のもんだ
魏のもんに決まってんだろアホチンが
>>742 だって蜀なんかより呉のほうが偉いし、仕方ねえよ
746 :
世界@名無史さん:2013/09/02(月) 20:47:49.85 0
武陵蛮のものだっつーの
所詮蜀は呉の属国ざますよw
夷陵の戦い以後の呉と蜀は同盟といっても互いに攻めなかったというだけで
連合軍を編成して魏を攻めることは一度もなかったな
まあ連合軍を組んでもどちらが主導するかで揉めるだけだったんだろうけど
呉に何の権威があるんだよ
関羽の完璧な攻撃態勢を邪魔しやがって
しかし、蜀が滅亡しても十数年生き延びてる呉
晋が呉の自滅待ってただけだろ
今なら魏が支配していた地帯より
呉蜀が支配していた地域の方が人口も多いし
経済面では比較にならん圧倒的大差をつけているのにな
呉は多いかもしれんが蜀は少ねぇ
関羽の攻勢は漢水流域を確保する程度のものでしかないぞ。
最高に上手く行っても中原に本格的に攻め込むのは全軍の準備が整う数年後。
だがその前に、江水流域を固めるために荊州の完全確保、交州・揚州への本格侵攻を劉備が選ばない理由がどこにある?
っていうか優勢な魏に国力で拮抗するために必ずそうする。
だから呉は絶対に荊州を渡してはならなかった。
元々休戦は形だけで、互いに領土を虎視眈々と狙っていることは百も承知だったわけだしね。
757 :
世界@名無史さん:2013/09/12(木) 17:56:27.32 0
758 :
757:2013/09/12(木) 17:58:05.26 0
誤爆失礼しました
>>756 それ何の資料?正史三国志以外受け付けないからここ、裴註も無視ね
関羽が完璧っていうのは陳寿が書いた最も信頼できる資料だけど
>>759 このスレ、別に他史料は否定しとらんぞ?
あくまでも「史料」は、だけど
>>756 普通にあるだろ
孤立しながら呉と泥沼の征服戦争を続ける必要がどこにあるんだよ
勝てたとして何年かかるんだよその間魏は何をやってるんだよ
外交的に孤立し兵力に勝っているわけでもない、特に水軍は絶望的
そういう状況で「手に入った方がいいな」程度の理由で戦争すると思ってんのか間抜け
荊州は南北の攻撃に恐ろしく強いが、東西からの攻撃に弱い。
つまり魏は漢中-襄陽ラインで防げるが、
無防備な荊州を呉に背を向けて全力北上するのはありえない。
呉蜀同盟とかいうのがちょっとでも信義に値すると思ってるほうが大間抜け。
史実の曲りなりの連携はあくまで蜀漢が堅固な益州一州だから成立したもの。
劉備が荊益二州を手に入れて呉の実質二倍近い国力を得れば、
まず呉を反抗する力がなくなるまで叩くのが当然の選択。
…と、少なくとも呉はその展開になるのを恐れたから、関羽を攻撃した。だから裏切りでもなんでもない。
という、呉を擁護する意見なんだけどね。
呉が淮南取れてれば荊益を蜀が持ってても対抗できたんじゃ
そもそも荊益二州と言っても東部の何分の一かは呉が持ってるわけだし
なんというか、根本的に同盟を信義の問題だけにして否定してるところが薄っぺらい
呉侵攻の成功率はめちゃめちゃな国力の計算に基づき
そのリスクについてはまるで考えない
まるでドイツはロシアに攻め込む前にイタリアに攻め込むはずだみたいな言い分だな
無防備な荊州は呉に晒せないから攻め込むはずだが魏には晒す
そして呉の反抗する力を無くすという曖昧な目標に基づいて終わりの見えない戦争に踏み込むはずだと
で、呉の首脳陣もそういう思考レベルの馬鹿だったはずだと
いや、中国は日本と戦争する前にインドやロシアに攻め込むはずだみたいな意見か?
768 :
世界@名無史さん:2013/09/15(日) 20:09:15.53 0
蜀と呉はもっと婚姻を結んで同盟関係を強化しておくべきだったな
一族、家臣レベルでも
関羽が婚姻を断り呉の倉庫から兵糧を略奪した件について
結局荊州を蜀が譲るか、呉が譲るかしか同盟続かせる道はない
呉が合肥侵攻成功して取ってれば、
魏の脅威も増すだろうし、荊州は諦めてたかもしれんな
771 :
世界@名無史さん:2013/09/18(水) 23:41:15.34 0
いや、むしろ呉は関羽に協力しなければならなかった
関羽が南郡と南陽郡を奪取すれば、領有権問題など自ずと解決していたんだから
襄陽以北は蜀、江凌以南は呉、という具合にね
そうする気持ちを失くさせた関羽の傲慢さがいけないと思うの
>>771 そう自分勝手な妄想やめろ!
迷惑だから
>>769 つってもそれ呉側にしか史料ないんだよね。
同盟を廃棄する理由作りにも見えるな。
関羽が食料に困っていたのは事実だろうけど、
呉側まで遠征して略奪する余裕あったのか?
またそれなら関羽に食料を提供していればそのまま関羽が徐行も蹴散らせt可能性はあるわけで、
(于禁の大量の捕虜の対処で苦労していたのは事実)
その状況なら合肥への進軍の見返りとかで南部譲渡は飲めない条件ではない。
その場合は劉備は西涼を取りにいくだろうからね。
戦略として、荊州は関羽に任せるってのがあんまりよくなかった気がするなあ
劉備的には荊州を手放したくないから、呉からの正式の使者には
関羽に任せてありますとか言ってかわして、
関羽は兄じゃから任されているのだ!一歩も引けん!とかって撥ね退けて、
のらりくらいとかわすスタンスだったのかな
>>771 西が安定するから、合肥方面に集中出来ただろうにな
結局、利益よりも感情を優先させてしまったんだろう
>>775 しかし、関羽以外に適任者が居たのかどうかという問題も
王粲伝の「而不在此七人之例」の「七人」ってどっから来たのでしょうか?
