即死回避
色々調べてたんだが、前漢から魏に掛けて、尚書(尚書令以下の常置の官職)が
皇帝に侍って権力を握ったこともないし、行政機関化もしてないよなあと思った。
>>3 そういった意味で特定の官職が侍って権力を握ったのは録尚書事だったり中常寺だったりするけど、
皇帝の側に侍って権力を握る例というのはまず外戚・宦官という属性ありきのことで、官職そのものは重要ではないね。
丞相を廃止して三公制に移行した理由の一つが権力の分散にあるから、常置官職でそういうのはまず見えてこない。
それを崩しちゃったのが録尚書事ではあるけど。
あと、尚書の完全な行政機関化は唐以降だぞ。
ただ、後漢以降で尚書が枢機を担っていた証拠自体はある。
光武帝の臣で招聘されて前漢法に基づいて後漢の基礎法令定めた連中はほぼ全員尚書&尚書令の時にその仕事をやってる。
具体的に言うと侯覇、伏湛ら。
馮勤が後漢初の軍隊の軍糧事務を一手に引き受けてた時は給事尚書中郎。
封土事務やってるときも同じ職。
左雄の孝廉法改正の際の官職も尚書令。その時物言いを付けた胡広も尚書僕射。
録尚書事が居ると持ち上がりでそっちの功になるから把握しづらいけど、
常設でないはずの録尚書事が実質の宰相職となってしまっている事態というのは、
三公でも尚書の事に携わらないと枢機が渡ってこないということを示しているわけで。
実際一部の三公なんて伝すらない。
同時に他の官職で活躍していた奴でも三公時の業績はほとんど見えてこないことも多い。
5 :
4:2010/12/12(日) 17:28:42 0
誤解を避けるために
>左雄の孝廉法改正の際の官職も尚書令。その時物言いを付けた胡広も尚書僕射。
は順帝の時である、と付記しておく。
>>4 >あと、尚書の完全な行政機関化は唐以降だぞ。
前スレ899やwikipediaの[[尚書省]]を見てて疑問に思ったので。
尚書は武帝以降、上奏・詔勅の管理や節を奉じた皇帝使者、高官の任免・強制執行を担う。
これが前漢末から光武に掛けて、州郡の業績考課と選挙評価を三公府から奪って
権限を強化し、尚書台として組織化する。
これはいずれも皇帝の権限を直接担当する「枢機」の権能だろう。
この「枢機」自体は、後漢から魏に掛けて保持し続けているように見える。
一時、後漢後期では中常侍以下中官が、魏では侍中中書の劉放・孫資が枢機を独占する
ことがあったが、それはあくまで一時のこと(少なくとも士人派官僚の認識では)であり、
結局は権限奪還に成功している。
一方、皇帝に侍って皇帝の意思自体を左右する存在は、昭帝期から
領尚書事や皇太后・外戚・宦官らが断続的に現れては消えていくこと、これも変わらない。
つまり朝廷内での尚書の立ち位置は、武帝から魏(或いは晋)まで、ほとんど変化していないと
言えるんじゃないか。
と思った。
つーか、だいたい大将軍か、録尚書事兼務の太傅や三公か、
中常侍の誰かが実質上の最高権力者だよね
>>6 誤解を招いたようですまなかった。
○○〜○○ってのはデジタルにその期間は完全にそうなってるという意味ではなくて、
その期間をかけてそうなっていく、という書き方のつもりだった。
尚書令は役割的に、録尚書事が最高権力者の時限定での官房長官みたいなもんじゃね?
いや尚書令は皇帝自身にとっての官房長官。
ただ、皇帝は総理大臣ではなく、官邸にいる時間は短く、
文書が行き来するだけでも多数の壁がある。
政務以外に多くの祭祀を掌る身でもある。
他、幼年や政務への意欲の問題から、皇帝権限を代行したり、意思を左右する人間が
皇帝と尚書令の間に立って権限を握ることが多い。
逆に、光武帝や漢和帝、魏文帝曹丕(それから公王ではあるが曹操)のように、
外戚や中官を用いず自ら政治を見る皇帝は、直接尚書とやり取りすることになるので
尚書台は皇帝官房としての機能を十分に発揮することができる。
要するに尚書令は、その時々で一番権力ある奴の片腕ってことか。
魏だと尚書令から直接三公ってコースもあるから、
実質は臣下の中での実務部門トップになるな。
ところで呉の尚書令はなんで異様に地位が低いんだろうか?
ほぼ、空気なんだけど。歴代の宰相でも尚書令を経験した人は一人もいないし。
顧雍、陳化、厳o。
孫権呉王・帝期の前半辺りまでは、おそらく丞相の補佐くらいの地位で機能している。
しかしその後の孫権は、百官の査閲・考課の権限を中書の孫弘や呂壱に預ける。
孫権の死後は孫峻・孫チンらが宿衛武官出身者が禁中を抑えて専権する。
孫晧の初期も常侍出身の右丞相万ケが即位の功臣として権力を握る。
つまり孫権後期以後は、前漢後期や後漢後期のように、中官が権力を握ったため
尚書の枢機権限は減退し、皇帝の意思を執行するだけのいわゆる「執行機関化」していたのだろう。
ところで万ケの被誅後に孫皓に信任された者って誰なんだろう?
外戚か。
しかし、一族は驕僭したとはあるけど、自分の地位で好き勝手やっただけで
政事を操ったふうじゃないよね。
孫皓って暴君暗君と呼ばれる人間には珍しく、特定の寵臣佞幸を持ってないような気がする。
煬帝もそんな感じだっけか?
>>15 孫皓にも寵臣や佞幸の類はいたけど、
みんな一時的に寵愛されては、それに驕って悪事を働いて、
しばらくは孫皓もそれを許すけど、寵愛が衰えると、その悪事をあげつらわれて殺されるって感じだね。
何定とか陳声とか奚煕が有名かな。
煬帝は寵臣政治で有名。五貴と言われた五人の寵臣が政治を動かしていた。
荊州から降伏した劉表の重臣が、特に重用されたのはなんで?
九卿や尚書や侍中などの魏の中枢に入れてるけど。
他の降伏した勢力の重臣が、大勢重用された例ってあまりないよね?
趙雲が牙門将軍になったのは赤壁前みたいだから、
なにげに中郎将だった張飛より偉くね?
瞬間風速的に張飛より偉くなって、赤壁後に征虜将軍と偏将軍で再び追い抜かれて、
張飛が死ぬまで追い抜けなかったけど。
>>17 袁紹陣営。
袁紹らは降伏してない、というなら、そもそも曹操に対して無傷で降伏した勢力のうち、
劉表陣営ほど人材の質量の揃った軍閥は無いのだから、その構成員が
比較して多く出世するのは自然の成り行きになる。
>>18 劉禅母子を助けた後に昇進してるのだから、普通に考えて赤壁の後。
おそらく劉備が江南を安定させて大々的な論考行賞が行われたとき。
あ、別伝では、從平江南,以為偏將軍,領桂陽太守。
とあるから、牙門将軍はもっとあとの可能性もあるか。
昇進する機会がない気がするが、無理に整合性を取るなら
領留營司馬を任せられたときに「劉備の牙門を領す」という意味で
牙門将軍の号が作られたのかもしれない。
>>19 袁紹陣営敗北後に曹操陣営に仕えた重臣級の人間の中で、
栄達したのってあんまいないんじゃないか?
重臣級はかなり多く死んだか行方不明になったと思うんだが。
>>22 劉ソウは戦ってないんだから敗北後帰順の人間と一緒には出来なくね?
>>22 そりゃ、敗亡によって首脳級が壊滅してるんだから当然。
だから
>袁紹らは降伏してない、というなら、そもそも曹操に対して無傷で降伏した勢力のうち、
>劉表陣営ほど人材の質量の揃った軍閥は無いのだから、その構成員が
>比較して多く出世するのは自然の成り行きになる。
と言った。
それでも、出世して魏の政治に影響を与えた人間の数は旧劉表派より多いけどね。
というか、
降伏後に重用された人数が多いか少ないかの話をしてるのに、
降伏前に死んだ人間の数を持ち出して「だから少ない」って言うのは論理おかしくないか?
>>22 「敗北後」の定義はどこに置いてるの?
官渡?それともギョウ陥落後?袁兄弟死亡後?
州の従事の品秩は?従事の下にはどんな職があるか?
郡の功曹や主簿や督郵や計吏や掾の品秩は?その下にはどんな職があるか?
県の丞や尉の下にはどんな職があるか?
後漢末や三国時代の「州吏」や「郡吏」や「県吏」と言われる人たちの具体的な官職名が気になりました。
郡の役人だったという徐晃とか程普とかが、
>>28のような役職を務めてたとは信じがたい気が…
どうして?
適当に追加。
太守府に属する「郡吏」のうち、部長クラスに当たる幹部は秩百石。河南尹には十二人の百石がいたらしいが、百官志では省略されて詳細はわからない。
三公の条や晋書職官志を参照して適当に検索すると、
功曹史 太守の行う人事・考課をつかさどる。
督郵 郡下諸県の令長以下を監察する。
賊曹史 盗賊事をつかさどる。
戸曹史 戸籍をつかさどる。
決曹史 罪法事をつかさどる。
五官掾 諸曹の事をつかさどる。
辺りが漢代に確認され、百石の可能性が高い。また、倉曹なども置かれていたが倉曹史というものが置かれていたかはよくわからない。他に、
主記室史 録記書をつかさどる。主記史、記室史という職も確認される。
主簿 会計、帳簿をつかさどる。
文学 郡国学(学校)の教官。
などが、高官の可能性が高いだろう。
奏曹史=朝廷への奏議事をつかさどる。
門下督=盗賊を督す。賊曹史との差別は不明
司馬=後漢末に生まれた官かもしれない。兵馬をつかさどる。
失礼。二千石の司馬は六百石だろうから、郡吏ではないか。
今日は赤壁の日
35 :
世界@名無史さん:2010/12/15(水) 12:52:29 0
2000石ってどのくらいの金持ちなん?
>>35 月あたり穀物100石(2700キロ)
百石の現地採用の地方上級公務員の月16石の約6倍
要するに途方も無い高給取り
ところで益州と荊州を保持していた当時の劉備軍ってどんだけ兵力持ってたのかね?
益州の劉備は、夏侯淵を討って漢中を奪い、曹操本軍と互角に戦えるだけの兵力を保有してて、
関羽も曹仁を樊城に押し込めて、なおかつ曹操に遷都を考えさせるだけの脅威とみなされるほどの兵力を保有してる。
実はかなり兵力が潤沢だったのかな?
夏侯淵・曹仁各軍に対しては数的優勢だっただったろうが、
劉備は曹操本軍に対して陽平関防御に徹しており、漢中奪取は持久戦の結果の曹操による自主的包囲によるもの。
関羽の北進も、曹操軍が関西に出て不在の間を突くもの。
劉表や赤壁前の孫権が一州で甲兵十万を擁していたと信じるならば、
当時の劉備もそれに準じるくらいの総兵力で、二戦線に投入されたのは合計五万とか六万とかいう規模じゃなかろうか。
なんかミスったw
「漢中奪取は持久戦の結果の曹操による自主的放棄によるもの。」
劉表は荊州全土を支配して武装兵十万だったが、関羽の支配地域は南郡と武陵と零陵の三郡のみ。
これで五、六万の兵を支えられるだろうか?
劉備本軍と合わせて、ね。
>>40 劉表は荊州全土を支配してたと言える時期なんてかなり限られてるだろ
建安三年に長沙・桂陽・零陵三郡の乱を征し、「南接五領」(五嶺とも。荊交境界の五つの地域・または山嶺)しているから、10年くらいある。
それによって「地方數千里,帶甲十餘萬」となった。
半分でも五万か
でも、荊州最大の人口密集地南陽郡を曹操に、
江夏郡と長沙郡と桂陽郡を孫権に取られてるから半分以下かな?
南陽郡はもはや大郡として機能していないと思う。
その幾分かはベン南と益州が吸収しただろう。
また、入蜀で相当の兵力が西に移っているから、劉備軍の大半は益州に集中していただろうね。
ん?魏の都督荊州諸軍事は、南陽と江夏の一部しか管轄地域が無いけど、
それでも数万の荊州諸軍を動かしてるぞ?
魏の前線では冀州など後背地からの兵役が将軍の麾下に入ってる。
48 :
世界@名無史さん:2010/12/16(木) 01:04:14 0
劉備が益州に持っていった兵力を返したって話はないから、関羽軍を含めれば、荊州で10万ぐらい徴兵してるはず。
北朝鮮並みの徴兵率。
無茶苦茶言い過ぎ。
荊州の半分で10万取れるなら蜀漢は20万は兵力維持してるよ。
50 :
世界@名無史さん:2010/12/16(木) 01:09:36 0
>>49 でも、関羽軍は5万ぐらいいたはずだし、劉備は益州に少なくとも数万持っていってるだろ。
足したら10万いてもおかしくない。
どこから関羽軍五万なんて根拠が?
甘寧伝では、魯粛が江南を急襲したときに対応した関羽が三万を号した。だから実数はもっと少ないことになる。
同じ事件が呉主伝では、劉備が公安まで引き返してきてその先鋒となった関羽が兵力三万。
微妙にニュアンスが違う記述だが、荊州に残された戦力はこの前後の規模だと推定できる。
後漢末三国初辺りの兵力は、赤壁前の號水軍二十万やら濡須攻撃の號歩騎四十萬のように
敵方の喧伝をそのまま載せた過大な数字をちゃんと取り除いてやれば、
冀荊揚益のような大州で帯甲十万ほど、そのうち州外へ遠征できるのは歩騎4〜6万+人夫等=衆十万
ってラインが見えてくるんじゃないか。
司馬懿は246年の時点で荊州方面から呉が出せる遠征軍をおよそ6万人と見積もっているな。
河水を渡った袁紹の兵力が歩卒五萬,騎八千
赤壁前に周瑜が要求したのが精兵五萬(急には集められないという返答)
荊州救援に駆けつけた劉備が兵五萬
夷陵の役で劉備がシ帰から進発させたのが支黨四萬人,馬二三千匹
曹丕や孫権が直接遠征した場合、「衆」ではあるが十万を動員していることが多い。
曹丕時代辺りまでの兵力は大体この内外で収まるだろう。
明らかに逸脱してるのは、周瑜が見積もった曹操軍の「中國人不過十五六萬」くらいか。
56 :
世界@名無史さん:2010/12/16(木) 03:03:29 0
>>52 実数でいけば呂蒙3万・魯粛1万だって怪しいわけで。
劉備が公安にやってくるまでは関羽と呂蒙魯粛の戦線は膠着してたんだから、
関羽は孫権軍と同じぐらいかやや劣る程度の兵力を持ってたのでは。
>>56 怪しいってことはもっと少ないってことか。
呂蒙3万・魯粛1万ってどこに書いてあるんだっけ?
權時住陸口,使魯肅將萬人屯益陽拒羽,
というのは呂蒙伝に見つけた
>>57 呉主伝
是歳劉備定蜀〜中略〜權大怒,
乃遣呂蒙督鮮于丹、徐忠、孫規等兵二萬取長沙、零陵、桂陽三郡,
使魯肅以萬人屯巴丘[一]以禦關羽.權住陸口,為諸軍節度.蒙到,
ただし呂蒙の収めた諸軍は兵に万だが
二が変換されてないw
兵に万ってw
締まりのない文章になってしまった。
孫権は交州に進出して、士燮が服従した時に、士燮を左将軍にしてるけど、この時の孫権は自傷車騎将軍。
配下に左将軍なんか持てるような地位とも思えないんだけど、
孫権はどういう権限で士燮を左将軍にしたのだろう?
呉志各伝と先主伝の推移を読むと、いずれも
劉備が公安に到着してから、関羽を使わして益陽まで進出させて、魯粛・呂蒙と対峙することができた、という書き方だね。
呉主伝の流れを信じるならば、交戦の初期、魯粛は一万を率いて巴丘(南郡と長沙の境界付近)に屯して、関羽を防御している。
ここで南下を防いでいたから、呂蒙らが分遣して二郡各城を短期で降伏させることができただろう。
しかし、劉備が公安まで到着し、関羽が「將三萬兵」「號有三萬人」になると、魯粛の防御線は益陽(長沙中部)まで後退する。
この時、まだ零陵太守カク普が孤軍奮闘して持ち堪えていたが、孫権は呂蒙らに攻城を中止して魯粛を救うよう命じる。
呂蒙は一計を講じてカク普を降伏させた後取って返し、益陽で関羽を拒むことになる。
この戦端が開かれる前に、曹操が漢中へ侵攻したという急報が入り、和議の運びとなる。
となると、江北関羽軍単独では魯粛一万を郡界で引き付けつつ同時に三郡の救援へ向かう、という兵力を有していなかったことになる。
勿論、北への防御に相当の兵力を残しているだろうから、関羽軍総勢一万、なんてことは言わないけど。
>>61 配下扱いではないってこと。
まあ、じゃあ一般の将軍は「配下」なのか、っていうと微妙な問題だけど。
>>61 劉備に推挙してもらったんじゃないかと。孫権も劉備の推挙で車騎将軍・徐州牧になってるし。
と思ったら劉備は219年に大司馬になるまで左将軍のまんまだから、劉備ではなさそうだ。
215年に劉備と孫権が対立した時に「劉備が左将軍なんて認めません。士燮さんこそふさわしい」
みたいな感じで孫権が(形式的に)献帝に推挙して任じたのかも。
士燮は孫権にとっては実は格下の同盟者だったけど、
呉書ではその辺が都合良くスルーされてるってことかねえ?
>>65 そもそもそのことを特にスルーしてなくね?
節度を奉じ承る、という緩い書き方であって、帰服とか降服のような「服」とか、或いは「順」のような字を使ってないからね。
>>64 この時期は全ての高官の任命は漢帝へ推挙という形を取っただろうけど、
推挙自体は地位の上下と関係無い。
そうでなかったら左将軍劉備が孫権を車騎将軍に推挙とかできないでしょ。
左将軍劉備が劉璋を鎮西大将軍に推挙し、
振威将軍劉璋が劉備を大司馬・司隷校尉に推挙するなんて事もあるからな。
>>61 三国志を読むと、左将軍は210年とは限らない。おそらくその後のことであり、次の記載が220年なので、左将軍は孫権が票騎将軍とされた219年以降のことだろう
車騎が駄目なら驃騎でも駄目じゃないか?
驃騎は車騎より席次が上ってだけだ。
この時代、車騎将軍が銀印青綬の可能性はあるが…
王にならないと、四方将軍は置けないのが当時の慣習みたいだけど、
孫権が呉王になった220年には、諸葛瑾が左将軍に任命されてるんだよね
しかし、当時の魏の左将軍は張コウ
士燮は孫権が漢の驃騎将軍になった時に、
同時に空席だった魏か漢の左将軍に推挙してもらったのかもしれん
いや普通に漢の左将軍だろう。そのつもりで話が流れてると思ったが。
>王にならないと、四方将軍は置けないのが当時の慣習
61はそこで躓いてたのか。
その後の衛将軍というのが、士燮が呉王の臣に入ったときの地位だろうね。
魏王曹丕が大将軍や車騎将軍や衛将軍を置いてるから、
呉王孫権も衛将軍を独自で置くこともできるんだろうな
76 :
世界@名無史さん:2010/12/17(金) 22:00:48 0
蜀漢だって将軍位を置いてるんだから、同時代に左将軍3人いたわけで。
秩禄ばっかりがインフレして民が増税に苦しむと。
呉建国前でも国が三つあるんだから、同じ官が三つあっても何もおかしくないよ。
それに、王廷の左右将軍や卿が漢王朝のそれらと同じ秩録の可能性は低い。
侯王の卿クラスなら後漢末でもゴロゴロいたわけで(曹操が建安11年に潰しまくったが)
そもそも群雄配下の将軍たちに正規の秩禄が支払われていたかどうかは怪しいし。
士燮ならなおさら自分の支配領域の公的財産と私的財産が一体化していただろう。
士燮とか公孫一族とかは、高位の将軍だけど、
絶対中央から俸禄もらったりしてないよねw
貢ぐほど持ってるからわざわざ貰う必要はない
80 :
世界@名無史さん:2010/12/18(土) 15:51:42 0
士燮なんかうまく孫権とつきあいましたな。
結局はつぶされちゃったけど
雍州刺史王経は姜維と戦って、死者数万を出す惨敗した後、
中央に召還されて司隷校尉や尚書を歴任したけど、
大敗の責任者なのに、罰を受けるどころかかえって昇進してるのが不可解。
普通は降格か免官か、転任ってところでは無いかと思うんだけど。
どんな魔術使って、敗戦責任を逃れた上に昇格まで勝ち取ったんだか。
むしろ、敗戦で出世台無しって人間の方が少なくね?
一時左遷ってくらいなら少しはあるけど。
この時代の軍法では、負けたら将軍は免職とか死罪とかになるっぽいけど、
実際には適用される事は少なかったのか?
>>81 敗戦後は軍事コースからはずされてるし、それ以前に統治能力は発揮してるからそんなもんでしょ
大敗はしたものの、それから援軍が来るまで何とか粘ってるし決定的な失点だけはなんとか防いでる
>>83 死罪は敵前逃亡に対してとかだろ
ただ、敗戦するだけなら免官か官を遷されるか程度
重大な敗戦なら他に何らかの罰則もあるかもしれないが
一々ただの敗戦如きで死罪にしてたら人材プールが即座に枯渇するっての
>>84 王経の敗戦って、ケ艾が「軍は破れ将は殺され、米倉は空で住民は流浪し、殆ど危機滅亡の状態だ」と言ったぐらいだから、
相当重大なものだと思われるが
86 :
世界@名無史さん:2010/12/18(土) 22:03:42 0
王経だけにOKだったんです。
曹操が203年に「自軍の兵を損なった者はその罪を問い、自軍の利益を損なった者は官職爵位を没収する」
みたいな感じの布令を出してるね。
88 :
世界@名無史さん:2010/12/18(土) 22:13:20 0
王経って実は二人いたんですよ。
敗戦の責任をとって処刑されたのと 後年に司馬氏に処刑された人。
昔のことですから同姓同名は混同されたんです。
よく正史の文脈を読み解くと二人いたってことがわかります。
どこの宋江だよw
>>85 といっても、雍涼軍の主力でさえない部隊だよ。
しかも敗戦後1万も残存して、狄道篭城に耐えている。
魏呉の戦いでは互いに正面戦線の主力が派手に勝ったり負けたりしてるが、
直接責任を取らされた将帥って両国に殆ど無いだろう。
対姜維でも三県陥落の憂き目にあった郭淮だが、普通に死後大将軍を追贈されている。
このくらいの局地的な勝ち負けでは評価に傷はつかないようだ。
これが淮南や隴西を完全に失う事態だったら、別だろうけど。
>>85 でも失地してないだろ?
結局なんだかんだで失地だけは免れたから軍人としての栄達の道は閉ざされたけど
出世そのものが無くなったわけじゃなかったってことだ
当時は軍人で功績挙げて一気に昇進も夢じゃない状況だったから
失ったものは大きいと思うよ
>>91 軍で功績あげて栄達よりも、尚書とか皇帝の側近やって三公などを目指す方が堅実だし当時の感覚でステージが高いだろ
>>92 それは微妙なところだね。
王経は学の無い下っ端武官でうだうだやってた人間じゃない。
刺史として地方に派遣され、功績を積んで将軍、都督まで昇って最後に三公で締めくくる、というのは
当時栄えある栄達コースだっただろうから。
そもそも、トウ西の敗戦で、王経のその都督型出世コースが絶たれたのかどうかってのも
よくわからないんだよな。途中で誅殺されてしまったから。
刺史→将軍→都督→三公コースより、
尚書・侍中・近衛武官→尚書令or九卿→三公コースの方が花形だと思うが。
魏後期に、曹氏や司馬氏のような権門以外で、その花形コースを辿った人間というと誰?
>>95 曹芳時代になってからの都督経験者以外の三公なら、
司隷校尉→司空崔林、領軍将軍→太尉蒋済、太常→司空高柔、光禄勲→司空鄭沖、
尚書左僕射→司空盧毓、尚書右僕射→司空王観、司隷校尉→司空王祥がいる。
魏の尚書は、中官を使わず積極的に政治を視た曹丕の時代には花形だったんだろう。
陳羣・陳矯という大官を出している。
しかし曹叡以後、中官・内戚・権臣らが政事を握ったために単独では存在感を失い、
歴代尚書令の薛悌、和洽、裴潜といずれも卿で終わっている。
しかし、曹爽と結びついた丁謐らや、
司馬一党として長く尚書令を兼任した司馬孚のように、権臣と強く結びつくことで尚書事を押さえ、
群臣や皇帝自身を押さえ込むのに大きな役割を果たしただろう人間は目に付く。
特に、司馬孚下の尚書にはのちに晋の高官になった人間がちらほら存在する。
王経はまさにこの時期の尚書であるわけだが。難しいところだね。
>>96 早々に九卿になってる人間ってのは、格は高いけど朝廷の実権から離れてしまった人間だよ。
そういう「安全コース」の方がいいというのは一つの価値観だろうけど、
ステータスが高いというのはどうだろう。
九卿は全国の刺史や太守が官僚人生総仕上げに狙うような地位で、
競争率が高いだろうから堅実とも言いがたいだろうし。
蒋済は影響力の強い重臣だったろうが、彼も内外軍事に精通した都督経験者。
盧毓・王観・王詳というのは、
>>97の下段で挙げた司馬氏の党与として独裁を支えた者達だね。
特に僕射は三公を兼ねる尚書令司馬孚の下で実務を執る者として重んじられた気配がある。
司馬氏に組することが前提になるのだが、王経はそれを拒否した。
あ、ごめん。蒋済は曹仁に代わったと記述があるが、
都督になったとは書いてなかった。
曹丕後期・曹叡前期はほぼ東中郎将が対呉都督をやっていたから蒋済もそうだと勘違いした。
>>99 え?蒋済は曹仁直属の兵の指揮権を引き継いだだけで、
都督の権限までは引き継いでないぞ?
文帝時代後期から明帝時代前期に欠けての揚州方面の都督は、
征東将軍(征東大将軍・大司馬)曹休→征東将軍満寵で、いずれも東中郎将では無い。
魏において中郎将が都督を務めたのは、都督河北諸軍事の北中郎将呉質だけ。
え? ってなんだよ。訂正してるのにわざとらしいな。
で、確かに重ねて悪かったよ。中郎将で都督になった例は思い込んでいたより少なかった。
他には桓範の征虜將軍、東中郎將,使持節都督青、徐諸軍事くらいか。
四征のような高位将軍が都督になるのが慣習になる前、
一般の将軍や四中郎将が都督に起用されていた、とくらいしか言えないか。
>>100 桓範の「遷征虜将軍、東中郎将、都督青徐諸軍事」は?
まあ将軍と中郎将を前後逆に書いただけもしれんけど。
103 :
世界@名無史さん:2010/12/19(日) 21:22:54 0
征虜将軍は、雑号将軍の中ではかなりの高位だし、
記述する順番を間違えただけで東中郎将から征虜将軍に昇進したんじゃ。
桓範と同じ中郎将都督の呉質も北中郎将から振威将軍に昇進してるし。
品秩三品のことを言ってるなら、
東西南北中郎将も四品の高位だよ。
それに、都督ではないが曹彰、曹植や護匈奴中郎将の例を見ると、
中郎将と将軍号を同時に持っていたり、将軍が行官だったりしてもおかしくはない。
加征虜將軍、東中郎將,使持節都督青、徐諸軍事
行征虜將軍、東中郎將,使持節都督青、徐諸軍事
東中郎將,使持節都督青、徐諸軍事,拜征虜將軍,都督諸軍事故如
東中郎將,遷征虜將軍,使持節都督青、徐諸軍事
記述の間違いの可能性をいうなら色々考えられるね。
呉の四姓のうち、朱氏だけが朱桓と朱拠の二人以前の系譜が不明なんだけど、
実は朱氏だけが寒門だったんかな?
まあ、その四姓というのは晋代に陸議が孫呉の気風を称揚して
呉県には四つの名家がいた、というものだから、
後漢以前には朝廷に出仕して高位に就かなかった家がいても不思議は無いのかもしれない。
ただ一応、呉県朱氏というと前漢に朱買臣という人物がいる。
40過ぎまで自ら薪を負って生活をしていて、上計吏の卒として長安に上ったのをきっかけに
取り立てられて侍中まで昇り、東越を破る功績を挙げて丞相長史となった。
不仲であった御史大夫張湯の告発と引き換えに自分も死を賜ったが、
その子は右扶風まで昇ったから富貴の一族となったのだろう。
その血統が朱桓まで続いていたのかはもちろんわからない。
家柄で行けば、陸氏以外の四姓より、
父世代に漢の尚書左丞、揚州別駕、会稽東部都尉を歴任した人物がいる全氏の方がずっと有力だよな。
>>108 後漢で言う右扶風になってる朱買臣の方が上かな?
荘助が何故か武帝の計らいで会稽太守、その後侍中になってるから厳氏が一番トップかも知れんが。
いや、全氏は銭塘県。
呉趨行は「屬城みな士有り,呉邑最多と為す。八族未足侈,四姓實名家」と吟じていて、
「城」=「邑」=「県城」のことだから、四姓は呉県の名家のことになる。
>>107 朱買臣は息子も太守まで上ってたはずだから続いてたんじゃないかな。
>>111 なんせ300年も前の話だよ。どこまで続いたかなんてわからない。
呉で朱の姓を名乗る豪族であるからには、朱桓らも系譜上は「朱買臣の子孫なり」と
名乗っていた可能性は高いと思うが、後漢・三国の政界ではそんなものは役に立たない。
直近の父祖や親族が築いた縁故名声が「名家」の地位保証である時代だから。
朱桓らの祖先の記述がないってことは、長年県内豪族程度で収まる身分だった可能性を示している。
もちろん、単なる記述漏れで忘れられてしまった可能性もあるけど。
朱拠は朱異の「族父」って事しか書いてなくて、朱桓と朱拠の続柄がイマイチわかんないだけど。誰か教えてくれまいか?
同じ宗族で、代数カウント的に同世代。
多分ここまでしか出てこないと思う。
>>113 朱拠は朱異の族父じゃなくて従父じゃね?
自分も疑問に思ってまとめたことがある。従父の用例を調べてみると、高柔伝の注釈で出てくる。
陳寿が高幹は高柔の従弟とするのに対し、裴松之が高氏の系図を引用して高幹は高柔の従父だと主張している。
裴注によると高幹の又従兄弟が高靖という人物で、高柔はこの高靖の子。すると高柔から見て高幹は自分の親父の又従兄弟となる。
そして裴松之は「高幹は高柔の従兄弟ではなく、従父だ」とコメントしてる。つまり「従父」とは父の又従兄弟にあたる人物を指すのでは?
つーことで朱異の従父朱拠とはすなわち、朱桓の又従兄弟ではないかと。
>>116 全柔が中央ではどの人脈に属してたか不明だけど、
名士・豪族とのコネが無くて、中央の権力者とのコネで出世した濁流系の官僚だったら、
董卓の乱後に地方でそれなりの地位を保つ事は難しいと思う。
別駕から会稽東部都尉、
州の主席補佐から州軍事の高級指揮官クラスだもんな
霊帝期の会稽東部都尉で数学者、暦学者の劉洪が、
包囲網真っ最中に中央に呼び出されて山陽太守に転出したのと入れ替わりかな?
帰官して、別駕になって、東部都尉になって、の時間差があるからもっと後じゃないか。
詔書が揚州まで出せた時期と考えるなら、劉ヨウ時代じゃないかと思うんだが、
献帝即位後のこの時期だけでも周乾、陳温、劉ヨウと三人も刺史がいたんだな。
袁紹の并州平定に関する記録が全く無い。
いつ誰が、どの勢力と戦って并州を平定したのか分からない。
青州の袁譚みたいに、高幹が并州を平定したから、刺史に抜擢されたのかな?
>>121 平定といっても黒山賊や匈奴は健在
袁紹は敗北者だから資料が残ってないってのもあるだろうが特に記述がないってことは大きな戦もなく現地の有力豪族を利や権威で取り込んでいったんじゃないだろうか
建安10年の高幹反乱に呼応した連中は曹操の介入で袁紹に保証された既得権を奪われるのを嫌がったからとか
高幹の并州刺使は身内に軍権を持たせて袁紹の権力を固めるためだろう。
後漢書とか見てると、反董卓連合軍決起の頃に、并州にも何人か郡太守がいたみたいね。
こいつらが袁紹の并州平定まで生きてたのかどうか不明だけど。
124 :
世界@名無史さん:2010/12/25(土) 00:45:03 0
りょふに黒山賊を平定させようとしたんだっけ?
>>122 黒山賊の行動範囲は常山・趙・中山・上党・河内で、并州に属するのは上党だけ。
司隷の河内以外は全部冀州。董卓の乱以降に黒山賊が軍事行動を起こしてるのもほとんど冀州。
黒山賊は冀州が本拠の勢力と考えた方がいい。
126 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 11:20:26 0
>>88 胡済も二人いたのかな?
諸葛亮に信頼された胡済と、段谷の戦いの敗戦の原因作った胡済。
なんか二人いた感じがするのだが・・・・・・
胡済は同一人物じゃないかなぁ。ほぼ同時期に督漢中務めてたのに同姓同名の別人ってちょっと無理がある気がする。
128 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 17:16:41 0
孟達や張南とかも、
同姓同名の人いたいよね。
劉岱なんて、字まで同じのが二人いる。
孟達2人いたっけ?
王朗なら知ってるが
二人の孟達や劉岱が同一人物だったら明らかにおかしいが、
督漢中を経て「至右驃騎將軍」の胡済がその途中で鎮西大将軍として北伐に参加しているのは
何もおかしくないので、現有史料からは同一人物と見たほうがよい。
というか、一方は鎮西大将軍として出征し合流予定に遅れたという乏しい記述しかないのに、
どうして「二人いた感じ」と感じられたのかの方が興味ある。
132 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 20:23:01 0
劉巴も二人いるよな。
特にこの時期、姓名一字づつの人間が圧倒的に多いから
同姓同名なだけならたくさんいても不思議じゃないが、
それがどうかした?
134 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 20:36:21 0
歴史書に出てくるのは面白いでしょ。
歴史に名を残す同姓同名。なんてロマンがあるんだ!
>>131 「諸葛亮がマンセーしてた胡偉度と、段谷の戦犯の胡済が同一人物なわけないやい」って言う、
諸葛亮無謬論者なんだろ?
136 :
世界@名無史さん:2010/12/27(月) 21:06:42 0
当時としては、
天候や敵の守備で行軍が遅れても、
将軍の責任になったのかな?
明らかにサボタージュの場合は別だろうけど。
敵の守備隊に阻まれて行軍できないで遅れたなんて
こともありそうだけどね。
何か、姜維も敵が備えているところを無理に目的地に
向かったので惨敗した感じだしね。結局は作戦がばれてて、
兵力が分断されての惨敗という感じじゃないの?
>>136 前漢は将軍の責任になっていた。
李広とかもそれで罰くらってる。
ただ、三国時代にも全く同じだったかどうか。
>>136 三国時代は良く分からないけど、漢の李広が戦闘に間に合わなくて、
部下が衛青の詰問を受けた時に自殺したな。
>>136 確か初期の作戦だと
・姜維はキ山へ、胡済は上ケイへ進軍
・姜維はキ山周辺にケ艾を誘き寄せて野戦で撃破
・敗走するケ艾を東へ追い、上ケイで待ち受ける胡済と共に東西から挟撃して殲滅。
という手筈だった。
でもケ艾が先手を打ってキ山の守備を固めて持久戦の構えを取ったから、
補給が切れかかっていた姜維軍はやむなく、胡済と合流する為に上ケイへ転進。
その途端、ケ艾の猛追撃を受け、段谷で捕捉されてあぼーん。という流れだったハズ。
140 :
139:2010/12/27(月) 23:17:39 0
違った。姜維はキ山を攻めあぐねて補給も限界だった為、胡済との合流を目指して上ケイへ進軍。
なんとかケ艾の追撃を振り切りつつ上ケイへ到着するも胡済イネー。やむなく漢中へ撤退しようとするもケ艾が追いつき大敗北という流れのようだ。
祁山は天水郡南部の対蜀最前線基地。上ケイはほぼ郡のど真ん中で司馬懿以来兵站生産地となり、
陳泰の代で主力の駐屯が可能になった要地。
兵糧難で味方との合流を目指すという消極的な展開で向かうなら方向が逆だ。
ケ艾軍を引き付けつつ迂回路を取って、胡済と戦場で合流しつつ
兵站地に打撃を与えるかケ艾を野戦に引っ張り出すか、というような積極策で行われた機動だろう。
三国志呉書諸葛恪伝より
諸葛恪が誘殺されたときのこと
孫シュンは孫亮と計略を練ると酒宴を用意して諸葛恪を招いた。
恪は孫亮に目通りすることになった前夜、心が惑い胸騒ぎがして一晩眠ることが出来なかった。
夜があけて顔を洗おうとすると、水が生臭かった。従者が上着を着せようとすると、その着物も臭かった。
訝しんで衣服も水も換えさせたが、臭いは相変わらずで心が沈んで面白くなかった。
従者を従えて家を出ようとすると、犬が着物をくわえて引っ張った。
恪は「犬はおれを行かせたくないのか」と言い、内に戻って座った。
しばらくして再び立ち上がると犬がまた衣服をくわえた。
恪は従者に命じて犬を追わせると、馬車に乗った。
かつて恪が淮南の遠征に向かおうとしていたとき、喪中の者が喪服をつけたまま役所に入り込むということがあった。
その者に問いただしたが、「自分でも知らぬうちに中に入っておりました」と答えた。
このとき役所の内外には警備の者たちがいたが、誰もこの者が入るのを見ておらずに人々はみな不可思議なことだと思った。
恪が淮南の遠征に向かったあと、彼が平生執務していた役所の屋根の梁が真ん中から折れた。
合肥新城を離れて東興に軍を留めていたとき、白虹が彼の船に現れ、帰還して孫権の陵に参拝したときにも白虹が彼の馬車にまとわりついた。
孫亮に目通りすべく参内したが、孫シュンによって殺された。
のち孫シュンは諸葛恪に殴られる夢を見て、恐れのあまり病気を発して死んだ。
143 :
世界@名無史さん:2010/12/29(水) 06:30:39 0
カエサルとか、歴史上の重要人物が暗殺されるときはよくそういう逸話が見られるね
それほど兆候はあったのに防げないのだから天意だ
気付けたはずなのに防げなったのは偶因によるものでなく人為的な過失だ
みたいなことを言いたいのかな
>>144 諸葛恪は死んで当然だったってことを主張したい奴が作った話だろ?
