今から近現代史覚える

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1世界@名無史さん
今から世界史覚える
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1294551999/
の派生スレです
2世界@名無史さん:2011/04/10(日) 15:44:08.97 0
即死回避
3世界@名無史さん:2011/04/10(日) 22:06:28.91 0
>>1さんありがとう。

では、ゆっくりと開始してみます。
突っ込み、お願いします。
4世界@名無史さん:2011/04/10(日) 22:08:28.94 0
メイフラワー号
 17c初、イギリスのピューリタン(ピルグリム・ファーザーズ)が
 ボストン東南プリマスにこの船で到着、ニューイングランドを開拓
5世界@名無史さん:2011/04/10(日) 22:09:40.65 0
プランテーション
 大農場。藍・タバコ・米などを生産。黒人奴隷を酷使。
6世界@名無史さん:2011/04/10(日) 22:12:22.95 0
七年戦争(フレンチ・インディアン戦争)
 18c後半のドイツの戦争に関連し、アメリカ植民地で戦われた
 英・仏の戦争(1756年〜63年)
7世界@名無史さん:2011/04/10(日) 22:14:13.75 0
兄スレを見習ってみましたが
こんな感じで、よろしいでしょうか
8世界@名無史さん:2011/04/10(日) 22:25:27.12 0
うむ
9世界@名無史さん:2011/04/10(日) 22:47:10.62 0
フレンチ・インディアン戦争は、1755〜63で
本体(七年戦争)よりも1年早く始まった
10世界@名無史さん:2011/04/11(月) 00:19:40.22 0
汎イスラム主義を提唱したアフガーニーの後継者はムハンマド・アブドゥフ
11世界@名無史さん:2011/04/11(月) 15:37:04.23 0
大阪と名古屋の連中は震災増税に不満を持ち、遷都、でなくとも首都機能の移転という利権とバーターでなければ中央政府に従わなくなる。日本国の解体が始まった。
12世界@名無史さん:2011/04/11(月) 15:44:05.08 0
それはお前が世界史から学んだ権力闘争ごっこを現実に当てはめたがっているだけじゃないのか
13世界@名無史さん:2011/04/11(月) 19:04:19.45 0
>>1
ありがとう。
俺もちょくちょく書いていいかな?
ちなみに志望校は立命か関大。
他にも成蹊とか中央とか受けるけど。
14世界@名無史さん:2011/04/11(月) 22:20:57.97 0
ボストン茶会事件
 1773年。茶法により、茶の輸入・販売権を独占的に認められた東インド
 会社の船を、植民地の急進派が襲って、積荷の茶を海中に投じた事件。
 英側の報復措置として、ボストン港が閉鎖された。
15世界@名無史さん:2011/04/11(月) 22:22:58.38 0
レキシントンの戦い
 1775年に開始されたアメリカ独立戦争で、最初の大規模な戦い。
 植民地軍の最高司令官は、ワシントン。
16世界@名無史さん:2011/04/11(月) 22:25:46.54 0
トマス・ペイン
 独立共和国建設を呼びかけた文筆家。独立戦争中「コモン・センス」
 というパンフレットを著す。
17世界@名無史さん:2011/04/12(火) 00:27:09.82 0
>>11
大阪維新と減税日本をかつぐ大阪愛知に対する、21世紀版京都守護職とネオ新撰組が必要だ。ふざけた「地域政党」はすぐに解散しろ。

18世界@名無史さん:2011/04/12(火) 22:21:38.75 0
トマス・ジェファソン
 1776年に発表されたアメリカ独立宣言の起草者の一人
 第3代大統領
19世界@名無史さん:2011/04/12(火) 22:23:46.93 0
フランクリン
 独立戦争期、フランスに渡り、植民地独立支持をとりつけた。
 なお独立戦争時は、仏・蘭・スペインも英に宣戦布告している。
20世界@名無史さん:2011/04/12(火) 22:26:23.49 0
ラ・ファイエット
 フランスの自由主義貴族。義勇兵として植民地軍に参加。
 フランス革命時の、人権宣言を起草した一人。(1789年8月)
21世界@名無史さん:2011/04/13(水) 23:10:44.22 0
ヨークタウンの戦い
 1781。植民地軍の勝利を確定。
22世界@名無史さん:2011/04/13(水) 23:13:05.49 0
パリ条約
 1783。アメリカの独立を認める講和条約。
 ミシシッピ川以東のルイジアナを、英が米に割譲。
23世界@名無史さん:2011/04/13(水) 23:15:13.84 0
アメリカ合衆国憲法
 1787制定。三権分立・国民主権・連邦主義が特色。
24世界@名無史さん:2011/04/14(木) 01:18:09.00 0
>>15>>21
アメリカ独立戦争は、この二つ抜き出して覚えるとアメリカ余裕の勝利に見えるけど
イギリスにズタボロにされながら、どうにかフランスとの同盟にこぎつけた上での辛勝
実際にはいつ壊滅しててもおかしくなかったんだよなー

そして、フランスが独立戦争に肩入れしまくったせいで
財政難に陥ってフランス革命が勃発するんだから皮肉としか言いようがない
25世界@名無史さん:2011/04/14(木) 22:52:39.61 0
フランス革命
 フランスで起きた市民革命。
 1789年7月14日のバスティーユ襲撃から、ナポレオンによる
 1799年11月9日のブリュメール18日のクーデターまでとされる。
26世界@名無史さん:2011/04/14(木) 22:55:17.83 0
アンシャン・レジーム(旧制度)
 フランス革命前の社会制度。
 第一(聖職者)、第二(貴族)が特権身分、
 第三身分(市民・農民(平民))を差別。
27世界@名無史さん:2011/04/14(木) 22:59:31.93 0
アベ・シェイエス
 フランス革命初期の理論的指導者。聖職者出身。
 著書『第三身分とは何か』で特権身分を批判、市民階級主体の
 政治体制樹立を主張。
28世界@名無史さん:2011/04/16(土) 07:14:53.12 0
テニスコートの誓い
 国民議会(三部会を離脱した、第三身分のみの新議会)の議員が
 国王の圧迫に反抗し、憲法制定まで議会を解散しないことを誓った。
29世界@名無史さん:2011/04/16(土) 07:17:18.24 0
バスティーユ牢獄の襲撃
 1789。反動勢力が軍隊で議会弾圧しようとしたので、パリ市民が
 憤激して暴動をおこした。
30世界@名無史さん:2011/04/16(土) 07:22:51.68 0
ルイ16世
 フランス革命時の国王。王妃は、マリー・アントワネット。
 1789、10月事件(ベルサイユ行進)で、ベルサイユ宮殿からパリに連行。
1791、ヴァレンヌ逃亡事件(王妃とオーストリアに逃亡するも失敗)
 1793、処刑。
31世界@名無史さん:2011/04/16(土) 18:23:42.96 0
ちなみに、フランス革命では
第三身分(市民・平民)だけが革命に参加したと思いがちだけど
実際は、革命初期にリベラルな第一(聖職者)・第二身分(貴族)出身者も参加している

後々、ギロチンなり粛清なりで、この人たちは壊滅してしまうけどね
32世界@名無史さん:2011/04/16(土) 20:25:09.71 0
フランス革命時の政治集団
 ・フイヤン派 立憲王政志向。富裕市民・自由主義貴族。
 ・ジロンド派 温和共和派。富裕市民・商工業者・中産市民。
 ・ジャコバン派 穏健から次第に急進主義に。中小市民・労働者・小農民。
 ・山岳派(モンタニャール) ジャコバン派の左派。1793、実権を握る。
33世界@名無史さん:2011/04/16(土) 20:27:49.52 0
8月10日事件
 オーストリア・プロイセン侵入を前に、宮廷・議会にパリ市民の不満爆発、
 王宮占拠、議会は王権を停止。この後、立法議会にかわり、一院制の国民
 公会ができ、その開会とともに、王政廃止、共和国樹立決議。
 (第一共和制 1792〜1804)
34世界@名無史さん:2011/04/16(土) 20:32:59.67 0
第1回対仏大同盟
 1793、イギリスを中心として結成。(小)ピットが指導。
 このあと、1815年の第7回対仏大同盟まで何回も結成される。

 >>24さん>>31さん、関連コメント、ありがとう!
35世界@名無史さん:2011/04/16(土) 20:39:29.72 0
>>31
祖国を救うものはギロチン以外に無い。
36世界@名無史さん:2011/04/17(日) 13:32:06.70 0
恐怖政治
 ロベスピエールを中心としたジャコバン派は、ジロンド派を国民公会から
 追放し、独裁政治で政敵をギロチン(断頭台)等で次々と処刑した。

 一方、封建的貢租の無償廃止(小作農から自作農へ)、亡命貴族の資産没収、
 ジャコバン憲法(普通選挙もりこむが実施されず)、最高価格令、革命暦、
 メートル法(新しい度量衡の基準)など多くの政策を実施。
37世界@名無史さん:2011/04/17(日) 13:37:31.08 0
テルミドールのクーデター
 1794、ジャコバン派のロベスピエールの独裁崩壊。ジャコバン派は勢力を失う。

伊勢エビのテルミドール、というのもあるが、意味・由来は↓こちら。
  http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q131498173
38世界@名無史さん:2011/04/17(日) 13:42:24.43 0
王党派の反乱
 1795年10月、新憲法による選挙前におきた、革命政府に対する暴動。
 鎮圧後、総裁(執政・都督)政府ができる。
39世界@名無史さん:2011/04/18(月) 23:03:38.65 0
ナポレオン・ボナパルト(1769〜1821)@(生まれ〜統領時代)
 コルシカ島出身の軍人。総裁政府のもとで、イタリア遠征で名声を高める。
 1798〜99、英のインド通商遮断のためエジプト遠征。(第2回対仏同盟ができる)
 1799、ブリュメール18日のクーデターで総裁政府を倒し、統領(執政)政府で、
     第一統領となる。
 1802、英仏間休戦条約(アミアンの和約)成立で国民の信望を高め、終身統領へ。
40世界@名無史さん:2011/04/18(月) 23:09:24.55 0
ナポレオン・ボナパルトA(皇帝時代)
 1804、ナポレオン法典(フランス民法典)制定、皇帝の位につく。(第一帝政)
 1805、英仏間で、トラファルガー海戦。英海軍提督ネルソンが有名。
 1805、アウステルリッツの戦いで、ロシア・オーストリア連合軍を撃破。
 1806、西南ドイツ諸領邦を合わせライン同盟を組織、神聖ローマ帝国を解体。
 1806、大陸封鎖令(ベルリン勅令)英に経済的打撃を与えようと、大陸諸国と
     英の通商禁止
41世界@名無史さん:2011/04/18(月) 23:14:56.52 0
ナポレオン・ボナパルトB(没落時代)
 1812、ロシア遠征に失敗
 1813-14、ライプチヒの戦い(諸国民戦争)で普・墺・露に大敗、皇帝退位、
     エルバ島に流される
 1814-15、ナポレオン戦争後の討議(ウィーン会議)中、エルバ島を脱出、
     皇帝に戻る(百日天下)が、ワーテルローの戦いで英・普連合軍に
     大敗、セントヘレナ島に流される
42世界@名無史さん:2011/04/19(火) 22:40:31.96 0
フィヒテ
 哲学者。ベルリン大学初代総長。ナポレオン戦争で敗れたドイツ国民に
 民族的自覚を呼び起こす「ドイツ国民に告ぐ」の講演を行う。
43世界@名無史さん:2011/04/19(火) 22:41:33.95 0
ウェリントン
 ワーテルローの戦いにおけるイギリス軍司令官。
44世界@名無史さん:2011/04/19(火) 22:43:04.98 0
ルイ18世
 ナポレオン退位後のフランス王。
45世界@名無史さん:2011/04/19(火) 22:45:17.84 0
ウイーン会議
 1814〜15。ナポレオン戦争後の処理の国際会議。主催、メッテルニヒ。
 フランス代表は、タレーラン。この会議で「ウイーン体制」が成立。
46世界@名無史さん:2011/04/19(火) 23:42:05.16 0
【四国同盟】(しこく-どうめい)
1815年、オーストリア・ロシア・プロイセン・イギリスの四か国が結んだ同盟。
ヨーロッパの平和維持の名のもと、自由主義・民族主義運動を抑圧し、ウィーン体制を擁護。
のちフランスが加わり五国同盟となったが、イギリスは離脱した。
47世界@名無史さん:2011/04/20(水) 22:04:19.65 0
産業革命
 家内制手工業・工場制手工業の段階から、機械制工業段階に飛躍的に
 移行する産業上の変革
48世界@名無史さん:2011/04/20(水) 22:09:18.66 0
ジョン・ケイ 
 飛び杼(ひ) flying shuttleを発明。 (1733)

 (蛇足ですが・・・)
 杼とは、横糸とする糸を巻いた管を、舟形の胴部の空所に収めたもの。
 端から糸を引き出しながら縦糸の間を左右にくぐらせる。飛び杼は
 織物の生産性を3倍に高め、産業革命を引き起こすきっかけとなった。
49世界@名無史さん:2011/04/20(水) 22:18:24.65 0
ハーグリーヴズ
 多軸(ジェニー)紡績機(spinning jenny)を発明。(1764頃)

 (もひとつ蛇足・・・)
 飛び杼によって、木綿糸の生産が需要に追いついていなかったが、
 この機械の登場で、糸を作るのにかかる時間が劇的に短縮、需要
 をまかなえるようになる。
50世界@名無史さん:2011/04/21(木) 22:27:52.30 0
続々と新発明
 ・アークライト(英)・・・水力紡績機(1771)
 ・クロンプトン(英)・・・ミュール(走錘)紡績機(1779)
       ミュール(=ラバ)は、ジェニー紡績機+アークライト紡績機
       の「あいのこ」であることに由来。
 ・カートライト(英)・・・力織機(1785)
 ・ホイットニー(米)・・・綿繰り機(1793)
51世界@名無史さん:2011/04/21(木) 22:34:59.61 0
ニューコメン(英)Thomas Newcomen
 蒸気機関を炭鉱排水ポンプに利用

 (1711世界初の実用的蒸気機関を発明、1726鉱山の水汲み用として
 実用化。安全性高く、ワットが改良するまでの70年間利用される。) 
52世界@名無史さん:2011/04/21(木) 22:40:10.17 0
ワット(英)
 ニューコメンの蒸気機関を改良し、高性能の蒸気機関を作り、
 動力革命をおこす。(1760〜1790頃)

 (蛇足)
 この人にちなみ、1889、仕事率(力、パワー)の単位として、
 「ワット」(W・・・大文字)が定められた。 1馬力=735.5W(ワット)
53世界@名無史さん:2011/04/22(金) 06:20:58.59 0
>>52の蛇足の蛇足

 東京電力の電力上限(4/22朝4時台)@
    (「引っ張ることのできる力」と考えるとよい)
  3850万kW=38,500,000,000W≒5230万馬力

 現在の電力使用量(4/22朝4時台)A
    (「引っ張られる重荷」と考えるとよい)
  2463万kW

 使用率(A÷@) 63%
54世界@名無史さん:2011/04/23(土) 06:51:59.85 0
フルトン(米)
 世界最初の外輪式蒸気船を発明。(1803)

 スクリュープロペラは、1836〜37頃に登場。
 1850年(船舶総トン数) 帆船9:蒸気船1(外輪主体)
 1900年(船舶総トン数) 帆船4:蒸気船6(ほぼスクリュー)

 1853年の黒船来航では、蒸気船(外輪)2隻、帆船2隻。
 咸臨丸(1857年就役)は、スクリュー式蒸気船(オランダ製)
55世界@名無史さん:2011/04/23(土) 06:59:03.32 0

スティーブンソン(英)
 「高性能の」蒸気機関車を発明。鉄道輸送の時代をひらく。

 実は、トレビシック(英)が1804に製作・運行した蒸気機関車が世界で最初。
 スティーブンソンは、1814に初めててがけ、1825以降、実用化に成功。
 その後150年にわたって製造された蒸気機関車の基本設計をほぼ確立。
56世界@名無史さん:2011/04/23(土) 07:03:10.43 0
マンチェスター
 産業革命の結果、ランカシャー地方最大の綿工業都市となった。
57世界@名無史さん:2011/04/23(土) 07:05:02.53 0
リバプール
 マンチェスターの外港として発達した商業都市。ビートルズの4人の出身地。
58世界@名無史さん:2011/04/23(土) 22:34:54.15 0
資本主義制度
 産業革命により確立された経済制度。資本家と労働者階級(プロレタリアート)
 の階級が生まれる。
59世界@名無史さん:2011/04/23(土) 22:36:48.39 0
工場法
 機械制大工業の発達により、婦人・子供の労働問題が発生、この課題を解決
 するために制定される。1833制定。
60世界@名無史さん:2011/04/23(土) 22:40:16.25 0
ラダイト運動
 19c初期、イギリスの中・北部の織物工業地帯で発生した、
 手工業者・労働者による、機械打ちこわし運動。
 この事件を境に、労働組合が組織され、労働運動が行われる。
61世界@名無史さん:2011/04/24(日) 22:20:39.90 0
神聖同盟
 キリスト教精神で結ばれた君主間同盟。ウイーン体制を維持。提唱者は、
 アレクサンドル1世。
62世界@名無史さん:2011/04/24(日) 22:22:08.88 0
デカブリスト(12月党)の乱
 1825。ロシアで、農奴制の廃止や立憲政治の実現をめざす自由主義者の武装蜂起。
63世界@名無史さん:2011/04/24(日) 22:31:09.00 0
モンロー主義
 ヨーロッパとアメリカ大陸は相互不干渉にたつとする、アメリカの外交政策。
 第5代大統領モンローの1823年教書演説で発表。
 19c前半、中南米諸国が次々に独立。
 (1816アルゼンチン、1821メキシコ、1822ブラジル)
64世界@名無史さん:2011/04/25(月) 22:43:26.94 0
七月革命
 ナポレオン退位後、ブルボン王朝(ルイ18世)が復活。その後継者シャルル
 10世が反動政治をすすめたため、1830年7月、フランスで再び革命が発生。
 この革命後、オルレアン家のルイ・フィリップが国王に即位。
 ベルギー(独立)、ポーランド(独立→鎮圧)、イタリア(カルボナリ)、
 ドイツ、アイルランドに影響を与える。ウィーン体制は大きく揺らいだ。
65世界@名無史さん:2011/04/25(月) 22:58:47.87 0
チャーティスト運動
 1832、イギリスで第1回選挙法改正。この改正で選挙権が与えられなかった
 労働者・中小市民が、普通選挙権の確立を求めて運動をおこす。

 (補足)
 チャーティズム (Chartism) は、1838年に運動の指導者たちが起草した
 人民憲章People's Charterに由来する。1838〜39頃が運動のピーク。
66世界@名無史さん:2011/04/25(月) 23:05:42.98 0
コブデンとブライト
 穀物法(輸入穀物への高関税、地主保護)の廃止運動をすすめた、反穀物法
 同盟の指導者。1846穀物法廃止。イギリスの貿易政策は、重商主義的貿易
 特権が廃止され、自由貿易主義に変わっていく。
67世界@名無史さん:2011/04/26(火) 21:41:33.95 0
二月革命
 1848、フランス。国王ルイ・フィリップが退位、ロンドンに亡命。選挙法改正を
 きっかけに、社会主義者、ルイ・ブランも参加した臨時政府が成立。(第ニ共和制)
68世界@名無史さん:2011/04/26(火) 21:43:49.52 0
六月暴動(六月蜂起)
 二月革命後の四月総選挙で、社会主義者大敗。この結果、パリの労働者や
 市民が蜂起。その後、12月にルイ・ナポレオン(のちのナポレオン3世)
 が大統領選挙に当選。
69世界@名無史さん:2011/04/26(火) 21:46:32.00 0
諸国民の春
 フランスの二月革命に影響され、ヨーロッパ各地で自由主義・民族主義運動
 が高まった。この状況を「諸国民の春」と呼んでいる。ウイーン体制が崩壊。
70世界@名無史さん:2011/04/27(水) 22:43:49.26 0
社会主義
 資本主義体制を変革し、生産手段の社会的共有により、社会的不平等や
 階級対立のない社会を実現しようとする思想。
71世界@名無史さん:2011/04/27(水) 22:45:32.72 0
ロバート・オーウェン
 労働者の待遇改善、福祉向上などを提唱し、労働組合・協同組合の設立に
 尽くしたイギリスの社会主義者。工場法>>59(1833)につながる。
72世界@名無史さん:2011/04/27(水) 22:49:44.87 0
マルクス
 史的唯物論や剰余価値説にたち、資本主義社会から社会主義社会への移行
 の必然性をとなえ、代表著書『資本論』で資本主義の批判的解明を行った。
 1848、エンゲルスとともに「共産党宣言」発表。
73世界@名無史さん:2011/04/28(木) 10:18:14.99 0
>>71
イギリスの工場法には男性労働者を保護する規定が完全に欠如しており、
そのため正統派の社会主義者の間では極めて不評だった。

ロバート・オーウェンの思想は、マルクスらと区別するため空想的社会主義と呼ばれた。
74世界@名無史さん:2011/04/28(木) 22:17:41.74 0
ヴィットリオ・エマヌエーレ2世
 統一イタリア最初の国王となった、サルディーニャ王国の国王。
 統一運動は、首相カブールのもとですすめられた。

>>73さん、関連コメント、ありがとう
75世界@名無史さん:2011/04/28(木) 22:22:30.26 0
サヴォイア、ニース
 1860、サルディーニャ王国が中部イタリア併合の代償として
 この2つの地域をフランスに割譲。
76世界@名無史さん:2011/04/28(木) 22:34:37.36 0
ガリバルディ
 1860、義勇軍の赤シャツ隊を率いて、シチリア・ナポリ王国
 を占領し、サルディーニャ王に献じる。
77世界@名無史さん:2011/04/28(木) 22:39:54.17 0
イタリアの統一
 ・1860 ヴェネツィア、ローマ教皇領を除き統一達成、イタリア王国成立。
 ・普墺戦争(1866)後、ヴェネツィア併合。
 ・普仏戦争(1870〜71)中、ローマ教皇領占領。
  (「未回収のイタリア」=トリエステ、チロル)
78世界@名無史さん:2011/04/29(金) 10:45:33.20 0
(補足/蛇足)

チロル
 オーストリアとイタリアにまたがるアルプス山脈東部の地域。住民はドイツ系。
 北チロルと東チロルはオーストリアに帰属。(チロル州。州都インスブルック)
 南チロルとトレンティーノ(「外国のチロル」)はイタリア(特別自治州)に帰属。
 (1918年、サン・ジェルマン条約により、南チロルがイタリア王国へ割譲)

チロリアン
 福岡の千鳥屋の代表的な洋菓子。オーストリアのチロル州に古くから伝わって
 いたロールクッキーをアレンジしたもの。発売以来四十余年。
79明日66回忌:2011/04/29(金) 13:39:25.45 O

アドルフ・ヒトラーG\(^■^ ラ 1889,4/20〜1945,4/30 ドイツの偉い人

80ASEAN(アセアン)検索よろしく:2011/04/29(金) 13:44:11.71 O
第二次世界大戦の枢軸国にとっての正義(大義名分)は次の通り。

日本の正義。
アメリカ・イギリスなどの白人帝国主義国の植民地支配から東アジア諸国を解放し、
大東亜にアジア人の手による共存共栄の新たな広域経済圏を建設すること。

ドイツの正義。
ヴェルサイユ体制(第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約に基づく国際秩序)の打破。
優越民族であるアーリア人(ヒトラーの言うドイツ人)の指導による世界平和の遂行。

イタリアの正義。
ヴェルサイユ体制の打破。(イタリアは戦勝国でありながら、ほとんど恩賞がなかった)
古代ローマ帝国の栄光とパックス・ロマーナ(ローマの平和)の再現。


(・o・)日本は戦争目的を完遂しました!
81世界@名無史さん:2011/04/29(金) 21:56:25.18 0
ビスマルク
 1861プロイセン国王となったヴィルヘルム1世により、首相に
 登用。兵制改革による軍事力、巧妙な外交手段によりドイツ
 統一をすすめる。(鉄血政策)
82世界@名無史さん:2011/04/29(金) 22:01:23.51 0

普墺戦争
 領土問題(デンマーク領だったシュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題)が
 原因で、1866開戦。結果、ドイツ連邦が解体され、プロイセンを中心
 とする君主連合体(北ドイツ連邦)が成立。
 敗れた墺は、オーストリア・ハンガリー(二重)帝国となる。
83世界@名無史さん:2011/04/29(金) 22:05:42.49 0
普仏戦争 1870〜71
 スペイン王位継承問題が原因。その後、この問題は解消されたが、
 ビスマルクの謀略(エムス電報事件)により開戦。
 敗れた仏は、アルザス、ロレーヌを失う。

 なお、日本の岩倉使節団の訪欧は、この後。(1871(M4)〜1873(M6))
84世界@名無史さん:2011/04/30(土) 21:07:39.16 0
ナポレオン3世
 フランス大統領だった、ルイ・ナポレオン(>>68)が、武力で議会を
 解散させ、皇帝に即位。(第二帝政 1852〜1870)
 独裁維持のため国民向けに対外侵略を積極化。
 (クリミア戦争参加、イタリア統一戦争干渉、アロー戦争、
 インドシナ進出。メキシコ出兵は失敗)
 普仏戦争で、セダンで捕虜となり降伏、失脚。
85世界@名無史さん:2011/04/30(土) 21:12:57.89 0
フランス第三共和政
 1870成立。1940まで続く。当初の指導者、ティエール。
 1875、第三共和国憲法を制定。
86世界@名無史さん:2011/04/30(土) 21:28:12.38 0
パリ・コミューン
 普仏戦争に敗れ、ティエールによる臨時政府(共和政)の
 対ドイツ講和に反対したパリ市民・労働者による自治政権。

(補足)
 世界初の労働者階級の自治による民主国家。
 1871年1/28臨時政府がプロイセンに対し正式降伏。
 3/26これを認めず蜂起。3/28樹立宣言。5/20までパリ統治。
 血の一週間とよばれる臨時政府との戦闘により瓦解。
 死者3万人。5/28鎮圧。
87世界@名無史さん:2011/05/01(日) 09:40:11.33 0
ヴィクトリア女王
 19世紀、イギリスの繁栄を築く。

【ハノーヴァー朝】        【ウィンザー朝】(1917家名改称)
(1714〜1917)          (1917〜)
─ヴィクトリア─エドワード7世─ジョージ5世┬エドワード8世
 1837〜1901  1901〜1910  1910〜1936│  1936
                           └ジョージ6世─エリザベス2世
                            1936〜1952   1952〜
88世界@名無史さん:2011/05/01(日) 09:42:27.15 0
グラッドストン
 自由党代表。選挙法改正、アイルランド問題の解決に努力。
89世界@名無史さん:2011/05/01(日) 09:44:14.68 0
ディズレーリ
 保守党(19c初頭、トーリー党から改称)代表。
 スエズ運河の買収で有名。
90世界@名無史さん:2011/05/01(日) 12:00:01.25 0
英植民地の自治化
 ・アイルランド(1914自治法成立、1922自治領に)
 ・カナダ連邦(1867独立プロセス開始〜1982主権国家に)
 ・オーストラリア(1901)
 ・ニュージーランド(1907)
91世界@名無史さん:2011/05/02(月) 22:35:33.46 0
ツァーリズム
 帝政ロシアの専制君主権力(絶対君主制体制)。

 (補足)
 ツァーリとは、ラテン語「カエサル」(東ローマ皇帝を意味する称号)のスラヴ語形。
 スラヴ語圏の君主の称号。

 「クラブツーリズム」は旅行会社。
92世界@名無史さん:2011/05/02(月) 22:39:49.16 0
デカブリスト(12月党)の乱 (1825)
 ヨーロッパ自由主義思想に影響を受けたロシア青年将校による、
 農奴制廃止、立憲君主制を求めた反乱。ニコライ1世により鎮圧。
93世界@名無史さん:2011/05/02(月) 22:51:09.26 0
クリミア戦争 1853〜56
 トルコ領内のギリシア正教徒保護を口実に、ロシアがトルコに宣戦。
 その後、英・仏がトルコ側につき参戦。ロシア敗北。講和条約=パリ条約。
 このとき傷病兵看護に活躍したのが、ナイティンゲール。
94世界@名無史さん:2011/05/02(月) 22:54:44.60 0
アレクサンドル2世
 クリミア戦争の敗戦後、農奴解放令発布、近代化に着手。自由主義的
 改革を実行したが、国内反抗(ポーランドの反乱)を契機に反動化。
 ナロードニキ(人民主義者)のテロリズムの犠牲になる。(1881)
95世界@名無史さん:2011/05/04(水) 00:01:20.76 0
露土(ろと)戦争 (1877〜78)
 バルカン半島のトルコ支配下のスラブ系住民の紛争処理を巡っておこる。
 ロシアの勝利。講和条約=サン・ステファノ条約。
 ルーマニア、セルビア、モンテネグロの独立が認められる。
 また、大ブルガリアが、半独立の自治国として認められる。

(蛇足)
1. 土(と)=トルコ。 英人=イギリス人、米人=アメリカ人なら、
  土人=トルコ人? (別に深い意味はありませんが・・・)
2. 露土(ろと)→ロト→「ロトの勇者」はドラクエシリーズ。 
96世界@名無史さん:2011/05/04(水) 00:13:46.96 0
ベルリン条約
 サン・ステファノ条約に、英・墺が反対。国際緊張調整のため
 1878、ビスマルクの調停により開催、締結。
 墺は、ボスニア、ヘルツェゴヴィナの統治権を得る。
 英は、トルコよりキプロス島を得る。

(蛇足)
 いったん決められた条約が、第3国から反対され、覆えされた点で
 下関条約で得た遼東半島の返還(三国干渉)と似ていますね。
97世界@名無史さん:2011/05/04(水) 00:35:29.87 0
第1インターナショナル(国際労働者協会)
 1864、各国の社会主義者がロンドンで結成。国際的労働運動組織。
98世界@名無史さん:2011/05/04(水) 00:44:32.68 0
国際赤十字社
 デュナンの発案でジュネーブで結成。戦争犠牲者の救援団体。

(補足)
 赤十字条約に加盟した各国に1社ずつ設置された民間の医療・社会事業組織。
 識別マークは、デュナンの母国スイスの国旗の色を反転した、白地に赤い
 十字(赤十字)を採用。イスラム諸国では、白地に赤色の新月マーク。
 1863、「国際負傷軍人救護常置委員会」(現・赤十字国際委員会)発足。
 1887、日本赤十字社結成(1877年に設立された博愛社から改称)。
      ↑東日本大震災義援金の受付先として、よく名前が出ていましたね。
99世界@名無史さん:2011/05/04(水) 00:51:03.98 0
クーベルタン
 フランス人。国際オリンピック大会を創始。

 夏季オリンピック第1回は、1896年にアテネで開催。
100オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/05/04(水) 07:05:49.64 0
>>96
ベルリン条約の一番のポイントは大ブルガリアの解体ね。ロシアの傀儡だと、
思われてた大ブルガリアがエーゲ海にまで面してるのを嫌がったイギリスの、
抗議によりブルガリアは領土を大幅に減らすはめになった。
101 忍法帖【Lv=6,xxxP】 :2011/05/10(火) 23:16:09.81 P
忍者だよ
102世界@名無史さん:2011/05/17(火) 21:50:29.83 0
>>100さん、関連コメント、ありがとう。

やっと100になったと思った矢先にアク禁!!
ようやく復帰しました。
また、ゆるゆるやりますので、
突っ込みお願いします。
103世界@名無史さん:2011/05/17(火) 21:52:14.40 0
米英戦争(1812年の戦争) 1812〜14
 ナポレオン戦争中、英の海運妨害に反発し発生。

(補足)
 欧州戦線で英軍が手薄になった隙を狙い、米国は英領カナダの奪取
 をめざす。互いに決定打を欠いたまま戦争が長引き、米英共に経済的
 にも軍事的にも疲弊し、講和へ。(ベルギーにてガン条約。)
 両国が占領した地域は全て元に戻されることに。

 この戦争の結果、米国は経済的な独立を果たした。
 米国国歌「星条旗」の歌詞も、このとき生まれた。
104世界@名無史さん:2011/05/17(火) 21:54:43.81 0
ジャクソン
 米英戦争で活躍し、小農民・労働者の支持を得てアメリカ第7代
 大統領に。民主主義を発展させる。
 (ジャクソニアン・デモクラシー)
105世界@名無史さん:2011/05/17(火) 22:00:17.67 0
アメリカの膨張
 ・1803 フランスからルイジアナ買収
 ・1819 スペインからフロリダ買収
 ・1845 テキサス(1836メキシコより独立)を併合
 ・1846 カナダとの紛争を機会に、オレゴン併合
 ・1848 米墨戦争(1846-48)により、カリフォルニア、
      ニューメキシコを獲得
106世界@名無史さん:2011/05/17(火) 22:07:07.40 0
西漸(せいぜん)運動 Westward Movement
 未開のフロンティア(辺境)を切り開き、領域拡大していく運動。
 1849、カリフォルニアでの金鉱発見(ゴールドラッシュ)で人口急増。
107世界@名無史さん:2011/05/17(火) 22:24:43.30 0
 (補足)
 49ers(フォーティナイナーズ)
  1848年の金発見にともない、翌49年、金を求めてカリフォルニアに
  殺到した人々。1849年の一年間だけでも8万を超す人々が到来。
  生活物資の供給不足を招き、インフレ発生。成功した人はおらず、
  むしろ多くは破綻した。
  リーバイス(テントや荷馬車の幌を作るためにキャンバス帆布販売)や
  ウェルズ・ファーゴ(ヘンリー・ウェルズとウィリアム・ファーゴが輸送
  手段や金融サービスを提供)が、ここから始まった。
108世界@名無史さん:2011/05/18(水) 22:18:35.11 0
プランテーション
 南部における商品作物経営(綿花・タバコ)のための大農場。南部の
 プランター(大地主)は、自由貿易政策、州権主義(反連邦主義)を望む。
109世界@名無史さん:2011/05/18(水) 22:23:53.50 0
ミズーリ協定
 1820、この協定により、奴隷州(奴隷制度容認)と自由州(奴隷制度禁止)
   の設置に関し、南北の妥協が成立。
 1854、カンザス・ネブラスカ法により、この協定が否定される。
110世界@名無史さん:2011/05/18(水) 22:28:19.19 0
ストウ夫人
 アメリカ奴隷制度の害悪を人道主義的立場から描き、多数の共感をよぶ。
 主著「アンクル・トムの小屋」
111世界@名無史さん:2011/05/19(木) 02:16:11.17 O
かわいそうだ
こんな勉強方法じゃ歴史なんで全然面白くないだろう
112世界@名無史さん:2011/05/19(木) 21:51:01.73 0
>>111
厳しいね
兄スレのようには、なかなかうまくいきません
いい策あれば、教えてくだされ
113世界@名無史さん:2011/05/19(木) 21:52:57.56 0
アメリカ連合国
 リンカンの大統領就任に反対し、南部諸州が合衆国から脱退し、建国。
 首都、リッチモンド。大統領、ジェファソン・デヴィス。
114世界@名無史さん:2011/05/19(木) 21:57:49.50 0
南北戦争
 1861〜1865。米国の北部と南部の内戦。北部勝利で統一維持。
 最大の激戦地、ゲティスバーグにて、リンカンが、
 「人民の、人民による、人民のための政治」で有名な演説を行う。
115世界@名無史さん:2011/05/19(木) 22:02:23.40 0
ホームステッド(自作農創設)法
 南北戦争中、公有地を開拓した者に一定の土地を無償供給。
 西部農民の北部支持を図る。 
116世界@名無史さん:2011/05/19(木) 23:25:02.01 0
南北戦争に関して
南軍のリー将軍(通称ジェネラル・リー)を覚えておくと
アメリカ人の友人が出来たときに喜んでもらえる

俺の友人が、ジェネラル・リーの妹の4世の子孫だったんだぜ
117世界@名無史さん:2011/05/21(土) 00:47:54.55 0
>>116
関連コメントありがとう
南北戦争と言えば、風と共に去りぬ Gone With the Wind
(原作ミッチェル1936、映画化1939)

コルセット(腰を細く見せる)をギュウギュウっとするシーンが
印象的でしたが、あれは中国の纏足と同じようなもんでしょうか
古今東西、ちっちゃいのが好み?
118世界@名無史さん:2011/05/21(土) 19:53:15.51 0
リンカン
 1860、奴隷制度に反対する共和党の候補者として、第16代大統領に。
     (初の共和党大統領)1861〜1865南北戦争へ。
 1863、奴隷解放宣言を発表。 
 1865、暗殺。
119世界@名無史さん:2011/05/21(土) 19:55:37.40 0
 (補足)
 リンカーン大統領暗殺事件
  フォード劇場(ワシントンDC)で観劇中に、南部連合の支持者だった
  俳優(ブース)により、後頭部から拳銃で撃たれる。翌朝逝去。
  最初のアメリカ大統領暗殺事件。
120世界@名無史さん:2011/05/21(土) 20:15:29.42 0
 (補足2)
 共和党 (Republican Party)
  保守主義の立場を取る中道右派政党。
  アメリカホイッグ党(7代ジャクソンの政策に反対するため結成。
  9,10,12,13代大統領輩出。)の流れを汲み1854、結成。
  1860、リンカーンが初の同党出身の大統領になる。

  当初は知識層が支持するなど進歩的であったが、後にキリスト教
  右派を取り込むなど保守的な傾向を強めていき、民主党との政治
  的立場が入れ替わることとなった。
  1960年代以降は南部へ進出し、地盤を築く。
  26代セオドア・ルーズベルト、34代アイゼンハワー、37代ニクソン、
  40代レーガン、41代ブッシュ父、43代ブッシュ子など。
121世界@名無史さん:2011/05/21(土) 20:44:01.05 0
 (補足3)
 民主党 (Democratic Party)
  中道からリベラルの立場を取る議員が所属。
  1820年代に分裂したトーマス・ジェファーソンの民主共和派の流れを
  汲み、アンドリュー・ジャクソンを領袖に結党された「民主共和党」が
  前身である。1830年より現在の「民主党」を名称にしている。

  かつて南部の農家のなかで支配的であったが、今は北部と都市部で
  強力になっている。
  32代フランクリン・ルーズベルト、35代ケネディ、39代カーター、
  42代クリントン、44代オバマなど。
122世界@名無史さん:2011/05/22(日) 09:07:55.40 0
シェアクロッパー(分益小作人)
 高額な小作料を払う貧農。奴隷制度廃止後、南部黒人労働者の多くは、
 このシェアクロッパーになってしまった。
123世界@名無史さん:2011/05/22(日) 09:10:42.66 0
アラスカ
 1867、ロシアから買収。
124世界@名無史さん:2011/05/22(日) 09:13:42.31 0
大陸横断鉄道
 1869開通。
125世界@名無史さん:2011/05/22(日) 18:25:29.30 0
(補足)
 アラスカの近現代史
  1648、ロシアの探検家セミョン・デジニョフ、ベーリング海峡上の島に到着。
  1728、ヴィトゥス・ベーリングが再発見・命名
  19c後半、ロシアの植民。アザラシなどの毛皮採集→乱獲→激減
  1867、ロシア、クリミア戦争後の財政難で、資金調達のため米国に売却。
   米国国務長官スワードが交渉をまとめる。当時「スワードの愚行」とか
   「巨大な冷蔵庫を買った男」などと非難されたが、その後、評価一変。
  1869、金鉱発見、アラスカのゴールドラッシュ。
  1959、米国49番目の州に昇格。
  1968、北部のプルドー湾で、油田を発見。
  1960年代初頭〜1990年代初頭、アンカレッジ国際空港が北周り便
    (東アジア〜米国東海岸・欧州)の中継(給油)寄港地として利用。
  ・州都はジュノー市で、最大都市はアンカレッジ市。
  ・北米大陸最高峰のデナリ(別名マッキンリー山)がある。標高 6,194m。
126世界@名無史さん:2011/05/22(日) 18:49:52.06 0
(補足)
 大陸横断鉄道
 ・ネブラスカ州(米国の真ん中あたり)オマハ〜カリフォルニア州サクラメント
  間(2,826 km)を、東西から競争させつつ建設。
 ・ユタ準州プロモントリーサミットで接続され、米国東海岸〜西海岸が開通。
 ・それまで
   陸路(「駅馬車」の時代)数ヶ月
   海路(パナマ経由(運河未開通のため、パナマ地峡は陸路))数週間
  のところ、1週間に短縮。
 ・1876、大陸横断超特急が、ニューヨーク〜サンフランシスコ約84時間
  (3.5日)の記録樹立。
 ・現在の交通の主役は飛行機だが、現在でもシカゴ〜サンフランシスコ
  間でアムトラックのカリフォルニア・ゼファー号が毎日運行している。 
127世界@名無史さん:2011/05/23(月) 21:49:17.22 0
19世紀欧米文化(文学・美術・音楽)の流れ
 <前半>
  1. 古典主義(規則と調和の重視)の完成
     ↓
  2. ロマン主義 (フランス革命の影響→個人の感情・想像力を重視、
   歴史や民族文化の伝統を尊重/情熱的・幻想的)
     ↓
 <後半>
  3. 写実主義 (ロマン派の非現実的態度に飽き足らず、社会や人間
   の実相をありのままに描写)
     ↓
  4. 自然主義 (ダーウィンの進化論等の影響→写実主義をさらに進め、
   日常生活上で人間を科学的に観察、市民社会の現実・矛盾を鋭く
   描写。 「真実」を描くために、あらゆる美化を否定する。)
128世界@名無史さん:2011/05/23(月) 22:24:39.29 0
ロマン主義文学
 ・ハイネ(独) 詩人。甘美な叙事詩で有名。
 ・ユーゴー(仏) ロマン主義文学の巨匠。代表作「レ・ミゼラブル」
 ・バイロン(英) 詩人。ギリシア独立戦争に参戦。
 ・ホイットマン(米) 民衆詩人。代表的詩集=「草の葉」
 ・プーシキン(露) ロシア国民文学を創始。「大尉の娘」「オネーギン」

 (蛇足)
  バイロンの格言 (バイロニズム=当時の偽善と偏見を嘲罵)
  ・古きよき時代――すべての歳月は古くなるとよくなる。
  ・全ての悲劇は死によって終幕となり、全ての喜劇は結婚によって
   終焉となる。
  ・快楽は罪だ。そしてときとして罪は快楽である。
  ・男の恋は生涯の一部だが、女の恋は全生涯だ。
129世界@名無史さん:2011/05/24(火) 22:53:46.63 0
写実主義文学
 ・スタンダール(仏)「赤と黒」
 ・ディケンズ(英)「二都物語」「クリスマスキャロル」

 (補足)
  「赤と黒」は、軍人(赤)と聖職者(黒)の服の色。(別の意見もあり)
  「二都」=パリとロンドン。「二都物語」は、フランス革命が背景。
130世界@名無史さん:2011/05/24(火) 22:59:20.13 0
自然主義文学
 ・ゾラ(仏) 「居酒屋」。ドレフュス事件で社会正義を主張。
 ・モーパッサン(仏) 「女の一生」。
 ・イプセン(ノルウェー) 「人形の家」(戯曲)
 ・ドストエフスキー(露) 「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」
 ・トルストイ(露) 「戦争と平和」「アンナ・カレーニナ」
 ・チェーホフ(露) 「伯父ワーニャ」「桜の園」
131世界@名無史さん:2011/05/24(火) 23:22:02.87 0
 (蛇足)
 「罪と罰」 1866
  貧乏大学生が金貸し老婆を殺す→罪の意識にさいなまれ・・・
 「戦争と平和」 1865-69
  ナポレオンのモスクワ遠征を背景にした大河歴史小説

 「××と××」というのが多いですね。他に思い浮かぶのは、
  「父と子」(トゥルゲーネフ)1862・・・自然主義文学
  「老人と海」(ヘミングウェイ)1952・・・行動主義文学
  「点と線」(松本清張)1958・・・推理小説
  「エルマーとりゅう」(ガネット)1964・・・児童文学
 
 他にありますか?
132世界@名無史さん:2011/05/25(水) 01:31:34.55 0
世界史の教科書には載っていないが、
この時期(19世紀後半)にはジュール・ヴェルヌのSF小説やシャーロック・ホームズの推理小説も流行した。
どちらも民衆に科学への興味がなければ普及しないはずのジャンル。
また、グリム童話やアンデルセンの童話もこの頃。
133世界@名無史さん:2011/05/25(水) 20:32:19.19 0
グリム兄弟は只の童話作家ではない。民族運動の一環として民族固有の文化を再発見すべく
民話を採集し、出版した。しかし版を重ねる毎に自分たちの思想に基づく改変が入り込んで
本来の目的とは逸れて行った。
134世界@名無史さん:2011/05/25(水) 21:47:47.68 0
>>132さん、>>133さん、関連コメントありがとう

>>128-130の文豪とコナン・ドイルの立ち位置(歴史的評価)は、
今で言えば、三島由紀夫と星新一、みたいなものでしょうか。
世界史の教科書に載っていなくても現代に多大な影響を
与えている人物・事象って、多いのでしょうね。
まあ、名探偵ホームズファンとしては、世界史の教科書になど
載らないほうがよい、載ってしまうとガッカリ、かもしれませんけど。

(参考)
アレクサンドル・デュマ(仏)・・・モンテ・クリスト伯(巌窟王)(1845-46)
エドガー・アラン・ポー(米)・・・アッシャー家の崩壊(1839)
                 モルグ街の殺人(1841)
ジュール・ヴェルヌ(仏)・・・月世界旅行(1865-70)
           海底二万里(1869)、八十日間世界一周(1873)
H・G・ウエルズ(英)・・・タイムマシン(1895)、宇宙戦争(1898)
コナン・ドイル(英)・・・緋色の研究(1887)
           (最初のシャーロック・ホームズシリーズ)
モーリス・ルブラン(仏)・・・アルセーヌ・ルパンシリーズ(1905〜)
アガサ・クリスティ(英)・・・エルキュール・ポアロシリーズ(1920〜)

グリム兄弟(独)・・・グリム童話集:初版 156話(1812)
アンデルセン(デンマーク)・・・マッチ売りの少女(1848)
135世界@名無史さん:2011/05/25(水) 23:55:50.87 0
>>134
なぜ乱歩でなく星新一なのか?でもまぁ、そんなようなもんでしょう。ドイルはホントは歴史小説が
書きたかったらしい。求められるのはホームズばかりで嫌になって「最後の事件」で死んだ事にしたけど
ファンがそれを許さず、復活させざるを得なかった。

アンデルセンは純粋に童話作家なので、グリムと比較するのはフランスのペローがふさわしいです。
隣り合った地域で似たような話が微妙に違う形で広まっていた事が判ります。例えば『いばら姫』と
『眠れる森の美女』。
136世界@名無史さん:2011/05/26(木) 00:15:15.94 0
>>134
不思議の国のアリス、オズの魔法使い、ドラキュラなども、ジュール・ヴェルヌの作品と同時代。
きりがないので挙げないが、現代日本で「昔の名作」や「児童文学の古典」とされるものは、ほぼこの時期に出揃っている。
逆に言えば、これより前に生まれた世代は、我々が昔からヨーロッパにあると思っている作品を殆ど知らなかった。

私見だが、日本でこの時期の作品ばかりが有名なのは、文明開化とヨーロッパでの流行が重なったからかもしれない。
137世界@名無史さん:2011/05/26(木) 00:48:44.85 0
>>133
グリム兄弟は自由と民主主義を擁護するために政治家としても活躍した。

彼らが生きたウィーン議定書(1815)からベルリン三月革命(1848)までのドイツでは、
「自由と民主主義の実現のためには愛国心の高揚が不可欠」という、現代人とは真逆の価値観が支配的であった。
ウィーン体制の精神が「諸国で団結してヨーロッパの民主主義を封殺しよう」というものであったことが関係しているのかもしれない。
あるいは、領主(神聖ローマ皇帝ではなく、プロイセンやザクセンやバイエルンといった領邦の君主)の横暴が酷かったことから、
ドイツ人の力を一箇所に集結させてこれに抵抗しようとしたのかもしれない。
何れにせよ、国際協調が左翼、愛国主義が右翼という区分けができるのは、おそらくマルクス主義ないしは国際連盟の時代。

ちなみに、バッハがドイツ音楽の父と呼ばれるようになったのもグリム童話と同時期で、メンデルスゾーンの影響。
やはり民族主義的なプロパガンダの一環として称揚され、死歿から100年の時を経て蘇った。
オルガン奏者にはよくあることだが、バッハは頑固で陰険な性格をしていたことから生前には嫌われていた。

余談だが、ウィーン体制下のドイツは俺がドイツ史の中で最も気になる時期であるにもかかわらず、一般的にはマイナーな感が否めない。
たいていの本ではナポレオン戦争の終結(1815)からいきなり普仏戦争(1870)に飛ばされる。
日本語の文献で唯一、かなりのボリュームでこの時期を記述しているのが、『世界歴史体系ドイツ史』の第二巻。
138世界@名無史さん:2011/05/26(木) 22:13:45.72 0
>>135さん>>136さん>>137さん、関連コメントありがとう。

次に行く前に、>>136さんのご指摘を受け、載せておきます。
 不思議の国のアリス(1865)・・・ルイス・キャロル(英)
       (↑一説によれば、聖書の次に世界中で読まれている本)
 オズの魔法使い(1900)・・・ライマン・フランク・ボーム(米)
 ドラキュラ(1897)・・・ブラム・ストーカー(アイルランド)

 フランケンシュタイン(1818)・・・シェリー夫人(メアリー)(英)
 狼男・・・ヨーロッパ各地に伝わる人狼(じんろう)伝説。(旧約聖書にもあり)
139世界@名無史さん:2011/05/26(木) 22:56:11.06 0
19世紀の画家(1)(4人ともフランス人)
  ********************************
  * 代表作のリンクをつけましたが   *
  * Yahoo!で画家名をいれ画像検索  *
  * すれば、いっぱい出てきます。   *
  ********************************

 ・ダヴィド(ジャック・ルイ・ダヴィッド)(古典主義)
   http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/39/Jacques-Louis_David_006.jpg
   http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d2/Jacques-Louis_David_007.jpg
 ・ドラクロア(ロマン主義)
   http://muse.main.jp/arts/delacr_007.jpg
 ・クールベ(写実主義)
   http://hectonchair.img.jugem.jp/20110425_1785763.jpg
   (この人はセクシー系もあり、検索時注意)
 ・ミレー(自然主義)
   http://www.gallery-aoki.com/m02.jpg
140世界@名無史さん:2011/05/26(木) 23:13:35.36 0
19世紀の画家(2)(ゴッホ以外、すべてフランス人)
 ・印象派
   マネ
   http://www.korega-art.com/img/art/manet/m01.jpg
   http://www.korega-art.com/img/art/manet/m03.jpg
   モネ
   http://www.korega-art.com/img/art/monet/m01.jpg
   ルノワール
   http://www.korega-art.com/img/art/reoir/r01.jpg
   ドガ
   http://pds.exblog.jp/pds/1/201010/09/29/b0186129_23372027.jpg
 ・後期印象派
   セザンヌ
   http://www.korega-art.com/img/art/cezanne/s02.jpg
   ゴーガン(ゴーギャン)
   http://img10.shop-pro.jp/PA01047/075/product/7309477.jpg
   ゴッホ(オランダ人、フランスで活躍)
   http://www.korega-art.com/img/art/gogh/g01.jpg
141世界@名無史さん:2011/05/26(木) 23:19:17.26 0
19世紀の彫刻家
 ・ロダン(仏)『考える人』

(付記)
 上記のいくつかのリンクのサイトである
  「19世紀絵画教室-子ども美術館」
   http://www.korega-art.com/
 とてもよくできていて、感動的です。(宣伝ではありませんが)
142世界@名無史さん:2011/05/27(金) 02:33:14.21 0
>>138さんは何の本を教科書に使っているのかな?
143世界@名無史さん:2011/05/27(金) 21:47:43.97 0
>>142さん
山川です。
最近、新しいのを買い直しました。
「2009年 米大統領にオバマ」まで載ってるやつです。
全ページ、カラー化されていて、見やすいし、見ていて
面白いですね。
144世界@名無史さん:2011/05/27(金) 21:58:33.05 0
<18世紀末〜19世紀の音楽(1)>
古典派(ウィーン古典派三大巨匠)
・ハイドン(墺)
 http://www.youtube.com/watch?v=lLjwkamp3lI&feature=related
・モーツァルト(墺)
 http://www.youtube.com/watch?v=zaxQxgyjw2M
・ベートーヴェン(独)
 http://www.youtube.com/watch?v=k_UOuSklNL4&feature=related
 http://www.youtube.com/watch?v=vQVeaIHWWck&feature=related
145世界@名無史さん:2011/05/27(金) 22:25:05.41 0
(スペシャル追加)
 モーツァルトのファンの皆様へ・・・
 http://www.youtube.com/watch?v=mGzwnGYmG1M&feature=related
 http://www.youtube.com/watch?v=b7SopNdLIy0&feature=related
146世界@名無史さん:2011/05/27(金) 23:30:42.49 0
<18世紀末〜19世紀の音楽(2)>

ロマン派(古典派と近現代音楽の間。1800代初頭〜1900代。)
  (文学や美術の「ロマン主義」は1780〜1840頃なので時期が異なる。)

・シューベルト(墺)
 http://www.youtube.com/watch?v=sXGgKiYSVuE&feature=fvwrel
・シューマン(独)
 http://www.youtube.com/watch?v=i90oiN3A10U&feature=fvwrel
・ショパン(ポーランド)
 http://www.youtube.com/watch?v=0gM4dWVc0fM&feature=related
 http://www.youtube.com/watch?v=Koi8dK9bbAE&feature=related
・ブラームス(独)
 http://www.youtube.com/watch?v=3X9LvC9WkkQ&feature=related
147世界@名無史さん:2011/05/28(土) 00:10:20.32 0
<18世紀末〜19世紀の音楽(3)>

後期ロマン派
・ワグナー(独)
 http://www.youtube.com/watch?v=7AlEvy0fJto&feature=related
・ヴェルディ(伊)
 http://www.youtube.com/watch?v=TX0qN6QEvGg&feature=related

印象主義音楽(印象派)
・ドビュッシー(仏)
 http://www.youtube.com/watch?v=AwWn5RCrOWk
148世界@名無史さん:2011/05/28(土) 21:31:34.27 0
近代哲学の流れ
  17c、科学革命時代(ガリレオ、ニュートン、ケプラーら)の影響を受け、
  近代的合理主義の思想が確立。
    経験論(帰納法)・・・フランシス・ベーコン(英)(1561〜1626)
    合理論(演繹法)・・・デカルト(仏)(1596〜1650)
  ↓
  18c、この2つをカント(独)(1724〜1804)が総合。(ドイツ観念論)
  ↓   
  19c、ドイツ観念論哲学は、→フィヒテ(独)→シェリング(独)
     →ヘーゲル(独)で大成。
     その後、フォイエルバッハ(独)(唯物論)
     →マルクス(独)、キェルケゴール(デンマーク)(実存主義)
     →ニーチェ(独)へ。(以上、分かりにくいグループ)

  19c、一方、功利主義・経験論哲学も発展。
     (比較的分かりやすいグループ)
     ベンサム(英)「最大多数の最大幸福」「多数決の原則」
     ジョン・ステュアート・ミル(英)「質的功利」「少数意見の尊重」
     ハーバート・スペンサー(英)「適者生存」「自由放任主義」
149世界@名無史さん:2011/05/28(土) 21:41:19.19 0
デカルト(1596〜1650)
 近代合理主義哲学の祖。著書「方法序説」(1637)。
 「われ思う、ゆえにわれあり」が有名。数学者でもあった。
150世界@名無史さん:2011/05/28(土) 21:48:27.12 0
カント(1724〜1804)
 大陸合理論とイギリス経験論を批判的に総合し、批判哲学を確立。
 『純粋理性批判』(1781)
151世界@名無史さん:2011/05/28(土) 21:53:50.00 0
ヘーゲル(1770〜1831)
 弁証法という論理を駆使。ドイツ観念論哲学を大成。
152世界@名無史さん:2011/05/28(土) 22:13:25.09 0
ショーペンハウエル(1788〜1860)
 ドイツの哲学者。倦怠と厭世哲学(ペシミズム)を展開。
 著書「意思と表象としての世界」(1819)

(蛇足)
 日本では、戦前の、戦争に突き進む暗い現実を背景に、「デカンショ」
 といって、デカルト、カント、ショーペンハウエルが学生に読まれた。
 「デカンショ節」は、兵庫県篠山市を中心に盆踊り歌として歌われる
 民謡。
153世界@名無史さん:2011/05/28(土) 22:23:54.42 0
ニーチェ(独)(1844〜1900)
 キリスト教を弱者の思想として攻撃。永劫回帰、力への意思の
 思想を展開。善悪を超越したニヒリズムに至り、その体現者
 としての超人の出現を求める。

(蛇足)
 ソソソクラテスかプラトンかぁ ニニニーチェかサルトルかぁ
 なんてのがありましたね。
154世界@名無史さん:2011/05/28(土) 23:38:01.32 0
古いなぁ。あんた幾つ?
155世界@名無史さん:2011/05/29(日) 00:29:44.22 0
>>152
ちょっと待て。戦前の哲学ブームは大正デモクラシーだから暗い世相じゃないよ。
徴兵制が施行されたので、その意味では若い男性にとって非常に生きづらい時代だったが、
映画館や麻雀やカフェー(今のメイド喫茶に近い)など大衆の娯楽文化が栄えたのもこの頃。
総動員体制の前だからこそ哲学書を読む余裕があった。
156世界@名無史さん:2011/05/29(日) 20:18:49.70 0
>>155さん、関連コメントありがとう。
カフェーで哲学するのがモダンな時代だったのですね。
今はメイド喫茶でショーペンハウエル読んでたら「キモ〜」かな?

>>154さん
分かってくれる人がいて、うれしいっす。そんな年です。
157世界@名無史さん:2011/05/29(日) 21:36:51.52 0
古典学派経済学(正統派経済学)
 アダム・スミスに始まり→マルサス→リカード→J.S.ミルに至る
 イギリスの自由主義経済学の総称。
158世界@名無史さん:2011/05/29(日) 21:54:57.18 0
>>156
カフェーには女給さん目当てで通うからメイド喫茶に近いのかな?
159世界@名無史さん:2011/05/29(日) 21:58:01.98 0
 (補記)
 アダム・スミス 1723-90
  『国富論(諸国民の富)』(1776)。「見えざる手」で、個人の利益追求が
  社会公共利益を増進させると主張。重商主義を批判し、国家の富の
  源泉を生産的労働に求めた(労働価値説)。

 マルサス 1766-1834
  『人口論』(1798)。幾何級数的に増加する人口、と、算術級数的に
  増加する食糧、の差で、必然的に貧困が発生すると主張。
  過少消費説、有効需要説を唱えた。

 リカード 1772-1823
  『経済学および課税の原理』(1817)。分配論・地代論を大成。
  比較生産費説(国際的分業による利益)を主張、自由貿易を擁護。

 J・S・ミル(ジョン・スチュアート・ミル) 1806-73
  『自由論』(1859)。個人の自由(精神的・道徳的判断力)の大切さ、
  国家が個人の自由を制限できるのか、について論述。
  ベンサムの功利主義(「最大多数の最大幸福」)を擁護。社会主義
  の色合いを帯びた自由放任主義者。社会民主主義・自由主義に
  多大な影響。
160世界@名無史さん:2011/05/29(日) 22:55:32.89 0
>>158さん
 そう想像してしまいますよね。(自分もよく知りませんが。)
 大正時代(1912-26)は、第1次大戦(1914-18)、シベリア出兵(1918-22)、
 関東大震災(1923)のイメージがありますが、「カフェー≒メイド喫茶」を
 知っておくと、結構、夢・希望が持てますね。

 では次いきますね。
161世界@名無史さん:2011/05/29(日) 22:58:07.22 0
マルクス経済学
 史的唯物論や剰余価値説にたち、資本主義の批判的分析を行った
 経済学説。マルクスは、>>72参照。
162世界@名無史さん:2011/05/29(日) 23:07:53.51 0
近代経済学
 1870年代以降、限界効用説によってたつ近代理論経済学派の総称。

 (補足)
 オーストリア学派・・・メンガー、ウィーザー、バベルク、ハイエク
 ローザンヌ学派・・・ワルラス、パレート
 ケンブリッジ学派・・・マーシャル、ピグー、ロバートソン、ケインズ
163世界@名無史さん:2011/05/30(月) 22:22:20.81 0
ファラデー(英)
 電磁誘導の法則、電気分解の法則を発見、電動機を発明。
 ベンゼンを発見、酸化数の体系を提案、電極・イオンなどの
 用語を一般化させる。

 (蛇足)
 ファラデーは高等教育を受けておらず、高度な数学もほとんど
 知らなかったが、史上最も影響を及ぼした科学者の1人と
 されている。科学史上最高の実験主義者とも言われる。
 (小学校しか卒業してない製本屋の見習いが19世紀最大の
 科学者と言われるようになり、他の科学者が嫉妬。)
164世界@名無史さん:2011/05/30(月) 22:24:27.54 0
嫉妬というより軽蔑だと思う
165世界@名無史さん:2011/05/30(月) 23:30:40.72 0
>>164さん
関連コメントありがとう

なぜ嫉妬心がおきたり、軽蔑したりするのでしょうね。
それが世界史の原動力の一つ?

では次にいきますね。
166世界@名無史さん:2011/05/30(月) 23:35:36.35 0
マイヤー、ヘルムホルツ(独)
 エネルギー保存の法則の発見に貢献。

 (蛇足)
 エネルギー保存の法則で、一番身近な例は、ジェットコースター。
 (位置エネルギーと運動エネルギーの転換)
 もしも地球全体に降り注ぐ太陽エネルギーを100%電気エネルギー
 に転換できるとしたら、世界の年間消費エネルギーを、わずか1時間
 でまかなうことができるそうです。
 (現在のソーラーパネルは、実際の電気使用段階で10%程度。)

 (↓参考にしたサイト)
 わかりやすい高校物理の部屋/エネルギーの変換と保存
  http://www.wakariyasui.sakura.ne.jp/4-5-0-0/4-5-1-1hennkanntohozonn.html
 ?を!にするエネルギー講座/エネルギーの法則
  http://www.iae.or.jp/energyinfo/energykaisetu/kaisetu2.html
 太陽光発電協会/今なぜ太陽光発電?
  http://www.jpea.gr.jp/11basic01.html
 変換効率のナゾ
  http://homepage2.nifty.com/domi/koramu/nazo.html
167世界@名無史さん:2011/05/31(火) 22:41:23.40 0
レントゲン(独)
 1895、謎のビーム、X線(エックス線)を発見。
168世界@名無史さん:2011/05/31(火) 22:48:54.53 0
ベクレル(仏)
 ウランが発する謎のビーム(アルファ線)を発見。(1896)
 これら(エックス線、アルファ線)は放射線と名づけられた。

 (蛇足)
 この人にちなみ、ベクレル(Bq)という単位ができた。
 1秒間に1つの原子核が崩壊して放射線を放つ放射能の量が1 Bqである。

 シーベルト(Sv)とベクレル(Bq)
 http://www.tohoku-epco.co.jp/electr/genshi/shiryo/wastes/07.html
169世界@名無史さん:2011/05/31(火) 22:52:21.95 0
キュリー夫妻(仏)
 ラジウムを発見。(1898)
170世界@名無史さん:2011/05/31(火) 23:19:05.17 0
(蛇足)
 ラジウムの発見以降、放射線の研究が進み、原子力の実際の利用へ。

 1938 オットー・ハーン(独)、原子核分裂を発見。
     リーゼ・マイトナー(墺/女性)によって証明された。
 1945 米国のマンハッタン計画によって核分裂反応を利用した最初の
     原子爆弾が製造される。→広島・長崎で使用。
 1951 米国のEBR-Iで世界初の原子力発電に成功。
 1979 米国のスリーマイル島原子力発電所で炉心溶融事故
 1986 旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所で実験中に爆発事故
 2011 福島県の東京電力福島第一原子力発電所事故
171世界@名無史さん:2011/05/31(火) 23:44:05.37 0
(蛇足その2)
 ラジウム(Radium)
  原子番号88の元素。元素記号は Ra。天然には4種類の同位体が存在。
  白色の金属で、融点は700℃、沸点は1140℃。反応性は強く、水と
  激しく反応し、酸に易溶。空気中で簡単に酸化され暗所で青白く光る。

  1898年、ウランを抽出残渣から分別結晶することにより、キュリー夫妻
  によってラジウム226(半減期1600年)が発見された。放射線を出して
  いるため、ラテン語のradiusに因んで命名された。

  ラジウムはアルファ崩壊してラドン(原子番号86)になる。ラジウムの持つ
  放射能を元にキュリー(記号Ci)という単位が定義され、かつては放射
  能の単位として用いられていた。
  現在、放射能の単位はベクレル(記号Bq)を使用することになっており、
  1キュリーは3.7×10の10乗ベクレルに相当する。
172世界@名無史さん:2011/06/01(水) 00:03:40.57 0
 (蛇足その3)
 ラドン温泉、ラジウム温泉
  ラドン温泉とは、ラドン222の濃度が74ベクレル/リットル以上のもの
  を指し、ラジウムが1億分の1グラム/リットル以上含まれるのが
  ラジウム温泉である。
  オーストリアや日本、ロシアをはじめ、世界中に、療養のために活用
  されるラドン温泉やラドン洞窟が存在する。
  各種放射性同位体が放つ放射線が健康に寄与するとの考え方による。
  (ホルミシス効果)
173世界@名無史さん:2011/06/01(水) 21:44:33.23 0
ダーウィン(英)
 世界を周航して多くの資料を集め、生物進化論を唱える。
 主著『種の起源』1859
174世界@名無史さん:2011/06/01(水) 22:16:03.91 0
メンデル(墺)
 えんどう豆の交配実験から、遺伝の法則を発見。

 (補足) 
 メンデルは、1853〜68実験、1865発表。認められないまま、1884逝去。
 研究成果は埋もれていたが、1900に再発見。

 1802 バウアー(墺)、細胞核を発見
 1842 ネーゲリ(スイス)、染色体を発見
 1869 ミーシャー(スイス)、DNAを発見
 1953 DNAの二重らせん構造が明らかに
175世界@名無史さん:2011/06/01(水) 22:48:39.63 0
パストゥール(仏)
 乳酸菌を発見し、狂犬病予防接種に成功。
 1861、生命の自然発生説を否定。

 コッホとはライバル関係。
176世界@名無史さん:2011/06/01(水) 23:03:41.20 0
コッホ(独)
 結核菌(1882)、コレラ菌(1883)を発見した近代細菌学の祖。

 (蛇足)
 細菌学の基礎を固め、寒天培地やシャーレ(ペトリ皿)など、コッホに
 かかわって開発された多くの技術が、現在も主力として活躍している。

     ┌ 古細菌
生物─┼ 真性細菌・・・いわゆる細菌、バクテリア。炭疽菌、結核菌、
     │      コレラ菌、大腸菌(O111、O157等)、腸内細菌、等。
     │      チーズ・納豆・ヨーグルトなど発酵に利用されてきた。
     │      (アルコール発酵は、菌類)
     └ 真核生物・・・動物・植物・菌類など
177世界@名無史さん:2011/06/02(木) 03:17:09.97 0
科学史だけ妙に詳しい。もしかして理系?

