オスマン朝・オスマン帝国(04)

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1世界@名無史さん
■オスマン・トルコの歴史■
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/whis/1293690693/ ←仮板
オスマン朝・オスマン帝国(03)
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1234609506/
オスマン朝・オスマン帝国(02)
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1160847288/
オスマン朝
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1008047030/
2世界@名無史さん:2010/12/31(金) 01:30:03 0
>>1よ、ありがとう!!

オスマン史を知るのに良い文献を紹介しよう。

・永田雄三編『西アジア史U―イラン・トルコ』(新版世界各国史9) 山川出版社、2002年
・佐藤次高編『西アジア史T―アラブ』(新版世界各国史8) 山川出版社、2002年
・柴宜弘編『バルカン史』(新版世界各国史18) 山川出版社、1998年
・鈴木董『オスマン帝国―イスラム世界の「柔らかい専制」』 講談社、1992年
・鈴木董『オスマン帝国の解体―文化世界と国民国家』 筑摩書房、2000年
・鈴木董『オスマン帝国の権力とエリート』 東京大学出版会、1993年
・鈴木董『オスマン帝国とイスラム世界』 東京大学出版会、1997年
・鈴木董『イスラムの家からバベルの塔へ―オスマン帝国における諸民族の統合と共存』 リブロポート、1993年
・新井政美『トルコ近現代史―イスラム国家から国民国家へ』 みすず書房、2001年
・新井政美『オスマンvs.ヨーロッパ』(講談社選書メチエ) 講談社、2002年
・新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』 青土社、2009年
・永田雄三・羽田正『成熟のイスラーム社会』(世界の歴史15) 中央公論社、1998年
・永田雄三・加藤博『西アジア』(地域からの世界史8) 朝日新聞社、1993年
・林佳世子『オスマン帝国の時代』(世界史リブレット19) 山川出版社、1997年
・林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10) 講談社、2008年
・『イスラーム・環インド洋世界 16-18世紀』(岩波講座世界歴史14) 岩波書店、2000年
・『イスラーム世界とアフリカ 18世紀末―20世紀初』(岩波講座世界歴史21) 岩波書店、1998年
・歴史学研究会編『世界史史料2 南アジア・イスラーム世界・アフリカ : 18世紀まで』 岩波書店、2009年
・歴史学研究会編『世界史史料8 帝国主義と各地の抵抗T』 岩波書店、2009年
3世界@名無史さん:2010/12/31(金) 02:49:20 0
>>2
続き

・大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』 岩波書店、2002年
・日本イスラム協会編『新イスラム事典』 平凡社、2002年
・伊東孝之他監修『新訂増補 東欧を知る事典』 平凡社、2001年
・三浦徹・東長靖・黒木英充編
 『イスラーム研究ハンドブック』(講座イスラーム世界別巻) 栄光教育文化研究所、1995年
・小杉泰・林佳世子・東長靖編
 『イスラーム世界研究マニュアル』 名古屋大学出版会、2008年
・羽田正・三浦徹編『イスラム都市研究―歴史と展望』 東京大学出版会、1991年
4世界@名無史さん:2010/12/31(金) 08:28:21 O
日本の学会はオスマン過大評価
5世界@名無史さん:2010/12/31(金) 09:25:49 0
>>1
乙でございます

>>2
インドの奴隷王朝とか、もっともマイナーな分野にも目を向けてほしいな。
6オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 09:44:20 0
>>1乙です。

>>4
別にそんな事ないと思うけどなぁ。妥当な評価でしょ。

>>5
インドのデリー・スルタン朝は日本語文献が少ないね。
そういえばムガル帝国は建国にオスマン帝国が少しだけ、
関わってるね。と言っても、バーブルがインド征服のための、
武器(主に火器)をオスマン帝国から取り入れたというだけだけど。
7世界@名無史さん:2010/12/31(金) 10:26:15 O
スレイマン以後の糞っぷりは酷い
8オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 10:35:27 0
>>7
確かにスレイマン後のスルタンは暗君ばかりが続くけど、
官僚はソコルル・メフメト・パシャやキョプリュリュ家など、
優秀な人物がその後も出てるよ。それに、スルタンだって、
アフメト3世やマフムト2世など、スレイマン1世以後でも、
それなりに優秀なスルタンは結構いるよ。目立たないけど。
9世界@名無史さん:2010/12/31(金) 11:40:59 0
マフムト2世は啓蒙専制君主のオスマン版だったな。

イエニチェリの廃止、西欧化された新式軍隊の設置、大宰相府の分割、
大蔵卿(デフテルダル)を西欧式の大蔵大臣に変える、ヨーロッパ常駐の
大使館の復活、初等教育を義務化する試みなどを行っている。
10オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 11:48:23 0
>>9
近代オスマン帝国の国家体制はマフムト2世の時代から始まるからね。
この時にオスマン帝国は前近代的な体制から近代的な体制へと変わった。
まぁ、ギリシャ独立戦争やムハンマド・アリーとかの問題もあったけどね。
11世界@名無史さん:2010/12/31(金) 14:29:39 O
マフムトとピョートルの落差がひどいな
やはり日本じゃ過大評価だよ
12世界@名無史さん:2010/12/31(金) 14:33:14 O
>>7
やはりレパント以後は停滞明らかだよな
第二次ウィーンまでヨーロッパより強勢だったなんて言ってるのは世界で相手にされない日本学会だけ
13オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 14:37:03 0
>>11
ピョートル1世がチートなだけだと思う。彼の先見の明は凄まじかったからね。
ていうか、時代が違うからそう簡単には比べられないでしょ。マフムト2世の、
政策も全般的に成功してるし。特に、長い間できなかったイェニチェリの廃止を、
実現できたのは普通に優秀だった証でしょ。エジプト問題は微妙だったけど。
14オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 14:41:07 0
>>12
アラン・パーマーの「オスマン帝国衰亡史」でも第2次ウィーン包囲から、
始まってたし、普通に日本以外の国でもそういう認識でしょ。そもそも、
レパントの海戦は戦闘そのものは確かにオスマン帝国の負けだけど、
その後キプロスやチュニジアを奪えてるから、一概に負けとも言えないよ。
15世界@名無史さん:2010/12/31(金) 15:49:56 0
いやさすがに負けでしょ
16オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 16:06:05 0
>>15
だから、戦闘そのもの自体は確かに負けだけど、結果的に、
勝者のはずであるスペインもヴェネツィアも得するどころか、
むしろ損してるからね。そもそも、この戦争のきっかけは、
ヴェネツィアが、キプロスを奪われた事がきっかけだから、
そこだけみればヴェネツィアはオスマン帝国からキプロスを、
奪還できてないので手放しに勝ったと誉められるものでもない。
当時のヨーロッパ諸国は、まだ戦争での勝利を実質的な利益に、
することが出来なかったという事。正直、オスマン帝国にとっては、
せいぜい西地中海の制海権を失った事ぐらいしか損失はないよ。
それだって、オスマン帝国はソコルルの指導ですぐに艦隊を再建してるし、
スペインからチュニジアも奪いとってるから、地中海への影響力が完全に、
なくなってしまったという訳でもないし。キプロスも結局そのままだったしね。
17世界@名無史さん:2010/12/31(金) 17:03:01 0
>>西地中海の制海権を失った事ぐらいしか損失
いやだからこれじゃん
まぁそれ以前に地中海自体影響力低下してるけどね
18オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 17:08:44 0
>>17
まぁ、確かにこの事自体は損失だけど、そもそもオスマン帝国は、
西地中海進出にそんなに熱心でなかったし、そのすぐ後ろの文で、
完全に影響力を失ったわけではないとフォローしてるでしょ。それと、
レヴァント貿易は大航海時代以降もそれなりに利益をあげてたから、
地中海そのものの影響力も従来言われてる程には低下してないよ。
19世界@名無史さん:2010/12/31(金) 17:40:09 0
いや俺が言ってるのは損失大したことないから負けじゃないってのはおかしいってこと
だいたい一回の戦いで国が崩壊したり、領土が大幅に削減されることの方がマレ
長期戦争でオーストリアはハンガリー奪回に失敗したけど国力が大幅に減退してないし
スペインはプレヴェザ後も戦力維持(まぁプレヴェザの戦闘自体、一部が戦っただけでどっちもほとんど損害ないけど)
アルマダの敗北後も余裕で戦力で維持してる
だからといって敗北は覆らない
20オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 18:15:48 0
>>19
いや、まぁ確かに負けは負けだけど当初の目的である、
キプロスの奪還自体は果たせてないからなぁ。むしろ、
損失云々よりもそっちなんだけどね。向こうが勝ったと、
言えるか微妙という根拠は。まぁ、それでも戦闘そのものが、
負けならば負けなんだと言われればそれまでだけど。
21世界@名無史さん:2010/12/31(金) 19:10:11 0
贔屓目に見て、レパント以後はオーストリアと互角、スペインに対しては劣勢だな
イングランドはそのスペインと互角に戦ったし
そもそもレパントがオスマンにとって衝撃的大敗だったのに領土を奪われなかったのは
スペインが難敵イングランドと戦っていた性で、オスマンが強かったわけではない
やはりヨーロッパと比べて衰退傾向は明らかだよ
22世界@名無史さん:2010/12/31(金) 19:11:33 0
>>13
マフムト2世とムハンマドアリーを比べてみ?
まあ、国家元首としてマフムト2世とアレクサンドル2世を比べても、大差があるけどな
23オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 19:34:26 0
>>21
スペインはレパント以後オスマン帝国とはほとんど戦ってないから、
劣勢かどうかはそう簡単に判断できないと思うけどね。そもそも、
レパントの海戦の後、オスマン帝国は領土を奪われなかったどころか、
スペインから領土(チュニジア)を奪ってるんだけど。キョプリュリュとかも、
いるし、ヨーロッパに劣勢になったのは第2次ウィーン包囲からでしょ。

>>22
ムハンマド・アリーには戦争では押され気味だったけど、
政治家としては大差ないでしょ。むしろ、外交政策では、
マフムト2世のほうが成功してるし。(エジプト事件の結果)
アレクサンドル2世はあまり詳しく知らないから、マフムト2世と、
比べて具体的にどこら辺で大差あるのか詳しく教えてくれ。
24世界@名無史さん:2010/12/31(金) 19:42:09 0
もう優劣に関してはロシアVSオスマンスレでおなかいっぱい
25オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 19:51:26 0
>>24
あそこ今IFスレみたいな感じになってるけどね。それで、
アレクサンドル2世についてほんの軽く調べたけど、別にそんなに、
大差があるとは思えないなぁ。ロシアとオスマンという国単位での、
優劣比べなら分かるけど、個人としての力量にそんなに差が、
あるようには見えない。彼の改革も賛否両論が結構あるし。
26世界@名無史さん:2010/12/31(金) 20:11:08 0
>イングランドはそのスペインと互角に戦ったし

海の上では砲撃主体の戦法が先進的だったので互角以上に戦えたが
陸軍は・・・
27世界@名無史さん:2010/12/31(金) 20:49:24 0
年末にこんばんは。
趣味でオスマン朝について調べてたまたま辿り着きました。
2chで調べるなんて思いもしなかったのですが
このスレの前スレ(03)とても楽しく読ませて頂きました。特に前半部分。

しかし後半部分は酷かったですね。
ブローデルも知らない、噛みつきたがりが歴史学の話をしたいからでなく
延々自分の無知を認めたくないが故だけに噛みつき続ける滑稽な様は
痛々しいだけでなく前半の知に満ちたやりとりを木っ端微塵にしてしまっていて残念でした。
ああいうのは詭弁だと喝破してやれば終わったと思うのですが、まだ彼はいるのかな?
年末くらい大人しく反省してくれればいいのですが。

いえそんな話ではありませんでした。
役に立つ話をありがとうございました。皆様、良いお年を。
28オツガイ ◆EAbyJft1LY :2010/12/31(金) 22:19:23 0
>>27
ブローデルの「地中海」の新しいほうは、結構オスマン帝国に、
ついても詳しく載ってたね。基本的に、オスマン帝国スレは、
結構な良スレだったと思うけどね。後半部の争いってどんなのだっけ?
29世界@名無史さん:2010/12/31(金) 23:22:43 0
いろいろあったんだよw
アンガスの統計資料を電波扱い
ブローデルやウォーラステインもトンデモ学者発言
中世偏見スレにも出没してたし、ずっと前のアラブスレでもオスマンの火器技術はペルシャ起源とか言い出したり
その時は白人に都合のいい史料は全て白人による捏造とか主張してたな
とにかく熱狂的なアンチ西欧でいると荒れるんだよね

30オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/01(土) 00:01:44 0
>>29
あ〜、何かそんなのあったね。その時はまだROMってたからなぁ。
31世界@名無史さん:2011/01/01(土) 11:11:36 O
キョプリュフも過大評価だよ
三十年戦争で衰微したオーストリアに大敗なんで、キョプリュフ時代にどれだけ停滞してたんだよ
あと、マフムトを高評価してるが、ムハンマドアリーと比べると指導力の欠けた凡君だろ
32世界@名無史さん:2011/01/01(土) 11:34:23 O
>>31
キョプリュリュ家は、第2次ウィーン包囲で失敗するまでは、普通に優秀だったでしょ。
それと、ムハンマド・アリーは内政は確かに優秀だけど、外交ではマフムト2世に、
負けてたでしょ。エジプト事件の結果が、それを示してるよ。
33オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/01(土) 11:39:33 O
>>32は僕ね。名前書くの忘れちゃった。
34世界@名無史さん:2011/01/01(土) 15:05:21 0
>>32
エジプトがオスマン帝国から正式に、名実ともに独立するのは、第一次世界大戦の1914年だしな。
それまでエジプトはオスマン帝国の影響が及ぶ「特別州」であり続けた。
1938年にイギリス・オスマン通商条約が結ばれると、その影響はただちにエジプトにも及び、
ムハンマド・アリーの経済基盤に打撃を与えた。
林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(講談社、2008年)では、
「オスマン帝国がこの時期にイギリスと通商条約を結んだのは、
 戦争状態にあったエジプトへの打撃を期待してのことだったとみられる。
 オスマン帝国もヨーロッパ諸国に倣い、外交と経済政策を関連させる術を
 身につけつつあった。」(pp348-349)とある。
35オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/01(土) 15:16:34 O
>>34
ムハンマド・アリーも個人としては優秀な人物だったんだけどね。
結局、エジプトの近代政策化が中途半端に終わってしまったのは、
所詮オスマン帝国領で、独立国ではなかったせいでもあるね。
36世界@名無史さん:2011/01/01(土) 15:56:32 O
結局ムスリム全体が怠惰になったのがオスマンの衰退につながった要因だと思う

いくらタンズィマートを推進したって下の民が何をすべきか自覚してなきゃどうしようもない
37世界@名無史さん:2011/01/01(土) 16:05:12 0
レパントの海戦は、西欧ではオスマン帝国衰退のプロセスの出発点として
語られることが多いが、実際には海軍史において、ガレー船時代の終わりと
カリヨンを主力とする帆船時代の幕開けを告げるものだった。

レパントの勝利で西欧諸国がいちはやくカリヨンへとモデルチェンジを
はかったのに対し、オスマン帝国は17世紀中葉までガレー船にこだわりつづけた。
38世界@名無史さん:2011/01/01(土) 16:40:52 0
オツガイうぜー 
39オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/01(土) 17:14:24 O
>>37
スウェーデンやロシアでも、ガレー船は結構遅くまで使われてたね。
40世界@名無史さん:2011/01/02(日) 01:00:22 O
>>39
西欧諸国じゃない
41オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/02(日) 07:16:27 O
いや、それはそうだけど、単に他でも遅くまで使われてたねってだけの話だよ。
42世界@名無史さん:2011/01/02(日) 08:22:15 0
人には厳しく、自分にはクソ甘いオツガイであった。
43世界@名無史さん:2011/01/02(日) 10:36:44 0
>>32
イギリスの靴ナメがうまいのがなんでそんなに高評価なんだよ
完全に半植民地化が進んで、どうにもならなくなったじゃないか
直接対決で何度もムハンマドアリーに負けてるのは
マフムトの近代化が失敗したからだろ。
だからイギリスの犬にならざるを得なくなった。

キョプリュフはアウラングゼーブと似てるな
何度も戦闘で大敗しているのに領土拡張に固執したのは失敗だ
その後の急激な衰退を招いて、ナポレオン時に自国領の戦争なのに何もできなかったのも
プラッシーでなにも出来なかったムガルとかぶる
キョプリュフ時代にヨーロッパと決定的な差がついたといってもよい
過大評価はできんよ
44世界@名無史さん:2011/01/02(日) 11:13:35 0
確かに外政は失敗だね
ただ内政の混乱を回復したのは確かだし
混乱したままだったらもっとはやく西欧勢にやられただろう
45世界@名無史さん:2011/01/02(日) 15:52:20 0
>>29
>とにかく熱狂的なアンチ西欧でいると荒れるんだよね

「熱狂的なアンチ西欧」の奴なんて、2chじゃ珍しいと思うが。
むしろ、>>7>>11>>17>>19>>21>>22>>31>>36>>43のような
「熱狂的な西欧礼賛」の奴や、「西欧の文物こそ最高と位置づけ、それに近ければ偉い」
とする奴らが2chにおける圧倒的な多数派だ。

こいつらの「熱狂的な西欧礼賛」ぶりには、目に余るものがある。
46世界@名無史さん:2011/01/02(日) 16:30:08 0
おっ、いらしたか
47世界@名無史さん:2011/01/02(日) 16:32:26 0
ちなみに29書いた俺は44も書いたんだがなw
48オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/02(日) 17:37:19 0
>>43
イギリスの靴ナメと言うけど、近代オスマン帝国はそのおかげで、
生き延びれたんだしなぁ。既に弱体化しきってたオスマン帝国の、
延命に役立ったのは事実でしょ。実際、エジプト事件は明らかに、
エジプトのほうが損失大きかったからね。(オスマン帝国も損したけど)
まぁ、直接対決の結果を見ると、確かに軍事はムハンマド・アリーよりも、
劣ってたかも知れない。それでも、イェニチェリの廃止は凄いと思うけど。

それと、キョプリュリュは1人の人物じゃないからね。カラ・ムスタファ・パシャは、
確かにアウラングゼーブと似てるかも知れないけど、キョプリュリュ・アフメト・
パシャなんかは普通に優秀な政治家だったと思うよ。一口にキョプリュリュと、
言っても分けて考えるべきでしょ。僕も第2次ウィーン包囲でオスマン帝国の、
衰退が決定的になった事は認めてるんだし。まぁ、カラ・ムスタフア・パシャも、
別に無能だった訳ではないと思うけど。それと、何度も戦闘で大敗してるって、
言うけど第2次ウィーン包囲までのキョプリュリュ時代のオスマン帝国はそんなに、
大きな負けはなかったと思うよ。(まぁ、大勝もなかったけど)何の事を言ってるの?
49世界@名無史さん:2011/01/02(日) 18:07:12 0
オスマンがクソなのはオスマン自身の自己責任だろう西欧礼賛とか全く関係がない。
50世界@名無史さん:2011/01/02(日) 18:28:52 0
【イスラエル】イスラエル沖に巨大ガス田[2010/12/30]

イスラエル沖合の海底で巨大なガス田の存在が確認され、
その場所が、イスラエルとの海上の境界線が確定していない隣国レバノンに近いことから、
今後、資源を巡って両国の間で緊張が高まることが懸念されています。

巨大ガス田は、イスラエル北部のハイファからおよそ130キロ沖合にある、リバイアサン鉱区で確認されました。
このガス田を調査した、アメリカの石油採掘会社、ノーブル・エナジー社は、29日、天然ガスの推定埋蔵量は、
巨大ガス田と分類される基準の5倍近い16兆立方フィートにも上ると発表しました。

この会社の幹部は「このガス田の発見で、イスラエルは天然ガスの輸出国になる可能性がある」と述べ、
海底から天然ガスの採掘を進めていく考えを示しました。
ただ、このガス田は、イスラエルの隣国でありながら国交のないレバノンに近く、
両国の間では海上の境界線も確定していません。
レバノン政府は早くも、天然ガスの層はレバノンの領海に延びている可能性があるなどと反発しており、
巨大ガス田を巡って両国の緊張が高まることが懸念されています。

ソース NHKニュース 12月30日 9時0分
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20101230/k10013140381000.html



さあ、クソラエルがアラブ人大虐殺またするんだろうな。
51世界@名無史さん:2011/01/02(日) 18:32:19 0
http://markethack.net/archives/51671951.html

次にイスラエル政府の資源開発に関連する経験の浅さや貪欲さも露呈しています。

イスラエルは建国当初から「我が国は資源に乏しい」という先入観があったため、地下資源の採掘権に関する法律も1950年代に作られたいい加減な法律に依拠しています。

もとより自分で石油や天然ガスを探索するノウハウや余裕は無いわけですから外国企業にとって極めて有利な採掘権の賦与を規定していました。そうしなければ誰も鉱区に興味を示してくれないからです。

ノーブル・エナジーはそういうインセンティブがあったのでリスクを冒してイスラエル沖の油田開発に乗り出したのです。

これを見たメジャーの石油会社はノーブルを冷笑していました。

エクソンやシェブロンなどのメジャーな石油会社は既にサウジアラビアをはじめとするアラブ諸国と長年に渡ってビジネスをしてきたので、イスラエルで石油開発をするとアラブ諸国の機嫌を損ねるわけです。

これに対してノーブル・エナジーは米国国内、メキシコ湾、西アフリカなどを中心に展開している企業でアラブ世界とは縁がありません。だから既存客を怒らせるリスクが無かったのです。

しかしイスラエル沖で天然ガスが発見されて以来、イスラエル政府は採掘権や法人税に関する法律を改正しようと画策しています。
52世界@名無史さん:2011/01/02(日) 19:30:32 O
なんかスレイマン以後のオスマンはほんと学んでて吐き気がしたよ

膨大な犠牲に見合うだけの崇高さを何も作れなかった歴史と言うか
53オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/02(日) 19:47:24 0
>>52
何かあなたはさっきから変にオスマン帝国が嫌いみたいだけど、オスマン帝国は、
スレイマン1世後も第2次ウィーン包囲で大敗するまでは勢力を拡大してるし、
それ以降だっていくつかの戦いでは勝ち戦もある。(最盛期ほどじゃないけど)
完全に衰退しきってヨーロッパ諸国から重病人呼ばわれされる程になるのは、
ナポレオン戦争以降だよ。まぁ、それ以後の歴史だってそれはそれで個人的には、
学びがいがあるんだけど。オスマン帝国が過大評価されてるって事はないでしょ。
54世界@名無史さん:2011/01/02(日) 20:10:39 0
過大評価厨も過小評価厨もいらね
55世界@名無史さん:2011/01/02(日) 20:11:48 0
とはいうものの、日本人の国民性は中庸を好む。戦後のサヨク史観の悪影響だな。
ロシアやイギリスなんかは自国の歴史マンセーしかしてねえぞ。
56オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/02(日) 20:23:44 0
>>55
ナショナリズムの強い国だと、自然と歴史観もそうなるね。
僕が前に読んだトルコの歴史教科書は自国マンセーという、
程ではないけど、結構そういう傾向が強かった覚えがある。
と言っても、割りと古いのだったから今はどうか知らないけど。
57世界@名無史さん:2011/01/02(日) 20:32:13 0
オツガイも言及しているけど、トルコは中国の万里の長城まで自民族の建造物と教えているそうだ。
2chでみただけだから本当かどうかわからないが、得てして自国の歴史は誇大妄想かと思うぐらい
大仰に教えるのが世界の実態。

だからといって日本人が真似しようとは思わないが、日本人が好む中庸、中立、平等な視点というのは
日本人が大好きな世界の人々とやらはどこの国もほとんどやらないんだよね。

宗教でもなんでもそうだけど、その辺が結構世界と日本とのギャップ大。

日本人は一般に和の精神を尊び、妥協点を探るけど、他所の国ではそうじゃない日本以上にシビアな
領土問題や宗教観、民族問題、歴史問題がいろいろとカオスになっているから、強く主張して
一歩相手がひいたら一歩踏み込む交渉スタイルが普通。

だから日本人風の歴史観というのは全然世界の国々の主張と合わない。
で、合わないの当たり前。民族や立場の数だけ歴史観がバラバラなんだから。

オスマントルコで言うと、例の虐殺や寛容・非寛容などなどこのスレでも意見がわかれるようだが、
合わないの当たり前。当事者同士で別々のパラレルワールドいっているんだもん。

日本人以外は歴史学って自民族の主張の補完としかおもってない人がおおい。
だからトンデモがすごく多いし、嘘を見抜くというのが難しいし、嘘でも認めないんだよね。
58オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/02(日) 20:40:56 0
>>57
>日本人以外は歴史学って自民族の主張の補完としかおもってない人がおおい。
オスマン帝国からは少し話が逸れるけど、羽田正が前に、
アゼルバイジャンの学者がサファヴィー朝はトルコ人の、
王朝だとやたら強調してきて困ったみたいな事を書いてたなぁ。
歴史学とナショナリズムはなかなか切り離しにくいんだろうね。
特にオスマン帝国のあった地域はナショナリズムの強い国が多いし。
59世界@名無史さん:2011/01/02(日) 20:58:45 0
ヴァヒデッティン皇帝陛下万歳。
帝政派知識人アリ・ケマル万歳。
ムスタファ・ケマル・パシャは逆賊です。
60世界@名無史さん:2011/01/02(日) 21:02:05 O
>>53
ああ、正直に言って嫌いなんだよ
普通歴史を学んでるだけでどこかの国を嫌いになったりはしないけど後期のオスマン・トルコにはなぜか嫌いになってしまった

学び甲斐があることは否定しないし、むしろ自分にとってそういう特別な嫌悪感があるぶんよく学ぶべきだとは思ってるけど
軍事力の優劣とか世界史的な影響力とか以前に何かね…人間を粗雑に扱い過ぎというか

自分は狡猾な政略の手段とかに感心してワクワクするほうなんだけど
オスマンの権力争いを学んでても何かそういう悦びが湧いてこないんだよな…
ひたすらうんざりする
61オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/02(日) 21:10:01 0
>>60
まぁ、あなたが個人的にオスマン帝国が嫌いなのは勝手だけど、
だから「日本では過大評価だ」と言うのはおかしいでしょ。主観的な、
感情と、実際の優劣や評価は分けて考えるべきだと思うけど。まぁ、
これ以上はオスマン帝国と関係なくなるからあまり深く言わないけど。
個人的には、権力争いは古今東西学んでて面白いんだけどね。
62世界@名無史さん:2011/01/02(日) 21:47:44 0
>>52>>60
こんなこと書いたらまた荒れるだろうけど、漏れは現在のアラブ諸国も
好きになれないんだよなあ。

建設的な要素がほとんどないから。
63世界@名無史さん:2011/01/02(日) 23:07:50 O
>>61
あーえーと誤解させて悪いがそれは別人
日本の学会と世界の研究を比較できるほどには精通してないな
64世界@名無史さん:2011/01/02(日) 23:45:36 0
>>12
>世界で相手にされない日本学会だけ

今では、英語、トルコ語などで論文を書いて世界的に評価されている
日本人のオスマン史研究者はけっこういるぞ。
65世界@名無史さん:2011/01/03(月) 01:41:14 0
被引用数のデータ見れば一目瞭然じゃないの?
66オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/03(月) 07:40:55 0
>>62
あ〜、そうなの。勘違いしてたよ、ごめん。まぁ、僕も、
日本のオスマン史研究家が海外でどれくらいの評価を、
受けてるのかは良く知らないんだけどね。
67オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/03(月) 07:43:39 0
>>66
悪い。アンカミス。>>62じゃなくて>>63だ。
68世界@名無史さん:2011/01/03(月) 23:39:05 0
>>8
スレイマン1世以後にも、アフメト3世、セリム3世、マフムト2世、
アブデュルハミト2世のような有能なスルタンはいるし、
官僚機構の発展によって、優れた官僚が出たことを忘れてはいかんだろう。

著名な思想家のナームク・ケマル、画家で考古学者のオスマン・ハムディ・ベイ
のような文化人のほとんどが官僚層に属していたしな。
69世界@名無史さん:2011/01/04(火) 01:01:25 0
>>37
オスマンだけじゃなくてヴェネツィアもガレー軍船に拘ったし、地中海じゃガレー船
のほうが有用だったからなんだけどな。フランスも結構後々までガレー船は活用してる。

第一、レパントの海戦でも西欧の主力はガレー船だ。ガレオン船の過渡期みたいなガ
レー船と帆船の折衷型で火力重視のガレアス(ガレアッツァ)は数隻しか参加していな
いし、砲門数も大分少ない。
カリヨンって、ガレオンの間違いか他国語だと思うんだが、ガレオンのような大型帆
船と言えるものは、補給艦で戦闘に直接関わってないはずだが。

ガレオンから戦列艦のような砲撃が基本の戦術スタイルに西欧が移行していくのは、
アルマダの海戦以降のはずで、オスマンとの関連低いんだが。
70オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/04(火) 08:13:11 0
>>68
>官僚機構の発展によって、優れた官僚が出たことを忘れてはいかんだろう。
スレイマン1世以後、しばらくの間は無能なスルタンばかりが一時期続いてたのに、
帝国が勢力を落とす事がなかったのはスレイマン1世の時代に優れた官僚機構が、
すでに出来上がってたため、スルタンが無能でも官僚たちがカバーできたからだしね。
71世界@名無史さん:2011/01/04(火) 08:30:20 0
制度さえしっかりしていれば、むしろ君主が無能な方が国は上手く回るのかもしれん
72世界@名無史さん:2011/01/04(火) 10:45:32 0
官僚機構が発展した弊害もあると思うけどね
現代経営学では大企業病というのがあって
企業の規模が拡大すると官僚化が進み組織が硬直化、保守化して創造性が失われる
さらにセクション化が進みそれぞれの部門で派閥争いがおこる、
規模が拡大するとそういった現象がおきやすくなるという
実際オスマン後期に近代化を進めようとしても抵抗勢力が多くてなかなかうまくいかなかったり
軍事技術の改革もイニチェリの反対にあったり、そこら辺にも関連があるのでは個人的に思う
16世紀前半までの隆盛期は官僚化はあまり進んでなかったし、かなり柔軟に動けたよね
ただ官僚化が進むと組織が安定するメリットはあるし、一長一短だけどね
73世界@名無史さん:2011/01/04(火) 11:11:44 0
ちなみに現代企業ではセクション化を解消するために
水平ネットワーク作ったり部門横断の事業を行ったりしてる
日本の行政も縦割り行政って批判されてたよね
横のつながりがない、だからダブった無駄な事業をおこなったりしたりする
74オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/04(火) 16:58:10 0
>>72
まぁ、確かにそういう面はあるね。官僚機構の発達は、
逆にスルタンが自由に動きにくいという欠点もあるからね。
特にイェニチェリの肥大化は後期オスマン帝国にとっては、
改革の上での障害以外の何ものでもなかったしね。
75世界@名無史さん:2011/01/04(火) 22:38:13 0
>>74
中央集権化を目指したタンズィマート期には、官僚の数が増加している。
この傾向はアブデュルハミト2世期にも続くが、官僚の養成のために
新式の学校が帝国じゅうに普及するというメリットもあった。
76オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/05(水) 05:53:19 0
>>75
まぁ、アーヤーンみたいな地方有力者が台頭するよりは、
官僚を増やしたほうが、中央集権化は進むからね。
77世界@名無史さん:2011/01/06(木) 10:48:14 0
http://www.geocities.jp/whis_shosin/bizan.html

まあ、みんな時々はこれを見ようや。世界史上最もインパクトのある1日。
この興奮がオスマン帝国の原点だろう。
78世界@名無史さん:2011/01/06(木) 22:06:42 0
正統カリフ時代からの悲願だからなあ
いまだにイスラム圏だというのもスゴイ話だわ
79世界@名無史さん:2011/01/07(金) 17:16:19 0
でもエルサレムはイスラム教徒の宿敵ユダヤ人が簒奪したままだけどね。 イスラム教徒らはぐぬぬと行っていると思う。
80オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 08:13:07 0
>>79
ユダヤ人がイスラム教徒の宿敵になったのはここ最近の話で、
歴史的にはオスマン帝国はむしろ親ユダヤと言っても良いと思う。
現在のトルコ共和国もイスラエルとは仲良いし、現在の状況が、
決して、昔からずっと不変のものだったという訳でもないからね。
81世界@名無史さん:2011/01/08(土) 08:55:32 0
最近といってもユダヤ人の移民自体はドレフュス事件頃からだからかれこれ1世紀以上の歴史はあるだろ。
通貨、ムハンマド自体もユダヤ人を攻撃しているだろ。

↓wikiより

また、627年5月には同じくムハンマドの暗殺やイスラームへ改宗したマディーナのアラブ人の謀殺を行うなど、対
立が続いていたユダヤ教徒のナディール族とも戦闘になり、その集落を包囲陥落し彼らも追放となった。627年3月、
ムハンマドはハンダクの戦いでマッカ軍の総攻撃を撃退し勝利した。その後ハンダクの戦いで敵対的中立を保っていた
ユダヤ教徒のクライザ族を討伐するためサアド・ブン・ムアーズ・アル=アウシーに軍の全権を委ねて派遣した。
624年5月1日に、15日間の包囲攻撃のすえクライザ族は全面降伏したが、サアドは成人男性全員を処刑し、
女性や子供は捕虜として全員奴隷身分に下し、その財産は全て没収してムスリムへ分配するという厳しい処断を行った。
この時虐殺された戦士層の人数は1000人にのぼったと伝えられる。ムハンマドは「まさしく汝は神(アッラー)と神の使徒
(ムハンマド自身)の意に適う判決を行った」とこのきわめて残虐な非人道的行為を全面的に支持したという[8]。
続くハイバル遠征でナディール族が全面降伏した結果、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーの各ユダヤ教徒系の
アラブ諸部族は相次いでムハンマドに服従する事になった[9]。

82オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 09:08:52 0
>>81
ドレフュス事件の頃はまだパレスチナ問題は本格化してないし、
そんなに移民が多いとは思えないけどね。問題の本格化は、
世界大戦後くらいからじゃないの?後、クライザ族の虐殺など、
ムスリムとユダヤ人が常に仲良かった訳でもない事くらいは、
僕だって知ってる。ただ、パレスチナ問題なんかで良く聞かれる、
「ユダヤ人とイスラム教徒は長い間対立し続けてきた宿敵なんだ」、
みたいな論調は明らかに誤りだからね。常に敵対し続けてきた訳ではないし。
83世界@名無史さん:2011/01/08(土) 09:17:36 0
イギリスの2枚舌外交が対立の顕在化となってはいるけれども、ユダヤ人の侵入自体は以前から軋轢あったよ。
ただ当時パレスチナという地域はアラブ人自体も結構人住んでない
ではどうして軋轢がおこるかというとアラブ人自体も移民してきたの大勢いたからな。
コロンブスの卵じゃないが、現地民からユダヤ人が土地を買い取り、沼沢地を灌漑し、開梱したら水はけがよくなり、
存外に良い土地になってきたそこに地元のアラブ人人口も増える。ユダヤ人移民者も増える。
そのマッチポンプだわな。

>「ユダヤ人とイスラム教徒は長い間対立し続けてきた宿敵なんだ」、
おれはそんなことはいってない。対立自体はムハンマドの時代にもあったと言及しているだけ。

ただ、対立が激化するにつれて当事者同士が「そういう風に喧伝し、刷り込まれている」ということはありえるだろう。
ハマスやユダヤ人のコンサバティブな連中はガチでそう信じているの多いだろうしな。
84オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 09:27:24 0
>>83
>おれはそんなことはいってない。対立自体はムハンマドの時代にもあったと言及しているだけ。
いや、あなた(>>81>>83)じゃなくて>>79のレスが、そのように読めるから、
僕は>>80でそれに対して反論しただけなんだけどね。後、ユダヤ移民との、
軋轢は確かに前からあったかも知れないけど、その時はまだ現在ほどには、
問題が深刻化してなかったと思うけどね。良くある移民との軋轢って感じかな?
85世界@名無史さん:2011/01/08(土) 09:41:31 0
ぐぬぬとかいってるのニュー速民だろうからスルーしておけ。
86世界@名無史さん:2011/01/08(土) 13:44:41 0
レコンキスタでイベリア半島から追放されたユダヤ教徒を受け入れたのは
モロッコでありオスマン帝国だったからな
モロッコにはいまだにユダヤ人の集落がありムスリムと共存している

トルコがイスラエルと同盟関係なのも全然おかしな話じゃないよ

中東イスラーム圏のユダヤ教徒はそれを知っているだろうけど
欧州やロシアからの移民してきたユダヤ教徒はそういうこと知らないんじゃないかな
87オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 14:18:59 0
>>86
現在のトルコがイスラエルと仲良い理由の1つとしてアラブ反乱などのせいで、
アラブ民族主義者に対して共感しにくいからというのがあるけどどうなんだろう?
88世界@名無史さん:2011/01/08(土) 14:26:11 0
>>87
まあその通りでしょうね
まあ今のアラブ諸国と同盟してもなんのメリットもないからねw
89オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 14:42:23 0
>>88
革命後ずっと西側陣営に属してきたトルコにとって、
アラブ諸国と同盟する意味は確かにないからね。
まぁ、最近はそれなりに交流を深めてるみたいだけど。
90世界@名無史さん:2011/01/08(土) 14:45:38 0
オイルマネーで湾岸諸国が金持ちになってきたし
イスラム圏は多産で人口増加傾向で市場が大きくなっているからねえ

信仰とかそんなもんじゃなくて結局は利益でうごくんですわな
91オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 14:57:02 0
>>90
まぁ、それは程度の差こそあれ古今東西どこも変わらないけどね。
92世界@名無史さん:2011/01/08(土) 15:48:04 0
>>84
なに言ってんだ?
第4次中東戦争以降もパレスチナに国軍を送り込んで
アラブ人の住居を強制撤去して立ち退かせてるの知らんのか?
1976年の時点と比べても、アラブ人居住地の面積は70%も減少してんだけど
93オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 15:56:50 0
>>92
第4次中東戦争以降ってドレフュス事件の頃と全然違うじゃん。
その時の移民じゃまだ問題は今ほど深刻化してなかったでしょ。
94世界@名無史さん:2011/01/08(土) 15:56:51 0
最初はユダヤ人がテロやってたんだよな
今はそれがイスラエル国軍になっちゃったけど
95世界@名無史さん:2011/01/08(土) 15:57:55 0
エツェル
ハガナー
しらべろよ
96オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/08(土) 16:05:16 0
>>95
どっちもドレフュス事件よりも創設年は後じゃん。
何を言いたいのかさっぱり分からないんだけど。
97世界@名無史さん:2011/01/09(日) 16:03:07 0
カラ・ムスタファ哀れなり
98オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/09(日) 17:00:17 0
>>97
彼の最期はわりと悲惨だね。まぁ、自業自得と言えなくもないけど。
でも、もし第2次ウィーン包囲の失敗後すぐに彼を殺さずに生かしてたら、
その後の大トルコ戦争によるヨーロッパへの大幅な領土割譲をしないで、
済んだかも知れない。まぁ、あくまでIFによる推測にすぎないんだけど。
99世界@名無史さん:2011/01/09(日) 18:57:48 0
功を焦り過ぎた嫌いはあるけど、
決して暗愚の将軍ではない。
100オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/09(日) 19:04:47 0
>>99
うん、僕もそう思う。彼がもしあの後も生きてたら第2次ウィーン包囲における、
損害も最小限に留められたかも知れない。もしかしたらカルロヴィッツ条約も、
存在しなかったかもね。まぁ、所詮はIFだから何とでも言えるんだけど。
101世界@名無史さん:2011/01/09(日) 19:09:46 0
>>100
ただ歴史的には、この時期のオスマン帝国は衰退期に入っているから、
ムスタファでも挽回は不可能だったろう。
オーストリーにはオイゲンのような名将もいたし。
むしろ1529年の時にあっさり撤退した方が後世悔いが残るところだ。
あの当時はいつでも落とせるという自信があったのだろうが。
102オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/09(日) 19:18:41 0
>>101
いや、むしろ歴史的にこの時期のオスマン帝国はキョプリュリュ時代で、
むしろ再興期だったよ。当時のオスマン帝国は最大領土を獲得してたし。
挽回は不可能でも、大幅な領土割譲には至らなかったかも知れないね。
1529年の第1次ウィーン包囲が成功したらというIFはそれ以上に後世に、
影響を与えただろうけど、個人的には大きすぎるから予想しにくいなぁ。
103オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/09(日) 19:22:05 0
>>102
最初の一文で「むしろ」を2度言ってしまってたorz
104世界@名無史さん:2011/01/09(日) 19:29:31 0
>>102
トルコ側は再興期でも、欧州は近世から近代に入る時期だからね。
欧州を攻めるのなら17世紀前半までが良かったと思うよ。
「後悔先に立たず」だがね。
105世界@名無史さん:2011/01/09(日) 19:31:42 0
>>104
近代は18世紀前半以降20世紀前半まで
106世界@名無史さん:2011/01/09(日) 19:36:29 0
>>105
最初はそう考えたが、
イギリスではピューリタン革命・名誉革命が起こっている。
近代への橋渡しの時期と考えて良いと思うが。
107オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/09(日) 19:38:04 0
>>104
まぁ、確かにカラ・ムスタファ・パシャは下手に領土的野心の下で、
領土拡張するよりは、それ以前のキョプリュリュ家みたいに内政に、
力を入れたほうがよかったかも知れないね。もうヨーロッパを攻めても、
以前ほどの成功は見込めないだろうし。功名心にはやりすぎたね。
108世界@名無史さん:2011/01/09(日) 19:39:45 0
>>106
ただの内紛だろ、意味が分からん
109世界@名無史さん:2011/01/09(日) 19:43:16 0
16世紀後半から17世紀前半も欧州とやりまくってるけどな
地味で結果のでない戦役ばっかだけど
110オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/09(日) 19:47:40 0
>>109
その時代はもろにキョプリュリュ時代だしね。キョプリュリュ家の、
功績は基本的に内政面のほうが大きいけど、外交面での功績も、
いくつか見られる。先述したけど最大領土を迎えたのもこの時だし。
111世界@名無史さん:2011/01/10(月) 07:22:07 0
さて、それでは今日の謎の答えに入ってゆきましょう。カラ・ムスタファがウィーンをなかなか攻め落とさなかったワケは、どうやら上に述べた戦利品争奪戦と関係があったようです。
当時のオスマントルコの規則によると、敵地を力づくで破って勝ったときは、
戦闘に参加した兵士たちが3日間もそこで略奪をし放題となっていました。しかし、もし相手が占領される前に町の明渡しを申し出てきたときは、

最高司令官がその町にあるお宝をどうするか決められたんだそうですよ。

帝都ウィーンともなれば、そこにある金銀財宝は計り知れません。そして、その財宝をカラ・ムスタファが自軍の兵士たちに邪魔されずごっそりいただこうと思えば、
ウィーンにはどうしても「玉砕」じゃなく「降伏」をしてもらわなくてはならなりませんでした。

http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/erz-113.htm
112世界@名無史さん:2011/01/10(月) 08:16:18 0
まあ、1529年も1683年も小氷期だから、
現在よりは寒いというのは理解出来る。
113オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/10(月) 11:33:54 0
>>111
つまり、このサイトによれば、カラ・ムスタファ・パシャは戦利品という、
目先の利益にとらわれすぎたため第2次ウィーン包囲は失敗したのか。
まぁ、確かに彼は少し野心に走りすぎた面があるのは否めないなぁ。
114世界@名無史さん:2011/01/10(月) 12:38:23 0
メフメト4世がいちばん無能だと思うわ
あの状況で指揮官殺したら混乱するのは眼に見えている
115世界@名無史さん:2011/01/10(月) 12:42:49 0
>>75-76
>まぁ、アーヤーンみたいな地方有力者が台頭するよりは、
>官僚を増やしたほうが、中央集権化は進むからね。

アーヤーンの側も、中央政府にかなわないと見るや、
子弟をイスタンブルの官立学校に入学させて、
オスマン官僚となる道を歩ませている。
それによって、アーヤーンは自己の地位を保全しようとした。

Olivier Bouque, "All the Sultan's Pashas: Ottoman civil officials and the Imperial State(1839-1909)"
  『International Journal of Turkish Studies』vol.14, 2008
永田雄三「オスマン帝国における近代教育の導入:文官養成校(ミュルキエ)の教師と学生たちの動向を中心に」
  『駿台史学』111号、2001年
116オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/10(月) 12:45:06 0
>>114
まぁ、当時のメフメト4世はほとんど政治にノータッチだったからね。
カラ・ムスタファの処刑だって、彼自身の意向っていう訳でもないし。
それはそれで、無能なスルタンだって言われても仕方ないけどね。
117オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/10(月) 12:56:31 0
>>115
マフムト2世の時にアーヤーンのほとんどを簡単に中央の統制下に置けたのも、
結局はアーヤーンの権力基盤が基本的には中央政府の官職(&徴税請負権)に、
よるものだったからだしね。だから、彼も容易に中央集権化を行なうことが出来た。
118世界@名無史さん:2011/01/10(月) 14:56:07 0
>>111
なんか言い訳がましいな、その説が正しいなら
今までほぼ全ての占領地を司令官は降服狙いで戦ってたきたはず
それなのになぜウィーンは落とせなかったかということになって結局疑問は残るだろ
第二次包囲の頃のウィーンは第一次の頃と比較してはるかに堅固に要塞化されててそんな簡単にぬけるわけない
直前の60年代、70年代のオーストリア、ポーランド、ロシアとの一連の戦闘でも勝ててない状況で
オスマンの軍事的優位性がほとんどなくなり、装備も旧式な状態なのに無理な遠征したムスタファがアホなだけ
119世界@名無史さん:2011/01/10(月) 15:31:35 0
軍事的優位はかなり失われてたけど、兵装の更新は当然してるだろ。
120オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/10(月) 15:36:23 0
>>119
オスマン帝国はオーストリアとの長期戦争の時に、
今までの旧式の軍備を、変えようとしてたしね。
121 ◆axCVsGomao :2011/01/10(月) 16:35:02 0
スーダン南部に資源あったら独立したとしても
紛争つづくんじゃないの
122世界@名無史さん:2011/01/10(月) 18:19:46 0
>>121
誤爆?
123 ◆axCVsGomao :2011/01/10(月) 19:08:19 0
>>122
誤爆。
124世界@名無史さん:2011/01/11(火) 10:42:24 0
オスマン人はオスマン1世の子孫でなければならない。
125世界@名無史さん:2011/01/11(火) 12:00:43 0
>>124
なんで?
126世界@名無史さん:2011/01/12(水) 18:17:00 0
age
127世界@名無史さん:2011/01/15(土) 18:13:55 0
age
128世界@名無史さん:2011/01/15(土) 19:28:17 0
最近、過疎っているな。

スレの話題、質を保つためにも、
和文や欧文で書かれた専門家のまともな研究文献に基いて議論をするようにしないと。
大学、研究機関に所属している方には、
オスマン史に関する和文・欧文の文献を頑張って紹介してもらいたい。
このスレでの議論に参加する人には、>>2-3で紹介されている文献を
いくつか読んで基礎知識を身につけてもらいたい。
129世界@名無史さん:2011/01/15(土) 19:40:11 0
オスマン好きは多くないし、西欧厨もビビッて近付かない
ギリシャ厨は複雑な心境、まあ過疎るわな
130オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/15(土) 19:58:14 0
>>129
僕はオスマン厨でなおかつギリシャ(というかビザンツ)、
好きだったりするけどこういうタイプは少ないのかな?
131世界@名無史さん:2011/01/16(日) 22:12:47 0
1727年にボンヌヴァルというフランスの軍人がトルコに亡命して
イスラムに改宗して死ぬまで20年間トルコで過ごしてオスマン・トルコ
の砲兵隊の近代化に尽力してそのおかげでオスマン・トルコ軍は一時かなり
強化されて、幾つかの局地的勝利を得て、ベオグラードを奪還したりしている。
132世界@名無史さん:2011/01/16(日) 22:18:02 0
ポーランドは1621年に2倍以上のトルコ兵を打ち破る程
かなりの強力な陸軍をもってた
133世界@名無史さん:2011/01/16(日) 22:27:05 0
またポーランドキチか
134オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/16(日) 22:28:03 0
>>131
1727年というと西欧かぶれの傾向が強かったアフメト3世の時代だしね。
この頃からオスマン帝国が後に行なう事になる西欧化が萌芽していた。

>>132
この頃のポーランドはかなりの強国だったからね。後の、
第2次ウィーン包囲でもポーランドの活躍は大きかったし。
135世界@名無史さん:2011/01/18(火) 14:41:28 0
単なる歴史好きの一般人が論文よむにはどうすればいいのか?
とりあえず金がないのでネットでなんかねえの
136世界@名無史さん:2011/01/18(火) 15:08:20 P
学生なら結構無料で見れたようなCiniiで
137オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/18(火) 16:42:00 0
>>135
ネットで公開してるのもあるし、大きめの図書館とかだと置いてあったりするよ。
138世界@名無史さん:2011/01/18(火) 16:56:52 0
Ciniiって一般人がみようとしたらどうすればいいの ここで質問すべきではないかもしれないが、
一般人だと論文読もうにも手段がないしな 1万以上かかるなら諦めるわ。
趣味でやっていて研究とかではないんで。
139オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/18(火) 17:24:12 0
>>138
スレチだからsageるけど普通に金払えば読めたと思うよ。無料なのも結構あるし。
140世界@名無史さん:2011/01/22(土) 21:18:47 0
オスマン・トルコに代表されるイスラム帝国の偉大さは世界地図を見れば明らか
統治地域のほとんどが現在砂漠になってるから、アフリカなんかきれいに北側だけが砂漠地帯w
141 ◆axCVsGomao :2011/01/23(日) 07:50:58 0
オスマンが征服した当時のカイロは穀倉地帯でもあるし
交易の重要拠点でもあった
142世界@名無史さん:2011/01/23(日) 08:13:06 0
今でもカイロは穀倉地帯で交易の重要拠点だろw
143オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/01/23(日) 08:15:56 0
>>140
オスマン帝国領の北アフリカは領有してたの北のほうの地中海沿岸だけでしょ。
それより南は砂漠地帯だから持っててもあまり意味ないし。アラビア半島も同じ。
それにオスマン帝国の中心はアナトリアとバルカン半島だから砂漠地帯じゃない。
エジプトも>>141の言うようにナイル河畔は豊な穀倉地域だし砂漠だらけではないよ。
144世界@名無史さん:2011/02/06(日) 18:41:05 0
>>143
【世界史板】オツガイ◆EAbyJft1LY
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/tubo/1296106237/
145世界@名無史さん:2011/02/06(日) 21:13:12 0
知識の無い低質がぐぬぬのあまり個人攻撃スレ立てちゃったのかw
146世界@名無史さん:2011/02/07(月) 00:13:22 0
スペインやポルトガルが、中南米やインドに進出しようとしていたころ、
なぜオスマンは真似て同じことをしなかったのですか。
地中海から大西洋に出られたし、インドは地続きだしペルシャ湾から出れば
航路も短く圧倒的に有利だったと思うのですが。
147オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/07(月) 06:15:26 0
>>146
単純に興味がなかったからじゃないの?すでに地中海の制海権を握ってたから、
新たな交易ルートを開拓する必要性がなかったんだと思う。まぁ、オスマン帝国だって、
紅海にやってきたポルトガルを追い払うぐらいのことはしてるんだけど。
148 ◆axCVsGomao :2011/02/07(月) 06:45:36 0
オスマンは東西交易でウハウハだし
地中海交易の要所もおさえてるから大西洋進出する必要が全く無かった
149 ◆axCVsGomao :2011/02/07(月) 06:51:58 0
イベリア半島の後ウマイヤ朝が存続していたら
新大陸発見したのはイスラム勢力だったかもしれん

グラナダ陥落は象徴的な出来事だった
150世界@名無史さん:2011/02/07(月) 14:05:44 0
大西洋進出なんて当時じゃほとんどバクチだからな
151世界@名無史さん:2011/02/07(月) 14:19:34 0
>>148
グラナダ陥落は新大陸発見の年じゃなかったっけ
その後でも別にモロッコなら大西洋進出も地理的に可能だし
グラナダ陥落の半世紀前にはポルトガルが既にアゾレス諸島に到達してた
イスラム勢力がイベリアに存続したとしても
少なくとも16世紀には大西洋に進出するシナリオは難しいな
152世界@名無史さん:2011/02/07(月) 14:36:52 0
イスラムには大航海時代みたいな冒険フィーバーがなかったからな
イスラムのネットワークにしても基本的に商人が既存の交易路をつなげて拡大しましたって感じだし
153オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/07(月) 16:48:57 0
>>152
イスラムにとっては初期の大征服が大航海時代みたいな冒険フィーバーだったのかも。
田舎者のアラブ人があれだけの先進地域を短期間で征服できたのだから。16世紀の、
オスマン帝国などが出来たころはそこまでの冒険をしなくても地中海で事足りたからね。
154世界@名無史さん:2011/02/07(月) 16:51:30 0
オスマンの中心から大西洋とインド洋は遠いってのもあるな
155オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/07(月) 16:59:41 0
>>154
それもあるね。イスタンブルから大西洋やインド洋に行くのは遠すぎる。
同じイスラーム圏でもオマーンなんかはかなりインド洋に進出してた訳だし。
156世界@名無史さん:2011/02/07(月) 17:02:51 O
大航海時代、オスマン帝国は新大陸の存在を認識してたのか?
157オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/07(月) 17:11:53 0
>>156
さすがに新大陸があったことくらいは分かってたと思うけど。
スペインなどの西欧諸国との交流は普通にあった訳だし。
158 ◆axCVsGomao :2011/02/07(月) 20:37:51 0
東南アジアとインドまでの交易を独占していたわけで
わざわざ大西洋に進出する必要性がないし
喜望峰周りの海路で行く必要もないわけで
159世界@名無史さん:2011/02/07(月) 20:41:23 0
>>156
セリム1世時代の海軍提督、ピーリー・レイスの地図には新大陸がちゃんとあるぜ
160オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/07(月) 20:49:23 0
>>159
あぁ、そういえばピーリー・レイスの地図があったね。忘れてたよ。
確か、現存するアメリカ大陸の載ってる最古の地図なんだっけ?
161世界@名無史さん:2011/02/07(月) 21:03:41 0
>>158
けどモロッコは言い訳できんな
162オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/07(月) 21:10:40 0
>>161
サアド朝モロッコはあれはあれでソンガイ帝国を征服したことによりサハラ交易で、
潤ったから良いんじゃないかな?ていうか、ポルトガルやスペインやオスマンに、
周りを囲まれた状態の当時のモロッコに外洋に出ろというほうが無茶な気もする。
163世界@名無史さん:2011/02/07(月) 21:45:06 0
>>161
モロッコは乾燥地域で、スペインやポルトガルみたいに森林資源豊富じゃないんですよ
164世界@名無史さん:2011/02/07(月) 21:57:08 0
スペインは荒地だらけだけどな
165世界@名無史さん:2011/02/07(月) 22:02:24 0
>>164
スペインで荒地だらけになるならモロッコは全土が人の住めない砂地だよ
166世界@名無史さん:2011/02/07(月) 22:04:48 0
ていうかスペインもポルトガルも乾燥地域
それに森林資源が豊富じゃないアルジェにも大艦隊はあったよ
どうしても足りないなら西アフリカ産の金で船を購入すればいいだけ
>>165
なにげにモロッコバカにしてね
167世界@名無史さん:2011/02/07(月) 22:53:40 0
スペインとポルトガルが乾燥地域ならモロッコは水分が一切存在しない神秘の土地だろ
実際は全土で降水の乏しいモロッコと違ってモンターニャやバルセロナの森林資源豊かな都市で船舶建造してるし
アルジェの艦隊は現地建造じゃなくオスマン本土からの回送でしょ
168世界@名無史さん:2011/02/08(火) 00:27:50 0
オスマンはアルジェにもともといた海賊を艦船や人員まるごと配下にしただけ
モロッコはポルトガルとは敵対、スペインとは友好、オスマンとはやや距離おいた外交だからね
スペインかオスマンや造船業が盛んなネーデルラントから船を購入することが可能だよ
当時の商業・産業は国際化が進んでたから自分で作らなくてもよそで買えば済む
アルジェの海賊もどうせヨーロッパで船供給してたんじゃないか


169世界@名無史さん:2011/02/08(火) 01:09:20 0
バルバロッサは何度かスレイマンから艦船供給されてるよ
170世界@名無史さん:2011/02/08(火) 01:28:31 0
けど少なくとも初期の頃はオスマンからの供給がなくても艦船を保有していたことは確かだよ
171世界@名無史さん:2011/02/08(火) 01:30:35 0
それに外洋に出るのにそんな大艦隊なんていらんし
172オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/08(火) 06:24:00 0
>>169
彼は海賊出身とは言えオスマン海軍の提督になってるんだから例外じゃないか。
オスマン帝国が征服する前(ザイヤーン朝)からアルジェには海賊がいた訳だし。
173 ◆axCVsGomao :2011/02/08(火) 08:00:48 0
モロッコはブラックアフリカと交易していたから
大西洋に進出する意味があまりないから
174 ◆axCVsGomao :2011/02/08(火) 08:01:34 0
初期イスラム帝国ならば勢いで大西洋まで行ったかもしれんけど
175 ◆axCVsGomao :2011/02/08(火) 08:04:40 0
ブラックアフリカ インド 中国 東南アジアと交易路をすべて
イスラムが抑えていたわけですよ

ブラックアフリカは南下しても蛮族の地だからわざわざ植民しようと思わんかっただろうし
インドや中国は豊かな国なんだから交易は東を目指すだろう
わざわざ大西洋いくメリットが全く無い
176世界@名無史さん:2011/02/08(火) 09:23:43 0
>>163 >165
話そらしてみっともないなコイツw
177世界@名無史さん:2011/02/08(火) 12:01:46 0
はぁ?ポルトガもブラック・アフリカに植民なんかしていないよ
交易拠点作ってるだけじゃん
しかもそれで結果的に莫大な利益上げてるわけだし
イスラム信者のイスラム擁護がひどすぎw
>>ブラックアフリカ インド 中国 東南アジアと交易路をすべて
>>イスラムが抑えていたわけですよ
これも言いすぎもっと拡大する余地があった
じゃなきゃ西欧勢がアフリカやアジアに進出はしない
178世界@名無史さん:2011/02/08(火) 12:23:58 0
実際モロッコは大航海時代以前の中世にカナリア諸島やマデイラ諸島に進出するチャンスはいくらでもあった
それをしなかったのは未知の産物を発見して市場を新たに開拓・拡大するって発想がとぼしかったんだよ
ようするに既存の市場しか見てなかったんじゃないのかな
マデイラとればサトウキビでウハウハだったのにな
179世界@名無史さん:2011/02/08(火) 16:38:45 P
モロッコは森林資源が乏しいから、じゃぶじゃぶ木材使って船造れないんですよ
180オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/08(火) 17:38:23 0
>>178
スペインやポルトガルが進出する前のカナリア諸島やマデイラ諸島には、
ベルベル人が普通にやって来てたと思うけど。新大陸発見前のそんなに、
大西洋の重要性が大きくなかった時代のモロッコにとって、そんなところを、
ちゃんと実効支配する必要ないだろうし。サハラ交易だけで満足だったと思う。
181世界@名無史さん:2011/02/08(火) 18:43:03 0
そこで満足したから駄目だったんだな
182世界@名無史さん:2011/02/08(火) 19:15:26 0
オスマンの衰退ぶりに笑い止まらねえwwww
こんな国は滅んで当然 オスマン帝国大っ嫌いだ
183世界@名無史さん:2011/02/08(火) 19:55:20 0
もうとっくに滅んでますけど
184世界@名無史さん:2011/02/19(土) 13:43:47 0
age
185世界@名無史さん:2011/02/25(金) 05:04:37.92 O
かつては強大だったオスマンが衰退して惨めに滅亡したように、
今の日本も同じ時期に差し掛かっていると思うとすごく哀しい
中国韓国は何となく見下していたけれどホントに追い抜かれるだろ
ポーランドの如く米中露韓に分割されて滅ぶんじゃなかろうか
死にたい
186 ◆axCVsGomao :2011/02/25(金) 06:56:58.03 0
オスマン衰退の決定打は交易路を欧州におさえられたこと
欧州が新大陸を発見できずに喜望峰も見つけられなかったら
いまだにイスラム圏が圧倒的優位だった

