1 :
太武帝:
北朝総合スレじゃ!
皆の者、朕を讃えよ!
2 :
世界@名無史さん:2009/02/23(月) 20:12:00 0
慕容兄弟マンセー
3 :
世界@名無史さん:2009/02/23(月) 20:20:32 0
北斉の文宣帝は正真正銘の気違い暴君。
虐殺を恣にした上、幼い温和な皇太子に囚人を手討にするように命じて
可哀想にその皇太子(廃帝・高殷)はショックで言語障害になった。
史書には「暴崩」(突然崩御した)とあるが
怨恨での暗殺かアル中での卒中死かね。
朝廷では皆毎日「いつ自分が一族皆殺しになるか」と怯え続けていたから
大喪の礼では一人の忠臣のほか臣下で泣く者は
誰一人いなかったそうな。
4 :
世界@名無史さん:2009/02/23(月) 20:26:07 0
北斉の皇族は「親疎の別なく」乱交したり、
兄嫁を兄の死後強姦したり、
実母と近親相姦したり散々乱れていたようだね。
或いは奴隷に自分の大便を食わせたりとか。
間違えた・・・orz
北斉の高氏
北周の宇文氏
7 :
世界@名無史さん:2009/02/23(月) 22:19:53 0
豊かな地方が多く強かった北斉も、内紛で弱ったところを北周に滅ぼされ、
その北周も隋に乗っ取られる…
因果応報というか、ぐだぐだというか…
でも、楊堅は何故あんなに短期間で北周を算奪できたんだろう?
9 :
世界@名無史さん:2009/02/24(火) 22:34:43 0
幼帝の嫡母が楊堅の娘だし簒奪なんて楽勝
そんなに簡単なもんかな?同じ条件でも、算奪できなかった奴はいるよ。
また時代が違うにしろ、曹氏は24年、司馬氏は16年、宇文氏も24年かかっているのに楊堅は実質2年。早すぎるとおもわないか?
楊堅はそれだけか
曹魏は後漢、北周は旧関西大行台を再建するところから始まったし、
両者には大敵が存在してたわけだから、比較対象にするのはちと可哀想かなとも思う。
でも、晋と他に挙げるなら北斉とかなら比較対象として適切かな的な。
個人的には
北周が国家運営のシステム的には中央集権の比較的進んだ国家で、
中枢を掌握しやすかったこと。
そして、にも関わらず、皇室の権威が相対的に高くなかったこと。
で、北斉は滅亡、陳はもう互角の敵じゃないと、外敵の存在が脆弱だったので
軍事力を掌握してる皇族を抹殺するのに躊躇う必要がなかったこと。
などを挙げたい。
後は宣帝陛下の嫌われっぷりに感謝。
でも、確かに北周は傾き始めてから速攻で死んでるよね。
武帝があれほど偉大な君主だったのに、彼の死後僅かな期間で、楊堅の算奪を許したのは異常なんじゃない?
> 武帝があれほど偉大な君主だったのに
先ずここを疑うべきだな
15 :
世界@名無史さん:2009/02/27(金) 17:32:11 0
北周武帝は従兄弟の宇文護に実権を握られてて、
武帝が実権を持っていた時期は6年しかない。
でも、宇文護から武帝への政権交代は王朝内のクーデターに過ぎない。宇文氏が権力を握っていたのは同じ。
この辺りの時代の各国家について詳しく知ることのできる書籍を教えてください
中国語できないので正史は無理です
>>17 宮崎市定『大唐帝国』
岡崎文夫『魏晋南北朝通史』『隋唐帝国五代史』
布目潮[シ風]『隋唐帝国』
川勝義雄『魏晋南北朝』
川本芳昭『中華の拡大と崩壊』
谷川道雄『世界帝国の形成』
三崎良章『五胡十六国』
以上、購入が困難とは思われないもの
宮崎市定『九品官人法の研究』
谷川道雄『隋唐帝国形成史論』
大きめの図書館ならある
>>中国語できないので正史は無理です
「最初に読むといい概説書や研究書を教えて欲しい」くらいの
言い回しにしといた方がいいと思うよ。努力の放棄と見なされる
19 :
世界@名無史さん:2009/03/01(日) 21:36:59 0
>>12 西魏も北周も皇帝個人の権力が非常に弱いんだよな。
歴代皇帝で皇帝らしいことができたのは北周武帝だけだし、
その武帝も早死にしてしまったから、権力強化ができなかった。
隋は漢民族からみたら他民族の国なの?
