1 :
世界@名無史さん:
文禄・慶長の役の英語版wikiを見たらなんか凄いことになってるな。
とりあえず変な点を列挙してみるw
・晋州城の戦いで日本軍3万人のうち1万人以上が戦死した!ソースはKBS!
・李如松が平壌を奪回し、この戦いで日本側の戦死者は実に1万2000人にのぼる!
・碧蹄館の戦いの結果は日本軍の戦術的勝利、そして明軍の戦略的勝利である!
・碧蹄館の戦いの投入兵力は明軍が1万2000、日本軍が3万〜4万。明軍の戦死者は2000〜2500、日本軍の戦死者は少なくとも6000人、最大推計で8000人である!
・幸州山城の戦いでは朝鮮軍2300人が日本軍1万人をぶっ殺した!
・稷山の戦いで明軍の戦死者は200人だが、日本軍の戦死者は500人以上である!
・鳴梁海戦で李舜臣は、たった13隻で日本軍に8000人もの死傷者を出す大損害を与えた!
・蔚山城の戦いで日本軍の戦死者は6000〜1万人。なお、日本側の援軍の兵力は8万人だ!ソースはKBS!
・順天城の戦いでは日本軍の方が被害甚大!3000人も戦死したよ!
・露梁海戦は朝鮮・明連合軍の大勝利!
・戦役全体で少なくとも14万人の日本兵が戦死した!
碧蹄館の日本側の戦死者なんか、ちょっと前見たときには「2000〜8000人」だったのが
いつのまにか「6000〜8000人」に増えてるw
一体どんな連中が編集してるんだw
連携し共生すべきアジアの素敵な人々
>ソースはKBS!
「ソースはNHK!」と言うのと同じでインチキくさいなw
秀吉が賢いのは、ちゃんと朝廷を立ててることだよな
これは信長にも家康にも無い要素だ
8 :
世界@名無史さん:2011/07/06(水) 07:52:16.46 0
朝鮮征伐
>>1 乙
でも、本当は”その2”じゃなくて”その10”だな。
そのヌルハチも明との戦いで重傷をおって死んでるし、 明を滅ぼしたのは反乱の首領の李自成
李自成が成功しなければ女真族は天下を取れなかっただろう
そりゃそうだろうな。
12 :
世界@名無史さん:2011/07/06(水) 23:53:24.35 0
こんな荒唐無稽は与太話を載せる読売の糞ぶり
14 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 01:16:33.31 0
>>12 そこ、島津義久による提案みたいなこと書いてるけど
ただの妄想にすぎないよ
薩摩に居た一明人にすぎない許儀後が「ボクの考えた最強の対日戦略」 として提案しただけの話で
政策決定に係るような立場の人間による提案でもなく
もちろん採用されることもなかった話にすぎないよね
義弘以下10000の軍を朝鮮に派遣してる島津家が
さらに4万も動員して上方まで攻め上るなんてできるはずがない。
領国は薩摩・大隅2か国だけだよ。
それに朝鮮への出兵中も
肥前名護屋には秀吉以下10万の軍勢が待機していたし
上方には豊臣秀次以下3万余の軍勢が存在していた。
仮に島津が少々の兵を動員して秀吉への反乱を実施したとしても
こんな状況では成功することなど有り得ない。余りに荒唐無稽。
結論として言えるのは、所詮この提案は一人の明人医者による全く現実味のない提案でしかなかったってことで
>>941のリンク先にある「島津の秀吉討伐計画」なんて言い方は全く事実を歪曲したもの。
前スレ
>>995すごいレスだったな
ローマは都市国家であってイタリア半島統一戦をやったのを知らないって事みたいだね。
びっくりしたよ。イタリア半島統一ってなんだと思ったの?
ケルト攻略戦もあったしね
つまり攻勢側だったんだが。
要するにローマはあきらめなかったが日本はあきらめた
指導者達の意思と能力の問題
願わくば、「学問 文系」の名にふさわしい討論がなされますように
煽り愛はよそでやってね
18 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 08:55:24.48 0
>>13,
>>14 ホントに秀吉ラブのネトウヨはいい加減だなー(笑)
前スレでは『慶長の役は秀吉の作戦どおり』と
なにも裏付けとなるソースも提示できず、どこの学者も主張してない
荒唐無稽な与太話を盛んに吹聴しときながら、
鹿児島国際大の増田勝機教授(東洋史)が主張している『明・島津
合力計画』をただ気に入らないからっといって、なんの裏付けとなる
ソースも提示しないまま与太話と決めつけるんだから(笑)
これがネトウヨの自慰史観なんだね(笑)
構想だけ持ちかけられた調略なんて有りがち話だな。
福建からの義久ラインだけじゃなく、清正も秀吉の首を取れば王に册封してやると持ちかけられているしな。
どっちも豊臣政権が強力だから隙もないし現実性がなかったわけだが。
20 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 09:33:24.97 0
>>19 はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな秀吉に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
秀吉が慶長4年に追加の軍勢を派遣していたら、当然、身辺の兵が手薄
になる、そこで島津義久の軍勢が明国の艦隊に搭乗して名護屋城を急襲
したら、秀吉の首を取る可能性は十分あるけどな(笑)
また、島津とは別に豊臣政権に恨みを抱く、徳川家康も伊達政宗も毛利輝元
もいつまでも秀吉の妄想に付き合っていたとは思えんがね(笑)
毛利輝元なんかは史実では豊臣方だったけどそれは秀吉が死に、新たな脅威
として家康が登場してきたからだ(笑)
はいはい、戦艦2000隻、精兵20万(笑)
どこで建造されて、どこで軍勢を集結させてたんだ?(笑)
そんな大部隊で日本を攻める気なら当然、全国に動員かけたんだろうな(笑)
まさか、慶長4年に日本軍が朝鮮半島に渡ったら急に天から降りてくるとかいうん
じゃないだろな(笑)
それと、あほみたいに身辺が薄くなるほど軍勢を派遣させるっていうソースは(笑)
それと何このオナニー的妄想(笑)
↓
>また、島津とは別に豊臣政権に恨みを抱く、徳川家康も伊達政宗も毛利輝元
もいつまでも秀吉の妄想に付き合っていたとは思えんがね(笑)
毛利輝元なんかは史実では豊臣方だったけどそれは秀吉が死に、新たな脅威
として家康が登場してきたからだ(笑)
22 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 10:03:56.46 0
>>21 はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな秀吉に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
>それと、あほみたいに身辺が薄くなるほど軍勢を派遣させるっていうソースは(笑)
おまえら秀吉ラブのネトウヨが主張する荒唐無稽な『慶長の役は秀吉の作戦どおり』
では14万以上の大軍が南岸の防衛強化だけの為に派遣されているんだろ。
だったら南部4道を征服するためには30万くらいの大軍を投入しなけりゃ
ムリダナ(笑)
>>23 はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな明に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
早く答えろよカス(笑)
はいはい、戦艦2000隻、精兵20万(笑)
どこで建造されて、どこで軍勢を集結させてたんだ?(笑)
そんな大部隊で日本を攻める気なら当然、全国に動員かけたんだろうな(笑)
まさか、慶長4年に日本軍が朝鮮半島に渡ったら急に天から降りてくるとかいうん
じゃないだろな(笑)
それと、あほみたいに身辺が薄くなるほど軍勢を派遣させるっていうソースは(笑)
24 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 10:19:14.84 0
>>23 はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな秀吉に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
>はいはい、戦艦2000隻、精兵20万(笑)
>どこで建造されて、どこで軍勢を集結させてたんだ?(笑)
明国の福健省で建造するんだろ(笑)
>>24 はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな明に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
本当に馬鹿な奴だな(笑)福健省で2000隻の軍艦が建造されていたソース
を求めているんだよバーカ(笑)
まさか、大量の軍艦が急に現れるとでも思ってるのかよ(笑)
明への愛でここまで都合のいいこと以外見えなくなる典型なカスだな(笑)
併せて軍勢20万に動員かけたソースも早く出せ馬鹿(笑)
26 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 10:45:55.82 0
>>25 ほんと秀吉大好きネトウヨって碌に人の意見も読まずに
反論するんだな(笑)
まあ、大好きな秀吉に都合のいい妄想のじゃまされたんじゃ
気持よくオナニーできないもんな(笑)
>鹿児島国際大の増田勝機教授(東洋史)は、こうした福建軍との接触を通じ
>て、合力計画が持ち上がった、とみる。注目されるのは、「請計処倭酋疏」
>に戦艦2000隻、精兵20万で日本を制圧するという計画が見えることだ。
>許孚遠はこの計画を提案した1か月後、再び工作船を薩摩に派遣している
(『神宗実録』)。
計画を提案って書いてあるじゃん(笑)
どこにも建造していたって書いてないじゃん(笑)
大好きな秀吉をバカにされ、頭に血が上って
勝手に人の主張を勘違いするなよ。
「もし秀吉がもっと長生きしていたら、撤兵は許されず戦いは
さらに泥沼化したはずだ。
その時こそ島津氏と明の合力が実現していたかもしれない。
合力計画は、秀吉の死とともに消え、島津側の史料からは
抹消されたのだろう。(おわり)』
ていうのがこと記事の趣旨なんだから(笑)
お互いもうその辺にしとけよ
>>26 はいはい、自慰史観(笑)、自慰史観(笑)
大好きな明に都合のいいことを妄想するのって気持ちいいもんな(笑)
本当に馬鹿だな(笑)自分の書いたこともう忘れたのかよ(笑)
慶長4年に動員された日本軍の間隙を突いて名護屋城に攻め込んで秀吉を
打ち取るんだろ(笑)
慶長3年12月に日本軍が撤退して、慶長4年の春までほんの数カ月しか
ないのに、明軍が2000隻の軍艦(笑)の用意もせず、20万(笑)の軍勢も
動員していないんだから現実的に間隙を突いて名護屋城に攻め込むなんて
ことはあり得ませんから(笑)
まさか、慶長4年に日本軍が朝鮮半島に渡ってから、軍艦をつくり出して
20万を広い大陸からかき集めて動員するなんて思ってんの(笑)
用意するだけで相当な年月がかかるのに、さらに長い時間を懸けて危険極まりない
大海を渡るなんて非現実的なこと本気でできるとでも思ってんの(笑)
ちなみに慶長の役は、9月から始まって翌年2月ごろには軍勢の半数以上が本土に帰還してる
ので、日本軍が朝鮮半島で釘付けになるなんてことも妄想でしかない(笑)
14万の大軍を派遣した目的は城作りだけじゃなくて
朝鮮南部の掃討だって秀吉の出した朱印状に書いてあるじゃん。
慶長の役については秀吉の作戦通りに展開したといって良い。
30 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 12:05:59.96 0
>>28 「もし秀吉がもっと長生きしていたら、撤兵は許されず戦いは
さらに泥沼化したはずだ。
その時こそ島津氏と明の合力が実現していたかもしれない。
合力計画は、秀吉の死とともに消え、島津側の史料からは
抹消されたのだろう。(おわり)』
ここは学問版だろ。
だったら上記以上のことを考えてもしょうがないじゃん。
日本側としても
慶長4年の再侵攻で順調に占領地を広げられず、手痛い
敗北を重ねて全軍撤退するかもしれない?
または順調に占領を重ねて、新たな占領地に多くの駐留兵を
置くことで本国の兵が手薄になるかもしれない?
(この場合秀吉周辺が手薄になり島津家に勝算がでてくる。)
明側としても
慶長4年の再侵攻を撃退して日本勢を朝鮮半島から追い出せるかも
しれない?
また、新たに占領地を広げられ、日本勢を撤退させるには他の方策
を考えなければならないかもしれない?
(この場合に島津家との合力の可能性がでてくる。)
なんともいえないなー(笑)
>>30 占領地が広がれば、まず外様大名から疲弊していくだろうな。
出征中に豊臣政権が大名両国に立ち入って検地をするなど豊臣政権が強固になったことをお忘れなく。
32 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 14:52:47.45 0
>>31 お前ってホントに秀吉が好きなんだね(笑)
秀吉のこと愛してるんだ(笑)
お前の書き込みの節々にお前の秀吉への愛が感じられるね(笑)
でもここって学問版なんだよね。
お前の秀吉に対する歪んだ愛を表現する場じゃない。
>占領地が広がれば、まず外様大名から疲弊していくだろうな。
じゃあなおさら島津家以外の外様大名も明国との合力の可能性
が出てくるね(笑)
だいたい朝鮮出兵参加の大名達はみんな自腹なんだから、秀吉への
不満は渦巻いてる。
明国が直接または島津家を通じて間接的に調略すれば合力する大名を
続々と出てくるかもな(笑)
>>32 勘違いしてるみたいだが、31は携帯からでそれ以前のアンタへのレスはパソコンから。
ということはアンタにレスしてるのは複数人ということ。
34 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 15:41:42.63 0
上の明と島津のエピソードは初耳だけど
明人は一介の商人?でさえ戦略思考ができるのに
戦国日本人は軍機の中枢にいる人間が誰一人として戦略思考が
出来なかったってことがわかる
戦略思考というほどのもんかなぁ。なんかインパール作戦並に現実性から
かけ離れたもんにしか見えない。
そういえば、三路の戦いといい、碧蹄館といい戦略性よりもごり押しして
大敗パターンが多いな明軍は
36 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 17:44:01.57 0
中国の対北方遊牧民族戦争は
どれだけ損害が出ても侵攻を食い止めれば勝利っていう戦争だから
碧蹄館は日本にとっても明にとっても勝利、つまり引き分けと言える
この辺はノモンハンの戦闘に近い
>>36 当時の日本軍の戦略目標は「北上」ではなく南下する明軍の撃破なんだから
どう贔屓目にみても「明軍の勝利」あるいは「引き分け」はないわ。
対して明軍の戦略目標は南下して「日本軍の撃破」にあるんだから
どちらが戦略目標を達成したかは一目瞭然だな。
>>32 ところでお前。(笑)
を使って煽っているがwを使うのやめたのか
>>32 どうやら、対立者が一人に見える病のようですね。
もう少し進行すると、自分以外が敵に見える病にステージアップします。
お大事に。
秀吉の戦争目的は学問的に研究されていますので、
期間や相手を無視して明征伐が常に掲げられていたかのような信仰心や、
秀吉が実力行使のみで問題を解決しようとしていたかのような
史実に基づかない空想に浸ることが病を深める要因です。
是非冷静になられることをお薦めします。
秀吉の目標ってなんだったの?
明征服?朝鮮征服?大名どもが疲弊すればおk?中央集権化?失業対策の公共事業?
携帯使ってる奴が一人と断定できるのも被害妄想の為せる業?
>>40秀吉は明に向かって「明を征服する」とは言ってないんだよね。
一方で朝鮮や大名を使役するときの掛け声には使っている。
時と場所を選んで使うレトリックであることは関係書籍でも解説されているはずなんだが、読んでないのか、読んでもわからなかったか。
43 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 21:22:46.80 0
>>16 ほいほい
やっぱりでてきてたみたいだな
お前が言い出したのはハンニバル戦争とピュロス戦争だろうがw
この二人相手には内地に引き込んでの防衛戦争やってるのに
それまでの時代でローマが拡大戦争やってたから侵略側だとか
頭の悪さをみせつけてそんなに楽しいのかお前ww馬鹿の思考回路は理解できんなwww
だからお前みたいな馬鹿みたいに精神さえあれば大丈夫とかいって
指導部が必死こいて戦争継続してたナチスドイツ帝国は首都まで蹂躙されて完敗だ
大日本帝国も長引けばこうなってただけ
てか、お前の馬鹿みたいな妄想設定を使っても結局一時の有利不利云々いうなら
最終的に全面撤退の日本軍完敗、明朝鮮の完全勝利だろうがww
>>42 おう、読んでないから知らないぜ、それで出兵の目的は何なんだぜ。
そんなもの領土の切り取りに決まってるだろ。
大勝利すれば北京まで行くし大敗北すれば本土守備に必死になるってだけだろ。
カオスなことになってるな
>>43 残念!!
>お前が言い出したのはハンニバル戦争とピュロス戦争だろうが
わかりやすい捏造だな。やっぱ日本語読めないんだな
最初ローマといってたんだが。無知なお前が勝手にハンニバルとピュロスに限定
慣用表現でピュロスの勝利は出したがな
しかもハンニバル戦を
>内陸に敵を引き込んで消耗を強いた
「引き込んで」!!!!!ここは根本的に間違っている。
最終的に持久戦法に戦法が限定されただけ
さらに>イタリア半島統一、といっているのに
>ハンニバル戦争当時のローマはイタリアを征服して
と再び無知をさらす。日本語の読解力がないからそうなるんだよ
お前の世界ではローマがいきなり半島統一国家として現れたみたいだな。
二度説明させるのも逃走負け犬の典型だな
そして論破された奴の典型としてこれらの主張はガン無視して罵倒するだけ。
みじめなやつだな。
反論できないってことは自分の無知さは理解できたんだろ
理論がまだ理解出来てないのはわかるが。
49 :
世界@名無史さん:2011/07/07(木) 23:40:14.68 0
>>44 それは天正20(1592、12月に文禄と改元)年5月18日付の、太閤秀吉
から関白豊臣秀次へ宛てた25箇条の覚書(前田尊経閣文庫蔵『古蹟文
徴』所収文書)を見ることで、おおよその輪郭が浮かび上がってきます。
二十五箇条の覚書 抜粋
┌--------
一、高麗都(ソウルの事)、去二日落去候、然る間、弥急度御渡海なされ、
此度大明国迄茂残らず仰付[おおせつ]けられ、大唐の関白職御渡しなさ
るべく候事----
征服後の明国の関白に日本の関白である秀次を任命する。
http://aizax.fc2-rentalserver.com/repo5/051214.html
PCで書き込むと意味が変化するなんて言う人がいんの?
>>44解釈する奴は色々居たが、一つに絞るのは無理。最初から最後まで一つだけに絞る必然もない。しかし、概念で言えば目的は政権の維持と強化だろ?
>>45 秀吉は面子を立ててくれるなら撤兵すると交渉で言ってるが。
ウィキの立花宗茂の記事に
安東常久(立花家臣)が李如松と一騎打ちして落馬させた、とあるけどマジ?
54 :
世界@名無史さん:2011/07/09(土) 12:05:46.92 0
もういい加減秀吉を過大評価するのはやめようぜ。
農民上がりの俄か武士が120年にわたる戦乱を統一
したのはすごいけど、秀吉本人がその業績に見合う
能力を持っていたわけじゃない。
漢民族の形成に甚大な影響のあった漢王朝の創始者、高祖劉邦だって
農民上がりから天下人になったが、 後世の歴史家からは分不相応な出世
と受けてめられている。
秀吉なんかも、せいぜい5大老の一人として所領100万石の大名くらい
が分相応だ。
( ´,_ゝ`)プッ
56 :
世界@名無史さん:2011/07/09(土) 12:16:27.68 0
彼が羽柴秀吉として織田家に使えていたころは、
竹中半兵衛や黒田勘兵衛などの兵法軍学をマスター
した軍師達と相談しながら作戦を立案していたが、
彼が豊臣秀吉として織田家に変わって天下統一に
万進した以降は、石田三成や長束正家などの能吏
達に作戦を効率良く実施させるようになった。
それ以前の軍師達のように秀吉と共に作戦を立案することもなく
秀吉がほとんど一人で立てた作戦を工夫して実行に移すのが彼ら
能吏の仕事だ。
正当に評価してるから明に殴りこむつもりだった文禄の役は失敗、
南部の掃討を目的とした慶長の役は作戦成功
その成功をどういう具合に勝利に結びつける気だったのかは
秀吉が死んで戦争が終わったので不明。
>>51 政権強化のための領土拡大じゃないの?
家臣にどんどん加増して忠誠心ゲット的な。
59 :
世界@名無史さん:2011/07/09(土) 17:56:13.13 0
>正当に評価してるから明に殴りこむつもりだった文禄の役は失敗、
日本の十倍以上の人口を誇る相手に対し、ろくに準備もせず戦争を
仕掛け、結果、1年程で失敗してる。とても正当に評価したとはい
えないね(笑)
>南部の掃討を目的とした慶長の役は作戦成功
>その成功をどういう具合に勝利に結びつける気だったのかは
作戦が順調にいってると思うんなら、勝利に結びつける方法もわかるだろ?!
実際には順調になんていってないから(笑)
60 :
世界@名無史さん:2011/07/09(土) 18:10:52.07 0
>政権強化のための領土拡大じゃないの?
もしオタクのいうとおりなら、秀吉死後4年半で江戸に幕府が開かれ
豊臣家の領土も4分の1程に減らされているんだから見事に失態した
わけだ(笑)
朱印状によると、目標は南部の成敗、城の築城、
漢城より五日路も六日路もかけてやってくる明軍の迎撃
とあるから、単純に南部占領地に築城し領土化を目指した作戦じゃないぞ。
慶長の役は当初の目標を達成したといえる。そこはイデオロギー抜きで正当に評価しないと。
>>60 まぁこの指摘は正しいな、秀次を殺し秀頼の成人前に秀吉自身が死んじゃったので
豊臣政権はあっさり崩壊した。
本人は秀頼が成人するまでは生きてるつもりだったんだろうな。
63 :
世界@名無史さん:2011/07/09(土) 21:51:18.43 0
>>61 秀吉の朱印状が大雑把な為、いろいろ自分に都合のいい
解釈をしてるんだろうけど、普通に読めば南部に侵攻し、
仕置きの城を築城しろと読めるけどな。
ちなみに『仕置き』の意味について三省堂大辞林では、
(3)戦国時代、封建領主が領民を支配すること
となっているので仕置きの城とはすなわち朝鮮人を支配
する為の城のことだ。
すでに文禄の役のころに占領し支配する為の城も作ってある
南岸での新たな築城命令なわけはないだろう。
>>60 政権崩壊の原因は後継者問題であって朝鮮征伐とは関係ないな
>>59 お前の主張と笑いを入れて上から目線で煽るとこは、例の負け犬っぽいな
どちらにしろ、作戦が中断したんだから勝利の可能性がなかったとは言えんな。
それから60も似た文体だが、60は64で言った通り、関係ないことを関係あるかのように語っているので
低能さがわかる。
66 :
世界@名無史さん:2011/07/09(土) 23:20:19.11 0
>>65 >どちらにしろ、作戦が中断したんだから勝利の可能性がなかったとは言えんな.
まあ、1%ぐらいは勝利の可能性あったんじゃないか(笑)
67 :
世界@名無史さん:2011/07/09(土) 23:33:56.03 0
>>66 その数字も根拠がないので笑うほどではないな。
しかし長文煽りをする人間にしてはえらくおとなしいくなったな。
68 :
世界@名無史さん:2011/07/09(土) 23:44:39.78 0
>>67 >しかし長文煽りをする人間にしてはえらくおとなしいくなったな。
長文煽りって?
>>63 いや、秀吉は小早川隆景に宛てた書状の中で沿岸部に築かせた橋頭堡的な城郭群のことも「仕置の城」と呼んでいるわけだが
それに小西行長の「仕置の城」が全州会議の時点で順天に築かれる方針だったことはどう説明するんだ?
八月中旬の全州会議で「御仕置きの城々、おのおの惣談相定まり」、
その後全羅道・忠清道の掃討を完了してから十月下旬に泗川城が、十一月初旬には蔚山城の築城が始まってるんだから
これらの城が秀吉の書状にある「仕置の城」と見るのが自然だろう
逆に「仕置の城々」が内陸に築かれる予定だったという根拠となる書状とか、資料ってあるのか?
今まで一度も出てきてないよな
71 :
世界@名無史さん:2011/07/10(日) 01:37:26.85 0
>>69 文禄の役でのことだろ。
新たに占領したばかりの朝鮮半島南岸に仕置きの城を作らせても
なんら不思議じゃない。
小西行長の順天城については推測だが対馬の宗義智と一緒に講和交渉を行った
関係から、慶長の役においても明国との交渉役を担当するのに便利だから
じゃね?
72 :
世界@名無史さん:2011/07/10(日) 01:40:41.91 0
>>70 慶長二年の立花家朱印状の第一条と第二条をつなげて読めば
内陸の新しい占領地に仕置きの城を作ることを命じているとしか
読めないが。
それは「領土の割譲が目的なんだから占領地を手放すなんて不自然だ」
って思い込みだな。
>>72 それだと諸大名が秀吉の指示を無視して独断で南岸部に城を築いたことになるぞ
そのことについて諸大名が秀吉に対して申し開きをした書状でも残ってるというならわかるが
あと小西の城が順天にあるとなんで交渉に便利になるんだ?意味がわからん
>>74 72じゃないけど、順天は唯一全羅道に食い込む飛び地で
実質最前線になるからでしょ。
>>75 いや、全羅道・忠清道を掃討した後、その内陸部に仕置の城を築く予定だったというのが
>>72の主張だから
そうなったら順天って最前線どころかかなり後ろの方になるでしょ
諸大名が秀吉の命令を無視して南岸部に城を築いたと考えるよりは、
「仕置の城は海辺に築け」という休戦期間中の秀吉の方針が慶長の役でも継続されていたと考えるほうが自然でしょう
休戦期間中の「仕置の城」も慶長の「仕置の城」も在番組と帰朝組を定期的に入れ替える点で共通してるわけだし
なるほど慶長二年の立花家朱印状だけ読めば、
「この仕置の城とは内陸の支配用の城のことだ」と考えたとしても不思議じゃない
しかしその他の様々な資料に目を通せば違う結論が見えてくる
どう考えても諸大名が「仕置きの城の配置が決まりました!」と秀吉に
報告した1ヵ月後に南岸に赴いてるんだから「内陸部に築け」というのは
デタラメだろ
>>76 他と違って小西の城は「全羅道に築け」と指定されていたから。支持通り。
80 :
世界@名無史さん:2011/07/12(火) 22:52:50.34 0
>>73、
>>77 >なるほど慶長二年の立花家朱印状だけ読めば、
>「この仕置の城とは内陸の支配用の城のことだ」と考えたとしても不思議
>じゃない
だったら素直に認めればいいじゃん。慶長の役の作戦目標は、内陸の新たな
占領地に仕置きの城を作ることだったって。
>「仕置の城は海辺に築け」という休戦期間中の秀吉の方針が慶長の役でも
>継続されていたと考えるほうが自然でしょう
「全羅道・忠清道を掃討した後、一度南岸に撤退して仕置きの城を増設しろ、
そして慶長4年からの再進攻までは城に立て籠もり、明・朝鮮軍の攻撃も
籠城して迎え撃て。」
という意味合いの秀吉の朱印状をソースとして出せばいいじゃん。
81 :
世界@名無史さん:2011/07/12(火) 22:55:22.19 0
>>78 >どう考えても諸大名が「仕置きの城の配置が決まりました!」と秀吉に
>報告した1ヵ月後に南岸 に赴いてるんだから「内陸部に築け」というのは
>デタラメだろ
慶長二年の立花家宛の朱印状のとおり実行するだけなら、再進攻から1ヶ月程
の八月中旬に在地諸将が集まって全州会議を開催する必要なんてないんだが。
秀吉の命令があまりにも漠然とし、なおかつ現地の実情を無視したもの
(たとえば最優先事項である全羅道民の無差別殺戮)なので、在地諸将が現地
の実情に沿った形で作戦計画の詳細を決める為の会議だったのだろう。
82 :
世界@名無史さん:2011/07/12(火) 22:57:26.76 0
前スレで紹介された九州大学比較社会文化研究院の中野等はその著書
「秀吉の軍令と大陸侵攻」 において、
316頁で「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」として皆殺しの対象だった全羅道民
に対しても、方針を転換し、敵対する者以外は掃討の対象から外し、それが
終わったら仕置きの城々を作る手筈となっていたが、詳細はわからないが戦況
に影響されて計画どおり仕置きの城々を作れなかった、と主張している。
また317頁ではその理由として左軍による全羅道での食糧調達がうまくいかず、
それは朝鮮王朝による清野作戦(焦土作戦)によるものではないか、と根拠
も提示せず主張しており、南岸へ撤退した理由の様に読者を誘導している。
>>81 >>慶長二年の立花家宛の朱印状のとおり実行するだけなら、再進攻から1ヶ月程
の八月中旬に在地諸将が集まって全州会議を開催する必要なんてないんだが。
なんでそうなるの?秀吉は
国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
全羅道の成敗とその他忠清道などの成敗せよ
といった後に
右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割
符、丈夫ニ可申付事。
と相談して仕置きの城の配置を定めよと言ってるじゃん。全州会議なんて指示通りそのままでしょ。
84 :
世界@名無史さん:2011/07/13(水) 00:03:47.02 0
>>83 >全羅道の成敗とその他忠清道などの成敗せよ
ふーん、8月中旬の全州会議の時点で全羅道民の皆殺しや
忠清道他への侵攻も完了してたんだ(笑)
初めて聞いたよ。
>>84 こいつ本当に頭悪いなぁ(笑)それに相当暇人だな(笑)一日中張り付いてやんの(笑)
いいか低脳ニート
全州会議の結果、諸将は秀吉に以下のことを報告している。
一、先度自全州、御使衆ニ如申上候、青国へ相動。國中過半発向仕、夫
赤國うち相残りおり、各到割付、発向仕半ニ御座候、隙明申次次第、御仕置城
御普請ニ取掛り可申候事
そしてそれが終わると、秀吉自身全羅道と忠清道での敵軍の成敗が完了して南岸に城を築くこと
に満足してるんだよ
赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出、仕置之城拵、其方居城之由、尤ニ思召候
黒田長政宛 秀吉朱印状
それと質問な。全羅道と忠清道で日本軍が南岸に撤収するまでがんばった明・朝鮮の
部隊って何(笑)お前が全羅道と忠清道の討伐が完了していないと思うんなら当然言えるよな(笑)
俺はお前みたいに暇じゃねえから20時間以降にまた見に来てやるよ(笑)
86 :
世界@名無史さん:2011/07/13(水) 01:33:13.58 0
>>85 お前って本当に頭悪いな(笑)
まだ気づかないんだから。
秀吉は慶長2年の立花家宛ての朱印状で
「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」
と最優先事項として全羅道民の皆殺しを命じているんだぞ。
お前の頭の中では日本軍は全羅道民を皆殺しにしてるんだな(笑)
だったら全羅道民を皆殺しにしたソースを出せや(笑)
というか、百歩柚って仕置の城が本当に内陸に築かれる予定だったとしたら
色々と矛盾が出てくるんだけどな
諸大名が秀吉の「内陸に仕置の城を築け」という指令を無視して沿岸部に城を築いたのは何故か、
それについて秀吉に申し開きすらしなかったのは何故か、
それに対して秀吉が叱責を加えなかったのは何故か、
そもそも当時、破竹の勢いでさしたる抵抗も受けていない日本軍が、急遽沿岸部まで撤退したのは何故か
全州会議の時点で方針を転換して占領地を維持せず掃討するだけにとどめ
内陸に作るはずの城を南岸に城を作ることでお茶を濁すことにしたとすると、
さぞ会議は紛糾したうえに秀吉は激怒しただろうな。
89 :
世界@名無史さん:2011/07/13(水) 21:24:00.84 O
飽きないねえ
朝鮮人が粘着してるの?
>>86 まだ気付いてないのはお前だよアホ(笑)本当にアホすぎ(笑)
「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」のどこで全羅道民を皆殺しにしろと読み解けるんだ(笑)
頭に蛆でも湧いてんのか(笑)
日本軍が全羅道と忠清道で明・朝鮮軍ら反日本軍分子を蹴散らすと秀吉は輝元宛に
全羅道・忠清道を征伐し平均したから渡海せずとも良いと言っている。つまり、秀吉の標的は
間違っても全羅道民(笑)ではなく、全羅道・忠清道の明・朝鮮軍ら反日本軍分子を悉く蹴散らす
ことだったと読み解けるわな(笑)
急度被仰遣候、朝鮮先々動之儀、平均ニ申付候間、其方渡海之儀、無用候
輝元宛秀吉朱印状 慶長二年十月五日
それとさっきの黒田長政宛にも「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出」と全羅道・忠清道での成敗が
完了してることを秀吉は認めているんだよ。ここでも、秀吉の計画には86みたいなアホな全羅道民皆殺し(笑)
なんて馬鹿な発想は微塵もなかったことがわかるわな。というか書状示してやってるのに読みもせず、質問にも
一切答えられず妄想で反論してくるこのアホは一体なんだ(笑)厨房引きこもりか(笑)
91 :
世界@名無史さん:2011/07/14(木) 00:44:47.22 0
>>90 赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
だったらお前にはなんて読めるんだ(笑)教えてくれよ(笑)
それに黒田長政への朱印状って慶長2年12月のことだろ。
慶長2年2月立花家宛ての朱印状とは10ヶ月も違うじゃん
九州大学の中野等はその著書「秀吉の軍令と大陸侵攻」
の316頁で「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」
として皆殺しの対象だった全羅道民に対しても、方針を転換し、
敵対する者以外は掃討の対象から外したと主張している。
>>91 成敗するのは当然敵だわな。常考。
味方を成敗してどうする?