>>144 両方に利用されるし、
「異能の人が異常な死に方をしたからには相応の兆候が無かったはずはない」
とも考える。
天地自然と人為とは相照応している、というのが中華古来の考え方だから。
地球上にかなり広範にみられる古代思想だけど。
董卓の時もフラグたってたっけ。
148 :
董卓:2010/12/30(木) 23:58:21 0
たってるよ。殺される前色々な事があったらしい。馬車が壊れたり、変な占い師
が現れたり、子供達が怪しげな歌を歌っていたり。董卓は怪しみまくったけど結局
参内して、王允・呂布等に殺された。久しぶりにコテつけたwなんとなくwww
149 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 10:29:30 0
そういや、魏延も頭から角が生える夢みて死亡したな。
大きな口の字を袖に書いたって分かりにくいよね
151 :
世界@名無史さん:2010/12/31(金) 17:57:59 0
夢占いの趙直すげえ。
>>152 このスレで話してた劉備像にほぼ近い評だな
劉備は弱すぎる
はいはい、かまってちゃんかまってちゃn
話は少しずれるけど、劉備を徹底的な悪役もしくは軍閥の親玉みたいに書いた
小説とかって有りますか?
考えて見ると旗揚げ時の商人から馬だの軍資金もらったという話も疑おうと
思えば疑えるし、関羽も名前変えてるってことは……というのも疑えるし。
小説の話はスレ違いな。三戦板ででも聞いてきてくれ。
劉備の正史と演義との落差に乾杯
劉備は確かに弱いが、徳があるので曹操も一目置いてた。
演義厨を装って無理に話題を広げようとしなくてもいいって
>>156 正史と矛盾しないように劉備を悪役に書くのも面白そうだね
正史と矛盾しなければ反劉備のルサンチマン丸出しにならないですむだろうしな
しきりやがいるようだが
仕切り直すと、魏末期の対呉戦線の将で最優秀なのは王基だろうか?
対蜀戦線はケ艾以外あり得ないと思うけど。
趙雲が好き~~
劉備がおとなしくしていれば・・・
167 :
世界@名無史さん:2011/01/05(水) 21:24:56 0
趙雲は重用されてたの?
169 :
世界@名無史さん:2011/01/06(木) 06:08:10 0
官位とか?
どこからどこまでが重用なの?
同衾するとか?
>>169 官位で言えば、荊州で劉備に仕えた奴らや、益州で降伏した奴らにガンガン追い抜かれてるな。
元々軍閥の中郎将や朝廷の尚書台にいた人間に上に立たれるのは追い抜かれたとは言わない。
趙雲は益州入りする前は偏将軍・桂陽太守だから、
益州入り後に中郎将や州吏ふぜいに同列になられたり、
抜かれたりするのは、明らかに冷遇。
軍閥の中郎将=黄忠 同時期の趙雲は公式には無官。
朝廷の尚書台=後漢朝廷健在の頃に尚書台に出仕していた許靖 同時期の趙雲は以下略。
これらを抜かれたというのなら、関羽でさえ諸葛亮、ホウ義、法正、黄権らにごぼう抜きされていることになるのだが。
関羽と趙雲の間に序列差は無論認められるが、蜀政権確立時の官位において多くの上位者があった点では共通しているし、
「序列差」はあるものの、同じ「将軍」級として、武人にも関わらず文人名士達と肩を並べる存在だったことも共通している。
176 :
世界@名無史さん:2011/01/07(金) 20:55:45 0
趙雲は諸葛亮時代はそんなに冷遇されてないぞ。
官位は2の李厳ですら、226年に前将軍になったばかり。
自動的に他の人たちは李厳以上の官位にはなれない。
官位が中護軍・征南将軍→鎮東将軍(中護軍はそのまま?)の官位は
軍部では高い官位と言える。後の官位のインフレ化した時代と比べる
と冷遇に思えるが、実質的には諸葛亮時代は厚遇されている。
229年に趙雲が逝去し、230年に期待のホープの費イが中護軍に就任して
るから、この官位は諸葛亮の信頼厚い人物が就任するようだ。降格も諸葛亮
との連座という感じだし、もう少し長命だったら、再び4鎮将軍かそれ以上の
官位になった可能性が高い。
177 :
139:2011/01/07(金) 21:02:10 0
趙雲は爵位でも厚遇されてるね。陳到、呉懿と同格の亭侯で上には諸葛亮・李厳・劉琰の3人しかいない。
劉備時代は、文官でも太守でももらえる濫造将軍の一人で、
諸葛亮時代になってようやくその他大勢から抜けだした感がある
趙雲が好き^^
>>
>>177 魏延は県侯、高翔は郷侯、李恢と姜維と呂凱と王伉と王平と許允は亭侯
>>178 文官でももらえる乱造将軍っておい。
いわゆる文官の将軍号は、のちの太傅・卿、尚書令クラスの代替ポストだぞ。
李恢、呂凱、王抗、王平は趙雲生前に亭侯なってる。
高翔は230年に郷侯だから趙雲存命時は亭侯ぐらいだったんじゃね。
てかほとんど史料に出てこないのに諸葛亮と同格の郷侯って高翔何者。
177が書いたのは劉禅即位時の爵位じゃないかな
劉備時代は列将軍で「九卿の下」程度の地位。
劉禅時代も諸征や諸鎮将軍で「九卿の下」程度の地位。
官位で見ると扱いは別に変わってないんだよな。魏延も同じく。
彼ら武人に卿と互角以上の地位が用意されるのは、李厳死後の魏延の征西大将軍以降。
それから、蜀志では趙雲は劉禅即位後に中護軍、征南将軍になったとあるが、
華陽国志では劉禅即位時に中護軍から征南将軍になったとある。
後者を取るなら護軍将軍法正の後任が埋まる可能性があるのだが、
どちらが正しいかはわからん。
>>181 おい、卿や尚書令クラスがあんなにいてたまるか
漢中王即位前後の劉備陣営には、頼恭など将来の卿クラスが6〜9人、
格はそれ以上の許靖、糜竺、簡雍らを加えると少なくとも10人前後の
「公卿予備軍の文人」がいたことになるんだが、
それ以上ってことは20人くらい?
187 :
世界@名無史さん:2011/01/08(土) 09:51:08 0
李恢、呂凱、王抗、王平が亭侯になったのは、
南征・北伐の功績評価でしょ。趙雲は魏延や呉懿、尚寵等と
後主が即位直後に亭侯になっている。陳到は趙雲等より遅れて
亭侯になった。これは『華陽国志』の後主伝に記載がある。
>>184 ニュアンス的には中護軍に征南将軍が加官された感じでは?
関羽・張飛・馬超・黄忠が世を去り、劉備時代からの重鎮として
重きをなすために、権限だけでなく将軍位も引き上げられたのだろう。
『趙雲別伝』には、劉備の東征時には江州を取り締まったとあるから、
中護軍にはその時就任したのかもしれん。
蜀漢の諸征将軍がそんなに高位かっていうとわからんけどね
征西将軍の陳到が永安都督になれるんだから、それなりに偉いんじゃね?
由緒正しい征西将軍には階級とはまた別の価値があっただろうが、
ともあれ、後漢から蜀漢に掛けての諸征・諸鎮将軍はあくまで他の列将軍(魏晋以降に「雑号」という通称が生まれる)
と同じ二千石として機能しているように見える。
二千石の中での朝廷の席次というのは当然あるにしても、大した違いではない。
たとえば中二千石の諸卿の中で、太常・光祿勳・衛尉・太僕・廷尉・大鴻臚…というような序列があったにしても、
その中の上下格差などほとんど問題にしないのに、
どうして将軍号については、諸征・諸鎮が明白に階級そのものが上であるかのように語られるのか不思議だ。
>>190 魏以降のそれとの違いを認識していないだけじゃないかな
>>190 それなら、他の将軍から諸鎮や諸征になることが「昇進」と書かれたり、
諸鎮や諸征の将軍が、諸軍を統率したり、都督になったりすることをどう考えておいでかな?
『諸鎮や諸征の将軍が、諸軍を統率したり、都督になったりする』場合に限っては、
実権のある高い権威が付与されていたと看做すことができるだろう。
でも、品秩によって明確に高位を与えられていた魏ではなく
後漢や蜀漢においては、諸征や諸鎮がただそれだけの資格で他の将軍を統率した例というのは
ちょっと思いつかない。少なくとも「こういう実例があるので諸征は雑号より上だった」と帰納できるほどは無いだろう。
「昇進」については、大方「遷」という語が使われていると思う。これは確かに昇進という意味がある。
しかし、先の例に出したような中二千石内、太僕から太常への異動、「席次の上昇」でも使われる語なので、
この語が使われていても秩石や品秩に相当する「階級が上がった」とは限らない。
194 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 18:44:33 0
諸葛亮は半分ぐらいは楽毅になれたんじゃないか?
楽毅は弱小国のくせに王を名乗った中山国を守って奮戦した。
諸葛亮も弱小国のくせに皇帝を自称した蜀漢を守って奮戦した。
少なくとも前半生はなぞれた。
195 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 19:08:25 0
一から国を作ったという点では楽毅を超えてるし後世の評価も楽毅より上
196 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 19:12:20 0
諸葛亮の生涯は蜀漢を守っただけで終わったが、楽毅は中山国が滅んだ後の飛躍があるからー。
197 :
世界@名無史さん:2011/01/09(日) 19:13:56 0
だいたい、諸葛亮が「俺は楽毅になりたい」といっても、弱小国を守って過労死するような人生を送りたいと思ったわけがないだろw
楽毅の後半分の人生をなぞりたかったに違いない。
「管仲・楽毅」な。
管仲として君を支えて国を興隆し、その後楽毅として大敵を撃つ。
成功したら化け物。半分まで行った時点で中華有数の宰相だよ。
そして管仲の役目は果たせたが、楽毅の役目してた奴らはみんな先に逝っちゃったと
諸葛亮が優れた人物だったのは大いに認めるが、個人的にはホウトウの早世が惜しまれる。
法正も馬超も若くして死んだ。実に惜しい。呉でも優れた重臣が若くして亡くなっている。
優れた人間ほど若死にする法則でもあるのだろうか。
>>200 彼らの早世が惜しまれるのは確か。
だけど、凡庸な人が早世しても史書に名前を残す可能性は低いんじゃないかな。
だから、結果的に「優秀な人ほど早世しているように見え」てしまうんじゃないかなぁ。
馬超は早世なのか・・・?
203 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 13:52:17 0
曹操と対峙してたときは10万の軍勢を率いる大将軍だったのに、
蜀にきてからは一気にしょぼくなった。
少年漫画とかでもあるよね。
敵のときは強かったのに、味方になるといまいちw
漫画の話は漫画板で
205 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 15:51:52 0
>>200 ホウ統は戦死だからなあ。
参謀が戦死するなんて、かなりヤバイ戦闘だったのかな?
司令官・参謀は流れ矢が飛んでこないところにいそうなもんだが。
ホウ統が存命だったら、諸葛亮かどっちかが荊州に戻って魏・呉に備える
なんて策も可能だった。流石に部隊長程度の力量しかない関羽に荊州全土の
軍事を任せるのは荷が重い。
ホウ統も指揮官だし、自分で矛剣を取るような武将じゃなくとも
実務を執ってる指揮官は戦況が見渡せる前線にいるもの。
袁紹のような名士でさえ、自分で馬を駆って追撃こそしなかったが
直属の騎兵を追撃に繰り出して逆撃を貰うとやばい、というような距離にいた。
>>206 官位は中郎将だけど、軍功どころか兵を率いたって記録すら無くて、
帷幄の謀で高く評価された奴だから、普通に参謀と考えた方がいいんじゃね。
まあ、参謀も大将にくっついてないと役に立たないから、
界橋の田豊や漢中の法正のように、大将が前線の真っただ中にいる時は、
矢玉の飛んでくるところにいると思うけど。
_,,.. -──- 、.._ | ./
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.l // ,イ ,1 |ヽ ト、 !
i ./ i , /l / l.l ! 、 ト、゙i ,ヘへ、l ヽ.ト、|、 /
l. / .| /| /-|←┼‐l、 ヽ ト、!, -─ヽ|─!-l、i /
! l l | ! |、`';:‐-_、._ ヽ、l\l-i' _,_-='、"~! i"ヽ
. ヽ! ヽ|,/l゙、! l( (80j` l──|. イ80) l l. | )|
l.(l l ー-‐' ,! l、`゙‐--‐' l /"ノ
ヽ ヽ、._l_ _,.ノ 〈> ヽ、._ _.l_// / ̄ ̄ ̄
ヽ、.__,l  ̄ ______  ̄ /、‐'´ | おいおい、あまり
`‐ 、 \ / , ‐'´‐-ヽ < 曹操患者をいじめるなよ。
_ ./l` ‐ 、. _,. ‐''"!\ | 生かさず殺さず
_,,.. -‐'ヽ ̄ヽ,-、シ ̄// |`‐- 、.._. | ネタにしてなぶりモノにしてやろうぜ。
/ i / /_ 7`‐゙\__.\. | i ヽ、 \________
/ l / | /||\ / ̄ ! | !
209 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 21:50:12 0
>>200 早死ではないが、黄権が蜀を去ったのも痛かったな。
策謀にも通じてたけど、性格は誠実だし、諸葛亮との信頼関係も
あった。李厳なんかと比べると、遙かに有用な人物だったと
思うけどな。黄権が蜀に残り、bQかbRの地位にあったら、諸葛亮も
かなり楽だったと思う。
>>209 諸葛亮の政治手法なら、ナンバー2はいない方がありがたいんじゃないか?
尚書令も陳震を外してからは置いてないし、
ナンバー2の李厳とナンバー3の劉エンには高位高官をこれでもかと言わんばかりに与えたけど、
官位の実質に見合った仕事は任せてないし。
ヤフーの三国志の人気投票
______
/ \ /\ ネットではみんなが曹操を天才・詩人・超人とほめてる
/ し (>) (<)\ もう蜀なんて入れる奴居ないだろ…
| ∪ (__人__) J | ________
\ u `⌒´ / | | |
ノ \ | | |
____
/ \ ─\ チラッ
/ し (>) (●)\
| ∪ (__人__) J | ________
\ u `⌒´ / | | |
ノ \ | | |
____
/::::::─三三─\ >曹操患者が鬱陶しいので蜀に入れるわ
/:::::::: ( ○)三(○)\ >曹操患者が発狂するのが楽しいから とりあえず蜀に入れることにしておくわ
|::::::::::::::::::::(__人__):::: | _______ >曹操患者発狂目的で蜀しかありえない
\::::::::: |r┬-| / | | | >曹操患者がファビョルの見たいから蜀かな。
ノ:::::::::::: `ー'´ \ | | | >蜀一択だろ。ばかじゃねー
北伐に出陣している時は李厳に後方の兵站をやってくれないと困る。
というかやってくれなかったので実際撤退する嵌めに
213 :
世界@名無史さん:2011/01/10(月) 23:21:34 0
>>212 五丈原でも兵站つながってないし、そもそも根本の計画者である諸葛亮が兵站無視気味の人だったんだろ。
>>212 李厳以外の余人にはできない仕事ってわけでもないしなあ。
215 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 00:19:51 0
劉備入蜀のときの劉璋は、なんで持久戦を展開しなかったんだ?
篭城してひたすら守ってれば、荊州からの兵站をつなげるのが難しい劉備軍は瓦解したはずだろ。
北伐をするには後方でしっかりと兵站を支えられないと失敗する。
孔明は基本的に行政・補給が専門だったらしく野戦指揮は得意でない。
演戯のようなスーパーマンではないのだから後方の兵站と前線の指揮を同時に出来るわけがなく
孔明が指揮を執る以上どうしても後方の仕事は余人に頼まざるを得ない。
成都は放棄し住民を南西に移動させて抗戦しようという案を
「為政者は民を守るために戦うものであって己を守るために民を盾にしてはならない」
と劉璋は退け降伏した。
蒋苑は北伐軍は起こさなかったが軍備はかなり充実させたという。
また曹爽の侵攻も撃退している。
あと演義では孔明の後はキョウイが目立っているが
蒋苑はそれほどキョウイを認めていない。
>>207 進圍ラク縣,統率衆攻城,為流矢所中,卒,時年三十六
がっつりかいてあるじゃん。
>>218 姜維が初めて軍を率いて出征したのは、蒋エンの司馬をやってた時だが。
蒋エンの下で軍を率いて何度も魏に侵攻して武功を立てて昇進してるぞ?
評価してない奴を自分の軍事面の補佐官にしたり、魏を攻めさせたりしないだろ。
蒋苑はキョウイに1万以上の兵を与えず「本格的な北伐は軍事的天才が現れてからにしよう」と
キョウイが兵力を増やして欲しいという要請を却下している。
キョウイを"軍事的天才"と認めず寧ろ財政への負担増加を懸念した。
>>221 演義の悲劇のヒーロー像を前提にしてるから
それが「評価してない」ように見えるんだよ。
演義では英雄だが実際のキョウイは蜀にとって功罪半ばするという複雑さ。
孔明が神演出されている為、蒋苑や費禕などが過小評価。
呂概なんか結構大きな役割していると思うが誰それってな感じ?
だから「演義では〜だが」なんて前置き自体が歴史板では有害無益だからやめてくれ
「〜な逸話が演義へ繋がった」ならまだしもだが。
>>221 そもそも姜維の涼州遠征計画は蒋琬の立案であり、姜維を涼州刺史に推挙して北伐計画を委ねたのも蒋琬。
最も強力な姜維の後ろ盾だよ。蒋琬は。
___
_,, -ー ,, / ⌒ ⌒ 丶 あれれ、日本・中国で曹操の人気は高いんじゃなかったんだっけ?
/ " `..,:. <●> <●> 丶 日中両国で魏にまったく人気がないのが発覚してもいまだに曹操患者やってて楽しい?
:/ 曹操患者 :::::i:. | (__人__) | いつも一人寂しく劉備へのネガキャンはってるの?
:i :::::!,, ハッ \ |∪| 、____
ヽ.....::::::::: :::::i ハッ / ヽノ ___/
r " .r ノ~. ハッ 〉 /\ 丶 孔明をひたすら口汚く罵るしか楽しみ無いの?
:|::| ::::| :::i. ゜。  ̄ \/⌒_) ねぇどうなの?どうなの?
:|::| ::::| :::|: } ヘ /
:`.| ::::| :::|_: J´ (( トントン
____
/ / \\
. / (;;..゜);lll(;;..゜)\ このガキャあああああああ
/ ⌒(__人__)⌒ \ ナメてんのかああああfさdkjh;flsだhf
| ノ( |r┬- | u | ________
\ ⌒ |r l | / .| | |
ノ u `ー' \ | | | 情弱の蜀ファンごときが調子こいてんじゃねええええ!
/´ .| | Sotec | そのうち蜀に投票したことを後悔する日が来るぞ!
| l プルプル u | | |
ヽ u -一ー_~、⌒)^),-、 | |________|
ヽ ____,ノγ⌒ヽ)ニニ-___| | |____
>>221 正史でもキョウイの軍才は諸葛亮以下の評価なんだよな
>>224 正史でも蒋苑は何もしてないと思うけど
229 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 10:34:56 0
三国志って、桃園の誓いとか三顧の礼とかのアレね。
アレ面白いね。大好き。どの英雄が好き?俺は義を重んじる関羽が
好きだ。
三戦板は消滅でもしたのか?
三戦の曹操患者を絶滅させようとかいう勢力が
戦争を拡大させたがってるらしい
>>228 諸葛亮は大軍の統帥にかけては、三国時代屈指の人物だから、
さすがに比べられたら、名将って言われてる奴の大半は分が悪い。
でも、姜維がミソ付けたのって、段谷の敗戦ぐらいで紛れも無い名将なんだけどな。
戦術指揮や行軍の速さなどは、諸葛亮より優れてると思う。
整然とした大軍統率や敵地での戦力維持、統制のとれた撤退などでは諸葛亮に及ばないだろうが、
姜維の隴西・涼州長駆も統率において相当なもの。
兵站や統制を最も得意とした諸葛亮に最初に任せられた仕事が近衛中軍の教練だというだけのことはある。
この辺り、「愛弟子」の風格があるね。
曹爽の侵攻を撃退したのは王平だし、孔明の在世時に姜維が直接師弟関係にあったとは考えにくい
諸葛亮と姜維の用兵ってだいぶ違うし、師弟関係を伺わせる描写も無いよね。
江夏は赤壁直後は呉が支配していたようだが、その後いつの間にか魏の領土になっている。
237 :
世界@名無史さん:2011/01/11(火) 23:11:33 0
長江より北が魏。南が呉に編入されただけ。
三国志の世界では早世して惜しまれる人もいれば、無駄に長生きして国を傾ける人もいる。
その代表は劉禅と孫権かな。まだ他に長生きしすぎて国に仇をなした人はいるかな?
馬鹿かお前!
\____ _______/
\/
/ ̄ ̄\ バカ? ____
/ \ / \_ : ハァハァ...
|:::::: | : / / # ;,; ヽ
. |::::::::::: | /⌒ ;;# ,;.;::⌒ : :::\
|::::一般市民 | / -==、 ' ( ●) .:::::| 「劉備と関羽と諸葛孔明を徹底的に叩いてきたぞ!曹操の名誉を取り戻すんだ!」
. |:::::::::::::: } | ::::::⌒(__人__)⌒ :::::. ::::|
. ヽ:::::::::::::: } ! #;;:.. l/ニニ| ::::::/ :
ヽ:::::::::: ノ ヽ.;;;//;;.;`ー‐'ォ .;;#:::/ ハァハァ....
/:::::::::::: く >;;;;::.. ..;,.;-\
-―――――|:::::::::::::::: \-― / 曹操患者 \ ――
241 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 11:27:13 0
禅譲で帝位を得た魏が正統。
242 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 14:41:47 0
>>216 諸葛亮は野戦は得意でしょ。
奇襲攻撃みたいなのは不得手というだけで。
231年の北伐では魏の主力軍の攻撃を撃破しているし、
撤退時にも撃破している。普通の野戦は望むところだった。
最後の北伐も何とか主力軍の決戦を望んでいた。
姜維の場合は後に響く敗戦があるし、経済的打撃を考慮しないで
戦争をしている。曹爽の侵攻軍を撃退した費イよりも軍事的能力も
劣る。
諸葛亮は城攻めにがてだよなー司馬懿と雲泥の差
諸葛亮の軍事話で荒れるのは三戦だけでおなかいっぱい
勘弁してください
>>242 ダウト。費イは曹爽との戦いでは後詰を率いて漢中に向かっただけで、
到着前に決着付いてる。
姜維の用兵はリスクを嫌う孔明よりも思い切ったところのある魏延の方が近い。
孔明の用兵は堅実な王平と通じるものがある。
襄陽・樊城は劉表時代は文化サロンとして繁栄したが、
後に魏と関羽や呉が争奪戦を繰り返しやがて呉が占領し住民を強制連行したりして
一時期は廃墟のような荒城になったという。
>>247 曹操支配時期が一番の元凶じゃね
宛の侯音の反乱の原因を見るに
249 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 20:58:55 0
>>241 正統論は、晋が滅びた後に出てきた論争。
三国志フリークが自分の考えた魏呉蜀の設定を
歴史に当てはめようとやっきになった同人誌的発想で、
正史を理解する上に置いては、無視していい議論。
250 :
世界@名無史さん:2011/01/12(水) 21:00:40 0
>>245 あのねえ、戦争はなにも戦術だけでやるもんじゃないよ。
防衛システムを齟齬なく維持しておく政治が大事なんだな。
姜維は段谷の敗戦の穴埋めに防衛ラインを下げ、外征軍に
充当し、しかも魏が侵攻した時は、漢中奥まで進入を許して
しまった。普段の備えを維持するのは簡単なことじゃないんだよ。
>>245 決着というか、曹爽は後詰接近の方を聞いて撤退すべきと夏侯玄、司馬師に進言されて
撤退を決断している。
後詰そのものが抑止力を持っているんだけどね。
>>248 あそこ、時代はだいぶ下って南宋の御代になるとモンゴルとの凄まじい攻防戦の地となったよ。
国が別れるとアソコかなり重要。
姜維は防衛ラインを下げたんじゃない。時勢に応じて西へ広げた。
姜維自身も防衛線最西端の陰平に駐屯してケ艾を防いだが、
大軍を相手に広がった防衛線の手薄をカバーしきれず、武都と陽平関から突破されてしまった。
普段の備えを維持するのは簡単なことじゃないってことだね。
大国を相手にしては特に。
>>250 ケ艾の大軍を漢中前で迎え撃つのは自殺行為。曹爽のときもケ艾ほどではないが大軍。
弱小国である蜀は剣閣などの狭隘の地で敵に出血を強いて味方の損害を極力抑えないと
話にならないのだ。
ちょっと違うか。
「普段の備え」っての自体が日々変化するものなんだ。
維持してるだけでは滅ぶしかない。
時勢に適切に対応し続けるのは並大抵のことじゃない。
綿竹ではもうどうしょうもなかったからな。 一応降伏勧告はしたが、蜀の将兵は拒否し
決戦に挑み惨敗し、ケ艾は戦勝を誇って京観をつくっている、
蜀の主だった武将がもう討ち死にしまくりで夷陵の戦いを超える惨敗といってもよかろう。
>>254 剣閣では下がりすぎ。そこは四川盆地西部(蜀)の玄関口だよ。
東部(巴)の防御を切り捨てた最後のがけっぷち。
敗退を繰り返した最後の防衛地に過ぎない。
軍才に関しては王平>姜維
>>257 ケ艾は剣閣をスルーして直接蜀漢の下腹部を突いたのだから
最後の防衛線を敷く前に姜維が四方に目を配っていなかったのが敗因。
タラレバ話をしたらキリがないが、下腹部を疲れた時点で姜維の負け。
大軍を綿竹に展開させた時点でもう詰んでいる。
同時にそれを知っているから姜維は劉禅が降服したと聞いて武器を捨てたのだろう。
もちろん、占領軍に離間の計をしかけて蜀漢の再独立を考えていたのである。
ケ艾を密殺して鍾会を垂らしこんだここまではよかったのだが、最後の最後でバレて
姜維伯約は一族もろとも族滅を受け、歴史から消えた。
それと、剣閣にあえてとどまったのは確執のある黄皓と後主劉禅との関係が悪化しているからだろう。
当時の姜維は諸葛瞻や張翼など多くの武将からも弾劾をうけ、孤立していた成都にはおれないし、
かといって離れすぎても黄皓が讒言して何いいだすかわからないと来ている。
単に対魏だけの警戒で剣閣で頑張っている訳ではなかったのだろう。
>>259-261 ケ艾が道なき道を300キロ近く行軍させた兵力がそんなに大軍とは考えられないが。
しかし、成都の主力は大方剣閣の防御に回されていて、諸葛瞻が率いたのは本当に最後の兵力だっただろう。
だからケ艾は諸葛瞻と勝ち負けを争うことが出来た。
一方、姜維らが剣閣で防いでいるのは、鍾会率いる数万の本物の大軍。
それ以上退いたら梓潼にまで大軍に雪崩れ込まれ、蜀の国力は半壊しただろう。
姜維としては成都に期待して剣閣で防ぐしかなかった。成都との確執云々は関係ない。
フ、綿竹、成都とケ艾が前進する間防御を続けているし、
君主が降服したら武器を捨てたのはそれが臣下の正しい道だから。
逆に言えば、ケ艾がフに出現した時点ではまだ撃退する見込みはあり、ぎりぎり負けてはない。
だからといって諸葛瞻を戦犯扱いする気は毛頭ないが。軍事の最高責任者はあくまで姜維。
ケ艾が率いた強襲部隊は一万人、さらに鐘会が配下の田章を与力として加えてるので一万数千というかなりの規模だったみたい。
一方、姜維と剣閣で対峙していた鐘会本隊はおよそ13万人。姜維は3、4万。漢中では蒋ヒンら蜀軍一万が李輔ら魏軍2万により包囲。
さらに上庸方面から2万人が増援として向かっていたが、黄金囲で柳隠の足止めを食らっていた模様。
一度はケ艾軍を破ってるし、複数の伏兵部隊で田章の撃破を試みてるから諸葛瞻が率いた軍は一万以上あったのかも。
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l::l::;イ__, ヽ、ト、::::ヽ、\:',ヽ〃l::::::
';l l::l ` ‐- l:::::l:::::: 曹操患者さん
l::::l == 、 ,.ィ== l:::::l:::::::::
l:::::li //////////// l:::::l:::::::::: こ、ここ、これ読んで下さいっ!
, -ーl::::lヽ、 r....::´`ヽ /l:::;'> 、:::::
, -ー 、'´`ヽl::::l// ` ‐-r‐ァ' ´ ,':/ー、 ';
/ , ノ ` l::::l li /ニく /⌒ヽ \.i
, └ '´  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / ノ__ ', ,イ:
/ \ (⌒⌒) , └ '´ / i/
/ ヽ / ー ' / /,.イ
∠ __ / / /
 ̄ ̄ ̄プ ー r── -------/-‐'´ /
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/,, 曹操を語る前に / //
/ お前がまず / / /
/ 朝鮮特有の火病 / / /
/ を治せ / / /
/ ____ / / /
/ / / /
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/ / /
265 :
世界@名無史さん:2011/01/13(木) 14:56:15 0
劉備の蜀が正統だよ。曹氏は簒奪者にすぎないからね。
>>264,265等
ここはそういう主張をするスレではありません
自分がまともだと思うなら相応しい板にお帰り下さい
蜀の費イは、正史を読むとすごい人だったんだなあといつも感嘆する。董和が息子に「お前と
費イとどちらが人物が上かはっきりした」という評を見てもううむと唸らされるし、孫権がほめた
のも感心させられるし、楊儀と魏延の間をうまくとりもったり、これだけでもたいしたものだが、
別伝では「書類は一度さっと目を通しただけで内容を飲み込んだ」とか「その速さは他人の
数倍」とか「一度目を通したものは二度と忘れなかった」とか書いてある。
俺では逆立ちしてもまねできない。
その費イですら「諸葛亮には及ばない」というのなら、諸葛亮っていったいどんな人だった
のかと今さらながら感嘆せざるを得ない。
俺なんか書類はじっくり読まなきゃ内容は飲み込めないし、一度読んでも忘れることの方が
多いぜ。ふふふ、人の能力と言うのはここまで差があるものなのか…。
>>267 簡単に言うなら、費イが劉備の片腕だったら、たぶん蜀を建国するところまでいかなかった。
人柄はいいし、有能だけどあくまで人の作った組織の中でしか生きられない器。
( ´∀`)<曹操患者(ボソッ
´ ヾ
゛ (⌒) ヽ
((、´゛))
|||||
||||||| ファビョーン!!
____
/ / \\
. / (;;..゜);lll(;;..゜)\ 曹操患者なんて存在しないだろぉぉぉぉぉぉ!!!
/ ⌒(__人__)⌒ \ 定義をqあwせdrftgyふじこlp
| ノ( |r┬- | u |
\ ⌒ |r l | /
ノ u `ー' \
後漢の胡広みたいなもんか
演義厨必死だなw
王平って10字くらいしか知らなかった、って書かれてるけど他に字が読めなかったという記述がある
人物っている?
こう書かれるってことは、それだけ字が読めなかったことが特殊だったんだと思うんだけど。
テンイとかキョチョとか、多分農民出身だと思われる人物とかも、教育受けて読み書きできたのかな?
許チョはどう考えても豪族の統領
ほとんど読めなかったんじゃないのかね。
今の中国でも農村戸籍の人は字すら読めないの珍しくないし
276 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 15:16:58 0
>>268 曹操や孫権の重臣だって、
ほとんど地盤も経済力も無い劉備に使えたら、
一国を建国させるまではできなかったと思う。
そこら辺は諸葛亮の卓越した能力としか言いようがない。
士大夫に高慢だった関羽も、馬超より優れているという内容の
手紙に大喜びしたように、諸葛亮の能力は高く評価していた
ことが伺える。費イが能力が低いのではなく、諸葛亮が傑出して
るだけの話。
費イは天才型の能吏だが、諸葛格みたいな能力の過信はなく、
己の出来る範囲をわきまえ、功名を求めてみだりに戦争をする
ことがなかった。これは素晴らしい政治家としての資質である。
ただ、降伏者への警戒が全く無かったことが、文字通り命取り
になった。
李厳って結局なんだったの?
>>276 ちょっと盲信しすぎだな。
諸葛亮が仕えた時期以降では、確かに諸葛亮の功績が臣下第一に近いだろうが、
必要不可欠ってほどの立場にいたわけじゃない。
劉備時代の中心は劉備その人だ。その他の人間の任務は多少能力は落ちるなりにでも代役は可能なもの。
諸葛亮が国家にとって必要不可欠な存在になったのは劉禅の時代だ。
>>273 典韋も決して富裕な家の生まれとは言えなかったかも知れないし、
世間に認められるような教養はなかっただろうが、
少なくとも最低限の学はあっただろうね。
でなければ夏侯惇の司馬はできない。
280 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 17:59:15 0
>>278 赤壁前の劉備に使える知識人は、
かなりの能力と胆力がなければ不可能だったよ。
リアルタイムの評価では、ほとんど将来性無しの人だったし。
劉備に使える人が増えたのは、赤壁後の荊州南部占領後。
他の人に代えようにも、諸葛亮以外にそんな人はいなかった。
劉備がビジョンを持って行動しだしたのも、諸葛亮の出庵以降だし。
ここら辺は素直に評価してよいと思う。
当陽直後の劉備が、諸葛亮以外の人間の目には将来性無しと見えたのなら、そもそも魯粛が見放しているはずだ。
しかし現実には劉孫同盟を主導したのは魯粛だからね。
赤壁前に劉備に仕えて随行を続けたことや、孫権との交渉に成功したことを諸葛亮の功績と評価しないのではない。
ただ、それがあたかも、余人の誰にも不可能な業績であるかのように言うのはさすがに言いすぎだろうってだけ。
余人という余裕が果たして劉備の抱える人材層にあったのかと。
『当時の劉備の手元には、諸葛亮以外に孫権と同盟を成功させられるような人材がいなかった』ならyes。まあ簡雍とか伊籍とかいるけどね。
『「曹操や孫権の重臣」の誰が仮に劉備の手元にいたとしても、諸葛亮と同じことをやり遂げることはできなかった
>>276』ならno。
孟獲ってどこの国の人なの?
後漢から蜀漢にかけての国の人だよ
曹操の参謀・郭嘉は元は戯子才の代用として荀ケが推挙したなどという余裕は劉備にはない
呂布が天下をとってれば・・・
呂布の武勇が項羽に匹敵し陳宮の才略が郭嘉や荀ケを上回っていれば可能
>>280 劉備にとっての謀臣はホウ統、法正。彼らが死んではじめて諸葛亮がクローズアップされてくる。
政務も荊州時代の前半は徐庶が政務をみていた。
諸葛亮は司馬懿の伝みても北伐の頃からでしか言及されてない。
>>282 陳羣がいたけど、劉備は使いこなせなかったな。
徐州で劉備が曹操に背いた時、陳登がどう動いたかがはっきりしない。
孫策相手に奮戦してはいたようだが・・・・
司馬懿の伝ってなに?晋書?
