任那日本府(みまなのにほんふ、やまとのみこともち)
古代、朝鮮半島南部の任那にあったとされる倭国の統治機関である。
その実態については諸説あり、議論が続いている。
広開土王碑や日本書記など歴史的資料は数多くありますが明確な結論は
出ていません、本当にあったんでしょうか?
>>2 すいまん、日本史板見てませんでした。世界史っぽく語りあっときます
4 :
世界@名無史さん:2009/02/18(水) 16:07:04 O
では、任那日本府とはイギリスにおけるフランスブルターニュだとしてみる。
現代のイメージでそういう名前の建物なり役場なりがあって……というなら、無いだろうな。
当時の日本は飛鳥時代だし、朝鮮半島も19世紀末か20世紀頭まで飛鳥時代同然の体制だった。
飛鳥時代といえば、半律令体制半部族国家で、人的支配。固定的な役場でやっているわけでなく、
首府だって王様の即位前からの私領や大スポンサー氏族の勢力圏に転々とした時代だ。
任那諸国および百済が日本の勢力圏にあったことは間違いないが、それは、現地の邑里に対して
日本が宗主権を行使できていたということで、日本から知事のような役割の人を派遣していて
現地の最有力者に接待させていた、その逗留先くらいのものだろう。
大切なのは国益に基づいて信じることである。あったんだと
繰り返し信じていれば、そのうち真実にある。がんばろう。
祖国のため、国家のため、愛のために。
7 :
世界@名無史さん:2009/02/19(木) 12:03:48 0
>>1 明確な結論というが、明確な証拠により半島人の妄想はもう反論
しつくされている。それでも結論が出ていないなどと言っているのは、
半島人がそんな結論は死んでもでも認めたくないからにすぎない。
あのう
日本の史学学会では存在が完全否定されてますが
↑どこの学会ですか?w
普通に本屋で売ってる歴史の読本にも記述されてます。
>>10 本を読む習慣が無い人にはわからないでしょうw
12 :
世界@名無史さん:2009/02/27(金) 03:48:20 0
読む本の偏り具合によるな。
13 :
世界@名無史さん:2009/02/27(金) 04:07:44 0
歴史に願望を盛り込む国が現代朝鮮半島にありまして。
それも南北二つも。
>>5が100点の回答出してるのにまだグズグズ言うやつはなんなの?
書かれた内容が理解できなくて読み飛ばしたの?
5世紀6世紀の日本の状態を少しは把握してるの?
15 :
世界@名無史さん:2009/02/27(金) 11:55:11 O
今時こんなトンデモ説学会は相手にしてないよ
5世紀前後の日本は朝鮮の属国的な存在だったわけで
大和政権自体朝鮮系の政権だし
↑釣りはいいです
17 :
世界@名無史さん:2009/03/19(木) 00:28:25 0
日本人「日本書紀に『391年に神宮皇后が百済と新羅を征服したと書いてある。』」
韓国人「捏造だ。」
日本人「三国史記「新羅本記」にも慶州を倭兵に包囲されたと言う記録がある。」
新羅は何回も王子を人質に差し出している。百済の武寧王は人質の子として日本で生まれた。」
韓国人「捏造だ。」
中国人「満州にある碑文にも倭国が海を渡って百済と新羅を臣下にしたと書いてある。」
韓国人「捏造だ。」
中国人「中国の歴史書の宋書にも倭国が朝鮮半島南部を支配した記録がある。」
韓国人「捏造だ。」
中国人「中国の歴史書の魏志倭人伝には既に3世紀から倭国では鉄の鏃を使ったと書いてある。」
韓国人「捏造だ。」
中国人「中国の歴史書の随書にも倭国は産物も豊かで鉄の鏃で武装した軍隊を持つ。
百済と新羅は倭国を大国として敬ったと書いてある。」
韓国人「捏造だ。」
日本人「日本や中国の歴史書や発掘品は全て捏造なのか?」
韓国人「そうだ!韓国に都合の悪い歴史書は全て捏造だ。」
中国人「中国の歴史書まで捏造か?」
韓国人「捏造だ!」
日本人「三国史記に「670年の十二月に、倭国が国号を日本と改名した。日の出る
所に近いから、これをもって「日本国」としたとの事である。」とあるが?」
韓国人「捏造だ!
中国人「中国政府も外交部のホームページ(www.fmprc.gov.cn)で「5世紀はじめ、
大和国が隆盛した時期に、日本の支配が朝鮮半島の南部にまで拡大した。」
と公式に認めている。」
韓国人「中国人の捏造だ!!」
英国人「イギリスのオックスフォード大学の出版社(www.oup.com/ca)の教科書が、
「5世紀の日本の勢力は朝鮮半島南部まで支配した。」 書いている。
それを世界50か国の学校に発行している。」
韓国人「オックスフォード大学の捏造だ!!」
韓国人以外の一同「ではそれらの捏造を裏付ける証拠は?」
韓国人「・・・・・・。」
全て捏造と言うがそれを裏付ける証拠は全く出せないバ韓国人w
全裸南道に前方後円墳がいくつかあるから、あそこら辺のことだろ。
19 :
世界@名無史さん:2009/04/17(金) 21:18:54 0
↑なにその素敵なパラダイスw
日本って呼び方がない時代に「任那日本府」があったってのは少しアレだな
朝鮮人必死だなw
21 :
世界@名無史さん:2009/04/17(金) 23:28:14 0
嫌韓厨が出てくると、如何なる正論もウソ臭くなる。
22 :
世界@名無史さん:2009/04/17(金) 23:40:39 0
学者ですら、ろくすっぽ漢文が読めないのに、でかい口叩くな、っで、OK?
23 :
世界@名無史さん:2009/04/18(土) 02:21:18 0
>>19 『日本書紀』の注釈書である『釈日本記』は、任那日本府を任那之倭宰と注釈している。
任那日本府は後世の呼び名。
いいな、分かったらキムチでも食って寝ろ。
>>19 はいバカチョンw
>>21 チョンが嫌いだろうと好きだろうと歴史は動かないよw
嫌韓厨なんて言葉で誤魔化すチョン乙
25 :
世界@名無史さん:2009/04/18(土) 06:19:21 0
弁韓を統一する勢力はついに現れなかった。伽耶は諸国家分立の状況を呈し、
連盟体を成していたわけではない。経済的にみれば、この地は鉄を産し、高
句麗、倭国だけでなく、百済や新羅も、あるいは中国でさえも、この地に影
響力を及ぼそうとした。安定的な鉄供給を望んでいたからである。最も有利
だったのは倭国だ。地理的に近いうえに、伽耶諸国は百済や新羅からは相対
的な独立を獲得したかったからだ。伽耶諸国としては、そうしてこそ鉄の交
易で相対的な主体性を発揮できる。高句麗好太王碑文には、倭国が4世紀末
から5世紀初めにかけて百済・新羅を一時服属させて高句麗と戦った記事が
あるが、この時点では、「日本府」(当時そう呼ばれていたのではないが)的
な機構があったのだろう。なければ、朝鮮半島での軍事展開は困難だったに
違いない。やがて新羅が盛強になってくると、倭国は百済と結ぶようになるが、
「任那日本府」的な権益はその後も引きつづき継承される。その証が5世紀
から6世紀にかけて朝鮮半島南部でつくられた前方後円墳である。この墳型は
それ以前の朝鮮半島にはないものだし、3世紀初めの大和盆地に起源をもって
いることが明白だ。なぜ、7世紀に白村江の戦いで倭国は唐・新羅連合軍と戦
ったのか。それは、それまで朝鮮半島に権益をもっていたからである。それを
失うまいとして百済の復興を企図したのだ。そう考えないと、白江村の戦いを
説明できない。
26 :
世界@名無史さん:2009/04/18(土) 11:54:54 0
百済の南部に置かれた商館兼日本領事館みたいなものだったんじゃね。
総督府
28 :
世界@名無史さん:2009/04/20(月) 19:55:07 0
ろくに文字も無かった当時の日本が、
商館だの領事館だの総督府だのを運営できただろうか?
29 :
世界@名無史さん:2009/04/20(月) 19:56:36 0
任那なんてなかったんだよ。
いい加減、目を覚ませ。
30 :
世界@名無史さん:2009/04/20(月) 20:03:03 O
朝鮮倭人が支那からの侵入者に押されて徐々に南下し、
最後まで残った連中がいたのが、あの辺りっていう事だろ。
31 :
世界@名無史さん:2009/04/20(月) 20:09:41 0
同時代の日本の首都がどこかさえ判らないんだから、
出先機関のことなんか判らなくて当然っ(エッヘン)
>>4 逆では。
仮に任那日本府が存在したとしたら、任那日本こそが初期段階ではイングランドで、
日本の方がブルターニュに当たるんじゃないの?
33 :
世界@名無史さん:2009/04/20(月) 20:40:38 0
いいか、よく聞けよ。
一番大事なことは、歴史的事実がどうであったかということではなく、
日本にとって望ましい歴史とはどうあるべきかってことだ。
愛国心のある日本人なら、そこんとこわかるだろ。
問題なのは事実がどうだったかってことじゃない。
日本人にふさわしい日本に誇りを持てる歴史を書くってこと。
34 :
世界@名無史さん:2009/04/20(月) 20:49:56 0
釣られまいぞ、皆の衆
35 :
世界@名無史さん:2009/04/20(月) 20:50:13 O
>>33 チョンさん・・・。
貴方とは価値観が合わないわ。
36 :
世界@名無史さん:2009/04/20(月) 21:58:25 0
応神大王は金官加羅からやってきた傭兵隊長
37 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 00:11:25 0
>>36 ん?なんかカッコイイ設定だな
でも傭兵って、雇い主は誰よ
38 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 11:28:55 0
神功皇后
39 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 18:29:31 0
戦争する妊婦って世界史を見回してもそうはいないはず。
40 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 19:51:08 0
任那=ノルマン
ヤマト=イングランド
じゃないか?
渡来人が中枢につくのが自然みたいな風潮だと
今の日本、朝鮮みたいな区分けはなく
それこそ支那の文明に近い方が本拠地だったと思うのだが
41 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 20:48:30 0
大和王権内部での渡来人の地位は低いからねぇ。
42 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 20:53:47 0
>>41 そうなん?
秦氏とか東漢氏とかってなんなの?
43 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 21:01:08 0
>>42 ランク的には、皇別、神別、諸蕃の順で、諸蕃(=渡来人)は一番下だろ。
常識だと思ってたが。
44 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 21:14:32 0
『日本書紀』を丁寧に読めば、任那日本府の所在地は安羅なのでは?
45 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 21:58:50 0
先に来た渡来人=天孫族=皇別・神別
遅れてきた渡来人=諸蕃
早い者勝ちってこと
46 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 22:09:33 0
47 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 22:36:04 0
天孫降臨=半島から倭国へ渡来
48 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 22:37:00 0
高天原って高句麗か遼東の公孫氏だったんじゃないの?
49 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 23:00:06 O
その頃は日本という名称はないのに日本府という名称がついていることからその実在には疑問符がつく
おそらく後に日本に渡って大和朝廷を建設した半島南部の百済人を指していたのを
後世になって名称を作って意味を変えただろう
50 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 23:01:38 0
51 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 23:08:25 0
>>40 あのさぁ、百年戦争の頃までは、のちにイギリス王と呼ばれた人は、フランス王が
宗主権をもったフランス貴族であるブルターニュ侯であり、たまたま海の向こうの
イングランドに領土を保っているだけなんだけどね。
力関係から言って、任那みたいな商館・居留地程度のものが、ノルマンに相当
するってのは、そりゃおかしいよ。
52 :
世界@名無史さん:2009/04/21(火) 23:15:46 0
>>49 百済は伽耶諸国さえ制圧できないのに、なぜ大和王権を建国できるわけ? それに
百済は大和王権に人質を差し出しているんだよ。力関係が、日本>百済 なのは明ら
かでしょ。
百済は太子を新羅は王子を質に出しているって事は
倭国は半島に大きな政治的軍事的影響力を有していたということだな。
昔于老や朴提上の伝を読めばなおさらその感を強くするね。
だな
55 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 08:31:47 0
>>49 「倭府」という名称を書紀の編纂者が「日本府」と変えて記載した、とは考えないの?
56 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 19:05:49 0
つまり歴史の改竄ですね。わかります。
57 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 19:12:02 0
普通に考えて高天原は高句麗だろ。
天孫降臨は、高句麗あたりから征服者がパーッとやってきてパーッと征服した事実の神話化だな。
58 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 19:14:05 0
高句麗人か、楽浪の遺民か、遼東の公孫氏あたりが高天原からやってきた天孫族だろうな。
59 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 19:21:36 0
>>51 ブルターニュ侯じゃなくてノルマンディー公でしょw
60 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 20:22:53 0
>>57 そうだったら、『日本書紀』にそう書くだろ。高句麗と日本では、墓の大きさ、かたち、
副葬品、すべて違うのは、どう説明するわけ?
61 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 21:21:18 O
日本府というが日本という国号は当時存在しない
当時の中国の資料に任那について言及したものがない
日本書記には書いてあるがそれより前の古事記には一切出てこない
日帝時代に侵略を正当化するために必死に発掘を試みたが遺跡も遺物もなにも出なかった
それでもこんな説を信じてるのはよほどの無知か反動的な右翼だろう.
62 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 21:34:23 0
とはいえ、朝鮮の勢力が日本に進出した証拠は日本、韓国、中国の歴史書には
皆無だし、考古学資料もまったくないのに対し、日本の勢力が朝鮮半島南部に
進出した証拠は、日本の史書、中国の史書、高句麗の好太王碑文、前方後円墳
の分布、百済武寧王陵の遺品など、出そろっているんだがね。まあ、あらゆる
資料を総合して判断したら、朝鮮半島南部が倭人の軍事的支配を受けていたこ
と自体は揺るがないでしょ。だからといって、それが恥だと思う必要はまった
くないわけで。
新羅によって朝鮮半島が統一されたのは、ようやく7世紀の後半のことだ。そ
れだけ、様々な勢力が入り込んだ地域ということにすぎない。それを不満だと
言っても仕方がない。
63 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 21:36:38 0
>>61 魏志の東夷伝にある狗邪(カヤ?)韓国、彌烏邪馬国というのは
倭人の国だろう。
64 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 21:42:44 O
>>63 それらが任那である証拠はないし
それらは九州の国であったという説もある
任那日本府も半島ではなく日本の九州か中国地方に置かれていた朝鮮の出先機関であった可能性も高い
65 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 21:44:13 0
66 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 22:00:59 O
宋書倭国伝によれば5世紀に倭国の五人の有力豪族を倭の王として認めたとあるが
それは宋の皇帝の配下の将軍として倭国での権利を認めるというもので
半島での権益については一切言及されてない上に任那という言葉もでてこない
そもそも皇帝配下の倭国の将軍に「府」を開くことは許されていない
文字も持たない当時の倭人が海外領土など持てたのかという根本的な疑問もある
文明的先進性から言えばむしろ大陸→列島ではないのか?
67 :
世界@名無史さん:2009/04/22(水) 22:41:04 0
半島の軍事的権益を認めたからこその称号なわけだが。
文字持たないって言っても上表文くらいは書けたわけで。だからこそ、宋書
倭国伝の記載があるわけ。弥生土器にも漢字の書かれたものくらいは出てい
るから、文字の伝来そのものは2世紀までさかのぼるでしょ。王仁が千字文
伝えたってのは、史実じゃなくて、言ってみれば手柄話としての創作なわけ
だ。
百歩譲っても、文明的先進性みたいなものは、軍事力や人口、王権の権力な
どとはあまり相関性がない。4−5世紀の倭国は、王権が朝鮮半島にまで軍
事力を展開できるほどに強大だったことは確かでしょ。世界最大の王墓とい
われる大仙古墳みりゃ、その動員力の大きさがわかる。それに対して、当時
の朝鮮半島は、北部の楽浪郡には中国人の建てた植民地があり、満州には狛
族が建てた高句麗があって、朝鮮南部には百済、新羅という韓民族の農耕国
家が分立し、さらに伽耶地域には小国がひしめいていた。古墳の規模も日本
列島のものに比べれば、非常に小さい。朝鮮半島最大の古墳は、日本の東北
地方最大の古墳とほぼ同一のサイズだ。とても倭国に進出する余裕はなかっ
た。別に恥ずかしいことでも何でもない。
任那を滅ぼし、百済を滅ぼし、唐と組んでようやく高句麗を滅ぼして、やっと
7世紀後半になって新羅が朝鮮半島を統一したわけだ。そうしなければ、統一
できなかったわけだが、たまたま日本では大和王権を中心にしたヒエラルキー
の形成が早くて国内的には2世紀後半に平和が訪れたが、朝鮮半島は多極分散
でむしろ2世紀以降、韓民族同士の死闘があり、諸民族もまじえての戦争が長
くつづいたというだけのことにすぎない。決して恥ずべきことではないと思う
が。
68 :
世界@名無史さん:2009/04/23(木) 00:12:13 O
>>66 確かに倭の五王も最初は宋の皇帝から「倭国王」としか認められてなかったが、倭王・武の時代には
「使持節都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」
と明確に半島に置ける権益と地位を保証してもらってるわけだが?
まず日本府ってのがありえねー。倭が日本と称したのはずっと後で朝鮮の地歩を失ったあとだぞ。
70 :
世界@名無史さん:2009/04/23(木) 00:53:54 0
日本書紀が書かれた時点で日本という国名を使ったのだから、過去の日本に関わることを倭国でなく日本と記述したのではないか?
という簡単な可能性をなぜ否定するのだろうか?
>>70 その予想が真実だとしてもやっぱり現実にはなかった捏造だからだろw
日本書紀でも、日本府へのやりとりは妙なんだよな。
百済王から天皇に使いがいって、そこから百済王が日本府の執事を呼んで話す、という経路をたどっている。
日本府、というが天皇=倭の直属じゃなかった?
百済の組織で、日本はそこに(たとえは悪いが後の満州国に日本人官吏が大量に入ったように)参加した程度?
>>66 >半島での権益については一切言及されてない上に任那という言葉もでてこない
「任那」の語は
>>68のいうとおり、『宋書』にみえる倭王の
任じられた都督六国諸軍事の内の一国に含まれてる。
『日本書紀』にみえる南加羅(金官国)か安羅のことだろう。
>そもそも皇帝配下の倭国の将軍に「府」を開くことは許されていない
「司馬」など府官もみえるし、武王(雄略)が「自假開府儀同三司」
とのべているから、「府」を開くことはできたろう。
まあ「任那日本府」なる語があったとは思わないが。
『日本書紀』に散見される「任那」の範囲にはブレがあるものの、
記事の多い『欽明紀』では主として安羅を中心とする加耶諸国
を指している。「任那日本府」は『欽明紀』に登場する語だが、
「ミマナのヤマトのミコトモチ」と訓があるように、「ミコトモチ」
すなわち倭王の言葉を承る者、倭王の使臣を意味する。
ちなみに『雄略紀』にも一箇所「日本府」がみえるが、こちらは
倭王の派遣軍であり、「任那日本府」とは別とみるべきだろう。
「任那日本府」の実態は、『欽明紀』によるほかないが、
安羅に置かれており、倭王派遣の臣姓を帯びた上級官人と
倭系加耶人(おそらく安羅人)の下僚で構成されたことがわかる。
当時はおそらく『欽明紀』にあるように「在安羅倭臣等」と呼ばれて
いたのだろう。そして、日本府の実権は倭系加耶人の下僚のほう
に握られていたとあり、彼らは新羅に通い、新羅の服を着るとある
ごとく、明らかに親新羅派であった。安羅の加耶人は百済のほう
を警戒していたようだ。
75 :
74:2009/04/23(木) 05:22:05 0
当時の加耶諸国は新羅と百済に次々併呑されており、南部の安羅
や北部の大加耶も両国に圧迫されていた。継体の時代には近江臣
毛野を将とする派兵があったが、不手際が多すぎ、結局、新羅と百済
の侵略を許している。欽明の時代にいたっては、日本府に任せっきり
で、百済と新羅が正面衝突するにいたって、ようやく派兵している。
おそらく欽明は磐井の乱後の混乱を収拾し、倭国の専権を確立する
ので手一杯だったのだろう。
百済は新羅に大敗北を喫し、百済の聖明王は敗死して、安羅も
大加耶も新羅の併せるところとなる。安羅の「任那日本府」は
以降現われることなく、多分この過程で消滅したと思われる。
以上を総合するに、「任那日本府」とは、「任那」における軍事的
プレゼンスを失った倭国が、新羅(および百済)による加耶諸国併合
の危機に瀕して、自己の権益(加耶南部の鉄資源などの倭国へ
の供給ルートであろう)を確保せんがため、急遽倭臣を派遣して
現地倭人系加耶人をスタッフとして編成したものと推定される。
76 :
世界@名無史さん:2009/04/23(木) 06:42:49 0
>>56>>71 つまり、イギリスがインドで集めた歴史資料を編纂するとき、「バーラタ」と原史料にあれば
すべて「インド」と書き換えたとすればそれは歴史の捏造であるということですね。
わかります。
77 :
世界@名無史さん:2009/04/23(木) 06:50:53 O
当時の日本が半島になんらか権益や影響力を持ってたのは確かだろう。
ただし明確な領土や総督府みたいなものは無かったんじゃないのかね。そもそも当時の半島の南部は部族社会が群を成してる程度のものだし。
宋が倭王に認めた半島での肩書も名目だけっぽい。
>>77 >宋が倭王に認めた半島での肩書も名目だけっぽい。
倭王の官爵が実のあるものか名目だけのものかについては議論が
あるが、宋に対して再三にわたって要求しているところからすると、
倭王にとってはそれなりに意味があったんじゃなかろうか。
半島に介入する口実になったろうし、王権を脅かしかねない豪族
連中を倭王の下に秩序づける助けにもなったろうし、なにより
百済王や高句麗王が官爵を授かっているのに、それに張り合おう
とする倭王が官爵を持たないわけにはいかなかったはず。
てか、あの劣等半島に広開土王碑ってオーパーツが
あること自体、半島全体が日本の植民地だったんだろw
>>76 話が別。
日本府、という自称がまずありえない時期に、日本のその史料に書いてあるわけで。
別に後から識別しやすいように編んだ本の中の記載じゃない。
日本書紀の元になった史料には「やまとのみこともち」に「倭府」という漢字を当てていたんでしょうが
日本という国号を採用してから編纂された日本書紀では「倭府」を「日本府」と書き改めたのでしょう。
半島南部からは倭系の考古資料が相当出土していますし、三国史記、好太王碑などを見ても倭国がかなりの
影響力を持っていたことは間違いないでしょう。
むしろ逆じゃないの?
朝鮮南端に勢力を持っていたのが、日本に侵攻して支配権を確保した。
国譲りの神話が、外来勢力に支配された事実を表している可能性もある。
韓国の歴史書の三国史記を読めば、日本列島から倭軍がたびたび侵攻している記述があるよ。
また新羅や百済が王子を質として倭国に送ってる記述もある。
また全羅南道の前方後円墳を考慮すれば、半島南部が倭国の影響下にあったことは間違いないでしょう。
騎馬民族外来王朝説か。
今の中国東北部あたりにいた民族が朝鮮半島に南下、日本に渡って現地を支配。
扶余系の百済等と親密で、天皇が「兄弟の国」と述べたりした理由と推測されるって。
>>72 まぁ当時のことだから、近代的な民族観や国家観による組織と同じだったらそのほうが異常だろ。
切り離して考えないとな。
あるいは勢力情勢自体がかなり流動的で、どの説も一面真実、全体としては?というややこしい状態だったかもしれんが。
86 :
世界@名無史さん:2009/04/24(金) 10:31:29 0
朝鮮半島の勢力が日本列島に侵攻したという記事は、中国、朝鮮、日本の史書どれを
読んでも全く掲載されていない。騎馬民族説は成り立ちようがない。
>>84 >扶余系の百済
これってどうなんだろうね。朝鮮半島の王陵の研究などによれば、そんなに単
純に言えることではないのだが。百済が一時期高句麗に服属したことが同族表
現で示されたというだけで、文化的には百済と高句麗は完全に別系統としか言
いようがないけどな。
>>86 もろ日本の史書である書記に外来勢力をうかがわせる記述あるがな。
現地の神様が外から来た神様に国を譲りました、という円満解決を偽装する必要があった。
89 :
世界@名無史さん:2009/04/24(金) 15:00:34 0
いや、あれは宇宙人による地球侵略の記事だろw
>>86 出雲族から訳分からん理由で国を譲らせた
天孫族が列島の原住民とは思えないのだが。
婚姻政策とかによる円満主権交代だったりしてな。
原日本の政権は、半島よりの外来勢力を婿(?)にすることで強大化したとか。
92 :
世界@名無史さん:2009/04/24(金) 16:18:11 0
>>88 >>90 政権交代するときは、だれしも、それなりのストーリーを創作するので、
証拠もない事は特定しないほうがいいよ。
古代日本の新政権が、出雲や九州を征服した後に、
朝鮮半島南部に手を伸ばしたと考えるのが、
正常でしょう。
93 :
世界@名無史さん:2009/04/24(金) 16:23:20 0
朝鮮半島南部にある前方後円墳などの証拠や、
古代の日本の史書を見れば、納得できますね。
>>92 正常の証拠ってのはどこに根拠があるの?
高句麗とか新羅に比べればあっさり白村江でひねられた
ぽっと出の印象しかないんだが
95 :
世界@名無史さん:2009/04/24(金) 18:20:50 0
朝鮮半島南部に手を伸ばした証拠は白村江にあり。
今どき天孫族なんて用語は消えてしまってるだろ。戦前じゃあるまいし。
万世一系説を採用するんだったら、なおのこと大和王権外来勢力説は成り
立たない。資料のつまみ食いではなくて、総合的に判断しなくちゃいけな
い。海北=九州説も同じ。これだと、倭国王の求めた称号と整合しないん
だよな。
朝鮮=新羅
日本=倭、百済
98 :
世界@名無史さん:2009/04/24(金) 20:31:11 0
満州にある高句麗好太王の碑文によれば、倭軍が百済・新羅を破ったのが391年、
高句麗と交戦して倭が敗北したのが400年、404年にはかつての帯方郡に出兵して
高句麗と交戦している。長寿王は、父の好太王が倭軍を撃退した功績をたたえる
ために石碑を立てたのであり、日本列島に出兵したとか、倭国を征服したとは書
いていない(事実なら必ず書くだろう)し、倭軍が朝鮮南部を制圧したことはむ
しろ前提として認めているのである。これは、『日本書紀』の神功紀の記述と矛
盾せず、むしろきわめて整合的である。神功紀によれば、倭国は369年に百済と
結んで新羅と交戦しており、そのとき任那日本府を置いたとしている。382年には
再び新羅と交戦しており、好太王の碑文の391年の記述につながる。百済の王世子
が倭王のために七支刀をつくって献上したのも369年。これは石上神宮に実物があ
り、年号も確かめられている。『日本書紀』が崩年干支をいじったことは確かだが、
史実を忠実に反映している証左となるだろう。中国の史書にあるように、5世紀に
倭国王が南朝に遣使するのも朝鮮半島南部での地位を優位に進めるためのもので
あり、それ以外の何物でもない。任那日本府が後世の呼称であることは、ただちに
倭国が朝鮮南部に拠点を持たなかったこととイコールではない。拠点をもったから
こそ、朝鮮南部での大規模な武力行使や南朝への頻繁な遣使が可能だったのだ。実
際には、倭国の朝鮮半島進出を機に大陸文化が本格的に日本列島にもたらされたの
であり、そのなかに乗馬の風習もあったろうと考えられる。奈良盆地に生まれた前
方後円墳は、日本では2世紀から6世紀末まで連綿とつくられており、そこに断絶は
ない。
少なくとも、4世紀から5世紀にかけて朝鮮半島の勢力が日本列島に侵攻したという
事実はまったくないのであり、各国の資料をくもりのない目でつきあわせていけば、
おのずと結論は出るのではないか。
任那日本府という表記が、4世紀や5世紀に無かったから任那日本府は
日本書紀の捏造であるなどという主張が存在する。
しかし、これは言葉尻を捕らえて揚げ足を取るような言い掛りである。
現代人が歴史的事象を現代語を用いて説明することは全く珍しく無い
同じように日本書紀編纂時、編纂当時の人々が当時の現代表記を用いて歴史
的事象を表記したとしても、それはまったくおかしな事ではない。
そもそも古代における漢字と日本語の関係は、かなり多様というか、
いい加減というか、地名でも人名でも多様な漢字表記が用いられるものだ。
ヤマトとう地名(国名)も、漢字で「倭」と表記したり「日本」と表記され
たりしている。
したがって任那日本府の漢字表記が以前に無かった云々の主張は意味を成さ
ないもといえる。
100 :
100:2009/04/24(金) 21:00:31 0
100げと
346年 倭の軍隊が突然に風島を襲い、さらに進軍して金城(新羅首都)を包囲して激しく攻めた。【三国史記・新羅本紀】
364年 倭兵大いに至る。 王はこれを聞き、とても敵わないと恐れる。【三国史記・新羅本紀】
391年 倭が海を渡り、百残(百済)、□□新羅を破り、これを臣民とする【広開土王碑】
393年 倭人が侵入し、金城を包囲して5日間も解かなかった。【三国史記・新羅本紀】
397年 百済、倭国と国交を結び王子の腆支(テンシ)を人質に送る。【三国史記・百済本紀】
399年 倭が新羅の国境に満ち城池を潰破し民を奴客とし、百済は誓いを違えて倭に通じた。【広開土王碑】
400年 倭が、新羅城のうちに満ちる。新羅救援の高句麗軍が接近すると倭賊は任那・加羅に退いた。【広開土王碑】
402年 新羅、倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣(ミシキン)を人質に送る。【三国史記・新羅本紀】
404年 倭、不軌にも帯方界に侵入し、高句麗軍と戦う。【広開土王碑】
405年 倭国に人質となっていた百済王子の腆支、倭国の護衛により海中の島にて待機してのち百済王として即位。【三国史記・百済本紀】
405年 倭兵が侵入し、明活城(慶州市普門里)を攻撃。【三国史記・新羅本紀】
407年 倭人が東部と南部へ侵入。【三国史記・新羅本紀】
407年 万を超える倭が進出。【広開土王碑】
425〜443年の間 倭国王珍が、自ら使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。【『宋書』倭国伝】
451年 宋が倭国王済を、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東将軍・倭国王に任ず。【『宋書』倭国伝】
462〜478年の間 倭国王武が、自ら使持節都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。【『宋書』倭国伝】
478年 宋が倭国王武を、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任ず。【『宋書』倭国伝】
>>98 >神功紀によれば、倭国は369年に百済と結んで新羅と交戦しており、
>そのとき任那日本府を置いたとしている
「任那日本府」は『神功紀』に見当たらないよ。
初出も『雄略紀』の「日本府」、『欽明紀』の「任那日本府」だし。
恒常的な拠点があったというより、加耶諸国や百済と協定を結ぶ
などして軍兵を上陸させていたと思う。
とにかく、『日本書紀』の「神話」部分に対し突飛な解釈まで加えて
無理やり「朝鮮三国の倭国征服」みたいなことをひねり出そうという
方法論がナンセンスなことは確かだな。
104 :
世界@名無史さん:2009/04/24(金) 21:38:29 0
>>101 朝鮮の正史でさえ、百済が倭国に対し人質として王世子を差し出していることを
明記しているわけだよな。韓国の学者は、なぜ、そこの部分は無視するんだろ?