中野等が権威ある歴史学者なのは確かだけど
今だに「日本戦史 朝鮮役」の記述を無批判に受け入れちゃう人でもあるからなあ
学者だからといって全部鵜呑みにしない方がいいよ
一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割
符、丈夫ニ可申付事。
>>91 がたびたび話題に出す↑この朱印状についてなんだが、面白いものを見つけたぞ
上の朱印状の記述について、以前このスレでは
「全羅道を残さず悉く成敗し、さらに忠清道やその他にも進攻せよ。それが済んだら仕置きの城を築き、
在番の城主を決めてそれ以外は帰国せよ。」と意訳されていた
でも、共立女子大学教授の北島万次は、著作「秀吉の朝鮮侵略」の中でこう解釈してる
・・・「慶尚道南岸にある倭城の守りを固め、朝鮮の穀倉地帯である全羅道攻略に当面の狙いを絞り、
ついで忠清道、さらに京畿道へと進撃せよというものであった」
あと韓国の国防史学会長である李烱錫も、著作「壬辰戦乱史」の中でこう意訳してるんだ↓
・・・「赤国を漏れなく攻略し、青国はなるべく攻略すべし。作戦終了次第各築城区分に従い、
城主を決めて修築普請に粗漏なきように致し、引き上げ隊の帰還を容易にすべし」
何が言いたいのかというと、上の朱印状の記述は「城の新築」というよりは
すでに沿岸部に築かれていた「仕置の城」の「修築」の指示だったのではないかということ
「普請」という言葉は「建設」と「修築」両方の意味を持つからな。思わぬ落とし穴だ
慶長の役の築城が休戦期間中の築城と比べてはるかに少なかったこともこれなら辻褄が合う
95 :
世界@名無史さん:2011/07/14(木) 22:07:43.67 0
>>91 お前アホすぎるだろ(笑)お前読むことすらできないのか(笑)
>だったらお前にはなんて読めるんだ(笑)教えてくれよ(笑)
もう一回言ってやるよ(笑)日本軍が全羅道と忠清道で明・朝鮮軍ら反日本軍分子を蹴散らすと
秀吉は輝元宛に全羅道・忠清道を征伐し平均したから渡海せずとも良いと言っている。
つまり、秀吉の標的は 間違っても全羅道民(笑)ではなく、全羅道・忠清道の明・朝鮮軍ら
反日本軍分子を悉く蹴散らすことだったと読み解けるわな(笑)
急度被仰遣候、朝鮮先々動之儀、平均ニ申付候間、其方渡海之儀、無用候
輝元宛秀吉朱印状 慶長二年十月五日
>慶長2年2月立花家宛ての朱印状とは10ヶ月も違うじゃん
おいおい(笑)また、読んでねえなこのアホ(笑)
黒田長政宛の手紙は、全羅道と忠清道を成敗したことを主眼に言っているのではなく
全羅道と忠清道の成敗が完了して、黒田長政が南岸の梁山城に配置されたことに関して
秀吉は満足の意を表明してるんだよ。本当にアホだな〜(笑)ちなみにこの書状からも秀吉の
意に逆らって日本軍が南岸に撤退したわけでもなく、秀吉が全羅道と忠清道の成敗が完了して
いたと認識していたことも明快にわかるな〜(笑)
>九州大学の中野等は〜敵対する者以外は掃討の対象から外したと主張している。
恥ずかしい奴だな(笑)自分の言葉で反論できないから「九州大学の中野等が(笑)」
なんて恥ずかしいことを言う(笑)
中野等が(笑)なんて言わず、お前が秀吉の全羅道民皆殺しにしろという秀吉の書状(笑)と
作戦の失敗を伺わせる書状や秀吉の叱責なり示さなければお前のアホな妄想
「全羅道民の皆殺しの失敗により、日本軍は全軍撤退し南岸に追い詰められた(笑)」が
成り立たなくなるぞ(笑)
97 :
世界@名無史さん:2011/07/14(木) 23:23:31.49 0
98 :
世界@名無史さん:2011/07/14(木) 23:26:07.26 0
>>95 >お前が秀吉の全羅道民皆殺しにしろという秀吉の書状(笑)
「一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付」これを訳してみろ。
>>97 「青国其外之儀者、可成程可相動事」、つまり「青国はなるべく攻略すべし」なので
秀吉の指示はあくまでも「なるべく」だから必ずしも青国全域を掃討する必要はない
100 :
世界@名無史さん:2011/07/14(木) 23:46:13.24 0
>>99 なんか、どんどん話がすりかえられているんだが(笑)
慶長2年12月の黒田長政宛朱印状では
「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出、仕置之城拵」
と赤国(全羅道)及び青国(忠清・京畿両道)を
悉く平均(平定)したら梁山に仕置の城を作れって
言ってるんだぞ。
青国(忠清・京畿両道)を悉く平定したらだぞ。
>>97 ほう、青国が忠清道と京畿道のことだとして慶長の役の発令に
京畿道にある重要拠点である当時の首都の漢城の「漢」の文字もないのはなぜだ(笑)
京畿道に青国を含むとして輝元宛や長政宛に「赤国と青国を平均した」とあるのはなぜだ(笑)
京畿道に青国を含むとして全州会議の結果、秀吉への報告に「青国へ相動、国中過半発向仕」
と報告し手をつけていないはずの京畿道を無視して「過半に攻め入っている」としたのはなぜか(笑)
京畿道に青国を含むとして秀吉の意向を無視した諸将に対して叱責しなかったのはなぜか(笑)
京畿道に青国を含むとして諸将が秀吉の意向を無視したのはなぜか(笑)
答えは簡単。青国とは「忠清道」だと秀吉たち日本軍が認識していたからに他ならない。
それを否定するのであれば、上記の矛盾点が一気に現われることになるわけだ(笑)
>>100 それおかしくね?
その黒田長政宛の書状って
赤国青国ことごとく平定して梁山に城も築いたようだし満足してるよ、
っていう内容でしょ?
103 :
世界@名無史さん:2011/07/15(金) 00:09:38.44 0
>>101 「あった歴史よりあるべき歴史が重要」
お前の歴史認識だな(笑)
お前がどう考えようと勝手だが、秀吉にとって青国は
忠清道と京畿道のことなんだよ。
豊臣秀吉は朝鮮の地図のうち、慶尚道に白色、全羅道に赤色、
忠清道と京畿道に青色を塗り、それぞれ、白国、赤国、青国
と呼んだ(北島万次氏「秀吉の朝鮮侵略」山川出版社 2002年)。
>>100 おいおいなんでそうなるんだ(笑)この書状が出されたのは、南岸に引き上げた後で城が
築かれている時期だ。「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出、仕置之城拵、
其方居城之由、尤ニ思召候」の後に続くのが「普請衆者、出来次第、可為帰朝候間、
いよいよ有付、在城肝要に候。寒天の時分、辛労共候。」とある。つまりは、城が出来次第
普請衆は帰朝することとしっかり梁山城に在城して努めるように言ってわけで、新たに
「赤国及び青国を 悉く平均したら梁山に仕置の城を作れ」なんて読めねえわな(笑)
105 :
世界@名無史さん:2011/07/15(金) 00:22:39.44 0
>>104 またまた話を摩り替える(笑)
おれが言いたいのは
「赤国青国相動、悉く平均申付梁山へ罷出」
赤国(全羅道)及び青国(忠清・京畿両道)を
悉く平均(平定)の部分が間違っていることを
指摘したんだ。
全州会議(再侵攻の初期)の時点で城を作る場所を決めて、
それに秀吉も何にも怒らなかったんだから、当初の作戦通り南岸に撤退した
で決定だろ。
文禄の役の時の平壌の小西行長隊1万を敗走させた2万の明軍、みたいなのも存在しなかったわけだし。
107 :
世界@名無史さん:2011/07/15(金) 00:39:16.54 0
1つには、全羅道ほかでの食糧確保が困難だったこと。
2つには、稷山の戦いで(日本軍3万対明軍4千)改めて明軍の実力を
確認したとこから、その本格的来襲を前に倭城構築が間に合わない
と考えたからだろう。(実際、蔚山城の戦いでは未完成の蔚山城が
明・朝鮮軍に攻められている)
>>105 話をすり替えてるのはお前だよ(笑)上記の矛盾点には一切答えられないし
100ではどうどうと「悉く平均したら梁山に仕置の城を作れ」と文章を捏造した
にも関わらず、論破されると「本当は平均(平定)の部分が間違っていることを
指摘したんだ。」なんて恥ずかしげもなく言えるんだもんな(笑)
なんとこのアホは秀吉が間違ってて、ボクが正しいんだそうだ(笑)
それと京畿道の制圧を秀吉が計画していなかった証拠に清正宛の朱印状に
「京畿道境目鎮川まで押し詰め、発向せしめ、其れより中手一所に申し談じ、清州へ打ち入り
又手別け致し、古都慶州に至りて打ち入り、去る月八日に蔚山に罷り出で候由、尤もに候。」
と京畿道の境目まで攻め寄せて尚且つ慶州まで攻め入ったことに満足しているんだよ。
境目までで清正が反転し慶州に赴いたことを「尤もに候」と秀吉が言ってるということは
秀吉のいう青国に「京畿道」が含まれていなかったことがわかるわな(笑)
109 :
世界@名無史さん:2011/07/15(金) 00:50:53.22 0
だいたい秀吉は、慶長2年2月の朱印状において、赤国や青国他への成敗が終わった
あとで仕置の城について諸将で協議しろって命令してるんだから。
赤国への成敗の途中であり、青国他へは攻め込んでもいない8月20日に
全州会議を開いて仕置の城について協議している時点で秀吉の命令に反している
んだが(笑)
結局、秀吉の命令があまりにも現状を認識していないため、派遣諸将の反発を買って
早くも8月の時点で変更させられているわけだ。
なんといってもこの戦争は派遣諸将の自腹で行われているのだから。
>>107 >>94を読んでみたらどうだ
大体、全州および井邑の会議の時点で城郭普請の割り当てが決まってるのに
なんでその後に起こった稷山の戦いが沿岸部撤退の原因になるんだ?
>>109 一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割
符、丈夫ニ可申付事。
慶長2年2月の朱印状には「作戦終了次第、各築城区分に従い普請せよ」としか書いてない
赤国・青国掃討が終わってない時点で普請の割り当てを協議計画してもなんら命令違反には当たらないわけだが
112 :
世界@名無史さん:2011/07/15(金) 01:01:57.12 0
>>108 はいはい、あった歴史よりあるべき歴史
あった歴史よりあるべき歴史が重要だろ(笑)
朝鮮半島の色分けは慶長の役をはじめる際に
秀吉が決めたことなんだぞ。
そこで忠清道と京畿道をあわせて青国としてるんだから
当然、青国成敗とは忠清道と京畿道の成敗に決まってるジャン。
清正への朱印状なんてその後の話ジャン。
その間に作戦目標を変更したんだろ(笑)
青国掃討については「なるべく」(可成程可相動事)
だってことを忘れてないかw
忠清道を掃討できた時点で秀吉は大満足とまではいかなくとも妥協したんだろ
114 :
世界@名無史さん:2011/07/15(金) 01:19:08.71 0
>>111 一、右動相済上を以、仕置之城々、所柄之儀各見及、多分ニ付て、城主を定、則普請等之儀、爲帰朝之衆、令割
符、丈夫ニ可申付事。
この文章をどう読むと「作戦終了次第、各築城区分に従い普請せよ」と読めるんだ。
それに各築城区分に従い普請せよって、各築城区分っていつ定めたんだ。
まさかそれが全州会議だと言いたいの。
もしそうなら慶長2年2月の朱印状の中に、そのことについての命令がないと
おかしいじゃん(笑)
>>112 >当然、青国成敗とは忠清道と京畿道の成敗に決まってるジャン
決まってるジャン(笑)なんてガキみたいなこと言ってないで上記の矛盾点を
明快にしたらどうなんだ(笑)
>その間に作戦目標を変更したんだろ(笑)
妄想で自説を補完するのは構わんが脳内だけにしてくれ(笑)そう思うなら書状なり
それを伺わせるものを提示してから書き込めよ(笑)
>>107 じゃぁ何でその後北上するんだ?
全州会議の時点で占領地の確保というお前が主張する初期目標を放棄するなら
さっさと撤退すれば良いじゃん。わざわざそこから北上する意味がない。
他の人も言ってるが時系列間違ってるし。
117 :
世界@名無史さん:2011/07/15(金) 01:34:26.87 0
>>113 慶長2年2月の朱印状ではな。(正確には青国他の民衆を
赤国と同様に出来るだけ不残悉一篇ニ成敗しろとの命令だがな。)
ただ、慶長2年12月の朱印状では「赤国(全羅道)及び青国(忠清・
京畿両道)を悉く平均(平定)」と言っている。
>>115 お前はまた話を摩り替える。
慶長2年2月の朱印状での命令はすべての
諸将宛の命令だろ。
加藤清正個人への命令と内容が違っても
問題ないじゃん(笑)
>>107 え?稷山で黒田軍と解生軍が遭遇戦をしたあと、日本右軍は竹山まで北進しているし、明軍は漢城まで後退している。
ま、秀吉は漢城を落としても戦争が終わらないことは知っていたし、全羅道の無力化が戦略目標だって書いてあるのに何で読めない人がいんの?
>>117 俺が言ってることに全く答えないし、何回も同じようにわかりやすく
説明してやってるのに、全然考えずにレスするよなこのアホ(笑)
おそらく反論できないから同じこと繰り返して虚勢を張ってるだけなんだろけど(笑)
もう一回いってやるよ。輝元と長政宛の書状に「赤国青国を平均した」とあるということは秀吉の標的に全羅道民
が含まれておらず「赤国不残悉一篇ニ成敗申付」とは全羅道の反日本軍分子の掃討にあることは明白だな(笑)
ちなみに軍目付熊谷直盛は「百姓等命を助け、屋宅無放火、彼ら望様還住被仰付候」と全羅道の民へ危害を
加えることを禁止し還住するように勧め、還住した百姓には「郡之上官侍分之有家をつけしらせよ、さなくは
搦ても来たれ」と隠れている朝鮮軍の将兵を密告するか捕らえて連れこいと言っている。ここでも日本軍が
全羅道民皆殺しなんてことを考えていなかったことと標的が反日本軍分子だったことがわかる(笑)
それでも自分の妄想を押し通したいなら、全羅道民が標的だという秀吉書状とその中止命令なり秀吉の叱責なり
がないと「全羅道民の皆殺しの失敗により、日本軍は全軍撤退し南岸に追い詰められた(笑)」が成り立たなく
なるぞ(笑)
>>加藤清正個人への命令と内容が違っても問題ないじゃん(笑)
ほう(笑)青国に京畿道を含むとして「京畿道の制圧を中止せよ」という諸将宛の命令書があるのか(笑)
見せてくれよ(笑)その論理だと自説が崩壊することすら気付かないのか(笑)
個人宛の手紙だから命令違反しても良いというのも笑える発想だけど(笑)
ちなみに秀吉は「先手動之儀、各以相談之上、多分ニ付、可随其候、ぬけかけに、一人二人として
申やふり候者曲事たるへき事」と諸将が合議して抜け駆けするようなことがないように厳命していることから
清正の反転を秀吉が「尤もに候」と満足しているところからも、秀吉が清正の行動を日本軍全体の意に反して
独自に判断したと看做していないことと京畿道の制圧する計画がなかったことがわかるよな(笑)
それと早く、制圧目標に京畿道を含むと噴出する多くの矛盾点を明快にしてくれよ(笑)
どうせ話をすり替えた関係ないレスするか、あるいは同じことを繰り返し言ってはぐらかして逃走するん
だろうけど(笑)
いくら言っても無駄だろうよ
どうしてでも「朝鮮民衆の抵抗と明軍を前に日本軍は敗れ、沿岸部へと逃げ帰った!」
という物語を作りたいんでしょ
どうせこれからも話題を逸らすか、的外れなレスを続けるんだろう
そうだよな、現実的に掃討地帯で実施された政策は、
上官狩り
百姓の帰農奨励
などだから。
秀吉も掃討対象は一揆ばらだって指示しているし。
122 :
世界@名無史さん:2011/07/16(土) 12:07:25.91 0
まあ、お前らが慶長2年2月の立花家宛て朱印状の意味が
一、赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。
(全羅道は残らず一篇に成敗しろ、忠清道・京畿道他についてもなるべく
成敗しろ。)
大好きな秀吉がこんな無茶な命令を出すわけねえ、と現実を受け入れられない
のはわかるけど(笑)
秀吉はかつて奥州仕置きが終わった後、検地についてこういう命令を出している
123 :
世界@名無史さん:2011/07/16(土) 12:14:26.75 0
検地について命令された趣旨を,奉行たちは土豪や百姓たちに納得
がゆくように,よく申し聞かせるようにせよ。もし納得しない者があれば,
城主であればその城へ追い込み,奉行たちが相談のうえ,一人残らずなで
斬りにせよ。百姓以下の者たちで受け入れない場合には,一郷でも二郷
でもすべてなで斬りにせよ。
124 :
世界@名無史さん:2011/07/16(土) 12:17:51.26 0
日本国中60余州に厳しく申しつけ,
出羽・奥州の奥地までいいかげんにしてはならない。
たとえ,土地を耕す者がいなくなっても構わないから,秀吉の命令通り徹底
せよ。山の奥,船の行ける所まで入念に実施せよ。
もし奉行たちが手ぬきするようならば関白秀吉自ら出向いてでも命令するで
あろう。 必ずこの命令の返事をするようにせよ。
(天正18年)8月12日 (秀吉朱印) (浅野家文書)
内政においてもこのような姿勢を見せる秀吉が文禄の役で反日義兵闘争を行
った全羅道民他に対してこのような姿勢を取るのはとうぜんだわな。
ところで掃討範囲の話題に移ったということは、
城は当初から南岸に作る計画だったというのは異論がなくなったのか?
アゲ馬鹿は戦線を維持できませんでした。
論破されても論破されても話題を摩り替えては食い下がる馬鹿ですからw
128 :
世界@名無史さん:2011/07/17(日) 01:09:45.53 0
大体、秀吉が派手に打ち上げた命令が、三成他の説得で有名無実化したこと
など過去にも何度かあった。
天正18年の天下統一後に太閤検地を始める際の「納得しない者は撫で斬り」
なども有名無実化している。その為、秀吉の命令どおり、納得しない農民を
一郷でも二郷でもすべて撫で斬りにした上杉景勝などは三成から非難されている。
また、文禄の役後の和平交渉においても秀吉からの派手な要求(明の皇女を
天皇に嫁がせる事や、朝鮮南部の割譲などを)行長などが秀吉の了承を得ない
まま変更して明国と交渉したことになっているが、
129 :
世界@名無史さん:2011/07/17(日) 01:13:15.81 0
それだと交渉決裂後も行長が罰せられていないのはおかしい。(ちなみに行長
のカウンターパートナーである沈惟敬は斬首刑になっている。)
また、行長らの和平交渉の欺瞞を秀吉に訴えた清正は閉門蟄居にあっている。
結局、太閤検地における「納得しない者は撫で斬り」にしても明国との和平交渉
における明の皇女を天皇に嫁がせる事や、朝鮮南部の割譲なども三成・行長らの
説得に秀吉が応じて有名無実化したんだろう。
130 :
世界@名無史さん:2011/07/17(日) 01:15:25.97 0
これについて、東京大学史料編纂所助手(当時)の山室恭子は「黄金太閤-夢
を演じた天下人-」の中で明使を迎えての和平成立直前に起こった『伏見大
地震』による震災で方広寺の大仏開眼供養会が中止せざる負えなくなったこと
が、秀吉の権威を大いに傷つけ、結果、講和交渉を受け入れられなくなった
(傷ついた権威を回復しないまま征明事業の失敗を受け入れられない。)と
主張している。
同じように慶長2年2月の朱印状で命じた「全羅道は残らず一篇に成敗しろ」も
三成・行長らの説得で有名無実化したんだろう。
プロパガンダだけ見て満足しても踊らされるだけさ。
実際に取られた政策やその修正から目的と手段を検討しなくてはね。
それとは別にプロパガンダの対象や時期そして効果については考察されて然るべき。
もし仮に「不残悉一篇ニ成敗申付」が殲滅戦の指示命令であるならば、秀吉は常識の範囲(ルール)で戦う国内戦と違って対外戦争に適応した優れたリーダーと評価してくれるのかな?かな?かな?
>>129 >行長などが秀吉の了承を得ない まま変更して明国と交渉したことになっているが、
>それだと交渉決裂後も行長が罰せられていないのはおかしい。
いや、行長は欺瞞外交が発覚したとき秀吉の逆鱗に触れて殺されかけてるぞ
行長本人が「この交渉は奉行衆も承知のうえでのこと」と必死に弁明し、
また西笑承兌や淀殿の取り成しもあってかろうじて死罪を免れてる
>また、行長らの和平交渉の欺瞞を秀吉に訴えた清正は閉門蟄居にあっている。
これも違う。清正が行長らの欺瞞外交を秀吉に訴えたことはない。
清正は独自の交渉ルートをもって秀吉の掲げる講和条件を明・朝鮮側に伝えようとしたが、
これを邪魔に思った三成・行長らが「清正が講和交渉を妨害している」と秀吉に讒言し、
清正を蟄居処分に追い込んだというのが本当のところ
>明国との和平交渉 における明の皇女を天皇に嫁がせる事や、
>朝鮮南部の割譲なども三成・行長らの 説得に秀吉が応じて有名無実化したんだろう。
それはない。大阪城で明使節を饗応した際、笑承兌に明皇帝の誥書を読み上げさせているが
その誥書の中で秀吉が提示した講和条件については一切触れられていなかったことで秀吉は激怒し、
再派兵を命じてるんだから
134 :
世界@名無史さん:2011/07/17(日) 11:38:24.32 0
>>132 なんでそんなに秀吉を過大評価したいんだ(笑)
お前の先祖かなにかか?!(笑)
仮にもなにも「赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相
動事。(全羅道は残らず一篇に成敗しろ、忠清道・京畿道他についてもなる
べく同じようにしろ。)これに他の訳し方があるなら教えてくれよ(笑)
だいたい慶長2年8月以降、日本軍の全羅道他での行為を理由に半年遡った
同年2月の朱印状の意味を勝手に解釈するなんてめちゃくちゃなんだが(笑)
そんなことだから「あった歴史よりあるべき歴史が重要」な妄想史観に陥るんだ。
135 :
世界@名無史さん:2011/07/17(日) 11:48:21.73 0
>>133 秀吉の又従弟である加藤清正に対する讒言と絡めると死罪を免れたって、
領土没収なり、閉門蟄居なりになってもいいのにな(笑)
そして行長から没収した領土を清正が貰えば晴れて肥後一国の大名に
なれるのに。
イデオロギーや善悪抜きで客観的に評価すると、
慶長の役は作戦目標を達成したことになる。
前スレからの議論を見ると、そう評価するしかない。
>>12 20万の兵と2000の戦艦を九州南部から上陸させるなんて万暦の三征が無くても不可能、
楊応龍の乱の鎮圧には20万以上の兵を動員してるけど、そりゃ豊かな土地で起こった反乱だから。
陸路とは言え朝鮮の役じゃ明側も枯れた朝鮮の地じゃ兵站の維持が困難だから
10万の兵隊を駐屯させるのが精一杯になる。
それを1000キロ超の海路を20万の軍隊を動員し他国に攻め入るなんて無茶苦茶。
征服相手がインカやアステカならともかく。
しかも秀吉に明征服が容易であると勘違いさせた弱い弱い華南や中原の弱兵を率いて、
倭国に乗り込むってのも自殺行為。
曲りなりにも、文禄、慶長の役で朝鮮に来てた明軍は明国の精鋭中の精鋭。
あと、兵隊に献上する土地や女の問題もあるし(島津が薩摩大隅を明軍に献上するのかw)
>>12は歴史のIFにすらならない妄想。
>>135 慶長の役で秀吉が小西行長に再び先鋒を命じたことには
立功贖罪(功を立てて罪を償うこと)の意味合いもあるよ
あと小西を所領没収なり蟄居処分にするなら
三成ら奉行衆も同様に処罰しなくちゃならなくなる
>>137 豊かな九州南部なら、20万の軍なら維持可能だろ。
上陸後、日本勢に勝利するのは難しいだろうが。
140 :
世界@名無史さん:2011/07/17(日) 20:26:33.44 0
>>138 秀吉の名を騙り、勝手に欺瞞外交を行った行長に対しても叱責することしか
できない慶長年間の秀吉なんて恐れる必要ないね(笑)
慶長の役に際しても、「全羅道は残らず一篇に成敗しろ、忠清道・京畿道他
についてもなるべく同じようにしろ。」の命令なんか適当に流しても問題
ないや(笑)
こいつはもう駄目だな。
>>140 何が言いたいのかよく分からんが
そうやって物事をなんでも斜めに構えて見ようとするのはやめた方がいいぞ
143 :
世界@名無史さん:2011/07/18(月) 08:16:11.76 0
全羅道は残らず成敗して忠清道と京畿道もなるべく成敗して輝元に作戦は終わったから
もう渡海しなくて良いよって書状を出してるのだから、掃討作戦は完遂されたんだろう。
全州会議の時点で城は南岸に作るって決めたのだから最初から南岸に作る予定だったのは明らかだし
掃討範囲も作戦通りに掃討された、慶長2年8月と9月の反日勢力掃討作戦は成功したといえる。
朝鮮には明の小部隊しか居なかったのだから当然といえば当然か。
慶長の役は朝鮮民衆の抵抗と明軍の来援で戦線が硬直した文禄の役の焼き直し
って従来の説明は間違ってたわけか。
>>144 従来の説を広めた奴らってのが恐ろしい
昔言われてた主張を資料も無く妄想のみで強硬に嘘だと主張して
それを広く公共に認めさせて、嘘で塗り固めた持論を普及させるなんて
超一級の詐欺師だと思う
文禄の役は李瞬臣も活躍してたよな
昔は慶長の役は朝鮮南西部の掃討作戦だよ、掃討が完了したので南岸に作った拠点に撤退したよ
って説明されてたの?
>>148 実はその点については江戸時代の征伐史観の方が正鵠をえていたという皮肉。
しかし一方的だから色々他に問題を抱えた史観であることは否定しない。
山鹿素行の「武家事紀」には
「大明の加勢が百万も出てきたが、本朝(日本)の小勢に敗れて勝つことができなかった。
これは本朝の勇武の道が三国に比べようがないからである。秀吉の死去によって、その功は完全とはならなかったが、
本朝の武威が異国に輝いたのは、神功皇后以来、秀吉の世が初めてのことである」
とある。
山鹿素行は朝鮮役を日本の武威を異国に轟かせた戦役として肯定していたようだ
山鹿素行はネトウヨの元祖
赤穂浪士の赤穂藩の師範だったっけ
間違いじゃないんだろうが確かに一方的だw
157 :
世界@名無史さん:2011/07/19(火) 20:44:32.33 0
元冦の頃も逆に侵攻を計画してたんだよね
朝鮮側の報復行為がまったくないな。
159 :
世界@名無史さん:2011/07/20(水) 20:53:41.11 0
小国の知恵
いまぎゃあぎゃあ言うのもある意味小国の知恵だった
愛国心は最初は必要だったが今は国益を損ないかねないほど高揚しちゃった
北京の明政府にしてみれば迷惑な侍どもが帰ってくれてやれやれというところで
戦火を拡大したいとは思わないだろ。
大本営発表だから明本国だと微妙かもしれん
しかしウィキの碧蹄館の戦いのページ、
明軍の編成は右軍が張世爵だとか左軍が李如梅だとか、
援軍の楊元の兵力が5000人だとか、一体どの資料に載ってるんだ?
「日本戦史・朝鮮役」にも「近世日本国民史」にも「壬辰戦乱史」にも
そんなことは書いてなかったが
明らかに間違いなら修正しちゃえー
[要出典]でおk
>>162 あぁ、あれは中文の数字をそのまま引き写したものだよ。
たぶんあっちのユーザの仕業。
中文のままだとさすがに酷いので(合計で1万2千にしかならない)、
日本側史料で確認が取れる先鋒だけをとりあえず書き換えた形に
なってる。
明軍の先鋒が10000人というのは「日本戦史・朝鮮役」が根拠だろうな。
で、その「朝鮮役」はというと「天野源右衛門覚書」の記述を元にしていると思われる
同書では十時伝右衛門が遭遇した明軍を「二、三千」、その後押し寄せてきた増援を「六、七千」としている
これが本当なら合計一万人くらいになるね
先鋒将として査大受・高彦伯のほかに李寧の名が出てくるのは「宣祖実録」の記述が元だろうな
・・・(前進して望客峴に襲撃して勝たず。すでにして先鋒参将李寧らの軍来たりてこれを助く)
しかし中国語版ウィキの明軍編成の記述についてはほんと出典がわからないな。
この戦いで明軍が先鋒・左軍・右軍・中軍の四隊に分かれて進撃したなんて記録見たことないし、
各武将が率いた兵力が具体的にわかる記録も見たことない
普通にどこぞの誰かの書いた
歴史小説が元じゃねーの?
ま、wikipediaでそういうことを言いだしても切りがないしな。
英語版なんかは、9000の明軍が40000の日本軍相手にもう無双状態(笑)で
日本側は6000-8000の死傷者を出したことになってるし。
明軍サイヤ人かよww
泗川の戦いの真逆の数字か?
171 :
168:2011/07/28(木) 16:45:11.09 0
バトルボックスの話なので、本文の方は案外まともなんだけどね。
中文、英文をみると中国では日本側の30000-40000に対し
明側の兵力は12000で善戦したけど、かなり寡兵なので
破れたという認識みたい。
しかし、戦術的には負けたけど、あくまで戦略的には明側勝利と
しているのがなんだかイミフメという感じ。
それでも、韓国絡みの記事のデタラメぶりからすれば、中国関連のは
だいぶマシなような気がする。
その辺、歴史的に奥行きと誇るべきものがちんとある国と何にもない国とでは、
中韓の間でもこういった差が現れて来るんだろうな。
おと。
× ちんとある国
○ ちゃんとある国
>>170 韓国か台湾か忘れたが
日本側の資料が紹介されてる数すくない事例となってる
曰く
「島津側はこの戦いで8万の明兵を打ち取ったと主張し、相変わらず荒唐無稽な日本人〜」
って感じで紹介してる。
日本の2〜3万打ち取った書かれた資料にはスルー
174 :
世界@名無史さん:2011/08/01(月) 10:08:46.58 0
文禄2年1月に参戦した明軍4万3千人の内訳は
中軍(李如松率いる) 11,700人
左軍 11,500人
右軍 11,500人
遊軍(?) 8,300人
参考文献
中野等著作の『文禄・慶長の役 (戦争の日本史16)』
>>166 兵数は知らんが、編成は多分明軍の従来の基本編成が元じゃないかな。
あの国の軍隊の基本編成は正史に出てないから厄介なんだよなぁ。
多分なんかの兵書に載ってるんだろうと思う。
漢代の兵士の基本編成の場合は孫子の魏武注を見れば、実際の編成に合わせて解説してたりしてよくわかるんだが……。
176 :
世界@名無史さん:2011/08/04(木) 21:44:39.22 0
朝鮮征伐
177 :
世界@名無史さん:2011/08/04(木) 22:07:21.89 0
仮道征明
178 :
世界@名無史さん:2011/08/05(金) 06:37:54.23 0
>戦術的には負けたけど、あくまで戦略的には明側勝利
世界の誰が見てもこれは正しいなw
179 :
世界@名無史さん:2011/08/05(金) 11:58:07.57 0
国土の保持に成功したという意味なら、明の勝利だろう。
しかし宗主国たる明が狙っていたのはそこではないだろ。
なら勝利していない。
>>178 馬鹿じゃないの?碧蹄館当時の明軍の戦略目標は「漢城奪回」じゃんw
その漢城の手前で包囲攻撃を受けて敗走したんだから
戦術的にも戦略的にも明軍の大敗だろw
面倒臭えな、お前ら
明が秀吉を暗殺したんだよ
だから明が戦略的に勝利した
客観的な裏付けも、記述された史料もないけど
この解釈なら三方一両損でメデタシじゃん
頭悪そうだな。
>>181 沈惟敬が秀吉を毒殺したっていうあの与太話かw
184 :
世界@名無史さん:2011/08/12(金) 14:04:37.57 0
征明大将軍前関白 豊臣 秀吉
185 :
世界@名無史さん:2011/08/18(木) 17:01:29.54 0
全羅道の『輿瑞』の位置が知りたいんですけど
どなたか教えてください。
186 :
世界@名無史さん:2011/08/18(木) 19:36:59.36 I
>>186 お前面白いこと言うじゃないか
それじゃ出兵目的である征明を果たせなかった日本軍は
あらゆる戦闘で戦略的敗北を喫したということだな?w
大体、日本軍の撤退は碧蹄館の戦いじゃなくて講和交渉の結果だしな
そもそも休戦期間中も半島南部に倭城を構築して数万人が居座ってるんだから
結局「撃退」すらできてねえしw
189 :
世界@名無史さん:2011/08/18(木) 21:16:46.38 I
>>187 この戦いで日本側に兵糧を使わせたことによって継戦能力を喪失させ「征明」を頓挫させたんだから戦略上は明の勝利だろ。
>>189 いや、だからさ。碧蹄館の戦いの戦略目標はあくまでも武力による漢城奪回でしょ?
それを明軍が果たせなかったと指摘すると、至上目標は日本軍の撃退だとかお前が言い出した。
だから、「日本軍の撃退」という明側の至上目標を持ち出すなら、
「征明」という日本軍の至上目標も持ち出さなくちゃいけなくなるよ?と言ったわけだが。理解できるか?
大体お前の理屈だと、幸山城の戦いという戦闘は日本軍が城を落とせずに撃退されているのに、
戦後になって朝鮮軍が幸州山城を放棄したから日本軍の戦略的勝利だ、というおかしなことになるんだが
あと、碧蹄館の戦いの時点では漢城にまだ二ヶ月分の兵糧が残ってる
碧蹄館戦後の「龍山の焼き討ち」は明側の文献にしか見当たらず、
当時の朝鮮や日本の資料には該当する記録が全くないことから明の作り話だともいわれている
191 :
世界@名無史さん:2011/08/18(木) 22:36:38.59 I
>>190 漢城の武力制圧ってのは秀吉軍を撃退するっていう最終目標を達成するための途上目標でしかない。途上目標に失敗しても最終目標に近づけたならそれは戦略上では勝利だ。
>>191 平壌城の戦いならその理屈も通るが、碧蹄館の戦いだと無理があるだろ
明軍は大敗してビビってしまい以後二度と戦わず、主戦論であった李如松さえ講和を唱えるようになっちゃったし
日本軍が講和に応じたのは朝鮮の統治に失敗して戦略が破綻してたからだしなあ
秀吉の朝鮮出兵って欧米でも知られてる出来事なのかな
高校時代留学生で好きなサムライは
ノブナガ、イエヤス、ムサシっていうアメリカ人がいた
>>194 手元にあるハモンドの歴史地図帳(CONCISE ATLAS OF WORLD HISTRY 5th EDITION)では
明代の中国の地図で後期倭寇の一環みたいな図示になってる(笑)。
196 :
世界@名無史さん:2011/08/24(水) 13:56:21.72 0
イングランドですら、数万の軍隊でフランスに侵攻できてるのに、
日本ときたら、二十万も送り込んで勝てないとは。
情けない。
イングランドなんて最後までフランス全域を制圧することができずに
フランス一国に撃退されてるじゃんw
世界屈指の超大国・明およびその属国の連合軍と戦い続けた日本とは比較にならん
>>194 今やあっちで英雄といえばイスンシン提督一色です。
プッ
201 :
世界@名無史さん:2011/08/28(日) 15:20:39.02 0
明弱体化に伴う外敵侵入のひとつとして位置付けられるであろう。
安定中国を造り上げた明だが最後の百年は攻められまくる。
東夷倭寇を退けた後に来る女真の愛新覚蘿に、
ついに攻め滅ぼされる。
そして台湾へ最初の移住。そこで日本生まれの海の民
日中ハーフの鄭成功によって漢民族国家明国の意志は引き継がれる。
数百年のち、鄭成功の意志は「幇」として引き継がれ
中国の伝統的な義侠となる。
そこから孫文・蒋介石等の傑物を排出し現在の中国が出来る。
秀吉の朝鮮征伐が成功して江戸期以降は半島が完全に日本領になっていれば世界ははるかに平和だった
このageまくる人って昔からいるのかしら
wikiに釜山浦の戦いと黄石山城の戦いのページが加筆されたな
個人的には平壌城の戦い(祖承訓が攻めた第一次と李如松が攻めた第二次)のページも読みたいところ
朝鮮征伐なんてしょぼい呼び方をするな。太閤殿下の世界征服大戦争だろうが
206 :
世界@名無史さん:2011/09/12(月) 10:40:13.96 0
>>205 >朝鮮征伐なんてしょぼい呼び方をするな。太閤殿下の世界征服大戦争だろうが
朝鮮征伐という名称なら実際朝鮮国の国土が焦土と化したんだから成功と言え
なくもないが、世界征服大戦争なら朝鮮半島より内陸へ攻め込めなかったんだし、
また、海外領土を放棄して撤退しているんだから明らかに失敗となっちゃうんだが(笑)
まあ日本と明とインドの三国で世界、というのが当時の日本人の認識だったようだから
秀吉の夢は世界征服だったと言えなくもないのかな
アレキサンダーみたいだな
サン=フェリペ号事件ってのがあってな…
>>206 満州へ攻め込んだ清正くんを忘れないで!
