超乙
即死とかってこの板あったっけ?
こっちに移った方が誘導になっていいのかな
陳寿の「蜀>魏」ってのは、実は蜀は強かった、とかを陳寿が事実を曲げてまで主張しているとか言うわけじゃないよ。
国史には、王朝、天子、皇帝の正当性を訴えるという重要な学術的思想的な役割がある。
紀伝体の体裁や、「崩」のような分かりやすいところでは、三国志の正統王朝は勿論魏だ。
しかし、細かい部分の多くで、陳寿は魏のとった正統な手続きや資格を「ないがしろ」にしている。
たとえば、劉備と曹操の外見、祖先、幼少の頃の意志。劉備と曹丕の皇帝即位の儀礼を比べるとよい。
聖人という 天子とは天下で最も高い霊的権威を持つ存在であり、正統な儀礼や黄帝の流れを組む血筋
のアピールは必須のことだ。
しかし陳寿は魏に対して、この義務を果たさずに終わらせ、その代わりのように蜀漢に傾注している。
まさに史官としての筆の妙と言えるだろう。
それだけではないと思うよ
先行史が魏に関するものは山のようにあったわけだし
細かい魏の歴史が知りたければそっち見ればよい状況下で三国志は物されてる
他の史料は発掘されないのかね
「いつか書きたい三国志」ってそういう名前のサイトがあるのね.それって面白い&信用できる?
>>7 誤訳・曲解が多い、と言うか解っていないところを飛ばしてしまうから、そうなるんだろうけど。
まあ、あの勢いと情熱は嫌いじゃない。
三国志をよむと蜀も呉も拠点支配、街道支配はできても 面としての統治は苦労してるんだなというかんじなんだけど。
魏はもっとしっかり領地を把握できてたのかな。。
>>7 初見なんでちらっとみてきたけど
事実を議論・推論するんじゃなくて
解釈を断定的に書いてるね
自分では資料で裏打ちしてるつもりかもしれないが
その資料を主観で変換してるのに気がついてないのかな
11 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 10:41:29 0
>>10 「こうだ!」と断定しようが、「こうである可能性があります」といおうが、文意は同じ。
なら断定のほうが読みやすくてよい。
12 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 10:44:03 0
>>10 大澤やニセクロも似たようなこといわれてたなあ。んははは。
>>8 確かにあの資治通鑑の翻訳スピードはすげえ。霊帝以前の後漢を知る切っ掛けになった。
>>7 日本語訳が無い本を訳してるのはとてもありがたいし、
他で書いてないことを書いてるからとても面白いのだが、
鵜呑みにすると危険なのは他の先行サイトと同じ。
でも、参考の一つとして読む分には面白いから、それでいいんじゃね?
つまらないうえに信用できないサイトが大半だからな。
郡国制度というのは結局江戸時代みたいなもんか?
>>7-11 あそこは「史実を元に小説書く、面白い解釈はコレだ!」っていうスタンスなので
そもそも歴史系サイトでないよ
すっごく熱心に史実を洗いなおしてるけど歴史小説サイト
>>5 でも夏侯湛が自分で編纂した先行史を捨ててしまったという話は、「先行史と陳寿三国志を合わせて一つ」みたいな考えとは矛盾するよな
18 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 12:16:11 0
>>16 タイトルどおりだよ。
俺三国志演義を書きたいのだろw
>>17 そりゃ夏侯湛と陳寿の考えが一致してたというわけでもなし
陳寿はある程度総合的に三国を纏めてるわけだが
先に書かれた史書の大半は魏ばかりの事象が書かれているわけで
魏の史料が欲しかったらそっち当たればよかったという時代性を鑑みるべきってことだよ
陳寿本人も自分の書は不完全であることはある程度認知してるらしく
所謂魏の五将軍を評価する時に、張コウは巧緻、楽進は勇猛でその名を知られてるけども
事跡に遺漏があるためか自分じゃ聞いたことないのでよくわからない
張遼、徐晃程詳しく書けない、と取材不足を認めちゃってる
>>19 そんななら蜀志だけ書けばよかった。わざわざ三国志を書いたのは、
この史書の描写こそが陳寿の提出する歴史観だということになる。
読むつもりがないようなので書くが
・外見
曹操 記載無し
劉備 身長七尺五寸、手は膝にまで垂れ,顧ると自分の耳を見ることが出来た
・祖先
曹操 曹参の子孫だが、養子の曹嵩の出自は明らかではない
劉備 景帝の子、中山靖王の子孫
・幼少の頃の意志や周囲の予言
曹操 特に無し
劉備 桑の木の予言と劉備自身の言及有り
曹丕 特に無し
・初代皇帝即位の儀式
曹丕 献帝の詔勅の引用のあと、儀式を行った、とのみ。
劉備 臣下の推挙を受けて漢を践祚して帝位に就き、その後天帝に報告したことを記載する。
元々蜀漢に対しても、「帝紀」の記載としては十分ではないのだが、魏に対してはこれをはるかに上回る。
特に、曹嵩の出自を明らかにできないなどと書き足したのは酷い。
儀式や外見等も、他の史書にあるので省略したなどの断りもない。
曹氏の天子としての霊性を否定する。これが陳寿の提出した歴史観だ。
今ならいくらでも資料が残ってて50年前くらいならそこそこのものがかけるわけだけど。
それでも太平洋戦争の真相とかわからないものな。
陳寿のころに前時代の歴史書編纂ってすごく大変だったろうね。
曹操評も同じくで、
「曹操は皇機を総御し、洪業を成した。しかしそれを成したのは、宰相の法術、将軍の奇策、時代に最優の明略によってである」
と陳寿は述べている。人としての才は超世、最優と絶賛しているが、天子・皇帝の器とは評していないわけだ。
>>20 蜀志自体、自分の地元なのに、関羽や張飛のような建国の英雄の伝がスカスカだし、
季漢輔臣賛に付けた説明文でも、魏や呉なら間違いなくちゃんとした伝記が書かれるような名将や名臣や重鎮に対して、
「資料分かんないから書けねー」連発してるじゃないかw
蜀志だけ書いてたら、そうとう無様なことになってたと思うぞw
蜀をマンセーするために蜀志だけ書きたいのにその程度しか書けないなら、
諸葛亮集と、劉備と資料が豊富にある蜀の英雄の伝記だけ書いてろって話w
具体的な王の祭祀の記述は曹家のほうが劉家より多いんだけど
社稷や耕作など
また霊性でいうと官渡の件を締めくくる真人伝説の紹介など
劉備にはないものも挿入している
>>20 君の主張する陳寿の思惑は否定しない
だが、それだけで本当に省略しまくってんだろうか?ということはもう少しちゃんと吟味しなければならない
俺は「それだけではない」と思うよ
>>23 スカスカなのはある程度意図的なんじゃないかと思う
無論記録もないのだろうけど、下手に「蜀マンセー!」ってやると身の危険がないとは限らないわけで…
まだ蜀と普通に戦った人が居る時代で且つ、肩身の狭い益州人だし
ある程度は世に阿らないとね
>>23>>25 別に史書が全数十巻の大著である必要は無いし。
華陽国志のようなものを書けばいいわけだ。
だいたい、本論じゃないところにばかり突っ込んでる。
蜀の史料の不足云々と、魏に対して本来あるべき記述の省略や余計な書き足しは全然別の問題なのに
なぜそっちに反論してくれない?
>>22 後漢書の評の中で、凄い凄いって言われてるだけで、
古代の名君どころか、宰相や大臣にすらなぞらえられてない上に、
さりげなく有能だけど不徳で名高い始皇帝になぞらえる文章を挿入して、
念入りなことに始皇帝を彷彿とさせるような描写を他の人物の列伝に加えるような范ヨウの真の意図は、
劉秀が実は始皇帝のような暴君で、天子たる資格がないどころか、
過去の宰相や名将にたとえるのも汚らわしい人物であることを後世に伝えることだったと。
歴史書の新しい読み方を学んだ気がするわ。ありがとな。
>>28 ああ、始皇帝の悪い功績で比較されいるのなら、そうかもね。
英雄的な皇帝の欠点を指摘するなら、始皇帝や漢武帝という例を持ち出すのが筋。
まあ、始皇帝は弊害も欠点も多くあったが、統一という偉大な功績を残した君主として認められているわけだけど。
「宰相や大臣にすらなぞらえられてない」じゃない。
帝・王の評論に、臣下だった人間を持ち出すのが「ありえない」こと、なんだ。どんな名宰相、名将であろうとも。
酷評とかいうレベルじゃない。筆法に反するほどのね。
武帝紀にある曹操の霊性あるいは正統性を補助する文
・官渡戦締めくくりの真人伝説
初,桓帝時有?星見于楚、宋之分,遼東殷馗馗,古逵字,見三蒼。
善天文,言後五十?當有真人起于梁、沛之間,其鋒不可當。
至是凡五十年,而公破紹,天下莫敵矣。
・魏公任命の際の献帝からの文章
・社稷建立・籍田・宗廟ほか様々な祭祀(曹操から歴代)
・断絶していた異民族の貢納
三国志ほど簡潔な史書からすると十分だな
蜀で省かれていることを魏でカバーしているし、その逆もある
禅譲とかはそれこそ詳しく他の書に書かれてたわけだし
劉備が皇帝就任の様を書いても身内贔屓の枠の中
むしろ劉備は決して理由もなく僭称したのではないという弁護的な空気すらある
>>29 お前と同じ読み方したら、劉秀=始皇帝と言いたいって范ヨウの裏の意図が読み取れるってこと。
実のところ、魏志の中には、曹操を古代の聖王や光武帝などの名君に例える文章の方が圧倒的に多いんだが、
それを陳寿がたくさん採用したのは目くらましで、実は曹操が王者の器じゃなかったことを示唆したかったのなら、
劉秀は始皇帝だと思わせたい范ヨウも同じ筆法を用いてることになる。
本紀の評で聖王や過去の名君の名前をわざと使わないで、
始皇帝と同じというイメージに、いろんなテクニックを用いて誘導したいのは明らかだからな。
「有史以来で最も刑罰が過酷で最悪の政治」とか、
「過失があったらどんな身分が低い者でも必ず自分の前で厳しく拷問した」とか、
「政務の全てを自分で決裁して、早朝から深夜まで休まなかった」とか、史記の始皇帝そのもの。
范ヨウはそれだけでも物足りなくて、劉秀が儒学の道理から外れてることを明らかにするために、
劉秀の手先として働いた法家官僚を大勢立伝し、
なおかつ有徳の儒者を何人も人々の希望を無視して殺したことまで暴いて、
劉秀が実は史上に類が無い暴君であると明らかにしている。
>>29 俺は文王に成ると自ら言ったらしい曹操が伊尹・周公に比せられるのは酷評ですと?
敦崇帝族,表繼?世,舊コ前功,罔不咸秩;雖伊尹格于皇天,周公光于四海,方之蔑如也
これが屈辱的とは新しい解釈ですね
>>30 下三つのような単純な「事実」まで削除したら本当に曲筆になってしまう。陳寿もそこまで大胆じゃないってことだ。
官渡の方は認める。
だからと言って、わざわざ宰相に例える評を残したり、曹嵩の出自を不詳とする文を加筆した事実は消えない。
帝紀を魏に置くように、三国志は基本的には魏を正統としている。ところが…
というのが陳寿の置いたトリックなわけだ。
>>31 そもそも統一の功業の賞賛を、始皇帝に擬えられるのは悪いことじゃない。
始皇の業、なんていい回しは良い意味でいくらでもある。
曹叡は始皇帝と漢武帝に比較されているが、だから「武帝や曹叡は王者の器じゃない」ってことになるのか?
んなわきゃない。始皇帝は歴史上、「帝王」の一角として大きな位置を占めている。
皇帝を批判するときにも賞賛するときにも引き合いに出される人物だ。
俺は、曹操が「刑死した商鞅」と同等の人物だった、なんて言ってないよ。
同じく劉秀と始皇帝が同等の人物だった、などとも言ってない。
比較される側、する側の個人的な能力や業績は今は問題じゃないんだ。
「臣下と君主を同一に並べること自体がありえない」と言っている。
曹操評に出された人物が商鞅ではなく蕭何・管仲でも同じことを言う。
それじゃあ陳寿は本文で徐晃に
常歎曰「古人患不遭明君、今幸遇之、常以功自効、何用私譽為」
なんていわせたのは何でだろ
君主扱いしてない、臣下だ、臣下だと言うけど曹操の事業を「洪業」と言ったり
「古人も出会えなかった名君が今ここに」と徐晃の発言を滑り込ませたり
陳寿が君の主張にそぐわない表記ブレ起こしてるよ
>>30 「真人伝説くらいしか無い」と言うべきだろうな
注で引用されてるような曹操、曹丕に関する数々の予言等をほとんど全て削除し、即位儀礼全体を劉備のそれよりも簡略化しているのが意図的なものであることは変わらないと思うよ
>>33 なるほど、なるほど。
周公や伊尹や管仲や蕭何に例えられるよりは、桀や紂に例えられる方がまだマシであると。
勉強になります。
二十四史の中で、評の中で過去の名相や名将の名前ばかり連ねられてる正統王朝の皇帝ってのは、
あげるのもめんどうなくらいたくさんいるから、みんなその才能を称賛するふりをして、
実は王者の器に非ずと書きたかったんだな。
>>36 めんどうといわず、名前だけでも挙げてもらえると助かる
>>34 陳寿の表現ブレはたくさんある。
劉備の即位を詳細に記しておきながら、皇帝としては扱えないところとか。
陳寿は、曹操個人の中原収拾の功績を否定しているわけじゃない。最大限に評価している。
西晋代に魏臣を必要以上に貶めることはできないし、
「故敵国だから悪く書いた」みたいな小さな恨みで魏志を書いたわけじゃないだろう。
「良史」と評されたように、かなりの部分で公正な歴史家だ。
しかし同時に、陳寿は蜀漢の名誉を護らねばならない立場だったし、
蜀漢が漢祚を継いでいたことを主張したかった。
そこに陳寿のブレが生まれているのだろう。
>>36 「マシ」とか言う次元の問題じゃないと何度も言ってる。
暴君だったら桀や紂に例えられることは「ありえる」。
しかし、一端の皇帝が蕭何や岳飛に例えられたら、
皇帝として「ありえない」存在だと烙印を押されたことになる。ってこと。
>>37 悪いけど、そういう面倒な作業を人に強要しないでくれるかな?
有能だけど巨人ってわけじゃないレベルの人ばかりだから、
二十四史読んでそう言う人の本紀の評を拾ってくのかったるいのよ。
>>38 そう、陳寿は表記ブレ起こしてるんだよ
政治的主張を巧みに織り込ませているのか、先行史との関係もあるのか
そういうことを考えなさいってこと
陳寿に政治的主張がないとは言わない、でもそれだけで曹操の記述を省いた、と断言できる程の根拠にはならない
推測の材料にはなるけどね
>>38 曹操だけの例じゃ分からないから、他の例もあげてそれが中華のスタンダードってことを立証してくださいw
常識過ぎて面倒なら、それが分かるサイトや本や論文を教えてくれたら自分で読みますw
>>39 ちょっと前にいいこといった人がいました。第二十巻から
947 名前:世界@名無史さん 投稿日:2010/12/09(木) 21:46:42 0
>>940 あなたにつれない態度を取る人間ばかりではなく、あなたの要求に応じようという人間もあなたの全ての態度を見ています。
そして、あなたの今回の行動は「自分に利益をもたらそうとしない人間など知ったことではない」と声高に言っているようなものです。
自分に利益をもたらさない人間に対して快い対応をしたくないと思うのは、立て前はともかく当然のことですが、
それを恣に表現してしまうのは長期的利益をもたらしません。
何故なら、そのような態度自体がそれを見ている周りから見たら快くない事だからです。
そして、快くないことを耐えようとしない人間に対して、自分ばかりが快くないことを耐えるのは難しいことです。
ですから、周りは教え甲斐というものを失って、冷たい態度を取るわけです。
直接相対している相手だけでなく、周囲のことを慮るのは、自分の利益の為でもあるわけです。
また、厳しいことを申し上げますと、世界史板は学問板ですので、
住人は他の住人に対し、自身の論拠ソースを除いてではありますが、
自助努力によって様々なものを探すことが出来ることを前提として求めています。
>>931の内容は無体なものでもなんでもない、割と当然のことなのです。
(後略)
>>41 多少ならかまわないけど、君主同士を比較してる例をいくら挙げても俺の説の証明にはならないんじゃない?
三国志内ですぐに思いつく例いうと、劉備と劉邦、曹叡と始皇帝・漢武帝、劉禅を斉桓公の亜と評する文も晋書あったかな。
>>43 劉禅は斉桓だとすると、覇者であるっていう表現なんだよね?
そんな馬鹿げた話ある?
既に破綻してるじゃない、その主張
もうみんな何が言いたいのかわからん
>>40 考えなさいと言われても。
烏丸のように他に記述があるので省いたという例はある。
でも、王朝に対しての史家の史観をなにより明確に示す帝紀で、
天子に即位する正統性を示す重要な儀式について、「魏は書かないのに蜀は書いた」
というのは、「政治的主張」に基づくものだろう。
単に魏を削除するのではなく、当時正統な皇帝と認められていなかった蜀漢
の儀礼をわざわざ書いているのだから。
曹操の見た目ってブサイクだったから陳寿が気を使ったんでしょ?
武帝記には身長が載ってるみたいだけど
>>46 先行していたのは魏書だけでなく様々なのあるし
その中に一々魏の国事関係は記載されてただろう
呉書にも恐らく孫権の即位関係のものは載ってるだろう
ネタ被りって面倒じゃねぇ?
多分他の史書には蜀のなんて載ってないし、統合的なスタイルで且つ三国纏めつつ
蜀にも言い分はあるという形を仕立てたという見方だって出来る
陳寿に一切の政治的主張がなかったとは言わないが、
それだけで曹操の記述を省く程であるのか?という疑問は
結論は出ないけど、常に考えなけりゃダメだよ
単純に政治的主張だから、で済ませていいものではない
>>44 ????
地方君主への例えとしては的確だろう? 上手い比喩だと思うが。
春秋戦国の公や王は、のちのちまで良君・悪君のたとえとして引用され続けている。
劉禅に対しても使われたってこと。
>>49 でも覇者だろ?
地方君主でありながら斉桓は中華を牛耳ってた存在なんだわ
劉禅は君の主張だと覇者の格で以って扱われてるわけだ
皇帝格じゃないけど斉桓ってのは「正統権力を補佐する」してきたという事績がある
つまり晋の時代に劉禅は「正統の補佐者」と評価されたってことだね
おかしいよね
>>48 面倒だからって初代皇帝即位の儀式を省略してしまうのか
王朝の断代史を書くに当たって、前代からの継承と次代への引渡しは
最も重要な事項の一つだよ。
この推移を書くために国史が書かれるのだと言ってもいい。
それを面倒はないだろう。
>>51 それは公式事業としての正史
陳寿のは私撰の書
>>50 そういうふうな、一人の人間に比喩されたから何もかもが同等の人物のはずだ、
と主張してるのは俺じゃなく
>>31だけだから、彼に言ってくれ。
どんな君主にも臣下にも、功罪さまざまな面がある。比喩に使われる意図も一つじゃない。
当たり前の話だろう?
ちなみに、劉禅が桓公の亜と評されたのは、若い頃は名宰相を信任しながら、
晩年に奸臣を重用して国を滅ぼすもととした、というくだりにおいて。
>>52 うん。だから三国志のこのような体裁は、陳寿個人の歴史観を反映している。
と主張している。
>>53 いや君の主張だよ
皇帝格で表記されるべき曹操に対して帝王でない人物の表記が出るのは異常
つまり曹操は皇帝格として扱われてないってことだろ
じゃあ劉禅を斉桓に例えるということは同じく帝王の器ではないってことだとしよう
斉桓は帝王でないのと同様に「覇者」でもあるので、正統の補佐であったわけだから
その評定した人は劉禅が皇帝ではないけど、正統は守ったと主張していることになる
これは「格」の話だよ
ちなみに曹操が申不害や商君と比せさられるのは、法家の術を用いたくだりにおいて
韓信、白起に比せられるのはその軍事能力において
「不念旧悪」とは儒教の聖人伯夷叔斉たちを指す孔子の言葉
名前出てる人たちが書かれてるのは評価じゃなくて技能の説明なんだわ
陳寿の評価は
「よく皇機を統御し、天子の事業を成し遂げたのはその明晰な計略が優れていたからであり
控えめに言っても常識では測れぬ世に冠絶した才能を持った傑物である」
だよ
>>54 それだけじゃない可能性を無いとは出来ないだろ
先行史が物沢だった時代と、三国志他いくつかの野史だけで
完結するような現代の史料状況の感覚を同一にしては無意味
>>53 大臣や将軍と比せられるのが、君主として低評価である理由を詳しく。
曹操以外の大臣や将軍に比せられてる低評価な君主の例もあげてもらえるとうれしいです。
>>55 >じゃあ劉禅を斉桓に例えるということは同じく帝王の器ではないってことだとしよう
ここまではいいけど。
>「覇者」でもあるので、正統の補佐であったわけだから
覇者「でもある」は、桓公が持つ要素の一つであって、諸葛亮や管仲の君臣関係を評価する場合には関係ないし、
地方君主か覇者かというのは、君-臣の垣根ほどの致命的な差ではないよね。
>評価じゃなくて技能の説明なんだわ
いやだから、宰相・将軍の技能で、功業を成し遂げてしまったと書いているのだが。
曹操の業績をいうなら、
・中原回復
・漢室保護
・帝王に等しい力を持ちながら帝位に昇らなかった
の三点が外せない肝だろう。阿るなら漢室への忠誠・王に留まった謙虚を強調することもできる。
しかし、陳寿はその一つしか言及していないわけだ。
劉秀なら「武力で再統一した」でもいいだろうが、魏はそうではない。
漢室保護は、魏の正統を示す重要な功績なのだが。
>>54 この時代、史書はほぼ全て私撰の書。有名な欽定史書は東観漢紀くらいか。
当時の朝廷周辺には有名無名の多くの史家達がいて、自分の著作で思想を戦わせたんだ。
王沈魏書は、残存している部分だけでも魏晋交代の正統性を書きつくして王朝を賞賛したことがわかっている。
しかし陳寿は。
>それだけじゃない可能性を無いとは出来ないだろ
「政治主張だけじゃない可能性は無いとはいえない」。
いやそこまで断定しているわけじゃない。
「魏践祚の省略は陳寿の簡明さと政治的主張が合わさったものだ」
くらいは認める。
>>56 「低評価」じゃなく、史書の評として「ありえない」。
天皇に対して、「あなたは伊藤博文のような人ですね」と言ったら不敬だろう?
>曹操以外の大臣や将軍に比せられてる低評価な君主の例もあげてもらえるとうれしいです。
俺は知らない。
>>36に聞いて
>>58 曹操の評だけをもって、そう判断するには怪しいんじゃね?
それがありえないと断言できるような常識だったら、他の歴史書もそういう体裁してるだろ。
曹操の例だけでそう判断するってのは、ぶっちゃけ自説に有利だから、ことさらにそれを鬼の首とったように騒いでるとしか。
明治天皇に伊藤博文のような政治力とか、児玉源太郎のような知謀とか、東郷平八郎のような武勇って言ったらそりゃ不敬だるうが、
伊藤博文や児玉源太郎や東郷平八郎が伝説の人物になってから、「陛下はあの方々のような才能をお持ちですな」と言ったら、
伝説の人物と比べてるってことで、不敬っていう奴がおかしくね?
>>57 >>54が認められるなら何で
>>40に反論するんだか
「断定はダメよ」って言ってるだけなのにさ
ちょっと意固地になってんじゃない?落ち着いて何よりだけど
あと呉人の書いた呉書も一応国家プロジェクトとしての史書の可能性高いかな
書いた人は太史令になったりしてるし
地方君主と覇者の差はでかいよ
桓公という覇者は「帝王ではないものの、帝王より巨大な実力を有して天子を補佐した」人物だし
>>59 現代日本の感覚で言ったらだめだね。
変な例え出して悪かった。
>それがありえないと断言できるような常識だったら、他の歴史書もそういう体裁してるだろ。
してる。
史書だけでなく、臣下が上表するときに「これぞ宣帝の功です」とか「それは始皇と同じ過ちです」
というのが当たり前の話。
だから、荀ケが劉邦の故事を持ち出すのは、荀ケは曹操を創業の帝王に擬えていたのだ、という議論が起こる。
逆に曹操評のような、帝紀に載る人間が宰相に比肩される例を俺には見つけることができない、と言ってる。
>>61 生前魏王、死後魏武帝だから名義上は間違いなく帝王の類だわな
曹操に申不害、商君の例えが、劉禅に斉桓の例えが出たからって
それがその人物の格と即座にリンクしてるとは到底言い難い
>>60 >地方君主と覇者の差はでかいよ
それはあなたがそう評価してるだけで、
五覇はただの有力な地方君主のたとえでも幾らでも引用されてる。
繰り返すが、王と臣が混同されるような無茶苦茶な例えではない。
>>64 俺の評価じゃなくて古代中国人の評価なんだが
武力で天下を統べるのが覇者
人徳で天下を統べるのが王者
両者の差は治める領域、領分ではなく政権獲得の動機、手順
王と覇者ってのは統治領分が被るんだよ格としては王が上に行くけどな
覇者がただの地方領主とか、面白過ぎちゃう
繰り返すが、王と臣が混同されるような無茶苦茶な例えではない。
>>62 帝王の仕事をした人なら、そりゃ帝王以外には例えようがないだろうさ。
しかし、曹操のように帝王ってより、将相のような功績が多い人間なら、
冷静に考えたら帝王に例えようがないんじゃないかと。
>>64 地方君主どころか、一代で滅んだ群雄や軍閥ですら、「桓文の業」とか言われるよな。
>>67 そりゃただのおためごかしか、瞬間最大風速的には一世を風靡したかのどっちかだろ
>>67 曹操個人に将相のような功績が多いというのはわかる。
しかし、魏の史書を書く以上、「魏創業の功績」や「漢輔弼の功績」を述べなければ、
「武帝曹操」を描いたことにはならない。
だからどうしても比較する名を出したいならば、周文王、周公旦、春秋五覇が相応しい。
相将として評価するなら単に褒めればいいわけであって、
わざわざ歴史上の臣下の名を出す必要は無い。
どうして陳寿はこんなめんどうなことをしたのか?
>>68 劉禅の「斉桓」ってのはおためごかしじゃない正当な評価なん?
業績を見ると、桓公の風邪なんてみじんも感じないんだが。
桓公が管仲に全部お任せしてただけの人間って評価が一般的なら、そうかと思うが。
>>69 文王や春秋五覇は、曹操のように将相の仕事を自分でやった人じゃなくて、
有名な将相を自分で動かした人だからだろ。
あと、お前の定義なら周公旦も臣下だわな。帝王どころか地方君主ですらない。
魯公ではあるが、血筋と創業の功績で得た封土だから、それが君主ってんなら楚王韓信も君主だよね。
>>71 周公旦は天子の仕事を文字通り代行した人だよ
公や王の封爵には「周公旦故事」が使われるんだよ。曹操のときも同じく。だから評で言及されるのも相応しい。
「優れた将相として自ら天下を往来し、五覇と同じく輔弼の功績を示した。
周公に比されて公王の位に昇りながらついに自ら帝位を望むことが無かったのは文王の徳であろう」
とでも褒めればよい。
「優れた才幹で将相として活躍し、皇機を掌握して洪業を興した」では、
漢魏交替の正統性を何も説明してないじゃないか。
75 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 17:58:16 0
迂儒ってこういう奴のことを言うんだろうってことがよくわかった
周公は一度王位に付いてその後奉還したという認識だったみたいだぞ
>>74 漢代では明確に違う。
伊尹や霍光は、伊尹は伝説時代でよくわからないが、霍光と同じく幼王を補佐した宰相級として使われる。
格としては漢代では侯に比定される。
周公旦は九命を与えられた公。曹操の時は広大な領土を与えられたことも周公に倣った。
王莽を経た後漢以降、「侯か公か」というのは竇憲のような権臣が臣下の分を超えるのを阻止する基準にもなったが、
それを超える有力者が現れて九錫が与えられた場合、
善事としていう場合には周公、臣下の専横と非難する場合には王莽の故事が引き合いに出される。
「周公」の周って成周(洛陽)のことじゃないの?
周公は魯公だろ。魯公兼摂政。
>>21 太平洋、もとい大東亜戦争の史料はある事にはあるんだが、各国が出し渋ってる
とくに日米中国な。下手なもんをリークすると外交に影響しかねないから
鳩山一郎がGHQに提出したと囁かれている内部告発資料も発表されず闇に葬られたまま
だから当時の事を勉強しようと思うと海外に飛ぶしかない。ドイツとか。翻訳されたものの数なんて高が知れてるし、厄介だよ
覇を優先する文脈で、「漢家の道は王と覇の折衷だ」と劉詢さんが言っていたし、地方君主云々の理論はおかしい気がするぞ?
これに儒者からも劉キンからも班一族からもツッコミが入ってないってことは、
やはり統治方針の話であって君主の領土の広さだのに言及するものではないかと思うが。
自立しててやる気と実績があったら、王だろうが覇だろうが好きなように自称していいし、
頑張れば賊に毛が生えた程度でも王や覇者に例えてもらえることもあるけど、
普通はそうならないねってことで、厳密な決まりはないんじゃね?
陳寿の諸葛亮びいきが 演義に影響して しまいにはここのみんなを蜀ファンにしちまってる。
げに ペンは剣よりつよし!
