3 :
世界@名無史さん:2012/01/04(水) 07:18:30.70 0
袁術の帝位僭称はどんな意味が?
後漢末では最初の皇帝自称。
袁術以前に皇帝名乗ってた賊徒いたはず
陽明皇帝様とかな!
後漢末期には袁術以外にも天子を僭称した賊はいたけど
やたら袁術ばかり僭称者として持ち上げられるのは、それだけ
袁術がやったらシャレにならんと認識されてたんだろう。
他の僭主とは一線を画すほどの大群雄だったから
他の連中は官位もロクに持ってないし形式も全く整えてなかったけど
袁術は官位はあるわ、皇帝としての格式を揃えた儀式とかやるわで大変だったのだろう
袁術の帝位僭称って何かアレだな
ナメック星編時点でのベジータが
「俺は超サイヤ人になったんだ!」
ってのたまった時のような同じ匂いがする
アニオタはマジどこでもアニメの話するな
アニメじゃないだろこれ
マイナーなアニメのネタならともかく、超有名な
準国民的漫画の例え使ったくらいでアニヲタって・・・
ドラえもんやサザエさんで准えてもアニヲタとか言われそうだなw
そんなネタは置いておくにしても、僭称するからには
それだけ自分の国力とポテンシャルに自信があったんだろ。
ほとんど益州しかなかった劉備が皇帝になれたくらいだし
AD190年代を「三国志前章」みたいな視点で見ると
僭称がいきなりに見えるけど、AD197年は袁術らにとって
劉備でいうAD221年のような感覚なわけで
即位時に孫策が絶縁状叩き付けたせいで
ハナから孫策の勢力圏を非袁術勢力圏として認識してしまうが
孫策も含めると、楊州から徐州南部、豫州東部に跨る結構な勢力圏で
劉備即位時と比較しても見劣りしない規模だな
なんやかんやで孫策は袁術と戦ってはいないからな。
むしろ袁術の為に曹操が派遣した陳ウをボコしている。
しかも遺族を保護したりと小覇王はツンデレ
>>14 それをいうなら中華全土を征服してもいないくせに皇帝を僭称した
曹否と例えてほしい
きしょいからアニメの話はしないで
孫策は袁術を攻めるそぶりも見せないが、
曹操に対しては攻める気満々。
袁術を唯一南北から挟み撃ちに出来る勢力なのに、何もしていない。
袁術はいつまでも北を向いている。これは南が安心でなきゃ出来ない。
優柔不断な劉表ですら、許都襲撃をもちだした劉備に対して「好機を逃したなぁ」と謝ってるぐらい。
漢の後継王朝を自認していた呉で「孫策は仲王朝に仕えてました」なんて書けないでしょ。
22 :
世界@名無史さん:2012/01/05(木) 22:08:04.23 0
司馬懿って政治家として何か功績あった?
何か軍人としてしか活躍してないイメージあるんだけど。
でも軍人の家柄でもないよね。
袁術没後の孫策って袁術勢力での内ゲバしかしてないのにな
このスレもアキバ系のやつら多くなったな
ツンデレとかアニメの話とか
誰もアニメの話してなくね?
DB程度でアニヲタとかアキバ系とか何か笑える。
ついでに
>>10はアニメじゃなく原作漫画だしな
>>20 単純に、当事の孫策がそれほど驚異じゃなかったというだけでは。
孫策がそこそこの群雄になるのは袁術死後
生前は孫策自身も外敵が多くて迂闊には動けない。
絶縁状も残ってるし袁術一派の連中を撃退した記録もあるし
敵対が疑わしいとするには苦しくないか?
>>15 当時の漢王朝が完璧に支配してる領土も、袁術領と大差ないかもね。
漢王朝領じゃなく”劉協”領という視点なら尚更
祖郎とか袁胤を攻撃してるからな
5年ほど前ならともかく、ツンデレくらいは2chみたいな場じゃ
もはやアニメ関係なく普通のスラングだろ
江表伝の記述はともかく解釈の方は正しいかな。
あんまり疑ってかかるのは問題だが、
>>21の言うような孫呉マンセーの史書
31 :
世界@名無史さん:2012/01/06(金) 13:08:17.70 0
三国志好きを中華の共産主義者扱いするレベルの馬鹿馬鹿しさですな
つうかいちいち例えや引き合いにアニメや漫画をもってくるってのが
自分の程度の低さを晒してるって気づけないもんなんかね
たまたま出てきただけで「いちいち」に見える脳味噌の方がどうかと思います
分野違うけどサウザー遺伝子とかゴジラサウルスとか命名した奴が許せんわけか
というか最近三国志系の単語検索すると、ゲームの攻略だの
萌えキャラ化した人物だのがヒットするのはどうにかならんのかw
>>32 スレタイ的には恋姫ならおkだな
美羽とか雪蓮とか
三国志検索というのが一応あるけど、むしろゲームとかキャラクター化した類こそ
そういう専用検索で隔離すべき立場じゃないのかねえ
学園三国志は良かった
なんであのサイト寂れたんだ
袁術が常に北を向けてられていたのは、南に対しては
劉勲が睨みをきかせていたからでは
38 :
世界@名無史さん:2012/01/06(金) 19:23:12.66 0
馬超な何が凄いのですか?
抽象的すぎて質問の意味がわからない
何が凄いのですか?
と聞くからにはキミは馬超が凄いと聞いたけど疑問視してるんだろ?
まず何が凄いと聞いたのか思い出してごらん
おにいさん達が聞いてあげるから
40 :
世界@名無史さん:2012/01/07(土) 05:19:53.68 0
戦功がないのに、やたら官位が高いとか?
41 :
世界@名無史さん:2012/01/07(土) 07:15:13.71 0
>>38 超名門の家に生まれたこと、それだけで凄い
獣面呑頭の兜がかっこいい
邪鬼眼なのがかっこいい
馬超てどんな顔してたの?トルコ顔じゃないよね?
>>40 曹操から貰った官位なら実に相応なもの
劉備から貰った官位も相応なもの
なんで官位は戦功と比例してないといけないの?
>>41 馬騰が「名門」・・・?
>馬騰が「名門」・・・?
涼州では5本の指に入る名門だろう
馬騰の代には没落して生活は貧しかったがな
馬騰馬超親子が武勇で鳴らしていたのと異民族へのコネが強みか?
馬騰は明確に寒門の出といえるだろ
父の最高位はたかが辺境の県の丞
母は異民族
馬騰自身は木こり
その立身の過程に何一つ出自が役に立ったという記述がない
闘犬で遊ぶ余裕があった劉備の「草鞋」どころじゃない
じっくり時間をかけるより
稚拙でも早く行動したほうがいい
みたいな意味の中国のことわざ知らない?
孫子には拙速より巧遅のほうをすすめているらしいよ
拙速をこのんだのは日本史のほうにしかでてこないらしい
キョウ族って母処婚だったの?
>>48 涼州出身で馬騰より高い官位もらった奴は李カク・郭・カクぐらいだろ。
馬超の頃にはすっかり名門だよ。
>>53 一代でのし上がった家は名門といわねーだろ
55 :
世界@名無史さん:2012/01/08(日) 12:20:49.19 0
劉備に使えてからは、目立った功績ないよね。
太史慈も降伏したのちは目立った功績がない
でも降伏(帰順)自体が内外に対してあたえた影響で比肩なき功績
つまり働かない方がかえってよいということ
まぁ馬超が帰順後に活躍してない・してるが気になる人は馬超を所謂「猛将」と理解してるんだろ
現実の馬超は「群雄」
張?
太史慈
馬超
臧覇
---------------
張遼
張?
?徳
黄権
この壁の↑の臧覇が異端
60 :
世界@名無史さん:2012/01/08(日) 18:19:09.09 0
馬超は劉備に使えてから大人しく、控えめになった感じするな。
関羽に怒られて以降な
62 :
世界@名無史さん:2012/01/08(日) 20:01:59.99 0
羌族はチベット系だからコーカソイドの血はほとんど
入ってないんじゃね?
馬氏は後漢の四姓の一つで洛陽の四姓小侯の学校で学ぶ権利があるから宗族帳は完全に朝廷に管理されてるだろうし。
普通に扶風の宗族にも認められてるようだから馬援は後漢の外戚家で間違いないと思うが。
馬援じゃねえw馬騰なw
で、木こりの馬騰は名門なのか?
樵って別に賎民の仕事ってわけでもねぇしなぁ
この時代、超大豪族でもなけりゃ当主だって普通に野良作してるのに
樵やったら名門なのかどうかって疑問持つ時点で頭おかしいよ
司空の第五倫の甥の子だったかの第五訪も早くに親を亡くして貧しさから人に雇われて農地耕してたな。
当主筋は第五倫以降二千石以上だからそれで名門じゃないってことにはならんと思うが。
じゃあ劉備も名門か
って言葉遊びというか馬騰馬超は名門であるという前提の擁護遊びはやめたら?
袁家や周家なんかは権勢・由緒ともに誰も異議を唱えることがない名門だが
草鞋の劉備や樵の馬騰は仕官のコネのなさからして名門ではない
「いい血筋」であるだけ
>>63 扶風馬氏は紛れも無く名族だが、
その一族の庇護から外れた馬騰の家が名門などといえるはずな無い。
紛れもなく寒門。
>>68 いい血筋のことを名門っていうんだけどね
君の言ってるのは権門、勢門の類
いくらウン代前の祖先が偉かった、と言っても、
継いでいるのが系図だけで、家独自の伝統や由緒を現代に継いでなければ
名門と言えるわけがないよ。
フィギュアの織田信成は名門か? んなわきゃない。
>織田信成は
あ、織田信長の子孫としての価値ある名門か? ってことね。
近代に入ってそれとは別に隆盛することはあるだろうが、
それは「信長以来の名門」とは別の問題。
馬騰・馬超と同じだね。
そそ
平成のいまでも旧大華族の本家総領とかは名実ともに「名門」だけど
華族の血筋を引いてる誰もが「名門」であるわけではない
その辺を理解できないバカは金輪際書きこむなよ
>>71 フィギュアのノブナリくんはただの僭称者なんで当然名門じゃないし例示として間違ってる
>>71 系図継いでるなら十分だろ
系図もなんもなくてただの子孫でございってんなら意味ないけども
馬騰の場合、父親がよくわからん理由で失職、没落してるから
出自は名門の流れを汲むが、本人たちは何もないところからの成り上がりという状況だな
劉備の場合、祖父、父としっかり官位を貰ってるようだし、土豪の類ではあるだろう
正史の劉勝・劉貞の子孫か魏略の劉エンの子孫かは不明だがどちらの血筋でも貴種なのは事実だ
こっちは十分に名門出身じゃないか?
>>74-75 織田信成の家は系図継いでるよ。
"僭称"の可能性は古今東西関わらず、劉備にも馬騰にも言えることだねえ。
古来、系図は作られるものだから。
とりあえず君たち二人で議論して勝ち残ったほうが自分の意見を主張してくれや。
>>77 ノブナリが系図継いでるとか情弱過ぎて生きるの辛くない?
あいつんちの系図、紙は新品だわ、何代も間抜けていきなり祖父から再開とか
どう継いだらあんな系図になるんだか
だから、系図なんてそんなもんだって言ってるのよ。
劉勝から劉備まで300年あるんだからね。
普段の歴史研究では別にことさら疑う必要は無いが、
「系図継いでいれば名門」なんてそんな紙っぺらに等しいもの。
それを現代人が名門と定義するのは勝手だが、歴史に対しては何の意味も無い。
直近のコネや財産も無く、当人に実力もない血筋だけの人間なんて、
当時なんの社会的社交的価値も持たなかったから。
誰にも気に留められなかった家を名門と呼びたければ、
あなたの心の中で呼んでいればいいんじゃない?
>>79 誰にも気に留めなかったかどうかは名門の定義とは無関係なのに何言ってるのかな
えっ。
自分の血統を自分以外に気に留める者がいない"名門"なんてのがありえるわけ?
もしそうだと定義するなら、その定義を大事に心の中で唱えていればいいって言ってるだろう?
社会的価値を認められず気にも留められないことと血統を当人たち以外気に留めないことは別だろ
何言ってんだよ
少なくとも血筋の正しい織田家からは一族ではないとされている信成の家系は立派な僭称
あらゆる点で例に持ち出すのはおかしい
社会的に気にも留められないことと、当人達以外気に留めないことが別物とはこれいかに。
>>85 「社会的に気にも留められないこと」じゃないだろ
「社会的社交的価値」がない状態と君は言った
それは「自分の血統を自分以外に気に留める者がいない」状態とは別
すり替えはやめなよ
あなたの脳内がどうなってるのかさっぱりわからん
言葉のお遊戯してないで他人にわかるように具体的に説明してよ
>>73 核家族化が進んでる日本の血筋と、家父長制全盛の時代でしかも氏族集団で固まってる時代の宗族とを比べる方がおかしいだろ。
三国志スレとは思えぬ程の織田の連呼
まぁちょっとヒネクレて斜めから「名門」言葉遊びをしてたら
引くに引けなくなってしまったバカがいるってことでいいだろ
三国志に限らず歴史好きってこういうタイプ多いよね
そんな事より鮮于輔の話しようぜ!
織田信成は顔だけで名門の末裔ってわかるし
ここに書いてることについて質問なんだけど、
http://www.3guozhi.com/hito/syuzen2.html ・「鎮西将軍+輔国将軍」という読み方は正しい?
・輔国将軍って、鎮西将軍以下の雑号将軍?
三国職官表に従えば鎮西将軍>輔国将軍だけど、陸遜伝の読み方としては、
鎮西将軍→輔国将軍に昇進したっていう方が自然な気がするんだけど。
将軍職の兼任っていうのも不思議な気がするし、それは正しいとしても下の職を加官するっていうのもまた不思議。
>>93 ・呉の階級に魏の品秩は適用できない。品数序列は完全に無視すべし。
・将軍号とは名号であり、名号の重ね持ちというのは常制ではない。あったとしてもかなり例外的。
・漢の制度を継ぐ蜀漢・呉において、(征西以外の)諸征将軍は後漢末に生まれたばかりの二千石将軍。
つまり魏晋の雑号将軍相当。多少他より序列が高い可能性があるだけ。
・漢の制度を継ぐ蜀漢・呉において、諸鎮将軍は後漢末に生まれたばかりの二千石将軍。
つまり魏晋の雑号将軍相当。ただし、諸鎮は後漢末の群雄にばら撒かれた、二千石の中でも相当上の序列と考えられる。
・輔国将軍の発祥は後漢末と考えられるが、説に食い違いがあるものの、董承が衛将軍から、伏完が執金吾から栄転している、
つまり諸卿(中二千石)以上の格式を持つ国家の顕官。
この格式は輔漢・輔呉と名を変ええうなどして三国に継がれている。いずれの叙任者も名だたる者ばかり。
>>93 輔国将軍を「軽めの将軍号」と書いている時点で一切見なくていいレベル
ついでに、朱然が呂蒙から継いだのは、江陵駐留の座(おそらく南郡太守も?)であって、
荊州の総督的な地位ではない。なにしろこのとき、孫呉には荊州総督的な人間は存在しなかったのだから。
ただ呂蒙が、経歴から軍令・指揮系統を持つ諸将軍の第一人者的な立場を持ち、
都護孫皎が諸将を監督した(かもしれない)だけ。
朱然が江陵督の座を継いでも、呂蒙個人が持っていた「第一人者」という格まで継げるわけではない。
陸遜が劉備を防いだ功績により輔国将軍・荊州牧に任じられた時に初めて、孫呉に「荊州総督」が誕生する。
>>94 ありがとうございました、という言葉では足りないくらいありがとうございました。
伏完は見たような気がしますが、董承が衛将軍→輔国将軍になってたとは知りませんでした。
後漢書に載ってますね。
>>95 郭嘉の項なんかも「ん?」と思ってましたが、他者からもツッコミ食らって追記してたり。
>>96 今はただ輔国将軍の件が疑問に思っただけなので、
それ以外の部分については深く考えてませんでしたが、後で勉強しておきます。
19の階級の内、輔国将軍は12番目。中の下ってとこ。
134 : 世界@名無史さん : 2010/06/04(金) 15:21:07 P
蜀と呉の将軍号の序列を書いたので、
最後にこのスレでは人気のない魏の将軍号の序列について。
大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>四征大将軍>四鎮大将軍>
諸大将軍>四征将軍>四鎮将軍>四征将軍>四方将軍>三品雑号将軍>四安将軍≧四平将軍≧
四品雑号将軍>五品雑号将軍>偏将軍>裨将軍>牙門将軍
魏は官品が分かってるから、将軍号の序列が分かりやすい。
あと、四方将軍の地位が低いのと、四征将軍の異様な地位の高さが特色。
四方将軍が都督の副将的な位置づけになることが多いのも特色。
あと、呉や蜀のように特に格式の高い将軍号がないのも特色。
3品って、九卿クラスなんだが。どこが軽いの?
魏晋が四征鎮など二品の官を増やし、 古制に倣うと「公」と「卿」の間に「孤」という地位を設定するようになって、
卿の地位は目減りしたが、その影響を受けていない呉蜀にとって
諸卿相当官というのは、上に片手の指の数くらいしか人がいない顕官。
>蜀と呉の将軍号の序列を書いたので、
>最後にこのスレでは人気のない魏の将軍号の序列について。
引用する箇所くらい読んで選べよ…
>>101 いや見たけど、ないんだもんw
113 : 世界@名無史さん : 2010/06/02(水) 15:47:18 P
呉は大司馬と上大将軍と大将軍と左右の軍師と左右の都護と左右の都督と、
大将軍級の軍幹部が大勢いて訳分からん。
あと、呉の将軍号の序列は
上大将軍>大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>諸大将軍>四方将軍>四鎮将軍>
鎮軍将軍>四征将軍≧四平将軍≧四安将軍≧雑号将軍と思われる。
114 : 世界@名無史さん : 2010/06/02(水) 15:48:52 P
あ、衛将軍を忘れてた。訂正。
上大将軍>大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>諸大将軍>四方将軍>
四鎮将軍>鎮軍将軍>四征将軍≧四平将軍≧四安将軍≧雑号将軍
116 : 世界@名無史さん : 2010/06/02(水) 20:21:13 0
蜀の序列は
大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>四鎮大将軍>鎮軍大将軍>四征大将軍
>四方将軍>四鎮将軍>鎮軍将軍>四征将軍>雑号将軍
ではあるらしい。ただ、輔国将軍、輔漢将軍、安漢将軍がどの位置なのかは不明。
じゃあ孫権が呂蒙に尋ねたのは「君の代わりに江陵の守備を任せられるのは誰か」だったのね。
まあ、将軍になれるのは万石・中二千石・二千石の三階級しかない
秩石制の漢呉蜀の制度をそんな不等号記号で細分化する時点で出鱈目だから
忘れていいけどな。
雑号将軍なんて存在自体が魏中期以降にしかない。
>>108 呉王の輔國将軍と、呉王朝の輔呉将軍では格が違う。
まあ、張昭が敬われども階級的には微妙な所に留め置かれたのも事実だろうけどね。
呉初期は三公を置かなかったから、上大将軍が三公の上か下かは判別し難く、
張昭と陸遜の序列比べは難しいんだけど。
若造の陸遜以下の官位しかもらえないとか、張昭さんマジかわいそう
孫権も結構露骨な人事するよね・・・
>>109 格が違うといっても、適当にでっち上げた将軍号なわけで、歴史も由緒も権限もないw
悪い意味で既存の体制に当てはまらない。
董承の官位の変遷からして、輔国将軍は衛将軍と同等以上だったのだろうか。
降格する理由はないと思うのだが。
>112
班亞三司。
格と由緒は孫権が与えた。
権限は無かろうけどね。
それから、丞相を三公の上とする慣習がまだ生まれていないだろうことを考えると、
上大将軍は漢の古制に従い三公の下っぽいな。
>>105 根拠も出典も書いてない一般のサイト持ってこないでくれ、意味ないから
建安元年,拜完輔國將軍,儀比三司。
張昭の
拜輔呉將軍,班亞三司,
は、伏完に倣ったものだね
輔国将軍はあれじゃないかな
将軍の名誉職で幕府を必要としてない立場で儀同三公みたいなもんなんじゃない?
そしたら衛将軍から輔国将軍になっても矛盾しないし
鎮西将軍に輔国将軍を加官されてもおかしくない
>>117 最後の一行が意味わからない
そのレス内容からどうして「加官されてもおかしくない」という結論が導けるのか
将軍号は本来非常置の官で、外征時に勅命が下って、臨時に本職から転任したり、加官して出陣したもの。
戦時が終われば旧に復する。
他に加拜と記される散騎常侍、奉車都尉、騎都尉も、それぞれ戦時派遣職だったり
皇帝側近の「内朝官」の特別職だったりした歴史を持つもの。
つまり儀礼上の名残であって深い意味はない。
後漢書見たけど、董承が輔国将軍になったっていうのは誤読じゃないか。
>>94の「説に食い違いがあるものの」っていうのは、その辺微妙なのを指してるのかもしれんが。
>>120 あーそうかも。というかすぐ後に校訂があるね。本文流し読みしかしてなかった
>>120 誤読というか衍字によるものだと考証家たちが言っているな
衛将軍→輔国将軍はそもそもなかったものと思うべきだな
原文だと
「封衛将軍董承為輔國将軍伏完等十三人為列侯」
「為」は衍字じゃなくて「及」の誤りなんじゃないかな。
「衛将軍董承及び輔国将軍伏完ら13人を封建して列侯とした」と読めばすっきりする。
まあ、後漢の車騎は場合によって金印だったり銀印だったり微妙な立場で、
衛将軍はそれより下だから、九卿より上は間違いないにしてもそう大差は無いけどね。
>>114 >格と由緒は孫権が与えた。
孫家自体に由緒も歴史も権威もないのにw
四コマギャグ漫画的視点でそう信じるのは自由だ
結局、輔国将軍って軽いほうなのか重いほうなのか
官位が高いか低いかなんて、相対的だろ
輔国将軍になった人がどんな扱いを受けてるのかで見るしかない
後漢では伏完、呉では陸遜、あと蜀では董允とかがなってることからして、
>>93や
>>98で言われるよりかは重いと言っていいんじゃないの。
軽いとする根拠は三国(というか魏の)職官表しかないような。
>>129 伏完
侍中〔後漢〕→執金吾〔後漢〕→輔国将軍〔後漢〕→中散大夫〔後漢〕→屯騎校尉〔後漢〕
なんかどんどん秩禄が下がっていってるんだけど。これ左遷されてね?
董允? こいつなんか功績あったっけ。
>>131 >伏完は輔国将軍になった時に儀同三司も加官されてる。
>対して中散大夫になった時は印綬を返上してるんだから、
>輔国将軍から降格してったと見るのはおかしいでしょう。
しかし最初の侍中からどんどん秩禄が下げられてるのは否定できまい。
>董允は輔国将軍になる前に、蒋エンが官位を譲ろうとしているくらいなのに、
>何をもって功績がないと言うのか。
能吏系エピソードが一つもないし、戦争で功を立てたということもない。
諫言して劉禅の女遊びを抑えたぐらいの話しかない。
政治遊泳のうまいだけの伴食大臣だろ。
蒋エンが官位を譲ろうとしたってのも、本命後継者費イの当て馬にしただけじゃね?
侍中ってたかが千石だぞ。権限は重いが。
中散大夫は600石じゃなかったっけ?
>政治遊泳のうまいだけの伴食大臣だろ。
うわあ…
ちくまも読んだこと無い人間は喋るなって言われたのに懲りないなあ。
伏完
>建安元年,拜完輔國將軍,儀比三司。完以政在曹操,自嫌尊戚,乃上印綬,
>拜中散大夫,尋遷屯騎校尉。十四年卒,子典嗣。
な。
「俺は○○なんて評価しない(→だから○○が就いた官なんて大したことない)」
って言われたら、もう後は水掛け論にしかならないんでないの。
>>137 そうかもね。ところで、官位の中で輔国将軍が重い理由って何?
董允と伏完には軍功なんてない。
軍功なくてももらえる将軍号なんて、たいしたことないか、名誉的なものに過ぎないんじゃないの。
将軍号ってのは、前漢初から宮廷警護と助言役として
皇帝の親近者や特に信任重い者が帯びる高位職として機能してるんだよ。
最も顕著な例が外戚の大将軍。これに武勲も野戦能力も要らない。
張昭、董承の例を見ても、輔国将軍がその機能に向いた名号だったと
わかる。何しろ「國を輔弼する」だからね。
ていうか伏完が外戚だったことは知ってたよね?
×董承 ○董允
>>140 大将軍になりたがる外戚はたくさんいたが、輔国将軍は軽いよねぇ。
後漢で就いたやつ誰だっけ。
>>143 建安元年の政治状況と朝廷高官を心の中で暗誦しなさいな
輔国将軍大したことないって言っちゃった子、後に引けなくなってるのか
どんどん見苦しくなってるからもうやめといた方がいいのに
>>86と同じ子かねえ。
このスレで孤立無援の戦いを広げる人って
同じパターンばっかりなんだが。
そもそも
>>93の陸遜の話から始まってるのに、なんで伏完と董允の話ばかりになってるんだっていう。
輔国将軍ディスってる人的には、
>>93はどうなのよ。
とりあえず
>>93で言われてるより、四鎮四征将軍が軽いってことでいいんじゃないの。
後漢書には大・驃騎・車騎・衛・四方将軍の他は雑号将軍とある。
伏完がどうの董允がどうのっていうのは、
>>128の言うとおりでしかない。
>>148 だね。
四征について具体的には、宋書等に魚豢魏略が引用されているもので確認できる。
魚豢曰:「四征,魏武帝置,秩二千石。黄初中,位次三公。漢舊諸征與偏裨雜號同。」
ま、そういうこと。
伏完の娘をあのタイミングで娶る意味はどこにあったのだろう
難しい時期で、有力で忠誠と思われる臣下と結んでおく必要があった。
伏完にとっては、外戚になれば献帝を輔弼して救うことが何よりの栄達の道になる。
それも曹操の軍事力の前には無力だったのだろうが。
伏完の忠誠はともかく「有力」なの?
伏氏一族って。
ググれば30秒でわかることをレス待ちしなくてもいいのに
上で引用されてる将軍号の序列書いたもんだけど、
蜀の輔国将軍は尚書令董允と、平尚書事董厥が帯びてるから、
衛将軍の次で四方将軍よりは上じゃないかと思う。
>>152 前漢から続く家系で、光武帝の宰相だった伏湛の子孫。
不其侯の爵位を代々受けつぐ貴族で、伏完の父親が九卿。嫁は皇族。
汝南袁氏や弘農楊氏とは比較にならないほどの超名門の当主。
>>155 そんな名門なのに、伏完の頃になると、他の伏氏で官位もらった人材が見当たらない。
長安遷都と東帰行でほぼ壊滅したんではないか。
献帝も空気の読めない奴だな。
家柄だけの力のない奴の娘を皇后にしたところで、
どうやって曹操に勝てるというのだ。
政治的に何もしないでひっそり暮らすならまだしも、
皇后は血迷って曹操暗殺をもくろむような、
更に空気の読めない女だった。
そりゃ曹操も娘を押し付けて手綱を取ることを考えるさ。
さすがに聡明と言われた献帝も一年後の空気を読めるほどのエスパーではなかっただろうからな
どんな大族でも、歴史に名が残る人間ってほとんどいないよ
大した事跡もないのに地位が高いだけで記録に名前が残るのは、
三公ぐらいのもんだわ
>>157 んなこと言われても曹操に強制連行される前から皇后だし…
曹操は史書に事蹟が残らないような名門名家の世論と戦っていたわけだな
そういうのを含めると「統一」という言葉が再浮上してきた漢中攻略後に敢えて兵を返してまで
確実で失敗のない「魏王」を取ったのも頷ける・・・曹操の年齢を考えれば
伏皇后って、董貴人がぶっ殺された後に皇后になったんじゃ?
165 :
世界@名無史さん:2012/01/14(土) 09:09:21.74 0
>>154 蜀の輔国大将軍、鎮軍大将軍とかは実戦部隊を指揮するのは
希みたいな感じだね。董厥が兵を率いたのは滅亡直前の緊急事態。
方面軍司令官は四鎮大、四征大の仕事なんだろう。無印四鎮・四征
は別働隊指揮や小規模侵攻の司令官といったとこかな。劉備時代から
第一次北伐までは魏延が漢中守備の責任者だったけど、諸葛亮が漢中に
来てからは、無印鎮北の魏延は1部隊や小規模侵攻軍の司令官でしかな
くなった。別働隊を率いた無印鎮東の趙雲と変わらない立場になった。
その後魏延は昇進して征西大将軍に昇進したが、諸葛亮率いる中央軍の
統制下なので、立場は1部隊の指揮者のまま。
宮中の親兵統括や皇帝側近に用いられる名号だからね。
>第一次北伐までは魏延が漢中守備の責任者だったけど、諸葛亮が漢中に
>来てからは、無印鎮北の魏延は1部隊や小規模侵攻軍の司令官でしかな
>くなった。別働隊を率いた無印鎮東の趙雲と変わらない立場になった。
>その後魏延は昇進して征西大将軍に昇進したが、諸葛亮率いる中央軍の
>統制下なので、立場は1部隊の指揮者のまま。
やっぱ魏延の反乱は諸葛亮体制でストレス貯めこんでたからか・・・
168 :
世界@名無史さん:2012/01/14(土) 09:37:40.98 0
でも、魏延は大人しく撤退してれば、
官位と漢中司令官の地位は保持できたんだよ。
魏延司令官で遠征続行は無理がありすぎ。
大人しく撤退しない魏延が悪い。
楊義は撤退後には完全に干されるのは既定路線。
諸葛亮の側近だったのに、誰が後継者になるかも
聞かされてなかったし、担当職務がなくなるのも
手配済み。トラブルメーカーの楊義は、後継体制で
は無用と判断された模様。
蜀漢で四征がその方位に従って方面軍を任せられたことはほぼ無い。
劉備から諸葛亮の将軍号氾濫期に趙雲等が形式的に方位の号を持っただけ。
ただ征西将軍だけは漢王朝伝統の由緒ある名号なので残り、
勲功高い武官によく与えられるものとなった。
諸鎮(実質南北二鎮)が、王朝安定期の方面軍として機能した名号。
ただ鎮西は、姜維と胡濟の二例しかないが、隴西など西方討伐に派遣される官として
動いている。
大を加えるかどうかは、他の官僚とのバランスと本人の格の問題。
将軍が少ない時代は諸鎮でも周囲を統率できるが、
老将が増えたりして高位の将軍号を持つ者が増えたり、
有能な方面指揮官自身が功労を重ねて昇進せねばならなくなると、
大を加えつつ現場に留まってもらう、というケースになる。
四征大将軍は、光武帝の時代に各方面に遠征する方面総司令の役を担ったが、
その後の軍縮でこの慣習は立ち消える。
ただ征西将軍だけが、時折の西方遠征において、小動員なら主将、
大動員なら車騎将軍などの副将として派遣された。
魏延の征西大将軍は諸葛亮との主副関係をこの伝統に擬えつつ、
大を加えて厚遇を示したものと見るべきだね。
>>165 董允の輔国将軍、陳祗の鎮軍将軍などは、
尚書を統括する高官に軍権を与えて彼らの権力を強化するためだね。
諸葛瞻の衛将軍もそう。
無印四鎮四征は、上級の雑号将軍といったところだね。
172 :
世界@名無史さん:2012/01/14(土) 17:10:27.79 0
反日ネット工作員
朝日新聞社→社員約300人
民主党とその取り巻きの資金が入った反日工作会社→数社約450人
朝日新聞の社員は捕まった49歳の編集者を含め新聞記事を書く合間に2chを荒らしている程度とみられているが
民主党が用意した反日工作会社はほぼ24時間体制で工作を行っている
工作範囲は民主党が予め工作費を流している2ch、ニコニコ動画を中心にyoutube、個人のブログなどである。
173 :
世界@名無史さん:2012/01/14(土) 19:02:11.18 0
宗預は対呉方面の責任者として、
征西大将軍に任命されていたなあ。
対呉なのに征西?
175 :
世界@名無史さん:2012/01/14(土) 21:18:23.99 0
征東とかにしてしまうと、
呉に対して敵意ありみたいな印象を持たれるからでは?
同盟国への配慮というやつかな。
>>175 そういう解釈もありか。なるほど。
征西将軍は、姜維・魏延・張翼の対魏西域の役と、
陳到・宗預の督永安の役に分かれるね。
洋の東西を問わず敵対関係にない隣国への配慮って大変だな
WW2フランスもマジノ線をもっと北まで引きたかったけど
ベルギーに配慮してベルギーのところまでは伸ばさなかったら
開戦後にベルギーがドイツに踏み潰されて道路になってそのままそっからフランス終了だったし
>>177 それってマジノ線?じゃなくてマジの話?
>>178 マジ
ドイツとドンパチ始めてからベルギー側国境に要塞作り始めたけど時間切れ
呉も蜀の滅亡前後には配慮した方だよな。
きっちり劉禅が降伏してから侵攻したし。
と言っても、降伏前に「救援に来ました」とか言っても羅憲がまともに通すわけないが。
181 :
世界@名無史さん:2012/01/16(月) 11:27:52.45 0
鎮東将軍も永安には配置しなかったな。
この官位に就いたのが確認できたのは趙雲だけだが、
諸葛亮と共に漢中だったし。
182 :
世界@名無史さん:2012/01/16(月) 14:24:56.80 0
羅憲はエレキギターが似合う男。
184 :
世界@名無史さん:2012/01/16(月) 21:24:38.75 0
閻宇の伝記がないのは、
黄皓と結託したということに対する陳寿の鉄槌?
馬忠・張表に及ばない事跡で、蜀滅亡後も生き残ったかもしれない程度の人間には伝は立てられんだろう。
186 :
世界@名無史さん:2012/01/18(水) 20:13:10.80 0
閻宇は佞臣だったのかな?
馬忠伝だけ読めば、何か真面目な人という感じにとれる。
姜維の北伐に反対した人間は結構いた。陳寿がクソミソに
叩いてないとこ見ると、亡国の原因になるような人物では
なかったのだろうか?
