1 :
【^▽^】豚松 ◆4FfyOtW0fiF5 :
三部会前からブリュメールorナポレオン1世の帝政まで。
>>1 一人で語ってろよゴミクズ。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜糞スレ終了〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
4 :
世界@名無史さん:2009/12/17(木) 00:44:43 0
小沢一郎:ロベスピエール
鳩山由紀夫:サンジュスト
平野:マラー
菅直人:ダントン
5 :
世界@名無史さん:2009/12/17(木) 01:14:52 O
>1
カスだまれ
>>1 ハ _
___ ‖ヾ ハ
/ ヽ ‖::::|l ‖:||.
/ 聞 え | ||:::::::|| ||:::||
| こ ? | |{:::::‖. . .||:::||
| え | _」ゝ/'--―- 、|{::ノ!
| な 何 | / __ `'〈
| い ? ! /´ /´ ● __ ヽ
ヽ / / ゝ....ノ /´● i
` ー―< { ゝ- ′ |
厶-― r l> |
∠ヽ ゝ-― `r-ト、_,) |
レ^ヾ ヽ>' ̄ LL/ 、 /
.l ヾ:ヽ ` 、_ \\ '
l ヾ:ヽ ト`ー-r-;;y‐T^
| ヾ `ニニ「〈〉フ /‖. j
>>1 / ヽ
/ ヽ
/ ヽ
/ Y ヽ
/ 八 ヽ
( __//. ヽ ,, , )
丶1,,,,;;::::::::::: 八.,,,,;;::'''''!/
ζ" ,,,,,,_,,,, 八. ,, ,,, j
i ::'"(●)' '"(●) j
| ,,ノ(、_, )ヽ |
| ! `トェェェイ | ん?
| i し " `ニニ´:' |
|ノ ( i i|
( '~ヽ . ! ‖
._,v-!'ヾ゙「厂¨^^'''ーv、 │ _ . . ‖ , ._,v-!'ヾ゙「厂¨^^'''ーv、
.,ノl「」`:.‐ .!.'`.、::′ .,) ´゙'=、| ""''''゛゜ || .,ノl「」`:.‐ .!.'`.、::′ .,) ´゙'=、
..,r「 、.´ _. ' .゙..- ' _ノ‐¬=<ノ'\ │ || ,r「 、.´ _. ' .゙..- ' _ノ‐¬=<ノ'\
/゙.:、.二 ニ│:.::' ' .! ∨ .\ .:゙)、 | | | /゙.:、.二 ニ│:.::' ' .! ∨ .\ .:゙)、
/ . .゙..: :`/ .`:'.:.゙ .| .ヾ }>'! ^i. | | | . .゙..: :`/ .`:'.:.゙ .| .ヾ }>'! ^i
ノ: .´- `.`'.゙ (●) (●)ノ゙ .′ )∵∴∴∴∴∴∴/ノ: .´- `.`'.゙ ` _'「 .\ .,ノ゙ .′ )
| :... :....:... .イ.‐' ,,ノ(、_, )ヽ八. ,, ,,,.]ゝ ∴∴∴∴/^"|| :... :....:... .イ.‐' (●),,,_,,,,(●) ,, , ,,¬]
>>1 ⌒>ヽ`ヽイく_ノ{
/ ⌒ヽ
,イ //V/NW// `ヽ、
≠彡イ ミ辷キ
/ ハ ハ
,′ / / / } ヽ 辷=
| 〃 / // レヘ、 } |
| | /__// -─¬Vノ |
| {リr'(´● ) ( ●`) | |
| | j ! | リ从 うぃっしゅ☆
イノリ | (o o) ∧ ノ八キ
ノルハ∧ 、__,-、,-、__, /! ハ乂
乂彡ヘ、 ヽ二ノ / | ミ辷=‐
=彡イ)ノ\ / | 仆、_
/ ̄ー=彡ィ^i ` -- ' ノ从ミ辷=/`)
(`ヽ、/ ,-、ノイノ |「ヽ /:::/\
\:::\ /::::| | ||:::..∨::/ `V´}
(`ヽ、 />::::`ヽ' ::::.! | ||::::::::::^ヽ、__/:::ノ、
\:::\r'´::::<>:::::::::..ヽ、 | /:::::::::::<>::`ヽ::/ l
\::::::<>:::::::::::::::::::::...\ /:::::::::::::::::::<>::::/ |
ヽ::::::::::::::::::::::::::::::::::::.\ /:::::::::::::::::::::::::::::/ /
l \::::::::::::::::::::::::::::::::::....> , ヘ、:::::::::::::::::..__..::'´ /
ヽ、 ` ─-- ..::::::::./ \/ \::::::::./ /
\ \/ \ >、/ /
\ \ \ / /
>>1 ノ´⌒`ヽ
γ⌒´ \
/ )⌒ヽ
/ γ"""´ ⌒⌒ \ `)
/ ノ ヽ. (
.i 彡 i )
i / /\ /ヽ i. )∧__T _ ,,,r -r-T‐-、
i / ヽ / i,/"~。r *o:*::f:::r:::..l. |
__,-,,-、 __ r⌒ヾ -=・=‐ヽ (-=・=‐{ ::::::::*o;;;ro ot _f_ヽ丿
_ __/| | l |ヾ-"~ { (. ヽ,,__,,ノ ヽ ヽ.,,,ノ ).-v--'''''''"V"~~ ┴
l⌒l二|-l ..uUU""l---\_,, \ /( ) .!
"~ ヽ l ̄”/: i / .^ i ^ ./
| / i _, -‐‐-、. /
/ | /l\ ヽ. `ニニニ´ /
/ | _,, -‐/::::|\ ̄ \ /‐- ,,,, _
/ | ::::/:::::::::::| \ ` ‐‐-‐‐ ´::::::::::::::::::
>>1 , , , , ,
_/ミ \_
/ ! ミ \_
/ __|l l l\ \
/ // / \ |_L \ \
/ /// \ | l_ \ )
/ ( /.| \\\ \|
| | /l/ ,-== =\ヾ| \ |
(:::::::/彡彡彡彡 ミミミミ :::::::::)
(:// ̄ ̄ ̄ ̄ヽ== =/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
=ロ -=・=- ‖ ‖ -=・=- ロ=
‖ / /ノ ヽ \ ‖
ヽ======/ . ⌒ ` ========ノ
. ( .(● ●) )ノ |
\ ^l ,-v-、_ //|
| \ <-l^l^lヽ/ /|/|
 ̄\ ヽ ̄/ / |)/
/ |\_  ̄ _/ ||\
/ ̄ /|  ̄ ̄ ̄ / \
イリガライによれば、物理固力流体遅理学の男性性にあるという。
固体は硬い男性器を想像させるので男性的だが、
流体は経血や膣からの分泌液を想起させるので女性的であり、
それゆえ軽視され、乱流理論が発達しないのだという。
「最終学歴 東大法学部卒」・・・・
>>1 .,r‐--,,,_、
.゙l゙'i、 `゙''-,,,,,,,,,,,,,,,,,_
: ゙l `'i、.,r‐-、,,`'-,、 `''ー、_
゙l ,/゛ `゙''''ミッ、 ゙゙'''-,、
У `!ヽ、 ._,,i、 ,,,,,、
/ ゙r゙l, / ‘i、 { ゙i、
| ゙'i゙l ./ |, ゙l、 ゙l
| _,,,,_ .゙'},. | ,/ ゚i、 ゙l ゙l、
゙l ,r'"` `゙゙''',゙',lri、,,/ .゙l ゙l ヽ
│ .| .彳 ゚|″ | .| │
│ .ヽ_ _,,-° `i、 .| .,,゙l, .゙ケ'=ッ、
゙l, ,,,,,,、  ̄ ̄ .゙l,-'シ'',!.゙l ,/゜ ゙'i、 .}i、`.゙'i、
`'| `'i、 ,,,rン・'゙,,,-'i| .| .l、,,」 ゙= |
.゙ヽ, .゙!, i″ ゙''i, .l │ /" .゚┓ .|
‘'''l" ゙'-,,、゙l、 .,,「 | ゙l、 ゜ .|
゙l'-,、 `゙''゙‐'" ./ .ヽ .|
| ゙'ヽ,、 / '゙l .,ノ
′ .~'―--―ー¬''" ヽ-, |、
" .l゙
>>1 ,.ィ , - 、._ 、
. ,イ/ l/  ̄ ̄`ヽ!__
ト/ |' { `ヽ. ,ヘ
N│ ヽ. ` ヽ /ヽ / ∨
N.ヽ.ヽ、 , } l\/ `′
. ヽヽ.\ ,.ィイハ | _|
ヾニー __ _ -=_彡ソノ u_\ヽ、 | \ 実はナスカの地上絵は
.  ゙̄r=<‐モミ、ニr;==ェ;ュ<_ゞ-=7´ヽ >
. l  ̄リーh ` ー‐‐' l‐''´冫)'./ ∠__ 別次元の宇宙の
゙iー- イ'__ ヽ、..___ノ トr‐' /
l `___,.、 u ./│ /_ ナノテクノロジーだったんだよ!!!
. ヽ. }z‐r--| / ト, | ,、
>、`ー-- ' ./ / |ヽ l/ ヽ ,ヘ
_,./| ヽ`ー--‐ _´.. ‐''´ ./ \、 \/ ヽ/
-‐ '''"  ̄ / :| ,ゝ=< / | `'''‐- 、.._
/ !./l;';';';';';';\ ./ │ _
_,> '´|l. ミ:ゝ、;';';_/,´\ ./|._ , --、 | i´!⌒!l r:,=i
. | |:.l. /';';';';';|= ヽ/:.| .|l⌒l lニ._ | ゙ー=':| |. L._」
l. |:.:.l./';';';';';';'! /:.:.| i´|.ー‐' | / | |. ! l
. l. |:.:.:.!';';';';';';';'| /:.:.:.:!.|"'|. l' │-==:|. ! ==l ,. -‐;
l |:.:.:.:l;';';';';';';';| /:.:.:.:.:| i=!ー=;: l | l. | | / //
l |:.:.:.:.:l;';';';';';';'|/:.:.:.:.:.:.!│ l l、 :| | } _|,.{:: 7
l |:.:.:.:.:.:l;';';';';'/:.:.:.:.:.:.:.:| |__,.ヽ、__,. ヽ._」 ー=:::レ' ::::::|; 7
. l |:.:.:.:.:.:.l;';';'/:.:.:.:.:.:.:.:.:.|. \:::::\::::: ヽ ::::::!′ :::| .:/
. l |:.:.:.:.:.:.:∨:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.! /ヽ::: `::: :::: ....::..../
>>1 ィ´三三三三≧ト、
/三三三三三三三ミヾ
,ィヽ /三三,/´ `丶ミ三ベ
. / / /三三/ ` ヘ
/ / __/三┌'' ハ
. / / //ハ三/ ェエ≧ト j l はっきり言って彼って尊敬できない
/ / ,ィヽ | / ! -=・=- / /≦エト リ 大人物じゃないでしょ
,ィ≦´ ̄ ̄ ` V / l〈__ j. ,.' l-=・=- ,' 小物じゃない?
|  ̄ ̄ ̄ `V / ヽ‐' / l l ,' 厳格じゃないしねぇ〜
|  ̄ ̄ ̄Vリ Y _ リ `ー 、__,、) / 自分の利益の為って言うの?
| ´ l ̄ハ l /_,x</l /__,,....、__ l ./ 我侭ばっかりで
____j .j 'ー' ン::::::::::::j .ヘ / |‐'‐‐- -''リ/ ,.' 全然、人の面倒見ないでしょ
:::::::::::::リ /:::::::::::::::| .ヘ l ヽュェェェン / こういうのを無責任な奴って言うんだよね
::::::/! ./ :::::::::::::::::::| ヘ ヽ ヽ ー‐‐"/
/:::::| ,ィ':::::::::::::::::::::::::∧ ヽ \ ン'
::::::::::lヽ__/ l::V:::::::::::::::::::::::::∧ /\ >ー "|、
15 :
世界@名無史さん:2009/12/19(土) 18:08:34 0
これは自作自演のスレです。サン・ジュスト研究会が自分で立て、自分で荒らして
荒らしを演出している図
サン・ジュスト研究会は、バリバリの2ちゃんねらーで、気に入らない人間を世界史板から他板へと
追いかけまわし、ついには名誉毀損判決が下りた個人。
世界史板では「カメレオン」「ジャン・バティスト」などのコテを複数使い分けた女性
16 :
世界@名無史さん:2009/12/19(土) 18:12:57 0
24 名前:優しい名無しさん :2009/12/14(月) 01:45:30 ID:YRmDcoFq
>>23 バカだねえ、サルは・・・・・
25 名前:ロサンジェルス :2009/12/19(土) 18:00:59 ID:TTqlk6q3
501 名前: 優しい名無しさん Mail: sage 投稿日: 2009/12/19(土) 17:38:59 ID: Kumv6DY8
とにかく優位に立たないと気に入らないのよね
とにかく優位に立たないと気に入らないのよね
とにかく優位に立たないと気に入らないのよね
______
これはサン・ジュスト研究会の書き込み↑
サン・ジュスト研究会様宛
どうぞ私に遠慮せず、文学賞をとるなり(ww)日展で賞をとるなり(ww)
なさって下さい。あなたが「賞をとった日には」本当に実力のある方だと
尊敬します。お知らせ下さいませ
17 :
世界@名無史さん:2009/12/19(土) 18:16:07 0
とにかくサン・ジュスト研究会が世界史板だけでなく、怨みのある別板にまで
出没して困っています。こちらは逃げも隠れもしないので、荒らしに対しては
対決しますから、このスレで待ってますからw
他板まで荒らしてノホホンとオタク知識垂れ流して済むと思っていないで下さい。
サン・ジュスト研究会様
18 :
世界@名無史さん:2009/12/19(土) 18:23:49 0
サン・ジュスト研究会様
あなた様がなぜ東京地方裁判所において、名誉毀損で係争裁判になったか
忘れましたか?あなた(サン・ジュスト研究会が)「私は2ちゃんねるに書き込み何かしていないのに、濡れ衣着せられた」とウソをついて
弁護士を騙して裁判に持ち込んだからです。でも、実はそれは真っ赤なウソでした
19 :
世界@名無史さん:2009/12/19(土) 18:34:01 0
サン・ジュスト研究会が名誉毀損で東京地方裁判所に提訴された発言
スレッド名 美男子サン・ジュスト〜フランスの窓から〜(2)
〜〜〜〜
125 名前: 世界@名無史さん 02/11/18 19:07
>>117 >「フランス本国の修正派を稚拙とする根拠は?」
>「あなたが修正派より正しいという根拠は?」
>「
>>99の厳密性なる表現の根拠は?」
>>115 のカメレオンI世氏がいう「稚拙」とは、あなたの文章に対するもので、
「フランス本国の修正派」に対するものではないという印象をうけますが、
いかがでしょうか? あなたが「フランス本国の修正派」に属しているわけではない
と思いますので、根拠を求めること自体が筋違いと思います。
169 名前: カメレオンI世 ◆qBS27nfd8c 02/11/19 12:16
>>164 いいかげん人に絡むのはやめたらどうだ?