>>103 少なくとも日本の研究者でそんなことをいってる人はもういないはず。
学生でもそんな論文書いたら単位もらえんだろう。
神話部分もまるきり無からでっち上げるのは無理だろう
オリジナルに類する出来事があったのではないか?
高句麗 BC37〜668
108 :
世界@名無史さん:2009/04/24(金) 22:42:50 0
>>106 憶測に憶測を重ねても、それを歴史学とはイワン雷帝。
大切なことは、ルネサンス時代のイタリア半島同様、4世紀から7世紀までの朝鮮半島は
長い長い分裂と戦争の時代だったことで、それゆえ狛族や漢人、倭人など周辺諸民族の
干渉や支配を受けたとしても現代の朝鮮人にとって何ら不名誉な話ではない。ルネサン
ス期のイタリアは分裂状態にあって、フランスや神聖ローマ帝国からさかんに干渉を受
けたが、欧州各国に強い文化的影響をあたえている。当時の朝鮮半島もいまの平壌あた
りに漢人の直轄地があり、中国文明の強い影響力を受けたが、そこでの文化が日本の古
代文化に強い影響をあたえた。それは、倭人の軍事的侵入を契機としたものであったと
しても何ら恥ずべきことではない。
現に新羅による朝鮮統一後は、人びとの名も中国風のものに改め、漢族王朝に服従しな
がらも、それを後ろ盾にして倭人や狛族の勢力を撃退している。それ以後はむしろ、日
本の文化にさして強い影響をあたえていない。
そういう意味で、4世紀から6世紀にかけての朝鮮半島が、大陸文化を日本に伝える橋渡
しの役割を担ったことは否定できない。
110 :
世界@名無史さん:2009/04/25(土) 00:14:19 0
>>109 そういう意味で、4世紀から6世紀にかけての朝鮮半島が、大陸文化を日本に伝える橋渡
しの役割を担ったことは否定できない。
・・・そりゃ、半島にシナの植民地があったのでシナ文化が日本まで伝わるのは当たり前だな。
半島南部には倭人がいたので当時は地続きみたいなものだし。
111 :
世界@名無史さん:2009/04/25(土) 20:38:26 0
辰斯王は日本に対して非礼だったというので、百済の側でこれを廃し、
阿莘王(阿花王)が即位してるね。これが腆支王の父にあたる。日韓
の歴史書はたがいに辻褄が合うんだけれど、なぜ韓国の学者は論理的
な実証を投げ捨ててまで資料にもとづかない独自解釈にこだわるのか。
韓国では、民族主義者でさえあれば、中卒でも歴史学者になれるのか。
日本と一緒だろ。
日本の朝鮮支配・満州支配を正当化するために同祖論の大安売りw
いまだにナショナリズム主体でほざく学者は日本にもいるしな。
いまだに日本の朝鮮支配・満州支配を正当化するために同祖論
を唱えるやつはいない。
大陸からの民族渡来説を唱える学者は、有名な征服王朝説はじめとして幾人もいるわけだがな。
でも、研究者として故江波氏の論を受け継ぐ人はいないのでは?
アマチュアの好事家は別として。
学問のレベルではすでに終わったことになってる。
終わったことにしたい、の間違いじゃないの?
それこそナショナリズムの産物で。
応神新王朝説なんかは、自分達は江波説を受容したもの、とかいってるぞ。
むしろ進んでいるの間違いでは?
天皇家関係の陵墓とかも自由に発掘研究できればいいんだけどね。
宮内庁はそういうのタブー視してあまりやらせようとしないから。
四世紀前後における、日本の文化の変遷とかはいろいろ想像かきたてるな
銅鐸やらの青銅器が陰を潜め、鉄器が主体になる。三種の神器の一つになる勾玉のような、大陸系の文化の影響が色濃く出るものが祭祀道具の中心となって
魏志倭人伝にほとんどいない、とかかれていた馬関係の遺骨や出土品が大量に出てくるようになる
>騎馬民族説
日本が征服されたかどうかは置くとして、朝鮮半島(伽耶系諸国家遺跡)と日本の和歌山から同種の馬具が発見されたりしてむしろ補強されているんじゃ?
少なくとも文化的な変動が起こった時期を境に、それまでクニ程度だった日本に強大な政権が誕生して、半島や日本の東方への影響を強めるほどな強国になっていくわけだからな。
何らかのインパクトはあったんだろう、その時代に。
>>116 研究者では例えば誰がいる?
王朝交代説はまだあるかもしれないけど、
騎馬民族征服説は受け継がれてたっけ。
>>119 半島南部と日本は同一文化圏にあったからな
というか日本勢力圏内
半島と同じものが見つかったからって、半島由来・・・とは限らないのだが
高句麗とか神話に南方系の色彩が残ってる
どっちにしても大和王権が朝鮮南部に一定の影響力があったことは変わらない
大和王権の成立過程の話はまた別の話だろ
自分達で交代説を受けついている、といってる学説が存在するのに。
ウヨは必死すぎで本音だだ漏れだから笑えるw
いやいや、重要な問題だよ。
もし、倭のルーツが半島系なら日本の任那に対する妙な態度もすべて解決しちゃうわけだしね。
百済王を通して指導していた、古代としても妙な組織図とかも。
まぁ天皇家についてはいまだにタブーで、騎馬民族王朝説が感情的攻撃に一斉に晒された時代よりはマシとはいえまだまだ学問はナショナリズムから自由じゃないね。
まぁ結果云々でいえば、任那と倭の関係がどうだろうが、最後には新羅との争いに負けて喪失しているわけだがなw
けど騎馬民族征服説なんて未だに信じてるやついるのか
日本の朝鮮南部と関係性に比べて
圧倒的に史料がないし
根拠にしてるのが神話レベルの話だろ
>>127 原因の根本は、劇的変化の時代の資料がまともに残ってないことだな。
中国の史書でさえ、そのときのことはろくに伺えない。
代わりに出土品の変動、半島(時には北部)と共通性あるものの発掘などはかなり説を補強する方向にあるわけだが。
政治的緊張が緩まり、朝鮮の前方後円墳発掘とかが自由になればまた発展するんだろうがね。
まぁ卑弥呼死後大混乱に陥ってたはずの邪馬台国がいきなり立ち直った挙句文化的チートすら成し遂げた、とかいうよりはなぁ。
あれだって卑弥呼を神話のアマテラスに見立てるとかの強弁あるし。
130 :
世界@名無史さん:2009/04/26(日) 21:10:52 0
乗馬の風習なんて、騎馬民族の侵攻や征服なんてことがなくてもアッという
間に伝わるものだよ。地中海世界、ヨーロッパ、アラビア半島、中国大陸、
大航海後の北米大陸など、枚挙に暇がない。
>>130 あっという間に?
例えば中国では趙の武霊王という人が出て、自分達の服装の風習まで変えてやっと広まったわけだが。
それまでも恒常的に騎馬民族と接触していたのにな。
適当に名前あげりゃいってものでも……。
しかも中国には馬がいなかったわけではなく、戦車に引かせるためのそれなら沢山既にいた。
たいして、日本にはその馬自体少数だったと中国側の記録に残ってるのに、馬骨馬具の出土がある時期を境に頻出するようになる。
到底、何もなかったなどとは想定できないわけだが。
??
それ、江上の説じゃね?
まだ騎馬民族がきたとか言っているやつがいんの?
馬具では、木製の鐙が纒向の箸墓古墳の周濠からの出土例をはじめとして
宮城県仙台市、大阪府四条畷市、奈良県香芝市と続々と見つかっている。
これらは土器とともに出土しており、4世紀のものとされるようだ。
ただし、これらは、箸墓古墳の周濠から出土したことからもわかるように、
王権の上層部や有力豪族などの貴人の乗用に用いられたものだったと
思われる。
5世紀からは、古墳から轡、鞍、馬鈴などの馬具とともに、騎兵用と
思われる両当式甲冑も出土するが、歩兵用の短甲の出土数に比べて
きわめて少ない。考古学的にいうと、馬具や武装について見ただけでも
「騎馬民族」が渡来したとはとてもいえない。
135 :
世界@名無史さん:2009/04/26(日) 21:59:37 0
馬具が増えたのは、日本が朝鮮半島に出兵したという記録があった4世紀後半以降の話でしょ。
5世紀に入って馬関連の装飾品が増えたことは確かだが、それは文献資料からみていけば、む
しろ日本の朝鮮半島進出が契機となっていると言わざるを得ない。また、ウマそのものに関し
ては、弥生時代からも遺骨の出土例があって、確かに、「牛馬なし」という魏志倭人伝の記述
があるくらいだから多くない。数十例というところだ。しかし、古墳時代の全時代を通じてウ
マの出土は全然増えておらず、ずっと少ないままだ。むしろ、9世紀ころにウマの遺骨の出土
例が急増する。それを考えると、騎馬民族が日本を征服したという説は成り立ちにくいと思う。
136 :
世界@名無史さん:2009/04/26(日) 22:02:47 0
箸墓からもアブミが出てたんですね。うーむ、知らなかった。
箸墓古墳から馬具が出たことで、通説より数十年早く日本に乗馬風習が伝わったという可能性もでてきたからね。
貴族層が騎兵だったというのは、生産力がさほどでもなかった古代世界ではあちこちで見られたことで、歩兵装備との差があるのはむしろ自然なこと。
この時期に日本にそれまで存在しなかった風習が明確にあったとされたことがポイントだろうな。
李進煕・姜在彦氏などの見解だと、当時は国家概念がなかったことに着目、むしろ支配層が積極的に外来の騎馬勢力を新しい仲間として迎え入れたのではないかと想定。
大規模な墳墓を作れるほどの支配層の傾向が、急激に変化した時期だからな。
支配層に代替わりがあったのか、それともそれ自体が入れ替わったのか。
騎馬民族が征服した、というのと
天孫族が渡来系、というのは別だろう
今来の〜
とかいう表現が気になる
戦闘用の馬冑の出土例は日本では和歌山の例を含めてもたった2例だけであり、埴輪の
飾り馬はたしかに関東の古墳などで多く出土しているが、むしろ威信財としての馬であ
り、けっして戦闘用の人を乗せる馬をモチーフにしたものではない。古墳時代の馬が軍
事的な意味をどれだけもっていたかは疑問だ。また、3世紀からの古墳文化はゆるやかに
切れ目なく発展しており、騎馬民族説では古墳前期と後期のあいだに武力による文化の
断絶があったと主張するが、それは事実に反する。馬が、倭人の社会ではきわめて少な
く、それゆえに権威のシンボルとされた、軍事的意味をもつようになったのは後世のこ
とだろうと考えるのが妥当だ。
142 :
世界@名無史さん:2009/04/26(日) 22:25:05 0
>>137 李進煕なんてペテン師出す時点で終わってるよ。
対馬海峡の両側に倭人が住んでいた
そこへ韓民族が南下してきた
これじゃね?
国産品の馬具が出土しはじめるのは、五世紀半ごろの遺跡から。
これは日本書紀において、鞍部堅貴ら技術者が来たという記載と一致する。
それ以前は半島生産とされるもの。
今で言えば、最新兵器の生産地が半島に独占されていたわけで。
倭国の執拗な出兵は、天皇家の故地とかいう話は置くとしても戦略上当然の措置だったのかもな。
高句麗系にしろ、朝鮮半島を南下して制圧しつつあった民族は騎馬民族というよりは半狩猟半農耕だからな。
146 :
世界@名無史さん:2009/04/26(日) 22:40:11 0
>>144 それは、そうでしょうね。おそらく、4世紀中ごろまでは楽浪郡を中心に鉄資源の供給ルートが
あったのでしょう。それ以前は馬韓も辰韓も小国分立状態だったが、楽浪郡が高句麗の侵略を受
けるようになった4世紀後半以降、百済や新羅がそれぞれ地域統合を進め、中国からの自立化を
遂げます。倭国も鉄資源の分配のために大和王権による序列ができあがっていたが、それが半島
進出に乗り出す。南朝鮮・日本の勢力は、それぞれ鉄資源の供給ルートを自力で確保する必要に
迫られていたのでしょう。鉄産地であった伽耶の勢力がひとつになれなかったのも、このへんに
理由がありそうです。
馬具はじめとして武具の受容・変遷(出土品が剣から刀主体になる)
鍍金技術の使われた装飾品、埋葬形式の変動(横穴式石室)。
支配か受容かはともかく、大陸系の文化が支配層の風習すら変動させたのは確かだからなその時期に。
しかしNHKの電波番組はすごい
日本人は奴隷として傭兵として扱われたんだってよ
前方後円墳の件はスルー
149 :
世界@名無史さん:2009/04/26(日) 23:13:15 0
おそらく当時の倭国が人口のうえで超大国だったことは間違いないとは思います。
外敵や内乱のない状態下での長江流域みたいな環境ですからね。小河川が多くて
大規模な治水は必要ないし。全羅道地方の前方後円墳は、どうみても倭人系豪族
の墳墓としか考えられないけどな。
151 :
世界@名無史さん:2009/04/26(日) 23:42:57 0
さっきの犬HKのETV特集
左翼と在日の共同制作番組みたいな内容だった
スタジオで発言するのは山尾とかいう偏向した奴と
韓国人学者と笛木とかいう韓国人化した糞女だけ
これで碌な内容にはるはずはない。
>>151 古事記や日本書紀には新羅の記述が多いけど新羅本記も倭の記述が多いな。
倭国の人口が膨張するのは大陸からの人口の流入ですね
ねずみ算式でもそんなに増えませんから
また倭国では鉄を生産することができなかった(鉄鉱石がないから)
鉄器を輸入するために奴隷を物々交換で渡してた
鉄製の武器も無かったころはどうやって戦っていたんんだろ
やっぱり棍棒とか石斧ですかね
155 :
世界@名無史さん:2009/04/27(月) 20:19:20 0
まあ、任那とか日本府なんてシロモノは机上の捏造だったってこった。
156 :
世界@名無史さん:2009/04/27(月) 20:39:55 0
鉄器自体は紀元前4世紀ころで朝鮮半島とほぼ同時ですね。もっとも、中国大陸でも
紀元前6ないし5世紀ですから、そんなに古くはありません。
157 :
世界@名無史さん:2009/04/27(月) 21:07:20 O
任那日本府という言葉は日本書記に唐突に出てくるがそれより古い古事記には一切出てこない。
もし日本が海外に支配領域を持っていたならそんな重要な事を書かないで置くだろうか。
日本が朝鮮に進出していた記録や遺物もないのに
「場所はわからないが当時の日本が朝鮮を支配していたことは間違いない」というのは乱暴すぎる。
鉄器や土器などの文明的文化的な流動性ならむしろ半島>列島なわけで
むしろ日本は朝鮮の支配領域だったという方がしっくりくる。
任那にしても日本にそれと思われる地名は数多くある。大和朝廷の成立過程に渡来系が関わりを持っていたことからいっても実態は逆だったのではないか。
長文乙。上のほうに同じようなこと書いてあるね。
159 :
世界@名無史さん:2009/04/27(月) 21:26:34 0
>>151 倭はやたら元気のいい蛮族という感じだな
半島、列島という分け方よりかは
あそこらへん一体が全部倭族の領域だったんだろうか
丁度ギリシャと小アジアでひとつの文明圏を成していたように
>>154 > 鉄製の武器も無かったころはどうやって戦っていたんんだろ
> やっぱり棍棒とか石斧ですかね
普通は青銅だろ。
161 :
世界@名無史さん:2009/04/27(月) 21:51:29 0
>>157 >日本が朝鮮に進出していた記録や遺物もないのに
有り余るほど記録も遺物もあるでしょ。動機もある。既に指摘されている。
>>154 製鉄技術は既に伝播していた。鉄資源があるだけでは鉄製品はできない。大量の燃料と粘土、
丘陵が必要なわけです。延べ板のかたちで流通していたわけです。鉄産地だから強大な勢力を
形成できたかというと、むしろ逆なんですね。
163 :
世界@名無史さん:2009/04/27(月) 22:52:10 O
現在のアフリカや中東みたいなもんかな。
鉄の国産化が可能になって進出する価値も薄れたとか。
164 :
世界@名無史さん:2009/04/28(火) 01:04:54 0
165 :
世界@名無史さん:2009/04/28(火) 21:49:38 0
古代韓半島の南部と北九州の日本人は、言語や習俗そして共通した神話的伝承をもつ同系統の民族であると思われる。
半島南部の加耶(任那)人は新羅人や百済人とは系統が違う。両者に圧迫される形で列島に渡来したと考えられる。
加耶の始祖首露王が亀旨(クジ)峰に天降る話は、記紀の天孫降臨の「筑紫の日向の高千穂のクジフルタケ」と一致する。
「天降る」は海(アマ)を渡ったということで、やはり天孫降臨は加耶人の倭地渡来を伝承したものであろう。
神話の類似が特定の民族や部族の移動に直結するとは限らないのでは。タバコや
トウガラシ、ジャガイモなどの普及がアメリカ・インディアンの移動とは何の関
係もないのと同様で、話だけが伝わる事例が実は多いのではないか。というのも、
朝鮮半島南部には東南アジア的要素をもつ神話も多いからで、そのような伝承が
あるからといってただちに大規模な民族移動を物語るとは考えにくい。ただまあ、
三韓ともに馬にかかわる伝承、とくに英雄の伴侶となるような馬の話はほとんど
ないから、この地に騎馬民族の勢力が浸透しちなかったとはいえるだろうし、天
孫降臨譚そのものがはじめから騎馬民族のものであったとすれば、記紀のあらゆ
る異伝に、このモチーフが現れてよいはずだが、実際には7、8世紀の政治神話記
のものにのみ出てくる。三韓と倭は弥生時代以降、たがいに往来も多かっただろ
うし、始祖神話もしばしば共有されたのだろうが、大規模な軍事展開は倭国が半
島に出兵して高句麗と戦ったのが最初だろう。魏志弁辰伝でも、金官加羅の人び
とは、戦闘では歩戦に長じていると述べている。当時の三韓も倭も、基本は歩兵
だったのであり、そもそも、これらの国では「馬」は「マァ」とか「ンマ」「ム
マ(転じて「ウマ」)」と発音しているところから、漢民族(シナ人)の話して
いる中国語が語源となっている。してみると、朝鮮半島や日本列島の馬は、楽浪
・帯方の農耕文明地帯からもたらされたものと考えられる。けっして高句麗など
北方ツングース系統やモンゴル系統の騎馬民族からもたらされたものではないと
思う。
167 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 02:10:28 0
モンゴル系で海を渡る力を持ったものが日本列島に渡り日本人になった
そして渡れないものは半島にとどまり朝鮮人になった
サケの川登りと同じ理屈
紀元前から日本海渡って戦えるってすごいな
169 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 07:20:47 0
なんで日本海?
朝鮮海峡を渡ればいいのだが
170 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 07:38:58 0
大和王権は、基本的には、弥生時代以来の小国がたがいに攻防を繰り返し、序列
化してできた土着政権であり、異民族の軍事的征服によって急ごしらえされたも
のでないことは明白だ。騎馬民族の征服も、平壌周辺の旧楽浪郡地域を南限とし
ており、朝鮮半島南部すなわち古代の三韓にはおよんでいない。神話をふくめ、
どの文献をみても、遺物や遺構をみても、三韓の支配層は、船を重要な移動手段
とする農耕民族であったと考えられる。騎馬民族とは到底考えられない。
171 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 14:17:44 O
当時文化的な先進国だった半島に日本が進出していたという説はどうにも信じられません。
もしそうならもっと記録に残っていそうなものだし。なぜ数百年も後にいきなり「日本府」なんてとって着けたように載せるんでしょう?
しかもそれから1000年近くも全く半島に再進出する気がないのはなぜ?本当に支配領域を持っていたなら旧領回復のためにもっと積極的になってるはず。
本当は逆で半島の民族が日本を征服したの後から書き換えたのでは?
172 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 14:29:19 0
学問板にはお呼びじゃないのに蛆のように湧いてくる嫌韓厨うざってぇ。
文化的後進のモンゴルは中国に進出したが
174 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 18:28:44 O
>>171 倭国が半島に進出していた記録は日本書記以前の大陸や半島の書物に残っているはずだが?
反対に半島や大陸の渡来人が倭を征服して王朝を建てたという記録はどこの国にも見当たらない。
真面目な話、これについてはどう思うの?
ほとんどの征服王朝説は地名だの神話だのを都合よく解釈してるだけだが。
175 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 18:34:46 0
徐福伝説とかどうよ?
相手にすんなよ
自分の都合の悪い史料が読めない連中だから
177 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 19:04:50 0
半島⇒日本は事実だろう
問題は新羅系とか百済系が征服したとかいうの
煽り目的だけだからな
179 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 23:19:17 0
騎馬民族かどうかはとにかく
渡来系が大和朝廷の創設に大きな役割を果たしたのは
常識的に考えて確実だと思うけど。
それは誰も否定してない
だいたい渡来系は俺らの祖先だし
181 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 23:38:04 0
縄文人の遺伝的特質は2割程度しか現在の日本人に受け継がれていない。
倭国の王権を作った弥生系は渡来系なのは確実。
問題はその主流が百済系なのか新羅系なのかあるいは弁韓などの半島南部のどこかなのかということ。
182 :
世界@名無史さん:2009/04/29(水) 23:45:55 0
渡来系といっても半島にいた倭人が楽浪郡の影響でシナ文化を取り入れたのが大部分だろうな。
もともと同じ倭人だったから日本に同化するのも早かった。
>>181 なぜ半島限定になる?
今は弥生系は江南からってのが主流じゃないのか?
弥生系と渡来系って別だろ
184 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 01:25:12 0
>>171 >しかもそれから1000年近くも全く半島に再進出する気がないのはなぜ?
ひとつは朝鮮半島が新羅によって統一されてしまったため、半島への足がかりを失って
しまったこと、もうひとつは新羅が唐と連合し、唐に服属してしまったため、新羅に出
兵することは唐まで敵にまわしてしまう可能性が高くなってしまったこと、さらには、
中国地方で砂鉄を利用した製鉄術が起こったため鉄資源確保に困らなくなり、朝鮮半島
に進出しなくてはならない経済的動機がなくなったことでしょう。
実際には、天平時代にも新羅征討計画がありました。白村江の戦いで敗北したときには
東アジアで孤立する怖れがあったから、天智天皇も内陸の近江に遷都し、九州には水城
を設けて防備に努めています。奈良時代には、唐との関係が改善され、渤海が入貢する
など、日本にとっては外交関係が好転したため、対新羅政策には変化が生じたんでしょ
うね。
>>173 文化的に優位と言うよりは、鉄器の生産が盛んな方が軍事的に優位なのではないだろうか?
鉄器の生産が劣る方か政治的に優位である事は、可能だったのであろうか?
186 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 04:37:28 0
現代でいえば産油国で必ずしも石油工業が発達していないのと同じだろうね。
まして当時はナショナリズムなんてないのだから、伽耶としては、高く、大量
に、安定的に購入してくれるところがあれば、どこでもよかったわけで、伽耶
の王権としては、さらに王権を庇護してさえくれれば言うことなしだったわけ
だ。伽耶は結局は軍事的大国になることができず、最後まで小国分立の状態の
まま滅んでしまうが、オイルダラー(?)の影響なのか、副葬品などは立派な
ものが多い。鉄資源も、それだけでは使用可能な鉄にはならず、鉄を溶かすた
めの燃料、すなわち木炭を製造・保管するための広大な森林と冷却用の大量の
水が必要であり、製鉄炉は緩傾斜の丘陵につくられる。当時の西日本には多く
の製鉄遺跡がのこっているが、そのような条件に恵まれていたんでしょうね。
アラブの石油は、欧米人らが採掘活用し始めたものであり、アラブ人らにとっては
石油は元来無価値なものだったそうだから、極めて特殊な例ですな。
馬、絹、象牙、黄金などたいていの産物は、現地人にとっても価値のあるものですな。
伽耶なんて元々倭人だらけの地域で
倭人が好きなように鉄とってたからな
伽耶なんてろくに歴史書にのってない
村落か町程度の連合体だろ
何ができるんだ
というかいい加減朝鮮優越論うざい
歴史書になんの根拠もない
189 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 10:14:34 O
そんなに好き放題してたなら普通はその「倭人」は現地の半島人をさすとは考えないの?
鉄器の輸出とともに列島に渡って「倭国」を作った可能性の方が高いだろう。
当時の文化レベルは中華に近い地域>列島でしかも半島は鉄の生産地だった。
列島の王権は半島からの文化と技術を持った渡来人によって建てられたのは事実。それは恥ずかしいことではない。
190 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 10:23:04 0
好き放題って言ったって、当時の人口と技術レベルを考えてみる必要がある。
国境などないし明確な境界線もなく、原野の中に適当に町を作り、田畑を作っただけ。
かつて半島含むいろいろなところから渡って日本に入り「倭人」となった人々が、
再び海を越えて半島の南端のあまり人がいないところに勝手に集落を作り、
それが数百年経って「任那日本府」と偉そうに名付けられただけという可能性もある。
文化も人の流れも、何が何でも半島から日本へのルート以外にないと言うのは、
あまりにも短絡的でないか。
韓国人はそういう考え方が好きで、自分が上流あると考えたがるけどね。
恥ずかしいもへったくれもないと思うがなぁ。
根拠もないこと適当なことかくなよ
そもそも倭人ってのは北九州人が半島に進出したもんだよ
文化レベルが高いから優勢ってのは近世以前には関係ない
ほんと歴史版の住人なのかよ
適当に検索してやってきた朝鮮人じゃね
伽耶に鉄が出土するのは4世紀以後って話だ
それ以前に既に倭人は朝鮮南部に進出してるし大和王権も成立してる
伽耶より早い段階で日本には既に鉄器も冶金技術もある
それと朝鮮の歴史書に伽耶が軍事大国なんて記述はどこにもない
そんなに強いなら百済や新羅に滅ぼされないし倭の傘下には入らない
生産地だから強いとはならない、運用技術や生産技術がないとな
この手の話は日本史版の方が詳しいよ
192 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 11:54:30 0
>そもそも倭人ってのは北九州人が半島に進出したもんだよ
断定するな
193 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 12:18:41 O
>>191 大和の王権が成立した時期ははっきりしていないし四世紀以前の有力な王権が後の大和なのかどうかもわかっていない。
確実なのは半島の加羅から鉄器やそれを利用した農耕の技術が流入するまでは単なる地方の王権だったということ。
5世紀に百済は高句麗の攻撃を受けて都を熊津に遷都した。その時に多くの百済人が列島に渡った。おそらく半島南部の人間も同じく渡来しただろう。
これは大和王権が勢力を伸ばし古墳が巨大化した時期と一致する。
大和王権の起源を九州とするなら神話とも整合する。
王権の起源を半島に求めるのは根拠のない話ではないし恥ずかしいことでもなんでもない。
194 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 12:47:51 0
王権の起源が半島にあったからといって、半島人が常に優越していたとは思えない。
文化的に優越していた民族や国家が、未開の蛮族の隷下に入った例は、となりの中国
を見ただけで歴史上ゴマンとある。
半島から北人々が文化をもたらし、それを吸収した日本の人々が半島に居住地を持って
勢力を持っていたという行動は十分にあり得ると思うし、それを否定する根拠はない
と思うがなあ。
ところで、当時日本に住んでいた人類は、すべて「倭国」なのか?