黄皓は閻宇と協比(協力・親和)しており、そのため黄皓は閻宇をして姜維に取って代わらせようとした。
と、陳寿は書く。
ただ陳寿の史観では黄皓と妥協・融和して政治をするのは全て駄目、ということになっているから、
閻宇も実際のところは佞臣というほどではなかった可能性は十分ある。
188 :
世界@名無史さん:2012/01/18(水) 20:52:25.79 0
董允が父親と別に伝記が立てられたのも、
黄皓を押さえ付け、宮中の秩序を守った名臣だから、
特別に単独で伝記を立てた感じだもんな。
>>188 そもそも「黄皓の専横」というが、黄皓がもっとも政治的に活躍したのは、閻宇、諸葛瞻、董厥と一緒に姜維追い出しをやったことだろ。
「董允が黄皓を抑えた」というのは一体なんなのか。
董允は、実は姜維の味方で外征派だったのか?
黄皓の行いが具体的に書いてないからと言って、実は奸臣でないと推測するのは自由だが、
書いてないから後は何もやってないと決めつけるのもどうかと。
>>189 董允は黄皓が劉禅に取り入って立ち回ろうとするのを抑えて、官位を低く留めていた。
董允の死後、黄皓は現に昇進しやがて政治を専断することになるわけで、
董允は黄皓の性質を見抜いて遠ざけていた厳正で人物眼のある人物だった。
と、陳寿は記す。
黄皓が表舞台に出る契機を作ったのは陳祗だが、
姜維の積極的な北伐を許可した唯一の協力者も同じく陳祗だ。
黄皓姜維陳祗はぐるだぞ。
黄皓が陳祗の下で出世したからと言って、
なんで宦官が尚書令と同じ軍事方針を持っていなければならないのか。
どうやってそれと推定できるのか。
軍事方針が同じじゃないと、どっちかがどっちかに排除されて終了だろ。
陳祗死後の姜維追い出しのときみたいに。
つまり陳シが鎹になってただけで姜維と黄皓は結局排除し合う関係だったってこったろう
ぐるでもなんでもないな
遠征ばっかりで中央朝廷の舵取りを殆ど放置していた姜維と、
陳祗時代にはたかが黄門令の黄皓が、どうやって排除しあうって?
互いに政争の視野にも入らない存在だろうが。
黄皓姜維陳祗連合は姜維の軍事力頼みの一番弱い勢力。
なぜなら、こいつら以外の蜀の官吏は、ほとんど全員姜維の外征に反対だからw
だが、陳祗は上手いこと劉禅に取り入り、さらに黄皓も使って政権を担えるだけの力を得た。
で、陳祗が死んだ後は、黄皓は蜀の主流派(反姜維派)に取り込まれ、姜維は追い出された。
>>196 だから「結局」と言ってるでしょ
陳シ時代には陳シを挟んで間接的に手を組んでいたものの、
彼らはグルでもなんでもなく、単に陳シが間に居て結託してるように見えてるだけってことさ
んで、最終的に彼らはいがみ合う関係になった
>>197 官吏はともかく劉禅は外征希望してると思うよ
陳シが寵臣だったりしても劉禅自身が外征を希望してなければ
ああまで盛大に姜維に軍権やら物資が与えられない
ケ艾の反撃によって姜維が甚大な被害を出してやっと
国内の外征反対派が姜維の妨害に取り掛かれる程に
当時の蜀内部の外征派は強かったということがわかる
196は194へのレス
>>197 姜維への反対論が高まるのは段谷の敗戦と陳祗の死の後。
その前の255年の出兵では反対者は朝議で張翼だけ。
その年と前年は姜維の大躍進の時期で、大将軍へ昇進。
ここまでは張翼の立場無し。段谷はその翌年。
それから、古代中華帝国においては、皇帝の意思を抑える党派が最強の勢力だよ。
陳祗しかり、黄皓しかり。
「蜀の主流派」なるものが幾ら数がいても、
劉禅-黄皓のラインの前に追従することしかできなかったのが現実。
200 :
世界@名無史さん:2012/01/19(木) 21:33:11.42 0
姜維は遠征を好きにやりたかった。
陳祗は官位が上な姜維が外征でいないほうが、
好き勝手にできて都合が良かった。黄皓は寵臣である
陳祗と結びつくことが、自己の栄達に都合がよかった。
その三者の思惑の偶然の一致が外征を推進させた。別に
姜維と黄皓は仲間意識はほとんどない。
そこに段谷の大敗による姜維の権威の失墜、陳祗の死去により、
姜維は朝廷内での権力維持と、皇帝に諂い、権力を得ようとする
黄皓との対立関係が生じてしまった。外征反対派は黄皓を利用し、
黄皓も外征反対派を利用しようとしたのだろう。
諸葛瞻らは黄皓の専権を容認することでその下に地位を確保し、
この中で自分達の望む施政を実現しようとした。
これは後漢末期に「権道派」と言われた荀爽・王允らと立場を同じくする。
黄皓は士人官僚達の積極・消極的支持(これがおそらく多数派)を
受け入れることで自分の地位を安定させ、
逆にあくまで反黄皓を貫いたらしき陳寿・羅憲ら(少数派)を
権力中枢から遠ざけても朝廷内の基盤を揺るがさずに済ませることができた。
しかし、この二派の結合と多数化により、成都は安定しても姜維漢中府との
不信は深刻化し、魏の侵攻に十分に対応できず滅びた。
>>201 >逆にあくまで反黄皓を貫いたらしき陳寿・羅憲ら(少数派)を
>権力中枢から遠ざけても朝廷内の基盤を揺るがさずに済ませることができた。
陳寿の師匠の?周はどっちかといえば黄皓に近かったのではないか。
>>201 そもそも蜀軍に2正面作戦やれるほどの戦力はない。
姜維が大敗して兵を減らしたのが悪いんだろうが。
諸葛亮ならできたな
205 :
世界@名無史さん:2012/01/20(金) 08:11:19.96 0
諸葛亮も軍を二手に分けたのは第一次北伐だけじゃん。
それも囮軍だし。魏延が別道から行かせてくれと言っても
頑として認めなかった。
第一次北伐でこけたトラウマで魏延を手放したくなかった
つまり諸葛亮は魏延を馬ショクのようにしたくなかった。
つまり諸葛亮は魏延LOVE!
>>205 その後も陳式を使ったり諸葛亮は別働隊大好きっこ
軍を二手に分けるのはうんたらかんたらーって曹叡さんが言ってた。
209 :
世界@名無史さん:2012/01/20(金) 18:36:43.40 0
諸葛亮の別働隊は、
大軍を二手に分けたのとは違うと思う。
陳式の武都・陰平攻略戦は、魏も支配していたとは
言い難い地区だし。
>>203 東西の長い範囲を同時に圧迫したのが魏の戦略だが、
この防衛線を突破された直接の原因は、
そもそも投入可能戦力が揃う前に陽平関が落ちたから。
なぜ間に合わなかったかというと、
姜維の第一報を劉禅と黄皓が信じなかったから。
>>211 姜維が偽情報を掴まれた可能性だってあるじゃん。。
情報というのは一つだけでは役に立たない。他の情報と突き合わせて確認しないと駄目。
蜀の少ない兵力では、東西の防衛線を全部守れるわけがないだろ。
魏の主力がどっちに来るかを見破った上で、そっちに兵力を集中しないといけない。
魏軍は漢中を避けて沓中に突破してくるか?
魏軍は漢中を本気で漢中を突破してくるのか?
蜀の予備兵力をどちらに送るかは死活問題。
魏軍は諸葛緒とケガイに6万、鍾会に10万の兵力があり、どちらが主力とも判断しがたい状況。
未だに「姜維は漢中守る気なかったの?馬鹿なの?死ぬの?」って意見を聞けるところに、
悠久の歴史を生きる三国志ファンがゆったりとした時間を生きていることが伺える。
姜維はまず隴右方面から押し寄せてくるケ艾軍に対処しなきゃいかんっつうに。
目前の敵を放置して、関中方面の鍾会に対処しろなんて無茶言うなよ。
廖化ってもともと姜維への援軍に派遣されたんじゃない?
>>217 成都の判断はそうだけど、姜維の進言では陰平橋頭で敵に備える為に派遣する軍だった
情報が少ないからとか、戦線が長いからとかって姜維の進言の有効性にけちをつけるのは、よく読んでない証拠だと思うよ。
>>218 「後退する姜維と合流して、陰平方面からの攻勢を支えろ」って司令なんじゃないかね?
いかに軍事音痴の成都首脳でも。あの時点で成都から進発した廖化が沓中まで進めるとは思わんだろ。
>>218 >姜維の進言の有効性
姜維「漢中が危ない」といいつつ、自分は漢中の精鋭を根こそぎ引き抜いて、沓中に出て行っちゃった。
成都が「本当は一体どっちが危ないんだ?」と混乱するのも当然だろ。
>>220 姜維が防衛戦略を変更する以前の漢中の常駐兵力は三万に満たなかったと王平伝に載っている。
鍾会が攻めてきた時の漢城と楽城には各五千の兵が駐屯していたけど、
これが漢中の兵力の過半ということもないだろう。
さらに重要な拠点の関城にはもっと多い兵力がいたはずだし、
黄金囲などの城砦群にもそれなりの兵が入れられてたはず。
極端に引きぬかれたということは無いと思うんだけど。
>>221 姜維軍は後退戦ですばらしい機動を見せている。
姜維軍主力は、姜維の無茶な采配にもついていける精鋭で構成されていたはず。
漢中軍は精鋭を失っていたから、粘り強い抵抗が不可能だったのだろう。
>>222 抵抗も何も、かねてから不満を抱いていた関城の守将蒋舒が、
これ幸いと降伏して城を明け渡してしまって、
漢城と楽城も鍾会が軍を派遣して封鎖してしまったからでしょうが。
粘り強いかどうか判断する材料ないよ?
蒋舒が降伏したり、漢城や楽城が封鎖突破を試みたりしなかった理由まで、
「漢中軍は精鋭を失っていたから、粘り強い抵抗を断念したのだろう」と言われたら、
さすがに妄想乙と言わざるを得ない。
224 :
世界@名無史さん:2012/01/21(土) 07:33:39.94 0
鍾会軍は漢中への最短コースだけど、最も嶮岨なルートでの行軍だったんだよ。
王平が漢中の守備をしてた頃は、その嶮岨なルート途上で進軍を阻む防衛システム
が存在したが、姜維が段谷の大敗の穴埋めにしたのか、防衛システムを撤去して
しまった。だから易々と陽平関まで鍾会軍が到達してしまった。
ケガイが無理とも言えた侵攻が可能になったのは、鍾会軍が漢中盆地に侵入してたから。
あれが秦嶺山脈で足止めされてたら、ケガイ軍も四川盆地で孤立、要害を占拠されて持久
されたら、全滅するしかなかった。姜維の段谷の大敗が、結局は蜀滅亡の要因になってい
った。兵力だけじゃなく、実戦指揮官も多く失ったしね。
>>224 王平は駱谷へ出撃して曹爽を足止めしたんだよ。位置的には楽城の前方。
誰も駱谷や斜谷を塞がずに、楽城と漢城も封鎖だけでスルーして進まれたら、
そりゃ陽平関まで簡単に来れるって話だね。
駱谷で足止めして援軍を待とうって王平の判断が尋常じゃなかったのは、
劉敏以外の諸将が楽城と漢城のラインで防衛しようと言ってたことで分かる。
鍾会が攻めてきた時の漢中には、王平のような指揮官がいなかったし、
いても曹爽の時とは状況が違いすぎるからどうにもならなかったと思うが。
>>223 下級指揮官と精兵があれば、指揮官の交戦意欲がくじけることもなかった。
将というものは、手元に使える兵力がある限り、戦いを継続しようとするもの。
まあ、それが逆に働くと、やばくなってるのに「まだ大丈夫」と考えて逃げずにやられたりするんだけどね。
>>226修正
下級指揮官と精兵
↓
優秀な下級指揮官と精兵
>>226 関城の傅僉は戦意旺盛だったな。
降伏するのに戦意がある人間が城にいられると困る蒋舒が、
傅僉を騙して出撃させて、その間に降伏したんだね。
少なくとも、関城の傅僉軍は交戦意欲があったことになるわな。
楽城の王含は不明だが、漢城の蒋斌は蜀が滅亡してから降伏してるから、
戦意が乏しかったということもないだろう。
鐘会の勝因を漢中軍の弱体さに求めるより、鐘会が関城突破を優先して、
途中の城をスルーした英断に求めるほうがより合理的だと思うがね。
何でもかんでも蜀がヘタ打ったせいにするのは簡単だが、
戦争は蜀と魏の間でやってるんだから、蜀はヘタ打ってないけど、
魏が蜀以上にうまい手を打ったから滅んだという解釈があってもいいんじゃないか?
姜維は才人にありがちな性格で周りへの配慮が弱い。
弱兵を押し付けられて強大な魏軍と対峙する部下の将軍が、
戦況を悲観して降伏するかもしれない、
ということに思いが及ばなかったのだろう。
段谷の戦いでもそうなんだ。
姜維は胡済がこなかったせいでで負けたというけど、
それは計画時点で、姜維が胡済に達成不可能な行軍計画を与えたからじゃないか。
仕事が出来る人には、人にすごい量の仕事を与えて「俺にできるなら君にも出来るよね? え、なんでできないの?」みたいな性格の人、いるよね。
231 :
世界@名無史さん:2012/01/21(土) 12:18:38.40 0
そうだね、胡済が罰せされたという記録がないから、
どうも姜維の作戦計画が無理があったくさいな。今までは
簡単に深入り作戦ができたので、安易に現地合流みたいな
兵力分散を行ったのだろう。記録にはないが、胡済も魏の
守備隊に進撃を阻まれたか何かしたのだろう。
姜維の戦いは蜀の失敗した歴史をなぞるかのよう。
関羽:北伐途中で荊州を守ってた部下が呉に降伏、荊州を失う
姜維:ケガイと戦うために北上したら漢中を守ってた部下が魏に降伏、漢中を失う
諸葛亮:しつこく北伐を繰り返すが、勝てず。
姜維:しつこく北伐を繰り返すが、勝てず。
魏延:反乱しようとして失敗し、死亡。
姜維:反乱しようとして失敗し、死亡。
質問です。
董卓の洛陽入りの前に、涼州刺史は誰が勤めていたのでしょうか。
誰が何年くらいで入れ替わっていたのか知りたいのです。
後、史実で確認される一騎打ちはどれくらいありますか?
呂布と郭、関羽と顔良は分かるのですが。
関羽と顔良はダウト
太史慈と孫策はガチ
曹髦と成済
曹髦の負け
>>233 187年頃の涼州刺史は楊雍だけど、いつまで在任してたかは不明。
曹丕にサトウキビもたせたら最強
やっぱ蜀漢滅亡は劉禅と黄皓のせいなのか
一国が滅びるのが誰かの責任ってことにできたら、
ずいぶんと歴史を読むのが簡単になるだろうな。
241 :
世界@名無史さん:2012/01/21(土) 15:26:22.13 0
劉禅は蜀滅亡前の数年くらいからでないと、
それほど無道な皇帝という印象は感じられない。まあ、陳寿の評価の
通りという感じ。諸葛亮〜費イの執政期間は、とくに劉禅が何かやらかし
たことはない。暗愚という後世の評判の割には失敗がない。姜維時代も
段谷の大敗前までは大きな乱れはない。晩年の孫権みたいな、有能な家臣を
死に追い込むようなこともしていない。わりと道理に従う皇帝だったのだ。
これは猜疑心が薄い人間だったことを物語る。諸葛亮の絶大な権力も、劉禅
の厚い信頼がなくては成立しない。人を信じ過ぎるきらいもあったかもしれない。
だから、側にいる人が陳シ・黄皓だと、全てが悪い方に出てしまう。
劉禅は自分の能力の限界を悟っていたということかね
無能な働き者が一番タチが悪いと言うしね
滅亡時の人口が100万人弱だったと信じる
いまの北九州市くらいの人口だ
その中から「傑物」が出るるかどうかの確率は
北九州からの市議・県議・国会議員をみるとそんなに高くないといえる
しかも今と違って昔の知的階級といえば更に層が薄いだろうから
何かが間違えば終わりなんだな
諸葛亮スキーとしては、諸葛亮の死後に「良かったですね」
とぬかした臣下に劉禅がブチ切れて処刑したエピソードが好き。
劉備が遺言したように、本当に諸葛亮を父と思っていたのかなと。
>>212 多方面から情報を集める努力すらせずに、
廷臣に公開せず皇帝と自分だけで事を寝かせたのが黄皓なのだが。
>>225 曹爽と鍾会ではまず魏の兵力とバックアップが全く違う。
漢中が難攻不落とはいえ、漢中盆地に至る道は四本はある。
その全てに十分な兵力を送り込まれた場合、
劉備・諸葛亮時代からの守備方法で守れたのかが問題になる。
特に散関から陽平関に至る故道は比較的開けており、守備が難しいと考えられるが、
ここは姜維が秦嶺山中の陣営撤去と引き換えに強化した場所。
仮に兵力を振り絞って四本に十分な兵力を置いても、諸葛緒に天水から武都経由で無防備な陽平関の西を直撃される。
さらにケ艾は、史実の険阻な道を通らなくとも、白水沿いに下って白水関まで到達できる。
結局、漢城・楽城・陽平関の点で守りつつ、陰平方面を機動軍でフォロー。
成都からの応援を待つ。という史実の戦略が最も効果的ではないのか。
>>246 そうだね。だから、王平時代の防衛体制で王平が指揮しても無理だと思うんだ。
王平は陰平方面に備える必要がなかったからね。
漢中陥落に関して姜維が非難されるべきがあるとしたら、
段谷で負けて魏に隴右奪還を許してしまったことぐらいかな。
隴右から陰平方面に万単位の軍勢を送り込めるようになったことが、
劉備以来の蜀の国防体制を破綻させたんだから。
233ですがお答えどうもです。
てっきり董卓が涼州刺史だったのかと思ってました。
249 :
世界@名無史さん:2012/01/22(日) 12:57:52.79 0
ケ艾の作戦はたまたま成功しただけの感じだけどね。
>>246 >漢城・楽城・陽平関の点で守りつつ、陰平方面を機動軍でフォロー
で、結局その全てで魏に力負けしたというw
機動軍の姜維はケ艾の前に敗退し、
漢中は防衛兵力が足りずに突破を許した。
>>243 他所から北九州に越して来たんだがここが既に終わっとる。治安が悪かったり寂れてるからここを基準に知識人の割合を考えてもあんま例えの意味ないよ
>>250 力負けではないよ? 意図的に引用を選んだのかな?
>成都からの応援を待つ。
これが間に合わず、柱石に位置する陽平関が寝返りで真っ先に落ち、
姜維は敵前から撤収しつつ防衛線を急激に縮小しなければならなくなった。
これを力負けとは言わない。で、
>なぜ間に合わなかったかというと、
>姜維の第一報を劉禅と黄皓が信じなかったから。
に戻ってくる。
張翼と廖化が陽平関と陰平橋に間に合えば負けなかった、とは言わないが、
蜀の直接敗因は純軍事的不利ではなく、内部の政争に起因するものだった。
アワビだと!?
254 :
世界@名無史さん:2012/01/22(日) 22:19:44.79 0
255 :
世界@名無史さん:2012/01/23(月) 11:30:57.78 0
ここで議論してる人って、ちゃんと三国志読んだんだろうか?
どっかの本やサイトから拾ってきた話を真偽も確かめずに自分の意見と勘違いしてるだけじゃないのか?
関連する記述をひととおり読んでたら、
>>250のような書き込みはとうていできないと思う
>>252 蜀のどこに三方面から侵入する魏軍を阻止できる兵力があるのか。
>これを力負けとは言わない
いやどうみても力負けだから。
総兵力が足りないから、無茶な機動防御戦で埋め合わせようとして、案の定失敗しただけだ。
独ソ戦末期だって、劣勢なドイツ軍が華麗な機動防御戦で何とかしようとして、やっぱり兵力が足りずに破綻、敗退したのが現実だ。
>張翼と廖化が陽平関と陰平橋に間に合えば負けなかった、とは言わないが、
>蜀の直接敗因は純軍事的不利ではなく、内部の政争に起因するものだった。
どうみても純軍事的不利が原因だよ。軍事的に不利だから、外征派とそれ以外の奴らで分裂して争いあったんじゃないか。
陽平関が寝返りで落ちたのだって、守将が圧倒的な戦力差に悲観して、抗戦をあきらめてしまったからだろう。
司令官の姜維は、部下がそういう状態に陥らないように工夫しないといけないのよ。
部下の寝返りで失敗した奴なんていっぱいいるじゃないか。
258 :
世界@名無史さん:2012/01/23(月) 13:42:30.16 0
>>256 本を読んでない人乙
要害に拠ったら何倍の兵でも阻止できるってのは王平が駱谷の役で証明済み
この時から漢中の防衛体制が変わってないのは、
王平と劉敏以外の諸将の「敵と交戦しないで漢城と楽城に篭って防ごう」と言う意見が、
まさに鍾会侵攻の際の漢中防衛部隊の対応と同じだったことから明らか
それに対して王平は「関城まで入られたらおしまいだ」と、
漢城・楽城に篭って防衛したら、関城まで抜かれてしまう可能性を示唆している
この展開は漢城と楽城に篭っても鍾会を足止めできずに、関城まで抜かれた事実と対応している
漢中は防衛部隊が従来の体制で常識的な対応をしたせいで抜かれただけの話
陰平方面は姜維が対応しているけど、後退した後に廖化の援軍と合流して防衛体制に移る前に漢中が落ちてしまっただけで、
鐘会の手際が鮮やかだったってことと、成都が援軍を送るタイミングが遅すぎたことが原因だろう
259 :
世界@名無史さん:2012/01/23(月) 13:54:44.75 0
残念な人はまともに史料を検討しようともせずに、最初に結論ありきで話すから良くないんだ
自分の結論に都合がいい情報ばかりつまみ食いしてきて屁理屈を組み上げる
この場合は「漢中防衛体制の弱体化は姜維の建議が原因」という結論ありきで話していて、
姜維の建議以前の防衛体制の吟味と比較検討をまったくしていないから、こういう珍奇な議論ができる
詳細な比較が可能な戦例があるのに見向きもしない態度は不誠実そのものである
>>256氏には蜀書と魏書を読みなおし、再度自論を検討した後に書きこむことを提案したい
260 :
世界@名無史さん:2012/01/23(月) 14:12:57.22 0
>>257氏には、関城の守将蒋舒が無能を理由に武興督の地位を更迭されて漢中太守の補佐にされたのを恨んでいたことと、
戦意旺盛だったもう一人の守将傅僉が城内にいては降伏できないと考え、
欺いて城外に出撃させた後に降伏したことを付言しておきたい
すべて姜維伝を読めば分かることなのに、読まずに「守将が圧倒的な戦力差に悲観して、抗戦をあきらめてしまったからだろう」などと
平然と書き込める羞恥心には驚嘆を禁じ得ない
261 :
世界@名無史さん:2012/01/23(月) 15:39:29.73 0
姜維の建議は段谷の大敗の人的損害の穴埋めの側面が強いだろ。
実戦経験豊富な指揮官を多く失ったので、兵の頭数は揃えられても、
運用面でどうにもならんかったのさ。自分も秦嶺山脈で鍾会軍をできる
だけ足止めすれば、補給困難で撤退に追い込めたのではと考えている。
漢中に侵入しても撤退の相談したくらいだから。
ケ艾軍も、主力の鍾会軍が秦嶺山脈で足止めなら、四川盆地まで侵入は
困難だし、侵入したところで、要害を占拠して持久戦をされたら、全滅
する可能性すらある。朝廷では黄皓が実権を握り、援軍の出動が遅れ、
前線では指揮官の資質が劣るという人的資源の払底が滅亡の原因。蜀が
万全な体制なら、やはり漢中すら制圧は困難だっと考えている。
>>258 >要害に拠ったら何倍の兵でも阻止できるってのは王平が駱谷の役で証明済み
数倍の敵ならともかく、十倍二十倍の敵が相手となると、李典、楽進、張遼、程イク、赫紹、羅憲のような名将でもなければ士気が維持できないよ。
>漢中は防衛部隊が従来の体制で常識的な対応をしたせいで抜かれただけの話
そんな弱体な体制をほっておいて、沓中にでていったバカ司令官が悪いってことになるよね。
>後退した後に廖化の援軍と合流して防衛体制に移る前に漢中が落ちてしまっただけ
廖化と一緒にうまく漢中に逃げ込んだとして、諸葛緒やトウガイが漢中の背後を遮断したらどうするんだよ。
漢中が剣閣になるだけだろう。
>鐘会の手際が鮮やかだったってことと、成都が援軍を送るタイミングが遅すぎたことが原因だろう
別に成都の増援自体は遅れていない。成都から何百キロあると思ってるんだ。ちょっと打ち合わせの手紙をやり取りをしたら一ヶ月はとんじまうぞ。
むしろ、ちょっと増援が遅れた程度で対応できなるほど兵力に乏しいのが駄目なんだろうに。
「華麗な機動防御戦」に頼ろうって時点で駄目。
>>262 >むしろ、ちょっと増援が遅れた程度で対応できなるほど兵力に乏しいのが駄目なんだろうに。
つーか、段谷の戦いでも同じことやって負けたわけだよね。
胡済の援軍を皮算用して作戦を立ち上げ、やっぱり援軍が間に合わなくてトウガイに惨敗。
演義のせいで後漢〜三国時代の研究が100年は遅れたな
>数倍の敵ならともかく、十倍二十倍の敵が相手となると、李典、楽進、張遼、程イク、赫紹、羅憲のような名将でもなければ士気が維持できないよ。
アホくせーw
>>262 手紙のやり取りだけなら数日で出来る
ちょっとした移動で一ヶ月飛ぶのは軍隊だから
一人から数人程度の伝令が早馬や船の乗り継ぎしてけば往復1000kmくらいなら1週間くらいだぞ
>>266 蜀にそういう駅伝制があったのかどうかだが
>>267 後漢時代に既に駅伝システムは構築されてるから
蜀にないとは考え難いけどな
>>266 姜維のいた沓中と成都って,直線でも約350qあるのだけど。
270 :
世界@名無史さん:2012/01/23(月) 20:58:01.13 0
>>269 日本の話で悪いんだが比叡のお山で山伏さんに移動距離聞いたら
現代ですら熟練した人なら徒歩で山道を一日100kmくらい踏破するってさ
馬に乗ったり船に乗ったりすればもっと速いんでないかね
四川盆地入れば成都まで船で一気にいけるだろうしな
>むしろ、ちょっと増援が遅れた程度で対応できなるほど兵力に乏しいのが駄目なんだろうに。
その事情は三国共通。蜀呉は全期間、魏もかなり末期に前線兵力が充実するまで、中軍の援軍頼み。
諸葛亮の四次北伐で、なんらかの事故で司馬懿が遅れて雍州が陥落したとする。
それを「魏が力負けした」と表現するのが
>>256
>>271 トウ水から白水を下るわけだから姜維からの急報はかなり早く届くな
>別に成都の増援自体は遅れていない。成都から何百キロあると思ってるんだ。ちょっと打ち合わせの手紙をやり取りをしたら一ヶ月はとんじまうぞ。
で、姜維からの急報を知らない成都軍部は、姜維とどうやって打ち合わせしたの?
個人の移動速度は自動車に乗った現代人に近いものがあるよね。
馬が時速40〜60kmくらいで走れるから、乗り潰す覚悟で乗り継ぎすれば、
下手すると300km、400kmくらいなら1日で何とかなってしまいそう。
のろし
のろしじゃ内容がわからん
本当に眼前に敵襲が来たとき用だろ
狼煙台って春秋戦国の頃からの主要な連絡手段なんだが
敵が来たら狼煙を上げて、それを見た近くの狼煙台がまた狼煙を上げて・・・
って感じでリレーしてって駐屯地まで伝達するシステム
だからこそ今回の姜維の一報には使えないんだよ
姜維伝該当箇所読め
>>281 先生!読んでみましたがわかりません!
ちくまに誤訳があるんですか!
じゃあバカは黙っとけ
もうこの話題も終わりか
>>277 のろしの上げ方でなんとかある程度の内容を伝えられないのかね
先主伝の注に「備於是起館舎,築亭障,従成都至白水関,四百余区」と書いてる。
成都から白水関までは駅伝が整備されてたみたいだから、連絡に駅伝を使ったんだろう。
>>285 ある程度はできるのかもしれないが、
普通前線からののろしと言ったら「敵勢見ゆ」になってしまう。
姜維が(おそらく諜報で掴んだ)関中での蜀討伐軍の編成とその陣容、
これに対する姜維の具申する増援陣容。
その他諸々の情報量と、
大将軍から皇帝への「表」に相当する儀礼的価値と機密性。
これをのろしに求めるのは無理じゃろ。
そんな細かい情報じゃなくて、
漢中への増援要請だけの指示で良いんじゃないの?
少なくともそれさえ分かれば準備は出来る。
なんで情報伝達手段が狼煙に限定されてるかのように話してるの?
皇帝への上表相当の機密情報を、そんなおおぴらに流して漢中-成都間をパニックにしたいしたいのかという。
敵襲が現実に漢中に迫ってる段階ならまだしも(それでも、漢中から成都まで狼煙台で連結されていたかは疑問だが)、
まずは皇帝と廷臣で協議して戦時発令のタイミングやらを詰める段階だろう。
狼煙で流したら皇帝より先に庶民や下級官吏が魏来襲を知ってしまう。
>>289 さあ。
多分、駅伝より狼煙の方が早いとかそんな理由じゃないかな
呉は長江沿岸に狼煙台がなかったっけ?
東晋だったかな。
緊急事態なんだからパニック上等でしょ。
まだ敵が攻めてこない、皇帝が何も知らない、当然戦時発令が出て統制が効くことも無い、
この段階で国内パニックにして自滅してどうする。
あー、くそ、めんどくせえ。
姜維が現実に「上表」で一報を上げてるのに、妄想上の狼煙連絡の話を積み上げてどうするんだって。
ばかばかしい。
そもそも、狼煙って後方の駐屯地の兵を呼んでくるための連絡手段でしょ?
都までの連絡には使わないよ。
駅伝と水運があるんだから、それで行けるじゃないか。
行けないと思う人は理由書いて。
1000キロぐらい、馬と船使えば数日で踏破できる距離だし。
あー、読み間違えられたら困るから言っとくけど、
後方ってのは数百から数千の兵が入れられてるような拠点な。
成都やフのことじゃないぞ。
>>293 パニックで自滅って、具体的にどういうことを想像してるの?
>>297 ごめん、訂正する。
ありもしない狼煙台から狼煙が上がることは無かったし、
当然パニックが起こる可能性も無い。
だから語る意味も無い。
国民の1割が兵隊やってるような戦時体制の国がパニックになるかってのw
バカバカしいw
狼煙って前線の警戒基地と駐屯地間の連絡に使うものだから、
国内を全部パニックにするなんてありえんわけだがw
>>296 漢中で言えば、秦嶺山脈の北側辺りにいくつか哨戒詰所があって、
魏軍が盆地を前進してくるとか、秦嶺に入るのを目撃すると狼煙を上げ、
連絡線が山脈を縦断して漢・楽城の護軍・監軍らに到達する、ってとこだね。
そこから駅伝で成都や姜維に急報が飛ぶ。
狼煙話みたいに関係ない話は置いとくべきだな。
んで、論点があやふやになっていると思うんだけど。
姜維の上表を受けた上で援軍を派遣しなかったのが合理的か否か、って話で良いんだっけ?
派遣以前の問題だね。
上表を「寝」して、廷臣に知らせず、情報の検討も前線への再確認もしなかった黄皓(と劉禅)の行動が
軍事的に合理的か否か。
まあ、政治的には理由のあるものではあったのだろうけど。
303 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 03:05:52.33 0
>>302 さっさと援軍送ってれば、姜維も漢中軍ももっとマシな戦いできたろうにって感じる
>>303 さっさと送って数ヶ月掛るよ
こっちは一日5km〜10kmの移動速度でトロトロ進むことになる
強行軍でも精々半分の日数になるかならないかだし、脱落・脱走の類も増えるだろうな
さらには大規模軍事行動用の兵糧がない
注釈にある滅亡直後の糧秣の量は1万の兵ですら一年養えない量
劉禅、黄皓は援軍を送らなかったんじゃなくて、送れなかった可能性すらある
同時期、鍾会も関中で兵を集めている時だからどっこい。
その後、南北200キロの秦嶺山脈を桟道修理しながらトロトロ到着。
さらには国土の1/3で展開された半年近い防衛線の末に
廖化・張翼・諸葛瞻が大軍を率いて出て行った後の成都の食糧備蓄から何を計算しようというのか。
それにしても、劉禅降伏時の備蓄から「蜀は大規模な軍事行動できなかった!」ってほざく輩、定期的に出てくるな。
それ以前半年も蜀軍は何をしていたと思ってるのだか。
同一人物なのか、それともどこぞに妄言吐いてる個人サイトがあって、そこ見てる人間が多いのか。
ごめん南北200キロはねえやw
100キロ弱くらいだね
307 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 03:51:56.05 0
>>304 ( ´,_ゝ`)プッ
失礼、あれだけ言われても、まだ蜀書を読まずに
妄想だけでレスしている厚顔さに失笑を我慢出来なかったことをご容赦いただきたい
まず、征蜀の勅が出たのは263年5月
姜維が関中にいる鍾会の動きを見て援軍を要請し、握りつぶされたのはこの時期だろう
実際に援軍が成都を発ったのは263年8月
姜維が剣閣に退いたのが9月
この時既に廖化は陰平で姜維と合流していて一緒に後退
漢寿の張翼と董厥も剣閣に入る
蜀の降伏は11月
つまり、1か月で成都からの援軍は陰平・漢寿まで到達してて、関城まであと一歩だった
3か月早く、いやせめて1か月早く援軍が出てたら間に合っただろう
三国志を読んで地図を見たら自ずとわかることなのに、なぜそうしようとしないのか?