弱い弱い朝鮮兵を圧倒したのは当たり前だけど
当時、世界の何処に出しても決して劣らない
中国明朝のエースを相手に五分以上に戦えたのは見事
慶長の役なんて、中国各地の名将が朝鮮に呼ばれてる
秀吉の海外遠征がなければ
お馬鹿な朝鮮人がまた勘違いしてただろ
確かに朝鮮役がなかったら
「戦国武将なんて所詮は島国で内戦してただけの雑魚!」とか言われてそう
213 :
世界@名無史さん:2011/09/13(火) 16:34:41.45 0
>>211 >中国明朝のエースを相手に五分以上に戦えたのは見事
明朝のエースって?
具体的にどの様な戦績があったんだ。
まあ、永らく天下太平だった文治の国に、百年以上も身内同士で殺し合ってきたバルバロイが攻めてきたんだ。
当然の結果だろう
>>213 朝鮮役に出張ってきた中じゃ
万暦帝の信任厚い李如松に「劉大刀」こと劉綎、あと麻貴あたりかな
明代に「東李西麻」と武勇を讃えられた李氏と麻氏、何気に両方とも日本軍と戦ってるのな
216 :
世界@名無史さん:2011/09/14(水) 00:22:17.00 0
>>215 劉綎はまだしも、李如松も麻貴も大した戦績を残してないがな。
むしろ日本側こそ立花宗茂、島津義弘、小早川隆景、
鍋島直茂、黒田如水、石田三成など錚錚たる面子が動員されてる。
>>216 李如松は寧夏の乱を平定してるじゃん
というか李如松と麻貴の二人は、どっちかというと本人の戦歴よりも
精強で知られた子飼いの軍閥を引き連れて来てることが大きいんじゃないか
鉄嶺李氏と回族の麻氏の私兵軍団は間違いなく明代屈指の精鋭なんだし
あと鍋島直茂とか石田三成って錚錚たる面子と言えるのか?
鍋島の兵は弱いと評判だし三成なんて武功皆無の戦下手じゃん
218 :
世界@名無史さん:2011/09/14(水) 06:54:07.21 0
関係ない話すんな
220 :
世界@名無史さん:2011/09/14(水) 15:37:10.71 0
>>213 エース つまり中国人もワンピ読んでてry…
221 :
世界@名無史さん:2011/09/15(木) 03:07:15.68 0
>>218 独自研究はウィキペディアでは却下だから消せばいいんじゃないの?
222 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 02:49:16.32 0
文禄慶長に出た連中って
李如松、ボハイの乱、文禄の役に参加
李如柏、文禄慶長の役、サルフの戦いに参加
麻貴、ボハイの乱、慶長の役に参加
劉綎、文禄慶長の役、楊応龍の乱、サルフの戦いに参加
陳璘、慶長の役、楊応龍の乱に参加
劉綎はケ子龍とともにビルマと戦争もしてる。
万暦の三征、サルフの戦いと大抵の大戦には顔を出してるから
トップクラスの連中に変わりは無いと思われ
>>216 毛利、宇喜多、島津と大藩だけど
秀吉直属が渡鮮しないのは仕方ないとしても徳川、前田、佐竹、最上、真田は不参加
伊達、上杉も寡兵で渡鮮、築城していただけだし
豪勢なメンツだったのは事実だけど、オール西日本だっただけでもあるしね
野戦最強の徳川が7万騎を率いて渡鮮でもして右軍、左軍、徳川軍って感じで
朝鮮で暴れてれば日本はガチだと思うけど
高句麗=ツングース自体が仮説だろ
少なくとも漢民族でも朝鮮民族でもなく、いわゆる騎馬民族でもないこと以外はわからん
224 :
世界@名無史さん:2011/09/19(月) 19:23:26.78 0
信長は親明派だった。
秀吉は明に抗った。
きっかけは明皇帝による「日本国王」勅諭。
これを受ければ明冊封つまり明皇帝配下の一国、
蹴れば戦争。
これはまるでハルノートではないか。かわいそうな秀吉。
225 :
韓国は事実を認めよ:2011/09/20(火) 18:14:27.74 O
★英国学者、キムチの起源は日本の九州
英国人の東洋史学者ホールデン教授(日本・中国の歴史専攻)の研究の結果、
キムチのルーツは日本だと分かった。 ホールデン教授(英国人学者)の研究によると、
キムチに不可欠の唐辛子は、15世紀 にポルトガルから南蛮貿易で日本の長崎にもたらされた。
その後、九州で栽培に成功し薬剤として普及していく。
唐辛子を白菜と漬け込んだ食品が(元祖キムチ)が、九州の漁師達の保存食として用いられるようになった。
漁師や漁民たちの持病である脚気の防止に大変効能があったためだ。
16世紀後期になり、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、日本水軍の九州兵が、保存食・滋養食として携行した。
この戦争において、日本水軍兵の食する元祖キムチが朝鮮兵と朝鮮民衆に伝わり、
その保存性・滋養が注目され、戦闘食として朝鮮軍にも食されるようになった。
「こうしてキムチは、日本から朝鮮に伝わった」と、ホールデン教授(英国人東洋学者)は語る。
この英国人学者は、この研究結果を近く、ロンドンの出版社より図書として刊行する予定。
226 :
世界@名無史さん:2011/09/20(火) 18:29:58.67 0
>>217 鍋島が弱いって
それ江戸時代佐賀藩と中悪かった福岡藩の捏造だから
227 :
世界@名無史さん:2011/09/20(火) 18:34:44.47 0
php
>>226 そうだったのか
確かにあの逸話は黒田アゲしすぎだとは思った
まあ直茂は生涯に城を落とすこと二十度、討ち取った大将首数知れずというから
相当な猛者で間違いないだろうね
・『白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい』白川静、小山鉄郎
漢字の成り立ちの話。
興味のとっかかりとなった「取」と「最」がどんな成り立ちなのかだけ、ごく簡単に紹介します。
「取」という漢字の左側は「耳」、右側の「又」は「手」を意味するそうです。そして「取」という漢字は、
「左耳を切り取っている図」なのです。かつて戦争のときに敵を討ち取った証拠に左耳を切り取った
ことに由来しているそうです。
そして、だれが最も多く敵を討ち取ったか数えるために、「殺して切り取った敵の左耳をたくさん袋に
入れた図」が「最」だそうです。
http://hanamote.com/blog/archives/2007/02/ 初級クラスで教える漢字だが字源がなかなか怖いものをもう一つだけご紹介しよう。それは「取」である。
右側の「又」は「何かを取ろうとして伸ばした手」で、その先に何があるかというと「耳」だ。古代中国の戦争で、
敵を殺した証拠に、死体の耳に手を伸ばして、それを切り「取」ったのだ。敵の大将なら首実検というのが
あるから「首級」を持って行かねばならないが、単なる兵士なら「質より量」、多くの耳を集めて指揮官の陣営
に持って行く。それは言うまでもなくご褒美を頂戴するためである。集めた耳の数が多ければ恩賞も増えた。
とは言え、それは中国だけの話ではない。思い出すのは、京都市東山区の豊国廟の前にある「耳塚」である。
秀吉の、二度にわたる常軌を逸した朝鮮侵略戦争、いわゆる文禄(1592-93)慶長の役(1597-98)で、敵の
死体から切り取った夥しい数の耳(一部は鼻)が塩漬けにして秀吉の検分に供されたとされる。その後で、
流石に寝覚めが悪いと思ったか、埋めて供養したのが「耳塚」だ。字源も怖いが、それよりも身近に史実がある
のはさらに怖い。
http://blog.goo.ne.jp/shugohairanai/e/d076c932171c9bb720e8259d82007bfa
馘首・馘耳
首切り・耳そぎのルーツはやはり中国です。
したがって、豊臣秀吉の朝鮮征伐時の耳そぎは、
日本固有の文化ではありません。
また、特に日本が残虐なことをしたわけではありません。
戦争で敵を殺した証明としては、本当は首がいいのですが、
状況により首を持ってかえることができない場合、
褒賞にあずかる証拠として耳をそいで持ってかえりました。
その耳も、日本人は粗末にせず、耳塚を作りきちんと弔っています。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835412&tid=bbgmdb2vdbffcbeh&sid=1835412&mid=43 *嫌いな文字:≪民≫・≪数≫・≪取≫ これらの三文字には男の奴隷や女奴隷の悲惨さと戦果による
人の心の残酷さがこめられています。古代中国では戦争で勝利した国が敗戦国から多くの男奴隷や
女奴隷を戦利品の一部として引き連れて帰り、過酷な労働に使役したと伝えられています。荒縄で頑固に
縛り付けられ、数珠繋ぎにされている女奴隷の中から、戦功者がその褒賞として与えられる人員により、
好みの女奴隷を鞭で叩きながら選んでゆく形から生じた≪数≫という文字は、もと≪數≫と書き、この文字
の左側にある字形は”数珠繋ぎになっている女奴隷”の形を示し、右側は”手にした鞭”の形から成り立って
います。また、左の耳を引っ張って刃物で耳を切り取ることを意味する≪馘耳・かくじ≫は、”獲耳”ともいい、
敵陣で戦死した敵兵の左耳を刃物で切り取り、その数が多いほど戦功の証になったといわれています。
勿論、敵将の場合には≪馘首・かくしゅ≫といい、”首を切り取って”帰国することが唯一の戦功とされたの
は申すまでもありません。
http://blogs.dion.ne.jp/suikei/archives/5343357.html
>>228 つか鍋島軍なんて短時間で二州を切り取った精強無比の竜造寺軍をそのまま乗っ取ったものだから
弱いはずないだろ
232 :
世界@名無史さん:2011/09/23(金) 01:08:14.55 0
死なぬことと見付けたり
そういや以前、日本と明では長期戦になった場合どちらが不利かという話題があったんだが
そのとき日本の方が圧倒的に不利だと主張する人がいた
理由を聞いても「逃亡兵が多かった!逃亡兵が多かった!逃亡兵が多かった!」の一点張りで
いまいち納得できなかった記憶がある
話を蒸し返すようで悪いんだが、長期戦になれば実際どちらがよりヤバいんだろう
なんか文禄と慶長をごちゃまぜにする奴っているよな。
慶長の役では兵糧不足に陥っていないし、逃亡兵が多かったわけでもない。
対して、明は三路の戦いで大敗くらってるし、そのせいで人心は恐慌状態。
(『宣祖実録』資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立)
その上に、秀吉は本土で休息させていた十万以上の大軍を慶長4年に朝鮮半島に
送る計画を立てていた。秀吉が死去したため実行されなかったけど、恐慌状態の
大陸側に不が悪いのは道理。
そうだな。奇襲のおかげで奥まで攻め込んだ文禄と、半分もいかずに早々に膠着化した慶長を
ごちゃまぜにする奴っているよね。
>>235 散々既出だが慶長の日本軍の作戦行動はほぼ予定通りに進行してるぞ
明・朝鮮の抵抗勢力を散々に撃滅してから南岸部に自主反転してる
>>235 朝鮮には何度も侵攻するよと通告してるのに奇襲もクソもないだろw
>>235 慶長の役は膠着化したわけではないぞ。慶長の役は元から南部に限定した作戦だった。
赤国不残悉一篇ニ成敗申付、青国其外之儀者、可成程可相動事。『立花文書 慶長二年二月二十一日付秀吉朱印状』
そもそも、日本軍が慶長の役を起こした時に朝鮮半島にいた明軍はわずか一万七千だけ。
五月,玠至遼。行長建樓,清正布種,島倭窖水,索朝鮮地圖,玠遂決意用兵。麻貴望鴨麹]東發,所統兵僅萬七千人,請濟師。
『明史』朝鮮伝
結果、さんざんに朝鮮南部を荒され南部の朝鮮軍が殲滅された時点で日本軍は軍事行動を辞めて築城開始し、それを終えた後は
七万以上の大軍が本土に帰還した。膠着状態というほど戦闘が継続していたわけでもない。戦闘があったのは@慶長二年の
7月〜9月A慶長二年12月後半〜慶長三年1月の蔚山城の戦いB慶長三年9月後半〜10月と11月の三段階しかなかった。
5年前に韓国で国際シンポやってから、秀吉の唐入りを一概に否定する論調減った気がする。
明軍が精鋭だったことも認識されてるし、ライデン大のポート教授が「秀吉の暴走」説を否定したのも大きい
唐入りの間に精力を蓄えたヌルハチの女真が、明の衰運に付け込んで入関したのを見ると特にね…
まあ秀吉も寧夏の乱に偶然とはいえ付けこんだ形だったけどね
荒山徹の朝鮮もの伝奇小説によく書いてある
「義兵と言いながらその実は中央の職にあぶれた両班が手柄を立てようと自領の領民を
強制的に駆り立てたもの」というのは史実なのかな
両班ならやりそうなことには思えるけど
>>240 そういうのもありだろうけど、それは朝鮮朝廷が官位を与えて
義兵の取り込みを始めだして以降じゃないかね。
当初は、義憤に駆られたのやら、日本側の高圧的なやり口に
ファビョったのやら、一旗揚げようやら反逆やら、単なる
山賊やら、それこそ動機はいろいろだと思うが。
242 :
世界@名無史さん:2011/09/29(木) 21:26:34.18 0
>>242みたいなやつが大本営にいたから
日本兵が大量に無駄死にしたんだろうな
>>242 大筒や石火矢の記録が色々あるんで量産して使ってただろ。
>>242 まぁ、ホントに大友宗麟の作ったものならドラマだよな。ノンフィクションで追ったら
面白い番組できるだろうね。大半の視聴者が興味のない韓ドラに無駄金使うより
ずっといいわ。w
ところで、
>北方警備にあたる幕府の大砲がロシア船に奪われた。
このあたり詳しくないんだけど、どういう事件を指してるのかね? >エロイ人
それに幕府の直轄で蝦夷地警備を出してたんじゃなくて、各藩に軍役課してたんじゃ
ないかと思うんだけど。
ちなみに、ウチの藩も蝦夷地出兵準備してたけどうやむやになったらしい。
246 :
世界@名無史さん:2011/09/30(金) 20:32:04.58 0
中原を駆ける伊達政宗見たかったわー
ウィキペディアとかに載ってなくて、あまり知られていない日本軍と明軍の戦いをまとめてみた。
ソースは壬辰戦乱史(の、下巻の参考文献原文)。
・第四次慶州城戦闘(1593年8月6日)
西生浦の日本軍数千人が突如として慶州を襲撃し、防衛にあたった明・朝鮮軍は大敗した。
なおも追撃してくる日本軍に明軍参将・駱尚志が両手に矛戟を抱えて飛び込み、たちまち四人を突き伏せた。
これを見た日本軍は大いに驚き、深追いをやめて撤退していった。
明・朝鮮軍の戦死者は500人を超え、明将の一人が戦死した(名前は不明)。
日本軍の目的は連合軍への牽制だったのか、それとも単なる略奪だったのか不明。
明・朝鮮側の記録を見る限りかなり規模の大きい戦い。
・安康戦闘(1593年12月2日)
西生浦の加藤清正の手勢が安康で略奪を働き、明・朝鮮軍との間で何度か小競り合いが行われた。
新人物往来社の「加藤清正のすべて」の年表にある「安康において明将劉綎の大軍に大勝を博す」とはこの戦いを指すようだ。
明・朝鮮側の記録を見る限り単なる小競り合いに過ぎず、大軍でも大勝でもない。
・報恩付近戦闘(1597年9月20日)
朝鮮軍が霧の中から加藤清正の軍勢に矢を射かけ、数十人を倒した。清正は霧の向こうに伏兵があると考え追撃しなかった。
この後、退却していく加藤勢を参将・彭校徳らの明軍が青山県のあたりで追撃したという。どちらも取るに足らない小競り合い。
なおこの戦い、無敵の加藤清正軍を朝鮮軍が大破した戦い(笑)として朝鮮寄りの書籍で紹介されることがある。
・三嘉付近戦闘(1598年3月24日)
三嘉付近で略奪を働いていた島津勢と明・朝鮮軍の間で行われた小競り合い。
・茂朱の戦い(1598年4月8日)
沙斥駅付近で起きた島津勢と明・朝鮮軍の間の小競り合い。
こんな規模の小さい戦闘で明軍の副総兵・李寧が戦死してしまった。島津勢の偽装退却に誘き出され、包囲されたのだという。
なお、泗川の戦いで戦死した参将の李寧とは同姓同名の別人。
248 :
世界@名無史さん:2011/10/01(土) 21:09:49.72 0
関係ないことかもしれないけど、秀吉が朝鮮出兵しなければ
唐辛子が朝鮮にもたらされなかったんだよね。
>>247 島津って李舜臣とケ子龍の他にも敵上級指揮官を討ち取ってるんだな。
>>248 それはどーかのー唐辛子導入の機会がこれただ一度とも限らんし
すぐさま普及したわけでも無いようだし
島津は凄いね
九州統一の過程で何人もの大名、大将討ち取ってるし
>>241 農村に銃まであった戦国時代の日本と違い
武器など何も持ってないあの時代の朝鮮民衆が自発的に蜂起出来たとでも?
>>253 馬鹿? 鋤・鍬持ち出せば立派な武器だが。あと、竹槍な。
これは日本の農村でも同じ。
ま、朝鮮はもっぱら竹弓を使ったんだろうが。
>>247 >島津勢の偽装退却に誘き出され、包囲されたのだという。
島津の釣り野伏せに引っかかったか。
バカはお前だ、義兵を江戸時代の百姓一揆と一緒にすんなよ
そもそも最初の義兵組織が農民の自発的な物ではなく郭再佑が一族郎党と領民
を集めて始めたもので
韓国人学者の金奉鉉の調査ですら在郷の両班や招諭使、軍人の指導以外で義兵
が立った記録なんぞ見つかってない
知ったかすんなw
権力者以外で自発的に戦ったというと僧兵くらいかな
無論、戦後李朝の廃仏政策が改められるのを期待して戦ったんだけど
戦後の恩賞なし
>>256 >武器など何も持ってないあの時代の朝鮮民衆
ファビョるなよ。w こういう認識が馬鹿だっつーの。
>>257 そういや、先日倭館関連の本読んでたら、倭館の建設に
近隣の僧侶が千数百人だか動員されて労役、っつー話が
出てたな。
>>258 当の韓国の学者が義兵は民間蜂起にあらずと結論づけてるのに
これ以上何を言うつもりだw
>>260 だから、平民・賤民の自発蜂起じゃないということ
自体は争っとらんよ。w
平民賤民が自発的にやったことは抗日どころか日本軍への協力や朝鮮王宮
の放火略奪です
そんな彼らもさすがに歴代朝鮮王の墳墓には手を出しませんでしたが
明軍が日本軍との戦いそっちのけで盗掘しまくりました
でもそれらすべてが「チョッパリがやったニダ」ということになってますw
>>262 朝鮮王墓盗掘か。まぁ、日明共に真犯人が私がやりましたとか書き残してる訳も
なかろうし、一応対馬藩が下手人を差し出したことになってるからな。
しかし、どこかの美術館・博物館の収蔵品なり、コレクターの蒐集品なりで
それと目される様な美術品みたいなものはあるのかね? 聞いたこと無いけど。
中国人は現在も自国で盗掘しまくっとるからなw
盗掘ビジネスに関与してる人間は推定10万人前後って盗掘大国
全然関係ない牛泥棒かなんかを喉を潰して差し出したんだっけ対馬藩
当時の日本人は畿内の古墳を城郭に再利用したりしてるくらいで
「墳墓」という物の存在すら認識してないと思うぞ
古墳が盗掘されてた時代はとうに過ぎ去ってたし
あの秀吉ですら副葬品は甲冑、太刀と日用品を詰めた黄金の壺だけだったくらいだから
墓を掘ったら宝があるって発想がないんじゃね?
墓そのものはともかく、墓のある山に金を隠してはいたけどね秀吉
268 :
世界@名無史さん:2011/10/06(木) 18:13:21.93 0
>>268 その人、モサドとコネクションがあるとか
ブルース・リーと喧嘩して勝ったとかホザいてる人でしょ?
>>268 >秀吉の朝鮮出兵はひどい失敗に終わった
と言ってる時点で無知なことがわかった。
まあ文禄の役に限って言えば戦略から破綻してたけど
慶長の役は日中戦争と同じで決着付いてないからなあ
日中戦争と違って上手く撤退したもんじゃね
そもそも秀吉は明遠征のつもりだったんだから
半島を突破できなかった時点で失敗なのは確かだろ
ノビー(笑)はその文脈で失敗と言ってるわけじゃないだろうけどw
274 :
世界@名無史さん:2011/10/07(金) 00:14:20.30 0
突破できるとも思ってないでしょう
ひと暴れして領土がもらえればいいと思ってた程度だろ。
そういう意味でも失敗は失敗だけど
275 :
世界@名無史さん:2011/10/07(金) 09:32:33.57 0
方広寺の跡地である京都国立博物館から正面通りを西へ数十メートル行くと耳塚が…おっと誰かがきた
蔵入り地とか増えて政権強化には成功したから、目的は果たしたといえるんじゃないだろか。
結局、全部家康に持ってかれたけど。
>>273 半島突破と言うなら加藤清正がその条件を満たしてるわけだがw
>>277 清正が入っちゃったのは明じゃなくてオランカイだろ
半島は突破してるぞ
信長なら成功してたかな
信長は東南アジア志向か
成功って北京に突入して新中国を作ること?
間に半島があるから無理じゃね?
ソウルに5万ばかり駐屯させてただけで補給に難儀する土地だぜ。
モンゴルとか女真は国境を突破すればすぐに豊かな中原に出れたけど。
半島だろうが東南アジアだろうが信長に海外志向なんぞ無い
死の直前まで貿易はすべて商人任せだ
通称網を自分で掌握しようとした秀吉や、禁教とのかねあいで断念はしたものの多角的貿易を画策してた
家康の方がよっぽど海外志向
283 :
世界@名無史さん:2011/10/07(金) 22:59:50.87 0
実際は秀吉の頃って九州はすでに別国家化してたんだよね。
東シナ海連合、つまり南蛮帝国。
宗教はすでにほぼキリシタンで統一。
宣教師は朝鮮にも拠点を作り、
周辺制覇まであと一歩。
秀吉はイスパニアと事実上宣戦布告を交わしていたし
朝鮮出兵って結構複雑だよ。
花の慶次の読みすぎだッッッ
285 :
世界@名無史さん:2011/10/07(金) 23:53:40.83 0
カルロスの蹴りはすごかったな。
わたーっ と飛び蹴りで胴体がパパパパパンと分割されていく。
>>285 あれは凄かったなw
しかし花の慶次の作者も「朝鮮出兵については描くわけにはいかない」といって
シナリオを琉球編に変更してるんだよなあ。やっぱりメディアじゃ腫れ物扱いなんだな
朝鮮編描けなくて金が出せなかったかわりに慶次軍団の一人として
「花と火の帝」からを岩介をゲストとして迎えたんだよな
名前を岩兵衛に、八瀬を七霧に変えてたけど
加藤清正は第一次蔚山戦役では明軍を追撃したのに、第二次蔚山戦役では追撃しなかったのはなぜだろう?
兵力で見ても、一次の方が敵の数が多いのにな。これでは、幸州山城や晋州城の朝鮮軍のように撃退したものの
ビビって追撃しなかったと受け止められても仕方ないぞ。中路軍と西路軍の動きに警戒していたのか、3倍近くいる
明軍との対戦を恐れて避けたのか。
岩介の親父の名前も岩兵衛だから
意外とその岩兵衛本人の可能性もある
>>288 文禄の時は朝鮮や明に領土もらえるかもと張り切ってたけど
慶長の時はそんな意気も消えてたんだろ
第一次蔚山戦役も慶長の役だぞ。兵糧を投棄しながら逃げて行った西路軍や島津軍に
追撃され壊滅的被害を受けていた中路軍と比べて、東路軍が整然と撤退していったこと
が疑問だわ。島津軍より戦力的に優位の加藤の軍勢が引き籠っててどうするんだよ。
明軍に大打撃を与えるこれ以上ないくらいのチャンスだったように思えてならん
イスパニアは明攻略を考えていたわけで、
まあ後年のエゲレスと考えることは同じ。
倭寇の進出と同じ速度でイスパニアが東南シナ海に進出。
台湾は倭寇、フィリピンはイスパニアが奪る。
秀吉はイスパニアに対明共同戦の誘いを受けていた。
もし秀吉の九州仕置より先にイスパニアが動いていたら、
きっと九州大名は対明戦に参戦していただろう。
結局、東亜でのイスパニア進出を止めたのは、
同胞ヨーロッパのポルトガルオランダ。
イスパニアが明に勝てる要素を教えてくれ。
東アジアに動員できる兵力なんて、どうがんばっても数百から数千だろ。
>>292 当時、ポルトガルがスペインに併合されていたのも知らんのか・・・。
日本史板ならともかく(高校レベルの日本史で教えないのも問題だと
思うが)、世界史板で知らんのは恥だぞ。
>>286 たしかあのゴルゴ13にすら
朝鮮国家絡みの話は一回も出てないはず
ごく稀に漫画界に出てくる朝鮮人は何故か全て
誠実、真面目、潔白、頭脳明晰、容姿端麗と
ハリウッドの黒人以上の扱いなんだよな
ここら辺が連中が中国人以上に嫌われる所以だろうな
>>291 遠くから眺めてただけの無傷の3倍の敵軍を追撃するのは
猪武者でも勇気がいるぞ
そもそも、そんなことしなくても来年には鋭気を養ってきた帰朝の連中が戻ってきて
一大攻勢をする予定だったんだから自分一軍だけ無駄に血を流す必要はないだろ
無傷ではないぞ。蔚山戦攻防戦で明軍が多くの損害を受けたことは両陣営の史料でも
確認できる。
さらに、東路軍は中路軍の大敗の報せを受けていた。とてもじゃないが
数度に渡って撃退され、さらにほかの戦線も敗退したことを聞いて士気が高かったとも
思えない。
島津みたいに士気を崩壊させて敗走させたわけじゃないんだし、追い討ちする状況になかったんじゃね?
東路軍はあくまで秩序だって撤退したんでしょ?
第二次では援軍がいないから、第一次のように城兵と援軍とで挟撃することができない
城兵を誘き出すための偽装退却である恐れもある
追撃しなかったのは賢明な判断だと思うが
吉近 はるたさ(バルタサル)
豊後出身のキリスト教徒で、平戸の領主・松浦氏の家臣。松浦氏の使者として平戸とフィリピンの
マニラを往復した。
1587年六月二十六日付のメキシコ副王宛デ・ベラ書簡には、松浦氏とその友人・小西行長らの
意思として、兵士を主体とする軍事協力をデ・ベラ総督に提供する用意があると、吉近が総督に
伝えたことが記されている。しかし、吉近のこの提案の裏には、日本人のファン・ガヨも関与した
ルソン島原住民の武装蜂起計画が隠されていた可能性が高い。スペイン側の軍備不足を見て取った
吉近が、軍事協力を口実に兵士と武器をルソンに送り込もうとしていたとも考えられる。
吉近のマニラでの蠢動については、中国人アントニオ・ロペスが1593年の聴聞で証言している。
それはロペスが1592年の平戸滞在中に同地の中国人キリスト教徒から聞いた情報であり、
すなわちルソンのイスラム系原住民の首領ドン・アグスティンを首謀者とした武装一斉蜂起の計画に、
日本人ドン・バルタサル(吉近)が加担していたというものだった。
http://proto.harisen.jp/hito1/yosichika_barutasaru.html
ファン・ガヨ
天正十五年(1587)、平戸からルソン島のマニラへ渡った渡航船の船長。日本人。同年、
ルソン島のイスラム系原住民の武装蜂起計画の謀議に関与したとされる。
スペイン人が調査した武装蜂起計画の経過と全容は、1589年五月二十日付で作成された
マニラ総督府の事件報告書、およびメキシコ副王宛マニラ総督書簡などに残されている。
これらによると、ガヨは1587年、ルソン島原住民の首領であったドン・アグスティン・デ・レガスピと
親交を深めて次のような計画を練り上げたという。
それは、まず日本からガヨがスペイン人との友好的交易という口実のもとに兵士や武器をルソンに
持ち込む。第二段階として、ボルネオ、モルーカ、マレーのイスラム系勢力にその武器を横流しし、
陸海からルソンのスペイン人を包囲して総攻撃をかける、というものだった。最終的にはスペイン人を
皆殺しにして原住民首領一族がルソン島を支配し、支配階級には日本人を入れる合意が交わされ
ていたという。
1587年のこの謀議の時点ですでにガヨは、日本から輸送していた武器をイスラム系原住民勢力に
供与し、協力の印とした。実際、別の史料には1587年に大勢の日本人と商品を乗せてマニラに
到着したガヨ船長の船が記録されている。またガヨと同時期にマニラを訪れていた吉近はるたさの船が
武器を搭載していたという記録もある。
計画は1588年十月に発覚し、スペイン側によって未然に防がれたが、発覚数日前には日本からの
武器や火縄銃を供与されたボルネオ勢力がマニラ湾に迫っていたという。
http://proto.harisen.jp/hito1/fan_gayo.html
>>300-302 秀吉は九州平定の時点で松浦鎮信らを外交参謀に据えて、唐入り(北進)を取りやめ、
「南進」するべきだった。
山田長政なんかも、ソロプレイの風雲児みたいに描かれてるけど
バックにどこかの大名がついてたりしないのかな
そういう研究ない?
>>294 ・・・?
それを言うならポルトガルだけでなくオランダだってスペインだ。
ヨーロッパじゃ自らの隣人の行動に水を差しながら勢力拡大してるのを知らんのか。
イスパニアも消えポルトガルも消え、
結局オランダが島原で旧教徒を砲撃して対日独占権を得た。
それに朝鮮にキリスト教伝来したのがいつかを知らんのか。
朝鮮出兵時の日本人キリシタン小西行長だぞ。
306 :
世界@名無史さん:2011/10/16(日) 22:49:50.24 0
山田長政は実在したかどうかも定かではない。
ただその時代に日本人が頻繁に周辺海外に進出しているのは確かで。
日本は世界の流れと別に勝手に歩んで来た国とされているが(あるいは自らの教科書で謳っているが)
実はそんなことは全然なく、他の世界と同様に技術が伝わり
同様に先進のブームや潮流に乗りながら進んで来た国なのだ。大航海時代に航海するのは当然だ。
307 :
ちょんこ:2011/10/16(日) 23:11:39.62 0
お前の本性みせられても困る。これだからグロマニアは
309 :
世界@名無史さん:2011/11/09(水) 22:42:00.11 0
310 :
猿:2011/11/09(水) 22:59:13.12 0
>>266 >当時の日本人は畿内の古墳を城郭に再利用したりしてるくらいで
大阪城は石山本願寺の跡地だぞ。
石山本願寺は上町台地に北端に建立された寺院。
そもそもその辺りに巨大古墳はない。
巨大古墳があるのは堺や羽曳野辺りだ。
良く覚えて桶。
>>310の脳内では日本の領土は大阪近辺だけらしいw
古墳や昔の墓の位置の認識くらいあるぞ
石垣に石棺つかってる位だからな。
戦国時代の大和・河内あたりじゃ多くの古墳が城塞にされたぞ
一から作るよりてっとり早いからだろう
314 :
世界@名無史さん:2011/11/13(日) 20:34:19.28 0
とりあえず、秀吉も自分が明の皇帝の臣下だって自覚はあったと思う。
またお前か
懲りないねえw
316 :
世界@名無史さん:2011/11/14(月) 08:19:48.03 0
秀吉の中国制覇はどこまで本気だったのか
秀吉が後10年長生きしてたら
朝鮮半島ぐらいは統治可能かもしれんが
317 :
世界@名無史さん:2011/11/14(月) 22:52:43.76 0
>>316 >>朝鮮半島ぐらいは統治可能かもしれんが
どうやって?(笑)
一揆ばらなで切りで必要なら日本から農民を移民だろ。(マジ
史実でいえば島原の乱の後処理みたいなモンだな。
319 :
世界@名無史さん:2011/11/14(月) 23:55:26.24 0
慶尚道南岸の仕置きの城に立て篭もって
明・朝鮮軍を迎え撃つのが精一杯だった
日本軍で?
320 :
世界@名無史さん:2011/11/15(火) 00:00:48.73 0
あの当時海洋越えて支配・入植するノウハウ持ってた国なんてスペインくらいだろ
>>319 三路の戦いとかは帰朝衆が帰った後の兵力6万人程度で全勝してるんだが
別に日本軍の戦略が篭城一辺倒だったわけでもなく
翌年に福島正則や石田三成を大将として一大攻勢を計画してたわけだし
何をもって精一杯と言っているのかわからん
明に対する嫌がらせとしては効果的な方法だな。
323 :
世界@名無史さん:2011/11/15(火) 08:15:06.96 0
文録と慶長じゃ戦略が正反対だからね
文録じゃ半年でロシア国境まで攻めいる電撃作戦
慶長は兵坦重視のローラー作戦
三路の戦いでは大勝してるわけだし
来春にはソウルまで制圧、補給線整備して
拠点には、大戦中一度も落城しなかった難攻不落の倭城を
網目のように築城
これを3年ごとに繰り返し
逆に明軍がどうやったら、あのまま朝鮮に駐屯できたのか?って感じだな。
全土からかき集めて、やっとこさ朝鮮に10万近い大軍を送り込んだのに、在番の日本軍に
ボロ負け。相手の日本軍は在番の九州勢の約3万だったのにだ。
本土で休息をとっていた日本軍の大軍が予定通り、朝鮮に再派遣されてたら、
「資糧、器械稱是, 而三路之兵, 蕩然俱潰, 人心恟懼, 荷擔而立」という状態の
明軍がまともに戦えるのか疑問だわ。
問題は勝った後の戦後処理だろ
日本軍が蒙った消耗に見合うだけの対価を半島から得られるとはとうてい思えん
326 :
世界@名無史さん:2011/11/15(火) 22:42:11.19 0
ナントカ国際大って、あちこちにあるけど
やっぱりバカ大だよね。w
>>326 臣下の自覚だの福建省だのバカの一つ覚えみたいに何度も何度も蒸し返すのはどういう了見だ?