「倭国」って当時の日本の総称なのか?
195 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 13:07:43 0
つーか王権の起源が半島って説自体が今じゃほとんど廃れた説だぞ。
大和王権が、半島の南部を支配下(どの程度かは置くとして)いれて急速に伸張したことを
渡来人が日本に渡って征服王朝を作った説につなげるのは無理がある。それは今まで江上や水野や井上がやろうとして、どうやっても実証できなかった手垢のついた話。
あるいは金達寿みたいに電波になるか。なにしろ記録や遺物がないんだもの。
だから結局日本の地名や神話や皇族の名前が実は半島のどこをさすとか、高句麗の発音では半島出身の名前になるとか
そんなヨタ話で話を膨らませるしかなくなる。
196 :
※水鏡:上巻、第十五代 神功皇后より:2009/04/30(木) 13:08:23 O
…新羅の王これを見て思はく、これより東に神国あり、日本と言ふなり、
その国の兵士なるべし。我れ立ち合ふべからずと思ひて、彼の王進みて、
皇后の御船の前に参りて「今より永く従い奉りて、年毎に貢物を奉るべし」と申しき。
プギャ━━━≡≡≡≡≡⊂`⌒m9^Д^)⊃━━━ !!!!!
ぼちぼち高天原は朝鮮にあったとか言い出しそうな予感
>>193 だから何の証拠もないですね
伽耶の鉄甲も日本起源ってのは韓国の学者も認めてるらしいが
>>196 お魚の大群にのった艦隊で進撃、さらに津波に乗って首都に乗り込んだそうですな。
なんとも破天荒なことで。
>>193 百済が5世紀に遷都する前に既に大和王権は
大軍を西暦400年あたりに約20年に渡って
朝鮮南部に送ってるのは碑文と三国志史記、日本書紀で一致する
大軍を送るには強力な王権が必要、だからもう政権は確立されてる
それと伽耶と倭が別なのは伽耶の墓が前方後円墳じゃないことからわかるだろ
大量の日本産のヒスイや勾玉から倭人の日本から朝鮮南部への移動がわかるよね
それと神話なんて持ち出しても意味ないから
201 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 14:24:33 0
日本書紀を信じるかどうかだなぁ、要するに。
日本書紀を信じれば、半島に日本は権益を持っていたことになる。
信じないのなら、半島から日本に文化を伝えた人などいないことになる。
日本書紀の文章はすべて事実と認めることは難しいが、全否定したら歴史を語れない。
どこかで妥協すべきだろうが、都合の良いことだけ信じてそれ以外信じないなら、ウリナラマンセーの臭いがするね。
倭が半島に進出していた記録は日本書紀だけでなく
広開土大王碑をはじめ宋書や三国史記や三国遺事にも記述がみられるし、かなりの整合性がある。
また古墳など倭人の遺物も半島で多く出土してる。
本来その辺りを精査していくべきだが、あちらの学者や左巻きの研究者は「日本が半島に進出していた記録はない」という主張から一歩も出ようとしない。
その一方で、定期的に都合のいい言葉の発音やら一部の遺物を取り上げて半島起源説のような電波をとばす。
そして韓国人や在日、あるいはそのご機嫌をとりたい日本の似非文化人がそれを耳学問で仕入れてメディアで主張する。
ずっとその繰り返し。
203 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 16:16:20 0
宮内庁が発掘をさせないのはなぜだろうか?
都合が悪いからじゃないのか
204 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 16:22:32 0
キトラ古墳の二の舞になるのが嫌なんだろ。
205 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 16:34:42 0
↑
まちがい、壁画が剥がれたりしたのは高松塚古墳のほうだった。
誰にも許可を与える実質的権限がないからだよ
近上にさえない
207 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 17:46:14 O
古墳保護の点から天皇御陵は発掘しなくてよい。
もっと保存技術発達してから。
古墳発掘といえば聞こえはいいが、ぶっちゃけ墓暴きだもんなあ、
209 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 19:04:46 0
高句麗⇒渤海
馬韓の伯済⇒百済
辰韓の斯盧⇒新羅
弁韓の狗邪韓⇒伽耶、任那
210 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 19:45:39 0
古墳時代の目立つ所の御陵を今更あばいても、もう何も残ってないだろ。
残っていても須恵器や埴輪の土系なものだけじゃないかな〜
もしガラス、鉄系のものが有ったとしても中国、朝鮮製のもの
ばかりでガッカリするだけだよ。
>>181 弥生時代の渡来系と古墳時代の帰化人をごっちゃにするなよ。
君は知らないんだろうけど、弥生時代の渡来系が半島系ではないのは考古学の世界では常識なんだよ。
なぜかというと出土した弥生時代の渡来系の人骨と半島の古代人のそれが一致した例がないからだ。
古墳時代の帰化人は多く見積もっても当時の日本の人口の400分の1にも満たないとされている。日本人の遺伝的形成にはほとんど影響してない。
また弥生時代の渡来系も弥生時代の始めから居たわけじゃない。
渡来系の人骨が出土する数百年前から日本に水田稲作などの農耕技術があったことは既に確定してる。
渡来系を一まとめにして先進的な征服者集団の勢力のように語るのは明らかに間違い。
212 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 20:54:21 0
任那日本府の話は4世紀後半から6世紀後半にかけての話なのだから、時代をそこに
限定したらどうだろう? その時代に関していうならば、日本書紀、三国史記、宋
書倭国伝、高句麗好太王碑など、倭国が朝鮮に出兵したことはすべての史書や金石
文に記されているが、逆に、朝鮮半島の勢力のいずれかが日本列島に出兵したこと
を示す資料は皆無と言ってよい。文献資料のうえで、これだけ違いがあるのならば、
おのずと結論は明らかであろう。朝鮮半島における前方後円墳の分布や、いわゆる
「倭鉄」の出土は、朝鮮半島に倭の勢力が及んでいたことを端的に物語る。倭の勢
力が入り込んでいたからこそ、新羅は三韓の統一に手間取ったと考えるのが妥当で
ある。
213 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 21:07:03 0
新羅が手間取ったというか
普通に考えると高句麗が南下して統一する方がはるかに順当じゃないの
4〜6世紀の倭国の動員力ってどんなものだったのかな。
海外遠征となると、よほどの兵力か新兵器か新戦術でもないかぎり難しいと思うんだけど。
この時代の日本が恒常的な海外領土を持てたのかどうもピンとこない。
215 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 21:50:09 0
そもそも倭国内すら統一出来てたとも思えない
九州系と出雲系と近畿系で三分状態だったんじゃねーの
216 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 21:52:36 0
「よほどの生産力」はあったと思うんだけどね。日本列島は温暖湿潤で、稲の生育には
適していただろうし、米というのは大人口を支えるからね。慶州の皇南大塚は、長さ120m
、高さ23mで韓国最大規模を誇る古墳だが、日本では3世紀の箸墓古墳でさえ278mの規模
で、地方に行けば120m級の前方後円墳がザラにあることを考えると、倭の五王時代の大和
王権が巨大な動員力をもっていたことは疑いないところではないだろうか。たしか大林組
の試算があったはずだが。
>>214 近世以降の軍事的な海外遠征と一緒に考えるからイメージがわかないのかも。
当時のヤマト王権は緩やかな部族社会にヒエラルキーが出来てる程度のもの。その一部に半島南部の部族がいたというところだろう。
当時の半島南部の部族は朝鮮系というより倭系の民族だし、地図もろくに無い時代は中華的な北方の部族より
交易のある対岸の倭の方が意識的には近かったとも思われる。
高句麗や新羅の言う倭国の軍は倭国からの司令官や軍事顧問的な中核部隊を抱く現地の兵力だったと思われる。
国民国家の軍隊が装備一式や補給線を引きながら他国に攻めいるのとは全然違うだろう。
しかし何故4世紀の日本についてはなんの記録もないんだ。
統一王朝が出来ていく重要な時期だろうに、なんか不自然じゃね?
219 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 22:34:53 0
3世紀の時点で大和王権が奈良盆地に成立したのでは。
箸墓古墳に匹敵するような大規模な墳墓は北九州や出雲には存在しないし、4世紀に
はいると前方後円墳は列島各地でつくられるようになる。また、箸墓古墳の近くに
ある弥生時代終末期の纏向遺跡は、規模・構造ともに都市遺跡と言ってよい遺跡で、
ここからは、東海・山陽・北陸地方をはじめ各地方の土器が多数出土している。こ
こに、日本列島各地を統合するような大勢力が生まれたとみてよいのではないか。
>>214 兵力はあくまでも相対的なもんでしょ。
日本の方が温暖で稲作に向いてるんだから、朝鮮半島より大きな人口支持力がある。
(4世紀に限界まで開発されてたとは思えないが)
大和政権が北九州から近畿・中部まで統一してれば、
朝鮮半島を統一した勢力に比べても、2−3倍の人口を持てただろう。
関東まで含めれば5倍に到達したかも。
まして、朝鮮半島は、高句麗、新羅、百済、カヤに分裂してたわけで、
単純に3で割っても、それぞれの国力は大和政権の6分の1から9分の1になる。
(高句麗は遼東半島や満州を含めるとどうなるかわからんが…
それらの地域に多くの人口が居たとも思えんが)
また、新羅や百済は側背にも敵を抱えてるから、
特定の相手に機動的に運用できる兵力は小さくなる。
(1国だけを相手にして、他を無防備にするわけにいかない)
朝鮮半島の緒勢力に統治・軍事技術上の優位があったとしても、
大和政権が全体の半分の兵力を率いて上陸すれば、
新羅や百済を圧倒するには十分だったろう。
221 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 22:54:39 O
十七世紀だと朝鮮の人口は大体日本の三分の一くらいだったはず。
古代はしらん。
>>218 大陸に朝貢しなかったから、倭の内情が史書に記録されなかった。
奈良時代の人口は400万人〜500万人とも言われる。
唐書によれば百済76万戸、高句麗69万戸という。
半島の人口が多かった時期もあったかもしれないが、
3〜4世紀はどうだったのだろう?
224 :
○神皇正統記より:2009/04/30(木) 23:10:58 O
…かくて新羅、百済、高麗(此の三ケ国を三韓と云。
正しくは新羅にかぎるべきか。辰韓、馬韓、弁韓をすべて新羅と云也。
しかれどふるくより百済、高麗をくはへて三韓と云ならはせり)をうちしたがへ給き。
海神かたちをあらはし、御船をはさみまぼり申しかば、
思の如く彼国を平げ候。
神代より年序ひさしくつもれりしに、
かく神威をあらはし給ける、不測御ことなるべし。
海中にして如意の珠を得給へりき。
さてつくしにかへりて皇子を誕生す。
應神天皇にまします。
神の申給しによりて、是を胎中の天皇とも申。
皇后摂政して辛巳年より天下をしらせ給。
225 :
世界@名無史さん:2009/04/30(木) 23:58:17 O
>>218 日本書記にはその頃になんらかの記録があったことは示唆されてるけどね。
律令時代の天皇の王権を確立するのに邪魔な記録は隠滅されたり無視されたりはしただろう。
その頃の古墳を調査したら色々と出てくるとは思うけどね。
226 :
世界@名無史さん:2009/05/01(金) 00:02:20 0
>>101 半島側の記録だけでも倭の進出の活発さがわかるな
227 :
「日本書紀」 神代の一書の四:2009/05/01(金) 03:19:26 0
「日本書紀」 神代の一書の四
スサノオノミコトは、その子イソタケルノカミをひきいて、
新羅の国に降られてソシモリのところにおいでになった。
そこで不服の言葉をいわれて
「この地には私は居たくないのだ」と。
ついに土で船を造り、それに乗って、
東の方に渡り、出雲の国の簸の川の
上流にある、鳥上の山についた。
(宇治谷孟・講談社学術文庫)
韓国の山には木がない。日本には樹木がたくさんある。
だから、スサノオノミコトは不服を言って土の船で戻ってきた。
これは巨木信仰と関係があるらしい。
スサノオノミコトは新羅の国を嫌っている。
嫌ってようが、新羅からいらしたことは変わらないわけで。
最初、半島南部と九州には共通の倭人がいたのだと思うけどね。
船で行き来をしていた。
そしてその後、半島南部は北部から来た異民族に支配された。
しかしその異民族は海は渡れなかった。
だから対馬は倭人の島のままだった。
騎馬民族に支配されたのは日本ではなく半島ではないかな。
>>227>>228 それは、皇室にとっては傍系の神の話なのだし、要するに新羅というのは
本来は大和朝廷が支配すべき、日本の潜在領土だということを言いたいの
では?
神話の解釈学は水かけ論にしかならないから、検証可能な資料をもとに検
討した方がいいんじゃないかな?
231 :
世界@名無史さん:2009/05/01(金) 08:19:09 0
スサノオが大和朝廷だって?
232 :
世界@名無史さん:2009/05/01(金) 09:39:16 O
スサノオは明らかに被征服民の神複数を混ぜたものやん。
高天ヶ原と出雲で全くキャラ違うし。
諏訪や出雲の巨木信仰と密接なかかわり合いがあるのも多分間違いない
たしかに神話まで話題に含めると、俺流解釈ばかりで収拾つかなくなるわな。
234 :
世界@名無史さん:2009/05/01(金) 12:56:39 O
不等人は史学的に死刑ものだな
よっぽど都合が悪かったんだろう
236 :
世界@名無史さん:2009/05/01(金) 17:47:52 0
高天原は朝鮮半島だろ。たぶん高句麗。
普通に玄海灘に面した海岸に立ったら、そう思えてくる。
もう神話の話はやめろw
埼玉にある高麗とかは高句麗の王族が流れてきたから出来たんだってね
>>211 いいんですよ
彼らに言わせれば中国の起源も半島ですからw
240 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 04:19:37 0
高天原は、神々が住んでいたとされる天上の世界のことであり、地上の特定の場所をあらわしていない。
古代人は天上にそういう世界があると考えていたわけだから、素直にそれに従うべき。
故更且還來。問其大國主神。
汝子等事代主神、建御名方神二神者。
隨天神御子之命。勿違白訖。故汝心奈何。爾答白之。
僕子等二神隨白。僕之不違。此葦原中國者。隨命既獻也。
唯僕住所者。如天神御子之天津日繼所知之。
登陀流【此三字以音。下效此】天之御巣而。
於底津石根宮柱布斗斯理【此四字以音】於高天原。
氷木多迦斯理【多迦斯理四字以音】而治賜者。
僕者於百不足八十[土冏]手隱而侍。亦僕子等百八十神者。
即八重事代主神爲神之御尾前而仕奉者。違神者非也。
如此之白而。乃隱也。故隨白而。
於出雲國之多藝志之小濱造天之御舍【多藝志三字以音】而。
水戸神之孫櫛八玉神爲膳夫。獻天御饗之時。祷白而。
櫛八玉神化鵜。入海底。
咋出底之波迩【此二字以音】作天八十毘良迦【此三字以音】而。
鎌海布之柄作燧臼臺以海蓴之柄作燧杵而。鑚出火云。
是我所燧火者於高天原者神産巣日御祖命之登陀流天之新巣之凝烟【訓凝姻云州須】
之八拳垂麻弖燒擧【麻弖二字以音】地下者於底津石根燒凝而栲繩之千尋繩打延爲釣海人之口大之尾翼鱸
【訓鱸云須受岐】佐和佐和迩【此五字以音】
控依而打竹之登遠遠登遠遠迩【此七字以音】獻天之眞魚咋也。
故建御雷神返參上。
復奏言向和平葦原中國之状。
>>154 海上交通が今ほど高度じゃない時代に人口爆発が起こるほど流入するわけないんだよ
奴隷云々もチョン学者の電波まんまだな
>>228 一時新羅に渡ってた倭人が帰ってきただけだな
243 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 08:34:56 0
いわゆる「天孫族」ってのは遼東の公孫氏か楽浪の遺民じゃないのか?
244 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 08:51:24 0
イエス・キリストも孔子もアマテラスも朝鮮人だとよ。
245 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 09:04:10 0
神話の話は有害無益。検証可能な話題を頼む。
247 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 21:50:08 0
>>242はバイパスにつかりまくりで歴史を語るのに向いてない
248 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 21:51:08 0
>>242はバイアスにつかりまくりで歴史を語るのに向いてない
249 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 21:59:47 0
高句麗⇒渤海
馬韓の伯済⇒百済
辰韓の斯盧⇒新羅
弁韓の狗邪韓⇒伽耶、任那
シュメール⇒倭⇒日本
をあえて唱えてみる
>>246 弥生時代の話じゃないか。しかも、「大陸からの人口流入としか考えられない」なんて
どこにも書いていないが。
251 :
世界@名無史さん:2009/05/02(土) 22:18:30 0
高句麗⇒渤海⇒後高句麗
馬韓の伯済⇒百済
辰韓の斯盧⇒新羅
弁韓の狗邪韓⇒伽耶、任那
シュメール⇒倭⇒日本
弥生時代が紀元前10世紀に遡る説だと
人口増加率ってまた変わって来るんじゃねーの?
>>154 青銅で戦っていたんだろう?
そもそも、日本では西暦2世紀には、
近畿地方でヤマト王朝が誕生しているが
鉄が多いのは、あいかわらず九州なんだよw
いや、青銅の剣や戈はほとんど祭器。
武器は石器から鉄器へ移行しとるでそ。
>>鉄器を輸入するために奴隷を物々交換で渡してた
これの根拠ってなんですか?
立命館の教授がいってたよ。玉、塩と生口って。
魏志倭人伝からの推測だろうが。
日本史板では穀物との交換じゃないかと言われてた。
>>246 稲作の普及による人口増だろ
海上交通が今ほど高度じゃない時代に人口爆発が起こるほど流入するわけない、って言ったろうが
>>258 URLみると「弥生時代以降、稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口はめざましく
伸長した」って書いていますね、確かに。
>>256 >これの根拠ってなんですか?
伽耶に強大な国家があったという前提が根拠。
伽耶には4世紀から騎馬文化があるというだけで、
「強力な騎馬国家」があったと見る韓国側の学者がいるため。
でも実際は王墓といえるものはないし、
馬は鉄の運搬などに関わってただけだろう。
伽耶が大和朝廷の地であり人も配下であることは疑いない。
何故なら大和では大規模墳墓を連作できるほどの豊潤な鉄を得ていたからだ。
あの大規模古墳群を鉄農具ではなく、木農具や手堀りで作ってたと考えるなら話は別だがw
261 :
世界@名無史さん:2009/05/03(日) 12:02:56 O
稲作は日本より半島の方が早く始まっています。
列島の人口が渡来人の流入よって爆発的に増加したことからも
任那は半島系渡来人が倭に進出する前線基地のようなものだったと考えるべきでは?
262 :
世界@名無史さん:2009/05/03(日) 12:19:17 0
>>261 この前のNHKの番組みたらやっぱり稲作は朝鮮から伝わったみたいだね
2chばっか見ていると全く正反対のことが書いてあるけど
プッ
264 :
世界@名無史さん:2009/05/03(日) 13:15:33 0
>>261 弥生時代に任那なんてあったかなぁ? 根拠は何?
265 :
世界@名無史さん:2009/05/03(日) 15:46:33 0
伽耶に強大な国家があったはずなのに、百済や新羅に進出せず(というか
戦っても負けっぱなし)海の向こうの倭を植民地にしただけで満足するなんて、
伽耶の人達って奥ゆかしいんですね
いくら鉄が採れようが国の規模が小さすぎる。
たとえば琉球王国の城壁は同時期の日本より凄い!銃器の導入も日本より早い!
といっても、物理的な国力(軍事力・政治力)で日本に勝て無いだろうし。
267 :
世界@名無史さん:2009/05/03(日) 21:44:19 O
チョンどもいいから妄想じやなく証拠だせよ。
日本は文献があるんだよ
268 :
世界@名無史さん:2009/05/03(日) 22:12:44 0
高句麗と組んで百済を滅ぼし、唐と組んで唐に高句麗を滅ぼしてもら
い、唐に服属して倭人の勢力を朝鮮半島を追い出した。最終的には、
唐の勢力も漢江以南に入れず、半島南半部を支配して半島に初の統一
国家を樹立して東アジアに安定と平和をもたらした。古代新羅のこの
営みがあったからこそ、韓民族の長い歴史が築かれたのだ。なぜ、こ
のことは韓国内では称揚されないのだろう? 普通に考えて、すごい
偉業だと思う。現代韓国人さえ未だ成し遂げていない事績である。韓
国人は古代新羅に学ぶべきではないのか?
>>268 建国に倭人が活躍してるからではないのか?w
実際、韓国人はこの事をどう思ってるのだろうか。
いっさい無視してるのかな。
270 :
パオさん ◆mEq.Fp/iL. :2009/05/04(月) 02:09:18 0
>>238 まだある「新座」は元々「新羅」から転じた地名だ。
また隣接する「志木」も「志羅木」から転じた地名だ。
行田市のさきたま古墳群や吉見百穴などの高度なテクノロジーは
これら入植地の渡来人によって齎されたんだよ。
秩父黒谷高山から日本初の銅鉱床を発見したのも、これら渡来人たちだ。
埼玉なめんなよ。
271 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 02:25:49 0
いい加減にネット右翼は、朝鮮が日本を征服したと認める勇気を持とうよ。
同じ日本人として、朝鮮の植民地だったと認める勇気がないとは父さん、情けないぞ。
272 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 03:36:19 0
倭人と日本人の原型であっても日本人そのものじゃないだろ
274 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 06:18:14 O
移民や流民が辺境への入植を許されたことをいつから「征服」と言うように
なったのだろう。
ブラジルでジャングルの土地を得て開墾した日本人移民たちはブラジルを征服
したのだろうか。
群馬や静岡に集住する日系・非日系ブラジル人たちは日本を征服したのだろうか。
276 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 09:01:38 0
日本府なんて呼ばれてないよ、当時は。
277 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 11:34:11 0
「倭府」です
278 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 12:06:19 0
ていうか当時は大和言葉だろ、常識的に考えて
文献は漢文で書かなければいけないから、ヤマトに相応する日本or倭に翻訳しただけ
-、,,;;;、;;,、
(・∀・ };;) ヤマトノミコトモーチ!
~~´
280 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 14:26:46 0
稲作が前10世紀から始まってた日本と前5世紀くらいから始まって
しかも寒冷地で米の取れる地域が限られてる朝鮮だと
マンパワーの差が有りすぎてどうやっても古代世界では朝鮮は日本に勝てないよなぁ
281 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 15:35:43 O
>>280 嘘をつかないでください
朝鮮半島における最古の水田遺跡であるオクキョン遺跡は
紀元前11世紀のもので日本最古のものよりも古いものです。
水田稲作や鉄器とそれを作った農耕遺跡は半島から列島に伝えられたものです。
それは列島において人口が増加した時期と一致します。
そのことからも日本における王権の起源は半島にあると考えるべきです。
282 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 15:50:37 0
結局天皇家の起源を主張したいだけなわけねw
普通の日本人は別にどこ起源でも気にしないと思うぞ
日本人自体いろんな所から移住してきてる訳だから
縄文人にしたって移住グループの一つに過ぎない
まぁ、一番重要なのは移住してきた人達は全員日本人の先祖で外人の先祖では無いことだな
そういや朝鮮人って秀吉の朝鮮出兵で一番暴れまくった島津家が朝鮮半島経由の渡来人の子孫の可能性が高い事についてどう思ってんのかねw
283 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 16:06:05 0
新羅以降の朝鮮人は朝鮮人にあらず
284 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 17:06:07 0
285 :
282:2009/05/04(月) 17:16:23 0
>>284 主に281にコメントしただけなわけだが……
しかも自分の意見はむしろ280と近いわけで……
んー、どこらへんが気に入らなかったのかよく分からん
286 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 17:25:17 O
>>282 つまり日本の王権の起源が朝鮮半島にあることには否定はしないのですね
>>281 稲作の話なら朝鮮なんて起源ではない。
中継地。
288 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 17:49:50 0
>>287 中継地ですらないよ。
だいたい、朝鮮半島南端にどうやってきたの?
大陸からだったら、今でも、中国東北部でも米は育たないよ。
古代ならなおさらだろ?
289 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 17:51:23 0
>>286 >「日本の王権の起源」
意味不明です。
何を持って「王権の起源」というのですか?
定義してください。
290 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 19:29:14 0
ネット右翼は、朝鮮の人々が、日本を作ってくれた事実をどうしてもみとめたくないんだね・・・。
同じ日本人として悲しいよ・・・・。
>>290 もちろん、当時の朝鮮半島にいた技術者とかには感謝しているよ。
百済は特に関係の深い同盟国だし。
でも、今の半島に住んでる人とはあまり関係ない人たちだろ。
292 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 23:23:26 O
天皇を嫌う癖に天皇の起源は韓国とかいうから本当にキモいんだよ。
293 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 23:32:39 0
韓半島以外の地域から征服されたでも思い込んでいるのかネット右翼
294 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 23:33:54 0
天皇は神話から分析すりゃどう見ても南方系アジア人なんだよねぇ
日本と共通の神話がインドシナ〜東シナの海域の島々に多く見られ
逆に韓国、中国に共通する話は神話じゃなくて民話に多い
これらを判断すると支配者層は南方系ルートから、民話等に見える共通項は渡来人が帰化して伝達したもの、ということになる
まあ「歴史」の領分じゃないのでこの板で語るには相応しくないネタだが
295 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 23:36:09 0
>>281 あーすまんがオクキョン遺跡って漢字でどう書くの?
あとハングル表記も併記してくれると俺が調べるのに楽なんで教えて欲しい
「オクキョン遺跡」では2chのスレしか検索にかからないんで
296 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 23:37:45 0
>でも、今の半島に住んでる人とはあまり関係ない人たちだろ。
子孫だから関係あるよ
>>296 「百済」という文化の流れは国が滅亡して途切れてるよ
だからあまり関係がない
遺伝子的な継承ならそれは確かに、ある程度あるとはいえるが
文化的な継承は皆無
298 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 23:41:22 0
>>294 DNA分布で一番日本人に近い人々は朝鮮の人たちなんだが。
299 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 23:42:03 0
>>297 新羅からも渡来人が大勢きているんだが、そういう史実は無視するんだな。
日本人の元になった人々が日本列島と朝鮮半島にいた
朝鮮半島にいた人々は北の異民族との戦いで負けて日本列島に移住した
現在の朝鮮半島に住んでいる朝鮮人とは関係の無い話し
301 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 23:44:58 0
>>300 戦いに負けたから、総移住なんてありえないよ。
そもそも、負けた民族がディスアボラなんてのは
ローマにまけたユダヤ人ですら、少数がかの地に
残っているし、単に右翼が自分に朝鮮の血が流れている
史実を政治的な主張からみとめたくないだけでしょう。
302 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 23:50:06 0
バイキングなどの歴史や、新大陸への欧米の移民をみても
明らかだが、移住元の人口がまったくゼロになったという例は
まずありえない。
アンコールワットやマヤの遺跡のように、植物の侵食に都市生活が
維持できずに、都市を放棄するようなパターンや、敦煌のように
大陸だと破壊された旧市街ちかくに町をまるごと新建設するパターン
はある。 たが、朝鮮半島でそういう風に無人状態になったという類の
話は、寡聞にして耳にしたことがない。
右翼は、自分の持つ偏見から、「あの民族と、俺たちは違うんだ」と
自己暗示をかけて、自らを特別視したいから理由をつけて主張している
にすぎないんだよ。
303 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 23:52:37 0
そもそも、征服者と被征服者は普通は血の混交がみられるものだ。
血が絶えるなんてことはよほどの事がないかぎりありえない。
この板は学問板であって、右翼の主義主張による捏造された学説
を唱える場ではない。
>>299 秦氏のことか?
彼らは新羅人ではないからね。
朝鮮半島の領有権を日本が主張する権利もあるってことか。
307 :
世界@名無史さん:2009/05/04(月) 23:59:58 0
どこへのリンクかとおもえばハン板w きみらの巣か
なんでそんな隔離板にでむかなきゃならんのだかw
大和朝廷は巻向の三輪山信仰から始まってるのは間違いない。
その三輪山には磐座など縄文時代からの名残りがある。
渡来人が天皇になっただどうこう言ってるバカどもはこの事実をどう考えるのだ。
聞かせてもらおうか。
309 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 00:02:20 0
>>298 DNA分布で近いのは朝鮮人というのは正しいだろう?
実際渡来人の多くは朝鮮からやって来てるのだから
だが日本神話の構造は日本の支配者層がやって来たのが南からというのをしめしてるってだけだよ
確実とは言わないが
>>299 新羅も滅んで文化的継承は途絶えてるからねぇ
朝鮮半島から移民が入ったことはあるんだろうがそんなの少数派だろ
今の在日と同じ
■ 新羅郡は758年(天平宝字2年)、
「日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移住させ、
はじめて新羅郡をおいた」と記録されている(『続日本記』)。
ショボっw
313 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 00:06:06 0
話がすりかえられているようだが、渡来人が天皇なんて学説は聞いたことがないぞ。
>>308 元々、大和朝廷は東からわたってきた勢力によって元々すんでいた物部氏や中臣氏などが
征服されて成立した政権だろ。
314 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 00:08:23 0
>>310 天孫降臨神話は、朝鮮半島から沿海州にかけて同種の神話が存在している。
南方系に同じものがあるなら具体的にあげてくれ。
>物部氏や中臣氏などが征服されて成立した政権だろ
何をいい加減な事言ってるんだ?