1か月で漢中に入れるところまで援軍が到達したという事実を知っていれば、
「さっさと送って数ヶ月掛るよ」などという妄言を吐いて恥をかかずに済んだだろうに
学ぶ姿勢がまったくないのというのは、かくも悲惨なことであるとあらためて確認した次第である
君がしているのは妄想の垂れ流しであって議論ではないので、
電波お花畑板か夢・独り言板あたりでするのが相応しいのではないかと衷心より忠告申し上げたい
308 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 03:57:27.37 0
>>305 そんなに有名じゃないけど、かなり古株のサイトが主張している
あちこちで見られる姜維批判の根拠もそこが元ネタと思われるものが多い
>>305 丁度農繁期である夏場に魏に攻め込まれてるから米作である蜀の内地は見事に兵糧不足になるわけ
漢中辺りは麦作してるから春になんとか収穫できるだろうけどもね
んで降伏が冬を迎えてすぐの11月となると
そこから半年くらいは何とか食わすだけのモノがないとおかしいのにそれがない
だから大規模軍事活動に支障を来たしてる状態がそれ以前から起こってる可能性があるということになる
なんもおかしくないと思うのだがな
>>307 成都からの援軍かどうかは全くわからんのだけどね
救援要請の時点で張翼、董厥に陽安関を守らせる事を求めたり
廖化に陰平まで来る事を求めてる時点で元々この人たち成都にいるの?という疑問が出る
311 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 04:50:06.93 0
>>309 日照時間短い蜀で米中心になるのは灌漑技術がもっと発達してから
当時は雑穀が中心
備蓄というものもありますな
成都だけじゃなくて郡県や前線にも倉庫がある
この数年は備蓄が尽きるような飢饉も起きていない
姜維の屯田は現地で食糧を調達して、兵站線を維持する負担を減らすためだ
陰平方面にも軍を展開したら、曹操の徒民で住民がほとんどいなくなってて、
ただでさえ内地からの補給に頼っている漢中の負担がさらに重くなるからな
米の収獲が一年減ったぐらいじゃどうってことない
成都の備蓄がないのは、成都から送った援軍と諸葛瞻の軍が持っていったから
郡国の備蓄は目録には計算されてない、
312 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 04:54:23.50 0
>>310 董厥は平尚書事だから成都にいなきゃいけない
張翼や廖化も成都駐在
これだけの大物が外に駐屯するなら、永安や漢中の督ぐらいじゃないと釣り合わない
清田が節子の遺体を背負ってると、「蓄音機、懐かしい・・・」みたいな事言ってる疎開(?)していた金持ちの子供たちとすれ違うよね?
あのシーンを見る度に、『戦時中はみんな大変だった』というのが都合の良い嘘だって事を痛感する。
>>309 ある年に大規模大規模動員すれば当然そうなるよ。
遠征でさえそう。だから諸葛亮の遠征は「三年に一度」と司馬懿が看破した。
20万も動員すれば魏だってある程度はそうなる。
263年はましてや蜀内部が戦争状態になっているのだから、
その年の租税の運び込みが滞るのは当たり前。
成都に備蓄が少なくて何が疑問なの?
>>311 蜀は秦代から水稲中心だよ。むしろ秦の兵站地の一つとなった名産地。
魏晋の頃には面積当たり華北の数倍の収穫量があった。
>>315 秦の兵站は蜀じゃなくて関中盆地だろ。
蜀は寒いので米より麦のほうが育ちがいい。
米がよく取れるっていうのは南の方では?
>>316訂正
蜀は寒いので米より麦のほうが育ちがいい。
↓
蜀の北の方は寒いので米より麦のほうが育ちがいい。
諸葛亮が北伐で屯田したときも麦だった。
司馬さんが来たので、慌てて青麦を刈集めたんじゃなかったっけ。
319 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 12:33:23.59 0
>>316 当時の四川は稲と雑穀
農業技術が未熟な時代になればなるほど、雑穀の比重が高くなる
これは稲作適地でも同様
蜀は日照時間が短いからなおさら
まあ、米の生産性は一年農繁期が潰れたぐらいで備蓄が尽きるほど低くはないし、
古代は米・麦と雑穀を併用して育ててるから、
米が不作でも手間をかけずに育つ雑穀の収獲は確保できるのが普通なんだけど、
農業の歴史の基本をご存知なくて、現代の高度な農業技術しか御存知ない
>>315氏には理解しかねるようだ
>>307 成都の兵力って、すぐ出発できる状態だったかわからんじゃん。
費イと王平が曹爽を迎撃したときは、費イの援軍が漢中に到着するまで3ヶ月かかってたはず。
廖化張翼董厥が、成都や巴の周辺から徴兵して出発したのなら、1ヶ月や2ヶ月は遅れるよ。
急いで出発しないと間に合わないが、
兵力不足のまま援軍に向かっても負ける。
ジレンマだよね。
曹爽との戦いのとき、費イの主力はフにいた。
自動車化以前の軍隊の行軍能力はそんなに変わらないのだから、
成都にいる軍の進撃が遅れたのは当然だ。
なぜ軍を成都ではなくフにおかなかったのか?
323 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 12:53:08.60 0
>.314
諸葛亮の北伐
第1次北伐 228年
第2次・第3次北伐 228年〜229年
第4次北伐 230年〜231年
第5次北伐 234年
第4次と第5次が3年空いてるのは、
後主伝の232年の項に兵士の休養や訓練、流馬木牛の生産などに専念したとあるのと、
233年に叛乱した南中への対応に追われたからだろう
姜維の北伐
第1次北伐 254年
第2次北伐 255年
第3次北伐 256年 段谷の敗北
第4次北伐 257年
第5次北伐 262年
第4次と第5次北伐の間は5年開いているが、
陳祗が死亡してこの間に諸葛瞻と董厥が宰相になり、
その他にも大きな人事異動が続いていたから、
ポスト姜維・陳祗体制を作るための体制再編成で忙殺されていたものと思われる
於蜀,蜀守冰鑿離碓辟沫水之害穿二江成都之中。此渠皆可行舟,有餘則用漑侵,百姓饗其利。
至于所過,往往引其水益用?田疇之渠,以萬億計,然莫足數也。
史記河渠書
巴、蜀、廣漢本南夷,秦并以為郡,土地肥美,有江水沃野,山林竹木疏食果實之饒。
南賈テン、ボウ僮,西近?、サク馬旄牛。民食稻魚,亡凶年憂,(後略)
地理志
綿竹縣 劉焉初所治。綿與ラク,各出稻稼,畝收三十斛,有至五十斛。
(舊各本皆作「十五斛」。廖本改作「五十斛」。是。)
華陽国志巻三 蜀志14
>>319 なにげなさそうに「雑穀中心」から「稲と雑穀」にトーンダウンしてるな。
まあそのくらいのニュアンスならいいよ。
>>323 全国から動員と徴発をかけるような諸葛亮の大規模遠征は一次、四次、五次の三度だけ。
姜維の大規模遠征は255と256年の二度だけ。
あとは263年の滅亡時の戦い。
前漢期は中原や関中から蜀へ移民が行われて、
その時代の棚田(段々畑の田んぼバージョン)が発掘されている。
まあ、それだけの手間を掛けてもリターンが見込めて、
手間を支える技術が既にあったってこと。
327 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 13:15:05.24 0
>>320 ワロスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ああ、失敬
晋書文帝紀で司馬昭が夏侯玄に
「費イは要害に拠っているから守りを固めているから勝てない。撤退すべき」と言ってるな
曹爽が撤退する5月よりずっと前に費イは漢中に着いて布陣していた
撤退後に費イが追撃してきたけど戦って振り切ったのも文帝紀に載ってる
参謀の楊偉も補給難から撤退を進言してて、陣中で激論してる
この時は既に援軍が到着してて進軍を阻止されていたとある
蜀軍と暫く対峙している間に補給が尽きて撤退という流れだな
費イはもっと早く漢中に着いて、魏軍の幕僚が苦戦を理由に撤退を進言するほどの期間、
魏軍と対峙していたと考えるのが正しい
>>322 費イは普通に成都から進発してるよ。
でなければ光禄大夫が別れの挨拶にこれないだろ。
329 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 13:25:18.91 0
>>324 www
失敬。そろそろ腹筋の耐久力が限界に達しているので、配慮願いたい
雑穀中心=米が取れないと言ってるのではなくて、
灌漑技術が発展してないから雑穀メインで稲作はサブだと言いたかったんだが、
君にそういう読解力を期待するのは買いかぶり過ぎだった
配慮が足りなかったと謝罪しよう
粟やヒエなどの雑穀は水田栽培すれば収獲が飛躍的に増えるし、
米より簡単に収穫できることを御存知ないらしい
>灌漑技術が発展してないから雑穀メインで稲作はサブだと言いたかったんだが、
まあ、確かにそんな根拠も史料も無い脳内情報を吐かれても
俺の頭では読解できないな。お疲れさまでした。帰っていいよ。
古代中国で粟を雑穀と言っちゃった時点で、
現代から見た時代性の無い農業理論しか知らんのだろうな。
332 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 13:38:55.38 0
>>325 _, ,_
(^Д^) プギャー
m9 ヽ)
/ ノ
(,/^ヽ)
失礼。私が感じている君の滑稽さを表現するのにもはや顔文字では不足なので、
AAを使うことをお許しいただきたい
陳倉を攻めた諸葛亮の兵力は衆数万
全国から動員と徴発をかけないと動かせない兵力ですな
数万人の軍勢が陳倉まで行って帰ってくるだけでどれだけ大きい負担があるか考慮されてはいかがかな?
間髪入れずに陳式の軍が武都や陰平を制圧しているが、
このあたりの防備ががら空きでも、あれだけ広い土地を制圧するだけでそれなりの兵力や準備が必要ですな
君の基準で言えば蜀漢の国庫が何度がら空きになればいいのかわかったものではない
257年は「復率數萬人出駱谷」262年は「維率衆出漢」
いずれも国を挙げないと無理な規模の動員ですな
333 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 13:40:28.73 0
「衆」てのは、人足、兵站まで含めた総動員数な。
実戦兵力はさらに少ない。漢中に兵三万、他に非戦闘要員数万がいるなら
普通に捻出できる数。
>あれだけ広い土地を制圧するだけでそれなりの兵力や準備が必要ですな
イラク戦争でもイメージしてるのかな?
山がちな土地を縫って主要な県城と街道を押さえ、周囲の異民族を慰撫する程度のことしかやってないだろ。
それに数万人必要だってなら、激しい戦闘があった劉備の荊州南部制圧や、諸葛亮・張飛・趙雲の入蜀には
何万人動いたの? 五万? 七万?
>>327 費イがいつ漢中についたか分かるかい?
少なくとも一ヶ月ではついてないだろ。
>>328 費イが率いた援軍はどこにいたの? フでしょ。
>費イが率いた援軍はどこにいたの? フでしょ。
そうなの? どこの記述?
>>334 兵站を担当する人間も実戦部隊とみなして戦えとかいわれたら、そりゃ陽平関守ってる奴も降伏するわw
当時の兵一万ってのは、相当な戦略的価値のある人数だよ。
費イ時代の姜維はこれで隴西深く侵攻し、郭淮らを東奔西走させてるわけだから。
当時の魏の雍涼軍で、これを正面決戦に持ち込むこともできなかった。
340 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 13:58:09.42 0
蒋エンがフに駐留した理由はなんでしょう?
当時は病気で指揮はとれなくても、蒋エンが残した備えはは
フにあったというのが正解。
蒋エンがフに駐留したのは、
費イに実権が移った状態で大官が二人成都にいるのもめんどくさいからだろ。
この状況で実戦部隊だけ蒋エンが確保しているとは考えられない。
342 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 14:21:50.44 0
>>334 人足や兵站要員も飯を食う
彼らを徴発している間はその分生産も滞る
兵站要員は食糧を消費しないとでも思った?
主要な県城と街道を押さえて安全を確保して周囲の異民族を慰撫するだけで結構な人数が必要になるんだけど
敵がいない領地に兵を置かなくていいのはゲームだけですよ?
>>335 一ヶ月で着いてないという根拠を述べよ
三国時代で司馬懿は8日で520キロを踏破する強行軍で孟達を討伐している
これは無理に無理を重ねた限界
通常の行軍距離は司馬懿が遼東まで4000里(1748キロ)を100日で行けると計算しているから、
無理しなければ一日平均17.48キロで行軍できる
急を要する援軍なら司馬懿の一日65キロは不可能でも、30キロ以上は出せるだろうな
343 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 14:23:17.51 0
>>338 鍾会の10万も兵站要員がたくさんいるわけだが
しかも遠征軍だから防衛側の蜀軍よりずっと割合大きい
>>342 そんな行軍を実現できたのは司馬懿だけだ。
どうせ騎兵だけだろうし、水路も使ったはず。
成都から漢中にいくのに水路なんかあったっけ。
>>342 飯を食うね。滞るね。
でも「衆数万」程度の消費では、蜀の備蓄に大きな影響を与える規模じゃないってことだよ。
特に二次三次の期間はかなり短い。
なにせ蜀の遠征最大動員力は「衆十余万」で春から冬までなんだから。
で、そんな大仕事の武都陰平の制圧に数万人必要だってなら、
激しい戦闘があった劉備の荊州南部制圧や、諸葛亮・張飛・趙雲の入蜀には
何万人動いたの? 五万? 七万?
>>342 >>344 別に一ヶ月で到着しなくても構わないんだが。
曲りなりにも整った蜀内の街道を400キロ行軍するのと、
鍾会が秦嶺山脈100キロを桟道修理しながら踏破して来るの。
よーい、ドン! で始めたらどっちが早い?
しかも、張翼・廖化は敵の攻撃に間に合わなくとも大過はない。
増援がもうすぐ来るから守れるぞと陽平関が士気を維持できれば守れる。
合肥然り、陳鎮倉然り、(四次北伐の)祁山然り。
堅固な小城というのは十分な士気と準備があれば短期間では落ちない。
堅固じゃないし、準備もしてないし、士気も落ちてたから、漢中が落ちちゃったんでしょw
漢中の防備は姜維の責任だよ。
もはや「姜維憎し」の感情史観で語ってる節があるなw
最後に「全部姜維が悪い」と付け加えるだけの簡単なお仕事です。
>>348 漢中の防御工事担当は誰?
漢中の将兵の士気を維持させるのは誰の仕事?
ともあれ、姜維は批判されねばならない。
例えば関羽は荊州を奪われたわけだが、その直接原因は部下が孫呉に寝返ったことだ。
で、それについて「関羽の士大夫に驕る性格が悪かった」と、堂々と人格攻撃されてるわけよ。
じゃ、同じく部下が寝返ったせいで漢中を失った姜維に対しても、同じような人格攻撃をして何が悪いのか。
なぜ関羽と同じように批判してはいけないのか。
お前らの姜維擁護が変なんだよバーカw
キチガイすぎて笑ったwwwwww
>>354 正史でも「関羽と張飛が滅んだのはその性格のせい」と、人格が叩かれてますが何か?
陳寿はキチガイですか?
>>353 「蒋舒為武興督,在事無稱。蜀命人代之,因留舒助漢中守。舒恨,故開城出降。」
どう見ても蒋舒の逆恨みです。ありがとうございました。
>>355>>260 >関城の守将蒋舒が無能を理由に武興督の地位を更迭されて漢中太守の補佐にされたのを恨んでいたこと
かつて、「お前は部下に恨まれてる。それなのにその部下を使ってるのは危険だ」とアドバイスされた虎ヒゲがいましたね。
姜維は張飛と同じ欠点の持ち主だったようだ。
>欺いて城外に出撃させた後に降伏したことを付言しておきたい
だからなに? 関羽に限らず、味方の裏切りで寝返り開城した例なんて腐るほどあるんだから、それに対策しておくのが誰かさんの仕事でしょ。
こいつは姜維が全知全能じゃなきゃ許せないらしい
>>357 その程度の策略に引っかかる方が愚かでしょ。
そもそも、そんな疑わしい奴を重要なところに配置する方も何考えてるの。
例えば、石田三成が松尾山に小早川秀秋を配置した失敗と同じだろうが。アレは擁護できるのかw
おまえは姜維に殺されたか左遷された部将の子孫かなにかのか?w
いや、そうでもないとちょっとねwww
362 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 16:56:48.49 0
策略に引っ掛かったのは傅僉ですが。
蒋舒が沓中の姜維をどうやって引っ掛けるんでしょうねー?
長らく常駐してた姜維アンチの子が、ここまでアホの子とは思わなかったわ
相手してやった方々、御苦労さん
>>362 なんのために姜維は将軍達の人事権をもっているのか。適材適所を図るためだろ。
自分を恨んでる蒋舒に対して何の警戒も持ってなかったのかねぇ。
人がいいというかなんというか…。
黄皓に実権を握られて外地に滞在している姜維に人事に介入する力はありません。
むしろ自分が首になりかけてます。はい論破。
馬脚を現す、とはこういうことなんだなーw
>>363 例えば、諸葛亮は結構果断に怪しい奴を左遷やリストラで要職から排除してる。
劉封、劉エン、李平、廖立とか。
姜維も同じことやればよかったんだよ。
姜維に諸葛亮のような権力はありません。はい論破。
>>365 その理屈でいけば、姜維が蒋舒を左遷することも不可能なわけで、左遷できないなら蒋舒が姜維を恨むこともないわけでw
はい論破。
左遷した奴を恨んだんでしょ?それに蒋舒の上司は漢中太守の部下ですね。姜維の部下じゃないね。はい論破。
371 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 17:15:26.82 0
誤 それに蒋舒の上司は漢中太守の部下ですね。
↓
正 それに蒋舒の上司は漢中太守ですね。
>>370 仮節の姜維が人事権もってないなら、誰が持ってるの。
>>372 仮節は人事権じゃないんだが。
軍令違反者を処刑する権限なんだが。
軍権の面で姜維がそう劣ることもないと思うが。
蒋エン
大将軍・尚書令・行都護・仮節・益州刺史・録尚書事・安陽亭侯
費イ
大将軍・録尚書事・仮節・益州刺史・成郷敬侯
姜維
左大将軍・録尚書事・督中外軍事・仮節・涼州刺史・平襄侯
>>360 揚げ足とるようで済まないが石田が松尾山に配置したのは伊藤で、小早川は伊藤を勝手に追い出して松尾山に入ったから石田の責任はあまりない
姜維アンチ君はこんなスレに長期駐屯してないで漢中防衛に戻ったらいいんじゃないんですかねぇ
>>375 左大将軍ってどこかに明記あるっけ?
右大将軍が置かれていることからの類推で左大将軍とされている場合は確かに見るけど
てか姜維って県侯だったんか
知らんかったわ
>>374 jominianのサイトによると、仮節しか持ってない蒋エンは軍組織の改廃や将軍の任命をやってたみたいだぞ。
これは人事権がなければできないことだろう。
蜀漢における軍隊組織の変遷について_2
http://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/52561180.html その蒋?は、諸葛亮の組織した軍隊をどうしようとしていたのだろうか?
彼はまず、腹心であった尚書僕射李福を、前監軍領司馬に任命する。
しかし、李福は就任するやいなや亡くなり、姜維がその後を襲う事になる。
右監軍姜維は、李福が亡くなると蒋?の要請を受けて大司馬司馬を兼任する事になる。また、彼は数年後には右監軍から中監軍へと遷っている。
蒋?政権下での彼は中監軍領司馬輔漢将軍である。
また、王平は蒋?が漢中に出征すると後典軍より前護軍に移り、大司馬事府を署する事になる。
ここで気付く事がある。蒋?の時代に入り、それまで兼任する事のなかった掾属の兼任が、それも司馬と監軍を兼任する例が現れるようになった。
何故であろうか?
蒋?はずっと丞相府の事務を取り仕切っており、軍事についての経験は少ない。
彼が総司令官として軍を取り仕切るには、経験が絶対的に不足しており、それを蒋?自身も分かっていたのだ。
また、諸葛亮死後、丞相府の率いた軍隊は各部の監軍や護軍が取り仕切り、かつてのような一つの指揮系統に収まっていなかった。
そこで蒋?は、司馬に自身の軍を取り仕切らせると共に、各部の監軍を大司馬府(大将軍府)に集め、諸葛亮時代と似た組織を、よりコンパクトに再生しようとした。
初め、李福を前監軍として前部を大司馬府に取り込み、更に右監軍姜維を呼ぶ事で右部を取り込んだ。また、王平を大司馬府に入れる事で後部をも指揮下に収める事になった。
蒋?は大司馬として漢中に幕府を開くと、漢中防衛の軍となっていた王平の後部を指揮下に収めると、改めて王平を前護軍として前軍の指揮官とさせ、後部と右部、更に中部を中監軍領司馬姜維の旗下に入れ、軍の再編制に努める事になる。
>>377 >小早川は伊藤を勝手に追い出して
さっさと処罰しろよミツナリィw
>>380 仮節の権限で人事を執行したとは一言も書いてませんね。はい論破。
つか、jominian先生のサイトを読んだら、姜維責任論なんて出てこないはずなんだけど。
他人様のサイトをまともに読まないで、恣意的に引用するのはやめようね。
張飛伝
羽善侍卒伍而驕於士大夫
飛愛敬君子而恤小人
資治通鑑巻
陳寿の評:
関羽は剛ゆえに而して自らを矜り、張飛は暴ゆえに而して恩は無かったため、その短を以ってして敗れることとなったのは、理数の常というものであろう。
陳寿「性格に難があった関羽と張飛が、その性格によって失敗したのは、理数からいって当然だね。」
ひでぇよ陳寿さん!w
バリバリ人格攻撃じゃないすか!w
>>381 処罰って小早川を?
東軍の相手しなきゃいけないのに1万とも言われる軍勢を持つ小早川を処罰できるわけないだろ
>>382 >仮節の権限で人事を執行したとは一言も書いてませんね。はい論破。
じゃ、何の権限で将軍を任命したり軍制を弄ったりしてたのか。姜維も蒋エンも権限はそんなに変わらないだろ。
>つか、jominian先生のサイトを読んだら、姜維責任論なんて出てこないはずなんだけど。
別に俺の主張はjominianのサイトと矛盾しないぞ。
>費?が死に、蒋?政権下で作り上げた己の軍の全てを手にするようになると、姜維は再度、理想の軍組織を構築し始める。
>それは姜維一人の手によって全てが動く、巨人の如き軍であった。
>だがそれは、姜維という異能の手によってしか動かせず、また、彼の存在するその場所でしか力を有し得ない歪な組織であった。
姜維がいなかった漢中が落ちたのも当然というわけだ。
大盛況だな
六百石以上の高官の人事権は皇帝にある。実務は尚書台。
姜維や費イのような大将軍は人材を推挙し、大きな発言力をもっただろうが、
蒋舒やら誰やらという個々人が誰の推薦でその地位に就いたかなんて
今残る史料からわかるわけが無い。
>>380でいうような将軍府内の人事なら、将軍の奏請がほぼ通っただろうがね。
姜維の仕事は、姜維にしか動かせない強力な軍隊を作ることではなく、蜀の外敵を撃退することだよ。
姜維が優れた軍人であることはいくらでも認めてやるが、姜維は外敵を迎撃する体制を作るのに失敗した。
蜀に必要だったのは、姜維一人が全てを統括する軍隊ではなかった。
姜維がいなくてもちゃんと戦える軍隊が必要だった。
>>388 だいぶ違うな。
姜維の軍事行動は、魏が隴西で長距離侵攻能力を育てることを未然に防ぐものだったから。
「蜀の外敵を撃退」とかいう視点の数歩先を見ていたのが姜維。
ま、失敗したのではどうしようもないけどね。
>>312 蒋エンが大将軍・録尚書事のまま漢中に留まったりしてる例を考えると
蜀における尚書事は将軍位とともにある場合、結構あちこちに動いてる可能性が捨てきれない
実際「成都にいた」ということは書かれてないから不明なんだよ
>>314 疑問なんかないよ
単にそれで蜀で穀物の集積が滞り大規模な軍事行動に必要な分が
しっかりと集まってないという可能性があったのでは、って言ってるだけ
国庫の残りも少ないってことはこれ相当に切羽詰ってるだろうしね
雑穀は食うだけならいいんだが、兵糧とすると結構心許ないしね
俸給も兼ねてるからランクの低い穀物を配給するとなるとそんだけで脱走者されかねない
この時代、兵士は配給されたものをそのまま食うわけじゃなくて
それを売って安い雑穀食って差額を現金収入にもしてるから雑穀配ったらマジヤバなはずなんだ
飢饉が起こってなくても「兵糧が足りない」という状況は起こる
>>390 歴代大将軍が漢中と成都の間を行き来したのは、
彼らが政治軍事の最高責任者で自分の目で要所を視察や時には防備しなければならなかったから。
左右車騎将軍の廖化と張翼にはそんな権限は無い。
そもそも車騎将軍は伝統的に征伐の最前線か宮中警護が任務。
漢中も永安も南中もポストが埋まっているのに、成都以外のどこにそんな高位将軍を遊ばせておくのか。
不自然な解釈を主張したいなら根拠を提示せよ。
>単にそれで蜀で穀物の集積が滞り大規模な軍事行動に必要な分が
>しっかりと集まってないという可能性があったのでは、って言ってるだけ
なるほど。防衛戦の末期に「穀物の集積が滞った可能性があるのでは」と「言っているだけ」なら、
>だから大規模軍事活動に支障を来たしてる状態がそれ以前から起こってる可能性があるということになる
これは全面撤回と言うことで。了解した。
>>389 >姜維の軍事行動は、魏が隴西で長距離侵攻能力を育てることを未然に防ぐものだったから。
>「蜀の外敵を撃退」とかいう視点の数歩先を見ていたのが姜維。
それこそ、いつか来るはずの魏の本格侵攻を遅らせるのが目的だろ?
稼いだ時間で、軍制改革なり、漢中の防備強化なりをやっとかなきゃならんわけ。
いざ決戦というときに部下が裏切らないよう、人心収攬もしないとね。
>>344 成都からなら漢中まで水路繋がってるよ
山の中を溯上することになるから平地じゃなくなる途中から歩いた方が楽だとは思うけど
>>392 >稼いだ時間で
そりゃ姜維には無理だ。陳祗の死以降、姜維にはもうそんな支配的影響力はなかったから。
守備変更と自身の駐屯で防備を西にシフトするのが精一杯。
解任を恐れて成都に戻れず、漢中と成都が分断した状況でどんな改革をするというのか。
姜維は失敗し、時間を稼げなかった。
俺が言ってるのは「姜維は軍人として優れているが、国内政治への対応がヘボ。部下の掌握もちゃんとやっとけよ」というよくある姜維論なんだが、なぜみんなそんなに反発するの?
そもそも「良くある姜維論」とやらがおかしいから。
姜維は費イの跡を継いだ時点から、国内政治の実権を殆ど持っていなかったから。
実権を持ってない人間を責めるのが大間違い。
まあ、その「よくある姜維論」がヘボだってことだ。
>>397 費イが暗殺されて北伐を始めた後の10年は実権持ってるだろうに。
陳祗が劉禅の寵愛を受けて姜維以上の実権を持っていたんだが。
>>399 陳祗と姜維はぐるだから。蜀の高官で姜維の北伐を支持したのは陳祗だけ。
やはりどうみても姜維が将軍達の人事権を行使しているが。なんで蒋舒みたいなやつを使っちゃうのかなぁ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%9C%E7%B6%AD >姜維は「諸陣営を交錯させて守備する従来の漢中防衛法は、防御力は高いが大勝は期待できません。
>諸陣営を引き退かせ、兵を漢・楽の二城に集中させた上で、関所の守りを重視して防御にあたらせ、敵が攻めてきたら遊撃隊を両城より繰り出して敵の隙を伺わせましょう。敵が疲弊して撤退した時、一斉に出撃して追撃すれば敵を殲滅できるでしょう。」と建議した。
>その結果、督漢中の胡済を漢寿まで退かせ、監軍の王含に楽城を守らせ、護軍の蒋斌に漢城を守らせた。また、西安・建威・武衛・石門・武城・建昌・臨遠に防御陣を築いた。
>>397 少なくとも費イが死んでから数年は漢中と成都を行き来して与党工作らしきことを行い
時間を掛けて大将軍に就任してるところから見ても姜維は国内政治の実権をある程度握ってるだろう
姜維の政治力が目に見えて衰え始めるのはやはり段谷の敗戦以降だな
普通は大将軍の軍権と、尚書事を併せ持っていたら、
余程、皇帝が自らやる気ある皇帝でもないと、相当な権限を持つ。
外戚なら、手がつけられない位の権限となる。
霍光以来の伝統だな。
その大将軍事、尚書事の邪魔をするのが宦官だったというのも、
実に後漢を受け継ぐに相応しい最後だったと思える。
滅亡は誰の責任がどうとかは兎も角。
蜀志巻第十一に連なるような人物が後期には殆ど見られなくなったのは、
やはり国家を運営するのが色々きつくなったんだなぁと感じさせる。
張飛は部下をいじめ過ぎ、復讐されて首取られる。
関羽も、恨みを抱いていた部下に寝返られて、荊州を失って敗死。
馬謖は命令無視って第一次北伐失敗の原因になる。
魏延は反乱して族滅。
姜維は、張飛のように自分に恨みを抱く人間をそのまま使ったため、土壇場で裏切られて漢中を失い、蜀滅亡。
どうも蜀の軍人には異常者が多いように思える。
>>404 そんな奴、呉にも魏にもいるよ。
晋の王渾と王濬の喧嘩なんて素敵だぜ。当時2chがあったら凄いことになっただろうなぁw
まぁ、衛青ようなな人物はそうそういないが、
性格だけ霍去病という人物は沢山いるからなぁ
そんなんまで異常者なんていったらほとんどすべての歴史の人物が異常者入りすると思うんだが・・・
一度も裏切られず、一度も失敗せず、じゃないと正常な人ではないと?
正直あなたの考え方がおかしいとしか
基地外すぎて怖いんだがこの人大丈夫か、頭
>>407 じゃあ姜維を裏切った蒋舒の行動も、別に異常でもないし批判されるべきでもない、ということでよろしいですね。
>>410 じゃあ人事権がなかったおかげで蒋舒の裏切りを止められなかった姜維も、
別に異常でもないし批判されるべきでもない、ということでよろしいですね。
>>410 異常かどうか、批判されるべきかどうか、ってのにどう繋がりがあるのかが分かりません
もうこの辺でアンチ姜維っ子で遊ぶのは終わりにして二宮の変でも語ろうよ
>>410 いや、良くあることだろ。
危機に際して、持ち場を離れ敵に投降なんて。
人間だからなぁ。忠誠度100は寝返らないなんて法則はないからなぁ
>>411 姜維に人事権がないとか、君はまだそんなこと言ってるのか。
>>401をみても姜維は将軍の人事をやってるし、jominianのサイトを見ても、蒋エンの人事をやってるね。
これらを否定する材料って何かある?
>>415修正
蒋エンの人事をやってるね
↓
蒋エンは人事をやってるね
>>415 >>401は督漢中や監軍や護軍を任命したって話じゃないよ。
配置を提案するのと人事権は違いますな。
姜維が提案して受け入れられましたって話だよな。
>>417 将軍人事に関して、蒋エンや姜維の「提案」が通らなかったことってある?
事実上の人事権を持ってるのは彼らだよ。
419 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 20:26:00.40 0
人事権の所在について話してる時にWikipedia貼っちゃう男の人って…
アンチ姜維の馬鹿さ加減にも呆れるが
ツイッターの連中の人品の卑しさにも呆れるばかりだな
>チンパンジーに九九を覚えさせる方がまだ簡単だと思います
俺は曲がり間違ってもこういうこと言えてしまう人間と付き合いたくないし、
そういう人間と付き合ってる人間とも付き合いたくない。
大げさな言い方をすれば、
あんたら三国志読んでる意味が全く無いね、と。
>>419 別にwikiの記述が大本の姜維伝に反してるわけじゃないし、読みやすくていいじゃないか。
道徳的な話になってるが
>>420には同意する
ほんと歴史の話で煽りばっかりになる奴には閉口する
>>420 俺をアンチ姜維というが、俺は姜維の軍人としての優秀さは認めてるぞ。
だが、政治も見なければならない国の指導者としては不足だといってる。
関羽や張飛と同じ失敗犯してるからな。
>>422 煽りもそうなんだけど、
俺が驚いたのは、そうしたことをツイッターで公言出来てしまう感覚だ。
公言出来てしまうのは、周りの人間も同レベルだからなのだろう。
で、Jominianのツイートも辿って見てみたら
言葉に多少の抑制はあるものの、似たレベルだな。がっくりきた。
>>424 アンチと書いたのは便宜上。
それと関羽や張飛と同じ失敗とは言えないだろう。
426 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 20:42:24.63 0
知性と品性は違うってことだな
>>403 それは無い。録尚書事ってのは、本来、外朝に座すだけになっていた三公に
宰相の行政権を復活させる程度の権限しかない。
で、それが生まれた時代には、権限が皇帝とその親近者(内朝)に権限が移っていた。
録尚書事で権臣となったのは梁冀や曹操、諸葛亮などごく少数。
いずれも録尚書事に由来する権力ではない。
で、姜維の権力。話題の漢中の防衛線シフト
>維建議
姜維は建議しただけ。議論は朝議で行われ、勅命を下したのは劉禅。
>>408 さっきAAで姜維アンチ君以外まで手当たり次第に煽ってた馬鹿はこいつか。
まともなレスも反論もぶつ切れで逃げ出して、ついったでこれとか、実質敗北宣言だな。
>>425 部下に恨まれるのはしょうがないのよ。
そりゃ、すべての部下を満足させることなんてできないからね。
でも、恨みを持ってる部下を、よりによって要職につけるのはどうかしている。
>>426 彼らが読むべきは姜維伝じゃなくて盧毓伝だな
ここにきて正義の味方も現れるし、いろいろカオスだなw
>>428 蒋舒は元々武興という一端の陣営の督だったのが、功績が無いから
漢中太守の下に左遷された人物。
この地位ではまず将軍でさえない。左遷によって権限も格段に低下している。
どこが要職?
