【蒙古】鎌倉武士が圧倒してた件について2【襲来】

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208世界@名無史さん:2010/05/26(水) 01:37:17 0
戦後教育の賜物みたいな奴だな204。
209世界@名無史さん:2010/05/26(水) 03:13:17 0
既出だけどやはりこれは定期的に貼らんといかんね

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_02.html
住吉鳥居を通り過ぎて赤坂に向かう途中の小松が原で季長は菊池二郎武房の一行と出会う。
総勢百余騎。
武房はすでに敵と戦い、たくさんの首をぶら下げて引き上げてくる途中であった。 (てのものふんどりあまたなり)
それを見た季長はいっそう奮い立ち蒙古軍に向かって駆け出すのであった。

菊池武房に破れた敵の本隊は,麁原へ退却した。
別の一隊は別府の塚原へと退却。
塚原から鳥飼の干潟へ進み本隊と合流せんとする蒙古軍を討ち取ろうとした季長は馬が干潟に脚を取られ逃がしてしまった。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_04.html
http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/kotoba_03.html
敵軍は麁原に陣を構えて鐘を打ち鳴らしてひしめきあっていた。
季長の合戦は、麁原から鳥飼潟の塩屋の松原が舞台となった。
旗指が馬を射られて跳ね落とされたがそのままおきあがって走り出す。
季長以下3名も馬を失い痛手も被り、あわや一巻の終わりかとみえたところに、
肥前国御家人白石六郎通泰が後方より援軍を率いて攻め立てる。
たまらず敵は退却を始めた。
武士団に馬上から次々と矢を射かけられ逃げ惑う蒙古軍。

http://record.museum.kyushu-u.ac.jp/mouko/e_03.html
敵を追って攻め入る三井三郎資長と退却する蒙古軍。

※蒙古襲来絵詞…竹崎季長が、元寇時の御恩奉行であった安達泰盛への鎮魂と報謝のために作った絵詞。
恩賞貰うために作ったなどというウソを信じ込まされている人もいるかもしれんが、
 この絵詞が作られた時にはとっくに恩賞は貰い終わっている。
210世界@名無史さん:2010/05/26(水) 03:46:54 0
おお、かなりいままでおそわってきたものとはちがうなあ。
タメになるスレだ。
211世界@名無史さん:2010/05/26(水) 11:29:12 0
>>207
そもそも蒙古襲来絵詞を見れば
注文主の季長が馬射られてたり脛当てかぶって戦ってたりで
全然かっこよく描かれてないんだから
これは季長の武功を誇るための物ではないってスグ分かりそうなもんだけどな
212世界@名無史さん:2010/05/26(水) 14:36:11 0
それが反日フィルターです
213世界@名無史さん:2010/05/26(水) 16:41:33 0
ジャパニーズケンキョだろ
214世界@名無史さん:2010/05/26(水) 22:45:28 0
>>211
季長はできた人だよな
215世界@名無史さん:2010/05/26(水) 22:49:24 0
季長が自分の手柄を吹聴するため、とか言ってる人は中身を見てないのが明らかだね。
216世界@名無史さん:2010/05/27(木) 03:11:48 0
そもそも反日史観自虐史観の連中が
蒙古襲来絵詞つかうときって必ず季長さんが突出しすぎてあわややられる寸前の例の場面
使ってるじゃんw