陳寿の書いた本文には孔融以外の六人の名前しか挙がってないと思うのですが。
>>774 略奪されたとする湘関は零陵郡を流れる湘水東岸に位置してる。
劉備と孫権は215年に湘水を国境に定めてるから、関羽軍から見れば川の向こう岸。
やろうと思えば簡単に手を出せたんじゃないかな。
関羽が略奪したというより、兵糧輸送のノルマ達成の為に零陵太守がやらかしたとか
じゃないかと思うけど。
漢水で魏と対峙してるのに零陵まで関羽本人が略奪に出向くとは思えないわな
ここで関羽部下の呂布登場
>>779 流石にそんな余裕はないだろうな。
この時の魏は合肥の比じゃないくらいの大動員をかけて、
全土から兵士抽出していたからな。関羽が離れる余裕はない。
それだけ于禁軍が壊滅したのは痛かった。
当時で数万単位の軍がまるごと失われて敵に降伏とか洒落にならん。
常備軍がそこまである時代じゃないしな、蜀なら夷陵クラスの大敗に相当する。
ただ関羽の命令で略奪した可能性は否定出来ないな。
実際関羽軍と同等クラスの兵が降伏して食料は厳しかっただろうし、
大雨で食料輸送は困難。捕虜の移送も大雨で難しかったし。
捕虜の監視や江陵への移送で兵も足らなかったし。
于禁が敗れた大雨に関羽が苦しめられるのは皮肉なことだ。
関羽厨ウザいな
未だに中国で人気の武将の上位にくる関羽。
日本にも信者が多数いるのは当たり前だろ。
関羽ファン>呉ファンくらいの差があるだろうw
784 :
世界@名無史さん:2013/09/25(水) 06:39:28.49 0
そりゃあ神様で本物の信者がいるしな
最近のライト層は趙雲、周瑜ファンだし(主に無双) 関羽層はほとんどいない
にわかコア層は曹操を万能の英傑扱いってことで褒める(主に蒼天) 曹操が評価してた関羽は認める
古くからのファン層は劉備と諸葛亮?(主に演技) 関羽も褒める
にわかじゃないコア層は関羽の成果を評価しつつ問題点も指摘 ファンというほどではない
日本人の関羽ファンはあまり多くなさそう
786 :
世界@名無史さん:2013/09/25(水) 17:09:29.45 0
そんな微妙な武将が神になった不思議
直接、匈奴や鮮卑と戦ったわけでもないのに不思議
趙雲や周瑜は今に限らずライト層に人気な気が
光栄SLGの初期にはもう「バランス型武将は美形」とか言われてたし…
>日本人の関羽ファンはあまり多くなさそう
そうなんだろうか
2ちゃんじゃもの凄く多く感じてしまう
昔は関羽が好きだった
今は司馬懿が好きだ
関羽が神になったのは祟り神と同じ論理じゃないの?
菅原道真と同じものだと思ってた
しかし学問の神はまだわかるが、商売の神だぞ
792 :
世界@名無史さん:2013/09/26(木) 16:50:44.07 0
そういえば祟り神とかの怨霊信仰を日本独自のものと言う奴いるけど
演義での関羽もそうだし呉越のごししょとか死んで水神になったし
日本独自のものでもなさそうだよな…
「〜に誓って」っていう信義のベースになる対象が無さそうじゃん、中国人
だから関羽がそのポジションに収まったんじゃないの?
関羽マンセーの流れになると一気に創価臭くなるな
>>792 董卓や呂布を守り神として祭っていたらそうなるんじゃないかと思うけど、
関羽とか普通に英雄だと思うんだが、ゴシショにしてもさ。
人々に害をなした、もしくは害を与えそうなものだからこそ崇め奉り、
化けて出て害をあたえないようにする、もしくはそう言う人でも拝めば守ってもらえるかもしれない、
そういうのが怨霊信仰。
死んでからも祟りのようなものが起こるから、神として崇め奉るんじゃないのか?
関羽については呂蒙・曹操が病死で、そのあとに次々関係者が亡くなったから祟りと思われたと思ったんだが
ちょっと違う?
日本にだって、憤死した英雄や貴人を祭ることはあっても、
董卓やら呂布に相当する人物は祭られないんじゃないかな。
逆に、祭られるような人物には祭られるにふさわしい話が
(後付けででも)付けられているんじゃない?
798 :
世界@名無史さん:2013/09/26(木) 23:09:16.62 0
ゴシショて最期呪って死んだしな
項羽信仰や公孫述にしても最期悲惨だから祀られた面もあるだろうし
>>796 関羽が祀られた理由はそれではないだろう。
信義の人だからでしょ。
>>799 人口に膾炙した理由じゃなくて、祀られた理由を聞いてるんだ
後からの脚色じゃなくて、
当時の人間が関羽と呂布にどう思っていたかはすげえ気になる
関・・・・?
ああ顔が赤い人ね
>>796 えっ?元々そう言う認識だと思っていたけど。
一般的にはキリスト教徒は20億と言われているけど、関羽も中国人や華僑、中華系等を中心に、
20億以上の信者が居る模様w
中国語圏の人民は、果たして関羽(関帝含む)に対してどのくらいの知名度なんだろうな
>>797 この辺は、決して鳥居耀蔵、辻政信、服部卓四郎、松永久秀、宇喜多直家が
祀られないのと同じだね。
龐統ファンはいませんか
>>803 中国人は共産主義者なんだからユダヤ系の分派だろ
>>803はどう見ても釣りですww
どーもありがとうございましたww
サーセンww
>>799 祟る、という感覚が中国と日本では異なる、ということをお忘れなく。
>>797 崇徳上皇やら菅原道真やら、平将門やらけっこう祀られていると思うけど。
天皇ですら格が足りないから入れない出雲大社で祀られている大国主は、
朝廷に国奪われた王であり、怨霊なんだけどな。
813 :
世界@名無史さん:2013/09/28(土) 23:59:34.86 0
あの〜その人神話で活躍してるんですよ…
>>812 祟りがあるから祀るんであって
呂布や董卓の祟りがない(記録がない)から祀られていない
後世の人間から見たら祟りそうと思っても、当時の人はそう思わなかった
ということを言いたいのかしら
ところで、関羽は祟りに対して祀ったという風に言われているけど、
関羽のように祟りが原因で祀られた人っているかねえ
中国で祀られた人というとパッと思いつくのは、諸葛武侯とか武成王太公望とか孔子とかで
関羽のような祀られた理由が祟りというのは、特殊なケースな気がする
815 :
世界@名無史さん:2013/09/29(日) 05:02:10.33 0
>>812 崇徳天皇、一応歌が百人一首に入ってる、別に悪人というほどの暴政を行なったわけでもない
菅原道真 そこそこの政治家としてそれなりに活躍
平将門 糞な朝廷に反抗した英雄
大国主 神話に出る神だけど英雄的行いあり
>>814 呉王に殺されたゴシショや越王に殺された文種も水神になったみたいだが・・・
「恨みを抱え無念の死を遂げた者は、怨霊となって生者を祟る」という信仰は、今でも中国に根強く残っているそうです
http://chuka-drama.com/c016in.html
神様の話題になってるのにここまで甘寧と丁奉の名前なし
こっちの二人は地元縁の人物として祀られているようで祟るとか関係なさそう
呉はよく神々を祀っていたらしいがどんな神なのかよくわからん
祖先神でも無いし、伏羲ジョカって感じでもない
819 :
世界@名無史さん:2013/09/30(月) 14:17:04.10 0
伍子胥とか破壊したぐらいなんだから
呉でも以前は祀ってたんだろ
あと項羽とか?
>>814 関羽って祟りがあったから祀られたわけじゃないだろ。
英雄だから祀られたんだと思うが。
最初は関羽の死の直後に呂蒙、孫皎、曹操が相次いで死んだことによる祟りから祀られたんだろ
それが何故商売の神に
信仰の形態は起源よりも信者のインスピレーションに依るところが大きいからな
>>821 なんで?それで祀られるの?
普通に英雄だから称えられて祀られたと考えるのが普通なんだけど。
そういう祟り信仰は中国にはないでしょ。
825 :
世界@名無史さん:2013/09/30(月) 23:19:41.60 0
>>824 「恨みを抱え無念の死を遂げた者は、怨霊となって生者を祟る」という信仰は、今でも中国に根強く残っているそうです
>彼らを鎮めるために行われた供養の風習の中には、日本にも伝わっているものもかなりあるようで
>伍子胥の遺体は皮袋に詰められ長江に投げ捨てられてしまいます。それ以降、長江では洪水がたびたび起こるようになり、人々の生活を圧迫するようになったとか。
>これを伍子胥の祟りだと畏れた人々は、長江の流域に祠を立て、川に供養物を流すことで、その怨念を鎮めたそうです。
http://chuka-drama.com/c016in.html どっから無いなんて判断したの?