昨夜は遅かったから、アビアさんをこれ以上煩わせてはいけないと思ってレスしなかったが、
これまでのレスをよく読んで、やはりスルーするわけにはいかないので、書くことにする。
>>117 アビアさんの書いた
>>78-79のどこが山崎教授を参考にしてるの? 全然違うよ(後で詳しく書く)
もし、本を読んで書いたんなら、誤読もいいとこだ。山崎耕一氏が泣くよ!
あれを読んで、俺は、アビアさんが高校生レベルの世界史の知識しか持っていないことが
判ったから(大学出てるとしても西洋史学や仏文学、哲学系じゃないでしょう?)そんな相手に
本気で突っ込んではいけないと思ったわけ。(皆、似非デュプレさんが、変なこと書いても
反論しないでしょ?)俺は、わりと最近来たから、アビア(おサル)さんがどういう人か、
よく知らなかったけど、誰も反論しないのは、似非デュプレさんと同じ扱いをされていたのかと
今回のことで納得したんだ。
20 :
サン・ジュスト研究会名誉医毀損発言:2009/12/19(土) 18:44:07 0
274 名前: サン=ジュスト研究会(P) 02/11/27 17:30
本日、おサルさんより、以下のメールがサン=ジュスト研究会宛てに送付されました。
私は、今回、2チャンネルに書き込んだ内容に対しては、全く謝罪の意志がありませんので、
このスレッドの住人の方々に公正な判断をしていただきたく、全文をコピーいたします。
以下は、おサルさんのメールの文、そのままであり、全く手を加えていないものである
ことを証明することができます。文中、「明白な嫌がらせ行為」とは、私の
>>246の
書き込みをさしており、私は、この書き込みに対し、謝罪をする落ち度はなかったものと
確信しています。これをもとに、おサルさんが、謝罪を求め、その謝罪が行なわれなかった
場合としてあげられた3項目は、私とのメール交換によって判明した個人情報であり、
私個人を特定するために、一軒一軒、電話で問い合わせる、などという常軌を逸した行為に
いたっては、明らかな「脅迫」であることを抗議します。
21 :
サン・ジュスト研究会名誉医毀損発言:2009/12/19(土) 19:05:16 0
522 名前: カメレオンI世 ◆5x.rm/pgdQ 03/04/21 03:28
621 :おサル ◆85KeWZMVkQ :03/04/20 22:16
たとえば生育歴の悪い男子が、たまたま戦争とか革命期に産まれていた場合
性欲から来る破壊衝動を時代にぶつけて時代のヒーローになる場合もある。
サンジュストの手記に繰り返し性的描写が現れるのはその証拠だと思うよ。
見てるか?H・Kちゃん
おサルさんが上記のカキコをしているのを読んだ。
こんな根拠のないことを、よく平気で書けるなと、心底呆れた。サン=ジュストの書いた
文章を、実際には一度も読んだことのない者は、このような妄想に陥るようことが多い
ようだが、まず第一に、サン=ジュストの「手記」なるものは存在しない。「断片」と
呼ばれている手帳やメモの切れ端のことをさしているのであれば、ただ一つ、小説めいた
文章があるが、「彼女」と「彼」の短い会話が記されているだけで、カザノヴァや、同じ
フランス革命期のサドの作品等に比べると「性的描写」というには程遠い代物だ。
国民公会議員になった後のサン=ジュストが、異常と思われほど禁欲的な生活をしていた
ことは、多くの証言によって裏付けられているし、「破壊衝動(?)」や「テロリスト説」
が学術的な場で語られたことはない。
「なんでもあり板」とはいえ、世界史板でコテハンを名乗り、自分のサイトも持っている
らしいおサルさんが、いかにも知った風に、いい加減な発言をするのはどうかと思う。
「いったいどんな悪魔が君にそんな考えを吹き込んだんだ?」
(by Saint-Just:親友であったチュイリエへの手紙よ
22 :
テンプレ:2009/12/20(日) 01:05:36 0
24 :
コピペ荒らしサン・ジュスト研究会:2009/12/20(日) 08:46:55 0
513 名前: 優しい名無しさん Mail: sage 投稿日: 2009/12/20(日) 00:26:35 ID: SRGyp4zr
おい。続きはおまえのたてたスレ「白黒つけましょうby類人猿」でやろうね
もちろん歴史板の方でもね サン・ジュスト研究会様ww
かもーん
おい。続きはおまえのたてたスレ「白黒つけましょうby類人猿」でやろうね
もちろん歴史板の方でもね サン・ジュスト研究会様ww
かもーん
おい。続きはおまえのたてたスレ「白黒つけましょうby類人猿」でやろうね
もちろん歴史板の方でもね サン・ジュスト研究会様ww
かもーん
荒らしは無視して別スレの件について
http://www.archontology.org/nations/france/convention_1792_95/ このサイトを見ると、エロード・セシェルは5月31日-6月2日の議長には就いていないとなっている。
エローが議長というソースは図書館で調べた時の資料にもあるし、フランスwikiでもその旨が記載されているので、
上記のサイトは誤り? となるのでしょうか。
なお、大公安委員会のメンバーは、左に傾いていくほど実務から離され、民衆指導の方を担当させられ、
右によっていくほど実務に携わるようになっています。
ほぼ中道であったバレールは大公安委員会の全体の指導を行っており、ロベスピエールもそれに近い役割です。
そうなると、エローも大公安委員会に回ってくる、業務を振り分ける全体指導に携わったのでしょうかね?
>>25 本当だ。
アンリオ率いるパリの国民衛兵たちと民衆に
国民公会を包囲されて、議長を先頭に議員たちが議事堂脱出を図った時の
議長はエローのはずなのですが、別の人の名が載っています。
その前任者がイスナールなのは他の資料、サイトと同じですが。
私も読んだ限りでの文献や英語版・フランス語版(←ごくごく
簡単なことしかわかりませんが)のwikiでもその時の国民公会議長は
エローとされていますし、アンリオがエローに
恫喝めいた説得?をしたことも読んだ記憶があります。
多くの資料で当時の議長がエローとなっている以上−というか
エロー以外の人が5月末〜6月初頭の議長だった記述は今まで
見たことがありません−、誤りかと思います。
>>25 公安委員会での役割について同意です。
コローら左派は主に民衆指導を(同じ極左派でもビヨーは実務も
よくこなしていたと読んだ記憶があります)、カルノー、ランデら
右派は財務委員会のカンボンと同様に実務を担当し、その中間の
バレールやロベスピエールは全体を指導し調停を
していたと(ロベスピエールの場合は地方反乱鎮定の総轄者の役割が
大きかったようですが)。
ただ、私は公安委員としてのエローの役割は1793年憲法作成と
その他多数の法作成の中心になったこと以外は知らず、
また、彼の政治スタンスもほぼ中道だったのか、ダントン派に近い右派
だったのか、左派に近かったのか、各資料を読む度にわかなくなって・・・
サンタンデレ(この人は実務担当)にしても、その文献やサイトによって
「左派」「中道」「右派」と様々で?です。
意味の無い長文、すみません。
エローがダントン派や東インド会社事件の容疑者たちと
共に処刑された理由もいまいちわからない。
よく彼もダントン派に含まれるが、どうやらそうでもなかったようにも
思えるし、東インド会社事件とは関係がないし。
第一、東インド会社事件にダントンとエベールが関与していたことは
濃厚らしいが、関与したとする証拠も関与していないとの証拠も
少なくとも当時はつかめなかったようで、ダントンやエベールの
汚職や怪しげな交際の数々、どう考えても普通ではあんな贅沢な生活は
出来ないという状況証拠にもならないような憶測でしかなくて、
シャボー、ファーブルらがダントンともエベールとも親しく、
また、プロイセン人クローツやオーストリアのユダヤ系
金融業者(氏名失念)はその三者(シャボー一味、ダントン、エベール)
共通の仲間だった―それは事実―ということで、ピットと
オーストリア宮廷の手先として政府転覆をはかった、と
乱暴に決め付けて有罪にした感じ(エベールは軍事権限をどんどん
公安委員会に奪われていくことに加えて、この事件での逮捕を予測して
先手を打とうと「聖なる蜂起」を呼びかけたのかもしれないが)。
有事しかも民衆の要求をかなり呑んでいる体制において
このような大規模な経済犯罪が厳罰の処されるのは無理もないが、
エベールとダントンに関しては証拠が見つからなかったからって
捏造するというのは、公安委員会、保安委員会、革命裁判所の「徳」が
問われる。
ロベスピエールがダントン、デムーラン、フィリポーの逮捕に強く抵抗し、
ランデに至っては最後まで署名を拒否したことは承知しているが。
8月10日事件とその前のテュイルリー宮侵入事件でのパリ市長
ペティヨンの手際良さはあっぱれだな。
あの頃まで、いや国民公会議員になってからもしばらくは
十分な急進派だったのに国王裁判を契機にジロンド派寄りに
なって後に追放されてしまったのが何とも悔やまれる。
彼とそのグループはマイユ・グループ同様に執行猶予付きで
国王処刑に賛成していたから、そのことはともかくとして、
国民議会時代もロベスピエールとタッグを組む民主派議員で、
その後はロベスピエール、ダントンを凌ぐ人気のパリ市長として、
8月10日蜂起を成功させた王制打倒の最大の功労者なのだから、
国王処刑後も広義のジロンド派にならず平原派ペティオン・グループの首領で
あり続けて、ジロンド派に傾かず、何とか国民公会に残って欲しかった。
連邦制もペティヨンの考えと相容れぬものだし。
それを言えば狭義での【ジロンド派】たるヴェルニヨも
ブリッソーやロラン夫妻と違って連邦制に反対、しかも国王処刑賛成だったが。
コンドルセもジロンド派にされてしまっているが、
彼は国王処刑には死刑制度反対の強い信念から反対したが、
あくまで平原派だった。あの知性と良識は惜しい・・・
国民公会の手前の時点で既にペティヨンとロベスピエールは袂を分かつ寸前で、
公会設立後はペティヨンの譲歩にもロベスピエールが断絶状を送って完全に決裂した。
ペティヨンはビヨー・ヴァレンヌみたいにロベスピエールの名声を羨望していたように見えますね。
3月の時点ではヴェルニヨがジロンド派の中心となって公会議員の支持を得ており、
完全に不利という状況ではなかったのですが、やはりイスナールの暴言が……
ガデーやバルバルーがダントンとの和解を邪魔をしなければ、ジロンド派(ロラン派を除く)&ペティヨン派&ダントン派の
連合が成立して比較的穏やかな革命路線もありえたと思うが、そこにネックとなるのはパリ市民の動向かな?
デュムーリエの裏切りでパリ市民はいつ暴発してもおかしくない状況になっていたから、社会的政策以上に
対外戦での結果がともなわなければ蜂起が発生してしまうだろうし。
たら、れば、なんで、やっぱりジロンド派政権はどこかで破綻するのは目にみえていますね。
コンドルセは惜しいですよね。
この人は広義のジロンド派とするにはあまりにも惜しい人物。
法律を守れ!
って考えている人物は軒並み不幸な目に合うのが革命時代。
(ロベスピエール、カルノー、ロラン夫人etc)
>>30 ペティヨンとロベスピエールは公会召集前に既に決裂していましたか・・・。
ビュゾーならばロラン夫人との関係もありますし、わかりますが、
やはり1794年春以降のビヨーのロベスピエールに対する嫉妬と
似たようなものがペティヨンにもあったのでしょうね。
それに8月10日事件までは王制打倒で一致していても、
やはりペティヨンはブルジョワ寄りだったようですし。
まだ1793年3月まではジロンド派は不利と言える立場ではなかったのですか。
ならば頑固なブリッソーに代わりヴェルニヨがジロンド派のリーダー格に
なって山岳派に対抗したのもわかりますし、ペティヨンがその頃から確実に
ジロンド派(少なくとも民衆や山岳派から見れば)になったのも
理解出来ます。しかし、教えていただいたように民衆(+アンラージェ+
エベール派の突き上げが強まっていて時期でもあって、
公会内や地方ではともかくパリ市民の間でのジロンド派人気は
もう凋落の一途を辿っていたと言ってよいほどに・・・
コンドルセは本当に残念です。法や原則に忠実故に破滅したのは
ロベスピエール、ロラン夫人、カルノーも同じという意見にも
全く同感です(断頭台送り別として)。
>>30 私も知りうる限りダントンとの妥協も拒否するガデやバルバルーの
頑なさには驚きま。ましてや彼らは少なくとも8月10日までは
ロベスピエールたちの同志といって良いスタンスでしたし、
また、これをロラン夫妻の責任にだけにするのも?だと。
例えばヴェルニヨやイスナールは国王処刑に賛成していますし、
ビョゾーも
寝ながらケータイでカキコしていたもので途中で・・・
続き
ビュゾーも執行猶予付きながら国王の死刑執行に賛成しましたし。
ガデやバルバルー−元はマラー崇拝者でマルセイユ連盟兵の親玉−が何故あれほど
山岳派に対して頑なになっていたのか、ロラン夫妻(特に夫人)の
影響だけでは理解し難いものがあります。
また、イスナールはいくらエベールやマラーが革命裁判所で無罪判決を受けた
からといってパリ市民への不満を爆発させたあの宣言・・・
あれは自分だけ破滅するのなら構わないですが、ジロンド派の
大物としても国民公会議長としても絶対に公言してはならない
ことでしたね。何故か彼自身は6月2日?の追放劇では免除され、
その後 追放されて公民権失効宣言されたもののパリ市内にテルミドールまで
無事にいて、テルミドール後に公会に復帰していますが。
議会でのロラン夫妻の代弁者とも言えたブリッソーはともかく、
バルバルー、ガデ、(国王処刑には条件付きながら賛成したが)ビョゾーが
あそこまで山岳派に非妥協を貫いたか、私には大変不思議に思われます。
私はロベスピエール、カルノー、コンドルセと共にグレゴワールが
好きなもので、彼が恐怖政治期も王政復活の白色テロ期も
無事だったのは嬉しいです。
マラー、ぺティヨン、ブリッソー、ヴェルニヨも「黒人友の会」の
メンバー。彼らやグレゴワール、ロベスピエール、コンドルセは
奴隷制度・黒人差別、ユダヤ人差別と熱心に闘いましたから。
逆に三頭派とくにラメット兄弟はナントの貿易商と関係が深いためか、
奴隷制度廃止に強く反対していたそうな。
民主派(共和派)で占められた国民公会でも女権論に理解を示したのは
コンドルセとシェルリエ(リヨン大破壊宣言を出した時の悪名高い公会議長)
ぐらいで、他は「女は政治に口を挟むな」だったそうですね。
いかんせ昔ですし、女性の識字率は男性より低かったですし(ブルジョワの
出身でも男性の教育水準と比べたら女性のそれはずっと低かった)、
(女権とは全く無関係ですが)ポンパドゥール夫人ら公娼が幅を利かして
いたことへの反動もあったでしょうから仕方ありませんが。
院外でも女性参政権を支持したのはジャック・ルー、ヴァルレ、ルクレール
らアンラージェぐらいで、ショーメットは尋常なないほど女性の権利に異を
唱えていましたし(エベールはさほどでもなかったとかで、広義の
エベール派も当然ながら人によって意見に違いがあったようです)。
1793年秋に女性の政治参加を公式に禁止することになる際、
同じ山岳派左派でも女権反対派のアマールと理解派のシャルリエとで
言い合いになったそうですし、〜〜派で一括りにするのも難しいですね。
と、また意味の無い長文レスをしてしました、orz
35 :
花:2010/01/03(日) 19:08:19 0
36 :
世界@名無史さん:2010/01/08(金) 14:33:07 0
単に『残酷だから』と言って仏革命を否定する奴って、頭悪いの?