物部も中臣も征服なんてされてないよ。
かれらは大和朝廷のなかでも有力氏族だが?
アフリカにも天孫降臨神話はあるだろw
>>314 海幸山幸とかな
「日本神話の源流」という本を読むと細かく色々載ってるのでおすすめだ
319 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 00:17:08 0
物部氏の伝承を知っているかな?
天孫降臨はニニギが最初ではなく、ニギハヤヒミコトが船にのって河内国に天下り、その後、大和国にうつった。
物部の一族は氏族が多数あったが、ニニギ=東から遠征してきた軍勢によって征服され、彼らを支配下に
おいて大和政権が形成された。
>>319 神話をどこまで事実だと思ってるんだよ。w
神武東征を一言一句事実だと思ってるんじゃないだろうな?w
東から? 西からではないのか??
322 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 00:22:42 0
>>317 そういうのとはまったくちがう。
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa3494530.html この地にある私立伽耶大学の李総長が、歴史読本2001年2月号で「高天原は韓国の慶尚北道高霊である」という説を述べています。
また、この伽耶大学の敷地内に「高天原故地」という記念碑が建てられているそうです。
ただ高霊を高天原だとする確実な考古学的物証はないそうで、韓国の学界でも正式に認められたものではないそうです。
高霊の付近には、かつて大伽耶国をはじめ伽耶諸国があったそうで、中でも高霊は大伽耶国の首都であった事から、
色々な物が出土しているそうです。また古墳なども200以上も発見されており、その中には日本の物とよくにた前方後円墳もある事から
関連があるのではないかと言われているそうです。
朝鮮半島からの集団の流入が断続的にあったんだろうな。
文物の流入も。
直接、中国南東部からもあっただろうし。
もともとの縄文人だってどこからかやってきたわけでね。
で、なにがいいたいのかなぁ?
在日のかたがたは。
324 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 00:26:55 0
>>321 東から、神武=ま、あれは神話だが、ようするに神武に象徴される遠征軍が近畿に来襲し、
当時収めていた物部らの一族を服属させたということ。
※実際、物部関連の神話を一度調べてみてみろ 天孫降臨はニニギでなく、ニギハヤヒミコト
に象徴される彼らの祖先なのだから。
325 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 00:28:39 0
>>323 ずいぶんと主義主張が後退したじゃないかw
さっきまで遺伝子的なつながりも、文化的なつながりも否定していたというのに
ずいぶんとハードルがさがったなw
伽耶に高塚墳墓が出来るのは5世紀以降で、
それらは日本の影響だろうし、倭人の墓もあるだろう。
高天原というのは仏教の須弥山と同じで、天動説時代の空想の山。
しいて言えば三輪山が近かったのではないだろうか。
327 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 00:31:18 0
>>323 日本人は大陸や朝鮮半島意外にも樺太・沿海州から渡来した連中や、南方から来た連中なども含めての混交集団。
ただし、大和朝廷への成立過程や弥生文化の伝播プロセスをみていくと、政治的な潮流および、この国の主導権は
朝鮮半島から渡ってきた私たちの祖先がきずきあげてきたものだ。
328 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 00:34:02 0
>>326 頭悪いな。
>>322でのリンクはようするに、日本が起源と主張したがる韓国学会のフィルターをとりのぞけば、
加羅にある天孫降臨伝説にオリジナルがあるという話をしているんだよ。
この話を雛形にして後に古事記が編纂されていったと考えたほうが分かりやすいだろう
>>327 >大和朝廷への成立過程や弥生文化の伝播プロセスをみていくと、
>政治的な潮流および、この国の主導権は
>朝鮮半島から渡ってきた私たちの祖先がきずきあげてきたものだ
大和朝廷の元である唐古鍵遺跡〜巻向遺跡には大陸のものがほとんどないのだが?
>>328 物事ははっきり言え。
まわりくどい言い方するな。
331 :
323:2009/05/05(火) 00:40:55 0
321からの参加だからね。
新羅には卵生神話とか熊の神話があるじゃん。
すくなくとも新羅と直接の関係はないということだろw
それと。
天(あま)は海人(あま)であるという説もあるわけだよ。
それなら半島よりも日本近海の島々が高天原という説もでてくるわけでね。
高天原の位置についてはまだ確定的なことをいえる証拠はないだろう
332 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 00:41:33 0
でるわけないでしょ それらの遺跡は古墳時代前期までの遺跡なんだから。
服属したのはそれより以降の話とすれば辻妻が会う。
333 :
323:2009/05/05(火) 00:42:41 0
新羅には熊人神話があるけど、それでゆくとアイヌ人となんか関係があるわけw?
朝鮮人が集団で日本に来て日本の民族を平らげるのはマンパワー的に無理
まだ九州の豪族に知識人が取り入ってヘゲモニーを握る立場になるとかのが現実的
335 :
323:2009/05/05(火) 00:45:43 0
九州、吉備、越、毛野。。
いくつもの王権があったわけだよ?
いきなり半島の南部の小国家群を形成していた勢力が大和に古墳時代にやってきて制服したんだって??
>>332 >服属したのはそれより以降の話とすれば辻妻が会う。
古墳時代中期という事だな。
騎馬民族説か。w
久しぶりにバカに会ったw
中期の河内王朝の武装は大陸のものではないのだが?
大陸の何民族が日本にやってきて在地人を服属させたと言うのかな?
>>333 民俗学的には祖霊や神話が似てると関係をある程度疑うのが定石
そんで改めて洗って何もなければそれはそれでいいけど
338 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 00:49:41 0
>>330 まず、天孫降臨伝説の根拠である古事記は天武朝以降に編纂されたものだ。
だが、元々はこの資料は稗田阿礼なる人物の口伝であり、彼は天武の舎人だったとされている。
つまり、古事記の出自自体がかなり怪しい代物である上に、推古朝時代に編纂された馬子と聖徳太子が
共同で編纂した天皇記や国記があったはずだが、なぜか蝦夷の滅亡と共に焼失したということになっている(笑)
上に、古事記自体が、簒奪王朝である天武朝の正当性を補足する意味合いも強い点が指摘されている。
339 :
323:2009/05/05(火) 00:50:28 0
では古事記には熊人神話はなぜないのか?卵生神話もなぜないのか?
熊襲とか被征服側にはそれらしいのはあるけど。
340 :
323:2009/05/05(火) 00:52:20 0
天智、天武が半島からの征服者というのですか?
341 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 00:54:28 0
>>338 なんでぇつまんね。
おまえみたいな「あったはず」を言うヤシは沢山いるんだよね。
でも言っててむなしくないか?
343 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 01:01:29 0
ようするに、古事記はあくまでも、後世の人々ぶっちゃけ、天武以降の政権が、自分たちに都合よいように肉付けされた
歴史書であると否定できないということだよ。
推古朝時代に編纂された記が2つとも、現存していないという不自然さや、古事記自体の記述が天武の舎人の口伝www
なるものがベースになっているわけだしな。
で、何がいいたいかというと、年代的に古事記は後だしジャンケンな訳だ。 ニュアンスはわかるよね。
で、これ以前に加羅の建国神話で天孫降臨伝説があるわけ。 つまり、雛形となる話が大陸や半島に先に
あったものが、そのまま伝わっている。
その上、物部氏にも先述のように「先に」伝わっており、ニニギに征服されているわけだ。
この意味する所は何か? ちょっと頭をはたらかせてほしいものだな。
>>302 それらの例は、攻め込んだ側の移住例じゃん。
そじゃなくて、半島南部の倭人については、負けて少数派になって、
吸収され消滅していったという話だろ。
どっちかというと、ヨーロッパのケルト人の運命に近いのでは。
>>343 >で、これ以前に加羅の建国神話で天孫降臨伝説があるわけ。
>つまり、雛形となる話が大陸や半島に先にあったものが、そのまま伝わっている。
伽耶には、弥生時代にすでに倭人の鉄採掘遺跡もあり、
それ以前の縄文人の痕跡さえあるのだが。
半島が先って何で決まってるのかな。
どっちが先かはわからないだろうね。
346 :
323:2009/05/05(火) 01:07:44 0
あのさ。
「あま、あめ」に後で「天」って字をあてはめてんだぜ?
「俺らの祖先は あまのくに からきた。」って伝承な訳なんだぜ?
あまの国がどこにあったかなんて誰にもまだわからんだろ。
347 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 01:30:59 0
で、話がながくなりすぎたが、今までの段階を経た上で、右翼とは別の俺の仮説を主張してみる。
まず、氷河期の終わりごろから弥生時代まで縄文人が、北方、南方、そして大陸や朝鮮からも着ていた。
彼らが長い時をかけてムラをつくり、次第に村落単位の国づくりがはじまった。
しかし、弥生時代にはいると、大陸や朝鮮半島で戦乱が起こり、負け組は辺境に逃れるものが次第に
ふえた。大陸では族滅や邑単位での移住や奴隷が戦国時代ではよくみられたから新天地に逃れるのは
ある意味必然といえた。 そうした流れの中である時、ある宗族が加羅の血で生まれたが政争に破れ、
倭の地に逃れた、宗族の軍勢は九州に上陸し、福岡から大分の宇佐、日向までを支配した。
そして「神武」にあたる王がうまれ、さらなるよき地を求めて、強勢をほこった吉備や熊襲を退け、西へと海上ルート
を使って侵攻し、ついには河内や大和を治めていた物部氏らとの戦争に勝ち、彼らの上に君臨した。
征服した彼らには天孫降臨伝説をもっていた。 これが物部氏の伝承である。
もしかしたら、かれらも大王以前に大陸、あるいは加羅からやってきた祖先がいたかもしれない。
それはともかく征服した彼らが神武大王家である。
ただし大王家は何度か王朝が変わった可能性がある。 特に大乱のあった倭の5王あたりは王統の連続性が疑われる。
ともかく、最後にかちのこった王統が、連合政権の長として大王家をなのり、古墳時代からヤマト政権が次第に
形成されていった。
>>347 結局、江上の騎馬民族説の亜流じゃねぇかw
前方後円墳のルーツは大陸にないよね。
かなり無理な仮説w
349 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 01:39:32 0
ヤマト政権は豪族との緊張関係を保持しつつ、推古朝の時に、当時の実力者であった蘇我馬子と
摂政であった聖徳太子の編纂で、天皇記、国記を上梓した。
しかし、この2書は現存していない、2人の死後の政変で、追い込まれた蘇我蝦夷が、軍勢に取り囲まれ、
2書と共に運命を共にしたという事に「なっている」
しかし、この話はおかしい。 国家の編纂事情であった2書が蝦夷宅以外になかったとは考えにくい。
おそらくは両書の記述が、後に政権を簒奪した天武朝によほど都合が悪かったと考えた方が自然で
ないだろうか。
ともあれ、古事記は稗田阿礼なる天武の舎人だった「口伝」がベースとなって書かれたとされる。
天武以前の「出来事」は天武の舎人による歴史でしかない。
350 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 01:45:37 0
>>348 騎馬民族説は支持していない。
俺がいいたいのは、朝鮮半島から渡来した有力な宗族が大王家の原集団でないかということ。
そもそも、九州への策源地としては南方や北方より朝鮮半島、特に南部の加羅が故地で
あったとかんがえれば説明がつく、まず、他の地域からの宗族では、当時の航海技術から
考えて、まとまった人数の渡来は半島から移住者に比べて大きなハンデをせおっていると
言わざるを得ない。
そもそも、先述したように、
なぜ加羅にあれほどヤマト政権はこだわったのか?
なぜ天孫降臨伝説が加羅の首長に同じものがあるのか?
そこが彼らの故地という観点にたてばかなり納得のいく説明が可能ではないか?
351 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 01:49:44 0
ちなみに、これも仮説だが、物部氏も、もしかすると「先に倭の地にやってきた大陸あるいは半島系の宗族」では
ないだろうかと思う。
あるいは古い時代に侵攻したものの、次第に本国(加羅)の言うことをきかなくなって、本国から派遣された軍勢が
「神武」東征なるものの正体かもしれないな。
まあ、そこまで考えるととっぴ過ぎるだろうが、天孫降臨伝説がなぜいくつもあるのかという説明にはなると思うが
どうだろうか?
352 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 01:52:30 0
南方系の先住民が熊襲、隼人
北方系の先住民が蝦夷
倭は扶余系?まあ靺鞨系ではないだろう。
353 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 02:04:36 0
前方後円墳? あれ加羅にもあるぞ。
加羅の天孫神話って何時頃に記録された史書が最古なんだ?
なぜ『から」は外国を示す言葉なわけ?
「から」が故地なんだったらそういうふうにはならんでしょ?
「あめ」「あま」が故地なんだよ?
356 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 02:50:45 0
>>355 イギリスとフランスの100年戦争をおもいだしてみよう。
元々イギリスは半島にうつりすんだバイキングのしそんであるノルマンディー候ウイリアムが
王朝の正当性を主張し、イングランドを征服したものだ。そして後にイングランドを
のっとったノルマン朝は故地であるノルマンディーを確保しつつ、フランス王家(パリ伯)の
王位継承権も求めてあらそっている
それと、前方後円墳に関する議論だが、大陸にはない様式といったが、
北海道や東北でも青森や秋田などには存在していない。
したがって少なくとも北方系の文化説はありえない。
逆に南方系も分が悪い。なぜならば沖縄などでもあの様式の古墳が存在していない。
ようするに、存在しているのは消去法的に加羅とヤマト政権の支配地でしかない。
この事をどうかんがえるかだ。
357 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 02:51:12 0
天皇家の姓は「倭」とか「阿毎」いう説
358 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 02:56:17 0
http://jiyodan.exblog.jp/10590637/ この天孫降(光)臨伝説は、朝鮮半島の加耶(伽耶諸国)の建国神話である「加耶国」の始祖・
首露王(スロワン/しゅろおう)が「亀旨峰(クジボン)に天降る話・・・と似ている」との指摘が在る。
つまり、「記紀神話(古事記・日本書紀)」の一部は、朝鮮半島・加耶(伽耶諸国)から持ち込み
輸入された伝承を採用し加工して記載した疑いが強いのである。
ここで言う加耶(かや)は、日本で呼ぶ任那(みまな)=伽耶諸国(かやしょこく/加耶)の任那
加羅の勢力範囲の事で、伽耶(かや)または伽耶諸国(かやしょこく)は、三世紀から六世紀
中頃にかけて朝鮮半島の中南部に於いて、百済(ペクチェ/くだら)と新羅(シルラ/しらぎ)に
挟まれた洛東江(ナクトンガン/らくとうこう)流域を中心として散在していた小国家群を指し、
新羅においては伽耶・加耶と言う表記が用いられ、中国・日本(倭)においては加羅とも表記されていた。
どうやら日本列島に渡り来た征服部族の多くが、この伽耶諸国(かやしょこく)=任那加羅
(みまなから・加耶)出身だった為に、後世の日本人が一時史実に反して「任那日本府
(みまなにほんふ)」なる幻の日本領を古代史に於いて勝手に創り上げた疑いが強い。
この辺の記述どうなんだろうね
紀元前7世紀の東北アジアの民族構成なんか分からない
>>356 どう考えるも
年代的に加羅の前方後円墳は遅いので倭から伝わった。
眠っている人物は倭から派遣された倭人官僚や現地加羅の豪族という説がある。
361 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 03:27:19 0
それ、右翼からみるとそうとらえたくなるんだろうけど、逆の可能性もあるぞ。
加羅発祥の宗族が、後背地(日本列島のことね)で実力を蓄え、逆に朝鮮半島の本国の
政治情勢や国体に介入できるようになっていったのかもしれないし。
362 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 03:34:56 0
何でそんなお偉い宗族が、日本で独自の文明ほ発展させるの?
そのままで良いじゃない。
後そんな独自の文明を短期間に発展させられるほど肥沃な土地を持つものが、
何で加羅発祥の宗族何ぞに征服されんの?
「加羅発祥の宗族」の遺跡ないし墳墓は加羅のどこにあるの
364 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 03:39:05 0
まず、ヤマト政権は何なのか?起源は諸説あるが要は征服王朝であると考えて間違いないと思う。
神武東征にみられるように、畿内には、古事記の記述からみても明らかに東征以前に
豪族が支配しており、それを征服していく過程が伺える。
むろん、古事記とは別に倭の大乱の記述があるように、神武の征服からも国情は安定せず、
いくつかの王朝交代や簒奪があったのだろうし、そういう意味では朝鮮あるいは大陸からの
宗族の流れがそのまま古墳時代脱出後のヤマト政権時代の宗族と血統的に同一であるか
どうかは未群のままだ。
たが、これまでのレスで言及してきたように、推古朝編纂時の国記や天皇記が蝦夷の死と共に
運命を共にしたという説は信じがたい。
天武朝以降にせいりつした古事記成立までに廃棄、焚書されて歴史から葬り去れたと見るべき
ではないだろうか。
われわれの知る古代世界の大半の知識は大半が天武期以降の書物でしか得られない。
あくまで天武が「天皇」となのった意向の歴史であり、いわゆる皇国史観のはじまりにすぎないと
いう点を忘れてはならない。
365 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 03:42:56 0
なんでオオクニヌシのような英雄が治めてた出雲が
分けの天孫族とかいう訳わからん連中に国譲りしたんだろうか。タケミカズチ
神武東征なんて考古学的にはまったく裏づけのない話なんだが
>>361 いや右翼とかではなく
例えば倭の加羅を始め朝鮮半島への介入は
日本書紀や三国史記、高句麗の碑文にありますよね。
それに比べるとあなたの説はただの推測にすぎないのでは?
368 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 03:47:26 0
>>362 ピサロをはじめとするイタルゴがアステカや、インカを滅ぼした。
ブルターニュ半島の諸侯であったノルマンディー候がイングランドを征服した。
薩長が、石高を大幅に上回る幕府軍を圧倒し、江戸幕府を滅ぼした。
新羅が高句麗を唐と挟撃し、これを滅ぼし、三国時代を終焉させ、統一した。
いくらでも少が大を征服する話が世界史には転がっている。
369 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 03:51:58 0
>>367 好太王碑文は後世の創作説もあるよな
>>366 神武東征にあたる軍事活動が実際にあったのであろう。
事実、物部氏は神武より「前に」天孫降臨伝説が存在する矛盾をどう説明するか。
>>365 そもそも、熊襲や出雲や吉備などが強大であったので、比較的弱小の
瀬戸内ルートをとおって、畿内に侵攻し実力を蓄えたのだが。
そして、機内から逆に征服された物部などの豪族が先兵となり
越、吉備、出雲、熊襲、坂東などに遠征し、滅ぼすかふくぞくさせていった
>>368 なるほど。
で、そもそもの加羅が軍事的に強大であったことを
示す(弥生時代の?)遺跡や墳墓はどこ?
371 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 03:54:19 0
>何でそんなお偉い宗族が、日本で独自の文明ほ発展させるの?
そのままで良いじゃない。
加羅は弱小国で、半島ではこれ以上伸びないからだよ。
政争か、それとも一時的にほろんだかわからないが、後背地である日本にきて
形勢を立て直した可能性は十分ありえるぞ。
372 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 03:56:56 0
>>370 大陸、朝鮮の進んだ文化と技術を持つ少数の征服者が時をかけて徐々に制圧していったのだろう。
幕府軍と薩長の陸戦をみても分かるように進んだテクノロジーは数字の劣勢を挽回し、逆に圧倒する
力があるよ
373 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 04:04:50 0
当時の技術格差に直結しそうなのというと
鉄か。
遺跡はどこだって聞いてるのに、的外れなことばかり言ってる。
底が浅いね。
375 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 04:12:36 0
日本国内の朝鮮式山城でも調べれば
加羅の遺跡を聞いてるんだよ。
倭を征服するほどの集団なら故郷にもそれなりの痕跡を
残して当然だろ。
377 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 04:19:10 0
378 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 04:22:41 0
379 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 04:24:14 0
また、鉄の国として外国と貿易が盛んだった伽耶ならでは面白い神話がもう一つ、
首露王の王女の一人が当時邪馬台国だった日本に渡り、卑弥呼になったという伝説も残されています。
380 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 04:26:49 0
金海大成洞遺跡
金海良洞里遺跡
とかじゃないの?
つーか倭にしても九州系、出雲系、近畿系で別物臭い
伽耶の文化は同時代の日本に似てた感じ
>>379 それは何時頃に形成された伝説なの?
近年の韓国の学者の珍説ってオチでは。
>>377 それって、少なくともヤマトの纒向の古墳群に先行するものなわけ?
発掘調査結果を知りたいね。
むしろ、大成洞古墳のほうが注目されているようだが、
こちらは4世紀から5世紀半ばまでというところ。
伽耶が倭人諸国じゃなくても、
倭(日本)との交流が盛んだったからお互い影響を受けてたんジャマイカ?
倭(日本)も特に対馬・肥前・筑前・豊前・長門・周防・石見は
伽耶には倭人がかなり住んでいたようだし
385 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 04:37:25 0
鉄を産しているト言うことは、征服時にかなり有利、同時に出雲をなかなか倒せなかった理由も説明がつく
(出雲は古代から和鉄の産地で有名。現在でも現代刀の鉄はこの地方の物が使われる)
386 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 04:43:59 0
年代を特定すると、魏志倭人伝より後の時代に国が大いに乱れたとあるから、この頃に加羅から進入し、最終的に畿内に
到達して覇権を握り、各地に巨大な豪族がいるものの、同時に加羅ともつながりを維持して、軍勢が再度海をわたり、
新羅や高句麗と戦う3世紀以降の流れとなるのではないだろうか。
2世紀頃かい?
加耶系の土器や武具がいちどきに大量に流入してりゃ
加耶の侵入とかもいえると思うけど、聞いたことないね。
纏向からそんなの出てないよなあ。
390 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 04:57:34 0
天皇陵掘ろうぜ
391 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 04:58:43 0
239年、卑弥呼使者を魏に送り、親魏倭王と任じられる 魏志倭人伝
247年、卑弥呼死す。 魏志倭人伝
266年、倭の女王の使者、貢物を晋武帝(司馬炎)に送る 晋書
この間150年中国史から記述が絶える
312年、広開土王碑文によると倭が海を渡り、加羅・新羅をやぶり、臣民と成す
413年、倭王讃が東晋に朝貢
神武東征にあたる軍事行動があるとしたら、266年から312年までに絞られるな
(ただし、広開土王碑文が史実とした場合の話)
393 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 05:06:15 0
391年じゃね? <広開土王碑文
394 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 05:09:53 0
『広開土王碑文』
五年(395年)、王は自ら碑麗(ひれい=沃祖地方)を討伐した。
六年(396年)、王は水軍を率いて百済国を討った。その理由は、百済と新羅はもとから高句麗に隷属し朝貢していたが、
倭国が辛卯の年(391年)に海を渡り、百済などを打ち破って臣下としたためである。王は百済の多くの城を占領したにも係わらず、
なお抵抗したので、漢江を渡り、王城を攻めた。百済王は多くの貢物を出し、家臣になることを誓ったので、王の弟などを人質として凱旋した。
>>390 もう掘られてる
>>391 その時期、九州からの土器の移動は
ほとんど認められないので無理。
396 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 05:24:04 0
指摘があったから調べなおしてみると391年でした。改めて年表にしてみました。
239年、卑弥呼使者を魏に送り、親魏倭王と任じられる 魏志倭人伝
247年、卑弥呼死す。 魏志倭人伝
266年、倭の女王の使者、貢物を晋武帝(司馬炎)に送る 晋書
この間150年中国史から記述が絶える
391年、広開土王碑文によると倭が海を渡り、加羅・新羅をやぶり、臣民と成す
413年、倭王讃が東晋に朝貢
神武東征にあたる軍事行動があるとしたら、266年から391年までの125年間。
ただ、いきなり女王の時代から東征におよんだり、大和政権成立直後に
朝鮮情勢の介入は現実問題難しいだろうし、 神武東征にあたる軍事活動が
あるなら実質100年ぐらいにしぼられてくるかと。
397 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 06:31:27 O
「可能性」ならいくらでもあるだろうさ。加羅の政権が宇宙人に運営されていた
「可能性」とかね。
そもそも加羅が倭を征服していたなら、百済や新羅や高句麗や中国の史書の
いずれかに記されないわけがないんだよ。特に新羅には加羅系の王族さえ
支配層にいたんだから。
宇宙人吹いたw
399 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 07:02:16 0
>>397 加羅の国体はそもそもひとつに統一されてない。
400 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 07:09:22 0
三国史記は偽書である可能性が強い。
さらに、当時の中国は晋に邪馬台国の女王が使者を送って以来、
5世紀前半に倭王讃が使者を出してくるまで海の外国の情勢を記録する
状況ではなかった。
事実、倭の大乱があったとしか把握していないし。
>>399 釜山大学の申敬Kは金官加耶を盟主とした連盟があったとかいってる
そうだが、日本の研究者にいわせると史料(資料)的根拠に乏しい説だとか。
>>400 三国史記が偽書とは、どのへんが?
402 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 07:14:52 0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A8%98 『三国史記』(さんごくしき)は、高麗17代仁宗(在位:1123年-1147年)の命を奉じて金富軾らが
1143年に執筆を開始し、1145年に完成させた三国時代(新羅・高句麗・百済)から統一新羅
末期までを対象とする紀伝体である。朝鮮半島に現存する最古の歴史書。全50巻。
内容は当時から見て数百年から千年以上前の内容もあり、またその当時に書かれた
複数の資料とも内容が異なる点が多いのが特徴である。
現在、中国・日本をはじめ世界一般に見て偽書のカテゴリーに分類されているが、
一部北朝鮮、韓国においては正史であり他の資料が偽書とされることが多い。
403 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 07:16:00 0
依拠史料
朝鮮側の資料として『古記』、『海東古記』、『三韓古記』、『本国古記』、『新羅古記』、金大問『高僧伝』、『花郎世記』などを第一次史料として
引用している主張されているが、いずれも現存していないため、正確性に欠けその記述の内容には史料批判が必要である。
また、中国の史料と朝鮮の史料が衝突する場合には朝鮮の史料を優先している箇所もあるが、前記の史料の信用性に疑問があるため、
慎重な取り扱いが必要とされる。天変記事(ほうき星など)については中国史書と年月を同じくする記述も多い。
三国における史書としては、高句麗には『留記』・『新集』、百済には『日本書紀』にその名が確認される百済三書(『百済本記』、『百済記』、
『百済新撰』)、新羅にも国史を編纂させたという記録があるが、いずれも現在は存在が確認されていない逸失書であるため、記述内容を
確認できない部分も含まれている。
404 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 07:19:01 0
つまり、266年に、司馬炎に倭の女王が朝貢の使者をだしてから、413年に倭王讃が東晋に朝貢するまでの空白期間の間の資料は、
何一つ確定していないということ。
邪馬台国はフィリピンにあった
>>402-403 偽書ってのは、製作者や製作時期などの由来が偽られている文書のことで
内容に偽りのあるものについてはそういわないとwikiに書いてあったけど、
その基準でみると、『三国史記』は偽書ではないね。
>>404 4世紀後半のものとはいえ、広開土王碑や七支刀の銘文は無視できない。
文献的に空白があるとはいえ、考古学的に考えることも重要だし、
好き勝手いえるわけではない。
>>377 金首露王陵は5世紀の古墳で論外。
結局、5世紀以前に伽耶に王墓らしきものはない。
大成洞古墳のようなしょぼい集団墓地の中から、
「王墓」を見つけたいのなら勝手にそうすればいいだけ。
その程度の伽耶から日本に来て王権簒奪したなんてもうアホかと。
408 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 07:38:42 0
三国史記は2次史料だろ。原典の一次史料が何一つ残ってないのは明らかにおかしい。
広開土王碑はそもそも日本軍による改ざん説がなかったか。
七支刀は「大王家」に送られたものではないだろ。 物部氏に贈られた刀で、
これを大王家が征服しているんだが。
409 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 07:43:29 0
>>407 大陸での政争での負け組みが新大陸で捲土重来を期して超大国になったアメリカや、スペインで荒くれモノに
すぎないイタルゴ連中が中南米から南米の諸政権を征服してペネズエラの13家族など今日での名家になるなど
いくらでも前例がある。
そもそも、鉄の優越は無視できない。 当時の日本の勢力で産鉄していた勢力は出雲ぐらいだ。
で、たたら製鉄跡をみると、不思議なことに出雲以外は九州〜瀬戸内〜機内に分布している
これをどう解釈するのかな。
410 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 07:44:52 O
加羅は統一さえされていない小国群だったけど、周囲の大国の誰にも知られぬ
まま倭を乗っ取るだか服属だかさせるだけのパワーはあり、でも新羅には
滅ぼされ併合されちゃったけどかつて倭が自分らのものだったことは謙虚にも
秘密にしたまま暮らしたのですね。めでたしめでたし。
>>396 >神武東征にあたる軍事行動があるとしたら、266年から391年までの125年間。
大陸的要素がほとんどない三輪王朝の期間じゃんw
アホくさw
江上のように河内王朝と大陸を結びつけるなら分かるけど、
君の場合は正反対なんだねw
>>409 >これをどう解釈するのかな。
アホか。
5世紀後半ごろ、高句麗の活動が活発になってくるのに伴い、
半島で製鉄に関連してた倭人達が帰ってきた。
彼らが出雲で製鉄を始めた。
それだけ。
413 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 07:53:12 0
継体以降に加羅の宗族が征服したとかんがえてみてはどうだろうか。
>>407 国力をどれだけ持ってようがひっくり返されるのは
近代以前では珍しいことでもなんでもない。本当に世界史履修者?