日本は極東アジアが経済発展したらいずれはこうなる運命だったでしょ
187名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/25(金) 15:14:25.85 0
>>186
>オスマン衰退の決定打は交易路を欧州におさえられたこと

ユーラシアの東西を通る交易路は西欧におさえられたかもしれんが、
黒海、カフカースなどの南北の交易路は、長い間オスマン帝国がおさえていただろう。

坂本勉「中東イスラーム世界の国際商人」『岩波講座世界歴史15』(岩波書店、1999年)
などを参照せよ。

南北の交易路の重要性については、オスマン帝国史研究者ハリル・イナルジクも
『An Economic and Social History of the Ottoman Empire 1300-1914』
(Cambridge, 1994)で指摘している。
永田雄三「イナルジク」尾形勇ほか編『20世紀の歴史家たち(4) 世界編 下』
(刀水書房、2001年)を参照。
188 ◆axCVsGomao :2011/02/25(金) 15:19:34.59 0
インドや東南アジアや中国の産品を
高値で欧州に売りつけるのがイスラム商人の儲けだったわけで
189世界@名無史さん:2011/02/25(金) 15:22:25.25 0
>>186
21世紀どころか、この500年の間に新大陸が未だ発見されないとか、喜望峰に到達していないなんてタラレバ話して空しくならんの。
遅れてきたロシア世界ですら、大西洋方面には関われなかったが、アラスカはおろか、ロサンゼルスまで砦作っているんだぜ。
その気になれば旧大陸側からでもアクセスできたず。広東までアラブ商人が進出していながらもできなかったのはやる気がなかったから。
大体、胡椒や丁子貿易しにマルーク諸島までヨーロッパ勢力が進出している時点でもうかなりヤバイ雰囲気しているんだが、トルコも
ムガルも何もしてねーし 現地のイスラム勢力に手を貸してやれよw
190オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/25(金) 16:59:03.72 0
個人的にオスマン帝国が衰退したと言うよりは西欧世界が東西交易などによって、
発展しすぎたから相対的にみてオスマン帝国が衰退したと言った方が良いと思う。
まぁ、国内の官僚たちの腐敗などある程度はオスマン帝国自身の衰退もあるけど。
交易による経済的衰退も一因ではあるけど、それだけじゃオーストリアやロシアなど、
特に海外に進出してない国家にまで軍事力で負けた理由が説明つかないからね。

>>189
別にイスラーム国家だって全然一枚岩じゃないよ。当時のオスマン帝国にとって、
わざわざマルーク諸島まで行ってヨーロッパ勢力と戦うメリットなんか全くないし。
191世界@名無史さん:2011/02/25(金) 17:03:40.55 0
何度も既出だが、モロッコ方面から進出しようとおもえばできた やらなかったオスマンの自業自得
192世界@名無史さん:2011/02/25(金) 17:08:45.37 0
スペインがフィリピンに進出していたとき、すでに南方ではモロ族(つーても雑多な民族の総称でモロ族というのはムーア人(色が黒い異教徒程度の区分でしか無い))がイスラム化されていた。
勇猛で近代になっても屈服させられなかったが、海洋進出の発想がなかった。 そういう発想がもしあれば中国あたりからどんどん文明発展させてフィリピン統一 マザランやスペインの侵入に
刺激受けて新大陸進出という目もあるいはあったかもしれんがなー どこもそんな発想ナッシング 
むしろヨーロッパ人の征服欲・探検欲・コンキスタドールやイタルゴの展開があの時代でははやすぎたわな。 
193世界@名無史さん:2011/02/25(金) 17:09:26.78 0
>>190
誰も一枚岩なんていってない。お前嫌われているよ気づけよ。 
194オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/25(金) 17:17:15.66 0
>>191-192
オスマン帝国以外にもムガル帝国や清だって海外進出はしてないからね。むしろ、
西欧があんなに早く海外進出したことのほうが異常だと個人的には思う。だからこそ、
オスマン帝国の衰退と言うよりは西欧の発展と言ったほうが実態に合ってる気がする。
まぁ、オスマン帝国は海外進出する必要がもともと大してなかったというのもあるしね。

>>193
だって>>189のレスを読む限り同じイスラーム国だから、オスマン帝国やムガル帝国は、
マルーク諸島のムスリムたちを助けるべきだと言ってるように読めるんだもの。だから、
別にイスラームだって一枚岩じゃなく、特にメリットがない限りは助けないでしょと言った。
195世界@名無史さん:2011/02/25(金) 17:43:23.69 0
政治的意図があったとはいえ、レコンキスタ運動がキリスト教圏でやられたような行動を
イスラム世界では放置していたからな。マラッカ海峡の欧米の侵略なんか何世紀も
かけて20世紀になってようやくオランダが制圧したというのにイスラム国家の大半は知らん顔
していた。

オスマンのウィーン包囲持もキリスト教圏は団結して対処したが、イスラム系国家はそういう
ことをほとんどしない。近代になって欧米のあいつぐ侵食・支配下の遠因はそういう体質が
積みかさななってのことだ。 交易益がイスラム諸国家の生命線なら地中海の制海権同様に
注意深く権益を維持すべきであった。
196オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/25(金) 18:08:38.31 0
>>195
ウィーン包囲の時だってフランスなんかはオスマン寄りだったけどね。イスラーム圏も、
キリスト教圏も決して一枚岩ではないよ。同じ宗教の者同士が団結して戦うというのは、
聞こえは良いけど現実的ではないでしょ。西欧諸国だってお互いに戦争し合いながら、
発展していった面もあるんだし。具体的に考えても、当時のオスマン帝国がわざわざ、
遠く(マラッカ海峡など)まで兵を率いて、ヨーロッパを追い出すなんて有り得ないしね。
あまりにもコストがかかりすぎる上に、大してメリットはないから。交易圏の確保だったら、
紅海とイスタンブルと東地中海さえ持ってたら最悪平気だし。オスマン帝国はオランダや、
ポルトガルみたいに決して交易中心の国という訳でもないからね。レヴァント交易などで、
儲けてたとは言え、基本的には自国領からの税収が国家の主な収入だし。
197世界@名無史さん:2011/02/25(金) 20:10:40.63 0
>>195
ウィーン包囲の頃のフランスは西欧のキリスト教国よりオスマンべったりなんだけど
198世界@名無史さん:2011/02/25(金) 22:10:23.85 0
>>196
俺ムガル帝国もあげているんだけど無視ですか。
オスマンだけ挙げている理由は何?自説に有利だから?
俺は別段宗派・宗教ごとの大義を説いてなどいないんだが。
オスマンが衰退しないようにするにはどうしたらいいかというIFに対して
一つの解決案を提示しただけ あんたの独演会など聞いては居ない。

>>197
ポーランドやドイツ系の援軍がトルコに対抗してきたけどね。
そもそも、ブルボン家はハプスブルク家が異教徒に包囲されているって?w
ざまあwwwwwww みたいな魂胆があったしな。
だからと言って別段オスマンに援軍送ったわけで無し、両方消耗してろって感じだろ
199世界@名無史さん:2011/02/25(金) 22:22:03.28 0
フランスは毎度とは言わんがオスマン軍に資金や物資援助したりしてるけど
200オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/25(金) 22:25:51.04 0
>>198
ここオスマンスレだからムガル帝国はスレチになるし、そもそも僕自身が、
ムガル帝国についてはあまり詳しくないし。で、衰退しないためのIFとして、
その解決策は(ムガル帝国はともかく)少なくともオスマン帝国に関しては、
あまりにも無茶だと思うよ。その理由は、さっきから何度か述べてることの、
繰り返しになるからもう言わないけど。ムガル帝国はどうだか知らないけど。
201世界@名無史さん:2011/02/25(金) 23:51:04.62 0
世界史板は【学問・文系】に分類されているんだから、
「もし○○だったら」というif話はするな。

また、書き込むときには、専門家が書いたまともな文献を典拠として示せ。
202オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/26(土) 10:12:34.13 O
>>201
確かに、IF話は板違いだね。そもそも、その前提であるオスマン帝国の遠征云々の話自体がおかしいしね。
まぁ、IF話に出典とかある訳ないし。話題を変えたほうがいいかな。
203世界@名無史さん:2011/02/26(土) 19:10:14.74 0
スレイマン以後のスペインやサファビー朝への敗北はオスマン帝国の衰退だろう
ホティン、サンゴタール以後のヨーロッパへの連戦連敗は欧州の発展によるな
18世紀にロシアに連敗したのはキョプリュフ時代の失政とピョートルじゃ改革の差だな

決定的だったのが政治、軍事でなく、技術科学面で全く生み出すものがなかったこと
イスラムとシャーリアを捨てない限りは衰勢は覆せなかったんだろうと思ふ
204オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/26(土) 20:15:35.32 0
>>203
スレイマン1世死後(特に16世紀末から17世紀前半まで)はオスマン帝国の国内情勢が、
不安定だったから、この時の劣勢は確かにオスマン帝国自体の衰退と言えるだろうね。
まぁ、とは言え当時のオスマン帝国はまだまだヨーロッパの強国の1つではあったから、
この時点での衰退は決定的な原因とは言えないかな。その後、キョプリュリュ時代になり、
少し立て直してるし。17世紀後半(特に第2次ウィーン包囲)からの劣勢はまさに西欧の、
急速な発展が原因と言える。これ以降、ヨーロッパ諸国のオスマン帝国に対する優位が、
決定的になったから、このことがオスマン帝国の衰退の決定的な原因と言えるだろうね。
その後のロシアに対する連敗も重病人化も基本的には西欧の急速な発展が原因だし。

>決定的だったのが政治、軍事でなく、技術科学面で全く生み出すものがなかったこと
>イスラムとシャーリアを捨てない限りは衰勢は覆せなかったんだろうと思ふ
科学面においてオスマン帝国が目立たないのは認めるけど、その原因をイスラームや、
シャリーアに求めるのは違うと思う。もし、それらが原因だとすると、イスラーム科学が、
中世において発展した理由が説明つかないし。個人的にイスラーム科学衰退の原因は、
前に世界史なんでも質問スレで言われてた神秘主義の影響にあると思ってるんだけど。
205世界@名無史さん:2011/02/26(土) 20:43:39.81 0
>>204
>神秘主義の影響にあると
ここ物凄く興味あるんで、詳細希望
206 ◆axCVsGomao :2011/02/26(土) 21:47:34.94 0
モンゴルと十字軍とティムールが都市を破壊しまくったから
技術者や学者や学術書がなくなったのも大きい
ティムールなんてシリアの技術者をサマルカンドまで連れ去ったんだろ
207オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/26(土) 22:49:57.58 0
>>205
中世後期辺りからイスラーム圏ではガザーリーなんかに代表されるように、
スーフィズムが一般化してくる。それまでのイスラーム科学は神学とかと、
結構密接に関りながら発展した面があるから、そういう神学的及び哲学的な、
やりとりがスーフィズムの流行によって衰退していったことが主な原因だと思う。

>>206
まぁ、それも一因ではあると思うけどモンゴルだって天文学とかは、
保護してたから、あまり衰退の大きな原因とは言えない気がする。
208世界@名無史さん:2011/02/27(日) 08:32:28.77 O
イスラム科学もラテン語訳しか現代に残ってないものも多い
シャーリアじゃ神学以外が蔑まれるからオスマンは学問では不毛、必然的にレパント以後より欧州に勝てなくなった
209 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 08:47:21.16 0
イスラム帝国初期は新しいものをどんどん取り入れる気風があったから
神学以外が蔑まれるってことはなかったんだろうけどね
210オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/27(日) 08:49:41.39 0
>>208
イスラーム科学でラテン語しか残ってないものが多いのは、モンゴルが、
バグダードを征服した時に原典の多くが失われたからだと思うんだけど。
シャリーアに原因を求めると中世におけるイスラーム科学繁栄の理由が、
説明つかないから違うんじゃないかな。それに、イスラーム科学は結構、
神学とかと結びついて発展した面もあるんだから、その意見はいささか、
的外れだと思うよ。むしろスーフィズムの流行によって、そういった風潮が、
廃れていったことのほうが原因としては大きい。それならば、中世における、
イスラーム科学の発展の理由も説明つくし。それと、レパントの海戦以後も、
オスマン帝国は何度かヨーロッパに勝ってるから、まだ衰退は決定的とは、
言えないよ。国内の情勢が一時的に不安定だったけど、キョプリュリュ家が、
すぐに立て直したし。第2次ウィーン包囲が境目だと考えるべきだと思うよ。
211 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 08:57:01.40 0
バグダードやハッラーンはじめとした科学が盛んな都市が破壊されたからな
その後も十字軍がきて科学どころじゃなかったし
その後はトルコ系が政権を奪ってしまったけど
トルコ系が中東を支配してから科学が衰退した感じもしないでもない
212 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 09:01:42.78 0
アイユーブ朝の頃までは明らかにイスラム圏のほうが科学はすすんでいた
アルカーミルとフリードリヒの逸話にもあるように
神聖ローマ皇帝がアラビア語の刺繍がはいった服きてスルタンと文通してたんだからな

トルコ系は尚武の気風が強すぎて科学を軽視したってことはないのだろうか
213オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/27(日) 09:03:30.02 0
>>211
イスラーム圏へのトルコ系の進出とスーフィズムの流行した時期も重なってるしね。
その代わりトルコ系はイスラーム建築においてはそれなりに大きな影響を与えたけど。
214 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 09:06:24.19 0
トルコ系がイスラーム建築に影響なんてあたえてないでしょ?
オスマン建築なんてのはローマの影響だし それ以外はペルシアの影響だし
215世界@名無史さん:2011/02/27(日) 09:07:51.65 0
遊牧文化だから、テント暮らしを最上とするんかな?
216オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/27(日) 09:08:46.55 0
>>212
誰か(永田雄三氏だったと思うけど)がイスラーム文化におけるトルコ人とアラブ人の、
関係はローマ人とギリシャ人の関係に似てると言ってた気がする。学問や思想面では、
アラブ人(ギリシャ人)が優れてて、それらを後からやって来たトルコ人(ローマ人)が、
建築などの実用的方向で発展させたという事らしい。オスマン建築は優れてるの多いしね。
217 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 09:08:47.90 0
イスラム世界からカリフが消えたことで神学的にも混乱が生じて
本来科学の研究に使われる労力が神学研究に使われたのかもしれない

モンゴルの襲来は神の罰だとか、そういうことを延々と研究してたのかも
218 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 09:10:16.52 0
>>215
ティムールもテント暮らししてたからねえ

イスタンブールのトプカプ宮殿も広大なオスマン帝国の宮殿としては
かなりあっさりしている印象ある
219 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 09:11:48.77 0
オスマン建築はコンスタンティノープルを征服したことで
東ローマの建築文化を取り入れることができただけであって
トルコ系遊牧文化の影響ってほとんど無いと思うんだけど
アヤソフィアの真似だからなアレは
220オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/27(日) 09:12:50.10 0
>>214
影響と言うよりは、トルコ系は建築方面の発展に関しては結構力を入れてたという意味。
ティムール帝国やサファヴィー朝やオスマン帝国などトルコ系の王朝はどれもこれも、
建築に関しては結構優れたのが多い。科学よりもそっちに興味があったんじゃないかな。
221 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 09:13:44.58 0
紫禁城 ベルサイユ宮殿 ルーブル美術館(フランスのかつての王宮)
トプカプ宮殿と生で見たことあるけど
実際住むならトプカプ宮殿がいいなあと思うね
222オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/27(日) 09:15:55.39 0
>>218
その一方でティムールはサマルカンドの建築をかなり発展させてるけどね。
建築におけるトルコ系文化の影響は薄いかも知れないけど、トルコ系は、
建築の発展などに対して、パトロン的立場にいたんじゃないかなと思う。
223 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 09:18:09.11 0
サマルカンドの建築物なんてのは
中東の技術者を連れ去ってつくったもんだろ

はっきりいってトルコ系政権がつくった建築物って繊細さがかけているんだよな
アルハンブラ宮殿のほうが建築物のレベルとしては上だと思うけどね
224オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/27(日) 09:24:41.09 0
>>223
だから、トルコ系はそのように中東の技術者を集めて建築物を作らせるぐらい、
建築の発展には興味あったんだよね。科学とは違って。ミマール・スィナンなど、
有名な建築家もいるしね。繊細さに欠ける気がするのはやはり遊牧民だからかな。
225 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 09:25:48.63 0
オスマン建築のドーム型のモスクは素晴らしいと思うけどね
アヤソフィアの真似だけど
226 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 09:27:11.95 0
アルハンブラ宮殿は都市文化に浸ったアラブ人の文化って感じが伝わってくるんだよね
227世界@名無史さん:2011/02/27(日) 09:41:54.35 0
冶金技術もオスマンの方が進んでたよね
マスケットもアナトリア起源だし、火器や大砲の生産と利用も同じく進んでた
228オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/27(日) 10:12:06.69 0
>>227
そうなんだよね。>>216でも言ったようにトルコ人たちは学問や思想なんかよりも、
建築や火器などの実用的な面における発展のほうが興味あったという事なんだろう。
229世界@名無史さん:2011/02/27(日) 10:49:28.21 0
http://www.balkanalysis.com/2005/08/27/guns-for-the-sultan/
これ読むと大量のヨーロッパ人技師を雇ってたみたいだな
特にトルコ語は鉱山関係の語彙はドイツ語とギリシャ語が多いとか
230世界@名無史さん:2011/02/27(日) 11:03:16.49 0
>>227
>>マスケットもアナトリア起源だし
ソースは?海外WIKIだと1440年代からハンガリーから取り入れたとあるぞ
ソース元はNicolle, David (1995). The Janissaries. Osprey. pp. 21fだって
231 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 15:21:09.51 0
神器譜(しんきふ)
http://100.yahoo.co.jp/detail/%E7%A5%9E%E5%99%A8%E8%AD%9C/

 豊臣秀吉(とよとみひでよし)の朝鮮出兵において、日本軍の鉄砲に悩まされた中国軍を援助するため、
趙士禎(ちょうしてい)が著した中国の鉄砲解説書。彼は?密銃(ろみつ)銃(オスマン・トルコの銃)を第一等に推し、
次に西洋銃(ポルトガル銃)をあげており、?密銃についてもっとも詳しく説明している。なお本書は、藤井宏(ひろし)の説によれば、
1598年から1603年以降にかけて四度にわたって成立し、四度目のものが国立公文書館所蔵の五巻本『神器譜』であり、清水正徳(まさのり)校、
1808年(文化5)刊の和刻本はこのほぼ忠実な翻刻本であるとのことである。
232世界@名無史さん:2011/02/27(日) 15:42:59.38 0
それ起源じゃないし
後ポルトガルがアジアにもっていったのは猟銃
233世界@名無史さん:2011/02/27(日) 15:47:50.53 0
つか確かその時期オスマンはオーストリア軍の装備の影響を受けて
装備を新式に一新してるんだよね
234世界@名無史さん:2011/02/27(日) 20:44:09.46 0
カラ・ムスタファ哀れなり。
235世界@名無史さん:2011/02/27(日) 21:16:19.85 0
>>230>>232
そのソースが腐ってるだけだろ
神器譜には、マスケットの鳥銃は最初西洋銃を西南地方で某将軍が手に入れ
後に魯密番銃を朶思麻から譲り受けたとあるが、マスケットの起源は魯密だとしてる

ポルトガル人がアジアに持って来たのが猟銃、という事実は無い
あんな馬鹿デカい猟銃があってたまるかw
236 ◆axCVsGomao :2011/02/27(日) 21:46:30.98 0
オスマンの銃といってもつくってるのは
欧州の技術者なのかもしれないけどね
237世界@名無史さん:2011/02/27(日) 22:22:09.87 0
西欧の銃といってもつくってるのはオスマンの技術者なのかもしれないけどね
ハンガリーは欧州の中で東部に位置してるしね
火器も火砲も東方伝来だから新機軸に触れるのも早かっただろう
238世界@名無史さん:2011/02/27(日) 22:39:23.16 0
オスマンにとっては、露土戦争でロシアにクリム・ハン国の宗主権を奪われた
というのはかなりショックだったのかな。
239世界@名無史さん:2011/02/27(日) 22:39:56.11 0
うそつけ、だいたい16世紀の中国人が正確な情報わかるわけないだろ
それに13世紀に火器がヨーロッパに火器が東方から入ってきた時点ではハンドキャノンといって原始的な火器だ
マスケットとは言わない、マスケットの最初の使用例はフス戦争だ




240世界@名無史さん:2011/02/28(月) 00:04:51.65 0
>>239
火砲と銅火銃の誕生はどちらも南宋末元初、火縄を使わず不便ではあっても原始的とは到底言えない
フス戦争で使われたのは、239が言う所のより原始的な火器でマスケットじゃない
241世界@名無史さん:2011/02/28(月) 00:12:56.34 0
マスケットはハンドキャノンも含めるらしいから相当広い意味だ
火縄銃に限定していうと上の通り英語版WIKIで1440年代にハンガリーからってのがある
ソース元は日本語でデイビッド・ニコル「オスマン帝国の軍隊」だね
日本語版WIKIはアナトリア起源とあるけどソースなし
242世界@名無史さん:2011/02/28(月) 01:08:39.72 0
火銃よりも性能で劣り登場年代でも遅いハンドガンとやらを
マスケットの最初の使用例と断言する時点でお察し
>>241
見当たらんなあ、1475年ってのはあるけどあくまで欧州での初見としか書かれてない
243世界@名無史さん:2011/02/28(月) 01:34:17.50 0
よく読めよ
The Janissary corps of the Ottoman army adopted matchlock arms from Hungary gradually from the 1440s onwards
The matchlock appeared in Europe in the mid-15th century, although the idea of the serpentine appears some 40 years previously in an Austrian manuscript
1400年ぐらいにいわゆる火縄銃の形状に似たものがオーストリアで出てきたってこと
1475年にはじめて火縄銃のメカニズムのイラストが確認できるってこと、
まぁ起源どうこうより西洋勢が火器技術で先いっててオスマンが参考にしてたのは確かだ
guns for sultanではウルバンも当然だが、16世紀にはスペインの亡命ユダヤ人やモスリコ達がスペインの火器技術をもたらして
セリム1世が喜んだと書いてあるし、「オスマン軍の軍隊」では1602年にオスマン将校が火器の充実したオーストリア軍との苦戦で
騎兵の無力さを嘆いてる、それをきっかけに新装備を導入してイニチェリの火力を強化・主力化、イニチェリの社会的地位の上昇などなど

244世界@名無史さん:2011/02/28(月) 01:35:39.43 0
それとマスケットに関しては後で調べて整理し直したんだよ
お前もマスケット=火縄銃と勘違いしてただろ、それにつられた
245世界@名無史さん:2011/02/28(月) 02:27:49.61 0
>>243
いや、おまえこそよく読めよ
火縄銃の形状に似たものでいいなら明初に既にあるから、撃発機構は無いけどな
1475年にしてようやく図が確認できるだけで実物は出てない
火砲もティムール軍は攻城用の物を使用してるのに対して、西欧では15世紀中頃にやっと野戦用小火砲
火器の技術はアナトリアや中央アジア経由で欧州東部を経て西欧に伝わったものだし
そもそも16世紀後半の段階でイェニチェリの火器に押されてるのがスペイン勢
246世界@名無史さん:2011/02/28(月) 02:38:56.01 0
またソースなしか
じゃオスマンの図はいつ出てくるんだよ
247世界@名無史さん:2011/02/28(月) 02:40:35.05 0
>>火器の技術はアナトリアや中央アジア経由で欧州東部を経て西欧に伝わったものだし
だからそれは13世紀の話、時期がずれてるって
>>そもそも16世紀後半の段階でイェニチェリの火器に押されてるのがスペイン勢
レバントで負けましたね
248世界@名無史さん:2011/02/28(月) 03:42:54.95 0
訳間違ってた、火縄銃に形状が似てるんじゃなくて
サーペタイン方式は最初の火縄銃そのものだな、それがオーストリアの書籍に1400年ぐらいにのってるとある
サーペタイン=蛇だから、長細い形状かと思ったが全然違ったね
http://arms.cybrary.jp/db/fire/gun/serpentinelockgun.html
249オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/02/28(月) 05:49:19.48 0
>>238
クリミア・ハン国はイスラーム圏でなおかつトルコ系の国家だったからね。今まで、
喪失してた領土は主にキリスト教圏だったから、オスマン帝国にとってはかなり、
悔しいことだったんだと思う。このころから瀕死の重病人と呼ばれるようになったし。
250世界@名無史さん:2011/03/05(土) 01:40:22.52 0
wikipediaのオスマン大宰相の記事が増えたらいいなー
251世界@名無史さん:2011/03/07(月) 01:39:04.27 0
数年前にクリミアのバフチサライにあるハンサライ(クリミア・ハンの宮殿)に
行ってきたことがあるけど、なんか規模も外観も幼稚園みたいでしょぼかったな。

玉座の間ががらんとした大広間になっていて、端っこに金色の長椅子があった。
「座るな」って書いてあるのに次々に座って記念写真を撮るルースキーども。。。
252オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/03/07(月) 05:16:19.97 0
>>251
へ〜。僕は行ったことないんだけど意外としょぼいのか。まぁ、長い間ロシアを、
悩ませた国とは言え、所詮はオスマン帝国の属国で大国ではなかったからね。
そんなに豪華な宮殿という訳でもないのかな。遊牧民的要素の強い国家だし。
253世界@名無史さん:2011/03/07(月) 14:15:18.63 0
04って大学入試問題の過去問みたいでワロタww
254世界@名無史さん:2011/03/07(月) 14:15:23.28 0
04って大学入試問題の過去問みたいでワロタww
255世界@名無史さん:2011/03/07(月) 23:31:06.05 0
>>252
ただ宮殿のうしろにあるチュフト・カレっていう岩山は凄かった
石灰岩の崖が延々続いていて、二つの尾根の間が大峡谷みたいになってる

山頂まで登ってみたら、6世紀とか13世紀に建てられた洞窟修道院の遺跡があった
クリミアのハンたちもチュフト・カレを武田の要害山みたいに使っていたらしい

あと、シンフェロポリからバフチサライに行く電車のなかでクリミア・タタールのおばさんと話した
バトゥを誇りに思っているらしい
256世界@名無史さん:2011/03/08(火) 00:01:32.93 0
>>252
というか、旧敵国だったから、維持や復元を真面目にやってないということじゃないかな
ソ連時代、属国状態のモンゴルでジンギスカンが、
まだ独立していなかったがウズベキでチムールがタブーだったのと同じ理由と思う。
257オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/03/08(火) 04:28:19.05 0
>>255
へ〜、チェフト・カレのほうはすごかったのか。要塞みたいなものだしね。
やはり、ロシア内にいるタタール人にとってバトゥは尊敬の対象なんだ。

>>256
なるほど、確かにそっちのほうがありそうだなぁ。ロシアにとってクリミア・ハン国は、
長い間その攻撃に悩まされた敵国だった訳だし。維持や修復に不熱心だったのかな。
258オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/03/08(火) 04:29:42.74 0
>>257
誤字訂正。
×チェフト・カレ
○チュフト・カレ
259世界@名無史さん:2011/03/08(火) 07:02:05.10 0
チンギスやバトゥやティムールや匈奴の扱い見る限り
ソ連やロシアに維持修復する気なんて皆無でしょ
260世界@名無史さん:2011/03/08(火) 08:27:28.30 O
クリミアについてはボスポラスやビザンツの文化遺産をしっかりやってほしい
ロシアの平原で少年少女を狩ってイスタンブールで売り払ってた連中はどうでもよい
261オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/03/08(火) 12:22:15.88 0
>>259
まぁね。でも、現在のクリミア半島はロシアじゃなくてウクライナ領なんだよね。
ウクライナもロシアと同じようにタタールを敵対民族みたいに思ってるのかな?
262世界@名無史さん:2011/03/08(火) 17:54:21.80 0
>>251>>255
バフチサライのクリム・ハンの宮殿は廃墟となったが、
ノヴォロシア総督ミハイル・セミョーノヴィッチ・ヴォロンツォフが
発掘調査を行った。

花田智之
「M.S.ヴォロンツォフ研究の視角と展望(1)」『北大法学論集』57巻2号 2006年
を見よ。
263エビちゃん親衛隊:2011/03/08(火) 21:58:16.86 0
>>261
なんでイスラム教のトルコがイスラエルと同盟関係にあったのかというと、
突厥つながりなんでしょうね。それがイラク戦争で切れた。
トルコ人はウイグル人とも突厥つながりを感じている。
イスラエルはトルコが反発した場合、突厥つながりなどは簡単に捨てられる。
最近パレスチナにはロシア正教会を建てる入植者が増えてきた。
つまり、ユダヤ化したハザールじゃなくてロシア人そのものが入植してきていると言うことだ。
もはや世界情勢は訳が分からんようになってきた。頭が混乱する。
ところで最近、ロシアの平原で奴隷狩りやった商人の出撃拠点だった
世界遺産の街が水没しかかっているようだ。
今の米英仏スイスの支配層の元々の生業はスラブ(=奴隷狩り)らしいもんな。
スラブの正教徒がパレスチナに移住するとは面白い。ロスケもアホやなー
旧ソ連圏のチェチェンでやめときゃいいのに、わざわざ危険なアラブにまで首突っ込むとはなー
チェチェン紛争にも火に油を注ぐようなもんだ!
大金持ちはスラブ人のアラブ侵略をスイスの山奥で見物する事にするのか。
どんな結果になるんだろう。じろじろ
しかし、欧米の連中も分割するのが好きだよな〜。オスマン帝国を今の国境に分割するだでもう十分だろう?
これ以上分裂させてどうすんだよ。
コソボみたいなちっこい国を世界にいっぱい作りまくる気かよ!オイ!
264世界@名無史さん:2011/03/08(火) 22:02:27.40 0
正教徒がパレスチナ・・・
オツガイはこんなの知ってた!?
265世界@名無史さん:2011/03/08(火) 22:13:47.94 0
常識じゃん、ロシアのユダヤ人が正教徒貧民をパレスチナへ送って
国軍がアラブ人居住地を不法強制占拠、そこに入植地建設してるのなんて
266オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/03/09(水) 04:56:49.58 0
>>263
トルコとイスラエルの仲の良さの理由を突厥に求めるというのは新鮮だなぁ。
オスマン帝国時代にトルコは国内のユダヤ人を保護してたし、歴史的にも、
そんなに仲悪くないんだよね、トルコとユダヤの関係って。中東戦争自体が、
そもそもトルコにとっては関係ない出来事だし、アラブの反乱とかのせいで、
汎アラブ主義には好意的感情をもってなかっただろうから、それらの事柄も、
トルコとイスラエルが仲良かった理由として挙げられるかな。まぁ、最近は、
そうでもないみたいだけど、それは単に現首相の意向という感じもするし。
267世界@名無史さん:2011/03/09(水) 15:05:12.52 0
ハザール以来1000年の縁なんだね
268世界@名無史さん:2011/03/09(水) 20:01:48.69 0
うさんくさい
269オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/03/09(水) 22:33:53.64 0
>>268
ハザール人が現在のユダヤ人の子孫というのは若干うさんくさい感じがするね。
まぁ、僕自身はそんなに詳しい訳でもないんで断言は控えるけど。まぁトルコが、
ハザール人で突厥つながりだからということを意識してるとしてもそれは確実に、
近代以降だろうね。オスマン帝国時代にユダヤ人を保護したりしたのはまた別の、
理由(スペインとの対抗や国内経済の発展など)だと思う。ただ、どっちにしても、
オスマン帝国時代からユダヤは決して仲の悪い存在ではなかったのは確かだね。
270オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/03/09(水) 23:23:18.98 0
>>269
誤字訂正。
誤)ハザール人が現在のユダヤ人の子孫
正)ハザール人が現在のユダヤ人の先祖
271世界@名無史さん:2011/03/10(木) 18:45:56.77 0
>>251-270
オスマン帝国とロシアの交流の一コマとしては、
プーシキンの「1829年の遠征時のエルズルム紀行」があるよな。
272オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/03/11(金) 07:48:25.90 0
>>271
プーシキンって血統的にもオスマン帝国と関係があるよね。曾祖父の、
ガンニバルはオスマン帝国から連れてこられた黒人だったからね。
273世界@名無史さん:2011/03/12(土) 22:48:49.62 0
>>262>>271-272
ミハイル・セミョーノヴィッチ・ヴォロンツォフはノヴォロシア総督時代に
プーシキンを保護したことでも知られている。

・Удовик В.А.,Кацик В.О
『М.С.Воронцов и А.С.Пушкин
 (M.S.ヴォロンツォフとA.S.プーシキン)』1997
・花田智之
「M.S.ヴォロンツォフ研究の視角と展望(1)」『北大法学論集』57巻2号 2006年
274世界@名無史さん:2011/03/17(木) 16:44:50.39 0
>>256
いやもともとそんなもんじゃないのトルコ系は。
というのは前にNHKの特集でトプカピ宮殿のスルタンの寝室が映ってたんだけど
見事にがらんどうのような広い空間にヨーロッパ風の天蓋付ベッドがちょこんと置いてあるだけだったんだよ。
内部は彩色されるらしいけど家具らしいものもほとんどなく殺風景そのものだったよ。
トルコ政府が管理してるものだけにわざと手を抜いているとはかんがえにくいから。
宮殿建築に対して生活空間としてのこだわりがあまりないのかもね。

275世界@名無史さん:2011/03/17(木) 17:30:44.63 0
トルコ政府が管理してるものだけにわざと手を抜いている可能性大有りだと思うけど
276世界@名無史さん:2011/03/17(木) 17:33:44.41 0
>>271-273
ロシア文学には、ロシアとオスマン帝国の関係を取り扱った作品がけっこうあるよな。

プーシキン『1829年の遠征時のエルズルム紀行』
プーシキン『バフチサライの泉』
トルストイ『アンナ・カレーニナ』
トルストイ『ハジ・ムラート』など。
277オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/03/17(木) 19:22:52.47 0
>>274
トプカプ宮殿をショボイと思う人は結構いるね。僕自身はそれなりに優れてると、
思うんだけど、まぁそれはただ単に僕がオスマン贔屓だからだけかも知れないし。
ただ、実際にトルコに行って、見た時の感想としてはあまりショボイ印象はなかった。
あくまで僕個人の感想だけど。トルコ系は建築物のパトロン的存在になることは、
あっても、生活空間の場としての建築そのものに対する関心は低いのかもね。

>>275
トルコ政府は歴史遺産の保全に無関心だと良く言われてるからね。いくつかの、
遺跡は現在もいまだに管理が行き届かずに放置されたままの状態らしいしね。
278世界@名無史さん:2011/03/17(木) 21:33:29.11 0
俺もトプカプは「しょぼい」とは思わなかった。
あれだけの帝国の王宮にしては質素とは思うけど。
まあもともと遊牧民起源だからねえ。モンゴルなんかと同様、
住居や宗教関連以外の施設に豪華さや精巧さなどを
求めない傾向があったのかもしれない。

>>277
特にグレコ・ローマン以降の遺跡ね…
でも最近はビザンツがらみとかの保全に力入れてきてるみたいよ。
去年の秋に行った時、キュチュック・アヤソフィア(ハギオス・セルギオス・カイ・バッコス聖堂)周辺がえらいきれいになってたし、
ゼイレク・ジャミイ(クリスト・パントクラトール修道院)も補修・整備工事中だった。
ビザンツ建築好きの俺としては好ましい傾向だと思ったw
279オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/03/17(木) 21:58:08.05 0
>>277
キュチュク・アヤソフィア周辺は確かにきれいだったね。前がどうだったか知らないので、
行った時は取り立てて感じることはなかったけど。ゼイレク・ジャミィへは行ってないから、
補修工事中だとは知らなかったなぁ。僕が去年の夏に行った時は、ハギア・ソフィアが、
補修工事中だったのが印象に残ってる。最近は、トルコ国内でもビザンツ帝国のことを、
自国史の一環として積極的に位置づけようという動きもあるみたいだし、ビザンツ関連の、
遺跡の保全には力を入れてきてるのかな。まぁそれ以外の遺跡はどうだか知らないけど。
オスマン関連のはそもそも現在も使われてるのが多いため遺跡になってるもの自体が、
少ないのだと林佳代子氏が言ってたから、それも少しは関係してるのかも知れないけどね。
280オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/03/17(木) 21:58:51.49 0
>>279
アンカミスorz
>>277じゃなくて>>278だ。
281世界@名無史さん:2011/03/19(土) 00:14:18.92 0
>>276
カフカース出身で、青年トルコ人運動に関係したジャーナリスト、
ミザンジュ・ムラトはハジ・ムラートの息子である。

永田雄三
「オスマン帝国における近代教育の導入:
 文官養成校(ミュルキエ)の教師と学生たちの動向を中心に」
『駿台史学』第111号 2001年
282 ◆axCVsGomao :2011/03/19(土) 11:04:57.95 0
トプカプ宮殿は実際にみたけどショボイといえばショボイ
生活しやすさを重視した感じがするね
紫禁城とは対極
283世界@名無史さん:2011/04/05(火) 11:11:26.66 0
age
284世界@名無史さん:2011/04/28(木) 21:35:49.28 0
>>249>>255
ロシアに併合された後のクリミアには、ロシア皇帝が夏を過ごした離宮
リヴァディヤ宮殿が築かれた。

クリミアは1783年にロシアに併合されるが、
オスマン帝国側は長らくクリミアへの主権を主張し続けており、
ロシア皇帝が毎年夏にリヴァディヤ宮殿に訪れるたびに
「彼らを歓迎するための」使節を送っていたそうだ。

Selim Deringil
「The Ottoman Empire and Russian Muslims: brothers or rivals?」
『Central Asian Survey』13(3) 1994
285オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/04/28(木) 22:41:49.70 0
>>284
やはりそれだけオスマン帝国にとってクリミア・ハン国が、
重要だったっていう事だね。ロシア帝国によってとられた、
領土はいくつかあるけど、イスラーム圏でトルコ系のため、
より特別だったのだろう。ちなみにそれはトルコ共和国に、
変わってからも同じで、僕が読んだトルコの歴史教科書も、
クリミア・ハン国喪失の重要性を強調してた(まぁ結構古い、
教科書だったから現在もそうなのかは確かではないけど)。
286記憶喪失した男:2011/04/30(土) 07:39:26.99 0 BE:1329495146-2BP(791)
オスマン帝国最盛期の王「スレイマン一世」で小説書いた。
http://ssstory.net/ssstory/story_day/index.php?search_data=20110430073032227&page_num=1&anthology_name=&poetname=&count=99
世界史最高の名君は「スレイマン一世」で、世界史最大の名場面は「第一次ウィーン包囲」だと思う。
287世界@名無史さん:2011/04/30(土) 07:44:34.94 0
第一次ウィーン包囲は非常によくある陳腐な局地戦の1つ。
288記憶喪失した男:2011/04/30(土) 07:59:40.55 0 BE:443165142-2BP(791)
>>287
小説読んだの?
世界史上初めて、世界征服を企んだ神聖ローマ帝国を誅したスレイマン一世の話だよ。
289記憶喪失した男:2011/04/30(土) 08:05:57.41 0 BE:2215824285-2BP(791)
>>287
第一次ウィーン包囲とは、世界を征服できると思ったスペイン皇帝のあやまちを
訂正しに行ったスレイマン一世の諫言だよ。
290記憶喪失した男:2011/04/30(土) 08:08:33.07 0 BE:2991363269-2BP(791)
小説は原稿用紙4枚ほどの超短編です。
291世界@名無史さん:2011/04/30(土) 08:09:01.75 0
>>288
>>287は小説の感想じゃないんだろ

ところで、ウィーン包囲が西欧に衝撃を与えたというが、実態はどれくらいの影響だったんだろうか
東欧世界で対オスマンで再編されたから影響は大きかったんだろうけれど
西欧で具体的な動きが見えないような
292記憶喪失した男:2011/04/30(土) 08:14:02.49 0 BE:498560933-2BP(791)
>>291
影響は小さいだろうね。
結果として、神聖ローマ帝国は守りきったからね。
ヨーロッパをいろんな小さな国に分けて考える人が多いけど、
あそこは要は、ひとつの神聖ローマ帝国なんだよ。
神聖ローマ帝国から独立しているイギリスを除いて、ウィーンが陥落したら、
ヨーロッパは全部、オスマン帝国領になってただろうね。
でも、ならなかった。
歴史にもしが許されるなら、ウィーンが陥落していたら、
世界史はまるでちがうものだっただろうよ。
トルコ人が世界に植民地をつくっただろうね。
293記憶喪失した男:2011/04/30(土) 08:22:55.55 0 BE:1495682339-2BP(791)
小説全部のっけてやるよ。

「スレイマン一世」 作 へげぞ

 1494年、スレイマン一世はオスマン帝国で生まれた。元気な男の子で、
二十九歳の父親セリム一世も、我が子の誕生を喜んだ。スレイマン一世は、
父が兄弟たちを次々と殺すのを見ていた。また、かつてモンゴル帝国の侵攻を撃退し、
世界最強といわれたエジプトのマムルーク朝を父セリム一世が征服するのを見ていた。
スレイマン一世は、血気盛んな武人として育った。
 スレイマン一世が生まれた1494年、ヨーロッパでは大航海時代が始まっていた。
1494年に、スペインとポルトガルは世界をニ分割して統治する条約(トリデシリャス条約)を結んでおり、
スペインとポルトガルは世界を征服できるつもりでいた。
 1519年、スペインを出港したマゼラン艦隊は、1522年、
船長フアン・セルバスティアン・エルカーノに率いられ、トニリダート号は、
世界を一周してスペインに帰還した。人類史上初の世界一周であり、
大地が丸い地球であることが確認された偉業であった。
 スレイマン一世も、それに驚愕していた。大地が丸いなど、信じられない。
しかし、スレイマン一世を激怒させたのは、スペインが世界を征服しようとしていることである。
294記憶喪失した男:2011/04/30(土) 08:23:21.17 0 BE:1661868465-2BP(791)
 1520年、スレイマン一世は父の跡を継ぎ、オスマン帝国第十代スルタンになっていた。
世界は丸かった。それをスペインは証明した。しかし、だからといって、
スペインに世界支配などさせない。
 激怒したスレイマン一世は、1529年、
スペインの本国である神聖ローマ帝国の首都ウィーンを包囲した。
神聖ローマ帝国の皇帝、ハプスブルク家のカール五世を見に行った。
 これを第一次ウィーン包囲と呼び、世界をニ分割する条約を結んだ神聖ローマ帝国よりも、
イスラムのオスマン帝国の方が軍事力で強かったことを意味する。
大航海時代のヨーロッパは決して、軍事力で世界最強ではなかった。
 スレイマン一世はカール五世に会い、詰問した。
「世界を征服するとは何ごとか! 貴様の善悪を計りに来たわ」
 カール五世は怯えながらも答えていった。
「大地は丸かったのです。それを知れば、人は狂う。我が帝国の進軍も、大地を祝福せんがためです」
 スレイマン一世は、それを聞いて、ウィーン包囲を解いて、軍を引いた。
「確かに大地が丸ければ、人は狂う。神聖ローマ帝国は善なり」
 こうして、神聖ローマ帝国は無事、滅びることなく残り、五十年後には、太陽の沈まぬ帝国といわれた。
295世界@名無史さん:2011/04/30(土) 08:26:25.65 0
>>286
小説の感想

最高の名君と持ち上げているのに
血の巡りが悪そうな人物に描かれていて、少し疑問符が……
SSだから単純化させる必要はあったんだろうけど
あの情報量から「世界史最高の名君」の「世界史最大の名場面」と読み取るのはキツイ

まあ、大航海時代がオスマン帝国に与えた影響について勉強したくなったのと
思い入れが強いと暴走してしまって、逆に何が素晴らしいのか他人に伝えるのが難しいということが分かったので良かったです
296世界@名無史さん:2011/04/30(土) 08:44:20.31 0
シュレイマンは後継者選びを間違えた・・・
297世界@名無史さん:2011/04/30(土) 08:50:09.32 0
フランス王国も神聖ローマ皇帝王国と何の関係も無いし
スペイン王国も結局、神聖〜を分離したし
神聖〜そのものもオーストリアの大部分とハンガリア、モラビアを征服され大分縮小
1つの神聖〜とか意味不明だな
298世界@名無史さん:2011/04/30(土) 09:18:26.76 0
かつてフランスやイタリア北部もフランク王国であり、
カール大帝が最初に教皇から皇帝に戴冠されたわけだが、
そうなると後の神聖ローマ皇帝も理念的には全西欧の君主に対して、
上位者としてふるまうことができたの?

あくまで理念上は、皇帝が全西欧の世俗的最高権威者でいいの?
299記憶喪失した男:2011/04/30(土) 09:20:59.80 0 BE:1772659384-2BP(791)
>>298 いいんでない?
おれはいいと思ってるよ。
今のところ、否定材料はない。
否定材料は誤差の範囲だ。
300世界@名無史さん:2011/04/30(土) 09:26:27.13 0
フランク王国の東西分割と教皇国やその付随国の誕生によって
中世中期には否定されてるよ
301世界@名無史さん:2011/04/30(土) 10:04:17.28 0
何か妙だと思ったら
神聖ローマ皇帝=ハプスブルク家としているから妙に感じるんだな

皇帝位は理念上では王権より上位にあるが
ウィーン包囲の時点では、ヨーロッパを一つの神聖ローマ帝国と見るよりも
ハプスブルク家やヴァロワ家、テューダー家などの各君主家の並立と見た方が実情に即している
イタリア戦争から、神聖ローマ皇帝の普遍性は低下していくからなー
302世界@名無史さん:2011/04/30(土) 12:07:35.36 0
十字軍時代なら、皇帝>>>英仏その他の国王でOK?
303世界@名無史さん:2011/04/30(土) 12:27:41.93 0
>>302
十字軍時代なら教皇vs皇帝の方が重要
その他の国王でも教皇のお墨付きがあれば、皇帝と互角に戦えた
304オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/04/30(土) 15:06:28.14 0
>>291
第一次ウィーン包囲でのヨーロッパへの直接的な影響は何よりも、
ハプスブルク家に恐怖心を植え付けたことが大きいと思う。前に、
読んだ河野淳氏の「ハプスブルクとオスマン帝国」という本によれば、
ハプスブルク家の対オスマン政策がハプスブルク帝国の政治の、
基礎(情報戦略などによる実証的な政治)を作ることになったらしいし。

>>293-294
確かイスラーム圏ではすでに地球球体説は受け入れられてた気がするよ。
ソースは何かと訊かれたら学校の授業としか言いようがないんだけど・・・・。
まぁ、でも全体的には面白かった。カール5世のキャラがイメージと違うけど。

>>296
確かにセリム2世はお世辞にも有能とは言えないスルタンだったね。でも、
スレイマン1世は治世後期に官僚機構をかなり整備したためたとえ無能な、
スルタンが続いても官僚たちがそれをサポートすることでオスマン帝国を、
支えることに成功したと林佳代子氏は言ってるね。実際、セリム2世の時も、
オスマン帝国屈指の名宰相であるソココルル・メフメト・パシャが支えたし。
それにしてもスレイマン1世がバヤズィトを見殺しにしたのが良く分からない。
ムスタファが殺されたのは、ロクセラーナの子じゃなかったからだろうけど、
バヤズィトの場合は何故だろう?セリムよりはまだマシな気がするんだけど。
305オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/04/30(土) 15:08:44.93 0
>>304誤字訂正
×林佳代子氏
○林佳世子氏
306世界@名無史さん:2011/04/30(土) 15:54:29.02 0
原発事故は韓直人が政治パフォーマンスで余計な時に行ったから
処理が遅れて爆発したんだ。

管 直人のこの世界的犯罪を誤魔化そうと必死だなw民主党とマスゴミの
在日のクズ共がw

原発の爆発の
管 直人の責任はどうとらせるよ?全く朝鮮人ってロクなことしやしねえ



307世界@名無史さん:2011/04/30(土) 19:43:16.92 0
誰がやっても変化が無いってことは、別の集団が本体ってことですよ
308世界@名無史さん:2011/05/01(日) 20:14:36.40 0
>>249>>251>>255>>257>>261-262>>284-285
クリミアとオスマン帝国との関係で言えば、
クリム・タタールの貴族出身でオスマン帝国にも留学した
イスマイル・ガスプラル(ガスプリンスキー)も挙げておかないとな。
309オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/05/01(日) 22:07:11.27 0
>>308
イスマイル・ガスプリンスキーは、かなり世俗的で現実主義的な、
民族主義者だったね。まぁそれでもロシアからは疎まれてたけど。
汎トルコ主義はオスマン帝国・ロシア帝国共に大きな影響だった。
310世界@名無史さん:2011/05/02(月) 20:59:47.40 0
>>308-309
ガスプラルは「新方式」(ウスーリ・ジャディード)に基づくマドラサを創立したり、
新聞『翻訳者(テルジュマン)』紙を発行するなどしてジャディード運動の先鞭をつけた。
ガスプラルが、トルコ系諸民族の「言語・思想・行動における統一」のために、
『翻訳者』紙を通じて普及させようとした「ボスポラスから中国国境まで」理解可能な
共通トルコ語はオスマン語を基礎にしていた。
311世界@名無史さん:2011/06/09(木) 00:29:41.05 0
>>1
兄弟殺し・幽閉の掟だけはいくない。
とどのつまり、スルタンもハーレムの奴隷だった。
312世界@名無史さん:2011/06/09(木) 01:50:52.70 0
>>311
兄弟殺しについては、17世紀以降行われなくなり、
オスマン王家の最年長の男子がスルタン位を継承するパターンが出来上がる。
1876年に発布されたオスマン帝国憲法第3条には、
「オスマンの至高なるスルタン位はイスラームの偉大なるカリフ位を有し、
 古来の方法に従ってオスマン家の最年長男子に帰する。」
とある。

また、>>304にもあるように、
オスマン帝国に限らずどの国においても、
政策の立案から施行に至る過程の大部分を実際に担ったのは官僚である。
君主によるワンマン運営ばかりを絶対的なものとみなすな。

林佳世子『オスマン帝国500年の平和』(興亡の世界史10) 講談社 2008年。
大河原知樹・秋葉淳・藤波伸嘉訳「オスマン帝国憲法」
 粕谷元編『トルコにおける議会制の展開―オスマン帝国からトルコ共和国へ』 東洋文庫 2007年。
などの近年の研究成果を参照せよ。
313オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/09(木) 06:01:30.16 0
>>312
オスマン帝国は一般的に専制君主による中央集権的な政治体制がとられたと、
言われてるからね。まぁそれは間違いじゃないけどそうは言っても実際に多くの、
政策の立案・施行などする場合は少なからず官僚の力を借りなければならない。
スレイマン1世などスルタン自身が有能で積極的に政治に関わってた時期だろうと、
セリム2世みたいにあまり有能とは言えない場合だろうと官僚がそれらスルタンを、
支えてるね。後に近代化政策を行なう時も多くのオスマン官僚が活躍してるしね。
314世界@名無史さん:2011/06/10(金) 05:11:46.38 0
315世界@名無史さん:2011/06/11(土) 01:51:43.01 0
オスマンには世襲の貴族が居なかった。
316世界@名無史さん:2011/06/11(土) 03:35:48.59 0
イェニチェリは世襲でしょ
317オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/11(土) 05:35:38.59 0
>>315
まぁ世襲で同じ役職についてるのはあるけど、西欧みたいに正式に、
国から称号をもらって世襲にさせるような貴族は確かにないかもね。
オスマン帝国における世襲された役職としては>>316の挙げている、
イェニチェリの他にスィパーヒーや徴税請負人なんかもそうだったね。
318世界@名無史さん:2011/06/11(土) 15:40:53.60 O
弟殺しがなくなった後は弟の飼い殺しになっただけだ
319世界@名無史さん:2011/06/11(土) 16:04:43.67 0
飼い殺されるのと殺害されるのと、どっちがいいんだろうねw
320世界@名無史さん:2011/06/11(土) 16:08:16.07 0
忘れさられた頃に毒殺するんでしょ
321世界@名無史さん:2011/06/11(土) 23:39:39.69 0
皇室の藩屏がないスルタン
322世界@名無史さん:2011/06/11(土) 23:40:19.62 0
スルタンに子ができなかったらどうなるの?
323世界@名無史さん:2011/06/11(土) 23:40:50.03 0
イェニチェリはセクス禁止でしょ
324オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/11(土) 23:53:06.51 0
>>322
だからオスマン帝国後期には兄弟殺しはなくなり幽閉するだけに留めた。
万が一の時に弟がスルタンになれるからね。まぁハーレム制度があったし、
スルタンに子が出来なかったことはほとんどなく、兄弟殺しが行なわれてた、
前期オスマン帝国にはそういうスルタンはいなかったからね。不思議だけど。

>>323
最初の頃こそそういう規則が守られてたけど時代と共に形骸化していき、
17世紀頃には妻帯もして子供を作るようなイェニチェリは普通にいたよ。
325世界@名無史さん:2011/06/12(日) 03:46:08.43 0
そろそろ皇太子もX子様のためにヒゲのあの一家を・・・・・するのかな?
326世界@名無史さん:2011/06/12(日) 09:46:51.23 0
>>276
トルストイ『アンナ・カレーニナ』(1873-77)の最後の方で、
登場人物のヴロンスキーが義勇軍を率いてセルビアに向かう場面があるが、
これは同時期の露土戦争(1877-78)と関係している。

1877-78年の露土戦争については、ロシア側からの視点ではあるが、
田中陽兒・倉持俊一・和田春樹編『世界歴史大系ロシア史2』(山川出版社、1994年)
に詳しく書かれてある。
327世界@名無史さん:2011/06/15(水) 17:41:45.77 0
オスマン帝国スルタンはハーレムの籠の中の鳥だから、ピョートル大帝のような人間が出なかった。
328世界@名無史さん:2011/06/15(水) 22:27:58.66 0
>>327
いい加減スルタンによるワンマン運営ばかりを絶対視するような見方はやめろ。
スルタンだけでなく、官僚以下の階層にも注目しろ。
近年では、庶民にも焦点を当てた社会史の研究成果が着々と出されているから
それらを参照しろ。
329オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/15(水) 22:51:01.17 0
>>328
スレイマン1世がオスマン帝国の官僚機構をかなり整備したこともあって、
それ以降のオスマン帝国では官僚主導の政治が行なわれてた訳だしね。
スルタンの能力だけに注目すべきではないね。
330世界@名無史さん:2011/06/16(木) 16:38:42.58 0
AKBの「ユキチカ!」で特集やるっしょ
331世界@名無史さん:2011/06/16(木) 19:45:22.68 0
332世界@名無史さん:2011/06/17(金) 20:55:27.30 0
凄いモノ見つけたw
その名も侍メタルバンド ZENITHRASHのジェッディン デデンだって
http://www.youtube.com/watch?v=rO2p0_C8Uds
333世界@名無史さん:2011/06/19(日) 23:11:46.35 0
>>328-329
スルタン主導による政治というとメフメト2世やスレイマン1世ばかりが注目されるが、
スルタン主導による近代化を推進したセリム3世、マフムート2世、
アブデュルハミト2世は無視するのかね?
スルタン主導による運営がいい、という奴らは、スレイマン1世ばかりを挙げるが、
それ以外の(特にオスマン帝国近代の)スルタンを挙げないのはいかがなものか?