戦争の99lは君主国によって行われている。
37 :
世界@名無史さん:2010/01/08(金) 14:34:41 0
いま、左翼革命派の人民に必要なのは、絶対平和思想ではなく、
人民解放のために『流血』を賛美することだ
もちろん、ブルジョア国家・封建国家・君主制国家による戦争を否定することは構わない。
2枚舌を使うべき。
訂正
○>公妾
×>公娼
それとデュバリー夫人もいたな。この人、革命期にはほとんど忘れ去られて
いたのに、家に泥棒が入って宝石だの貴金属だのが盗まれたことを
警察に訴えたところ、彼女が今年(1793年当時)ロンドンに行っている
ことが判明し、「怪しい」→「英国政府やロンドンの反革命勢力と
結托している」とされてしまい、断頭台送り。
どうやら買い物だかでロンドンに行っていただけで、そういう
連中とは何の関係もなかったらしいからかわいそうだが、イギリスと
戦争中だと言うのに買い物に行くだの軽率過ぎる。
また、デュバリー夫人みたいな人とは全然違うが、
グージュにしても女権以外に何をしたいのか全然わからんし、
メリクールは頑固な共和派だけども8月10日事件や9月虐殺で
大暴れしたかと思いきや、翌年にはジロンド派シンパになっているし(発狂
の原因は裏町のかかぁ連中やアンラージェの革命的共和主義女性協会の
連中のケツを酷く叩かれたからじゃなくて、梅毒が脳梅にまでなった
ことらしいが)。
仕方がないとはいえ娼婦の多さや識字率の極端な低さからしても
まだまだ当時は女性参政権は無理だはな。
普通選挙になったとはいえ男子も選挙人を選ぶ間接選挙だったし、
当時じゃそれも仕方ないだろう。
誤字だからけだ、orz
○>結託
×>結托
○>連中にケツを
×>連中のケツを
9月虐殺でのメリクールなんてアンリオ並みの基地外っぷりだったそうな。
その頃から頭やられていたのかな?
40 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 19:19:02 O
フランス革命が産み出した思想の中で正しいのか間違っているのかもっとも判断が難しいのは【革命の輸出】と言う思想だ。
『われわれは革命により自由を得た、しかし他の国々の人民は圧政に苦しんでいる、これを救うのは自由な市民の義務である』
これがナポレオンの征服戦争を正当化した。
しかしナポレオンの征服なくしてヨーロッパの変革はあったのか?
更にこの思想は欧米によるアジア・アフリカの植民地化の正当化にも使われた。しかし植民地化なくして世界に民主主義が広まる事はあったのか?
難しい問題だ。
41 :
世界@名無史さん:2010/01/10(日) 19:21:16 O
>>40 【革命の輸出】と言う思想
正しいのか間違っているのか?
【革命の輸出】という思考が正しいか間違えているのかは
後世からは判断し難いね。
フランス革命の「普遍」の精神も大きいけれども、
ジロンド派内閣による開戦以降は敵国だらけだった当時、
次第にフランスを防衛する為のもの、革命を正当化する為のものに
変容していったし、
更にはナポレオン時代には(中身の急進さを無くした代わりに)
ナポレオンの個人的野心の為に彼の体制の維持と拡大の為のものになったし、戦前とジロンド派・
山岳派時代と総裁政府時代とナポレオン時代(執政政府・帝国)とで
意味合いが違うことも大きい。
43 :
世界@名無史さん:2010/01/11(月) 18:15:01 O
さらに【革命の輸出】の一形態としてアジア、アフリカの植民地化がある。
国内の民主化をほぼ達成し国民国家を作り上げた欧米列強は『遅れた国々を文明化する』と言ってアジア、アフリカを植民地化していった。
大事な事はこの文明化は決して植民地化に対する言い訳ではなく本気で信じられていた事だ。
だからこそ植民地化は国民の絶大な支持を得、国民から徴兵された軍隊は勇敢に戦った。
フランスは特に文明化に熱心で1950年代まで旧フランス植民地ではどんな僻地でも流暢にフランス語をしゃべる者がいた程だ。
これは鉱山も港もない、まったくカネにならない土地まで出かけて文明化に取り組んだフランス人が大勢いた事を意味する。
44 :
◆4FfyOtW0fiF5 :2010/01/12(火) 21:59:43 0
>>43 アルジェリアはシャルル10世時代から支配が始まって
七月王政下で植民地化に完成した早い段階で植民地化された地域だった
からかどうか、独立してからも人々はフランス語は話せてもアラビア語や
カビリア語はろくに話せない状態だったらしいね。
特にアルジェみたいな都市部では尚更。
この【文明化】や【文明】―【未開】の概念も今だからこそ
我われは疑問に思うが、
>>43さんが書いている多くのフランス人と
大差なく一昔前までならば私もごく当たり前に思っていただろうし、
これまた難しい。
例えば私は今から見て昔の征韓論や朝鮮蔑視に批判的だが、
明治時代ならば考え方がまるで違うはずで、板垣退助、西郷隆盛、福澤諭吉
らの主張に共鳴したり(多少なりとも知識があれば尚更)、
無知でも自然と朝鮮や清を【遅れている】と思い始めたと思う。
特に政府の欧化政策や(自由党であれ改進党であれ)自由民権運動に
多少なりとも影響を受けている地域で暮らしていれば。
45 :
世界@名無史さん:2010/01/13(水) 22:50:45 O
?
46 :
世界@名無史さん:2010/01/29(金) 14:41:42 0
封建的特権の廃止で、、「農奴身分、領主裁判権、狩猟権、十分の一税」
などは無償で廃止されますが、農民にとって最も過酷な「年貢の徴収権」は、
二十年か二十五年分の年貢を一括で支払った場合にのみ、買い取ることが出来る
(土地所有者になれる)事になったにすぎません。
それができなければ、土地は以前として貴族のものであり、農民達はこれまで
通り年貢を払わなければならなかったのです。
実際問題としてこんな大金が一発で支払えるような貧農はいませんでした。
ですから、貴族は革命開始以後も1792年の「封建制廃止令の強化」まで
は、自分たちの領地から年貢を徴収し続けます。
また二十年か二十五年分の年貢を一括で支払った金持ちの大借地農は、
貴族に多額の現金を支払った事になり、この事で貴族は多額の現金を保有できた。
「年貢の徴収権」の放棄と引き換えに多額の現金を保有した貴族は、
絶好の投資機会を得ます。教会と修道院の土地財産の国有化と売却です。
聖職者タレーランが、フランス全土の約一割、約30億リープルと言われた
莫大な教会と修道院の土地財産を国家負債の償還に充てることを提案しました。
一般的に、貴族の領地は私有地として見られていましたが、教会と修道院の財産は
公共のものとする考えが強かったので、上級聖職者以外からの抵抗は意外に少なかったのです。
1789年11月2日、議会は上級聖職者の抵抗を排除して、教会と修道院の財産を没収し
それらを国有化することに決定しました。そしてこれらの土地資産は、革命が進む中
売却が続けられます。
しかし、本来土地を耕していて、喉から手の出るほど欲しいはずの貧農、小作農には
手が出せず(小売をしないので)、土地など必要のない金持ちや貴族が投資と
して手に入れてしまった。
ここで重要なのは、貴族の所有地が革命勃発以前よりも革命以後の方が多いという現象である。
革命の進展と土地不動産の移転とはあまり関係が無い事に驚かされる。
戦後の農地解放とはまったく違う現象が起きたという事だろう。
47 :
世界@名無史さん:2010/02/01(月) 14:07:26 0
カトリック教会領(教会・修道院・司教・イエズス会・神学校・病院)はフランス
革命勃発時に国土の15〜20%を占めていた。
これらの土地を1789年11月に国有化し12月の布告で売りに出した。
売値の12%を先払いし、残金は12年で支払う事になっていた。
実際に一番多く国有資産を購入したのは、ブルジョワで2番目が貴族であった。
ブルジョワと貴族は、良い土地は悪い紙幣に勝る事を知っていた。
ブルジョワはともかく革命に反対する貴族は多かったが、カトリック資産の
国有化と売却の機会は逃さなかったし反対もしなかった。
これに乗じて貴族階級は、革命以前よりも土地所有地を増やしてしまう。
貴族の中でも亡命貴族と王党派の反乱を指導した貴族が国有財産購入者であ
った事は当時から批判されている。亡命貴族は、革命に反対しつつも国内に
残してきた親族や執事などをダミーの購入者に仕立て上げ国有地競争入札に
参加していた。
また、同じくヴァンデの反乱の指導者の一人であるデルベーは多数の国有資
産購入者であり、国外に亡命した親族のダミーとして、また自己の資産運用
として多数の教会資産(主に居城近郊の農地)を購入した。また、パリ在住の
ブルジョワと土地購入でぶつかり競争入札となり競り負けた事もあるらしい。
特に、革命初期には、フイヤン派やジロンド派が勢力を保っていた為に
国有財産の売却時の分割分筆は禁止された。これは議会がアッシニア紙幣を
素早く大量に回収するために、裕福で支払い能力のある買い手を優先すると
いう名目で貴族やブルジョワが大きな土地を分割しないで購入出来るように
手を回したからである。
一般市民の為に国有財産の分筆購入が初めて認められたのは、8月10日
事件後の国民公会での決定を経てからである。
48 :
世界@名無史さん:2010/02/05(金) 01:38:45 0
フランス革命後の有産階級は3つの大きな派閥、土地貴族つまり大土地所有者
の派閥と、金融貴族と産業ブルジョアの派閥に分かれた。そのうちで大土地所
有者が復古王政下で、金融貴族が七月王政下で、主導権を代わる代わる維持し
て来たのである。
「ブルボン」は土地貴族(大土地所有者)の派閥利益の影響力が優勢なことを表
す王朝の名前だったのに対して、「オルレアン」は金融資本の派閥利益の影
響力が優勢なことを表す王朝の名前だった。そして第二共和制は、3派閥が
平等の支配権をもち、互いの競争を止めなくても共通の階級利益を維持出来
る唯一の体制だった。
1830年の7月革命でオルレアン家が王位にのぼると、レジティミストは、田舎
にある自分たちの城や所有地に戻って公的政治活動から完全に身を引いてしまう。
当然レジティミスト(ユルトラ)の影響力は衰えた。なぜなら7月王政は、ブル
ジョワ、特にロスチャイルドを始めとする金融資本家が支える政権であり、
この時期は、フランス革命を生き残った地方貴族とその子孫は、土地貴族
(地主貴族)化した事で、金融資本家と利害が一致せずレジティミストは政権
から排除されていた。
49 :
世界@名無史さん:2010/02/05(金) 01:40:00 0
しかしレジティミスト(ユルトラ)は1877年には金融資本家との折り合いの悪い
産業資本家や中小ブルジョワと組んで、共和制転覆を狙って5月16日危機を
引き起こし、それ以後も政治的影響力を保ち続けた。
彼らは時とともにその政治信条つまり君主権の制限の反対、アンシャン・レジ
ームの再構築とフランス革命による歴史の断裂を消し去ること等の政治目標を
軟化させ、ブルボン家の王位復帰が彼らレジティミスト(ユルトラ)の政治的
第一目標となった。
大地主の大多数を占めた正統王朝派:レジティミスト(=ブルボン王朝支持派)
は、七月王政:オルレアニスム(=オルレアン王朝)によつて奪われていた
政治的な権力を2月革命勃発と臨時政府の成立で取り戻した。
『ガゼット・ド・フランス』紙(=正統王朝派新聞)がプロレタリアート系
の野党支持の新聞とともに革命を煽動したのは無駄ではなかったし、また、
ラ・ロッシュジャクラン(=正統王朝派議員)が二月二十四日の下院議会で
革命を支持したのも無駄ではなかった。
なぜなら彼らは第2共和国時代には7月王政期よりも政治的存在感を増した
からだ、6月暴動でプロレタリアート鎮圧した後にレジティミストはオルレ
アニストと連合して秩序党を結成し、1849年5月の総選挙から1851年12月2日
に大統領ルイ=ナポレオン・ボナパルトがクーデタを起こすまで政権与党の
地位にあった。
これは6月暴動の後から労働者運動や社会主義に対抗する為に、貴族(大土地所有者)
とブルジョワは手を組み、彼らと立ち向かうようになる。これもレジティミストの立場を強くした。
また、これに対応し労働者側もプチブルの代弁者である新山岳党は、プロレタリア
の社会主義政党と連合せざるを得なかった。
50 :
世界@名無史さん:2010/02/05(金) 22:31:15 0
アンシャンレジーム末期には、宮廷貴族が大土地所有者であり産業ブルジョワ
でもあった。宮廷貴族は、旧体制下では、各地で工場を設立し国家や軍に納め
るなど産業ブルジョワジーとしての活躍を兼ねていた。
また、地方貴族と法服貴族は、宮廷貴族と王族により政権中枢から排除されていた。
アンシャンレジーム末期の王権と貴族の対立は、宮廷貴族と地方貴族の対立でもあった。
しかしバスティーユ要塞の陥落からベルサイユ行進までの過程で宮廷貴族は、
次々と亡命し政治勢力としては消滅した。残るは、自由主義貴族と地方貴族であった。
彼らはアンシャンレジーム末期には、王権による各種特権の剥奪に反対し王権
による改革に反対した。しかし革命勃発後は、逆に王権を利用し後のジャコバ
ン派やパリのサンキュロット達の急進的左翼と対決し押さえ込む事を目論んだ。
また旧体制以来の特権商人やブルジョワもこの王権との提携による急進的左翼
の押さえ込みを図っていた。このため立法議会では、立憲王政の確立を目指す
フイヤン派が結成された。彼らの支持基盤は地方貴族であり、王党派組織の聖
ルイ騎士団と密接な関係を持っていた。
封建的特権の有償廃止により多額の現金を得た地方貴族は、今まで宮廷貴族により
土地所有の拡大を阻害されていた事をこの期に克服するかのように国有財産
(カトリック教会財産)の競売に参加し自己の直接的な土地の所有地を拡大させた。
この時期、最大の国有財産購入者はブルジョワであり、2番目は貴族であった。
この為国有財産の売却対象者は農民やプチブルを排除し実質ブルジョワと貴族
が購入する前提で行われた。このことは貧農や貧困都市住民の反感を買い、革
命が進行するにつれて政治問題化した。折角革命は行われているのに貧富の差
は縮小するどころか返って拡大したからだ。また貴族の政治権力の打破を目標
に掲げた革命は、開始されてみると貴族の土地所有に関しては革命以前よりも
拡大し貴族の経済的優越性(特に農業分野)に関しては旧体制期よりも酷くなっ
ていた。この事態を解決すべくロベスピエールは後の国民公会で恐怖政治期に