元とか金とか清みたいな
隋までいくと、もう馴染んでいるんじゃないか。
北魏だったら、なんか征服王朝のはしりみたいには思えるな。
漢化したけど。
22 :
世界@名無史さん:2009/03/02(月) 07:54:59 0
なぜに聖徳太子は隋に小野妹子を送ったか
鮮卑系だから
>>22 鮮卑系?
日出る国とかいきなり抜かしたのが?
関係ないからこそ、国威を損なわないよう気張ったんだよ。
小野妹子が鮮卑系って言いたいんだろ
送ったって…
強制送還www
26 :
世界@名無史さん:2009/03/02(月) 12:05:25 0
じゃ烏丸系
>>17 >>18の人が挙げる書籍にプラスして
三崎良章『五胡十六国の基礎的研究』
松下憲一『北魏胡族体制論』
『図説 中国文明史5 魏晋南北朝 融合する文明』
蘇哲『魏晋南北朝壁画墓の世界』
自分も中国語出来ないアマチュアだけどこれと
>>18の人の挙げた本で入手可能な限界かな
隋は高句麗を滅ぼしたら、新羅・百済・倭まで
来たろうか
そこまで行動限界が広いとは思えん。
朝貢の要求くらいは来たかもしれないが、遠征軍は来ないでしょ。
高句麗領まで行くのでさえ難事業なわけなので。
それに高句麗遠征は征服欲や事業達成欲よりも
「どうもあいつら突厥と繋がってやがる」
という明確な理由があるわけで。
孝文帝の改革は結局、北魏の滅亡を早めただけでは?この時点でこれほど急激な改革は必要だったのかな?
>>31 北魏の「滅亡」、というのは短絡的のような。
北魏、北斉、北周、隋、唐は、基本同じ体制の中の政権交代でしょ。
33 :
世界@名無史さん:2009/03/05(木) 22:43:20 0
>>31 孝文帝は早死にしたおかげでボロを出さずに済んだ。
長生きしてたら煬帝と同じような評価になってただろう。
35 :
世界@名無史さん:2009/03/07(土) 18:58:07 0
煬帝も評価分かれるからな
煬帝は永楽帝になりそこなった皇帝とイメージが
あるいは永楽帝が成功した煬帝?
両者とも即位時に色々やっているし
隋唐あたりの歴史を読んでたら唐が高句麗に出兵し始めたのを見て
「え、滅亡フラグ?」とか一瞬思ったのは俺だけでいい
38 :
世界@名無史さん:2009/03/07(土) 23:10:36 0
>>36 煬帝は始皇帝、漢武帝と同じカテゴリーだと思う。
39 :
世界@名無史さん:2009/03/08(日) 00:57:10 0
北魏の皇帝は皆短命だよな
道士に騙されて不老長寿の仙薬を呑んでは早死にしてる
親が早死にだから俺はもっと沢山呑まなきゃと・・・暗愚の連鎖
それと北方遊牧民社会はどこもそうだが妻の(実家の)権力が強い
皇后と皇太子生母の争いをなくすため立太子すると生母には死を賜った
我朝の仁明天皇も丹薬を服用して命を縮めたという。
竹取物語の帝のようにはいかなかったようだ。
41 :
世界@名無史さん:2009/03/08(日) 19:42:28 0
この時代は春秋戦国時代ににてる。
どこが?
43 :
世界@名無史さん:2009/03/12(木) 06:26:39 0
北周→信長(天下統一への始動・仏教弾圧)
隋→秀吉(天下統一・朝鮮出兵)
唐→家康(天下再統一・長期政権)
44 :
世界@名無史さん:2009/03/12(木) 07:00:10 0
ワンヤンアクダの金は?
46 :
世界@名無史さん:2009/03/18(水) 21:23:32 0
>>46 というか、それを根拠に初代皇帝が始めた制度だよな。
実は制度的には定着しなかったが、後の皇太后たちが自身の権力を
強化するために、歴史の暗部から掘り出してきて悪用したという見方もある
>>47 中世までの遊牧民国家の慣習はそうだろう?