嘘も百回言えば本当になるってか?w
329 :
世界@名無史さん:2011/11/15(火) 23:44:14.65 0
腹立ったの?w
でも、それガセ確定の話だしな〜
331 :
世界@名無史さん:2011/11/16(水) 00:18:39.25 0
なあにが「具体的に」だよ
何べん同じことを質問するんだ?
人様を煩わせる前に過去スレくらい読めよ知遅れw
333 :
世界@名無史さん:2011/11/16(水) 01:02:30.55 0
しかしこんなガセを鵜呑みにするバカがいるとは新鮮な驚きだったな
まだ武功夜話を鵜呑みにしてる奴の方が数倍マシ
334 :
世界@名無史さん:2011/11/16(水) 01:08:02.81 0
>>332、
>>333 なーんだ、具体的な説明はなしか。
結局、テメエの間抜けな妄想に都合の悪いことはガセってことに
したいんだ。
島津義久に提案したみたいに書かれてるけど、根拠は無くただの推測
政策決定に係るような立場の人間による提案でもないし、
結局は薩摩にいた一明人の医者の間抜けな妄想じゃんw
劉綎が加藤清正に対して「秀吉を討てば日本国王に封じる」と提案してるけど
これと似たようなもんだろうな。無理に実行しようとしたところで
大口叩いた挙句ぶっ殺された沈惟敬みたいになるのが関の山だろw
>>334 で、真面目に対応してやったわけだが
こういうやりとりをあと何万回繰り返せば満足するんだ?w
普通に当時の明朝廷を実情を知っていれば、そんな計画が妄想でしかないことぐらい
わかるもんなんだがなぁ。
338 :
世界@名無史さん:2011/11/16(水) 20:37:35.98 0
むこうさんは朝鮮在陣の連中が日本最精鋭、最大部隊で
日本国内はカスしか居ないと勘違いしてたんだろ
小西や加藤を日本軍最強と思い違いしてたしさ
島津や加藤程度と組んで日本でいったい何が出来るんだよ
少しでも情報収集能力があれば
せめて島津意外に家康、政宗辺りに話がないと
339 :
世界@名無史さん:2011/11/16(水) 20:44:26.57 0
そもそも、陸続きの朝鮮ですら明の派兵数は10万超が精一杯
20万の大軍でどうやって南西諸島を渡るんだよ
島津が裏切ったら20万の大軍は補給線がなくてその場で壊滅するし
リスクが高過ぎる
軍勢もそうだが、金が無い、戦艦がない、軍勢がない、計画がない、木材がない
島津が味方になる根拠がない、島津だけでは勝機がない、正気でもない、
アホらしい
341 :
世界@名無史さん:2011/11/17(木) 23:17:25.23 0
>>335 >結局は薩摩にいた一明人の医者の間抜けな妄想じゃんw
テメエに都合の悪いことについては、全て「妄想じゃんw」か(笑)
間抜けで低脳なお前らしい物言いだな。
一明人の医者とは許儀後(許三官)のことだろ.
長年にわたり島津氏に仕えた医者であり、さらには島津家のシンクタンク
の一員にもなっている(『鹿児島県史料 旧記雑録後編二 523頁』参照)
>で、真面目に対応してやったわけだが
気に入らないことを『妄想』と決め付けることがお前にとっての
真面目なんだ(笑)
つくづく、お前は間抜けで低脳だな。
こいつ何言ってるんだ?そもそも本当に提案したかどうかも不明なのに
というかこの医者が本気だったとして、島津家がこんな現実性皆無な計画に賛同するわけないだろ
343 :
世界@名無史さん:2011/11/18(金) 00:22:19.57 0
へえ、石星ってそんなこともしてたんだ。精力的だな
この人かなりの苦労人なのに、最後は講和交渉失敗の責で投獄されて獄死してるんだよね
一度の敗戦で楊元を処刑したのもそうだが、明朝廷って結構ひどい
345 :
世界@名無史さん:2011/11/18(金) 00:57:25.55 0
346 :
世界@名無史さん:2011/11/18(金) 02:35:06.71 0
島津氏が豊臣政権より離脱することはなく
泗川で明軍をフルボッコ
347 :
世界@名無史さん:2011/11/18(金) 06:12:41.57 0
>>328 福建云々はしらんが、「臣下の自覚」については、当時の東アジア世界の常識だからなあ。
足利将軍も細川も大内も、その建前で日明貿易やってたわけだし、堺や博多の商人だって熟知してたろ。
秀吉自らが提示した講和条件に「明の皇女の降嫁」とならんで「勘合貿易復活」があった以上、
そしてリアリストの秀吉が堺や博多の商人と親交があった以上、「臣下の自覚」は当然あったろう。
明を侵略したモンゴルのアルタン・ハンだって、結局は冊封されて交易しTるわけだしね。
348 :
世界@名無史さん:2011/11/18(金) 07:40:16.48 0
北虜南倭の一方で、直に中国を悩ませてたタタール部のアルタンでさえ、
最後は明の皇帝の権威を認めて、冊封されて交易するという実利をとったからな。
実利にさとく賢明な太閤さんが、そのへんのことをわからないわけないだろう。
海外事情に詳しい堺商人や博多商人とも交流あったんだし。
スルーされたので壊れたレコード化か。w
朝貢貿易の臣従って本当に建前だけだが。
明の皇帝が足利将軍に何か命令下すなんて出来ないだろ?
朝貢って今で言うとODAだろ?
×朝鮮征伐
○明出兵の通り道をさくっと占領
>>350 足利義満の場合、天皇の位を乗っ取ろうと考えたことから、明から
認められた正当な王である、明から認められていない天皇とは違う、
と主張する目的もある。
むろんこの目的で朝貢したのは義満のみだが。
息子に裏切られなきゃ曹操や司馬仲達みたいに没後「足利王朝の太祖」と
諡されたんだろうな義満
355 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 01:06:02.80 0
>>346 >島津氏が豊臣政権より離脱することはなく
>泗川で明軍をフルボッコ
鹿児島国際大の増田勝機教授(東洋史)は、
「もし秀吉がもっと長生きしていたら、撤兵は許されず戦いは
さらに泥沼化したはずだ。
その時こそ島津氏と明の合力が実現していたかもしれない。
合力計画は、秀吉の死とともに消え、島津側の史料からは
抹消されたのだろう。(おわり)』
明がその気ならとっくに朝鮮半島を直轄領にして九州を平定してる
当時の地球上で最強だったのだから
357 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 05:28:35.78 0
秀吉が明に対して臣下の自覚があったかどうかって話だけど、
本音の部分では当然、そんなものはないだろう。
ただし、「タテマエ」としては足利将軍や大内氏同様に、理解してたんじゃないのか?
そうでなかったら、わざわざ講和条件に「勘合貿易再開」は入れないだろう。
講和決裂のときの激怒も、小西の策略で「冊封」以外は全部無視されて、
肝心の勘合貿易再開がスルーされたのと、朝鮮南部の割譲とかが認められなかったから。
貿易と南朝鮮の割譲が認められてたら、賢いサルは日本国王になってたと思うよ。
まあ韓国の領国化を認めさせ、貿易再開を再開するなら国王でも受けたかもね
その時点で冊封の原理からは外れるけど
明は弱体化していた
たった10万の満州軍によって滅びた
秀吉の構想は荒唐無稽ではない
360 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 11:50:16.38 0
>>359 >秀吉の構想は荒唐無稽ではない
間抜けで低脳なお前らしい物言いだな(笑)
抽象的な発言はいいから
具体的な秀吉の構想を説明しろ!
明と薩摩の合力計画の方がよっぽど荒唐無稽だろ
どっちも実現困難⇒無かったことに。
363 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 12:33:57.42 0
>>361 間抜けでトンマなお前の願望はいいから(笑)
>明と薩摩の合力計画の方がよっぽど荒唐無稽だろ
どこがどう荒唐無稽なのかを具体的に説明しろ
なんか気持ち悪いのが粘着してるな
>>359 地続きの場所から攻めてくる兵站の問題を考慮しなくていい遊牧式騎馬軍十万と
同じだけの兵力を日本が明に送り込むには。
水運輜重併せて三十万以上の補助と安全な揚陸地帯及びそれを制圧する別口
の戦力が必要なことを理解できない馬鹿がいるな。
明朝にとって北京から遠い朝鮮南部で属国の保護活動してる分には
金と人命以外は何も失わない。
秀吉が死んだあとも九州に逆上陸しようとしなかったのは、
追い払うことが出来ればそれで十分だったということだろう。
まして薩摩に20万の大軍を上陸させるなど、リスクしかない。
>>365 安全な揚陸地帯=朝鮮半島
別口の戦力=史実の朝鮮遠征軍だな
上にもあるように慶長役末期に名護屋に待機してた予備兵力があれば半島南部の再制圧
くらいは可能だったろうけど
大陸につながる北部までを再平定した上で行軍・兵站の支障になるレベルの反抗を完全に
押さえ込んだ後で十万の手つかずの兵力ひねり出すのはちょっと無理だな
禿げ山半島に騎馬軍送り込んで、馬匹が大量死してるのを知らない
無識が涌いてるスレはここですか?
369 :
368:2011/11/19(土) 14:13:58.82 0
あ、すまん。誤読だった。
【妄想】
>352 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2011/11/18(金) 21:35:28.92 0
>×朝鮮征伐
>○明出兵の通り道をさくっと占領
【現実】
世界征服のハズが朝鮮すら通過できずに終了
371 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 14:57:54.35 0
>>366 >秀吉が死んだあとも九州に逆上陸しようとしなかったのは、
>追い払うことが出来ればそれで十分だったということだろう。
>まして薩摩に20万の大軍を上陸させるなど、リスクしかない。
372 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 15:06:54.44 0
>>367 >上にもあるように慶長役末期に名護屋に待機してた予備兵力があれば半島南部の再制圧
>くらいは可能だったろうけど
朝鮮半島南部って具体的にはどの範囲を言っているんだ?
朝鮮義兵ならまだしも明軍相手に野戦で勝つのは碧蹄館の戦いや
稷山の戦いのように大軍であたらないと難しいぞ。
ましてや半島南部に漢城も含まれているとなると攻め落とすのは
至難の業だ。
とてもじゃないが、慶長役末期に名護屋に待機してた予備兵力程度で
半島南部を攻め落とせるとは思えない。
撤兵を開始して数万にまで減じた倭城に籠る殿軍の日本隊相手に
明軍が2,3度大規模攻勢を仕掛けたら大敗を喫して
それ以後は撤退するまで小競合いしかなかったよね
>とてもじゃないが、慶長役末期に名護屋に待機してた予備兵力程度で
え?w
375 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 15:23:41.20 0
済州島と鬱陵島に手を出さなかったのが謎だ。
あの2島なら、半島本土から撤退しても、日本に確保できたはずなのに。
376 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 15:34:30.65 0
377 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 15:37:07.36 0
378 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 16:15:27.93 0
>>375 チェジュ島は、もともと半独立王国であった時期が長く、
孤立した島だから日本側が奪取して、琉球みたいに支配することも可能だったろう。
ウルルン島は、まさに絶海の孤島で当時の李朝は空島政策をとって、
事実上放棄してたようなものだから、ここも日本側で確保することは十分可能だった。
現に江戸前期は島根か鳥取あたりの商人や漁民が行き来してた。
このとき、急に李朝が江戸幕府にイチャモンつけてきて、幕府があっさり折れたものだから、
ウルルン島渡航は禁止されることになったが、惜しいことをしたものだ。
>>377 ”名護屋の予備兵力”なんぞという認識がそもそも意味不明。
当時、中国・四国衆は休養帰国し、在番の九州衆6万ほどで明軍の全軍挙げての
反攻をはね除けているわけで、休養組が加わる翌春以降の再侵攻では、明軍が
三路の戦いで実際に半島南部に投入できた兵力が10万に満たない以上、慶応の役
緒戦同様、再び漢城あたりまで制圧して講和条件だった南部四道の実力確保は
特段の問題なく可能だろ。
380 :
379:2011/11/19(土) 18:22:23.39 0
おっとっと。
×慶応の役
○慶長の役
381 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 18:33:49.95 0
南部四道を確保するくらいなら、済州島と鬱陵島を取った方がよほどマシだろ。
その方が、いまでも領有できてた可能性が高い。
382 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 18:45:46.80 0
南部四道ってことは京畿道も入っているんだろ?!
だったらソウルも占領できるって事?
慶長の役開始当初は朝鮮全体に駐留している明軍の
兵力は2万程だったのにそれでさえ南部四道も確保
できず慶尚道南岸に仕置きの城を作るしかなかったのに
10万近い明軍の駐留している状態で南部四道を占領できる
ってどんな根拠でいってるんだ。
>>382 慶長の役では明軍は2万ぽっちしか居なかったので撃破されて、
日本軍は半島南西部の掃討って言う作戦目標を達成して帰国したよ。
>兵力は2万程だったのにそれでさえ南部四道も確保
>できず慶尚道南岸に仕置きの城を作るしかなかったのに
やっぱり前提となる事実認識がさっぱり欠けている
アホみたいだな。
385 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 19:37:08.46 0
慶尚南道に倭城を築城して維持するだけのの兵力があったら、
済州島制圧と維持くらい、いとも簡単だったのに。
なんで馬の放牧くらいにしか使えない吹きっさらしの孤島を
占領・維持せんといかんのよ。w
寒国人的には四国位の価値があんじゃね?w
まぁ、韓国のハワイ(笑)らしいけどな。
389 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 21:45:22.54 0
>>384 >やっぱり前提となる事実認識がさっぱり欠けている
>アホみたいだな。
抽象的な発言はいらないから
言いたいことははっきり言え!
>>372 >明軍相手に野戦で勝つのは碧蹄館の戦いや 稷山の戦いのように大軍であたらないと難しいぞ
いや、碧蹄館は兵力的にほぼ互角の状態で戦って明の精鋭遼東鉄騎を大破してるわけだが
やっぱり基礎的な知識すら持ち合わせてないのな
蔚山や泗川の城外戦を見ても明軍がそこまで野戦に強いとは思えん
>>389 最低限の知識はちゃんと勉強して出直してこいと言うことだよ。w
392 :
世界@名無史さん:2011/11/19(土) 21:57:30.14 0
>>391 思うんだけどこの子、終わった話である臣下の自覚とか福建省とかをしつこく蒸し返したり
普通知ってて当たり前の事柄を知らないで「具体的に言ってみろ!(笑)」と喚き出すあたり
ただ煽りたいだけの荒らしじゃないの?
>>390 碧蹄館は兵力差があるにもかかわらず立花勢を一気に崩せなかった時点で
終わってるわな。
小早川が後詰めに回るともう膠着して押され気味で、毛利・吉川が加わると
総崩れ、という感じ。
>>392 少なくともウリナラ国史教科書的な知識が前提になってるよなー、と思うね。
五百人で明軍二千騎を蹴散らした十時伝右衛門凄すぎ
いくら最初から死ぬつもりだったとはいえ
結局、戦闘力ばかりあっても駄目ってことか
397 :
世界@名無史さん:2011/11/20(日) 00:02:05.10 0
>>390 >いや、碧蹄館は兵力的にほぼ互角の状態で戦って明の精鋭遼東鉄騎を
>大破してるわけだが
いまだに碧蹄館の戦いは、小早川隆景率いる前衛だけで勝利したって
思っているんだ。(笑)
後衛の宇喜田秀家配下でも戸川肥後守達安や国富源右衛門戦闘に参加
しているのに。
なんで重臣の戸川と誰だかよく解らない小身の国富なんちゃらを並べてるんだよ
>>397 この話もちょっと前に上がったばかりなんだがなあ
日本軍本隊のうち戦闘に参加した記録があるのは宇喜多勢の戸川隊のみで
その戸川隊の参戦さえ「戸川記」に書かれているだけで疑わしいところがある
明軍と交戦したのは先鋒隊二万のみで、本隊二万一千が予備兵力として未参戦であったことは
徳富蘇峰や李炯錫も指摘しているわけだが
戸川達安はやはりフカシだろうねぇw
事前に戸川だけ先鋒隊に分派でもされていない限り、陣備えで
最後尾の宇喜多勢が戦闘に参加するのはどうしたってムリだろ。
石田大谷ら奉行衆は合戦自体に消極的だったからわかるとしても
本隊先陣の黒田長政が後続部隊の抜け駆けを見過ごすとは考えづらいな
402 :
世界@名無史さん:2011/11/20(日) 03:30:18.50 0
おまえら受験生か?
>>392 臣下云々と福建省云々は別人だよ。
それに臣下云々は勘合貿易再開の件とか同時期のアルタン・ハンの事例とか出してて、
ちゃんとした根拠があるのに、荒らし呼ばわりはひどいと思う。
404 :
世界@名無史さん:2011/11/20(日) 10:56:11.08 0
>>399 >日本軍本隊のうち戦闘に参加した記録があるのは宇喜多勢の戸川隊
>のみでその戸川隊の参戦さえ「戸川記」に書かれているだけで疑わ
>しいところがある
印象操作はいいからもっと具体的に反論しろ。
たとえば、国富源右衛門の逸話などは本人にとってもあまり名誉ある
話じゃないのにこれも捏造だというのか?!
>>404 根拠が「戦国ちょっといい話・悪い話」に載っている逸話だけとか情弱すぎだろw
そういうこと言い出すなら後世の「陰徳太平記」では碧蹄館で宇喜多・吉川勢が先鋒を任されたことになっているし、
「黒田家譜」では黒田隊の大活躍によって日本軍が勝利したことになっているわけだが
お前は後世の逸話や文献を片っ端から鵜呑みのする前に、他の文献と照らし合わせて資料批判するべきだな
まあ旧参謀本部の「日本戦史・朝鮮役」では戸川隊の参戦を肯定しているわけだし
ありえない出来事とは言えないんだろうが
どっちにしても宇喜多の一部将が参戦したかしなかったかだからな
本隊がほとんど不参戦であったことに変わりはない
>まあ旧参謀本部の「日本戦史・朝鮮役」では戸川隊の参戦を肯定しているわけだし
してねーよw
補伝に資料として収録されているだけで、採用していないから本編にその記載は皆無だ。
>>407 あ、ホントだw勘違いしてたわ
補伝には上の陰徳太平記みたいな眉唾話も結構載ってるし
参謀本部も戸川隊の参戦はなかったものと認識してたんだな
409 :
世界@名無史さん:2011/11/20(日) 14:58:47.97 0
立花宗茂の配下として碧蹄館の戦いに参加した
天野源右衛門の文書では、後衛から宇喜多隊八千
が前衛の毛利隊に対抗するためにずんずん前に出て
備えを立てたので毛利勢の先手から『備前勢があんな
に押し出したのは、定めて先陣せんとのつもりでござろう。
貴殿はすでに今朝いざぎよき合戦をとげられたのでござれば
先陣をお譲りくだされ。』との口上があり宗茂が先陣を譲ったとある。
>>409 「天野源右衛門覚書」の該当記事を見てみると
「三陣の備前衆八千ばかり、敵近づかば、立花に先んじて、一戦せんと進み出て見えしが、
敵の大勢なるを見て、引くともなく、進むともなく、ためらいしが、四五町ばかり引き退く」
とあり、宇喜多勢は結局「四五町ばかり引き退」いてしまっており
その後の戦いの場面にも毛利家と立花家しか出てこない
この記事には右方から明軍を攻撃したはずの小早川秀包、毛利元康、筑紫広門らが出てこず
毛利勢の粟屋・井上隊が敗走した後に立花隊が単独で明軍を大破したかのように書いてある
「天野源右衛門覚書」は合戦の当事者が書いたという点では極めて史料価値が高いけれど、
大名家が編纂させた文献ではなく一個人の覚え書きであるため誤解や記憶違いもあるだろうし
立花家を表彰したいがための脚色も多く留意が必要だと思う
怪しげな三次資料あたりの引用をドヤ顔で書き込んでみたら、
すかさず原文挙げて否定されて
>>409涙目だな。
ためになるな
>>403 でも戦争吹っかけておいて勘合貿易をしたいって、「貢物をよこせ」って要求じゃね?
秀吉が死なず、明と有利な講話を結ぶとしたら
どのような条件が妥当だろう
朝鮮南部の確保?歳幣の要求?
後の展望が見えん
「此の戦争は、第六番組の受持であつた。
即ち小早川隆景を首とし、毛利秀包、立花宗茂、高橋主膳正、筑紫廣門等にして、此に毛利元康の一隊参加して居た。
先づ未明に始まり、午後四時頃終わった。
最初は立花兵と、敵の先鋒査大受と○石嶺の此方に於ける衝突に始まり、次に李如松と小早川本隊との接戦となつた。
即ち隆景本隊は第一陣粟屋、第二陣井上、第三陣隆景旗下とし、立花宗茂を左翼とし、毛利元康、小早川秀包等を右翼とし、
本隊の戦酣なるに際し、左右の翼を放って、敵の後方に迂回し、殆ど敵を包囲攻撃した。
実際戦闘に参加したるもの、我は一万五千以下、敵も暫時に増兵し来りたれば、
最後に来援したる揚元の兵を合すれば、二万内外にも上る可きか。
其の損傷は、我が二千、敵が五六千の間であらう。 」
碧蹄館の戦いに関しては「近世日本国民史」の考察が最も真相に近いと思う
日本側の参加兵力が少ない気がするけど、これは渡海以来の兵士の消耗を差し引いて考えた結果だろう
あ、違った
日本軍の参加兵力を一万五千以下としているのは
吉川広家の兵力四千が勘定に入っていないせいか
417 :
世界@名無史さん:2011/11/22(火) 05:36:58.06 0
その気なら12世紀の十字軍のように半島の一部に傀儡国家くらい作れたと思うわ
極端な話、その気が有れば今の韓国領ぐらいは編入出来たな。
秀吉が死ぬと撤兵するあたり、朝鮮の土地はあんまり魅力的じゃなく
その気はなかったんだろうな。
今の韓国に値する土地を確保したとしたら
かなり歴史が変わりそう
女真との関係とか
明が崩壊期に入った時期ならサクっと半島まるごと占領して
清と分割協定結ぶのはわけなさそうだ
明が崩壊に向かう前に、固まる前の女真族を明がけしかけてくる可能性が
夷をもって夷を制すを実践するだろ
ヌルハチ自身も得体のしれない鉄砲軍団より明につくだろうし。
後金は日本への通り道を必要としてないから。
明遠征の為の通路を欲した日本とは違って。
半島中南部の割譲を明から引き出したら
誰が配置されたんだろうな
当初の予定どおり
勲功あった武将か、豊臣家一門・宇喜多あたり配置するんじゃね
426 :
世界@名無史さん:2011/12/01(木) 19:47:04.92 0
>>422 満州八旗10万じゃ朝鮮に城と補給線を構築しきった
日本には勝てないよ
清は肥沃さも技術も文化も無い半島になんて興味無いよ
428 :
世界@名無史さん:2011/12/01(木) 20:21:42.86 0
鬼島津の対兵数二十万人は誇張された数字ではないと思うな。
三国志の時代ですら百万人規模の軍勢が在った国ですよね?
それならなおさらのこと、当時でも数十万人の軍勢で
押し寄せたとしても違和感が無い。
むしろ、数万人程度で島津義弘へ攻撃したとする説のほうが誤りに見える。
429 :
世界@名無史さん:2011/12/01(木) 20:26:11.82 O
どうでもいいけど後世のために滅ぼして欲しかったわ。秀吉さん・・・
>>428 小説や漫画はどうか知らないが現実はそこまで多くないだろ
三国時代末期でも蜀が10万、呉が25万くらいだから魏呉蜀を合わせても100万いくかどうか
数万人ってすごい数だぜ?
2万人が1メートル間隔、二列縦隊で行進したら全長10キロだぜ?
三路の戦いに投入された明軍を総計しても十万人前後だし
二十万はありえないな
428はあっちこっちの板にマルチポストなんで
スルー推奨だな。
>>429 秀吉の時代に半島奪ってれば、近代の日清日露など回避できたもしれんね
明治時代になって「気がついたら列強に囲まれてる!怖い!軍国になろう!」
とはならなかったかもな。
女真やモンゴルに対する備えを考えれば辺境の朝鮮半島南部の賊軍の一部隊に兵力二十万人投入はありえない
女真やモンゴルに対する備えを考えなくとも二十万投入はありえないだろ
明がサルフの戦いに投入した兵力も十万だから、このくらいが外征に出せる兵力の限界だったんだろうな
朝鮮半島手に入れて明と講和したとする
サルフの戦いがあるとしたら、明は日本に救援を依頼するのだろうか
439 :
世界@名無史さん:2011/12/03(土) 12:30:59.70 0
朝鮮本土なんかにこだわらず、済州島と鬱陵島だけ確保しとけばよかったんだよ。
そしたら、その2島はいまでも日本領だった可能性が高い。
440 :
世界@名無史さん:2011/12/03(土) 12:37:59.09 0
とにかく後世のために滅ぼして欲しかったわ。
441 :
世界@名無史さん:2011/12/03(土) 13:00:02.90 0
やっぱり、済州島スルーしたのは謎だよな。
滅ぼしてもあの地理的状況が新しい朝鮮人を産んだだろうよ
日本と中国に挟まれて恨みの文化が育まれるもの
443 :
世界@名無史さん:2011/12/03(土) 13:44:12.44 0
そんなことより、済州島をスルーしたことの方が大失態だろ。
現代の視点でみると鬱陵島は朝鮮の領有権が及ぶとした江戸幕府の大失態が痛い
445 :
世界@名無史さん:2011/12/06(火) 15:53:41.80 0
スルーしてないし
ワイが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしいで
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうや
その世界ではごっつい有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報やで
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタやな、
お前らからすればもう常識的なくらいの知識やろ?
448 :
世界@名無史さん:2011/12/07(水) 20:14:08.17 0
>豊臣秀吉の朝鮮出兵はスペインの日本侵略を防ぐ布石を打つことが目的だった
この説の起源は井沢元彦ってことでおk?
>>449 西尾幹二が「国民の歴史」でそういう感じのことを書いていたような・・・・
つくる会の教科書が文部省の検定で「具体的事実がない」とひっかかってたな。
井沢元彦と西尾幹二どっちが先かね
スペインの日本侵略とか、つくる会も文科省並みに電波だな
スペインを過大評価し過ぎ
当時のスペインなんて日本どころか明にもボロ負けするだろうな
というか当時の明の軍事力は過小評価され過ぎな気がする
動員兵力は世界一だろうし、装備も兵の錬度も悪くないはず
455 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 13:48:34.53 0
もし秀吉が朝鮮半島を占領しても明との戦争に明け暮れどの道、負けていたと思う。
国内では内乱が起こり家康が三成を破って徳川幕府成立してたでしょう。
朝鮮出兵、もし信長ならどう戦っただろうか?秀吉と同じ手法だったのだろうか?
明と戦うなら日本と朝鮮が戦わず連携して明に攻めれば勝機はあったかも知れない。
飛行機の無いこの時代、まともな国を相手に海を渡って戦争して勝った国はそうそう無いよ。
そもそもが対馬の宗氏が吹き込んだ「朝鮮はすでに服属している」なんて甘い見通しを前提に出兵しちゃってるからなあ
「征明」も朝鮮という先導役・前線基地あってこその計画だったろうし
457 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 14:11:23.60 0
>>454 いや局地戦なら当時の明は何処とやっても負ける
458 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 14:14:10.12 0
李氏朝鮮が味方した方が勝利する
これは間違いない
>>457 スペインからはるばる遠征してきたスペイン軍程度じゃ明に負けちゃうでしょって話
当時の渡海能力だと送り込める兵力なんてたかが知れてるし
460 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 15:09:00.10 0
秀吉でも明でもいいが、とにかくチョンを滅ぼして欲しかったわ
朝鮮出兵の時に朝鮮を領有出来ても
その後も維持出来るとは思えないんだよな
中華が南北に分裂するなら別だろうが
>>457>>459 スペイン人自ら、明兵は恐ろしく統制され、精強無比な集団であり
我々の軍隊では到底対抗できない、と報告してる。
463 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 18:01:27.11 0
だから朝鮮半島全部とか、南部4道とか欲を出さずに、
チェジュ島とウルルン島だけにしとけば、確実に領有できてたのに、
なぜかこの2島はスルーしてるんだから、信じられんわ。
秀吉が70歳まで存命してたら
倭領を含めた半島南部は確実に回復出来たんだろうけどな
465 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 18:27:39.34 0
無理。
チェジュ島とウルルン島確保が一番現実的。
余裕。
半島南部の日本領土化は現実的で確実。
秀吉の死亡で日本の大陸進出の夢が断たれたのは確か
賛否もあるが江戸幕府には外征してほしかったね。
でも仮に倭国が大陸全土を手中に収めたら…
幾多の騎馬民族のごとく「漢化」して日本文化を失うのがオチじゃないか?
江戸幕府って薩摩に琉球の遠征はやらせてるのに、大陸侵攻どころか海外渡航を禁じたり蝦夷地はほぼ放置。
琉球だけなんで攻めたんだろ。
470 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 19:36:27.04 0
幕府は薩摩が琉球遠征するっていうからまぁいいんじゃね?って許可しただけだろ
薩摩も琉球を介しての大陸との貿易がしたかっただけでてこずったらすぐ撤退する予定だったみたいだし
李朝を滅ぼしたところで住民は残るわけだし、史実より日本と明の干渉が強くなったら
いまより関係が拗れるんじゃね?
徳川としては大陸に大量に兵を送るより
国内の基盤固めがしたかったんじゃね
李朝は当時かなり民衆から恨まれたりしてたわけで
上手く根回しすれば民衆を味方に出来たのに
数多の植民地帝国や日本帝国も俺のほうが上手く支配できると勢い込んで
手を広げたんだろうけどなかなか上手くいかないようだし、難しいようですな
いくら植民地を手に入れても同化させなければ意味ないしね
>>462 明軍を見たポルトガル人宣教師は、世界中探してもおそらくこれほど精強で規律正しく操練された軍隊は居らず
ヨーロッパの軍隊とは比べ物にならない、彼等がその気になれば地の果てまでも征服するだろう。と報告してる
↑気になって調べてみたらこういうレスを見つけた
誰かこの話の出典を知っている人はいない?
>>471>>475 李朝の頃に滅びてたら今頃朝鮮半島の住人は日本語喋る日本人になってるよ
現代トルコ人がトルコ語を喋り北アフリカ諸国がアラビア語を喋るように
数十年では同化しなくとも100年200年経てば同化する
戦国時代の集大成の一つとも言える合戦なんだけどなあ…
強さは示したけどただそれだけ
大暴れして民衆の反感買ってるし、国内の豊臣の力が落ちるはでまともなものじゃない
朝鮮征伐が民衆の反感買ったとか初耳だわ
聞いたことが無い
実は朝鮮出兵の兵糧確保の名目で蔵入り地って豊臣家の直轄地が増えて、
豊臣家の権力は強化されたって話を聞いたけど、どっち?
フィリピンはスペイン化しなかったけどな
本国から遠すぎたか?
482 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 22:58:30.65 0
そういえば、フィリピンって白人系のメスティソっているのか?
金持ちも完全なアジア人の顔ばっかりで、白人っぽい奴ほとんどいないんだが。
例外的にアヤラ財閥という、スペイン系白人の財閥一家がいるって話は聞いたことがあるが、
それ以外はほとんど白人系住民って見かけない。
占有してたのは港近くの集落だけだからな
それも普段の管理は現地人任せだし
484 :
世界@名無史さん:2011/12/08(木) 23:10:31.81 0
アジアで白人が同化する事はなかったな。
シベリアの住人はロシアに同化しちゃったぞ
スペイン系フィリピン人はマフィアに多いよ
華僑系フィリピン人は政界経済界に多い
>>485 でも今は人口は史上最大で割合を増やしつつあるような
>>477 トルコとて住民交換前はギリシャ人随分居たし、アルメニア人も多かったし
クルド人は今でも多いし。マグリブも千数百万だかのベルベル人いるわけで
1000年かけてもそんなもん
おまけに半島は人口と人口密度がかなりでかいし、同化つうても結構難しいんじゃなかろうか
半島を同化させるなら
大衆レベルで進んで日本語を習わせる
心情を日本寄りにさせる
旧制度を徹底的に同意のもと破壊
くらいの条件が必要な気が
仮に同化に成功して統治がうまくいったとしても清代に奪われるだけじゃねーの?
清に半島狙われて、何時までも維持できるとは思えんが
元々少数民族による支配なんだし、清がそう強固とも思わんけどな。
日本が早い時点で橋頭堡が確保できれば、むしろ清が史実通り旧明の
全域を支配できたかどうか怪しいと思うが。
史実でも、鄭成功絡みで徳川幕府の派兵の可能性があったわけだし。
>>487 半島人の同化は余裕だよ、現に北部人は南部に滅ぼされ同化しちゃってるしな
進んだ文明としての意識や確固たるギリシャ語があったオスマン治下のビザンツ系とは質が違う
クルド人の存在は英国の混入政策の結果だし、そもそもトルコのクルド人は大して古い民族でもない
492 :
世界@名無史さん:2011/12/09(金) 09:13:36.21 0
>>462 いや寧ろ現地のスペイン人らは明攻撃を盛んに説いてた
本国とマニラ総督が乗り気じゃなかった為実現せず
>>492 フロイスの日本史を読むと文禄の役のくだりに面白いことが書いてあるよ
なんでも「明人は弱い」という認識は倭寇に荒らしまわされてた「軍兵がいない」中国南岸部の弱兵のイメージが広まったものであり、
戦闘経験豊富な明の国境付近の駐屯軍と日本軍が交戦するに至って、
実際の明軍はヨーロッパ人や日本人の想像よりもはるかに強大であることが分かったとか
スペインが本気出しても、せいぜい出来る事はイギリスがしたみたいな海賊行為だけだろ。
コンキスタドールの影響で強さが際立って見えるだけ
スペインの軍隊自体はそこまで強いものじゃあない
496 :
世界@名無史さん:2011/12/09(金) 13:51:11.01 0
まさにそれが目的だった
広州や寧波などの大経済都市から苦力や産物たらふく強奪できれば相当な利益になる
>>492 明軍を見たことも無いアホが喚いてたが
直に目の当たりにした
>>462の報告を見て取り止めた
>>491 日本が相手するのはその同化力の強い南部人になるのでは?
