>>950 魏は母体となる曹操軍閥で、宗室の権力が大きかったから。
呉も宗室権力が大きかったな。
>>946 横レスなら先に言ってくれ。
単に皇帝と姻戚関係になれば即ち外戚政治になるなら、それは費イに止まらないわけ。
>>935 >劉センが即位した時点で外戚政治は出来るし、漢の多くの外戚は同様だ、って話だよ。
出来るかどうかじゃなくて、現実的にあるかないかって話だろ。
>>909は、可能性ではなく、費イが長生きすれば必然的にそうなると言わんばかりの書き方。
幼帝も立つ気配がなく、費氏が皇太后になるかも不明、費イが存命である可能性も低く、
費氏一門の多数が権力に食い込んでいる状況にもない。
>単に皇帝と姻戚関係になれば即ち外戚政治になるなら、それは費イに止まらないわけ。
皇帝と姻戚関係になって、政治に権力を振るえばそれが外戚政治だよ。って話。
臨朝皇太后の親族が専権を握るのがもっとも強力な状態だが、
成年皇帝の皇后の親族が皇帝を宿衛して国事に大きくコミットするのは漢では有り触れた例だった。
費イは劉禅より長生きすれば皇后の父かつ大将軍なのだから、政変でも起きない限り
外戚政治の到来は固い。
>>954 費イは年代的に劉禅より上っぽいけどな。
劉禅の皇太子時代の側近だから。
で、実際には「政変」が起きて「劉禅より長生き」できなかったわけだね。
>>954 >皇帝と姻戚関係になって、政治に権力を振るえばそれが外戚政治だよ。って話。
違うだろ。
姻戚関係と権力の掌握がパラレルに成立していれば、それは外戚政治と呼ぶ必要もない。
権力がその外戚一族に偏ることがなければそれは外戚政治ではないだろう。
>費イは劉禅より長生きすれば皇后の父かつ大将軍なのだから、政変でも起きない限り
劉センは幼帝ではなく、本人の意思がある。
だいたい、劉センが費氏を好いていなかったらどうすんの?
自分の母方や皇太后の血縁者を抜擢して政治に参与させるかも知れない。
そっちこそ「外戚政治」と呼ぶべきもの。
ifの、というか外戚政治のシステムの話をしてるんだから、実際には、とか言われても。
外戚政治って単語の捉え方自体が違う者同士が口論したって不毛なだけだろ
>劉センは幼帝ではなく、本人の意思がある。
それも一種の政変だよ。
新皇帝が先帝の遺した重臣の大きな権限に抗して、自分の側近を使って自分の権力を打ち立てたりする。
漢ではよくあること。
961 :
956:2010/07/21(水) 23:48:00 0
>>958 まあそうなんだけど、たった二つのハードルだけで「外戚政治の到来は固い。」ってのは
少々乱暴じゃないか? と思って「実際」に出て来てもらった。
>>960 >それも一種の政変だよ。
大将軍より皇帝のが圧倒的に偉いからw
費イが劉禅の時代から「外戚政治」を行ってたとかならともかく、そんなことはないわけだ。
あと、横槍とか言いながら、
>>909と
>>954は同じことを言ってるように思えるんだが。
>少々乱暴じゃないか? と思って「実際」に出て来てもらった。
>あと、横槍とか言いながら、
>>909と
>>954は同じことを言ってるように思えるんだが。
ごめん。確かに言い過ぎた。
システム上の話で、大将軍費イは劉禅より長生きすれば後事を託される筆頭候補。
その場合新帝の義父になるのだから、劉センにとって頭の上がらない存在になる(劉禅にとっての諸葛亮より遥かに)
費イ時代には既に親政していた劉禅時代より権限はさらに上がるだろう。
劉センが費イを尊重するにしろ、皇帝の権限を圧迫する存在と見て反抗するにしろ、
外戚が皇帝の親々の地位に拠って国政に大きな権限を振るうという漢代的な外戚政治の典型的なモデルになる。
ってこと。
郭循が劉禅暗殺をあきらめなければ費禕は皇后の父として諸葛亮以上の権勢を握れたかもしれない。
でも実際は自分が刺されたというのは皮肉なことだな〜
蒋エン死後の劉禅の親政って魏略の記事。
俺はウソだと思う。
966 :
世界@名無史さん:2010/07/22(木) 13:21:32 0
魏略は、所詮うわさ話。王沈や陳寿の魏書が読売新聞だとすると、魏略は東スポ程度の信頼性しかない。
劉禅の親政って、蜀滅亡までなかったんじゃないかと思う。
費イ生存中までは、宰相が外地にいてもいちいち使者を送って決裁を仰いでいたし、
費イの死後に姜維が大将軍になって外地で戦争に明け暮れて政治を行わなくなり、
陳祇が政権を握っても、陳祇に政治を丸投げしてたような。
陳祇の死後は黄皓が権力を握ったけど、これも内朝は黄皓に、
外朝は董厥と諸葛贍と樊建に丸投げ状態で、劉禅はそいつらの言いなりなだけのような。
晋の恵帝は愚帝の代表のように言われがちだが
劉禅と変わらんのではないか。
俺は恵帝が知的障害者であるかのような考察にはいまいち同意しかねるんだよね。
劉禅が郤正に入れ知恵された話は、実際にあったのか、また演技なのかどうか真相は不明だが、
恵帝と変わらん程度の君主であったかも知れない。
政治システムがしっかりしていればまともな政治は行われるが
システムがダメなら徹底的に国が乱れるというような。
まあ、自らシステムを駄目にする皇帝よりはマシなんじゃないかな?