>>81 「劉禅の功績は桓公に次ぐ覇者のものである」
なら完全におかしいが。
「劉禅が先に諸葛亮を遇し、後に奸臣を信じること桓公に次ぐものがあった」
だから問題ない。
これが
「劉禅が些事を部下に任せること曹参のようだった」だったら誰もがおかしいと思うだろう。
桓公(君)と曹参(臣)には故事として越えられない壁がある。
>>84 劉禅は生まれながらの君主だから、曹参を例えに引くのはおかしいな。
これが孫休や孫皓のように後世の歴史家が一致団結して正統じゃないと認める奴でも、
「正統じゃないから君主に例えるのは間違い」って言って無理やりどこかの大臣を例にしたらアホ扱いされるだろう。
>>70 つまりただのおためごかし「名前を引いた人物の格ってのが評価される人物の格と一致してるわけではない」ってことだよね
>>84 「曹操の功績は商・申のようなものである」じゃなくて
曹操の技能は商・申、性質は(伯夷叔斉のような)不念旧悪だった
という陳寿の評価なんだから、「曹操が君主の器ではないとされている」という主張はできんでしょ
君の論を混ぜっ返して悪いけどさ
>>85 そうだね。
ただ、孫休も孫皓も「正統な皇帝」だよ。暗君・暴君かどうかと正統かどうかは関係ない。
>>86 曹操は、宰相・将軍としての技能は優れたものと強調されている。
にも拘らず、天命を受ける王朝創始者としての能力や徳、度量はどこで評価されているのだろうか。
禅譲への道筋を開いた「武皇帝」であるからには、その資質を備えていたと評価されるべきのはずだ。
「超世」「非常」は、非常に優れた臣下に対しても用いられる言葉。
では、もしあくまで曹操を一臣下として描写するなら、輔弼の忠誠はどこで評価されているのだろうか。
>>87 儒教の言葉が巧みに織り込まれてて曹操は高徳の天子であるかのように評に書いてあるんだが
89 :
世界@名無史さん:2011/01/23(日) 20:50:30 0
>>83 逆に吉川英治の『三国志』のお陰で、
日本では中国以上に曹操の人気は高い。吉川英治は小説の前半の実質の
主人公は曹操。小説の中で1000年に一度でるかどうかの大人物として絶賛
している。日本の曹操人気あ吉川英治のお陰だね。
ヒートアップぶりが面白かったよ、昨日からのここ
ショカツリョウって実は大したことなかったってマジ?
凄く誇大に書かれてるようにみえて実は大したことないようだが本当に凄い
云わば一周してしまった人
>>91 諸葛亮伝読んだら、かなり大した奴なのが分かる。
魏や晋の武将の列伝でイマイチなのは、
まあ諸葛亮に相手に活躍したってのが箔になるからしょうがないやね。
有名どころは曹操ですら、呉や蜀の武将の伝記じゃパッとしないし。
自分の国の列伝ではヒーローで、他国の列伝ではよってたかって引き立て役にされるってのが、
三国時代の大物の宿命。
>>91 演義とか三国志の二次創作から正史行くとたいしたことねーやと思うんだけど
よくよく調べてみると超常現象の類や地雷とかは使えないし
演義のようなトリッキーさではないものの、正史の諸葛亮ってすげぇってことに気付く
中世中国の作家は偉大だね
一周してしまった人ってのは言い得て妙だな
奇人魔術師化け物にしすぎなんだよ、中国人は
精々菅仲・蕭何に匹敵するぐらいで、軍師としては才に欠けていた
諸葛亮を短いセンテンスで表すなら人生設計以外堅実といったところか
まず菅仲・蕭何をせいぜいと言えるのが凄い
>>96 軍師じゃないしw
軍師中郎将や軍師将軍だったからってのは無しね。
光武帝の配下の左于って奴が史上初の軍師将軍だが、
こいつは別に光武帝の軍師でも何でもない。
当時の官職の「軍師」というのは、府主の実務を代行・総領する役職。
諸葛亮は中郎将時代から内外でそれに相当する職務をこなしている。
役職としての軍師は、本来凄く幅が広いもんだから、あんま定義を云々しても意味ない気がする。
どこの府にも属してないで軍部の偉いさんな軍師さんもいれば、
将軍の補佐役である軍師さんもいれば、最高権力者の幕府で政治から軍事まで手広く手掛ける軍師さんもいる。
>>101 前者は閑職扱いにされて本来の役職として機能してないだけだろう。
後二者は同じこと。要は「監」の役。
ただ、魏後期から府主をも「監」督する役割で宮廷から派遣される軍師もいたが。
呉の左右軍師とかは堂々たる軍の重鎮だろ。
それは府主ではなく皇帝の軍事機能を左右二人で代行・総領するものだろう。
漢では大司馬の役だが、三国時代ではそれだけでは実務職になれなくなっていたから。
105 :
世界@名無史さん:2011/01/24(月) 07:40:56 0
そもそも管仲に例えられることって単純な褒め言葉だったんかね
論語の中ですら孔子は管仲を上げたり下げたりしてて見解が一定してない
論語の鄭玄注や何晏集解の解釈では孔子は管仲を仁者と認めてたということだから
漢末〜曹魏には管仲を上げる見解があったとは言える
でも諸葛亮が「俺は管仲」と言って周りの連中に否定されたことの意味とか、陳寿が「管仲のたぐい」と評したことの真意とかは
諸葛亮や周りの連中や陳寿が管仲をどういうふうに評価してたかをピンポイントで把握しないと分からないわけで
諸葛亮と周辺の者たちが管仲をどう考えてたかは荊州の思想状況、いわゆる荊州学に関係ありそうだけど
荊州学って鄭玄に批判的なんじゃなかったっけ
法家の系統に属する補佐で一流の人物、ぐらいの共通認識はあったとしても
現代日本での「王佐の才!名宰相!」みたいな管仲のイメージとはだいぶ違うはず
107 :
世界@名無史さん:2011/01/24(月) 17:33:04 0
菅仲・蕭何に匹敵するという評は、
普通に考えても、最大限の賞賛だと思うけどな。
>>106 曹操に言わせたらそんなどうだっていいさ。というだろうな
>>106 管仲の派手さや節度の無さを引き合いに出されるならたしかにけなしてると思うけど、
引き合いに出されるような歴史上の人物ってのは「こいつはこんな奴」ってイメージがだいたい固定してて、
能力で代名詞的に使われる奴と、性格で代名詞的に使われる奴と、性格と能力の両方で代名詞的に使われる奴がいて、
性格を代名詞的に使われる奴はどんなに能力が優れてても、
その名前が出ただけでだいたい「性格のことを言ってる」って分かるし、
その逆の人は「能力のことを言ってる」と思って間違いない。
項羽のように性格と能力の両方が有名な人は、
性格や頭脳のことを言ってる箇所で使われてたらけなされてると分かるし、
武勇のことを言ってる箇所で使われてたら称賛されてると分かる。
つか、比喩表現ってのは、書物読む程度の教養がある読者すべてに、
その名前見ただけで「○○みたいってことは、能力が凄いのか」とか、一発で思わせないと意味無い。
誰もが一致するような分かりやすい一般的イメージで書かないと誤解されちゃうから、
人によって違うような解釈を込めて書いたりするようなことはしない。
>>106 違うはず、で終わってたら何も言ったことにならないぞ。
何かを主張したいのなら当時管仲が引き合いに出された例を検索したうえで
吟味考証しないと。
とりあえず、蕭何や楽毅と同列に持ち出される以上は、彼らに劣らない格の
なんらかの意義を持つ人間と看做されていたことはわかるね。
>>106 同時に蕭何とも評されてるのだから二人の共通点で考えればいいと思うけど?
二人の共通点は名宰相、共通してないところは節操
ちなみに斉の桓公はなんか部下に任せ切りだったって扱いなんだが
確かに後方支援や内政、外交は管仲に任せちゃってるけども
春秋の戦争は君主が普通に前に出て指揮する傾向も相まってふつーに戦上手なんだよね
112 :
世界@名無史さん:2011/01/24(月) 20:19:43 0
春秋時代の戦争は軍の規模が小さいから、君主が指揮官やって前に出ざるを得ないのだろ。
日本の源頼朝も、挙兵直後の戦いでは、自分の主従2人まで予備兵力として戦闘につぎ込まないといけなくなってるし。
>>112 元末で10万の兵動かせるぐらいな奴でも、自分で指揮官やって前線に出てるぞ?
114 :
世界@名無史さん:2011/01/24(月) 20:23:56 0
漢楚戦争の頃になると、軍の規模が大きくなって君主一人では統制できなくなり、将軍たちに権能を分与する必要がでてくる。
同時に、部下の将軍達に対する監視の必要も大きくなった。
その結果が劉邦の粛清祭だよ。
>114
113は?
116 :
世界@名無史さん:2011/01/24(月) 20:29:39 0
117 :
世界@名無史さん:2011/01/24(月) 20:31:28 0
三国志でも白痴将軍が前線に出て匹夫の真似するなと曹操に叱られてるだろ
光武帝も新末無双で特攻してたな
>>116 五胡十六国や五代十国の君主たちは?
前線に出ない奴の方が珍しい時代なんだけど。
120 :
世界@名無史さん:2011/01/24(月) 20:34:37 0
>>118 あれは味方が少数で大軍に囲まれてた。
ああいう状況では、指揮官が率先垂範しないと組織が保てない。
>>119 その時代は国が分裂しまくって、個々の組織がどんどん小さくなってるじゃん。
>>121 どのくらいの規模想定してるか知らないけど、
最低でも5万、そこそこのとこなら10万、かなりでかいとこなら20万は動かせるけど、
それが小さいってんなら黙るしか無い。一度の戦いで50万くらい動かせないと小さいってのは、
ハードル高過ぎな気もするけど。
劉邦も中核軍を自分で指揮してるけどね。
1)割拠期など小規模時代
→ 君主自ら(またはその代行たる信任厚い宰相や元帥)が軍閥や国家の主力軍を直接指揮下に置いている。
勢力を伸ばす国は、必然的に君主自身の軍事的功績が多くなる。
2)地方分立期など比較的大規模時代
→ 君主が中核軍を持つが、高位の将軍にも多数の兵力を与えて各方面に派遣する必要がでてくる。
臣下のうちに国家を代表する名将が出てくる。
最も重要な局面では君主自らが大軍団を総督して出征する。
3)王朝安定期
→ 将帥に任せ、君主自らが京師から出陣することは稀になる
勿論、例外はくさるほどあるが。
戦国時代は規模としては2)だが、国家の安定度では3)に相当するだろう。
五胡十六国や五代十国の国々は逆に、規模は大きくても安定度が低くて
君主自らが出張る必要がある時期が多いように思う。
劉秀などは一生涯で三つの時代をほぼ経験している。
劉邦は第三期に、曹操は第二期に完全に移行する前に死んだ感じ。
>>114 なんでそういう噓みたいな認識なん?
楚漢の争いっていっても別に劉邦がホウエツに軍を貸し与えていたわけじゃない。
韓信だって最初は劉邦の将軍ではあったが最後のほうは独立勢力に近かった。
べつに劉邦が韓信軍を支援したり補給したりしなかったからね。
いわば劉邦は皇帝になったが始皇帝みたいな皇帝ではない。
せいぜい徳川家康程度でしょ。
出発も皇帝になったときもヤクザの親分なんだよ。
子分と盃交わした程度。
だから粛清祭であるけど粛清というより建国後に権力闘争をおこなったんだよ。
皇帝になったからその時点で始皇帝みたいな、後世の皇帝達の様な権威や権力を備えていた訳じゃない。
内実は後から備えたんだ。長い年月をかけて。
それでも郡県体制はとれなかった。始皇帝の力は無理だったんだ。ようやく漢の皇帝が始皇帝に近いところまで行けたのは武帝の代だろう。
諸侯王の封爵をヤクザの親分の仕事といっちゃいかんだろ
反論するのはいいが言葉は選ぼうぜ
いや。
ヤクザの親分ですよ。
あの時代の群雄あがりの王達はほんとうにガラがわるかった。
皇帝や諸王の即位に伴う膨大な手続きと知識を盃交わした程度っていうなら
秦漢官僚制はなんだ? 高校の生徒会程度かな?
いいよ別に
ヤクザと思いたければそれでいいじゃない
噛みつくようなことじゃないよ
皇帝や諸王の即位に伴う膨大な手続きと知識のことはまた別な話しだよ。
それは秦で整備されただろうけど、それこそその前から構築されてきたものだから。
どういう体制がいいのか、試して生き残ったのが秦の制度だろ?
オレの言ってる盃ごととは別な話しだよ。
劉邦と諸王、特に燕王臧荼、韓王信、淮南王英布、梁王彭越、元の衡山王呉芮、趙王張耳なんてもともと劉邦の部下でも知り合いでも目下でもなんでもない。
それこそ劉邦は彼らの中の一人が特に有力になっただけなんだから。
項羽みたいに彼らに反乱されるおそれがあったんだよ。
まさに皇帝と諸王の関係は ヤクザの大親分と子分達の関係だよ。
ちがってるか?
>>129 細かいことを言うと張耳と劉邦は戦乱以前からの知り合いだけどな
あんたも執拗に主張するほどのことじゃないだろ
流せばいいじゃない
しかも漢の儀式的なことは後から儒者たちがこしらえたもんだよ。
そのインチキ元祖の孔子さんは本当の周の儀式なんかほとんど知らなかった。
捏造がかなりある。
実際に秀吉と大名達みたいながらのわるい連中だったのさ。関係もね。
おれは秀吉とその傘下の大名達も ヤクザの親分子分とおもってるからね。
ヤクザはきらいだけど彼らのやってることや上下の仕組みってのは封建制度の骨組みそのものでしょう。
劉邦時代の支配力と支配秩序が、どれだけの完成度で成立していたかという話だと理解していたのだが、違うのかな。
で、天子や王という存在自体、2000年の歴史に磨かれた高度な礼制秩序によって成立しているわけだよ。
(劉邦は皇帝と同時に天子になっている)
それに比べれば、秦式の官僚制など歴史が浅く、ゆえに中華全土に定着するにはまだ数十年の時間と戦争が必要な代物だった。
漢初の時代、韓信らが武功と引き換えに「王になる」という条件に納得し、山東に対して封建が行われた理由はそういうこと。
この歴史があるからこそ、皇帝・王・臣下の多くが旧王国の諸侯でもなんでもない庶・士からの成り上がりにも拘らず、
関中では漢を、山東では諸王を頂点とする体制が成立することができた。
これをヤクザの親分子分と比喩することは、周以来の封建体制を同質以下のものと看做すことなのだが。
まあ確かに噛み付くようなことではない話だったか。
何万もの軍勢を率いて、国レベルの土地を支配してるような奴らはヤクザじゃないだろ。
出自が怪しかったら、百官を置いて、秩序立った戦争をしててもヤクザになるのか?
>ヤクザはきらいだけど彼らのやってることや上下の仕組みってのは封建制度の骨組みそのものでしょう。
民主主義ってつまり学級会の仕組みそのものだよね。って。
口にする価値もない比喩だよなあ。
>>132 ヤクザの親分子分だってそうだよ?
儀式があるし守るべき親の義務、子の義務がある。
それがしばしば守られなくて下克上になるけど、それは封建制度も一緒じゃんか。
>>民主主義ってつまり学級会の仕組みそのものだよね。
そうでしょう。
当たり前だけどそういうことでしょう。
それをちがうんだ〜!いっしょにするなぁ〜!小学校と国会はちがう〜!っていうこともできるけども。
うんとね、
小学校と国会はちがうものだったのか! なんてこった!
と発見することこそが、あらゆる学問に共通する、最も基本的な仕事なんだよ。
「区別がつかない」というのは学問にとって無価値なんだ。
だから、本質的な探求を無視して一面の共通性を取り、「これってあれみたいなもんだよね」
と言うのは無価値な比喩であり、学問にとって忌むべきものなんだよ。
>>137 ちがうぞw
学問の基本は異なる物事の間の共通点をさがすところからはじまるんだぞ。
分類はその後の作業だ。
それとさ。
皇帝になったから。斉王に任命されたから。
うまく統治できんのか?
実力があるから皇帝としてふるまえる、王としてふるまえる。
逆にいえば皇帝を自称してもすぐ滅亡していった例もおおいし、太守として赴任してみたものの反対勢力の任命した太守に追い出されたりころされる例はいくらでもあるじゃんか。
韓信なんかは既に斉王となれる実力を持っていたのさ。
いくら官僚機構が実際の行政するから、といっても実力のないやつがなってうまくいくかよ。
本題から離れまくってるがw
智の作業の最初の一歩は、曖昧模糊とした無意識から「俺」と「おまえ」が異なるものだと認識することから始まるはずだろう?
俺とお前になんらかの共通点を見出し、外界から区切って「俺ら」と認識するのがその次の作業だ。
って、そんなことはどうでもいいがw
>>136が世界板の思考の持ち主ではないことを言いたいだけだからね。
どうしても語りたい人は「劉邦はヤクザ」とかいうスレでも立ててそこでやるといいよ
ここではスレ違いだ
いつまでも語り続けてる人はちょっと冷静になってほしい
>>140 あんたみたいなのがいるから 世界は平和にならないのだ!!
おれはおまえとここがちがう、こんなにちがう!!
おれらはあいつらとここがちがう、こんなにちがう!!
そんな考え方でどうする?
おれもおまえもこんなに一緒。
おれたちもあいつらもこんなにいっしょなんだ!
ここから、平和がはじまるのよ。
違うところを数えてみてもいつまでだって結論はでない。
ここだってそう。
オレの意見とおまえの意見はここが一緒、違うとこもここにはあるけども〜 ってな思考が結論をうみだすのだ!
「劉備もヤクザ」だったんだから板違いでもなんでもねぇ!
にゃぁ〜!!!
なんだ、粘着にヤクザヤクザ言ってた奴は荒らしだったのか
じゃあ仕方ないな
なに?おれはニノでも松ジュンでもなんでもないぞ。
>>139 どんなに力あっても、あるていど大きくなったら、
自分で皇帝や王を名乗ったり、誰かから称号や官位をもらったりして、君主とか、誰かの家来とかって体裁整えるだろ。
そうしなきゃ、部下に称号や官位与えられないし、称号や官位の権威を使った統治ができないし。
王とか太守とか名乗ってたら、軍事力による威圧をしなくても偉いってことが分かるから統治しやすくなる。
>>144 今時、学問としての三国志に真面目に取り組んでて劉備はヤクザなんていう奴はいないから
劉備は人生の大半を役人として生きてる人だからな。
>>129 一つ突っ込むと、ヤクザの大親分と下の連中は名称どおり擬似的な親兄弟の秩序であって、
封建的、推戴的な軍閥連合とそのリーダーの関係とは少々様相を異にする。
また群雄が無教養で、礼制を知らない柄の悪さを持っていることは、ヤクザそのものとはまた違う。
劉邦や後漢末群雄の人的結合は「侠」の倫理で説明される部分が多い
(無論それだけではないし、現代「ヤクザ」の概念とも異なる)が、
封建・封爵は「礼」の倫理だからね。
3000年前に既に異なる倫理概念だった。
>>153 侠で従ってた奴はいただろうけど、義理や利害や血縁や成り行きや理屈などの論理で従ってた奴も多いだろ。
どの勢力でも人それぞれの倫理で従ったり、忠誠心を抱いたりしてるに過ぎない。
155 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 03:53:01 0
「燕人」張飛というのは、何か意味が有るの?河北省生まれの住人はみな「燕人」のはずなのに。
156 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 06:20:39 0
>>155 「大阪生まれを舐めんとき!」ぐらいの意味。
「燕」は大阪だったのか...orz
はともかくとして、
「燕」というだけでなにか特徴的な意味合いがあったのかねぇ?
158 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 07:55:56 0
ブルーカラーはナショナリストになりやすい。
>>157 マジレスすると正史三国志の話じゃなくて演義の話だからここで聞くのはスレ違い
明代の燕地方のイメージは知らんから答えられないってのもある
一応三国志的な解釈するなら、度重なる烏丸や鮮卑との抗争で幽州近辺の人達は
騎兵戦術、対騎兵戦術を熟知しているので、長坂に精鋭騎兵部隊で特攻掛けてきた曹操には
「これは油断ならぬ相手」とハッタリが効いた、とかでどうか
160 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 15:41:11 0
燕人、俺は単にツバメのような人だと思ってた・・・・・
161 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 17:04:05 0
下層階級は出身地を言う以外に自己紹介できなかったからでそ?
>>161 普通はタクの張飛って名乗るもんだけどな。
まあ、演義は創作だからつっこんでもしゃあない。
163 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 18:37:46 0
燕なんて古い名前を使ってるんだから、
現代の愛知県民が「三河武士の強さをみたか!」というようなもの。
164 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 18:44:00 0
>>162 むしろ演義だからこそ「燕人張飛なり!」なんだよ。
「タク人張飛なり!」ではみんな「タクってどこ?」とつまづくが、
春秋戦国の知識ならみんな知っている。
だから読者に配慮して「燕人」にしたわけ。
165 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 18:46:41 0
幽州の劉備の実家の一族はどうなったの?
劉元起
劉徳然
>>165 不明だけど、あの辺でジェノサイドや大飢饉があったって話も聞かないし、
よそに行ってなかったら、そんなひどいことにはなってないんじゃないか?
>>165,
>>166 公孫サンと袁紹の戦いに巻き込まれた可能性はあるのでは。
まあ滅亡まではしていないと思うけど。
168 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 19:33:57 0
関羽の親戚も張飛の親戚も登場してこないしなぁ。
猿人
ゴリラみたいな人かと思ってた
170 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 19:49:14 0
つーか、劉備が公孫サンと一緒に櫨植のもとで学んだって話おかしくね?
そもそも、三国志の登場人物で、同じ先生の元で学んだ同級生なんてエピソードはほぼ存在しない。
水鏡先生の門下の諸葛亮と徐庶がそれっぽいが、諸葛亮は引き篭もりだし。
>>167 公孫サンと袁紹の争いは基本的に冀州内でのドンパチだから問題ないだろ
最後に篭った易京も幽州との州境に近い冀州の北部だった
公孫サンは幽州の雄みたいなイメージあるけど実際に抑えてる拠点は冀州北部
袁紹との争いは豊かな冀州の奪い合いだったわけだ
タクは易京の北だけど距離的には結構遠いし、戦争に巻き込まれてはいないだろうから問題ないと思う
>>170 おかしくもなんとも無いけど…
劉備の師である盧植だって鄭玄とともに馬融に学んでるわけだし
何でそんな結論に至るのか教えてくれ
>>172 同意
しかしageてる奴っておかしなのばっかりだな
174 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 20:13:34 0
>>172 その2人にしても、同級生としてのつながりやコネなんてないに等しい。
職を斡旋するほどの仲は劉備と公孫サンだけ。
175 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 20:19:55 0
劉備一族は曹操に族滅されたの?
>>174 えっ?
盧植死後に劉備が訪ねると、本来何の関係もない鄭玄が孫乾を推挙してくれてるのに?
177 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 20:22:28 0
そもそも北京付近の住民は当時異民族じゃないのか?
異民族に拉致されたので、記録に残っていないのでは?
178 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 20:24:25 0
>>176 あれが盧植の弟子っていうコネのおかげだとは思えんが…。
>>178 では何故徐州を治める劉備に地元でもない鄭玄が推挙するのか
劉備と鄭玄の関係性はどんなものだったのか、そこのところ君がどう考えているのか教えてくれ
180 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 21:00:13 0
>>177 戦国時代、漢代と燕王国・幽州の中心部だろ、あの辺は
異民族も近くにいたことは事実だろうが「当時異民族」は事実誤認だな
182 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 21:18:43 0
呂布は匈奴人だったのですか?
>>179 劉備は袁術と協力関係にあった陶謙から徐州を譲られたが、徐州刺史となって真っ先に行ったのが袁紹への従属。
そして鄭玄は袁紹に軍師として礼遇されていた。鄭玄の孫乾推挙は袁紹が口を利いてくれたのかもしれない。
あと劉備は盧植だけでなく鄭玄・陳紀にも師事してる。
>>183 陳紀と鄭玄に師事してたってのは知らなかったわ
後学までにどこに載ってるのか教えて欲しい
でも「大将軍」袁紹が鄭玄を招いた、と後漢書にはあるので
その3年ほど前に徐州を得てすぐに流浪の身となった劉備が
袁紹に賓客となってる鄭玄に口利きして貰ったというのは時系列合わないよ
>>184 確かに時系列合わなかった。ただ袁紹は劉虞擁立未遂後に韓馥と共に大将軍を自称したとあり、
それが事実なら195年に李カクから右将軍に任じられるまで(自称)大将軍だった可能性も・・というのは苦しいか。
劉備が鄭玄・陳紀に師事したというのは華陽国志にあり、裴松之が後主伝の末尾に引用してる。
諸葛亮が劉備は常々「朕は鄭玄、陳紀の下に足繁く通って教えを受け、治世と乱世の両道を生きる術を学んだ」と述べていたと言っている。
いつ通ったんだろう
陳紀との接点は豫州刺史時代?
陳紀は陳羣共々徐州に疎開してたからたぶん徐州刺史時代。
鄭玄は直接会って師事したような口ぶりだから平原相の頃かな?
>>185 盧植だけでなく、鄭玄・陳紀にも師事したなんて書くので
てっきり盧植と同じような少年の遊学みたいなもんかと思ったがそういう感じの師事か
ちょっと勘違いしてたわ
時系列的には徐州刺使陶謙に鄭玄が招かれた後に劉備が徐州入りしてから陶謙が死んで青州に帰るまでの間か
って普通に徐州にいるから1年くらいは余裕あんだな
問題はそこまで足繁く通って話するまでのツテはどっから手に入れてるかだが
これは両方とも陶謙の客分ってことで何とかなんのか
じゃあ一応机を並べた鄭玄と盧植だったが、別にそんな深い間と断言はできなかったぜ、ってことで
>>176は間違いだったと言うことで良いわ
鄭玄は徐州牧陶謙のもとに避難して庇護を受けている。
朱儁を董卓討伐の元帥に推す署名にも名を連ねる。
劉備と公孫サンの関係だが、
職を斡旋するほどの仲だからこそ、軍閥として成長していた公孫サンの元で
劉備が頭角を現すことができたわけだ。
稀な偶然でもなんでもなく、自然な人間関係の流れ。
向朗もさりげなく司馬徽一門だから諸葛亮のツテで職ゲットってことでいいんかな
劉表の元で県長やってた有力者が帰参してきたら普通に使おうとするんじゃね?
「燕」は大阪だったのか...orz
はともかくとして、
「燕」というだけでなにか特徴的な意味合いがあったのかねぇ?
劉表の死より後、赤壁より前には劉備に仕えてたとあるので
何らかのコネがあった、例えば一門の兄弟弟子が居るとか、からこその帰参じゃないか〜と夢想したんだけど
まあ証拠はないわな
>>193 向朗の身分なら、劉備が向朗のコネを欲しがる。
同じように身分ある連中は大抵北に着いてるわけで
向朗はちょっと特殊な部類じゃないか?
燕人は えんじん ではなくて えんひと ってよむんだぜ。
まぁ、日本人の勝手な読み方だけど。
197 :
世界@名無史さん:2011/01/25(火) 23:42:49 0
>>192 最後まで生き残った劉備の同郷人と言う意味であると思われる。
ちがうわw
常山の趙子龍、燕人張飛、東莱の太史慈、ショウ郡の許褚。。
すべて出身地を言ってるだけだろ。
こんなもんは
「生まれは葛飾柴又〜」っていう寅さんとか 一緒。
「きみ、田舎はどこ?」「あ、鹿児島です」「へぇ〜。道理で余分なことあまりしゃべらないんだぁ?」みたいなね。
「燕」は大阪だったのか...orz
はともかくとして、
「燕」というだけでなにか特徴的な意味合いがあったのかねぇ?
>>199 ただの地名だっつの
水戸のご老公である!とかそんなノリ
向朗は宜城県だから荊州奪取後の劉備の勢力範囲内。
荊州人で劉備に就いた人間はかなり多いだろ。南陽郡でさえ。
むしろ魏では荊州人は漢ほど恵まれてないんじゃね?
浪速のロッキー、赤井英和じゃい!みたいなかんじだろ。
>>203 劉表死後、劉備の荊州江南平定前ってことは、曹操から逃げる劉備にくっついていったということかな?
>>203 赤壁前に劉備に就いていた荊州人は少数派なので向朗は特殊、と言いたいならわかる。
それだと司馬徽一門の話は関係なくなるが。
司馬徽ら北人は荊州人以上の比率で曹操に就いたし、そもそも諸葛亮が司馬徽門下だっていう話はないし。
歴史に名前が残る人達って、一部の支配階層だから、それこそ狭い世間で生きてるんでないかな
貧困層出身でも、かならずそいつを引き立てた支配層の人物がいるわけだし
そもそもな あの人口の多い中国で 張飛 は山ほどいたんだぞ!
だから 「おれは北京でぶいぶい言わせた張益徳ってもんや!」って自己紹介するわけよ。
「わしは張飛や!」っていってもさ「自分は鈴木一郎です」っていうみたいなもん。
メジャーで活躍してる、とか マリナーズの、って言うのをつけるのといっしょなんよ。
テレビも写真もない時代だから顔見てもわからんからな
>>206 後漢後期では名士が死ぬと弔問客が車で数千乗。そこら中の豪族が集まってきたことになる。
まあそれでも人口5000万の中では「狭い世界」であるし、
三国それぞれの大臣が後漢宮廷時代に友人付き合いしてたとか論戦してたとかいう話は結構ある。
それこそプロ野球選手みたいなもんやで
襄陽記で司馬徽が伏龍・鳳雛って言ってたけど、ありゃ門下生の推薦ってわけじゃではなかったということか
ホウ統だって門下ってわけじゃないしね。
司馬徽が人物批評で高名な人物で、ホウ統が逢いに行って賞賛して貰ったのが
名の知られるきっかけとなった、という話は本伝にあるけど。
門下生な訳ないだろ!
諸葛亮なんて自己流もいいとこだよ!
月旦評とかも一緒でさ。仲間内で褒め合ってるの。
健安七君子とかといっしょ。
「**子っていけてる〜 沢尻エリカみたくね?」「まじそんなかんじぃ〜」
「でも++美も黒木メイサそっくりだよ〜?」「わかる〜」
みたいな。
ほんまにたちがわるい。
おまえさん昨日三戦板にでも行けっていわれたばっかりだろ
いわれてないわい!
今日はじめてここにきたんや。
なんで関西弁やねん
わては大阪の張飛言いまんねんねや。
218 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 01:45:30 0
私は、荊州失陥の最大の戦犯は、他ならぬ劉備だと思います。
劉備は、孫権というファクターが天下三分の計の最重要の前提であることを忘れてしまい、孫呉を怒らせる行動ばかり取り、しかもそれに対して何のフォローもしませんでした。劉備は、もう少し孫権に気を遣うべきだったと思うのですが。
まあ思うのは自由だ
220 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 04:14:25 0
張飛は曹操一族のロリを拉致、レイプ。産ませた娘を劉禅の皇后に。実は美男であった?
まだロリなんて言ってるアホがいるのか
222 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 07:12:07 0
223 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 07:42:18 0
引き篭もり時代の諸葛亮なんて、辛うじて水鏡先生と徐庶の名士情報網に引っかかってる程度。
あれで門下とかいったら門下が泣くw
224 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 07:45:44 0
司馬イは何時から皇帝よりも強くなったの?