>>431 「ここが魏軍の手に渡ったらヤバイ!」ってところを、一軍を宛がわれて守ってたじゃん。
あれは姜維人事だろう。
陽平関の主将は関中都督の傅僉なんだが。
一軍って言わないよ。都督の下の部将クラスに過ぎん。
姜維伝みても、?舒と傅僉のどっちが主導権を持ってたのか分からない。
官位的には傅僉だが、?舒の物言いからすると対等に見える。
>>427 それは後漢の三公が録尚書事を加えられた事でしょ。
自分は、大将軍事で軍権。尚書事で文書を握るっていう、霍光以来のやつを言ってる。
姜維は外戚じゃないから当然、霍光や梁冀と比べるべくもないが、
少なくとも宦官に出番がまわってくる位には権力はあった。
そもそも大将軍録尚書事と、三公の録尚書事じゃ軍権の違いは如何ともし難いし、
比較するのはどうだろう?
ところで「大将軍事」って何?大将軍ならわかるけど
少なくともドラクエ1や3については、自称勇者なんてごまんといる世界だと思うし
「俺、勇者です、大金とつえー武器くれよ^^」っていっても信じられんだろ
レベル1の実績ないやつは信じられんのは普通
仕官してくるやつ大量にいるだろうし、いちいち王様も相手していられないと思うよ
小額50G程度の手当て、一応の支給品としてこんぼう程度は妥当
将来性もわからない雑魚全員に、いちいち鋼の剣だのは投資しない
だがなローレシア王、てめーはだめだ
実の息子と思われる王子にどうのつるぎと50Gしか与えなかったのは擁護できん
蒋舒が傅僉の部下なら、蒋舒が主将の命令にそむいて出て行こうとしてるのを、殺してでも止めるべきだろw
でも他人事のようにスルーしてる。
兵だって、なんで蒋舒なんかについていくのか。
>>435 領尚書事と録尚書事はまったく違う。
領尚書事は皇帝に侍って最高意思決定に助言する(幼帝の場合は実質取り仕切る)本物の権臣だったのに対し、
録尚書事は宮廷の外に公府を構える大臣に付けられる「宰相の称号」に過ぎない。
で、後漢以降ただの「宰相」の権限低下著しいことは周知の通り。
皇太后を確保する外戚や宦官が当時の権臣だった。
大将軍の権限は個人によって千差万別。単純にいえないが、
少なくとも姜維に、皇帝の意思を飛び越して全国の軍事を左右するような権限があったとはまず考えられない。
で、肝心の皇帝の意思を左右したのは陳祗や黄皓。
・大將軍姜維雖班在祗上,常率衆在外,希親朝政。祗上承主指,下接閹豎,深見信愛,權重於維。
これを見ても、大将軍録尚書事という役職自体に朝政を統括するような権限が本来備わっていたとは認識されておらず、
ただ陳祗と比べた「班」だけが問題となっている。その上で姜維は「希親朝政」であり、陳祗は「上承主指」「權重於維」であった。
>>439 談判して許可を得たんだろ。
史書で許可を得たことを必ず「善」とか「可」って書かないよ。
蒋舒が傅僉に従わず勝手に出陣したなら書くだろうけど。
>>436 ぶっちゃけると
領尚書事。つまり尚書の事を領する。
録尚書事。尚書の事を録する。
行大将軍事。大将軍の事を代行する。
与えられる時は、領なり録なり行なりが前につく
Jominian
傅僉が蒋舒に指揮権を行使し得なかったのは、彼があくまで関中都督だったからだろう。
蒋舒は督漢中の指揮下にあったと考えられる。
だから、蒋舒は傅僉の援軍であって、部下ではないのだ。
Jominianは史書の記述をあまりにドラマチックに因果論的に描写しすぎるな
Jominian
あと、姜維が人事に影響を及ぼす事ができたのは、皇帝と繋がっているからだよ。
陳祗が死ねば、その影響力は大きく低下し、人事に介入し難くなる。
人事権はあくまで皇帝、そしてその詔勅にあるのだから
うーん、でも姜維の人事提案って、別に妨害されてないような。
>>442 霍光にしろ姜維にしろ大将軍は代行じゃないよね
>>435は何を「大将軍事」って呼んでるわけ?代行関係ないのに
それとも大将の軍事って意味なの?
447 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 21:44:08.21 0
それどこから拾った文章?
>>447 Jominianでぐぐるとさいしょにでてくるところ。
449 :
世界@名無史さん:2012/01/24(火) 21:48:36.64 0
ツイッターのつぶやきなんて拾っても意味ないだろうに
>>445 黄皓を除こうとして失敗。
陳祗死後の朝廷高官を自分に対立する諸葛瞻・董厥・樊建に奪われる。
成都にいたのでは自分の地位も維持できず、漢中から戻ってこなかった。
人事妨害どころの話じゃありませんよ。
>>446 今このスレで話題の姜維は段谷あと
後将軍行大将軍事となったわけだが…
>>450 漢中防衛に関する人事は、姜維の好き勝手にしていたのでは?
でないと、姜維自身が沓中にでていった後の防衛体制も決められない。
>>451 後将軍行大将軍事は姜維の権力の最大期なのか? 霍光とも関係ないだろうw
誤字ったって素直に言っとけばすぐ収まるのに
>>453 権力の最大期は段谷直前の普通の大将軍の頃だよね
>>452 それはわからんね。
まあ、姜維の意思が強く働く場所ではあっただろうけど。
で、「助漢中太守」にすぎない中級指揮官の蒋舒の裏切りをもって、
姜維をどう評価するというのだろう。
もちろん、官僚機構上責任の一端は帰せられるにしても。
前線の将が敵に寝返るというのは、そうしなければ自分の身を守れないか、
故国自体がもう駄目だと判断したか、という状況で起きるもの。
でなければ、一族を捨てて汚名を着てまで国を捨てる意味が無いからね。
>>257のいうとおり、圧倒的戦力差のプレッシャーは巨大なものだ。
そういう極限状態で起きる「事故」まで先読みするのは不可能だよ。
だからこそ、張翼と廖化の援軍が間に合っていれば…となるのだが。
>>453 いや、なんでそこに突っかかるの?
別に誤字じゃないよ。
普通に○○事とか史書の中で使われてるじゃん。
あくまで大将軍「事」と尚書「事」で揃えただけだよ。
権力の最盛期として使った訳じゃないよ。
気に入らないのなら以後は使わないけど、それでいいかな?
457 :
453:2012/01/24(火) 22:04:59.78 0
>>456 うん。
最初につっかかった人じゃないけど、俺はそれでおk
458 :
453:2012/01/24(火) 22:11:47.15 0
あー、いや、おkじゃないか。
細かいことだが言っとく。
職名である「尚書」の仕事と、尚書事の付く「録尚書事」「領尚書事」「省尚書事」などの用語は
それぞれ全然別物だよ。後者三つは、それぞれ四字で独立した意味がある。尚書とは別。
一方、「行大将軍事」は「大将軍の事を(臨時に)行する」でほぼよい。
だからこの二者を、『大将軍「事」と尚書「事」で揃えただけ』と意味で安易に並べてはいけない。
>>455 最重要地点の陽安関を、関中都督と並んで任せられた蒋舒を、ただの中級指揮官と判断するのはいかがなものか。
>>459 同格の中級指揮官が何人いたかもわからん程度の人間だけど。
これが参軍とか護軍とかいう地位を持っていたなら別だが、
蒋舒は職責も正確にはわからない。
>>458 後漢書章帝紀に註に武帝初以張子孺領尚書事。録尚書事由此始。
って無かったっけ?
録と領は基本的に差はないんじゃね。
どの官職に加えられたか、その差が大きいだけで
いや、何つーか姜維の話。飽きたから貴方と尚書について話したくなった。
大将軍事と尚書事を並べた事については、貴方の言う所が正しいと思うよ。
不用意でした。
461だけど、453氏へ
話したいと思ったけど、もう寝る時間だわ。
明日の夜に遅レスになるけどそれでも良かったら尚書の話しましょう。
また他の方と尚書の議論を進めていただいても構いません。
都督諸軍事が諸「軍事」なのか「諸軍」事なのかとか
職名についても話が広がると面白いかも
>>461 録尚書事と領尚書事の違いは「どの官職に加えられたか」じゃなくて時代の違いじゃないかね
同じ大将軍に加えられても前漢は領尚書事で後漢は録尚書事
じゃあまあ、長文書いたので
>>461 それは注釈家の判断。
命名としては領尚書事を基にしているのは正しいとは思うけど、
実際の運用は始めから違う。
で、どの官職に加えられたかというのは、確かに大事。
領尚書事は、主に(大将軍ではなく)大司馬や奉車都尉、光禄大夫といった
「皇帝の横」に近侍し、輔弼する官に加えられたもの。
録尚書事は、太傅・太尉が主。大将軍も多分一例ある(何進)。
「百官總己以聽」と定型句で冢宰に擬えられたように、
外に公府を持つ、言わば「北面する群臣の首」としての地位が当初から期待されている。
最初の太傅録尚書事はケ彪だが、この和帝代初期に繁栄したのは
宮中にあって皇帝権を代行する臨朝皇太后竇氏と、その一族だった。
以後、この「内の権臣」の座は外戚から宦官に移りながら後漢末まで続く。
「内の権臣」を、録尚書事ら外の朝臣が打倒することは結局出来ず、
覆したのは皇帝自身の意思だけ。
最初で最後の例外が、袁氏の宦官誅殺事件となった。
梁冀を話題にしておきながら大将軍録尚書事が一例って事は無いなw
すまん、訂正
みんなの大嫌いな黄皓が表舞台に出る契機を作ったのは陳祗だが、
みんなの大好きな姜維の積極的な北伐を許可した唯一の協力者も同じく陳祗だ。
黄皓ばっかのせいにすんなよw
末期(段谷敗退後)の成都には北伐不支持派の記録しかないが、
その不支持派も少なくとも二派が確認できるのは忘れちゃいけないよな
政権掌握グループ
・中常侍・黄皓
・衛将軍平尚書事・諸葛瞻
・輔国大将軍平尚書事・董厥
・尚書令・樊建
・右大将軍・閻宇
段谷の大敗、陳祇の死後、黄皓が政務を掌握すると、
姜維は兵権を取り上げられるのを恐れて成都へ帰還しなくなった。
宰相の任を負う大将軍録尚書事姜維が制御を受け付けなくなったことで、
黄皓と「ともに庇いあった」諸葛瞻・董厥が平尚書事となって共に国政を宰領した。
ただ尚書令の樊建は黄皓と距離を置いた。
諸葛瞻は戦死。董厥・樊建は降伏して晋に仕え、のちに巴蜀の鎮撫にも当たった。
閻宇の消息は不明。黄皓はケ艾の側近に賄賂を贈って死を逃れ、余生を全うしたものと思われる。
反黄皓グループ
・光録大夫・ショウ周
・元宣信校尉・巴東太守・羅憲
・散騎黄門侍郎・陳寿
ショウ周が直接黄皓と対立した記録はないし、ショウ周がこのグループの頭目だった保証はない。
また下の二人が派閥の代表的構成員だったとも限らないが、とりあえず1グループとする。
ショウ周はかつて陳祇に反対して北伐を諌める「仇国論」を著した。
羅憲と陳寿はその弟子であり、共に黄皓に反抗して遠ざけられた。
成都にケ艾が迫るとショウ周は降伏を進言し、羅憲はそれを追認する形で呉の攻撃を阻んだ。
晋朝廷において、益州人は軽侮されたが、ただショウ周学閥だけは併合の際の功績を認められて
厚遇された。羅憲も入朝の際に多くの益州人を推挙しており、陳寿もその一人。
故国を亡国に導いたとも解釈できる師・ショウ周の存在と益州人の厳しい境遇の元で
「三国志」は執筆されたものとされている。
ついでに軍首脳部
・左車騎将軍:張翼
※初期からの北伐反対者、だが遠征時は姜維に付いていくのが定番
ついでに助言しても姜維は無視
・右車騎将軍:廖化
※「宗預伝」に姜維批判あり、諸葛瞻詣あり
二人とも姜維兵権剥奪には反対はしないものと思われる
・鎮軍大将軍:宗預
※258年に病気で成都に召還され鎮軍大将軍となる
死を待つばかりでほぼ政治にノータッチと思われ立場は不明…
番外
・車騎将軍・ケ芝(251年死去)
※数少ない姜維を評価していた人物
ただ傲岸で感情をおもてにだし、ほとんど他人を尊敬しない人付合いベタ
魏延と楊儀の仲を取り持つ費?さえ気兼ねする堅物
蜀末期の定番となった高齢でも兵権を手放さないの先駆者
過去の擁護者も一匹狼で、どうみても軍部にも姜維支持者がおりません
いままでご苦労様でした
では、姜維が孔明派閥から白眼視される原因を考察しよう
陳祇:姜維と上手くやっていたと思われる。258年死亡
自分に対して態度の悪かった?統の子?宏の出世を妨害
姜維:自分に対して酒の席で嘲笑していた楊戯を恨み
257年の戦役に連れて行った上、手を回し告訴させ罷免、庶人に落とす
姜維が排除した楊戯は孔明主簿で病気もあり中央入りしたが…
射声校尉で出世がとまった陳祇政権下でこっちも出世を妨害されていた可能性が高い…
このように2人で自分の権力基盤の強化を謀ったことが孤立を深めることになった
つまり自業自得で周囲の腐敗が原因ではない
というかむしろ姜維の軍権集約、不支持者の出世抑制策が人材を枯渇させたと見るべき
姜維、陳祗は(地元益州でも主要荊州でもない)地盤が弱い政権
閻宇は荊州閥を取り込む必要もあり姜維と同時に大将軍に就任したと考える
名目上は同格でも権限では閻宇は一地方の都督でしかないので
姜維は録尚書事でかつ督中外軍事ということで上回れる
で、このことが大敗して名目上降格した後に大将軍復帰を急いだ原因のひとつではないかと予想する…
結局、功績を上げられないままに大将軍に戻ったわけだが、復帰の為の予防線として
・閻宇を巴東都督として成都から離す
※表向き前年にあった呉からの要請に答えたものだが、 大敗直後で兵が不足しているはずであり。
諸葛誕の反乱により魏による呉への侵攻の危険は薄い
・反姜維であることが自明だった楊戯を罷免することで反対意見の封じ込め
※勝利できれば成果を見せ付けるだけで済んだかもしれないが…
できれば張嶷のように戦死させたかったに一票
まあ、派閥作りの努力はしなかったが、恐怖政治的な独裁の努力はしてるのではないかと
ついでに張翼と廖化の派遣要請を無視したのは、難癖つけて兵を奪われる
(ついでに殺される)ことを危惧して握りつぶした可能性もあるかと
そうじゃなくても姜維の話ばかりでゲンナリしてるのに
ツイッターの話題まで引っ張って来なくていいだろ
473 :
世界@名無史さん:2012/01/25(水) 08:13:33.08 O
ここは私怨を晴らすインターネッツですね
>>471 ツイッター見れるんなら直接ねじ込みに行けや
ここはツイッター晒しスレじゃねえぞガキが
twitterの三国志クラスタとやらにここの存在が広まってるみたいだし、今更締め出そうとしたって無理だなぁ。
ツイッターで話してる人の中に「むじん書院」の人とか俺が参考にしてる老人舗の三国志サイトの人とか結構居るな。ちょっと流行に走ってるみたいで避けてたけど俺もツイッター始めるかな。
サイト持ってる有名どころはほとんどtwitterにいるんじゃないか?
>>470 >つまり自業自得で周囲の腐敗が原因ではない
>というかむしろ姜維の軍権集約、不支持者の出世抑制策が人材を枯渇させたと見るべき
>まあ、派閥作りの努力はしなかったが、恐怖政治的な独裁の努力はしてるのではないかと
>
>ついでに張翼と廖化の派遣要請を無視したのは、難癖つけて兵を奪われる
>(ついでに殺される)ことを危惧して握りつぶした可能性もあるかと
姜維大好きな皆さんは、この意見について反論ありますか。
あくまで劉禅や黄色のせいにしますか。
まだ続けんのか…。
うぜぇ…。
他人の意見に便乗すんなks
このスレらしくなってきたな
たとえ善政でも独裁が嫌がられるのは、諸葛亮体制の後で、二度と諸葛亮体制が復活しなかったのを見ればわかるだろう。
姜維は左大将軍だったんかな。書いてないけど。
484 :
世界@名無史さん:2012/01/25(水) 14:50:20.58 0
蔣琬は姜維を高く買っているだろ?
わざわざ涼州刺史に就任させている。西方に何度か小規模
侵攻させてるみたいだし。費禕も大規模遠征を認めなかっただけで、
蔣琬以来の小規模侵攻は続行させている。蔣琬・費禕が姜維の出世
を阻んだこともない。
ほとんど私怨だな
何がそんなに憎いのか
>>482 独裁が嫌がられるのじゃなくて、独裁を行うのは難しい
諸葛亮の統治が嫌がられていたとは思わん
487 :
世界@名無史さん:2012/01/25(水) 18:56:18.45 0
独裁は諸葛亮ほどの人望・政治手腕・公平性がないとできない。
蔣琬・費禕は名臣だが、諸葛亮ほどの力量がなかっただけでしょ。
まして姜維は軍事的才能はあっても、政治能力となると疑問符が
付く。
費イと姜維は別に独裁して無いから問題にならない
姜維個人としての人生最大の失敗は、
独裁、とまではいかなくても政治権力を握りに行かなかったことだな。
前線にかまけて朝廷に注意を払わない間に京師の風向きが変わり、
大敗と後援者の死の後には自分の地位を保証してくれるものが何もなくなっていた。
諸葛亮・蒋エン・費イからの評価と引き立て、そして当初の皇帝からの信任を、
前線で十全の力を振るうことだけに消費してしまった。
姜維もあるいはそんな世渡りが必要になるとは思わなかったかもしれないが、
ともあれ、京師に居場所を失い、それ以上粘って味方を増やす技術もない姜維は、
自分の地位を守るためにも再び前線の軍事に没入するしかなかった。
姜維は魏志でも蜀志でも大将軍。
閻宇は蜀志では右大将軍で呉志では右将軍。
>>464 遅レスだけど
自分も後漢書読んでみた。時間ないからパッと見くらいだけど…
なるほど確かに和帝紀の註に録尚書事は則ち冢宰の任と有ります。
その録尚書事の力がが幼帝を要する大将軍や宦官に遠く及ばないのは、
仰るとおり後漢の歴史が証明する所。
そうなると、章帝初期の録尚書事である趙憙と牟融はどういう位置だったのだろう?
章帝は精力的に詔を発しているが、この時期は流石に年若いし、
自分としては征西将軍耿秉らの西方での活動や、疫や旱に対する詔、
地震に対する詔等々、章帝の初期の諸政策を
長老的な立場で若い皇帝を補佐し百官を統べていたと思う。
この時期だけは録尚書事がまともに機能していた数少ない時期だと思うんだが、
どうだろう?
章帝の時代以外の太傅や三公も録尚書事になってるけど、
外戚の大将軍録尚書事とセットになってる場合が多いね。
大将軍録尚書事がいない時は宦官が実権握ってる。
ここらへんにヒントがあるかも。
権力を握った大将軍録尚書事って梁冀だけだろう。
と言っても、他の例は何進だけだと思うけど。
録尚書事は、当初は幼帝の補佐として発祥した。太傅・太尉で一組が多い。
これは前漢の丞相・太尉の文武2トップ体制と類似している。
太傅録尚書事は原則終身制で、皇帝の「傅り役」であり朝廷の元老の地位だっただろう。
>>492 ああ、ごめん。録尚書事の発祥は章帝期だね。
で、確かにそう思う。
章帝は即位19歳と、あとの皇帝に比べれば年長で、馬太后は臨朝していない。
つまり内朝の力は弱く、組織化されていない状態で、
外朝の群臣達による朝議と公卿の行政がある意味正常に動いていた時期だろう。
特段の寵臣もいないようだから、光武帝からの宿臣でもある趙憙が
皇帝を補佐する群臣の首相として働いていたものと思う。
竇武も録尚書事
竇武もなっていたか。
まあ何進と同じく宦官に中枢から弾き出された側だけど。
>>493 章帝が宦官を重用していない事。
馬太后のおかげで外戚がのさばらなかった事。
やはり後の幼帝の時代とは違い
趙憙らが録尚書事として機能したと思える。
>>494 やはり、この時期は録尚書事が本来の形で機能したと見れそうだね。
>>490 >姜維個人としての人生最大の失敗は、
>独裁、とまではいかなくても政治権力を握りに行かなかったことだな。
>前線にかまけて朝廷に注意を払わない間に京師の風向きが変わり、
>大敗と後援者の死の後には自分の地位を保証してくれるものが何もなくなっていた。
後援者と一緒になって北伐に反対する人たちを排除してましたけど。
結果、人材が不足し、反対派の廖化や張翼まで駆り出す始末。
これは彼らが姜維に賛成したわけではなく、軍事力をもった姜維に逆らえなかった可能性が高い。
蜀滅亡の際に姜維の通報が疑われたのも、廖化や張翼の兵力を勝手に手勢に組み込んで北伐した前科があったからだろ。
孤立の原因を作ったのは姜維自身でしょ。
廖化や張翼は、北伐に際してたびたび反抗的なことをいっている。
これは彼らが望まずして姜維の軍勢に組み込まれた可能性が高い。
このスレを釣り堀にするのやめて欲しい。
督漢中人事を空席にした張本人って姜維でしょ。
漢中が落ちたのは姜維のせい。
26 :Jominian ◆Henri9gNlM :2009/12/27(日) 00:18:07
漢中が落ちたのは、漢中全体を指揮する司令官が不在であった事も大きい。
蒋舒と傅僉の上下も曖昧な上、結局ばらばらに行動している。
通常なら督漢中がその任に当たるのだろうが、胡済以降不在。
宰相が漢中に駐屯している間は督漢中が空位になるのが常だが、
姜維が沓中にいた当時の状況がそれにあたるのかは分からない。
また、胡済が死んだであろう261年時点では姜維も成都にあり、
後任の督漢中が決められてもおかしくないのに、その様子も無い。
督漢中を置かなかったのも悪いし、関城死守を命じなかったのも悪い。
やっぱり漢中が落ちたのは姜維のせい。
160 :Jominian ◆Henri9gNlM :2010/02/19(金) 22:29:24
>>159 例え傅僉に蒋舒を制御する権限が無かったとしても、
蜀軍全体の総司令官とも言うべき姜維から正式な関城固守の命令が来ていたなら、
それを盾に傅僉が蒋舒を押さえ込む事ができたはず。
仮に正式な命令が来ていたにもかかわらず、傅僉が蒋舒を押さえ込めなかったのなら、
傅僉は限りなく愚かな人間という事になる。
それを受け入れる事ができるなら、それはそれで構わないし、これ以上言う事は無い。
確かに姜維が「援軍くるまで死守しろ」といっておけば、勝手に出撃して投降なんて真似は不可能だった。
張翼、董厥の派遣が多少遅れても防衛できたはず。
曖昧な命令系統を放置し、さらに死守命令も与えなかった姜維がアレ。
督漢中を空席にして、漢中の防衛力を落としたのは姜維に責任あり。
諸葛瞻らは反姜維なだけであって、蜀に反逆しようとか魏に寝返ろうとかしていただけではない。
国家全体の防衛戦略を考えた場合、姜維が諸葛瞻らに譲ってでも、督漢中の空席を埋めておくべきだったのではないか。
姜維が全体を統括する司令官であるなら、その程度の政治を考慮できなくてどうするのか。
この辺の非妥協的なところが、ますます姜維を孤立させたのだろう。
http://blogs.yahoo.co.jp/antoine_henri_jomini/35726348.html 従って、胡済の死の直後に、諸葛瞻と董厥が政治を担う事になり、少なくとも朝廷においては姜維に比する地位に上った事となる。
諸葛瞻らは姜維と協調せず、むしろ黄皓に与して姜維の更迭を企図した人物であるので、胡済の後任となる督漢中の人事について、
親姜維の人物でなく、諸葛瞻や黄皓に都合の良い人物を選ぼうとしたはずなので、後任人事はもめたと考えられる。
督漢中を親黄皓の人物にする事ができれば、姜維更迭の為の助けとなる。
姜維としても、督漢中に自身の影響下にある人物を置かなければ、その後の攻勢や、蜀の防衛に大きな支障が生じる。
両者とも簡単に妥協はできなかったであろう。
506 :
世界@名無史さん:2012/01/26(木) 09:26:51.35 0
>>505 蜀に反逆しようとか魏に寝返ろうとかしていただけではない。
↓
蜀に反逆しようとか魏に寝返ろうとかしていたわけではない。
そもそも人材面で圧倒的に少数派なのが姜維派なのに、
蜀での多数派である諸葛瞻派を無視排除してうまくいくと思ってるのがおかしい。
諸葛亮は荊州閥でありながら、どんどん益州人を取り立てていったが、姜維にはその妥協性はなかった。
姜維は排斥するだけ。
姜維には現実が分からない。
蜀漢政権は荊州人、益州人、それ以外の出身者で成り立っていたが、姜維はそれ以外の出身者で、しかも派閥的には最弱。
荊州人(諸葛瞻、董厥、樊建)と益州人(張翼、ショウ周、楊戯)は軒並み反姜維だから、2対1以下で完全に劣勢。
それなのに人事を思いのままにしようとする姜維が反発を受けるのは当然で、督漢中の人事で妥協すべきは姜維だろう。
ただでさえ小国なのに、姜維と陳祗がこぞって益州人と荊州人を排除しようとするんだから、
国が滅亡するほどの人材不足に陥ったのもむべなるかな。
510 :
世界@名無史さん:2012/01/26(木) 12:38:35.04 0
蜀が人材不足って何処に書いてあるの?
姜維と陳祗の時代は人材登用がほとんどできてない。
姜維と陳祗が、敵派閥の荊州人と益州人の伸張を嫌ったのだろう。
かろうじて引き立ててやった閻宇さえ、邪魔になって閑職に飛ばしている。
>>511 ほとんど出来てないというけどその期間なんて数年しかない
単に史書に残ってないだけだろ、その後すぐに蜀は滅んじゃってるし
新人採用0ってことはまずないと思うぞ
例えば、その前の費偉時代にはこれだけ多彩な人事をしたわけだが。
平尚書事 馬忠
尚書僕射 姚ユウ
尚書 張翼、衛継、文立
尚書右選郎中 楊戯、王祐
尚書度支郎中 柳伸
尚書郎 李驤、李密、黄崇
姜維って費イの野党だったんだっけ?
野党なら人事引っ繰り返すべき、という理屈は理解できるが
与党なら費イ時代に大きく刷新した人事を引っ繰り返さず
そのまま継続してても不思議じゃないのでは?
>>514 姜維と陳祗時代は、追い出されたり左遷されたり実権を剥奪されたりした人はいるけど、出世した人は思い当たらない。
武将として有名な羅憲は、黄皓によって巴東太守に左遷されたことになってるけど、これは姜維と陳祗によるものだろう。
だって、姜維と陳祗によって追い出された閻宇の副官をやってるからね。
閻宇が巴東の都督として飛ばされたのが257年。
で、そのころの羅憲は、既に巴東太守をやっていた。
「羅憲は黄皓に阿らず、恨みを買って巴東太守に左遷された」ことになっているが、この頃実権を握ってるのは黄皓ではなく、姜維と陳祗。
有意の人材まで追い出しちゃってるんだよ姜維は。
何この陰謀史観
>>517 時系列で見ると、羅憲更迭は明らかに姜維-陳祗体制のもの。
この頃の黄皓は黄門令で、姜維-陳祗の使い走りに過ぎない。
羅憲が左遷された時期は黄皓が政権握ってた時って以外に特定する材料ないはずだが。
>>519 霍峻伝によれば、閻宇は257年に右大将軍のまま巴東都督になり、羅憲を副将としたとある。
羅憲はそれ以前に黄皓に左遷されて巴東太守だった。
黄皓は姜維-陳祗の使い走りなので、黄皓のやったことは姜維-陳祗の意思の元で行なわれたはず。
羅憲さんの経歴
太子舍人〔蜀漢〕→庶子・尚書吏部郎〔蜀漢〕→宣信校尉〔蜀漢〕 →巴東太守〔蜀漢〕→将(閻宇の副将)〔蜀漢〕→?江將軍〔曹魏〕→武陵太守・巴東監軍〔曹魏〕→冠軍将軍・假節〔西晋〕→安南將軍〔沒後〕
校尉から2千石の太守とか、出世やんw
そもそも永安には陳到の死後、都督は廃止されていたが、258年に朱績より孫チンが荊州で独立する可能性と、
その時は荊州へ出兵してほしいとの要請が伝えられた為、数十年ぶりに永安都督として閻宇が駐屯した。
で、羅憲はその副官に任命されたわけで、純粋に呉の有事に対処できる人材として、その才能を評価されての抜擢であったとも言えると思う。
黄皓は左遷したわけじゃないと思うぞ。
あれ? 校尉も2千石か…。左遷ではないが、昇進でもない。
いずれにせよ黄皓は無実かと。
校尉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%A1%E5%B0%89 漢の校尉
漢の制度において、将軍が兵を領する場合、部・曲が置かれる。部には校尉(官秩比二千石)、軍司馬(官秩比千石)が置かれる。この部を率いるのが校尉である。
部の下に曲があり、軍候(官秩比六百石)が置かれる。曲の下には屯があり、屯長(官秩比二百石)が置かれる。
また、城門校尉、中塁校尉、屯騎校尉、歩兵校尉、越騎校尉、長水校尉、射声校尉、虎賁校尉の八校尉や、胡騎校尉、司隷校尉、西域副校尉(城門校尉から西域副校尉まで、官秩は比二千石)、
後漢末の西園八校尉など、高級武官の名称に「校尉」が多く使われている。
黄皓に悪意がある見方をするなら、媚びない羅憲が煙たいから昇格を名目に国境に追い払った
好意的な見方をするなら、永安を強化するために呉の事情に詳しい羅憲を閻宇の副官に付けてやった
便乗質問ですが、
曹操が董卓からもらいそうになった「驍騎校尉」って珍しい官職ですよね?
あまり見ないのですが、どういう職だったのか分かりますか?
羅憲が永安に追い払われた後で、閻宇が赴任してきたのか
閻宇が赴任した後で、羅憲が左遷させられてきたのか
前者なら、黄皓と姜維と陳祗が、派閥抗争優先で羅憲を無駄にしたことになる
三国志でも晋書でも原文は「時右大將軍閻宇都督巴東,為領軍,後主拜憲為宇副貳」
「当時右大将軍閻宇は巴東の都督だった」という意味だから、羅憲赴任は閻宇の後だね
「右大将軍閻宇が巴東の都督である時」ともとれる。
529 :
世界@名無史さん:2012/01/26(木) 18:40:20.25 0
>>527 三国志じゃなくてじょうようきあんじゃね>
「当時は…」っていうのは「當時」があるが。
531 :
世界@名無史さん:2012/01/26(木) 18:46:06.57 0
読み下し文なら「時に」だな。
「時右大將軍閻宇都督巴東」
は
「当時、右大将軍閻宇が巴東の都督となった」
では。
で、この前に羅憲が左遷を食らう話が出てくる。
>>504 三国志は「開城出降」,華陽國志は「開門降」とするから,
蒋舒は魏軍が攻めてきた時に降伏し,その勢いで城内まで攻め込まれたのだと思う。
出撃云々は漢晋春秋の脚色だろう。
>>533 「開城出降」がほかに使われた例。
虞翻伝
後蒙舉軍西上 南郡太守麋芳開城出降
羅憲は荊州襄陽の出身
閻宇は荊州南郡の出身
この二人がセットで左遷されたのは、荊州閥攻撃が目的なのだろうか
でも、権力を握った後の黄皓って諸葛瞻ら荊州閥と仲良しなわけで。
荊州閥を排除して得するのは、やっぱり姜維-陳祗しかいないんだよな〜。
>>534 麋竺伝は「叛迎孫権」,呂蒙伝は「遂到南郡,士仁、麋芳皆降」だから,
麋芳が降伏した場所は南郡(江陵)で間違いないだろう。
荊州出身者を荊州との境において外交を円滑に行おうって腹なんじゃねーの?
涼州出身の姜維さんとか徐州出身の陳シさんとかどうやったって気脈なんか通じないから
わかる人にお任せしますってな感じで
当初の構図は
姜維-陳祗-黄皓vs荊州閥-益州閥
陳祗死後は
姜維vs黄皓-荊州閥-益州閥
姜維憎しで何もかも姜維が悪いって感じで思考停止してない?
ジョミのブログまで持ち出して何したいんだか
督漢中の人事で揉めたから姜維が悪いって、普通に考えて両者とも悪いんじゃないの?
それは「時代が悪い」で結論が出たはずだが
黄皓が左遷したとされるのは陳寿と羅憲。
陳寿は益州人士、羅憲は荊州人士だ。
黄皓は姜維への対抗上、荊州閥と益州閥の機嫌を取らないといけない。
なのに、益州人士と荊州人士を左遷したりするだろうか?
>>508 諸葛瞻は荊州人ではない。
諸葛瞻を荊州人(劉備と共に入蜀した系統)とするのなら、
陳祗あたりは益州人(劉備以前に入蜀)とせねばおかしい。
陳寿も羅憲もショウ周の弟子
陳寿は黄皓を蜀書で叩きまくってる
ショウ周の弟子筋は黄皓を嫌いだったんじゃ?