ヴァントゥーズ法を成立させ貴族とブルジョワの大土地所有を解体し、貧農に
無償で譲渡しようとする。
51 :
世界@名無史さん:2010/02/06(土) 01:08:11 0
フランス国土の15〜20%を占めるカトリック教会財産は、国有化され売却
ではインフレで実質価値が目減りする一方のアッシニア紙幣で支払われた。
この為にこの土地財産の売却は、ほとんど贈与と化していた。
これらの国有財産購入に当たっては、階級間の闘争となったが、単純に有産階
級と無産階級が対立した訳ではなかった。むしろ有産階級内部のつまり貴族と
ブルジョワによる優良な農地と物件の奪い合いが発生した。
具体的には国有資産の売却は自治体役所での競売であるが、都市部の新興ブル
ジョワと地元の地方貴族による競り合いとなる場合は、資金力に勝る新興ブル
ジョワが競り落とすケースが多かったようだ。
しかしこの場合、新たな地主となる新興ブルジョワは、パリ在住の不在地主で
あり農業技術には不案内であった。また競り合いの末落札した優良な農地や物
件には多額の資金を投じており、早期に回収する為小作料の急激な値上げを実
施し農村での争議の元となるケースが多発した。もっとあくどい新興ブルジョ
ワは、ユダヤ人や投機家を含んだ「黒服団」と言う集団を組織し、落札した農地
や物件の住民、借地農、聖職者などを片っ端に追い出した。
この為に新興ブルジョワの不在地主が優良農地を買収しても収穫率の停滞や農
村争議に発展し投資の回収に時間がかかるケースが多発した。結局都市部の新
たな農地所有者のほとんどが財政的手段も生産性を高める技術的知識も持ち合
わせていなかった。その為に小作農や日雇い農で構成される耕作者は、適切な
肥料を施して地力を維持しようとはせず、土地を疲弊させ、収穫率は低下した。
52 :
世界@名無史さん:2010/02/06(土) 01:08:51 0
また、地方貴族と新興ブルジョワは土地の購入の仕方が異なった。自分の居城
や所有地の隣接地や近隣地の国有地を積極的に購入したのに対し、新興ブルジ
ョワは、かなり無作為に購入地を選んだようだ。地方貴族は、既に地元の気候
や土壌、水利、物流、日雇い農などを良く知る執事や農地管理人を抱えており
彼らと相談しながら国有地の購入を決め、購入後の農地経営にも彼らを使った。
しかし新興ブルジョワにはこの手の人的資本が無く、農業知識も無い為国有地
購入後の経営が上手く行かなかった。このため購入後の経営実績にも差が出来
てしまった。
また、地方貴族は国有地が元々カトリック教会や修道院の所有地であり、その
聖職者や教会が地元住民の精神的拠り所になっている事をよく理解していた、
と言われる。その為に地方貴族は、国有地を購入しても無闇に聖職者を追い出
したり教会を破壊する事はせず、聖職者に教会で聖務を続けさせるなど、便宜
を図り地元住民の動揺を招く事はしない事に努めていた。
しかし都市部の不在地主となった新興ブルジョワはほとんどこの様な配慮は行わなかった
53 :
世界@名無史さん:2010/02/06(土) 05:15:23 0
もしかして、どっかからのコピペ連投?
いや、内容は勉強になるから、全然かまわないんだけど。
54 :
世界@名無史さん:2010/02/06(土) 18:50:33 0
>>53 コピベと自分で調べた事双方ですね、個人的にフランス貴族の所有地が革命
勃発以後にどれだけ増えたか、また7月王政が倒れる時期まではブルジョワと
貴族の政治的対立が続くのでその抗争劇に興味があります。
それに付随してブルジョワと貴族の対立の経済的側面も調べてみたいですね。
18世紀に入ってブルジョアジーが台頭してくると、金を積んでこの爵位を
買うことも珍しくなくなってきます。いわゆる「新貴族」「ブルジョア貴族」
の出現で、イギリスなどではそれまでの貴族と新貴族の対立が起こったりしま
したが、フランス社交界ではこうした新興貴族に対して意外と寛容であったようです。
政治的には対立していたフランスの貴族とブルジョワが、ブルジョワの貴族化
にはそれほど抵抗していないのには驚きです。
また、貴族を名乗る怪しげな人達もサロンには多くいましたが、なまじ
「伯爵」や「子爵」を名乗ると出自を細かく問われて嘘がばれてしまうため、
「男爵あたりを名乗るのが手頃」として、良く使われていたようです。
「男爵」という爵位に対し多少なりとも胡散臭さがでてくると、「椿姫」の
描く裏社交界にリアリティを持たせることができます。 まあ、文学的なフラ
ンスの貴族とブルジョワの対立ストーリーを考えると「成金男爵=金はあるが、
貴族のエレガントさに欠ける」と想定するのが無理のないところでしょう。
55 :
世界@名無史さん:2010/02/06(土) 22:07:02 0
貴族、特に地方貴族が革命を生き抜き、全体として貴族の所有地を増やし、復
古王政では、一応政治的主導権を回復したのに対し、カトリック教会は再国教
化したボナパルト帝政や復古王政でも教会は革命前の特権・勢力を挽回できず、
実質は政治から排除されたのは面白い。
貴族とブルジョワは対立しつつも、カトリック教会独自の経済的基盤を革命期
のドサクサで自己の物としてしまった事がカトリック教会の政治的復権の阻害
要因になっている。地方では膨大な教会・修道院保有地を地元貴族が捨て値で
買い取ったっていう話がゴロゴロあるらしい。
マリーアントワネットは1792年に手紙で国有財産の購入ブームであることを告げ、
フェルゼンにも国有財産購入を進めている。
フランス革命は王権による独裁と貴族の特権剥奪には成功したが、国民の経済
格差是正にはほとんど役に立たず、かえって格差を助長した。フランス革命期
の貴族の土地保有の増大はその顕著な例で、実はブルジョアだけでなく革命に
反対する王党派や亡命貴族も含めた貴族がフランス革命期の国有資産購入者だった。
このようにフランス革命は、社会の底辺層には決して優しくなかった。
フランスのブルジョアと貴族の対立は、後も続きます。特に2月革命では地方
貴族(特にレジティミスト)と都市部の労働者が半ば結託し、ブルジョワ王権
である7月王政を崩壊させます。
しかし、6月暴動でプロレタリアートや社会主義勢力の伸張が見られると後に
対立していたブルジョワ、貴族双方は結託し、労働者への弾圧に動きます。
レジティミスト=地方貴族(大土地所有者)
オルレア二スト=ブルジョワ(金融資本家) こんな感じでしょうか?
ボナパティスト=中産階級と労働者 それぞれの支持基盤は。
社会主義者 =都市部労働者
56 :
世界@名無史さん:2010/02/07(日) 05:09:16 0
戦前の日本の地主は自分で大農場を経営していたわけではない。
日本の地主は直営地を経営するのではなく、小作に出すのが一般的だった。
つまり日本の地主はただ小作料を取るだけの「寄生地主」にすぎなかった。
(面倒見たり世話したりすることはあったろうが)
また、数百町歩以上の大地主は、内地では東北や新潟などに限られており、
その他の地域は中小地主ばかりで、都市で会社員や商売を営む不在地主も多かった。
とくに千葉や埼玉などでは、ほとんどの地主が5町歩未満の小地主であり、
第一次農地改革の対象にならないものばかりだった。
こうした地主は、商人や金貸しが江戸後期の農村の階層分化の時期から
明治初年の松方財政の時期にかけて、土地を集積して成立したものであり、
零細な規模の小作地があちこちに分散していた。
こうした状況では地主が存続していても、集約的な大規模経営は不可能だった。
しかも、松方デフレの時に借金のカタに別々に手に入れた小作地が細切れ状に
分散してるから、大規模経営は物理的に不可能だ。
イギリス、フランスなどの西欧の貴族は直営所有地の小作人への貸し出しや
丸投げは行わず、自分で農業労働者を雇って経営するから、そのあたり一帯
に一円的に広がる所有地で大規模経営が可能。
この為にフランス革命勃発時から貴族が自分の居城や所有地の隣接地や近隣
地の国有地を積極的に購入しようとした。一円的な所有地面積が広がる事で
作物収穫量も作業効率も共にアップさせる事が出来たからだ。
ただ実際に農作業を貴族が監督する事は少なく、農地管理人の監督下で農業
労働者が農作業に従事していた。
57 :
世界@名無史さん:2010/02/07(日) 16:45:36 0
西欧の貴族は直営所有地で自ら農業労働者を雇って経営する方式は、農業革命
下のイギリスで顕著に広まった。フランスの貴族がこの方式を完全に導入する
のは19世紀になってからである
18世紀にイングランド東部ノーフォーク州で始まった新農法がノーフォーク
農法と言われるモノで、大麦→クローバー→小麦→かぶの順に4年周期で行う
四輪作法。休耕地がなくなり、牧草栽培による家畜の飼育が可能になり、エ
ンクロージャーの拡大とあいまって穀物生産を増大させ農業革命と称された。
囲い込み(エンクロージャー:enclosure)は細かい土地が相互に入り組んだ
混在地制における開放耕地(Open Field)を統合し、所有者を明確にした上
で排他的に利用する事。歴史上、幾度となく繰り返されてきたプロセスであ
るが、特にイギリスにおいて16世紀と18世紀の二回行われたものを指す。
これらのプロセスを経て、顕著な農業技術革新と土地の区画整理や改良事業
が結合し小麦の播種量と収穫量の比は1対6以上に増大した。当然収穫量の
増大を招き、都市部への食料供給拡大を可能にし産業革命を側面から支援した。
当然、フランスでも旧体制末期に北東部を中心に農業革命が展開している。
イギリスの新農法に刺激されたフランスの重農主義者らの“農業熱”は
“イギリス狂”とも皮肉られた。とくに重度主義者ケネーは『経済表』
(1758)を著して、国富の源泉を農業に求め、積極的に大農場経営を提言した。
事実、一部の貴族や大地主は新農法を実施し、カブ・サンフォワン・クローバー
などの栽培も増大している。政府(とくにベルタン財務総監期)も開墾や
干拓・土地改良を奨励した。そのほか、土地の囲い込みについても、各地の
高等法院の認可にもとづいて実施されている。
58 :
世界@名無史さん:2010/02/07(日) 17:23:20 0
しかし全体としてみると、フランスはイギリスよりも農民の土地に対する諸
権利は強固であり、囲い込みが急速に進ない。重農主義者の中でも大土地経
営よりも小土地経営の方がはるかに集約的な農業経営が可能であると主張し
ていた。しかも、「休閑の恥辱」といわれた休閑地が消滅するのは19世紀
を待たねばならない。
結局、フランスでは、イギリス新農法を取り入れた資本主義的な大土地経営
と小農民による零細な土地経営が並存する。これはフランス農民の耕作権の
強さと広大なカトリック教会領が、貴族の囲い込み(エンクロージャー:en
closure)による大規模経営の成立を阻害しているからだ。
後のフランス革命やボナパティズムを支えた基盤も小土地所有農民にあった
といわれ、ここに地方貴族(大土地所有者)の大部分を占めるレジティミスト
との支持基盤の違いと両者の農業分野での利害の対立が伺える。
この利害対立からフランスの農業革命の実施には政治的困難があると言わざる
おえない。なぜなら食糧増産を目指す農業革命にはイギリスであれフランスで
あれ貴族(大土地所有者)による囲い込みが必要となる。しかし、それを実行す
るには小土地所有農民やカトリック教会が抱える農地や土地を貴族が買収し耕
作面積の増大と区画整理が図る必要がある。
そうなると財政再建のためフランス革命当初から国有化されたカトリック教会
財産はともかく、フランス革命やボナパティズムを支えた小土地所有農民の保
有農地を何らかの形で売却放出させ、レジティミストが大部分を占める地方貴
族(大土地所有者)に彼らの農地を買い取らなければ成らない。
しかし革命に反対するレジティミストの資産や収入増大に結果的に寄与する農
業政策をフランス革命政府は政治的に採用出来る訳が無いから、フランス革命
下での政府公認での農業革命は事実上実施不可能といえる。
これが、フランスでの農業革命を遅らせた最大の原因と言える。
59 :
世界@名無史さん:2010/02/07(日) 17:49:50 0
レジティミストが大部分を占める地方貴族(大土地所有者)に彼らの農地を買い取らなければ成らない。←×
レジティミストが大部分を占める地方貴族(大土地所有者)に彼らの農地の買い取りをさせなければ成らない。 ←○
60 :
世界@名無史さん:2010/02/09(火) 02:40:44 0
農業革命の結果、イギリスでは「三分割制」とよばれる土地制度が確立した。
三分割制とは、大土地所有者である地主、地主から土地を借り受けた借地農、
借地農に雇われる農業労働者からなる制度である。
地主はイギリス各地に複数の農地を所有する事が多かった為、直接農業経営
に参画することはほとんどなくなっていた。そこで借地農が地主から土地を
借り受け、農業労働者を雇い上げ耕作を行った。このような借地農はしばし
ば農業資本家とも見做される。
19世紀前半の段階でパリ近郊の農村には上記の借地農がいた。日本の小作
人とは異なり、かなり大規模な農地を地方貴族から借りていたようだ。
ブルジョワ風の身なりで金回りがよく、この点も日本の小作人とは違う、
借地農はわざわざ馬車に乗って、地主である貴族の館に小切手で小作料を払
いに来たらしい、バルザックの本に書いてた。
バルザックって写実主義で、19世紀当初の当時のフランス社会のリアルな描
写に拘ってた人だから、そういうイギリス由来の「三分割制」に基づく裕福
な農民も発生していたのだろう。
ただフランスの地方貴族は、離れた場所に複数の農地を所有するよりも、一
箇所に一円的に所有農地を集約し大規模経営をしていたはずだから、借地農
に所有地を貸し出さずに直接農業労働者を雇い経営していた地方貴族の存在
もある。19世紀フランスでは大土地所有者の直接的農業経営と借地農への貸
し出し経営双方の土地経営が並存していた可能性がある。
61 :
世界@名無史さん:2010/02/09(火) 04:07:48 0
フランス革命の進展に伴うテロルを、その進展に即していくつかの段階に分け
て、考える必要がある。まず初めの段階が王党派(地方貴族=大土地所有者)と
革命派(ブルジョワ)の対立関係のテロルとなる。
対外戦争(防衛戦争)と、貴族を主とする大土地所有者に対抗する中で生じた
テロル。しかけた側の主体は、大借地農(農業資本家といってもよい)、小作