>>173
ダーウィンはまた、「動物にも心がある」という説を科学者として公言した。
こちらの業績も宗教的な理由から黙殺され、進化論と異なり未だに学界に受け入れられていない。

>>175
パスツールの同僚であるクロード・ベルナールは、生物の肉体も一種の無機物であると主張した。
そして、医学の進歩のための実践として動物実験の普及を要求した。

また、19世紀には狂人を脳の異常と結び付けて研究する精神医学が、グリージンガーらによって勃興した。
178世界@名無史さん:2011/06/02(木) 19:06:46.55 0
派生スレが出来てたんだw
兄スレに負けず劣らず、落ち着いたいいスレだね!
応援してます。
179世界@名無史さん:2011/06/02(木) 22:03:16.61 0
>>177さん
関連コメント、ありがとう。
理系ではありません。もし変な箇所があれば、ご指摘下さい。
だけど今では当たり前のことが、19世紀になってだんだんと発見
されていく様子、結構、感動的ですね。

>>178さん
兄スレ500にはまだまだ及びません。
兄スレ同様、気軽に突っ込みいれて下さいな。
180世界@名無史さん:2011/06/02(木) 22:16:11.26 0
ノーベル(スウェーデン)
 ダイナマイト、無煙火薬を発明。

 (蛇足)
 ノーベルはスウェーデンの人なのに、なぜノーベル平和賞は
 ノルウェーのオスロで授与されるのか?
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1013105210
 http://www.norway.or.jp/about/foreign-policy/organizations/prize/
181世界@名無史さん:2011/06/02(木) 22:31:38.51 0
通信技術革新
 ・モールス(米)・・・1837、電信機を発明。モールス信号(独特の符号による
            交信(dot(トン),dash(ツー)の組み合わせ))を考案。
 ・ベル(米)・・・1876、電話機を発明。
 ・マルコーニ(伊)・・・無線電信装置を発明。大西洋横断の交信に成功。
182世界@名無史さん:2011/06/02(木) 22:40:09.19 0
エディソン(エジソン)(米)
 蓄音機(1877)、白熱電球(1879)など数々の発明。「発明王」
183世界@名無史さん:2011/06/02(木) 22:54:44.92 0
(蛇足1)
 電気の歴史
 ・古代より研究が始まる。
  (デンキナマズやシビレエイ、琥珀の棒と毛皮)
 ・17〜18c 科学としての進歩
 ・1870年代 ガス灯など火を使った照明の代用として、電力
   網が大都市圏から急速に整備。
 ・その後、各方面(動力源・空調など)で使用。産業・社会が
  大きく変化。科学的興味の対象から第二次産業革命の
  推進力となり、日常生活に欠かせないものへと変貌。
184世界@名無史さん:2011/06/02(木) 23:32:56.72 0
 (蛇足2)
 照明の歴史

 石器時代のたき火、中世のかがり火・ろうそく、近代の
 ランプ(鯨油・石油)、ガス灯などを経て・・・

 電球(白熱電球)
  1878 スワン(英)発明
  1879 エジソン(米)竹を使ったフィラメントで電球製造。
      寿命が10時間→1200時間以上へ
  1880 ゼネラル・エレクトリックによる電灯事業展開。
  2010 東芝、白熱電球の製造終了。

 蛍光灯
  1856 ガイスラー(独)のガイスラー管が蛍光灯の起源
  1894 米でムーアランプ発明、商業的にそこそこ成功
  1901 現在の蛍光灯に非常に近いものができる。
  1926 ゲルマー(独) 蛍光灯の発明。
  1937 ゼネラル・エレクトリックにより、蛍光灯発売(実用化)
  1939 東芝、日本初の蛍光ランプ試作、翌年、実用化。
  1978 電球型蛍光灯ができる

 LED電球
  1907 世界初のLED発光確認
  1990代 青色発光ダイオードが開発
  1998 経産省・国家プロジェクト「21世紀のあかり計画」
  現在 信号機、自転車の前照灯などで利用、少しずつ一般家庭へ
185世界@名無史さん:2011/06/02(木) 23:59:13.56 0
>>180
その蛇足よりもダイナマイトを発明したノーベルがノーベル賞を作った理由を書いて欲しかったような。
既に常識なのかな。

>>184
>1879 エジソン(米)竹を使ったフィラメントで電球製造。
(確か京都の)孟宗竹を使ったのも常識か?
186 忍法帖【Lv=5,xxxP】 :2011/06/03(金) 00:24:52.48 0
ノーベル賞に数学賞がないのは、
かつてノーベルが有名な数学者から陰湿ないじめを受けていたため。
何かの間違いで彼に賞金が渡ってしまったら大変。

それで数学者たちは独自にフィールズ賞というものを作って補っている。
187世界@名無史さん:2011/06/03(金) 22:15:10.02 0
>>185さん、>>186さん、関連コメントありがとう。

Yahoo!知恵袋に、まんま、ありましたよ。
『ノーベル賞が作られた理由って何ですか?』
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1119714831

賞の対象にしたものは、ノーベルの関心のあるもの、という所がミソですね。
それが分かれば、
「数学は『世界の発展のために貢献するもの』ではないから賞対象でない」とか
「文学(純文学)=芸術、ならば、音楽や美術や演劇のノーベル賞がなぜ
ないのか」などという誤解もとけるかも。

ノーベル文学賞はあるけど、哲学賞や歴史学賞はないんだ〜と思いきや、
歴史書(モムゼン)、哲学書(オイケン、ベルクソン、ラッセル)、回想録
(チャーチル)などもノーベル文学賞をとっているのですね。
188世界@名無史さん:2011/06/03(金) 22:39:12.14 0
地理上の探検
 ・17c中頃
  オーストラリア・・・タスマン(蘭)
 ・18c後半
  ニューギニア・ニュージーランド・ハワイ・・・クック(英)
 ・19c半ば〜後半
  アフリカ内陸部・・・リヴィングストン(英)、スタンリー(米)
 ・19c末
  中国奥地
  中央アジア
 ・20c初頭・・・極地探検
  北極点・・・ピアリ(米)1909
  南極点・・・アムンゼン(ノルウェー)1911、スコット(英)1912(1ヶ月遅れ)
189世界@名無史さん:2011/06/03(金) 23:08:04.44 0
 (蛇足)
 ・1953、英国登山隊がエベレスト(世界最高峰8848m)初登頂。
 ・1960、有人潜水艇トリエステ号、マリアナ海溝深度約10,900mに達す。
 ・1969、アポロ11号、月面着陸。
 ・1976、バイキング1号、火星着陸。
 ・1977、ボイジャー1号、2号打上。惑星探査。
      1号・・・1979木星、1980土星。
      2号・・・1979木星、1981土星、1986天王星、1989海王星。
190世界@名無史さん:2011/06/04(土) 18:40:23.89 0
近代都市
 科学や技術の発達により、便利で快適な都市生活が可能になる。
 ・地下鉄(ロンドン)
 ・都市計画(パリ)
 ・図書館など文化施設
 ・映画
 ・新聞
191世界@名無史さん:2011/06/04(土) 19:31:34.73 0
(蛇足)
パリの発展

 18c末、シャンゼリゼ通りが繁栄。
 1793、フランス革命中、ルーブル宮殿がルーブル美術館に転用。
 1793、パリ・メナジェリー(=見世物小屋)(世界初の公的動物園)開園。
 1804、ノートルダム寺院(シテ島にある。1345竣工、19cに大幅改装)で、
     ナポレオン・ボナパルトの戴冠式。
 1836、エトワール凱旋門完成(ナポレオン・ボナパルトの命で建設)
 1853-70(第二帝政期) オスマンHaussmann(セーヌ県(パリ市を含む)知事)
   が、密集したパリ市街の大改造を行う。
   貧民窟だったシテ島を一新、ルーブル宮、新オペラ座建設。
   上下水道整備、大通りの街灯増設。この都市計画は各地の手本に。
 1871、パリコミューン。>>86
 1889、パリ万博(4回目)に合わせ、エッフェル塔完成(312m)
 1900、パリ万博(5回目)、パリ・オリンピック(第2回五輪)同時開催。
 19c末、モンマルトル(元、パリ郊外の農地→パリ大改造以降都市化が進む)
     がデカダンな歓楽街に。ムーラン・ルージュ(フレンチ・カンカンが有名)
     などのキャバレーができ、芸術家(画家)が集まる。
     サクレ・クール寺院(パリのランドマーク)建設(1876-1912)。
192世界@名無史さん:2011/06/04(土) 21:50:18.18 0
(蛇足の2)
地下鉄の歴史

 1863、ロンドンで初の地下鉄開通。(建物密集で地上に建設できず)
     (1905に電化されるまで、蒸気機関車で運行)
 1875、イスタンブールで地下ケーブルカー開業(2番目)
 1896、ブダペスト(ハンガリー)で本格的地下鉄開業(初の電化)
 1900、パリで開通(「メトロ」=パリの地下鉄の略称)
 1927、東京で銀座線開通(浅草〜上野)(アジア初)
 1933、大阪で開通(梅田〜心斎橋)

地下鉄の総延長距離が最も長い都市
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1413531554
SUBWAY MAPS
 http://www.amadeus.net/home/new/subwaymaps/en/
Subway systems of the world, presented on the same scale
 http://fakeisthenewreal.org/subway/
東京にはなぜ東京メトロと都営地下鉄があるのか?
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1149719046
193世界@名無史さん:2011/06/04(土) 22:51:16.70 0
(蛇足の3)
映画の歴史

 ・19c前半 写真技術の完成
 ・1893、エジソン、映写機を一般公開。(箱を覗き込む方式)
 ・1895、リュミエール兄弟(仏)、現在の形とほぼ同じ、複合機(カメラ
      +映写機+プリンター)を開発、公開。(映画の起源説)
 ・1920年代、「世界の三大喜劇王」(チャップリン、ロイド、キートン)の活躍
 ・1923、ウォルト・ディズニー社設立。(本業=アニメ映画製作)
 ・1927、初のトーキー公開。(それまでは、サイレント+活動弁士)
 ・1929、アカデミー賞の始まり。
 ・1935、初のカラー映画。
 ・1950年代以降、テレビの普及に対抗し、スクリーンのサイズ拡大化へ。
 ・1972、「ポセイドン・アドベンチャー」、1974「タワーリング・インフェルノ」が
     商業的に成功。凋落していたハリウッド、自信回復。
 ・1977、「スター・ウォーズ」大ヒット。
 ・1993、「ジュラシック・パーク」CGを使用して成功。
 ・2009、立体映画の製作。
194世界@名無史さん:2011/06/04(土) 23:08:07.84 0
さてと。
パリがあるなら「ロンドンの発展」もあるし、「新聞の歴史」「ラジオの歴史」とか、
「動物園/水族館の歴史」とかも、あるある・・・

これではキリがないので、もうこの辺で19世紀文化は、やめることにしました。
明日からは、次いきます。(ロンドンとかは、機会があれば、ってことで。)
195世界@名無史さん:2011/06/05(日) 13:52:24.82 0
オスマン帝国
 従来、オスマン・トルコ(英:Ottoman Turks, Turkish Empire)と呼ばれ
 ていたが、オスマン朝またはオスマン帝国が正しい。

 1299、建国。(アナトリア(小アジア)にて)
  領土拡大の推移
  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ec/Japanese-Ottoman1683.PNG
 1520-66在位 スレイマン1世の頃が最盛期。
196世界@名無史さん:2011/06/05(日) 14:12:29.31 0
【オスマン帝国の衰退過程】(概観)

 1529、第1次ウィーン包囲。
 1571、レパントの海戦。
 1683、第2次ウィーン包囲。
 1744、1792 ロシア帝国の南下により、黒海北岸・クリミア半島を喪失。
 1744、アラビア半島で、ワッハーブ王国樹立。
 1796、テヘランに、カージャール朝建国。
 1798、ナポレオンのエジプト遠征→エジプト実権失う
      →1830ムハンマド・アリーの反乱、エジプト独立
 1821-29、ギリシャ独立戦争→ギリシャ独立
  (この頃(1830年代)には防戦一方で、「ヨーロッパの瀕死の病人」と呼ばれる) 
 1853、クリミア戦争 >>93  帝国財政破綻。
 1878、露土戦争、完敗 >>95 バルカン半島を失う。
 1911、伊土戦争で、リビアを失う。
 1914、第1次世界大戦で同盟国側につく。
 1920、セーブル条約。帝国領の大半が連合国に分割。
 1922、ムスタファ・ケマル(ケマル・パシャ)、帝政廃止、滅亡。
197オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/05(日) 17:19:44.24 0
>>196
概観は合ってるけど細かいツッコミを。1878年の露土戦争だとベルリン会議の、
おかげでマケドニアや東ルメリアを取り返してるのでまだ完全なるバルカンの、
喪失とは言えないよ。バルカン半島をほぼ完全に失うのは1912年〜1913年に、
行なわれた第1次・第2次バルカン戦争の時だね。この2度の戦争でオスマンは、
バルカン領の多くを失い、現在持ってるバルカン側の領土とほぼ同じになった。
1878年の時点だとまだアルバニアとかもオスマン帝国の領土だからね。
198世界@名無史さん:2011/06/05(日) 18:58:51.17 0
>>197さん
重要なツッコミありがとう。
1878、は「バルカン半島領の半分を失う。」に訂正、ですね。
199世界@名無史さん:2011/06/05(日) 19:09:00.03 0
カルロヴィッツ条約
 1683、オスマン帝国、第2次ウイーン包囲に失敗し、1699、締結。
 オーストリアに、ハンガリー、トランシルヴァニアなどを割譲。
200世界@名無史さん:2011/06/05(日) 19:16:00.92 0
エジプト・トルコ戦争(エジプト事件)
 ナポレオンのエジプト遠征の混乱に乗じてエジプト太守(パシャ=総督の称号)
 になったムハンマド(メフメト)・アリーが、エジプト独立と、シリア領有を要求して
 2度戦われた。
 この戦争の処理のため、1840、列強によるロンドン会議が開かれ、エジプトは
 事実上イギリスの支配下に入った。
201オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/05(日) 19:23:09.09 0
>>200
2度に渡るエジプト・トルコ戦争を通しオスマン帝国は西欧列強諸国の、
扱い方というものを学んでいったね。近代オスマン帝国の外交政策の、
基本は西欧列強同士の対立を上手く利用するというものでこの事件は、
それが良く現れてる。まぁようはオスマン帝国の保全を望むイギリスを、
味方にすることでムハンマド・アリーを封じ込めることに成功したという、
だけなんだけどね。ちなみに意外な事に、この時はロシアも味方してる。
202世界@名無史さん:2011/06/05(日) 20:29:09.48 0
>>201
「西欧列強同士の対立を上手く利用する」というのは、日本の
日露戦争の頃の政策と似ていますね。
明治の指導者層は、こういう知識を得ていたのでしょうか。

冷戦時代の米ソ対立の間の、日本の戦後復興も、そうですね。
203世界@名無史さん:2011/06/05(日) 22:07:50.41 0
タンジマート(恩恵改革)
 1839以降、オスマン帝国のアブデュル・メジト1世による西欧化近代化改革。
 行政・財政・税制・刑法・軍政・教育にわたる。

 (蛇足)
 ヨークマートとか、ABCマート、ウォルマートが思い浮かんだりするかも?
204世界@名無史さん:2011/06/05(日) 22:13:28.22 0
ミドハト憲法
 1876、宰相ミドハト・パシャにより制定。二院制議会、責任内閣制。
 露土戦争を口実に、アブデュル・ハミト2世により停止。
205オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/05(日) 22:15:58.07 0
>>203
タンジマートだったらアブデュルメジト1世の名と同じくらいムスタファ・レシト・パシャの、
名も外せないね。タンジマートの始まりであるギュルハネ勅令なんて彼の協力なしじゃ、
出来てなかっだろうし。近代オスマン帝国のエリート官僚のさきがけのような存在だね。
206世界@名無史さん:2011/06/06(月) 22:26:44.26 0
>>205さん、関連コメントありがとう。
もしかして、オスマン帝国ファンの方?

今日は、もう少し東(南)へ行きます。
207世界@名無史さん:2011/06/06(月) 22:28:30.23 0
ワッハーブ派
 18c中頃、アラビア半島ネジド地方におこったイスラム教一派。
 (ムハンマド・ブン・アブドゥル・ワッハーブにより開始。)
 ネジド地方(リヤドのある所)領主のサウード家と結び、
 1744、ワッハーブ王国(第一次サウード王国)建国。首都リヤド。
 1802、メッカとメディナに進出。オスマン帝国に衝撃を与える。
 1818、オスマン帝国、エジプト総督ムハンマド・アリーに攻撃命令、
     エジプト軍勝利。ワッハーブ王国滅亡。
 1824、残った王族が第二次サウード王国建国。内紛激しく、1891滅亡。
208世界@名無史さん:2011/06/06(月) 22:35:11.69 0
アブデュル・アジーズ(イブン・サウード)
 サウード家の人。1902、サウード家の本拠地リヤドを奪回。
 1932、アラビア半島の大半を統一し、サウジアラビア王国を建てる。
209世界@名無史さん:2011/06/06(月) 22:46:13.70 0
カージャール朝(ガージャール朝)
 トルコ系の族長。サファヴィー朝(1501〜1736)滅亡後、群雄割拠の
 イランを、1796に統一。首都テヘラン。
 サファヴィー朝末期から、英・露・オスマン帝国のイラン干渉が続いて
 いたが、1826、ロシアとの間でトルコマンチャーイ条約。アルメニア
 (カフカス南部高原)を割譲。
210世界@名無史さん:2011/06/06(月) 23:04:23.76 0
バーブ教徒の乱
 イランで、サイイド・アリー・ムハンマド(通称バーブ)により創始された
 バーブ教(19c前半イスラム教シーア派、神秘主義的)の教徒が、
 英・露の屈従をこばんで武装蜂起(1848)。
 ロシアの協力を得たガージャール朝により鎮圧。その後、徹底的弾圧。
211オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/06(月) 23:23:53.21 0
>>206
まぁ、そんなところだよ。オスマン帝国はもう終わりなの?
青年トルコ革命とかはないのか。それとも後で書くのかな。

>>210
この反乱を最終的に鎮圧したナーセロッディーン・シャーは、
イランの近代化を進めようとした開明的な君主だった一方で、
イギリスなどの西欧列強に多くの利権を認めたため国民から、
売国奴のような扱いを受けて後に暗殺されてる。彼のこういう、
性質はすでにバーブ教徒の乱の鎮圧の頃から表れてると思う。
212世界@名無史さん:2011/06/07(火) 02:50:21.52 0
今までは世紀末文化のような明るい話もありましたが、
これからの現代史には嫌な話しか残っていません。

20世紀自体が暗い時代だからというよりも、
芸術や科学や経済の発展は他の学問で扱うため。
213世界@名無史さん:2011/06/07(火) 22:38:59.45 0
>>211さん
オスマン帝国関連では、青年トルコ党、イタリア・トルコ戦争あたりが
今後(第1次世界大戦前の時代のところで)登場するかも、です。
また、関連コメントの方、どうぞよろしく。

後段の人は、日本史で言えば、井伊直弼に似ていますね。

>>212さん、関連コメントありがとう。
そういう理由から、高校の先生もあまり乗り気がしなくなって
近現代史後半になってくると、スピードが増し、時に「自習!」
とかになっちゃうんですかね。
しかし、嫌な話、暗い時代も、すべて目をそらさないようにしたいもの
ですね。そこに何かのヒントが隠れているかもしれませんし。
214世界@名無史さん:2011/06/07(火) 22:58:20.74 0
アフガン王国
 1747、アフマド・シャーがカーブル(現首都。カブール。)を中心に建てた
 王国。 (パシュトゥーン人(アフガン)によるドゥッラーニー朝。)
215昭和の神風が吹いた!:2011/06/07(火) 22:58:25.37 O
(T_T)英霊を顕彰しよう!

「昭和20年6月5日」ハルゼー第3艦隊は「バイパー台風」に遭遇し
戦艦4隻、空母8隻、巡洋艦7隻、駆逐艦14隻
給油艦3隻が損傷し
航空機142機が損害を受けていた。

この知られざる大戦果により、
米軍は台風を極度に恐れるようになりました。

216世界@名無史さん:2011/06/07(火) 23:09:04.41 0
アフガン戦争
 ・第1次(1838-42年)
   ・・・イギリス東インド会社軍の行動。一時平定するも反乱続き撤退。
  (この間、1857、ロシアの支援を受けたカージャール朝が侵攻。
   ロシア南進をおそれたイギリスが介入、アフガン切り離し。) 
 ・第2次(1878-81年)
   ・・・英印軍優勢のうち、アフガニスタンを保護国化。東南部割譲。
 ・第3次(1919年)
   ・・・アフガニスタンが逆に英領インド帝国に侵攻、膠着後独立達成。
217オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/07(火) 23:21:52.20 0
>>216
第2次アフガン戦争は終始イギリス軍が優勢のまま保護国化した訳じゃないよ。
最終的には保護国化できたけど戦争の経緯を見てみるとかなりの泥沼状態で、
最初こそ優勢だったけど途中からアフガニスタン側も結構な抵抗を見せてきて、
そのような経緯の上で最終的にイギリスがアフガニスタンを保護国化してたのが、
第2次アフガン戦争だよ。この辺りの時代の抗争はグレートゲームと呼ばれてるね。
218世界@名無史さん:2011/06/07(火) 23:33:45.51 0
>>217
アフガン人って強烈ですね。まさに不撓不屈。
ベトナム人もそうですね。
日本人は、国を失った時、そこまで頑張れるでしょうか・・・
219世界@名無史さん:2011/06/08(水) 00:08:55.15 0
(蛇足)
 その後のアフガニスタン(20世紀以降)
 ・1926 アフガニスタン王国となる。
 ・1973 アフガニスタン共和国となり、ソ連に接近
 ・1978 共産主義政党による政権成立
 ・1978-89 アフガニスタン紛争(共産主義vsイスラム抵抗運動)
 ・1979 ソ連のアフガニスタン侵攻
 ・1980 モスクワオリンピック、西側諸国の集団ボイコット。
 ・1989 ソ連軍(10万)撤退。国内紛争始まる。(1989-2001)
 ・1994頃 ターリバーン(アラビア語「ターリブ(学生)」の複数形)の台頭
 ・1996-2001年11月頃まで ターリバーンが、アフガニスタンの大部分を
      実効支配。
 ・1996 ウサマ・ビン・ラディンの率いるアル・カーイダがアフガニスタン
      国内に入り、ターリバーンに接近
 ・1998.8月 ケニア・タンザニアのアメリカ大使館爆破事件。(自爆テロ)
       ケニアでは、死者291人、負傷者5000人以上の被害。アル・カー
       イダの引渡要求を拒否したため、アメリカとの関係が緊張化。
 ・2001.1月 ジョージWブッシュ、第43代大統領に就任(〜2009.1月)
 ・2001.3月 ターリバーンがバーミヤンの石仏を爆破。
 ・2001.9/11 アメリカ同時多発テロ事件
 ・2001.10月 米軍空爆開始、アフガニスタン紛争 (2001-)の開始。
     ターリバーン政権崩壊。 
 ・2004 カルザイが大統領に就任。アフガニスタン・イスラム共和国成立。
220世界@名無史さん:2011/06/08(水) 22:20:05.57 0
ムガール帝国(ムガル帝国)
  モンゴロイド系のイスラム王朝。ムガルとは「モンゴル人」を意味する
  ペルシア語に由来。つまり、「モンゴル人帝国」。

  ・建国、1526。始祖バーブル。(ティムールの5代後の直系子孫。)
    領土拡大の推移
    http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/c/cf/Mughal.png
  ・3代皇帝アクバル大帝(在1556〜1605)
  ・5代皇帝シャー・ジャハーンがタージ・マハル(新・世界の七不思議)
   を建築。
  ・最盛期、1687。6代皇帝アウラングゼーブの時代。(在1658〜1707)
221世界@名無史さん:2011/06/08(水) 22:37:24.57 0
【ムガール帝国の衰退過程】(概観)

 1707、6代皇帝アウラングゼーブの死後、たちまち解体。
     以後、ムガル皇帝は、名目的な存在へ。
 18c、インド商人、ヨーロッパ諸国の東インド会社が急伸張。
    地方豪族(ザミンダール)台頭、帝国内小王国や地方長官の
    離反が続く。マラーター同盟、強盛化。
 1739、イラン(アフシャール朝:1736〜96)のナディール・シャー、デリー占領。
 19c初期、デリー周辺を支配するのみの小勢力化。
 1857、インド大反乱(シパーヒー(セポイ)の反乱)で老皇帝がシンボルとして
     担がれる。
 1858、イギリス、反乱を鎮圧。皇帝退位。滅亡。
222世界@名無史さん:2011/06/08(水) 23:02:20.82 0
イギリス東インド会社

 1600、イギリス、東インド会社設立。(インド産綿布の獲得目的)
 1640、マドラス貿易で特権獲得。(要塞建設、関税免除≒マドラス取得)
 1661、ボンベイを取得。
 1674、フランス東インド会社(1664再興)、ポンディシェリ取得。
 1690、カルカッタ取得。
 1757、プラッシーの戦い(英vs仏+ベンガル太守)
 1761、インドでの対仏抗争に英、勝利。(1763、パリ条約)
 1765、ベンガル地方(インドで最も肥沃)・ビハール地方を領地化。
 1767から4回の、マイソール戦争
 1775から3回の、マラータ戦争
 1800年前後、フランス革命の本国混乱契機に、東南アジア進出開始。
 1813、東インド会社のインドとの貿易独占を廃止。
   (産業革命の進展により、本国から、貿易独占の批判が強まった。)
   (この頃には、インド綿布は、イギリス綿布に負け、輸出入逆転。
   インドは、綿花・アヘンなど一次産品輸出国に。)
 1833、茶の取引、中国貿易独占権廃止、商業活動自体の停止可決。
     (翌年実施。)→商社から、インドの統治者に変身。
 1845から2回の、シク戦争
 19c半ば、インド全域を支配。(一部、藩王国。ほかは直接支配。)
 1840、アフガン進出(第1次アフガン戦争)
 1857、インド大反乱(シパーヒー(セポイ)の反乱)→1858鎮圧。
     (シパーヒーは、東インド会社の傭兵。)
 1858、大反乱の責を負う形で、インド統治権を英政府に譲渡。
 1874、残務整理が終了し、会社解散。
223世界@名無史さん:2011/06/08(水) 23:34:13.91 0
プラッシーの戦い(ベンガル地方の地名。カルカッタ北方)
 1757、イギリス東インド会社軍(軍司令官/会社の書記=クライヴ)が、
  フランスとベンガル太守の連合軍を撃破

 (蛇足)
 プラッシー(清涼飲料水)
  武田食品工業によって1957(昭和32)に発売。みかん果汁入り飲料に
  ビタミンCをプラスしたことから、それに引っ掛けて「プラッシー」と命名。

  母体が製薬会社である武田は、清涼飲料水の販売ルートを持たなかっ
  たため、流通経路を米穀店に絞り、主食の米に不足な栄養素を補って
  もらおうと、ビタミンCの入った飲料プラッシーやマリンカ(りんご果汁入り
  の炭酸飲料)などを販売。
224世界@名無史さん:2011/06/09(木) 22:21:28.22 0
マイソール戦争
 1767から4回にわたり、イギリスは、南インドのマイソール
 王国と戦い、征服。

 (補足)
 マイソール王国
  1339、建国。封建国から徐々に強大化。周辺国を併合。
  18c末には南デカン地方一帯を支配。
  大同団結を唱えて周囲の国々と巧みに連携、近代化推進。
  インドにおけるイギリス最大の敵ともいわれる。
  マイソール戦争(1767〜1799)でイギリスに屈服後、
  領土の大半を削られ、藩王国として1947まで存続。 
225世界@名無史さん:2011/06/09(木) 22:36:02.32 0
マラータ戦争
 1775から3回にわたり、イギリスは、マラータ同盟と戦い、勝利。

 (補足)
 マラータ同盟(1708〜1818)
  マラータ王国(1674〜1818)を中心に結成された、ヒンドゥー教徒の
  マラータ族の封建諸侯の連合体。中部インド〜北インド全域。
  1752、ムガル帝国の首都デリーに入城、一時インドの覇権を握る。
  3度のマラータ戦争(1775〜1819)で破れ、解体。マラータ王国滅亡。
  東インド会社の直接支配下に。一部は藩王国に編成。  
226世界@名無史さん:2011/06/09(木) 22:54:52.79 0
シク戦争
 1845から2回にわたり、イギリスは、西北インドのシク教徒と戦い、勝って
  パンジャーブを併合、全インドの征服を完成。

 (補足)
 シク教 Sikhism(シク教徒=Sikh)
  ヒンドゥー教とイスラーム教の影響を受け、16c初、グル・ナーナクが開始。
  1606、ムガル帝国より弾圧。
  17c後半、軍事的組織化、19c初、ラホール(現パキスタンの第2の都市)
        を中心に統一国家建国(シク教国)
  1845-46 第1次シク戦争。パンジャブの東半分をイギリスに奪われる。
  1848-49 第2次シク戦争。全パンジャブが英領になり、シク教国は滅ぶ。

  1947、インド・パキスタン分離独立に際し、インド帰属を選択。
  1984、インド政府軍がシク教徒の聖地を襲撃。
     シク教徒の警護警官により、インディラ・ガンディー首相暗殺。
227世界@名無史さん:2011/06/09(木) 23:19:48.91 0
 (蛇足)
 プロレスラーの・・・

  ・ザ・シークはミシガン州出身(アラブ系)(両親がレバノン出身)
    (シークSheik=(アラビア語で)首長)
  ・タイガー・ジェット・シンは、インド・パンジャーブ州出身のシク教徒。
  ・ブッチャーはカナダ出身(ネイティブ・アメリカンとアフリカ系アメリカ人の混血)
228世界@名無史さん:2011/06/10(金) 15:41:51.91 0

中世インド史もこれくらい詳しく学べたらいいんだけどねえ。
229世界@名無史さん:2011/06/10(金) 22:01:44.56 0
>>228さん
ちょっと深入りしすぎましたか?
インド中世史もそうですが、インド近現代史って
エアーポケットみたいになってました。
インダス文明の次は、ガンジーになってしまうような。
230世界@名無史さん:2011/06/10(金) 22:07:32.99 0
インド大反乱(シパーヒー(セポイ)の反乱)
 1857.5月、インド初の民族的大反乱。ヒンドゥー・イスラムの差なく協力、
  デリーを占領、有名無実となっていたムガル皇帝の統治復活を宣言。
 1858、統一性を欠いたため、イギリスにより鎮圧。
  →ムガル帝国の滅亡、東インド会社の解散を招く。
231世界@名無史さん:2011/06/10(金) 23:20:35.31 0
>>204>>213
オスマン帝国の立憲制については、次の文献を参照。

新井政美『トルコ近現代史―イスラム国家から国民国家へ』 みすず書房 2001年。
粕谷元編『トルコにおける議会制の展開―オスマン帝国からトルコ共和国へ』 東洋文庫 2007年。

粕谷元編『トルコにおける議会制の展開』には、
オスマン帝国憲法と1924年のトルコ共和国憲法の日本語訳が載っている。
232世界@名無史さん:2011/06/10(金) 23:29:13.86 0
>>231さん、関連コメントありがとう。
アジア初の憲法制定、といっても、どんな憲法か、までは
なかなか知る機会がないですね。

さて、もうちょい、インドいきます。
233世界@名無史さん:2011/06/10(金) 23:32:31.96 0
イギリス領インド帝国
 1877、ヴィクトリア女王(>>87)がインド皇帝をかね、名実ともに成立。
 直轄領(British Provinces)と旧地方王権(藩王国)(Princely States)とからなる。
 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/British_india.png

 強圧的政策をやめ、「分割統治」(インド人の間に対立を醸し出す巧妙な
 政策)により支配。約500人の藩王の地位保証(間接統治の許容)。

 (補足・・・その後)
 ・1885、インド国民会議ができる。
 ・1905、ベンガル分割令でインド国民会議、反発。
 ・1906、親英の全インド・ムスリム連盟を発足させる(宗教的分断)。
 ・第1次世界大戦で、自治権を約束され、協力。
 ・1929、完全独立志向へ。1930、ガンジー、塩の行進。
 ・1947、インド、パキスタン独立。
 ・1948、セイロン、ビルマ独立。イギリス領インド帝国の完全消滅。
234世界@名無史さん:2011/06/11(土) 00:12:57.03 0
(補足)
イギリスの、インド周辺への進出
 ・1786、ペナン島(マレー半島北部)獲得。
 ・1796、セイロン島のコロンボ占拠。
 ・1814、英・蘭間でロンドン条約。マラッカ海峡に境界を引く。
      これにより、1811〜保有していたジャワを蘭に返還。
 ・1815、セイロン島の王権消滅、領有化。
 ・1819、ラッフルズ、シンガポールを買収。
 ・1824、英蘭協約。スマトラ島内植民地とマラッカ(半島南部)を交換。
 ・1824〜 アッサムに進出したミャンマーと衝突
 ・1826、海峡植民地の成立(ペナン島、マラッカ、シンガポール)
 ・1842、香港島獲得
 ・1870年代〜 港市支配から領域的支配に転換
 ・1886、ミャンマー征服、全土をインド帝国に併合
 ・1888、ブルネイ(ボルネオ島北部)占領
 ・1895、マレー半島南部4州で、マレー連合州(マレー連邦)を形成。
235世界@名無史さん:2011/06/11(土) 05:11:49.23 0
>>229 いえ、これくらいはまだまだ浅いでしょう。
でも、漫画インドの歴史などがあるわけでもないので、
インドについてはイメージがとにかく出てこないのが難点ですね。
講談社新書でしたか、各地方史が出てるんですが、
インド史だけが研究者の愚痴でおわるような最低な本だったのです。
編集は一体何をしていたのかと問い詰めたくなりました。

インド人が歴史に興味が無いのか、インドが多言語未統一国家群だったからか、
インド史の研究は出版時全く進んでいなかったようで、
中世史は、インドは国が替わっても代々三分されてました、だけでしたからね。
近代史に触れずに終わったのはシリーズの中でたしかあの本だけ。
誰か魅力的な人物でも紹介されればまだ取っ掛かりがあるんでしょうが。

願わくは、
インド近現代史が海からの英国と陸のアフガンからのグレートゲームで語られるように、
インド中世史もインド洋交易と遊牧民の侵入をからめて熱く語れればいいんですが、
恐らくはインドのイスラム化を如何に劇的に語れるかどうか、なのかもしれません。

以上、スレ違いスマソ。
236世界@名無史さん:2011/06/11(土) 07:57:20.08 0
>>235
うちも前近代の経済史や社会史に言及した本は世界歴史体系の古代インド編しか知らんな
それ以外のものはナントカ遺蹟の考古学的な分析がどうこうの話か、宗教思想の本
個人的にはカウティリヤの実利論なんかを詳しく考証してほしいのだが
237世界@名無史さん:2011/06/11(土) 08:04:50.29 0
>>230
セポイが叛乱に踏み切った直接の原因は
弾薬の薬莢に豚や牛の脂が塗られていたためだと言われている。
もともとインドにはヒンドゥー教徒が多かった上、中世になってからはイスラム教徒も増えた。
どこの軍隊でも薬莢は歯で噛み切るよう指示されているため
必然的に彼らは不浄なor神聖な動物の脂を口にせざるを得ない。
ただ、イギリス人がインド人を貶めるため意図的に入れたのかどうか、
そもそも本当に脂が塗られていたのかインド人の勘違いだったのかはわかっていない。

学研漫画などには必ず載っている話なので、もしかしたら余計なお世話だったかも。
238世界@名無史さん:2011/06/11(土) 08:09:29.69 0
>>226
インドでターバンを巻いているインド人は大半がシーク教徒。
彼らはあらゆる体毛を剃ってはならないという教義に従っているが、
前髪が伸びると邪魔なのでターバンで隠している。
普通のインド人の男性は帽子をかぶるか、何もしない。

日本だとインド料理屋などで客引きのためにわざとターバンを巻いている人もいる。
日本人でいうニンジャやゲイシャやサムライのコスプレと同じ感覚。
239世界@名無史さん:2011/06/11(土) 08:15:12.09 0
ちなみに今のインド首相のマンモハン・シンもシーク教徒。
テレビで見るとターバンを巻いて白い髭を生やしているのがわかる。
2004年からずっとお馴染みだが、最近は汚職がばれて失脚の可能性が出ている。
240世界@名無史さん:2011/06/11(土) 20:16:33.30 0
>>235さん>>236さん、関連コメントありがとう。
インド関連スレってあるのかな、と思って探したら、
けっこう人気スレでした。すみません。
インド史(879)
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1284389879/l50

そこに、面白いインド概略史が投稿されてました。
 ↓
4 :パオ兄さん ◆mEq.Fp/iL. :2010/09/14(火) 01:16:06 0
インドの歴史(概略)

@ドラビダ人がインダス文明を興す
Aアーリア人が北方から侵入してヒンズー教を広める&ドラビダ人を南方に追いやる
Bイスラム教徒が北方から侵入して支配層として居座る
Cイギリス人が来てインドを植民地にする
Dガンジーとかが独立運動を起こして独立する
Eイスラムが濃厚な地域とそれ以外の地域が分裂する(インド、パキスタン)

こんだけ色々あんだもの、複雑で当たり前だの。

ちなみに日本の歴史の場合↓

@神武天皇が大八嶋を統一して大和朝廷を興す(日本完成、現在に至る)
241世界@名無史さん:2011/06/11(土) 20:32:58.24 0
>>237さん、関連コメントありがとう。
周りは気にしてないけど、本人にとっては武力に訴えるほどの屈辱、
というケースですかね。
「何もそんなことで命まで落とすこともないんじゃない?」と周り
からは思えても、本人にとっては切実なのでしょう。
日本史だと、源三位頼政の挙兵とか、忠臣蔵とかですか?
(・・・ちょっと違いますか。)
暴発では結局は損(無駄死に)をする。
どちらの側(暴発する側、される側)であっても、気をつけないと
いけませんね。
242世界@名無史さん:2011/06/11(土) 20:39:26.19 0
>>238さん>>239さん、関連コメントありがとう。
首相になるということは、シーク教はもうインド社会に受け入れ
られているわけですね。
ターバンはシーク教徒の証ですか。今度、ターバンしてる人を見たら
ためしに「シーク教ですか?」と聞いてみます。
そんなこと考えてたら、ナン・カレーが食べたくなりました。
243世界@名無史さん:2011/06/11(土) 21:15:39.23 0
コンバウン朝
 (アラウンパヤー朝ともいう。(アラウンパヤー王創始))
 18c中頃ミャンマー(ビルマ)に成立。インド・アッサム地方に進出した
 ため、英と戦争になる。(ミャンマー戦争。1824以降3回。)
 この戦争で、英はミャンマーを征服、全土をインド帝国に併合。(1886)
244世界@名無史さん:2011/06/11(土) 21:27:18.99 0

以前、インド独立史みたいな本を読んだんですけど、
現地にかなり感情移入していてなかなかに熱い本でした。

インド独立の瞬間をみんな今か今かと待ち構えていた。
みなすでに感極まっていた。
だが、この感動すべき瞬間に大事な人がいない。どこにもいない。
ガンジーはヒンズームスリムの諍いを止めるため、
今もインド各地を説き回っているのだから・・・

「プラッシーの戦いから100年経ったからインドは独立する!」
(これは明らかに願望であって何の理屈も無いのがすごい(笑))
セポイの乱はインド初めての民族運動として高く評価されている。
最早インド人の独立への熱い思いをとめることは出来ない!
イギリスの目を潜り抜けるために伝令にはパン配達が使われた。
今こそインド独立のときという情報が
焼きたてのパンとともにインド各地に稲妻のように伝えられた!

とか、ところどころで妙に熱い本でした。

叛乱のほうはインド中央でしか広まらず、
藩王国などはイギリスに積極的に協力を申し出るとか、
インド人の支持を集められなかったのですが。

>>237 イギリスは誤解だと説明したけど、無駄だったみたいですね。

>>240 そこも中世史はあまり触れてなかったと思う。
245世界@名無史さん:2011/06/11(土) 21:57:18.08 0
>>244さん
100年おきに波乱があるので、覚えやすくていいですね。

では、さらに東へ進みますね。
246世界@名無史さん:2011/06/11(土) 22:03:53.24 0
ラッフルズ
 イギリス人。1819にシンガポールを買収。シンガポールの創設者。

 (補足)
 ・14歳で、東インド会社の職員に
 ・1805、ペナン島に赴任
 ・1811(30歳)、ジャワ遠征軍に参加、ジャワ準知事に。このとき、
    ボロブドゥール遺跡(8世紀末の石造仏教遺跡。世界遺産)を発見。
 ・1815、ジャワがオランダに返還。いったん帰国。
 ・1818、スマトラ植民地に準知事として赴任。シンガポールの重要性に
    目をつける。
 ・1819、ジョホール王国の内紛に乗じ、シンガポールを獲得。
 ・1822〜23、シンガポールで自由貿易港、植民地建設。
 ・1823、帰国。
 ・諸科学に興味を持ち、ジャングル調査を組織。
  世界最大の花「ラフレシア」、シンガポールの最高級ホテル
  「ラッフルズホテル」の名の由来。
247世界@名無史さん:2011/06/11(土) 22:20:06.29 0
オランダ領東インド
 現在のインドネシア共和国の領域の、オランダ植民地。

 1598、バンテン王国によってバンテンに商館を設置することを許可
 されたのが始まり。
 1942、日本軍侵攻により、350年のオランダ支配が実質的に終了。
 (1945〜49 インドネシア独立戦争。戦後、インドネシアの独立承認。)

 1799までの、オランダ東インド会社統治時代と、
 それ以降のオランダ本国の直接統治時代とに分けると、
 分かりやすい。
248世界@名無史さん:2011/06/11(土) 22:55:47.89 0
オランダ東インド会社(VOC)
 1602、東方貿易を一元化するため設立。世界初の株式会社。
  当初は香辛料貿易を目的とした。
  会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・
  植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、
  アジアでの交易や植民に従事。一大海上帝国を築く。

 1619、バンテン王国に警戒されたため、バンテン東方のジャカルタ
     を占領、バタヴィアと改称、本拠地を確立。
 1623、アンボイナ事件(イギリス勢力を東インドからしめだす)
 1624、台湾占領。ゼーランディア城建設→1661、鄭成功、台湾奪還

 1641、オランダ商館平戸から長崎出島に移転(1639日本の鎖国完成)
 1648、ウェストファリア条約(スペインがオランダの独立を承認)
 1652、ケープ植民地(南アフリカ)建設(・・・アジアへの中継地)
 1656、ポルトガル領コロンボ占領、ポルトガル勢力をセイロン島から追放

 1704、ジャワ戦争(1次:1704〜08、2次:19〜23、3次:49〜55)
     ジャワのマタラム王国を分裂・衰退させ、ジャワ島の大部分を領有。
 1752、バンテン王国を属国化
 1795、フランス軍、オランダ本国占領
 1799、その混乱の中、オランダ東インド会社解散
     (領土拡大のための莫大な戦費と放漫経営により経営悪化)
249世界@名無史さん:2011/06/11(土) 23:34:10.48 0
オランダ本国による東インド直接統治
 ・ナポレオン戦争後、東インドを無事にイギリスから返還される。
 ・1825-30 ジャワ戦争・・・オランダの暴政に対し、イスラム諸侯が
      指導したジャワ大反乱。
 ・1830 東インド総督ファン・デン・ボスにより、ジャワ全土に強制栽培
      制度実施。(さとうきび、コーヒー、藍、茶などの栽培を強制)
      欧州などへ転売し、莫大な利益をあげる。
 ・1860年代以降、国際競争力低下により、強制栽培制度順次縮小。
 ・1885、油田開発、採掘成功。ロイヤル・ダッチによる。
      (後のロイヤル・ダッチ・シェル(現、世界第2位の石油企業))
 ・1904 スマトラ島のアチェー王国を滅ぼし、東インド諸島はポルトガル領
      東ティモールを除き、すべてオランダ領に。
250世界@名無史さん:2011/06/12(日) 18:46:14.98 0
フィリピン
 1565にスペインの侵略開始、19c、さとうきび、タバコの栽培を強制

 (補記)
 フィリピン
 ・16世紀のスペイン皇太子フェリペにちなんだ国名。
 ・もともと現フィリピン領域である約7,000島全域の統一国家はなく、
  多数のイスラム小国が存在
 ・セブ島から領有開始(1565)、1571にはマニラ等北部の大半を支配。
  南部(ミンダナオ島など)への侵攻は18c以降。完全に支配できず。

 ・政教一致体制をとり、住民をローマ・カトリックに改宗。スペイン人の
  教区司祭が、信仰から行政に至るまで、絶大な権力をふるう。
 ・欧米勢力に対しては、鎖国政策を採用
 ・ガレオン貿易(ガレオン=帆船)の拠点として繁栄(マニラ・ガレオン)

                絹織物・陶磁器
   中国商船      ──→    ──→ 
 中国──→ マニラ (4ケ月) メキシコ  スペイン
              ←──
              メキシコ銀

  (パナマ地峡経由は、ジャングルとマラリアで不可。
   喜望峰・インド洋経由はオランダ制海権下で不可のため、
   太平洋岸のアカプルコ→陸路(山越え)→カリブ海岸のベラクルス
   →スペイン、というルートを採用。)   
             
 ・のち、ガレオン貿易衰退(1821メキシコ独立でマニラ・ガレオン終焉)、
  欧米の自由貿易圧力で、1834マニラ開港。
 ・開港により、商品作物栽培(砂糖・マニラ麻・タバコ)でプランテーション
  開発が進み、大土地所有制成立。
251世界@名無史さん:2011/06/12(日) 21:26:04.80 0
阮朝(ヴェトナム)
 1802、フランス人宣教師ピニョーの援助を受け、阮福映(嘉隆帝)が
     西山朝(1778〜)を倒して建国。
 1804、清朝より越南国王に封ぜられる。首都、ユエ(順化)
252世界@名無史さん:2011/06/12(日) 22:04:52.52 0
>>246-247
マレー海域が英・蘭の植民地となる時期に
マレー海域の地元住民が書いた記録としては以下を参照。

T.アブドゥッラー、中原道子訳『アブドゥッラー物語』(平凡社東洋文庫) 平凡社 1980年。
253世界@名無史さん:2011/06/12(日) 22:40:14.69 0
>>252さん、関連コメントありがとう。

客船に乗って、マラッカ海峡を船で(西から東へ)通過しながら、
だんだんと左右から迫ってくる陸地をながめつつ、
「左に英領マレー、右に蘭印スマトラ島」などと思い浮かべ、
また雄大な景色をながめる、なんてことができたら、楽しいでしょうね。
ここらへんは、『ムラカとジョージタウン、マラッカ海峡の歴史都市群』
として、世界遺産にも登録されていたのですね。

ではまたベトナムに戻ります。
254世界@名無史さん:2011/06/12(日) 22:43:53.07 0
仏越戦争
 1858、宣教師殺害を口実に、ナポレオン3世が出兵。
 1862、サイゴン条約によりキリスト教布教の自由、
     コーチシナ東部3州・サイゴンの割譲。
255世界@名無史さん:2011/06/12(日) 22:53:37.55 0
清仏戦争
 1863、仏、カンボジアを保護国化。
 1883、仏、ユエ条約により、ヴェトナムも保護国化。
     阮朝に帰順していた中国人天地会系私軍(黒旗軍)が抵抗。
 1884.8月、清仏戦争、開戦。 
 1885、休戦。天津条約により、清朝は仏のヴェトナム保護権を承認。
256世界@名無史さん:2011/06/12(日) 23:08:14.20 0
インドシナ連邦(仏領インドシナ)
 1887、仏によるコーチシナ、トンキン、アンナン(中部ヴェトナム)、
     カンボジアでの植民地形成。
 1899、ラオスも編入。
  http://www5c.biglobe.ne.jp/~vdg/pict_frenchindochina.gif

 (補足)
 カンボジア
 ・17c〜18c、タイやベトナムの侵略や干渉を受け、国内混乱。
 ・1863、フランスの保護国となる。
 ・1887、仏領インドシナに編入。
 ・1907、タイからアンコール付近の領土を奪回。

 ラオス
 ・19c、タイの支配下にあった。
 ・1893、ラオス王族はタイ対抗策としてフランスの保護国化を選ぶ。
 ・1899、仏領インドシナに編入。
257世界@名無史さん:2011/06/12(日) 23:30:16.59 0
ラーマ5世(チェラロンコーン大王)
 タイの独立維持と西欧的近代化につとめた。

 (補足)
 タイ王国
 ・1939までの正式国名は、シャム。

 ・タイ族による最初の国家、スコータイ王朝(1238年 - 1350年)。
 ・アユタヤー王朝(1350〜1767)
 ・1767、ビルマの侵入により、アユタヤー王朝滅亡。首都壊滅。
      国は6つに分裂。    
 ・1769、タークシン将軍、国を再統合。新首都トンブリー(バンコクの河上)。
      トンブリー王朝(1767〜82)。
 ・1782、チャックリー将軍(ラーマ1世)が引継ぐ。新首都バンコク建設。
      現在のチャクリー王朝(1782〜)成立。
 ・1826、英国がビルマに勝利、西欧植民地主義の脅威に晒され始める。

 ・東南アジアで唯一、植民地化を免れた理由
  @ラーマ4世(在1851-68)、ラーマ5世(在1868-1910)の外交手腕と、
   近代化改革(チャクリー改革)。
  A英・仏にはさまれた緩衝国であったこと。(周辺部の割譲)
 http://geibundo.sakura.ne.jp/sblo_files/mizuhonokuni/image/ThailandWithFlags.jpg
258世界@名無史さん:2011/06/13(月) 22:36:05.76 0
清朝
 満州族の征服王朝。最後の中国統一王朝。

 1616、建国(後金)(初代ヌルハチ。在1616〜26)首都盛京(現、瀋陽)
 1636、清と改称(第2代ホンタイジ。在1626〜43)
 1644、李自成の乱で、明滅亡。李自成を破り、北京に遷都。
 1661〜1722、第4代康熙帝。中国支配の確立。領土拡張。
 1689、ネルチンスク条約。東北部のロシア国境の確定。
 1735〜95、第6代乾隆帝。ジュンガル部を滅ぼし、最盛期へ。

領土拡大の推移(ちょっと見にくいですが・・・)
http://www007.upp.so-net.ne.jp/snakayam/image/topics_36.jpg
http://caukeq.blu.livefilestore.com/y1pxe5-kvStHP3DFvoWvd1bPhqqqGxQ5A_IhrI91nzt51B7G6E04M9-qBNA3fn6OKPIM9X2iJj6Pk6K4_YWx8pcmA/%e6%b8%85.JPG
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/5/5d/%E5%A4%A7%E6%B8%85%E5%B8%9D%E5%9B%BD%E9%A0%98%E5%9F%9F.PNG
259世界@名無史さん:2011/06/13(月) 22:55:51.41 0
【清朝の衰退過程】(概観)

  『乾隆帝時代の奢侈・大遠征→財政赤字拡大・官僚腐敗進む→繁栄に陰り』
  『人口増→土地不足→農民の貧困化・開墾による土地破壊→社会不安』
 1796〜1804、白蓮教徒の乱(四川中心)
 1840〜42、アヘン戦争→南京条約(香港割譲)
  『戦後の重税・清朝統治の不安感→民衆間で結社→反乱頻発』
 1851〜64、太平天国の乱
 1856〜60、アロー戦争→天津条約・北京条約(沿海州割譲)
 1884〜85、清仏戦争(ベトナム喪失)
 1894〜95、日清戦争(台湾割譲、朝鮮喪失)
  『キリスト教布教公認、列強の華北への進出→排外運動の激化』
 1900〜01、義和団事件→北京議定書
  『半植民地化、求心力を失う。革命勢力の清朝打倒運動広がる』
 1911、辛亥革命
 1912、中華民国建国、清滅亡
260世界@名無史さん:2011/06/14(火) 23:02:28.58 0
公行(こうこう、コホン)
 公州貿易を独占していた清朝特許商人。

(蛇足)
 広州
  ・唐代、アラブ商人が海路中国に至る中継地として発展(揚州・広州)
  ・宋代、東アジア民間交易活発化で繁栄(広州・泉州・明州(寧波))
  ・元代、広域交易網の中で陸路とともに海上貿易も発展
   (抗州・泉州・広州)
  ・14c半ば、元衰退、倭寇の活発化、明代に海禁政策。貿易停滞。

  ・1517、ポルトガルが広州で明と通商開始(1557、マカオ居住権獲得)
  ・1757より、広州のみが対外開放(欧米諸国と広東貿易)
  ・1842、南京条約で5港開港。(上海・寧波・福州・厦門(アモイ)・広州)
    広州の独占が崩れる。
  ・中華人民共和国成立後も対外貿易港として機能。対外経済開放政策
   採用後は、経済的に急速に発展。人口増で治安悪化し社会問題化。

  ・広東料理の中心地。
  ・広東省の省都。中国5大都市の一つ。(北京・上海・広州・天津・重慶)
  ・都市的地域の人口としては、中国で第4位。
   (ちなみに世界第1位は、なななんと、東京横浜でした・・・)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E7%9A%84%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E9%A0%86%E4%BD%8D

 広州、香港、マカオの位置関係
http://www.i-wanna-travel.com/map-china-hongkong21.gif

 なお、フランスが1899に租借した広州湾は、別の場所にある。
 (西に約500kmの距離。現、広東省湛江市。)
261世界@名無史さん:2011/06/14(火) 23:10:39.03 0
【訂正】
>>260の2行目
 × 公州貿易を独占していた清朝特許商人。
 ○ 広州貿易を独占していた清朝特許商人の組合。
    〜〜                     〜〜〜
「こう」州の「こう」に要注意! (広州、杭州、光州、甲州)
262世界@名無史さん:2011/06/14(火) 23:37:19.14 0
三角貿易
 イギリスの18c末〜19cの3地域間貿易。

〔それまで〕
    中国茶・陶磁器・絹
  イギリス←─── 中国
       ───→
         銀

〔三角貿易〕
      中国茶(のちに銀)
  イギリス←─── 中国
     ↓        ↑
綿製品 \       /アヘン
  など    インド
263世界@名無史さん:2011/06/15(水) 00:00:06.31 0
三角貿易前は、輸出(中国茶・陶磁器)ばかりして、銀を集めすぎて、
イギリスの怒りをかったか?
これって、戦後日本と似ていますね。

今日はあともうひとつだけ、いきます。
264世界@名無史さん:2011/06/15(水) 00:03:03.20 0
林則徐
 アヘン厳禁論者。欽差大臣(皇帝が臨時の権限を与えた大官)
 として広州に派遣。

 (補足)
 1939、イギリス人のアヘンをすべて没収。アヘン戦争勃発。
 イギリスの東洋艦隊が天津に現れ、狼狽した上層部により、
 解任、新疆へ左遷。
 太平天国の乱勃発後、欽差大臣に。任地に向かう途中病死。

 常に清廉潔白で私事を省みず、左遷されても常に国家の事を考え
 続けた姿は、後世の人間から強く尊敬されている。
265世界@名無史さん:2011/06/15(水) 01:00:09.80 0
>>263
っていうか売り物の無いイギリスが困ってアヘンに手を出した。
266世界@名無史さん:2011/06/15(水) 21:26:57.40 0
>>265さん、関連コメントありがとう。
林則徐は
「中国の商品を3倍にして転売して儲けているんだから、もう十分だろう。
それをさらに、そこまでして(人の害になるようなものを売りつけてまで)
儲けることはないじゃないか」
とイギリスに抗議文を送ったそうで。
イギリスは、欲張りすぎ?
267世界@名無史さん:2011/06/15(水) 21:37:41.07 0
現在はあたかもアヘン戦争がイギリスの侵略的な国策だったかのように言われているが、
アヘン貿易を妨害した中国に対して出兵するかどうかは実はイギリス議会でも紛糾した。
全てのアメリカ人がベトナム戦争やイラク戦争を支持したわけではないように、
全ての当時のイギリス人がアヘン戦争を支持したわけでもない。
中でも強硬に反戦論を唱えたのが>>88のグラッドストン。最終的に多数決で派兵が決まった。
268世界@名無史さん:2011/06/15(水) 23:01:28.26 0
>>267さんも、関連コメントありがとう。
イギリス本国でもアヘンは違法ではなかったようですね。(売買・使用規制なし)
グラッドストン自身も実はアヘン製剤の常用者であった、と聞いてさらにビックリ。

さて「中国近代史」というと、だいたいアヘン戦争から始まりますね。
今日は、そのアヘン戦争から。
269世界@名無史さん:2011/06/15(水) 23:03:58.09 0
アヘン戦争
 1840〜42。アヘン密貿易の取締りを強行した清国に対し、イギリスが
 行った侵略戦争。 

 (補足1)
 1839、林則徐が、アヘン密貿易の取締りを強行。
 1839.11月、これに対し、イギリスは清国船団を砲撃。
 その後、英東洋艦隊が天津沖に現れ、林則徐解任。
 1840.11月、香港割譲の要求を出し、清国拒否。
 1841.1月、艦隊攻撃開始。英、制海権を握る。
 1841.5月、英、広州に上陸。
  平英団事件(停戦協定の最中に、略奪・暴行事件をおこした英軍に
   怒って広州北郊の三元里の住民が自衛団(平英団)を組織して
   英軍を包囲攻撃。のち平英団解散。)発生。
 1842.8月、南京条約締結。
270世界@名無史さん:2011/06/15(水) 23:16:56.01 0
 (補足2)
 アヘン
 ・麻薬の一種で、ケシ(芥子)の実から生産される。
 ・脳内に作用し、酩酊・多幸感・幻覚などをもたらす。強力な依存性がある。
 ・紀元前3400年頃にはメソポタミアでケシの栽培。
  紀元前1500年頃にエジプトにてアヘン製造(鎮痛剤などの薬剤用)
  ローマ帝国時代、すでに鎮痛剤、睡眠剤として利用。一部遊興的使用も。
 ・中国では、三国時代アヘン使用(麻酔薬として)の記述が見つかるが、
  レクリエーション利用(→アヘン禍)は、清の時代になってから。
 ・以前は、東南アジアのタイ・ラオス・ミャンマーに跨る「黄金の三角地帯」で
  多く栽培されていたが、現在は、アヘンの94%はアフガニスタンで栽培
  されている。
271世界@名無史さん:2011/06/15(水) 23:24:31.40 0
>>268
ちなみに同じ頃を舞台にしたシャーロック・ホームズはモルヒネとコカインを愛用している。
272世界@名無史さん:2011/06/15(水) 23:36:07.58 0
>>271さん
その頃のアヘンなどの麻薬は、今でいえば、タバコみたいな
感覚だったのでしょうかね。
健康に悪いし、煙たがられるけど、店で売っている、という感じ。
273世界@名無史さん:2011/06/15(水) 23:39:40.95 0
南京条約
 1842。広州など5港の開港、公行の廃止、香港割譲を盛り込んだ、
 アヘン戦争の講和条約。

 1843、附属協定(虎門寨追加条約)により、領事裁判権・輸出入税率・
 通商章程・最恵国待遇条款などが規定された。(不平等条約)
 1844、同類の内容の望廈条約(米・清間)、黄埔条約(仏・清間)締結。
274世界@名無史さん:2011/06/15(水) 23:53:04.41 0
租界
 1845、イギリスが上海で開設したのが始まり。中国の開港場で外国の
 行政権が行使された地域。(行政自治権・治外法権)

 (補足)
 上海の共同租界やフランス租界が有名。

 租界・・・条約港の狭い区域、期限なし(永代使用)、借地料を地主に払う。
 租借地・・・広い地域、租借期限あり、借地料なし。領土と変わらない。

租借地と租界
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/sokai.html
275世界@名無史さん:2011/06/16(木) 00:04:33.28 0
>>272
モルヒネやコカインは健康に悪いと考えられていなかったんじゃないかな。ホームズは脳を活性化させる為に
注射してる。ホームズがロンドンのアヘン窟に潜入する話とかもあるからアヘンの害は判ってたろうけど。
微妙に違う話だけど戦中戦後の日本でも覚せい剤がヒロポンの商品名で市販されてたりする。
276世界@名無史さん:2011/06/16(木) 00:15:32.59 0
>>275さん
「脳を活性化」というのは、眠気覚ましと似たような感覚ですかね。
強力ミントのブラックガムを噛むようなものでしょうか。

では、今日の最後、いきますね。
277世界@名無史さん:2011/06/16(木) 00:24:22.00 0
魏源
 『海国図志』著者。林則徐の友人・ブレーン。

 海国図志
  1842初版。
  東アジアにおける初めての本格的な世界紹介書。林則徐が収集して
  いた英・米の情報を元に著作。「夷の長技を師とし以て夷を制す」
  100巻に及ぶ。清では無視されたが、日本でよく読まれた。
278世界@名無史さん:2011/06/16(木) 04:27:52.89 0

英国のアッサムでの茶栽培の成功は触れてもらえるかな?

シナ人の苦力や英国人の若者が、土地病で次々に死んで川に投げ込まれ続けたすえに
茶栽培に成功した英国は、シナよりも安価に茶を売りさばいて、
シナの茶経済(あらゆる段階に茶の中小業者がいた)を壊滅させたんだけど。


Amazon_co_jp: 茶の帝国―アッサムと日本から歴史の謎を解く アラン・マクファーレン, アイリス・マクファーレン, 鈴木 実佳 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4862850030/ref=sr_1_33?s=books&ie=UTF8&qid=1308165878&sr=1-33
279世界@名無史さん:2011/06/16(木) 21:35:36.96 0
>>278さん、関連コメントありがとう。
アッサム茶の歴史、ですか。ちょっと考えてませんでした。

そのかわりではありませんが、紅茶とはどんなものか、を調べていたら
産地・歴史・飲み方・香り・道具などを解説した面白いサイトがあり
ましたので、載せてみます。
(紅茶専門店セレクトショップの通販サイトなので、お好きな方だけ・・・)
http://www.verygoodtea.com/shop/tea02.html
280世界@名無史さん:2011/06/16(木) 23:00:16.07 0
太平天国の乱
 1850年におこった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の
 信仰で結束した組織「太平天国」によって起こされた。1864、鎮圧。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/3f/Taiping2.PNG
 
 (補足1)
 ・辮髪を切り、頭髪を伸ばしたため、清朝側からは「長髪族(髪匪)」
  とよばれた。纏足も廃止。
 ・南京占領直後に、土地公有・男女平等などの社会制度を公布。
  (天朝田畝制度)
 ・「滅満興漢」が太平天国の民族主義的スローガン
281世界@名無史さん:2011/06/16(木) 23:10:28.89 0
 (補足2)
 洪秀全
  広東省花県の客家(ハッカ)(=よそ者)出身。科挙に失敗。
  1847、太平天国の前身組織「拝上帝会(上帝会)」を広西省桂平県
  金田村に創設。(上帝ヤハウェを信仰する秘密結社) 

 太平天国の建国〜崩壊過程
  1851.1月、洪秀全、金田村で挙兵。国号=太平天国。 
  1853.3月、南京を陥落させ、天京と改称。王朝創立。(壮麗な宮殿)
     5月、北伐(北京攻略戦)に進むも、1855.3月、全滅。
  1856.4〜6月、清朝軍を壊滅させ、安定期へ。
  1856、内紛(天京事件)→弱体化へ
    (この間、清は、列強にアロー戦争(1857〜60)を仕掛けられる。)
                    ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  1858.5月、内紛を利用され攻撃を受け、天京包囲、風前の灯となるも
     反転攻勢に成功、息を吹き返す。
  1860、洪秀全の身内びいきに再度内紛化。軍の規律もゆるむ。
    (1860の北京条約で列強に有利な形で妥結すると、上海の租界
    防衛のため、列強は太平天国よりも清朝に肩入れを開始するよう
    になる。→外国人傭兵部隊=常勝軍設立)  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  1863、郷勇(清朝側義勇軍)の活躍で、天京孤立化、食料事情逼迫。
  1864.6月、洪秀全、栄養失調により病死。7月、天京陥落。
282世界@名無史さん:2011/06/16(木) 23:26:00.23 0
アロー戦争
 別名、第2次アヘン戦争。南京条約後、期待したほど綿製品の輸出が
 伸びなかったため、アロー号事件をきっかけに、戦争をひきおこす。
283世界@名無史さん:2011/06/16(木) 23:34:18.12 0
天津条約
 1858、英仏米露の各国がそれぞれ清国と条約締結。
284世界@名無史さん:2011/06/16(木) 23:41:50.48 0
北京条約
 天津条約の批准書を清が武力で阻止したため、英仏軍が1860北京占領。
 公使の北京在住、天津など11港の開港、キリスト教布教の自由などを
 締結。九龍半島南部(九竜市/Kowloon)がイギリスに割譲。
 ロシアは調停の報酬として、ウスリー江以東(沿海州)を獲得。
285世界@名無史さん:2011/06/16(木) 23:50:59.51 0
郷勇(きょうゆう)
 清末、地方官僚や郷紳(農村の支配層)が募集した臨時の義勇軍。
 曾国藩が組織した湖南省湘郷県の湘勇(湘軍)、
 李鴻章が組織した安徽省合肥県の淮勇(淮軍)などがある。
286世界@名無史さん:2011/06/16(木) 23:54:30.80 0
ウォード
 アメリカ人船員。常勝軍(太平天国平定のための欧米人指揮の
 中国義勇軍)を指揮。1862死。
 その後はゴードン(イギリス軍人)が常勝軍を指揮。
287世界@名無史さん:2011/06/17(金) 15:24:38.53 0
ガストでユキチカを注文すようなものだ
288世界@名無史さん:2011/06/17(金) 22:10:28.12 0
>>287さん
ちょっと分かりませんでした。
解説よろしく、です。
289世界@名無史さん:2011/06/17(金) 22:58:35.26 0
同治の中興
 同治帝の時代、一時的に内政・外交が安定。


          西太后(生1835〜死1908)
            ‖────I同治帝(咸豊帝唯一の男子。子を残さず死去)
.       ┌H咸豊帝      (生1856.在61-74)
.       │  (生1831.在50-61)
G道光帝─┼─恭親王エキキン
(生1782)  │          ┌J光緒帝(母=西太后の妹)
(在1820-50)└─醇親王エキケン┤ (生1871.在74-1908) 
.                  │          ┌K宣統帝(溥儀)(西太后指名)
.                   └醇親王サイホウ─┤   (生1906.在1908-12)
.                              └溥傑
290世界@名無史さん:2011/06/17(金) 23:17:50.62 0
洋務運動
 曾国藩、李鴻章、左宗棠ら漢人官僚が中心になり西洋の学問・技術を
 導入、富国強兵を進める。
291世界@名無史さん:2011/06/17(金) 23:30:49.79 0
中体西用論
 中国の学問・制度を本体とし、西洋の技術を利用して軍事を近代化
 すべしという主張。
 (西洋の思想や社会制度は導入しない)
292世界@名無史さん:2011/06/17(金) 23:48:13.46 0
左宗棠
 清末の政治家。曽国藩のもとで太平天国討伐に活躍。
 福州に造船所建設。洋務運動の先駆者となる。

 (補足)
 中国では「清代最後の大黒柱」と非常に高い評価を受けている。
 1872、曽国藩の死去後、李鴻章と対立。
 1884、清仏戦争で仏との和議成立させる。
 1885、福州で病死。
293世界@名無史さん:2011/06/18(土) 00:01:45.30 0
李鴻章
 清末の政治家。

 (補足)
 1823生まれ、1847科挙合格(進士)。
 1851、太平天国の乱時、曾国藩のもとで淮勇を組織、上海防衛に功績。
 1870、曽国藩の後を継ぎ、直隷総督に就任。北洋大臣兼務。
     西太后の信任を得る。 
 1873、輪船招商局、電報局、開平砿務局などを創設。(洋務運動推進)
 1884、清仏戦争で、早々と仏と講和し、左宗棠らに非難される。
 1894、日清戦争の開戦に反対の立場。
 1895、下関条約に調印。
   事実上、李鴻章個人の軍隊であった北洋軍が打撃を受けた事で
   戦後失脚。しかし反対派は弱体化していたため、政務奪還、復権。
 1896、ロシアに接近、露清密約で事実上満州をロシアに明け渡す。
 1900、義和団事変の際、再び全権を任され、諸外国と交渉。
 1901.9/7、辛丑条約を締結。
 1901.11/7、病死。
294世界@名無史さん:2011/06/18(土) 00:05:14.37 0
 (李鴻章についての蛇足)
 
 北京にいる列強外交団などは「東洋のビスマルク」とおだてた。
 日本の外務省などでは「夷人ころばしの名人」とも言った。

 香港貸与や台湾割譲の張本人として、現在は中国国内での評価は
 極めて低い。亡国の買弁とも呼ばれている。

 買弁(ばいべん)
  清朝末期の1800年代から1940年代にかけて、 欧米列強(銀行や
  商社)の対中進出や貿易を支援した中国人商人のこと。転じて、
  外国資本に追随し、自国の利益を損なうような行為や人物のことを
  指す。

 軟弱外交で中国を列強に売った売国奴と批判されることもあるが、
 やはり当時の中国で最高の視野と見識を備えた偉大な政治家で
 あったことは否定できない。
295世界@名無史さん:2011/06/18(土) 08:50:19.51 0
>>289
列強がヨーロッパ本土での騒動で多忙の為<イタリア、ドイツ等々
296世界@名無史さん:2011/06/18(土) 16:41:15.81 0
>>295さん、関連コメントありがとう。
ヨーロッパ情勢も平行して見ていかないといけませんね。同治の中興(1862-74)
 1860 イタリア統一(>>74-77
 1866 普墺戦争(>>82
 1870 普仏戦争(>>83

さて、今日は・・・
ついに来ました、われらが日本の近代史、です。
297世界@名無史さん:2011/06/18(土) 18:17:10.77 0
日本外交史略(19世紀まで)・・・いつも中国は師であり、お手本であった。

 中国との関係
 ↓
 ○ 後漢代、倭の奴国、光武帝より印綬を受ける。(57)(志賀島の金印)          (志賀島の金印)  『後(5)漢書の奴(7)国』
 ○ 魏代、邪馬台国卑弥呼、遣使(239)  
 ○ 隋・唐代、遣隋使・遣唐使(607、630〜894)
 × 唐代、白村江の戦い(663)
 ○ 宋(南宋)代、平清盛、日宋貿易で蓄財
 × 元代、元寇(1274、1281)
 ×/○ 明代、倭寇/足利義満、日本国王に冊封(1401)
     1543、ポルトガル人来航(ザビエルは1549)
 × 明代、秀吉軍朝鮮へ(文禄・慶長の役1592-98)
 ○ 徳川幕府成立(1603)
     1639、ポルトガル船、来航禁止(鎖国完成)
     1641、オランダ商館、出島へ
     1792、ラクスマン、根室来航/1804、レザノフ、長崎来航
     1853、黒船来航(ペリー)
     1854、日米和親条約/1858、日米修好通商条約
 × 明治維新(1868)
298世界@名無史さん:2011/06/18(土) 18:33:33.90 0
 (蛇足)
 語呂合わせ
  『後(5)漢書の奴(7)国』
  『卑弥呼に文来る(239)』
  『むされ(630)る夜にゲロ吐くよ(894)』
  『ろくろく見(663)ないで大敗北』
  『荷なし(274)の文永、荷は一杯(281)の弘安』
  『鉄砲は、いいご予算(1543)』
  『以後良く来る(1549)宣教師』
  『異国に(1592)以後来んな(1597)』
  『鎖国よい(39、41)』
  『異な国(1792)から来たラクスマン』
  『いやー惜しい(1804)レザノフ』
  『いやでござんす(1853)黒船来航』
299世界@名無史さん:2011/06/18(土) 18:56:14.49 0
日米和親条約
 1854、下田、箱館の開港などを盛り込んだ、日米間の条約。

 (補足)
 米国東インド艦隊司令長官のペリーと締結。神奈川条約ともいう。
300世界@名無史さん:2011/06/18(土) 19:05:07.13 0
日米修好通商条約
 1858、神奈川、兵庫、新潟、長崎の開港などを盛り込んだ、
     日米間の条約。

 (補足)
 ハリス初代駐日総領事と締結。領事裁判権(事実上の治外法権)・
 関税自主権の喪失が規定される。(不平等条約)
 アロー戦争で清を破った英仏艦隊がそのまま来航する、とのハリス
 の情報(脅迫?)に、井伊直弼が天皇の勅許を待たず調印。
 1860.3月の桜田門外の変につながる。
301世界@名無史さん:2011/06/18(土) 23:00:53.64 0
琉球
 14c後半 明に臣礼(朝貢)
      ・・・東シナ海交易圏と南シナ海交易圏を結ぶ中継貿易で繁栄。
 15c初(1429) 中山王が統一(琉球王国の成立)
 17c初(1609) 薩摩の島津氏の攻撃を受け服属(奄美割譲)。中国への
     朝貢は続き、「両属」の状態に。琉球文化が首里城を中心に形成。
 1853、那覇にペリーの黒船来航、開港を要求
 1854、琉米修好条約を締結、那覇開港
 1871、廃藩置県により鹿児島県の一部に。
 1872、琉球藩を設置、琉球国王を琉球藩王に。
 1879、琉球処分(明治政府による琉球領有)。王統支配終了。
     (中国への朝貢をやめさせ、琉球藩を廃して、沖縄県をおく)

 (蛇足)
 琉球国王だった尚家は、華族となり東京に在住。現在も存続している。
302世界@名無史さん:2011/06/18(土) 23:19:15.07 0
台湾出兵
 1871、琉球の船が台湾に漂着、乗組員が殺害
 1874、日本軍が台湾に出兵、事件発生地域を制圧