>延熙十五年,命禕開府
ってのはどういうことなん?
それまでどういう政権構造だったんだ。
「蒋エン死後の劉禅の親政」と関係あるのかな。
良く考えれば、大将軍なのに府を開いてなくて、
政権掌握後何年もたってから開府を認められるってのも妙な話だね。
誰か、合理的に説明できる人プリーズ。
誤字
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
>>970 それまでの費イの官位は大将軍・録尚書事。
府は開かず、録尚書事の資格で政務を統括して政治を執っていたのが、
独自の府を開くことが認められて、政府機構から独立した強力な権限を認められたのでは。
>>964 実際、蒋エンと董允がほぼ同時期に死去する前後で、蜀漢の政治システムが変わっている。
侍中や中常侍が政治権力を握るということは、皇帝自身で意思決定するシステムが成立しているということ。
丞相や大将軍のように、宮廷の外に府を持つ「宰相」が決定し皇帝がそれを認可するという、
劉禅時代前期からの明かな移行が認められる。
ただ、その移行が蒋エンの死によっていちどきに起きたとは限らない。
蒋エンが漢中からフまで戻された時に最高権力を奪われた仮説があるが、
替わった費イの権限が今ひとつ明確ではないこと。
大きな影響力を持った董允の死と陳祗の起用、
姜維の国政からの孤立など、多様な要素が働いていたのを
総合して、魏略が「蒋エンの死」をきっかけと解釈したのかもしれない。
976 :
975:2010/07/22(木) 21:04:19 0
>>975 陳祇が権力を握ったのは費イの死後。そして、陳祇を引きたてたのは費イなんだけど。
あと、費イ在世中に権力を握った中常侍はいない。
費イの権限は明確。大将軍・録尚書事。立派な宰相職だね。
蒋エンの死じゃなくて、費イの死をもって、親政を開始したってのが、
本来魏略の書きたかった事で、蒋エンと費イを間違って書いたんじゃないかね?
皇帝が大将軍・録尚書事を置く=親政していない
って認識でOK?
980 :
978:2010/07/22(木) 21:38:28 0
違うのか( ̄□ ̄;)ガーン
>>979 大将軍はともかく、録尚書事は「政治は全部任せた」ってことじゃね?
親政するなら録尚書事みたいな政治の全権委任する役目の人間いらんだろ。
録尚書事は確かに「宰相」なんだけど、それだけでは皇帝の決定を実行する行政執行役にすぎない。
「宰相」の権限自体、武帝以後減退を続けていたから。
だから後漢でも皇帝の側近にある宦官や外戚の専横を、録尚書事は止められなかった。
全体的には
前漢末に三公が行政執行機関化→権力が尚書に移る
後漢後期以降尚書が行政執行機関化→権力が中常侍等に移る
魏になると中常侍の代わりに中書が復活、やはり尚書が行政機関化に拍車。
といった流れらしい。
後漢末頃にはすでに形骸化していたっぽいね。>録尚書事
トコロテン式権力というかなんというか。
でも、三国時代になったら、また録尚書事の権限は復活したね。
録尚書事や平尚書事の権力は、外戚や宦官をしのいでいたね。
>>985 それは順番が逆で、宦官が一旦死滅し、魏は外戚を意図的に抑制、蜀は外戚らしい外戚がいないという状況だからしのいでいたとも考えられる
諸葛亮のような人物が就任していたからしのいでいたとも言える
>でも、三国時代になったら、また録尚書事の権限は復活したね。
復活したんではない。国政を取るのにちょうどいい役職だったから拡大利用された。
それでも曹操や諸葛亮、司馬氏のような録尚書事が例外中の例外。
蜀漢では諸葛亮のような権威の大きな大臣の力が必要だったといえるし、
曹操や司馬氏は臣下の分を越えて政権を牛耳る名目に便利だったからという程度のこと。
というか、初代に重用されてる司馬懿、諸葛亮に実権が残ってるのは当然のこと。
制度設計者が意図してトコロテン式にしているわけではないのだから。
諸葛亮死後の蜀の録尚書事にどこまでの権力があったかについてはまた別の議論が必要だと思う。
989 :
世界@名無史さん:2010/07/22(木) 23:05:40 0
司馬懿も爽やかさんの時代になってからは、
録尚書事にも関わらず自分のところに案件が回ってこなくて引きこもった。
録尚書事だから権力があるのでは無く、権力があるからこそ録尚書事が生きてくるのだろう。
>>985 蜀漢の場合、諸葛亮を頂点とした録尚書事中心の政治体制から、
徐々に皇帝・側近中心の体制へと「正常化」していく。
最末期では、陳祗の死後成都へ戻り一年以上滞在した録尚書事姜維も、
平尚書事諸葛瞻らも、黄皓の権勢を阻むことはついにできなかった。
そろそろ次スレ立ててくれ。俺は立てられなかった。
在中コリアンで誰か三国の将軍になった人物いませんか?
>>992 当時は朝鮮系は中国の内地には住んでなかったからな。
もしかしたら、遼東公孫氏の将軍にはいたかも知れん。
隋や唐ぐらいからだったかな。 五代十国の頃はよく知らない。 いたかもね。
埋め
梅
産め
宇目
わははは 1000じゃ
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。