なんでたてたんや。こんなもん。
誰の許しをえてこないもん立てとんのや、おぅ?
ショバ代はらわんかい!
諸葛亮の第一次北伐で南安・天水・安定の三郡が魏から離反したそうですが
涼州の豪族たちは蜀漢にどんな利を見出して北伐に呼応しようとしたのでしょうか?
7 :
世界@名無史さん:2010/05/26(水) 13:47:18 0
司馬朗が12歳の頃になったという「童子郎」とはどのようなものなん
だろうか?教えてくれ。
>>7 十六歳未満の学問優秀な人材に与えられる官職。実務は特にない名誉職。
まあ、その後のエリートコースは保証される。
管仲・楽毅にたとえるなら
昭和から平成にかけての人誰だと言えるのでしょうか
11 :
世界@名無史さん:2010/05/26(水) 17:24:34 0
>>6 あんまり魏に心服してなかったのでは?
元々は曹操の勢力圏ではなかったしね。
蜀で南方がしばしば反乱するのと同じでは?
>>11 魏はこの方面の守りが手薄だったから、
そこに数万の大軍が押し寄せてくれば、
そりゃ大抵の官吏や豪族は我が身かわいさに蜀に呼応する。
こんな援軍がいつ来るかわからない状況で、
数万の大軍相手に郡県の兵だけで抵抗しようと考えるのは、
よほど骨のある人間じゃないと無理。
魏に心服してるかどうかより、蜀の大軍が怖かっただけの話。
13 :
世界@名無史さん:2010/05/26(水) 19:25:49 0
曹真軍は趙雲の囮軍に引っかかってたしな。
すぐに援軍が来そうもないという情勢だった。
馬謖が魏軍を阻止していれば、涼州は蜀が平定してた
かも。
街亭の敗北よりも、隴西で游楚に阻まれたことのほうが敗因として大きかったと聞きましたが
実際のところ、街亭の戦いの敗北は北伐にどのような影響があったのでしょうか?
>>13 涼州刺史の徐邈はまとまった兵力を持っていたようで、
軍を動かして南安の蜀軍を撃破したり、
蜀に呼応した異民族を撃破したりしてる。
馬謖が勝ってても、しばらくは涼州単独で抵抗できる戦力はあったと思われる。
その間に援軍が来るんじゃないかな?
16 :
世界@名無史さん:2010/05/26(水) 20:13:25 0
諸葛亮は馬謖が魏軍を阻んでいる間に涼州を平定する
つもりだったのだろう。涼州が平定されたら、拠点を防御しながら
魏軍本隊の疲れを待つという感じでしょう。
泣いて馬謖を斬る
って馬謖に泣いてたんじゃなくて自分に泣いてたのね・・・
いや、出兵前にある程度の地下工作してたでしょ。
撤兵のときに住民をつれていってるし。
>>13>>15 なんか混同しているようだが、隴西・南安・天水・広魏諸郡は雍州ね。
徐バクは涼州刺史・使持節護羌校尉で、北伐直前辺りに赴任した彼が、
長安以西で確認できるおそらく唯一の将帥。
その名の通り、涼州(金城・西平及び河西四郡が属する)に駐留していた。
曹真が東から到来したように、徐バクは北から雍州救援に軍を派遣して、
南安を奪回するなどしたわけ。
この時期が馬謖敗北の前か後かわからないが、
諸葛亮の本隊相手にまともに抗戦できる兵力だったとはまず考えられない。
やはり張コウの迅速な勝利が帰趨を決めたと言うべきだろう。
>>14 街亭は隴右と関中の境目の要衝。三郡降伏で隴右を抑えた諸葛亮が関中に進軍するにしても、
関中からやって来る魏の援軍を抑えて涼州平定に向かうにしても、
絶対に抑えなければならない重要な拠点だった。
街亭を失った時点で、諸葛亮は隴右の確保もこれ以上の進軍もできなくなった。
このスレに街亭の戦略的意義を説明できる人っています?
なんか諸説あってはっきりしないんですが。
つまり綿竹とか潼間みたいなもんすか??
なら、なぜ要塞化しておかないんだろう?
蜀も魏も。
24 :
世界@名無史さん:2010/05/26(水) 20:56:24 0
街亭の守備が魏延か呉壱だったら成功したかな?
王平が司令官だったら無事成功していたかも・・・・・・
魏延は積極策の指揮官だから守備なんかしない。逆に押し出してゆくでしょ
>>25 魏延は劉備に漢中の守備を命じられてから、
8年間まったく北にちょっかい出さずに、
おとなしく漢中を守ってきた人物だぞ。
街亭をおとなしく守ってろって命令されたら、
命令通り守りに専念しただろ?
魏延ってのは性格には難があっても、命令には忠実だから。
>>26 なるほど。
これを見てわかった。
魏の反撃軍が天水へ入ろうとすれば街亭を通るのが近道だったということだね。
蜀にとっては最前線だったわけだ。
要塞化する時間がなかったのだろうな。
>>27 ということは魏延はもっと重要な任務をしてたってことだろう。
どっかもっと大事なところを守備していたか、住民の搬送とか彼の指揮力でないとできない任務を割り当てられてたんじゃないの?
けど馬謖が街亭でポカしないとして、それほど長期間守っていられるような
兵力も兵站もないような気がするんだけど。
蜀側からは比較的早く街亭に増援を送れるのかな?
街亭で負けてもだよ?
平野部で決戦するという手もあるよな。
まぁ、諸葛亮はいちばちの決戦はしたくなかっただろうけど。
街亭は衢地でもなく兵站の要でもなく。つまり子やぎ達にとってのオオカミが入ってくるのを防ぐ玄関のドアだったわけだね。。
>>30 諸葛亮の本隊は割かし近くにいるので先鋒がしっかり足止めしてくれていれば挟撃なりなんなりできると思う
挟撃できたの?
>>28 いや、よくわからんことに、街亭はその地図の華亭県と庄浪県の中間辺りにある。
隴山という線を守るなら必要な場所とは言えるだろうが、
決して天水までの最短ルートではないし、他の北伐中でもそんな北が係争地になったことはない。
馬謖軍対張コウ軍という単独では、街亭攻防の戦略的意義は説明し切れないと思う。
おそらくは史書に書かれていない部分で諸葛亮、曹真、趙雲らの機動が行われていて、
その中の一つである街亭の勝敗が全体のターニングポイントになった、ということなのだろう。
曹真、趙雲は斜谷で対峙してたじゃん
曹真が他の部隊を西へ派遣していないとは限らないし、
趙雲は「不戒」によって敗れたという。ただ箕谷を守っていたのではない含みがある。
諸葛亮、馬謖、趙雲、曹真、張コウの五点だけでは両軍が隙だらけで
意図が説明できない。
記録に残らない空白の軍事行動があった可能性はあるだろう。
結局、だれも説明できないのな。。
そんなもんだよ。
それ以上の想像はむしろ歴史ではタブーだ。
うん。
「迂回して西に出現し東進する蜀軍と、東から来援し西進する魏軍の
軍事的圧力が衝突する隴山の上に街亭はある」
とりあえずここまで判れば十分でないの。
魏軍に街亭を奪われると
蜀軍の隴西での拠点である天水やキ山が一気に窮地に陥ってしまう
という見解があるのですが、あってるのでしょうか?
ちょいと調べて幾つか補強できる材料は見つかった。
街亭は、右扶風、安定、広魏の三郡の郡境に近い。
街亭から隴山を越えて北東に広がるのが安定郡になる。
この安定郡の領域、二本の山地が作る細い回廊の北に、関中の北の関、蕭関があった
(地図の固原市の辺り)。
また、四次北伐の時期ではあるが、并州の軻比能が進出して北地郡(安定の東)まで
到達して蜀と連携を意図していた。
そして、安定郡は一次北伐で諸葛亮に呼応した三郡の一つに挙げられる。
隴西地域では、南安郡兵が蜀軍と共に隴西郡を襲撃するなどしたが、
隴山の東に位置する安定郡の動きは特に記されていないようだ。
この状況からすると、街亭は、隴西地域の蜀漢郡と安定の連結を維持する要地と看做すことができる。
馬謖・魏延・呉懿という指揮官候補が挙げられ、張コウが邀撃に進出した
理由を史書から見出すとすれば、こんなところになるだろう。
44 :
世界@名無史さん:2010/05/27(木) 00:22:19 0
9に言う。そーいう名称(童子郎等その他諸々)の役割が書いてある本とか
あるの?
漢書 後漢書 晋書 漢漢六種 後漢書三国志補表三十種 通典 など。
兗州大反乱の時、兗州全体の留守を預かってた人は誰なんだろう?
荀ケか陳宮か張邈か。反乱後の三城防衛の責任者は荀ケで、
東郡太守の夏侯惇ですら指示に従わせてるが、荀ケが留守を預かってたと考えると、
荀ケは三城以外のすべての郡県が反乱を起こしたのを止められなかった無能ということになる。
陳宮が留守を預かってたと考えると、留守役が反乱の首謀者なのだから、
兗州をほぼ乗っ取れたのも分かるが、陳宮が将軍として本拠地の東郡の守備を委ねられていたことを、
本拠地の守備を任される=留守役と考えるか、単に東郡の守備を任されていただけか判断に迷う。
張邈は「もしものことがあったら張邈を頼るように」と言われてるように、
曹操の後事を委ねられていたが、身分は太守であり、権限は陳留郡以外には及ばない。
張邈を除外するなら、荀ケか陳宮しか考えられないが、
当時の曹操陣営内での地位はおそらく過去の功績からしても、
将軍陳宮>奮武将軍司馬荀ケ。陳宮は兵を帯びて東郡の守備を任されているというのも大きい。
荀ケは程cと同じく留守に残された曹操の部下の一人で、
兗州の留守の最高責任者は陳宮と考えた方が良いのだろうか?
そんなものいないっしょ。
太守の分割統治状態。
張バクなんかを従わせられる人間なんていない。
曹操本人でも怪しいのに。
実質的には荀ケかと。
ただ、叛乱を抑えられなかったから無能とは言い難い。
ゲームじゃないんだから、離れていてもアヤシゲなプログラム的繋がりによって能力により叛乱が抑えられるという物でもない。
野心やら、階層とか地方豪族とかの根本的部分の対立による叛乱だったり、個人の信念による謀反ならどうにもならん。
まぁ、張バクの場合はまず、張バク自身の社会的な格が曹操すら上回っているところに致命的なものがある。
曹操なんぞより張バクという人間は大勢いただろうからどうしようもない。
強いて言うなら信用して放置してた曹操に責任があるが、
そもそも家族すら預け合う親友であったはずなので曹操を責めるのもいかがなものかというものではある。
まぁ、張バクの不義がどうしようもないとしか言い難い。
張バクとの共同統治みたいな形でないとダメだったんじゃないかな
曹操だけだと非協力的な奴とかいそうだし
張バクが不義なのか、隣の州の罪無き人間を殺戮に出かけた曹操が人非人なのか
ちょっと疑問なのですが
曹嵩・(曹真)・孫河・劉封・呂布らは三国時代に養子になったことのある人物ですが
異姓の場合、ほとんど養父側の姓を名乗っています。というか呂布以外。なぜ、呂布は丁布や董布と名乗らなかったのでしょうか?
できたら教えてください。
記憶が正しければ正史には、呂布が丁原の元に養子に入ったという記述は無かったように思います。
董卓については確かに養子となりましたが、当人の理屈としては養子に入ったことが無かったことになったのでしょう。
誅殺でしたので社会的にもなかったことにすることが許されたと思います。
そもそも、中国で養子に入る場合は元の親とは金輪際縁を切ります。
そして養家のみの祖先祭祀を継ぎます。
例えば、曹家に養子に入った曹嵩などは、血縁的には夏侯氏の出自でも、曹一族の子孫であることを名乗り続ける義務が生じます。
何の理由もなく元の姓を名乗ったら不義呼ばわりでしょう。
>>51 「誓為父子」と史料上にも記録が残っている以上、
確かに養父子の関係にあったという前提で言ってみるのだけど、
王允の言、「君自姓呂、本非骨肉」のうち、
「自姓〜」というのは「本来の姓」「元々の姓」という意味合いになるわけで、
自立する以前は「董」姓を名乗ってたんじゃないでしょうか?
後、丁原の養子だったというのは多分、後世の脚色だと思います。
となると、董卓の養子してた頃はトウフって呼ばれてたのかーひややっこ
関寵さんとかの話はやめてあげて
親子と同等の礼や待遇を行うことと、実際に親子になることの間には超えられない壁がある
呂布は前者で、曹嵩などは後者
丁原の件はイメージだったかorz
>>52 なるほど。なかったことになるか。董布は呂布の黒歴史というわけですね。
養子というのは、正式な手続きによって戸籍を移動し、家の相続権を得ること。
董卓と呂布の「誓為父子」は、この時代によく見られた擬似的な血縁関係の交結ということになるだろう。
親密な師弟、君臣や侠客の保護・被護関係は、親子・兄弟の関係に擬えられた。
といって、その全てが養子になったわけではない。
創作された時代はかなり異なるが、桃園で義兄弟の契りを結んだからといって
戸籍が変わるわけでも劉羽・劉飛になるわけでもないのと同じ。といえばわかりやすいか。
>>58 つまり義兄弟ならぬ義親子という精神的な親子関係だったと。養子という単語にとらわれて視野が狭くしてしまったか。
ところで、岳父・娘婿の関係だと姓は変わりませんけど祖先祭祀は誰がやってくれるのでしょうか?
>岳父・娘婿の関係だと
どういう意味だかよくわからないけど、岳父さんの長男では駄目なの?
そでした・・・
なんで他の血族みんな死んでるって仮定したんだろうおれの頭・・・
ちょっと違う例ですけど蔡邕の宗門(?)を絶やさないために曹操が蔡琰を董祀に嫁がせたってことがありましたよね。
この場合はもしかして董祀は結婚後は蔡禧とか名乗っていたのでしょうか。
↑蔡禧じゃなくて董祀でした
二重ミス・・・死にたい・・・蔡祀と言いたかった
>>61 なんで「嫁がせた」のに旦那が蔡を名乗らねばならんのだ。
そ、それじゃ蔡家の祖先祭祀とかは・・・?
それとも、蔡を名乗らなくても蔡家の行事を董祀がやっているのだろうか?
孫(蔡琰の子)を蔡氏と名乗らせるんじゃない?
生まれたらの話だが
外孫、外甥を後継ぎに迎えることは当時はしばしば行われてたみたい
陳矯とか朱然とかそれだよね
それが一番しっくりくるね。
狐が馬に、篤が忠に
馬忠かこいつも謎の多い人物だな。なんで母の家で養われていた時、
孤篤で後に馬忠と改名したのかとか、
漢中の蔣琬に詔勅を伝えて帰った時になぜ鎮南将軍に昇進したのかとか、
費禕が魏の攻撃を防いでいる王平の援軍に向かった時、
なぜ尚書令董允じゃなくて、南中にいた馬忠がわざわざ成都に呼び戻されて、
尚書の仕事を取り仕切ったのかとか。
戦も事務も統治もできる万能選手で、国政を臨時とはいえ取り仕切る器量もあったのに、
鎮南将軍で終わったのが惜しい人物だ。もう少し長生きして費禕が死ぬまで生きてれば、
姜維の代わりに大将軍になる目もあったんだろうか?
70 :
世界@名無史さん:2010/05/28(金) 19:58:25 0
漢代って地方の軍って徴兵制だったの募兵制だったの?
>>70 後漢は基本的に募兵制。郡県の兵は常募といって、
終身雇用の募集兵だった。
72 :
世界@名無史さん:2010/05/28(金) 20:18:23 0
即レスサンクス。
記述としては何に書いてあるの?
>>72 後漢書のあちこち。徴兵制による郡県の兵を廃止して、
募兵で郡県を守るようになったというのは、
光武帝紀から始まり、さまざまな皇帝の本紀や人物の列伝を見ていって分かる、
後漢の兵制の変遷を追って行かないと分からない。
74 :
世界@名無史さん:2010/05/28(金) 20:52:32 0
じゃあ、前漢=徴兵、後漢=募兵ということなの?
前漢は徴兵制の国民皆兵だね。
後漢は初期はおおよそ募兵のみ、それ以降は、募兵軍を基礎に、
手に負えなくなりそうな叛乱や侵攻の時だけ臨時徴兵との併用みたいな感じかな。
どちらも異民族騎兵等も併用している。
異民族騎兵は敗残した奴隷兵と傭兵と冊封軍みたいな例との混在で最後のが一番数的には多い感じ。
まぁ、遊牧騎兵の奴隷兵が数多かったら手に負えんわな。
>>74 前漢は当初は徴兵制、途中から徴兵制と募兵制の併用。
後漢はほぼ募兵制。
77 :
世界@名無史さん:2010/05/28(金) 21:34:26 0
漢代兵制の研究者って誰がいますか?
78 :
世界@名無史さん:2010/05/29(土) 03:47:54 0
79 :
世界@名無史さん:2010/05/29(土) 07:06:26 0
>>69 馬忠は鎮南大将軍。
蜀では普通の鎮南将軍とは違う。
将軍位では上には大将軍・票騎将軍・車騎将軍・衛将軍くらいしかない。
輔国大将軍や鎮軍大将軍は位も下だし、兵権もないと思われる。
将軍位としては姜維・王平と同等。上には費禕とケ芝くらいしかいない。
かなりの重鎮だったことがわかる。それと、大将軍費禕が不在の尚書の
仕事代行は、単なる事務職ではなく、不測の事態に備えた首都防衛隊の
指揮と軍需物資を漢中に補給の統括という意味もあったのだろう。
>>79 馬忠伝読み直してみたら、確かに鎮南大将軍だった。
すまん。それにしても安南将軍から鎮南大将軍って、
凄い駆け足飛びの昇進だな。
軍功や年功じゃなくて、漢中の蔣琬に詔勅を伝えてきただけで、
ここまで昇進したのはなぜだろう?
これまでの功績のわりに官位が低かったから、
この際官位を功績にふさわしいものに上げようとしたのか、
それとも漢中の蔣琬に詔勅を伝えると言うのがよほど重要な意味を持つのか。
歴代の庲降都督で、庲降都督に在任しながら中央政界絡みの活動もしたのって
及ぼした人物って馬忠しかいないよね。
馬忠はあらゆる意味で歴代の庲降都督の中では、破格の高い人物だったんだろうな。
81 :
世界@名無史さん:2010/05/29(土) 17:24:35 0
>>80 官位は年齢やその時の全体のバランスがあるので、同じ官位でも
実権が時代によって違う。馬忠が鎮南大将軍になった時期数年は
姜維が鎮西大将軍、ケ芝が車騎将軍、費禕が大将軍になって、実質
蔣琬から政権が費禕に移っている。董允も輔国将軍・侍中守尚書令
になっている。
蔣琬伝を読むと、遠征計画が群臣に反対されたのは確かだが、まだ
計画段階で蔣琬自身の病気も関係あるようだ。曹爽の蜀侵攻時も蔣琬
の動きは不明。おそらく政務に携われない程の重病だったと考えられる。
だから243年に費禕が大将軍に昇進した。
おそらく、馬忠の昇進は、病気で政務に支障が出てきた蔣琬に代わり、
費禕政権の発足の第一段階だったのではないだろうか。姜維等の昇進も
それに付随した動きだろう。費禕が全体の責任者で、董允が朝廷・内政、
王平が北方、馬忠が南方、ケ芝東方、姜維が中央軍という役割分担の発足
だったのではないだろうか?
82 :
世界@名無史さん:2010/05/30(日) 12:51:58 0
呉壱・馬忠・王平・張嶷は蜀の名将なのに、
『三国志演義』では雑魚扱いだよね。まあ、魏や呉の名将の扱いは
もっと酷いものがあるけどね。
話は変わるけど、張嶷は見識・戦功とも凄いのに、雑号将軍にしか
なれなかったのは寒門出身だから?
計算すると、張嶷の没年齢は享年60数歳くらいなんだよね。
年齢が若いから官位が低かったという訳ではなさそう。もっとも宗預
あたりも後将軍になったのが60歳過ぎだから、そんなに出世してない
という訳でもないのかな?
>>82 20歳で県の功曹になってるから、そんな寒門の生まれでは無い。
そこそこの家柄。若い頃重病になって何年も療養していたのと、
越巂太守を十五年もやっていたのが、昇進の遅れた原因と思われる。
越巂太守は要職だけど、出世コースでは無いからね。
あと、諸葛亮から蔣琬・費禕に連なる政権中枢に人脈が無かったのも大きい。
蜀で高位に昇ったのは、大抵この人脈とつながりのある人間だから。
まあ、郡太守を長く勤めて最後は盪寇将軍という格式の高い将軍号を得て、
関内侯に封じられてるから、そこそこ出世した方かな?
地方勤務ばかりで諸葛亮・蔣琬・費禕の幕府や中央で仕事したことのない張嶷が、
劉備入蜀以前からの実力者で外戚の呉懿や、
政権中枢とつながりの深い馬忠・王平より官位が低くなるのは仕方ない。
84 :
世界@名無史さん:2010/05/30(日) 15:53:40 0
盪寇将軍は格式高いの?
単なる雑号将軍だと思ってた。
ただの将軍でも序列なら太守と同等かより高い
諸葛亮死後なら、これだけでトップ10くらいには入る高官
>>85 上に鎮軍将軍や輔国将軍や輔漢将軍や安漢将軍などの特別な雑号将軍や、
四征四鎮将軍や四方将軍や諸大将軍がいるのに、
ただの将軍クラスでトップ10には入れないだろ。
蜀には立伝されてない高位の将軍が多くいるからな。
張嶷はせいぜい有力な将軍の一人といったところだろ。
87 :
世界@名無史さん:2010/05/30(日) 21:03:09 0
張嶷伝を読むと、
中原で思いっきり働き、敵地で一身を捧げたいと
姜維の北伐に参加を願い出ている。
まあ、南方は張嶷より上位の将軍が常にいたし、
南方はメジャーでないという思いも感じられる記述だ。
最後に北伐で一花咲かせると言った感じかな?
88 :
世界@名無史さん:2010/05/30(日) 21:18:46 0
呉懿の伝記が作れなかったのは不思議だよ。
戦功もあり、外戚でもあった高位の将軍が事跡が伝わってないとは
どういうことだろう?
>>87 越巂太守在任中もたびたび中央への召還を願い出てたから、
南方での仕事は自分のやりたい仕事ではないと思ってたのかも知れん。
北伐に従軍を願い出た時には、既に重病だったから、
最後は武人らしく戦場で死にたかったのかもね。
>>88 蜀には驃騎将軍や車騎将軍だったのに伝記が作られなかった人物すら何人もいるから、
徹底的に資料が少なかったんだろ?蜀の主要な将軍はほとんど事跡が伝わってないから。
立伝されてる魏延ですら、評価のわりに実は具体的な戦功の記録は少ない。
90 :
世界@名無史さん:2010/05/30(日) 22:28:27 0
>>89 趙雲、魏延は具体的な戦功の記述は少ないよな。
趙雲に関しては別伝が主体だしね。黄忠は夏候淵を討ち取ったことが
解るのだが、それ以前の活躍や人物像がつかめない。魏側の資料に
よって伝記を作った感じがする。
馬忠、王平、張嶷、ケ芝は陳寿が物心ついた時にも存命であり、
その事跡を資料を集めなくても、自分が知っていたから比較的詳細だったの
だろう。
>>86 いない。将軍は本来常置職ではなく、諸葛亮死後は将軍号の数自体減少している。
諸鎮は大を加えながら三方を抑える要職となるが、諸征は征西以外姿を消す。
安漢は李恢までしか見られず、輔漢は姜維が、輔国は董允が数年間なっただけ。
驃騎・車騎はやっと最晩年に見られる。
蜀漢で、一貫して置かれ続けた将軍は大将軍、 諸鎮(大)将軍、鎮軍将軍くらい。
>>91 諸葛亮が李厳を弾劾する上奏文の中には、
そこでしか名前の出てこない高位の将軍が名を連ねていたし、
それ以降の時代も季漢輔臣賛や華陽国志にしか名前の出てこない武将が大勢いる。
その他、高位の将軍であったらしいことしか分からない名前だけ出てる人物が結構いる。
あと、安漢は王平が、輔漢は孟琰が就任してる。
四方将軍には輔匡が右将軍、劉邕が後将軍に就任。宗預が後将軍に就任。
向朗が左将軍に就任。句扶が右将軍に就任。郭循が左将軍に就任。
いずれも史書の時系列から考えて、諸葛亮死後の人事。
大将軍、諸大将軍。四鎮将軍、鎮軍将軍以外の将軍も、
諸葛亮死後も任命されていた。蜀は立伝されている諸葛亮期以降の
武官が少ないため、将軍が減ったように見えるだけ。
それ全部考えても、同時に就任している人数は一桁だよ。
諸葛亮死後は、大将軍、中央を守る四方や鎮軍、、方面司令格の鎮東・北・南将軍、それからその他少し(ここに張嶷が入る)で
軍部が構成されている。
方面司令の下位にいたのは皆牙門将や護軍、監軍で、彼らによって各拠点が運用されている形。
多数の最高幹部に将軍位という箔を与えていた漢中王劉備や丞相諸葛亮時代と違って、
劉禅の中央集権による官僚体制の正常化が進んでいる。
>>93 蜀における護軍・監軍・領軍と雑号将軍の上下がいまいちわからないんだよね。
護軍・監軍と将軍の両方を兼ねてる人間もいれば、
護軍だけやってる人間や監軍だけやってるにんげんや将軍だけやってる人間もいる。
史書を見る限りでは護軍も監軍も領軍も雑号将軍もそんなに格が違わないような気がする。
漢では護軍系の最高官(というか基本的にこれ一つだけど)の中護軍でさえ比二千。
護軍や監軍は、将軍のようなトップダウンの統帥系統を持つ者ではなく、
刺史や司隸校尉のように現場の多数の実務屋を督察する者だから、階級自体は高くない、というか高いと都合が悪い。
中華で監察の制度が発達したのは、現場の高官一人に集権して軍閥化することを防ぐためだから。
もっとも、後漢末の戦乱が激化すると各陣営そんなことを言ってはいられなくなるが、
一人の人間に地方や重要拠点での権限を集中させる場合には、三国とも主に督・都督を使っている(時々州牧など)。
中護軍が比二千石ってどこに書いてあるの?
でも、三国時代もだいぶ経ってくると、護軍や監軍が軍を直接指揮したり、
城を守ったりする例もあるから、監察官としての性格はだいぶ薄れてて、
護軍と監軍と将軍の違いが良く分からないんだ。
ぶっちゃけみんな実戦指揮官じゃないかと。
督や都督の下に護軍と監軍と将軍がいて、
みんなで軍を率いたり城を守ったりしてるイメージ。
後漢書輿服志の注に光武帝の主な官職を羅列して
大長秋、將作大匠、度遼諸將軍、郡太守、國傅相皆秩二千石,
校尉、中郎將、諸郡都尉、諸國行相、中尉、内史、中護軍、司直秩皆二千石,
ある。ここでは二千石とあるが、上の大長秋、將作大匠等はすべて二千石の官、
校尉、中郎將、諸郡都尉、丞相司直などは比二千石の官なので、
下段は「比」の脱字ということになる。
>>97 それは、漢代の刺史でもあったこと。
刺史は本任では太守の観察する六百石の官に過ぎないが、
叛乱が大規模化するような緊急事態では複数の太守を率いて討伐した。それでも席次は太守の下。
御史中丞や侍御史も同じように太守を統率したことがあるし、中郎将が将軍を束ねたこともある。
朝廷からの派遣という性格によって、地方の高官を制御するという席次の逆転が起きるのは珍しくない。
護軍がそういう性格のものだったことは、趙儼、郭淮、黄権などの人選や経歴から判断できる。
将軍・中郎将・校尉・牙門将などはある「部隊」の指揮権を持つ。
護軍は一定の地域の複数の指揮官を督察する権限を持つ。
都督は一定の地域の複数の指揮官を統帥する権限を持つ。
という棲み分け。断定はできないが、都督と護軍の管轄圏は基本的に重複しないはず。
劉備が臨終間際で、劉禅が無能なら諸葛亮が帝位に就け、みたいなこと言ったのって
正史で言ったことなの?本当ならこれヤバくね?漢王朝の復興を目的としてるのに、
劉性じゃない奴に帝位明け渡したら、魏と同じように見られちゃうんじゃないの?
しかも劉備が帝位について間もないのに。劉備は大敗して精神がイッちゃったんだろか。
孔明がこんな話に乗らなくて良かったよ。ホントに。
>>99 いや、三国時代に入ってからの護軍や監軍と将軍って、
どれも単なる部隊指揮官なんじゃねえのって気がするわけ。
中護軍とか監○州諸軍事とかは、たしかに複数の指揮官に対する督察権を持つけど、
単なる護軍や監軍はそういうのじゃなくて、
一指揮官に過ぎないんじゃないかと。
>>98 続漢書輿服志の注か。ありがとう。
>>100 諸葛亮が乗ったときどうなるかは別として、天子は劉氏独占ではなくて天下を治めるにふさわしい者のための地位というのが本来の理念
理念上は、本当に自分や後継者よりふさわしい者がいれば自分から天子の地位を譲るのが本当の聖人のありよう
曹氏はふさわしくないから打倒する対象だったが、諸葛亮は劉備から見て譲ってもいいくらいの人物だと感じたということだろう
本気だったかポーズだったかはともかく
茶番だと思った人間も多いだろうが、本気で譲ってもいいと発言したことで「昭烈帝は(地位を禅譲した)五帝にも劣らない聖人だ」と感動した人間もいただろう
天下を自分の子孫ひいては劉氏で独占しようとせず、本当にふさわしい者のために道を開こうとした、と理念上は言える
決して錯乱した発言ではない
裏から見れば、逆にそう言われたからこそ諸葛亮もそんな真似できないということもある
譲られたからって素直に受け取ったら評判ガタ落ちだ
そういう計算も劉備にはあったかもしれない
>>101 そうすると、将軍と護軍・監軍の兼任に意味がなくなるでしょ。
二つの戦闘部隊の二重指揮官というおかしなことになる。
将軍・護軍の兼任、将軍・都督の兼任は多いが、護軍・都督同士の兼任は無い。
護軍は都督に近い性質の(おそらく権限は弱い)官職と推定できる。
故に、都督・護軍・監軍らは場合によっては将軍も含む広範囲の指揮官を「督護」する権限を示す、
という職責に漢末から変化はないと見た方がいい。
>>102 >裏から見れば、逆にそう言われたからこそ諸葛亮もそんな真似できないということもある
明だったかの学者はそれを前提に考えてるね。
それが様々な諸葛亮の行動を縛ったとも。
まぁ、統一戦争の名目についてはなんとでもなると思うけどね。
漢の復興がダメなら、劉備の英断によって能力主義で国家元首を決める国になったとすればいい。
しかる後に『書経』でもなんでも引っ張ってきて相手の国より理想国家だと喧伝すればいい。
世襲が続いてても、当時未だに世襲儀礼の中で、建前上、臣下の中でもっとも徳のあるものが
禅譲を受けるという儀式を守り続けていた訳なんだから、逆にそっちの方が魏の名士達は揺らぐかも知れん。
>護軍・都督同士の兼任は無い。
訂正、無いとは言い切れないな。護軍系と都督系の管轄する領域が異なれば、兼任は有り得る。
孫皎は都護・夏口督。この場合、要地の夏口に駐留する軍団を督す総司令官の職責と、
おそらくはもっと広範囲の指揮官や地方官を監督する都護の職責の二つを持っていたと考えられる。
106 :
世界@名無史さん:2010/05/31(月) 21:40:35 0
>>103 /新校本三國志/魏書/卷四 魏書四三少帝/陳留王奐
- 151 -
因南中都督護軍霍弋上表自陳.
2. /新校本三國志/魏書/卷十六 魏書十六/杜畿/ 子恕
- 505 -
起家為河東太守,歲餘,遷淮北都督護軍,復以疾去.
3. /新校本三國志/魏書/卷二十三 魏書二十三/趙儼
- 668 -
太祖征荊州,以儼領章陵太守,徙都督護軍,護于禁﹑張遼﹑張郃﹑朱靈﹑李典﹑路招﹑馮楷七軍.
これはどう解釈する?
兼任ではなく、一つの官職名と認識?