あと三国志つながりで、捜神記において出てくる蒋子文
そういう思想があればゴシショは屍にムチ打ってないだろ・・・
827 :
世界@名無史さん:2013/10/01(火) 00:38:14.81 0
>>826 あれは当人が復讐者だしな
王に殺された自分の父親と兄が王の怨みから守ってくれるだろう
というか死んだ王は恨みを抱え無念の死を遂げてねえしwwwwwwwww
伍子胥さんが死者に鞭打ったのはあくまで仇は平王だけであるという政治的ポーズと、
自身を取り立てた闔閭の顔を立てる為だと思うの
ていうか、あの人の行動原理は超クレバーだし
本当に復讐心を持ち続けていたのか疑問
最初のクーデターだって対楚遠征中でしょ
楚に恨みを抱いてる人間ならそんな時期狙わないよ
>>822 だって祟りの神様だとお賽銭あつまらないじゃん、菅原道真だって副業で学問の神様やってるし。
祟り信仰のはずないとは言えないけど
祟り信仰だとするにも根拠が薄い
信仰が広まったのは講談人気や政治的な後押しや華僑の存在があって
商売の神になったのは忠義の人だから商売は信用第一だからみたいな
後付なんじゃないか
831 :
世界@名無史さん:2013/10/01(火) 08:41:31.04 0
最初は小さな祠だったのが何かのきっかけでご利益があると評判になって
有名な神様になって現在に至る、というのもよくある話で、
途中からは元がどういう人物だったかはほとんど関係なかったりもする
>>825 祟り信仰があればそもそも死体をそんな捨て方しないから・・・
夫差が愚かにも伍子胥にそんなことやったのを見て
現地の民衆がしずまりたーまえって始めたんじゃないの
祟り信仰ある日本でも菅原道真を左遷したし
左遷と死体を見せしめにして投げ捨てるのは違うと思うが。
835 :
世界@名無史さん:2013/10/01(火) 23:24:37.30 0
祟り信仰があろうが長屋王、早良親王、崇徳天皇、平将門は悲惨に死んだし
中国でもそんなもんだろ
え〜っ、いんじゃねぇ?
あ〜ぁ、たたっちゃったよ!
祟りの原因が子孫による祭祀が途切れたことによるものなのか、非業あるいは冤罪で死んで現世に恨みを
残したことによるものなのか、時代と場所を区別しないとおかしな話になる。
そこに屈原さんを投入ですよ
屈原さんも祟るの?
まあみんなやった後悔するんだよな
841 :
世界@名無史さん:2013/10/26(土) 22:06:39.06 0
質問させて下さい
最近(ここ数年程度)、三国志に興味を持ったにわかなんですが、
郭嘉に関してwikiとか拝見してたところ、やたら資料(かな?)「傳子」とあるんですが
というかほとんど「傳子」
この傳子とは何を指しているんでしょうか?
グーグル先生に聞いても、なんか答えだしてくれないし、伝と郭嘉が1番2番で出て来る始末
管子とか孫子とかみたいに、傳○という人が記したとされる書物なのかな?
教えてください
>>842 おお、普通にwikiに記述があったんですか
wiki内で検索すれば3、4番目あたりに引っかかりますね。お手数かけて失礼しました
でも私的には助かりました。気になってたんで、ありがとうございます
傅玄かあ
なんというか三国志に限ったことではないですが、調べるとほんとキリがない
楽しいけど。いつか三国志もネットから脱出して本格的に書籍資料を読み解いてみたい
改めてありがとうざいました
844 :
世界@名無史さん:2013/11/02(土) 20:49:43.72 0
一応レス内容に関連してそうな他板のスレで質問したんだけど、答えもらえなかったので
本筋だとおもうここで質問させてください
古いものだけど、某知恵袋で↓みたいな質問があって、
>歴史上の有名人の身長。例えば織田信長、豊臣秀吉などなど。。
>誰か知りませんか?
対して↓みたいに答えてるんだが
>曹操が7尺(約160センチ)しかないのは結構有名です(こっちは確実に正史にのってました)
>当時、低身長はあまりよろしくないのに正史にのっていた(正史は魏を正当とするため、曹操を持ち上げないといけない)ところを考えると、信憑性のある話だと思います
正史にそんな記述ありませんよね?
ちょっと検索してみると、こういう風に何故か正史に記述があると断言してる人が多いんだけど
もしかしたら、ない、というのがそもそもの俺の勘違いかもと思えてきました
最初に質問したスレでも曹操の身長断言してる人多いし。しかもそれに異論がほとんど出てなかった
もし記述があったら教えてもらえるとありがたいです
また、できれば正史のどの辺にあったか、具体的に教えてもらえると尚有り難い
現状だとすぐ確認できないんで、あとで見落としを確認したい
もしくは正史じゃなくても、史書として信憑性の高い書物でもいいです
演義とか注とか信憑性の低いもの基本的に×でお願いします
>>845 三国志演義もそうだな
あとは正史だと劉備や諸葛亮は結構身長高いって書いてあるのに対して
曹操は容貌に関する記事すら省いてる、というのが曹操チビ説の論拠になってたはず
847 :
844:2013/11/03(日) 00:40:34.14 0
>>845 ありがとうざいます
正史にはなく、資料もちょっと信憑性に乏しいものでしたかorz
小柄にもかかわらず風格ある傑物、みたいなイメージが曹操にはあり、
URL先のサイトのコメ欄にもあるよう竹中直人もイメージに合ったので、根拠が薄いのはちょっと残念
まあ、身長が明記されてる人物が少ないのだから仕方ない
中には悪意がある風ものものありましたが、基本は単純に面白おかしく言ってるだけだったんですね
コンプレックスがあったみたいな話も聞きましたが、それも信憑性が限りなく薄いものでしたし
曹操に限らず身長に関してはいろいろ難しそうです
>>846 記述がない=これは特筆すべき点がなかっただけともとれ、つまり平均並だったともとれますよね
というかそれが一番自然かな、と
劉備、孔明の背の高さは完全、あの時代でも異質で、特筆すべき点だからこそって感じですし
とりあえず論拠とするのはいささか浅慮かなと自分は感じてます
演義に関しては前置きしましたように論外(※)なんで、すみません
※悪い意味でなく単純に史書としてはって意味です
お二方、ご協力ありがとうございました
結果的に曹操=背が低いのイメージは演義やその他創作物の影響が濃いというのが分かってしまいましたが
一方で、すっきりしたのでよかったです
いまはひとまず当時の平均身長くらいと思うことにします。あまりに根拠がない現状、これが一番無難なんで
曹操の墓から何か分かればいいなあ
>>847 曹操の墓は流石に中国らしい展開だよな。
確かに認定はされては居るけど、そこにいたるまではでっち上げ説もあったし、
捏造や買収の噂が流れたり発見された村の人が拉致されたり。
結局はそれらに明確な説明や新たな展開も無しに何となく結論が出ちゃったみたいな。
秦代の男は年齢に関係なく身長七尺に達すると成人扱いで徴税されたし
前漢の馮偃は七尺に満たないことに常にコンプレックスを抱いてたというから
秦漢の七尺は大人と認められるための最低ラインで
曹操の身長の設定はそれにギリギリで届いてるということっぽい
曹操身長普通説を打ち立てたいと思うのは自由だが
世説をちゃんと否定できるだけの証拠ないとそういう主張は出来ないよ
俗説とは言ってもこれまでそれが通用して来た世界だし逆張りするなら
逆張りするだけの証拠を出さないとね
>>850 無粋なツッコミだけど、曹操小男説の根拠になってるのは正説新語じゃなくて、
注釈に採用されている魏氏春秋じゃないか
>>850 そもそも信憑性が薄いものを肯定すること自体が間違ってるわけで
俗説はあくまで俗説だ。否定も肯定もできない曖昧なもの
曹操の身長に低い説も普通説もどっちも打ち立ってないから。何を勘違いしてるんだろう?