 (その後)
 李鴻章、パークス(駐日大使)の抗議を受け、大久保利通が北京で
 清国政府と交渉。清は日本に賠償金を払い、日本は征討軍を撤兵。
 この事件で、琉球の帰属が日本に有利に働く。
  ・1875、清との冊封・朝貢関係の廃止命令→清の抗議
  ・1879、琉球処分の際、分島改約案(沖縄本島を日本領、八重山諸島・
       宮古島を中国領とする案)を日本が提示するも、清は調印せず。
  ・日清戦争後に帰属問題解決。
303世界@名無史さん:2011/06/18(土) 23:58:09.89 0
明治維新後の日本
 ・富国強兵をめざし、工業や軍事の近代化促進
 ・1874 台湾出兵
 ・1875 樺太・千島交換条約
 ・1879 琉球領有
 ・1880 自由民権運動(明治新政府の藩閥専制政治に反対)
 ・1889 ドイツ憲法を模範とした大日本帝国憲法が発布
 ・1890 第1回帝国会議開催。(二院制議会の開設)
304世界@名無史さん:2011/06/23(木) 22:56:46.05 0
日本にきたところで、またアク禁。
でも今回は復帰、早かったです。

ではまた始めますね。
305世界@名無史さん:2011/06/23(木) 23:05:02.20 0
李氏朝鮮
 朝鮮の最後の統一王朝。1392〜1910。首都、漢城(ソウル)。
 特色
 @500年の儒教(=国教)道徳に基づく統治。
 A科挙の整備。
 B朱子学中心の文教政策のため、金属活字による図書文化が発展。
 C訓民正音(ハングル)の制定。

 李朝白磁(陶磁器)が有名。
 http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=&p=%E6%9D%8E%E6%9C%9D%E7%99%BD%E7%A3%81
 (↓「平野古陶軒」のサイト。東洋歴史年表もあり。)
 http://www.kotoken.co.jp/korea/choson/choson-index.html

 その前の高麗青磁は、さらに有名。
 http://image.search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&fr=&p=%E9%AB%98%E9%BA%97%E9%9D%92%E7%A3%81
306世界@名無史さん:2011/06/23(木) 23:35:12.34 0
 (補足) 
 李氏朝鮮史略(19世紀まで)
 1356、高麗、元から独立(紅巾賊侵入を撃退)(1368、明が中国に興る)
 1388、高麗の武将・李成桂によるクーデター
 1392、李成桂、高麗の王位を廃し成立。国号「朝鮮」。
 1419、応永の外寇(対馬への遠征)→対馬国の奮戦で退却
     (この頃、朝鮮北東部(ロシアとの国境付近)を女真から奪還。)
 1592-98、文禄・慶長の役(倭乱)→1609日本と和約(朝鮮通信使)
 1627、1636、後金(のち清)の侵入(胡乱)→屈辱的内容で講和
     以後、清に対する服属関係(冊封体制)、日清戦争まで継続。
 1805-1863 安東金氏による勢道政治(外戚専横)。
     王権弱体化、混乱。政治綱紀が乱れ汚職・収奪などが横行。
     農民反乱頻発。
 1811-12、洪景来の乱(農民+没落両班+新興地主を巻き込む)
 1845、英海軍、済州島附近に侵入。(西洋列強の干渉の始まり)
 1863、高宗即位(11歳)、父の大院君が摂政に。安東金氏勢力追放。
 1866-72、カトリック弾圧(大院君による強硬な鎖国攘夷策の実施)
 1866、仏軍の侵入撃退。 1871、米軍の侵入撃退。
 1873、閔妃一派による宮中クーデター。高宗の親政化、大院君追放。
 1875、日本軍が開国を求め江華島侵入。(江華島事件)
 1876、開国派主流の閔氏政権、日朝修好条規(江華島条約)を締結。
     続いて、米国、フランス、ロシアとも通商条約を締結。    
 1882、壬午事変。日本公使館の焼き討ち。日本人多数殺害。
     →事件後日本への謝罪、日本軍朝鮮駐留容認。
     事件後、閔氏政権は、親日開明政策から、親清政策へ転換。
     親日開化派は孤立化へ。
 1884、金玉均ら開化派(独立党)のクーデター。閔氏を排した新政府を
     樹立。→清軍(袁世凱)の介入で3日で頓挫(甲申政変)。
 1885、英軍、巨文島を占領(対露策、第2の香港をめざす)
      →各国(ロシア、清、朝鮮)の強硬な反対により1887退去。
 1894、東学党の乱(甲午農民戦争)
307世界@名無史さん:2011/06/23(木) 23:45:00.10 0
江華島事件
 1875、朝鮮沿岸で挑発的な軍事演習や測量を実施、朝鮮軍の砲撃を受ける。
 この事件を契機に、1876、日朝修好条規(江華条約)締結。
 釜山、元山、仁川の開港、領事裁判権など認めさせる不平等条約。
308世界@名無史さん:2011/06/23(木) 23:50:39.24 0
大院君(李是応)
 李朝26代高宗の父。鎖国攘夷政策を推進。1873、閔氏(王妃一族)に
 より引退させられる。
309世界@名無史さん:2011/06/23(木) 23:57:51.06 0
金玉均(きんぎょくきん)
 事大党(閔氏中心の守旧保守派)に対抗して作られた、独立党の
 中心人物。日本と結んで国政改革を図ろうとした開化派。
 1884、甲申の政変(甲申事変)で失脚。

 「金玉 均」でなく「金 玉均」なんてジョーク、ありましたね
310世界@名無史さん:2011/06/24(金) 22:16:58.02 0
東学党の乱(甲午農民戦争)
 東学(1860頃、崔済愚が創始)信徒がおこした反乱。指導者は
 全ほう準(ぜんほうじゅん)

 鎮圧のため李朝政府は清国に派兵を要請、日本も出兵して
 乱は鎮圧されたが、日清戦争を誘発する結果を招いた。
311世界@名無史さん:2011/06/24(金) 22:24:34.59 0
日清戦争
 1894-95。朝鮮の支配権をめぐって日本と清国との間で起こった戦争。
 下関にて講和。(下関条約)
312世界@名無史さん:2011/06/24(金) 22:48:44.14 0
日清戦争、2行だけでは味気ないので・・・

 (補記)
 日清戦争の経過@
 1894
  6月、甲午農民戦争をきっかけに、両国が朝鮮に出兵。
  7/23 漢城の電線切断、朝鮮王宮占領、大院君復帰。 
  7/25 豊島沖海戦 高陞号事件(英国籍船撃沈)
  7/29 成歓の戦い(牙山の清軍と対決)
  8/1 宣戦布告
  9/15 平壌攻略戦
  9/16 黄海海戦→日本が制海権をほぼ掌握
  10/24 鴨緑江渡河/遼東半島上陸の開始
  11/6 金州城攻略成功
  11/21 旅順要塞占領
  12/13 海城占領(遼東半島のつけね、交通の要所)
313世界@名無史さん:2011/06/24(金) 22:52:12.94 0
 (補記)
 日清戦争の経過A
 1895
  2/2 威海衛陸上側を無血占領(山東作戦)
  2/10 戦艦定遠、損傷を受け鹵獲を避けるために自沈
  2/11 北洋艦隊の提督丁汝昌、降伏を拒み服毒自殺
  2/14 威海衛の両軍合意、 2/17 清の将兵を解放
  2/17 戦艦鎮遠、威海衛にて鹵獲(→のち日露戦争にも参加)
  3月上旬 遼河平原作戦完了。遼東半島全域を占領
  3/19 李鴻章、門司に到着(3/24暴漢に狙撃)
  3/26 澎湖列島(馬公湾が天然の良港)を占領
  4/17 日清講和条約(下関条約)調印(5/8発効)
  4/23 ロシア、仏・独とともに遼東半島還付を要求(三国干渉)
  5/4 英米が局外中立の立場をとったこともあり、返還決定
  5/29 割譲された台湾に上陸
  8/6 台湾に軍政導入
  11/18 台湾全島平定
 1896
  3/31 台湾、軍政から民政へ移行
314世界@名無史さん:2011/06/25(土) 11:21:49.92 0
下関条約
 ・朝鮮の独立
   (李氏朝鮮は清の冊封体制から離脱して大韓帝国となる)
 ・遼東半島・台湾・澎湖諸島の割譲
 ・賠償金の支払い(2億テール)
   (現在価値8,950億円。当時の日本の国家予算の4倍強)
 ・通商上の特権付与(最恵国待遇)
 ・開港場での企業の設立(他の列強も最恵国待遇により、この権利を獲得)

 →日本、大陸侵略の足場を築く→南下するロシアとの対立深まる
315世界@名無史さん:2011/06/25(土) 18:32:50.04 0
ロシアの領土拡張

      〔北欧・東欧〕      〔中東〕       〔シベリア〕    〔アラスカ〕
    1480、モスクワ大公国(イヴァン3世)、
    東北ロシア統一、モンゴル支配から脱却
1533-84 イヴァン4世(雷帝)、領土拡大、南ロシアへ。コサック首長の
      イェルマークが占領したシベリアも領土に組入れ。(アジア進出開始)
    1613、ロマノフ朝成立
1682-1725 ピョートル1世(大帝)・・・・・・シベリア経営を進める。
                       1689ネルチンスク条約(スタノヴォイ山脈)
             オスマン帝国圧迫、アゾフ海に進出
1700-21北方戦争でスウェーデンを破る        
   (バルト海の覇者、北方の大国へ) 1727キャフタ条約(清とのモンゴル国境)
                    1725-41ベーリング、東シベリア・アラスカ探検
1750以降 エカチェリーナ2世・・・クリミヤ半島を奪う・・・・オホーツク海まで進出
1772,93,95ポーランド分割              (日本にラクスマンを送る1792)
1812 ナポレオン、モスクワ遠征
           1826トルコマンチャーイ条約(>>209)アルメニア獲得
1850〜       1853-56クリミヤ戦争    
                  東シベリア総督ムラヴィヨフ、中国への圧力強化
                        1858アイグン条約(黒竜江以北)
                        1860北京条約(沿海州)
                         →ウラジヴォストーク開港
                                     1867アラスカ売却
                1870頃、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドの   
                3ハン国を支配下に(現ウズベキスタン) 
                              1875樺太・千島交換条約
           1877露土戦争    1881イリ条約(清との中央アジア国境) 
316世界@名無史さん:2011/06/25(土) 19:25:41.57 0
ベーリング
 デンマーク出身のロシアの探検家。ピョートル1世の命で、シベリア
 東海岸を探検。カムチャツカ半島、アラスカ南岸、アリューシャン列島、
 コマンドル諸島、千島列島など、続々と探検、発見。(1725〜1741)
 1728、シベリアとアラスカが陸続きでない事を確認。
 両大陸の海峡は、後にベーリング海峡と命名。

 (補記)
 陸続きでないことに最初に気づいたのは、ロシアの探検家、セミヨン・デジニョフ(1648)。

 ベーリング海峡
  長さ96km、最狭部86km。7月から10月以外の間は結氷状態になる。
  海峡のちょうど真ん中あたりに、ダイオミード諸島があり、
   西側に、ビッグダイオミード島・・・ロシア領
   東側に、リトルダイオミード島・・・米国領(アラスカ州)
  島の間は3.7kmで、両島の中間点を国境と日付変更線が通っている。
  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0e/BeringSt-close-VE.jpg
317世界@名無史さん:2011/06/25(土) 20:54:29.32 0
ラクスマン
 ロシア軍人。1792、日本の漂流民を連れて、根室にやってきた。
318世界@名無史さん:2011/06/25(土) 20:58:02.49 0
現代史の超お奨めは、『CIA秘録』ティム・ワイナー(文藝春秋)。
ピュリッツアー受賞のニューヨーク・タイムズ記者の力作。
日頃、CIAの下部組織である、クソバカ日本右翼の嫌がらせに
腹立たしい思いをしている諸兄には、CIAのマヌケぶり満載なので、
腹を抱えながら、酸欠になりつつ、読み進めることができる。
歴史は過去を知らないと現代も分からない。
過去はユダヤ人が書いた古代史が良く、ユダヤ人迫害の真意が分かると現代史も見えてくる。
ピュリッツアー賞作家であるJ・A・ミッチェナーの小説『人間の歴史』は、
ひとつの泉のある場所に注目した、古代から近代までの変遷だ。
小説であるから、暗記科目のような飽きやすさを感じることもなく、歴史に親しめる。
日本人には宗教観が無いのだが、このような小説により、一神教とは何かを知ることができる。
また、ユダヤ人が書いたエジプトの一神教ファラオの真実である、
『出エジプト記の秘密』は絶品で、歴史上最初の対戦であるカデシュの戦いの意味も見えてくる。
つまり、古代は現代なのだ。カデシュの戦いもイラク戦争も同じってこと。
319世界@名無史さん:2011/06/25(土) 20:59:34.28 0
ムラヴィヨフ
 初代東シベリア総督。(1847、ニコライ1世が設置。東シベリアの統治権・外交権を付与)
 武力でアムール川地域を占領、アイグン、北京条約の交渉で活躍。
320世界@名無史さん:2011/06/25(土) 21:16:59.66 0
>>318さん、アドバイスありがとう。
CIA、ユダヤ人迫害、は現代史のキーワードですね。
今後、ここに挙げられるべき項目でしょう。
それから、世界史を理解するうえでは、一神教を含む宗教を
知ることは、必須なのでしょうね。
321世界@名無史さん:2011/06/25(土) 21:30:49.77 0
アイグン(愛琿)条約
 1858、太平天国の乱や英仏との紛争に苦しんでいた清朝とロシアとの
  間で締結。黒竜江以北がロシア領となる。
322世界@名無史さん:2011/06/25(土) 21:37:25.47 0
樺太・千島交換条約
 1875、日本とロシア間で成立。樺太全島をロシア領とし、ウルップ島以北
  のロシア領千島を含む千島全島を日本領とする。

 (蛇足)
 台湾出兵(1874)、江華島事件(1875)など西の方が忙しくて、北の方は
 譲歩せざるをえなかった?
323世界@名無史さん:2011/06/25(土) 21:44:08.97 0
イリ条約
 1871、東トルキスタンのイスラム教徒反乱
 1875、新疆省イリでおこった、ロシアと清国の紛争の結果、
 1881、ペテルブルクでこの条約が締結。

 (補足) 
 当時としては珍しく清朝有利に国境の画定が行なわれ、清の
 対露賠償、通商協定などを決めて妥協が成立した。
324世界@名無史さん:2011/06/25(土) 22:03:49.76 0
 (蛇足)
 イリ・カザフ自治州
  中国、新疆ウイグル自治区北部に位置する、カザフ族の副省級自治州。
  州都=グルジャ(伊寧)市。面積27万km²(日本は37万km²)、人口410万人。
  民族構成、カザフ族25.5%、漢族45.2%、ウイグル族15.9%。

 イリの歴史
  1211、モンゴル帝国下、チャガダイ・ハン国に編入。
  1677、オイラト・モンゴルのジュンガル部が新疆に南下(イリ地方が中心)
  1755、清朝とジュンガル部の戦い後、清朝により征服。
      新疆の政治、軍事の中心となった。
  1871、東トルキスタンのイスラーム教徒の清朝に対する反乱に乗じ
     ロシアが占領。(イリ事件)
  1878、清により鎮圧、ロシアの撤退を求め紛争
  1881、イリ条約 
325世界@名無史さん:2011/06/26(日) 14:48:14.06 0

    || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
    ||19世紀末〜20世紀初頭         ||
    ||                       || 
    || 第2次産業革命┐ヨーロッパ       .||
    ||           ├大繁栄 。   Λ_Λ  ベルエポック
    || 帝国主義.    ┘      \ (゚ー゚*)  (すばらしい時代)
    ||______________⊂⊂ |  ってやつネ
  ∧ ∧    ∧ ∧    ∧ ∧    | ̄ ̄ ̄ ̄|
  (  ∧ ∧ (   ∧ ∧ (  ∧ ∧ |      |
〜(_(  ∧ ∧ __(  ∧ ∧__(   ∧ ∧ ̄ ̄ ̄
  〜(_(  ∧ ∧_(  ∧ ∧_(   ∧ ∧  
    〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)
      〜(___ノ  〜(___ノ   〜(___ノ
326世界@名無史さん:2011/06/26(日) 18:25:27.22 0
第2次産業革命
 (第1次)産業革命(英)・・・石炭・蒸気力を利用、軽工業・製鉄業。
     ↓
 第2次産業革命(独・米)
   ・・・石油・電力を利用、重化学工業・電機工業・非鉄金属部門。
   巨額の資本が必要となり、企業の集中化が進む(自由競争の原則が喪失)
   →銀行(資本提供)と結びついた少数の巨大企業が市場を支配。

 社会的影響
   工業労働者数の増大→都市化進展
   農業・中小企業の圧迫→生活基盤や環境が激変
    ・・・米国への移民急増(19c後半西欧・北欧、20c東欧・南欧より移民)
327世界@名無史さん:2011/06/26(日) 18:50:09.54 0
 (蛇足)  
 非鉄金属
  鉄以外の金属。銅・アルミニウム・亜鉛・鉛・錫(すず)・ニッケルなど。

 (蛇足の補足)
  鉄以外の金属の生産総量が鉄鋼の生産量に比べ圧倒的に少ないために、
  便宜的に「非鉄金属」という名称を与えて1つのグループにまとめたもの。
  科学的な特性での分類ではないので、科学分野では余り用いられない
  用語である。
   ・軽金属・・・アルミニウム、マグネシウム、リチウム、チタン等
   ・ベースメタル・・・銅、スズ、亜鉛、鉛
   ・レアメタル・・・ニッケル、クロム、マンガン、タングステン等
   ・レアアース・・・セリウム、ネオジム
   ・貴金属・・・金、銀、プラチナ
328世界@名無史さん:2011/06/26(日) 19:09:17.33 0
 (蛇足の2)
 アルミニウム(アルミ)
  ・硼素(ほう素)族元素の一。元素記号Al、原子番号13。
  ・銀白色の軟らかく軽い金属で、展延性に富み、熱・電気の良導体。
  ・アルミノ珪酸塩(多くの岩石の主成分で、雲母・長石・沸石などとして
   広く分布。)として岩石・土壌中に存在する。
  ・ボーキサイト→アルミナ(酸化アルミニウム)→電気分解→アルミニウム
  ・日用品・建築材・電線・軽合金材料など用途は広く、非常に生活に身近
   な金属である。
    100%アルミニウム・・・一円硬貨
    アルミ合金・・・アルミ箔、アルミ缶、アルミサッシ、自転車フレーム、
     アルミホイール、ジュラルミン(航空機材料)、鉄道車両(アルミ車体)

  (アルミニウムの歴史)
  ・1807、ハンフリー・デービー(英)、アルミナから、未知の元素と鉄の合金
   を得る。その新元素を「アルミウムAlumium」と名づけた。
  ・1825、エルステッド(デンマーク)、アルミニウムの単離に成功(不純物多し)
  ・1827、ヴェーラー(独)、純粋アルミニウムの取り出し(単離)(アルミニウム
    の発見者とも称される。ケイ素、ベリリウムも発見した。)
  ・1846、ドビーユ(仏)、新還元法、電解法開発。
  ・20世紀中頃〜後半、発電効率化→大規模電気精錬での大量生産可能へ。
329世界@名無史さん:2011/06/26(日) 21:00:18.36 0
企業の集中・独占の形成
 ・カルテル・・・各々独立する同一種企業の協定→競争を排除
 ・トラスト・・・一企業に、多数の企業が独自性を失って結合
 ・コンツェルン・・・同一系統の資本により支配される企業集団
330世界@名無史さん:2011/06/27(月) 22:27:03.94 0
帝国主義
 19世紀末期、独占段階に達した先進資本主義国家がおこした、領土や
 植民地の獲得運動
331世界@名無史さん:2011/06/27(月) 22:37:41.52 0
なぜ帝国主義(植民地獲得競争)に至ったのか

 〔1〕もうかるから(植民地の再評価(重要性の見直し))
   1.(もうけup)将来の資源供給地
   2.(もうけup)将来の輸出市場
   3.(コスト↓)交通・通信手段の発達(支配継続コスト)
   4.(コスト↓)それまでの植民地支配のノウハウ蓄積
 〔2〕早い者勝ち(列強間の競争)
   地球(領土となる土地)が有限であることが探検により判明し、空白地に殺到。
 〔3〕力もある(圧倒的軍事力の差)
   力がないと、植民地の制圧や支配の継続もできない。
 〔4〕西洋近代文明の優越意識・他文化への軽視
   「野蛮国は西洋のいずれかの国が管理しなければならない」的考え
332世界@名無史さん:2011/06/27(月) 23:20:33.35 0
レセップス
 スエズ運河の建設を完成(1869)させたフランス人。

 (蛇足)
          全長          幅  完成  通過所要時間 
 スエズ運河 193km(当初164km) 205m 1869 11〜16時間(低速航行させる)
          閘門(こうもん)がない(地中海〜紅海まで平面)
 パナマ運河 80km          200m 1914   24時間(待ち時間含め)
          閘門方式(中央部に海抜26mのガトゥン湖が存在)
333世界@名無史さん:2011/06/27(月) 23:30:28.15 0
ディズレーリ
 イギリス首相。
 国際スエズ運河(株)の財政難につけこみ、会社の支配権を獲得(1875)。
 インド帝国の成立に手腕を発揮(>>233)。
334世界@名無史さん:2011/06/27(月) 23:34:47.51 0
アラービーの反乱
 1881、エジプトで英仏の介入に反抗しておこった独立運動・反乱。
 イギリス軍に鎮圧され、エジプトは、イギリスの保護国化。
335世界@名無史さん:2011/06/28(火) 22:50:05.16 0
フランスのアフリカ進出
 ・アルジェリア 1830シャルル10世占領。
 ・チュニジア 1878ベルリン会議でフランス支配確定→のち保護国化
 ・サハラ砂漠 19c末、フランス支配が進む。
 ・マダカスカル島 19c末、フランスが進出、領有。

 フランス植民地の地図
 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/09/131Etendue_de_l%27Empire_Fran%C3%A7ais.png
 水色=最初の植民地。青=第二の植民地(薄い青=勢力圏)
336世界@名無史さん:2011/06/28(火) 23:26:05.04 0
ファショダ事件
 ・仏・・・アフリカ横断政策(サハラ砂漠〜ジプチ)
 ・英・・・アフリカ縦断政策(エジプト〜ケープ植民地)
 この2政策が、1898、ナイル河畔で衝突。
 事件後、両国協定により、英のスーダン支配権が事実上確立。

 (補足)
 ファショダ村(スーダン南部・ナイル川沿い)にフランス国旗が立っていたのを、
 南下したイギリスが見つけ、軍事衝突寸前に。本国交渉に移り、もつれたが、
 ドイツ帝国の進展に直面し、1904英仏協商で決着。これを契機に英仏が接近。
337世界@名無史さん:2011/06/29(水) 23:59:37.15 0
イギリスのアフリカ進出
 ・ケープ植民地、1795と1806にオランダ領を占領(ナポレオン戦争時)
 ・スエズ運河、1875乗っ取り
 ・エジプト、1881アラービーの反乱を契機に保護国化
 ・スーダン、ファショダ事件(1898)・英仏協商(1904)により支配確定
 ・南ア戦争でトランスヴァール、オレンジの両国を併合、南アフリカ連邦設立
 ・19c末〜20c初頭、ガーナ・ケニア・タンザニア・ナイジェリアなど植民地化

 アフリカの分割(1898)
 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/43/Africa1898.png
 イギリスの植民地の変遷(1492〜2007を、約1分半で)
 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/British_Empire_evolution3.gif
338世界@名無史さん:2011/06/30(木) 00:04:37.34 0
南ア戦争(南アフリカ戦争、ブール戦争)
 ケープタウンを中心とするケープ植民地(17c中頃オランダ植民地、1814英領)
 の北東に、オランダ系植民者(ブール人(ボーア人))が、トランスヴァール共和国、
 オレンジ自由国を建設。この2国に対する、英の侵略戦争をいう。
 戦争後、広大な英の自治領(南アフリカ連邦)が成立。
339世界@名無史さん:2011/06/30(木) 00:10:22.74 0
 (補足)
 南アフリカ
  1652〜1806 オランダ領
  1806、英、ケープ植民地を占領
  1837、ボーア人(ケープ入植者オランダ系住民約13,000人)、
      英支配を嫌い、北方へ大移動、ナタール共和国建国(1839)。
  1842、ナタール共和国、英に滅ぼされる   
  1852、トランスバール共和国建国
  1854、オレンジ自由国建国
  1886、金鉱・ダイヤモンド鉱が発見され、ドイツとの連合を恐れた英が、
  1902、2回の南アフリカ戦争で、両国を併合。
  1910、4州(ケープ、ナタール、トランスバール、オレンジ自由州)
      を合わせて、南アフリカ連邦を創設。
  http://img.blogs.yahoo.co.jp/ybi/1/a6/11/matibitott2004/folder/807013/img_807013_21732466_1?1204801005
340世界@名無史さん:2011/06/30(木) 00:23:24.57 0
 (補足の2)
 トランスヴァール共和国(「ヴァール川のむこう」を意味)
  1830年代、ボーア人、内陸集団移動開始、ヴァール川北方に拠点。
  1852、ケープ植民地との武力闘争を経て、サンドリバー協定により、
      共和国が成立。首都プレトリア。
  1877、イギリスにより一時的に併合、1881、プレトリア協定で独立回復。
  1886、金鉱脈、ヨハネスブルグの近郊で発見。急速な発展へ。
  1899、帝国主義的野心をもったイギリスの侵略(ボーア戦争)
  1902、敗戦、イギリスの直轄植民地へ。(フェリーニヒング条約)
  1906、イギリスは、ボーア人と関係改善をはかり、自治政府樹立。
  1910、南アフリカ連邦を構成する州のひとつに。

 オレンジ自由国
  ・オレンジ川とヴァール川に挟まれた地域
   (オレンジ川という呼称は、オランダ王家のオラニエ=ナッサウ家に由来)
  ・首都 ブルームフォンテーン
  ・1854建国、1902イギリスの植民地となる。
  ・1910、南アフリカ連邦を構成する州のひとつに。
341世界@名無史さん:2011/06/30(木) 00:39:28.66 0
セシル・ローズ
 ケープ植民地首相(1890〜96)。帝国主義政策を進める。ローデシアを開拓。

 南アフリカの政治・経済の実権を一手に握り、その威風は帝王を思わせ
 「アフリカのナポレオン」と呼ばれた。

 (補足)
 北ローデシア・・・1964、ザンビアとして独立
 南ローデシア・・・1965独立(少数白人政権)、1980ジンバブエと改称。
342世界@名無史さん:2011/06/30(木) 00:48:46.16 0
 (蛇足)
 デビアス De Beers
  ・ダイヤモンドの採鉱・流通・加工・卸売会社。資源メジャーのひとつ。
  ・本社、ヨハネスブルグ
  ・1888、チャールズ・D・ラッドと、セシル・ローズが設立。
    (成功したセシル・ローズは、経済力をバックに政界へも進出。)
  ・オレンジ川とバール川が合流する、ヴールイトツィヒト付近で
   ダイヤモンドが発見された。そこの農場の所有者の名前に由来。
  ・ドイツ系のユダヤ人オッペンハイマー、1930会長に。
  ・現在、ダイヤモンド産業を支配(生産〜販売、価格統制)。
  ・価格の人工的統制を行うことで、価値とイメージを安定させている。
  (なお、現在、宝飾品レベルでのダイヤモンドは人工的に合成可能。)
343世界@名無史さん:2011/07/01(金) 00:06:59.23 0
ドイツのアフリカ進出
 ・1884〜85ベルリン会議 アフリカ分割協定のため、ビスマルクが開催。
 ・カメルーン、南西アフリカ植民地、東アフリカ植民地などを領有。
 ・これらの地域は経済的価値に乏しく、新たな植民地獲得をめざした。
  (→モロッコ事件に繋がる。)
344世界@名無史さん:2011/07/01(金) 00:15:39.80 0
 (補足)
 カメルーン(1884-1918)
  現カメルーンの2倍の領土があった。農業と象牙交易が主の目的。
  1次大戦後、4/5が仏領、1/5(西側ナイジェリア隣接地)が英領に。
  1960、仏領カメルーン独立。(1961南部英領カメルーン合同)
  サッカーが盛んで、ワールドカップでアフリカ勢初のベスト8まで進む。
  日韓大会のとき、大分県中津江村でキャンプし、交流が続いている。

 南西アフリカ植民地(1884-1915)
  ドイツ人が多数移住した唯一のドイツ植民地。(約1万人)
  ダイヤモンド・石炭採掘、農地開墾が目的。
  1915、南アフリカ連邦に占領され、1次大戦後、南アの委任統治領に。
  1990、ナミビアとして独立。
  現在もドイツ人移民子孫が暮らし、ドイツ系の建物、事業が存在する。
345世界@名無史さん:2011/07/01(金) 00:21:17.67 0
 (補足2)
 東アフリカ植民地(1885-1918)
  ヨーロッパ入植者よりは、現地アフリカ人による農業開発政策。
  1次大戦後、
   西側・・・ベルギー領(ルアンダ=ウルンディ(後のルワンダとブルンジ))
   南側・・・ポルトガル領(後のモザンビークの一部)
   残り・・・英領(タンガニーカ(1961に独立、1964に島嶼部のザンジバル
       と合併、タンザニア連合共和国となる。))

  タンザニアは、世界31位の広さ。(エジプト、ナイジェリアと同規模)
  公用語スワヒリ語(アフリカ在来言語)、大自然に恵まれる。
   ・キリマンジャロ山(5,895m、アフリカ最高峰)
   ・ビクトリア湖(アフリカ最大)
   ・タンガニーカ湖(アフリカ最深)
   ・その南のニアサ湖とで、アフリカ三大湖を形成。
   http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/28/Tz-map.png

 トーゴ(トーゴラント)(1884-1918)  
  1次大戦後、
   東側・・・仏領→1960トーゴとして独立
   西側・・・英領→1957英領ゴールドコースト独立時に合流、ガーナとなる。
346世界@名無史さん:2011/07/02(土) 00:20:43.69 0
イタリアのアフリカ進出
 1880年代、ソマリランド、エリトリアを獲得
 1896、エチオピアに侵入するも、アドワの戦いで敗れ、後退。
 1911〜12、イタリア・トルコ戦争をおこし、リビア(トリポリ、キレナイカ)
      をオスマン帝国から奪う。 

 植民地獲得に出遅れたため、空白地帯を狙い、進出・獲得。
347世界@名無史さん:2011/07/02(土) 00:27:08.71 0
 (蛇足)
 ・ソマリランド
   ・現在のソマリアから北西部(英領ソマリランド)を除いた地域
   ・19c末よりイタリア介入
   ・1941〜1950イギリス占領(軍政)
   ・1950、イタリア信託統治領に
   ・1960、英領ソマリランドとともに、ソマリアとして独立

 ・エリトリア
   ・もとエチオピア領。エチオピアの紅海沿岸。
   ・1870年代イタリア介入、1885占領。
   ・1941、イギリス軍占領→イギリス保護領
   ・1952までに、エチオピアと連邦国家形成
   ・1962、連邦離脱したエリトリア議会をエチオピア軍が包囲し、
        エリトリアを併合
   ・1960年代以降、エリトリア独立戦争
   ・1991、独立勢力が首都アディスアベバに突入、エチオピアに
        政変を起こし、政権打倒、独立宣言。
   ・1993、エチオピア新体制より独立承認、国連にも加盟
   ・1998〜 エチオピア・エリトリア国境紛争が武力衝突に発展。
     和平合意進まず、2008、仲介役の国連撤退、緊張状態が続く。
348世界@名無史さん:2011/07/02(土) 00:34:51.57 0
エチオピア
 列強のアフリカ侵略の中で、独立を保ってきたが、19c末、イタリアが
 侵入。北エチオピアのアドワで、イタリアを完敗させ撃退。
 リベリアと並んでアフリカ大陸の数少ない独立国として残った。
349世界@名無史さん:2011/07/02(土) 00:43:45.09 0
 (蛇足)
 第1次エチオピア戦争

 ・列強の状況(エチオピアの周囲)
  イタリア・・・北(エリトリア)と南東(伊領ソマリランド)を獲得。
  イギリス・・・南(ケニア)、西(スーダン)、東(英領ソマリランド)を植民地化。
  フランス・・・紅海出口のジブチ獲得、首都アディスアベバとの鉄道も敷設。

 ・経過@
  1889、イタリアの支援を受けメネリク2世がエチオピア皇帝へ。
    イタリアと条約締結(エリトリア割譲)。
    イタリアはエチオピアを保護国化しようとする。イギリスもそれを支援。
    一方、イタリアの進出を恐れたフランスより膨大な銃火器や大砲を
    メネリク2世は購入→エチオピア軍の近代化へ。
350世界@名無史さん:2011/07/02(土) 00:46:03.63 0
 (続き)
 ・経過A
  1893、エリトリア駐屯軍の侵入開始、1895、イタリアとの条約破棄。
  1895.12月、アンバ・アラギの戦い。近代火器による戦闘。
   イタリア現地将軍は、エチオピア主力軍が近代的な装備と戦術を獲得
   していることを知り、決戦を避けようとしたが、イタリア本国クリスピ首相が
   アフリカ人相手の決戦回避を批判、行動を厳命。
  1896.3月、アドワの戦い。
   イタリア軍15,000vsエチオピア軍10万超(8万はライフル所持の近代歩兵)。
   エチオピア軍の猛攻でイタリア軍大損害(9,500〜12,000戦死・負傷)
   エチオピア軍も1万名前後の死者・負傷者。

 ・戦後
   イタリア国内では、継戦論よりも植民地戦争に対する幻滅が広がる。
   2週間後にイタリアのクリスピ政権、罵倒され崩壊。
   エチオピアは、植民地化回避、独立維持(第二次エチオピア戦争
   1935-36まで)。
   エチオピアはこの後、列強とともに周辺国を分割する立場に回る。
   (日露戦争で勝利した日本と類似性。)
351世界@名無史さん:2011/07/02(土) 01:13:43.81 0
リベリア共和国
 米国の黒人解放奴隷によって開拓・建国されたアフリカ西岸の国。

 (蛇足)
 リベリア近現代史
  ・1816、米国のアメリカ植民協会、黒人解放奴隷のアフリカ帰還計画
  ・1822、初上陸。その後各州植民地会社が開発、統合
  ・1824、首都モンロビアと改名(当時の米5代大統領モンローより)
  ・1847、独立宣言
  ・1926、米国ファイアストーン社と契約。ゴム・プランテーション成立。
  ・1942、米空軍の空港・港湾施設改築。連合国側に立つ。
  ・1944〜71、タブマン大統領による独裁的政治運営により安定。
  ・1980、クーデター、アメリコ・ライベリアン(米国植民者)支配終了。
  ・1989〜96、第1次内戦。西アフリカ最悪の紛争地域。米国から見放される。
  ・1999〜2003、第2次内戦。
352世界@名無史さん:2011/07/02(土) 19:35:07.83 0
ベルギーのアフリカ進出
 ・19世紀後半、国王レオポルド2世がコンゴの経営を積極的に進め、
  植民地支配を確立する。
353世界@名無史さん:2011/07/02(土) 19:44:34.49 0
 (補足)
 レオポルド2世
 ・第2代ベルギー王。在、1865-1909。
 ・王太子時代から植民地獲得に情熱を燃やし世界各地を旅行。
 ・探検家キャメロンのコンゴ河流域報告に反応、
  1878、スタンリーを支援しコンゴ川流域に派遣、探検させる。
 ・1884、ベルリン会議に出席、列強承認のもと、コンゴ自由国
  (実態は国王の私領)を建設。
 ・当初、財政的危機状態だったが、現地でとれるゴム需要急増
  により解決。巨額の収入を得て、王室宮廷建築を次々と造営。
 ・過酷なゴム採取労働で数百万の原住民が死亡(コンゴ大虐殺)。
  コンゴの人口は2500万から1500万に激減。 

 ベルギー領コンゴ
 ・1908、コンゴに対する圧政により厳しい国際的非難を浴び、
  国王はしぶしぶ支配権を放棄、ベルギー政府に委譲。
 ・その後、状況は画期的に改善、列強から見て模範的植民地に。
  (教育、医療、鉄道・港湾・道路などインフラ)
354世界@名無史さん:2011/07/02(土) 21:41:24.82 0
 (蛇足)
 そのごのコンゴ
 ・1950年代後半、独立闘争開始。
 ・1960.6月、コンゴ共和国として独立。1週間たたずしてコンゴ動乱に。
  (内乱とベルギー軍の介入)
 ・1965、クーデターにより、モブツ政権(独裁)へ。(〜1997)
 ・1971、ザイール共和国と改称。
 ・1997、武装組織が首都キンシャサ制圧、モブツ政権崩壊。
      コンゴ民主共和国に国名変更。(強権支配体制)
 ・1998より第2次コンゴ戦争(内乱)、2002和平合意。
 ・政権は国内すべてを掌握しておらず、依然戦争状態が続く。
  東部は民族対立からの無法地帯。北部でエポラ出血熱流行、
  これがゴリラにも感染し、全個体数の2/3が死亡。

 ・スーダン、アルジェリアに次ぎ、アフリカ第3位の面積。世界12位。
 ・ダイヤモンドやコバルトなど鉱産資源が豊富。

 ・首都キンシャサはコンゴ川下流に位置。内陸河川交通の要所として
  発展。対岸はコンゴ共和国(旧仏領コンゴ)の首都ブラザヴィル。
  この二つの都市で大都市圏を形成。カイロ・ラゴスにつぐアフリカ
  第3の都市。(人口700万、ブラザヴィルと合わせて900万)
  2004には、ヨハネスブルグやナイロビと並び、アフリカでもっとも
  危険な都市と評された。
http://www.who.int/hac/donorinfo/campaigns/cod/UN_DRC_Congo.jpg
http://www.anzen.mofa.go.jp/attached2/2011T080_1.gif
355世界@名無史さん:2011/07/03(日) 10:49:09.09 0
ポルトガルのアフリカ進出
 15世紀以来。領域支配より、交易のための海上覇権が中心であった。
 19世紀後半に、面での領域が確定。
 大陸内領土には@アンゴラAモザンビークBギニアビサウがある。
 大陸周辺の諸島領土にはCカーボ・ヴェルデDサントメ・プリンシペ。

 アソーレス諸島、マデイラ諸島は現在もポルトガル領(自治領)。
356世界@名無史さん:2011/07/03(日) 12:13:20.73 0
 (補足)
 ・1415、エンリケ航海王子、北アフリカのセウタ占領(1668スペインに割譲)
 ・1444、Cカーボベルデ、ヴェルデ岬(セネガル。旧仏領)、ゴレ島
     (セネガルの首都ダカール沖合いの島。世界遺産)に到達。
 ・1446、Bギニア・ビサウに上陸。領有宣言。
 ・1462、Cカーボベルデに居住開始。
 ・1470、Dサントメ・プリンシペに上陸。
 ・1482、B西アフリカ黄金海岸(ギニア湾周辺)に要塞建設。
 ・1488、大陸南端に到達、香料貿易・布教目的でインド洋以東に進出。
 ・1490、@アンゴラ海岸部ルアンダ(現アンゴラ首都)に植民。
      (天然の良港。奴隷貿易の拠点。現人口300万。)
  (1494、 トルデシリャス条約(スペインと世界を二分する))
 ・1505、東アフリカのソファラ(Aモザンビーク)とキルワ(タンザニア南部)
      に要塞建設
 ・1507、Aモザンビーク島に拠点建造。(16c〜1898首都。黒人奴隷、
     香辛料、金などを交易。スエズ運河開通で衰退。世界遺産。)
 ・1522、Dサントメ・プリンシペを植民地化
  (1543、ポルトガル人日本来航(鉄砲伝来))
 ・1641、@アンゴラのルアンダを一時オランダが占領。1648、奪回。
 ・17c半ば、植民地支配確立。ブラジルに黒人奴隷が連行。
     (ブラジル行き黒人奴隷の推定累計、300万人。)
 ・1850年代、奴隷貿易の停止。1888、ブラジルで奴隷制廃止。
 ・1884-5、ベルリン会議で、コンゴ川流域を失う。
 ・1891、ザンビアとジンバブエとマラウイの領有を諦め、Aモザンビークと
      @アンゴラの領域が確定。
 ・1961、アフリカ植民地で独立戦争が始まる
 ・1974、本国で、カーネーション革命によりファシスト政権が崩壊。
 ・1975、アフリカ植民地が独立(@アンゴラ、Aモザンビーク、
      Bギニアビサウ、Cカーボ・ヴェルデ、Dサントメ・プリンシペ)
357世界@名無史さん:2011/07/03(日) 12:50:05.92 0
 (蛇足)
 アソーレス諸島(アゾレス諸島)
  ・ポルトガル沖約1300kmの北大西洋上。9つの主要島。人口24万人。
  ・総面積(2,355km²)は神奈川県ほど。最大はサンミゲル島(759km²)。
  ・1427発見。当時は新大陸への航海基地。その後、捕鯨および
   遠洋漁業の基地として利用。温暖で、現在はリゾート地として人気。
  ・大部分が火山島。地震も多い(1980、マグニチュード8の地震)。
  ・2番目に大きいピコ島に、ポルトガル最高峰ピコ山2,351mがある。
  ピコ山の風景
  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6d/Pico.jpg

 マデイラ諸島
  ・モロッコ沖約500km、カナリア諸島の北。人口25万人。
  ・フェニキア人が最初に発見。古代ローマ時代から知られていた。
  ・1419、ポルトガル船漂着、1420、ポルトガル植民開始。
  ・主要島であるマデイラ島の面積(741km²)は奄美大島ほど。
  ・ワイン(マデイラワイン)が有名。漁業も盛んで、リゾート地でもある。
  ・南国情緒に溢れ、「大西洋の真珠」とも呼ばれている。
  首都(フンシャル)風景
  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bc/Camara_de_Lobos.jpg
  首都(フンシャル)の市場風景
  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b9/Market_funchal_hg.jpg
358世界@名無史さん:2011/07/03(日) 20:30:58.68 0
スペインのアフリカ領土
 1494のトルデシリャス条約の関係上、アメリカ大陸志向で、アフリカは
 一部の都市と島嶼を領有するだけだったが、18〜19cに大陸内地の
 領有を開始。20c後半には独立・放棄のため、一部を除き、なくなる。
 現在もスペイン領なのは、カナリア諸島、セウタ、メリリャのみ。
 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/90/Spanish_Empire_Anachronous_0.PNG
359世界@名無史さん:2011/07/03(日) 22:26:17.15 0
 (蛇足)
 ・スペイン領ギニア
  もとポルトガル領、1778、スペインに割譲。
  1968、赤道ギニア共和国として独立。

  赤道ギニア共和国の首都マラボは、カメルーン沖合いのビオコ島にある。
  カカオとコーヒーの生産地だったが、1992ビオコ島沖合で原油発見。
  以後経済成長著しく、先進国並のGDP水準となっている。
  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/ff/Ek-map.png

 ・スペイン領モロッコ(モロッコ北端部)
  1859、スペイン・モロッコ戦争でテトゥワン占領。1862撤退。
  1912、フェス条約でスペイン領モロッコ発足。首都テトゥワン(世界遺産)
  1956、仏領モロッコの独立時、スペイン領モロッコの大部分も合流。

 ・スペイン領サハラ
  1884、ベルリン会議で、西サハラ沿岸を与えられる。
  1956、仏領モロッコの独立。西サハラ領有主張(1960年代)。
  1967、モロッコ政府の組織的挑戦が強まる。
  1973、ポリサリオ戦線(西サハラ独立志向)のゲリラ軍、急速に成長。
  1975、スペイン放棄。軍と入植者引き揚げ。
    (この間、ポリサリオ戦線との戦いに失敗したモーリタニアは介入放棄)
  1991、国際連合の仲介で、ポリサリオ戦線とモロッコとが停戦。
    (帰属/独立に関する住民投票、無期延期中。
     ・・・モロッコは住民投票に備え、国民を移住させているらしい。)
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Morocco_Protectorate.svg
360世界@名無史さん:2011/07/03(日) 22:48:23.23 0
 (蛇足2)
 カナリア諸島
 ・スペインの一自治州。(カナリア諸島自治州)
 ・ラテン語で「犬」の意味(犬諸島)。ここ原産の鳥に「カナリア」の名がつく。
 ・大陸から最短距離100km強。総面積 7,447km²(静岡県が7,780km²)、人口208万人。
 ・観光とバナナ・タバコの輸出が主産業。
 ・古代ローマ時代から知られ、15c末、カスティーリャ王国が征服。
 ・中南米への進出活動における基地として重要な役割を果たす。
 ・1960年代以降、保養地・観光地として発展。年間約1,000万人の観光客が訪れる。

 セウタ
 ・ジブラルタル海峡に面する。モロッコと陸続き(アフリカ大陸)。
 ・スペインでは、植民地(海外領土)ではなく本土と同等とみなされている。(メリリャ同様)
 ・第三次産業、漁業が主。面積28km²(羽田空港が13km²)、人口8万人。
 ・紀元前7c、フェニキア人が定住地を築く。
 ・1415、エンリケ航海王子、セウタをイスラム勢力から奪取。ポルトガル王国領に。
 ・1580、ポルトガルのアヴィシュ朝が断絶、スペイン王(フェリペ2世)王位継承により
      スペイン領となる。
 ・1668、リスボン条約でポルトガルの独立が再び認められた際、スペインに割譲。
 ・18c、海からイギリス軍の、陸からモロッコのスルタンの、脅威を受ける。
 ・1956、モロッコ独立に際し、モロッコ北部地域はモロッコ領となったが、スペイン領
     としてとどまった。(メリリャ同様)

 メリリャ
 ・自由貿易港。漁業中心。面積20km²、人口7万人。モロッコと陸続き(アフリカ大陸)。
 ・1497、レコンキスタの余勢をかって占領。モロッコ独立に参加せず、現在に至る。
 ・食料品や生活物資をモロッコに依存、毎日1万人のモロッコ人がEU製品を買いに
  くるので、街並みはモロッコと変わりない。
361世界@名無史さん:2011/07/04(月) 23:13:15.19 0
アフリカの最後に、見やすい、まとめ地図を。
http://blog-imgs-24.fc2.com/k/o/r/koramu2/africa_1914.gif

今日から太平洋地域に入ります。
アフリカの分割が一段落し、列強の目は、残る空白地、太平洋へ。
ということでしょうか・・・やれやれ。
362世界@名無史さん:2011/07/05(火) 00:10:17.14 0
クック(ジェームズ・クック)(キャプテン・クック)
 英の探検家。オーストラリア、ニュージーランド、南極圏を探検。

 (補足)
 1728〜79。イギリスの海軍士官、海洋探検家、海図製作者。
 庶民からイギリス海軍の大佐にまで昇進。 
 金星(惑星)観測を隠れ蓑にしてヨーロッパ諸国を出し抜き、南方大陸
 を発見して伝説の富を手に入れる、というイギリスの計画により、
 三檣帆船エンデバー号に乗り、太平洋に3回の航海を行う。
 第3回航海の途上、ハワイ島で先住民との争いによって1779年に落命。
363世界@名無史さん:2011/07/05(火) 00:15:22.09 0
(蛇足)
キャプテン・クックの航海ルート
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4a/Cook_Three_Voyages_59.png
赤・・・第1回航海(1768-71)
     ニュージーランド周回(北島・南島間のクック海峡発見)、
     オーストラリア大陸東海岸到達
緑・・・第2回航海(1772-75)
     南極圏突入(南極大陸は発見できず)
     南ジョージア島・南サンドウィッチ諸島(南大西洋の島嶼)発見
青・・・第3回航海(1776-80)
     北極圏航路開拓目的(ベーリング海峡北進できず)、
     ハワイ諸島発見、北米北西岸探検、太平洋の北限確定
364世界@名無史さん:2011/07/05(火) 22:17:04.70 0
オーストラリア
 先住民=アボリジニー。18c末、英の植民地。19c、牧羊業や鉱山開発で
 急速に発展。1901英の自治領に。
365世界@名無史さん:2011/07/05(火) 22:23:56.49 0
(補足)
オーストラリア近現代史
 ・1606 最初の白人(オランダ人)到来。赤道付近に上陸したため入植せず。
 ・1770 ジェームズ・クック、シドニーのボタニー湾上陸、
      領有宣言、入植開始。
 ・1788 流刑植民地としてイギリス人の移民開始。
 ・1828 全土がイギリスの植民地へ
 ・1830まで 純血のタスマニア先住民絶滅。
 ・19c 羊毛産業の発展
 ・1901 イギリスから事実上の独立
 ・1927 (シドニーとメルボルンの首都争奪戦の結果)臨時首都メルボルンから
      (両市の中間点に新設した)キャンベラに遷都
 ・英国王の忠誠から、第一次・第二次大戦にも参加
 ・1980年代 白豪主義撤廃
 ・国家元首はオーストラリア国王。英国王と同一人物。
  オーストラリア総督が国王の代行を務める。(首相を解任したこともあった。)
366世界@名無史さん:2011/07/05(火) 22:38:18.66 0
(蛇足)
「オーストラリア」と「オーストリア」ってなぜ名前が似ているのか
 http://oshiete.goo.ne.jp/qa/12873.html
 (結論から言うと、両者は全然関係ない)
367世界@名無史さん:2011/07/05(火) 22:47:44.11 0
ニュージーランド
 先住民=マオリ人。19c中頃、英の植民地。1907、英の自治領に。
368世界@名無史さん:2011/07/05(火) 22:53:43.54 0
(補足)
ニュージーランド近現代史
 ・1642 エイベル・タスマン(蘭)により発見
 ・1769 ジェームズ・クックによる調査、捕鯨遠征・移民流入開始
 ・1840 先住民族マオリとワイタンギ条約を締結、イギリス直轄植民地に。
 ・1841 首都オークランド(北島北部。現在、同国第1の都市)
 ・1865 ウェリントン(北島南端。現在、同国第2の都市)に遷都
      (南島の離脱を回避するため、真ん中あたりに置いた)
 ・1907 英連邦内の自治領となり、事実上独立。
 ・英国王の忠誠から、第一次・第二次大戦にも参加
 ・1947 独立決断(1931ウェストミンスター憲章=自治領の独立を認可)
 ・国家元首はニュージーランド国王。英国王と同一人物。
  ニュージーランド総督が国王の職務を代行する。 
369世界@名無史さん:2011/07/06(水) 22:52:34.78 0
フランスの太平洋進出
 ・1840年代、タヒチなどポリネシア領有宣言。
      (ソサイエティー諸島、マルケサス諸島、ツモアツ諸島など)
 ・1853、ニューカレドニア占領。
 ・1906、英仏間で衝突が続いていたニューヘブリデス諸島(1980バヌアツ
      として独立)を共同統治領とすることに合意。

 ・・・アフリカに比べ、仏領は意外と少ない。
   しかし、独立が進んでいないため、現在は、よく目立つ。
370世界@名無史さん:2011/07/06(水) 23:11:21.19 0
 (補足)
 タヒチ
  ・フランス領ポリネシア(総面積は4,167km²(石川県とほぼ同じ))の中心地。
   面積1,048 km²、人口約17万人。火山島でオロへナ山(2,237m)がある。
  ・1842、タヒチ、フランスの保護領に。翌年、領有宣言。1880、植民地に。
  ・ポリネシア内のムルロア環礁が1966〜96にフランスの核実験場となり、
   この問題で、抗議デモ、独立運動も発生。
  ・核実験絡みによる経済援助や仕事を供給し、核実験を島民に納得させる。
  ・南太平洋有数のリゾート・観光地。

 ポリネシア・トライアングル:5番がタヒチ。1番はハワイ。2番がニュージーランド。
  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4e/Polynesia-triangle.png
371世界@名無史さん:2011/07/06(水) 23:28:22.65 0
 (補足2)
 ニューカレドニア
  ・フランスの海外領土。事実上の植民地。
  ・四国ほどの大きさがある。人口23万人。

  ・1774、キャプテン・クックが、海上からニューカレドニア本島(グランドテール)
   を発見し、山の多いスコットランド(カレドニア)を思わせる眺めから
   ニューカレドニアと名づけた。  
  ・1853、イギリスのオーストラリア・ニュージーランド領有に対抗しようとした
   ナポレオン3世の派遣した軍によってフランス領と宣言。
  ・1854〜1922、フランス流刑地。
  ・1860年代、ニッケル鉱山の発見により、鉱山労働者増加。
  ・第二次世界大戦で、太平洋戦線でのアメリカ軍の拠点。
  ・1960年代以降、先住民の独立運動。1980年代に激化。(一時、暴動・内戦)
  ・1987、住民投票、1988、自治拡大。
  ・1998、ヌーメア協定でさらに独立に近づく。

  ・ニッケル生産世界第5位。豊かな自然から観光業がさかん。
  ・首都ヌーメア、人口10万人。太平洋の島国で最も「西洋化」された街。
   現在、太平洋で最も急成長をとげている都市。 
372世界@名無史さん:2011/07/07(木) 23:15:13.99 0
ドイツの太平洋進出
 ・19c、ニューギニアを英・蘭・独で分割
 ・19c末、ビスマルク諸島、マーシャル諸島、カロリン諸島、マリアナ諸島領有。
 ・1899、サモア諸島を米と独で分割
373世界@名無史さん:2011/07/07(木) 23:45:40.57 0
374世界@名無史さん:2011/07/07(木) 23:57:33.66 0
 (補足)
 ニューギニア
  ・面積、77万km²。グリーンランドに次ぎ世界で2番目に広い島。大陸を含めても
   8番目に広い。
  ・この地に訪れたイギリス人が熱帯気候や肌の黒い人々を見てアフリカの
   ギニアに似ていると思ったことから名がついた。

  ・1526より、ポルトガル人やオランダ人が来島。熱帯雨林と湿地帯がほとんどを
   占めるこの島は活用方法が無く、ほとんど手付かず。
  ・1828、島を東西に分割。
  ・1848、西半分をオランダが併合。
  ・1884、東半分の北をドイツ、南をイギリスが領有。
   http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/ba/New_Guinea_%281884-1919%29.png
  ・イギリス領は、1901、オーストラリア独立に伴い、オーストラリア領に。
  ・第1次大戦のドイツ敗北後、ドイツ領はオーストラリアの委任統治領に。
   太平洋航海の中継点として利用するほかは使い道なし。
  ・1961、オランダ領が西パプア共和国として独立するも、インドネシア軍侵攻、
   1969併合。(人口265万。石油、天然ガス、銅、金など豊かな天然資源を有する。
   最西部は、その形からバーズ・ヘッド(鳥の頭)と呼ばれる。)
  ・1975、東半分(旧独領、旧英領)、パプアニューギニア独立国として独立。
   (人口673万。銅、コーヒー・コプラ(椰子)・木材など産出。)

  ・先住民、パプア系諸民族(ニューギニア高地人)。多数派。内陸部で農耕。
   海岸地域には、海洋民族のメラネシア人。西部にはマレー人(ジャワ人)入植。
375世界@名無史さん:2011/07/08(金) 00:11:31.22 0
 (補足2)
 ポートモレスビー
  ・東南部(旧英領)にあるニューギニア最大都市。パプアニューギニアの首都。
  ・人口29万。
  ・ゴム、金、コプラが主要な輸出品。
  ・1873イギリス人の船長が発見、1883イギリス占領。
  ・1906、オーストラリアに引渡し。
  ・第2次大戦中、連合国の基地に。1942、日本軍の攻略失敗(珊瑚海海戦)。
  ・1975、パプアニューギニア独立、首都に。独立後人口が急増。
  ・2004、世界の130首都のランク中でワースト (レイプ、盗難、殺人、
   ギャングの地域支配)。
  ・失業率は60-90%。殺人率はモスクワの3倍、ロンドンの23倍。
376世界@名無史さん:2011/07/08(金) 23:53:26.76 0
米国・19〜20世紀初頭の膨張

 1823、モンロー教書、アメリカ大陸とヨーロッパの相互不干渉を提唱。
    (1820前後に中南米の独立が進む。
     米国は、メキシコ・中米に経済進出、南米はイギリスが市場支配)
 19c前半、米国本土の拡大(>>105-106
 1861〜67、フランス(ナポレオン3世)のメキシコ出兵に対し、メキシコ支援。
 1867、アラスカ買収、1869大陸横断鉄道完成(>>123-126
 1889、米国主催で、パン・アメリカ会議の初開催。スペイン・イギリスの影響排除。
 1889、サモア諸島でドイツと衝突、東西に分割、東側を領有。
     (現、米領サモア(自治領))。
 1898、米西戦争。戦中にハワイ併合。
     パリ条約でフィリピン、グアム、プエルトリコを獲得。
 1899、フィリピンに共和国誕生。しかしフィリピンの領有権を得た米国が侵攻、
     フィリピン・アメリカ戦争勃発。米国勝利。(1902より本格的統治開始)
 1899、国務長官ジョン・ヘイの中国門戸解放・機会均等・領土保全提唱。
 1901〜09、セオドア・ローズヴェルト大統領時代、積極的カリブ海政策。
     (棍棒外交(中米への武力干渉))
 1902、米西戦争後独立したキューバを保護国化。
     (憲法に、米国の内政干渉権を認めるプラット条項が入る。)
 1903、パナマをコロンビアから切り離し、独立させる。(→1914パナマ運河完成)
 1913〜21、ウィルソン大統領時代、中米への武力干渉から「ドル外交」へ。
     (経済力の浸透を重視。米国の指導力を認めさせる「宣教師外交」。)
377世界@名無史さん:2011/07/08(金) 23:56:59.62 0
パン・アメリカン会議
 米国指導の下、南北アメリカ諸国が政治・経済的団結をはかり開いた会議。
378世界@名無史さん:2011/07/09(土) 00:10:49.96 0
米西戦争
 1898、キューバ独立運動を支援して米国がおこす。当時の大統領、マッキンリー。
 米国の圧勝。戦後、米国は、スペインからフィリピンとグアムとプエルトリコを獲得。
 戦中には、ハワイを併合。
379世界@名無史さん:2011/07/09(土) 00:18:12.63 0
(蛇足)
 ハワイの近現代史
 ・1778、キャプテン・クック来航。白人との接触開始。
 ・1795、カメハメハ1世、白人の銃器でハワイ統一。ハワイ王国建国。
 ・1820頃より、キリスト教文化定着化、プランテーション農場開始。
 ・1840、立憲王政
 ・1893、クーデター。米国併合を求めたが断られ、ハワイ共和国成立。
 ・1895、ハワイ人武装蜂起、鎮圧、虐殺。最後の女王リリウオカラニ退位。
 ・1898、米国に併合。ハワイ準州(米自治領)
 ・1941、真珠湾攻撃
 ・1959、アメリカ50番目の州に昇格。本格的リゾート開発始まる。
 ・1963、国際興業系列会社が、ワイキキのホテル買収。
 ・1960年代、アップダウンクイズでの賞品「夢のハワイ旅行」
 ・1966(S41)、常磐ハワイアンセンターがオープン。
   (日本人が行ってみたい外国ナンバーワン=「ハワイ」だった。)
 ・現在、日本〜ハワイ間空路、1日に11〜12便が運行。
380世界@名無史さん:2011/07/09(土) 00:30:11.67 0
たまには、リゾート気分で、リラックスなどいかがですか?

シェラトン・ワイキキホテルからのながめ(Web Camera)
http://www.seehawaiilive.com/oahu/waikiki-hotels
381世界@名無史さん:2011/07/09(土) 00:45:55.34 0
20世紀初めの太平洋・列強勢力圏 まとめ


     ヽ∪  ∠ノ 日本
 清   │  ∞
     /フィリピン                        ∞ 
    ヽ  (米)                        ハワイ(米)  
 ヽへ/  ▽    ミクロネシア
 ‖(英)          (独)
∩∪ /」ボルネオ ニューギニア           (英)
∪   ̄凵@(蘭)<\_(独)メラ              ポリ
(蘭)⊂⊃      ヽ─ヽ> ネシア(英)          ネシ
  ジャワ    / ̄ヽ  /ヽ                    ア
       / ̄オーストラリア ヽ  οニューカレドニア(仏)    (英)   (仏)
      ヽ    (英)   /
       / ̄ヽ__/     △ NZ
              ▽     ∩  (英)
                    ∪
382世界@名無史さん:2011/07/09(土) 19:08:59.53 0
南と西(山東省)からドイツが迫り、北からロシアが迫り。
この2国に挟まれた日本は、ポーランドのように分割されていたかも?

さて今日は中南米、行ってみます。
383世界@名無史さん:2011/07/09(土) 19:16:14.30 0
セオドア・ローズヴェルトの棍棒外交(Big Stick Diplomacy/Big Stick Policy)の例

 ・1903、パナマをコロンビアから独立させ、パナマ運河の工事権と租借権を獲得。
 ・1903〜05、ドミニカ債務超過により、欧州諸国の干渉の恐れに対しドミニカ救済。
 ・1906〜28ヶ月間、キューバを占領下に置く。
  (近隣諸国が自国の政府を維持出来ないならば米国が関与する、という意味あい)
384世界@名無史さん:2011/07/09(土) 19:22:50.98 0
パナマ共和国
 1903、米国援助の下で、コロンビア共和国より独立。
 1914、パナマ運河開通。
385世界@名無史さん:2011/07/09(土) 20:06:08.92 0
 (補足)
 パナマ近現代史
  1855、ヌエバ・グラナダ(現コロンビア)から自治権を獲得。
  1903、米国の支援で、コロンビアから独立。新憲法で、パナマ運河地帯
      の幅16kmの主権を永遠に米国に認める。
  1914、パナマ運河開通。
  1960、ナショナリズム高揚、運河返還要求を軸に反米運動が盛んに。
  1968、クーデタ。トリホス将軍が大統領に。
     カーター大統領と新運河条約締結。(1999運河の主権返還承認)
  1981、トリホス将軍死。1983、ノリエガがトップに。
  1989、米国のパナマ侵攻により、ノリエガ失脚。
  1999、パナマ運河の主権返還。
3861937年7月:2011/07/09(土) 20:10:15.95 O
「別冊『正論』中国共産党 野望と謀略の90年」を読んでいましたら、盧溝橋事件に関連して、中西先生が次のように書いていらっしゃいます。
 郭沫若は1937年7月25日に日本を脱出した。郭は帰国後、国共合作政府の中央軍事委員会総政治部で宣伝を担当する第三庁の庁長になった。
つまり、対日宣伝戦のために帰国を命じられていたのである。その裏には日中戦争の帰趨は宣伝によって決せられるという周恩来の確信があった。
郭には、中国国内や東南アジアのみならず欧米でも反日世論を盛り上げることが可能なだけの影響力があり、日本に深刻な打撃を与えることが出来ると考えられていたわけである。
その目論見は見事に(日本にとっては大変不幸なことに)図に当たった。
 郭が行ったことは、「南京大虐殺」を最初に世界に広めたとされる『戦争とは何か』(ティンパーリ著)の、中国語版の序文を書くことだったのである。
この本は中国大陸のみならず、北米の中国人社会に爆発的に読まれ、アメリカでの反日世論の形成に大きな役割りを果たしたのである。
 次に、日本を脱出した7月25日という日付に注目したい。脱出計画には、検閲を逃れるための隠語での遣り取りや船室の手配など相当な準備期間が必要だった。
ということは、7月7日の盧溝橋事件発生以前から、脱出計画が本格始動していたということである。つまり、中国共産党が日中戦争の開始を決意し、開戦後は
大規模な宣伝戦を展開するという明確な戦略に基づいて郭を帰国させたということである。盧溝橋事件後、戦闘の不拡大方針を決めた日本側の和平努力など、
中共側の強固な対日開戦意思と綿密な開戦計画の前では全く意味がなかったと言えよう。とあります。
それにしても、中国共産党の諜報・謀略工作のスケールの大きさと、周到・執拗さは大変なものですね。中西先生は、
 中国共産党の諜報活動に日本が好き勝手にされるのは、日本の進歩派・開明派が戦前も戦後も一貫して,共産主義について、その隠された非道徳的・反道徳的
 本質を見抜けずに、自らの左につながる「同類」と常に見做す傾向にある。
 これは「日本の宿阿」であるかもしれず、つまるところ、真の自由主義というものを理解し得ない日本の知識人の質の問題かも知れない。
387世界@名無史さん:2011/07/09(土) 22:53:54.81 0
メキシコ革命
 1910、ディアスの独裁政治打倒をめざした自由主義者の武装蜂起。
 革命の中心人物はマデロ。農民軍指導者のサパタは、徹底した土地改革を
 主張したため、革命主流派から弾圧された。
388オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/09(土) 23:31:47.85 0
>>387
メキシコ革命でマデロが中心人物だったのはあくまで初期だけだよ。
ディアスを倒して大統領になったマデロだけどウエルタによってすぐに、
大統領の地位を追われて、以降のメキシコ革命はサパタやビリャや、
カランサなど、それぞれ全くタイプの違う革命家たちが各々蜂起してた。
結局はカランサ及びオブレゴンが政権の主流になったためサパタ派は、
弾圧されたけど、しばらくしてカルデナスが大統領になった時にメキシコは、
農地改革を強力に推進した。まぁ、サパタの主張とは少し違うけど。
389世界@名無史さん:2011/07/09(土) 23:54:43.03 0
>>388さん、関連コメントありがとう。
メキシコ革命は、ゴチャゴチャしていて、とても分かりにくい
ですね。
390世界@名無史さん:2011/07/10(日) 00:07:50.84 0
 (補足)
 メキシコの近現代史
  ・1808、ナポレオンが兄ジョセフをスペイン王とした。(中南米各地で反発)
  ・1810、メキシコ独立運動始まる。(ただし先住民大衆の反乱を恐れ消極的)
  ・1821、独立宣言。第1次メキシコ帝国。
  ・1823、帝政崩壊、連邦共和国に。この時、中米連邦が独立。
  ・1836、テキサス共和国分離。(アングロサクソン系入植者の反乱)
  ・1845、米国のテキサス併合を巡り、1846米墨戦争。
  ・1848、米墨戦争に敗北し、カリフォルニアなど国土の半分を喪失。
  ・1861、債権国、英・西・仏の武力干渉(出兵)。返済提案に英・西は撤退するも、
       仏(ナポレオン3世)は干渉継続。
  ・1863、首都陥落、フランスの傀儡政権、第2次メキシコ帝国成立。
  ・1866、米国の支援を受け、主権を取り戻す。(米国の影響力強まる。)
  ・1867、フアレス(1861、先住民族(インディオ)から選出された初の大統領。
      建国の父として最も敬愛されている。)共和制復活宣言、大統領に再選。
  ・1876、ディアスのクーデター。30年以上の強権的独裁体制。
  ・1910以降、メキシコ革命、1917革命憲法が発布され、革命終息。
      メキシコ革命は現代メキシコの出発点。ラテンアメリカ諸国に多大な影響。
  ・1934、カルデナス大統領時代、油田国有化事業や土地改革を行う。
       →国内の経済構造が安定。
  ・1929以来の一党独裁体制の下、国家開発・経済拡大。
     石油や銀の産出で豊かになり、工業化に成功するも、慢性的インフレ、
     富の一極集中、資源価格暴落による経済危機で苦労。
  ・2000、一党独裁体制(71年間)に終止符。
391オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/10(日) 00:18:40.70 0
>>389
確かにメキシコ革命はかなり複雑で分かりにくいね。簡単に言うと、

ディアス独裁→マデロが反乱して大統領に→ウエルタがマデロを倒して大統領に
→ウエルタ政権に対してサパタやカランサやビリャなどがそれぞれ別個に蜂起する
→ウエルタが亡命してカランサがメキシコ市入城→革命家たちを集め会議を開く
→この会議でサパタとビリャが結んでカランサ派をメキシコ市から追い出す
→政治能力が無いサパタとビリャはメキシコ市から撤退しカランサがメキシコ市に戻る
→カランサがサパタ派やビリャ派を完全に倒して1917年憲法を制定し大統領に
→カランサについてたオブレゴンがカランサと仲違いしカランサを追い出して大統領に
→クリステロ戦争でカトリック教徒と対立してオブレゴンが暗殺される
→オブレゴンの腹心だったカリェスが実権を握り傀儡の大統領を次々と立てる
→カリェスの傀儡だったカルデナスが大統領になるとカリェスを裏切って独自路線に

という感じかな。
392世界@名無史さん:2011/07/10(日) 00:29:28.67 0
>>391さん
とても分かりやすい解説ありがとう。
確かに、あの辛亥革命後の権力闘争よりもさらに複雑ですね。
393オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/10(日) 00:32:35.16 0
>・1810、メキシコ独立運動始まる。(ただし先住民大衆の反乱を恐れ消極的)
初期のメキシコ独立運動は結構インディオやメスティーソ寄りの部分もあったけど、
結局アグスティン・イトゥルビデ(後のメキシコ皇帝)などの保守的なクリオーリョが、
中心にとなってメキシコ帝国として独立することになったからね。とは言え、これは、
完全に保守派クリオーリョの独断という訳でもなく、インディオ寄りだったイダルゴや、
モレロスなどの意思を継ぐビセンテ・ゲレロなどとの合意の上での事だったんだけど。
394世界@名無史さん:2011/07/10(日) 00:48:37.07 0
>>393さん
詳しいですねぇ。
中南米の近現代史は、人種問題・原住民問題を抜きにしては、語れませんね。
北米は白人がずっと実権を握ってきたので、あまり考慮しなくて済みますが。
395オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/10(日) 00:59:16.40 0
>>394
ラテンアメリカは北米に比べてインディオの血が強いからね。メキシコの場合は、
国民の8割以上がインディオかメスティーソだから歴史上の有名なメキシコ人も、
結構メスティーソとか出身の人が多い。ペルーやボリビアも同じくインディオ系が、
多いほう。ブラジルやカリブ海諸国なんかはこれに黒人も入ってくるから人種は、
より複雑になってる。北米に比べて混血が多いのもラテンアメリカの特徴だね。
白人が多いと言われるアルゼンチンですらインディオの血もそれなりに流れてるし。
396世界@名無史さん:2011/07/10(日) 00:59:28.97 0
 (補足2)
 メキシコ合衆国
  ・面積197万km²(世界第13位、日本の約5倍)。
  ・人口1.1億人。混血60%、先住民族25%、白人14%。
  ・1の連邦区と31の州で構成。大統領任期6年、再選禁止。
  ・メキシコ料理が有名。トルティーヤという薄いパンが主食。豆やとうもろこし、
   鳥肉・魚・海老を原材料に使ったメニューが主体。なお、タコスは米国風に
   独自にアレンジされたもので、メキシコ国内ではそれほど普及していない。
  ・闘牛やルチャ・リブレ(メキシカン・プロレス(ミル・マスカラスなど))が盛ん。

  仮面貴族ミル・マスカラス
  http://www.youtube.com/watch?v=A6MrdpEo2LA
  マスカラス兄弟vsブッチャー・シーク
  http://www.youtube.com/watch?v=Zq8T3bzSb30&feature=autoplay&list=PL85D5DE1B93840166&index=3&playnext=2
397オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/10(日) 01:06:47.71 0
>>396
メキシコのタコスはアメリカと違ってトルティーヤをパリパリに揚げないね。
やわらかいままのトルティーヤを使って食べるタイプでなかなか美味しい。
398世界@名無史さん:2011/07/10(日) 01:18:12.63 0
>>397さん
明日はタコス(トルティーヤ)を食べてみたくなりました。
ただ、日本人の口に合わないのか、あまり見かけませんね。