と調べているうちに追記があったのか。
>>106 いや、それは一つの官職名という解釈でいいだろう。
表記のゆらぎもあって、同じと考えられる役職を都督と呼んだり、督と呼んだり、「都督督軍」と書かれているものもある。
誰か、蜀における護軍と監軍と領軍と典軍と参軍の違いを教えてくれ。
どれも将軍職と兼任してる奴が多くて、
その職単独の権限がイマイチわからない。
ほとんどわからない。
110 :
世界@名無史さん:2010/06/01(火) 20:40:36 0
蜀・呉は将軍位の序列もわからん。
蜀は右将軍が一時的に丞相代行だったり、後将軍が大将軍代行だったり
してた場合もある。姜維は後将軍だけど、自分より上の将軍を指揮して遠征
していた時もある。
>>110 それは序列的におかしくないだろ
もともとは後将軍でも大将軍代行なんだから
護軍って憲兵さんだろ?
呉は大司馬と上大将軍と大将軍と左右の軍師と左右の都護と左右の都督と、
大将軍級の軍幹部が大勢いて訳分からん。
あと、呉の将軍号の序列は
上大将軍>大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>諸大将軍>四方将軍>四鎮将軍>
鎮軍将軍>四征将軍≧四平将軍≧四安将軍≧雑号将軍と思われる。
あ、衛将軍を忘れてた。訂正。
上大将軍>大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>諸大将軍>四方将軍>
四鎮将軍>鎮軍将軍>四征将軍≧四平将軍≧四安将軍≧雑号将軍
呉で四鎮征安の序列考えてもあまり意味無いと思うぞ
116 :
世界@名無史さん:2010/06/02(水) 20:21:13 0
蜀の序列は
大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>四鎮大将軍>鎮軍大将軍>四征大将軍
>四方将軍>四鎮将軍>鎮軍将軍>四征将軍>雑号将軍
ではあるらしい。ただ、輔国将軍、輔漢将軍、安漢将軍がどの位置なのかは不明。
>>116 姜維が輔漢将軍から鎮西大将軍になってて、
王平が安漢将軍から鎮北大将軍になってるから、
四方将軍と輔漢将軍・安漢将軍はほぼ同格と思われる。
輔漢将軍とか安漢将軍ってのは、漢を助けるとか漢を安んじるといった意味があったりするんですか?
119 :
世界@名無史さん:2010/06/02(水) 21:26:39 0
>>118 字の意味だけ読めばそうなのだろう。
蜀は国号は漢なので、やはり格の高い将軍号ということなのだろう。
輔漢や安漢は成都近郊にいる将軍には与えられないのかな?
どうも南方とか漢中にいる将軍が就任するみたいだ。それと、
李厳が輔漢将軍から前将軍に昇進しているので、どうも四方将軍の
方が格上のようだ。
120 :
世界@名無史さん:2010/06/03(木) 09:46:30 0
>>119 ちくま書房の『正史・三国志』には、李厳は輔漢将軍から転じて前将軍になった
と書かれている。ニュアンス的にはスライドという感じもする。ただ、李厳の役割は
江州から白帝あたりまで担当が拡大しているので、権限は増大しているので、やはり
昇進したと考えるのが妥当か?
>>120 輔漢将軍から転じて前将軍になったって記述あったっけ。
李厳の官位の変遷は、興業将軍・犍為太守→輔漢将軍に昇進→尚書令に就任→
中都護に昇進→光禄勲を加えられる→前将軍に昇進→驃騎将軍に昇進だったはず。
前将軍に昇進するまで、輔漢将軍の官を持っていたとは考えにくい。
尚書令就任、あるいは中都護昇進か光禄勲加官の時点で、
輔漢将軍は解かれていたと考えた方がいいんじゃないかな?
122 :
世界@名無史さん:2010/06/03(木) 15:55:15 0
劉備死後から江州に陣営を移すまでは、
一貫して永安鎮撫の仕事もあった。おそらく将軍位もあったと
思われる。諸葛亮時代は実践指揮官ではなかった張裔、蔣琬、楊義等
も将軍号を保持するほど。同盟国とはいえ、対呉方面の責任者である
李厳が将軍号を保持していないとは考えにくい。
そうか。そうすると、なぜ劉備死後に四方将軍に昇進せずに、
輔漢将軍のまま永安鎮撫を担当したんだろうな。
輔漢将軍では諸葛亮に次ぐ地位の対呉方面責任者としては資格が軽すぎると思うんだが。
四方将軍相当の九卿である光禄勲を加えて、箔を付けたのかな?
124 :
世界@名無史さん:2010/06/03(木) 19:01:49 0
李厳はなんちゃって2だからな。
法正とか劉巴、黄権あたりとは実力・信頼性がかなり劣る。
だから劉備が諸葛亮に国を奪ってもかまわないと遺言している。
劉備は仕方がないから李厳をbQに据えただけ。
法正・黄権が健在だったら、遺言も内容が変わっていたと思う。
諸葛亮は帝位を奪う野心などなかったから、その野心がないことを
証明する一貫として李厳を厚遇していた。ただ、皇帝・群臣も諸葛亮へ
の信頼が厚く、逆に群臣達は李厳の厚遇を不思議に思っていた程だった。
李厳も自分の地位は、諸葛亮の引き立てによるものということに左遷され
から気がついた。だから諸葛亮亡きあとは世に出る望みが絶たれたと思い
落胆死した。
根拠の無い噓。
>>諸葛亮亡きあとは世に出る望みが絶たれたと思い
落胆死した。
ここは文献的ソースがあるが。
126 :
世界@名無史さん:2010/06/03(木) 20:06:17 0
まあ、李厳の過度な厚遇は劉備の遺言のせいもあるのでは?
諸葛亮以外に李厳以上の実力者もいなかったけどね。
みんな李厳とか魏延とかすきだね。
費観が短命でなかったら、諸葛亮時代はどうだったろうか気になる
この人物も劉備政権に組み込まれるなり厚遇されているし、
人物としての器量も申し分ない様でもあるし
129 :
世界@名無史さん:2010/06/03(木) 20:28:02 0
諸葛亮とか滅多にいなそうな人間だけど、
李厳と魏延、楊義みたいな有能だけど、人間性で破滅する人は現代にも
沢山いるから。そういう意味で親近感あるのでは?
甘寧みたく粗暴で人をすぐに殺す人とかは現代社会では問題外だし、
呉の将軍で部下の財産取り上げた人とかも現代感覚でピンと来ない。
李厳・魏延・楊義はそういう粗暴さはないけど、有能だけど人づきあい
が下手な現代社会でもいる。そういう意味ではテーマとして面白い。
魏延なんかは司馬遼太郎に主人公にして小説を書かせたら人気でますよ。
>>126 地位的には、鎮北将軍・漢中太守魏延と庲降都督・使持節・交州刺史李恢も、
李厳に匹敵する実力者と思うが、地方の守りの責任者だから動かせなかったんだろうな。
>>132 三十七歳で死んだ時、巴郡太守・江州都督・揚威将軍だったから、
長生きしてれば江州都督のまま鎮東将軍から安漢・輔漢将軍か四方将軍を経て、
諸大将軍か車騎将軍あたりになれたかもしれない。
李厳より二十歳ぐらい年下だから、諸葛亮の死後の東の守りを、
ケ芝に代わって担うことになっただろうね。
あと、費観が揚威将軍になったのは諸葛亮時代。
むしろ、世代的には諸葛亮時代の次を背負う人間だったと思う。
132 :
世界@名無史さん:2010/06/03(木) 20:58:14 0
南方支配は蜀にとって財政を支える重要問題。
李恢みたいな南方問題に精通した人間は外せないでしょう。
馬忠が要職だったのも、張嶷が長く南方で在任だったのも、
実力者が上手く統治しないと、蜀の財政がもたなくなる。
李恢伝にも南方からの産物で北伐の財源が確保できたとの
記述がある。
想像だが、目立った活躍の記述がない閻宇が姜維を脅かすまで
なったのは、南方である程度治績をあげたからだろう。
李恢は弁舌の士
蜀と呉の将軍号の序列を書いたので、
最後にこのスレでは人気のない魏の将軍号の序列について。
大将軍>驃騎将軍>車騎将軍>衛将軍>四征大将軍>四鎮大将軍>
諸大将軍>四征将軍>四鎮将軍>四征将軍>四方将軍>三品雑号将軍>四安将軍≧四平将軍≧
四品雑号将軍>五品雑号将軍>偏将軍>裨将軍>牙門将軍
魏は官品が分かってるから、将軍号の序列が分かりやすい。
あと、四方将軍の地位が低いのと、四征将軍の異様な地位の高さが特色。
四方将軍が都督の副将的な位置づけになることが多いのも特色。
あと、呉や蜀のように特に格式の高い将軍号がないのも特色。
そうだ。領軍将軍の位置づけはどうなるんだろう?
蒋済が領軍将軍から三公に昇っていたから、
同じく三公に直接昇進できる四征将軍と同格と考えればいいんだろうか?
136 :
世界@名無史さん:2010/06/05(土) 15:42:14 0
尚寵は中領軍だったな。
諸葛亮が首都防衛と軍事に関する諮問は、
尚寵にするよう上奏した程だから、やはり
かなりの高官ということか?
趙雲の長子である趙統は虎蕡忠郎・督行領軍になっているが、
これは行という意味は、領軍代理みたいな意味なの?
>>136 中領軍は首都防衛司令官で、魏では三品相当。
官位の序列以上に重要なポスト。
下手な高位の将軍よりずっと権力に近い重鎮。
行と言うのは本来の官位より高い官位を代行すること。
つまり、領軍代理と言う解釈でおk。
138 :
世界@名無史さん:2010/06/05(土) 16:25:32 0
尚寵も費観同様に次世代のホープだったんだろうな。
『華陽国志』によると、劉備死後、趙雲・魏延・呉懿等の
先帝以来の重鎮と共に尚寵、費観も亭候になっている。
叔父の尚朗も一度は丞相府を免官になったが、その後左将軍に
なり、尊重されていた。弟の尚充も蜀の高官となった。
蜀では屈指のエリート一族だな。
>>138 向寵は夷陵の戦いに一軍の将として従軍してるから、
世代的には呉班とかと同じじゃないかな?
次世代と言うよりは、劉備時代からの古参。
中領軍は若手に任せるには重要すぎる仕事だし。
費観も年こそ若いものの、地位的には劉備時代からの古参。
向寵も含め、亭侯になったメンツは、皆劉備時代以来の重鎮と考えていいのでは。
140 :
世界@名無史さん:2010/06/05(土) 20:11:18 0
弟の尚充は蜀の滅亡の頃には生存している。
諸葛亮世代より若いのでは?
馬謖とか同じじゃないかな?
劉備時代は向寵は一軍の将とはいえ、牙門将軍だからなあ。
呉懿・呉班みたいな外戚の重鎮とも違うし。
趙雲みたいな古参の重臣とも違うし。魏延みたいな短期間の
抜群の戦功による昇進とも違う。才能重視の抜擢人事だった
と思う。
対呉方面には李厳がおり、南方には李恢がいるから、
首都周辺の軍務は比較的若くて才能ある将軍に任せたのでは?
劉備がその才能を認めたというのも抜擢しやすい。それと、諸葛亮との
関係も良いと思われる。
141 :
世界@名無史さん:2010/06/06(日) 05:30:43 0
軍人官僚は全員が年がら年中派閥争いばかりしてたの?
叩き上げ軍人と同じ程度には
蜀の王平がいかに軍事的に有能でも、文盲のくせに将軍になれるなんてありえんよな。
文盲で官位持ってたのは呂布がぶっ殺した丙原ぐらいじゃないの。
144 :
世界@名無史さん:2010/06/06(日) 10:07:08 0
王平は文盲でも教養はあった。
145 :
世界@名無史さん:2010/06/06(日) 10:15:59 O
一騎当千
>>144 文章自分で読めないくせに将軍の仕事ができるか。
張飛も文盲だけど、大将軍様だろ。
>>146 逆に聞きたいが
軍事的に有能なのになんで文字が読めないと将軍になれないの?
>>149 将軍は官僚だから、文章の読み書きができなきゃ話にならん。
全く読めないことはないだろ。
ビジネス文書が書けないとかそんなもんじゃないか?
王平は途中から読めていたけど
文盲ってのをウリにしていたと妄想。
152 :
世界@名無史さん:2010/06/06(日) 11:36:12 0
>将軍は官僚だから、文章の読み書きができなきゃ話にならん。
テメーのルールなんて聞いてねーよ。
>>148 張飛伝の何処にもいいところのお坊ちゃんなんて書かれていない件。
>>152 文章の読み書きができない=命令書も読めないし書けない。
官僚として致命的。
ちゅうか、古今東西軍人のお仕事なんて事務が中心。
読み書きは兵卒でもない限り必須技能なのは事実。
ただ、教養あれば祐筆がいれば何とかなるじゃろ。
異民族部隊率いてたらそもそも受け取る側も読めないから口頭伝達中心かもわからん。
口頭伝達が多いことも異民族部隊で略奪が多い一つの要因かもわからんし。
>>155 普通に読書や勉強やる以外で教養を持てるってこと自体が信じられんのだが…。
読書や勉強は教養を身につけるのに効率がいいからやるのであって。
>>156の考えによれば、盲目の知識人なんてあり得ないわけだ。
塙保己一とかどう考えるんだろう
「手不能書」だから文盲とは書いてないね。官僚文書書けず、知っている字は十字に過ぎなかった。
読めるが書けない、文章を学ぶ時も人の朗読に任せることを選ぶ。
前近代の読書は朗読、音に頼る比重が非常に大きいから、それとは別に書くための訓練をしないと
そういうことになるんだろう。
三国時代の登場人物で読み書きできない奴がどれだけいるよw
別に本人が文字書けなくても、文書書ける部下に書かせればいいだろ。
報告書は読み上げさせればいい。
事務能力無い将軍でも、事務のできる部下付ければ十分事務仕事はできる。
読み書きは多分できたと思うが、「事務能力がまったくない」と評された
丁奉が国家の軍事のトップの右大司馬まで昇った例もある。
ノ::::゙、 ヽヽヽヽ ゙、
ヘ:::::::::;;: -‐''''""( )1
゙、::::::::-‐''""" ̄"'i
:V;;||:::: '~ニ=ッ, r='|
i!f !::::: ゙、i
i!ゝ!:::: ‐/リ
i::/:、 :::、 /''ii'V
 ̄ハ:::::\ "''il|バ''
ショカツリョウ
諸葛亮 曰く、
>>王平さん 他にすることはないのですか?
王平が特記されてるということは、普通は読み書きできてたってことだろ
呉には低い身分からの叩き上げ将軍が結構いたけど、
そいつらも読み書きできたんかね?
後漢末から三国時代の中国って識字率高かったんだな。
呂蒙は危うかったのではなかったか。
それに叩き上げったって中央官庁に出仕してないだけで地方豪族レベルだったんじゃないかと推測される人物多いしな。
まぁ後漢の学制として、中央の太学の定員だけで3万、郡国学と書館等の地方教育機関含めたら実際とんでもない数になる。
漢武、王莽が教育機関を作って以降、後漢初期三代と、あと後漢の何人かの皇帝が異様に教育機関増設しまくったからな。
『四民月令』に描かれる風景が豪族を中心としてある程度その周縁部にも広まっていたとすれば、
後漢末期では少なくとも、ある程度の所得がある層には学校に送り込む習慣が一般化していた可能性は高い。
また第五氏などの例を鑑みるに、小作人層でも豪農の縁戚であれば学校にいけたようだ。
親戚に豪族の居ない小作人層や奴婢にゃあ無理だろうが、自作農や、下層でも官僚クラスなら可能だったんじゃないか。
それで学校に行っているということの相対的価値が低迷するから、高名な師匠の私塾に通うことに大きな価値が生まれてくるわけだ。
劉備死後の李厳と劉エンの官位がほぼ同等なんだが、これはなぜ?
李厳は劉備在世中は輔漢将軍・尚書令。劉エンは固陵太守。
そして、李厳は諸葛亮とともに後事を託された人物。
それなのに劉備死後の官爵は、
李厳が輔漢将軍・仮節・中都護・光禄勲・都郷侯。
劉エンが後将軍・中軍師・衛尉・都郷侯。
いずれも九卿で蜀ではトップクラスの高位の将軍。
後に李厳は前将軍を経て、驃騎将軍に昇進。
おそらく同じ頃に劉エンは車騎将軍に昇進。
権限も元の地位も実績も遥かに李厳の方が上なのに、
なぜ劉エンが李厳とほぼ同等の待遇を受けれたんだろうか?
孫権は魏から呉王にしてもらって、九錫まで賜ったんでしょ
じゃあ蜀からは何か貰ったの?それとも孫権が帝位につく直前まで、
蜀にとっては荊州と揚州の牧ってだけ?
>>167 孫権は魏と手切れして蜀と結んだ後も呉王位を保持していたので、
蜀から孫権に与えられる官位や爵位は無い。
いくら皇帝でも王以上の官爵は与えられない。
でも、蜀にとっては魏の皇帝は偽者なんだから、魏が呉王にしたって認めないんじゃない?
認めるなら、自分達が孫権に呉王の証として何かあげたりしないのかな。
「魏が呉王にしたから、俺たちも呉王って呼ぶぜ」じゃ蜀の皇帝って意味なくない?
大義だけじゃ飯は食えないんだよ。
>>166 長年仕えているということはそれだけ重いということ。
と言っても官位だけ。権限は段違い。
>>167 その当時、蜀と呉の外交使者は、互いの君主のことを「大王」と呼んでる。
つまり公式には、呉にとって蜀漢皇帝は「漢中王」だった。蜀から見れば孫権は勿論「呉王」。
呉王位は元々は221年11月に魏から貰ったものだが、
手切れした後の翌222年に自ら名乗り直し、黄武と改元した。
このとき、魏の正当性と共に黄初の年号を否定したので、呉の史観からすると漢の建安が27年まであることになる。
呉王孫権から見れば、この状況で蜀漢皇帝から官位を貰うということは、臣従することを示す。
つまり絶対に貰うわけがない。蜀漢の方も友好を保つ上は勝手に押し付けるわけがない。
たしか長沙呉簡には「建安二十七年」と書いてある簡があると聞いたな
覚え間違いかもしれんけど
>>171 つまり呉は、魏と結ぶときは下手に出て、蜀と結ぶときは対等な関係を求めたってこと?
下手に出る必要がないからな。
175 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 08:52:13 0
>>166 >劉エンは固陵太守。
劉エンの官位の記述には遺漏があると思う。
華陽国志の巴志では、216年に廖立が固陵太守になったことが記されている。
第二次北伐で諸葛亮が何をしたかったのか分からない。
食料をほとんど持たず、輜重も連れずに大軍で城攻め。
しかも、そこらへんの事情が敵に筒抜けで「もう少ししたら帰るんじゃね?」と言われる始末。
結局、20余日で食料が尽きて退却。
仮に陳倉が落とせたとしても、食料が無ければ陳倉を前線基地として維持する事も、
陳倉を拠点としてさらに進軍することもできない。
一体、諸葛亮は食料をほとんど持たず、輜重も連れずに大軍を動員して何がしたかったのだろうか?
第二次北伐の戦略的意義が分からない。
街亭の戦いの時の馬謖の官位は丞相参軍だけど、これって参謀だよね?
それなのに何で一軍を率いて、王平や張休や李盛や黄襲ら大勢の将軍を配下に置くことができたの?
蜀の丞相参軍は下手な将軍よりも、よほど指揮権高い地位なの?
179 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 20:08:21 0
>>176 あれは武都・陰平平定の為の陽動作戦だろ?
関中の防備が手厚くなれば、辺境の武都・陰平は放棄される可能性が
高くなる。事実魏軍もあっさり放棄している。
>>179 武都・陰平方面はわざわざそんな大がかりな陽動作戦しなくても、
簡単に落とせたと思うのだが。援軍を送るのは地理的に難しいし。
魏の西方は関中方面以外の防備は全体的に手薄だよ。
だから、第一次北伐であっさり三郡が蜀に降ったりした。
181 :
世界@名無史さん:2010/06/08(火) 21:13:53 0
まあ、最初から長居ができない戦役だったんで、
示威行動だったと見るのが妥当。副次目的に武都・陰平攻略を
安全にやる為の陽動もあったかもしれない。追撃の将である王双を討ち
取っている。蜀軍は街亭の敗戦で力を失ってないことを示すのが目的
だったのだろう。
街亭の敗戦は戦略的には大痛手だが、
損害自体はあまり大きくないような気がする。
この時呉も動いてたんだよな?
陽動だとしたらそっち(呉軍)に魏の兵力を集中させないための共同作戦とかじゃないの?
魏にとっては、蜀と呉どっちが脅威だったんだろう
>>184 そりゃあ、呉だろ。呉の方が動員兵力も国力も大きい。
この時、一次北伐を凌いだ張コウがそのまま関中軍を率いて荊州に駐屯していた。
荊州都督の司馬懿の計画に基づいて水軍を教練し、揚州方面と呼応して水路から呉を攻める予定だった。
水量が足りず、水路計画は中止となったが、張コウは依然として南陽方城で後詰の役を担っていた。
諸葛亮が再び出兵したとの報を受けて、張コウは早馬で呼び戻され、
都督関中諸軍事となって洛陽南北軍を含む三万の大軍で関中へ馳せ戻った。
状況証拠からすると考えられるのは、
1.関中の手薄を突いた陳倉周辺の防備破壊。
2.侵攻を受けていた呉を助けるための、魏の戦力誘引。
の二つとなる。
2の状況を利用した副目的として1、というところか。
三次のための陽動とは考えにくい。
変な行動を取らなければ関中諸軍がかなり目減りしていて、
総司令官である関中都督も存在しない(または夏侯楙が留任していたか)という
好機だったのだから。わざわざ魏が体制を整えるきっかけを与えることはない。
>>176 蜀の丞相参軍就任者には、将軍を兼任してる実戦指揮官や、事務方の人間もいるね。
単純な参謀職とは言えなさそう。丞相府の中ではかなりランクの高い職だったっぽいけど、
馬謖のように他の官職を帯びずに、
本来ならば魏延や呉懿が任されるような大軍の指揮を任された人間は他にいない。
馬謖が特別格が高くて、ただの参軍に留まらない権限を有していたのか、
それとも丞相参軍なら高位の将軍に匹敵する高い指揮権を得られたのか良く分からない。
これが長史とか軍師とか監軍とか護軍とか領軍とかならまだ納得がいくのだが。
丞相参軍と言うのが単体ではどの程度地位が高いのか良く分からない。
詳しい人がいたら教えてくれ。
参軍事の発祥は後漢末の張温幕下だと思うが、任官者は孫堅と陶謙。
つまり、一大征伐を統率するに相応しい大官ではあったが軍事には精通していないと考えられる
張温を、専門家の見地から補佐をしたのが参軍事の始まりということになる。
同時期、孫堅は部隊を率いて別働した記録がある。
参軍事とは、将軍に対して「敬せず」という特権的地位を与えられた「軍事に参与する顧問官」であり、、
朝廷から派遣された者、将軍の部下ではないという立場を東晋まで維持していた。
孫堅以降も別働隊を率いた記録もある。
監軍や護軍、非軍事では刺史も似たような特性を持つわけだが、彼らの権限は、階級の高さではなく、
所属する場所によって保障された。「皇帝の使者」だとか「丞相の顧問官」だとか。
彼らは政治的に皇帝や丞相の意を体現する存在であり、それによって
将軍や太守を含む高官を統括する権力を与えられることができた。
189 :
世界@名無史さん:2010/06/09(水) 22:35:52 0
わかりやすいね。
190 :
世界@名無史さん:2010/06/10(木) 21:29:58 0
じゃあ、王平は街亭戦の後に参軍になったので、
それはもう破格の大出世ということなのですか?
>>190 王平は裨将軍から参軍・討寇将軍・亭侯。
破格の出世だね。裨将軍という最下級の将軍から、
討寇将軍という将軍号を得て、参軍と言う丞相府の重職に就いて、
亭侯に封じられたわけだから。
192 :
世界@名無史さん:2010/06/11(金) 03:32:36 0
王平が大出世のきっかけをつかんだのは、
命令を遵守したこともさることなるながら、四散した蜀の敗残兵を
できるだけ収容したのが大きいのだろう。北伐は失敗してしまったが、
兵員は思ったより損害が少なくて済んだ。王平伝でもそれらしきことが
記載されている。比較的損害が少ないことは、第二次北伐が早期に実施
されたことからも伺える。王平の働きは、諸葛亮にとって不幸中の幸いだ
ったのだろう。そして破格の待遇を与えるに十分な働きだった。
193 :
世界@名無史さん:2010/06/11(金) 06:59:23 0
陳式は武都・陰平を平定する功績があったのに、
何故伝記が残らなかったのか?
陳寿は自分の父だから伝記を残さなかったのか?
『華陽国志』には中護軍だったという記述がある。
辺境とはいえ、二郡を平定した功績が評価されていない
のは何故だろうか?
194 :
世界@名無史さん:2010/06/11(金) 08:58:23 0
参軍で検索する限り、これもピンキリだろう。
>>193 華陽国志の二次北伐の記述にある陳式の官名は「護軍」じゃね?
他の箇所のことを言ってるのかもしれんけど
それに陳式は陳寿の父ではないはず
手元の華陽国志みたら
七年春丞相亮遣護軍陳戒攻武都陰平
ってあるけど、これか?
198 :
世界@名無史さん:2010/06/11(金) 15:07:25 0
陰平・武都は大して重要じゃないの?
鼎立後に国境線が動いた珍しいケースなんだが・・・・・・
陰平・武都は漢中を迂回して蜀に攻め込むルートの一つだから、
蜀としては抑えておいた方が安心。しかし、魏にとっては辺境に過ぎないから、
本気で蜀を攻めようと思わない限り、大して重要じゃない土地。
200 :
世界@名無史さん:2010/06/11(金) 16:53:28 0
>>199 蜀は陰平からの侵入軍により滅亡したな。
陳式の護軍って、鎮北将軍の魏延を差し置いて二郡攻略任されるほどの高官なんか?
それとも他に位の高い将軍号帯びてたのかな?
202 :
世界@名無史さん:2010/06/11(金) 17:34:04 0
武都・陰平の攻略戦には諸葛亮も参加している。
魏延は漢中の守備では?
諸葛亮が丞相復帰するためだけの戦役ともいえないこともない。
この三十行の流れ無視していきなりなんなのw
王平とか姜維とか魏の降将なのに、厚遇して破格の出世とは余程蜀漢に人材いないんだな。
王平なんか字が読めないどう見ても士大夫階層の出身でないのに抜擢せざるをえ無いとは
ほんまカツカツやのー 後には夏侯覇まで迎えちゃうし、もう魏の雑魚将軍の掃き溜め所だよね。
便所より酷い。
そもそも、蜀に三代無しと後世に言われたが、劉備つまり昭烈帝は中原の争いに負けたから荊州で髀肉を嘆じること実に8年、劉表の食客になるというと、
聞こえは良いが、その実ニートと変わらない。曹操はあっという間に中原の諸勢力を同じ8年で平らげたというのに!
いやいや、劉備が自称する景帝の祖先の高祖は挙兵以来、わずか8年で亭長から皇帝になったというのにやんぬる哉!(吉川英治風曹操の嘆き表現w)
ニート劉備とヤクザ軍団は哀れ夷陵の戦いで成上がり物語は終焉を迎え、白帝城にて薨ぜられるのでありましたとさ 昭烈帝頓死す なーんちゃってw
>>204 王平は功績があったから昇進。それまでは最下級の将軍。
姜維は第一次北伐で降った魏の官吏の中で一番の高官でしかも若くて才能があるから、
政治宣伝と将来への期待を兼ねて厚遇された。
夏侯覇ぐらいの高官なら、たとえ呉に降っても厚遇される。
蜀に人材がいないから厚遇されたのではなく、それぞれ理由があっての事。
蜀で理由もなく厚遇された降将なんてあまりいない。
207 :
世界@名無史さん:2010/06/11(金) 20:12:02 0
王平は降将といっても、
益州出身者であり、必ずしも自分の意志で魏に従った
とは言い難い。蛮族の首領に付き従っていただけで、
本心は故郷に帰りたかったのだろう。
で、前も議論になったかもしれないが、
王平は漢人なのかそれとも巴夷なのかどっちなんだろ?
巴夷の首領に付き従っていた漢人なのか、それとももともと巴夷なのか。
巴夷は漢人と同じような姓名を名乗ってるから分かりにくい。
王平は軍中で育ったと言うから、武装した巴夷の首領の軍中で育ち、
魏に降伏した頃には校尉に任じられるほど、軍中では高い地位にあったんだろうけど。
孫権が十万の大軍を率いて合肥に攻めてきた時、
どうして合肥には七千人しかいなかったんだろう?最前線の最重要基地なのに。
それも一人で七千ぐらいの兵なら指揮してそうな格の
征東将軍張遼、折衝将軍楽進、破虜将軍李典と実戦指揮官はやたら充実してて、
古参の重臣薛梯が護軍としてこれを管轄してる。
2万位の兵を指揮しててもおかしくなさそうなメンツなのに、
なぜか七千人しか指揮下にいない。
どうして、曹操は最前線に重臣四人で七千の兵だけで守らせるなんてしたんだろう?
深刻な兵力不足だったわけじゃないのに。
当時、将軍一人の指揮兵力は数千人だから
一城の将軍三人で七千というのは少なめではあるが不可思議ってほどではない。
前線には他にも多くの拠点を防御している兵力があって、
それを合わせれば揚州全体で1、2万くらいにはなったかもしれないが。
当時の前線兵力というのはそんなもの。特に曹操の時代はまだ、
中央軍に兵力が集中していて地方軍の組織は整っていない。
まとまった軍団の指揮権を継続的に与えられたのは、
夏侯惇・夏侯淵・曹仁・臧覇(と鍾ヨウも含むか)くらい。
>>210 しかし、援軍が来る見込みが無いのに、
数万の大軍が襲来する危険のある前線に七千の兵で主力クラスの将軍を三人も置くのは、
人材の無駄のように思うんだが。七千の兵ならこの三人クラスの将軍なら、一人で指揮できるだろ?
あと、合肥は最重要拠点だから、夏侯惇か曹仁あたりに数万の兵を預けて駐屯させればいいんじゃないか?
あと、後年満寵が合肥を孫権の大軍から二度守っているが、
その時も満寵が率いた兵力は数千。
合肥は寡兵で守らなければならないと言う不文律でもあったのだろうか?
>七千の兵ならこの三人クラスの将軍なら、一人で指揮できるだろ?
つまり、できなかったということだよ。
この当時の張遼らに、平時から兵七千を一人で管轄する格は無かった。
だから護軍薛梯がいるわけだ。
張遼らは、征伐発動時には、節を与えられるなどして「諸軍」を督する権限を与えられることもあったが、
常時では手持ちの「一軍」を指揮するだけの存在だった。
それから、数万の兵を食わせる兵糧を自給出来なければそこに駐屯するのは不可能。
曹魏は長い間、合肥とか隴西などの最前線に大軍を貼り付けることが出来なかった。
「敵が来寇するたびに京師から大軍を派遣せざるを得ない」というのが、
諸葛亮や司馬懿の時代になっても魏が抱えていた国力的課題であり、
それを解消するために大規模灌漑や農民の徙民政策が行われた。
>>212 于禁の七軍で三万だったから、一軍は三千から五千くらいまでの間で、
格の高い将軍ならそれよりもう千人か二千人増えるものと思っていたが、
実際は格の上下にかかわらず一軍は二〜三千程度と考えればいいのかね?
へぇ、勉強になるね。
レスを読む限りだけど、よく言われてる曹魏が超ツエーって訳でもない感じに思った。
>>241 いや、合肥の七千人から当時の一般的な編成を算出するのはあまり意味がないだろう。
逆に、于禁の七軍三万だって呉側の記録だから、魏が喧伝した数字をそのまま載せた可能性もある。
当時の軍は武将の部曲兵を中核にする不規則なものだっただろうから、
数的に均質な編成が取れていたとは考えにくいし。
・当時の張遼らは格が高い訳ではない普通の将軍だった。
・正確な時期は不明だが、通典に
「二部為校(八百人,立尉)二校為裨(千六百人,立將軍)二裨為軍(三千二百人、有將軍、副將軍也)」という記述があり、
部・曲という単位が存在した後漢三国の編成に合致する。
(ただし、当時の将軍の指揮下に必ず裨将軍や校尉が所属していたのかは疑問だが)
・両漢交替期の話だが、ケ禹に「裨将」として従軍した銚期が抜擢されて偏将軍に任じられた時の兵力が二千、
同僚だった傅ェ、呂晏が数百人。
・「校」とは元々は五百人の部隊のことを言い、漢の常設の校尉は凡そ七百人を指揮下に置いていた。
などの記述から、
将軍の「一軍」は数千人、裨・偏将軍はその半分、校尉は五百〜千人未満、というのが
「常識的な線」だったのだろう、というくらいの推測くらいしか言えないだろう。
合肥の守備軍の少なさより
「孫権が十万の大軍を率いて」の方が気になるが
そんなに動員能力あったっけ?かなり眉唾な数字じゃね?