クルド人はセルジューク朝に征服される前にマルワーン朝形成してたし、
新しいとも思えんのだが。英国支配地にしたって元オスマン領だし。
同化するかどうかは現地の人の態度しだいだろうね
積極的に他国の言語を使う風潮が出来たら百年たてば同化するだろう
エジプトやイランがアラビア文字化したのは100年ちょっと
エジプトがアラビア語化したのは2,3世紀
最初は漢語はそのまま、チョウセングルがかな文字に置き換わって
今頃は日本語化してたじゃないかな
501 :
世界@名無史さん:2011/12/10(土) 11:42:10.47 0
>>497 バラつきがある宣教師達の私的報告で総督府の方針がコロコロ変わる事はあまり無い
単にガレオン貿易での取引が予想より有益だった事とフィリピン諸島の征服事業に専念するため取り止めた
>>502 スペイン人や米人との混血は人口の1%もいないよ
朝鮮獲得しても次の中国入りをどう成功させるのかが大問題
北京落として終了ってわけじゃないし
仮に成功しても女真みたいな統治じゃ中華に同化する
インディアンみたいに対立煽って自滅させるのが一番だろうが
そこまでアホじゃあないだろ
505 :
世界@名無史さん:2011/12/11(日) 03:09:03.45 0
そう言えば朱元璋が死ぬ間際に上げた「不征ノ国15カ国」て全部分かる人いる?
506 :
世界@名無史さん:2011/12/13(火) 01:04:56.91 0
朝鮮半島も征服できない侍風情じゃあなあ
実質秀吉が死ぬまでの7年程度じゃ無理だったってだけだろ
小西やら沈惟敬の欺瞞外交で長い休戦期間もあったわけだし
まあ、明の参戦がなかったら李氏朝鮮なんてとっくに服属か滅亡してただろうけどな
おおむね戦争では勝ってたが
異民族支配のノウハウがなかったのがな・・
蝦夷を支配し新羅と百済を属国化し、カヤを支配し高句麗にまで出兵した
古代のノウハウが残っていればな
交渉相手はあくまで明なんだぜ?
朝鮮半島を平らげて、完全に民衆を手なずけても明が朝鮮救援に燃えてれば
戦争はずっと続くんだぜ。
明が嫌気さして適当に講和する条件は何が考えられるのか
女真の反乱だろうか 農民反乱だろうか
実際、嫌気さして朝鮮無視して適当に講和した結果が
文禄のあとの講和だろ
あの段階で朝鮮南部が日本になってたら今の朝鮮はどうなってたか
狭い領土で南北に別れてろうか
いまも分かれてるじゃんw
日本に近い南東部が日本で、中国に近い北西部が中国になってたんだろ
清朝崩壊で北西部が独立した可能性はあるかも
そうなると加藤清正あたりがヌルハチと戦ったりするのか
胸熱だな
あと日本に儒学者がわたってきてたりしてたんだろうな
朝鮮としては貨幣経済が発達したりすんのか
慶長の役で行った恒久支配と、不満分子の皆殺し
大和化政策、日本と変わらない待遇を50年続けたら
民族意識なんて希薄な当時なら朝鮮民族意識は消えて大和民族になるよ
蝦夷とアイヌの違いなんて昔は殆ど無かった訳だし
実際、熊川とか釜山とかの倭城の城下町では朝鮮人が月代を剃ったりお歯黒をしたりと
風俗の同化が進んでたらしいな
朝鮮支配すると変に儒学かぶれする人物が続出しそう
あの頃の朝鮮は圧政に苦しんでる大衆が多いから
善政を敷けば苦もなく大和化したかもね
その場合日本の影響受けた南部と中華に追従する北部とで
酷い南北対立が起きそうなんだが
儒教は徳川の治世じゃ無いと
あそこまで流行らないと思う。
>>518 日本が満州ヌルハチ相手に朝鮮半島で何処まで兵担を伸ばせるか次第だと思う。
南端沿岸に留まると日本の影響はその周辺都市に限定されるし
中朝国境付近まで支配できれば50年で日本化が始まって
200年も経てば朝鮮民族は隼人や蝦夷みたいに
歴史の遺物になるよ
特に当時は民族意識も人権意識も弱いから
日本化した朝鮮人を差をつけないで待遇したら
染まるのは早いし、染まらないのは殺されて終わり
まぁ混じれば朝鮮民族は数も多いし日本人の意識に
相当な悪影響を及ぼしそうだけど
イギリスとアイルランドみたいな関係になるぞ
満州族も結局は山海関を自力で突破できなかったから
無敵ってほどは強くない だだっ広い騎兵に有利な場所に出なければじゅうぶんに対処可能じゃねえの
もし仮に明朝が倒れる頃、日本人が満州族みたく漢語に通じてたら
中国の征服王朝になった可能性もあるのか、宗篤だなw
満州が全部ロシア領になりそうだけど
戦国時代の日本の民度なんてかなり酷いものだろうし
朝鮮民族と多少混じっても悪影響は及ばないと思うが
まあ、朝鮮半島全部併合するより緩衝国として残す方がいいわな
そういう意味では朝鮮南部の確保を目的とした慶長の役は現実的だった
山がちな地勢だから半島分割もできなくはないだろうな
おいおいwikiの碧蹄館の戦いのページどうなってんだ?
明軍の損失が2000〜2500人で日本軍が6000〜8000人って書いてあるぞ
日本軍がそんなに死んだわけねえだろ。ソースは?
あのページコロコロ変わるからなあ
ほっといた方がいいんじゃね
>>524 >>525みたいな在チョンが
歴史的事実を無視して自分たちの願望優先で秀吉軍を貶めるのに必死だから
さっさと元の版に戻した方がいいよ、キチガイ在チョンは会話が成立しない。
お前がやれよ
やることは誹謗と指図だけかよ
とは、願望優先でウリナラファンタジーした在チョンの便。
誰と戦ってるんだよ
朝鮮討伐が成功してたら今の慰安婦問題(笑)もないんだろうな…
ほんっと惜しいことしたよ
531 :
世界@名無史さん:2011/12/19(月) 03:17:15.16 0
とにかく日本は朝鮮なんか統治すべきじゃなかった。アメリカと戦争
した事に次いで、朝鮮統治は日本史上における大失態だ。
日本統治時代に、土人国家をインフラ、産業などの整備してやって、
戦後もガンガン技術、経済協力までしてやったのに逆恨みをするだけ。
同じく統治した台湾と正反対。台湾ではシナ人は略奪するだけだった。
世界中から嫌われるはずだ。チョンにすればアメリカ様は解放者だろ?
韓チョンにすれば虐殺者、将軍様から今も守ってもらってる恩人だろ。
チョンを守るためにどれだけのアメリカ人が死傷したんだ・・・
その恩人の国旗を平気で踏みつけ火を付ける。それが、「チョン」
↓
http://images.4chan.org/trv/src/1324204379430.jpg
>>530 あんなのは河野と宮沢が娼婦の売春行為に謝罪したのが問題
日本政府が間抜けだから起きた問題であり
慰安婦問題が火種にならな くても
別の問題が出てくるよ
一時期フィリピンパブのダンサーが人身売買だと言われてたように
今、安さで日本の風俗を席巻してる韓国娼婦も
慰安婦問題が無くても、日本批判のネタなるのは間違いない
碧蹄館の戦死者数についてなんだが、徳富蘇峰氏が「近世日本国民史」の中で
「其の損傷は、我(日本軍)が二千、敵(明軍)が五六千の間であらう」と推定してるんだよな
wikiに載せるなら「2000〜2500」だの「6000〜8000」だの根拠不明の数字じゃなくこっちにすべきじゃない?
まあ俺は編集の権限持ってないから、こうして2ちゃんで素人考えの提案をすることしかできないわけだが
朝鮮側の言い分じゃ
両役とも、派兵した兵隊の8割強は
朝鮮、明兵に討ち取られてることになってなかったって?
韓国籍の言い分は常に間違ってるからどうでもいい
>>533 編集は誰でも出来るよ、キチガイが暴れたなら串通せばいいし
実際、朝鮮兵ってどのくらい貢献したの
朝鮮水軍が活躍した話くらいしか聞かないんだが
頑張って明軍の補給を悪化させたよ
538 :
世界@名無史さん:2011/12/25(日) 00:44:20.11 0
Wikiでの碧蹄館の戦いのことなんだけど、
戦死者数の記述がおかしくね?
539 :
世界@名無史さん:2011/12/25(日) 00:51:54.41 0
とにかく滅ぼして欲しかった。それだけ。
>>533 >>538 両軍の戦死者とも何が出典なの?って感じだよな
日本側は実質二万人前後しか参戦してないのに、六千人も討ち取られたら壊滅状態だろ
とても包囲陣形を維持できずに早々と壊走してるはず
あと明側の戦死者についてなんだが、個人的には「日本戦史」にある六千人はさすがに多すぎるように思う
安国寺恵瓊が立花宗茂に送った書状に
「去廿六日、大明人罷出候処に、先手御請取候て、被振御手柄、数千人被討取由、京都御三人衆・隆景注進状にて承知」
とあるから少なくとも二、三千人以上討ち取ってるのは確かだと思うが
日本側は優勢な推移のまま勝利し兵器の質も上だった以上、最大限で1割の2千人は超えない。15%超えたら敗走寸前
「日本戦史」にある六千人の推計は、恵瓊が宗茂へ送った書状にある「数千人被討取」とよく合致しているし信憑性がある。
明側に野垂れ死に多そうだが
帰還経路が長い
それらもふくめてるんでないかい
「首級六千余」だからなあ
確かに長い敗走途中に野垂れ死んだ明兵の首まで含むなら分かるけど
日本軍は深追いせず漢城に帰還してるみたいだし
544 :
世界@名無史さん:2011/12/25(日) 23:56:53.34 0
勝った側の戦死者数が負けた側の2〜3倍近くなんて良くある話なの?
どう考えてもおかしい
ベトナム戦争みたいだな
wikiは日本語版と英語版が全く内容が違ってるんだがw
はいはい、在チョン乙
548 :
世界@名無史さん:2011/12/26(月) 20:42:52.46 0
結局、日本語版と英語版はどっちが正しいの?
>>544 攻城戦だの上陸戦だのであれば普通。
守る側は攻める側の3倍有利だと言われている。
本件は後詰め決戦ご主戦だから関係ないな
>>548 おおむね日本語版が正しい
なんせ英語版のソースはもっぱら朝鮮人の書いた本とかKBSだからな
釜山浦の戦いが朝鮮軍の決定的な大勝利だとか幸州山城で朝鮮軍2300人が
日本軍1万5千人をぶっ殺したとかやりたい放題w
>>548 碧蹄館は、現在では国際的にも韓国領だと認識されている。
それにしても英語版は日本語版よりも海外の人の目に触れる機会が多い
これは由々しき事態だな
この手の編集合戦に関しては情熱が朝鮮と違う上に朝鮮はインテリもキチガイなので日本が不利だな
文化普及庁だかなんだかに予算と人員付けて
国家ぐるみで世界中のありとあらゆる場所の管理側から末端側まで
全線に渡る容赦無い無慈悲な工作と韓国人への配慮要求してる国だからな
お、wikiの碧蹄館のページようやく戻ったな
今度は明軍の損失に出典もついたし、これでもう迂闊には変えられないはずだ
どこのどなたかわかりませんが乙です
558 :
世界@名無史さん:2011/12/29(木) 19:20:33.50 0
日本が朝鮮出兵で成功して現地文化を完全支配したら
きっと同化して日本は朝鮮化していただろう。
ちょうど中国を支配した満州が中国に同化して消えてしまったように。
同化ってのはそうゆうことだ。
そろそろ大和民族なんて滅ぼして
蝦夷民族の国としよう。
畿内の侵略史ばかり学ぶのはもうこりごりだ。
人口差があり、文化レベルはむしろ朝鮮のほうが低いものも多いので無理
朝鮮も明も変わらないので人口も文化も大陸優位となるので有り
なにより畿内の文化優位は大陸が寄りどころです。
蝦夷か大陸かどっちか選びましょうよ。
どう見ても
>>558は釣り
本気で書き込んでるとしたら真性のキチガイだろ
562 :
世界@名無史さん:2011/12/29(木) 22:37:08.11 0
まあ大した意味とかないけど。
そんな真剣勝負を挑んでどうなる。
秀吉の対明出兵を日朝戦争さながらに論じる姿が
面白おかしかっただけだ。
日本は何度も大陸進出しているから中華化している、これは事実。
秀吉の時代は足利は公家化していてこれを秀吉は名族として保全する。
関東では古河の足利を権門として正当性を持せているし
義昭は室町内府公として対明出兵にも参加。
足利義昭は明から日本国王の称号を受けているので正式な対明戦争。
それを朝鮮がなんだとアホらしいことを。
563 :
世界@名無史さん:2011/12/29(木) 22:47:15.61 0
まあ隼人はのちの鹿児島人として
蝦夷は関東政権として後年日本の中心となったから、
朝鮮出兵が成功してたら
今ごろ日本のトップは朝鮮人だっただろう(笑
足利義昭が対明出兵とかどこのパラレルワールドだよw
隼人が鹿児島県人だの蝦夷が関東政権だの言い出すあたり本物のキチガイだったみたいだな
566 :
世界@名無史さん:2011/12/29(木) 23:26:13.83 0
愚かだな。
日本に征麗将軍なんて役職はないんだよ。
あくまで明との関係があるのみ。
概念のない征伐論なんて無意味。
対隼人は鎮西将軍だし対東国は征夷や征東や奥州鎮守府将軍やら諸々。
まあ全ては中華思想に基づく概念だが。
”中華様、今我々は蛮人討伐していますよ!”っていう意味の役職名ばっか。
567 :
世界@名無史さん:2011/12/29(木) 23:30:17.04 0
>>565 バカなのに威張る奴の意味はいつもわからん。
自分が間違ってるときは自分に威張るのか、バカって。
バカのルールほどキチガイじみてるモンはないな。
朝鮮出兵で手柄まで立ててる足利義昭も知らない嘘歴史。
日本の歴史歪曲は酷い
きっとマンガの歴史教材ばっか読んでるからこうゆうことになるんだろうな。
信長「義昭追放だ!」義昭「ひえーっ」・・・室町幕府滅ぶ
こんな感じの。
これを読んでいい点取ってママに報告→褒められる。
これが日本の子供の勉強の実体なのだ。嘆かわしい。滅んでねえよ足利
足利義昭が朝鮮出兵で立てた手柄って、もしかして200人の手勢で名護屋に参陣したこと?
なら同じように名護屋に駐屯してただけの前田や徳川も朝鮮出兵で大活躍というわけだな
いま北海道があるように、長い半島統治で同化してたら西海道になるだけ
もしくは南北で分けて韓羅道と朝鮮道とかね
571 :
世界@名無史さん:2011/12/30(金) 00:08:07.52 0
>>569 調べてから知ったように答えるな。アスペか。
活躍と手柄は別だバカ。
従軍した結果をもとに所領を得てるんだから手柄と言うんだよ。
武家の仕組みも知らんのかよ。やっぱマンガしか知らないから。
いいから落ち着けよ
何でもかんでもアスペアスペ言うのは馬鹿の証拠ってのは事実だと解った
>>571、ありがとな
574 :
世界@名無史さん:2011/12/30(金) 00:23:47.39 0
お礼言われた。
やはり反応が読めないアスペならではだわ。
アスベと言うならむしろ脈絡も無くいきなり的外れな話題をレスし始めた・・・
いや、やめておこう
576 :
世界@名無史さん:2011/12/30(金) 00:42:36.94 0
香取鹿島両神宮が元の蝦夷征伐前線基地なことも知らんらしい。
隼人はどう考えても薩摩だろ。
奥州が鎮圧されたのは鎌倉の頃だから、
その300年後に半島に大和参加地が出来たとして同化も可能だろう。
ただし大和のアイデンティティが同じものであるとは限らない。
・・・というかパラレルワールドはどっちだよ。
バカの想像力だな。
現実の足利の歴史を知るより
朝鮮半島に妄想を膨らます方が楽しいというアホだな。
日本の恥部だ。
現実的だからなあ、半島地域の日本民族への同化という仮想は
議論するまでもないが
1 13世紀、すでに日本は地域におけるバランスオブパワー バランスオブシステム
だった。これは議論の余地なし
2 そして通年再三、再四的に攻めてきた、チョン、シナに対する征伐行動だった
3 結果的に、悪巣チョン、シナは駆逐された、秩序ができた。
都合シナ海賊、チョンテロ海賊が駆逐されて秩序ができた。
順序的に
すでに12〜15世紀でもチョン海賊テロ行動は巨大だった。そしてそれまでが海賊行動だったのが
明白なテロ、破壊行動に変わった
再三、再四、せめてきた。それを撃退した。
この都合上、明はチョン海賊を意図的に作為し、調べもせず、日本海族と(海賊被害者に向かって)挿げ替えた。
都合上チョンテロ征伐したが、この都合あきらかなチョンテロとばれた。都合明はごまかし下がる。
しかしその50〜100年あとも同様の手口をした。そしてその段階ではあきらからに明海賊、シナ海賊がいた。
明海賊スケープゴーとした。
つまり地域の秩序、規律に強力せず、その海賊、破壊行動を挿げ替えたのが頭にきていた。
明はあきらかに地域の破壊者だった (というより日本進行を再三画策した)
その都合上明征伐した。
結果チョン艦隊全滅、海賊死亡、 明ほぼ絶滅←後裔の清はやむなく日本手を引き、かつその段階で
明海賊を討伐しないといけなくなった。
所詮日本がバランスオブパワーで地域の秩序を作っただけ。その上で日本が秩序として最上じゃなかろうと、
シナが一切秩序を構築しないから、日本が最高の秩序だった。
シナは伝統的に、地域のルール、バランスオブパワーとして機能しない。ただのファシズム。
そしてシナはただのファシズムであって、ルール策定、バランスオブパワーの概念がない
政治上は日本が正しい。
1 明はすでに最初、そうしょきから難民、丁稚国家で(首長が盗賊w難民)日本進行を画策した
2 200年間日本攻撃、進行の意図はやまなかった。
3 明は事実上地域安定にはほぼ強力せず、海賊支援、海賊幇助、海賊同素、そして日本進行を画策したテロ国家であった。
明は最初から最後まで盗賊、海賊がつきない。
4 かつその都合日本はバランスオブパワー、秩序の都合、明征伐を主張する権限はあった。
5 たかが200年の歴史しかない盗賊あがりの丁稚を過去500年以上は歴史がある、由緒ただしい武士団の国で
礼儀、作法ルールが戦国ですらシナ以上に制定されてる日本が征伐するのは当たり前で当然の行動である。所詮地域征伐、安定行動にしかならない。
6 明はシナファシズムを抜かし、盗賊あがりが破壊行動しかなく、力、経済すべてに日本に劣るくせに(というより伝統シナ朝はおそらく1200年相当以降日本のとうふより劣るというより地域に負けるレベルw)
それが日本に征伐されて、あたりまえで、それで 妄想シナファシズムぬかすとか妄想だろ
いわゆる華夷秩序間、華夷ファシズムの世界での妄想なんて、妄想だし、カルトだろう。
まともな歴史間じゃないよ。華夷ファシズムは
(というより華夷ファシズム主義の秩序だと、シナが常に蛮で夷で日本が華にならないか?)
と、政治上では日本の正当性が証明されて、
かつその上でシナはくそにしかならないよ。
1 すでにシナ北方。実質国力、徴税対象の都市経済は日本に完全に劣る。
2 軽く常に金経済レベルでは日本の5〜10分の1
3 武装は日本の5〜10分の1の規模でも難しい。
4 経済、知識、教育レベルが日本に劇的に劣る。
5 日本の1地方にも負ける(たかだが西日本の部分連合相手に圧敗とはw)
それがなぜ秩序で華であって夷であるのだ?
夷が華にたかってるだけじゃないか。行動実態は常にそうだよ。
オンボロ、くそためシナが負けただけだろ。で?華夷秩序のシナってほぼ刈るとだよ。チョン並み。
生活実態とか軽く嘘つく。
蛮族、丁稚、豚がいるだけ
そもそも戦国民度とかいうけど
チョン、シナ←キチガイ、丁稚、卑属、強盗団、人食い
部落レベル
戦国←地方利権。武装団
くらいの差でぜんぜん違うよ。戦国なんかと比べ物にならん
なぜ、貧乏人が部落に劣る?なぜ武装団が人食いや匪賊に劣る?
それくらいの差だよ。武装団とテロ組織くらいの差かな?
なんだこいつ
ベトナム人じゃね、日本語変だし
もしくは在チョンお得意の成り済まし
だから政治的には
シナ、チョンが伝統的なテロ国家でせめてきたは、重要だが、別にして
1 明はすでに建国当初から日本進行をもくろんでいた。
2 そのために明が悪いのに、チョン海賊、テロ集団を日本にスケープゴーとした。←あれはテロ集団の阻止行動といいわけがつく。
ーこの段階で侵攻を画策して不当なデマゴーグを流した不当な国といえるね
3 そしてその危険な思想、ぶろぱがんだで事実上直接侵攻した
対馬侵攻紛争(戦争は)明の介入戦争とも十分いえる。
4 かつその段階で、海賊はチョンだったとかバレたこれは明らかにその後、チョン南部軍港割譲まで条件引き出してるんで、
妥当だといえるね。つまりチョン侵攻行動だったと。そして明は加担した危険な国家だったと。
5 そしてその後、50年しないで、また似たようなことしだす。
6 チョン海賊再開の可能性、再軍備はあった
7 明は半島足がかりにして、日本侵攻の前提としていた
8 地域にシナ海賊が勃発した。そこで明、またスケープゴートして侵攻しようとした
ーさて過去に進入画策した国がデマゴークして、同様の手口でせめてきたらどうするだろう。
そして地域の安定に強力せず、テロ支援したらたたきつぶす理由もある
ゆえに征伐戦争そして懲罰戦争だったのだ。
日本に文度、力で劣る。蛮族ゴミは叩き潰されて当然とおもわんか?
いわゆる明大国wカルト論者ってのは所詮儒者(華夷秩序から)ぬけられない。キチガイだよ。
アレどうあってもド小国だろう。文度ないもん。でかい文度ない地域だよ。
>文度ない
日本人じゃなく機械翻訳を使用しとる可能性あるな
シャブやってんじゃないの
辞書使ってたら分度みたいな言葉は連続してでんやろ
だから機械翻訳かと
本命:チョン
対抗:ベトナム人
穴:台湾人
大穴:チョン系米人二世
スケープゴーとして
韓国の掲示板に転載されて日本タタキのネタにされたら糞食民の仕業決定なんだが
外国人ならがんばったじゃんと言ってあげたい
読んでないけど
現実的だが同化されるのはこっちだ。
畿内と朝鮮はきれいに同化して漢語偏長の文化が花開くだろう。
きっと東国や九州とはいくさになるね。
そもそも列島内の同化より半島と畿内の同化の歴史の方が長いからなあ。
それもいいのでは。
日本から影響や支配を受けることはあっても
日本へ何をもたらしたことも無い、文化も技術も貧相な半島人が同化?無理無理
日本に同化されるしかない。
半島には中国やギリシャやペルシャのような先進文化は無いんだから
半島の李朝なんぞ停滞の証じゃねえか
どうして貧乏な国の方に同化するって発想になるのか分からん
朝鮮・・・中華の属国
畿内・・・中華の属国
同じだろ
畿内が中華の属国?何言ってんだこいつ
599 :
世界@名無史さん:2012/01/03(火) 22:20:25.37 0
室町時代のこと言ってんじゃね
義満時代
朝貢は外交関係とか貿易の形式の事であって属国じゃないよ。渤海は日本の属国だったか?
新羅、高麗、李朝では中国王朝に警察権があったけど
日本がそんな状態だった時期は歴史上一度も無いよね。
義満は中国に臣従しますという文書にサインしただけで
明朝の使いに叩頭した訳じゃないからな
そして明の方でもそんな気もない
朝貢という名目での貿易、本当に口先だけの臣従
何とかして日本を貶めようと必死ながら
知識が全く伴わないため、直ぐに叩かれて終わり。
中国は実質的にも金の属国だったり実際に蒙古や女真などに異民族支配されたりしてんのにな
八切止夫は奈良時代は白村江の敗戦のせいで唐に進駐されてたって説
書いてたけどなw
数百人の「使者」がきてたからかな
義満の件と同じく双方の面子を立てる措置かもね
唐は敗戦国に「進駐軍」送るが国政には口出ししない
日本はその進駐軍をあくまで使者と称して歓待する
歴代中国王朝で対外政策が最も融通無碍なのが唐だしね。
高句麗のようにどうしても服属あるいは滅亡させなきゃいけない相手にはどんな犠牲を払っても
軍を送るけど、そうでなければ割となあなあで済ませる。
白村江で負けた相手が明や清ならガチで服従を要求してきたかもしれん。
それを拒絶して侵攻軍を返り討ちにしたか、征服されてしまうかは分らんが。
この辺の唐のある種のおおらかさの恩恵は旧百済領を唐から横取りした新羅も受けてる。
一度離反した国に懲罰もなく朝貢再開を許すんだからな。
李朝なんて清への朝貢品に添えた奏上文の文言が気に入らないと言うだけで懲罰されたのにw
清は本拠地の横腹に朝鮮があり、正統中華と朝鮮が清を見ていないという
安全保障、政治上の要素もあったのかなぁ
日本のガチの防衛体制からみてあの使者が本当だとしても面子をたてた処置とはおもえない
ただ遣唐使の留学代が只だったり唐は伝統的な中の華っていう態度だよねえ
唐にすりゃ朝貢して貰えばそれでおkっしょ。名目だけの
進駐軍なんか送る意味は無いよね。
すぐに半島経営する余力もなくなったし。
遣唐使は唐の側では朝貢と見ていたのかな?
東夷国という分類だが正式なさっぽうではないね
同じ遣唐使でも朝貢と留学は区別して書き分けされてるから、朝貢ではないよ
朝貢とある場合も新羅と違い、献じるではなく貢ぐ。それと冊封も受けてない
614 :
世界@名無史さん:2012/01/25(水) 23:29:38.40 0
353 日本@名無史さん sagE 2012/01/19(木) 20:34:27.27
>>345 いや、最初は食料は豊富だったんだ。
進攻先の国倉に溜め込まれていた。
緒戦の快進撃の一因だね。食料には当面は困らないと現地からも報告を上げている。
しかし、それは低生産の農民から高収奪をした結果だった。
秩序が乱れて農民が再生産をしなくなった不毛の第二年目からは地獄でした。
これは朝鮮支配地域でも同じこと。
それでも本国から補給がくる日本だけが大軍の長期維持と集中が可能だった。
明が大軍を集中して動かせるのは短期間だったし、朝鮮にいたっては大軍を構築できなかった。
616 :
世界@名無史さん:2012/02/01(水) 09:20:09.85 0
秀吉は名将だから、チョン賊が必ず日本に害をなす事がわかっていた。
だからこそ早めに叩き潰そうと出兵した。
617 :
世界@名無史さん:2012/02/01(水) 15:07:34.84 0
>>617 >後代に中国や日本の画家が描いた19〜20世紀の作品と推定される
史料価値なし
ただの絵かw
620 :
世界@名無史さん:2012/02/13(月) 01:12:10.95 0
歴史通 2012年3月号
http://www.jbook.co.jp/p/p.aspx/4312166/s/ 古田博司氏によると、秀吉の朝鮮出兵の研究は進んでいて、日本軍の占領地域には李朝の圧政を
嫌った朝鮮農民が大量に流入してきていて城下町が形成され、領地の藩分けまで行われていた。
秀吉の死で撤兵することになっただけで日本が敗戦したわけではないようだ。
そういうことを日韓の歴史共同研究の場で日本人若手研究者が報告したそうだ。
>>620 そんな今更な話を新発見みたいに言われても
特に集まったのはテラを再興して貰いに来た仏徒
>>621 >特に集まったのはテラを再興して貰いに来た仏徒
ソースは?
黄算哲
624 :
世界@名無史さん:2012/02/15(水) 04:19:33.51 O
どうして秀吉は、朝鮮人征伐の時に朝鮮人を絶滅させなかったんだー!
バカヤローーーーー!
秀吉があとちょっとだけ長生きして慶長4年に、名護屋の予備なり徳川軍団なりを渡海させていたら南部割譲くらいには落ち着いただろうが、ホンタイジと闘ったり成功の要請にも応じざるをえなかったりで平和な江戸時代と文化は花開かなかった。
ヨーロッパ勢みたいに本国から遠く離れた海外植民地とは違うから半島人との混雑で俺たちの目は細くなる。
スペイン王国は最盛期にイタリア半島の約半分を数世紀支配していたから
家康が半島南部を継承しても江戸文化は爛熟したんじゃないか?
停滞の象徴になってる清朝も日本が隣国では気が抜けないから
軍備の革新を怠らず、汚職と腐敗が史実ほど蔓延しなかっただろうし
陸続きなら海禁も困難なので互いの技術の行き来も頻繁に行われ
産業革命が日本か清で起きてた可能性も十分あるかもね。
大坂や尾張の綿業や絹織物のマニュファクチュア豪商は製品を売ってありあまるカネで米を買って江戸に納めてたが、それでも日本では自然発生的に産業革命は起こらなかった。
奴隷半島南部人に綿花や生糸を大量に作らせて清との大規模な貿易によって産業革命が生起するほどの資本の蓄積がされてたかどうか。工業に発展するには技術はもちろんが必要だし。
>>620 この手のが出てくるだけでも時代は変わった
ちょっと前まで朝鮮兵の活躍だけ過剰に褒め称える記述に溢れかえってたんだから。
日本が悪役なのは鉄板なんだけど、明兵ですら「あれ?居たの?」って扱いだったから。
631 :
名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/11(日) 20:34:19.21 0
秀吉が半島を制圧していたら
秀吉死亡後の徳川VS豊臣の日本列島の覇権争いはどうなっていただろうか?
マケドニアの後継者戦争みたいになってた気もしなくはないけどw
豊臣一派が半島に逃亡して
豊臣朝を半島に樹立…あるかな?
そういう仮想戦記が読みたいな
歴史変わって前提条件も異なるのに必ず関ヶ原の合戦になるような火葬はもう飽き飽きだ
そもそも秀吉が子沢山か男3人でも産んでたら
徳川政権は無かっただろうな。
信長なら、たぶん、朝鮮・中国の沿岸に詳しい倭寇を活用していたであろう。しかし、秀吉はそうしなかった。
すでに大名になっていた九鬼嘉隆は、日本国内の海賊の出身だったから、朝鮮沿岸の事情は詳しくなかった。
これに対し、李舜臣は、潮の流れの逆転を利用するなど、地元である利点を利用して、少数の亀甲船で日本の大軍を破った。
私は、当時の日本に中国と戦う必要性があったとは思わない。だが、ここでは戦争それ自体の是非を論じることはやめよう。
私が問題にしたいのは、戦争のやり方である。もし、日本がエリザベス1世と同じ方法を用いていたらどうなっていたかをシミュレーションしよう。
当時の倭寇には、もちろん日本人もいたが、その多くは、明に不満を持つ中国人で、いわば反体制ゲリラ組織だった。
もし、日本が倭寇を背後から支援したら、明は、たぶん李氏朝鮮とともに艦隊を率いて日本を征伐しようとしたであろう。
信長は、敵を誘き寄せて叩く戦法をよく採ったが、この方法なら、元寇の時と同様、日本が地の利を生かして、勝てただろう。
そして、敵の水軍力を削いでからであれば、明に対する侵略戦争は成功したかもしれない。
http://www.systemicsarchive.com/ja/a/bunroku_keicho.html
亀船大活躍!とか言ってる時点でもうダメだろw
>>637見て思ったんだけど
朝鮮役に関しては詳しくない奴がテキトーぬかしても
許される風潮みたいなのがあるよね
自虐にはこの国は際限なく甘いからな
戦中皇国、今自虐って感じ
朝鮮役に関しては詳しいはずの専門家と言われる奴がテキトーぬかすのが
当たり前な風潮みたいなのがあるよね
最強の水軍力と英雄が居たのに
なんで簡単に揚陸できたんだ?
1(朝鮮一般兵)と100(李)の差はでかいが100万(日本軍)に比べれば大差ない
つまりはそういうことだろ
>>643 ゲリラ戦の名手だったってだけだから、そりゃ優秀だったろうけどね。
ガキの頃は亀甲船が相手なら、こちらも鉄甲船を出せばいいじゃないか?
って思ってたけど、実際には亀甲船なんて存在しないし
朝鮮水軍は殆どの戦いが日本の補給船を焼き払うゲリラ作戦に従事してた訳だから
そりゃ鉄甲船なんて出る幕ないわ。
いや、鉄甲船は移動要塞みたいなもんで外洋航海力なんてないから
結局は秀吉が天下統一の過程で各地の水軍を次々と縮小させていった弊害が
出たということだな
海賊禁止令の影響はあるにせよ、縮小したと言うより、
最大の水軍戦力である村上水軍を、あえて用いなかったと
いう方が正確じゃないかね。
村上水軍の三島の内、船手衆で参戦したのは
早くに秀吉方に帰順した来島だけで、遺恨なのか
見せしめなのかあとは陸戦に回されてるからな。
松浦氏も普通に陸に上がって小西隊とともに
平壌で戦ったりしてるし
当時、水軍を本当に軽視してたんじゃないの?