ひょっとして誰ぞ歴史研究家が曹操の身長を史実として低いと断定してるとでも思ってるのか?
まさにそれぞれ、お前の中では、ってだけだよ
まあ、自分の知ってることが史実と思い込んじゃう病気にかかっている人が歴史好きに多いのは事実だし
さしずめお前は重病そう。新たな史実が判明しても否定せずにはいられない段階
自分の都合のいい知識()を押し付けるのもほどほどにな
こじれると、てか、もうこじれてそうだからお前はもう歴史を知ることができなそうだ
バイバイノシ
>>853 俗説とは言え信じられてきたものを否定するなら確たる証拠出せばいいだけ
そうでなけりゃ長期間生きてきたという事実のある俗説以下だよ
幸い曹操らしきものは出土してんだからその数字探して根拠にすりゃいいだけなのに
その辺手間惜しむなよ
まあ滅茶苦茶信憑性が低い史料でも
それしか参考にするものがないと信憑性を持ってしまうのが歴史だからな
賈充らが高貴郷公殺した経緯も定説扱いされてるし
曹操貧相説は、崔エンとの対比が一人歩きして誇張されたものかもな
中途半端に史料使って一風変わった説を持ちだして
注目を集めようとする奇をてらっただけの奴はどこにでもいるってこったな
諸葛誕が反乱した理由がよう分からん
>>853 文献史料を徹底的に史料批判する手順も踏まずなんとなく信憑性低そうだし、ってことで無視するのはよくないよ。
与太話だと思ってたら文献史料に合致する出土史料が出てきた、なんてことはままある。
文献史料を俗説だからと簡単に切り捨ててそれで自説を立ち上げるってのはやっちゃいけない事だよ。
やるならせめてその史料を徹底的に批判し尽くして、その上で史料に基いた論理的な主張しないと、
三国志好きの間ならそれもありだねって笑って流して貰えるけど、真面目な議論にはなりえない。
お前ら・・・ただなんとく相手が調子に乗ってそうだからムカつくってだけじゃないの
いままでどんだけこのスレで厳密な議論を行ってきたんだよ・・・
真面目な時はとことん真面目
不真面目な時は不真面目、でもいきなりスイッチ入ってマジレスの嵐
そういう雰囲気がこのスレのいいところ
当時の人の身長がどれぐらいかを推定するのは
例えば軍事史的な観点からはどんな大きさの得物や馬を扱えたかなどを考える上で役立つだろうし
文化史的な観点からはどんなものを飲み食いしてどんな栄養状態にあったかなどを考えるための材料になるはずで
まじめに考察する価値はあると思う
で三国より前の話になるけど、霍光や光武帝の七尺三寸=168cmが当時の平均身長といえるのかどうかは議論のあるところで
これを肯定する立場は「漢が起こって100年後に”不短不長”の男が政治を牛耳る」という
霍光の登場を「予言」した漢代の讖文を根拠にしてる
同時代人が当時の身長七尺三寸に対する印象を示した点では無視しがたいけど
霍光かそれに近い立場の人物のつくった文章だろうから鵜呑みにしていいかどうかはわからない
一方これを否定する立場は始皇帝の兵俑の身長が180cmから190cmぐらいであることを根拠に
光武帝の七尺三寸は「中等偏下」だとしてる
現実の人物を比較の対象にしてない点でこの考察の仕方には疑問もないではないけど
兵俑の高い写実性をみればこれも無視しがたいし、身長が記録された同時代の人物の中では
光武帝の身長は最下位なのと併せて考えると、正しいかどうかはともかくそれなりに合理的ではある
あと、身長が史書に記録される人物は当時では特筆に値するぐらいデカかったからとよく言われるけど
私見ではこれには反対で、霍光や光武帝の身長は記録の残る同時代人と比べても特別大きい訳でもないし
卑近な例になるけど190cm近い楽天田中はプロ野球選手の中でも相当デカいのに
長身右腕とか形容される機会はほとんどないように
大柄な人物でも身長が関心の対象にならなければ言及されないこともありうると思う
近いってなんだよ、wikiだと188cm、日本のプロ投手の平均身長は182.2cmだから、相当デカくないし長身右腕とか形容される理由も無い。
ネットで「司馬懿と張夫人は不仲だった。証拠は同じ墓に入ってないこと」みたいな意見を見たんだが
調べてみたら普通に同じ陵に入っているような・・・
具体的な身長は無いけど最初の紹介文みたいなとこに「短小で威厳が無い」みたいなこと書いてあったろ曹操
短小ってのはどう考えても身長のことだろうし(ちんこのわけないよな・・・)
曹操の墓みつかったの?
>>866 ニュースくらい見ろよ
何年か前にけっこう流れてたぜ
魏蜀の戦いってさ
曹爽の征西と蜀を滅す遠征以外は
全部蜀のほうから攻め込んでるんだな
なんて鬱陶しい存在・・・
>>868 おいおい、もう少しちゃんと調べな
曹真による侵攻もあったんだし
魏からしたら民を酷使しながら数年おきに「漢朝復興!」を旗印に攻め込んできて敗北して帰ってくるテロリストみたいな存在だったのだろう。
全く戦果をあげてない点で言えばハエ程度の存在だったのかもね。
流民を保護し民を労わる政治を積極的に行ってる魏と比べたらどれくらい蜀政府が利己的だったか分かる。
なかなかの釣り針だな
872 :
世界@名無史さん:2013/11/10(日) 17:43:28.97 0
司馬懿のここぞという時の殲滅ぶりが好きです
京観、曹爽一味、王一味とか痛快
三国時代の中ではかなり残虐かもしれないけど他の時代を通して見るとあのくらいの粛清普通じゃない?
そんな大人粛清してやるっ!
魏だと恐らく文帝が丁儀一族を殺した以降は無かったことだと思う
呉の政争と比べると司馬氏の宮中争いの巧みさが目立つね
曹爽のときも王凌のときも無血で相手を捕らえたあと粛正だからな
ヒセワイ、ホヤ苅「スヌ、マ、ウ、ヲ、ハ、テ、ニ、?、鬢キ、、、ャ
フ?オリ饑鷏 」ャネユヤツヨリケ筍」 ヤ簽H?� 」ャョ?チヲ袍キス。」 犬鶴ネコキx」ャュh ゚^ケハ瀝 。」テCヌ衒fタ? 」ャソ?�Rーヒサト 。」ク豕ノ嗹タマ 」ャエ�ラ?ホ韭?