農、マニュファクチャーの企業主、都市部の中小零細手工業者(親方)と、そ
れに雇われたルンプロ層(労働者階級といえるものは存在しない)、徒弟、そ
れに絶対王政下で経済的主導権を握っていた銀行家達(積極的とは言えないが)。
ケネーが1756年に「借地農論」を表し、大規模借地農業の普及を提言している。
この中には、借地農の困窮の原因を3つ示している。
@青少年の都市部への逃走A重税による農業投資者の財産剥奪B穀物交易を妨げている束縛
の3つで、旧体制下では借地農の大部分は困窮していた可能性が大きい。
故にフランス革命期には、貴族を主とする大土地所有者に敵対した。
62 :
世界@名無史さん:2010/02/10(水) 07:06:44 0
フランスで革命の過激化が起きた理由の一つにブルジョワ層が経済発展の為の土地を手に入れることが出来ず、
政治への参加も容易ではなかったことがあげられると思います。
イギリスではジェントリ、ドイツのユンカーが
ともに土地を資本に経済力をつけていきますが、特にイギリスは植民地争いで勝利をし、
重農主義思想による土地資本の活用を植民地にも適用して産業革命をむかえます。
しかし、フランスでは土地を持つのが貴族と聖職者であり、重農主義者であるテュルゴーの
失脚により土地を資本にしたブルジョワは国内では育ちませんでした。
植民地も戦争の敗北により失ったことで唯一機会のある可能性のあった港湾都市の商人は、
その機会を失います。
そして、カロンヌが結んだイーデン条約によって産業革命を迎えつつあった高性能な
イギリス製品はフランス国内産業を脅かし、輸出品であるフランス製ワインは伸び悩んだため、
フランス経済は打撃を受ける結果となります。
百科全書によって芽生えつつあった自由主義思想は、新興ブルジョワ層に政治参加の重要性を
認識させ、民衆の不満を利用して改革を扇動しました。
バルナーヴら立憲派が革命を終わらせようとしても、逆に港湾商人と結んだジロンド派が
革命を推進させようとしたのも、ブルジョワによる土地資本の獲得と経済の自由化をいっそう
推し進めようとしたことが要因です。
なぜなら革命勃発後も、貴族の封建的特権は「年貢の徴収権」関しては有償廃止であり、
この有償廃止政策が92年8月まで続くこことで貴族階級に現金が流れ込み続けます。
この資金が貴族階級の特に旧体制下でも宮廷貴族に土地所有の増大を認められなかった
地方貴族に流れ込み、彼らが農村部で大規模地主としての地位を固めるからです。
ブルジョワもこの時期に土地所有を認められますが、従来の貴族による土地所有欲も
高まっていた時期でもあり、ブルジョワには期待するほど土地所有が集約しなかった。
このように農村部の土地にめぐり、フランス革命以後も王党派とブルジョワの対立関係を
清算出来ず、ブルジョワと貴族は激しく対立と続ける。
日本人の発想としてブルジョワが国を動かすというのがどうも理解できない。
明治維新も士族出身の官吏主導の革命だったから。
フランス革命でのブルジョワの働きは、経団連が政治に口を出すのとはレベルが違うことでしょ。
64 :
世界@名無史さん:2010/02/10(水) 17:50:57 0
65 :
世界@名無史さん:2010/02/11(木) 19:21:37 0
>この資金が貴族階級の特に旧体制下でも宮廷貴族に土地所有の増大を認められなかった
>地方貴族に流れ込み、彼らが農村部で大規模地主としての地位を固めるからです。←×
この資金が貴族階級の中で、特に旧体制下では宮廷貴族によって土地所有の増大を認められなかった
地方貴族の処にに流れ込み、彼らが農村部で大規模地主としての地位を固めてしまうからです。 ←○
66 :
世界@名無史さん:2010/02/11(木) 22:19:36 0
イランイスラム革命勝利記念式典、日本で開催
2010/02/10 Wednesday 15:12:01 IRST
イランのイスラム革命の勝利31周年記念日にちなみ、日本で同国に駐在する各国大使や
日本政府関係者の列席の下、祝賀の式典が行われました。イルナー通信の報道によりますと、
今回の式典には、日本に駐在するアラブ・イスラム諸国、ラテンアメリカやアジア・アフ
リカ諸国を含めた、およそ100カ国の大使や代理大使が参列し、アラーグチー・イラン
大使や在日イラン人に花束を贈呈し、祝賀の意を表明しています。なお、今回の式典には、
藪中事務次官や鈴木・中東アフリカ局長を始めとする、日本の外務省関係者も列席しています。
今回の式典には、この他に、福田元総理、衆参両院議員28名、山東昭子参議院副議長、
また、日本企業や団体からは、丸紅、昭和シェル石油、インペックス、ジェイペックス、
日本オイル、住友、三菱、三井、JICA日本国際協力機構、JETRO日本貿易振興会、
東京証券取引所、財団法人中東協力センター、さらに、日本に在住するイランと日本の芸術、
文化学術界の要人、両国の主要メディア、日本の経済産業省と、文部科学省の関係者が参加
しました。
http://japanese.irib.ir/index.php?option=com_content&task=view&id=10924&Itemid=54
67 :
世界@名無史さん:2010/02/13(土) 06:10:57 0
フランス革命後、経済も無茶苦茶になったはずなのに
結局蓋を開けたら土地所有に関しては貴族階級のそれが増加し、
産業と金融に関してはブルジョワ層が増えてこれらの階層だけが得をした。
革命を支援したブルジョワはともかく、本来は倒されるべき対象の貴族階級が、
財産を革命のドサクサにより増加させたのは、歴史の大変な皮肉。
そもそも革命の勃発と過激化を裏で糸引いてたのがブルジョワ、とくに商人層だが、
彼らが貴族階級から封建的特権を奪う事には成功しても、土地所有には関しては、
むしろ逆に貴族階級の所有地増加を許した。
ブルジョワの農地経営の失敗もあり、農業分野での貴族階級の主導権を許す事になる。
フランス政局は、2月革命で労働者が前面に出てくるまではブルジョワと
大土地所有者化した貴族との対立抗争劇になる。
確かに18世紀にはイギリス、ドイツでは土地持ちが力をつけてたし、
フランスと違って革命を煽動する階層が弱かったって事になる。
ただしイギリスでは穀物法が1846年に廃止され、ブルジョワジーの
政治力が地主貴族を上回る事になる。
ドイツでは、ユンカーは近代化の波の中で、封建的な農場経営が崩壊し、
その多くは経済的に没落するが、ユンカー出身者たちが官界や軍隊に入り、
地主と言うよりは、国家による終身雇用で生計を立て政治力を維持した。
近代ドイツ官界や軍部ではユンカーは最大勢力となり、政治力を20世紀まで維持した。
ナチス時代にも勢力を維持し平民出身の親衛隊と対立関係にあった。
元々ヒトラー個人に対してではなくドイツに忠誠を誓い、それを誇りとしていたため
ナチスと対立する事が多く、ヒトラー暗殺計画の中心人物はユンカーであった。
68 :
世界@名無史さん:2010/02/20(土) 08:27:17 0
ナポレオン戦争は世界大戦の一つに数えられるべきだと思う
69 :
68:2010/02/20(土) 09:55:53 0
70 :
世界@名無史さん:2010/02/28(日) 00:07:44 0
71 :
世界@名無史さん:2010/03/08(月) 03:02:55 0
8月10日事件でのチュイルリー宮殿を防衛する兵力数が資料や本によりかなり異なる。
河出書房出版の“図説フランス革命”という本には、宮殿防衛の兵力を
“3000〜4000人”と1000人も幅のある書き方をしている。
やはり基礎的な資料にチュイルリー宮殿防衛側の兵力にかなりの差が有るのだろう。
一般的にチュイルリー宮殿防衛の兵力は
スイス人衛兵隊900人、武装貴族志願兵2〜300人、パリ国民衛兵隊2000人、合計3100〜3200人
とされている。
しかし河出書房出版の“図説フランス革命”という本のように仮に4000人の場合の内訳は・・・・・
スイス人衛兵隊900人、武装貴族志願兵2〜300人、
近衛隊1000〜1200人、パリ国民衛兵隊2000人となり、
チュイルリー宮殿防衛の総兵力は、4100〜4400人となる。
どのみち、パリ国民衛兵隊2000人は、サンキュロット武装デモ2万人が
チュイルリー宮殿に接近すると、宮殿防衛側から離反しサンキュロット側に
加勢してしまうので、あまり関係がない。
しかし、残りの兵力が1000人前後と2000人前後ではかなりの兵力の
差になる。もしチュイルリー宮殿防衛の兵力が、スイス人衛兵隊900人と
武装貴族志願兵2〜300人だけなら、1200人程度の兵力しかなく、サ
ンキュロット2万人の武装デモに敗北しても仕方ないと思うけが・・・
本当はチュイルリー宮殿防衛に近衛隊1000〜1200人も加わりパリ国
民衛兵隊2000人が離反した後でも、2000〜2400人の兵力が宮殿
防衛側に残されていた
72 :
世界@名無史さん:2010/03/08(月) 05:27:17 0
もし2000人以上の兵力が宮殿サイドに残っていたら、
サンキュロット武装デモ2万人攻撃して来ても撃退出来た可能性がある。
武装デモ隊といっても完全武装した兵隊の集まりではなく、各自勝手に
武装しただけであり、武装デモ隊内部の正規軍は精々2000名程度である。
宮殿サイドに2000人以上居たのならチュイルリー宮殿防衛は成功に
終わっていた可能性がある。
すかしルイ16世は、戦闘中止を命令し、結局サンキュロットはスイス人衛兵
や貴族たちを虐殺した。
8月10日事件で国王サイドやフイヤン派が壊滅したのは、国王の弱腰による反劇不全ともいえる。
73 :
世界@名無史さん:2010/03/08(月) 19:48:18 0
チュイルリー宮殿を攻撃したサンキュロット側は自前の刀やヤリが多く、
銃などの火器はそれほど保有していない。
国王が、チュイルリー宮殿の戦いの最中に停戦を指令し、宮殿防衛部隊が一方的に虐殺された。
宮殿防衛側2000人以上の兵力で徹底抗戦すれば、武装サンキュロットを撃退出来た。
この戦いを見ていたナポレオンもそのように感想している。
やはりルイ16世は、ジャコバン派やサンキュロットと徹底的に戦うべきで、途中で戦闘を中止すべきではなかった。
サンキュロットとジャコバン派は、チュイルリー宮殿攻撃に先立ち、司令部と
して“蜂起のコミューン”を結成、市庁舎を占拠しパリ市長を監禁、市政を非
合法に掌握した。“蜂起のコミューン”が占拠後の市庁舎から王党派でパリ国
民衛兵隊司令官のマンダ侯爵に出頭要請があり、のこのこマンダ侯爵はパリ市
庁舎に出向いて殺される。
このマンダ侯爵は、パリ市の穏健なブルジョワ地区の国民衛兵隊を宮殿防衛用
に配備するようにジロンド派のペチヨンから指示されていた、「力には力で対抗
せよ!」とペチヨンから命令されていたのである。
マンダ候はチュイルリー宮殿防衛サイドの司令官として期待されていた。
しかしルイ16世も市庁舎からの出頭要請に応じる様に指示している。
本来ならここでルイ16世は、マンダ候に出頭要請を無視させ、宮殿防衛を徹
底させる指示を出すべきだ。パリ国民衛兵隊が、サンキュロット側に寝返った
のも司令官であるマンダ候の不在で指揮系統が弛緩していた事もある。
また、チュイルリー宮殿の戦いが始める直前に国王は、宮殿から議会に避難し
ているが、本来なら国王だけは宮殿に残り、スイス人衛兵隊や近衛隊を指揮し
て戦うべき。国王とマンダ候が一緒に宮殿防衛部隊を指揮する事で士気はかな
り上がり、サンキュロット撃退の要素が増える事になる。
74 :
世界@名無史さん:2010/03/09(火) 21:50:39 0
8月10日事件の経済的な側面を見てみたい。
国民議会は89年8月4日に封建的特権の廃止を宣言した。しかしこれは、
領主裁判権等の貴族の人格的支配を否定したのみで、年貢廃止などの措置は
とられなかった。「年貢の徴収権」は、二十年か二十五年分の年貢を一括で
支払った場合にのみ、買い取ることができる(土地所有者になれる)事にな
ったにすぎない。それができなければ、土地は以前として貴族のものであり
農民達は借地料としてこれまで通り年貢を払わなければならいと規定されている。
これにより貴族階級には現金が流入する事になる。貧農は年貢を一括払いは
不可能だが、地主や大借地農は、貴族に年貢二十年〜二十五年分の一括払い
を行い完全な近代的土地所有者になってしまった。
つまり年貢有償廃止政策が、貴族の利権であり、莫大な収入源となり、革命
時の王党派やフイヤン派(立憲王政派)の政治的資金源になっていた。
90年には、この様な年貢有償廃止政策に農民や土地所有者が不満を持ち、無
条件年貢廃止を要求し農村が騒乱状態になった。しかし同年6月に国民議会は
領主権の神聖を宣言し、国民議会では領主権死守が確認された。
しかし国王一家の逃亡未遂事件(ヴァレンヌ逃亡事件)で国王廃位運動が盛り上
がり、革命戦争が勃発でフランスの軍事的敗北の可能性が囁かれ始めた。その
為に左派のジャコバン派が、亡命貴族の財産没収と国有化のフイヤン派の反対
を押し切り可決した。フイヤン派は国王に拒否権発動を求め、国王は応じた。
92年の春に議会は亡命貴族の差し押さえとジャコバン派ジロンド派双方の賛
成で可決した。それに応じて反革命運動を続ける亡命貴族の資金源を塞ぎ、国
内に残留する貴族と彼らを支持基盤とする王党派・フイヤン派をも同時に弱体化
させる事が目的だった。
75 :
世界@名無史さん:2010/03/09(火) 22:38:48 0
92年春に立法議会は亡命貴族の財産差し押さえを可決し、さらにジャコバン
派とジロンド派は領主権の無償廃止を目指した。しかしこれに対し国内に残留
する地方貴族が反発し、当初は、宮廷貴族の特権に批判的であるが故に革命に
賛成した地方貴族が、領主権の無償廃止に反対する為に断固王政を守る側に立
ってしまった。8月10日事件では、2〜300名の貴族がチュイルリー宮殿
防衛の為に篭城したのは、この為である。
実際には、2000名以上の貴族が宮殿防衛に名乗を挙げたが抽選で2〜30
0名に絞り込んだ。これらの貴族は地方貴族がほとんどであり、国有財産の買
取競争入札では、ブルジョワと競い合う立場だった。また、聖ルイ騎士団に所
属する王党派のメンバーでもあった。
8月10日事件で政治的に敗北したのは王室であり、フイヤン派であり、王党
派である。特にフイヤン派はこれ以降政治勢力としては出現しなくなる。
そこでフイヤン派とはどのような勢力が支持していたのだろうか?