オウヘイヘーイ
220 :
世界@名無史さん:2010/06/13(日) 13:55:05 0
王平は漢中総督として守備兵3万弱を指揮していたみたいだな。
221 :
世界@名無史さん:2010/06/13(日) 14:50:07 0
李厳が曹真の侵攻に2万人率いて漢中に赴いていた。
対呉方面の李厳も3万弱くらいの守備兵を指揮してたのかな?
さすがに関係改善後の対呉方面に3万も兵を割くとは考えづらい。
李厳が率いたのは直属の兵1万ぐらいと、
臨時に動員した江州方面の郡県の兵1万といったところではなかろうか。
総兵力約10万の蜀の中で守るべき重要拠点は漢中、江州(永安)、南中。
そのうち漢中の兵は北伐に動員されてて、蜀の総兵力の半数以上が北伐に動員されていて、
総兵力の中に郡県の守備兵も含むと考えると、、
さすがに後方で南中のように反乱の心配もない江州の李厳に3万もの兵を預けるのは無理。
巴三郡の動員できる兵力をかき集めて二万にして援軍に赴いた、って感じかな
>>223 まあ、そんなところじゃない?いくら李厳でも戦争の危険も反乱の危険もない土地で
3万もの駐屯兵を常時指揮させるなんて、蜀の国力が許さない。
>>218 十万ってのは張遼伝の記述だから、かなり大袈裟に書いてると思う
…と、そこまでは俺でも分かるけど、実際にどれくらいだったかは他の人のレスを待つw
当時の孫権の勢力圏から考えて、最大限動員しても十万は無理だろ。
最大の国難の赤壁の時ですら三万しか用意できなかったのに。
その時より少し勢力圏は広がっているだろうが、
まあ十万は無理だろうな。せいぜい五万と言ったところじゃなかろうか。
結局、守るだけなら7千で問題ないって事だな。
5万だったら赤壁の時に周瑜が孫権に求めた数と同じだ
勢力が広がってるから5万より多い可能性はある
張遼以外の将軍が援軍の到着を待たずに7千で孫権の大軍を撃退できたかねえ?
援軍が来るまで持ちこたえるなら、それなりに有能な将軍でもできそうだけど、
援軍無しで7千の兵で撃退ってのは誰にでもできる事じゃないと思うよ。
230 :
世界@名無史さん:2010/06/13(日) 22:16:09 0
蜀は対呉方面が1〜2万、漢中が2〜3万、中央5万、南方1万くらいの
兵力配置かなあ?
平時は永安2万。漢中3万。南中1万で、
時によって成都や漢中に駐屯したりする主力軍が5万と言う所じゃないだろうか。
>>229 七千ってのも張遼伝の数字だから、誇張(実際にはもっと多い)かもしれない
>>229 張遼らはそういう意味での「撃退」はしてないぞ。
7000で十数日間守り切って、曹操の来援が近づいたから孫権は撤退した。
その最後尾が渡し場に残っているところへ強襲を掛けた。
234 :
世界@名無史さん:2010/06/14(月) 06:25:49 0
その合肥の周辺の人口具合が気になるなぁ。
徐州とかは殺戮があったりで人口少なそうだから街も栄えてなさそうだけど、
寿春って結構大都市でしょ?ここには合肥にすぐに援軍送れるような軍隊を
常駐させなかったのかな?格好の駐屯地だと思うんだけど。
魏呉の長い国境線を考えれば、7千は決して少なくないと思われ。
>>235 そうでもない。
揚州の刺史治は寿春と同じ九江郡歴陽に置かれてはいたが、刺史治は行政や経済の中心地に置かれるわけではないし、
九江郡は後漢代に口43万あったが、中原諸郡と比べれば目立たない数でしかない。
同じ揚州でも呉郡70万や豫章166万の方が遥かに多い。
後漢末の混乱に入ると淮南は中原から逃げ出す者達の避難ルートには当たり、張昭などが滞在したが、
さらにその後の袁術及びその残党の支配期間に淮南の郡県はどこも破壊されたとか、
曹操の徙民(失敗)によって皖以外に人がいなくなったとか拙い記録ばかり残る。
防衛力整備のために復興の手が尽くされるのは魏王朝の成立後。特にケ艾の灌漑政策が有名。
曹操の時代では、孫権の大侵攻に対して淮南で十分な防衛線を敷く力がなく、
合肥など少数の城に立て篭もって時間を稼ぐ方針だったと考えられる。
むしろ民の強制移住を防ぐための焦土計画を実行している。
曹操が前線を押し上げたと見られるのは216年の儒須攻撃とそれに続く
二十六軍都督夏侯惇の居巣駐屯。
その後の臣従時代を挟んで曹丕の時代まで、両者の戦いは魏の大攻勢が目立つが、
曹叡の時代になると、蜀漢が北伐の意思を明らかにしたこともあってか、
互いに大征伐を応酬する拮抗した状態に入る。
蜀呉同時攻撃の際には満寵が合肥放棄を上表するなど、危機的状況に陥ることもあった。
本来は一番勢力が弱い蜀漢こそが呉のように漁夫の利を狙えるような
どっちつかずな立場でなきゃいけなかったのに、大義名分が邪魔したね。
でも、呉はどっちについてもいい立場だから、かなり有利だと思うんだけど、
孫権はどうしても皇帝にならなきゃいけなかったの?
部下達の階級引き上げ要求に押されちゃった形なのか、それとも時期的には
あれが最良の場面だったのか。
皇帝にならなければ独立の国家たる名分が立たない。
王は、漢代を通じて皇帝から独立の領邦たる形式を守ってはいたが、
天子としての祭祀を司らなければ君主は天下を支える存在とは看做されなかった。
現代で、例えば東西ドイツや南北朝鮮や中台が対立する時に、
片方が相手と対等の国家を名乗らないというのは有り得ない。
国力的な強弱とはまったく関係なく、それでは組織が維持できない。
臣下個人の階級引き上げなどより遥かに大前提になる問題。
会稽太守でしかない孫策が朱治を呉郡太守に、呉景を丹楊太守に、孫賁を豫章太守に、
孫輔を廬陵太守に任命していますが、
孫策は配下に同格の官位を持つ人間がこんなにいてやりにくくなかったのでしょうか?
それらは孫堅時代からの重鎮で、孫策以前既に太守や騎都尉、将軍位を得ている大物揃いだよ。
個人としての格は孫策よりずっと上。
孫策は孫堅の張子として、江東孫氏連合政権の代表者の地位にいた、と見た方がいいだろう。
彼ら重鎮が郡の政事軍事を握り、
一方で張昭・周瑜・呂範・太史慈等孫策個人と繋がりの深い人物が要所にて郡とは独立した戦力を掌握する、
という二重体制が見られる。
張子 → 長子
>>241 孫策は皇帝にでもなったつもりか?
勝手に官位をやるなんて、やってることがニセ皇帝袁術と同じだぞ。
任命は曹操じゃなかったっけ?確証ないけど。
あと、後漢は地方じゃ完全に機能してないから
ある程度の官位はどこでも授けてる。
>>244 太守どころか中郎将や刺史を勝手に任命してる奴が、
この時代にはたくさんいるわけですが。
>>245 孫策の任命した太守は、最初は勝手に任命。
後に曹操の追認を受けてるね。
袁術が任命したのをそのまま引き継いだ官もある。
あらゆる意味で全ての群雄がやってること。
ていうか、袁術と一緒って、そりゃ一緒だろ。
うまくいったかいかなかったかにすぎない。
249 :
世界@名無史さん:2010/06/16(水) 22:29:43 0
>>245 自分から官位を配るなんて、せいぜい太守並みの人間にできることじゃない。
劉gを荊州刺史に仕立てた劉備だって、劉備が左将軍だからできたようなもの。
孫策は劉備並みですらないのに僭越すぎ。
袁術みたいな勘違いして皇帝を名乗るようなアホと同レベル。
>>246 そいつらは刺史や州牧だろ?
曹操だってエン州牧だったわけで、そのぐらいの地位と軍事力の裏づけがないと、官位を配ってもバカにされるだけ。
それこそ勝手に皇帝を名乗った反逆者として賊扱いされる。
名士の支持も集まらない。
>>249 左将軍だろうがなんだろうが、他人を官に任命することなんて出来ないが?
上表で推薦するんだよ。
「臣備は、北海国相融を青州刺史として推薦します云々」。
「左将軍臣備は、臣亮を軍師中郎将に推薦します云々」。
当然、皇帝から返答なんて来ないが、戦乱の世の臨機の処置として
その職務を「行」することになる。
これが体裁。
>>250 太守に任じられた人間が、そもそもそれぞれ大きな権威を持つ実力者であり、上手く統治を行っている。
馬鹿もされていないし、対立群雄から以外は賊扱いもされていないし、名士も集まっている。
これが実質。
この流れ、袁術とは関係ないね。
袁術は正式に朝廷によって後将軍や左将軍・仮節に任じられた人間だから。
>名士も集まっている。
二張しかいないじゃんw
なんだ、ただ三国時代を知らない人か
255 :
世界@名無史さん:2010/06/16(水) 22:51:19 0
>>253 あれ? 二張が招聘されたのって会稽太守以後じゃなかったっけ?
>>254 >対立群雄から以外は賊扱いもされていない
袁術から見れば自分に逆らう賊だし、献帝からみても官位をもらっておいていきなり許都襲撃をはじめるなんて反逆心丸出しじゃん。
君子豹変するどころか、節操なさ過ぎてただの賊。。
ええと、孫策をけなしたくてしかたない状態?
>>256 いったい何を言ってるんだ?
それらの対立軸の全ての要因を、「孫策が会稽太守に過ぎないのに他の太守を任命した」ことに帰するつもりなのか?
それとも単に孫策を賊だと言うための材料を必死に掻き集めて見つけた端から叩きたいので
>>241に食いついただけなのか?
スタンスをはっきりしなさい。
>>257 孫策が現実的かつ策謀に長けた名君だとでも言いたいのか?
群雄としての強かさを賞賛するんだから、節義に外れた賊野郎という批判もそのまま受け入れろよw
>>258 いや〜賊でしょ。
袁術の家臣の時点で賊だし、独立しても献帝(を擁する曹操)に刃を向けた時点でやっぱり賊だし。
歴史は歴史上の人物を賞賛したり糞野郎などと罵倒するために
考察や分析をする学問ではないので、板からお引取りください。
三国志にはそれができる場所が2chだけでもたくさんでもあるから自分の相応しい場所でレスしてください。
>260
「漢魏交代正統史観から見た賊」ね。劉備も同じく。
劉備らは、「蜀漢正統史観」から見た場合に正統となる。
孫呉には南朝史観というのがあって、建康実録という史書も書かれている。
そこでは太祖、廃帝、景帝、後主と正式に呼ばれている。
そもそも献帝が正統性に疑問符がつく皇帝だからな
東漢そのものが……
しかし、献帝を結局はみんな認めたわけだし。
一時は独自に皇帝擁立しようとすらした袁紹ですら、結局は献帝から官位を受けている。
献帝は、魏呉蜀の三国の認定によって
異論が挟まれる余地無く正統な最後の東漢皇帝になった。
東漢自体もまた、200年の事実と魏呉蜀、さらには晋以降の王朝が自らの系譜内に
位置づけることで正統な王朝となった。
どこにも疑問符は付かない。
>>266 現代の一個人の主観の話をしてんじゃないんだよ。
>>267 歴代の正史で認定されて来た話だよ?
正統王朝というのはそうやって形成されて行く。
それが中国の歴史観であり、史書の役目の大きな一つでもある。
董卓に任命されたから…なんていう理由で献帝の正当性に疑問符をつけるのは、
むしろ董卓のことを朝廷を破壊した人間のように認識をしている現代人だから出来ることだ。
無論、反董卓の兵を起こした者達が献帝を否定した可能性はあるが、
それはあったとしても数年の間だけで、しかも董卓の下で長安の朝廷は機能していた。
今問題になっている孫策の時代には既に袁術が左将軍位を受け、
孫策はその傘下で官位と兵力を得ている。
董卓は後漢の悪臣であり、個人としては逆賊として斬られたが、朝廷の系譜を断絶などまではしていない。
それが魏呉蜀他多くの陣営の共通の認識。
周瑜が死んだ後、周瑜の推薦があったとはいえ、
なぜ一介の校尉の魯粛が周瑜の軍を引き継いだのでしょうか?
宿将で裨将軍の程普や呂範、一族で綏遠将軍の孫瑜など、
他にも適任者はいるように思えるのですが。
劉備との折衝などは文武両道のこの三人ならそれなりにできそうな気がしますし。
彼らに対応できない事態が起きたら、本国から外交能力の高い高官を使者として派遣すれば済みますし、
外交能力重視で軍事経験の少ない一校尉を抜擢して大軍を預けることも無いと思うのです。
赤壁戦後に目立った軍功がなかった魯粛への孫権の遇しかたを見ると
周瑜から魯粛への引継は既定路線だったんだろ
271 :
世界@名無史さん:2010/06/17(木) 21:21:33 0
>>242 >孫策は孫堅の張子として、江東孫氏連合政権の代表者の地位にいた、と見た方がいいだろう。
>彼ら重鎮が郡の政事軍事を握り、
これは若干言い過ぎかな。認識ではなく表現の問題かも知れないが。
指揮命令の点からも人事の面からも孫策は唯一の指導的地位にあり、その権力は他の重鎮とは隔絶している。
>>241 朱治と孫輔に関しては、孫策の腹心中の腹心というべき人物なので問題ない。
呉景と孫賁も、袁術から離反して身一つで頼ってきた。
これら重鎮との関係が難しくなるのは孫権の代だろう。
>>249 お前の孫策への好悪の感情はどうでもいいが、お前の論理は破綻している。
>>256 漢朝から離脱した袁術に逆らっても問題ないし、許都襲撃は行われていない。
また、献帝への忠誠と許都襲撃は別問題だろう。
君側の奸を除くために許都襲撃、という名分は成り立つ。
>これは若干言い過ぎかな。認識ではなく表現の問題かも知れないが。
まあ、その辺はあまり争うつもりはないけど。
言いたいのは、「親族で掌握する郡県地域」と「股肱によって掌握される軍部」の二重体制が孫策政権の特徴だったということ。
全体的に見れば、中郎将・校尉らで構成される軍部を直接支配する孫策の力が強大なのは間違いない。
ただ、孫策が郡県政治にどこまで口を挟めたか、というとちょっと疑問があると思う。
朱治などは中央の政治に関わることは無かったが、呉郡においては孫権の時代になってもかなり
自律的な力を維持していたようにみえる。
>>272 弟の孫権を孝廉に推挙させる程度には言うこと聞かせられただろうね。
あと、県長や県令に結構自分の腹心を送りこんでるので、
郡県政治にもそれなりに口は挟めたと思う。
>>274 いや別個の勢力じゃ無いんだからその程度の融通があるのは当然だよ。
それさえも許さなかったら、逆に郡吏を中枢に送り込むようなことも不可能になるじゃないか。
北伐の兵站は李厳が担当してたようですが、
李厳失脚後は誰が後方で兵站を担当してたんですかね?
李厳の更迭時の処置を調べりゃ直ぐ出てくるものを何故ここで聞く
278 :
世界@名無史さん:2010/06/19(土) 14:38:47 0
李厳が兵站を担当したのは、
漢中にやってきた時だけでしょ。
それ以前は江州に駐屯してた訳だし。
李厳が罪に問われたのは、どうもサボタージュ的な
側面があったこと。それと諸葛亮を陥れようとしたこと。
軍が帰還すると、事情を知っている後方の人間を殺害して
口封じをしようとしたりしたことが問題だった。
李厳が兵站担当になったのは、対呉方面に当面懸念が無かった
こと。曹真侵攻時に李厳が率いてきた兵員を漢中に留め置き、
輸送任務に就かせた為と思われる。
李厳が兵站を担当する前後の責任者は張裔・蔣琬の二人の
留府長吏だと思われる。張裔は230年に死去してるので、李厳失脚後は
蔣琬が担当・監督していたのだろう。そこでの公正・忠義の働きが評価
され、諸葛亮の後継に指名されたと思われる。
279 :
世界@名無史さん:2010/06/19(土) 17:35:10 0
兵站が問題になる程の大規模な北伐は、
最初の北伐、231年の北伐、最後の五丈原の戦いの3回だろう。
五丈原の戦いでは屯田も行っている。多少は兵站の足しになった
はず。
陳倉戦は最初から長期戦は想定されず。武都・陰平攻略戦、
魏延・呉懿の西方侵入も宣撫工作が目的で、いずれも大規模な補給
計画は必要なかった。
第一次北伐はあっさり魏領の三郡が降伏したので、ある程度は
兵站の現地調達化が可能だった。最後の北伐でもある程度は屯田で
賄えた。もっとも大量輸送が必要だったのは、李厳が兵站担当をした
231年の北伐。
諸葛亮が外征し、李厳が内外の押さえを担当すると言うのが、
当時の蜀にとっては理想的な体制だったのだろうか?
李厳はナンバー2だけど、留守を守るとか成都で代わりに政治をとるとかいうよりは、
軍を率いて国の内外を固めるといった役割の方が大きいね。
留守や成都の政治は諸葛亮の抜擢した人間が担当してる。
どうしてこういう役割分担になったんだろうね?
281 :
世界@名無史さん:2010/06/19(土) 19:11:43 0
李厳は軍功・才幹は評価されてたけど、
他の士人達とはうちとけず、成都で国内を調整・統治するのには
不向きな人間。役割は違うけど、楊義と似たような性格の人間と
思って良い。李厳の狷介な性格は、李厳派閥が全く無かったことから
もよくわかる。対呉方面の軍事的責任者か、漢中での輸送監督くらい
しか役割がなかった。おまけに言い逃れや、他人を陥れようとした。
ケ芝も士人と上手くやっていけない驕慢な性格だが、彼には私心がない。
あくまでも国家のために行動する。李厳や楊義が才幹がありながら失脚し、
ケ芝が驕慢な性格ながらも栄達し、天寿を全うしたのはその差である。
あれほどの能力があるなら、諸葛亮の片腕的役割になってもおかしくなかったのにね。
留守や政治を任せる片腕になるには、性格に問題があり過ぎたと言うところか。
北伐軍に従軍させたら後方に残る有力者がいなくなるし、
後方の重石しか役割がなかったということか。
李厳があんなに格が高くなければ、もう少し使い道あったかな?
283 :
世界@名無史さん:2010/06/19(土) 20:24:52 0
世代はだいぶ違うけど、政治・軍事能力では李厳よりも馬忠の方が上でしょ。
劉備が李厳を諸葛亮の副に指名したのは、ほう統、法正、劉巴、黄権といった
諸葛亮と同世代かやや上の世代の有能な人物がいなかったから。
蔣琬・費禕・馬忠・董允といった人物は、諸葛亮よりも若い世代で、劉備もよく知らない
人物。いきなり諸葛亮の副には指名できない。
284 :
世界@名無史さん:2010/06/19(土) 20:28:09 0
李厳はあんまり恩徳を施したという記述がないので、
南方の統治とかも不向きでは?
軍功といっても数が多いだけの烏合の盗賊集団を撃破した
程度。それがbQになるのだから、当時の蜀は人材不足が
深刻。
李厳は荊州と益州で県令を歴任して有能と称されてたね。
まあ、実務能力は有ったと思う。蜀科の制定に参加してるし。
軍事よりは政治向きの人材だったと思う。
恩徳を施すと言うよりは、厳格でカミソリのように切れると言うタイプ。
劉備は李厳の実務能力に期待したんだろうね。
ケ芝は傲慢。王平は偏狭。それでも蜀を代表する将軍になったんだから、
やはりどんな性格でも上に忠実で変な野心が無ければ、栄達できるんだね。
蜀の人事はかなり公平だ。それがいつから機能しなくなったんだろう?
287 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 03:08:51 0
蜀の滅亡の主な原因は、
あくまでも姜維の無謀な度重なる北伐。
佞臣といっても、黄皓くらいしか記述がない。
公平な人事が機能しなくなったというより、
人材の枯渇と経済的衰退が滅亡の主因。特に段谷の戦い
で多くの実戦指揮官と兵員を失い、秦嶺山脈の防御陣営を
維持出来なるほど経済・軍事的な衰退を招いた。
アレ?蜀の経済って魏よりも安定してたんじゃなかったっけ
それは蜀漢政権の初期〜中期くらいまでの話な
290 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 06:17:21 0
蔣琬・費禕時代までは安定してたのでは?
291 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 07:05:34 0
蜀は本土・南方からの鉱物資源や交易品、蜀錦などの産物があった。
諸葛亮の北伐もそれらの産物からの収入無しにはできなかった。
292 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 07:14:47 0
>>285 李厳は有能ではあっても、
諸葛亮のような有能かつ公正な人間ではなかった。
王沖という人物は李厳に憎まれていて魏に亡命したりして
いる。また、『華陽国志』では補給の失敗と隠蔽の為の
詭弁を隠す為に、部下を殺害しようとしたりしたみたいだ。
諸葛亮の腹心であり、諸葛亮の死後に政治を司った蔣琬・費禕・董允・馬忠
等が有能かつ公正だったことを考えると、一国を統治するような人物ではな
かったようだ。
奇抜だったらいいってもんでもなかろうw
もう正史『蜀史』に改名したほうがいいんじゃね
蜀の話しかしてねえ
296 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 12:03:04 0
まあ、いいじゃないか。
魏や呉の話でも、面白そうな話は続くわけだし。
自分が気に入らないからとダダをこねるのはよくない。
試しに面白そうな話題出してみたら?
297 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 13:21:17 0
士燮は漢人なの?
>>297 先祖は新の時代に魯から移住してきた生粋の漢人。
若い頃は中原で有名な学者に教育を受け、茂才に推挙され、
県令を経て交阯太守に昇進したエリート。
299 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 13:43:55 0
ベトナムでは評価高いらしいな。
元々の呉志での評価がかなり高いしね。
ベトナムでは高評価も低評価も両方あるよ。
ベトナムの文化振興に尽力した名君として高く評価する見方もあれば、
漢人としてベトナムを支配した異民族として、民族主義の観点から批判する見方もある。
302 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 14:16:36 0
呉の住民自体が生粋の漢人とは言えない連中が沢山いただろ。
今日の国境線で考えるのは意味不明だよな。中原の魏にとっては、
呉や蜀は漢人と蛮人の雑居地区の地方政権でしかない。
303 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 14:17:59 0
士燮は猛獲をビックにした感じ?
304 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 14:18:44 0
蜀の話というか、李厳の話しかしてない気がする。
>>302 魏も幽州・并州・雍州・涼州あたりは漢人と異民族の雑居地区だから、
人の事は言えないと思う。
>>303 士燮は交州四郡の支配者。孟獲は南中の反乱で指導者の雍ガイが殺されたから代わりに立てられただけの、
普通の有力豪族。全然違う。
306 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 14:31:42 0
>>304 このスレ、李厳と魏延の話になると良く伸びるよね。
307 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 14:36:20 0
>>307 立場としては似てるかな。
ただ、士燮が軍事行動を控えて政治的な手段で四郡を手中にし、
善政を敷いて領内を繁栄させたのに比べると、
遼東公孫氏は治世に見るべきところが無く、
軍事行動を盛んに起こして周辺の郡を切り取っていったところが違うか。
公孫度ってけっこう東方に進出して勝利してるんだよな。
310 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 14:46:51 0
>>308 孫権の侵攻で国が荒廃するのを考慮して、
孫権に臣従したんだっけ?
士燮はベトナムに儒教を伝えた人物だったと思ったが・・・・
311 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 14:53:14 0
この時代の酒泉や敦煌は中央から太守が派遣されてたのですか?
>>309 高句麗とも戦って、朝鮮半島北部まで支配下に収めてるからな。
>>310 元々士燮は交州四郡の支配権が維持できればいいわけで、
それを保証してくれるなら誰でも良かったんだよ。
交州まで勢力を伸ばしてきた孫権に接近して、
支配権を認めてもらったから臣従しただけ。
313 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 15:08:36 0
>>311 魏書に曹叡の時代に敦煌太守を務めて善政を敷いた倉慈という人物の列伝があるよ。
それ以前にも尹奉らが太守を務めていたとあるので、
曹丕の時代には既に太守が派遣されていた模様。
荊州駐屯の呉の有力な将軍の中で、対魏戦に参加してる奴としてない奴がいるんだが、
これはどういう理由だろうか?軍事能力に見劣りする諸葛瑾がよく戦ってて、
軍事能力に優れた呂岱が戦ってないなど、理由がよく分からん。
参加組 陸遜 諸葛瑾 朱然
不参加組 呂岱 潘濬 歩隲
315 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 16:27:04 0
>>314 まあ、蜀でも馬忠は北伐では事務職として参加しているだけだし、
張嶷も最後の出陣で対魏戦に参加しているだけ。魏延・王平とかは
一貫して対魏の戦役。事情をよく知っている方に優先配置されてる
だけだろ。単に戦争するだけでなく、その地方の統治の意味合いも
あるのだろうから。呉も事情は同じではないだろうか?
>>315 しかし、荊州は対魏戦の最前線だぜ?そこに長年配置されていて、
事情を知らないから参加しないと言う事も無いと思うんだが。
あとまあ、このクラスの将軍になれば統治も戦争も両方やるよ。
317 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 17:01:14 0
>>314 その軍事能力というのが何とも言えないのだよな。
名将と言われた張嶷だって、北伐ですぐに戦死してるし。
南方の豪族相手の戦闘と、軍組織がしっかりした魏軍と戦う
のとは違うような気がする。ゲリラ相手に戦うのが得意な将軍と、
正規軍相手に戦う方が得手の将軍と二通りいるように思う。
得意分野の違いだろう。
諸葛瑾、朱然らは軍官を中心に昇進し、前線を守って太守もやった、というタイプ。
呂岱、歩隲らは交州刺史など経験し、統治や叛乱鎮圧のために将軍の権限も持ってた、というタイプ。
同じ荊州赴任時でも任地が違う。勿論、陸遜のように分野を移動する者も中にはいる。
呂岱は長沙、武昌
歩隲は長沙、西陵
潘濬は武昌、
と、三人は長江南岸や後方の要地に駐屯している。
あえて理由を付けるなら、荊州は対魏前線であると同時に蛮族も多い不安定地域だから、
二者の役割を明確化する必要があった、というところか。
魏が攻めて来る時は叛乱の可能性が高まる時でもあるから、後方を固める呂岱らを前線に投入できない。
また、西陵が対魏の戦場になって行くのは、どうやら魏荊州都督王昶時代、歩隲の死後のこと。
後方を固めてくれる人がいからこそ、前線で戦えるわけだしなー。
それにしても、呉は大物の将軍を揚州北岸方面では無く、
荊州に集中して配置してるね。魏は対呉では荊州より揚州を重視してるのに。
呉の荊州重視と魏の揚州重視の違いは面白いね。
321 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 19:07:57 0
魏にとっては荊州南部の維持は難しい。
揚州方面からと益州方面からの挟撃に合うから。
先に益州を占領し、長江上流域を支配してからでないと
攻めづらい。
揚州を制圧してしまえば、荊州南部は荊州北部と揚州方面から
攻撃できる。揚州を攻め落とせば、呉は滅亡するので、揚州制圧が
優先される。蜀の援軍も来る可能性は低い。
しかし、呉の主力は荊州に集中してるのだから、
魏も荊州に主力を集中させた方が良くない?
あと、揚州直接攻撃は曹操ですら何度も失敗してる。
その後も何度も行われたが、そのたびに失敗。
呉の揚州には皇帝中軍という最大の主力がいるので、
陸遜・諸葛瑾・歩隲などの大臣が荊州を纏めることでバランスを取ってる。
揚州の方が重視されてるよ。まあ距離的に当たり前だけど。
まあ、揚州は本拠地だしね。
325 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 19:53:16 0
>>322 劉表死後に荊州を制圧したが、
赤壁敗戦後すぐに荊州南部を失陥している。
惰弱な劉璋が益州を統治していた時代ですら、
益州が領土でないと荊州南部の支配を維持するのは
難しい。まして蜀と呉が同盟している時に荊州南部は
挟撃に最適な場所になってしまう。
結果論だが、曹操は荊州制圧した後は、惰弱な劉璋を降伏させて
益州を押さえてから呉へ向かうべきだった。まあ、魏〜晋の三国
統一の過程が一番合理的だったわけだ。当代一の戦略・戦術家の
曹操もやや焦った判断をしたのかもしれない。益州が支配できて
いれば呉は長期の重圧に耐えられなくなったかもしれない。
逆に蜀と呉には、荊州は中原を狙うには絶好の土地。
これは諸葛亮の分析の通り。
>>325 劉璋は赤壁の時点で曹操に恭順して、振威将軍の称号を得ているよ。
だから、曹操もあえて劉璋を攻める事はしなかったんじゃないかな?
味方だし、主目的は荊州制圧と劉備の殲滅だから。
あと、孫権ももともと曹操に従順な勢力だったから、
曹操も荊州制圧した後、孫権を攻める気は無くて、恭順してくるのを待ってたんじゃないかな?
それが劉備を受け入れて敵対する姿勢を見せたから、予定外の戦いを強いられたんじゃないかと。
曹操は孫権にプレッシャーを掛け過ぎたのが敗因だろう。
長江を下った時点では、まだ揚州を直接攻撃する目的のものではなかったと考えられる。
(夏口に劉備がいるわけだから)
しかし孫権は、その行動より早く周瑜を派遣して劉備と合流し、一気に荊州奥深くまで逆進して決戦することを決断した。
これが歴史の転換点。
孫権に対して、劉備との同盟を決断させるような圧力を掛けさえしなければ、
荊州戦力と揚州戦力を数年の時間を置いて確固撃破できた可能性がある。
>>327 カクが言うように揚州方面へ出るのが早すぎたというのが結論だろうな
「ああすれば勝てたのに」系の逸話によくあることだけど、賈クの話はおかしいんだけどね。
劉孫同盟の報が曹操に伝わっていたのなら、「孫権を刺激すべきではない」というのは
もはや意味のない進言。
同盟の報がまだ伝わっていないのなら、長江東下の目的は夏口制圧だったはずだが、
主敵の劉備・劉gのことをまったく語らないのはおかしい。
好意的に整合性を取れば、「夏口を攻略することによって孫権を刺激するのは避けるべき」
という進言になるが、
・荊州内にある江水と漢水の結合点をそんなに長期間放置して良いのか?
・赤壁という会敵位置を考えれば、孫権は既に劉備との同盟を決断している時期なので結果論としては意味がない。
という疑問が残る。
もし、劉備と孫権の同盟が成立した時点でも、曹操が孫権領に向けて進軍せず、
荊州に大軍を置いて、孫権と睨みあいつつ荊州の経営に力を入れたらどうなったかな?
331 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 21:24:32 0
荊州制圧後の劉備はさほど警戒すべき相手ではない。
問題だったのは、荊州支配が確立していない間に呉との
先端を開いてしまったこと。赤壁の敗戦は仕方がない面も
あるが、荊州南部を失陥したのは、占領政策機能してなかった
から。呉に侵攻するにしても、足場を固めないとせっかくの
成果が無くなってしまう。賈クは獲得した領土の保持を万全に
してからと言いたかったのだろう。
歴史をふりかえると、孫権と劉備の同盟は大きかったが、
赤壁前では、敗残の小規模傭兵集団の頭が呉に逃げ込んだ程度の
話でしかない。
>>330 曹操不利だろう。
夏口を孫権側が握っているということは、
水路で南陽・漢江間・荊南の三つに分断されている荊州を、孫権がいつでも横撃できることになる。
陸水交える揚州からの攻撃を荊州が効率的に防ぐには、夏口の保有は欠かせない。
さらに淮江間の問題がある。袁術滅亡後、ここは陳蘭らが割拠する緩衝地帯として働いていたようだが、
史実では赤壁決着後に曹操自身が出向いて孫権と戦線確定の取り込み合戦が繰り広げられ、こちらが曹操優勢で決着がついた。
しかし、曹操の大軍が荊州に駐留していると合肥も危ない。
333 :
世界@名無史さん:2010/06/20(日) 21:40:12 0
曹操が天下統一できなかった原因は、
やっぱ韓信のような将軍がいなかったことなんだな。
「戦略的に不利でも戦術でそれを覆して勝てる」とかいうジョーカーみたいな将が二人以上いたなら
そりゃ天下統一できるだろうけど。
>>332 じゃあ、夏口確保して荊州の安定支配を確立させるためにも、
どうしても孫権との交戦は避けられなかったのかね?