そして嫡男は王位継承時に実母以外の仙台の妻妾を後宮に入れるとか
>>48 逆逆。母系氏族の政権関与を規制する制度を作った(作ろうとした)んだけど
皇帝後見の地位を得るために皇太后、もしくはその後皇太后になる人物が
制度を悪用したって話。
で、47とここで言ってる皇太后は皇帝生母じゃなくて後宮の有力者。
最近、南北朝〜唐の則天武后年間が面白いので、age
51 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 22:39:52 0
>>46 隋以降の王朝がこの慣習を受け継ぐ事は無かったみたいだが
>>51 つうか漢の武帝以降ほとんど受け継いでる奴は居ない
53 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 00:29:24 0
魏の孝文帝は実母を殺されていたことを知って衝撃をうけたらしいが
それでいて自分も皇太子の母親を殺しているよな。
北周は滅んだけど宇文泰の血筋は唐の皇室にも流れてるんだよな
55 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 03:06:17 0
56 :
世界@名無史さん:2009/06/05(金) 22:04:02 0
>>54 宇文泰-襄陽長公主-竇皇后-李世民という流れだな
宇文泰の国は滅んだけど
血筋が繁栄してよかったね
58 :
世界@名無史さん:2009/06/15(月) 23:07:53 P
李世民の嫁に隋の煬帝の娘がいるよね
皇帝の処刑について、
餓死させるのが1番苦しませると想うが。
空腹に慣れていなさそうだから。
>>22 小野妹子は公称では東漢皇室の傍流だった気が。
霊帝の子孫が北方民族の南下を避けて朝鮮半島に定住、のちに百済に仕えて日本へという形。
まあ多分ないけどな。
62 :
世界@名無史さん:2009/06/17(水) 21:33:07 0
北斉時代に書かれた北魏についての歴史書『魏書』は
編纂者の魏収が、受け取った賄賂の金額次第で
その人の先祖の書き方を良くしたり悪くしたりしたので
彼の邸には先祖を良く書いて貰いたい貴族たちが殺到、門前市を成して
完成当時から『魏書』は「穢史」と蔑まれた。
63 :
世界@名無史さん:2009/06/28(日) 15:42:26 0
世界史なんでも質問スレッドより
864 :世界@名無史さん:2009/06/27(土) 12:24:28 0
中国史において、北魏の後継国家である隋・唐は、本当は漢民族ではなくて
北魏と同様の鮮卑系王朝であるという話を聞いたのですが、それでは北魏と隋の
間に挟まる北斉や北周はどうなのでしょうか?
北周の宇文氏は鮮卑っぽい名前ですが、北斉の高氏は漢字一字姓からして
漢民族でしょうか?
865 :世界@名無史さん:2009/06/27(土) 12:31:51 0
鮮卑の流れを汲んでいますよ。
といってもね、鮮卑族を先祖に持つ人々も、大部分は既に漢民族化していた。
であるから、鮮卑系=非漢民族と杓子定規に当てはめようとする考え方はナンセンス。
868 :世界@名無史さん:2009/06/27(土) 14:23:21 0
>>865 北斉の高氏には鮮卑姓はあるのですか?
隋の楊氏には普六如氏、唐の李氏には大野氏という鮮卑姓があるようですが。
874 :世界@名無史さん:2009/06/28(日) 01:59:41 0
>>864-868 北魏・東魏・西魏・・・・・・漢姓:元氏、鮮卑姓:拓跋氏
北斉・・・・・・漢姓:高氏、鮮卑姓:???
北周・・・・・・漢姓:???、鮮卑姓:宇文氏
隋・・・・・・漢姓:楊氏、鮮卑姓:普六茹氏
唐・・・・・・漢姓:李氏、鮮卑姓:大野氏
北斉の鮮卑姓と北周の漢姓がわからん。
64 :
世界@名無史さん:2009/06/28(日) 15:44:50 0
六鎮の乱の「六鎮」はどうして「ろくちん」ではなく「りくちん」と読むのですか?