>>523 そこにあるとおり、校尉は比二千石だから、太守へは昇進だよ。
ただ、蜀漢は校尉を、元からある宮廷守備だけでなく、
君主の側近として顧問する高官として用いている。
特に宣信とか儒林と文治の名号のある官は。
実際、羅憲は使節として呉に赴いている。
群臣と皇帝に発言力のある高官の座から、階級上昇進の名目で地方へ追いやったということだね。
>>535 黄皓に限っては、出身閥を気にしても意味が無い。
黄皓自身がどこの士人派閥にも属せず、同時に人脈を必要としない人間だから。
黄皓に必要なのは皇帝の信任と、宮中の安定のみ。
自分に反発する人間を排除し、消極的にでも従う人間を高位に付けるだけ。
>>505 督漢中は胡済だから以下の主張は無効だね。
>>540 どっちも悪いが、姜維の方がより悪い。
蜀漢で、荊州閥と益州閥の多数派を無視して政治ができるわけがない。
その現実すらわからなかった上、結局督漢中を空席にする最悪の選択をした。
これが漢中陥落、ひいては蜀の陥落に直結しているのだから、罪は重い。
>>546 胡済の後任人事が姜維の抵抗で決まらなかったのが問題。
>>545 校尉として呉に使いした費イは侍中になってるな
督漢中驃騎将軍クラスの人間が滅亡前後にどうなっていたかも判らない記録の密度の薄さなのに、
「決まらなかった」と前提できるその脳みそをかち割って中身見てみたい。
呉から魏への使者になる場合は五官中郎将になってたりするし
蜀では呉への使者になる際に一時的に校尉の肩書を与えられてたのかも知れない
ジョミは督漢中の人事について「両者とも簡単に妥協はできなかったであろう。」といってるが、
じゃあ「どちらが妥協したほうがよりよい結果を出せたか?」については語らない。
どうしたって「蜀全体を考えて少数派の姜維が妥協すべき」という結論にしかならないからねw
姜維のわがままで蜀が滅んだなんて、姜維信者には耐えられまい。
>>549 宗預が召還されて鎮軍大将軍エン州刺史になった頃に、
諸葛瞻が取り仕切るようになったそうなんで、
最高官が右驃騎将軍エン州刺史だった胡済はそれ以前に死んでる。
>>552 尚書令蒋エンが政務を統括した時の軍部最高官はだーれだ?
なんかただのジョミアンチな気がしてきた
荊州閥、益州閥とか言ってる時点で話にならんな
何の根拠もない
あと、俺は督漢中がいたんじゃないかって思ってるよ。
蒋舒の上司は漢中太守。
蜀で記録に残ってる漢中経験者は三人いて、一人目の魏延は督漢中兼任。
二人目の呂乂は漢中に滞在してた諸葛亮のバックアップ。
三人目の王平は督漢中呉懿の副将から、督漢中に昇格して引き続き太守も兼任。
だから、蜀滅亡の時の漢中太守は督漢中が兼任してたか、督漢中の補佐だった可能性が高いと思う。
胡済の最高位は「右驃騎将軍」であって、エン州刺史だったのは中監軍前將軍,督漢中,假節の時代だぞ。
督漢中は262年ごろまで継続していたとしても、胡済が中監軍前將軍だったのなんて段谷より数年は前だろ。
だから何? ってことだな。
>>555 平尚書事の諸葛瞻・董厥、尚書令の樊建ら荊州人士は、姜維の政策に反目して彼の兵権を奪おうと画策。
益州人士も国力の衰退を無視した北伐が自らの既得権益に影響を与え出すと、明白な反対意見を提出する様になる。
中央軍で左車騎将軍の地位に登った益州人士の張翼は、「国が小さく人民が疲弊していれば、武を黷すべきではない」と廷争し、
光禄大夫のショウ周は「北伐を敢行して民衆を疲弊させるべきではなく、民心を養って内政の安定と充実を計る事こそ肝要である」とする『仇国論』なる意見書を奉って北伐を批判。
>>556 魏の侵攻直前の北辺に、姜維以外に将軍が一人もいないってのは流石におかしいからね。
(なんの根拠も無いが)胡済が死亡していたとしても、漢中近辺に所在し姜維の副となるくらいの
将軍がいたと考えるのが普通だろう。
まあ、そのくらい記録に欠落が多いってことだ。
監軍王含と護軍蒋斌も、姜維の建議や滅亡直前の奮戦といった間接的な描写が無ければ
存在も知られなかったくらいに。
>>557 華陽国志では、延熙十一年に王平が死んで中監軍胡済が驃騎将軍領エン州刺史督漢中事になったって書いてるぞ?
諸葛瞻は荊州人じゃねーって
>>558 つまり、下位の宗預や諸葛瞻が政務を取り仕切ることになりそうだからと言って、
より上位の胡済が死んでいる根拠は何もないって事さ。
>>563 右驃騎将軍エン州刺史に至った胡済のエン州刺史を、
諸葛瞻が政治を仕切りだした頃に宗預が引き継いでるから、
胡済はその前に死んでたんじゃないかってこと。
>>561 それは三国志注と矛盾するので考察が必要だが、
まあ、今はそれを丸呑みの方が都合がいいや。
延熙十一年から慶耀中期頃まで、胡済の死以外に
エン州刺史が交替する理由が無いという根拠は?
姜維が少数派ってどの程度の少数派?
成都にいないと更迭できない、ってことは漢中には姜維の支持者いた、ってことだと思う
成都、漢中の主導権争いだったじゃないか?
論点そこじゃなくて胡済程の高官の死去の記録も欠落してるんだから
督漢中の人事の記録も欠落してるだけで実際は督漢中はちゃんと任命されてたかもしれないってことでしょ
>>565 そう言われると弱いなあ。
状況証拠なら、蜀で刺史に就任した人で生前に交替した記録があるのが蒋エン以外に見当たらないぐらいか。
諸葛瞻は荊州人じゃないってことはスルーかい
刺史に就任した記録自体が実数より遥かに少ないんだから意味が無い。
特に益州涼州以外の遙任なんて、形だけの栄職なんだから、
人事異動にくっ付いて持ち回りでぽんぽん代わるくらいと見たほうがいいだろ。
>>571 反論できないだけだから拘んなくていいよ。
或いは意味が判らなくて反応できないのかもしれない。
荊州閥と益州閥って区分がおかしいんだよ。
蒋エンも費イも本籍は荊州だけど、蒋エンは劉備に従って入蜀してる。
費イは劉璋の縁戚で劉璋時代から蜀にいる。
劉璋に仕えてた荊州人と、劉備に仕えてた荊州人は別の人脈。
劉璋自体が荊州人だしw
あとな、益州人でも劉璋に仕えてた益州人と、劉備に召し出された益州人がいるぞ。
荊州人でも益州人でも諸葛亮の世になって召しだされた人間がいる。
経歴を細かく分析しなきゃいけないよ。出身地だけで分類するのはナンセンス。
いや、当時の人間にとって本貫地というのは重要だよ。それで派閥もできる。
蜀漢の政権模様を知る大事な手がかりになる。
それだけで派閥が語れるわけではないが。
二つの会社が合併したとして、旧会社社員内輪の派閥は当然残る。
同時に、旧社の垣根を越えた学閥も新たに構築されうる、という感じ。
諸葛亮が費イを車に同乗させたとき、周囲が費イを見直した、というのは、
旧劉璋系荊州人を諸葛亮が自分の派閥に取り込んだ瞬間だとも解釈できるね。
で、諸葛亮死後の最大派閥というのは、入蜀経緯や本貫地閥ではなく、
「諸葛亮閥」だったりするのだが。
根拠なき妄想だな
お父さんお父さんみんなが自分だけの派閥定義を披露するよ
>>579 荊州閥益州閥二元でしか語れない一名以外は、殆ど同意見じゃないか。
みんな本貫以外の要素も考慮しろっていうごくまっとうな意見ですな
益州閥だと荊州閥だの言っちゃう子は渡邉義浩の本を間違った読み方でもしたんだろうか
多分同じ人なんだろうけど
とりあえず渡邊義浩とちくまは忘れろ、って1に書くようにしない?
>>583 渡邊義浩氏もちくまも関係ないぞ
暴れてるのはちくま訳も読めない情報源がネットの個人サイトしかない奴だから
最低限ちくま文庫が手元にある奴が相手だったら、最近の伸びは半分以下に抑えられてる。
>>583 むしろちくまは必需品だろ。
ちくま軽視、原文重視のマニア様諸氏の方がよっぽど珍奇な自説を振り回してる印象だ
曹操は袁紹の部下、とかさ。
原文読むより後漢書読むより集解読むより、ちくまを100回読みなさいと言いたいね
それはさすがに無い
ちくま読んだだけじゃ「全部姜維が悪い。劉禅と黄皓は悪くない」って思考にはならないよな
ちくまじゃなくて頭が悪い
>>587 はっきり言って、珍説振りかざす人の論って
集解とか原文に当たらなくても、ちくまだけで論破出来てしまうものが多いと思うよ。
ちゃんとちくま読んでたら自分の矛盾点に気付かない?と言いたくなる。
前スレの「曹操は袁紹の部下」の子も、「明らかにちくまさえ読んでない子」だった。
>>589 そうだよ?
ちくまも読んでないんだから、ちくまさえあれば論破できるのは当たり前。
>>591 俺が念頭に置いてるのは、ちくまも読んでない人ではないよ。
例えば、後漢書の記述にだけ目を留めて「孫堅は袁術の部将に過ぎない」
などと言ってしまうような人々を念頭に置いている。
ちくまは馬鹿に出来たものじゃないよ。
>>592 そういう人間はいるが、それ論破するのはちくまだけでは無理だわ
原文や後漢書読むような連中は、ちくまなんて穴が開くぐらい読み込んでるだろ。
問題なのはそういうマニアが考え抜いて出した仮説をドヤ顔で一部だけ都合よくコピペしてばら撒く奴ら。
>>594 >原文や後漢書読むような連中は、ちくまなんて穴が開くぐらい読み込んでるだろ。
それは願望じゃないの?
原文etc漁ってる人が曹操は袁紹の部下と主張してたりするの知ってるよ。
>>595 ちくまにも曹操が袁紹から東郡太守の官位もらった話や、
「袁紹が曹操の面倒を見てやったのに、恩を忘れて刃向かってきた」って書いてる陳琳の檄文も載ってるけど。
反証となる記述もちくまには載ってるんだけど、それには気付いてなかったりする
少なくとも曹操は、対董卓に破れて兵を失って河内に逃れてから少しの間は、
乱世の群雄と成りつつあった袁紹の勢力下で一将として働いている。
争点は、「どの時点で『部下』ではなくなったのか」だな。
それから、『部下』という用語の曖昧さ問題。
この辺の論理的な切り分けは、原文読解できようがちくま百遍読もうが関係ない。
推挙されて官位に就いた程度で主従関係になるわけじゃないのは、
原文の単語でニュアンスの違いを比べて、部下扱いと盟友扱いの違いを見分けて、
さらに後漢書などを読み込んで当時の政治状況や人事を理解しないと心の底からはわからないんじゃないか?
「部下だ」「部下ではない」の全か無か論争してるならどっちもどっち。
>>598 同感。
自立がどの時点かは議論がわかれるだろうけど。
また、自立後袁紹を盟主として活動してるのを部下と言っちゃうと違和感が。
VIPの三国志スレで「孫堅は袁術の部下」というのを理路整然と否定してた人がいたな
>>598 そういう話でもなくて。
結論が突飛なものでも構わないんだよ。
俺が言いたいのは、例えば後漢書の袁紹伝読んだり後漢記読んだりする前に
ちくまの関係ありそうなところを読みましょうよと、そういうこと。
鮑信は曹操に「袁紹は董卓と変わらんので我々は河南に行くべき」と進言している。
これは曹操が東郡太守になる前。
信憑性はさておき、こうした記述のひとつひとつについて考察するのが大前提。
原文あたって該当箇所の正確な意味を把握するのも大事だけれども
ちくまを使って関連箇所を洗う方がもっと大事だと思う。
ちくまと原文や後漢書が対立するもんだとでも?
読める本の全部から関連箇所を洗うのが一番じゃないの?
どれかにこだわって他を軽視するのは良くないよ。
後漢書や原文の一部だけ抜書きしてつっついて「曹操は袁紹の部下」って言ってる奴は、
そもそも後漢書や原文すらまともに読んだとは言えないから。
>>603 では、朱霊は袁紹の部下ではなかったのかね?
公孫サン下の劉備は?
この三者の相違はどこにある?
部下という言葉の曖昧さ問題でもあるが、
一定の私兵と財源を持って渡り歩ける小軍閥は、必ず大軍閥の部下ではないと言えるのか?
そんな記述一つとって判った気になる方が危うい。
姜維がダメだったから劉備は公孫賛の部下だった
姜維がちゃんと管理していれば劉備はもっとはやく独立できた
だから姜維は無能
>>603 ちくまにそこまで拘らんでも。
ちくま原理主義者みたいになってるぞ。
>>604 別にちくま以外を軽視しろなんて言ってないよ。
「渡邊義浩とちくまは忘れろ」と
>>583は言ったのに対して
「ちくまは有用」というのがこちらの主張。
原文や後漢書を読んでる三国志マニアであっても
ちくまで分かるような事柄を十分把握出来てないというのが俺の意見。
そして彼らの何割かは、原文や他の史書を重視するあまり
ちくまの有用性を無視し、その結果として杜撰な論を展開することがよくあると思う。
>後漢書や原文の一部だけ抜書きしてつっついて「曹操は袁紹の部下」って言ってる奴は、
>そもそも後漢書や原文すらまともに読んだとは言えないから。
そんなこと俺に言われても。
>>605 俺は
>>603で「曹操は袁紹の部下ではない」と主張したくて鮑信の話を出したわけではないんだけど
どうやら伝わらなかったみたいだな
>>608 こちらの話も通じてないみたいだな。
「こうした記述のひとつひとつについて考察するのが大前提」
などと言いながら、鮑信と曹操との会話を、
「袁紹の部下ではない」の「反証」
>>597 「ちくまだけで論破出来てしまう」
>>589だと思ってるんだろう?
違うよ。反証なんかじゃない。これらは「一見矛盾して並立する複数の記述」だ。
それをどう整合、取捨選択して止揚するかが「考察」というものなのに、
あなたにはその視点があるようには見えない。
>>600だ。ちくま百遍読もうがどうにもならない。
もし、あなたの見た「原文重視のマニア様諸氏」が、単純に鮑信の発言を見落としていたなら、
それは単なる見落としであって、ちくま軽視なんかと全く関係ない。
原文三国志にも同じことが書いているわけだからね。
ちくまは翻訳者以上に漢文が読める人以外には有用。
読める人には無用、はいこれでこの話終わり。
>>609 >「袁紹の部下ではない」の「反証」
>>597 「ちくまだけで論破出来てしまう」
>>589だと思ってるんだろう?
違う。
袁紹の部下ではないと窺わせる記述はそれ以外にも複数ある。
そうした記述をそれぞれ取り上げて評価した上で
「やはり曹操は袁紹の部下である」と主張した意見は俺は見たことがなかったのでね。
>それをどう整合、取捨選択して止揚するかが「考察」というものなのに、
そもそも取捨選択自体が行われていないと俺には思われるわけ。
>それは単なる見落としであって、ちくま軽視なんかと全く関係ない。
>原文三国志にも同じことが書いているわけだからね。
原文三国志を通読してるようなマニアはごく少数だろう。
見落とすのは情報の蓄積(ちくまの読み込み)が足りないのも理由のひとつだと思うよ。
>違う。
違うんだったらもっとマシな例示を出してくれよ…
少なくとも「反証」「論破」できる例を持ち出してくれないと一連の主張は意味無いぞ。
>そうした記述をそれぞれ取り上げて評価した上で
三国志内の記述に限定しても、個人サイトで全部を取り上げるのは困難だぞ。
ましてや、鮑信の発言が反証・論破できる強い根拠じゃないと認めるなら、
取り上げなかったことを批判する理由も無くなる。
要は「背伸びして原文や後漢書をちょっとかじってマニア気取る前にちゃんとちくま読め」ってこと?
一行でいいじゃん。長々としゃべるようなことでもないよ。
>>613 曹操が袁紹の部下だったっていう主張する人が気に食わない人なんだろ。
ちくま無用論に託けてそっちに噛み付いてるだけに見えるし。
>違うんだったらもっとマシな例示を出してくれよ…
俺が「違う」と言った意味も誤解してるみたいだな。
>少なくとも「反証」「論破」できる例を持ち出してくれないと一連の主張は意味無いぞ。
そもそも「曹操は袁紹の部下である」という記述はないのだから
「曹操は袁紹の部下である」と主張する側が
自説の根拠となる証拠を提示し、その証拠と矛盾する記述への見解を示す必要がある。
「一見矛盾して並立する複数の記述」の「取捨選択」が
理由も示されないまま恣意的になされるのであれば、その主張は説得力を持たない。
諸葛瞻を「荊州閥」に組み込むようなもんだ。
>理由も示されないまま恣意的になされるのであれば、その主張は説得力を持たない。
だから、それに反すると思われる記述を持ってきて一方的に「矛盾点」「反証」「論破」だと
言い出したあなたも同じ穴の狢だよねと言ってるのだが。
ちくまとか原文とか関係なしに。
>>616 自説を立ち上げて主張する側が、その説に関係する記述、
とりわけその説と矛盾を来たすような記述については
先だって見解を示すのが学問的に誠実な態度と言うべきだろ。
「一方的に」などと言われる筋合いがない。
>>617 不備はありえる。
ただそれだけ。見落としていると指摘してあげれば?
もし、その人に誠実さが欠けていて本当に恣意的な取捨選択をしているのなら、
それは考証態度の問題であって、ちくまをいくら読み込んでも直らない。
ちくま専門の人間にもいくらだっている。
あなたも同じに見える。
だからさ、「読めるものは全部ちゃんと読み込めよ」でいいじゃないか…。
俺はその不備の理由が「ちくま軽視」だと思っている。
ただそれだけ。
>もし、その人に誠実さが欠けていて本当に恣意的な取捨選択をしているのなら、
俺は最初から「ちくまの読みこみが足りないから、自説に矛盾する記述に気付かないんだろ」と言ってる。
取捨選択言いだしたのはそっちだよ。
>あなたも同じに見える。
理由は?
いちいち噛みつかれてるように思うんだけど
それって貴方も「曹操は袁紹の部下」と主張してるから?
まったくだ。
>>620 誰と戦ってるの?
今は「曹操は袁紹の部下」って議論じゃないでしょうに。
ちくまを軽視してるマニアとやらってどこにいるのよ?
俺にはちくまも原文も後漢書もろくに読まないマニア気取りにしか見えないけどね。
>>620 俺の考えは
>>598>>600だよ。あんまり関係ないけど。
>あなたも同じに見える。
>>理由は?
いくら後から綺麗なこと言い繕っても、矛盾点とか論破とか言ってから
持ち出した例が
>>603では、考証態度の誠実さを信じられないからだよ。
そういうものを幾つ用意しているか知らないが、
沢山積み重ねて「論破」だと思っている人間は「マニア様」にとやかく言う資格は無い。
俺は読めるものは全部読めってずっと言ってるけど、
>>608は答えになってないわ。
ちくまを持ち上げて、マニアとやらを叩きたいだけのような。
何度も言うけど、原文や他の史書を重視してちくまを読まないマニアなんて見たことないよ。
原文や他の史書をちょっとかじっただけでマニア気取る奴はたくさん見かけるけどね。
そういう奴がちくまを軽視してるのは確かだけど、原文や他の史書も軽視してるよね?
>>623 >持ち出した例が
>>603では、考証態度の誠実さを信じられないからだよ。
意味が分からない。
>争点は、「どの時点で『部下』ではなくなったのか」だな。
貴方は
>>598でこう書いているが、俺が例示した記述は
黒山賊討伐以前に曹操が袁紹から距離を置いていたことを示す記述で
曹操と袁紹の関係を考えるにあたって重要なものだろう。
黒山賊討伐以前であれば、「どの時点でも『部下』ではなかった」可能性を示す。
これを持ち出したら「考証態度の誠実さを信じられない」となるカラクリが分からない。
>そういうものを幾つ用意しているか知らないが、
>沢山積み重ねて「論破」だと思っている人間は「マニア様」にとやかく言う資格は無い。
そんなこと一言も言ってないんだが。
「ちくまだけで論破出来てしまう」「自分の矛盾点に気付かない?」
鮑信の言葉が論破材料、矛盾点の一つだと思える時点で
考証する気無しとしか。
>黒山賊討伐以前であれば、「どの時点でも『部下』ではなかった」可能性を示す。
これが、『見落とされている可能性の提示』という程度の意味だったなら賛成したんだけどね。
初期の流れから見れば、「部下ではないという反証」「袁紹の部下説の矛盾点」「論破材料」と看做しているとしか思えん。
>>626 >鮑信の言葉が論破材料、矛盾点の一つだと思える時点で
>考証する気無しとしか。
「曹操は袁紹の部下である」という主張の詳細を明示せずに話しているのに
「矛盾点のひとつに思えるはずがない」って言えてしまう時点で
あんたが「曹操は袁紹の部下である」と主張する中の人ってことが分かるわ。
レッテル張りとかやめたがいいよ。心理的に追い詰められてるように見える。
>「曹操は袁紹の部下である」という主張の詳細を明示せずに話しているのに
だからせめて明示してくれって。
俺は、特定の仮説でもない漠然とした志向の人々を一緒くたに捕まえて
「矛盾点を示して論破できる」って不誠実な態度かました人に噛み付いたわけで、
後から主張された奇麗事に反対しているわけでもないし興味も無い。
>>628 「曹操は袁紹の部下」って意見を叩きたいなら、わざわざちくま持ち出すなよ。みっともない。
正直に「曹操は袁紹の部下じゃないよ」って議論をすればいいだろ。
>だからせめて明示してくれって。
「だから」って、初めてそんなこと言われたんだけど。
そもそも曹操袁紹の関係性を議論することが目的でないから、明示する気はないよ。
わざわざ俺が、自分のものでない主張を代わりに主張するなんて馬鹿みたいだし
俺の当初のレスの主眼でもないから。
それより「矛盾点のひとつに思えるはずがない」って根拠については説明して欲しいね。
>俺は、特定の仮説でもない漠然とした志向の人々を一緒くたに捕まえて
全国の「原文や他の史書読んでる誠実なマニアに謝れ」ってこと?
マニアの全員を腐してなんかないよ、馬鹿馬鹿しい。
>「矛盾点を示して論破できる」って不誠実な態度かました人に噛み付いたわけで、
一例として「曹操は袁紹の部下説」を挙げた。
自説に不利な記述も検証しているようなサイトは
自然と不名誉から逃れるだろうから問題はないと思っているよ。
>>631 あー、えーと、
>>628を読み直したんだが、よくわからなくなったな。
まあつまり俺のことをエスパーしたんだね。
「詳細に触れてないのに勝手に反論するなんて中の人に違いない」みたいな。
>「矛盾点のひとつに思えるはずがない」
それって
>>626のこと言ってるの?
じゃあ言い直すよ。
ある一つの間接的な会話を、「ちくまだけで論破出来てしまう」「自分の矛盾点に気付かない?」
などと言ってから例示にあげた時点で、考証する気なしとしか。
まあ
>>627だ。
袁紹と韓馥で劉虞擁立計画立ててるところにたった1000人の動員しか出来ないのに
割り込んでやめときなはれって言えるのはブレーンか相当の身の程知らずか
曹操はどっちなんだろう
> 違うよ。反証なんかじゃない。これらは「一見矛盾して並立する複数の記述」だ。
>それをどう整合、取捨選択して止揚するかが「考察」というものなのに、
>あなたにはその視点があるようには見えない。
>>600だ。ちくま百遍読もうがどうにもならない。
あらためて
>>609を読むとボロカス言われてるのな、俺。
「一見矛盾して並立する複数の記述」と書いてるけど
記述が矛盾してるんじゃない。
ひとつの記述から演繹した論と、別の記述が矛盾してるんだ。
>まあつまり俺のことをエスパーしたんだね。
違う。あんたが「曹操は袁紹の部下」と主張する人の「心を読む」から揶揄したんだよ。
>ある一つの間接的な会話を、「ちくまだけで論破出来てしまう」「自分の矛盾点に気付かない?」
>などと言ってから例示にあげた時点で、考証する気なしとしか。
例示に挙げたのは、ちくまを読み込んでいない例としてだって言っているし
「ある一つの間接的な会話」とか「考証する気なし」とか意味不明。
いいんじゃない、「曹操は袁紹の部下」の中の人でも。
>>633 曹洪が集めた兵が無事なら、合計で5000以上の兵がいたとも考えられる
>>635 いくつかの疑問があるのだけども
曹洪の集めた数と曹操の集めた数が不思議と同じ4000(曹洪は1000人自前だけど)
そして何より兵力を供出する人と場所が被る
曹操:陳温、周マ 揚州、丹楊
曹洪:陳温 揚州、廬江、丹楊
それと曹操が反乱起された龍亢で再会したとあるのがかなり気になる
俺は反乱起したのが曹洪の集めた4000で、無事じゃないと思う
こんな短期間でしかも同じ一族が二度も数千人単位の兵力供給受けられるというのはなんかおかしい
曹洪の方は自前1000+2000+数千だから、4000という数字はなかったはず
でも何とも言えない。
曹洪伝を読むと、合流するまでは独自の行動のように読める。
しかし確かに曹操と曹洪でそれぞれが数千の募兵できるのも不思議ではある。
ただ孫堅軍が南陽までの北上の間に数万に膨れ上がった例もある。
曹仁が合流したのはいつ頃だろうか。
>>634 言い訳めんどくさいなあ。
最初の主張どおり、三国志原文や他の史書から根拠をかき集めてる「珍説」というのを
そちらの都合のいいのを何でもいいから引っ張ってきて、
ちくまの記述のみで「反証」して「論破」するってのを実際にやってごらんなさいよってこと。
そう簡単にはできないから。てか、原理的にほとんど無理。
議論に誠実な態度の人であればね
>>638 >三国志原文や他の史書から根拠をかき集めてる「珍説」というのを
そんなこと言ってないだろ。
なんで自分の妄想で話を進めるのだろう。
諸葛亮は益州閥を大量に政権に入れてる。
諫議大夫 杜微
勧学従事 ショウ周
留府長史 張裔・馬忠
軍師祭酒 尹黙
參軍 王平・姚ユウ・李バク・爨習
偏将軍 爨習
蜀郡太守 楊洪
広漢郡太守 何祗
ケン爲郡太守 王士
ライ降都督 張翼
尚書僕射 李福
尚書郎 馬齊
>>637 今読み直したら確かに1000+2000+あといっぱいだった
時間が時間だけにちょっと寝ぼけてた
曹洪と別行動取ってるとして周回ルートが同じ過ぎて
途中でバッティングしそうだな
>>642 こいつらが一つの派閥としてまとまって動いた形跡がないんだが
645 :
世界@名無史さん:2012/01/29(日) 01:31:15.48 0
逆に考えてみよう。 益州人で重職についている人物は誰がいる?とな。
646 :
世界@名無史さん:2012/01/29(日) 12:03:15.39 0
諸葛亮・蔣琬・費禕の時代には大きな派閥抗争なんて無い。
蔣琬時代に川下り作戦への反対があったくらで、深刻な政治対立という
ようなものではない。小規模な魏領への侵攻は蔣琬・費禕時代も続け
られた。李厳・魏延・楊義等には特に支持者が存在せず、本人が失脚、
や処刑・自害で事が終了していう。諸葛亮などは、益州出身の黄権や
張裔から深く信頼されていた程。出身地による政治的抗争は見当たらない。
あるのあ北伐に関して対立や意見の相違があるくらい。兵事は国家存亡に
関わることなので、意見の相違や議論が出るのは当然で、政治抗争と捉える
のには問題がある。姜維時代で段谷の大敗以降に北伐への反対論が強くなった
が、これは荊州閥と益州閥の争いという訳でもない。
647 :
世界@名無史さん:2012/01/29(日) 15:30:21.53 0
>.姜維時代で段谷の大敗以降に北伐への反対論が強くなった
>が、これは荊州閥と益州閥の争いという訳でもない。
荊州閥と益州閥の争いでないのは当たり前。
だって荊州閥と益州閥がこぞって反対してるんだからw
荊州閥とか益州閥とか言っちゃう男の人って…
まとまって動いてるわけでもないのに出身地、しかも州レベルで閥とか言われたら困るわw
まとまって動いてるから出身地別に名士という派閥があるといってる人がいましてね。
晋の時代(といっても短いが)、
蜀や呉の遺臣はまとまって行動してたのかい?
蜀の遺臣の羅憲が陳寿とか色々なやつを晋で引き立ててた。
呉も遺臣が遺臣を引き立ててるはず。
新武将の登録数が増えるだけでも更に面白くなるんだけどなぁ
武将数足りなくてスカスカの後期シナリオとかもやり甲斐が出てくる
いや、羅憲−陳寿は同門だから別のケースでは
彼が推挙した人物も出身地はばらばらだし
荊州閥と益州閥の対立構造を持ち込むなら、
襄陽出身の羅憲が巴西出身の陳寿を引き立てるのはおかしいよね。
それとも、劉備の蜀入りから半世紀近く続いた荊州閥と益州閥が、
蜀滅亡で和解して一つにまとまったんかね?
656 :
世界@名無史さん:2012/02/02(木) 09:06:50.71 0
羅憲にはパンク魂があったからだろ
呉と蜀で「まだ戦えるなら勝手に降伏するな」と約束してるのに、さっくり降伏した劉禅が悪い。
呉が蜀をとりに行ったのは正しい。
三国志で強欲な人物っていうと、真っ先に誰が浮かぶ?
呉が蜀をとりに行ったのは正しいが
羅憲が呉を撃退したのも間違ってない
十常侍
662 :
世界@名無史さん:2012/02/03(金) 11:43:59.08 0
段谷の戦いは兵員の損失以上に、
指揮官クラスが多数戦死したのだな。後の魏の侵攻に
上手く対処できなかったのは、実戦指揮官の人的赤字も
影響したのだろう。従来の防衛システムも維持できなくなった。
>>657 真面目な話、儒家名士の半分はパンク魂で出来ている。
664 :
世界@名無史さん:2012/02/03(金) 13:21:48.61 0
蜀に荊州閥も益州閥もないお
皆劉備と劉禅の人徳でまとまってるお
665 :
世界@名無史さん:2012/02/03(金) 13:42:13.08 0
お前ら小説にも書いてないことをよくここまで掘り下げてていったな
666 :
世界@名無史さん:2012/02/03(金) 19:29:11.22 0
蜀は費禕の時代まで、これといった政治の主導権争いがほとんど無い。
李厳や楊義が問題を起こしたが、彼ら等を支持する勢力は皆無だった。
劉禅は諸葛亮・蔣琬・費禕を全面的に信頼してたし、口うるさい董允で
さえ尊重していた。劉禅は、費禕時代までは無難に国をまとめていた
皇帝だったのだ。晩年の孫権の暴虐に比べれば、遙かに良く家臣をまとめて
いたと思う(リーダーシップではない)。
費イの頃まではきちんと派閥均衡人事によって安定が保たれていたが、
そのあとの姜維たちが自己の利益を優先したために滅んだ。
完全に自業自得。
まーた始まったw
雲南開発にもっと力を入れていればなあ
銀と銅がザクザク採れて財政もウハウハだったろうに
孔明も案外兵用地誌に通じていないな
言うは易しの典型だな
日本帝国も中国開発にもっと力を入れてればなあ
レアメタルがザクザク採れて財政もウハウハだったろうに
みたいな
諸葛亮自身が「鉱山開発は大して足しにならん」と言っているというのに。
非益州人士に高官が固められていた初期(例外は黄権くらい)に対して、
費イの時代以降にようやく益州人の台頭が見られる。
そんな蜀漢初期の安定を、少なくとも「派閥均衡人事」というのは間違い。
>>674 >非益州人士に高官が固められていた初期(例外は黄権くらい)
お前それ劉備の頃じゃないかw
諸葛亮時代には2千石以上の地位にどんどん益州人が進出してきてるよ。
諸葛亮時代の蜀漢権力中枢であった丞相府で枢要にいた益州人は何人いる?
地元勢力の益州人は、まず郡県吏から始まり孝廉や州従事の学官を経て昇進し、
地方統治と学問で活躍する者が多かった。
諸葛亮時代には、のちに高官に登る人間が活躍し始めているが、
益州人の台頭と言うには程遠い。
>>676 >益州人の台頭と言うには程遠い。
諸葛亮〜費イの時代以外で益州人士がそこまで出世できた時代あんのかと。
>>658 同意
ここの劉禅擁護は見ててヘドが出る
>>677 諸葛亮から費イまでの時代が一番長くて上も詰まってないから、
そりゃ出世できる人間も増えるわなぁ
せめて諸葛亮・蒋エン・費イ・姜維時代と四分割しなけりゃ意味無いわな。
三相の時代は姜維時代の三倍益州人が昇進している! なんて馬鹿の戯言。
で、
鎮北大将軍王平、鎮南大将軍平尚書事馬忠、左車騎将軍張翼のような
将軍位トップ5以内に益州人が上がってくるのは費イ時代以降の後期。
まあそれでも、尚書令や録尚書事のようなところまで食い込むことはできなかったが。
蜀漢の政治的安定は、皇帝に絶大な信任を置かれた宰相の下で、
外来士人(特に荊州人が多い)が強固に結束しつつ高位を占有・支配した賜物。
だから、たまの粛正で消えるのも外来士人。益州人は土俵にすら上がれなかった。
この傾向自体は、結局蜀漢の滅亡まで完全には払拭されずに終わる。
>外来士人(特に荊州人が多い)が強固に結束しつつ高位を占有・支配した賜物。
結局、派閥理論かよw
初期にも高官に登った益州人はいっぱいいるだろ
黄権が生きていたら李厳の前に尚書令になっていただろう
それでも少ないとしたら、それは益州人は入蜀で功績を上げる機会がなかったからだ。
トップに登った者はいないが、そんなの数が少なすぎるので
そこから傾向など見出すことはできない。
石数で見れば、いかに益州人士が蜀政権で高い給料もらってるか分かるはず
>初期にも高官に登った益州人はいっぱいいるだろ
誰? 少なくともトップ20に入って李厳や黄忠と肩を並べるくらいの人物で頼む
それから、
>それでも少ないとしたら、それは益州人は入蜀で功績を上げる機会がなかったからだ。
勢力の高官や有力者はそうやって決まるもんだよ。
「益州人は入蜀で功績を挙げられなかったので、高官に昇る数が少なかった」。それでいいじゃない。
それを派閥理論と言うか言わないかはそちらの勝手。
とはいえ、李厳や孟達など、劉備の入蜀時に功績を挙げたことになっている劉璋系非益州人は多いんだけどね。
功績挙げなくても高位に上った人物も。
685 :
世界@名無史さん:2012/02/05(日) 14:47:48.54 0
李恢や張裔はかなりの高官でしょう。
当時は官位のデフレ時代だったから、
官位名だけはさほど高い印象ではないが、
実権は結構あったと思われる。
特に、南方の責任者は李恢→張翼→馬忠
と益州出身者が3代続けて就任している。
686 :
世界@名無史さん:2012/02/05(日) 14:52:54.47 0
あ、張表まで合わせると4代続けて益州出身者だ。
687 :
世界@名無史さん:2012/02/05(日) 14:58:34.22 0
呉懿・呉班は益州出身ではないが、旧劉焉・劉璋系統の人間。
外戚となり高官に就任して、戦功もある。
馬超 許靖 ホウ義 麋竺 簡雍
伊籍 諸葛亮 劉エン 関羽 張飛
黄忠 頼恭 法正 劉巴 孟達
李厳 董和
入蜀時非益州人高官適当に17人。李恢や張裔はこの隅っこに引っ掛かるかどうかってとこか。
劉禅時代に入ると、上位の死に伴い序列は挙がっただろうが、
同時に後進の蒋エン・費イ・楊儀・姜維・陳震・董允らに並ばれるか追い越される。
>特に、南方の責任者は李恢→張翼→馬忠
>>676 >地元勢力の益州人は、まず郡県吏から始まり孝廉や州従事の学官を経て昇進し、
>地方統治と学問で活躍する者が多かった。
が、そこから朝廷中枢に入るのが難しい。
690 :
世界@名無史さん:2012/02/05(日) 15:13:07.73 0
蔣琬・費禕・董允は出身地で出世した訳じゃないでしょ。
彼らの才能・能力が評価されたから。同じ荊州出身者でも、
3人に追い抜かれた人が多数。
>>690 いや…だから何?