薫ハ「、ホ抱、タ、ネ、ウ、ヲ、鬢キ、、、ハ
フ?オリ饑鷏」ャネユヤツヨリケ筌ャス筌ィヤュラ「ゥsメサラーヤ箙遙ア」ゥ?H?�」ャキo袍キス。」犬鶴袁キx」ャ゚゚^ケハ瀝。「テCヌ衒fムe」ィヤュラ「ゥsエヒセ萪默苅カ抱ウュ。キ」ゥ」ャソ?�Rーヒサト。」ク豕ノ嗹タマ」ャエ�ラ?ホ韭?
三国志時代のベースの哲学が知りたいんだけどよく分からんなあ
背景に思想哲学宗教があることが当然の考え方だと思ってると中国史は凄い分かりにくい
ギリシャには神話がユダヤには聖書がインドにはバラモン教があり
日本も神道があるけど中国にはこれといったものが見当たらない
無宗教であることが中国人の宗教だと言われればそれまでだが
中国は総体としてみれば西洋の中世ですよね
殷代の王から清の皇帝までみなプリーストキング、教皇的だ
よく日本に古代はあるかという議論があるが中国史においても検討されるべきではないだろうか
中国は欧州より2000年早く中世に突入した(というより中世から歴史が始まった)
が、その状態から3500年間抜け出せず西洋に追い抜かれてしまった
879 :
世界@名無史さん:2013/11/11(月) 07:32:44.72 0
>>877 >日本も神道があるけど中国にはこれといったものが見当たらない
>無宗教であることが中国人の宗教だと言われればそれまでだが
儒教もそうだがこの時代現れた初期道教のこと忘れんなよw
老子や孝経でも読めば?一部だけだが、黄巾の経典も残ってるぞ
880 :
世界@名無史さん:2013/11/11(月) 07:36:44.17 0
>>878 あの〜時代区分的には
後漢王朝滅王までが古代
曹魏から五代までが中世
宋から清の途中までが近世のはずだが…
秦の統一や隋に時代区分入れる場合もあるが
どこからそんな考えがでたんだ?
>>877 基本「親孝行しろ」「忠節を尽くせ」の儒教でたまに道教だとか出てくる
「中央が乱れれば天命を受けた者が天に代わって王朝を武力で打倒し地に平穏をもたらせ」みたいな考え方も中国独自だと思うし
あとは「不必要な武力は使うな。中華を統一したら武力は手放せ。侵略すんな。」もあるか。漢の武帝とか領土広げたけど涜武と言われても非難されてるし(おそらくそのせいで植民地広げまくった西洋に負けたんだろうが)。
良心的な部分挙げるとこんくらいだが逆に天災が起きたら三公の誰かが辞職しなければ、なんて古代的な思想もあった。これは三国時代くらいから減るけどそれまでは権力闘争の口実としてではなく普通に行われてたから驚く。
第一日本史で神道が感じられるとこなんて皆無じゃない?本当に日本史勉強したことあるか?日本史で一番根底にあるのは仏教と儒教だと思うよ。
天皇だって引退して法皇になったり鎌倉時代に新しい仏教が発展したり戦国武将が出家したりあったでしょ。
日本は明治時代に廃仏毀釈が行われるまで日本は仏教国だよ。
中国史について更に補足するなら超歴史重視かな。三国時代のこと調べてても文官が君主に「昔春秋時代の楚の○○王は○○して○○になったじゃありませんか」とか良く出てくる。
ちなみに官渡の戦いで曹操が寝返りの書簡を焼いたというのも実は光武帝に倣ったものなんだよね。
現代日本は儒教国だから日本の戦国時代より中国史の方が共感できたり感心できる部分多いと思う。
日本の戦国時代の「下克上」だって最初覚えた頃は「激しくて怖い時代だなぁ」くらいにしか思わなかったでしょ?
下克上にも本当はちゃんとした思想があるんだよ。
江戸時代の幕府政策によってそれらは焚書坑儒のように抹消されたけどね。
>>877 基本的に儒教と老荘の二つの大きな流れがある
そのうち、儒教が士人の教養としては当然のもので老荘は隠者よりの教え
その儒教はいつごろからか陰陽家や法家の教えを結構柔軟に取り込むようになって、諸子百家との境があまり目立たなくなってるんだけど
儒教ベースの思想の上に、法家よりであったり、易学よりであったり、陰陽家よりであったりとそれぞれ人によって個性があるようだ。儒教自体色々な解釈があるのは言うまでもないしね
後漢時代は学校が繁栄して儒教が隆盛しまくった時代だけど、その中で特に鄭玄説が影響力を持ってるっぽい
三国時代はその復興の中で、儒教と老荘の接近がさらに強くなる。同時に曹操の影響で法家思想も強くなってるようだ
それは正始の時代に至って玄学として結実しつつ、その影響で論理学にもまた新しい流れが起きてるみたい。玄学への対抗として王粛説も力を持ち、それは西晋に続く
更に言うと王充の流れを引いて、無神論に近い考えを持っている人間も散見する
要は儒教と歴史の教養を基本として、後は結構自由
883 :
世界@名無史さん:2013/11/11(月) 12:47:13.18 O
上の二人に追加するが三国時代は仏教も少し入る。孫権が仏教を入れたり、サク融が仏教を保護したりした
884 :
世界@名無史さん:2013/11/11(月) 12:57:30.36 O
魏書釈老志によると一般人に五斗米道(天師道)の普及があること、晋書によると王ギシの家はだいだい五斗米道を信仰してたので、三国時代に初期道教を信仰したっぽい
推挙されるために親孝行したり品行方正にふるまう思想ってなかなかねじれてるよね
面白い
入試で有利になるために部活頑張ったり面接で有利になるためにインド行く現代人が言えたことじゃない
儒教の徳目でも忠より孝優先の時代だっけ?
司馬氏の簒奪劇中で忠義は表立て強調できないだろうし
中国の唯物史観で中世の始期を殷とはいかないまでも戦国時代に求める説もあったりするし
儒教を宗教とみるかどうかについても議論は結構錯綜してるから
うかつなことは言えん
日本で一番神道のながれを感じるのは穢れの思想だな
口から出した唾と口の中の唾は何も変わらないのに口から出した唾は汚く感じる
誰かが唾を吐いたコップは洗剤で洗えばケミカル的に綺麗な筈だが汚れているように感じる
漢代と魏晋代の違いはよくわかる
でもどちらも信奉していたものは儒教と老荘だ
おなじ思想を共有していながらなぜここまで違った性格の国家になるのか
この謎を解くカギは仏教にあるのだろうか
891 :
世界@名無史さん:2013/11/11(月) 18:23:28.71 O
仏教は呉や東晋はともかく魏や西晋では経典の翻訳がもう始まってるがさかんかどうか微妙だな 一応後漢二代目時には王の一人が信仰してるとはいえ
トウケンに使えてた悪人のあいつが仏教徒だよね
名前忘れたけど
この時はまだちゃんと伝わって無くてカルトみたいな感じだったんじゃないの
そいつは仏教の思想のもと民を保護して保護された民が列を作ると何百里にも及んだらしいけど略奪とかしてるし
儒以文乱法、而侠以武犯禁
侠は西洋には勿論、日本や韓国にも無い中国特有の習慣だと思う、今は知らないけど
侠もあんま目立たなくなるんだよな、三国時代には
侠は男伊達でしょ、日本にも傾奇者とかいるけど、あのたぐいじゃないの?