225 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 07:50:12 0
200年(後漢の建安5年)、張飛は薪取りをしていた夏侯覇の従妹を捕え、良家の娘と知り自分の妻にした。2人の間の次女が張皇后である。
226 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 07:51:06 0
伏龍・鳳雛、三顧の礼は演義のつくりばなし
227 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 07:56:10 0
曹操と袁紹も花嫁略奪していた。まだ儒教でこりかたまっていなかった当時は略奪婚の風習がまだ残ってた。
228 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 08:39:54 0
花嫁泥棒エピソードっておもしろいけど、そんなことやったら曹操が孝廉に推挙されるわけないと思うんだが。
229 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 08:51:38 0
袁術は若い頃放蕩したけど、改心してやっと孝廉にあげられた。
しかし曹操には改心したエピソードがないw
230 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 11:39:59 0
>>229 それって、曹操って改心する必要が無いくらい才能があったってことだよなw
231 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 11:44:40 0
え?
改心しなかったから北部尉どまりだったんでしょ。
袁紹や袁術とは大違い。
232 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 11:50:18 0
丶 / ̄ ̄ ̄ ^^^ ヽ-;;;|
ヽ ,=---──ー"""" ̄ ̄``ー---、|
` ̄ / ;;;,,_ ,,,-っ
|⌒ヽ┃ミ 、,,"、`二ヽ--; :: rノ;二"_ゞ|
ヽ|( |┃:::: ヽ ̄(_)ヽ;;;" ::: t/、( ゚) ノ | ならばよし!
い |┃:::::: ``/=""` ::::::: `、` ̄ヽ i
l - |┃;::::: ′ ::::::::: ヽ ` ,
( ノ┃:::::: ::ゝ::- ノ |
7 ノ、 :::::: __,---‐‐-、, |
/ ノ;, 、 :::: 、,‐=二 ̄``r /
)" |;; ヽ;::: `ヽ,____二ヾi ノ
┃;;;;; ヽ、::::: `ー--‐" /┃
┃;;,,, ;;,`ゝ,,, / "┃
《"ミミ;;;;;,,,, ミ;;;```ー-----/ ""┃=、
^~ ヽ\ ;;;;,,, ヾ;, /"" 丿 M〜ーヾ、
ー丶 \ ゞ-、、、 / 丿 /// ヘ
>>223 黄承彦の娘娶ってバリバリ荊州豪族の仲間入りしてんだが
黄承彦は蔡氏を嫁に貰ってたりしてて諸葛亮はさりげなく劉表とも縁続きなんだが
表にはあまりでないけど知る人ぞ知る才人って扱いだよ
>>226 演義はドラマティックに盛り上げてるだけで基本的な部分はどっちも正史本文に原型あるよ
正史本文だと伏龍じゃなくて臥龍なのがちょっと違うし鳳雛は注釈出典だけどな
234 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 13:06:39 0
>>233 >黄承彦の娘娶ってバリバリ荊州豪族の仲間入りしてんだが
>黄承彦は蔡氏を嫁に貰ってたりしてて諸葛亮はさりげなく劉表とも縁続きなんだが
なんでそんな良縁の持ち主が、延々と引き篭もって仕官できなかったのかって話w
毛並みがよければ普通は引き立てがあるんだよ。
それなのに劉表時代には全然芽が出てない。
235 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 13:10:30 0
後漢の人間が引き篭もる理由は2つ。
1つが自分か父祖がまずいことやらかして隠棲するしかなかった。
2つが世俗と関わりをたって学問やりたかった。
諸葛亮はどっち?
>>234-235 『逸民』のこともたまには思い出してください
どうでもいいかもしれんが、不当に貶めるのも不当に持ち上げるのも少し自重して欲しい
再評価というならもっと文献読み込んで、史料に立脚して持論を展開して欲しいし
小出しにしているんだ、というには、その場の思いつきで書いてるみたいで損している
237 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 15:07:54 0
>>236 赤壁までの諸葛亮がほぼ何もしてないのは正史見ても分かるじゃん。
劉表からの仕官の要請もないし、自ら出向いて売り込んだこともない。
これをそのままいったら不当に貶めるとはおかしいねえ。
>>237 『不当に貶める』は言い過ぎだった。ごめん
それでも人物の再評価はもうちょっと慎重にやって欲しい
特にこの時代の人物は有名っていうのもあってスレが荒れやすい
ましてや諸葛亮なんて、三国志詳しく知らない奴でも知っているレベルの有名人
煽る意図が無くても荒れかねないんだから、少し配慮してほしいんだ
239 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 15:30:36 0
諸葛亮が劉備に就職したのっていつ頃?
博望の戦いのときはいないよな。
>>237 荊州時代で赤壁以前と思しき事跡
・司馬徽一門と仲良くなる
・黄承彦の娘を貰う(襄陽記)
・三顧の礼
・隆中対
・劉備の兵員増強策考案(魏略)
・劉キの相談役
・全権大使として孫権の元へ
そして赤壁へ…
>>239 いる可能性はある
諸葛亮の参入タイミングが劉備の新野入りから黄祖死亡までの結構長期間なのでよくわからんけどな
>>239 諸葛亮は227年の出師の表で「先帝にお仕えしてより21年が経ち・・」
と述べているから出仕したのは207年だよ。by裴松之
242 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 16:50:05 0
>>240 >・司馬徽一門と仲良くなる
司馬徽一門だって劉表政権からは遠いけどな。
とことん劉表嫌いだったんだろうな。
>・黄承彦の娘を貰う(襄陽記)
ブス嫁もらってでも現地の豪族と関係を作らないといけないぐらい寒門なんだねー。
>・三顧の礼
>・隆中対
>・劉備の兵員増強策考案(魏略)
おいおい、魏略説だと三顧の礼はなくなってしまうだろw
なにしろ諸葛亮から劉備に会いにいってるからして。
>・劉キの相談役
>・全権大使として孫権の元へ
これはいいか。
ところで、曹操の南下をまったく察知できなかったという大失敗については?
曹操軍が目と鼻の先に現れてから慌てて逃げ支度とか、諸葛亮は情勢に疎すぎじゃないか。
>>241 おかしくね?
227-21で206じゃないの?
>>243 当時は数え年だから諸葛亮が出仕した207年時点で出会って1年目となる。
>>242 司馬徽門下生は劉表政権下で向朗のように出世してるのもいるし多士済々
政権に遠くも近くもなく荊州の名士の集いだっただけ
基本的に自分の格に合った結婚相手を選ぶので諸葛亮は「同格」と認められてたってこと
寒門どころか後ろ盾ない若造に対するものとしては破格の扱いだろ
三顧の礼と魏略の記事は背反しない
諸葛亮のアイディアを認めてから、三顧の礼の形式を取ればいいし
整合性という意味では問題ない
当時劉備一党は丸ごと樊城に移されてるわけで連絡抜きには探知できないよ
荀郁伝でも奇襲掛けてる様子が記載されてる
246 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 17:18:41 0
>>245 向朗は諸葛亮との交流だけがぽっかりとない。
諸葛亮は本当に劉表嫌いだな。
向朗
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%91%E6%9C%97 >若い頃、司馬徽の師事を受けた経緯や、生まれが荊州であったことから、徐庶・?統・韓嵩らと親交があった。
>学門の道よりも政治の道を選び、荊州刺史劉表に仕官し、臨沮の長となった。劉表死後は劉備に仕えた。
諸葛亮も、まず劉表に仕官して、そこで業績を上げてから劉備の元にいく、という選択肢だってあったはず。
諸葛亮は劉備に出会うまでは政治に興味ゼロだったんじゃねーの?
247 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 17:24:22 0
>>245 >当時劉備一党は丸ごと樊城に移されてるわけで連絡抜きには探知できないよ
>荀郁伝でも奇襲掛けてる様子が記載されてる
それでも人を使って曹操軍の動きに気を使うことぐらいのことは出来たはずで。
実際、博望では待ち伏せに成功してるわけだし。
大体、数十万の軍勢の動きが目立たないはずないじゃん。
>>247 ところが荀イク伝によると宛までは問題なく進めるので、それ以降は軽装ダッシュでという話になっている
そして実際に行動がわからないまま降伏してる
出来たはずだ、というのは自由だが、歴史上の人々が君が思ってる程愚かだってことかい?
情報なんて誰だって欲しいんだから、やろうとしても出来ない状況だったということだよ
博望はどっちが攻めたのかよくわからん戦であるところでは劉備攻撃側、またある記述では劉備守備側
そういう話の論拠にはならない
249 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 19:23:39 0
>>248 曹操軍が宛に向かって行軍してる時点でばれると思うぞ。
>>249 だから曹操が宛に到着した時点で察知したじゃん。
>>250 劉備は劉表政権では北への備えとして扱われていたのに,
曹操が実際に南下してくるまで分からないってのはどうなのよ。
252 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 20:19:58 0
10万以上の大軍の行軍なら、集めるのも大事業だし、まっすぐ進むだけでも大変。
食料物資だって一ヶ所に大量に集めなきゃならない。
まともに情報収集していれば、宛に到着する以前に察知できる。
諸葛亮の北伐でも、魏の大軍が進発したことを察知して撤退してる。
253 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 20:28:05 0
254 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 20:34:14 0
>洛陽:襄陽 = 金沢:名古屋(高速道路ならスグ)
樊城は襄陽より北だよな?
つまり洛陽により近い。
曹操が宛に向って大軍を南下させたら気づくだろ。
255 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 20:38:19 0
>>246 雇う側からみたら絶対に後者がいいだろw
諸葛亮はニート出身で仕事経験ゼロ
向郎は別会社で仕事経験を積んできたバリバリの現役社員
256 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 20:42:35 0
劉備の方でも一流どころを雇うほどの金はなかったんでそw
荀ケの策によれば葉、宛の間を進軍するよう敢えて見せつけた上で、宛へ急行するというもの。
劉ソウは曹操がいきなり宛付近へ現れたから驚き降伏したという流れになる。
葉、宛の間にいると思っていたわけだから。
曹操が宛へ急行するときの進軍は「間行軽進」と荀ケ伝に書かれている。
つまり間道を軽装で進行するもの。
「曹操が宛に向って大軍を南下させたら気づくだろ。」
というのは妥当ではない。
「間行軽進」を成功させた曹操を褒めることはあっても、察知できなかった劉備や劉ソウのミスを指摘するのは少々筋違いだと思う。
258 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 20:56:14 0
>>257 葉県ってすでに荊州の一部だぞ。
南へ軍を動かした時点で、まず標的になるのが荊州であることは分かりきったことだろw
>>258 劉ソウも劉備も曹操が荊州を狙っているということは曹操軍が南下したという情報をつかんだ時点でわかってはいただろう。
ただ、その情報から推測される曹操軍の進軍速度をはるかに超えた速さで宛近くまで出現したから不意を打たれたんだよ。
軽装の強行軍なので、浮き足立たずにしっかり迎え撃てれば良かったんだろうが、不意打ちで劉ソウたちが浮足立つことを予測することまでが荀ケの策だったんだろう。
>>245>>246 諸葛亮は豫章太守諸葛玄の甥で、荊州に逃れて劉表の庇護を受けた。
つまり後漢の名族とまではいかなくとも豪族・知識人階層の一端に連なる出身だ。
厳密には時期は不明だが、黄承彦の視界に入って娘を娶ることができた。
生まれだけから見れば、破格でもなんでもなく、荊州避難当初からの境遇だと言える。
ところがその割に襄陽時代の交友関係が少ない。
なぜかと言えば、陳寿が明記する通り、当時「認める者が少なかった」からで良いだろう。。
豪族や高官の一族でありさえすれば、一応彼らの社交界に入ることはできただろうが、
その世界で地位を確保するかどうかは、本人自身の品行や教養に掛かっていた。
その教養だが、当時は政治の提言をするにも、故事や古典の前例に例えたり易や天文に
仮託するスタイルが当然だった。
しかし諸葛亮は大要を重んじて章句に拘らなかったというから、このスタイルを採らない
(採れない)人間だったわけで、広く認められないのも当たり前のことになる。
当時、本人にどれだけ仕官の望みがあったのかはわからないが、
諸葛亮の思考の方式はどこまでも実践型のものであって、在野で著述し学術に貢献するようなものではない。
まあ、少なくとも節を曲げて不得手な古典引用を駆使したり、品行を修めたりしてまで
名声を高めようとはしなかったのだろうけど。
親近少数の者しかその才智の知られない青年の境遇が一変するには、劉備との出逢いを待たねばならなかったわけだ。
263 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 21:42:51 0
>>262 >諸葛亮は豫章太守諸葛玄の甥で、荊州に逃れて劉表の庇護を受けた。
諸葛玄って「袁術によって豫章太守に任命された」そうじゃん。
袁術って劉表の敵だろうがw
庇護って言うか、監視されてただけじゃねえの?
劉表が諸葛亮を優遇するわけがないよ。
先主伝と荀ケ伝の全てが正しいとして、整合性を取るなら、
当時劉備は樊城まで下がっていて、対北の諜報関係は劉表の手にあったってことなんだろうな。
曹操が宛まで進撃する間に劉jこれを察知して降服の使者を送ってしまって、
劉備が知らされた時には後の祭りと。
265 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 21:49:54 0
>>264 だから、そこで軍師孔明は何をしてたんですかって話w
>>263 確かに192年頃に劉表は孫堅を殺して袁術と敵対したが、
197年に劉表と袁術は共に曹操政権から逆賊認定を食らった。
また199年に袁術の勢力を引き継いだ劉勲は孫策に攻められると劉表に救援要請し、
これに対して黄祖が派兵している。
どこかの時点で袁術と劉表は再び協力関係になったのでは?
>>263 そんなのざらだよ。
以前に軍閥のどこに所属してたかなんて殆ど意味がなくて、個人の持っている人脈や名声次第でどこでも世渡りは出来る。
袁術は有力者がいたから太守に任命し、劉表は旧知の有力者が頼ってきたから庇護を与えた。
それだけのことだ。
>>261 のろまな大軍だし気付くけど軽装の強行軍で葉の次の出現地点を晦ましたのだから
曹操たちの手腕を褒めるべきであって劉備達が悪いというには当たらないでしょ
しかも情報は意図的に劉表政権下の内部での派閥争いか何かによって遮断されて劉備の手元に届いてない
この直前、英雄記によると劉表は劉備を荊州刺使として上奏しているから
相続するにしたって襄陽から離れられないし曹操の侵攻がまさに時機を得ていたってことになる
>>265 はい、三戦板一名様ご案内
向こうの孔明なら天文予知でもなんでもしてくれるだろうからね。
>>268 そこまでは本当に曹操と荀ケの思うつぼだったな
そこまでは・・・
>>269 今の三戦板でも正史読んでないとバカにされるけどな。
後漢書や晋書や華陽国志読んでないと、話に付いてけないスレも多いし。
272 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 22:05:42 0
>>267 諸葛玄には有力の知己なんていないし、そもそも地盤は徐州。
多分、袁術にくっついて出世しようとした一人だったんだろうね。
当然、袁術が倒れたら使い道ゼロ。
諸葛玄が劉表から厚遇された逸話はまったくないし、諸葛亮も劉表を避けてる。
273 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 22:08:02 0
>>268 >しかも情報は意図的に劉表政権下の内部での派閥争いか何かによって遮断されて劉備の手元に届いてない
曹操の南下こそが、劉備の生死を決める最も重要な問題なんだから、情報がないなら自力で情報集めしておくべきだろ。
諸葛亮が劉表に仕官しなかったのは、当然、叔父がころされたからだよ。
劉表ではなく劉備に荊州をとらせて、ということ。
諸葛玄は劉ヨウに敵対する形になったので土民にころされて 諸葛亮はいわば荊州ににげこんだのだ。家族と一緒に。
劉表は逃げ込んでくるものをわざわざ迫害したりはしない人だから。
諸葛亮は、袁術が異姓のくせに皇帝を名乗って倒れたのを見た。
親代わりの諸葛玄が劉表からむげに扱われて死んだのも見た。
この辺がトラウマになってわざわざ劉備を選んだのかもな。
劉備は劉姓だし、本物の左将軍。
>>272 >諸葛玄には有力の知己なんていないし、そもそも地盤は徐州。
バツ。
>玄素與荊州牧劉表有舊,往依之。
袁術も劉表も、そしておそらく確実に諸葛玄も、後漢朝廷で出世した高級官僚だよ。
中央と地方の赴任を繰り返す間に幾らでも人脈が出来る。
例えば、蔡瑁や金旋が曹操と旧知の仲だってことが普通にありえるわけだ。
仕官してなかったり郡県の属吏同士でも、張昭と応劭のように(多分文書で)
学術上の論戦を広げたりね。
そもそも劉表を避けてる人間が、黄承彦の娘を娶ったりはしないってばよ。
278 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 22:20:48 0
>>275 劉表は袁術一派(孫堅とか)に加担した連中には容赦しない。
劉巴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E5%B7%B4 >荊州零陵郡蒸陽の人。
>父の劉祥は江夏太守を務め、長沙太守の孫堅が董卓討伐軍を起こすとこれに呼応し、去就のはっきりしなかった南陽太守の張咨の殺害にも加担した。
>のちに南陽の民の反乱に遭い殺害されている。
>
>才能に優れ、荊州牧の劉表の招聘がたびたびあり、若くして茂才に推挙されたが、これには応じなかった
>(『零陵先賢伝』によると、父との関係で劉表には疎まれており、劉表に殺害されそうになったことがある。また、劉先が甥の周不疑を劉巴の下で学ばせようとしたが、劉巴はこれを拒否している)。
>>257 曹洪が劉表征伐時に別働隊として舞陽・陰葉・堵陽・博望を攻略し劉表の守将を撃破したとある。
陰葉県なんてないのでこれは「舞陰・葉」の舞が欠落してるらしい。
となると208年の曹操出征時では南陽郡全域だけでなく汝南郡の一部まで劉表領だったことになる。
荀イクの献策は「敵はこちらが南陽攻略に手間取ると踏んでるでしょう。そこであえて許昌から葉〜宛と順当に攻めると見せかけ、
曹洪に一軍を与えて汝南方面から電撃的に諸県を攻略させましょう。あっと言う間に前衛の南陽が陥落すれば敵は戦意喪失します」
って意味だったんじゃないかな?
・劉表は劉詳を平素から嫌っていたので、その息子の劉巴を口実をつけて殺そうとした。
・諸葛玄は劉表と旧知の仲だったので、豫章を追われると劉表を頼った。
簡単に両立するんだが。袁術が出てくる余地が無い。
wikipediaじゃなくてせめてちくま文庫読もうぜ。
281 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 22:28:34 0
>>277 >袁術も劉表も、そしておそらく確実に諸葛玄も、後漢朝廷で出世した高級官僚だよ。
袁術、劉表に比べたら、諸葛玄なんて吹けば飛ぶような木っ端役人だろ。
豫章太守以前の官位も不明じゃないか。
成り上がりもいいとこだ。
荊州をどうするかは劉表生存時から荊州人士たちのあいだで議論されていた。
曹操に従うべきだ、派。= 過半数でした。=劉ソウ派にほぼ一致な。
劉備を中心に独立を保て、派 = 野党でした。=劉キ派と提携な。
孫権と仲良くしようぜ、派 = 圧倒的少数でした。
で、諸葛亮は二番目だったんです。
諸葛亮は独学で学問を修めた天才。
>>281 ほぼ同時期に刺史になったばかりの劉表とほぼ同格だね。
太守より刺史が格上になるのはもう少し先のことだから。
その後、劉表は独立軍閥として一州を支配したので差が開いたが。
285 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 22:32:08 0
>>280 袁術とつながりがあったせいで、劉詳も諸葛玄も、その子どもである劉巴も諸葛亮も、劉表からはろくな扱いをされなかった、と見るほうが妥当だと思うよ。
そもそも、劉表がどんなところで諸葛玄と知り合いになったのか分からん。
・劉詳は袁術に組みしたために劉表に憎まれた
→書いてない
・劉表は袁術に組みした諸葛玄を恨んだ
→書いてない
・諸葛亮は劉表に冷遇されていた
→書いてない
・諸葛玄は劉表との旧知を恃んで荊州に逃れた
→書いてある
・諸葛亮は婚姻によって黄家を通し蔡瑁・劉表と遠い姻族になった
→書いてある
>>285 ま、想像の翼を広げるのはほどほどにってこった。
287 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 22:38:35 0
>>280 袁術の部将だった孫堅に手を貸したのが、劉詳。
つまり袁術の一味。
劉表との戦いで孫堅が戦死しているように、袁術と劉表は完全に敵対関係。
劉表と諸葛玄が旧知というのは、劉表が袁術の勢力を切り崩そうとして友好の手紙や贈り物でも送ったんじゃないのか。
・劉表が袁術の勢力を切り崩そうとして友好の手紙や贈り物でも送ったんじゃないのか。
→書いてない
>劉表との戦いで孫堅が戦死しているように、袁術と劉表は完全に敵対関係。
だからなんなんだ? って話でね。
敵方から幹部が逃れてきたら厚遇するのが普通なんだけどね。
>>287 じゃあなんで劉勲は劉表に救援要請を送り、しかも劉表はこれに応じたんだ?
劉表が袁術に与した奴に厳しいなら袁術の地盤を引き継いだ劉勲の為に救援軍なんて派遣しないだろ。
290 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 22:45:09 0
>>286 >・劉詳は袁術に組みしたために劉表に憎まれた
> →書いてない
常識的には憎むと思うけどね。
>・劉表は袁術に組みした諸葛玄を恨んだ
> →書いてない
劉表は、頼ってきた諸葛玄に対してなにもやってないという事実。
劉備や張繍とはえらい違い。
>・諸葛亮は劉表に冷遇されていた
> →書いてない
劉巴が呼び出しを受けてる一方、諸葛亮への呼び出しはまったくないという事実。
>・諸葛亮は婚姻によって黄家を通し蔡瑁・劉表と遠い姻族になった
> →書いてある
姻族になったのに、なぜか仕官できずに引き篭もり続行、というのもまぎれもない事実。
291 :
世界@名無史さん:2011/01/26(水) 22:46:33 0
>>289 袁術が死んで、揚州の跡目争いで袁術勢力が空中分解したからに決まってるじゃん。
>>290 劉備と張繍はどちらも部曲を率いて頼ってきた。特に劉備は左将軍・豫州牧で劉備より格上でなおかつ彼を配下とすれば豫州の領有権を主張できる。
一方、諸葛玄は手勢を全て失った挙句領民により殺害、諸葛亮と均は身一つで頼ってきた。
しかも当時諸葛亮は17歳。17歳でぼっちの少年になんで劉備・張繍のように領土と数万の軍勢を預けにゃいかんのか。
>>290 君の常識は聞いていない。
劉表は袁術と孫堅が南陽を奪った当時の当事者じゃないし、荊州人でさえない。
孫氏が劉表を蛇蝎の如く憎む理由はあるが、逆は殆ど無い。
厚遇と実権はイコールじゃない。名士が多く避難した荊州では特に、
許シのような待遇が珍しいものではなかろうしね。
なぜ諸葛亮が仕官しなかったのかの説明を
>>262で行ったのだが。
>>291 ならば、豫州を追われて袁術に帰らず、勢力から脱退した諸葛玄が憎まれる理由も無くなったね。よかったよかった。
>>279 なるほど、曹洪が別に平定しているのか
ただ、これはあなたの言うのと逆に「汝南、南陽の攻略が済んでいないうちに宛を急襲するから敵が不意を打たれて戦意喪失する」、というのが荀ケ策の肝だったんじゃないかなあ
×豫州
○豫昌
なぜ諸葛亮が人気があるかわかったよ。
引きこもりのご先祖が、中小企業に一念発起し就職し、大企業に育て上げたという夢の有る話しだからだ
>>279 ってことは博望は劉備の攻勢で李典伝にある通りに曹操から葉を攻め取ったということになるね
これって結構重要なポイントだよね
曹操は劉備による攻撃で豫州の一部が落とされてもある程度放置して冀州攻めに専念してたってことになる
袁紹没後は曹操のターン!って感じだけど葉が落ちてたってことになると途端に苦しくなって
曹操の烏丸征伐に反対の声が大きかった理由もよくわかるようになる
>>290 関西の強兵で構成された一軍を率いて来た軍閥崩れと個人で移住してきた奴では扱い違うだろ
引きこもり引きこもりと、やけに諸葛亮を引きこもり仲間に引き入れるのに熱心な人が約1名いるな
晴耕雨読だから最低でも農家であって、引きこもってないよね
>>298 203年の葉遠征は曹操が郭嘉にケツ引っ叩かれてギョウからとんぼ返りして救援に来た為、
夏侯惇を撃破したのでよしとして撤退してる。その後また曹操が河北平定に熱中してる隙に葉を落とし
南陽郡全域を平定。さらに汝南郡舞陽まで攻略し207年には許昌遠征を進言。
腿にお肉つく暇なんてないぐらい奔走してる。
髀肉之嘆史観に結構毒されていたようだ
>>298 南陽郡全域だからなあ
境界線から許都まで50キロとかいう近さ。
まあ主力の駐屯地は新野とか南部だったのだろうけど、
この状況で劉表を「守勢の賊」と言い切って幽州遠征とかどういう胆力してるんだ。
>>303 曹操も手を打ったらしく206年頃に張遼が江夏まで遠征して数県を攻略してる。
たぶん劉表の東方の要である江夏に打撃を加え孫権が動きやすいようにし、
劉表が東へ兵を割かざるを得ないようにする狙いがあったんだと思う。
翌207年は烏丸遠征と示し合わせたかのように孫権が江夏へ侵攻し、
結局劉表は孫権の対応に終始して劉備の許昌遠征案を棄却せざるをえなかった。
>>304 曹操の勢力圏から江夏まで移動しようとすると豫州南部から山越え、川越えして偉いことになってねーか?
はくぼうはの戦いの元ネタは正史にあったということだな!?
>>306 演義のような軍師たちのデビュー戦ってわけでなく
劉備が前に出てふつーに勝っちゃってるので改変食らった話だな
>>304 >曹操も手を打ったらしく206年頃に張遼が江夏まで遠征して数県を攻略してる。
これどの伝のどの記事を指してるの?
>>305 ○○県を平定したとか具体的な記述がないから自信ないけど、
遠征後に臨潁に駐屯してるからたぶん潁川方面からの侵攻。
豫州と荊州の境界に沿って南下し信陽辺りを攻略したんじゃないかと思う。
諸葛亮は我流先生だな!
>>308 張遼伝に袁譚討伐(205年)と烏丸遠征(207年)の間に
「復た別に荊州を撃ち、江夏郡の諸県を平定した。
帰還すると臨潁に屯し、都亭侯に封じられた。次いで柳城遠征に従軍し〜」
とあり、前後の記事の時期からだいたい206年頃と推定した。
山地を越えて大軍や支配地域を維持するのは無理だろうけど、
数軍規模・短期間なら越えられない山地でもないんじゃないかな。
益州なんかと比べれば。
張遼ってパーマンかよ? 山越え、川越えして
張遼伝の時系列は
曹操指揮下で袁譚討伐→独立部隊を率いて青州の公孫度軍掃討→曹操と共にギョウ帰還(205年10月)→
江夏遠征→臨潁駐屯→曹操指揮下烏丸討伐へ(207年夏5月頃)
曹操は袁譚討伐してギョウへ帰還した後、反逆した高幹討伐へ赴いている。
たぶん張遼伝の「復た別に荊州を撃ち」ってのは再び曹操直属から離脱し独立軍を率いて荊州へ遠征したって意味なんだろう。
>>313 孫権の協力が得られるなら寿春から川を遡上すれば何とかなるだろう
当時の曹操と孫権は同盟関係だったと妄想すると赤壁妄想がまた広がる
たしかに赤壁は200年に当主となって以来、一貫して曹操政権を支持し江夏を何度も攻めて劉表足止めに貢献してきた
孫権が突如離反し逆賊劉備と共に曹操に喧嘩を売った戦いと捉えられるかも。
あくまで現代の話だが、
汝南郡南部からまっすぐ南下して江夏に出る地域は、
なだらかだし道も集落もけっこう通ってる。
ここが通れないなら会稽郡や南昌は攻略不可能地域だ。
高い山地はもっと西、南陽・汝南の郡界だった辺りにある。
319 :
世界@名無史さん:2011/01/27(木) 00:18:55 0
(今でいうところの)ベトナム地域と孫呉の関わりは?
孫呉政権に関わったベトナム地域出身者は居ないの?
だからごつとっこつ
>>295 曹洪の舞陽→舞陰という進軍ルートはちょうど
>>318で指摘されている南陽・汝南間の山岳地帯を踏破するルートだから、
南陽の劉表軍にしてみれば天険が守ってくれてと思っていた東方から曹洪が出現し、あっという間に宛を丸裸にしたことになる。
また曹洪の進撃は博望でとまっているのは、博望まで攻略した所で曹操・趙厳の本隊と合流し、
全軍で宛を一蹴したんだと思う。
つまり荀ケの戦略は曹操・趙厳の本隊は堂々と宛へ進軍して劉表軍の目を引きつつ、密かに曹洪が山岳地帯を踏破して敵の後方を制圧。
宛近郊で曹操本隊と合流して宛を制圧。一度も停止せずに一気に南陽郡を平定することで劉表軍の戦意喪失を狙う、ではないかと思う。
>>319 現代地理で考えていいのなら、ハノイがあるのは当時の交趾郡のど真ん中だよ。
まあ、それより南西のことは全然分からないけど。
323 :
世界@名無史さん:2011/01/27(木) 00:30:18 0
士燮の故郷・蒼梧郡は今のベトナム領じゃないな
>>318 でも不思議なことに三国時代通して豫州から江夏方向攻め込むこともその逆もほぼ見ないんだよね
恐らくは大軍の維持に必要な水運が豫州〜江夏のルートでは確保できないってことと
江夏周辺を取っても維持出来ないっていう2点があるのではないかと思う
張遼の江夏攻撃は維持する必要がなくまた少数精鋭を募ってのものだったとしたら
上記の問題点は問題点ではないので現実味を帯びるけど
>>324 277年に夏口都督の孫慎が汝南郡まで遠征してる。孫慎の単独遠征だったみたいだし、
張遼も自身の手勢だけだったみたいだから。魏も呉も遠征ルートとして用いてるけどやっぱり大軍の維持は難しかったんだろうね。
北方勢力が江夏を永続的に抑えるとしたら
漢水北岸一帯の支配権が必須だろうからね。
南から攻めるとしたら、中原の優勢な陸戦兵力相手に
一路だけで突出することになり、やはり奇兵の類にしか使えない。
一応寿春まで取れれば淮河水系から汝南までつながって
江夏からの北上も有効になるだろうし孫権が合シ肥に拘るのもわかる気がする
合肥を突破して孫呉が淮水南岸に水軍を乗り入れることができたとしたら、
理屈の上では淮水支流が流れるどこへでも水軍で霍乱行動ができることになるからなあ。
曹操がショウ([言焦])から合肥へ水軍を持ち込んでる逆で、
下ヒ・沛・汝南一帯をズタズタにされるという。魏にとっては悪夢だね。
諸葛亮の姉の旦那、房陵太守カイ祺ってカイ越の関係者だよね?