>>293 「伝ってなに?」と突っ込まれてるのにそんな偉そうに晋書を出してくるとはw
>>291 http://words-words.blog.ocn.ne.jp/wordswords/2007/07/post_ef4c.html 呂布捕縛の功績によって、伏波将軍の地位についた陳登の次なる敵は、江東の孫策であった。
彼の治める広陵は孫呉の境界にある要衝であり、当時旭日の勢いにあった孫策は大軍をもってこれを攻略した。
孫策の進撃に恐れおののき、撤退を主張する部下に、陳登は言った。「わしは国家の命を受けて、
この地の抑えとしてきているのだ。昔、馬援(後漢創立の名将)はこの地位(伏波将軍)についていたとき、
よく南方では越の国々を平定し、北方では多くの夷狄をうち滅ぼしたものだ。わしは凶悪な者どもを撃退することができないうえに、
どうして敵の前から逃げ出すことができようか」かくて陳登は城門を閉ざし、兵士たちの喚声を静まらせてわざと
弱々しい防備であることを強調した。そして孫策の軍隊に緩みが見えたことを望楼から確認すると、
一気に城門を開いて軽騎兵を突き進ませ、敵の背後を攪乱させた。孫策軍は慌てふためき、陣容を整える間もなく、
陳登みずから陣太鼓を叩いて突撃する兵にさんざんに打ち破られた。陳登はこれを追撃し、万単位の首級を挙げたとある。
思わぬ敗北に激怒した孫策はすぐさま大軍を編成しなおし、再び広陵に迫ったが、陳登は冷静であった。功曹の陳矯を曹操の元に
送り援軍を要請すると、すぐさま薪を積み上げ各所にそれを配置し、孫策が迫ると一気に火を付けた。火勢は強く山々に燃えうつり
孫策軍は恐慌をきたし、また城中で兵士たちに万歳を唱えさせあたかも援軍が到着したかのように見せかけると、孫策軍はまた壊乱
状態となって退却した。陳登はこれを追撃し、またも一万余の首級を得たという。このように彼は防御指揮官としても極めて有能で
あったことが分かる。孫策は江東においては常勝将軍であったが、北方戦線においては陳登に完全に頭を押さえられていたのである。
(そして孫策は陳登攻めの最中に刺客に襲われて死ぬ)陳登はこののち東城に転任し、やがて三十九歳の若さで死ぬが、彼が広陵を
離れて後、孫権が長江の北に大いに勢力を伸ばすのを見て、曹操は「陳登の計略をもっと早く採用せず、大きな猪(呉)の爪や牙を
生長させてしまった」と嘆息したと言う。
とあるからやはり孫策と戦っていたのだろう。
>>294 要するに絡んで因縁をつけたく仕方ない御仁か。
2chによくいる無頼の輩だな。
>>296 いやただの横槍。あまりにも面白い態度だからついウケてしまっただけ
諸葛亮が劉備に侍る謀臣の役を担ったのは軍師中郎将になる前までのことで、
その後は三郡督や独立した一軍の司令官という重職に付いている。
そもそも得意分野も仕えた経緯も異なるから比較はあまり意味がないのだが、
諸葛亮はホウ統や法正の生死とは関係なく、より大きな権限を任せられ、そのまま出世を続けて丞相まで至っている。
関係あるでしょう。
劉備の親征についていったのはホウ統、法正、黄権らで
諸葛亮はずっと留守居役。
前任者の彼らが戦死・病死・亡命して人がいなくなり
後方方面に専念できなくなり、南征・北伐にも関わらないと
国が回らなくなった。
ホウ統や法正が生きていれば南征・北伐はかれらがやっていたんじゃないの。
孔明は政治は得意だけど、将軍としての戦働きはかなりヘボいし。
孔明が荊州にいたから劉備が安心して益州へ遠征出来たし、
孔明が益州にいたから劉備は漢中攻略に全力投球できたとも言える。
高級官僚だろあくまでも。
夷陵の戦い後、劉備の傍にはあまたいた劉備軍団でまともにのこっているの諸葛亮ぐらいしかいなかったし。
彼に後事を託すしかなかった
留守役ってのは、つまり「君主代行」ってことなのだが。
劉備代の蜀漢最高の軍事能力者は取りも直さず劉備。
だから劉備本人が遠征に出かける間、No2、宰相格の諸葛亮が後方全般を総括する。
成都制圧後はこの図式が定着する。
権謀や戦略立案のような君主に侍る仕事ではなく、政事軍事の実務能力が乱世の宰相に要求される能力。
劉禅の代になると、劉禅本人が遠征に出ることは出来なかったので、丞相諸葛亮が「皇帝代行」として南征・北伐に回転した。
この意味で諸葛亮の役割は、(重要性は勿論飛躍的に増加したが)対夏侯淵の陽平関攻防時から五丈原で死ぬまで変化していない。
途中戦死とはいえ、入蜀までの功績を比べても
司令官としてはホウ統は諸葛亮に及ばないし、法正は軍を独立して率いたこと自体ない。
>>302 君の論法でいくと、ホウ統の戦死で急遽諸葛亮が益州に赴任した後の関羽が
「君主代行」ということになるなぁ。
実際司馬懿の言及でも関羽の許昌攻めがとりあげられているが、当時の諸葛亮は話題にもなってないし。
>>303 ホウ統・法正が無くなってから劉備は戦に勝てなくなっている。
諸葛亮がまともに軍事的実績をあげたのは南蛮征伐程度。
孟達調略に失敗し、司馬懿に先んじられ、北伐にいたっては司馬懿どころか
カク昭も抜けなかった。
どこに軍事的評価が与えられるのか?
ぜひ教えてくださいね^^
徐州で曹操が大虐殺していて呂布が空き巣狙いで兗州を狙ったが荀ケが守り抜いた
官渡で曹操が袁紹と戦っているときにやはり荀ケが許都を固めていた。
法正が郭嘉とするなら孔明は荀ケというべきか
司馬懿は荊豫都督諸軍事を任され、任をよく果たし諸葛亮の謀計をよく防いだ。
諸葛亮の及ぶところではない
司馬懿は雍涼都督諸軍事を任され、任をよく果たし諸葛亮の北伐をよく防いだ。
諸葛亮の及ぶところではない
法正・ホウ統は益州を攻略し、また漢中を魏より奪った益州を劉備に取らせ漢中王とした
しかるに、亮は何処の軍事的実績がありや?南蛮の地を誇るか?
魏に対しては司馬懿を抜けず、李厳・馬謖・魏延・楊儀も征すること叶わず彼らは
庶人に落ちるか処刑されて逝った 人材に乏しい蜀はますます進退きわまる結果と
なった。
なぜこのようなことになったか、今一度考えるべき。
>>304 諸葛亮・張飛・趙雲が入蜀してから、劉備が成都に入るまでの間なら、そうも言えるかもしれないね。
関羽の権限が荊州政務に及んでいたかは微妙な問題だが、
劉備軍閥の前半において「劉備代行」の任を負っていたのは間違いなく関羽。
だから関羽には別軍を率いて拠点確保とか後方駐屯という記述が多い。
>>302で
>対夏侯淵の陽平関攻防時から
と先に書いたように、益州制圧前までは諸葛亮の任はそれほど突出したものではない。
諸葛亮に「宰相」格の任が与えられるのは、劉備が成都に入り、益州が軍閥の拠点に、成都が「首都」になって以降。
(ほぼ同時に荊州の三郡が呉に奪われて荊州の比重が大きく著しく低下してもいる)
官職で言うと、軍師将軍・署左将軍府事になってから。
>>305 「司令官として」。ね。
軍を率いた事自体無い法正を司令官として評価できるはずが無いだろう?
仲達は張郃を戦死させてる。意図的ではないかと思えるほどに。
孔明は無謀な命令で戦死させるようなことはしていない。
仲達が孔明より優れているというより魏と蜀の人材層の差が大きい。
当時は劉備自身が親征して、許昌攻めが関羽がしていたのだから法正が軍を率いるのないのは当たり前だろ。
関羽・張飛・ホウ統・法正・黄権この辺がいなくなると劉備は文字通り何もできなくなった。
孔明は何の穴も埋めてないぞ。
先帝が死んで自分自身孟達調略はできないわ、カク昭にも遅れをとるわで司馬懿どころの話ではない。
ことごとく失敗してまともに成功したなというのは南蛮攻略ぐらいじゃね?
その他はさっぱりだよ
軍才に限れば孔明は魏延に一歩譲るのではないか。
人材難というが、亮が清濁併せ呑む器量に乏しく粛清の嵐で人材すりつぶしてばかりなんだがね。
劉備は性格に何のある法正や魏延をも使いこなせたぞ。
ようつかわなかった大物ってのは陳羣ぐらいじゃね?
孔明も劉備の死後、反乱を鎮圧し動揺を抑えたし、
北伐に際しては天水などの地域の内応も得ることに成功している。
孟達の件は当初からあてにしていなかったし、出来ればもうけもん程度だった。
(周りからは散々止めとけとか無駄とか忠告され、孔明も同意している)
気に入らないから
仲達は張郃を死なせても無問題だが
孔明が魏延を死なせるわけにはいかない。
魏と蜀の人材層の差。
>孟達の件は当初からあてにしていなかったし、出来ればもうけもん程度だった
そうか〜?懿記をみると亮後手後手に回っているばかりじゃないか。
天水を内応させようが、カク昭にも遅れをとっているんだから意味ないだろ
姜維を獲得イベントぐらいか?
長安に行こうぜという魏延の献策も却下するし、自分の労務管理不足が原因の
馬謖・李厳の粛清イベント起こすし、明らかに才能に対してオーバーワーク
としか思えない。
他に人材欠いていたからしょうがないけど、粛清しまくるから育つわけが無いんだけどね。
>>311 そもそも頭半分落ちる格の法正らの穴埋めを、なぜ諸葛亮がしなくてはならないのか? この認識の段階で間違ってるんだよ。
一般に「軍師」と呼ばれてるから三人が似たような能力・役割だったという思い込み。
諸葛亮は「劉備代行」になりえる格の持ち主であり、劉備死後は「皇帝代行」として万機を掌った。
謀臣・参謀のような「劉備の補佐」が死去したなら、下位から昇進して充てられるのが当たり前。宰相が穴埋めする筋ではない。
任の重さにおいて諸葛亮が肩を並べていたのは、関羽・張飛らという面々なんだよ。
「関張が生きていれば北伐の指揮は彼らが執っていたはずだ」とか、
「劉備が北伐していればもっと成功の確率があったはずだ」とかなら、まだ頷けるものがあるが、
ホウ統・法正の名を出すのは大きな誤り。
まあ、官位では同格だったホウ統なら幾分は「あり」かもしれないが。
>>317 なあ、ホウ統が生きていた当時は軍師中郎将だろ劉備が死んでから政治の全権を「はじめて」掌握したのに
なんで嘘をつくの?
>諸葛亮は「劉備代行」になりえる格の持ち主
関羽が劉備代行していたとの
>>308の記述をなぜ無視するのか。劉備の代行など生前携わっていないだろ。
>>318 あんたの年表にはホウ統が死んでから劉備が死ぬまでの間が無いのか?
費詩など孟達の旧同僚は孟達の人物からして無理だろうと結論している。
孔明の能力の問題以前に孟達の能力が充てにならないとしており、
はたして孟達と仲達の勝負では問題にならなかった。
>>319 関羽と張飛死んだあとは丞相録尚書事司隷校尉だから劉備の代行みたいなもんかもな
趙雲をさしおいて馬謖を抜擢したのは弁解の余地は無い。
孔明もその非を認め、自らを罰する一方で趙雲には恩賞を与えようとしたが
趙雲はこれを固辞し、兵士達の手当てに給して欲しいとしている。
趙雲、人間出来てる(関羽や張飛より数段上)
漢中太守に張飛をさしおいて魏延を抜擢した劉備
北伐先鋒に趙雲をさしおいて馬謖を抜擢した孔明
馬謖処刑に際して人を見る目の無さに孔明は涙した。
>>323 趙雲じゃなくて魏延・呉懿を差し置いてじゃね?
>>319 おーい。
>>308も317も両方俺なんだが…。
>劉備軍閥の前半において「劉備代行」の任を負っていたのは間違いなく関羽。
後半に果たしていたのが誰かはわかるよね?
・成都平,以亮為軍師將軍,署左將軍府事。
・亮常鎮守成都,足食足兵。
他に、張魯攻略後に劉曄に「相」として認識されたり、外交使者として派遣される馬良を監督したり(時期は不明。丞相なら当然ではある)。
諸葛亮は左将軍府の事務を分署して領域経営を行い、外交派遣される使者(左將軍掾)との実務段階の会議をする権限を持ち
君主の外征時には代わって成都を守る職務に、劉備時代から就いていた。
亮厨は諸葛亮を持ち上げすぎ。
南蛮の反乱を抑えた以外は寸土も得ず、荊州も奪還できなければ、
雍涼の征服もままらなかった。
都合がわるくなると地位が高かったと言い訳ばかり。
軍事的実績はなんですか?ときいているのに司令官としては〜と
矛先ばかり逸らしているね。 だからなんだと言う話になる。
328 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 23:12:50 0
では聴き直そう。劉備に入蜀させたのはホウ統と法正ですね。
漢中王にしたのも彼らですよね。
諸葛亮は何をしましたか?
ああ、南蛮で郡単位の征伐はしましたね 素晴らしいですね。
でもそれがホウ統や法正や司馬懿との比較になりますか?
ならないでしょう。現実をみようね。
それでも仲達か孔明のどちらを主人に選べるかとするなら孔明を選ぶ
龐統なら出来るかもしれないが、法正では魏延と揚儀を一緒に従軍させるような芸当は不可能。
>>327 最初の過ちを指摘されてるのに、無視して軍事的功績連呼してる側に言われてもね。
発端はこれだよ
「劉備にとっての謀臣はホウ統、法正。彼らが死んではじめて諸葛亮がクローズアップされてくる。 」
それに対して、
「クローズアップも何も、二人の生前からもっと要任を勤めていたんだけど。謀臣とかいう小さな役じゃなくて」
と答えた。ついでに、
「北伐のような仕事は謀臣じゃムリ。前提から間違ってる」とも答えた。
戦術眼や助言の功績がイコール「軍事的功績」だとか、
優れた参謀がいれば戦争に勝てるとか思ってるからおかしなことになるんだよ。
間違いなく自分の上位にくる魏延と楊儀を両方とも葬り去るんだから費イってすごいよな
劉備は揚儀を嫌い閑職に退けていたが、孔明が事務の才を買って抜擢した。
>>333 その楊儀の才能を高く評価し関羽の下から引っ張って直臣に抜擢したのが劉備だったりしちゃう。
法正のような人間が諸葛亮の軍事参謀についていたら、北伐は成功していたかもしれない。
法正に大軍を編成維持する能力に疑問符がつく以上、逆の設定は現実味が無い。
郭嘉や陳平に大軍の総帥させるようなもんだ。彼らは組織のトップでは生きないタイプの人間。
現実には、諸葛亮と法正では格が近すぎて、部下に就けることはできそうにないが。
劉備に仕えたものの周囲とのトラブルを起こし罷免。
劉備の死後、孔明により抜擢。でもやっぱり魏延といざこざ。
法正は漢中攻略においてかなりの激務をしたようで、それが原因の過労死だという。
袁家討伐を推し進めた郭嘉が過労死したのとある意味通じるものがある。
楊儀って尚書の時に尚書令劉巴とうまくいかなくて罷免されたけど、劉巴の前任の法正とはうまくいってたってことなのかな?
>>331 有耶無耶にしてごまかす亮厨いつもの手だよね。
よほど亮の幻想を壊される事自体が気に入らないと見える。
あんたのファンタジーなんか俺にはどうでもよいのだがね。
仲達の遼東遠征は成功かもしれないが、孔明の南蛮遠征と比べると愛嬌が無い。
>>339 あんたのそれこそ、反論をやめるときの典型的な逃げ口上じゃないかw
最初の論点を指摘することがどうして「有耶無耶にしてごまかす」ことになるんだ?
まずあんたは、一軍以上の司令官として軍隊を独立運営した関羽・張飛・司馬懿らと、
そうではない、せいぜい部隊規模の指揮官しかしなかった法正・ホウ統を同列に並べて、
一緒くたに「軍事的功績」などとして諸葛亮と比べていることが詭弁ななのだと自覚しなさい。
「諸葛亮よりも司馬懿の方が軍事的功績は上」っていうのなら、言いたいことはまだわかるが、法正ではね。
二人ともコテつけたら?
勝ち負けはともかく孔明が軍勢を編成し輜重を揃え、(仲達はここまではやっていない、あくまで野戦の指揮)
さらに陣頭指揮に立つなどということを初めから終わりまでやったことは特異であることは確か。
344 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 23:50:02 0
>>341 法正・ホウ統らが死んでから劉備は戦争に勝てなくなったし、劉備が死んでから全件を握ってからも
南方の郡部撮った以外はろくな成果が出ていません。
今一度聞きます。 孔明は何の結果をだしましたか? 答えてください。
345 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 23:52:04 0
>>343 おかしいね。 ホウ統や法正には地位がなかったから未知数といっておきながら、
丞相である諸葛亮と都督諸軍事である司馬懿に対しては職務以上の比較をするんですね。
なんかおかしくね?
346 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 23:52:58 0
亮厨はいい加減観念して三戦板に引きこもってな
>>344 だからそれが詭弁なんだって。
戦争に勝って蜀や漢中を取ったのは劉備。ホウ統や法正は「劉備を勝たせた」人間。
劉備の死後に諸葛亮が代わって征伐部門を担当するようになった。
だから比較するなら、
「劉備は部下をよく用いて領土を得、蜀漢を建国しました。諸葛亮は何の結果を出しましたか? 答えてください」
というべきなんだよ。
それなら、「制圧戦争の実績においては諸葛亮は劉備にまったく及びませんね」と答える。
しかし、「法正」では、「劉備」の項にも「諸葛亮」の項にも代入できない。「設問が誤ってる。出し直し」と答えるほか無い。
統率者の器量としては魏延と楊儀を一緒に従軍させ得た孔明の方が
気に食わないから無謀な命令で張郃を死なせた仲達を上回る。
軍略の才は遼東遠征における仲達と南蛮遠征における孔明を見れば断然仲達が勝るが、
"京観"を築いた仲達と"心を攻めた"孔明の人間性の違いも同時に感じ取れる。
349 :
世界@名無史さん:2011/01/14(金) 23:58:59 0
詭弁といっているが、まだ答えていないよね。
亮の軍事的実績を答えてください。
今まであげた諸将などと比較していかなる成果をだしましたか?
350 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 00:00:30 0
不利になると他将の人格批判ですか。
よくある「逃げ」の典型例ですね。
私は先程から軍事的実績をお聞きしているのですが、なぜ
違う方面からアプローチしようと試みるのですか?
逃げてないで答えてください。
>>349 純粋な将としての武力行使に限定したいようだからそれに準じて答えると、
・入蜀時の三路侵攻の一翼
・南征
・二郡奪取
・曹真からの漢中防御
あとこまごまとした戦術的勝利はあるが、それは今回は無視していいだろう。
それでは逆に質問。
>今まであげた諸将などと比較していかなる成果をだしましたか?
同じ視点で見たとき、法正とホウ統はいかなる軍事的成果を出しましたか?
劉備と比較して人を見る目が無いとはされるが、孔明は人材をよく用いた方であり、
相性の悪い李厳ですら孔明なら復職させてくれるという希望を持つほどだった。
劉備が「劉禅が駄目ならお前がこの国を治めてくれ」というのは劉備の識見の確かさを現している。
孔明にとって蜀の人材は必要な国家の屋台骨。
仲達にとって魏の人材は粛清すべき政敵。
魏延・楊儀をなんとか使った孔明と
張郃を殺した仲達はそもそも国家に対するスタンスが違っていたのかもしれない。
_
>>351 ・入植
・漢中王
が2大功績だろう。
諸葛亮はホウ統死去にならないと蜀情勢に関与できないし。
>>352 李厳は復職できていません。 結果が全てです。
益州入りした後に孔明は歳入を安定させたし蜀科の制定でも主導権を握り法正を抑えている。
チョウゴウの死は矢が傷が悪化しただけの話。
矢傷は前近代社会において結構よくある戦死パターン
高祖も黥布との戦闘で同じ亡くなり方しているんだけどなぜ
司馬懿の責任になるのか?意味不明だよね。
359 :
353:2011/01/15(土) 00:27:50 0
あ、
>>303が抜けてた。法正らを持ち上げてる人はここに苛ついてるんだろうけど、
>>299の
「孔明は政治は得意だけど、将軍としての戦働きはかなりヘボいし」
「ホウ統や法正が生きていれば南征・北伐はかれらがやっていたんじゃないの」
に対して、
「将軍としての実績が諸葛亮に及ばないのに、北伐の指揮を想定するなんて無理」と答えたのが
>>303ね。
ここから「軍事的実績」の話が延々展開する。
>>355 と、いうわけ。
入蜀や漢中奪取で参謀として貢献したという軍事的実績は(功績には違いないが)、
すくなくとも北伐総指揮を任せられるような能力を示すものには繋がらないと思うよ。
というがね。肝心の北伐で孔明は碌な結果出してない。
誤解を恐れず言えば姜維の北伐とさして変わらねえ。
荊州方面の調略でも司馬懿に防がれて何もできないし。
丞相様無様である。
追撃には伏兵があると張郃は反対したが仲達は追撃を命令。
果たして伏兵に遭い負傷。孔明は魏延を抑え臆病だと非難されたが、
一方の仲達は相性の悪い宿将を無謀な追撃命令で死なせた。
人材粛清しまくっていたのは孔明より寧ろ仲達(凄まじく)
上庸は孔明の失敗というより孟達の失敗。孔明の見通しが甘かったとは言えるが。
>>358 張コウ戦死の責任論や陰謀論は、張コウが追撃は危険と言ったのに司馬懿が無理を押して追撃させて戦死させた逸話から来ている。
しかし責任はともかく、あえて殺すような政治的ライバルとは思えないけどね。
片や先代から中軍を預かる朝廷の重臣。
一方は30年前線に経ち続けて車騎将軍までは昇ったものの、曹真や司馬懿のような年少者の節度を受ける、派閥も有力一族もいない老将。
司馬懿が今にもクーデターを起こすつもりだったのなら張コウの軍事力が地方で立ちふさがったかもしれないが、
この時期はそんな目論見などあるはずもないし。
洛陽で多少の政争があった程度では地方の将軍には推移を見守るしかやることないわけで。
>>360 それなら、司馬懿偉い! 曹真最高! と言えばいいじゃない。
将帥として大軍を滞りなく隴西まで持っていく能力があったかどうかも怪しい法正を持ち上げる必要は無い。
諸葛亮は部下を減点主義で評していたが、亮厨は諸葛亮には飴玉なみにあまく、
諸将には厳しい なぜか 幻想が壊されるからだよね。
>>362 司馬懿は即断即決の人。後年の遼凍遠征でもその用兵が生きている。
諸葛亮が司馬懿に先んじたことなどただの一度もない。
>>361 粛清イベントは正始の変以降の話だろ 嘘かくな
司馬懿だって228年の南征の計画立案して大敗してるじゃん。それこそ孫権が調子のって帝位僭称しちゃうぐらいの大敗北を。
曹休の石亭のこと?
あれは呉側からの誘引であって
魏の誰かが立案するようなものではないと思ったが、司馬懿が関与してたの?
>>369 晋書だと孟達討伐から凱旋した司馬懿が具申してる。
詳しく書くと曹叡から呉蜀どちらの討伐を優先すべきかと聞かれ、呉は魏が水軍で勝負を挑むと思ってないからその隙を衝くべき。
まず陸路で皖城を衝いて孫権を淮南に引き付ける。その上で大水軍で漢水を降って夏口を制圧すればたちどころに呉を平定できる。
って感じのこと言ってる。これが曹休らの南征計画の骨子ではないかと。
あれ基本的に曹休VS陸遜だろ・・・・
司馬懿自身は参加してねえよ。
この頃には荊豫都督諸軍事からはずれていたろ。
>>372 いや孟達討伐後に再び宛に駐屯してる。しかも張コウも南征の為に荊州へ配置換え。
で曹休が尋陽へ、賈逵が東興へ、司馬懿が江陵へと三路侵攻してる。司馬懿が長安へ転任するのは231年だよ。
三路からすすんでうち一路の曹休が負けたんだろ。 司馬懿は関係ないんでは
375 :
368:2011/01/15(土) 01:32:24 0
確かに立案者というだけで司馬懿の責任を問うのは間違いだった。申し訳ない。
ついでだけど曹休が呉軍の内応を取り付けたと報告したのは、三路から進軍開始した後みたい。
まぁ諸葛亮の最大の失敗は劉備の荊州奪還を何が何でもフルサポートできなかったところだな
(もっとも本人も認めているが「その役」ではなかったが)
劉備は、仇討を主たる理由とした大規模軍事行動をするほどのアマちゃんではない
漢中の経験(曹操軍の観察)から、漢中⇔長安なんてのは無理、
公安⇔襄陽(もしくは襄陽⇔新野・南陽)の二方面からでないと万が一の機会もないと知ってたんだな。
皮肉なことに三国鼎立を理解していたのが立案者ではなく劉備になってしまって
立案者は自身で北伐を行った後に劉備の意図を知ることになる。
しかし関羽を切った呉をあのままにはしておけないだろう。
国家に移動しつつあったとはいえ、まだまだ魏や呉と後に言われる勢力より
劉備軍団という雰囲気のこっていたから諸葛亮はちょっとはいれない
まだDQN軍団だった頃の雰囲気がある。
北伐には二方からの侵攻がほぼ必須要件だとしても、
それ以前に呉を敵に回して共倒れしては中原奪回どころか国家滅亡だろう。
荊州を取られてまだ時間が経っておらず武陵蛮などの寝返りも期待できる、
曹丕も建国まもなくて青徐州さえ不安定な劉備の時代なら
まだ戦闘結果次第で荊州奪回できたかもしれないが、
魏の呉への圧力が高まり、蜀呉の友好が本当の必須要件になっていた
諸葛亮の時期に呉を攻撃なんかしたら魏の丸儲けだ。
二人に意見の違いはあったが、ともに時勢の流れを読んだだけだよ。
劉備と孫権がガチっても魏の丸儲けとは思わないな。
魏にとって一番ウレシイのは3つある「賊」に対する防衛ポイントが減るということ。
漢中⇔長安 襄陽⇔南陽 合肥⇔濡須
劉備が真ん中を持っているとそれぞれに本腰をいれないといけないが
呉が真ん中を持っている限りは、武昌を守るには江陵を、江陵を守るには夷陵をという理論で、
真ん中からの圧力が劉備のそれと比べて小さい。
そしてこの状態は結果論からしても「魏の丸儲け」だった。
奇しくも、周瑜と劉備は、長江以南の勢力が北を目指すのであるならば、
襄陽⇔南陽の中央突破が必須である、との共通の考えをもってたことになる。
劉備は「その時」気づいていた。
あ、諸葛亮の時代かw
よく読まずごめん。
381 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 02:54:17 0
もし関羽以外のものが荊州を守っていたら?
http://unkar.org/r/chinahero/1189212296 600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 02:27:55 ID:Dz2CjaY+0
>孟達の北上は関羽に隠れて目立たないけど、兵4000で全ての郡を撃破占領した快挙。
それだけ有能なら劉封なんかを送り込む必要ないだろ。
劉封は何しにいったんだ?
665 :名無しさん@お腹いっぱい。[nisekurosage]:2008/03/20(木) 23:49:18 ID:Jdo4sVjH0
>>600 簡単に言うと第一に孟達の援護。
第二に劉備からの新しい指令を伝達すること。
孟達はシキから山麓越えで房稜を戦略的な奇襲かつ戦術的強襲で
落としているから補給線、連絡線の維持に問題がある
かつこの辺りでは魏側には上庸太守の申耽、南郷太守の傅方、
彼らをバックアップする荊刺史の胡脩がいるため孟達単独で作
戦を継続させると彼を見捨てるだけになってしまう
作戦的には上流の漢水を劉封が下ってきて上庸、房稜への道を
塞いで傅方,胡脩を防ぐ一方で申耽を孤立させると言うもの
劉封の派遣には非常に大きな意味があるわけです
そして更に劉・孟に対処しようとする胡脩,傅方に対しては下流
にいる関羽の大兵力がバックから攻め、上庸を降伏させた劉封,
孟達軍と前後挟み撃ちの雪隠詰めとすると言う構図になるわけ
この辺りの劉備側の作戦は非常に構想力の大きなもので曹操に
して見ればいきなりこれほどの作戦を打ってくる劉備陣営には
容易ならない危機感を抱いたと思うよ
>>371 曹休の計画なら自分の軍が陽動になるような作戦立てないんじゃないかな
賈逵・司馬懿と曹休とで別々に自分がメインになる形で呉征伐計画立てて、
それが曹休と賈逵の対立って形で表に出てきたんだろうね
賈逵は賈充同様に司馬氏と親しかったから魏の皇族に対して意見具申するときに自分が泥を被る形で曹休と対立したんじゃねえの?
それなら、司馬氏が権力握ってからの後年の賈充の異常な抜擢も納得行くんだよね。
384 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 05:32:59 0
第四次北伐時の司馬懿の指揮はあまり冴えがなかったのは事実だね。
主力対決では撃退されるし、無理な追撃戦で名将張コウを戦死させたりと、
戦術的には諸葛亮に完全にやられている。兵力的にも優勢だったと思われる
だけに、野戦は諸葛亮は結構強かったと思われる。それが最後の北伐での
司馬懿の徹底的な持久戦、司令官を失った蜀軍を易々と撤退させるという
行動に繋がっている。諸葛亮は軍事能力が低いと勘違いしている人もいるが、
あくまでも奇襲などの奇手が不得手だったというだけで、正攻法の野戦は
かなり強かったと思われる。それが司馬懿が残して「奇才なり」という言葉
からも伺える。
385 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 06:52:36 0
>>384 第一次北伐自体が戦略的奇襲だろ。
蜀軍にいいように分断されまくり。
街亭で勝たなかったらどうなっていたか。
386 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 07:47:16 0
第一次北伐以降は相手も備えをしてしまったからな。
それでも武都・陰平を平定し、第四次北伐では魏の主力軍を野戦で撃破、
追撃に来た名将張コウを討ち取るなど、かなりの戦績なんだけどね。
戦争は基本的には国力差で、戦術ではカバーできない。姜維みたく国家
破綻させることもなかっあ。持ち上げるつもりはないが、やはり諸葛亮は
名将と言ってよいだろう。
要するにカク昭を抜けないヘボ将軍としての評価は変わりませんとみとめたのですね。
完
388 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 09:26:20 0
人形劇で三国志を知った者ですが、話に加わっていいですか?
正史読んだばかりのにわかなんですけど、話に加わっていいですか?
李厳って結局なんだったんですか?
野心家
諸葛亮に、王位についたら?と、かなり際どい手紙を送ってる
もちろんそんなヨタ話に乗せられる諸葛亮ではないが
この頃から諸葛亮の失脚を狙っていたんだろう。
諸葛亮にそんな手紙を送るということは、
劉備が死の間際に諸葛亮と李厳を呼んで例の話をしたというのは
中国の史書にありがちなヨタ話ではなくて真実の話だったんですかね
李厳は益州派の重鎮だったみたいなのに、
簡単に失脚してしまって何だこいつと思ってました
ちなみに名声・実力ともに諸葛亮に次ぐナンバー2でもある。
マクロ・ミクロの実務や軍の指揮も優れている。
李厳は荊州は南陽の人。曹操の侵攻の際益州に亡命してるが、その親任ぶりからも本当に有能だったんだろう
兵糧でちょっとてまどったからってクビにしなくてもいいのに
マジレスすると
本当に兵糧の輸送が出来ないほど困難だったのか
意図的に輸送をやめたのかは断言できないが
それを理由に撤退したのに
李厳はそれが作戦であるかのように上奏したから
(作戦もクソもないので諸葛亮の失脚を誘導)
下手すると胡済と合流できなかった姜維の段谷のような国家的失策になりかねないのに
平然とそんなレベルで権力闘争をするのを見逃すほど甘くはない
>>391 劉備の臨終の際に李厳がそばにいたのは、単に彼が皇帝の言行を記録する係だったからで、
別に劉備の信任がことのほか厚かったからというわけではないという話をどこかで読んだな。
「ついでにお前も頼むぞ、李厳。あくまでついでだが」とかそういう意味だったら李厳カワイソ。
さすがにそんなの信じるなよw
与太を通り越して根も葉もないデタラメだから
えらい伸びてるなw
諸葛亮を李厳罷免に踏み切らせたのは、李厳の参軍の孤忠が上司の隠蔽工作を暴露したからみたいだけど、
この孤忠って馬忠のことかな?参軍務めてるし旧姓孤だし。
400 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 20:56:36 0
漢中攻略から東征の間に、
法正、黄権、馬良といった重臣を相次いで失った。
李厳も才幹を認められ、重臣の一人ではあったが、上記の
人物達よりも認められていたかは微妙。諸葛亮に次ぐ人物として
は李厳くらいしかいなかった。劉備が後事を託した人物して、
諸葛亮も李厳を必要以上に持ち上げていた感じだろう。諸葛亮の
政治基盤の根幹は、劉備から後事を託されたことなのだから。
蒋エンや費イはまだ2、3には据えられる実績・名声もなかった。
李厳を心から2と諸葛亮が認めていたかは微妙で、時期は不明だが、
後主に自分が死去したら、蒋エンに任せてくれと内密に言上している。
諸葛亮は後継問題にはかなりシビアで、生前は重用した楊義を、軍帰還
の後は実権を取り上げる手はずを完璧にしていた。李厳は失脚しなくても、
朝廷内に支持者がほとんどいない李厳が諸葛亮の後継の座に座ったかは
微妙だ。
>>399 まず間違いないっしょ
馬忠が出世した要因の一つは李厳の件なんだろうな
402 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 21:15:27 0
>>401 >>399 諸葛亮が李厳を監視するのも役目だったのだろう。
この頃は李厳が不穏な動きをしてた頃だったし。
>>400 李厳は馬良よりは確実に上だし、黄権と比べては微妙だが、おそらく上位。
というのは、李厳は漢中王に推挙する臣下代表者に名を連ね、蜀科制定に携わり、
「輔漢」の号まで与えられる漢中王-蜀漢朝廷の重鎮だったから。
勿論、尚書令先任の法正・劉巴よりは落ちる格であり、そのため
劉禅代での政治的影響力では諸葛亮に大きく水を空けられてしまった。
しかし諸葛亮がこの李厳をフォローしたかというと、まったく逆で、
むしろ成都から遠ざけて朝廷での影響力を徹底的に消滅させて
自分の独裁体制を強固なものにしている。
李厳失脚の際にほとんど政争なんてものが起きなかったのはこのため。
もし李厳が成都朝廷で諸葛亮を共同統治するような体制だったら、
劉禅は容易には李厳処断に踏み切れなかったはずだ。
しかしながら、李厳が健在の状態で諸葛亮が死ねば、後継者は李厳になるのがほぼ唯一の道だ。
託孤の臣という地位はそれほど重い。皇帝が憚るほどなのだから。
諸葛亮以外の蒋エンや費イなどが李厳を覆そうとすれば、よほどの政争が必要になっただろう。
諸葛亮の独裁を阻みうる最大の障害でありながら、四次北伐の時点まで
本格的な処置が出来なかったのもこの「託孤の臣」の地位ためだろうし、
諸葛亮死後、李厳が復帰の道を絶たれたと嘆いたのも、蒋エンらにとって
「託孤の臣」という上役が重過ぎるからだ。
404 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 21:33:24 0
>>401 馬忠が孤氏を名乗ってた時の名前は孤篤で、仕官した時は既に姓も名も両方変えてて、馬忠と名乗ったんだが。
あと、馬忠の職歴は郡吏→漢昌県長→丞相府の門下督→ショウカ太守→丞相参軍(蒋エンの補佐・益州治中)→
ライ降都督→監軍・奮武将軍加官→安南将軍→鎮南将軍で、
李厳の参軍になった事は一度もない。
>>404 改名は蜀に仕えてからでは?白帝で劉備が孤篤と呼んでるし。
仮に馬忠=孤忠とすれば、丞相参軍の身分で李厳の目付け役だったとか?