しょぼいかどうかなんてのはお前の主観にすぎないじゃんアホすぎる
415 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 07:59:05 0
この時代の石油に該当しそうな資源は鉄と馬?
>>408 >三国史記は2次史料だろ。原典の一次史料が何一つ残ってないのは明らかにおかしい。
それは『日本書紀』も同じだろうが。
帝紀や旧辞、百済三書や 『伊吉博徳書』とかも残ってないじゃん。
>広開土王碑はそもそも日本軍による改ざん説がなかったか。
論争自体はだいぶ前のことだよ。今頃そんなこといってんのか。
捏造が疑われた酒匂本以前の拓本が出てきて、改竄説はぽっしゃったろ。
>七支刀は「大王家」に送られたものではないだろ。
釈読に「故為倭王旨造」ってある。
垂仁天皇のときに一千口の太刀が石上神宮に納められたとあるから
七支刀がそこに入ってもおかしくないだろ。
417 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 08:02:39 0
インカ帝国は、ピサロのわずか180人足らずのコンキスタドールによって征服されたしな 途中での餓死者除外すると
もっと兵員少なかったろう。 大陸や半島では通用せずとも、倭では通用した それだけの話だろう
いつのまに事実みたいな話になってんの。
>>409 時代や状況を無視した比喩には何の意味もないな。
金官加耶は鉄を産する以外にろくに生産基盤がなかったから、
不足する食糧を倭に求めて、鉄交易を持ちかけたのだろう。
これは朝鮮の植民地化を正当化するための捏造と聞いているな
古代から日本は朝鮮を植民地にしていたと主張するためらしいぞ
421 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 08:08:23 0
石上神宮ってね、物部氏が5世紀にたてた社って知っていて発言しているの
>日本書紀
あれ天武以降に編纂された代物。
というか、日本で文字が常時記録されるようになったのは推古朝になってからだといわれている。
馬子や聖徳太子があの時期に天皇記や、国記を編纂した理由は仏教と共に文字が伝来したことも
大きな理由だ
逆説的にいえばそれ以前の書物はそもそもあったのかそれすら疑わしい
ちなみにそれ以前の日本は沖縄やインカがやっていたように縄の結び目や口伝で古の出来事をつたえていたのだが。
※各地の刀剣などで文字を記した例もあるが、常用とはいえない。
422 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 08:08:36 O
いやあの倭人は新羅も百済もさんざん襲ってるんですが 王族を人質にしたり。
加羅はなんで半島の中で戦わなかったの? っていうか新羅にも百済にも負けちゃってるよね?
423 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 08:11:29 0
>>422 新羅の入寇って知ってる?まさかとは思うが、倭が一方的に海上を制圧していたとでも思い込んでいるのですか?
424 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 08:11:50 0
百済にくれと言われたからあげたら
残りが離反して新羅についたのでそのまま滅んだ
425 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 08:13:34 0
>いやあの倭人は新羅も百済もさんざん襲ってるんですが 王族を人質にしたり。
それ三国史記の中での記述な。 wikiにあるように、正史と認めているのは、
北朝鮮と韓国でしかない
他の国では史料として認めているか微妙 くわしくはwiki
高天原=北九州
葦原中津国=出雲
じゃないか?
427 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 08:15:50 O
だからそれなら何で新羅も百済も加羅の倭征服を記録に残さなかったのって
聞いてるのになー。
>>423 時代の下った8世紀だか9世紀のそれ一回きりだろ。
食料求めて2000人くらいで略奪しに来た。
>>421 >石上神宮ってね、物部氏が5世紀にたてた社って知っていて発言しているの
現に七支刀は石上神宮が伝蔵してきたもの。
『垂仁紀』の内容が架上されたものにしろ、
石上神宮は恐らくそういう役目にあったんだろ。
>あれ天武以降に編纂された代物。
史料批判は構わないけど、おたくの珍説は
『日本書紀』からのいいとこどりなのでは?
431 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 08:24:19 0
豊葦原の水穂の国=日本の国体=ヤマト政権
高天原=日向の地=神武東征発端地
葦原中津国は出雲かもしれないね 高天原と根の国の境にある国と伝承されている。
ちなみにイザナギとイザナミの分かれた根の国は黄泉比良坂だが、これがあるところは安来市と否定されている。
ココは現代でも和鉄の産地で、いろいろと意味深。
たとえば、高天原と葦原中津国との関係の比喩あるいは、出雲地方がヤマトからみて彼岸の国であったという風にね。
432 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 08:27:17 0
物部氏が当時の「大王」の一族だったんじゃないの。
臣下に態々他国の王から贈呈される理由がない。
大王からみれば他国との通牒をうたがれても仕方ないが
大王なら意味が通るぞ。
>>432 >物部氏が当時の「大王」の一族だったんじゃないの。
根拠もなくいわれても、ただの思いつきにすぎない。
そもそも、「部」のつくウヂ名なんだから、
倭王の家臣、僚臣に出自するウヂと考えるべき。
434 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 08:49:38 0
物部の祖と伝えられるニギハヤヒは神武より「先」に大和に降り立ち、ナガスネヒコの一族と婚姻して河内から大和一帯を支配した。
しかし、彼らはニニギの一族つまり、大王家によって征服されたとされるが、いろいろと疑問点がある。
まず、磐井の乱で実際に攻め込み征服しているのは物部アラカイの軍勢だわな。
さらに時代が下ると蘇我氏と仏教伝来をめぐる争いで滅んだが、そもそも仏教と共に文字が伝来し、歴史書が編纂されていくようになった経緯を
考慮すると、かなり怪しいと思われる。
>>434 >そもそも仏教と共に文字が伝来し
文字の到来はずっと前からだよ。
宋への上奏文などは百済の関与があったに違いないが、
同時期に史部が設けられ、渡来者に頼りつつ、
倭人も文字を伝習したはず。
436 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 09:12:28 0
437 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 09:28:27 0
高天原が王朝の故郷を示すというのは、単に憶測にすぎない。高霊になったり高句麗になったりと
忙しいが、「根の国」「底つ国」に対する天上世界なのであり、われわれは、そんな世界がないと
いう近代人的な合理的思考でものを考えるが、古代人はそう考えなかった。あらゆるものが降臨す
ると考えたからこそ、岩も巨木も依代となりえ、祭りの対象となるし、神が降り立った神聖な場所
には社がつくられ、他と区別するため注連縄が張られた。正月の年神も天空から降臨するものと考
えられている。家に門松を飾ったり、年男が年玉を配ったりする行事もそこから発している。当時
の人びとの思考に沿うことこそ真に学問的であり、浅知恵の語呂合わせのようなものは学問とは言
えない。
>>437 記述だけ見れば地上じゃん
それも憶測なんか
439 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 09:34:24 0
物部の祖であるニギハヤヒや、ニニギは、高天原から「船」で、かの地に降り立ったとそれぞれ伝承がある。
素直に解釈すれば朝鮮半島から船で渡来してきた一族と読めるがね。
>>379 妄想なw 半島が倭の勢力下にあった事は資料が示す通り
441 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 09:39:53 0
史料=三国史記か それよく右翼が主張している古代朝鮮にはまともな史料がないと否定していかなったか。
史記の一次史料が一切見当たらないから、これは信用できないと。
>>436 4世紀の墨書土器や「王賜」鉄剣銘など文字を記したものはいろいろ
あるけど、埼玉稲荷山古墳の鉄剣銘は大王への奉事と系譜を記した
もので文章も内容をともなっている。
この系譜は『日本書紀』や『古事記』におけるそれと等しく論ずべき
ものではないが、少なくとも系譜意識の萌芽は認められる。
継体は傍系からの即位というが、それならばなおのこと、系譜が意識
されたはず。でっちあげにせよ、そうでないにせよ、継体・欽明の頃には
記述された系譜(帝紀)があったと思うよ。
443 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 09:51:15 0
そこに記された内容は、
私の祖先は代々、杖刀人の首を務めてまいりました。私は獲加多支鹵大王に仕え、天下を治めるのを補佐してきました。
そこで辛亥年七月に、これまでの輝かしい功績を剣に刻んで記念とします。
たったこれだけの記述な。 これとても渡来人の助けをかりてどうにか記せたレベル。
埼玉は昔から渡来系の移民が多い土地柄だし
何よりも隋書で仏法と共に来たと明記されているのですが。
>>441 右翼連中にはそれ相応の事情があるのかもしれんが、
二次的な編纂物であっても、一概に切って捨てるのは惜しいだろ。
史料批判しながら、用いればよいことなんだから。
445 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 09:54:48 0
そもそも、日本書紀や古事記は口伝などから掘り起したものだし、仏教から時代がずいぶんと下る。
なにより、仏教の伝来と同時に物部が滅んでから馬子と太子の共同編纂で国記と天皇記が編まれた
経緯は仏教の伝来と共に日本に文字が伝えられたとする隋書の記録とも時期が一致している。
446 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 09:57:41 0
>>443 考古資料によるかぎり、『隋書』の「無文字」というのは
実情をあらわしてはいないね。
448 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:00:09 0
そうかなあ 神武東征とあわせて考えてみるとなかなか興味深いと思うがね。
事実、吉備や出雲が強勢を誇っていたからどうしてもあの土地(畿内)に
いくなら船であの地に侵入する以外にないし
449 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:01:03 0
明らかに4世紀、5世紀の漢字資料が鉄剣・鉄刀、墨書土器含めて出土しているんだがな。
450 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:02:05 0
>>447 隋書にあるとおり、文字が仏教伝来とセットで常態化したと解釈できないなら、
仏教が伝来した「後」でないと歴史書編纂の動きがなかったのはどう解釈すればいいのかな?
451 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:04:12 0
>>449 日本人が自分でも意味をよく理解できていない英文のTシャツや、向こうのDQNが意味不明の日本語をつけた
タトゥーをオリエンタル趣味と勘違いしているパターンもあるぜ。
文字自体は渡来人のサポートがあれば記せるしな
452 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:05:02 0
神武東征については、むしろ逆なんじゃないかな。神武はやはり畿内の勢力で、最後まで抵抗したのが
日向・薩摩のいわゆる隼人と呼ばれる勢力なんじゃないかな。まあ、解釈の問題なんだけど。
453 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:08:14 0
>>450 論理が飛躍しているね。朝鮮で初の歴史書が編纂されたのは13世紀の高麗時代だよ。
文字の使用が即座に歴史編纂の動きを約束するものなのかね?
>>450 当時は歴史書編纂というより、大王系譜の整理ないし正統化の作業
がメインだったんだろうけど、継体および欽明の即位が直接の契機に
なったと思う。
455 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:11:25 0
>>453 おいおい、同一人物か不明だが、さっきまで三国史記を「記って捨てるには惜しい」と主張していたんじゃないのかよw
いきなり13世紀まで初の歴史書の成立のハードルさげるならそれでもかまわないが、なら、今までの議論もかなり
中身がかわってくるぞ
たとえば、三国史記関連の倭の強勢の記述は捨てたと受け取ってよいんだなw
456 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:14:31 0
>>454 なら、隋書で、百済云々仏法云々との記述との表現は普通ありえないんじゃないのかね。
457 :
454:2009/05/05(火) 10:15:53 0
>>455 453は自分の書き込みじゃない。
『三国史記』の新羅本紀朴堤上と『神功紀』の毛麻利叱智
の一致とかは面白いな。
458 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:24:03 0
>>451 楽浪郡が滅んだとき、かなりの数の中国人が日本に亡命したんではないだろうか。
日本列島における漢字資料は4世紀になると急増するね。
神武東征は遠征じゃなくて入り婿だ
とかいう説を聞いたことがある
460 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:33:58 0
いわゆる東漢族や西漢族なら、加羅諸国起源になるんだがな。
>>456 仏教公伝とともに五経博士派遣の成果もあって、用いられる文字、文章の量が
以前とは比較にならないくらい増えたってことかな。
隋使にも見てとれるくらいに。
462 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:44:43 0
>>460 東漢氏と血族のようにいってるが、実際は百済人や加羅人や漢人など
雑多な集団を配下に組み込んだって感じだな。
464 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:46:14 0
>>462 「この時期」とは具体的に何世紀のことだ。
465 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:47:55 0
>>462 「この時期」とは具体的に何世紀のことだ。大量流入による人口急増を結論づける
なら、短いスパンで言わないと説得力に欠けるんだが。
466 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:49:26 0
>>463 元々血族じゃないが、加羅諸国の民が中心だよ。 なぜなら、「かん」とよまずに「あや」と読むからね。
漢をあやと読むのは加羅特有の呼び慣わし。
467 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:53:21 0
468 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 10:58:01 0
>>438 地上世界のことは「中つ国」と表現したようだね。
>>466 安羅(阿羅加耶)だね。
直接的にはそこから移住してきたってことだろう。
470 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 11:03:35 0
なるほど! アヤットラーホメイニやハメイニは韓国起源とこうですね!
471 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 11:06:23 0
>>467 説明になっていないでしょ。採集経済から生産経済に移行したなら人口急増が起こる
のは、どこの社会でも普遍的な現象であり、当のURLを読んでも「農耕の開始」とは書
いてはあっても、「外部からの流入による増加」とは書いていない。もし、「外部から
の流入」のみが増加の原因だとすると、日本列島側のプル要因だけでなく朝鮮半島側の
プッシュ要因も説明しなくてはならない。だから、具体的に短いスパンで言うなら、何
世紀のいつ頃の話か?と聞いているわけだ。
朝鮮半島からの移民で日本の人口が急激に増えたとホルホルしてる人は、
日帝時代に朝鮮人の人口が急激に増えたことももちろん認めているんだよねェ?
移民が人口急増の主な原因なら半島の人口が
急減しないとおかしい
>>466 三韓時代の加羅の発音が復原されているというのは初耳だ。ソースあったら教えてくれ。
475 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 11:33:44 0
>>472 日帝時代に朝鮮の人口が急激に増えたのは日本人が大量に押し寄せて土地を奪って住み着いたからニダ!
謝罪と賠償を要求するニダ!
476 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 11:46:29 0
477 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 11:59:29 O
倭の主要氏族は確実に加羅や安羅とは別、としか読めないリンクですね。
478 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 12:02:54 0
ああいえばこういう揚げ足取りばかりだな(苦笑
479 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 12:10:05 0
>>476 「漢をあやと読むのは加羅特有の呼び慣わし」みたいなことは何ひとつ書いて
なかったがな。漢の高祖の子孫であるという伝承をもち、 それとは別に、アヤ
という訓は安羅出身だった伝承(本当にそんな伝承があるのかどうかも疑問だが)
に由来するのではないかというだけでしょ。実際に安羅出身だったかは不明だよ
ね。日本語の「あや」本来の意味、つまり、文字、文様、模様かもしれないし。
東漢氏の帰化の年代と氏族伝承を照らし合わせると楽浪郡もしくは帯方郡の遺民
と考えるのが自然だと思うが。
480 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 12:14:28 0
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%BC%A2%E6%B0%8F 阿智使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈を拠点としたことから東漢氏となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏となった。
両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませていることから実際は朝鮮南部にあった加羅諸国のうちの安羅国(現在の慶尚南道咸安郡)を
中心とした氏族が渡来してきた可能性が提唱されている。
つまり「安羅」が「アヤ」となり呼称となったということである。そして、それらのアヤ氏のなかで伝わっていた「先祖は朝鮮北部にあった
漢帝国に属した帯方郡から渡来した」という伝説から「漢」という文字をあてるようになったのではないかと考えられている。
また、東漢氏の技能と百済の先進技術との関係であるが、「書紀」の継体の条の記述によると百済から五経博士「漢高安茂」という
人が派遣されており、それ以前に派遣されていた博士「段陽爾」と替えたいと百済は申し出ている。「漢」という名称そのものが元来から
百済にあった可能性も考えられる。
481 :
sage:2009/05/05(火) 12:25:29 0
3世紀の邪馬台国が畿内にあって、箸墓古墳など前方後円墳を他地域に先駆けて
つくった勢力、都市マキムクをつくった勢力だとすると、北九州の伊都国に長官
のほか副官2名を置き、さらに「一大率」という監察機関が常駐していたことに
なる。対馬の長官は「ヒナモリ」だが、これは現代風にいえば国境警備隊という
意味だ。考古学的には、邪馬台国が畿内にあることは動かせない。3世紀段階で
も倭国の政治統合はかなり進んでいたとみるべきではないだろうか。それゆえ、4
世紀以降、半島南部を制圧することが可能だったのではないか。
482 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 12:42:33 0
江戸初期で1000万人程度の人口が、明治政府が調査したときには3000万を超えてた。
260年間で3倍近く増えるのなら、700年もあれば7倍に増えても不思議なことはない。
さらに、縄文→弥生にかけては狩猟採集→稲作農業へと生産形態が一新しているが、
江戸時代は技術の改良はあったものの、生産面において革新的な進化が見られた
わけではないことを考え合わせると、弥生時代の人口増加は納得できる数字。
>それゆえ、4世紀以降、半島南部を制圧することが可能だったのではないか。
4世紀どころか2世紀ごろまでには倭人が定着してた。
釜山・莱城遺跡の出土土器の94%が北九州系弥生土器だ。
その北九州を畿内が傘下に収め、伽耶の鉄を入手してた。
その豊潤な鉄農具で大規模墳墓を作ったのだろう。
484 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 12:45:45 0
そんなに日系韓国人が居るのか?
弥生時代から半島南部に倭人の鉄採掘遺跡があるのだ。
悔しいだろうが直視しろ。
486 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 12:51:34 0
朝鮮考古学では「倭鉄」はタブーらしいね。
487 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 12:53:40 0
ちょっとだけよ、でもだめ?
>>479 476じゃないけど。
安羅(安邪、阿羅伽耶、阿那加耶)は、広開土王碑によると、倭とともに
「安羅戌兵」として新羅を攻めたりしてるから、金官加耶(任那加羅)よりは
多少根性があり、有力だったようだ。のちに日本府も置かれてるから、
倭国との関係も深い。
『日本書紀』によると、安羅には百済人などもいたようだし、そこから倭国へ
移住した民が今来漢人(あやひと)と呼ばれても不思議ではない。
保守系の論者はなかなか認めようとしないけどヤマト王権が征服王朝であったことは間違いないね。
半島からの軍が(例えば加羅)の軍が征服したというより文明的制度的に優れた半島から渡来した人間が倭の地方豪族をまとめ
それを率いてヤマトに中央政権を建てたと考えるとしっくりくる。渡来した地が九州であれば見事に神話や伝承とも一致する。
任那についても半島にその痕跡がないことから半島進出の機関であったとは考えにくい。
逆に列島の九州・中国地方には大陸・半島系の地名がいくつもあり任那と思われる場所もいくつか存在する。
任那とは那(国)を「任せる」という意味であり「任那日本府」とは本来「日本を任せる」という意味である。
このことからも任那とは半島の地名ではなくヤマト王権の始祖となった渡来人が西日本に置いた前進基地のようなものであったと思われる。
そもそも任那日本府なる機関が朝鮮半島にあったという説はとっくの昔に否定されていて海外では相手にされていない。
『分国論』という学説によると『日本書紀』に記された『任那』とは日本列島内に存在した任那系渡来人による殖民国すなわち任那本国の『分国』であり『任那日本府』はそれを統括するために大和朝廷が設けた機関だとしている。
現在ではこちらのほうが一般的であるといえる。
分国論か、北朝鮮の金錫亨の説ですな…
492 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 14:08:20 O
海外て朝鮮一国で海外と言われても。
アメリカの学者が「朝鮮半島南部が日本の勢力下にあった」
と控えめに表現したら火病の半島人がなにを言ってもだめだろ。
古墳時代中期の人口比は、渡来系が7割、縄文系が3割とされている。
奈良時代初めの人口比を、形質人類学のシミュレーションは、8:2と見ている。
渡来系が8か、それ以上。縄文系は2か、それ以下。全人口約540万人。
古代日本は、圧倒的に渡来系の国として、スタートした。
この8:2という割合は、その後あまり大きな変動はなく、今もほぼ、これに近い数値で、日本人はできている。
494 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 15:02:16 0
>489
>ヤマト王権が征服王朝であったことは間違いないね
個人的にそう思うのは自由だが、根拠となる文献資料、考古資料は皆無だろ。
こうなると、もはや学問ではなく、宗教だよ。
だな、思い込みを根拠にあげてくるあたり正気の沙汰じゃない
神話の時代から天皇家は万世一系なんていう宗教よりはるかに現実的ですが
497 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 15:11:29 0
朝鮮人の理論で行くとオバマはアフリカ人が打ち立てた征服王朝(政権)だろw
>>496 今時そんなのほとんど誰も信じていないだろ
だって檀君神話ほどうさんくさくはなくても所詮神話だからな
499 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 15:16:57 0
>>496 万世一系説の方がまだましだろ。記紀を鵜呑みにしているかもしれないが、
少なくとも鵜呑みにする材料がある分だけ。
>>489 >「任那日本府」とは本来「日本を任せる」という意味である。
断定ですか、そうですか……
501 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 15:33:08 0
結局、古墳時代前期と後期のあいだに墳墓の形態や構造に大きな違いがあるとか、
軍事的なウマの使用が顕著にみえる遺物があるとか、前期と後期の人骨の形質的
な違いということが言えなければ、騎馬民族による征服王朝説は立証不可能なん
じゃないかな。
>>493 その渡来系の大部分は、卑弥呼の時代にもいて、
日本語しゃべって稲作してたのでは?
503 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 16:32:58 0
とりあえず高天原は高句麗ということで異論はないな。
504 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 16:37:36 O
こいつの加羅電波よりは、倭人が新羅を建国した、って説のほうがまだ史料的に
は裏付けがあるよ。自分は信じてないけどw
加羅が少人数で倭を乗っ取ることができたっていうのと同じ論理で、倭人による
新羅征服も導くことができるから。さらに新羅の正史による保証つきだもの。
505 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 16:38:45 O
ねーよ。
で、結局のところ天皇家の歴史っていちからなんよ?
506 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 16:42:05 0
『日本書紀』の記述からすると、任那は朝鮮半島にあったことが明白であり、
『三国史記』にも「任那加良」のことばがあるから、朝鮮半島南部にあったこ
とは間違いないだろうと思うんだけどね。韓国の歴史学者は漢文も日本語もで
きないから、トンデモ理論がはびこるんじゃないかな?
結局、高天原に話が戻るわけかw エデンの園と同じで歴史学の対象外だろw
考古学的にはヤマト征服王朝説はほぼ否定されてる。
否定というか、遺物なり文献がない限り実証のしようがない。
一方で文献史学的にはまだ付け入る隙があるから頑張ってる研究者(アマチュア含む)は結構いるみたいだね。
特徴は必ずと言っていいほど戦前の日本批判や現代日本の右傾化とかについての批判が入ること。
あとはピンキリだけど、ヤマトの半島進出とか縄文文化論とか保守的な(という言い方が正しいかどうか)論に対する批判のための批判になってるか
日本書記を全否定から入ったり、陰謀論みたいな話になったり電波説になったりするのが多い。
夫余系というが、夫余には高句麗のような卵生神話はなく、日光に感精したものでもない。
また、高句麗の墓制が積石塚なのに、夫余は土坑墓である。神話に似ている箇所があるか
らといって、すぐにそれが民族の移動や出自をあらわすものではないことは今や常識だと
思う。
>>509 同意。
もっと言えば扶余は川辺りに住む皮革の民だ。
彼ら扶余が日本に来たとしても、
日本においてそのような文化を持つ民は被差別民であった。
おれが最近、読んだ本ではのきなみ朝鮮半島から九州に騎馬民族がやってきて
縄文人を追い払って弥生人になったという話だったな
なんでも北九州の弥生時代の遺跡に馬を葬ったのがあるらしい
(まあ古い本だったけど)
面白いと思ったのは耳垢の話だったな
なんでも朝鮮半島や中国北部の人は耳垢が乾いているらしい
そして日本も乾いている、アイヌと沖縄を除いて
耳垢が湿っていた縄文人を大陸からやってきた耳垢の乾いた渡来人達が追い払った
縄文人たちは日本の端っこ(沖縄と北海道)に追い込まれたというシナリオが描けるらしい
日本の学会では朝鮮半島に対する優越感みたいなものがあって
日本人の先祖が朝鮮半島からきたって話は感情的に反対されるらしい
512 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 19:30:21 0
それ中公から出ている江波本だろ
俺の耳垢は湿ってるんだが何系なん
高知出身
>>511 >日本の学会では朝鮮半島に対する優越感みたいなものがあって
>日本人の先祖が朝鮮半島からきたって話は感情的に反対されるらしい
え???
日本人が南洋やシベリアからだけ来たと主張する学者がいるの???
それとも、日本人はアフリカの原人類の子孫ではなくて、日本で独自に進化したとでも主張しているの???
そんなアホなことを言う学者、日本にいたとはね。
誰なの?
>>511 騎馬民族が弥生人になったって時点でトンデモ本だろ。
516 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 19:40:31 O
517 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 19:42:29 O
えー、いまさら騎馬民族説のヨタから話さなければならないの?
もう21世紀なのに、そんな戦後神話に付き合わされるなんてなあ。
518 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 19:53:12 0
騎馬民族説という仮説が提唱されたこと自体は結構なことだったと思うよ。それによって、
考古学、歴史学、神話学、民族学、人類学における古墳時代研究が進んだ側面もあるから。
その結果、騎馬民族征服王朝説が成り立たないことが周知されたのだから、感情的云々と
いうことではないわけ。騎馬民族説を唱える側がきちんと根拠を示して、立証すればいい
だけの話。残念ながら、専門家で辰王朝だとか倭韓連合王国なんて言っている人は、現在
は皆無だし、戦後の考古学の成果はことごとく騎馬民族説を否定するものとなっている。
確かに、かつては一世を風靡した壮大な構想であることは認めるが。
そういや桃太郎は吉備津ひこだったっけ?
で退治された鬼が温羅(うら?)とかっていう新羅の王子が亡命してきたやつなんだろ?
520 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 21:17:21 0
俺は天皇氏は、遼東の公孫氏だとにらんでいる。
騎馬民族説論者って面白いよ。
不利になってきた今になって、
「天皇陵を発掘しなければ分からないじゃないか」なんて言うんだ。
騎馬民族説が発表された頃も天皇陵は発掘されてなかったのにねw
自分がこの土俵で相撲を取ろうと言って来て、
寄り切られそうになったら土俵を拡げてくれと泣き言を言ってるようなもの。
騎馬民族説もそうだが、ほとんどの征服王朝説は戦前の国家神道的な古代史観に対するアンチとして出発してる。
だからどうしても自説の考古学的な証明よりも保守的な論陣の批判が先に来てしまう。
与党の批判自体が目的で、自分の党の政策は穴だらけの野党と同じだ。戦中派の文化人が戦後になって大きく荷担したところもよく似ている。
50年前だったらそれでも良かったかも知れないけど、いい加減もうちょい先に進もうよ、と。
騎馬民族に支配されたのは朝鮮だろ
524 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 22:26:51 0
騎馬民族というからには、弓は短弓、刀は馬上での戦いを反映して反(そ)ってなくちゃ
いけないはずだが、古墳から出土した武具は全部長弓で直刀だよな。テント生活を示唆する
伝承もなければ、そもそも記紀神話には馬はほとんど出て来ない。有名なヤマトタケルの戦い
も歩兵だし、神武東征伝説も海民勢力との協力しか示唆されない。そもそも戦国時代以前に
日本で騎馬戦がおこなわれた文献記録は、伝承も含めわずか1例にすぎない。伊勢・八幡はじめ
多くの軍神は海神や漁撈神を兼ねる。百済にも、新羅にも、王が死んだあと穢れを払うために宮
都を遷移したという例はないが、日本にだけその習慣がある。前方後円墳は、大和に生まれ、畿
内、瀬戸内、九州、韓半島南部へと広がる。こうしたことを総合して考えると、大和王権は外来
勢力の征服によるものではなくて、弥生時代末期の大和を発祥の地とする土着政権という、おも
しろくもない結論になってしまう、望むと望まざるとにかかわりなく。古墳時代の朝鮮半島は日
本にくらべずっと先進的だったというが、魏志東夷伝全体を読めば、3世紀の馬韓も辰韓も「習俗、
倭人に似る」でさほど先進的だったとも思われないし、むしろ倭国が三韓の諸国にくらべ戸数が
際だって多いことが際だっている。特に馬韓は野蛮に記されている。楽浪・帯方の漢人官僚の文
化程度は確かに高かったろう。それは戦前の楽浪漢墓の発掘成果から明らかだ。4世紀に楽浪が滅
亡したとき、多くの漢人官僚、魏の遺臣が倭国に亡命し、その際、朝鮮半島南部を経由したことは
間違いないが、これは到底征服などと呼べるものではない。
あー雷火?