65 :
世界@名無史さん:2009/06/28(日) 18:16:34 0
六韜もりくとうですよ
66 :
世界@名無史さん:2009/06/28(日) 20:06:30 0
呉音と漢音?
67 :
世界@名無史さん:2009/06/29(月) 01:06:57 0
でも八王の乱の「八王」は、漢音ではなく呉音で「はちおう」と読むね。
漢音もハチですよ
69 :
世界@名無史さん:2009/06/29(月) 13:32:16 0
>>68 デマを流すな。「八」は呉音が「ハチ」、漢音が「ハツ」だ。
てゆうか日本語漢字音において、末子音の[-t]が「〜チ」と表されるのは
基本的に呉音だけ。
日本語漢字音における漢数字の読み方
〇・・・漢音「レイ」、呉音「リョウ(リャウ)」
一・・・漢音「イツ」、呉音「イチ」
二・・・漢音「ジ」、呉音「ニ」
三・・・漢音「サン」、呉音「サン」
四・・・漢音「シ」、呉音「シ」
五・・・漢音「ゴ」、呉音「ゴ」
六・・・漢音「リク」、呉音「ロク」
七・・・漢音「シツ」、呉音「シチ」
八・・・漢音「ハツ」、呉音「ハチ」
九・・・漢音「キュウ(キウ)」、呉音「ク」
十・・・漢音「シュウ(シフ)」、呉音「ジュウ(ジフ)」
百・・・漢音「ハク」、呉音「ヒャク」
千・・・漢音「セン」、呉音「セン」
万・・・漢音「バン」、呉音「マン」
70 :
世界@名無史さん:2009/06/29(月) 14:19:45 O
そうか。じゃあ、万歳も、なんでマンザイじゃないんだって疑問ないといけなくなるな
71 :
世界@名無史さん:2009/06/29(月) 18:10:42 0
ここではウリナラマンセーのAA(アスキーアート)を詳細表示をしています。
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⊂<`∀´ヽ><ヽ`∀´> <`∀´| | <ヽ`∀´> <''`∀´''>⊂ < `∀´ >'つ
(⌒ て).( ) ( ) ⊂ て)( ) \ /
レ'\ ) | | | く く\ \(___三フ| つ| |⌒I │
レ' 〈_フ__フ <__,,〉<__〉レ' 〈_フ__フ. (_) ノ
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72 :
世界@名無史さん:2009/06/30(火) 00:58:26 0
中国の人名・地名などの固有名詞は、日本語で特別に慣用的な読み方がある
場合(「北京」を「ぺきん」と読む等)を除いては、基本的に漢音で読むことに
なっているはず。
「八王の乱」に関しては、「八王」で1つの特別なタームと見なすのであれば、
この原則に従って「はつおう」と読むべきといえるが、一般に「八王」を単なる
8人の王という意味に解釈するから「はちおう」なのだろう。
同様に「六鎮の乱」に関しても、「六鎮」で1つの特別なタームと見なすなら
「りくちん」であるが、単に6つの鎮という意味で捉えるなら「ろくちん」に
なると考えられる。
もっとも中国語の固有名詞を日本語としてどう読むかなんて、本質的には大した
問題ではないけどね(さらにいえば現代中国語の漢字音と魏晋南北朝期の
中国語の漢字音にも相当な違いがあるが)。
日本語でどう読むかなんて、そんな重箱の隅を……
重なってる箱、ジュウ?チョウ?
75 :
世界@名無史さん:2009/06/30(火) 04:55:46 0
チョウだと漢音になりますね
77 :
世界@名無史さん:2009/06/30(火) 20:05:11 0
明の洪武帝(朱元璋)の幼名の「重八」は、「じゅうはち」じゃなくて「ちょうはつ」と読むのか。
78 :
世界@名無史さん:2009/06/30(火) 20:24:25 0
この時期の中国人名は、北朝は漢音、南朝は呉音で読むべきでは?