そのシーン使っておいて美化してるので信憑性が無いとか
発言が完全に矛盾してることに気がつかないのかねー
217世界@名無史さん:2010/05/27(木) 15:29:47 0
>>178
狩猟騎兵ってチン4の兵科かよ
218世界@名無史さん:2010/05/28(金) 02:25:27 0
これはシャレになんねえな。
「2chみてシンジツをしった!」という、
はずかしいセリフをはかざるをえない。
ちなみにおれは反日とか自虐であってもホントのことなら
バンバンやれっておもう。でもウソはダメだ。
219世界@名無史さん:2010/05/30(日) 13:55:06 0
麗しき御賀の儀、いかばかりの事にてか有んずらんと覚えしに、蒙古国とかやより牒状を奉る。
高麗の牒を相副たり。
宰府よりまづ関東へつげて、関東より二月六日牒状をまゐらせたり。
これに依て御賀止めらる。
公私本意なき御事也。
蒙古国もとは契丹の所属、韃靼国也。
年比契丹国已下の近辺の諸国打とる。
大宋国も、三百余州のうち大略皆討とられて、僅に六十余州残れり。
高麗も同せめおとされて、
臣として蒙古の朝につかふる由、牒状にも載たり。
牒使には趙良弼と云ものわたれり。
高麗の使を副たり。
牒状二通あり。
一通は高麗の牒也。
蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。
至元三年と載たり。高麗国、同彼年号をうけて至元となせり。
去年八月の状也。
数多の方物を相副て、正月一日大宰府に着たり。
五大帝王物語
220世界@名無史さん:2010/05/31(月) 13:59:06 0
>>218
では拡散よろ
221世界@名無史さん:2010/06/01(火) 10:07:20 0
今日から時専で北条時宗
222世界@名無史さん:2010/06/02(水) 04:43:35 0
竹崎季長が恩賞として海東郷の地頭職を与えられたのは1276年で、『蒙古襲来絵詞』の作成はそれよりも後の1293年頃です。

絵巻の作成された1293年は、霜月騒動で討たれた安達泰盛とその一族の名誉回復が始まった年でした。
文永の役の翌年、恩賞訴願のため鎌倉に赴いた竹崎季長は、恩賞奉行だった安達泰盛によって海東郷の地頭に任じられたのみならず、馬と具足を賜るという破格の好意を受けました。
『蒙古襲来絵詞』は恩義ある安達泰盛とその一族への感謝の気持ちを込めて作成されたのです。
223世界@名無史さん:2010/06/04(金) 19:46:39 0
季長が鎌倉に交渉に行ったときのゴリ押し加減に吹いた
224世界@名無史さん:2010/06/05(土) 14:52:01 0
高麗史金方慶伝
忽敦曰く
兵法に「小敵の堅は、大敵の檎なり
疲乏の兵を策して
日ごとに滋すの衆に敵するは
完計に非ざるなり
軍を回すに若かず
劉復享、流矢に中る
先に舟に登り、遂に兵を引いて還る。
会々、夜、大いに風雨す
225世界@名無史さん:2010/06/09(水) 13:33:54 0
武士が元寇でどのように戦ったかについて、
実際に戦闘に参加した武士自身が監修した「蒙古襲来絵詞」に優る史料は存在しない。
その「蒙古襲来絵詞」の中では、武士は蒙古に名乗ったりせずに集団で戦っているし、
対する蒙古は多くの兵が負傷して敗走している。

つまり、「蒙古襲来絵詞」は「武士の集団戦法に苦戦する蒙古」を描いた絵巻。

戦後の歴史教育は長年に渡り、
集団で戦う武士や敗走する蒙古をカットし、一部分だけを切り抜いて、
「蒙古の集団戦法に苦戦する武士」などというまったく正反対の絵として教科書などに載せていた。
子供に嘘を教え続けていた。
226世界@名無史さん:2010/06/10(木) 01:03:34 0
誰が何の目的でそう仕向けたか・・・だな
227世界@名無史さん:2010/06/10(木) 05:06:32 0
日本人は明治時代でも戦争になると嬉々として話す
好戦的な国民性をなくすため戦意高揚になりそうなものはGHQがすべてNO
左翼が力を持ち自虐史観が始まった
228世界@名無史さん:2010/06/10(木) 09:04:47 0
「心中大義」
倭人、狼勇にして死を恐れず  
229世界@名無史さん:2010/06/24(木) 05:25:21 0
元寇って、世界的もそこそこ有名だよね。
ユーラシアを恐怖に陥れていたころのモンゴル帝国と
サムラーイがガチで戦った戦闘。
230世界@名無史さん:2010/06/24(木) 06:47:36 0
神風のおかげで運良く勝てたって有名だね
231世界@名無史さん:2010/06/24(木) 06:51:56 0
モンゴルに敗れた南宋人と高麗人の寄せ集めだしねw
232世界@名無史さん:2010/06/24(木) 07:24:29 0
>>230
日本人ですらそう思ってるからな
KAMIKKAZEの語源としてよく引き合いに出されるし
233世界@名無史さん:2010/06/24(木) 08:42:13 O
クビライが日本征服を企んだ最大の理由が日本の黄金に
あったという説は本当ですか?マルコ・ポーロ「東方
見聞録」にその記述があり、後世の研究者も関心を
寄せているようですし、そいだとするとコロンブス
とクビライの動機は「黄金伝説」で共通するので世界
史的に大変興味深いわけですが…。黄金に目が眩んで
クビライは天災で失敗し、コロンブスは思い込みで
失敗したとしたら、あの世でこの二人は馬が合いそう。
234世界@名無史さん:2010/06/24(木) 16:02:40 0
>>233
黄金を信じてたとしても、それはあくまで余禄・オマケとしか思ってないだろう
以下、軍事板からの過去スレをコピペ↓