曹操、袁紹、袁術、王匡、董卓、張バク、史渙、夏侯威
李通、許チョ、典韋、楊豊、鮑出、ケイ康、牽招
劉備、徐庶、呉班、孫権、魯粛、甘寧、リョウ統
辺りが本人が侠とか侠を好んだと伝に載ってる人物
中国のことを語る前に日本の宗教を正しく理解してない人が意外に多くて驚く
一番根底が仏教や儒教のわけないだろ
それらを受け入れてきたのも根底に常に神道あってのことだ
仏教が後付けであることは古い時代の古典にも表れているし
宗教嫌いの現代人でさえ思想的文化的に神道の影響を大なり小なり受けているものだが
他の宗教に比べて空気すぎて気付いていないだけ
三国が形成されるまでは、侠も目立つんだけど
その後は吸収されちゃったのかあんま目立たないんだよ
>>898 吸収されたとかじゃなくてそれがウリになる時代じゃなくなっただけだ
>>897 根底にある呪術的なものがあるのは確かなんだけど、
それすら神道と断定していいかどうかわからないんだよな
他に言葉がないから神道だと思うんだけど
>>899 まぁ、ウリに成った時点でそれはもう侠では無いよね
903 :
世界@名無史さん:2013/11/11(月) 21:59:16.21 0
>>897 その意味では中国における道教(黄老思想も含めて)も同じだな
この三国時代に初期道教や経典が現れているのに
日中比較論でもまず言及されないし
儒教が〜と言う奴はいくらでもいるんだがな〜
>>897 どうせネットの仲間たちと一緒に日本固有の宗教に帰属意識持ちたいだけでしょ
そういう連中が明治時代廃仏毀釈起こして有りもしない神道の教えをでっち上げていったんだよ
正直言って日本史を真面目に学び客観的に俯瞰しようとする者からして君らは迷惑すぎるんだ
自分らの自我とアイデンティティを保つために日本史を穢さないで欲しい
>>896 チョウバクも若い頃資材を使って助けたりしてたんじゃなかったけ?
良く覚えてないけどこれが任侠かぁって思わせる事書かれてた人物は大勢いる
そもそも任侠って中央政府が腐った時に法律や権力を無視して独断で善行を行い民衆を助ける人でしょ?
そもそもの前提として王朝が長らく安定していた漢の時代に廃れるのは当然だと思う。そして後漢末期に段々と任侠が現れそいつらがそのまま群雄になったのでは?
記述は無いけど黄巾の頭目とかそういう任侠の人間が多かっただろうし。
907 :
世界@名無史さん:2013/11/11(月) 22:31:02.89 0
質問です。
概説書レベルならいくつか読んでいるのですが、
この時代の家格の決まり方がどうも飲み込めません。
例えば曹魏では荀・司馬・陳氏などが一格上な扱いですが、これは、
1)中央でも官歴(四世三公みたいな)
2)在地での権威(支配力・経済力)
3)士人間での評判(月旦他)
の何が決定打となるのでしょうか?
概説書では3)が重視されてる印象ですが、
そもそもそういう評価が決まるサロン自体、
前提となる家格バイアスがあるような気がして。
あと、東晋の王謝などはより家格が決定的な権威となっている印象ですが、
三国時代からの一貫した流れがあるのでしょうか?
>>909 官歴と言うよりは単に家柄と言ったほうがいい。
出世を望まず官位が低くても名士として扱われることはある。
名士、またはその家柄であればハナから上に居るわけで、
上に持ち上げてもらう形の月旦とどちらが決定打かと言えば前者だろう。
もっとも月旦のような人物鑑定に限らなければ、
家柄の良さも含めて「士人間での評判」であり、それがほぼ全てなわけだが。
名士なら権威はあるだろうが、支配力があってもイコール名士とはならない。
魯粛は経済力を取っ掛かりに重用されたが、名家どころか異端児として扱われていたわけで。
正直三国志から外れた中国史は全然知らないけど、
王氏は前漢時代から続く名門、謝氏は西晋から隆盛になったらしい。
王氏も三国時代からそんな栄えてたというわけではないが。
曹操は宦官の孫、売官野郎の子ってことで、
太尉の子という家柄にしては名士の評判は低かった。
だから許劭らに評価してもらいに行き、名士の荀イクをブレーンとして迎えた。
と言っても太尉の子という格にはそれなりのステータスがあるわけで、
中山靖王の子孫(笑)や孫子の子孫(笑)とはスタートラインが違うとも言える、という。
後漢から三国時代の間じゃ家柄はそこまで関係ないと思う
つうか家柄って言っても二三代の話だしな
その数代の間に子弟で高官に昇っても清吏でいられるかだと思う名士に評価されても、それでようやく推挙される、他の名士に舐められず交われるって程度だろう
で中でも宰相クラスに出世しつつ子弟で高官の断絶が起きなかったジュン氏陳氏司馬氏の家格が上がったって感じだと思う
>>879 道教はアンチ儒教として生まれたものですよ
914 :
909:2013/11/12(火) 12:19:19.58 0
回答感謝です。
三国時代は家柄の固定化も多少見られるけど、
それほど強固じゃないって事ですかね。
まぁ戦乱の時代だしそこまで強固じゃないだろう
呂蒙とか庶民から出世した奴も多い
>>911 違うだろ
曹氏は曹騰で俄かに興り、曹嵩が顕官を得たという新興の勢門
曹嵩が太尉になるのって黄巾の乱の後で売官を買ったというのもその時だけ
曹操が評価を求めてた時期とは10年くらい差がある
時空曲がってるかのような理論はおかしい
名士に嫌われる家系から、言い方悪いが名士に好かれるように媚びた
劉備や孫堅に比べれば名家ってだけで、別に代々続く名門とか言ってない
矛盾はしてないと思うが
真偽はともかく若い頃の孔子が老子に礼を学んだていう説まであるのに
道教が儒教のアンチとして生まれたいうことはないはずなんだが
>>918 道教にとっての老子は仏教にとっての仏やキリスト教の聖人のようなもので
老師本人の人生はほとんど関係ない象徴のようなものですよ
>>919 だからナンなの?て言うか何が言いたいんだろ
>>917 文句言ってるのはそこじゃない
「売官野郎の子ってことで、太尉の子という家柄」
「だから許劭らに評価してもらいに行き」
というところがおかしいって言ってんだよ
時系列が合ってないだろ
曹嵩が売官で太尉になるのは188年のこと
曹操が人物評を受けるってのは20歳前後の話だぞ
10年くらいの時差がある出来事なのに後にあったことを因として
先にやることを果という理屈はおかしいだろ
あと「名士に嫌われる家系から」というのはおかしい
曹騰は名士推挙で名声が高く、曹嵩や曹操の代で方針転換というわけではない
元々名士と共存する方向で出世して行ったのが曹氏だぞ
曹操の場合は単純に品行が悪かっただけの可能性があるな
曹操の若い頃は今で言えばTwitterで炎上してるようなDQNだったんだろうね
中常侍邸なう
Twitter炎上はほとんどアタマ悪いだけだからなあ
一昔前のツッパリみたいなもんじゃないの
元ツッパリだけど大成して偉人になったっつー
間違っても
俺は昔ワルだったけど、人間ちょっとぐらいワルやってないと立派になれないよなーw
とかDQN自慢してるアホではないな
漢の高祖劉邦なんか893だったからDQNくらいで騒ぐなよ
Twitter炎上というよりは暴走族の族長みたいなもんじゃないの?