79 :
世界@名無史さん:2009/06/30(火) 20:29:42 0
明代だと唐音なので重八はチョンパーですね
80 :
世界@名無史さん:2009/06/30(火) 23:34:20 0
ウリナラでは、ジュンパル
81 :
世界@名無史さん:2009/07/01(水) 00:30:21 0
得意の劣化コピーですか チョンパー → ジュンパル
82 :
世界@名無史さん:2009/07/01(水) 01:02:18 0
いや漢字音については、朝鮮語が古い時代の中国語漢字音を一番よく残しているというが。
(無論声調は朝鮮語にはないけど)
83 :
世界@名無史さん:2009/07/03(金) 22:03:15 0
逆に一番変化しすぎなのは北京語の漢字音だな。
やっぱ北京語の場合、異民族の大量流入で音韻体系が壊れすぎたんだろうな。
>>82 一番とかあったっけか。
日韓ベト対等ちゃうん?
85 :
世界@名無史さん:2009/07/05(日) 20:17:29 0
漢字音の比較の話で、どうして対等とかそういう話になるんだ?
86 :
世界@名無史さん:2009/07/09(木) 01:00:29 0
現代北京語の最大の特徴は入声が消滅していること。
87 :
世界@名無史さん:2009/08/23(日) 19:47:54 0
何故宇文護が自分で皇帝にならずに宇文覚に簒奪させたのか不思議だ
北周成立時だと宇文護の権力がそれほど絶大だったとは思えないなあ
それに先代に後事を託されたのにいきなり本家の乗っ取りはやらんと思う
もめて、下手すりゃ国家崩壊
他にも宇文護は自分が即位しないで三人も首のすげ替えやってるし、
宇文憲には目をかけてたりと、皇帝という地位を狙ってたかどうかは?
89 :
世界@名無史さん:2009/09/21(月) 19:26:35 0
宇文憲も最後は宣帝に殺されたな。
内部抗争で殺しあった挙句、最後は楊堅に族滅。
南北朝にありがちな末路だ。
90 :
世界@名無史さん:2009/09/21(月) 19:52:16 0
族滅された人たちが、獄中で死を待つ間に記した日記や詩文は
残ってないのかな。刑場での最期の様子とか。
正史を読むと、他ではあれだけ詳しく皇族貴族の言動を記しているのに
その最期の描写はひどく恬淡としたものに終わっている。
「伏誅」とか「皆死」とか。
>>90 謀殺されたとか、不当な賜死だとかいうような場合とかはそれなりに残ってないかな。
とはいえ一言、二言のことだったりなので、そちらの期待とは違うかもしれないけど。
皇族・皇族級の場合は身近な親族や妻妾などと最後の対面の後、自害・処刑という感じのようね。
現場に呼べないような場合は手紙を書くことも許可されてる模様。
西魏文帝の皇后乙弗氏の列伝によれば死ぬ様子は見せないように、幕中で自害してる
92 :
世界@名無史さん:2009/12/11(金) 12:35:19 0
北斉高一族はキチガイだけど戦闘だけには強いな
まあ最後は滅んだけどさ
94 :
世界@名無史さん:2009/12/11(金) 22:30:13 0
北斉皇帝の酷さは南北朝でも最低クラスだな。
他の王朝なら一人くらいは名君がいるはずなのに。
田中芳樹の蘭陵王読んだけど
北斉の皇帝ヤバくね?
DNAに欠陥あるとしか
96 :
世界@名無史さん:2009/12/14(月) 22:27:31 0
むしろ蘭陵王がまともなのが不思議なくらい
戦闘民族だな>北斉高氏
戦闘センスだけは凄い
99 :
世界@名無史さん:2009/12/15(火) 22:57:11 0
北斉が戦闘に強かったのは斛律光のおかげ
高緯が斛律光を殺したせいで滅亡一直線
段韶忘れてるよ
101 :
世界@名無史さん:2009/12/17(木) 03:13:58 0
奸臣の和士開が人妻と夫の目の前でセックスしてる描写には呆れ、驚いた。
元々史書にある話らしい>『蘭陵王』
和士開は武成帝の皇后胡氏と通じていたが
胡氏はその後も淫乱を極め北斉滅亡後も連行先でセックスに狂っていたらしい。
後主はじめ息子達、孫達が皆殺しにされたのにセックスに狂うってどういう女なんだろ。
102 :
世界@名無史さん:2009/12/17(木) 03:24:37 0
曇献なる僧が胡氏の愛人だったらしいが
いつも美少女の尼たちを宮中に同伴していた。
少年皇帝の後主が劣情を催して尼を強姦しようとすると
死に物狂いで抵抗する。宦官に命じて無理に脱がせると
尼は実は美少年だった。この少年達も皇太后の寝所に侍って乱交していた。
哀れこの女装少年たちは、曇献が失脚、処刑された時に道連れで殺された。
103 :
世界@名無史さん:2009/12/17(木) 03:31:20 0
後主の時代には王号を得る者が数百人。
鷹や馬も爵位と俸禄を得た。
大規模土木工事を繰り返し、金がいくらあっても足りなかった。
後主はご利益信仰に凝り、いつも祈祷をして
それで「徳を修めた」気になっていた。
>>5 ×ストリートキング → ○ストリーキング (streaking)
105 :
世界@名無史さん:2009/12/19(土) 01:12:51 0
李密と楊玄感ってたいした武将じゃないの?