劉フクが元気だったら曹操は荊州を後回しにして会肥から東呉を一気に攻撃したかも。
>>329 カイ越の父とカイ祺が従兄弟どうしぽい。
>>321 「曹公卒至」(先主伝)だから、ひそかに行動し劉ソウ陣営にとって突如現れたように思えたのは曹操率いる部隊と思うべきだろう
あなたの考えではひそかに行動したのは曹洪の別動隊ということになるので、先主伝とは矛盾する
曹洪は曹操本体に置いて行かれる格好で時間をかけて諸県を攻略したんじゃないかねえ
兵站路確保の為に諸県平定を曹洪が行って居たとみるのが合理的な感じかな?
335 :
321:2011/01/27(木) 12:02:21 0
>>333 改めて地図を見てみたら舞陽は汝南ではなく潁川郡所属で許昌の南東50里の地点だった。
誤った前提で書き込んでしまっていた。申し訳ない。ここまで手を伸ばしていた劉備はやはりすごい。
曹洪が攻略した県の位置を全て洗いなおしてみたところ、
許昌→舞陽→葉→堵陽→博望→宛と数珠繋がりになっており、おそらく豫州から荊州へ入る最も有力なルートだったのだろう。
もし曹洪が曹操の後に続いて進んだのならば舞陽〜博望の諸県は曹操本隊が攻略してるはず、
それが曹洪別働隊が攻略してるんだから、おそらく曹洪は曹操本隊に先行して進んでいたと思われる。
また曹洪が攻略した拠点の中で舞陰だけ葉から数十キロ南と主要ルートから大きく離れている。
おそらく舞陽を攻略した所で葉を無視して荊州と豫州の境に沿って大きく南へ迂回、舞陰を攻略。
その後北上して葉を南から攻略したんじゃないかと思う。劉表軍は曹操が許昌→舞陽→葉と順当に進んでくると
考えていたため背後から奇襲を受ける形となりあっさり前線の葉が陥落、そのまま博望まで押し込まれたという流れだったんじゃないかと思う。
許の南東五十里って軍隊でも1週間あれば到達できてしまう距離じゃないか
そこまで曹操の喉元に迫っていたら劉表は劉備を用いることは出来ないって話は全くのデタラメもいいところだな
そこまで手を伸ばしておきながら、前線指揮官である筈の劉備が樊城まで下がらされていることが解せないし
劉ソウ降伏時の説得で「劉備は何も出来なかった」も信用できない
337 :
世界@名無史さん:2011/01/27(木) 12:23:07 O
>>335 そもそも曹操は宛までの諸県を間道を通るなどして素通りしたんだろう
それが間行軽進ではないかと
>>337 舞陽→葉→堵陽→博望のルート以外に宛・許昌間を大軍が往来できる道路はないと思う。
南陽郡と豫州の間はこのルート以外は山脈が連なっていて十万近い軍が密かに通るのはまず無理。
でその唯一のルートの入り口を押さえる位置にあるのが葉で、まずこれを抜かないことには南陽郡へ入ることすらできない。
そして葉を攻略したのは山越えで舞陰から迂回してきた曹洪なんだから、曹洪が葉を抜くまで曹操は許昌〜葉間をゆっくり堂々と進軍してたんじゃないかな。
>>336 たぶん劉表は曹操と孫権の両方に対応する為に主力を襄樊まで下げたんだと思う。
208年春には黄祖が討ち取られて東方がかなりマズい状況だったし。
南陽の諸県には劉表の別将がそれぞれ配備されていたから、南陽を完全に放棄したわけじゃなく、
各拠点で曹操の南進を少しでも足止めする狙いがあったんだと思う。で曹操が南陽攻略に手間取ってる間に
虎の子の劉備軍を樊に入れ、襄陽に各地の兵を集結。そして南陽で散々足止め食らい、宛〜樊間の数百里を
長躯して疲弊した曹操軍を北からの攻勢には滅法強い襄樊で迎え撃つ、ってのが劉表の戦略だったんじゃないかと思う。
自身の死による混乱と南陽があっさり陥落したことで破綻したけど。
南陽郡一帯の地勢は『むじん書院』の地図が分かりやすいと思う。
>>336 当時の対北指揮権が劉備に一本化されていたのではないだろう。文聘のような人間がおそらく多数いたわけで。
南陽全域と豫州にまで「劉表軍」が進撃し戦線を構築していたというよりも
反曹操の勢力下に置かれて劉表が部隊を送り込んでいた、というくらいじゃないか。
その機に乗じて劉備が「襄樊から主力を出しましょう」と言ったのに劉表は却下して、
逆に樊城に戻されていたと。
>>338 南陽盆地の西北はちょっと高地に囲まれているが
先に上がった張遼の江夏越えコースよりも遥かに起伏が少なくて隙間も多いよ。
曹洪が本道を突破しながら付いて来るんだから通過も維持もできるだろう。
そもそも南陽盆地を未制圧のまま突っ切って穎川←→新野付近を行き来した例が後漢書にあるな。
更始帝の対新戦略がそれだわ。
宛未制圧で魯陽、穎川を制圧してる。
漢書、後漢書ともに葉辺り一帯には戦国楚の時代からの長城があると書いてあって
恐らく三国時代でもある程度維持整備されてたようだから、
守備兵さえ配置されて居ればそう簡単に抜ける場所じゃないと思うの
逆言うと守備さえされてなければ簡単に通れる場所なんだろうけど
「方城之險」というやつね。晋書にも記載がある。
劉表が曹操を相手に南陽で優勢を築けた理由が、
古来、ここが「荊楚」に属する地勢にあったからだろうし、
荊州と豫州の境界がここに敷かれる所以でもあるだろう。
とはいえ、この優勢は平時の勢力争いでのことであって、
曹操が主力軍を差し向けた場合には度々宛まで侵攻されている。
ただ、劉表の力が優勢な南陽盆地内で荀ケ案のような間道急進を行い、
劉備の不意を突くようなことがそうそうできたのか?
というと、ちょっと疑問になってくるのだろうけど。
想像するに、劉表の死による混乱と、情報網から劉備が孤立していたことで、
先主伝に記載されるような展開が起きたのではないか。
劉j側は仮に間道の別軍をある程度掴んでいても、この機に降服しようなどという論が出て
軍事的な動きがとれず、そのまま迅速な侵攻を受けて実際に降服に至ったのだろう。
347 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 01:19:29 0
偽黒がスレストッパーすぎて胸が熱くなるな・・・
何だろう、色々返したいんだけど、ファン過ぎて何も言えない
盛りあがってるところに水差したくなかったから言わなかったけど、
劉表の勢力が頴川に深く食い込んでたって話を、最近うpしたサイトがあったねw
なんだかんだ言ってみんなそういうの影響されるんだなw
それどこ?読んでみたい
351 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 07:20:42 0
影響って、曹洪や張遼が攻略した場所はどこどこにあるよって指摘があれば誰にでも思いつく話じゃないか
353 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 09:26:18 0
>>337 10万単位の大規模な軍隊なら、いくら間道を通ってもばれるよ。
第一、間道じゃ輜重が維持できない。
354 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 09:28:47 0
そもそも諸葛亮の行動が矛盾してるのが悪いんだよ。
わざわざ劉表や豪族と関係つくったのに、その地位も利用もしないでニート。
この頃の諸葛亮はただの考えなしじゃないの。
355 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 09:59:22 0
>>292 >一方、諸葛玄は手勢を全て失った挙句領民により殺害、諸葛亮と均は身一つで頼ってきた。
民に襲われて死亡って、袁術についた劉詳の死に様と同じなんだがなぁ。
なーんか怪しいと思うぞ。
ま、「暗殺だ」「暗殺じゃない」とかいいだしたらキリがないけど。
>>293 >君の常識は聞いていない。
みんながみんな曹操のように旧敵と仲良くできるわけじゃないでしょw
>劉表は袁術と孫堅が南陽を奪った当時の当事者じゃないし、荊州人でさえない。
>孫氏が劉表を蛇蝎の如く憎む理由はあるが、逆は殆ど無い。
劉表は朝廷に近い人間。後で張繍達を受け入れてるし。
つまり袁紹袁術兄弟は完全に敵っしょ。
ていうか、カイ越の劉表への献策もまず袁術対策だった。
>>294 諸葛玄のような元太守様を何もしないで放置してたんだから、冷遇でしょw
>>354 じゃあ、荊州在住で蔡瑁の姉婿なのに仕官しなかった黄承彦は池沼ですねw
357 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 10:34:59 0
>>356 後漢の権力者は縁戚にどんどん地位を与えるのが普通。
姉婿といっても、実はただの妾だったとか、そんなオチだったりして。
358 :
357:2011/01/28(金) 10:42:48 0
>>356 黄承彦の姉が蔡瑁の妻になったんじゃなくて、蔡瑁の姉が黄承彦の妻かよ。
逆だったね。
359 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 11:01:03 0
蔡瑁の母親は大尉張温の娘だし、姉の一人は王族の劉表に嫁いでる名家。
なんで官位すらない黄承彦なんかと婚姻したのかね?
360 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 11:05:31 0
そもそも、黄承彦が豪族だっていっても、蔡瑁の家は黄家を遥かに上回る大豪族だろ。
黄家と結ぶ意味ってあるのか。
>>359 当時の名家の婚姻は、同格以上の名家と婚姻するか、
家格は低いけど権勢のある家と婚姻するか、
家柄も権勢も無いけど、いずれ高い名声か高位高官を得る見込みのある人物と婚姻して、一族に加えるためだね
362 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 12:09:43 0
孫堅が呉氏を娶ったときも、呉氏は山賊に嫁にいくような悲壮な決意だったよな。
結果的には博打に勝ったが。
しかし、荊州の黄氏は家格も権力もないし、黄承彦以外の著名人もでてこない。
黄承彦の能力を讃える話もない。
むしろ、ブスの月英が諸葛亮に嫁いだという一事のみで有名。
>>362 呉氏が一族に対してああ言ったのは「そういうことになっても私は後悔しないから反対しないで」ってニュアンスで、
孫堅の勢力や粗暴さを恐れたわけじゃない。呉書を読めば分かると思うが、
呉氏はそういうことを恐れる人間じゃない。また、孫堅の求婚を受け入れたのは、
一族のためじゃなくて、自分の意志なのも明らか。呉氏の親は既に死んでて、
自分の家のことを考えて呉氏の意志を無視して、一族の反対を押し切ってまで孫堅との結婚を強行できる人間はいない。
また、呉氏の親と関係なく一族の利益になる結婚と思われてたら、一族が反対するわけも無い。要は例外なので参考にならん。
黄承彦の系譜は明らかではないが、荊州で有力な黄氏と言えば、三公を出した江夏黄氏と、
南陽の大族の黄氏があって、そのいずれかの一族ではないかと思われると言うか、
そうでなかったら無位無官の黄承彦と蔡氏が婚姻する理由が見当たらん。
一族の著名人がどうこう言うなら、劉表の重臣中の重臣で、親子で郡太守になった黄祖親子なんかも、
黄祖とその息子の黄射以外の一族の著名人は出て来ないけど、寒門から劉表に取り立てられた人物なら、
重用されるのは黄祖だけで、功績が記録に無い息子まで父親と同格の郡太守に取り立てられることは考えられない。
まあ、こういう感じで状況証拠的に名家の系譜に連なるものだろうと推測できる人間もいるから、
黄承彦もそういう人間だろう。官位に就いてないから権勢は無いとして、家格があるかないかは、
はっきり寒門と分かる記述が無くて、状況証拠は名門であると推測される方向しか示してない。
>>360 蔡氏そのものはそれなりに大きい豪族であったものの
劉表の荊州支配に乗って相互利用的な形で勢力拡大してからの最大勢力だし
黄承彦はベン南の名士ということだから襄陽周辺の人ってことで
南陽とも江夏とも違うので、もしどちらかだとしても傍流なんだろうけど
俺は違う可能性の方を多く見積もってる
黄祖の場合は江夏の守備に回ってるわけだからむしろこっちが江夏と何か地縁あったのかもしれんよ
曹操南征でこのベン南の人は散り散りに逃げ去ったそうなので
おそらくこれが劉備に付き従った荊州の人の一部を構成してたわけだな
諸葛亮の舅がベン南の名士だったことから考えてもこれは有り得る話だと思う
名士云々という評価をされる事多いけど、「豪族諸葛亮」という側面がこの件でちょっとだけ見え隠れ
365 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 13:22:25 0
>>363 >呉書を読めば分かる
呉書って孫呉王朝正当化で偏向してるんじゃないの。
初代の孫堅が「呉の田舎名士にすら結婚を拒否られるような下賎な成り上がり者でした」じゃカッコつかない。
呉氏の意思なんてものが果してあったのかと。
>また、孫堅の求婚を受け入れたのは、一族のためじゃなくて、自分の意志なのも明らか。
当時の価値観として、恋愛結婚だからって正当化されるわけないだろう。
現代人ならともかく。
>>365 自分の意見を主張する時は呉書を持ち出すくせに、他人が同じ部分を根拠に反論したら偏向ってたいしたダブスタだわ。
孫堅が「呉の田舎名士にすら結婚を拒否られるような下賎な成り上がり者」ってのは、
呉書にある呉一族の反応見りゃ明らかなわけで、そういうの書いてる呉書が偏向してるなら、公平な資料は無いわな。
で、当時の常識から外れた結婚だってのも、一族の反応見りゃ明らかだわな。
それで、呉一族に呉氏の意志を無視して、孫堅と結婚させようって考えがあった様子も、一族の反応見りゃまったくないわな。
孫堅が脅迫してそうしたんなら、真相は隠したいだろうから、もっと美談仕立てにするわな。
孫堅の素性の怪しさとイメージの悪さがはっきりと分かる呉氏と一族とのやり取りを作り話なんかしないわな。
367 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 14:22:39 0
人脈から見ると、蔡氏って在地の豪族って言うより、中央の官僚にちかいんじゃね?
>>367 在地の大豪族でなおかつ代々中央の高官を輩出する一族は多いよ。
それに蔡一族と縁戚の張温は、弟が南陽の功曹をやってる。
功曹は在地の大豪族じゃないととなれないから、張温の家は南陽の大豪族だったんだろう。
369 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 15:08:14 0
四川省の人間が清によってジェノサイドされてしまった(現在の漢族は湖北省からの大量移民の子孫)ので蜀漢の事績を伝える伝説、文化財は現地には(後からつくった廟以外は)残っていない。
370 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 16:19:33 0
>>366 答えは単純。陳寿の編集w
陳寿が集めた資料では孫堅のどうしょうもない脅迫が書かれてて、
孫呉王朝バンザイの韋曜の呉志には呉氏が自ら孫堅を選んだかのように書いてあるのさ。
孫堅って出身自体は下賤でもなんでもないぞ。
「堅世仕呉」「少為縣吏」。
つまり定期的に官吏を呉郡府に、歳若く名声教養品行も良くない孫堅をすら県廷に送り込む力のある一族で、
富春県の有力豪族と看做すのが妥当。
無論、後漢書に載りまくってるクラスの全国レベル名族には遠く及ばないが、
錢唐県の有力豪族であっただろう呉氏と同格と見てよい。
孫堅が当初呉氏の色よい反応をもらえなかったのは、「輕狡」、軽はずみと見られていた孫堅個人の性向に寄るものだ。
>>363 名士を語るなら後漢後期の逸民・謙譲の風に触れないといけない。
簡単に言うと、在地の豪族が盛んに官吏を送り込もうとするのと並行して、
品行優れると評価される名士達は行いを謹んで世俗との交流を制限し、
官に招聘されても病と称して断り、出発しては途上何度も引き換えしたりした。
野心を秘める者にとっては謙虚に振舞うことが自分を官界に高く売ることになったし、
そのつもりがなくても在地社会での地位を高めることになっただろう。
高官になれば名声や財産は付いてくるのだが、
人材登用の順序から言えば、名声高い者が高官の目に留まって推挙・招聘されるのであって、
その進路を望まずに地域社会の高士・長老で一生を終える人間がいくらでもいた。
後漢末に最も著名なのがおそらくホウ徳公であり、後漢書に伝がある。
まぁ、下世話な想像をして「自分は曲筆を看破した」と思い込むのはよくあること。
特にネット上。
374 :
世界@名無史さん:2011/01/28(金) 19:59:32 0
下世話な話を陳寿がわざわざ載せてるのに、
「実は下世話じゃないんだ」と言い張るほうがどうかしてると思うよ
どう見てもそういう事にしたがってる
>>374のほうが異常だよ
孫策は孫堅の二十歳そこそこの時の子だから、
求婚時孫堅はまだ十代(おそらく呉氏も)。
当時の孫堅は教養や功労ではなく一発の勇敢さで假県尉になったという意味では
「なりあがり者」の「輕狡」だった。
そんな若者に、両親を亡くした美人の娘が目をつけられたわけだから、
こりゃ弱味に付け込んだってものだろう。親族の者が渋るのもそれはわかる。
一族の若手の星、にしては乱世を予感させる青年武官と、
両親を亡くして経済力もなく同族の保護の弱まった娘。
呉氏が「不遇にあったとしても運命だ」と覚悟していくような、
宗族の枠からいささか外れた者同士の結婚だったわけだね。
>>374-375 君らのいう「呉書」って互いに違うものを指してるぞ
霊帝ってなかなか味のある生涯を送ってるね
こういう人間は読み込むと楽しい
推挙された場合ってさ。
やっぱ推挙してくれたやつの子分になっちゃう義理みたいなのがあるの?
関係なし?
辟召関係なら論文になる程あるよ。
孝廉なら……どうなんだろうね?
明らかに漢外戚の陰一族だろうって人に挙げられてる穎川名士連中はむしろ魏の中核になったけど。
彼が挙げたのはとんでもないメンツだ。
孝廉でも生まれたよ。
価値の高さでは差異はあるが、太守が郡吏を任命するのでも故主故吏の恩が生まれたわけだから。
孝廉では、鄭玄の子の鄭益恩が推挙主の孔融を黄巾から救いに駆けつけて戦死している。
茂才になった袁譚が劉備を遠出してまで出迎えたり。
蔡ヨウほどの人間が誅殺された董卓にすがって哭したり、
他にも刑死した恩人の遺体を危険を侵して引き取る例など多い。
辟召や選挙を受けたことがある以上は、断った場合でも終生礼儀を守るのが筋だったようで、
張昭が陶謙に対して弔文を書いたり、田疇が袁尚を弔ったりしている。
高官が死罪になるとそれまで推挙されてきた人間が連座で免官になったり、
推挙を受けた人間の素行が悪いと選挙不実で高官が免じられたりと、
政治的にも一蓮托生だったのでなおさら絆は強まっただろう。
ある日突然豪華な車が来たと思ったら12歳で皇帝に擁立される
かと思ったら擁立者の竇武・陳蕃らは宦官との政争に負けてすぐに死んでしまう
売官によって蓄財に励む母をよそに王美人という女を愛したと思ったら、何皇后に毒殺されてしまう
間に宦官が入ったから皇后を罰することも出来ず、後宮で商人ごっこをやって自分を慰める
そんなことをしている間に黄巾の乱が勃発
乱中の宦官とのやり取りも面白いね
足利義政とにてるなぁ。
義政は銀閣とか能とか芸術的なセンスがあったけど
だから他はともかく自ら売官売爵の商人やったのは財源確保と横領防止には効果的だと何度(ry
無上将軍にしても文学畑の人は将軍ごっこと把握する一方で史学畑の人は軍制改革と捉えたりしてる
まあどっちがいいとは言えんしこの一事で霊帝の評価が決まる訳でもないけど
桓帝が全国の租税を半分にしたりするから霊帝が金策に奔走したんじゃね。
西園八校尉って霊帝の時代だっけ
388 :
世界@名無史さん:2011/01/29(土) 19:52:30 0
ばらまいてるうちは大丈夫だが、緊縮すると国が滅ぶ。
はて、どこかで見たような流れ。
歴代賑給と反乱鎮圧を繰り返したが支配体制が崩壊していくのを止められず黄巾の乱に至る。
そのときになって霊帝が各種改革を試みたけど、予算は枯渇しも地方の支配基盤もなく、
諸州の牧制と司隷の皇帝集権体制で制度の再構築を試みるが、成果が上がる前に崩御。
歴代皇帝の早世が続いて、後宮勢力の伸張を止められなかったのがね。
>>385 概念的にはプロイセンの至高の大将軍と被るから
尚更史学畑の人間は無上将軍を評価したくなるんでないの?
391 :
世界@名無史さん:2011/01/29(土) 23:06:55 0
>>389 霊帝の前の桓帝こそ、梁冀一族を討ち取って外戚の伸張を止めた人じゃん。
宦官は皇帝の手足なんだから、「宦官の横暴」とやらの結構な部分が皇帝の横暴とも取れる。
霊帝の霊ってどういう意味があるんだろう?
やるべきことを達成できなかったとか、そういう人に送る諡号なのが一般。
諡法では最悪の部類に属するらしい。
名君が悪諡与えられたり、逆に暗君が美諡もらったりするのも珍しくないから、諡法っていいかげんだけどな。
結局、生きている者が死んだ人に贈るものだから、贈る人の胸先三寸なんだよ。
春秋時代には宰相が主君殺しておいて、それを正当化するために
主君に悪い諡号贈ろうとした例もある。でも大枠では諡法に基づいてると思うよ。
『霊』は後漢書だと混乱を起こすも決定的損失は出さなかったという意味だと説明されてるな。
他には鬼神をよく祀った、あんま頑張ってないのに功績を挙げた、死んで名を挙げたなどの意味もあるらしい。
「幽」が悪いというイメージあるな
君主の諡はまだいい。臣下の諡は当時の空気と偉いさんの気分だけで決まるからいただけない。
奸臣の分際で忠侯や敬侯になった奴がどれだけいることか…。
399 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 00:03:36 0
そういえば司馬昭は父と兄の諡をあえて格下げしてたな
>>393 霊は悪くない、普通
ただ自力では何も為してなかったり、死後になるまで目的が達成できなかったり
失敗はしたもののそれが致命的だったわけでもないのだが挽回もできてないという
「為さざるもの」というような意味
夏侯尚の「悼侯」は曹丕の反省の表れなんだろうか。
402 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 00:13:50 0
関羽の諡はかなり悪いらしいな
>>402 まず劉禅の時代になってから「過去の英雄を称揚するために諡を送りましょう」ってな発案で為されてるのに
わざわざ悪いもの付ける理由がねぇよ
404 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 00:47:50 0
梁章鉅によれば、関羽の壮穆侯ってあんまりよくないらしいよ。
乾隆帝なんて関羽好きすぎて勅命で忠義侯に全て書き換えさせてるな。
梁章鉅は清代の人物で、その頃から穆は誤謬の「謬」に通じるって説が現れたんだよ
関羽ヲタの乾隆帝が関羽の諡を忠義侯に変えてしまったのも同じ理由だろう
梁章鉅の『三国志旁證』の原文は最初に「壮繆」は美諡でないといった後
乾隆帝の諭旨を引用し、その後に明の程敏政の繆=穆で美諡だとする説を
引用する。
清朝の人間があからさまに乾隆帝を批判できなかっただけで、
梁章鉅も実は「壮繆」は美諡だと言いたかった可能性はあるぞw
穆と言ったら秦の穆公がいるし悪い意味で付けてるとは思えんなあ
穆公を葬った人たちからすれば悪感情はあったかもしれないけど、
まあそこそこの諡だろうと思う
>>391 後漢後期の後宮勢力ってのは皇太后と宦官。
男の外戚は下手をすれば皇帝の懐から弾き出される危険が増加していく。
梁冀も梁皇太后・梁皇后といった女性が崩御した途端に権力の保証がなくなって誅殺された。
幼年で帝位に付くことが多かった後漢後期の皇帝は、
成人しても皇太后から執政を返してもらえないことがあるほど、
「母」であり政治を摂政する臨朝皇太后に逆らえず育つ。
私生活では、宮廷奥深くに生活する幼帝は生活の根本から必要とする宦官に大きな影響を受け続ける。
この二者は殆どの場合強く連帯して政治を維持しようとしたから、
皇帝は公私共にそう簡単に独立できない境遇が固まっていた。
外から迎えられた桓帝や霊帝ではなおさらだろうね。
布徳執義、或いは中情見貌、曰く穆
布徳は徳を外に施し、執義は義を内に持すこと。
根心生色が自然に流露することを中情見貌という。
おもろいね。
史実の関羽でも上手いこと付けたものだと思うが、
演義に至る人物造形もここから取材してるのかもしれないな。
412 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 07:34:42 0
関羽は荊州失陥という大失態をしでかしてるからなあ。
功臣であることには間違いないが、国家には多大な損害を与えている。
良い意味での諡号は与えられない感じがする。
趙雲の順平侯は良い諡号だな。
後主の命の恩人だったからだろうか?
414 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 09:19:24 0
関羽の子孫は皆殺しにされて残っていない
415 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 11:23:36 0
族滅されたわけじゃないから、女系は残ってるんじゃないかな?
417 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 11:29:26 0
霊帝の軍事改革を持ち上げるのはいいけど、
軍事に金をつぎ込みすぎて滅亡ってやっぱり暗君じゃないか?
しかしいざ黄巾の反乱となるとせっせと溜め込んだ軍資金や軍馬を使い惜しみしごねたという。
零点皇帝ってことね。
420 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 11:35:52 0
光武帝が軍を解体したのって、常備軍維持の負担を避けるためだろ。
常備軍創設
↓
費用を捻出するため徴兵、増税、緊縮
↓
人民の疲弊とインフラ整備に回る金の減少
↓
反乱頻発
↓
全土荒廃
↓
国家の滅亡
>関羽の子孫は皆殺しにされて残っていない
荊州で孫権軍の捕虜にされた一族には呉で生き残った者がいないのか。
名前を変えただろう。
後々までたたられるの嫌だから。
423 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 11:44:47 0
>>418 霊帝の手駒は軍事力しかない。
最後の切り札を危険に晒すような真似はしたくないのも当然。
もし負けたら、そこで滅亡するしかないのだから。
手元の資金と軍馬を惜しみ反乱を放置すればそれこそ滅亡。
渋々霊帝は溜め込んだ軍備の使用を許可した。
そのとおり。
李鴻章の北洋海軍、淮軍といっしょ。
日清戦争での北洋海軍の喪失がどれだけ彼の政治力を損なったか。
宦官を信用していたのか宦官を抑え切れなかったのか
宦官の言のままに皇甫嵩や蘆稙を解任し黄巾討伐の前線を混乱させ反乱を長期化させた。
427 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 12:06:43 0
黄巾の蜂起が184年2月で、各地の太守がボロ負け&逃亡。
でも霊帝側も、3月には8箇所の地方を守る都尉の人事を発令し、盧植、皇甫嵩、?俊に命じて討伐開始。
連絡手段の制約を考えると、なかなか迅速に対応しているのでは?
まあ同時進行で呂強とかの忠臣を殺したりしてるが。
428 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 12:07:50 0
>>424 てか、太守がいるんだし、地方でやっつけられるならそれで問題ないわけで。
地方太守が中々平定できず苛立つ霊帝に反乱は
大規模な蜂起で官戸を開けて軍馬を使うべきだと言上し渋々許可。
430 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 12:28:46 0
なんのための軍馬じゃい!
それをおもえば大和を特攻させた日本海軍は
反乱が起きてるのに当の霊帝は宮中で肉屋ごっこをしていたという記述は若干脚色されていると思う。
いや、実話じゃね?
反乱がおきてるから飯ものどをとおらない?
今の首相なんかも休暇とってレストランいったりゴルフしたりでリフレッシュしてるがな
朝廷において状況の報告や御前会議における作戦の検討など政務に忙殺されて肉屋ごっこなんかしてる暇が無かったと思う。
435 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 12:49:48 0
宮廷でのお店屋さんごっこもなんか理屈をつけて正当化してみろよw
霊帝見直し論で。
436 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 13:22:00 0
軍事国家は軍事しか頼るものがないから軍事国家なんであって、
実は戦争なんていう手段は好まない。
もし戦争して負けてしまったら、本当にそれでおしまいになってしまうから。
いろんな国と連携する外交能力や、特殊な資源や技術、経済上の優位があれば、
わざわざ軍事力に頼る必要もない。
そういうのが全部ないから軍事国家になるわけだ。
黄巾鎮圧が長引いたのは、あくまで「反乱」とみなしたため潰すか潰されるかの二択になってしまったから。
交渉で適当に称号や権利を認めれば、短期で静まっただろう。
ただ、黄巾の「成功」をみて地方の独立がはじまるかもしれず、
それで後漢という国家が持続するかは神のみぞ知るが。
>>435 商いの社会勉強でしょう。
下々の生活感覚をバーチャル体験。
なかなかに勉強熱心な、ペートル大帝なみの素敵な皇帝だったと言える。
438 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 13:45:14 0
十常侍は実在したの?政治腐敗は無能皇帝と彼らだけの責任なの?
>>420 後漢に「常備軍」が復活したの何年だと思ってんだ?
440 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 13:46:41 0
前の皇帝が無責任にばらまいたのを、増税と売官で財政再建しただけで、腐敗でも何でもありません
441 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 13:47:45 0
442 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 13:48:11 0
皇帝がちょっと電波なのはそれほど大きな問題なのか?
>>438 そう呼ばれた存在はいた。
彼らが自分の党派の者を高位に就けたり、
既存の官僚の多くも阿って追従したため、
全国的に綱紀が緩んで賄賂や不正報告が蔓延したことが
政治停滞の大きな要因。
>>441 八校尉が出来たために
>>420が起きて後漢滅亡とは
なかなかスピーディな滅亡模様ですね。
445 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 14:03:29 0
>>444 創設資金を集めてる段階で地方から搾取しまくり、それが原因で反乱になった。
446 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 14:22:44 0
>>443 >既存の官僚の多くも阿って追従したため、
>全国的に綱紀が緩んで賄賂や不正報告が蔓延した
そんなのはいつものこと。
梁冀の専横の頃は、黄巾みたいな超大規模内乱は発生してない。
>>446 そりゃ黄巾の乱は天候不順と政治腐敗の70年の蓄積の末のことだもの。
黄巾クラスの反乱が10年とかの政治失敗で起きたとでも思ってる?
霊帝は漢王朝を立て直すには寿命&力不足だった
霊帝がばか皇帝ならなぜ、秦氏は霊帝の子孫だなんていってたんだろう?
すこしでも評判がいい皇帝の子孫ていいたいだろ??
>>445 西園軍の創設資金を集め始めたのはいつ?