まずはブルジョワでは有るが、旧体制の頃から特権を保持している最上級のブ
ルジョワである。また、地方貴族もその支持勢力であった。特に地方貴族の中
には、貴族が直接の所有している土地(直営地)を持たず、領地(課税権)だけを
保有してる地方貴族もいた。このように同じ貴族でも領地からの課税収入に依
存する貴族は、封建的特権の無償廃止により財政的に大打撃を受けた。
8月10日事件で王室とフイヤン派の敗北が決定視された。これによりまずは、
8月14日に既に国有化されている教会財産や亡命貴族の所有地を細かく分譲
し貧農や小規模農民にも土地が購入出来る様に議決された。その後に封建的特
権(領主権)無償廃止が議会で8月25日に真っ先に決定した。そして8月28
日には、領主の農民共有地が解放される法律が可決された。
これら一連の決定で比較的貧しい農民や小規模農民でも小さな土地を手に入れ
ることが出来るようになった為に、後まで問題となるフランス独自の小土地所
有農民層を作る事になる。彼らは、地方の農村部でボナパティズムの温床にな
り、更には大規模土地所有者による囲い込み(農業の大規模化・資本主義化)を
遅らせる事になった。もちろん8月10日事件直後には誰もそんな事は考えて
いない。
76 :
世界@名無史さん:2010/03/09(火) 23:21:20 0
なぜ8月10日事件の結果、フランスでは領主権が完全に無償廃止されたのか
と言えば、まず亡命貴族とフランス国内に残留し王党派を支持する貴族の資金
源を絶つ事にあった。しかしこれだけなら、イギリスの様に反革命分子の貴族
の領地のみを没収すれば良い話である。フランスの場合制度としての領主権を
廃止してしまった。
一つには、1792年には反領主暴動が全国で発生した為、反領主暴動に参加
した群集エネルギーを革命政府にひきつけ、彼らを味方に付け様とした。
また、教会財産を国有化し売却して財政赤字建て直しの原資にしようとしたが
教会資産の中には領主権に服している土地がほとんどである。これを売るにも
領主が年貢を徴収しているわけで、この場合なかなか教会資産は売却できない。
そこでこれらの問題を一律に片付ける為に領主権そのものを廃止しようとした。
77 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 04:54:49 0
ナポレオンがセントヘレナ島に流された後、ブルボン家と共に亡命貴族が帰国
して来た。エミグレがまず行った事は、革命期に国有化され売りに出された自
分の館や土地を取り戻そうと古証文を持ち出して新しい所有者に返還を迫った。
しかし、そう単純には事は運ばず、ルイ18世は旧体制を復活させる事は成功
しなかった。旧体制の爵位貴族は復活したものの、ナポレオンが旧貴族とは別
に上位納税者を中心とした名士階級を新貴族に指名したが、かれらの爵位をル
イ18世は剥奪しなかった。また、所有権の不可侵も再確認され、革命期に
亡命貴族や教会資産を購入した人々の既得権は保障された。
法の下の平等、言論の自由は認められイギリス流の2院制議会が導入された。
これらはルイ18世が公布した憲章に定められており、ナポレオン帝政よりも
リベラルとも言えなくも無かった。
ルイ18世と亡命貴族は、反革命とアナクロニズムに満ちていた、王権神授説
と基本的人権や法の下の平等という近代国民国家の原理が奇妙にバランスを取
っていたのが、このルイ18世の“憲章体制”なのである。
国教の地位を取り戻したカトリック教会は、完全に復活はしない、コンコルダ
ート条約の枠組みは維持された。
78 :
世界@名無史さん:2010/03/10(水) 04:55:49 0
(続き)
ナポレオン失脚時には南仏を中心に王党派の白色テロが横行し2000名が殺
害されている。ナポレオンの下に居たブリューネ、ネイなどの将軍も殺害され
、この様な右派に有利な状況で議会選挙が行われた為に、下院では王党派が9
割以上の議席を占めてしまった。彼らは“またと見出しがたい議会”と言われ
「王より王党派的」と言われる過激王党派(ユルトラ)が勢力を伸ばした。
かれらユルトラは、封建的特権の復活を唱え、議会主権を振りかざし皮肉にも
国王ルイ18世と対立する。彼らは近代的な中央集権的絶対王政や立憲王政で
はなく中世の貴族社会の復活を目指していた為である。
結局、革命派や共和派との決定的な対立を避けて中庸な立憲王政を目指した
ルイ18世は、この超反動的なユルトラ議会を解散した。
そして選挙の結果、立憲王政派が多数を占める議会となり、比較的自由な議会
政治となる占領軍の撤退と国際社会への復帰、オルレアン派、ボナパルト派、
ネオジャコバン派、右派から左派まで議員は当選した。ラファイエットやグレ
ゴワール師など革命期に活躍した人物やオルレアン派の資金源となる銀行家
ラフィットなどが次々と当選した。
政局的にも落着きを見せ、このまま行けば、イギリス式の議会制立憲王政がフ
ランスにも定着するはずであった。
79 :
世界@名無史さん:2010/03/11(木) 01:03:10 0
ナポレオンがワーテルローで敗れたとき、議会は彼を追い出したがブルボン王家
の復活など論外という態度だった。諸外国もルイ18世では無理と見て、オルレアン公
とかマリー・ルイーズが生んだナポレオン2世を王位につけようという意見がかなり
有力だったそうだ。いろんな可能性があったということか。
80 :
世界@名無史さん:2010/03/11(木) 20:01:16 0
ナポレオン2世は、暫定的に数日間帝位に就いている。
残務処理政権だが、実際に皇帝になっている。
しかし、ナポレオンの子供じゃ〜
「何のためにナポレオンを打ち破ったのか判らない、戦争した意味が無いじゃないか!」
って事で元のブルボン家に戻った。
南仏では、ブルボン家や亡命貴族主導で白色テロでナポレオンの部下の将軍たちは殺されていたし
共和派やジャコバン派に近い人たちも殺されていたからね。
亡命貴族たちの国際的なロビー活動が、成功したって事だろう。
彼らは後に“ユルトラ”になるんだし。
81 :
世界@名無史さん:2010/03/11(木) 20:47:54 0
オルレアン公なら可能性があったんじゃないかな。
ロシア皇帝などはオルレアン公を支持したそうだ。
82 :
世界@名無史さん:2010/03/12(金) 01:50:57 0
ごく素朴な質問だけど19世紀のフランスでは純粋の自作農なんて
どれ位いたんですか?
83 :
世界@名無史さん:2010/03/13(土) 06:34:38 0
>>81 ナポレオンが退位した直後は、亡命貴族(宮廷貴族がメイン)にしても国内
残留組の貴族(地方貴族)にしてもレジティミストがほとんどでしょう。
オルレアニストの貴族なんてほとんど居ないと思いますよ。
オルレアン公親子に対してフランス貴族のほとんどが、
「王位欲しさに革命騒ぎを起こしやがった馬鹿親子!」位にしか思わないでしょうね。
>>82 フランスの自作農は、イギリスやドイツに比べてかなり多いはず、時期にも
よりますが
>>58にも有る様に、やはりフランスは、革命で自作農が発生して
おり彼らが農村部でのボナパティストの支持基盤となっています。
フランスは革命が多い為政府の農業政策の一貫性継続性が無いので、
地主貴族や大地主、大借地農のエンクロージャー(囲い込み)継続して行われません。
復古王政期には、政権主流に位置する地主貴族などは、イギリス式のエンク
ロージャー(囲い込み)は行えるでしょうが、7月王政期やナポレオン3世治世
下では、かなり厳しいでしょう。
大地主や大借地農なども政治条件的にはかなり厳しいと思います。
7月王政期には、レジティミスト=地主貴族の政治力は失われ、たった4年ですが、
逆に第二共和制期の方がレジティミスト=地主貴族の政治力が復活します。
2月革命などは、社会主義者とレジティミストが手を組んだ事で成功した
背景も有るようです。
84 :
世界@名無史さん:2010/03/14(日) 02:12:57 0
19世紀後半のフランスでは耕地の40パーセントが農業労働者を使う農場だった
という話を読んだことがある。その他に小作地もあったはず。すると耕地の何パーセント位
が耕作農民の所有だったのか。戦前の日本でさえ小作地が50パーセントに達した事はない。
戦前の日本で一番多かったのは自分の土地を持ってはいるがそれだけでは生活が苦しいので
アルバイトに地主の土地を耕す自小作だった。フランスも似たような状態だったのではないか。
85 :
世界@名無史さん:2010/03/14(日) 19:13:40 0
典型的な戦後民主主義者である大塚久雄の大塚史学では、イギリスの近代化と
民主主義のモデルケースと考え、独立自営農民ヨーマンがその発展を支えたとした。
しかし現実には、ジェントリーがイギリスの資本主義を支えたし、特に農業
分野の質的量的発展は、完全にジェントリー主導なんだよ。
これはイギリスの話しだけど、15世紀にヨーマンが多数を占めたんだけど、
この後から農村内部が上層農民(後にジェントリ階級を形成する)と没落農民
とに区分されるようになり、農村共同体内部に利害の対立が発生し始める訳だ。
ジェントリーは囲い込みとヘンリー8世による宗教改革で地主貴族となった。
宗教改革によって修道院は解散され、その領地は王領地へと編入されたが、
その土地は後に軍備拡張と行政機構改革の財源とするために売却される事と
なった。この旧修道院領を買取り、所領とする事で、成功した中間層の人々
は念願のジェントリーとなる事が出来たのである。
フランスでも、1789年から92年までは、貴族による国有化されたカトリック
教会領の買取で遅まきながらイギリスのジェントリーの修道院領買取と同じ
現象が起きた訳で、時間的なズレはともかく、農地の集約化は進む一方。
フランスは、イギリスよりも自作農や自小作農が多いんだろうケド、それは
政治的な理由でそうなっている。しかし基本的に自作農や自小作のような小
規模農地経営では、植民地からの農作物の流入には対抗できなくなるので、
時間が経過するごとに、自作農や自小作は減ってくるのが現実。
86 :
世界@名無史さん:2010/03/16(火) 05:10:11 0
ブルボン家の家督相続予定者であり、王位継承予定者であるベリー公暗殺事件
が起きた。彼はアルトワ伯の次男だった。長男にはアングレーム公ルイ・アン
トワーヌが居たが、かれは性的不能者である事が広く知られていた。さらに政
治的にユルトラで反動的な為に不人気であったが、彼は後継者を作れ無い事で
共和派からのテロを免れた。
アングレーム公とベリー公は
>>77のルイ18世が定めたイギリス式王政の導入を
狙った憲章に反対し反動的王党派であったユルトラのリーダー格として活動を
続けた。職人ルイ・ピエール・ルヴェルによって、1820年2月13日、オペラ座
から出てきたところを暗殺された。ルヴェルは1815年のパリ条約に反発し王政
復古にも反対した為にブルボン家血統を断絶させることを狙った政治テロを起
こした。しかし公妃マリー・カロリーヌは、既に懐妊しておりブルボン家血統断
絶は成功しなかった。
しかし、このベリー公暗殺事件は、政治的反動を引き起こした。ルイ18世の憲
章体制による自由主義内閣は倒れ、ユルトラ超然内閣が出現した。このユルト
ラ反動政権下では、検閲制が復活し、高額納税者には二度の投票権を与える二
重投票法が導入された。さらにユルトラ政権は、コルコルダートの枠組みを超
えて聖職者に教育監督権を与え、神学校を再開した。このユルトラ反動政策実
施中にルイ18世は崩御する。
シャルル10世は、即位するが、完全に王権神授説に基づいたクロヴィス受洗の
故事に習う即位式であった為にパリ市民の反応は冷ややかだったと言われる。
シャルル10世治世下ではカトリック教会が勢いを増す、まず信者再獲得の為に
国王支援の下国内伝道を復活させる。そして国王に涜聖取締令を布告させて重
罪には死刑を課し、処刑に先立ち犯人の手首を切断するという残酷な刑罰まで
規定させた。
87 :
世界@名無史さん:2010/03/16(火) 07:06:04 0
(続き)
このユルトラ反動政策に乗じたカトリック教会は、革命期に没収された教会資
産の賠償問題を取り上げだした。しかし、これらの教会資産はブルジョワが最
大の購入者ではあったが、その次に多い購入者は貴族であり、国内残留組の地
方貴族やら亡命貴族も名義を借りて購入していた為にレジティミスト=地主貴
族・大土地所有者の利害と完全にバッティングしてしまった。この為にカトリッ
ク教会は完全にかつての革命前の教会資産を取り戻す事に失敗してしまった。
ユルトラ政権の最大の政治課題は、革命期に没収された亡命貴族の財産賠償問
題だった。これを解決する為に「亡命貴族の10億フラン法」を成立させた。この
法案は、革命期に分割売却された亡命貴族の所有地に対して国庫で損害賠償す
る法案だが、ユルトラは出来れば元の所有地を取り戻したかった。しかし現在
の貴族を含む所有者の反発やルイ18世の定めた憲章の規定によりこれが不可能
なので次善の国家補償策が取られた。賠償額は名の通り10億フランで恩恵を受
けた貴族は6万7000人にも上った。貴族階級の社会経済的地位の強化と言う点
では効果が無かったとう説がかつては主流だったが、現実にはやはり貴族層特
に大貴族の財産増加効果はそれなりに有った様だ。
1814年には売却されていない国有資産については元の持ち主に返却する法律が
成立していたし、さらにこの法律で買い戻された亡命貴族の資産と併せて約半
分は元の持ち主の手に戻ったとされる。繰り返すが、大貴族は大いに潤ったが
大多数の亡命貴族は多少の賠償金を手にしただけで元の所有地を回復させる手
段が絶たれた。また賠償金の支払いは貴族以外の亡命者の割合も多く支払われ
たし、この賠償金を貰い受けた層は、以外にも土地購入の資金となるよりは、
金融面での投機に流れた。
むしろ100万人とされる国有資産購入者の所有権が保障安定されユルトラを含