>>395の件ですが、ラテン系は混血しやすく、ゲルマン系は混血しにくい
ということなのでしょうかね。
399世界@名無史さん:2011/07/10(日) 01:21:50.52 0
 (補足3)
 メキシコシティ
  ・メキシコの首都。都市的地域人口、1,869万人。世界第9位。
  ・アステカ王国のかつての首都テノチティトラン(テスココ湖の湖上都市)。
   現在の市中心街ソカロ周辺で、中央神殿が発掘。(一帯が世界遺産)
  ・1519、エルナン・コルテスのメキシコ征服により破壊。湖は埋められて
   その上に現在のヨーロッパ(スペイン)風の都市が築かれる。
  ・植民地時代、独立後を通じ、首都として発展。
  ・1985、メキシコ地震。震央から400km離れていたが、軟弱な地盤のため
   250以上の高層ビル等が崩壊。地下鉄の一部も崩壊。7000人以上死亡。
  ・州には属さない連邦直轄地。連邦区行政長は大統領が指名。
400世界@名無史さん:2011/07/10(日) 02:07:22.90 0
(蛇足)
メキシコシティの標高、2,240m
 
標高の高い首都ランキング
 1位 ラパス(ボリビア) 3,600m
 2位 キト(エクアドル) 2,850m
 3位 ボゴタ(コロンビア) 2,640m
 4位 アジスアベバ(エチオピア) 2,350m

首都ではないが、
 チベットのラサ 3,700m
 ポトシ(ボリビア) 4,070m(世界で一番標高の高い都市。昔、銀鉱山あり)
 茅野市(長野県) 801m(日本で一番標高の高い場所に市役所がある)
401世界@名無史さん:2011/07/10(日) 20:02:12.70 0
さて、今日からは、植民地から本国に戻って・・・

この時期(19c末〜20c初頭まで)の列強各国共通項
 ・第2次産業革命進展→植民地分割完了→分配で揉めて衝突前夜
  →合従連衡のかけひき・軍事費増・軍部の力強化
 ・巨大資本の誕生・植民地経営(開発)拡大
 ・一部の植民地側で、自治獲得・独立運動進展
 ・マルクス主義の浸透→労働者(組合)自己主張→特権階級の既得権益の崩壊
402世界@名無史さん:2011/07/10(日) 22:15:26.70 0
イギリス・20c初頭まで
 1900、労働代表委員会(byフェビアン協会・労働組合)の結成(1906労働党へ)
 1905、自由党内閣、労働党の協力で社会改革実施(1911国民保険法)
 1911、議会法(下院>上院)成立
     ロイド・ジョージ蔵相、社会上層の税負担増やす(対独海軍拡張費)
 1914、アイルランド自治法成立→第1次世界大戦勃発で実施延期
 1916、シンフェイン党の独立強硬派の武装蜂起→鎮圧
403世界@名無史さん:2011/07/10(日) 22:33:38.73 0
フェビアン協会
 1884、英の社会主義者が結成。漸進的な社会改革をめざす。
 指導的人物、ウェッブ夫妻。
404世界@名無史さん:2011/07/10(日) 22:50:48.41 0
労働党
 1900、2つの社会主義団体や労働組合の代表により結成された組織が
 1906、政党として改められた。

(補記)
モットー「ゆりかごから墓場まで」(福祉政策の充実)
労働党首相
・マクドナルド 1924、1929-35
・アトリー  1945-51
・ウイルソン 1964-70、1974-76
・キャラハン 1976-79
・トニー・ブレア 1997-2007
・ブラウン 2007-10

ちなみに、現在の首相は、保守党のデーヴィッド・キャメロン。
405世界@名無史さん:2011/07/10(日) 23:02:55.71 0
アイルランド自治法
 アイルランドの独立運動の高まりに対応し、グラッドストン内閣が提案。
406世界@名無史さん:2011/07/10(日) 23:13:01.20 0
シン・フェイン党
 1905、アイルランドの完全独立を掲げて結成された政党。

(補足)
アイルランド語で「我々自身で」(ourselves)という意味。
歴史的にIRA暫定派(アイルランド共和軍。テロ組織認定)と関係が深い。
現在もあり、アイルランド共和国の下院=166議席中14議席、
北アイルランド議会=108議席中28議席をもつ。
407世界@名無史さん:2011/07/10(日) 23:19:24.76 0
(参考まで)
ネットをいろいろ検索していたら、
ここと趣旨が同じようなサイトを見つけました。
http://www.yk.rim.or.jp/~kimihira/yogo/04yogo14_1.htm
同じようなことを考える人って、いるんですね。
408世界@名無史さん:2011/07/11(月) 22:25:04.47 0
フランス・20c初頭まで
 ・1871、パリコミューン(>>86
 ・1875、第3共和国憲法
 ・1880年代、植民地拡大政策
 ・ビスマルク体制下、国際的に孤立
   →1890年代以降、露仏同盟・英仏協商でドイツに対抗
 ・1880年代以降、軍部より共和制攻撃→危機→なんとか切り抜ける
   1887-89、ブーランジェ事件
   1894-99、ドレフュス事件
 ・労働運動・・・サンディカリズム(労組ゼネストで一挙に社会改革実現めざす)
   →1905、フランス社会党が成立、この動きを抑える。
 ・1905、政教分離法→共和国の安定
 (パリの市民社会の様子については、>>191
409世界@名無史さん:2011/07/11(月) 22:56:06.38 0
ブーランジェ事件
 1889、対独復讐感情を利用し、元陸相ブーランジェをかついで反共和主義勢力
 が政権奪取(クーデタ)・軍部独裁をはかるも、失敗。
410世界@名無史さん:2011/07/11(月) 23:04:25.44 0
ドレフュス事件(1894〜)
 1.ユダヤ系軍人ドレフュスがスパイ容疑で逮捕(終身刑宣告)、1896に誤審と判明。
 2.これを軍部(反ユダヤ主義的傾向あり)が無視。
 3.作家ゾラが世論に再審を訴え。(1898)→世論沸騰。
 4.無罪となり(1906)軍部は信用を失う。(フランス軍の弱体化を招く)

 この事件でのユダヤ人に対する差別・偏見がシオニズム(ユダヤ国家建設思想)
 を生み、後のイスラエル建国に繋がる。
411世界@名無史さん:2011/07/11(月) 23:15:30.30 0
ドイツに対するフランスの対策(普仏戦争>>83-84の復讐)
 ・1891 露仏同盟(ドイツの1882の三国同盟(フランス孤立化政策)に対抗)
 ・1904 英仏協商(1898ファショダ事件契機>>336
412世界@名無史さん:2011/07/12(火) 22:01:11.53 0
ドイツ・20c初頭まで
 ・1888、ヴィルヘルム2世即位
 ・1890、ビスマルク辞職。「世界政策」「パンゲルマン主義」へ。
 ・1890、社会主義者鎮圧法の廃止→社会民主党伸張(1912議会第一党へ)
 ・植民地拡大策→軍事力強化(特に海軍)→イギリスとの軍拡競争
 ・1905、1911、モロッコ事件でフランスと衝突
 ・3B政策で、イギリス・ロシアと対立→同盟国はオーストリアだけに
413世界@名無史さん:2011/07/12(火) 22:59:46.54 0
ドイツ社会民主党(SPD)
 ・1863、社会主義者ラサールにより、全ドイツ労働者同盟が創立。
 ・1875、ラサール派とアイゼナハ派が合同してドイツ社会主義労働者党を結成。
 ・ビスマルクは、社会主義勢力抑制のため、社会主義者鎮圧法で弾圧。
 ・ビスマルク引退の年(1890)に、ドイツ社会民主党に名称変更。

 (蛇足)
 現在のメルケル首相は、キリスト教民主同盟(CDU)。
 その前がSPDのシュレーダー首相。(1998〜2005)
414世界@名無史さん:2011/07/13(水) 00:29:41.34 0
修正マルクス主義(修正主義)
  ドイツ社会民主党右派の理論的指導者、ベルンシュタインの説。
  議会闘争や社会改良により、社会主義の達成が可能と主張。
415世界@名無史さん:2011/07/13(水) 00:49:50.03 0
ヴィルヘルム2世
 ビスマルクの首相辞任後、帝国主義政策を積極的に推進。
416世界@名無史さん:2011/07/13(水) 00:54:36.26 0
 (ヴィルヘルム2世の補足)
 ・1859、ベルリンで誕生、父は後のフリードリヒ3世、母は英女王ヴィクトリアの長女。
 ・1888、祖父・ヴィルヘルム1世、崩御。父・フリードリヒ3世即位。
 ・1888、病弱のフリードリヒ3世、99日で崩御。ヴィルヘルム2世即位(29歳)。
 ・1890、社会主義鎮圧法がらみで、ビスマルク辞表提出(1862からの首相)。
     (労働者保護政策→SPDから切り離し→労働者の政府支持を狙う→のち反動)
 ・1890、独露再保障条約の更新拒否(親英反露政策)→1894露仏同盟締結
 ・1894即位のニコライ2世とは親密な間柄。
 ・1895、三国干渉(ロシアに極東に目を向けさせ、バルカン・中近東を狙う)
 ・1897以降、艦隊増強。英独両国の建艦競争は泥沼化。(英との関係悪化始まる)
 ・1898、オスマン帝国訪問、1903バグダード鉄道建設本格化(3B政策)→英仏露、激しく反発
 ・1899、義和団の乱に出兵(中国人を蔑視、捕虜にせず殺せと指示。)
 ・1901頃、英と結ぼうとするが、露と対決する気のない独を見た英は日英同盟へ。
 ・1905、突然モロッコのタンジールを訪問、独立支援提案(第一次モロッコ事件)。
 ・1905、日露戦争後、黄禍論を主張し、英仏露のドイツへの敵意解消を狙うも失敗。
 ・1908、ドイツ帝国議会の威信強まり、皇帝個人的統治終焉→指導者不在状態。
 ・1910以降、近い将来、欧州間軍事衝突は不可避との認識→軍拡進む。
 ・1911、モロッコ暴動に介入(第二次モロッコ事件)。→さらに英・仏が結束。
 ・1914.6/28、サラエボ事件、第1次世界大戦の勃発。
 ・1918、戦況悪化、王政打倒運動広がる。
 ・ 10月、不穏な動きのあるベルリンを離れ、大本営のあるベルギーのスパへ。
 ・ 11月、多額の財産を持ち、オランダへ亡命。(11/28退位宣言)
 ・その後、死までの23年間をオランダ・ユトレヒト州ドールンの城館で貴族として安楽な余生。
 ・常に復位の希望を抱く。(大統領ヒンデンブルグも帝政復古を遺言に残す。)
 ・ヒトラーが反帝政復古派だと知り、ナチス支援は消極的に。
 ・しかし第2次世界大戦のナチス・ドイツの戦争遂行は全面的に賛同。
  (ポーランド侵攻を賞賛。パリ陥落時にヒトラーに祝電)
 ・1941、死去。ヒトラーの命によりドイツ軍による葬儀。
417世界@名無史さん:2011/07/13(水) 23:32:21.77 0
ロシア・20c初頭まで
 ・1890年代、フランス資本導入、大工業の急速な成長。
  国内市場が狭い→国内開発(シベリア鉄道建設)→アジア・バルカン進出
 ・20c初頭、激しい農民運動+工場労働者ストライキ
  →各党の結成
   ┌ロシア社会民主労働党(のちボリシェビキとメンシェビキに分裂)
   ┼社会革命党
   └自由主義者の議会政治期待運動派(のちの立憲民主党)
 ・1905、日露戦争の戦況不利→生活困窮→血の日曜日事件→第1次ロシア革命
     →国会開設などを約束→沈静化・蜂起鎮圧→ふたたび専制強化
 ・1906、ストルイピンの農村改革→失敗→農村社会の動揺→体制不安定化
     →国民の注意をそらすため、バルカンへの南下政策強化
418世界@名無史さん:2011/07/13(水) 23:42:26.16 0
ボリシェビキ
 1898、プレハーノフ、レーニンにより、ロシア社会民主労働党が創立。
 1903、レーニンを中心とする左派のボリシェビキと、プレハーノフやマルトフに
 指導された右派のメンシェビキに分裂。
419世界@名無史さん:2011/07/13(水) 23:53:52.49 0
血の日曜日事件
 日露戦争中、生活困窮したペテルブルグの労働者・市民が皇帝(ニコライ2世)
 に請願のデモをおこし、軍隊と衝突。
 事件後、国内各地で労働者・農民の暴動発生。(ロシア第1次革命)
420世界@名無史さん:2011/07/14(木) 00:41:20.92 0
ポチョムキン号の反乱
  黒海艦隊の戦艦での水兵の反乱。
421世界@名無史さん:2011/07/14(木) 00:51:34.65 0
ドゥーマ(帝政ロシア国会)
 ロシア第1次革命をなだめるために、皇帝より、10月宣言。
 (国会の開設と憲法制定)
 この約束に基づき制定された国会。
422世界@名無史さん:2011/07/14(木) 06:08:39.31 0
ストルイピン
 ロシアの政治家。革命運動の弾圧や議会の解散などの反動政治を行う。
 一方、ロシアの古い農村共同体(ミール、という)を解体して土地改革を進め、
 資本主義化を促進した。
423世界@名無史さん:2011/07/15(金) 00:25:29.79 0
米国・20c初頭まで(国内中心)(国外は>>376

 ・南北戦争後、工業(石炭・石油・鉄鋼など)大発展
 ・19c末、イギリス・ドイツをしのぐ世界一の工業国に。(天然資源に恵まれていた)
   →独占企業の成長
   →労働運動・農民運動の高まり(1886アメリカ労働総同盟(AFL)結成)
 ・工業発展のため、移民受入→東欧・南欧・アジア系→のちに移民制限問題化
 ・1890、シャーマン反トラスト法(大企業の市場支配阻止)
 ・1901、セオドア・ローズヴェルト大統領(共和党)・・・革新主義の改革実施
 ・1913、ウィルソン大統領(民主党)
   ・・・「新しい自由」国民の中・下層に有利な諸改革
     ・反トラスト法の強化(大企業にストップをかける)
     ・関税引下げ、労働者保護立法
424世界@名無史さん:2011/07/15(金) 00:29:58.62 0
マッキンリー
 共和党。米国第25代大統領。在任1897〜1901。
 米西戦争、ハワイ併合、中国の門戸開放政策などを進める。
 在任中、無政府主義者により暗殺。
425世界@名無史さん:2011/07/15(金) 00:45:11.61 0
セオドア・ローズヴェルト(ルーズベルト)
 共和党。米国第26代大統領。在任1901〜1909。
 ・革新主義(進歩主義)を掲げる。
  (政治の民主化、労働者保護、独占の規制(トラストの摘発)、自然保護など)
 ・パナマ運河建設、ラテンアメリカ諸国への干渉(カリブ海への棍棒政策>>383
  など積極外交推進(帝国主義的)。
 ・日露戦争の講和を斡旋。
426世界@名無史さん:2011/07/15(金) 00:53:02.07 0
 (蛇足)
 ラシュモア山(サウスダコタ州)の大統領の彫像(1927〜1941制作、高さ16m)
  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1f/Mountrushmore.jpg
  左から、ワシントン、ジェファーソン、セオドア・ルーズベルト、リンカーン。

  遠景
  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7d/Air_Force_One_over_Mt._Rushmore.jpg
  アメリカの象徴が長期にわたり風化しないよう、非常に硬質な岩盤が選ばれた。
427世界@名無史さん:2011/07/15(金) 00:57:38.93 0
ウイルソン
 民主党。米国第28代大統領。在任1913〜1921。
 第一次大戦のベルサイユ講和会議の主役を務め、国際連盟創立を提唱。
428世界@名無史さん:2011/07/15(金) 22:50:16.04 0
今日から、『19c末〜20c初頭のアジア』にいきます。
1890頃〜1910頃。和暦で言うと、明治23〜43年頃。(大正元年=1912)

共通項を抽出して、分類すると、こんな感じでしょうか。

          ┌老大国・・・オスマン帝国、清朝→辺境の切売り・
喰われつつある.┤                    中途半端な改革
          └その他・・・イラン、朝鮮、日本?→存立の危機

         ┌大植民地・・・インド→組織的大規模反抗の始まり
既に喰われた ┤
         └中小植民地・・・ベトナム、インドネシア、フィリピン
                       →支配抵抗運動→弾圧→弾圧
429世界@名無史さん:2011/07/15(金) 23:33:44.40 0
オスマン帝国・19c末〜20c初頭(>>196

 ・1878、露土戦争(完敗)、アブデュル・ハミド2世、ミドハト憲法停止。(>>204
   →パン・イスラーム主義政策実施→体制維持を図る。
 ・1889、憲法停止に不満を抱く青年、「青年トルコ」(統一と進歩委員会)結成。
 ・1898、ヴィルヘルム2世訪問、1903、ドイツ資本のバグダード鉄道建設本格化。
 ・1908、青年トルコ革命。「青年トルコ」が政権を握る。
   →その後、内外の情勢変化→内閣、反動化→政局不安定化
 ・1911〜12、伊土戦争(イタリア・トルコ戦争)。リビア(トリポリ・キレナイカ)を喪失。
 ・1912.10〜1913.5、伊土戦争に乗じ、バルカン同盟も宣戦(第1次バルカン戦争)。
   →バルカン半島領の残り半分(ギリシア北部・アルバニア・セルビア南部など)喪失。
 ・1913.6-8、戦勝国領土分配の対立で、バルカン同盟間で戦争に(第2次バルカン戦争)。
    オスマン帝国もブルガリアに宣戦。エディルネ(現、トルコ最西端)奪回。
 ・その後、骨折り損のブルガリア、欧州側領土を一気に失ったオスマン帝国が接近。
   →第一次世界大戦の一つの要因に。
430オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/15(金) 23:54:03.53 0
>>429
>「青年トルコ」(統一と進歩委員会)
厳密には「青年トルコ」と「統一と進歩委員会」は完全にイコールじゃないよ。
「青年トルコ人」というのはアブデュルハミト2世の専制に反感を持ち憲法の、
復活を願ってる人たちを漠然と指す名称に過ぎなくて、そういった人たちの、
作る政治的グループの中で一番大きなグループが「統一と進歩委員会」。
つまり「青年トルコ」という大きな枠組みの中に「統一と進歩委員会」がある、
感じかな。ちなみに「青年トルコ」という言い方は西欧諸国による他称で彼らが、
そのように名乗った訳ではないけど今ではトルコ国内でも普通に使われてる。
431世界@名無史さん:2011/07/16(土) 00:13:15.88 0
>>430さん、コメントありがとう。
オスマンを知り尽くしてますね。分かりやすいご指摘、感謝いたします。
432世界@名無史さん:2011/07/16(土) 00:16:34.91 0
ちなみに、手元の資料(ネタ本)には、こうありました。

青年トルコ(党)
 国力の衰退に苦しむオスマン帝国の近代化をめざし、19世紀末に結成された
 民族主義政党。正式名称は、「統一と進歩委員会」。
433オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/16(土) 00:23:12.64 0
>>432
上に述べたような理由で「統一と進歩委員会」を「青年トルコ党」と呼ぶ場合も、
あるからその資料も間違いではないね。ただ、あくまでその呼び方は他称だし、
「青年トルコ人(党)」はもっと広い意味で使うほうが多いから誤解を招く危険が、
ある。だから、個人的にはちゃんと分けて使うべきかなと思わなくもない。
434世界@名無史さん:2011/07/16(土) 00:40:53.62 0
青年=若い人が中心になって活躍、というのは、幕末・明治維新の頃と
似ていますね。
それとも心が若ければ、「青年」でしょうか。
(青春18きっぷ、みたいに)
435世界@名無史さん:2011/07/16(土) 00:48:40.66 0
青年トルコ革命(サロニカ革命)
 日露戦争の日本の勝利に刺激され、1908、政治改革を求めて
 知識人や青年将校たちが反乱をおこし、成功する。
 これにより、19世紀末以来停止されていたミドハト憲法が復活。
436世界@名無史さん:2011/07/16(土) 00:51:54.62 0
青年トルコ革命を機会に、ブルガリアが、トルコからの独立を宣言。
また、オーストリア・ハンガリー帝国が、ボスニア、ヘルツェゴヴィナを併合。
437世界@名無史さん:2011/07/16(土) 01:04:31.82 0
バルカン半島
 列強の利害の対立、民族独立運動が激しく交錯し「ヨーロッパの火薬庫」
 といわれていた。
 第1次バルカン戦争で、バルカン同盟(ロシアが結成を指導)とトルコとが激突。
 第2次バルカン戦争で、ブルガリアが大敗。
438世界@名無史さん:2011/07/16(土) 01:26:45.66 0
セルビア
 1878の露土戦争でトルコから独立。
 パン・スラヴ主義(スラヴ民族の団結と発展をめざす運動/思想)の
 急先鋒として、オーストリアと対立。

 (補記)セルビアの変遷
 1817-78、オスマン帝国の自治公国
 1878-82、独立公国(セルビア公国)
 1882-1918、王政に移行。(セルビア王国)
 1918-41、セルビア・クロアチア・スロベニア王国(1929ユーゴスラビア
      王国に改称)の一部
 1941-44、セルビア救国政府(ナチスの傀儡国家)
 1945-92、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の一部
 1992-2003、ユーゴスラビア連邦共和国の一部
 2003-06、セルビア・モンテネグロの一部
 2006、モンテネグロ独立。セルビア単独国家に。
439オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/16(土) 09:03:05.04 0
>>435
単に「青年イタリア」とかから名づけられたみたい。「青年トルコ」という名の通り、
平均年齢は比較的低めだったけど、だからといって青年ばかりいた訳じゃない。
それなりに歳とった人も中にはいたからね。まぁ若い人が中心ではあったけど。

>>436
この事件はオスマン帝国が強く抗議して、後一歩で列強同士の対立に及ぶ、
可能性があったんだよね。結果的にはブルガリアとオーストリアが大量の、
金を払うことでオスマン帝国は了承したけどセルビアだけは最後まで認めなかった。
440オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/16(土) 09:06:41.91 0
>>439後段補足。
「列強同士の対立に及ぶ危険性」というか「列強同士の戦争に及ぶ危険性」か。
すでに列強同士はこの事件を巡って対立してたからね。ただ、戦争に行く前に、
オスマン帝国がブルガリアやオーストリアと独自に交渉して承認したため最悪の、
事態だけは免れたけど。結局セルビアだけが最後まで納得しないまま終わった。
441世界@名無史さん:2011/07/16(土) 12:04:45.91 0
>>436は、たまらんですね。
せっかく改革したのに、領土を失っては、民衆の支持も得られなく
なりますね。「俺たちの改革は、一体何だったんだろう・・・」状態?
明治維新と同時に、例えば北海道を失う、みたいな感じでしょうか。
442オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/16(土) 15:38:16.17 0
>>441
ついでに言うとクレタ島もギリシャに編入されそうになるけどこっちは、
列強が反対したため、オスマン帝国領のままで留まった。クレタ島が、
最終的にギリシャ領になるのはバルカン戦争後だね。まぁギリシャの、
領土拡張は他の2つと領土拡張と違って、ロシアが絡まなかったのが、
失敗した大きな理由かな。他の、ブルかリアの独立やオーストリアの、
ボスニア・ヘルツェゴビナ併合に関しては地中海進出を諦められない、
ロシアがこれら2国の支持を取り付けるために支援した面もあったしね。
とは言え、イギリスやフランスがこれに猛反対したためオスマン帝国は、
これを利用しオーストリアやブルガリアと独自交渉を行なって補償金を、
得ることで列強同士の戦争を回避した。確かに、民衆からしてみれば、
納得しにくいものもあっただろうけど、政治判断としては悪くないと思う。
443世界@名無史さん:2011/07/16(土) 19:35:16.12 0
ピュリッツアー賞受賞記者である、ティム・ワイナーのCIA秘録がいい。
敗退した中国国民党軍部隊は黄金の三角地帯に住み着いた。
米国務省政務参事官によると、CIAは彼等を自由の戦士だとみなし、
アメリカは物資を補給していた。
彼らのうちの1925人は台湾に移送されたが、後には何千人も残った。
残った連中は共産主義と闘うのではなくて、
アヘンの世界市場の独占に乗り出し、モルヒネをバンコク出荷。
ま〜、今のアフガニスタンに似てるね〜。
なっ、歴史は常に繰り返す。
444世界@名無史さん:2011/07/16(土) 19:41:30.67 0
ティム・ワイナーのCIA秘録より。
CIAはカストロ、トルヒーヨ(ドミニカのトップ)、ディエム(南ベトナムのトップ)
の暗殺を企てた。
カストロ暗殺失敗。逆に、JFKが暗殺されたのか?
445世界@名無史さん:2011/07/16(土) 21:19:39.34 0
>>442さん
クレタ島っていうのは、歴史的に重要な場所ですね。
ちょっと調べてみました。

>>443-444さん
機会があれば読んでみて、ここに反映させられれば
面白いかな、とも思います。
446世界@名無史さん:2011/07/16(土) 21:28:09.00 0
クレタ島史略
 ・BC27、ローマ帝国領。のち、東ローマ帝国領。
 ・1204、第4回十字軍で、ヴェネツィア共和国領に。
 ・1644〜 オスマン帝国による征服(1669完了)
 ・1888、議会で急進派多数形成、ギリシャ(1829独立)への併合めざす。
 ・1896、ギリシャ海軍派兵。欧州列強が阻止。
 ・1898、自治権獲得。
 ・1913、第1次バルカン戦争の結果、ギリシャ領に。
 ・1941、英軍進駐→クレタ島の戦いで、英軍追放、独軍駐留。
 ・1945、ドイツ降伏後、ギリシャに支配権が戻る。
 ・戦後、王党派 (中道右派)支配区域となり、王党派と共産主義
  が対立して内戦状態のギリシャ本土とは距離を置く。
 ・1967、本土の軍事クーデター以降は、距離が縮まる。

 ・面積8,300km²(地中海で5番目に大きな島。四国の半分弱)
 ・人口50万以上。
 ・1年を通じ温暖な気候に恵まれ、地中海の代表的リゾート観光地。
 ・中心都市イラクリオン(港町)には、クノッソス宮殿(ミノア文明の遺跡)、
  ヴェネツィア時代の要塞などがある。
447世界@名無史さん:2011/07/16(土) 21:57:07.15 0
ローマ帝国領からにするくらいならミノア文明からにしてくれ。
448世界@名無史さん:2011/07/16(土) 22:57:39.57 0
>>447さん、アドバイスありがとう。
近現代史スレだから、せいぜいオスマン帝国からのスタートなんでしょうが、
「オスマンの前は何だったんだろう。あれ、ヴェネツィアだ。」
「ヴェネツィアはどこから奪ったの?なんだ東ローマか。ならローマ帝国からだ。」
という具合です。さかのぼりすぎ、ですかね。
449世界@名無史さん:2011/07/16(土) 23:05:12.51 0
ブルガリア近現代史
 ・1396、第二次ブルガリア帝国(1185〜)、オスマン帝国に併合。
 ・1876、民族主義気運が高まり、武装蜂起→鎮圧→ロシア出兵
  →1878露土戦争
    (ロシア皇帝アレクサンドル2世の銅像が、解放者として現在も
    ソフィア市内に飾られている。)
 ・1878.3月、サン・ステファノ条約で、大ブルガリア公国成立。
 ・1878.6月、ベルリン会議で、ブルガリア分割。領域縮小。
 ・1908、青年トルコ人革命を契機に、独立宣言。(1909ブルガリア王国)
 ・1912.10〜1913.5、第1次バルカン戦争に勝利。領土拡大に成功。
 ・1913.6-8、第2次バルカン戦争。孤立無援。周辺部を各国に奪われる。
 ・第1次大戦、同盟国側で参戦→敗北。
 ・1919.11、ヌイイ条約で、また周辺部を喪失(エーゲ海出口を失う)
 ・第2次大戦、枢軸国側につく。
 ・1944.9、ソ連より宣戦布告、侵入。無抵抗。(領土は失わず)
 ・1946、王政廃止、ブルガリア人民共和国となる。
 ・冷戦時代、親ソ連。
 ・1989、東欧民主化運動波及、共産党独裁体制崩壊。
 ・1990、ブルガリア共和国に改称。
 ・2007、欧州連合(EU)に加盟。(当時、EU最貧国)

 ・面積11万km²
 ・人口750万人(スラブ系のブルガリア人84%)
 ・通貨レフは、ユーロを基軸通貨とする固定相場制。
 ・ブルガリア料理=ひき肉料理、煮込み料理、ヤギの乳から作られる
  チーズ・ヨーグルト。ヨーグルトは世界的に有名(長寿に効果)。
 ・首都ソフィアは、ブルガリア西部に位置。標高550mの盆地にあり、
  古代から東西南北の交通の要所。7000年の歴史の痕跡が見れる。
450オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/16(土) 23:47:06.24 0
>>448
ローマ帝国領からずっとビザンツ帝国領だった訳じゃなく、一時的に、
イスラーム政権がクレタ島をビザンツ帝国から奪ってた時期があるよ。
まぁその後ニケフォロス2世フォカスが皇帝になる前に奪還してるけど。
451世界@名無史さん:2011/07/17(日) 13:12:46.67 0
>>450さん、ご指摘ありがとう
大雑把すぎましたね

さて、今日は、イランとインドに行ってみます。
452世界@名無史さん:2011/07/17(日) 13:17:05.00 0
イラン・19c末〜20c初頭(この前、>>209-210
 ・カージャール朝支配下(1796〜1925)。英・露に屈服・従属的。
 ・19c後半、アフガーニー(思想家・改革者・革命家)、イスラーム教徒の連帯の
     必要性を唱える。→エジプト、トルコ、イランなどに影響。
 ・1891〜 タバコ・ボイコット運動(イギリスのタバコ利権に抵抗)
   →民族意識の高まり→専制批判の立憲運動
 ・1906、イラン立憲革命→イギリス・ロシアの介入
 ・1911、ロシアは、イランに軍を進め、武力で議会を閉鎖
453世界@名無史さん:2011/07/17(日) 13:47:23.58 0
1904-05日露戦争でロシア敗戦→(日本のような)立憲の重要性認知
→イラン立憲革命へ。
アジアの一国に負けたロシア、恐るるに足らず、のはずが巻き返し。
ロシア、なかなかしぶといですね。
454世界@名無史さん:2011/07/17(日) 13:55:19.81 0
インド・19c末〜20c初頭(この前、>>221-222>>233
 ・インド帝国成立後、通信交通手段(鉄道など)整備。
  →商品作物生産進む。(コーヒー、茶、綿花)→インド住民に経済的負担
 ・1885、インド国民会議結成。→民族運動、次第に盛んに。
 ・1905、ベンガル分割令。(ヒンドゥーとイスラムの分断、激突を狙う。)
  →急進派ティラクらが国民会議の主導権を握り反対運動展開。
 ・1906、カルカッタ大会で、4綱領決議。
  →運動急進化→内部対立・弾圧により沈滞
  →イギリスの対策
    @懐柔策としてインド人の行政組織参加容認
    A1911、ベンガル分割令を撤回
    B反英運動の本拠カルカッタから、首都を旧都デリーに移転
 ・1906、国民会議とは別に、親英的な全インド・ムスリム連盟結成。
455世界@名無史さん:2011/07/17(日) 14:06:13.56 0
インド国民会議
 ・インドの民主主義運動を鎮めるため、イギリスが地主・商人・知識人ら
  の有力者を集め、対英協調をはかろうとした。
 ・第1回会議、ボンベイで開催。(1885)
 ・この会議に招集された人たちが結集した結社を「国民会議派」という。
 ・最初は穏健であった。
 ・が、ティラク指導のもとで次第にインドの独立をめざし、イギリスと対立。
456世界@名無史さん:2011/07/17(日) 14:18:02.01 0
ベンガル分割令
 インドの反英・民族主義運動の進展に対し、イギリスはインド人の宗教的対立を
 利用し、法律(ベンガル分割令)を発布して分断をはかった。(1905施行)

 (ベンガル分割令の補足)
 ・もともとは、行政の効率化のため。
 ・当時の民族運動の中心であったベンガル地方を、東西に分割。
  @西ベンガル(現在の西ベンガル州、ヒンドゥー教信徒多住地域)
   →他の州に編入→地方議会選挙でベンガル人を少数派にする
  A東ベンガル(現在のバングラデシュ、ムスリム多住地域)
   →ムスリム自治州を設立
 ・これにより、民族運動の分断を図る。
457世界@名無史さん:2011/07/17(日) 14:26:52.94 0
カルカッタ大会4綱領
 ベンガル分割令に対抗し、1906の国民会議派の大会(カルカッタ)で、
 インド独立のための4つの運動方針が決まる。
  @英貨排斥(イギリス商品のボイコット)
  Aスワデーシswadeshi(国産品愛用)
  Bスワラージswaraj(自治・独立)
  C民族教育
458世界@名無史さん:2011/07/17(日) 14:39:39.81 0
全インド・ムスリム(イスラム)連盟
 イギリスは、民族運動の分断をはかるため、インドのイスラム教徒を支援して
 この連盟を結成させる。

 (その後)
 ・当初、イギリスへの忠誠を誓う。(ダッカ三大綱領)
 ・1911、ベンガル分割令撤回で状況一変。イギリスとの関係悪化。
 ・第1次大戦で、イギリスがトルコと開戦したことに不満爆発、自治政府
  樹立を目標に掲げる。(国民会議との協調)
 ・1937、州自治が認められた頃よりインド国民会議と対立。分離めざす。
 ・1947、インド、パキスタン、分かれて独立、建国。
 ・一党独裁体制を敷く→反対派粛清→国民の支持後退
 ・1958、クーデター。活動を停止。
 ・1962、党は改変され、パキスタン・ムスリム連盟として政界復帰。
459世界@名無史さん:2011/07/18(月) 20:51:28.15 0
イスラム同盟(サレカット・イスラム)
 1911、オランダに対し自治を要求して結集した、インドネシアの
 民族主義団体。

 (補足・・・成立の経緯とその後)
  ・インドネシア植民地社会の衰退
   →世論の批判→植民地政策の見直し
     (強制栽培制度の廃止、20c〜住民への福祉政策など)
   →現地人官吏養成政策→学校の設立→オランダ語教育・専門教育
   →教育を受けたことで民族的自覚が出る
  ・1911、旧都ソロにてイスラム同盟(サレカット・イスラム)の成立
   →またたくまに各地に広がる
  ・当初、相互扶助的性格→やがて政治活動も
  ・1918〜20、民族運動高揚期の中心的存在。(民族独立、社会主義めざす)
  ・1920年代、植民地政庁の弾圧→組織崩壊→急速に衰退
460世界@名無史さん:2011/07/18(月) 21:34:00.55 0
 (蛇足)
 インドネシアの首都事情
  ・オランダ領東インドの中心都市=ジャワ島のバタヴィア(現、ジャカルタ)。
   (呼称変遷、1527ジャヤカルタ→1619バタヴィア→1942ジャカルタ)  
  ・さらに、ジャワ島中部にマタラム王国の2つの都があった(王位争いがらみ)
  @ソロ(現、スラカルタ)
   ・・・こちらの王家は、オランダに従順→独立後、自治権喪失。
  Aジョグジャカルタ(1945-49インドネシア独立戦争時の首都)
   ・・・こちらの王家は民族主義運動支持→独立後、特別区として自治権獲得。

 各都市の位置
 http://www.geocities.jp/fuka39102000/public_html/chizu22.jpg
461世界@名無史さん:2011/07/18(月) 21:40:14.05 0
>>460の地図は「ページ準備中」表示がでましたので、こちらをどうぞ

各都市の位置
http://indonesia-corner.com/sightseeing/java/images/map.jpg
http://www.edita.jp/hezkanara/image/hezkanara9693/b18132a42cced05c4be89a0f02027b2d.jpg
462世界@名無史さん:2011/07/18(月) 22:08:40.63 0
アギナルド
 米西戦争(>>376>>378)でアメリカを支持し、独立を期待したが失敗に
 終わり、反米独立運動を行ったフィリピンの民族運動の指導者。

 (補足)
 ・1869、誕生
 ・1896、町長だったが、スペインの重税・重労働に対する武装蜂起に参加
 ・1897、武装蜂起集団のトップに。ゲリラ戦展開。
 ・1897.11、スペインと和平協定→香港へ亡命
 ・1898、米西戦争で米国に呼び戻され、帰国、独立運動再開
 ・1898.6、フィリピン独立宣言。(現在も6/12は独立記念日)
 ・1899.1、憲法公布、第1次フィリピン共和国樹立、初代大統領に。
 ・1899、米比戦争(1898.12、米国はスペインから領有権を$2000万で取得)
 ・1900、当時の首都マロロス陥落、正規軍解散
 ・1901.3、米軍に捕縛。米国主権を認める。(1902〜米国本格的統治)
 ・第2次大戦時、日本軍に協力→米軍が戻ると、日本軍協力者として逮捕
 ・1946、第3次フィリピン共和国が成立、パレードに参加
 ・1964(94歳)、没
463世界@名無史さん:2011/07/18(月) 22:26:51.64 0
ファン・ボイ・チャウ
 フランスからの独立を求めるヴェトナム民族主義運動の指導的役割を
 果たした人物。

 (補足)(当時のベトナム状況は>>251>>254-256
 ・1867、誕生。10代の頃から反仏独立運動に参加。
 ・1904、阮朝皇族を盟主とした「ベトナム維新会」を結成。
 ・1905、来日(武器援助を求める)
   →大隈重信、犬養毅らの忠告を受け東遊運動(トンズー運動)を興す。
    (人材育成のため、ベトナムの青年を日本に留学させる運動)
 ・1909、国外退去(フランス政府が日本政府に働きかけ)→中国へ
 ・1912、広東でベトナム光復会を結成(武力によるベトナム解放めざす)
 ・1925、上海で逮捕、ハノイで終身刑宣告。
   →ベトナム世論の反発で恩赦、フエに軟禁状態のまま、1940没。
464世界@名無史さん:2011/07/19(火) 23:23:50.64 0
東アジア・19c末〜20c初頭の流れ図

   〔清朝〕     〔民衆・列強〕       〔満州・朝鮮〕   〔日本〕

94   ┌────────┬─日清戦争───┬─────┐
95   ↓      (威圧感消える)         │     三国干渉
96 (反省)   列強の中国分割(98-99激化).   ↓    (臥薪嘗胆)
97   ↓         │   ↓          大韓帝国独立. │
98戊戌の変法・政変  │ 米国門戸開放提唱.            │
99             ↓               .         │
00           義和団事件                     │
01.            │   └─→露撤兵せず(朝鮮へ圧力).  ↓
02   ┌─────┴┐          │          日英同盟
03  (反省)    (民衆、見限る)      │             │
04   ↓    .    ↓     .     └─→日露戦争←──┘
05科挙廃止    中国同盟会結成           日韓協約(04-07)
06   │         │                  │
07   ↓         │                  │ 日露協約
08.憲法大綱発布    │                  │
09             │                  ↓
10             ↓                韓国併合
11           辛亥革命 ┐             不平等条約改正
12清滅亡←─中華民国建国←┘
465世界@名無史さん:2011/07/19(火) 23:44:45.07 0
康有為・梁啓超
 洋務運動(>>290-293)の失敗を反省して、議会政治を基盤にした
 立憲君主制国家の樹立をめざして、政治改革をおこす。
 (これを、変法自強(変法運動)という。)
 この運動の代表的指導者がこの二人。
466世界@名無史さん:2011/07/19(火) 23:51:17.19 0
光緒帝(系図>>289
 1898、康有為・梁啓超らを登用、革新を断行(戊戌(ぼじゅつ)の変法)
 したが、清朝内部の守旧派勢力(中心人物=西太后)に反対され、
 3ヶ月でクーデタ(戊戌の政変)が起き、幽閉される。
 康有為・梁啓超らは失脚、亡命。
467世界@名無史さん:2011/07/20(水) 00:22:05.24 0
西太后
 咸豊帝の妃、同治帝の生母。慈禧(じき)皇太后とよばれた。
 同治帝・光緒帝の摂政となって政治を独占。
 変法自強運動を弾圧して光緒帝を幽閉、
 義和団事件を利用して列強に宣戦する、など
 守旧派の中心人物。

 (蛇足)
 西太后といえば超残酷な独裁者のイメージでしたが、
 「蒼穹の昴」(NHKドラマ)でイメージが変わりました。
 田中裕子の西太后、よかったですね。
468世界@名無史さん:2011/07/20(水) 22:11:16.81 0
列強の中国分割

 日清戦争の賠償金支払いのため、列強に多額の借款(資金借入)。
 これに対し、列強は、清朝に、
  ・租借権(他国領の一部を条約により借りる。事実上、領土の割譲。)
  ・鉱山採掘権
  ・鉄道敷設権
 などの利権を求めた。
469世界@名無史さん:2011/07/20(水) 22:59:00.14 0
租借権 (>>274租借地と租界の違い)
 他国の領土の一部を条約により借りること。事実上、領土の割譲。
 1898の租借
  ・ドイツ・・・膠州湾
  ・ロシア・・・旅順、大連
  ・イギリス・・・威海衛、九竜半島
 1899の租借
  ・フランス・・・広州湾

 膠州湾(独)(中心都市=青島)と威海衛(英)は、山東半島にある。
 http://www.mf10.com/dreamtale/map.jpg
 http://www.takahashistamp.com/gazo/ken/20-05.JPG
 http://www.geocities.jp/keropero2000/china/shandong01.jpeg
 (緑枠=独、赤枠=英、オレンジ=中立地帯)
470世界@名無史さん:2011/07/20(水) 23:29:34.71 0
 (蛇足)
 青島ビール
  1898、青島、ドイツの租借地になる→ビール生産の技術移転
  1903、山東省青島で製造開始(中国で最も古いビールのひとつ)
  1919、ヴェルサイユ条約で、日本が青島の租借権等を引継ぎ。
      青島ビールも日本の大日本麦酒(1949アサヒとサッポロに分割)
      が取得し経営開始。
  1922、山東還付条約によって中華民国に権益返還。
      が、青島ビールの経営は引き続き大日本麦酒が行う。
  1945、中国側に接収。国営企業経営へ。
  1990年代、国営企業として香港市場に上場、のち民営化。

  現在、中国国内占有率=12.5%(国内1位)。世界50ヶ国で販売。
  アサヒビール、アンハイザー・ブッシュ(米社。世界3位。バドワイザー
  で有名)と関係が深い。
471世界@名無史さん:2011/07/20(水) 23:37:49.14 0
不割譲条約
 列強が、中国に、特定の地域を他国に割譲しないことを約束させた条約。
 この条約を利用し、日本は、福建省(台湾の西)を支配。
 http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/002/615/95/N000/000/000/china1910.jpg
472世界@名無史さん:2011/07/20(水) 23:44:41.27 0
門戸開放宣言
 中国侵略で他の列強に遅れた米国が、自国の権益を確立するために
 発表した声明。ジョン・ヘイにより発表。(1899〜1900)
 「門戸開放」「機会均等」「領土保全」の三原則が盛られる。
473世界@名無史さん:2011/07/21(木) 23:58:29.03 0
義和団事件
 19c末期、華北におこった大規模な民衆反乱。
 列強の中国侵略に対する民衆の広範な抵抗運動で、「扶清滅洋」を
 スローガンとする。

 (付記@・・・事件の前提)
 ・アロー戦争後の天津条約で、内地布教権獲得、キリスト教広がる。
  →仇教事件(外国人宣教師・信者vs郷紳・一般民衆)多発。
474世界@名無史さん:2011/07/22(金) 00:09:14.77 0
 (付記A・・・事件の推移)
 ・1894、大刀会、活動開始
 ・1897.11/1、山東省にて大刀会がドイツ人宣教師殺害。
     数日後、ドイツが膠州湾占拠。
 ・1898.5月、武術組織(拳法)の義和拳、「順清滅洋」を旗印に教会・信者
     を積極的に襲撃。 山東省地方大官も同情的で、取締りに消極的。
     団体として公認、「義和団」へ。
 ・1900.
   1/27、列強の公使団、清国に義和団鎮圧を強硬に求める。
   3/4、山東省地方大官更迭、袁世凱が赴任し義和団を弾圧。
   4〜5月、山東省から押し出された義和団、北京・天津間になだれ込む。
   5月末より、列強8ヶ国連合軍は公使要請を受け、軍隊派遣。
   6/10、20万人の義和団、北京に入城。日・独の公使らを殺害。
   6/20、義和団、紫禁城の一郭にあった北京各国公使館を包囲(〜8/14)
   6/21、西太后、列強に宣戦布告
   7/14、連合軍、清朝軍を圧倒、天津占領
   8/14、8ヶ国連合軍、北京攻略開始。(翌日陥落)
   8/15、陥落前、西太后は光緒帝を連れ、北京脱出、西安へ。
       光緒帝の妃である珍妃を井戸に落とし殺害。
   8/15、陥落後、1年に及ぶ占領体制。
       占領直後より、紫禁城・天壇・頤和園等掠奪・放火・破壊。
   8/20、清朝の態度、180度転換、義和団を反乱軍と認定。
   9月以降、懲罰的掃討作戦展開。(78回の残党狩り)
   10/8、義和団事件に関する北京列国公使会議開催。
 ・1901
   5/29、北京列国公使団の賠償金(4.5億両)要求を受諾。
   7/31、8ヶ国連合軍、北京からの撤退を開始。
   9/7、北京議定書締結。
475世界@名無史さん:2011/07/22(金) 00:19:55.87 0
北京議定書(辛丑(しんちゅう)和約)
 義和団事件後、列強と清で締結した講和条約。北京駐兵権の承認が
 含まれ、独立国としての威信を失墜。国際的地位はさらに低下し
 「半植民地」状態となった。

 (補足)
  清朝・西太后を守るため列強の言いなりに。
  北京・天津の列強の駐兵権を容認。
  過酷な賠償金、9.8億両(⇔清朝歳入0.9億両)。
  しわ寄せが庶民にもいき、清朝を敵視する層が広がる。
476世界@名無史さん:2011/07/22(金) 00:49:53.51 0
(蛇足)
中国武術(門派400〜600)┬─拳法(徒手技術)
 (広東省周辺では.    │
 「功夫(カンフー)」)    └─火器を除く武器術─┬短器械(刀・剣)
   ↓          .                 └長器械(槍・棍棒)
 ブルース・リーが有名

武術の目的
 @看(見て美しい演武)・・・武術太極拳
 A健身(体を鍛えて健康に)・・・太極拳(愛好者は世界中に大勢)
 B実用(相手を殺傷できる力)・・・対戦スポーツ形式競技と伝統流派
477世界@名無史さん:2011/07/22(金) 06:57:24.25 0
義和団事件は別名、拳匪の乱都も言われているような。
それまで中国各地にいた拳法の各拳派が集結して
文字通り徒手空拳で連合軍と戦い、ほぼ壊滅の憂き目にあった。
そして、長年続いてきた拳法の各流派の本流は殆どこの時期を境に潰えてしまっているとか。

無論、余り根拠がないのだが、義和団事件で拳法の連中が戦ったのは確かにあった訳で。
付録として一応。
478世界@名無史さん:2011/07/24(日) 01:32:25.88 0
>>477さん、関連コメントありがとう。
素手では勝ち目ないですよね。
清朝も「列強に宣戦布告」とか無謀すぎ、と思いますが、
日本だって「米英に宣戦布告」してますからね。(同じ穴のムジナ?)

次は、日露戦争にいきますが、これも結果によっては「無謀」
な話だったかもしれませんね。
479世界@名無史さん:2011/07/24(日) 08:09:13.36 0
日英同盟
 1902、ロシアのアジア進出を警戒して日本と英国が結んだ同盟。

 (補足)
 イギリスの締結事情
 ・露、満州の占領の既成事実化、さらに南進すれば、英の中国利権
  に危機感。
 ・南ア戦争(>>338)に戦力投入で国力低下、アジアに力を入れられず。
 ・ロシアを抑える同盟国として、最初はドイツを想定するも、ドイツに
 対露戦の気がなく、日本に目をつけた。
480世界@名無史さん:2011/07/24(日) 12:13:21.34 0
日露戦争
 1904〜05の、日本とロシアの戦争。
 この戦争での陸上最大の大決戦が、奉天の会戦。
 バルチック艦隊と日本連合艦隊が戦ったのが、日本海海戦。
481世界@名無史さん:2011/07/24(日) 12:20:14.49 0
ポーツマス条約
 日露戦争の講和条約。セオドア・ローズヴェルトの仲介。
 南樺太を割譲、関東州(旅順・大連)の租借権、南満州の鉄道の権利譲受。
 朝鮮(韓国)の保護権を確立、植民地支配を強める。
482世界@名無史さん:2011/07/24(日) 12:44:28.41 0
日清戦争も細かくやったので(>>312-313
日露戦争も同じように経緯をたどってみます。

『坂の上の雲・第3部』を知識なしで見よう、と楽しみにしている方は
次の(補記)は、飛ばして下さいね。
483世界@名無史さん:2011/07/24(日) 12:46:46.40 0
 (補記)
 日露戦争の経緯@

 1902.1/30、日英同盟調印、即時発効
 1903.4月、伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰菴会議」で開戦覚悟
 1903.8月、日露交渉、満韓交換論提示、ロシア側乗らず
     (39度以北中立化提案で、露の朝鮮進出の目論見が明らかに)
 1904
  2/6、国交断絶
  2/8、日、露の旅順港を奇襲攻撃。仁川上陸。
  2/9、仁川沖海戦
  2/10、相互に宣戦布告
  2〜5月、旅順港閉塞作戦をとるも、失敗。
     露のウラジオストク艦隊、積極的に出撃、通商破壊戦を展開
  (4/8、英仏協商締結(>>336))
  4/30、日・第1軍、鴨緑江会戦、露軍撃破
  5/26、旅順半島(遼東半島の奥)の付け根、南山の戦い。堅固な
      陣地で、死傷者4000。近代戦のすさまじさを初めて知る。
  6/14、旅順援護で南下してきた露軍を撃退(得利寺の戦い)
  7/23、大石橋の戦いで勝利
  8/10、旅順から出ようとした露艦隊と黄海海戦・コルサコフ海戦。
      露艦隊、旅順へ引き返す。
  8/14、蔚山沖海戦でウラジオストク艦隊に大損害を与え、活動阻止
  8/19、日・第3軍、旅順要塞への第1回総攻撃→失敗。
      死傷者15,000の大損害。
  8/24-9/4、遼陽会戦。露軍全面撤退。
  10/9-10/20、露軍攻勢、日軍防御(沙河会戦)。
      →その後、遼陽と奉天の中間を流れる沙河の線で対陣
  10/15、バルチック艦隊、バルト海より出航
  10/26、第2回旅順総攻撃失敗。
  11/26〜第3回旅順総攻撃、激戦の末、
  12/4、203高地を占領、旅順港内艦隊へ砲撃、大破させる。
484世界@名無史さん:2011/07/24(日) 12:50:31.37 0
 (補記)
 日露戦争の経緯A
 1905
  1/1、露軍旅順要塞司令官ステッセル中将、降伏
  (1/9、血の日曜日事件(>>419))
  1/25、沙河で露軍攻勢、日、戦線崩壊の危機を脱す(黒溝台会戦)
  2/21〜奉天会戦。3/9、クロパトキン撤退指示。3/10奉天占領。
     セオドア・ルーズベルト和平交渉開始、露、拒否。
     両軍ともに大きな損害→作戦継続困難
     →終戦まで四平街付近(長春・奉天間)で対峙続く。
  (3/31、第一次モロッコ事件。独・仏の対立)
  5/27、バルチック艦隊、7ヶ月の航海の末、日本近海に到達。
     →連合艦隊と激突(〜5/29)(日本海海戦)。→日本圧勝。
     →列強諸国は驚愕、ロシアの脅威に怯える国々は熱狂。
  (6月〜、ロシア第1革命。6/14戦艦ポチョムキンの反乱)
  7/7、樺太攻略作戦を実施、7/31、全島を占領。
  8/10、アメリカ・ポーツマス近郊で終戦交渉開始
  9/5、ポーツマス条約により講和(10/14批准=終戦)
   (9/5、日比谷焼打事件)
   (露、ゼネスト発生、10/17、ニコライ2世が十月詔書に署名)
485世界@名無史さん:2011/07/24(日) 15:26:05.90 0
(補記)
文字より映像のほうが印象に残りますね。

日露戦争・全体像
http://www.youtube.com/watch?v=jKXGsOh5ep8&feature=related
二百三高地・防人の詩(さだまさし)
http://www.youtube.com/watch?v=7YZAUe3ee2Y
日本海海戦
http://www.youtube.com/watch?v=Sr5foWKctuI&feature=related
日露戦争時実写フィルム、当時の声(ネルー熱狂、ウィルヘルム2世驚愕)
http://www.youtube.com/watch?v=sF52fmUMW_o&feature=related
486世界@名無史さん:2011/08/16(火) 21:53:49.99 0
ひさしぶりにアク禁解除になりましたよ。やっと。
またゆるゆると、いきますね。
487世界@名無史さん:2011/08/17(水) 22:33:50.45 0
次に行く前に、経過と終了予想でも。

済・・・1750年頃〜1900年頃の約150年間。山川教科書の約85ページ分。
   4/10〜7/24の約3ヶ月半、486レス消化。

今後・・・1900年頃〜2011年の約110年間。山川教科書の約80ページ分。

このままいけば、現在時点にたどりつくのは3ヶ月後の11月頃?
さて年内に間に合うか?
488世界@名無史さん:2011/08/18(木) 22:08:00.41 0
さて。
このスレは今、日露戦争が終わった段階。

まずは、ちょうど100年前の日本を見てから、
再スタートをきろうと思います。
489世界@名無史さん:2011/08/18(木) 22:10:51.08 0
(蛇足)
今からちょうど100年前、1911年(明治44年)の日本はどうだった?

・1/18、大逆事件判決(1910.5月以降次々に検挙、英・米・仏より抗議)。
 24名死刑判決。翌19日、12名を無期に減刑。1/24、12名の死刑執行。
・1/26桂首相、政友会の西園寺と提携、8/30第2次西園寺内閣成立。
 (桂園の政権たらいまわし)
・日米・日英の交渉まとまり、関税自主権が確立。(実施7/17)
 第3次日英同盟調印(米国を協約の対象から外す)。
・2月、南北朝正閏論(南朝が正統の主張)問題化、文部省驚く。
・3/11普選法衆議院通過、貴族院で否決。
・3/29工場法公布(初の労働立法)
・辛亥革命の発生。10〜12月、日本は清朝を支援し干渉しようとするが
 英国は乗らず。
 (→1912.1/1南京に革命臨時政府成立、孫文が臨時大統領に)
・10/25、片山潜らの社会党結成、10/27、禁止。
・11/15、東京市に公認の職業紹介所開設(浅草と芝)。
 (高学歴者の無就業者が増加していた)
・12/31、東京の市電運転手ストで街は大混乱に。
・文化・生活
 ・帝国劇場開場。修善寺物語初演。イプセン「人形の家」初演。
 ・平塚らいてう「青鞜」発刊。女流文芸運動。
 ・丸の内の煉瓦街完成。
 ・4/9吉原遊郭大火。以後公娼廃止の動きが活発化。
490世界@名無史さん:2011/08/19(金) 18:52:49.64 0
>>454
当時のインドで茶葉が作られてたの?
491世界@名無史さん:2011/08/19(金) 19:02:32.61 0
>>490
ダージリン・ヒマラヤ鉄道は1879年建設開始らしいよ。
茶葉を運ぶ為だからもっと前から栽培してた筈。
492世界@名無史さん:2011/08/19(金) 23:17:00.40 0
>>490さん>>491さんコメントありがとう。
>>278さんからも関連コメントをもらいました。
>>279で載せたサイトの中に、「紅茶の歴史」があります。
 http://www.verygoodtea.com/teapage/tea/000070.html

さて、今日からまた出発します。まず朝鮮へ。(>>464の内容)
493世界@名無史さん:2011/08/19(金) 23:23:24.80 0
日韓協約
 日露戦争後、日本は韓国に対して3回にわたり協約を強要、外交・内政
 干渉を深める。朝鮮民衆の義兵運動(反日武装闘争)を招く。
494世界@名無史さん:2011/08/19(金) 23:27:16.92 0
安重根(あんじゅうこん/アンチュングン)
 1909年10月、伊藤博文をハルビン駅で暗殺。
 1910年3月、死刑。
495世界@名無史さん:2011/08/19(金) 23:40:05.14 0
韓国併合
 1910年。

 (補記)
 経緯
 ・1897、日清戦争後、清朝の支配から外れ、大韓帝国に国号変更
 ・1904、日露戦争開始。大韓帝国は中立宣言。
   2/23、軍部が圧力をかけ。日韓議定書締結。協力促進。
   8月、第一次日韓協約を締結
 ・1905、日露戦争終結、朝鮮半島への影響力増大
   11月、第二次日韓協約(乙巳保護条約)締結
   12月、韓国統監府を設置。外交権を支配下に。
       (初代韓国統監=伊藤博文1906.3/3〜1909.6/14)
 ・1907、ハーグ密使事件。高宗を退位に追い込み、純宗即位。
   7/24、第三次日韓協約締結。内政権を掌握。
   8/1、大韓帝国の軍隊を解散。
 ・1909.10/26、ハルピンで伊藤博文、義兵闘争指導者の安重根により
      暗殺→日本国内の世論は併合へ大きく傾く
 ・1910.8/22、韓国併合条約調印、8/29、発効。
496世界@名無史さん:2011/08/20(土) 19:56:35.62 0
孫文
 清朝専制支配体制の打倒をめざし、興中会を結社。
 1905、興中会は、他の組織と結合し、中国同盟会となる。(華僑の支援)
 中国革命の基本理念として「三民主義」を掲げる。
 (三民=「民族の独立」「民権の伸張」「民生の安定」)
497世界@名無史さん:2011/08/20(土) 21:38:28.13 0
清朝の政治改革
 ・1905、科挙の廃止
 ・1908、二つの改革(憲法大綱の発布、国会開設の公約)
498世界@名無史さん:2011/08/20(土) 21:54:52.90 0
辛亥革命 1911
 財政難の清朝が、幹線鉄道の国有化を試みたが、
 反対運動が激化。

 まず、四川省で暴動化。
 続いて革命派の指導する軍隊が武昌で反乱。
 数ヶ月の間に、14省が清朝からの分離独立宣言。
499世界@名無史さん:2011/08/21(日) 15:34:53.00 0
中華民国
 1912年1月、南京で発足した共和国。臨時大総統、孫文→袁世凱。
500世界@名無史さん:2011/08/21(日) 15:57:26.97 0
ついに500まできました。
兄(スレ)の後姿が、ぼんやり見えてきました。
501世界@名無史さん:2011/08/21(日) 17:38:47.24 0
宣統帝溥儀(系図>>289
 1912 退位。清朝最後の皇帝(ラストエンペラー⇔始皇帝)。

 その後も清室優待条件により北京・紫禁城に居住するが、
 1924、追放。天津の日本租界へ。
 後に満洲国皇帝(1934〜1945)となる。 
502世界@名無史さん:2011/08/21(日) 18:29:42.68 0
国民党
 中華民国成立後、中国同盟会(>>496)が他の諸政党を加えて改組。
503世界@名無史さん:2011/08/21(日) 18:38:47.42 0
第2革命
 袁世凱が国民党を弾圧し、専制政治を復活しようとしたため
 1913、江西・南京で挙兵するも、失敗。
 その後、孫文は中華革命党を結成。(1914)
504世界@名無史さん:2011/08/21(日) 20:31:39.67 0
袁世凱
 清末民初期の軍人・政治家。
 
 (付記)
 1859生。科挙に2度挑戦し失敗、官僚をあきらめ軍人に。
 1881、李鴻章軍下で朝鮮に渡り、日清戦争まで事実上の朝鮮公使。
 1895、日清戦争に敗れ、改心、天津で洋式の新建陸軍を編成。
 1898、戊戌の新政では当初変法派に協力、その後裏切る。
 1899、山東巡撫(長官)になり、義和団の乱に対処。(>>474
 1901、李鴻章没後、北洋大臣兼直隷総督に。袁軍さらに強化。
 1904-5、日露戦争で清は中立、裏で日本軍に協力。(情報提供)
 その後、光緒新政の中心的人物となり近代化推進するが
 1909、宣統帝就任後、宣統帝の父に憎まれ失脚。
 1911、辛亥革命時、鎮圧できる最後の人物として再登用。
 1912、中華民国成立後、孫文と取引し、初代大総統に就任。
     (在1913〜15)
 1915、日本からの対華21ヶ条要求を認める。
 1916、帝制を実施。→反袁運動のため失敗。6月病死。
505世界@名無史さん:2011/08/21(日) 20:56:52.55 0
 (蛇足・・・袁世凱の評価)
 現在でも中華民国および中華人民共和国で、悪役である。理由は、
 ・孫文を弾圧
 ・日本の対華21ヶ条要求に屈した
 ・時代に逆行した皇帝即位
  (革命で打ち立てられた共和制中国を乱す)

 「辛亥革命をフランス革命とするならば、ナポレオンにあたる存在(やや誇張)」
 という話もあり。

 袁世凱は愛嬌のある顔をしていて、親近感がわき、仲間をつくりやすい、
 と何かの本で読んだことがあります。(司馬遼だったか?)

 ところで舛添要一が、袁世凱と菅首相を(強引に?)結び付けていましたよ。
 http://ameblo.jp/shintomasuzoe/entry-10931919675.html
506世界@名無史さん:2011/08/22(月) 23:15:05.35 0
今日から一転、ヨーロッパに移り、第一次世界大戦をテーマにします。

世界史板のスレ、
  【欧州の】第一次世界大戦【没落】3
  http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1284220298/l50
>>1にも、
 >「ヨーロッパの世紀」の終わりを告げることになった第一次世界大戦。
 >日本ではあまりなじみのない戦争・・・
とあるとおり、日本では、日清・日露戦争や第2次世界大戦と比べると、
かなり影が薄いですね。

なぜ?何がおこったの?どんな影響があったの?あたりを
ちょっとでも見ていけたら、と思います。
507世界@名無史さん:2011/08/22(月) 23:32:49.97 0
三帝同盟
 1873、独・墺・露。普仏戦争(>>83-86)後の対仏同盟。

 ビスマルク在職時。(>>412
508世界@名無史さん:2011/08/22(月) 23:35:59.66 0
三国同盟
 1882、独・墺・伊。
 (1878ベルリン会議(>>96)の結果、独と露の関係が弱体化した。)
 軍事的な相互援助条約である。
509世界@名無史さん:2011/08/22(月) 23:40:34.94 0
露仏同盟
 ビスマルク引退後(1890、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世親政開始)、
 ロシアはフランスに接近、結果、同盟が成立。
510世界@名無史さん:2011/08/23(火) 22:22:24.50 0
3B政策
 ドイツの帝国主義的西アジア進出政策の略称。
 ベルリン〜ビザンティウム(イスタンブール)〜バグダードを結ぶ鉄道
 を敷設し、沿線を勢力下に置こうとするもの。
 イギリスの3C政策や露・仏の政策と衝突し、第一次大戦の原因の
 一つとなる。
511世界@名無史さん:2011/08/23(火) 22:30:50.54 0
3C政策
 イギリスの帝国主義政策の略称。
 ケープタウン〜カイロ〜カルカッタの三角地帯を勢力下に置こうと
 するもの。
512オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/08/23(火) 22:35:36.10 0
>>510
3B政策や3C政策という言葉は最近じゃあまり使われなくなってきてるよ。
そもそも当時のドイツやイギリスにはこのような言葉は存在しなかったし。
第1次世界大戦の一因としてこれを挙げるのはあまり適当ではなさそう。
513世界@名無史さん:2011/08/23(火) 22:37:49.76 0
英仏協商(1904)
 19c末以来、ドイツに急迫されたイギリスは、伝統的な外交方針
 (光栄ある孤立)を放棄し、1902の日英同盟(>>479)に続き、
 締結。相互に、エジプト(英)、モロッコ(仏)の優越権を認め合う。
 この協商により、「三国協商」(英・仏・露)体制が成立。
514オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/08/23(火) 22:46:58.25 0
>>513
揚げ足取りみたいで悪いけど英仏協商締結時はまだ英露協商は、
結ばれてないから3国協商とは言えない気がする。英仏協商の後、
南下を諦めたロシアとイギリスの間で英露協商が結ばれ、この時、
3国協商となるからね。まぁ、3年程度の違いだから大差ないけど。
515世界@名無史さん:2011/08/23(火) 22:50:03.57 0
>>512さん、関連コメントありがとう。

一応、山川の教科書にも載っているので、挙げてみました。
3Cvs3Bって、当時の状況を分かりやすい構図にするため
後世の人が解説用に作ったのでしょうかね。
516世界@名無史さん:2011/08/23(火) 23:02:41.39 0
>>514さん
確かにその通りです。要訂正、ですね。

>>483にあるとおり、英仏協商は1904年の4/8の成立で、
日露戦争が始まったばかりの頃だから、ここで英仏露の
三国協商が成立してたら、日本はたまらんですからね。
517オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/08/23(火) 23:09:34.08 0
>>515
>後世の人が解説用に作ったのでしょうかね。

しかも、日本以外ではほとんど使われない用語だから、
多分、ヨーロッパの情勢を理解しにくい後世の日本人が、
単純化するために作った用語だと思う。でも正直これは、
あまりにも単純化しすぎてる上に当時そういう言い回しが、
なかったことを考えると当時のイギリスやドイツが露骨に、
これを意識して対立したということはなさそうな気がする。
もちろん帝国主義的対立はあったけど3B対3Cでそれを、
理解するのは微妙かも知れないね。モロッコ危機などに、
見られるように、帝国主義的対立は他の部分のほうでも、
割りと目立ってたし、第1次世界大戦の原因としては他の、
要因のほうが大きいというのが最近の見解みたいだね。
518オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/08/23(火) 23:41:51.32 0
>>516
そもそも、日露戦争自体が英露協商の締結の1つのきっかけだったからね。
この戦争での敗北により極東方面での南下政策を諦めざるを得なくなった、
ロシアはこれを機会に今まで南下を巡って敵対関係にあったイギリスとの、
関係を再び深めることにした訳だからね。その結果、英露協商が結ばれた。
519世界@名無史さん:2011/08/24(水) 22:34:16.36 0
オツガイさん、関連コメント、というか、分かりやすいタイムリーな
コメントありがとう。イギリスの外交は巧妙ですね。
さて今日もさらに次いきます。
520世界@名無史さん:2011/08/24(水) 22:50:06.35 0
モロッコ事件(独が仏の勢力圏を奪おうと画策)

 第1次(1905)(日露戦争中>>484
  タンジール事件(ヴィルヘルム2世が突然北端の港湾都市タンジール
  を訪問。国際会議開催を提案。)が発端。
  収拾のため、関係国がアルヘシラス(スペイン)で国際会議開催。
  モロッコにおけるフランスの優位が事実上追認された。

 第2次(1911)
  アガディール事件(内乱に、仏が鎮圧のため出兵。独は、突然砲艦
  (パンター号)をモロッコ南西の港湾都市アガディールに派遣して威嚇)
  が発端。
  ドイツはフランス領コンゴの譲渡を要求、一部を獲得。
  一方、これを契機に、モロッコはフランスの保護国となる。

モロッコ地図(>>359のと同じ)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Morocco_Protectorate.svg
521世界@名無史さん:2011/08/24(水) 23:02:41.32 0
(補足)
 モロッコ事件は、第一次世界大戦前夜における国際危機のうちでも、
 ファショダ事件(>>336)と並び特に重大な事件とされている。
 独仏両国の相克が決定的となる。一方、英仏の関係確認、強化。
 ドイツの国際的孤立という、ビスマルクが最も恐れていた事態に陥る。

(蛇足)
 全方位を敵に回してはいけない、ということですね。
522世界@名無史さん:2011/08/24(水) 23:21:15.58 0
伊土戦争とバルカン戦争(>>429の後半再掲)

 ・1911〜12、伊土戦争(イタリア・トルコ戦争)。
   →トルコ敗れ、リビア(トリポリ・キレナイカ)を喪失。
 ・1912.10〜1913.5、伊土戦争に乗じ、バルカン同盟も宣戦。
    (第1次バルカン戦争)
   →バルカン半島領の残り半分(ギリシア北部・アルバニア・
    セルビア南部など)をトルコは喪失。
 ・1913.6-8、戦勝国領土分配の対立で、バルカン同盟間で戦争に。
    (第2次バルカン戦争) トルコもブルガリアに宣戦。
   →ブルガリア大敗。孤立無援。周辺部を各国に奪われる。
    トルコは、エディルネ(現、トルコ最西端)を奪回。
 ・その後、骨折り損のブルガリアと、欧州側領土を一気に失ったトルコ
  (このときはまだオスマン帝国)が接近。
   →第一次世界大戦の一つの要因に。
523世界@名無史さん:2011/08/25(木) 23:11:29.48 0
ハーグ万国平和会議(1899と1907の2回)
 オランダのハーグで開かれた平和確保のための国際会議。

 ・第1回(1899)、ロシアのニコライ2世の提唱。26ヶ国参加。(日本、清も)
  ハーグ陸戦条約(戦闘外員の保護)、国際紛争平和的処理条約
  (国際紛争の平和的解決、常設仲裁裁判所の設置)を採択。

 ・第2回(1907)、ジョン・ヘイ(米国国務長官)が提唱。
  ハーグ陸戦協定が改定(中立法規)。
  会議中、ハーグ密使事件(大韓帝国の外交権回復の訴え)発生。
524世界@名無史さん:2011/08/25(木) 23:42:41.68 0
第一インターナショナル(国際労働者協会)(>>97
 ヨーロッパの労働者、社会主義者が創設した国際組織。
 1862〜1876。マルクスが中心となり活動。
 バクーニン(ロシア)らが反対派となり決裂、解散。

第二インターナショナル
 1889〜1914。マルクス主義者が再び集合。
 ドイツ社会民主党(>>413)が中心となり活動。
 次第に軍事予算を認めることになり、戦争抑止力にならず。

 最終的に、@Aにより崩壊。
 @傑出した雄弁家であり、国際主義者として信望を集めヨーロッパの
  平和を熱望していたフランスのジャン・ジョレスの暗殺。
 Aドイツ社会民主党が戦争を支持し政府に協力路線へ。フランス、
  オーストリアの社会主義者も追随。
525世界@名無史さん:2011/08/25(木) 23:50:00.52 0
ジャン・ジョレス
 フランスの社会主義者。第1次大戦前の国際危機に際し、反戦運動を
 展開するも、暗殺。
526世界@名無史さん:2011/08/26(金) 22:45:30.17 0
 (補足)
 1905、フランスの全社会主義政党は、第二インターナショナルフランス支部
     としてフランス社会党(SFIO(旧社会党※))を結成
 1914.7/31ジャン・ジョレス暗殺。
    (=第1次世界大戦が勃発し、フランスが総動員体制に入る前日)

 ※フランス社会党
  現在のフランス社会党は、1969、SFIO・UCRG(左翼革新クラブ連合)・
  UGCS(社会主義クラブ連合)の合同により成立。
  さらに、ミッテラン派(CIR)との合同は、1971年。
  1981、ミッテランが現職ジスカール・デスタンを破り、大統領へ。
527世界@名無史さん:2011/08/26(金) 22:57:58.65 0
 (参考)
 フランス第五共和政大統領
  初代 1958-1969 ドゴール
  2代 1969-1974 ポンピドゥー(フランス国民連合)
  3代 1974-1981 ジスカール・デスタン(フランス民主連合)
  4代 1981-1995 ミッテラン(社会党)
  5代 1995-2007 シラク(共和国連合)
  6代 2007- サルコジ(国民運動連合(2002共和国連合、自由民主党などが合同)
528世界@名無史さん:2011/08/26(金) 23:13:47.50 0
第一次世界大戦とは?