526 :
世界@名無史さん:2009/05/05(火) 22:52:36 0
>>523 少なくとも新羅は、騎馬民族的な要素は薄いね。伝承をみても農耕民・海民的要素
が強い。墳墓も、古墳時代の日本と同じ墳丘墓で、夫余の土坑墓とも高句麗の積石
塚とも違う構造だ。ただし、こちらは日本にはない双円墳という墳形が多いけれど
も。実際に騎馬戦をおこなった高句麗の朱蒙王の伝承にはさかんに馬が登場するも
のの三韓では百済もふくめ王族の伝承にほとんど騎馬にかかわるものがない。北方
騎馬民族や華北で用いられた家畜に車を引かせる習慣も、当時の三韓地方や日本列
島には伝わらなかったようだ。
>>526 新羅は5世紀初めの高句麗・好太王の南下時に、
騎馬文化がもたらされたようだね。
という事で日本とそんなに時期が変わらない。
今の日本人はA型が40%B型が20%でBが少ない
今の朝鮮人はB型が30%いる。
島根県だけはB型が30%いるんだが‥
別に鰐にのってこなくてもいいけど‥
529 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 07:19:31 0
奈良は古代朝鮮語で首都の事。
奈良時代に百済が征服し植民地政府が樹立し、都を奈良と定めた。
日本人は素直に歴史を直視すべきでないか
530 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 07:24:25 0
■朝鮮人が認められない歴史的事実一覧
・弥生人が長江流域からやってきた百越系民族であること
・半島南部の先住民が倭人(=弥生人=百越系民族)であること
・新羅の建国時の宰相が倭人であり、王家の一つ昔氏が倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人説があること
・百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
・大和朝廷による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)
・常に某かの国の属国として歩んできた歴史
・姓が漢族のものであること
・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
・朝鮮通信使が実質的に朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)
・オンモン(朝鮮文字)がパスパ文字、契丹小字をもとにしたものであり、しかもカナより600年遅れて作られたものであること
・韓国併合の合法性と妥当性
・近代以前の竹島に関する不認識
・併合下における近代化の功績
・土地を奪ったという嘘(そもそも土地を持たない極貧小作農が大半。不申告や所有権が証明されないため総督府が接収した土地は
全耕地の3%にすぎない)
・名前を奪ったという嘘(
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/73/Japanese_Name_Change_Bulletin_of_Taikyu_Court_.jpg)
・言葉を奪ったという嘘(日本統治時代には公教育として朝鮮語・オンモン教育を実施)
・強制連行という嘘(出稼ぎのために密航したのが実態。当時は渡航制限があった。しかも戦後にやって来たケースもある)
・性奴隷という嘘(売春婦。親により前借金の形として売られたのが実態)
・固有語の語彙が乏しく、また日本のように字訓という制度的保証がない状態ですでに語彙のおよそ7割が漢語であること(学術的語彙は9割が漢語)
531 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 07:51:11 0
奈良の由来は均す(ならす)
武埴安彦の乱に書いてあるだろ
まぁ平らにする=整地する=国で関係あるのかもしれないが。
たとえ語源が共通していたり借用語だったとして
なぜそれが百済だの起源だのに直結するのか。
>>528 何かが朝鮮と繋がってないか必死で調べてるんだねwww
>>379 妄想なw 半島が倭の勢力下にあった事は資料が示す通り
534 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 08:40:46 O
そもそも朝鮮全土の血液型の割合の平均値と島根を比較することに何の意味が。
朝鮮にも地域差があるかも、とか想像することもできないのかね。
>>526 新羅はともかく、百済については『周書』『北史』に「俗重騎射」とあるし、
『日本書紀』でも、百済王が良馬を献じたり、王族が騎馬と縁の深い放鷹に
巧みだったりする記事があるから、騎馬に親しむ文化はあったろう。
>>534 統計学に無知なようだが、
島根県人は朝鮮人と同じ母集団であることを否定できない
島根県人と日本人とは同一の母集団から選ばれた標本であることは支持できない
島根県人は朝鮮に渡って朝鮮を支配したのか
ふむふむ
弥生時代に半島に渡って、
5世紀頃に里帰りしてきた倭人製鉄集団が出雲に来たのだろう。
それなら説明つくけどね。
言っておくが出雲特有のの四隅突出墳墓と半島は何も関係ないよ。
539 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 10:26:02 0
>>529 現代韓国語の「ナラ」が古代朝鮮でもそう言ってたのかどうか
百済でも新羅でも高句麗でもそう言ってたのかどうか
三国志韓伝
韓は帯方の南にあり。東西は海をもって限りをなし南は倭と接す
韓の東と西は海で南は倭ですと言うことは半島南部にまで倭の勢力圏があったと言うことですよね
そういえば日本人の遺伝子は、
先住民系の父集団に渡来系の母集団でないと説明つかないとも聞いたがな。
面白い指摘だ。
古代豪族とか武士とかが武的で狩猟気質っぽいのってもしかして・・・
543 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 10:49:54 O
日本の稲作は朝鮮半島から北九州に伝わり渡来人の開拓とともに500年ほどかけて東へと広がっていった。
現代の日本人の遺伝的形成は渡来系が8割を占めており縄文系は2割程度と言われる。
さらに3〜4世紀頃に半島から多数の渡来人が列島に渡って鉄器や農耕技術を日本に伝えた。これは日本の人口急増した時期と一致している。
交通の未発達だった時期に人口を急増させるほど渡来人が来ることはあり得ないという批判があるがこれは的外れである。
なぜなら渡来人が鉄器や先進的な文明や社会制度を持ち込んだことにより社会の安定がもたらされ日本で渡来系が増え土着の縄文系を駆逐したと考えるのが自然だからである。
考古学的に考えてもヤマト王権は渡来人の征服王朝であることは否定できない。
544 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 11:44:27 0
では、朝鮮半島にはいつ頃どのようにして稲作が伝わったのか?
545 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 12:17:07 0
>>543 ツッコミどころ満載だが、2点だけ指摘しておく。
第1点。稲作農耕は朝鮮半島に自生したものではなく、日本列島に稲作を伝えた
人びとは、朝鮮半島南部に稲作を伝えた人びとと同じ、中国江南地方の農民が主
流であり、時期的にもほぼ同時と考えられている。製鉄技術はほぼ同時に伝わっ
ている。
第2点。採集経済段階から生産経済段階への移行、つまり農耕の開始、鉄器の使
用は「社会の安定」をもたらさない。人口の急増とともに、水争い、余剰農産物
をめぐる争いなど抗争の多発をもたらすのであり、周囲をホリで囲まれた集落
(環濠集落)や見張り用の山城的集落(高地性集落)などは、農耕の開始が社会
の不安定をもたらすことを示している。同時に社会に貧富の差、身分差が生まれ、
各地に首長層が起こってくる。首長に率いられたムラが合従連衡と抗争を経てク
ニへ、小国連合へと規模を拡大していく。これは日本ばかりではなく、世界各地
でみられる普遍的な現象である。朝鮮も同じ。そのまとまりが魏志東夷伝に示さ
れる馬韓、弁韓、辰韓と呼ばれる小国群であった。「征服」はそれら土着の小国
に外来王が君臨するということであり、少なくとも日本列島においては、外来王
の侵入を示す文献資料・考古資料は皆無であり、むしろ、わずかに三韓の側に多
少そのような伝承がのこるという程度である。
>>541 先生!恐らく「母集団」と「標本」のレスへのレスだと思うのですが、
「父集団」って何ですか?
547 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 13:42:55 0
>>542 父系集団と母系集団って事じゃないの
男系遺伝子と女系遺伝子の比率の違いの事を言っているのではないかと思われる
548 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 15:42:59 0
結局、騎馬民族征服説はあきらめちゃったのか? ツマランw
549 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 16:19:41 0
ここ凄いな。
先週から過激派の襲撃を受けたんだね。
550 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 16:28:37 0
>>549 「王権の起源は朝鮮半島です」って断定のコメントした人がいて、それからコメントの嵐w
>>547 統計知らないんじゃねーのって言ってるんだと思うけど。
あんたもだけど。
552 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 18:33:39 0
統計学から縄文人駆逐説を導いている人類学者(?)の名前を教えてほしいねぇ。
最近の血液型遺伝学では縄文人(アイヌ・沖縄含む)が、
北東アジアから来たというのが主流なんだよね。
554 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 19:01:51 O
縄文人弥生人って区分けがなんかもうっ
現代日本人はひとりの人間の中に縄文人も弥生人も混在しているからなぁ
確かに渡来人は昔は日本を支配したかもしれないが現代では不細工の代名詞になってるよ。
俺もそろそろ「縄文人」「弥生人」の括りはやめたほうがいいと思う。
558 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 19:54:13 0
というか、「駆逐」とか「支配」という表現には重大な誤りがある。
559 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 20:03:23 0
560 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 20:12:33 0
朝鮮人は征服マニアだねぇ。
561 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 20:17:13 0
自分は国を作ったのは弥生系(別に中国からでも半島からでもどっちでもいいが)だとは思うが、それにしたって王朝を作ったのは渡来してきてから数百年たってからだろ
渡来系の子孫が建国したら征服されたことになるんだったら、世界中の国はアフリカに征服されたって事になるな
562 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 20:18:44 0
縄文人を征服した弥生人=朝鮮の人々
縄文時代に生活の拠点としてた場所と
水田耕作をするための生活拠点とはかぶらない。
ここは押さえて欲しい。
争うなら、水田耕作をする者同士が水田に適した土地を取り合うとき。
564 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 20:39:28 0
>>562 だから定住して弥生人になった時点で朝鮮の人々では無いのだが
半島にも中国系の人間も居ただろ
王仁なんてどうみても中国系だし
それに外来は何代経っても外人だっていうなら高句麗を朝鮮民族の歴史に入れるのはダメだよな
妄想を書く。
朝鮮では水車がないという。
これは朝鮮人に水車を作る能力がないということではなく、
水車を必要とするほど、水田耕作を重要視してなかったんじゃなかろうか?
もちろん畑にだって水は必要だけど、水車を作る程・作れる程の環境には無かったと
米なんてそんなに重要なものじゃないじゃない
566 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 20:43:06 O
その「隠蔽」に、新羅や中国が頼まれもしないのに、記録に一切残さないという
形で協力してくれて、倭は本当に隣人に恵まれましたねー(棒)
567 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 20:56:40 0
米というのはもともと熱帯の植物だから、北上するのが自然の摂理という気がする。
もしかしたら、今後の研究で、北九州の方が南朝鮮よりも早く稲作が開始されたことが
立証されるかもしれないね。
>>568 詳しくない人が推測したことが当たっているんだからたいしたもんだと考えろよ
ソースは?
>>569 ・稲の遺伝子の分布
・各地のプラントオパールで確認される年代
・水田遺跡の年代
これらを総合すると日本のが先に稲が入ってる
571 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 21:40:45 0
しかし右翼はどうして民族主義にはしるのかなあ
朝鮮二支配されているとそんなに困るの?
572 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 21:42:01 0
>>566 百済や新羅や高句麗は国が滅んでいる。
普通に史書が散逸した。
573 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 21:46:24 0
くだらない の語源は 百済亡い ですから
世界最古の炭化米が朝鮮から出土したという話があったけど、ガセネタなの?
575 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 21:56:21 0
>>573 金容雲とかいうトンデモ数学者がそんなこと言ってたなw
>>574 中国南部が今食ってる米の栽培始まった土地だからな
朝鮮が5000年前で日本が6000年前じゃなかった?
米と麦の両方が6000年前からとか
578 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 23:04:59 0
結論としては、「任那日本府はなかったけれど任那倭府(和府)はあった」てことで
いいのかな?
579 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 23:10:15 0
戦前の皇国史観はやめようぜ。
素朴な疑問だが、朝鮮半島では狩猟・採集・漁撈を主な生業とした時代って
いつ頃までつづくのかな? そこで採集段階の生活を送っていた人びとは韓
国人の先祖ではないの?
>>567 朝鮮半島最南端部は、大陸からの影響が強いそれ以北とは違い、
海からの影響を受けやすい地域だと思う。海というのは黒潮に乗って
東シナ海から辿りつく事もあるだろうし、九州や対馬からということも
あるだろう。そう考えると半島南部に任那日本府や親日的な百済が存在した
というのもまったく自然に思える。現在の国境の概念はいったん捨てて考えて
見るべきだ。
582 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 23:40:33 O
百済が倭と組んだのは地政学的要因が一番大きいと思うけど
583 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 23:53:39 O
古代朝鮮半島の生産力ってどんなものなのかねえ。
寒冷なので半島南端でしか水田稲作は出来なかったらしいけど。
それなら半島や満州の人間からすれば温暖湿潤な日本列島は美味しい天国に見えただろうね。
鉄器や先進的な中華文明があったら是非開拓したくなるだろうね。
584 :
世界@名無史さん:2009/05/06(水) 23:58:50 0
戦後将軍様の共和国は地上の楽園といわれていましたよ。
日本と中国の研究で水田稲作は中国の長江河口域から黒潮に乗って日本の北九州に伝わり、その後に半島に伝播したことがほぼ確実視されてるはずだが。
これは遺伝学的にも考古学的にも(炭素年代測定方とか)にも裏付けされてる。
ソースは松尾孝嶺著「栽培稲に関する種生態学的研究」とか。
もっともその説や測定方にケチをつけて頑張ってる朝鮮人や左翼研究者はまだいるけどね。
だとすると、倭人が新羅を建国したという伝承も俄然真実味を帯びてくるね。
587 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 00:44:47 0
新羅も倭人
倭も倭人
人口が全てというわけじゃないけど古代においてマンパワーは重要だしね
新羅と倭の関係はイングランドとノルマンディーの関係に似てると思う
まあ日本にとってのイングランドである新羅は征服されちゃったけど
589 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 01:14:19 0
でも新羅、百済、加羅で古代日本語を話したという話は聞かない。
逆に平安時代でも、朝廷で古代朝鮮語が普通に使われていたとはきく
スコットランド←イングランド→フランス
蝦夷←倭→三韓
>逆に平安時代でも、朝廷で古代朝鮮語が普通に使われていたとはきく
どこで聞いたんだ?
>>589 そらまああちこちの朝鮮人が渡来人の技術者やらなにやらで朝廷に受け入れられたし普通に使うだろう
>>589 これは朝鮮語研究者にとって朗報だな!!!
失われたと思われていた古代朝鮮語が、
平安時代の文学から復元できるなんて!
・・・しかし、古代朝鮮語って、日本語にすっごく似てたんだねぇ。
新羅35代景徳王はそれまでの官職名や地名を、
夷言だからという理由で、
中国風に変更する大改革を行った。
夷言とは何語か?
まさか自国語を夷言とは言わないよね。
答え…
日本語だったのだ。
595 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 06:54:49 0
>584 日本統治時代の遺産
596 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 07:13:42 0
今日も民族主義者が2chで自国が植民地でないとむなしい抵抗を
朝鮮のおかけで国ができたと認める勇気を持とうよ。
そんな史実はどこにも無い、逆はあるけどね。
朝鮮の僻みで歴史を書き換えられては困る。
598 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 08:05:10 0
http://plaza.rakuten.co.jp/toranokodomo/diary/200904020000/ 邪馬台国・朝鮮半島説における[倭国の所在地]に関する論証ポイントを4つ
挙げてみます。
1 古朝鮮は列水流域にあり、列水は遼東半島にあった。
「朝鮮に湿水・洌水・汕水あり、三水は合して洌水となる。」『史記集解』
「列は水の名、列水は遼東に在り。」『後漢書郡国志』
※遼東=今日の中国遼寧省東部
「列口は県名なり。列水の河口は遼東に在り。」『資治通鑑』の「漢記」
>これらの条件を満たす河川はひとつしかない。すなわち、中国遼寧東部を流れる
「太子河」である。よって、古代朝鮮もこの河川流域に存在した古代国家だった。
2 楽浪郡は元は古朝鮮だった。それは遼東半島にあった。
「楽浪は郡。もとの朝鮮国なり。遼東に在り。」『後漢書巻一光武帝紀』
「朝鮮、音は潮仙。国は遼東に在り。」『十八史略巻之二漢孝武帝三十七』
楽浪郡が統括した県の名に「朝鮮・列口・帯方…」がある。『漢書地理志第八』
「漢の武帝の元封三年、朝鮮を滅し分ちて楽浪・玄菟・臨屯・眞番四郡を置く。即ち
今の奉省南蓋平・海城・復州等処に在り。」『長白征存録』
※奉省=今の遼寧省遼河以東渾江以西、南蓋平=今の蓋県
「奉天府の東南は、遼東・楽浪・玄菟三郡、及び朝鮮の地なり。」
『大清一統志巻五十七盛京統部表』 ※奉天府=今の遼寧省瀋陽市
599 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 08:05:53 0
3 帯方郡は遼寧省東部方面に存在した。
「帯方県を按ずるに、疑うらくは、亦、今の省境に在り。」『奉天通志巻五十三沿革志』
※帯方県=帯方郡帯方県、省=奉天省=今の遼寧省東部方面
「帯方は列口県に有り。」『山海経巻十二・海内北経』
4 楽浪・帯方の南に韓国があり、韓国の南に倭がある。
「韓に三種あり、一に馬韓と曰い、二に辰韓と曰い、三に弁辰と曰う。
馬韓は西に在り、五十四国を有し、その北は楽浪と,南は倭と接す。辰韓は東に在り、
十有二国、その北は穢貊と接する。弁辰は辰韓の南に在り、また,十有二国、その南、
また倭と接す。」『後漢書巻き八十五東夷列傳』
『三国志巻三十魏書韓傳』中にも「韓」は「帯方」の南に拠って居た旨の記載がある。
以上をまとめると、
・古朝鮮は遼東半島の列水流域にあった。
・楽浪郡はもとは古朝鮮であり、遼東半島東部の列水流域にあった。
・帯方郡は列口県にあり、列口(列水の河口)は遼東半島にあった。
・楽浪郡・帯方郡の南に馬韓があり、馬韓の南に倭国がある。
・馬韓の東に辰韓、辰韓の南に弁辰、弁辰の南に倭がある。
つまり、楽浪郡・帯方郡は遼東半島にあり、その南に三韓(馬韓・弁韓・辰韓)、
その南に倭があった。
さらに、山形氏は三韓が遼東半島に収まるとし、遼東半島より南側の部分、つまり
現在の北朝鮮より南側全て(朝鮮半島全て)を倭国であるとしています。
600 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 08:30:45 0
事実は事実として認めましょう。
テンコロはチョンだし、箱根から西は日本じゃねー。
チョンにでもくれてやれ。
601 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 08:59:46 0
ジョークはジョークスレで
602 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 09:45:09 0
正統なる日本人は縄文人。
チョン族の王は半島へ帰れ。
DNA調べて602が朝鮮系だったらウケるな
604 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 10:01:42 0
やっぱり天皇は朝鮮人だったのか。
605 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 10:21:36 0
朝鮮人は日本の支配を受けていたことがあるのだから、
朝鮮人⊂日本人
てか、半島から渡ってきた系統だったとしても、どっちかっていうと満州系のような気がするのだが……
古代に朝鮮人なんていねーよ
弥生人=朝鮮人でもない。
というかこの縄文人・弥生人の区分け止めた方がいいと思う。
608 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 10:38:55 0
東日本人だけど天皇が嫌いな理由が分かったよ。
609 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 10:39:45 0
>>603 DNAの半分が朝鮮系だったりしたら、そいつはどうすればいいんだ。
611 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 11:15:11 0
察するにこのスレは、カルデロンさん一家の滞在にハンタイする極右主義者の巣窟か。
自分の国の歴史を認められないとは日本人終わったな。
征服と言ったって、一時百済の人が日本の地方政権を支配した程度でしょ?
人間がまるごと変わる訳じゃなし、征服して倭国の王となったんならその子孫は日本人。
朝鮮ごときがいつまでも騒ぐんなら、朝鮮はアフリカ系渡来人のものである歴史の事実を認めているのか?w
自分の国の歴史を正しく認識できない連中に、となりの先進国の歴史を語って欲しくないねぇ。w
613 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 11:25:25 0
>>611 あれは両親が不法入国なのが一番の問題なんだよ
法律破って入国して子供産んじゃえば永住権が貰える前例なんて作ったら世界中からの不法入国が劇的に増えて治安が悪化することを外務省は恐れているわけ
別に家族を引き離していじめようとしてる訳じゃないんだぞ
>>612 百済が日本の地方政権を支配した事実も、征服して倭国の王になった文献も無いぞ
あるのは弥生時代から古墳時代に書けて半島系の渡来人がいた事実と、その時代に大量のクニが出来てその一つが大和王権に発展した(渡来人系かどうかは不明)事実だけ
615 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 11:34:33 0
日本軍が朝鮮侵略したときに史料を燃やした可能性がある。
616 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 11:37:00 O
百済でも新羅でも辰韓でも金官でもいいからさ
半島人が渡来して倭に政権作ったっていう文献なり遺物なりはどっかにあるのかい?
もしあるとして、それらを証拠にして征服王朝説を唱えたいなら
日本が半島に支配領域を持ってたっていう文献や遺物が複数出てくることに対してはどう思うの?
617 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 11:40:54 0
>>615 可能性があると言われてもね……
とりあえず、
@それ以前に史料があったという根拠(そんな大事なことなら燃やしきれないぐらいの証拠があるはず)
A日本が燃やしたという証拠
のどっちがをあげてくれ
あっ、それと『日本軍が朝鮮侵略したとき』は事実の捏造だろ
無理矢理だったとしても『日本政府が朝鮮を併合したとき』だ
>>615 当時、日韓同祖論は、朝鮮併合の正当化に使われたんだけど。
なんで有利な資料を燃やす必要ある?
619 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 11:49:52 0
>615 ヒデヨシではないのか?(笑)
620 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 11:56:42 0
では、天皇はチョンってことで。
621 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 11:56:55 0
日ユ同祖論や義経はジンギスカン伝説同様の伝播なんだけどね 同祖論って
622 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 11:58:50 0
>>620 反論できなくなって論理破綻したのか?
何に対しての『では』だよw
623 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 12:23:54 0
関東以東は朝鮮の血が入ってる。
正統な日本人は東北人だけだろう。
弥生時代とかいらない。
調査とかでどんどん時期はさかのぼるし、
水田で時代分ける必要もないし、農耕はそれ以前からしてるわけだし。
625 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 12:26:16 0
>>623 いや、百済や高句麗滅亡後の難民の多くは東日本に流されたから、東北にもそれなりに入っているはず
626 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 12:26:41 0
訂正
×関東以東→○関東以西
627 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 12:29:49 0
>>625 そうですか。
日本全土がチョンだらけなんですね。
628 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 12:46:55 0
朝鮮半島には「写本」という文化継承の伝統はなかったのかねぇ。「ヒデヨシ燃やした」
の発言を聞くたびにそう思うよ。
>>627 それはいわゆるチョンに追い出された連中だ
遺伝子的にも半島の人種と違う
言語族がいまの朝鮮人と違ったようですね。
631 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 13:07:38 0
>>629 >遺伝子的にも半島の人種と違う
証拠は?
632 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 13:13:41 0
>>630 その可能性が結構あるみたいだな
というより、現在の朝鮮語と日本語に関係がほとんど無い時点で、朝鮮を統一したのは日本語族とは関係のない民族なのは明白
ってことは、もし昔の朝鮮半島が日本語族だったとすると逆に日本人は朝鮮の領有権を主張できることになるんだけどな……
いや、しないけど
634 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 13:19:41 0
>>633 それの事だったかよくわかんないけど、ある時代の歯だったかなんか調べたときに、母×息子・父×娘としか思えないような標本がうじゃうじゃ出て来て気分が悪くなったみたいな話があったな
635 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 13:25:41 0
連休すぎると議論が一気につまんなくなったな
まあこの時間帯レスするのニートか学生ぐらいだからか。
636 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 14:21:41 0
>うじゃうじゃ出て来て気分が悪くなったみたいな
それで気分が悪くなるのは日本人である証拠
637 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 14:23:21 0
勘違いしてる人がいるけど、天皇系=日本です。
日本国建国以前に日本人は存在しません。
たとえ、日本に住み、日本国籍をもっていたとしても、
その人々が天皇家と異なる民族(朝鮮民族、縄文人)であるならば、
その民族集団は日本民族とはいえないのです。
638 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 14:33:40 0
最近の反日朝鮮人は、縄文・弥生を持ち出して天皇を相対化させようとしている。
640 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 14:35:08 0
彼らは、天皇が朝鮮人で、アイヌが純粋日本人、などと狂ったことを喚き散らしている。
そうしたことから私は、ひょっとすると縄文晩期から作られたごく初期の水田は、
縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったもので
はないかと思っているんです。縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、
フットワークはかなり軽くて、朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃな
いかと(笑)。だからこの曲金北遺跡のように、水稲も陸稲もごちゃ混ぜの農耕
を行なっていた可能性があると思うわけです。
http://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000116_04.html 縄文人が朝鮮半島を訪れていたのではなく、縄文人が朝鮮半島に住んでいたと
なぜ考えないのでしょう。その方がよほど自然だと思いませんか。
縄文人が朝鮮に言ってそこで見た水田を真似たといったそのすぐ後に
朝鮮を経由しない水稲の証拠が!とか支離滅裂どっちなのよ
643 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 15:10:42 0
稲作を見よう見真似でできるものか、と小一時間
最低1年間張り付いてみてなければ習得できないのを、見よう見まねなんて・・・
644 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 15:15:02 0
東南アジアやアフリカからの農業研修生は、日本で2〜3年間学んで
帰ってからも10年ほどはあれこれ質問してくる。
見よう見真似などできっこない。
645 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 15:41:09 O
>>643-644 あればっかりはいくら機械化されても経験と積み重ねだから仕方が無い
稲作が始まった何千年も前どころか、農耕の始まった更にその何千年も前からそこは変わらない
日本型の水田跡とか朝鮮で発見されてなかったっけ?
あとアイヌ文化は鎌倉時代位に始まったんじゃなかったか?
人が根こそぎ入れ代わるようなことがあったわけではないだろうけど。
北海道にはオホーツク文化とかそんなのもなかったっけ?
弥生人=渡来人という考え方なのか。
で渡来人が原住民族を追い出したって考えてるのね。
650 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 22:28:35 0
応神大王は金官加羅からやってきた傭兵隊長だったらしい。
中国の史書における倭人の定義が2種類あるから面倒くさいんだよな
半島の先住民は倭人
653 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 22:56:29 0
三輪山のイリ王朝が金官からやってきた傭兵隊長応神に王権を乗っ取られたのが、
倭の五王のワケ王朝だな。
654 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 22:58:27 0
そう考えたら、応神大王が百済の侯王として、七支刀を下賜されたとしても不自然ではない。
うざいね。
巻向と大陸の関わりなんてほとんどないのだが。
656 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 23:12:38 0
657 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 23:13:53 0
うそばっか。。
応神天皇は北方からきたんだぞ!
名前からもあきらかじゃんか!!
658 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 23:17:30 0
>>657 全然あきらかじゃないね。名前がどうだから北から来たって?
659 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 23:28:58 0
応神の語源は北欧神話の大神、オーディン なのだ!!
660 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 23:55:21 0
これまでの話を総合すると、稲作は南方系の人々がもたらし、三輪王朝をつくったが、
加羅からの侵攻軍が三輪王朝を滅ぼし、これを合わせた。(神武東征の真実)
そして、日本各地の豪族を制圧し、これを合わせていった(ヤマトタケルの遠征)
とこういうことですな。
661 :
世界@名無史さん:2009/05/07(木) 23:57:33 0
つまり、神武東征の正体とは、加羅の王族の軍勢が三輪王朝を滅ぼす物語であり、
ヤマトタケルの遠征とは越の国からやってきた雄略=ワカタケル王の日本征服譚である。
662 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 00:02:01 O
質問なんだけど、
中国か東南アジアか朝鮮半島かはとにかく、稲作が日本に伝わったのは縄文後期〜弥生時代の九州が初めなのは間違いないよね?
そこから稲作は100〜500年かけて東へと伝播していく訳だけど、しかし考古学的には九州の王権が近畿を征服した証拠がないって事でいいのかな?
逆に纒向遺跡みたいに近畿に古くから巨大な王権があった証拠がある、という感じ?