曹操「薬には絶対手を出さない!」
手下「「オッス!!!!」」
曹操「売られた喧嘩は絶対買う!」
手下「「オッス!!!!」」
曹操「一般人には迷惑をかけない!」
手下「「オッス!!!!」」
みたいな
劉邦がヤクザだったというのはいろんなところで見かけるのですが
それは咸陽に行く途中で逐電する前から
たんなる兄貴分を超えてそういう組織の頭みたいな立場の人だったってことなんですか?
つまり、レッツパーリー?
>>928 沛のならず者たちの顔役の一人といったところかな
まあ普通に生活している人から見てロクでもないヤツだったのは
劉邦の生まれ育った豊の人間が挙兵直後の劉邦を支持しなかったところから察することができるな
曹操もなんか挙兵の時にいろいろ無かったっけ、確か秦なんとかの親父が犠牲になったヤツ
「任侠だった」というのをバカが勘違いしてヤクザだったと解釈してるだけ
正確に言えば任侠の徒を現代のヤクザが名乗ってるだけで任侠=ヤクザでは無い
加えて現代のヤクザが任侠だとは到底思えない
まぁ底辺層だったのは確かだから気の良い土方の大将みたいなもんだと思う
>>930 932
説明、ありがとうございます
柄の悪い辺りにも顔が利く人物ではあったけれど、
裏社会の組織のボスだったというわけではないという感じでしょうか?
896さんが書かれてるような人には立場がある人が多いので
そういうわけではない劉邦はどんなものなのかと思ってました
まぁ柄の悪いと言っても三国志演義の張飛や水滸伝の好漢みたいな連中だと思うけどね
水滸伝の好漢の中にはマジでシャレにならない外道が何人かいるよな
全然好漢じゃねーな
937 :
世界@名無史さん:2013/11/12(火) 23:16:12.38 0
>>918 儒教国家後漢の崩壊と共に
初期道教の黄巾や五斗米道が出現してきたんだから
儒教へのアンチやそれと違った道を選んでるとは思うがな
>>918 その説じだいが道教の中の人も言い出してるから…
つまり道教>儒教と
>>937 後漢の崩壊と共に?桓帝の頃から後漢崩壊してたというのか?
940 :
世界@名無史さん:2013/11/12(火) 23:27:23.37 0
桓帝の頃なんて後漢の崩壊が始まってる頃じゃん
>>941 衰退は始まってるが崩壊って霊帝崩御前後だろ
それ以前の後漢はまだまともに機能しているよ
943 :
世界@名無史さん:2013/11/12(火) 23:49:35.40 0
>>939 少なくとも崩壊途上とは言える
桓帝どころか安帝が政権とったころから
どんどん酷くなってるしな
災害地獄も酷い有様
>>942 と言っても反乱災害桓帝やそれ以前の跋扈将軍の統治とか酷すぎだろw
少なくとも災害については桓帝時でも酷い有様
崩壊衰退どちらの言い回しを取るにせよ
ろくでなしの後漢と言う儒教国家から見切りをつけた
連中が道教を生み出したり、仏教の経典が翻訳され信徒が
徐々に広まるようになって来たんだろうな
>>943-944 国家の崩壊って言う政府が機能停止することなんだと思うのよ
失敗国家とか崩壊国家とか言うじゃん?
桓帝の頃はまだそこまででは、と
衰退というなら安帝の頃からその兆しは見えていた
滅亡というなら霊帝死後だろう
桓帝にしろ霊帝にしろ宦官の傀儡になってたわけじゃなく独裁者として宦官を重用しすぎただけだしな
宦官の重用が悪いことのように書いてあるけど
それ以前の外戚の悪さを考えるとしょうがないことではある
滅亡なんて誰も言ってないぞ…
>>934 て言うか水滸伝の好漢の皆様は、別に皆で農業とかやって暮らして居た訳じゃないし
職業は正当な山賊家業
どうでも良いけど元々農業とか商業とかやってたけど侠気を発揮して腐った役人に盾ついたから山賊になる羽目になったんでしょうに
当時は言葉がなかったからしょうがないけど
今は反体制ゲリラとかレジスタンスとかあるから、
山賊として道行く人を襲っていたのか、
反体制派として活動していただけなのか
それが問題だ
山賊をしつつレジスタンス
山賊をしつつレジスタンスをやった末に体制側に担がれて奮戦の末壊滅
>>880 中国科学研究家の藪内清が湯川秀樹との対談中にいってます
中国は全体として西洋中世でそれを揺り動かすものが無かったため
近代科学が生まれることは無かったと
>>904 神道擁護というより神を取敢えず奉っとくことの簡単さ分かりやすさ便利さに
気付いてしまってな、西洋の神概念に浸ってて東洋に戻っても日本には神々が
おわしましてて、じゃあ中国はってなった時に立ち止ってしまうんだ
儒教や仏教は宗教というより思想哲学だと思うし老荘も思想でしょ?
西洋では哲学するにもとにかく宗教、神、神々が纏わりついてて
その相克に哲学が生まれてて、時代理解も古代は神話時代それ以降はキリスト教時代で済むし
日本も現在まで神道時代でいいと思うんだよ、それと比べて中国はなんと呼びあらわしてよいやら
西洋以外でもこの区分は使えるよ、神話時代から○○教時代ってのは
中南米も神話時代からキリスト教時代、アフリカもアニミズムからキリスト、イスラム時代
日本はいまだ神話時代だな、俺らは神々の末裔、いや神々そのものなのさw
日本人の能天気さはここから来てると思うぜ
とりあえず世界史板では日本の東洋史学界の伝統的な時代区分論を押さえとかんと
他の住人といつまでも話がかみ合わんよ
で後漢末期〜三国は宋以後中世説を採れば古代の真っただ中
宋以後近世説を採れば古代と中世との境目ということ
じゃあそれらを区分するイデオロギーは何なんだい、
という議論は大学でやらねば駄目かねやはり
でもこれで日本人は理解しがたいという西洋からの指摘は論破できると思うんだが
日本は西洋人の基準でいえば神話時代ですよと言えばよいのだ
それよりも理解し難いのがいるでしょ、と、中国でしょと
中国は後漢まである種の神話時代、三国志以降は仏教時代という理解でおk
日本の神道と欧州のキリスト教との比較は実に面白い作業だ!
962 :
世界@名無史さん:2013/11/13(水) 19:19:51.05 0
>>955 科学史はしらんが…
>>878までその科学史の人の射程が及んでいるかも怪しいが…
通常は、宋あたりで近世に突入している見方が強い
唐宋変革論でググレ
963 :
世界@名無史さん:2013/11/13(水) 19:27:56.93 0
そういう学術的な薄っぺらい歴史考察はいらんから
もっと本質見ようぜ
大学の課題を質問したいなら知恵袋いってけ
日本に帝コクの元になったとされるキという一本足の動物が祀られてたりするよね
966 :
世界@名無史さん:2013/11/13(水) 20:29:38.80 0
>>960 の道教スルーには泣ける
三国志ではサク融と孫チンが僧侶をぶっ殺したぐらいしか仏教ないのに…
日本も仏教が伝来してからかなり長い間
多くの人は「仏に祈ったら現世で願いが叶うらしいぞ」くらいのノリで
思想哲学はほとんど理解されていなかった
それでも宗教は宗教だけど
仏教のあるべき形と違ったからこそ苦労して鑑真を招いたりしたわけで
寺とか僧侶とかようやく言い出した三国時代も
思想哲学は一般にはほとんど理解されてない頃じゃないかと思う
無常とか来世のような仏教の思想哲学が滲む発言をした人、三国志にいたっけ?