でも、曹操の大軍が荊州にいる状態で、
合肥を伺うほど孫権に兵力あるとも思えないけど。
曹操が荊州にいる間に合肥攻めたら、がら空きの揚州に攻め込まれる。
>>335 実際、孫権は南郡攻略と合肥攻撃を同時に行って、片方を成功させたし、
翌209年の曹操はショウと合肥間に釘付けにされている。
つまり、淮南と漢南のどちらを優先するかという選択で、
曹操が選んだのが淮南ということになる。
要するに曹操が荊州を維持するのは、
孫権を敵に回した状態では不可能に等しかったということか。
>>320 荊州は揚州に対して上流、ということも関係あると思う。
荊州から揚州へ援軍を出すことは容易。
魏において、司馬・校尉・中郎将から偏将軍→雑号将軍→四方将軍や高位の雑号将軍というコースをたどった将軍や、
雑号将軍→四征将軍や諸大将軍→大将軍・大司馬と言うコースをたどった一族将軍から、
低位の文官→太守か中位の文官→雑号将軍加官→刺史や四方将軍→
四征四鎮将軍や諸大将軍というコースをたどる文官将軍が主力になったのはいつ頃からだろう?
また、この将軍登用コースの変化には何か方向変換でもあったのだろうか?
230年代じゃないの?
草莽期じゃないので、領土拡大に伴って勲功を重ねられる雑草系将軍は不出。
同時に、草莽期に従軍経験のある有能な一族将軍も軒並み死亡。
他姓の四征将軍が都督諸軍事を帯びるようになる明帝期、特に諸葛亮の北伐開始後だね。
三国の戦争の本格化によって州軍事の権限が一本化され、大組織の管理能力が必要になっていく時期と、
張コウを最後として野戦指揮官型の宿将がいなくなる時期が重なる。
ところで、張昭の諱が司馬昭と被ってるけど
陳寿が当初編纂した三国志では、張昭の諱も変えられていたのか?
その後、時代が下ってから元に戻されたとか?
呉懿が戻されなかったのはマイナーなので、とか?
>>342 時代が下ってから元に戻されたのであれば、一部の人間だけというのは不自然だろう
避諱と人物のメジャー/マイナーが関係あるとも思えない
呉の張昭の名はそのままで、『呉書』を編纂した一人でもある呉末期の韋昭は韋曜と変えられている
ということは、陳寿は『呉書』から書き写した部分は名を書き換えず、
韋昭など陳寿自身が書いた部分については名を書き換えたのだろう
>>343 じゃあ、なんで魏の董昭の諱は変えられなかったの?
張昭や董昭はメジャー過ぎて、変えようが無かったのでは?
>>343 「マイナーなので」というのはあり得るだろう。
三国志は写本を繰り返して、現存する最古は確か宋代のもの。
晋の時代が終わって避諱がなくなったとき、
張昭のように「メジャー」で他に多くの伝記が残る人物なら簡単に元に戻すことが可能だが、
時間の経過で本名を探すのも難しくなった「マイナー」な人物に対しては
写本家の作業が追いつかなかったかもしれない。
ただ、魏晋時代の避諱がそれほど厳密なものだったか、という問題も残る。
漢代では公文書や奏文以外での避諱はあまり厳密ではなかったらしいが、
「三国志」は、陳寿が朝廷へ献呈したものではない私的な著作かもしれない。
自序の卷が失われているらしいので確かなことはわからない。
ただ一代の大家だった韋曜が「マイナー」な人物かというと、
それは無いだろうけど。
>>341 じゃあ、都督諸軍事の下の将軍はどうだったのかな?
刺史と太守と雑号将軍で構成されてたと思うけど、
その中には野戦指揮官型の武勇だけで成り上がった将軍はいなかったのだろうか?
まあ、そのクラスの将軍なら立伝されるほど出世しないと思うけど。
文欽あたりはそんな感じがするんだけどな。
>>347 文欽はそもそも将軍二世だよ
「武勇だけで成り上がった将軍」には入れられない
349 :
342:2010/06/21(月) 19:56:40 0
いま「昭」の字で検索してみたけど、凄い結果にw
陳寿の本文だけなんだけど。
人名で、段昭、夏昭、公孫昭、郝昭、曹爽字昭伯、張範の弟の張昭、胡昭、呂昭、廉昭、董允字休昭、孫輔の子の昭、など。
他にも、昭儀、文昭皇后、昭烈將軍、昭コ將軍、昭武將軍、昭烈皇帝。
でもやっぱり張昭伝の昭連発が凄いw
さらに炎で検索すると、三少帝紀で5か所ほど司馬炎を名指し、曹植伝、周瑜伝にも炎の字あり。
極めつけは蜀の元号の炎興w
あと懿もあるし、師なんかハンパじゃないw軍師祭酒ww
司馬師の諱を避けて太師が太傅と呼ばれるようになったとか何とかどこかで見たけど
あれはなんだったんだろう…
>>349 司馬師の諱を避けて軍師が軍司になったのも確定だよ。
それら官や朝廷文書での避諱であって、私文書でどこまで厳密に守られていたのかわからないってこと。
>>349 太師の代わりはたぶん太宰じゃないかな?
太傅はずっと昔からあった官職。
>>350 でも、さすがに司馬炎名指しはあり得ないと思う。
ウィキによると恵帝の時代に正史として認定されたとあるが
その時に改訂されなかったのか?
というか、陳寿が書いた時点で本当にコレだったのかとやはり疑問。
恵帝の諱である衷も検索で発見。
なんか先行研究で言及しているものがあってもよさそうだけど。
でも、呉懿と韋昭の例が妙だということは確認できた。
>>351 ありがとう
>>348 てことは、この時代の魏では武功や年功だけで将軍になる事は難しかったのかな?
雑号将軍や前線の太守クラスに現場叩き上げの実戦指揮官がいないと、
その上の都督の管理能力も生きないような気が。
>>352 呉懿は本当に呉懿なのかねえ
もともと呉壱なんじゃないのかねえ
>>355 それは韋昭が実は韋曜だったんじゃないかと疑うくらい不毛な疑問だな。
どっちも問題を生んだ原因は同じ。
写本を繰り返す間に多くの欠落や訂正があり、さらに訂正が誤っている可能性もあるので、
諱問題の不規則さが一つの要因から成っていると思わない方がいい。
>>356 全然違うだろ
韋曜伝注で曜の本名は昭だと指摘されているが、
三国志本文にも注にも呉壱ではなくて呉懿だと指摘する文はなかったと記憶しているんだが
「韋曜は司馬昭の名を避けたもの」ということは実際に指摘されているが、
「呉壱は司馬懿の名を避けたもの」ということは指摘されていないことになる
もともとの名が呉壱で、呉懿ではなかったという可能性はあるんじゃないか?
>>358 >諱問題の不規則さが一つの要因から成っていると思わない方がいい。
そんな書き方はしていないんだけどな。
>>359 華陽国志では呉懿なんだがね。華陽国志は蜀関係の記事については三国志より詳しい。
華陽国志の編者常キョって晋人だろ
それが懿を使ってるのって怪しくないか
華陽国志は公文書じゃないから、諱を避ける必要もない。
華陽国志は司馬睿の睿を避けてたりしたと思うけどな。
365 :
世界@名無史さん:2010/06/22(火) 16:20:56 0
薛悌が何で立伝されなかったのか不思議だ。
・低い身分の家柄からエン州従事に登用。
・エン州大反乱の時、程cとともに三城を守り抜く。
・二十二歳で泰山太守に就任。
・低い身分だった陳矯の才能を見抜き、身分を越えて親しく交友
・合肥の戦いで護軍として張遼・楽進・李典の三将を統括。合肥防衛の立役者の一人。
・儒者の道を実践し、簡潔な仕事ぶりで、官吏としての職務態度を讃えられて関内侯の爵位を授けられる。
・曹操・曹丕・曹叡の三代に仕え、曹操の長史・中領軍・魏郡太守・尚書令を歴任。
地位も功績も忠誠心も十分。最古参の重臣でエン州大反乱と合肥の戦いと言う二つの危機的状況で活躍。
数々の政治・軍事の要職を歴任。人柄に関する逸話もあり。これだけの人物がなぜ立伝されなかったのだろう?
「この程度の人物はいくらでもいる」というレベルの功臣では無いのに。
・子孫が晋代に高官にならなかった
>>367 子孫が晋代に高官にならなかった各地の名太守止まりの人間や、
曹操時代の将軍などは立伝されてるけどね。
>>369 あまり官位高くない上に子孫が何やってるか分からない人の伝記も結構多いよ。
尚書令、僕射の経験者を集めた巻22に立伝されてもおかしくなかった。
外れたのは本当に陳寿のちょっとした匙加減だと思う。
>>365 功績で立伝されてるわけじゃあないから
陳寿の編纂方針は基本的に「歴史の流れ」
だから歴史を構築する骨子、キーパーソンが多く立伝される
逆を言えば立伝されてる人物は陳寿にとって歴史のキーパーソンということになる
>>372 有能な地方官とか、名士とか、ごく普通に有能で顕職を歴任して三公九卿になった人とか、
歴史的に影響を及ぼしたわけじゃない人も結構立伝されてるんだけどな。
374 :
世界@名無史さん:2010/06/22(火) 19:30:59 0
>>373 じゃあ、きっと俺たちに見落としがあるんだろうな。重要さの。
桓階は侍中尚書令だが晋代まで高官の一族となったし、
陳羣・陳泰は言わずもがな。
陳矯は陳騫の父、徐宣は侍中光祿大夫で三公待遇の葬儀で送られた。
衛臻は三公歴位、盧毓は漢魏晋三代の名族。
薛悌の魏郡太守・尚書令が最高経歴なら、ちょっと見劣りする。
『魏略』になら載ってただろうにな
散逸が惜しいね
というか、魏書・魏略があるから陳寿も大胆にカットできたという面もあったのだろう。
特に魏書は魏晋交替史観を強力に主張する欽定史書に近いものだっただろうし。
徐宣となら比べても見劣りしないと思う
光祿大夫は外戚や三公経験者が為って特進や儀同三司が付くことも多い名誉職。
実務を離れても尊重されて宮廷に留まる人間だったことになる。
侍中が就くと最高クラスの皇帝側近になる。
孫資・劉放もそうだし、徐宣も明帝不在の「留事を總統」している。
>光祿大夫は外戚や三公経験者が為って
普通は三公の前になるんじゃないか?
留守を守るのはそれとは別だろう。
同じく尚書僕射の杜畿が曹丕時代に留守を任されている。
>>381 >普通は三公の前になるんじゃないか?
そういうこともあるけど。
三公には災異罷免があるから、公を免じられた有徳者を一時プールするのによく使われた。
>留守を守るのはそれとは別だろう。
どういう意味かよくわからないが、徐宣が留守を守ったのは確か。
別に皇帝の留守を守る専任の役職なんてものはないよ。司馬懿などのように将軍のこともある
その時々で皇帝に信認される側近官が当てられるのが普通。
>>379 魏志で言えば、張範・張承・邴原・管寧・徐奕・何夔・邢顒・鮑・司馬芝
鄭渾・倉慈・龐淯・閻温・和洽・常林・裴潜・韓曁・崔林・高柔・孫礼・王観。
ここら辺。有能で名声もあるけどだけど大局に影響を及ぼしてない人たち。
>>375 兗州時代からの功績などを考えれば、そこに名前の挙がってる人たちと見劣りしないと思うけどな。
曹操が兗州牧になった時からの古参で、曹操が一群雄だった時代から活躍してた、
魏の生き字引のような人物だからね。そこら辺で下駄をはかせても立伝は厳しいか?
>>384 そこが結局家柄や子孫の問題になってくるんだと思う
>>383 倉慈は魏の西方支配に関して重要だと思うぞ
敦煌周辺はこいつの着任まで荒れてる
漢の版図だった河西回廊を魏の手によって奪回・実効支配という歴史の流れを表す超重要人物
>>386 荒れてたけど、それ以前から敦煌にはずっと中央から太守が送り込まれていて、
河西回廊も魏の実効支配下だったじゃん。倉慈は曹叡の時代の敦煌太守よ?
河西回廊がとっくに落ち着いた時代の名太守であって、
一郡に善政を敷いたに過ぎない。
>>383 主に列伝11、12、23、24の面子だね。
そこは「名士」枠。
11、12は後漢末の乱世に品行教養などで尊重された者達の列伝。
曹操に仕えずに節義を通した者も多くいる。
23、24は魏代の人物。
こういう人物を高位に就けて綱紀を正すのは朝廷の任務とされていたし、
賞賛するのは史書の大きな役割だった。
389 :
388:2010/06/22(火) 21:21:27 0
俺は372じゃないけど、列伝に採用されるのは、史家が想定する
「歴史を構築する骨子、キーパーソン」だから。
史家は列伝に描かれる人物を通して時代の像を史書に映し出そうとする。
当然、時代を映す人物というのは、政治高官だけではない。
だから、(三国志にはそう名づけられた伝ないが)
游侠、佞幸、循吏、酷吏、列女、隱逸、文苑といった列伝が立てられる。
反逆者や対抗した群雄の伝もある。
>>387 倉慈伝には豪族が跋扈してて実効支配できてなかった旨が書かれてる
倉慈が太守になる直前は太守は20年ほど空席だったし、その前任者も豪族に阿ってロクなことできてなかった
>>390 倉慈伝読み返してみた。確かに20年ぶりに派遣された太守だったようだ。
俺の記憶違いだったようだ。すまん。
てことは、ほぼ同時期の徐邈の涼州刺史任命と連動した人事だったのかな?
徐邈が涼州を統治して、異民族を懐柔して、西域との交通を回復できたのには、
倉慈の功績も大きかったんだろうか?
まあ小さからぬ功績ってことだろうね
魏のインド貿易にこれは多大な功績であると俺は思うし
倉慈の場合は、歴史のキーパーソンと考えてもいいと思うよ
倉慈は20年ぶりに派遣された太守じゃないでしょ。
20年ぶりに派遣された尹奉らがいたが、彼らは豪族をどうにも出来なかった。
敦煌自体は曹操の時代に版図に入っている。張恭が帰順している。
「歴史を構築する骨子、キーパーソン」というフレーズはピンと来ないが
薛悌も十分にそれに当てはまると思うけどな。
列伝されていない以上、陳寿はそうは見なさなかった、というのは言い切れないと思う。
>>377が妥当な意見だと思うが。
>>393 あ、本当だ
ちょっと読み違えてた
まあ実効支配して版図を確立したってのは大きいことだと思うよ
蜀の尚書令の中で、呂乂が異質。
丞相府に勤務したことも、宮廷に勤務したことも、
蒋琬や費褘の幕府に勤務したことも無く、長く地方の太守を歴任していたのに、
急に尚書に任命されて董允が死ぬと後継の尚書令に。
地方回りが主で、諸葛亮に連なる蜀の権力者たちと近い場所にいたわけでもないのに、
なぜ尚書を経ていきなり国政ナンバー2の尚書令になれたのだろうか?
地方で見せた手腕を買われて、国政の立て直しを委ねられたのか、
それとも権力者に近い人物で尚書令が務まりそうな人物がいなかったから、
とりあえず実務能力のある呂乂に尚書令を任せたのだろうか?
旧諸葛亮派の派閥人事がまかり通っている蜀では、珍しい人事だと思う。
>旧諸葛亮派の派閥人事がまかり通っている蜀では
これが思い込みなんじゃないの?
>>396 劉備死後に登用された蜀の高官の中で、諸葛亮の丞相府に所属した経歴が無かったり、
宮廷や地方勤務でも諸葛亮の評価を受けたことが無かったり、
後継者の蒋琬や費褘と近いわけでも無いのに栄達した人ってどれぐらいいる?
まず呂乂は、連年の北伐に対する重い徴発に応えて五千の兵を掻き集めた功績のある人物。
その後、漢中太守,兼領督農となった。
漢中の太守と農事(屯田地だろう)を監督する任に付いたということは、
北伐を推進する晩年の諸葛亮の信任を受けた人材だということは伺える。
丞相府に所属などはしていないが、諸葛亮に遠い人材ではない。
第二に、世代交代がある。
太子舍人時代から劉禅に仕え、諸葛亮期を通じて宮中を支えた董允が死去し、侍中守尚書令の座が空くと、
それを埋めたのが陳祗と呂乂だった。
諸葛亮閥の主要構成員とされるのは主に荊州出身者(呂乂も南陽の出身)だが、
陳祗は汝南人で許靖の甥。これまでと外れる人事となる。これは当時大将軍の費イの肝煎の大抜擢とされる。
陳祗は諸葛亮との直接の関係は見当たらず、「費イ閥」の人間と言えるだろう。
しかも、陳祗は前任の董允を讒言して劉禅の独立心を煽り、それを以って、国政における皇帝≒宮中の権限を
飛躍的に増大させた(おそらく費イの死後のことだろうが)。
丞相(大将軍)と皇帝との間を取り持ち、外にいる宰相による執政を円滑に進めるよう努めてきた
「諸葛亮派」的中朝官とは、完全に別の道を選んでいる。
「諸葛亮派」「荊州派」の人物は確かに蜀が滅びるまで政府高官に在り続けるわけだが、
この頃には既に変質と分裂を余儀なくされている。その分裂の中に台頭したのが宦官黄皓であり、
姜維と諸葛瞻らとの政争(未遂か)があり、最終的に蜀漢滅亡の一因となる。
肝心の呂乂の結論忘れてたw
董允の死は、諸葛亮閥の結束が弛緩し始める時期であって、
呂乂が生粋・強固な「諸葛亮派」の人材ではなくとも怪しむことではないだろう。
よくまあ、唐突な呂乂の話題に三時間足らずでこんだけ対応できるな。
ノートかなんかにまとめてあるのか?
401 :
世界@名無史さん:2010/06/23(水) 20:42:54 0
呂乂が漢中太守になったのって何時の時期なんだ?
>>400 マニアなんだろ。 今はパソコンという便利なものがあるので、
普段気づいたことをまとめておいておけばエクセルで
さっと呼び出せる。
諸葛亮が死んだ時には蜀郡太守。その前は広漢太守。その前に漢中太守。
諸葛亮の北伐中は当初は巴西太守だったので、
漢中太守を務めたのは北伐中期の頃と思われる。
つまり、北伐前から巴西太守だったと考えると、
10年ぐらいの間に4つの郡の太守を歴任したことになる。
めまぐるしいね。
諸葛亮が死んだ時に漢中太守で、その後に廣漢・蜀郡太守でない?
いや、諸葛亮が死んで間もなく、蜀郡太守として不正をただしたという記述がある。
「まもなく」ではなく、「諸葛亮死後に起きていた問題に対処して」だよ。
徙って漢中太守となり,督農を兼領し,軍糧を供え繼いだ.
亮が卒すと、廣漢、蜀郡太守を累遷した.
蜀郡は一都會であり、戸口衆多く,また亮の卒ののち、士伍が亡命して、
更に相い重ねて冒して姦巧は一つに非ざれり.乂は官に到って…
407 :
世界@名無史さん:2010/06/23(水) 22:35:16 0
ということは魏延の後任の漢中太守ということか?
>>397 まず
>>398も言うとおり、呂乂は北伐で重役を担った人物。
俺が引っ掛かったのは「派閥人事」「まかり通ってる」という言い方。
劉備死後は諸葛亮が大権を握り、有為の人物を集めてその手足と為した。
であるから、諸葛亮死後に諸葛亮と縁の深い人間から権力を握る者が続けて出ても不自然ではない。
まして尚書令になった人物など極めて少数なので、その少ない例からして法則を演繹することは無理だろう。
以下、別の議論。
>>398はカッコ付きで「荊州派」という言葉を用いているが、
蜀を派閥の図式から見ようとする人は、やはり根っこに荊州vs益州、諸葛亮vs益州のような発想があるのではないか。
だが諸葛亮は実際には益州人を重用している。ただ彼らの多くは早死にした。
尚書僕射まで登った姚伷がもう少し長生きしてれば尚書令になっていただろう。
>>408 諸葛亮自身は勿論益州人や姜維なども抜擢している。
が、丞相府幹部集団の多くが荊州人によって占められ、
諸葛亮死後、蒋エン・費イを筆頭に朝廷の実権部分に多くの荊州人が存在したことは事実。
彼らは当然、派閥として動いている。
派閥というのは、思想信条や利害から集団内に当然発生するグループであるが、
複数の派閥は必ずしも相対立するものではない。同じ派閥だから個人が仲良しである必然もない。
「諸葛亮派」「荊州派」という単語が出てきたからと言って、「vs」という構図を連想する必要はないよ。
まあ、そういう対立軸を強調して表現するのを好む研究者もいるけど。
>>409 >が、丞相府幹部集団の多くが荊州人によって占められ
これは思い込みでしょう。李邵は西曹掾になっている。
>諸葛亮死後、蒋エン・費イを筆頭に朝廷の実権部分に多くの荊州人が存在したことは事実。
劉焉の時代と劉備の時代の2度に渡って多量に荊州人が入ってきている。
これはおかしなことではない。
>彼らは当然、派閥として動いている。
そう言い切る論拠がわからないんだけどな。
たとえば杜微を敬慕する人物の中には荊州人の王連がいる。
>複数の派閥は必ずしも相対立するものではない。
派閥の定義には「排他性」があると思ったけど。
>>411 硬直的な思考だな。
>>派閥の定義には「排他性」があると思ったけど。
自民党の派閥だって、時代によって結束力・拘束力がだいぶ違う。
政治的思想を必ずしも同じくしてるわけでもない。
派閥って言いたくないなら、幕府・宮廷内に荊州系人脈が存在したとでも言えばいいだけじゃん。
う〜ん、話の文脈からして排他性を持つ派閥のことを語っていると思うんだがな。
呂乂が尚書令になれたのはなぜって話なんだから。
>自民党の派閥だって、時代によって結束力・拘束力がだいぶ違う。
派閥は兼ねられないでしょ。これが排他性。これは時代によって変わらない。
人を硬直的とか言う前に丞相府幹部の出身地を洗ってみれば言いたいね。
呂乂の頃には排他性が弱くなっている、という話の流れをしていたはずだけど。
諸葛亮や蜀漢朝廷首脳の出身地の洗い出しはやるべきだろうね。
とりあえず名前だけ抽出したけど、ぱっと見で傾向はわかった。
尚書令や侍中は記録に残されるだけで10人、尚書はそれ以上いるから、
極めて少数で演繹できない、とはいえないだろう。
明日辺りに整理してアップしてみる。
>>う〜ん、話の文脈からして排他性を持つ派閥のことを語っていると思うんだがな。
そう?
>>409の書き込みを見る限り、緩い人脈も含めて派閥といってる。
派閥・人脈と言ったって、要は人間の繋がりなんだからさ、もっと柔軟に考えていいと思うよ。
>>415 アンカばっかで何を言ってるのかわからない・・・。
>>416 基本的に、俺は
>>395の
>旧諸葛亮派の派閥人事がまかり通っている蜀では、珍しい人事だと思う。
に対応して書いてるんだけどな。
これはつまりは、「旧諸葛亮派」という派閥から外れた人間は政権で権力を握ることが出来ないはず、と
派閥の排他性を念頭に置いた図式でしょ。
>>418 たしかに「派閥人事がまかり通っている」という言葉に違和感はある。
けど、「派閥といっても緩い繋がりなんだよ。」と言えばすむことじゃない?
そこで「派閥とは排他性を持つもので・・・、そういう意味での派閥は無かった」といわれても、こっちはポカーンだよ。
>>419 アンカ合戦ヤメレ
俺は
>>408だよ。
俺は
>>398の前段の、呂乂と諸葛亮の関係についての認識には同意するが
後段部分には同意していない。
>>399にも同意していない。
その上で、
>>395のような派閥の認識について否定した。
それに対して批判したのが
>>409でしょ。
つまり、議論の流れに
>>398-399は入っていない。
だいたい、
>>409については俺は完全に否定しているんだから
それを進展と見なして乗っかれるはずがない。
>>420 緩やかな人脈であれば派閥と言う必要はないでしょ。
諸葛亮閥でなくとも政権の幹部になれるのであれば、派閥人事などと言う必要はない。
なんでもかんでも派閥と言って良しならば、議論が混乱してしまうよ。
422 :
398:2010/06/24(木) 01:38:46 0
アンカ合戦はやめとく
>>421 議論の流れに入って無いのなら、初めからこっちにアンカをつけないでくれ。
395だけを相手にしていればいい。395が持論に固執しつつ応じてくれるかはわからないけど。
これで終わりにする。
395だけを相手にしてればいいって、
自分が書いた398-399を他者が前提にしてくれると思いこむ感覚が分からんわ。
同意のレスがあったわけでもないのに。
>>398に対してアンカ付きレスがあったから
>>409で再レスしたのに、
>つまり、議論の流れに
>>398-399は入っていない。
とか後から言われたらじゃあ勝手にやってくれとしか言いようがない。
>>408で398にアンカを付けたのは引用だからなんだけどな。
でも、
>>409=
>>398でいいんだね。
>>419において「その
>>395に対して、
>>398-399が条件付で否定している」と書いているが
>>398は「呂乂も諸葛亮閥である」という図式であり、派閥が緩やかであったという主張じゃないよね。
つまり派閥の議論に関して
>>398-399が関係ないのは事実でしょ。
それに対してそちらは根拠不明な
>>409を書いて、こちらはそれに反論したというだけ。
>>414では「呂乂の頃には排他性が弱くなっている、という話の流れをしていたはずだけど。 」とも書いてる。
それ以前の派閥は排他性があったって自分が認めてるじゃないか。
>>409の「丞相府幹部集団の多くが荊州人によって占められ」という主張からしても
>>395と変わらぬ「対立図式」が頭にこびり付いてる人にしか思えないよね。
>>411では4点ほど反論させて貰ったけど、それへのレスが派閥の定義一点だから不毛だ。
ま、硬直的思考、シャドーボクシングなどと人を煽る前に
調べもせずに書いておいて、指摘されてから
>諸葛亮や蜀漢朝廷首脳の出身地の洗い出しはやるべきだろうね。
こんなことをしれっと書くのはやめた方がいいと思うよ。
同一人物か知らんが。
なんだこれ
三戦系のやばい人か?
三戦だのなんだの以前の人間性の問題だな。
いきなり人を硬直的とかシャドーボクシングとか言い出すのは
たいてい反論につまって詭弁を弄するとき
とりあえず、ひたすら安価するのは見づらい。
太史慈の伝がなぜ、劉繇や士燮と同じ場所に収録されているのだろうか?
短期間自立したこともあったが、泡沫勢力で終わる。笮融とそこら辺同じ。
太史慈を群雄として記録するなら、もっと強い勢力を長期にわたって維持してきた
許貢や祖郎や厳白虎あたりも入っていいはずだ。
・揚州に来る以前から孔融に認められた天下に名の響いた人物。
・劉繇には重用されず、劉繇の没落に乗じて自立するも泡沫勢力に終わる。
・降伏後、折衝中郎将となり、旧劉繇軍の将兵のとりまとめに成功。
・建昌都尉となり豫章郡の西部を守備。劉表との国境防衛の責任者になって成果を挙げる。
どう見ても孫呉によくいる北来の名士で、劉繇に仕えてから、
一時の気の迷いで自立した後、孫呉のために働いた新参の重臣にしか見えないのだが、
どうして州郡を支配して数万の軍勢を擁した劉繇や士燮と同格に扱われてるのだろう?
旧劉繇勢力の後継者的存在でもないんだけどな。呉志十あたりに入った方が良くないか?
431 :
世界@名無史さん:2010/06/24(木) 20:18:06 0
諸葛亮閥という言い方ちとおかしいな。
諸葛亮は李厳みたいな左遷された人間からも、
公平な政治をしていると認められてた人物。
派閥を作り上げ、政治を私物化してた訳ではないし、
私利私欲の権力闘争もしていない。
黄権や張裔みたいな益州出身者からも公平な政治を
讃えられ、そして信頼されていた。荊州出身者が高官に
なったらか荊州閥と決めつけるのは適当ではない。
費褘や董和・董允親子は荊州出身ではあるが、それほど
諸葛亮と以前から交友関係があったわけではない。どちらか
というと劉璋と関係が深かった人物。益州出身者の高官が
少ないのは、荊州よりも辺境で、優秀な士人が少なかった
からだろう。
>>431 昨日グダグダで終わった論争なんてどうでもいいが、
どうしても見過ごせない記述があるので一つ。
>益州出身者の高官が 少ないのは、
>荊州よりも辺境で、優秀な士人が少なかった
>からだろう。
益州は漢の時代から学問が盛んで、独自の学問体系が発達してて、
大勢の高級官僚と大学者を輩出した文化的に進んだ土地なんですが。
益州出身者の高官が少ないのは、
単純に能力のある人材が少ないからじゃないと思うよ。
>大勢の高級官僚と大学者を輩出した文化的に進んだ土地なんですが。
華陽国志の先賢志見る限り、そこまで言い切れるものか疑問だ。
尹黙のように、益州の学問に不満を感じて荊州に遊学した人物もいる。
図讖の術は盛んだったようだけど、それは経世済民の術ではないし。
>昨日グダグダで終わった論争なんてどうでもいいが、
いちいちこういうことを書かずにいられない人って何なんだろう。
434 :
世界@名無史さん:2010/06/24(木) 21:26:55 0
諸葛亮は敵国からも賞賛された人物。
単純に現代政治みたいな派閥という図式を持ち込んで
語るのは無理がある。益州出身で『三国志』を編纂した
陳寿が賞賛してるのが良い証拠。少なくとも益州出身者から
怨嗟されるような政治や人事はしてないと思って良いと思う。
諸葛亮は元々は徐州出身。学問を学んだが荊州という人間。
厳密に言えば荊州出身者ではない。劉璋自体があまり益州出身者
を重用していたとは言い難い。劉璋に使えていた有力者が、元は
荊州出身者が多かったのも荊州出身者が多い一因。劉璋政権の
人物を投与をしたら荊州出身者が多くなったと考えた方が妥当だろう。
435 :
世界@名無史さん:2010/06/25(金) 07:59:11 0
姜維の北伐への反対も、
荊州出身者と益州出身者との対立とは違う。
荊州閥と益州閥なんて存在しないのは分かるよ。
諸葛亮が登用した人物の中にも、益州出身者は大勢いるからね。
で、問題なのは劉禅時代の高官の中に先帝以来の旧臣以外で、
諸葛亮の丞相府に所属した経歴が無かったり、
丞相府に所属してなくても諸葛亮の評価を受けたことが無かったり、
後継者の蒋琬や費褘と近いわけでも無くて、
また、そのような人物の二世でもないのに栄達した人って
どれぐらいいるかってことだ?
位階だけ高いけど実務からは遠い九卿や五校尉、
光禄大夫・太中大夫・諫議大傅などを除いて。
つまり、諸葛亮の影響をまったく受けないで栄達した人物って、
ほとんどいないんじゃないかって言いたいんだが。
諸葛亮自身は公平な人事を行ったかもしれないが、
諸葛亮死後も諸葛亮の登用した人材とその二世が滅亡まで要職にいるからね。
437 :
世界@名無史さん:2010/06/25(金) 17:02:01 0
>>436 蜀は小国なので、そももそ諸葛亮や蒋琬・費褘に評価されなければ、
栄達はないし、丞相府が全ての決済機構。諸葛亮や蒋琬・費褘が評価
した人間は、概ね功績があった人。
それと、経国の学問を積める人は、ある程度は名門の家出身が多いので、
概ね高官の二世も高官になっていく。当時の身分制度を考えると、そんなに
諸葛亮閥がどうとか言い出す程のものではないだろう。
>>436 質問だが魏や呉には司馬氏とか権力者の影響をまったく受けずに栄達した人物っているの?
>>437 なるほど。功績が無い人間が不当に取りたてられていると言いたいわけじゃなかったんだ。
ただ、彼らと関係ないところで、
自己の名声と功績のみで栄達した人間って少ないなあって。
功績があればもれなく評価されるぐらい、人事制度がうまく行ってたのかな?