451 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 14:54:50 0
>>447 政治腐敗についてはたびたび大掃除してる。
霊帝の前の桓帝も梁冀一族皆殺し。
その程度じゃ大規模内乱は起らない。
>>449 知らないので想像だけど、
献帝の前の最後の正統な皇帝だからじゃないかね。
献帝は魏に禅譲してしまったのでその子孫を名乗っても王朝の正統な裔とは言いにくい。
山陽公の裔になっちゃうからね。
先の皇帝の子孫だと、王朝時代に既に枝分かれしていた所詮傍流ということになる。
霊帝の子孫というのが、「漢王朝の末裔でござい」と言う最も良い血筋と言える。
>>451 宦官が対立外戚や儒家官僚を大掃除して「クリーンになった。問題解決」
と言うのが君の歴史観か。
すると黄巾の乱の勃発理由というのは俺の想像の範囲外だな。
秦氏ってか、東漢氏−坂上氏だね
で坂上の裔に丹波がいるんだが
丹波哲郎はテレビで後漢の末裔を自称してた
まあ考えてみろよ。
今日本は「失われた二十年」とか言ってるが、
これが「失われた七十年」になったら、2060年にどうなっているか。
それでも、「この程度では国は滅びない」と言うつもりか。
まあ、現代なら日本国という名前は多分残ってるだろうけど。
456 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 15:04:01 0
>>453 宦官も外戚も儒家官僚も腐ってるのは同じじゃんw
>>456 つまり、政治的な大掃除は為されなかった、で合意を見たわけだ。
問題解決。
458 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 15:12:09 0
>>457 粛清による入れ替えがあれば、しばらくは癒着や横暴はなくなると思うけどね。
そりゃ野党だった側がクーデターでひっくり返したときの話だ。
460 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 16:32:10 0
霊帝の西園八校尉の司令官は誰だったのだろうか。
ケンセキだろ。
蹇碩
でも西園軍の創設は何進の発案なんだよな。霊帝はアイデアだけ採用してトップには腹心の蹇碩を据えたってことか?
なんか大将軍さえも上軍校尉蹇碩の掣肘を受けたとか何とか。
464 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 16:53:44 0
蹇碩っていうのは宦官だろ?
つまり、皇帝の手先の宦官が、何進たち外戚一派を掣肘してるんだよw
霊帝は崩御に望み蹇碩に協皇子を託したことからして
弁皇子を推す何進将軍とは齟齬があったと思われる。
上軍校尉>大将軍なの?
五校尉を初めとする旧来の中軍が長年の売官でガタガタ、
反乱続発で徴兵もままならない、
黨錮の流れで儒家官僚らに一任することもできない、
というわけで、
前代から皇帝の居となっていた西園に財貨と兵馬を集め、
雇兵を中核とした精強な中央軍を新設。
自ら無上将軍を頂点として諸校尉が各軍団を統率しつつ
大将軍をも含む朝廷諸軍を統監する権限を持って
反乱鎮圧に望む、という皇帝集権の指揮体制を作った。
というのが、再評価される西園八校尉の流れ。
同時に宦官からの離脱や、袁紹のような反黨錮勢力
取り込みの動きも僅かに見られたが、
創設から一年で霊帝が崩じて軍は解体。
残党は洛陽動乱の一翼を担うことになる。
霊帝の各種改革は、皇帝私有に近い財政基盤と人材を中心に
集権体制を確立しようとしたものであって、
全国的な政治機能の改革に臨んだわけではないこと、
特に数万の常備兵を永続的に抱える力がこの時代の国家にはなかった
ことが問題であり、霊帝の力の限界という辺りか。
468 :
世界@名無史さん:2011/01/30(日) 19:51:52 0
史実三国志に善玉などいるわけない!
霊帝死去から董卓政権までの間、西園八校尉はどうなってたんだろうか
袁紹は出世して抜けたとして、あと一人誰かが死んでたな
曹操含むほかの六人がどのくらいの権力を持って政変に臨んだのか知りたい
知りたいのはいいが自分で考えるつもりはないの?
曹操の去就なんて1分で調べられるし
殆どの小説で取り上げられるものなんだが。
よく分からないが妄想で補えと言っているのか?
>>459 そっちも大概の場合は野党の支持基盤がなりかわるだけだよ。
>>469 下軍校尉鮑鴻が霊帝の死ぬ直前に投獄されて獄中で死んでる。
投獄された原因は不明。
助軍右校尉の馮芳は娘が袁術の寵妃になったみたいだね。
助軍左校尉の趙融はどういう経緯かは不明だけど曹操に仕え、
196年には盪寇将軍を務めていてメタボを禰衡に哂われている。
左校尉の夏牟だけ西園八校尉だったこと以外、一切の記述がないっぽい。
弁の即位によって権力を握った何進・袁紹一派が西園八校尉を積極的に解体もしくは吸収したのでなければ
ケンセキが死に何進・袁紹が抜けて指揮系統と存在理由が曖昧になった集団は校尉に給料を払う才覚があれば、なんとなく存続してたんじゃないかな
ただわずか3000の董卓に袁紹がいいようにやられたところをみるとやはり解体してたかもしれない
そうすると曹操は無職だったんだろうか
弁の即位から張譲の変まで4ヶ月くらいあるけど結構な放置っぷりだね
袁紹の嫌がらせかな
霊帝死後に残った雇兵達は、大方は部曲として何進兄弟が吸収したと考えられる。
その何進が殺された時に去就が浮くのだが、
直後に入城した董卓が兵士の心をよく掴む人物だったので、
将兵は彼に靡き(丁原の兵も含む)、一連の混乱の後に洛陽の兵力の多くを董卓が掌握していることになった。
建安元年の袁紹の常書には「議郎曹操權領エン州牧」とある。
これが後漢朝廷健在の頃の曹操の最終官職ならば、
校尉が解体されて議郎に戻っていた時期があるということになる。
ま、あまり確証とはいえないけど。
478 :
世界@名無史さん:2011/01/31(月) 18:41:07 0
董卓に従ったということは、関東諸侯との戦闘で消耗してしまったか、
生き残っても長安遷都に従って長安入り。
後は献帝の東帰行で置き去りにされて、リカクたちの内紛に使われて終り。
そんなとこだな。
いや。何進の部曲、呉匡がまとめて把握してたんだよ。
彼の亡き後は甥の呉懿が率いて成都に連れて行った。
東州兵となった。
一部が東州兵になった可能性は大いにあるけど、
呉匡は統率者ではなく有力者の一人だろうから
「まとめて把握」とは言えないだろう。
董卓軍は対山東軍の戦いで各地に分散したので、
李カクに就いた者もいれば王允や朱儁に就いた者もいただろうし。
西園から離れてしまうけど、少帝弁の前後に何進の下にいた人物と言えば、
政変の狭間を縫って地方に派遣されてそのまま割拠した仮司馬張楊がいる。
変転する主人に付き従って
>>478の憂き目に逢うのを危うく逃れた
代表格といえば張遼だろう。
>仮司馬張楊
あ、上軍校尉仮司馬張楊ね。
校尉じゃないが彼も西園軍所属経験者か。
鮑鴻は鮑信の伯父だよな。
だから曹操と鮑信の間にはあの信頼があった。
また、ルーツ君か。鮑鴻の系譜が分からないのをいいことにまた捏造。
484 :
世界@名無史さん:2011/01/31(月) 23:03:00 0
なんか最近根拠不明のことをさらっと混ぜてくる奴がいるな
つーか
鮑信は太山人で鮑鴻は右扶風人だから全力で違う。
曹操が鮑信への弔辞に
我、君ノ伯父ト共に賊ト戦ヒ亦君ノ友ト成ル
とあるから鮑鴻のことだろ。西園軍からの友誼があったものと考えてよいし、鮑信の主力は西園軍の一部だったんだろう。
487 :
世界@名無史さん:2011/01/31(月) 23:30:47 0
>>485 後漢書董卓伝に見える「卓聞之喜,明日,乃與右扶風鮑鴻等并兵?攻」ならこれ官名としての右扶風なんじゃねえの
でも泰山の鮑氏だと言うのも
>>486だけでは材料が少なすぎるな
>>486 曹操と鮑鴻が同じ戦場で戦った記録はどこにもないんだが。
489 :
世界@名無史さん:2011/01/31(月) 23:45:31 0
486はかつてのルーツ君臭がものすごいな
>>487 あ、そうか。確かに官名と見るべきだね。
ルーツって?
クンタキンテのこと?
>>491 WIKIで歴史関連の捏造記事を書きまくってたキチガイ。
493 :
世界@名無史さん:2011/02/01(火) 00:00:30 0
494 :
世界@名無史さん:2011/02/01(火) 00:03:03 0
495 :
世界@名無史さん:2011/02/01(火) 00:04:34 0
>>486 その曹操の鮑信への弔辞って何に載ってるの?鮑伝及び三国志・後漢書の鮑信関連箇所読んだけど無いし、
全三国文にもそのような弔辞は採録されていなかった。文選と世語にもなかったんだが・・・
鮑信、というか子の鮑は魏志に伝がある人物で、
信の父の丹は少府・侍中。先祖は「あの」鮑宣という名族。
三国志注に魏書の詳細な引用がある。
右扶風の守相から屯騎校尉、下軍校尉にまでなって
獄死という注目される死に方をした鮑鴻がかなり近い親族で、
しかも「魏武帝」曹操と戦友だったってのなら
どこにも記録がないのは不自然だろうね。
>>486 その弔辞、どこ?
>>496 集解探してたけど武帝紀と鮑伝の鮑信関連の注にはなかった。
書き下しっぽいけど原文が想像できなくてちょっと妙だとは思ったが。
>>486 曹操が鮑信の伯父と一緒に戦ったことがあるとしてもそれが鮑鴻とは限らない
そして西園軍は実戦経験がないので仮にその弔文が本物であっても
鮑鴻が鮑信の伯父である可能性はほぼ無いっていうかただのデマだろ
>>486 まさか自分の妄想をもっともらしくする為に有りもしない引用文を書いたんじゃあるまいな。
本当にルーツ君そっくりじゃねぇか。
前にも出典聞いたら急にファビョりだした奴がいたが…
502 :
世界@名無史さん:2011/02/01(火) 12:06:44 O
つか、鮑氏は本貫変わりすぎ。
渤海高城(鮑宣)→上党屯留(鮑宣の子、鮑永)→泰山平陽(鮑信)。
何事かと思う。
鮑永は事情がはっきりしてるので何事もない。
平陽鮑氏はただの分家だろ。
後漢代中に勃興したので系図を書き換えて
有名鮑氏を祖先に当てただけかもしれないが。
鮑信演義
鮑氏は斉の名族。
だから渤海→上党→泰山に本貫がある。
鮑叔牙の末裔とされている。
>>486 これって名文だね。曹操の面目躍如というか
マジでおかしなのが紛れ込んでるな・・・
そっとしといてあげようよ・・、きっと他に居場所がないんだよ
そうだよそうだよ。
おれらみたいに三国志を原書で読みこなして議論する様な頭がないんだろうな。
オレらみたいな三国志エリート以外のあほはこのスレからでていけ!
ところで董卓の講和の使節団の中で唯一生きて帰れた大鴻臚の韓融って韓馥の一族かな?
どっちも潁川出身だし、他の使節が袁紹に殺されたのにわざわざ「ただ韓融のみは名声と仁徳により命拾いした」なんて書かれてるし。
wikiの陶謙の項で本貫が丹陽郡余姚県になってるんだけど違うよね?なんかすごい前に編集されて放置みたいだけど。
>>514 陶謙は丹陽県の人だよ。余姚県つったら、会稽やがな。
だいいち陶謙の父が余姚県長になってるから余姚出身はないだろう。てか父親の話を読み間違えたんじゃね
そうだね。
後漢書に丹陽郡丹陽縣人とある。
518 :
世界@名無史さん:2011/02/01(火) 22:57:35 0
>>511 ネタにマジレスするのもアホらしいが、韓融の父は県長止まりだったのに、
後漢書に伝が立つほどのスーパー名士だったから、韓馥がその一族だったら、
普通は裴注あたりで名前出るわな。
まあ、鮑氏の件よりマシだろう。
潁川は十七城あったから1/17くらいの可能性がある。
520 :
世界@名無史さん:2011/02/02(水) 08:38:50 0
呉懿は没年齢はいくつなんだろ?
劉焉時代から活躍し、死んだのは諸葛亮の没後3年。
劉焉時代は20代の若者だったのかなあ?
活躍つーか 益州の有力豪族だからね。幽州から移って益州の征服をすすめた劉焉にとっては使わざるを得ない
>>520 死亡が237年で、劉焉の入蜀の時に少年だったから、188時点で10代だったと思われる。
逆算して、168年から178年の間に生まれたと推測。死んだ時は69歳から59歳の間かね。
>>521 呉懿は陳留の出身で、劉備に敗北する以前での益州での足跡は、中郎将になった事しか分かりません。
劉焉の益州平定でどういう働きをしたのか不明。
年齢的に、劉焉存命時はまだ若くて兵を率いる地位に無かったと思った方が自然じゃないかね?
あと、劉焉は仕官してから一度も幽州で勤務したことない。
妄想するのも結構だが、劉焉伝読んでからにしてくれ。
演義で劉焉の募兵におうじて劉関張が挙兵したじゃん
ゴイって昭烈帝の后を出しているじゃん。
ふつーに豪族。
即レスかよ もしかして張り付いているの 自宅警備員乙
説『三国志演義』では、黄巾の乱の時に幽州太守を務め、その時に劉備らと出会ったことにされているが、正史では劉焉が幽州太守(刺史・州牧)に任命された事項は無い。しかし、これが後に息子の劉璋が劉備を益州に迎え入れて、彼を遠縁の親族として兄事する伏線となっている
幽州太守になっているじゃん
読めと・・・
呉懿一族は益州の豪族ではない
おそらく蜀入り前から一族間の縁戚関係とか、推挙した・された縁があたんだろう
おそらく蜀漢に都合が悪いから正史から消されたんだろうね。
幽州太守で正解だよ。
530 :
世界@名無史さん:2011/02/02(水) 12:41:00 0
呉懿の妹を后にしたのは、
旧益州支配層の取り込みを図ったものだろう。
呉懿自身も有能な将軍だし、旧益州支配層を味方につける
のは有益だったんでしょう。呉懿・呉班は外戚ではあったが
政治的野心がない。骨のある有能な将軍として尊敬されたの
だろう。
同姓不婚の禁を君主に破らせちゃう法正さんステキです。
呉懿が入蜀後に任じられた護軍って中護軍のことかね。呉班も劉備の時代に領軍だし、
蜀の中軍は呉一族で固められていたとか?
ニコ動画より
要
呉 懿(ご い、生年不詳 - 237年)は、中国後漢末から三国時代の武将。字は子遠。
陳留郡の人。父は呉夙。孫に呉喬を持つ。妹は、劉備の嫁、劉備の即位と共に皇后に立てられた。
元々は劉璋に仕えていたが、劉備が益州を平定し、降伏。
歴戦の将として知られており、街亭の戦いでは「経験豊富な呉懿か魏延を大将にすべきだ」と諸将に推挙されている。
馬謖を起用した孔明って見る目がないよね。 だれも馬謖推していない件。
>>532 呉夫人は劉瑁の未亡人。劉備が彼女は同族(劉氏)だからと躊躇するのを、
法正が天下の為だよと説得している。つまり劉備が同姓不婚を破ってる。
劉瑁に嫁いだ時点で呉夫人も劉氏の人間であり、それは未亡人になってからも変わらず、
同姓不婚の禁に含まれるんだろう。
535 :
世界@名無史さん:2011/02/02(水) 14:23:38 0
夫婦別姓なのに同姓適用?
>>531 中の付かない護軍は、後漢末から三国末まで、指揮官でも参謀でもおkな汎用性の高い肩書き。
中の付かない領軍は、蜀では高級武官の肩書き。馮習や羅憲が有名。
537 :
世界@名無史さん:2011/02/02(水) 15:08:03 0
蜀の中護軍(護軍将軍)は、
法正→趙雲→費イ 途中誰か任命されたのかな?
陳到や陳式も護軍だったみたいだね。
>>534 中国、朝鮮の文化では夫婦別姓だよ
死んでも相手の家の墓にすら祀って貰えないのが普通
後継者の格段の温情によって同じ墓に入れてもらえることはあるけど
>>537 護軍と中護軍は違うよ。
袁紹の護軍逢紀や、曹操の護軍薛悌が、中央軍を指揮する護軍なんて誰も思わんでしょ?
>>538 じゃあなんで劉備は呉夫人との婚約に難色を示したんだ?
先主穆皇后伝
羣下勸先主聘后,先主疑與瑁同族,
さて…どこをどう読めば劉備が呉皇后を同族扱いしてるのだろう?
劉備は劉瑁と同族であるのを気にかけているだけだ。
>>540 単に親族の未亡人だから躊躇したってことじゃね。これが王室となんら関係のない単なる劉さんの未亡人だったら、
同姓不婚を忌んだともとれるがそうじゃないし。
543 :
世界@名無史さん:2011/02/02(水) 17:35:45 0
趙雲の中護軍は、
中央軍指揮の護軍だったの?
544 :
世界@名無史さん:2011/02/02(水) 17:39:00 0
中護軍は中軍の指揮官だよ
中軍の総司令官(皇帝丞相大将軍等)の下で
諸将の監理、弾劾・法務を掌るのが中護軍。
匈奴の父や兄の未亡人を娶る風習を中華が非難するように、親族と結婚した女性を娶ることを避ける意識はあったと思われる
ただ、それは同姓不婚とは言わないし、劉備のケースではものすごく遠く離れた親族なので気にする人間の方が少ないくらいだったのだろう
547 :
世界@名無史さん:2011/02/02(水) 19:52:39 0
>>545 そうなると、趙雲は諸葛亮率いる中央軍で諸将の監督をしてた訳か。
おそらく中護軍は中軍に実際指揮できる将がいるかによって役割が変わるのだと思う
上がお飾りだったり、前線指揮が難しかったりすると中軍の指揮も兼ねてかなり権力が強い
逆に上が将としての実力を持った人間だと補佐役程度になる
そんな感じじゃないかな
549 :
世界@名無史さん:2011/02/02(水) 20:36:33 0
第一次北伐の責任の取り方みると、
降格になったのは諸葛亮と趙雲。中央軍の首脳で責任とった感じでは?
作戦全体の失敗したら、中央軍首脳で、別働隊を率いた趙雲も降格処分
となったのだろう。
>>548 逆だろう。
曹操のように強力な上役の場合にこそ権限がある。
魏王朝の中護軍も皇帝権の一部として軍部の人事権を掌握していたからこそ有力職だった。
逆に、中護軍が上役から独立して指揮したりはしていない。
呉懿は劉エンが入蜀するときの軍主力=東州兵の主将だろ?
>>551 しつこく呉懿妄想乙だが、残念ながら劉焉入蜀から劉璋降伏に至るまで、
何回も名前が出てくる将軍が何人かいるけど、その中に呉懿はいない。
解池ってこの間はじめて知った。
中国の塩って今でもほとんどここで製造されているらしいね。
日本みたいに浜で製塩してるのかと思ってたらほとんどこの塩湖で採取してたんだ。。
そして解県がかの関羽の生まれ故郷なんだってね。
塩の密売商人説っていうのはこの辺なのか。
>>552 では普通に疑問なんだけど、呉懿は劉焉に従って入蜀してるのは確かだよね?
そして劉備が入蜀したときにはそこそこの東州兵を率いる大将格になっている。
実戦経験も豊富な将として劉備や諸葛亮に扱われている。
どこで呉懿はそういう実戦経験や軍の大将格としての地位を身につけていったんだろ?
そりゃ当然、劉璋側で益州反乱鎮圧の指揮官としてだろう。
なんでいきなりそんな飛躍する?
>>554 呉懿が東州兵の指揮官ってはっきり分かる記述も無いよ。
東州兵じゃなくて、益州人の兵を率いてたかもしれないし、分からんとしか。
劉璋時代の軍のトップは趙イとホウ羲と李異で、途中で趙イが反乱起こして敗死したからその下のクラスじゃね?
中郎将なんて州牧の下なら大勢いるクラスだし。
名前が特筆されるほどの地位じゃない。
劉焉入蜀時に、呉懿らは一族ごと中原に残っていた可能性が高い。
呉氏と劉氏は代々通家の間柄で、これを頼って董卓の乱後に益州に避難したのだろう。
そもそも呉懿が240年ごろ60前後なら、190年には十歳前後。
呉氏が部曲を率いていたのなら、その指揮官は父兄弟の世代になる
(呉匡がどこまで生きていたかわからないが)。
呉懿は改めて劉氏と姻戚になり、おそらくは中枢に近い位置で年を重ねながら
段々と実際の地位も上げていき、中郎将として劉備入蜀の時代を迎えたわけだろう。
中郎将は州牧が諸将軍ならその下には数人しかいない軍の最高幹部クラスになる。
州牧の軍の最高幹部は、太守とかの二千石級じゃね?
州牧級の勢力の実力者は中郎将とかでも、だいたい太守を帯びてる。
可能性を完全否定できることではないので妄想として語るのは自由だが、
「可能性が高い」「だろう」だらけの推量と妄想の狭間にあることをあたかも既定の事実かのように語るのはおやめいただきたい
>>560 「軍部の」ね。
孫策時代の部下を一覧するとよくわかる。
征伐や防御に機動する軍事指揮官と、郡内を鎮守する太守(武官兼任が多いが)とは
けっこうはっきり分かれている。
太守と軍事指揮官がかぶることが多いのは治安不安定や新規獲得領土において。
>>561 まったくだ。鮑信といい呉懿といいこの数日ひどいね。
>>559 561さんや562さんがお怒りでっせ。
>>559のどこに断定があるのかなあ?
劉表時代に活躍の記録がない呉懿が
中郎将という幹部に至っていたことを推量で埋めただけなんだけど。
>>564 >>479みたいなのを指している
あなたが479本人じゃないなら人のふり見て我がふり直せ、だ
479本人なら消えてくれて構わないです
まあ
>>559のも推量に推量と妄想を重ねてるので自分のブログか脳内でやるのが一番だとは思うけど
>>562 劉表の江夏太守黄祖とか、劉璋の巴西太守ホウ羲とか、曹操の東郡太守夏侯惇とか、
袁術の丹陽太守呉景とか、陶謙の下ヒ国相曹豹とか、州牧級の勢力の最有力な司令官や、
一方の討伐や防衛を担う前線司令官などは、だいたい太守の称号を帯びてる。
中郎将級は、それらの軍団長より一段劣る中央軍の師団長あたり。
調べたら呉懿は劉焉に従ってと明記があった。
劉焉の入蜀時に〜 云々と言ったのは、呉氏有力者と考えられる呉匡が
董卓の動乱に立ち会っているからだが、これは単純な間違いだった。
呉懿の年齢は当然の計算。
中枢に近い位置で〜 というのは、「外戚」という存在に普通与えられるポスト。
軍官なら「君主」に侍ったり近衛のような部隊を率いる。呉懿が若ければなおさら。
無論、呉懿が具体的に何をしていたかはわからない。
この時代の軍閥は、中郎将・都尉・校尉クラスの軍幹部は
州牧のような州の統率者に直属し、太守を長とする郡県組織とは
基本的に並列関係にある。中郎将は太守の下には付かない。
妄想と言われるようなことはしてないよ。
あまり知られていないことだが中郎将というのは戦場で銅鑼や太鼓を叩くのが主な任務。
前進退却の実際の合図をするわけだから戦場の空気を読んで駆け引きができる人間でないと難しい。
>>568 あまり知られていないというだけあって俺も知らないので、出典教えてください
つか、黄巾の乱時の皇甫嵩と朱儁はなんたら中郎将に任命されてるから、当時としては指揮官なんじゃね?
近衛司令官であり、「皇帝の使者」という地位が与えられることもあった中郎将は
刺史と太守を指揮下に置けたからね。
将軍を率いた例さえ少数だがある。
>>568 知ってる。だから中郎将というのは音楽的な才能も持っていたりする。
徐庶も魏で中郎将に任じられているが、曹丕の宴席で陽曲八鼓を奏している。
>>567 太守の指揮下の中郎将や校尉の名前を何人挙げれば気が済むか教えていただきたい。
>>570 黄巾の乱あたりまでの中郎将と、それ以降の中郎将は別物と考えた方がいい。
後漢中期から黄巾の乱までは、首都から派遣される軍隊の指揮は中郎将がやってたけど、
黄巾の乱の後は武官の官位がインフレして、それまでめったに任命されなかった将軍が
その役割を果たすようになって、中郎将の価値は暴落し続けた。
官渡あたりになると、太守や将軍配下の有力部将程度でも中郎将に。
>>567 中郎将・行裨将軍の黄忠が長沙太守韓玄に『統屬』していたことをどう解釈しているのか教えてほしい。
とりあえず
でたらめ、捏造で自説を吹く
突っ込まれるとみえみえの自演で誤魔化しにかかる
というコンボが常套手段と分かった
>>576 うん、それは弱いところだね。
それぐらいだと思うけど。
>>553 そんなわけねーだろ
四川は塩の生産地で有名で古代では大きな家には一家に一つ塩井があるとまで言われた土地柄だし
中国の塩生産のほとんどが解地というの大間違い
なんで、お前はそう極端から極端へ走ってるの?
スレを盛り上げたいならちゃんとした正論でやるべきで
デマゴークの流布で他人を釣り上げてまでやるべきではない
山東の塩も有名だわな。
春秋時代から、現代に至るまで2000年以上の歴史を誇る一大産業。
で、水滸伝ね
>>538 夫婦別姓はその通りだけど、死んでも同じ墓に入れてもらえない
というのはいくら何でも勘違いか何かじゃないの?
584 :
世界@名無史さん:2011/02/03(木) 04:27:08 0
>>583 皇帝の后が一緒の墓に入れてもらえない事件って割と起こってない?
事件として記されてるなら常態ではないのでは。
587 :
世界@名無史さん:2011/02/03(木) 11:11:18 0
>>558 すでに在地勢力として基盤築いていたから呉夫人もらうということで外戚待遇あたえたんだろ。
いずれにせよ懐柔する必要はあったわけだ。ドンであるにせよ、それに準じる立場にせよ
東州兵、益州人のどちらに浸透していたにせよ彼が大きな力を持っていたのは事実だよ。
>>583-586 時系列による古代の墓の変化までは調べずに
現代の感覚で書き込んでしまったので陳謝する
曹休の墓の女性の遺骨は、妻の可能性もあるって訳か
セックスフレンドという可能性もあるだろ
ところでちょっと前にニュースとかで話題になってた
曹操の墓かも!?というのはどうなったの?
陸機曰く「醜聞」の事実とか判れば面白いんだがなー
592 :
世界@名無史さん:2011/02/04(金) 15:29:05 0
中国ってそういう殉死、殉葬の観念続いてたっけ?
なんか兵馬俑の時点で完全代替化されてた記憶が。
>>587みたいないい意見は無視するここのやつらの卑怯さよ。
>>593 陳武が死んだ時に愛妾が孫権の命令で殉死させられてる。
ただ孫盛にボロクソに批判されてるから漢代には稀になってたのかも。
596 :
世界@名無史さん:2011/02/04(金) 20:01:18 0
>>595 孫盛って東晋の人だろ。
孫盛からみれば100年以上前の慣習であって、まあ俺たち現代日本人が、江戸時代の切腹とか追い腹とかをみるのと同じような感覚だろう。
598 :
世界@名無史さん:2011/02/04(金) 21:18:11 0
>>596 秦の献公が殉死を禁止してるんだけど。三国時代から500年以上前な。
兵馬俑とかも、殉死禁止の副産物。その後も強制的に殉死させた奴はみんなボロクソ言われてる。
>>587 呉懿の任地は劉備蜀侵攻時にはフ
しかし劉備の伝見ても呉懿がフの防衛に当たってた事は出てこないし
季漢輔臣賛だと「劉璋時、為中郎將、將兵拒先主於フ、詣降」とあって
呉懿は戦うか戦わないかの時点で早々に裏切って降伏してる可能性特大
早々に降伏した孟達もそうだけど、早期の降伏者には盛大な大盤振る舞いをしてるし
呉懿への破格の待遇もこの類だと思われる
明治大帝は別。みんな腹掻っ捌いて死ぬべき偉大なお方だよ。
乃木公夫婦だけ逝かせるとか無いわ。
>>599 劉璋は張任と劉璝に精兵を与えてフに派遣したけど、敗北して綿竹に退いている。
だが綿竹に籠った武将の中に呉懿の名は見えない。たぶん呉懿が張任らが救援に来る前に
城をあげて降伏したみたい。
>>599 李厳なんて、戦場に着いて即劉備に降伏して裨将軍に昇進し、成都入城後に興業将軍っていう二階級特進だもんな。
>>599 劉璋の旧臣は、後でも先でもちゃんと降服さえしてれば有力者がそのまま厚遇されている。
順序はほとんど関係なかろう
ホウ羲 巴西太守
許靖 賓客
孟達 官位は不明だが法正を副として劉備の出迎えに出る格
呉懿 劉璋の姻戚で中郎将
むしろ黄権のように、主に忠義を誓って最後まで降らなかった者を厚遇するのも
待遇の手法の一つだね。
でも関羽は首切られたよな。孫権もケツの穴ちいせえな
>>604 降伏する気の無い奴を生かしといてもしょうがないだろ
曹操だって、捕えられても降伏拒否した奴は殺してる
許靖は元々入蜀の力になった人物で法正同様に降服した武将の処遇で話すのはちょっと・・・・
あれはむしろ入蜀受益者層だろう。
降伏するふりして逃げ出すような奴は普通なら斬られても文句は言えない
曹操は張?みたいに親友だった人物も一族皆殺しにするオッサンだし。処刑のプロセスも酷い
あんまり比較の対象にならんだろw
関羽は「禽」つまり捕縛だから。
「降服」ってのは文字通り、敵方に恭順服従する意思を示すこと。
包囲されるなどして窮してとしても、形としては寝返りに近い。
だから于禁が悪し様に言われてしまう。
王隠『蜀記』によれば、孫権は関羽を部下として使いたいと考えたところ、側近に「曹操は彼を殺さなかった為に、遷都まで考える事態となった」と進言され、
諦めたという記述が残る。だが裴松之は、「『呉書』の記述から、関羽は臨沮で即座に斬殺されており、おそらく江陵に居たであろう孫権に同意を求める事は
不可能だろう」と推測している。また、諸葛瑾伝注によれば、裴松之は「孫権は関羽を討伐した事により、後漢王室の為に尽くすという大義名分は失われた」と評している。
批判されているね。裴松之に
>>606 許靖が入蜀の力になった人物で、法正が降服した人物?