それらが有能だったのはいいとして、
蜀漢の人事体系で実力主義傾向を過大評価すると
益州人は無能だったから高官になれなかったってことになるんだが。
それは頷きがたいな。
692 :
世界@名無史さん:2012/02/05(日) 15:18:41.84 0
丞相府の留府長吏になった張裔は実権は大きかったでしょ。
蔣琬が諸葛亮の後継者になったこと考えると、官位名以上に
実権があったと思われる。
楊洪も官位は高くはないけど、諸葛亮から諮問を受けるとこ
見ると、意外と影響力があった感じ。官位と実権が一致しない
場合があるから、一概に益州人が冷遇されたと断定するのは早計。
蜀郡という中央の太守の楊洪も入れるか。
ここまで名の上がった人物のうち、劉備諸葛亮時代の高官と言えるのは、
非益州人が25人。
益州人は馬忠まで数えても7人。しかも地方太守や南中都督に限定される。
朝廷や丞相府の枢職に昇ったのは黄権・張裔・楊洪くらいか。
まあ、中央・地方の人事傾向ははっきりしてるね。
諸葛亮時代までの高官というなら魏延・趙雲・ケ芝も入れないとな
>>684 >勢力の高官や有力者はそうやって決まるもんだよ。
曹魏や孫呉で同じことやってみな。馬鹿げてるから。
>「益州人は入蜀で功績を挙げられなかったので、高官に昇る数が少なかった」。それでいいじゃない。
>それを派閥理論と言うか言わないかはそちらの勝手。
言ってること無茶苦茶。
功績が正当に評価されて地位が決まるのなら、出身地など議論する必要がない。
>とはいえ、李厳や孟達など、劉備の入蜀時に功績を挙げたことになっている劉璋系非益州人は多いんだけどね。
そりゃ劉璋自体が外来の君主であって高官は他所者が多く、
その他所者連中が降伏したり裏切ったりしてるんだから高官になるわな。
696 :
世界@名無史さん:2012/02/05(日) 15:37:22.03 0
劉備が蜀に政権を実質樹立したのは214年。
すぐに敵方だった益州人が要職に就任する訳ないよ。
それに、劉璋政権下でも、純粋な益州出身者よりも、
荊州を中心とした他州の出身者が高い地位ある人が
多かった。
益州が冷遇されていたというよりも、元々荊州を中心と
した他州の人間が行政を担当してた地区でもあった。
>>688 >同時に後進の蒋エン・費イ・楊儀・姜維・陳震・董允らに並ばれるか追い越される。
逆。
益州の優秀な奴らが先にくたばってる。
>>695 なんか俺に反論するような内容じゃないなあ
>>697 それは失敬。
確かに蒋エンは張裔の後釜だね
>>696 それって劉璋政権の「益州人冷遇」(といって良いのかは知らないが)を、
そのまま劉備が引き継いだってことでしかないじゃない。
701 :
世界@名無史さん:2012/02/05(日) 15:54:21.65 0
冷遇というより、辺境で優秀な人材も少なかったのだろ。
成都の近くでも異民族がいたくらいだし。
優秀なのに高官になれなかった益州人を挙げないと説得力がないと思う
楊洪なんて若死にしなかったら諸葛亮を継いでいたかも知れない
劉焉・劉璋体制の大物益州人は趙イ・賈龍のように叛乱して消えたり、
王商や董扶のように病気で死んじゃったりしてる
そういう巡り合わせの悪さもある
王商が生きていたら、劉備の入蜀にどのように反応したか
劉備にどのように仕えたかが気になる
益州って荊州の長江周辺より古くて由緒ある土地柄なのだが
派手な反乱鎮圧をやったのも劉表と同じ
まあ、誰を擁護したいのか知らないが、由来や経緯に持っていかれてもそんなの本題じゃないしな。
今は、
>>667とそれに反対した
>>674が正しいのかどうか。
214年時点で劉備配下で中・真・比二千石を務めていた人物はわかる限りでは37人。
うち益州出身が4人、荊州出身が17人、その他の州が16人。
219年の漢中王即位直後だと二千石以上を務めていた人物は45人。うち益州出身が9人、荊州出身が21人、その他の州が25人。
微妙に益州出身者の比率が増えている。
219年以降も調べたらなんらかの方向性を見いだせられるかも?
708 :
世界@名無史さん:2012/02/05(日) 18:53:36.88 0
益州出身者で期待されていた黄権、王甫、李紹等が蜀を去ったり、
早死にしたりしている。彼らが健在なら、かなりの高官になってた
だろう。
まあその三倍くらいの高官が217〜223年くらいの間に死んでるんだけどね
王謀=漢嘉郡の人。劉備の漢中王即位時に少府、後に太常。
可宗=蜀郡の人。劉備即位後、大鴻臚。
711 :
世界@名無史さん:2012/02/10(金) 20:08:58.53 0
214年に劉備は益州を平定したが、入蜀前後から見方になってた
法正以外は、劉璋配下だった人間はすぐには任用できない。宣伝用に
許靖を厚遇したくらいで。諸葛亮・蔣琬・費禕時代は大きな政治的
抗争がなかったところを見ると、概ね公平で妥当な人事が施行されてい
たと考えてよいだろう。
確かに荊州出身者が要職を占めたが、劉備入蜀以前に益州に在住した
荊州人も多く、当時の感覚的には入蜀以前からの劉備の家臣と、入蜀
後の家臣という分け方の方が実情に合っているのではないだろうか。
それなら諸葛亮時代から要職への抜擢が進み、大きな不満が出なかった
のも頷ける。入蜀以前の荊州出身者は、当時は益州人と同じという見方
をされていたのではないだろうか。
>>711の例外で重用された人物:
ホウ義 呉懿 呉班 李厳 孟達 頼恭 費イ 董和
>抗争がなかったところを見ると、概ね公平で妥当な人事が施行されてい
>たと考えてよいだろう。
まず前提として、『蜀漢政権では益州人が高官に登れなかった』論を、
『蜀漢政権では人事が公正ではなかった、益州人は不当に抑圧されていた』論
のように捉えて、「そうじゃない」なんて擁護、反論しなくていいのよ。
益州人と非益州人とでは、個人的な生活・経済基盤が全く異なるのだから。
地元に伝来の土地を持つ益州人と違って、
部曲持ちの豪族でなければ生活基盤さえ危ういのが非益州人。
故に同じく外来政権である蜀漢朝廷は、非益州人の貴重な就職口となる。
先達の高官達も、自然とその事情を汲んで取り計らっただろうし、
明文か慣習かは判らないが任子制も存在した。
ネガティブからみれば、蜀漢朝廷は非益州人が自分の存在を示せる数少ない場であり、
避難所でもあったわけだ(豊かな経術の素養がある人物は別だろうが)。
一方、益州人はそんなに無理して「国家公務員」になる必要は無かった。
益州人高官の仕官の始めは、多くが州従事、郡県吏。
逆に非益州人がこの「地方公務員」ポストから始まる例はおそらく無い。あってもかなり例外的。
蜀漢の地方政治は、豪族との相克・折衝や孝廉などの察挙など、後漢からほぼ連続している。
(違うのは長吏の本籍地不就原則が後漢末以降崩れたくらい)
つまり、豪族・名士等在地有力者が就く州従事や郡功曹以下百石官らが、
地元との太いパイプを武器に、刺史・太守らと渡り合っていた後漢の状況と同様と考えてよい。
益州人にとっては、この百石官を筆頭とする州郡県吏の独占を維持すれば、
自分達の生活や利得が脅かされるのを阻止できる。
無論、中央朝廷との相克は絶えず続いていただろうが。
かくして中央と地方の棲み分けの結果、史書に残る高官とその部署の偏りが生まれたのは必然となる。
714 :
世界@名無史さん:2012/02/11(土) 03:55:23.82 0
土着の益州人にも色々ある。
伝統的に土地や利権を持ってるものや、逆になんも持ってない寒門もいる。
持たざる者はなにもなければ子々孫々まで寒門。
彼らは劉備などの外来政権を担ぐことで自分の地位を上げようとしたんじゃないか。
たとえば誰>劉備などの外来政権を担ぐことで自分の地位を上げようとしたんじゃないか。
寒門の益州人は、外来政権以前に益州人士内で認められて郡吏にでもなるところから始めないと
どうしようもない。コネも金も名声も無い寒門が「担ぎに来ました」とか言っても笑われるだけ。
716 :
世界@名無史さん:2012/02/11(土) 14:48:48.19 0
張嶷は寒門出身者だけど名を残したな。
出身身分が低いせいか、活躍の割には官位が低い気もするな。
張翼は名門出身だったせいか、さほど華々しい活躍しなくても
官位が上がった。
二十歳で県功曹になれるのって、県中大姓とか言われるレベルの豪族か、高官名士の子弟だけだぞ。
町役場の人事課長に二十歳でなったと思えばいい。そんなコネがあるのは町の名士一族くらい。
中央に打って出て高官になれるほどの名族ではなかったかもしれないが、
張嶷はそうなれるだけの名声を仕官してからの自分の行動で稼いだわけだ。
719 :
世界@名無史さん:2012/02/11(土) 16:05:40.97 0
張嶷は病気を治療する金がなかったくらいだから、
家自体は大したことないかもね。ただ、頼み込んで病気を
治して貰ったとこみると、コネがあったのは確かみたい。
権力争いで滅亡した魏よか蜀は内紛が無いだろ
さすが劉禅、劉備の息子だけ合って人心をまとめる徳があったんだな
それに比べりゃ曹操の餓鬼どもより余程統治の才能があったんだな
721 :
世界@名無史さん:2012/02/11(土) 18:56:37.53 0
人を信じ過ぎたとこが良く出た場合と悪く出た場合があるようだ。
諸葛亮・蔣琬・費禕などを信頼し、政治を任せていたのは良い面だし、
陳シや黄皓などの佞臣を信じてしまって国を滅亡させた。ただ、孫権
のような虐殺行為は行わなかった。痛かったのは費禕の突然の死だろう。
何の後継準備もなかったから、陳シと好戦的な姜維に政権が渡ってしまった。
>>719 豪族や名家でも、家計は一家の単位。
家長が早く死んだり、稼ぎが悪かったり出費があったりすれば貧窮する。
劉備然り。
華陽国志だと南充国の張氏が巴西の大姓として挙げられてるね。
費イさんがあと五年長生きしても姜維の扱いが変わってなかったとしたら、隴西以西の統治が盤石になってそれはそれで詰んでた気がするが
すんなりケ艾が出てくるのかは微妙としても
張嶷がそうかは別にして、
コネがなきゃ役人になれないってのも確定的じゃないでしょ
優秀だから抜擢されたという可能性もある。
抜擢する側に公明正大な人間がいればそれは可能。
あと大姓=豪族じゃないでしょ
大姓=豪族だよ。
というか、豪族という言葉は当時あまり使われなくて、
大族、大姓、豪強、などと呼び習わされた地域社会の有力氏族を、
現代ではまとめて豪族と呼んでいる。
当時、守長から取り立てられるには、ほぼ2通りのパターンしかない。
・豪族名士高官の子弟
・本人に名声がある
守長の個人的知己の境遇でえこ贔屓って可能性もあるが、まあこれは除外していいだろう。
で、優秀だから抜擢されるには、優秀だという名声が県令に届いていなければならない。
しかし張嶷が名声を得たというのは県令の婦人を助けて以後で、
仕官以前に特別の名声があったという記録は無い。しかもまだ二十歳。
となると残った可能性は、豪族名士高官の子弟。
張嶷の父祖の記録が特になく、
>>723を合わせれば、
張嶷が豪族の子弟だというのは文献史学的には確定的。
んー。なんか反論が的外れだったかな。
というか
>>725が横道にそれているのか。
>コネがなきゃ役人になれないってのも確定的じゃないでしょ
そんなこと言ってる奴は誰もいない。
『二十歳で県功曹』になれるのは、県中大姓とか言われるレベルの豪族か、高官名士の子弟だけ。
って言ってるだけ。いくら有能で名声があっても、寒門出身の二十歳では限度がある。
孫策は20代でたくさん官位持ってたと思うが・・・
孫堅はさっさと死んでるからコネは使えないし財産もない。
おおい
「あの」孫堅のコネで袁術の厄介になって、
部曲もある程度残されてた御曹司に何言ってんだ。
>>729 孫策が袁術勢力に就職できたのは、孫堅のコネじゃなくて呂範と孫賁のコネだろ。
孫堅の軍団は孫堅死後に解散して、一部を孫賁が継いだだけ(ほとんど長沙太守の頃に集めた兵だからしょうがないけど)。
孫策に袁術への就職を勧めたのは呂範で、この人は孫堅が作った人脈ではない。
孫策が袁術に就職したのは194年で、それ以前に頼っていたのは叔父の呉景。
呉景は袁術の武将だから、普通に呉景の推薦によるものと考えた方が妥当。
孫堅のコネが役に立ってるじゃんw
>>730 同族姻族以外で、
朱治 呂範 程普 黄蓋 韓当
といった部曲持ちの諸将が少なくとも袁術の勢力圏内に留まり、
孫策が将として動くに連れて再集結して、みな孫策の下に就き、共に渡江している。
これは誰の影響力によるものだ?
まさか呂範・孫河個人にそれだけの支配力があったとか、
純粋に孫策個人のカリスマによるものだとか言わないよね。
>>732 袁術と現地豪族の呉景が孫策を認めたからだろうね。
朱治、程普、黄蓋、韓当なんて、孫堅が死んでも、そのあとを継ぐ孫策の元に駆けつけもしていないw
彼らは孫堅の部曲ではない。
>>721 >陳シや黄皓などの佞臣を信じてしまって国を滅亡させた
蜀滅亡の原因って劉禅がそれやったせいなのか?
735 :
世界@名無史さん:2012/02/13(月) 02:49:00.76 0
孫堅の部下達の行動を追ってわかることは、誰一人として能動的に孫策を自分の頭目とは認めていないという、薄ら寒い現実。
このころの孫策はよほど人望がなかったらしい。
>>727 微賤から身を起こした殷禮は19歳で守吳縣丞となっている。
單家の張既は16歳で役人となり、周囲に認められて出世していく。
>『二十歳で県功曹』になれるのは、県中大姓とか言われるレベルの豪族か、高官名士の子弟だけ。
これには何の根拠もない
>>735 そりゃ、孫堅と孫堅の武装勢力は馬賊の頭目とその子分のような性質じゃないからな
漢の高級軍人が死んだらその息子に数万の衆が従う道理も法も価値観もまったくない
738 :
世界@名無史さん:2012/02/13(月) 18:49:13.19 0
>>737 結局、世に言われる「孫堅軍閥」なんてものはハナから存在しなかったんだろうな。
194年まではどの「血縁または父子間での伝承の軍閥」など存在しなかった(しうることが出来なかった)だろうね
世に言われる「孫堅軍閥」って、誰が言ってるんだ?
孫策は袁術に「親父の兵を返して」と言っており、袁術もそれに対応してるから
孫策の継承するものはなかった、というのは飛躍。
袁術が当初孫策を九江太守にしようしたというのは
単に孫策の才能を買っていたからとは言い難い。
ただ、孫策は孫堅が死んだ時には軍中にはいなかったし
年長の孫賁や呉景がいた。
色々な要素が重なった継承されなったということだ。
もちろん、親父の軍は息子が継ぐのが当然と言う気はない。
741 :
世界@名無史さん:2012/02/13(月) 19:47:11.84 0
>>740 >世に言われる「孫堅軍閥」って、誰が言ってるんだ?
呉書見聞とかニセクロとか。
>孫策は袁術に「親父の兵を返して」と言っており、袁術もそれに対応してる
孫策が最初に数百の部曲を得たのは、呉景の世話になってたとき。
袁術から孫堅の部曲をもらったのはその後。
孫策は袁術がこなかったら父の部曲をもらえなかったはず。
>>737 価値観はあるよ。
門生故吏と同じく、孫堅に恩義のある部将ならその子に恩を返すべき、という価値観。
無論、利害損得を無視して孫策に付き従うほどの義者は極少数だったろうが。
孫策が袁術に認められて兵を与えられ、転戦して名声を挙げる能力の持ち主だったからこそ、
孫堅の部将達は道理を立てて再集結できたわけだ。
>>741 >孫策は袁術がこなかったら父の部曲をもらえなかったはず。
そりゃそうだろw
肝となるのは、「孫策が袁術に兵を返してくれと言った」ことだよ
それが突飛な話ではなかったってことだ。
孫堅の部下は孫堅が後漢の官吏だから、職制の範囲でついていっただけ。
黄蓋は孝廉に推挙された役人で、その後孫堅の別部司馬に。
朱治も孝廉に推挙されて州の従事になり、孫堅の司馬に。
韓当は叩き上げで孫堅に見出されて別部司馬に。
程普も役人で孫堅に推挙されて都尉。
豪族的な上下関係はない。
>>744 で、幽州出身の韓当や程普が後漢官制の崩壊以後も淮南近辺で部曲将をやってて
孫策の指揮下に入った理由は?
>>743 >孫策が袁術に兵を返してくれと言った
孫策が袁術に「父の兵を返して」といったのは演義だろw
正史じゃ、袁術は孫策が来たのを「奇」として孫堅の部曲を還したとあるだけ。
孫策の意思は一個も書かれていない。
それは一般的儒教価値観だろ
父子継承軍閥に引き続き忠誠を尽くす価値観ではない
例えば曹操がそれくらいに死亡したとしたら曹操の軍団は
血縁だからではなく実力者である
曹洪か曹仁あたりに引き継がれただろうが
その流れの中で新頭領ではなく
あえて曹昂に忠誠を誓う士人大夫などいない
精々昔お世話になった人の子だからと折りをみて
孝廉なんかに推挙したりするだけだ
>>745 孫堅の上司の袁術の命令があったからだよ。
故郷から遠く離れるのも、後漢の役人にはありがちな話。
孫策の厚遇は、袁術が孫策を異常にかわいがってるだけなの。
・出仕したばかりの孫策にいきなり父の部曲を渡しちゃう
・いきなり懐義校尉の官位をプレゼントしちゃう
・孫策の兵が不祥事を起こしても「君が悪いんじゃないよ」で不問にしちゃう
・極め付けが「君が私の息子だったら死んでも悔いはないよ」発言!
領土がもらえないこと以外は、最大限の愛されボーイ。
>>748 後漢官制上、袁術は孫堅の上司ではないし、孫堅を飛び越してその下の司馬等に命令する権限など尚更無いわけだが。
諸将が袁術の命令で孫策の指揮下に集ったという話は無いんだが。
渡江前後の孫策軍の膨張はむしろ袁術の制御を離れているわけだが。
「推挙されて」とか「見出されて」という経歴から、私的な恩顧関係が結ばれるというのは
両漢盛期からの極めて一般的な人間関係なのだが。
朝廷もまた、被推薦者がその任に堪えないと推薦者が推挙不実で連座するとか、
公が罪を得るとかつて辟召された者にも類が及ぶなど、
この種の人間関係を公認してきたのだが。
>>750 もし私的な恩顧が優先なら、孫堅の部下達が孫策をほったらかしにしてたのは恩知らずということになるんですがw
>>746 孫策は張紘に「袁術に親父の兵を要求して〜」という計画を話している
>正史じゃ、袁術は孫策が来たのを「奇」として孫堅の部曲を還したとあるだけ
他にも、「然未肯還其父兵」という記述もある。
つまりは、親父の兵は息子に還すもの、という考え方は自然とあったという証拠だろう。
>>751 孫策はまだ「旗揚げ」していなかったんだから、当然だろう
まさか江都や曲阿におふくろさんと一緒にいるところに
数千人で押し掛けるわけにもいくまい。
>>751 いくら現代とは価値観の掛け離れた古代の人間たちとは言え、
乱世の保身と袁術の支配力を無視して孫策に私的従属できる義士がどれだけいると思う?
もし孫策が皇帝になるなら、それだけで伝が立てられるレベルの大功だよ。
そう簡単にはできないから、処刑された上官を葬ったとか、殺された師の仇を討ったというのが史書に残されるんだ。
孫堅の経歴と指揮範囲を考えれば、その部下でありながら、孫策とは離れた無名の部将や故吏など数百人はいる。
その中で孫策の元に集い、共に渡江して転戦したというだけでも、
程普や韓当は呉志に記されるに足る功績を挙げた義士なんだよ。
>>753 意味不明。部下達が親分の遺子の面倒みなきゃ、誰が面倒見るんだ。
住居まで周瑜の援助が頼みだったのに。
>>755 孫家って代々呉郡に仕えた豪族で、
孫堅の余徳か後漢末には揚州各地で高官になっていた家柄なのだが。
江東に帰るならいくらでも世話する人間はいた。
淮南に留まるなら、部下なんかではなく
孫家として縁のあり、かつ名族の周氏に世話になるのが自然だろ。
袁氏や周氏の世話になったというのは、一代で成り上がった孫氏のステータスになるが、
部下の世話になったら凋落にすぎない。
>>752 張紘が孫策にアドバイスするエピソードは呉暦だし、
袁術が孫堅の兵をなかなか返そうとしないエピソードに至っては江表伝なんだが・・・。
正史では、孫策の創業時に相談役となり、正議校尉をもらっただけ。
孫策が創業して勝手に正議校尉を送っているということは、すでに袁術から独立した後であり孫堅の兵は帰ってきている。
なのに「袁術に兵を返してもらえ」なんてアドバイスしたら馬鹿丸出し。
>>758修正
なのに「袁術に兵を返してもらえ」なんてアドバイスしたら馬鹿丸出し。
↓
なのに「袁術に親父の兵を要求して〜」なんていったら馬鹿丸出し。
>>757 部下の周瑜と張昭に助けてもらわないと何もできなかった孫権disってんの?
>>760 はあ? 孫堅は既に群雄としての成立していた組織を受け継いだんだが?
後見人がいることがdisになるなら託孤の臣を持った皇帝は不名誉なことになるの? バカか?
×孫堅
○孫権
>>758 呉暦じゃなくて、呉歴ね。
孫策が江都で張紘と会ったのは袁術に会う前だよ
>>763 >孫策が江都で張紘と会ったのは袁術に会う前だよ
正史にはそんな話ないぞ。
そもそも、陶謙に憎まれまくっていた孫策にそんな余裕があったのだろうか。
家族に難が及ぶのを恐れて揚州に逃げ出すぐらいなのに。
大体、孫策が相談した内容が、その後の歴史の流れとぴったり一致しすぎていて怪しい。後付け臭い。
>>761 だったら孫堅の元部下達だってさっさと帰って孫策を貢献してやれよw
>>764 時系列と地理を根本的に知らないみたいだな。
1.呉歴で孫策と張紘が最初に出会った場所と時期
2.当時の張紘の境遇
3.江都の場所
4.孫策が袁術に従った時期
5.孫策とその係累が陶謙に憎まれるようになった理由
6.張紘が正議校尉を得た時期と当時の孫策の立場
全部調べてから同じこと書き込んでみ
>>766 呉歴でこんなことが話し合われていることについてどう思う。
孫策が江都で張紘とあった話は後付エピソードとしか思えんのだがね。でなきゃ未来予知かw
http://cte.main.jp/sunshi/2011/0306.html 「当に今、漢祚は微に中り、天下は乱れ騒ぎ、英雄雋傑は各々衆を擁し私を営し、未だ危うきを救い乱を救える者は居ません。
先君と袁氏とは共に董卓を破り、功業は未だ遂げず、黄祖に殺害され卒去しました。
策(わたし)は暗愚で稚拙と雖も、密かに微志が有り、袁揚州(揚州刺史の袁術)に従い先君に求めた余兵を欲し、
(揚州)丹陽で舅氏(呉景)に就き、流散したのを收合し、呉会(呉と会稽)に東拠し、讐に報い恥を雪ぎ、朝廷の外藩になります。
君はどのように思いますか」
張紘は答えていう。
「既に元より劣り、まさに衰?(喪服)の中に居て、盛略を助けられません」
孫策は言う。
「君の高名は本地を離れ、遠近は懐き帰しました。
今日の事は計り、君において之を決し、どうして思慮を曲げず告げないのに、その高山の望に沿いますか。
もし微志が展開すれば、血の讐(かたき)が報いを受けるでしょうし、これが乃ち君の勳力であり、策の心の望む所です。」
泣き涙を横に流したが、顔色を変えなかった。張紘は孫策の忠壮が内発し、辞令(言葉遣い)が憤り嘆くのを見て、その志言を感じ、乃ち答えて言う。
「昔、周の道は次第に緩やかになり、斉、晋は並んで興りました。王室は既に安らかで、諸侯は貢職にありました。
今、君は先侯の軌を継ぎ、驍武の名が有り、もし丹陽に向かい、呉会で兵を収めるならば、則ち荊、揚を一つにでき、仇に報いることができるでしょう。
長江に拠し、威徳を奮い、群穢を誅し除き、漢室を匡輔し、功業は桓、文と等しいのに、どうして外藩のみに行くのでしょうか。
まさに今、世が乱れ多難で、功が成り事が立てば、当に好を同じくし共に南を救うべきです」
孫策は言う。
「一(わたし)と君は符を同じくし契りを合わせ、永固の分が有り、今直ぐに行き、老母と弱弟を以て君に委ね付け、策(わたし)に再び回顧の憂いが無いでしょう」
>>764 >正史にはそんな話ないぞ。
ああ、呉歴や江表伝は正史じゃないっていいたいだけなのね。
それならもっと精確に、陳寿の三国志も正史と呼ぶのはやめよう。
正史というのは正式名称じゃないし、正史と名付けられた瞬間に真実味を帯びるわけでもないのだから。
>そもそも、陶謙に憎まれまくっていた孫策にそんな余裕があったのだろうか。
江都に滞在したのは三国志に書いてあるだろ。
>大体、孫策が相談した内容が、その後の歴史の流れとぴったり一致しすぎていて怪しい。後付け臭い。
江南を根拠地にしたってだけで、ぴったりと一致なんてほどのことではない。
結局、何が言いたいんだろう?
孫策は「兵を返してくれ」なんて言わなかった、とだけ主張したいの?
陳寿の文に「部曲を還した」とあるのだから、それで十分だと思うのだけれど。
>>768 文言が創作されることは十分に有り得るよ。
二分の計とか三分の計とかね。
だが、ある文言が創作の可能性があるからといって、
それが他の文言を創作と判断する根拠には何一つならんのだが?
あっと。
768は、孫策と張紘の会話の内容どころか、
「孫策が江都で張紘とあった」こと自体を後付と看做しているのか。
論外だな。
>>769 >江都に滞在したのは三国志に書いてあるだろ。
孫策と張紘が江都に滞在したのはそうかもしれないし、相談したというのももしかしたら本当かもしれないが、張紘との相談内容が呉歴の通りとは信じがたい。
>江南を根拠地にしたってだけで、ぴったりと一致なんてほどのことではない。
孫策の変な点
・なぜ仕官前から袁術の元に仕官できる決め込んでいるのか
・なぜ袁術が孫堅の兵を返してくれると思うか(孫堅の私兵などいない)
・なぜ呉景を助けることが仕官前のこの時点で分かるのか
・なぜ仕官前に呉と会稽を根拠にするとか勝手に決めているのか
・朝廷の外藩になりたいというが、後漢で異姓の者が藩国を作った例は逆臣として名高い曹操だけ。
仕官前から何を思い上がったことを言ってるのか孫策は。
てかなに未来予知してるんだよw
張紘の変な点
・江東を押さえるなら荊州、揚州を一つにできるって、州牧の権限すら余裕で踏み越えているがなに考えてるんだ?
これは孫呉が荊州と揚州を押さえた事実を言ってるとしか思えない。
また未来予知かw
・「君は先侯の軌を継ぎ、驍武の名が有り」というが、何一つ力自慢エピソードがない仕官前の孫策が驍武とはどういう意味か。
・「もし丹陽に向かい、呉会で兵を収めるならば、則ち荊、揚を一つにでき、仇に報いることができる」ってまた未来予知するのか。
黄祖への仇討ちが成功することまで言い当てちゃったよ張紘さんw
・「どうして外藩のみに行くのでしょうか」・・・つまり、外藩より上の地位になっちゃうと。どうみても孫呉ですありがとうございました。
>>771 普通、張紘のような大名士に会えたなら、正史でも記録が残ってると思うぞ。
大名士とは会うことすら難しく、お話できたりしたらそれだけでステータスなんだから。
>>772 俺は呉歴や江表伝の信憑性をいま議論する気もないんだよ
あんたは何が言いたいんだ?
>孫策と張紘が江都に滞在したのはそうかもしれないし、相談したというのももしかしたら本当かもしれないが、
「陶謙に憎まれまくっていた孫策にそんな余裕があったのだろうか」というのはなんだったんだ?
そちらの挙げる「変な点」も突っ込みどころ多いが、いちいち指摘する気は起きないが
今回の議論に関する部分だけ。
>・なぜ袁術が孫堅の兵を返してくれると思うか(孫堅の私兵などいない)
陳寿は「還した」と書いているじゃないか。
>>773 >普通、張紘のような大名士に会えたなら、正史でも記録が残ってると思うぞ。
>大名士とは会うことすら難しく、お話できたりしたらそれだけでステータスなんだから。
完全にお前の妄想じゃねーか。
名士ってのが名士と結びつくコネ社会があるとすればだ。
孫堅は武名を打ちたてた名士で、孫策はその息子だよ。
会っておかしくも何ともないわ。
>・なぜ仕官前から袁術の元に仕官できる決め込んでいるのか
仕官できるなどと言ってない
>・なぜ袁術が孫堅の兵を返してくれると思うか(孫堅の私兵などいない)
対董卓戦の当時から、既に諸将は自分の資金や援助によって私兵を養っていた。
というか既に王朝の徴税体制が崩壊している以上、名目は将軍府や郡府の兵でも諸将の主力は部曲兵。
孫堅も長沙からの進軍の際に、郡兵ではない兵力を多数吸収している。
>・なぜ呉景を助けることが仕官前のこの時点で分かるのか
呉景の助力を得る、の間違いじゃね?
自分の軍閥を起そうとしてるのに有力の叔父とも連絡を取らずに事を運んでいたの、当時の孫策は?
>・なぜ仕官前に呉と会稽を根拠にするとか勝手に決めているのか
自分の故郷で、しかもまだ大軍閥のいない場所だが?
>・朝廷の外藩になりたいというが、後漢で異姓の者が藩国を作った例は逆臣として名高い曹操だけ。
「外藩」って言葉は当時では珍しいようだが、「藩屏」という言葉は京師の周辺に配置される列侯クラスへの常套句だが?
まあ、このときの孫策の言葉は、「乱世に乗って漢朝奉戴を掲げつつ地方で独立するよ」って
本心の修辞と取ってもいいが、それも当時あちこちの群雄が言ってたことだね。
>>773 呉の詳細な記録を陳寿に期待すんなよ
三国志を欽定国史だと思ってる人間の言い方だなそれは。
まあ、
>張紘との相談内容が呉歴の通りとは信じがたい。
信じ難いと言ったところで、孫堅の兵が孫策に還されたことの否定には何にもならんってことだな。
>>774 >俺は呉歴や江表伝の信憑性をいま議論する気もないんだよ
あっそ。
>あんたは何が言いたいんだ?
議論したくないといいながら聞くなよw
>「陶謙に憎まれまくっていた孫策にそんな余裕があったのだろうか」というのはなんだったんだ?