近年、研究がすすめられているオスマン帝国近代史への関心が薄すぎる。
334世界@名無史さん:2011/06/19(日) 23:17:26.46 O
オスマン愚帝列伝が読みたい
335オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/19(日) 23:24:52.28 0
>>333
別にスルタン主導による政治が良いとは言ってないけど。17世紀以降の、
オスマン帝国では官僚主導の政治になってたのだからスルタンばかりに、
注目するべきじゃないよと言った訳で、別に近代オスマン帝国への関心が、
薄い訳ではないよ。まぁ、確かに近代になるとマフムト2世みたいに結構、
リーダーシップを発揮するようになるスルタンも増えてるからね。その一方、
タンジマートなどに見られるように近代は近代で官僚も活躍してたんだけど。
近代オスマン帝国はスルタン主導の時代(アブデュルハミト2世など)と官僚、
主導の時代の両方があったからね。
336世界@名無史さん:2011/06/25(土) 11:13:57.16 0
「新たなオスマン帝国の出現か?」米ニューズウィーク誌のトルコ評 2011年06月20日付 Radikal紙
http://www.radikal.com.tr/Radikal.aspx?aType=RadikalDetayV3&Date=20.6.2011&ArticleID=1053431&CategoryID=81

アメリカの週刊誌ニューズウィークに掲載された記事の中で、「トルコがその力を示すにつれ、近い将来、
息を吹き返したオスマン帝国と直面することになるかもしれない」との見解が述べられた。

ニューズウィーク誌のニオール・ファーガソン記者の「中東の次のジレンマ」というタイトルの記事で、
「大中東地域に駐留する米軍兵士の削減について、アメリカの共和党の党首候補者らと大統領の間で
調整が行われている」とし、「誰一人答えようとしない質問は、アメリカが手を引いたあと、この地域で
何が起きると思うかという質問だ」と伝えられた。

記事では、この状況で起こりうる3つのシナリオを挙げている。
<幸せのシナリオ>では中東地域諸国が次々と西洋的民主主義に組み入れられていく、
<悪夢のシナリオ>は内戦またはイスラム革命が勃発するというものであるのに対し、
<第3のシナリオ>では「オスマン帝国の再生」が挙げられた。

この記事では、オスマン帝国が17世紀までに獲得した地域や、帝国領の広大な地理を説明し、
18〜19世紀にはバルカン半島と北アフリカの領地のほとんどを失い、「ヨーロッパの病人」と言われ、
第一次世界大戦後に帝国が消滅してトルコ共和国が建国したと紹介されている。

■エルドアンがもたらした変化

記事では、最近までは、トルコがEUに加盟するかどうか、加盟するならそれはいつか、という質問が
されており、トルコ建国の父アタテュルクがはっきり示したように、トルコ人が自分達の視線をはっきりと
欧米化にむけていたとみられるが、「首相がエルドアンになった2003年以降、この方向性に変化が
起きていること」について触れられた。

また、エルドアンがかつてイスタンブル広域市長を務めていた時に、それを読んだために投獄された
という詩を引用して、「はっきりいえることは、エルドアンの希望は、トルコをアグレッシブなイスラム国家
にすることのみならず、同時に地域の超大国とし、アタテュルクよりも前の時代に戻そうという方向にある」
とのべている。
337世界@名無史さん:2011/06/25(土) 11:15:58.12 0
記事は「エルドアン首相の、世俗主義の牙城である司法・マスコミ・軍隊に対しおそらく自身の権力を
高める形で進めている憲法改正の努力、イスラエルがガザ地区で「国家テロ」を行っていると次第に
そのトーンを高めて行っている批判、「アラブ諸国の春」がもたらした機会を利用し、シリアを強く非難する
一方イランを支配下に収めようとする努力、さらに自分自身を主役として宣伝することなどの巧みな戦略が、
トルコの変化を物語っている」と伝えている。

■オバマの訪土は偶然ではない

また記事では、アメリカ合衆国大統領のバラク・オバマが外国訪問の最初の目的地の一つにトルコを
選んだのは偶然とは思わないと述べられた。公正発展党(AKP)が今回の選挙にも勝利し、3期連続で
政権を獲得したことも驚くべきことではないとし、「けれども私たちは、エルドアン首相をもっと近くで
見ていく必要がある。なぜなら、エルドアン首相が、トルコを、スルタン・スレイマン1世も驚くような形で
変化させようと妄想していると疑うに十分なほどの理由があるからだ」と論じた。

エルドアンが選挙後に行ったバルコニー演説での、「イスタンブルと同じくらいサラエヴォも勝った。
イズミルと同じくらいベイルートも勝った。アンカラと同じくらいダマスカスも勝った。ディヤルバクルと
同じくらいラーマッラー、ナーブルス、ジェニン、ヨルダン川西岸地区、エルサレム、ガザも勝った」
という発言を掲載し、「エルドアン首相はあるとき、民主主義を電車に例えて“駅に到着してから
下りればいいのです”と言った。もしエルドアン首相のリーダーシップの下、“中東に新しいムスリムの
帝国を建設する”方向性が浮かび上がるのならば、その時は私たちを大きな驚きが待ち構えている、
ということになるだろう」と締めくくった。
338世界@名無史さん:2011/06/25(土) 11:18:47.38 0
オスマン復興ならば
イスラム原理主義は確実に衰えて
スーフィズム優勢になるかもしれんね。
339世界@名無史さん:2011/06/25(土) 11:34:36.22 0
オスマンの強さって出自・民族・宗教に囚われない人事登用なのに
今のトルコは世界で(恐らく南北朝鮮と並んで)最も狂気じみた
愛国教育を行ってるから復活は絶対にない
340世界@名無史さん:2011/06/25(土) 11:41:43.64 0
キルギス、カザフスタンがトルコのこと嫌っているのには道理があるわな
あの辺がロシア・中国・モンゴルとの付き合いを大切にしてトルコと距離置くのは自然
341世界@名無史さん:2011/06/25(土) 11:43:43.47 0
>>339
クルド語解禁したから以前よりは緩和されていると思うけど
342世界@名無史さん:2011/06/25(土) 17:01:13.06 0
オスマン帝国ってイラン統治したこと無いよな?
>>339
完全に西欧米的な愛国教育だよね、オスマンと相容れない
343世界@名無史さん:2011/06/25(土) 17:39:51.02 0
いまさらトルコがアラブ世界をも率いる超大国になるって、ありえんわ・・・・。
そんなことになるくらいなら、汎アラブ主義を旗印にまとまるほうが、まだ確率高いわ。
イスラム世界に疎いなら、中途半端な記事かかなきゃいいのに。
344世界@名無史さん:2011/06/25(土) 20:32:59.00 0
>>339
1876年に発布されたオスマン帝国憲法には次のようにある。
第8条「オスマン国籍を有する者は全て、いかなる宗教及び宗派に属していようとも、
   例外なくオスマン人と称される。オスマン人の資格は、
   法律の定めるところにより、取得又は喪失される。」

第17条「全てオスマン人は法律の前に平等であり、宗教宗派上の事項を除き、
    国に対する権利及び義務において平等である。」

第19条「国家の官職において、全て臣民は、その適性及び能力に応じて
    適切な官職に就くことができる。」

出自・民族・宗教に囚われない人事登用はオスマン帝国近代史においても見られ、
官僚や議員となった非ムスリム、非トルコ人も多くいる。
345世界@名無史さん:2011/06/25(土) 22:15:20.93 0
トルコ人にとっては、トルコ国家解体の危機のときに、
ギリシア人はじめ内部の異分子が解体に拍車をかけたのが、ぬぐい難い記憶になった。
残念だろうが、仕方がないんだ。
346世界@名無史さん:2011/06/26(日) 14:27:06.82 O
それで凄まじい大虐殺をして周辺部に嫌われたのか
347世界@名無史さん:2011/06/26(日) 15:21:37.48 0
虐殺すらしてないでしょ、あれが凄まじい大虐殺なら
列強の大半は超凄まじい大々虐殺を何度もやったし
348世界@名無史さん:2011/06/26(日) 22:50:17.32 0
>>326>>332
1877-78年の露土戦争で、バルカン側の戦線のひとつプレヴネ要塞で
ロシア軍をおよそ5ヶ月間食い止めた英雄、
ガーズィー・オスマン・パシャを題材にした曲もあった。

ttp://www.youtube.com/watch?v=hNfePySE1VI
349オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/27(月) 06:44:30.70 0
>>345
オスマン帝国及びトルコ共和国のナショナリズムはギリシャ人やスラヴ人などの、
国内の異民族のナショナリズムに後押しされて発展したからね。オスマン帝国は、
彼らを帝国の臣民としてつなぎとめようとし>>344で挙げた憲法などで多民族的な、
ナショナリズムを確立しようとしたけど、結局帝国内の異民族の分離は避けられず、
その結果汎トルコ主義に走ったというのが主流の見方だね。ただし新井政美氏は、
それ以降も完全に民族の壁を越えた普遍的なナショナリズムを目指そうという動きが、
途絶えた訳ではないと言ってるね。それはトルコ共和国になってからも同じらしい。
350オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/27(月) 06:48:40.34 0
>>349補足
もう少し正確に言うと汎トルコ主義に走る前にアブデュルハミト2世が、
汎イスラーム主義に一度走ってるんだけどね。
351世界@名無史さん:2011/06/27(月) 17:39:58.35 0
>>336
><幸せのシナリオ>では中東地域諸国が次々と西洋的民主主義に組み入れられていく、
><悪夢のシナリオ>は内戦またはイスラム革命が勃発するというものであるのに対し、

幸せ・悪夢の両シナリオは無論、欧米・イスラエルの動きも重要になる。
単純なものではない。

><第3のシナリオ>では「オスマン帝国の再生」が挙げられた。

どうオスマン帝国が再生するのであろうか?今更スルタンが復帰する余地があるか?
アラブの権力者は力を持ち過ぎている。小アジアはベドウィンが中心のアラブとは本来文化的に全く違うし、
ここまで民族主義と共和制、近代化が行き渡った現在でオスマン帝国のスルタン制が復活する事は不可能に近い。
帝国成立期は近代化志向の概念がなく、民族意識が希薄な封建領主と領民がいるだけであった。
352 ◆axCVsGomao :2011/06/27(月) 23:04:27.60 0
何の正統性も無いアラブ諸国がイスラムを唱えても団結できないんだよ
353オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/27(月) 23:56:52.48 0
>>351
オスマン帝国成立期は13世紀末だから、時代的に考えて近代化志向が、
あった訳がないし。最近のトルコ共和国ではオスマン帝国への再評価が、
高まってるとは言え、あくまでそれは懐古主義的なものに留まってる感じ。
オスマン帝国の復活まで唱えるのは少数派だね。
354世界@名無史さん:2011/06/28(火) 03:16:35.91 0

オスマン帝国で男色が極めて盛んだった理由は何でしょうか?



355 ◆axCVsGomao :2011/06/28(火) 07:23:32.15 0
男と女が対等な関係でないことに起因している気がするな
男色自体はどこの世界でもよくあることだけど
356オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/28(火) 07:56:01.22 0
オスマン帝国に限らず当時のイスラーム圏では男色が結構盛んだったしね。
隣りのサファヴィー朝でも美少年宿があったりして男色が流行ってたからね。

357世界@名無史さん:2011/06/29(水) 01:56:53.21 0
当時どころか、いまでも辺境にいけば・・・・。
イギリスのドキュメンタリーで、アフガンの少年買春の話が取り上げられておりました。
ttp://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/101109.html
358世界@名無史さん:2011/06/29(水) 23:14:13.34 0
>>308-310>>349-350
汎トルコ主義に大きな役割を果たしたのは、
イスマイル・ガスプラル(ガスプリンスキー)よりも、ユースフ・アクチュラだ。

アクチュラはカザン近郊の富裕なタタール人ブルジョワの家に生まれ、
幼時にイスタンブルに移住し、士官学校を卒業するが、
青年トルコ人運動への加担が発覚して逮捕され、トリポリに流された。
そこからパリへ脱出して勉学を続けた後、
カザンへ戻ってロシアにおけるトルコ系ムスリムの民族運動に参加。
ロシア第1革命(1905年)の挫折後、イスタンブルに移って
『テュルク・ユルドゥ』の創刊や、トルコ・ナショナリストの団体
テュルク・オジャウの設立に主導的役割を果し、
汎トルコ主義の運動を盛上げた。第1次大戦末期にはロシア領内で
捕虜となったトルコ兵の救援に努力した。
トルコ共和国成立後は汎トルコ主義を捨て、
共和国の路線に沿った民族主義的歴史観の確立に貢献し、
トルコ歴史学協会の会長も務めた。
359オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/06/29(水) 23:36:51.82 0
>>358
個人的にはアクチュラは当時の一般的な民族主義者で、ガスプリンスキーは、
民族主義の盛んだった当時にしては割りと現実的で穏健な民族主義者という、
イメージ。僕が>>349-350で書いたオスマン帝国におけるナショナリズム政策の、
変遷もアクチュラの論文がもとだし、アクチュラの存在も忘れるべきではないね。
360世界@名無史さん:2011/07/11(月) 00:04:16.15 0
>>350
ムスリムと非ムスリムの人口比率がおよそ3:1となったアブデュルハミト2世期には、
汎イスラーム主義は、「オスマン国民」の統合と育成という理念とは背馳せず、
むしろこれを促進させる作用を果たした。
361世界@名無史さん:2011/07/11(月) 00:40:35.64 0
>>86
とはいえ、ユダヤの側からすると不平等で屈辱的な共存であったことには変わりない。
殴られても文句言えないとか、イスラム教徒とすれ違うときはずっと頭を下げていろとか。
362オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/11(月) 04:35:08.03 0
>>360
そうだね。ただし汎イスラーム主義には問題点もあり、列強諸国を敵に、
回しすぎるというのが、特に問題だった。イギリスやフランスなど列強の、
多くはその植民地にイスラーム圏を少なからず抱えてるからね。あまり、
汎イスラーム主義をあおるとそれらの国を刺激してしまう可能性がある。
その一方で、汎トルコ主義ならば敵に回すのはロシアだけですむので、
オスマン帝国はこの方針をとるべきだと言ったのがアクチュラなんだよね。
まぁ確かにアクチュラの言い分にも一理あるんだけど現実にはそれすらも、
上手くいかなかったんだよなぁ。どちらも理想主義的な部分が大きすぎたね。

>>361
さすがにそれは誇張しすぎな気がするなぁ。まぁとは言え、当時のオスマン帝国が、
平等な社会であった訳でもなく、ユダヤ人との共存と言ってもあくまでイスラームが、
優位な状態での共存だからね。ジズヤなんかは普通に払わないといけない訳だし。
でも「殴られても文句言えない」や「すれ違うときはずっと頭を下げる」は言いすぎ。
363世界@名無史さん:2011/07/11(月) 18:49:45.84 0
オスマン・トルコって宗教的な寛容が特筆されることが多いけど
一時期の西洋に比べればマシってだけで普通に人間の尊厳とか無視する屑国家だよね
364オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/11(月) 18:56:15.26 0
>>363
具体的に何のことを指して言ってるのか分かりかねるけど、
まぁ、時代によってはアルメニア人虐殺とかもやってるしね。
過度な理想化は良くないね。まぁ、当時のオスマン帝国が、
西欧に比べ宗教的に寛容だったのは事実なんだけど。
365世界@名無史さん:2011/07/11(月) 21:50:06.80 0
アルメニア人虐殺は19世紀末から20世紀初頭に三回あったと思う。
大体ロシアでボグロムが行われた時期と重なっていると思う。
三回目はオスマン帝国が解体して、アルメニア人、トルコ人、ギリシャ人が
それぞれ武装勢力として戦闘を行っていた時期だわな。
アルメニア人救出作戦で英仏軍が各地を占領した。
直後にユダヤ人がパレスチナに入植を開始した。
アルメニア人虐殺はその後の欧米のコソボ・チェチェン・リビア等の内戦介入の
モデルケースとなったと思う。
366オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/11(月) 21:55:03.80 0
>>365
そのせいで今でもトルコ人の中にはアルメニア人を英仏という、
虎の威を借る狐みたいに思ってる人がいて、アルメニア人への、
憎しみが未だに消えてないんだとどこかで聞いたけど実際はどうなんだろう?
367世界@名無史さん:2011/07/11(月) 21:57:39.38 0
アルメニア人に負けているアゼリー人って、一体どれだけ弱いんだ?
368世界@名無史さん:2011/07/12(火) 05:10:58.44 0
>>362
いいや。ムシャクシャしたらユダヤ人は殴ってOKだったよ。
ユダヤとイスラムがすれ違っても、ユダヤは頭を下げていなければならない。
ジズヤ如きでは済まないよ。ジズヤの納付手続きだって屈辱的に演出
されてたりするし。
369オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/12(火) 05:21:25.05 0
>>368
まぁ多少はそういう迫害もあったとは思うけどそこまで露骨なのが、
社会制度として一般化されてたとは思えないよ。ソースが知りたい。
370世界@名無史さん:2011/07/12(火) 20:29:41.42 O
アリ・パシャ
371世界@名無史さん:2011/07/12(火) 21:40:48.12 0
ヌリ・パシャ
372世界@名無史さん:2011/07/12(火) 21:44:00.71 0
>>366
今だにそういう亡命キューバ人を見るような思いはあるだろう。
実際、そういうアルメニア人虐殺の時にはテロ活動をしてきたからな。
しかし、今はどっちかいうと要注意はクルド人とイラクのシーア派民兵とアルカイダだわな。
一応イスラム教徒ではあるが、諜報機関と欧米の傭兵がどれだけ入っているか分からん。
表向き反米を掲げても、かつてのアルメニア人と同じような動きをしていると思う。
アルメニア人で悪ければ十字軍と組んだアサシン派だ。
これが中国で言う「借刀殺人」であろう。シリアの武装勢力というのも、シオニスト関係ではないか。
シリアの反政府集会というのがシオニストの集会だったというニュースがあったからし、
警察120人もぶっ殺すのはプロっぽい。
373世界@名無史さん:2011/07/29(金) 23:54:06.06 0
オスマン帝国にオルハン二世が出なかったのには何か理由があるの?ジョン王みたいな。
374オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/07/30(土) 08:28:10.45 0
>>373
たまたまでしょ。ジョン王と違ってオルハンはオスマン帝国において、
評判の悪いスルタンじゃないし。むしろそれなりに有能なほうでしょ。
375世界@名無史さん:2011/07/30(土) 10:22:00.34 0
ハノーファー王国
376世界@名無史さん:2011/08/09(火) 03:36:21.90 0
オスマン帝国で最も男色好きだったスルタンは誰ですか?
スルタン以外でも少年愛が大好きだった著名な人物とか総督などに就いて
教えて下さい。

377世界@名無史さん:2011/08/10(水) 18:19:36.29 O
イスラム教徒は宗教的義務として、ザカート(喜捨)をしなければならない。
これにより毎年自由に使えるお金のうち四分の一は貧者や社会的弱者へ寄付する事になる。

これは日本人のイメージする募金とは桁が違い、実質貧者救済の為の税金のようなもの。
たとえ住む地区は違っても同じ社会に属してサービスを受けている以上は、異教徒だからと
タダ乗りされては困るし、それなら国家が税金を課すしかない。

ってアラブ人の友人が言ってて、それは一理あると思った。
378 ◆axCVsGomao :2011/08/12(金) 08:20:19.33 0
>>377
ザカートは義務だから税金みたいなもの
自由意志による寄付はサダカ

379 ◆axCVsGomao :2011/08/12(金) 08:20:52.90 0
モスクは寄付で運営されているんだっけ
380オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/08/14(日) 15:11:18.88 0
>>377
林佳世子氏によるとオスマン帝国においてはザカートによる、
女性たちなどの投資が帝国内の経済を支えてたみたいだね。
有力者たちがザカートの名目でモスクなどを運営することで、
オスマン帝国の経済は回ってたと「興亡の世界史」に載ってた。
381世界@名無史さん:2011/08/15(月) 12:46:47.78 0
>>379
ワクフってたしかに寄付の一種なんだろうけど
寄付と聞いて思い浮かべるイメージと違うからときどき困惑する
382世界@名無史さん:2011/08/16(火) 00:15:55.86 0
>>380-381
オスマン帝国では、ワクフ財の管財人は、
19-20世紀には地方政治にも参加するようになった。
地方の行政評議会(meclis-i idare)には、
裁判長(naib)や徴税官などと並んでワクフ管財人が参加する場合もあった。
383世界@名無史さん:2011/08/24(水) 22:20:42.60 0
ワクフはアタチュルクの改革対象になっていないの?
384オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/08/24(水) 22:38:29.45 0
>>383
ちゃんとなってるよ。ワクフを管理するワクフ省とかいうのを廃止して、
さらに家族ワクフと呼ばれる脱税目的のワクフも禁止されてるからね。
現在は、政教分離の名のもとでワクフは一応私有化されてたと思うし。
385世界@名無史さん:2011/08/27(土) 14:36:31.16 0
ソコルル・メフメット・パシャは
妻の父親にあたるセリム2世に個人的にも好意を持っていたんだってな
セリムは素面のときはいい人だったってことか?
386オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/08/27(土) 14:45:26.48 0
>>385
へ〜、ちょっと意外な感じはするなぁ。セリム2世は、
どうしてもアル中のイメージが大きくて、あまり良い、
イメージがないから。でも何だかんだでソコルルは、
セリム2世を色々な面で支えてたし嫌いではなかったのかな。
387世界@名無史さん:2011/08/30(火) 21:24:09.98 0
オスマン帝国と大日本帝国、どこで差がついたか? 慢心、環境の違い。

リアルにどこよ? 
388 ◆axCVsGomao :2011/08/30(火) 23:04:13.47 0
西欧からの距離だろ
389オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/01(木) 15:25:51.76 0
>>388
近代オスマン帝国は日本以上にヨーロッパ列強諸国の干渉を、
受けてたからね。東方問題とかに代表されるように列強諸国の、
利害が対立しやすい場所にあったし。とは言えオスマン帝国も、
それを上手く利用することで生き延びてた面もあるんだけどね。
東方問題を見てるとオスマン帝国はバルカン半島を征服しない、
ほうが良かったんじゃないかとすら思えてくる。そうすれば変な、
列強同士の対立にも巻き込まれずじっくりと内政に励めたかも。
まぁ、列強の対立を利用できない分、オスマン帝国はもっと早く、
滅んでたかも知れないけど、そこら辺は単なるIFの問題だしね。
390世界@名無史さん:2011/09/04(日) 08:53:05.57 0
>オスマン帝国はバルカン半島を征服しないほうが良かったんじゃないかとすら思えてくる。

オスマンが大を成した原因は、トルコ人が不得意な分野を他の民族に任せたからだけどな
海運・海軍はギリシア人など、海に慣れた民族にやらせていた
でもナショナリズムが勃興する時代になるとそれがうまくいかなくなった
391オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/04(日) 09:20:00.36 0
>>390
確かにオスマン帝国は多民族国家だったからこそ発展した訳だからね。
近代になっても官僚なんかには結構トルコ人以外の民族も多かったし。
まぁでも一方で近代になるとナショナリズムが盛んになってしまったから、
そして列強がそれを利用しようとしたから近代化が進めにくくなったんだし。
上でも言ったようにだからこそ20世紀まで帝国を保てたという面もあるけど。
392世界@名無史さん:2011/09/05(月) 13:48:46.85 0
イブラヒムってどんな人だったの?マジでやばいの?
393オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/05(月) 14:39:02.60 0
>>392
イブラヒムってオスマン帝国の第18代スルタンのほうのことだよね
(オスマン帝国でイブラヒムだとスレイマン1世の宰相のことを言う、
場合もあるから)?彼は後継者争いの激しかったオスマン帝国の、
典型的な犠牲者というイメージがある。まぁ彼は単に無能なだけで、
後継者争いによる精神的衰弱だけが狂気のもとではないという人も、
いるみたいだけど。それでもハレムの女を袋詰めにして投げるとか、
普通に精神異常者っぽいかなぁ。下のサイトに結構詳しく載ってるよ。
http://f43.aaa.livedoor.jp/~choku/ibrahim001.html
394世界@名無史さん:2011/09/05(月) 14:51:28.08 0
なるほど
まあ確かにあんな弟やら兄貴やら殺して皇帝になるっていうルールがあるんじゃ
気が狂っちゃうのも仕方ない気がする・・・
そう考えるとメフメト二世とかスレイマンて図太かったんだろうなぁ
395オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/05(月) 15:26:49.28 0
>>394
一応、通説ではセリム1世にはスレイマン1世以外に男児がいなかったから、
スレイマン1世の即位時はオスマン帝国特有の熾烈な後継争いはなかった、
はずだよ。だから神経衰弱にならないんじゃないかな。まぁスレイマン1世の、
息子たちは後継争いしてるけど。一方でメフメト2世は兄弟と後継争いしたね。
彼らの他にも熾烈な後継争いしててもそこまで精神衰弱してないスルタンが、
それなりにいるからそこら辺は個人の精神の強さの違いなのかな。とは言え、
後継争いも時期によって苛烈さに違いがあるから一概には言えないんだけど。
396世界@名無史さん:2011/09/10(土) 07:41:01.13 0
>>387
宗教じゃね?
シャーリアを捨てない限り、宗教改革を済ませて強大化した列強には対抗できない
特に科学技術の点では致命的。イスラムは12世紀以後世界の科学技術の進歩についていけなかった。
日本や信長以後は宗教が政治や生活まで規律することがなくなったからな
397世界@名無史さん:2011/09/12(月) 10:11:02.24 O
>>786
オスマン朝アナトリアとマムルーク朝エジプトとパライオロゴス朝ビザンツの鼎立が望ましい。
398世界@名無史さん:2011/09/12(月) 10:32:26.39 0
>>396
> 日本や信長以後は宗教が政治や生活まで規律することがなくなったからな

これはウソだろ。
信長以前と以後でそんなに違わないよ。

足利将軍は代々禅宗の熱心な修行者だったが、
徳川将軍はそれほどでもなかった
(浄土宗に帰依していたが、宗派の性質上、修行とかそういう問題じゃなく
熱心さもおのずから足利氏ほどじゃなかった)
っていう点は違うけど。
399世界@名無史さん:2011/09/12(月) 10:36:43.30 0
むしろそれなら、どうして中世までは
厳格な戒律をもったイスラム教徒が科学を先導できていたのか?
って話になるな。
宗教はあまり関係ないだろ
400世界@名無史さん:2011/09/12(月) 11:51:17.91 0
中世のイスラーム世界にあったのはテクノロジーであってサイエンスではない
401世界@名無史さん:2011/09/12(月) 11:52:45.40 0
>>398
社寺の領地が膨大で軍事組織を持っていたという点で
中世はやはり江戸時代以降とは違う世界だったよ。
402オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/12(月) 23:12:30.51 0
>>400
テクノロジーとサイエンスの具体的な定義の違いは色々あるだろけど、
たとえイスラーム科学がテクノロジーだったとしても>>396では技術も、
挙げてるんだから、結局は技術(テクノロジー)と宗教は無関係という、
話になると思うけど。まぁ、でも確かにヨーロッパにおける宗教改革は、
ヨーロッパが発展する基礎になってる部分はあるからオスマン帝国で、
それが起こらなかったというのは差がついた理由として一理あるかも。
あ、でもそれはヨーロッパと比べて差がついた理由であって同じように、
宗教改革が起きてない日本との差の理由にはならないか。だとしたら、
やっぱり>>389で僕が述べたように西欧からの距離による列強諸国の、
干渉の差になるのかな。宗教云々よりそっちのほうが大きい気がする。
403世界@名無史さん:2011/09/12(月) 23:33:23.44 0
>>401
寺社が「領地と軍事力を持っていた」ことと、
「政治や生活まで規律していた」ってこととは違う。

むしろ、もし領地と軍事力だけの問題だったとしたら、
その領地外の人にとってはやはり関係なかった、ってことになるだろう。
(いくら寺社の領地が広大だからって、それ以外の土地の方が
ずっと大きかったことは間違いないわけで)

「科学技術の進歩」と「宗教」との関係を論じているわけだよね。
その場合、例えば
「もし日本国内の一部の地域で、寺社が軍事力を持っていたら
日本国内では自然科学は発達しなかった」というような推論は、
どう考えても成立しないと思う。
だから軍事力云々はあまり関係ないでしょ。
404世界@名無史さん:2011/09/13(火) 01:04:17.43 0
>>399
アッバース朝あたりまで、かなり啓蒙君主的なカリフが多いんだよなぁ。
神学者や哲学者が新プラトニズムの影響を受けて汎神論に近づいてって、
下々の素朴な原理主義者からの非難を受けても、カリフがしっかり押さえてる。
ましてや、天文学や数学や医学なんぞはほぼ自由にやって問題なしって感じ。
405世界@名無史さん:2011/09/13(火) 15:57:13.90 0
>>402
>西欧からの距離による列強諸国の、干渉の差になるのかな。宗教云々より
>そっちのほうが大きい気がする。

李氏朝鮮が自力で近代化できなかった理由をどう説明する?
タイ王国は?
406世界@名無史さん:2011/09/13(火) 16:12:15.36 0
>>402
西欧と距離が近いということは考え方を変えれば有利だったということになる
1593年に、イギリス大使がイスタンブルにやってきたとき、オスマン帝国の役人
セラニキ・ムスタファ・エフェンディは、イギリスの船を見て、
「このような船がイスタンブルに入港したことはない。3700マイルの海を横断してきた
この船には、さまざまな武器とともに83丁の銃が載せられていた。……時代の奇蹟であり、
このようなものを見たことも読んだこともない」
と記している。
このときに本格的に西欧文明について学ぼうとしなかった時点でアウト
407オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/13(火) 16:57:13.65 0
>>405
正直、朝鮮もタイも詳しくないから良く分かんないだけど、
朝鮮の場合は多分日本と清の板ばさみのため自発的な、
近代化が行いにくかったからかも知れない。タイのほうは、
ヨーロッパからは確かに遠かったけど周辺諸国の多くが、
列強の植民地だったからやはり干渉は結構大きかったと、
思うよ。まぁでも何だかんだ言ってタイやオスマン帝国は、
それなりに近代化政策に成功したほうだと思える。日本と、
比べると列強になれなかった分劣るけど、現在のトルコや、
タイはそれなりに発展してるからね。先進国か新興国程度。

>>406
1593年じゃ、まだ自分たちのほうがヨーロッパより優位だという、
自信のほうが大きいだろうね。レパントの海戦で負けたとは言え、
その頃のオスマン帝国はまだまだ結構な大国だったしね。もっと、
後だね、オスマン帝国がヨーロッパとの差に気付くようになるのは。

ところで篠原千絵氏の「夢の雫、黄金の鳥籠」が売られてたので、
買って読んでみた。ヒュッレムとイブラヒムの関係とか結構面白く、
描けてて良かったと思う。1巻はギュルバハルが悪役っぽい感じで、
終わったけど今後ムスタファが死ぬ時はどう描くんだろ?まぁでも、
上手く描いてくれるとは思うけど。
408世界@名無史さん:2011/09/13(火) 18:03:10.89 0
>>407
じゃあトルコだけが近代化に成功して、他のイスラム圏の国は近代化に
失敗したという理解でOKか?
409オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/13(火) 18:14:06.28 0
>>408
トルコだけというか、当時のイスラーム圏ってオスマン帝国以外は、
イランぐらいしかそれなりの大国がなかったでしょ。後はエジプトが、
オスマン帝国内の半独立国として近代化政策やってたぐらいかな。
まぁ他にもオマーンとかモロッコとかアフガニスタンもあったけどね。
イランはつい最近まで近代化を進めてたけどイラン革命のせいで、
それが終わったという感じ。エジプトやモロッコやオマーンのほうは、
近代化を進めてる間にヨーロッパ列強の植民地になってしまったし。
オマーンは海洋帝国築いただけで近代化政策はしてなかった気も、
するけど。アフガニスタンはオスマン帝国以上に列強同士の干渉を、
ある意味受けやすかった地域だったと思うからそこら辺の差かなぁ。
410世界@名無史さん:2011/09/13(火) 20:15:24.93 0
まあここはオスマンスレだから、オスマン帝国の歴史については俺よりも
詳しい人たちがいろいろ語ってくれると思うんだけどね、俺は現在の
グローバル化した世の中で、異なる文明に属する人たち同士がどうやって
共存するか、ということに興味があるんだよね
そして現在のところ、ムスリムは他者との共存に失敗しているといわざるをえない
ムスリムが自分たちの国で、シャリーアに則った理想の社会を作りたいというのなら止めはしない
でも欧州でもシャリーアを適用しろと要求するのは間違っている
欧州人だけでなく、他の人種もイスラーム化された社会で暮らしたいとは
思っていないわけだから
411オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/13(火) 21:16:34.97 0
>>410
ヨーロッパでもシャリーアを適用しろなんて唱えてるムスリムは少数派でしょ。
そもそも、ムスリムが多くてもシャリーアを適用してない国は結構あるからね。
このままだとスレチなのでオスマン帝国に関連付けて話すと、異なる文明の、
共存という点じゃ前近代のオスマン帝国はそれなりに上手くいってたね。まぁ、
多民族国家というのはオスマン帝国以外にも結構あるんだけど。近代以降は、
ナショナリズムの勃興によってそれが難しくなってきたから崩壊しちゃったなぁ。
ここら辺もオスマン帝国の近代化を妨げた要因の1つとして挙げられるかもね。
412世界@名無史さん:2011/09/13(火) 21:46:56.91 0
前近代のオスマン帝国が異民族を共存させていたことは知っているよ
もっとも対等な立場ではなく、ムスリムよりも一段下の立場でだけどな

で、現代のグローバル化した国際社会で、異なる文明同士が共存するには
どうしたらいいの?
413オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/13(火) 22:26:43.39 0
>>412
さあどうだろうね。そこら辺はオスマン帝国史どころか世界史とも、
あまり関係ない話だからスレチというか板違いのような気もするし。
414世界@名無史さん:2011/09/13(火) 23:18:55.42 0
バルカン半島の国々は、自国の近代化が遅れたのはオスマン帝国のせいだと
主張している
415世界@名無史さん:2011/09/14(水) 09:01:47.73 0
>>413
結局、2chのイスラム厨は異なる文明が共存する方法を提示することはできないってことだなw
416世界@名無史さん:2011/09/14(水) 13:50:51.37 0
>>415
お前は何を言ってるんだ?
そんな事がホイホイわかれば歴史上の紛争戦争のほとんどが起こってないわ。
ははん。お前さては、馬鹿だな?
417世界@名無史さん:2011/09/14(水) 14:42:52.13 0
地球上のどの文明にも普遍性などないと認める
他者に自分の流儀に合わせることを要求しない
他者に余計な干渉をしない
「理解」「共感」といった情緒的なことよりも、ドライでクールな「共存」を優先する


これでどうよ?



418世界@名無史さん:2011/09/14(水) 17:45:55.19 0
現代世界の共存について、近年のオスマン研究がオスマン帝国の支配に参考を
求めようとしている傾向はあるんじゃないの。少なくとも林佳世子氏とかは
そういうことを書いてるし、岩波書店の「世界の歴史」新版の五巻「帝国と支配」
でも、ローマ帝国や秦漢、オスマン、末期ハプスブルクなどにナショナリズムを
超える統治をテーマとしている。

なので、他民族支配に関して、オスマン朝の実態をこのスレでテーマにするのは問題
ないと思うけど、現代世界の方に比重があるのはスレ違いな気がする。

ところで、オスマンに易々とバルカン進出を許してしまったのは、
異教徒との共存を否定する西欧十字軍の頑迷さが、ビザンツ人には受け入れ
難く、それが結果的にオスマン進出を容易にしてしまった、という話がある。
オスマン支配とビザンツ支配には、共通点もあったのかも知れない。
この点で、ビザンツ地方領主とテュルク系地方領主が混在し、政治・軍事的には、
宗教で線を引くことができないオスマン勃興期の小アジアの政治・社会情勢は、
もっと日本語の研究文書が出てきて欲しいところ。
419世界@名無史さん:2011/09/14(水) 18:39:15.49 0
夜警国家ならナショナリズムを超える帝国的統治がそれなりに有効かもしれんが、
再配分機能の必要性が高くなると、集団間での公平性確保が難しくなってね。
福祉はなんらかの同一性意識に寄りかからざるをえないなぁ、幻想であっても。
420世界@名無史さん:2011/09/14(水) 20:02:14.48 0
>>387
むしろオスマン帝国と大清帝国を比べたほうがいいだろ
中国はいまだにチベットや新疆ウイグル自治区を支配している
421世界@名無史さん:2011/09/14(水) 21:32:32.28 0
>>419
そしてギリシアは、またも西欧から見捨てられるのだろうか!?ギリシアの
ユーロ離脱(EUではない、念のため)が実現するのかどうか、大いに興味がある。
422世界@名無史さん:2011/09/14(水) 21:54:19.74 0
http://79909040.at.webry.info/201109/article_1.html#comment
ブルガリア、ルーマニアへの差別待遇


ブルガリア、ルーマニアも西欧から見捨てられるかもしれない
423世界@名無史さん:2011/09/14(水) 22:36:22.87 0
その三国の共通点は、正教会系の国ということだね。正教会文化が西欧経済に
ついていけないとは思わないが、チェコ・ハンガリーは旧オーストリア領土、
現在のポーランド領土は19世紀ドイツ人支配下にあった。もしかしたら
ポーランドは、領土縮小され、正教徒圏の切り捨てが出来てよかったと
思ってるかも知れない。まったくの邪推だけど。
やっぱ「西欧からの遠さ」が問題となるのも仕方ないのかも。
424世界@名無史さん:2011/09/14(水) 22:43:39.36 0
でも見捨てないだろうよ
冷戦終結後、2004年に西側諸国が前線をルーマニア、ブルガリアに押し上げるためにどれだけ苦労したか

今の前線はベラルーシ、ウクライナ
425世界@名無史さん:2011/09/15(木) 08:43:01.97 0
スティーヴン・ハウが『帝国』(岩波書店)で書いていることだけどさ、

……インドやエジプトの先駆的ナショナリストや、汎アフリカ主義者や、汎アラブ主義者は、
汎アラブ主義者は、彼らの社会を支配するヨーロッパ帝国に対して激しい憤りを感じた。
ところがその彼らも、遠い昔、自分たちは帝国をもっていたのであって、いつかはもう一度、
帝国をもつことになるかもしれないとの思いに、今日、指摘されているよりも
はるかに引かれていたのである。

この指摘はけっこう重要だと思う。イスラーム圏や中国だって、決して
「一方的な被害者」だったわけではない。というより、彼らは自分たちには
列強としての地位こそふさわしいと考えていた。でも結局欧米や日本との競争に負けた。
ただそれだけ。オツガイ ◆EAbyJft1LY みたいに西欧ガー列強ガーと言い続けるのには
違和感を感じるな。もう潔くムスリムたちの敗北を認めろよ。
426世界@名無史さん:2011/09/15(木) 15:40:43.45 0
>>389
>東方問題を見てるとオスマン帝国はバルカン半島を征服しない、
>ほうが良かったんじゃないかとすら思えてくる。そうすれば変な、
>列強同士の対立にも巻き込まれずじっくりと内政に励めたかも。

これはビザンツ帝国は滅ぼすが、その他の国には手をつけないということか?
そうするとセルビアがあの地域を支配することになっていたんだろうか
第二次ブルガリア帝国は弱体化していたし…
427世界@名無史さん:2011/09/15(木) 16:37:34.30 0
>>419
新自由主義の行き着く先はまさにそれ。
足腰が衰え、通常の仕事が難しくなった老人は、ベッドでPCを使い、FXで
稼げ、ということ。経済障壁は全てFTAで開放。税金はイ
ンフラと社会保障と治安のみ。
政府は経済対策などやらない。金融対策に徹する。

>>426
ハンガリーでしょう。伝統的に中世ハンガリーはバルカン進出が国是だったのだから。
そしてハンガリーはどこかでハプスブルク家にのっとられ、結局
バルカンはドイツ人に支配される。こうなれば、チェコ、ポーランド、ハンガリー
と同様、ドイツ人の影響を受け、西欧並みの経済力がもてたかもよ。
428オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/15(木) 17:14:06.62 0
>>418
「教皇の帽子をみるぐらいならスルタンのターバンを見るほうがマシ」というやつか。
まぁ西欧の支配でカトリックを強要されるぐらいならオスマン帝国の支配で正教を、
守り抜いたほうがマシだという面は確かにあったかも知れないね。

>>425
あぁ、ごめん。確かに僕の文を読むとオスマン帝国が一方的に列強の、
被害者だったみたいに思えるね。別にそんなこと言ったつもりはないし、
近代オスマン帝国だってアラビアの支配なんかは西欧型植民地主義に、
近い部分もあるからね。大体オスマン帝国が長い間改革を怠ってたのも、
自分たちが列強であり大国であるという自負が消えにくかったからだしね。
>>389でも述べたけど列強の干渉自体はオスマン帝国にとっては必ずしも、
マイナスの面ばかりではなくそれを利用することで生き残ったというプラスの、
面もあるからね。東方問題なんかを調べるとそういう面がかなり良く見られる。
429世界@名無史さん:2011/09/15(木) 19:26:10.87 0
>>427
バルカン半島全体がトランシルヴァニアのようになっていたのかな
もちろん司教区も設置され、ドイツ人が植民し、そして第一次世界大戦後、
各国が独立する
430世界@名無史さん:2011/09/15(木) 20:55:23.91 O
歴史が大幅に変わり、第一次世界大戦は無し。
431世界@名無史さん:2011/09/15(木) 20:59:39.06 0
マジな話、西欧文明が衰退したら中東は安定するんじゃね?
もちろん、生活水準は低下するだろうけど
432世界@名無史さん:2011/09/15(木) 21:41:28.55 O
ビザンツをギリシャ人の民族国家みたいなものにし、
アナトリアのオスマンに対抗するのはやはりかなり難しかったか。
433オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/15(木) 21:44:50.11 0
>>429-430
まぁ、そこまで行くと完全にIF話だから何とでも言えるような気がする。
ただ確かにオスマン帝国がバルカン半島に進出してなかった場合は、
一旦セルビアが勢力を伸ばした後に、ハンガリーがやって来るという、
感じになるかな。これもIF話でしかないと言われればそれまでだけど。
434オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/15(木) 21:53:14.02 0
>>432
末期ビザンツ帝国はローマ人という建前を捨てて自分たちはギリシャ人だという、
民族意識を持ってた人々も増えてきたから上手くいけば出来たかも知れないね。
でも、そうするにはニカイアとかエピロスなどの他のビザンツ亡命国家の扱いを、
どうするかだよなぁ。上手く統一できればギリシャ人の民族国家となれたかもね。
とは言え、それだけで当時のオスマン帝国に対抗できるかどうかは微妙だけど。
435世界@名無史さん:2011/09/15(木) 23:24:51.00 0
ヘラクレイオス1世みたいな英雄が地方から生まれればよかったんだが。
その時こそ、さらなるギリシア化が行われ、
ローマ帝国から「ギリシア帝国」とかになってただろう。
436世界@名無史さん:2011/09/16(金) 00:59:53.65 O
ギリシャ人同士の統一戦争にオスマンや西欧人が介入しないかな
437世界@名無史さん:2011/09/16(金) 02:49:03.66 0
オスマンがバルカンではなく、中央アジアに目を向けていたらどうなっていただろうか
438世界@名無史さん:2011/09/16(金) 15:11:05.27 O
ギリシャやブルガリアが独り立ちできるまではティムールに頑張ってもらわねば。
439オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/16(金) 17:19:34.87 0
>>438
確かにアンカラの戦いはビザンツ帝国の延命に役立ったけどティムール自身は、
ビザンツよりはアナトリアのトルコ系諸侯のほうを重視してたように思える。実際、
彼は、オスマン帝国の支配に対抗するアナトリアのトルコ系諸侯を支援しながら、
戦った訳だからね。ビザンツ帝国の延命はあくまで副作用のようなものだと思う。
440世界@名無史さん:2011/09/17(土) 03:07:47.59 0
第二次ブルガリア帝国はクマン人の協力で建国された。その後、キプチャック汗の
一族チャカが王座についてもいるし、チャカの後のブルガリア王もクマン系と
されている。また、ハンガリーにもクマン人が大量に移住していた。
クマン人にオスマン朝のような大帝国建国能力が無かったからオスマン朝の
ような大国家を建設できなかたのだろうけど、バルカン半島はオスマン到来
以前にそこそこトルコ化されていたことも、オスマンが容易に進出できた
一因なのではなかろうか。このあたりに詳しい人、ご意見いただけます
でしょうか。
441世界@名無史さん:2011/09/17(土) 22:20:26.15 0
コンスタンティノポリス陥落後にモレアスの勢力が
ギリシアを統一するまで、
オスマン帝国を一時的に弱体化&東方に釘付けできるような勢力が必要だな。
あとはモレアスにも軍事的才能を持った人間が要るな。
442世界@名無史さん:2011/09/19(月) 22:33:20.62 0
コンスタンティノポリス奪還は当然として、
別に首都にする必要はないな。
443世界@名無史さん:2011/09/23(金) 00:22:05.22 0
とっくに既出だと思いますが・・・
今週発売のニューズウィーク日本語版ではじめて知りました

http://istvoyage.exblog.jp/11853599/
Muhtesem Yuzyil〜壮大なる世紀

トルコではスレイマン大帝のTVドラマが人気とか
女好きで飲酒もする箇所に怒ってる保守層もいるそうです
(史実に沿ってるそうです)

http://www.youtube.com/user/TurkWebTV
向こうでは放送後webで見れるそうで
世間は韓流ばかりですがこういう異国の歴史ものもやってほしいですね
444世界@名無史さん:2011/09/23(金) 01:54:21.55 0
イッコンニコンオスマンサンコン
445世界@名無史さん:2011/09/23(金) 02:34:00.52 0
>>443
ニューズ・ウィークでも「壮大なる世紀」なのだろうか?
英語題名がMagnificent Centuryなので、「壮麗なる世紀」(壮麗者スレイマーンから)
が正しいと思ってるんだけど。。。。
こちらの東京外語大学のトルコ新聞の翻訳でも「壮麗なる世紀」となっているし。
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20110104_081008.html

第一話は英語字幕版がyoutubeにあがってます。
446445:2011/09/23(金) 02:42:38.15 0
あと、20話くらいまでトルコ語がわからないにも関わらず見たけど、
史実に忠実かどうかは少し疑問があります。宮廷内の話ばかりで、殆ど
野外場面が無いし。と思って最新の26話の冒頭をみたら、スレイマーンと
イブラヒムが武装してますね。漸く面白くなりそう。。。視聴再開しよう。
447オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/23(金) 06:35:09.22 0
僕もトルコ語分からないのに1話だけみたけど(英語字幕あるのしらなかったorz)、
確かにあまり野外場面がなかったね。宮廷内と違って野外だとセットを作るのが、
面倒くさいからじゃないかと邪推しちゃったけど実際はどうなんだろう?まぁ、でも、
最近日本で出た「夢の雫、黄金の鳥籠」もそうだけどスレイマン1世の時代の話は、
案外、宮廷内の話だけでも一応ドラマになるような気がするから悪くないとは思う。
448 ◆axCVsGomao :2011/09/23(金) 06:39:45.91 0
>>443
これはすごいな
こういうドラマが世界で流されたらオスマンのイメージがだいぶ良くなるな
449世界@名無史さん:2011/09/24(土) 02:56:27.96 0
>>443
26話後半、モハーチの戦いやってるのね
オスマンの戦闘シーンとかイメージしずらかったが
こういうTVドラマはありがたいね
450世界@名無史さん:2011/09/24(土) 17:07:34.97 0
本当だ。第一シーズン(24話まで)は後宮もの、という感じでトルコ語が
わからないと退屈なところが多かったが、これはスゴイ。ハンガリーは
意外と歴史映画が少ないようだから、サポヤイ・ヤノーシュやラヨシュ2世といった
ハンガリー側の映像としても貴重かも(ちょっとラヨシュが老けすぎな
感じだけど)。CGが場面が要らない程、実写だけでも
大迫力だ。この分だとウィーン包囲も期待できるかも。
451世界@名無史さん:2011/09/24(土) 17:20:13.07 O
>>441
>>442
オスマンってイランとかと同じ世界(中東)なのか
ギリシャやセルビアとかと同じ世界(東ヨーロッパ世界)か
どちらなんだろう。
なぜ東ヨーロッパは西ヨーロッパと違って発展できなかったのか。
452 ◆axCVsGomao :2011/09/24(土) 17:30:27.15 0
トルコが経済発展してイスラム史の映画つくってくれたらおもしろいなw
453 ◆axCVsGomao :2011/09/24(土) 17:31:32.56 0
西欧の発展は新大陸発見に尽きると思うけど
454 ◆axCVsGomao :2011/09/24(土) 17:32:53.67 0
これ韓流ドラマみたいに日本で放送してくれないかな
かなり興味深いな
455オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/24(土) 17:54:59.92 0
>>449
本当だ。こういうのは当時の戦いのイメージが沸くから嬉しいね。
戦いのシーンなら>>450も言うようにトルコ語分からなくても話の、
内容は少し理解できるしね。どこかで和訳版出てくれないかなぁ。

>>451
どちらの世界の影響も受けてるのがオスマン帝国の特徴でしょ。
まぁ基本的には、イスラム教を中心としてるから中東寄りだけど、
領土の中心はアナトリアやバルカン半島だからビザンツ帝国の、
影響もかなり強く成立から滅亡までヨーロッパとの繋がり深いし。
単純に、どちらか一方の世界だと断言することは出来ないでしょ。

>>452
ていうか、確か実際に相違映画があったと思うよ。同じくオスマン帝国が舞台の、
トルコとハンガリーの共同制作の映画で、タイトルは「Cenneti Beklerken」かな。
これ以外にもオスマン帝国を舞台にした映画はトルコでは結構前からあるらしい。
456オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/24(土) 17:55:59.88 0
誤字訂正。
×ていうか、確か実際に相違映画があったと思うよ。
○ていうか、確か実際にそういう映画があったと思うよ。
457世界@名無史さん:2011/09/24(土) 18:53:44.00 0
なんとなく今のトルコ人の風貌を見ると
オスマン帝国の時代に移住してきた東欧系・地中海系・アラブ系人種が何世代もかけて
トルコ語(当時はオスマン語)を話すようになってトルコ化した人も多い気がするんだが

ドイツ代表のエジル(トルコから帰化)なんて
ブルガリア人にか見えないのだが
458オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/24(土) 19:12:38.25 0
>>457
そりゃそうでしょ。今のトルコ人なんてギリシャ人やスラヴ人なんかの血もかなり、
混じってるだろうからね。中央アジアからのトルコ人の血はそんなに多くないはず。
まぁこの手の混血はオスマン帝国に限らず多民族国家には良く見られる事だけど。
「トルコ人(オスマン帝国時代はオスマン人)」という民族概念は血と無関係だしね。
459世界@名無史さん:2011/09/24(土) 19:24:29.55 0
スレイマンのドラマ、宮廷の女達、結構胸の開いたドレス着ているな。
この辺は問題になっていないのだろうか。それともトルコのドラマって
歴史ものに限らずこんな感じなんだろうか。
460オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/24(土) 19:32:10.55 0
>>459
政教分離を国是としてるトルコでは、むしろ女性がスカーフかぶることのほうが、
問題視されてたぐらいだからね。最近は公でのスカーフ着用もOKとなったけど。
確か、トルコの女性歌手であるハディセが前に胸元開いた服を着てた気がする。
トルコに行ったときにテレビ見たけど女性が水着してるシーンも普通にあったよ。
ベリーダンスなんかも行なわれてるし、トルコはあまりそういうのにうるさくないね。
461世界@名無史さん:2011/09/24(土) 19:35:56.04 0
>>457
ブルガリアにもトルコ人は住んでいるし、混血している人も多数いる筈だから、
ブルガリア側のトルコ化ということもあり、境目を引くのは簡単ではないかも。

>>450
モハーチの戦いの部分見たけど、ハンガリー側は火器が一切登場していないね。
まるで第二次大戦開始時のドイツのポーランド進撃のような感じだったが、
実際にこんなに軍事力の差があったのだろうか。オスマン軍の装備は大砲などが
充実していたのは知っていたけど、ハンガリー側にも少しは火器があるのかと
思っていた。黒澤明の「影武者」に出てきた長篠の戦を思い出した。
462世界@名無史さん:2011/09/24(土) 19:42:44.36 0
>>460
おお、サンクス。ハディセという歌手、youtubeに映像があがってた。胸元どころか、
肩まるだしの欧米風イブニングドレスだ。トルコ凄いな。
463世界@名無史さん:2011/09/24(土) 21:52:31.77 0
>>459
>胸の開いたドレス

Women's Costume of the Near and Middle Eastという本の図版にある
オスマントルコ時代の絵画史料にも結構あるぞ。
もちろん外出着ではなく室内着だが。
464世界@名無史さん:2011/09/24(土) 23:26:27.70 0
>>463
サンクス。

>>461
よく見てみそ。オスマン軍は単純に火器で破ったんではなく、ハンニバルが
カンネーの戦いでとったのと同じ、中央を退却させて、包囲殲滅する作戦だ。
火器も、中央が退却した後、態勢を立て直す間、火器でハンガリー軍を押し
留めている使い方だ。単純に火器で圧倒しているわけでは無い。史実は
知らんけど、ドラマはそうなってるな。
465世界@名無史さん:2011/09/25(日) 00:27:54.56 0
>>461
もしかして、戦闘の部分しかご覧になっていないのではないでしょうか?
26話の冒頭で、スレイマンが狙撃されています。戦闘前のハンガリーの
陣営に大砲が置いてある場面も出てきます。当時の銃は、連射ができない
火縄銃ですから、移動しながら火薬を詰めて撃つのは難しく、敵の方から
銃部隊に突撃してきてくれないと意味がありません。射程距離も短かったと
思いますし。つまり、ハンガリー側に銃や大砲があったとしても、オスマン
朝側は銃や大砲が置いてある場所に突撃していませんから、ハンガリー側
としては銃も大砲も役に立たなかったことになります。戦闘場面の前に、
スレイマンの作戦会議で、地図と駒を用いて包囲作戦を検討する場面が出て
きていますし、CGの場面でも、その時の作戦通りにオスマン朝軍が動いている
ことがわかります。銃や大砲のあるところに、ハンガリー軍を誘き寄せる
作戦だったと思われます。結局、ハンガリー側に銃や大砲があったとしても、
登場していないのは、そういうわけだと思われます。
466世界@名無史さん:2011/09/25(日) 16:28:00.93 0
オスマンは、1529年のウィーン包囲に失敗しているけど、1485年にマーチャーシュが
ウィーンを占領し、ウィーンに宮廷を移している。そのハンガリーは
オスマンに破られて宮廷を移している。色々条件が違うのは当然だけど、
なんか面白い。
467世界@名無史さん:2011/09/25(日) 19:29:28.58 0
ヤーノシュ・フニャディやマーチャーシュ・コルヴィヌスの軍隊は
中央にフス派の戦車みたいのを並べて歩兵部隊を配置し
両翼に騎兵部隊を置いていたらしいから、ある意味
トルコ軍と似たような戦法
468世界@名無史さん:2011/09/25(日) 23:22:22.37 0
ドラマでも第一次ウィーン攻囲再現してくれるのかwktkです
469世界@名無史さん:2011/09/26(月) 00:14:09.69 0
メフメット2世のときはオスマン帝国躍進の時代のように思われているが、
実際はかなりやばかったんだな。
ドラキュラがうまくやってくれればよかったのに。
470世界@名無史さん:2011/09/26(月) 00:47:32.81 0
>>465
そうか。CGの部分は重要だったんだな。450でCG無くても問題ないみたいな
ことが書いてあったから良く見て無かった。実際安っぽく見えたし。でも
ちゃんと意味があったんだな。

>>469
第一話が即位みたいだから、26話で1526年ってことは、1年13話だから
39話でウィーン包囲ということになるなあ。

早送りができればいいんだけどな。html5とか設定してみたけど
駄目だった。ウィーン包囲の回が来たら書き込み頼む。取りあえず39話の
前後は見てみるわ。
471世界@名無史さん:2011/09/26(月) 03:59:12.82 0
>>451
東欧は都市の発展が遅れたから。その理由はスラブ人が都市を作らなかったから。
もちろんゲルマン人も民族移動後しばらく都市には住まなかった。都市には引き続き
ローマ人が住んでいたが、やがてローマ都市は衰退した。中世西欧都市の勃興は
12世紀から13世紀にかけて、主にスペインと北イタリア、バルト海沿岸などで始まる。
スペインはイスラム都市を征服したから。大聖堂と大学が都市勃興のバロメータ。
東欧では、13−14世紀に都市が建築されるが、これは為政者の政策によるもので、
多くは”ザクセン人”やユダヤ人を移住させたもので、ハンガリーのように、
都市=ザクセン人の居住地となってしまったところもある。北海沿岸もドイツ人の
征服が進んで、北海・バルト貿易はゲルマン系民族のものとなってしまった。

 ビザンツ帝国の都市が衰退したのも東欧の都市化が遅れた理由の一つかも知れない。
ビザンツ都市というと、コンスタンティノープルの話ばかりで、地方都市の実情というのは
あまり聞かない。思いつく都市と言えばテッサロニキと黒海沿岸の都市くらい。
 ビザンツは、都市及び都市文化という観点では、イスラームの防波堤になってしまった
のも痛い。更にとどめを刺したのがオスマン。都市はオスマン人が独占し、
現地人は農村に留まった。オスマン治下のバルカンで都市化が進むのは18世紀
くらいから。
472世界@名無史さん:2011/09/26(月) 10:10:14.47 O
ゲルマン人による破壊よりスラブ人による破壊の方が
激しかったのかね?
西側ではイタリア諸都市国家を始めとしてメンツが揃ってるが、
東側ではビザンツとセルビアとブルガリアくらいしかないような。
473世界@名無史さん:2011/09/26(月) 10:33:57.88 0
スラヴ人はそれ程破壊はしていないと思う(やったのはアヴァール。スラヴ人は
アヴァールとともに南下・西進しただけ)。農耕民で、都市に住まなかっただけ。
ブルガリアでも9世紀までローマ都市が残っていたが、スラブ人はその都市には住んで
いなかったそうだ。彼らは農村に住んでいた。ローマ都市は農村と交易して
生きながらえていたが、やがて消滅したらしい。その後ブルガリアは都市の無い国
(要塞はある)となり、1014年にビザンツに征服されても都市化は起こらなかった。

あと2,300年あればスラヴの中から自発的に都市が勃興したかも知れないが、
13世紀の西欧の人口密度の地図を見ると、北イタリアとフランフ北部−ベネルクス
あたりの人口増加が激しい。交易都市というより、密度の高い農村の過剰
人口が都市に押し出されたような印象もある。東欧は人口密度が
低すぎたので、人口過剰都市勃興もあまり期待できないかも。

西欧人口密度上昇の理由はよくわからない。三圃農法による生産性向上とか?
あと、欧州のローマ帝国の外には都市が無かったことも一員かも。
474世界@名無史さん:2011/09/26(月) 21:43:00.63 0
中世になってヨーロッパは衰退したとは言うが、
おそらくローマ帝国が北に領土を広げ、各地に都市を建設したことは
ヨーロッパ文明の種をまいたのと同じことだろう。
イタリアやフランスの大都市はみんなローマ由来だし。
で、西側では本拠地に近いせいかえらく北(ゲルマニア)まで行ってるが、
東側ではすぐにドナウ川の南まで後退してるな。
ここらへんの違いが後世あまり東ヨーロッパに都市が発展しなかった理由じゃないの?
それにスラブ人と違い、常にローマに接してたフランクやゴートは
ローマ文明を大切にしそうだし。
475オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/26(月) 23:06:45.51 0
何か、スレ違いな方向に話が進んでるなぁ。話をオスマン帝国に戻すけど、
オスマン帝国ではそれなりに都市化が進んでたと思う。>>471が言うように、
バルカン半島では18世紀以降のことだったそうだけどアナトリアのほうでは、
どうだったんだろう?現在、トルコ共和国ではかなり都市化が進んでるけど、
これらが始まったのはやはり18世紀からなのかな。林佳世子氏の話とかを、
聞くとオスマン帝国で都市的文化が成熟したのは後期からという感じするし。
476世界@名無史さん:2011/09/26(月) 23:20:03.64 0
なら「なんで東ヨーロッパは西ヨーロッパになれなかったか」
でも建てるか。
477世界@名無史さん:2011/09/27(火) 01:36:16.76 0
>>466
マーチャーシュは最初の頃オスマンと戦って敗北し、その後オスマンと戦うのは
やめている。この頃オスマンに打撃を与えていたヴラド三世を逮捕して10年以上
軟禁しているが、これはオスマンと取引したのではないかと思う。マーチャーシュは
案外策士だよなぁ。ヴラドがずっと戦い続けていたらどうなったろう。まああの手の
タイプはそもそも長生きしそうにないけど。

>>475
アナトリアではセルジュークの時代からイスラム都市が結構あったように思う。
各地にセルジューク時代のマドラサが残っているし。とはいえ、それらがそのまま
オスマン時代にまで繁栄を続けていたかどうかはよく知らないので、実際
どうだったんだろうね。イスラーム都市はモンゴルとかの破壊の後も
結構直ぐに復活しているので、なんとなくずっと存続していたイメージが
ある。
478オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/09/27(火) 05:49:24.46 0
>>477
確かにアナトリアの有名な都市は大抵セルジューク朝やその前のビザンツ帝国時代から、
存在した都市が多いからね。ずっと存続してたようなイメージは確かにあるね。
479世界@名無史さん:2011/09/29(木) 08:03:07.78 0
トルコ語ができないとMuhte?em Yuzy?lを見てても苦痛だ。1時間半はちょっときつい・・・。
480世界@名無史さん:2011/09/29(木) 11:49:50.70 0
>>479
確かに1回NHK大河ドラマの2回分だから、全部見るのはしんどいと思う。
特に後宮の話は会話ばかりだ。でも26話は戦争の部分が多いから割と
楽しめると思う。

自分はこうして楽しんでるというだけで、参考になれば、というだけの話だけど、

言語のわからないドラマを楽しむ方法は、言葉がわからない外国を旅行するのと
同じだと思う。日本語の観光ガイドを参考にしつつ観光地を見学するように、
スレイマン関連の情報を参照しつつ見る。見ながら学習する感じかな。

あと、登場人物のキャラクターと役割を把握しておけば、会話を勝手に想像して
楽しむという方法がある。想像する筋書きと矛盾した場面が出てきたら、
どうしてそうなったか推理する。まあ、ノリとしては推理を楽しむ感じ。

更に、衣装や建築など、展開など「本当にそうだったのか」となるべく疑問に
思いながら、史実を確認するきっかけを作りながら見る。

最後は簡単な会話帳を購入しておいて、何度も出てくる言葉(挨拶とか、
5W1Hとか)を覚えると、理解の度合いが結構高くなる。全然わからない言語の場合
例え1%しかわからなくても、0と1では大きな違いがある。

とはいえ、「壮麗なる世紀」は冗長な演出が多く、後宮での側室達と女官の
陰険な争いが延々と続く(少なくとも24話までは)くし、豪華絢爛な衣装も
何話か見れば飽きてくる。第二シーズンでは、CGの場面も増えているし、
25,26話を見た限りでは大分引き締まったように思える。取りあえず明日には
27話がアップされる筈だから、モハーチ後、後宮ものに戻ると思うのだが、
どの程度冗長な部分が削減されているかを確認してから、今後も見続けるか
どうか考えたいと自分は思っているところ。
481世界@名無史さん:2011/09/29(木) 11:53:35.94 0
明日じゃなくて今日だね。もうアップされていた。帰宅後みる予定。
482479:2011/09/29(木) 20:47:26.44 0
>>480
そうなんだ。ありがとう。とりあえずその25・26話を見るとこから始めるよ。
となるとやっぱしまだ先だけどウィーン包囲とイブラヒムの死あたりに期待だな。
483480:2011/09/29(木) 23:20:22.33 0
27話見た。ヒュッレムの新しいライバルが登場したようで、なんかしばらく
後宮話が続きそう。。。。で、その登場したライバルかも知れない人とは、
Isabella of Portugal (1503-1539)か、
Infanta Isabel de Castilla(1518-1536)のどちらかの模様。
というのは、前半では確か「カスティーリャのイサベラ」と言っていたのに、
後半では「ポルトガルのイサベラ」と言っていた。年代的に該当するのは
この二人だと思われるんだけど、両者とも海賊に拉致されてコンスタンティノープルに
つれて行かれたわけでは無さそうなので、まったくのフィクションかも。
ずるずると次回も見てしまいそうだけど、次回、人質としてスペインや
ポルトガルとの外交交渉などが出てくるのであれば、今後も見続けるかも
知れないけど、またしても後宮話が続くのであれば、ウィーン包囲まで
見ないかも。

あと興味深かったのは、スレイマンがブダの王宮を見学し、マーチャーシュ王の
収集物を見学するんだけど、その時にアリストテレスとかプラトンの名前が
でてきて、そういえば、オスマンでアリストテレスとプラトンは受容されたの
だろうか?と知りたくなった。後目についたのは、

・スレイマンが夢の中で、イブラヒムに嘲笑われている場面。後の処刑への伏線かも。
・イブラヒムと王女・侍女の会話はスペイン語のようだった。トルコ語音声が被せて
あるので良くわからなかったけど。イブラヒムは第一話でヴェネツィア大使と
イタリア語で会話しているし、売られてきたヒュッレムと同期の奴隷はロシア語で
会話していたり、この辺りは芸が細かいが、25,6話のハンガリー人は
トルコ語だった気がする。更に考えると、ラヨシュ二世って、何語が彼の
母国語だったのだろう。ポーランド語を話せたのだろうか?
そのくらいかな。

とまあ幾つか興味を刺激してくれたけど、27話はあんまり面白くなかった。
484世界@名無史さん:2011/10/04(火) 22:22:51.41 0
>>483
プラトン主義や(新プラトン主義の著作物と混同されつつながらも)アリストテレス主義の受容は
イスラム世界でも伝統的な思潮だと思うけどな。
コスモポリタン的なオスマン帝国では、なおのこと、それらが許容される余地は充分大きかったろうし。
485世界@名無史さん:2011/10/08(土) 14:27:59.79 0
2度も帝位に就いたムスタファ1世は名君
486オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/10/08(土) 18:07:14.10 0
>>485
いや、ただ単に状況的に仕方なく2度就いただけのことだと思うんだけど。
オスマン2世が殺された時、ムラト4世がまだ若かったから即位しただけ。
でも、結局あまりにも微妙だったから、1年程度で退位させられてるしね。
そう言えば、彼の即位前後から兄弟殺しが行なわれなくなってきてたね。
487世界@名無史さん:2011/10/08(土) 18:42:44.71 0
そんなあからさまな釣りにレスなんて・・・。
兄弟殺しはアフメト1世が中止したんだな。
488オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/10/08(土) 19:29:40.67 0
>>487
まぁ、半分釣りだとは思ってたけど過疎気味なこのスレにおいては、
多少の話題提起にはなるかなと思って。アフメト1世の治世頃から、
兄弟殺しは行なわれなくなって、代わりに幽閉するようになったね。
489世界@名無史さん:2011/10/08(土) 20:57:35.86 0
中期オスマンってまとまった研究書も少ないし謎が多いな。
490世界@名無史さん:2011/10/09(日) 01:14:11.97 0
雄man
まさに男の帝国
491世界@名無史さん:2011/10/09(日) 02:10:27.21 0
興味あればですが・・・
http://www.hmv.co.jp/news/article/1110060077/
http://img.hmv.co.jp/image/jacket/400/42/2/1/946.jpg
サヴァール/オスマン帝国で聴かれた音楽 2011年10月6日 (木)
多民族国家オスマン帝国で聴かれた音楽 その口承伝統音楽の豊かさ!