どういうこと?
>>611 はあ?なぜそう解釈する?入蜀受益者層だから降将の枠組みで両名の処遇解釈はおかしいといったんだが。
606も612もなんか意味がつかめないぞ
611の疑問はもっともだ
>>612 一行目がそのようにしか読めなかったから素直に首をかしげたのだが。
二行目は、まあ、法正については言わんとすることはわからんでもないかもしれないが。
許靖が劉備の入蜀で益を受ける層だとしたら行動がおかしすぎるだろう。
許靖には政治的野心も行動力もない。
本題とは別の話だけれども、〜法正同様に降服した武将の〜だと、
「法正同様に」が前段に付くのか「降服した武将」に付くのか曖昧だね。
「法正同様に」が「許靖」と並列に「元々〜」の前に書くと解りやすい。
そもそも当時は許靖のような名士を優遇することが時の君主のステータスだったんでしょ
劉備はそれを理解しないで最初は毛嫌いして何の官職も与えなかったわけでしょ
徐州や荊州の人事を見る限り劉備は「理解」してたよ。
というか、劉備もそういう価値観の一端に連なる階層の人間であるし。
高士に相応しくなかった許靖の投降未遂を毛嫌いしたわけだ。
当時の名士というのは、品行高節信義といった要素も大きな価値を占めていた。
だから法正は「虚名は知れ渡っているので遠ざけるべきではない」と言った。
とはいえ、これも法正流の方便だろう。
投降未遂という一事で許靖の名声が完全否定されるというわけでもなっただろうから。
劉備が許靖を嫌った原因だが、以前にも
『蜀書 許靖(きょせい)伝』
許靖は王朗や許貢と昔馴染みだったので,彼らに身を寄せますが,孫策が攻めてくると交州に逃れます。交州で劉璋の推挙を受けて蜀に入るのですが,
裴松之は『孫策が来た事と,許靖の安全とに何の関係があるのか。交州にまで逃げて(疫病にかかり)大変な思いをするのと,張昭・張紘のように孫策旗下で
一国の大黒柱として活躍するのと,どっちが優れているかは明白だ。』と許靖の行動を批判しています。
と裴松之が批判しているから何かにつけて逃げ癖がついていて国家の大事を担う社稷の臣足りえないと嫌ったのではなかろうか?
結局のところ蜀書では孔明な人以外は何らかの理由でケチをつけられる宿命なわけで
でも史書を見る限り許靖が何れのケースも踏ん張らずに逃走しているからね。 ちょっと使えない人物と思われるのも無理はない。
621 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 00:26:11 0
>>618 劉巴は許靖よりヤバイ経歴の持ち主だが、劉備に優遇されてるぞ。
親曹操派で劉備が嫌で交州に逃げ、それから益州にいったのに、よりにもよって劉備の蜀入りを食らい結局劉備の家臣に。
どんな顔して会ったのやら。
622 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 00:30:06 0
『零陵先賢伝』によると、劉巴は諸葛亮が引きとめたのに拒絶して逃げたらしい。
そのときはまだわかっていなかったのです、自分が結局は劉備にあごで使われる運命だなんて…。
>>621 wiki見る限りではあんたのいうような人物には見えないが。
劉備が益州を治めるようになると、劉巴は以前の罪を詫びたが、劉備は咎めなかった(『零陵先賢伝』によると、劉備に仕えることを嫌って隠遁した。)
諸葛亮が劉巴を賞賛し推薦したため、劉備に仕官を請われ、左将軍西曹掾となった。
219年、劉備が漢中王になると尚書となり、法正が死去すると尚書令となった。
劉巴は政治能力に優れており、諸葛亮らと共に蜀の法律である『蜀科』を制定した(「伊籍伝」)。
また、『零陵先賢伝』によると、軍需品の不足を心配する劉備に劉巴は「百銭の貨幣を鋳造し諸物価を安定させ、国が管理する市を立てれば良いでしょう」と進言し、
劉備がこれに従ったところ数か月で蔵が一杯になった。
劉巴は嫉み疑われることをはばかり、贅沢もせず、慎み深い質素な生活をした。その一方で士大夫としての自負が強く、『零陵先賢伝』によると、劉備の宿将で
庶人出身の張飛が劉巴の元に泊まった際、劉巴は話もしようとしなかった。さすがに張飛はそのあと腹を立て、諸葛亮が劉巴に取りなしたが、劉巴は「大丈夫(
立派な男)がこの世に生きて行くためには、当然四海の英雄と交わるべきです。どうして兵隊野郎(張飛のこと)と語り合う必要がありましょうか」と言うばかりだった。
ちなみにこの話を聞いた呉の張昭が主君の孫権に対して、「主君である劉備が張飛を深く信用していることを劉巴が知らない訳がないのにそうした態度を取るのは臣下としては良くない」と非難した。
それに対し孫権は「主君の顔色を見て対応を変える方が却って人物を疑われるものである」として劉巴を弁護している(『零陵先賢伝』)。
劉備が皇帝に即位すると、天の神と地の神への報告文や任命書を劉巴が作成した(『零陵先賢伝』によると、劉備の皇帝即位が性急でかえって人心を失うと判断したため、雍茂と共にこれを諌めたが、
劉備は別件で雍茂を処刑したため、結局人心を失ったとある)。劉備が夷陵の戦いで呉のため大敗し成都に戻らず永安にとどまると、永安に赴いている(「馬忠伝」)。
張飛を相手にせず、亮と仲が良く、昭烈帝に助言を与えた。なかなかよい士大夫ではないか。
624 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 00:40:45 0
>>623 劉巴は一度曹操に仕えてる。
荊州で人望を集めてた劉備を無視して曹操の元に出向き、官位までもらってる。
ところが、曹操が赤壁で負け、劉備の荊州制圧で曹操に置き去りにされ、
さりとて劉備に仕えるのも嫌で交州に逃げる羽目になった。
それから益州にいったら、今度は劉備の蜀取りに遭ってしまう。
こういう気まずい経歴の持ち主は劉巴以外いない。
>>621 許靖は友誼を結んでいた王朗らを見捨てて自分だけ交州に逃げた。
後に劉璋の禄を食むようになるが、劉備が攻めてくると自分だけ逃走しようとした。
劉巴は劉表の客だったことはないし、むしろ憎まれていた。劉備が台頭すると彼の支配下を嫌って曹操についた。
亮がひきとめこれを拒絶して交州に逃げた。
後に劉璋に使えると黄権と共に劉備の招聘に反対し、意見が入れられないと引きこもった。
劉備は亮を通じて彼を招聘し、国家財政の安定に貢献した。
似ているようにみえるのかもしれないが、比較してみると全然経緯がちがうぞ。
626 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 00:46:34 0
>>625 だから「劉巴は許靖よりヤバイ」って。
許靖は劉備との接点ゼロだが、劉巴は劉備と諸葛亮の誘いを蹴飛ばしてる。
>>624 俺は同じように曹操に官位も貰って禄を食んでいながら、丞相排除の謀議に加わり、露見すると都から逃走した
劉備という男が一番恥ずかしいと思う。
劉備を劉巴が嫌ったように一部の人士に嫌われているのは理由があってのことだよ。
呂布が今際の際にこいつが一番酷いといったのは伊達じゃないぞ。
>>626 でも入蜀後に再度仕官を求めているところをみると、かなり能力がある人士ではないか。
多分劉巴は口にだしてこそはいないが、張飛への言動みると劉備も同様に劉備もかなり如何わしい馬の骨と思っていたのではないか。
兵隊野郎と亮に対し張飛を馬鹿にしているが、劉備自身、群雄の間を泳ぐ傭兵隊長みたいな如何わしい人物だったしな。
>>626 劉巴は曹操の命を受けていたから、劉備に降服するのを避けて益州に逃れた人物。
許靖は蜀郡太守の地位にいながら成都篭城中に自分だけ逃れて劉備に降服しようとした人物。
政治的な行動だけみれば、劉巴の方に劉備が厚遇すべき理由があるだろ。
まあ他にも教養とか品行とか色々ファクターがあるが。
630 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 00:58:44 0
諸葛亮「曹操に仕えたことには目を瞑りますから、劉備殿に仕官しませんか」
劉巴「嫌だね! 劉備なんかに仕えられるか!」
↓
荊州から逃亡
↓
劉巴「よーし、新天地の益州で頑張るぞー! 主君がちょっとボンクラだけど…」
↓
劉巴「は? 張魯に対抗するために劉備呼ぶってマジすか? あんな野郎いけませんよ! 梟雄ですよ!」
↓
劉巴「やべ、マジで劉備裏切った、しかも降服するって。どうしようたすけて」
↓
諸葛亮「過去のことには水に流しますからそろそろ劉備殿に仕えませんかぁ? 推薦しますからぁ」
劉巴「(やっべ、こいつ根に持ってね)…お受けします」
つうか、日の出の勢いの曹操と負け癖ばかりついている劉備どちらを選ぶか考えたら常識的に考えて
曹操だろうよ。
戻れなくなったから逃げただけで、その後の入蜀騒動も断れば首が危ない状況だからやむなくうけたようにしかみえない・・・・
>>631 劉巴は零陵人。
安全を求めるなら家に帰って引きこもってるだけでいい。
>>632 はぁ? なんでひきこもらないといかんのだ。 おまえの日常生活といっしょにすんなよw
引きこもっていたら劉表に脅かされた訳で。
そして中央政府に楯突いた連中の系譜という点では劉表から劉備に移っているわけで。
>>633 賢者は世を辟くって言葉があってね。後漢後期からこっち、隠士の合言葉みたいなもんだ。
>>634 ま、それはそうか。
不安定と見て荊州から逃げ、安定を見て益州で仕官に応じたってとこだね。
636 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 01:39:45 0
結局、劉巴の劉備嫌いは直ったんだろうか? 直らなかったんだろうか?
劉巴の張飛いじめも、劉備に対する反感を抑えきれず、劉備の股肱の張飛に八つ当たりしたようにしか見えないw
>劉備が皇帝に即位すると、天の神と地の神への報告文や任命書を劉巴が作成した(『零陵先賢伝』によると、劉備の皇帝即位が性急でかえって人心を失うと判断したため、
雍茂と共にこれを諌めたが、劉備は別件で雍茂を処刑したため、結局人心を失ったとある)。劉備が夷陵の戦いで呉のため大敗し成都に戻らず永安にとどまると、永安に赴いている(「馬忠伝」)。
このあたりみると、皇帝即位は人心得て居なかったと分かるな。 曹丕は別件名目で人を殺害するようなことしてないだろ。孫権もね。
全く劉備というのは上辺だけの人格者で、実際は梟雄もいいところだな。
「漢王朝の後を継ぐ」と称えて蜀(蜀漢・季漢)の皇帝に座に即位した。同時にかつて劉備が?県で「髭が濃すぎる」とからかい、仕返しに劉備に対して「髭が薄い」と言い返されて
自分を馬鹿にした後部司馬・張裕(もと劉璋の配下)と、さらに自分の皇帝の素質を愚弄した主簿の雍茂(雍?の親族)を斬首に処したのである(これが動機となり、劉備の逝去後に
蜀郡属国(建寧郡)の土豪・雍?は“族兄弟の雍茂の仇!”と称して反乱を起こしたのである。詳しくは諸葛亮の項を参照)。
即位に反対した劉巴に即位の儀式の文書全部書かせるとか何のイジメですか劉備さん。
640 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 01:47:37 0
>>635 てか、劉巴が仕官するなら孫権でもよかったんじゃね?
なんでわざわざ益州なんかに。
一応この頃の益州は曹操寄りの中立だから、親曹操派のツテを使ったのか?
>>639 同じく即位に反対した雍茂は斬首されているしな・・・・。劉備はこの辺結構本性出してきているよ。
>>641 元々自分と意見違う奴はガンガン蹴っ飛ばしてる
曹操は孔融の件その他でで罪を作らせて殺してるけど、それでもイメージ悪化しないのは最初から梟雄イメージだからか。
曹丕はやってなかったっけ。
彼は気にくわない奴は露骨に正直に殺すか。
644 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 02:05:41 0
孔融は曹操の僭越を批判しまくっただけで、皇帝就任に反対したわけじゃないし。
魏王就任以後に曹操に反発して殺された連中と劉巴は同類ではないか。
645 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 02:11:48 0
>>632 劉巴は親父が袁術に協力してる。
袁術と劉表は敵対関係なんだから、劉表にとっては反逆者の息子みたいなもん。
劉表が劉巴を招いたってのも、好意によるものか非常に怪しい。
劉表に招かれた55人の豪族は皆殺しの目にあってるわけで。
劉表に信頼されてた劉備と仲が悪いわけだ。
>>639 おそらく「試した」んだろう。書かなかったら斬首していたと思われ。
>>637 零陵先賢伝は裴注の中でかなり信憑性の低い部類。
零陵人を高めるために、同胞だった蜀漢の君臣を片っ端から引き立て役にする。
劉備が「皇帝に即位せざるを得ない」理由については、孫盛がよく評論して裴松之が最高の賛辞を与えている。
劉備に限らず、曹丕・孫権、前後の劉秀や司馬炎など全ての帝号自称者に例外なく、
独立勢力や権臣が勢力を維持するには、どこかで君臣の礼を整えなければならない時点が来る。
劉備にとっては建安26年がその時だったってことだ。
裴松之って孔明と劉備以外みんな引き立て役にしている糞野郎だろ
君臣の礼というが、斬首して反対した臣下に即位の儀式の文書書かせることかい?
劉備厨はいい加減にしろよ
大体、孫盛って劉備の子孫の劉玄と会っていてかなりの蜀厨だろw
子孫が続いているところをみると少なくとも東晋の間は西府軍に保護されていたんだろうし。
ちょっと中立の立場というには疑問感じるね。
曹丕は曹洪を殺そうとしたけど失敗
鮑勲や楊俊を重臣の反対を押し切って殺したけど、あまり粛清は多くないわな
死人に文書書かせるなんてそりゃ確かに悪鬼外道だな
>>650 孫盛が言ってるのは多くの帝号自称者に共通する切実な事情なのだが。
曹丕が帝位を奪ったから、蜀漢が帝位を名乗り、呉も自立したってだけの話だな。
人心が離れると2人が諌めたら1人は首を文字通りの意味で飛ばされて、1人は詔をかけといわれた。
劉備のやることなすこと大概だぞ。
曹丕どうこうといえたものか。実際に人心が離れたとあるじゃないか。
655 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 02:38:02 0
益州平定時
諸葛亮 軍師将軍・署左将軍府事
劉巴 左将軍西曹掾
これどっちが格上?
メンツ潰した相手が上司だったら嫌過ぎるんですけど。
三顧の礼が美談になるような時代なんだから、劉巴が劉備たちの誘いを断ったことは相当なメンツ潰しのはず。
そもそも三顧の礼自体が捏造だろ。
益州の外の人間達が劉備の到来を待ち望んでいたという話だろう。
そんなもの自体存在したのかも怪しいが。
帝号を名乗ったのでそっぽを向かれたというのも理由が分からない。
蜀漢滅亡後に、旧蜀漢領域以外の人間が自分の地元人を弁護するために主張したがるような話だ。
劉巴のような聡明な人間が、内部崩壊の危険よりも
その場にいない中原の人心を優先して諫言するとは考えにくいのだが。
雍ガイは族子を劉備に殺されたことを遠因として蜀漢に乱をおこし、後に呉に帰順している。
人心が離れて具体的に害をなした実例が現にある。
659 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 02:47:00 0
陳寿が「北伐成功しなかったし、ちょっと応変の機略が不得意」と書いただけで蜀厨たちは
「テメ、何諸葛亮disってんだ!」
「父親が諸葛亮に罰っせられた腹いせか?」
と罵倒しまくり。
歴史家ですらほとんどそう。
660 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 02:51:43 0
>>657 三国が鼎立する少し前までは
「魏王とか漢中王とか呉王とかを名乗るのはいい。
僭越だがまだ後漢の臣下だ。
でも皇帝だけはダメ絶対!」
ってのが知識人の常識。
劉巴はこのタイプなんだろ。
>>658 族子の事情は記憶にないので教えて欲しい。
とりあえず、雍ガイの乱は皇帝を名乗ったことと関係ない。
三国どこでも起きてる地方反乱だ。
そもそも蜀志で知られる限りなら、劉備の粛清の類って群雄としてはかなり少ないのだが。
曹操でもまだ少ないくらいだけど。
自力で皇帝に昇るような人間を、ラノベみたいな非現実的な道徳意識で語る時点でおかしいだろう。
>>661 全体的に粛清が少ないのは完全に統一されてなかったというのもあるとは思う
>>660 ×三国が鼎立する少し前までは
○献帝の禅譲で後漢が滅びるまでは
漢を奉じる派の人間にとっては、魏王朝が成立したということは
天下から天子がいなくなったということなんだよ。
人為だけではなく、天地自然の秩序が失われたことになる。
これを回復するには、新たな天子を立てるか、魏を認めるしかない。
前者が蜀漢で、ひとまず後者を取ったのが呉だ。
どちらにも相応の必然がある。
雍茂は雍ガイの身内だろ。 地方の異民族や豪族を仕えさせて人質兼政権参加させるって手法がよく取られるぞ。
この時代では呉なんかがよくとった手法だ。
ルーツ君もどきを相手にしてたのか…
いらん時間を過ごしてしまった。
666 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 03:01:01 0
>劉巴は嫉み疑われることをはばかり、贅沢もせず、慎み深い質素な生活をした。
劉巴が疑われるとしたら、劉備の皇帝即位に反対したこと?
同じような処世は魏のカクもやってるが、こいつも主君に対して後ろめたいことしてるんだよね。
曹操の長男殺してるし。
そもそも漢帝室は山陽公となっているだけで滅亡なんかしていない。
そもそも献帝が殺されたという第一報時代も怪しいからちょっと待てとそういう諫言だったのに劉備がきかずに斬首したんだろ。
最初からこれを名目に皇帝就任ねらっていたっぽいなと状況証拠から伺えるし。
>
>>666 賈クとかGoogleIMEだと一発出るぞ。横に機種依存文字と出ている奴はちょっと普通の人のインターネットでは表示できないけど。
>>667 滅亡したのは劉氏ではなく、漢の祭祀。
万世一系ではないんだから、劉氏そのものが天下に必要なものではないんだよ。
400年間必要とされてきたのは、「天子の祭祀を正常に執り行うことができる劉氏」だ。
それが存在しなくなったのだから、代わるものを用意せねば、漢中王も呉王も存続し得ない。
天子の礼祭を執り行うことがなくなった山陽公を敬い続けることはできない。
670 :
世界@名無史さん:2011/02/05(土) 04:13:46 0
国旗国歌法はこれだけの法律。
第1条 国旗は、日章旗とする。
第2条 国歌は、君が代とする。
>>667 そもそも漢帝室は定安公となっているだけで滅亡なんかしていない・・・と、前漢の次の皇帝と決められていた正統後継者劉嬰がいたのに即位した更始帝や光武帝の批判になってしまう
つまりそう考える必要は無いということ
反対する家臣の首をはねたり、パワーハラスメントしたりして人望が落ちた理由の説明になっていませんね。
史書に人望が落ちたと明記されているのだから劉備厨は言い訳するな
>>645 これが原因で劉表は豪族や名士に相手にされなかったんだろ
>>672 すまんが具体的な記述のどこに「人望が落ちた」という意味の言葉があるのか
原文で抜き出してくれないか?
歴史ゲーム板であった話なんだけど、
五斗米道と正一教って繋がりないの?
wiki見ていたら、繋がっているようなんだけど
繋がっていないって言っている人もいるし、
どっちが正しいかわからない
思想的な繋がりは非常に強い。
組織的な連続性はない…というか、客観的な史料上では残存していないようだ、というべきか。
歴史上においては、張魯の封爵や漢中の徙民で政教一体的な体制は失われているだろう。
しかしこれによって逆に、五斗米の教義や祭祀は魏晋全国に拡散していたようで、
西晋末には五斗米道、天師道を奉じる高官までが複数いたり、関係の反乱が起きていたりする。
ところが、正一教の直接の祖となる組織が確認されるのは六世紀(? 俺はよくわからないが)のようで、
正一教の教義通りに『張魯の三男の張盛が江西へ渡って竜虎山で五斗米道を再興し、天師の号を
三百年間伝えてきた』とはちょっと信じがたい。
信仰的にはともかく、歴史的には、南北朝の戦乱の中で全国に分立していた五斗米の教えの中から
有力なものが勃興して統一的な正一教を創設した、と見るべきだろう。
劉備や孫権が皇帝の座に登ったことについて人望云々の議論がありますね。
たしかに大義名分を重んじる人々や漢王朝下での政治再建、社会復興を目指したい人々もいたんだろう。
結構いただろう。
でも。多くの劉備の臣下、孫権の臣下はそれを望んでいたしむしろ積極的に要求しただろう。
諸葛亮を見ればいい。
彼は『丞相』って代名詞で呼ばれている。今、オレらが聞いても ああ、蜀の丞相にまでなったのか、総理代診、いや大統領みたいなもんだよな、すげぇな。的な有り難さがある。
これが劉備が漢中王のままならどうだろう?
なんとか将軍、で終わってしまうんだ。実際の権力は別として。
それこそ、魏建国後も後漢の残党勢力が蜀や長江南岸といった地方には残っていた。その勢力の一方である劉備軍閥は劉備死去後も諸葛亮という二代目ボスを中心に抵抗を続けた。みたいな。
なんだか、ありがたみが無くなっちまっただろ?
蜀漢の皇帝劉備より託孤されし忠臣、『丞相』諸葛孔明、ですよ。うんと見栄えがよくなるんですわ。
>>674 お前が抜き出してこいよ。wikiには零陵先賢伝を根拠にしているとあるが、
そもそも中文だと文字化けするだろ。
蜀厨が都合悪いからスルーしたいだけの話だろ。
つまりはそういうことで劉備が皇帝になってくれるから 諸葛亮は『丞相』になれる。
法正は〜 みたいに高い官職に就ける。そうやって名前を後世にのこせる。いや、その当時だって官職のありがたさはすごかったろう。
姜維なんかまさにそうで、諸葛亮にスカウトされたときも後年に母親から戻ってこい、といわれたときもそうだったのだ。
おれは魏みたいな大企業じゃ社長にはなれない。
だから中小企業、蜀でオレの才覚で社長まで上り詰めてみせるぜ! みたいなね。
>多くの劉備の臣下、孫権の臣下はそれを望んでいたしむしろ積極的に要求しただろう。
そりゃ処刑シーンやパワーハラスメントやられたら賛同するだろう 首が飛ぶんだからな。
劉備は演義のせいで善人イメージついているが、奴は入蜀時に配下の武将たちに国家の歳幣大いに奪え!と
命令して取り放題にしているんだけどね。
劉備軍団の本質は野盗と大して変わらんよ。
中小企業というより、ブラック企業だけどな。
傭兵屋やっていたから劉璋にこいやと招かれて
クライアントを攻撃して国を乗っ取った。
それも同じ劉姓をね。
奴のやることなすこと士大夫の評判を下げることばかりで
一連の行動はかなり評価を下げたであろう。
挙句の果てには皇帝を僭称するとか袁術と変わらんよ
蜀厨はいい加減に目を覚ませ こいつは単なる盗賊もじさない傭兵軍団に過ぎないんだよ。
なんだ、アンチ演義厨が飛び入りしていただけだったのか。
ここは歴史板なので、演義はどうこうとかいう論理しか出来ない人間は
肯定でも否定でもお呼びじゃありません。
お引取りください。
>>681 だからこそ皇帝になってもらいたがったのだ。
ヤクザの親分が皇帝になったんだから、仕えるほうもうま味がますってものよ
演義のイメージを引きずっている人間がいると指摘しただけの話
おまえがでていけよ。
>>684 あのさあ、君の知識はネットとソフトカバーの三国志解説本くらいで、ちくま文庫さえ読んでないんだろ?
当時の人間の行動を評価するには、漢代や後漢末の風俗や価値観の中でどんな位置を占めていたのか
置きなおす作業から始めなくちゃいけないわけよ。
そうすることで初めて、劉備や孫堅の生まれた社会的地位の高さとか、官界における曹操の恵まれた環境とか、
それでもなおかつ、彼ら個人が名声を高めるために支払ってきた努力とかいうものがわかってくる。
賊徒を宴会に呼び出してなで斬りしたり、屠城や京観の意味がおぼろげに見えてくる。
袁術の当時の地位と歴史的地位のギャップとかね。
狭い知識で短絡に現代の言葉で、ブラック企業やらパワハラやら、演義厨やら蜀厨やら、
現代のものに置き変えて、当時の価値を喪失する作業しか出来ない人間は世界史板にはいらないんだよ。
無知ならまだいいが、無知に甘えて悪意で他者を攻撃するときてはもうどうしようもない。
劉備が柄の悪いビートたけしみたいな人間であったにせよ、いかがわしさを嫌う人々もいたにせよ、
劉備のえらさ、すごさは正史を読んでいても決して損なわれないしむしろもっと好きになる。
だね
結局蜀厨は劉備マンセーへと回帰するのであった。
>>678 文字化けするなら原文から文字化けしないように編集してもらってかまわんので
その部分の文章を出してくれよ
>>676 なるほど、肯定も否定もしきれない。
繋がっている可能性があるということか。
勉強になったサンクス。
曹操 豪族→王
孫権 豪族→王→皇帝
劉備 農民→豪族→王→皇帝
人生の難易度では劉備が一番高い
高祖や光武帝に継ぐ英雄といえる
農民なんて正史のどこにも書いてないけどな
いや、農民だよ。どんな豪族でも名家でも本業は農家だから。
劉備は没落貴族だろ
というか、その理屈なら石勒の方が上じゃね?
>>696 軍人奴隷じゃなくて家内奴隷(しかも皇帝権力周辺じゃなくて一民間人の)からの成り上がりだからな。
世界史だとイソップみたいな人が天下を取るような話。
禿様の成り上がりっぷりも忘れんな。
こう武帝か
零陵人を高めているから零陵先賢伝の信憑性が低いとするなら,
同類の襄陽記や会稽典録あたりの信憑性も当然低いってことになるし,
個人称賛の雲別伝とかは全く信用できなくなるのではないか。
701 :
世界@名無史さん:2011/02/06(日) 09:06:56 0
そのとおりだな蜀厨の糞っぷりは酷いものだ
702 :
世界@名無史さん:2011/02/06(日) 09:29:37 0
>劉備や孫堅の生まれた社会的地位の高さ
その2人は庶民に比べれば高いだろうが、役人としてみた場合、しょぼい小役人からスタートじゃん。
尉や丞なんて吹けば飛ぶような地位でしかない。
このスレにはまだ蜀漢正統論を承諾していない人たちがいるようですね
昭烈帝こそ高祖や光武帝に次ぐ英雄
袁術や呂布や曹操を裏切り、君主交代時に陶謙、劉表、劉璋の領地を乗っ取るあるいは乗っ取ろうとした卑劣漢が英雄とな( ´,_ゝ`)プッ
現在、誰でも自由に意見を書き込める掲示板がセットになったニュースサイトが欠かせなくなりました。
既存マスメディアによる一方通行の情報に身を委ねていた方々へ。目からうろこが落ちる納得の毎日を約束します。
2NN - 2ちゃんねるニュース速報+ナビゲーター
http://www.2nn.jp/
袁術は偽帝
呂布は養父殺し
曹操は密勅があっただけ
陶謙は断ったが諸侯から推戴された
劉表は乗っ取ってない
劉璋だけはガチだが漢室復興のためには仕方が無かった
昭烈帝の偉業は否定できない
袁術に頼っていったのは劉備自身。 呂布に一度降服している劉備。 呂布も今際の際にコイツが一番信用ならんと名指しされる。
曹操にいたっては劉備自身が官位を貰っているという有様。
諸侯から衰退というのは趙匡胤のように政権簒奪のいつもの手法
劉表領土は乗っ取る気マンマンだったじゃないか何いってんの
漢室復興?劉備は反対する家臣まで処刑して自立したんだけど。
献帝が殺されたかどうか不明だから今少しまってみてはと諌めたら斬首!
何処が偉業なんですかー?
頼っていた頃の袁術は名士 袁紹の漢室軽視に反対する姿勢を見せていた
陶謙から推戴されたときの劉備の状況と趙匡胤のそれとは比較にならん
呂布に降伏したのは裏切られ、帰るところがなくなってやむなく
それでも劉備を処刑しなかったことから劉備の名望は明らか
曹操から官位をもらったのではなく、献帝から官位をもらったのだ
---ここまで雌伏---
劉備は長い雌伏の時を経て皇帝になった
こんな偉大な人物は、高祖や光武帝を除くなら他にはいない
劉表領土は乗っ取る気マンマンだったじゃないかというが劉備は乗っ取らなかったという事実にまさる反証はない
しかもあの状況から赤壁を経て皇帝即位や蜀漢正統論や三国志演義という、曹操に対する四次元的勝利を収める偉大さ
昭烈帝のこの四次元的勝利は後世の長い長い評価からして明白
>>708 何か都合よいところだけつまみ食いしているね。
劉備の行動をひとことで言うと、乱世の仲を利害関係で動く
油断ならない傭兵隊長だよ。ちょっと諸侯に隙があると喰らいつこうとしている。
だから劉巴や黄権が劉備を警戒して「呼ぶな」と言ってる。
あんたがどうこういうよりも同時代人からどういう目で劉備が見られているか
考えてみろ。
>劉備は乗っ取らなかったという事実にまさる反証はない
さて、此処で質問。 なぜ劉備は3郡を呉に返還しないのか?
いつのまに荊州上部2郡とあわせて劉備軍団の勢力同然になっているのか?
曹操は降服した劉ソウを抱えて荊州にきているのになぜ荊州を明け渡さないのか?
劉備は荊州領有の正当性は何一つ無い。
>>709 >>709のレスは真に残念ながら的を外していると言わざるを得ない
というのも劉備の大義が漢室復興であることは明らかであって、
そうでなければ彼はとうの昔に逆賊曹操に降伏していたであろうから
(したがって劉備を利害関係だけで動いていると考えることはできない)
また、劉巴は劉表の招きにも応じなかったように水が高きから低きにながれるような存在であり、
黄権に至っては入蜀前の劉備を既に皇族劉璋と並ぶ英雄であると認めている
このように、
>>709の意見は支離滅裂であるといわねばならない
昭烈帝の偉業と蜀漢正統論は真に誰にも否定できないものである
>>710 劉キこそが正統な荊州の牧であり、その死によって劉備が牧を継いだのは明白な事実である
これは劉表から乗っ取ったというのとはまったく状況が違う
荊州人は基本的に孫権きらいだったんだよ。
戦国の呉楚の時代から仲が良くない。
そして中原しかも秦=関中の勢力への反発もある。
楚は楚だけで独立したい、荊州だけで独自でいけないか?という空気があってそれが劉表勢力が続いていた背景な訳だし、劉備支持の荊州人士が多数いた理由なんだよ
劉表は酒席に士大夫・豪族を50人呼んで誘殺した前科があるというのに、劉巴がいく理由あるのか?