まず仏教導入しよとした聖徳太子ご本人が
明王に軍事の加護祈ってそれで勝った!とか喧伝しとるし
まず現世利益がないと信者集めのスタートダッシュは難しい
三国時代までは道教もそんなに広まってなかったと思うけどな
征伐の対象になってたくらいだし
三国志の人物たちの思想的基盤としては弱いと思うんだけど
曹操も、孫権も、劉備も崇拝してないでしょ、
>>967 曹植が仏教を中国風に解釈することに(いわゆる格義仏教)批判しているよ
仏典の翻訳も安世高という人物が三国志時代の直前から始めている
そもそも仏教の母体になったバラモン教にはご利益自体が全く無いから。
ひたすら修行して、悟りを開いたら神と同格またはそれ以上の存在になれるって言う厨二宗教。
唯一転輪聖王って言う世界制服コースあるけど、選択した覚者は皆無だし。
当然悟りのための修行は非生産的な作業なので、周りで衣食住を丸抱えで世話するんだけど、
当人が悟った後も、協力者にはなにも無いって言うw
推測なんだけど、ユダヤ教は超厳しい砂漠で生き抜くために、神を作って契約を結んで、少しでも楽に生きたいって言うね。
キリスト教は、そこに貧乏のずうどこに居たローマ人や奴隷達の悲願が乗っかたりして出来たんだけど、
バラモン教は、カーストのトップでヌクヌクと生きている連中が、自分の修行に都合の良い様に作った宗教だからかな。
>>969 桓帝は道教信仰に等しいことやってるし道教の広がりってでかいぞ?
972 :
世界@名無史さん:2013/11/14(木) 19:57:03.85 0
都合の良いようにというか衣食住足りて生き甲斐を失った人間らがこの世の真理を追求するっていう生き甲斐を見つけたんだろ
ある意味現代日本人に一番合うのかもね
都合の良いという意味ならユダヤ教とかキリスト教の方が都合良いだろ
信じるだけで救われるというご都合主義
お前のように生活に余裕無い人間がすがるための宗教
バラモン教は現代で言う哲学とかに近い気がする
973 :
世界@名無史さん:2013/11/14(木) 20:19:17.39 0
>>969 曹操に関しては子どもを張魯の子と結婚させたあたり
取り込もうとはしてたんじゃないの?
>>972 禅ってやつね、それこそご利益なんて一切無いひたすら座ってボーッとして。
始皇帝の焚書坑儒、評判悪いけどある意味当時としてはアリかなぁって
>>967 だって教とついてるんだから学問なんだよ
あなたの言う多くの人って学のない庶民しょ?理解も何もない
976 :
世界@名無史さん:2013/11/14(木) 23:19:08.39 0
仏教自体が中国で変質したしな
日本では儒教とも合体したらしいね
司馬懿が東曹属だった頃の東曹掾って誰だったんだろ
979 :
世界@名無史さん:2013/11/15(金) 19:13:40.87 0
中国でも三教と言って道教儒教仏教になるからな
それぞれパクったりしてるし
>>973 でも自分は崇拝してないでしょ、行動のバックボーンになってない
中国の国家は性格を把握するのが凄い難しい、ころころ変わるし
違うんはわかるけど具体的に漢と魏、五胡の違いは何かと言われても答えることができない
ヨーロッパだったら前述したようにギリシャ神話時代→キリスト教時代でいいのに
漢代までの中国にはぼんやりしていて名前も知られていないが
多くの神々がいた、儒教でも道教でもとらえきれない神々が
それらを祀るための祠が各地にたくさんあった
それらの神々を殺していき人間中心の世界にしようとしたのが魏晋代
仏教などの力も借りて
982 :
世界@名無史さん:2013/11/16(土) 01:31:42.32 0
道教でとらえきれないもクソも漢代ではほとんど発展してないし
むしろ道教神大杉だろうがw
だがそれはそれで良かった、仏教化を進めるのが最も先進的な事業と呼べるからだ
しかしそれも五胡の侵入によって頓挫する
五胡達は自分たちが野蛮人ではないことを証明するために儒教に頼った
だがそれはもはや時代錯誤的だった、同じく外来の仏教に素直に頼っていれば混乱も小規模で終わっただろうに
そしてこれ以後の中国の目標は現在中国も含めて西晋代ではないかと思う
最も仏教的だった時代西晋代目指すこそが中国人民の安定につながると思うのだが
中国の神話と言えば四聖獣を忘れちゃいけない
最も具体的に何をしたかは何も残ってないが
985 :
世界@名無史さん:2013/11/16(土) 02:16:30.03 0
>>983 珍説すぎるwwwwwwwwwwww
符堅や石ロクあたりの仏教庇護してるだろうがwww
>>>。最も仏教的だった時代西晋代
それはひょっとしてギャグで言っているのか?
986 :
世界@名無史さん:2013/11/16(土) 03:59:07.84 0
宋・明がもっとも仏教が盛んだったんじゃないかな。
もっとも税金のがれのためだったらしいけど
>>985 >符堅や石ロクあたりの仏教庇護してるだろうがwww
しかし結局三武一宗の法難に収斂していくでしょう?
>それはひょっとしてギャグで言っているのか?
西晋代が中国史上最も知的水準の高い時代だったと思ております
その理由は仏教を最もよく理解した時代だったからだと思っています
988 :
世界@名無史さん:2013/11/16(土) 10:08:32.55 0
アジア人に知なんてあったのかよw
曹操は道士とか集めていろいろ研究してたんじゃなかったっけ?
曹丕がそのへんの事書いてなかった?
天が知ってるし地が知ってるし人が知ってるし我が知っている
研究ってほどじゃないと思う
普通の権力者の俗っぽい遊び
それを曹丕が「父が方士を集めたのは見せしめにして一般人から隔離するためだから!」とフォロー
992 :
世界@名無史さん:2013/11/16(土) 12:34:36.13 0
>>987 >三武一宗の法難に収斂
いい加減に概説書でも読んで珍説から離れろwwwww
>>991 ということはつまり曹操は道教信者じゃないということだね
>>992 しかし漢族よりは仏教の理解が足らなかった
儒教に戻ることも名もなき神々を祀ることも出来なかった
曹操は儒家だろうが
何当たり前のこと言ってんだ
古学に詳しいということで朝廷に出仕したりしてるしな
>>992 三武一宗の法難はちょっと時代区間長すぎだなw
ただ最初の北魏の太武帝の廃仏は儒教万歳の中華主義者崔浩(しかも名門中の名門
清河崔氏という)が主導者なのだがな。仏教への対抗馬として担がれた道教のリーダー寇謙之は
しばしば廃物に反対したというのに。
>>994 孟徳新書からして兵家に区別されるのではw
(残った文章量からすれば詩人になるのだろうがw)
仏教って起源のインドでも廃れて中国でも廃れて
なんで東南アジアとかでだけ生きてるんだろうな
キリスト教と一緒だね
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