それにしても姓も名も改めたのって珍しいな。他にいたっけ。
>>404 馬忠伝冒頭の記述を、そのまま 馬忠と改名した → 郡吏となった という順序だと信じねばならないとしたら、
魏志明帝紀で曹休を破った陸議はなぞの人物ということになるよ。
徐庶にも言える。これらは伝記冒頭の概説部分であって、時期を説明するものではないだろう。
馬忠は丞相参軍として、漢中に残留して諸事を取り仕切った。
李厳が派遣した参軍孤忠は李厳の参軍とは書いてないし、
漢中からの兵站事情について、それに携わっていただろう丞相参軍を送って説明させるというのはありえる話だろう。
勿論断定はできないが、結構高い確率で同一人物じゃないか。
407 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 21:57:16 0
孤忠と孤篤が別人でも不思議じゃないな。
同姓の人間もいただろう
参軍事は三公やかなりの高位将軍以外には与えられることは稀な高級職だよ。
階級の割に掾屬などが冷遇されていた李厳に参軍事が付けられていたかはわからないが、
諸葛亮のものと合わせても当時漢中にいた参軍事の肩書きを持つ者は10人を越えないとかそんなレベルだろう。
その中で、「孤姓だったことのある馬忠」と「孤忠」なる人物が同時に同一場所に存在したとわかっているわけだ。
「別人でも不思議ではない」のは書物の記録から推論する以上よくあることだが、
「別人の可能性が高い」とはまったく違う。
409 :
世界@名無史さん:2011/01/15(土) 22:34:15 0
つか孤忠の臣下って意味じゃね?
黄巾の乱によって後漢正規軍の無能が露呈された、みたいな解釈は通説化してるみたいだけど実際そんなに動き悪かったかな?
意味わからん
>>410 そんな通説初めて聞いた。黄巾の乱自体は鎮圧してるし。
そもそも後漢には、内乱鎮圧用の「正規軍」なんてもの自体、ほぼ存在しなかった。
黄巾に限らず、50年以上続発する内乱に対応できず、徐々に治安が解体されていった
主因の一つがこの数的不足だとはされている。
鎮圧したというより「鎮圧完了しました^^」っていうポーズとっただけじゃね
実際はまだまだずっと黄巾党は大勢力であり続けるわけで
>>410 そもそも正規軍ってのが、中核になる中央や郡県の兵にちょっぴりに、
戦のたびに現地で集める民兵ほとんどという代物。
要するに主力を構成する層は黄巾とあまり変わらん。
袁紹との戦いの前に曹操が黄巾賊の青州兵30万を降伏させたとあるから勢力としては壊滅していなかったと思う。
張角らが死んで洛陽を攻める気概がなくなった黄巾軍は放置しちゃったんだろうな
その間も地方は掠奪され続けると
>>413 党としては解体されてるよ。
張角らが数十年かけて組織し、洛陽でのクーデターまで企図できた、
全国の農民・豪族層を取り込んで一斉蜂起しえた一大政治勢力は一年で消滅した。
以後は他と変わらない、連携もなく群発する地方反乱と同程度のものになっている。
>>413 そもそも、黄巾の乱で、黄巾の旗を掲げて蜂起した奴らは、
上は官吏や豪族から、下は山賊までいて、国中の不満分子の見本市だから、全部鎮圧するのは無理がある。
州郡の太守を攻め殺すような過激な奴らだけ鎮圧しとけば、あとは散ったり隠れたりしてても問題ない。
少なくとも黄巾を自称してる連中は、河北と南陽と予州の過激派がいなくなってからは、
董卓が政権握って地方が無政府状態になるまでおとなしくしてたし。
いや、統一的な叛乱をできる集団ではなくなっただけでそれを党の解体と捉えるのは無理がないか
それに董卓の乱までにあった二つの大きな乱、涼州の乱と張純の乱ですらせいぜい10万クラスでしょ
規模の上でも活動期間の上でも群小の地方叛乱レベルで扱うのは無理があると思う
馬元義の車裂きで半分終わったみたいなもんか?
>>419 例えば青州黄巾百万というのは、話十分の一に見ておいたほうがいい。
十倍に数える戦果報告をそのまま史書に載せたものだろうから。
それでも青州黄巾は184年以降の集団としては最大級のものだろうが、
当時は数万規模の中小軍閥がごろごろ蜂起していた時期。
その軍閥のいくつかが勝手に黄巾を名乗ったりしたケースが当然あったと考えれば、
あなたの言う意味で黄巾の乱を終わらせるには、「反乱鎮圧」ではなく「祭祀撲滅」を行う必要がある。
無数の反乱が起きる中でそんなことをするのは不可能だし、
無数の反乱のいくつかが黄巾を名乗っていたところでもはや大勢にとっては重要な問題ではない、
という状況になっていた。
まあ、その末期状況への一押しをやったのが張角の乱であるわけなんだけど。
十倍に誇張するのが慣例って正史でも書かれているのは知ってるけど、
その言葉をそのまま受け止めても青州黄巾党が辺章・韓遂や張純の十倍の勢力なのは変わらんでしょ
当時の軍閥、って具体的に何時を差してるのか分からなくなってきたが
青州黄巾党に比する勢力は盛期の黒山賊くらいだと思うよ
そしてその黒山賊は官位を与えて服属という形で一応抑えてるね
あと言いたくはないが群小勢力の黄巾僭称と青州黄巾党みたいな大勢力は別次元の問題でしょ
「小さなものまで完璧に混雑するなんてできっこないんだから大きなものも無視していいんだ」という詭弁だと思う
淫祇邪教を一番弾圧したのは曹操より孫策だったという。
宇吉斬殺は演義の創作だが、実際に孫策がこれらの
祭司を粛清しまくっていたことが元になっているのでは。
孫策軍内でも流行りまくってたとか書かれてたね確か
曹操みたいなやり方で取り込むのはやっぱり難しいんだろうか
>>423 孫策はそこらへん融通が効かなくて、曹操は融通が効いてたってだけの話。
あと、江東は伝統的に宗教勢力が強くて、後漢でも良くローカル宗教が反乱起こしてた。
孫策が江東を平定した頃も、あちこちに宗教勢力が武装して割拠してた。
こんな状況で宗教を敵視しないのは、よほど器が大きくないと無理だろう。
>>422 戦果十倍ね
ていうか、晋代でもエン州の戸口十万、青州は五万人。
ここまで低落したのが後漢末のこの時期だってことを考えれば、十倍でも怪しいから。
当時= 184年以降、曹操が支配を固めるまで
で、青州黄巾というのが張角黄巾とどれだけの関係があったかわからないが、
彼らが反乱を起こしたのは中平五年のことだから、184年の時点で鎮圧するのは不可能な話。
>>425 曹操は済南国相時代に城陽景王を祀る「淫祀」を強行廃絶した酷吏型の人間。
群雄割拠に入ると、器とか宗教とか関係なく、群雄たちは「賊」と頻繁に手を結んだり粛清したりしている。
黄巾だけでも孫堅、袁術、劉備が連携を取っている。
で、孫策と于吉の話は演義の創作ではない。江表伝などに記載がある。
于吉は琅邪から避難してきた道士で、彼が道を通ると孫策の前に集っていた諸将や賓客の三分の二が
楼を降りて拝礼するほどの人望があった。孫策はそれを忌んで殺したわけで、単純な宗教問題ではない。
孫策は呉会の英豪を殺したなどと書かれているが、それは孫権まで引き継がれて地域支配の強化に至っているし、
曹操もエン州で同じことをやっている。曹操は失敗して呂布の乱を招いたが。
428 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 02:11:23 0
江表伝は演義ほどじゃないがデタラメだろ…
まあ裴松之が概ね史実に即してるって言ってるし。江表伝だから〜で切り捨てるわけにもいかんのでは。
430 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 07:47:58 0
概ね史実に即してるって言うか、後付けで孫呉賛美やってるんだから、矛盾がないのは当然w
宗教勢力と一言でいっても
内容は真性のカルト的なものから、自治共同体(コミューン)のようなものまであっただろうし
誰が弾圧して誰が寛容だったとかは定義できないだろう
規模でいえば高度な自治組織から山賊の類まであるしな
その勢力にとっての至上命題が「独立」ではなく、誰かの庇護下でもWIN−WIN関係になりえるなら
取り込まれるだろうが、指導者の独立嗜好が強ければ粛清の対象でしかない
孫策の場合は官位も低く君主権も確立されてないところにヘンテコな「権威(カリスマ)」があらわれたという点だろうな
長期的に見れば正しい判断だが、カッとなってやったと描写されている辺りが若さのあらわれw
曹操あたりだと朝廷という巨獣を相手に老獪にやってるので粛清するにしても、もうすこし上手くできただろう
432 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 12:32:06 0
作融なんかも悪徳宗教関係?
張魯もそうだし
張魯は悪徳ではないだろ
悪徳宗教なんて宗教法人という概念がなければ意味ないけど
434 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 12:50:47 0
張魯は身の処し方がよかったから悪名を残さずにすんだよね。
米道神なんて変な神様をでっちあげたけど。
435 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 13:21:14 0
でも張燕とか黒山賊のボスっていうけど実際は逸民たちの代表みたいなものだったみたいだし。
だから曹操も帰順を促してとりこんだんだと思うよ。
逆に曹操にはそういう逸民たちの輿望があったんだろう。
ちゃんとした民治能力があったんだね。
>>431 曹操は民間宗教ではなくまともな儒学名士を自分を批判するからと殺して、エン州乱の原因にしている
437 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 13:49:08 0
だれだっけ?それって?
辺譲
439 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 14:01:42 0
そんなひといたのか?
ひょっとして あまつかぜ〜 のひと?
曹操は降服者を許すという逸話が多いが
崔エン伝で気に食わない者は我慢できずに殺した、と書かれるように
信服しない者には容赦ない人間。
漢帝を頂点とする後漢朝廷で丞相をしながら魏国へ集権するにはそうせねばならなかったのだろうが、
寛容とか器が大きいとかいうタイプの統治者ではない。
曹操は人の処遇は「仁」ではなく「利」を考え感情を抑えた。
生かしておいて有益な奴はチンリンやチョウシュウのように結構許した一方で、
役に立たない者は孔融のように口実を設けてまで敢えて殺害した。
442 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 14:50:07 0
有能さを愛したんだろう。
孔融などは有能で役に立つ人間だったんだけどね。
ただ曹操の専横に靡かなかったから殺された。
444 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 14:55:21 0
殺しておかないと邪魔に成るくらいの有能さがあったということだろうね〜
人を愛した故で許すのではなく才を惜しんだ故に許すというのが曹操。
446 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 14:59:11 0
なんだろうな。
そういう感情的なものは自分のなかですべて処理できてたんだろうな。
みずからの子供にもシビアだし。
おれらが自分の家の中の家電製品をそろえる様なものか。
>>445 惜しまれるべき才があったのに殺された崔エンや周不疑のようなのもいるが。
神格化しすぎ
気に食わない者は我慢できずに殺したって書かれてるのに。
情愛より利害を優先する人間だったというのは間違いないし
だからこそ生き残って魏を建国できたのだろうが。
449 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 15:17:04 0
秦朗みたいに才能がよくわからないけど愛された人物もいる。
曹操だけが知ってたすごい才能があったのかもしれんけど。
孔融は有徳者で行いは立派だったが、役人として業務をさせると
実際的でなく行政は混乱したという。博識で人徳もあるが曹操にとっては役に立たなかった。
ジュンイクは曹操の覇業に大いに貢献したが、
九錫の件で曹操といざこざとなり曹操にとっては必要なくなった為自殺に追い込まれた。
己の"利"にとって必要な才であれば憎くても許した一方で"不要となった才"は冷酷に捨てるのが曹操。
曹操の許す許さないの基準で大きな割合を占めるのは寛容とか人徳ではなくあくまでも己の利害
>>450 遷都と混乱で機能が壊滅していた許都朝廷を立て直すためには、
故事や儀礼に精通した有徳者というのは非常に重要な存在だったんだよ。
実務能力者なら曹操が自前で調達できるが、
高名な儒士は地方に逃れていた者達を収拾するしかない。
だから曹操は名士を後漢の卿など高位に就け、一部は辟召して自分の丞相府に置いた。
孔融は、能力的にはその中でも最高の人間の一人だった。
しかし、孔融は、朝廷へ実権を返さず丞相府と子飼いの軍部だけで政事を専らにする
曹操へ反発し、批判し続けた。だから殺された。
452 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 15:32:49 0
曹操には若い頃に自分を評価しなかった儒学の大家へのルサンチマンがあったのさ!
(ルサンチマン!かっこいいことばやねぇ)
曹操は宦官の一族として郎官となったのだろうが、
その後一転して若い頃袁紹や何ギョウと通交していた清流派の端くれ。
罵詈雑言を浴びせた陳淋や長男曹昂を殺害した張繍を許し、
人徳高名な孔融や功績多大な荀ケを死なせた動機は"利"であり
情愛とか寛容、憎しみ恨みではない。
曹操が逆上して行ったとされる徐州における大虐殺も
実はその頃曹操に帰順した青州黄巾兵へのガス抜きだったのではという説も見た。
流石に極端だとは思うが。
それだけでジュンイクを自殺に追い込んだっていうのは無理がある説明だと思うが
不要になったからといって殺す必要までいかないし
そもそも不要になったという解釈自体が暴論だと思う
そもそも利とか容易く言われても目的が違えば利も異なるわけでお前は曹操の目的を理解してんのかと・・・
人間的な感情を置いておくとしてもコウユウやジュンイクの件は高度に政治的な理念が関わる事件でしょ
容易く利とか言ってもそれは説明になってないと思うよ
457 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 16:40:19 0
初期の曹操は行き当たりばったりな行動ばかりだよ。
孔明の北伐が成功するには何が必要だったか考えてみようか
まず魏の内紛だな
バショクが登山家引退
>>458 劉邦と比較してみる
漢中が肥沃→×曹操の強制移住で人口激減・屯田に頼る
三輔は中央の直系ではない勢力がいる→×曹真・司馬イ
その勢力がやや油断している→×戦時下
兵は関東出身で戻りたがっている→×益州出身
ダメじゃん
また荒れそうな話題を…
そもそも長安取れてもそれを維持できんのかっつーね
464 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 17:34:32 0
>>463 それをいいだしたらホクバツそのものが意味なくなってしまうよ
465 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 17:46:20 0
長安を攻略しても放棄して引き上げるでは意味がない。
それこそ五丈原に屯田でもしなけりゃ魏の領地をそこしづつ削ってゆくなんて芸当は無理なんだから、有る程度本気で一気にいけるとこまで攻めとる軍略がなくちゃあね
>>463 魏の征西軍を撃滅してから入城すれば維持できる
467 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 19:09:08 0
魏の征西軍つったら、まず蜀軍全軍と同じぐらいいるだろ。
お忙しいところ誠に申し訳ありません。
正史を深く知る方に聞きたいことがあります。
夏侯惇について、宮城谷先生は、片目を失ったためそれ以後
後陣に配されることが多くなった、との記述をされているのですが、
そのような記述が正史上にあるのでしょうか
>>449 秦朗は側室の連れ子だからな
曹操は子供には甘い
>>468 ない
片目だと陣地間の距離感が判らないとか
もしくは格闘に不利だとか
そんな妄想を膨らませたんだろう
>>467 蜀の遠征軍と同じくらい、だね。
魏の国力というのは、蜀呉から同時攻撃を受けると洛陽兵力を東西に分けねばならないため
兵力不足を露呈するくらいしかなかった。
だから諸葛亮は司馬懿と戦術的には五分以上に渡り合うことが出来た。
この征西軍が大破されれば、魏の東西の軍事バランスが崩れ、関中の維持が不可能となり、洛陽さえ危険になる。
洛陽に出来た穴を埋めるには東から相当の兵力を引き抜かねばならないから、呉の侵攻を淮水で止めるのも不可能になる。
魏は防御線を大幅に縮小せざるを得ない。洛陽遷都が一番早いだろうけど。
472 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 19:39:05 0
蜀軍なんて最大限誇張して10万が精一杯だろ。
魏の征西軍も誇張して同じぐらいいるだろ?
曹操の徐州討伐は、徐州で専横してた曹宏討伐じゃなかった?
>>472 諸葛亮時代、蜀の北伐軍は、兵站人夫込みで八万とか十万余とかいう規模。
対応する征西軍は、洛陽から進発して歩騎五万とか。
事前にしっかり準備して動員すれば曹爽が六、七万を動かしているが、これには時間がかかっただろう。
純兵力では同じくらいか、むしろ魏の方が少ないくらいになる。
だから司馬懿は、四次北伐で隴東に守備兵力を振り分けるべきという諸将の具申を却下して
「隴西に全兵力を振り向けねば諸葛亮には当たれない」と言った。
475 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 20:42:52 0
関羽が北伐で于禁七軍を丸々壊滅させたのがいかにでかい勝利だったかが分かるというもの。
あれで魏の予備兵力が払底してしまった。
呉は魏が安定すると農民の魏領への逃亡が頻発し
生産力・兵力の低下に悩まされたというが。
477 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 21:16:07 0
>>476 呉は正統性ゼロだし、北から来た人は機会さえあれば帰りたい。
>>475 「払底」はない
予州エン州からさっそく徴発された部隊が作られてたし
夏侯惇26軍は無傷だし
長安には引き上げた漢中救援の曹操本軍があった
3万にしろ5万にしろ丸々消失したというのは凄まじい損害だが
それでもまだ余力があるのが魏
479 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 21:34:49 0
>>478 >予州エン州からさっそく徴発された部隊が作られてた
即席の寄せ集め部隊で何とかしろっていじめだろw
まあ何とかしちゃったんだけど。
>夏侯惇26軍は無傷
それは孫呉方面に向けられた戦力だろ?
>夏侯惇26軍は無傷だし
>曹影・田豫軍もある
そういう他方面軍しか残ってない状態だったわけね。
曹操の本隊が関中にいる状況で動員された七軍は、魏王国左将軍仮節鉞、つまり
魏王の軍事代行に等しい于禁が率いるもの。
これが水没したため、曹魏には中央に残るまとまった予備兵力が消滅する事態になってしまった。
劉備征伐に従軍していた徐晃が急遽派遣され、兵力を現地召集するというありさまになったのはこのため。
それでも襄樊救援に間に合わない可能性を危惧して、
対呉戦線から主将の夏侯惇自らがフォローに命じられ、
曹操と摩陂で合流、許都防衛線が敷かれるという大事になった。
曹操は徐晃を援軍に出す余裕があった一方で劉備にはその余裕が無かった。
漢中戦で負けた曹操側の方が勝った劉備側よりも余裕があるというのが底力の差。
484 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 22:14:35 0
同じ洪水という大災害に見舞われたのに、なんでカンヌは無事で、于禁のほうは全滅したのか。
荊州にだって水軍あるだろ。
助けに行けよ。
485 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 22:17:05 0
>>483 孟達と劉封送ったじゃないか。
あそこで孟達がいなかったら、関羽は上庸にも兵力送らないといけなかった。
>>474 蜀は輜重がない。
輸送に牛を使えない以上、輸送部隊には魏よりずっと多くの人員が割かれる。
実際に戦闘に回せる兵力は魏と同じかやや少ないはず。
樊城攻防における兵力配置の手際は劉備より曹操の方が良い。
劉備は漢中で勝ちながらも上庸で限界に達していた一方で、
曹操は手傷を負いながらもまだ余力があったということではないか。
関羽は宇禁以下の捕虜を曹操が官渡で袁紹軍の捕虜を虐殺したようなことはしなかったので
兵糧不足に陥るなど格好に拘り苦境を招いている。
>>483 劉備は漢中を取ったことで、劉封を漢水沿いに東下させて荊州を襲うところまで行ってるのだが。
荊州西部を北上した孟達と合流し、漢中と荊州が連結された。
于禁水没の状況激変後の動きとしては徐晃よりも遥かに大規模で、益州東北部と荊州西部の制圧作戦が展開している。
孟達と劉封は房陵を占拠し、襄樊まで百キロちょっとの距離まで迫ったが、
応援に駆けつける前に呂蒙の襲撃があって関羽軍は壊滅した。
徐晃の奮戦は曹魏にとっては大きな戦果ではあるが、漢水の北側から関羽を駆逐して樊城包囲を解除したに留まり、
関羽軍全体との勝敗はまだ付いていなかった。
劉封と孟達は上庸を動けないとして関羽に援軍に赴かなかったことで劉備に咎められたという。
劉封は死罪、孟達は魏へ奔走し上庸は奪還されてしまった。
490 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 22:39:31 0
孟達は千人ぐらいでいいから兵を送ればよかった。
魏は遷都言い出すほど混乱してたし、少数でも魏軍の退路を断つような運動をさせれば、意外と効果があったかもしれない。
房陵・上庸が不安定だから留まっていたのであって、時間の問題。
曹操本隊が駆けつけてくるのも時間の問題であるし、
呉が動かなくとも解囲された樊城を再包囲して落とすのは至難であったろうが。
ともあれ、南郡西部から漢中郡東部に掛けてが次々落とされていく状況で、
「樊城を解囲するのが精一杯」というのが、曹操・夏侯惇が駆けつけてくる前までの戦力図。
>>486 それ与太話だから。
三百キロ、半年間の遠征の兵站を全て人力で済ませようとしたら、兵:站の比率が2:8みたいになる。ありえない。
曹操は摩破まで進軍させている一方で劉備は成都にいたまま。
曹操が劉備より本気だったのか、劉備は動きたくても動けない事情があったのか。
動けなかったんだろう。
そりゃ摩破まで行くのは許都への帰り道みたいなもんだから。
劉備にとっては、漢中奪取の余勢を駆って襄樊と繋げるのが今回の作戦目的であって、
関羽軍と派遣戦力で足りなければ引けば良い、くらいの意図だろう。
劉備側の誤算は、むしろ于禁軍があっさり水没したことに始まる。
これによって関羽が気を逸らせ、陸遜の着任に油断したこともあって
江陵の防御を疎かにしてまで兵站に人員を割いて攻撃を続行した。
これにより呂蒙の急襲を受け、あっさり荊州は陥落してしまった。
漢中から退却する曹操を追撃する余力は劉備には無く、
寧ろ連戦で疲弊した軍の休養と益州の回復が劉備にとって重要だったのか
漢中からも引き上げ成都に軍の主力も戻している。
撃破したわけでもない敵軍を追撃とかできるのは自領で篭城に成功したときだ。
劉備は陽平関で一時的防御を取っただけで、基本的に漢中郡全域を攻め取った形。
敵の領域へ踏み込んで追撃とか無茶だろ。
498 :
世界@名無史さん:2011/01/16(日) 23:59:23 0
>>496 劉備が追撃なんてするわけない。
蜀から攻めたら、今度は兵站問題が劉備に降りかかって来るんだよ。
諸葛亮の北伐の二の舞だ。
劉備が動けなかったのは関中に曹操軍が留まってたから
一方の漢中は強制移住させられてしまって軍を駐屯させたら
とんでもない補給作業が始まって身動きがとれなくなった
>>499 219年秋、漢中で漢中王を号す。その後、還治成都。拔魏延為都督,鎮漢中。(先主伝)
この辺りの流れから見ると、襄樊攻撃は本腰ではないし、呉の襲撃も予想してないってとこだね。
危機感がなかったとも言える。
仮定のはなしだが、もし関羽に対して呉が魏と同盟しなかった場合、三国鼎立の状況が大きく変わったと思うか?
503 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 01:25:51 0
>>501 成都でてどこに本陣を置くのがよかったと。
>>503 成都以外にどこが?
成都経由で荊州に応援を送るでもなく、関羽に自重もさせず、というのは、
対呉の警戒をしていなかったってことだろう?
505 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 01:44:09 0
>成都経由で荊州に応援を送るでもなく
孟達に上庸落とさせたことはなかったことになってるのか?
孟達は元から荊州戦力だっつーの。
彼は宜都太守で、北上して房陵を占拠した。
また、関羽は糜芳らの尻を叩いて江陵の防衛戦力を引っこ抜いた。
後者が劉備にどこまで伝わっていたかは不明だが、
荊州が呂蒙の攻撃になすすべなく陥落したのは、
江水沿岸の戦力が激減していたからによる。
劉備がこちらのフォローをまったく取っていないのは、
呉からの攻撃を想定して行動していなかったからだろう?
って話。
507 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 01:56:12 0
>>506 それを孟達にやらせたのは劉備だろうに。
だから、劉備(とその側近達)は呉からの攻撃を想定していなかったって話何だが…
俺の文章そんなにわかり辛いか?
>>506 してないわけがないだろ
ただ最後の最後で守備兵を関羽が引き抜いて攻撃に回したことと
3万の捕虜取って補給が崩壊してたことによって電撃的な侵攻に対応できなかっただけだ
どっちかだけならまだ何とかなったかもしれないし
どうにもならなかったかもしれないけど、少なくとも呉に対する備え自体は存在してるし
想定してなかったわけではない
孟逹、劉封、関羽の行動が何を目的にしていたのかがわからない
上にあるように漢中と荊州の接続が目的なら荊州軍が明らかに足らない
劉備は関羽の独力で魏の援軍を撃破出来ると思ってたことになる
天候が味方して勝てたが本来なら于禁とにらみ合いになって動けなくなってる
関中の魏軍への陽動なら劉備本軍の出撃に合わせて一斉に動いた方がいいはず
後の北伐から考えても当時の魏に二方面で戦うだけの国力はない
なのに肝心の劉備は成都に帰還してる
孟逹、劉封、関羽の行動が何を目的にしていたのかがわからない
上にあるように漢中と荊州の接続が目的なら荊州軍が明らかに足らない
劉備は関羽の独力で魏の援軍を撃破出来ると思ってたことになる
天候が味方して勝てたが本来なら于禁とにらみ合いになって動けなくなってる
関中の魏軍への陽動なら劉備本軍の出撃に合わせて一斉に動いた方がいいはず
後の北伐から考えても当時の魏に二方面で戦うだけの国力はない
なのに肝心の劉備は成都に帰還してる
512 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 04:51:48 0
>>511 劉備本軍の出撃? 劉備本軍はどこに行くんだよw
劉備本軍は漢中戦で消耗し益州も疲弊していたので
成都に帰還し兵を休め内政を安定させるのに精一杯で
公安まで進軍させるなど関羽に加勢し魏に積極的な攻勢に出る余裕はもう無かった。
>>509 >してないわけがないだろ
いや無根拠にそんなこといわれても。
もしまともな支援戦力があったのなら、比較的後方の公安まで
なすすべなく落ちたのはどういうことなのかね。
関羽との不和なんて益州から来た将帥には関係ないし。
>上にあるように漢中と荊州の接続が目的なら荊州軍が明らかに足らない
漢中-上庸-房陵-宜都。于禁と関係なく成功してるよ。
このラインは陸遜と夏侯尚の攻撃まで崩れていない。
関羽が健在で呉が黙っているなら、襄陽がなくとも維持できるものだ。
魏も疲弊していたが蜀はそれ以上に疲弊していて
劉備が直接荊州に来援するのは厳しかったと見るべき。
>漢中-上庸-房陵-宜都
あるいは
漢中-上庸-襄陽
ってのは明らかに大規模軍事行動のためのラインじゃないんだよね
どちらかというと漢水以南を己の版図としてよしとする匂いがする
そう考えると、仮に水害が起こらず于禁とにらみ合って襄ハンを断念することになって辻褄があう
>>514 関羽が守備兵力を引き抜いて北上作戦に投入したこと→正史に載ってる
3万人という大量の捕虜を江陵に移送した→正史に載ってる
推測でもなんでもなく、防備はしてたと書かれてるし
捕虜3万人に飯を食わせたら補給が破綻するってのはほぼ必定だろ
実際関羽軍は呉側の兵糧庫を襲ってると呉書は主張してる
ちゃんと根拠あるけど?
呂蒙からまだ無名だった陸遜に交代したので関羽は守備隊を北上させたというから
計略に引っかかったということ。
520 :
世界@名無史さん:2011/01/17(月) 21:34:06 0
>>518はもうちょい落ち着こうぜ
関羽が対呉防衛が疎かになるほど攻撃に出たということは認めてんだろ?
>捕虜3万人に飯を食わせたら補給が破綻するってのはほぼ必定だろ
この話はどこから出てきたんだよ。正直イミフ
それに
>>514は劉備が荊州をがら空きにしたとは言ってない
ただ
>>514もちょっと冷静になれ
益州の劉備が『漢中防衛終了後すぐの情勢下で』荊州に兵力を送らない=益州からの支援なし、も飛躍しすぎ
これはいくらなんでも呂蒙の不意打ちを完璧に読まんと無理だろ。預言者じゃないんだから
当時の荊州戦力で防衛可能か、攻められても成都からの救援が間に合うだけの時間くらい稼いでくれるはずと判断していたんじゃねーの?
あのあとの情勢考えると、荊州失陥が尋常じゃなく速かった
その一点に尽きるんじゃねーの?
>あのあとの情勢考えると、荊州失陥が尋常じゃなく速かった
戦後処理では劉封が処刑され、孟達が処罰を恐れて魏にくだったところをみると
蜀はそう判断してないだろう。
関羽の死・荊州失陥は両名の怠慢と。
劉備の八つ当たりとあるいは養子たる劉封のポスト劉備に備えての処分か
>>520 3万人の捕虜ってのは正史に記載がある
これは関羽が守備兵を引き抜いて前線に送る前の出来事で
陸遜が送ったとされる手紙の内容が本文に引き写されてる中にも出てくる数字
ちなみにこの捕虜は呂蒙奇襲前には既に江陵、公安辺りにいたらしく
呂蒙の奇襲で丸々呉に横取りされてる
守備兵は引き抜くわ、明らかに兵站に破綻を来たす数の捕虜取るわで関羽の失敗は幾つも見えるが
少なくとも「呉に対して備えていなかった」というのは間違い
戦線の拡大と思いがけない捕虜の獲得で後方が機能不全に陥ってるから
明らかに後方とされる公安まで一気に落ちてるのはこの捕虜を考慮しなけりゃいけないだから
何で関羽の北上について語るのに3万という膨大な数の捕虜の影響考えないんだよ
どこからも何も、全部正史に出てくる話だっつーの
>>523 「関羽北伐における捕虜三万の影響」それを言いたかったのかよっ
俺の読解力の無さは絶望レベルだがそれでも言わせてくれ
そ れ を
>>509 で つ い で の よ う に 言 う な
それにそれは軍事板の話題じゃないのか?
捕虜三万の存在が当時の公安・江陵を補給の機能不全に追い込むレベルなのか
史料から読み取れると思えないんだが……
少なくとも、補給の混乱があったなんて記述あったか?
>>524 益州一州の蜀が北伐のたびに五。六万の兵を食わせるのに苦労してたのに、
南郡と武陵と零陵の生産力だけで、数万の関羽軍の他に、
戦いもせず、耕しもせず、ただ飯食うだけの捕虜三万抱えこんだらどうなるか想像するといい。
>>517-518と
>>520に纏めてレスする。
1) まず、漢中奪取から荊州失陥までの時系列纏め。
219年
初頭 夏侯淵敗死
三月 曹操の漢中出兵
五月 曹操撤兵。劉備、放棄された漢中を奪取する
秋(七月以降) 劉備、漢中王を名乗る
八月 于禁軍水没
十月 曹操、洛陽に到達
閏十月 呂蒙が関羽討伐軍を動かす
十二月 関羽斬首
と、于禁水没から荊州失陥まではおよそ三ヶ月の間がある。
呂蒙と陸遜が三国に跨る権謀を巡らし、関羽は戦地で前将軍号を受けるなどの政治的動きをするに十分な時間があった。
劉備にとっても、数万の大軍が荊州に向かうような大掛かりな動きは無理でも、何らかの支援や指図を行うつもりなら十分な時間といえる。
>>517 >ってのは明らかに大規模軍事行動のためのラインじゃないんだよね
>どちらかというと漢水以南を己の版図としてよしとする匂いがする
これにはまったく賛同する。
関羽・劉封・孟達らの行動は、戦線を江水ラインから漢水ラインへと引き上げる動きだろう。
そのために漢中から荊州を連結した。これが漢水ラインにあたる。
>>518 >関羽が〜
>捕虜三万〜
うん。これ単体ではまったくその通り。いずれも関羽の対応や失策だね。
でも俺は、
>>501でも
>>506でも、『成都にいる劉備から見た』対応や見通しのことしか、論題にしていないんだ。
だからあなたは、
「劉備は、関羽が充分な対呉防御策を取り続けていると信じて本格的な支援を送らなかったのだろう」
と一言言えばよかった。それなら俺もすぐに賛成した。
>>520 >『漢中防衛終了後すぐの情勢下で』
と上記の通り、「すぐの情勢下」というほどではない。少なくとも曹操が漢中から洛陽へ移動するだけの時間があった。
勿論、劉備も多少の支援は送ったと見ていいだろう。例えば新たな支配域に県長を送ったりしている(のち陸遜に討伐された)。
しかし、江陵の空白を突く呉の襲来に備えるような兵力は送らなかった。
で、
>呂蒙の不意打ちを完璧に読まんと無理だろ。預言者じゃないんだから
別に読めなかったことを責めてるわけじゃないんだよ。
先主伝などを見る限り、劉備は曹魏に対しては攻め手を幾つも打っていたが、
呉に対して(関羽を打ち破るほどの)警戒をしていなかった、緊張感がなかった、と言ってるだけなんだから。
528 :
514:2011/01/17(月) 23:00:17 0
と、ここで手打ちにしたいところだが、気になることがある。
>>523>>525 >明らかに後方とされる公安まで一気に落ちてるのはこの捕虜を考慮しなけりゃいけないだから
これが新たなネックになる。于禁軍水没は八月。この大戦果は当然、余すところなく劉備にも伝えられたはずだ。
関羽が逸って守備兵力を引き抜いたのとは違い、この「捕虜三万」による「後方機能不全」は、(それほどのものが起きたのならば)
成都から計量的に予測可能なものだ。
にも拘らず、劉備は関羽に自重するように命令も出さず、後方負担を軽減するような処置も取らなかったように見える。
>戦いもせず、耕しもせず、ただ飯食うだけの捕虜三万抱えこんだらどうなるか想像するといい。
この状況を放置するなんて、さすがに成都も油断しすぎと思うのだが。
まあ俺は、于禁軍の捕虜がそんなに後方負担にはならないから、この点で関羽や劉備の失策は無いだろうと
論証できると思うけれど、
それはそれとして、先に
>>525のシナリオでの、劉備・関羽らの思惑について見解を聞きたいな。
忘れてた。以上3レス、
>>514でした。
>>525 比較対象が北伐じゃ比較にならなくね?
北伐の時には、益州から関中への補給路の長さと悪路であることが問題になっている
詭弁を使うなら
実際、益州攻めでは関羽軍以外に張飛、諸葛亮、趙雲三軍が三路で益州に攻め込んでいる
これプラス劉備本軍が別にいてその合計が三万以下とは考えにくい
つまり益州攻め直前で、関羽軍+(最低)三万を養えた劉備支配下の荊州が
益州はおろか漢中も平定済みな樊城攻防時に、捕虜三万増えたぐらいで混乱が起こるもんか?
なんてことも言える
まあ、何の備えも無いところに捕虜3万が発生して
捕虜3万人分の飯を用意するのに奔走したところを呉に衝かれた、というのも十分有り得るだろうけど
そこはさすがに史料から拾わんといけないよなー
>>526 まあ半分与太話だけど、注釈での劉備の発言がモロそう言ってるんだよね
「俺は漢川を手に入れる」ってさ
最初読んだ時はてっきり漢中オンリーかとも思ったもんだ
ただ、劉備軍の行動を見ると漢水保持を目標としてるのは結構正しいと思う
制水権?を保持する目的があるからこそ、唐突な大水に対して船が準備できてるのはその傍証足りえてると主張したいね
>>528 失火出したり、兵糧不足だからと言って紛争地帯の穀倉襲ったりと
策源地が混乱状態にあるのは諸々の記述で窺い知れる
この状態を成都側からどうやったら解決できるかつーと答えは「3ヶ月では何も出来ない」
人と兵糧を移動させるにしたって劉備の主力は漢中にいて四川盆地へ移動するだけでもそのくらい過ぎる
放置してたのか実際に何かしてたかは記述がないので何もわからないが
劉備には明らかに対応のための時間が足りない
当時の輸送速度なめんな
>>529 それって「年単位で入念に準備しておいて、且つ軍の移動期間そのものは不明」という状態なんだけど…
精々わかるのはラクを囲んでから1年で益州各地を鎮定してるので移動期間+各地の攻撃で1年以内ということだけ
>>529 横槍だけど
入蜀時の劉備の本軍数万は劉璋が対張魯のために支援したため物資は豊富だった。
劉璋伝註の呉書の云う所、米二十万石、騎馬千頭、車千乗、絹や錦等々という。
また歩騎数万の兵力も劉璋の支援で三万余となった。
長期の入蜀は敵に食んでいたわけだね。
う〜ん劉璋っていい人だね。
>「3ヶ月では何も出来ない」
殺せばいい。簡単っしょ。
それがかわいそうというのでもあれば、関羽を即座に撤兵させて、捕虜の益州後送に従事させればいい。
一月あれば負荷を益州全土に分散させられる。
三万人*三ヶ月。それが事実だとすれば、総兵数で同程度しか持っていない荊州関羽軍の備蓄兵糧に
大きなダメージを与えるのは火を見るより明らか。確かに。
遠征地ですらない、一州の重要拠点の兵糧備蓄が日々目減りしていき、篭城も出来ない状態まで落ち込むのを、
「何も出来ない」と三ヶ月もぼけっと見守っていたのであれば、
関羽・劉備だけでなく劉備軍閥の軍事関係者は単純な引き算と掛け算も出来ない低脳ぞろいだったって事になる。
そこまで貶めることは俺には出来ないな。
>>532 米二十万斛程度だと1万の兵士を4ヶ月食わしたらそんだけで消えるけどな
3万ちょいともなると2ヶ月も危うい
>>529レスしてしまった俺が言うのも何だが
俺は別に
>>525に難癖つけるつもりは無いんだ
(口が悪いのはちょっと反省している)
ただ捕虜3万の脈絡が今のところないから、説明欲しいなーって思っただけだったんだ
>>527が言ったとおり
「劉備は、関羽が充分な対呉防御策を取り続けていると信じて本格的な支援を送らなかったのだろう」
の一言で片がつくような話題で
「捕虜3万」の話をするからには、それに基づく持論(ソース付き)があると思った
俺はそれが聞きたい
今見返したら煽っている様に読めるから、そう思ったのなら本当に申し訳ない
>>535 その一言で片付くなら誰も悩まない
解決しないから
ってかそもそも劉備の指示で行われた大規模侵攻作戦において
関羽がいくら仮節持ってるからって関羽が全体の総覧してるわけもなく
官位とか見ればわかるけど関羽がやってんのは精々軍の統括だけで
補給とか輸送とかは他の人の仕事だよ
ほぼ完全なトップダウン形式の劉備軍閥を理解してないんじゃないの?