行けば殺されると普通は警戒するぞ。
しかも孫権が荊州の支配権を主張できる正当性なんてどこにもないわけで。
劉備との約束だけだろ?もしなんかあったとしても。
ていうか
「劉備は義の人だ」という前提から
「おいここは義から外れてんじゃねえの〜?w」みたいな餓鬼っぽいことを言われてもな
善人を否定したがる青臭さは分かるがあまりにも物の見方が一面的だぞ
正式な牧?何を言っているんだね。
劉キは「劉備から」牧に任命されただけだ。
そもそも、劉ソウは親族によって劉表の死後に後継者に定められているんだよ。
食客に過ぎない劉備に荊州の牧を任命する権限など無い。
そもそも、劉表の勢力を則っていないというが、牧を勝手に任命するような人物が
勢力を簒奪していないとは噴飯ものの主張だろう。
>>715 それもおかしな話だよね。 劉備は劉表政権を簒奪していないというが、牧を勝手に任命したり、呉と勝手に荊州の分割協議している所をみると
明らかに実権を簒奪している。 劉ソウを降服せしめ、魏の保護下においた魏公と、劉備と荊州分割の約束をした呉王に領有の正当性があれど、
劉備のどこに領有の根拠があるのか?
あんたの論法では劉表政権を簒奪していないのだから、荊州にくちだす権限などないし、統治する根拠となる役職にもついていない。
劉備側の主張はどこからどうみても継ぎ接ぎだらけのろくな代物ではない。
>>716 義の人? 意味不明だね。 荊州を簒奪していないというのなら、なぜ牧を勝手に任命するのか?
劉備はいつ献帝に代わって官職を任命できる立場になったのか?
そもそも、荊州を劉備が統治する根拠はなんなのか? 劉表の食客だっただけで、魏公は劉備を
荊州の公職になど付けた覚えはないのだがね。
漢を復興すると言うが、献帝が漢皇帝だった時代から既に漢復興とのテーゼがお題目同然に
なっている事実をどう考える。
劉表が降伏したのではなく劉ソウとその親族が降伏したのである
また劉ソウが正式な後継者であるとは当時の流動的な情勢からは言えない以上、
劉備の行動を漢室復興にそむく行為であるとは言えない
また後に帝位を奪い、漢室を滅ぼした曹操とその勢力に降伏した劉ソウが漢室の大義に背いていたことは明白である
昭烈帝は漢室復興の大義を果たした偉大な英雄であると考えるべきである
>>714 >>劉表は酒席に士大夫・豪族を50人呼んで誘殺した前科がある
これは新規に支配者として現地入りしたときによくやる手段だよなぁ。
日本でも同じ様なことをした例もあるし、蜀の張ギョクも原住民?にたいしてそれをやっているね。
決して褒められたものではないかもしれないけど、劉巴は別だろう?
現地の文句ばかり言うやりにくい勢力を粛清するのと、劉巴みたいにエリートとして招待されるのとでは。
劉巴はそれこそ中小企業のうさんくさいセクハラも下ねたもかますおっさんたちがいやだったわけで、
おれが働くのなら「国家」のため、霞ヶ関じゃないとだめ!みたいなメンタリティの人でね。
当時いたであろう大小の彼みたいな人間の為にも、その気持ちを慰める為にも、劉備が皇帝になって「国」としての大義名分を名乗ることは意味があったと思うね。
>>720 劉表死後、劉ソウが親族に擁立されて後継者となった。
龍キ荊州支配の根拠は牧任命されたことであるが、任命したのは劉備であり、漢は認めていない。
劉キ死後、劉備が牧を継承したが、これも漢は認めていない。
両名は勝手に牧を語り、根拠無く荊州支配した「賊」にすぎない。
>>719 一応正史本文ではなく註釈の方だけど、劉表は劉備に牧継承したなんて話がちょっとあったり
>>721 話の筋をごまかすな。 父の代から劉表と因縁があり、50任を誘殺した劉表の元に赴かないのは自己防衛として当然の話。
劉巴への非難は筋が通らない。
攻められるべきは誘殺した劉表であり、己の非行を恥じるべきであろう。 劉巴二何の咎があろうか。
>>718 そのとおり。
劉備にだって荊州支配の公の正当性なんてない。
孫権にもないけれどさ。
漢の丞相であった曹操にはそういう大義名分はあった。
でも、結局はそういう正統性ではなく、荊州の父老や知識人たちのなかに劉備勢力のもとでの荊州独立維持を要望したものがかなり存在していたってことだけだろう。
>>719 まず劉表の親族に荊州牧を任命する権利があるというのが意味不明
献帝については奸臣曹操が朝廷を専横しているので天子の意が表れといないという建前だろ
今手元に資料がないが劉キを牧に任命したんだったか?ただ擁立しただけだったと思うが?
劉表の正当な後継者は劉キだと考えたのに牧になれるよう力を貸した、で何か問題あるか?
>>723 怪しいね。 なぜ子を差し置いて継承するのか? 趙匡胤なみの嘘臭さを感じる。
それも奴の場合は幼帝所以だが、劉ソウはすでに成人していた。
>>722 当時の漢室はのちに帝位を奪う四次元的逆賊曹操に牛耳られており、
劉備が状況を把握せずこれに従うことは漢室に忠誠を誓う行為であるというよりも
むしろ漢室に仇なす行為であったと言わざるを得ない
劉キを正式な牧と任命した劉備の英断をここは素直に讃えるべきであろう
劉備は自分に害なす牧を廃して漢室にとって正統な牧を任命したわけであるから、
この行動に異議を唱えることは当時の実情を知らぬ匹夫の言といわざるをえない
>>727 トウケンの場合も子供はいたわけですが・・。
怪しいね
とかただの下衆の勘繰りを根拠みたいに言われてもなあ…
劉表は実子のうち、劉ソウを後継と考えており、親族も彼をたてるべきと考えた。
魏公が南下すると彼を降服せしめ、彼を支配下において荊州支配の根拠とした。
史実では青州へ赴かせているが、首尾よくいけば荊州の牧に任命する事も考えていたのであろう。
ともあれ、魏公は漢の丞相であり、賊に過ぎない劉備に荊州領有の正当性はない。
さてこの辺で。 俺は出かけるからまたね
やっと帰ってくれた
>>724 劉巴に咎があるなんておれは言ってないよ???
誰のもとで自分の理想を実現するか?であって、劉巴には理想があってそれは劉表や劉備、シショウのもとでは不可能と判断したんだろう?それは咎でもなんでもないよ?
ただ、
酒席に士大夫・豪族を50人呼んで誘殺した前科
が劉表を劉巴が敬遠した理由と決めつけるあんたのほうがおかしいと思うけど?
そういうのがあったかもしれないけど、倫理的要素を判断される材料になったかもしれないけどさ。
劉表が誘殺するために劉巴を推挙しようとした?そんなバカなはなし、あんたの妄想だろ。茂才に推薦しようとするってことは仲間にしよう、子分にしようって作業だからさ。
>>731 >史実では青州へ赴かせている
荊州の牧じゃないじゃん
論拠の弱さを妄想で補う癖は治せよ
「俺は〜だったと思う」と言いたいだけなら三國志のファンサイトでも作ればいいんじゃないか
つか。
劉備が皇帝になったことがどうこういうのはよせよ。
大多数の支持がなければ蜀や呉があれだけ続く訳がないだろう
結局のところ、昭烈帝が漢室を復興した偉大さは誰にも否定できないのだった
そういう話ではないけども。
>>700 零陵先賢伝の当該部分を日本語で読むにはどうすればいいかもわからない人間が何を言っても説得力がないぞ。
読めるというなら読み直してみなさい。
劉備が皇帝を名乗って「失望した」のが誰なのか、wikiが書いてないことがちゃんと書いてあるから。
劉表が地元豪族の支持で荊州の支配権を確立・維持し、
北方から避難してきた名士達の安全な拠り所となり、
民衆には善政を慕われた、
という多数の記述を無視して、
劉巴の一事をもって「豪族や名士たちにそっぽ向かれた」とか主張しても空しい。
当時の軍閥の支配力なんて誰でも似たようなもんだ。
半分に支持されればいいほう。漢の宰相であるはずの曹操でさえ、
地方では豪族が勝手にやるのをなかなか阻止できなかった。
その中では、袁紹・劉表・劉備というのは下からの人気の点で「だいぶマシ」な
部類であるはずなのだが。
wikiが書いてないことをどうかいてあるのか説明しない人間の負け惜しみですね。
50人誘殺する男が慕われるとはどういう意味か? 劉巴は現に赴いていない。その部分をなぜスルーするのだろうか。
あー。
適当に鎌かけてみたらやっぱり本物だったか。
ちくま版も読んでない人間に一晩引っ掻き回されただけってオチでした。
皆さんお疲れ様でした。
はいお疲れー
やっぱり今時蜀漢正統論じゃないってありえないよねー
どっちでもいいからまとめて三戦板に帰ってくれ
議論が不利になると三戦板にカエレで言論弾圧 いつものことながら呆れるね
無視すればいいだけなんだよ、そういうのは
変なのが居ついていることはもうわかったんだから、これからは怪しいと思った瞬間からそれに一切手を付けちゃダメ
劉備の漢中王即位だけど、劉協からしてみたらたまったもんじゃないなと、ふと思う
劉協は漢帝として巨大な価値があって、それによって曹氏に「保護」されているのだから
いまさら外で何が起きても何の影響もない。
劉備が攻め上がって中原回復に成功でもしない限りは。
帝位奪われて王朝滅んでるんですが
ちゃうちゃう、漢帝存在しているのに、似たような漢中王が現れるのって嫌じゃないかって意味
wikiあたりには劉邦の故事に倣ったてあるし、劉協の権威否定してねと思えてね
悪意のある見方をすれば、同時に漢帝が存在した、更始帝、光武帝の故事にも倣ったとも言えるし
>>751 そりゃ劉協がちゃんと実力のある皇帝だったり、
曹操がそのうち皇帝に権力を返す意思のある忠臣だったりしたなら、
劉備の行動は「いや」だろうけど。というか名実共に紛れもない謀反だね。
だが実際は、219年というのは曹操が魏王を名乗り簒奪秒読み態勢なわけだ。
劉協はただ、将来禅譲を行う予定の漢帝として「保護」される存在にすぎない。
いまさら劉備がどんな無茶しても、劉協の身に危険が及んだり
待遇が変わったりすることはない。
曹操・曹丕は少なくともそんな馬鹿をやる人間ではないから、いまさら嫌だとか
思わないだろうよ。
劉備が倣ったのは劉邦じゃなくて「漢初の例」じゃないか?
少なくとも陳寿はそう書いている。
無論、漢川の地で王になることは「俺も劉邦のようにここから天下とってやるぞ」という含みは
あっただろうけど、それはあくまで含みに過ぎない。
漢初には、数郡規模の巨大な独立権限を持つ侯王が建てられており、
漢中王の地位と官制はこれを基にしている。
劉備は「漢中郡を中心とするいくつかの郡に封じられた侯王」であり、即位直後に成都に王廷を移した、という体裁。
一応、筋の通ること。
漢初の諸王を遥かに凌ぐ規模だし(これは曹操もだが)、勝手に自称してるだけ、というのはどうしようもないが。
つまり劉備は事実上は益州王だったわけ?
曹操も孫権も郡王に過ぎなかったのに比べると、かなり大胆だな。
曹操は冀州全部と青州・并州・司隷の一部を冀州に編入した上での十郡の王だよ。
当時の曹操が支配した「漢王朝」人口の1/3から半分に至るかという領域を公式に私領にしてしまった。
かなり大胆とか言うレベルじゃない。
756 :
世界@名無史さん:2011/02/06(日) 19:05:40 0
劉備は本当に劉表の正当な後継者かもしれない。
でなければ荊州の人士があんだけ劉備になびく筈ないし、劉キが牧の座をくれるわけないと思う。
だから劉巴は、劉表が大嫌い=その腹心である劉備も大嫌いになった。
>>756 正統な後継者かどうかではなく、劉備が荊州時代にかなりの根回しもしていて荊州人民はにくからず思ってたのはまちがいない。
それでも劉備がきらいな荊州人もいたし。ってことですよ。
劉備が荊州牧になったのは劉gの死後。
くれてやったことなはない。
759 :
世界@名無史さん:2011/02/06(日) 19:13:13 0
劉巴の親父って死に様がくさい。
江夏太守として孫堅に協力したが、孫堅死後に南陽の土民によって殺害。
当時の孫堅は袁術と組んでて、さらに袁術は劉表の敵。
どうみても劉表による暗殺くさいぞ。
土民じゃねーよ
この世に土民という名の人民はいない。
>>759 陰謀論スレみたいなこと言ってるんじゃねえぞ
>>753 漢初の例に倣うなら蜀王とか成都王でよくねと思う
漢帝いるのに漢中王というのは、その含みは露骨だと思う
献帝個人がどう思うかは知らないが、
当時漢室は曹操に簒奪寸前になっていたから、
漢室復興の意図を含んだ漢中王という称号は
天意に則ったものであったと言える
事実歴史は漢室簒奪から昭烈帝による漢室復興にすすんだ
まことに昭烈帝の判断は英断であったといえる
>>753 漢中郡ってのは劉邦の漢王とは関係なく漢王朝が定めていた郡なのだから、
郡の王になることは漢初に限らずありえること。
別に不自然ではない。形式的には。
766 :
世界@名無史さん:2011/02/06(日) 20:29:05 0
曹操が簒奪の意思を固めたのはいつ頃?
まもなく習近平様が日本も簒奪するから心配するなよ。
>>766 内心のことになると何とも言えないが、魏公になる、九錫を受ける、九州制を施行する、といったあたりを受け入れた時点ではもう後戻りする気はなかっただろう
769 :
世界@名無史さん:2011/02/06(日) 20:34:43 0
じゃあ司馬懿は?
771 :
世界@名無史さん:2011/02/06(日) 20:46:16 0
司馬懿が簒奪の意思を固めたのはいつ頃?
>>765 漢中郡って秦の頃からあるんじゃね?
というか、漢帝国と漢中王国、同じ由来の国号を持つ国が並立してるのは不自然じゃねと思う
平時ならありえないんじゃないかな。
219年というのは戦時どころか王朝滅亡直前だけど。
2019年 日本は中国に国権を譲渡し円満併合された。
>>773 話振ってなんだけど、並立しちゃだめな論拠はないんだよね。
あるとしても、漢朝において漢王が封じられたことはなかったことと、
光武帝が漢の更始帝から独立して、漢の皇帝に即位したことくらいしかないんだね。
漢文帝は元は代王だったみたいだから、諸侯王になるなら別に他の王でもよかったし、
一応、劉協にも太子はいたみたいだし、俺が漢室の後継者って名乗るのは、廃位されてからでもよくねと思う。
776 :
775:2011/02/06(日) 21:16:06 0
×俺
○劉備
なんでこんなミスしたんだろ
恥ずかしいからあまり突っ込まないでくれ
劉備の転生者かなんかかよw
>>753 劉備の漢中国の領域ってどれだけだったんだろ
漢中太守を置いてるし漢中郡だけってことは無いか
そういえば漢中国相も誰だったんだろうか
曹操誅殺の密詔を献帝は董承に下賜し,
それは劉備と協力して曹操を討てという趣旨だったという。
劉備が曹操を逆賊呼ばわり出来る根拠はここから来ている。
>>778 ちゃんと先主伝に書いてる。
漢中、巴、蜀、広漢、?為が漢中王国の領土
>>775 漢朝において漢王が封じられるのは流石にまずくないか
>>775 いやいや、「漢王家」が位階を進めて「漢帝家」になったんだから、漢帝と漢王は並列しちゃ駄目だよ。
「漢帝家」と「漢中王家」だからこそ、「別の家」という建前が成立する。
皇帝の後継者は皇太子であって、つまり「皇帝の長男坊」って意味。これが唯一の正式な皇帝の後継者。
皇太子は家を持たない。彼の家の家長は皇帝だから。
他の皇子は、外に出て別の「家」を構える。代王家とか魯王家とかね。
この時点で、漢帝家の後継者としての地位を失ったことになる。正常ならば。
外に封じられた皇子が呼び戻されるというのは、中央で異常事態が起きて太子が跡を継げなくなったとき。
だから劉備が「漢中王家」を構えたからといって、漢帝家の後継者宣言をしたことにはならない。一応。
ま、現実には劉邦の再来を狙ってることは誰でも想像就いただろうけど。
張魯だって漢寧王を名乗ろうかと考えていたが、これは劉邦の再来を狙っているものだったのか
張魯に北進するような野心はないだろ
張魯には
北進して領土を拡大する力は無いが、
布教して信者を増やす野心ならある。
>>782 そもそも、この論議の前提なんだが、
「漢王」=「漢中王」じゃねーの?
>>780 無知ですまんな
聞いてばかりで申し訳ないが漢中国相だれかわかる?
>>786 名称の由来は同一だけど名称が違うのだからセーフってことじゃないの?
>>786 「漢中王」は、「漢王朝の行政区分である漢中郡を領邦に封じられた王」。だよ。
>>787 横レスだが。
国相はいないだろう。
諸葛亮が丞相になったのは皇帝即位後。
太傅として許靖がいるけど。
791 :
世界@名無史さん:2011/02/06(日) 22:46:40 0
巴西は漢中の北にある?
>>775 漢の後継を自認する更始帝が、一族の劉嘉を漢中王に封じてる。
おー ほんとだ。やっぱちゃんと調べてからレスするべきだなあ
質問なんだけど後漢の頃の家長の仕組みってどうなってるの?
後漢書に袁逢の後は袁基(袁術の兄)が嗣いだ、みたいな記述があるけどこれは単純に袁逢の候位を継いだってこと?それとも汝南袁氏の宗主みたいになったのかな?
よく分からない・・・
>>795 汝南袁氏の嫡流ではあるけど、袁逢の家を継いだってだけ。
兄弟の家は基本的に別家。
>>793 こりゃ、別モノだわ。振った話題取り下げるわ。
>>796 なるほど
その場合宗主みたいのはどうなるんだろう?
当時、宗主って規定はなかったんでないかなあ。
高い爵位を持ってたり、高官だったり、財力のある者が一族で大きな影響力を振るうけれど、
家計や身の振り方は基本的に一家ごとに独立しているし。
いや、袁術のほうは自分のほうが嫡流で本家だ、袁紹は継子だ!みたいな意識が常にあったみたいだよ?
801 :
世界@名無史さん:2011/02/07(月) 15:34:38 0
曹操の「魏王」国の領域って漢の内どれだけだったんだろ
>>800 当の袁術先生本人が家の跡継ぎじゃないと言う衝撃の事実
>>801 河東・河内・魏郡・趙国・中山・常山・鉅鹿・安平・甘陵・平原の十郡
袁基姉ちゃんはすぐ董卓に殺されてしまったからなあ
804 :
世界@名無史さん:2011/02/07(月) 16:11:10 0
曹操に並び立つ、献帝公認の「王」はいなかったのですか?
805 :
世界@名無史さん:2011/02/07(月) 16:28:07 0
劉姓以外で新規に「王」になりたがってる時点で簒奪の意思ありとおもわれ
>>803 袁湯・袁逢・袁基と袁家嫡流に受け継がれた安国亭侯の爵位を、袁術は継いでない。
袁基の祭祀は袁譚が継いでるから、袁術は爵位と祭祀の両面で袁基の後継者では無い。
>>804 何人もいた宗室の王はほとんど献帝公認でしょ(劉備除く)
曹操に除かれた奴も多いけど
>>800 若い頃の境遇が微妙な立場だった袁紹が河北を牛耳ったから、袁術は腹を立てて
「あいつは袁家の子ではない。奴にすぎん」と公孫サンに手紙を送った。
家の本流傍流の話じゃなく袁紹個人の問題。
えんしょうと言えば四川省の山の中を兵糧輸送の為の道をつくったんだよな、わざわざ。
たしかビルマから重慶までつながってたんだっけ?
811 :
世界@名無史さん:2011/02/08(火) 01:08:43 0
袁世凱は袁紹の末裔?
812 :
世界@名無史さん:2011/02/08(火) 01:28:32 0
>>812 じゃあ孫権は孫武のしそ,いやなんでもないw.
毛沢東は毛カイの末裔ですか
朱鎔基は朱元璋の子孫(マジ)
816 :
世界@名無史さん:2011/02/08(火) 07:52:11 O
袁世凱は本貫が違うので無いはず。
袁世凱との繋がりがあり得るとしたら地域的には前漢の袁オウの方だったと思った。
出先なんで確認できんが。
毛沢東と毛カイは地域的にほぼあり得ないし、そもそも毛沢東は少数民族の可能性が高いはず。
武陵蛮との関わりならあるかも。
なんにせよそこまで時代が離れると妄想の領域。
欧陽修も系譜を辿れば、八王の乱ぐらいまではたどりつくんだっけ?
全ては炎帝と黄帝の子孫です
819 :
世界@名無史さん:2011/02/08(火) 11:06:34 0
姜維は諸葛亮に比べて、敵地に深入りし過ぎてないか?
段谷の戦いなんかも、胡済がやってこなかった以上に、集合地点が
敵地に入りすぎてるが問題に思う。
それだけ北伐を焦ってたんじゃね
821 :
世界@名無史さん:2011/02/08(火) 16:38:40 0
263年の魏の侵攻時も、えらく遠くに駐屯してたからな。
結局は手薄な漢中に易々と侵入させてしまった。漢中防衛ラインを
下げたのも裏目に出た。
822 :
世界@名無史さん:2011/02/08(火) 16:53:21 0
諸葛亮の場合は土地支配が目的。
保持できる見込みが立たなくなると撤退。
姜維の場合は戦功を上げるのが目的。
敵を求めて攻撃し、撃破することによって
蜀での名声を上げるのが目的。
その思想の差は漢中防衛ラインへの考え方にも出ている。
諸葛亮は領土の出来るだけ外で食い止めることを主眼としている。
つまり漢中の確保が第一。姜維は敵兵を殺傷するという具体的戦果を
第一に考えている。
姜維は諸葛亮の弟子のように考えている人がいるが、軍事に関しては
真逆な発想。まあ、権力基盤がまるで違うから、姜維は常に戦果を求める
必要があったのだろう。
姜維はケ艾の侵攻の真正面に布陣を続けていたんだが。
段谷の敗退後の防衛ラインの変更で、今まで手薄だった武都方面の防備が強化された。
姜維はそれでも手が及ばない陰平方面へ自分の本隊を率いて駐屯していた。
諸葛亮時代や王平時代では考慮に入れなくても良かった多方面からの侵攻能力を
魏が備えてしまったことからの防衛ラインの変更となる。
結局は、この多方面からの大軍侵攻をそれぞれの防御陣が支えることが出来ず、
次々に空いていく穴を埋めるために後退を重ねて敗北にいたったわけだ。
そもそも姜維の防衛策は、漢、楽の二城が機能しなかった時点で破綻した様な。
漢中が盤石なら武都や陰平から侵入されても、
敵は険阻な土地の中、孤立するだけと思う。
825 :
世界@名無史さん:2011/02/08(火) 19:27:44 0
秦嶺山脈で魏の主力軍が足止め食らっていたら、
そもそもケ艾が長駆して蜀の奥深くまで侵入するのは不可能だろうな。
例え侵入してきても、要害を占拠して持久戦されたら全滅だろうし。
漢中が漢・楽二城は残っていても、土地そのものが占拠されたのが敗因。
要するに蒋舒が悪い。漢・楽二城が健在で陰平には廖化がいて、張翼・董厥もこちらに向かってる。
そんな状況でなんで降伏しちゃったんだろう?姜維がが沓中が敗北したって聞いてもう終わりだと思ったとか?
827 :
世界@名無史さん:2011/02/08(火) 20:09:55 0
>>826 確かに腰抜けではあったのだろうが、
漢中に大軍がなだれ込んだのが浮き足立たせた要因だろう。
王平・劉敏が断固秦嶺山脈で侵攻を阻止したのも、そうした
士気の低下を防ぐ目的もあっただろう。それと秦嶺山脈なら、
少数の兵で大軍を阻止できる。漢中内まで侵攻されると、流石に
難しい。
828 :
世界@名無史さん:2011/02/08(火) 20:14:55 0
諸葛亮が曹真の侵攻を防いだ時も、複数のルートから魏軍が侵攻している。
しかし、前方の諸陣営の配置が十分だった為、進軍が難渋の上、長雨で撤退
している。他のルートの侵攻軍も撤退。主力軍を前方でしっかり防げば、
他のルートがいきなり深入りするのは不可能なのだろう。
>>824 その二城は機能したよ。成都降服まで維持していた。
ただ、魏の侵攻が大軍・広範囲すぎて、まず武都から侵入され、
それに引き摺られて姜維の本軍が敗北して陰平まで後退し、
そうこうするうちに援軍もなく各城孤立の状態だった漢中諸城のうち陽平関が陥落し、
と、ドミノ倒しの戦線後退を食い止めるには兵力が足りなかった。
蜀漢が兵力三万程度の数でも漢中を守れるというのは、険阻な地勢で敵の進軍ルートが
限定されて数の差が生まれない、という前提のものなのだから、
隴西方面からの攻撃に対応せねばならなくなった時点で、
漢中の出鼻で食い止める戦略は半分破綻していたことになる。
あとは盆地内部まで引き込んで持久戦ということになるが、
これもやはり大軍の優勢を利用したケ艾の迂回戦略で突破の憂き目にあってチェックメイト。
>>828 いきなりは無理かもしれないね。
たとえば、はじめから戦わずして二郡を捨てて陽平関・白水・剣閣
と連なる漢中-成都間連絡線上の各城に防備を集中すれば、
一回くらいは守りきれたかもしれない。
ただそうすると、魏はいつでも少数で陽平関付近や広漢郡を霍乱できる情勢になってしまうが。
姜維が長年隴西でやっていた戦闘を、こんどは四川盆地内部でやられることになる。
>>629 してないよ。
落ちなかっただけで、平野への進入を許して戦略上の役目を果たしていない。
そもそも姜維の防衛戦略は、敵を防ぐことではなく大利を得る目的と言うのが何とも…
漢中が健在の時に、広漢や陽平関への進入が、そう簡単に出来るもんなのかね?
>>831 防御を二城に下がらせたのは、敵軍を平野に引き込むことだから、それは正しい機能。
問題は、逆襲して大勝するための戦力が当時三百キロほど西にいたこと。
>敵を防ぐことではなく大利を得る目的と言うのが何とも…
これがわからないところだね。
実際に姜維が変更した布陣を地図で見れば、蜀漢の置かれた情勢が
もはや漢中盆地内部で持久して撃退すればすむ、という段階ではないと、
姜維がよく認識していたことをよく示している。
新たな防衛陣地は陽平関から武都まで広がってるんだから。
ではなぜ上表では景気のいいことを言ったのか。
1.上表だけでも景気のいいことを言わねば防衛線の変更が出来なかった政治的発言。
2.秦嶺山脈で持久戦をしてもその外を攻略されれば終わりだから早期決着を付ける
システムを作っておかねばならなかった。
というようなことが想像できるが、まあ想像だ。
いずれにしても姜維本隊が、武都のさらに大外から長駆侵攻する能力を得たケ艾
(実際、ケ艾は陰平から四川への直進ルートである白水関すら通らずにフに出現してる)
に掛かり切りになってしまった時点で「大勝」の目もなくなってしまったということだろう。
>>832 武都と陰平を落とせばできる。
姜維や諸葛亮は、さらに長距離を行軍して隴西へ侵入してるんだぜ。
>>834 あんな険阻な土地へ進入しても待ち伏せされるのがオチじゃね?
蜀と隴は地図で見るに蜀の方が険しいと思うんだが…
たとえば陽平と白水の間だけでも100キロの距離がある。
成都と漢中を繋ぐ蜀漢で最も重要な街道だ。
陰平を取れば、そこの100キロに対して、少数で真横からいつでもどこにでも攻撃を掛けられる。
武都を取れば陽平関へ対して北からも西からも攻撃できる。
足を伸ばせば盆地内部へヒットアンドアウエイすることもできる。
それを防ぐには蜀漢は街道や細かく流れる河川沿いの城由邑全てに
即応戦力を配置せねばならなくなる。
>>武都のさらに大外から長駆侵攻する能力を得たケ艾
魏延だっておなじことをできたのになぁ
ケ艾は鍾会と同時侵攻で、鍾会が引き付ける蜀主力の「裏のスペースに飛び込む」機動を取ったから戦果を得た。
魏延は、曹真の魏主力に最初に真っ向から当たる長安に突っ込んでいく作戦なわけで…。
なかなか興味深い話をしてますね。
姜維の行った漢中の戦力配置の変更はよく批判されますが、
個人的には仕方の無かった事だろうと思います。
当初の快進撃のお陰で魏の勢力の及ばない地域としていた洮西が、
段谷で敗北した事によって再び魏の勢力圏となってしまいました。
また、ケ艾が隴西の司令官として赴任した事で、隴西の策源化が急激に進んでいきました。
(鮮卑を漢人の居住地域へ引き入れ、後の鮮卑の大乱に繋がったという負の影響もありましたが)
そうした状況においては、監視と防衛の網を西へと広げなければならないのは自明であったかと思います。
また、漢中の防衛体制変更から魏の侵攻まで尚5年を要した事は注目すべき事です。
その5年の間に、ケ艾は着実に隴西における地盤を固めていったので、
本来遊軍として関城或いは剣閣に存在しなければならない姜維の軍が、沓中に張り付かざるを得なくなってしまいました。
この事が蜀の防衛を更に不確かなものにしてしまったかと思います。
更にもう一点、胡済死後、督漢中が置かれなかったであろう事も、また魏の侵攻を許した理由だと思います。
姜維不在の間は、督漢中のもと、漢中の防衛はその指揮系統が一本化されるはずでしたが、
その督漢中が不在であったため、本来漢城と楽城に集中させるはずの戦力が無駄に秦嶺山中に配置され、
傅僉と蒋舒のやり取りに見られるように、関城の防衛についても方針が一本化されませんでした。
以上のように、蜀の滅亡は様々な要因が重なった上の事であり、
一人の人間に帰されるような事ではないかと思います。
230年の蜀征伐は西城経由の司馬懿、子午道経由の張コウ、斜谷道経由の曹真の三路から攻めたけど、
曹真伝にこの三軍以外に武威からも別軍が進んだって記述がある。これは誰の軍だったんだろう。
徐バク?郭淮?