 From: 1914年 6月の、サラエボ事件
 To:  1918年11月の、ヴィルヘルム2世亡命・退位・休戦協定

 同盟国:独・墺・トルコ・ブルガリア
 連合国(協商国):英・仏・露(後に、日・伊・米も参戦)
          
 戦車(イギリス軍)や毒ガス(ドイツ軍)が登場。
 足かけ5年にわたった戦争で、900万人以上の兵士が戦死。
529世界@名無史さん:2011/08/26(金) 23:39:41.62 0
サライェヴォ(サラエボ)事件
 オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント
 夫妻がサライェヴォで銃撃。第一次世界大戦の発端。
530世界@名無史さん:2011/08/27(土) 00:18:51.28 0
(補足)
大戦開始当初の状況
 1914
  6/28 フランツ・フェルディナント大公夫妻、サラエボでセルビア人
      民族主義者により暗殺
      (オーストリア領内視察→行列に爆弾投げつけられる
       →その被害者を見舞に→その途上、射殺)
  7/23 セルビアに対しオーストリア最後通牒
      (懲罰的対セルビア戦を目論む)
  7/25 セルビア政府、一部を除き要求に同意するも、
      オーストリアは納得せず、国交断絶
  7/28 セルビアに対し宣戦布告
    (この間、ヴィルヘルム2世とニコライ2世の電報交渉→決裂)
  7/31 ロシア政府、総動員令布告
  8/1 ドイツ、総動員令。ベルギーに無害通行権を要求
     フランスも総動員令
  8/2 ドイツ、ロシアに対し宣戦布告
     三国同盟を締結していたイタリア、中立を表明
  8/3 ドイツ、フランスに対し宣戦布告
  8/4 ドイツ軍のベルギー侵入を確認したイギリス、ドイツに宣戦布告
     フランスへの海外派遣軍の派遣を決定
     宗主国に従い、カナダ・オーストラリア・ニュージーランドも参戦
  8/12 オーストリア軍とセルビア軍との本格的な戦闘開始
  8/15 日英同盟によりイギリスから参戦要請を受け、日本はドイツ
     に最後通牒を出す
  8/23 ドイツ無回答だったため、日本は対ドイツ宣戦布告
531世界@名無史さん:2011/08/27(土) 23:44:05.31 0
第1次世界大戦中のドイツ

 永世中立国・ベルギーを侵犯してフランス侵攻。
 東部戦線では、タンネンベルクの戦いで、ロシアを撃破。
 西部戦線では、マルヌの戦い、ヴェルダン(要塞)の戦い、
 1916年7月のソンムの戦いなど。
 決定的な成果なく、戦争が長期化。
532世界@名無史さん:2011/08/28(日) 12:54:14.34 0
第1次世界大戦中の日本

 ・日英同盟を理由に参戦。
 ・ドイツの租借地であった青島(チンタオ)・膠州湾・南洋諸島などを占領。
 ・中国政府(袁世凱)に対し、山東省・満州・モンゴル権益など、二十一カ条
  の要求 (1915)要求。受諾させる。
 ・米国と、中国に関する協定を締結。(石井・ランシング協定)(1917)
533世界@名無史さん:2011/08/28(日) 13:11:47.11 0
第1次世界大戦中のイタリア

 ・大戦初期・・・三国同盟に加盟していたが、中立を維持
 ・ロンドン密約により、連合国側から、アドリア海沿岸地域の割譲を約束され、
  1915、オーストリアに宣戦。

 (蛇足)
  イタリアは、関が原の小早川みたいですね。
534世界@名無史さん:2011/08/28(日) 14:42:39.21 0
第1次世界大戦中の米国

 ・ウイルソン大統領のもと、戦争参加を回避。
  (モンロー主義に基づき欧州戦線に関与せず。(「孤立主義」))
 ・戦局が不利になったドイツが「無制限潜水艦戦」で、交戦水域にある船舶の
 無差別・無制限撃沈作戦を開始。
  (1915/5/7、英船籍ルシタニア号事件。死者1,198人(※))
 ・ドイツが米領(テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ州)の割譲を条件に
 メキシコの参戦を求めたことが発覚。米国世論の怒り沸騰。
  これを理由に参戦。(1917/4/6対ドイツ宣戦布告)

 (蛇足)
 ※タイタニック号の沈没は1912/4/14。死者1,513人。
 http://www.youtube.com/watch?v=zmbw8OycJrE&feature=related
 再生回数 20,794,488回!
535世界@名無史さん:2011/08/29(月) 22:33:46.92 0
ニコライ2世
 ロシア・ロマノフ朝最後の皇帝。

(補足)
 1891 大津事件。日本観光中に、警備の巡査・津田三蔵が襲撃。
 1894 ロマノフ朝第14代皇帝として26歳で即位。蔵相ヴィッテを重用。
 1904-05 日露戦争、血の日曜日事件。
     この後、政治改革で切り抜ける一方、革命勢力を厳しく弾圧。
 1905 怪僧ラスプーチン登場、政治介入。(1916暗殺)
 1914〜 第一次世界大戦
 1917 三月革命で退位。監禁。8月シベリアへ。一族ともども銃殺。
536世界@名無史さん:2011/08/29(月) 22:54:03.31 0
ロマノフ朝(>>315

  F1762              I1801-25
─ピョートル3世.         ┌アレクサンドル1世
  ‖────パーヴェル1世┤
 エカチェリーナ2世   H  └ニコライ1世─アレクサンドル2世─アレクサンドル3世─ニコライ2世
  G1762-96   1796-1801  J1825-55   K1855-81      L1881-94    M1894-1917
537世界@名無史さん:2011/08/29(月) 23:06:19.85 0
ロシア革命 
 1917におきた2つの革命。
  三月革命(ロシア暦(旧暦)二月革命)
  十一月革命(ロシア暦十月革命)・・・史上初の社会主義国家樹立
538世界@名無史さん:2011/08/29(月) 23:17:06.81 0
(補足)
三月革命(ロシア暦二月革命)(1917)
 ・ペトログラードで労働者のデモ・ストライキ発生。これを契機に革命がおこる。
  ニコライ2世が退位。
  革命の主体はソヴィエト(労働者と兵士の代表による評議会)。
 ・この後、臨時政府が成立。立憲民主党と社会革命党が参加。
  社会革命党右派のケレンスキーが指導者となり、戦争を継続。
 ・革命直後、ボリシェビキの指導者・レーニンがスイスから帰国、革命の基本
  方針として「四月テーゼ」を発表。
539世界@名無史さん:2011/08/29(月) 23:30:48.63 0
(補足2)
十一月革命(ロシア暦十月革命)(1917)
 ・ボリシェビキによる武装蜂起。全ロシア・ソヴィエト会議が、国家の最高
  権力機関となる。
 ・11月、戦争の終結(「平和に関する布告」)、土地私有制廃止(「土地に
  関する布告」)を発表。
 ・ロシア最初の普通選挙で、憲法制定議会が選出。
  その選挙で、社会革命党左派が大勝し、ソヴィエト政権と対立するが、
  レーニンは、議会解散・ボリシェビキ独裁(プロレタリア独裁)を実施。
540世界@名無史さん:2011/08/30(火) 22:48:08.07 0
革命以降のロシア(ソ連)
 1918
 ・独・墺との間で、ブレスト・リトフスク条約締結。
 ・社会民主労働党が、ロシア共産党と改称。
 ・ソヴィエト政権は、モスクワに遷都。クレムリン宮殿に中枢機関を置く。
 ・戦時共産主義という経済政策で、内戦と干渉戦争に対処するも、
  農業と工業の崩壊を招く。
 1921
 ・ネップ(新経済政策)が導入され、経済はようやく持ち直す。
 1922
 ・ドイツが初めて外交的に承認。(ラパロ条約)
 ・四つの共和国(ロシア、ウクライナ、白ロシア、ザカフカース)で構成される
 ソビエト連邦(ソ連)樹立。
541世界@名無史さん:2011/08/30(火) 23:03:12.66 0
ブレスト・リトフスク条約
 1918、ソ連と独・墺間の講和条約。

 (補足)
 1918年3月、ロシア革命政権がドイツおよびその同盟国と結んだ講和条約。
 新生のソビエト政権は革命の防衛に追われていたため、大幅な領土喪失を
 認めたが、ベルサイユ条約で無効となった。

 (↓喪失した領土)
 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/ef/Terretory_given_away_after_Brest-Litovsk.jpg
542世界@名無史さん:2011/08/30(火) 23:17:10.39 0
対ソ干渉戦争
 連合国のソヴィエト政権打倒のための出兵。1918からのシベリア出兵など。
 赤衛軍(赤軍)(義勇兵、のち徴兵制、により成り立つソヴィエト政権軍)や
 人民の反抗にあい撤兵。
543世界@名無史さん:2011/10/09(日) 20:53:22.18 0
1ヶ月以上もさぼってたので、かなり下(217番目)
まで落ちてしまいました。
また、ゆっくり始めてみようかと思います。
(需要はないようですが・・・)
544世界@名無史さん:2011/10/09(日) 21:38:09.84 0
十四ヵ条の平和原則
 1918、米大統領・ウイルソンが第一次世界大戦終結のため発表。
 主な原則5つ・・・
  @秘密外交の廃止
  A海洋の自由
  B軍備縮小
  Cヨーロッパ諸国民の民族自決
  D国際平和機構の設立
  (E植民地問題の公正な解決)
545世界@名無史さん:2011/10/09(日) 21:50:07.32 0
第一次世界大戦の最終段階
 1917.4/6 米国の対独宣戦布告
 1918.3/3 ブレスト・リトフスク条約により、独、東部戦線から西部戦線
        へ部隊を転進。
    3/21 独、春季攻勢でパリ東方100`まで前進。パリ攻撃でドイツ
        国民は勝利を確信。
    5月  米軍師団の初投入、西部戦線に変化。
     (独、人的資源が枯渇し、経済的、社会的な混乱は頂点に)
    8/8 アミアンの戦い。独大敗。
    9/29 ブルガリア、休戦協定に署名。
    10/30 トルコ、休戦協定に署名。
    11/4 オーストリア、休戦協定に署名。
    11/9 独、帝政崩壊、ワイマール共和国の成立。
        (翌日、ヴィルヘルム2世(>>415-416)、オランダに亡命)
    11/11 独、休戦協定に署名。午前11時、軍事行動の停止。
546世界@名無史さん:2011/10/09(日) 22:12:38.21 0
キール軍港
 1918、戦況の悪化する中、キール軍港で水兵の反乱・暴動が発生。
 これが各地に広がり、ドイツ革命へと至る。

 (補足)キール
  ・人口24万人。シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の州都。
  ・バルト海と北海を結ぶ運河のバルト海側起点に位置する北欧の玄関口。
  ・中世は、ザクセン領。フレンスブルクとリューベックとに挟まれ、商業都市
   化には至らず。
  ・1460、デンマークに併合。1866、プロイセン王国に併合。
  ・第二次世界大戦では町の80%以上が破壊される。現在も、破壊前の状態
   に戻れていない。
547世界@名無史さん:2011/10/10(月) 01:05:28.10 0
何か古代はそうでもないが18世紀くらいから同時代史がわけわかめになるな。
何か年代ごとにまとめてくれるとありがたいです。

1800年代
フランス
大陸封鎖令
イギリス
穀物法
みたいな
548世界@名無史さん:2011/10/10(月) 07:12:16.39 0
>>547さん、アドバイスありがとう。

古代・中世は、縦軸(各国史)が中心なので分かりやすいですが
近現代史となると、横軸(同時代史)が入ってくるので
ゴチャゴチャになりやすいですね。
ここでは教科書の進行に沿い、分かりやすくするため項目ごとに
縦軸(その項目の前後史)を補充したりしてきました。

年代ごとのまとめ(横軸)も今後、チャレンジしてみましょうか。
549(^■^;ラ【◇】:2011/10/10(月) 07:44:49.44 O

>>546

【◆】≦予 ̄>
 G\(^■^ ラ 背後から突き刺す「11月の裏切り者」だな!
  \<!>+\

「7月20日の裏切り者」も忘れるな余!
550世界@名無史さん:2011/10/10(月) 18:03:29.50 0
>>549さん
「7月20日」はヒトラー暗殺事件失敗の件ですね。
ヒトラーは、この後もうすぐ、登場の予定です。
ドイツ革命には否定的なご意見でしょうか。
551世界@名無史さん:2011/10/10(月) 18:07:43.12 0
ドイツ革命(十一月革命)
 1918、戦況の悪化とロシア革命の影響のもとで、ドイツに起こった革命。
 11月のキール軍港の水兵の反乱に始まり、労働者の運動が展開、
 多数派の社会民主党・エーベルトが臨時政権を樹立。帝政を廃止、
 共和制へ。
 1919.8月、ワイマール憲法を制定。
552世界@名無史さん:2011/10/10(月) 18:13:11.97 0
>>548
そうですね。
横軸もヨーロッパだけなら把握できるが18世紀以降は混乱する。
センターで満点近く目指すなら横軸が鍵な気がする。
是非
>年代ごとのまとめ(横軸)も今後、チャレンジしてみましょうか。
お願いします。スレチになるかもしれんが自分も時間があれば中世の同時代史を
書きたいと思います。
553世界@名無史さん:2011/10/10(月) 18:53:06.69 0
>>552
センターで満点狙いですか。
このスレ自体は、受験対策とは少しズレますが、
このスレの内容が、来年のセンター試験の近現代史部分で
どれくらい太刀打ちできるのか(どれくらいリンクできたのか)
関心をもっています。

「中世の同時代史」は、どのスレでやってますか?
よければ参考にさせてください。
554世界@名無史さん:2011/10/10(月) 18:55:10.47 0
パリ講和会議
 1919年1月。第一次世界大戦の終結のための会議。
 ウイルソンの14ヶ条(の平和原則)(>>544)が基礎となる。
 6ヶ月にわたる会議の結果として、ヴェルサイユ条約が締結。
 この条約により第一次世界大戦は公式に終了した。
555世界@名無史さん:2011/10/10(月) 19:08:13.18 0
>>550
>>549さんは世界史板の長寿スレ、「正義の枢軸」の方ではないでしょうか?
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1288184836/l50
556世界@名無史さん:2011/10/10(月) 19:21:19.24 0
>>550
その方はかなりの古参だけど、バカも言うけどいいことも言うのでねえ。
だから、史学の基本を頭に置いてそのレスの内容を検討するのがよいですよ。
557世界@名無史さん:2011/10/10(月) 19:40:54.54 0
>>553
このスレは明らかにセンターよりレベルが上ですw
マデロ、サパタとか名前だけしか基本でないし。
>「中世の同時代史」は、どのスレでやってますか?
スレはないのですがここの兄弟スレで大まかにまとめようかと・・・
それとも新スレでも建てた方がいいですかね?
558世界@名無史さん:2011/10/10(月) 21:25:07.36 0
>>555さん>>556さん、情報・アドバイスありがとう。

>>557さん
マデロ、サパタ(>>387-391)は、
たまにコメントもらえるオツガイさんのおかげです。
新スレができたら三兄弟になりますね。
559世界@名無史さん:2011/10/10(月) 21:28:02.81 0
ヴェルサイユ講和条約
 1919.6/28、ヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦の講和条約。
 ・莫大な賠償金(後に1320億金マルクと決定)を課す。
  (1913年の国民純生産(524億4千万金マルク)の2.5年分程度)
 ・ドイツの全海外領土・海外植民地を没収。
 ・エルザス(仏・アルザス)、ロートリンゲン(仏・ロレーヌ)をフランスに割譲。
 ・ポーランド回廊(突端の港市=ダンチヒ)の割譲(ドイツ領分断)。
 ・ラインラントの非武装化。
 ・徴兵制禁止。
 いわゆる「ヴェルサイユ体制」は、敗戦国への報復的とも言える賠償条件を
 含んだこの条約で成立した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:German_losses_after_WWI.svg
560世界@名無史さん:2011/10/10(月) 22:36:06.98 0
戦前米の対日圧迫と今日の中国軍事力による脅威は同質。WW1後海軍
軍縮、九国条約、大陸権益等日本圧迫の包囲網形成、真珠湾前から太平洋
戦の危険は胚胎していた。東シナ海資源、尖閣、核、海軍軍拡等中国の
対日政策も酷似、歴史は繰り返す危険がある。   
561世界@名無史さん:2011/10/11(火) 00:16:49.66 0
よかったら来てください
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1318259499/
今から横の世界史覚える
562世界@名無史さん:2011/10/11(火) 23:57:16.34 0
>>561さん
祝!新スレ誕生。
なかなか面白そうですね。

兄弟同士、切磋琢磨して
お互いがんばっていきましょう。
563世界@名無史さん:2011/10/11(火) 23:58:48.00 0
サン・ジェルマン条約(1919年9月。パリ郊外のサン・ジェルマン宮殿)
 連合国とオーストリアの講和条約。
 ハンガリーとチェコスロヴァキアが独立。
564世界@名無史さん:2011/10/12(水) 00:04:00.69 0
その他の講和条約
 連合国とブルガリア・・・ヌイイ条約(1919.11/27、パリ郊外のヌイイ・シュル・セーヌ)
 連合国とハンガリー・・・トリアノン条約(1920.6/4、ベルサイユのトリアノン宮殿)
 連合国とトルコ   ・・・セーヴル条約(1920.8/10、パリ郊外のセーヴル)

 (↑受験生泣かせ、ですね。)
565世界@名無史さん:2011/10/12(水) 00:08:00.70 0
ヴェルサイユ体制
 上記の一連の講和条約が規定した国際体制。英・仏中心。
 世界恐慌後、全体主義の台頭によって崩壊。
566世界@名無史さん:2011/10/12(水) 00:32:39.09 0
ロシア、ソ連から独立した国々

 フィンランド、バルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)、ポーランド
(戦前)
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/mineyama/600px-Europe1914-jp.png
(戦後)
http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/20110715Chap7WWI.files/slide0023_image016.jpg
567世界@名無史さん:2011/10/12(水) 00:37:55.90 0
ユーゴスラヴィア
 セルビア、モンテネグロ、ボスニア、ヘルツェゴヴィナなどが
 合併して成立。1929、国名変更。
568世界@名無史さん:2011/10/12(水) 00:41:52.56 0
新独立国を「フェラリとポチは行こう」と覚えましたが
皆さんはどうしてますか?
569世界@名無史さん:2011/10/12(水) 23:19:31.35 0
今日は、兄弟が活躍しているので、ひっそりsage進行でいきますね。

委任統治
 旧ドイツ領、旧トルコ領に適用された、戦後の国際連盟の統治方法。
 イギリスの委任統治・・・イラク、パレスチナ、ヨルダン
 フランスの委任統治・・・シリア、レバノン
570世界@名無史さん:2011/10/12(水) 23:25:01.13 0
国際連盟
 ウイルソンの14ヶ条提案に基づき、1920に正式設立された、集団的国際
 安全保障機構。
 ・最高決議機関=総会。
 ・常任理事国=英・仏・伊・日
 ・事務局の場所=ジュネーヴ
571世界@名無史さん:2011/10/12(水) 23:29:10.51 0
国際連盟の付属機関
 ・国際労働機関(ILO)・・・労働問題について勧告や調停。
 ・常設国際司法裁判所・・・法的な国際紛争の裁判にあたる。
572世界@名無史さん:2011/10/13(木) 23:02:37.38 0
平和を志向する、大戦間の4つの重要な会議/条約

@ワシントン会議 1921.11月〜翌年2月
 米大統領ハーディングの提唱で開催。主に軍縮問題(主力艦の保有量
 比率)を審議。主力艦トン数比を米・英・日で5:5:3とした。(仏・伊は1.67)
 このとき、日英同盟が破棄。
 この会議で、米国を主体とするワシントン体制が成立。
573世界@名無史さん:2011/10/13(木) 23:24:49.86 0
Aロカルノ条約(1925スイスのロカルノにて)
 ラインラントの非武装化・ドイツ国境の現状維持を定めた集団安全保障条約。
 英・仏・独・伊・ベルギー・ポーランド・チェコスロバキアの7か国が締結。
 これにより、ドイツの国際連盟への加入が認められる。
574世界@名無史さん:2011/10/13(木) 23:34:32.01 0
B不戦条約(1928.8月パリにて)
 ブリアン外相(仏)とケロッグ国務長官(米)の提唱で「国際紛争の解決は
 武力によらないこと」を定めた、戦争放棄に関する条約。
 日・米・英・仏などの原加盟国15か国が調印し、その後63か国が参加。
575世界@名無史さん:2011/10/13(木) 23:42:54.97 0
Cロンドン軍縮会議(1930)
 米・英・日の補助鑑保有比率を10:10:7に定める。仏・伊は途中脱退。
576世界@名無史さん:2011/10/14(金) 23:25:16.37 0
各国縦史と横史まとめてもらってよろしいでしょうか?
このスレかなり参考になります。
577世界@名無史さん:2011/10/15(土) 01:22:29.52 0
>>576さん
 横史まとめは、今、兄弟スレが取り組んでおりますので、
 そちらのほうがよろしいかと。

 縦史は、最後までたどりつけたら、各国別にまとめてみたいなあ、
 なんてボンヤリと思っとります。
578世界@名無史さん:2011/10/15(土) 01:23:47.58 0
アメリカの経済繁栄
 共和党3代10年(ハーディング、クーリッジ、フーヴァー)
579世界@名無史さん:2011/10/15(土) 01:33:32.22 0
(補足)
<各大統領三行解説>
ハーディング 第29代 1921-23 
 保守主義、柔和な物腰、『敵を作らないでください』という選挙戦略。
 セオドア・ルーズベルト以来の進歩主義(>>425)から離脱。
 国際連盟への加入拒否、ワシントン会議開催。在職中、汚職事件が頻発。

クーリッジ 第30代 1923-29
 無口で「寡黙なカル」と呼ばれる。ハーディング急死により副大統領から昇格。
 在職中、米国は著しい経済成長を遂げ、「狂騒の20年代」と呼ばれる。
 減税推進、国債縮小。排日移民法には否定的だったが議会に押され署名。

フーヴァー 第31代 1929-33
 1921-29商務長官。1929.10月の世界恐慌に対し、古典派経済学的立場から
 政府の介入を最小限に。対外的には保護貿易政策を採用。さらに恐慌が深刻化。
 英仏への融資(戦債)返済を1年間猶予(「フーヴァーモラトリアム」)→景気悪化。
580世界@名無史さん:2011/10/15(土) 01:52:17.53 0
移民法
 1924、米国移民を制限。特に、排日条項が有名。

 (補足)
 ・移住希望者の各国別受入数制限を規定。1890年以降増えた東欧・南欧・アジア
  出身者を厳しく制限。特にアジアに厳しく、大半を占めていた日本人が排除。
 ・当時の日本人の体面を傷つけ、反米感情を産み、太平洋戦争へと突き進む
  遠因となった。
 ・1952、連邦レベルでの移民の人種的制限撤廃。
 ・1957、カリフォルニア州での人種による土地所有・賃借制限の消滅。
581世界@名無史さん:2011/10/15(土) 10:43:22.71 0
永遠の繁栄(Everlasting Prosperity)
 1920年代のアメリカ経済。大都市を中心に現代大衆文化が成立。
 ・自動車の大衆化・・・フォード車
 ・家庭電化製品の普及
 ・大衆娯楽の発達・・・ラジオ・映画・スポーツ・レコード・ジャズ
582世界@名無史さん:2011/10/15(土) 11:03:04.57 0
(補足)
 この時代のアメリカイメージ

 禁酒法(1919成立。1920施行)
 ・アルコール飲料の製造・販売・運搬・輸出入を禁止した米国の法律。
 ・伝統的な白人社会の価値観(ピューリタンの禁欲主義)が発現。
  (アルコールは神からの贈り物である一方、その乱用は悪魔の仕業による
  ものという、明確な社会的コンセンサス)
 ・密造・密売などが続出(マフィアの繁栄、多くの市民が法律無視)したため、
  1933年に廃止。
583世界@名無史さん:2011/10/15(土) 11:09:10.03 0
(補足の続き)
 アル・カポネ(通称)【Alphonse Capone(アルフォンス・カポーン)】
  ・1899、ニューヨーク生まれ。イタリア・ナポリから来た移民の子。
  ・1920頃、駆け出し時代は皿洗い・給仕などこなす。その後シカゴへ。
  ・1925、26歳にして犯罪帝国組織のトップへ。
      禁酒法のもとで酒密売によって財を得、シカゴ暗黒街に君臨。
  ・1927頃、政治家・警察を買収し勢力拡大、シカゴの有名人に。
  ・1931、フーヴァー政権下で告発、裁判開始、1931〜39投獄。
  ・1947、梅毒の進行により死亡。

 なお、ゴッドファーザー(映画)は、1945年以降のニューヨークマフィアを
 描いたものなので、この時代ではないですが、息抜きで音楽でも。
 http://www.youtube.com/watch?v=14Phpk-8OJY
584世界@名無史さん:2011/10/15(土) 11:18:00.14 0
(蛇足)
 History of Jazz
 (4:33 音のみ)
  http://www.youtube.com/watch?v=PEGTu7yoQmo&feature=related
 (12:50 解説付き・・・英語の勉強にもどうぞ)
  http://www.youtube.com/watch?v=whN5PXsrP6E&feature=related
585世界@名無史さん:2011/10/15(土) 19:42:46.35 0
アイルランド問題(>>90>>402>>405-406
 1916、即時独立を主張するシン・フェイン党が反乱、独立を約束。
 1919、独立宣言(国名:アイルランド自由国)
 1922、自治領として、イギリスもその独立を認める。
 1937、自治領から離れ、完全独立国家へ。(国名:エール(アイレ))
586世界@名無史さん:2011/10/15(土) 20:08:13.52 0
マクドナルド James Ramsay MacDonald(1866-1937)
 労働党(>>404)出身の第56代(1924)、第58代(1929-35)イギリス首相。

 (補足)
 1924、史上初の労働党内閣の首相。9ヶ月で退陣。
 1929、再度首相に。
 1930、ロンドン海軍軍縮条約を成立。
 1931、世界恐慌後の財政政策(失業保険の削減)で、党の方針に反し離党。
     保守党・自由党と連立で(労働党を除く)挙国一致内閣をつくる。
 1931、非常関税法、金本位制停止。ウェストミンスター憲章を制定(英連邦発足)
 1932、保護関税法。

 (蛇足)
 野田首相が離党して自民党と挙国一致内閣を作ったりしたら、驚愕でしょうね。
587世界@名無史さん:2011/10/15(土) 23:10:22.03 0
ルール占領(ルール出兵)
 ポワンカレ内閣(仏)が、ドイツの賠償金支払遅延を口実に実施。
 ドイツ経済に、インフレーション発生。これを収拾するため不換紙幣
 (レンテンマルク)が発行された。

 (経過)
 1923.1月、フランス軍・ベルギー軍がルール地方全域占領。
       ドイツのクーノ内閣は抵抗運動(全面スト)を呼びかけ。
       →ドイツ財政破綻→経済はハイパーインフレへ。
    8月、クーノ退陣。シュトレーゼマン内閣、抵抗運動終了宣言。
       デノミ実施→インフレ沈静化。
 1924.8月、次のマルクス内閣のもとで、ドーズ案(賠償金負担軽減)受入れ。
       →ルール地方の占領解消。

 ルール地方(かつて重工業地帯。4,435km2(神奈川県の2倍位))の位置
 http://www.horonai.com/05_Deutsche/IBA/Deutsche01_01.jpg
588世界@名無史さん:2011/10/15(土) 23:21:23.56 0
ブリアン
 フランスの外相・首相。社会党→急進社会党に在籍。
 1913〜1929の間に5回、首相に就任。対ドイツ協調をすすめる。
  (ロカルノ条約(1925)、不戦条約(1928)を成立。(>>573-574))
 この功績から1926年にシュトレーゼマンと共にノーベル平和賞を受賞。
589世界@名無史さん:2011/10/16(日) 08:58:11.09 0
スパルタクス団
 ドイツ革命(>>551)における急進的組織。その後、ドイツ共産党となる。

 (経過)
 1916、カール・リープクネヒト、ローザ・ルクセンブルクら(ドイツ社会民主党左派)が結成。
 1918.11月、ドイツ革命。
 1918末、ドイツ共産党を結成。
 1919初、ベルリンで武装蜂起。政府・軍により鎮圧。
590世界@名無史さん:2011/10/16(日) 09:13:44.35 0
ヴァイマル共和国(共和制)
 1919の憲法制定から、1933のナチス政権獲得までの、ドイツの国家体制を
 示す名称。初代大統領、エーベルト。
 首相・シュトレーゼマンが、通貨安定・経済再建・協調外交を推進。

(補足)
 ヴァイマル/Weimar
 ・ドイツ・テューリンゲン州の都市。人口は約6万4千人。
 ・神聖ローマ帝国時代、ザクセン・ヴァイマル公国の首都。
 ・J.S.バッハが宮廷音楽家を務め、ゲーテが宰相として仕えた街。
 ・ヴァイマル国民劇場は、ゲーテやフリードリヒ・シラーらが自作のオリジナル
 演劇作品を上演したドイツ古典主義関係の歴史的遺構である。(現在も使用)
 (「古典主義の都ヴァイマル」の名で、世界遺産に登録。)
 ・この劇場で、1919年に憲法制定会議が行われ、ワイマール憲法が制定。
591世界@名無史さん:2011/10/16(日) 09:17:26.67 0
ヒンデンブルク
 第1次大戦のドイツの英雄。1925、大統領に。帝政派・保守派の代表。
592世界@名無史さん:2011/10/16(日) 18:03:49.16 0
ファシズム
 旧来の議会政治では対処できないような革命的状況時に出現する
 反社会主義・反民主主義的な政治運動/形態。

 〔ファシズムの特徴〕
 ・大衆動員の積極的利用(扇情的スローガン→大多数の支持)
 ・社会事業や国内開発推進
 ・国家主義(市民的自由や人権を無視、反対派の弾圧)
593世界@名無史さん:2011/10/16(日) 18:15:10.24 0
ムッソリーニ(1883〜1945)
 社会党左派に属していたが、第一次大戦で主戦論をとったため除名。
 1919、反革命を目的としたファシスト党結成。
   →保守層・中間層・農民の支持(当時、左派が工場・農地占拠し社会混乱)
 1922、ファシズム政権を樹立。10月、ローマ進軍(クーデター)で一党独裁化。
 エチオピア侵略・アルバニア併合・スペインの内乱ではフランコを援助。
 ヒトラーと結び、1940年に第二次大戦に突入。
 1943.7月、連合軍のイタリア(シチリア)上陸で失脚。(1943/9/8無条件降伏)
 1945.4月、パルチザンにより、北イタリアで処刑。

 (蛇足・・・イタリア国内での評価)
  ドイツにおけるヒトラーほど低く蔑まれておらず、幾分に悪いイメージも
  あるものの、次により比較的好印象。
   @マフィアを徹底して弾圧した。
   A積極的な雇用政策を進めた。
594世界@名無史さん:2011/10/16(日) 19:11:31.25 0
フィウメ(港)
 第1次大戦後、ユーゴスラヴィア領のフィウメをイタリアの過激派が占領。
 ムッソリーニ政権が交渉して併合。

 フィウメ(現在の、リエカ)
  ・フィウーメ(イタリア語)もリエカ(クロアチア語)も共に「川」を意味する。
  ・クロアチアの主要都市。都市圏人口27万人。
  ・1466、ハプスブルグ家の支配下に。中世は、城壁で囲まれた封建的要塞都市。
  ・1723、自由港建設。1870、ハンガリー王国下に。
  ・1924、イタリアに併合。
  ・1947、ユーゴスラビア連邦のクロアチア領内と決定。
  ・1960以降、経済成長。1991クロアチア共和国成立。
 http://business.nikkeibp.co.jp/article/money/20080922/171308/map_croachia.jpg
595世界@名無史さん:2011/10/16(日) 21:59:51.94 0
アルバニア
 第1次大戦後、イタリアと防衛条約を結び、イタリア軍駐屯。
 事実上、イタリアの保護国となる。(1926)
596世界@名無史さん:2011/10/16(日) 22:11:17.56 0

 (アルバニア近現代史)
 ・19c末、民族意識の高揚
 ・1912、オスマン帝国からの独立宣言。1914、アルバニア公国となる。
 ・1925、共和国宣言。大統領ゾグー。
 ・1928、ゾグー、王位につき、アルバニア王国に。
 ・1939.4月、イタリア軍進駐。ゾグー国外脱出。
   イタリア王が君主につき同君連合へ。親伊派の傀儡政権が置かれる。
 ・1944.11月、パルチザンとソ連軍による全土解放。
 ・1946、王政廃止、アルバニア人民共和国設立。ホッジャ首班の共産主義政権。
 ・1948、コミンフォルムを脱退したユーゴスラビアと断交。
 ・1961、中ソ対立からソ連を批判。
 ・1968、ワルシャワ条約機構を脱退、ソ連を仮想敵国とする軍事政策をとる。
 ・近隣諸国とはほぼ鎖国状態化し、1980年代には、欧州一の最貧国と揶揄。
 ・1990以降、徐々に開放路線に転化(ホッジャの後継ラミズ・アリアにより)
 ・2009、EU加盟申請。

 面積28,748km2(岩手県+秋田県位)、人口315万人。首都ティラナ。
 1967に「無神国家」宣言、宗教弾圧が行われたが、
 1990に信教の自由が認められる。70%がイスラーム教徒。
597世界@名無史さん:2011/10/16(日) 22:37:44.32 0
ラテラン条約
 ムッソリーニ政権とローマ教皇庁との和約(1929)。ヴァチカン市国が教皇領
 として認められ、独立国となった。(・・・イタリアの統一(>>77)以来の和平)
598世界@名無史さん:2011/10/18(火) 01:20:28.61 0
一昨日、ローマで暴動がありましたが、ムッソリーニ登場前も
こんなような雰囲気だったのでしょうかね
599世界@名無史さん:2011/10/18(火) 11:43:32.61 0
アルバニアは民度が低いのでアジア人差別が酷いらしい。
600世界@名無史さん:2011/10/19(水) 00:48:56.98 0
>>599さん関連コメントありがとう。
アルバニア専用スレ・・・あるんですね。さすが2ちゃんねる。
かなり熱く語られてます。詳しい人っているもんだ。

106:アルバニアの歴史(222)
 ユーゴ、ソ連、中国を敵に回した唯一の社会主義国
 http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1286171550/l50
601世界@名無史さん:2011/10/19(水) 01:11:08.49 0
ソ連を承認(>>540以降)
 ・1922、ドイツがまず承認(ラパロ条約)
 ・1924、イギリスが承認
 ・1925、日本も承認
 ・1933、列強中、最後に米国が承認
602世界@名無史さん:2011/10/19(水) 01:16:40.22 0
トロツキー
 世界革命論(永久革命論=ロシア革命成功のため、全世界の社会主義化を
 めざす)を推進。レーニンの死後、スターリンと対立、失脚、国外追放(1927)。
 1937よりメキシコで亡命生活を送っていたが、暗殺(1940)。
603世界@名無史さん:2011/10/19(水) 07:14:35.63 0
ヨシフ・スターリン(1878-1953)
 1930年代以降1953年までの、ソ連の事実上の独裁者。

(補記)
 ・1922、レーニンの後押しで共産党書記長に。党員名簿と経理を掌握すること
  で実権を握り、後の強大な権力の地盤を築く。
 ・レーニンの死(1924)後、他の党員(トロツキーら)との権力闘争に勝利。

 ・1921施行のレーニンによる新経済政策(ネップ)を、1928、第1次5ヶ年計画
  (経済の集中管理)に切替。これにより急速な工業化と経済成長を達成。
 ・1932-33、集団農場促進に失敗、干ばつと飢饉によって数百万人の死者を
  出す。

 ・1936、スターリン憲法制定。人民民主主義の理念が提唱されているが、実は
  対外的な宣伝を意図。一党独裁制は変わらず、民族の平等や宗教の自由
  などは、実際には守られず。
 ・1936-38、党内の反対派・「反革命的」人物を排除するため、大粛清を
  実行。 『赤いツァーリ』の称号で呼ばれ、独裁的な権力を振るった。
   (「大粛清」の犠牲者数については諸説あるが、1930年代の弾圧による
   死亡者は200万人前後とされる。)

 ・第二次世界大戦でナチス・ドイツによる侵攻(1941.6月)を受けるも、撃破。
 ・ソ連の大多数の人々によって英雄視。死後、フルシチョフのスターリン批判。
  以降、独裁時代の政治体制・主張・理論が否定・敵視される。
604世界@名無史さん:2011/10/19(水) 07:27:52.41 0
 (蛇足・・・スターリンとは、どんな人なのか?)

 @グルジア人。ロシア人(格上)にコンプレックス。グルジアなまりのため
  演説を好まず。大柄なイメージだが、身長163cm。(シークレットブーツ着用)

 A極度の人間不信。周りがすべて敵に見える。反対意見・曖昧返事は即粛清。
  党・軍人だけでなく、側近、文化人、一般人、外国人(ポーランド人・朝鮮人
  などすべて)にも情け容赦ない。徹底した恐怖政治。
  私生活でも冷酷。妻子・近親者でも意見しようものなら、不審死・行方不明に。
  自国の兵士を駒としか見ていない。粗暴・無作法・野心家。
 Bレーニンはその性格を見抜き、遺書で書記長解任を提案。

 C独ソ戦開始までヒトラーを賞賛、親近感を抱き、日独伊ソ4国同盟の成立を
  願っていた。
 D話の合うチャーチルを「偉大」、後継のアトリーを「小物」と評する。
 Eチトーを脅迫。毛沢東を小物扱い・冷遇。ホーチミンをスパイ扱い。
605世界@名無史さん:2011/10/19(水) 07:41:14.32 0
コルホーズとソフホーズ(ソフォーズ)
 コルホーズは、集団農場。土地・農具を共有する共同農業経営。
 ソフホーズは、国営農場。土地・農具は国有。農民は賃金制。
606世界@名無史さん:2011/10/19(水) 18:16:56.24 0
トルコ革命
 ムスタファ・ケマル(尊称、アタチュルク)がトルコ国民党を率いて変革。
  ・1922、スルタン制を廃止(政教分離)。(オスマン帝国、名実共に滅亡)
  ・婦人解放、文字革命(アラビア文字の廃止)を実施、近代化をはかる。
  ・1923、セーヴル条約(1920>>564)を廃棄して、連合国とローザンヌ条約を
    締結。これによりイズミル地方が返還された。
  ・1924、カリフ制廃止。オスマン家の人間をすべて追放。

 オスマン帝国
   建国〜衰退  >>195-196
   19c末〜20c初頭 >>429
 セーヴル条約下のアナトリア
  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a0/TreatyOfSevres_%28corrected%29.PNG
607世界@名無史さん:2011/10/19(水) 19:26:53.91 0
ワフド党
 第一次大戦後(1924)に結成された、エジプトの民族主義政党。
 この政党を中心に、エジプト王国の独立、イギリスの保護権の廃止を進める。
 ワフドは「代表者」の意。

 (経過)
 1919、ワフド運動(反英独立闘争の口火となる)が党結成の母体。
 1922、エジプト王国成立。(半独立)
 1924、ワフド党誕生、国民の圧倒的多数の支持。
 1936、イギリス・エジプト条約で、一応の完全独立承認。
   引き換えに@英軍の駐留(スエズ運河地帯の駐兵権)Aスーダン領有権
   をイギリスが引き続き保有。
 1930年代後半より、左右勢力の伸張・党内分裂により、大衆の支持失う。
 1952、エジプト革命(王制打倒・英軍支配脱却志向。ナギブ、ナセルら)成功。
     翌年ワフド党に解散命令。
 1983、再復活。1995選挙で444議席中、6議席獲得。
608世界@名無史さん:2011/10/19(水) 22:28:13.83 0
フセイン・マクマホン協定
 1915、アラブ人の戦争協力を条件に、イギリスがアラブ人居住地区の独立
 を認めた約束。
609世界@名無史さん:2011/10/19(水) 22:41:20.61 0
サイクス・ピコ協定
 1916、英・仏・露による、トルコ領西アジアの領土分割協定。
610世界@名無史さん:2011/10/19(水) 22:51:08.85 0
バルフォア宣言
 1917、ユダヤ系金融資本の協力を得るため、英外相がユダヤ人パレスチナ建国
 を認めた約束。
611世界@名無史さん:2011/10/19(水) 23:35:13.66 0
シオニズム
 19世紀末、各地のユダヤ人がパレスチナに復帰し、国家建設しようとする運動。

 (ヨーロッパ各地でいじめられていたユダヤ人が、逃げ場を求めた。)
612世界@名無史さん:2011/10/20(木) 19:54:43.23 0
大戦間のサウジアラビア
 1932、イブン・サウードにより建国。
613世界@名無史さん:2011/10/20(木) 19:59:04.81 0
大戦間のイラン
 ・第1次大戦中、英・露に占領。
 ・戦後、議会によって、カージャール朝が廃止。
 ・レザー・ハーン(レザー・シャー・パフレヴィー)が、クーデターに成功、
  1925、皇帝となる。(パフレヴィー朝)
 ・1935、国名をペルシアから、イランに改称。
614世界@名無史さん:2011/10/20(木) 22:12:00.02 0
大戦間のインド
 ・1919、インド政庁がローラット法(反英運動を弾圧する法律)を発布
 ・1919、アムリットサル事件(戦後の独立の約束を無視され、その抗議集会
     に対し武力弾圧)
 ・この頃ガンディーが断食・逮捕を経て反英運動の中心に。(非暴力・不服従)
 ・英印円卓会議・・・独立運動の指導者を招き、独立を抑えようとする。
 ・1935、新(改正)インド統治法・・・連邦制と各州の自治制を採用することで、
    完全独立を封じ込めようとする。
615世界@名無史さん:2011/10/20(木) 22:28:55.96 0
大戦間の東南アジア
 ・1927、孫文を信奉する青年・知識人がヴェトナム国民党を結成。
  一方、ヴェトナム共産党のホー・チ・ミンも独立運動を指導。
 ・1934、フィリピンは、米国から、10年後の独立を約束される。

 ・1939、シャムが国名をタイと改称。
 ・インドネシアでは、インドネシア国民党のスカルノが蘭からの独立運動を指導。
616世界@名無史さん:2011/10/20(木) 22:32:25.15 0
大戦間のモンゴル
 1924、人民共和国となる。(ソ連に次ぐ、2番目の社会主義国)
617世界@名無史さん:2011/10/22(土) 20:05:37.42 0
大戦間の東アジア概況

    【共産党】       【国民党】       【満州/朝鮮/日本】
1916                 袁世凱死→軍閥割拠(張作霖ら)
1917
1918                                対ソ干渉戦争
1919      五四運動/国民党成立(孫文)  三一独立運動  │
1920                                     │
1921 共産党結成(陳独秀)                       ↓
1922                              シベリア出兵引揚
1923
1924   第1次国共合作
1925     孫文死/5・30事件(上海スト)/広東国民政府樹立
1926      北伐開始(蒋介石)
1927        南京占領/上海クーデタ(共産党弾圧)  山東出兵(〜28)
1928      北伐再開、張学良譲歩により北伐完了←張作霖爆殺
1929
1930
1931 瑞金に中華ソビエト臨時政府            満州事変
1932               上海事変     満州帝国成立/5・15事件
1933                                国際連盟脱退
1934 長征開始(〜36)(毛沢東)
1935
1936   西安事変(蒋介石を張学良が拘束)          2・26事件
1937   第2次国共合作 →  日中戦争へ  ← 盧溝橋事件
618世界@名無史さん:2011/10/22(土) 22:04:47.02 0
五・四運動
 日本の21ヶ条要求を認めるヴェルサイユ条約の廃棄をめざした
 中国の学生・市民・労働者による運動。
619世界@名無史さん:2011/10/22(土) 22:15:59.73 0
文学革命
 五・四運動を、文化・思想面から準備した。
 啓蒙雑誌「新青年」が大きな役割を果たす。
 発端となったのが、胡適(こせき/こてき)の論文。
620世界@名無史さん:2011/10/23(日) 06:22:42.91 0
魯迅
 日露戦争期、日本に留学(仙台医学専門学校(現、東北大学医学部))。
 帰国後、革命運動に参加したが、のち学問に没頭。多数の小説・雑感
 を発表。翻訳、文学史研究などにも大きな功績を残す。

 代表作、「狂人日記」(1918)(口語体記述、伝統打破)、
 「阿Q正伝」(新聞小説。1921〜)(毛沢東が談話でたびたび引用、有名に)。
621世界@名無史さん:2011/10/23(日) 06:46:25.37 0
陳独秀
 北京大学教授。「新青年」を創刊。1921、中国共産党設立の
 中心となり、初代委員長になる。
622世界@名無史さん:2011/10/23(日) 07:23:48.61 0
第1次国共合作
 1924、コミンテルン指導の下、中国国民党 一全大会(第1回全国
 代表大会)にて、革命勢力の統一がすすむ。
 三大政策=連ソ・容共・扶助工農。
 これにより、1925に広州(広東)国民政府が結成。
623世界@名無史さん:2011/10/23(日) 08:23:15.99 0
蒋介石(1887-1975)
 ・孫文の死後、国民革命軍総司令として北伐開始。
 ・1927、上海クーデター(四・一二クーデター)、国共分裂。
 ・南京国民政府の主席に。反共政策を推進。
 ・西安事変以降、抗日戦争では(第2次)国共合作により共産党と協力。
 ・第二次大戦後、国共内戦に敗れ、1949年台湾に退く。
 ・1950〜1975、中華民国総統。

 質素な生活を好み、普段から規則正しい生活を送続け、終生
 生真面目さを失わなかった。
624世界@名無史さん:2011/10/23(日) 08:44:13.46 0
北伐
 国民革命軍が北方の軍閥を打倒し、反封建・反帝国主義の旗印で
 統一をすすめた戦い。
625世界@名無史さん:2011/10/23(日) 11:20:02.09 0
張作霖
 東北軍閥の首領。一時、北京まで支配下にあったが、北伐軍に敗れ、
 北京から奉天(地元。現、瀋陽)に帰る途上、日本軍により爆殺。
626世界@名無史さん:2011/10/23(日) 11:46:11.15 0
張学良
 張作霖の長男。父の爆殺で日本を敵視、国民党と共闘。
 1931、満州事変。満州より追放される。
 1936、西安事件で蒋介石を拘束し第二次国共合作を認めさせるも、
 1937、反逆罪で逮捕。
 1949、国民党の国共内戦敗北で台湾島に移る。以後も軟禁。
 1980代後半、、李登輝によって戒厳令が解かれた際、事実上軟禁
     状態も解かれる(計50年以上の軟禁)。その後、ハワイ在住。

 放蕩息子との話もあるが、中国(本土)にとっては、逆境にあった
 共産党の救い主であり、非常に高く評価されている。
627世界@名無史さん:2011/10/24(月) 19:57:28.07 0
大戦間の日本の状況
 ・1918、ロシア革命干渉戦争(シベリア出兵)(寺内内閣)
 ・1923、9/1関東大震災
 ・1925、普通選挙法、治安維持法
 ・1925、大正から昭和へ
 ・1927、金融恐慌(昭和恐慌)
 ・1927〜28、山東出兵(田中義一内閣。居留民保護の目的で出兵)
 ・1932、五一五事件。犬養首相暗殺。
 ・1933、国際連盟脱退
628世界@名無史さん:2011/10/24(月) 20:34:17.03 0
関東大震災(1923/9/1)マグニチュード7.9

 ・死者・行方不明 約10万5千人。190万人が被災。
 ・建物全壊が10万9千余棟、全焼が21万2000余棟。

 ・相模湾沿岸部と房総半島沿岸部で津波が発生。高さ10m以上の記録あり。
 ・昼食の時間帯と重なったことから、136件の火災が発生。地震発生時の
  強風に煽られられ、火災旋風を引き起こしながら広まり、2日後に鎮火。

 ・東京市内の約6割の家屋が罹災したため、多くの住民は、近隣の避難所
  へ移動した。9/5、避難民12,000人以上を数える集団避難地は160箇所
  を記録。
629世界@名無史さん:2011/10/24(月) 21:30:03.70 0
196 :世界@名無史さん:2011/05/05(木) 14:48:02.06 0

17世紀以降に発生した、Mw8.4以上と思われる超巨大地震

日本
17世紀初頭 十勝沖・根室沖連動型地震 Mw8.5〜?
1605年   慶長地震(東海・南海連動型地震) 〜Mw8.7?
1611年   慶長三陸地震 Mw8.5超?
1677年   延宝房総地震 Mw8.5超?
1707年   宝永地震(東海・南海・日向灘連動型地震) Mw8.6〜8.7?
1793年   寛政三陸地震(宮城県沖連動型地震) 〜Mw8.4?
1854年   安政東海地震 Mw8.4?
1854年   安政南海地震 Mw8.4?
1896年   明治三陸地震 Mw8.2〜8.6?
1933年   昭和三陸地震 Mw8.4
1963年   択捉島沖地震 Mw8.5
2011年   東北太平洋沖地震 Mw9.0

※他に近世以前の千島列島の択捉島沖などで数回あったと思われる

欧州
1755年 リスボン地震 Mw8.5〜9.0?

たぶん、この1回
630世界@名無史さん:2011/10/24(月) 21:52:45.94 0
【過去100年余りの内に起きた世界の地震被害ワースト10】
────────────────────────────────
 死・不明数      地震名(震災名)         発生日     被害等
────────────────────────────────
24〜65万(75万?) 唐山地震(中国河北省)     1976.07.28 新興都市が壊滅
28〜33万      スマトラ・アンダマン地震(津波)2004.12.26 インド洋全域に大津波
22〜25万      海原地震(中国遼寧省)    1920.12.16 地滑りや雪崩で壊滅的被害
21〜23万      ハイチ南部地震          2010.01.12 烈震で首都が壊滅
10〜14.3万     関東大震災(大正関東地震)  1923.09.01  都市火災で東京壊滅
7.5〜11万(20万?) メッシナ地震(南イタリア)    1908.12.28  激震と津波で壊滅的被害
8.6万以上      パキスタン北部地震(カシミール)2005.10.08 山麓の町の多くが壊滅
7〜8.7(9万超?)  文川地震(中国四川省)     2008.05.12  人口密集地に激震
0.4〜8万(20万?) 古浪地震(中国甘粛省)     1927.05.23  断層、大被害、不明多数
5〜7万       ペルー地震            1970.05.31  土石流が被害拡大
2.5〜6万      クェッタ地震(パキスタン)    1935.05.30  都市直下型、断層

http://homepage2.nifty.com/GmaGDW/grw/wdr/wdr007.html
631世界@名無史さん:2011/10/25(火) 17:45:58.78 0
満州事変
 関東軍(満鉄と関東州の警備のために派遣されている日本軍)による
 中国東北地方への侵略戦争。

 1931/9/18の鉄道爆破事件(柳条湖(柳条溝)事件)から、
 1933/5/31の塘沽協定(日本軍と中国軍の停戦協定)成立までをいう。
632世界@名無史さん:2011/10/25(火) 17:54:14.23 0
(補足・・・停戦までの経緯)
 1931/9/18、柳条湖(柳条溝)事件。
       関東軍により、1932/2月頃までに(5ヶ月間で)満州全土占領。
 1932/3/1、満洲国の建国宣言。
 1932/3月、中華民国政府の提訴により、国際連盟からリットン調査団派遣。
        半年に渡り調査、9月に報告書(リットン報告書)提出。
 1932、5・15事件で、政府の満洲国承認に慎重であった犬養毅首相暗殺。
 1933/2/24、国際連盟特別総会において勧告案が賛成多数で可決。
 1933/3/27、日本、国際連盟から脱退。
 1933/5/31、国境(山海関)付近で小競り合いが続いていたが、塘沽協定成立。
633世界@名無史さん:2011/10/25(火) 18:12:20.81 0
満州国
 満州事変(1931)後、日本が満州の地に成立(1932)させた傀儡国家。
 清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が執政(1932)、のち皇帝(1934)。

 1945、ソ連軍による侵攻を受け、崩壊。
634世界@名無史さん:2011/10/25(火) 20:43:29.15 0
 (補足・・・満州の近現代史)
  1689 ネルチンスク条約・・・満州全域が清領土
  1858 アイグン条約(不平等条約)・・・黒竜江以北をロシアに割譲
  1860 北京条約(不平等条約)・・・ウスリー川以東をロシアに割譲
  1900 義和団の乱に乗じ、ロシアが満州を占領
  1904-05 日露戦争。満州が戦場に。
      戦後は、日露共同して満州権益確保に乗り出す。
  1911 辛亥革命後、軍閥(張作霖)支配
  1917 ロシア革命→日本のシベリア出兵
  1924 アメリカで排日移民法成立→貧困農民の受け皿が必要に
  1928 張作霖爆殺事件
  1929 ソ連の満州侵攻(中東路事件)
  1931 満州事変→日本が満州全域を占領
  1932 満州国成立。首都長春、新京と改名。リットン調査団の調査。
  1933.3月 国際連盟脱退
  1934 ラストエンペラー溥儀が皇帝に
    ・その後、ドイツ、イタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国が
     満州国を承認。ソ連も領土不可侵を約束するにいたり、当時の独立国の
     3分の1以上と国交を結び、安定した状態になる。
    ・当時の人口3100万。うち漢族・満州族2950万、朝鮮族70万、日本人
     60万、ロシア人など10万。
    ・政府主導・日本資本導入による重工業化、近代的な経済システム
     導入、大量の開拓民による農業開発などの経済政策は成功を収め、
     急速な発展を遂げた。
  1945.8月 ソ連が満州に侵攻、満州国の崩壊。シベリア拘留(※)
  1946.5月 ソ連軍完全撤退、満州は中華民国(蒋介石)に返還。
  1948 中国共産党の人民解放軍が都市部も含む満洲全域を制圧。
  1949 中華人民共和国成立

  現在 「満州」という言葉は使われない。「満州族」の代わりに「満族」。
  満州国のあった地域は、中国東北部(東北地方)という。
635世界@名無史さん:2011/10/25(火) 20:49:00.94 0
 (>>634補足の補足)
 (※)1945.8月の「シベリア拘留」
  拘留者は、65万人が定説。劣悪環境と強制労働が原因で、その
  1割(6万人)が死亡。
  しかし、近年の資料では、終戦時、ソ連の占領した満州・樺太・千島
  には軍民あわせ約272万6千人の日本人がいたが、このうち約107
  万人が終戦後シベリアやソ連各地に送られ強制労働させられたと
  見られている。死者25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名
  で、事実上、約34万人の日本人が死亡した。 
636世界@名無史さん:2011/10/26(水) 16:00:42.90 0
>>626
張学良って21世紀の100歳まで生きたんだな、すごい人だ
637世界@名無史さん:2011/10/26(水) 22:53:59.85 0
>>636さん、関連コメントありがとう。
100歳まで生きてみたいものですね。
人間が生きられる最高の年数は、123年〜125年ほどらしいですね。

 世界で最も長生きした人物トップ10と1人の伝説的人物
 http://blog.livedoor.jp/meaningless88/archives/1841513.html
638世界@名無史さん:2011/10/26(水) 22:57:05.10 0
毛沢東[1893〜1976]
 ・1921年、中国共産党の創立に参加。
 ・農民運動を指導し、朱徳らと工農紅軍を組織。
 ・31年江西省瑞金に中華ソビエト共和国臨時政府を樹立して主席となる。
 ・34年から長征を行い陝西(せんせい)省延安に移動。
 ・日中戦争には国共合作し、抗日戦を指導して勝利。
 ・戦後は蒋介石の国民党軍を破り、49年中華人民共和国を建国。
 ・国家主席・党中央委員会主席に就任して新中国の建設を指導。
 ・66年、文化大革命を起こすが、死後その誤りを指摘された。
639世界@名無史さん:2011/10/26(水) 22:59:43.51 0
 (補足・・・受験知識レベル)
 ・1931、瑞金にて、紅軍(解放区の農民等を組織した共産党の軍隊)を
  率いて中華ソヴィエト共和国臨時政府を作る。
 ・蒋介石の頻繁な攻撃に敗れた紅軍は、瑞金から陝西省北部(延安)に
  移動(長征(大西遷))。この中で共産党内の指導権を握る。
 ・八・一宣言で、内戦の停止と抗日民族統一戦線の結成を呼びかけ。
 ・1936、西安事件後、抗日民族統一戦線(第2次国共合作)成立。
  共産党紅軍は、八路軍(新四軍)として蒋介石の統一指揮下に入る。
  (実際は、日本軍と国民党軍の戦闘を傍観することにより、共産党軍の
  戦力温存、支配地域拡大傾注。)
 ・第2次大戦後、内戦再開。当初、国民党軍優勢、1948頃から形勢逆転。
 ・1949.10月、北京にて中華人民共和国の成立宣言。国家主席になる。
 ・1958、工業生産の増大を図るべく「大躍進」を行うが、失敗。
 ・1959、毛沢東に代わり、劉少奇が国家主席に。
 ・1966、プロレタリア文化大革命(毛沢東、林彪が主導)により、
  1968、劉少奇・ケ小平らの一派失脚。
 ・1971、林彪失脚。ケ小平ら一部復権し、対立的不安定状態が続く。
 ・1976.9月、死。

 (蛇足)
  現在、中国では改革開放によって経済が発展する一方、所得格差の拡大
  が生まれ、敗者(貧しい側)から「毛沢東は平等社会を目指した」と信じられ
  懐かしがられている。
640世界@名無史さん:2011/10/26(水) 23:27:39.82 0
西安事件
 1936、内戦のなかで突如、蒋介石が、張学良により逮捕・監禁された事件。
 この事件後、抗日のために、抗日民族統一戦線(第2次国共合作)が急速に
 結ばれ、成立。
641世界@名無史さん:2011/10/26(水) 23:33:31.97 0
盧溝橋事件
 1937.7/7、北京郊外の盧溝橋附近で謎の発砲事件発生。日中両軍が衝突。
 日中戦争の発端となる。

 (蛇足)
 盧溝橋
  ・北京中心部から南西15kmの、永定河に架かる石造りのアーチ橋。
  ・1192完成、全長267m。501基の獅子の彫像が置かれている。
  ・マルコ・ポーロが『東方見聞録』で「見事」と賞賛、このため西欧では
  「マルコポーロの橋」と呼ばれている。
  ・清朝・乾隆帝がここで月を見た。中秋の名月の夜の月見スポット。
  ・中華人民共和国成立後、舗装され自動車も通行できるようになったが、
   老朽化が進行、1980年代には自動車通行禁止に。

 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7a/Lugouqiao2.jpg
642世界@名無史さん:2011/10/26(水) 23:48:39.17 0
日中戦争の経過
 ・南京事件(南京大虐殺)も、このときに発生。
  (1937.12/13南京陥落の翌日より6週間)
 ・日本軍は、南京・武漢を占領するが、国民政府(蒋介石)は、1938に
  重慶政府を作り、徹底抗戦を続ける。(1941日本軍、重慶無差別爆撃)
 ・その中で、蒋介石と対立した汪兆銘(汪精衛)は重慶を脱出、日本と結び、
  南京に親日政権を樹立。(南京国民政府。1940〜1945)

1940年の日本の占領地域 
 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fe/Japanese_Occupation_-_Map.jpg
南京国民政府の範囲
 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b1/Nanjing_republic_1940-1945.png
643世界@名無史さん:2011/10/27(木) 00:00:16.11 0
ノモンハン事件
 満州国西部国境で起きた、日ソ間の武力紛争事件。
 1939.5〜9月

 (蛇足)
 ・ソ連側は二正面作戦を避けるために独ソ不可侵条約によって後顧の
  憂いを断つなど、この事件を単なる国境紛争ではなく本格的な戦争と
  して国家的な計画性を持って対応した。
  (日本は国家的戦略など皆無で、出先軍の一部参謀の独断専行に終始)
 ・日本では、軍部の威信低下を避けるため、国内に対して敗北を隠し、
  新聞はノモンハンでの日本軍の圧勝を報じた。一般の日本人が
  敗北の事実を知ったのは、戦後になってから。
 ・戦死者、両軍とも約8,000人。ソ連軍が日本軍に対して苦戦したのは
  7月初旬までの段階であり、逆に8月の大攻勢以降はソ連側の
  一方的勝利。
644世界@名無史さん:2011/10/27(木) 04:37:46.51 0

現代史は日本を悪者にしたい日教組とそれに反発する日本人がいるからか、
教科書に全く取り上げられないから、

黄河決壊事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%B2%B3%E6%B1%BA%E5%A3%8A%E4%BA%8B%E4%BB%B6

最近知ったんだけど、(無学でごめんorz)
こういう流れとかも上げていくのか、いかないのかどっちなのかな?