>>438 魏や呉は蜀と違って人事の新陳代謝が激しいし、権力者もよく変わるし、
権力者の影響で出世した人物もいれば、
権力者の引きたてなしに自己の名声と功績だけで出世した人間も多い印象。
440 :
世界@名無史さん:2010/06/25(金) 18:43:04 0
蜀は益州しか領有してないから、
人材の供給源が限られているのは当然だと思うよ。
国政を担当した諸葛亮や蒋琬・費褘・姜維や董允・馬忠
といった人間は姻戚関係が互いにあった訳でもない。あくまでも
能力や才能・功績が評価されて栄達した人物。
それと、小国だとあまり権力が分散し過ぎると非効率なだけ。
魏や呉と蜀とでは政治形態が違うのは、国土の面からも当然な結果。
印象で語られても…
442 :
438:2010/06/25(金) 19:04:34 0
>権力者の引きたてなしに自己の名声と功績だけで出世した人間も多い
名前でお願いします。
めんどくせえなあ。何人かパッと思いついたのあげとくわ。
魏では満寵・田豫・牽招・胡質・王昶・王凌。
呉では賀斉・呂岱・鍾離牧・陸凱。
他にも文官でも武官でもいくらでもいると思うんだが、
そのために三国志全部読み返すのも骨だわ。
444 :
世界@名無史さん:2010/06/25(金) 19:38:28 0
人に何か言わせてフルボッコ待ちするのはいかがなもんかと。
たしかに
自分では調べる気も考察する事もない手合いなんだろうかね
446 :
438:2010/06/25(金) 20:16:06 0
え?
何?俺のこと?何か悪いことしちゃった?
>魏では満寵・田豫・牽招・胡質・王昶・王凌。
>呉では賀斉・呂岱・鍾離牧・陸凱。
テキトーすぎるな
448 :
世界@名無史さん:2010/06/25(金) 20:49:13 0
陸凱は呉の名門陸氏の出身でなかった?
それなりに出世する土壌はあったと見るべきだと思う。
そもそも「まったく権力者の影響を受けず出世」って何よ?
世間知らずすぎだろ。
丞相府に招聘されてそこから出世が始まるのは「権力者の影響」には全く当たらないわけ?
満寵……曹操の掾属
田豫……曹操の掾属
牽招……曹操の掾属
胡質……曹操の掾属
王昶……曹丕の太子時代の侍臣
王凌……曹操の掾属
賀斉……孫策から孝廉に推挙される
呂岱……孫権の属官
鍾離牧…父がすでに呉に仕えている。本人も丞相の属官などを経験。
陸凱……陸遜がすでに大物となっていた黄武初年以後に仕官。
隠者が突如抜擢される宮廷
魏では曹操の司空府・丞相府出身者、曹丕の太子時代の属官が幅を利かせていたんだよ!
これぞ曹操・曹丕閥。
>>453 そうだね。そういう風に研究されている。
魏朝廷は曹操が丞相府に辟召した人材によって整備され、
王朝初期の中枢部は彼らに構成されている。
455 :
世界@名無史さん:2010/06/25(金) 21:36:18 0
ようは、諸葛亮閥みたいなものは存在してなかったのだろ?
蜀には諸葛亮に対抗する政治勢力もなかった。2の李厳にも
彼を支持する勢力はなかった。今日的な派閥党争は諸葛亮から
蒋琬・費褘時代までは無かった。楊義も彼を支持する勢力は無し。
蒋琬が1になることに楊義以外から異論は出ていない。良い意味で、
賢明な宰相の下、官僚や軍人が協力して国家を維持していた。
>>448 そもそも鍾離氏も楚の鍾離氏の子孫であり後漢時代にも九卿輩出してるド名門だしのう。
諸葛亮や曹操、司馬氏クラスの権力者の引き立て無しに出世したかどうかの話だから
自分の出自は別問題
459 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 09:09:54 0
人事権を握ってる人間と関わらないで出世する訳ないだろ。
そもそも伝記が残る程の大官にはなれない。
問題なのは、恣意的な人事か、公平な人事かの差だけ。
諸葛亮は公平な人事行い、おべっか使いは相手にせず、能力と功績
によって賞罰したので、菅仲・簫可に匹敵すると賞賛された。
曹操や諸葛亮が政権を持っているのに、彼らと関わり無しに出世だけ
していくことはあり得ない。現代社会でも、社長と関わらないで役員は
いないのと同じ。
ただ、魏延のように、諸葛亮に不満を持ちながらも永年の功績により
高位に就くものはいたのは事実。しかし、理由はどうあれ、諸葛亮が
魏延を評価していからこそ大官になった。
役員と社長って関係あるのか?
461 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 10:43:29 0
いきなりなんなんだ?
社長がお飾りで実務を役員がすべてを仕切ってるなんてよくあることだろ。
462 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 12:05:23 0
屁理屈の詭弁を言われてもなあ。
曹操や諸葛亮といって人物は間違いなく国を統治する立場で、
人事権を掌握してた。彼らに評価されないで出世すると
いうことはあり得ないでしょう。そりゃあ。歴史に名を残さない、
さほど官位が高くないレベルならありだろうけどね。
曹操や諸葛亮はお飾りじゃないんだから。
>>461 それは献帝=社長で曹操=役員ということだな
劉禅=社長で諸葛亮=役員ということもできるね。
ちゅうかどうでもいいけど、社長と役員っての勘違いしてない?
会社役員でない社長ってよくわからんわ。
存在するん?
ちゅうか、概ね法律上社長に対応する代表取締役ってモロ役員なんだけど。
現代の会社の話って言葉遊び以外の意味あんの?
ていうか、いまの組織になぞらえるのはちょっとなあ。
焦点がどんどんぼけるぞ。
というよりあまりにも例えに用いるのに不適切な例を挙げていることが問題。
概ね慣習上社長の上と見なされている会長は、取締役会の会長だから会長であって、取締役なのだから公的身分としては会社役員よな。
つまり誤謬が多すぎて言葉遊びにもなってない。
470 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 15:06:45 0
そもそも、権力者の引き立て無しに出世するとか言い出すことが間違いかと。
劉備漢中王就任時の上奏文の上位署名者順位。
1.平西将軍都亭侯臣馬超
2.左将軍領長史鎮軍将軍臣許靖
3.営司馬臣龐羲
4.議曹従事中郎軍議中郎将臣射援
5.軍師将軍臣諸葛亮
6.盪寇将軍漢寿亭侯臣関羽
7.征虜将軍新亭侯臣張飛
8.征西将軍臣黄忠
9.鎮遠将軍臣頼恭
10.揚武将軍臣法正
11.興業将軍臣李厳
諸葛亮より席次が上の安漢将軍縻竺が上位に署名してないとか、
席次は縻竺に次ぎ将軍であり、実務のトップである諸葛亮より、
賓客枠だけど縻竺より席次の低い営司馬の龐羲や、
名門だが官位は従事中郎・中郎将の射援が席次が上だとか、
古参で天下に勇名轟く勇将の関羽・張飛と新参抜擢組の黄忠がほぼ序列が同じで、
旧劉表家臣でトップクラスの名士の頼恭や、実力者の法正や李厳より上だとか、
不思議な点が多々あるのだが、いったいどういう基準で選んだんだろうか?
472 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 16:37:53 0
1.平西将軍都亭侯臣馬超
2.左将軍領長史鎮軍将軍臣許靖
3.営司馬臣?羲
4.議曹従事中郎軍議中郎将臣射援
↑ノイズ
↓ここから始まる
5.軍師将軍臣諸葛亮
6.盪寇将軍漢寿亭侯臣関羽
7.征虜将軍新亭侯臣張飛
8.征西将軍臣黄忠
9.鎮遠将軍臣頼恭
10.揚武将軍臣法正
11.興業将軍臣李厳
473 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 17:22:50 0
馬超は涼州の軍閥、許靖は中原で超有名な名士、龐羲は益州の有力豪族、
頼恭も荊州南部の名族、射援は後漢の名門出身。
この5人は劉備政権のお客様であり、対外的な宣伝の為に厚遇している
人物。こういう有名人が漢中王に就くことを奨めているという宣伝の為
の人物。選挙の推薦人に有名人の名前を出すのと同じ。
縻竺はあくまでも劉備が個人的に厚遇している賓客。
天下に名を知られた人間ではない。武勇で名を知られた関羽・張飛や魏の
夏侯淵を討ち取る殊勲を上げた黄忠、政権運営を実際運営していた諸葛亮
や法正・李厳とかは、実際の政務や軍事を司ることで名を知られていた。
つまり、有名な人間が漢中王になってくれと奨めていると言いたい話であって、
縻竺みたいなあまり有名でない人は推薦していても、名前がカットされてしまった
と思われる。
いや、縻竺って徐州で別駕を務めたほどの名士だし、
曹操から太守の官位を与えられてるし、
それなりに対外的に名の通った人物だと思うんだけど。
475 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 19:03:47 0
縻竺は学問・実務とか人物評価で名を知られた名士ではないでしょ。
豪族としても、故郷を離れて流浪したから、経済的背景も失ってるし。
世間的には、あくまでも劉備に古くから使えた人というランクだったと
思う。
ただ、劉備自身は苦しいときに支援してもらった恩義を忘れてなかった
から厚遇した。劉備による評価と、世間的な評価は必ずしも一致はしない。
劉備漢中王就任時の上奏文は、あくまでも世間で評価が高い人が列挙された。
476 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 19:39:05 0
考えてみたら、劉備が漢中王になった時、
魏延も鎮遠将軍になっている。頼恭も鎮遠将軍だから、
同じ位に二人いたのかな?
そういえば、魏延と黄権も同時期に鎮北将軍だったような。
先主為漢中王,用荊楚宿士零陵ョ恭為太常
頼恭が鎮遠将軍だったのは、あくまで劉備が漢中王になる前。
劉備が漢中王になった後、太常になってるよ。
魏延は頼恭の後任の鎮遠将軍でないかな?
>>473 馬超と許靖は天下に名を知られた有名人枠。
龐羲はもともと益州の人じゃないけど、旧劉璋政権の名士の代表枠。
頼恭は荊州名士の代表枠。
射援は皇甫嵩の娘婿だから中央に名の通った名門枠。
関羽・張飛・黄忠は軍部の重鎮枠。
諸葛亮・法正・李厳は政府の重鎮枠。
こんな感じでいいのかな?
そして、縻竺は劉備政権の中では序列の高い人物だけど、
有名人でもないし、ランクの高い名士でもないし、
軍部や政府の重鎮でもないから、名前が出なかったと。
縻竺は外戚だから、推薦人としてふさわしくなかっただけと違うん?
縻竺は劉備に妹を嫁がせているから、中心になって推薦した格好になっては逆に胡散臭くなる
「なんだ身内じゃねえかよ」って
482 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 21:03:36 0
『三国志』を編纂した陳寿は、
晋に使えた関係で、魏を正当とする立場をとっているが、
結構蜀を称揚する内容が含まれている。本当の上奏文には
縻竺も上位に名前が書いてあったのかもしれないが、陳寿は、
天下の士人がこぞって漢中王に推挙したと言いたかった。
だから名前が出ている人達は中原にも名を知られたような有名人や、
地域に影響力が強い人を列挙しただけなのでは?
483 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 21:20:15 0
>>479 そんな感じかな。
古参の家臣では趙雲・陳到なんかも名前出てないないし。
中原では「誰それ?」という感じなのかもしれない。
やっぱ有名人に推されたということが大事なのだろう。
劉ショウ、劉巴が入ってないな。
>>479 麋竺・麋芳は、おそらく曹操が呂布を倒して徐州を制圧した後の頃に
二人揃って太守・国相に任じた有力者だよ。
麋竺は陶謙の別駕従事という徐州政権の中心人物だったのだから、
曹操にとっては高い優先順位で厚遇するか排除するか選択すべき人物になる。
そういう人物だからこそ、劉備が高い序列で厚遇し続けたわけだ。
上奏って公開されるんだっけ?
>>486 裁可された上奏が命令として発布される場合、その上奏も命令の一部として一緒に発布される
488 :
486:2010/06/26(土) 22:16:43 0
序列って言えば、劉備に皇帝即位を勧める上奏をした時の人物名の表記の順番が、
太傅許靖・安漢将軍糜竺・軍師将軍諸葛亮・太常頼恭・光禄勲黄権・少府王謀の順になってるね。
太傅の許靖はともかく、名目上の官位では雑号将軍の糜竺・諸葛亮が、九卿よりも上と言うのは面白い。
劉備即位直前の宮中序列ってどんな感じだったんだろ?
九卿相当で軍部のトップの右将軍張飛・左将軍馬超、実務のトップの尚書令劉巴、
地方の抑えである高位の将軍安遠将軍・庲降都督ケ方、輔漢将軍李厳、鎮遠将軍・漢中太守魏延、
益州牧劉備の代理として、益州の政治全般を担当する益州別駕李恢・益州治中黄権、側近のトップである侍中廖立。
これらの重臣がどんな序列だったのかよく分からない。
太傅→安漢将軍→軍師将軍→九卿=四方将軍=尚書令→地方の高位の将軍→侍中→益州別駕・治中。
こんな感じかな?
秩石って知ってる?
歴史上の淫乱女を挙げていこう
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1276771564/ 108 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/06/26(土) 22:41:52 0
中国歴史上五大荒淫公主のうちあと三人はだれだ。
館陶公主
山陽公主
あと3人か、論壇の簡体字訳せる猛者求む。
109 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2010/06/27(日) 17:05:19 0
>>108 訂正も込みで時代順にまとめて見た。
文姜(春秋時代 斉の襄公の妹、魯の桓公夫人)
館陶公主(前漢 漢の武帝の伯母、武帝の最初の皇后陳氏の母)
孫魯班(三国呉 大帝孫権の長女)
山陰公主(南朝宋 前廃帝劉子業の姉)
太平公主(唐 唐の高宗の娘、母は則天武后)
孫魯班って人はそんなにbitchだったの?
>>490 秩石なら、将軍より九卿の方が高いけど、
序列では将軍二人の方が上だから、
秩石よりは実権で考えた方がいいんじゃないか?
そりゃ皇帝の九卿の話だ。
それに序列の話をしてるのに実権の話になってるよ
>>491 孫魯班は悪女タイプではあるが、ビッチとは言えない。
賈南風の方がまだビッチだろう。
>>493 後漢書の職官志読んでみたが、諸王の九卿の秩石が低い事は分かったが、
四方将軍や尚書令や侍中の秩石は分からんかった。
あと、将軍から漢中王の九卿や四方将軍に移ったら、
序列の上では下がるのだろうか?
頼恭や王謀や関羽や張飛や馬超や黄忠は将軍や太守から、
漢中王の九卿や四方将軍に移ったけど、これって左遷人事じゃなくて昇進人事っぽい。
秩石だけで見ると明らかな左遷人事だけどね。
あと、将軍は誰が漢朝の将軍で誰が漢中王の将軍か分かりにくいな。
魏王曹操の時代には漢朝の将軍と魏王の将軍が混在してたみたいだけど。
漢中王の任官制度って前漢初期の旧例に従って云々ってなってなかった?
後漢書の職官志で参考になるのかな。
>>494 自己レス。
公主限定なら賈南風はエントリー不可だな。
>>496 漢書読んでみたが、やはり太傅と九卿以外の官の秩石が分からなかった。
四方将軍や尚書令や侍中の記述なんてまったくない。
だいたい、秩石制がかなり崩れてたらしい当時、どこまで上奏の順位に意識されてたのかも分からないな
500 :
496:2010/06/27(日) 22:18:18 0
>号して藩国と為す。その傅を太傅と曰い、相を丞相と曰う。
>又御史大夫・群卿有り。皆秩二千石なり。百官皆漢朝の如し。
支那通史にもこれだけしか書いてないね。
>>494 中国の論壇では5つの指にかぞえられるほど淫乱とそういう風に評価されているという話だよ。
>>498 そりゃないよ。尚書令や侍中は皇帝の官だもの。
将軍も戦時任命の官であり、王国で任じられた例はごく少ない。
>>502 でもね、劉備も曹操も王国で尚書令や侍中や前後左右将軍を任命してるんだ。
尚書令や侍中や前後左右将軍は、400年の間に前漢初にはなかった重要性を帯びて発展して来た官だから。
劉備や曹操が後漢末の政治形態に即した独立したシステムを構築しようとしたときに、
これらの官が必要としたのはもっともなこと。
朱治は親族以外の人間で、209年以前の時点で郡太守と将軍を唯一兼任していた重鎮。
それなのに官位はほとんど昇進せず、厚遇されているものの実質郡太守どまり。
揚州牧になったのも本来格下の呂範。しかも呂範は朱治よりはるかに格上の前将軍。
いったい、この二人の地位はいつ逆転したのだろう?
なぜ朱治は宿老で最古参なのに昇進が止まったのだろう?
本来、呂範だけでなく、周瑜や程普よりも格上で、親族の呉景や孫賁と同格。
呂範や周瑜や程普が中郎将だった頃に雑号将軍。
赤壁の後、彼らが裨将軍や偏将軍の称号をようやく得た頃でさえ、まだ格上だったのに。
>>505 官位は昇進してないけど、朝廷から任命された扶義将軍。
孫権が呉王になった時は安国将軍となったが、これを前将軍より格下といって良いかどうか。
安漢将軍の縻竺のように、別格扱いと見ていいんじゃない?
あと、呉郡太守ではあるけど、北方の前線には孫韶がいるし
孫策・孫権時代に手足となって働いた呂範に比べると
あくまでも留守役・重石としての仕事が主となって長い。
にらみを利かせていたのはむしろ東南方面。
呂範が揚州牧として実務を担うのは自然に思える。
朱治は黄武元年に安国将軍・金印紫綬、三年卒。
丞相が銀印青綬だっただろうことを考えれば、
むしろぶっちぎりのトップ待遇。
朱治は既に孫権初期(或いは孫策の時代末?)から孫呉中央の政治から離れている。
これは君臣の世代交代に対して孫堅時代からの旧臣として遠慮したのか、
積極的な阻害を受けたのかは不明だが、ともあれ朱治は呉一郡に権威を定着させる道を選び、
孫権もそれを尊重して引き剥がすような真似をしなかったということだろう。
朱治伝を読めば、朱治の呉郡における権勢と、
孫権の格別な厚遇ぶりが分かるから、
それならなんでほとんど官位が昇進しないのか不思議だったけど、
官位以外のところで厚遇される半ば臣下と言うより賓客のような
存在と考えれば無理ないか。張昭のような扱いかな?
朱治って光栄のゲームでの能力値すげえ悪いよね。
三国志11では統率71武力56知力72政治73魅力75。
そこそこ使える能力だよ。後方の太守としては適任。
史実通りの使い方ができる。呂範とそんなに変わらない能力。
まあ、能力より信頼と功績で重用された人物としてはふさわしい能力じゃない?
孫堅が長生きしたらもっと別の活躍と評価があっただろうけどね。
孫堅死去時には督軍校尉で別動隊を率いて、陶謙の援軍。
孫堅が生きてたら、主力軍の一翼を担ったり、別動隊を率いたりする、
信頼できる軍指揮官として使われてた可能性が高いね。
孫堅生存中の朱治は完全に武官として働いてるからね。
孫策時代の程普や呂範みたいな役割になったかも。
>>510 初期のシリーズでは朱治かなりひくいぞ。
2の頃なんか凡将もいいところ。
その頃は別に朱治に限った話でもなかろう
魏で三公に成りえる地位は、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、諸大将軍、
四征将軍、領軍将軍、九卿、尚書令。あと、なんかあったっけ?
ああ、あと光禄大夫もあったか。
孫礼 司隷校尉
518 :
世界@名無史さん:2010/06/30(水) 06:23:54 0
どうでもいいが、三国それぞれ将軍職を任命したってことは、後漢に比べてポスト3倍ってことだよな。
つまり人件費も3倍なわけで、そりゃ税金を取られる民も苦労するわ。
そもそも黄巾の乱以前の後漢ってそんなに将軍職ってあったのかな?
無官の管寧も三公の候補だったし、
三公に成りえる地位なんて厳密に決まってたわけじゃないと思う。
>>518 後漢にはそんなに将軍いないよ。
>>519 後漢で常設の将軍は度遼将軍のみ。前後左右将軍も一応常設だが、空きが多い。
たまに大将軍や驃騎将軍や車騎将軍や征西将軍やその他の雑号将軍が任命される。
後漢の主力は中郎将。将軍になれるのはよほど功績が大きかった人か、
政治的な力があった人だけ。
蜀の三方の都督の鎮北大将軍・督漢中王平、車騎将軍・督漢中ケ芝、
鎮南大将軍・庲降都督馬忠は、皮肉なことに皆諸葛亮が起用した人物が
失敗した後、そのしりぬぐいをして出世した人物なんだよね。
王平は馬謖の、ケ芝は丁厷と陰化の、馬忠は張翼の。
ところで魏との最前線を守り、曹爽を退けた王平と、
南中の反乱鎮圧や統治の実績がある馬忠がこの地位にあるのは分かるのだが、
前線でも危険地域でもなく、任期中に反乱が一度起きたきりの江州って、
車騎将軍をわざわざ置くほどの場所か?
また、江州統治が車騎将軍に昇進するほどの功績か?
どう見ても漢中や南中の方が重要に思えるんだが。
督漢中ケ芝
蜀漢ってよほど人材いないのかな。魏延の時もそうだけど王平って魏の降将なのによく関中みたいな落とされたら終の重要な場所におくね。
魏に万が一内通されたらオシマイと誰も思わなかったのか。
>>523 督江州ケ芝の書き間違いでした。ごめんね。
>>524 降将だからと言って、元いた国に寝返りやすいとは限らない。
むしろ、降伏してから元いた国に戻っても信用されない。居心地悪い。
だから、降将は降った国で一生懸命働いて骨を埋める以外居場所が無い。
三国時代でも一度他国に降伏した人物が、元いた国に寝返った例はほとんどない。
居場所がないって于禁のこと?
于禁は別に寝返ってないよね
唐咨なんかは曹丕→孫権→司馬昭って感じだけど
やっぱ居心地悪かっただろうなぁ
>>524 魏ですら孟達を国境付近に置いてましたぜ。
案の定裏切りそうになって司馬懿に先手うたれてアボーンしたけどな。
前漢ってよほど人材いないのかな。陳平の時もそうだけど韓信って楚の降将なのによく関中みたいな落とされたら終の重要な場所におくね。
楚に万が一内通されたらオシマイと誰も思わなかったのか。
と、誰も思わないぐらいだから王平ぐらい平気平気。
でも劉備は呂布の助命嘆願依頼&就活を妨害して曹孟徳に殺すよう勧めているね。
降将を故国との戦争で使うってのは無制限の温情じゃないよ
自ら降ったわけでもない虜将の呂布を赦すというのは後者と当事者達には映った。だから斬られた。
>>524 国境じゃないが、呉は蜀の降将潘濬に大軍を与えて荊州の軍政を委ねてたぞ。
534 :
世界@名無史さん:2010/06/30(水) 20:26:46 0
>>524 王平は元々益州出身で、
詳しくは書いていないが、その土地の酋長が魏に降ったから、
そのまま随行したという感じでは?
本人自身はそれほど故郷を離れて魏に従う意志はなかった。
だからこそ、劉備が漢中を攻撃すると、良い機会とばかりに降伏する。
呂布みたな裏切りの常習犯とは違う。住民の強制移住の中にいたという
だけ。
>>522 たぶんケ芝は諸葛亮よりも年齢が上。
世代的にも王平・馬忠よりも上だと思われる。
年功考慮すれば、70歳過ぎて車騎将軍なのだから、
まあまあ妥当な線かと。呉と何かあれば外交交渉も
あり得るし、益州第二の都市を治める行政能力も必要。
>>534 劉備在世中から尚書だった人物だから、
世代だけでもなく格でも王平や馬忠よりも上なのは分かる。
しかし、車騎将軍クラスなら首都の守りか督漢中じゃないと釣り合わないんじゃないかと。
それに江州が益州第二の都市とは言え、軍事的重要度は漢中や南中より低い。
そこにケ芝ほどの重鎮を置く意味が分からない。
政治能力が重要だとしても、王平や馬忠と同世代の四鎮将軍や四方将軍で十分じゃね?
呉への備えじゃない
537 :
世界@名無史さん:2010/06/30(水) 21:01:27 0
>>535 ケ芝は北伐には参加はしていたが、呉壱や王平ほどの戦功はなかったし、
魏軍への対処はこの二人の方が適任。かといって南方での経験はなかった
ようだし。年功で高い官位ではあるが、役割的には王平や馬忠の方が重要な
位置だろう。かといって成都には蒋琬や費褘がいる。永安まで含めた東方の
備えとして適任かつ順当な配置ではないだろうか?
>>537 要するに劉備死後の李厳と同じか。
能力と他の人材との兼ね合いとの関係から、
格は高くても前線に置くことはできず、
成都で政治に関わらせることもできない。
結局、官位だけ高くして、後方の抑えを任せるしかないみたいな。
そんな卑下するようなもんじゃないよ。
当時は勤続日数が功労として計算されて位が上がるシステムだったんだから。
特に柔軟性の高い将軍位の場合、ポストさえ空いていれば現任のままで
階級が上がっていくのは高齢の宿臣としては当然のこと。
540 :
世界@名無史さん:2010/06/30(水) 21:25:47 0
李厳のようなトゲはないから、そんなに後ろ向きな意味ではないと思う。
孫権に気に入られているケ芝を対呉方面に配置するのは、外向的にも大き
いだろう。宗預を永安に配置するのも似たいような考え方。適材適所という
ところだろう。
対呉方面に置く重鎮となると他にいないのも事実。
姜維では全く呉方面での実績ないし。
>江州が益州第二の都市とは言え、軍事的重要度は漢中や南中より低い。
>王平や馬忠と同世代の四鎮将軍や四方将軍で十分じゃね?
とまで言えるのは何故?
>>540 つまり、ケ芝が督江州なのは軍事能力よりは、
呉との関係や政治能力を買われての人事で、
なおかつ他に人がいないからだと。
江州に置くにはちょうどいい人物だったわけか。
>>541 江州は友好国との国境近くででなおかつ、
漢中のような前線では無いし、南中のような難治の地では無いし、
ぶっちゃけ対魏戦だけ考えてればいい蜀にとっては後方のようなもんだから。
友好国?
ちょっと人が良過ぎないかな。
関羽も劉備も呉が殺したんだぞ。
しかし、諸葛亮時代に関係は改善されたし、同盟結んでるし、
天下を取った後の魏領の分配取り決めなんかもやってる。
その後も滅亡まで蜀と呉はひんぱんに使者をやり取りして、
友好関係を保ち、滅亡まで一度も交戦することなし。
ケ芝が督江州の頃の呉は友好国と言っていいんでない?
545 :
世界@名無史さん:2010/06/30(水) 21:57:48 0
>>543 諸葛亮がケ芝を使者として呉に派遣して、
同盟を結んだ以降は小競り合い程度の戦闘すらない。
油断はできないが、一応は友好国と言ってよいだろう。
向寵ってのが田中芳樹の夏侯覇に関する小編で趙雲並の活躍をしたそうなのに
禄に蜀志に書かれていないから功績がわからないとかいてあったが、実際に
優れた武将だったの?
天下に三つしか国がない状況で同盟だの天下の取り分だの
口約束に毛の生えた程度の物でしょ。
頻繁に使者をやり取りするのは相手の様子を窺うことでもある。
実際使者と孫権の会見のやり取りを見てると内部事情に関して
際どいことも言ってる。
ケ芝の督江州も呉を『友好国』にしておくための手段の一つと考
えたほうが適切じゃないかな。
548 :
世界@名無史さん:2010/06/30(水) 22:15:09 0
>>546 劉備も有能だと褒めた人物。
諸葛亮が留守である成都において、軍事に関しては向寵に諮問する
ようにと『出師の表』で述べている。ただ、具体的な活躍はイマイチ
わからない。
趙雲も本伝では具体的な活躍は意外と記述がない。
後に『三国志演義』などの元ネタになるのは『趙雲別伝』の方。
魏延も具体的にどういう活躍をして漢中を任せられるまでになった
か不明。呉壱みたいに、外戚で戦功のある高官の伝記が無かったり
する。
>>546 分かっている軍事的業績は
夷陵の戦いで全軍壊滅する中、自分の部隊を損害なしで保つ。
出師の表で諸葛亮にべた褒めされ、北伐中の成都の守りを任される。
異民族を討伐に向かって戦死。
このぐらいだな。
>>547 それを友好国と言うんだよ。
よく国力の差があったと三国の比較でいわれるが、それぞれの政府の給料も格差あったの?
たとえば巨人と広島みたいに。
つか、皇帝や高官らは具体的にどんな給料もらってどれぐらいの大きさの邸宅に住んでいたの?
551 :
547:2010/06/30(水) 22:21:50 0
>>549 君は「友好国」だからケ芝を置く必要はないんじゃない?と言って
俺は「友好国」にするためにケ芝を置く必要がある。と言ってるんだよ。
強引にまとめないで欲しい。
>>551 ああ、ごめんね。そこ無視してた。
ケ芝の督江州が呉を友好国にしておくためのものとは思わないよ。
督江州としては、国境防衛の責任者レベルでの折衝をする必要が生じた時に交渉するだけでしょ?
友好関係を保つのは成都の仕事。
成都があればなんでもできる。
使者の遣り取りだけが外交じゃないだろ。
国境地帯を気心の知れた人物が治めてるってことが
呉の警戒と異心を防ぐのに重要なんだ。
国境を接する部隊や郡県同士では、揉め事の解決などで交流が頻繁にあっただろうね。
その元締めが督江州か督永安と考えれば良い。
江州まで引っ込んでいるケ芝が直接頻繁に雑事に手を出したとまでは思えないが、
問題が大きくなりそうな時に呉の西陵督と調整するようなことはやったのだろう。
557 :
世界@名無史さん:2010/07/01(木) 05:39:15 0
李厳が漢中に出張し、兵糧輸送失敗をごまかして失脚した後の
対呉方面の責任者は誰だったのだろう?
558 :
世界@名無史さん:2010/07/01(木) 14:49:35 0
ケ芝伝を読み返してみると、
諸葛亮死後に前将軍になり、ほどなく督江州となるとある。
時期的には、諸葛亮が死去し、呉が不穏な動きを見せた時期だと
思われる。
諸葛亮に代わり宰相となった蒋琬が、宗預を呉に使者として送り、
対呉方面にケ芝を配置することにより、呉の不穏な動きを牽制する
目的で配置したと思われる。ケ芝伝には、孫権がたびたび安否を尋ね、
丁重に贈り物をしたとある。どうやら蒋琬の目論見はあたり、対呉方面
での友好関係は保たれたようである。友好関係が保たれたこそ、尊重
するケ芝に贈り物をしたと考えるべきだろう。
呂範って、何してたか分かる期間より、何してたかわからない期間の方が長い。
孫策時代
孫策の軍に従軍したり、別動隊を率いて多くの軍功を立てる。征虜中郎将。
孫権時代
(201〜208)
203年の黄祖討伐に従軍。翻陽の賊を討伐。208年の黄祖討伐では呉の守備。
赤壁の戦いに従軍。裨将軍・彭沢太守。孫策時代の活発な活躍から一転して、軍事的な業績はこの4つのみ。
(209〜219)
何の功績があってかわからないが、平南将軍に昇進。関羽討伐では建業の守備。
(220〜228)
建威将軍・丹陽太守に昇進。魏の侵攻に際して前将軍に昇進。
五軍を指揮して曹休の侵攻を食い止める。揚州牧に昇進。
孫権が皇帝に即位すると大司馬に昇進。
孫策時代の八面六臂ぶりと、孫権時代の静けさの違いは一体何なんだろう?
それもあまり戦功多くないのに官位だけは昇進を重ねる。
呉の武官トップの一人のわりには、なぜこの地位にあるのかがイマイチわからない。
旗揚げ当時からの創業の功臣補正だろうか?
毎日ごくろうさん
三戦のニートほかにすることないんだろうな。
前はこのスレの住人をすこしすごいなと尊敬もしていたが、最近は引き気味。
なぜにそこまで三国志なんだ?五胡十六国や南北朝スレはあるのかどうかもわからないくらい寂れてるのに。
563 :
世界@名無史さん:2010/07/01(木) 21:10:39 0
>>562 別によいのでは?