稲作は非常に早い時期に北海道までひろがっている。
北海道ではその後廃れてしまったが
664 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 00:16:45 0
665 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 00:19:02 0
古墳時代は一時期寒冷化するみたいですね。日本海側はかなりのスピードで
稲作が北上したようですが。東北地方北部にも弥生時代前期の遺跡がかなり
あります。
666 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 00:26:32 0
>>632 前方後円墳は畿内から拡がってるので、
神武東征に類似する話は古墳時代の話ではなく、
それよりはるかに古い、米の伝播と関係してるかもね。
カンケーないが、韓国は未だに神話時代だね。このスレ読んでいて、つくづく
そう思った。
668 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 00:27:27 O
>>662 纒向遺跡が古代ヤマト王権の土台になった可能性は確かにある。現時点では有力と言っていい。
但し、纒向が縄文時代から存在していた事は事実でも、弥生時代の生活跡とかはほとんど見つかっていない。
つまり稲作の伝来とともに征服者がこの地域を土台にして作った政治的都市みたいなものだった可能性もなくなった訳ではない。
面白いのは纒向からは西日本全般の土器が見つかるし、朝鮮半島産のものまであるってこと。これをどう解釈するか。
西からの征服者が持ち込んだのか、巨大なヤマトの王権が各地から集めたのか。
今は後者という意見が多く見られるが(少なくとも学会では)だとしたら、この時期にどうやってそんな強力な王権ができたのか。
669 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 00:28:36 0
670 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 00:37:08 O
>>664‐666
なるほど。サンクス。
しかし稲作は九州が最初で鉄器は出雲、なのにヤマトの遺跡は近畿にあるっていうのはどういう事なのかね。
出雲も九州も力でたいらげるような巨大な王権が縄文〜弥生時代に既にあったっていうことなのか。
しかし天孫降臨は九州で神武は「東」征。もう訳わからん。
671 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 00:47:28 0
>>670 昔の事だから武力征服を想定しなくても、
宗教的征服も充分ありうると思う。
鉄器の少ない畿内が、鉄器の多い北九州を宗教的に屈服させた事も考えられる。
三輪山における聖山信仰なら充分ありうるかもね。
672 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 00:47:55 0
>>670 朝鮮人が半島からわたって弥生人、縄文人を征服したとかんがえれば全て説明できる。
>>672 マンパワー的に無理
征服じゃなくて乗っ取りの方がまだ可能性あるわ
674 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 01:29:30 0
>>585 一応簡単に答えとこう。黒潮は遣唐使が如く、
遭難ルートで航海の軸線じゃないし、歴博の年代測定じゃアテにならん。
歴博の連中が石器捏造を応援して結局藤村氏一人に責任を負わせたこと
からも解ろう。時代を繰り上げて古うすりゃあええもんじゃない。
しかも亡くなられた歴博の佐原真氏は左翼。
新羅の支配層は北方から南下したスキタイ様式の積石木槨墓人で、
土着の韓人や倭人を支配した。
戦後左翼史観の自民族発展段階説そのものの書き込みじゃのう。
>>674 朝鮮の地勢じゃどうやったって九州〜山陰山陽辺りの豊かなところを征服できないよ
造船技術も未熟だから九州辺りの豪族を討ち取るだけの人員を輸送できないし
677 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 01:42:19 0
>>675 >新羅の支配層は北方から南下したスキタイ様式の積石木槨墓人で、
>土着の韓人や倭人を支配した
何を根拠に?
新羅の5世紀からの高塚墳墓こそ倭の影響なんだが。
好太王碑にも新羅は倭の臣下にされたと書かれてるよね。
>>670 仮定の話になるが、神武「東征」というのは、実は「西征」だった可能性があると
思っている。要するに、大和勢力が九州勢力を最終的に服属させてその支配に成功
したということなのではないか。つまり、「東征」というのは強い政治的主張のこ
められた説話であると解釈することが可能だと思う。いわば、大和勢力による九州
支配の正統性をそういうかたちで訴えたものなんじゃないか。一種の「ヤマト・ツ
クシ同祖論」である。というのも、西日本で前方後円墳文化の波及が最も遅れたの
が九州であり、また、当時としてはやはり畿内に対抗できる最有力候補でもあるの
が九州だ。大和の西日本支配に最も不満を持ちそうなのもしかり。そう考えると宥
和的な意味合いもあったんじゃないか。この仮定を前提にすると、「神武東征」の
話で神武が大阪湾に入るするとき、水軍の力を借りたことが記されるが、逆に、四
国や東海、伊勢・紀州などの水軍の力を借りて大阪湾を拠点にして西に向かったの
ではないか。国生み神話で最初につくられたのが淡路島というのも、何やら象徴的
で、大阪湾から出発して初めて目標となる島である。
(678のつづき)
当時もやはり、瀬戸内海の制海権を握ったものが西日本を制したはずであり、そこで
重要になってくるのが、中間地域の動向ということになるが、畿内に次ぐ300メートル
級の大古墳をつくったのが吉備の勢力だということは、吉備は両者の中間にあって大和
の側についたのではないか。地理的にみれば、出雲の勢力を屈服させるのに貢献した
かもしれない。それが決め手となって、大和は西日本一帯を制し、朝鮮半島にも進出
できたのではないか。
いずれにせよ、吉備氏や紀氏はのちに地方出身ながら中央貴族に取り立てられていく
のに対し、筑紫、出雲は最大級の敬意が払われながらも大和王権内部では出世してい
ない。してみると、やはり「外様」とみなされる感覚がかなり後世までのこったもの
ではないか。
大和王権の朝鮮半島進出に寄与したのも海民勢力であり、鉄資源や倭鉄を大量に速く
運搬できるのも馬ではなく船であることは疑いない。ところが、その水軍は白村江の
戦いで唐・新羅連合軍に敗れ、壊滅状態に陥った。そこで、天武は朝鮮半島再進出を
断念し、律令制度を本格的に採り入れて日本列島内部の充実に意を注いだのではない
か。
まあ、ヨタと思ってくれていいが。
680 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 02:52:33 0
前方後円墳は3世紀に九州勢力と出雲勢力の融合で出来たで良いんじゃない。
さらに九州No1の武闘勢力が近畿に行ったので残ったのは小規模の民族だけで
南方の熊襲以外敵じゃなかったと思うが。東征は少しファンタジー色強いが
東征説は(神武はおいといて)崇神が奈良遷都と応神の帰還の二つあるよね。
ちなみに東から西に向かったのは景行じゃないかな?
海を渡る技術があったのは日本で半島にはなかったし
食糧生産も鉄器生産も日本の方が進んでいたに違いない。
682 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 03:46:04 0
兄さんはなさけないぞ。歴史を正しくつたえようという心が弟に感じれない。
683 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 05:53:43 0
ワタツミ信仰ってのは半島にもあんの?
東征は応神天皇の焼き直しというか、正当性を増すため
もしくは、応神天皇のあやふやさを薄める為にに作った話かも。
全然関係ないけど武の字が入ってる天皇(神武、天武、聖武、桓武)は祖宗って雰囲気でてるのに、
継体と応神は武がつかないのは残念。
まあ単純に天皇家の先祖が流れものだったってことかもしれん。
北条早雲や三河物語の徳阿弥みたいな感じの
686 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 06:07:56 0
継体=国体継承
689 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 09:55:00 O
稲作の始まる前かその最初期に既に近畿に大きな王権があって、
それが九州に伝来した稲作の技術を取り入れて全国に広めたと考えるとどうか。
古代史の研究者は稲作や鉄器の伝来と伝播を、=王権の誕生と勢力伸長に結びつける傾向があるけど
例えば戦国時代に革新的な兵器である鉄砲が伝来したからといって、その流通とともに種子島や九州の勢力が中央に進出した訳では全くない。
天孫降臨神話も稲作の始まりと伝来の歴史を近畿の王権が取り入れたと考えるとかなり納得できる。
690 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 10:19:39 0
>>689 稲作の始まる前に大きな王権があったということは到底考えられないが、「例えば戦国時代に革新的な兵器である
鉄砲が伝来したからといって、その流通とともに種子島や九州の勢力が中央に進出した訳では全くない」の部分は
おおいに首肯できる。技術の伝播は急速なものだが、王権の伸長と組織化には長い年月を要したことだろう。高千
穂は大和勢力・隼人勢力共通の霊峰であり、和解の象徴だったのかもしれない。
>>690 同意。水田稲作の初期において既に近畿に王権があったかどうかは不明だが
最近の研究では近畿やそれ以西に思った以上に生産力があって、早くから政治的な中心地みたいなものがあったのではないかという考えが主流になりつつある。巻向の遺跡もその一つ。
古代の支配者の力として重要なのは、その土地の生産力と組織的な動員力であって、稲作や鉄器が伝来した時にそれを受け止めるだけのマンパワーが近畿=中央にあったとすれば、
先進的な技術を取り入れた上で、その土地を支配することは可能だし、むしろ自然な流れだろう。
スレタイの任那もその一つだったのではないか。
もっとも、こういう主張は「縄文・弥生万世一系説」とか言って左翼研究者には叩かれるんだがw
任那って鉄の生産地でしょ。仮に倭が半島南端に支配域を持ってたとして、
生産地が重要だから海外に行ってでも抑えるべき、っていう発想は
鉄器の怖さを身にしみて知ってないと出てこないと思うんだよね。
つまり最初から鉄器を持ってた連中より、その連中に散々苦労してその技術を会得した勢力じゃないとそこまでは考えにくいのではないかな。
つまり大和が出雲や九州を征服する過程で、その重要性を知って、資源を抑えに出たと。
で、当時の朝鮮半島はまだムラの集まりみたいな感じで支配領域が拡げやすく、大和は交易しながら緩くそこを支配したのでは。そう考えると筋は通る。
693 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 14:44:04 O
>>691 左翼が、大和朝廷は日本古来からの王権だったって説が「天皇家万世一系と同じだ」って批判するなら、
騎馬民族征服王朝説みたいに、大陸や半島から渡来人が九州に来て、それが東を攻めてわざわざ大和に王朝作ったとかいう話も同じかもっと酷いだろ。
どんだけ無理矢理ルーツ辿ってんだってw
694 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 15:03:31 0
>>680 >前方後円墳は3世紀に九州勢力と出雲勢力の融合で出来たで良いんじゃない。
一応、四国の阿波讃岐地域が発祥になってるので、
忌部氏と関わってると思えるのだが。
そういえば、西日本より近畿の方が、古い馬具が出てくるらしいね。
697 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 15:40:28 0
698 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 15:50:16 0
出雲と張るために大和が任那を抑えたってのはどう?
任那を押さえたヤマトと出雲の鉄資源抗争っていうのはあったかもね。
で、その抗争の末に出雲が国譲りでヤマトの傘下に入り、日本海と瀬戸内海をまたいで
任那(採掘)→出雲(製鉄)→ヤマト(流通)という
海洋的な製鉄ベルト地帯を作ってたと考えると面白いな。
新日鉄(八幡製作所)とポスコみたいな関係があったりして。
702 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 19:32:21 0
山陰地方は砂鉄がとれまくるのになんで海をこえて。
703 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 19:33:17 0
そもそも「日本」と言う言葉は720年に記された日本書紀ではじめて現れ、「日本と書いてヤマトと読め」と書いたところから始まる。
それ以前には「日本」なんて言葉は無かった。
任那日本府があったか無かったかなんて議論する方が頭が悪い証拠。
704 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 19:40:16 0
大和王権が半島に影響力を持っていたのは事実だわな。
>>703 日本書記の解説書である釈日本記に
「任那日本府の元の名前は任那之倭宰」
と書いてある。「日本府」は日本書記編纂当時の国号の変更(倭→日本)にともなって書いた名前。
朝鮮人と同じ否定の仕方を何度もやるな。
706 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 20:27:43 0
日韓の考古学者のシンポジュームで任那日本府は無かったと言うことで意見は一致している。
それらしい物が有ったとしても倭国通商部みたいな物が安羅国に置かれていたのではないか?
と言うような結論だった。
707 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 20:35:20 0
>>697 名無しのおまえより俺は大学教授の方を信用するな
うせろよ右翼
708 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 20:36:21 0
709 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 20:51:26 O
拉致はでっちあげ、と言ってた大学教授の仲間に、任那日本府はデタラメ、と
主張する人が多いと思うのは気のせい?
710 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 21:11:13 0
大学教授は能力はともかくその主張は信用ならない
711 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 21:13:10 0
チョン涙目www
学者なんて所詮学問乞食
特に社会学系の学者なんて曲学阿世しまくりの一番信用なんねー連中じゃん
713 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 21:49:35 O
>>707 歴史学者、更に科学者(当然大学教授も多数)にも否定されている説を、更に悪化させた主張をできるこんな三流教授よりかはこの板の連中のがよほど信用できる
まあ君の国は歴史も科学も捏造だらけだからそう言いたい気持ちもわかるが…
714 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 22:15:50 0
真実に右も左もない
>>706 その倭国通商部こそ後世「任那日本府」と呼ばれた施設だっていうことか? 安羅
にあったということまで認めているのに、考古学者が、施設の性格まで考古資料を
用いて立証できるものなのかねぇ?
716 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 22:23:17 0
学者がこういったみたいな権威主義はよくないね。誰が言おうと根拠があって筋道が立って
いるのなら認めるべきだし、根拠に乏しいなら学者が言っても迂闊に信用すべきではないだ
ろ。自分の頭で考えることこそ大切だよ。
717 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 22:26:14 O
718 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 22:35:12 0
安羅を掘ったら、日本府の遺跡が発見されるかもしれないね。戦前の人力による
調査では掘り上げ可能な土砂の量は現代からみれば、きわめて微々たるものにす
ぎなかったし、発掘調査をしに渡鮮した学者も数えるほどしかいない。日韓で発
掘調査団を組んで、科学装置を駆使し、重機やコンベアを使って面的に掘ってい
けば、任那日本府跡が見つかる可能性はたいへん高いだろうね。
719 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 22:39:42 O
蘇る古代
ロマン:*:・( ̄∀ ̄)・:*:
720 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 22:41:10 0
あら、から、なら、しんらは兄弟国だかんね
721 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 22:58:11 O
耽羅も含め、全部倭人が建国した兄弟国ですね、分かります。
722 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 23:06:39 0
スキージャンプ競技の飛型点は最低点と最高点を省いて平均点を出すけど、
歴史も同じようなもの。
バイアスかかって変な意見はどんどん省いていって、やっと本質に近づけるのだ。
山尾のような事を言ってる学者ってほとんどいないのに、
それをわざわざ取り上げるNHKって…。
723 :
世界@名無史さん:2009/05/08(金) 23:11:38 0
前195年 中国人の衛満が朝鮮半島初の国家を作る
前108年 中国皇帝の武帝が衛満朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の四郡を敷き植民地とする
前37年 満州族が高句麗を作る
4世紀 百済・新羅を建国。日本を大国と崇め、人質を送る
7世紀 高句麗と百済が消滅。新羅は中国の属国となり、独自の名前と年号を捨て、中国式の名前と年号を使い出す
10世紀 新羅消滅、高麗建国
13世紀 高麗はモンゴルの植民地となる。劣等感で一然という僧が檀君神話を捏造し、忠烈王がモンゴルに日本侵略を唆す
14世紀 高麗消滅、李朝建国。李朝は最初から中国の属国で、国名も中国に決めてもらった
19世紀 日本が日清戦争で中国を破り、属国の李朝を独立させてあげる
1910年 李完用の要請により日本に併合してあげる
1945年 日本敗戦、朝鮮半島はアメリカ軍政庁の統治下に
1948年 アメリカに大韓民国を作ってもらう
1950年 アメリカとソ連の代理戦争である朝鮮戦争が起き分断国家となり、今に至る
いろんな意見を紹介するのは良いことだと思う。
NHKも、山尾の意見を「こういうのもある」として紹介するに留め、
他のまっとうな意見と共に紹介して、
当否は視聴者に任せる形なら良かったと思うんだが。
(放送大学みたいになるかもしれんが)
なんでテレビ屋は自分の意見を押しつけたがるのかね?
わからないものはわからないで良いのに。
725 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 00:02:58 0
アイデンティティが必要だから
727 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 00:52:27 O
>>726 安価先の文すらよう読めずにレスつけとるんか。恥ずかしいのう。
728 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 02:02:42 0
729 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 02:11:10 0
730 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 02:36:42 0
>>503 読んだイメージでは
高天原=北九州
葦原中国=出雲など日本海側を中心とした本州と思った。
スサノウ神話の記述は
この北九州と新羅と出雲を結ぶ三角形では。
732 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 06:33:11 O
天孫降臨の神話は、普通にヤマトから九州との融和のために派遣された王族が
またヤマトに帰って即位する話にしか読めないんだが。
これを渡来人が征服王朝作った話っていうのは無理あるだろ。
733 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 08:18:18 0
征服王朝説はもともと優秀な民族は他民族を支配してよいし、支配すべき
だというナチスの影響を受けた考え方だし、農耕民族は土着の王権をつく
れないという思いこみのうえに立っている。海を渡って島じまを征服しよ
うと扶余系?の騎馬王が思ったところで、誰がついていったか、現本拠地
を誰に支配させたか、現地の抵抗はありえないのか、馬を大量にどうやっ
て当時の船で運んだかなどという実際的な問題が噴出する。これらに答え
ようとすれば、ただちにそれが不可能なことは了解しえることだ。馬鹿に
するつもりはないが「絵に描いた餅」でしかない。
734 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 08:55:16 0
735 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 09:07:19 0
それがなにか?
736 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 09:14:25 0
山尾説はどうでもよい。いいかげんウザイから別の板いけよ。
>>726 白馬青牛はとうとう名無しになったかw
>おいおい、世界中にある高塚墳の起源が倭じゃったら人類の起源も
>倭になるんか?妄想論はやめとけ
アホ?
誰が世界中なんて言った?おまえ日本語もまともに読めないのか?
韓国の三国時代墳墓の高塚化過程については林永珍(全南大学校博物館館長)も、
日本からの強い刺激と言ってる。
間違いなく大和の出先機関はあったね。
文献も古墳などの遺跡からも。
あとはそれがどの程度のものだったのか!
時代によって違うだろうけどね。
大使館的なものだったのか、各国に内政干渉できる程のものだったのか。
739 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 10:48:49 0
北方木槨墓人でぐぐって上位に来る文章、語尾が
>>726と同じく「〜のう」口調
ばっかりなんだが、中の人同じなのか?
740 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 10:51:32 O
>>733 元寇みたいに軍勢を率いて日本を征服したとは限らないだろ。
優れた文明を持って半島や大陸からきた渡来人が地方の勢力をまとめて徐々に中央政権を組織していったと考える方が自然だろう。
当時は大陸の人間の方が国つくりの組織的ノウハウは進んでいただろうし倭人もそれを積極的に王に戴いくことでまとまった可能性は高い。
少数派でも渡来系の英雄がその国の権力者になった例はいくらでもあるだろ。
>>740 それなら、初期の古墳からもっと大陸系要素の強い出土品が出てないと説明がつかないな。
土着の勢力が伸長して国家を形成して行ったと考える方が、現実の発掘結果には合ってる。
742 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 12:45:56 0
>>740 国つくりの組織的ノウハウっていうのは何なのかな。そういうものがあってが初めて、国が忽然と
つくられるというのもナンセンスな話でしょ。
743 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 13:15:27 0
>>740 漢書地理志などによれば紀元前後の朝鮮半島も日本列島も、現在でいう郡か市町村くらいの
規模の小国に分かれていたわけで、魏志などによれば、朝鮮半島では4世紀までその状態がつ
づく。後漢書によれば、2世紀に倭国で大乱が起こっていたが、3世紀には30余りの国家から
なる国家連合が西日本にできていたが卑弥呼の死によりいったん乱れた。しかし、3世紀後半
に台与が王女になると混乱が収まったとしている。邪馬台国は、北九州の伊都国に監察官を置
き、周辺諸国はこれを怖れていたということだが、そういうふうに既にある程度小国の統合が
進み、政治制度が整備されているところに、渡来人がやってきても、王権を樹立することは
不可能でしょう。それこそ大軍を送って軍事的に征服して無理やり自分たちのシステムを押し
つけでもしない限り不可能なのでは?
>>739 日本史板にいたコテハンの白馬青牛。
名無しになっても広島弁なんですぐ分かるw
小麦の栽培が現在の中国の地域より日本の方が早かったとは考えられない。
その内中国でもプラントオパール見つかるんじゃない?
746 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 18:56:48 O
お前ら手塚治虫の火の鳥読めよ。天孫降臨が征服神話なのは明らかだろ。
卑弥呼亡き後の邪馬台国を朝鮮半島からやってきた高天原族(天孫族)が征服して出来たのがヤマト王権なんだよ。
その首長がニニギなの。基本だよ基本。
>>746 だとすると、天孫族をいただく優秀な騎馬民族の末裔日本人が中国化・農民化して
堕落し、劣化した朝鮮・満州を支配するのは神意にかなった痛快事ということにな
るなw
卑弥呼の時代、朝鮮は中国の帯方郡の植民地だろ。
わざわざ海外遠征で征服王朝作る力があるなら普通に独立するだろ。
まあ火の鳥だと負け組が日本に渡って成り上がる話になってたが。
征服王朝説って明から清に移行するようなもんかね。
あるいは新羅が高麗になるとか。
751 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 19:43:03 O
こうだったらいいなぁっていう妄想
752 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 20:05:37 0
いまどき天皇が現人神だなんて信じてるは朝鮮人か右翼だろ。
200年近く存在していたんだな
それはけっこうすごいね
754 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 20:17:25 0
江上波夫の説では「任那日本府」は実在の統治機関ということになっているな。
755 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 20:25:58 0
この問題は、倭と朝鮮の2者関係で解釈してはいけません。
中国も含めた3者関係で解釈しないといけない。
まず、倭国であろうが、百済であろうが、
この時代の北東アジア情勢においては、中国王朝の権威が絶大で、
中国の臣下に認められることによって、その立場が保障されるわけです。
そのことを理解しないといけない。
だから、倭国が宋(中国)に対して半島南部の軍事的支配権を求める前に、
まず、倭国王が中国の臣下であることを受け入れることを前提に成立している。
じゃないと、中国から、中国の版図である朝鮮半島を侵略した、
侵略者というふうに認定される。
これは、百済も同じで、百済王の国際的地位も、
中国皇帝の臣下という地位によって成立している。
日本や朝鮮半島の国の中で、
当時、もっとも中国王朝の忠実な臣下は、百済なわけです。
百済という国家は、西暦4世紀に楽浪郡が崩壊した直後に、
馬韓の中から成立し、馬韓をほぼ統一した国であり、
この国は楽浪郡で働いていた中国人が多く亡命して国家でした。
だから、中国と関係が深く、また、中国皇帝の直接の臣下でした。
しかし、西暦5世紀、5人の倭国王が、
何度も中国皇帝に安東将軍の官位をもとめている。
倭国王は、百済に対する軍事的支配権も求めていすが、
これは、中国皇帝は絶対に認められないわけです。
これを認めてしまうと、百済王は、
中国皇帝の直接的な臣下(直臣)ではなく、
間接的な臣下(陪臣)ということになる。
国際違反ですし、中国の信用問題になる。
だから、最初の4人の倭国王については、中国皇帝は、
その要求を却下しました。
そうしたら、5人目の倭国王である武(雄略天皇)が、
半島南部への軍事的支配権を認めないのなら、
自分は中国との臣下の関係を止めるかもしれないと脅迫してきた。
それが倭王武の上奏文にある「治天下大王」という発言なわけです。
倭国の世界は、中国の世界とは別だと宣言した。
だから、中国王朝は、倭国王に対して、百済という国名は出さずに、
馬韓という、あのあたりの旧名を出すことで、お茶を濁しました。
つまり、中国王朝は、倭国に対して、
朝鮮半島南部の軍事的支配権を認めたが、
倭国が百済王朝を直接的に支配することは認めないという、
かなり矛盾した苦肉の策をとった。
中国王朝の建前と倭国王の要求の中間を取ったわけです。
ちょうど、この頃、半島南部に前方後円墳が出現します。
倭国王としては、半島南部を軍事的に統制することを、
中国皇帝から信任を得たので、堂々としだしたのでしょう。
そのあと、任那倭府の組織ですが、長官、副官あたりは、
倭国からの豪族がついていましたが、それ以下は現地の伽耶人がついていた。
あくまでも、倭国の目的は、伽耶の鉄資源を独占することであり、
伽耶の軍事的に統制するのが目的だった。
伽耶の内政は伽耶人がやるわけです。現在の在韓米軍みたいなものです。
しかし、この組織も、西暦6世紀前半になると、
伽耶の隣国の百済系の人物を採用しだすようになる。
それから、時期がたたずに、倭国は伽耶を百済に割譲したと、
日本書紀には記載されている。
758 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 20:35:11 0
>>755-
>>757 矛盾のない立論で、歴史事象の"Why"をよく説明なさっている。感服しました。
759 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 20:51:46 0
天孫降臨の話は、単に王家の神聖性を主張しているだけだろ。王が天上世界や神々につらなる
神聖な一族の出身であり、それゆえ支配者たる資格をもつ人びとだということを言っているだ
けで、これは、どの王家にとっても都合がよいから、どの国にも残っているというだけのこと
じゃないのかねぇ。『日本書紀』の編纂された天武天皇の時代だったら、各国の始祖神話を参
照するのも容易だったろうし。
大陸と海洋の勢力争いという視点が必要。
おそらく半島南部には昔から一部縄文人が住んでおり倭国も勢力範囲と
見なしていたが、大陸北部からの圧迫が強まり最終的には半島から倭国勢力
は追い出され、それが中華の権威を否定し独自の権威を打ち立て自立する
という原動力となった。その後日清戦争まで朝鮮半島は華夷秩序に組み込まれたまま。
761 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 21:24:02 O
後醍醐天皇の側近である北畠親房が書いた「神皇正統記」に
「昔日本は三韓と同種也と云うことありし、かの書をば、桓武の御代に焼き捨てられしなり」
とある。天武以降の大和朝廷がいかに必死になって証拠を隠滅していたかがよくわかる。
そもそも倭とは今の日本を指すのではなく中国の支配領域の東を意味する言葉でありその主とは朝鮮半島南部である。
天皇家が半島からやってきて日本の地域豪族達はその天孫族を上に戴く事で比較的に平和にまとまって中央政権を作ったと見るのが自然。
征服王朝説という名前からモンゴルの侵略みたいに考えるから話がややこしくなる。
天孫族も積極的に日本に溶け込み列島の原住民もそれを崇める事で平和的に融和した。イギリスがドイツから王家を迎えたようなものだ。
天皇が原住民ならあんなふうに特別な存在として崇められない。神は海=天(アマ)からやってきたのは神話的にも一致している。
>>757 なかなかよくまとまってるけど、
細かく見るといくつか突っ込みどころがある。
>半島南部への軍事的支配権を認めないのなら、
>自分は中国との臣下の関係を止めるかもしれないと脅迫してきた。
武の上表の「若以帝コ覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功」のことかな。
これを脅迫というのはうがちすぎ。
>それが倭王武の上奏文にある「治天下大王」という発言なわけです。
そういう文言はない。倭国の鉄剣銘のほうだろう。
>だから、中国王朝は、倭国王に対して、百済という国名は出さずに、
>馬韓という、あのあたりの旧名を出すことで、お茶を濁しました。
都督諸軍事に馬韓(慕韓)を含むのは、武からじゃなくて珍以降。
馬韓というのは百済に征服されていなかった馬韓諸国すなわち
『日本書紀』のいう「任那四県」のことだろう。
763 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 21:32:03 O
三国史記(新羅本紀)より
295年の春に王が臣下に問うた。
倭人が度々攻めてくるので百姓が安心して生活できない。
我々も百済と同盟して海を渡って倭を攻めてみようか。
重臣達はこう答えた。
我々は海戦は苦手であります。
百済も信用できないし、不測の事態を招くでしょうからやめた方がいいと思います。
それもそうだ、と王は納得した。
>>761 >そもそも倭とは今の日本を指すのではなく中国の支配領域の東を意味する言葉でありその主とは朝鮮半島南部である。
この部分出典kwsk。
朝鮮半島南部は韓のはずだが。
765 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 21:46:26 0
>>761 神皇正統記って何世紀の著作なのかは御存知かなw
>>761 >「昔日本は三韓と同種也と云うことありし、かの書をば、桓武の御代に焼き捨てられしなり」
三韓とは高句麗、百済、新羅のことだろうが、それと日本が同種というのは
現代から見ても電波だが、当時でもデタラメ扱いされていたんだろう。
桓武朝ではちょうど『新撰姓氏録』という諸氏族の系譜書の編纂が
行われていたから、トンデモ本は焼き捨てられることもあったんだろうな。
ちと、もったいないが。
767 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 21:49:19 0
>>761 >昔日本は三韓と同種也と云うことありし
見事な論理矛盾。
文化も人種構成も違うから三韓と呼ばれてたのだが、
さてそのどこと同種という訳だろうか?
768 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 21:54:28 0
>>766 高句麗は三韓には含まれていないようです。三韓は農耕民ですが、高句麗は満州に住む
狩猟民族の貊(はく)族のはずです。
770 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 22:02:56 0
対馬が日本の領土なのは半島から列島に人が進出したのではなく
列島から半島に人が進出したことの名残だろう。
771 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 22:07:10 0
772 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 22:09:15 0
>>770 鋭い指摘w
あと半島南西部に海女文化が見られるのは、
古代の日本の名残だろうね。
>>768 『日本書紀』や『旧唐書』には高句麗以下三国のことを
三韓という例があるし、北畠親房の時代であれば、やはり
その三国を指したはず。
高句麗の生業については諸史書で土地は痩せてて良田はないが、
農耕に励んでいると書いてあるよ。
774 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 22:12:23 0
高句麗と倭国が朝鮮半島中央部で死闘を交えたのは高句麗好太王碑文という同時代
資料で明らかなのだから、一時的にであれ、朝鮮半島南部の「三韓」の地が日本の
支配下に入ったのは、論じるまでもなく明白な事実でしょう。そこからスタートし
ないと話にならない。
775 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 22:16:17 0
>>770 「対馬」という漢字は、「馬韓」の対面(トイメン)という字解きだわな
776 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 22:18:26 0
いやん、馬韓!