他にも「日本切腹中国介錯」も外して欲しくなかったりするけど。
645世界@名無史さん:2011/10/27(木) 08:42:39.43 0
長沙放火事件もよろしく。
646世界@名無史さん:2011/10/27(木) 18:55:02.81 0
>>644さん>>645さん、関連コメントありがとう。
受験レベルの項目だけなので、出す予定はなかったですが
せっかくのリクエストなので、簡単に、挙げてみます。
(それに個人スレではないので、自由に作って載せてもらって構いませんよ)

日本切腹中国介錯論
 胡適(>>619)の1935の持論。日本の侵攻を食い止めるべく米・ソを対日戦に
 巻き込むため、2〜3年負け続け同情を買おう、という戦略。日本は、じきに
 崩壊(切腹)するので、中国が崩壊の手助け(介錯)をしよう、という意味。

黄河決壊事件
 1938.6月、日本軍の侵攻を止めようと、国民党軍が黄河を決壊させる。
 水没範囲は11都市と4,000の村に及び、河南省・安徽省・江蘇省3省の農地
 が農作物ごと破壊され、水死者は100万人、被害者は600万人。

長沙放火事件
 1938.11月、湖南省長沙において国民党軍によって起された放火事件。
 3日3晩の火災で長沙市内は廃墟化、文化遺産ほぼ喪失。焼死者2〜3万。
 日本軍に対する焦土作戦説、周恩来暗殺計画説あり。
647世界@名無史さん:2011/10/27(木) 19:13:53.22 0
そういえば、現代日本人は、日米戦(太平洋戦争)ばかり注目し、
日中戦争はあまり気にかけませんね。
真珠湾攻撃までは平和だった、みたいな錯覚でしょうか。

さて東アジアで1940頃まで来ましたが、今日から10年ほど遡り、
欧米にいきます。
648世界@名無史さん:2011/10/27(木) 21:52:20.05 0
世界恐慌
 1929、米国ウォール街(NY株式取引所のある米国金融の中心地)の株価
 暴落に始まり、世界を一大不況に陥(おとしい)れた経済界の変動。
 ときの米国大統領は、フーヴァー(>>578-579)。
649世界@名無史さん:2011/10/27(木) 22:01:38.23 0
ニューディール政策
 フランクリン・ルーズベルト大統領が世界恐慌を克服するために行った
 一連の経済政策。(新規まき直し政策)
 自由放任経済を抑え、国家的統制を加味。(社会民主主義的な政策への転換)

 骨子となったものを3つ挙げるとすると、
  1. 農業調整法(AAA)
  2. 全国産業復興法(NIRA)
  3. テネシー川流域開発公社(TVA)
 その他に、ワグナー法(労働者の団結権・交渉権などの権利を法的に保証)
 がある。
650世界@名無史さん:2011/10/27(木) 22:25:39.33 0
フランクリン・ローズヴェルト(ルーズベルト)(FDR 1882-1945)
 ・民主党出身。第32代大統領(1933-45)
 ・ニューディール政策を断行
 ・南北アメリカとは、善隣外交(善隣友好政策)で友好を促進
 ・ソ連を承認
 ・キューバ、フィリピンの完全独立を約束
 ・チャーチルと大西洋上で第2次大戦後の国際協調の構想(大西洋憲章)
 ・カイロ宣言(チャーチル、蒋介石と)
 ・ヤルタ会談(1945.2月)チャーチル、スターリンと会談、ソ連の対日参戦決定

 (蛇足)
 ・第26代大統領セオドア・ルーズベルト(>>425)は従兄に当たる。
 ・歴代アメリカ合衆国大統領のランキングでの人気投票でほぼ上位5傑に
  入るなど、現在でもアメリカ国民からの支持は根強い。
 ・初代のワシントン大統領が三選を固辞した故事から、大統領は二選まで
  というのが慣例だったが、戦時・有事を理由に、米国史上唯一四選された
  大統領である。(改憲により、現在は二選まで。)
 ・ポリオの後遺症で日常、車椅子を使用していたが、見られぬよう留意し、
  また報道もされなかったので、米国民にはほとんど知られていなかった。
651世界@名無史さん:2011/10/28(金) 18:41:56.27 0
1930年代の欧米概況

    【米】   【南欧】   【英】   【仏】   【独】   ・【ソ連】  
1929 ウォール街の株価暴落→世界恐慌            ・第1次5ヶ年計画
 〃                          ヤング案
1930             ロンドン海軍軍縮会議
 〃
1931    (西)共和政へ マクドナルド挙国一致内閣
 〃 フーヴァーモラトリアム   ウエストミンスター憲章
1932             オタワ会議     ナチス第1党に ・第2次5ヶ年計画
 〃   (ドル・ポンド・フランのブロック経済圏化→国際経済の縮小)    
1933 FDR大統領就任               ナチス政権成立
 〃 ニューディール政策/ソ連承認          国連脱退   
1934                                 ・国連加入
 〃                          ヒトラー総統へ(独裁)
1935 ワグナー法       英独海軍協定    再軍備宣言
 〃     (伊)エチオピア侵略    仏ソ相互援助条約 ・コミンテルン7回大会
1936    (西)人民戦線派勝利         ラインラント進駐 ・スターリン憲法
 〃    36-39スペイン内戦     ブルム人民戦線内閣    ・大粛清
1937     (伊)国連脱退             日独伊防共協定
 〃
1938                          オーストリア併合
 〃              ミュンヘン会談(チェコ問題で英仏が独に譲歩)
1939    フランコ、マドリード陥落              独ソ不可侵条約
 〃    (伊)アルバニア併合   第2次世界大戦へ ← 独ソのポーランド侵攻
652世界@名無史さん:2011/10/28(金) 20:21:59.61 0
1930年代の英連邦概況(上表の英国に、英植民地を加味)

    【アイルランド】 【英連邦】  【英・本国】    【中近東】  【インド】
1929                  世界恐慌         ネルー完全独立決議
 〃              マクドナルド労働党内閣(29-31)        
1930              ロンドン海軍軍縮会議        ガンディー塩の行進
 〃
1931          マクドナルド挙国一致内閣(31-35)/金本位制の停止
 〃     ウエストミンスター憲章(英連邦の成立)
1932    英連邦経済会議(オタワ会議)    委任統治のイラク王国独立
 〃    (ポンドのブロック経済圏(スターリング・      インドの円卓会議合意せず
1933      ブロック)化 →国際経済の縮小)          →独立運動再開
 〃    
1934                            インド逮捕者多数→運動中止
 〃                          
1935              英独海軍協定            1935インド統治法
 〃              ボールドウィン(保守党)内閣(35-37)
1936                          エジプト撤退(スエズ以外)
 〃    
1937 独自憲法制定    ネヴィル・チェンバレン(保守党)内閣(37-40)
 〃  英連邦離脱(国名エール)     対独宥和政策採用      インド・州選挙
1938                          
 〃              ミュンヘン会談(チェコ問題で英仏が独に譲歩)
1939                   第2次世界大戦へ
653世界@名無史さん:2011/10/28(金) 20:36:21.45 0
横軸(年代ごとのまとめ)をチャレンジしてみましたが
「面白く」「覚えやすく」作るというのは、難しいもんですね。

最近は、兄弟(横の世界史覚える)が一休みしているようですが
どうしたんでしょう?元気ですか?
654世界@名無史さん:2011/10/28(金) 22:24:39.07 0
マクドナルド挙国一致内閣(>>586)の断行した政策

 @金本位制停止・・・国際的に大きな波紋
 A失業保険の削減・・・労働党により反対を受ける

(補足)・・・金本位制とは
 一国の貨幣価値(交換価値)を、金に裏付けられた形で金額で表すもの
 であり、商品の価格も金の価値を標準として表示される。
 この場合、その国の通貨は一定量の金の重さで表すことができる。
 (これを法定金平価という。)

つまり、金貨を使うわけではないけど、
「牛丼一杯=金0.001g」みたいなもんでしょうか。
655世界@名無史さん:2011/10/29(土) 00:00:53.63 0
(蛇足)・・・金本位制の歴史

・金貨は東ローマ帝国時代からあったが、貨幣として実際に流通させるには
 希少価値が高過ぎ、金貨を鋳造するための地金が絶対的に不足していた
 ため、蓄財用として退蔵されるか、せいぜい高額決済に使用されていた。

・1816、イギリスの貨幣法で、金本位制が法的に初めて実施。
・その後、ヨーロッパ各国が次々と追随。19c末、金本位制は国際的に確立。

・日本では1871(明治4)「新貨条例」を定め、新貨幣単位「円」とともに確立。
・金準備が充分でなかった上に、まだ経済基盤が弱かった日本からは、正貨
 である金貨の流出が続き、金銀複本位制を経て暫時銀本位制に変更されて
 日清戦争後に金本位制に復帰した。

・第1次世界大戦時、各国政府とも金本位制を中断、管理通貨制度に移行。
 (戦争によって増大した対外支払のため)
・1919、アメリカ合衆国が復帰したのを皮切りに、再び各国が金本位制に復帰。
・1929、世界大恐慌により再び機能しなくなり、1937年6月のフランスを最後に
 すべての国が金本位制を離脱した。

・日本では、関東大震災などの影響で金本位制復帰の時期を逸し、
 1930(昭和5)、濱口雄幸内閣が「金解禁(金輸出解禁)」を打ち出したが、
 翌年、犬養毅内閣が金輸出を再禁止した。

・第2次世界大戦後、米ドル金為替本位制を中心としたIMF体制(いわゆる
 ブレトン・ウッズ体制)が創設。各国は米ドルとの固定為替相場制を介し、
 間接的に金と結びつく形での金本位制となった。
・1971/8/15、いわゆるニクソン・ショック以降、金と米ドルの兌換が停止。
 各国の通貨も1973年までに変動為替相場制に移行したため、金本位制は
 完全に終焉を迎えた。
656世界@名無史さん:2011/10/29(土) 00:26:07.03 0
ウェストミンスター憲章
 1931、イギリス連邦の成立を定めた立法。
 各自治領が「王冠への忠誠」のもとに、本国と対等の地位を得る。

 「ポケットモンスター」と語感が似ている。(←兄スレを真似てみました・・・)
657世界@名無史さん:2011/10/29(土) 00:42:19.87 0
オタワ連邦会議
 イギリスの恐慌克服のため開かれた、イギリス連邦経済会議。
 この会議でブロック経済(本国と自治領間の特恵関税制度を中心とする
 経済方式)が採用。
 スターリング・ブロック(イギリスの植民地上に成立している、ポンドを
 共通通貨とする経済圏)ができあがる。

 オタワと聞くと、世界史板住人としては
  『史学科で人生\(^o^)/オワタ 奴のスレ』
 を思い出したりしませんか?
658世界@名無史さん:2011/10/29(土) 11:27:19.41 0
ナチス(Nazis)
 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterparteiの略称ナチ(Nazi)の複数形。

 ドイツの政党。国家(国民)社会主義ドイツ労働者党の略称。また、その党員。
 1920、ドイツ労働者党から改称。1921よりヒトラーが党首に。
 反民主・反共産・反ユダヤ主義を標榜。全体主義的独裁政治を推進。

 組織内に、突撃隊(SA)、親衛隊(SS)という、反対派を暴力で倒したり、
 ヒトラー直属の行動隊となる部隊を持つ。
 また、ゲシュタポという、国家秘密警察も持つ。
 1945、敗戦とともに崩壊。
659世界@名無史さん:2011/10/29(土) 17:16:46.00 0
アドルフ・ヒトラー(1889〜1945)
 ナチス党首。オーストリア出身。ヴェルサイユ体制の打破を唱える。
 1923、ヴァイマル政府打倒のため、ミュンヘン一揆を企てる。
   この間、恐慌による社会危機に乗じ、支持拡大、政権に接近。
 1932、ナチスが第1党になる。
 1933、内閣を組織。首相に任命。直後、共産党を非合法化するため、
     国会議事堂放火事件をおこす。
 1934、ヒンデンブルク(>>591)の死後、総統(フューラー)になり独裁者へ。
     (第三帝国・・・神聖ローマ帝国、ドイツ帝国に続く帝国)
 1939、第2次世界大戦をおこす。
 1945、ベルリンを包囲され自殺。
660世界@名無史さん:2011/10/29(土) 17:28:27.97 0
(蛇足・・・ヒトラー以外のナチス)

 ヨーゼフ・ゲッベルス(1897〜1945)
  ヒトラーの政権掌握と、ナチス党政権下のドイツの体制維持に辣腕
  を発揮。初代国民啓蒙・宣伝大臣。
  「プロパガンダの天才」・「小さなドクトル」(身長165cm)と称される。
  敗戦の直前、ヒトラーの遺書によってドイツ国首相に任命されるが、
  直後に自殺。

 ヘルマン・ゲーリング(1893〜1946)
  ヒトラーに次ぐナンバー2。ヒトラー政権下で空相・プロイセン首相を
  兼任。ゲシュタポを組織、空軍の再建と軍備拡大を推進した。
  ドイツ国民から広い人気があり、ヒトラーも重要視、後継者に指名。
  戦況の劣勢にしたがい叱責・罵倒・冷遇され、最後に反逆、投降。
  第二次大戦後、戦争犯罪人として死刑を宣告されたが、処刑直前
  に自殺。
661世界@名無史さん:2011/10/29(土) 18:08:59.65 0
(付録)
ヒトラーの名言 (509,701/4:32)
 http://www.youtube.com/watch?v=ZI8qaihLJeY&feature=related
映像の世紀 第4集 ヒトラーの野望 5 (63,316/10:01)
 (現代史の勉強には、「映像の世紀」を見るのが一番てっとり早い?)
 http://www.youtube.com/watch?v=eKZ3knp-eG4&feature=related
ヒトラーの演説 (64,240/10:03)
 http://www.youtube.com/watch?v=Qcim22gTw3M

チャップリンの「独裁者」
 (1940/10/15、米国で初公開。チャップリンの最初の「トーキー作品」
 であり、チャップリンの作品中、最も商業的に成功した。)
 The Great Dictator- Globe Scene (1,344,864/2:35)
  http://www.youtube.com/watch?v=IJOuoyoMhj8&feature=related
 Hungarian Dance No. 5 from "The Great Dictator"(219,562/2:05)
  http://www.youtube.com/watch?v=monaXOpmH1U&feature=related
 Best scenes from "The Great Dictator" (336,227/10:03)
  http://www.youtube.com/watch?v=yypR80BLEo4&feature=related
 チャップリン 独裁者 ラストの演説 (288,792/6:05)
  http://www.youtube.com/watch?v=xl2e69fEFf4
662世界@名無史さん:2011/10/29(土) 18:20:21.54 0
ハンナ
私は皇帝になどなりたくない
663世界@名無史さん:2011/10/29(土) 21:29:00.64 0
ヒトラー死亡の状況は極めて怪しいのだが、
その翌日のゲッベルス一家の死亡はどうなのだろうか。

ヒトラーの後を任された直後に、妻と未成年の子どもたち6人を道連れにした自殺は覚悟が良すぎる。
このきれいすぎる自殺をした男は、「プロパガンダの天才」とも呼ばれていた。
664世界@名無史さん:2011/10/29(土) 21:36:37.52 0
そんなボロボロの仕事を引き継がされたら
死にたくなるのは当り前だと思う。
どんな目に遭うかもわからないから家族も残せない。
665世界@名無史さん:2011/10/30(日) 18:26:02.92 0
>>662さん
チャップリンのセリフですね。

>>663さん>>664さん
自殺直前のヒトラーは、ゲッベルスに「何としても生き残れ」と命じていた
そうですね。
ところで「ヒトラー最期の12日間」(映画)のゲッベルス、ゲッベルス一家は
とても印象的でしたね。
666世界@名無史さん:2011/10/30(日) 18:30:39.49 0
国際連盟の変動
 ・1933.3月、日本脱退 (・・・満州事変のリットン報告書に抗議)
 ・1933.10-11月、ドイツ脱退 (・・・ジュネーブ軍縮会議批判)
 ・1934.9月、ドイツに対抗して、ソ連の参加を認可
 ・1937.12月、イタリア脱退 (1936、エチオピアに侵略→経済制裁に抗議)
 ・1939.12月、ソ連を除名 (・・・フィンランドに侵攻)
667世界@名無史さん:2011/10/30(日) 18:47:54.72 0
再軍備宣言(1935.3月)
 ナチス・ドイツが、初めてヴェルサイユ条約を破り、義務兵役の
 復活などを宣言。

さ(3)いご(5)んび宣言、で年号を覚えました。
668世界@名無史さん:2011/10/30(日) 18:58:49.39 0
仏ソ相互援助条約(1935.5月)/仏チェコ相互援助条約(1935)
 ナチス・ドイツの進出に対抗して結ばれる。
669世界@名無史さん:2011/10/30(日) 19:06:05.07 0
ラインラント進駐(1936.3月)
 ヒトラーは、ヴェルサイユ条約、ロカルノ条約を破棄して進駐を決行。

 (ここでフランス軍が進軍していれば、ドイツ軍は逃げ出し、ヒトラー失脚?
 世界史が変わっていた?・・・「たら、れば」の話ですが。)
670世界@名無史さん:2011/10/31(月) 18:57:27.80 0
人民戦線
 1930年代、反ファシズム、反帝国主義、反戦主義を共同目標として
 諸政党や団体によって結成された広範な組織。
 フランスでは35年6月に成立、36年6月〜38年2月、政権を担当。
 スペインでは36年1月に成立、36年2月〜39年初め、政権を担当。
 チリでは、1937〜1948に政権担当。

 コミンテルン第7回大会(1935.7-8月)で、従来の方針(社会民主主義悪玉論)
 を転換、採用された。
671世界@名無史さん:2011/10/31(月) 19:09:32.06 0
レオン・ブルム(1872〜1950)
 フランスの人民戦線内閣の首班(1936)。フランス社会党、フランス共産党、
 急進社会党が協力。

 (補足)
 ・フランス史上最初の社会主義者の首相、最初のユダヤ人首相。
 ・労働者一斉賃上げを経営者代表に認めさせ、年2週間の有給休暇制、
  週40時間労働制などの社会立法を成立させる。
 ・不況克服に成功せず1年余りで退陣。
 ・ビシー政権時代、ペタン政府により拘留、ドイツで終戦を迎えた。
 ・戦後、栄光に包まれて帰国。短期間(1946〜1947)首相を務めた。
672世界@名無史さん:2011/10/31(月) 20:16:18.62 0
フランコ(1892〜1975)
 ・スペインの軍人・政治家。ファランヘ党党首。
 ・1936、人民戦線政府(1931に成立した共和制)に対して反乱を起こし、
  ドイツ・イタリアの援助で勝利を収める。

 (補足)
 ・人民戦線側は国際義勇軍(ヘミングウェイ、オーウェル他)の参加はあった
  ものの、英・仏は不干渉政策をとった。
 ・ドイツは、航空戦の実験場としてゲルニカ(町)を空爆→ピカソの作品に。
 ・1939、マドリード陥落、国家主席に就任。独裁政権を樹立。
 ・第二次大戦には中立を保つ。
 ・戦後は親米政策をとって、36年間に及ぶ長期政権を維持。
 ・1969、前国王アルフォンソ13世の孫フアン・カルロス1世を後継者に指名。
  王政復活。
 ・1975、83歳で没。

 その後、フアン・カルロス1世は、独裁継続の予想に反し、急速に西欧型の
 議会制民主主義および立憲君主制国家への転換を図る。
 1978、新憲法制定。(移行の順調さから「スペインの奇跡」と呼ばれる。)
673世界@名無史さん:2011/11/01(火) 21:28:46.87 0
三国同盟成立まで
 ・1936、国際的孤立に陥った独・伊が、ベルリン・ローマ枢軸の協定を締結。
 ・1937、日本も参加し、日独伊防共協定を締結。
 ・1940(昭和15)9/27、三国同盟、ベルリンで調印。

 三国同盟の内容(純然たる軍事同盟)
  ・ヨーロッパおよびアジアにおける「新秩序建設」に関し、日独伊の
   「指導的地位」を認め合う。
  ・日中戦争・ヨーロッパ戦争に参加していない第三国の攻撃に対し、
   相互援助を誓約。

 なお、1882の三国同盟(>>508)と区別するため、こちらを「日独伊三国同盟」
 と書くと「よく知ってるね」と思われるかも。
 また、三国同盟戦争(1864〜1870)(パラグアイvsアルゼンチン・ブラジル・
 ウルグアイの三国同盟軍)の「三国同盟」もある。
674世界@名無史さん:2011/11/01(火) 21:40:54.03 0
ヒトラーの東欧への伸張
 ・1938、英・仏の反対を押し切り、軍隊を侵入させ、オーストリアを併合。
 ・1938、ズデーデン問題について、ミュンヘン会談。
      英(チェンバレン/保守党)・仏(ダラディエ)妥協。(対ドイツ宥和策)
 ・1939、チェコスロヴァキアを解体、大部分を併合。
675世界@名無史さん:2011/11/01(火) 23:39:14.89 0
 (蛇足)
 チェコ/スロバキア
 チェコ
  ・面積78,866km²(北海道本島77,984km²と同程度)、人口1037万人。
  ・首都プラハ。チェコ人(スラブ系)90%。
  ・ボヘミア(プラハ周辺)、モラヴィア、シレジアの3地方で形成。
  ・昔から、工業国。
  ・ビールの国民一人当たりの年間消費量が世界一。
  ・最も人気のあるスポーツはアイスホッケー。(国技ともいわれる)
  ・テニスでは、ナブラチロワ、マンドリコワ、レンドルなど名選手輩出。
  ・音楽家では、スメタナ、ドヴォルザークが有名。

 スロバキア(語源「スラブ」(スロベニアも同じ語源))
  ・面積48,845km²、人口541万人。
  ・首都ブラチスラヴァ。スロバキア人86%。
  ・昔から、農業国。マグネシウムの産出量、世界第7位。

 (歴史)
 13世紀後半、チェコ人の国、ボヘミア王国最盛期。
 14世紀以降、ドイツ人の支配下。その後、ハプスブルグ家に従属。
 1918、独立運動指導者トマーシュ・マサリク、チェコスロバキア独立宣言。
 1938、ミュンヘン協定により、ズデーテン地方をドイツに割譲。
 1939、チェコスロバキア解体。チェコはドイツ領に。スロバキア保護国化。
 1945、チェコスロバキア共和国復活。
 1948、事実上、社会主義国化。
 1968、プラハの春。→ワルシャワ条約機構軍介入、改革頓挫。
 1989、ビロード革命で共産党政権が崩壊。
 1993、チェコ共和国とスロバキア共和国に分離(ビロード離婚)。
 2004、チェコ、スロバキアともにEU加盟。
 2009、スロバキア、ユーロ導入。(チェコは2012導入予定)
676世界@名無史さん:2011/11/02(水) 00:18:47.87 0
 (たまには息抜きに・・・)
 ボヘミアと言えば、これですか

 Queen - 'Bohemian Rhapsody' (1975)
  http://www.youtube.com/watch?v=Xlej3ngsKew&feature=related
 ボヘミアン 葛城ユキ(1983)
  http://www.youtube.com/watch?v=XDt0bKobAxM
677世界さん、しばし休息を:2011/11/02(水) 17:35:37.35 0
具体的に楽しみ方ですが、開いたページのまず中央部国旗の
マークがあるすぐ左側の下向き三角をクリックして、
国を選択。画面左側の21ジャンルからお好きなジャンルを
クリック、選択。200位までの調べ方は、画面を下へ
ずらして頂き、「more▼」をクリック。
そして、左側の三角マークの再生ボタンをクリック。
親しい人との話題の一つになると信じます。
高尚な御趣味の一つではないでしょうか。
名曲を探し出した時HMVやTowerRecordなどに問い合わせ、取得
などして、発展性も凄い。世界から名曲探し!
ぜひ、「お気に入りに追加」され快適な一時をお過ごし下さい
ますようお願い申し上げます。
http://jp.myspace.com/music/charts/songs
678世界@名無史さん:2011/11/03(木) 00:27:29.11 0
アウシュヴィッツ
 ポーランドにあったユダヤ人の強制収容所。

 ・1940、建設決定、開所、政治犯など収容開始。
 ・1941、最初のガス室完成。
 ・1942〜44、ユダヤ人移送(1943.1-3月、10万人。1944.4-11月、58万人。)
 ・1945.1月、ソ連軍により解放。
 ・1979年「負の世界遺産」に認定。

 ・ニュルンベルク裁判は、「アウシュヴィッツで400万人が死亡した」と認定。
  冷戦後の1995年には「150万人」の認識に。15万人という人もいる。
679世界@名無史さん:2011/11/03(木) 00:49:41.68 0
第2次世界大戦
 1939年9月、ドイツのポーランド侵入〜1945年8月、日本の敗北の
 6年間にわたる全世界規模の戦争。
 世界の61カ国が参戦し、総計で約1億1000万人が軍隊に動員。
 死者総数約5500万人。うち一般市民死者約3000万人(ユダヤ人600万人)。

 (時間があれば)
 ヨーロッパ戦線(前半)の情勢の理解に。・・・4部まであって長いですが。
 ↓
 第二次世界大戦 ヒトラーの野望  (1/4) (194,054/10:32)
  http://www.youtube.com/watch?v=FfeEHcqIRe0&feature=related
680世界@名無史さん:2011/11/03(木) 08:55:58.55 0
>>665
70年前の演説が今聞いても本質を衝いているのだよな。
しかもまだあれは戦前。

ガンジーのユダヤ論もそうだが
http://www.asyura.com/sora/war4/msg/215.html
あの時代でも今と同じ見識を持てていた人間がいたんだよな。
681世界@名無史さん:2011/11/03(木) 21:34:12.72 0
>>680さん
その「ガンジーのユダヤ論」のサイト、見てきましたよ。パレスチナの人が
聞いたら、きっと、うれしがることでしょう。
最近でも、パレスチナの参加を認めたユネスコに、米国が圧力をかけた
そうですが、
http://mainichi.jp/select/world/news/20111101ddm002030142000c.html
キリスト教・ユダヤ教・ユダヤ人・イスラム教・パレスチナって
かなり複雑で、日本人にとっては、とても難解なものですね。
682世界@名無史さん:2011/11/03(木) 22:17:07.59 0
ダンチヒ(現、グダニスク)
 旧ドイツ領。ヴェルサイユ条約で自由市とされた、ポーランド唯一の海港。
 ドイツと東プロイセンにはさまれ、「ポーランド回廊」と言われる。

(付記)
 グダニスク(Gdańsk)(ドイツ語名、ダンツィヒ(Danzig))
  ポーランド最大の観光地の一つ。主要貿易港の一つでもある。
  ポーランド北部の文化の中心地。人口46万人。

 (グダニスクの歴史)
 ・13c、自治権のある都市、貿易港。(1361、ハンザ同盟の正式な加盟都市に)
 ・中世、ドイツ騎士団とポーランド王国間で争奪戦。
 ・16〜17c、ポーランド王国の庇護の下、黄金時代。
 ・1793、第2次ポーランド分割、プロイセン王国に併合。
 ・第1次大戦後、どこの国にも属さない「自由都市」になる。
 ・1939、ポーランド侵攻の際にドイツ軍が制圧。
 ・1952、ポーランド独立回復、ポーランド領に編入。
  このとき、旧市街など、戦争で廃墟となっていた市街地は、残された資料を
  もとにポーランド人の手によって完全に復元。その文化的価値が認められ、
  近いうちに、ユネスコの世界遺産に登録の見込み。
 ・戦後、造船業・貿易で発展するが、オイルショック以降、経済低迷。
 ・1980年代初め、グダニスク造船所労働者のストライキ。
  →1989年のポーランド民主化(指導者・ワレサ)につながる。
683世界@名無史さん:2011/11/03(木) 22:40:36.74 0
第2次世界大戦のはじまり
 ・1939/8/23、独ソ不可侵条約
 ・ドイツがポーランド侵入。
 ・ソ連も、ポーランド東部、西ウクライナ、白ロシアに侵入。
  さらに、バルト3国を併合。
  さらに、フィンランドに領土交換要求を要求、拒否され開戦、占領。
  (これにより、国際連盟を除名)

(蛇足)
 犬猿の仲といわれたヒトラーとスターリンが手を結んだことは、世界中に
 衝撃を与えた。平沼内閣は、8/28に「欧州情勢は複雑怪奇である」と
 声明し、責任をとって総辞職。
684世界@名無史さん:2011/11/03(木) 22:55:11.00 0
ナチス・ドイツの、フランス攻略まで
 ・1940.4月、ノルウェー、デンマークを不法占領
 ・1940.5月、永世中立規約を破り、ベルギー、オランダに侵入
 ・1940.6月、パリ陥落。ヴィシーに協力政権(ペタンが内閣を組織)を作る。
 ・ロンドンに亡命したドゴールは「自由フランス政府」を樹立し対独抗戦。
685世界@名無史さん:2011/11/03(木) 23:02:25.40 0
>>682
>ワレサ議長
連帯ね。超有名。 

冷戦時からポーランドってのは、ソ連に挑戦的だったお国がらです
ソヴィエトは何度も侵攻引き締めを考えたけど、西側諸国の目が気になって躊躇し続けてました。
ポーランドがソ連の影響下でちゃんと動いてたのは、ほんの1952年のあと10年程度ですね。
686世界@名無史さん:2011/11/04(金) 23:07:16.83 0
>>685さん関連コメントありがとう。
ポーランド大統領機墜落事件(2010.4月)もありましたね。
日本同様、ロシア(ソ連)憎し、なのでしょうか。

ところでポーランド、ナチス、ユダヤ人、アウシュヴィッツとくると
やっぱり「シンドラーのリスト」ですね。
687世界@名無史さん:2011/11/04(金) 23:24:28.17 0
独ソ戦
 ・ソ連は、ルーマニアからベッサラビアを割譲させる。(1940.6月)
 ・1940.9〜10月、イタリアは、エジプトやギリシャに侵攻するが撃退、劣勢。
  冬将軍が来る前に独ソ戦を終えようとしていたドイツの計画が狂う。
 ・1941.4月、ドイツ、電撃戦でバルカン半島を占領。(ユーゴスラビアでは、
  ティトー指導でパルチザン闘争(ゲリラ戦)により抵抗運動が拡大。)
 ・ハンガリー王国、ブルガリア王国、ルーマニア王国を枢軸国に加える。
 ・1941/6/22、ドイツの一方的奇襲攻撃により独ソ戦開始。
  (約300万の軍での対ソ侵攻作戦(バルバロッサ作戦))
688世界@名無史さん:2011/11/05(土) 01:26:55.07 0
(補足)
 ドイツが対ソ連開戦を決めた理由
  1.お互い信頼できない列強が国境を接すれば、開戦は時間の問題。
  2.ルーマニアの油田をソ連から守る。
  3.ソ連を倒せば、イギリスが講和してくると考えた。

(蛇足)
 ノモンハン事件(1939.5〜9月)(>>643)の最中、8/23独ソ不可侵条約。
 1941.4/13、日ソ中立条約締結(日独伊ソ4国同盟を夢想)の直後、
 6/22の独ソ戦開始。
 日本は、ドイツが信用できなくなったのか(?)6/30ドイツの対ソ参戦の
 要請を拒否。
689世界@名無史さん:2011/11/05(土) 01:44:32.59 0
大西洋憲章
 1941、ローズヴェルトとチャーチルの大西洋上会談で成立。戦後の
 国際協調の構想を呈示。
690世界@名無史さん:2011/11/05(土) 22:09:26.93 0
(1941年の世界)
 1941年、ドイツの快進撃に血迷ったか?日本。(太平洋戦争への道)

       〔米・英〕    〔独・伊〕     〔ソ連〕     〔日本〕     〔米〕
【1940】      
 5月 チャーチル内閣成立  独、オランダ・ベルギー侵入
 6月          6/10伊参戦、6/14パリ占領  
 7月           ヴィシー政権成立        大東亜共栄圏構想発表
 8月  
 9月 米・徴兵制実施     日独伊三国同盟   北部仏印進駐
10月   ロンドン大空襲   ギリシャ・イタリア戦争         大政翼賛会
11月   (9月〜1941.5)      │        タイ・仏印紛争(〜41.5)
12月.    :             │         
【1941】   :             ↓
 1月    :         リビアなどで伊の劣勢続く
 2月    :         独、伊支援開始
 3月 米・武器貸与法       ↓
 4月    :    3〜6月バルカン制圧      日ソ中立条約 / 日米交渉開始
 5月   ∨(英,屈服せず)    ↓        │    
 6月            ┌─←独ソ戦開始←─┘
 7月  英ソ軍事同盟←┘    ↓    7月.南部仏印進駐/米英、日本資産凍結
 8月 大西洋憲章  .       ↓       対日石油禁輸/夏頃.ABCDライン形成
 9月             レニングラード包囲・キエフ攻略
10月                モスクワに迫る        東条内閣成立
11月                                 11/26ハルノート提示
12月           独伊、対米宣戦布告←────────12/8.真珠湾奇襲
【1942年】                       1月.タイ参戦(枢軸国側)    │
                             2月.シンガポール占領.       │
    5月.英ソ相互援助条約                 4月 東京初空襲←─┤
              8月〜スターリングラードの戦い          6月.ミッドウエー海戦 
    11月.連合軍北アフリカ上陸 
691世界@名無史さん:2011/11/05(土) 22:33:01.23 0
大東亜共栄圏
 日本を盟主とする東アジアの軍事・政治・経済ブロック。互いに助け合う
 こととした構想。日本の侵略行為の正当化にもなる。
692世界@名無史さん:2011/11/05(土) 23:38:41.74 0
ABCD包囲網(ABCD包囲陣、ABCD経済包囲陣、ABCDラインともいう)

 1941年に東アジアに権益を持つ国々が日本に対して行った貿易の制限に
 当時の日本が付けた名称。(日本側独自の主張)
 「ABCD」とは、制限を行っていたアメリカ(America)、イギリス(Britain)、
 オランダ(Dutch)と、対戦国であった中華民国(China)の頭文字を並べた
 もの。
693世界@名無史さん:2011/11/06(日) 01:41:12.08 0
大東亜共栄圏=東アジア共同体
694世界@名無史さん:2011/11/06(日) 22:15:54.14 0
世界史に出てくる、日本の第2次世界大戦関連項目

 ・1941.12 真珠湾奇襲・マレー半島上陸
 ・半年で、ソロモン諸島〜ミャンマー占領
 ・1942.6 ミッドウェー海戦
 ・ガダルカナル島撤退
 ・1944 サイパン島、レイテ島喪失
 ・1945.2 マニラ喪失
 ・空襲で戦争遂行能力破壊
 ・1945.4 沖縄本島に米軍上陸
 ・1945.8 原爆投下/ソ連参戦/ポツダム宣言受諾

あまり詳しくやると日本史になってしまうので、項目列挙のみで。
(それに、この辺は、皆さんとても詳しいでしょうから)
695世界@名無史さん:2011/11/06(日) 22:30:56.38 0
スターリングラードの戦い(1942.11〜43.1)
 1942.9、スターリンの名を冠した都市攻略目的で、33万のドイツ軍市内突入。
     市街戦続くが制圧できず。
 1942.11、ソ連軍、ドイツ軍を包囲。味方の撤退要請をヒトラー拒否。
 1943.1、ドイツ軍壊滅(降伏で9万人が捕虜に)。
 独ソ戦の決定的転機となった。現在のヴォルゴグラード(1961より現名称)。
696世界@名無史さん:2011/11/06(日) 23:01:52.77 0
イタリアの降伏
 1943年7月、連合軍はシチリア島に上陸。ムッソリーニが失脚し、バドリオ
 政権成立。連合国に無条件降伏。
697世界@名無史さん:2011/11/07(月) 00:00:15.13 0
>>694

>  ・1944 サイパン島、レイテ島喪失

サイパン島はともかく、レイテ島はフィリピンの一部で、大海戦の舞台となっただけだから、「喪失」は不適当だろう。
698697:2011/11/07(月) 00:02:30.66 0
しかし調べたら、レイテ島は陸戦が行われてるから、
>大海戦の舞台となっただけ
の方が不適当かな。
699世界@名無史さん:2011/11/07(月) 20:04:38.25 0
レイテ戦記を読めばそんな事はいえないんだが>>697
無論、台湾沖航空戦の虚報に惑わされた陸軍がルソン決戦を捨てて
レイテに兵力注入したことは、知っているんだろうな?
700世界@名無史さん:2011/11/07(月) 20:06:18.71 0
ちなみに欧州戦でも、史学的には戦時においては「ドイツ軍は南方群の事実上の崩壊によりウクライナを完全に喪失した」とか書くんだが。
また左翼が暴れているのか
701世界@名無史さん:2011/11/07(月) 20:07:16.02 0
>>698さん、>>697はスルーでいい。この辺は非常にデリケートだから、軽く流す程度で。
単語の使い方でもケンカする人が多いから。
702世界@名無史さん:2011/11/07(月) 20:39:46.40 0
じゃさっそく
南方群⇒第六軍
703世界@名無史さん:2011/11/07(月) 23:29:30.28 0
>>697さん(698さん?)>>699さん>>701さん。
詳しいですね。
山川の教科書に、
 『太平洋戦域では,アメリカ軍が1944年中にサイパン島とフィリピンの
 レイテ島を,45年2月にはマニラも奪回し,・・・』
とあったのを載せただけで、特に深い意味はありません。

レイテ島が気になってきたので、ついでに調べてみました。

レイテ島
 ・面積7,368 km²(静岡県=7,780km²)、人口190万人。
 ・山がちだが土地は肥沃。木材・米・マニラ麻・トウモロコシの産地。
 ・1944.10/20 マッカーサー率いる米軍部隊、レイテ湾に上陸。
   ・・・フィリピン奪回の第一歩。12月下旬、米軍制圧。
 ・1944.10/23-25 レイテ島沖海戦(世界史上最大の海戦)
   ・・・日本海軍は総力戦を行うも敗北、艦隊戦力は事実上壊滅。

レイテ島の位置
http://www.shiki.gr.jp/sanbusaku/images/map_minami1944lh.gif
http://www.edita.jp/gospenetwork/image/ron@gospel/imgeff53adbddv5gg.png
704世界@名無史さん:2011/11/07(月) 23:34:35.29 0
http://www.shiki.gr.jp/sanbusaku/images/map_minami1944lh.gif

矢印はマッカーサーとニミッツの二本でいいんじゃねぃ
この図書いた奴戦史を全く分かってないな
705世界@名無史さん:2011/11/07(月) 23:38:21.90 0
>>700さん(702さん?)
スターリングラード戦のドイツ第6軍の崩壊のことでしょうか。

ところで、歴史に「たら・れば」は不要ですが、
もしヒトラーが独ソ戦をせず、日本やスターリンの構想どおり、日独伊ソ
四国同盟ができていたら、どうなっていたのでしょうね。
今頃こう呑気に2ちゃんなんか、できなかったかもしれませんね。
706世界@名無史さん:2011/11/07(月) 23:53:31.16 0
>>704さん
劇団四季のミュージカル"昭和の歴史三部作"の資料からです。
http://www.shiki.gr.jp/sanbusaku/map_minami.html
http://www.shiki.gr.jp/sanbusaku/
年表もあって便利かも。
707世界@名無史さん:2011/11/08(火) 00:02:13.48 0
カイロ宣言
 1943.11、日本問題について会議、宣言。
 ローズヴェルト、チャーチル、蒋介石による。

テヘラン会談
 1943.11、連合軍の北アフリカ上陸作戦協議。(「第二戦線」の構築。)
 ローズヴェルト、チャーチル、スターリンによる。
708世界@名無史さん:2011/11/08(火) 00:06:17.67 0
ヒトラーはウクライナを穀倉地帯として領有することを目標としていたし
スターリンも欧州(北欧と南欧)の領土を狙っていたから独ソ戦は必然
時間稼ぎにすぎないことに気付かなかった日本が間抜けなだけ

あと現在では否定されているが90年代に出版された本で
独ソ開戦時ドイツ南方軍集団が苦戦したのはスターリンがルーマニアの油田を
占領するために機械化軍を臨戦状態で配備していたという説には説得力があった

ドイツがノルウエーに侵攻したときチャーチルも保障占領と称して軍を派遣していたのと状況が似ているしね

それと700と702は別人
俺は702
709702:2011/11/08(火) 00:07:31.03 0
>706
そんなものは資料とは言わないよ
710世界@名無史さん:2011/11/08(火) 00:40:45.76 0
>>708さん
「なぜあのタイミングで独ソ戦?」と今頃、考えること自体、間抜け
なのでしょうね。

>>709さん
これは失礼しました。
711世界@名無史さん:2011/11/08(火) 00:42:19.94 0
チャーチル[1874〜1965]
 第二次世界大戦で、ドイツの猛攻に屈せず、イギリスを守り、
 連合軍の中心人物でもあったイギリス首相。

 (補足)
 ・1900、下院議員。1904、保守党から自由党に転じ、第一次大戦をはさんで
  商相・内相・海相・陸相・植民地相を歴任後、保守党に復帰。
 ・第二次大戦には首相(1940〜45)として強力な指導力を発揮して連合国を
  勝利に導く。
 ・戦後はソ連・東欧諸国に対する西欧の結束を訴え、特に「鉄のカーテン」
  演説は有名。(1951〜55再び首相に就任)
 ・著「第二次大戦回顧録」で1953年ノーベル文学賞を受賞。

 (蛇足)
 ・フランクリン・ルーズベルト、ダグラス・マッカーサーとは遠戚関係にある。
 ・2002年、BBCが行った「偉大な英国人」投票で第1位となった。
 ・強い意志と楽観主義、英雄主義(ハンニバル・カエサル・ナポレオンに憧れ)
 ・ユーモアに富み、昼寝が日課。トレードマークは葉巻。
712世界@名無史さん:2011/11/08(火) 00:57:05.07 0
第二戦線
 ・ソ連戦線(第一戦線)の緩和目的の、英米の本格的対ドイツ反攻作戦。
 ・1943、はじめに北アフリカ→イタリア上陸の作戦遂行するが、戦線は動かず。
 ・1944.6、ノルマンディー上陸作戦。(300万人が上陸)
 ・1944.8、連合軍パリに入り、ドゴールが臨時政府を組織。

 ノルマンディーの位置
 http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/002/615/95/1/francemap2.gif
713世界@名無史さん:2011/11/08(火) 01:25:37.92 0
アイゼンハウアー
 ノルマンディー上陸時の連合国軍最高司令官。
 戦後、米国大統領に。(第34代大統領、在任1953〜1961。共和党)

 ・参謀として、卓越した管理・統率能力を認められ、元帥まで昇進。
 ・政治にほとんど関心なし。温厚。説得され大統領に。
 ・大統領期間中は、高い支持率で人気保持。
 ・次のケネディと比べられ、「何もしない大統領だった」と批判されることも。
714世界@名無史さん:2011/11/08(火) 21:58:58.73 0
ヤルタ会談
 1945.2、ドイツ処理について会談、ソ連の対日参戦も決定。(ヤルタ協定)
 ローズヴェルト、チャーチル、スターリンによる。

 ヤルタは、ウクライナにあるクリミア半島南端のリゾート地。
715世界@名無史さん:2011/11/08(火) 22:32:42.62 0
ドイツの降伏
 ・攻勢に転じたソ連軍がドイツ領内に侵入、1945/5/2ベルリン陥落。
 ・1945/5/7 無条件降伏。
716世界@名無史さん:2011/11/08(火) 22:46:24.29 0
ポツダム宣言
 1945/7末 連合国が発した対日共同宣言(日本の降伏を求める)。
 トルーマン(ローズヴェルトが1945.4月急死)・チャーチル(途中からアトリー)、
 スターリンによる。

 (蛇足)
 同盟軍の首脳と違い、連合軍の首脳はよく集まって話し合いますね。
717世界@名無史さん:2011/11/08(火) 23:22:10.59 0
日本の降伏 (1945)
 ・8/6 広島に 8/9 長崎に 原爆投下
 ・8/9未明 ソ連の参戦
 ・8/14 ポツダム宣言受諾決定、終戦の詔勅
 ・8/15 ポツダム宣言の受諾と戦争の終結を国民に発表(玉音放送)
 ・ポツダム宣言受諾後も、ソ連や中国との間で戦闘が続く
 ・8/30 マッカーサー、厚木海軍飛行場に到着
 ・9/2 日本政府、米戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に調印
718世界@名無史さん:2011/11/08(火) 23:38:38.89 0
 (蛇足)
 原子爆弾
 ・ウランやプルトニウムなどの原子核が起こす核分裂反応によって爆発
  させる核兵器(核兵器には他に水素爆弾、中性子爆弾等あり。)

 ・1942からのマンハッタン計画で、米国が最初に開発に成功。
 ・1945.7/16、ニューメキシコで人類最初の原爆実験。
 ・1945.8月に、広島・長崎に原子爆弾が実戦で投下された。
  (広島市民34万のうち14万が死亡、長崎市民24万のうち7万が死亡。)

 ・その後、米ソを中心に、冷戦期に約2,000回の実験あり。
 ・改良も続けられ、戦略用の、大型原爆や強化原爆、戦術用の、大砲から
  発射できる核砲弾や核無反動砲といった小型のものも開発されている。
719世界@名無史さん:2011/11/08(火) 23:41:53.05 0
大阪府島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校で暴力やいじめを受け続けて、心も身体も
壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。
 誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
 僕をイジメた生徒や教師の名前をここで書きたいけど、
そんなことしたら殺されて、天王山に埋められるかもしれ
へん。それで誰にも発見されへんかったら、永久に行方不明のままや。

720世界@名無史さん:2011/11/09(水) 02:44:42.78 0
>>718
核分裂反応によって爆発させるというのは微妙に違う。核分裂反応は連鎖するので制御しないと爆発的に
反応が進み、巨大なエネルギーを発生する。そのエネルギーを爆弾として利用するのが原子爆弾。
制御棒で反応を制御して利用するのが原子炉。
721世界@名無史さん:2011/11/09(水) 19:11:47.53 0
>>710
大体>>708の言っていることで合っている<もしヒトラーが独ソ戦をせずのif's
二次大戦については、チャーチルの第二次世界大戦という文庫本を読めばいいと思う。
極東戦域なんて所詮おまけおまけ、彼ら米英仏ソは殆どが欧州問題、
ポーランド問題(ヤルタ会談の8割方がこの問題で費やされた)
バルカン取引(バルカンあたりの英ソ勢力圏の取り決め・ローズベルト抜き)

日本の処理(マジで処理だよ)は適当だよ、だから今もああなっている訳だ。
722世界@名無史さん:2011/11/09(水) 22:37:16.75 0
>>720さん関連コメントありがとう。
より正確に言うとすると
「原子核が起こす核分裂反応の連鎖(臨界)によって爆発させる核兵器」
という感じでしょうか。

>>721さんも関連コメントありがとう。
欧米人にとっては、1945.5月に世界大戦は終わっているのでしょうね。
ifと言えば、第二次大戦の架空戦記(IF戦記)がけっこう多いのは、
「もしもこうだったら・・・」と考えうる余地が大きいからでしょうか。
723世界@名無史さん:2011/11/09(水) 22:46:46.40 0
サンフランシスコ会議
 1945(4〜6月)、50ヶ国の代表(連合国)が集まる。
 ダンバートン・オークス会議で提起された国際連合憲章を採択し、
 国際連合設立を決定。
 第二次世界大戦の戦後処理と国際平和問題について討議。
724世界@名無史さん:2011/11/09(水) 23:26:44.47 0
国際連合
 ・国際連合憲章の下、1945年に設立された国際組織。(10/24正式に発足)
 ・主たる活動目的
  @国際平和の維持(安全保障)
  A経済や社会などに関する国際協力の実現

 ・本部、ニューヨーク。2011年7月現在の加盟国は、193か国
 ・前身は国際連盟であるが、法的な継続性はない。ただ、国際司法裁判所や
  国際労働機関 (ILO) 等の機関を連盟から引き継いでいる。
 ・組織図
  http://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/1/17/UN.PNG
725世界@名無史さん:2011/11/09(水) 23:46:26.26 0
>>722
いやそれだったらむしろ核分裂反応によって爆発させるで良いんだけど……。
例えば風船爆弾を説明するのに「水素の燃焼によって爆発する」と言ったら微妙に違和感が無い?
「水素が爆発する」で良いんじゃない?
726世界@名無史さん:2011/11/09(水) 23:57:38.30 0
752NGで
727世界@名無史さん:2011/11/09(水) 23:57:53.68 0
725だった>NG
728世界@名無史さん:2011/11/09(水) 23:59:05.11 0
そのまんま戦後行っちゃってください。
WW2関係はマジでマジのキチガイ多いから。
729世界@名無史さん:2011/11/10(木) 00:05:56.51 0
>>725さん関連コメントありがとう
正確に述べる、というのは難しいものですね。

そう言えば、>>718の8行目も、より正しくは、
 (広島(人口34万)で14万が死亡、長崎(人口24万)で7万が死亡。)
となります。(「・・・のうち」という表現が不正確。)
730世界@名無史さん:2011/11/10(木) 00:09:14.12 0
 (補足・・・国連の歴史)
 ・1948、第一次中東戦争で、事実上初の国連平和維持活動 (PKO)。
 ・1950、朝鮮戦争で「国連軍」派遣。(集団安全保障の機能麻痺)
 ・1956、第二次中東戦争で軍派遣(初の正式なPKO)
 ・1956、日本、国連に加盟。(イタリアは1955)
 ・1964、第1回国連貿易開発会議 (UNCTAD)。途上国グループ(G77)形成。
 ・1963〜、核軍縮への取組み(1968、核不拡散条約 (NPT)採択)
 ・1971、安保理の代表権が、中華民国から中華人民共和国へ。
 ・1973、東西ドイツの加盟。
 ・1980以降、イラン・イラク、アフガニスタン、ナミビア、アンゴラ、カンボジア、
  ソマリア、ボスニア、モザンビークなど各地にPKO派遣。
 ・2000、国連ミレニアム宣言。途上国の開発目標を定める。
 ・2007、第8代事務総長・潘基文(韓国出身)就任。
731世界@名無史さん:2011/11/10(木) 00:19:03.76 0
安全保障理事会
 国連の機構の中で、最有力の機関。国際紛争解決の権限を持つ。
 常任理事国、米・英・仏・ソ(現、露)・中の5ヶ国。
 常任理事国だけが、拒否権を持つ。
732世界@名無史さん:2011/11/10(木) 00:25:35.71 0
国連の専門機関
 ・国際連合教育科学文化機構(ユネスコ)・・・1972世界遺産条約採択。
 ・原子力委員会・・・安全保障理事会の一機関。IAEA(※)とは別。
 ・国際復興開発銀行(世界銀行)
              ・・・戦災国復興・後進国開発に長期資金供給
 ・国際通貨基金(IMF)・・・国際的為替安定を図る

(※)
 国際原子力機関(IAEA)
  ・・・1957創設。本部:ウィーン、事務局長:天野氏。
   国連と関係を有するが、専門機関としての連携協定を結んでいない
   国際組織である。
   (これを関連機関という。他には、世界貿易機関(WTO)等がある。) 
733世界@名無史さん:2011/11/10(木) 00:30:14.71 0
うわ、キチガイ扱いになっちゃった!!
じゃぁ、無視してください……。
734世界@名無史さん:2011/11/10(木) 21:30:50.04 0
もうそろそろ終わりに近づいてることだし、
まあ、仲良くやりましょう。
735世界@名無史さん:2011/11/10(木) 23:22:49.65 0
国際軍事裁判
 連合軍による、ナチスや日本の戦争犯罪人の裁判。
 ドイツ・・・ニュルンベルク裁判(1945.11/20〜1946.10/1)
 日本・・・東京裁判(極東国際軍事裁判)(1946.5/3〜1948.11/12)
736世界@名無史さん:2011/11/10(木) 23:33:09.75 0
パリ条約(パリ講和条約。1947.2/10締結)
 第二次世界大戦の平和条約のひとつ。
 旧枢軸国イタリア、ルーマニア、フィンランド、ブルガリア、ハンガリーの
 各国ごとに、連合国21ヶ国と結ばれた一連の条約。

 ・5国は、それぞれ軍備制限を受け、賠償金を課される。
 ・イタリアは海外植民地をすべて失い、フランスに領土の一部を割譲、
  トリエステを自由港とした。
 ・フィンランドはソビエト連邦に領土の一部を割譲。
 ・ハンガリーはチェコスロバキアなどに領土の一部を割譲。
737世界@名無史さん:2011/11/10(木) 23:44:08.47 0
では、ここで、問題です。

ドイツ・日本に対する、第二次世界大戦の平和条約(講和条約)は、
何というでしょうか。
738世界@名無史さん:2011/11/10(木) 23:55:15.30 0
(>>737の答え)
日本は簡単ですね。

サンフランシスコ講和条約(対日講和条約。1951.9/8)
 第二次大戦を終結させるため、日本と連合国との間で結ばれた条約。
 ソ連・ポーランド・チェコスロバキアの3ヶ国を除く連合国48ヶ国と、日本
 とにより調印。
 米国による信託統治、海外領土の放棄などを規定。
 主席全権委員・吉田茂が署名。
739世界@名無史さん:2011/11/11(金) 00:02:16.03 0
ドイツは難しいです。

答えは、こちらに・・・
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1039030735
740世界@名無史さん:2011/11/12(土) 21:46:35.60 0
アトリー内閣(1945〜51)
 チャーチルの後を受けた、労働党内閣。
 需要産業の国有化、社会保障の拡充を行う。
741世界@名無史さん:2011/11/12(土) 22:33:26.15 0
アイルランド共和国
 1937、エールの名で、英連邦の自治領に。
 1949、連邦を脱し、アイルランド共和国と改称。

 (補足)
 その後のアイルランド
  1970年代前半、北アイルランド紛争のピーク。IRAテロ活動に対決姿勢。
  1973、ECに加盟。
  1980年代、IRA停戦の動き。
      英・アイルランド政府間協定で政治的解決を模索。
  1990年代、経済成長。「ケルトの虎」と称される。
  1998、ベルファスト合意。同時に、国民投票により北アイルランド6州の
      領有権を放棄。
  2002、ユーロ開始時よりユーロ導入。
742世界@名無史さん:2011/11/12(土) 22:56:37.97 0
 (蛇足)
 アイルランド
  ・アイルランド島84,421km2(北海道より少し大きい)の5/6を占める。
  ・人口450万人。
  ・メキシコ湾流と、大西洋から吹く偏西風の影響で、気候温暖。
  ・首都ダブリン。住民はケルト系。カトリック教徒が多い。
  ・第1公用語はアイルランド語、第2公用語は英語だが、アイルランド語は
   日常会話ではあまり話されていないのが現状。
  ・移民を受け入れた米国に対しては非常に好意的であり、さらに旧宗主国
   が残した英語を駆使して、米国との取引が盛んなのが特徴。
   (アイルランド系アメリカ人の大統領=ケネディ、レーガン、クリントン。
    オバマ大統領も母方がアイルランド系。)
  ・著名な作家では、『ガリヴァー旅行記』のジョナサン・スウィフト、
   『サロメ』のオスカー・ワイルドなど。
  ・著名な音楽家では、U2、エンヤなど。

 エンヤ 11 曲メドレー(アイルランド音楽とアイルランド風景で、癒やされます)
 http://www.youtube.com/watch?v=Bj8lmHahsAk
743世界@名無史さん:2011/11/12(土) 23:31:41.95 0
>>740
アトリーとチャーチルがトイレで鉢合わせした。
チャーチルはこういった「おまえこのトイレも国有化するんじゃ無いだろうな?」
744世界@名無史さん:2011/11/13(日) 01:05:20.41 0
>>743さん関連コメントありがとう。

こんなのがありました↓
 世界の偉人・著名人たちによるウィットに富んだ「切り返し」32例
 http://news.livedoor.com/article/detail/5944836/

チャーチルの毒舌が4つ載っています。
745世界@名無史さん:2011/11/13(日) 01:21:19.82 0
ドゴール[1890〜1970]
 第2次大戦中、自由フランス政府を樹立。レジスタンスを指導。
 解放後、共和国臨時政府主席。その後、一時引退。
 1958、アルジェリア問題で国が危機に陥り再登場、大統領に就任。
 国民投票にかけ、第5共和国憲法を制定(大統領の権力増大)。
 1968の五月危機(五月革命)により、1969、退陣。

 派手な社交を嫌い、簡素な私生活を送る。保守的で古風。
 栄誉を讃えられ、名前を施設などに命名されている。
 (シャルル・ド・ゴール国際空港など)
746世界@名無史さん:2011/11/13(日) 01:34:31.36 0
ティトー(チトー)[1892〜1980]
 ・クロアチア生まれ。父はクロアチア人、母はスロベニア人。
 ・第二次大戦で、人民解放軍(パルチザン)を指揮してドイツ軍に抵抗。
 ・1945、ユーゴスラビア連邦人民共和国首相。
 ・1948、スターリンと断絶。(コミンフォルムから追放、東欧でチトー狩り)
    労働者の自主管理を中心とする独自の社会主義を樹立。
 ・1953、大統領に。
 ・1961、ベオグラードで、非同盟諸国首脳会議を開催。
    エジプトのナセル、インドのネルーらと会談。非同盟主義路線をとる。
 ・カリスマと宥和政策によって、ユーゴスラビアの連邦の維持に腐心。
747世界@名無史さん:2011/11/13(日) 01:46:05.29 0
さて、ついに、747まできました。
747といえば、ボーイング747・ジャンボジェット?
息抜きに、ボーイング社の歴史でも・・・

 1916、W・ボーイングらによりシアトルにて設立。
     第1号機は双フロートの水上機。第1次大戦で軍用機700機受注。
 1923、戦闘機、米陸軍・海軍より586機受注。
 1933、旅客機ボーイング247(乗客10名)を開発。
 1934、独占禁止法の適用。航空輸送部門は、ユナイテッド航空に。
 1936、爆撃機B-17開発。主力爆撃機として大量生産。
 1942、「超」大型爆撃機B-29初飛行。
 1945、B-29、広島・長崎に原爆投下。
 1947、B-47初飛行。 1952、B-52初飛行。
 1955、ボーイング初のジェット旅客機・ボーイング707をパンナムが発注。
    (レシプロ旅客機の2倍の速度で2倍の旅客数(150-200人))
    (長距離国際線用に使用され、一般人の海外旅行が容易に。)
 1963、中距離用のジェット旅客機ボーイング727を開発。
 1969、ボーイング747(ジャンボジェット、350-550人)初飛行。
    (大型輸送機として開発。1階全てが荷物空間(戦車でも入るように))
    (巨大で空席目立ち、思い切った値下げで一般人も気軽に乗れるように)
 その後、727の後継機としてのボーイング757開発。(初飛行、1982)
      ワイドボディ・双発・中型のボーイング767。(初飛行、1981)
      ワイドボディ・双発・大型のボーイング777。(初飛行、1994)
 1997、長年のライバルであるマクドネル・ダグラス社を吸収。
 2001、本社をシアトルからシカゴへ。
 2005、ボーイング 787 ドリームライナー開発開始。2009、初飛行。
 2011、ボーイング 787全日空引渡し、就航。
748世界@名無史さん:2011/11/13(日) 20:37:05.40 0
「あっちこっち行って、今、何をやってるのかな〜?」 
と思えてきたので、現在位置を確認。

【1945〜1975の世界】
 <1>戦後処理(国連、欧州、アジア)←─────────── いまここ
 <2>米ソ中心の東西陣営分裂、冷戦・代理戦争/西欧・日本の経済復興
 <3>アジア・アフリカの独立・第三世界の躍進/イスラエル問題
 <4>スターリン批判・東欧武力介入・中ソ対立・社会主義圏の経済停滞
 <5>ベトナム介入・米国経済の動揺・石油危機・世界経済の多極化・南北問題
749世界@名無史さん:2011/11/13(日) 20:45:00.43 0
マッカーサー[1880〜1964]
 大戦後の日本占領時の連合国最高司令官。
 マッカーサーの指示により、1947、憲法が改正。(日本国憲法)

(補足)
・太平洋戦争開戦時、米国極東軍司令官。
・のち、西南太平洋方面連合軍総司令官として対日反攻を指揮。
・戦後は日本占領連合軍最高司令官となり、民主化政策をとった。
 (1945/8〜1951/4 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)
 の総司令官として日本占領に当たる。)
・朝鮮戦争(1950.6〜)に際して強硬策を主張し、トルーマン大統領
 により解任(1951.4)。
750世界@名無史さん:2011/11/13(日) 20:56:45.97 0
(蛇足)
・1948年のアメリカ大統領選挙出馬を望んでいたが、共和党1位指名ならず。
 民主党トルーマンが大統領に。(トルーマンとは気が合わず。)
・1951.4/16東京国際空港から離日の際、沿道に20万の日本人が詰めかけた。
・4/19ワシントンで演説。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ
 (Old soldiers never die; they just fade away.)」
 当日ワシントンで50万人、翌日ニューヨークで700万人(アイゼンハワーの4倍)
 の祝福を受ける。
・1952年の大統領選出馬を画策するが、高齢のため支持えられず断念。

・マッカーサー家はイギリス貴族の血筋。(祖父がイギリス貴族の移民)
 F・ルーズベルト、チャーチルらとは遠戚関係にある。
 (ただし、F・ルーズベルトはマッカーサーを嫌っていた。)
・陸軍士官学校を史上抜群の成績で卒業。要職歴任。
・フィリピンで、日本軍を前に敵前逃亡。軍歴に汚点。自尊心に大きな傷。
・昭和天皇との会談(1945.9/27)で、勇気と誠実な態度に感動し、敬服。
・コーンパイプ(葉タバコ)をこよなく愛した。
751世界@名無史さん:2011/11/13(日) 21:06:39.33 0
朝鮮
 大戦終了とともに、独立。北緯38度線を境界として、
  北:朝鮮民主主義人民共和国(首相・国家主席=金日成(キム イルソン))
  南:大韓民国(初代大統領=李承晩(イ スンマン))
752世界@名無史さん:2011/11/13(日) 21:08:06.49 0
>749-750さん
日本人から見たマッカーサーの経歴はそんなものですが、
米国史においては印象深い初登場をしたように思われます。
以下、ウィキペディア丸写しですが、

 1932年に、退役軍人の団体が恩給前払いを求めてワシントンD.C.に居座った事件(ボーナスアーミー)で、陸軍による武力排除が行われた。
 これは、「退役軍人たちは、共産党の支援を受けてデモを起こしたのではないか」と疑念を抱いた政府が、マッカーサーの計画案を許可して行われたものである。
 マッカーサー自身も共産主義を徹底的に嫌っていた。
(以上)

上記記事の中での共産党云々のくだりは武力排除のための口実のように見えます。
753世界@名無史さん:2011/11/13(日) 21:37:53.49 0
>>752さん関連コメントありがとう。
ボーナスアーミー事件とは、1932世界恐慌まっただ中の大衆デモ
だそうですね。(今はウィキペディアがあって、ほんとに便利!)
マッカーサーは、1930年、50歳で最年少の参謀総長(陸軍大将格)になって、
首都の治安維持のため、やる気満々だったのでしょうか。

そういえばナポレオンも、市民の反乱を武力鎮圧してましたね。
754世界@名無史さん:2011/11/13(日) 21:50:41.42 0
銃口を向けられた退役軍人には、「マッカーサーは敵」という記憶が
残ってしまったのでしょうか。
それでマッカーサーは大統領になれなかった、とかですかね。
755世界@名無史さん:2011/11/13(日) 22:00:42.83 0
マレーシアとシンガポール
 マレー連邦が独立(1957)し、その後、北ボルネオなどを統合、
 マレーシアとなる(1963)。
 1965、シンガポール(華人が多い)が、マレーシアから独立。
756世界@名無史さん:2011/11/13(日) 22:09:42.16 0
ヴェトナム
 日本の敗北後、ハノイで独立宣言(ヴェトナム民主共和国)。
 初代大統領=ホー・チ・ミン。
 一方、南のサイゴンで、フランスに後押しされた、ヴェトナム国成立。
 首班=バオ・ダイ。
757世界@名無史さん:2011/11/13(日) 22:21:07.79 0
ジュネーヴ休戦協定(1954)
 インドシナ戦争(ヴェトナム民主共和国vsフランス)において、
 ディエンビエンフーの戦いでフランスの敗北が決定的に。
 この協定により、戦争が終結、北緯17度を軍事境界線とした。
758世界@名無史さん:2011/11/14(月) 13:19:01.86 0
>>756
南はそもそもチャンパという別の国だったんだけどなぁ
759世界@名無史さん:2011/11/14(月) 22:24:32.73 0
>>758さん関連コメントありがとう。
仏領で統一されたことで、ベトナムの支配地域が広がったということですかね。
オランダ領だったインドネシアにも言えることですね。

しかし東南アジアというところは、
カンボジアがタイ全域を支配したり(アンコール朝)
カンボジアがベトナム南部(サイゴン含む)まで進出してきたり(18c)
紆余曲折が激しいですね。
ポーランドの国境移動どころの騒ぎではありませんね。
760世界@名無史さん:2011/11/14(月) 22:34:21.43 0
>>759
だから今でもカンプチア(古くてごめんね)とシャムはたびたび国境線でごたごたしている訳です
761世界@名無史さん:2011/11/14(月) 22:48:48.95 0
>>760さん
ASEANも一枚岩じゃないんですね。
762世界@名無史さん:2011/11/14(月) 22:51:35.86 0
ガンディー[1869〜1948]
 1947、英領インドが自治領として独立。宗教上の理由で、インド連邦と
 パキスタンに分裂。この宗教上の対立を和解すべく努力したが、暗殺。

 (補足)
 インド独立運動の指導者。
 ロンドンに学び、南アフリカで人種差別反対運動を指導したのち帰国。
 国民会議派を率いて民族解放・独立のためのスワラジ(自主独立)・
 スワデシ(国産品愛用)(>>457)、非暴力・不服従運動を展開。
 ヒンズー・イスラム両教徒の融和に献身したが、狂信的ヒンズー教徒に
 暗殺された。
 マハトマ(偉大な魂)の名でよばれた。
763世界@名無史さん:2011/11/14(月) 22:59:43.52 0
ネルー(ネール) [1889〜1964]
 インド共和国の初代首相。

 (補足)
 インドの政治家。インディラ・ガンジーの父。
 マハトマ・ガンジーとともに反英独立運動に参加。
 1947年インド独立後は初代首相となる。在任1947〜1964年。
 中国の周恩来と「平和五原則」の共同声明を掲げ、また、アジアアフリカ
 会議を開催するなど、非同盟主義外交政策を展開。

 インドの伝統と文化を重視したガンディーと、西欧的合理精神に基づいて
 急進的な反英闘争を主張したネルーは、しばしば対立。
 一方で、ガンディーはネルーの指導力を高く評価していた。
764オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/14(月) 23:15:30.12 0
>>763
>インドの伝統と文化を重視したガンディー
ガンディーは結構理想主義的すぎるところがあるんだよね。彼はインドの伝統や文化を、
重視しすぎるあまり、しばしば西欧文明を批判しまくってた。鉄道や弁護士などといった、
西欧文明を象徴するものをことごとく否定してたし、ヒンドゥー教の伝統的な身分制度の、
ヴァルナ(カーストの基になったやつ)による区別を肯定してたりもしてる。かなり極端な、
インド・ナショナリストという感じ。ヴァルナに対するガンディーの考え方は最下層である、
不可触民のアンベードカルなどから批判されてたりもしてて、ガンディーも昔に比べると、
手放しに賞賛だけされてる訳でもないらしい。現在のインドでの評価はそんな感じみたい。
まぁインド独立の父でありその功績は認められるけど理想家すぎて政治家には向かない。
765世界@名無史さん:2011/11/14(月) 23:20:59.50 0
ジンナー[1876〜1948]
 パキスタン独立時の全インド・ムスリム連盟(>>458)の中心的指導者。

 (補足) 
 パキスタンの政治家。全インド・ムスリム連盟の指導者となり、英国の
 分割統治に対応して、ヒンズー教との分離、イスラム国家パキスタンの
 建国に尽力した。「建国の父」とよばれる。
 パキスタン自治領の成立とともに初代総督に就任(1947〜48)。
  (1947〜イギリス国王を元首に戴く英連邦王国。
  1956〜イギリス王冠から独立、大統領制に。)
766世界@名無史さん:2011/11/14(月) 23:29:42.12 0
>>764オツガイさん、ひさしぶりの関連コメントありがとう。
ガンディーも詳しいんですね。

みんな、オツガイさんの関連コメントを期待して待っているようなので、
今後も(といってももうすぐ終わりですが)また関連コメントのほう、
どうぞよろしく。
767世界@名無史さん:2011/11/14(月) 23:37:23.11 0
セイロン
 インド連邦、パキスタンとともに、1948、独立。
 1972、スリランカと改称。

 (補足)
  スリランカとは、シンハラ語で、「聖なる、光輝く(島)」という意味。
  人口約2000万、75%がシンハラ人。20%タミル人(南インドからの移住)。
  1983〜2009、両者間に紛争(スリランカ内戦)。

 (蛇足)
 紅茶の歴史
  もともとは中国産。(茶の葉・芽を乾燥後、完全発酵する。)
  1823、インドのアッサム地方でアッサム種(別種)が発見され、
  インドやセイロンでも栽培されるようになる。

 世界の三大紅茶・・・セイロンのウバ、中国のキーマン、インド西ベンガルのダージリン
768世界@名無史さん:2011/11/15(火) 23:27:34.62 0
パレスチナ 
 西アジアの地中海沿岸地方。一般にヨルダン川以西をさす。
 第1次大戦以降の、アラブ人とユダヤ人の係争地。

 (補足・・・パレスチナ史略)
 古くはカナーンとよばれた。
 前12世紀ごろペリシテ人が定着。(名の由来)
 オスマン帝国の支配を経て、
 第1次大戦後、英国の委任統治領に。
 シオニズム運動(>>611)により移住したユダヤ人により、
 1948、イスラエル共和国建国。
 その後、アラブ人との間で紛争が続く。
 1993、PLOとイスラエルとの間で暫定自治協定が調印。
 1996、ヨルダン川西岸とガザ地区から成る暫定自治政府が発足。
 2006、人口389万。
769世界@名無史さん:2011/11/15(火) 23:41:59.86 0
第1次中東戦争
 1948〜49 イスラエルの建国を認めないアラブ諸国とイスラエルとの戦争。

 (補足・・・第1次中東戦争の経緯)
 ・大戦間、嘆きの壁事件(1929)など散発的衝突(パレスチナvsユダヤ)多発。
 ・大戦終結後、ユダヤ人国家建設に前向きでないイギリスに対し、ユダヤ人の
  武力闘争活発化。
 ・1947.1、イギリスは手に負えなくなり、国際連合に統治を依頼。
 ・1947.11、米ソ主導で、国連のパレスチナ分割案を決議。アラブ大反発。
 ・決議の翌日より、パレスチナは内戦状態に。英軍対処できず、1948.5撤退。
 ・1948.5/14、イスラエル国独立宣言。同日、レバノン、シリア、トランスヨルダン、
  イラク、エジプトのアラブ連盟5ヶ国が、戦争を宣言。第1次中東戦争の勃発。
 ・6/11、国連の停戦よびかけ。4週間休戦。この間、イスラエル軍が軍備強化。
 ・7/9、イスラエル反攻開始。攻勢に。
 ・1949.1より停戦交渉開始。2月〜7月に各国と停戦協定。
  パレスチナ地域をイスラエル(大部分)、エジプト、ヨルダンで分割獲得。
770世界@名無史さん:2011/11/16(水) 00:00:15.84 0
エジプト革命
 1952、自由将校団が国王を追放し、共和制樹立。
 中心人物は、ナギブとナセル。

 (補足)
 ナギブ[1901〜1984]
  ・スーダン生まれ。
  ・1952、ナセルとともに革命に成功し、国王ファルーク1世を追放して
   首相になる。
  ・1953、エジプト共和国初代大統領となったが、翌年失脚。

 ナセル[1918〜1970]
  ・1952、ナギブとともにエジプト革命を指導し、王制を打破。
  ・1956、第2代大統領に就任。
  ・ネルーらと非同盟主義外交を推進。
  ・1956、スエズ運河の国有化。→第2次中東戦争(スエズ戦争)へ。
  ・1958、シリアとの連合でアラブ連合共和国の成立を実現(1961解体)。
  ・その後、国内の社会主義的再建に努力。
  ・1967、第3次中東戦争で惨敗。権威喪失。1970、急死。
771世界@名無史さん:2011/11/17(木) 00:05:26.18 0
冷戦
 第2次大戦後の直接的な軍事衝突によらない、米ソの対立。

 (補足)冷戦《 cold war 》とは・・・
  武力は用いないが、激しく対立・抗争する国際的な緊張状態。
  第2次大戦後の米・ソ2大陣営の厳しい対立を表した語。
772世界@名無史さん:2011/11/17(木) 00:18:55.92 0
冷戦年表
 (★=緊張度)
1945    東欧の旧枢軸国にソ連赤軍駐留・衛星国化
1946    チャーチル「鉄のカーテン」演説
1947★   トルーマンドクトリン(冷戦開始)/マーシャルプラン/コミンフォルム結成
1948★★ チェコ政変/西ヨーロッパ連合成立/ベルリン封鎖
1949★★ NATO成立/ドイツ分裂(東西ドイツ成立)/コメコン結成
1950★★★朝鮮戦争
1951★★
1952★
1953★   板門店休戦協定/スターリン死
1954    パリ協定
1955    ジュネーヴ4巨頭会談/西独NATO加盟/ワルシャワ条約機構
1956    スターリン批判/コミンフォルム解散/「雪どけ」/ハンガリー事件
1957★   スプートニックショック
1958★
1959★   キューバ革命/フルシチョフ訪米
1960★
1961★★ ベルリンの壁構築/米キューバ断交
1962★★★キューバ危機
1963   米ソホットライン設置/部分的核実験停止条約→デタント(緊張緩和)
 :
1989   マルタ島にてブッシュ(父)、ゴルバチョフが冷戦終結の共同宣言。
773世界@名無史さん:2011/11/17(木) 00:30:30.85 0
鉄のカーテン
 冷戦の境界。バルト海のシュテッティン〜アドリア海トリエステ。
 チャーチルが命名。
774世界@名無史さん:2011/11/17(木) 01:09:28.19 0
トルーマン・ドクトリン(1947.3月)
 ソ連勢力の拡大防止のため、トルコ、ギリシャへの援助を行おうとする
 大統領声明。(封じ込め政策)
775世界@名無史さん:2011/11/17(木) 01:18:35.92 0
マーシャルプラン(1947.6月)
 第2次大戦後の米国によるヨーロッパの経済復興のための援助計画。
 (ヨーロッパ諸国の経済的困窮が、共産党拡大の原因とみた。)

 (蛇足)
 ジョージ・C・マーシャル[1880〜1959]
 ・第2次大戦中、陸軍参謀総長。ヨーロッパ侵攻作戦の作戦計画を指導。
  終戦間際、日本本土侵攻やソ連参戦の必要性を唱える。
 ・1947〜49、国務長官。対中政策に絶大な影響。
 ・1953、マーシャル・プランの立案・実行により、ノーベル平和賞受賞。

 マーシャルといえば・・・
 ・アルフレッド・マーシャル(イギリスの新古典派経済学者。1842-1924。
  著書『経済学原理』(経済学の教科書))
 ・マーシャル諸島(ミクロネシアの一部。戦前、日本の信託統治領。)
 もマーシャルですね。

 マーシャルアーツ(ベニー・ユキーデ)、なんてのもありましたねw
 http://www.youtube.com/watch?v=BHk_y_y9wsM&feature=related
 (↑格闘技が好きな人限定)
776世界@名無史さん:2011/11/17(木) 23:30:13.94 0
コミュンフォルム(共産党情報局)
 1947、ソ連を中心に東欧9ヶ国の共産党が結成。
 1948、ユーゴスラヴィア(代表:ティトー)を除名。
 1956、解散。

 (補足)
  ・ヨーロッパ9か国の共産党または労働者党
   ・・・ソビエト連邦、ルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、ポーランド、
     チェコスロバキア、ユーゴスラビア、フランス、イタリア
  ・大戦前のコミンテルンの後身に相当
777世界@名無史さん:2011/11/18(金) 00:14:12.62 0
コメコン(東欧経済相互援助会議)
 1949、ソ連と東欧諸国の間で結ばれた経済協力機構。

 (補足)
 ・「経済相互援助会議」が正式で、COMECONは西側での通称。
 ・米国のマーシャルプランに対抗。1949結成。
 ・当初加盟国(6ヶ国)
   ・・・ソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア。
 ・ひと月遅れで加盟・・・アルバニア
 ・1950、東ドイツ、1962、モンゴル、1972、キューバ、1978、北ベトナム加盟。
 ・1962、アルバニア脱退。最終的な加盟国=10ヶ国。
 ・1989からの東欧革命、冷戦の終結に伴い、1991.6月解散。
778世界@名無史さん:2011/11/18(金) 00:45:55.87 0
西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)
 チェコスロヴァキア政変(1948、クーデターにより共産主義政権樹立)
 に対抗して、英・仏・ベネルクス3国が締結。
779世界@名無史さん:2011/11/18(金) 02:08:22.44 0
冷戦時のオーストリアの立ち位置はきわめて微妙でしたねえ
780世界@名無史さん:2011/11/18(金) 23:36:06.84 0
>>779さん関連コメントありがとう

ナチスドイツに併合され、戦後も敗戦国並みに4分割されて、
オーストリアは、ドイツに対して憤慨しているんですかね。
それとも自分たちも敗戦国だと考えているんですかね。

『第2次大戦後、独立までのオーストリアの歴史を5〜10行で論述せよ』
なんて問題の解答、どなたか作ってみてもらえませんか?
781世界@名無史さん:2011/11/18(金) 23:50:59.35 0
ベルリン封鎖
 西側管理地区の通貨改革を契機に、1948から1年継続。

 (補足)
 1945.5 ドイツ無条件降伏。ソ連が先にベルリン進駐。
     英米仏のベルリン進駐に非協力的。東西ベルリンの実質2分割状態。
 1945.7 ポツダム会談を最後に、米ソ間相互不信。
 1947.6 マーシャルプラン発表。
 1948になると、西側3ヶ国とソ連とでことごとく対立。
    4/1 ソ連、西ベルリンへの検問強行。物資搬入制限。
    6/20 西側通貨改革。
    6/24 西ベルリンへの陸路の完全封鎖を実施。鉄道・運河・電力供給
        停止。(西側の、西ベルリン支配の放棄を狙う。)
    6/26 ベルリン大空輸の開始。
       (ソ連、空路「ベルリン回廊」を封鎖できず。全面対決は避けた。)
    9月、空輸量1日4,500 tを超え、西ベルリン市民(200万人)を支える最低
       水準を満たす。
    12/7 突貫工事でテーゲル新空港完成。(現在のベルリン最大の空港)
 1949.4/16 1日のフライト回数1,398回、空輸量12,940 t(作戦全期間中最大)
    5/12 ソ連、封鎖の失敗を認め、封鎖解除。
    9/30 空輸作戦の公式的終了。ベルリン市民に米英との連帯感高まる。
        総飛行回数は約28万回、空輸物資量は約230万t。
        2008年物価換算で約20億ドルの費用。期間中、事故で101人死亡。
 (その前後に・・・)
 1949.5/23 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)建国
    10/7 ドイツ民主共和国(東ドイツ)建国
 1961.8月 ベルリンの壁を建設
782世界@名無史さん:2011/11/19(土) 00:04:26.32 0
北大西洋条約機構(NATO)
 1949、米英仏伊を中心に12ヶ国で結成。集団安全保障の軍事機構。
 その後、ギリシア、トルコ、西ドイツ、スペインも加入。

  僕(49)の納豆、と覚えました・・・
783世界@名無史さん:2011/11/19(土) 00:11:04.31 0
(補足・・・NATO)
冷戦終了後、東欧諸国が加わり、28か国で構成される(2011年3月現在)。
最高機関は加盟国代表からなる理事会で、その下に北大西洋軍(欧州連合軍)
を置く。本部はブリュッセル。

1949 米英仏伊・ベネルクス3国・カナダ・アイスランド・デンマーク・ノルウェー・
   ポルトガル(原加盟国12)
1952 ギリシャ・トルコ
1955 西ドイツ(90年に東西ドイツ統一)
1982 スペイン
1999 チェコ・ハンガリー・ポーランド
2004 エストニア・ラトビア・リトアニア・ルーマニア・ブルガリア・スロバキア・
   スロベニア
2009 アルバニア・クロアチア
784世界@名無史さん:2011/11/19(土) 00:20:14.62 0
アデナウアー
 1949、分割占領が終わり、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)成立。
 キリスト教民主同盟を指導して首相となる。

 (蛇足)
 ボン
 ライン川沿い、ケルンの南約20 kmにある都市。
 統一以前の1949年から1990年まで西ドイツの首都(暫定首都)。
 人口約31万人。ドイツで、19番目に大きい都市。

 西ドイツの首都はなぜボンなのでしょうか?
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1422864654
785世界@名無史さん:2011/11/19(土) 20:12:34.84 0
パリ協定
 1954、ブリュッセル条約(>>778)締結5ヶ国は、西独と伊を加え、西ヨーロッパ
 同盟(西欧同盟)を結成。これにより、西独のNATO加盟と再軍備が実現。

 (蛇足)
 西欧同盟はその後、1990にスペインとポルトガル、1995にギリシャ加盟により、
 10の加盟国、6の準加盟国、5のオブザーバ国、7の協力パートナー国で構成。
 2000年以降、欧州連合への移管が進み、2010条約効力が停止。(廃止)
786世界@名無史さん:2011/11/19(土) 22:34:42.23 0
中華人民共和国の建国
 1949、10月、北京で新しい共和国の樹立を宣言。
 国家主席、毛沢東(>>638-639)。首相、周恩来。
787世界@名無史さん:2011/11/19(土) 23:07:38.32 0
中ソ友好同盟相互援助条約
 1950.2月、中国とソ連との間に結ばれた軍事同盟。
 中国では、ソ連の援助の下で、工業化・農業の共同化が進む。
 (第1次5ヶ年計画)
788世界@名無史さん:2011/11/19(土) 23:30:08.29 0
朝鮮戦争
 1950、6月、北緯38度線付近で勃発。
 北朝鮮軍の南進に対し、米国は、国連軍を出動。
 中国国境近くまで押し戻したが、中国が義勇軍を派遣(人海戦術)。
 1951、7月、板門店で朝鮮休戦会談。
 日本経済は米軍物資調達需要(特需)により回復へ。
789世界@名無史さん:2011/11/20(日) 00:28:25.57 0
(↑日付が不明瞭なので、訂正します。ついでに補足。)

 ・1951.7月から開城において休戦会談→交渉難航
 ・1953.7/27、板門店で北朝鮮、中国軍両軍と国連軍の間で休戦協定締結。
      (現在も停戦中)
 ・北朝鮮の死者は250万人、韓国市民100万人、韓国軍人5万人、
  米国人5万4000人、中国軍人100万人。
 ・南北朝鮮の合計死者数が355万人は、太平洋戦争での日本人死亡者221万人を
  はるかにうわまっている。
 ・アメリカ軍人の死者も、ベトナム戦争の時より1万人も多い。

 世界では何で死ぬのか
 http://www.osoushiki-plaza.com/institut/dw/199608.html
790世界@名無史さん:2011/11/20(日) 00:51:51.09 0
日米安全保障条約(旧安保条約)
 1951(昭和26)9月、サンフランシスコ講和条約(>>738)調印と同時に日米間で
 締結された条約。日本の安全を保障するため、米軍の日本駐留などを定めた。

(補足)
日米安全保障条約(新安保条約)
 1960(S35)新条約に改定され、軍事行動に関して両国の事前協議・
 相互協力義務などが新たに加えられた。
 また、日米地位協定(施設や地域を提供する細目)も同時に締結された。
 期限は10年で、それ以後は通告後1年で廃棄できる。
 1970から自動延長され、以後も破棄されず、現在も効力を有している。

 2010.1/19、オバマ米大統領は、日米安保条約改定の署名50年にあたり、
 日米同盟を基盤として両国の世界規模での協力の必要性を強調する声明を
 発表。
791世界@名無史さん:2011/11/20(日) 12:26:49.21 0
ANZUS(太平洋安全保障条約)
 1951.9月(日米安保と同じ月)、アメリカが、オーストラリア、ニュージーランドと締結。

 (補足)
 ・締結の理由
  アメリカ・・・太平洋地域においても影響力を持って、アジアの共産主義の拡大に
        対抗する道をとる必要に迫られた。
  オーストラリア・ニュージーランド・・・第二次世界大戦後にイギリスの軍事的な
        影響力が低下したため、同じ価値観の資本主義国であるアメリカの
        軍事的な傘の元に入ることを望んだ。
        (オーストラリアは、日本を仮想敵国としてこの条約に期待)
 ・ニュージーランドの非核化進展
   1985、オーストラリアとともに南太平洋非核地帯条約(ラロトンガ条約)に加盟。
   核兵器搭載艦艇の寄港を拒否。
    →アメリカは、ニュージーランドの防衛義務を停止
    (オーストラリアは、自国内でのイギリスの核爆弾実験を許可している。)
 ・このため、現在では事実上、ほぼ米豪間のみの同盟条約となっている。

 (蛇足)
 先日、ANZUS60周年友好記念でオバマ大統領が訪豪していましたね。
 米海兵隊2,500名のオーストラリア・ダーウィン常駐発表、だそうで。
 ニュージーランドは素通りですかね?
792世界@名無史さん:2011/11/20(日) 12:59:39.02 0
日ソ共同宣言
 1956、鳩山首相とソ連のブルガーニン首相が取り決め。日ソの国交回復。
 これにより、日本の国連加盟が実現。
793世界@名無史さん:2011/11/20(日) 13:37:03.53 0
SEATO(東南アジア条約機構)
 1954、米主導、英仏とともに、フィリピン、タイ、パキスタンなど8ヶ国で締結。
794世界@名無史さん:2011/11/20(日) 13:49:07.44 0
METO(中東条約機構)(バグダード条約機構)
 1955、英、パキスタン、イラン、トルコ、イラクで締結(対ソ包囲網)。
 1958、イラク革命でイラクが脱退したため、CENTO(中央条約機構)と改称。
795世界@名無史さん:2011/11/20(日) 14:27:17.18 0
ワルシャワ条約(東ヨーロッパ相互援助条約)機構
 1955、ソ連を中心とする東欧8ヶ国が結成した相互安全保障機構(軍事機構)。
 NATO結成と西ドイツの再軍備に対抗。

(補足)
 1955、ワルシャワ条約・・・ソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ハンガリー、
     ルーマニア、ブルガリア、アルバニア加盟
 1956、東ドイツ加盟
 1968.8月 ワルシャワ条約機構軍、チェコスロヴァキア侵攻・占領(チェコ事件)
      直後に、アルバニア脱退(中ソ対立の関係で1962より活動に不参加)
 1989、冷戦終結に伴って東欧革命が始まる。
 1990、東ドイツ、西ドイツに併合。
 1991.3月、軍事機構を廃止、7/1、正式解散、12月末、ソ連崩壊。
796世界@名無史さん:2011/11/20(日) 23:01:03.17 0
>>780の解答案、作ってみました。いかがでしょうか・・・

 『第2次大戦後、独立までのオーストリアの歴史を5〜10行で論述せよ』

 1945.4月ソ連軍によりウィーン陥落。ソ連軍の承認を受けたレンナーが臨時政府を樹立。
ドイツからの独立宣言(第2共和政)。英米仏ソによる分割占領、冷戦の影響を受け、
数年をかけた交渉の末、1955.5月、占領4カ国とのオーストリア国家条約を締結し、
完全な独立を回復。同年10月、永世中立を宣言。
 東西分断されたドイツと違い、民主国家として統一独立できた理由としては、
(1)レンナーはソ連の傀儡でないことに気づき、西側に安心感、別の政権を立てず
(2)1954.4月(ジュネーブ会議)〜1955.7月(ジュネーブ首脳会談)の一時的緊張緩和
(3)ワルシャワ条約機構を設立し、ハンガリー・ルーマニアに軍隊駐留できたこと(軍事的関心の低下)
(4)この時期までに、オーストリア国内の工場施設等の大半をソ連に移転(経済的な関心の低下)
(5)地政学的重要度の違い(統一ドイツはあまりにも巨大で、勢力均衡が不安定化する)
797世界@名無史さん:2011/11/21(月) 23:08:46.79 0
平和五原則
 チベット問題に関して、ネルー(>>763)と周恩来との間で取り交わされた原則。

 (補足)
 1954、インド首相・ネールと中国首相・周恩来との共同声明の中にもられた
 両国の国交の五つの原則。
 @相互の領土と主権の尊重、A相互不可侵、B内政不干渉、C平等互恵、
 D平和的共存からなる。
798世界@名無史さん:2011/11/21(月) 23:21:06.44 0
アジア・アフリカ会議(バンドン会議)
 1955、アジア・アフリカの29ヶ国の首脳がインドネシア・バンドンに参集し、
 平和十原則などを採択した。

 (蛇足)
 ・初の非白人国家だけによる国際会議。我が日本も、参加しました!