厭なら参加しなければよいだけ。
見向きもされなければ過疎化するだけ。
わざわざ言う方が無粋だと思うぞ。
寂れてるから相手がいない
三国時代だと質問君が多いからそれに乗って話が出来る。
……五代史の話ならできるぞ
俺は漢代方面の話じゃないと駄目だw
俺は新末後漢初。ぶっちゃけ三国志より何倍も面白いと思うのだが、
スレが死んでる。
>なぜにそこまで三国志なんだ?五胡十六国や南北朝スレはあるのかどうかもわからないくらい寂れてるのに。
書店に行って見りゃ一発で分かるでしょ。三国志はちょっと大きい本屋に行けば正史の日本語訳が買えてしまう。
五胡十六国や南北朝なんて、東洋史学部出身者か、よっぽどの歴史マニアくらいしか語る人がいない。
実は最近三国志より新末後漢初より後漢中期の方が好きなんだが、超ニッチ属性だって自覚してるぜ。
それはともかく、やっぱどうやったって裾野の広さの違いが大きいでしょ。
ただのミーハーファンやゲーム、漫画、小説でしか知らないみたいな「石」の多さも段違いだけど、
その中で三国時代の史実や深いところを探りたいっていう「玉」の多さも当然段違いだもん。
さらに言うならアプローチのしやすさも段違いだし。
三国>>秦楚漢>>(講談やテレビ解説、解説本等の多さの壁)>>春秋戦国>>
(知名度的に越えられない壁)>>前漢後期>>(訳書の値段の壁)>>新末後漢初>>
>>(個別完訳が発売しているか否かの壁)&(史料輸入orべらぼうに高い古書購入のハードル)>>それ以外
でしょ、結局。
関係ないけど俺は南北朝好きだぜ。
独孤氏周りの血縁バリバリな所は日本人にとって親しみやすい箇所だと思う。
李厳や魏延や楊儀の陰に隠れてるけどさ、来敏あたりもとんでもないDQNだと思うんだ。
言動がひど過ぎて行動も常軌を逸していて、たびたび免職されてるのにそのたびに復活して、前より高い位に昇進。
大した能力もないのに大学者補正と劉禅の皇太子時代からの旧臣補正と名門補正だけで高い位にいたようだけど、
こんな奴は魏や呉なら粛清されてるだろうな。蜀はこんな役に立たないキチガイでも使わないといけないぐらい人材足りてなかったんだろうな。
孔融が九卿だった後漢も人材が足りなくて
孔融みたいなのも使わざるをえなかった?
孔融は実務能力は無かったが、朝議をリードする能力はあったし、
来敏ほどキチガイでは無いし、全国区の名士だった。
結局は曹操に粛清されたが、それでも来敏よりははるかに利用価値のある人材。
来敏の官歴ってどれも実権のなさそうな名誉職ばっかりだろ
大長秋だの太中大夫だの。
「使わないといけないぐらい」と言うほど「使ってない」だろ。
あと「来敏ほどではない」けどキチガイで「実務能力は無かった」孔融
を「朝議をリードする能力」と「全国区の名士」であることを理由に
「利用価値のある人材」と見なしたと言うことはやっぱり人材不足だろ。
孔融のような能力が無ければ朝廷を運営することはできないからだよ。
孔融は祭祀・故事・典礼に通じ、それを体現する高い能力の持主だった。
重なる遷都での多くの朝臣が落伍していき、ようやく許昌に都を定めた
曹操にとっては青州から馳せ参じた孔融のような人間は必須の人材だった。
>>576 >孔融は祭祀・故事・典礼に通じ、それを体現する高い能力
つうか、それも一種の実務能力だよな
ああいえば孔融だもんな
漢朝廷を独裁しようとする曹操派にとっては頭が痛い存在だっただろうね
曹丕の趣味ってなんかひねくれてるよな
>>580 曹操もできれば孔融を曹魏派に取り込みたかっただろうよ。
しかし孔融はその妥協を拒否した。
孔融は孔子にも喧嘩売ってるからのう。
学者としてはある意味最後の春秋・戦国的な、孔子をそこまで神聖化してない学者だったのかも知れん。
曹操を桀紂扱いしたのは、ある意味学者として曹操を天下人として認めた行為かも知れんがね。
桀紂は普通天子に対する批判的比喩だし、光武帝も韓キンに同様のことを言われてるから。
光武帝の先例を踏まえた上で殺されたがったのかもなぁ……
孔融と仲良しだった奴らはみんな曹操に嫌われていたイメージがある。
張嶷は撫戎将軍・越巂太守から、盪寇将軍になったけど、
太守兼雑号将軍から雑号将軍専任なら、
権限が小さくなって左遷のような気がする。
盪寇将軍の格と権限が太守兼将軍より高ければ話は別だが。
実際のところ、張嶷は偉くなったのかなってないのか良く分からない。
587 :
世界@名無史さん:2010/07/03(土) 19:36:02 0
>>586 偉くはなったのでは?
皇帝の劉禅も尊んでいたようだし。
南方支配が安定してきたので、希望通りに
中央に召還したと素直に解釈してよいと思う。
おそらく享年は60数歳だったと推測されるので、
もう少し長生きしていれば、四方将軍か四鎮将軍程度には
出世していたと思われる。
撫戎という地域の鎮守を主任としたと考えられる号から
盪寇という伝統的な征伐将軍へ異動したことに意味があるのだろうね
589 :
世界@名無史さん:2010/07/04(日) 09:44:01 0
張嶷は才能・見識の割に出世できなかったような気がするな。
諸葛亮の北伐に参加できなかったからかな?
逆に、王平なんて北伐で認められてメキメキ出世していったし。
学識では張嶷の方が断然上なのにね。姜維の北伐に無理して参加した
のも、そういった才能・見識を存分に発揮したいという思いからなの
だろう。
590 :
世界@名無史さん:2010/07/04(日) 16:53:06 0
ヨハネの黙示録
「また、小さき者にも、大いなる者にも、
富める者にも、貧しき者にも、
自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、
その右手あるいは額(ひたい)に刻印を押させ、
この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることも
できないようにした。
この刻印は、その獣の名、またはその名の数字のことである。
ここに知恵が必要である。
思慮(しりょ)のある者は、獣の数字を解くがよい。
その数字とは、人間をさすものである。
そして、その数字は、666である。」
(第13章第16〜第18節)
蜀の丞相参軍と言うのがどんな仕事をする官職なのかよく分からない。
軍を指揮する人もいれば、事務をする人もいれば、参謀もいる。
しかも権限は軍事でも事務でも大きい。何でも屋なのか?
参事官つう言葉が今でも残ってるよな
>>592 いや、参事官はただの補佐官で、
事務や軍の指揮はやらないっしょ?参謀とは仕事かぶるけど。
参事官はスタッフで参謀もそれに含まれるけど、
事務や軍の指揮はラインの仕事だ。
「軍事顧問官」と考えれば良い。
府長を助けて参謀(助言や事務)もやる、
別軍を総括する府長代行もやる、という。
595 :
世界@名無史さん:2010/07/04(日) 21:16:00 0
王平は処刑された馬謖に代わって、
軍事顧問に昇格したんだな。
>>589 みんながみんな北伐に参加したら、太守だの県令だの、
地方行政を支える人材がいなくなるでしょ?
呂乂や張嶷のような人材が地方で太守やってないと、
国の根本が成り立たない。
必要だから長い事太守やってたわけで、
その間将軍号加えられたり、関内侯の爵位を与えられたり、
出世できない代わりに厚遇を受けている。
でもまあ、国にとって必要かどうかと本人が望むかどうかとは別で、
本人は北伐に従って思いきり戦いたかったんだろうね。
州牧や四方将軍や四鎮四征将軍が与えれる官位の限界→太守・中郎将・別駕・刺史
太守が与えれる官位の限界→校尉・功曹・県令
こんな感じだろうか?
598 :
世界@名無史さん:2010/07/06(火) 18:16:36 0
普通に字義通り「軍」経営に「参」与する役職と捉えちゃっていいんと違うかえ?>参軍
あと別に参事官という言葉も別に昔の官名が残ってるとかではなくて、普通に職責をそのまま漢文で表しただけかと。
>>599 そう考えればいいんか。てっきり参謀の事かと思ってたよ。
>>597 別駕や功曹は属官だからそのとおり
太守なら県長は任命できるし、将軍の部隊長としての校尉も将軍が任命することになるだろう
しかしそれ以外はそもそも「与えられる官位」なんか元々存在しない
なぜなら太守や将軍や刺史は勅任官だから、与える事ができるのは皇帝だけだ
「推薦した」ことにして実質的に勝手に任命するケースの方が多いけど、これは勝手にやることだから制限なんて存在しない
ただ、任命する側より地位や権限が上の者を任命してしまうと統率や権威の上で問題だから普通やれないだけ
>>601 それって、実質上は地位や権限が下の官位は好きなだけ与えられるってことでない?
中央の権力が衰えた状態ならそうだろ
後漢が存在していた時期まで、と捉えればいいのかな?
>>600 參安東軍事とか參丞相軍事といったように表記されることを考えると分かりやすい。
>>606 高祖が憎んでるからって、高祖の子孫がその子孫を憎み続けるとは限らない。
>>606 後漢、三国呉の鍾離氏は会稽の人。
その鍾離昧の子孫は九江の人で別だけどな。
漢の高祖は憎んでいた季布を生かして助けてくれた丁公を処刑するような人間。
鍾離昧も保護した人間が違っていれば助かったのかもしれない。
それに罪も本人だけにとどまって子孫には及ばなかったんだろう。
611 :
世界@名無史さん:2010/07/06(火) 22:34:04 0
袁氏は徹底的に追い詰めて殺したが、袁氏の部下はどしどし召抱えた曹操と変わらん。
>>607-608 子孫と祖先の性質が綺麗に合致する例は少ないしな。
岑昏とご先祖様の違いを考えると遺伝子って儚いものだなと思う。
それに、首取られたの当人だけのようだし、項伯らを普通に生かしているからねぇ。
劉邦の行動原理はわかりにくいけど、過程すっとばして結論から有用か否かで斬るか斬らないかを決めている気がする。
旧楚地域の鎮撫に有益だから項伯は許して、項伯の例があるので必ずしも必要ないから斬ったのが鍾離昧なのだろう。
>>611 曹操政権下で生き残った袁氏一門って、高柔ぐらいだな。
>>614 袁渙は陳国袁氏。袁紹の汝南袁氏とは系統が違う。
楊彪は失脚してるし息子殺されてるし、ただ命が助かっただけに過ぎない。
袁渙は陳の出身だし、汝南の袁紹とは別じゃないの?
あと袁紹の妻は厚遇されたようだし、三兄弟以外は生き延びた可能性はある。
楊彪は袁術の縁戚だが、「袁術の一門」でおさまるような器でも一族でもないね。
弘農楊氏は汝南袁氏以上の名門だからね。
侍中と散騎常侍の違いを教えてくれ
侍中は皇帝の顧問官。皇帝が閲覧する文書処理に直接関わり、諮問に応える。
皇帝の性質にも拠るが、政策決定に強い影響を与えることができ、
実質枢機を掌ることもあった要職。
散騎常侍は魏が当初「散騎」として設置。皇帝の巡幸に騎馬で散従するので散騎。
中常侍を廃して散騎常侍となるが、漢の中常侍と異なり規定の職務は無く、
ただ規諫(正し諌めること)のみを務めとした。
しかしながら皇帝に従って禁中に入ることができる官であり、常に顕職であったという。
622 :
世界@名無史さん:2010/07/07(水) 04:43:17 0
董允はかなり権限があったんだな。
劉禅が後宮を美人で満たしたいと望んでも、
董允の反対で出来なかったくらいだし。
張飛の娘を入れるとかさぞかしブスぞろいだったんだろうな。
>>622 それは、名君劉禅が忠臣董允の諌めを容れた美談なんだよ!
625 :
世界@名無史さん:2010/07/07(水) 06:50:28 0
正史には張飛の容姿については記述はない。
意外と美男子だったかもしれないし、その娘も美人だったかもしれない。
あんまり『三国志演義』のイメージで語るのは・・・・・・・・
それにブ男の子がブスとも限らんし、美男子の子が美女とも限らん。
更に言うなら美男子だけどこれ女性の顔にしたらブスだよなって人とか、
美女だけどこれ男性の顔にしたらブ男だよなとかあるし。
ほとんど同じ顔の兄弟が、性別違うだけで美人になったり不細工になったりするしな。
張飛のパブリックイメージだけで類推するのは危険。
627 :
世界@名無史さん:2010/07/07(水) 11:52:19 0
張飛の娘は二人後宮に入っているでしょ。
一人ならともかく、二人というのはそれなりに美人だったのかも。
張飛は功臣ではあるけど、親戚ではないし、豪族だったわけでも
ない。そんなに張家を重んずる必要性は無い。劉禅に妹も皇后にされ
たのは、それなりに気に入られていた可能性が高い。
単に後宮に入れられたのではなく
皇后になっていることからも「張家が」重んぜられてるんだと思うが。
629 :
世界@名無史さん:2010/07/07(水) 14:32:02 0
どうかな?
外戚として羽振りをきかせたという程では
なかったし。呉懿・呉班が出世した呉氏の方が
実質的には重んじられているように思う。
蜀漢がケ艾に滅ぼされたあとも、張飛の娘や息子たちはボンクラ五主についていくんだったか?
関羽の子孫は?徳の子に三族滅させられたんだったか。 かわいそう。
631 :
世界@名無史さん:2010/07/07(水) 15:15:50 0
姉妹丼ハァハァ
>>629 張紹は侍中・尚書僕射。張遵は尚書。権力の中枢。
呉懿・呉班は位は高いが、権力からは遠い将軍に過ぎない。
権力からの距離では張氏の方がよっぽど優遇されてる。
光禄大夫と太中大夫と諫議大夫の違いを教えてくれ。
なんだかどれも偉いけど実権の無い名誉職って感じで、
違いが良く分からない。
634 :
世界@名無史さん:2010/07/07(水) 17:58:11 0
>>630 信憑性のイマイチ低い『蜀記』の話だろ?
>>634 張紹が劉禅に従って洛陽に行ったというのは、蜀記出典では無いぞ。
636 :
世界@名無史さん:2010/07/07(水) 19:14:42 0
関氏の血統が滅ぼされた話では?
>>636 ああ、それは蜀記にしか載ってないね。
しかし、その後関氏が洛陽に行ったという記述も無かったから、
鐘会の乱で全滅したんだろうね。
父親の恨みを晴らすだけならば(当の本人が死んでる以上)嫡子だけにしとけばいいのに…
すげえDQNだなオイ。
安易にDQNなんて言う奴も困りもの
640 :
世界@名無史さん:2010/07/07(水) 21:57:35 0
しつこいようだが、光禄大夫と太中大夫と諫議大夫の違いを教えてくれ。
なんだかどれも偉いけど実権の無い名誉職って感じで、
違いが良く分からない。
>>640 じゃあ俺がテキトーな解説。
どれも職掌はご意見番で、実権はない。三公の劣化バージョン。
ただ光禄大夫は三公に次ぐ高官。
太中大夫と諫議大夫はそれよりはもっと下位。
だけどこれは魏晋の話で
後漢末だと董昭が諫議大夫、賈詡が太中大夫だったりして、けっこう高位と思われる。
賈詡なんか太中大夫から太尉になってるような。
しかしホウ徳が曹操に忠節を尽くして死んだのって腑に落ちないんだけどな。
それならなんで馬超についていかなかったんだろうと。
ついこないだ曹操に降伏したばかりで、しかも簒奪間近。
その曹操に忠義を尽くすことの大義ってなんなんだろう。
どうせ老い先短いと考えて、華々しく散りたかったってことなのか?
よっぽど劉備や関羽が嫌いだったのか?
>>643 曹操に会って、ようやく骨を埋める場所を見付けたと思ったんじゃね?
>>643 「國家の鬼」と自ら言っているっしょ?
つまりホウ徳は、自分自身と子孫の地位を保証してくれる存在として、魏王国を選んだということ。
この言葉をまるごと信じてしまうなら、ホウ徳はこのとき既に魏王の臣であり、
漢に代わる魏の天下を信じていたことになるだろう。
自分が死んでも、逆に殉死だからこそ、「家」と子孫の地位は魏によって保証され、
代々繁栄を約束されることになる。日本的に言うと御恩と奉孝の契約関係。
それが個々の家と国家を結ぶ基本的な封建関係であったので、
家系の継続を尊ぶ士大夫はホウ徳のような死に場所の選び方をする。
>>645 しかし死ぬことは親不孝じゃないのかね?
それに家系の存続であれば、劉備に降伏しても問題ないでしょ。
馬超だって劉備に降伏してから新たに家族をもうけてる。
それと御恩と奉公の関係は「代々の繁栄の約束」とは違うような。
>>646 主君のための死は「忠」なので美徳とされる。
家系の存続は家族が魏にいるのだから、
劉備に降伏しては魏にいる子孫の繁栄が約束されない。
>>648 わずか数年前まで曹操と戦っていておいて「忠」などというのが茶番でしょ。
>家系の存続は家族が魏にいるのだから、
これは家系の存続の問題じゃないよね。
具体的な家族数名の問題。
あと
>家系の継続を尊ぶ士大夫はホウ徳のような死に場所の選び方をする。
これって「士大夫=家系の継続を尊ぶ=ホウ徳のような死に場所の選び方をする」という意味?
俺からすると黄権のような生き方も士大夫のスタンダードなんだが。
>>649 後嗣のホウ会が魏にいる以上、家系の存続は魏臣として死なないと果たせない。
あと、降伏して間もない降将が忠義を尽くして死んでもおかしいと言う決まりは無い。
というより、降伏間もない降将だからこそ、忠義を尽くして見せなきゃ。
まぁ、立場の改善はあるんじゃないでしょうか。
>>646 >>649 >しかし死ぬことは親不孝じゃないのかね?
いや別に。親のために子が死ぬのは美徳だし、
死後の名声や家の繁栄を願って死ぬのも美徳だ。
>それに家系の存続であれば、劉備に降伏しても問題ないでしょ。
>俺からすると黄権のような生き方も士大夫のスタンダードなんだが。
>わずか数年前まで曹操と戦っていておいて「忠」などというのが茶番でしょ。
忠を尽くす相手は曹操個人である必要はない。ホウ徳の言う通り国家であり、ひいては天下だ。
黄権に限らず自分が生き延びて家を存続するという選択肢は当然ある。
そのために妻子を捨てることも多々行われた。
ただ、当時のホウ徳にとっては、劉備陣営はそれを託すに値しなかったのだ。
…という主張が、ホウ徳の最後の逸話に見られる性質ってこと。
>死後の名声や家の繁栄を願って死ぬのも美徳だ。
(ノД`)于禁
>>651 >後嗣のホウ会が魏にいる以上、家系の存続は魏臣として死なないと果たせない。
馬超は劉備に降伏したことで息子を殺されたが、新たに息子をもうけたでしょ。
>あと、降伏して間もない降将が忠義を尽くして死んでもおかしいと言う決まりは無い。
忠義の正当性の問題だよ。
忍従に耐えるのも一つの道だけどな。
虞翻と曹丕の屑どもには理解できなくとも。
>>656 正当な父君に尽くしたならば、それが正当性のある忠義だろう。
社会や国家や歴史はそう認める。
659 :
世界@名無史さん:2010/07/08(木) 01:33:36 0
ぶっちゃけ曹操にとっての于禁は、劉備にとっての関羽みたいなもんなのに、
関羽は許されて于禁は許されないなんて
660 :
世界@名無史さん:2010/07/08(木) 05:43:08 0
本場儒教では親孝行>忠義だろ
親が死んだら職務放棄してでも喪をやらないと社会的に大ダメージ。
主君と親、どっちをとるかといわれたら親を取るのが当然。
陳寿は親不孝が原因で出世できなかった。
本来は双方重視で、後漢末の孝廉制の流れと結びついて孝の重要性が高まり、
魏晋が王莽に似た形で先代王朝の権威を利用し寄生しながら乗っ取るという外面の良くない形を取ったものだから、
何だかんだで孝の方が重要としていた方が王朝としても都合が良いという流れからだったような。
>>659 許さなかったのは曹丕だろ初代は于禁開放時には死んでたろ?
>>657 虞翻ってwiki見る限り、自分自身が降伏を糜芳に進めておきながら、後年2人が船ですれちがったりすると
非難の雨嵐やりやがったクズだよね。
ホウ徳の兄は蜀で生きてなかった?
>>660 で、いつホウ徳が親不孝したの?
儒教では戦死する事は親不孝じゃないよ。
ホウ徳は戦死してないよw
関羽に降伏せず処刑されたんだよ。 処刑は戦士とは言わないよw
>>666 臥竜鳳雛の?統は?徳といとこなんだよな。 で、?スウと?統は兄弟になるのだろうか。それとも族弟みたいな間柄?
>>668 戦で現場で捕縛を受けて処刑される場合、名誉という視点から見た時に、戦死であることとの明確な区別はないように思うが。
降伏していない軍人が現場で殉職しているわけで。
>>669 ホウ徳公とホウ徳は別人だよ。
良く「降将を使うなんてよほど人材がいないんだな」とか「降将は寝返る危険があるのに良く最前線に置けるな」とか
「降将が国に忠誠を誓うわけが無い」と言う人がいるけど、
降将でも有能なら活用するのがまっとうな人事で、降将は元いた国には普通戻れないから、
寝返る心配はしなくていいわけで、しかも降将ということで色眼鏡で見られるから、
生え抜きの将よりことさら忠勤に励んで信用を獲得しなければならなかったりするから、
実は有能な降将は忠実で使いやすい存在。
たとえば有能で忠実な降将としては、蜀の姜維、王平、呉の潘濬、呉・魏の唐咨がいるね。
孟達みたいな奴もいるから、ハイリスク人事ではある。
実際ホウ徳も裏切るんじゃあないかと曹操孟徳あまり信用してなかった。だから、あの于禁が捕縛された戦いも
于禁がメインでホウ徳はあくまでサブ。
今はgameなどで于禁が能力低いからザコ扱いされているが、実際はオカシイ。
たしかに関羽に降った件で大きく評価をさげているが、それまでずっとずっと活躍してきた魏の名将。
降伏の件なかったら魏の元勲扱いで大邸宅もらって夏侯惇みたいに若い妾たくさんかかえてずっと小づくり放題の
晩年おくってたお?
675 :
世界@名無史さん:2010/07/08(木) 18:29:53 0
孟達のように何度も寝返りかますのは珍しい存在だよ。
普通はどこかで信用失って用いられなくなる。
孟達は文帝死後、もともと信用が無いのと親しい友人がみんな死んでしまったので孤立して、
蜀に再寝返りをしようとしたが、こういうのは三国時代になってからはレアケース。
>>674 于禁がメインでホウ徳がサブなのは当たり前だろ。
于禁は魏の宿将で左将軍。ホウ徳は雑号将軍。
普通に序列の問題で于禁がメインでホウ徳がサブになる。
ホウ徳への信用とはまた別の問題。
降将は腹心や宿将に付けられ、行動が監視される
当然と言えば当然の処置
張遼が李典・楽進という曹操エン州時代からの宿将と組んでいたのはそういう理由からだろう
于禁にホウ徳が付いたのも同じ
こういう形でなくても、軍にはお目付け役がいるものだ
衛カンとか?
>>677 合肥当時の張遼は既に曹操の譜代扱いだと思うんだが。
>>679 譜代扱いだったかどうかなんて簡単に区別しようがないと思うんだが、
どこ読んだら「譜代扱い」だったと判断できたんだ?
>>680 河北征伐では独立して別軍を率いている。
烏丸との戦いでは指揮権を臨時に与えられてる。
陳蘭・梅成討伐の総司令官。張コウ・朱蓋を率いている。
宿将と同時に同格の将軍の位を授かっている。
じゃあ合肥で李典楽進と組まされたのは何故?
>>682 以前、このスレで話題になったが、七千の兵を一人で指揮するだけの格が張遼になかったからでしょ?
たまたま組んだ将軍が生え抜きだったというだけで。
そもそも、降伏してから15年以上たってるのに、未だに降将扱いとかおかしくない?
それってよほど信用してない事になる。急激に膨張した曹操軍は降将だらけなんだから、
いちいち信用できないとして生え抜きと組ませてたらキリないよ。
長く仕えてたら、生え抜きと同等に扱わなきゃ。
孟達とかと組んでれば「張遼が監視役」ってことで文句も出なかったろうな。
しかし、孟達は蜀との国境の太守。そして、その上司は夏侯尚。皇族にして監視役として最も適任の人物だ。
しかも、孟達の親友。そんな夏侯尚が死んでから、蜀への再寝返りを考えるようになった。
孟達は父親が張譲に媚びいった人間だからなぁ
曹操や袁紹が、孟達の親父と十常侍と一緒にいたら間違いなく殺害しているだろうな。
濁流直系ってわけか
十常侍というが、後漢書には12人挙げられている。これ豆な。
五胡みたいなもんか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E5%B8%83 その他 [編集]
『三国志』の「夏侯惇伝」には、建安24年(219年)に曹操によって呂布軍が?県の摩陂で撃破されたことが記述されている。
また「満寵伝」では樊城を包囲した関羽が?に別将を派遣したという記述がある。
これらの記述から、関羽配下には同姓同名の呂布が存在していたと見ることができるが、「夏侯惇伝」の記述が衍字である
との説もあり、ちくま学芸文庫の正史『三国志』の日本語訳でも、その説に従ってこれを訳していない。
同姓同名ではなく、呂布が実は捕殺されていなかった可能性ってないかな?
ない。
なぜそこが衍字かというと、文としておかしいからなのだろう。
原文は
「太祖軍撃破呂布軍於摩陂」
「太祖軍が摩陂に於いて呂布軍を撃ち破った」
なのだが、史書では普通、「軍」という語をこんなにしつこく使わない。
曹操が呂布を破った、なら、
単に「太祖撃破呂布」と呼び捨てる。
「〜〜軍撃──」の用例を調べると、
・〜〜将軍が──を撃った
という、官職名の一部のケース
・〜〜諸軍が──を撃った
のような、ある軍団が主語であるケース
・〜〜は軍を率い──を破った(〜〜率軍撃──)
のような、二語以上の主部を構成するケース
に大別され、「〜〜(個人名)の軍が──を撃った」という書き方はしないようだ。
絶無かどうかはわからないが。
また、撃破した敵の一介の遣将に対して「呂布軍」と言うことは、なおさらない。
圧倒的多くで「呂布を破った」というように呼び捨てる。
だから二つの「軍」の間の四字は衍字と見て、
「太祖は摩陂に軍し、惇を召して〜」と読むのが盧弼の説なのだろう。
結局、関羽配下の呂布は存在しなかったと。
樊城包囲に従った関羽配下の将軍の名前が分からないのはつまらないなあ。
あれだけの大軍なら、それなりの将軍がいてもおかしくなかっただろうに。
馬忠と費イ・蒋エン・姜維って、同年代っぽいけど、
費イが死ぬまで馬忠が生きてたら、後継の大将軍録尚書事は、
政治経験のない姜維じゃなくて、尚書の仕事を臨時に取り仕切った事もある馬忠が就任したのかな?
その場合、蜀はどんな歴史をたどってたんだろ?
696 :
世界@名無史さん:2010/07/09(金) 19:43:46 0
年齢的には、
蒋琬>馬忠>費褘・董允・張嶷>姜維だと思うよ。
姜維が蜀に投降したのが27歳。そん時には費褘は侍中にまでなっている。
おそらく、劉備入蜀時に20歳代だったと思もわれるので、費褘は姜維より
10歳前後は年上だったと思われる。董允は費褘と父親から比べられていたこ
とから、おそらくは同年配だったと思われる。張嶷も劉備入蜀時に20歳くらい
なので、費褘と同年配だと思われる。
蒋琬は劉備時代にはそれなりの官職に就いているので、年齢的には費褘よりは
かなり上。諸葛亮と同年配かやや下くらいだろう。馬忠は諸葛亮の南征直前に
太守までになっている。年齢的には蒋琬と費褘の中間の世代ではないだろうか?
698 :
世界@名無史さん:2010/07/09(金) 22:44:44 0
来敏とか廖立が激怒してなかったっけ?
役立たずの二人が激怒してもなあ。単に妬んでるだけにしか見えん。
700 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 05:26:04 0
馬良も30代で侍中になっている。
諸葛亮時代も存命だったら、かなり出世したんだろうな。
701 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 06:57:01 0
姜維はなんであんなに出世したの?
戦功や治績なら馬忠や張嶷だしさ。後の無謀な遠征の繰り返しで
国家破綻させたように、政治能力はかなり疑問だし、実際の戦功も
さほど無いように思える。軍事能力でも、曹爽の遠征軍を撃退した
費褘の方が上では?
戦争での功績もさほどでもないような気がする。
またこの話題か
何回繰り返すんだ?
李厳、魏延、王平、姜維www
>>700 もしかしたら、諸葛亮の死後、大将軍になってたかも。
>>701 1.スタート地点に恵まれてた。魏のエリート官僚で若手で諸葛亮の高い評価。
2.諸葛亮死後、北伐軍を掌握した将軍の一人として成都に帰還。輔漢将軍に昇進し、主力軍を率いる五人の実力者の一人となる。
3.蒋エンに重用され、その司馬となり、鎮西大将軍・衛将軍と出世を重ね、録尚書事に。
4.費イ時代、北方に出兵するも大きな戦果は無し。費イの死後大将軍に。
要するにスタート地点で恵まれてたのと、政治力に長けていてその時々の権力者に引き立てられてきたからでしょう。
特に蒋エン時代の出世ぶりは破格です。イメージと違って、軍事能力で成り上がった将軍ではありません。
大将軍になって本格的に北伐を始めるまでは、処世術に長けた政治屋です。
曹丕は曹真・曹休・陳羣・司馬懿の四人に後事を委ねたね。この三人は国家の最高級の文武の重鎮である大臣だ。
しかし、曹叡は最初、曹宇・曹肇・曹爽・夏侯献・秦朗に後事を委ねようとしたね。
文武の重鎮でも何でもない、単に曹叡と親しいだけが宗室であるってだけの人物ばかりだ。要するにたんなる取り巻き。
曹叡時代末期は取り巻き政治が行われていたのかな?
この人事も彼らと対立する取り巻きの劉放・孫資が握りつぶしたし。
取り巻き多すぎても司馬氏に一網打尽曹爽一族アホ過ぎる。
そういや曹爽も取り巻きばかり重用してたな。
曹叡が当初企画したのは、皇族中心の内戚政治。
曹夏侯氏及び魏宮中で育った秦朗が含まれる。漢魏代には稀な選抜だが、
同姓とそれに準じる者達が政治を補佐することによって宮中から皇帝権力の独立を支え、
外廷他姓を制する志向となる。
しかし、それだからこそ他姓側近の劉放・孫資の危機感を呼び、遺詔は改訂されることになった。
ここで魏随一の大官となっていた司馬懿が外廷代表として孤児を託される一人となる。
曹魏の権力は内外に分散され、それが正始の変へ繋がった。
しかし、劉放と孫資の思惑とは別に、
内戚の曹爽が司馬懿を棚上げして権力を独占し、
同じく内戚の夏侯玄や何晏や、自分の弟たちによる内戚政治をやりましたとさ。
それにしても劉放と孫資は曹叡が指名した同姓の連中を排除したのに、
なぜ曹爽だけ残したんだろうか?
司馬懿は外戚でもなく、曹叡の側近として親衛していたわけでもない。
外で功績を続けていた大臣一人に幼帝を託すなんて危険過ぎるだろう。
皇帝権の安定を目指すのであれば、親族として扱われていた(が皇帝になれる血筋ではない)
という便利な立場の曹爽が中心になって親縁者で宮中を固め、司馬懿を筆頭とする外臣集団を
制御するのが、むしろ曹叡の本意だっただろうね。
曹爽はそれを上手くやり遂げることが出来なかった。
>>711 いや、司馬懿と曹爽に曹芳を輔佐させたのは、
劉放と孫資の思惑じゃん。曹叡の本意じゃないよ。
劉放と孫資に押し切られただけ。
曹叡の元々の意思は、実際施行されたのよりも強い内戚政治だったんだよ。
劉放と孫資によって司馬懿をねじ込まれたが、曹氏中心というのが曹叡の本意だった。
でさ、改めて聞くけど劉放と孫資は、なんで曹宇・曹肇・曹爽・夏侯献・秦朗のメンバーの中から、
曹爽だけ残したの?何か特別な理由でもあったの?
