張世傑の軍と戦ったのは南宋の降将たちだろモンゴルの将軍ももちろんいたが、
モンゴル軍というと違和感がある。
まどうせ武士を持ち上げるためにそういう風にいっているんだろう。
はっきりいっておまえうざいわ。
>>952 征服した異民族を大量登用するのはモンゴル軍の常套手段。
だから南宋の降将が加わっているのは当然。
張世傑の軍と戦ったのは、まさに典型的なモンゴル軍なんだよ。
なんじゃその論法w
単に南宋の将兵が同士がメインでたたかっているだけじゃん・・・。
955 :
世界@名無史さん:2010/03/18(木) 16:23:01 0
全然ちがう地域の戦いじゃん。
957 :
世界@名無史さん:2010/03/18(木) 17:22:25 0
今中学の歴史でもモンゴル帝国は征服地の民族を軍に編入して勢力拡大したと習うのに、なんでモンゴル民族単一の方が強いなんて思うんだろ
中学も卒業出来ない知能なのかな
はぁ?モンゴル民族単一の方が強いなんていってないんだが。
さっきから罵倒しているの同一人物か。いい加減にしろ。
959 :
957:2010/03/18(木) 17:42:54 0
>>958 話がずれているな。モンゴル単一軍制のと多国籍編成の比較などしていないのだが
話を理解出きているのか。
日本側は全部日本人なんだから
モンゴル側も最低同数はモンゴル人をつれてくるべき
弱虫だからしたっぱに戦争させるんでしょう
>>961 実際、日本側とほぼ同数のモンゴル人を連れてきてただろ
マジな話日本と蒙古で手を組んで日本軍の戦闘能力と蒙古の輸送力、兵站能力あわせ持った
最強の軍団作って残りすべての国攻めて世界制覇すりゃよかったんじゃね?
というか、せっかく朝廷から支配権を奪うチャンスだったのに、鎌倉幕府は情けない。
なんで幕府には呉三桂みたいな決断力あるやつがいなかったのだ。
鎌倉幕府は、すべての武士を支配してないから
後の江戸幕府とは違うよ
>>962 日本側とほぼ同数のモンゴル人を連れてきてその上南宋と高麗の兵士連れてきて
負けたのか?
それは、弱すぎないか?
最近wikiが、よく編集されてるのは、2chの影響かいな?
史料を引用する奴と、近年ではとか書いてる奴がやり合ってるな
だから大元皇帝に臣従し、その権威と武力で朝廷を追放し、
日本を強力に統治すれば良かったんだよ。
それを目先の利益で、退けてしまった。
何が大元皇帝だよw成り上がりの田舎蛮族の頭領ごときが天皇と肩並べた気になるなw
>>968 元に臣従してる時点で強力に統治じゃないじゃん。
鎌倉幕府は元寇をきっかけに朝艇から外交の権限を完全に奪い、非御家人まで支配下に収めたんだから、
こっちの方が余程強力な統治じゃん。
971 :
世界@名無史さん:2010/03/18(木) 19:53:48 0
単発スレで終わるとこういうバカが他の元寇スレに
流出して迷惑がかかるからこのまま隔離スレとして
続いてほしい。
>>970 建武の新政に変わって一族郎党滅びて強力な統治?
意味わかりませんねぇ・・・・。
みなさん釣りにはスルーでお願いしたいんだが。
最近ネトウヨ狙いの煽り屋が増えてるから。
ネトウヨ乙
975 :
世界@名無史さん:2010/03/18(木) 20:42:29 0
このスレ自体が釣りみたいなもんだろw
>>976 「安倍氏と清和源氏も兄弟関係です。」は
正しくは、親縁関係です。
52代嵯峨天皇と56代清和天皇
978 :
世界@名無史さん:2010/03/18(木) 23:14:21 0
>>948 >高麗は国王を筆頭に日本侵略に超積極的だったし
元朝の傀儡だった国王およびその周辺はまだしも
国をあげて超積極的だったってソースあんのか?
お前の恣意的な妄想じゃねえのか?