 ・第三勢力(米・ソいずれの陣営にも組せず、中立を主張する国際勢力)の結集
  として、その精神は非同盟諸国首脳会議(第1回1961.9月開催)に引継がれた。

 ・2005.4月、バンドン会議50周年を記念する首脳会議が開催。
  参加国はかつての29ヶ国から106ヶ国に増加。(ラテンアメリカからも参加)

 ・バンドンは、ジャカルタから東南に約200km。西ジャワ州の州都。人口250万。
799世界@名無史さん:2011/11/21(月) 23:37:07.32 0
スエズ運河国有化
 ナセル(>>770)により、1956宣言。アスワンハイダム建設の財源確保のため。
 英仏の怒りを買い、第2次中東戦争(スエズ戦争)を招く。

 (補足)
 アスワンハイダム
  ナイル川の氾濫防止・灌漑用水として、アスワンダム(1901完成)が力不足
  だったため、その6.4km上流に建設。
  1970年完成。高さ111m。全長3,600m。発電、210万kW。
  せき止めで、ナセル湖(長さ550km、面積5,250 km²。最大貯水量157km³。)が
  でき、農業用水は安定、砂漠の緑化をもたらす。湖は富栄養化により漁業も盛ん。
  今では、周辺の遺跡とともに、観光地となっている。

アスワンハイダム
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/AswanHighDam_Egypt.jpg
ナセル湖
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/44/Lake_Nasser_Vista.jpg
800世界@名無史さん:2011/11/21(月) 23:41:51.14 0
 (蛇足)
 各地のダム・湖・発電所比較
  黒部ダム(黒四ダム/富山県) 1963年完成。高さ186m(現在も日本一)。
   全長492m。黒部湖、総貯水容量、0.2km³。発電、33.5万kW。

  三峡ダム(中国長江中流域) 2009年完成。高さ185m。全長2,309m。
   総貯水容量、39.3km³。発電、1,820万kW(世界最大)。
   (柏崎刈羽原発7基の合計出力、821万kW(原発で世界最大)現在運転中2基)

  琵琶湖 670.33 km² (滋賀県=4,017.36km²)
  ヴォルタ湖(ガーナ。世界最大の人造湖) 8,482 km²
  ガトゥン湖(パナマ運河の人造湖。完成当時世界最大) 431 km²
  丹沢湖 2.18 km²
801世界@名無史さん:2011/11/22(火) 00:35:51.41 0
>>799
アスワンハイダムと世界遺産の関係にも触れて欲しかった。
802世界@名無史さん:2011/11/22(火) 22:44:05.92 0
>>801さん、関連コメントありがとう。
↓こんな感じでいいですか?

(付録)
アブ・シンベル神殿
 ・エジプト南部、スーダンとの国境近くにあるヌビア遺跡のうちの一つ(目玉)。
 ・建造主は新王国時代第19王朝の王、ラムセス2世。(紀元前1314頃〜前1224年)
  長い年月の内に砂に埋もれる。
 ・1813、一部発見。1817、発掘。
 ・1960年代のアスワンハイダム建設計画で水没の危機。
 ・ユネスコによる国際的な救済活動で、1964〜68に、60m上方の丘に移築。
  現在は、ナセル湖のほとりにたたずんでいる。
 ・この移設工事がきっかけで、世界遺産が創設された。
  1972、ユネスコ・パリ本部の総会で、世界遺産条約が成立。
  1979、ヌビア遺跡群も世界遺産(文化遺産)に登録。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/28/Abu_Simbel%2C_Ramesses_Temple%2C_front%2C_Egypt%2C_Oct_2004.jpg
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Abu_Simbel,_both_temples,_Egypt,_Oct_2004.jpg

東武ワールドスクエアにもありましたね。
803世界@名無史さん:2011/11/22(火) 23:00:04.21 0
第2次中東戦争(スエズ戦争)
 1956、スエズ運河国有化宣言に対し、イスラエルがエジプトに侵入。
 英仏も出兵。

 (経緯)
 1956.
  7/26、ナセル大統領、スエズ運河国有化。
     英国首相イーデン、憤慨し、数ヶ月エジプトと交渉、一方で軍事行動を構想。
     イスラエルを前面に出し、英仏でスエズ運河駐留をめざす。
  10/29、イスラエル、シナイ半島に侵攻開始。重装備で優位に。
  11/5、英軍、シナイ半島へ侵攻。スエズ運河急襲。エジプト降伏目前。
     ここで米国(アイゼンハワー)とソ連(ブルガーニン)が即時全面撤退を通告。
  11/6、英仏が停戦受諾。11/8、イスラエルも受諾。停戦。
 1957.
  1月、ナセル、国内の英仏銀行の国有化を宣言、欧州勢力一掃。
  3/16、米国の非難を受け、イスラエルは占領地域から撤退開始。
  4月、スエズ運河再開。
   英仏と正面から戦ったエジプトは、アラブ世界で賞賛、発言力確固たるものに。

 (参考)
  1956.10/23ハンガリー・ブダペストでデモ、10/25ソ連軍発砲(ハンガリー動乱)。
  その直後の英仏イスラエルのエジプト侵攻で、ソ連の暴挙が霞んでしまう。
804世界@名無史さん:2011/11/22(火) 23:25:19.20 0
>>802
宜しいかと思います。
805世界@名無史さん:2011/11/22(火) 23:45:50.21 0
マグレブ地方の独立
 ・リビア 第2次大戦の伊敗戦で英仏共同統治→1949国連決議→1951独立。
 ・チュニジア 1956、仏より。
 ・モロッコ 1956、仏より。
 ・アルジェリア 1962、仏、ドゴール(>>745)政府より独立承認。
         中心組織はFLN(民族解放戦線)。

(補足)
 マグレブ
 《アラビア語で西の意》アフリカ北西部のモロッコ・アルジェリア・チュニジア
 の地域の称。リビアを含むこともある。かつてはスペインも含めてよばれた。
806世界@名無史さん:2011/11/23(水) 00:09:32.20 0
サハラ砂漠以南の独立
 ・スーダン 1956、英より。
 ・ガーナ 1957。初代大統領、エンクルマ。
 ・1960、一挙に17の新興独立国。「アフリカの年」
 ・コンゴ 1960。独立直後、動乱発生、ベルギー軍・国連軍介入。
 ・モザンビーク、1975。ローデシア白人政権から、人民共和国として独立。
 ・アンゴラ、1975。ポルトガルより。

アフリカ諸国の独立年(色別)
http://www.hm.h555.net/~azeta/09tiri_b/30/africa-2.jpg

アフリカ諸国の独立
(「番号をクリックすると国名と解説が下に出てきます。」そうです。)
http://www.yk.rim.or.jp/~kimihira/map/africa_dokuritu.html#

世界史ノート 山川出版社『詳説世界史』に準拠した穴埋め式ノート
(中段あたりにアフリカの地図)
http://www.y-history.net/wh_note/note_1603.html

 ↑今は、こんな便利なサイトがあるんですね・・・
807世界@名無史さん:2011/11/23(水) 18:47:38.80 0
非同盟諸国首脳会議
 1961、第1回。ティトー(>>746)が中心となり開催。アジア・アフリカ・ラテン
 アメリカの25ヶ国首脳が参集。

 (補足)
 ・非同盟運動(Non-Aligned Movement(NAM))(東西陣営に参加していない
  諸国による国際組織)には、            ・ ・
  ほぼ3〜5年間隔で開催されている非同盟諸国首脳会議の他、
          ・ ・
  非同盟諸国外相会議、常設の非同盟諸国常任委員会などがある。
 ・2009年時点
  参加国=118
  オブザーバー参加国=16(中国・ブラジル・メキシコ・カザフスタンなど)
  オブザーバー参加組織=8(アフリカ連合、アラブ連盟など)
 ・最近では、第15回(2009年7月)がエジプトのシャルム・エル・シェイクで開催。
                       ・ ・
 ・2011.5月には、第16回非同盟諸国外相会議がインドネシア・バリ島で開催。
808世界@名無史さん:2011/11/23(水) 20:51:42.16 0
UNCTAD(国際連合貿易開発会議)
 1964、国連の経済援助に関する会議。1960年代以降の南北問題(南北の
 経済格差問題)を解決するため。
809世界@名無史さん:2011/11/23(水) 21:15:20.38 0
OAU(アフリカ統一機構)
 1963、アジスアベバ会議で結成。アフリカの地域協力をめざす。
 2002、アフリカ連合へ発展改組。

 (補足)
 アフリカ連合/African Union(AU)
 ・アフリカの国家統合体。 本部、エチオピアのアディスアベバ。
 ・アフリカ統一機構 (OAU) が、2002年に発展改組して発足した。
 ・OAUとの違いは、「内政不干渉原則」→相互監視のための「平和安全
  保障委員会」の創設、という点。(戦争防止・平和維持軍の派遣。)

 ・加盟国は54ヶ国。モロッコを除くアフリカ全独立国家が加盟。
  (モロッコは西サハラ加入に反対し1985年にOAUを脱退した。) 
 ・欧州連合(EU)をモデルとした地域統合が目標。政治機構に類似点あり。

 ・将来的には統一した国家へ発展させ、アフリカ合衆国を創ることも視野に。
  もし統一国家が成立すれば、面積はロシアより大きく世界第1位、
  人口は中華人民共和国とインドに次ぐ第3位という、超巨大国家となる。
810世界@名無史さん:2011/11/23(水) 21:27:30.14 0
朴正煕(パクチョンヒ)
 大韓民国で1961軍事クーデタを指導、1963、大統領に就任。
 1965、日韓基本条約を締結。
 1979、暗殺。
811世界@名無史さん:2011/11/23(水) 21:37:36.91 0
スカルノ
 インドネシア独立運動の指導者。1949独立後、初代大統領。
 共産国への接近がたたり、1965、九・三〇事件(インドネシア・クーデタ)で失脚。
 その後、軟禁状態、1970に死去。
 この事件後、スハルト(右派軍人)が第2代大統領になる。(1968〜98)

 (蛇足)
 現在のインドネシア大統領
  第6代 スシロ・バンバン・ユドヨノ 2004〜任期2014まで

 デヴィ夫人
  スカルノ元大統領第3夫人。1962結婚。旧名:根本 七保子(ねもと なおこ)。
  (詳しいことは、Wikiを参照してください。)
812世界@名無史さん:2011/11/23(水) 21:53:09.87 0
マルコス
 1965、フィリピン大統領に。戒厳令を布告、強圧政治。
 1986、政変でハワイに亡命。
813世界@名無史さん:2011/11/23(水) 21:57:54.99 0
アキノ(コラソン・アキノ)〔1933-2009〕
 1983(S58)、亡命先からマルコス独裁打倒のため帰国した夫が暗殺。
 1986、野党統一候補に推され、政権樹立。
  (エドゥサ革命、またはピープル・パワー革命とよばれる。)
 フィリピン第11代大統領。(在.1986-1992)
 現在のフィリピン第15代大統領ベニグノ・アキノ3世(在.2010-)の母。
814世界@名無史さん:2011/11/23(水) 22:02:45.19 0
ASEAN(東南アジア諸国連合)
 東南アジア10ヶ国の経済・社会・政治・安全保障・文化での地域協力機構。

 1967、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイで結成
 1984、ブルネイ加盟
 1995、ヴェトナム加盟(反共政治同盟から東南アジアの地域共同体へと変質)
 1997、ミャンマー、ラオス加盟
 1999、カンボジア加盟(内政事情で加盟遅れ)
815世界@名無史さん:2011/11/24(木) 14:10:43.29 0
>>810
あんな島など爆破して海に沈めてしまえと言った方だったような。
816世界@名無史さん:2011/11/24(木) 14:10:44.00 0
面倒くさいでしょうができれば18世紀からの縦の各国史をやっていただくと助かります。
よろしくお願いします。
近代は本当にごちゃごちゃしてて何が何だか・・・
817世界@名無史さん:2011/11/24(木) 14:13:17.35 0
>>816
とりあえず、本屋で詳説世界史研究という不分厚い本を買ってくるんだ。
http://www.amazon.co.jp/dp/4634030276/
読んでいるとは思うけどね
818世界@名無史さん:2011/11/24(木) 21:36:29.96 0
>>810さん関連コメントありがとう。
 ・竹島をめぐる領有権問題について「両国友好のためにあんな島など沈めて
  しまえ」と発言・・・
 ・「日本の朝鮮統治もそう悪かったと思わない。・・・むしろ評価している。」
今、韓国の大統領が言ったら、大変なことになりそうで。

>>816さん>>817さん関連コメントありがとう。
最後まで行ったあとで、各国近現代史もやるかもしれません。
ただ、もう800を超えてしまっているので、スペースが残っているかどうか・・・
819世界@名無史さん:2011/11/24(木) 22:38:56.56 0
 >>818の、「>>810さん」というのは、「>>815さん」の間違いでした。
 すみません。では、次いきます。

スターリン批判
 1956.2月、ソ連共産党第20回大会で、ソ連共産党第一書記のフルシチョフが発表。
 スターリン執政期における秘密の一部(個人崇拝、独裁政治、粛清の事実)が暴露
 され、個人崇拝が批判される。

 (影響)
 ・スターリン(>>603-604)神話が崩壊。
 ・秘密警察(KGB)が国民を監視するという恐怖支配の構図は、無変化。
  (ソ連崩壊まで変わらず。)
 ・ハンガリー動乱が起きたが、ソ連軍が出動し、最終的に鎮圧。
 ・平和共存(デタント)を、北京の毛沢東指導部は「修正主義」と批判し、以降
  中ソ関係は急速に悪化。
820世界@名無史さん:2011/11/24(木) 22:50:09.24 0
フルシチョフ
 ソ連共産党第一書記。スターリン批判を行い、世界に衝撃をもたらす。激情家。

 (補足)
 1953.3月、スターリン死後、権力を固める。首相マレンコフを辞任させ、腹心の
     ブルガーニンを首相に充てる。
 1956、ソ連共産党第20回大会で、スターリン批判を行う。
     この大会で、米ソ平和共存路線がうちだされた。
 1956、コミンフォルム(>>776)も解散。
 1957、ブルガーニンを辞任させ、首相を兼任。
 1959、訪米。(キャンプ・デーヴィッドでアイゼンハワー(>>713)とトップ会談)
 1960、キューバ危機。
 1961、ケネディとウィーンで会談。ベルリンの処遇について対立し、その後の
     「ベルリンの壁」の構築につながる。
 1964.10月、解任。(集団指導体制を無視、同志に対する叱責や暴言で)
821世界@名無史さん:2011/11/24(木) 23:14:01.76 0
ポズナニ(ポズナン)暴動
 1956.6/28、工場の賃金未払批判デモが暴徒化。軍投入で鎮圧、死傷者は
 100名超。
 一時はソ連による軍事介入が懸念されたが、すんでのところで回避。
 ポーランド政府とソ連の間に確執(プラハの春の介入まで距離を生む)。
 同年10月の隣国・ハンガリー動乱に大きな影響。
 
 (補足)
 ゴムウカ(ゴムルカ)(1905-82)
 ・第2次大戦期、レジスタンス運動(パルチザン)に従事、指導。
 ・1943、ポーランド労働党書記長。1945、共産体制を樹立。
 ・1948、右翼民族的な思想であると批判され、影響力が低下、書記長解任。
 ・1949、党から除名、1951逮捕・投獄。
 ・1953のスターリンの死後、1954.12月釈放。
 ・1956.6 ポズナン暴動で党に復帰、第一書記(トップ)に。
  ワルシャワ条約機構の影響下の中、これの保持に尽力する一方、
  自主的な路線で政策を推進。スターリン主義的な風潮を解消。
 ・1970、広がる東欧革命の中で権力喪失。第一書記辞任。
822世界@名無史さん:2011/11/24(木) 23:22:56.01 0
ハンガリー事件(ハンガリー動乱)(1956.10/23)
 スターリン批判後、民主化を求める市民革命(大規模な反スターリン暴動)発生。
 ソ連が軍事介入し、ナジ・イムレが処刑。死者、17,000人。20万人が難民に。

 (当時の世界>>803
823世界@名無史さん:2011/11/24(木) 23:32:40.08 0
ベルリンの壁
 東ベルリンから西ベルリンへ脱出する者が増えたため、阻止するため東ドイツが
 ベルリン市内に壁を構築。

 (経緯)
 毎年数万から数十万人の東ドイツ国民がベルリン経由で西ドイツに大量流出。
 特に自営農民や技術者の流出は東ドイツ経済に打撃。
  ↓
 1961.8/13、建設。冷戦の象徴、分断時代のドイツの象徴に。総延長155km。
  2つの壁が数10〜100m幅で作られ、間は無人地帯になっていた。
  壁を越えようとすると逮捕か、射殺。逮捕者3000人超、死亡者192名。
 1989.11/9、検問所ゲート開放。11/10、破壊。
 1990.10/3、東西ドイツ統一
 今では一部が記念碑的に残されている以外には現存しない。
824世界@名無史さん:2011/11/26(土) 00:15:40.27 0
OAS(米州機構)《 Organization of American States 》

 米州諸国による地域的国際協力機構。
 1948年に採択したボゴタ憲章に基づくもので、1951年発足。
 南北アメリカの共同防衛、地域安全保障のほか、
 文化・社会・経済的協力などを目的とする。事務局はワシントン。

 当初は、米国主導の反共主義同盟の色合いが濃く、米国による中南米支配の
 道具と言われた。
 1962、キューバ除名。
 2005、事務総長に、米国が推さぬチリのミゲル・インスルサ元内務大臣が就任。
 2009、総会で、1962キューバ追放の決議無効決定。キューバは復帰拒否。
 同年、ホンジュラスの軍事クーデターを非難、構成国資格停止。
 2010、ニカラグアとコスタリカ間の紛争仲介。
825世界@名無史さん:2011/11/26(土) 00:31:28.56 0
キューバ
  中央アメリカ、西インド諸島中最大の島であるキューバ島
  (105,007km²(参考:北海道本島=77,984km²))および
  その属島を占める共和国。首都ハバナ。人口1148万(2010)。
  砂糖・タバコを産出。
  ルンバ・ハバネラなどの民族音楽・舞踊が盛ん。

 〔キューバの近現代史〕
  ・1492、コロンブス、キューバ島に到着
  ・1511、スペインの植民地に
  ・1898、米西戦争(>>378)。のち米軍政下を経て1902年独立。
  ・1959、カストロ、首相に就任、革命政権成立(キューバ革命)。
  ・1961、アメリカと国交断絶、社会主義革命宣言
  ・1962、キューバ危機
  ・1963、カストロのモスクワ訪問、1965共産党結成
  ・1975、第一回共産党大会、アンゴラ派兵本格化
  ・1983、アメリカのグレナダ侵攻に抗議して派兵
  ・1994、米・キューバ移民協議(難民問題)
  ・1999〜2001、アメリカの経済制裁の一部緩和
  ・2005、ライス長官、キューバを打倒すべき独裁政権と認定
  ・2008、フィデル・カストロ引退。後任ラウル・カストロ(フィデルの弟)。
  ・2011、部分的に市場経済導入
826世界@名無史さん:2011/11/26(土) 00:37:31.61 0
フィデル・カストロ[1926〜 ]
 1956、バティスタ独裁政権に対するゲリラ活動を開始。
 1959、ゲリラ戦によってバティスタ政権を倒し、首相に就任。新政権を樹立して
     農業改革・企業国有化などを推進(キューバ革命)。61年に社会主義宣言。
     米国の介入に対抗して、社会主義国家の建設を指導。
 2008、高齢を理由に、国家元首である国家評議会議長職と軍最高司令官を退任。
827世界@名無史さん:2011/11/26(土) 00:39:41.76 0
チェ・ゲバラ[1928〜1967]
  ラテンアメリカの革命家。アルゼンチン生まれ。
  キューバ革命に参加し、カストロ政権の要職を歴任。
  その後ボリビアの革命運動に加わり、政府軍に殺された。
  チェ(Che)は愛称。
828世界@名無史さん:2011/11/26(土) 00:51:06.60 0
キューバ危機
 1962、ソ連ミサイルのキューバ持込に端を発した、米ソの国際的対立。

 (補足)
 1962年10月15日から13日間に渡って米ソ間の冷戦の緊張が核戦争寸前まで
 達した危機的な状況。

 10/14 U-2偵察機、キューバ国内にソ連製ミサイル発見。
      キューバ周辺の海上封鎖、ソ連船の入港阻止。
 10/22 ケネディ大統領、米国民にテレビ発表、ソ連非難。
      全面戦争に備え、核弾頭ミサイル発射準備態勢。
 10/27 ソ連、妥協案(トルコ配備ミサイルの撤去条件)提示。呑めず。
      U-2偵察機がソ連軍地対空ミサイルに撃墜。誰もが第三次世界大戦の
      勃発を現実のものとして受け入れた。
 10/28 フルシチョフ、ミサイル撤去受入。(カストロは激怒)

 この事件を教訓とし、首脳同士が直接対話するためのホットラインが両国間に
 引かれた。
 冷戦後、次のことが判明。
  ・ソ連は核ミサイルを9月中に42基(核弾頭は150発)キューバに配備済み。
   (ワシントンも射程圏内。グアンタナモ米軍基地への核攻撃も準備済み。)
  ・兵士の数は米側の見積もりの数千名ではなく、4万名。
 もしフルシチョフの譲歩がなく、ミサイル基地を空爆していたら、残りの数十基の
 ミサイルが発射され、世界は第三次世界大戦に突入していた可能性が高い。
829世界@名無史さん:2011/11/26(土) 01:01:54.56 0
ケネディ(ジョン・F・ケネディ)(JFK)
 民主党出身の米大統領。キューバ危機以降、米ソ共存政策を展開。
 立候補時、「ニューフロンティア政策」を掲げる。
 1963、11/22 ダラスで暗殺。

 (補足)
 ・20世紀生まれの最初の大統領。
 ・カトリック教徒としても初。
 ・アイルランド系としても初。

 ・宇宙開発競争の先頭に立つことを熱望し、アポロ計画を推進。
  (1969、ニクソン政権下で、アポロ11号が月へ到着)

 ・マリリン・モンローと不倫関係。

 ・ジャクリーン夫人は、1968にギリシアの海運王オナシス氏と再婚。
  恋愛のない結婚で、旅行と買い物に浪費(その浪費癖はケネディ
  大統領を激昂させたことあり)。
  1975オナシス氏、死去。1994、ジャクリーン死去。
830世界@名無史さん:2011/11/26(土) 19:24:33.38 0
パグウォッシュ会議(第1回 1957.7月)
 科学者が軍縮・平和問題を討議する国際会議(バートランド・ラッセルら)。
 核兵器禁止を主張。以後も世界各地で年1、2回開催。

 パグウォッシュは、カナダのノバスコシア州にある小都市。
 パトラッシュは、フランダースの犬。
831世界@名無史さん:2011/11/26(土) 20:57:08.35 0
大気圏内外水中核実験停止条約(部分的核実験禁止(停止)条約)
 1963.8月、米英ソ間での、地下実験を除いた核実験を禁止した条約。
 地下での核実験は除外。

(Partial Test Ban Treaty(PTBT)。正式名=Treaty Banning Nuclear Weapon
Test in the Atmosphere, in outer Space and under Water)
832世界@名無史さん:2011/11/26(土) 22:41:13.73 0
核拡散防止条約(Nuclear Non-Proliferation Treaty(NPT))
 核兵器を保有できる国を米・ソ(ロ)・英・仏・中の5か国に限定し、
 非核保有国が核兵器を新たに保有することや、
 保有国が非保有国に核兵器を供与することを禁止する条約。
 核兵器製造禁止義務の遵守を検証するため、国際原子力機関(IAEA)
 (>>732)による保障措置(核査察)の受け入れが義務づけられる。
 1968年に署名され、1970年発効。日本の批准は1976年6月。

 現在の締結国は190ヶ国(2008)。
 インド、パキスタン、イスラエルが未加盟。北朝鮮は1993年脱退。
833世界@名無史さん:2011/11/26(土) 22:53:45.42 0
(補足)
核兵器数(平成21年(2009)外務省)
     ICBM  SLBM その他  合計
アメリカ   550  1152  1000   2702
ロシア   1355   576  2903  4834
中国     ―    12  174   186
フランス   ―   240   60   300
イギリス   ―   185   ―   185

ICBM  intercontinental ballistic missile
     大陸間弾道ミサイル。射程6400km以上。
SLBM submarine-launched ballistic missile
     潜水艦発射弾道ミサイル。原潜に搭載、水中から発射。
834世界@名無史さん:2011/11/26(土) 23:03:09.90 0
米ソ間の核兵器制限・削減交渉

 ・SALT(戦略兵器制限交渉)(Strategic Arms Limitation Talks)
   核兵器の現状を凍結する協定。
   第1次(SALT1)=1972調印。第2次(SALT2)=1979調印。

 ・START(戦略兵器削減交渉)(STrategic Arms Reduction Treaty)
   SALT1、SALT2を引き継ぎ、米ソ両国が次々と核兵器削減の提案。
   第1次(START1)=1991調印。第4次(New START)=2010調印。
835世界@名無史さん:2011/11/27(日) 16:04:19.46 0
>>817
これ教科書と一緒で各国史ごとじゃないんですよね。
本当に各国ごとのが見たいです・・・・・
それで比較や同時代の出来事や縦の関係性を学習したいです。
836オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/27(日) 16:12:47.29 0
いっそのこと各国史スレを立ててそこでやれば良いんじゃないかな。
僕は規制中だから新スレ立てられないんだけど。
837世界@名無史さん:2011/11/27(日) 17:38:07.67 0
>>835さん>>836オツガイさん、関連コメントありがとう。
『横と縦の関係性』とか『近現代史の学習方法』は、それだけで
ひとつのスレになりそうですね。
このスレも現代史に入って、縦と横が入り乱れ、ゴチャゴチャ・・・。
(分かりにくくて、すみません)
今日は、冷戦下の中国に飛ぶ予定です。

新スレとは『今から各国史覚える』みたいな感じですか?
それとも個別スレですか?『今からイギリス史覚える』なんて
(もしかしたら)需要あるかもしれませんね。
838世界@名無史さん:2011/11/27(日) 18:00:03.07 0

839オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/27(日) 20:42:36.38 0
>>837
>新スレとは『今から各国史覚える』みたいな感じですか?
>それとも個別スレですか?『今からイギリス史覚える』なんて
そこら辺は好きにすれば良いと思うよ。僕としては個別スレ立てるとスレの数が、
とてつもなく多くなるから「今から各国史覚える」みたいな感じのほうが良いと思うけど。
840世界@名無史さん:2011/11/27(日) 20:57:57.55 0
>>839オツガイさん
『今から各国史覚える』ですか。
新スレが立って発展していくこと、大いに期待しています。

では、これから今日の分、ということで。
841世界@名無史さん:2011/11/27(日) 21:00:31.79 0
冷戦下の中国(1950頃〜1970頃)
 ・1949 建国
 ・1950 チベット侵攻、中印紛争、中ソ友好同盟(>>787
 ・1950-53、朝鮮戦争
 ・1953〜 第1次5ヶ年計画
 ・1954、周ネルー会談(>>797
 ・1958〜 第2次5ヶ年計画(通称「大躍進」)
      工業生産増大(農村で製鉄)・農業集団化(人民公社)
 ・1958〜の3年間、大災害(1000〜2000万人の餓死者)
   →劉少奇、国家主席に。ケ小平(総書記)「調整政策」で自由化
 ・1959、チベット反乱、中印国境紛争(1959と1962)
 ・1959〜、中ソ技術協定破棄、ソ連の技術者引揚げ、中ソ論争の開始
 ・1966〜 プロレタリア文化大革命(毛沢東・林彪により劉少奇失脚)
 ・1969、中ソ国境紛争
 ・1971、国連代表権変更
 ・1971、林彪失脚、ケ小平が復権
 ・1972、ニクソン訪中
 ・1976、周・毛死去。華国鋒、党主席に。ケ小平「改革開放路線」
842世界@名無史さん:2011/11/27(日) 21:01:27.71 0
>>835
うーん、では各国の教科書を取り寄せることをオススメする
ただし、語学力が要る
843世界@名無史さん:2011/11/27(日) 21:12:37.70 0
↑簡単に言うと、
毛沢東が強い時代(〜1959、1966〜76)は、国がおかしくなって、
ケ小平が指導(1959〜1966、1971〜)すると、普通の国になる
ということでしょうか。
844世界@名無史さん:2011/11/27(日) 21:21:57.56 0
>>842さん、アドバイスありがとう。
>>843は、>>841に向けたものです。

ところで「大阪W選 大阪維新の会・橋下氏と松井氏当確」だそうで。
大阪は、どこへ行くのでしょうか・・・
名古屋や横浜や神戸も、分割ですかね・・・
845世界@名無史さん:2011/11/27(日) 21:25:19.41 0
周恩来[1898〜1976]
 ・日本に留学後、天津で五・四運動(>>618)に参加。
 ・のち、パリ留学中に中国共産党フランス支部を組織。
 ・第二次大戦中は国共合作・抗日統一戦線結成に活躍。
 ・中華人民共和国成立後、死去するまで一貫して国務院総理(首相)
  として敏腕を振るう。

 ・毛沢東に忠実で、信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかった。
  毛沢東とは「皇帝に従属する宰相」というスタンスを生涯貫き通す。
 ・1970年代に実現したアメリカ・日本との国交正常化の最大の功績者。
846世界@名無史さん:2011/11/27(日) 21:33:42.51 0
人民公社
 ・1958からの工業生産の増大をはかる運動(「大躍進」という)の一環。
 ・農業生産合作社と地方行政機関を一体化して結成された、地区組織の
  基礎単位。(村を単位とする農業集団化組織)
 ・農業の集団化を中心に、政治・経済・文化・軍事などのすべてを包括する
  機能をもった。
 ・1982、憲法改正による政社分離の原則に従い、解体。
847世界@名無史さん:2011/11/27(日) 21:42:18.29 0
劉少奇[1898〜1969]
 ・モスクワ留学後、1921中国共産党入党、労働運動を主に革命運動を指導。
 ・中華人民共和国成立後、国家副主席。1959、国家主席に。
 ・文化大革命で批判されて失脚、党籍剥奪された。
 ・1980、名誉回復。
848世界@名無史さん:2011/11/27(日) 21:55:15.64 0
チベット
  ・中国南西部の自治区。
  ・主都はラサ(ラ=「神・仏」、サ=「土地」)(人口37万)。
  ・ヒマラヤ山脈の北、崑崙(こんろん)山脈の南にある高原地帯で、
   羊・ヤギ・ヤクなどの牧畜が盛ん。
  ・住民の多くはチベット族。
  ・唐代に最初の統一王国が成立、吐蕃(とばん)と呼ばれた。
  ・チベット仏教が行われ、17世紀半ばからダライ・ラマ(※)による政教
   一致の支配が行われた。
  ・18世紀に清の宗主権下に置かれ、第二次大戦まで中国の保護国。
   また英国の支配を受けた。
  ・1951年中国解放軍が入り、1965年自治区が成立。
  ・中国のチベット支配にともなって各種問題が発生(チベット問題)、
   2008には、チベット全土で反中国デモ発生。(チベット騒乱(死者203人))
  ・1988〜92、胡錦濤、自治区党委書記就任。
  ・1989、亡命中のダライラマ14世(1940即位、59亡命)ノーベル平和賞受賞

 〔チベット領域〕
 http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/0/0b/Historic_Tibet_Map.png

 (※)ダライ・ラマ
  ・チベット仏教ゲルク派(黄帽派)の教主の尊称。
  ・歴代教主の法名がギャムツォ(大海の意。モンゴル語で「ダライ」)で終わり、
   「ラマ」はチベット語で師の意。(つまり「大海先生」?)
  ・転生者が代々その地位を相続し、観音菩薩の化身とされて絶対的信仰を
   集める。
  ・1642年、ダライ・ラマ政権樹立後は、チベットの聖・俗両権を掌握。
849世界@名無史さん:2011/11/27(日) 22:16:49.71 0
>>843
そういう感じでいいけど、実際はこう。
社会主義の革命思想で政治を行う→現実は甘くない→社会主義統制経済を緩める→それは社会主義の堕落である
堕落は粛正によって是正されるべきだ→反動政治(社会主義体制に回帰)→最初に戻る。

基本的にベトナムでもそうだったけど、共産国は、粛正堕落の繰り返しですよ。
大躍進(社会主義的理屈では正しいが人間の心理が不在)では飯が食えず餓死者多数
それを収拾して一部自由経済を採用する→毛沢東が怒る→造反有理の文化大革命(しかし大半の国民は冷淡)
毛沢東死去→反動で現実路線へ、で今の中国は、そういう流れを繰り返し、
今またその矛盾(社会主義体制における自由主義、内陸部の貧困化等々)に対して頭を痛めている訳です。

ま、中国が共産国とか誰も思っちゃいませんけどね<基本的に王朝ですよ、システム的には
850世界@名無史さん:2011/11/27(日) 22:49:03.77 0
>>849さん関連コメントありがとう。
理想と現実を行き来している、ということですかね。
今でも(特に貧しい層(=負け組み)から)毛沢東とその時代は
懐かしがられているそうですね。
851世界@名無史さん:2011/11/27(日) 22:53:18.74 0
文化大革命(「文革」。正式名=プロレタリア文化大革命)
 ・1966以降、文芸作品批判から始まり、劉少奇ほか有力幹部の失脚にも
  及んだ権力闘争。闘争の中核となったのが、学生主体の紅衛兵。
 ・推進者、毛沢東、林彪(りんぴょう)(1971毛沢東と対立、逃亡時墜落死)

 ・多くの知識人が投獄・殺害され、文闘は武闘に発展、一般にも多くの死者を
  出してその後の中国社会に深刻な傷を残した。
  (中国共産党の会議で、「文革時の死者40万人、被害者1億人」と推計)
 ・紅衛兵らは旧思想・旧文化の破棄をスローガンとし、寺院・文化財など多数破壊。

 ・1980年代以降「重大な歴史的誤り」として全面否定。
852世界@名無史さん:2011/11/28(月) 23:10:41.28 0
中ソ国境紛争
 中ソ対立が深まり(1963公開論争)、1969に国境で軍事衝突。

(補記)
・1956、スターリン批判以降、ソ連と中国の関係悪化(ソ連の平和共存路線を批判)。
・1960年代末、国境線(4,380km)に、65万人のソ連軍と81万人の中国軍が対峙。
・1969.3/2、ウスリー川の中州・ダマンスキー島(珍宝島)で、警備兵同士の衝突。
 ソ連、死者31人を出し、中国国境に砲撃、ダマンスキー島に部隊を突入。
 ソ連側死傷者80人、中国側に死者800人の(ソ連側)記録。
・7/8、中ソ両軍が黒竜江(アムール川)の八岔島(ゴルジンスキー島)で武力衝突。
・8月、ウイグルで衝突。両軍は最悪の事態に備え核兵器使用の準備を開始。
・1969.9月、コスイギン首相、周恩来首相と会談、政治解決で軍事的緊張は緩和。
 国境問題は先延ばしされ、両国とも国境の兵力配置を継続。

・中ソ関係が決定的に悪化し、アメリカに急接近を図る。→1972、ニクソン訪中。
・なお、この武力衝突は文化大革命の最中における毛沢東一派の外国に対する
 強硬政策の一つと言われるが、同時に、近世以来のロシアにおける「南下政策」
 の一つであるとも言われる。

(その後)
・1991.5/16、中ソ国境協定(中露東部国境協定)締結、極東の大部分の国境が画定。
 (このとき、衝突のあったダマンスキー島(珍宝島)が中国に帰属合意。)
・ソ連崩壊(1991)後、ロシア連邦が交渉引継。
・1994、中央アジア部分に関する中露国境協定(中露西部国境協定)締結。
 →西部中露国境未確定部分54kmが画定し中央アジア部分の国境問題は全て解決。
・プーチンと胡錦濤による政治決着で、2004.10/14、最終的な中露国境協定が締結。
 ・・・未確定地域(総面積:375km²、大ウスリー島など3島)をほぼ折半
・2008.7/21、中露外相、東部国境画定に関する議定書に署名、中露国境は全て画定。
853世界@名無史さん:2011/11/28(月) 23:43:22.93 0
中国と日・米
 ・1972、ニクソン訪中。
 ・1979、カーター政権下で、米中国交正常化。

 ・田中角栄内閣(1972-74)のとき、日中国交正常化へ。
 ・1978、日中平和友好条約を締結。

 (蛇足)
 1972、上野動物園にジャイアントパンダ「ランラン」と「カンカン」来園。
854世界@名無史さん:2011/11/29(火) 00:14:36.60 0
江青[1914〜1991]
 毛沢東の4番目の夫人。
 毛沢東の死後、文化大革命の推進派として、力を振るった四人組の一人。

 ・1930年代に上海の新劇界で女優として活躍。
 ・のち中国共産党に入り、39年に延安で毛沢東と(不倫の末)結婚。
 ・66年から文化大革命を推進したが、毛沢東死(1976.9/9)の直後(10/6)、
  クーデターを企図した「四人組」の一人として逮捕され失脚。
 ・91年、自殺。

 革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥。
 死後も、「悪女」として名を馳せたが、近年の中国内では、毛沢東を主役にした
 ドラマなどでは賢女にされたり、一部では「名誉回復」されている。
855世界@名無史さん:2011/11/29(火) 00:22:47.99 0
ケ小平[1904〜1997]
 ・フランス留学中に中国共産党に入党。帰国後、長征・抗日戦に参加。
 ・1956年以来、党総書記・政治局常務委員などを歴任。
 ・文化大革命と76年の天安門事件で二度失脚したが、江青ら四人組
  追放(1976)後に復活。
 ・83年に国家中央軍事委員会主席に就任、最高実力者となった。
 ・89年までにほとんどの公職から引退。

 「日中二千年の歴史に比べれば両国間の不幸な時期など
 瞼の一瞬き(ひとまばたき)にすぎない」(・・・さすが大物ですね。)
856世界@名無史さん:2011/11/29(火) 00:30:23.04 0
華国鋒[1920〜2008]
 ・1937、中国共産党に入党。抗日遊撃戦に参加。
 ・中華人民共和国成立後は、国務院の中央政務につく。
 ・1976、党第一副主席兼首相に昇進。毛沢東より信任。
 ・同年、毛沢東の死後、党主席と中央軍事委員会主席を兼任。
  「四人組」逮捕で、党内対立を一気に解決、文革を終結。
 ・1978より実権をケ小平に奪われ、文革色残る政治家として追い落とされ
  1980、首相を辞任。1981、副主席に、1982年中央委員に降格。

 毛沢東思想の信奉者。
 金銭的に清廉、利益誘導しなかったことで、一部で根強い人気。
857世界@名無史さん:2011/11/29(火) 22:48:53.93 0
兄弟(横の)がまた動きだしたようなので、今日から一時、下げ進行で。

EC/EU
 第2次大戦後の米ソ間での無力さを痛感、域内統合により「第3の巨人」化。
 経済的結束(EEC→EC)から、政治的結束(EU)(外交・安保・通貨の統合)へ
 
(略史)
     │ EC/EU動向 │   西欧     東欧・ソ(ロ)    米国
───┼──────┼────────────────────
1950〜│52.ECSC発足 │           53スターリン死
1955〜│58.EEC設立  │           55ハンガリー事件
1960〜│.         │59-69仏/ドゴール 61ベルリンの壁  62キューバ危機
1965〜│67.EC発足.  │           68チェコ事件    65ベトナム北爆
1970〜│73.拡大EC(英加入)                   73ベトナム撤兵
1975〜│.         │75西/フランコ死   79アフガニスタン侵攻
1980〜│81.ギリシャ加盟 │82英/フォークランド戦争
1985〜│86.スペイン.ポルトガル加盟        89〜東欧社会主義国崩壊
1990〜│93EU成立   │90ドイツ統一   91ソ連消滅    91湾岸戦争
1995〜│99.ユーロ導入│      99NATOユーゴ介入
2000〜│04.EU参加国25ヶ国に                 01同時多発テロ
2005〜│07.ルーマニア.ブルガリア加盟
2010〜│11.ギリシャ問題 │
858世界@名無史さん:2011/11/29(火) 23:18:39.06 0
ECSC(ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体)《 European Coal and Steel Community 》
 西独・仏・伊・ベネルクス3国により、1951条約締結、1952設立。
 仏外相・シューマンの提案。
 (争いの元である石炭・鉄鋼を仲良く利用しようというプラン)
 石炭・鉄鋼の生産・価格・労働条件などの共同管理を目的とする。
859世界@名無史さん:2011/11/29(火) 23:21:10.62 0
EEC(ヨーロッパ経済共同体)《 European Economic Community 》
  ECSC加盟6ヶ国により、1957調印、1958設立。
  域内関税の撤廃、域外に対しては共通関税の設定、資本・労働力の
  自由移動などを定めた。
860世界@名無史さん:2011/11/29(火) 23:27:58.02 0
EC(ヨーロッパ共同体)《 European Community 》
  1967、EECが、ECSC、EURATOMと統合し成立。
  1973、英、アイルランド、デンマークも参加。(拡大EC)
  その後、ギリシア(1981)、スペイン、ポルトガル(1986)も参加。

 (補足)
  EURATOM(ヨーロッパ原子力共同体)《 European Atomic Energy Community 》
   1958設立。目的は原子力エネルギーの提供・発展。
   ・・・反原子力機運の高まりで、欧州連合(EU)(2007締結)の憲法条約
     反対につながりかねないという理由から、完全に吸収されず、現在も
     法的に存続している。
861世界@名無史さん:2011/11/29(火) 23:33:48.32 0
マーストリヒト条約(欧州連合条約)
 1991.12月、オランダのマーストリヒトにて、EC首脳会議開催、締結。
  (1992.2月、調印。1993.11月、発効。)
 欧州の経済・政治統合の推進を目的として、下記@〜Cなどを規定。
  @欧州連合(EU)の創設
  A経済・通貨同盟の設定
  B共通の外交・安全保障政策
  C欧州市民権(市民レベルでの欧州の一体感)
862世界@名無史さん:2011/11/29(火) 23:36:36.16 0
EU(欧州連合/ヨーロッパ連合)《 European Union 》(現27ヶ国)
 外交・安全保障政策の共通化と通貨統合の実現を目的とする統合体。
 1993.11月、マーストリヒト条約の発効により創設。

 域内の多くの国では、出入国や税関の審査が廃止されており、
 人や物が自由に移動できる。
 また、2002年より単一通貨ユーロが導入されている(現17ヶ国)。
 本部はベルギーのブリュッセル。域内人口4億8664万(2007)。
863世界@名無史さん:2011/11/30(水) 04:14:38.70 0
>>857
> 兄弟(横の)がまた動きだしたようなので、今日から一時、下げ進行で。

あれは、浅学な私が暇つぶしでやったもので、スレ主とはちがいますからお手柔らかに願います。
864世界@名無史さん:2011/11/30(水) 22:52:19.73 0
>>863さん
兄弟でお客(スレ住人)を奪い合いしないよう、
兄弟スレが上に出たときは、ひっそり下にいるだけの話で
深い意味はありません。気にせず続けてください。

受験レベルの(簡単すぎず、細かすぎない)世界史スレが
いくつかあってもいいと思ったりしています。
865世界@名無史さん:2011/12/01(木) 00:05:15.41 0
リンドン・ジョンソン〔1908-1973〕
 JFケネディ(>>829)暗殺後、大統領に昇格。(第36代。在、1963〜69)
 ヴェトナム戦争の北爆を強行。
 1964、公民権法(黒人保護のための人種差別撤廃法)制定。

 ・人種差別に対して否定的であり、公民権運動に強い理解を示した。
 ・ベトナム戦争で国内世論分裂、1968の大統領選に出馬できず。
  (1968の大統領候補の1人がロバート・ケネディ(予備選中暗殺))
 ・身長192cm。2番目に背の高い大統領。(1番はリンカーン193cm)
 ・倹約家で有名。ホワイトハウスの使われていない部屋の電気は消灯。
866世界@名無史さん:2011/12/01(木) 00:12:41.26 0
キング牧師
 黒人のキリスト教指導者。人種差別撤廃運動を推進。(非暴力抵抗運動)

 (補足)
 1954、最高裁で、公立学校の人種分離教育への違憲判決、これを機に
     公民権運動(黒人による人種差別撤廃、憲法保障諸権利の適用
     要求)が高まりを見せる。
 1963、ワシントン大行進(参加20万人)で“I Have a Dream”演説。
 1964、公民権法制定(法の上での人種差別終了)。ノーベル平和賞受賞。
 その後、暴力手段による人種差別解決を訴えたマルコムXに支持が集まり
 孤立化。1968、ならず者により暗殺。
867世界@名無史さん:2011/12/01(木) 23:24:03.74 0
冷戦下(1955頃〜1975頃)の中東・ベトナムとドルショック・オイルショック

     中東            ベトナム            米国/世界経済
───────────────────────────────────
54                54.ジュネーブ協定>>757仏撤退  53-61.アイゼンハワー>>713
55                55.南ベトナム成立(ゴディンジェム政権)
56 第2次中東戦争>>803
57
58
59
60                60.南ベトナム解放民族戦線結成
61                                    61.ケネディ>>829
62
63                63.軍事クーデタでジェム政権崩壊 63.ケネディ暗殺→ジョンソン
64 PLO結成(アラブ主導)   64.トンキン湾事件
65                65.北爆開始……………………………戦費膨大
66                 .                         ↓
67 第3次中東戦争.                                ↓ 
68 OAPEC結成・PLO再編 68.テト攻勢/北爆停止             ↓
69       (アラファト主導)     (68.和平協定スタート)    69.ニクソン  ↓
70 ナセル>>770→サダト大統領(エジプト)                財政赤字・貿易赤字↓
71                                    71.ドルショック(金兌換停止)
72                                    72.ニクソン訪中. ↓
73 第4次中東戦争      73.ベトナム和平(パリ)協定          変動相場制へ
  OAPEC禁輸/OPEC石油値上……………………………………→オイルショック
74                                    74.フォード    ↓
75                75.サイゴン陥落          サミット開催(先進国結束)
76                76.南北ベトナム統一
868世界@名無史さん:2011/12/02(金) 00:08:11.64 0
ヴェトナム戦争(開始時期は1960年説、1965年説あり)
 1960、米国の干渉とゴディンディエム大統領に抵抗して、南ヴェトナム
     解放民族戦線が組織化。
 1961、北ベトナムの支援のもと南ベトナム政府に対し本格的な抗争開始。
 1963、米国、全面的に軍事介入。
 1965、米国北爆以降、一層戦争が拡大。
 1969、ニクソン大統領、段階的撤兵に転じる。
 1973、和平協定により米国撤退。
 1975.4/30、サイゴンが陥落して南ベトナム政府は崩壊。 
 1976、南北ヴェトナム統一。ヴェトナム社会主義共和国成立。

 ・第二次インドシナ戦争とも言われる。(>>757
 ・戦死者、米軍46000人、韓国軍その他5000人、サイゴン軍17万、
  革命軍85万。(ベトナム人(民間人含め)の死者合計120〜170万人)
  http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q146373729
 ・「アメリカ軍の死者4万6000人、重軽傷者30万3000人。南ベトナム軍民の
  死傷者は300万人以上」(>>789のサイト)
869世界@名無史さん:2011/12/03(土) 00:48:11.57 0
ホーチミン[1890〜1969](「胡志明」とも書く。)
 ベトナムの政治家。初代大統領(国家主席)となり、インドシナ戦争・
 ベトナム戦争を戦い抜き、独自の社会主義建設を指導。

 (補足)
 ・フランスの植民地下、貧しい儒学者の子として生まれる。
 ・植民地解放の志を抱き、グエン・アイコク(阮愛国)の名でフランスに
  滞在中、社会主義運動に参加。
 ・1920、フランス共産党の創設に参加。その後、ソ連・中国で活動。
 ・1930、インドシナ共産党を結成。
 ・1941、ベトナム独立同盟(ベトミン)を組織。
  第二次大戦中は抗日解放戦を指導。
 ・1945.9月、ベトナム民主共和国の建国を宣言。初代大統領となる。
 ・1946.12月、インドシナ戦争(〜1954)。ゲリラ戦でフランスを駆逐。
 ・1960年代、ベトナム戦争では国家元首として国民を鼓舞。
 ・1969、戦争終結(1975.4/30)の前に、死去。
 ・1975.5/1、南ベトナムの首都サイゴンが、ホーチミン市に改称。
 (蛇足)
 ・スターリンや毛沢東などの共産党指導者は、独裁的になって反対派を
  粛清する例が多いのに対し、ホーチミンは、腐敗や汚職に無縁で、
  禁欲的で無私な指導者であり、自らが個人崇拝の対象になることを
  嫌っていた。自己の業績についてもほとんど語らず、そのような伝統が
  後継指導者層や軍人達にも生まれる。 (慈愛に満ちた飄々たる風貌、
  高潔な人柄は、民衆から尊崇を集め、愛された。)
870世界@名無史さん:2011/12/03(土) 01:24:08.25 0
ベトナム
 ・首都ハノイ。面積33.0万km²(日本=37.8万km²)人口8,957万(2010)。
 ・国土は南北に細長く、ホン川とメコン川の両デルタ地帯を主に、
  水田農業が行われる。コーヒー生産量は世界2位。
 ・北部は鉱物資源に富む。(石炭・石油・スズ)(輸出品目の第1位は石油)

ベトナム史
 ・1802年、阮朝のもとで統一。>>251
 ・1887年以降フランスの保護領に。>>254-256
 ・第二次大戦中は日本が進駐。
 ・戦後の1945年、北部にホーチミンを首班とするベトナム民主共和国が
  独立を宣言し、フランスとの間にインドシナ戦争が勃発。
 ・1954年のジュネーブ協定(>>757)によって北緯17度線を境として
  南北に2分され、南部には1955年にアメリカの支援によりベトナム
  共和国(南ベトナム)が成立。
 ・1961年以降、アメリカ+南ベトナム軍と北ベトナム+南ベトナム解放民族
  戦線との間にベトナム戦争が続いたが、1976年に南北の統一実現。

 (その後のベトナム)
 ・1978.12月、カンボジア侵攻を開始(第三次インドシナ戦争の始まり)。
 ・1979、中越戦争
 ・1986.12月、ドイモイ(刷新)政策を開始、改革・開放路線に踏み出す。
 ・1989.9月、国内経済疲弊→カンボジアから完全撤兵。
 ・1992、 中越関係正常化
 ・1995.7月、ASEAN加盟(>>814
 ・1995.8/5、ベトナムとアメリカ(クリントン大統領)が和解。
 ・現在も、ベトナム共産党一党独裁。建国以来、一貫して集団指導による
  国家運営。政府は極めて官僚的。
871世界@名無史さん:2011/12/03(土) 01:37:33.42 0
リチャード・ニクソン【Richard Milhous Nixon】[1913〜1994]
 米国第37代大統領(在.1969〜74)。
 ニクソンショック、ウォーターゲート事件が有名。

 (補足)
 ・民主党・ジョンソンの後に、共和党より第37代大統領に就任。
 ・ドル防衛策の強行などで、国内外に動揺を与える。
  (1971.8/15、ドルと金との交換停止(ニクソン・ショック(ドルショック)))
 ・東側諸国に対し、補佐官キッシンジャーとともにデタント政策を推進。
 ・米中接近(1972、中国訪問。対中政策として、米中共同声明を発表)
 ・ベトナム戦争の休戦、米軍の完全撤退を実現。
 ・公害抑制・環境対策でも大きな功績(環境保護局(EPA)の設置など)
 ・1974、ウォーターゲート事件により辞任。(任期中に辞任した唯一の大統領)
  → フォードが、副大統領から大統領へ昇格。
 ・1994、死去。大統領経験者の死去の際に行われる国葬は行われず。
 ・一般大衆からの人気は現在も決して高いとはいえないものの、
  有識者の間では「偉大な功績を残した歴代大統領の1人」との評価。
 
 (蛇足)
 ウォーターゲート事件《 Watergate 》
 ・1972年米国の大統領選で、共和党の運動員が、ワシントンの
  ウォーターゲートビルにある民主党本部に盗聴装置を仕掛け
  ようとして発覚、ニクソン大統領の政治倫理が問われ、
  1974年8月に辞任に追い込まれた政治事件。
872世界@名無史さん:2011/12/03(土) 02:33:28.25 0
変動相場制
 固定相場制のように通貨を一定比率に固定せず、為替レートの決定を
 マーケットの需要と供給に委ねる制度。

 ・1971.8/15、ニクソン、ドルと金の交換停止を表明(ニクソンショック)。
   (固定相場制($1=360円)(ブレトンウッズ体制)の終焉)
 ・1973.3月まで、主要先進国、変動相場制に移行。

 やさしい経済講座・変動相場制とは?
 http://www.fxprime.com/excite/bn_ykk/ykk_bn10.html

 円・ドルレートの歴史
 http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/d/duy/20111030/20111030195647.png
873世界@名無史さん:2011/12/03(土) 02:42:44.20 0
カンボジア
 首都プノンペン。メコン川流域にあり、米作地帯。人口1445万(2010)。

カンボジア史
 ・1世紀末ごろクメール族が扶南を建国。
 ・6〜15世紀、アンコール王朝の繁栄。
 ・1863、フランスの保護領。(>>256
 ・1953、カンボジア王国として独立。国王、シハヌーク。
 ・1970、ロン・ノル政権(親米)がクメール共和国を樹立。シハヌーク追放。
 ・1976、ポル・ポト政権(クメール・ルージュ)(親中国)が民主カンボジア
      政府を発足。→強制労働・飢饉で100万人以上が死亡。
 ・1979、ベトナム軍侵攻、ポル・ポト政権打倒。
     ヘン・サムリン政権(親ベトナム)のカンボジア人民共和国樹立。
 ・1982、一方で、シアヌークを大統領とする民主カンボジア連合政府が
     樹立。2政権が並立。
   (前者は1989年カンボジア国に、後者は1990年カンボジアに改名。)
 ・1989、ベトナム軍撤退。1991、パリ和平協定。
 ・1993、統一選挙が行われ、シハヌークを国王とする立憲君主国となる。
   (カンボジア王国)
 ・1999、ASEAN加盟(>>814
874世界@名無史さん:2011/12/03(土) 02:47:10.80 0
 (蛇足)
 アンコールワット
 ・12c前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー
     教寺院として建立(30余年を費やす)。
 ・その後、一時放棄、1550前後、再発見。寺院として存続。
 ・1860年以降、フランスにより修復進む。
 ・1972、カンボジア内戦で、クメール・ルージュにより破壊。
 ・内戦がおさまりつつあった1992年、アンコール遺跡として世界遺産に
  登録。世界遺産3強のひとつ。(マチュピチュ、ピラミッド、アンコール)
  多くの観光客が訪れる。
 世界遺産ランキング
 http://allabout.co.jp/gm/gc/15197/
875世界@名無史さん:2011/12/03(土) 22:15:37.62 0
第3次中東戦争
 1967におきたイスラエルとアラブ諸国の戦争。6日間でイスラエル圧勝。
 「六日戦争」とも呼ばれる。

 (経緯)
 ・1967.6/5、イスラエル空軍の奇襲。制空権を握り地上軍侵攻、
  短期間のうちに@〜Bを占領。
   @ヨルダン領・ヨルダン川西岸地区
   Aエジプト領・ガザ地区とシナイ半島
   Bシリア領・ゴラン高原
 ・ヨルダンとエジプトは6/8に停戦、シリアも6/10に停戦。
 ・延べ6日間の電撃作戦でイスラエルの占領地域は戦前の4倍以上
  までに拡大。

 (その後)
 ・スエズ運河を挟んでエジプトとイスラエルが対面、1968からの散発的
  砲撃合戦により、スエズ運河は実質通行できなくなる。
 ・1970.6月、イスラエル、スエズ運河を越え占領、8月停戦。
  (消耗戦争といい、これを第4次中東戦争、次の第4次を第5次、と
   する場合もある。)

 ・「奇襲」による勝利と引き換えに、イスラエルとユダヤ人はホロコースト
  以来の国際的な同情と信頼を失う。
876世界@名無史さん:2011/12/03(土) 22:29:00.10 0
第4次中東戦争
 1973におきたイスラエルとアラブ諸国の戦争。今回はアラブ側が
 先制攻撃。OAPECの石油戦略発動で、第1次オイルショック発生。

 (経緯)
 ・1973.10/6 イスラエルの祝日にエジプト・シリア軍、侵攻開始。
   アラブ側はソ連製の比較的優秀な武器などを使用、一時
   イスラエルはスエズ運河やゴラン高原にて苦戦。
 ・イスラエルは、体制を整え巻き返し、10/10シリアに大攻勢、
  首都ダマスカスに迫る。(ソ連参戦の噂で進軍ストップ)
 ・10/16、スエズ運河を逆渡河、エジプト軍の半数を包囲、カイロにも
  迫る。(ここでもソ連参戦の噂で進軍ストップ)
 ・10/16、OAPEC、イスラエル支援国(米国・オランダ)への石油禁輸、
  アラブ非友好国への段階的石油供給削減を決定。
 ・OPECのペルシャ湾岸産油国(非アラブのイランを含む)は原油公示
  価格の大幅引き上げを一方的に決定。
  原油価格は、これを契機に一機に高騰。
   (高騰した原油価格は、石油禁輸や供給削減という政策が停止
    した後も、高止まりし、世界経済にも深刻な影響を与えることと
    なった(オイルショック)。)
 ・イスラエル反攻に国際世論は停戦の方向へ向かい、ようやく立った
  米国とソ連の仲裁によって10/22、停戦宣言。

 (蛇足)
 ・エジプトのナセルの後継、サダト大統領は攻撃してこないとイスラエル
  は考えていたため、不意を衝かれた。(イスラエル不敗神話の崩壊)
 ・サダトは、シナイ半島返還→和平を狙う。
877世界@名無史さん:2011/12/03(土) 22:34:10.01 0
OAPEC(アラブ石油輸出国機構)(英語発音:オゥエイペク)
 アラブの産油国で結成している組織。本部、クウェート市。

 1968、OPECの別組織としてクウェート・サウジアラビア・リビアの3国で結成。
 1970、アルジェリア・バーレーン・アラブ首長国連邦・カタール参加
 1972、シリア・イラク・チュニジア(1986脱退)参加
 1973、エジプトが参加、現在の加盟国は、10ヶ国。

 第4次中東戦争で、非友好国への輸出停止・制限(石油戦略)を実施。
 これにより、先進国で石油ショック(第1次石油危機)がおきた。
878世界@名無史さん:2011/12/03(土) 22:40:37.08 0
OPEC(石油輸出国機構)
 ・国際石油資本に対抗してみずからの利益を守るため、1960年に
  イラン・イラク・サウジアラビア・クウェート・ベネズエラの産油5か国が、
  石油の価格維持・生産調整などを目的として結成した国際機構。
 (ベネズエラのエネルギー工業大臣ペレス・アルフォンソが団結を思いつく。)
 ・本部、オーストリアのウィーン。
 ・現加盟国12ヶ国(2011年3月現在)
   中東:アラブ首長国連邦・イラク・イラン・カタール・クウェート・サウジアラビア
   アフリカ:アルジェリア・リビア・ナイジェリア・アンゴラ
   南米:エクアドル・ベネズエラ

 ・オイルショック後の変化
  <外的要因の変化>
   @先進諸国の石油備蓄の拡大
   A代替エネルギーへの促進
   B北海油田やメキシコなどの非石油輸出国機構の産油量の増大
  <内部対立の表面化>
   生産調整、原油価格設定をめぐる足並みの乱れ

List of Oil Trading Nations
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/9f/Chart-of-Oil-Trading-Nation.gif
879世界@名無史さん:2011/12/03(土) 22:48:43.47 0
オイルショック(和製英語:Oil shock、英語:Energy crisis)
 ・アラブ産油国の原油生産削減と価格の大幅引き上げが、石油を主な
  エネルギー資源とする先進工業諸国に与えた深刻な経済的混乱
  のこと。
 ・第一次は昭和48年(1973)←第4次中東戦争
   →買占め・テレビ深夜放送の休止・節電などの影響が出る。
 ・第二次は昭和54年(1979)←イラン革命
   →第一次の学習効果で、影響は酷いものにはならず。

 (蛇足)
 トイレットペーパー騒動
  ・日本での、原油価格と直接関係のない物資の買占め騒動
  ・1973.10/16産油国が原油価格を70%引き上げ。
   10月下旬には「紙がなくなる」という噂が流れはじめ、
   パニックは日本全国に連鎖的に急速に拡大。
   客が押し掛け、商品を奪い合う人すら見られた。
   翌年3月になると騒動は収束。
880世界@名無史さん:2011/12/04(日) 08:56:58.83 0
サミット(主要国首脳会議)(英称:Group of Eight)(G8)
 (旧称「先進国首脳会議」「先進7か国首脳会議」「主要先進国首脳会議」)

・1975年、オイルショックによる世界経済の混乱に対処するために、
 フランス(ジスカール・デスタン)の提唱で始まったもので、
 主に経済と政治問題を協議する。
・主催国を交代しつつ、年1回開催される。(2011フランスで37回目)