『東洋=西洋(1000−1600)』、『イスタンブール』に続く今作は、オスマン帝国の最盛期である1400−1800を対象とし、
オスマン帝国、アルメニア、離散したユダヤ、それぞれの口承伝統音楽を見事に復活させたアルバムです。
また、口承音楽のみならず、器楽による間奏曲によっても、この時間と空間を通過する旅を楽しむことができます。
アルバム・タイトルの『崇高な門』は、もともと、大宰相府に通じる門の名前でしたが、
後に、ヨーロッパとアジアの間の関門というオスマン帝国の位置を意味するようになった言葉。
ジョルディ・サヴァールの霊感に満ちた指揮のもと、3人の歌手とエスペリオンXXIに加え、
トルコ伝統音楽の選り抜かれた演奏家たちの参加が、このアルバムの特色となっています。(キングインターナショナル)
492世界@名無史さん:2011/10/09(日) 02:11:41.58 0
>>491
【収録情報】
1. カーシ・セサーワーズ(18世紀):セギャーフ・カル
2. デルヴィシュ・メフメト:タクシームとマカーム「ウッザル・ウスレス」
3. 作者不詳(セファラード、スミルナ16世紀):「そのあたりを騎士が通り過ぎた」
4. 作者不詳(アルメニア民謡):「嘆き」
5. 作者不詳(セファラード、スミルナ16 世紀):「とても早起きな王様は」(器楽曲)
6. ブフリ・ザーデ・ムスラファ・ウトリ(ca1640-1712):ヒサール・アウール・セマーイー
7. ディミトリエ・カンテミル(1673-1723):タクシームとマカーム「ブセリク・ウスレス」
8. ユダヤ民謡:宗教歌
9. タンブーリ・アンゲリ(1690):マカーム「レハーヴィー・ジェンベシュ」
10. 即興曲(トルコ民謡):「ガザル」
11. 作者不詳(カンテミルオウル手稿譜):タクシームとマカーム「ヒジャーズ・ウスレス」
12. セファラードのロマンセ(イスタンブール)
13. タンブーリ・ムスタファ・カルウス(1700-1770):ヒサール・ブセリク・シャルク
14. 作曲者不詳(アルメニア民謡):タクシームと踊り
15. ハジュー・アブデュルカディル・メラーギ(1350-1435):ラースト・ナキエ「ア・メド・ネ・シ」
493オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/10/09(日) 05:03:57.51 0
>>489
林佳世子氏は最近は中期オスマン帝国の研究も進んできてると言ってるけど、
日本においてはそこら辺の時代について詳しい概説書はまだあまり多くないね。
日本のオスマン帝国の概説書はほとんど記述がスレイマン1世頃までの前期と、
セリム3世頃からの後期に偏ってて、その間はアフメト3世のチューリップ時代が、
少し詳しく書いてる程度な気がする。キョプリュリュ時代なんかも、記述薄いしね。

>>491-492
へ〜、こんなの出てるんだ。オスマン帝国時代の音楽なんてメフテルぐらいしか、
聞いたことないからなぁ。多民族帝国らしく、色んな民族音楽をまとめた感じだね。
494世界@名無史さん:2011/10/09(日) 13:26:38.65 0
オスマンとかビザンティンとか、古代イランとか、色々出てるよ。
ただ、今では売れてないようで、日本アマゾンでは中古が高額なものばかり。
しかも英語版の出店で。USかUKアマゾンで買うのがお奨めです。1/10くらいで入手できる。

US/UKアマゾンだと、値段が10倍とか違うのに、なぜJPアマゾンであんな
高額な値付けをするのか理解できない。
495レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/10/09(日) 15:59:54.49 0
 アフメト1世の時代といえばスルタン・ヤヒャなる謎の人物がいる。
 ヤヒャはメフメト3世の三男で後継者ライバルの殺害を恐れた母親により逃され各地を
転々としながら潜伏生活を続けていた、と。しかしメフメトの長男・次男と死亡したため帝位継承者
がアフメトに決まり、継承権を逃したヤヒャは本来自分のものとなる筈だったスルタンの座を「とり
もどす」ために蜂起を開始したというのことだそうだ。実際にはメフメトにはそもそもヤヒャという
名の息子などおらず、このヤヒャも子供の頃に正教に改宗したと主張したり、教皇を始めとする各国
に支援を要請する際には「スルタンに返り咲いたらオスマンの国教をキリスト教とする」などと我々現
代人からみたら胡散臭さがつきまとう。しかも後にアレクサンドロスの再来を自称し名前もアレクサン
ダルに変える始末。相棒もカトリック神父と思われるレヴァコヴィチやアルバニア語話者とギリシャ語
話者のハーフで当時は有名だったらしいヴェルゴという名の盗賊と雑多な構成。
 バルカン各地ではアルバニアのカルメンディ族を支配下に置いたり、その他大体旧ユーゴ地域に相
当する範囲内で多数の反乱を組織、小アジアの反アフメト勢力を支援、挙句には黒海北岸から船団を
率いて直接イスタンブールを攻撃したこともあったそうな。これだけ派手に行動をしているのにも関わら
ずオスマン側の記録には何故かヤヒャの名は存在しない(筈)。無論ヤヒャの正体も分かっていない。
 
496世界@名無史さん:2011/10/09(日) 23:24:43.98 0
黄金の鳥篭って帝国滅亡時までやってたの?
497世界@名無史さん:2011/10/09(日) 23:37:24.83 0
みんな詳しいな
自分は
オスマンベイ
バヤジット1世
メフメト2世
セリム1世
スレイマン1世
アブデュルメジト1世
アブデュルハミト2世
しか知らん。
バヤジット1世がニコポリスの戦いでアドリアノープルに遷都だっけ?
498オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/10/10(月) 06:56:57.33 0
>>495
そんな人初めて聞いたなぁ。オスマン帝国側の史料には名前が載ってないということは、
バルカン半島や西欧諸国で近代になって形成された眉唾伝説という感じがするけどね。

>>496
18世紀頃にはなくなってたような気がする。アフメト3世とか弟だったけど若い頃、
幽閉されてたっていう話は聞かないし(もしかしたらされてたかも知れないけど)。
具体的にいつ消えたかは知らないけど、流石に滅亡時まで続けてはないでしょ。

>>497
アドリアノープル(エディルネ)を征服したのはバヤズィト1世ではなくてその父の、
ムラト1世だよ。彼の時代からコンスタンティノープル陥落までここが首都だった。
499オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/10/10(月) 06:59:02.60 0
>>494
詳しい情報ありがとう。かなり興味あるのでUSアマゾンあたりで買ってみようと思う。
500世界@名無史さん:2011/10/10(月) 11:17:06.61 0
>>496
『夢の雫、黄金の鳥篭』の中身が帝国滅亡までやってた、という話かと
思ってしまった。。。
501オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/10/10(月) 11:31:18.32 0
>>500
あぁ、確かにその漫画もオスマン帝国を舞台にした話だからね。そういうふうに、
とれなくもない。まぁ、あれはヒュッレムが主人公の話だからそんな訳ないけど。
502世界@名無史さん:2011/10/10(月) 12:52:07.01 0
>>498
そうでしたか
ジギスムントと戦ったのがムラト1世で
ティムールに負けたのがバヤジットで1世か
セリム1世がマムルークと。
503オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/10/10(月) 13:19:01.68 0
>>502
いや、ニコポリスでジギスムントと戦ったのはバヤズィト1世だよ。
アドリアノープル征服は、その前にムラト1世が行なってるけどね。
504世界@名無史さん:2011/10/10(月) 15:08:45.06 0
紀元前後の西アジア研究者春田晴郎先生がブログで、『夢の雫、黄金の鳥篭』
第一巻の発売を宣伝してた。確かこの先生、10年程前に『天は赤い河のほとり』も
まじめに論評していたのだけれど、タイムスリップものなんて荒唐無稽な
漫画をまじめに論評する学者も学者な気がするけど、
学者にまじめに論評される漫画を書く漫画家というのも凄い。

作者の篠原千絵は、このスレでも出ている、スレイマンのドラマの放映開始の
少し前から『夢の雫、黄金の鳥篭』の執筆を始めていたようで、
放映開始直前くらいにツイッターで「みてみたいー」とか叫んでいた。

まったく関係は無いのだろうけど、9/9日に第一巻が発売になり、9/22日の
ニューズウィークに「壮麗なる世紀」の紹介が載るなど、偶然なのだろうが、
密かなヒュッレムものの盛り上がりを感じる。

それにしても、五月頃は、『夢の雫、黄金の鳥篭』のネット上の情報は
少なかった(掲示板は盛り上がってたけど)けど、。第一巻が発売されたら、
一気にアマゾンレビューが書かれたのでやっぱ関心ある人は多いんだね。

『天は赤い河のほとり』は英訳版が出るくらいの人気だったから、
『夢の雫、黄金の鳥篭』も人気が出て、「壮麗なる世紀」の日本語版が
出るくらなブームになってくれるとうれしい。という意味で、
『夢の雫、黄金の鳥篭』に自体には実はあんまり興味は無いんだけど、
ブームになるよう後押しするべく、第一巻、今アマゾンで注文した。
505世界@名無史さん:2011/10/10(月) 15:09:46.65 0
>>495
これのことか!
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Jahja
Wikipediaは英語版もひどいな。ヤヒャがメフメトIII世の息子だって断定してある。
506世界@名無史さん:2011/10/10(月) 15:19:02.06 0
Wikiは誰でも編集できるから、間違いを発見したら訂正するようにすれば
少しはましになるのではないだろうか。

昨夜スルタン・イブラヒムの項目で、彼が殺される時に
母親のキョセム・スルターンが一緒の殺されたと書いてあったので
訂正しておいた。
507世界@名無史さん:2011/10/10(月) 16:10:17.09 0
アドリアノープルに遷都したのがムラトでニコポリスとアンカラがバヤジットか・・・
508世界@名無史さん:2011/10/10(月) 16:53:48.84 0
>>498

電波飛ばすな。一部のスルタンが幽閉を免れただけでしっかりメフメト5世まで鳥篭内だぞ。
509世界@名無史さん:2011/10/10(月) 19:08:32.71 0
「イスランブール 三つの顔を持つ帝都」によると、
アブドュル・ハミト一世は以降は名目的な収容で実際はかなり自由になったと書いてある。
510レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/10/10(月) 20:58:18.54 0
>>505
 その項目は資料の使い方自体おかしい。注が5つあるが、その中でヤヒャについて触れてあるのはマル
コムの著作とドイツ語のリンクだけ。ドイツ語の方は音楽祭の公式サイトであり、記事はほとんどマルコム
の著作の感想文程度。マルコムの著作では一次資料を用いてヤヒャのことが紹介されている点で価値が
あるが、その血統についての判断は保留されてある。ただ、マルコムはいかにも「そうであってほしい」との
想いを滲ませており、ウィキの記事はそれを一方的に紹介しているだけ。本来なら例えばヤヒャの言動や
同時代人によるヤヒャの記録に対する批判的解釈(ヴァカロプロス等)も紹介されてもいいはずなのだが・・・。

あと今更だが、>>483が気になったので27話だけ見たのだが

> というのは、前半では確か「カスティーリャのイサベラ」と言っていたのに、
> 後半では「ポルトガルのイサベラ」と言っていた。
これは多分「フォルトゥーナ(家)」の聞き間違いでは?こんな家系がカスティージャに実在した
かどうか知らないが貴族みたいだから王女じゃなく公女と訳したほうがいいかもしれない。

> ・スレイマンが夢の中で、イブラヒムに嘲笑われている場面。後の処刑への伏線かも。
実際そうだろうね。27話終盤でヒュッレムがスレイマンに「イブラヒムは今回の戦いは自分の
功績だと吹聴しているとの噂がある」と言って仲違い工作をしていたから。ただ、矛盾(?)し
た展開もあって、ヒュッレムがまじない師に遅効性で医師による診断が不可能な毒の調合を
依頼していた。もし自分でイブラヒムを殺すのならわざわざス・イ間の対立を煽る必要はない
のではと思った。

> ・イブラヒムと王女・侍女の会話はスペイン語のようだった。
イブラヒムがやや大声で「プリンチペッサ」と言ったのが聞こえたから少なくとも彼はイタリア語だと思う。

511世界@名無史さん:2011/10/10(月) 22:30:55.92 0
>>510
ありがとう。実は、放映しているテレビ局のHPを見て、
ポルトガルではなく、Kastilya Prenses'i İsabella Fortuna だとわかっていた
だけど、その後この番組が話題にならなかったので、そのままにしておいたんですわ。

イブラヒムがイタリア語だとすると、何ヶ国語も話せるわけでも無いので、
現実味が増した感じ。スペイン語とイタリア語では当時は今より
意思の疎通ができるということか、あるいはイサベルがイタリア語が
話せるのということなのか。。。。。今後はも少しイタリア語か
スペイン語か、集中してみて見ますわ。

毒の件は、28話でイブラヒムが書庫から持ちだした本に、こっそり
ヒュッレムの指示で薬師が毒を塗りつける場面があるので、毒殺の
意思は難そう。矛盾ではなく、なんでもやってみるという浅知恵なのかも。
512オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/10/10(月) 22:38:11.46 0
>>504
篠原千絵先生の漫画は僕も結構好きなので「夢の雫、黄金の鳥籠」も発売日から買った。
普通に面白いし、「天は赤い河のほとり」よりも史実性は高まってるような印象を受けたね。

>>508
あれ、そうなのか。アフメト3世とか一部のスルタンを除けば基本的には幽閉されてたんだ。
てっきり近代以降やらなくなったと思ってたよ。まぁハレムとかも割りと近代まであったしね。
513世界@名無史さん:2011/10/12(水) 15:36:45.02 0
>>459
>胸の開いたドレス

Son Osmanli という2007年トルコ製作の、第一次大戦直後のイスタンブールでの
反英・反政府活動家の活躍を描いた映画があるけど、完全に女性の胸がアップで
見える場面が出てくる(007よりお色気度の低い普通の歴史活劇)。

ネットにあがっているのを見たけど、英語字幕ではなく、そもそも英語版dvd
も見当たらないので、恐らくこのままでトルコでも放映された可能性が高い。
もっとも、ヌードの場面を演じた女優さんは、ウクライナ人で、トルコに
来て女優として活躍するようになったらしいので、イスラム教徒では
ないようだ。
514世界@名無史さん:2011/10/16(日) 13:46:54.86 0
「壮麗なる世紀」のあらすじを紹介してくれている人サンクス

あのドラマでのハフサ・ハトゥンとヒュッレムにハディジェ
マヒデヴラン母子はどんな描写・設定なのか教えてください
515世界@名無史さん:2011/10/17(月) 23:47:36.00 0
このドラマ以外に伝記や映画を見たことが無いので(黄金の籠も買ったけど
まだ読んでいない)、他作のキャラとかの比較が出来ないので、ポイントが
わからないのだけど、とりあえず(しかも言葉がわからないので、
あくまで印象ということで)。

ハフサ・ハトゥン(いつもヴァリデと呼ばれている)は、後宮の束ね役の
ような感じ。後宮で生き延びて来たのだから、それなりに女達の争いに
気づいていると思うんだけど、見ている限りでは、普通にマヒデヴランを
立てている。

ヒュッレムとマヒデヴランは普通に火花を散らして意識しあっているし、
陰険な陰謀とかも熟知しているけど息子が一応嫡子なので、脇が甘そうな感じ。

ヒュッレムは、思ったより陰険でないというか、大石内蔵助型の深謀遠慮とも
思えないし、長期的策謀家という感じはしないのだけれど、弱みを握られると
困る女官とかライバルの前で突発的な感情を見せない感じ。冷静沈着とも違う。
うまくいえない。すいません。

ハティジェは基本的にお嬢さん。世間知らずの深層の令嬢という程では
ないけど。

なんというか、全体的にご近所の奥さん、おばさん達の世界という感じ。
大奥とか見たことないのであまりわからないけど、後宮ものって
ご近所の主婦達のややこしい世界に似てる感じ。
516世界@名無史さん:2011/10/18(火) 23:12:46.84 0
そのご近所の主婦の争いがトルコの女性にうけてんだろうな
517世界@名無史さん:2011/10/19(水) 12:54:35.48 0
更にちょっと考えてみた。国家レベルの陰謀の世界を描く(主にフィクション)の
場合、例えば、腹心の超有能な部下が秘密組織までつくっていて、
ボス自ら手を下さずとも、ボスの意向を聞いて、汚い仕事はすべて
引き受ける、というようなことがあったりする。更にボスの弱みを
握り権力を握ろうとしたりする(フーシェみたいに)

このドラマの場合、そういう感じはあまりしない。ヒュッレム派の宦官や
女官はいるけど、ヒュッレムがいちいち自分で指示出している。この程度だと、
イブラヒムが本気になって間諜を使えば、ヒュッレムの陰謀など直ぐに
探知されてしまいそう(もっとも一括して指示をこなすフーシェみたいな
部下を持つとヒュッレムが弱みを握られることになりかねない。ヒュッレムは
それを避ける知恵がある、という描き方なのかも知れない)

逆に言うと、そういうところが、ドラマをご近所の主婦レベルに留めていて
トルコの主婦(ニューズウィークによるとアラブの主婦にも)にうけている
ということなのかも。

前回うまくかけなかったヒュッレムだが、動揺をあまり表に出さない、
過去の傷に引きづられない、そういう意味で強く逞しく粘りと持続力のある
女性という描かれ方。一見強くても折れやすい人もいるけど、ヒュッレムは
大丈夫な感じ。例えば病気でヒュッレムの男の子が全滅するとかすると
折れてしまいそうだけど、この番組のヒュッレムでは、そうなっても
一時的にはともかく、長期的には崩れそうにない、という印象がある。
518世界@名無史さん:2011/10/19(水) 21:54:34.48 0
イブラヒム=パパイヤ鈴木
519レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/10/22(土) 18:39:12.82 0
>>511
28-29話を見たけど、参考までに

人質関係
・イザベラはオーストリア大公フェルディナント(後の神聖ローマ皇帝)の従兄弟であるフレデリック
(多分架空)の婚約者という設定で、スレイマンはこの事件を利用し戦争をしたいという意図をほの
めかしており、実際に外交団が身代金の交渉を求めてもこれを無視した。これはウィーン包囲への
序章と見てもいいのでは。
・イザベラはイブラヒムとはイタリア語を使用。イザベラの世話役及びトルコ語教師に任命されたス
ペイン人のメレクが通訳をしているときはスペイン語で。
・侍女はスレイマンに感服したけどイザベラ本人はその逆。
・この二人の正体を知っているのは宮中ではスレイマン、イブラヒム、シュンビュル、メレクのみ。
・フェルディナントはフレデリックに「外交的手段のみで解決するので介入するな」と命じたが、
フレデリックはそれを無視してイスタンブールに侵入。

出産
・1-26話を見ていないので知らないが、27話でヒュッレムとハティジェの間に過去に何らかの因縁があった
らしく、ヒュッレムが安産を祈願しお守り(金貨)をハティジェに渡すといったときにマヒデヴランが「そんな
もんで許してもらえると思っているのか」と皮肉を言う。また、これ以前にハティジェは例のまじない師に占って
もらったらしく、子供は金髪であること、そして2人を付狙う影があると警告されとた、とイブラヒムに言う。
・ヒュッレムが出産を手助けしたことでハティジェはすっかり過去の因縁を忘れたみたい。また、ハティジェが
出産後になんでもないことに怒り出すなど精神的に不安定に。母親も娘の様子がおかしいことに気づいたこと
から、もしかしたら何か外部要因があるのかも。
520レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/10/22(土) 18:39:38.79 0
(続き)
・イブラヒムがヒュッレムを呼び出して礼を言ったが、ヒュッレム本人はいずれイブラヒムに復讐すると警告。
そしてヒュッレムはハティジェに例の人質は実はヴェネツィア人でイブラヒムの愛人ではないかと言って夫婦仲
を乱そうとする(ただし目論見は失敗)。今度は逆にイブラヒムがヒュッレムに報復を警告する。
・子供は早産・未熟児で、女医が健康状態がかなり不安だと告げる。番組の最後の方で早速体調に異変が生
じたが、これも健康不安があるからこそ本来遅効性である毒が即効になったのかも。

スレイマン
・29話で性格が豹変。28話ではイザベラがどんな罵声を浴びせても涼しい顔で切り返し、むしろ楽しんでいた
のが29話からは機嫌を損ねるようになった。
・帝国の拡大や子供の出産といううれしい出来事によりイブラヒムは妄想の世界に入り込む。そこで自らをギリ
シャ神話の神、帝国を自分の所有物に例えた独り言を始めるがその現場をスレイマンが目撃。これで26話の
伏線が生きてきたのか、スレイマンが露骨にイブラヒムを警戒するようになる。アナトリアで反乱が生じたが、他
の手下のものでなくイブラヒムに鎮圧を命じる。
・これにハティジェと母が反発し、母がスレイマンに代わりの者に鎮圧を命じろと陳情。しかしスレイマンはまるで
相手にせず。そして母は「お前は父親とそっくりだ」と。本来は慈悲に基づく統治を行いたかったスレイマンは
変わり行く自分の姿に恐怖を感じる。
521世界@名無史さん:2011/10/22(土) 21:47:25.37 0
>「お前は父親とそっくりだ」

ムスタファにスレイマンは本当にひどいことをしたね(´・ω・`)
シェフザーデ事件の第一幕ムスタファ・ムラト父子処刑の無残さは
セリムの身内殺しをはるかに凌ぐよ

異母兄弟との待遇に差をつけられてたにもかかわらず
父親を慕っていた息子をスレイマンは殺し
その忘れ形見ムラトもムスタファの無実を認めたにもかかわらず
ムラトの挙兵を恐れて処刑したんだから
522世界@名無史さん:2011/10/23(日) 00:23:10.95 0
>>519-520
おお、すばらしい。ついでといっては何けど、もし30話も見たら、以下の2点に
ついて教えてくれるとありがたい。

・スレイマンが後宮の皆の前でムスタファに声をかける場面(その後イサベラに紹介しにゆく
直前の場面)、あれはどういう意図なの?母に説教されたから?
・イサベラがスレイマンと一夜をともにすることを決心したのは、フレデリック解放の下心があるから?
523世界@名無史さん:2011/10/25(火) 23:32:26.81 0
仮に今でもオスマン帝国が存続していたらどうなっていんだろう?
第1次大戦時に何らかの理由で参戦しなかった場合とか

トルコ民族主義の高まりから正式に「オスマントルコ帝国」または「トルコ帝国」改名して
クルド人やアラブ人から総すかん食らう可能性もあっただろうし
(実際実際オスマン帝国末期はトルコ人の知識人を中心にオスマン帝国のことをトルコ帝国と呼ぶ人も多かった)

ただクルド問題に関しては今のトルコ政府よりも柔軟にやったと思うし

パレスチナ問題や大シリア地方の独立がどうなっていたか気になるんだが
はっきり言って大英帝国でも嫌になったユダヤ人のテロ行為を
当時落ち目のオスマン帝国が耐えられるとは思えないし
524世界@名無史さん:2011/10/28(金) 02:38:21.39 0
全然問題ないでしょ。
ユダヤが差別されるのはキリスト教社会における慣習だから。
他教徒には関係ない。
525世界@名無史さん:2011/10/30(日) 01:33:47.25 0
オスマン帝国内部の民族紛争より
ソ連の内政干渉と侵略行為のダメージの方がでかそうだ
526世界@名無史さん:2011/10/30(日) 23:35:45.40 0
アルメニア人やセルビア人、ブルガリア人も犠牲にならずに済んだだろうか?
彼らがトルコ人と対立したのは欧米列強にナショナリズム煽られた結果じゃないかと思うんだが。
列強の植民地政策のしわ寄せをくらって、オスマントルコはそれまで温和に共存してきた諸民族を失ったんだよね。

あとクルド人問題やアルメニア人虐殺問題も、欧州側が必要以上にトルコの悪辣さを騒ぎ立ててるとこってない?
アルメニアロビーの強力さは向こうじゃ有名だし、EU加盟も阻止したいでしょ。
527世界@名無史さん:2011/10/31(月) 03:05:25.08 0
自国が分裂を防ぐために、力で国内の異民族の独立を阻止し、その結果としての虐殺も許されると言うのなら、
今の中国がチベットや新疆ウイグル自治区でやっていることも非難できなくなるぞ。
528世界@名無史さん:2011/10/31(月) 03:05:41.98 0
オスマンのときは何の問題もなかった
529世界@名無史さん:2011/10/31(月) 03:14:36.47 0
ツッコミどころが多すぎて

1. 中国は今列強に分裂の危機にさらされていない
2. チベットやウイグルで大量虐殺は起こっていません(まだ)
3. オスマントルコは分裂を阻止したのではなく滅亡を死守したのです。
530世界@名無史さん:2011/10/31(月) 03:35:18.04 0
>>529
その通り!
今のクルド人問題にしろ他の民族虐殺にしろ、諸悪の根源はオスマンじゃなく西欧列強だな。
531世界@名無史さん:2011/10/31(月) 03:42:24.02 0
>>523
どういうスルタンの治世なのかにもよるが
オーストリアは今頃、帝国の一部にされていたかもね
532世界@名無史さん:2011/10/31(月) 03:48:59.99 0
欧米のえげつなさなんて今に始まったことじゃない
自分たちを正当化するために異教徒を虐殺し、イスラム世界を残忍非道な殺戮者に仕立て上げるなんていつものことです

大体、アルメニア人虐殺だって、トルコ政府はそんな事実はないと言い張っているのに
世界中の殆どの歴史家は「あった」ということで意見が一致している
これ日本に置き換えてみな?日本政府がいくら「南京大虐殺は濡れ衣だ」と主張し続けても
歴史家の殆どはそれを信じてくれず、外国政府までそれを日本締め出しの道具に使ってるようなもんだぞ
533世界@名無史さん:2011/10/31(月) 03:52:34.35 0
クルド人への迫害も、確かヨーロッパの度重なる非難を受けて状況が改善しつつあるんだって?
そもそもクルド人がトルコから弾圧される原因を作ったのは自分たちなのに、よくあんな事言えるもんだと思ったわ
お上品に面の皮が分厚い白人どもはオスマンにこぞって征服されていた方が良かったかもね
ナチスドイツによるユダヤ人虐殺だってもしかしたら起きなかったかもしれないし
オスマントルコはその寛容な知性でユダヤ人も他の民族も上手くまとめてこられたんだから
534世界@名無史さん:2011/10/31(月) 03:57:20.33 0
クルド・アルメニア・ギリシャ・ブルガリア・セルビア…
これみんな西欧に焚きつけられなければ民族自決なんか考えることもなかったし
その結果トルコと衝突して殺されることもなかったんだぞ

でも悲しいことに、彼らは今でもトルコを憎んでいるんだよね
真の加害者は世界の盟主面して国連を牛耳り、勝者の特権で世界を好き勝手にしているハゲタカどもなのに
535世界@名無史さん:2011/10/31(月) 08:38:44.69 0
>>529
新彊南部のタリム盆地では原爆実験をやって、ウイグル族も下放した漢族も大量に死にいたらしめた。
地下実験だという触れ込みだったのに、陥没した穴が残っていた。
536世界@名無史さん:2011/10/31(月) 11:25:09.00 O
チベットのラマ僧も虐殺されてるよね
独立運動を叫ぶものは徹底的に弾圧される
537世界@名無史さん:2011/10/31(月) 11:31:14.64 0
「独立派」だという濡れ衣を着せられて投獄されているだけ。
投獄前の人物をを知っているならば、ほぼ濡れ衣。

個人化経営の拝み屋シャーマンの域をでなければ放置だけれど
徒党を組んで組織化すれば、「独立派」のレッテルを張られて投獄。

TCRDで事実関係を調べたらそんなところに落ち着く。
538世界@名無史さん:2011/10/31(月) 11:43:58.05 O
中国の場合はオスマンと違って、外圧がなくても国家分裂は時間の問題ってとこがあるからな
539世界@名無史さん:2011/10/31(月) 11:46:53.89 0
国家分裂は、民族問題というより、
実態は東南沿海部の富裕と西部北部・内陸の経済格差問題なのだ。
540世界@名無史さん:2011/10/31(月) 16:56:04.55 0
オスマン帝国末期には帝国には近代化の萌芽が見えたが、パレスチナ問題が玉突き状に紛争が拡大して
レバノン経済は大きく後退してしまった。イラクもフセインを排除した後、クルド人を大統領にして
ペシュメルガを支援したり、シーア派民兵のバドル軍団に警察を任すとか欧米は分裂させるのが好きだね。
中東は「部族や宗派間の対立でまとまらない」のではなく、欧米がまとめる気がないのではないか。
そりゃオスマン帝国が解体して各部族が90年代のアフガンのように延々と内戦やってりゃ欧米には都合がいい。
武器も売り込めるし。
541レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/11/01(火) 20:42:17.44 0
>>522

> ・スレイマンが後宮の皆の前でムスタファに声をかける場面(その後イサベラに紹介しにゆく
> 直前の場面)、あれはどういう意図なの?母に説教されたから?

 基本的にそう。 
 29話でスレイマンがムスタファを叱るシーンがあったけど、これはその続き。あの時、ムスタファの
弓の教練が上手くいかずムスタファは「乗馬にしたい」と言い、それに対しスレイマンが激怒。
 それで30話だけど、マヒデヴランがアイシェ・ハフサに「ムスタファが父に怒られてから不貞寝した
まま」と訴える。それでアイシェ・ハフサがスレイマンを呼び出し、あのシーンになった。スレイマンとし
ても前半は母の言葉によりヒュッレムを追い返すほど落ち込んでいたんで、ムスタファの希望通り乗馬
しようということに。
 
> ・イサベラがスレイマンと一夜をともにすることを決心したのは、フレデリック解放の下心があるから?
 
 スレイマンがフレデリック解放に応じないどころか処刑も匂わせていたんで(実際は処刑するつもりは
あまりないけど)、「それなら」と言ってイザベラがスレイマンの手をとり屋内で脱いだ。


 いつもの人かな?内容大分把握しているみたいだけど、トルコ語勉強経験あるんじゃない?
542世界@名無史さん:2011/11/01(火) 23:00:42.98 0
経済危機に倦んだ元イスタンブル在住のギリシャ人に帰郷の流れ
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20111031_055416.html

> 経済危機により、トルコでより良い未来を探しているのはギリシャ人だけではない。ギリシャへ大きな希望を抱いて
> 移住した元イスタンブル在住のギリシャ人(ルーム)らも、移住から何年も経てトルコへ帰郷し始めた。
> 元イスタンブル在住のギリシャ人らは、イスタンブルのギリシャ正教会総主教座やギリシャ系各協会を頼り、
> 出生地に戻った場合仕事や家を見つけることが出来るか否か調べている。さらには、イスタンブルの
> ギリシャ系新聞社に手紙を送り、情報を集めている者もいる。
543世界@名無史さん:2011/11/02(水) 01:03:26.30 0
>>541
いつもありがとう!物凄く参考になって助かってる。ムスタファとスレイマンが
急に乗馬したのはムスタファの希望だったのか。またひとつ疑問が氷解した。ありがとう。

ところで、
トルコ語を全く学習したことが無いというと嘘になるけど、ドラマは全然聞き取れない
ので、筋の理解には何も寄与してないと思う。自分に大筋がある程度把握できているとしたら、
演技と演出がわかり易くなっている(と思われる)ことと、全部ではないにしても、
第一話から7,8割は見ているので、キャラの立ち位置がある程度把握できているから
かも知れない。あと、トルコ語が理解できているわけではないので、マークしてない
人物は、以前どのようなエピソードがあったのかよくわからない。例えば、今、
マルコチョーロの片思いが進行中だけど、マルコチョーロはノーマークだったので、
以前どのようなエピソードがあったのか、あまり思い出せない。毎回が長いので
もう一度見る気にはなれないのが残念。

>>519で指摘されているヒュッレムとハティジェの過去の因縁だけど、恐らく、
19話でイェニチェリが蜂起した時、ヒュッレムが、ハティジェの家に逃げ込み、
ヒュッレムを追ってきたイェニチェリがハティジェの家を取り囲み、地下に
避難する時にハティジェが階段から落ちて怪我した一件のことかも。一応
その前後15分程見直してみたけど、ヒュッレムは最初、スレイマン(とハフサ)の
宮殿に逃げ込もうとしたのだけど、既に宮殿入り口で戦闘が行われていて、
やむなくハティジェの家に向かったので、ヒュッレムに責任は無いと思うのだけど、
視聴した範囲の自分の記憶では他に思い当たる箇所が無い。

それにしても後宮話が続くとやはり息切れしてきましたわ。とうとう31話は忙しい
こともあって見れなかった。明後日から連休だからキャッチアップしようと思ってるけど。。。。
544オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/03(木) 11:57:01.41 0
>>526
最初のうちは確かに列強(特にロシア)がバルカン半島のスラヴ人の民族運動を、
煽ってたのは否めないけど、途中からはわりと彼らの自発的な運動になってるよ。
ベルリン会議以降はむしろ東方問題という面倒事に巻き込まれるのを嫌ったため、
バルカン半島で盛んになるナショナリズムを列強としても押さえ込みたかったしね。
単純に西欧の列強がオスマン帝国の解体のためにナショナリズムを煽ったたとは、
言いにくいのが東方問題の難しいところでここら辺を巡る西欧の外交姿勢はもっと、
複雑だからね。特に、イギリスなんか第1次世界大戦まではオスマン帝国の解体を、
望んでなかったし。アルメニア人虐殺とかは現在のEU問題と絡むからまた別だけど。

>>532
さすがにアルメニア人虐殺自体はあったと思うけど。別にトルコと大して利害関係の、
ない国の研究者とかだってあったと言ってるし。まぁ、個人的にこの問題に関しては、
トルコ政府は虐殺の存在の認めるけど、もう100年近くも前の事だから賠償や謝罪は、
しないという方針で通したほうがいいと思う。さすがに修正主義はどうかと思うからね。
545オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/03(木) 11:58:04.38 0
×トルコ政府は虐殺の存在の認めるけど
○トルコ政府は虐殺の存在は認めるけど
546世界@名無史さん:2011/11/03(木) 14:26:58.72 0
>>544
アルメニア人虐殺と南京を結び付けようとしているネトウヨを真剣に相手にしている時点
でお前も同レベル
547世界@名無史さん:2011/11/03(木) 14:33:31.24 0
クルドとかアルメニアとかは非常に難しいのでなんとも言えないが、
少なくともコーカサスではロシアがイラクではアメリカが
もっと遥かにヒドいことをやってるのだけは確か。
548世界@名無史さん:2011/11/03(木) 21:24:08.04 0
壮麗なる世紀、日本が版権買ったという情報がネットに流れてる。そのうち
日本語版が登場するかも。
549世界@名無史さん:2011/11/03(木) 21:26:59.75 0
個人的には「壮麗なる世紀」の有料版日本語字幕@ネット公開より
平易な文章で書かれたヒュッレム登場から
女人政治の終焉までを取り上げた歴史ノンフィクション本プリーズだな
550オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/03(木) 21:40:15.72 0
>>549
ちょっと望んでるのとは違うかも知れないけど「寵妃ロクセラーナ」というタイトルの、
ロクセラーナの伝記本がある。少しロクセラーナが美化されてるけどわりと面白い。
551世界@名無史さん:2011/11/03(木) 21:50:44.54 0
まあ、視聴者は、オスマンに興味があるより、
「大奥」の視聴者層を当て込んでるんだろう。
題名の邦訳はともかく、キャッチコピーは、
「トルコ版大奥!ハーレムの愛憎」とかなんだろうな。

オスマン自体に興味のある俺としては、政治の場面
をもっと増やして欲しいが、日本版は戦争とかカットされて、
ハーレム場面ばかりになったりするとやだな。
552世界@名無史さん:2011/11/03(木) 21:55:54.44 0
>>548
それどこからの情報?なんか信じ難いんだが。
553世界@名無史さん:2011/11/03(木) 22:11:15.68 0
>>550
その本はもうチェック済み
あれは伝記ではなく歴史小説で
ヒュッレムを美化するだけならともかく
マヒデブランをあまりに貶めているから生理的に受け付けなかった

息子と孫をその父親(祖父)に殺された女性を
よくあそこまで悪者にできるもんだ
作者は後書きでもヒュッレムをほめていたが
「そんなに魅力的な女性ならあそこまでライバルを貶める必要があるのか」と突っ込みを入れたよ

マヒデブランはハフサ・ハトゥンのお気に入りで
ムスタファを立派に育て上げた女性なのにな
554世界@名無史さん:2011/11/03(木) 22:27:53.27 0
>>552
ttp://izniktile.blog.fc2.com/blog-entry-65.html
ガセかも知れないけど、トルコ在住者のコメントのようだから可能性あるかも。
555オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/03(木) 22:34:51.08 0
>>553
まぁ確かにそういう面は否めないね。読んでてヒュッレムを美化してるなぁと感じたし。
そう言えば、上のほうで何度か話題に出てる篠原千絵氏の「夢の雫、黄金の鳥籠」も、
1巻だけを読んだ感じだとマヒデブランを悪女っぽく描いてたなぁ。篠原千絵氏の他の、
作品を読む限り、後の展開で多分それなりに擁護的な側面も描かれるとは思うけど。
556世界@名無史さん:2011/11/03(木) 22:45:55.11 0
>>554
サンクス
やはりというか、トルコ発の情報だから余計信憑性がないんだな。向こうだと「歌手のXX
日本公演決定!!」とか「映画XX日本上映」とかのトバシ記事がたまにあるんだわ。
557世界@名無史さん:2011/11/03(木) 22:51:11.96 0
>>549
無料でトルコ語版をネット見るか、
有料でネット日本語版を見るか、
有料でレンタルショップで地域限定となるか、
金を払うくらいなら見ないか、

悩むなあ。

>>551
韓流の後宮ドラマはやたら日本語字幕版があるし、中国物も、クイーンズとか、
北魏馮太后とか日本語版でてるし、誰が見るんだ、というくらい後宮物はニーズがあるようだから、
可能性はあるよね。
558世界@名無史さん:2011/11/03(木) 22:54:57.57 0
>>554
情報が流れたのは本当かも知れないけど、結果的にはなしなんじゃないかなあ。
例えば、こんなの見つけた。
ttp://www.theglobalagency.tv/press/worldscreen/ws-13042011.html?iframe=true&width=1050&height=600
4月13日付の記事で、
Spanish-speaking U.S.A., Italy, Greece, Bulgaria, Serbia, Croatia, Ukraine, the Middle East and Slovakia
での放映交渉開始、6月30日に発表、とかあるけど、6月30日の記事は特に
見当たらない。まだ交渉中なのかも知れないけど。まああんまり期待しない方が
いいかも。
559レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/11/04(金) 01:07:04.63 0
>>543
こちらこそありがとう。

> マルコチョーロはノーマークだったので、

 彼はまぁ、大体本編に関係ない「箸休め」と言うか、若い女性向けの「イケメン枠」にしかなってないね。

 30話は例の「異端」の反乱が一番気になったよ。指導者は救世主で不死身であると自称し、礼拝では
「我等をこの偽りの世から救いたまえ」みたいなことを歌っていた。時代背景から考えるとアレウィー教徒
の反乱なんだろうけど、一体・・・。
 
>>558
 ttp://www.turkishgreeknews.org/tr/muhtesem-yuzyil-22-ulkede-izlenecek-7253.html
 こちらのサイトでは日本を含む22カ国で12月から放送開始となっている。
 
 記事の信憑性については何とも言えないけど、自分の知る限りではギリシャは本気。スレイマン役のハリ
ト・エルゲンチも訪希して大々的なプロモーションを数ヶ月前にやった。ギリシャでの題は
Σουλειμαν ο μεγαλοπρεπη?(壮麗王スレイマン)に決定している。

 意外だったのはブルガリアで、最初は民放有力2局が放映権の交渉を行っていたけど、マスコミによる徹
底的なバッシングキャンペーンが始まり、その2局も撤退を宣言した。どんなバッシングかというと、
 ・剣を地図に刺すシーンがあるが、突き刺した場所はブルガリアじゃないかとの疑惑
 ・ブルガリアへの弾圧・虐殺を描いていないから侵略主義の肯定
 ・ブルガリアはオスマン文化を担っていたにもかかわらずブルガリア人の登場人物が登場しないから歴史歪曲
、とかなりヒステリックなものだった。大抵、こんな馬鹿げた主張はギリシャがやるものだけど、逆にギリシャでは
冷静で期待も大きい。個人的にはブルガリアの現政府がネガキャンの背後にいるのではと思うけど。
560オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/04(金) 06:23:24.92 0
>>559
ブルガリアはある意味ギリシャよりも反トルコ感情が強かったりするからね。
国内にいるトルコ系の割合もギリシャより多いしオスマン帝国からの独立も、
ギリシャより遅れた分、4月蜂起の時の虐殺などに対する恨みもまだ根強い。
「略奪の大地」というブルガリア映画があるけどブルガリアの反トルコ感情が、
前面に出てて、オスマン帝国によるブルガリア支配の残虐さが強調されてた。
それに加えて現首相のボリソフは前にトルコ人への差別的発言をしたとして、
問題になったことのある人物だからそれらが合わさってのバッシングだろうね。
561レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/11/04(金) 21:16:31.62 0
>>560
 このボリソフは外国のメディアに「中道保守」だとか「中道右派」と紹介されるけど、本質的には
極右政党。「差別発言」程度しかブルガリアの外には伝わっていないけど、そんなものほぼ毎日
あるし。極めつけはボリソフがソフィア市長だったときの発言で、ジフコフの少数民族同化政策に
ついて質問されたときにジフコフを礼賛するばかりか「自分だったらもっと上手くやっていた」と発言。
これはジフコフの同化政策が結局破綻してトルコ系住民の国外移住を認めざるを得なかったこと
を差しているが、「上手くやった」とは言ってみれば虐殺しか考えられないんだが・・・。
 彼とその右腕のツヴェタノフは出身も内務省で、言ってみれば秘密警察の「上司」にあたり、また、
共産党一党独裁体制をテロルによって支えていた民主主義とは無縁の連中。現在の政権も、EUか
らの批判をかわすためにАТАКАやРЗС等の他の極右政党と直接連立せず、党員には「絶対
にГЕРБに服従する」と言う文章に署名させ「閣外協力」との形式を維持して組閣したし(後にРЗС
とは袂を分かつけど)。ソフィアのモスクでの暴行事件でАТАКАとも「対立」したけど、あれは演出
で間違いない。
562レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/11/04(金) 21:17:06.14 0
(続き)
 ただし、これをもってして「ブルガリアはある意味ギリシャよりも反トルコ感情が強かったりする」とは言
えないんだな。例として「略奪の大地」をあげていたけど、あれは原作がアントン・ドンチェフという御用作家
で、映画化がまさにジフコフ政権のトルコ系住民強制同化政策期であった80年代。これはいわばプロパガ
ンダ映画。他方、民主化後のブルガリア映画界は財政難に陥ったとはいえ細々と新作は出てるが、この
手の反土映画はなく、文学についても同様。他方、ギリシャの場合は歴史物でなくとも必ずどこかにトル
コに対する恨みつらみが入っていた。つまり、ブルガリアでは反土創作t活動はお上の指導がない限りは積
極的にしないというの程度で、これがギリシャとの決定的な違い。バタック虐殺にも触れてるけど、そのバタ
ックには今でも普通にトルコ系住民が問題なく住んでるし。
 ブルガリアの反土感情がじつはそれ程過激でない、あるいはギリシャの反土感情が強烈だというのは原語
を知って彼らと直接接すれば直ぐに気がつくことだと思う。ただ、現実的にそんなことはバルカンが主な関心
事でない人には無理だろうから、例えば日本でも木村真氏や寺島憲治氏は政府の扇動にも関わらず一般人
レベルでは平和を保っていたという趣旨の論文を幾つか執筆しているので余裕があれば目を通してみては。
 まぁ、でも別のスレで見たけど、オツガイ君は高校生だって?その年齢でここまで調べられて、かつ順序だ
てて語れるるのはたいしたものだよ。
563オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/04(金) 21:39:53.68 0
>>561-562
細かい説明ありがとう。ボリソフが右寄りだというのは聞いた事あったけど、
これ読む限りはかなりの極右派みたいだね。ブルガリアの反トルコ感情は、
基本的に上からのプロパガンダによるものが大きいけどギリシャの場合は、
国民感情として反トルコ感情が根強いということなのかな。今回のドラマの、
放送を巡るやりとりはボリソフのプロパガンダにマスコミが載せられたため、
起きたことと考えていいのかな。
564レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/11/04(金) 23:10:29.18 0
>>563

> これ読む限りはかなりの極右派みたいだね。ブルガリアの反トルコ感情は、
> 基本的に上からのプロパガンダによるものが大きいけどギリシャの場合は、
> 国民感情として反トルコ感情が根強いということなのかな。

 そう。ただしあくまで傾向で例外もある。ブルガリアでも「上」でどんなに反土感情を煽っても
長期的に国民に影響を与えなかった事例もあるし(97年のロコ事件)、ギリシャでも突発的に
反土感情が和らいで行くケースもある。やはりこれも数年前なんだけど、マスコミが特に煽った
訳でもないのに何故か西トラキアの少数民族とギリシャ人の恋愛をテーマにした小説が主婦
の間で人気になり、それらがソープオペラ化。そしてそれが高じてトルコのソープオペラを輸入
しようということに。エルゲンチ氏はギリシャの主婦に大人気w

> 放送を巡るやりとりはボリソフのプロパガンダにマスコミが載せられたため、
> 起きたことと考えていいのかな。

 あくまで個人的見解だけどね。ボリソフはそれ以前にもトルコからのソフトコンテンツに不快感を
表していたし、ГЕРБはメディア戦略や情報操作にかなり長けているから。
565レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/11/04(金) 23:18:13.81 0
訂正
ソフトコンテンツ→コンテンツ
566世界@名無史さん:2011/11/05(土) 00:21:48.13 0
スレイマンのドラマ、ブルガリアのマスコミがネガティブキャンペーンをしたという話で
出ている、

 ・ブルガリアへの弾圧・虐殺を描いていないから侵略主義の肯定
 ・ブルガリアはオスマン文化を担っていたにもかかわらずブルガリア人の登場人物が登場

について、史実はどうなんだろうか?

今ドラマは、スレイマンの即位から、モハーチの戦いの少し後くらいのようだから、
1520-1526年くらいを放映していることになると思うが、この時期の史実の
ブルガリアの状況はどうだったんだろう?最近の日本のオスマン本とか見ると、
圧政が酷くなったのは、末期の話で、征服期(ブルガリアだと14世紀後半)はともかく、
その後統治が安定してからのオスマン支配初期の頃はそんなに酷くなかったという話
が書かれているけど。

ネガキャンにあるように、ソープオペラにわざわざブルガリアで弾圧が日常的に
行われていたことを出す程酷い状況だったのだろうか。また、16世紀初頭、一歩譲って
16世紀前半に、イスタンブールで活躍していて、ドラマに出てくる
(あるいは言及されるとか)の必然性のあるブルガリア人の文化人とかいたんだろうか?

>エルゲンチ氏はギリシャの主婦に大人気

そうだったのか。ギリシアはEU離脱の可能性もあるから、トルコに媚売ってるのかとか
考えてしまった。
567レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/11/05(土) 15:16:06.96 0
>>566
 この時代、と言うか正確には15世紀末から17世紀初頭に掛けてはオスマン側の税制記録
の他にも教会側がかなりユニークな傾向が見られる。
 先ず特徴的なのが15世紀中盤までに戦乱等により破壊された修道院の復興及び新規建立
が開始したと言うこと。ブルガリア第二の修道院であるバチコヴォ僧院も15世紀末に復興し、
ソフィアではドラガレフツィ僧院を中心に宗教文学が開花した。
 次に、人口面でみるとイスラム教徒の改宗が増加するのも16世紀前半から。16世紀末になる
と正教徒スィパーヒーが姿を消す。
 要はこれらの現象をどう捉えるかということ。ブルガリア人以外(というかバルカン半島出身者
以外)にとっては、宗教活動や寄進の活発化は治安や正教徒にとっての政情が安定していない
と基本的に不可能。また蓄財も必要であるが、記録された寄進者の名はスラヴ系で、経済力の
向上をうかがわせる。ブルガリア人にとってはこれは逆で、民族文化が破壊され始めたからそれ
だけ宗教によりどころを求めているのだ、との考えになる。
 その次のイスラム化は外部の人間はこれを貧困が理由の改宗と見る。これは修道院修復ラッシュ
とは一見矛盾しているが、要は政情安定の反面、階層分化や富の分配に格差が生じ、また、貨幣
経済の浸透をも伺わせている。ブルガリア人はほぼ一様にイスラム化を恐怖政治の結果と考え
ている。その論拠として用いられるものの一つは実は教会の説法話で、強制改宗に屈せず致命
(殉教)したということで列聖された類の話が現れるのは正にスレイマンの時代。司祭ペヨによる
クラトヴォのゲォルギ、輔祭マテイ・グラマティクのソフィアのニコライなど。こららの話はやはり
非ブルガリア人にしてみれば後世の作り話に聞こえるがブルガリア人にとっては史実だ。
568レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/11/05(土) 15:18:32.62 0
(続き)
 スレイマンの時代に農民反乱も4度記録されていて、これも弾圧に対する抵抗運動だと解釈さ
れている。ただ、同じ農民反乱でもメフメト2世期のラディチ、あるいは17世紀後半のカルポシュや
ストラヒルと異なり、乱の首謀者や参加者の名前がオスマン・教会双方の記録どころか民間伝承
にも残っていない。これは我々からすれば死罪に当たるような行為がなかった非常に小規模の暴
動か抗議デモのレベルであり、深刻な政治・経済情勢の反映にはあまり見えない。
 オスマン朝期ではどう見ても両セリムとスレイマンの時代は正教徒にとって最も安定した時期としか
思えない。

 ブルガリアの文化的影響は例えば他の正教圏ならともかくイスラム教住民にはちょっと常識で
は考えられない。その様な「偉業」や「出世」があればブルガリアの学校では誇張して教えられて
いる筈だけどそれすらない。言ってみればただの極右の妄想。自分の知る限りこの手の発想で
一番古いのはジフコフで、例えばアナトリアの一般農民の家はブルガリア人から学んだ建築様式
であるなどと言っていた。仮にアナトリアの農民が建築スタイルをどこかから学んだとしたらそれこ
そビザンツ期の農民が元と考えるのが普通の様な。
569世界@名無史さん:2011/11/06(日) 16:11:40.51 0
http://twitter.com/#!/GulbaharSultann/following

壮麗なる世紀もツィツターで宣伝しているんだな
570世界@名無史さん:2011/11/06(日) 17:18:11.42 0
>>567-568
凄い!物凄く参考になった。しかし、なるほどねー。
一部の妄想狂の為に面白い娯楽番組が見れないなんてブルガリアの多くの人
にとって残念な話。娯楽と政治はわけられないもんだろうか。

しかし思うには、もしブルガリア人が本当にこのドラマに関心を持ったら、
ブルガリアに結構な数のトルコ系のかたがたが住んでいるのだろうから、
彼らがブルガリア語字幕とかつけて海賊版をネットにあげたりするんじゃないだろうか。
ニーズがあるところに無理な規制をすると、たいてい違法行為の温床になる。

”被害者国”から色々な論議が出て難しいでて難しいとは思うけど
オスマン朝時代の地方史は、日本語文献があまりでて無いようなので、もっと出て
欲しいと思う。オスマンに限らず、ビザンツやサファヴィー朝とかもだけど。
571世界@名無史さん:2011/11/06(日) 18:54:48.94 0
たしかに、オスマン治下のブルガリアとかアナトリアとか
どう調べ始めればいいんだと途方に暮れる
572オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/06(日) 19:06:59.55 0
日本語文献だとオスマン帝国について総括的にまとめてるものは結構あるけど、
オスマン治下の地域史となると、ほとんどないからね。バルカン史方面のほうで、
文献を探そうとしても、オスマン支配中期はほとんど省かれてる場合が多いしね。
やっぱり、こういうのを調べるには一次史料に当たるのが一番良いんだろうけど。
日本語だと永田雄三氏がカラオスマンオウル家について書いてたのがあるかな。
573世界@名無史さん:2011/11/06(日) 19:37:04.37 0
ベイリク時代も調べ難いよなあ
カラマン家だけはオスマン史で妙に詳しく書かれていたりするけど
ジャンダル、ドゥルカズル、ラマザーンとかどこを調べればいいのか
バルカンの専制公たちもキツイ
574レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/11/06(日) 21:14:04.36 0
>>570
 そりゃもちろん。動画サイトにちゃんとあるよ。更には自国での放送開始を待ちきれないがトルコ語も
出来ないクロアチアやボスニアの人がそのブルガリア語字幕を翻訳したクロアチア語/ボスニア語バ
ージョンもあるし。どこかにロシア語版もあるとの噂。
575世界@名無史さん:2011/11/09(水) 18:26:54.12 0
http://en.m.wikipedia.org/wiki/Mahidevran

マヒデヴランが息子の死後長年経済的に困窮していたのは事実?
英語版はガセネタも記載されているので鵜呑みにはできないが
これが本当の話ならスレイマン最低すぎる・・・。
576世界@名無史さん:2011/11/10(木) 01:02:52.71 0
日本語でググると後宮から追い出された、って情報がちらほらと。年金のことは
どうか知らないけどこれだけでも充分きついんじゃない?
577世界@名無史さん:2011/11/10(木) 21:05:08.22 0
あの時代のオスマン帝国なら地方知事になった息子について行くのが当たり前
ヒュッレムがスレイマンとずっと一緒に暮らしていたのが異例
578世界@名無史さん:2011/11/10(木) 22:58:22.53 0
>>574
情報ありがとう。検索してみたら、確かにあった。ただし、自分の見つけた
ところはユーザー登録が必要だったので、ブルガリアサイトでは過去痛い目に
あったこともあるので、見るのはやめたけど。今日は珍しく番組見れそうな
時間に帰宅できたので、トルコ語版33話あがるの待ち構えているんだけど、
なかなかネットにあがらない。。。。
579世界@名無史さん:2011/11/12(土) 02:06:34.75 0
http://sankei.jp.msn.com/world/news/111112/asi11111200450000-n1.htm
トルコ大統領がお悔やみの手紙 宮崎さん死去悼む
2011.11.12 00:44

トルコのメディアは11日、同国東部ワンで地震によるホテルの倒壊に巻き込まれ、
東京のNPO法人「難民を助ける会」の宮崎淳さん(41)が死亡したことを受け、
トルコのギュル大統領が天皇陛下宛てにお悔やみの手紙を送ったと伝えた。
ダウトオール外相も在トルコ日本大使館を訪れた。

宮崎さんは、10月下旬に大規模地震に見舞われた被災者の支援を現地で続けていたため、
トルコ市民からも「なぜ宮崎さんを守れなかったのか」などと悔やむ声が広がっている。
ワンに宮崎さんの名前を付けた病院を建設しようとの呼び掛けも出ているという。

現地を訪れた同会の大西清人事務局次長によると、宮崎さんの遺体は11日、検視が終わった。
同日夜にも西部イスタンブールに搬送され、できるだけ早い便で日本に戻る予定。(共同)
580世界@名無史さん:2011/11/12(土) 14:49:51.96 0
皇帝はハレムの女性とは一回だけ性行為をしてそれで妊娠しなければ終わりというのは本当でしょうか。
581オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/12(土) 22:38:01.60 0
>>580
そうなの?上で挙げられてるドラマやこの前出たヒュッレム漫画とかをみる限り、
普通に複数回やってるように思えるんだけど。まぁフィクション自体はソースに、
ならないけど、スルタンに1度きりしかチャンスがないなんて聞いたことないなぁ。
そんなのデメリットばかりで帝国の政治運営にとっても意味のないことだろうし。
582世界@名無史さん:2011/11/14(月) 07:04:03.93 0
そう思うのですが、どこかにそんなことが書いてありました。
583世界@名無史さん:2011/11/14(月) 17:32:02.93 0
でかいくせしてマルタにもウラドにも負けた雑魚
584オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/14(月) 22:44:45.02 0
>>582
そうなんだ。どこに書いてあったのか詳しく知りたいなぁ。
585 ◆axCVsGomao :2011/11/16(水) 07:27:35.59 0
スルタンは子沢山だよな 基本
586オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/16(水) 22:30:20.13 0
>>585
まぁ、それなりに子供がたくさんいないと前期オスマン帝国の名物(?)である、
兄弟殺しだって起こりえないしね。ていうか、オスマン帝国に限らず世界中の、
たいていの国の王族とかは基本的にはそれなりに子供が多くいただろうけど。
587世界@名無史さん:2011/11/16(水) 22:58:56.12 0
スルタンはパツキン大好きで
ハーレムをスラブ奴隷で固めたから
代を重ねるごとにスラブの血が濃くなり
スルタンはほぼスラブ人なんだろ
588オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/16(水) 23:17:03.56 0
>>587
オスマン帝国のハレムにはスラヴ人も結構いたけど、それ以外にもカフカス辺りから、
連れて来たチェルケス人なんかも結構多かったよ。有名なヌールバヌなんかは確か、
ユダヤ系だったしね。必ずしも、ハレムはスラヴ人ばっかりだったという訳でもないよ。
589世界@名無史さん:2011/11/16(水) 23:59:11.85 0
ムラト3世の妃(=メフメト3世の母)は、海賊に捕縛されたヴェネツィア貴族の娘だったしな。
映画「ラスト・ハーレム」はそれをモチーフにしたそうだ(時代をオスマン朝最末期に設定変更)。
590世界@名無史さん:2011/11/18(金) 19:31:10.59 0
サフィエ・スルタナは
近年ではアルバニア系説が有力になってるよ

ナクシュデリ・スルタナも
チェルケス系説が注目され
フランス系(ジョセフィーヌ従姉妹)説が否定されつつある

人々の好奇心の対象なのに
記録が少ないからハーレムに関する記述は矛盾や
学説の変更が多いね
591オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/18(金) 20:29:29.61 0
>>590
まぁ、ハレムの女性は基本的には奴隷身分の出身だったからそこまではっきりとした、
出自は記録されてないのかな。必ずしもちゃんと記録に残るような出自とも限らないし。
592世界@名無史さん:2011/11/19(土) 13:17:28.88 0
貴方の名前は何なのでしょうか。
593世界@名無史さん:2011/11/19(土) 21:23:06.53 0
>>588
ハレムについては、
山内昌之『帝国のシルクロード : 新しい世界史のために』 朝日新聞出版 2008年。
を参照。
594世界@名無史さん:2011/11/19(土) 22:35:00.68 0
>>544
きっかけが大切だと思います。
最初に誰かがやると何事も増加するものです。
595オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/19(土) 22:49:58.58 0
>>594
まぁ、確かにそうだとは思うけどギリシャ独立戦争なんかはヨーロッパ列強諸国も、
特に意図してナショナリズムを煽った訳ではないからね。全てのきっかけを列強に、
帰するのもどうかという気はする。確かにロシアとかが煽ったことも結構あったけど。
セルビア蜂起は明らかに自発的だし、ギリシャ独立戦争も国外のギリシャ人たちが、
ヨーロッパの古代ギリシャ文化に対する評価などから、自発的にナショナリズムに、
目覚めたと言える。列強もウィーン体制維持のため当初は戦争を望んでなかったし。
オスマン帝国弱体化のためロシアとかがそれを後ろから後押ししてた面もあるけどね。
596世界@名無史さん:2011/11/20(日) 10:25:43.97 0
スルタン達の名前って、どういう風に分類できるんだろう。
例えば

オスマン、オルハン、ムラト=トュルク系
スレイマン(ソロモン)=イスラム系
セリム=ユダヤ系?