例え呉が中立を守っても劉備が加勢しないで関羽単独で樊城を抜くのは困難かと。
魏は曹操が直接後詰しているし。
>>537 その後詰に回って関羽に向かう曹操を後ろから劉備が突いて邪魔すりゃいいのにと思うのだが
何故か劉備は成都に戻ったきり、夷陵遠征までの時間が飛ぶんだよね
その後、呉に漢水周辺の郡を攻撃されてるけどそっちにも救援なし
記述ないだけで何かしてるとは思うんだけど、本当に何してたんだか
これから奸賊(笑)を成敗しようとする皇族が捕虜3万生き埋めなりなんなりで処分したら
その先降伏しようとする奴がいなくなるがな
侵攻したときに協力しようとする潜在的シンパもいなくなるがな
官渡の場合は官軍(曹操)が逆賊の徒(袁紹)を穴埋めしても特に違和感がないが
劉備関羽の捕虜の扱いは正しい
>>538 曹彰などが長安で引き上げた漢中遠征軍を率いて居座ってるから
益州から荊州に援軍だすなんて夢もまた夢だし
「後ろをつつく」も無理だし
それどころか漢中に居座るだけで精一杯だよ
109 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/10/21(日) 14:33:44 ID:zk76ol2O0
強制移住は215年から216年に掛けてあったみたいね
張魯が治めていた時に少なくとも10万戸+馬超の乱で数万戸
さらにそれ以前の李カクの関中政権のイザコザで馬超と比べ物にならない数が入ったっぽいから、相当な人口だったはず
んで強制移住は記述にバラツキがあるけど最大の物で8万戸とあるから、夏侯淵が漢中司令官として居座っていたときは大げさにいうと無人に近かったんでは
なんでバラツキがあるかというと、各方面に移住させている、つまりは何段階かに分けられて執行されて、その時に携わった人も違うので総計幾らとならなかったんじゃないかな
曹操の強制移住に関しては他の例ではこんなことないから、トウタクも真っ青の超大規模な移住政策だったと思われ
112 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[] 投稿日:2007/12/21(金) 14:19:26 ID:VMEeiwiL0
張既伝:住民数万戸を三輔に移住 武都の5万余を天水に移住
杜襲伝:洛陽に8万余を移住
和洽伝:住民を移住させ漢中を放棄した
張飛馬超が攻め入った武都=補給もままならぬ空城
劉備が占領した南鄭近辺=無人地帯
>>539 官渡は防衛戦ってこともでかいわな
そっからしばらく攻めさせないことが重要な状況だったから捕虜皆殺し出来る
攻め込んで相手に降伏でもなんでもいいから拠点やその周辺領域を確保したい側が
テイクノープリズナーなんてやったら徹底抗戦招いてどうしようもなくなる
なんか反論が無いみたいだから捕虜三万人圧迫説は立ち消えでいいのかな
544 :
543:2011/01/18(火) 00:45:20 0
俺様の大勝利だ ザマアw
>>543 他の人のレス読んでる?
>>533で「殺せばいい」なんて言ってるけどそんなわきゃない
関羽は計算に合わなくても捕虜を殺せる状況になかった
兵糧は目減りする、輸送するには期間が足りない、だから呉から略奪する羽目に陥ってる
数万人分の兵糧なんて年単位で準備しないとそう簡単には手に入らないよ
十二分に捕虜によって兵糧が圧迫されてるのが史料から読み取れるよ
どっちにしろ孟達らすらうごかねーんだからどうしようもないっすわ
兵糧の問題を差っ引いても、関羽はちょっと見通しが甘い
荊州の北側で戦争やるんだから、陽州方面の軍が動く可能性がある事は予見出来るはずだし
呉の魏への外交感情を把握してなかったとしても、夏侯惇が都合よく釘づけになってくれるとは限んねーんだし
>>546 >どっちにしろ孟達らすらうごかねーんだからどうしようもないっすわ
もし関羽以外のものが荊州を守っていたら?
http://unkar.org/r/chinahero/1189212296 600 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/02/25(月) 02:27:55 ID:Dz2CjaY+0
>孟達の北上は関羽に隠れて目立たないけど、兵4000で全ての郡を撃破占領した快挙。
それだけ有能なら劉封なんかを送り込む必要ないだろ。
劉封は何しにいったんだ?
665 :名無しさん@お腹いっぱい。[nisekurosage]:2008/03/20(木) 23:49:18 ID:Jdo4sVjH0
>>600 簡単に言うと第一に孟達の援護。
第二に劉備からの新しい指令を伝達すること。
孟達はシキから山麓越えで房稜を戦略的な奇襲かつ戦術的強襲で
落としているから補給線、連絡線の維持に問題がある
かつこの辺りでは魏側には上庸太守の申耽、南郷太守の傅方、
彼らをバックアップする荊刺史の胡脩がいるため孟達単独で作
戦を継続させると彼を見捨てるだけになってしまう
作戦的には上流の漢水を劉封が下ってきて上庸、房稜への道を
塞いで傅方,胡脩を防ぐ一方で申耽を孤立させると言うもの
劉封の派遣には非常に大きな意味があるわけです
そして更に劉・孟に対処しようとする胡脩,傅方に対しては下流
にいる関羽の大兵力がバックから攻め、上庸を降伏させた劉封,
孟達軍と前後挟み撃ちの雪隠詰めとすると言う構図になるわけ
この辺りの劉備側の作戦は非常に構想力の大きなもので曹操に
して見ればいきなりこれほどの作戦を打ってくる劉備陣営には
容易ならない危機感を抱いたと思うよ
548 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 08:16:21 0
そもそも、関羽が捕虜にした三万ってどこに消えた?
于禁は孫呉経由で魏に帰ったが、三万の兵はどうなった。
l::l::;イ__, ヽ、ト、::::ヽ、\:',ヽ〃l::::::l
';l l::l ` ‐- l:::::l::::::l
l::::l == 、 ,.ィ== l:::::l:::::::l 劉備の正体知ってる?
l:::::li //////////// l:::::l::::::::l オレは曹操閣下の名誉を守るために戦ってるんだけど
l::::lヽ、 r....::´`ヽ /l:::;'>::::::l
l: // ` r--‐ァ' ト´::: ::::::::::::l .
/ / /._ / \: . . : : l
l | |〈〉`>'´ \. : : 丶iヘへ.
丶/./─ 、 | / / ̄l、 : : : 〉 |ヽ!Z_ .
l / _,-吉`ヽ、 / / ヘ: /l \`レ /、 ,、nfjfr. ( ^+^ )
/i l /: :/7:`、 `丶/ / _ - Y 丶__`┴l´`i Y`っ i‐一' ヽ._
' `|: : / !: : 〉 ⊥  ̄ ¨/|  ̄/. ノ`-r'´-‐‐´  ̄ ̄丶
\__/|: ∧ l: : ! ノ 〕 ,1 / i .i
'´ | レ'` ‐‐ ' /!\ | / ヾ _ノ:_λ ・ 人 ・ ノ Tヽ
,-=7 〇 /\ / 丶 ̄  ̄ │
「 ,┤ 人 /\ ` ‐<ユ ヽ }
┴´ | / ∧ /、 \ | ヽ 〃
| /レ' / ト /、 \ 丶L ノ 。 丿
! / l | |/ 丶 丶 / ノ ヽ、_ _,ノ }
X l l 丶 ヽ. _/ / (U) |
曹操患者
550 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 09:19:58 0
関羽が捕虜を取ったとすれば、それは捕虜を自分の兵力に組み込むつもりだったのだろ。
降服した敵軍を吸収する話は珍しくないんだから。
兵力増強目的だったから懐柔のために食わせた、ただそれだけだろ。
>>550 無理とはいわないがこのケースは非常に難しい
・自分の兵力と同規模の降伏
・遠国出身
・他国に侵攻して自国に移送
・すぐさまその兵の出身地を「解放」する見込みはない
長期的に考えるなら新しい家族を作らせて土地と牛を支給して同化させていくという手だろうな
552 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 09:57:44 0
>>551 曹操だって何度も住民の強制移住やってるし、別に問題ないのでは?
3万には家族がいるって
家族も一緒に捕虜にはしてないでしょ
農民を土地から離すことの難しさは方々の伝に出ている
554 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 12:04:45 0
となりの益州では、劉備が漢中にやってくる直前まで、曹操軍は強制移住作業をやってただろ。
戦闘と同時にやれないことではない。
つーか戦闘止めればいいだろ
防御拠点の防御能力が摩滅し続けていくのに
三ヶ月放置して攻め続けて誰も止めないとか
戦略ゲームのバグルーチン並だわ
556 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 14:39:52 0
蜀側は西陵の守備が手薄だったのが誤算の始まり。
益州の出入り口の守備が厳重だったら、例え江陵・公安が
陥落しても、後の東征で奪還できる機会はあった。
>>555 漢水確保という当初の目的達成もせず人だけ確保して退却とかないわぁ
あ、ごめん
捕虜だから確保どころか当面はただ飯食いにしかならないね
荊州西の要衝ではあるが、夷陵は長江が平野に出て扇状地を作る場所にある。
よほどの兵力を駐屯させねば、あっさり後方を断ち切られて孤立する。
平野側を大勢力が支配するとき、山側の勢力が長期維持できるような場所じゃないだろう。
逆に山側から攻められたとき、ここに強固な防備があれば、
各所を固めているだけで平野への展開を大きく制限できる。
夷陵の役では劉備がじりじり前進を続けているようだが、これに半年以上かかった。
>>557 捕虜を取った時点で、目的達成どころか数ヶ月で一州が破綻するのは誰の目にも明らか(捕虜三万論が正しいのならば)。
であれば、失敗が致命傷になる前に退くのが普通の思考じゃないかな。
では捕虜は生き埋めにするしかなかったのか。。
>>560 引く→捕虜でパンクしたまま得るもの無し→史実と同じ結末へ
引いたからって兵糧が魔法のように増えるってことはない
>>561 埋める→降伏者の生き埋めによって目標達成が困難に→史実と同じ結末へ
捕虜を殺すにしても、吸収するにしても相応の時機ってもんがあって
孫権の慧眼はその時機と関羽の状態を的確に見抜いてたってわけだ
>>562 そういう結果論はやめようよ。
正しいんだろうけどおもしろくない
564 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 20:40:50 0
ちなみに、
サブプライムローン入り債券と日本国債は同じ危険性があるんだぜ。
この点を気がついている人は少ないけどね。サブプライムローン入り証券
が暴落したのは、債券そのもの焦げ付きよりも、元々狭い市場でしか
取引されてなかったところに、一斉に売りが出た為に、パニックがパニック
を呼び、買い手不在の暴落相場になった。これが格付けが高くても紙切れ
になった理由。
日本国債も同じ危険性がある。日本国債は狭い日本の国内市場で大量の消化を
してきた。それが買い余力が弱まってきて、何かのきっかけで売りが優勢になる
と、一斉に売り一色となり暴落相場になりやすい特性がある。今までは十分な
買い余力が国内にあったらから、そうした問題が発生する危険性がなかったが、
国内の買い余力に限界が見え始めてるので、サブプライムローン入り債券暴落
と同じメカニズムが働く危険性が出てきたのさ。
日本のバブル時の不動産も同じ。狭い日本の不動産市場に資金が集中しすぎ、
買い余力が無くなり、売りが優勢になると一気に買い手不在の売り手相場になった。
狭い市場は、投資の対象が何であれ、資金が集中し過ぎると、買いが弱まると
一方的な売りになりやすい特性がある。
降兵3万はそのまま呉がおさめて南海の方に屯田させたんだったな
>>565 あ、それ知らんかった
どこに書いてあるか教えて
原文コピペしてくれるともっと助かるが
知らないはずはないとおもうけど。。
>>563 この場合は、そんなに正しくもない。
というのは、
>>562 荊州軍は総勢数万。樊城攻撃の際にはその動員限界まで動員されていたと考えられる。
だから、攻撃と防備で手一杯になって補給ができず、輜重人員が防衛部隊から引き抜かれれる事態が起きた。
攻撃をやめて軍をある程度解散して家に帰せば、府庫から兵糧を出す必要が無くなる。これで関羽軍自体の兵糧消費が半減する。
次いで、捕虜を荊益州全体に移送して殖民させる。彼らは田作に従事して穀物を作るまでは「ただ飯ぐらい」だが、
戦時下の荊州三郡の府庫備蓄で養うより、劉備陣営の支配領域全土で養う方が負担は十分の一にもなる。
民戸から物資を臨時徴発するにも戸辺り少なく済むしね。
この移動作業は数ヶ月で済むだろうし、捕虜の大半が荊州の手から離れるのには一月もいらないはずだ。
江陵から益州に入るまで三百キロくらいなんだから。
関羽が樊城攻撃に限界振り絞っている限り、こんな移送作業もできるわけがない。
>>533の本論部分に誰も反応しないもんだから、こんな簡単な計算に誰も気づかないほど劉備陣営が馬鹿だった説に
みんな賛成で話が続いてるんだろうと思っていたが違うのか。
実際三国時代は人口激減した時代であって三万の降兵といえども無駄にはしたくなかったはずだよね。
実際は夷州、壇州攻略につかわれてオレらのご先祖になりました
>>567 いや、マジでごめんわからないんだ
見落としてるのか読めてないのか自分でもわからないが・・・
是非教えてほしい
>>571 あなたみたいな博識なかたが知らないはずはないですし
なんだ、そんなことを言ってるのか。おれもそれなら知ってるし。教えてもらうほどでも。。と言う様な文章ですので。
>>572 横から出てきた俺も悪いかもしれんが、誰かと勘違いしてる?
自分に反論してくる人間はみんな一人に見える病の人っているよね
>>568 軍を解体したらそのまま呉から攻められるから
相変わらず史実と変わらない
むしろ間抜けな結果に陥る罠
>>574 571のは反論ですらないんだし気持ちよく教えてくれたっていいと思うんだけどなあ
>>575 「ある程度解散」ね。
敵襲への即応戦力を防備に残す、平時の防衛体制に戻すってことだよ?
なんで城の守備兵を全部解散しなくちゃならないの。光栄ゲームかよ。
>>575 その辺の基礎情報は、昨日三万捕虜兵站圧迫説を持ち出した人が揃えて出すべきじゃないかと思う
今日はいないのかもしれないけど
579 :
578:2011/01/18(火) 22:03:47 0
>>577 呉が対関羽に準備した軍勢でそのまま南郡押さえるだけでなく
陸遜に長躯させて房陵、夷陵も落とさせたところから見ても相当な人数動員かけてる
そもそも関羽軍における平時の防衛体制ってのが、戦時体制なんだが
係争地の守備任されてる軍に「平時の防衛体制で人数減る!」とか、攻め込まれた時にどうすんだよ
>>578 捕虜3万が呉に鹵獲されたまでは俺も言ってるけど
南海で開墾に使ったとかないわぁ
それは俺じゃない
ちなみにこの時の捕虜3万は呉の降伏時に将軍である于禁とともに魏に返還されてる
返還までのわずか2年間でどう遇されてたのかは全く不明だが
とても開墾に使って意味のあるような年月じゃない
三国志って官途の戦いまでが一番面白いな
三国ができ始めるとつまらなくなる
この時代の兵士ってのは、殆どは専業兵士じゃないんだよ。
州当たり何万もの兵士を兵士として養っておくことが出来ないからこそ、民屯ってものが作られた。
兵戸、民戸、徴兵、民屯、色々派生はあるが、基本的に農民だ。
徴兵の手番が回ってくると、拠点に赴いて守備に付き、訓練を受ける。
公田や民屯の家だと、収穫の五割とかを朝廷や軍部に持っていかれたようだが、
彼らが自前の家計を持っているのは変わりない。共産主義じゃないんだからね。
大征伐や敵の襲撃があったとき、日頃から順繰りに軍事教練を受けていた農民兵が一気に召集される。
彼らは多数でありながら既に一定の錬度を持っているわけだ。
戸籍登録が不十分な場合は募兵が行われたが、これも戦時招集の一種には違いない。
戦時には一州辺り数万の兵が動き、平時はその数分の一の兵が敵の第一波に備えて
即応体制で拠点を守っているというわけだ。
585 :
世界@名無史さん:2011/01/18(火) 22:31:36 0
三国が形成されると、
一回の局地戦の勝敗で大勢が決することが無くなる。
蜀の東征の大敗も、蜀が滅亡するようなことはなかったし、
既に国家として体裁が整っていた曹操支配圏が、赤壁の敗戦で
崩壊することもなかった。
特に220年移行は大きな国境線の移動が蜀滅亡までほとんど無かった。
強いて言うなら、諸葛亮の武都・陰平攻略が該当するかもしれないが、
漢人がどれくらい住んでるかわからん僻地。面積的にはそれなりの広さ
だが、実質的には大したものではない。
>>585 220年以降でも荊州北部の漢水流域が一度盛大に移動してんの見落としてない?
陸遜が曹操死亡時のドサクサに関羽の戦果を掻っ攫って襄樊ゲットしてたのを
その2年ほど後に曹仁を大将にした魏の軍勢が取り返してる
こんな大規模な国境線の変化をほとんどなかったと言っちゃまずいでしょ
>>584 この時代の兵士は専業化したってアジア史論で宮崎一定が述べてるけど
それを引っくり返すだけの材料はある?
>>587 「この時代」って、魏晋南北朝全体を通してのことじゃないか?
魏晋代は世兵制や兵戸制がその端緒に就いた時代だよ。
農民に耕作させながら辺戍に就かせたことはケ艾伝に詳しい。隴西と淮水の両方を改善した人だから。
戦時徴募の明白な例は呂乂伝。
農民とは書いていないが、魏が淮水防衛において、呉の来週があったとき他州からの兵を送っていたことは
満寵伝や温恢伝にある。
具体的な招集形態は記されていないが、敵の大軍の襲来に対して、味方の糾合が間に合わないから動けない、
というような話は陳泰伝等複数の例があったはず。
晋書王渾伝には、豫州の州兵が休暇に出ていて、呉の襲撃にあったとき王渾の手元に一旅(五百)の兵しかなかった逸話がある。
以上から、当時の制度上、前線拠点でも平時と戦時では将軍が掌握する兵力に大きな開きがあったことがわかる。
>>547 それは劉備の思惑
関羽はその孟達に援軍を要求して断られてるんだがね……
>>588 後漢末期から専業化していって呂布のような傭兵隊長が伸してきたって内容なんだわ
晋どころか後漢の頃からって話だな
今手元に原典ないので趣旨だけの引用で済まない
>>588 それは「今まさに戦闘をするという状態ではない」場所なんだが(係争地ではあっても)
荊州南郡は先年から呉と蜀で武力衝突までして奪い合いしてる地域で
何時また衝突が起こっても不思議じゃない上に、その負けでそのまま国境線が変わる
三国志前期〜中期の状況でいくら何でも関羽が北上しないからって
捕虜3万いるわ、東に大軍持った呉は居るわって状況で軍を縮小できるか?
>>590 後漢末の雇兵ね。でもそれは三国が安定すると戸籍兵に還元されるから「大きな流れではこういえる」
という程度のものだろう。
晋武帝の伐呉詔というのがあって、
「今調諸士家,有二丁三丁取一人,四丁取二人,六丁以上三人,限年十七以上五十以還,先取有妻息者。」
とされる。呉討伐の二十万の大軍を興すために、おそらくは全国の士家に動員が掛けられた。
「士家」という一般の戸籍とは違った階層に対する布告ではあるが、大征伐に当たって
一家当たり一人から三人の男子が取られ、上下の年限も定められる云々というのは、
一般の戦時徴兵と変わらない姿だ。
まあ、魏の士戸と屯田民の関係とか、史料が少なすぎてよくわからない部分も多いんだけど。
戦時でさえ家内の壮丁5割の招集で済むのだから、その給金で一家を養えるはずもなく、
数十万戸に「ただ飯ぐらい」をさせる力が魏にあったはずもないので、
平時では士家も農業を営んでいた、士戸≒曹操の屯田民 …だと考えたいのだが、どうも結びつける史料が見つからない。
>>591 軍備縮小と徴兵制度の区別を付けてくれ。
それから、孫権が侵攻しまくり時代の合肥や諸葛亮北伐期の上ケイが、関羽時代の荊州と比べて
「今まさに戦闘をするという状態ではない」と?
荊州分割で一応名目だけでも講和が出来ていた当時の江陵の方がまだ安全だろう。
>>594 淮水の防衛だろ?
戦争バッチバチにやってるとこをは淮南で淮水自体は係争地への輸送路じゃん
>>595 今原文集めるから待ってて。
その前に時間稼ぎで聞いとく。
蜀呉で荊州を争奪していたから云々というからには、
215年から219年まで、三万前後の関羽軍が戦時も平時もなく
全軍フル稼働しっぱなしの状況だったと考えるわけね?
>>596 常時全開かどうかは記述もないのでよくわからんってのが正直なところだが
その間、関羽は小競り合い繰り返してて、少なくとも常時戦争状態であるとは考えてる
ケ艾じゃなくて司馬孚だった。
司馬孚伝・上ケイ
遣冀州農丁五千屯於上ケイ,秋冬習戰陣,春夏修田桑。
ケ艾伝 淮水南北
陳、蔡之間,土下田良,可省許昌左右諸稻田,并水東下。
令淮北屯二萬人,淮南三萬人,十二分休,常有四萬人,且田且守。
温恢伝 合肥
建安二十四年,孫權攻合肥,是時諸州皆屯戍。
満寵伝 合肥
拜寵征東將軍。其冬,孫權揚聲欲至合肥,寵表召エン、豫諸軍,皆集。
賊尋退還,被詔罷兵。寵以為今賊大舉而還,非本意也,此必欲偽退以罷吾兵,而倒還乘虚,
掩不備也,表不罷兵。後十餘日,權果更來,到合肥城,不克而還。
最後のが、戦時呼集と解散の実際を示すもっともよくわかる例だね。
それから、話は戻るが当時の兵が農民兼務だった例は満寵伝から拾ってきた
汝南太守時、
・一時皆平。得戸二萬,兵二千人,令就田業。
全体を語るにはちと足りないが。
>>597 戦争状態というなら、そりゃ三国時代は常時戦争状態だよ。
しかし兵士に兵士だけやらせてたら国庫が持つわけが無い、
ってんで曹操は屯田を始めたわけで。
小競り合い程度の時期でこの耕作を辞めはしないだろう。
>>599 漢中戦前後の時期に蜀で屯田が行われてたかというのは記述もなくよくわからないだろ
まあ残念なことに戸籍制度自体よくわからんので魏との比較にし様もないのだけど
記述が無いって言っても荊州の生産力は稲作圏の許都とそんなに大差があるわけじゃないだろう。
経済力が同等なら、かなりにかよった財政制度を持っていたと見ておくのが自然じゃないか?
相反する記述が無い限りは。
荊州を獲って十年も経つ劉備軍が、兵士を戸籍に入れもせず、土地も与える(または貸す)こともなしに
一家まとめて官費と糧食で養い続けていたとはちょっと考えられないと思うが。
>>601 諸葛亮が劉備への献策として最初にやったことは流民を戸籍に強制的に取り込んで兵士抽出しろっていうことだから
荊州南部獲得した頃から早々に兵戸制とは言わないまでもそれに近いことはやってるだろうね
ただ荊州南部の生産力は戦乱続き、搾取続きなエン州〜荊州北部とはダンチだと思われるよ
あまりにも搾取されるもんだから侯音の反乱が起こったと言われてるけど、
曹操が搾取してまで相対した関羽の側には別にそういう搾取の記述は特にない
安定した統治下での耕地の「地力」自体はそんなに変わらないだろう?
天府と言われた益州でも蜀漢は屯田をやっている。
孫権も中軍を養うための大規模な屯田地を丹陽に開いた。
荊州南部の関羽時代だけが、兵士に耕作させない完全専業常備兵制を
10年維持し続けたとしたら、それは確か北宋並の制度になるはずだ。
また、三郡の戸口は晋代でも7,8万戸くらい。五掛けして40万ほどか。
幾ら余力があったとしても、この人口で三万の兵士とその家族、
10万を越えるだろう「ただ飯ぐらい」を10年養ったとしたら、
関羽の評判である「恩信大行」はそれこそ生まれないと思うのだが。
ついでにちょっと見つけたのだが、前漢平均的な国家予算は17億銭で、
兵6万の征伐を発動すると、追加支出が50億から70億必要になるという
研究結果があるようだ。戦争って金食い虫だね。
国家予算が三倍に膨れ上がるという研究結果があるようだ。
>>603 安定してりゃ言うことはないがエン州南部から荊州北部は安定してないから反乱起こるわけで
>>604 うん、そうだね。
でも、漢代からは考えられない大規模な軍備を永続化するために、三国とも形はどうあれ兵士に耕作させた。
だから関羽も十年荊州を安定させたからには同じことをしていたと見るのが自然だろうって。
兵士による屯田って結構後になってから、少なくとも曹操死後の話じゃなかったっけ?
「形はどうあれ」。
徴兵制なら、兵士は一般農民だから、平時農業生産する農夫が戦時に徴兵され壮丁として出生する。
民屯なら、一家ぐるみで軍の管轄する農地を耕作し、小作料として兵糧を供出する。
軍屯なら、他の地方から前線にやってきた壮丁が駐屯期間だけ現地の農地を耕作する。
いずれも、敵の来襲時や城砦守備の割り当て時以外は、「兵士」に相当する男が農耕生産に従事している制度。
民屯は兵士じゃないだろ
まあね、「曹操時代の屯田」に兵役義務があったかはよくわからないね。
ま、これだと思ってくれ
>・一時皆平。得戸二萬,兵二千人,令就田業。
>遣冀州農丁五千屯於上ケイ,秋冬習戰陣,春夏修田桑。
なんか本題からずれた一行レスばかりになってきたけど、どうする?
こちらとしては、俺からの反論の部分否定なんかじゃなくて、
一貫した大きな歴史絵図の描写を読みたいのだが。
もともと捕虜三万とか兵站圧迫とか言い出したのは俺じゃないわけだから。
>>609 捕虜3万は記載あるでしょ
関羽軍が兵糧に困って呉から略奪したのも記載あり
さらに失火騒動まで巻き起こって混乱状態にあるわけで関羽軍の体制が盛大に揺らいでたというのは読み取れる
じゃあ引けば→無理
じゃあ殺せば→無理
じゃあ援護→3ヶ月じゃ無理
というわけで史実通りのタイムスケジュールで孫権が動けば
現状出てる情報では何やっても手詰まり状態
引こうが引くまいが兵糧も人手も足りない
関羽に出来ることは襄樊落として劉備の支援を待てるだけの体制を整えることだったわけだけど
それは叶わぬ夢だったので、結局if無しってことだ
>>610 最初の三行は否定できるが、それはまたいつか。
二段落目以降は、つまり昨日から今日に掛けての後漢末三国兵制や
捕虜移送のタイムスケジュール論議をまったく受け入れないということだね。
有効な反論もなかったと思うんだけど。
まあ、ここまでやって意見が変わらないなら、いくらやっても無駄だろうな。
「退けばよかった」説についてはこれでお開きにしよう。
実際に出来なかった、やらなかったことを出来ると断じてる根拠がねーよ
あ、でもやっぱりわかんないところが増えた。
>関羽に出来ることは襄樊落として劉備の支援を待てるだけの体制を整えることだったわけだけど
ここが理解できないな。襄樊落としてて守る領域を広げて、曹操・夏侯惇と対峙する危険を残さねばならないなんて
傷口をさらに広げるだけっしょ。
関羽の攻撃軍が樊城を落とさずに江陵に戻れば、そっくりそのまま捕虜の益州護送に使えるよね。
気になってる荊州守備は故からいる糜芳らの守備軍で足りているはずだし。
三ヶ月あれば平常の防衛体制に戻って、呂蒙は付け入る隙を見出せない。
襄樊を攻め続けたら、備蓄は減っていく一方で、篭城できない危険な状態が年を空けても何ヶ月も続くことになる。
陸遜が本当に弱腰だったとしても、それだけ無防備な状態をさらし続けるなんてさすがに無いんじゃないの。
>>612 そうだね。だからこそ、「捕虜三万兵站圧迫」は無かった。と帰結する一助になるわけだ。
「三万は嘘」と「後方の備蓄欠乏は嘘」の二つの論証が必要だけどね。
>>613 襄陽を抑えると漢中〜襄陽のラインが通って南部四郡の有無に関わらず益州と荊州が連結するし
孟達、劉封と連携が可能になる
そうなってからだと江陵、夷陵のラインとその以南を抑えても呉としては蜀を荊州から駆逐できない
あとは漢水からでも長江からでも劉備からの援軍を待てるし、
その劉備も夷陵の戦いのように退路を確保できないので陸路しか選択できないというようなこともなくなる
まあ関羽の手で襄陽は落ちないので結局空論だけど
兵糧が足りてるとしても、肝心の兵が足りんと思うのだが、その論議はもうやったの?
新参ですまんね
>>614 無理だよ。少なくとも漢中がボロボロのこの時代ではまだ。
荊州と漢中は既に房陵まで繋がっているんだ。ここは三年間劉備が維持した。
しかし夏侯尚の攻撃に対して劉備の援軍は来なかった。
呂蒙は史実において、漢水沿いの劉備軍へ手が届かない状況でも関羽襲撃を決行した。
結果的に魏呉の挟撃で蜀漢は荊州から駆逐された。
漢水はこの時代、「明らかに大規模軍事行動のためのラインじゃない」。
関羽が磐石の態勢で漢水江水間を維持すればこそ、呉は本当に下風に立つ危機にさらされるわけで。
荊州の要石に当たる江陵が空虚な状態が何ヶ月も続いていれば、
荊州責任者が弱腰でも孫権の気が変わるのは時間の問題だろう。
漢中から襄陽の漢水がゲームの影響か何かわからないが
移動・輸送が行えるラインであるという先入観を持ったらだめだな
グーグルアースでみたらビックリする
でも263年には上庸太守が漢水を遡って漢中へ侵攻してるし、
蒋琬は漢水を下る東征計画を立てたし劉封は実際に漢水を下って上庸一帯を落とした。
漢中〜襄陽の漢水は移動輸送ができないとは言えないだろう。実際に使われているんだから。
619 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 13:00:29 0
>>558 いやいや、3万の兵力つったら、一州分の兵力にはなるぞ。
兵力不足に悩む呉蜀であれば是非とも確保したいと思うでしょ。
>>616 維持してない
陸遜にサクッと落とされてる
陸遜の房陵攻略は大体曹操死後から黄武改元前の出来事だよ
>>617 ちょっと後になるが漢水下りの魏侵攻は蒋エンによって検討されるレベル
退路が確保できないという理由で退けられてるが、少なくとも漢中からの一方通行路としては
侵攻に用いる検討がなされる程に利便性があったという証拠
漢水周辺の水路が特に整備されたという記述も見ないし、30年くらいなら川の流れもそう大きくは変わらないだろ
十分実用に耐えるからこそ、検討されてんだよ
621 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 14:39:24 0
>>620 劉備もあのあたりには太守を送ってるんだが、やはり陸遜に負けた。
それに対する劉備の反撃が夷陵の戦い。
965 名前: 945 2006/03/18(土) 21:40:16
停滞するスレに再び殺伐とした埋立主が!!(\│゚∀゚┃/ペカー!(AAry
>>964 自分は南郷太守の郭睦は劉備が任命した太守だと解釈しています。
南郷太守の郭睦は房陵太守のトウ輔と共に陸遜の派遣した謝旌に破られてますが
それは 呉書陸遜伝で陸遜が江陵を押さえ宣都入りした後のこととされています
南郷郡、房陵郡の地理関係から見て、郭睦やトウ輔は関羽が送り込んだのではなく
劉備の任命によって成都(または益州・荊州間のどこか)から派遣されて任地に
赴く途中で陸遜らの攻撃を受けてとっつかまったと推察されます。
傍証として、蜀書劉封伝中に注としてあげられている孟達が劉備の下を辞去して
魏に寝返ったときの手紙をあげておきます
「(略)ここに臣は事の原因を求め、自ら房陵・上庸をお返しし云々」とあり、
孟達の中で、劉備の下を辞去する時点で房陵と上庸が孟達の治下にあったことが
窺われます。
既に関羽が敗れる時に房陵太守としてトウ輔の名が陸遜伝に載せられているので
もっとも整合的な説明は、トウ輔は孟達と交替で房陵太守になる予定であった。
しかし、任地に到着する前に陸遜らの攻撃を受けた。と推察されます。
謝氏って昔からの豪族で謝玄のような100万の大軍倒す名将を後に排出しているな。
法正が生きていたら、孟達の性格良く知っているからいろいろと的確なアドバイス劉備に送れたんだろうけどな・・・。
624 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 14:52:00 0
>トウ輔は孟達と交替で房陵太守になる予定
劉備は、孟達の後任を派遣して、それから孟達に一軍を与えて関羽の援軍に回すつもりだったという想像はどうか。
孟達が劉備への手紙で「陛下より委ねられていた房陵・上庸の二郡をお返し〜」って述べてるから
占領後一時的に孟達が二郡の太守を兼務しててトウ輔ら後任の派遣を待っていたってことかな?
申義・申耽は家族を成都へ人質として送って信頼を得てから上庸と西城の太守に任じられてる。
つまり孟達は成都から申義・申耽らの太守任命の沙汰と、トウ輔・郭睦ら占領地の太守らの到着を待ってから関羽救援に赴くつもりだったとか?
626 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 15:33:33 0
つくづく、孫呉が江陵に奪われたことが響いてる。
江陵さえ無事なら、陸遜の手が上庸と房陵に届くはずがなく、従って孟達が裏切りを決意する羽目にもならなかった。
627 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 15:35:38 0
>>626 孫呉が江陵に奪われた
↓
孫呉に江陵を奪われた
でも襄樊を押さえなければ上庸が孤立する。江陵・宜都方面から上庸を救援するには険阻な山岳地帯を踏破するか、
やっぱり襄陽・樊城を制して漢水を確保するしかない。
上庸を確保するなら襄樊の確保もまた必要になると思う。漢中は曹操の強制移住で大軍を維持できないし。
629 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 15:51:10 0
劉備が山越えで孟達に房稜を落とさせたのが快挙なら、
陸遜が山越えで謝旌を派遣し、郭睦とトウ輔を切ったのも快挙だろう。
いや陸遜が郭睦とトウ輔を斬ったのはたぶんシ帰の辺り。李異が水軍率いてるし。
たぶん郭睦とトウ輔は成都から長江を下って南郡に入り、そこから北上して孟達らと合流する予定だったんだと思う。
631 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 16:32:09 0
ところでさ、呂蒙が太守をペテンにかけて
零陵を奪取したのに、何で蜀に返還したの。そんなに零陵は
いらない土地だったの?