106 :
世界@名無史さん:2009/12/19(土) 18:22:20 0
李密は李勣が心酔した名将
どう「たいした」なのかはどう説明していいやらだけれども
やったことの結果を見る限り李密は当時の指導者連中の中では
別格扱いできる一人なんじゃないですか。
政情不安からきた散発的な(にしては規模が大きいけれど)暴動や反乱を
政治的な意味をもったものに変えた一人。
楊玄感と絡みで処刑された人たちは行動や言い分を見てると
学生運動にのめり込んだ人たちと同レベルな感じがするので
個人的には超低評価してます。
反乱起こして失敗しても赦されるとか思ってたんじゃないでしょうか。
108 :
世界@名無史さん:2009/12/19(土) 19:29:20 0
スレタイが一瞬「北朝鮮総合スレッド」に見えた
109 :
世界@名無史さん:2009/12/26(土) 08:05:59 0
楊玄感の話題になってるけど楊素って隋最強?
その要素はあるね
楊素は中英板の名将100選にも選ばれて気がする
112 :
世界@名無史さん:2010/01/07(木) 12:53:36 0
>>114がもっと面白いことを言ってくれるそうなので期待
女帝と書いてエンペラー
エンプレスでなくエンペラー
エンプレスって女帝という意味と皇后という意味と二つ意味があるんだな。
毛唐はどうやって区別してるんだろ。
ヴンミャク
117 :
世界@名無史さん:2010/01/13(水) 23:36:16 0
そうでしたか
118 :
世界@名無史さん:2010/01/13(水) 23:45:01 0
そうでしたよ
119 :
世界@名無史さん:2010/01/23(土) 04:55:08 0
高熲って戦闘面はどうなの?
120 :
世界@名無史さん:2010/05/18(火) 11:32:00 0
>>8 短期間で西魏→北周→隋と王朝交代してるし、簒奪が常態化してたって事だろ
わーい おいらは北魏ファンだよ。
雲崗・龍門と二つも世界文化遺産になっている北魏はすばらしい。
>>120 西魏の元氏は最初から傀儡だったし、
そうすると北周→隋という流れだけになるから
常態化ってのは結論を急ぎ過ぎだと思う。
123 :
世界@名無史さん:2010/06/04(金) 22:47:32 0
>>122 北周の皇帝も最初の二人は宇文護の傀儡だし、
皇帝個人の権力はかなり弱いものだったんだろう。
武帝が長生きしていれば磐石なものになっていただろうけどね。
124 :
世界@名無史さん:2010/06/04(金) 23:01:43 0
北周の初代皇帝というか「天王」はまだ少年だったけど
やはり西魏皇帝の殺害には同意していたのかね。
れっきとした簒奪者なのか、宇文護に全くいいように動かされていた人間なんだろうか。
北周の宣帝はなんであんなに好き放題できたんだろう?
>>124 短期的になら北朝・南朝問わず無茶する皇帝は多いわけで、
北周宣帝は殺される前に死んだから、
そんな印象が強いのかもなあとか思わんでもない。
後数年でも生きてたら、元凶の刑か東昏侯の刑に処されてただろうし。
126 :
世界@名無史さん:2010/06/10(木) 22:46:00 0
北周宣帝は楊堅に毒殺されたんじゃないの?