精々対馬、釜山ルートさえ確保できれば問題ないって程度の認識
李朝実録を読めばだいたいその通りのことが書かれてる
>>647 まぁ、軽視っちゃー軽視といえるかもしれんけど、元々文禄の役での
日本水軍に期待された役割は、名護屋−釜山間の船舶警護でしかないからなー
一般的には、李舜臣の部隊を破れなかったから海戦では日本の負け、って
話にはなってるけど、元々日本の国内戦でも水軍同士の決戦なんてのは
行われてないし、秀吉としては一旦は朝鮮水軍撃滅をはかったものの、
閑山島・安骨浦海戦の結果を受けて、それ以上の無理攻めはせず、かつて
村上水軍にやったように、陸地の支配を固めて無力化できればそれでよし、って対処を
朝鮮でもやったように思う。
もっとも、慶長の役ではこの前役での反省から、軍船もそろえて満を持し
緒戦で朝鮮水軍を殲滅してるけどね。
wikiは編集合戦が無ければねえ
韓国は文化庁のリアル工作員が各言語版で工作してるから仕方ない
日本語版は捏造と改竄があると割と早く叩き潰してるだけまとも
>>650 慶長の役は本当に前回の反省を生かした
隙のない戦略を立ててると思う。
654 :
世界@名無史さん:2012/05/03(木) 23:44:49.78 0
16世紀の秀吉の大陸遠征を研究して、日本と中国の戦争術を比較研究
した江戸時代の兵学研究者、荻生徂徠は、 組織的な戦術に長け、大兵力
を神変のように自由に取廻す中国軍を相手に、 兵士の個人的力量に依存
して非組織的な戦いを行う日本軍は敗北したとして、日本の戦争術を
厳しく批判しています。
他人のレスをコピペするなら全文しろよ
656 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 12:36:21.50 0
2/4.近世の国際戦争と日本人
さて、これに続いて見て頂きたいのは近世期の豊臣秀吉の朝鮮出兵
(1592〜1598年)についてです。
秀吉の朝鮮出兵においては、日本軍が中国の明帝国軍と衝突し、
日本軍の特徴が否応なしに暴き出されているのですが、朝鮮出兵で
暴かれた日本軍の特性ついては、江戸時代の軍学者、荻生徂徠が見事
な研究考察を行っています。徂徠は、日本の戦史や用兵学のみならず、
明の名将・戚継光の用兵学まで学習し、その知的基盤の上に朝鮮出兵
の戦史を研究、日本軍と明軍の差異、特性を明らかにしているのですが、
それについて少し徂徠の文章を引用してみましょう。
657 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 12:37:20.12 0
日本の軍は、専ら士卒の智惠をかり候て軍を致候事に候。依之敗軍の
將、罪科無之候。異國の軍は士卒の智惠を不用候て、戰の勝負は全く
大將の掌握に有之候故、敗軍の將は死罪に候。(『ツ録外書』2巻
『荻生徂徠全集』河出書房新社 6巻 612頁)
<訳>
日本の戦いは、専ら士卒の知恵を借りて戦います。このため敗軍の将
には、罪科がありません。外国の軍は士卒の知恵に頼らずに、戦いの
勝敗は全く大将が掌握していますから、敗軍の将は死罪となるのです。
658 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 12:38:26.47 0
日本には治世の軍法と申もの無之候。異國には治世の軍法有之事に候。
……其C正家の故老の物語に、大明の軍法は、人數の遣様、日本と
替り各別の事にて、諸將皆是に仰天致したると申事にて候。
いろいろの物語有之事に候。されども百戰の中よりみがゝれたる
勇將・猛士ゆへ、きたなき負は不致迄の事に候。明朝より高麗へ渡り
候大將、左迄の者にても無之候へども、嘉靖年中、兪大猷・戚南塘と
申す名將の立置たる法ども殘り候間、如此に御座候。
(同上 644、645頁 一部漢字記号改変)
659 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 12:39:45.56 0
<訳>
日本には平常時から理論的に構築された体系的戦争術というものは
存在しません。外国には平常時から理論的に構築された体系的戦争術
というものがあります。
……その清正家の古老の物語では、大明帝国の持つ体系的戦争術は、
兵士の動かし方が日本と比べて全く異なっており、
(朝鮮に出征して明軍と戦った)諸将は皆それに仰天したものだと
言っています。
いろいろの物語にもあることです。
しかし日本の将兵は戦国時代の百戦の中で磨き抜かれた勇将・猛士
であったので、惨敗にはならなかったというだけのことです。
明帝国から朝鮮へ派遣された大将は、大した武将でもなかったのに、
嘉靖年中に兪大猷・戚継光といった名将が定立しておいた体系が
残っていたので、このような成果を挙げることができたのです。
660 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 12:44:03.90 0
ちなみに徂徠の軍学における軍法とは、軍法会議などと言うときの軍法とは違う言葉です。徂徠の言う軍法とは戦場における具体的臨機応変の策たる軍略と対照を成す概念で、平時における訓練・組織構築等からなる理論的体系的な戦争術のことです。
さて、秀吉の時代は、近世日本の軍事的な組織化体系化が進行した果ての時代であり、日本軍事史の流れの中に限ってみれば、その軍隊は相当高度な組織化が成されていました。
ところが、その日本人的には高度な軍事組織も、明帝国軍と対比して
みると、兵士の個人的力量に頼った、非組織的な軍隊に見えると言う
ことです。
またしても、日本軍の和を欠く、不合理な非組織性を目にすることに
なりました。
661 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 12:55:45.41 0
李如梅はサルフの戦いの直前に朝廷の者から日本兵と満州兵の強弱に
ついて聞かれて「倭兵は体躯倭少なれども、敏捷にして、鳥銃をよくす。
ただし一人同志の戦いとなれば、倭兵三十人をもってしても、
満兵一人に敵せざるなり」と回答している。
李如梅はサルフの戦いの7年前に死去してるよw
>満兵一人に敵せざるなり」と回答している。
「といいなあ、そう朴はおもいます。」が抜けてる
663 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 21:12:14.58 0
>「といいなあ、そう朴はおもいます。」が抜けてる
日本語でおk
と朴が言っています。
665 :
世界@名無史さん:2012/05/05(土) 22:47:26.07 0
>と朴が言っています。
日本語でおk
>>659 劉テイや麻家、李家が大した事ない武将なら他に誰が居るんだ
他に楊鎬や陳リンもそうだけど、文禄慶長の役に参加した武将って
万暦の三征、サルフの戦いに大概顔を出してる。
>>661 「百万の野人(女真族)さえ、十万の倭卒(日本兵)の敵ではない。
にも関わらず、国家は南を軽んじ、北を重視する。いまだにその理由が分からない。」
姜「看羊録」
李如梅って平壌で小西に勝ったはいいが
碧蹄館と蔚山城の戦いで日本に大敗してる武将だろ
敗軍の将の遠吠えをコピペしていったい何がしたいの?
667 :
世界@名無史さん:2012/05/06(日) 01:12:47.94 0
>>659 日本軍の強さっていうのは組織としての強さではなく
兵士の個人的力量に頼った、非組織的な軍隊だってことだ。
だいたい碧蹄館の戦いも勝利しながら敵の占領地に攻め込むでもなく
それどころか現状の占領地さえ維持できずに撤退してる。
撤兵する最中に追撃してきた明軍を打ち破った戦いなんだから当然だよね
>>667の馬鹿さにびっくり
戦術的勝利に拘泥して戦略的勝利を逃すなんてのは昭和の日本軍くらいだろ
そんな戦略眼のないやつが将帥やってられるほど
戦国乱世とその余塵さめやらぬ安土桃山の世は甘くない
670 :
世界@名無史さん:2012/05/06(日) 13:52:17.29 0
671 :
世界@名無史さん:2012/05/06(日) 14:31:18.99 O
>>667 あれは組織戦云々じゃなくて兵站の問題でしょ。
その前に明軍に兵糧焼かれたりして補給持たなくなったから
明軍を碧蹄館で撃退したのち撤退。
そもそも当時の明軍が日本と比べて高度な戦術を展開してたようには見えないが?
>>660 江戸時代の兵学者、軍学者なんて戦の無い時代に机上の空論で飯食ってた連中じゃんw
当世具足よりも昔具足の方が実用的なんて言い出したり
瑠璃斎胴だの鼻紙袋だの実用性皆無の装置を考え出したり
机上の築城理論に基づいて旧幕府軍に数時間で攻め落とされるような城築いたり
そんな連中が何を言っていたところでだから何なの、て話なんだが
というか、明のような中央集権国家と日本のような封建国家の軍制を単純比較したって
あまり意味が無いんじゃないの?
673 :
世界@名無史さん:2012/05/07(月) 13:15:38.83 O
そもそも寛永年間以降の学者が好き勝手に机上の空論垂れ流してくれたせいで
講談話みたいな俗説が広まって定着してしまい、後世の人間が
室町〜安土桃山時代研究するときの大きな妨げになったんだがなw
674 :
世界@名無史さん:2012/05/09(水) 14:28:17.87 0
歴史と言えば、私は、外国人は「正しい歴史」とか「本当の歴史」を学ぶべきだという韓国人らの説教に
辟易している。「正しい歴史」とか「本当の歴史」とは、実は「韓国人の歴史解釈」という意味だ。なぜなら
歴史というものは自然科学とは違い、いくつかの基礎的事実を除けば歴史上の出来事や趨勢は様々な
解釈を許すものだからである。私は今まで、異なった見解を認める韓国地元メディアを見たことが無い。
韓国メディアのやりかたは、「反対意見など無視しろ。韓国側の主張を復唱しろ」だ。
だが、世界のほかの国々が、どうしてそれに従わなくてはいけないのか?
民族主義は東アジア全般において、
そしてとりわけ韓国において、強力な感情的な力である。韓国の民族主義の中核は、日本に対する
不信と嫌悪である。
傷ついた自尊心から生じた独善的キャンペーンが、国際的支持を受けるはずもないではないか。
【日本海呼称】イギリス人が韓国紙に寄稿:「韓国の『東海!』主張、本当の理由は反日感情ではないですか?」 ★6 [05/04]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1336132861/1-2
675 :
世界@名無史さん:2012/05/09(水) 15:28:41.09 O
胴丸のはなかみ袋は
戦国時代からあったわけだが…
>>675 ごめん勉強不足だった
俺がイメージしてたのは正しくは鼻紙袋じゃなくて前袋ね
草摺の裏に取り付けて口が下向きになってるやつ
677 :
世界@名無史さん:2012/05/10(木) 13:47:07.00 0
678 :
世界@名無史さん:2012/05/14(月) 02:36:02.21 0
文藝春秋 2012年6月号
戦国武将の養生訓 酒井シヅ/磯田道史
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/355 秀吉の朝鮮出兵によって、陶器や陶工、印刷術のみならず、三千巻もの医学書と医官が日本に
連れてこられ、医学の発達に貢献。西日本の戦国大名の家臣団の系図を見ると、朝鮮に出自を
持つ者がかなり多く見られる、というような話が語られている。
他に、名護屋城に兵が大量に集められたことで肥前から梅毒が日本に広まったそうだ。
679 :
世界@名無史さん:2012/05/14(月) 09:38:52.43 0
朝鮮に帰らなかった理由があるんじゃね
つ 「故郷忘じたく候」
「故郷忘れじがたく候」 じゃないぞw
317:世界@名無史さん:2011/05/31(火) 12:30:52.21 0
李家軍が、他の明軍より優れているのは、
実戦経験が有無だけだ。
軍隊の強弱が実戦経験だけで判断できるわけじゃない。
常在戦場を心掛け、常日頃からの軍事訓練を欠かさなければ
実戦経験のみの軍隊より精強だ。
日々の鍛練を怠らなければ、実戦経験の乏しい鎌倉武士(元寇時)
やプロイセン軍(オーストリア継承戦争時)が経験豊かな元軍や
オーストリア軍に勝利することも可能だ。
戚継光の軍制改革後、明軍が強化されたのは、すなわち『練兵実紀』
などによる軍事訓練を導入したからに他ならない。
318:世界@名無史さん:2011/05/31(火) 12:49:14.90 0 将を実戦を積むことで鍛えられるが
兵は実戦のみでは(戦闘による死傷者など消耗も激しい)
鍛えられない。
実戦経験は他の明軍より豊富だが辺境に配置されており
明朝廷から(かつての安禄山のように)脅威とみなされて
いない時点からも明軍最強なわけはない。
↑かなり亀レスになるけどこれに反論しておく
上のレスの人は何の根拠もなしに李家軍を「優れているのは実戦経験の有無だけ」と決め付け、
まともに軍事訓練もしていなかったかのように印象操作してるが、これは間違い
何故かというと、李家軍も普通に戚継光の兵制を導入してるから
「上詣謝都督李如松, 問天兵前後勝敗之異, 都督曰:前來北方之將, 恒習防胡戰法, 故戰不利。
今來所用, 乃戚將軍《紀效新書》, 乃禦倭之法, 所以全勝也。」・・・「宣祖実録」 27年2月1日
李如松は朝鮮国王に「祖承訓は北慮との戦い方しか知らなかったから負けたけど、
俺らは戚継光の兵法を知ってたので平壌で勝てました」と語ってる。
それを聞いた国王が戚継光の書(紀效新書)を見せて欲しいと李如松に頼んだけど、
如松は出し渋ったのだとか。また26年8月19日の記事には、朝鮮王朝が李如松配下の兵から
「紀效新書」を買い求めて研究させたという話も載ってる
軍隊の鍛錬に最適な体験は実戦と勝利の経験だろう
訓練は最低限なんとか戦えるようにする手段
>>681 倭寇や宣教師の情報を統合して秀吉は明征服に乗り出した訳だし
要は、華南のヨワッチイ兵隊しか知らないから明を軽く征服できると勘違いしたわけ。
李家軍は少なくとも倭寇の活動地域には居ない強さを持った兵隊だったと思う
だから日本軍も平壌から漢城に押し戻されてる。
そりゃ中国の歴代王朝の多くは北の民族に滅ばされてきたんだから
北の備えは精鋭を駐屯させて十全にしておくのは当然。
特に李家の守った遼陽は首都北京に程近い場所なんだから。
その李如松も日本軍には大敗を喫したんだけどな
686 :
世界@名無史さん:2012/05/19(土) 16:22:19.22 0
その日本軍もそれから3ヶ月程で占領地のほとんどを放棄して
撤退している。
撤退中に李如松の明軍と属国群が追撃してきたのを
日本軍が散々に打ち破ったんだよ
688 :
世界@名無史さん:2012/05/19(土) 16:29:54.43 0
冬から春を迎えるいい季節になってたんだから
そのまま北上して占領地を取り返せばいい。
撤退は軍の戦闘力そのものとは関係ない
690 :
世界@名無史さん:2012/05/19(土) 16:45:11.16 0
冬から春にかけてのいい季節を向かえているのに、
明国征服どころか朝鮮からも撤退するのに
軍の戦闘力が関係ないなら、どんな理由で
撤退するんだ(笑)
そりゃ兵站がままならないことと、明軍の圧力が増したからじゃねえのか
692 :
世界@名無史さん:2012/05/19(土) 17:01:29.18 0
穀倉地帯の全羅道でも占領しておけば兵站ももうちょっと
余裕があったのにな。
朝鮮義兵の抵抗にあって占領できなかったことも兵站不足
のおおきな理由だな。
当時はまだ穀倉地帯じゃないけどな
>冬から春を迎えるいい季節になってたんだから
>冬から春にかけてのいい季節を向かえているのに
プッ >688,690は粗国の恒例行事wであるところの春窮というのを知らないのか。
食糧事情が悲惨だった李氏朝鮮時代の半島では、冬の間に食料食い尽くして、
春蒔きの作物がとれるまで春先は絶賛飢餓状態というのが恒常化してたわけだが。
695 :
世界@名無史さん:2012/05/19(土) 21:56:32.59 0
>>694 西日本出身の武士どもには朝鮮半島の冬の寒さは辛かろうと思って
たんだがちがうんだな。
食料事情が悲惨なのは日本勢だけじゃねだろ。
明・朝鮮勢だって同じじゃね?
それとも明・朝鮮軍は日本勢より粗食に強いなにか根拠でもあるのか?
もっとも粗食に強いってことはそれだけ強兵だったってことなんだが(笑)
サッパリ理解できてねーのなw
粗食云々とかいうレベルじゃなく、半島では食い物がないので
春に軍事行動なんぞできないんだよ。
697 :
世界@名無史さん:2012/05/19(土) 23:51:23.91 0
>春に軍事行動なんぞできないんだよ。
北上して占領地を取り返すどころか
現状の占領地さえほとんど放棄してるんだぞ。
食い物ないなら当然だろう。
占領地にこだわりソウルに留まって飢えたら全滅じゃん。
戦争の相手が朝鮮国ではなく明国である以上、朝鮮の占領地を広げることに躍起になって
兵を損なったらただの馬鹿だよ。
699 :
世界@名無史さん:2012/05/20(日) 11:50:11.96 0
>>698 馬鹿の相手をするのもそろそろ疲れるわ。
朝鮮には当時500万〜600万の人口が
いたんだ。
たかだか十数万の日本勢が現状の占領地を維持
できないほどの兵糧不足になるんなら、毎年の
春窮の中どうやって朝鮮人民は生活してきたんだ?
それに撤退の理由に戦闘力が関係ないならなんで
明国との和平交渉を始めたんだよ。
慶長の役に際しても明・朝鮮との直接対決を恐れて
倭城で迎え撃つ作戦を取っているんだが。
>>699 年貢取れるわけでもないし略奪すれば逃散
言葉も通じないから取引もロクにできん
500万の人口がいるからって日本が軍の胃袋を満たす食料を
安定的に調達できると思うその論理性の無さが素晴らしいな
>春窮の中どうやって朝鮮人民は生活してきたんだ?
草の根や木の皮を喰ってたらしいがw
半島全土に偏在する数十人から数百人程度の村落単位ならそれで食いつないだからといって、
万単位の軍でそれをやれると思うなら>699はそれこそ馬鹿だな。
702 :
世界@名無史さん:2012/05/20(日) 12:51:53.05 0
>>700 >年貢取れるわけでもないし略奪すれば逃散
>言葉も通じないから取引もロクにできん
だったら春窮なんて関係ねえじゃん。
春先に撤退した理由になんねえぞ(笑)
>>702 春には朝鮮人ですら困窮するのに輸送が微妙で生産基盤のない日本軍が
影響をもっと強く受けるとは思わないの?
704 :
世界@名無史さん:2012/05/20(日) 15:19:55.77 0
>>703 もう言い訳は聞き飽きた。
戦略目標も達成できず、占領地の
ほとんどを放棄しておいて。
だいたい、慶長の役においても適当に南部
4道を荒らしまわったら、明・朝鮮軍の主力
との直接対決を避けそのまま南岸の倭城
にまで撤退して立て籠もって迎え撃つような
消極的な作戦を立てている時点で明・朝鮮軍を
恐れていないなんて言い訳は通じない。
古今東西の戦史においてもこんな臆病な侵略者は他にいない。
戦略目標は達成してないが退却の理由って基本的に本国の退却命令だけだぜ?
明書だと勝算は皆無だったけど秀吉死んで助かったって書いてあるように
防衛側なのに勝算が皆無だった
要するに朝鮮が日本側の想定を大きく超えて貧窮した国だったってことだわな
今の北朝鮮に攻め込んで食料を現地調達しようとすればどうなるか
文禄の役で戦った明軍は強かったのだから恐れて当然じゃん。
勇敢に攻めまくって全滅したら馬鹿じゃん。
合理的じゃん。敵を侮らずに南岸の城で迎え撃ったら結果大勝利じゃん。
さすが足軽からのたたき上げ。秀吉頭良いな。
>>704 耄碌で正気を失い凶暴化した秀吉の元、日本側ももうやる気がなかったんだけどね。
だから、南岸を荒らし回るだけでそれ以上何もしようとしなかった。あとは秀吉が死ぬ
のを待っていただけって感じ。文禄の役はマジでやる気があった。
>>707 小西行長、石田三成を買収し、秀次事件を起こし、日本を疑心暗鬼にさせた名将
李如松を褒め称えよ。
709 :
美麗島の名無桑:2012/05/20(日) 17:42:49.32 0
アメリカの朝鮮性買
アメリカ初の本土決戦 アメリカ国民vs朝鮮人慰安マッサージ婦
韓国内では、「当局が韓国人売春との戦争を宣言したという解釈」
韓国人の売春問題が相次ぐ中、アメリカでも韓国人が多いことで有名なアトランタで、マッサージ店に対して積極的な「牽制」が始まったようです。
マッサージ店といっても、韓国人がやっている売春(風俗)店のことです。
19日(現地時間)アトランタジャーナル(AJC)等、現地の言論によれば、アトランタで韓国人が最も多く居住する二ルーズ市はマッサージ業者関連条例を次のように改正しました。
・事業者登録税を50ドルから1千500ドルに30倍引き上げ
・マッサージ業者の数を制限する
・当局の要求があった場合、事業主と従業員の指紋を採取、提出する
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1337498066/l50
>>708 明様々だな。
いや、明の属国でなければ今頃は日本国に不可分な一部になって
もっと繁栄した良い暮らしを享受していたから、結果的には不幸だったか。
>>704 慶長の役って明軍も朝鮮軍も緒戦で蹴散らされて逃げ回り
日本軍が兵力の半分を帰国させて翌年の攻勢の準備してたら
調子に乗って攻めたけど、また完敗した戦争じゃん
万全の準備を期した11万の大兵力で三城を同時攻撃したのに一城も攻め落せず、
それどころか膨大な戦死者を出して惨敗しちゃうなんて
古今東西の戦史においてもこんな情けない軍隊は他にいないんじゃないの?w
三路の戦いって、どの戦域でも敵城を落とせる気配すら無かったからね。
三か所同時攻撃なんて大風呂敷を広げるのは無理があったんだよ。
文禄慶長を通して不落だった倭城に1万の日本軍が籠る。
これだけで10万の大軍を動員して一か所を攻め込むだけの必要性があった
そもそも第一次蔚山城の戦いも未完成でかつ兵糧備蓄の少なかった蔚山城を
6万近い大軍で奇襲に成功するような形で籠城戦に持ち込み、初撃で外廓を突破できたのに
結局は1万の兵で籠城する日本軍を攻めて落せなかったんだから
第二次は加藤清正が万全の態勢で守ってるんだから
正直10万を超える大軍で攻めても落とせないよ。
武力を誇ってどうにでもできると思い上がって失敗するキャラなのか、日本は
朝鮮側としては、追い返せば勝利だからな。
戦死者数では日本を上回ったとしても。
715 :
世界@名無史さん:2012/05/22(火) 00:50:56.85 0
A国とB国が戦争しました
戦後B国はA国の定めたルールで片務的に外交使節の派遣を義務付けられました
戦争に勝ったのはどっちの国でしょうか?
日本と明は国交回復してないんだよね
すぐには
A国は何がしたかったのか
有り余る軍事力を発散したかっただけなのか
719 :
世界@名無史さん:2012/05/22(火) 01:13:48.77 0
>>711 だからー、日本軍の戦闘力が明軍や朝鮮軍より上なら、
なんでそんな面倒な作戦を取る必要があるんだよ。
さっさと南部4道を占領し、要所要所に諸大名軍を配置
すればいいだけじゃん。
それを明軍や朝鮮軍の主力部隊が南下する前に南岸の倭城
に立て籠もっている時点で明・朝鮮軍を恐れていないはずがない。
>>719 朝鮮王朝の過酷な収奪で貧窮極まる荒地を占領してやる慈善事業を
日本が施してやる義務は無いからな
>>715 片務的ってのは「滞在費用はこちら持ちですからおいで下さい、こちらからお伺いして
お手間をとらせる事はいたしません」って事を言ってるのか?
片務的っつーのは言い過ぎだろうが、朝貢される側が大盤振る舞いってのは
中国王朝でも同様だからな。
で、朝鮮通信使には日本側も金を使ったけれど、その大半は沿道諸大名持ちだし、
逆に朝鮮は通信使を出すだけで、その諸費用(造船やら礼単やら)で国庫が
払底したという明らかな事実があるしな。
他方、李氏朝鮮は日本側を国防上の観点から警戒して招かなかったとか言う話は
あるものの、実際問題といて双務的に日本側を同様の歓待レベルで漢城に招くなんて
言うのは財務面から逆立ちしてもムリポ、という国力差はやはり如実にあったわな。
>>719 だからー、それを半島全土規模でやって食い物もなく惨憺たる目にあって
懲りたからだろーがw
過去の失敗を踏まえず同じコトを繰り返すのは朝鮮人くらいだろ。
>>719 戦闘で勝てるかどうかと、統治できるかどうかは別問題だろ
>それを明軍や朝鮮軍の主力部隊が南下する前に南岸の倭城
>に立て籠もっている時点で明・朝鮮軍を恐れていないはずがない。
よく分かってないみたいだが、倭城に駐屯していた部隊の目的って
翌年の攻勢までの間、守りを固めて拠点を確保しておくことだぞ
まさか、わざわざ城外に野営しておくべきだったとでも言うつもりか?
敵なんか怖くねえ!!とか見栄張って守備側が城を利用しないとか、ただのバカだろw
しかも三路の戦いのとき全軍の過半数は帰国している状態で、倭城を守っていたのは実質六万人程度
要は、明軍や朝鮮の主力軍が押し寄せて来てもその程度の兵力で十分撃退できると考えてたってことじゃん
事実、その通りの展開になってるしw
10万の大軍と戦ったのは結局3万程度で
しかも内容は記録的な大勝
統治する気も無い戦い、スポーツ・ゲーム感覚?
>>726 「唐入り」という字の意味がわからない池沼
統治する気も無い戦い、雑兵の乱暴狼藉・略奪感覚!
前回の反省を生かして地道に進軍、勝ち続けの状態。
そして本格統治する前に秀吉が死んで撤退
つまり、明征服は確実に出来たが国内権力基盤がダメだったので撤退、
いやむしろ豊臣世界帝国の悪夢から皆が全力で逃れた結果?
恐怖の独裁者秀吉に屈従してただけなのか?
がんばれば北京くらいは落とせたかもしれんが明征服は無理だと思う
>>721 当時の外交儀礼は洋の東西を問わず客のもてなしをホスト側が全額負担すんのは常識
日本もスペインに対して使者出した時全部スペイン持ちでバンカロータの原因の一つになってたりする
>>730 日本が勝ちまくってたのは朝鮮半島南岸に城を築いて戦ったからってのもあるからね。
慶長の役の目的である南部4道の占領に限ると明、朝鮮軍の終盤の崩壊振りを考えると楽勝だっただろう。
朝鮮半島全域も慶長の役での戦い方(城を作りまくって補給線を十全にして進軍)なら可能性は高かったと思う。
けど鴨緑江を越えた後と、山海関付近でまともに補給線が維持できるかは不明。
特に鴨緑江を越えたら、明とヌルハチの挟撃を受けることになるからね。
伊達に朝鮮が属国ながら国を維持できたのも
あの満州の地が大軍を駐屯さすのは向かない土地であってのも事実だし
735 :
世界@名無史さん:2012/05/25(金) 22:43:55.78 0
>>733 まだ侍幻想に浸っているの。
天野源衛門も荻生徂徠も明軍の強さに
日本側がおどろきあわてている様を
記述している。
秀吉が生きていたところで日本の勝利は
おぼつかないよ。
>天野源衛門
>荻生徂徠
無名与力の日記か何かよりも
当事国の全く勝ち目は無かったという報告書や
一次史料に基づいた明史の評のが信頼出来るよね
そもそも全文見ない判断不能だしね、驚いただけの可能性も高い
737 :
世界@名無史さん:2012/05/25(金) 23:30:58.73 0
>>736 まーたお得意の話のすり替えかよ。
>当事国の全く勝ち目は無かったという報告書や
南岸に強固な倭城を構築してそこに立て籠もって
いる間だけじゃねえか。
もっともわざわざ十数万の大軍で再侵攻しておきながら
敵の主力が来る前に南岸に撤退して倭城に立て籠もるなんて
アレキサンダーのマケドニア軍やカエサルのローマ軍と比較
するまでもなく第一回十字軍と比べても相当情けない侵略軍
だな。
秀吉が10年とか生き続けてたら延々と大陸の戦いが続き女真やモンゴルや
スペインポルトガルオランダとかから干渉されたりしてんだろうか
たしかにこれは秀吉死んだら即撤退したくなるかも
十字軍が内戦中の四分五裂したシリアを何度も増援を受け
ようやく何十年もかけて占領した後、中央アジアからセルジュークの本群が来たら
1年ちょっとで叩き出されたことも知らないのかw
精強無比な明軍ですら勝てないと謂わしめた日本軍は
オスマン軍を上回って当時世界最強といえる
741 :
世界@名無史さん:2012/05/25(金) 23:52:47.17 0
秀吉が10年生き続けてたら、明領朝鮮省と日本領韓藩に分割され
日本人の暮らしは今より遅れたものになってただろうね。
742 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 00:15:12.59 0
>>739 >精強無比な明軍ですら勝てないと謂わしめた日本軍は
だから倭城に立て籠もっていたからだろ。
なんど言わせんるんだ、この馬鹿が。
>739
第一回十字軍は諸侯の混成軍でありながら3年かからずに
エルサレムを占領しているんだが。
それも兵力は日本軍が朝鮮に派遣した兵力の3分の1から
4分の1ほどだ。
>>742 日本軍は精強無比の明軍に野戦でも大勝したよね。
日本軍は1年掛からずに全朝鮮を占領しているんだがw
しかも朝鮮群の総兵力はセルジューク系諸侯の10倍以上、どんだけ惰弱なんだかw
しかも内政に注力していたわけでもなく、庶民は貧窮、現地調達はロクに出来ない有様
744 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 01:25:01.53 0
>>743 >日本軍は1年掛からずに全朝鮮を占領しているんだがw
おまえって息を吐くようにうそをつくんだな。
全羅道一つ占領できてないのにどうやって全朝鮮を占領できるんだよ。
>しかも朝鮮群の総兵力はセルジューク系諸侯の10倍以上
日本語でおk。日本が攻めてきたとき朝鮮の正規軍は7千人程何だが。
>庶民は貧窮、現地調達はロクに出来ない
砂漠地帯が多いメソポタミアに比べれば朝鮮は十分豊かだ。
745 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 01:40:42.76 O
全朝鮮は支配してないが、
お前らどちらもブンロクとケイチョウ混同しとんやないかい。
あとメソポタミアは豊かだぞ
砂漠だからってアホか。
さらにいうと初期朝鮮も安国寺がびっくりの豊かさだわ。
馬鹿と馬鹿が争っとるな
>>744 シリアもアレッポ筆頭にセルジューク系やイフリキア系の
諸侯が保持し続けた大都市は多数あったよな。
一方の日本軍は1年と掛からずに痩せ地を除く全朝鮮を占領してしまった。
十字軍と交戦した正規軍は全部で5000人前後だから最大でも李朝群の1/5を下る程度。
シリアはシリア、メソポタミアはジャジーラとイラクねw
近代農業が始まる以前のイラクは生産性の高い穀倉地帯だよ
メソポタミアが豊かだったのはモンゴル帝国(フレグ)に荒らされるまで。
モンゴル帝国はメソポタミアの農地、灌漑施設を破壊し、一気に生産性の
低い土地へと様変わり。
当時は朝鮮の方が豊かだったと思われる。まあ、支配者がろくでなし
だったから、土地を生かしきれなかったと思うが。
>>735 天野君は明軍は強い強いと騒ぎながらも、その件の碧蹄館じゃガッツリと勝ってるがなw
武辺強き唐人かなって言ってるのも
そもそも明トップクラスの李如松率いるの明国超精鋭なんだから当たり前だし
(前年には慶長の役で朝鮮に救援に来る、回族出身の麻貴と共にモンゴルのボハイの乱を鎮圧してる)
処女の如くと言われた朝鮮兵や明の普通の兵隊と比べりゃ、こちらも損害が出るから武辺強き唐人って意味だろ
「今までの連中は男なのに男も知らない小娘みたいに弱かったが、
今度の連中は身体もデカいし戦も上手くてつええなw」
ってノリで書いてる。
>>737 文禄じゃ加藤がオライカンまで攻め込んでるし、普通に平壌、ソウルで戦をしてるでしょ。
慶長の役では補給線の確保重視の完勝を目指して時間がかかるがローラー作戦に変更したんだよ。
勿論効果は抜群で朝鮮兵は当然として明の精鋭相手にも勝ちっぱなし、圧勝の連続。作戦の正しさが実証された。
しかし、作戦の最中に秀吉が死んだってだけ。
それに、相手はあの世界の超大国明国だからね。幾ら日本が世界最強レベルであっても
アレキサンダーやカエサルのように無人の荒野を行くような進軍を行える訳ない。
(事実、相手が朝鮮だけならば2カ月で首都を陥落させて無人の荒野をいくがの如くの進軍であったが)
751 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 18:41:55.05 0
>>749 また、同じことの堂々巡りなのかよ。
ピョンヤンが陥落したあと石田三成が
ソウル防衛のために北朝鮮各地の軍を
呼び戻した際も、その後ソウルで明軍を
迎え撃つことを提案したときも小早川隆景
や立花宗茂は城外で迎え撃つここを主張
諸将の賛成を得て出撃し、碧蹄館で勝利した。
戦後、明軍追撃を主張した宗茂に対し、隆景
はソウル防衛に方針転換を主張し諸将の支持を
得た。
これなんかも明軍の精強ぶりに対する日本側の対応
の変化を表している。
752 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 18:51:35.98 0
>>750 小早川隆景を主将とする第六軍1万5千は
全羅道を攻略するべく攻め込んだが、
権慄傘下の官民合同軍2万の抵抗にあい、
攻略をあきらめて撤退している。
753 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 19:01:49.75 0
8月初旬、権応銖の義兵隊は、他の義兵隊と協力して、500余名の
日本兵が守る永川城(慶尚道)を攻撃して、これを全滅させた。
続いて権応銖の義兵隊を中心に各義兵隊が協力して、慶州城も解放した。
以後、慶尚道を占領した日本軍は、小部隊による掠奪もできなくなり、
数十・数百の兵が守る砦は、義兵の攻撃にさらされて全滅するか、
または撤収せざるを得なくなり、結局、重要拠点に兵力を集中する
しかなかった。
かくして、日本軍の補給路は遮断され、移動も思うままにできず、
大部隊を編成してのみ可能であった。
754 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 19:04:44.90 0
この他にも有名な義兵将として、趙憲・申蘭秀や、僧侶の霊圭は忠清道
を舞台に、福島正則・蜂須賀家正の軍と戦い、禹性伝と洪彦秀・季男父子
・金千鎰等は、京畿道を舞台に宇喜田秀家の軍と戦い、朴渾・禹応民・元豪は、
江原道を舞台に森吉成・島津義弘の軍と戦い、李廷○・宋徳潤・趙光庭等は、
黒田長政の軍と戦って延安城を守り、黄海道でゲリラ戦をくりひろげた。
鄭文孚・李鵬寿等は、咸鏡道北部で加藤清正軍と、柳応秀・李惟一等は、
咸鏡道南部において鍋島直茂の軍と戦い、高敬命・柳彭老・安瑛・梁大璞等は、
全羅道侵入を企てる小早川隆景の軍と戦った。
755 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 19:05:55.25 0
>>752 いつの話だよ
李朝実録だと全羅道を抜けて釜山へ入った隆景と戦いボッコボコにされてるぞw
各道州城の李朝群兵を合わせると少なくとも五万は超えてるなw
758 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 21:11:01.11 O
759 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 21:14:47.50 O
>>756 多分小早川隆景じゃなくて、宇喜多秀家が幸州山城を攻め倦ねた戦いを言いたいんだと思う。
>>758 一次史料だと、援軍がまだ来ない、援軍寄越せ
あそこは陥落した、戦が起きて打ち破られた
何所何所が潰滅した、民が逃散した、って記録ばかりなのに不思議だよね
日本側の記録見たらそういう記述があるんでしょ。
日本側の学者ですら同じような事言ってるし。
北朝鮮にある北関大捷碑に関してはぶっちゃけ史料価値あんま無いんじゃね?って言われてるが。
>>760 義兵の活躍は公式史料には残らないのSA!(キリッ
いや、冗談はさておきちょっと李舜臣関連と併せて調べてみるか。
763 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 22:50:16.08 0
結局一次史料には記録が見当たらずかw
梨峙はわからんけど、次の幸州山城では実際に撃退してる。
ただ、そのリンク先の日本側の犠牲者が二万は明らかに誇張だがw
逆に言えば文禄・慶長を通じて陸戦で負けたのは
これと第一次晋州城攻防戦と明軍の平壌奪回くらいだが。
因みに海戦は閑山島を最後に輸送船団の襲撃も上手くいってないみたい。
766 :
世界@名無史さん:2012/05/26(土) 23:55:35.78 O
当時の海軍に制海権なんてにぎる力がないことをわからん奴が
記事を書くのが朝鮮クオリティ
まぁさすがに学者はファンタジーとわかっててなお
朝鮮のアイデンティティーの為に嘘を書いてるかもしれんが。
哀れな民だ。
釜山対馬間を切断できてないことは海戦の場所がそこにないことでも明らかなのに
なぜ平気で補給線を切ったみたいなこというかね。
767 :
世界@名無史さん:2012/05/27(日) 00:03:42.44 O
逆に言えばそこより北は義兵や水軍で分断できてたんじゃないかな?