>>620 陸遜が房陵を攻めたのは忘れていた。曹丕が襄陽を一時放棄していたこともあるね。
一時孫呉は戦線をかなり北まで押し上げていたことになる。
となると、ますます『漢水があれば江陵を取られても襄樊で救援を待てる』説が遠のくわけだが。
巨大な後方領域を持つ魏でさえ呉の影響力増大を阻止するのに時間をかけたのに、
漢水一本の細い線しか持たない関羽がどうやって南北の敵から身を守るのだろう(しかも兵糧無し。樊城はボロボロ)。
麦城が樊城に変わるだけだ。
漢水沿いの来援については
>>616で、『少なくとも漢中がボロボロのこの時代では』無理だと言った。
曹操が漢中付近から強制移住したため、漢中の兵站機能は壊滅していた。
そのために劉備が関羽に呼応できなかったのかとも思われる大打撃だ。
この時期に劉備が漢中から房陵なり襄樊を救援しようとすれば、成都から主力を行軍させ、兵站も成都から繋がねばならない。
現代の道路でも実に1000キロの救援になる。
http://maps.google.com/maps?f=d&source=s_d&saddr=%E5%8C%97%E4%B8%89%E7%8E%AF%E8%B7%AF%E4%B8%80%E6%AE%B5%2F%E5%8C%97%E4%B8%89%E7%92%B0%E8%B7%AF%E4%B 8%80%E6%AE%B5&daddr=33.014084065904676,107.96128392219543+to:32.702580036300944,108.95746003836393+to:32.324420082054054,109.66883014887571+to:32.19581001072601,
110.29291983693838+to:305%E7%9C%81%E9%81%93&geocode=Fcqv1AEdaHIzBg%3BFUTB9wEdxFtvBimDVrf-MRuKNjEruZG5w4zAYg%3BFXQA8wEdFI9-Bim_KmdcyjeINjHkjT3hX6D2
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=1,2,3,4&sll=32.075593,111.20636&sspn=1.198537,2.087402&ie=UTF8&ll=30.297018,111.09375&spn=38.565228,66.796875&t=h&z=4
(五行を繋げてコピペしてくれ)
漢水確保がどうこうというレベルじゃないのがわかるだろう。漢水が使えても船がなければ意味が無いし。
後に諸葛亮の時代を経て、漢中に屯田や徙民が行われて単独で三万弱の兵を維持できるようになった。兵糧備蓄も十分に行われていただろう。
漢中が対魏後方支援基地として完成していたからこそ、諸葛亮の北伐も蒋エンの東征案も出てくるわけだ。
劉備の時代では同じことは不可能。
ところで、襄樊を取って救援を待つ策は、つまり捕虜ごと南郡を呉にくれてやって兵站負荷を消滅させることが前提だよね。
そんなことのために荊益勢力にとって漢水よりはるかに重要度の高い江水を切り捨てるなんて、とんでもない裏切り行為だと思うのだが。
やはり殺すなり釈放するのが当たり前の手段だと思うよ。
さすがにurl長すぎたか。携帯とかの人達、すまん。
>>630 曹操死亡直後に襄陽は呉が抑えてるわけでわざわざ険阻な山越えしての強襲なんてするかぁ?
李異の水軍で漢水を遡上しての普通の進軍じゃないの?
蜀だって漢水下れば割かしすぐに人を送り込める状況で何でわざわざ山越えさせてんのよ
蒋エン伝に、船を作って東征の準備しようと〜のくだりがある時点で
漢中から流れを下る大規模移動はまず船の準備が必要だったのだとわかる
漢中から上庸まで「直線距離」で150km
上庸から房陵までさらに150km
当時その間には拠点がないというか、邑すらなかっただろうから、現代人が思ってるほど簡単じゃねーっつうの
>>632 遠のかない
そもそも呉の北上に対して魏が襄樊放棄したのは河川の繋がってる南陽盆地〜襄陽のラインが
南陽盆地の荒廃によって全く機能しなくなったから
曹仁なんてわざわざ許に近い臨穎まで引いて駐屯してる
劉備達からすれば漢中〜襄陽がつながれば襄陽が維持されてる限り帰りの足の心配も要らず
漢中から船便で大量輸送が可能、船団は関羽が持ってるので新規建造もどっかから移送する手間もない
魏と蜀では襄陽へとつながるラインが全く別の意味を持ってるので、呉が一時北に国境線を押し上げたからと言って
蜀が確保した場合と一緒にしてはいけない
>>633 そんな前提じゃないよ
南郡じゃなくて長江以南をある程度諦めることになるだけで
長江以北である南郡と蜀への道は確保が可能になる
漢水と長江の間を固めろってことだな
>>636 船なら関羽さんが大船団率いてるじゃないですか
直線距離で単純な距離だけなら船が時速10kmくらいとしたって1日で移動できる距離
荷揚げとか荷降ろしの手間考えても船は徒歩では考えられない速度と輸送量を叩き出すんだよ
唐代の記録だけど快速の船で川を遡上すると一日六十里、流れに乗って下るときは一日七十里とのこと。
>>638 唐代の一里って560m程らしいので遡上で一日35km弱、下っても40km弱ってところか
テキトーに時速10kmとか言ったけど、それよりは確実に遅いわけだ
すまんかった
ただ、100kmや200kmなら1週間要らないわけだな
>南陽盆地の荒廃によって全く機能しなくなったから
同じ時期、漢中〜襄樊ラインは、
・漢中荒廃
・漢水東下の準備無し
・500キロの遠距離
・途中に兵站を補助できるような大都市無し
と、魏が許昌や洛陽から襄樊を維持するより何倍も維持困難な場所にあるんだが。
今までのみんなの話、少しは聞いてくれ。
>南郡じゃなくて長江以南をある程度諦めることになるだけで
はあ!? なんでいきなり呉の攻撃が手緩くなる!?
捕虜三万を抱えて江陵周辺の後方機能が機能不全になったのが荊州失陥の大きな要因の一つだってのがそちらの言い分だろう?
ならば、関羽の(甘い)見込みが当たって、陸遜が閏十月に攻めてこなくても、樊城を取って三方に敵を向かえ、それこそ戦時動員が
解除できない関羽軍は機能不全を長期間解決できず、遅かれ早かれ孫権が牙をむく。
そうなったら主力不在の江陵や公安は守れない。樊城を奪取しても兵糧が捕虜に食いつぶされているから関羽自身さえ耐え切れない。
それが当然の帰結のはすだが。
>>621 5年近く昔の我が懐かしの三戦レスだーーーーっ!
その抜き書き方はニセクロ隠しみたいに見えて悲しいよ、近傍のレスも入れてよ。
957 名前:945 mailto:nisekurosage [2006/03/15(水) 22:36:25 ]
残り少ないスレに殺伐とした埋立主が!!(\│゚∀゚┃/ペカー!(AAry
チラ裏・私見になりますが。
曹仁の軍が少なかった理由ですが
元々与えられていた兵力が少なめだったとか侯音の乱で兵力をすり潰したor
宛への守備に兵力を割かざるを得なくなったとか、漢中戦役に対処するため
曹操が行った戦力再編で引き抜かれたとか考えられる要因や可能性はあるの
ですが、オレ的には劉備側の宜都太守孟達による房陵の攻略とそれに続く
劉封・孟達の上庸攻略に対処するため軍を分けて差向けたところものの見事
関羽に突かれて囲まれたんじゃないでしょうか。
>>955氏よりも少し踏み込んだ感じですか。
あのう・・・
この時代の軍船って巨大な楼船を除いて基本艪か櫂で動かす人力だよ(帆は補助)
漕ぎ手を含む操船乗員が1隻あたり10〜20人だとしたら100隻で1000〜2000人
もの凄い航海計画が必要になるうえに、知らない航路を行くって無謀すぎる
あと人力で平底のジャンク船を常時5.4ノットって、下りならともかく上りでそんな無茶なw
河川・海と船は鉄道が出来るまで運送の主役であり、ハイウェイであったことは否定しないが
水運は書物の概念で一つに括ってしまうと危ないんだよ
>>641の過去レスの続き
この傍証として晋書宣帝紀にある荊州刺史胡修と南郷太守傅方の降伏状況
などが、于禁やホウ徳の降伏と別になっていることがあります。
当時の曹操勢力の軍事体制を分析すると、前線は節を与えられて諸軍を統括
する漢朝の将軍とそれを主に兵站面でバックアップする州刺史及び兵站面では
刺史の監察下にあり、兵力の供出等に関しては(多分)節を持った将軍の
統括下にあって実際に兵站を充実させたり兵力を拠出したりした郡太守が
セットになっていることが判ります。
(更にいうと、こうした節を持つ「漢朝の」将軍がどうにもできなくなると、
漢の丞相にして魏王たる曹操の率いる「魏王の」軍が救援にやってくる手筈
になっています。)
こういうシステムを見た上で、荊州方面を統括していた征南将軍曹仁の周囲を
見ると、曹仁についてるのが汝南太守の満寵で、荊州刺史の姿が見えない訳。
それは何故かと考えると、荊州刺史は襄陽・樊城周辺から離れていたのだろう
とくる訳です。(で、実際、南郷太守なんかと一緒になってるからこの襄樊
からは離れていたことが判る訳です。)
で、曹仁にくっついているべき荊州刺史がなぜこの時期、曹仁から離れて
南郷太守と一緒になってたか? 考えると、先に述べたように、房陵・上庸の
危機に対処するために曹仁からの指令などがあって、上庸方面へ向かっていた
のだろう、と、なるわけです。
>>640 江陵が落ちるのは捕虜を大量に抱えた状態で輸送に詰まってるからであって
襄陽抑えて、仮に江陵が落ちても北側が孤立しない状況になると
今度は呉側が長江北岸で孤立の危機に陥るから
>>643のあとで
>>621となりますが、そこには続きが。以下はその過去レス
これらのことから更に推論の足を延ばすと、劉備側は、トウ輔や 郭睦を房陵や
南郷に派遣すると共に、彼らが任地へ就き次第、劉封や孟達らを関羽の助力として
荊州北部へ派遣する予定だったのだろうと考えることが出来ます。
名前しか出てこない 郭睦やトウ輔と違い、劉封は武力が売りである旨描かれてますし
孟達も、シ帰から山麓を越えて房陵を強襲して陥落させ、更に上庸へも攻撃をかけた
ことから判るように、その軍事能力は相当なものです。
(孟達の軍事能力はもう少し評価されてもいいかもしれません)
洛陽・許昌〜樊城間が平野で水運も活発な300キロ、間にも城邑多数を抱える魏が、中間の南陽盆地の荒廃で樊城を手放したのに、
漢中〜樊城間だけで500キロ、その漢中が徙民で壊滅しててさらに数百キロ先の四川盆地から人と物を運ばねばならない蜀漢が樊城を維持できるとはこれいかに。
647 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 21:18:09 0
ちょ、おま、ニセクロがいるwww
さっさと五丈原の続きかけよ
で、
>>643の続きの過去レスが↓
966 名前:945 mailto:sage [2006/03/18(土) 21:41:23 ]
>>963 と言う訳で、上記考えから自分は 郭睦を南郷を攻略した将軍だとは考えません。
荊州刺史胡修と南郷太守傅方は、房陵・上庸の危機に赴いたものの、
状況を覆せなかったか、救援に間に合わず撤退した、又は、劉封や孟達と対峙している
最中に、曹仁から、今度は襄樊を囲まれたので急ぎ襄樊方面へ戻り、節度を受けるよう
連絡あって、撤退したと考えられます。
ホウ徳が樊の外にいたのも、単純に寝返る可能性を疑われたばかりでなく曹仁から何か
指示を受けていて、それを 胡修・傅方らに伝え、合流するという役目を負っていたの
かも知れません。
まぁ想像に過ぎませんけど。
968 名前:945 mailto:sage [2006/03/18(土) 21:50:50 ]
ということで、こうした所から呉の荊州侵攻が、劉備側の人事異動と体制整備の途中、
劉備陣営が力の再配分を行っている途中のドタバタした時期にドンピシャで行われた
ことが分かります。
呉からすれば最高のタイミング、蜀からすれば考えられる中で最悪のタイミングだった
と見なせるわけです。
あと一カ月呉の判断が遅れていたら、劉備陣営の勢力内パワーバランスの再編は終了
していた可能性が高く、呉の襲撃に対し、あれほど脆い醜態を晒さずに済んだ可能性が
大きいと考えてます。
以上、三戦板「蜀将討議スレッド13」からでした。
>>644 江水の「制川権」をあっさり手中に収められる呉が、漢水にはりつく細長い領域(しかも全部曹魏から分捕ったばかりの新領土)
しか残さない関羽軍を相手に孤立するなんて逆立ちしても不可能だよ。
650 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 21:22:06 0
関羽の荊州経営についての疑問。
劉備は関羽を信頼し、魏と呉との最前線の荊州を任せたということになっているが、
それにしては魏が一度も関羽の荊州に南下してこなかったのはなぜ?
グーグルアースで漢水の漢中市から安康市までの距離を
定規機能を雑に使って測ったら155マイル(248km)だったw
実際はもっと湾曲してし、地図上ではわからない難所とかもあるだろうから
大量輸送とかマジで力いれて計画・整備しないと無理
>>642 水運で飯食ってる商人連中とかと提携してるだろ
関羽だってただ船用意して、漢水の地理わかりませんでしたとか
漢水中心に戦略展開してる連中のやることじゃないんだが
>>650 212年に曹操の揚州攻撃に呼応して楽進が南下している。
張飛らが入蜀して以降には確かにない、かな?
曹操が東西のことにかかり切りになって真南にまで手が回らないって感じか。
>>647 に゛ゃあうぃっ!
諸葛亮リスペクト司馬懿リスペクトそして何より曹叡リスペクトなあのテキスト群を
楽しんでいただけたようで何よりデス。
後は画竜点睛を残すのみなので少しだけ、待って下さい。
つても今月はマジで死にそうで此処に逃げてきただけなので即出し期待とかは勘弁な
655 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 21:30:07 0
>>643 つまり魏はニ正面作戦をやっていたと。
襄樊方面の曹仁と、上庸方面を抑える荊州刺史のニ正面。
関羽は援軍として送ったウ禁を完全粉砕してしまうわ、一方の孟達は荊州刺史をボコボコにしてしまうわで、
そりゃあ許都も動揺するよな。
657 :
651:2011/01/19(水) 21:33:50 0
漢中市から安康市 約250km
安康市から十堰市 約240km
十堰市から襄ハン市 約175km
合計 約665km
(実際はもっと湾曲しているのでもっと長い)
>>652 漢水って一言でいっても関羽とその勢力が知る術がないところがあるんだから仕方ない
658 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 21:33:52 0
>>653 劉備が張飛、諸葛亮、趙雲を益州に引き抜いて手薄になっていってるのに、
荊州だけは無事だってのが解せない。
最初に劉備が3万率いて入蜀して、そのあと張飛、諸葛亮、趙雲も兵を率いて援軍にいったわけで、
もう荊州にはまるで兵力が残ってないはずだ。
魏が南下するなら絶好の機会なのに。
>>655 彼らには二正面作戦をやったという認識は無かったと思いますお
簡単にいうと「釣りだされた」ということかと。
660 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 21:35:51 0
>>658 入蜀時の兵力の考察がどっかにあったから拾ってくる
554 名前:名無しさん@お腹いっぱい。[sage] 投稿日:2007/10/20(土) 22:32:42 ID:HNn+qbIc0
>>548-551 益州入りするときに「数万」とされてるが・・・
しかし・・・
張魯を攻める前に劉璋は劉備を歓待してお互いに官位を与え合い(w
さらに兵を(その他軍需物資も)与えて3万強となったとある
X(入蜀時の劉備手持ち数万)+Y(劉璋の与えた兵)=3万強
3万強+ウソの催促で得た増援4千=3万5千(侵攻開始時)
ここからが状況証拠と推測だが:
Xは恥ずかしくも「万」とあるから1万程度は最低あったと見て間違いない。
あたりまえだけど3万以下。
益州を強奪せんとする矢先に、果たして過半数以上を劉備にとって「新兵」にあたるような構成にするだろうか?
侵攻開始までの1年以内に完全な劉備の私兵とすることができるだろうか?
急襲で得た白水関の将兵の妻子を人質にしたと書いてあるおり、劉備はこの辺がシビアであるのは間違いない。
だとすると3万の半分は劉備自身の兵だったと思ったほうが妥当に思える。
で、ここまでの推測からすると1万5千以上3万以下。
ここからはどうやって幅を狭めるかが問題だけれどもヒントが2つある
663 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 21:43:28 0
>>659 関羽が得たウ禁軍の捕虜3万についてどう思いますか?
「信義に厚い関羽が律儀に飯を食わせて兵糧を失った」説はどうも賛成できないって言うか、
個人の性格のせいにしすぎだと思うんです。
あとで降服した捕虜を自分で兵士として使うためだったのでしょうか?
664 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 21:45:16 0
>>662 仮に劉備の最初の兵力が15000としても、諸葛亮たちの援軍を加えたら、やっぱり30000は荊州から引き抜いてると思うんだ。
>>646 南陽水運で大規模な船着場が直前の反乱で見事に機能不全に陥ってる
侯音の反乱の有った宛には瓜里津があってこれが襄陽と南陽の連結の要だった
だから直後は襄陽が備蓄分で何とかやりくりしてるけど関羽戦直後には兵糧切れ起こして放棄してるし
数年後には瓜里津も使用可能になったと思うのだが、あっさりと呉から襄陽取り戻すだけの軍を派遣できてる
>>650 関羽と楽進で小競り合いしてるし曹操も一応南下というかちょっかいかけちゃいるっぽい
それに曹仁の荊州入りが関羽征伐という理由だったというのは武帝紀に記述がある
666 :
656:2011/01/19(水) 21:47:27 0
一つは鄭度が劉備の軍勢を「1万弱」であると述べてる点。
もう一つは劉備がウソの催促で「1万」を要求してる点。
鄭度が言っているのは間違いなく劉備子飼いの軍勢であることは間違いない。
そして1万弱と言っているのは
・この時点で既に劉備の益州総軍勢もややダメージ(戦死や離反など)を受けているから子飼いも少なくなったと述べた可能性
・劉璋を楽観させるために少なめに述べた可能性(暗に劉備子飼いの軍は少ないから一撃で瓦解するかもしれませんよ、と仄めかした可能性もある)
この2つが考えられるが、これはひとまず置いとくとして・・・
次の増兵要求が1万だったという点・・・前回劉璋が自発的に与えた兵より、劉備が借りようとした兵が多いと考えるのは理に適ってない。
つまりYは1万以上2万以下であったと考えるのが極自然。つまり劉備には間違いなく1万以上は最初の出迎えで渡している。
そもそも劉璋は益州-漢中のイザコザと何の関係もない劉備に武力行使を頼んでいるわけだから、それに見合う恥ずかしくない援助をしてるはず。
-------------------------------------
ここまで
付け加えるなら、孫権伝かどこかに使者が益州入りしたときに(侵略開始後の)劉備の陣容を見て
その数が1万程度でさらに負傷者も多かったので蜀取りは失敗するでしょう、と孫権に報告した記述があった気がする
侵略開始後の劉備の軍勢は、白水関の守備兵を吸収しているので、1万という数字が全体の数字ということは絶対にない
よって劉備直系の軍勢は1万〜1万5千が最初にいったと見るべきかな
>>663 信義に厚いとか脳内フィルターかけてるの君だけじゃない?
3万もいて脱走防ぐことすら結構手間な降伏兵を虐待したら
即座に降伏は損だって情報が広がって襄樊包囲に悪影響出るから
当面はちゃんと飯食わしてやらざるを得ないってだけだろ
669 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 21:53:33 0
>>665 >関羽と楽進で小競り合いしてる
荊州の水軍は赤壁で壊滅したのに、どうやったら楽進が関羽にちょっかい出せるんだ?
船がなくて関羽水軍に勝てるわけないだろ。
670 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 21:55:11 0
>>668 そもそも、三万の兵を連行するには、いくら相手を武装解除してても1万ぐらいは監視の兵がいるんじゃないか?
関羽にそんな兵力の余裕はないだろ。
劉備の入蜀時の兵力一万って記述がどこかになかったっけ?
それがあるならそのまま一万でいいと思う。
劉備は益州入りして以後、時間を掛けて益州の人心を収攬することに腐心している。
劉璋と敵対して以後も、降服者を手厚くもてなしてそのまま諸県の占領に向かわせるなど、
故からの益州人や東州兵を重く用いている。
荊州からの子飼いの兵はむろん軍の中核ではあったろうが、その武威を振るうのではなく、
益州人達自らの意思で自分を支持させ、劉璋を攻撃するように仕向けるのを主眼としたのだと見える。
だからむしろ、子飼いの兵力は少ないほうが辻褄があう。
>>669 内容不明で楽進伝に赤壁後に「撃関羽」とあるだけでどうやったのか俺が知りたいくらいなんだけど
それでも関羽と楽進で小競り合いはしてるわけだ
>>670 だが史実として捕虜は3万であり、呉もその捕虜をそのまま捕らえたとあるわけで
実数3万かどうかは不明にしても相当数の兵士を捕縛したってことだろ
于禁が七軍を率いてるのでその半数弱くらいということになるわけだから
全く非現実的な数字とは思えない
その後の兵站の破綻とか見ても捕虜の数は少なくないだろ
>>670 壊滅したのは江陵水軍。
赤壁で燃えなくても、江水が奪われたからそっくり孫権か劉備に接収されただろう。
劉jが降服して提供したはずの襄陽水軍は無傷だし(関羽が持ち出せた分は除く)、南陽で作って持ち込むことも出来る。
また、楽進は陸路で関羽を圧迫したもの。大軍で攻められたら荊州は江水を盾にするしかないし、
実際関羽らはかなり押し込まれていて、楽進の手柄として伝に記載されている。
>>660 流馬は三戦板でジョミニさんと話したことがありますが、木牛と同じように
非常に兵站効率の宜しくないものであった可能性があります。
ただ、木牛のように木馬とせず流馬と名付けたのは何でかなー?と考えると
いろいろ妄想が沸いてきて楽しいですお
漢中←→関中間の兵站能力の可能性については漢書「溝洫志」に記載があり、
諸葛亮はこの可能性について更めて検討していた可能性はあります。
まあ下手くそなほぼ訳ですが、以下
其の後に人で上書したものが有り,褒斜道を通して漕を及ぼさんと欲したため,[一]
事は御史大夫の張湯に下された.張湯が之を問うと,言わく「蜀に抵たるには故道従り
となりますが,故道には阪が多く,回遠であります.[二]今褒斜道を穿つなら,阪は
少なく,四百里も近づくことになります;而して褒水は沔(水)に通じており,斜水は
渭(水)に通じており,皆以って船漕を行う可かるものです.漕は南陽より<従>
沔(水)を上り褒(水)に入り,褒(水)が水を絶たれて斜(水)に至るまで,
間は百餘里ほどですから,車を以って轉(輸)せしめましょう,なれば斜(水)から<従>は
渭(水)に下ります.此の如くすれば,漢中の穀も致す可きこととなりましょうし,
而して山東從沔無限,便於底柱之漕.
且つ褒斜にある材木や竹箭之饒たること,巴蜀に於けるに儗しております.」[三]
上は以為らく然りとした.そこで張湯の子の卬を拝して漢中守と為すと,數萬人を
(徴)発して褒斜道を作すこと五百餘里.道は果たして近くなり便じたが,
而して水には湍石が多かったため,漕す可からざるものであった.
>>672 ところでいまさら指摘するが、于禁七軍総数が「三万」だよ。建康実録に明記。
三国志他の記載は、「于禁軍三万を下して多数の捕虜を取った」というニュアンスだ。
しっかし地図みるとシキから房陵に侵攻ってすごいな
考えられそうな山越えルートは2つあるけど、どっちも失敗したら帰還の見込みとかなさそうw
677 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 22:12:25 0
>劉jが降服して提供したはずの襄陽水軍は無傷
そんなもんがあったら関羽の北伐のときに使ってるだろw
しかし于禁軍はあえなく水没し、曹仁軍の救援すらままならなかった。
関羽が数百隻持ち出したってのはほぼ全部だろうな
仮に全部じゃなくても破壊していかない理由がない
>>666氏の地図で
宣昌市の北へ伸びるS223道路からS305道路を西進するのが楽っぽいな
関羽の脱走包囲網もこのルートでブロックしてたっぽいからこれじゃないかなあ
G209道路のルートとか絶対当時なかっただろw
>>675 正史三国志と違うことが記載されてるというだけで比較して資料的価値のあまり高くない方を採用しちゃうのは何故?
七軍って言ったら普通12500*7だろ
それとも七軍が固有名詞として何か特殊な用法あったっけ?
681 :
世界@名無史さん:2011/01/19(水) 22:20:12 0
襄陽水軍があったら、俺だったらすかさず関羽の背後に送り込んで退路を断たせるな。
682 :
675:2011/01/19(水) 22:21:01 0
ごめん間違いw 華陽国志先主志だった
>>678 軍船とは書いてない。当時襄陽城以外全部劉備の支配下で船舶強奪し放題だったとも思えないだろう
>>680 当時の一「軍」が12500だったというのはどの記事での話?
関羽は徐晃に敗北した後、襄陽から南へ進んで当陽から西へ進んで麦城に入った。
ここで呂蒙軍に追いつかれるも降伏するフリをして包囲を脱出、臨ソへ向かったが
夾石で潘璋&朱然の待ち伏せ喰らって捕縛って流れなんだけど、関羽って孟達らのいる房陵へ向かって逃げてない?
>>676 だからこそ孟達の豪胆ぶりと能力はもっと評価されてもいいと思うのれす
>>663 それ、上の過去レス集の頃から温めてたネタになるけど、
当時の曹操側の兵力再編行動を見てみると于禁が率いていた兵の多くが
関中・涼州あたりから連れて来られたものを于禁が調練したものだった可能性がある
つことで于禁がかなりあっさり目に降伏したのも自分の親近部隊以外は余り信用ならず
徹底抗戦が難しいと思ったからだろうし関羽が彼らを抱え込もうとしたのも、
「馬超に率いらせるため」なのであったろうと推測しています。
そうした流れにあったからこそ関羽はホウコを引き込みたかったのだろうと。
結果としてそれは無理だったんだけどね。
>>683 周の軍制を参考にした
周は一軍12500を六つ揃えたのが王の軍として六軍となってたよね
それ以降、一軍のサイズがどう変わったかは知らんけど
李衛公門対によると、曹操の軍は古式を踏襲してるとのことだから
そんな遥か遠くに外れてもいないんじゃないかね
七軍で30000だと一軍4000ちょいというお寒いことになるわけだが
その変遷はどこで見て取れるんだろうな
文聘伝に「文聘が漢津で関羽軍の輜重を襲撃し、荊城(江陵か?)で関羽軍の輸送船を焼き払った」とあるな。
于禁軍3万を捕虜とした時点では養える目算はありそれゆえ江陵へ送ったが、文聘の兵站攻撃によって予想外の兵糧欠乏に陥ったとか?
>>685 成何なんてどうみても涼州の人だもんな。
虎衛七軍って実在してたの?
>>686 唐の通典に漢魏の頃の一軍は3200人で構成されているとある。
曹操閣下の素晴らしさについて語らないニカ?
ハ,,ハ ,,.-'' `-、 ,
<丶`∀´> / : : :: :: :::::ヽ
. ▼ >、/⌒ヽ | : : :: :: :::::::::l
─‐⊥‐ッ'-‐y' / i_ ヽ、 : : :: :: :::::::/
`⌒ー′ | |::| )゙ ..::::〃:ィ´
\ | |::| /" '' : : ::⌒ヽ
ノ) \=::|. i 、 : ::::|____
(;:.:.__) \ | ..::| : :::|::::::|;;;|
(;;:::.:.__::;) \ : :::| : :::|::::::|;;;|
(;;:_:.__゚.:.:⌒) \ : :::| : :::|::::::|;;;|
「あちらの曹操患者様から……」
>>686 華陽国志(建康実録)の記事にいちゃもんつけておいて周の軍制を参考にした(キリッはさすがにどうかと
>>687 糜芳がやらかした失火って文聘軍の襲撃のことだったりして
>>680 それで辻褄が合うからだよ。
虜囚は十倍にも誇張して報告されるので、蜀呉の記録からとったらしき戦果は信用できない。
「魏王遣左將軍于禁督七軍三萬人救樊」
というのが、少なくとも「遣わされた于禁軍の兵数」の唯一の記述だ。だからこれを信じる。
当時の将軍一人が率いる軍勢は、合肥守備などを見ても3000から5000。
一軍12500てのは理想化された周代のものだ。
通典にも曲、候、部、校、裨、將軍と、後漢三国と同じ構成の記録があって、
それは一軍3200人とする。石井仁氏だかもこれを採用していたが、
三国時代の将軍の数や総兵力とのバランスを見ても
「将軍一人=一軍=数千人」が妥当なところだろうね。
夏侯惇の対呉二十六軍は、一軍12500人だと、32万5000人。
魏末にやっと五万人駐屯させることが出来た淮水流域に、60年前にこの数字はないわね。
赤壁前後に漢水の北の後詰として残った張儼が護した于禁・張遼らの七軍は、8万7500人。
周瑜が見積もる「中国人」の半分が北で遊兵してたことになる。
一軍3200人だとすると、それぞれ8万3200と2万2400…前者はこれでもまだかなり多い。
揚豫徐に跨る領域全ての将と太守全てを管轄下に置くとすれば、なんとかありえるかな。まだ無理かな。ってとこか。
>>691>>693 いや史料の信憑性は重要だろ
建康実録が正史三国志と比較して信用度はどうかと言ったら、それは低いと言わざるを得ない
異説が載ってるから読む分には面白いけど、載ってた=それが正しいってのはどうかと
捕虜の数が正史三国志に「羽以舟兵盡虜禁等?騎三萬送江陵」と具体的に唯一記録残ってるのは採用せず
唯一派遣の記録に3万とあるので3万ですってなぁおかしいよ
>>693 俺もそんな感じに思ってる。
三国志つか曹操側あたりの1軍て、曹操が派遣する1軍って2500±500程度。
1部隊って感じなんだよね。そんでもって歩騎五千が旅団程度って感じで。
まぁ、そういう感覚で見て行くと対馬超戦で浦阪津を渡って橋頭保を築いた
徐晃、朱霊の歩騎四千って恐らく直前の戦いで損耗した部隊なんだろうなと
見当が付く。そうして見ると徐晃の先頭志願というのも、直前の戦闘での
芳しくない結果か失態を挽回すべく手を上げたものを巧く記述して貰ったもの
なんじゃね? とか、やっぱあの時の黄河渡河撤退ってすげー惨敗っぽいとか
敗走っぽい撤退っぽかったなーとか思えてくる。
>>695 軍と言ったって全員が全員戦闘員とは限らないし引き合いに出した周のだって
中に輸送要員込みでしょ、牛とか徴用するし
近代〜現代にかけても1個師団の人数は
時期・師団の性格・場所などによってバラバラなんだから
1軍の平均人数を「○○○○人だっ!」って議論するのは不毛だとおもうぜ
虎衛七軍を知らないのか??
曹操の親衛隊だろ。
それを于禁にさずけたんだろ!!
それ虎豹騎?
虎豹騎ではない!
三国志演技をよめ、ばかもん!
それじゃ宴もたけなわのようですので後は若い人たちにお任せしてこれにておやすみ
>>703 主賓が逃げ出してどうする?!
朝までつきあえ!
>>696 だって、「捕虜三万」を唯一の記録だからと採用してしまうと、官渡の穴埋め八万とか、
青州兵30万とか、姜維の対王経戦の死者数万とかを全て採用しなくちゃいけなくなるんだよ。
袁紹が興したのは歩兵五万、騎兵一万。冀州の戸籍人口が100〜150万だった時代に壮丁八万も穴埋めされたら、
袁紹が直後の反乱を鎮圧することも、以後七年抵抗する兵力も、魏国の礎となる国力も残らない。
青州黄巾100万が実数だったら、エン州の人口が晋代の3倍になって、曹操は袁紹の冀州と同等の国力を得てしまう。
192年の段階で。
姜維と王経の戦闘は、蜀側の記録では数万だが、魏の詔では千数とされていて、蜀は戦果を過大に、
魏は被害を過少に公表している。
ちょうど、俺らは『破賊文書十倍』という情報を持っているのだから、それを当てはめればいい。
かなり多くの戦果報告が納得できる数字に変わる。
以上のことから、「捕虜三万」と「遣三万」の異なる記録があったら、ほぼ無条件に後者を信じるべきだと判断できる。
>>703 おやすみ
>>699 まーね。特にこの時代は私有の部曲が入り乱れていて、杓子定規に当てはめることは不可能だ。
しかし、平均「2〜5千」か「1万〜1万2千」なのかは確定できるだろうし、すべき作業だろう。
特にこの場合、「于禁七軍三万」が信用できる出来ないという問題になっているわけだから。
>>705 それって「史書の数は不正確」ってことを言ってるわけで
于禁3万で出発ってのも信用ならなくなるだけだろ
出立や派遣として記される数よりも、捕虜など戦果の数の方が著しく信憑性が低い。
って話をしたはずなんだが。どうして通じないのだろう。
>>705 横槍スマン
建康実録の違三万は三國志の歩騎三萬送江陵から取った物と解釈も出来るよ。
建康実録は三國志本文から引いた記述も多いしね。
まぁ何故、捕虜3万が、派遣3万になったかは分からんが、
許嵩の建康実録を記した意図からすると、捕虜3万?多すぎじゃね?派遣3万じゃね。
って感じだったりして
自分は派遣3万と捕虜3万、両方とも正しいと考える。
但し捕虜3万は水没した時の被害数は考慮されてないと考える。
また歩騎三萬送江陵は呉志呉主伝の当時の情勢を記した物で、
戦果を記した物でないので十倍の奴は当たらないと思われる。
信憑性が低い、では語弊があるな。
ぶっちゃけ、戦果報告「嘘だと判明している」と言い切ったほうが早いか。
>>709 訂正が流れに紛れてしまったけど、遣三万が載ってるのは華陽国志だった。すまない。
で、華陽国志は信憑性が低い記述も多いが、巴蜀の源情報に当たって陳寿より詳しい記述もかなり多い。
正史で陳寿が省略してしまい派遣数と捕虜数がごっちゃになったところを切り分けで記述したとも言えるだろう。
当時、孫呉は于禁軍の実数記録など持っていないのだから、関羽の喧伝をそのまま記録しただろうし、
のちに呂蒙が于禁軍の捕虜をそっくり接収したのだからやはり戦果十倍で報告する立場だった。
まあ、総数の何割を捕虜に出来たのかは置いといて、「于禁軍七軍三万人」は当時の兵制から見ても信頼に
足る数字と思うのだがどうだろうか?
>>711 こぼれ話は多いけど手放しで正史三国志より信じられるかっつったら無理
また于禁の出立は魏側の記録が最も正しい数字になると考えられるし
巴蜀の源情報とやらにいくら触れてもあんま正確にはならないだろ
>>712 それを言っちゃうと、三万より実数はさらに少ない可能性の方が大きいんだよね。
敵軍の喧伝した誇大な数をそのまま載せちゃうから。
勝利した場合は特に「あんな大口叩いてた大軍をやっつけちまったんだぜ!」ってわけで。
だからって後発史料に具体的な数字出てるのでこれが正しいとか言えないだろ
それは出来ないことだ
しかし、対呉戦線の最前線に、宿将中の宿将である楽進と、
外様ながら武勲によって宿将と同等の扱いを受けてる張遼と、
自分の部曲だけで一軍を編成できるほどの大豪族李一族の頭領にして、魏の若手将軍のホープ李典と、
有力な将軍が三人揃った対呉最重要拠点の合肥ですら、7000人しかいなかったんだから、
一軍は一万二千どころか、五千を割ることすらあったんじゃないかと思う。
少なくとも、一軍を指揮するどころか、張遼と楽進という数個の軍を統率できるレベルの将軍が二人いてこれだからな。
単に曹操が自分以外に数を預けられないだけだったりして
曹操個人のパーソナリティとかではなく、青洲兵との関係に結構謎な部分ある
>>714 後発だから信用できないってことはありえないよ。
信憑性で漢書が史記に劣るとか、范曄後漢書が先行の八家後漢書より劣るなんて聞いたことも無い。
特に先行史書は時間的猶予や時代条件から、史料収拾や選別がずさんな場合がある。
で、陳寿三国志は、選別はよくても収拾はずさんな部類だ。特に蜀漢の記事において。
蜀志に載らない官位や爵位などごろごろしている。
他の条件がまったく同等なら、最後の手段として史料同士の一般的な信憑性を問題にすることもあるだろう。
三国志と華陽国志では、普通は三国志の方が上とされる。
しかし、今回の件では、史書に記される「派遣数」と「戦果数」との間にはそれ自体埋めがたい信憑性の差があると繰り返している。
である以上、華陽国志に軍配を上げるのが道理だと思うのだが。
(とはいえ、厳顔は蜀志では巴郡太守だが、華陽国志では一将であり、太守は別にいる。この件について陳寿の方が
誤りとする注釈があったりもする)
>>711 そんな回りくどく考えることないよ。
七軍3万が派遣され捕虜になった。呉主伝の記述はそんなもん。
流石に号3万虜3万は変でしょ。
ただ呉は魏と繋がってたし七軍の大体の兵数は知ってたと思うよ。
それに間者だって実数はともかく、おおよその数くらい報告するだろうし。
>>717 いや戦果じゃないから
戦果なら呉主伝でも呂蒙伝でもそれに該当する所に記すわけで、
アレは情勢を単に綴った程度。号三万の軍が捕まったってね。
捕虜の実数でないと見るべき。
派遣数と捕虜の数が同じなんて戦果としておかしいっしょ?