む王党派が攻撃材料を失う結果となった。
88 :
世界@名無史さん:2010/03/16(火) 23:12:52 0
ナポレオンは島流しになっていたけどフランス本国の議会にはボナパルト派の議員もいたし
ラス・カサスの「セント・ヘレナの思い出」なんて本がベストセラーになってるんだよね。
王政復古政府はそれほどわからず屋の政治をしたわけではない。
89 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 00:16:19 0
ナポレオン法典により、財産は分割相続制とされた。しかしこれだと地主貴族
の財産は細分化され田分けの愚と同じで貴族階級の共倒れと弱体化を招くとし
てユルトラは「長子相続法」を議会に提出した。いくら大地主貴族とは言えども
ナポレオン民法法典に定められた均分相続を2〜3世代続けると当然小貴族に
転落する。貴族層の弱体化に歯止めをかける為に、ユルトラだけではなく、王
党派貴族層(レジティミスト)全体の利益として、またレジティミストの農業ロビー
の性格を表す政治行動として「長子相続法」の議会提出が挙げられる。
しかし、この法案は、皮肉にも上院(貴族院)で否決された、ブルジョワ議員が
多数貴族議員に任命されていたからで、このユルトラ政権時に如何に、地主貴
族(レジティミスト)とブルジョワジーが対立していたかが良く判る事例である。
これらの事態は、ユルトラ勢力の政治的攻勢に対してブルジョワ側が土地所有
と血統に基づく旧体制以来の特権や権力基盤を基本的には否定しようと反撃に
出たと理解してよい。ブルジョワは、地主貴族が均等分割相続でやせ細り彼ら
の権力基盤が弱体化する事を望んだ。そしてブルジョワは、個人の意志と能力
金融を筆頭にする富の再生産と拡大に価値を置くブルジョワ共和制やブルジョ
ワ王政を望み始めた。
90 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 00:20:49 0
(続き)
ベリー公暗殺以前のルイ18世の憲章体制は、極右で過激なユルトラを押えつつ
旧貴族の伝統的正統王朝主義とブルジョワ的共和主義の妥協を目差したもので
あり、経済政策では地主貴族を始めとする大土地所有者と大ブルジョワの双方
の利益を保障する高関税政策に立脚しており、この路線は成功しつつあった。
復古王政当初は、農業人口は全人口の三分の二におよんではいたが、イギリス
とは異なり囲い込みや農業革命が行われていない為に農業機械や放草栽培はほ
とんど行われていない。休耕地が広範囲に存在し農業の生産性は低かった。
そのために地主貴族を始めとする大土地所有者は農業生産力の向上よりも保護
関税により国内穀物価格を高く維持する事に関心をはらった。政府はこの要望
に応え輸入穀物価格が低下するに従い高い関税を課し、場合によっては、輸入
禁止も実施した。この手の保護関税政策は、産業ブルジョワにも要望され、外
国製の鉄や銅に高関税を課した、更に肩掛あカシミヤ織、インド絹布に対して
も輸入を禁止している。
これらの高関税保護政策は生活費を増大させプチブルジョワ以下の大衆生活を
悪化させるが、大土地所有者と上層ブルジョワの利益をともに満足させるもの
であり、まさに革命以来対立してきた貴族とブルジョワという2大勢力を妥協
させる政治路線に、経済的基盤を与えてきた。
91 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 03:39:13 0
復古王政の1814年から30年の間の16年間は、当然ユルトラを含むレジティミス
トが政権を握っていた。しかし。この時期にレジティミストは、農業に関して
は革命期に没収された所有地の買い戻しや国家補償を要求する等の他は、あま
り行っていない。他には高関税保護主義政策を要求するぐらいだ。
ユルトラは政治活動を政治報復主義的な旧体制に復帰する為の政策を打ち出し
ブルジョワや共和派と対立する様な政治活動を行っている。
しかし、レジティミストは、正統王党主義だけではなく地主貴族や大土地所有
者としての利害代弁者、つまり農業ロビーとしての機能も発揮するはずだった。
実際には反動的な旧体制復帰政策をぶち上げてしまい、この政策実現に固執す
るあまり、本来の農業政策に関わるロビー活動を疎かにしたとも言える。
この時期は高関税保護政策だけではなく、政府主導でイギリス式の囲い込みを
推進し、地主貴族や大土地所有者主導の農業革命を行うべきであった。
>>57>>58>>59で見るように、イギリスが農村文化を犠牲にして都市文明を、農
業を犠牲にして工業化を優先する選択を行っているが、当時のフランスは革命
や戦争の後の混乱もあり農民がいまだ多数を占める社会のままだった。従って
復古王政は、旧体制や中世的な分権王政の復古に固執する事無く、イギリスの
様に農民を社会の少数派とし都市部に人口を集中させ産業政策で工業を盛んに
しフランス農民には一人当たりより広い土地を与えるべく政策を立てるべきで
あった。イギリスは、ナポレオン戦争後にはフランスの農業生産性をはるかに
凌いでいた。これはイギリスは囲い込みを成功させ輪作から休耕期間を排する
事により農業革命を成功させたからだ。復古王政は、大土地所有者を政権基盤
としていたのだから、この政策で政権基盤はより強化されるはずである。共和
主義に固執する危険なボナパティスト(自作農・小土地所有者)から農地を取り上
げるべ、復古王政の支持者である地主貴族や大土地所有者により農地所有を集
約すべきであった。
しかし、復古王政16年間の間は、ついに囲い込みや農業革命につながる政策を
打ち出すことは無かった。復古王政の支持者である地主貴族や大土地所有者の
利益になるにも関わらずである。
92 :
世界@名無史さん:2010/03/17(水) 21:47:37 0
近年フランスで勢力を伸ばしている国民戦線の支持者は、カトリック原理主義グループだ。
第二バチカン公会議によるカトリックの近代化を拒否して、結果として幹部全員がローマ教皇から
破門されたルフェーブル派だ。
といっても、フランスのルフエーブル派でも国民戦線支持者はまだ左派というべき存在だ。
ルフエーブル派の右派はフランス革命と民主制を否定しているからだ。
彼らが打ち立てようとしている秩序とは、ローマ法王が戴冠する世俗君主による先制王政。
つまりブルボン王家の再興と、フランスの王政復古が最終目的。
彼らの支持者は、単に急増しているイスラム教徒やベトナム人や黒人によってフランスの
伝統文化が破壊されていると考えているが、その根はカトリック僧や修道士を皆殺しにして
教会を滅ぼそうとしたフランス革命の自由平等博愛のフリーメイソン原理にあると考えているわけ。
そしてもちろん民主制の延長に誕生した共産主義も認めない。
世界を支配するのはローマ教皇。世界で信じてよい宗教はカトリック教だけ。
世俗社会の統治は教会法に基づいて、世俗諸侯と領地を持つカトリック司教・修道院が行う。
当然、人間には序列がある。教会が教皇、枢機卿、大司教、司教、神父、平信者という序列に
よって構成されているように、世俗社会においては爵位があり、皇帝・王・大公・公爵・辺境伯・
侯爵・伯爵・男爵・平民という身分制度が実施されなければならない。
女が政治に参与するなどとんでもないことである。
女は聖母マリアにならって旦那と息子に従うべきであり、子供を生むのが仕事である。
女性は25すぎて独身なら修道院にでもはいって尼になるべきだ。
選民のくせにキリストを認めないユダヤ人は呪われた連中である。
ユダヤ人の支配する株の売買や利子などという制度は廃止されなければならない。
彼ら右派の主張を要約すると、まぁこんな感じですね。
93 :
世界@名無史さん:2010/03/18(木) 01:02:51 0
もろ“ユルトラ”の思想だね、移民排斥はともかくこれでは有権者の支持は受
け入れられないだろう。レジティミスト=ユルトラではないし、彼らは時とと
もにその政治思想を軟化させ、ブルボン家の王位復帰が彼らの第一目標となっている。
それと現在の最大の問題は、貴族たちの王党派運動離れだろう、カトリック過
激派だけでは政治力としては弱い。実はカトリック教会資産の多くは貴族階級
が革命期に買い取っているのでカトリック過激派はイメージほどの資本的資金
的な力は無い。レジティミストが第三共和制の最後のブルボン家直系男子家督
のシャンポール伯アンリ・ダルトワが死ぬまで政治的な力を保持できたものフラ
ンスの貴族のほとんどが王党派運動に参加し、ブルボン家家督を再び王位に就
け様と結集していたからで、現在ではブルボン家直系も断絶しスペイン系貴族
に取って代わられている現在では、なかなかそのような運動に盛り上がりは出ないだろう。
アンリ・ダルトワが死ぬまでは王党派のほとんどは、レジティミストであり当
然貴族のほとんどもそうだった。政治勢力のレジティミストは、都市部にはあ
まり存在しなかったが、農村部には大土地所有者を主たる存在としてその勢力
は侮りがたかった。その同じ王党派の対抗勢力としてのオルレアン派は、都市
部の大ブルジョワに依拠し農村部にはその支持が広がらなかった為に政治勢力
都市はレジティミストに比べて脆弱だった
しかし、ブルボン家最後の直系家督のアンリ・ダルトワ死後には、王政復古運動
は衰えたし、レジティミストは分裂しそのほとんどはオルレアン派に合流した。
現在の王党派はほとんどがオルレアン派であり、オルレアン家当主を王位に復
帰させるのが現在のフランスの王政復古運動であるが、オルレアン家は、ブル
ボン家傍系である為か以前ほどの盛り上がりは欠けていると言われる。
レジティミスト合流後のオルレアン派は、かつてのような正統王党主義と共和
主義という両極端のあいだに存在する穏健派という性格は失われてしまい、本
来のオルレアン派支持勢力である都市部ブルジョワ・資本家はオルレアン家の
王政復古運動から離れてしまっているという。
これも現在フランスで王政復古運動が盛り上がらない背景の一つ。
94 :
世界@名無史さん:2010/03/26(金) 22:32:04 0
フランス革命を裏から煽動したのが、イギリスのシェルバーン伯爵だろう。
自分たちに都合の良い勢力に政権を取らせようとした結果、思わぬ大事態になってしまった。
裏から煽動したことはあまり知られたくないことなのだが、
もしも知られた場合には、「いや、思わぬことになってしまった…」と言うことにしていた。
ともかく、目的を知られることだけは避けないといけない。
96 :
世界@名無史さん:2010/03/28(日) 12:22:44 O
首飾り事件age
97 :
世界@名無史さん:2010/03/30(火) 17:38:56 O
テニスコートの誓いage
98 :
世界@名無史さん:2010/03/30(火) 21:56:01 0
実は、ギロチンはこの時期に発明されたという学説があるんだよね。
フランス革命の自由・平等・友愛のイメージからは想像もつかないけど、
これからは、そういう市民革命の負の側面も捉える必要があると思うね。
99 :
世界@名無史さん:2010/03/31(水) 18:49:23 0
ギロチンでの処刑法より以前はもっと残酷な処刑方法だったらしいよ
ギロチン投入によりマシになったということらしい
ギロチンの惨いところは処刑のときじゃなくて
市中引き回しのうえに衆人環視のなかでさらし者に
なることだと思う。
101 :
世界@名無史さん:2010/03/31(水) 22:14:51 0
処刑前は以前と変わらないんじゃないの?
馬車で引き裂かれるとか首を切るのを何度も失敗するとかよりマシになったんでね?
102 :
世界@名無史さん:2010/03/31(水) 22:23:13 O
モネスティエ『死刑全書』にギロチンの例もある
けど、やはり残酷なのはルイ15世を傷つけた大罪で
ダミアンに処された八つ裂き刑だよ。モネスティエ
によると、この処刑を目撃した大衆の心の中でフラ
ンス革命は始まったそうだよ。
>>102 どんな本を真に受けたか知らないが、昔は残酷な刑はありふれていた。
日本を含むどこの国でもそうだった。
公開処刑もあたりまえ。民衆は観劇気分で見に行っていた。
100年ぶりに執行された酷刑をみなれてるわきゃない
105 :
世界@名無史さん:2010/04/01(木) 01:46:07 0
中国の凌遅の刑なんて1905年まで行われていたんだぞ。
106 :
世界@名無史さん:2010/04/01(木) 09:58:12 O
18世紀に啓蒙思想が封建社会にもたらした影響を無視するとは……
107 :
世界@名無史さん:2010/04/01(木) 11:26:03 0
亀だけど、この前テレ東のスペシャル版で、
マリーアントワネットに触れてたのを見て
ルイシャルル1世の最後が無残すぎたの
思い出したよ かわいそうすぎる
109 :
世界@名無史さん:2010/04/02(金) 17:18:24 0
オカルト思想ですな
110 :
世界@名無史さん:2010/04/02(金) 21:47:47 O
当時の税制のうち、間接税は徴税請負人が国家から
付与された徴税権を行使していたわけだけど、彼ら
がどれ位、中間搾取してたかは興味あるね。意外と
王妃の浪費より莫大だったんじゃないかな。それを
調査した史料は知らないけど、もしかするとマリー
アントワネットの浪費癖は誇張された可能性もある。
111 :
世界@名無史さん:2010/04/05(月) 21:26:48 O
革命前、テュルゴーの財政改革は「国家の破産を
防ぎ、これ以上課税を増やさないようにし、公債を
なくすこと」だった。今も各国で似たり寄ったりだ。
112 :
世界@名無史さん:2010/04/06(火) 18:27:04 0
113 :
世界@名無史さん:2010/04/17(土) 21:44:24 O
何人も無垢のまま支配することはできない
−−−サン=ジュスト
アーサー・ケストラー作『真昼の暗黒』(1940年)
岩波文庫(2009年) p. 8.