例えばその釜山より北の海域も日本が制海権握ってたり
漢城までの補給路がちゃんと確保できていれば、碧蹄館での勝利後に
平壌奪回することもできたかもしれんし。
いずれにせよ、講和を結ぶ段階では漢城での補給にはかなり難儀してたっぽい
補給に難儀してたのは現地調達を阻害されたからじゃね?
遠くに食料送るのは海軍による制海が成り立ちがたいのと同じ理由で
発動機がない当時の軍には困難だろう
>>767 李朝側の記録でも、緒戦以降の李朝水軍は負け通し
何度か不用意な攻勢に出て大打撃を被ってる
日本にもポルトガルのような航海技術があれば・・・。
現地調達に頼ることへの限界に対する反省から、ちびちびとやってた二回目は
経緯を見ると割と首尾よくいってたように見えるが
秀吉死んで即撤退したのを見ると、やっぱみんな無理を感じてたのかな?
仮に戦争で圧勝しても、統治コストと見合うだけのメリットが
なければ撤退するという場合もあるんじゃね。
>>770 ポルトガル軍なんて、全力出しても2,万人弱だからな
南米大陸の公認武装商人は数百人のレベルだし
いや、本国は常備軍だけでも15万の精鋭がいたぞ。
しかも半数はマスケット銃装備で騎兵も充実してるぞ。
ってこれはスペインの話だったなw
>>770 むしろ「権力者が死んだ!後継者は幼い!なんか周囲もきな臭い!
これから日本というか俺の領国はどうなるんだ!?」
って時に呑気に「へっへっへ、俺は新天地でパラダイスを築くぜw」
なんて領国ほったらかして異国統治に精出す奴がいたら
ホンモノのアホだと思うぞw
>>648 ノート見たら向こうの人っぽいのが凄い勢いでファビョってて吹いたw
>>774 スペインの常備軍は本国と低地諸国とイタリアの封領の駐屯兵と
封建領主のお抱え武士くらいで3万人届かないよ。
全力出せば8万人強はいくけど
>>751 なんだ認識は一致してるじゃないか
救援に来た明軍は明の中でも精鋭中の精鋭だけあって超強い
それこそ、普通の戦国大名と変わらないぐらいの強さだった。
それが4〜5万も兵を率いてきたんだから万全を期すのは当然。
・李瞬臣の海上ゲリラ戦で西進が出来なかった(西進する戦略は無かったぽいけど)
・民衆ゲリラによって兵站に支障がきたした、
・明の精鋭は朝鮮雑魚兵と違って、日本軍も警戒するぐらい強かった
それこそ、朝鮮兵、朝鮮ゲリラと戦う時は農民一揆を戦うノリで、李如松と戦うのは戦国大名と戦うノリ
(けど、農民一揆って幾多の大名武将を殺してきた半端ない戦闘力を有してたから、朝鮮兵よりは精強だろうけど)
>>756 梨峙の戦いって奴じゃないの?
フロイスが死因については敵に討たれたのは僅かであり
大多数が病気、飢餓、凍死で死んでるって記述してるように
文禄の役は兵站の維持が最大の課題だった
それこそ
>>753-755に有るように文禄の役での死者の大半の原因が兵站求められるとすると
慶長の役では、前回の反省を生かして
最初の全羅道、忠清道において掃討作戦を行って、次に補給線の構築に全力を注ぐって
戦略は些か慎重すぎるぐらいの、前回の反省を生かした完璧に近い戦略だと思うよ。
慶長の役も前回同様に一直線で進撃すれば漢城辺りまでは余裕で占領出来ただろうけど
次の明軍の救援は李如松の精鋭(李如梅、董一元)以外にも麻貴や劉テイ、陳リンの参加する
明国オールスターに近い布陣なんだから結局は行き詰るよ。
>>778 明軍の補給は李朝の義務だから大した兵力展開できないよ
史実でも李朝領で多数の飢餓、逃散が起きてるし
>>777 梨峙の辺りで起きただろう戦は、李朝の将官が多数戦死しただけで
今のような軍記が書かれたのは李朝末期だからなw
780 :
世界@名無史さん:2012/05/27(日) 11:08:49.18 0
>>779 >梨峙の辺りで起きただろう戦は、李朝の将官が多数戦死しただけで
小早川隆景(日本一の賢人)の全羅道攻略は失敗してるんだが。
お前の反論(?)は毎度意味不明だな
中野等氏は何の一次史料準拠にしたんだろうか?
>>778 逆に言えば、韓国側や一部の日本の学者が主張する
水軍やゲリラが日本の正規軍をフルボッコっていうのは嘘なのね。
勿論、輸送部隊を襲って補給線を脅かすのは立派な戦術だが。
>>776 スペインの行政記録見ると、1588年の4月には
フランドル地方だけでも歩兵が56000、騎兵が3600いたみたいだぞ。
>>781 実際に全羅道の平定には割と苦戦してるよ。
一回目の晋州城攻めと幸州山城攻めには失敗してるし。
ただ、梨峙の戦いに関しては一次史料がどこにあるんかわからんけど。
>>783 まともに艦隊決戦なんてやったら元均みたいに即死するでしょ
勿論、伏兵に引っかかって戦闘艦(安宅船、板屋船等屋根の有る船。)でも
手痛い負けを喫することが有ったのは事実だけどね。
李瞬臣は限られた手駒で出来るだけの事をやった名将だと思うよ
ただ、今過剰に称えられてるだけであって。
>>784 なんとか公が絶賛謀反中で宿老の大公や王弟を派遣して全力鎮圧
都市を要塞化して守備兵を減らす政策も実行途上で
各地にまとまった守備兵を張りつけてた時期だよ。
その頃は仏とも和平中で手持ち戦力も全力投入
日本人の間では完全に小物扱いの脇坂さんが
向こうでは物凄い大将軍みたいな扱いって時点でお察し。
789 :
世界@名無史さん:2012/05/28(月) 01:55:16.24 0
小早川隆景率いる第6軍1万5千人って、立花宗茂の3千人や小早川秀包の
1千5百人を擁してる当時の日本でも最精鋭の一つだろ。
その第6軍でも実戦経験もない武装農民である義兵に勝てなかったんだから
120年の戦乱に揉まれた史上最強の武士たちもたいしたことねえな。
えっ?
李朝官軍は全羅道を通過した隆景隊を追撃して夜戦を仕掛け
準備万端の日本軍に散々打ち破られ大敗したよ。
朝鮮学校でどう教えられたかは知らんがねw
791 :
世界@名無史さん:2012/05/28(月) 03:12:49.47 O
>>789 だからその義兵が小早川隆景をコテンパンに破ったとかいう
梨峙の戦いの一次史料を提示しろと何遍も言うとるやないか。
>>789 14万の大軍で攻め込んでおきながら
たかだか四万に満たない武士に殲滅された元軍や
1万を越す軍勢で攻め込んでおきながら
12歳の子供が跡を継いだばかりの頃の
たった数百の対馬の武士に惨敗した朝鮮軍ほどでは・・・
>>789 全羅道の義兵は確かに頑張ったけど、結局は明軍南下までの時間を稼いだってだけだからなあ
梨峙の戦いではなんとか砦を死守したけど死屍累々の状態で、退却する日本軍を追撃もできず
錦山の戦いでは日本軍を二度攻めて二度とも惨敗、部隊は壊滅、指揮官の高敬命も趙憲も戦死してる
なんとか侵攻を阻んでいたと言うならわかるが、とても日本軍を大破したなどと言える状況ではない
六番隊はその直後に南下する明軍への対応のために京畿道へ移動させられてるから
全羅道が制圧を免れたというのも結局は明軍のおかげさまなんだよね
>>778 >戦略は些か慎重すぎるぐらいの、前回の反省を生かした完璧に近い戦略だと思うよ。
明侵攻というマクロな視点では前回朝鮮半島を「通行路」にした事自体が間違いだったんだから
再び朝鮮出兵した時点で轍踏んでるようなもんだけどな
出兵目的が明・朝鮮に対する「懲罰」という名目が本当だったのならともかく
>>794 とはいえ、直接明に攻め込むのもナンセンスじゃね?
>>793 梨峙の戦いって拠点攻防戦だったのか。
なんかまるで野戦で小早川の大軍を撃破したみたいに語る人がいたが。
しかし、幸州山城といい晋州城といい全羅道はやけに守りが堅い要塞が多かったんだね。
なんでだろうか?
>>795 >>724の意見には特に異論はないけど、泗川の戦いだと
鬼島津さんが城から打って出て、釣り野伏やったんじゃなかったっけ?
>>796 明に攻め込むなら倭寇に好き勝手されてる南方
そしてそこを攻めることが出来ないなら明侵攻は断念するのが正解
倭寇みたいに沿岸を襲撃して逃げるだけならともかく
元寇のときの南路軍みたいな目にあうんじゃないの?
東シナ海ってたまに台風通るし。元軍は暴風雨で船を失って五島列島のあたりで
孤立して無縁の状態になって皆殺しにされたんだろ?
だから結論として
「日本の国力で明の征服は無理」だろ
唐入りが最初から半島の占領を目的としたものだったら成功したかもしれんが
占領地域が増えるにつれて負担が増えそうな戦略ではあるなあ
後継政権が戦略を継がなかったのはそういうわけか
元寇にしろ唐入りにしろこれがアジアのパワーバランスなんだということを感じさせてくれるな。
日本は大陸の帝国に脅かされないほどの力を持つが
逆に大陸に攻め込んでこれを制圧するほどの力は持たないと。
804 :
世界@名無史さん:2012/05/29(火) 00:26:06.50 0
>>795 いちいち反論するのも面倒だけど、
>当事国の全く勝ち目は無かったという報告書や
これは倭城を攻めて撃退されたことについての感想だろ。
>翌年の攻勢までの間、守りを固めて拠点を確保しておくことだぞ
おろかな侍厨はなんも疑問を持たないようだが、慶長の役開戦前から
慶尚道南岸に4万の日本兵が駐屯していたんだが。
>>804 >反論できる箇所が無くて哀しいけど
あっそ
>これは倭城を攻めて撃退されたことについての感想だろ。
これは明の将軍が半島入りして以降の攻城野戦、全戦役を通じての所感だよ。
>侍羨ましいニダ、悔しいニダ。なんも疑問を持たないようだが
>慶長の役開戦前から慶尚道南岸に4万の日本兵が駐屯していたんだが。
だから城を築いて2万強に減らし、恒久的な領国にしようとしたんだが。
>>803 大陸の統一政権でも台湾ですらロクに支配出来なかった事を考えると
地中海と違って太平洋では海を越えて武力侵攻するのは19世紀になって
航海技術が飛躍的に進歩するまで極めて困難だったんだろうね。
807 :
世界@名無史さん:2012/05/29(火) 01:22:15.16 0
>>805 出たー!
こまったときの朝鮮人認定
おまえネトウヨだろ(笑)
航海技術じゃなくて火力と地理の問題だね
列島と半島の間には東シナ海、半島と大陸の間には湿地帯と河川と丘陵が続くが
アナトリアとギリシャの間は狭いボスポラスがあるだけで、両側も人口密集地帯。
半島王朝は東アジアの中じゃ弱小でも、東地中海沿岸の後背地が無い諸国に混じれば
国土の広い大国、しかも山だらけな上に平野間盆地間の交通の便も悪い
制圧するのは北アフリカやシリアのように簡単にはいかない。
ドーバー海峡や地中海と違い対馬海峡も東シナ海も荒波の難所だ。
それでも日本側から半島に渡海する場合は反対のパターンに比べ
半島に上陸してから内部に攻め込むとこまでは割とスムーズにいくのは
対馬が歴史的に日本の領土だったことが大きいと思うよ。
逆パターンの元寇の場合はまず対馬や壱岐を制圧しなきゃいけないから
結局九州に辿り着く頃には体勢を整えられてしまい、現地での橋頭堡構築に失敗してる。
実際、距離的には目と鼻の先のはずの東路軍ですら、狭い船倉に押し込められ
ジメジメした不潔な環境で、食事もろくなものが無いので病人続出で台風が来る
前に元の将軍は根を上げていたぐらいだからな。
江南軍は数の上では圧倒的だけど、状況は遥かに悪かった筈だから文字通りの
「烏合の衆」。仮に「神風」が吹かなくとも元が日本を制圧するのは不可能
だったろう。
だね、九州沿岸へ到着する航海技術があっても
海岸線の開けた東地中海と違って簡単には上陸できないし
穀倉地帯に近いアナトリアやシリア沿岸部と違って半島南部は食料に欠く
日本側の軍勢も国土の広さと人口に比例して多いから苦戦必至。
>>810 しかも近くの島に上陸したらしたで
一斉に武士の皆さんが目の色変えて殺しにやってくるんだぜ?
悪夢にも程があるわ。
813 :
世界@名無史さん:2012/05/29(火) 22:35:16.82 0
(3)六月八日安国寺恵瓊書状
「当国之事、第一兵粮沢山之儀、不可言竭候、ーー一城ニ白米四五千石、黒米籾
大豆麦以下雑穀等之蔵之事者、更以不知数候ーーー、城々ニて兵粮下行候間、高
麗着以来ハ、日本之兵粮少も不入候、我等兵粮之事、名護屋のこともと申所、対
馬の豊崎又釜山浦所々残置候、如此候間、此方への気遣、少も不可有之候」
二回目の出兵でドンドン半島人をポルトガル人の奴隷商に売り払えばw
>>814 実際に売り払いまくってるけどな。まあ、数十万人売れたと言われる日本人自身ほどは
売れてはいない。
正直、国内人口面では、中国の三国時代と並ぶ暗黒時代だよ、安土桃山時代は。
その人口減少率は、太平洋戦争が可愛いぐらい酷いものだった。
817 :
世界@名無史さん:2012/05/30(水) 23:07:40.20 0
評者は著者がいうような兵粮調達に関する「政策の変換(変容)」は文禄の役
の開戦時にはなかったと思う。朝鮮侵略戦争全体を通じても、基本的な政策の変
化はなかったとは思うが、もしも政策の変化があったとすれば、「版図の確保」
に目的を切り替えた慶長の役、侵略戦の再開時であろう。「仮途入明」(=明へ
の道を貸してほしい)を主張した文禄の役と、「稲禾を刈って糧に供せ」「首を
取らずに鼻を削ぎ、塩蔵して京に送れ」と命令された慶長の役とでは、建前上、
後者の方が略奪指向は強かった。「兵粮は諸人より憎まれながらも現地調達いた
すつもり」。島津義弘の書状中の言葉である。これも文禄開戦当初の話ではなく、
慶長三年の史料に登場する(正月九日・旧記雑録後編)。著者の論旨とは逆にな
るが、慶長再戦時に敵対地への略奪指向、武力による威圧政策が強化され、宣言
された。
818 :
世界@名無史さん:2012/05/30(水) 23:19:38.38 O
>>815 その50万人という数字はデマだよ。
人身売買で売り飛ばされた日本人がいたのは事実だが。
>>816 日本の場合、特に人口が大きく激減した時代は無かったはず。
>>817 ニホンコむつかしねw
>>816 室町後期から織豊期にかけて技術革新で農業生産が伸び人口は増えたよ
>>818 南蛮船ってそんなに船数往来してないからね
全部の貿易船に目一杯詰め込んだと仮定しても
50万人もいかないw
>>804 >慶長の役開戦前から慶尚道南岸に4万の日本兵が駐屯していたんだが。
慶長の役で日本軍は新たに八城を築いて、戦線はそれまでの三倍に拡大してるよ
守備兵力を増強するのは当たり前
>>816 平気で嘘をつくな、もしくは天然バカなのか?
三国志の時代は漢の時代の最盛期より
人口は6〜8分の1程度まで落ちてた筈
室町最盛期の人口が1億近くいないとお前の発言は辻褄が合わない。
戦乱で戸籍の把握率が下がったせいもあるだろう。
823 :
世界@名無史さん:2012/06/01(金) 00:11:47.02 0
>>820 天下の賢人、小早川隆景が率い、鎮西一の勇者立花宗茂も従軍する日本
最精鋭、六番隊1万5千人でも攻略できなかった、全羅道を左軍、右軍合わせて
11万以上でようやく攻略したのにそのほとんどを放棄することになんの意味が
あるんだ(笑)
×天下の賢人、小早川隆景が率い、鎮西一の勇者立花宗茂も従軍する日本
×最精鋭、六番隊1万5千人でも攻略できなかった、全羅道を左軍、右軍合わせて
×11万以上でようやく攻略したのにそのほとんどを放棄することになんの意味が
×あるんだ(笑)
知略家の小早川隆景が率い、九州一の兵たる立花宗茂の従軍する
日本軍の六番隊1万5千人が無視した全羅道は、秀吉の指示で攻略が決まると
左軍と右軍合わせて6万弱を動員して瞬く間に攻略した
そのほとんどをわざわざ放棄することになんの意味があるんだ(笑)
825 :
世界@名無史さん:2012/06/01(金) 01:00:57.66 0
>>824 >左軍と右軍合わせて6万弱を動員して瞬く間に攻略した
左手の備(左軍) 計49600人
右手の備(右軍) 計64300人
合計113,900人
7月下旬から9月下旬まで2ヶ月ほどかかっている。
一次史料プリーズ。
梨峠の戦いみたいにまた捏造されたんじゃたまったもんじゃない。
827 :
世界@名無史さん:2012/06/01(金) 01:26:52.74 0
>>824 文禄の役で6番隊が攻略に当たった際、全羅道での豊富な食料事情については、
六月八日安国寺恵瓊書状にも
「当国之事、第一兵粮沢山之儀、不可言竭候、ーー一城ニ白米四五千石、黒米籾
大豆麦以下雑穀等之蔵之事者、更以不知数候ーーー、城々ニて兵粮下行候間、高
麗着以来ハ、日本之兵粮少も不入候、我等兵粮之事、名護屋のこともと申所、対
馬の豊崎又釜山浦所々残置候、如此候間、此方への気遣、少も不可有之候」
と記録されていることからも6番隊にとって魅力的な攻略拠点だっただろう。
ただ戦力が足りなくて占領できなかったのでろう。
>>825 またデマか、これだから在チョンは嫌われる。
全羅道は左軍の担当、しかも8月上旬から9月初頭まで1ヶ月弱で攻略完了
829 :
世界@名無史さん:2012/06/01(金) 01:58:11.67 0
>>828 寝言は寝て言え、基地外右翼(笑)
9月16日の井邑会議において「相残人数七万八千七百人」
が全羅道掃討戦に動員されることが確認され、
そのまま10月下旬くらいまで掃討戦が行われている。
梨峠の戦いの元ネタっぽい記録あったけど
全羅道の官軍4万、忠清道の官軍4万、林川路の官軍2万の合計10万人が
梨峙付近に集結して防備を固めていた。としか書かれてない記録と
官軍5万で防備を固めた所へ日本軍が攻撃を仕掛け、その日は守り通したが
文人ばかりのせいで翌日の攻勢に遭うと、算を乱して武器防具資材を山の様に捨てて逃げた
って記録だけで、勝ったという記録が無いぞw
>>829 自分で掃討戦って書いてるじゃんww
主要な攻略目標は1ヶ月弱で平定、あとは残敵の掃討
>>823 ねえ、慶長の役の戦略とか、そのへんの話題は過去スレで出尽くしてるよね?
なんかしつこく粘着してる人みたいだし、まさか覚えてないってことはないでしょ。鳥頭なの?
833 :
世界@名無史さん:2012/06/02(土) 08:58:23.19 0
835 :
世界@名無史さん:2012/06/02(土) 11:56:28.66 0
>>834 へー、秀吉って慶長の役の開始当初も明国を征服するつもりだったんだ。
あきらめが悪いやつだな(笑)
それよりも秀吉が病死せず、もって長生きしていたら、
何年くらいで明国を征服するつもりだったんだ(笑)
また、その為にはどれぐらいの兵力を投入する予定だったんだ(笑)
慶長の役が作戦どうり行ってるんなら答えられるだろ(笑)
もはや酔っ払いのいちゃもんレベルw
>>835 実際に名目はそうだけどね。最も、明に攻めるなら、タタールや女真に
工作する必要があるけどね。日本国内なら確実にやっていた。
基本的に、朝鮮出兵はそれまでの秀吉にはない非常に杜撰な戦争
だったと言える。ただ何も考えずに攻める、という無策ぶり。小西行長、
石田三成を買収し、秀次事件を引き起こした明の名将李如松の方が
余程優れている。他に、加藤清正排斥も両名を使った李如松の計略
だしね。
まあ、売国奴の元祖、石田三成、小西行長も大概だが。
838 :
世界@名無史さん:2012/06/02(土) 14:56:01.12 0
■ 在日の最終目標は外国人参政権→政治力→軍事力で日本支配
在日民団集会のコメントです。
「もはや裏社会は我々が制圧した。
その暴力と経済力を背景に日本の政官財界を侵略する。
60万在日の経済力は日本経済の2割に相当し、それは実に韓国の経済力の2倍という凄まじい物だ。
経済力に加え、地方参政権によって政治力も手に入れ、やがては軍事力も手にした日には
完全に日本から独立した、世界で最も豊かな国家を手に入れることが出来る。
もはや完全に在日の奴隷状態の日本人には、在日国家の軍門に下って貰うことになる。
こうして、在日朝鮮民族はアジアの頂点に立つことが可能となり、半島と日本を実質支配する
(在日韓国人、魯漢圭氏(広島市))」
朝鮮征伐って言うが、当時は「乾煎り」って言ったんだろ(´・ω・`)
つまり、朝鮮はストローでお目当ては支那大陸だったワケだ。
いまだに朝鮮が朝鮮征伐の被害性を強調するのは
駅の階段でこちらが、ふと上を見た時にブスの女子校生がいて
こちらに気づいてスカートを手で押さえるようなもん?
朝からブスに余計な自信を付けさせてしまったような・・・
原爆投下の目的は新爆弾の試験で
広島長崎の市民を殺傷するためではなかったのだから
被曝者は被害者ぶるのをやめろという理論。
やたら「朝鮮征伐」って言いたがるのは日本のアホウヨだからなあ
やたら朝鮮征伐の被害や戦績を誇張・改竄・捏造するのは韓国籍ネトウヨだからなあ
まあ韓国籍のネット右翼が日本で暴れるのは朝鮮征伐に限らないが
判決そのものは妥当だけど主文の「短絡的」ってのは余計なお世話だな
当人なりに人命と苦痛や尊厳を秤にかけて熟慮の上で後者を選んだかもしれんのに
無論前者を選ばなきゃ犯罪なのはわかるけど、裁判官に他人の心情を批判する権利はない
それこそお前こそ人の苦痛や尊厳を軽視してるだろと
誤爆ったw
>>844 誤爆したことを表明するなら、どこの誤爆なのかも明記すべき。
どうせニュー速+だろ
>>842 韓国は国民総ネトウヨ
自分に都合のいいことはビックリするほど簡単に信じるし
それを腐すと売国奴扱いで大騒ぎ、正直手がつけられん
まあネトウヨは総じて屑ってことだ。
日本の場合日・朝・明の三国の資料が普通に見れるからな
明はもちろん朝鮮の資料も漢字だから大体のニュアンスはわかるし
主要な資料は日本語訳もされてる
一方、朝鮮じゃ一部漢字を読める知識層しか資料読めない上になぜか
現代朝鮮語・ハングル仕様に完訳されない
いや、理由はわかるけどw
850 :
世界@名無史さん:2012/06/07(木) 17:07:31.83 0
韓国の知識層が迂闊に本当のことを言うと(ry
851 :
世界@名無史さん:2012/06/07(木) 17:38:04.19 O
単純に知的蓄積がないのもあるかもね。
東南アジアの留学生がいってたが、
日本人は日本語で専門書をよめる。
我々は母国語の専門書がないので、まず英語を学ばなければならないと。
最近微妙な先進国入りしたか?くらいの国でしかも日本と比べたら小国で専門書の市場も小さい。
他に翻訳すべき書物があるんだろう。
どうもいわゆるネトウヨは韓国に過大に期待してる。
なぜ日本並みを求めるのかね。
同じ地位と思うから韓国を嘲笑ったり、憎悪したりするわけで、
そもそも中進国の星であり、子供が背伸びしている程度という認識をしたらまぁ許せるだろ。
子供ならなおさら、悪い事したり嘘ついたなら、
大人が叱りつけて正しい道に戻してやらないといかん
争いは同じレベルの者同士でしか(ry
>>852 そんなことして百万が一韓国人が更生したらどうする
あいつらには永遠にあのままでいてもらうのが日本の国益なんだよw
>>851 現在の世界で「英語の話せないインテリ」がいるのは日本だけらしいね
中国やイランやエジプトもだな
そんな国の仲間なのか
>>856 それらの国もインテリは基本英語出来ないと自国語の文献資料が不足してるだろ
たとえばドイツ文学・フランス文学・ロシア文学などの文豪の全集がほとんど揃ってるのは日本語訳くらいで
英語訳すら代表的作家の代表作しかないし、酷い場合は自国ですら全集が編まれてなかったりする
中国人インテリが自国の文献資料を読むのに英語できなきゃならんなんて聞いたこともねえ
一世紀半を海外文献の翻訳に費やしてきた歴史は伊達ではない
>>859 実学の文献なら現在進行形で訳されてるけど
文学や思想哲学系は未訳や、訳本が文革の混乱で消失したりした例が多いのに
何言ってんだ?
確実に中国の方が豊富な翻訳文献揃ってると言えるのは発掘ブームで今が旬の
古生物学関係だな
日本じゃ金になる恐竜関係以外はほとんど未訳
>>861 逆だよ、科学技術は米欧日が先端を行ってるから英語が必須
人文系は国内を研究していれば十分かつ最も進んでいるので
外国語文献に当たる必要性が乏しい、外国で一番資料の豊富な日本は英語必要無いしね
話が噛み合わないと思ったらインテリと学者を混同してるらしいな
>>864 日本語訳しか読んだことない人間はインテリではあっても文学者とは言えないからね
原著読めてはじめて学者と言える
>>864 知識人なら猶の事だよ、学者ほど専門性を要求されない
ん?
>>859は自国のと言ってるから中国語の文献ってことだろ。
なんで英語訳文が必要なんだ?
俺が読解力ないの?
868 :
859:2012/06/09(土) 18:40:49.97 0
あ、いや。元々の俺が読解力なかったっぽいw
>>858は、日本のインテリは各国の文学などを日本語訳で読めるから英語を学ぶ必要が薄く、英語を話せない。
中国・イラン・エジプトなどはそんな豊富な翻訳環境がない癖に英語が出来ない。どうなってんの。
って言いたいようだ。
なんで新スレが立ってるんだぜ?
心機一転捏造を繰り返す気満々なんだろ
871 :
世界@名無史さん:2012/06/11(月) 15:23:40.87 0
>>868 そもそもその三カ国だって普通にインテリは英語話せる国だろ
少なくとも革命前のイランは日本より遙かにアメリカナイズドされてたし
現代になっても昔ながらの宗主国様に対する下僕っぷりを誇る国民性は変わらないなw
ん?アメポチの事かい
>>872がどのレスを読んでこんなレスしたのか誰か教えてくれ
どこでそんな話が出たのか
宗主国様マンセ〜偉大な米語マンセ〜ってねw
まさか英語が話せるかどうかの話を英語マンセーと理解したのかな
そんな低能じゃないよねw
ウリが国籍を持つナラは宗主国様ナイズされて誇らしいニダってねw
879 :
世界@名無史さん:2012/06/18(月) 17:50:50.20 0
?
880 :
世界@名無史さん:2012/06/23(土) 15:57:24.52 0
不毛の朝鮮半島が緩衝地帯としての役割を大いに発揮した戦役だよね
信長なら、南蛮交易船をマネて竜骨付きの外洋艦隊を作り、上海あたりに直接上陸してたのかなあ
南蛮船はジャンクと比べてあらゆる面で性能が劣っていたから
外洋船団を創るとしても平底船だね。
やるとすれば上陸地点は前期倭寇で割と襲撃の多かった江蘇じゅないだろうか
信長もそんな無謀なことはやらないけど
そもそも信長が西洋人のマネをしたことなどほとんどないからな
献上されたマントやらソンブレロを礼儀で着けて見せたような話が大袈裟に一人歩きしすぎ
南蛮胴具足だって実際は着てないしな
三英傑で一番保守的だったのに
なぜか革新的な人物像が一人歩きしとる
>>880 当時の海上輸送能力じゃ自殺行為、橋頭堡を築くなんて相当の実力差が無いと難しい
数百〜数千人単位の海賊を数十単位で組織して
ヒット&ウェイで海岸を荒らしまわって国力の疲弊を狙うって戦略なら有りだけど
副都の南京にて包囲戦を行えるほど当時の倭寇は強かったんだから
886 :
世界@名無史さん:2012/06/27(水) 11:56:08.77 O
>>884 そして三英傑で一番南蛮貿易や東南アジアとの交易に精を入れて
関ヶ原では西洋式の甲冑を着て、大阪の陣ではカルバリン砲を動員した家康が
何故か一番保守的で排他的な扱い受けてるよね。
>>886 後に保守化した徳川幕府の施策を譜代の老中若年寄どもが
権威つけのために「神君のご遺訓」とほら吹きまくり
その駄法螺を真に受けて書かれた本が多いから
888 :
世界@名無史さん:2012/06/28(木) 01:58:21.60 0
保守化っていうか、朱子学化だよね。
当時の東アジアで「平和」「安定」を志向する
政権が、商業や貿易(海賊行為を含む)を積極的に
肯定するようになるとか、そもそもありえるのかな。
家康の将軍・大御所時代はなんだかんだと言っても豊臣家の存在があったから
家康は幕府の強大化を志向して貿易や最新軍備の導入に積極的だったけど
大阪陣が終わって数年で家康も逝き、残された幕府はもう強大化する必要がなかった
890 :
世界@名無史さん:2012/06/28(木) 23:20:14.20 0
>>885 >副都の南京にて包囲戦を行えるほど当時の倭寇は強かったんだから
、『明史』日本伝にも真倭(本当の日本人)は10のうち3であるとも
記述されている。
>>886 家康の開放政策は、結局の所、あまりうまくいかなかったからだろうな。
家康が晩年、外交政策上、特に執着していたことは、
「南蛮交易航路(インド洋航路の延長としての東シナ海航路)を、東京湾(江戸湾)まで延伸すること」だった。
ところが、はるばる浦賀まで、西洋船はなかなか来てくれない。
そこで、妥協して「駿河湾まで延伸」と言うことになったが、これもあまりうまくいかない。
結局、南蛮航路の地理的利便性は、西国九州方面ほど圧倒的に強いということが、再認識された。
さりとて、幕府政庁を長崎に持っていくわけにもいかない。結局、まともに競争しても西国勢に負けるから、
長崎だけでの管理貿易=鎖国ということになった。
いっそのこと地理的に開き直って、東の新スペイン(メキシコ)交易開拓一本に絞った伊達政宗のほうが、
開明的とされている理由は、実はここにある。
家康は、駿府や浜松から東海沖(フィリピン海)を眺めて育った東海地方の人だから、
どうしても遠州灘に国際航路を引っ張りたかったんだろう。
戦国期から江戸時代に掛けての知識が何も無いと
意図せずにここまでアピール出来ちゃうのはある種凄い才能だなwww
「関東&東海僻地論」は、お気に召しませんか?ww
まあ、「三英傑」なんて特殊なローカル用語を使っているから、
直近いくつかのレスを書いた人の出身はバレバレなので、意図して煽ったんだがね。
もちろん、新教・旧教の宗教問題や、フランシスコ会の問題もあるが、
家康が、かなりしつこく、浦賀や駿府に西洋船を入れたがっていたことは、これは明らか。
でも、うまくいかなかったことも明らかだ。
その後は、朱印状発付などで間接統制を図るが、これも手の届かない所がある。
それで管理貿易に徹することにした。これが鎖国。
書けば書くほど恥の上塗りするだけw
当時の浦賀はよくある漁村でしかない
江尻は伊勢湾の諸港や品川と比べ数段小規模
直轄の神領や代官領は日本全土の至る所に在った
長崎も代官が置かれた直轄領
家康が育ったのは岡崎や駿府
>>894 うふふ。じゃあ、家康はなんで西洋船の関東入りや、駿河湾入りにこだわったんでしょうね?
ガチで都市基盤整備までやってるぞ。
江戸も駿府も、そういう設計だったという説すらある。
(江戸の港湾整備は、ジャカルタを参考にしているという説すらあるんだな)
西洋船は和船とは「港湾適地」が違うので、話の行き違いになるんだが、それでも家康は拘っていた。
この港湾適地の違いは、いろんなところに影を落としている。堺や博多は糞立地になるし、
伊勢湾岸に至っては、適地はほとんどない。
(明治時代、最初に開港したのは知多半島の武豊だった。あそこが唯一の西洋船スペックを満たす港湾だった)
全国に領地が点在しているから直ちに東国政権ではない、というわけでもないのですよ。
徳川政権にとって、西南の管理はどれだけ大変なことか。
鎖国は、西国大名の統制策の一環であるということは、これはありふれた説だ。
ということは、開国していると、江戸幕府は西国大名に相対的に競り負けるということ。
まあいいや。「三英傑」民には、いくら言っても通じないだろうことは、分かっていたから。
「東海地方に閉じ込める」「関東地方に閉じ込める」という発想が理解できないと、
徳川家康を巡る16・17世紀の政治力学は、実のところ、何も分からない。
家康は、常に「閉じ込められていた」武将で、それをどうひっくり返すか、逆手に取るかが、
彼が天下を取る上での、常に最大のポイントになる。
関ヶ原以降は、ある程度は畿内も使えるようになるが、それでも本籍はあくまで東国だ。
これに、日本人と西欧人の、港湾観の決定的な違いが、さらに影を落とす。
まあ、どうでもいいや。
>>895 家康は拘っていないから、その質問自体が無意味だね。
浦舟場の整備はとても役に立った、ただし海外貿易ではなく
首都である江戸への各地からの廻送の為に。
博多や堺や津や名古屋や長島は良い立地、南蛮人が主に使っていたのはジャンクだからね。
それと当時のガレオンはまだ喫水の浅い小型船。
下段の4行は概ね同意だ
898 :
世界@名無史さん:2012/07/01(日) 22:57:52.40 O
こっちを無視して向こうのスレが伸びてるんだが
899 :
世界@名無史さん:2012/07/17(火) 21:34:51.38 O
それどころか例の酔っ払いがこのスレ無視して余所様のスレで暴れてるんだが
900 :
エイリアンとの戦い:2012/07/18(水) 09:25:48.73 O
∧ ∧
(*‘ω‘ *) ゆーほっほ
/ ̄ ̄ ̄ ̄.\
|) ○ ○ ○ (|
/″ \
/________.\
 ̄ ∪ ∪ ∪ ∪ ∪ ∪  ̄
/ \
/ \
/ 〃∩ \
/ ノ ⌒⊃ \
/〃⊂(><;)ノ´ \
/ ∪ 彡 \
やめてください
∫ ∬
901 :
世界@名無史さん:2012/07/18(水) 10:31:59.59 0
ts
902 :
世界@名無史さん:2012/09/03(月) 23:36:18.01 0
徳川旗本8万騎を渡海させたかった
904 :
世界@名無史さん:2012/12/26(水) 09:42:34.55 0
朝鮮征伐とは?