(歴史)
・当初、米国・英国・フランス・ドイツ・イタリア・日本の6か国の首脳(G6)
 による会議であったが、翌年、カナダが加わってG7となり、1977年から
 EC(現在のEU)委員長が参加するようになった。
・1991年にソ連(現ロシア連邦)のゴルバチョフ大統領とサミットの枠外で
 会合がもたれ、1997年にはロシア連邦が正式参加国となった(G8)。
 ロシアは加入当初は経済破綻で貧困状態のため先進国とは言い難く、
 名称を「先進国会議」から「主要国会議」に変更した。(現在はGDP8位)
・1990年代までは大都市(首都など)での開催が多かったが、
 1990年代末になるとデモが頻発。(特に2001年のジェノヴァ)
 以降、警備のしやすい地方都市、保養地での開催が多くなっている。

(現状)
・当初、様々な国際的な課題への強い影響力を有していたが、近年では
 新興諸国の経済的、政治的影響力の上昇に伴う相対的な影響力の
 低下とともに、形骸化や単なるセレモニー化が指摘されている。
 その一方で国連総会に比べ、主要各国の首脳会議であるサミットは
 決断力・実行力に格段の優位性があるほか、拒否権など制度的問題点
 がなく、国連を補完する意味でも一定の役割を果たしている。
・『非公式な「世界政府」』と批判される。ちなみにG8の「決議」「決定」
 「宣言」その他諸々は、国際法上の根拠を何ら持たない
 “仲間内での取り決め”である。
881世界@名無史さん:2011/12/05(月) 18:17:41.27 0
>>876
wikiには書かれていない裏の話
=1973年10月の危機(第四次中東戦争の停戦交渉における読み違えが米ソ対決を招来した例)=

1973年10月6日、エジプトとシリアはイスラエルに攻撃を開始した。そしてかなりの損害を受け後退を余儀なくされた後、
イスラエルは主導権を奪い返し、エジプト陸軍の第三軍をスエズで包囲した。 本来なら、米国はこの時点で戦闘を終わらせる事が出来たのであるが、
ちょっとした誤解の連続により、ここで、米国とソ聯との間に危機が持ち上がってしまったのである。 

もちろん、別に米国が参戦していた訳ではないが、イスラエルは米国の最重要同盟国であり戦闘に直接介入してなくても、
イスラエルの独立が脅かされるような事態になれば救援の為、参戦せざる終えない事に注意。
そして、それが冷戦における米ソ超大国の立場と、その代理戦争の根幹である、最近これを忘れた人間が非常に多い。

事は停戦のプロセスによって持ち上がった、停戦の取り決めにもかかわらず、イスラエルはエジプト陸軍第三軍の壊滅を望み
(当時のイスラエル軍の総司令官が、この間までイスラエル首相であったシャロンである)攻撃を続行した。
米国はイスラエルに攻撃を中止するように圧力を掛けたが、イスラエルは時間稼ぎの策の為、テルアビブに駐在していた米国の監視員に、
前線まで出てきてイスラエルが停戦に従っている事を確認する事を求めた。 

当時の米外交のドンであったキッシンジャーは、この提案に、余り乗り気ではなかったのだが、
それでも義務としてこれをエジプト側に伝えた。
そして、ここで驚くべき事態の展開が起こった。
882世界@名無史さん:2011/12/05(月) 18:18:39.39 0
当時のエジプト大統領サダトは、この「米国の提案」を受け入れ、
停戦を確認する為に「エジプト側から」「兵員を派遣する事」を受け入れる、と返答してきたのである。 
実際の「イスラエルの提案」は、停戦確認の為に「イスラエル側から」「米国の監視員を派遣」するというものであったのにである。
これが単なる誤解による物なのか、それともキッシンジャーの報告を故意に誤訳したものなのかは定かではないが(現在は判明しているキッシンジャーのミス)
何より大きな問題だったのは、当時ソ聯の同盟国であったエジプトのサダトがこの同じ申し出をソ聯に対しても行っていた事であった。
この提案の意味合いは、非常に重大であり、破滅的なものを含んでいたのであった。

もし、ソ聯が、このエジプトの提案に従い兵員を派遣すれば、実際に停戦を履行していないイスラエル軍は、
直接ソ聯軍と戦闘を開始する事になる。 しかも、ソ聯が派兵を行う場合(断固たる意志で)は負けるような事はしないはずであるから、
彼らは、そこにいるイスラエル軍を壊滅させられるだけの兵力を派遣する事になるだろう。 
そして、そうなった場合米国は同盟国であるイスラエルが破れるのを黙って見過ごす訳にはいかないので、
やはり同様に、予想される”ソ聯中東停戦監視派遣軍”に対抗出来うる”米国中東停戦監視派遣軍”を中東に派出し、
スエズを中心とした中東地域において米ソ両軍が相見える事になる。 

そうなると、その両軍がお見合い状態で済むはずもなく、ここに、エジプトとシリア連合軍とイスラエル軍が行っていた単なる局地的な代理戦争が端緒として
米ソ両軍が激突する事になり、それは中東だけでは収まらず、冷戦の第一戦線であった欧州正面でもNATO軍とワルシャワ条約機構軍(WTO)が、
防衛条約履行の為、自動的に戦闘に突入(もちろん両者とも侵略に対して反撃しているだけである)激闘を開始するだろう。
883世界@名無史さん:2011/12/05(月) 18:18:58.56 0
その行く先はどうなるか?暫定戦争か?(暫定戦争:互いに通常戦力で殴り合いながらもリスクとメリットを計算し、
最後の段階で両陣営が納得出来る、新しい勢力圏を再画定する休戦協定を求める戦争。 
実は第三次大戦はこの形式の戦争であるというのが、冷戦時の軍事常識であった) 
それとも、共産化されるぐらいなら死んだ方がマシだで(米の基本的なスローガン)、どちらかが核の敷居をまたぎ、
必勝戦略(ソ聯の戦略)の元、核戦争を戦い抜き勝利を収めるか(それが本当に勝利かどうかは、この時点では全く問題ではない)その何れかである。

何れにせよ、米国としてはこの紛争において、先述のような展開を求めては居なかった為(そもそも、誤解なのである)、
斯様な事態を回避する道を選び、危機回避の為の外交努力を開始した。

この危機に際し、事態は急速に動いた。 
サダトの解答から数時間の内に、米国からソ聯に対して「事態を、これ以上悪化」させない為のメッセージが矢継ぎ早に打たれた。
また、キッシンジャーも、こういう危機において火に油を注ぐ事で有名で、更に全くの無能力をさらけ出す国際連合(UN・連合国組織)にも手を打った……がしかし、
米国が矢継ぎ早に打ったソ聯へのメッセージの返答の内容はまるで「最後通告」のようなものであった。

”我々、即ち、ソ聯と米国は、早急に米ソ軍事派遣団をエジプトに派遣し、停戦の監視に当たるべきである” 
(外交文の解釈:米国はエジプト側に立って、イスラエル軍を停戦に従わせるべきである)”
もし貴国が我が国と共同でこの事態に対処出来ない場合、我が国としては単独で事態に対応する事を考慮せざるを得ない
”(外交文の解釈:我々は米国が前述の「米ソ軍事派遣団」に賛同しないのなら、我々は単独で「ソ聯中東停戦監視軍」を派遣する)

早い話、”我々は米国が来るにせよ来ないにせよ、どちらにせよエジプトに軍隊を派遣する”と言う事である。 
事態は最悪の物となった。
884世界@名無史さん:2011/12/05(月) 18:19:21.43 0
キッシンジャーはホワイトハウスで会議を招集し、危機回避に際して最も強力な役割を持つ行動予測に関する協議を開始した。 
以下はキッシンジャーの回想である(キッシンジャーの著書「外交・上下巻」ではこの事項は、見事なまでにカットされている)

”会議の参加者は、ソ聯の今回の行動の動機、意図に関する推測を行った。 
ソ聯は何を持って今回の派兵を決意したのか?その行動の拠り所は?外交的な義務か?
中東域に対する勢力圏の恢復なのか?単なる脅しか?等々”

そして、ワシントン首脳部は事ここに至り、、1973年10月24日水曜日の午後11時41分をもってデフコン3に突入した
(デフコン3=即時交戦を想定しない状況においての最高準備状態)  第82空挺師団(湾岸戦争でも活躍した)は展開待機におかれ、
地中海を管轄する米第六艦隊所属の艦艇を含む米海軍部隊は、早急に東地中海へ移動するよう命じられた。 
同じ頃、ソ聯も軍の展開を開始し、欧州最前線の東ドイツ駐留軍を含む、ワルシャワ条約機構軍は警戒態勢に入り、
ソ聯空軍はエジプトへ兵員を派遣する準備を開始した。 しかし外交的には、まるで脅しを掛けるかのように沈黙したままであった。 

しかしホワイトハウスは、翌10月25日の木曜日午前5時に、クレムリンのブレジネフに対し
「ソ聯が単独で中東に兵員を派遣する事に対して、米国は実力を持ってこれに抵抗する」という、極めて強硬な警告を発した。 
これにより、ついに、米ソの手の内が世界にあからさまになった(むしろエジプトに対して)

そして、この事態の幕は、この誤解を生じさせた(誤解か故意かは今も不明)張本人である、
サダト自身の手で引かれた。 10月25日午前8時、彼はホワイトハウスに対し、
自らの立場を改善する為の決定的なメッセージを送ってきたのである。

要するにエジプトは、包囲された第三軍を、ソ聯の力を使って解囲し、
その勢いのままイスラエルに対し反撃を開始したかったのである。 超大国に保護された小国(軍事的従属国)とは、
その超大国の強大な軍事力に必ず伴う責任など全く考慮などしてはいないのである。
つまり、その軍事力が伴う責任を全く考慮せずにである(何と言う事だ!)
885世界@名無史さん:2011/12/05(月) 18:19:57.62 0
話を戻して、サダトは、米国とソ連の派遣監視団(軍)を要請する代わりに、
国連に対し、国際混成派遣軍を要請し、これにより超大国の直接介入を押しとどめたのである
(これによってイスラエルのシナイからの段階的撤退が開始される事になる) 
派遣(防衛義務・エジプトが来てくれと言うのだから、派兵するのは国家の自主権の行使である)の根拠を失ったソビエト社会主義共和国連邦は、
まるで潮が引くが如く引き下がったのである。

※なお、この誤解はキッシンジャーが巻いた種であることが、最近公開された米国公文書から判明した。
※この情報は1985年頃では米国の知識階層では常識の範疇だった。
886世界@名無史さん:2011/12/05(月) 18:24:28.11 0
以上です、wikiはこの程度すら書かないんだからねえ、あまり当てにしない方がいいですよ<せいぜい概史と思えば善
887世界@名無史さん:2011/12/05(月) 20:25:45.85 0
>881-886
それも作り話かもしれんと思っとく方が良いよ。

裏の話がwikiに書かれないのはもちろんだが、
wikiに限らず、どの文書にも書かれることはない。
米国公文書に「真実が書かれている」とはまさか思っていないだろうな。
888世界@名無史さん:2011/12/05(月) 22:46:45.89 0
>>881-886さん、詳しい解説ありがとう。
>>887さんも、コメントありがとう。

一触即発の、とても緊迫した興味深い話ですね。
wikiに載せないで、ここにだけ置いておくのは、もったいないくらいです。
当時の状況とかが、つい最近分かってきたので、なんとか読めました。
>>867の表を見ると、第4次中東戦争は、ベトナム和平(パリ)協定締結と同じ年
ですから、せっかくベトナムから帰れると思った米兵は、また中東に派遣、
では、やってられないでしょうね。

さて、スレがだいぶ下の方にさがってしまったので、今日から上に
上がりますね。
889世界@名無史さん:2011/12/05(月) 22:52:37.01 0
冷戦後半・ソ連崩壊まで(1970頃〜1990頃)のヨーロッパ

    英      仏      独     東欧          ソ(露)
──────────────────────────────────
  ウイルソン(労)     67.EC発足                ブレジネフ(64-82)
  (64-70,74-76)             68.チェコ事件
69      69.ドゴール退陣 ブラント(SPD)(69-74)
70               70西独・ソ連武力不行使宣言/核拡散防止条約発効
71
72               72.東西ドイツ基本条約(オーデル・ナイセ線承認)   
73 EC加入          73.東西ドイツ国連加盟
74
75                    75.ヘルシンキ宣言(全欧の安保)
76
77
78
79 サッチャー(保)(79-90)            79.SALT2調印/アフガン軍事介入(79-89)
80                    80.ポーランドスト(ワレサ/連帯)/チトー死
81       ミッテラン(社)(81-95)
82 フォークランド戦争      コール(CDU)(82-98)        82.ブレジネフ死
83
84
85                                   ゴルバチョフ(85-91)
86                                   86.チェルノブィリ原発事故
87
88
89               89.ベルリンの壁撤去/東欧革命 89.マルタで冷戦終結声明
90               90.東西ドイツ統一 
91 湾岸戦争             91.ワルシャワ条約機構解散/エリツィン露大統領(-99)
                                 ソ連共産党解散/ソ連消滅
92                    92.ユーゴ解体/内戦勃発
93           93.EU成立
890世界@名無史さん:2011/12/05(月) 23:18:00.09 0
ブレジネフ[1906〜1982]
 1964、フルシチョフ解任後、ソ連共産党書記長として絶対的権力を維持。

(補足)
・1952年にロシア共産党幹部会員候補兼書記として頭角を現し、
 党務関係の要職を歴任。
・1964、フルシチョフ失脚で党第一書記(1966、書記長と改称)となり、
 いわゆるブレジネフ路線(国際緊張の緩和、平和共存の二原則に
 基づく路線)を推進、1977年には最高会議幹部会議長も兼ねた。

(蛇足)
・スターリンに次ぐ長期間、ソ連を統治。しかしスターリンのような
 尊敬も恐れも集められず、70年以降指導力低下。
・基本的経済問題の無視とソ連の政治体制の衰退を黙認し、
 「沈滞の時代」を長引かせたこと、
 貪欲な虚栄心(胸の勲章・汚職事件)、から、
 ロシアにおける評価は、歴史家の間で非常に低い。
891世界@名無史さん:2011/12/05(月) 23:33:33.76 0
チェコ事件
 1968前半、新任のドプチェク党第一書記の指導のもと、
 検閲の廃止や政党の復活、民需物資の増産、スロヴァキアの自治など
 の改革(自由化政策)が行われた。(これを、「プラハの春」という)

 8月、この自由化の動きを恐れたソ連が、ワルシャワ条約機構の
 4ヶ国軍とともに軍事介入(60万人以上の動員)。
 改革派指導者を一時ソ連に連行し、民主化運動を制圧。ソ連に忠実な
 共産党政府を復活させた。
892世界@名無史さん:2011/12/05(月) 23:56:47.37 0
東西ドイツ基本条約
 1972、東西ドイツは相互の独立を認め、オーデル・ナイセ線を、ドイツと
 ポーランドの国境として確認。
  (1969西独で成立したブラント内閣が推進。)
 翌年(1973)、東西ドイツが国連に加盟。

 (「オーデル・ナイセ線」の補足)
 ・1950.7/6、ポーランド人民共和国とドイツ民主共和国との間で
  ズゴジェレツ条約が締結。「暫定的」国境線ができた。
 ・1970.12/7、西ドイツとポーランドの国交締結。(国境確認)
 ・1990年のドイツ再統一の直前である6/12に旧西ドイツとポーランドの
  間で改めて国境線として確認され、
  再統一直後の1990.11/14、統一ドイツとポーランドとの間で国境線の
  最終確認条約(ドイツ・ポーランド国境条約)が締結。
893世界@名無史さん:2011/12/06(火) 00:02:25.44 0
ユーロコミュニズム(西欧共産主義)
 1970年代後半、西欧の共産党(特にイタリア・フランス・スペインの
 共産党)の中にできた、自主的な共産主義路線(先進国型の革命理論)。
 ソ連型の共産主義から離れ、複数政党を認め、議会による改革
 (民主的な政権交代)を重視する。
894世界@名無史さん:2011/12/06(火) 22:56:25.54 0
アフガン侵攻
 1979年12月の、ソ連軍によるアフガニスタンへの侵攻。
 ソ連は78年調印の友好協力善隣条約に基づく、アフガニスタン政府の
 要請によるとしたが、反政府派の激しい抵抗と、強い国際的非難にあい、
 88年に全面撤退した。(>>219

(経緯)
・1978.4月、クーデターにより人民民主党(共産主義)による政権が成立。
 これに対抗する武装勢力蜂起が、1978春頃からすでに始まっていた。
 ほぼ全土が抵抗運動の支配下に落ちたため、人民民主党政権は
 ソビエト連邦に軍事介入を要請。
・ソ連軍は1979.12/24、軍事介入。
 ソ連国家保安委員会 (KGB)は政体混乱の収拾能力が無いとみた
 アミーン大統領を殺害、カールマルを新たな大統領とし、アミーン政権に
 対立していた人民民主党内の多数派による政権が樹立。
・共産主義政権とソビエト軍に対してムジャーヒディーンと呼ばれた抵抗
 運動の兵士たちが戦った。米国中央情報局(CIA)はムジャーヒディーン
 の支援に総額21億ドルを費やした。(パキスタン経由の支援ルート)
・ムジャーヒディーンには20以上のイスラム諸国から来た20万人の義勇兵
 が含まれていた。ウサーマ・ビン・ラーディンもその一人(サウジアラビア
 の駐アフガニスタン公式代表)である。

・1980.1/15、国連緊急総会にて、ソ連軍の撤退を求めた決議採択。 
・1980.7/19、モスクワオリンピック開幕。ソ連軍の攻撃を非難した50カ国が
 ボイコット。
・1982、11/29国連総会で、ソ連軍は撤退すべきだとする国連決議採択。
・最終的にソ連軍は1988.5/15〜89.2/2に撤退。
・ソ連軍、15,000人死亡、75,000人負傷。アフガン人死者はソ連兵の100倍。
・莫大な戦費(占領経費)がかかり、ソ連の国家財政を圧迫。冷戦の継続が
 不可能となり、ペレストロイカによって路線を大幅に転換した。
 結果としてソ連の破局(崩壊)を招く。
895世界@名無史さん:2011/12/06(火) 23:02:52.50 0
ゴルバチョフ[1931〜 ]
・1985年、共産党書記長に就任。
 「ペレストロイカ」(改革)「グラスノスチ」(情報公開)を基本方針として
 政治・経済・文化面の諸改革に取り組むとともに
 東西の軍縮、緊張緩和を積極的に推進。
・1990年、一党制を廃し大統領制を導入、初代大統領となったが、
 1991年、ソ連邦の解体とともに辞任。
・1990年、ノーベル平和賞を受賞。

・日本を含む西側諸国では絶大な人気を誇り、ゴルビーの愛称で
 親しまれた。(特に西独では熱狂的歓迎を受ける)

 一方、ロシアでは就任当初を除いて在任中から不人気でありつづけた。
 風貌と語り口から典型的な南ロシア出身者とみなされ、エリツィン
 (政治的ライバル)の人気を一層引き立てる結果になった。
 ソ連崩壊後のロシアでは、経済・軍事などあらゆる面でアメリカとの
 国力差が広がったため、「“偉大で強い”古き良き時代であった
 ソ連を崩壊させた」、「アメリカに魂を売った売国奴」という意見も多い。
896世界@名無史さん:2011/12/06(火) 23:12:53.37 0
チェルノブイリ原子力発電所事故
 1986.4/26、1:23(モスクワ時間)、ソ連(現:ウクライナ)のチェルノブイリ
 原子力発電所4号炉で起きた原子力事故。
 後に決められた国際原子力事象評価尺度 (INES) において
 最悪のレベル7(深刻な事故)に分類。

(蛇足・・・経緯@)
・チェルノブイリ原子力発電所は黒鉛減速軽水冷却炉6基を建設する計画で
 4号機までが完成して運転中であった。
 5号機と6号機は80%ほど工事が進んでいた。(事故後に放棄された。)
 事故を起こした4号機は1983年12月に運転を開始したばかりの最新鋭機
 であった。
・事故当時、爆発した4号炉は操業休止中であり、外部電源喪失を想定した
 非常用発電系統の実験を行っていた。
 この実験中に制御不能に陥り、炉心が融解、爆発したとされる。

・原子炉暴走により、水蒸気爆発、水素爆発あるいは化学爆発が発生。
・その結果、3人の従業員が即死。うち1人は遺体も収容できず。
・爆発で原子炉建屋上部は崩壊し、クレーンが落下して炉心を破壊した。
・過剰反応度の加わった核燃料は、ばらばらになって飛び散り、
 タービン建屋、炉心上部など30か所で火災が発生。すぐに駆けつけた
 消防士の決死の活躍で、翌朝までにこの火事はほぼ消し止められた。
 (高放射線下の消火作業のため、消防士や作業員など200人あまりに
  急性の障害があらわれ、86年7月末までに31人が死亡。)
・事故後に炉心黒鉛の火災が起こる。黒鉛は事故後も1986.5/1ごろまで
 燃え続け、それとともに大量の放射性物質が上空1,800mまで吹き上げ
 られ、全ヨーロッパに広がった。
・爆発により、原子炉内の放射性物質が大気中に量にして推定10t前後、
 14エクサベクレルに及ぶ放射性物質が放出された 。
  ・・・広島に投下された原子爆弾放出量の約400倍 (IAEAによる記録)
897世界@名無史さん:2011/12/06(火) 23:17:00.08 0
(蛇足・・・経緯A)
・当初、ソ連政府はパニックや機密漏洩を恐れこの事故を内外に公表せず、
 施設周辺住民の避難措置も取られなかったため、彼らは数日間、
 事実を知らぬまま通常の生活を送り、高線量の放射性物質を浴び被曝。
・しかし、翌4月27日にスウェーデンのフォルスマルク原子力発電所にて
 この事故が原因の特定核種、高線量の放射性物質が検出され、
 近隣国からも同様の報告があったためスウェーデン当局が調査を開始、
 この調査結果について事実確認を受けたソ連は4月28日にその内容を
 認め、事故が世界中に発覚。

・発電所にもっとも近いプリピアーチ市の全人口45,000人は事故翌日の
 27日午後から全員強制退去させられた。
・またチェルノブイリ市(当時人口16,000人)を始め周辺30km以内に
 居住する住民、計112,000人は数万台のトラックなどによって、すべて
 強制退去させられた。農家の家畜も一緒に移動した。
・移住した住民のなかには無断で元の住居に戻っている人もおり、当局も
 それを黙認している。その数は30km圏内で数千人に達しているという。
898世界@名無史さん:2011/12/06(火) 23:32:59.20 0
(蛇足・・・経緯B)
・事故当時、ソ連の威信をかけて隣接する原子炉の運転を継続することが
 決定され、25万人に達する軍隊が動員され、発電所周辺30km圏内の
 要所要所の放射能除染作業が強行された。
 (ブルドーザーなどで表土をはぎ取り、それを深い穴に埋める作業)
 原子炉に通ずる主要な道路に沿った村落や、林などはすべて
 取り払われ「埋葬」された。これらの汚染除去や石棺の建設などは
 高放射線下の危険な労働である。(その総数は60万人と推定)

・ソ連政府の発表による死者数は、運転員・消防士合わせて33名だが、
 事故の処理にあたった予備兵・軍人、トンネルの掘削を行った炭鉱
 労働者に多数の死者が確認されている。
・長期的な観点から見た場合の死者数は数百人とも数十万人とも
 言われるが、事故の放射線被曝と癌や白血病との因果関係を直接的に
 証明する手段はなく、科学的根拠のある数字としては議論の余地がある。
・事故後、この地で小児甲状腺癌などの放射線由来と考えられる病気が
 急増しているという調査結果もある。

・4号炉は事故直後、大量の作業員を投入し「石棺」と呼ばれるコンクリート
 の建造物に覆われた。建設は6月に開始され、11月に完成。
・ウクライナ政府は、財政難(原発新設不可能)・国内のエネルギー不足
 のため、残った3つの原子炉を運転させ続けた。
・1991年に2号炉で火災が発生、修復不能で切り離し。
 1996年11月に1号炉、2000年11月に3号炉が退役。(全プラント停止)
・2010.12/21より、ウクライナ政府は正式にチェルノブイリ原子力発電所
 付近への立ち入りを許可した。本来は発電所から半径30km以内は
 それまで立入禁止であった。(附近の放射線レベルが低くなったため)
 無人の土地となった現地一帯は、野生動物の宝庫となっている。
899世界@名無史さん:2011/12/07(水) 23:24:17.47 0
東欧革命
 東ヨーロッパで 1980 年代末から続いて起こった、ソ連型共産主義から
 抜け出し、民主化・自由化を求める一連の改革。

 1989. 11月、ベルリンの壁の崩壊
     12月、ルーマニアの政変
     同月、チェコスロバキアの共産党の一党支配の崩壊
 1990. 9月、ポーランドの非共産党系内閣の誕生
 などをいう。
900世界@名無史さん:2011/12/07(水) 23:43:54.52 0
ワレサ(レフ・ヴァウェンサ)[1943〜 ]
 1980年、全国的な自主労組「連帯」を組織して議長となり、政府の
 弾圧に抵抗。共産主義政権崩壊後の90年、大統領に選出。

 (補足)
  ・高校卒業後、グダニスク造船所(旧レーニン造船所)で電気技師となる。
  ・1980.9/17、独立自主管理労働組合「連帯」(労働者による自主的かつ
   全国規模の労働組合。のち公然たる反共運動へと発展)創設メンバー。
   当時の政策を批判したため、1981.12/13の戒厳令により身柄を拘束。
  ・1982.5/1、ワルシャワで10万人参加の抗議集会(5/3には全国で集会)
  ・同年11/11、ワレサ釈放。12/31、戒厳令停止。
  ・1983.ノーベル平和賞受賞。
  ・ゴルバチョフのペレストロイカ進展とともに「連帯」が勢力を強める。
  ・1989.6/18、総選挙により、統一労働者党(旧政権)はほぼ潰滅状態。
    9/7、非共産党政府の成立によって民主化が実現。
  ・1990年の大統領選挙で当選、次々と自由化・民営化を行っていく。
  ・1990.11/14、統一ドイツとの間で国境線を最終確認。
  ・1993、戦後から駐留していたロシア連邦軍(旧ソ連軍)が全面撤退。
  ・再選をかけた1995年の大統領選でクファシニェフスキに僅差で敗れた。

(その後のポーランド)
 ・1997、憲法の大幅改正。行政権が大統領から首相へ委譲。
 ・1999、NATOに加盟。
 ・2004.5/1、欧州連合(EU)に加盟。
 ・2010.4/10、カティンの森事件70周年の追悼式典に出席するため
  向かったレフ・カチンスキ大統領(カトリック系保守政党「法と正義」所属)
  夫妻と94人の政府高官の代表団が、ロシア西部のスモレンスク郊外で
  発生した政府専用機墜落事故で死亡。
  6月、急遽大統領選挙。コモロフスキ下院議長(中道右派「市民プラット
  フォーム」所属)が当選。
901世界@名無史さん:2011/12/08(木) 00:03:55.34 0
東西ドイツの統一(ドイツ再統一)
   (なお「ドイツ統一」とは、1871.プロイセン王国の統一をさす。)
 1989
 11/9、ベルリンの壁が崩壊(東ドイツで出国の自由化が発表されたのを
    機に、東西の市民によって壊される。)
 1990
 3/18、東ドイツにて自由選挙が実施され、ドイツ統一を主張する
     保守連合「ドイツ連合」が勝利。
 5/5、東西ドイツと米英仏ソの6ヶ国外相会議が開催。
 7/1、東ドイツにドイツマルク(西ドイツの通貨)が導入。
 7/17、6ヶ国外相会議で、統一ドイツのNATO加入を確認。
 8/23、東ドイツ人民議会(国会)で東ドイツ5州の西ドイツ加盟決議。
 8/31、ドイツ統一条約が調印。
 10/3、西ドイツ基本法23条に基づき、東ドイツの州が西ドイツに加入。

 (その後)
 ・旧東ドイツ国営企業の民営化や大規模な整理解雇を行う。
 ・民営化された国営企業の相次ぐ倒産により失業者数が増加。
 ・東西ドイツ時代には封じられていたネオナチ思想(極右政党の移民排斥
  の主張)も、格差の残る旧東ドイツを中心に息を吹きかえしている。
 ・統一の際、通貨交換レートが東ドイツ有利(3:1が妥当な所、1:1とした)
  だったため、西ドイツは赤字転落。
 ・再統一後も、旧東ドイツへの援助コスト増大などによって、旧西ドイツの
  経済は圧迫を強いられている。
902世界@名無史さん:2011/12/08(木) 00:13:09.32 0
ルーマニア(英語:Romania・・・「ローマ人の国」の意)
 黒海に臨み、南をドナウ川が流れる。首都ブカレスト。
 石油・天然ガスを産する。人口2196万(2010)。

 ・古代ローマの属州ダキア。ローマ人定着。
 ・14世紀、ワラキア・モルダビアの2公国が成立。
 ・のち、オスマン帝国の支配下に。
 ・1878年、独立して王国となる。(>>95
 ・第2次世界大戦で、枢軸国側で参戦。→パリ条約(>>736
 ・1947年、人民共和国。
 ・1965年、社会主義共和国に移行。
 ・1989年、社会主義体制が崩壊、国名をルーマニアと改称。
 ・2007年、EU(欧州連合)に加盟。
903世界@名無史さん:2011/12/08(木) 00:20:13.44 0
チャウシェスク【Nicolae Ceauescu】[1918〜1989]
 ・スターリン主義を発展させた自主路線を展開。
 ・1974年には初代大統領に就任、独裁体制を確立。
 ・1989年12月の民主化で失脚し、夫人とともに処刑された。

(補足)
 ・1958年にソビエト連邦の軍隊をルーマニアから撤退させたゲオルゲ・
  ゲオルギュ・デジの後任として政権を確立。
 ・1967、元首となる。政権を獲得してからしばらくの間、外交政策において
  はソ連と距離を置く親西欧路線を取り、ルーマニア国内および西側諸国
  で人気を得た。(チェコ事件に抗議、西側諸国へのアプローチ)
 ・1974、大統領に就任。

 ・1971の訪問後、北朝鮮の政治体制と主体思想(金日成のチュチェ思想)
  に影響され、政権後期にはソ連のスターリン政権を凌ぐ恐怖政治を行う。
  (秘密警察「セクリタテア」による国民生活の徹底的な監視・盗聴など)
 ・妻のエレナ・チャウシェスクとともに縁故主義による独裁政治を敷き、
  「王朝」と呼ばれるほど権勢を欲しいままにし、国民の福祉と人権を無視。

 ・1970年代のエネルギー危機で対外債務が膨れ上がり、債務返済の
  ために飢餓輸出政策(自国の食料を輸出、国民には配給制)を強行。
  債務は10年間で完済したが、国民の生活は飢えと寒さで東欧でも
  最低のレベルにまで転落した。
 ・1989年12月にティミショアラで勃発した反政府デモに対して武力弾圧を
  行い、多数の犠牲者を出す。
 ・その後まもなく勃発したルーマニア革命によって政権は倒され、裁判を
  経て最期は妻・エレナとともに公開処刑(銃殺刑)された。
904世界@名無史さん:2011/12/08(木) 00:28:08.86 0
(蛇足ですが)
  ルーマニアといえば、やっぱり・・・

コマネチ
 ・ルーマニアの体操選手。1961生まれ。
 ・1976年に行われたモントリオールオリンピックで3個の金メダルを獲得。
  (当時14歳)
 ・またこの大会で体操競技選手としてオリンピックの舞台で初めて
  10点満点を獲得した。(掲示板には1.00点と表示)
 ・「白い妖精」と呼ばれ、帰国後チャウシェスク大統領から勲章をもらう。
 ・1980年のモスクワオリンピックでも2個の金メダルを獲得。
 ・1981年に現役生活を引退、1984年に国際オリンピック委員会の委員
  に就任。
 ・1989年11月ルーマニア革命の直前にハンガリー、オーストリア経由で
  アメリカに亡命。チャウシェスク大統領の次男が一方的に愛人関係を
  持とうとした事に拒むことも出来ず、その事に耐え切れなくなったため
  という報道もなされた。
 ・1996.4/27、ブカレストで結婚。国民は温かく彼女を迎え入れた。
 ・現在は、ルーマニア体操協会の名誉会長などをつとめる。

 ナディア・コマネチ モントリオール五輪 (1976年)
 http://www.youtube.com/watch?v=2QcMnKIFkJQ
905世界@名無史さん:2011/12/08(木) 22:30:24.51 0
ソ連の崩壊
 ・1985、ゴルバチョフによるペレストロイカと新指向外交→改革推進。
  しかし経済改革は遅々として進まず、新たに民族問題も噴出。
 ・この間、エリツィンが台頭、守旧派と妥協していくゴルバチョフに反発。
 ・1990.3/11、リトアニアが独立宣言。
 ・1991.1月のバルト三国への軍事介入にソ連国民反発、ゴルバチョフ
  退陣を要求。4月、ゴルバチョフとエリツィン和睦。
 ・6/20、ロシア大統領選で、保守派がエリツィンに惨敗。
 ・6月、コメコンの解体の議定書の調印。
 ・7月、ワルシャワ条約機構の政治機構が解体。
 ・8/19、改革に反対する党と政府の幹部(ブレジネフの流れを
  くむ守旧派)によるクーデター。
  ゴルバチョフ軟禁→エリツィン抵抗により、8/22、クーデター失敗。
 ・8/24、ゴルバチョフは党書記長を辞任、8/28、共産党は事実上解体。
  (クーデター支持の「プラウダ」等発禁処分、タス通信の社長解任)
 ・8/20、バルト三国、そろって再独立を実現。
 ・このあと12月までに、連邦構成共和国は次々に独立の宣言をする。
 ・12月、ソ連邦崩壊。バルト三国を除く共和国でCIS(※)が作られた。

(※)CIS 《 Commonwealth of Independent States 独立国家共同体》
 ・本部はベラルーシのミンスク。
 ・現在は11の(旧ソ連の)共和国で構成される、ゆるやかな共同体。
 ・グルジア(1993年加盟)は、2008年8月、ロシアとの間で南オセチア
  紛争が勃発、メドベージェフ大統領が南オセチアとアブハジアの独立を
  承認、国境不可侵の取り決めが崩れたことで、CISを脱退した。
906世界@名無史さん:2011/12/08(木) 22:41:40.70 0
ボリス・エリツィン[1931〜2007]
 ・モスクワ市共産党第一書記、ロシア共和国最高会議議長などを歴任。
 ・1991年、国民投票によりロシア連邦初代大統領に就任。
 ・後に、強権・縁故政治を行い批判を受ける。
 ・1999、経済復興がうまくいかず、辞任。プーチンにバトンタッチ。

ウラジーミル・プーチン[1952〜 ]
 ・1975、レニングラード大学を卒業後、KGBへ就職。
 ・1985〜1990、東ドイツへ派遣。
 ・1991年のソ連崩壊後、サンクトペテルブルグ市副市長、ロシア連邦
  保安長官などを経て、99年に首相に就任。
 ・エリツィンに大統領代行に指名され、翌年の大統領選挙に当選、
  第2代ロシア連邦大統領に就任。
 ・2004年に再選。
 ・2008年、メドベージェフを後継者に指名。プーチンは首相に就任。
 ・2012年大統領選挙に立候補を表明。

 ・ソビエト連邦時代の「強いロシア」の再建を標榜。
 ・8年間のプーチン政権でロシア経済は危機を脱して大きく成長し、
  ロシア社会から高い支持と評価を受けている。
 ・エリツィンに抜擢されたのでエリツィン派だったと思われているが、
  むしろ政治家としてはゴルバチョフに敬意を表している。
 ・柔道五段。「柔道は単なるスポーツではない。柔道は哲学だ」と言う。
907世界@名無史さん:2011/12/08(木) 23:08:02.02 0
ユーゴスラビア
 ・1991.6月、スロベニア、クロアチア両共和国の独立宣言をきっかけに
  内戦が始まる。民族紛争の強い様相を現しながら泥沼化。
  (ユーゴ紛争)
  紛争の過程でボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアも独立を宣言。
 ・1992.4月、セルビア(ボイボジナ・コソボ2自治州を含む)とモンテネグロ
  がユーゴスラビア連邦共和国の創設を宣言。(新ユーゴ)
  従来のユーゴスラビア連邦、崩壊。
 ・1995、ボスニア・ヘルツェゴビナ和平協定。
 ・1998年初め、コソボ(アルバニア系住民が多い)で武力衝突が激化。
  2000人以上が死亡、30〜40万人の避難民が発生。
 ・1999.3月、NATOがユーゴ空爆など軍事介入に踏み切った。
 ・空爆終了後、国連安保理決議が採択され、以降、コソボは
  国連の暫定統治機構による暫定統治下におかれる。
  (2008年2月に「コソボ共和国」としてセルビアからの独立を宣言)
 ・新ユーゴは、2003年から「セルビア・モンテネグロ」に改称。
 ・2006、両国が分離して完全に解体。

 ユーゴの地図
 http://www.pluto.dti.ne.jp/katu-jun/yugo/yumapbig.gif
908世界@名無史さん:2011/12/09(金) 22:29:36.24 0
80年代西側主要国の長期安定政権
 英:サッチャー(保守党)1979〜1990 在任11年
 仏:ミッテラン(社会党)1981〜1995 在任14年
 独:コール (CDU)  1982〜1998 在任16年
 米:レーガン(共和党)1981〜1989 在任8年

サッチャー【Margaret Thatcher】[1925〜 ]
 ・1975年、保守党党首。1979年、英国史上初の女性首相となる(1990年まで)
 ・1982年、フォークランド紛争が勃発。奪還後、支持率73%を記録。
 ・経済再編のため、マネタリズムに基づく諸政策を実施。
 ・保守的かつ強硬なその性格から 鉄の女(the Iron Lady)とよばれる。

ミッテラン【Francois Mitterrand】[1916〜1996]
 ・マンデス内閣(1954-55)の内相、社会党第一書記などを歴任したのち、
  1981年、ジスカールデスタンと争い、大統領に就任。2期14年大統領を務めた。
 ・当初、法定労働時間の削減・社会保障費の拡大など社会主義的政策を
  実施したが、インフレの進行や失業者の増加で、自由主義的政策に転回。
 ・「戦後の大統領で最も偉大な人物」の第2位。(1位=ドゴール)(2005年調査)

コール【Helmut Kohl】[1930〜 ]
 ・1973年、キリスト教民主同盟(CDU)党首。
 ・1982年、西ドイツ首相。1990年、統一ドイツ初代首相に就任(〜98)。
 ・ドイツ再統一で政治的威信が頂点に。その後、首相と党首の座にしがみ
  つき続け、国民から飽きられ、1998選挙で大敗、退陣。

レーガン【Ronald Reagan】[1911〜2004]
 ・現職のカーターを破り、第40代大統領(1981〜89)。
 ・映画俳優から政界に入り、カリフォルニア州知事を経て共和党から大統領に当選。
 ・カーター時代の失地挽回のため、強硬な保守派として「強いアメリカ」の
  再生を唱え、財政支出削減・大幅減税・軍備増強などの政策を推進。
 ・最年長で選出された大統領(69歳)。在任中は耳が遠くなったが、至って
  健康。退任から5年後、自らのアルツハイマー病を告白。闘病に専念。
909世界@名無史さん:2011/12/09(金) 23:20:13.61 0
フォークランド戦争
 1982年におきたフォークランド諸島の領有をめぐる、アルゼンチンと
 イギリスとの間の戦争。イギリスの勝利。
 両国ともいわゆる西側諸国で、両軍とも一部同一の装備を使用。
 日本では「フォークランド紛争」とよばれることが多い。

 (経緯)
 ・1833よりイギリスが実効支配。
 ・その後、アルゼンチンは直接交渉・国連経由交渉で返還を求め続ける。
 ・アルゼンチン軍事政権が内政の行き詰まりから国民の不満を逸らす
  ために開戦。
 ・1982.4/2、アルゼンチンの陸軍約4000名が島に上陸、制圧。
 ・4/5、英・航空母艦2隻を中心とした第1陣出撃。
 ・4/25、フォークランド諸島に続いて占領されていたサウス・ジョージア島
  にイギリス軍の特殊部隊が逆上陸、アルゼンチン陸軍の軍備が手薄
  だったこともあり、即日奪還。
 ・アルゼンチン軍は、巧みな航空攻撃により幾度となくイギリス海軍の
  艦船を撃沈、当初有利に展開。
 ・一方イギリス軍は、米国やEC・NATO諸国の支援を受けた情報力をもって
  アルゼンチンの戦力を徐々に削っていく。
 ・6/7、フォークランド諸島に英軍地上部隊が上陸。ポート・スタンレーを包囲。
 ・6/14、アルゼンチン軍が正式に降伏。

 ・1990.2/5、両国の国交が再開され、戦争状態が終わる。
  但し、国交再開交渉では、この諸島の領有権は棚上げとされた。
910世界@名無史さん:2011/12/09(金) 23:28:34.23 0
 (補足)
 フォークランド諸島
  ・スペイン語ではマルビナス諸島。
  ・首都、ポート・スタンリー。(諸島内最大の都市。東フォークランド島東部)
  ・人口2,967人(2003年調査)。イギリス系白人の入植者がほとんど。
  ・東フォークランド島と西フォークランド島の2つの大きな島と776の
   小さな島からなる。総面積は12,173 km²。北アイルランドや
   長野県と同じぐらい。
  ・以前は、捕鯨船の悪天候時の避難港として利用。
  ・2度の大戦で補給基地として有効に機能し、戦略的に重要。
  ・寒冷海洋性気候であり、冷涼で風が強い。島のほとんどが不毛な
   地だが、一部、羊の牧草地になっている。
  ・領内で海底油田存在の可能性が判明。
911世界@名無史さん:2011/12/10(土) 23:48:10.10 0
ローデシア【Rhodesia】
 ・地名は、植民地の建設者、セシル・ローズ(>>341)にちなむ。
 ・英国自治領を経て、1953〜63年、ローデシア・ニアサランド連邦となる。
 ・ザンベジ川を境に分割統治。(現在の両国の国境)
 ・北ローデシアは、64年、ザンビアとして独立。
 ・南ローデシアは、65年、少数白人政権が出て独立を宣言(ローデシア)。
  80年総選挙の結果、黒人政権成立。ジンバブエとして独立した。

ザンビア【Zambia】人口1,346万(2010)。
 ・首都ルサカ。銅を産出。
 ・ザンベジ川の上流に、ビクトリア滝(幅約1.7キロ、落差約120メートル。
  1855、リビングストンが到達。1989、世界遺産に登録。)がある。

ジンバブエ【Zimbabwe】人口1,165万(2010)。
 ・首都ハラレ(旧称ソールズベリ)。主産物は葉タバコ・クロムなど。
(蛇足)
 ・現在はムガベ大統領(1980初代首相、1987大統領)の独裁政権下にある。
 ・劣悪な経済事情に加えて、秘密警察による監視や反体制派への暴力
  など言論の統制を受けることから「世界最悪の独裁国家」と評される。
 ・2000.8月以降、白人農家に対する強制土地収用政策後、基幹産業の
  農業が崩壊。これにより外貨不足が生じ、経済は極度に悪化、経済
  システムが崩壊。
 ・世界で最もインフレが激しく、2008年7月には1000億ジンバブエドル札を発行。
  (発行時の時点で世界最高額面の紙幣)。1000億ドル→10ドルのデノミが
  行われた後もインフレが続き、2009年1月には再び500億ドル紙幣を発行。
  年間インフレ率は約2億3000万%に達していた。(2009年1月現在)
 ・国民は通貨の額面ではなく、重量で取引をするありさまだったが、
  2009年1月29日、米ドルの流通を認め、米ドルの影響下に入ったことで、
  インフレは劇的な終息を見せた。ただ、経済は既に破綻しており、失業
  率が国連の推測で94%に達するなど、再建のめどは立っていない。
アフリカ南部の地図
http://slp80.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/03/08/10030612twain1.jpg
912世界@名無史さん:2011/12/11(日) 01:10:51.87 0
アパルトヘイト【(アフリカーンス)apartheid】《分離・隔離の意》
 ・南アフリカ共和国で行われてきた、白人支配者層による有色人種に
  対する人種差別・隔離政策。
 ・1948年に法制化されて以来、強力に推進されたが、国内の差別撤廃
  闘争の激化とともに激しい国際的非難を浴び、オリンピック参加拒否・
  貿易禁止などの制裁を受け、91年、法的には廃止された。
 ・日本人は白人ではないにも関わらず白人であるかのように扱われる
  名誉白人として認められ、日本は南アフリカ政府や南アフリカ企業と
  深い繋がりを持つことになった。

 【南アフリカ共和国】人口4911万(2010)。
 ・面積、1,219,912km2で世界第24位。日本の3.2倍。
 ・行政上の首都はプレトリア、立法府はケープタウン、司法府は
  ブルームフォンテーン。
 ・金・ダイヤモンド・ウランなどの世界的な産出国。
913世界@名無史さん:2011/12/11(日) 01:33:33.54 0
(補足・・・南アフリカ近現代史(これ以前は、>>339))
・1910、南アフリカ連邦成立(大英帝国内の自治領)。
・1911、白人労働者保護のための最初の人種主義法「鉱山・労働法」制定。
・1931、ウェストミンスター憲章が採択、イギリス本国と同格の主権を獲得。
・1948、アフリカーナー(オランダ系移民)の農民や都市の貧しい白人を
 基盤とする国民党が政権を握り、アパルトヘイト政策(人種隔離政策)を
 本格的に推進。反共主義を押し出し、朝鮮戦争に軍を派遣。
・1961、イギリスから人種主義政策に対する非難を受けたため、英連邦
 から脱退。立憲君主制に代えて共和制を採用(南アフリカ共和国へ)。
・1960代〜1980代、強固なアパルトヘイト政策を敷く。国内では人種平等
 を求める黒人系のアフリカ民族会議 (ANC) によるゲリラ戦が続く。
・占領していたナミビアで、ナミビア独立戦争がおこる。
・1974、植民地戦争によって疲弊したポルトガルでカーネーション革命が
 勃発。植民地だったアンゴラとモザンビークは社会主義国として独立。
 南ア・ローデシアは反共政策として直接・間接の軍事介入を行う。
・1980、ローデシアで、ローデシア紛争の末に白人政権が崩壊。
 新たに黒人国家ジンバブエが成立、反共のための戦いから脱落。
・1988、キューバ軍のアンゴラからの撤退と引換えに、ナミビアの独立を承認。
・1990以降、デ・クラーク大統領(国民党。在1989〜)の民主改革路線
 により、アパルトヘイト関連法の廃止、人種主義法の全廃を決定。
 (1993、デ・クラークとマンデラ、ノーベル平和賞受賞)
・1994.4月に、全人種参加の総選挙が実施されアフリカ民族会議 (ANC)
 が勝利。ネルソン・マンデラ議長が大統領に就任。(デ・クラークは副大統領に)
・アパルトヘイトが撤廃された21世紀になっても、依然として人種間失業率
 格差は解消されず。また特にジンバブエからの移民が急増、国内に住む
 黒人の失業率が増加する結果になり、大規模な移民排斥運動も発生。
・エイズの蔓延、教育水準の低い非白人の貧困、治安の悪化など懸念材料多い。
・人種の割合は、黒人79.3%、白人9.1%、カラード(混血)9.0%。
914世界@名無史さん:2011/12/11(日) 14:58:25.94 0
冷戦後半以降の中近東
   米国    エジプト   イスラエル    イラク       イラン         アフガン
─────────────────────────────────────
77 カーター   サダト・イスラエル訪問 76〜レバノン内戦激化
78         キャンプデービッド合意
79         エジプト・イスラエル平和条約      79.1-2イラン革命
  11月イランの大使館占拠       79.7サダム・フセイン大統領に    79.12ソ連軍事介入
80 4月イランと国交断絶            80.9イラン・イラク戦争(〜88)         ↓
81 レーガン   81.10サダト暗殺→ムバラク            ↓             ↓
82            シナイ半島返還.              ↓             ↓
. :                                  ↓             ↓
87               インティファーダ(〜93)         ↓             ↓
88            PLO「パレスチナ国家」樹立宣言  88.8イラン・イラク戦争停戦   ↓
89 ブッシュ(父)                                  89.2ソ連軍撤退完了
90                      90.8イラク軍クウェート侵攻
91                      91.1-3湾岸戦争
92               92.7.ラビン首相に
93 クリントン/WTC爆破事件 パレスチナ暫定自治合意
94               94.10イスラエル・ヨルダン平和条約       タ-リバ-ン(タリバン)台頭
95 対イラン全面禁輸 パレスチナ自治拡大/ラビン暗殺
96                      イラク.クルド紛争に介入   96〜2001タリバン実効支配
97
98 ケニア・タンザニア米大使館テロ    イラクの国連査察妨害で米英がイラク攻撃.   ↓
99
00               00イスラエルのレバノン撤退                   ↓
01 ブッシュ(子)/911同時多発テロ            01.10米のアフガン空爆/タリバン政権崩壊
02〜03                 03.3米英.イラク攻撃(イラク戦争)/フセイン政権崩壊
915世界@名無史さん:2011/12/11(日) 16:59:10.58 0
エジプト(サダト)とイスラエル和平の経緯
 (>>876の続き)
 ・1975.6月、第三次戦争以来8年ぶりにスエズ運河の通航が再開。
   第2次兵力引離し協定に調印、シナイ半島の非軍事化を進めた。
 ・1976.3月、エジプト、対ソ友好条約の破棄を通告。
   同時に米国に接近、国内では経済自由化を進める。(西側化)
 ・1977.6月、ベギン内閣がイスラエルに成立。サダト、急速に接近。
   11月、アラブ首脳として初の公式的エルサレム訪問。
   12月、イスマイリアにて、ベギンと首脳会談。
    (リビアのカダフィ、シリアのアサドは激怒、エジプトを批判。)
 ・1978.9月、米国キャンプ・デービッドにおいて米国、エジプト、イスラエル
   代表が会談、和平の合意(キャンプ・デービッド合意)に至る。
   イスラエルとの和解、奪われていたシナイ半島の返還に結び付く。
   (シナイ半島、1982より段階的返還、1989全面返還完了。)
  11月、エジプトを除くアラブ12カ国、首脳会談を開催、「バグダッド宣言」
    を発表、エジプトを裏切り者として中東和平を激しく非難。
 ・1979.3月、エジプト・イスラエル間で中東和平条約に調印。
   ベギンとサダトは、共に79年のノーベル平和賞を受賞。
 ・1981.10/6、対イスラエル戦勝記念パレードの最中、
   イスラム右派(過激派ジハード団)陸軍軍人によりサダト暗殺。

 (その後)
 ・サダトの対米・イスラエル協調政策は後継者ムバラクに引き継がれ、
  ムバラク独裁の下、エジプトは安定した成長を遂げる。
 ・エジプトがアラブ世界の指導的地位から離れると、それにかわって、
  イランとイラクが主導権を狙って登場してきた。
916世界@名無史さん:2011/12/11(日) 21:40:52.34 0
PLO(パレスチナ解放機構)《 Palestine Liberation Organization 》
 イスラエルに奪われた土地回復のため、パレスチナ人が結成した
 解放組織。

(補足)
・1964、パレスチナ解放組織の統合機関として結成。
・1974、アラブ首脳会議でパレスチナ人の唯一の正当な代表として
 承認され、国連オブザーバーの資格を得た。
・1991.10月、 米国の主導で中東和平会議が始まり、イスラエルと
 シリア・ヨルダン・レバノン・パレスチナの各代表が参加。
・1993、イスラエルとの間で相互承認を行い、パレスチナ暫定自治
 協定に調印、ヨルダン川西岸地域およびガザ地区に自治政府を
 組織することが認められた。
 (ノルウェーのホルスト外相らにより首都オスロで極秘交渉が進め
  られ、1993年にワシントンで調印。)
・1995、自治区を拡大するオスロ合意が調印され、
 1996、パレスチナ暫定自治政府が成立。

 アラファト【Ysir `Araft】[1929〜2004]
 ・エルサレムの生まれ。
 ・1969、PLO議長に就任。
 ・イスラエルとの間でパレスチナ人の暫定自治を実現させ、
  1994、ノーベル平和賞を受賞。
917世界@名無史さん:2011/12/11(日) 22:01:03.49 0
ホメイニ
 イランのパフレヴィー2世は、1963年より経済・社会の近代化
 (「白色革命」)を行ったが、農村の貧富の差が増大。
 1964、反対したホメイニ師を逮捕、国外追放とした。
 その後、国王の独裁反対の運動発生。
 国王追放後、イラン・イスラム共和国が成立。(イラン革命)
 イラン・イラク戦争終了後の1989に死去。

サダム・フセイン
 1979、イラクの大統領に。
 1980、国境問題の対立から、イラン・イラク戦争に突入。
 1990、8月、クウェートに侵攻するも、多国籍軍の攻撃で敗退。(湾岸戦争)

 (補足)
 その後のフセイン
 ・2001、9/11、アメリカ同時多発テロ事件が発生。
      アルカーイダを支援している、とイラクを非難。
 ・2003、3月、米大統領ブッシュ、大量破壊兵器保有という大義名分で
  イラク戦争開始。
 ・2003、5月、ブッシュ、「戦闘終結宣言」。
 ・2003、12月、隠れ家にいたところ、米軍特殊部隊に見つかり逮捕、拘束。
 ・2006、12月、絞首刑による死刑執行。
918世界@名無史さん:2011/12/11(日) 22:16:21.72 0
イラン・イラク戦争
 国境問題、ペルシア湾岸地域の覇権などをめぐって、イランとイラクとの
 間に起こった戦争。

 (経緯)
 1980.9、イラク軍奇襲攻撃。イラン西部国境地帯を奪取。イラン革命で
      国際的に孤立していたイランは、一時、降伏も検討した。
 1981.5、イラン民衆20万義勇兵の抵抗などにより、前線膠着。
      イランには、イスラエル・リビア・シリアが加勢。
 1982.6、形成逆転。イラクより休戦持ちかけるも、イラン拒否。
 1984、イラン・イラク間の戦闘が再燃。
    11月、イラクと米国の国交回復、米国支援すすむ。
 1985.3、相互に都市をミサイルで攻撃しあう。
 1986.3、イランの支援を続けるリビアと、米国が交戦。
    12月、米国でイラン・コントラ事件(イランに武器供与)が暴露される。
 1987、クルド人にイラク国内反乱を仕向けるが、イラクは化学兵器を使用。
 1988.2、相互都市攻撃を再開。米軍出動、イランと交戦。
    イランに対するサウジアラビアの断交通告などもあり、8月、停戦。
 1989.6、革命の父ホメイニー、死去。
 1990.8/2、イラク、クウェートに侵攻。(翌年に湾岸戦争となる)
 1990.9/10、イラン・イラク両国間で国交が回復。
 
 推定戦死者、イラン=75〜100万人、イラク=40万人。
 この戦争を通じてクウェートに対して抱え込んだ負債(100億ドル)を帳消し
 にすることが、イラクのクウェート侵攻の目的のひとつであったとされる。
919世界@名無史さん:2011/12/11(日) 22:33:00.74 0
湾岸戦争
 イラクにより侵略・占領されたクウェートの解放をめぐる戦争。

 (経緯)
 1990.8/2午前2時、イラクがクウェートに侵攻。50倍の兵力で、午前8時
  には全土を占領。クウェートの首長はサウジアラビアへ亡命。
 同日、国連が即時無条件撤退を求める。
 8/6、国連、イラクへの全面禁輸の経済制裁を採択。
 8/7、米国は、多国籍軍の編成を開始。(英・仏・アラブ各国同調)
 8/8、イラク、クウェートを併合。8/18、人質を「人間の盾」にすると発表。
  (12月までに全員解放。)
 11/29、国連、「対イラク武力行使容認決議」を採択。
 1991.1/17、イラクを空爆して湾岸戦争が始まる。
 2/23より、陸上部隊による進攻が始まる。
  多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、2/27、クウェートを解放。
  陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止、停戦を宣言。
 3/3、暫定停戦協定が結ばれ戦争が終結。

戦費611億ドル。360億ドルはペルシャ湾岸諸国(サウジアラビアなど)
が負担。日本が130億ドル、ドイツが70億ドル支払う。
920世界@名無史さん:2011/12/11(日) 23:05:15.07 0
(蛇足)
クウェート
 ・人口300万、面積17,820km2(四国18,300km2と同じくらい)
 ・国土のほぼ全てが砂漠気候。4〜10月は厳しい暑さで、降水もない。
  12〜3月は気温も下がり快適な気候となるため、避寒地として有名。
 ・砂漠気候のため、農業は発達せず、食料は外国に大きく依存している。
 ・豊富なオイルマネーによって、産業基盤の整備や福祉・教育制度の
  充実を図っており、ほとんどの国民は国家公務員・国営企業の社員
  として働いている。失業率は1.2%と低水準。

 (歴史)
 ・16c頃より、オスマン帝国の支配下。
 ・1756、現首長家(サバーハ家)による支配開始。(オスマン帝国下で)
 ・1899、イギリスの影響下に。
 ・1914、イギリスとオスマンの協定成立、イギリスの自治保護領となる。
 ・1930頃、主要外貨収入源の天然真珠産業が、日本の真珠産業(御木本
   による人工養殖技術開発)に駆逐され、深刻な経済危機に。
 ・1938、巨大油田(ブルガン油田(世界第2位の油田))を掘り当てる。
 ・1946、ブルガン油田生産開始。以降、石油産業が主要産業に。
 ・1961.6/19、イギリス支配からの独立
 ・1990〜91、イラク軍の侵攻、湾岸戦争

 憲法によって立憲君主制を取っているが、首相以下、内閣の要職は
 サバーハ家によって占められており、実態は一族独裁による事実上の
 絶対君主制である。言論・表現の自由も存在しない。
921世界@名無史さん:2011/12/12(月) 23:50:59.84 0
アメリカ同時多発テロ事件
 ・2001年9月11日にアメリカ合衆国で発生した、航空機を使った4つの
  テロ事件の総称。
 ・航空機を使った前代未聞の規模のテロ事件であり、全世界に衝撃を
  与えた。
 ・この無差別テロ事件の犠牲者は、すべての死者を合計すると2,973人
  とされている。内訳はハイジャックされた4機の旅客機の乗員・乗客が
  246人、アメリカ国防省で125人。世界貿易センタービルで2,602人と
  されている。

 (経緯)
 ・9/11、午前7:54〜8:42、米国東部各地の空港から、4機が離陸。
  (アメリカン航空とユナイテッド航空のB767とB757、各2機)
 ・8:14〜9:27、4機がハイジャックされる。
 ・8:46、WTC(ニューヨーク世界貿易センター)のツインタワー北棟に突入・炎上。
 ・9:03(日本時間22:03)、WTC南棟に突入・炎上。(左旋回中に衝突)
 ・9:38、3機目、ペンタゴンに激突・炎上。
 ・10:03、4機目はワシントンD.C.北西240kmの場所に墜落。
  (標的はアメリカ合衆国議会議事堂かホワイトハウスであったと推測)
 ・9:59、WTC南棟、砕けるように崩壊。
 ・10:28、WTC北棟も同様に崩壊。
 ・非常事態宣言により、民間航空路封鎖・強制着陸、国境閉鎖。
 ・20:30、フロリダ州の小学校にいたブッシュ大統領(子)、ホワイトハウス
  に無事帰還。全米に向け、国家健在の演説。
922世界@名無史さん:2011/12/13(火) 00:01:42.96 0
(蛇足)  
世界貿易センター(英語:World Trade Center, WTC)
 ・1966、老朽化した一帯を、再開発で全て更地にして建設開始。
  直方体のシンプルさを際立たせ、シンボリックにするため、110階建て
  2棟となる。(日系アメリカ人建築家のミノル・ヤマサキの案)
 ・1972、北棟、1973、南棟完成。当時世界一の高さ。(415m)
 ・1975、展望デッキ、展望レストランができ、NYの観光名所に。
 ・1980年代、金融関係の入居進み、一日の勤務者は5万人、来館者は
  20万人。
 ・1993.2/26正午すぎ、爆破物を満載したバンが地下駐車場で爆発。
  (世界貿易センター爆破事件) 被害軽微。
 ・2001.9/11、アメリカ同時多発テロ事件で崩壊。(WTC7棟すべて)
 ・2002.5月いっぱいで残骸は全て撤去、遺体の捜索も合わせて打切り。
 ・2006、新7WTCが落成。
 ・WTC全体の再建事業完成は2010年代の見込。
  タワー1=高さ541.3m(1776フィート)(尖塔含む。本体は415m)
  タワー2=高さ411m。
923世界@名無史さん:2011/12/13(火) 00:10:19.19 0
(蛇足の蛇足)

現在(2011年)の世界の超高層建築物の高さ順位

    名称         都市  高さ   階数  竣工
1位 ブルジュ・ハリファ  ドバイ  828m  168階  2010年
2位 台北101        台北   509.2m 101階  2004年
3位 上海環球金融中心 上海   492.3m 101階  2008年
4位 環球貿易広場    香港   484m  118階  2010年
5位 広州塔        広州市  454m  37階  2010年
6位 ペトロナスツインタワー クアラルンプール 451.9m 88階  1997年
7位 ウィリスタワー(旧シアーズタワー)シカゴ 442.1m 110階 1974年
8位 ジンマオタワー(金茂大厦)上海  420.5m  88階  1998年
9位 国際金融中心・第二期 香港 415.8m  88階  2003年
10位 CITICプラザ(中信広場) 広州 391.1m 80階  1997年

(参考)
日本一:横浜ランドマークタワー 296m 70階 1993年
        世界では第51位の高さ(2010年7月時点)
東京スカイツリー 高さ634m(電波塔) 竣工 2012年2月末(予定)
924世界@名無史さん:2011/12/13(火) 21:53:15.53 0
ビンラディン Osama bin Muhammad bin Ladin(1957―2011)
 ・イスラム原理主義テロ組織アルカイダの指導者。
 ・サウジアラビア最大の建設会社サウジ・ビンラディングループ経営者の
  息子としてリヤドに生まれ、ジッダで育つ。
 ・大学に在学中、イスラム同胞団の論客に師事、原理主義に傾注。
 ・1979、ソ連アフガン侵攻後、ゲリラ戦に協力。(サウジアラビア政府の
  意を受け、アラブ諸国で志願兵募集や資金集め。)(>>894
 ・1990、イラクのクウェート侵攻に対し、志願兵組織を使った防衛案を
  サウジアラビア政府に提案するが、政府はアメリカに頼った。
  このため反サウジ・反米の運動を強めてスーダンに亡命。
 ・1996より、アフガニスタンに移動。
 ・下記の事件に黒幕としてかかわったとされる。
  (1) 1992年から相次いだ中東の米軍施設の爆破事件
  (2) 1998年のケニアとタンザニアのアメリカ大使館爆破事件
  (3) 2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件
 ・2011年5月、イスラマバード郊外に潜伏中、米軍に殺害された。

アルカイダ al(-)Qaeda (アラビア語で「基地」を意味)
 ・ビンラディンが1988年に設立したイスラム原理主義に基づくテログループ。
 ・当初の目的は、アフガン侵攻ソ連軍と戦うアラブ人義勇兵の訓練・指揮。
 ・ソ連軍撤退の91年頃から、アメリカやイスラム世界の「腐敗政権」打倒
  に目標を転換していく。
 ・世界各地のイスラム原理主義組織とネットワークを結成。(反米過激思想
  を持つ者が勝手にグループを作り、名乗って機能しているという説もある。)
 ・ビンラディン殺害後の6月、アイマン・ザワーヒリー(組織のナンバー2)が
  新たな指導者に選出されたと発表。

イスラム原理主義  Islam fundamentalism
 西欧的近代化を否定し、イスラムの教えに基づく国家・社会を築こうと
 する運動。
 本来はイスラム主義 (Islamism) と同義であるが、特に非イスラム教国に
 おいてイスラム主義を否定的な意味合いで言及する場合に多用される。
925世界@名無史さん:2011/12/13(火) 22:39:50.95 0
南アジア現代史略

   パキスタン     インド          周辺国
─────────────────────────
60
62          62.中印国境紛争(チベット問題)
64     65.第2次印パ戦争(カシミール地方問題)
66          66.インディラ・ガンディー首相に
68
70     71.第3次印パ戦争────→71.バングラデシュ独立
72                    72.セイロン、スリランカと改称
74          74.インド初の核実験
76
78
80
82                  83.スリランカでタミル人独立運動
84          84.インディラ・ガンディー暗殺
86                      87.スリランカで人種抗争
88.ブット首相に
90        91.ラジブ・ガンディー暗殺 90.ネパール民主化デモ
92
94
96
98    98.インド核実験→パキスタンも核実験
 99.ムシャラフ(軍部・親米派)によるクーデター
00       99.印パ・カシミール紛争
 01.民政移管、ムシャラフ大統領に(-08)
04
06
08         08.ムンバイ同時多発テロ 08.ネパール王政廃止
10    印パ両国の対立は現在も続いている
926世界@名無史さん:2011/12/13(火) 23:05:55.72 0
インディラ・ガンディー
 ネルー(>>763)の娘。父ネルーとともに独立運動に参加。
 インド共和国の第3代首相。(1966-77、1980-84)
 インド国民会議派の党首として盛んな政治活動を行う一方、非同盟
 諸国首脳会議の長としても大きな役割を果たす。
 1984.6月、シク教(>>226)分離主義者の殲滅を目的としてシク教の
 聖地黄金寺院を攻撃。反発を招き、10月、シク教徒により暗殺。
 後任の首相には長男のラジーヴ・ガンディーが就いたが、彼もまた
 1991年に暗殺された。(スリランカ闘争介入の復讐)

 (補足)
 マハトマ・ガンディー(>>762)との血縁関係はない。
927世界@名無史さん:2011/12/13(火) 23:21:54.79 0
第3次印パ戦争
 1947の独立以降、東西に分かれていたパキスタンで、経済・文化の
 違いから、東西の対立が大きくなっていた。(西側に偏った政策)
 1970.12月選挙で東パキスタンの政党勝利→1971.3月、東へ軍事介入。
  →対立が決定的に→内乱発生→バングラデシュ独立戦争
   東西パキスタンの対立に、インドが東パキスタンの独立を支持。
    (つまり、敵の敵は味方)
 1971.12月、東パキスタンからの難民問題がきっかけで第3次印パ戦争へ。
  (パキスタン=米国支援、インド=印ソ平和友好協力条約でソ連の支援)
 1971.12/16、パキスタンから、バングラデシュ人民共和国(ベンガル共和国)
     が独立。

 (蛇足)
 バングラデシュはベンガル語で「ベンガル人の国」という意味。
 世界で7番目に人口が多い国(1億5220万人)であり、都市国家を
 除くと世界でもっとも人口密度が高い。
928世界@名無史さん:2011/12/14(水) 23:52:14.19 0
ネパール
 ・首都カトマンズ。面積14.1万km²(北海道本島が7.8万km²)
 ・人口2,895万(2010)。約80%がヒンズー教の教徒。
 ・農耕・牧畜が主産業。
 ・ヒマラヤ山脈のエベレスト・マナスルなどの高峰があり、登山で知られ
  ヒマラヤ観光などの観光業も盛ん。(1953、ヒラリー、エベレスト初登頂)

 (歴史)
 ・13世紀末以来マッラ朝が栄える。
 ・1769、三王国が並立していたネパールを統一、シャハ朝が成立。
 ・1814-6、ネパール・イギリス戦争(グルカ戦争) 。
  ネパールが英印両国に傭兵(グルカ兵)を出すきっかけに。(現在も)
 ・1951、立憲君主制を宣言。
 ・1959、初の総選挙。翌年、国王のクーデターで議会解散。
 ・1996〜 ネパール内戦。(王政打破をめざす共産党の暗躍)
 ・2008.5月、制憲議会が開催、共和制宣言がなされ、王政を廃止。
 ・現在は、ネパール共産党毛沢東派など、いくつかの共産党派閥が
  入り乱れて連立政権を作っている。
929世界@名無史さん:2011/12/15(木) 00:13:31.48 0
東南アジア現代史略

  ミャンマー  タイ  ラオス カンボジア ベトナム  マレーシア シンガポール インドネシア   フィリピン

56     57タイ軍事クーデタ         57マラヤ連邦      57スカルノ独裁
58                              59シンガ英自治領に
60.                              (リー・クアンユー59-90)
62 62ネウィン政権  62ラオス統一        63マレーシア連邦成立
64         64ラオス内戦  64トンキン湾事件   65シンガポール独立    65マルコス
                    65〜ベトナム戦争         65.インドネシア930事件
66(67.ASEAN結成)                     67.スカルノ失脚,スハルト大統領に
68                  68テト攻勢
70              70ロンノルクーデタ        70年代シンガ経済発展(NIES)
72     72日貨ボイコット     73和平協定
74             75ポルポト         74ポルトガル政変→東ティモール不安定化
76(77.SEATO解散) 75ラオス王政廃止 76ベトナム統一     76東ティモールを武力併合
78             79ヘンサムリン 79中越戦争
80           (79-91カンボジア内戦) 81-03マハティール
82                                     83ベニグン・アキノ暗殺
84                        84ブルネイ独立(1959〜英自治領)
86                  86ドイモイ政策               86マルコス失脚
88 88軍事クーデタ→89ミャンマーと改称                   →コラソン・アキノへ
90 91スーチー,ノーベル平和賞 91カンボジア停戦協定
92    92タイ民主化運動 93シアヌーク国王復帰
94                  95米と国交正常化,ASEAN加盟
96
98              98ポルポト派壊滅       98ジャカルタ暴動→スハルト辞任
00                               00アチェ州分離運動
02 02軍政,スーチー解放                   02バリ島テロ,東ティモール独立
04                          04.12スマトラ島沖地震(津波被害甚大)
930世界@名無史さん
アウンサンスーチー【Aung San Suu Kyi】[1944〜 ]
 ・「ビルマ建国の父」アウンサン将軍の長女。ミャンマー民主化運動指導者。
 ・もと、国民民主連盟(NLD)総書記長。
 ・軍事政権により、1989年から2010年まで、断続的に自宅軟禁下に
  置かれた。
 ・91年ノーベル平和賞受賞。
 ・原語では姓名の区別なく「アウンサンスーチー」と一語で表記する。
  (ミャンマーに住むビルマ民族は性別に関係なく姓を持たない。)

アウンサン【Aung San】[1915〜1947]
 ・ビルマの独立運動指導者。
 ・第二次大戦中、独立のため日本軍に協力、のち抗日運動を指導。
 ・戦後は英国と交渉し、独立達成に尽力したが、暗殺された。
 ・「ビルマ建国の父」として死後も敬愛を集めている。

シアヌーク【Norodom Sihanouk】[1922〜 ]
 ・カンボジア(>>873)の政治家。
 ・1941年、国王に即位し、1955年に譲位。その後、首相・国家元首を歴任。
 ・クーデターによって王制が中断した1970年以降は、亡命と帰国とを
  繰り返しながら、カンボジアの民主解放闘争を指導。
 ・1993年に再び王位につき、2004年に子のシハモニに譲位。