537 名前:名無し三等兵[sage] 投稿日:2008/12/27(土) 09:10:00 ID:???
付け加えておくと、元寇当時の元の侵攻軍には

*防衛側を圧倒するだけの兵力を揚陸する能力
*渡洋侵攻した部隊に海を越えて補給をし続ける能力

がどちらもない。

そして、根本的問題として、そもそも上記の条件を満たせる能力があるのなら、日本に侵攻する
必要性そのものがない。
元が日本を攻撃したのは、元の敵対国である南宋との貿易停止を日本が受け入れなかったから。
南宋は元に圧されつつも貿易で多大な利益を上げていたので、力技で滅ぼす事ができなかった。
その為経済封鎖を仕掛ける必要があり、そのために日本に協力を求めたが無視されたので実力行使の
必要性が出たためで、日本の土地が欲しかった訳でも鎌倉幕府を滅ぼしたかった訳でもない。

日本に日本側を圧倒できるような大兵力で攻め寄せて九州を制圧できるような作戦を実行する財力が
あれば、南宋を経済力で優越できないから滅ぼせない、という最初の原点が消滅する。

元寇は元にとって「経済的政治的失策を軍事的手段で解消しようとして失敗した」というだけの
話で、「戦争は外交の一手段であり外交は経済の一手段である。この優劣を逆の手段で解決する事は
困難である」という原理原則を見事に証明したに過ぎない。
235世界@名無史さん:2010/06/24(木) 16:52:14 0
元が話し合いにより世界統一政府の樹立を図ったが
野蛮なJapが刀を振り回し人民を虐殺した
236世界@名無史さん:2010/06/24(木) 18:36:08 0
>>230
まあ、なんだ......。
書き込む前に>>1からレスを読むことだ。
237世界@名無史さん:2010/06/24(木) 22:12:20 O
>>236
確かに事実は日本の圧勝だけど、
実際問題として日本のほとんどの人間は神風で助かったと思ってるだろ。
238世界@名無史さん:2010/06/25(金) 16:20:14 0
戦中は劣勢な軍部が困った時のオカルト頼みをしようとして、
戦後は反日左翼が鎌倉武士の強さを認めたくなくて神風虚飾を築きあげてきたからな
239世界@名無史さん:2010/06/25(金) 21:32:31 0
神風をことさら強調する傾向は
鎌倉幕府をディスる南朝史観あたりから始まってんじゃねーの?
240世界@名無史さん:2010/06/26(土) 15:03:49 P
>>238
困った時のオカルト頼みじゃなくて士気を維持するための煽り文句だろ
241世界@名無史さん:2010/06/26(土) 15:05:54 P
武士でもなんでもないのにサムライジャパンとかいって盛り上げようとするのと同じだ
242世界@名無史さん:2010/06/26(土) 18:29:21 O
でも武士を先祖に持ってる人は、自分達が思ってるより相当多いよ。
243世界@名無史さん:2010/06/27(日) 05:22:07 0
戦士階級を一割以上も食わせることができる時点で
世界的に見ればとんでもない戦闘民族国家
244世界@名無史さん:2010/06/27(日) 14:55:55 0
一割までいってたっけ?武士の動員率は全人口のだいたい3%くらいだと思ってたけど
ちなみに前近代では小麦が主食の西欧や中東では1%でも厳しく、
米が主食の東洋では2〜3%くらい、遊牧民族になって10%動員が可能だとか
245世界@名無史さん:2010/06/28(月) 03:09:02 0
時代による
246世界@名無史さん:2010/06/28(月) 17:26:23 0