「そんな余裕があったかあやしいが、もしあったと仮定するなら」ということ。
>陳寿は「還した」と書いているじゃないか。
袁術が返した兵は孫堅の私兵でない。
その証拠に、楊州で苦労している孫氏に対して何もしていない。
「父の兵」とは、単に孫堅と親しかった軍人達という意味しかないだろう。
>>775 >孫堅は武名を打ちたてた名士で、孫策はその息子だよ。
>会っておかしくも何ともないわ。
士大夫と軍人の立場は思いっきり開いてるもの。
劉巴が武名高い張飛をいじめたエピソードは有名。
卑賤の出で軍人だった孫堅、そしてその息子の孫策の立場なんてたかが知れている。
780 :
776:2012/02/13(月) 23:28:07.48 0
ちょっと訂正。
義勇兵と私兵が朝廷軍として動くのは遅くとも黄巾の乱前後には普通のことになってた
中央から(ある程度の兵を持って)地方に派遣された将が、現地付近で義兵を募る。
私属を以って応じた者は、功績を挙げれば褒賞で官位を得たりする。
後漢の地方には常備兵が殆ど無かったからね。
>先主率其屬從校尉鄒靖討黄巾賊有功,
他
>>779 すげえな。見事なまでに本題以外の重箱の隅にしか答えてない
そこまでして論題そらししたいのか。
>>779 >議論したくないといいながら聞くなよw
あのな、孫堅の兵を孫策が継承したことの正当性について話しているときに
本筋逸れて孫策と張紘が会ったかどうかばかり議論しようとするから呆れてるわけ。
>「そんな余裕があったかあやしいが、もしあったと仮定するなら」ということ。
そんなレベルの話をしてるのではない。
俺が問うたのは、そちらの認識、読解の問題だよ。
なんで陶謙に憎まれていたら張紘と会えなくなるんだよ。
>袁術が返した兵は孫堅の私兵でない。
じゃあなにを「還した」んだよ。
>その証拠に、楊州で苦労している孫氏に対して何もしていない。
意味不明、それと「揚」州だろ
>劉巴が武名高い張飛をいじめたエピソードは有名。
それは一例に過ぎない。
武人を厭うのあれば、そもそも二張は孫策には使えまい。
孫堅は卑賤の出ではないし、
武功を中心に出世したが職業軍人であった時間の方が少ないよ。
しかも車騎将軍参軍事なんて顕職を務めてる。
参軍事って、将軍が皇帝に請うて幕府に招かれ、
将軍に対して敬礼しなくて良い顧問官なんだぜ。
>>776 >仕官できるなどと言ってない
無職の若造が「まず上場大企業に就職して、大プロジェクトを任されて・・・」とか言ってるようなもんだと思うがね。
こんな妄想に付き合ってやった張紘さんは優しいw
>対董卓戦の当時から、既に諸将は自分の資金や援助によって私兵を養っていた。
>というか既に王朝の徴税体制が崩壊している以上、名目は将軍府や郡府の兵でも諸将の主力は部曲兵。
>孫堅も長沙からの進軍の際に、郡兵ではない兵力を多数吸収している。
孫策には孫堅と違って兵を養える基盤がないのだが・・・。
孫策が父の部下に見棄てられたのも当然、ということになってしまう。
ま、実際そうだったんだろうけど。
でもそうなると、孫策が父の兵を返してもらったというのは本当だろうか。
袁術に出仕しても孫策に金はないのは同じで、兵は養えない。
兵を養う軍資も袁術から出ていたんじゃないか。これ返してもらって言うのか?
>自分の軍閥を起そうとしてるのに有力の叔父とも連絡を取らずに事を運んでいたの、当時の孫策は?
そんな軍閥作ったら袁術と衝突するだけじゃないか。
呉景を太守にしたのは袁術だよ。
>自分の故郷で、しかもまだ大軍閥のいない場所だが?
孫策がそこに派遣されると決まっていない。なぜ孫策にそんな大任が下るとこの時点で分かるのか。
>まあ、このときの孫策の言葉は、「乱世に乗って漢朝奉戴を掲げつつ地方で独立するよ」
それ、当時の名士にとっては危険思想ですが。
魯粛だって天下二分をぶち上げて疎まれたのに・・・。
しかも張紘さんは、そんな孫策を諌めないどころか、「江東とったら揚州も取れちゃうし、そしたら荊州だって取れちゃうよ」みたいに扇動してる。
変すぎ。
零陵先賢伝なんて呉歴以上にあてにならない史書じゃないか……。
すまんつい口を挟んだ
>>782 >あのな、孫堅の兵を孫策が継承したことの正当性について話しているときに
>本筋逸れて孫策と張紘が会ったかどうかばかり議論しようとするから呆れてるわけ。
俺は二つの話をしているのだから、君も二つの話をするか、どちらか一方について話をすればいいだろう。
>なんで陶謙に憎まれていたら張紘と会えなくなるんだよ。
身の危険が迫っていると分かっていて外を出歩くのは大変ですな。普通そう思うだろう。
>じゃあなにを「還した」んだよ。
指揮権だけ与えたんだろうね。
>武人を厭うのあれば、そもそも二張は孫策には使えまい。
孫策が「独立した」といっても、実際には袁術から曹操と献帝に乗り換えただけ。
孫策は後漢の臣に過ぎない。
二張は孫策の臣のつもりだったのか後漢の臣のつもりだったのか、わからない。
赤壁で降伏を進言してるしな。
>>784 あー
ツッコミどころが二桁になりそうになって、もう変な笑いと一緒に息と力が抜けてきた
この、自分で口走っちゃった言葉に後から解釈を合わせる妄想っぷり、
ちくま文庫も読めないいつもの子だったかw
>>786 >俺は二つの話をしているのだから
してねーだろw
張紘の話しかしてなかっただろ
>身の危険が迫っていると分かっていて外を出歩くのは大変ですな。普通そう思うだろう。
なんでそんな危険な江都に孫策は移ったの?
>指揮権だけ与えたんだろうね。
「正史」様にちゃーんと「部曲を還した」って書いてあるだろ
>孫策が「独立した」といっても、実際には袁術から曹操と献帝に乗り換えただけ。
>孫策は後漢の臣に過ぎない。
>二張は孫策の臣のつもりだったのか後漢の臣のつもりだったのか、わからない。
へー、じゃあ劉巴が張飛を嫌ったのは張飛じゃなくて劉備に問題があったわけか。
武人かどうかは関係なくなったね
789 :
世界@名無史さん:2012/02/15(水) 19:24:22.59 0
>張紘の話しかしてなかっただろ
それはお前がスレを読んでないからだろ。
>なんでそんな危険な江都に孫策は移ったの?
孫策が陶謙に会いに行った理由はどこにも書かれてないし分からない。
陶謙に嫌われた理由も分からない。
「父の関係で袁術の手先と思われた」という推測がある程度。
>「正史」様にちゃーんと「部曲を還した」って書いてあるだろ
「部曲=父祖代々の私兵」とは限らない。
もちろん私兵の意味もあるが、それだけではない。
史記や続漢書では、部曲とは兵制上の部隊のことをいうに過ぎない。。
>へー、じゃあ劉巴が張飛を嫌ったのは張飛じゃなくて劉備に問題があったわけか。
>武人かどうかは関係なくなったね
キライな劉備から逃げ出して益州にきたのに、その益州を劉備が乗っ取ってしまった。
その劉備の部下で武人となれば、なおさら気に食わないだろうねw
打っても響かない相手に話すのは苦痛だからな。
俺は戦意喪失。
ちくまも読めないおガキ様の勝ち。
>>791 ちくま読めしかいえないのにずいぶんえらそうだな。
他人のふんどしでしか相撲が取れない愚鈍のくせに。
結局、呉歴の内容が正しいという根拠は一体何?
劉巴の張飛いじめエピソードには時間的な矛盾はないが、
孫策と張紘の相談は明らかに孫呉建国からさかのぼって未来予知的に書いてる。
>>789 >孫策が陶謙に会いに行った理由はどこにも書かれてないし分からない。
陶謙に会いに行ったってどこに書いてあるんだよw
というか、話を逸らすんじゃねーよ
江都に移った当初は危険ではなかった。張紘と会う余裕は当然あった。
>「部曲=父祖代々の私兵」とは限らない。
正史に「堅の部曲を還した」と書いてある。私兵かどうかは関係ない。
袁術は孫策に還すものがあったということ。
>その劉備の部下で武人となれば、なおさら気に食わないだろうねw
結局、張紘が武人の孫策に会うはずないという根拠はまったく無し。
>>795 もうやめれば?
明らかに妄想で語ってる人間と議論しても仕方ないじゃん?
お前さんが論破しなくても相手が正史すらまともに読んでないのはここの住人にはとっくに分かってるよ。
分かってるから関わらないようにあからさまな間違いも指摘しないんだから。
797 :
世界@名無史さん:2012/02/16(木) 17:33:13.16 0
今Gyao!で中国中央電視台の三国志放送してるの観てて、貂蝉は正史では出てこないの?
貂蟬という名前は出てこないと思うが
800 :
798:2012/02/16(木) 18:38:10.34 0
あれ、出てきたような気がしてたが
こりゃ失礼。
みんな詳し過ぎる
>>796 貂蝉の話は、董卓の女官と密通していて
それが露見するのを恐れたのが呂布の裏切りの一因、
という説を元にしたもの。
>>795 >陶謙に会いに行ったってどこに書いてあるんだよw
徐州牧陶謙深忌策
「深忌」っていうのはよほどのこと。
これ、政治上のライバルを攻撃する前段階に出てくる言葉なんだよ。
この言葉が出てくると、大抵殺したり殺されたり追放されたり追放させたりの展開になる。
あったことのない人間同士には使われないと思うぞ。
>正史に「堅の部曲を還した」と書いてある。私兵かどうかは関係ない。
>袁術は孫策に還すものがあったということ。
返さなきゃいけないものなら、自分の転戦につき合わせずに正当な持ち主である孫策のところに返しなさいよw
袁術がたまたま孫策を気に入ったから、いい扱いをしただけでしょ。
>結局、張紘が武人の孫策に会うはずないという根拠はまったく無し。
たまたま二人が同じ江都にいたって事実からでっちあげられた逸話だと思うけどねぇ。
呉歴にあるやりとりがすごく胡散臭い。
804 :
世界@名無史さん:2012/02/18(土) 14:35:30.85 0
そもそも孫策一家はなんで江都なんかにいたわけ。
呉氏の本拠地じゃないだろ。
確かに。なんで広陵郡にいたんだ。
長江以南は孫策にとって安全じゃなかったのかね。
当時の豪族の縁故人脈なんてもはや再現できないよ
なんで袁紹は冀州に逃れたんだとか袁術は汝南素通りで淮南を根拠地にしたんだとか
曹操は揚州で兵を集めてんだとかって話になる
>>805 山越の力が強かった。山越は長江沿いで結構活動していた。
[後漢末期]
潘臨(はんりん):山越族の頭目。会稽郡で孫権に反乱を起こしていたが、陸遜により討伐され、降服し配下になった。
費桟(ひせん)、尤突(ゆうとつ):いずれも山越族の頭目。216年、曹操から共に印綬を与えられ、丹陽郡で孫権に対し
反乱を起こした。しかし陸遜・賀斉により討伐され、費桟と尤突は殺害された。
[三国時代]
黄乱(こうらん):山越族の頭目。『三国志呉書鍾離牧伝』に記録があり、それによると、242年に、建安郡・?陽郡・
新都郡の山越族を率いて呉に反乱を起こす。しかし鍾離牧に討伐され降伏し、配下の兵士は呉の兵役に組み込まれた。
だから、意外に長江南岸は安全でなかったと思われる。
>>807 しかし徐州でも陶謙に忌み嫌われて南に逃げたわけで、まさに後門の虎前門の狼。
呉景を頼った後、祖郎に敗北して兵を失っているあたりも右往左往って感じ。
>>807 山越は長江沿いじゃないだろ
それに曲阿も江都も長江沿いだ
810 :
世界@名無史さん:2012/02/19(日) 10:57:13.91 0
640 名前:名無しさん@12周年[] 投稿日:2012/02/18(土) 15:05:47.13 ID:sskgsjsc0 [2/2]
『平清盛』プロデューサー磯智明(反日・天皇制度廃止論者)の全プロデュース作品
@『監査法人 (2008)』反体制・反社会
A『最後の戦犯 (2008)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会
B『リミット -刑事の現場2- (2009)』反体制・反社会
C『気骨の判決 (2009)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会
D『鉄の骨 (2010)』反体制・反社会
E『15歳の志願兵 (2010)』反日・天皇制度廃止・反体制・反社会
F『心の糸 (2010)』反体制・反社会
>呉景を頼った後、祖郎に敗北して兵を失っているあたりも右往左往って感じ。
それだけ言われてもなあ
そこから何を導き出したいの。
>>811 んー、孫策単独で動くとろくなことにならないんじゃないかと思った。
・陶謙にやたら嫌われる。
・祖郎に負ける。
・袁術の兵を返して単独で会稽攻略に移ったら思いっきり苦戦し、結局孫静の助けを借りる羽目に。
・曹操に反逆して北上しようとしたら暗殺で死亡。
>孫策単独で動くとろくなことにならないんじゃないかと思った。
三国無双の世界を語ってるなら板が違いますよ
>>813 袁術や曹操の部下として振舞っている間は強いのに、独立したら駄目になる。
不思議な孫策。
時空を超越した于吉の呪いだな
戦の強弱以外まで因果関係を及ぼすんだから間違いない
しかし、wikiと個人サイト斜め読みしか出来ないちくま読めない君は
他人のふんどしさえ借りないと貰い泣きするほど低劣だな
そもそも、孫策は孫堅の兵を引き継ぐ後継者としてみられてない。
なぜなら孫堅の死後その兵をまとめたのは叔父の孫賁だから。
孫堅の棺を故郷に送ったのも孫賁。
孫賁は孫堅死後、袁術には従わずに寿春にいった。
そして、袁術が寿春にやってきたとき、初めて袁術に従った。
孫賁はその後、九江太守周昂を撃破した功績により豫州刺史に任命される。
それから山越討伐などをやっていた。
さらに、孫賁は呉景と共に劉ヨウを攻撃するんだけど、ここで援軍としてやってくるのが我らが孫策。
・・・はい、クエスチョン。
孫堅の兵は孫賁が引き継ぎました。
では、袁術が孫策に還した「父の兵」とはいったいなんなのでしょう?
どさくさ紛れに袁術に接収された孫堅の兵
>>818 だから1000人しか残ってなかったんだ。
破虜将軍二州刺史として三州を跨いで大立ち回りした孫堅が
後漢末の転戦の人生の間に私的紐帯を結んだ部曲や将を、
孫賁がそっくり江東に持っていったのなら、
孫賁が何年も苦戦することはなかっただろうし、
あとからやってきた孫策の下風に立つ事もありえない。
事実、現在名が残る孫堅の旧将達は江東ではなく
淮南の袁術周縁に留まって孫策に合流している。
>>819 そんなもんじゃね?
かつて官軍・賊軍として戦っていた軍団は、
後漢朝廷の支配力の減衰と共に部曲化・小軍閥化して
各地を勝手に渡り歩くようになった。
袁術・孫賁と言えども、孫堅の死で解体された小軍閥群の大半を
吸収することはできなかったってこと。
これが再集結するには孫策の登場を待たねばならない。
まあ、漫画の感動的なシーンよろしく挙って戻ってきたというわけではないにだろうけど。
袁術の「父の兵を返した」っていうのは、孫賁からわけてもらえってことじゃね?
×これが再集結するには孫策の登場を待たねばならない。
正確には、孫策が袁術の下で転戦して功績を上げ、
「孫堅の後継者」として認知されていく数年を待たねばならない。
だな。
>>824 孫堅の兵を率いてたのは孫賁なんだろ。
だから、袁術は孫賁の兵=旧孫堅軍団を孫策に分けてやろうとしたんじゃないか。
>なぜなら孫堅の死後その兵をまとめたのは叔父の孫賁だから。
>なぜなら孫堅の死後その兵をまとめたのは叔父の孫賁だから。
>なぜなら孫堅の死後その兵をまとめたのは叔父の孫賁だから。
従兄だっけ。
孫賁が袁術の下で豫州刺史と務めた時期と、孫策が袁術に身を寄せた時期が一致すると仮定するなら、
袁術が指示なり依頼なりを出して、孫賁から孫策に兵を「還」えさせた、という夢想は可能ではあるな。
根拠を出せなければ仮説ではないが。
しかも、この夢想が正しいとしても
「張紘と孫策が江都で面会した記述」を無根拠に否定してまでやりたかった発端の、
「孫堅軍閥」なるものの否定にはならんという。
>>829 隠れてる名士は、名士が自発的に出てこない限り、会うのはまず無理。
曹操は許劭や司馬懿などの名士を脅迫した話が豊富だし、
諸葛亮は三顧の礼でやっと出仕。
張昭は家に火をつけられてもでてこなかった。
そもそもやり取り自体がおかしい以上、面会の記述も疑ってしかるべし。
831 :
世界@名無史さん:2012/02/20(月) 04:25:17.23 0
張紘は、大将軍の何進、太尉の朱儁、司空の荀爽から招聘を受けたとある。
しかしその全てを断って引きこもった。
「後漢はもう何をどうやっても駄目」派の名士の一人だろうと思われる。
袁紹と組んでいた何ギョウに似た存在。
張紘は「あの」孫堅の息子だからといって価値を感じないだろう。
832 :
世界@名無史さん:2012/02/20(月) 04:51:58.85 0
この時期、反後漢の人間は袁紹につくか袁術につくかの二択だ。
孫策は、父や叔父の関係で袁術勢力とつながりがあると見られていた。
だから陶謙には嫌われたわけだが、一方で、張紘のような反後漢派が孫策に興味を持ったのかもしれない。
具体的には孫策をダシに袁術に近づこうとした。
それが孫策が張紘に会えた理由じゃないだろうか。
張紘が後に南にやってきて孫策に従ったのは、孫策が正式に袁術の配下になったからだろう。
833 :
世界@名無史さん:2012/02/20(月) 04:58:42.15 0
>張紘は「あの」孫堅の息子だからといって価値を感じないだろう。
これは後漢の忠臣としての孫堅には興味を示さないだろうという意味。
しかし、後漢と戦う袁術の部下としてみるなら、張紘には価値があるだろうと。
834 :
世界@名無史さん:2012/02/20(月) 05:16:20.70 0
そんな反後漢な張紘が、曹操から会稽東武都尉をもらったり、孫権に討虜将軍と会稽太守をもらってきたりしたのは、肝心の二袁が大失敗して消滅してしまったから。
袁術は皇帝を名乗って大ゴケして死んでしまうし、袁紹も官渡で大敗してから死んでしまった。
さらに孫策まで死んでしまうし、もはや曹操に従うしかないと思い極めたのだろう。
張紘が後漢を見捨てたのは、腐敗しきって再起不能だから。
だから後漢を倒そうとする二袁に味方した。
二袁は強大で後漢を圧倒するかと思われたが、結果として二袁は後漢に敗れた。
あのどうしようもない無能な後漢より先に二袁が倒れた。
張紘は「後漢が再起不能というのが実は間違いだったのではないか・・・」と思いなおして、後漢支持に戻ったのかもしれない。
曹操が司馬懿を脅迫って、晋書のあの超胡散臭い話かよw
呉歴や江表伝とどっちが信憑性あるんだかな
>曹操から会稽東武都尉をもらったり、孫権に討虜将軍と会稽太守をもらってきたりしたのは
曹操からじゃなくて朝廷からだろ
孫策だって朝廷から官位を授かってる
>さらに孫策まで死んでしまうし、もはや曹操に従うしかないと思い極めたのだろう。
曹操から離脱して孫権のもとに戻って来てるじゃねーか
>>837 >曹操からじゃなくて朝廷からだろ
>孫策だって朝廷から官位を授かってる
当時は曹操=朝廷みたいなもの。
だから曹操の独裁に反抗した董承一派がクーデター未遂事件起こしたりした。
>曹操から離脱して孫権のもとに戻って来てるじゃねーか
実は、張紘は孫権から官位もらったことない。
孫権の元に戻っても、曹操からもらった官位はそのまま変化なし。
だから孫権の周りにいる人たちが心配して「張紘は北で官位もらっちゃいましたよ。呉に留まる気が無いんじゃないですか」といってる。
長紘が孫権から官位をもらうのは、赤壁の後。
孫策死後〜赤壁までの孫権は、基本的に曹操に従順。
曹操から官位もらった張紘は邪魔にならない。
>>838 >当時は曹操=朝廷みたいなもの。
だから、孫策も官位を朝廷=曹操から受けてるだろ。
孫権は討虜将軍・会稽太守で、孫策は討逆将軍・会稽太守だ。
>だから孫権の周りにいる人たちが心配して「張紘は北で官位もらっちゃいましたよ。呉に留まる気が無いんじゃないですか」といってる。
孫権はそれを意に介さなかった。
張紘は孫策へ恩義を感じていたので度重なる任官の話を病気を理由に固辞。
会稽東武都尉を引き受けたのは江東に戻れるからだ。
>>840 >だから、孫策も官位を朝廷=曹操から受けてるだろ。
>孫権は討虜将軍・会稽太守で、孫策は討逆将軍・会稽太守だ。
二袁が倒れた以上、もはや強力な反体制派は存在しない。
さらに、孫氏も曹操から官位をもらって反曹操的行動はとらなくなった。
残ったのは荊州と益州のみというわけ。
>張紘は孫策へ恩義を感じていたので度重なる任官の話を病気を理由に固辞。
呉書張紘伝を見て欲しい。
http://www.xysa.net/a200/h350/04sanguozhi/t-053.htm 張紘が固辞したのは九江太守であって、会稽東部都尉は固辞していない。
別に孫権に忠義立てしたわけじゃない。
そして曹操の頼みは「孫権を助けつつこちらに通じろ」というもの。
張紘は忠実にこの役目を果たしていたと思う。赤壁までは。
>>841 二袁が倒れたのと張紘が江東に戻るのと、時系列を再確認しろよ
>さらに、孫氏も曹操から官位をもらって反曹操的行動はとらなくなった。
だから孫策も曹操から官位を受けてるだろ
>張紘が固辞したのは九江太守であって、会稽東部都尉は固辞していない。
>別に孫権に忠義立てしたわけじゃない。
そりゃ会稽東部都尉なら江東に戻れるからな。
孫策への忠義立てだろ
843 :
ニセクロ:2012/02/20(月) 18:39:35.87 0
呂乂と呂凱を素で間違えたのに誰からも突っ込まれない寂しさに絶望した!
此処ならきっと鬼の首を獲ったようにフルボッコで突っ込んでくる優しさに
溢れてると信じて顔を出すよ!
でも何かもう凄い勢いで別の話題が始まってるみたいなので一服したら帰るわ
此処で訊くのは間違ってるんだろうけど、三戦で考察系の面白いスレって今何かある?
>>842 張紘がいつ孫権の元に帰ったかはよく分からない。
199年6月 袁術死亡
199年のいつか(孫策の死より前) 張紘が曹操のところに来る。
199年のいつか(袁術の死より後) 孫策死亡
200年2月 官渡の戦い
201年4月 倉亭の戦い
202年5月 袁紹死亡
孫権は江夏に遠征する際に張紘を都に呼び寄せて留守を任せたというから、少なくとも203年には戻ってきていると思われる。
845 :
世界@名無史さん:2012/02/20(月) 18:43:22.09 0
>>843 えー、マジ本人?
ていうかサイト見に行ったけど更新してないじゃん。
846 :
843:2012/02/20(月) 18:52:45.84 0
まじまじ張本人。サイトの更新は申し訳ない。
ネタが寝かせたままもう腐っちまって。
IDが出る板ならIDをツイートするんだけど
843の書き込み時間「18:39:35.87 0」をツイートするので勘弁ね
847 :
世界@名無史さん:2012/02/20(月) 18:55:21.34 0
うわ、ニセクロツイッターやってたのかよ
今知ったわ
>>844=
>>841?
それとも横レス?
>張紘がいつ孫権の元に帰ったかはよく分からない。
であるならば、二袁が倒れたからどうちゃらの理屈の根拠となるものは一層乏しくなる。
849 :
843:2012/02/20(月) 19:11:58.32 0
>>847 うん。そうなんだ。やってたんだ。
色々分からない状態でやってこっちだったか三戦だったかで
リツイートって何のことだお?ってとこから教えて貰った。
でも未だにフォローとかアクティビティとかよく分かってない。
nisekuro_atで見つかると思うよ。
今巻のスレは熱い話題が多くて楽しく見させてもらってる。
>>848 >
>>844=
>>841?
その通り。
>であるならば、二袁が倒れたからどうちゃらの理屈の根拠となるものは一層乏しくなる。
張紘伝を見る限り、仮病を装って交渉長引かせたり、孔融などの有名人と親交を深める暇があったようだから、時間を稼ぎながら情勢を見ていたんじゃないかな。
張紘伝ではやたらと曹操陣営との交友関係が記されている。
で「やっぱり袁紹も駄目」ってことがわかったので、曹操から官位もらって帰ってきた。
そして孫権の江夏征伐の留守役を務めたと。
何の根拠もないな
まずさ
>>830 >隠れてる名士は、名士が自発的に出てこない限り、会うのはまず無理。
この時点で論外なんだから、それ以下の話は全て意味無しなんだが。
張紘は単に戦乱を避けて避難した名士であって、個人的に罪を犯したわけでも
仇に追われていたわけでもない。
後漢末に避難した名士は現地の名士コミュニティに所属したり有力者の客人になるのが普通であって、
なぜ孫策が会えないのかワケが判らない。
司馬懿や諸葛亮が面会を拒否したことがあったか?
黨錮によって隠れも無き犯罪者となり、しかもその後も反宦官活動を行っていた
何ギョウと同列に語る時点でもう論外。
>832
>この時期、反後漢の人間は袁紹につくか袁術につくかの二択だ。
二択以外の当の陶謙の立場は。
もし、陶謙が徐州牧を朝廷から貰ったことで反朝廷ではないとするなら、
ほぼ同時期に左右将軍を貰っている二袁の立場は。
どうも、官位を貰ったってことだけで親朝廷とか、官位貰ってる物同士はみんな同一派だとか
決め付けて、孫策を親朝廷=完全に曹操の部下 みたいに語りたい人がいるようだが、
その人は、上記の事実をどう捉えているのだろう。
孫策への官位は状況的に見て袁術への切り崩し工作だわな
それも失敗の類の
もし親朝廷だってことにするなら官渡戦時に孫策の北上恐れる理由がない
孫権が後に曹操に反抗したことから孫策まで遡ってずっと反曹操であった、
という設定にされたので実際は孫策は親曹操だ、という仮定するならそれでも整合取れるが
そうすると郭嘉さんの予言伝説が一個つぶれてしまうね
ちょっと待て。
孫策を親曹操と語ろうとしてるレスってどれよ?
>>854 郭嘉だけじゃなくて陳登が頑張って対孫策牽制を続けてた功績も潰れちゃうね
>>857 そんなもんなかった
孫策さんは曹操さんとマブダチだったんや!
>>858 張紘が孫策に会って、孫堅の兵を返してもらえと言ったのは創作に違いない、とこの100レスほど頑張ってる人の張紘観の柱の一つは、
「当時の名士が群雄の地方独立を認めるのはタブー。だから呉歴の記述は嘘」
ってものだからね。官位を貰えば親朝廷・親曹操、みたいな誤りを直しておくのは必要。
まあ、三国創設者や袁紹らに関わった名士達は
群雄の地方独立をタブー視するどころか推進したわけだが。
名士が招聘を断るのは漢盛期から頻繁に見られること。
これには色々理由があるが、無論、彼らが反朝廷だったわけではない。
公務員になるのだけが人生ではないってだけのことだ。
だから張紘を反後漢と看做している
>>834-835辺りも漫画レベルの妄想だな。
>>860>>862 よくわからんw
張紘は孫策を担いで反後漢をやろうとした。
が、孫策は死に、二袁も失敗し、仕方なく親後漢(親曹操)にならざるを得なかった
というのが彼の主張じゃないのか?
それだと孫策は反曹操ということになるが。
>>863 しらん。彼の主張が目まぐるしく変わってるから。
言えるのは、194年前後の情勢で揚州くんだりで割拠したからって反後漢もクソもないし、
孫策が許都を襲撃しようとしたから反朝廷になるじゃない。
また、二袁が消えて曹操が圧倒的になって、朝廷に参内したからって
張紘が親後漢になるわけじゃない。
張紘は曹操と孫権の間を取り持つ名士として動いているわけだから。
許都を襲撃って皇帝奪取計画だろ
無理しても皇帝を保護したいっていうくらい親後漢ってことじゃないか
>>864 彼の主張がころころ変わってるのではなく、三国志の人間の立場がころころ変ってるんだよw
面従腹背で建前だけ従ったように見せて後で裏切るなんてよくある話。
劉備とか曹操とか孫権とかw
「この時期は反曹操、あの時期は親曹操、でも本当の目的は?」と細かくわけていくのは当たり前。
世の中にはその手間を惜しんでるで人が多いね。
868 :
世界@名無史さん:2012/02/21(火) 02:58:51.15 0
>>852 >張紘は単に戦乱を避けて避難した名士であって、個人的に罪を犯したわけでも
>仇に追われていたわけでもない。
そもそも、張紘は広陵の出身でしょうに。戦乱を避けて徐州に住んでいたのではない。
張紘は孝廉にあげられ茂才に推挙されている人。なのに、三公の招聘をたびたび断って故郷で引き篭もっていたのにはわけがあるはず。
>後漢末に避難した名士は現地の名士コミュニティに所属したり有力者の客人になるのが普通であって
そうかもしれないね。で、張紘はどこの名士コミュニティに属していたのか?張紘は誰の客人だったのか?
>なぜ孫策が会えないのかワケが判らない。
>司馬懿や諸葛亮が面会を拒否したことがあったか?
少なくとも、江都にいたときの孫策は有力者ではないし、名士コミュニティにも属していない。
もし孫策と張紘が会ったというのが事実だとして、どういうコネで会えたのか推測が難しい。
俺はとりあえず袁術がらみの縁故があることを推測の材料にしているのだが、君はいかなる理由で会えたと思うのかな?
>黨錮によって隠れも無き犯罪者となり、しかもその後も反宦官活動を行っていた
>何ギョウと同列に語る時点でもう論外。
世の中には過激派や穏健派というものがあるのだよ。
反後漢の名士にも、何ギョウのように積極的に後漢を倒そうとするタイプと、後漢のために働こうとせず引き篭もって出てこないタイプがいるわけ。
これは行動は違うが、反後漢には変わりがない。
もっとも何ギョウの場合、党錮が解かれるとがんがん昇進した人なので、単に反宦官を旗印に偉くなりたかっただけの人かもしれないけど。
横レスだが、ヒキってる名士の大半は行政が実際は予算だけではまかなえず、
私財を投じるか搾取してまかなうかの二択を突きつけられることに対して、
私財を投じるのも自らの名を貶めるのもバカらしいからだよん。
中華王朝に限らず儒教圏というのは江戸日本も含めて「付け届け」前提でしか動けない体制なの。
だからどの王朝にもどんな時期にもそういうタイプの人は常に存在する。
反後漢とか反体制とか後世的なイデオローグで動いてる訳じゃない。
ちょっと違う。
新や後漢では、名分が非常に重んじられたんで、そういった引き籠もり名士タイプが非常に目立つようになった。
これは辟召制度の伸長とも関わりがあって、要するに何度か断ることが謙譲などの意味合いも込みでステータスになっている。
王莽らによって禅譲や推戴の手続きが一般化したので、その作法が広まった面は強いだろうな。
871 :
世界@名無史さん:2012/02/21(火) 03:41:27.13 0
>>853 >二択以外の当の陶謙の立場は。
陶謙はよく分からない人だが、公孫サンと連携しているのは確かだ。
劉備という手駒を送られるぐらいだからな。
>もし、陶謙が徐州牧を朝廷から貰ったことで反朝廷ではないとするなら、
>ほぼ同時期に左右将軍を貰っている二袁の立場は。
状況が変わったので一時的に朝廷を認めただけの話。実際には親朝廷の行動はとっていない。
後の孫権だって、状況次第で曹氏から官位もらったり反抗したりしてるだろう。
孫権の立場を語ってみw
>どうも、官位を貰ったってことだけで親朝廷とか、官位貰ってる物同士はみんな同一派だとか
>決め付けて、孫策を親朝廷=完全に曹操の部下 みたいに語りたい人がいるようだが、
>その人は、上記の事実をどう捉えているのだろう。
それは君の勘違い。官位と行動を勘案している。
孫策の行動の中で明確に反曹操といえるのは、未遂の許都襲撃計画だけ。
未遂だから本当にあったのかはわからないけども、ともかくそれまでは曹操に従順。
199年の孫策の黄祖攻めだって、同時期に劉表と袁紹に対峙していた曹操には頼もしい側面援護といえる。
>>870 しかし、三公の招聘まで断っちゃった張紘は、一体誰の招きなら受け入れるつもりなのだろうか。
つか、何ギョウはそもそも普通に
「外戚や宦官が牛耳りだしたら反発し、それが取り除かれると高官に登る」
これ以上なくテンプレ通りの潔癖士大夫だろ
外戚が取り除かれた節目節目に毎回居るタイプ
ところが党錮あたりだと宦官が外戚に匹敵する程政治牛耳ってたから宦官にも反発した程度の話
>>872 三公の招聘とかよく断られるよ。
外戚とその与党みたいなケースだと、何度かは断る事が多い。
皇帝による「外戚とその門生故吏の大粛清」を見た事があれば、命も惜しけりゃ名も惜しいからね。
それでも皇帝の徴召とかがあると普通に就職する。
辺譲とか。
875 :
874:2012/02/21(火) 04:24:15.13 0
ちょっと誤解を招きそうな表現だったので修正。
× >外戚とその与党みたいなケースだと、何度かは断る事が多い。
○ >三公に任じられているのが外戚とその与党みたいなケースだと、何度かは断る事が多い。
>司馬懿や諸葛亮が面会を拒否したことがあったか?
こいつらは曹操や劉備から逃げ回ってただろ
>>874 張紘が就職できなかったのは、皇帝の劉弁と劉協が幼すぎたから?