715 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 00:07:44 0
一番マヌケで扱いやすそうだったからじゃね?
曹爽が残ったのは曹叡の意思だよ。
はじめは燕王曹宇が代表だったのが、強く固辞したので曹爽をこれに代えた。
二人はそれに賛成した。
劉放と孫資って250-251年に相次いで世を去っているが、これって偶然かね?249年のクーデター終わった後、消されたようにも穿った見方できなくね?
718 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 03:59:53 0
>>705 諸葛亮死後の北伐軍を無事撤退させたのは評価されたかもな。
楊義が不要な人間として排斥されたから。
>>717 劉放と孫資は曹爽の時代に名誉職に棚上げされて権力を失い、
クーデターの時には過去の人になってたから、
司馬氏にとってはもはや生きてても死んでてもどうでもいい人だったんじゃね?
夏侯惇って、なんであんなに重用されたの?
戦争はあまりうまくない。頭も切れる方じゃない。特に優れた能力があるわけでもない。
それなのに常に家臣筆頭。曹操に次ぐ地位。重要な仕事を良く任される。
あの絶大すぎる曹操の信任がどこから来てるか知りたい。
親族ならもっと能力のある曹仁や曹洪や夏侯淵がいるじゃん。
721 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/11(日) 14:58:35 0
兵に信頼される将校というのは非常に得難い物だけど、大将軍にするタマかというと微妙ではあるね。
ただ、時代的に豪族社会の末期で貴族社会への過渡期でもあるから、
忠誠の篤い人間や一族で固めることには大きな意味があるよ。
将来的に政権を奪われないためにもね。
夏侯惇はヤリチン。子供何十人も作った。
それと夏侯惇は、董卓に焼き払われ、どう考えても問題だらけの状況の洛陽を切り盛りしている。
献帝が去った後とはいえ、当時の洛陽は董承、楊奉らの争いもあって荒れ果てており、
普通に叛乱が頻発してもおかしくない地域。
これを上手く抑えた事が、曹操の評価に繋がったのかもね。
しかし、夏侯惇は河南尹になる前から、ずっと曹操軍のナンバー2なんだよな。
曹操が挙兵すると裨将。奮武将軍になると司馬。エン州牧になると東郡太守。
時期は不明だけど、他の主要な将が中郎将や校尉なのに建武将軍。
その後河南尹。
>>722 大将軍に兵略はいらない。宮廷にあっては皇帝の傍で兵を掌握する警護する親任と忠誠。
もし征伐に出るならば大軍の諸将を統率する権威と能力が国内で最も高い人物が相応しい。
夏侯惇が歴任してきたのは、曹操にとってそういう立場。
>>726 でも、夏侯惇以外の魏の大将軍は兵略のある将ばかりだよ?
>>725 いや、だから政権の不安定な初期に親族や忠誠の篤い人間で固めることに意義があるというのは大前提だってば。
劉邦が劉賈を便利使いしてたり、劉秀が最初期にあえてケ禹を使ったり、李淵が息子達や李孝恭を便利使いしたのと同じ。
曹仁や三司馬らは兵略があったから大将軍になったのか?
違うよ。
>>726 私に対して行う反論ではないように思うが。
また、権威と能力については実績がなければ評価はできないし、二行目に関する実績は微妙だよ。
やはり親族で信頼がおけたという部分が一番大きいように思うぞ。
初期の幕僚ってそんなもんだろ。
典韋とか許?とか徐晃とかどう見てもチンピラゴロツキシナ人でしかない。
こんな連中相手だから帝国陸軍の誇るチハたんなら連戦連勝大勝利!
ナンバー2においとくには、信頼できて、下克上なんか狙ったりしない人間が一番だからな。
能力は、他で補える。
なんでだつおモドキがここに居るんだよw
>>730 とくにあなたに対する反論でもないが、
>やはり親族で信頼がおけたという部分が一番大きいように思うぞ。
が当然大前提だが、
>>720は曹仁らと比べて夏侯惇がなぜ「優遇」されたのかが
疑問のようだから。
夏侯惇は、エン州維持、河南尹、二十六軍都督などの職責を大過なくやりとげて
昇進している。実績能力権威ともに十分というわけだ。
>>734 河南尹と二十六軍都督は夏侯惇伝を見る限り大過なくって務めあげた程度で、
華々しい功績のある曹仁・曹洪・夏侯淵には実績面で及ばないな。
エン州維持の時は夏侯惇の役割はそんな重要じゃないし。
>>735 実戦での戦果は功績として上積みされて考課の対象となるが、
実戦のような特別のシチュエーションの功績だけが
組織人にとっての功績・実績というわけじゃないよ。
どんな官僚社会や企業だってそうだろ。
太守なら犯罪検挙の数や裁判の正確さなどが査察され、毎年順位が付けられた。
まあ後漢末に査察体制が機能していたとは考え難いし、
夏侯氏はなおさらそのような平常の査察の対象外だったろうが、
「大過ない」というのは重要なことだ。
しかし、立伝されてる地方官とか中央の文官とかは目立った功績を積み上げたりしてるのが多いし、
目立った功績も無く大過無く務めただけの奴はそもそも出世してないし。
将軍だってやはり目立った功績があるのが曹操の時代から司馬氏の時代に至るまで出世してる。
そんな中、大過無くというだけであそこまで出世すると言うのはだいぶ異常な気がする。
>>738 常識的に、または直感的にわかることを変に懐疑するから、異常な気がするだけ。
成り上がりの独裁者に信頼できる側近が必要なのはいつの時代も変らず。
いや、実績たっぷり、実績が申し分ないとまで言っている人がいるからややこしいことになっている気がするのだが。
>>740 あそ。それならそれでいいけど。
ちなみに「ボカサ一世」で検索してみ。
指導者の従兄弟であり、軍事を握っていた側近がクーデターを起こすこともある。
つうか、隋を倒した唐の李淵は煬帝のいとこだったりするしな。
血縁が社稷守るとは限らない。むしろ八王の乱のように一族殺しあうケースもあるんだから。
それらは目立った功績があったり高い権威を持っている人間が他に居たらやばいケースだと思うのだが気のせいか。
他に居たらやばいケース?
つまり夏侯惇は目立った功績が無くて権威も無かったからやばくなくて、
安心して重用できたと言うこと?んな馬鹿な。
功績も権威も無い奴を重用するなんてえこひいき以外の何物でもないわ
ちゅうか、親族や忠誠篤いことが有益であるということを覆しても、
夏侯惇に実績があったことにはちぃともならん気がするのだが。
>>745 帝位の世襲なんてえこひいき以外の何者でもないわというのと同じで、そこちゃぶ台返してもどうにもならんかと。
特に兵権に関しては容易に一族から手放さない方が良いという感覚があったのは、世兵制の存在からも明らか。
>>745 夏侯惇に功績や権威がなかったとは俺は思わないが、(むちゃくちゃ有能じゃないまでも後ろを任せるのは十分な
能力と信頼があると思うから)えこひいきだからって非難するのは意味がないぞw
権力者のやることなんだから。
>>747 許靖には全国区の名声という、この時代最大の権威があるじゃん。
曹家の私兵から始まった魏王国の大将軍に、生え抜き中の生え抜きの加工豚が就任することに何の疑問があるの?
理屈っぽいこと考えすぎだよ、チミタチ。
>>749 功績や権威がなかったとは言ってないんだがなぁ。
功績や権威が微妙だ、魏の他の将に比べ相対的にそれほどではない、
それを決定的にしたのは親族であったり忠誠が篤いとみなされたことだと言っているだけで。
そもそも何が疑問で何が納得できないのかわからん。
「曹操の人事は公平じゃない」「夏侯惇伝には記録の欠落がある」とかそれ系のこと?
実際には疑問になんてないのにまぜっかえしたいだけだと思われる。
>>753 とにかくアレだ。
今の日本の閣僚の経歴を調べて、政治とはどんなもんか考え直せ。
>>754 いや、疑問があった当人ではなく、726あたりからほんの少しだけ違う結論を持った人間同士の応酬になってる。
>>754 実績は微妙だが、親族や忠誠の篤い人間を側近に据えたことは正しい人事である。
>>756 今の日本の閣僚の経歴と直接比較できるのは議院内閣制成立以降のように思うが。
ちゅうか、そこを持ち出すと非常にややこしい事態に陥らんか
>>753 順序が逆だろう。
夏侯惇は曹操の旗挙げ当初からナンバー2かそれに準じる地位にいた「親族」であり、「忠誠が篤い」人物だった。
その後、曹操の飛躍に従って夏侯惇もその時々の要職を歴任し、任命に耐える実績を積んできた。
30年間の官歴によって、曹操軍中での権威も身に付けてきたと見て良いだろう。
他の親族の護軍や将軍としての活躍は、勿論大きなものだが、夏侯惇の優先的な地位を覆すほどではなかった。
そのため、夏侯惇は最終的に曹丕の元での大将軍という地位を手に入れることができた。
魏の生え抜き連中はほんとゴロツキ貴族だよな。
王朝建てた連中は前政権の引き継ぎでも無ければ、たいていごろつきか、どっかのやくざの大将だろ。
ゴロツキ貴族という言葉の意味が分からない
とにもかくにも能力第一とでも言いたいのか、穿ち過ぎな見方に
捉われてる人がいる感じではあるな
曹操の創成期でいえば、史渙なんかも客将として陣営に身を投じながら
重用され、中領軍の様な顕職を与るまでになっている
王朝としての体裁や官僚機構が整備される以前の時期ってのは、
才幹も重要だがそれ以上に絶大な信用をおくに値する人物が貴重
だという事でもあるな
夏侯惇はまさにそれに合致した得難い人物だったという事なんだろう
夏侯惇も傑出した能力はないにしろ十分過ぎるほどに曹操の信頼に
応えたわけで
たぶん、劉備とか曹操のようなことを言いたいんじゃないかな
>>763 歴史に出てくるのは能力のある人間ばかりだから、
その中で能力が怪しいのが目立ってたら、
不思議に思う気持ちは分からないでもない。
「信頼を得る」ってのは何にも代え難い能力なんだぜ。
そこで加工坊ですよ。坊はほんとにただの坊ちゃんだった。
親父のすごさがわかりますよね。
呉の夏侯惇的存在って言えば誰だろ?
呂範?諸葛瑾?主君からの信頼がとにかく厚くて、人間性と忠誠心を買われて、
任された仕事を大過無く務めて、功績のわりに重用されたという意味で。
どこにでも同じような存在がいるわけでもないし、組織的にも異なるものを比較してどうするんだ。
>>769 周瑜以外、みんな降伏すべしの世論の中で孫権のこと考えているの
誰もいなかったろ
つまりそういうことだよ。
>>771 周瑜とともに孫策死後の軍事を任された宿将中の宿将程普と呂範が、
降伏派だったのか抗戦派だったのか気になるところだ。
軍人や側近がどう思ってたかは、見事なまでに書かれてないよね。
そもそも、自分で旗揚げした曹操の、旗揚げ当時からの片腕だった夏侯惇のような人間は、
三代目で父兄が残した家臣団に囲まれた孫権には存在しない。
>>773 そういうことだな。組織である前に人と人の関係なのだから。
役割的にも、孫権陣営には夏侯惇のような絶対的なナンバー2ってのがいないからな。
周瑜や魯粛や呂蒙や陸遜ですら、ほぼ同格の人間が何人もいた。
曹操が荊州を降伏させてから、益州も曹操に服従して、
揚州の孫権も荊州のように群臣の大半が降伏論に傾いている。
この状態なら、順当に曹操天下統一できたんじゃね?
逆に孫権陣営の降伏論が周瑜一人の抗戦論でひっくり返って、
赤壁の戦いにつながって天下取れんかった理由が不思議だわ。
777 :
世界@名無史さん:2010/07/13(火) 18:45:55 O
曹操は"ハードラック"と"ダンス"っちまったんだよ。
魏書武帝紀(曹操伝)「曹操は赤壁に来て劉備と対陣したものの、緒戦では敗れた。その頃疫病まで起こり兵士が多数死んだので、仕方なく軍を退きあげた」
蜀書先主伝(劉備伝)「曹操と赤壁で戦って、大勝! 曹操軍の船を焼いて、南郡にまで迫った。曹操軍は、軍中に疫病が起こって兵士が多数死んだので、退きあげた」
蜀書諸葛亮伝「曹操は赤壁で負けて、軍を退いた」
呉書呉主伝(孫権伝)「周瑜と程普を派遣して劉備を援護させ、赤壁で曹操軍を徹底的に打ち破った。曹操は生き残った船を焼いて退きあげたものの、飢えと病で兵の多くが死んだ」
呉書周瑜伝「劉備と共同で、赤壁で曹操軍と戦火を交えた。すでに疫病が蔓延していたため緒戦で敗れた曹操軍は、長江の北岸に陣を構える。持久戦は不利なので、黄蓋の献策を容れ、
船に油を積み突っ込ませた。強風にあおられて曹操軍は炎上し、焼け死んだり溺れ死ぬ者多数。曹操は退却し、追い討ちを受けたので曹仁を江陵に残して退きあげた」
呉書黄蓋伝「周瑜の配下として赤壁で曹操軍を押しとどめ、火攻めの計略を進言した。戦闘中流れ矢に当たって長江に落ちたものの、引き上げられても顔を知る者がなく、便所に放置される」
黄蓋って本当に重臣なのか? ゴミのような扱いうけているんだけど。
>>778 赤壁当時、丹楊都尉。比二千石。周瑜や程普や呂範が中郎将で同じく比二千石なので、
まあ、重臣と言って良い地位。
なんで便所に放置されるの
>>781 下っ端の兵卒は黄蓋の顔知らなかったから、ただの兵卒だと思って便所に放置したんでしょ?
208年、曹操が江南に進軍して赤壁の戦いが始まると、黄蓋は周瑜の指揮下で従軍した。曹操軍の艦船を焼き討ちすることを進言し、
偽りの投降を用いた火攻めで曹操軍を攻め立て、曹操軍の艦船と岸辺の軍営を焼き払った。この火攻めの際、黄蓋は流れ矢に
当たって長江に落ちてしまい、救い上げられたものの、黄蓋とわからなかったために、負傷したまま厠に放置されてしまった。
しかし、同僚である韓当が見つけて手当てさせたため、九死に一生を得たという(「周瑜伝」、「韓当伝」)。
厠うんぬんは韋昭の「呉書」じゃね?
兵士が郡の都尉なんて大官の顔、普通知らんもんなあ。
便所のエピソードは、黄蓋の声を聞いて韓当が気づくという、二人の親交を描きたかっただけのようにも……。
黄色い蓋だものな。便所にあってもおかしくない。
単身戻ってきた将校が将校だと信じてもらえないことは世界中の戦史に頻繁にある。
写真等で知ることが容易になったのはつい最近。
つか、負傷兵を便所に放置って・・・。
赤壁の真実がかいま見れますね。
ずぶ濡れ血まみれ、負傷者の中に紛れてたら、近しい者でもなかなかわからん。
>>789 川から引き上げるだけで、かなり人道的な出来事だぜ。
>>779 そのスレの曹操側に有利な理論に依った場合、孫劉同盟は勝っていないが曹操軍は敗北したというのが適切のように思うが。
自ら帥を起こして作戦目標を達成出来ず、おまけに疫病などを受けてある程度の打撃を受けつつ撤退したのは敗戦だよ。
>>787 このクソ野郎w フイタじゃねーか
黄蓋が降伏派だったか抗戦派だったかが気になる
794 :
世界@名無史さん:2010/07/13(火) 21:09:55 0
程普等の呉の武将連中は、
自分の意見があったにしろ、それが呉の世論を動かす力はない。
周瑜は陽州随一の名門の貴公子であり、しかも呉の主力軍を統率して
いるという地位あったから決戦に持ち込めた。
古参の武将連中は決定に従うだけの存在でしかない。
蜀漢建国後、関羽や張飛が政治的に主導する立場にならなかったのと
同じだ。新参とはいえ、知識人である諸葛亮や法正の意見が方針となる。
そこらへんはやっぱ中華だな
>>794 つまり既存の単語に言い換えると、周瑜が随一の名士だったというのが大きいのだろうね。
随一の名士は張昭だよ。
軍部を統括する周瑜と、新参で、だからこそ孫権と親しい位置にいる名士の魯粛が
孫権の望みと合致する計画を立てたからこそ、
名士・文人群の降伏論に孫権が抗することができたわけだろう。
>>794 >>797 この当時の呉の軍部を統括してるのは、周瑜・程普・呂範の三人だよ。
その中で積極的に抗戦論を唱えたのが周瑜だけと言う話。
他の二人のこの時の動向は不明だが、この二人が周瑜の意見に反対していたら、
抗戦論は通らなかった可能性が高い。
すくなくとも役職から見る限り、孫権軍部を統括しているのは、「中護軍」周瑜。
中護軍は、漢では戦時編成された諸軍、魏晋では外軍全軍を統括する権限を持つ役職なので、
周瑜の権限も中郎将・校尉などで構成される孫権軍全軍に及んだと見ていい。
(郡に所属する兵は別だろう)
勿論、役職とは別に程普・呂範らの軍部での発言力は相応のものがあっただろうけど。
>>799 周瑜の中護軍は諸軍を統括する任務じゃないよ。
孫策時代からの役職だけど、諸軍を統括する役割についた事は無い。
孫策死後、軍権を預かったのは、周瑜・程普・呂範の三人。
この三人はいずれも中郎将で同格。
そして、周瑜は黄祖討伐では前部大督。赤壁では左督で程普の右督と並ぶ地位で、
単独で全軍の指揮権を握った事は無い。
>>800 ないよ、と言われても、中護軍とは普通そういう役職だ、としか。
のちに張昭とともに「衆事を掌る」役目を預けれらたのも、中護軍の役割の延長だろう。
また、周瑜・程普・呂範の三人だけを同格・権限分担とする理由もわからない。
孫策時代の中郎将なら他に張昭・太史慈がいる。特に張昭は孫策・孫権直下の中枢軍を統括していたと見られる。
ちなみに、指揮権と統括権とは違う。孫呉軍の総指揮権は継続して孫策・孫権が持っている。
だから、大きな戦役が起きて 孫氏以外の人間に大軍の戦時指揮権を預ける場合、大督とか左右督という職が任命される。
ちょっと不親切だったか。
説明なく統括といってしまったが、護軍系列の武官の役割は、史書に「総統」「主」「掌」「典」「護」などと書かれるように、軍令権ではない。
管轄諸軍・諸将の監察・弾劾・考課などを担当し、皇帝や高位将軍へ辭訟を行う。
将兵の綱紀を粛正し、正常な活動を維持するのが役割。
そこから発展して、後漢末三国では臨時に諸将を直接指揮することもあった。
特に中護軍といえば
>>799のようにほぼ全軍を管轄範囲として大きな権限を持っていた。
それはつまりは「統括」ではなかろうて。
>>801 孫権伝 而周瑜、程普、呂範等為將率
周瑜 中護軍・江夏太守・建威中郎将
程普 桂陽太守・盪寇中郎将
呂範 都督・桂陽太守・征虜中郎将
その呂範の都督はちょっと違うと思うが
呂範って演義ではカゲ薄いよな
>>784 だとしたら、wikiの黄蓋の記述まちがっているな。 そこからの孫引用だから。
>>805 呂範の都督は軍の規律を引き締め、事務処理を担当する仕事だな。
孫策によると、「呂範ほどの人物がする仕事じゃない」らしいが、
役目と権限はかなり重要だろう。
>>808 孫策の直属部隊の司令官でしょ。
門下督とか帳下督みたいなもんじゃないの?
その任を継続していたわけじゃないだろう。
>>809 策從容獨與範缱,範曰:「今將軍事業日大,士红日盛,範在遠,聞綱紀猶有不整者,範願蹔領都督,佐將軍部分之.」
策曰:「子衡,卿既士大夫,加手下已有大红,立功於外,豈宜復屈小職,知軍中細碎事乎!」
範曰:「不然.今捨本土而託將軍者,非為妻子也,欲濟世務.猶同舟涉海,一事不牢,即俱受其敗.此亦範計,非但將軍也.」
策笑,無以答.範出,更釋恳,著苎褶,執鞭,詣閤下啟事,自稱領都督,策乃授傳,委以红事.由是軍中肅睦,威禁大行.
どうやら軍の監察を担当する職務っぽいね。
騎都尉って比二千石の大官で、普通に中央で勤務するか、
位の高い文官や太守や刺史などに加官で与えられるのが普通のはず。
それなのに韓馥に仕えてた頃の沮授は別駕という州の属官なのに、騎都尉を加官されている。
州の属官に騎都尉を加官するのは異例過ぎる気がするんだが、
なんで韓馥は沮授に騎都尉を与えたのだろうか?沮授の地位の高さが謎すぎる。
加官じゃなくて異動じゃないの?
百石の別駕から比二千石の騎都尉ってどえらい昇進じゃね?
普通じゃありえん異動だろ?
無位無官から中郎将になるよりはまだありうる異動だろ
秦宓 別駕から左中郎將
李恢 別駕から庲降都督
王謀 別駕から漢中王少府
韓浩 従事から騎都尉
崔琰 無官から騎都尉
程c 無官から騎都尉
任峻 郡吏から騎都尉
徐晃 郡吏から騎都尉
臧霸 無官から騎都尉
孫観 無官から騎都尉
常林 無官から騎都尉(固辞)
反董卓連合軍前後、諸侯がそこそこ気軽に任命できる上限が騎都尉だったんじゃないか。
校尉や県令や従事じゃなくて、なぜ騎都尉なんだろう?
中郎将並みの地位をなぜ気軽に任命できるんだ?
孫策が太守が騎都尉じゃ官位が低いから将軍がいいとかナントカ言ってた様な。
>>817 騎都尉は定員なしだから
他の官は無制限にホイホイ増やせるものではないが、騎都尉ならいくら増えても大した問題にはならない
>>803 周瑜は孫呉の諸軍を総統した、という方が正確かな
>>820 総統と統括の意味の違いは?
それに周瑜は孫呉の軍の総司令官じゃないぞ。
統括という言葉は確かに史書で使われておらず、意味が不明確なので、言い直した。
「統」というのは、帥、率などという軍令権とは異なる権限。
西域都護の「令總統西方」や魏の中護軍の「總統諸將」など。
彼らは本来職掌の上では、西域の異民族国家群や魏の諸軍に命令を下す司令官だったのでは無い。
董允は侍中・尚書令に輔国将軍。陳祗は侍中・尚書令に鎮軍将軍。
侍中と尚書令を兼任するだけでも相当な権力なのに、将軍まで兼任すると言うのはどういうこと?
この二人は軍政両方の権限を掌握したってこと?それとも単なる名誉職?
多分単純に豪族として世兵制的な兵力を保持しているのを追認し、国家の影響下に納めてるんじゃないかなと愚考する次第。
んじゃ、豪族としての世兵を持っている奴は、文官だろうと将軍や中郎将や校尉や司馬を兼任しなきゃいけなくなるな。
成都の近衛軍(ある一部)の指揮権を握ったから。
宮中で皇帝に信任され、権力を掌握した者は皇帝周辺の兵権を同時に掌握したことが多い。
>>826 国家の枢機に預かる皇帝の側近トップの侍中と、国政を取り仕切る尚書令に加えて、
近衛軍の兵権まで掌握してしまったら、とてつもなく権力大きくならね?
大将軍を脅かしかねんぐらいの。
董允辺りがその気なら見込みはある。
ただ、成都諸軍の全軍を「董允派」が固めていたわけでもなかろうし、宰相と政治抗争を展開するには
皇帝の支持を取り付けることが必要だが、
劉禅自身が丞相や大将軍を信任していたので、一朝で覆すことは難しかっただろうけど。
諸葛亮から蒋エンにかけて、丞相・大将軍がしばしば留守にしても皇帝との間にヒビが入らなかったのは、
ひとえに董允が重石になっていたからと言っていいだろう。
それだけ劉禅にとって大きな存在だったからこそ、その死後に陳祗らの「讒言」を受けて
好悪が逆転し、「自分は董允に圧迫されていた」と思うようになったのだろうね。
董允の絶大な権力が成都の重石なら、陳祗の絶大な権力は単なる寵愛の結果?
董允の侍中・尚書令・輔国将軍と陳祗の侍中・尚書令・鎮軍将軍では、だいぶ意味合い違う?
皇帝の側近=絶大な権力って構図は
皇帝の権力が強大な場合に限られるんじゃないか?
権臣の権力が絶大で、そいつが皇帝を監視するために側近の要職に置いた人物なら、
皇帝の権力が絶大じゃなくても、権臣の朝廷における代理者として絶大な権力を振るえる。
董允はこのパターン。
陳祗の場合は、最高権力者の姜維が外地で戦争に明け暮れてて、
政権ナンバー2として実質的に国政を取り仕切っており、姜維を凌ぐ権力を握っていた。
二人が皇帝の権力が強大じゃなくても、皇帝の側近として絶大な権力を握れた理由。
董允の場合は「側近としては絶大」でも、蜀漢全体としては外の宰相が力を持っている分
「国政への権力が絶大」とは言えない。
董允は諸葛亮と懇意であり、連携していたが、諸葛亮によって置かれたのではない。
太子舍人になったのが劉禅の側近としてのはじまりで、以後劉禅の即位に伴って出世していった。
董允は、劉備によって劉禅の側近たる正当性を得た人間であって、
つまり、先帝の権威と、当代の劉禅からの重用によって、彼の地位が保証されていた。
諸葛亮もまた、自分自身の実績による権威と、託孤の臣という先帝お墨付きの権威と、
劉禅自身からの信任という権威の三つの上でバランスを取る立場。
皇帝の同意の許に皇帝を抑制できても、「監視」とまで言うほどではないだろう。
また、その後、蜀漢では劉禅の権力は拡大していく傾向が見られ、
陳祗・黄皓の台頭は明確に皇帝権力の拡大の上に載ったものと言える。
833 :
世界@名無史さん:2010/07/16(金) 00:00:59 0
董允は独立した伝が立っているのが気に入らない。
陳寿に言えw
835 :
世界@名無史さん:2010/07/16(金) 05:47:29 0
>>833 董允がもっと存命だったら、
陳祗・黄皓の台頭はなく、蜀は滅びなかったかもという
陳寿の思いがあると思う。それと、功績は父親を上回っているのだから、
流石に付載で済ませるわけにはいかなかったのだろう。
836 :
世界@名無史さん:2010/07/16(金) 08:12:33 0
>>835 功績?董允に功績なんて何も無いだろう。
ホウ統の後任の董和のほうがよっぽど功績は上だわ。
君主の輔弼、善導。功績は大だろう。
四相だし。
それに董允伝があの位置にあることで、政権の顔の流れがはっきりして良い。
陳祗が呂乂のあとにあればもっと良かった。
839 :
世界@名無史さん:2010/07/16(金) 09:20:19 0
>>836 あるだろ。
董允が存命中は、劉禅は賢明な君主という体裁を保てたの
だから。まさに天子の落ち度を防止する侍中の建前を実践していた。
だから高い評価をされている。
>>837 陳寿は陳祗・黄皓を国家転覆の主犯として憎んでいるな。
賢明な董允の伝記に付載することにより、奸臣ぶりを際立たせようと
しているのがわかる。
840 :
世界@名無史さん:2010/07/16(金) 11:47:00 0
>>837 >君主の輔弼、善導。功績は大だろう。
してるか?
>四相だし。
明らかに格落ちな董允が「四相」と並び称されていたということが何を示すのか。
>董允伝があの位置にあることで、政権の顔の流れがはっきりして良い。
董和伝に付記されていたとしても変わらないだろう。
>>839 >董允が存命中は、劉禅は賢明な君主という体裁を保てたの
董允関係ないんじゃね?
>だから。まさに天子の落ち度を防止する侍中の建前を実践していた。
落ち度なんてあったか?
>だから高い評価をされている。
死んだ後にな。
841 :
世界@名無史さん:2010/07/16(金) 12:33:37 0
>>840 劉禅が重用した人物ではまともな活躍してた人いないから
陳祗・黄皓みたいな佞臣を重用しただけ。
名臣は劉備や諸葛亮が選抜し、補佐に付けた人達ばかり。
宮中で目を光らせ、忠言を奉る役目を全てに渡って引き受けたと
の記述があるので、天子の落ち度を未然に防止していたのは明らか
だろう。未然に防止してたから落ち度が無かった。
伝記とは死去した評価だよ。
誰か、護軍と監軍と領軍と典軍の違い教えて。
俺が教えてほしいわ。
一本じゃ足りない
史料が少ない典軍はともかく、監軍と護軍と領軍は別個に専論が書ける。
護軍の専論はあるし、監軍は中国軍事史全体に拡大できるテーマだ。
で、結局このスレにいる奴には説明できる奴はいないのか。
魏や呉はともかく、蜀のなら分かる奴がいる気もするんだが。
じゃあ、せめて良く名前の挙がる護軍と監軍の違いでも。
監軍…監軍使者・監○州諸軍事の略。州に都督がいない場合、これを置く。
また、将軍が兵を起こすときに置く。
護軍将軍…禁中の軍を司り、諸将を統率する。経歴の長い者は護軍将軍、
浅い者は中護軍という。蜀は前・後・中・左・右の五護軍、呉は
中・左・右の三護軍を置く。
三国志全人名事典より
>>848 蜀のが一番難しいだろ。史料が少なすぎる。
魏が一番楽。上手く検索すればこのスレの過去ログか三戦板で語ってるのが見つかると思うよ。
費イが刺客に刺された時の悲鳴。
「ヒィィィィ」
853 :
↑:2010/07/17(土) 07:22:47 0
【審議中】
ババ バババ ババババ
バババ ∧_,∧ ババ ∧_∧ バババ
∧_∧バ( ´・ω・∧_∧ (・ω・` ) ∧_∧
(´・ω・)=つ≡つ);;)ω(;;(⊂≡⊂=(・ω・`)
(っ ≡つ=つ (っ ⊂) ⊂=⊂≡ ⊂)
/ ) バ∧_∧| x |∧_∧ バ ( \
( / ̄∪バ ( ´・) ∪ ̄∪(・` )ババ ∪ ̄\ )
ババババ/ ) バババ ( \ ババババ
バババ `u-u'. バババ ババ `u-u'
854 :
世界@名無史さん:2010/07/17(土) 07:32:17 0
俺がわからないのは典軍。
役割が全くわからん。
855 :
世界@名無史さん:2010/07/17(土) 15:31:52 0
>851
蜀の護軍は、
中央管轄の軍の責任者みたいな立場では?
実戦部隊の指揮官が兼務している場合もあるけど、
管理運営のトップみたいな感じでは?
どうもかなり高位な将軍以外は、指揮する立場に
あるみたいだし。黄権、費褘といった文武に優れた逸材が
就任してるし、趙雲・陳到みたいな古参で忠勇の将軍も就任
している。蜀では、並の将軍号よりは要職の証のように思える。
呉の韓当って古参で孫権の評価高いわりに、なんで出世遅いんだ?
孫堅時代に別部司馬。孫策時代に校尉。赤壁で中郎将。呂蒙の荊州奪取後に偏将軍。
夷陵後に威烈将軍、その直後に昭武将軍。
同輩の程普・黄蓋どころか、孫策時代に仕えた呂範・蒋欽・周泰・陳武・董襲、
孫権時代に仕えた甘寧・徐盛・潘璋・朱然にも追い抜かれてる。
そこに挙げられている面子って、個人的な武力が半端なかったり、
元々名門だったり、主君とコネがある人達ばっかりだよね
韓当が遅いんでなくそいつらが速いんだよ
それよりも、○○に従って戦ったって記録ばかりで、
個人の戦功がほとんど無い事が古参なのに出世できなかった理由なんじゃ?