間道攻撃というのは、正面戦力に対して使ってしまったらただの奇襲だからなぁ。
効果的なのは、後方を横撃出来るところを探さないと。
>>839 督漢中人事が滞った理由は何だろね?
閲歴的に不足の無い人物は何人もいるし、そもそも魏と対峙する軍の司令官がいないってのは異常事態だけど、
姜維解任問題のように、おかしな政治駆け引きでもあったのかな?
兵力を西にさくというのは理解できるが、
漢中の兵力を楽、漢に集中させるというのがね…どうもね。
兵力に余裕が無くなったなら要害に拠るべきであって、
防衛だけなら秦嶺を頼みにするべきだろう。
それを敢えて楽、漢二城に集中させるというのは、
姜維の言う様に大勝を狙ってだろうから、イマイチ評価できない。
秦嶺山脈内で幾層にも重なる多数の「諸圍」にあった兵力を下げて、その分がどこに行ったのかと言えば、
漢・楽城に加えて、西安、建威、武衞、石門、武城、建昌という武都方面の新陣地だろう。
前後で防備の総兵力が増えていないのならば。
武都は従来の陳倉方面に加えて、天水からの圧力も増していた、秦嶺山脈が比較的穏やかになる場所。
天険だけでは守れない情勢になっていたってことだろうね。
さがったのは二城だけじゃなくて、督漢中で高官の胡済を漢寿まで下げている。
これは漢中(険阻な秦嶺東部)だけではなく秦嶺西部までを広く視野に入れて対応するような場所になる。
秦嶺を頼みにすればそれでいいという体制が放棄された陣地変換だといえるね。
子午道や斜谷道を蓋せず盆地へ招いて、
点を捨て面で守るなんて弱者の戦略とは思えんがね。
そんな兵力的余裕があったんかね?
姜維が言うように大軍を招いて大勝を得たいが故の戦略でしょ。
姜維のベストな人生設計。
大将軍で軍を率いて魏に潜入し、そのまま軍ごと寝返り、蜀をせめて大功を挙げて都に召喚されて司馬氏におもねって立身出世して
太平の世を楽しむこと。
線を捨てて点で守る、だね。
「錯守諸圍」とある通り、細い道に一つ関所を置いて通せんぼをして守るのではなく、
小さな陣営を張り巡らせ、その連携で大軍の前進を牽制・減衰させるような守り方をしていたと考えられる。
魏延が楊儀に先回りしたように、秦嶺には輸送には使えなくても少数迂回ができるような道はあった。
一点で守っていたら後方に出られて桟道落とされたら終わりだろう。
新しい防御陣は、漢中内なら漢・楽二城、加えて陽平関の三点に引きこもり、敵の勢いが尽きるまで
やり過ごす方法。この三城なら兵糧も防御設備も十分だから、孤立しても各城数千で守れるだろう。
まあ新旧どちらの方が多数の兵力を要したかはわからないが。
地勢的に見て陽平関は重要だが、
漢・楽二城が孤立して残存しても意味がないという状況が現実として起こったわけだが…
漢・楽二城は合肥とか樊城とか夷陵とか江陵のように、必ず攻略しなければならないわけじゃない。
また後方に出られるとかは開戦後の戦術で、将帥が臨機応変に対応すべき物。
戦略として要害から後退する理由には当たらない。
漢寿から睨むのは陰平・武都だろう。
漢楽は問題じゃない。
ローマ帝国も線での防御を放棄してから劣勢になったね
姜維が「重門」と言ったように、防御陣営を重層的に構築した従来の方法の方が当然強いだろうな。
それを放棄して、敵の大軍を盆地に引き込めば、確かに兵站を圧迫することが出来るだろう。
秦嶺は、五次北伐の前年から山脈の北側に兵糧の蓄積を始めていても、なお五丈原で屯田しなければ
ならないほど輸送が困難な山脈だから。
しかし、盆地で数ヶ月の篭城をするということは、これまで構築してきた漢中屯田や
中小の城邑が敵軍に破壊されることを前提とする。
前者と後者、いずれでも魏を撃退可能なのだとしたら、戦術的な「大勝」を求めて盆地へ敵を招き、
引き換えに漢中の破壊という戦略的大打撃を受け入れる道理はない。
姜維が発狂してこれを主張しても成都宮廷が飲むわけがない。
つまり漢中を30年守ってきた線の防御を捨てて点での持久に切り替え、その分西への防御に兵力を抽出する、
そうせざるを得ないほど蜀は追い込まれつつあった。
>>846の言い回しを借りればまさに弱者の戦略ってわけだ。
よく姜維は漢中の防衛線を変更して浮いた分で段谷の損害を補填したっていうけど、
西方への防衛線延長で浮いた分は全部消えたんじゃないかな。
姜維本隊への補填もされたかもしれない。
ただ、その戦力は攻撃用というよりも力を蓄えていくケ艾の牽制用ということになるのだろうけど。
というか、十年以上の姜維の隴西出兵って結局は、隴西で魏が大軍の出兵能力を得るのを阻止することにあった
と思うんだよな。
856 :
世界@名無史さん:2011/02/10(木) 02:09:50 0
玄関を一生懸命守ってたら、敵が裏口から攻めてきそうだったのでそっちに兵力を分散→各個撃破される
古来、城にこもって勝てた戦などありません。
籠城というのはあくまでも援軍が期待できる状況での策です。
将軍、あなたの援軍は成都からはこない。
自らの軍とともに城にこもってどうするのですか。
おれが参謀なら姜維にそういってやったのに。
何の為に胡済が漢寿にいたと思ってるんだ。
859 :
世界@名無史さん:2011/02/10(木) 19:52:36 0
段谷の戦いで喪失した戦力を、
守備兵力を引っこ抜いてまで中央軍に編入したんだろ。
あくまでも自分の功名に拘った姜維。
少し前の流れぐらい読めよ・・・
別に相手が遠征軍なら兵站というネックがあるから援軍がなくても勝てる(相手を退却に追い込む)場合は普通にあると思うが
どこで聞いたのか知らないが耳に心地よいだけのフレーズで戦を決めつけるなよ・・・
実際、鐘会は剣閣攻めあぐて撤退の相談初めてたし。ちゃんと関城で防げていれば撃退できたんじゃね。
863 :
世界@名無史さん:2011/02/10(木) 21:30:55 0
ケ艾軍をのらりくらいと持久戦でかわせなかったのが敗因では?
たらればなら段谷以外にもたくさんあるね。
最初に姜維が警告を発したときに速やかに援軍を出していれば張翼が陽平関に間に合ったかもしれない。
蒋舒が降服しなければ、諸葛瞻がケ艾を抑えていれば、劉禅がもう少し時間を稼いでいれば。
魏の大侵攻が必至の情勢になっていたとはいえ、単純に国力だけで言えば、
264年に成都が陥落するのはまだ早かったと言えるのだろう。
それを早めたのが、姜維と成都の不和に代表されるような人的要因だった。
劉禅が糞すぎるんだ
成都に魏軍が近づいてきたぐらいで降伏して綺麗ごとを言うなんて・・・
だったら最初から戦争なんてするなボケ!と言いたくなる
まだ圧力になる軍はあるのに、きょどった末の無条件降伏だから交渉も糞もねえ
「領民はなるべくいじめないでね♪」と魏様にお願いするだけ
こいつを名君とか持ち上げる奴は頭がおかしいとしか思えない
俺が蜀の人間だったら血管ぶち切れてるわ
>>865 劉備や劉封あたりならそれもありだろうが、取り立てて従軍経験のない劉禅が戦っても玉砕するだけ。
呉漢の先例もあり、またトウ艾の人格を取り立てて信用する材料もないので、身柄を人身御供に差し出すのはそれ程悪い手段ではない。
褒めるような話でもないが。
>>865 関東一帯を制圧しつつ東京に敵軍が迫ってて、制圧された地域の軍事力はほぼ壊滅。
京都辺りに戦闘継続可能な軍事力はいるが、高いのは指揮官の戦意だけ。
その状況下で政府が「戦争は継続する、我々は負けていない」と言い出したら、
俺含めたいがいの国民の血管がぶち切れる。
868 :
世界@名無史さん:2011/02/11(金) 02:06:58 0
870 :
世界@名無史さん:2011/02/11(金) 08:21:35 0
段谷の戦いは単に兵員の損失だけではない。
それを指揮する将官の多くも戦死している。軍の運営に支障が
出る事態だった訳だ。前線の陣営の指揮官を、中央軍の実戦部隊
の指揮官に編入するという意味も、防衛ライン後退の理由でもある。
871 :
世界@名無史さん:2011/02/11(金) 09:05:14 0
ニ正面作戦を強いられたなら、
姜維に1万の兵だけやってケ艾を牽制させ、
残りの兵力を全部漢中防衛システムにつぎ込めばいいじゃん。
872 :
世界@名無史さん:2011/02/11(金) 12:15:21 0
ケ艾軍はそんなに脅威だったのか?
秦嶺山脈で魏の主力軍を足止めしとけば、
それほどの脅威とは思えないけどな。
あれは漢中に魏の主力軍が侵入してたからこそ
ケ艾の進軍が可能だっただけ。
>>871 三正面作戦な。
漢中と陰平にしか兵力がなければ、
姜維は武都を取られて孤立して、総勢六万の兵力に包囲殲滅されて終わり。
実際の話、ケ艾の高飛びなんて成都の軍隊が本気で包み込んでしまえば補給が無いのだから心配なかった。
姜維も無念だったろう。
それいうと魏延の策も相手が夏侯モだったからの策であったわけで。
そんな主張をした論者は当時いなかったぞ。
「成都の軍隊」は主力が廖化と張翼に率いられて剣閣に出払ってて、予備兵力は諸葛瞻と共に壊滅。
篭城も覚束ない程度しか残ってなかったから、南方回避か呉へ亡命かって選択になったんだろ。
本来、首都防衛の為の兵力である五校尉はどうも姜維の北伐に組み込まれていたようだし、
まじで羽林郎とか尚書郎とかの郎官しか成都にはいない状態だったんだろうな。
それすら諸葛瞻と共に壊滅するわけだし。一万弱を率いて成都へ向かったはずの閻宇がどこ言ったのか謎だが。
878 :
世界@名無史さん:2011/02/11(金) 20:34:24 0
>>877 やはり直近での段谷での敗戦は相当兵力と実戦指揮官を喪失したの
が痛かったのだろう。たぶん防衛ラインの後退もその穴埋めと考えて
よいと思う。普通なら敗戦の痛手が回復するまで内政に力を入れるの
だが、姜維は更に遠征を繰り返した。
防衛ラインの後退とかいうか、隴西方面からの侵攻にも対応せざるをえなくなり、
陰平方面まで薄く広く防衛線を延長したんじゃないか?
>>877 閻宇が成都に到達していれば諸葛瞻の代わりに指揮執っただろう。
剣閣放棄後に姜維は巴西方面を通って成都へ向かってるから、江州あたりで姜維と合流し、
その後詔勅を受けて一緒に鐘会に降伏したんじゃないかな。
881 :
世界@名無史さん:2011/02/11(金) 21:04:40 0
諸葛亮が曹真の侵攻時に、
李厳を漢中に呼び寄せたが、あれも多方面からの侵攻への
対策でしょ。漢中には守備隊と諸葛亮率いる中央軍がいる。
武都・陰平方面への対処の為にも、漢中に李厳を呼び寄せた
のだと思う。そっち方面への攻撃がなければ漢中の援軍として
そのまま使えばよいし。
それは普通に漢中を攻めてくる曹真らへの対策だろう。
陽平関を東に折り返して漢中盆地に入ってしまったら、
敵の攻撃の中をまた戻って武都や陰平に行くのは一苦労だし。
当時の魏主力は褒斜谷や子午谷のような近道から攻めるのが精一杯。
散関から寄り道できる武都はともかく、陰平なんてとてもいけない。
>>865 綿竹であんだけ武将も兵も死にまくって等観作られているのにどう考えても無理ゲーだろう。
平野に大軍が放たれている時点でどうしょうもない。蜀を支えてきた人材が綿竹でどんだけ
死んだとおもっているんだよ
実際にはそれでも成都でそれなりに長期間篭城は可能だった筈なのだが、
「民をこれ以上苦しめたくない」との後主の詔によりあっさり降伏ってのが真実じゃないかなぁ。
あれ?昔同じ場所で似たようなシーンが・・・
885 :
世界@名無史さん:2011/02/12(土) 10:31:10 0
老人子供まで動員すれば篭城戦は可能。
とりあえず審配ぐらいには粘れるはず。
三国時代に限らず、長時間の籠城戦は悲惨だぞ。 カン丘倹の籠城戦なんか人肉市までたって・・・・
それこそ劉禅のいう民を苦しめたくない状況の極地だしな
まあ、仮に同じ状況におかれたのが、劉禅でなく、劉備なら籠城戦を選択しただろうけど、
この辺は叩き上げの皇帝と2代目の差かな。
鐘会の乱まで起こして結局失敗しちゃう愚直な姜維が好きだよ
負け決定なのにじたばたして、人を不幸にさせる姜維はきめぇ
889 :
世界@名無史さん:2011/02/12(土) 11:31:57 0
三国志が有名なのは、前漢の政治が良かったからか?
劉璋も籠城戦反対したよね
892 :
世界@名無史さん:2011/02/12(土) 13:05:32 0
劉璋って後で孫呉に逃亡したんだって?
劉備はどんな扱いをしてたんだか。
893 :
世界@名無史さん:2011/02/12(土) 13:21:54 0
劉備や劉璋の姿勢を菅首相や自衛隊も見習い、中国がせめてきたら即降伏してほしいと思います。
>>892 劉備入蜀後に公安に移されて呉が荊州を平定した時に帰順した事になってるけど、
つまり妙な事をされないように益州を追われていた訳だ。
んで直後に病死した事になってるけど、大体正史で敗戦や降伏した直後の病死と書かれているのは
十中八九怪しいと思っている。
もちろんナニかされたという証拠の類は一切無いので単なる陰謀論に過ぎないけどね。
たとえば劉備も袁紹も戦傷が死因だったりするんじゃないかと思える死に方ではある。
>>890 加えて、宋の連中が北に外患を抱える流れで自分たちを蜀になぞらえたことだろうな。
んで、平話やらが講談や劇の人気演目に
→明で演義誕生
→日本に伝わって江戸の町人文化の興隆に合わせ、同じく演義系列の物語が多く講演される
→第二次大戦後、講談を元にした歴史小説が流行り、またそれらを元に同一題材の物語を書く人間も増える
→20世紀末期には、正史に目を向ける人間も増え、演義と正史の中間みたいな物語も増える
→大量生産で微妙に見るに耐えない物語も増えた現在に至る
みたいな流れで大衆に受け入れられた感じだな。
>>895 →21世紀初頭前後には一部で萌え化
ごめん何でもないorz
897 :
世界@名無史さん:2011/02/12(土) 16:10:26 0
>→大量生産で微妙に見るに耐えない物語も増えた現在に至る
演義になる前の三国志平話からしてそうじゃん。
なんだよ、曹操が韓信の生まれ変わりで、劉備が彭越、孫権が英布の生まれ変わりとかいう超設定。
>>897 それは今でこそ突飛だけど、大衆向けでは割と世界各国に普遍的にある枕詞みたいな様式美の一種なんで今のアレな設定とは一緒にしたくない。
日本の三国志パロディにしても江戸以来の伝統芸だし今さら目くじら立てることでもない
劉関が吉原で芸者の町妃=張飛を取り合った末に桃園で結盟する話なんかジェンダーチェンジのはしりでもある
恋姫なんたらもあと300年ほどすれば日本における三国説話受容の歴史の考察対象になるよ
SWEET三国志も200年もすれば、まさか・・・w
『平成時代における三国志コンテンツの発展〜恋姫無双に見る日本人の三国志観〜』
なんて講演を学者が真面目にする日が来るかもしれん。
真面目な顔で、萌え声・萌え絵をプロジェクターで解説する教授想像してメチャクチャ吹いた
>>886 劉備なら籠城せずにインドににげてるよ。
なぜそこでインドがでるんだ。 訳わかんない
だってにげるとこはもうインドしか無いでしょ。
906 :
世界@名無史さん:2011/02/12(土) 22:46:19 0
907 :
世界@名無史さん:2011/02/12(土) 22:50:04 0
劉備なら、などというくだらない妄想をするから、くだらない妄想で返されただけだろ。いきんなよw
908 :
世界@名無史さん:2011/02/12(土) 22:52:56 0
劉備は交州に逃げるつもりだった
>>907 劉備ならと最初に言った俺は話題に参加しておらんが。
劉備なら士しょうから交州をのっとるくらいの芸当は造作も無いな
劉備なら俺の横で髀肉を嘆いてる
912 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 09:20:35 O
劉奇も暗殺されたの?
良いタイミングで、死んでる気がする。
それより劉表の死に時の方がグッドタイミングすぎだろ
914 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 10:06:34 0
荊州豪族・名士が暗殺したとか?
そいして曹操に降伏を跡継ぎに奨めて、自分は
栄達コース。あるかもな。
915 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 10:07:56 0
劉備は劉表の後ろ盾がなくては曹操と戦うこともできない。
劉備が劉表を暗殺したとは思えないな。
劉備が暗殺したとは誰も言っとらんし思っておらんよ。
劉表政権が蔡氏独裁ルートに入るのは解りきってるわけだから利益がない。
劉表を殺したのは劉備ではないだろうが
劉gは…
918 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 11:39:47 0
劉gは南の江夏に行って病死だから、よくあるパターンとはいえる。
魯粛や程普も病死だったし、あのあたりは北来の人間がよく死ぬんだ。
曹操の軍だって同時期に疫病続出だろ。
919 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 11:41:21 0
風土病なのかな?
三国志の病気系でかなりヤバイ死に方したのは
寄生虫に腹食い破られて死んだ陳登と、左目のコブが破れて目玉が飛び出し、
口も碌にきけなくなって死んだ司馬昭が双璧だな
921 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 12:01:13 0
背中にできものができて死亡ってのがわりとあるけど、あれって糖尿病?
922 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 12:09:42 0
たぶん、ようちょうとかいう病気だと思う。
日本では徳川家康も背中におできができて死にかかったそうだ。
むかしは抗生物質なかったからちょっとした感染症で死ぬだろ。
>>918 劉gとか魯粛は北来の人間って言えるんだろうか
別に北来の人間でなくても寄生虫で死んでたんだよ。
魚を膾で食うから当然だよ。。
926 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 13:51:20 0
>>924 劉gは洛陽生まれ。
魯粛は徐州生まれ。
やっぱあれだろうな。
北からきた人は米とか魚とかあきあきするんだろうな。
やっぱおれは肉まんとかくいたい!
だから孫権様、徐州攻略を!!みたいなモチベーションあったろうな!!
でも、肉まんはなかったんか?あの時代?
麺でくってたんかな?
当時の中国料理は、米とか麺類を除いた日本の伝統料理に近い。
つうことはお焼きだね。
日本の伝統料理というか、当時日本という国の国家形成はおろか、日本人という概念すらなかったんとちがうかと
揚げ足を取ってみるか
豚の揚げ足はうまいんだろうか?
鶏の揚げ足はうまいらしい。
名古屋のほうにそんなのがあった。
その洛陽生まれとか何ソースなの 俺はブルドックソースをお好み焼きにかけるけど
お焼きってどこのお焼きだよw
それ地域によって指してるもの違うからw
このスレではちゃんとしたソース、出典を出さない内容は信じない方がいい
お焼きってさ。
小麦粉を練ってひらたくのばしてなかにざーさいとかつつみこんでいろりの灰でやくの。
そういうのをいってんの/
日本の伝統料理に近いっていわゆる懐石料理みたいなやつ?
ゆでダンゴはあったらしいな〜
チン毒をしこんで食わせようとした話があるから。
939 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 14:40:24 0
>>931 劉表はずっと中央で官僚やってた人だろ。だから子供も洛陽生まれだろう。
蔡夫人を娶ったのって荊州来てからじゃないの?書いてないからわからんけど。
蔡夫人との子供が劉ソウだもんね。
劉キはだからそのまえにうまれてたろうね
942 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 14:50:04 0
>>940 それは弟のソウのほう。
兄のキは洛陽生まれ。
>>939 若いころに王サンの祖父にくっついて南陽に来てるよ
長男だし南陽生まれじゃないのか
蔡夫人は後妻だよ。劉jの母でさえない。
劉表の荊州刺史前の経歴は不詳で、劉gの年齢も不明。
よほどの皇帝側近ど真ん中でなければ仕官以来洛陽から離れなかった
などと断定できない。
劉gが洛陽生まれという根拠がそれしかないなら、根拠にはならない。
前から不思議なんだが、荊州刺史の王叡がが孫堅に打たれたり、後任の劉表が任地に着任しようとするとすでに土豪が割拠して
蔡瑁らと図って除くまで行政できなかったりしているけど、こういうのって形の上では漢帝国への反逆だよね?
逆賊董卓とよくいわれるが、なんで孫堅やこの土豪たちって逆賊扱いにならねえの?
すでに黄巾の乱で漢帝国の権威が失墜していたから刺史に任命されても実力がなければ紙切れ同然で糞の役にも起たない
ような代物だったかね。
946 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 15:17:55 0
孫堅が逆賊にならなかったのは運良く袁術と手を組めたからだろ。
下手したら董卓と手を組んでもおかしくない経歴の持ち主。
947 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 15:19:49 0
劉表は山陽郡高平県の人とあるから、洛陽からはだいぶ遠いぞ。
まあ北の人であるには違いない。
948 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 15:25:11 0
劉表の生年が144年だから、荊州刺史に就任した190年前後には46歳。
まさかこの歳までニートってワケでもないだろうし、劉表って何やってた人なんだろう。
>>945 討董卓連合自体が逆賊だろ。
董卓政権の後漢朝廷にとっては。
曹操や孫堅がこれに参加したこともあり、董卓は後漢朝廷を崩壊させた悪臣だと
魏呉蜀の歴史上では位置づけられているから、討董卓軍が義兵になっているだけで。
>>948 黨錮の禍を被って亡命。
黄巾の乱で禁固が解かれて何進に辟召。
951 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 15:41:39 0
黨錮の禍つっても、劉表って官位持ってないから「は? 公職禁止がどうかしました?」レベルじゃろ。
>>948 劉表はどうやら就職前に党錮の禁を食らっていたらしく、184年に禁が解かれるとようやく江夏太守の功曹従事となり、
何進の辟召を受けて大将軍掾となった。何進死後は董卓に重用されて北軍中侯に昇進し五校尉の統率にあたってる。
で、王叡が死ぬと後任の荊州刺史として出向。
官に就いていなかったかどうかわからんが、
黨錮の処分って公職停止だけじゃないぞ。それで済んだのは罪が軽い者とか重罪者の親族や故吏とか。
数では彼らが大半だっただろうが。
当時郡の督郵だった張倹が地元出身の宦官に喧嘩売ったのをきっかけとして、
一緒に誹りを受け、「詔書捕案黨人」されて「亡走得免」した。
劉キってじつはむきむきだったんじゃねぇのか?
955 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 20:54:03 0
・軍を率いて越境してもヘッチャラ
・名分もないのに刺史を殺すのもヘッチャラ
どう見ても孫堅は董卓似ですありがとうございました。
国が乱れるってのはそういうことじゃね?
それでも皆表面上は大義名分を作ってる
957 :
世界@名無史さん:2011/02/13(日) 21:00:03 0
「後漢のため」という大義名分すらないのが孫堅。
袁術と出会うまでは、太守クラスなのにまったく知識人とのつながりがない。
董卓ってそんな悪いやつじゃないぞ。
張咨は周・許靖の人事で南陽太守になったわけだから、彼も袁紹らの挙兵に呼応するはずだったんだろうな。
そんな張咨をブッ殺しちゃう孫堅さんは何がしたかったんだろう。袁紹らと連携せず独力で董卓を倒すつもりだったのか、
それとも軍事力を背景に董卓政権にポストを要求するつもりだったのか。
>>957 朱儁、張温。
孫堅は、当時対応が急だった反乱鎮圧や異民族討伐で功績を挙げ、
中央の高官の覚えめでたく車騎将軍参軍事のような要職に推挙を受けて
董卓を現した人物。
この170〜190年頃には、後漢盛期には見られない武功や武勇を理由とした
登用・昇進が目立ってくる。
その意味で董卓、孫堅、丁原らはそうやって高官に昇った同類だと言えるね。
これに半歩遅れた世代が劉備。黄巾の乱以後に身を立てて、
董卓の乱で地方行政が完全に解体するまでに県令になっていた。
×董卓を現した
○頭角を現した
なにやってんだww
リアルで吹いたわw
張角
董卓というと、何となくペニスの隠語みたいな雰囲気がする
965 :
世界@名無史さん:2011/02/14(月) 03:57:37 0
俺の董卓で障子破り
966 :
世界@名無史さん:2011/02/14(月) 16:12:15 0
五胡十六国時代に、漢人の将軍が鼻の高い異民族を殺しまくったらしいが、満州やモンゴルあたりに鼻が高い人種なんていたっけ?
テュルク系じゃないの
でも劉備ってさ。
徐州を奪い取るんではなく後がまとして居座れる。
孫権とあんな同盟?を組める、有利な立ち位置で行動させてもらえる。
荊州も奪い取るんではなくドサクサまぎれだけど居座れる。
そして劉章に対張魯として招かれる。
演義の義人ぶりなんてほどのことはなくても やっぱ信用があったんだよな。
そりゃ「武勇と信望」の人だから
>>966 詳細は他スレで聞け。
その質問は時代的にもっと相応しいスレがある。
あまり詳しくない俺が信用ならない勝手な私見を述べさせてもらえば、
・遊牧民の人種については未だにわからないことが多い。
・南朝で「鮮卑奴(鮮卑野郎というような意味)」と呼ばれる容姿として、眼窩が窪んでおり、鼻が高く、金髪碧眼というものがみられる。
・現在のウイグルは亜欧ハーフのような容姿だが、彼らの祖先は今から千年ほど前にモンゴル高原付近から今の位置に移ったと言われる。
まぁ、多分冉閔が石氏と羯族をホロコーストした件だろうが。
漢民族による民族主義的なアレだけど、漢皇族劉氏は軒並み鼻が高く毛が深いから、
子孫が現場に居合わせたら羯族と一緒に殺されてるってジョークもあったな。
逆に石勒が劉邦の信奉者なのは、羯族等が容姿で排斥を受ける世相の一方、
劉邦とは史書の記述における容姿が近い事で強い親近感を持ってたからって与太話もある。
ルーツ君警報
断言せずに確度の低い情報だと前置きして言ってるのにルーツ君呼ばわりされたでござるの巻。
羯族が劉氏の子孫だとか言ってるわけでもないのに「ルーツ」君呼ばわりはないと思うが、
まあいいさ。
時代的に近い皇族劉氏の容姿や石勒の話はちょっと面白そうだから詳しく聞きたいな。
私のおじいさん、クンタキンテはアフリカにすんでいた。ある日、水汲みに出かけたところを白人達にさらわれて船にのせられてこの国に奴隷としてつれてこられた。
975 :
世界@名無史さん:2011/02/14(月) 23:58:39 0
呂布軍団=羯族?
呂布の若い頃(丁原に使える前)のエピソードって正史には載ってないの?
977 :
世界@名無史さん:2011/02/15(火) 04:36:31 0
三国志に出てくる異民族で、鼻が高いって特徴の人物はいないな。
質問なんだけどwikiの司馬懿の記事で曹洪の召し出しを断った話が魏略に載ってる云々とあるんだが、
ソース何なのかわかる?ちくま三国志しか持ってないもんで。
>>978 晋書斠(コウ)注によれば,北堂書鈔133に載っているとか。
(手打ちだけど以下)
魏略曰晋宣帝好學曹洪自以麄疎欲屈自輔帝
帝恥往訪乃託病拄杖
洪恨之以語太祖
太祖辟帝乃投杖而應命也
>>979 裴松之が言うには『魏略』と『文章志』にほぼ同じ内容が阮ウの逸話として載っているらしい。
981 :
世界@名無史さん:2011/02/15(火) 16:02:09 0
劉氏の人間には龍顔っていう特徴があるんだってね。
面長で鼻が長くて高いとか。
蒼天航路でも、劉ヨウはそういう顔立ちだった。
>>980 司馬懿と阮瑀(ウ)を書き間違えることはないだろうから,
似たような話が複数載っていたか,誰かが意図的に改竄したんだろうな。
まあ曹洪に召されるのと曹操に召されるのでは全然違うから,
同じような断り方をしたからっておかしい訳じゃないけど。
>>979 北堂書鈔というものがあるのか。
勉強になったよ。ありがとう。
984 :
世界@名無史さん:2011/02/16(水) 03:29:34 0
呂布は内蒙古の生まれ
リョフは、生まれはエンシュウで、出身がヘイシュウだと、
思ったことがある。
リョフが曹操と、エンシュウ攻防戦をしたのは、リョフの生まれが、
エンシュウだったからかもしれない・・・
呂布はその前にエンショウに頼ってるし、
流浪の人生を送ってるから生まれは関係ないと思うよ
人名を思うように出せない人はGoogleimeを導入するといいよ。
普通にWindowsデフォのIMEでも単漢字辞典onにしとけばいいしな
呂布を袁術がスルーした理由がよく分からん
曹操か劉表攻撃に使い倒してから追い出すパターンでもよかったはずだ
991 :
世界@名無史さん:2011/02/17(木) 06:21:55 0
あ、あれはサルだ
娘を渡さなかったとか、
袁術が提示した条件を満たさなかったからジャマイカ
南陽で略奪しまくったからじゃね。袁紹も呂布が調子乗って略奪しだしたから放逐したし、
呂布のせいで地元有力者の不興を買うのはゴメンだったんだろう。
994 :
世界@名無史さん:2011/02/17(木) 08:15:12 0
術だって南陽から略奪してるやん
一度合意した呂布の娘との結婚を、一方的に破棄されたからじゃないの
こいつは信用ならん、と
通常IMEやATOKでも、袁紹は袁世凱と紹興酒で字を出して学習させればなんとでもなるけどな。
Googleimeだとそんな面倒なことしなくても普通に変換候補に出てくるよ。
998 :
世界@名無史さん:2011/02/17(木) 17:40:11 0
呂布に贈るはずだった物資を袁術は送ることができなかったのは、
補給地と考えていた江東を任せていた部下が裏切ったからだよな。
さっそくインストしてみたぞ。
夏侯淵が一発で出るなw。
部首一覧とか手入力とかあるのかな?
変換
1001 :
1001:
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。