>>126 静帝が殺されたことは史料上に記録として残ってるけれど、
宣帝については公式には無いっす。非公式にあるのかどうかは知らないが。
でも、殺されていたとしても驚くほどのことでもないけれど、
宣帝をなんとしてでも排除しなければならない理由と
それができるような環境が楊堅にあったとも
思えないというところですか。まだまだ政敵もいっぱい残ってましたし。
128 :
世界@名無史さん:2010/06/11(金) 23:04:47 0
宣帝は皇后を五人も立てたり、静帝生母が宣帝より12歳も年上だったり
かなりの好色家だよな。
129 :
世界@名無史さん:2010/06/12(土) 15:05:56 0
宣帝は欲望のままに、自分の気持ちいい事だけやって死んだ皇帝だと思う。
他人への配慮や想像力は皆無。
130 :
世界@名無史さん:2010/06/12(土) 16:49:04 0
でも同時代に高緯というもっと酷い皇帝がいるのが恐ろしい。
>>129 事跡は各々、後継政権に誇張されたとしても、
実際の所、劉宋後廃帝や南斉東昏侯、北斉後主と
そう変わらんだろうというのが個人的な考えなんだけど、
宣帝は上皇ポジションに逃げることで長生きと報復回避を図ろうとする程度に
知恵が働く辺り、悪質さは感じるよね。
132 :
世界@名無史さん:2010/06/13(日) 22:56:19 0
武帝が死んだときに「死ぬのが遅い」と罵った話は、
東昏侯が明帝の葬儀で大笑いした話にそっくりだ。
酔った勢いで殺戮とかしない分だけマシだが。
133 :
世界@名無史さん:2010/07/26(月) 11:06:51 0
南朝スレも劉宋スレもなかったのでこちらで質問させて下さい。
東晋以来、宋が領有していた山東半島が北魏に奪われた詳しい経緯を教えて下さい。
またその年代について、ネットのサイトでは5年か6年ずれた別の年次があげられており、どっちが間違いとすれば何を誤ったのか?
あるいは宋書と北魏書とで記述が違うのか?
あるいは5、6年に渡る長い経緯があったのでしょうか?
134 :
133:2010/07/26(月) 14:17:30 0
5、6年じゃなくて4年でした。
ネットで拾った情報では
469年と472年の両説みつかりましたが
どっちも典拠は明示されてませんでした。
>>134 469年については
『資治通鑑』泰始五年(469)正月条
乙丑、魏人抜東陽、〜(略:沈文秀が北魏に帰順するくだり)。於是青・冀之地尽入於魏矣。
なんだと思う。他にも
『魏書』皇興三年(469)四月条 に 「劉ケ遣使朝貢」
『宋書』泰始五年(469)十一月条 に 「索虜遣使献方物」
とあるのは、上記の停戦後の外交処理ではないかなーと。
上追記
『魏書』皇興三年五月条 「徙青州民於京師」も。
こういうように、三長制・俸禄制の確立以前の北魏って
「土地を支配する」って感覚、もしくは地方行政への意識に
まだ伝統的な漢族とずれがあると思う。
だからどこそこを制圧したみたいな記述があっても、
現代的な感覚での国境線が引けないというか。
ついでに472年までだけど、これといった記述は見当たらないなー。
宋は明帝崩御前後のごたごた粛正人事、北魏は二重朝廷の状態でそれどころじゃなさそうな。
前年末に垣崇祖が北魏の東?州(多分、山東半島の南部)に侵攻してるけど、撤退してるくらい。
これを山東奪回の最後の機会と見たとかかも?
その後、戦線はどんどん南下していきますし。
138 :
世界@名無史さん:2010/07/30(金) 10:04:53 0
>>135-137 ありがとうございます!
宋書と北魏書でさっそく該当記事を確認しました。
(アクセス規制が厳しいのでこれで消えます)
139 :
世界@名無史さん:2010/07/30(金) 21:04:15 0
高句麗>隋
140 :
世界@名無史さん:2010/07/31(土) 23:50:40 0
1919
>>137-138 472年の件だけど
垣崇祖の北侵の挫折は北魏書によると
(471年の)十一月だから
グレゴリオ暦に換算すると翌472年になる可能性高いんじゃないでしょうか。