とか。名前の由来の変遷で、何かオスマン家の体質変化を
知ることができるのだろうか?
597オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/20(日) 10:52:32.56 0
>>596
「オスマン」って名前はトルコ系かな?あれは確かアラビア語の「ウスマーン」に、
対応するものでしょ。そういう意味じゃ、イスラム系の名前と言えるんじゃないの。
598世界@名無史さん:2011/11/20(日) 14:57:32.31 0
オスマン帝国はトルコ人国家ではないと言い張る人がいますよね。
支配層に様々な人種がいても元になったのはトルコだからトルコで良いと思います。
自称はオスマン家の崇高なる国家でも外国からはトルコと呼ばれているのに。
599世界@名無史さん:2011/11/24(木) 23:24:45.50 0
そういう「民族」意識はそれこそ19世紀以降のものだし
外部の名前がどうあれ、内部の人間は「ここはトルコ帝国だ」とは思ってなかったわけで
同じことはビザンツ帝国(ローマ帝国)と、西欧からの「ギリシャ帝国」呼ばわりとの関係でも言える
600世界@名無史さん:2011/11/25(金) 21:20:33.65 0
オスマン帝国の借金を律儀に返済したトルコ人には失礼な話になるが
現ギリシャ人とトルコ人は互いに混血しあっているから
文化面ではともかく血縁的には同一民族扱いできるね
601オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/26(土) 06:37:39.29 0
>>598
元になったのはトルコと言うけどどこら辺を持って元になったと言うのか微妙だと思う。
確かにオスマン帝国の場合、公用語がトルコ語(正確にはアラビア語やペルシャ語も、
混じったオスマン語)だし、オスマン家の始祖はトルコ系と言われてるからその点では、
トルコ国家と言えなくもないけど従来のイスラーム王朝的な要素やビザンツ帝国的な、
要素も見られるからね。だからヨーロッパからの他称はともかくそういった多民族的で、
ハイブリッドな国家を一つの呼称で呼ぶ場合はオスマン帝国と呼んだほうが良いかな。
オスマントルコというと数ある要素のうちトルコ的要素だけを特別視することになるから。
602世界@名無史さん:2011/11/26(土) 16:01:34.17 0
晋が臣下に乗っ取られ君主が飾り物以下になったように
オスマン家の崇高なる国家も支配したはずが乗っ取られてしまった。
皇族男子は幽閉されて皇帝が死ぬと最年長が皇帝では奴隷以下だよ。
603オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/11/26(土) 21:27:33.11 0
>>602
まぁ晋やオスマン帝国に限らず君主の実権が徐々になくなっていってお飾りに、
なることはわりとあるからね。オスマン帝国の場合だと、16世紀後半頃辺りから、
徐々に宰相やハレムなどに権力が移っていってスルタンの実権が下がってくる。
でも、近代になると再びリーダーシップを発揮するスルタンが何人かいたけどね。
604世界@名無史さん:2011/11/27(日) 00:26:01.76 0
>>600
それを言ったら、ブルガリア人、ボスニア人、セルビア人、アルバニア人、ユダヤ人、アラブ人、
ベルベル人、イラン人、アルメニア人は同一民族となるのではないの?
一応セムハム語族、印欧語族、アルタイ語族と別れている事になっているけど混在してるもんね。
西トラキアは元ブルガリア領だったよね?あの辺は国境が変わりまくっているからな〜。
バルカン半島の辺りは名古屋民族とか、大阪民族、福岡民族と言っている感じがする。
605世界@名無史さん:2011/11/28(月) 17:54:26.10 O
あとルーマニア人、クロアチア人、モンテネグロ人、マケドニア人
モルドバ人、ハンガリー人、レバノン人、シリア人あたりもオスマン支配下の民族だったからアラブやユダヤと同一民族だな。

みんな同一民族だから仲よくやれよ。
606レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/12/13(火) 20:48:18.12 0
トルコ史上最大の制作費を掛けたと言われるFetih1453のトレーラー(2月上映予定)
ttp://www.youtube.com/watch?v=U8raYASyito


607オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/12/13(火) 22:06:14.42 0
>>606
へ〜、こんなのあるんだ。初めて知ったよ。どうやらメフメト2世による、
コンスタンティノープル征服を取り上げた映画のようだね。他にも上で、
挙げられてるスレイマン1世のドラマと言い最近のトルコではこの手の、
オスマン帝国中期の最盛期を舞台にした歴史物が流行ってるのかな。
608世界@名無史さん:2011/12/14(水) 01:04:57.87 0
>>606
ビザンツ側の人物をどう演出してるか気になるね
ただの敵役扱いでは片手落ちになるしね
609世界@名無史さん:2011/12/14(水) 08:56:12.39 0
これdvdでるのかな。以前製作途中のトレイラー見たら、攻城戦のところまるまるCGで、
「ビザンツ軍」が誰も製作されておらず、誰もいない城壁に向かってオスマン軍が
大砲や矢を射ていて、シュールな映像だった。「CG作品で製作途中」の
トレイラー作るとああいうことにもなりえるのだと思った。
610レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/12/14(水) 21:34:24.47 0
>>607
 2000年代からトルコは映像が輸出産業となりうることに気がついて、特定のドラマや映画に力を入れ
てきた。Muhtesem〜にしろこのFetih1453にしろかなり金をかけているから、明らかにどちらも国内消費
以上に「輸出」を意識している作品。で、歴史も必然的に外国人に知られている・分かりやすいものとなっ
ている。それに、国内消費だけに限ればメフメトの時代ば昔からかなり映画化されているから最近のトル
コ国内の流行とはちょっと違うのでは。と言ってもそれらは厳密な歴史映画と言うよりも冒険活劇と言った
ほうが適切だけど・・・。

>>608
 輸出を意識している以上、流石にカラムラトシリーズに出てきた様なビザンツだけはないと思うw

>>609
 最近のトルコ映画の傾向を見る限りでは、少なくともトルコ国内では英語字幕付dvdは発売されると思う。
611オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/12/14(水) 23:24:22.15 0
>>610
なるほど、だからスレイマン1世とかメフメト2世みたいな比較的メジャーなところが、
取り上げられてるのか。トルコ国内の流行というよりは輸出向けに増えてきた訳か。
実際、これらの作品は海外でどれほど売れるのかな?それなりだろうとは思うけど。
612世界@名無史さん:2011/12/18(日) 01:22:31.30 0
スレイマンのドラマの1−8話のあらすじを画面ショット付で掲載している
サイト発見(日本語)。残念ながら、作者の人は8話で失望して見続けるのをやめた
らしい。是非9話以降も続けてくれると嬉しいのだが。。。。

ttp://hisoku2.blog85.fc2.com/blog-entry-8.html
613世界@名無史さん:2011/12/18(日) 13:50:29.45 0
>>612
そのブログ見に行ってきた
俗っぽい大奥物が大好きだがあらすじが冗長すぎてウンザリした
これはブログ主さんに文章をまとめるセンスがないのではなく
「壮麗なる世紀」の構成の問題だな

テンポ良く史実と虚構を織り込んだドラマを展開させ
鋭い心理描写で魅せてくれよ言いたくなったわ
ハーレムでの内輪もめが延々と続き
26話あたりでようやっとモハーチの戦いは亀ペースすぎる
614オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/12/18(日) 14:19:19.58 0
>>613
僕もそのブログ読んだけど、確かに少しテンポがおそい気はするね。
話としては面白いと思うけど後宮ものは基本的にずっと同じ場所が、
続いたりするから退屈になりやすいし。たまに戦のシーンを入れて、
そういうのを防ごうとしてるから観るのが苦痛というほどじゃないけど。
615世界@名無史さん:2011/12/18(日) 14:49:43.31 0
>>613,614
確かにそうなんだけど、冗長だからこそ、自分で見るのは面倒で、
誰かが画面ショット入りで筋をまとめてくれると嬉しいのだが。。。

少なくとも毎回90分(最近だと120分)ものドラマを見続けるのは大変だ。
>>612のようなブログは8話まで読んで一時間だった。これで大体筋を
つかんで見たい回だけじっくり見る。そういう観点でも、是非612のブログ氏には
続けて欲しいと思うのだが。。。
616レリン ◆SOLUNbNOGQ :2011/12/18(日) 16:04:00.52 0
>>611
 さすがに予知は無理。外国で受けるかどうかはその各国の事情にもよるだろうし。でも製作者側はある
程度の調査をしているはず。Muhtesem〜について言うならば、第一回の英語字幕付動画があるが、あれ
も「公式」。自社作成して海外のテレビ局にサンプルとして支給し反応を見た後、ネット上で公開して海外
からの視聴数も参考にしているはず。その結果は、例えば現在撮影中?の第三部(青年ムスタファやリュ
ステムの話)の予算に反映されると思う。ただ、放映権を欧州や南北アメリカに売るつもりならCM入れて
1時間にまで短縮する必要があるだろうけど。
 
>>612
 登場人物の呼び方がなかなかユニークでw
 「王様」、「高官」、「教育係のお姉さん」・・・
617世界@名無史さん:2011/12/18(日) 16:59:54.69 0
そうなると、イブラヒムとの決着は第二部で着くわけか。となると、
第一部24話だから、第二部48話までと仮定すると、イブラヒム処刑の1534年で48話。
モハーチが26話で、先週放映分が38話だから、そろそろ
ウィーン包囲となる筈だが、どうなんだろう。誰か38話見た人いる?
618オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/12/18(日) 18:37:09.43 0
>>616
まぁ、確かに実際に海外で受けるかどうかまでは分からないか。
今のところ、予算をかなり費やしてるように感じるから。
トルコ側としてはそれなりに受けるだろうと期待してるのかな。
619世界@名無史さん:2011/12/20(火) 14:22:48.03 0
野田佳彦政権が、たばこ税と酒税の増税を諦めていないことが分かった。
年内策定を目指す「社会保障と税の一体改革大綱」に、税制改革の焦点として明記し、
2013年度税制改正での増税実現を目指すというのだ。
でも個人輸入すれば大丈夫。日本語の輸入代行も多数。 
「タバコ 輸入代行」とかで検索するとあるある、、、 
送料込みで1箱90円とかの激安サイトもある。" 
620世界@名無史さん:2011/12/22(木) 22:35:10.67 0
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2011122200552
「大虐殺」否定禁止法を可決=トルコ反発、選挙目当ても−仏下院

【パリ時事】フランス国民議会(下院)は22日、
第1次世界大戦中に当時のオスマン・トルコ領内で起きたとされる
「アルメニア人大量虐殺」について公の場で否定することを禁じる法案を採決し、賛成多数で可決した。
トルコ側は強く反発し、両国関係が悪化しかねない状況だが、
仏側には来年の選挙をにらんだ「票集め」の思惑があるとみられている。
(2011/12/22-22:00)
621世界@名無史さん:2011/12/23(金) 11:00:23.40 0
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20111219_072548.html

トルコ・フランス間の関係に亀裂が入っているこの時期に、
フランスは作家のヤシャル・ケマルにフランスの最も偉大な勲章である「レジオンドヌール」を授けた。


有権者だけでなく
2011年の経済の成長率が中国に次ぐ世界第2位のトルコへの配慮も忘れませんw

622世界@名無史さん:2011/12/23(金) 13:10:13.51 0
オスマントルコって結局ローマ帝国の東半分の領域しか制覇出来なかったんだね
623世界@名無史さん:2011/12/23(金) 14:16:42.14 0
そのかわり東側(東ヨーロッパとか中東とか)の面積は広い
メソポタミアも長期間支配した
624オツガイ ◆EAbyJft1LY :2011/12/23(金) 22:39:03.74 0
>>622
オスマン帝国は一時期ローマ帝国の後継を名乗ってたこともあったけど、
その時に想定されたローマ帝国はいわゆる古代ローマ帝国じゃなくて、
中世の東ローマ帝国、すなわちビザンツ帝国だろうからね。
実際、オスマン帝国は西欧のほうを征服する気はほとんどなかったし。
625世界@名無史さん:2011/12/24(土) 22:35:44.96 0
>>617

ttp://www.youtube.com/watch?v=OrCDXsiZjF4
39話
1時間14分17秒から
626世界@名無史さん:2011/12/25(日) 15:13:48.81 0
39話で、
ハフサ・ハトゥンがヒュッレムを詰問する原因になった
手帳には何が書いてあったの?
627世界@名無史さん:2011/12/25(日) 21:50:14.91 0
>>625
ありがとう!早速見てみた。今回は1529年8月までの情勢で、最後の方でスレイマンが
ウィーン攻めの作戦会議開いているとこが終わり近くであったから次回40回で
本格的な攻囲戦が行われそうだね。楽しみ。

それにしても、今回サポヤイ・ヤーノシュが出ていたけど、若すぎ。モハーチの
戦いで出ていたラヨシュが中年だったから、ヤーノシュ役とラヨシュ役の俳優さんが
が入れ替わるとちょうど良いいのに、と思った。

>>626
あの手帳は、スレイマンの肖像画を描く為に宮廷に招かれたレオパルド
(レオ)という画家のもの。彼はヒュッレムの元恋人で、手帳には
ヒュッレムへの想いを綴った手記とヒュッレムの肖像画が入っている。
彼はイブラヒムの家に住み、彼の描いたスレイマンの肖像画はイブラヒムの
家の居間に飾られた。しかしイブラヒムの家に住んでいたので、
イブラヒムにヒュッレムとの仲を気づかれ、ヒュッレム不貞の証拠として
イブラヒムに利用されることになるが、イブラヒムがヒュッレムに手帳を
つきつけた時、ハティジェの子供が死去する通報があり、イブラヒムは手帳を落として
部屋を出ていってしまう。ヒュッレムは咄嗟に窓の外に投げるがそれを拾った
のがマヒデブランの女官。

 レオの登場回は見ていないので、経緯はわからないのだけど、彼はレオパルドと名乗っていて、
イタリア人ということになっているらしいが、ヒュッレムと二人きりの時はロシア語を話しているので、
ヒュッレムがさらわれる前の恋人だったのではないかと推測してます。
628世界@名無史さん:2011/12/26(月) 18:29:43.63 0
>>627
あらすじ紹介サンクス
レオが宮廷陰謀に巻き込まれて死ねばヒュッレムのヒール度がかなり下がるね
イブラヒム処刑は保身だけでなく復讐もかねることになるから

記録が少ないハーレムではハフサ・ハトゥンやイブラヒムが
ヒュッレムに敵対した動機が明確にわからないから
こうやって脚色する必要(余地)が生まれるんだろうな
629世界@名無史さん:2011/12/26(月) 21:45:15.85 0
>>628
実は、レオは24話の終わり(25話の冒頭でもちょっと出てくる)で死んでいるんですわ。
イブラヒムが毒をチーズかお菓子かなにかにかけて、その皿をヒュッレムに
つきだす。ヒュッレムはそれを泣きながらレオに食べさせる(か、レオが
自分でとって食べたのかも。記憶が曖昧です。すいません)。

イブラヒムが何と言ったかわからないけど、勝手に台詞を推測するに、
「お前が自分で食べるか、レオに食べさせるか、どちらかを選べ」とでも
言った感じ。優しいレオは、この時も「僕を許してくれ」といいながら
毒入り菓子を食べるのだった(このレオの台詞はロシア語で、トルコ語の字幕が
出たので、Google翻訳に打ち込んで台詞がわかった)。

というわけで復讐も兼ねている気がしますわ。
630世界@名無史さん:2012/01/02(月) 23:57:34.38 0
シェッディン・デデンは素晴らしい曲だと思うよ。
631オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/03(火) 16:26:58.41 0
>>630
あれって意外と最近(と言っても100年近く前だけど)の曲なんだよね。
初めて聴いた時はこの曲が16世紀や17世紀頃の最盛期に流れてたのかと思ったけど、
歌詞を調べればやたら「トルコ人」という言葉を強調しててどう考えても、
ナショナリズムが成立した近代以降の作品だということは明白だね。
まぁ近代のナショナリズム台頭の中で古い文化を新たに作るという、
一見すると矛盾のようにも見える行動はオスマン帝国以外でもわりとあるんだけど。
それはともかく、この曲自体は結構迫力ある雰囲気なので僕もかなり好きだ。
632レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/01/04(水) 21:00:05.16 0
>>631

 相変わらず高校生レベルを超えてるレスだwそれどころか

> まぁ近代のナショナリズム台頭の中で古い文化を新たに作るという、

 数年前まではともかくも最近の世界史板にはこの点自体認識している人がほとんどいなくなり人種決定
論者だけが無限増殖しているのはなんとも嘆かわしいと言うか・・・。

 それはともかくも、似たような例は日本で「ウスクダラ」として知られているÜsküdara giderikenがあるね。
曲も歌詞も起源は不明で、どうもオスマン軍楽に大衆受けする歌詞を加えたのが流行したという仮説
が有力。ただ、周辺民族はいずれも曲は自民族起源を主張している。ブルガリア人音楽研究家のア
デラ・ペーエヴァによるドキュメンタリー映画Whose is this song ?だとオスマン起源について言っただ
けでセルビア人から暴行を受けそうになり、同じブルガリア人からは脅迫されている。バルカンの各民
族でこの曲が自分たち固有のものでなく「外来」だと認めているのは「民族」としての歴史がきわめて浅
いマケドニア人だというのが皮肉。更にはブキャナンの論文によるとÜsküdara〜の曲は実はクリミア戦
争中に駐屯していたスコットランド人連隊の軍楽が起源とするトルコ人研究者もいるらしい。
 それでもしÜsküdara〜が実際にオスマン軍楽で、かつそれがスコットランド起源だ、という二重の仮説が
事実だとするならそもそも現代に伝わっているオスマン軍楽自体が19世紀以前のオスマン軍楽とは全
くの別物で、実際は西欧起源なのではとの疑念も生じてくる。
633オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/04(水) 21:23:00.14 0
>>632
へ〜、Üsküdara giderikenってトルコ人以外の周辺民族も自民族起源を唱えてるんだ。
歌詞がトルコ語なせいか普通に前近代のオスマン帝国時代に作られたのかと思ってたけど、
曲に関してはオスマン起源じゃないというかオスマン軍楽ですらなかったという意見もあるのかな。

>そもそも現代に伝わっているオスマン軍楽自体が19世紀以前のオスマン軍楽とは全
>くの別物で、実際は西欧起源なのではとの疑念も生じてくる。
それは充分にありうるかも知れない。完全に別物とまではいかなくても、
現代に伝わってるのとは細かいところで違いが結構あるような気はしなくもない。
ジェッディン・デデンに限らず現代に伝わってるメフテルの曲って調べてみると、
意外にも近代以降に作られたものが多いからね。もちろん、そうじゃないのもあるけど。
634レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/01/04(水) 23:34:20.83 0
>>633

 軍楽以外の説だと他にも16世紀以降の都市音楽起源だとか19世紀のアルメニア人作曲家ティグ
ラン・チュハジアンによる「ホルホルアガ」というオペレッタ(初公演1875年イスタンブール)で使用され
た曲と言ったところがあるかな。その他の各民族による「起源説」は・・・ただの民族主義臭い。
635オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/04(水) 23:58:55.44 0
>>634
なるほど、ありがとう。まぁ、でも実際聴いてみると「ウスクダラ」って、
「ジェッディンデデン」などと少し雰囲気違うから、
軍楽じゃなかったという説も確かに分からなくはないんだよね。
まぁ、逆にこういうのが実際のメフテルだったのかも知れないけど。
636世界@名無史さん:2012/01/05(木) 00:25:15.22 0
>>635
「ウスクダラ」は作者不詳の歌だが、歌詞(トルコ語)に登場する語彙
setre(フロックコート)、etek(裾)は、この歌が19世紀に作られたことを示している。
637オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/05(木) 07:15:54.30 0
>>636
なるほど、確かに歌詞に関しては19世紀に作られたのが明白だね。
曲がそれよりも前に出来て後から歌詞が付けられたのか、
歌詞と曲が同時期の19世紀に作られたのかは良く分からないけど。
638世界@名無史さん:2012/01/05(木) 19:01:28.51 0
ウスクダラは実はコンスタンティノープル陥落記念歌の替え歌だったとか
いう俗説なら聞いたことがある。曲は歌詞以前に成立していたんだろう、多分。
639世界@名無史さん:2012/01/05(木) 20:34:15.23 0
オスマン古典音楽は19世紀末に黄金時代を現出したと言われているようだ。

新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』(青土社、2009年)を参照。
640世界@名無史さん:2012/01/06(金) 23:58:01.10 0
オスマン帝国から独立した国に問題児しかいないのはなぜ?
641オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/08(日) 07:25:12.68 0
>>638
へ〜、コンスタンティノープル陥落の記念歌なんていう説もあるんだ。
確かに歌詞より以前に曲は出来てたっぽいからそれもありうるかもね。
だとしたら他の軍楽と少し雰囲気が違うのも分からなくはないし。

>>639
それはやはりナショナリズムの台頭が大いに関わってるんだろうね。
音楽以外の文化も19世紀末にはかなり発展したし。
この時代はアブデュルハミト2世が汎イスラーム主義政策の下で、
イスラムの代表としてのオスマン帝国を強調してた時期だから、
メフテルなどオスマン帝国の伝統文化を再確認する動きが出てきたのかな。
642世界@名無史さん:2012/01/08(日) 23:08:29.13 0
このスレ勉強になるな。自分トルコ古楽は知識が無いので、なんとなく、
どれも同じ感じを受けていたが、ここでÜsküdara giderikenの解説を聞いてから
聞いてみるたろころ、恐らく今後はÜsküdara giderikenは確実に聞き分けが着くように
なると思われる。知識がつくということは、一緒くたに見えたものが、
整理されて頭に入るものだとつくづく思う。
643世界@名無史さん:2012/01/08(日) 23:17:09.39 0
>>642
歌詞を調べてから聞くとある程度聞き分けられるよね。なんだか不思議だ。
644世界@名無史さん:2012/01/10(火) 15:07:00.28 0
>>624
オスマン帝国ってイタリアを支配する気はあったのかな?
その気になればイタリアを征服できたかな?

流石に当時大国だったスペインやポーランドを打倒して併合するのは無理だろうけど
イタリアは小国が多かったし可能性としてあるんじゃないかと
645オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/10(火) 16:08:30.83 0
>>644
オスマン帝国はヴェネツィアとエーゲ海の島々を巡って争ったりはしたけど、
イタリア半島まで征服しようとしたことはなかったように思える。
海軍よりも陸軍のほうが主流だったオスマン帝国にとって、
ウィーン包囲が失敗した時点でそれより奥への進軍は難しかったのかも知れない。
エーゲ海の征服ぐらいならまだしもそれ以上の侵攻はする気なかっただろうね。
まぁ、征服できたかどうかは所詮IFだから何とでも言えるんだけど。
一応、征服こそしなかったけどオスマン帝国がヴェネツィアを破ったことは何度かある。
646世界@名無史さん:2012/01/10(火) 17:47:37.40 0
ウィーン包囲といえば、第二次のときはポーランドのフサリアが無双してオスマン壊走させたな。
第一帝国の救国の英雄を、第三帝国の総統閣下はどう評価していたものやら。
647世界@名無史さん:2012/01/10(火) 21:27:03.87 0
海軍の役割を既存通商路の護衛程度にしか認識していなかったのかもね。
648世界@名無史さん:2012/01/12(木) 00:10:41.60 0
そういえば攻撃はパッとしないな。兵糧攻めに使ってるだけで沿岸砲撃や上陸戦のイメージが
わかない。
649世界@名無史さん:2012/01/12(木) 20:42:22.99 0
そらそうよ。レパント以降も延々とガレー船使っていたからそんなことできないな。
650世界@名無史さん:2012/01/13(金) 23:34:50.34 0
そもそも海軍が航路確保以上を求められるようになったのはもっと後世だろ
651世界@名無史さん:2012/01/14(土) 21:40:29.86 0
ソコルル・メフメット・パシャは海軍の最高ポストである
カプタン・パシャ(大提督)に就任したことがあるね

でもソコルルは大提督就任前は陸戦の将軍や文官としての経歴しかないはず
大提督の職責をどうやって全うしたんだろう?
そういえばドン・ファンも海軍経験なしでレパントで総大将をやっていたね
652世界@名無史さん:2012/01/15(日) 12:30:01.30 0
前半生で軍事教練に洋上での研修があったとかかも。裏を返せば、その程度の実践で大提督
になれるほどの天才だった、と。
653世界@名無史さん:2012/01/16(月) 17:35:23.96 0
オスマン帝国と日本の近代化を教育面から比較して卒論書いた。来週の口頭試問が怖いぜ( ;´Д`)
654世界@名無史さん:2012/01/16(月) 18:15:49.35 0
>>653
読んですらいないがgj
655653:2012/01/17(火) 00:17:59.84 0
オスマンの前近代の教育はくそ。そしてミュテフェッリカの印刷所が断絶したのもくそ。
日本はプロト工業化したので、前近代に教育レベルうp

結論。教育面での上からの近代化には限界がある。
656世界@名無史さん:2012/01/18(水) 21:02:01.00 0
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20070929_012511.html

■600万人の女性は読み書きができない
2003年に開始された「少女たちを学校に・キャンペーン」の一環で、
およそ28万人の女子児童が就学した。
トルコでは約600万人の女性が読み書きができない

657世界@名無史さん:2012/01/18(水) 23:04:57.11 i
>>656

それはその通り


でも若年層(15〜24歳)識字率は女性も95%以上だよ
658オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/22(日) 13:09:27.01 0
>>655
オスマン帝国の前近代の教育って都市部にマドラサがいくつかあった程度だったのかな。
印刷はなぜかイスラーム圏ではなかなか根付かなかったね。
クルアーンなどイスラーム関係が印刷できなかったのは神の言葉だからなのかも知れないけど、
それ以外の分野にすらミュテフェッリカ以前は印刷されなかったのは、
やはり書記職がオスマン帝国において重要な位置にあったからなんだろうね。

>>656
そのサイトを読んだけど、やはり学校に行けない女性ってクルド人に多いのかな。
トルコ政府の影響の弱いそこら辺だとまだ女性は家にいるものだという慣習が根強いね。
都市部とかだと普通に女性の識字率もそこそこあるんだけど。
659世界@名無史さん:2012/01/22(日) 16:57:05.81 0
>>658
メクテブという初等教育機関がモスクの数以上にあったみたい。
でも、カリキュラムがクルアーンの暗誦だったりアラビア文字の書取だったりして、(非アラブ人には)全く非合理だった。
だから、19世紀初頭のオスマンの識字率は数%。日本の数十%(正確には分からないが)とは段違い。

ミュテフェッリカ以降、印刷所が廃れた事を考えると、当時のオスマンに印刷物(知識)の需要が無かったとも言える。

江戸日本とオスマン帝国の知識レベルの差は圧倒的。
660オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/22(日) 17:18:20.63 0
>>659
なるほど、アラビア語ばかりだとアラブ人以外は日常で使う機会があまりないから、
大して意味を成さなかったということなのか。
トルコ語(正確にはオスマン語)の読み書きはあまり教えられなかったのかな。
オスマン帝国に限らず歴史的にイスラーム圏の教育は、
クルアーンの暗唱やアラビア語の読み書きが主だったからね。
とは言え、アラビア文字の読み書きが出来るのなら、
基本的に同じ文字を使ってたトルコ語の読み書きも出来そうだけどなぁ。
日常的にトルコ語は使ってるはずだから出来なくもないと思うんだけど。
661世界@名無史さん:2012/01/22(日) 17:33:07.10 0
メクテブのカリキュラムに関しては上以上はちょっと分からんな。

プラスで言えるのが、
・教科書は教師の持っているクルアーン1冊だけ。
・ムスリムの仕事は軍人・官僚か農民なので読み書きができた所で使う所がない。(江戸日本では商業が発達していた)
・メクテブの目的は読み書きを教えるよりもイスラームのイデオロギーを注入する事にあった。

母語の読み書きでも4年間位は継続してやらないと身につかないから、継続して通えたとは思えないメクテブ教育では無理だったと思う。ましてや非合理なカリキュラムの下では。
日本の手習所も冬の間しか通っていない子ども達は、自分の名前書くのがやっと、みたいなのも多かったみたいだし。


長谷部圭彦さんの博士論文読みたいお(*_*)
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2011/899.html


662オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/22(日) 20:15:37.84 0
>>661
まぁ、教材がクルアーンしかないようなイスラーム教義の浸透を中心としたような教育じゃ、
読み書きはそこまで徹底されてなかったんだろうね。あまり継続的に通うこともできなかったそうだし。

>・ムスリムの仕事は軍人・官僚か農民なので読み書きができた所で使う所がない。(江戸日本では商業が発達していた)
オスマン帝国では商業はギリシャ人やユダヤ人などの非ムスリムがほとんど担ってたからね。
ただ、農民はともかく官僚や軍人は一定以上の役職なら読み書きも必要だったと思うけど。
663世界@名無史さん:2012/01/22(日) 21:00:48.08 i
>>662
軍人・官僚はリテラシーのある少数派だった。もちろんね。
言葉足らずですまそ。
664オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/22(日) 21:49:59.54 0
>>663
まぁ、オスマン帝国に限らず軍人・官僚はどこの国でも少数派だからね。
基本的にムスリムの大多数は農民だったろうし。
都市部には手工業者や商人もそれなりにいただろうけど。
665世界@名無史さん:2012/01/22(日) 22:25:09.43 i
軍人の割合が高い国って大国に挟まれた小国か、戦争しまくったり軍拡しまくってる連中だよね。相当無理してそう。
そういえばオスマン・トルコ軍は一番多い時でどのくらい居たの?
666世界@名無史さん:2012/01/23(月) 19:58:16.12 0
Wikipedia(笑)によると20万代
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Military_of_the_Ottoman_Empire
667世界@名無史さん:2012/01/23(月) 20:25:27.80 0
>相当無理してそう

 スレイマン大帝の時代もそうだったのかな?
 スレイマンが遠征を重ねても国庫は黒字をキープしていたらしいが
 これってイコール庶民もそこそこ豊かに暮らしていた証拠にはならないよね。
 庶民に重税を課していたから国庫が潤っていた可能性もある
668世界@名無史さん:2012/01/23(月) 20:53:55.33 0
世の中大体そんなもん
名君と言われてるピョートル大帝にしろ徳川吉宗公にしろ
重税かけまくりで庶民から見れば暴君も良いトコだった訳だし
669オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/23(月) 22:43:35.77 0
>>667
都市の庶民の暮らしや文化についてはスレイマン1世の時代よりも、
それより少し後の時代のほうが詳しく残ってる上に個人的には豊かだったように思える。
軍事的には衰退してたチューリップ時代なんかも都市の生活は豊かだったし。
スレイマン死後の16世紀後半から17世紀頃のほうが文化的には栄えてた印象が強い。
そう言えば、オルハン・パムクはしばしばその頃のオスマン帝国を題材にしてたうえ、
本人も自伝でそこら辺の時代のほうが好きだなんてことを言ってたね。
670世界@名無史さん:2012/01/24(火) 21:50:59.92 0
http://sankei.jp.msn.com/world/news/120124/erp12012420390009-n1.htm
アルメニア人虐殺否定は「犯罪」 仏で法律成立
2012.1.24 20:39

フランス上院は23日、第一次世界大戦中のオスマン・トルコ帝国による
アルメニア人虐殺を公の場で否定することを禁ずる法案を賛成多数で可決した。
国民議会(下院)は昨年末に可決しており、法案は成立した。

アルメニアは最大で150万人が犠牲になったと主張しているが、
トルコ側は虐殺を認めておらず、反発を強めている。
フランスとトルコの関係は一層、悪化するとみられる。

法律では違反した場合、最高で禁錮1年と罰金4万5000ユーロ(約450万円)の罰金が科せられる。
トルコ政府は「無責任の実例となる決定を強く非難する」との声明を出し、対抗措置を辞さない構えだ。
(ベルリン 宮下日出男)

671世界@名無史さん:2012/01/28(土) 18:57:00.15 0
第二次ウィーン包囲なんかしなけりゃ
672世界@名無史さん:2012/01/29(日) 00:40:40.33 0
その直前まで30年戦争のダメージから立ち直れないオーストリアをボコってたから
ウィーン包囲しないって選択肢は薄いね
673オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/29(日) 01:31:37.05 0
>>672
この時代のオスマン帝国はキョプリュリュ家の力でかなり勢力をのばしてたからね。
オーストリアだけでなくポーランドやヴェネツィア相手にも戦って勝ち進んでたから、
このままウィーン包囲も上手くいけるという自信があったんだろうね。
結果的にはこの後のカルロヴィッツ条約で領土を大きく失うはめになる訳なんだけど。
良く言われるようにカラ・ムスタファ・パシャが少し功を焦りすぎたというのもあるかも知れない。
674世界@名無史さん:2012/01/29(日) 22:05:13.16 0
大丈夫と信じてやったウィーン包囲が原因で衰退しはじめるとは思わなかっただろうに
675世界@名無史さん:2012/01/31(火) 18:38:04.28 0
オスマンはイスラームから抜けられない国だったから衰退は必然。
上でも書いたが、ミュテフェッリカ印刷所しか印刷所がない状態では
西欧科学革命・軍事革命についていくのは不可能。

第二次ウィーン包囲失敗なんか関係ない。

と思う。ウィーン包囲失敗は衰退の象徴に過ぎない.....
676オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/01/31(火) 19:13:40.23 0
>>675
何かそれだとイスラームはそもそも衰退に向かうものだという前提があるように聞こえるなぁ。
イスラームそのものの問題というよりは、大国としての自負心に溢れてたことが、
オスマン帝国における保守性を作ったんだと思う。そのため、西欧に学ぶことをしなくなり、
近代の西欧の急速な発展についていけなくなった。オスマン帝国が衰退したと言うより、
西欧が近代に急速に発展しすぎたため置いてけぼりを食らったというほうがより近いかも。
確かに、第2次ウィーン包囲はあくまで力関係の逆転を示したきっかけにすぎないね。
本質的な原因は西欧の急速な発展とそれに興味を持たなかったオスマン帝国にあるかな。
思想や政治や学問面で西欧に学ぼうということは19世紀になるまで行われなかったからね。
オスマン帝国は大国だからわざわざ外国からそれらを学ぶ必要はないと思われた。
まぁ、こういうこと自体はオスマン帝国に限らず清とかでも似たような感じだったけど。
とは言え、19世紀以降はオスマン帝国も西欧を倣って近代化を図るようになった。
677世界@名無史さん:2012/01/31(火) 20:21:38.54 0
清もオスマンもロシアも、帝国自体は1910年代まで持ったというのは
意外と渋いというかなんというか。さらにオーストリア・ハンガリー帝国をも
加えた老大国4つがいっぺんに潰れたWW1付近の10年間が凄まじすぎる
のかもしれないけど。
678世界@名無史さん:2012/01/31(火) 20:46:41.49 0
「奢れる者は久しからず、盛者必衰のことはりをあらはす」
これがしっくりとくるお話ですなぁ
679世界@名無史さん:2012/01/31(火) 21:35:02.57 0
うげ。
× 意外と渋い
○ 意外としぶとい
680世界@名無史さん:2012/01/31(火) 22:22:50.62 0
16世紀にはロシアはローマの後継者を任じるようになっていたと思うのだけど、
ピョートルはなぜあっさり西欧の優位を認めたのだろうか。彼が突然変異
だったのだろうか。

やっぱカルロビッツ条約とか西欧諸国のオスマンへの優位を見て判断したの
だろうか。
681世界@名無史さん:2012/01/31(火) 22:34:09.63 0
>>680
アムステルダムで船大工として働いたぐらいにピョートルは西欧大好きだからなぁ。
少年時代に外国人村に出入りしたのが影響しているんじゃない?
682世界@名無史さん:2012/02/01(水) 00:47:49.41 0
>>676

イスラームから抜けられないというか宗教から抜けられなかったという方が正しいかな。
それだとイスラーム蔑視になる。前近代イスラームは良かったの思うし

近代化は脱宗教化と識字化だと思っている。
683オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/01(水) 06:39:12.68 0
>>680
ピョートル1世の西欧化政策はロシア国内からの反発がすさまじかったらしいから、
ほとんどピョートル個人の独断だったと思う。オスマン帝国との戦争などをみて、
西欧の優位を素直に認めたんだろうね。先見の明があったと言えるかな。

>>682
確かにイスラームというよりは宗教そのものからの脱却と言うべきだね。
何だかんだでオスマン帝国はシャリーアを基本法とする体制だったし。
19世紀からの近代化で、西欧の圧力の下多宗教の平等を認めるなどして、
少し世俗化したけど、それもアブデュルハミト2世の汎イスラーム主義で戻った。
まぁ、汎イスラーム主義は今のイスラーム主義とは色々違うんだけど。
その後、青年トルコ革命が起きて再びだいぶ帝国内の世俗化が進むけど、
完全に政教分離するのはケマル・アタテュルクのトルコ革命後だしね。
まぁ、19世紀のオスマン帝国の近代化への宗教的な反対は当所少なかったそうだけど。
とは言え、19世紀以前になるとほとんど脱宗教の動きはなかったね。
684世界@名無史さん:2012/02/02(木) 03:32:24.26 0
オスマンは近代化が遅れたとあんたらは言うが、
第一次世界大戦直前のオスマントルコの一人当たりGDPは当時の日本の9割程度。
隣国セルビアを上回る。
日露戦争時は、日本とほぼ同じ。

その領土の広大さを含め三国同盟の一翼を担う列強としての力はあったんだよ。



685オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/02(木) 07:02:05.78 0
>>684
まぁ、近代化が遅れたというのはあくまで西欧諸国と比べた場合であって、
日本など後発の近代国家と比べたらそこまで遅かった訳じゃないしね。
19世紀初めにはすでに近代化政策を行なってたし、かつてと比べると衰えたとは言え、
バルカン半島や中東においては依然として大国の地位を不動にしてたね。

それに、オスマン帝国ってアフリカ分割のほうのベルリン会議にも呼ばれてるんだよね。
衰退したとは言え、西欧諸国にとってオスマン帝国はとりあえず分割される側じゃなく、
分割する側のほうだったということかな。準列強の1つくらいには見られてたのかも。
686世界@名無史さん:2012/02/02(木) 17:26:21.57 0
現在のトルコ共和国は政教分離ではなく国家による宗教管理、いわば
宗教の国家化だな。
687オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/03(金) 10:27:10.75 0
>>686
ある意味、それ(国による宗教管理)はオスマン帝国時代からの伝統と言えなくもない。
ウラマーはキリスト教の聖職者とは違い固定化された身分ではないと良く言われるけど、
オスマン帝国におけるウラマーの場合はきちんとした試験を通さないと就くことができなく、
いわば公務員のような感じになってたんだよね。そうすることでオスマン帝国は、
宗教的権威も中央集権的な官僚制度の中に組み込んでいたらしい。
後のトルコ共和国が、宗教を国の管理下におくことで政教分離に成功したのは、
そのようにオスマン帝国が伝統的に行なってた宗教政策にも一因があると思う。
688世界@名無史さん:2012/02/04(土) 14:35:23.45 0
オスマン帝国の地方行政区画地図を探しています。
↓は1900年のものですが、これの16世紀と17世紀版を探しています。
ttp://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1e/Map-of-Ottoman-Empire-in-1900-German.svg/800px-Map-of-Ottoman-Empire-in-1900-German.svg.png
↓のようなアナトリアのものは結構見つかりやすいのですが、バルカン半島の入っているものは見つかりません。
ttp://www.houshamadyan.org/uploads/pics/Mapa_osmanian_empire_22_02.jpg

ローマ帝国の属州地図などは高校歴史地図帳にも載っていて、少し調べると
四分割統治地図や皇帝になる前の属州総督キャリアなどがわかるのですが、
オスマン朝の場合、そうした情報にはなかなかお目にかかれません。

名目上の宗主権州もあったとはいえ、まがりなりにもバルカン半島、小アジア、
シリア、イラク、北アフリカを400年にも渡って統治したのだから、
地方行政区画地図ももっと人目につきやすい書籍などにあっていいように
思うのですが、少ないというのは、頻繁に区画が変わったなどの事情が
あるのでしょうか?(ローマ帝国も結構頻繁に属州区画変更はあるけど、
区画地図は結構あるのと比べるとやはり少ないと思います)
689レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/02/04(土) 19:39:25.46 0
>>688
バルカンについてなら定番のHistorical Atlas of Central Europeだね。47ページには正に16世紀
のサンジャック単位での行政地図がある。この地図帳は他にも民族、宗教、経済等の地図も含ま
れているから、関心があるなら購入して損はないと思う。
690世界@名無史さん:2012/02/04(土) 20:54:21.51 0
>>688
オスマン帝国末期の行政区画については、
木村喜博『東アラブ国家形成の研究』(アジア経済研究所、1987年)を参照。
691世界@名無史さん:2012/02/04(土) 21:12:26.56 0
>>689
ありがとうございます。サンジャクという用語を知らなかったので、
それで検索をかけてみたら、欲しかった情報が見つかりました。

行政区画の沿革については、
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Eyalet
に一覧表があり、
ttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Bosnia_Eyalet,_Central_europe_1683.png
など、細かい区画図を見つけることができました。

お教えいただいたアトラスは価格も安いようなので自分の購入候補リストに
入れました。まだ買うかどうか決めていませんが経済データには興味があるので、
買うかもしれません。
>>690さんもありがとうございました。
692世界@名無史さん:2012/02/04(土) 21:41:53.72 0
>>688-691
オスマン帝国の地方行政区画の用語は次の通り。

州:ヴィラーイェト
県:サンジャク(ムタサッルフルク)
郡:カザー

オスマン帝国末期の地方行政組織の概略を知るには次を参照。
 佐原徹哉『近代バルカン都市社会史』(刀水書房、2003年)。
 木村喜博『東アラブ国家形成の研究』(アジア経済研究所、1987年)。
 粕谷元編『トルコにおける議会制の展開―オスマン帝国からトルコ共和国へ』(東洋文庫、2007年)。
693オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/05(日) 01:18:37.17 0
>>692
ヴィライェトは近代の19世紀半ば以降にできた行政区画で、
それ以前は州としてはエヤレトという行政区画が使われてたよ。
前近代のオスマン帝国ではエヤレトが一番上の行政区画としてあり、
その下にもう少し細かいサンジャクと呼ばれるものが存在したね。
694世界@名無史さん:2012/02/05(日) 01:22:03.31 0
属州Wikiを診てみました。以下の1609年時の行政区画を見てみると、
ttp://en.wikipedia.org/wiki/File:Rumelia_Eyalet,_Ottoman_Empire_%281609%29.png
時代によって、属州の統廃合や拡大縮小が行われていたと思いますが、
ざっとみても、ルメリアとアナトリア、エジプトがぬきんでて大きいと
思います。

やはり、知事の任官地としては、ルメリア、アナトリア、エジプトが席次の
上で重要だと考えても良いのでしょうか?

ローマ帝国だと、これも時代によりますが、だいたい防衛上の重要地である
ゲルマニアとシリアの総督、及びイタリア半島の穀物基地であるエジプト
総督が重要序列が高い属州とされていたようですが、オスマン朝の場合、
防衛重要地ということでは、イランとの国境地域やバルカン半島北部
ということになると思うのですが、オスマン朝の知事の序列は
どのように決まっていたのでしょうか。
695世界@名無史さん:2012/02/05(日) 01:46:33.93 0
>>694

> やはり、知事の任官地としては、ルメリア、アナトリア、エジプトが席次の
> 上で重要だと考えても良いのでしょうか?

ソコルル・メフメト・パシャがルメリア知事だったね。やっぱし有能な人物が任命されたんじゃない?
696オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/05(日) 02:13:53.02 0
>>694
オスマン帝国の中央において行なわれてた御前会議では、
ルメリア代表とアナトリア代表が共にいて、前者のほうが上だったらしい。
オスマン帝国にとってはこの両地域がいわゆる本国のようなもので、
他の地域はローマ帝国で言えば属州のようなイメージだったんじゃないかな。
ルメリアのほうが重視されたのはおそらくデヴシルメの影響で、
官僚や軍人などの重要なポストにルメリア出身者が多かったからかな。
だから、この2つの地域の州が特に重要視されたんだと思う。

エジプトはイラクなんかと並んで、オスマン帝国において半分は自治を保ち、
半分は中央政府の管理下にあったような特別な地域だった。
アナトリアやルメリアなどに比べれば地元有力者が権力を握りわりと自立してたけど、
クリミア・ハン国やトランシルヴァニア公国に比べれば中央の統制は強かった。
イラクの場合はサファヴィー朝との関係を考えてのことだろうけど、
エジプトのほうはすでに築かれてたマムルークの勢力が無視できなかったことと、
農業や商業などで経済的にも重要だったことが原因だと思う。
そういう特別な地域だったから、オスマン帝国の州の中でも重要なほうだったと思うよ。
それと、ミドハト・パシャがバグダードの知事になったりしてるから、
エジプトと並んでイラクもそれなりに重要な地域として見られてたんじゃないかな。
697世界@名無史さん:2012/02/05(日) 14:23:13.96 0
ありがとうございます。「イスラム・社会のシステム』(筑摩書房 1986年)」所収の
鈴木菫氏のオスマン官僚に関する章を読みました。そこでまた疑問がわきました。

1)
そこでは中央官僚が次第に地方総督に進出してゆく傾向が見られる、とありました。
ひとつ思ったのは、地方総督は官僚ではない(用語的には「政治家」扱い)と記載されていて、
中央官僚が出世して地方総督に転出してゆくのを政界への進出、と書いていたのですが、
中央官僚以外出身以外の地方総督達は、どのような人々が任官していたのでしょうか?

2)
また、総督になるような人々は、総督を転々としたキャリアを過ごしたのでしょうか。
中国では地方総督=科挙採用の官僚で、地方役人を転々としつつキャリアアップをしていました。
ヒッティの「アラブの歴史(下)」では、エジプト総督は280年間に100人代わった、
とあり、長谷部史彦氏東洋史学53巻2号(1994年)所収のオスマン朝期のカイロの
食料暴動の論文でも、エジプト総督は2年半くらいで交代している様子が
わかります。総督職の役人は2年半程度で交代しているとすると、キャリアの
最後で5任地くらいの総督を勤めて終わり、なのでしょうか。それとも、
総督職は若いときから30年くらい10任地務めるようなものだったのでしょうか。
698オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/05(日) 18:13:19.75 0
>>697
1)
あなたの言うようにオスマン帝国は中央官僚から地方総督になる場合が多く、
地方総督はたいていそうやって中央から派遣されてきた者だよ。
ただ、中央から離れたマグリブやアラビア半島などではそうじゃない場合も多く、
中央官僚出身以外の、地元の有力者が総督になってる例もそれなりにあるね。
後、その他の例としては皇室の人間が重要地域の総督を務める場合もあった。

2)
ミドハト・パシャみたいにいくつかの任地を移動した中央官僚はいたみたいだけど、
30年くらいもの間、たくさんの任地を転々としてた例は知らないなぁ。
もしかしたらあったかも知れないけど、そこまでは良く分からないや。
699世界@名無史さん:2012/02/06(月) 20:21:37.26 0
このスレは楽しいなぁ。

ミドハドパシャはドナウ州でも改革やってるよね。佐原徹也さんの著作や論文で詳しいけど。

オツガイは大学はどこ行きたいの? 東大? 東外大?
700オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/06(月) 23:15:49.01 0
>>699
とりあえずは東大の文系が第一志望だよ。学部はまだ悩んでるんだけど。

まぁ、僕のことは置いといて、ミドハト・パシャに話を戻すと、
彼はドナウ州やバグダード州以外にも色んなところの知事を務めてるね。
ただ、そういった彼の知事就任はキャリアの積み重ねによるものだけではなく、
左遷の意味合いのほうが強かったものも中にはあったんだよね。
中央官僚が地方に行く場合、キャリアアップを意味する場合もあれば、
中央からの左遷を意味する場合もあったという例かな。
701世界@名無史さん:2012/02/07(火) 16:13:42.30 0
>>700

なぜミドハトは左遷されたん?
702オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/07(火) 17:35:04.06 0
>>701
専制を敷きたかったアブデュルハミト2世にとって、
立憲政治の擁護者であるミドハト・パシャは邪魔だったからでしょ。
彼はアブデュルアズィズの時代にもその自由主義的性格を嫌われ、
中央での大宰相の地位を辞任するはめになってたし。
703世界@名無史さん:2012/02/07(火) 21:01:27.57 0
返信が遅れましたが、地方総督の序列について、林佳世子氏「オスマン帝国の時代」と
「記録と表象 史料が語るイスラーム世界」所収の清水保尚氏の記載に参考に
なりそうな記載がありました。それぞれ額は異なるのですが、16世紀末のルメリとアナドルとエジプト
州その他の税収の記載があり、ルメリ、アナドル、エジプトが突出していて、
その中でエジプト>ルメリ>アナドルという感じのようです。

財務長官は各州にいて、そのうちルメリとアナドルの財務長官が中央政府の
財務長官を兼ねていて、ルメリの方が税収も上で副官も中央政府の財政担当だった
そうなので、ルメリ州財務長官が第一席次、アナドル財務長官が第二なのかも知れませんね。

しかし更に色々と疑問が出てきます。ルメリとアナドルの財務長官が中央政府の
財務長官兼任ということは、彼らは任地に赴いていないということになります。

更に林氏のリブレットでは、地方行政と司法は中央任命のカーディーが担当したとあり、
地方は軍人、財務、行政・司法 の3長官体制ということになりますが、
それぞれ担当領域は同じだったとは思えない記載が出てきます。

オスマン官僚制って複雑怪奇ですねえ。。。魔物的で非効率な官僚制を
ビザンティン的といったりするけど、なんかオスマン官僚の世界って
迷宮的な感じ。
704オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/07(火) 23:13:18.27 0
>>703
やはり税収としてはエジプトが一番多かったのか。
エジプトはオスマン帝国の中でも特別な扱いの地域だったからね。
御前会議でルメリアのほうがアナトリアよりも地位が上だったのも、
税収が大きく関係してるのかな。あなたの言うように、ルメリアのほうは、
財務長官だけでなく副官まで中央政府の財政を務めてたそうだし。

>しかし更に色々と疑問が出てきます。ルメリとアナドルの財務長官が中央政府の
>財務長官兼任ということは、彼らは任地に赴いていないということになります。
オスマン帝国の中央政府はイスタンブルにあった訳で、
ルメリアやアナトリアの行政ならイスタンブルにいても地理的にできなくはないと思うよ。

>更に林氏のリブレットでは、地方行政と司法は中央任命のカーディーが担当したとあり、
>地方は軍人、財務、行政・司法 の3長官体制ということになりますが、
>それぞれ担当領域は同じだったとは思えない記載が出てきます。
確か、州(エヤレト)が軍事上の行政区画で最上位に置かれてて、
それをさらに細かく分けたものとして県(サンジャク)があり、
さらにそれを細かく分けたカーディーによる司法区画として郡(ガザ)があったんじゃないかな。
だから、確かにそれぞれ担当領域が違ってたと言えるね。

オスマン帝国の官僚制は大部分がスレイマン1世の時代に整えられたものだけど、
中央集権制を強めるためなのか、なかなか高度で複雑な感じになってるよね。
まぁ、実際そのおかげかオスマン帝国はかなり中央集権的な国家としてまとまったし、
スレイマン1世以後、無能なスルタンが続いても優秀な官僚制度でそれをカバーできたから、
全体としては優れた官僚制度だったんだろうね。ビザンツ帝国の影響もいくつかあると思うよ。
705世界@名無史さん:2012/02/08(水) 00:30:59.63 0
なるほど、確かにルメリアとアナドルは首都から近いので、ご指摘の通りかも知れません。

バグダッド州の税収が見つけられていないのが残念です。バスラ州のあたりは
サーサーン朝滅亡後荒廃しその後戻らなかったと思うのですが、バグダッド州の
状態はどうだったのでしょうね。なんとなく、オスマン朝とサファヴィー朝の
バグダッド争奪戦は税収よりも、バグダッドというアッバース朝以来の都を
入手することに目的があったように思え、生産力的には低下していたように
思えるのですが、どうなのでしょうね。
706オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/08(水) 05:41:23.47 0
>>705
バグダードの税収は僕もちょっと良く分からないなぁ。
ただ、確かにバグダードはエジプトと違いモンゴルやティムールの侵攻がある分、
生産力が低下してる可能性は否めないね。
サファヴィー朝との争奪戦もあなたの言うように、
バグダードというネームバリューのためだったのかも知れないね。
707世界@名無史さん:2012/02/11(土) 16:40:49.80 0
オスマン朝の全領土のオスマン建築を扱った解説・写真本かホームページ
とかご存知ないでしょうか?

図書館やアマゾンで調べたところ、結局、
ブルガリア・ユーゴスラヴィア・ギリシア・トルコ・エジプト・シリア
などの各々歴史建築本を個別に当たるか、オスマン版図の国の旅行ガイドをあたるしか
無いように思えましたが、そういうものなのでしょうか。旅行ガイドを
用いるにしてもイラクについては無さそうだったのですが、バグダッドとかに
オスマン建築ってあるのでしょうか?