ていうか、呉書読み返してみたが、呉の立伝されてる武官の中で、
韓当だけ見事なまでに戦功が無くて浮いてた。なんでこんな奴立伝するんだよってぐらい。
>>657 主君とのコネ 弓馬の巧みさ、膂力の強さによって孫堅に寵愛された。
遠方に出征したときは総帥として将兵を励まし、心を一つにして固守し、
目付役を尊重して法令を遵守したので、孫権は彼を褒めていた。
人並み外れた武力 弓馬の巧みさ、膂力の強さによって孫堅に寵愛された。
無いのは家柄だけだな。
孫堅とのコネであって、孫権とのコネではないんだよな
>>860 しかし、孫堅時代からの家臣の大半は、
孫堅が用いてたからって理由で重用され続けてんな。
いいや。
代替わりしたから旧臣がすぐに放逐されるわけではないが、
孫策も孫権も結局は自分の代で抜擢した部下に重要な権限を掌握させている。
だから孫堅時代の有力幹部は以後中央の政治に関わることはなく、
孫策は周瑜と張昭に後事を託し、程普は周瑜に遅れを取り、
張昭は丞相になれず、呂蒙・周泰・蒋欽らが督として諸将を監理した。
韓当が偏将軍になった「呂蒙と南郡奪取」というのが
曹仁駆逐のことなのか関羽駆逐のことなのか、お前ら議論してくれ
俺は曹仁駆逐だと思っていた。
某所の掲示板では「周瑜が負傷したので呂蒙(と韓当)が南郡を奪取した」というコメントも見た。
だがこれを関羽駆逐のことと当然のように見なす人も多いし、確かにそうとも読める。
じゃあ早いけど俺はもう寝る。
>>863 関羽駆逐じゃね?曹仁駆逐の時の主将は周瑜だから、
周瑜が負傷して動けない状態でも、史書は「周瑜が南郡を奪取した」と書くし、
曹仁駆逐の時に南郡奪取に参加したなら、周瑜と南郡を奪取したと書かれるはず。
関羽駆逐の時は呂蒙が主将だったから、「呂蒙と南郡奪取」と書かれたと思う。
臭い仲の黄蓋も元は孝廉に推挙歴があるエリート
>>885 孝廉で三公の府の属官やってて、文官のエリートコース歩んでた人間が、
なんで孫堅の軍に参加して別部司馬なんかになって、
それから戦場を駆け巡って、戦争や賊の討伐に従事したんだろね?
孝廉出身の三公の府の属官が、エリートコースを擲って孫堅の軍に参加したのはなんでだろ?
県長や県令や太守を歴任したけど、まるっきり武官あがりの地方官の統治方法だし。
幽州からわざわざ南方の孫堅軍に参加した程普や韓当といい、黄蓋といい、
孫権軍古参の人は謎が多いね。程普と韓当に差が付いた理由とかも謎。
単純に三公経験者で、孫堅が従軍したこともあって、武官あがりの張温あたりの招きを受けていたんじゃないか。
張温は董卓に殺されているから、孫堅の軍に参加する流れも自然。
孫堅が鎮圧した荊州南部の反乱に一族が加担してて巻き添えでドロップアウトしちゃったとか
>>867 張温は尚書郎、潁川太守、尚書令、大司農、司空を歴任した生粋の文官ですが。
辺章の乱の時に車騎将軍として討伐の任にあたったのが初の軍事経験。
黄蓋は長沙あたりで県令してた頃に、太守の孫堅が挙兵したから従ったと妄想。
孝廉やったら、三公の属官を経て、県令になるのが普通だからな。
>>870 妄想じゃなくて、自然に考えればそれが一番あり得る話だよ。
黄巾の乱の鎮圧から参加したと考える人もいるようだが
その根拠はなかったはず。
>>871 いや、それはかなり有り得ない話。
黄蓋が孫堅軍に入って最初に得た官位は別部司馬。県令より格下。
その後、黄蓋は孫策や孫権の時代に県長や県令を歴任してる。
孫堅の時代に県令からスタートした人間が、
格下の別部司馬や県長を経て、孫権の時代にようやく県令になると言うのはおかしな人事。
それほどのキャリアがあるなら、太守や都尉を孫策時代から務めていてもおかしくないはず。
おそらく、三公の属官を務めていた時に何らかの理由で官を去って、
無位無官だった時に孫堅軍に参加したんだろう。
873 :
世界@名無史さん:2010/07/19(月) 20:33:13 0
費褘は侍中から参軍、次いで中護軍に就任してるけどさ、
蜀の参軍や中護軍は侍中よりも上なの?
費褘は将来を嘱望されたホープだから降格のはずがない。
少なくともスライドだよね。蜀では参軍・中護軍かなりの
高官なの?
874 :
世界@名無史さん:2010/07/19(月) 20:51:01 0
侍中=成都でお留守番じゃね?
875 :
世界@名無史さん:2010/07/19(月) 21:02:08 0
成都のお留守番のトップは留府長吏の蒋琬じゃないかな?
考えてみると、諸葛亮死後の後継者は留府長吏の蒋琬か、
北伐に随行していた楊義だった。激務をしていた楊義が事実上
左遷され、留府長吏の蒋琬が国政のトップになったから、楊義が
狂ったように誹謗中傷して島流し。長吏は丞相の後継者候補が
就任するポストだったんだな。
>>873 参軍は丞相の高級顧問官。謀議に参与したり事務を取り仕切ったり軍を指揮したりする何でも屋。
中護軍は中央軍の監察官。蜀では侍中と同格かそれ以上の高官と思います。
>>875 長史って地位的には丞相の副官に過ぎないけど、
実権的には九卿や尚書令・尚書僕射なんかより上だったのかな?
877 :
世界@名無史さん:2010/07/19(月) 21:35:51 0
>>876 中護軍・征南将軍の趙雲は要職に抜擢されたんだな。
でも、魏延とどっとが格が上だったのだろう?
長吏は諸葛亮死後は見かけない官職だよね。
諸葛亮時代は後継者候補だけど、それ以降は尚書令・尚書僕射の
方が上と考えるべきだろう。
878 :
世界@名無史さん:2010/07/19(月) 21:39:34 0
>>877 李福が大将軍長史になって、あっさり死んでる。
>>877 蜀の四征将軍はただの雑号将軍。四鎮将軍は方面軍司令官。
鎮北将軍で漢中において魏との前線の防御を担う魏延の方が格上でしょう。
>>876 諸葛亮時代の蜀の権力が、それだけ丞相府に集中していたってことだね
万機を掌った丞相の決裁を皇帝が認可するだけの状態では、尚書や侍中は政治的権限を振るえない。
ただし、皇帝と丞相の間に亀裂が入らないようにするには両者から信頼される人間がそこにいる必要があるが。
881 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 06:56:22 0
諸葛亮が死去して、蒋琬次いで費褘が尚書令に就任することにより、
このポストが要職に戻ったという感じか。
882 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 11:59:07 0
う〜む
>>881 諸葛亮時代の尚書令陳震は影が薄かったしね。
歴代の丞相長史の官暦を追ってみた。
王連 梓潼県令→什邡県令→広都県令→司塩校尉→蜀郡太守・興業将軍→屯騎校尉・丞相長史
向朗 臨沮県長→秭帰・夷道・巫・夷陵の四県の軍事と民政担当(官位不明)→巴西太守→
牂牁太守→房陵太守→歩兵校尉→丞相長史→罷免→光禄勲→左将軍・特進
張裔 魚復県長→益州従事・帳下司馬→→巴郡太守・司金中郎将→益州太守→
参軍・益州治中従事→射声校尉・留府長史→輔漢将軍・留府長史
楊儀 荊州刺史主簿→襄陽郡功曹→左将軍兵曹掾→尚書→弘農太守→参軍→
長史・綏軍将軍→中軍師→罷免
蔣琬 荊州書佐→広都県長→罷免→什邡県令→尚書郎→丞相東曹掾→参軍→
留府長史・撫軍将軍→尚書令→行都護・仮節・益州刺史・大将軍・録尚書事→大司馬
なんか、重職を歴任してきた他の長史に比べ、蔣琬の参軍になってからの特進ぶりが目立つ。
この急速な何段飛びもの昇進は何なんだ。閲歴で勝る楊儀が蔣琬の後継に納得いかなかったのも分かる。
もし仮に王連や張裔が死ぬ前や、向朗が長史を罷免される前に諸葛亮が死んでたら、
王連や張裔や向朗が、楊儀や蔣琬に代わって諸葛亮の後継者候補となっていたのだろうか?
885 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 17:13:45 0
>>884 張裔・向朗・楊儀はあくまでも事務屋としての能力が買われただけ。
国政を統括することは期待されていない。王連は財政を支える経済顧問
としての起用だろう。
おそらく、北伐する頃には諸葛亮は内々で自分にもしものことがあれば、
蔣琬を後継にと劉禅と、その側近(費褘・董允)にも伝えてあったと思われる。
蔣琬の出世が急速なのは劉禅の承認が出たからだろう。だから蔣琬を留守に
残し、代わりに蔣琬の次の世代の費褘を参軍・中護軍という文武を統括する
立場に置き、諸葛亮の死後は蔣琬・費褘を中心とする体制を作っていた。
楊儀は諸葛亮の側近でありながら、諸葛亮の意図が全く理解できていなかった。
リスク管理の観点からも、トップが遠征等に出ている場合は、2は国内に残り、
遠征には加わらない。諸葛亮もその定石通りのことをしている。楊義は遠征に同行
させれた時点で、自分は諸葛亮の次はないと悟るべきだった。
向朗は事務屋じゃないだろ
>おそらく、北伐する頃には諸葛亮は内々で自分にもしものことがあれば、
>蔣琬を後継にと劉禅と、その側近(費褘・董允)にも伝えてあったと思われる。
いつの北伐?
>王連は財政を支える経済顧問としての起用だろう。
根拠が薄い。
>>884 >王連や張裔や向朗が、楊儀や蔣琬に代わって諸葛亮の後継者候補となっていたのだろうか?
当然そうだろ
>>886 李厳失脚以前なら、李厳が繰り上がりで諸葛亮の後継者になるんじゃねえの?
888 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 19:42:08 0
230年に蔣琬が留府長吏になり、
侍中の董允と共に成都で劉禅のそばにいた時点で、
ある程度後継者の話は纏まっていたのでは?
李厳がちょうど仕事もしないで、要求ばかりするように
なってた時期だったし。諸葛亮の後継には相応しくないという
判断が内々で固まってたと思う。李厳を漢中に留めたのも、
蜀の本土にいさせず、不慮の時には後継にさせない処置だった
ように思う。
費褘と姜維で中央軍と漢中を監察させ、李厳・魏延が勝手なこと
をしないように見張っていたように思う。
とはいえ呉壱とか楊儀とか諸葛亮死亡時に大人しくしていれば魏延とか、明らかに格上の奴が多数いるのにショウエンを後継にってかなりのギャンブルじゃないかと思うんだけどな
魏延健在だったらそこで大モメしてたんじゃないか?
>>888 いや、諸葛亮の後継にふさわしくないとかそれ以前にさ。
普通、ナンバー1が死んだら、ナンバー2が繰り上がるでしょ?
そいつの資質と関係なしにさ。それが序列ってものです。
891 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 20:12:07 0
諸葛亮は死を前にして魏延・楊義を始末すること考えてたよ。
だから魏延は命令に従わなければ放置だったし、楊義は事実上権限の
ない官職にされた。大人しくしてれば天寿を全うできたが、逆らえば
死賜。ある程度は決まってたことだろう。
蔣琬・費褘が国政の中心になるように、生前から準備されていたと見るべき。
だからこそ、大した混乱無くすんなり後継できた。
892 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 20:14:24 0
>>890 序列がそうであっても、
皇帝の劉禅と国政を統括する諸葛亮の間で
話ができてたら別でしょう。しかも李厳を支持
する政治勢力がない。これなら序列は簡単に崩せる。
>>892 じゃあ、その場合李厳はどう始末すんの?
驃騎将軍・中都護・仮節で江州から永安にかけての統括者。
こんだけ絶大な権限持ってる人間を差し置いて、
遥かに格下の人間を後継者に付けるのは難しいだろ?
皇帝ですら、簡単に手を付けられないレベル。
じゃあ李福がいちいち聞きに行ったのはなんだったの?
>>893 先に蒋エンを尚書令にしておき、李厳を召還して大司馬にでもつけ、
実権を奪ってから蒋エンの位を上げれば良い。
諸葛亮の後継者指名が李厳放逐前に行われていたという明証はないし、
李厳の制御というのはかなり難しい問題になるだろうが、
劉禅と諸葛亮がその気なら無理なことではない。
>>895 じゃあ、李厳より位は低いけど、蒋エンよりは位や格が高い連中はどう納得させる?
李厳にはすべての群臣を納得させる位や格があるけど、蒋エンにはそれがないよ?
位や格が無い人が、ある人を差し置いて実権を握ることへの反発は小さくないよ?
>>893 それを言ったら魏延だって格上だし。
李厳は所詮は藩鎮に過ぎない。
ナンバー2ではない。
898 :
894:2010/07/20(火) 22:14:22 0
無視されてるΣ(゜д゜lll)ガーン
899 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 22:19:54 0
李福って何伝に載ってたっけ?
>>896 まず大前提。
蜀漢王朝のナンバー1は「劉禅」。
諸葛亮はまあ別格としても、蒋エンらは皇帝の「相(助け)」に過ぎない。
劉禅の意思さえしっかりしていれば、楊儀を閑職に回すこともできるし、
呉懿を漢中都督で一生を終わらせることもできる。
>>900 しかし、劉禅が政治に口出し始めたの、費イの時代なんだよな。
諸葛亮の後継争いには全然噛んでない。
>>897 いや、当時の蜀で官位と権限が諸葛亮に次ぐのは李厳なんだが。
劉備から後事を託された2人のうちの1人と言う権威もある。
それをナンバー2じゃない。ただの藩鎮だというのは新説だな。
>>902 ショウエンの事実上の更迭が政治や宰相人事に直接口出した最初じゃない?
905 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 22:33:29 0
>>901 とんくす。
>諸葛亮が武功で危篤に陥った。劉禅は李福を看病のため派遣し、諮問させた。
まず、この時点でおかしいだろ。間に合わんだろ。
最高権力者が急死し、側近が「遺言」を捏造するってのは古来しばしば行われたパターン
有名なのでは始皇帝死後とか
908 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 22:36:58 0
あと、諸葛亮伝の本文って、どうみても陳寿以外の加筆がされてるよな。
909 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 22:39:47 0
費イの長女は劉センの嫁。費イが、死んでいなければ費氏による外戚政治が行われていた。
>>907 ていうかショウエンが浮きすぎてるんだよ
列伝では悪くかかれてないけど、実際はショウエンが大将軍になること全然周囲も納得してなかったんじゃないか?
911 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 22:48:19 0
李福の逸話で、諸葛亮は蒋エンを後継者に指名したということを書いた。
ところで、この話、一番重要な点は、諸葛亮は蒋エンの後継者として費イを指名したこと。
諸葛亮が蒋エンを後継者に指名していたということは蒋エン伝本文にも見えるから、読む者はすんなり信じてしまう。
これが落とし穴なんだろう。
912 :
世界@名無史さん:2010/07/20(火) 22:48:45 0
李厳は確かに2ではあったのだけど、
彼の支持者となると皆無に近い。皇帝と諸葛亮の信認だけが
頼りといってよい。その信認が無くなったから失脚した。
政治基盤が脆弱。魏延や楊義もどうよう。結局は支持者が
いなかったから悲惨な最期を迎えた。
李厳が土着の豪族だったりしたら厄介だったけど、元は荊州
出身で、支持者もいなければ、排斥するのは序列が上でも難しく
はない。
蜀にあれだけ荊州出身者が流れ込んでれば土着の豪族以上の
政治勢力だと思うけどな。
まあ李厳がそれの支持を受けてたかといえばNOだろうけど。
荊州出身は排斥しやすい理由にはならないな
むしろ当時の蜀では排斥しにくい理由になる
それでも排斥された点が問題なんだよな李厳
単に本人の問題なのか、それだけ諸葛亮が磐石な権力を持っていたのか
しかし、諸葛亮ですら、李厳を失脚させる時にあれだけ多くの人間の支持を取り付けなければならなかった程度には、
李厳の権力は強力だったんだな。
>>902 蒋エンの死後に親政をはじめたってことね。
丞相に政事を委ねていても、高官人事を含む最高クラスの国事の決定権と権威は皇帝にある。
具体的には正式な詔勅が必要。
史実でも、劉禅は諸葛亮の遺志を受けて蒋エンを後継者に任命し、楊儀を排した。
はじめ、納得しない者も多かったらしい蒋エンの後継人事を定着させたのは、
紛れもなく劉禅の意思の元でのこと。
李厳や魏延が生きていたらそれが難しくなったかもしれない、という、程度問題の話でしかないよ。
ただ、李厳が五次北伐まで健在だったら、諸葛亮が後事を考えるに当たってその存在を完全に無視したか、
というのはまた別の問題だろうけど。
>>916 先帝の委託を受けた同朋を潰すんだからそりゃ当然。
諸葛亮が劉禅に密書を送って内々に進めたりしたら逆に諸葛亮の権威が傷つく。
大々的にやらなければならなかった。
>>909 劉センの母親は費氏じゃないんだから、それは厳密な意味での外戚政治じゃないだろう。
劉センの太子妃が費氏、だよ。
順当に行けば未来の皇后だった。
じゃー張飛の娘の姉妹は位が低かったんだ。
建国の功臣なのに扱い悪いね
>>921 外戚政治というのは、基本的には皇帝の母方の親族の権力掌握じゃないのか?
費氏が男子を産んで、それが皇帝になるまでには費イは死ぬだろう。
諸葛亮死後の集団指導体制、なんていう話もあったな
姉妹丼劉禅
おいしいよ
費禕伝読んでたら、費禕が蔣琬すっ飛ばしてそのまま諸葛亮の後継者になっててもおかしくない気がした。
費禕の官歴
太子舎人→太子庶子→黄門侍郎→昭信校尉→侍中→参軍→中護軍→丞相司馬→
後軍師→尚書令→大将軍・録尚書事
丞相司馬と言えば、魏延と並ぶ地位で丞相府の軍務を取り仕切り、
政務を取り仕切る丞相長史と並ぶ丞相府のトップ。
そして、長く不遇が続いてきた蔣琬とは違い、若くしてエリートコースを歩んできた。
地位的にも経歴的にも、蔣琬より諸葛亮の後継者にふさわしかった気がする。
>>925 諸葛亮死後の指導体制は蒋エン一人が権力を握ってるんじゃなくて、前線から軍を率いて帰還してきて、
そのまま軍部を掌握した中軍師楊儀、後軍師費イ、前軍師ケ芝、前領軍張翼、右監軍姜維の五人と、
侍中董允との集団指導体制だったんじゃないか?
>>924 皇后の親族になった時点から寵遇は始まるよ。衛青からしてそうだが、
竇氏、閻氏、梁氏、何氏と、いずれも皇后の親族。
もう一世代移って皇太后の親族の専横というのは確かに際立っているが、
皇帝が早死にしてしまうとき、幼帝を託すのに自分の寵遇した皇后の親族を選ぶことが多いから。
それから、劉センと費氏の間にたとえ子供がなくとも、皇后の地位を守ることができれば、
劉センの子供が皇帝に即位しても皇太后として遇される(政変などが無ければ)。
だから若い皇帝と直接血の繋がりのない外戚が幅を利かせることもある。
そもそも費イって丞相司馬として具体的にどんな仕事してたん?
魏延も丞相司馬だから、軍事に関係する仕事だとは思うけど、
兵を率いて戦ってたわけでもないよね?参謀長みたいな役割かな?
>>931 劉禅の皇后張皇后の兄弟の張紹は侍中・尚書僕射。甥の張遵は尚書だけど、
尚書系の要職って外戚への優遇措置で与えられるポストじゃないよね。
>>931 >皇帝が早死にしてしまうとき、幼帝を託すのに自分の寵遇した皇后の親族を選ぶことが多いから。
それはつまりは次期皇帝(劉センの子)にとっての皇太后の親族だろう。
劉センが死ぬのはいつさ。
劉禅より劉センが長生きするかもわからんし。
>>934 劉センが即位した時点で外戚政治は出来るし、漢の多くの外戚は同様だ、って話だよ。
で
>>933 それはその通り。外戚を傍に置いて権力を安定させるかどうかは、皇帝の考え方次第。
で、劉禅は外戚を重用しない皇帝だった。
>>934 曹丕も曹叡も孫休も早死にしたけど、息子を皇后の親族には託さなかったな。
魏には外戚に政治介入させない決まりがあったんじゃなかったっけ?
>>937 そう。だから魏は比較対象には出来ない。
>>938 いや、魏の皇后の伝記見てると、皇后や皇太后の一族が結構な高位に就いて、政権の中枢にいたりするんだが。
>>939 厚遇はされたよ。
確か光祿大夫とか。それは姻族に対する当時の礼儀。
でも漢のように政権の中枢にはいない。
魏にあるのは、皇后(女性)に政治に口を出させない決まり。
もちろん、意図としては外戚排除なんだけれど。
もっとも、最後の方で破られていた気がするが。
>>935 >>909 >費イの長女は劉センの嫁。費イが、死んでいなければ費氏による外戚政治が行われていた。
言ってることが無茶苦茶だよ
>>942 曹芳の時の張氏がちょっと怪しかったな
でもそれくらいか
司馬氏は外戚になっていないし
945 :
世界@名無史さん:2010/07/21(水) 21:47:40 0
946 :
935:2010/07/21(水) 21:56:43 0
>>943 ああ、うん、ごめんね。俺は「横槍」だから。
>>920が姻戚関係を誤認してたから921でつっこんだのがはじまり。
それから「外戚政治は別に皇太后の親族だけで行われるものじゃない」と説明しただけ。
ついでに言うと、外戚が力を持ちだすのは漢でも一部の例を除いて、
即位時に政務が執れないレベルの幼帝即位から。
だから皇后が口を出せるか出せないかということが大きい。
最も魏の場合は逆に幼帝が出てきたときに権力闘争で勝利して実権握ったのが、
皇室と何の関わりもない司馬氏だったのが滅亡の原因になったけど。
948 :
942:2010/07/21(水) 21:59:39 0
おっと、なんか誤解招きそうだから俺は
>>942であると名乗っておく。
更新してから書き込むもんだという教訓を得つつ。
949 :
942:2010/07/21(水) 22:00:58 0
魏は外戚の代わりに王に立てられていない宗室を重用した
これは逆に漢ではやらなかったこと
漢では宗室は要地の太守になれないとか政治的には差別待遇だったから
魏は王への冷遇がよく取り上げられるけど、実は晋の皇族重用の兆しが既に見えている
「西晋の武帝司馬炎」って本だと「皇室疎族」とかって表現してたどあれは「宗室」なのかな。
>>950 魏は母体となる曹操軍閥で、宗室の権力が大きかったから。
呉も宗室権力が大きかったな。
>>946 横レスなら先に言ってくれ。
単に皇帝と姻戚関係になれば即ち外戚政治になるなら、それは費イに止まらないわけ。
>>935 >劉センが即位した時点で外戚政治は出来るし、漢の多くの外戚は同様だ、って話だよ。
出来るかどうかじゃなくて、現実的にあるかないかって話だろ。
>>909は、可能性ではなく、費イが長生きすれば必然的にそうなると言わんばかりの書き方。
幼帝も立つ気配がなく、費氏が皇太后になるかも不明、費イが存命である可能性も低く、
費氏一門の多数が権力に食い込んでいる状況にもない。
>単に皇帝と姻戚関係になれば即ち外戚政治になるなら、それは費イに止まらないわけ。
皇帝と姻戚関係になって、政治に権力を振るえばそれが外戚政治だよ。って話。
臨朝皇太后の親族が専権を握るのがもっとも強力な状態だが、
成年皇帝の皇后の親族が皇帝を宿衛して国事に大きくコミットするのは漢では有り触れた例だった。
費イは劉禅より長生きすれば皇后の父かつ大将軍なのだから、政変でも起きない限り
外戚政治の到来は固い。
>>954 費イは年代的に劉禅より上っぽいけどな。
劉禅の皇太子時代の側近だから。
で、実際には「政変」が起きて「劉禅より長生き」できなかったわけだね。
>>954 >皇帝と姻戚関係になって、政治に権力を振るえばそれが外戚政治だよ。って話。
違うだろ。
姻戚関係と権力の掌握がパラレルに成立していれば、それは外戚政治と呼ぶ必要もない。
権力がその外戚一族に偏ることがなければそれは外戚政治ではないだろう。
>費イは劉禅より長生きすれば皇后の父かつ大将軍なのだから、政変でも起きない限り
劉センは幼帝ではなく、本人の意思がある。
だいたい、劉センが費氏を好いていなかったらどうすんの?
自分の母方や皇太后の血縁者を抜擢して政治に参与させるかも知れない。
そっちこそ「外戚政治」と呼ぶべきもの。
ifの、というか外戚政治のシステムの話をしてるんだから、実際には、とか言われても。
外戚政治って単語の捉え方自体が違う者同士が口論したって不毛なだけだろ
>劉センは幼帝ではなく、本人の意思がある。
それも一種の政変だよ。
新皇帝が先帝の遺した重臣の大きな権限に抗して、自分の側近を使って自分の権力を打ち立てたりする。
漢ではよくあること。
961 :
956:2010/07/21(水) 23:48:00 0
>>958 まあそうなんだけど、たった二つのハードルだけで「外戚政治の到来は固い。」ってのは
少々乱暴じゃないか? と思って「実際」に出て来てもらった。
>>960 >それも一種の政変だよ。
大将軍より皇帝のが圧倒的に偉いからw
費イが劉禅の時代から「外戚政治」を行ってたとかならともかく、そんなことはないわけだ。
あと、横槍とか言いながら、
>>909と
>>954は同じことを言ってるように思えるんだが。
>少々乱暴じゃないか? と思って「実際」に出て来てもらった。
>あと、横槍とか言いながら、
>>909と
>>954は同じことを言ってるように思えるんだが。
ごめん。確かに言い過ぎた。
システム上の話で、大将軍費イは劉禅より長生きすれば後事を託される筆頭候補。
その場合新帝の義父になるのだから、劉センにとって頭の上がらない存在になる(劉禅にとっての諸葛亮より遥かに)
費イ時代には既に親政していた劉禅時代より権限はさらに上がるだろう。
劉センが費イを尊重するにしろ、皇帝の権限を圧迫する存在と見て反抗するにしろ、
外戚が皇帝の親々の地位に拠って国政に大きな権限を振るうという漢代的な外戚政治の典型的なモデルになる。
ってこと。
郭循が劉禅暗殺をあきらめなければ費禕は皇后の父として諸葛亮以上の権勢を握れたかもしれない。
でも実際は自分が刺されたというのは皮肉なことだな〜
蒋エン死後の劉禅の親政って魏略の記事。
俺はウソだと思う。
966 :
世界@名無史さん:2010/07/22(木) 13:21:32 0
魏略は、所詮うわさ話。王沈や陳寿の魏書が読売新聞だとすると、魏略は東スポ程度の信頼性しかない。
劉禅の親政って、蜀滅亡までなかったんじゃないかと思う。
費イ生存中までは、宰相が外地にいてもいちいち使者を送って決裁を仰いでいたし、
費イの死後に姜維が大将軍になって外地で戦争に明け暮れて政治を行わなくなり、
陳祇が政権を握っても、陳祇に政治を丸投げしてたような。
陳祇の死後は黄皓が権力を握ったけど、これも内朝は黄皓に、
外朝は董厥と諸葛贍と樊建に丸投げ状態で、劉禅はそいつらの言いなりなだけのような。
晋の恵帝は愚帝の代表のように言われがちだが
劉禅と変わらんのではないか。
俺は恵帝が知的障害者であるかのような考察にはいまいち同意しかねるんだよね。
劉禅が郤正に入れ知恵された話は、実際にあったのか、また演技なのかどうか真相は不明だが、
恵帝と変わらん程度の君主であったかも知れない。
政治システムがしっかりしていればまともな政治は行われるが
システムがダメなら徹底的に国が乱れるというような。
まあ、自らシステムを駄目にする皇帝よりはマシなんじゃないかな?
>延熙十五年,命禕開府
ってのはどういうことなん?
それまでどういう政権構造だったんだ。
「蒋エン死後の劉禅の親政」と関係あるのかな。
良く考えれば、大将軍なのに府を開いてなくて、
政権掌握後何年もたってから開府を認められるってのも妙な話だね。
誰か、合理的に説明できる人プリーズ。
誤字
工エエェェ(´д`)ェェエエ工
>>970 それまでの費イの官位は大将軍・録尚書事。
府は開かず、録尚書事の資格で政務を統括して政治を執っていたのが、
独自の府を開くことが認められて、政府機構から独立した強力な権限を認められたのでは。
>>964 実際、蒋エンと董允がほぼ同時期に死去する前後で、蜀漢の政治システムが変わっている。
侍中や中常侍が政治権力を握るということは、皇帝自身で意思決定するシステムが成立しているということ。
丞相や大将軍のように、宮廷の外に府を持つ「宰相」が決定し皇帝がそれを認可するという、
劉禅時代前期からの明かな移行が認められる。
ただ、その移行が蒋エンの死によっていちどきに起きたとは限らない。
蒋エンが漢中からフまで戻された時に最高権力を奪われた仮説があるが、
替わった費イの権限が今ひとつ明確ではないこと。
大きな影響力を持った董允の死と陳祗の起用、
姜維の国政からの孤立など、多様な要素が働いていたのを
総合して、魏略が「蒋エンの死」をきっかけと解釈したのかもしれない。
976 :
975:2010/07/22(木) 21:04:19 0
>>975 陳祇が権力を握ったのは費イの死後。そして、陳祇を引きたてたのは費イなんだけど。
あと、費イ在世中に権力を握った中常侍はいない。
費イの権限は明確。大将軍・録尚書事。立派な宰相職だね。
蒋エンの死じゃなくて、費イの死をもって、親政を開始したってのが、
本来魏略の書きたかった事で、蒋エンと費イを間違って書いたんじゃないかね?
皇帝が大将軍・録尚書事を置く=親政していない
って認識でOK?
980 :
978:2010/07/22(木) 21:38:28 0
違うのか( ̄□ ̄;)ガーン
>>979 大将軍はともかく、録尚書事は「政治は全部任せた」ってことじゃね?
親政するなら録尚書事みたいな政治の全権委任する役目の人間いらんだろ。
録尚書事は確かに「宰相」なんだけど、それだけでは皇帝の決定を実行する行政執行役にすぎない。
「宰相」の権限自体、武帝以後減退を続けていたから。
だから後漢でも皇帝の側近にある宦官や外戚の専横を、録尚書事は止められなかった。
全体的には
前漢末に三公が行政執行機関化→権力が尚書に移る
後漢後期以降尚書が行政執行機関化→権力が中常侍等に移る
魏になると中常侍の代わりに中書が復活、やはり尚書が行政機関化に拍車。
といった流れらしい。
後漢末頃にはすでに形骸化していたっぽいね。>録尚書事
トコロテン式権力というかなんというか。
でも、三国時代になったら、また録尚書事の権限は復活したね。
録尚書事や平尚書事の権力は、外戚や宦官をしのいでいたね。
>>985 それは順番が逆で、宦官が一旦死滅し、魏は外戚を意図的に抑制、蜀は外戚らしい外戚がいないという状況だからしのいでいたとも考えられる
諸葛亮のような人物が就任していたからしのいでいたとも言える
>でも、三国時代になったら、また録尚書事の権限は復活したね。
復活したんではない。国政を取るのにちょうどいい役職だったから拡大利用された。
それでも曹操や諸葛亮、司馬氏のような録尚書事が例外中の例外。
蜀漢では諸葛亮のような権威の大きな大臣の力が必要だったといえるし、
曹操や司馬氏は臣下の分を越えて政権を牛耳る名目に便利だったからという程度のこと。
というか、初代に重用されてる司馬懿、諸葛亮に実権が残ってるのは当然のこと。
制度設計者が意図してトコロテン式にしているわけではないのだから。
諸葛亮死後の蜀の録尚書事にどこまでの権力があったかについてはまた別の議論が必要だと思う。
989 :
世界@名無史さん:2010/07/22(木) 23:05:40 0
司馬懿も爽やかさんの時代になってからは、
録尚書事にも関わらず自分のところに案件が回ってこなくて引きこもった。
録尚書事だから権力があるのでは無く、権力があるからこそ録尚書事が生きてくるのだろう。
>>985 蜀漢の場合、諸葛亮を頂点とした録尚書事中心の政治体制から、
徐々に皇帝・側近中心の体制へと「正常化」していく。
最末期では、陳祗の死後成都へ戻り一年以上滞在した録尚書事姜維も、
平尚書事諸葛瞻らも、黄皓の権勢を阻むことはついにできなかった。
そろそろ次スレ立ててくれ。俺は立てられなかった。
在中コリアンで誰か三国の将軍になった人物いませんか?
>>992 当時は朝鮮系は中国の内地には住んでなかったからな。
もしかしたら、遼東公孫氏の将軍にはいたかも知れん。
隋や唐ぐらいからだったかな。 五代十国の頃はよく知らない。 いたかもね。
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