張紘は反後漢ではなく、機会があれば後漢の臣になりたかった。
故郷に引き篭もって機会を待っていたら、黄巾やら霊帝崩御やら董卓の専横やら長安遷都やらで中央がグッチャグチャに。
張紘を招こうとした3人も、何進は暗殺、朱儁と荀爽は病死。今さら長安に駆けつけるとか無理。
どうしようもなくなって暇だったので、後漢の外藩になりたいとか意気込む孫策に「後漢を助けるために頑張りなさい」など吹き込んだりしていた。
その後、ひとまず後漢の将軍である袁術のもとに就職、孫策とコンビを組むことになった・・・。
こういう流れも考えられる。
>>877 就職出来なかったっつうのも違う。
官僚ってのは豪族かつ名士な人にとってはそこまで良い職業ではない。
名が汚れて単なる横暴な豪強扱いになるのは人生どころか名を残すことを考えた上でも芳しくない。
もちろん美名であれば青史に名を残したいとも思ってはいるけど。
結構リスクのあること。
あと、後世からの視点だと官僚達が主体になりがちだから忘れやすいけど、
別に官僚にならなくたって就職してない訳じゃない。
豪族名士がよくやっている田地経営や学問や郷里社会の顔役も立派な仕事。
>>878 一種の例えに突っ込むのもアレだが、それもないだろうな。
ぶっちゃけ名士の大半は後漢であっても次の王朝であっても秩序を戻せる存在であればどちらでも良い。
どちらでもいいから、自分の才能を生かして名を残すチャンスは窺ってる。
そもそも「名士」という存在を前提に考えるのはどうなの?
知識層がネットワークやサロンを形成してた、その内部評価が高いと色々有利だった
程度の話ならわかるが「名士」と名前を付けて区別するような存在はおらんだろ
別に諸葛亮は劉備から逃げてた訳じゃないでしょ
三顧ってたびたび来たって意味でしょ?
魏略だと諸葛亮のほうから劉備を尋ねているな。
>>880 「その程度の話」。だよ。
区別する境界は引けないが、定義は出来るし、定義しないと漢魏晋南北朝は語れない
>>871 持論を通したいだけの支離滅裂でワラタ
陶謙が公孫サンを組んでいたから、何だっていうんだ?
「よくわからない」って言ってる時点で陶謙を二袁の二択で図れないってことなんだが。
>状況が変わったので一時的に朝廷を認めただけの話。実際には親朝廷の行動はとっていない。
陶謙もまったく同様。朱儁を支援したという類は、君の中では親朝廷ではないのだろうからね。
>孫策の行動の中で明確に反曹操といえるのは、未遂の許都襲撃計画だけ。
それなら、袁紹の行動の中で明確に反曹操と言えるのは、198年ごろからの対曹操戦線だけ。
しかも後漢朝廷を守るために奸臣曹操を討つという立場。袁紹のこの護漢のスタンスは190年から変わってないよ。
もう何が言いたいのかわからんな。。
後漢末の権力闘争や社会の構図を把握する能力が君に無いから
>>866 >彼の主張がころころ変わってるのではなく、三国志の人間の立場がころころ変ってるんだよw
という理解しか出来ないに過ぎない。もっと頑張りましょう。
885 :
世界@名無史さん:2012/02/24(金) 00:41:34.35 0
>>884 >「よくわからない」って言ってる時点で陶謙を二袁の二択で図れないってことなんだが。
陶謙に着いた名士で反体制派っていましたっけ。
>それなら、袁紹の行動の中で明確に反曹操と言えるのは、198年ごろからの対曹操戦線だけ。
官渡で交戦した袁紹と、未遂で揚州から一歩も出てない孫策を一緒にすんなよw
>しかも後漢朝廷を守るために奸臣曹操を討つという立場。袁紹のこの護漢のスタンスは190年から変わってないよ。
劉虞擁立はなかったことになってるんですな…。
完全に劉協廃立じゃん。董卓と同じじゃん。
それを引っ込めて平然と劉協を担ごうとか、ただの機会主義者だろw
>後漢末の権力闘争や社会の構図を把握する能力が君に無いから
劉虞擁立に失敗したという袁紹の大チョンボを華麗にスルーした人に言われたかぁないな。
>陶謙に着いた名士で反体制派っていましたっけ。
はあ? 反体制派の定義って何よ? 陶謙派の数少ない史料からどのようにそれを割り出すの?
>官渡で交戦した袁紹と、未遂で揚州から一歩も出てない孫策を一緒にすんなよw
その通りだよ。曹操の南下で孫氏と曹操の境界が接近するまで、
孫氏に反朝廷とか親朝廷のような主張に縛られたことは無い。
そんなもので張紘のスタンスを定義しようとすること自体が大間違い。
>劉虞擁立はなかったことになってるんですな…。
それがまさに護漢なのだが。
反董卓連合は、董卓によって不正に立てられた劉協を認めていないんだよ。
194年頃に二袁が左右将軍位を貰うまでね。
そもそも二袁は、皇帝廃立に関わるのを避けて洛陽を脱出したのだから。
>劉虞擁立に失敗したという袁紹の大チョンボを華麗にスルーした人に言われたかぁないな。
はい乙。
総じて言うと、天子や易姓革命という概念がある中華史で、
「反体制」と「反朝廷」と「反権臣」の区別がつかないのは絶望的にダメダメ。
おそらく
>>885的定義で言えば、朱儁を元帥を推して反董卓連合を結成した首謀者の陶謙は
本人が間違いなく「反体制」だな。無論、「反後漢朝廷」ではないが。
劉虞以外にも数学者で辺境太守経験もある劉洪だの陳王の劉寵だのいくらでも有望皇族居るのに擁立諦めてる時点でもはや袁紹は漢に未練など無いだろう。
部下の耿ホウに自分を推戴させて即位しようとしたというのは多少盛ってるかも知れんが。
>>889 直系でもない遠縁から皇帝擁立するなら相当な人望の持ち主でなければ通じない
劉寵は遠すぎる。
結局袁紹は劉協を認めて194年からその死までその立場を貫徹している。
どこに未練が無いと?
>>887 当時の漢人にとって、易姓革命の概念があっても実際には例がない。
曹丕が禅譲に成功するまで全部失敗している。
曹丕は禅譲の前例が出せずに「堯舜がやってた」と神話にまでさかのぼってるぐらい。
一つ突っ込むと、前例が極めて少ないのは禅譲であって易姓革命ではない。
殷→周も周→漢も当時の常識としては易姓革命。
当時存在した説によっては、周→秦や秦→漢も易姓革命とする。
ちなみに楚や新を易姓革命の流れに組み込むことはない。
曹丕が禅譲の前例を出せなかったのは漢の黒歴史の新を無視しないと五行的に問題あったりして禅譲が機能しないから。
儀礼はほぼ王莽のやり方にのっとって行っている。
五行の問題は重要で、劉裕は漢の皇室の出なのにそのせいで殷の徳を継ぐ宋を名乗らなければいけなかった。
>>886 「献帝は不正な皇帝だから別の皇帝擁立してもいい、献帝を攻撃せよ!」
ってのがどこをどうやったら護漢になるのかわかりません。
>>892 >殷→周も周→漢も当時の常識としては易姓革命。
後漢末の人間にとっては400年以上前の話だが…。
俺らからすればちょうど江戸幕府の成立のころの話だぞ。
「江戸幕府の前例があったから、今から東京幕府を作ります」つったら理解できるかw
>>890 王族だが直系から遠く、取り立てて史書に人望の見えない劉永ですら擁立されるんだぞ?>帝位
ガチ直系の孺子嬰がフルボッコであっという間に敗死してる中で。
戦乱状態でそこまで直系に拘るとは思えんわ。
あの状態に及んで献帝を認めたのは君側の奸を討つ論理が有効と判断したからに過ぎまい。
漢を護ろうとしていたとは思えんわ。
>>894 たまにそういう例えを挙げる人間が居るが、周と漢の違いを江戸と現代で比較など出来る訳がないだろう。
江戸と現代では政体自体が全然違い、思想のパラダイムシフトがこの近代には古代中世で言えば3000年間かかるレベルで起きており、
技術発展が高速過ぎて同列視出来ないだけだろう。
もし、周が実際の歴史そのまま、後漢が共産主義政体で科学万能主義で科挙を備え、西洋医学を行い、それが国民全体に普及しているレベルなら比較にもなるが。
訂正
× >たまにそういう例えを挙げる人間が居るが、周と漢の違いを江戸と現代で比較など出来る訳がないだろう。
○ >たまにそういう例えを挙げる人間が居るが、「周と漢」の感覚の違いを「江戸と現代」とで比較など出来る訳がないだろう。
>>895 袁紹の本心は問題にしてないよ。
政治的スタンスとして、袁紹も陶謙も孫策も劉備も護漢を通した。
無論、皇帝を名乗った197年以降の袁術は別。
魏公王と階梯を昇った曹操も怪しいが。
もし、袁紹の政治的行動から本心を推察して「漢を護ろうとしていたとは思えない」と言うなら、
それは、孫策も孫権も陶謙も劉備も劉表も同等。
張紘云々を引き合いに出して陶謙や孫策の政治的立場を判断する材料には出来ないので
判断材料から除外してほしい。
>>897 袁紹のスタイルを護漢というのはかなり厳しい。
皇帝擁立に挫折して、仕方なく献帝支持に切り替えたやつまで擁護するお前が分からない。
>>898 擁立しようとしたのも献帝も漢の皇帝なんだから漢を存続させようとしていることに変わりはないだろ
結局漢の皇帝からの禅譲を受けた曹氏や皇帝になった袁術を護漢と言えないっていうならわかるが
>>899 >擁立しようとしたのも献帝も漢の皇帝なんだから漢を存続させようとしていることに変わりはないだろ
「漢を護れるなら皇帝なんかホイホイ代えても問題ない!皇帝は漢ではない!」
どうみても発想が逆賊ですありがとうございました。
ていうかこれ董卓理論じゃん。
董卓だって「皇帝にふさわしくない」劉弁を殺しただけなんだから、袁紹は董卓を支持するべきだろ。
ほら、ちゃんと劉協という劉氏の血筋も抑えてるぞw
不正な皇帝を除いて同じ血筋の別の皇帝を立てれば忠臣なら、曹髦の死体にとりすがって泣いた司馬孚と陳泰は忠臣じゃないのか。
>>900 後漢最初で最大の逆賊が光武帝ってことか
董卓の行為もまた伊尹霍光の論理と同じなのだが。
それが忠臣とされるか逆臣とされるかは、董卓の本心によって決まるのではないよ。
歴史が決めるものだ。
「護漢のスタンス」と言ったからそれが忠臣・擁護と理解してしまう価値認識がおかしい。
董卓から曹操・劉備まで、後漢末の群雄の殆どは、
政治的には、「どれが正しい漢王朝の体制か」という点を巡って対立抗争をしているだけなんだよ。
曹丕でさえ、「正しく、だが天命尽きた漢王朝」から禅譲を受けている。
漢王朝という巨大なコップの中の嵐であるわけだ。
それを理解できずに、「反体制」だの「親後漢」だのいう言葉で群雄達を切り分けるのが笑止だと
いうだけで、そこに擁護も何も無い。
単于や天王の称号をもって君臨しようとした分、
五胡の君主達の方が劉備や孫権よりも上ということか
正潤論的に考えて
単于や天王では天子・皇帝の上には行けないよ
>>907 >正潤論的に考えて
倫理的に上と言いたかった
「三国志」が後世の王朝から正史と認められて、三国並び立つ体制が認められているのは、
ともあれ三国の皇帝が天子たる儀礼を整えて相応の格式ある宮廷を成立させたってのも大きいだろうな。
それから、「正統王朝」の晋に最終的に服したこと。
五胡の国々の幾つが、それだけの礼式と共に興こり亡ぶことができたか、と考えると、
その多くが覇史・載記扱いなのも仕方ないことか。
>>908 天子を称すだけの正当性がないなら単于で留めて実質に重きを置いた方が倫理的に上っていう意味?
日本でいうなら、天皇打倒を考えるよりも征夷大将軍で幕府を開いた方が利口で倫理にも適う、というような。
>>910 そうそう、そんな感じ
よく言われていることかもしれんが、
袁術と孫権って同列なんじゃないかと思うし
血統に基づいて主張した劉備はまだ分かるけど
伝統的な征伐でも禅譲でもなくして皇帝になった孫氏は確かに弱いね。
だから孫堅が玉璽を得たとかいう逸話が必要だったのだろうけど。
ただそれも含めて歴史が決めることだな。
宣帝は即位する以前から霍氏(つまり霍光)の専横を苦々しく思っていた。
しかし、のちに霍氏を誅殺して自分の権限を取り返した時には、
既に死んでいた霍光の名誉は守った。
ために霍光の皇帝廃立を含む事跡は忠臣の行いとして長く規範とされ、権臣に利用されることにもなった。
もし李カクのような董卓の後継者が、漢朝廷を盛り返して劉協の元に全国を再統一でもしていたら、
当然董卓は、劉協を立てた先見の明のある忠臣として評価されたことになる。
霍光と董卓の立場は死後の成り行きで十分逆転の可能性のあったもの。
袁術と孫権の立場も同じことが言える。
ただし、様々な問題はあれ、死後数十年持った呉王朝を興し、継がせた孫権の力量と功績というのは、
袁術との決定的な差として憶えておくべきだろう。
結局張紘はどういう立場の人間なの?
呉の人士との交流もあんまりないみたいだし。
太学にいって名声を挙げ、洛陽とのコネクションが豊富な学者型だね
袁紹は劉虞に入れ込んでいて劉協にはいまいち乗り気になれなかった
袁紹と劉虞の接点って何かあったかなあ
レス番の無駄遣いすんな
あるあるwww
920 :
世界@名無史さん:2012/02/28(火) 15:10:23.46 0
劉備はキリストに似ているな
各地を放浪し、義の為に行動し、多くの支持者を集め、報われない最後を遂げた
しかし、その死後も多くの人々の信奉を集め、苦難にあえぐ人々の拠り所となった
劉備や蜀はその後も仏教と並んで中国人から多くの信仰を集めた
正に西洋におけるユダヤキリスト教と似たものを感じるな
演義だと劉備はアーサー王で孔明はマーリンに嵌っている。
俺くらいの太公望になるとフックは全部外してルアーを泳がせてるだけになる
そして傍らに立っているのは職質に来た警察官だったと
さっそく924が釣れたなw
カッコワルイ!!!
927 :
世界@名無史さん:2012/03/18(日) 01:37:51.41 0
魏の文帝って、諌言は許さないし、兵を率いたらほぼ全敗、おまけに人を見る目なし(孟達や夏侯尚の件)。政権基盤が脆弱だったのもこいつのせいじゃね?
短命だったのが多少ましだったところか?
曹丕は、曹操時代に不安定だった徐青州など周縁地域の支配を安定させ
三国中魏の国家的な優勢を確保した皇帝と評価されているな。歴史学的には。
三国オタ的にはしらんが。
ご教授ありがとうございます歴史学者様w
三国志オタから質問ですが、曹洪って曹操旗揚げ当初は、曹操配下の副将的に名前が出て活躍してるように思えるんですが、段々出番が減ってるような気が…
やっぱり家が金持ちで私兵をたくさん持ってたから重用→勢力が大きくなったから他の将達が台頭の流れなのでしょうか?
>>930 重鎮になったから表に出る必要がなくなっただけじゃろ
曹洪は曹操時代後期は中護軍だから、曹操に追随して中軍の統括か、
ギョウの留守軍統率かだね。
漢中戦では下弁に駐留して、曹操の西方軍団の第二位格。
曹操が漢中を放棄するまでここを抑えた。
文帝即位当初まで驃騎将軍として一族の重鎮となったが、食客に連座して罷免。
明帝の時代に復職するが、おそらく政治権力は与えられず晩年を過ごす。
三国オタは所詮三国オタ
後漢末の群雄達はそれぞれ漢朝の官職(太守や将軍位)を持ってて、自分の配下をその属官(州・郡の司馬や従事など)にしてるけど、それらの属官って漢朝の臣になるんでしょうか?それとも名実ともに群雄達の家臣だったんでしょうか?給与はどこから出てたんでしょう?。
登用の建前は王朝への推挙でしょうから、名士層とかはあくまで自分達は漢朝の臣とか意識してて、群雄側としてはそれらの家臣化に苦労するみたいな関係性にありそう。それにある程度成功したのが曹・劉・孫の三氏だったとか。
あくまで想像ですので教えて下さい詳しい人。
>>934 難しい問題だね。
断言出来るのは
「家臣というのは封建制の世界の話なので存在はしないが、
故吏という恩顧関係に基づいた多少それに似ていなくもない存在が居る。」
ということ。
そして漢朝の臣であり○○の故吏というのは両立する。
さらに問題としては、見かけ上封建時代の家臣のように個々の群雄に肩入れする人間も居る事かな。
ただこれはどっちかというと漢朝の権威の低下によって「新しい来るべき王朝の臣」としての振る舞いをする人間が出てきたというべきで、
群雄個人の臣という存在ではないように思う。
多少時期にズレはあるけどおおよそ三国に移行するまでは名目上は漢朝の臣で間違いない。
実質上は微妙なラインだね。
予算については簡単。
董卓の乱以降中央に送らなくなった郡県内の租税がそのまま予算化して給与になる。
ただ、豪族としての資本で集めた私的な部曲が君主に私的紐帯を持っている場合はある。
近代国家と違って、漢代盛期でさえ、無官の人間には「漢朝の臣民」というような意識は殆ど無かった。
だから皇帝は、将来高官になるのをを期待する層を郎官として近侍させたり、徴召したりして
「皇帝の故吏」を養成する必要があった。
刺史や太守は伯や子のような爵に擬えられたし、
属する地方の吏は皇帝よりも直接の主に命を投げ出すことが多かった。
乱世ではこの直属の長への帰属意識はさらに拡大する。
封建て、もらった国の内政に関しては自由なんじゃないの?
だから、使える人は漢の陪臣であることは自覚してたんじゃないの?
嫡子の考え方も、財産や位を相続することが前提になっているからこそ、それを中央に報告する義務があったんだし
あくまで結果を出さなかったから罷免されるという形をとっていたはず
だからこそ、あらさがしできない者は刺史なんてもので見張る必要があったわけだし
曹操は魏という国をもらったけど、魏は漢の臣下の立場であったし、そのような形態は別に過去の前例に反してない
曹操は勲功に応じて位と土地をもらい、それ以上の勲功に値する恩顧がないから帝位を禅譲するような働きかけをするという
手順をふんでたから、漢の臣であった官人たちも簒奪とは心で思っても表向き反対するほどの大義名分にはなりえなかったと思う
>>936 >近代国家と違って、漢代盛期でさえ、無官の人間には「漢朝の臣民」というような意識は殆ど無かった。
そりゃ官位に昇る望みのない、多数であったろう教育を受けていない人民の話で、
官位持ってる連中の九割方は近代国家と同じく漢家による洗脳初等教育が存在するから別。
「皇帝の故吏」を養成する必要があったのはむしろ門生故吏が生まれた事で、
臣下内でそういった特定個人と恩顧関係で結ばれるようになったから。
だから辟召の例が前漢からなのに対し、徴召は王莽の禅譲を経験した後漢から出始めている。
>>937 自由ではないし、曹操や劉備の件について言えば前例に全く反してない訳ではない。
本来、各王国は中央から派遣された国相が実権を持っている。
漢と言うのは徐々に中央権力が肥大化していった国であり、漢初の郡国制の頃の権限の大きい頃とは全く実相が異なってる。
それを漢初に戻して実権を得たというのが曹操や劉備のついた王位の特殊性。
>>936 なるほど。勉強になります。
この時代の名士層は、身分は官僚といえども身の振り方や肩入れする有力者を見極めなければならなかったわけですね。
真面目に役所勤めしてれば良いってわけじゃないんだ…乱世は公務員も不安定なのか…
>官位持ってる連中の九割方は近代国家と同じく漢家による洗脳初等教育が存在するから別。
そんなものは無い。
>「皇帝の故吏」を養成する必要があったのはむしろ門生故吏が生まれた事で、
そうだね。
これには、前漢中後期からの儒学の隆盛と密接に結びついている。
儒学は、春秋の本物の封建時代に、士大夫がより善く生きるための倫理として形成された。
主君への忠を至上のものとせず、孝、つまり『家』への帰属意識を第一とし、義や礼をも重んじた。
元々、生まれたときから王朝への忠誠教育など存在しなかったところに、
儒教が発展し、地縁を重んじる豪族達の基本教育になった。
つまり、政治的に危険があれば避けて隠遁することを是とし、法を曲げてでも義に殉じ、
主君よりも親を取り、官位を捨てて三年ものあいだ喪に服すことを定める儒学が、
「官位持ってる連中」の「洗脳初等教育」となったわけだ。
>>940 別に儒教は親族重視の教えじゃないよ
周代の伝統的気風がうすれて天下が乱れたのを見て、
先王の教えを復活することが世の中をよくする方法だと言っただけ
「復興された周代の教え」に仮託して、
春秋の世に身分秩序ごとに相応しい生き方をせよと説いたのが儒学だよ。
周代に現実に使われていた「先王の教え」そのものではない。当然ながら。
で、孝経の士章第五が「父事うるに資りて以って母に…」で始まるように、
士の身分は親に仕えることが尊ばれ、家を保持する方策、祖先祭祀の祭礼が整理されていった。
儒学では孝は忠に優るものと明白に主張されて法家思想などと相克しながら漢代に至り、
前漢中後期からのいわゆる「国教化」で優勢を築く。
辟召制度も、度重なる弊害にも関わらずの外戚重視も、禅譲の理論武装と実現も、
儒学普及の影響下にある。
たしかに忠より孝を重んじたのはそうだろうが
父子間の秩序を重視する道徳は君臣間でも見られる
天と天子も父子の関係だし、君臣も父子の関係にある
それと忠は君臣間の徳目のみを言うものではない
で、その父への敬に"準"えられる君への忠は、
「近代国家と同じく漢家による洗脳初等教育」なんてのとは隔絶したものだよね。
945 :
938:2012/03/25(日) 02:48:13.84 0
>>940 >>942 >>944 父子関係と君臣関係の準えは少なくとも近代日本とは非常に類似したものだと思うが。
近代日本は「近代」ではないとする立場なら敢えて否定はしないよ。
『孝経』の運用もそもそも後漢においては、王莽の禅譲が念頭にあって
「親に孝でないものが果たして君に忠たり得るだろうか」として
王朝への忠誠を高める事を明確に目的として普及されている。
それを無視して儒学の本質を問うのは色々とズレちゃいないかね?
946 :
sage:2012/03/25(日) 04:01:01.29 0
>>945 儒教的には、君主の命令と親の命令が食い違ったら、親を取って君主の命令は否定するのが正しいんじゃないのか。
947 :
938:2012/03/25(日) 04:42:37.11 0
>>946 それ、想定する事に意味があるか?
発端は官位に就いている人間の漢朝への臣としての意識の有無な訳だが。
色々と反論の仕方が悪かったとは思う。
無官の人間と官位に就ける階層とを意図的に混同した論法への反論で、近代と混同したことは詫びよう。
だが臣としての意識の有無という問題で言えば、「儒教内で忠以上に重んじられる価値観が存在する」ことによっては、
臣としての意識=忠が存在しないという方向には持っていく事は不可能だ。
そもそも武帝期以降、上下関係の秩序を確立させるためもあって儒が用いられているのに、忠誠など存在しないというのは暴論にも程がある。
孝の方がより重んじられる様になるのは後漢後期から魏晋以降という研究もあるのに。
よくネットで孔融が儒者ではないとする例として挙げられたりする
「親が問題のある人間なら、親を捨てて他人を救え」
という発言も本当は非主流とはいえ儒学的な立場で為されてるしな
後漢魏晋で孝を重んじる姿勢が徐々に強まったとされる説は
光武の孝経重視と魏晋の禅譲が続いて新しい王朝に鞍替えする臣が多かったからだっけか
親が君主より大事なら、親が後漢の臣で子が魏臣だったらどうなるねん。
>>928 人を見る目は本当になかったなw
司馬懿親子は魏を事実上簒奪したし、孟達は反逆したからなw
>>947 暴論すぎる。
漢朝の臣に「忠誠など存在しない」なんて誰も言って無い。
整理するよ。
1.庶人、布衣などと言われる無官の人間に、漢朝の臣等という意識は殆ど無く、それを植え付ける初等教育も無かった。
2.高級官僚は推挙や選任の権を持ち、推挙者と被推挙者の間で恩顧関係を作った。
3.「漢の臣」という忠誠意識を育てるために、皇帝は徴召や郎官というシステムを使った。
ここで最初の、
「太守のような地方長官の属吏に、漢の臣として朝廷への忠誠意識があったか?」
>>934 という問いに戻る。
答え。漢朝盛期でも殆ど無い。かなり希薄。
当時、忠の意識を醸成するためには「礼」制が用いられたが、
郡吏には、皇帝どころか皇帝の使者に礼を払う機会は殆ど無い(あるとすれば刺史が儀礼に立ち会う時くらい)。
吏が直接礼を払う相手は常に太守。自分を取り立ててくれた恩人も太守。
朝廷に忠誠であれという教育も存在しない。
これでは、「漢朝の臣」という意識を育てる機会が無い。
後漢末の例だが、地方の吏と朝廷の官の倫理の差をあらわす最適の例は韓嵩
before
「嵩を京師につかわして,天子が一官を仮したならば,則ち天子の臣、將軍の故吏にすぎなくなります。
君があれば君に為す、すなわち嵩は天子の命を守り,義は將軍に死すを得ざることになります」
after
「侍中・零陵太守になりました。曹操の威徳は素晴らしい。あなたは子息を人質に送るべきです」
劉表「裏切ったな!」
蔡氏「(韓嵩の)言が直です」
まあ、ここまで実直な人はそうはいなかっただろうけどね。
朝廷の官を得て荊州に戻ってきたならば、それを利用して劉表のために謀るのが得だし、人の情ってものだろう。
953 :
世界@名無史さん:2012/03/25(日) 13:59:27.85 0
韓嵩は劉表が天地を祀ろうとしたとき反対して諫言したけど、劉表は無視した。
そもそも天地を祀るのは皇帝の仕事なんだから反対されて当たり前だが・・・ていうか他の連中は何してたんだ?
誰も劉表の暴走を止めなかったのか?
ともかく、韓嵩は元々劉表に仕えたんじゃなくて後漢に使えたという意識の人だったんだろう。
>ともかく、韓嵩は元々劉表に仕えたんじゃなくて後漢に使えたという意識の人だったんだろう。
>>952を読め
956 :
世界@名無史さん:2012/03/25(日) 14:32:57.50 0
>>955 後漢に仕える劉表に仕えただけで、劉表が後漢への反逆やってるから見限って後漢についただけだろ。
勝手な妄想するなよ。
韓嵩の態度の豹変は、劉表の行動ではなく韓嵩の所属の違いに拠っているのだが。
傅子は蔡氏の言葉を借りて、この所属の違いによる韓嵩の豹変を「直」と倫理的に評価しているのだが。
今の問題は韓嵩の「真意」を妄想することではなく、
従事中郎から侍中に遷った韓嵩の態度が「直」と評価されるものだった、
当時の倫理観なんだよ。
959 :
世界@名無史さん:2012/03/25(日) 15:54:58.33 0
>>958 天地を祭った劉表をストレートに諌めたことみれば実直なのぐらい分かるよw
会話の出来ない馬鹿はお帰りください
ああ、失敬。いつもの「ちくまも読めない子」だったか。
・自分で原典や訳文に当たれない
・漢文(混じり)に反応できない
・自分でネットから探してきたネタに拠ることしかできない
いつも通りだ。
>>952 韓嵩と劉表と曹操の関係は特例過ぎて、「地方の吏と朝廷の官の倫理の差をあらわす最適の例」とは言い難い。
類似の例がない。
韓嵩個人の行動じゃなくて、
それが「直」と倫理的に評価されたことが問題なのだが。
親、師、友、直上の上司、故主のために命を捨てて法を犯したり、
朝廷の判決、命令に背いて孝や義に殉じた例はごまんとある。
かたや、皇帝が自分自身に忠誠を向けさせるために郎官や徴召を使った論法は
記録されている。
上司に殉じるのも「直」。皇帝に殉じるのも「直」。行動の差は所属の違いに過ぎない。
韓嵩の例は、具体的に所属の違いで豹変した一個人の模範的な記録というだけ。
>>963 傅子を書いた西晋の傅玄から見ればの話だろう。
表妻蔡氏諫曰,韓嵩,楚国之望也,且其言直,誅之無辞。
「楚国之望」とまで評された韓嵩の言動が、当時の官吏の典型的なものなのか?
あと、「直」には「人間の情に正直(法と感情がかち合ったら感情を取る)」という意味があるんだが、それが官吏の倫理なの?
葉公語孔子曰、吾黨有直躬者、其父攘羊、而子證之。
孔子曰、吾黨之直者異於是、父爲子隱、子爲父隱、直在其中矣。
葉公が孔子に話した、「私どもの村には正直者の躬という男がいて、自分の父親が羊を誤魔化したときに、息子がそれを知らせました」
孔子は言われた、「私どもの村の正直者はそれとは違います。父は子の為に隠し、子は父の為に隠します。正直さはそこに自然に備わるものですよ」
儒教的な「直」といったらこれなんだけど、これが当時の官吏の常識?
そうだよ。
というか、当時の官吏というのは、公正無私で公のためのみ行動する公僕なんてものじゃないからね。
自分の名声と、家の名誉や存続を少なからず背負ってる人間だ。
皇帝に近しくなるほど、皇帝への「忠」に殉じることが「直」となり、周囲もそれを期待する。期待に応えることが名声になる。
しかし、郡吏のような朝廷と直接接しない人間は、直属の上司や親、師への比重が高くなる。
後漢朝廷は特に、そういった「直」を持つ人間を評価して採用した王朝だった。、
朝廷の命を枉げてでも父母を取るような「孝子」こそが、皇帝へ仕えたときに大きな「忠」を持つ臣になると。
親ではなく兄だが、孔融が名を知られ、あちこちの高官から招かれるようになった事件も同種のものだね。
前漢のことだが、母を侮辱した相手に報復して殺した者が孝廉になり出世した例もある。
もちろん、大方の人間は韓嵩のような立派な態度は取れなかっただろうよ。
そんな大方の平凡な地方官吏が、見たことも無い皇帝や朝廷への帰属意識なんて持てるはずが無いじゃないか。
直上の上司に追従するのが精々だよ。
969 :
世界@名無史さん:2012/03/25(日) 23:47:24.76 0
10.11.6_01/15 リチャード・コシミズ「日本らしい日本を取り戻そう!..」
結局、「孝」や「忠」の考え方はあっても、その対象(誰に「忠」であるのが正しいのか)や、それに伴う行動は、個人の判断に拠っていたわけで、それらの行動に対する評価も現代の我々が考えるほど安定したものではなかったということでしょうか?
韓嵩の行動は旧恩を捨てて、自らをより高い立場に立たせている単なる変節漢にしか見えないのですが、それを堂々と行ったので「直」だとの評価だったのですかね?
そうなると、後漢末の群雄割拠の状態から三国鼎立に移行する中での人士の流れは、あくまで各々の事情で結果的にそうなっただけで、曹・劉・孫氏それぞれとの関係性は重要でないのかもしれませんね。
だいぶ違う
儒教て官僚にとっての社会人のマナーって感じだと思うんだが。
そういう天下人と関係ない無官になると、道教やら仏教が心を埋める
仏教はこの時代まだあまり根付いてないんじゃないか?
司馬遷はある類型の儒家をこう評した。
季次、原憲は閭巷の人なり,讀書し獨行する君子之コを懐け,義は不苟しくも合當世に合せず,當世また之を笑う。
(中略)
死しすでに四百餘年,しかして弟子之を志して倦まず。
>それを堂々と行ったので「直」だとの評価だったのですかね?
魏晋の傅玄の評価でしょそれ。
割拠時代の官吏の倫理と、統一時代の官吏の倫理を一緒にしていいのか。
そもそも荊州の蔡一族も韓嵩も、魏に仕えた人間であって。
天地を祀るような空気の読めない劉表に盾突いて魏寄りの態度を取った人間に高評価を与えるのは当然。
劉表からみれば変節漢の裏切り者でも、魏から見れば功労者なのだから。
韓嵩は劉表に曹操への事実上の降伏を勧めて「直」とされた。
しかし、劉表死後、劉jに降伏を勧めた蔡瑁・?越・傅巽・韓嵩・王粲の中で「直」といわれたのは韓嵩だけ。
韓嵩はあくまで個人のパーソナティがそうだったというだけではないのか。
官吏の倫理にまで拡大するのはいただけない。
親、師、友、直上の上司、故主のために命を捨てて法を犯したり、
朝廷の判決、命令に背いて孝や義に殉じた例はごまんとある。
後漢朝廷は特に、そういった「直」を持つ人間を評価して採用した王朝だった。、
朝廷の命を枉げてでも父母を取るような「孝子」こそが、皇帝へ仕えたときに大きな「忠」を持つ臣になると。
>>978 そんな人事ばかりやってるから、皇帝の力が弱くて宦官がはびこったり外戚がはびこったりするんだよ。
彼らは朝廷のことなんか気にせずに、自分の親族や味方の利益になるよう正直に行動した。
≫979
確かに。
朝廷では「忠」でなくても、皇帝個人には「忠」であれなんてなんというダブルスタンダード。
結局皇帝個人へ一番「忠」っぽいのは宦官(順帝とか)という大いなる矛盾。
儒教はそもそもネポティズム優先なのに、なんでこんなのを官吏の行動原理にしちゃうかな。
腐敗するに決まってるじゃん。
縁故主義の存在しない社会というのがそもそも幻想だと思うが。
そういう意味では縁故主義における行動規範を規定する儒教の起用は現実的。
>>979 本当に皇帝の力が弱かったら宦官も外戚も蔓延らんけどな。
本当に弱いと三国時代みたいに「実質世襲じゃねえのこれ」という刺史や都護や将軍が蔓延り出す。
皇帝の力の弱さが定着したまま権威だけが残ると室町以降の日本になる。
唯才は結構だけど、やっぱり人格も見ないと・・・。
いくら才があっても、反逆するような奴だったらどうしようもない。
いや、人格も込みで才能として判断してると思うよ。
陳平も第五倫(字は伯魚)も悪い噂については否認しているし。
84話1ページ1コマ目で前髪ジャーマさんぼろきれになってるに3000点