図書館でシリア・ヨルダン・チュニジア・エジプトの旅行ガイドを
見てきましたが、結構詳しく載ってました。日本語書籍でオスマン朝全版図の
建築物を全体的に知るには旅行ガイドが一番手近な方法な気がしましたが、そういうものなのでしょうか。

もうひとつ、セルジューク朝建築についても、トルコ・シリア・イランを
通して全体を扱った書籍が見当たりません。
↓はトルコ国内のキャラバンサライ一覧。これはこれでよくできているのですが、こういうもののセルジューク全土ものを探しています。
ttp://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Seljuk_hans_and_kervansarays_in_Turkey
708世界@名無史さん:2012/02/18(土) 18:22:04.60 0
すみません。私のせいでスレが止まってしまったようです。

その後ネットや図書館で調べたところ、コロンビア州州立大学のサイトに、
イラクとアフガニスタンの遺跡・史跡を網羅して紹介しているサイトを見つけました。
ttp://www.cemml.colostate.edu/cultural/09476/iraq01.html
オスマン時代のバグダッドの建築も掲載されており、知りたい情報を得ることが
できました。

また、セルジューク朝については、知りたかったことは、セルジューク朝時代、
旧ビザンツ領とイランにまたがって単一政権となり、建築様式が相互に影響したと
推測されるわりには、そのあたりを解説している書籍が見つからなかったのですが、
「カフカース 二つの文明が交差する境界」という書籍の
第6章 アナトリアの覇者――セルジューク王朝の建築文化 ……………守田正志 211
にて、アナトリア・セルジューク朝へのアルメニア建築の影響と、イラン・セルジューク建築の
関係について研究状況含め若干述べられていました。

オスマン全領土の建築文化を知る為に、征服前の各地の建築物を調べていたので、
セルジューク建築はその一環で興味を持ったものです。

だいたい資料は集まりましたので、本件終わりにします。大変失礼いたしました。
別の話題でスレを続けてくれると気分的に楽になりますので、よろしくお願いします。
709世界@名無史さん:2012/02/18(土) 18:55:30.89 0
すみません、もうひとつ、2月冒頭で話題にしていたオスマン地方行政に
ついては、「永田雄三(編訳)『世界の教科書:歴史トルコ』ほるぷ出版1981」が
オスマン朝については各時代毎に中央・地方政府を記載していて、行政機構の変遷の概要を知るには、
日本語で出ている書籍としては比較的詳しい記載があり役に立ちました。
地方行政の話題もこれで終わりにさせてください。特にレスをたくさんいただいた
オツガイさん、ありがとうございました。
710オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/18(土) 19:34:49.69 0
>>708-709
>すみません。私のせいでスレが止まってしまったようです。
そんなことはないと思うよ。まぁ、僕はオスマン建築にあまり詳しくないので、
質問に答えられないまま放置してたんだけど、良い資料が見つかって良かったね。

ということで別の話題を振るけど、
上のほうで話題に挙がってたFetih1453って映画はどうなったのかな?
確か2月公開予定だったと思うんだけどもうトルコで公開してるの?
メフメト2世によるコンスタンティノープル陥落を取り上げた映画らしいので興味あるんだけど。
711レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/02/18(土) 21:42:07.63 0
712オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/19(日) 06:09:34.82 0
>>711
情報ありがとう。もう公開されたんだ。
リンク先を見る限り、今のところそれなりに評判良いみたいだね。
今後、日本で公開される可能性はあるのかな?
あまり期待しないほうが良いのかも知れないけど。
713レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/02/19(日) 12:00:40.91 0
トルコ発の記事だと公開予定の国に日本の名前が挙がってるんだけど、如何せんトルコの報道だからどの程度
信憑性があるか・・・。上映されたら儲け物みたいな感じで考えて、通販でDVD入手の方が現実的かも。
714オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/19(日) 12:13:21.45 0
>>713
一応トルコの報道では日本でも公開することになってるんだ。
向こうの報道の信憑性ってあまり高くないのかな。
とりあえずしばらく待ってからDVDを探してみることにするよ。
715世界@名無史さん:2012/02/19(日) 13:23:58.71 0
トルコ弓って強かったらしいがトルコが強いっていわれだしたのって火器のおかげじゃね
716オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/19(日) 13:51:46.05 0
>>715
確かに、少なくともオスマン帝国については伝統的に火器の使用によって、
勢力を築き上げた国だね。僕はそんなに詳しくはないんだけど、
トルコ弓っていうのはようはトルコ人など遊牧民の使ってた弓を意味するんじゃないかな。
オスマン帝国の場合はトルコ系遊牧民の要素も一応あるけどそれだけで発展した訳じゃない。
軍事面で言えば、大砲などの火器を早い段階から活用したことが特徴的だね。
オスマン帝国軍で有名なイェニチェリだって銃を装備してた訳だし。
717世界@名無史さん:2012/02/19(日) 16:47:43.24 0
>>714

> 向こうの報道の信憑性ってあまり高くないのかな。

実例がこのスレにもあるじゃない。>>548>>552>>554>>556>>559で「壮麗なる世紀」が日本放送
とトルコ発の情報。でも結局実現していない。これがトルコの報道の信憑性よ。ていうか>>552>>556
は俺だしw
718オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/19(日) 16:50:43.50 0
>>717
確かにそうだね。トルコの芸能報道って結構その手の誇張があるのか。
そう考えると日本での公開もあまり期待しないほうが良いかな。
719世界@名無史さん:2012/02/19(日) 18:44:39.97 0
まあ、予定は決定では無いから。

俺の勤務先はメーカーだけど、展示会とかで予定は沢山だして
引き合いを得るけど、実際には出ない製品もおおく、「予定製品」に
関心を持って問い合わせた客に、うまいこといって、旧製品を買わせることも
多い。で、結局製品でなくて終わっても、「予定でしたから」と言い訳する。

もちろん客はそのままでは収まらんけど。
720世界@名無史さん:2012/02/19(日) 20:58:59.75 0
フランスって存在する価値のない最低の国ですね。
疑わしきは罰せずの原則を無視して日本と同じだ。
721世界@名無史さん:2012/02/19(日) 21:21:21.72 0
そう言えば最近「壮麗なる世紀」の話題が出てこなくなったね。みんなもう見てないのかな?
722世界@名無史さん:2012/02/19(日) 22:04:36.44 0
モハーチ後に即脂肪しましたが、何か?
723世界@名無史さん:2012/02/19(日) 22:06:03.31 0
ウィーン包囲戦後、また後宮ものに戻ってしまい、しばらく見なかった。
一昨日夜、久々に最新回(47話)の冒頭を見たら、イキナリ別のジャンルの
ドラマになった見たいな展開で、驚いて47話全部見たところ、またも
新キャラが登場していてわからないので、昨日見てなかった5話程まとめてみた。
47話では、ヴァリデが、自分派閥の侍女を何人か後宮に送り込み、ヒュッレム派と
ヴァリデ派の侍女が風呂場で大喧嘩したり、少し以前とは違う展開になってる感じ。

あと、久々に見たら、ハティジェの髪型が変わっていて、大人びた感じになっていた。
それなり大人の女性に成長した演技となっていた。更に46話でムスタファが
青年役になっていた。47話は1532年となっていて、いよいよイブラヒムの終わりまで
カウントダウンが始まった感じ。

ところで、篠原千絵の「夢の雫、黄金の鳥籠」も3月に2巻が出るね。楽しみ。
724世界@名無史さん:2012/02/19(日) 22:22:22.26 0
オスマン朝の時代区分を教えてください。
とりあえずビザンツ帝国を滅ぼした1453年から1900年代まではどのように区切るのですか?
725オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/20(月) 08:17:49.01 0
>>724
別に決まった時代区分がある訳でもないよ。
まぁ、ただ大体こんな感じで普通は分けるかな。

・前近代:初期・・・・オスマン1世による建国からバヤズィト1世の頃(アンカラの戦いの辺り)まで
      最盛期・・・メフメト1世からスレイマン1世の頃まで
             (普通はメフメト2世のコンスタンティノープル陥落から始めるかも)
      中期・・・・セリム2世の頃からカルロヴィッツ条約締結まで
            (特に最後の50年ほどはキョプリュリュ時代と呼ばれてる)
      衰退期・・・カルロヴィッツ条約締結からセリム3世の頃(露土戦争の辺り)まで
             (この内、アフメト3世の頃を特にチューリップ時代と呼ぶ)
・近代:初期・・・・セリム3世の頃(ナポレオンのエジプト遠征辺り)からマフムト2世の頃まで
     前期・・・アブデュルメジト1世の頃からミドハト憲法制定まで(いわゆるタンズィマート時代)
          (クリミア戦争を境目にさらに細かく分けることもあるかな)
     後期・・・アブデュルハミト2世による憲法停止から青年トルコ革命まで
          (つまりアブデュルハミト2世の独裁時代)
     末期・・・青年トルコ革命から滅亡まで

まぁ、正直決まった分け方がある訳でもないので、
この分け方が絶対的に正しい訳でもないんだけど普通はこんな感じで分けると思う。
726世界@名無史さん:2012/02/20(月) 21:51:12.09 0
>>725
ありがとうございます。
727世界@名無史さん:2012/02/20(月) 21:51:30.75 0
>>725
最近では、オスマン帝国の第二次立憲政期と両大戦間期との連続性に着目して、
「青年トルコ時代」なる区分も登場している。
728オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/20(月) 23:23:39.38 0
>>727
青年トルコ時代っていうのは、ようは僕が上でオスマン帝国近代末期とした辺りになるのかな。
両大戦間期までということはオスマン帝国滅亡後のトルコ共和国になってからも含むっぽいけど。
確かに、ムスタファ・ケマルは青年トルコ運動にも一応参加してたから連続性はあるかも知れないね。
729世界@名無史さん:2012/02/21(火) 19:19:24.96 0
>>723
壮麗なる世紀ではヴァリデ(ハフサ・ハトゥン)生存中に
スレイマンとヒュッレムが正式に結婚したことになっていない
ヒュッレム立后にヴァリデは危惧・反発している?

ヴァリデももうすぐ死ぬけど
スレイマンの慣例破りの結婚がヴァリデの間接的な死亡原因になるのかね
730世界@名無史さん:2012/02/21(火) 20:52:19.96 0
>>729
最近の回のヴァリデには焦りが感じられますね。ひょっとしたら
ヒュッレムに負けた感じになったのが、死期を早める一因となった、という
描き方なのかも。
731世界@名無史さん:2012/02/22(水) 20:07:46.88 0
ヒュッレムの味方をする → ヒュッレムがスレイマンより長生きすれば次代スルタン即位時に殺害リスクがあるのはムスタファだけ
マヒデブランの味方をする → ムスタファが即位すると障害のあるジハンギルを除くヒュッレムが産んだ3人の孫が殺される

この状況下でマヒデブランとムスタファの肩を持っていた
ヴァリデの心情はどう解釈したらいいんだか
豪商、高官の家でこれと同じ問題が発生して姑が少数派の
母子の味方をする動機は可哀想だからで納得できるが
オスマン家ではね・・・。
ヴァリデはセリム1世が勝利した
バヤジット2世の後継者争いをリアルタイムで見ているし
732世界@名無史さん:2012/02/22(水) 21:39:33.74 0
カラ・ムスタファ哀れなり
733世界@名無史さん:2012/02/26(日) 00:52:17.20 0
映画Fetih 1453、IMDbの評価数が12000ユーザー越えてるね。まだ10日なのに
この数は凄いのではないだろうか。

更にIMDbのリリース情報を見ると、
http://www.imdb.com/title/tt1783232/releaseinfo
西欧諸国ではほぼトルコと同時公開なんだね。インドネシアとかマレーシア
とかでも公開となっている。

ちょっと思ったのは、製作予算が、IMDbでは170Mドル、Wikiでは17Mドルとなっている
けど、これは17Mドルの間違いだよね?いくらトルコ史上最大予算でも、
170Mはありえないと思うんだけど。

あと、DVDのパッケージが既に検索で出てくるから、DVD発売も近いかな。
http://www.covertr.com/showthread.php?p=11208
早くアマゾンに出て欲しい。
734世界@名無史さん:2012/02/26(日) 21:08:30.88 0
ギリシャの奴はこの映画どう思ってるんだろ
735レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/02/27(月) 00:53:59.99 0
>>733
> 映画Fetih 1453、IMDbの評価数が12000ユーザー越えてるね。まだ10日なのに
> この数は凄いのではないだろうか。

 実際に異様だね。公開後最初の週末だけでトルコ国内の観客数は100万いったそうな。それを差し引いても
その評価数は非ハリウッド映画にしてはかなり多い。なにやら某Man of the century大量投票を想起させるが、
今回は当時の様なキャンペーンはない。トルコ人以外も投票してると思う。

> ちょっと思ったのは、製作予算が、IMDbでは170Mドル、Wikiでは17Mドルとなっている

 17で正解。

> あと、DVDのパッケージが既に検索で出てくるから、DVD発売も近いかな。

 確かに。アメリカでも大手系の映画のDVD化まで大体3-4ヶ月。トルコだと通常はもっと時間がかかる筈だけ
ど、その様子だともう発売準備が出来ているのかも。

>>734
 言わずもがなw
736オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/27(月) 06:13:33.97 0
>>733>>735
そんなに評価高いんだ。この評価を見る限りは普通に期待できそうだ。
西欧諸国やインドネシア、マレーシアでは同時公開ということは、
本気で海外進出を狙って作られた映画なんだろうね。日本にも来れば良いのに。
737世界@名無史さん:2012/02/27(月) 17:32:08.16 0
歴史映画ってさ、やってもあまりいいことないと思うんだ。
戦争や領土や宗教がからむと主人公と敵対する側あるいは戦争で負けた側にシンパシーを持つ人が不快感を持つ。
モンゴル帝国を美化して描くとロシア人やペルシャ人が嫌がる。
英領インド独立でもガンジーを主役に据えるとパキスタンの過激な人たちの顰蹙を買いかねない。
あるいは、商業主義的に、多数派に受けいられないような描き方をしたもの、
たとえば南北戦争で南部の政治家を主役にしてリンカン大統領を凶悪な人物かのように描いたハリウッド映画はそうそう出てこない。
多数派に受けいられるような歴史の描き方が流布されて、少数派が配慮されないという不平等がまかりとおる。これはよくない。
加えて映画は観客に受けるように感動的な演出にするから歴史の実像とは異なってくる。
多くの人が世界史に詳しいわけではないから、これは所詮フィクションだからと割り引いて考える人は多いにしろ、
映画をもとにして誤った印象をもつ人もいなくはないだろう。それは(教育的な面で)いかがなものか。
738世界@名無史さん:2012/02/27(月) 17:50:20.27 0
まあそういう映画もあるだろうし、それも歴史映画の一部だろうけど、
あくまで一部だよね。アクバル大帝の映画はインドとパキスタンでも
上映されているそうだし、映画を通じて観客が歴史に興味を持てばいいんじゃないの?

一部の映画や一部の面だけを取り上げて教育面の影響を懸念するより、有用な
面の方が多いと思うんだけど。そもそも教育ドキュメンタリーならともかく、
映画だからね。あれはフィクションなんだ、と親が言い聞かせればいいだけな気が。

リンカーンを悪役に描いているわけではないけど、「風とともに去りぬ」って、
南部連合側を描いているよね。KKKのメンバーとか登場しているし。

そもそも、ご指摘の懸念は、映画だけではなく、歴史小説や歴史漫画にも該当するよね。
教育上問題のあるものは、個別に指摘すれば良いのであって、歴史映画の問題ではないと思う。
739世界@名無史さん:2012/02/27(月) 18:09:51.33 0
>>737
自分が読んだのは、映画「ガンジー」でのパキスタン人の不満は、
ジンナーの描き方にあるのであって、「ガンジー」という映画そのものへの
不満ではなかったように記憶している(「ガンジー」という映画そのもの
へ不満を持っていたパキスタン人もいたとは思うが)。
740オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/27(月) 21:16:25.36 0
>>737-739
正直、映画なんてただの娯楽でしないんだから面白いか面白くないか以外はどうでも良いなぁ。
あまり教育的影響だとか時代考証がどうとかいちいち考えて観ても純粋に映画を楽しめないし。
所詮はただの娯楽なんだからフィクションなんだと割り切って肩の力抜いて観れば良いでしょ。
映画だけじゃなくありとあらゆる娯楽に当てはまるけど面白いか面白くないかだけが重要だと思う。

ていうか、ここはオスマン帝国スレだから歴史映画云々の話はスレチか。ごめん。
741世界@名無史さん:2012/02/27(月) 23:23:01.48 0
>>740
全ての映画がただの娯楽だと思うことは重大な間違い。映画が純粋な娯楽なのは世
界的に見ればむしろ例外だ。それはともかくも、このFetih 1453を見てないからなんと
もいえないがさすがに娯楽だとは思う。ギリシャやドイツが過剰反応しているのはただ
の政治的な言いがかりだろう。
742世界@名無史さん:2012/02/27(月) 23:43:42.44 0
トルコにしてみれば、コンスタンティノープル征服は重要な自国史上のイベント
なのだろうから、征服相手をあまりにヘタレ描くことは無いと思うんだけど。まあ、
見てみないとわからないけど、ショボすぎる相手を大軍を投入してやっとこさ征服しました、
なんて映画じゃトルコ国民も面白くなかろう。それに、コンスタンティノープル征服
映画って、確か1953年頃にも一度作られてるよね。山越えの場面がyoutubeにあったと思う。
743世界@名無史さん:2012/02/27(月) 23:58:10.01 0
あった。自分が以前見たのは船が山を越える部分で、これは陥落の場面だけど、
同じ作品だと思う。
http://www.youtube.com/watch?v=X2IX9CZRRM0

Istanbul'un fethi (1954)
http://www.imdb.com/title/tt0316041/
744オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/28(火) 00:00:19.01 0
>>741
確かに映画によってはあえてメッセージ性を強くしてるようなものもあるからね。
全てを娯楽だと言うのは言い過ぎだったか。とは言え、何でもかんでも教育的影響や、
時代考証とかを言い出すのはそれはそれで野暮だと思うけどね。
少なくともfetih1453については娯楽だろうから、教育的にどうこうとか言わくなても良いだろう。

>>742
そう言えばyoutubeでコンスタンティノープル陥落を扱ったトルコアニメを観た覚えがある。
多分、2ch情報だったと思うんだけど、完全には思い出せないなぁ。やはりコンスタンティノープル陥落は、
トルコ人にとってかなり有名なイベントだろうから、色々な作品で扱われてるんだろうね。
745世界@名無史さん:2012/02/28(火) 00:09:53.16 0
746世界@名無史さん:2012/02/28(火) 00:10:07.54 0
コンスタンティノープルに関して、スレ違いなのだが、
アテネとコンスタンティノープルの(一般人の)知名度って

アテネ≧コンスタンティノープル じゃん?ややアテネのほうが有名だが
大体同じぐらいでどっちも知ってるのが普通というぐらい。
だが政治の中心地だった長さを考えると、本来は

コンスタンティノープル>>>アテネ

になってないとおかしいよな。
東ローマ帝国・ビザンツ帝国の都でオスマン帝国の都にもなったのに
どうしてポリスの連合体の中で一時はばきかせただけのアテネが知名度高いのよ。
いくら西洋文化の淵源だからって
ポリス時代の古代ギリシャが広められすぎじゃね?歪んでね?
747オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/28(火) 00:15:05.06 0
>>745
ありがとう。そうそう、これだった。トルコだとこんなアニメも作られてるんだね。
オスマン帝国時代を扱った物語は向こうじゃ結構多いんだろうね。
748世界@名無史さん:2012/02/28(火) 00:23:01.80 0
>>746
なんとなく、コロッセウム、パルテノン、聖ソフィア教会の知名度に、都市の
知名度も比例している気がする。
749世界@名無史さん:2012/02/28(火) 04:30:47.08 0
オスマントルコは傭兵の寝返りでヨーロッパ以外の領地ひっくり返したん
だっけ?
750世界@名無史さん:2012/02/28(火) 04:31:33.53 0
ギリシアは巻き込まれてたかw
751オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/02/28(火) 06:14:33.03 0
>>749
確かにセリム1世によるマムルーク朝征服では相手側を寝返らせてるシーンが見られるね。
752世界@名無史さん:2012/03/01(木) 04:34:29.72 0
ピアニスト・ファズル・サイ、映画「征服1453」批判
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20120221_071738.html

> 結局、人々は良い映画と出会ったとき、幸せを感じます…良い映画とは、思うに、単に一つの社会のためだけではなく、
> いろいろな社会の、全ての人々の心で「良い」となったら役目を果たすことになるのです。
> いいですか、「ビザンツ嫌い」のイデオロギーは、トルコ人社会のみが喜んで受け入れたのです。カプクレ(訳注:トルコと
> ブルガリアの国境の町)を越えるや、すぐに「ビザンツ嫌い」という考え方がないことがわかるでしょう。この映画は、
> 他の社会では残念ながら問題となります。
>
> 私達は終わることのないトルコ人の勇猛さをたたえています。征服は、メフメト2世の独創的で天才的な発想で持って
> 行われました。独創性と天才がなんであるのかトルコ人社会はまだ理解できていません。アタチュルクを理解できないように。
> トルコ人だけが喜ぶことになるのに、どうしてそんな映画を他の人々にみてもらえるというのでしょうか。
> 目的は、「我々は西洋人でなく、異なる宗教からなる者たちでも、偉大なる者たちでもないらしい。トルコ人であらねばならない!」
> とでも言わせたいのでしょうか?目的は何なのでしょう?ある映画に芸術性がないならば、目新しさと革新性がないならば、
> 映画がヒューマニズム的考えに立って、そして多くの視点を持って、折り合いをつけなければ、教会であっても、
> 他の社会でこの映画は、価値あると思われるでしょうか?理解できませんでした。
> 理解できなかったので、私はこの仕事から手を引きました。
753オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/01(木) 08:44:22.22 0
>>752
まだこの映画を観てないから何とも言えないけど、結構ビザンツ帝国好きにとっては、
あまり嬉しくない感じの描写なのかな。最近のトルコ共和国ではビザンツ帝国に対する再評価が、
良く見られるようになったと聞いたけど、この映画に関して言えばそんなこともないのかも。
僕はビザンツ帝国も結構好きなんだけど、そんなにビザンツ帝国の描写が酷いんだろうか?
まぁ、だったらそれはそれでストーリーさえ面白ければビザンツ帝国が悪役っぽく描かれてても、
僕自身はあまり気にしないけどね。ただ、海外への輸出を狙うんだったらビザンツ帝国に関しては、
あまり悪く描写しないほうが良いだろうね。最近の西欧では昔と違いビザンツ帝国に対する関心が、
強まってるから、ビザンツ帝国を悪く描くのは海外での評判を考えると失敗なのかも知れない。
754世界@名無史さん:2012/03/01(木) 10:50:15.13 0
>>752
ビザンツ側が残虐無比に描かれているんだったらそのサイの評価もわかる。しかし映画があくまで
戦闘だけだったりビザンツ側視点も含まれているんだったらこれはむしろ危険思想だ。「A国の戦争
映画は汚い映画、B国の戦争映画は綺麗な映画」ってな感じの。
755世界@名無史さん:2012/03/01(木) 11:55:42.79 0
つーかトルコの伝統的な「ビザンツ嫌い」史観がベースになってて、そこが鼻につく、ってのはあるみたいね。


映画「征服1453」公開はじまる―概ね、好評
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20120218_082833.html

>  『征服1453』は、作品としては国際的な作品レベルには届いていない。オスマン帝国の発展期から始まる本作品は、
> ウルバトゥル・ハサンとエラの恋に焦点を当てる一方で、歴史的な視点を失ってしまっている。
> 本作品は、いくつかの接近した戦闘シーンによって、トルコにおける一般的な超大作の水準の上を行っているかもしれない。
> だが町中の映像や特殊効果シーンでは、スピード感を持たせているとは言い難い。
> 歴史認識の観点からは、一つのシーンを除いて、流行おくれの「ビザンツ嫌い」の域を出ていない。
756オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/01(木) 12:12:12.51 0
>>755
なるほど、トルコに昔からあったビザンツ帝国への悪評がそのまま映画に反映されてるのね。
それが西欧諸国でちょっと嫌がられてるのかな。観てないからはっきりとしたことは言えないけど。
757世界@名無史さん:2012/03/01(木) 14:00:10.13 0
「トルコの伝統的な「ビザンツ嫌い」」について興味がある。

これは、いつ頃発生したのだろうか?建国当初からあったのだろうか?
それとも、19世紀民族主義の高まりで造成されたものなのだろうか?

この減少について書いてある書籍(日本語)、HP(英文可)とかあれば
教えて欲しい。
758オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/01(木) 15:25:16.28 0
>>757
現在のビザンツ帝国嫌いに関しては明らかに、近代以降ナショナリズムが高揚する中で、
起こった感情だろうね。まぁ、初期のオスマン帝国もビザンツ帝国と何度も戦争してたから、
そういう意味でのビザンツ帝国嫌いみたいなのはあったかも知れないけど。
オスマン帝国は政治や文化などでビザンツ帝国の影響が明らかに見られるし、
中にはルーム・カイセリ(ローマ皇帝)を名乗ってたスルタンもいたそうだから、
そういう意味では嫌ってなかったとも言える。自分たちが滅ぼした国とは言え、
かつて大国だったビザンツ帝国に対してそれなりの敬意は示してたんだと思う。
コンスタンティノープルを首都にしたのにはそういう理由もあったんじゃないかな。

現在のトルコにおけるビザンツ帝国嫌いは、近代になってギリシャが独立するようになり、
彼らがビザンツ帝国を基軸して唱えたメガリ・イデア思想などへの反発でしょ。
トルコナショナリズムが強まる中でオスマン帝国への関心はそれなりに大きかったけど、
ビザンツ帝国に対する嫌悪感は逆に増えていったんだろうね。

ここ最近のトルコにおけるビザンツ帝国に対する評価への見直し及び、
そもそもなぜトルコでビザンツ帝国が嫌われてたのかについては、
下記のサイトが詳しいよ。向こうの新聞記事らしい。
http://www.neo-pro.jp/makoto/
759オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/01(木) 15:26:43.23 0
ごめん、ちょっとリンク先のURLが途中で切れた。
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00105.html
760世界@名無史さん:2012/03/01(木) 16:53:43.85 0
オツガイって平日の昼間にもパソコンから書き込みしてるけどいつ学校に行ってるの?
761オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/01(木) 17:00:11.70 0
>>760
あぁ、今は試験前日で学校が休みなんだ。
明日から試験だから試験勉強の傍ら書き込みしてる。
762世界@名無史さん:2012/03/01(木) 17:47:28.19 0
トルコのからみでネット右翼があげるエルトゥールル号沈没って
オスマン帝国が老朽化したエルトゥールル号をむりやりいかせたせいで起きた
プギャーな事件なんだよな。美談みたいになってるけど本当は近代オスマン帝国の国辱。
763世界@名無史さん:2012/03/01(木) 18:20:59.54 0
理由はなんにせよ死者が多数出た事件に対しプギャーなどといえる神経が信じられない
764オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/01(木) 19:43:30.80 0
>>762
当時のオスマン帝国はアブデュルハミト2世の時代で汎イスラーム主義が唱えられてたから、
エルトゥールル号の航海も実はそれが大いに関係してるんだよね。ようは日本までの道中で、
東南アジアやインドに立ち寄りそこにムスリムたちに自分たちがイスラーム圏の盟主だと、
アピールするためでもあったらしい。その結果、あのような事故が起きてしまった訳だけど。
765世界@名無史さん:2012/03/01(木) 20:47:26.62 0
>>758
なるほどねえ。「地中海気候ビザンティンで行こう」という本のp128-9には、
19-20世紀文学に登場するビザンツの形容に関する話が出ていて、曲学阿世、阿諛追従、
権謀術数、腐敗堕落、耽美主義 とか出てくるけれど、きっと旧制高校出の
明治-戦前の知識人のビザンツ観もこんな感じだったのかな。で、トルコは今でも
そういうイメージのままビザンツを見ているのかもしれない。

現在の普通の日本人は、そもそもビザンツなんて殆ど知らない筈で、世界不思議発見とか
NHK特集とかで見て、井上浩一さんとかの本から入ったりするので、近代西欧の
ビザンツ・イメージがあまりない。と思う。トルコも世界史についてはオリエント→グレコ・ローマン→
ルネッサンスー>近代という史観のようだし、日本人と違い、自国の領土の過去の
話だから、普通の人でも少し前の時代のビザンツ観が強くインプットされちゃうのかも。

しかし、それならそれで、思いっきり前時代的なビザンツ史観を見てみたい。
ちなみに1951年版、ネットに全部あがっていたので見た。結構面白かった。
夜城門の外から火のついた砲弾が城内に打ち込まれる映像は、火球が此方側に
飛んでくる、当時の映像としてはなかなかのもの。で、相手のビザンツが、
「ウラー」と叫んでいるところが時代を感じさせた。あと最後、オスマン軍の
入城を、キリスト教徒の女性たちが花びらを投げて笑顔で迎えていた。これは
ちょっと意味がわからなかったけど。
766世界@名無史さん:2012/03/01(木) 21:03:30.50 0
世の中のビザンツ帝国のイメージなんて
助けとして呼んだはずの十字軍につぶされた被害者とか、
なんか知らんけど1000年続いたらしい国とかそんなもんだろ。
767オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/01(木) 21:06:21.21 0
>>765
最近のトルコはそういう前時代的なビザンツ帝国史観を改めようともしてるみたいだけどね。
トルコ政府は歴史遺跡の保全に不熱心だと良く言われるけど、最近はビザンツ帝国関連の遺跡に、
関心が向いてきたのか、結構補修なんかに力を入れてるみたいだしね。
とは言え、まだまだ国民の大多数はビザンツ帝国について良いイメージを持ってないね。
やはり、近代のナショナリズム形成の過程でビザンツ帝国はギリシャのものだという意識ができ、
ギリシャとの対抗上、ビザンツ帝国に対するかつての西欧的な悪いイメージが起きたんだろうね。

>あと最後、オスマン軍の入城を、キリスト教徒の女性たちが花びらを投げて笑顔で迎えていた。
>これはちょっと意味がわからなかったけど。
単に、オスマン帝国はキリスト教徒にとっても良い統治者だったというプロパガンダでしょ。
枢機卿の帽子よりはスルタンのターバンのほうがましだという言い伝えもあるぐらいだから、
実際キリスト教徒もそこまでオスマン帝国支配が嫌だった訳じゃないのかも知れないけど、
花びらを投げて笑顔で迎え入れるほどだったかというと微妙な気もしなくはないね。
768世界@名無史さん:2012/03/01(木) 21:20:48.15 0
>>767
そうか。陥落前娘たちは懸命にソフィア大聖堂で祈っていたけど、
よく考えたらコンスタンティノープル総主教と思われる人物は
主人公のオスマン間諜と通じていたんだった。納得した。

>トルコ政府は歴史遺跡の保全に不熱心
そういえば、フォーシーズンズホテルだったっけ?ビザンツ遺跡の上に
作るんで遺跡保護運動ができて、一部を地下だか庭だかに残したっていうの。

769オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/01(木) 21:30:26.15 0
>>768
そう言えば、確かにフォーシーズンズホテルでそんなことがあったね。
トルコ国内でも知識人の多くは遺跡の破壊にかなり反対してたらしい。
770世界@名無史さん:2012/03/01(木) 22:46:07.34 0
今更だけど、>>697への自己レス。オスマン大宰相全一覧表見つけた。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Ottoman_Grand_Viziers
大半の人が個別の項目が書かれていて、これを追っていくとかなり
オスマン官僚のキャリアがわかりそう。いくつか見てみたけど、トルコ語と
英語の記事のものが多いので、トルコ人が頑張って書いてる見たいだ。
771世界@名無史さん:2012/03/01(木) 23:29:25.55 0
もう一つ。今日はよく情報が見つかる。
スマトラがアチェを保護国とし、スマトラ−オスマン−ヴェネツィア貿易を維持した
という話を知った。
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Ottoman_expedition_to_Aceh
更に、1568年にKurtoğlu Hızır Reisという司令官が艦隊を率いてアチェに武器などを届けて
ttps://en.wikipedia.org/wiki/Kurto%C4%9Flu_H%C4%B1z%C4%B1r_Reis
正式に保護国化し、1904年まで続いた、とあるけど、この期間の
スマトラ−オスマン−ヴェネツィア貿易ってどのくらいのものだったのでしょうね。
17世紀以降はなんとなくインド洋東南アジア貿易は
全部西欧に独占されてしまったイメージがあっただけど、オスマンも健闘してたのだと
すると、少しイメージが変わりそう。(なんせ、昔塩野氏の「海の都の物語」を
読んで、オスマンは海は全然駄目」という先入観ができちゃっているので)
772オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/02(金) 14:10:41.99 0
>>770
これは興味深いね。英語なので全部読むのに時間かかりそうだけど、
時間ができ次第、ちょっと読み込んでみるか。

>>771
そうなんだよね。オスマン帝国は基本的に地中海にしか興味なかったと思われてるけど、
一応アチェ王国みたいな東南アジアのほうまで影響力を保持しようとはしてたんだよね。
まぁ、アチェ王国は実質的にはほとんど独立国のようなものだったっぽいけど。
オスマン帝国はイスラーム圏の大国として各地に援助する姿を示したかったのかな。
後、オスマン帝国は紅海にやってきたポルトガルを追い払ったこともあるから、
そこら辺の対立も関係してるのかも知れない。当時のアチェ王国はポルトガルと戦ってたし。
それで思い出したんだけど、自由アチェ運動の旗ってトルコ国旗とかなり酷似してるんだよね。
現在のアチェの人々もオスマン帝国との関係を意識してるのかな。

そう言えば、あまり関係はないけど東トルキスタンで清に反乱を起こしたヤクブ・ベクは、
オスマン帝国の支援を受けてたね。オスマン帝国の宗主権も受け入れてたらしい。
アブデュルハミト2世による汎イスラーム主義政策のせいだろうけど、
これもオスマン帝国が意外と遠方まで行ってた例だと思う。
オスマン帝国はわりと遠くの国に対しても影響力を及ぼそうとしてたんだね。
773世界@名無史さん:2012/03/02(金) 16:23:15.12 0
日本も徳川の墓の上にホテル立ってるよね
その検証もいまいちなんだよ・・・
774世界@名無史さん:2012/03/02(金) 17:38:50.38 0
乙がいさん英語も余裕ッすかぱねえっす
775オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/02(金) 17:55:10.23 0
>>774
いや、そんなに得意でもないから読むのに時間はかかると思うよ。
今までも洋書読むのに時間かかってたし。
とりあえず、試験終わって時間的余裕ができたらじっくり読んでみようと思う。
776世界@名無史さん:2012/03/02(金) 20:48:26.33 0
Wikiの大宰相一覧表の右側に民族分類が書いてある。これを見ていて
気がついたのだけど、1453年迄は全員トルコ人。1453年以降トルコ人宰相は
稀にしか見られなくなり、1683年以降再度トルコ人が目立つようになり、18世紀
初頭からほぼトルコ人で独占されるようになる。

まあ、Wikiの記事だし、どこまで正確かという話はあるけど、この出身民族の
傾向は、オスマン朝の質的側面の推移を象徴しているようにも思える。

初期の頃はオスマン部族だけだったのでトルコ人宰相が多かったのが、
ビザンツ帝国征服頃から多民族国家となり、官職もトルコ人以外に解放された。
しかし帝国が衰退を始めると、トルコ人色が強まってる。

ビザンツ帝国でも末期はギリシア人が強くなったようで、
中期までは多様な民族が出世していたようだし、ビザンツ帝国の役人民族
出自傾向調査なども、どっかにあれば見てみたいと思った。
777オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/02(金) 21:10:19.15 0
>>776
中期オスマン帝国に多かったという非トルコ人の宰相の多くはデヴシルメによるものなのかな。
有名なソコルル・メフメト・パシャもデヴシルメによって徴用されたボスニア人だったし、
オスマン帝国におけるバルカン半島のキリスト教徒の多くはデヴシルメで出世したからね。
18世紀頃からのオスマン帝国の衰退とともにデヴシルメも廃れていったそうだから、
そうなると再び宰相のトルコ化が進んだんだろうね。他の民族から出世する道が減っちゃった。

それにしても、オスマン帝国における他民族性の変遷はしばしば語られることだけど、
それがこのように宰相の民族構成として目に見える形で表れるとやはり少し驚くなぁ。
こうも分かりやすい形で変化してるのね。オスマン帝国の変遷をそのまま物語ってるみたいだ。
778世界@名無史さん:2012/03/02(金) 21:23:03.12 0
そうか、デヴシルメの終わりか。これもWiki出典だけど、イェニチェリの
徴発におけるデヴシルメは公式的には1648年に終了し、
1703年には再興の試みも既存イェニチェリに阻まれたとある。
なるほどねえ。
779オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/03(土) 00:24:33.72 0
>>778
>これもWiki出典だけど、イェニチェリの
>徴発におけるデヴシルメは公式的には1648年に終了し、
>1703年には再興の試みも既存イェニチェリに阻まれたとある。
やはり、イェニチェリにおけるデヴシルメの廃止時期と宰相のトルコ化が進んだ時期は重なってるね。
過去のデヴシルメですでに出世したイェニチェリや官僚たちは新たなデヴシルメによって、
新世代が台頭して自分たちの既得権益を奪ってしまうことを嫌ってたからね。
また、デヴシルメの衰退で官僚やイェニチェリの腐敗が進んだことは、
オスマン帝国の衰退の一因として良く挙げられる。だからこの時期は衰退期とも重なってる。
まぁ、オスマン帝国衰退の原因はこのような内的要因だけでもないんだけどね。
780世界@名無史さん:2012/03/03(土) 01:36:16.27 0
>>779
以前オツガイ君が書いていたと思うけど、オスマン官僚制が帝国を延命させた
のか、イェニチェリの腐敗等が衰退を早めたのか、難しい問題だよね。だからこそ
17,18世紀のオスマンの政治・経済・社会史は研究余地がある分野だと思う。少し
話を伸ばせば、現日本官僚制は今後も日本を維持できうるのか、日本衰退を早めているのか、
とか。17,18世紀を研究している(と思われる)林佳世子先生等諸先生方、頑張って欲しい。

ところで、またオスマンドラマらしきものを見つけてしまった。このところ色々よく見つかる
↓が公式ページらしい。トルコのTRT局で放映しているのかこれから放映なのか
情報が無いんだけど、レリンさんとか何か知らないだろうか。
Burası Osmanlı : 1711 / Sır Kanunu
http://burasiosmanli.com/video/video9.html
1711という題名と↑に上がっている予告編を見ると、1711年の露土戦争
らしいんだけど。自分としては、2時間くらいの単発ドラマか10話くらいで
終わる短期シリーズでそのうちdvdとか出てくれると嬉しいんだけど。
781オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/03(土) 17:18:35.49 0
>>780
最近は中期オスマン帝国の社会史や政治史などに対する注目が高まってると、
林佳世子氏が言ってたね。オスマン帝国の官僚制は良くも悪くも複雑で結構進んでたから、
そこら辺の研究を進めることで、後のオスマン帝国の衰退過程も詳しく分かるかも知れないし。

ドラマは僕も気になるなぁ。詳しい情報が欲しいかも。
782世界@名無史さん:2012/03/03(土) 20:09:25.40 0
オスマン帝国史のなかでも流行ってる分野とそうでない分野があるの?
どこが今まで流行ってたの?
783世界@名無史さん:2012/03/03(土) 20:31:46.30 0
>>776-777
>ビザンツ帝国征服頃から多民族国家となり、官職もトルコ人以外に解放された。
>しかし帝国が衰退を始めると、トルコ人色が強まってる。

トルコ人色が強まったとはいえ、
近代オスマン帝国も依然として多宗教・多民族国家であり、
官僚や帝国議会議員には、アルメニア人、ギリシア人も含まれていたことを忘れてはならない。
オスマン帝国憲法第19条には、
「国家の官職において、全て臣民は、その適性及び能力に応じて適切な官職に就くことができる。」
とある。

官僚機構や帝国議会の多民族性については、以下を参照。
粕谷元編『トルコにおける議会制の展開―オスマン帝国からトルコ共和国へ』(東洋文庫、2007年)。
藤波伸嘉『オスマン帝国と立憲政―青年トルコ革命における政治、宗教、共同体』(名古屋大学出版会、2011年)。
784オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/03(土) 20:32:03.48 0
>>782
やはりメフメト2世やスレイマン1世みたいな最盛期のほうが人気あるでしょ。
ちょっと前のオスマン帝国の歴史書だとスレイマン1世以後は記述が薄くなることが多かったし。
785オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/03(土) 20:45:48.86 0
>>783
確かにそうだね。近代になりオスマン帝国でもナショナリズムが流行ったと言うけど、
中央政府の指導者たちは最後まで多民族国家としてオスマン帝国を保とうとしてた。
バルカン半島で起こってた毒率運動を何とかして防ぎたかった訳だし。
近代オスマン帝国は多民族国家を維持することに帝国の生き残りをかけたとも言えるね。

例えば、青年トルコ人はその名前からトルコナショナリズムの強い人々と思われがちだけど、
初期の「統一と進歩委員会」の中心メンバーだったイブラヒム・テモはアルバニア人だった。
こういうところにオスマン帝国の民族問題の複雑さが表れてると新井政美氏は言ってるね。
オスマン帝国は最後の最後まで国内の多民族性をなくすことはできなかった。
これはある意味トルコ共和国となった現在もそうだ。多民族性は依然として残ってる。
786オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/03(土) 20:46:45.50 0
誤字訂正
×毒率運動
○独立運動
787世界@名無史さん:2012/03/03(土) 21:04:04.50 0
>>782
流行っているのはスレイマン以前とマフムト二世以後の中央政治・軍事史・外交史。
末期に関しては>>783のように末期オスマンについては直ぐに
日本語書籍のレスが来る。

流行ってないのは経済・社会・行政・司法・地方史全般・イスタンブル、ブルサ、アドリアノープル以外の建築・貿易など沢山。
788世界@名無史さん:2012/03/03(土) 21:44:02.23 0
>>786
どうほぐの方ですか?
789世界@名無史さん:2012/03/03(土) 22:27:45.74 0
>>780>>782>>784>>787
史料の残り具合から、近代史研究が盛んになるのは仕方がないことだ。
このあたりの事情は、檔案(同時代史料)を用いた明清代史研究の隆盛と似ている。
また、近年、オスマン帝国近代史研究が盛んになっている背景には、
「現在の中東・バルカン諸国の問題を深く理解しよう」という意識の高まりもある。

近年出版されたオスマン帝国史研究の成果には、
古典期と近代の過渡期となる18世紀に言及したものがある。
<地方史>
永田雄三『前近代トルコの地方名士―カラオスマンオウル家の研究』(刀水書房、2009年)。
<外交(対ロシア関係を中心に)>
尾高晋己『オスマン外交のヨーロッパ化―片務主義外交から双務主義外交への転換』(渓水社、2010年)。

論文集としては、『東洋文化』91号(2011年)。
これは、「オスマン帝国史の諸問題」という特集号で、
最近のオスマン帝国史研究の水準を知るのに良い。
790オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/04(日) 08:53:54.49 0
>>788
いえ、違います。関東です。

>>789
>また、近年、オスマン帝国近代史研究が盛んになっている背景には、
>「現在の中東・バルカン諸国の問題を深く理解しよう」という意識の高まりもある。
これが大きいだろうね。近代オスマン帝国史は中東やバルカン諸国の問題にも、
大いに関係してるし。史料の多さはオスマン帝国に限らず近代史はどこでもそうだし。

18世紀のオスマン帝国はまさに衰退してきてる時期であり、近代への黎明期でもあるから、
そういう関係で少し研究が進んできてるのかも知れない。最近は17世紀辺りの政治史や、
社会史も流行ってきたと言われてるしね。とは言え、まだまだ近代史や最盛期の研究のほうが、
圧倒的に進んでるのは事実だけど。ていうか、僕もオスマン帝国史で一番好きなのは近代以降だったりする。
791レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/04(日) 10:42:23.82 0
 Burası OsmanlıはTRTがMuhteşem yüzyılに対抗する番組として企画した歴史ドラ
マ。事前に最初の3話分の費用も支払い済みで、昨年10月20日から放送開始の予定ということになっていたけ
どドタキャン。その理由が「内容に不備」で、プロダクションにやり直しを命じたらしい。こんな曖昧な理由だから
放送中止に関しては当然様々な憶測が飛び交っている状態。3話分の制作費(240万〜270万リラと報道にバラ
つきあり)をプロダクション側に払った・払わないというありがちな金銭上のトラブル説や、TRT会長のイブラヒム・
シャヒンが視聴して気に入らなかったからという個人的な我侭説だとか、状況が見えてこない。ただ、最近撮影
が継続しているというTRTと監督の和解を匂わす報道が見られたからそのうち放送が開始されるとは思う。
792オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/04(日) 11:48:16.25 0
>>791
そうなんだ。今は放送中止になってるのか。
トルコですらまだ放送されてないからDVD化は当分先だろうね。
1711年の露土戦争が舞台になってるらしいということは、
さっきからあまり研究が進んでないと言われてる中期オスマン帝国の時代だから、
個人的には結構興味あるんだけど。
793世界@名無史さん:2012/03/04(日) 18:02:32.87 0
>>791
ありがとうございます。3話約一億円か。。。結構かかってますね。
1711という題名からしてそんなに長い期間を扱っているとは思えないので、
短期放映で終わってdvd出て欲しいと思う次第。1,2年の話を一話100分で
数十話という規模になるとちょっとついていけませんが。。。
794世界@名無史さん:2012/03/04(日) 20:01:04.53 0
>1711年の露土戦争

 この時代に全盛期に匹敵するほど美味しいネタがあるのかね?
 個人的にはスレイマンの純愛とムスタファの悲劇に匹敵する素材は
 キョプリュリュ家三代記だと思っている
795オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/04(日) 20:07:22.26 0
>>794
この時代のオスマン帝国のスルタンはアフメト3世の時代でいわゆるチューリップ時代だ。
オスマン帝国において文化が隆盛したと言われる時代だからそれなりに見所あるんじゃないかな。
しかも、この時代のオスマン帝国にはスウェーデン王のカール12世が亡命してきてる。
それだけでも話題性は充分にあると思うよ。しかも敵側のロシア帝国の君主はピョートル1世だし。
1711年の露土戦争は大北方戦争の一環として行なわれ、オスマン帝国の勝利に終わった戦いで、
ピョートル1世を捕縛寸前にまで追い込んだ戦いだからね。普通に面白そうでしょ。
796世界@名無史さん:2012/03/04(日) 20:33:39.09 0
オスマン帝国でおもしろいのはバルカン戦争と第一次大戦のヤクザな島争いだろ。
バルカン各国の視点で枢軸と協商のどっちにつくかっていう駆け引きのほうが
スルタンの女がなに人だったかとかよりよっぽどいいわ。
797オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/04(日) 20:48:55.85 0
>>796
確かに僕もオスマン帝国史で一番好きなのは近代以降なんだよね。
特に東方問題を巡る列強やバルカン諸国との複雑な駆け引きは調べてて面白い。
まぁ、それ以外の時代のオスマン帝国史も普通に好きだけど。
798世界@名無史さん:2012/03/04(日) 21:04:22.80 0
バルカン戦争って、オスマンが殆ど死に体になってからの話でしょう。
自分としては、ベルリン会議以降はオスマン史と言われてイメージするのは
小アジアとシリア、アラビア半島のオスマン領土くらいで、バルカン諸国やエジプトは
「バルカン史」「エジプト史」の範疇に脳内分類されてしまう。そのオスマン史も
どちらかというと「近代トルコ史」の五感の方がフィットする。

長いオスマン史の中でバルカン戦争と第一次大戦なんて、
「清朝で一番面白いのは義和団事件以降」というようなくらい違和感がある。
799オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/04(日) 21:10:15.66 0
>>798
でも、その瀕死の重病人の様子も意外と面白いものだよ。バルカン戦争後というか、
それも含めた東方問題全般が僕は好きかな。あそこら辺のごちゃごちゃが面白い。
最盛期もやはりすっきりするし楽しいものだけど、何とか滅亡を逃れようともがいてる様を見るのも、
悪くないでしょ。実際、上でも言われてるように近代オスマン帝国史は人気ある分野だし。
800世界@名無史さん:2012/03/04(日) 21:19:36.64 0
>>799
もしよければそのあたりの面白さを端的に学べる日本語書籍を教えてください。
自分はブルガリアやルーマニアの1877年の露土戦争とかバルカン戦争の
映画(どれも共産主義時代の製作)を結構見ていて、救いようが無いくらい
血が流れた暗い時代というイメージが根付いてしまっているので。

なんというか、民族主義剥き出しの時代って、双方妥協せずに徹底的に傷めつけ合う
印象があり、どうしても面白さがわからないんですよね。
801オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/04(日) 21:34:59.70 0
>>800
そういう近代特有の血生臭さやドロドロとした駆け引きが面白かったりするんだけどね。
とりあえず、オスマン帝国近代史だったら新井政美氏の本が入門書としてはお勧めかな。
「トルコ近現代史」なんか分かりやすいしわりと面白くまとまってる。
もっと詳しく知りたいならアラン・パーマーの「オスマン帝国衰亡史」も良いと思う。
翻訳文のせいか少し読みにくいのが玉に瑕だけど、この時代の複雑な外交関係の理解には役立つ。
ナショナリズムについて知りたかったら同じく新井政美氏の「オスマン帝国はなぜ崩壊したのか」が良い。
当時のオスマン帝国の色んな人たちのイデオロギーが詳しく載っててなかなか面白い。
802世界@名無史さん:2012/03/04(日) 21:46:10.50 0
>>796
>オスマン帝国でおもしろいのはバルカン戦争と第一次大戦のヤクザな島争いだろ。

オスマン帝国は、「史上初の総力戦」第一次世界大戦をしぶとく戦い続け、
場合によっては、協商国軍を苦境に追い詰めてさえいる。
その例としては、ムスタファ・ケマルのガリポリ防衛戦、
ハリル・パシャ(エンヴェル・パシャの叔父)のクート・アル=アーマラでの勝利
(タウンシェンド将軍麾下のイギリス軍を丸ごと捕虜にした)が挙げられる。

ちなみに、イラク戦線では、アブデュルレシト・イブラヒムが組織した
「アジア大隊」(ドイツ軍の捕虜となったロシア・ムスリム将兵から成る)が
オスマン軍の一部として戦っている。

<参考文献>
山内昌之「ハリル・パシャ」大塚和夫他編『岩波イスラーム辞典』(岩波書店、2002年)。
小松久男『イブラヒム、日本への旅―ロシア・オスマン帝国・日本』(刀水書房、2008年)。
803オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/04(日) 21:59:26.92 0
>>802
第1次世界大戦におけるオスマン帝国の戦いは日本ではほとんど知られてないけど、
オスマン帝国も結構頑張ってたんだよね。日本では映画のアラビアのロレンスのおかげで、
アラブの反乱が少し知られてる程度だ。トルコは第2次世界大戦にはほとんど参戦しなかったから、
その分第1次世界大戦のほうが注目度高いように思える。特にガリポリの戦いは、
ケマル・アタテュルクが活躍したこともあってかなり有名だ。今でもこの戦争のあった地域には、
それに関係した博物館や遺跡が残ってる。まぁ、ガリポリは日本でもそれなに知られてるけど。
804オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/04(日) 21:59:59.38 0
脱字訂正。
×まぁ、ガリポリは日本でもそれなに知られてるけど。
○まぁ、ガリポリは日本でもそれなりに知られてるけど。
805世界@名無史さん:2012/03/04(日) 22:18:58.60 0
>>798-801
民族主義が渦巻く中で、多民族共存を目指す動きに着目した研究としては、以下を参照。

佐原徹哉『近代バルカン都市社会史―多元主義空間における宗教とエスニシティ』(刀水書房、2003年)。
藤波伸嘉『オスマン帝国と立憲政―青年トルコ革命における政治、宗教、共同体』(名古屋大学出版会、2011年)。
806世界@名無史さん:2012/03/04(日) 22:31:49.70 0
>>801
書籍紹介ありがとう。
パラエオロゴス朝のビザンツ時代の、ベイリク諸国やバルカン諸国・西欧との
駆け引きや滅亡阻止のあがきと似ていると考えれば、面白さも確かにピンとくるものがある。

紹介された書籍の目次を見てみて、
「トルコ近現代史―イスラム国家から国民国家へ」は興味を惹かれた。が、
高いのでまずは図書館にあたってみます。

アランパーマーは以前一度借りたことがあるけど、雑多で詳細な記載が続いているだけで、
なんというか、古臭い史観そのまま、という感じで結局読みきれずに返却してしまった。
興味を持った箇所を辞書かわりに使うといいと思った。

ところで、バルカンの旧オスマン領を旅行した時、何かというと、
「トルコ500年の支配が」「トルコ人は我が民族を虐殺して髑髏の山を築いた」
「トルコの後はソ連で、今はアメリカだ」と、何かと
自国の状況を責任転嫁するような言動に多数直面したのだけど、
これはエジプトやシリア、アラビアなどでも同じようなものだのだろうか?
807世界@名無史さん:2012/03/04(日) 22:37:58.42 0
>>805
これは、”トルコ人”主導の動きなのでしょうか?それとも
”ムスリム”主導の動きなのでしょうか?それともキリスト教徒含めた
動きがあるのでしょうか?帝国主義時代のこの地域で民族を越えるものというと、
汎イスラム、汎スラブ以外に思いつかないのですが。
808オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/04(日) 23:45:49.09 0
>>806
アラン・パーマーは確かに詳細な記載がたくさん載っててちょっと読みにくいから、
最初に読む本ではないかも知れない。新井政美氏などを読んだ上で、
改めて読んでみると当時の外交関係やスルタンの姿勢が良く分かるので良書だとは思う。
古臭い史観のように思えるのは内容よりも書き方のせいだと思う。最初は僕もそう感じたし。
新井政美氏の「トルコ近現代史」は結構詳細な情報が分かりやすくまとまってるので本当にお勧め。
オスマン帝国が滅んだ後のトルコ共和国についての歴史も載ってて通史としてもかなり良いよ。

アラビアでのオスマン帝国支配への感情については人にもよるけど、
いわゆるアラブ民族主義者はアラブの反乱などもあるからあまり良い感情は抱いてないかも。
実際、近代オスマン帝国のアラブ支配の仕方は西欧の植民地支配に似てるという意見もあるし。
イスラーム原理主義的な人の中にはオスマン帝国の滅亡でイスラーム圏はバラバラになり、
西欧諸国の植民地支配を受けることになったと言ってる人もいるので(ある意味それは正しいし)、
そういう意味ではそこまで悪い感情は抱いてないかも。逆に政教分離になったトルコ共和国へは、
良いイメージを持ってないだろうけど。とは言え、バルカン半島ほどではないけど全体的には悪印象かなぁ。
レバノンなんかではオスマン帝国支配に立ち向かったファハル・アッディーン2世が有名みたいだし、
イエメンでもオスマン帝国支配に対してしばしば反乱を起こした歴史があったりするぐらいだからね。
809オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/05(月) 00:00:37.30 0
>>807
そういう風にある特定の民族が主導で行なったという考え自体がそもそもナンセンスだと思う。
オスマン帝国はかなりの多民族国家だったので色んな民族が混在してた訳で、
オスマン帝国ではそういう多民族をまとめるために民族を超えたオスマンナショナリズムを、
創設しようとした。この思想は汎イスラーム主義や汎トルコ主義などに押されるものの、
とりあえずは滅亡間際まで存在した考え方ではあった。ギュルハネ勅令やオスマン帝国憲法で、
宗教に関わらずオスマン人はみな平等であると強調されてたのにはそのような背景がある。
強いて言うならばオスマン帝国の維持を望んでた指導者層の間で支持されてた思想だから、
一応ムスリム主導の動きと言えるかな。とは言え、支持してたキリスト教徒もいなくはなかった。
青年トルコ人の構成メンバーなんかを見ると結構色んな民族がいることが分かるので、
近代オスマン帝国で雑多な民族がオスマンナショナリズムを支持してたことが理解できると思う。
まぁ、ユースフ・アクチュラなんかはナショナリズムが広がってしまったバルカン半島などを見るに、
この思想は失敗だったと主張してて、汎トルコ主義こそが取るべき正しい道だと言ってたけどね。
810世界@名無史さん:2012/03/05(月) 01:01:55.54 0
このスレに今現在オスマン語勉強している人いる?
院生もしくは院卒ばっか?
所謂「歴女」な人いる?
811世界@名無史さん:2012/03/05(月) 01:23:33.68 0
>>808>>809
ありがとう。”オスマン人”という概念をキリスト教徒でも支持していた人が
いるというのは非常に興味を引く情報です。興味を持ちました。紹介された書籍読んでみようと思います。
取り急ぎ。
812世界@名無史さん:2012/03/05(月) 01:54:13.67 0
自分は院生ではない。一般人。

オスマン語ってよく考えると奇妙な名前だよな
オスマン帝国時代のトルコ語という意味なのだが、
鎌倉時代の日本語を北条語と呼ぶなみにおかしい。
大学書林の青い表紙の本以外に日本語で何か出てる?
オスマン語はルー大柴がトルコ人でアラビア語とペルシャ語勉強したら
こういうの書いたんだろうなっていうのを形にしたような言葉ね。
813オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/05(月) 15:00:10.99 0
>>811
まぁ、そうは言っても支持してないキリスト教徒だってたくさんいたけどね。それに近代になると、
バルカン半島での独立運動増加のせいでオスマン帝国もキリスト教徒に不信感を抱いたりした。
例えば、ギリシャ独立戦争が起きた時、当時のスルタンだったマフムト2世は、
コンスタンティノープル総主教のグリゴリオス5世を処刑してロシア帝国の怒りを買ってしまった。
グリゴリオス5世はギリシャの反乱を支持してなかったにも関わらずだ。こういう不信感は、
西欧列強諸国がオスマン帝国へバルカン半島のキリスト教徒保護を訴えるにつれてより増していった。
また、グリゴリオス5世自身はオスマン帝国の統一をあくまで望んでた訳でオスマン人概念の支持者だった。
彼のようなキリスト教徒もいなくはなかった。それこそがまさにオスマン帝国の多様性と言えるだろうね。

オスマン帝国における多民族的なオスマンナショナリズムの変遷を知りたいのなら、
さっきも紹介したけど新井政美氏の「オスマン帝国はなぜ崩壊したのか」が役立つ。
当時のオスマン帝国の色んな人たちの思想を知ることができるからね。
814世界@名無史さん:2012/03/05(月) 15:23:39.30 0
>>813
色々ご紹介していただいてありがとうございます。他の読者もいると思いますので、
情報のご提示は役立つと思います。

ただ残念ながら自分はナショナリズムや末期オスマン、戦争には興味が
殆どありませんので、「どこが面白いのか」をアピールしていただけたら、と
希望する次第です。「知りたいならこれこれを読みましょう」ではなく、
興味の無い人に研究の価値や面白さをアピールしていただけたら、と愚行する次第です。

自分は、オスマン史については17.18世紀の日常生活や全領土での末端行政等に興味があります。
安定した社会の中で人々が足をひっぱりあったり、権力闘争を行ったり、治安維持に関心を持ったり
持たなかったり、インフラ整備を行ったり、そのような日常生活の維持を長期に、広大な領域で行えたという
点で、オスマン朝に興味を持っているのです。

もっとも、それとは別に、現在のトルコ共和国自体にも興味があり、
その延長線上で、21世紀のトルコまでを一括して扱っていると思われる
「トルコ近現代史―イスラム国家から国民国家へ」は読んでみたいと思います。
ただし、これは自分の中では「オスマン史」ではなく、「近代トルコ共和国史」という
認識なのです。
815オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/05(月) 16:01:33.17 0
>>814
>興味の無い人に研究の価値や面白さをアピールしていただけたら、と愚行する次第です。
1口に近代オスマン帝国史と言っても奥が深いのでここで全て説明するのは難しいけど、
簡単に魅力を挙げるとしたら、外交やナショナリズムの複雑さにあると言えるかな。
東方問題という言葉に表されてるように当時のオスマン帝国を巡って列強諸国やバルカン半島は、
混乱に陥った。列強やオスマン帝国やバルカン諸国の思惑が複雑に入り乱れてるのが、
この時代の外交の面白さだろうね。そして、ナショナリズムもそれと連動して複雑化したし。
それに、近代オスマン帝国史はあなたの興味ある現在のトルコ共和国にまで繋がってる。
それだけでなく、現在の中東問題やバルカン問題の遠因になってることが研究が盛んな理由だろうね。

>自分は、オスマン史については17.18世紀の日常生活や全領土での末端行政等に興味があります。
林佳世子氏も言ってたように最近になってここら辺の時代への注目が高まってるらしいね。
多民族社会オスマン帝国が長期にわたって広大な領域を維持したことへの関心は高い。
この時代は民衆の社会や文化もとても隆盛を極めてたと思うし。僕としても興味はあるよ。
オルハン・パムクはこの時代が好きだと言ってここら辺を題材にした作品をいくつか書いてるね。