産業革命以降は平常時動員率は失業率と等しくなるらしいね
247世界@名無史さん:2010/06/28(月) 18:41:19 O
戦ったのは貧乏でギリギリ生活の次男三男達。
248世界@名無史さん:2010/06/29(火) 00:35:06 0
麗しき御賀の儀、いかばかりの事にてか有んずらんと覚えしに、蒙古国とかやより牒状を奉る。
高麗の牒を相副たり。
宰府よりまづ関東へつげて、関東より二月六日牒状をまゐらせたり。
これに依て御賀止めらる。
公私本意なき御事也。
蒙古国もとは契丹の所属、韃靼国也。
年比契丹国已下の近辺の諸国打とる。
大宋国も、三百余州のうち大略皆討とられて、僅に六十余州残れり。
高麗も同せめおとされて、
臣として蒙古の朝につかふる由、牒状にも載たり。
牒使には趙良弼と云ものわたれり。
高麗の使を副たり。
牒状二通あり。
一通は高麗の牒也。
蒙古状は文永三年丙寅九月の状也。
至元三年と載たり。高麗国、同彼年号をうけて至元となせり。
去年八月の状也。
数多の方物を相副て、正月一日大宰府に着たり。
五大帝王物語
249世界@名無史さん:2010/07/20(火) 00:49:53 0
>>235
最近はこれ系の扇動がさかんじゃん
NHKでもこんな感じの歴史番組作ってた記憶がある

しかし、まさかとは思うが、俺の尊敬する岡田英弘先生まで、
こんなクソみたいな主張していないだろうな
250世界@名無史さん:2010/07/25(日) 12:20:01 0
>元が話し合いにより
騎馬隊の機動力を生かして話し合いwww
251世界@名無史さん:2010/07/25(日) 21:06:00 0
>>250
話し合いとは言うものの...... こんな感じ↓

当スレ有志による秀逸な訳文

64 世界@名無史さん 2010/03/28(日) 15:04:38 0
国書の和訳DQN風味
上天眷命 「イケメンからのゴアイサツw」
大蒙古皇帝奉書「大蒙古国の『皇帝』の手紙だぜ!」
日本國王朕惟自古小國之君「やあ小国ニッポンの『国王』(皇帝>国王)ちゃん元気にしてる?」
境土相接尚務講信修睦「俺、おもうんだけど国境を接する国とは仲良くしたほうがよくね?」
況我祖宗受天明命奄有區夏「ましてや俺達モンゴルってば天に世界の頂点約束されてるわけなんよ」
遐方異域畏威懐徳者不可悉數「隣国どころかすげー遠い国でも俺にぺこぺこしてんぞ? 」
朕即位之初以高麗無辜之民久瘁鋒鏑「そういえば高麗もおれが軍事介入して戦争をやめさせてやったわけだが」
即令罷兵還其疆域反其旄倪「くそ役にたたねーガキと爺どもを故郷に帰してやったわけさ」
高麗君臣感戴來朝「そしたらあいつらうれションする勢いでぺこぺこしてきたぞw」
義雖君臣而歡若父子計「まああいつらは俺のパシリだが同時に親子でもあるわけだな」
王之君臣亦已知之「まあお前らもこのことはもう知ってるわな」
高麗朕之東藩也「高麗は俺の犬」
日本密邇高麗「んで日本は高麗のすぐ隣やん」
開國以來亦時通中國至於朕躬而無一乘之使以通和好「なのにオメーなんで俺に挨拶しに来ないわけ?」
尚恐王國知之未審「多分おまえら世の中の変化を知らないだけだよな? 」
故特遣使持書布告朕志「しかたねーから俺から手紙だして教えてやったのよ 」
冀自今以往通問結好以相親睦「今から仲良くしようぜ?な? 」
且聖人以四海爲家「おれみたいなイケメンはさ全世界を俺の家族だと思ってるんだよねスイーツ(笑) 」
不相通好豈一家之理哉「ちなみに親交をむすばないってんなら家族じゃねーからぶちのめすわw」
以至用兵夫孰所好「おれもお前ぶちのめしたくないからよwわかんだろ?言ってることw」
 王其圖之不宣「じゃーな!」