114 :
世界@名無史さん:2010/04/18(日) 05:52:08 0
『ペール・デュシェーヌ』が19世紀にも確認されているだけで
20紙も発行されていたとは。もちろん発行者はエベールじゃないよ。
同じように粗野でぞんざいな文で、(社会主義ではないが)貧困救済、愛国、反カトリックを唱え、
更に反ユダヤ主義や移民排斥も付け加えて、新エベール派も人気があったそうな。
19世紀後半に左翼と右翼が明確にわかれると、新エベール派は
無神論を捨て革命的右翼に加わったそうな(王党派ではない)。
モノホンのエベール派にしてもアンラージュと比べていい加減だもんな。
>>104 八つ裂きの刑は長い間行われていなかったから、
サンソン家も古い資料を徹底的に調べて大変だったらしい。
さすがに見慣れぬ残酷刑には参った観衆もいたかもしれんね。
車ひきの刑はよく行われていたらしい。あれも酷い。昔はどこも似たようなもんだが。
そういうのを昔の人たちは大喜びして見ていたといのだから、何ともまぁ。
>>116 更に処刑された罪人の体の一部を薬とかにしてたってのもなあ…。
祟られそうで怖いんだがそんなの。
祟るって発想は、東洋的、あるいは日本的なものですよん。
西欧の感覚では、死体とか骨とかに呪術的な感覚はあまりなかったんじゃないかな。
ハムレットの中で、頭蓋骨を掘り出して冗談の種にする場面を読んで、つくづく思ったなぁ。
119 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 16:41:02 0
民主党=ジャコバン派
みんなの党=ジロンド派
社民党=山岳派
共産党=ネオ・ジャコバン
国民新党=立憲君主制派
自民党=平原派
たちあがれ日本=王党派
中国=英国
2ch=ヴァンデ
120 :
世界@名無史さん:2010/05/05(水) 17:17:23 0
>たちあがれ日本=王党派
>中国=英国
>2ch=ヴァンデ
王党派の亡命先であり庇護者だった英国を、
ウヨや2chから敵視されている中国にたとえるのは、
チトちがうような。
121 :
世界@名無史さん:2010/05/06(木) 14:10:24 0
フランス革命はややこしい
それというのも
革命が進展すると
権力の頂上付近が吹き飛ばされて、その結果
それまで搾取されていた者たちの一部が
搾取する側にまわり
革命の流れをかき回すようになるからだ
つまり革命の諸段階に、
その段階に応じて内部から反革命分子が現れ、裏切りが生じる。
これらを粛清するプログラムが、あらかじめ用意されていなければ
革命は成功しない。
じっさい、フランス革命はナポレオンの登場で頓挫した。
たかが数年で、後に各国で有力になる政治思想があらかた登場してるのはすげえなぁ。
123 :
世界@名無史さん:2010/05/22(土) 10:57:38 0
パリって最近の報道でネットの飲み会参加募ったら数千人〜1万人くらいの
とんでもない「飲み会」になって破壊行為とかしてるってあったよね
集団でなんかする資質なのかと
日本のほうが個人主義だよね?だって有り得ないっしょ?
飲み会で破壊行動なんて日本人は毎年春に行ってますがな。
>>124 あれは家族親戚友達同僚ってコミュニティでやらね?
126 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 00:36:03 0
明治政府の基本的性格はボナパルチズム?
127 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 06:25:43 0
>>124 いや、その規模でしょ
集まると思う?今の日本では超有名人の葬儀くらいでしょ
飲み会だよ?
128 :
世界@名無史さん:2010/05/23(日) 12:29:23 0
王を断頭台に送ったのは
稼働中の原子炉から制御棒を引き抜いて捨ててしまうような暴挙だった
立憲君主制のままで十分に革命の果実は収穫できたはずなのに
129 :
百式 ◆K.oTJPZF2. :2010/05/23(日) 23:41:52 0
>>129 『最高存在(エートル・シュプレーム)』
もしくは
『最高存在=神(ディヴィニティ)』
を表しているんだろ。
131 :
百式 ◆K.oTJPZF2. :2010/05/25(火) 23:41:15 0
自分で質問して自分で答えるなよ・・・この陰謀論病患者め〜
134 :
世界@名無史さん:2010/05/28(金) 14:15:32 0
>>128 ルイ16世裁判の前に王制は廃止されている。
8月10日事件が発生した要因をよく考えないと。
それに国王裁判ではヴェルニヨ、イスナール、バルバルー、ジャンソネ、ガデなどジロンド派
有力議員の多くも死刑に賛成している。ペティヨン、ビュゾー、カンバセレス、マイユらは
執行猶予付き死刑を主張したが、執行猶予の是非を問われると即時処刑に賛成。
平原派もシエイエス、カルノー、カンボン、バレールら有力議員の多くは死刑に賛成。
これではフーシェだ誰だが賛成にまわったまわらないは関係ないよ。
136 :
世界@名無史さん:2010/06/05(土) 15:50:39 0
アントワネット本を書いたパリ在住作家の人が
ナポレオンの生誕だか命日だかの催しを見てたら「なぜ日本人のアンタが
ナポレオンを知ってるんだ?」と驚かれたとブログにかいてた。
「日本人はみんな知ってる」と答えたら更に驚かれて逆に驚いたと。
広範囲に歴史を学ぶのは日本くらい?
あと仏人は自分らが王政を無くしたくせに他国の王室事情だの
王族の結婚式だのの中継を食い入るように見る、とも。
うっわうそくせえw海外在住の作家先生って知らないと思って平気で嘘書きまくるよね
138 :
世界@名無史さん:2010/06/06(日) 17:54:50 0
でも実際王党派はいるし、ノスタルジックな気持ちはあると聞く
他国の教育には疎いけど日本のように「世界史」と「日本史」両方を
学ぶ仕組みなんだろうかね??
国史+琉球史=日本史
>なぜ日本人のアンタがナポレオンを知ってるんだ?
フランス人の口からトヨトミヒデヨシなんて言葉が出たら、
日本人だってそういう驚きかたをするだろうけどな。
>>140 豊臣秀吉はそう驚かんだろう。朝鮮出兵で明、自身(豊臣政権)を滅亡に
追いやったのだから、東アジアでは大きな歴史的事件の当事者といえる。
ついでに、日本では余り評価されていないが、伴天連追放令も奴隷解放
の歴史で大いに評価に値するしな。
142 :
世界@名無史さん:2010/06/14(月) 01:38:02 0
革命政策の中には人口削減政策があり、フランスの人口を三分の一に減らすという
目標に沿って、各県ごとにギロチンにかけるべき人数を公安委員会が計算した。
そして審理も無しで次々と判決を下し刑を執行したが、全人口2500万の三分の二、
約1500万人を殺害するという目標に対して、達成できたのは30万人だけであった。
その後、失敗したロベスピエールに代わってバブーフがこれを成し遂げようとし、
「全ての人を薙ぎ倒さねばならない。果たして彼らは何のため存在しているのか。
役立たずの命には価値がない。そしてロベスピエールが14ヶ月かけてギロチンを
動かし続けたが、自分は1日で成就する。」
と、大見得を切ったが、彼もまた失敗したのであった。
>>141 >>伴天連追放令も奴隷解放の歴史で大いに評価に値するしな。
わはははははhwwwww腹痛ぇwwww
正気で言ってるとは思えないw
144 :
世界@名無史さん:2010/06/16(水) 08:01:05 0
ナポレオンと秀吉が並んじゃうのか
すげー
身長は同じくらいだったかもwww
146 :
世界@名無史さん:2010/06/18(金) 22:09:57 0
>>136 日本の高校の歴史教育は日本史、世界史の二本立てだがフランスでは
「フランスを中心にした世界史」を学ぶそうだ。
147 :
世界@名無史さん:2010/06/19(土) 08:05:54 0
『銀河英雄伝説』ではゴールデンバウム王朝の貴族たちは見苦しい最期を遂げるんだが、
ありゃやっぱり小説だよな。
現実のフランス革命では、貴族たちはギロチンにかけられるとき、毅然として
死に臨んだ。
いや、みんな見苦しく逃げ出しただけだよ。
ナポレオンが倒れたら、大手を振って戻ってきた。
149 :
世界@名無史さん:2010/06/23(水) 01:39:45 0
残って処刑された貴族のこといってるんだろうにー
150 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 18:52:36 0
どっちかというと、革命後の素朴な質問だけど、
名家オルレアンのルイ・フィリップ2世、(7月王政の君主の父)のギロチン処刑はそんなに話のネタになら
ないのに、コンデ家とかいうブルボンのよく解らん支流のアンギャン公の処刑がどこでも取り上げられるのは
どういう事でしょうかね?
前者はラ・マルセイエーズをBGMにしてもいい融通の効く現在も王位請求家で、歴史的にも重要性は高いけど、
後者は、ナポレオンも知らなかったくらいの無名人で、家も“あれだけ”で断絶してしまった。
折れはシャトーブリアンが騒いだだけ系の話のように感じてならない。
だとしたら後世の歴史家は、それほどピックアップしなくても良いような気がするなあ。
ナポレオンが政権を握ってから処刑されている、高名な人物はもっといるハズだろうし。
151 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 19:42:53 0
>>150 >ナポレオンが政権を握ってから処刑されている高名な人物はもっといるはず
いない。ナポレオンは案外穏健で、多くの貴族も優遇されている。
そんなナポレオンが、国際法も無視して越境逮捕までしてれっきとしたブルボンの王族を処刑した。
当然大事件になった。これでナポレオンはブルボン家との融和の道を自ら断ち切った。
152 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 19:48:23 0
アンギャン公の処刑をナポレオンに勧めたのはタレイランだが
これ一つで俺はタレイランが嫌い。
王政復古後、その事実に平然としらを切りとおして
父のコンデ公と社交界で顔を会わせていたらしい。
コンデ公は最後は不幸にも自殺した。
153 :
世界@名無史さん:2010/06/26(土) 19:54:00 0
オルレアン公は周知の通り、王族のくせに国王の処刑に賛成した。
おまけに最後は自分の血統まで否定し
「私は母が御者と密通して出来た子」とまで自分で言い出した。
処刑も野心と保身の為の裏切り、変節の果ての自業自得と思われたんじゃないか。
実際俺は冷酷だがそう思ってる。
154 :
世界@名無史さん:2010/06/27(日) 19:46:18 0
>>151 レスどうもです。しかし、
>ナポレオンは案外穏健で
説得力ゼロすW。
ニューマニズムを言いたいのでは無く、あんだけ湯水のごとく戦争の犠牲者だして、
活躍も特になく、知らなくてもいいような処刑されるだけ役で登場する公爵一人
の死のネタでページを割くのはバランス悪すぎ。 …と思うわけですよ。
つってもこれは、考えてみれば、
>>152の書かれるように、ダンギャンの話は、虐
殺者ナポレオンというよりタレーランを語る時の話題だと思えば、まあ、自分は納
まるかな。
155 :
世界@名無史さん:2010/06/27(日) 20:22:48 0
ナポレオンは、人民の英雄だった。
156 :
世界@名無史さん:2010/06/29(火) 02:39:40 0
ロラン夫人の獄中手記?読んで吹いちゃった。
157 :
世界@名無史さん:2010/06/29(火) 06:43:56 0
ナポレオンの奥さんは、やりマンで、
ナポレオンは、それに、悩まされられいたという。
ナポレオン自身も英雄色を好んでるくせに〜
>>136 フランス人は自国に存在しない王室・皇室に憧れてるよな
フランスの事大主義はその表れ(官僚天国・貴族文化など)
161 :
世界@名無史さん:2010/06/29(火) 16:51:54 0
>>146 流石ヨーロッパの中華思想フランス。歴史教育も中華思想か。
>>157 後妻の方も後には…子供は可哀相なことになったな…。
164 :
世界@名無史さん:2010/07/01(木) 15:02:08 0
アントワネットが大叔母にあたるんだっけ
ギョロ目で怖いよね
165 :
世界@名無史さん:2010/07/04(日) 00:06:52 0
ロベスピエールがあの有名なカタコンベに葬られてると知ってびっくり。
あのムキ出しの骨々の中にある?
ギロチン処刑者って遺族の希望は無視で同じ場所にまとめて埋めたの?
棺には入れたのだろうか?立派な教会が建ってるけどその下は
凄いことになってるんだね・・・
166 :
世界@名無史さん:2010/07/04(日) 12:55:30 0
>>162 松本清張は「世界史の授業なんて不必要。外国の歴史などは日本史と関係のある
事柄だけを教えればいい」なんて言ってたな。意外に偏狭だね。
>>166 つまり全部学べってことじゃね?
日本史と関係のない事象なんて教科書レベルじゃ0でしょ。
168 :
世界@名無史さん:2010/07/04(日) 21:21:44 P
ジャコバン派(ジロンド派、モンターニュ派)は野蛮なニガーと
狡猾なジューを野に放ったことだけでも大罪を犯した。
おまけに国王を殺した。
世界史教科書はフランス革命を人類の悲劇の始まりとして教えるべし。
169 :
世界@名無史さん:2010/07/04(日) 21:42:26 0
ハイチ革命は色々美化されているが
黒人による白人虐殺や強姦は酷かったらしいな。
170 :
世界@名無史さん:2010/07/05(月) 18:27:54 0
>>169 まあ、やむをえない。許容範囲のうちだ。
ナポレオンの侵攻が原因とはいえハイチでの白人・有力ムラート
虐殺は尋常じゃなかったそうだな。
しかも、ナポレオン軍将兵や元奴隷主だけならまだしも、
ナポレオン軍協力者や元奴隷主ではない人たちまで殺された。
ナポレオン軍によって連行されアルプスで獄死したトゥーサンが
見たら激怒しただろうね。
人種差別撤廃に山岳派とジロンド派は特に熱心だったけど、
植民地の農園主や植民地との貿易で儲けていた海運業者と関係の深かった三頭派を
除けばフイヤン派も奴隷制度廃止・ユダヤ人解放に熱心だったよ。特にラファイエットやミラボー、
当時はまだ立憲王制派だったグレゴワールやコンドルセ。
だけど、フイヤン派は奴隷即時無償解放が奴隷制度と関係の無いブルジョワジーにも
『財産』への不安を与えかねないこと、植民地の物産(金やコーヒー豆など)の輸入を行ったりや
対植民地海運業者との繋がりの深いブルジョワジーの反発を招くことを恐れて、
慎重だったようだね。グレゴワールやコンドルセはロベスピエール、ペティヨン、
ブリッソー、ヴェルニヨ、マラー、ダントンたちと同じく即時無償解放を要求していたけれど。
>>171 こ、こんなこといけないわ!
トゥーサンが見たら激怒するに違いないわ!
174 :
世界@名無史さん:2010/07/18(日) 07:52:06 0
人種差別はなくならない・・・
政治的計算のうえで許容範囲の中でしか、
・・・南アフリカもそうだしね
>>173 そもそも2ちゃん自体、噴飯ものw
175 :
世界@名無史さん:2010/08/17(火) 11:23:48 0
126 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2010/05/23(日) 00:36:03 0
明治政府の基本的性格はボナパルチズム?
そうともいえないでしょ。
176 :
世界@名無史さん:2010/08/25(水) 02:02:14 0
177 :
世界@名無史さん:
↑お馬鹿なHPの宣伝ご苦労