>ただし、これは自分の中では「オスマン史」ではなく、「近代トルコ共和国史」という認識なのです。
その本はトルコ共和国になった後も書かれてるから確かにそうかもね。それに、前近代オスマン帝国と、
近代オスマン帝国はある意味全く別の国家だと林佳世子氏も言ってるし。ナショナリズムが入り、
国民国家を目指そうとし近代化を図った近代オスマン帝国は確かに完全な変化をしたと言わざるを得ない。
816世界@名無史さん:2012/03/05(月) 21:15:36.86 0
>>815
何度もレスありがとうございます。
オスマンと近代オスマンから現在の共和国への連続性については、
古代ローマとビザンツの区切りをどこでつけるか、という話に似てますね。
いすれにしても、「トルコ近現代史―イスラム国家から国民国家へ」を
知ることができたのは収穫でした。とはいえ、近隣自治体の図書館には無いことが
わかったので、4千円出して買うかどうかはしばらく悩みそうですが。
817オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/05(月) 22:24:36.54 0
>>816
なるほど、古代ローマ帝国からビザンツ帝国への変化に似てるというのは上手い例えかも知れない。
別の国家と言えるほど大きな変化はしたけど連続性も確認できるからね。
818世界@名無史さん:2012/03/06(火) 00:38:56.56 0
>>816-817
林佳世子氏たちも書いているが、
オスマン帝国の遺産は決してトルコ共和国だけのものではない。
例えば、オスマン帝国崩壊後に成立したイラク王国の首相を務めた人物には、
オスマン帝国の教育制度の中で育った人々がいる。
ジャアファル・アスカリー、ヌーリー・サイードらは旧オスマン軍将校で、
バグダードの陸軍予科学校、イスタンブルの陸軍士官学校を卒業している。
1936年に首相となったアフマド・ハムディーは、イスタンブルの行政学院
(文官養成校)を卒業している。
819オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/06(火) 01:02:50.05 0
>>818
確かにオスマン帝国は広大な民族と多様な民族を抱えてた訳で、
その遺産はトルコ共和国だけに収まるものでは決してないね。
トルコ共和国を含め旧オスマン帝国領諸国はみなオスマン帝国を母体とした子供たちと言えそうだ。
820世界@名無史さん:2012/03/06(火) 09:30:08.05 0
>>818
同じことはバルカン諸国にも言えるのでしょうか?バルカン諸国の
オスマン帝国のポジティブな遺産ってなんなのでしょうか?
821世界@名無史さん:2012/03/06(火) 12:43:59.92 0
>819みたいにちょっとでも肯定的な遺産があると「〜は実は〜起源」と言っている
みたいで気持ち悪い。オスマンが好きなのはいいがここまで贔屓していると馬鹿
にしか見えない。これが贔屓でないというのなら是非「韓国や台湾をはじめとする
アジア各国は実は日本の子供たち」と堂々と主張してもらいたい。どんな反応が
返ってくるか楽しみだ。同様に、無理やり>818を弁護するならば「遺産」とは言っ
ているものの「プラスの」とはどこにも言っていない。ただ、「いい意味でも悪い意
味でも」との一言を加えず、敢えて中東のエリートだけあげて一般化しているとこ
ろが厨臭さい。
822世界@名無史さん:2012/03/06(火) 15:32:04.12 0
まあまあ、極論を言ってしまうと水掛け論になってしますので、ここは
慎重で冷静な議論をお願いしたい。

自分は、例えば、ブルガリアやギリシアの料理はトルコ料理の影響を非常に
受けていると思うし(ブルガリアの場合クマン系時代からの影響かも知れないが)、
現在のブルガリアの民族衣装はトルコ系衣装に似てる印象を受けるし、ブルガリアを
旅行した時、「我々はトルコは嫌いだがトルコ文化は好きだ」とトルコの
ポップスを好む若者に多く遭遇した。

同様に、例えば治安維持とか末端自治組織の在り方とか、社会の様々な面で
オスマン支配の影響はあるのではないか?という関心がある。ギリシア、ルーマニアや
ブルガリアの歴史の本を読むと、「オスマン支配下で民族性・文化・宗教を維持し、
19世紀になり取り戻した」などとあり、400年間続いたオスマンのバルカン支配が
まったくの空白地帯という感じで記載されている。末期オスマンに過酷な支配を
され、オスマン悪玉史観となっているバルカン諸国の中からは、オスマン支配を
客観的に見るのは難しいと思うが、日本人研究者としては、どちらにも過度に
肩入れしない分析が期待できるのではないだろうか。と思って>>820
質問をしました。

まあ、ローマのブリタニア支配のように、ローマ撤退後、ローマの影響が
殆ど見られなくなってしまう程、元に戻ってしまった、という説もあるので、
最終的には、「オスマンのバルカン支配は空白だった」という結論に
なってしまう可能性もあるとは思うけど。
823オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/06(火) 17:32:39.66 0
>>821
う〜ん、そこまで極端なことを言ってるつもりはなかったんだけど、
確かに自分のレスを見る限りそういうふうに読めなくもないかも知れない。
林佳世子氏が今のバルカン半島や中東の諸国もオスマン帝国の後継のようなものだという主旨の、
内容を以前に書いてたので、そこからちょっとした飛躍して話を進めてしまった。


>>820>>822
確かにバルカン半島の文化はオスマン帝国の影響が結構あるね。
トルコ料理やギリシャ料理はかなり似てる部分も多いしね。
まぁ、そういう文化的遺産に関してはプラスかどうかという判断はしにくいけど。
いわゆるプラスの遺産というと、建築関係がそれなりにあるんじゃないかな。
少なくとも19世紀の間は都市のインフラ整備や経済面ではオスマン帝国の影響強かっただろうし。
後は、ギリシャでファナリオティスのうち何人かが初期の独立運動において、
指導的な役割を果たしたことが挙げられるかも。ファナリオティスだけが中心だった訳でもないけど。
他には、セルビア正教会がオスマン帝国時代に自治を獲得してるんだけど、
このことがセルビアにおける独自性を強めることになったと言われてる。

>ギリシア、ルーマニアやブルガリアの歴史の本を読むと(中略)
>400年間続いたオスマンのバルカン支配がまったくの空白地帯という感じで記載されている。
これは確かにバルカン半島における反オスマン感情もあるだろうけど、
そもそも根本的にオスマン帝国時代の地方史の研究がまだあまり進んでないからだと思う。
最近になってやっと地方史への研究に注目が高まったけど中央集権色の強いオスマン帝国では、
歴史の研究も中央に関心が向き気味なのかな。前に読んだボスニア・ヘルツェゴヴィナ史の本には、
「オスマン帝国時代のこの地域はあくまで帝国の一地方に過ぎないため、この時代の歴史は、
オスマン帝国そのものの歴史とほとんど変わらない」みたいなことが書かれてた気がするし。
それに、バルカン半島の反オスマン感情がバルカン半島での研究を余計に妨げてるのかも知れない。
824レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/06(火) 20:21:19.53 0
>>822
>トルコのポップスを好む若者に多く遭遇した。

 トルコのポップスを定期的に放送するテレビは一局しかなく、しかも有料で全ての人が契約しているわけではない。
ラジオは無料だけど不定期。だからトルコポップスはそんなに普及してない。これ、正確には「トルコ、セルビア、ギリ
シャ、ジプシー等かつては禁止されていた音楽をベースとした国産ポップス」じゃない?ポップフォークもしくはチャル
ガと称されるジャンル。

> 日本人研究者としては、どちらにも過度に肩入れしない分析が期待できるのではないだろうか

 これは実際その通りで、このスレの住民も極論をなるべく避けるべきだね。このスレは現在の世界史板全体
で見るとかなりレベルが高い方。それだけに住民には良質な書き込みを期待しちゃうね。
 
 ところで君はブルガリアに興味あるみたいだけど、こう書いている。
 
> ブルガリアの歴史の本を読むと、「オスマン支配下で民族性・文化・宗教を維持し、
> 19世紀になり取り戻した」などとあり、400年間続いたオスマンのバルカン支配が
> まったくの空白地帯という感じで記載されている。

 ブルガリア語が読めてオスマン期に興味があるなら当然アントニーナ・ジェリャズコヴァや彼女の弟子たちであ
る新ブルガリア大学学派の誰かはフォローしていると思うけど、それこそ彼らは「オスマン悪玉史観」に反発してい
る。もちろん彼女らが一つの民族として常に独立であり続けた方がオスマン支配下におかれるよりはベターだとの
立場でこれは当然。しかし仮定としてブルガリア語話者が他の宗教・言語集団に服属した場合、オスマンとは異なり
急速に同化した(させられた)のではないか、あるいはブルガリア帝国が維持し続けた場合でも好戦的な独裁国家
になっていたかもしれないので必ずしもオスマンの歴史は負だけをもたらしたわけではないといった伝統的史観とは
異なる立場。そもそもブルガリアにはまだこういった人達が潮流として存在すること自体ギリシャと決定的に違うし、だ
からギリシャと同列に論じるのはちょっと酷w
 しかもギリシャと異なりバレヴァを除けばテロの危険になしに活動できているからね。ルーマニア語は苦手なんでルー
マニア人については書かないけど。
825レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/06(火) 20:56:00.60 0
>>823

 各国は平気で資料の捏造、改竄、隠蔽を行っているから。
 ブルガリアでは17世紀のオスマン朝による強制改宗を目撃録とされているドラギノフ書簡があるが、ニコライ・
トドロフと並び称される歴史家のヴェラ・ムタフチエヴァやその弟子である上記ジェリャズコヴァ等まともな学者
はこれを偽造と断定し、現在では学会では主流。
 ギリシャだと有名な「夜間学校」説があり、公式史観ではオスマン朝はギリシャ語を禁止した為ギリシャ人は
自己の民族性を保つ為に秘密の場所でギリシャ語教育を行っていたという捏造史観。最近の教科書改訂問題
でもヴェレミスがこの「夜間学校」をいい加減教科書からはずすべしとの提案を(恐らくは政府の委託を受けて)
行ったが、教会を始めとする社会のあらゆる団体から反発されて提案を取り下げざるを得なかった。しかもヴェレ
ミスに続く学者がいなかったりする・・・。
 
826世界@名無史さん:2012/03/06(火) 20:57:45.83 0
>>823
>「オスマン帝国時代のこの地域はあくまで帝国の一地方に過ぎないため、この時代の歴史は、
オスマン帝国そのものの歴史とほとんど変わらない」
これは政治史の観点ではそうなるよね。西欧中世でもっとも分裂した10世紀フランスなどは、
地方領主の結婚政策を追っていくことになり、それよりは社会史を描いた方が生産性が高いから、
アナール派などが台頭する一因になったのではないかと訝っている。しかし、中央集権の強い国家だから
といって社会史が成り立たないとは思わない。中国では多くの地方史が記載されているし、
檔案を用いた経済社会史研究が出始めている。インドも経済発展すれば、地方史・社会史が
もっと出てくると思う。

>>824
すいません。ブルガリア語ができるわけではないので、ブルガリア人の若者が
”ポップス”という英語で具体的に何を意味したのかはわかりません。ただ、
若者がたむろしていた喫茶店の音楽、各地でトルコの音楽っぽかったので、
気になってトルコは嫌いなんじゃないのか、と質問したら、トルコポップスは好きなんだ。
という話。

あとブルガリア語は読めません。歴史の本といっているのは、日本語ででている
ブルガリアの歴史の本(具体的には森安達也氏「ブルガリア 歴史と風土」と
「世界の教科書=歴史ブルガリア( ほるぷ出版)」のことです。
827オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/06(火) 21:10:40.82 0
>>8241
横レスですまないけど、ギリシャにはアントニーナ・ジェリャズコヴァみたいに、
オスマン帝国支配の客観化を図ろうとする学者はいないの?
ギリシャではこういう潮流が存在するのが許されないほど反オスマン感情が根付いてるのかな。
だとしたら、ブルガリアとギリシャのこういう差異はどこから来るんだろう?
ぱっと思いつく理由としては、ギリシャが現在もトルコ共和国との間にキプロスなどを巡って、
政治的対立があるのに対しブルガリアの場合は特にないということぐらいなんだけど。
他に何か歴史的理由があったりするのかな。向こうの歴史教育とかも関係してそうだ。

後、セルビアなど旧ユーゴスラビア諸国ではどうなのかな?
多少はオスマン帝国支配の肯定的な面を取り上げる動きも出てきてるのか、
それとも未だにオスマン帝国支配はトルコの圧政だったという歴史観しか存在しないのか。
828オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/06(火) 21:25:12.32 0
>>825
なるほど、各国のナショナリズム感情に基づいた歴史の捏造が行なわれてるせいで、
純粋な歴史研究が行ないにくいという問題もあるのか。夜間学校説とか初めて聞いたよ。
でも、実際オスマン帝国時代のギリシャ人たちの教育事情ってどうだったんだろう?
上で挙げられてるようなメクテブみたいな初等教育機関は基本的にムスリム専用だったろうから、
バルカン半島のキリスト教徒はどこで学んでたんだろうか?やはり教会などの宗教施設が、
民衆への教育を行なってたのかな。ムスリムの教育がそうだったのと同じように。

>>826
確かに政治史はともかく社会史については研究が全く成り立たないということはなさそうだ。
いくら中央集権が強かったとは言え、完全に均質な地域社会が出来上がってたとは思えないから、
地域の独自性はあったと言えるだろうね。最近は17世紀から18世紀頃のオスマン帝国社会史に、
関心が集まってるみたいだから、それに伴い地方史の研究も発展するかも知れないね。
829オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/06(火) 21:26:03.73 0
>>827でアンカーミスった。

×>>8241
>>824
830世界@名無史さん:2012/03/06(火) 21:30:29.05 0
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831レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/06(火) 21:57:39.08 0
>>826
> 若者がたむろしていた喫茶店の音楽、各地でトルコの音楽っぽかったので、
> 気になってトルコは嫌いなんじゃないのか、と質問したら、トルコポップスは好きなんだ。
> という話。

 それはほぼ確実にポップフォークだね。トルコっぽいのも当然で、例えば今年のユーロヴィジョンのブルガ
リア代表に内定したソフィー・マリノヴァはそれこそ若手の頃エムラやマフスン・クルムズギュルの曲をカバー
してブレークした。トルコではこれら歌手は「アラベスク」の範疇だけど、ブルガリアにはその用語は伝わって
いないから「ポップ」扱い。

> ブルガリアの歴史の本(具体的には森安達也氏「ブルガリア 歴史と風土」と
> 「世界の教科書=歴史ブルガリア( ほるぷ出版)」のことです。

 これは資料として古すぎ。オスマン朝時代の呼称は共産党一党独裁体制下ではтурското
робство(隷属)もしくは〜иго(くびき)、民主化後はそういったネガ面ばかり強調された呼称から
一歩離れ〜владичество(支配)、НДСВ時代はДПСと閣外協力関係にあったこともあり更
に柔らかい〜присъствие(プレセンス)、そして現在の右翼連中の下では再び共産党時代の呼称
が優先されるようになっている。ブルガリアの公式史観を語るのなら最低でも政治上の都合でこういっためまぐ
るしい変遷になることは知っておいた方がいい。
832レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/06(火) 22:29:47.42 0
>>827
> 横レスですまないけど、ギリシャにはアントニーナ・ジェリャズコヴァみたいに、
> オスマン帝国支配の客観化を図ろうとする学者はいないの?
> ギリシャではこういう潮流が存在するのが許されないほど反オスマン感情が根付いてるのかな。

 >>825もそうだし、単発では何人か出てくるけど右翼テロや教会による扇動の恐怖で続かないんだよ。僅かに
「そもそもギリシャ文化とトルコ文化を区分することは無意味」とか言うキツィキスとかもいるけど、そもそも彼は
カナダ在住だ。ちなみにキツィキスによるヴェニゼロス時代に行われたプロパガンダについての著作は何故か
ギリシャでは出版されず、トルコとフランスのみで発売となった。

> ぱっと思いつく理由としては、ギリシャが現在もトルコ共和国との間にキプロスなどを巡って、

 これは特に大きいし、極右思想が警察や司法の隅々にまで入り込んでいる、あるいはブルガリアと比較して
ギリシャの教会の影響力が強いという一因もある。

> 後、セルビアなど旧ユーゴスラビア諸国ではどうなのかな?

 旧ユーゴ圏だとマケドニアでは「敵の敵は友」ロジックでトルコやオスマンに対する評価が見直しされている。
そもそもオスマンの支配下でなかったならマケドニア民族主義は生まれず「ギリシャ化」もしくは「ブルガリア化」
されていたかもしれないとの考えも根底にある。最近ではある新聞がFetih1453関係で「コンスタンティノープルの
解放」とまで書いて反発を受けた。

 >>828の教育だけど、むしろオスマンは正教徒の教育は正教会に委託しており、例えば修道院等で普通にギリ
シャ語を始めとする諸科目が教えられていた。ナショナリズムの時代、とりわけ19世紀後半になると教会はギリ
シャ語のみならずギリシャ化教育をするようになり、それが他の言語話者の独自学校設立運動になる。そ
の後ギリシャ人民族主義者と正教会はそれら学校と関係者に対しテロ活動を行い始めた。「夜間学校」を必要とし
ていたのはギリシャ人でなくむしろブルガリア人や正教徒アルバニア人の方。
 ブルガリア人はギリシャ人の被害者だけれど、フェアに評価するならブルガリア人も後にギリシャ人学校に同様
のテロを行ったこともあるけど。
833世界@名無史さん:2012/03/06(火) 22:36:53.22 0
>>828
>バルカン半島のキリスト教徒はどこで学んでたんだろうか?

オスマン帝国期バルカンの教育事情については、>>805で挙げられている
佐原徹哉『近代バルカン都市社会史』に詳しく書かれてある。

>確かに政治史はともかく社会史については研究が全く成り立たないということはなさそうだ。

社会史については、単行本がないので、雑誌に掲載されている論文に当たらざるを得ない。
オスマン帝国期シリアの社会史については、三浦徹、黒木英充、大河原知樹の論文がある。
834オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/06(火) 22:59:43.05 0
>>832
やはりギリシャにもオスマン帝国への見直しを図ろうとする学者は一応いるんだ。
国内の反感が根強いからそれが一定の影響を維持したまま続くことがないだけで。

>これは特に大きいし、極右思想が警察や司法の隅々にまで入り込んでいる、あるいはブルガリアと比較して
>ギリシャの教会の影響力が強いという一因もある。
ギリシャの教会の影響力が強いのはギリシャでは共産党政権が誕生しなかったからかな。
極右思想が隅々に入り込んでるのもそのせいなんだろうか。ギリシャって左派政党PASOKも、
それなりの勢力を抱えてるイメージなんだけど、ナショナリズム思想はそう変わらないのかも知れない。

旧ユーゴスラビアはナショナリズムでお互いに敵対しまくってたせいで、
逆にオスマン帝国への見直しが始まってるのね。確かにマケドニアなんかは、
オスマン帝国の支配下でマケドニアは多民族が混住する地域となり、
ギリシャともブルガリアともセルビアとも言えないような曖昧な地域となった訳だから、
そういう意味ではオスマン帝国支配がマケドニアナショナリズムを作ったというのも分からなくはないね。

それと、やっぱり正教徒の教育は普通に修道院みたいな宗教関連の施設で教えられてたのね。
その点ではムスリムに対する教育と同じだったと言えるかな。オスマン帝国支配下での正教は、
基本的にギリシャ人中心だったから、そういう意味ではブルガリア人などのほうが、
夜間学校は必要だったということか。実際、ブルガリアのナショナリズム運動は、
ブルガリア正教会におけるギリシャ人の影響力排除から始まった訳だし。
そこからお互いのナショナリズム対立が始まりテロの応酬にもなったりしたんだろうね。
835オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/06(火) 23:02:17.75 0
>>833
書籍紹介ありがとう。バルカン半島の教育については今度その本を探してみるよ。
社会史は最近盛んになったとは言えまだまだ単行本で出るほどではないのかな。
論文ならばオスマン帝国の社会史関連のものも少しずつ増えてきてるのかも知れないけど。
836レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/06(火) 23:23:27.56 0
>>834
> やはりギリシャにもオスマン帝国への見直しを図ろうとする学者は一応いるんだ。
> 国内の反感が根強いからそれが一定の影響を維持したまま続くことがないだけで。

 本当に少数だよ。他に人名を挙げろといわれてもパッと思い浮かばない。

> ギリシャの教会の影響力が強いのはギリシャでは共産党政権が誕生しなかったからかな。

 そう。ブルガリアの宗教活動は制限されていたし、共産党が国民をいい意味で「世俗化」した。更に民主化語
はブルガリア正教は分裂もしたんで、結局現在に至るまでもナショナリズムの担い手としての求心力を得るに
は至らなかった。

> 極右思想が隅々に入り込んでるのもそのせいなんだろうか。ギリシャって左派政党PASOKも、
> それなりの勢力を抱えてるイメージなんだけど、ナショナリズム思想はそう変わらないのかも知れない。

 最近の経済危機でギリシャの政治家は無能との認識が世界的に広まっているけど、PASOKもNDも上層部は
腐ってもエリート。実は歴史も冷静に見ており、上記キツィキスもヴェレミスも外交顧問になったこともある。これ
はトルコとは関係なくマケドニア問題だが、ウィキリークスでパンガロスが「もうあいつらマケドニア人ってことでい
いじゃん」みたいな発言をしたことが暴露された。ウィキリークスの信憑性がどの程度のものか知らないが、この
パンガロスの様な見方は決して例外ではないと思う。


> マケドニア

 実際トルコとの文化交流はバルカン各国で一番盛んで、オスマン期を題材とした歴史ドラマも何本か共同で作っ
ている。そういえばMuhteşem Yüzyıl でニギャル・カルファ役の人はマケドニアのトルコ系少数民
族の舞台俳優だった。

 後なんか思い出したら明日書くわ。
837オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/06(火) 23:42:53.58 0
>>836
>本当に少数だよ。他に人名を挙げろといわれてもパッと思い浮かばない。
なるほど、そうなんだ。ギリシャにおける反オスマン感情は依然として根強いのね。

>そう。ブルガリアの宗教活動は制限されていたし、共産党が国民をいい意味で「世俗化」した。更に民主化語
>はブルガリア正教は分裂もしたんで、結局現在に至るまでもナショナリズムの担い手としての求心力を得るに
>は至らなかった。
19世紀半ば、オスマン帝国支配下のブルガリアでナショナリズム運動の最初の担い手となったのは、
正教会の人々なのに、共産化されてからはかつてのようなリーダーシップはとれなくなっちゃったのね。
それがブルガリア人の世俗化を促し、反オスマン感情を多少和らげたということなのかな。

>PASOKもNDも上層部は腐ってもエリート。実は歴史も冷静に見ており
へ〜、パンガロスなどギリシャの政治家たちは意外とナショナリズム史観についても冷静に見てるんだ。
ギリシャ政府は結構前からマケドニアの国名について文句言ってたというのに、
政府上層部がこういうこと言うなんて興味深いね。ギリシャにおける強いナショナリズム思想は、
あくまで民衆レベルでの話ということなのかな。それなりのエリート教育を受けた人たちは、
実はオスマン帝国支配についてもそこまで悪いイメージは持ってないのかも知れない。
ただ、国民感情では未だに反オスマン感情が根強いから表に出してないというだけのことで。

それにしても、マケドニアとトルコが共同で作った歴史ドラマというのは興味を引くなぁ。
いつの時代の話を作ってるんだろうか?両国ともに人気の出そうな時代って何だろう?
838世界@名無史さん:2012/03/07(水) 00:12:02.51 0
ギリシャが激怒する1920年代でFAw
839世界@名無史さん:2012/03/07(水) 04:21:54.18 0
ギリシャってマケドニアの国名をどういう風にしたら満足なの?
840オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/07(水) 05:06:21.37 0
>>839
一応、ギリシャはマケドニア旧ユーゴスラビア共和国と名乗らせてるね。
マケドニアのうち旧ユーゴスラビア領部分のみの国家だと言いたいんだと思う。
ギリシャ領内にもマケドニアと呼ばれる地域があるからね。
841世界@名無史さん:2012/03/07(水) 15:35:23.90 0
マケドニアってあのアレキサンダー大王の出身地だから、スラブ人にそれを名乗られちゃ
ギリシャ人が怒るのも当然か・・・(^^;)
842世界@名無史さん:2012/03/07(水) 18:42:56.95 0
でもあのあたりの地名自体が国名マケドニアから一般化してできたんでしょ。
じゃあマケドニア地方にあるスラブ人(およびその他)の国家で
マケドニアって名のるのもしょうがないんでないの?
843世界@名無史さん:2012/03/07(水) 19:11:16.71 0
西洋人も中東人もどいつもこいつもアレクさんのこと好きすぎだろ
844レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/07(水) 20:24:26.51 0
>>837

> それがブルガリア人の世俗化を促し、反オスマン感情を多少和らげたということなのかな。

 いや。党が教会からナショナリズムの求心力としての地位を「強奪」したという意味で、決して反オスマン感情
が緩和されたと言う意味ではない。その間にブルガリア人は教会を「生臭坊主」的な目で見るようになった。
民主化後は教会は再び信者の獲得を目指しナショナリスティックなレトリックも用いていた時期があるが、教会
に対する不信感のおかげで効果出ず、その手の扇動活動はほとんどなくなった。
 
> 政府上層部がこういうこと言うなんて興味深いね。ギリシャにおける強いナショナリズム思想は、
> あくまで民衆レベルでの話ということなのかな。それなりのエリート教育を受けた人たちは、

 警察、教会、更にはマスコミも立派な権力。民衆のみとは限らない。

> ただ、国民感情では未だに反オスマン感情が根強いから表に出してないというだけのことで。

 先ずは選挙でとんでもないことになるw

> それにしても、マケドニアとトルコが共同で作った歴史ドラマというのは興味を引くなぁ。
> いつの時代の話を作ってるんだろうか?両国ともに人気の出そうな時代って何だろう?

 見たことはないが、フィリズ・アフメト(ニギャル・カルファ役の人)が出演したのはElveda Rumeliという作品で、
1890年代にそれまで平和に暮らしていたマケドニア人、トルコ人、アルバニア人がナショナリズムにより引き裂
かれていく趣旨のドラマ。1907年だか08年だかで終了らしい。
 またついでにだけど、トルコではデリ・イブラヒム(例のスルタンの方のイブラヒム)を題材とした演劇が人気なの
だが、フィリズ・アフメトの公式プロフィールにそのデリ・イブラヒムに妾役で出演と書いてあった。同作品を見た
こともないし脚本も読んだことがないからわからないが、イブラヒムは劇中でどんな奇行を見せてくれるか気にな
るw

845レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/07(水) 20:26:24.40 0
>>839-843
 マケドニア問題について語ると長くなり、あくまでギリシャ・マケドニア関係とギリシャ領内のマケドニア人民族
主義に限定して言えばギリシャ人は「マケドニア人」という民族が存在せず、かつマケドニアに「マケドニア」呼称
を独占させないことを前提で呼称を変更させたいとの意図がある。現在のFYROM名称は「両国が同意できる国
名が決定するまで」の暫定国名との扱い。ギリシャ側の提案の中には「中央バルカン」、「上マケドニア」、「ヴァル
ダル・マケドニア」と、名称に「マケドニア」の呼称が入っている場合は形容詞付で、形容詞なしのマケドニアは別
の場所にある(=ギリシャ)かのような印象を与えるものに限られている。
 その一方で、そもそもギリシャは、バルカン戦争後に獲得した領土にいるスラヴ話者正教徒からブルガリアの
影響力を排除する為に彼らを「マケドニア人」と呼び「マケドニア人化」政策を行った経緯がある。というかその政
策以前からも既にギリシャ人はマケドニア地方一般に住んでいるスラヴ語話者を「マケドニア人」と呼んでいて、
実際パヴロス・メラスの書いた手紙にも使われていた。その後、第二次大戦後に一旦マケドニア人と自称するよ
うになったスラヴ語話者を「非国民」扱いして弾圧した為、その多くは内戦で共産軍に味方するようになる。その結
果エスニッククレンジングが行われマケドニア人の多くが旧ユーゴ領内に亡命した。今のマケドニア首相であるグ
ルエフスキもそうしたギリシャ人の虐殺から逃れる為にユーゴに亡命した両親を持つ。ギリシャがここまで「マケ
ドニア」に敏感になるのはこのような虐殺行為をなかったことにしたいと言う背景もある。
 現在のマケドニアの公式史観では現在のマケドニア人と古代のマケドニア人の間には地縁以上のものは認め
ておらず、決して「僭称」している訳ではない。
 
846オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/08(木) 08:18:14.05 0
>>844
>いや。党が教会からナショナリズムの求心力としての地位を「強奪」したという意味で、決して反オスマン感情
>が緩和されたと言う意味ではない
なるほど、今まで教会が持ってたナショナリズムの求心力がなくなっただけで、
決してナショナリズムや反オスマン感情そのものが薄まった訳ではないのか。
ただ、そういうナショナリズム思想の扇動者としての教会の機能がなくなっただけで。

>警察、教会、更にはマスコミも立派な権力。民衆のみとは限らない
こういう多くの層が未だにナショナリズムを支持してるから政治家もそうならざるを得ないんだろうね。
あなたも言ってるように、もしナショナリズムを支持しなかったら選挙で確実に負けるだろうし。

>Elveda Rumeli
やはりこういう近代のナショナリズムでオスマン帝国が解体していく過程に焦点を当てたドラマになるのか。
1890年代頃のマケドニアというとギリシャやブルガリアやセルビアなどの周辺諸国が、
この地域への影響力拡大を狙って積極的に民族政策を展開させてた時期で、
それに対抗するようにマケドニア人意識ができてきたのもこの頃だ。なかなか興味深い時代ではある。

>イブラヒム
オスマン帝国史屈指の狂人だけどトルコでは結構彼に関する話が人気あるのか。
彼の数々の奇行が向こうでも話題性があるとして人気ある要因になってるのかな。
847オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/08(木) 09:06:40.12 0
>>845
へ〜、ギリシャもかつてはマケドニア人という民族概念を使わせてたんだ。
バルカン戦争直後だとまずはブルガリアの影響を失わせることが先決だったということか。
ギリシャ内戦の時に彼らを迫害し始めたのはどういう状況の変化なんだろうか。
それまでの第2次世界大戦中の占領への抵抗運動などを通してギリシャナショナリズムが、
より一層高まったとかそういうことなのかな?後は、隣国のユーゴスラビアの共産主義政権が、
マケドニア人寄りの政策をとってたから、そのせいでギリシャ内戦時に共産主義勢力と、
マケドニア人との繋がりが余計に危惧されたためということもあるかも知れない。
848レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/08(木) 19:50:49.66 0
>>847
> へ〜、ギリシャもかつてはマケドニア人という民族概念を使わせてたんだ。

 ギリシャのマケドニア人政策も当初から二転三転し、スラヴ語話者を直接ギリシャかするのか、マケドニア人
民族意識を有するギリシャ国民にするのか、あるいは一旦マケドニア人化したあとギリシャ化することが目的
なのか一定しない。多分に政策決定者側も統一見解に至らなかったことが原因なのではないかと予想される。
その代表例が1925年に作成された「アーベーツェーダール」という題の小学校用マケドニア語教材。マケドニア
語の文字にラテン文字を採用することによって、一方でギリシャ文字を使わないことによりギリシャ人との区別
化、他方でキリル文字を使わないことによりブルガリアやユーゴからの影響力の遮断を目的としていた。しかし、
最終的にこの教材は不採用となり、ギリシャ側の混乱を表している。

> ギリシャ内戦の時に彼らを迫害し始めたのはどういう状況の変化なんだろうか。

 実はメタクサス時代をどう評価するかが難しいところ。メタクサス体制下でギリシャは「単一民族国家」とされ、
少数民族の言語の使用は禁止、使用した場合は高額の罰金刑、更には少数民族地域で新たにギリシャ語学
校を創設し、全員の出席を義務付けると言った措置をとっている。どこかで聞いたような話だが、実際にマケド
ニア語を使用し逮捕された者が警察によりひまし油を飲まされる等の拷問を受けるという事例もある一方、ギリ
シャ語学校に行かない村があっても警察はこれを放置していたり、マケドニア語による礼拝の継続が黙認され
た教会もあったりする。農村にはギリシャ語を全く解さないマケドニア人も多く、これらの措置は公用語を普及
させ近代化するための必要悪だったかもしれない。後の時代と違い連座制でもなかったし個人的にはこの時
代を「弾圧」とするかどうかはちょっと保留したい。ただ、その後のギリシャが強制同化路線に進むまでのある種
「移行期」とは言えるかも。
849レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/08(木) 19:55:30.54 0
>>847

 他方、マケドニア人側全てがメタクサス体制を必ずし>>848で書いたように評価しているわけではなく、大戦時に
はエデッサを拠点とする「オフラナ」等ブルガリア軍に協力するものもいた。これによりギリシャ人が「民族意識的
にギリシャ化していないスラヴ語話者」全員に敵意を抱く理由となり、ブルガリアに協力したマケドニア人は一部に
過ぎないにもかかわらずギリシャ人は「民族意識上はギリシャ人」以外のスラヴ語話者全員に対する無差別攻撃
を始める。中には大戦時にはギリシャ軍の下で戦ったマケドニア人がナチスの強制収容所に送られ、戦後は政府
により勝手に「独軍協力者」として逮捕され、ギリシャの収容所に送られたとかの悲惨な例もある。ここまで来れ
ば内戦時には政府と敵対する共産党側と共闘するのもある意味必然だったというか。

> より一層高まったとかそういうことなのかな?後は、隣国のユーゴスラビアの共産主義政権が、
> マケドニア人寄りの政策をとってたから、そのせいでギリシャ内戦時に共産主義勢力と、
> マケドニア人との繋がりが余計に危惧されたためということもあるかも知れない。

 それももちろん。
850レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/08(木) 20:07:58.82 0
 まぁ、マケドニア問題もこの時代まで来るとスレチなんで・・・

>>846
 デリ・イブラヒムについては実際にトルコ人と話したことがないから判らないけど、数十年前から繰り返し
題目になっているからやっぱし人気があるんだろうね。これを映画化して海外に輸出・・・は有り得ないかw
851レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/08(木) 20:09:25.65 0
訂正
題目→題材または演目
852オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/08(木) 21:20:02.70 0
>>848-849
なるほど、ギリシャは昔からマケドニア問題に関しては一環した政策をとってなかったのね。
メタクサス体制を通し何人かのマケドニア人に反ギリシャ感情が芽生えてしまい、
第2次世界大戦でブルガリアなどに協力する者が少し出てきてしまったことが、
ギリシャの過剰な反感を煽ったということか。まぁ、スレチだからこれ以上言うのは控えるけど。

>>850
イブラヒムがトルコでそんなに人気あるとは知らなかったなぁ。
狂人だからそれだけネタが豊富ということなのかな。
スレイマン1世などと違って世界的にはマイナーなスルタンだから、
海外への輸出は可能性低いだろうけど。
853世界@名無史さん:2012/03/08(木) 22:08:56.83 0
別に控えなくていいと思いますよ。関連あるし、今はバルカンスレが無くなって
他に適当なスレがあるわけではなし。
854世界@名無史さん:2012/03/08(木) 22:28:17.28 0
> 別に控えなくていいと思いますよ。関連あるし、
1950年代のマケドニアがどうオスマン朝に関係するの?

> 他に適当なスレがあるわけではなし。
ユーゴスレがあるんだからそっちだね。
855世界@名無史さん:2012/03/08(木) 22:31:08.64 0
バルカン戦争でマケドニアとっといて異物あつかいするぐらいなら
ブルガリアにそこ全部やれよと思った。
856レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/09(金) 00:39:57.52 0
>>855
 民族意識が確定していないスラヴ語話者を自陣営に引き入れる為にギリシャとブルガリアの民族主義者が
行った武力闘争はギリシャでは「マケドニア闘争」と呼ばれているけど、これは青年トルコ革命まで続いた。
結果は自らを「ギリシャ人」と申告した者が相対的に多いギリシャの「判定勝ち」。テロの恐怖により已む無く「ギ
リシャ人」宣言しなければならなかった人、ギリシャと言う国に将来性を見出した人、「ギリシャ人」になることによ
り金銭的なメリットがあった、あるいは無知無学の家系が「正教徒=ギリシャ人、ブルガリア人=異端だと総主
教が言っていたから自分はギリシャ人」と特に深い考えもなしにギリシャ人宣言する人もおり、理由は様々。現
実問題としてギリシャの優位はこの様な宗教的に盲目な層がギリシャ人宣言したことだね。そして大多数のギリ
シャ民族主義者にとっては、住民が一旦「ギリシャ人」と宣告したらそれが自由意志でなされたものか脅迫下な
のかに関わらずその居住域はギリシャのもの。
 他方でその様な考え方をせず、極めてリアリスティックな考え方をする政治家もいる。要は仮に住民の本心が
「ギリシャ人」でなかった場合は「人質」としてブルガリアとの「外交カード」になりうるという考え方だね。ヴェニゼ
ロスが国際情勢次第でカヴァラまでの土地をブルガリアとの交渉材料にする用意があったことは比較的有名。
彼らにしてみれば例え取引材料にならなかったとしても経済発展により住民が本心からギリシャに帰属意識を
持ってくれれば儲けものだった。
 話は飛ぶけど、これと同様の発想の下で行われたのが住民交換。ブルガリア、ギリシャ、トルコはそれぞれ
住民交換を行ったけど、いずれの場合も単純に異民族を全て追い払うといった趣旨のものではなく、実は人質と
して使えるよう数世帯の分断家族が出来るようになされている。現代的価値観では残酷だろうけど、当時はそうい
うことが普通に行われていた時代だったとしか言えない。
857レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/09(金) 00:51:08.85 0
訂正
分断家族が出来るようになされている。→+と思う。
858世界@名無史さん:2012/03/09(金) 01:01:36.81 0
>>850−852
イブラヒム主人公のホラー映画にすれば受けると思うw
859世界@名無史さん:2012/03/09(金) 05:40:10.69 0
これは読んでみたいね

新刊、『ボスフォラス海峡のすべて』
2012年03月06日付 Hurriyet紙

サッフェット・エムレ・トングチュ氏は、様々な著書や研究で数々の賞を受賞した歴史学者であり、旅行家でもある。
2010年に『イスタンブルのすべて』でベスト・ツーリズム賞を受賞したが、今回はイギリス人旅行作家である
パット・エール氏との共著で『ボスフォラス海峡のすべて』を出版した。

『ボスポラス海峡のすべて』:今日までのボスフォラス海峡について書かれた本の中でも包括的であり
最新の情報が含まれている。

サフェット・エムレ・トングチュ氏とパット・エール氏は、読者をジャンクルタランからルメリフェネリ、カドゥキョイと
モダからアナドルフェネリまでの計34地点への、わくわくするような旅へといざなってくれる。更に折込地図が巻頭にあり、
行った場所をチェックできるためのチェックボックスも考案されている。

観光客だけではなく、イスタンブルに住んでいる散策好きな人もこの本を手放すことができないだろう。
ボスフォラス海峡の両岸に連なる重要なヤル(別荘)の、他では見ることのできない内部の写真や、それぞれに
興味深く最新な情報を読者は手にしている。
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20120307_101832.html
860オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/09(金) 08:48:07.93 0
>>856
バルカン戦争でギリシャがマケドニアを獲得できたのも前段階としてのマケドニア闘争で、
ギリシャに帰属意識を求める人が多くなったことが影響してるのかな。
この時代のマケドニアは色んな勢力が入り乱れててまさにナショナリズムの混在地だったね。
オスマン帝国も列強も手が付けられない状態だった。まぁ、当時のオスマン帝国や列強は、
まだベルリン体制の維持に気を使ってた頃だと思うから、深く関わらなかったのかも知れないけど。

>住民交換
まるほど。ローザンヌ条約に基づき行なわれた住民交換ではトルコ人とギリシャ人は、
宗教のみで区別して分けられたと良く言われるけど、これはトルコ人とギリシャ人が、
区別しにくかったからだけでなく、分断家族を作りたかったからというのもあるかもね。
お互いにこれ以上余計な行動をしないよう釘を打ち合ったということかな。
861オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/09(金) 09:13:16.86 0
>>858
確かに彼の狂人ぶりを見るにホラーみたいのは合いそうだ。
兄弟争いなどで気に病んでしまったスルタンということで上手くドラマになるし。

>>859
歴史書というよりは旅行書みたいだけど読んでみたいなぁ。
「イスタンブルのすべて」と合わせてどこかにないか探してみるか。
トルコに旅行するならボスポラス海峡のクルーズは絶対外せないね。
862世界@名無史さん:2012/03/09(金) 19:04:31.70 0
トプカプ宮殿にブルー・モスクとアヤ・ソフィアを
見物した後ヒュッレムのハマムに行きたい
シナン作の建築物で観光客が実際に利用できる建物はあれしかないんじゃない?
レストランも併設されているから食事も出来るし
863レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/09(金) 19:51:28.91 0
>>860
> バルカン戦争でギリシャがマケドニアを獲得できたのも前段階としてのマケドニア闘争で、
> ギリシャに帰属意識を求める人が多くなったことが影響してるのかな。

 むしろ戦争の過程の影響の方が大きい。第一次バルカンではブルガリア軍は途中から主目標をイスタンブー
ル占領に変えて、主力をそっち方面に投入している。ここでブルガリア軍のマケドニア占拠は大幅に遅れ、無人
化した現ギリシャ領マケドニアをギリシャ軍が埋めていった。その中にはテッサロニキも含まれているからその影
響は大きい。これじゃあブルガリアがギリシャに対して激怒するのもわかる。


> ローザンヌ条約に基づき行なわれた住民交換ではトルコ人とギリシャ人は、
> 宗教のみで区別して分けられたと良く言われるけど、

 それはその通りで別に問題はない。
 先ず、ローザンヌ条約以前に既に両国では少数民族の殺し合いが始まっており、多数の難民が生じていた。
しかも難民の流れは一向に止まる気配もないため、住民交換条約はこれを追認し法制化する意味もあった。
 また、希・土双方とも同化し得ずかつ忠実な「国民」に成り得ないと思われる民族は完全に追放したかったが、
誰がその様な「好ましからざる少数民族」かを判断する基準となったのが正に宗教。宗教による追放が主たる理
由で、その他の理由は二次的、三次的。当然生まれた土地に残留することを希望する者は多かったが、これら
理由により問答無用で国外追放。
 更にギリシャ・トルコの本音を追求するならばギリシャはユダヤ人やジプシー、トルコはアレウィー教徒やイスタ
ンブールのアルメニア人を追放したかったんだろうけど、さすがにこれは相手国からは断られるから議題にすら
ならなかったのだろう。

> これはトルコ人とギリシャ人が、 区別しにくかったからだけでなく、

 「トルコ人」と「ギリシャ人」全体で見れば服装等を除けば外見上の区別はないし、宗教は戸籍で判断している
から行政側としては外見で判断する必要もない。外見上「ギリシャ人」と「トルコ人」が全く違うなどと言っているの
は世界史板に昔から寄生しているギリシャ厨だけ。外見ならばむしろ地域差の方が大きい。
864オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/09(金) 20:06:25.40 0
>>862
ヒュッレムのハマムは僕も行きたいんだよなぁ。ミマール・スィナンの作品は数あれど、
スレイマニエ・モスクみたいに観光しか出来ないところがほとんどだからね。
実際にハマムとして利用できるというのは貴重だ。
僕が前にトルコ行った時はまだオープン前だったんだよなぁ。
今度、機会があったらまたトルコに行って入ってみたい。
865オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/09(金) 20:25:20.17 0
>>863
つまり、第1次バルカン戦争の段階でギリシャはすでにマケドニア領有を確実に見据え、
戦略を立ててたのに対し、ブルガリアはイスタンブルを占領しオスマン帝国を倒すことに、
主眼を置いてたから、第2次バルカン戦争でブルガリアはマケドニアを失うことになったのかな。
バルカン戦争中の過程の差がその後のマケドニアの帰順に大きく影響したということか。

>ローザンヌ条約
やはり宗教で分けた面が大きいんだね。まぁ、あなたも言うように両者を区別できるのは、
宗教ぐらいしかなかったからね。外見での区別は無理だというのはトルコやギリシャに行って、
実際に両国の人を見た時に良く分かった。ぱっと見じゃトルコ人かギリシャ人かは分からないね。
国民意識を形成する上で宗教の違いはそれだけ重要で、それに邪魔になりそうな要因は、
早々に追い払いたかったということなのかな。でも個人的には、ケマル・アタテュルクの後の世俗主義的で
ナショナリズム旺盛な政策なんかを見てると、宗教じゃなく言語などで分けても良さそうなもんに思える。
それだけ宗教のほうが住民交換の基準として重要だったのはどうしてなんだろう?
866レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/09(金) 21:56:47.23 0
>>865

> 戦略を立ててたのに対し、ブルガリアはイスタンブルを占領しオスマン帝国を倒すことに、
> 主眼を置いてたから、第2次バルカン戦争でブルガリアはマケドニアを失うことになったのかな。

 いや、ブルガリアの場合は場当たり的判断だった。当初はブルガリア軍は東南西と3方面に分けて進み、最
終的にエディルネは他の同盟軍と攻略すればなんとかなると思っていが、序盤戦はブルガリア軍が無双状態
だったので欲が出た。テッサロニキがほぼ無防備だったので西進軍のリラ第7師団を南下させたおかげでヴァ
ルダル方面は丸々セルビアにとられ、しかもテッサロニキにはギリシャ軍より遅れてしまった。更に東進軍も簡
単にエディルネまで辿り着けたので単独イスタンブール入城できるなどと考えて他の戦力も東へ。事前の計画
では同盟軍が短期間にエディルネを攻略すればオスマンを降伏交渉に引っ張り出せると言うもので、そこから
先は想定されていなかった。実際にブルガリア軍にオスマンから使者が来たが、ブルガリアは無視してイスタン
ブールへ。これは完全に事前に計画していた軍事行動と異なっており、チャタルジャの情報もほぼ皆無。案の
定ブルガリア軍はそこでボコボコにされたというのが経緯。
 その点ギリシャはテッサリア地方とテッサロニキという当初の目標からぶれなかった。
867レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/09(金) 21:58:35.71 0
>>865

> 国民意識を形成する上で宗教の違いはそれだけ重要で、それに邪魔になりそうな要因は、
> 早々に追い払いたかったということなのかな。でも個人的には、ケマル・アタテュルクの後の世俗主義的で
> ナショナリズム旺盛な政策なんかを見てると、宗教じゃなく言語などで分けても良さそうなもんに思える。
> それだけ宗教のほうが住民交換の基準として重要だったのはどうしてなんだろう?

 第一次大戦直後で戦争の傷がまだ癒えていなかったからだよ。アナトリアには多数のトルコ語話者正教徒、
同様にギリシャにはギリシャ語話者イスラム教徒がいて、それぞれ宗教に応じた形で戦争に参加していた。トル
コ側にしてもギリシャ側にしても、いくら言語が同じとはいえついこの前まで敵対(しかも「裏切り」)していた相手
を同一民族にできるとは考えていなかった。もちろん例外もあり、カッパドキア系キリスト教徒のうち僅かにケマ
ル軍に賛同したものもいて、独立戦争の功績から彼らは特別に強制創刊されることなくトルコ居住を引き続き許
された。所謂「トルコ正教会」がそれだけど、こんなのは例外中の例外。
 それに、当のギリシャ語話者イスラム教徒やトルコ語話者正教徒自身に民族意識自体未発達だった。この時
代になっても民族意識が未発達なのは例外だと思ってはいけない。現在でもバルカンやアナトリアには民族意
識が曖昧、一様に発展しなかった、もしくは「ない」集団はまだまだいるからね。
868オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/09(金) 22:56:30.23 0
>>866
なるほど、当初の予定よりも上手くいったからつい欲が出てしまったのか。
そこがギリシャとの差になってたのね。こうしてみると確かにブルガリアは場当たり的だ。

>>867
へ〜、第1次世界大戦において彼らは自分の宗教と同じ国について戦ってたのか。
そのせいで戦後になると両国とも彼らを排除する方向で住民交換を行なったという訳か。
彼らの民族意識が未発達だったのも大いに関係あるみたいだし。
交換した先の国で新しい民族意識を植え付けることも難しくないと思われたのかな。
ここら辺の経緯を見てると、民族という概念がいかにして作られたのかが良く分かるね。
869世界@名無史さん:2012/03/10(土) 02:37:53.05 0
>>856-867
バルカン戦争は、オスマン軍将校(後に独立戦争や反帝国主義の戦いを戦うことになる)に
ゲリラ戦の有効性を教えた点でも重要だ。
1930年代に、パレスティナでイギリスの委任統治に対する反乱を指導したサイード・アスは、
バルカン戦争でゲリラ戦の有効性を認識したという。
Michael Provence
「Ottoman Modernity, Colonialism, and Insurgency in the Interwar Arab East」
『International Journal of Middle East Studies』43(2011)p214

>>867-868
> それに、当のギリシャ語話者イスラム教徒やトルコ語話者正教徒自身に民族意識自体未発達だった。この時
>代になっても民族意識が未発達なのは例外だと思ってはいけない。現在でもバルカンやアナトリアには民族意
>識が曖昧、一様に発展しなかった、もしくは「ない」集団はまだまだいるからね。

オスマン領の諸民族の民族意識の発達が遅かったことは、
鈴木董『オスマン帝国の解体―文化世界と国民国家』(ちくま書房、2000年)でも指摘されていたな。
870オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/10(土) 07:00:45.51 0
>>869
>バルカン戦争は、オスマン軍将校(後に独立戦争や反帝国主義の戦いを戦うことになる)に
>ゲリラ戦の有効性を教えた点でも重要だ。
へ〜、そうなんだ。バルカン戦争ではそんなにゲリラ戦術が多く使われてたのね。
バルカン戦争はそういう軍事史的な面でもそれなりに重要な戦争だった訳か。

>オスマン領の諸民族の民族意識の発達が遅かった
多民族国家だったオスマン帝国にとって諸民族の区別をどこでつけるかが難しく、
そこが民族意識の発達の妨げになってたね。それでも19世紀にはバルカン半島で、
ナショナリズムがどうしようもなく広がっちゃって、オスマン帝国も困惑するんだけど。
これらに対抗するためしばしば当時のオスマン帝国の指導者たちは、
あらゆる民族を包括したオスマン人という民族意識を維持しようとしてたね。
それはある程度の成果もあったけど、ナショナリズムの波に完全には抗えなかった。
バルカン半島におけるナショナリズムはセルビアが最も早く、次がギリシャ、
それから結構遅れてブルガリアで勃興したという感じだ。
ブルガリアみたいにオスマン帝国の中心部に地理的に近いようなところだと、
やはり民族意識の覚醒もちょっと遅くなりがちだったみたいだね。
871世界@名無史さん:2012/03/10(土) 07:25:27.31 0
民族意識が発達しなかったのは、宗教別自治とかやってた、
オスマン帝国(と言うかイスラム王朝一般)の政策によるところが大きいかと。
自然と、人々はアイデンティティの拠り所を宗教に求めることになる。
今でも、ユダヤ人やらアッシリア人やらボスニア人やら、
話す言葉よりも信じる宗教によって帰属が決まる「民族」があるだろ。
872オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/10(土) 07:43:25.47 0
>>871
前近代オスマン帝国は民族の違いというものをほとんど意識しなかったからね。
それよりも宗教の違いのほうが重要だった。ミレット制という言葉は最近使われないようで、
今はズィンミー制というのが主流みたいだけど、どっちみち宗教で分けてたことには変わりない。
現在、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにはセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人(ムスリム人)が、
混在してるけど、この3つの民族を区別するものは宗教しかないらしい。
近代にオスマン帝国がギュルハネ勅令やミドハト憲法などで「平等」という概念を唱えた時も、
民族の平等ではなく、宗教の平等を強調してた。ムスリムだろうと非ムスリムだろうと、
オスマン帝国の臣民ならばみな平等であると言った訳だけど、これは裏を返せば、
それまではオスマン帝国の臣民を宗教で区別してたということに他ならないね。
873オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/11(日) 00:08:07.05 0
話は変わるけど、篠原千絵氏の「夢の雫、黄金の鳥籠」の2巻が売ってたので買ってみた。
今回はスレイマン1世がベオグラードに遠征するまでの話で、ヒュッレムとギュルバハルの対立が、
徐々に顕在化してきた感じだ。その一方で、ヒュッレムはまだスレイマン1世よりもイブラヒムに、
気があるみたいなんだけど、作者はいつ頃からヒュッレムとイブラヒムを対立させるつもりなんだろう?

後、作中でヒュッレムが「ギュルバハルも彼女なりにハレムを生き抜こうとしてる」とか言ってて、
ギュルバハルを単純な悪役にしたくない作者の姿勢を感じた。ムスタファやイブラヒムの処刑を、
どう描くつもりなのか気になるところだ。でも、このペースだとそれはかなり先のことになりそうだなぁ。
874世界@名無史さん:2012/03/11(日) 16:11:46.70 0
ギュルバハルが墓穴を掘ってムスタファが処刑されたことになると予想している
あの漫画のギュルバハルは息子のあずかり知らない所で
ムスタファの側近とクーデター計画を練りそうな女だし
875オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/11(日) 17:18:02.39 0
>>874
なるほど、そういう展開も有り得るね。あの漫画ではムスタファはまだ一言もしゃべってなく、
見た目だけだとわりと無垢な子供っぽく見えたんだけど、そういう風に処刑されるとなると、
かなり悲劇的な感じになりそうだなぁ。まぁ史実でもムスタファの処刑はだいぶ悲劇的に、
語られたみたいだから、そのほうがある意味歴史に忠実だとは言えそうだけど。
876世界@名無史さん:2012/03/12(月) 14:34:02.48 0
トルコ人・トルコ文化圏・テュルク諸語圏の歴史
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1331529490/l50
877世界@名無史さん:2012/03/12(月) 19:35:27.39 0
http://www.youtube.com/watch?v=1ZREOdmoHpY&feature=endscreen&NR=1

ムスタファを演じる俳優が子役から成人に変わったね
壮麗なる世紀の後半はムスタファに女を絡ませて
昼ドラ路線を維持するつもりらしい
878世界@名無史さん:2012/03/12(月) 20:00:14.59 0
ブルガリアにも百万点ものオスマン文書が残されてるんですねえ。
今後の研究成果の公開が楽しみ。
ttp://www.tbias2.jp/study/090224RADU.html
879世界@名無史さん:2012/03/14(水) 23:22:04.38 0
>>801>>808-809>>811>>813>>815>>870>>872
>近代にオスマン帝国がギュルハネ勅令やミドハト憲法などで「平等」という概念を唱えた時も、
>民族の平等ではなく、宗教の平等を強調してた。ムスリムだろうと非ムスリムだろうと、
>オスマン帝国の臣民ならばみな平等であると言った訳だけど、これは裏を返せば、
>それまではオスマン帝国の臣民を宗教で区別してたということに他ならないね。

オスマン帝国近代の思想を知るには、たびたび挙げられている
新井政美『オスマン帝国はなぜ崩壊したのか』(青土社、2009年)がよいが、
この本で取りあげられている思想家はトルコ系ムスリムばかりの点が問題だ。
最近出た、藤波伸嘉『オスマン帝国と立憲政―青年トルコ革命における政治、宗教、共同体』
(名古屋大学出版会、2011年)では、アラブ系ムスリム、ギリシア人の帝国議会議員も
トルコ系ムスリム知識人と共通の思想をもっていたことが論じられている。
880オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/15(木) 11:05:41.64 0
>>879
へ〜、そんな本出てたんだ。今度、図書館で探してみるか。
確かに、オスマン帝国を担ったのは決してトルコ人だけではないからね。
アラブ人やギリシャ人などにも、オスマンナショナリズムを維持して、
オスマン帝国の統一を図ろうと考えてた人は当然いるだろうし。
881レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/16(金) 20:31:12.72 0
>>868
> 交換した先の国で新しい民族意識を植え付けることも難しくないと思われたのかな。

ギリシャ側にしてみればそれ程困難にはならなかった。移送された正教徒の大部はギリシャ語話者だが、これは
同時に都市住民でもあったということ。この時代では都市部では既にギリシャ語話者の学校も充実しており、メ
ガリイデアのスローガンも立派に(笑)教えられていた。これは本土のギリシャ語とかけ離れ意思疎通がほぼ不
可能な「方言」を話すポントス方言話者正教徒でも同様だった。これに対し主に農村部出身のトルコ語話者正教
徒だけは予想外で、自分たちを必ずしも民族的な意味で「ギリシャ人」と自覚していたとは言えない。同化とは個
人がその社会に帰属すると言う意識と社会がその個人を構成員と認めるという相互作用。トルコ語話者正教徒の
場合、ギリシャ本土のギリシャ人からしてみれば「敵性言語」の話者ということで差別を受けたため。トルコ語話
者正教徒が後にマケドニア人とほぼ似たような動機で共産軍に参加するケースも見られた。それも個人レベルと
いうよりは家系、あるいは村ベースで。
トルコ側ではあくまで正教徒を同化するよりはイスラム教徒の同化の方が楽程度の認識だったのだろう。この
辺の同化のプロセスについてはトルコでも未だタブー的な雰囲気なのでよくわからないが、移住当初は何らか
の苦労があったことは予想がつく。現在でも充分受け入れられていないのは黒人ギリシャ語話者イスラム教徒
で、彼らがようやく脚光を浴びる様になったのはオバマの訪土が契機と、なんとまぁわかりやすいというか・・・。
882レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/16(金) 20:31:31.35 0
>>870
 ブルガリア人の民族意識覚醒が遅れたのはむしろ宗教と階層という二つの軸から考えたほうが良い。宗教的な
意味で「正教徒=ギリシャ人」という意識から脱することが出来なかったのはブルガリア語話者の大部分が農民
だったから。都市住民のブルガリア語話者は19世紀よりも遥か以前にギリシャ語化しており、ブルガリア語は教
育機関のない農村にほぼ固定されていた。貧困農民であればナショナリズム思想に感化するのが遅れると言う
のは世界の他の地域でも無論のこと。これに加え、正教徒内部の間で「ギリシャ人」との呼称が有産・洗練・教
養のある正教徒との代名詞になったのに対し、「ブルガリア人」は無学な貧困農民と同義となった。これによりブ
ルガリア語話者も「ブルガリア人」と呼ばれることを敬遠する心理的要因にもなっている。更に、ブルガリア正教
が独立を宣言した後は総主教座がブルガリア正教を破門したため、宗教的な感覚しか持ち合わせていない農民
は「異端」への敵意や「破門」の恐怖からより一層「ブルガリア人」を名乗らなくなる。
 地理的要因が関わってくるのはむしろ、いざ民族主義に目覚めた場合に武力解放路線を採るか否かという
選択肢にせまられた場合だけ。四月蜂起は一部の民族主義者を除いて冷ややかに受け止められていたし、民
族主義の目的は必ずしも武装蜂起とは限らない。既に19世紀中盤にはステファン・ボゴリディやガヴリル・クラ
ステヴィッチの様にオスマン帝国内の改革を通じ平和的な自治権獲得という思想もあり、イスタンブールを拠点
としていた両者にとっては始めから武装蜂起など眼中にはなかった。
883オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/16(金) 21:14:41.66 0
>>881
なるほど。やはりトルコ語話者の正教徒やギリシャ語話者のムスリムは交換先で、
それなりの苦労もあったんだろうね。ギリシャの場合はギリシャ語話者が多かったから、
全体としてはそんなに苦労しなかったみたいだけど。黒人ギリシャ語話者ムスリムは、
数的にもそんなに多いとは思えないから、最近になるまで注目されなかったのかな。
それにしても、黒人なのにギリシャ語を話しイスラームを信仰するという不思議さは、
この地域ならではのことだなぁと思えるね。オスマン帝国において黒人奴隷は、
それなりに広まってたようだからギリシャ人と黒人が接触しててもおかしくないけどね。

>>882
なるほど。当時のオスマン帝国では「正教徒=ギリシャ人」というイメージが広まってたうえに、
オスマン帝国支配下のバルカン半島ではギリシャ人が正教徒のエリート的存在だったから、
それらを克服しない限り民族意識の覚醒は難しかったということかな。ブルガリアでの民族運動は、
正教会の独立運動から始まったって聞くし、武装闘争も確かにブルガリアではあまり盛んじゃなかったからね。
セルビアやギリシャが広範な反乱で独立を勝ち得たのに対し、4月蜂起はそんなに支持されなかったそうだし。
正直、オスマン帝国がバタクで虐殺なんかやらなけりゃロシアの介入もなかっただろうから、
もっと平和的にブルガリアの自治獲得が行なわれた可能性もあるかも知れないね。
884レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/16(金) 22:24:10.13 0
>>883
> 全体としてはそんなに苦労しなかったみたいだけど。黒人ギリシャ語話者ムスリムは、
> 数的にもそんなに多いとは思えないから、最近になるまで注目されなかったのかな。

 いや、むしろ政策的に触れられなかった可能性の方が高いと思う。黒人ギリシャ語話者イスラム教徒はイズ
ミールとその近辺に住んでいるが、そんな便利な環境でトルコの学者やジャーナリストから注目されなかった
のはむしろ異常。上に挙げた「トルコ正教会」信者は僅か数世帯と人数的にも全然少ないが注目度は全然上。
「トルコ正教会」そのものはイスタンブールに残ったギリシャ人を引き込み「トルコ国民」にする為に作られたか
ら宣伝する必要はある。逆に、黒人の存在はかつての奴隷制の象徴でもあり、他国のプロパガンダに利用され
る可能性もありあまり触れたくはない。そんな思惑が注目度の差になって現れていると思う。

> それにしても、黒人なのにギリシャ語を話しイスラームを信仰するという不思議さは、
> この地域ならではのことだなぁと思えるね。オスマン帝国において黒人奴隷は、
> それなりに広まってたようだからギリシャ人と黒人が接触しててもおかしくないけどね。

 おかしくないというか、元々クレタ島のギリシャ語話者イスラム教徒に使えていた奴隷の末裔だからこの場合
単純に「ギリシャ人」と言うのはどうかと。旧オスマン領黒人だと他にもモンテネグロのウルツィニにはセルビア語
話者黒人がいるし、かつてはアルバニアのシュコードラにもアルバニア語話者黒人がいたらしいがこちらはもう
混血を繰り返し同化済みみたいだ。

> それらを克服しない限り民族意識の覚醒は難しかったということかな。

 ある程度資産のあるインテリはともかく、農民層に対してはそう。そしてそれがマケドニア問題に続くと。
885オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/16(金) 22:44:14.51 0
>>884
あ〜、確かに黒人は奴隷制の象徴として他国に非難されやすい面はあるかもね。
そういう政治的理由で今まで表沙汰にされにくかったということか。
アルメニア人虐殺みたいな弱みを他国に見せたくないという理由も大きいだろうね。
ていうか、彼らってもともとクレタ島のギリシャ語ムスリムに仕えてた奴隷なのね。
知らなかったよ。オスマン帝国領には他にも黒人がわりと多くいるから、
正直それらの1つだと考えて特に深く認識してなかったorz。そういう意味では、
確かに単純にギリシャ人と言うのは微妙だね。まぁ、そもそもそういう民族の区別が、
はっきりしないのがオスマン帝国の特徴でもあるんだけどね。
ところで、トルコ共和国にはトルコ語話者の黒人も結構いたと思うんだけど、
彼らの場合も注目度は低い状態が長く続いてたのかな?
886レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/16(金) 23:11:32.66 0
>>885
> ところで、トルコ共和国にはトルコ語話者の黒人も結構いたと思うんだけど、
> 彼らの場合も注目度は低い状態が長く続いてたのかな?