>>717 先行史料で出た数字と食い違ってるなら後発史料が成立するまでの間に数の変遷が何故起こったか、
先行史料のどこが間違ってるかってのが明確になってないと後発史料を正しいとすることなんてできない
>>718 具体的な数の出る呉主伝の記述は「羽以舟兵盡虜禁等歩騎三萬送江陵」
捕虜が三万という書き方で七軍の総数については全く触れていないどころか于禁が七軍であることにも触れてない
孫権の持ってた情報については推測しか出来ないけど、呉主伝の記述は「そんなもん」ではない
>>718 いや、その通り。だから考察上は七軍三万人でいいと思うんだけどね。
で、関羽は三万人のうちの「皆」「悉」を捕虜にした、とされる。
関羽は于禁軍の何割を捕虜にすることができたのか。
>>672は、半数弱くらいなら不自然ではないと言ったが。
分散配置される諸陣営が全て水没できたのか。
水没した陣営の兵士のうち、どれだけが高台に避難して「関羽の手にかかるのを待つ」ことができたのか。
関羽は樊城攻撃を続けながら彼らをどこまで回収することが出来たのか(しかも船で)。
同じく江陵に後送することができたのか。
と考えると、捕虜数はかなり目減りしていくのだろう。
>>720 自分は後代の華陽国志が呉主伝のが当該の部分を参照したと見ている。
ただ当時の別軍が五千だったりするから、後世の史家が捕虜三万に疑問を持ったと見ている。
自分も捕虜三万は多いと見るが、
戦果の記述ではないので戦果十倍を当てはめるのもおかしいと考えている。
723 :
717:2011/01/20(木) 00:53:39 0
>>719>>722 そこは俺がちょっとごっちゃになってた。ごめん。
呉主伝とは別に、捕虜数が書かれた場所はあるんだ。呂蒙伝に
>魏使于禁救樊,羽盡禽禁等,人馬數萬,託以糧乏,擅取湘關米。
という。ここで少なくとも関羽は、数万の人馬を虜にしたと称していたのはわかる。
これが三万捕虜の根拠の一つ。
これに無条件に十倍則を適用しようとすると、多分異論が出るのだと思うけど。
>>723 人馬数万って「とにかくめっちゃ多い」くらいの意味にしかならないけどな
725 :
世界@名無史さん:2011/01/20(木) 12:41:54 0
レッドクリフが地上波で放送されたというのにこのスレで一行も言及がないとは・・・
なんという硬派なスレだ
上のほうの話題だけど節鉞たる関羽は軍権の一部として裁可なしで
3万生き埋めしようと思えばできたんだな
まぁ規模は違えどソウヒの場合、テイイクに諮ったら反乱者の処分は緊急事態ではないとのことで曹操に任せたら、褒められた
節鉞といえど、国家戦略の根幹にかかわることの判断は難しいね
もっとも、劉備勢力にとって戦術・戦略的にも「徳」の要素からも生き埋めはNGくらい関羽は判ってるだろうし、
仮に電話があって劉備に即座に指示を仰げても生き埋めなんぞしなかっただろう
この時代の「虐殺」が、そんなに悪影響のあるものかというと疑問。
曹操は八万穴埋めとの対比が出ていたけど、
曹操は官渡の二年後から冀州への攻勢を掛け、四年でギョウを取って牧となり、
軍閥の経済・軍事的基盤を冀州に移し、ついには魏を建国した。
冀州がそれだけ豊かな地域だったからだが、冀州人主体の「八万」の穴埋めをしたことでの
人心への悪影響は見られず、短期間で最も重要な根拠地と変えている。
すでに献帝を奉戴していた曹操と、これから攻撃して奉戴せねばならない劉備、という差はあるが、
差と言えばこれだけ。
官渡当時の曹操や漢中奪取直後の劉備が敵手に対して劣弱であること、
当面は敵の侵攻を阻む立場にあること(袁紹の死で曹操は攻勢に転じたが)などと共通点の方が多い。
曹操が捕虜を殺したのは養う兵糧が無かったからという説があるが、
関羽軍も同じ理由を抱え、しかも現在進行中の戦局が破綻する可能性が高いなら、
殺すってのは俎上に昇る選択肢じゃないかな。
于禁軍の捕虜の実数が幾つだったかはおいといて。
多数の捕虜を取ったことでの後方地域の混乱というのは確かに起きたのだろう。
襄樊・江陵間の兵糧が欠乏するなどして、孫権の関を襲う必要に迫られた。
郡県に臨時徴発が行うような時間が掛かったかもしれない。
しかしその混乱も、江陵から襄樊への兵糧輸送が始まることで安定したのだろう。
(兵糧輸送自体は、攻城長期化に伴う必然だっただろうけど。捕虜の存在がそれを早めたとしても
数十日というところだろうから)
というのは、後方地域に捕虜を養う力が根本的に足りないのなら、そこからさらに
兵糧と人員を割いて前線へ送ることなど不可能だから。
ただし、この混乱鎮静と樊城攻撃続行は、江陵守備隊削減という犠牲を払ったものだった。
かくして呂蒙の急襲を受け、荊州は落ちる。
関羽の敗因に、糜芳らとの不仲や守備隊削減ことは繰り返し書かれても、
捕虜の存在のことは書かれないのは、こうした状況の推移があったものだろう。
仲が良い:
関羽 おいこらwww于禁軍3万捕虜ゲットしたぞwwww後方にまわすから当面の間の面倒みてw
糜芳 ちょwwwwwwwむりっすwwwwタダでさえ兵糧限界っすwww増援もきついっす
士仁 孫権の兵糧奪うとヤバいっすから一度戻って劉備親分も含めて検討しましょう
仲が悪い:
関羽 おめーら于禁軍3万捕虜にしたから俺と兄貴の名を汚さぬよう扱っとけよ
あ、それともう少しで敵城落とせるから俺にもっと増援送れや
下手うつと首刎ねるぞ
糜芳 ・・・
士仁 ・・・
>>729 関羽 うはwwwおkwwwwww
が抜けてるぞ
>>727 徐州大虐殺で曹操が恨まれたって話が無いから、
別に理由も無く民を虐殺しても問題なくね?って言ってるのと同じだろ。
しかし、実際は魏の建国後も冀州で反乱が起きるぐらい、冀州の政情は安定して無かったから、
なんだかんだ言って殺しすぎたら、悪影響は残るんじゃないかと。
直接の相関関係を示す記事がないとはいえ、曹操が攻めてきたら官僚・軍・民がこぞって劉備についていったという話から、民も兵も皆殺しにした経験のある曹操の評判がどうであったのか類推できる
>>732 そりゃそっちが暴論だろう。益州で反乱が起きてるのは劉璋や劉備が虐殺しまくったからなのか?
実際は、政情不安定自体はどこでも同じだ。
俺はあくまで、「虐殺」なるものは戦略上の選択肢として十分ありえるものだった、と言ってるだけだよ。
だから屠城とか京観という用語がある。
徐州虐殺と官渡の穴埋めとは規模が違うが、徐州ほどの行為が行われたのにも関わらず
反曹操の論や檄の中で触れるものが無いというのは、当時の「虐殺」というものの価値を考えるよい材料だろうね。
>>729 しかしこれを見ると如何に無茶振りだったかがわかる
曹操は袁紹の勢力圏を押さえるのに7年もかけているが
虐殺によって袁紹側の抵抗が頑強になった所為ではないのか。
いつの間にか、「虐殺」の影響力が大きいか否かに仮託して
関羽の捕虜三万を非難し始めている件について
>>736 もともと袁氏の方が曹操よりずっと勢力が上。
それが袁紹の死と兄弟の分裂に乗じてやっとこさ曹操が勝った。
それでも、袁紹が死んでから冀州を取るまで二年、青州を取るまでさらに一年、という程度だけど。
むしろ兄弟の分裂によって、河北の抵抗力は上も下も急落しているね。
>>737 よくわからないな。
「捕虜三万」も取ったことを非難してる人がいるのか、殺さなかったことを非難してる人がいるのか。
俺は、
多数の捕虜の存在が後方組織や樊城攻めを著しく阻害するのならば、関羽には各種の対応策があった。
にも関わらず、関羽はそれを取ってない。
結局、捕虜の存在は最終的には関羽の荊州組織を窮地に追い込むものではなかったのだろう。
という主張なんだけど。
>>739 実際、諸々のボロが捕虜受け入れから出てるだろ
関羽としちゃ破綻前に襄樊落とせば選択肢も生まれるが
城攻めで一刻も早い落城を望んで、降伏内応も歓迎したいところでの
降兵斬りは選択肢として取り得ない
それからさき魏に攻め込んでも降伏が一切なく
殺すか殺されるかのみの戦闘だけで中原回復とか無茶すぎw
>>741 >>734先生の新説によると、降伏者や侵攻した土地の住民を何万人殺しても、まったく影響ないそうですw
官途の穴埋めってどれくらいころしたの?
現代の戦争ヤ紛争でもアフリカやだめアジア、バルカン半島なんかでは平気で虐殺する。
降兵にたいして人道的な対応を、みたいな倫理観があの時代にあったんだろうか?
同郷でなければ言葉も通じにくかろう。
集団で降参してこられてもころすしかなかろう。。
>>740 于禁が率いて来た兵がどこ出身か?ってことだろう。
おなじ荊州の兵なら魏兵であっても降参兵をころしたらうまくいかんだろう。
涼州兵とかならころすしかないだろう。
ああいう騎兵を取り込むには指揮官ぐるみでないとね。
曹操が呂布の助命を考えたのもそうだし。
馬超が優遇されたのもそうだし。
報徳が優遇されたのもそうだし、関羽が色気みせたのもそうだし。
746 :
世界@名無史さん:2011/01/21(金) 18:57:14 0
別に殺す気なくても、食料を与えないで行軍させたらほっといても減るし。
ばたーんですね。
関羽以外に荊州を任せる人材はいなかったのか?
関羽でいいとおもうけど。
>>748 能力的には諸葛亮が最適任だと思うが、
困ったことに諸葛亮の代わりに益州の政務を執れる人間もいないんだよな。
>徐州大虐殺で曹操が恨まれたって話が無いから
徐州の顔役の陳登が曹操によって広陵に異動させられる際に領民達がこぞって
陳登についていこうとしたという話が単に陳登が領民に慕われているというだけでなく
当時の領民達の曹操への不安の表れではないのか。
諸葛亮は関羽よりもあの時点では戦べただよ。
徐州大虐殺って曹操的な意味はなんだったんだろう?
ほんとうに親父の復讐?
なんか別のいみがあったの?
趙雲+孔明なら安心
趙公明って。封神演義になっちゃうよ〜
俺なら、倫理的価値観で虐殺がどんな地位にあろうが関係なく、虐殺した人間が統治者として来たら逃げ出すけど。
仮に口で指摘出来なかろうが命は惜しいし。
あとちょっと話題が脇道に逸れてきた感がある。
曹操の父が殺された頃に当時曹操は黄巾賊の投降を受け入れ自軍に繰り込んだ。
略奪狼藉が日常的だった青州黄巾兵を急に軍律の下に置いたので
欲求不満気味に陥り何らかのガス抜きが必要だったという。
例外作ったら軍律もクソもない気もするが。
>>755 それはあの時代でもおなじだったんだよ。
曹操に仕えることを良しとしなかった人々はいるわけで、そういう人々が劉しょうや劉表のもとに避難してたりしたわけだし。
ずっと仕官しなかったひともいるだろう、曹操を批判してころされた人物もいるだろう。
ただ、曹操はすごいな。
光というのは影があるから際立つのであって。
絵を描いてる人はわかることだけど、強い日差しを見せるには一部に深い闇や影を描かなければいけない。
曹操ってのはそういう善悪がはっきりした人で好む人には大変魅力的な人ではあったろう。
普通に乱暴狼藉を許せば軍規に関わるが
父親殺害のあだ討ちという名目を以って
乱暴狼藉を公認し青州兵のガス抜きを図ったのではないか。
そういうことを許しちゃうと二度目三度目が必要になるよ。
>>750 陳登は広陵太守から新設の東城太守。広陵からはほぼ真西への移動となる。
東城は徐州虐殺のあった下ヒ国の南の端で、孫権に対しては合肥の影に隠れる位置にあり、
孫権の脅威に晒される広陵よりも曹操の支配が安定していたと思えるところ。
広陵の民衆はそこへ陳登と共に行くことを選んだ。>750の論法が正しいのなら、逆のことが言えてしまうね。
ま、曹操ってのは酷吏癖の人物で、民衆や豪族に嫌われる理由などいくらでも挙げられるし、
実際史書に多く明記されてるわけだよ。強制移住やら過酷な役務やら。
当時の民衆にとっては、それらを逃れ、かつ乱世の混乱からも守ってくれる人間を見つけることが
最大の関心事であったのだろう。だからこそ徳治を敷いてくれる太守に付いていくようなことが起きる。
曹操はかなり綱渡りみたいな戦闘と内政をしのぎきって覇権をにぎったもんね。
官途戦なんか袁紹と曹操の我慢比べだった。
曹操のほうが我慢強かったんだね。
>>徳治を敷いてくれる太守
これって税金安くして民間援助して戦争しなけりゃいいだけなのにな。
なぜそれをする領主がすくなかったのか?
>>752 陶謙の拠点である下ヒ周辺を屠城することで継戦能力の奪取。
陶謙は抗戦しつつ琅邪まで逃げて難を逃れた。
虐殺は曹操が陶謙攻撃を諦めて帰る途中でのこと。
曹操にとっては下ヒに軍を駐屯させて支配下に置くことが出来ない以上、
せめて拠点能力を奪って次に繋げる必要があったのだろう。
逆焦土作戦だね。
実際、陶謙は翌年の曹操侵攻に対しては気が挫けて故郷の丹陽に逃れようとしている。
あと、略奪させれば兵士の俸禄代わりにもなる。
徐州北部まで長駆して多くの城を落とした分で足りなかったのかどうかは分からないが。
税金安くすると逆に民衆は圧迫されるんだけどね。
豪彊に。
現代の社会保障と同じで、民間援助と税金を安くするのは矛盾するし。
>>765 あの年は徐州もエン州も大飢饉だったらしいね。
>>767 ああ、そうか。
曹操軍そのものが兵糧備蓄を切らしかけていたって可能性もありそうだ。
呂フって張ばくに迎え入れられてるし陳宮みたいな参謀もいる。
決して粗暴なだけの人間ではなかったと思うんだけどどんなかんじだったんだろう?
猪木みたいなかんじかな?
前田日明か?
それとも朝青龍?
ぼぶさっぷ?
>>769 武道の世界では名高い州庁財政課長が、州知事の昇進に伴って首都入りしたら
あれこれあっていつのまにか近衛司令官、首都防衛司令官に出世してました。
って感じ。
教養豊かってほどではないにしろ、最低限馬鹿にされない学識はあったのだろう。
じゃあ赤井英和だな!
虐殺が帰還の途中になされたものって記述はあったっけ?
あと曹操は確かに第一次と第二次の侵攻では違う進路をとってたよね。おそらく第一次のルートは行軍路として使えないレベルにまで荒廃してしまったんだと思う。
二度の侵攻どちらも兵量不足で撤退しているところを見るとやっぱり戦略的には無計画な虐殺だったと思うな
青州兵の暴走説もよく聞くけど、青州兵を降してから徐州侵攻までの間に袁術の撃退と大追撃がなかったかな?そのときは虐殺があったと聞かないね
青州兵って曹操の死後は一斉に軍を離れて故郷に帰っていったらしいな。
曹操との約束が終わった、てなことで。
かっこいいな。
呂布は政争に巻き込まれた腕自慢の田舎者って印象
おだてられ栄誉を与えられては素朴に感激して命を賭して戦うけど
自制心がないから失敗して、逃亡や裏切りに自ら追い込まれていく
じゃあ赤井英和だな!
質問なんですが。
あの時代の宮殿造営とかって宮大工みたいなのがいたんですか?
>>773 後漢書陶謙伝にある。
謙退保タン【炎におおざと】。操攻之不能克,乃還。過拔取慮、雎陵、夏丘,皆屠之。凡殺男女數十萬人,鶏犬無餘,
泗水為之不流,自是五縣城保,無復行迹。初三輔遭李カク亂,百姓流移依謙者皆殲。
取慮、雎陵、夏丘というのは下ヒ県に近い下ヒ国中部から北部の県。
泗水というのは魯から沛を通り、彭城、下ヒを流れる河川なので、
主戦場として目立つ徐州北部よりも南部の下ヒ近辺が屠殺の舞台として合致するだろう。
>>777 宮大工ってどんな意味なのかわからないけど、京師の宗廟、路寢、宮室、陵園などの造営・修復を掌ったのは將作大匠。秩二千石。
労働は力役や労役刑人が担っていた。
なるほど。
専門家集団がいたわけね。
>>778 んー微妙
ホウ城までの戦いでも矛盾しないレベルだと思う
それに三国志の陶謙伝では
「太祖は陶謙を征討し、十余城を攻め落とし、ホウ城まで行って大会戦となった。陶謙の軍は敗走し、死者は、万単位にのぼり泗水はこのために流れがせきとめられた」とある(といってもこれは筑摩訳で自分は原文をチェックしてはいないが)
陶謙はどの程度まで民衆の人気があったのかね?
>>781 それだと、虐殺の死者は一万で止まってしまうけど。
>>782 曹宏のような悪人を重用したり、サク融を起用したら民衆から搾り取るわ、
派手に横領するわで、「なに、こいつ?」な感じ。
うそ?
すげぇいい人だったイメージがあるぞ?
>>781 原文だと
太祖征謙,攻拔十餘城,至彭城大戰。謙兵敗走,死者萬數,泗水為之不流。
謙退守郯。太祖以糧少引軍還。
これだけを読むと死者萬數は彭城で大敗した陶謙軍の兵を指すように思う。
泗水にダムつくる死体ってどんだけぇ〜!!
>>785 ・傲慢で自分を取り立てた上司の張温を公然と馬鹿にしていた。
・賊の闕宣と一緒に略奪を働き、そのあげくに闕宣を殺して兵を奪う。
・小人を重用して、趙cのような賢人を疎んじた。
・呂範を無実の罪で捕えて拷問にかけた。
・孫策と家族を迫害して徐州にいられなくした。
・言う事を聞かなかった張昭を捕らえて牢獄に入れた。
・陶謙は道義に背き、感情にまかせて行動したとの評価。
茂才から尚書郎になる学徒であったが、本質は丹陽出の武辺者だろう。
孫堅と肩を並べる張温の参軍事で、黄巾の乱後の地方を鎮守した数少ない州刺史。
功罪は剛直と傲慢の裏表。
陶謙の話題で伝を読み直して思ったが、
陳寿が陶謙ら中途で滅びた群雄を悪し様に言ってるのは、
曹操じゃなくて劉備を正当化してるんだろうな。
短期で終わった群雄と蜀漢を同列にしないために、
道義や性向の面からも差別化して書いたのだろう。
791 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 06:13:49 0
>>790 でも陳寿は官位で嘘つけない。
陶謙は普通に有能な官僚だってことがばれてる。
>>790 結果的に滅びているから仕方ない面もあるだろうけど,
他にも公孫瓚、袁紹、劉表と,劉備が仕えた相手に批判的だからね。
>>773 三国志のほうだと虐殺は第二次になってるな
でも三国志陶謙伝にも第一次の川が死体で流れなくなった話はある
もしかしたら第一次も二次も虐殺したのかもな
795 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 10:08:51 0
虐殺はともかく、虐殺した死体をわざわざ川に放り込んで何の得があるんだ?
兵隊が苦労するだけだろ。
>>795 流れが止まったんなら渡河しやすくなるんじゃないか
>>795 三国志の書き方なら,逃げる途中に泗水で溺死した兵もいるのでは。
死体廃棄ってのもあるかもね
その地域にどれだけ滞在したのかわからないが。
>>790 なんで劉備が曹操の徐州攻めの際助けに行った人間を悪く書くの
曹操さげたいなら陶謙かっこよく書くだろうし
袁紹も曹操の敵だったから後漢書に比べて
必要以上に悪く言われてる感じ
袁紹ら後漢末群雄を良く書くと、蜀漢と区別が付かなくなってしまうから。
陳寿は、短い間ではあったが劉備父子が皇帝を名乗ったのは不当ではない、と主張せねばならない立場にあった。
勿論、曹操を正当化するために諸群雄を悪く書く、ということもありえる。
のだが、特に陶謙に対して、曹操の正当化は殆ど行われていない。
>>801 >>801 >陳寿は、短い間ではあったが劉備父子が皇帝を名乗ったのは不当ではない、と主張せねばならない立場にあった。
なぜ
正当性を主張しなくてはならない立場だったのは曹操のほうでは
>>802 陳寿は曹操の正統性なんて基本どうでもいいと思ってるよ
蜀の人間だから
だから曹丕の即位関連の文をものすごく簡略化して、劉備のそれよりも軽く扱ってる
>>804 許されるのとか言われても実際に三国志がそうなってるじゃないか
陳寿の三国志は晋の有力者もほめたたえてたんだから、許されたんだろ
>>802 陳寿が三国志を編纂したのは280年代とされるけど,
当時晋の前の王朝が魏だったってのは当たり前の話であって,
一々魏を正統化する必要なんてなかったのでは。
統一できなかった魏が正統ではないとか,
ましてや勝手に漢を名乗っただけの蜀が正統だなんて話は,
晋自身が一度滅ぼされて辺境に追いやられた上に,
桓温に乗っ取られそうになってから出てきた話なんだから。
807 :
世界@名無史さん:2011/01/22(土) 21:05:48 0
ぶっちゃけ、晋にとっては魏呉蜀いずれもどうでもいい。
なぜなら全部滅ぼしてるからw
>>807 まあな
だから三つ全部立てた三国志が一番都合よかったんだろう
というより、そもそも陳寿は正史として書くつもりがなかったんだろ
正史認定されたの死後のことだし
時の政治家たちにおもねる必要がない
史書の体裁としては、無論魏が正統に書かれている。
しかし、西晋にとって最低限必要なのは漢魏晋の系譜の正当性であって、
曹操個人が王者として欠けるところがあった、などと書いても痛手にはならない。
ただ漢魏交替が不当な手続きのものだったなどと示すような「大悪」には
厳しくチェックが入っただろうけど。
陳寿の蜀びいきは三国の創業者への評にあからさまに現れている
曹操 申不害・商鞅の法術 韓信・白起の奇策。超世の桀。
曹丕 博聞強識,才芸兼該(兼ね備える)。度・誠・道・徳があれば、古代の賢君も遠くなかっただろうに
劉備 けだし高祖の風有り、英雄の器なり。
孫権 句踐(越王)の奇英、人の傑なり。
まともに皇帝クラスに比されているのはなんと劉備だけ。しかも劉邦の風。
曹操は、その才幹こそ激賞されているが、器は宰相・将軍止まり、と断言されているようなもの。
魏王を称し次王朝への道を開いた者としては不当な格に落とされている。
褒めるなら文王という好例があるのにね。
また、曹丕・曹叡の評にはすでに司馬晋への交代を正当化する「伏線」が張られている。
おそらく西晋統一期には、新王朝の時代として、前代を低く見る風潮が出来ていて、
それに乗じたからこそ陳寿は「三国志」を書き、その中に自分の主張を潜り込ませることができたのだろう。
そのもう少し前には、王沈「魏書」のように魏晋両国の人間を激賞する、
ある意味まともな史書も書かれているんだけどね。
でも陳寿は張華の依頼で三国志を執筆したというし、
完成したものを時の政治家である張華らに見せてるしやっぱり何かしらの配慮はしてたのでは?
つーか陳寿に賛でケチ付けられていない魏の皇帝って曹奐ぐらいじゃね。
>>809 晋の高官達には相当手加減してるよ。曲筆まではしていないと信じたいが。
そもそも武帝に上梓された史書なのだし、この辺りは時代の限界という奴だろう。
>>812 主体的には何もしてないからケチつけようがないからな
815 :
813:2011/01/22(土) 21:39:53 0
ごめん。嘘付いた。武帝に奏されたのは諸葛氏集の方だった。
三国志にはそういう記述は無い。著作郎だった頃の作ではあるけど。
度・誠・道・徳があれば、古代の賢君も遠くなかっただろうに
ってのは、つまりそういう心が欠けていたということだからものすごい低評価だよな
能力はあるけど人としてはサイテー、みたいな
曹操→万能の傑物だったね。(恐怖政治敷いて刑死した)商鞅とか、(捕虜穴埋めにして自決した)白起とか、(漢に逆らって誅殺された)韓信みたいに強くて賢いよね。
曹丕→確かに有能だけど仁徳ゼロだよね。
曹叡→こいつがもっと自覚を持ってればまだ天下統一できたよね。
曹芳→柔弱だよね。
曹髦→軽率だよね。
曹奐→慎み深い方で前例に従って禅譲を決意した。よかったよかった。
>>807 でも魏は正統である必要があるじゃないか
滅ぼしたんじゃなくて禅譲したんだぞ
>>817 曹操への評は曲解しすぎとしか思えない
それだったら劉備だって粛清しまくりの人物に例えられたって解釈もできるだろ
裴松之に叩かれてる賈クを二荀と同じ巻に入れたのって、
注釈にある賈クの子孫は晋で栄華を極めたっていうのが理由じゃないかな?
裴松之が賈クにお似合いだって言った程イクらの巻は立伝者の子孫が晋で出世してない。
>>820 それもあるかもね。
一応、賈クは曹丕を皇帝とする魏王朝建国へ多大な貢献をしたわけで、
荀ケ・荀攸・賈クという「創業の謀臣」の系譜は的外れではないと思うけど。
>>819 漢以降、特に儒教が隆盛して以降は法家は伝統的に悪く言われる存在
また秦自体も漢代には正統性さえ否定された
軍事的な強さ以外はまずプラスに評価されない。というよりもマイナスの評価が基本だろう
一方、漢400年の祖劉邦は周から正統を受け継いだ天子
欠点があってもそれを補って余りある偉大な存在として認識されていたのは当時もあまり変わらんよ
非常の人・超世の傑という言葉の意味を吟味したら曹操が最も評価されているのは明らか
「高祖の風あり」が最大とかどんだけよw
「湯・文の風あり」なら最大級だが
儒教的価値観からしたら「高祖の風あり」ってのは中才の徳だ
>>822 では諸葛亮が法家の管仲に例えられているのは侮辱だと?
儒者の冠に小便かけた人は?
>>823 曹操は陳寿に「才能は世代を超えるが器は王者ではない」と言われてるんだよ。
劉備は少なくとも「皇帝の風がある」と言われている。
またこれはあくまで、蜀漢を地方軍閥の皇帝僭称などと言わせておきたくない陳寿の「反論」であって、
これが当時の一般的な評価だというわけではない。
当時の「聖人」の概念からすると
我々常人には計ることができなく、形而上の不死性を持つ人ってのは
皇帝なんかより上の評価だよ
「非常」ってのは、戦時、権時の時代ってくらいの意味。
むしろ覇者の特質の持ち主であったことを示していて、
王道を掲げる儒学から見ると最高の資質ではない。二番目くらい。
匈奴に追われ東晋になってからは蜀漢正統への見直しが始まったというが。
見直しというか、中原を追われた東晋の正統性を確保するために、
同じ地方政権であった蜀漢を漢の正嫡と設定して「漢晋交替」を正統とする思想が起きた。
それが晋や宋の公式見解になることはなかったようだが、
見直しの機運は民衆に伏流して講談などの人気となり、三国演義として完成する。
この辺の話は当時の価値観と切っても切れぬ
聖人の概念を理解してないと永久に話がかみあうことがないだろうw
>>827 劉邦って儒学的価値観からすると取り分け高くもないって知ってる?
孔子≧堯・舜・禹>湯・文(ここまで聖人)>>(王ではないが顔回などの賢人)>>曹丕・劉邦>その他
曹操の評は聖人ではないが伝説級の人というニュアンスがあるんだよ
たとえば、だ。
詔曰:「蓋有非常之功,必待非常之人」
十三州刺史を設置するにあたっての漢武帝の詔勅。
これは天子たる自分自身を超える聖人の出現を待つという武帝の声明なのだろうか?
詔曰:「王勳コ超世,尊寵無二」
司馬孚に対する晋武帝の弔文。
これは天子たる自分を越える徳を持った宗族の死を悼む声明なのだろうか?
聖人云々はいいけど、単語の用途を勝手に決め付けないように。
孔子が堯舜より上と当時思われてただなんてたまげたなあ
当代の晋皇帝やその父祖らを差し置いて、統一王朝でもない前代王朝の創業者を伝説級扱いするなんて
陳寿はなにをそこまで曹操に入れ込んでたんだろう。
引き合いに出す人物が揃って最期を良くしていない、当時の道徳的には決して高く評価されないタイプ
ものすごい能力を認めた上で仁徳のがっかりさ加減を表現してるんだよ
でも諸葛亮は儒家ではなく法家であったけど陳寿の評価は高いなぁ
>>832 三国志本文もしくは裴松之注にその議論が乗ってた記憶あり
聖天子の事業と徳を体系的に千年後までに残したから云々
>>825 >>834 どう見ても論調は賞賛だし器は王者ではないだなんて一言も言ってないし
「隠された裏の意味」なんてなんに対してもどうとでも言えると思うけど
>>833 魏って後漢の領域からすれば8割9割ちゃんと持ってて
字面だけの三国鼎立をハナからインプリンティングされてる我々と
曹操の覇業を近い時代に感じてる人間からすれば感覚まるで違うのを考慮すればいいよ
蜀呉は未開拓だったり後漢でも中国とそれ以外がまだら状になってる地域を制圧してはいるが
きちんとした都会なんて本当に限られたところしかないから
>>833 晋史を書いてるわけじゃないからあたりまえじゃん
何いってんの?w
>>837 名君がいればかつての名君に比喩する。
名宰相がいればかつての名宰相に比喩する。
これが礼儀であり、古文を重んじる文化にとっての常識。
どんなに政事に優れた帝王であろうとも、皇帝に「管仲・蕭何の功績を残した」なんて言ったら侮辱に等しいんだよ。
曹操は陳寿にそう言われてしまっている。
まったく不当な評価だとは思うね。
>>838 逆だろ
幽州半分は半独立政権
并州は半ば放棄
青州・徐州は魏になってからも反乱が起きる
涼州は諸葛亮が攻め込むと風になびくように多くの郡が背いた
魏が主要な部分を占め、圧倒的優位であることは変わりないが、「後漢の領域からすれば8割9割ちゃんと持」っていたりはしない
呉蜀の田舎者も屈服させられない弱体政権だよ、王朝としては
即位したばかりで味方と言えない諸侯だらけの頃の高祖劉邦よりさらに弱体
8割9割なんていう表現こそ字面だけのインプリンティングだろ
>>840 実際皇帝じゃないからいいんじゃないの?
でも曹操は自分を周の文王になぞらえるイメージ戦略やったのに、陳寿はそれをガン無視してるなあ
>>840 つまり、
>>840が陳寿の曹操への評価は不当だ、曹操にはもっと高次元の賞賛がふさわしいと思っている、ってことなんだね
844 :
840:2011/01/22(土) 23:37:04 0
だからどんなに暗君であっても、君主としての正当性を剥奪されないかぎり皇帝としての諡号を貰える。
暗君を非難するために悪諡というものもある。
どんな名将であっても、君主の地位に昇ったならば後世の太公望廟に列されたりはしない。
普通はね。
>>842 ああ…魏が追号した魏武皇帝の地位を陳寿は認めてなかったと主張するのか。
そりゃ画期的だな。
まあそれでも魏王。最悪でも春秋戦国や殷周のそこそこの王と比較するのが筋だね。
それが宰相二人と将軍一人、王はいるけど韓信では、とてもつりあわない。
400年の権威を古代の禅譲という形で纏めた点は稀有というか
当時からしたら凄まじい快挙だけどな
劉邦は小康と比べてどうかというのがまさにその当時の議論 by曹髦と先生達
王たるものの優劣はおいておくとして、普通に比較対象となってる時点で
「高祖風あり」だから劉備が一番高評価!!という根拠がないんだが
>>843 高次元(笑)
あんたはただ単に、事実関係も歴史的経緯もなにもなく、曹操が絶賛されてさえいれば満足なのか?
今まで一貫して陳寿による曹操評の話しかなされてないのに、曹操がこの馬で人格攻撃されているとでも思って反論してたのか?
ていうか、ここで一人劉邦の比喩価値を下げようとしているのがいるが、
曹操自身も若いころには家臣を指して「俺にとっての張良だ」とか
「ハンカイだ」とか「ショウカのようだ」とか言ってて明らかに自分を
劉邦になぞらえてるっていうのは無視せんほうがいいと思うぞ
曹操も出来れば劉邦みたいに成りたかったし、評価されたかったんだと思うが
>>844 そうだね。あなたが言うとおり、陳寿は曹操を歴代天子はどころか、春秋戦国の王も比較対象だと思っていなかったんだろう。
皇帝扱い、王扱いにふさわしくない人物だと思っていた、ということだろうね。
劉邦は「血なまぐさい」軍人皇帝としては最大級の評価に値すべき人物だろ。
少なくとも、彼を超える人物は後代一人も登場しなかった。(天下統一までの速度と言う意味で)
当然「聖賢」なんておこがましいし、無学で粗暴な人物と言う意味合いも含んでいるかもしれないが、
しかしながら、その後の皇帝像のスタンダードを形成したと言う意味では、その存在はあまりにも
巨大すぎる。
>>835 「陳寿が自国贔屓」と考えれば丸く収まるだろ
>>841 辺境がわりと無法地帯というのは、実は後漢だってそんなに変わらない
そもそも、中央の支配力の及ばない地方政権が勝手に独立し始めたのが後漢末の群雄割拠だから
価値とか誰も下げてないだろ
劉邦に比せられたから曹操より劉備のほうが陳寿の評価は高いと論する人がいて
いや、儒教的にみて劉邦の風ありというのは王者として満点じゃないという人がいて
曹操はその能力を褒められたからといって格が落ちる評価じゃない、
現に諸葛亮は儒教的な価値観だけではなく法家的要素も大絶賛されているという人がいて
そもそも「高祖の風あり」「張良・陳平の風あり」「韓信の風あり」というのは
別に目くじら立てるほどの評価でもないと思ってる俺がいる
曹操はおくり名はされてるけど王朝創始者ではない。
あくまでも漢の名宰相だよ?
大義名分を重視すれば陳寿が曹操を皇帝たちと比較したり喩えたりする訳がないよね。
だから 申不害・商鞅の法術 韓信・白起の奇策。超世の桀 でいいんだよ。
曹丕は皇帝であり王朝創始者だから古代の聖王と比較されるんだろう?
しかも禅譲形式をとってるからなぁ
劉備は初代であり皇帝であって正式な禅譲は受けていない。
比較するのは同姓でもある劉邦しかないよね。
大体当時の人間からしたら英雄譚といえば漢の建国だろうし
人の評価がそれをなぞるようなものでも何の特別性もないw
>>841 これにはおおむね同意だが、後漢はその後半期、羌族らの叛乱によって関西地域における
統治能力を喪失しかけていたから、そもそもイメージほどの強国では無いんだよなあ。
曹操は、羌族・鮮卑たちから後漢の領域を奪回していると言う点では間違いなく成功者だから
評価が難しい。(マイナスもあるがプラスもあるという意味で)
>>852 下げてんじゃねーの
王者として満点じゃない、どころか
曹操より格下といってんじゃん
その後しっかり反論されているが
>>823や
>>830の根拠ってすげー怪しいしな
てか君主なのに家臣を比喩対象にされてる時点でどうかと思うがなあ
>>852 それ以外に特に問題なければ、誰との比較かなんてのは大したことじゃないんだ。
他にもいくつか魏をなるべく矮小化して蜀漢贔屓な部分があるから、評での比較対象も蜀漢贔屓の一部分として意味を持っているんだよ。
>>841 幽州は後漢からそんなもん
并州もまだら状だし、曹操が支配を諦めるのは後漢書でも人口の少ない地域
そもそも元々支配できてないところなんだよ
青・徐は元々豪族が強く、赤眉が根城にしたり黄巾が大発生したりしてて
やはり後漢でも前後の漢で反乱の温床
涼州は諸葛亮が攻め込むと靡いたというけど、
後漢の涼州の美味しい部分の大半は雍州に編入されてて、
三国時代の涼州ってのは元々難治っていうか、治所と役所ポンと置いて
そこに兵員と役人置いただけのようなもので、塞外民の多いこと多いこと
後漢だって別にその辺しっかりと支配できてたわけではないよ
>>853 嘘コケ
>あくまでも漢の名宰相だよ?