252世界@名無史さん:2010/07/25(日) 23:20:15 0
>国境を接する国とは
接してないじゃんwww
253世界@名無史さん:2010/08/17(火) 05:22:37 0
>>98
「慍甚」は激怒ではないよ。鬱屈だよ

>>252
それ誤読。よく読め。小国が国境を接する場合ですら親睦を図るのに、
ましてモンゴルは世界帝国だと言ってるんだよ。
日本と国境を接してるとは言ってない。
254世界@名無史さん:2010/08/17(火) 10:16:22 O
>>1
それ本当なら、嘘教えて洗脳してる学校も教師も最低だな
255世界@名無史さん:2010/08/17(火) 20:24:28 P

×神風のおかげでやっとのこさ追い返した

○恩賞目当てに目をギラギラさせた武士の狩場
256世界@名無史さん:2010/08/18(水) 20:12:10 0
>>255
モンゴル兵の首がたくさんのった宝船
257世界@名無史さん
>>250
話し合いしてるよ

一山一寧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E5%B1%B1%E4%B8%80%E5%AF%A7
>二度の日本遠征(元寇)に失敗した元の世祖クビライは再遠征の機会をうかがうと共に、
交渉によって平和裏に日本を従属国とするべく使者を派遣した。
当時の日本は臨済禅の興隆期にあり禅僧を尊ぶ気風があったため、補陀落山観音寺の
住職であった愚渓が使者に選ばれた。
弘安5年(元の至元19年、1282年)の最初の渡航は悪天候によって阻まれ、弘安7年
(至元21年、1284年)には対馬まで辿り着くが、日本行きを拒む船員等の騒乱によって
正使王積翁が殺害され中止された。
永仁2年(至元31年、1294年)、世祖の後を継いだ成宗は再び日本の属国化を図り愚渓に
三度目の使者を命ずるが老弱のため果たせず、代わりに観音寺の住職を継いでいた
一山一寧を推薦した。成宗は一寧に妙慈弘済大師の大師号を贈り、日本への朝貢督促の国使を命じた。
正安元年(元の大徳3年、1299年)、一寧は門人一同のほかに西澗子曇を伴って日本に渡った。
西澗子曇は文永8年(1271年)から8年間の滞日経験があり、鎌倉の禅門に知己が多かった。
大宰府に入った一寧は元の成宗の国書を執権北条貞時に奉呈するが、元軍再来を警戒した
鎌倉幕府は一寧らの真意を疑い伊豆修禅寺に幽閉した。
それまで鎌倉幕府は来日した元使を全て斬っていたが一寧が大師号を持つ高僧であったこと、
滞日経験をもつ子曇を伴っていたことなどから死を免ぜられたと思われる。
修善寺での一寧は禅の修養に日々を送り、また一寧の赦免を願い出る者がいたことから、
貞時はほどなくして幽閉を解き、鎌倉近くの草庵に身柄を移した。
幽閉を解かれた後、一寧の名望は高まり多くの僧俗が連日のように一寧の草庵を訪れた。
これを見て貞時もようやく疑念を解き、永仁元年(1293年)の火災によって衰退していた建長寺を
再建して住職に迎え、自ら帰依した。
円覚寺、浄智寺の住職を経て、正和2年(1313年)には後宇多上皇の懇請に応じ、
上洛して南禅寺3世となった。