そう。2009年頃のオバマ関連でようやく脚光を浴びたと言うか。
887オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/16(金) 23:26:16.96 0
>>886
やはり彼らも同じなんだ。オスマン帝国における黒人奴隷というと、
宦官くらいしか知られてないけどそれだけでもないらしいね。
意外と広範囲に渡って黒人奴隷は使われてたそうだ。
まぁ、アメリカ大陸なんかと比べると全然少ないけど。
そういう黒人奴隷の末裔が最近になって注目され始めたということかな。
888世界@名無史さん:2012/03/17(土) 01:01:43.65 0
>>887
ガンニバル「・・・・・・・・」
889オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/17(土) 01:03:26.72 0
>>888
ガンニバルってトルコじゃどの程度の知名度なんだろう?
どっちかと言うとロシア史の文脈で知られることが多いからね。
元はオスマン帝国の黒人奴隷なんだけど。
890世界@名無史さん:2012/03/17(土) 03:52:08.58 0
CEDD?N DEDEN トルコ軍隊行進曲
891レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/18(日) 00:20:36.35 0
>>887
 宦官がいろいろな意味で目立つのはしょうがないが、実際に非宦官黒人奴隷の末裔がどの程度今のトルコに
いるのかはちょっと知らない。イズミールやイスタンブール以外の地域はどうとか。彼らにしても黒人の存在を通
じてオバマと友好などという政治目的があったから報道されただけであって、利用価値がなくなったらまた忘れら
れる。歴代政権にとって黒人の存在は敢えて隠蔽するほどのものではないが積極的に触れてもらいたくはない
のが本音だろうし。
 アメリカ大陸の黒人奴隷の多さは別格。あっちは逆に非黒人イスラム教徒の移民史がいい加減な扱いの様な
気がする。部分的にはトルコにも非があるのだが。
892オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/18(日) 08:47:09.15 0
>>891
どこかで聞いたことあるなぁ程度の、ソースの曖昧な話なんだけど、
確か19世紀頃のオスマン帝国で宦官以外でも黒人奴隷が、
広く流行したという話を聞いたんだよね。だから、そういう人の子孫が、
少なからずいるかなと思ったんだけど、そこら辺は良く分からないのか。
トルコでも一時的に注目されてるに過ぎないからそんなに研究が進んでる訳でもないだろうし。
893世界@名無史さん:2012/03/18(日) 15:23:09.39 P
トルコ系オスマン帝国って正しい?
894オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/18(日) 16:11:58.65 0
>>893
オスマン帝国がトルコ系国家かということ?最近のオスマン帝国史の概説書は、
どれも、オスマン帝国は決してトルコ人だけの国じゃないということを強調するからね。
多様な民族から成り立ってたのがオスマン帝国なのでトルコ人だけが支配層だった訳でもない。
とは言え、オスマン帝国にトルコ人的な要素が全くなかったかというとそうでもなく、
公用語のオスマン語なんかは基本的にトルコ語だった。近代になるとオスマン帝国のトルコ性を、
より強調する勢力も出てくるしね。ようはオスマン帝国はトルコ系も含めた多様的な国ということ。
895世界@名無史さん:2012/03/18(日) 16:24:03.24 0
「○○系の国」という表現は
住民の大多数が、ある民族であるという意味で使うのが望ましい。
(例:オーストリアはドイツ系の国)
支配している王家または支配層が現代の分類でいう○○人であるという意味で
○○系の国と呼ぶのは、支配層と被支配層の民族が異なる場合にはその呼称にあまり益がない。
(例:スペインは一時期フランス系の王国であった)
オスマン帝国は、支配層は今でいうトルコ人が多いが、
版図の下にいる住民の多くはトルコ人ではなく、また特定の民族が大多数とはいえない。
「トルコ系オスマン帝国」と呼んだところで「トルコ人が支配している帝国」という意味でしかないのなら、
単に「オスマン帝国」でいいだろうというわけだ。これが一つ。

もう一つはオスマン帝国に「トルコ」をつけるのは
オスマン帝国に対してトルコ人だけがファクターとして印象づけられるきらいがある。
オスマン帝国は支配層はトルコ人が多くとも、別の一部分を切り取ればトルコ人以外の民族が大きくかかわっている。
オスマン帝国はスラブ人などの村からガキをさらって、それを育てて使う制度をもっていたし、海軍はギリシャ人に大きく依存した。
後のほうになるとアーヤーンの台頭で中央の統制があまり利かなくなるから
アーヤーン台頭の前と後で、「トルコ人が支配層に多い」という言葉の、「支配」の部分の意味も変わってくる。
こういったことをかんがみて、(いうなれば)「トルコ性」に偏らないというイデオロギーをこめて、
単にオスマン帝国と呼ぶのが普通だ。
896世界@名無史さん:2012/03/18(日) 17:44:58.42 0
現在もサッカーで選手の大半が外国人なのに国名を名乗っているものね。
897世界@名無史さん:2012/03/18(日) 19:07:51.32 0
この研究者氏の方と思われる「近世イスラーム国家のブログ」
ttp://earlymodernstate.cocolog-nifty.com/blog/
最近のオスマン・サファヴィー・ムガールの研究動向や研究会、書籍情報が
充実していて、17、18世紀の社会史に興味のある自分としては嬉しい限り。
研究者には常識だろうけど、普通会社員の自分にとっては最新の研究動向を
知るだけでもわくわくする。

それにしても、サファヴィー朝の日本人研究者が日本で出版せずにドイツで
ドイツ語著書を出版しているのには驚いた。早く電子出版が一般化して、
ドイツ語著書に限らずこのブログで紹介されているペルシア語研究所とかを翻訳機にかけて
読める時代がきて欲しい。
898世界@名無史さん:2012/03/20(火) 17:46:06.48 0
その研究者の方はドイツ語とペルシャ語と多分英語も話せるね。
通訳としても活躍できそうだすごい。
899オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/20(火) 20:13:39.43 0
>>897
こういう研究者たちによる情報を一般にも公開してくれるサイトはありがたいね。
最近は近世イスラーム史に関するこういう研究者の動きが盛んらしいから、
それの一端を知れるというのは嬉しいことだ。
900レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/21(水) 20:29:05.53 0
>>792-793
 今更だけど、Burası Osmanlıは実は題名がBir Zamanlar Osmanlı Kıyamに変更され開始してい
た。時代も当初の予定と異なり隣の国ではタフマスブ2世の治世下になっていたり、登場人物も
一部変更した模様。全80話の予定だけどそこまで行くかどうか。見る予定はないのでこちらが
提供できる情報はこの程度。
901世界@名無史さん:2012/03/21(水) 21:59:51.86 0
http://www.dailymotion.com/video/xoe2fb_bir-zamanlar-osmanly-kyyam-tanytym_shortfilms#

Bir Zamanlar Osmanlı Kıyamで検索してみた。
壮麗なる世紀より戦闘シーンは多そうだけど
主役はアフメット3世の皇女ハディジェのようだね。
女優が宣伝ポスターのセンターに陣取っているし。
902オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/21(水) 23:22:11.60 0
>>900
情報ありがとう。サファヴィー朝がタフマースブ2世の治世になってるということは、
露土戦争後の話ということになるのかな。>>901によるとハディジェが主役みたいだし、
アフメト3世の治世後期であるチューリップ時代を主に取り扱ってるのかも知れない。
戦闘シーンが多めということは、サファヴィー朝末期で混乱期にあったペルシャに、
オスマン帝国が介入した経緯も描かれるだろうね。ナーディル・シャーとか出るかな。
903世界@名無史さん:2012/03/22(木) 20:24:27.43 0
>>900
情報ありがとう。しかし、なんで1711年から変わったんだろうね。
ロシアとの政治経済情勢が絡んでいるのだろうか?制作費獲得の為、ロシアでの
放映とバーターしたとか?今の時期ならイランを悪役とした
ドラマが作りやすいとか?色々想像してしまう。
904世界@名無史さん:2012/03/23(金) 17:01:26.44 0
>>883>>891-892
奴隷に関してだが、
奴隷交易は、タンズィマート期の1847年以来国際条約によって禁じられ、
オスマン帝国における奴隷も消滅に向かっていった。

この時期には、カフカース方面から大量の移民がオスマン帝国に流入してくるが、
カフカース方面からの移民の流入は、白人奴隷調達の問題を解決している。

奴隷制の禁令の効果は地域ごとによって差があり、
アラビア半島などでは20世紀後半まで奴隷制が公式的に存続していた。
905オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/23(金) 17:35:35.04 0
>>904
確かオスマン帝国で奴隷制が廃止されたのって19世紀後半だよね。
今、手元に資料がないのでちょっとウィキペディアで調べたら1876年となってた。
ミドハト憲法の発布された年と同じか。まぁ、この頃にはオスマン帝国に限らず奴隷制は、
世界中で廃止の方向に動いてたからね。むしろオスマン帝国はちょっと遅いほうかな。
あなも言うようにアラビア半島なんかだとかなり最近まで奴隷制残ってた国もあるけど。

19世紀にカフカスから移民が増えたのはどうしてなんだろう?
ロシア帝国の侵入が強まったことでオスマン帝国へ逃げてきたとかそんな感じかな?
元々、オスマン帝国での白人奴隷ってチェルケス人などカフカス出身も多かったから、
カフカスからの移民が増えたことはオスマン帝国の奴隷制にとっても良かったんだろうね。
906世界@名無史さん:2012/03/23(金) 19:42:41.82 0
とうとう900を越えたか。このスレ大変貴重な情報が多いので990くらいになったら保存しなくては。
907レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/24(土) 13:29:44.24 0
>>902-903
 一応ドラマの主眼はイェニチェリの陰謀で、最終的にパトロナ・ハリルの乱になるみたいだ。ペルシャネタはそ
こに至るまでの繋ぎみたいなものかな。
 報道がどこ
まで信用できるか判らないけど、時代設定の変更は歌手のジャンダン・エルチェティンがアフメト3世の母役予
定だったけどドタキャンされたのでヴァリデの死んだ後の世界を描かざるを得なかったからとのこと。ただ、これが
本当なら既にシナリオも完成していたんだしこんなの配役を変えれば済むだけ。実際は何らかの「大人の事情」
でもあるんでしょ。それにしてももうすぐ70の女優(ショライ)をアフメトの娘役とはちょっと・・・。

>>905
 それはカフカース(コーカサス)戦争が原因。普通「カフカース戦争」というと北東カフカースのイマーム・シャミ
ルを思い浮かべるけど、実際に凄惨だったのは北西コーカサスのロシア対チェルケス諸部族連合戦。1839年に
露海軍提督のミハイル・ラザレフがラザレフ要塞を建設してから1864年までに実数不明ながらアディゲだけでも
40〜150万人が国外追放になり、数十万が虐殺されたかオスマンへの輸送途上で死亡したとされている。移住範
囲はバルカンからイスラエルにまで及んでいる。その他のアディゲも武装解除の上シベリアへ強制移住で、全戦
闘行為が終了した時点で数千人しか残らなかったと言われている。例のウビフ人もこの時オスマンに移住したが、
「本国」には一人も残っていない。
 ラザレフ要塞はその後ラザレフスコエという村になり、ソ連時代に行革でソチ市に併合。現在でも生き残ったア
ディゲにより同地に立てられたラザレフ像が破壊されたり、ソチオリンピック反対運動があったりする。チェルケス
人側はこれをジェノサイドと主張しており、グルジア議会も去年正式にジェノサイド認定した。
908オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/03/24(土) 13:54:15.39 0
>>907
へ〜、イェニチェリメインの話になるのか。大人の事情が何なのか気になるけど、
時代設定も悪くなさそうだしそれなりに面白そうな作品になるのかな。

>カフカース(コーカサス)戦争
なるほど。やはりロシア帝国によるカフカスへの侵攻が強まったことが原因なのね。
ロシアのカフカス支配はポーランド支配と並んで、同時代の西欧の知識人から、
しばしばロシアが非難された点だと聞くけど、非難されるだけの影響はあった訳か。
それでロシアの侵攻から逃れたカフカスの人たちがオスマン帝国に移住したのね。
まぁ、オスマン帝国は同じイスラーム圏だったしロシア帝国としばしば敵対してたから、
亡命先としても悪くなかったんだろうね。チェルケス人などは以前からオスマン帝国にいたし。
909世界@名無史さん:2012/03/24(土) 14:29:50.21 0
ロシア・ソビエトの少数民族のほとんどは結局は増加したけど
チェルケス人はロシア内において未だにもとの数に達していないようですな
910世界@名無史さん:2012/03/24(土) 15:04:11.09 0
【東アフリカ】スワヒリ語圏【アラビア半島】
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1332518720/l50
911レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/03/25(日) 02:27:20.37 0
とんでもない間違い書いてた。
>>907の「数千人しか残らなかった」は「数万人」の間違い。どっちにしろ大規模なエスニッククレンジングでは
ある。
912世界@名無史さん:2012/03/25(日) 17:43:08.43 0
60代のBBAがハディジェ皇女役(主演女優)?
913世界@名無史さん:2012/03/30(金) 22:26:54.21 0
914世界@名無史さん:2012/04/03(火) 22:17:33.38 0
イブラヒームすげえ
915世界@名無史さん:2012/04/06(金) 01:10:36.30 0
>>904-905>>907-909
トルコ共和国内に住むカフカース系住民の間には、
カフカースの「本国」では失われてしまった歌謡・舞踊が残っていて、
カフカースの「本国」の住民を感動させたこともあるそうだ。

松本奈穂子「舞踊とアイデンティティの多面性・流動性―コーカサス系トルコ国民を中心に」
前田弘毅編『多様性と可能性のコーカサス―民族紛争を超えて』(北海道大学出版会、2009年)。
916世界@名無史さん:2012/04/06(金) 06:51:19.51 0
イブラヒムの中の人は閉経した老婆とラブシーンも演じるのね・・・。
917オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/04/06(金) 07:44:13.00 0
>>915
へ〜、そうなんだ。チェルケス人なんかはかなり前からオスマン帝国に住んでたから、
昔からのカフカスの伝統を今でも伝えてるということか。今のトルコ共和国って、
アルメニア以外のカフカス諸民族とはそんなに関係は悪くないのかな。
918世界@名無史さん:2012/04/16(月) 18:48:05.52 0
Muhteşem Yüzyıl面白そうだな
メインテーマがかっこいいし
ttp://www.youtube.com/watch?v=O34YMb1N5TA

日本もこういうの放送してほしい
919世界@名無史さん:2012/04/19(木) 18:34:18.23 0
メインテーマ変わったんだ。
このテーマの一節ムスタファの帯剣式で使われていたね。
ムスタファの詠唱に軍隊が呼応しているのがカッコよかった。
920レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/04/19(木) 21:39:48.88 0
やっと規制解除・・・

>>917

>チェルケス人なんかはかなり前からオスマン帝国に住んでたから、
> 昔からのカフカスの伝統を今でも伝えてるということか。

 居住が長ければ伝統保存されると言うわけではない。こういうのは亡命・移住先の政治・社会情勢、コミュニ
ティー内部の力学や受入国側との関係によって左右されるし、そう単純に一般化は出来ない。同じロシアから
の亡命チェルケス系にしても、ヨルダンやレバノンのチェルケス人の方がトルコ内のチェルケス人よりも伝統保
存に成功していたりする。例えばチェルケスはかなり厳格な封建制に基づく身分制が存在していたが、トルコ
ではその様な階級意識は失われる一方ヨルダンでは存続しているらしい。また、言語文化面的においてはトル
コの方では急速に周辺社会に同化されていったがヨルダンではチェルケス諸語による文学も継続した。これ
らのカフカース戦争による難民チェルケス人はまだマシな方で、例えばリビアのチェルケス人はマムルーク起
源であり居住歴は長いが、殆ど周囲に同化しており最早意識としての「チェルケス人」以外は存在していない
とのこと。A.ジャイムハによると更にポーランドにも16世紀よりチェルケス人コミュニティーが存在したが、現在
ではチェルケス人を自称する人は一人しか残っていないそうな。そう考えるとウビフ語の「死滅」はウビフ人の
亡命先が現在のトルコ領だから早まったのかそれとも延命されたのか一概に言えなくなる。

> アルメニア以外のカフカス諸民族とはそんなに関係は悪くないのかな。

 アルメニア人とヤズィディ教徒との関係は悪い。どっちもアルメニア在住だが。
921オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/04/21(土) 18:27:38.77 0
>>920
確かに居住期間が長ければそのぶん同化しやすくなる訳でもあるからね。
一概に単純化はできないか。トルコにいることで逆に同化した面もあるのね。
ヨルダンなどのほうだとチェルケス諸語の文学が残ってたりもするのか。
トルコはナショナリズムの影響で国内のトルコ化を推進したりしてたから、
そのせいでヨルダンとかと比べると同化が進んだという面もあるのかな?

>アルメニア人とヤズィディ教徒との関係は悪い。どっちもアルメニア在住だが。
まぁ、アルメニアは虐殺問題なんかもあるから関係が悪いのも仕方ないね。
トルコとアルメニアが正式に国交を結んだのだってかなり最近だし。
ヤズィディ教もアルメニアに信徒がいるうえ、クルド人とも関係してる宗教だから、
トルコとしてもあまり良い感情は抱いてないということだろうね。
922世界@名無史さん:2012/04/21(土) 21:06:52.29 0
http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20120314_081006.html

今度は国営TVドラマ「古のオスマン帝国、復活」、高値で販売

ドラマでは宮廷生活だけでなく、都市や民衆の生活についても毎回触れられる。

Muhteşem Yüzyılに不足している要素を
Bir Zamanlar Osmanlı Kıyamは取り込んで差別化するつもりだね。
923オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/04/21(土) 21:41:33.63 0
>>922
へ〜、こんなのもやるのか。最近研究が進んでると言われてる中期オスマン帝国の、
民衆社会も取り上げるつもりらしいから期待できそうだ。最近のトルコ共和国では、
オスマン帝国に関するドラマが流行りなのかな。いわゆる時代劇ブームという訳か。
924レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/04/21(土) 23:11:27.46 0
>>921
> トルコはナショナリズムの影響で国内のトルコ化を推進したりしてたから、
> そのせいでヨルダンとかと比べると同化が進んだという面もあるのかな?

 これはかなり大きい。ヨルダンだとチェルケス人には少数民族として公式に承認されていたし、その他にも
同郷人会などの社交クラブなども結成されていたから伝統の継承に優位だった。反面、トルコでは皆一様に
「トルコ国民」であり公的な場で伝統を披露することは難しかった。それに加え、トルコの場合だとチェルケス内
の身分制も同化への誘引として影響しているかもしれない。とるこのチェルケス人には本来のチェルケス社会
での身分制において農奴や零細農民などの下層階級に属する者が多い。そうした人達にしてみれば「トルコ国
民」になることは実態上はともかくも最低でも名目上は他の階級の者と同じ地位になる。反面、ヨルダンでは封建
領主層が相対的に多かったみたいで、実際それらの人はかつての身分に応じた地位を得ており、少なくとも民族
意識は保持される。もちろんこの両国の間でも地域により多少有利・不利の逆転はあるだろうし、チェルケス人
が民族の伝統や意識までも完全に同化した国や虐殺により死滅した国の状況と比べればトルコとヨルダンの差
は「誤差」に過ぎずどちらも「恵まれている」ということになるのだろう。

925レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/04/21(土) 23:11:46.45 0
> ヤズィディ教もアルメニアに信徒がいるうえ、クルド人とも関係してる宗教だから、
> トルコとしてもあまり良い感情は抱いてないということだろうね。

 悪感情は双方向で、このヤズィディ教徒もアナトリアが原住地で第一次大戦中に虐殺から逃れてアルメニア
に流れ着いたとの歴史がある。これは彼らが「クルド人」としての民族意識を獲得する以前の話。ところどころで
見かける記事では現在でも「クルド人」としての意識を有していないあるいは拒絶する人もいるみたいだが、そこ
ら辺の事情は良くわからない。蛇足だけど、Vodka Limonというフランス映画はヤズィディ教徒の村が舞台(監督
はイラク出身のクルド人)。村のところどころにアルメニア人虐殺記念碑の写真や「クルディスタン」と書いてある
チラシ類があった。アルメニア人である未亡人の亡くなった夫の墓には自動小銃を持っている軍服姿の男の絵
が書かれており、これはおそらくナゴルノ・カラバフ紛争で戦死したことを暗示。何気に細かいところで強烈な政
治的演出があったりするw
926オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/04/22(日) 05:21:53.93 0
>>924
やはり、そうなのか。トルコ革命後のトルコ共和国では国内に住む人はみんな「トルコ人」として、
扱おうとしてたからチェルケス人もその影響でヨルダンなんかよりも同化が進んでしまったのね。
それに加えたチェルケスの階級社会も関係してるのか。トルコ共和国ではあくまで名目上は一応、
チェルケス人でも地位は上がるからね。そのせいでチェルケス特有の階級社会が失われたのね。
まぁどちらにしろトルコやヨルダンのチェルケス人はまだ恵まれてるほうなのかな。トルコ共和国も、
チェルケス人との関係はそんなに悪くないみたいだし。ここら辺は同じカフカス出身の民族でも、
アルメニア人に対する関係とはだいぶ違うなぁ。アルメニアの場合は虐殺問題なんかもあるしね。

>>925
ヤズィディ教徒の中にはクルド人としての意識を持ってない人もいるのか。Vodka Limonという映画は、
ちょっと面白そうだなぁ。クルド人の政治感情というものがどういものなのか気になるし。それにしても、
クルド人とアルメニア人の関係も不思議なんだよなぁ。一応どっちも反トルコということで一致してると、
考えて良いように思えるけど、その割りには現在アルメニア人がいるとされる地域とクルディスタンって、
重なってるからね。かつてのバルカン半島諸国のようにお互いのナショナリズムの下で領土争いが、
起きたりしそうな気もしなくはないんだよね。そこら辺、アルメニア人やクルド人はどう思ってるんだろうか?
927レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/04/22(日) 19:13:16.72 0
 あくまで個人的な体験・印象論だから参考程度に留めてもらいたいけど、クルド人と言っても全てが全て「武装
蜂起によるトルコからの分離独立を目標とするPKK支持者」とは限らないんだよね。PKK支持者でも武装闘争
には反対だったり、当然「反トルコ」と言ってもトルコの国境に反対するのか、トルコの民族政策のみに反対する
のか、あるいはトルコ人そのものを嫌うのかも異なるし。だから例えばトルコ共和国の枠内で自治を目標とする者
や親トルコのクルド人にとってはアルメニア人の「大アルメニア主義」との整合性を求める必要はない訳で。最過
激派がどうしても目立ってしまうのはかつてはソ連の支援があったし、現在では欧米のマスコミや「知識人」が美
化し煽っている様に見える。その過激派がアルメニア人との関係をどう捉えているかまではちょっと知らない。
 逆に、アルメニア人側はクルド人内の多様性はなく比較的単純。つまり、殆どのアルメニア人があらゆる意味
で反トルコで領土「変換」要求もしている。PKKのテロに懐疑的なクルド人も多数いたが、アルメニア人でASA
LAの暴力を否定する人は一部のトルコ在住アルメニア人を除き殆どいない。そのアルメニア人側から見たクル
ド人との関係はそう言ったクルド人との「矛盾」を自覚してなのか、やはり「慎重な同盟」と言った感じ。
928オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/04/23(月) 23:39:11.80 0
>>927
まぁ、確かにクルド人の中にも穏健派は結構多いからね。イスタンブールみたいな都心部では、
トルコ人になじんで生活してるクルド人もいるし、PKKをテロ組織だとして批判するクルド人もいる。
トルコ共和国のEU加盟への防波堤としてクルド人問題がヨーロッパで良く取り上げられてたから、
そのせいで反トルコ的な過激派のクルド人ばかりが目立ってるだけだね。現在は欧米でもPKKは、
テロ組織として認可されてるし、トルコ共和国の現政権である公正発展党はわりとクルド人には、
寛容な政策をとってるから、穏健派クルド人のほうが今では勢力としては大きいかも知れないね。

アルメニア人はやはりクルド人との矛盾を自覚して、慎重な同盟関係に留めようとしてるのか。
クルド人の場合はトルコ共和国に住んでる人が多いから現実的な穏健派勢力も多くなるけど、
アルメニア人の場合は独立国家が存在するうえ、最近までトルコ共和国と国交断絶状態だったから、
徹底的な敵対路線に走りやすくなるんだろうね。そうなるとやはりクルド人との関係にも慎重になる訳か。
929世界@名無史さん:2012/04/24(火) 09:13:34.24 0
チェルケス騎兵ってトルコ人やタタール人みたいに騎射するんですか
それともサーベル振り回して突撃するだけ?
930レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/04/24(火) 22:33:15.55 0
 アルメニア人にとって今日は虐殺記念日。

>>928
 EU加盟阻止の口実作りもそうだけど、それ以前に欧米人の頭の中では「トルコ=絶対悪」だとか「分割対象」と
いう100年前のイメージと殆ど変わっておらず、結局は彼らは「オリエンタリズム」。最近読んだ本にメフメド・カ
ヤという人物によるThe Zaza Kurds of Turkeyという本があるが、著者は名前はPKK過激派支持者のクルド人。
この題名の様に「ザザ人=無条件でクルド人」とする言説はそれだけで胡散臭いけどザザ人について書いてあ
る本は希少だから手に取った次第。ただ、やはり同書を読んでみてとんでもない糞だった。著者による「トルコ解
体が民族問題解決」という政治信条を告白することはそれはそれで一つの論点ということで問題ない。ただ、それ
以外の考察等が出鱈目や嘘だらけで読めたもんじゃない。例えば、著者は全てのザザ人はクルド人と明確な民
族意識を有しており、それ以外は全てトルコの工作員などと紹介している。これは民族意識が曖昧と言うザザ人
について書かれたその他の論文・書籍と矛盾しているし、何よりも著者がPKK支持者のクルド人と言うだけでザ
ザ人にとっては「中立」な観察者でないということを著者自身が自覚していない。
931レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/04/24(火) 22:33:43.53 0
そして極めつけは著者がトル
コを「全体主義」と断定していること。この全体主義という概念は20世紀に何度も議論されてきたし、昔の世界史
板でもヒトラーやスターリン関係で論じられている。で、著者はこの「全体主義」という用語を連発しているのだけ
ど「どうせ意味も良くわかっていないまま使っているのだろう」と気にしなかったんだけど、読み進めていくうちにフ
ランコ体制や「権威主義体制」との概念をも持ち出してきた。「権威主義」という概念が「全体主義」と異なる「非民
主主義体制」を説明する為に考案された概念であることから、筆者は明らかに「全体主義」が何か分かっており、
読者にトルコがそのヒトラーやスターリン級の国家と同類であるかの様な印象を与える為に行った文字通りの「確
信犯」。そして多数の識者もトルコは全体主義としていると言いながらもソースはなし。問題はその筆者が滅茶苦
茶であるということでなく、こんな出鱈目しか書けないカヤという人物がノルウェーの大学の教授だと言うこと、しか
もこの本はI.B.Taurisという学術書の出版社からでていること。結局のところ「トルコの分割・解体」を主張するなら
大学も出版社も待ったをかけないと言うところに欧米「インテリ」の偏見の根強さを感じると言うか。
逆に、同じトルコの少数民族政策を批判している書では小島剛一の両著作は必読書というか、読まなければトル
コの少数民族問題について一切語る資格なし。同氏はPKKの支持者に一定の理解を示す一方、PKKが情報操
作や犯罪活動も行っている側面にも触れており、バランスがとれている。残念なことに巷に出回っているトルコの
少数民族関係書籍はほぼ全てカヤの様にPKK過激派=絶対正義、それ以外=絶対悪と言っている。日本人でも
そういった極論に染まっているのがいるからねぇ・・・。
 クルド人の穏健主義は現政権以前に90年代から確実に成長している。セゼン・アクスが少数民族関係で軍部と
言い合ったりした。更に98年のマフスン・クルムズギュルによるÖnce İnsanımは歌詞が主要少数
民族言語で歌われているが、これはそれほどど問題にならなかった。こういった音楽業界内での動きはクルド人
にとって自由化の強烈なメッセージであり、楽観論を醸成していった訳。
932レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/04/24(火) 22:42:58.83 0
>>929
 近現代しかしらないから答えになっていないと思うけど、参考までに。一応結論から言えば騎射はあったけど、
それほど大規模ではなかった。反面、17世紀後半にはすでに歩兵は銃器を使用するようになっていたけど、貴
族階級による騎兵は依然として槍や弓矢を使用。18世紀頃から「弓矢は貴族の特権」の様な風潮が出始め、シ
ンボル的な役割になっていたと言える。19世紀に入ると騎射は有力者師弟の遊びというかスポーツみたいな地
位になった。
933オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/04/24(火) 23:17:50.57 0
>>930-931
未だにヨーロッパの一般的な価値観としてはトルコに対する偏見が根強いということか。
とは言え、現在の欧米ではもはやPKKもテロ組織として認めてるそうだけど。オジャランが、
逮捕された時もアメリカ合衆国の協力があったらしいし。それでも、こういう本を書く人が、
ノルウェーで大学教授になれたりするのか。まぁ、ノルウェーとかはあまりトルコ共和国との、
繋がりもないからね。余計に偏見が残ったままになりやすいという面もあるのかも知れないなぁ。
小島剛一氏の「トルコのもう一つの顔」は確かに良い。実はまだ全部読み切れてないんだけど、
クルド人以外のトルコ共和国の少数民族についてもバランス良く触れてて、良書っぽい感じだ。

トルコ共和国においてPKKが必ずしもクルド人の支持を得られてないことは、
下の記事でもうかがえるね。こういう穏健派クルド人も結構いるという訳か。
http://www.neo-pro.jp/makoto/shinbun/honbun/00104.html
934世界@名無史さん:2012/04/24(火) 23:28:52.17 0
トルコの分割をよしとする人っていうのがいるとすると、
それはクルド人の住むところを切りはなしてイラクとシリアの部分とくっつけて
独立国をたてるべきっていう立場ってことでいいの?
935世界@名無史さん:2012/04/24(火) 23:43:01.87 0
カザフ民族は、モンゴル,中国新彊,カザフスタンに分かれていても
テキトーに交易しているから、それぞれに自治政府があれば
商取引のことは持続可能みたいだ。

何カ国にも分かれて住んでいるのは交易利権があって都合がよいこともある。
朝鮮族が、韓国南部と黒龍江でそれぞれ窓口になって利権持っているようなもの。
クルド人もそういう利権の面が捨てがたいのかよく知らないが、何かしら利権があるでしょう。
936レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/04/25(水) 20:48:56.11 0
>>933
 北欧は伝統的にクルド人、しかも極端なPKK支持者が多い。デンマークにしてもエルドアン訪問の際に気
まずい雰囲気になったことは記憶に新しい。しかも同国の親PKKテレビは反テロ法に違反していたにもかか
わらず放映権の剥奪でなくテレビ局にしてみれば比較的軽度な罰金刑で済んでいる。これももしかしたら親
PKKである欧州の世論に配慮した結果かもしれないし、あるいは同局のスタジオがベルギーにあったりとか
なり複雑な構造だからこれ以上の措置が取れなかった結果かもしれないし、よくわからない。
 スウェーデンではPKKと迷宮入りしたパルメ首相暗殺事件との関与説が有名だが、クルド人以外にもトル
コ出身少数民族の移民は多い。スウェーデンでは各国移民もサッカークラブを有していて、彼らも下部組織
にチームがある。一昨年にはシリアンスカFCというシリア人移民(シリア共和国出身者でなくトルコ出身アラム
語話者シリア人)のチームが一部に昇格したが、移民チームが一部入りするのは同国史上初。シリア系チーム
と言ってもあくまでシリア人優先であってアスレティック・ビルバオみたいな「純血主義」でない。シリアンスカは
「スウェーデン一部でファンの基盤が国際的」と豪語しているが、確かにスウェーデンの他のチームはスウェー
デン人しかファンがいなさそうだw他にもアッシリア人のアッシリスカFFも2部と健闘している。

>>934
そういう人はあくまでトルコ「だけ」が標的だから、イランやシリアはスルーするかむしろ美化する。
937レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/04/25(水) 20:50:55.95 0
>>936
訂正

「スウェーデン一部でファンの基盤が国際的」

「スウェーデン一部でファンの基盤が唯一国際的」
938世界@名無史さん:2012/04/25(水) 22:02:47.67 0
アルメニア人虐殺青年トルコ党はナチスの先駆だ!民族浄化が国是のトルコは分割されて当然!
939世界@名無史さん:2012/04/25(水) 22:04:17.91 0
中央アジアから来寇してきてギリシャ人、アルメニア人、クルド人、ブルガリア人、グルジア人の土地を占領したのがトルコ人。
940世界@名無史さん:2012/04/25(水) 22:10:52.68 0
トルコ語を話せば幸せになれます。
ギリシャ語、アルメニア語、クルド語、ブルガリア語、グルジア語は禁止です。
自前で衛星打ち上げて、マイナー言語のテレビ会社をつくりなさい。
941世界@名無史さん:2012/04/26(木) 00:57:24.26 0
>>935
朝鮮族は脱北したがっている。

しかし隣接国の国境警備隊に発砲される前に
自国の警官に撃たれ国境の河で溺死する。
942世界@名無史さん:2012/04/26(木) 01:05:44.27 0
中国人の朝鮮族にとって、キタは経済価値がなく
韓国人の朝鮮族との交易を望んでいる
943世界@名無史さん:2012/04/26(木) 06:10:33.40 0
>>938−940
死ねよキチガイ
944世界@名無史さん:2012/04/26(木) 09:27:28.91 0
少数言語の存在さえ認めていないトルコは全体主義だろう。中国でさえ初等教育レベル、地方自治体では認めている。
945世界@名無史さん:2012/04/26(木) 09:29:39.85 0
トルコがアナトリアとバルカンに住み着いたのは13世紀?ころだから、元寇の兵士連中に列島を取られたようなものか。
946世界@名無史さん:2012/04/26(木) 09:42:02.80 0
ただし日本、フランスは少数言語集団が逆らう力さえも失われた全体社会と言えるが。
947世界@名無史さん:2012/04/26(木) 11:53:47.76 0
>>944
政治学用語としての全体主義はそんなこととは全然違うんだが。
そもそも少数民族の存在を認めるかや実際に大量虐殺を行ったか
は始めから問題にしていない。だから少数民族言語も認められてい
たスターリン期ソ連も全体主義として扱われているアーレントのモデル
では更に世界規模の膨張主義をも想定に入れているが、地域覇権に
過ぎないトルコや中国など始めから対象外。ヒトラー、スターリンと同時
に太陽言語理論全盛時でデルシム虐殺と同時代人だったアーレントは
なぜトルコを全体主義モデルに含めなかったのかね?
その後のブレジンスキー・モデルでは単一政党のみの存在も条件として
いるが、ケマリズムと単一民族神話を受け入れればそれ以外は自由だっ
たトルコがモデルに合致しないのは当然。リンスは権威主義体制の民主化
モデルにトルコの事例を挙げている。あの北朝鮮ですら法の支配が確立し
ていない故に全体主義扱いではなく、権威主義体制の一類型である「スル
タン型支配」とされているのだよ。
もしそれでもトルコが全体主義と主張するならアーレント、ブレジンスキー、
リンスを批判すべきだがな。
948世界@名無史さん:2012/04/26(木) 12:12:45.49 0
>>946
その「全体社会」という用語は誰の著作からの引用か教えてくれんかね。
パーソンズの「全体社会」は経済・目標・統合・潜在性の機能した社会のこ
となんだが、少数民族や民族問題と関係ない。
949世界@名無史さん:2012/04/26(木) 15:01:48.41 0
トルコ語を話せばウルムチまで、運が良ければ北京まで徒歩で通用します。
950世界@名無史さん:2012/04/26(木) 17:32:40.98 0
>>947
1.荒らし・煽りは放置が基本。
2.いずれの全体主義論も虐殺は問題にしてないが、圧倒的な軍事力で国民を大量虐殺する能力を
条件としている。>>944がPKKの様な組織にも苦戦していたトルコが何故全体主義と考えているのか
不思議な話である。
3.アーレントの個別論とトルコや中国を比較しても意味はない。アーレントは全体主義を欧州資本主
義に発し植民地主義と共産主義に至った先の亜種として全体主義を位置づけており、部分的にしか欧
州でしかなく共産主義の影響も少ないトルコや共産主義思想かもしれないが欧州ではない中国には
全体主義論の適用など不可能。うがった見方をすればアーレントはナチスドイツとスターリンソ連以外
には絶対に適用不能な理念系として全体主義を提唱したともいえる。この姿勢はアーレント以降の全
体主義論者にも継承され、既に確立した市民社会の完全解体も特徴に挙げられている。それだけに
>>944は何故アーレントやその後継者らの意図に反して頑なまでにトルコを全体主義としているのか、
そしてトルコ和国成立以前にオスマンに既に強固な市民社会があったといえるのか説明義務がある。
3.ブレジンスキーに関してはむしろソ連体制批判が主目的であり、アーレントの業績を踏まえつつ経
済活動の完全統制にも言及している。自由貿易を理想とし相互最恵国待遇を義務付けているWTOに
加盟しているトルコはどうみても経済が完全統制下に置かれている国家とは異なる。従って>>944
WTOが実は各国の統制経済を推進していると証明したいのであろう。
4.リンスのワイマール論では全体主義体制はカリスマ支配であるがゆえに短命で1世代が限界として
いる。トルコは共和国宣言から現在に至る90年間全体主義であったとする>>944にはリンスの議論の致
命的欠陥が見え、なおかつケマルやイノニュ以外の指導者もカリスマ的であったと感じているのであろう。
是非リンスを論破してエジェヴィットの様な小物も実は大規模大衆動員能力があったと実証してもらいた
い。
5.むしろAGIL構造は全ての全体社会に内包されているとしたほうがいいのでは?いずれにせよ>>946
は敢えてパーソンズの定義を否定しているのだからその反機能:主義論を詳細に説明して頂きたい。
951世界@名無史さん:2012/04/26(木) 20:04:24.73 0
こじまごういちの「漂流するトルコ」を読んだのだが、
この人キレキャラやなw トルコで理不尽なあつかいを受けたとはいえ、
どのページでもキレてるのが笑えるわw
952世界@名無史さん:2012/04/26(木) 20:25:54.34 0
>>932
ありがとうございます。
953世界@名無史さん:2012/04/26(木) 22:24:58.57 0
>>950
シャピーロの全体主義論についても>>944に答えてもらおうぜ。余計トルコが条件満たせなくなっちゃうけどな!
954世界@名無史さん:2012/04/30(月) 02:41:52.33 0
ギリシャも民族浄化やってるのに、こちらは免罪どころか話題にもならぬ。
955世界@名無史さん:2012/04/30(月) 05:54:46.33 0
956オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/04/30(月) 20:38:53.61 0
>>936
へ〜、北欧ってPKK支持者が多いんだ。北欧の政治って基本的には左寄りだから、
そこら辺が関係してるのかな。それにしても、エルドアンがデンマークに訪問した際、
気まずい雰囲気になってたなんて知らなかったなぁ。エルドアンなんてトルコでは、
どちらかというとクルド人寄りの政治家なのに。それにスウェーデンってトルコ出身の、
少数民族移民が多いのか。言われてみれば、確かにシリアンスカFCは一部だね。
非スウェーデン人移民もチームも結構すごいのか。スレチだけどスウェーデンって、
わりと昔からサッカー強豪国にも関わらず日本じゃあまり知られてるチームがないね。
トルコにはこういう少数民族によるサッカークラブチームってあるのかな?トルコの、
サッカークラブってあまり良く知らないんだよね。小規模なものならありそうだけど。

>>944
全体主義云々の定義については他の人が言ってるので言わないけど、
今のトルコはとりあえずクルド語の存在を認めてるよ。エルドアン首相は、
わりとクルド人に対しては寛容な政治家だしね。かつては無理だったけど、
現在はもうクルド語による放送や出版も認められてるんじゃなかったかな。

>>954
ギリシャでもアルーマニア人(いわゆるヴラフ人)に対する政策なんかは、
普通に問題になってるらしいけどね。確かに、クルド人なんかに比べると、
マイナーだけど、ギリシャでも民族政策が問題になることがない訳じゃない。
957世界@名無史さん:2012/04/30(月) 20:48:47.33 0
>>956
出版・印刷や放送・電波利用は、民間企業としてやる分には別に問題なくなっているわな。
コンテンツ購入者や広告主が維持できないと、成立しない状態でしかない。

中国みたいに国営公社系の印刷工場や電視台が支援してくれるわけではない。
958オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/04/30(月) 21:24:41.40 0
>>957
確かにあくまで民間においてクルド語が使用されるのを許可してるに過ぎないね。
別に国としてクルド語の保護に努めてる訳ではない。クルド語を使いたければ、
勝手に使ってよという感じなのかな。一応、クルド人の存在自体は認めてるけど。
959世界@名無史さん:2012/04/30(月) 21:32:44.81 0
今後クルド語が、電子書籍や携帯電話向けIP放送の特区として
新しいビジネスモデルを開拓するかもしれないので
トルコ政府も検閲はしつつも、育てる気があるような雰囲気があるね。
960世界@名無史さん:2012/05/01(火) 00:45:06.55 0
クルド人はオスマン帝国からはどういう扱いだったの?
961世界@名無史さん:2012/05/01(火) 03:40:32.54 0
>>956
だから>>944みたいな粘着荒らしは触るなって
962オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/05/01(火) 06:37:18.52 0
>>959
クルド語が新しいビジネスモデルとして展開する可能性もあるのか。
どこまで育てる気があるのかは知らないけど、以前と比べれば、
クルド語の社会的地位もそれなりに上がってきたほうなのかな。

>>960
近代になるまでは特にどういう扱いということもなく、多民族国家オスマン帝国を、
構成する民族の1つという程度の認識だったんじゃないかな。オスマン帝国史で、
クルド人の存在感は薄いしね。近代以降もオスマン帝国にとってはクルド人より、
バルカン半島の諸民族のほうが重要性は高かったかな。第1次世界大戦後に、
オスマン帝国から独立しかけたけど、ケマル・アタテュルクがそれを潰したので、
クルド人問題が表面化したという感じだね。問題化したのは20世紀以降だと思う。
963世界@名無史さん:2012/05/01(火) 14:07:09.42 0
クルド人の住んでるところって山じゃん?
昔の軍事力じゃあの地帯を占領し続けたりゲリラを掃討したりってのは大変なわけよ。
だから強引なことをやって反乱を起こされるよりは、
スルタンに従う範囲で部族のおきて守ってやっててくださいっていう放任よ。

964世界@名無史さん:2012/05/01(火) 16:08:39.70 0
>>957
> 出版・印刷や放送・電波利用は、民間企業としてやる分には別に問題なくなっているわな。
> コンテンツ購入者や広告主が維持できないと、成立しない状態でしかない。
>
> 中国みたいに国営公社系の印刷工場や電視台が支援してくれるわけではない。

国営のTRT−6とラジオ6はクルド語専用チャンネルだが。民間が運営していると言うソースは?
965レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/05/01(火) 21:08:28.34 0
>>956

> エルドアンがデンマークに訪問

エルドアンとデンマークの件に関しては上の方で言及した親PKKテレビのRojTVの記者がエルドアン・ラスム
センの共同記者会見に出席を認められたことに抗議してエルドアン側が退席した話。

> スウェーデン

それでも各国・地域からの移民チームでそれなりの結果を出しているのはシリアンスカとアッシリスカだけ。才能
のある移民の子弟はやっぱり有名なチームに所属したがるもの。あのイブラヒモビッチもFBKバルカンという旧
ユーゴ系移民のチームに所属していたけど、結局プロ契約はマルメFF。スウェーデンのリーグは悪い意味で勢
力が均衡している。観客動員も給与もそれほどでもなく、国内リーグで頭角を現した選手は海外流出。だから優
勝チームは常にどこがなってもおかしくない状態。それで欧州主要大会に出場するチームは毎回変わってい
るし簡単に敗退するからチーム名すら覚えられないからかも。

> トルコのサッカー

一部のチームで少数民族が多い都市はシワスとかトラブゾンだけどこれが少数民族を代表するとはちょっと。相
対的に地元の選手を優先しているけど明確なカラーになっているとは思えないし、選手名だけ見ても誰が少数
民族かは判断し難い。トラブゾンの場合、民族よりも地域対立があるからかつてはリゼスポルあたりと白熱して
いたみたいだけど、そのリゼは2部で停滞したままだからもしかしたらトラブゾンが将来的にラズ人を代表する
チーム扱いされる「かも」しれないというか。

> アルーマニア人

「ギリシャ人」との民族意識を有していないアルーマニア人は第二次世界大戦終了後までには完全に民族浄化
され、現在ギリシャ国内には「ギリシャ人」民族意識しかないアルーマニア語話者しか残っていないから少数言
語話者のなかでは問題の少ない方だが。その国内残留組も平和的に同化されているし、アルーマニア関係で今
世紀に入って問題になったのはブレツァス事件のたった一件。ブレツァス氏は逮捕・投獄されたものの結果的に
釈放されたからギリシャ国内の他の少数言語・民族問題関係と比べれば信じられないくらいの「穏便」解決。
966世界@名無史さん:2012/05/01(火) 22:44:09.78 0
時事ネタはある程度しかたないけど基本キチガイホイホイなんでそろそろやめませう
967オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/05/01(火) 23:05:22.10 0
>>964
国営でクルド語の放送も行なわれてるのか。
トルコ政府としてもある程度クルド語を育てる気があるということなのかな。

>>965
デンマークでの記者会見でエルドアンが退席しちゃったのか。よっぽどRojTVが嫌だったのかな。
そんなにトルコ共和国にとっては相手したくないTV局なのか。
後、イブラヒモビッチってマルメに入る前にFBKバルカンというのに入ってたのね。
確かにスウェーデンのリーグは勢力が拮抗してるうえに海外流出も多いからね。
そのせいでどうしても知名度のあるチームというのが生まれにくいのかも知れない。
シリアンスカとアッシリスカぐらいしかそれなりの結果出してる移民チームもないようだし。
一方でトルコでは少数民族を代表してると言えるようなチームは今のところないのか。
トラブゾンスポルはトルコサッカーの中でも結構強いほうだけど、ここも現段階では、
別にラズ人を代表するチームという訳じゃないからね。トルコ人以外の外国人選手も多いし。
それにしても、アルーマニア人はすでに同化がかなり進んでるため、ギリシャにおいては、
そんなに大きな問題にもなってないのか。2001年に起きたブレツァス事件なんかのせいで、
ギリシャではわりと有名な民族問題なのかなと思ってたけど、あれも穏便に解決してたのね。
他にはギリシャじゃアルバニア人も問題になってると聞くけど、これも詳しくは知らないんだよなぁ。
968オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/05/01(火) 23:06:15.91 0
>>966
確かにそうだね。だんだんオスマン帝国とも関係なくなってきててスレチっぽいし。
969レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/05/02(水) 21:59:11.72 0
>>967

> 他にはギリシャじゃアルバニア人も問題になってると聞くけど、これも詳しくは知らないんだよなぁ。

おもいっきし時事問題になるから詳しく書かないが、ギリシャにはアルバニア語話者で明確に「アルバニア人」
としての民族意識を有する文字通りの「アルバニア人」と使用言語はアルバニア語、宗教は正教、民族意識は
ないもしくは「ギリシャ人」であるアルヴァニトの双方がいた(いる)。1944年のチャム人(トスク系アルバニア
人の一派)のエスニッククレンジングは現在でもギリシャ・アルバニア関係に問題として残っている(アルバニア
の公式史観ではこれはジェノサイドとして扱われている)。近年ではアルバニアからの移民に対する差別や警察
による恣意的暴力が日常茶飯事。後者のアルヴァニトの方は大体において平和的に同化したから基本的に問
題はない。ただ、そのアルヴァニトの中でも「アルヴァニトは言語的に強制アルバニア化されそうになった純血
ギリシャ人」という御用学者の「説」を否定し、自分たちの使用している言語がアルバニア語の方言でありアルヴァ
ニトは「ギリシャに南下した原アルバニア語話者の子孫」などといおうものなら極右の暴力、マスコミによる晒し、
そして警察の圧力等の被害に遭った。

この話題もオスマンとは関係ないし時事の範疇なんでこの辺で止めよう。
970世界@名無史さん:2012/05/02(水) 22:34:16.83 0
ギリシア人に焼きを入れるためにオスマンによって兵隊としてギリシャに連れてこられたのがアルバニア系?
971世界@名無史さん:2012/05/02(水) 22:50:26.57 0
トラブゾンスポルはかつて韓日ワールドカップで世界4位に輝いたイ・ウリョンが在籍していた。
トラブゾンスポルが強豪になったのもウリョンが太極戦士の魂をトルコ人に教えたからだろう。
972オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/05/02(水) 23:50:35.44 0
>>969
なるほど、そういう問題が現在でもあるのか。まぁ、スレチだからこれ以上話を広げるのはよすけど。

>>970
もっと前からアルバニア人はギリシャなどにいたんじゃないかな。ムスリムだったこともあり、
アルバニア人はオスマン帝国の支配層や軍部に加わることも結構あったそうだしね。
そういう中でオスマン帝国時代、ギリシャに移動したアルバニア人もいたということじゃないかな。
973世界@名無史さん:2012/05/02(水) 23:56:00.25 0
クルド人やアラブ人はオスマン帝国内部ではあくまでも部外者・外様扱いぽい?
974世界@名無史さん:2012/05/03(木) 00:00:22.32 0
>>970
お前、半年前にアルバニアスレを荒らした奴だろう
975オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/05/03(木) 00:11:14.76 0
>>973
時代にもよるけど、オスマン帝国は基本的にバルカンとアナトリアが国の中心だったから、
確かにクルド人やアラブ人は帝国内部では部外者っぽい感じもなくはなかったかもね。
まぁ、オスマン帝国もイスラーム国家なのでアラブ人を軽視してた訳でもないんだけど。
クルド人は本当に近代になるまではあまりオスマン帝国史にも名前が出てこないので、
マイナーな民族だったんだろうね。あくまで帝国内の一民族にすぎなかったんだと思うよ。
それでも近代になって開かれたオスマン帝国の議会ではクルド人やアラブ人も加わってた。
多民族国家オスマン帝国を構成する一民族として、全くの部外者という訳でもなかったね。
976世界@名無史さん:2012/05/03(木) 02:57:00.40 0
なんで最近になって毛並みの違う連中が来るようになったんだ?どこかで
このスレが晒されたのか?
977レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/05/03(木) 19:20:41.53 0
>>972
いや、アルバニア語話者の拡散はオスマンが現在のギリシャ領本土を制圧する前から起こっている。仮定上は
最古で8世紀とする説もあるが、ツィツィピスはアルヴァニトの使用する方言が本土アルバニア語から分化した
のは14世紀頃とし、ヴァカロプロス(父)の14世紀説を支持している(それ以前に入植したアルバニア語話者は
既に言語的にギリシャ化しているからここでは検証する必要なし)。オスマンが積極的にアルバニア語話者の組
織的な移住・殖民を推奨した場合でも大抵それはキリスト教徒。現在ではアルバニア人=山岳民族の印象が強
いが、中世あたりではトスク系は海洋民族の色彩が濃くオスマンの移民政策はその航海術が目的。現在ギリシャ
領である島嶼部でも充分にアルバニア語話者はいたし、ギリシャ独立戦争においてはイドラ島出身のラスカリナ・
ブブリナやクンドゥリオティス兄弟の名が出てくる。ただしこの3者は民族意識上は「ギリシャ人」だから厳密には
「アルバニア人」とは言えない。アルバニア語話者イスラム教徒の移住となると個人レベルの人事異動以外とな
るとほとんどなく、現ギリシャ領のイスラム教徒アルバニア語話者はその地に定住していたキリスト教徒が後に
改宗したものと考えられるのであって、わざわざイスラム教徒を別の地から連れてきたものではない。その数少
ないアルバニア語話者イスラム教徒の集団移住では対墺戦後のコソヴォやヴァルダルマケドニア地方の例が有
名だが、あれは中期以降の話であるばかりかギリシャ本土ですらない。
978オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/05/03(木) 20:45:44.87 0
>>977
なるほど、オスマン帝国領になる前からすでにアルバニア人の移動は始まってたのか。
14世紀頃にはすでにバルカン半島は混乱してたし、その頃に移住したとしても不思議ではないね。
コソボにおける移住のようにイスラーム化してからアルバニア人が移住した訳ではなく、
移住したキリスト教徒のアルバニア人がオスマン帝国の支配下で後にイスラーム化した訳か。
トスク系アルバニア人なんかは海洋民族だったこともあり、以前から移住も多かったのかな。
979レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/05/03(木) 23:31:55.84 0
多いか少ないかとなるともう憶測の域を出ないからなんとも言えないねぇ。当時の史書に「アルバニア人」と出
ていても果たしてそれがアルバニア語話者なのかどうか確定できない。中世史専門の人なら何か確実性の高
いことでも言えるかもしれないけど。それに「海洋民族」と言ってもあくまで比較の問題。ヴェネツィアから見れ
ばトスク系のやってることは所詮子供の水浴び程度に過ぎないだろうが、バルカンのスラヴ系やオスマンから
見れば専門家集団とも言える存在だったのだろう。そしてなんらかの実績があるからこそ首都近郊や島々に入
植を推奨されたのがスラヴではなく「アルナウト」だったのだろうし。
980オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/05/04(金) 00:09:31.72 0
>>979
そうか、確かなことは分からないのか。まぁ、オスマン帝国は基本的に大陸国家だったから、
そういう人々から見ればトスク系アルバニア人も海洋民族と言えたんだろうね。
確か林佳世子氏の著書だったと思うけど、アルバニア人のイスラーム化が意外と遅かったみたいなことが、
どこかで書かれてた気がするんだよね。そう考えると、ギリシャなどに移住した時期のアルバニア人は、
どちらかと言えばキリスト教徒のほうが多かったように思えるけど、まぁ憶測の域は出てないね。
981オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/05/04(金) 00:15:09.72 0
そろそろ1000に行きそうなので次スレ立てといた。
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/whis/1336058044/
982レリン ◆SOLUNbNOGQ :2012/05/04(金) 00:45:47.24 0
スレ立て乙

その林氏の本は知らないからどういう文脈で言っているのか判断できないけど、改宗が始まったらあっという間
にイスラム教徒になったと思ってはいけないと戒めているだけの様な気がする。いずれにせよ現在の人口比に
比べ改宗に時間がかかったのはどこかと聞かれれば真っ先に思い浮かぶのはコソヴォで、あそこはアルバニ
ア語話者は専らカトリックだった。家長が改宗しても女性はカトリックのままといった事例が17世紀中盤以降に
同地域を視察した修道会派の報告にある。これではオスマンの統計には表れない。しかも表面上はイスラム
教徒だけど実際はカトリックを信仰するララマンと呼ばれる「隠れキリシタン」みたいなのが20世紀までいた。
こういった事情のことを言ってるのかもしれない。
983オツガイ ◆EAbyJft1LY :2012/05/04(金) 00:59:15.62 0
>>982
なるほど、同じ家族の中でも個人で宗教が変わってたり、隠れキリシタンみたいのがいたりするから、
統計にもなかなか表れにくいのか。林佳世子氏のその著書では確かにそのような戒めみたいな感じで、
言ってた気がするけど、その時に確か彼女はオスマン帝国の徴税用の統計を資料として使ってたと思う。
だから、実態はその統計資料に表れてるのよりもイスラーム化はさらに遅かっただろうと言ってたかな。
984世界@名無史さん:2012/05/04(金) 22:00:54.22 0
>>967
中国では、経営破綻した少数民族語衛星放送を国営企業が
買い取って、面倒みているからな。
話者が10万人切ると、なかなか民間ではなりたたんといわれとるな。
985世界@名無史さん:2012/05/04(金) 22:08:09.12 0
よっぽど時事ネタ好きなんだねぇ。歴史の話題に触れられると困るからかな?
986世界@名無史さん:2012/05/04(金) 23:04:03.71 0
時事ネタ云々以前に中国自体がスレ違い。ここまで必死になって中国の優位性
を主張しているのをみると工作員としか思えない。
987世界@名無史さん
優位性というより、検閲の強さが強調されていると思うよ。