>>904 世界で言い慣わされる所の朝鮮征伐のこと
906 :
世界@名無史さん:2012/12/28(金) 09:10:33.77 0
カルバリン砲
>>904 唐、天竺、南蛮をも征服する太閤殿下の壮挙を矮小化しようと作り出された
御用学者の造語。
908 :
世界@名無史さん:2012/12/30(日) 08:48:51.74 0
明とぶつかった件は
文明の衝突なんだから、
トゥール・ポワティエやタラス河畔に匹敵する事件と考えてもいいのでは、
909 :
世界@名無史さん:2012/12/30(日) 11:47:28.89 0
>>907 実際に占領や侵攻出来たのは朝鮮と女真の一部だけで
明領は寸土も冒せなかったんだから矮小化というよりは実態を現わしてるだろ
特に朝鮮は単なる通り道のつもりだった文禄の役はともかく
明確に朝鮮への「懲罰」も目的に含んでた慶長の役は
910 :
世界@名無史さん:2013/01/07(月) 13:13:22.47 0
?
>>908 日明戦争と呼ぶのが正しいね
東アジアにおける覇権争いでしよ
朝鮮は闘技場にすぎない
朝鮮半島の戦いか
日清戦争と同じだよね
あれも戦場は朝鮮中心だし
914 :
世界@名無史さん:2013/01/31(木) 18:08:32.39 0
戦争原因は秀吉の「男のロマン」だ
それ以上でもそれ以下でもないよ
朝鮮半島とイタリア半島は常に大国同士の勢力争いの戦場になってる
なってねーよw
イタリアは西方正教圏の中で先進的で洗練された地中海文明の影響を
最も強く受けて発達していた地方だから、北の野蛮人に度々侵略された。
もう一方の半島は、中華帝国が大拡張した時代の最後の余り物(征服対象)として
或は、日本が大陸進出した場合の大陸勢力との衝突場所としての戦場
・福田首相は中国講演で歴史認識について村山談話をかみくだいて語った。
・だがそれは、日本人に向かって言ったのでも、日本人が聞いていたわけでもない。
・こういう大事なことは、日本に向かってこそ語りかけるべきだ。
918 :
世界@名無史さん:2013/06/22(土) 14:28:59.58 0
朝鮮征伐
919 :
世界@名無史さん:2013/07/12(金) 01:38:33.00 0
きちんと征伐してれば世界のためになったのに
朝鮮征伐未遂
と記述した方がいいんじゃないか
朝鮮征伐に失敗して逃げ帰ってきましたとは記述できないだろ
ウリたちに恐れをなして逃げ帰っていくニダ<`∀´>ホルホルホル
と勘違いして追撃した結果討ち取られてしまう朝鮮最大の英雄であった
922 :
世界@名無史さん:2013/07/27(土) 18:05:58.94 0
924 :
世界@名無史さん:2013/07/30(火) 12:31:52.52 0
「歴史通 3月号」の筑波大学大学院教授・古田博司氏による「あの、朝鮮民族とつき合う方法」から引用。
以下引用(38〜9頁)
日本は豊臣秀吉の時に、朝鮮に出兵しているのを知っていますね?
最近は研究が進んできて、日本の占領地にどんどん朝鮮農民が逃げてきていたことが
分かってしまったのですよ。朝鮮の李朝がひどくて、日本の方がずっといいから、
占領地に城下町もできてしまいます。
朝鮮農民は李朝でひどい目に遭っているから日本の方に行けば良くしてくれるということで、
どんどん日本の占領地に逃げ込んできてしまうわけです。
これが事実なのですね。こんなこと教わってないでしょう?
日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建ててしまいます。
・ ・ ・ ・ ・
おそらく教科書では負けたと教わったのではないかと思いますが、あれは嘘ですからね。
すでに半島の領地の藩分けもしていたと言われているのです。
でも、秀吉が亡くなって、そのまま撤兵することになってしまいました。
引用終了
学校では全く教わっていない、知らない話でした。
良さ気に見えても結局当てにはならんかったわけだな
926 :
世界@名無史さん:2013/07/31(水) 08:42:32.72 0
>>924 そもそも古田博司が主張するように日本武士団が強ければ慶長の役なんて起きなかったのに。
秀吉の計画では文禄4年(1595年)には明国を征服するつもりでだった。
その為に、文禄2年(1593年)3月には秀吉自身10万程度の軍勢で家康、利家らを
引き連れて渡海するはずでいたのに。
それが秀吉の渡海も中止され、それどころか明国と和平交渉に入ったのはなぜなんだ(笑)
それは明国軍5万の参戦により日本側が劣勢に立たされたからだろ。
それすなわち日本武士団が押され気味だった証拠ジャン。
なにが、
> 日本は戦争が強いからどんどん勝ってしまい、そこに日本の城を建ててしまいます
ほんと古田博司って馬鹿だよな。
馬鹿なうえに恥知らずだ(笑)
近世日本の軍勢を「日本武士団」とか言ってる時点で
>>926も大概の馬鹿だな(笑)
>>926 いや、そうでもないよ。
世界史見たらわかるが、広大な異国との戦争って、
数年または十数年続くってのは当たり前だし。
慶長の役の時点で、明・朝鮮軍はもう壊滅的で、秀吉軍に
勝てる見込みはすでになかつたわけだから。
秀吉が死んで打ち切りになったから助かっただけ。
明軍が関わった数万単位の合戦で、明確に明軍の勝利と
言えるのは第三次平壌攻めくらい(おまけに不意打ち)
第二次平壌の戦い(日本勝利)
第三次平壌の戦い(明軍勝利 勧告により小西が城を明け渡す)
碧蹄館の戦い(日本勝利)
稷山の戦い(日本勝利)
南原城の戦い(日本勝利)
第一次蔚山(日本勝利)
第二次蔚山(日本勝利)
泗川 (日本勝利)
順天(日本勝利)
露梁(日本勝利)
露梁について補足。
明軍、朝鮮軍、日本軍の2倍の兵力&待ち伏せの好条件ながらも
小西軍、島津軍を殲滅できずに取り逃がす。
朝鮮軍主将の李舜臣が戦死 明軍副将のケ子竜が戦死。
特に慶長役で明軍が負けた戦いは、いずれも明史、朝鮮王朝実録などで
大敗、大損害、人が溶けたと表現されるくらいの潰走っぷり。
第二次晋州城攻防戦では明軍救援に赴かず(または秀吉軍に撃退されたとも)
南原の戦いでも付近にいた陳愚衷旗下の明軍3000千は動かず、
南原が落ちると、これも付近にいた朝鮮軍1000とともに散り散りになって逃げた。
戦意も低く、日本軍を恐れているのがわかる。
930 :
世界@名無史さん:2013/08/01(木) 18:40:44.04 0
>慶長の役の時点で、明・朝鮮軍はもう壊滅的で、秀吉軍に
>勝てる見込みはすでになかつたわけだから。
三路の戦いって、慶尚道南岸の倭城の防衛に成功したってだけだからな。
史書によれば明・朝鮮連合軍は攻城戦の後、遠巻きに監視したとある。
つまり戦線はまだ継続してたわけだ。
>秀吉が死んで打ち切りになったから助かっただけ。
二言目には秀吉が死んだからーとか、秀吉が死ななかったらって言うけど
秀吉って不老不死だったのかよ。
本来は死ぬはずがなかった秀吉がなぜか死んでしまった為、仕方なく
撤退したのかよ。
文禄の役を開始した1592年4月から秀吉の死まででもすでに6年半もたって
いるのに。
秀吉の死を言い訳にするな!この馬鹿が。
>>930 >三路の戦いって、慶尚道南岸の倭城の防衛に成功したってだけだからな。
三路の戦いって、日本側に取っては兵力の半分以下の留守番組が陣地を守ったってだけだけど、
明朝鮮側に取っては文禄・慶長両役を通じて最大規模の大軍を投入した一大攻勢計画だったんだが(笑)
それなのに三城を同時攻撃して一城も落とせず、逆に兵力半分以下の留守番組に万単位で討ち取られる大惨敗を喫しているんだが(笑)
>史書によれば明・朝鮮連合軍は攻城戦の後、遠巻きに監視したとある。 つまり戦線はまだ継続してたわけだ。
宣祖実録には「三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をした」と書いてあるんだが(笑)
あと、明史にも「明とその属国朝鮮に勝算は無かった」と書いてあるんだが(笑)
>本来は死ぬはずがなかった秀吉がなぜか死んでしまった為、仕方なく撤退したのかよ。
秀吉が死んだ時点で後継者の秀頼がまだ幼児で、権力争いで一触即発の状況になったから外征どころじゃなくなったんだろ(笑)
だいたい、エスパーでもないのに秀吉の死期が事前に分かるわけないじゃん(笑)
そのくらいのこともわかんねえのかよ、この馬鹿が(笑)
>文禄の役を開始した1592年4月から秀吉の死まででもすでに6年半もたっているのに。
モンゴル帝国は高麗を服属させるのに30年近くかかっているんだが(笑)
清は明を完全に征服するまで5世代70年近くかかっているんだが(笑)
歴史通ってネトウヨのオナニー雑誌だからな。
毎回、極右の日本美化の記事ばかりで気持ち悪すぎ。
秀吉が後継者成人するまで生きてたら果てしなく大陸に戦線を広げ続けたのだろうか
なかなか辛そうだな
>>933 しかし、南明が実際に滅んだように落としどころはあるだろ。
日本人のトラウマの一つでもある日華事変が泥沼になったのは、
結局米欧の援助があったからで、それがなけりゃ民国政府は
どこかで白旗上げるしかなかったはず。明も同じだろうな。
>>934 落としどころかー。失敗ばかりしてるような印象があるけどどうなるんだろ
イデオロギー的には明を征服するまで止められ無ぇのかな
当時、漁夫の利をねらいそうな他勢力ちゅうたらポルトガルとオランダと
スペインと女真とモンゴルぐらいか
937 :
世界@名無史さん:2013/08/02(金) 09:11:34.04 0
>>931 >明朝鮮側に取っては文禄・慶長両役を通じて最大規模の大軍を投入した一大攻勢計画だったんだが(笑)
城攻めなんてそんなもんだ。
幸州山城の戦いなんかもっと戦力差(朝鮮軍4千人対日本軍3万人)がありながら、撃退されてるんだが。
>宣祖実録には「三路に分かたれた明・朝鮮軍は溶けるように共に潰え、人心は恟懼(恐々)となり、逃避の準備をした」と書いてあるんだが
ふーん、そんな状態でよく秀吉死後の撤退する日本軍を追撃したり、
露梁海戦を行えたな(笑)
938 :
革命的名無しさん:2013/08/02(金) 09:34:40.76 0
ボロボロに負けて逃げかえったとはおもわないけど、
余裕の圧勝だったら一片の土地も取らずに帰ってきた理由がわからんのだけど
領土欲がなかったの?
朝鮮半島の日本軍橋頭堡に壊滅的打撃を与えて講和を有利にする目的で実施された
起死回生の三波同時攻勢の失敗で明朝野戦軍アボン
時期・兵力・物資を万全に整えて望んだ一大攻勢で成功すれば後世に広く語り継がれるはずだったが
遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
そもそもそんな壮大な作戦を成功させるだけの能力を牧歌的なシナ・半島人が持っている訳ないし
940 :
世界@名無史さん:2013/08/02(金) 11:43:32.32 0
>遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
文禄元年(1592年)4月よりはじまった征明戦争。
三路の戦いの時期(1598年10月)にはすでに開始から6年半も
経ながら、いまだに慶尚道南岸に日本軍橋頭堡を築いて固まっていたのに?
941 :
世界@名無史さん:2013/08/02(金) 11:50:49.33 0
>>939 >遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
だいたい日本軍がそんなに強かったらなんで明軍と休戦なんかするんだ。
秀吉の計画では文禄4年(1595年)までには北京を占領して明国を征服するつもりでだったのに。
その為に、文禄2年(1593年)3月には秀吉自身10万程度の軍勢で家康、利家らを引き連れて
渡海するはずでいたのに。
>幸州山城の戦いなんかもっと戦力差(朝鮮軍4千人対日本軍3万人)がありながら、撃退されてるんだが。
で、その朝鮮軍は死屍累々の状況で退却する日本軍を追撃もできず、戦後速攻で幸州山城を放棄してるんだが(笑)
だいたいなー、朝鮮人の守城戦ってひたすら亀のように引き篭もってるだけじゃん(笑)
日本軍はたびたび城から打って出ててるし、敗走する敵軍を追撃して万単位で討ち取ってるんだから一緒にしてほしくないなー(笑)
>ふーん、そんな状態でよく秀吉死後の撤退する日本軍を追撃したり、露梁海戦を行えたな(笑)
明朝鮮軍が露梁海戦以外のどこで追撃を行ったんだよ(笑)
劉テイにしろ麻貴にしろ、日本人が帰り支度を済ませて引き払った後にその城に入っただけじゃん(笑)
露梁海戦にしたって順天の小西らは取り逃がすし、救援に来た島津らを殲滅することもできず、
逆に明軍副総兵のケ子龍や朝鮮最大の英雄イスンシン(笑)まで討ち取られちゃうんだから散々だな(笑)
>だいたい日本軍がそんなに強かったらなんで明軍と休戦なんかするんだ。
現実にほとんど大部分の会戦で日本軍が勝利している以上、どう考えても戦闘では圧倒的に日本軍の方が強かったんだろ(笑)
遠征が頓挫したのは戦闘力の問題ではなく、朝鮮統治の失敗とそれによる兵糧不足が最大の要因だな(笑)
「従来、豊臣政権下で兵たん機能が大幅に強化・向上したと漠然と考えられてきたが、
主な改善点は作戦発起点への兵糧の事前大量集積に尽きており、
敵地に進んだ軍隊への陸上補給は、物理的な制約から依然困難であった。
結局、一七世紀頃は日欧ともに敵地の野戦軍は現地調達に頼らざるを得ず、
これが出来なければ敗退するしかなかった。
日本の朝鮮出兵の敗退は、義兵運動等様々な要因はあるにせよ、
第一には、当時の陸上補給能力の限界と現地での食糧調達の不可能性に起因するものだった。」
(久保田正志氏の豊臣政権の兵たん論文より)
943 :
世界@名無史さん:2013/08/02(金) 12:36:08.83 0
>>942 >で、その朝鮮軍は死屍累々の状況で退却する日本軍を追撃もできず、戦後速攻で幸州山城を放棄してるんだが(笑)
3万の大軍で4千人の守る城を攻めておいて退却する状況で言う言葉なのか(笑)
944 :
世界@名無史さん:2013/08/02(金) 12:38:41.55 0
>遠征が頓挫したのは戦闘力の問題ではなく、朝鮮統治の失敗とそれによる兵糧不足が最大の要因だな(笑)
文禄2年(1593年)3月には秀吉自身10万程度の軍勢で家康、利家らを引き連れて
渡海に際して兵糧も持って行く予定だっただが、なぜそれを取りやめて明軍と休戦したんだ。
>3万の大軍で4千人の守る城を攻めておいて退却する状況で言う言葉なのか(笑)
何万の大軍で何度攻めても結局倭城を一つも落とせなかった状況で言える言葉かよ(笑)
しかも権慄が幸州山城を放棄したことで日本側の戦略目標は達成されているわけだが(笑)
あと兵力差を言うなら、例えば竜仁の戦いでは5万の朝鮮軍が脇坂勢の砦を包囲したが、
33分の1にも満たない1500人の脇坂勢が打って出て5万の朝鮮軍が総崩れとなり、
さらに追撃を受けて将軍の白光彦・利之誌をはじめ1千人が討ち取られているわけだが(笑)
また春川の戦いでは、春川の島津勢500人の砦が朝鮮軍数千人に包囲されたが、
やはり島津勢が打って出て朝鮮軍を敗走させ、将軍の朴渾を討ち取っているわけだが(笑)
亀みたいに引き篭もるだけの朝鮮人には逆立ちしたって真似のできない芸当だな(笑)
>文禄2年(1593年)3月には秀吉自身10万程度の軍勢で家康、利家らを引き連れて
>渡海に際して兵糧も持って行く予定だっただが、なぜそれを取りやめて明軍と休戦したんだ。
よしんば10万の大軍が兵糧を持参してきたとして、その後どうやって10万の大軍を食わせていくんだよ(笑)
すでに前線部隊が慢性的な兵糧不足に苦しんでいる状況なのに(笑)
それと休戦について言えば、秀吉は明側から降伏を申し出てきたと報告されていたわけだから、
そういうことならととりあえずの休戦に応じたんだろ(笑)
946 :
世界@名無史さん:2013/08/02(金) 15:48:04.58 0
>何万の大軍で何度攻めても結局倭城を一つも落とせなかった状況で言える言葉かよ(笑)
んなこたあ、わかってるわ!!
勘違いしているようだが、野戦なら 鎧袖一触にされる兵力差7.5倍の強敵であっても
城の防御力に頼れば撃退できる、ってことを言いたかったんだよ。
幸州山城よりも遙かに防御力が高いであろう倭城に立て籠もりさえすれば、野戦では
勝てない相手の攻撃も跳ね返すことができるってね。
>よしんば10万の大軍が兵糧を持参してきたとして、その後どうやって10万
>の大軍を食わせていくんだよ(笑)
それをおれに聞くのか?
質問に質問で返すな、馬鹿(笑)
>遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
ってお前が言うんだから、当然その文禄の役の失敗について説明責任はお前にあるよな(笑)
だいたい
>すでに前線部隊が慢性的な兵糧不足に苦しんでいる状況なのに(笑)
と主張しときながら、
>よしんば10万の大軍が兵糧を持参してきたとして、その後どうやって10万>の大軍を食わせていくんだよ(笑)
とほざいておきながら、(その上、平壌、開城などの主要都市を取り戻されている状況で)
>秀吉は明側から降伏を申し出てきたと報告されていたわけだから
>そういうことならととりあえずの休戦に応じたんだろ(笑)
秀吉の頭ではどのあたりをどのように理解していたんだ(笑)
「日本軍TUEEE」 VS 「そんな強くないわw」
そこに拘ってるのはちょっと不毛では?なんせ程度を争ってるようだし
しかも
TUEEE側 記録を元に戦術的勝利の積み重ねを評価 → 引き上げただけで負けてねえし!超TUEEEEEEE!
反論側 結果を元にした戦略的評価 → 結果が伴わないザコ!史料の感想なんて知らん、ザコはザコ!
噛み合ってねえ
噛み合ってないんじゃなく
日本軍を貶めるのに必死なチョンの妄言が
全く説得力が無いだけ
>>遺憾ながら当時の日本軍は余りに強すぎた・・
>ってお前が言うんだから、当然その文禄の役の失敗について説明責任はお前にあるよな(笑)
俺は
>>939じゃないからそんなこと言ってないっつの(笑)
だいたい、文禄の役の失敗要因は朝鮮統治の失敗とそれによる兵糧不足だと
>>942で言ってるジャン(笑)
人違いでやれ説明責任はお前にあるとか、ガキみたいなこと言ってんな!!(怒)
戦闘力は完全無欠の化け物だが政治力は全くの欠陥品であったのか
寿命は政治力じゃないからな
953 :
世界@名無史さん:2013/08/03(土) 21:54:20.17 0
へぇ
文禄の役の時に秀吉が死んだとは知らなかったな。秀吉の死と遠征軍撤退の時系列を確認したほうがいいぜ。
秀吉が逝去した為、日本軍は引き揚げを始めた
チョン学校でどんな物語を説法してるかは知らんがね
955 :
世界@名無史さん:2013/08/03(土) 23:41:32.84 0
秀吉の死は慶長3年8/18だがその前から日本軍の侵攻は完全に滞っている
秀吉が死ななくてもどの道アボーンだな
大体明もどのくらい全力で朝鮮に支援したかもようわからんし
>秀吉の死は慶長3年8/18だがその前から日本軍の侵攻は完全に滞っている キリッ
とか言われても、5月に宇喜多・小早川・毛利らの主力を帰国させてるんだから、
既に翌春以降の攻勢に備えてまさに持久中だろw
兵数差を戦力差にすり替えたり、
戦闘・戦術的勝利を戦略・外交的勝利にすり替えたりするのは
ウヨにもサヨにもなれない子
半島南部の旧任那料の領国化
十分に戦略的勝利と云える。完勝では無いけどね
959 :
世界@名無史さん:2013/08/04(日) 02:02:32.52 0
実際明は実力の10分の1も出してなかったんじゃねーの?
結局退却して領土は全部奪い帰されただから普通ニ負け戦だろ。
秀吉が死んだから撤退したとかそんないいわけはしらん
>>959 明の当時の総動員兵力は60万ほどという試算があり、そうだとすれば
日本側の通常動員可能兵力とほぼ同等。
朝鮮の史料で明の派兵は延べ22万余とされており、明軍の兵糧を賄わされた
朝鮮の数字はそれなりに信がおけると考えられることから、明は総兵力の
およそ1/3を朝鮮役に動員したことになる。
広大な明の辺境警備に回す分を考えれば、その辺がもう限界いっぱいだろw
>>958 秀吉が生きてたら半島南部のみで妥協していた?
>>959 言い訳っつか、当の明史に秀吉が死んだから戦争が終わった、明には勝算がなかったとまで書かれてるじゃん
963 :
世界@名無史さん:2013/08/05(月) 13:08:58.40 0
>>960 >明の当時の総動員兵力は60万ほどという試算があり、そうだとすれば
>日本側の通常動員可能兵力とほぼ同等。
明の場合は、常備兵数が1569年の時点で定員3,138,300人、実数845,000人、北辺で勤務
する兵数推定50万人、朝鮮救援に動員された兵数は前後12万人、これは北辺勤務
の兵力の4.17%、
日本の場合の60万人ってのは動員兵数であって常備兵数ではない。
長期間60万人動員しようと思えば出来るから
どっちでも大きくは変わらんけどね
965 :
世界@名無史さん:2013/08/06(火) 09:29:18.91 0
>>964 >長期間60万人動員しようと思えば出来るから
武士ってのは普段は行政の仕事をしつつ合間に武芸を磨く
役人兼業軍人なんだ。
それがいざ出陣となれば農民をはじめとしたいわゆる百姓
を武装させて動員する、それが武士の軍隊なんだ。
比率は武士1:百姓9だったり、武士2:百姓8だったりするが、
どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
武士も百姓もそれぞれ本業をおなざりにしているため、長期間動員する
と現場の深刻な人手不足に悩まされることになる。
>>965 一体いつの時代の話をしているの?
信長の時代から兵農分離が始まり、秀吉の時代には都市経済を通して得られる潤沢な資金によって
農村の余剰人口を巨大な兵力供給源として利用するようになったというのが定説なんだが。
もちろん朝鮮役には水夫や人夫として百姓も大勢動員されたが、この頃にはいわゆる「常備軍」の編成が全国的に進んでいたわけで
日本軍が元亀・天正以前のままだと思っているならそれは大間違いだよ。
あと「比率は武士1:百姓9だったり、武士2:百姓8」というのはさすがに武士が少なすぎる
国衆の所領把握が進まず、農兵が比較的多かったといわれる謙信時代の上杉軍でも武士と農兵の比率は1:3くらいだし、
天正十五年の後北条氏の岩付衆などに至っては軍勢の48%が馬上・手明、およそ半数が武士という計算になる
>>965は世界史板で吹かす前に日本史板でお勉強した方がいいみたいだねw
967 :
世界@名無史さん:2013/08/06(火) 17:39:43.09 0
>>966 豊後大友領では、農民に夫役出陣を命じたところ、農地を返上し、百姓を
捨てて、諸課役も不納する動きに出ました。農地返上は小作地に多く出ました。
出兵の翌年、大友吉統(よしむね)は戦場での臆病を理由に改易され、
豊後は直轄領として接収されました。
豊臣方から豊後に山口玄蕃が乗り込みます。豊後では、大規模な百姓の逃亡が
起こっていました。
逃亡の範囲は島津領から毛利領まで広がっていました。
出兵の中で農村は荒廃していました。
過酷な耕作の強制が待っている以上、農民が帰って来ることはありません。
このため、山口玄蕃は渡海している夫役の者達の朝鮮からの召還を指示し、
豊臣政権は陰陽師を妻子とともに京都に集め、豊後に農民として移住させました。
http://kitaqare.d.dooo.jp/hist136.htm
>>967 そんなコピペで何が言いたいのかねw
勘違いしてるのかもしれんが、俺は朝鮮役で夫役(非戦闘員)として大勢の百姓が動員されたことは否定してないでしょ。
君が戦国期の半農半兵的編成と豊臣政権下の常備軍的編成を混同してたり、
武士と百姓の比率が1:9だとか言い出して無知を披露するからそれを指摘したまでなんだけどw
>>965 それは戦国前期の話
兼併が進んで大大名が衝突する時代になると
専業化在勤化が進んだ、在地の武士でも
大名の派遣する代官が管轄する様になっていったんだよ
太閤秀吉軍の頃には長期間動員しても
人手不足に悩まされる事になどならなくなっていた
970 :
世界@名無史さん:2013/08/07(水) 17:44:24.60 0
文禄二年(1593)、豊後では、朝鮮役への負担に耐えかね農民の逃散が続出し、田畠は荒廃した。
大陸への出兵基地である九州での混乱をほおって置くことは出来ない。これへの対処を迫られた秀吉は、こんな命令を出した
「全国の陰陽師を逮捕し、豊後につれてきて荒廃した農村に送り、定住させ農業をさせるのだ!」
非定住の遊民である民間の陰陽師は、支配者である秀吉にとって気に入る相手ではなかった。
自分自身が、敵を霍乱やスパイするために陰陽師たちを使った過去があるだけに、なおさらである。
遊民問題と農村の荒廃問題、これらを一度に解決する、一挙両得の政策であった。
もちろん失敗する。
秀吉の強大な権力により、豊後には全国から大量の陰陽師は集められた。が、いきなり見ず知らずの土地で農業をやれといわれても、出来るわけが無いのだ。技術も経験もないのである。
そうこうしているうちに農民の逃散は、九州全域、そして全国へと拡大した。
慌てた秀吉は今度は文禄六年(1597)、農民が逃散した田畠はすべて豊臣政権が没収する、荒田没収令と言う
強硬策を打ち出したが、これは、自領の統治に介入されると諸侯の猛反対に会い、結局撤回された。
秀吉の指導力の限界が、露呈した形となった。
豊後に集められた陰陽師達は結局、またどこかへと消えて行ったという。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-294.html
>>970 日本の歴史を何も知らないんだな、まあ在チョンじゃ仕方ないが。
逃散したのは普請役や荷駄役や傳馬役を課せられた村、農民で
武士や足軽とは無関係、そもそも西国や九州の大名には
意図的に重い負担が割り当てられてる
中世と近世の区別も付けられない人にそんなこと言っても無駄でしょ
もうこいつは的外れなコピペ張りまくって逃げまわるだけだよw
秀吉が生きる限り農民を無限に締め上げることが可能なわけか
絶対に負けない
あの島津領さえ、細川や石田が検地の計測竿を持ち込んで直接調査したり、義弘・久保・伊集院に直接領地を指定して割り振るぐらいの超強力政権だからね。
江戸幕府なんておよびもつかない。
恐怖の独裁者が死んだらそりゃ全力撤退ってことか
976 :
世界@名無史さん:2013/08/08(木) 08:56:12.93 0
秀吉の朝鮮出兵の日本軍の約半数は、庶民であった。この時、数万の朝鮮人を拉致した
■農民(人夫・歩兵)、商人、職人(大工や土木技術者)、漁民(水夫)らも駆り出されていた。
源氏平家の戦いが一段落したと思ったら、それは束の間のことで、鎌倉時代の半ばの「元寇」以後から日本国内は乱れた。
続く、南北朝時代、京都を灰にした「応仁の乱」を含む室町時代、その後に信長・秀吉による全国統一が成ったとはいえ、その間にも内戦は続いた。
極めつけは、1590年に秀吉の全国統一が成ったと思ったら、1592〜98年の7年間というもの、秀吉の朝鮮出兵であった。
さらに2年後の1600年には、関ヶ原の戦いがあった。
というわけで、朝鮮出兵のことについて、色々と調べてみた。
この時動員されたのは、なにも武士だけではない。
農民(人夫・歩兵)、商人、職人(大工や土木技術者)、漁民(水夫)らも駆り出されていた。
日本からの大軍団の半数は、彼ら庶民であった。
http://blog.livedoor.jp/akio_hayashida/archives/1151988.html
なんでおっさんのブログを貼ったんだ?本人ってことはないよな
>>970 >>976 あれー?お前
>>965で
>武士ってのは普段は行政の仕事をしつつ合間に武芸を磨く役人兼業軍人なんだ。
>それがいざ出陣となれば農民をはじめとしたいわゆる百姓を武装させて動員する、それが武士の軍隊なんだ。
>比率は武士1:百姓9だったり、武士2:百姓8だったりするが、どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
って言ってたよな(笑)
秀吉軍の戦闘員の8割〜9割、大部分が百姓だってのがお前の主張じゃなかったっけ(笑)
それが「水夫や人夫などの夫役として百姓が動員された」まで後退したのかよ、情けねえな(笑)
その夫役にしたって渡海したら渡海しっ放しというわけではなく、釜山・名護屋間の船舶輸送で帰国したり補充されたりしているから
「長期間動員すると現場の深刻な人手不足に悩まされる」なんて主張もそもそも成り立たないんだけどな(笑)
例えば秀吉は文禄元年11月10日付書状や文禄2年2月5日付書状で水夫を帰国させるよう指示している(笑)
ついでに言うと水夫の家族にも扶持が与えられているんだが、お前はどうせ知らないんだろ(笑)
朝鮮人自らが、耳そぎの起源を主張しているようですw
「歴史民俗朝鮮漫談」 今村鞆 昭和三年 南山吟社
しかし、耳を取る事は朝鮮の方が元祖だ、宣祖王の九年(1576年)に、日本の海賊が、
慶尚の南岸に寇し、辺将(国境守備の将兵)がこれと戦い、勝って殺した時に、首の代りに
京城へ耳を送って居る。また文禄の役のときに黄海道辺で日本軍に勝った時に、矢張り耳を
切って送って居る。日本の諸将が耳を切って送ったのは、実は朝鮮に学んだのではある
まいか、もっとも昔し後三年の後に(後三年の役 1083〜87年)、源義家が耳を切って
送った事もある。
敵兵の耳を切り取る風習は、漢字の生み出された古代シナの時代にまでさかのぼるのだ。
「取」という漢字は、敵兵の耳を切り取る風習を文字にされ意味を持たされたものなのです。
・ 耳+又(手)の会意文字で、捕虜や敵の耳を戦功のしるしとして、しっかり手に持つことを
示す。 学習研究社「学研漢和大字典」
・ 昔は人の首をとる代わりに、耳を切り取ってそのしるしとした。
ゆえに耳と又(手)を合わせる。 講談社「新大字典」
・ 討ち取った敵の左耳を切り、その数によって戦功を数える。 平凡社「字統」
耳切りは東アジア地域に古代シナから現代まで続く伝統か、ベトナム戦争で韓国兵が
記念品としてベトコンの耳を切りとる。
Link 韓国・ハンギョレ新聞日本語
http://www.geocities.com/inunabe2003/jiji/rekisi1.htm ←リンク切れ。
980 :
世界@名無史さん:2013/08/08(木) 18:33:08.90 0
>>979 あくまで例示的にいった日本軍全体における百姓(平民)の割合を
ネチネチ言ってるんじゃねえ、みっともない。
俺の主張お主眼は
>どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
だが、ちなみにgoo辞典で大部分を引くと
★物事の半分以上で全部に近い量や程度。
【1】「大部分」は、全体の半分以上を占める多い数量、程度。
と書かれている。
俺が引っ張ってきたブログの
>秀吉の朝鮮出兵の日本軍の約半数は、庶民であった。
とほぼ同じ意味なんだが(爆笑)
981 :
世界@名無史さん:2013/08/08(木) 18:36:50.98 0
>>978 あくまで例示的にいった日本軍全体における百姓(平民)の割合を
ネチネチ言ってるんじゃねえ、みっともない。
俺の主張お主眼は
>どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
だが、ちなみにgoo辞典で大部分を引くと
★物事の半分以上で全部に近い量や程度。
【1】「大部分」は、全体の半分以上を占める多い数量、程度。
と書かれている。
俺が引っ張ってきたブログの
>秀吉の朝鮮出兵の日本軍の約半数は、庶民であった。
とほぼ同じ意味なんだが(爆笑)
>>981 見苦しい言い訳ばっかしてんじゃねえよ(笑)お前は
>いざ出陣となれば農民をはじめとしたいわゆる百姓を武装させて動員する
とした上で
>比率は武士1:百姓9だったり、武士2:百姓8だったりするが、どちらにしても百姓が全軍の大部分を占める。
と言っているんだから
「夫役」ではなく「戦闘員」の大部分(それも八割から九割)が百姓だというのがお前の恥ずかしい「主張お主眼」だろうが(爆笑)
苦し紛れに話を摩り替えてんじゃねえよ(笑)
わざわざ「百姓を武装させて」なんて書いてるんだから言い逃れできねえよなー(笑)
戦闘員である足軽には具足なり数槍なり数弓なり何らかの武具が支給されるが、
水夫や人夫を武装させるなんて聞いたことないからな(爆笑)