これは絶対にない
他ならぬ漢の皇族を迫害しまくり、皇后を殺し、皇帝にも「いつまで生かしておいてもらえるかわからない」と嘆かせ
劉氏以外は王足らずの不文律を破って王となり、次世代の禅譲のレールを敷いたくせに
どこが名宰相なんだ
最終的な位置づけでも魏王だろ
>>852 劉備>劉邦>王者としては満点じゃない (そりゃ古代の聖王に比べれば当然。だけど漢祖の名を出すのはそれより大きな意味がある)
曹操>申不害その他>王者じゃない (史書の筆法違反じゃねーの?)
あくまで三国創業三者の中で一番高い格の評を受けてるのは劉備って言ってるだけなんだが。
劉邦が王者として最高だとか誰も言ってないのに、必死に否定しようとするから、
「曹操可愛さのあまりに劉邦の格を下げようと頑張ってる」と思われてしまうんだよ。
>>851 >>858 おいおい
結局曹操は統治能力の落ちた後漢の状態を全然克服も統治も出来てなかったと
いいたいわけか?
さらにいうと、後漢の領域のうち北半分しか支配できず
さらにその北半分9州のうち5州がろくに支配できてない、とするなら
全然ほめられたもんじゃない弱小王朝って事になるだろ
方孝孺だっけ?
劉邦が次第点っていったのは
劉備可愛さの余りに劉邦の格を上げようと頑張ってると思われるんじゃない?
>>862 そうやって痛いところ突かれたら
阿呆のように噛み合ってない鸚鵡返ししなくていいから
曹操自身が劉邦になぞらえたがってるのに、それ無視して
劉邦の比喩価値下げようとしたって必死すぎとしか思えんが
痛いのは
>>863だろw
劉備と曹操の2つの評があって
劉備>曹操なる不等号を付けようと始めたんだから一番必死になってるようにしかみえん
>>846 意味分かんねー、なんでそうなるの?誰かと勘違いしてるのかもしれんが
>>840のレス、とくに最後の行を読んで
陳寿の絶賛が不当に思えるなんて
>>840はよっぽど曹操を高く評価してるんだなって言っただけなのに
>>861 その「北半分」という発想が既に間違い
よく南船北馬って言うけど、あの言葉で言う「南」って漢水とか淮南辺りの事だよ
会稽や江南辺りが「世界の果て」だった世界観の中を生きた後漢〜三国時代の人間の感覚を
現代人が理解するのは無理だけど、想像くらいはしなよ
>>853 曹操は「魏王」なんだが。
死後追号されて天子となった者の最高峰として、まさに周文王がいるだろ。
魏武皇帝を丸無視するとしても周公旦や春秋五覇がいる。
仮にどんなに名宰相であったとしても、王が一臣下と同列に語られるというのは、
実質の王朝創始者として相応しいと評価されてないってことなんだよ。
>>864 痛いのはお前
>>823や
>>830みたいな根拠怪しい事いって無理やり押し込もうとして
苦しくなったらそうやって一人認定とか大概にしろ
俺が始めてレスしたのは
>>847から
それ以前から言ってる人とは別人だ
そうやってお前が自演ばっかりしてるからって
他人もそうだと思うなよ
>>865 >陳寿の絶賛が不当に思えるなんて
>>840はよっぽど曹操を高く評価してるんだなって言っただけなのに
ああ、結局はじめから議論も説得もするつもりなんてなくて、
こちらの主張の忖度など無しに嫌味を言っただけだったのか。
じゃあもう話すことは無いわ。ばいばい。
禅譲受けるってことは、前の王朝よりも立派にやっていけると認められたということだからなあ。
最低でも同等には支配できていなければ、到底合格とはいえないだろう。
魏は蜀、呉に認められなかった上に滅ぼして統一することも出来ていないんだから、それ以外の土地を後漢と同等に支配していただけでは正統王朝のメンツは丸つぶれなんだよな。たぶん。
>>867 納得。
うん。武帝紀って名前になってるしそういうことだね。
>>866 そうやって無理やり都合よく自分の願望を当時の価値観にしないほうがいいと思うが
しっかり後漢時代には三国時代を彩る陽荊益の三州は統治され、益州とかは
後漢屈指の高い人口を持っていた事とか無視して
無理やり魏の勢力範囲以外を貶めなくていいと思うが
どう頑張っても魏は後漢の半分以下の勢力しか持ってないことになるんだよ
>>861 弱体化以後じゃなく、建国当初から辺境の統治なんてわりかし適当だよ
古代王朝の支配力と近代国家の安定性を一緒にしちゃいけない。国境線すら曖昧なんだから
>>868 厨くせーwwww
そんなに構ってほしけりゃクソコテつけろよ
>>872 それを実効統治とみなすのは、「曹操は孫権を降伏させたから、曹操はその領土を支配していた」と言ってるようなもの
実際には地方分権に等しい
人口比なら 7:2:1だっけ?
>>873 だからその基準で言ってもろくに支配できてないっておかしいだろ
そっちの論法なら
魏は後漢王朝の13州のうち、9州をろくに支配できず、4州弱しか
支配できてなかった弱小王朝って事になるぞ
なんつーか魏の狭いテリトリーを必死に擁護するために
それ以外の地域を必死に貶めることに終始してるようにしか見えない
むしろ関中は曹操時代の方が支配力あったかもな
>>878 どうも長安近辺(三輔)が決定的に荒廃したのは曹操が馬超たちを平定してからみたいな感じもあるんだよな
関中の人間はそれ以来曹氏を嫌ってたんじゃないかと思うんだが
>>874 それはお前
>>875 少なくとも太守とかの任命を行ってる時点で
曹操と孫権みたいな関係とはまるで違うだろ
何つーかもう、そこまでしないと魏の狭いテリトリーを擁護できないのか?
>>877 むしろ「後漢王朝は曹操の回復させた後漢王朝の倍以上の巨大国家」とか言ってる方が、よっぽど曹操中傷に終始しているように感じるけど
新末の大乱からようやく復興した2000年以上前の古代王朝をどんだけ過大評価してんだ
>>879 それはそうだと思う。あそこまで大規模な軍事的衝突はそれまで無かったんじゃないか
基本印綬だけ交わして、あとはほったらかしだし。自治区みたいなもんだ
でもさ 日本列島のうち 四国と北海道以外を押さえてたらさ、まぁ日本をほぼ支配下においたっていっていいとおもうんだよね
>>879 関中の最悪は李カクの時代…
と言いたいが、その後鍾ヨウが遷都人口を洛陽に戻してるから、李カク動乱で離散していた人口がさらに激減したはず。
底辺はその時じゃないかな。
で、それを曹操から派遣する関東の人間が統治するのは無理なので、馬騰ら「関中諸将」に一旦任せる間接統治とした。
この間接支配を直接化しようと動き出した時に、反発したのが馬超の乱。
>>880 「そこまでしないと」というか、お前の論法だとそうなるんだって
>>882の言うように、実際には放置に等しいんだから
>>881 いやー、そりゃーお前さんの論法で言えば、
13州のうち4州しか支配できてない弱小王朝である魏を
13州の上に立っていた後漢より同等以上に置かなければ中傷になるっていうんだから
普通の数字感覚をもってる人間は、お前さんからすれば曹操中傷って事になるんじゃないのか?
なんつーかこう、引きこもりが自宅以外を必死に貶めて自宅の中を天下として、
天下人を自称してるような痛さがあるんだよ、あんたの論法
>>884 荒廃は馬超の乱平定の戦乱
曹氏に対してあまり好意的でない気風は自治を取り上げられたから
こういうことだろうか
>>882 光武帝陛下時代に蜀を平定して領域に組み込んでるのですが
それすら無視か
>>883 ここの魏過剰擁護厨の言い方だと、四国・九州・北海道は統治できず、
本州の半分以上も放置、でも日本全国支配してます、というような論法だろ
>>885 ならないっつーに
光武帝時代に蜀を平定して領域組み込んでるのに、それすら無視か
>>887 んー。
馬超の乱の平定後はむしろ安定に向かってると思うんだけど。支配率は低かっただろうけど。
以後、夏侯楙なんかが都督やってて何事もない状態だし、対蜀前線として立派に機能している。
魏代を通して、曹魏に好意的でない態度を多く見せているのは隴西、つまり関中の外じゃないか?
>>883 むしろ「北海道が明確に敵意をむき出しにしてる」という点に明確な差があったと思う
四国の立ち位置はフラフラしていて微妙だけど
直轄の支配域はあんま変わらんと思う。つーか何度か触れられてるが、後漢の統治してる地域も時期にもよるが、かなりグレーな所が多い
青・徐州なんて時代通してグチャグチャだしな
陳寿が蜀びいきなのは確かだし 曹操が儒教無視の人だったのもたしかだし。
はんかい、しょうか、ちょうしぼうって臣下?をなぞらえているけど
悪来にもなぞらえている。
曹操自身はとくに劉邦に己をなぞらえる気持ちはなかったんじゃないかなぁ
>>890 つまり曹操の天下統一を目指した南征事業は無駄無駄だったのですねー
13州のうち4州だけでも天下人なら
そこで満足してりゃよかったのに、っていう論法になりそうだ
>>888 だからその基準で良いなら、曹操は西を奪い返して北に版図を広げた上に、呉を平定したって事になる
孫権は降伏を申し入れて、劉協は孫権に位与えてるからな。劉秀が蜀を平定したのを基準にするなら、これでも領土は漢に還ってると言える
>>891 高祖になぞらえようとしたのは荀ケだな
高祖の戦略を持ち出して何度も献策してる
後漢は順帝あたりから鮮卑に押され出して北方の領土がガリガリ削られ出してた。
でも南方の開発は前漢よりも活発で永昌郡の新設とか、交阯地方の統治が安定して州に昇格。
揚州も人口の増加に伴い呉郡を新設。後漢の領域は北方は縮小していったけど南はむしろ膨張してたのでは?
>>891 前から思っていたが、曹操が儒教無視っていう根拠って何?
曹操に使えた連中ってジュン一族の推挙を得た連中が多くて
儒の系譜から外れてるとは思えないが…
荀ケは曹操を光武帝にも例えているな。
つーか4州4州言ってる奴は何を持って曹操は4州しか支配出来てないって言ってんの?
って聞いたら、
>>841が根拠だっていうんだべ?
だから、辺境の支配力が弱いのなんて漢の時代から変わらないって
まあ曹操の時代も漢だけど、便宜上な
>>891 どちらかと言うと、曹操は劉秀のwanna beだよな。
行動の端はしにそれを意識していたことが史書に残っているし。
でも、劉邦にここまでネガティブなイメージ持ってるのは、ここ数十年の日本人ぐらいなんじゃねーの?
「無能だが部下に恵まれて天下統一」、「旧友や功臣を粛清・放逐」、「騙まし討ちで姑息」
どれも全て、お門違いな批評だよな。これらを満遍なく成し遂げたからこそ、「英傑」であり
王朝創始者として、その後の定型と成り得たのだから。
>>893 だからどうしてそうなるんだか
13州のうち4州で東西南北動いてりゃ天下統一?
そんな馬かな
だったら魏が天下統一目指して動いた遠征の数々は無意味だったわけですな
てか、呉なんか位だけもらって用が済んだらそっこーで敵対してたし
>>897 荀ケはガチで曹操を皇帝にしたかったんだと思う
それこそ王佐の才だな
>>890 横槍するけど。
青徐州は確かに後半百年はぐちゃぐちゃだが、その大半の期間はあくまで治安問題、飢饉問題として。
後漢末の割拠は反抗の規模が違う。
そりゃ後漢は地元豪族の力が強い時代だったが、なにはともあれ彼らを統治システムに組み入れていたのだし、
太守どころか、県長・尉・丞まで、6000人前後の地方首長・高官を朝廷から送り込んで官僚機構を形成していた。
魏盛期の戸籍人口は440万、後漢のそれは5600万。
外に多くの逸民はいただろうが、国家の「国力」「支配力」はこの戸籍人口に比例すると考えてよい。
別に魏が悪いわけじゃなく、三国どこもどんぐりの背比べだけどね。冀荊益揚州は大き目のどんぐりってだけだ。
むしろ曹操の時代の統治能力の薄い所だけを挙げて「奴は13州のうち4州しか統治してない」って言ってる奴は、
なんで前時代の実効支配力の薄かった地域に関してはスルーなんだ?
>>896 曹操だって名士なのにな。旧態依然の権威をバリバリ笠にきて政治やってる
>>898 だからー、お前もその基準で話してるだろうが
お前の4州持ってるだけで天下統一とかいう阿呆な論理なら
中国で天下統一されてなかった時代のほうが珍しいわ
どの時代でも4州くらいの支配地域の国はあったし、それで皇帝称してた奴もいる
魏はその程度だったといいたいわけだな?
>>872 荊州の長江南部は反乱連発してて「荊蛮」なんて言って蛮地呼ばわり
益州も成都、江州とその他交易の要衝こそしっかりしてるように見えて
逆にそれ以外の部分は巴夷蛮、板楯蛮などと呼ばれた大規模な不服従民族を筆頭に
漢に従わない連中が闊歩して特定の場所以外、益州だってロクに押さえられてないんだ
四川水運や成都を始点とするシルクロード貿易ルートとかあるお陰で人口こそ多いけどもね
そもそも漢の言う「13州」ってのが大々的な宣伝でロクに支配できてない地域までカウントしてんだよ
刷り込みにやられちゃってるから、もう一度後漢書と地図からしっかり見ることをオススメする
>>888 その光武帝が組み込んだという「蜀の領域」がどこからどこまでだかちゃんと把握してる?
川沿いの江州、ラク、成都といくつかの交通の要衝だけだよ
しかも地図でよく三国時代の蜀でかく描かれてるけど、南半分は諸葛亮が死んでもちょこちょこ反乱起こしてる
実効支配の出来てない土地まで領土国家の感覚で領域としてるから誤解招くんだろうね
ちゃんとした地図書くと点と線しか残らないのが益州、荊州南部、揚州や南部の州
確かに反乱なんかも起きてはいるが、益州南部とか交州方面は支配を拡大強化してるんだよな、後漢の中で。
>>903 むしろ曹操が4州くらいで天下統一してた、みたいな論法の奴って
後漢が魏より遥かに巨大な人口と領域を掌握していた事はなんでスルーなんだ?
孔子は漢書で聖人認定されてるな。
他には三皇五帝、周文王・武王、周公も聖人で孔子と同格とされている。
>>900 つーか、漢王朝を過大評価し過ぎなんだろ
漢の版図十三州が全域に神経が通っていたものだと本気で思っているのか?
曹操が生まれるはるか前から辺境は羌や鮮卑がガリガリ押し出してきて荒れてるぞ
>>905 あーそうですか
そうやって自分にマインドコントロールかけて
曹操様の支配してた領域以外は天下じゃないとのたまうわけですか
後漢と魏の人口比率の差、つまり支配掌握力の差は歴然なんだが
お前の理屈で言うならそれこそ魏の領土なんか点と線だけのスカスカ
正式戸籍人口だったら魏の領土は悲惨なことになるぞ
まあ〜涼州放棄論とか崔烈がブチ上げてるからなぁ。幽州も対異民族の軍事費が州の収入じゃ賄えず、
徐州・青州から数十億銭を回してもらってるし。辺境の支配は崩れかけてたろうな。
>>905 それでもなお、益州から720万人分の税を集めることが出来たのが後漢って国。
地方で反乱頻発したから後漢の力は弱かった。そういうことはできるだろう。
だが、それを言うなら、反乱云々鎮圧云々どころではなく、
戸籍化できない大量の部曲民を豪族が抱え込むのを、
ほとんど半ば以上公認しているしかなかったのが魏(呉も蜀もだが)。
しかも、地方どころか中原諸州の方が人口減少の割合は著しいと来ている。
>>901の考えについてはこのスレの住人大体みんな同意で
とくに反論とかはないの?
三国志好きは普通にこう思ってるものなのかな
>>909 曹操様のために漢を過小評価しすぎだろ
人口比でみりゃ明らかに後漢よりも魏の掌握力は大幅に落ちてんだよ
>>913 いや、そんな事はないんじゃないか
荀ケが曹操を皇帝にしたかったなら
後々で対立する必要がない
>>910 そうでなく、同時代からちょっと後世くらいの漢人というアイデンティティを持った人間が
曹操の事業を評価する時に用いる物差しであるところの漢帝国を
現代の領土国家的な感覚で「こんな物差しだった」と捉えると全く以って誤解するよってことだ
漢の言う13州は「実情がどうであれ無批判に信用できる領土」とカウントしているのに
曹操の時代だけ「一切の反乱は認めないし、豪族や異民族の影響力の強い地域も認めない、完全にクリーンな所だけ領土」とカウントしてる奴が居る
認識にズレがありまくり
>>909 だから、その神経がロクに通っていないという辺境に歯向われてるのに屈服させることもできないのが魏で、
そういう地域のまつろわぬ民もみな服従させた偉大な王朝が晋
陳寿の脳内はそういう対比だったんだろう
だから魏は正統王朝としては失格の烙印を押され、創始者は王としての評価さえ受けられない
>>916 また言い方を変えてきたのか…
現代基準だろうと当時基準だろうと、曹操の魏は後漢よりも
明らかに支配掌握力も領域も下、って事をいい加減認めろよ
そんなヒッキーが自宅以外を貶めて引きこもってるような論法はってないで
>>917 実情をカウントしたらそれこそ魏が悲惨なことになるだろ
後漢と比べてどんだけ掌握力落ちてんだよ
>>915 魏公になりたいとかやりだしたら反発と失望でよけい皇帝への道が遠ざかるだろ
だから反対したんだろう
>>919 いや。
陳寿はそういう高晋低魏になってきた風潮につけ込んで、蜀漢擁護のために利用した。だろう。
>>920 はい?
そんな話はしてないぞ
「陳寿が何故曹操を伝説的人物として評価するか」というエクスキューズに対して
「だって曹操の事業を見れば本来後漢の8割9割はちゃんと抑えてるよ」というところからスタートしてるので
曹操の政権が強かった、弱かったとかいうのは余談であって本論じゃない
>>922 えー?
荀ケにそこまでの思い切りがあったとは思えないけどな
どっちみちあの時点で呉蜀平定はかなり難しくなってたし、
曹操一代で天下統一が無理となれば、魏の王朝を建てるには
ステップ踏んで皇帝へのレールをつくるしかないような
>>924 なんだ、そもそも間違ってることについてスタートしてるのか
それじゃあ無駄な議論ばかりになるわけだよ
>>922 それだと、死ぬまで反対する理由にはならないんじゃないかね。
自分が死んだら自分の手で曹操を皇帝にすることはできないし、自分の栄誉も夢に終わるし、
死と引き換えに曹操が有利になるのでさえないんだから。
>>914 さっきから思ってたが、後漢のどの時期かによるだろ
それこそ、李確と郭が皇帝を握ってたときだって「後漢」なんだぜ?
人口5500万超えの最盛期と晋統一時にして1500万しかなかった混乱期を比較したら、そりゃ国力落ちてるのは当たり前
それに最盛期だって地方を完全に支配出来ていたわけではないし、時期でいえば後半100年くらいからは殆ど地方は好き勝手にやってる
その辺り無視して「曹操は4州しか支配出来てない」というからおかしな話になるんだろ。劉秀の時代だって辺境が完全に支配出来てたわけじゃない
>>924 だから抑えてねーだろ
無理やりこじつけんなよ
領土で見れば北半分、実質支配は4州程度、豪族支配も許しまくり、
国土掌握力・人口把握力いずれも後漢から見ればオチまくり
これでどうやったら8・9割抑えてんだよ
お前の脳内以外にそんなものがあるわけないだろうが
>>927 反論した時点では死ぬと思ってなかったんだろ
それまでも曹操にはけっこう厳しいことも言ってきたが殺されたりしていないから
甘いと言えば甘いし、それだけ信頼関係があった(と思い込んでいた)とも言える
>>928 だからー、曹操様はそういった李確・郭時代みたいな状態を克服したんだろ?
8割9割抑えたんだろ?
それなのに後漢よりも大幅に掌握力落ちてるってどういう事なんだよ
曹操擁護のために言ってることが滅茶苦茶すぎんだよ
まあ、三国だけで比べても6割か。
後漢が辺境を十分に支配していなかった、と言っても、
魏はそこからさらに支配域を狭めているわけだから、
「本来後漢の5割を支配していればいいとこ」って程度じゃないかな。
いやー、つうか、最初は普通の議論だったけど、
対立派を魏過剰擁護厨とか、ヒッキーや引き籠りの理論だとか、「曹操は4州」の人がだんだん煽り臭くなってるんだよね
そうなってくると、論の外に曹操を貶したいというのが見え隠れしてしまって、もう斜にしか見れないんだが
>>930 たった一回の反論じゃ無くて何度も繰り返した結果じゃなかったか
>>933 いやー、最初から無理やり曹操擁護のために無理やり論法張ってる
「曹操8割9割」の人がどんどん曹操が支配できた地域以外を切り捨てる方向に言って
無理やり頑張ってるから揶揄の一つもしたくなるんだよね
>>934 魏公に推戴する件については何度も繰り返したっていうのは書いてないと思う
九州制への反対なんかも込みでカウントするなら別だが
曹操を貶したいか、とにかく舌戦に負けたくなくて正味の所、魏や漢はどうでもいいのか、どっちかだな
基本的には
>>928と
>>932だろ
で、当時の戦乱期まっただ中に生きていた人から見ればそれでも曹操は覇者として十分だったのか、そうじゃないのか、評価は適切か、
について、
>>924なのが本来のこの話の筋
>>937 だからそれはお前
曹操を過剰に擁護したいのか、舌戦に負けたくなくて中身を無理やり改変してるだけ
>>924や
>>928なんかとっくに突っ込まれてる
8割・9割なんてとてもじゃないが曹操はおさえちゃいない
>>935 時間を置いてから書きこんだ方が良いぞ
煽ったり罵声を飛ばした時点で、まともな意見とは見てもらえないからな
>>934 そもそも、本当に荀ケが粛清されたのかはわからん
あくまで注で可能性が示唆されているだけだから
ひょっとしたら殺したのは董昭あたりかもしれんぜ
曹操様とか魏厨とか使ってるやつキモイ
ま、魏が仮に天下の9割を抑えていたとしても、天下統一を果たせていないのならば、
劉邦・劉秀をはじめとする漢代皇帝全員を凌ぐ「伝説的人物」ってのはナシだろう。
>>929 北半分じゃないよ
漢水、淮南が確保できりゃ漢としたら北8割くらい
呉会が世界の果てだって言う当時の価値観を無視しちゃいけないって
荊州は荊蛮、つまり蛮地扱い
忘れちゃいけないことは後漢末には商業の中心地になる南陽周辺や学問の中心地として発展する襄陽も
後漢初の頃は豪族が荘園開拓するようなある種フロンティアだったってこと
>>938 オウム返しとか……
あんた、いい加減不毛だから黙れよ
あんたとあんたとやり合ってる人間は言ってる事はどっちもどっちだが、あんたは品が無さ過ぎる
冷静さを欠いたまま書きこまれると荒れる。ここは皆のスレだし、荀ケの方の話したい人だっているんだよ
魏を貶めようと必死になって劉備ageを試みるも
その大嫌いな魏より矮小な蜀とその創設者を浮き彫りにしてる斬新な奴がいると聞いて飛んできました
>>942 う そ つ け
荊州も益州もどちらも後漢時代に非常に高い人口比率を持っており
土地と人口の掌握が深かった事は歴然だ
そうやって無理やり曹操が支配できた地域以外切り捨てようとするから気持ち悪いんだよ
>>941 凌ぐか凌がないかなんて話じゃないでしょ
「超世の傑」は「世の中の人を超えた傑物」って意味であって
「前漢・後漢の神君達を越える伝説的英雄」って意味ではない
>>944 自演乙
不利に成ったら煽りに終始とか無様なもんだな
どんどん曹操様の領域が狭まってるがどうすんだ?
>>941 ただ、そういう観点から考えると、劉備の「高祖の風」ってのは適切じゃないという事になる
同時代の人から見れば、董卓だって十分覇者ではあったと思うぜ
そもそも、その時にはまだ漢は健在だという考え方だし
>>943 最初に鸚鵡返ししてたのお前の癖によく言うわ
そうやって不利になったらどっちもどっちにすんなよ
冷静に見りゃ魏が後漢の8割・9割なんてとてもじゃないが
抑えられてないことは一目瞭然だな
>>946 だから結局天子や王の列には入れてもらってないと解釈すべきってことなんだよな
劉備すごい 評価たかい
曹操すごくない 漢をつくった劉邦にくらべたら全然だめ
その劉邦にくらべられた劉備すごい
劉邦>曹操 劉邦=劉備 よって劉備>曹操
魏>蜀 あれ?
頭沸騰してる1名は無視しておk
もう議論にならん
漢の最盛期と末期の人口比を同じだと考えてるんだから
そうか、蜀>魏だったんだな
>>952 そうだよな、反論できないよな
後漢時代から高い人口比率もっていた江南地域を切って捨てないと
曹操様が8割9割抑えてたことにできないもんな
最盛期であろうとなかろうと、後漢時代には荊益は十分に人口と土地の
掌握が進められていたという事実を無視して、切り捨てないと
自論が維持できないもんな
>>954 陳寿が言いたかったのはそれ
でもハッキリ断言しないでキーワードを評とかにちりばめたのがクレバーなところだ
>>951 晋としては漢から魏への禅譲(つまり魏から晋への禅譲)の正当性だけ抑えられてれば、あとはどうでもよかったんじゃない
たまたま陳寿の史書だけ後世に残ったから、陳寿の評価がそのままスタンダードな評価になったけど
>>955 乙
しかしながら今の君を支持する賢者はここには一人も居ないだろうから、速やかにブラウザバックを推奨する
他スレで存分に語ってくれたまえ
>>956陳寿の意思を把握してるらしいから聞くが
どの辺が蜀>魏だったの?
天命が無かったとはっきり言ってる人が蜀がもっとも優れていたと?
陳寿の「心意気」は誰でも知ってるから説明ないよ
>>946 >「前漢・後漢の神君達」
劉邦のことは曹丕と同列で「とりわけ高くもない」なのに、その他の皇帝達は「神君」だったんだね。
その用語はしらないから
>>830の序列の中に組み込んで説明をお願いしたい。
935 :世界@名無史さん:2011/01/23(日) 01:11:51 0
>>933 いやー、最初から無理やり曹操擁護のために無理やり論法張ってる
「曹操8割9割」の人がどんどん曹操が支配できた地域以外を切り捨てる方向に言って
無理やり頑張ってるから揶揄の一つもしたくなるんだよね
947 :世界@名無史さん:2011/01/23(日) 01:26:36 0
>>944 自演乙
不利に成ったら煽りに終始とか無様なもんだな
どんどん曹操様の領域が狭まってるがどうすんだ?
自分が有利だと思ってるなら、揶揄なんか入れるなよ。つーか自分の言った事に一貫性を持てよ
見苦しすぎるぜ
>>960 察しろ
つーか荒れるんだから触るんじゃねえよ。あと50切ってるのにどんだけレスを無駄にする気だ
>>957 それ言ったらお前を支持してる賢者なんざ
お前のみえみえ自演以外にどこにいるっていうんだかな魏8割9割を否定してる奴のほうが
ずっと多いぞ
もともと無理のある論調だって事みとめりゃいいのにな
>>958 俺956じゃなくて、最初に陳寿の意図云々言い出した人間だけど。
陳寿は蜀漢が自分の故国かつ益州が自分の郷土だから称揚した。
まあ、西晋の政治情勢とか色々細かい事情はあるけど。
天命がなかった、と言ったのは、晋武帝に対して。
「天命は統一を達成した偉大なる晋に帰結するものだったので、うちの国が北伐に勝てなかったのは仕方ないです。
陛下の祖父が総大将ですし。でも魏に対しては負けてませんよ」
ってのが陳寿の思想。
>>960 ちゃんと一貫性持ってるが?
曹操様8割9割だの他の地域を切って捨ててるくせに
不利になったらどんどん論法変えてやがったくせに
何をいってんだかな
明らかに無理な事をひっしこきすぎて馬鹿らしいわ
>>961 察しろ?
ああ、曹操8割9割さんの必死さを察しろってことですね
最後のほうは必死こいて自演と煽りに終始してやがったからな
ああ、
じゃあ
>>970が次スレ立てる予定なので、そこまで来たら全員ストップな
>>962 改行か句読点か、どっちかに気を付けて書いてくれよ
>>959 儒教的な聖人としては、兵を使うなんて言語道断だから、皇帝や王侯なんかは絶対当てはまらんべ
国の支配者としての評価はまた別なんじゃない?
>>966 んじゃ端的に
曹操8割9割なんて天地がひっくり返っても無理だから諦めろ
支持してる奴なんてお前の自演だけ
>>963 事実は
>陳寿は蜀漢が自分の故国かつ益州が自分の郷土だから称揚した。
これでしょ。これはみんな知ってる。
この心意気と、陳寿の意図は蜀>魏だった、というのは別次元すぎるんですよ。
「天命は統一を達成した偉大なる晋に帰結するものだったので、うちの国が北伐に勝てなかったのは仕方ないです。
陛下の祖父が総大将ですし。でも魏に対しては負けてませんよ」
これはもう人に話しても同意を求める内容じゃない。主観的分析にすぎないから。
何が彼をここまで駆り立てるのか
>>968 よくわからない。なぜ別次元?
陳寿は蜀漢を魏よりも立派な帝国だと主張したかった。
だから皇帝が即位するには正統な手続きが行われたことを事細かに描き、
君主は立派な人物で、臣下には忠義稀なる稀代の宰相がいたことを記した。
というわけで、次立てる
終能總御皇機,克成洪業者,惟其明略最優也。
曹操って皇帝としての扱いは受けてるでしょ
陳寿の評で「最終的には統一をして、大事業を成し遂げたのも、ただその能力が最も優れていたからである」
洪業って言葉は左伝でも出てくるけどただの大事業って意味ではなく
「天子の事業」という意味も含む
まさか儒学を深く学んでるはずの当時の知識人である陳寿が
当時なら子供でも暗唱してるような儒教の基本である左伝の言葉を知らないわきゃないよねぇ
戦乱期において「總御皇機」(天下統一とほぼ同義)して克成洪業者(大事業を成し遂げることが出来た人である)
なんて評価をしておいて陳寿は曹操を「洪業を成した人」と評して皇帝として扱ってないとは言えないのだが
何でお前ら三国志語るのに儒教の勉強してねーの?
973 :
970:2011/01/23(日) 02:00:29 0
すまん、駄目だった。
レスなんざいらねーよ
陳寿は曹操も皇帝として扱ってるし、劉備は先祖を引き合いに出して皇帝っぽく演出した
酷い扱いなのは孫権くらいなもんだった、陳寿ったらイケナイ人
で結論だろ
わかったから立ててくれよw
>>970 陳寿が史書を記すにあたって
>陳寿は蜀漢が自分の故国かつ益州が自分の郷土だから称揚した。
というように、亡国の遺民として筆遣いで蜀を際立たせようとしたのは定説であって、今更聞いても誰も驚かない。
しかしそれが意図するものが「蜀>魏だった」という主張は第三者からみたら飛躍しすぎてるんだよ。
貴方が言った訳ではないけど、「陳寿のいいたかったこと」と断言している割りには、史官としての陳寿を見くびってるとしか思えんw
おまえら言いたいこと垂れ流すだけでスレ立てに応答さえなく音沙汰無しかよ。気分わりいな…
正直すまん
次スレ立てた途端にとまるなよ
ヒートアップしたまま次スレ50くらいまで伸ばせ!
この時間に異常に伸びてるからビビったんだが、
感想としては、後漢は荊州や揚州や益州や青州や徐州を実効支配出来てなかった論の人は、
いつか書きたい三国志を鵜呑みにしすぎな気がする。
とりあえず、後漢は十三州の全部に郡太守と県令を送り込んで、徴税してたけど、
魏はそれができなかったってことは厳然たる事実として存在することを指摘しておこう。
>>982 実効支配できない論とかは枝葉末節
人口の多いポイントで魏が取りこぼしたところはいくらもあるけど
基本的に南部の支配は後漢に入ってから開拓されたもんだということを念頭においてから考えて欲しい
当時の人間の価値観として「荊州は蛮地」というものが歴然とあるわけで
そういうものを考慮するとやはり曹操は「漢土」のほとんどを占めてたと言っていい
荊州や揚州が後漢に入ってから開発が進み、後漢中期には中原諸州を越える徴税体制を有していた。
特に後期の中原飢餓を支えたのは淮水・江水流域の生産力による。
これが後漢末に失われ、回復するには魏末まで掛かった。
>>983 荊州や益州や揚州が漢土じゃなくて、海外領土だっていう説は初耳だwww
西域と同格ですかwww腹いてえwww
んじゃ、太守や刺史なんか置かないで、都護置けばいいじゃんw
軍だけ置いて間接支配しるwww
蛮人を孝廉や茂才になんかするなwww
蛮人から二千石どころか、三公や九卿まで大勢輩出した漢は人いなさすぎwww
荊州と言ったって商業の中心地である南陽や成都
それらの連絡経路上にある都市は栄えるし、人置いて管理してはいるけど
それらがあまりにも飛び飛びでしょ、南部ってさ
海外領土なんじゃなくて蛮地ね
意図的に言い換えしなくていいよ
飛び地かどうかは問題じゃないだろ。戸籍人口の外にいくら人口があったとしても、
掌握人口だけで南方三州が後漢にとって重要な財政源に成長していたことには変わりは無い。
後漢は荊州に対して400万人分の支配力を有していた。揚州に対しては600万人、益州には700万人。
実に後漢人口の三分の一に当たる。すなわち国力の三分の一、財源の三分の一だ。
というか水稲中心の南の方が力が大きいかな。
さらに後漢後期の疲弊は中原を中心としており、旧後漢全土の中での南方諸州の力はさらに上昇している。
魏の「漢土」支配率は、三国内で比べても6割、北・西で失われた分を考えれば5割
>>932ってのが
妥当な数字だろ。
>>986 蛮地って言ったら、タリム盆地やオルドスや満洲や朝鮮半島や紅河デルタと、
荊州や益州や揚州が同列だと思ってるんじゃないかと思って、さすがにそれはないかと思いなおして、
漢人も蛮族も一緒に住んでて、漢人の有力者が普通にいるような植民地的ニュアンスで海外領土と言う配慮したのに、
自分でぶち壊すなよwww
んじゃ、漢人は連絡経路上の都市以外には立ち入れなかったのか?徴税できなかったのか?賦役を課せなかったのか?
連絡経路上の都市以外は蛮族の天地で、漢人がいても蛮族の前に息をひそめてて、
大きな顔ができないとおっしゃりたいのか?都市の外の漢人豪族は実は蛮族の大姓だったのか。
勉強になるわw
>>988 大きな顔が実際できてない地域が益州とか荊州には実際に存在してて
何度も反乱を起こしてる
後漢の頃、益荊各地には各地の名前を冠した蛮族がいて
後漢はそれらの対処に結構苦慮してんだよ
>>989 幽州や并州や涼州や青州や徐州だって反乱に苦しんでたけど、
幽州や并州や涼州の反乱の主体も異民族だったから、幽州や并州や涼州も蛮地じゃね?
幽州や并州や涼州なんて、荊州や益州や揚州なんか比較にならないぐらい深刻だったんだが。
後漢末あたりになると三輔に異民族うじゃうじゃいたみたいだけど、蛮地ってことなんだよね?
>>990-991 元からいたのと追っ払ったのに再度侵入されたのでは感覚が違う
前漢から後漢までの間にフロンティアを開拓してった南部を
「中核地」という感覚で見たらダメだよ
>>992 幽州の烏桓や、幽州・并州の鮮卑と、并州の匈奴と、涼州の羌・テイがいつ追い払われたのか詳しく。
>>989 いやだからなんなの?
って言ってるんだが。
揚州の支配率が悪かったとしても、支配できた人口600万は中原諸州のどれより多い。
その経済力が八割方失われたのが魏代。荊州・益州でも同じ。
それにも関わらず「魏が掌握できなかったのは後漢の一割二割」ってのは単純に割り算の間違いだよ。
>>994 >>989の定義なら、幽州と并州と涼州も蛮地だから、魏は後漢全土を掌握しただけじゃなく、
蛮地に支配を広げた偉大な征服者ってことになる。
>>993 元から追い払われてないから曹操の時代でも把握できなかったんでしょ
追い払った云々は涼州の話ね、それも東部
言葉足らずだったわ
>>995 実際そうでしょ
三国時代は三国それぞれが蛮地を領土に組み込んで「中華」が拡大した時代でもある
>>997 人口構成中の蛮族の比率が上がっただけで、
人口自体は1/7。
後漢の地方 朝廷支配に抵抗した反乱が断続的に起きた
魏の地方 反乱するまでもなく統制を受けずに悠々と自治していた
1000なら晋が天下統一してスレが平和になる
1001 :
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