>>978 自国の過酷な取立てとか
統治からモンゴルの目を逸らす目的もあったろうし
高麗のことはどうでも良いけど
こういう考え、作戦は珍しくは無いだろ。
タタールのくびきとか、欧州でもモンゴルの統治は
かなり酷かったみたいだしな。
>>978 高麗が国をあげて超積極的だったソース。
高麗の定慧寺の禅僧冲止(1226〜1293)が弘安の役に際し、日本侵略を称えた「東征領」。
皇帝(フビライ)が天下を統御するに
神功は放勲(帝堯)より越えた
徳は寛大で断折を包容し
広い恩沢は隅々にまで及んだ
車は千途の轍と共にし
書は天下の文章と共にした
ただ醜い島夷だけが残り
仮に鼎魚のように群れをなして生きていた
ただ滄溟を隔てていることを頼りにして
よって領域を分けることを図った
苞茅(朝貢のこと)はかつて入ったことがなく
班瑞(朝貢のこと)もまた聞いたことがない
そこで帝がこれに怒って
そのとき我が君に命令した
千隻の龍鵲(軍艦カ)の船と
十万の勇敢な軍兵で
扶桑(日本)の野において問罪し
合浦(馬山)の水辺で軍師を興した
鼓声が大海に鳴り響き
旗は長い雲を揺さぶった
(以下略)
冲止『圓鑑国師集』
釣りか知らんがここ百レス前くらいから散々議論しつくした以前の初歩的な事すら知らない
奴が出没し始めてるけどいちいち相手にしなくていいぞ。
疑問があるなら最低限自分で調べてから来い。
武士厨の自演だろ
983 :
世界@名無史さん:2010/03/19(金) 07:30:35 0
次スレ立てて
>>943-945 日本遠征に騎馬兵が投入されたのはまずもって間違い無い。
ただ、耽羅島遠征の時、中書省とクビライとのやり取りで、
「(耽羅島攻めには)船に乗せると馬が疲れるので蒙古兵は少なめにしましょう」、
という段取りの会話があることや、女直人や屯田軍が多かったらしいことが記録に
目立っているので、文永の役の時の部隊は当時のモンゴル高原や中央アジア、
イランみたいにテュルク・モンゴル系の遊牧民が殆どの騎馬部隊とかはあまり居なくて、
大部分は華北から東北地方に展開していた契丹人や女直人、漢人、チンギス・カンの
モンゴル高原平定の過程で征服・有力諸部族に分配されたテュルク・モンゴル系出身の
人々などからなる農耕地の開拓などを行った屯田軍から選抜された歩騎混成の部隊が多くて、
(『元史』とかで華北方面の配属された「蒙古漢軍」と呼ばれたもの)しかも歩兵の
割合いが多かったらしい雰囲気は、資料上からちらほら伺えるね。
(少弐景資の手勢に射られた劉復亨の部隊が、「十四五騎」「徒人七八十人」という
『八幡愚童訓』と『八幡蒙古ノ記』の記述が示唆的。副将のひとり劉復亨の直属の部隊のはず
なのに騎馬部隊1000騎とか100騎とかではなく、「十四五騎」というテュルク・モンゴル系の
指揮官だったらかなり中途半端な規模なのが何やら意味深い。勿論、騎兵14〜15、歩兵7〜80で
合わせておおよそ100人というところに意味有るんだろうけど。中央アジアとかイランの場合
だったらモンゴルとかに関わらず、君主とか有力アミール直下の騎兵だけの部隊が1000騎単位で
ずらーっと居て、前衛とか左右翼の脇に歩兵だけの部隊が100人〜1000人単位で騎馬部隊とは
別個にいるのが普通。)
文永の役については元朝側や高麗側の記述では、早い話が「高麗の軍と、勅命で派遣された軍」
みたいな大雑把な分け方しか資料上には出て来ないので、「歩兵がどのくらいで騎兵がどのくらい」
みたいな具体的な書き方はあまり出て来きていないよう。何となくそれっぽい記述はあるようだけど、
遠征に加わったそれぞれの部隊がどういう性質がどのくらいの規模だったか内訳の細かい話までは
良く分からないようだけど。
>>980 > 「東征領」
詩文らしく雅語を尽くして書かれてはいるけど、要はクビライの招諭に、海の隔たりを
頼んで応じなかった日本に対して、クビライの勅令によって高麗は日本へ海を渡って派兵した、
程度の意味内容しかうpされている部分には書かれていなくて、「高麗が超積極的だった」
までの文脈まで行ってないねえ。
(天子であるクビライによる派兵は正当的行為である、という主張を前提にしてはいるけど)
要約すると、皇帝からの君命に従って(正規の)軍を派遣した、くらいのまだ受動的な話であって、
「超積極的」というのとは質が違う。もうちょっと高麗が主導的に派兵に関わったような言い方を
文中でしていないと、「超積極的」とまではならないと思う。
>>983 いらないだろ。
日本史板と軍板のスレに合流で良し。
どうせスレの住人ほとんど一緒なんだし。
というか武士厨、モンゴル厨、西洋厨、みんな言ってる事が極端すぎるのよね。
刀vsロングソードの実証
太平洋戦争の結果からも明らかだけど全歴史の過程において日本が西欧に優れていたことはない
元寇だってちょんと、軍事なき大国南宋の寄せ集めを海岸沿いで迎え撃っただけ
それに比べれば、西欧軍は広い平原でモンゴルを迎え撃ってドイツまで足を踏み込ませずモンゴルを撃退している。
当時の侍がそのヨーロピアンとガチで戦争していれば刀ごと侍は粉砕されていただろう
兄貴、スレ終了まで残り13レスで釣りをするとは気合入ってますねw
>>989 削除依頼出せ。
次スレは日本史板か軍板のスレに合流だろアホ
梅
武士>>>>>>元>>>>>>騎士
993なら澪ちゃんがおちんちん踏んでくれる
>>990 お前みたいなアホを隔離するために必要なんだよ。
頼むから日本史板や軍板に出てくるな。
いよいよクソスレも終了だなw
それではそろそろこのスレの結論を述べてもらおうか。
結論は次スレで出そうぜ。
結論はとっくに出てる
結論すなわち↓
1000ならキラーカーンがモンゴル統一
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。