777 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 22:31:08 0
778 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 22:36:08 0
古代日本はアメリカ合衆国みたいなもんだろ。
>>778 比喩は要らない。文献と考古資料で語るべし。
780 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 22:45:01 0
781 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 22:47:21 0
結局いまの平壌付近に、何百年ものあいだ、中国人の植民地である楽浪郡・帯方郡が
置かれていたということが大きいわな。そのために、朝鮮半島南部の韓族は政治統合
が妨げられてしまった。百済・新羅も4世紀後半にならないと登場しないわけだね。
782 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 22:50:51 0
韓国の文学博士ってのは馬鹿でもなれるんだなw
>>781 その楽浪・帯方二郡を高句麗が攻略したことで、楽浪王氏らの知識人が諸国へ
散らばって、国家形成が促されたと。高句麗に対して、百済は対抗し、
新羅は従属する道を選ぶ…
784 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 23:39:28 0
日本の王権は、部民制という緩い支配によって地方・中央の豪族の既得権を守りながら、
新しい文物の導入をコントロールしていったんだろうね。『隋書』にも「新羅・百濟は、
みな倭を以て大国にして珍物多しとなし、並びにこれを敬い仰ぎて、恒に使いを通わせ
往来す」という記述があって、新羅・百済が倭国に朝貢していたことが明記されている。
785 :
世界@名無史さん:2009/05/09(土) 23:54:42 O
三国史記には倭人が紀元前から度々半島に侵攻してきたという記録があるけど
実際、その頃の倭国の海上輸送力ってそんなに強力だったの?なにかそれを証明する遺物なり記録なりはあるの?
百済滅亡後は1000年くらいずっと列島に引きこもってたし、秀吉の半島進出も失敗した訳で
文字もない頃の日本が海外領土とかどうにもピンとこないんだが。
>>784 というか、廃藩置県までは一種の連邦国家じゃないのか
787 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 00:09:00 0
半島南部は倭だったわけだから橋頭堡はあったと言うことになるからね
それにまあインドネシアあたりから渡ってきたり江南から渡ってきた連中だし
789 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 00:20:57 O
>>787 サンクス。おー、これはトロイに攻め込んだギリシャ連合の船みたいだね。
アキレスみたいな倭人が上陸戦で活躍したとか。
しかし海外侵攻って物凄い国力が必要な気がするけど、当時の日本にそこまでの国力があったのかな。
古代では大規模な大陸国家でもないかぎり無理なイメージがあるけど。
790 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 00:24:30 0
船に関しては縄文時代にも遠洋漁業をやっていた証拠があるから、伝統的に船の扱いには
慣れていたんじゃないか。船形埴輪も古墳の副葬品として多数出土するし、倭寇の例もあ
る。白村江の戦いでは、『旧唐書』では倭国水軍の船400艘、『三国史記』では倭国水軍
の船数1000艘と記述される。割り引いて考えても、決して少なくない数だと思うが。
791 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 00:39:42 0
(790の補足)
補足すると、『旧唐書』の400艘は焼き払った船の数、『三国史記』の1000艘は白沙に停泊した船の数と
いうことらしい。1000艘というのはにわかに信じられないが、『旧唐書』の方は誇大な数字を掲げていな
い分だけ信憑性がある。それも焼き払った船の数として掲げているから、実際に動員した船はもっと多かっ
たのかもしれない。唐水軍170艘ということだから、推測される当時の唐と倭国の国力の格差でこの問題を
処理してしまうのは誤解のもとだ。ここで倭国が勝利し、百済が復興したなら、東アジアの歴史はまた違っ
たものとなった可能性があるね。
>>791 なんか当時の倭って赤壁の魏軍ばりの超大国みたいだなあ。
この当時、日本は生産力においてなんらかのピークを迎えていたのだろうか。そうでないとこんな規模の海外遠征は無理な気がする。
その後は国内にずっと引きこもってた訳だし、しょっちゅう海外遠征する日本っていうのはなんかかなり異質だよね…。
793 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 01:09:01 0
>>791 その倭国の船は、丸木舟とはいわないが手漕ぎボートくらいの小船なんじゃないのか?
なんかのCGでもそんな感じだったぞ。
唐の大船が、倭のボートみたいな小船を一方的に屠ったんじゃないのか?
794 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 01:12:02 0
>>792 実は、思いのほか結構大国だったんじゃないかという気もする。中国は、分裂状態を再統一しても、
黄河の治水や遊牧民族への対応に巨大なエネルギーと人的資源を割かなくてはならない。日本の場
合はそういう厄介な問題が少なく、船材となる森林も豊富で、水兵の調達も比較的容易だったので
はないか。
795 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 01:13:05 O
圧倒的にしょぼい船だったら中国の正史が記録に残すでしょ。
796 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 01:22:28 0
少なくとも、百済が頼りにするほどの勢力を持っていたことは事実だろうね。百済の王族は、倭国によって
その婚姻が決められており、倭人との混血が繰り返されていた。基本的には、百済王の后は倭人の中から選
ばれ、その王子が即位するまでのあいだは倭国に人質として送っていたから、ヤマトの王権からすれば身内
みたいなものだし、国家としてみれば、一種の衛星国のようなものだったのだろう。
797 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 01:26:43 0
当時の倭の船って、丸木くりぬいた上に側壁立てただけの準構造船とかいうやつだろ。
大きさから考えても、唐の軍船とは勝負にならないんじゃないの?
798 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 01:45:13 0
>>797 準構造船は5世紀段階の話でしょ。白村江以前に遣隋使船、遣唐使船送っているんだから。
まったく馬鹿には付き合いきれねーw
どうでもいいが、CGとかアニメをソースにする香具師って一体何なの?
801 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 02:00:27 O
6世紀以前の日本の人口ってどんなもんだろうね。
奈良時代が5〜600万人と聞いたことあるから数百万人はいたのだろうか。
同じ頃の中国は三国史の乱で人口が800万人くらいまで減ったらしいから、当時の日本はかなりの大国と言えたのかもしれない。
802 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 02:19:09 0
>>798 5世紀の準構造船の時代にも朝鮮半島に出兵したり、
中国南朝に遣使したりしてるわけで。
803 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 02:21:02 0
>>801 『魏志』倭人伝によれば、
対馬国:千余戸
一支国:三千許家
末蘆国:四千余戸
伊都国:千余戸
奴国:二万余戸
不弥国:千余家
投馬国:五万余戸
邪馬台国:七万余戸
ということらしい。
『晋書』地理志では280年当時の楽浪郡は6県3700戸、帯方郡7県4900戸なんだそうだ。
初期の遣唐使船は120人乗りと言われているから、白村江の戦い当時の軍船が
準構造船ということはさすがにないでしょ。
805 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 04:49:31 O
AV機器板から来たけど、ためになるねこのスレ。
昔を思い出すわ。
遣使だけでいうなら弥生時代にもしてたでしょ。
上の方で倭が文字持ってないって頑張ってる奴は何?
魏からの手紙読めたり倭王達が書簡出せる理由考えろよ。
日本で金石文が少ない=漢字使える人間が存在しない、じゃねーことぐらい素人の俺でもわかるぞ。
大体大陸系、半島系の人間の子孫が日本で文官やってんだろーがよ。
806 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 04:55:55 O
>>803 その数字って、どのくらい信頼できるんですか?
地域によって…例えばキムチ半島の数字はほぼ正確だけど、日本はあいまいな数字かも知れない、なんて話はあります?
まあ、大陸からも、某半島より人口が多いと認識されていたのは間違いないと思いますが。
807 :
HR-X3SPT:2009/05/10(日) 05:04:17 O
てか、天孫族なんて言葉がまず気持ち悪い。
キムチ用語ですか。
出雲民族とかウガヤ王朝並に気持ち悪いぜ。
馬鹿な半島アンチは鬱陶しいから消えてくれ
サヨ、ウヨの代理戦争スレと化してるな
人格攻撃をするのはチョン
>>806 当時の倭はまだ戸籍のない時代だから、完全に正確かと言われると疑問は残る。
だが、魏の遣使が伊都国に滞在し、風聞を集めているのでまるで根拠のない数字でも無い。
同時期の蜀漢の人口が28万戸なので、邪馬台国、投馬国、奴国の3国だけでその半分の人口があった事になる。
日本が2世紀当時からかなりの人口を擁していた事は間違いないと言えるだろうね。
>>807 天孫族と言うのは「新撰姓氏録」に出てくる語で、れっきとした歴史用語。
「神別(神武天皇以前の神代に皇室から別れ、あるいは生じた氏族)」のうち、瓊瓊杵尊から3代の間に分かれた子孫、あるいは天火明命の子孫を「天孫」と分類している。
これを拡大解釈してあれこれ当て嵌めるから、お前さんの言うように胡散臭い用例も出てくる訳だな。
811 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 08:56:52 0
半島南部は元々倭人の住むところだったんだろうな。
そこへ韓人が北からやってきたと。
甕棺墓とか九州北部から半島南部に広がった墓制なんだろ?
813 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 09:16:39 0
カラ、コシ、キビ、ツクシ、ケヌ、ヤマト。。
同格の国家群。
半島南部の倭人といっても、3世紀以前と4世紀以降は一応分けて考えた方が
いいと思う。狗耶韓国を「その北岸」と呼んでいるからといって、これを倭
人の国と考えたり、倭人はもともと朝鮮半島の原住民であったように考える
向きがあり、弥生土器の大量出土をその証拠として掲げることもあるが「韓」
とあるから、やはり「倭」とは区別される存在ではなかったか。これは、対
馬・壱岐の住民が交易のために出かけ、室町時代の三浦や江戸時代の草梁の
ように居留地ができていたということではないかと思う。『魏志』倭人伝に
よれば、対馬国・一支国は自給自足が難しく、船に乗って南北に「市糴」す
るとの記述がある。楽浪郡までのルートの安全と貿易特権を保障してもらう
ために女王卑弥呼は魏に遣使したのではないか。魏は呉との戦いのなかで呉
の背後をついてもらうことを期待して厚遇したのだろう。ところが、楽浪・
帯方の両郡が滅ぼされるや、そのルートの安全は自ら守らなくてはならない
事態に直面した。ここで、交易ルートの軍事化がもたらされた。準構造船で
朝鮮に出兵できるかといえば、それは可能であったろう。海戦ではなく歩兵
の運搬が主であったわけだから。高句麗との死闘は一進一退だったが、南部
の拠点(=任那)づくりと百済の友好国化・属国化には成功した。5世紀代に
日本に騎馬文化がもたらされたのは高句麗との戦いとその経過を通じてのも
のではないか。
ちなみに実験考古学の成果によれば、武器としての石器は鉄器に劣るとは必ずしも
言えないようだ。黒曜石製の石鏃が鉄製の甲冑を射抜いたそうだ。当時の鉄は、一
義的には貨幣だったのであり、『魏志』にも、韓・穢・倭はあらゆる市買に鉄を用
いることは中国で銭を用いるがごとくであり、またこれを楽浪・帯方2郡にも供給す
るとの言葉がある。鉄は酸化し、腐食しやすいので、おそらくは何度もリサイクル
されたのであろう。日本でつくられた鉄の延べ板を倭鉄とよび、朝鮮半島からも大
量に出土する。鉄は、二義的には、工具であり、農具であった。だからこそ、当時
としては銭の代用になり得た。朝鮮半島南端を抑えた倭の五王は同時に鉄供給の独
占権を得たのではないか。それが、5世紀代の和泉平野における巨大な墳墓の造営
を可能にしたのではなかろうか。
朝鮮半島では5〜6世紀の新羅・百済・任那の勢力圏内で大量のヒスイ製勾玉が出土
(高句麗の旧領では稀)しており、新羅の宝冠や耳飾などにヒスイ製勾玉が多く使用さ
れている。このことから、戦前の日本の考古学者は、倭国の勢力範囲を示すモノと解
釈していたが、戦後の学者は一時、朝鮮から日本への伝来と新解釈を提唱していた。
しかし、勾玉に使われる宝石レベルのヒスイ(硬玉)の産地は、アジアでは日本とミャ
ンマーにほぼ限られ、朝鮮半島にはその産地がないことや、また朝鮮半島で出土さ
れるものは日本出土の硬玉製勾玉を時期的にさかのぼる例が認められないことに
加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のも
のと同じものであることが判明した。これにより倭の勢力範囲を示し、少なくとも倭か
ら朝鮮半島へ伝播したものであると考えられている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B9%E3%82%A4%E8%A3%BD%E5%8B%BE%E7%8E%89 九州島の文化圏は打製石鋸や結合型釣り針など、朝鮮半島や渤海湾沿岸の新石器
文化との間に共通する要素を多く持っており、これらの地域との間で継続的に人や物
の移動があったと推測されている。
列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。温帯ジャポニカ
による水稲農耕の始まりも近年の稲DNAに基づく研究では、DNAの多様性が朝鮮半
島の方が少ないことから南方経由の可能性が高いとされ、また朝鮮北部での水耕田
跡が近代まで見つからないことや朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年
が最古であり、日本列島のものを遡れないことなどから、稲作は日本列島から朝鮮
半島へ伝播した説も出ている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
「其北岸狗邪韓国」はやっぱり「北にある対岸」とよむべきだろうね。
818 :
HR-X3SPT:2009/05/10(日) 12:27:41 O
>>808-809 申し訳ありません。反省しています。
>>809 天孫「族」と記した用例が思い当たりませんが…。
隅々まで目を通した訳ではないので、よろしければ教えていただけないでしょうか…?
819 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 12:28:56 O
邪馬台国畿内説を採用すると3世紀段階で畿内から九州を支配する統一政権が
誕生していたことになるが、九州説をとると邪馬台国は地方政権の域を脱して
いなかったことになる。現在、ほとんどの考古学者は畿内説をとっている。三
角縁神獣鏡が畿内を中心に出土することや纏向遺跡・箸墓古墳などの存在がそ
の有力な根拠だ。畿内の邪馬台国と北九州の集団が交易・流通の主導権をめぐ
って争い、邪馬台国はそれに勝利したのだろう。
ヤマト連合王国の首都と考えられる纏向遺跡は3世紀を中心とする巨大な遺跡で、
1971年以来60箇所をこえる発掘調査によって、次のようなことがわかってきた。
*弥生時代の大環濠集落の衰退に対応するように出現し、最も古いタイプの前方
後円墳(纏向石塚、ホケノ山古墳、箸墓古墳など)の造営がなされるようになっ
た
*遺跡の範囲が少なく見積もっても1キロメートル四方におよび、大規模な土木
工事が行われている。これは、吉野ヶ里遺跡の4倍におよび、古代の国府の規模に
匹敵する
*出土した土器の約15パーセントが、瀬戸内西部から関東平野南部に至る各地から
の搬入品である
*首長権継承儀礼に使用したとみられる特殊器台や呪具が出土している
821 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 12:37:16 O
>>816 日本産の勾玉が韓半島で出土するからと言って倭人が半島を支配していたなどというのはありえない.
それらは装飾品であり現代においてダイアモンドがアフリカで産出されるからといって日本はアフリカの植民地なのか?
逆に装飾品としての美的価値観を倭を開拓した韓国人が見いだしそれを現地倭人が真似たとも解釈できるではないか.
日本列島はユーラシア大陸の終着点であり文明は大陸から東へと流れた.
アジアにおける人と文化の辺土が倭なのであり日本はその影響で発展してきたのは否定できない.
なのにまるで日本に固有の文明が自然発生して周辺を征服したなどという考え方はまるで戦前の天皇万世一系・軍国主義と同じではないか.
3世紀前半から中葉にかけて、北部九州から関東の各地に前方後円型や前方後方型の
大型墳丘墓が出現し、古墳と見まがうほどの規模や副葬品をもっている。その中心と
なるのが、ホケノ山や石塚古墳などの纏向古墳群であり、大和を中心に倭国の統合が
進んだことを示している。このあと3世紀後半から4世紀にかけて、箸墓古墳をはじめ
とする定型化した大型古墳が近畿のみならず、福岡、宮崎、岡山、群馬、栃木など日
本列島各地に出現する。こうして地域を越えた政治連合が列島規模で成立し、5世紀に
は武蔵や肥後の豪族が「杖刀人」「典曹人」すなわちワカタケル大王の親衛隊長(武
官)や曹を典ずる者(文官)として大王の宮に奉事する機構が成立していたとみられ
る。
ヒスイの勾玉は縄文時代の日本の遺跡から大量に出土しているんだが。
824 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 12:44:42 0
確かにヒスイは交易品でしょうね。対馬や壱岐の人びとが米や鉄を得るために
韓半島での居留地で売りさばいたものでしょう。
825 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 12:57:27 0
倭人が半島に達した時に韓人がすでに半島南部まで達していたかどうかってことだな
倭人の北上の方が早かったんじゃね?
満洲から来た韓人は船を作る技術はなかっただろうから
826 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 12:58:03 O
最近の邪馬台国九州説・九州王朝畿内征服説論者の主な仕事は、自分の説の検証より
とにかく畿内説にケチをつけること、発掘調査や年代測定法に文句をいうのがメインになってる。
例の藤村の一件を例に「あれが20年以上バレなかったんだから畿内説の遺物も怪しいもんだ」とか
それこそ「畿内説には縄文・弥生・大和朝廷の万世一系だ戦前回帰だ云々」
なんかもう、ここまで来ちゃうとなんだかなあって感じ。
戦中派の研究者とかが国を恨むのはわからないでもないけどね。
まあ、もういい加減死んだ方がいいんじゃないかな。戦後日本で充分人生楽しんだろ。
827 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 12:58:04 0
>>821 >日本に固有の文明が自然発生して
現に自然発生しているでしょ。卑弥呼による祭政一致の政治や、それによる政治統合は
要するに祭祀を核とする隣保同盟ということだ。『魏志』倭人伝には「国々には市があ
って有無を交易し」云々とあるから、要するに商業都市が各地にあったということでしょ。
文化というのは、そうした交易もふくめた生活の上に成り立つものであり、インフル
エンザか何かのように一定方向から一定方向へ「流れる」ものではない。
>>818 レスの1行目が説明不足だった。
天孫族と言うのは「新撰姓氏録」に出てくる語を根拠にした用語で、れっきとした歴史用語。
とすべきだったね。
前提として、皇室や「新撰姓氏録」に出てくる「天孫」等、伝承として瓊瓊杵尊や天火明命を始祖におく氏族を総称する歴史用語として、「天孫族」と言う言葉はある。
これを
>>810で言ったように拡大解釈して、単一の渡来氏族として捉えたり、(考古学的には何の傍証もない)征服民族説に絡めるから話がややこしくなり、胡散臭い印象を受ける事になる。
そもそも「新撰姓氏録」の「天孫」には、大和王権に征服された側の出雲氏や隼人なんかも含まれるので、「天孫族が土着民を征服して大和王権を作った」なんて用法は適切とは言えない。
>>810で言いたかったのはそう言う事。
829 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 13:24:37 0
とりあえず、天皇氏の先祖は遼東の公孫氏か高句麗人だと思う。
830 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 13:26:47 0
831 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 13:39:43 0
任那倭府(任那日本府)とは結局何だったのか。
戦前の説や戦後まもなくの江上波夫の説のように、果たして統治機関だったのか?
それとも、現代の日韓の考古学者が考えるような、商館や領事館、通商部のような
ものだったか? あるいは、軍団司令部のようなものだったのか? 6世紀に入ると、
現在の全羅道地方でも前方後円墳が造られるようになるが、このことは何を意味し
ているのか。
832 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 13:54:55 0
>>829 初期の古墳の出土品を検討すると、大陸系要素は非常に弱いんだよね。広範囲とはいえ、せ
いぜい瀬戸内、東海、関東土着のものが畿内に集められたということだから。土着の勢力が
連合して前方後円墳体制と呼ばれるような政治同盟を形成したとみるのが妥当だね。
岡山市の縄文時代の貝塚「朝寝鼻(あさねばな)」を調査している岡山理科大の
考古学チームが1999年4月21日、「縄文前期の土壌から稲の細胞に含まれる
プラントオパールが見つかった」と、発表。約6000年前に「米作り」が
行なわれていたとする発見で、稲作の歴史が縄文前期にまでさかのぼることになった。
このプラントオパールはイネ科の葉の細胞内に含まれるケイ酸体の粒子で、同貝塚の
下層(深さ2メートルの土壌)からのサンプルを採り調査したところ、356点の
サンプルから10点、形状からジャポニカ(短粒種)とみられる稲のプラントオパール
が検出された。また、稲のほか小麦とハトムギのプラントオパールも見つかった。
http://www.local.co.jp/news-drift/agri-99kome.html
836 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 17:21:07 0
つまりアメリカ合衆国ではありませんか!
837 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 17:28:34 0
安田喜憲というと、『世界史のなかの縄文文化』を書いた人だね。
839 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 17:39:09 0
白村江の戦いの後の671年、唐使が倭国を訪れ、倭国に軍事援助を求めているのは
おもしろい。これは、唐の対新羅戦争にともなうものであった。壬申の乱で沙汰
止みとなってしまったが、もし応じていたなら再び半島が戦場になった可能性が
ある。
古代ギリシャ/エーゲ海のようなものだったのかもしれないね。
エーゲ海の両岸の各地に古代ギリシャ人はポリスを作り、船で行き来をしていた。
そこへペルシャがやってきてギリシャ人を小アジアから追い出し、あるいは同化した。
これにより半島側はペルシャ/トルコのものになったが、エーゲ海の島々までは奪えなかった。
よって現在のギリシャ/トルコの国境はエーゲ海最東端の島々と半島の間にある。
そして倭人も韓半島南部に住んでお互いに行き来をしていた。
841 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 18:37:30 0
>>838 半島でも縄文人の人骨が発見されてるよ。
日本書記の一にいわく、つまり一説によると、
スサノオが一時朝鮮半島に天下って、こんな木々の少ない貧弱な国はいやだ、
といって日本に来た、という神話は、
朝鮮半島にいた、あるいは渡った倭人伝承の投影に違いない。
843 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 18:39:06 0
昔から木が少なかったのか。
844 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 18:44:23 O
任那日本府
この五字を解き明かす為に6000年を遡って考えないといけないのか。
ロマンだなあ(´∀`)
>>840 今の希土間の国境は希土戦争後のローザンヌ条約によるもので、
自然(?)な人口移動や住民同化によってできたものではないよ。
小アジアのギリシャ人とギリシャ側のトルコ人を住民交換してる。
つまり、あの辺は20世紀まで同化もせずに、さまざまな民族が
入り組んで存在していた訳。
>>845 それはエーゲ海の島々に住んでるトルコ人が少なかったからじゃないの?
>>846 ローザンヌ条約でトルコに移動したギリシャのトルコ人は50万人。
ただ、周知の通り、民族的にトルコ人と言っても難しい。たぶん、
ギリシャ人でもイスラームならトルコ人とされて移住したと考える
のが自然かな。ちなみに、小アジアから移住したギリシャ人は
100万人だから、確かにエーゲ海側のトルコ人は少数だろう。
848 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 19:27:13 0
将来、ネオジムを巡って戦争が起きたら「希土戦争」と名付けられるのかな?
849 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 19:40:22 0
やまとのもこみちってかっこいいなまえどすなぁ
850 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 21:51:27 O
>>832 朝鮮半島の金海地方(伽耶のあった地域)の遺跡の遺物の変化を見ると面白い。
この地方の遺跡からは弥生時代の倭国の遺物が多く出土するが、そのほとんどは北九州地方のもの。
だが時代が下って3世紀くらいになると畿内地方の遺物が出土する。
これは間違いなく日本での勢力図の変化を反映していると思われる。
九州王朝が畿内を征服したのか、あるいはその逆なのか。
邪馬台国論争にも大きく影響するだろう。
>>850 弥生時代が北九州地方のものというのは距離的に近いからという理由だろう。
伽耶と倭国に交流があった傍証になる。
その後畿内の遺物が出る、というのは国家的な一地域から
国家的なレベルでの交流に発展したということだろう。
そのことが、九州王朝、いわんや邪馬台国云々に短絡するとは思えない。
852 :
世界@名無史さん:2009/05/10(日) 23:21:54 0
出雲ってなんで東北の方にまで神社あるの?
853 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 06:33:56 0
>>851 伊都国に一大率があったということが鍵を握っていると思う。これは女王国の
検察官だったわけだから、積み荷を調べたり、魏からの親書を受けとったり、
楽浪郡からの施設を饗応したりしたわけだ。3世紀くらいになると畿内地方の遺
物が出土し、そのころ、卑弥呼の代官が北九州に置かれていたということは、畿
内にある女王国の勢力が「倭国大乱」時に北九州を制圧した現れではないか。か
つて北九州にあった倭国王帥升の一族が名目的君主となっていたかもしれない。
854 :
853:2009/05/11(月) 07:08:36 0
>>850 アンカーミス訂正
誤字訂正
×施設
○使節
855 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 07:51:26 O
天孫降臨と神武東征の神話を見て不思議に思ったんですが
なんで神武は奈良で即位したのかな。
仮に天孫降臨が九州だとして、そこから畿内に遠征して征服したなら、普通は凱旋して即位するんじゃないかと。で、九州が王朝の中心になるんじゃないの?
征服王朝説みたいに神武が渡来系なら、なおさら半島や大陸に近い地域をホームに置くんじゃないか。
わざわざ畿内で即位したのは、そこが本来の地元だったからではないか。
856 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 08:16:52 0
九州王朝の王から大和に派遣されて戦闘の末に征服し、
そのままいわば総督として大和を支配した、
と俺は思っている。
857 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 09:10:10 0
畿内に遠征して即位した訳ではなく
最初から婿入りだった
抵抗勢力のナガスネヒコは親九州の勢力との内訌で殺された
という話を聞いたことがある
858 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 09:32:48 0
>>855 天孫降臨は二度あった
大和に降りたニギハヤヒと、日向に降りたニニギ
本家は畿内で九州は分家
大陸との外交の窓口である分家の九州が力をつけて
本家を乗っ取った
これが神武東征の真相・・・という説がある
859 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 10:25:51 O
天孫降臨とか神話に近いレベルの話とかどうでもよくない?
もっと遺跡から推測できるレベルで話さない?
860 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 10:31:47 0
神話レベルといっても紀元後の話
どうでもいいならスルーしといて
861 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 11:24:49 0
大和王朝が三輪山祭祀から始まってるのは、
纏向遺跡を見る限り確実であろうが、
その三輪山は縄文時代から信仰されてたようだ。
862 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 11:58:08 O
結局、縄文時代から畿内に自発的に大きな勢力が醸成され、
それが九州や出雲と争いつつ、伝来した稲作や鉄器の技術も取り入れて中央政権になったというのが大筋だろうな。
あまり面白くはないが畿内の邪馬台国→ヤマトというのがやはり自然な流れ。
九州・出雲が伝来した技術で強勢を誇ったのは事実だろうが、それで全国制覇したかというと考古学的にあまり説得力がない。征服王朝説も同じ。
なぜか一般的にはそちらの方が信じられてるみたいだが。
>>861 京都、奈良盆地周辺の(山)には(ヤマ)と発音する山が多い後に仏教が
入ってから(サン、セン)と発音する山がふえる。邪馬台国の耶麻信仰の影響か?
(例)三輪山みわやま天香具山あまのかぐやま畝傍山うねびやま耳成山みみなりやま
生駒山いこまやま若草山わかくさやま笠置山かさぎやま東山ひがしやま
鞍馬山くらまやま三笠山みかさやま等々
>>862 そらまあ、人間派手な話の方を面白く感じるからな。
学者さんでも、ややもすればセンセーショナルな説に走りがち。
素人さんなら尚更だろう。
865 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 13:44:23 0
>>862 弥生時代の鉄剣などの武器が、
九州の方が畿内に比べ圧倒的に出土数が多い事を理由に、
九州勢力の武力による制圧を考える人が多いが、
制圧とは何も武力によるものとは限らず、
古代なら宗教的という側面もあると思うし、
巻向の三輪山に全国規模の搬入土器がみられるのは、
三輪山祭祀という宗教で全国を取り込んでいったという事でしょうね。
866 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 15:50:45 0
>>863 面白い指摘ですね。
サン、センは仏教の須弥山(しゅみせん)の影響かも。
867 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 16:15:27 0
>>866 神仙、災厄信仰(鬼道)で神官、真人達が祈りをする祭壇(土石で数段高くした場所)
を(ヤマ,光明を発する処、インドのヤマ,ヤミ神)と言うので有って、自分達の
祭祀場所の山岳に (ヤマ)と名付けた。仏教が渡来してからは(サン、セン)と発音、
縄文人は山岳を(根ネ)と発音、屋根、尾根、峰、などはその例アイヌ人は和語の
登るからヌプリと発音し韓国語の山ノプも同意 。
岳タケは和語の高いから来た説と、ペルシャ系の山、急傾斜地をダカン
と発音しシリアのダカン高原も同意、其処から胡族、東夷語のタカ、タケ
と来て列島への移民達(胡族系猿田彦集団)が岳タケと名付けたと思われる。
868 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 21:53:08 0
>>862 >畿内の邪馬台国→ヤマトというのがやはり自然な流れ。
その通りだと思うんだが、
>縄文時代から畿内に自発的に大きな勢力が醸成され…
の部分は、どう考えても無理あるだろう。縄文農耕については、もっとデータが
そろわないと確実なことは言えないよ。
869 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 22:11:32 0
『魏志』東夷伝によれば、馬韓は「およそ五十余国。大国は万余家、小国は数千
家、すべて十余万戸」としており、王とよべるものはなく、城郭もなく、礼儀も
知らず、男女による席の区別もなく、工事があると、少年は背中の皮に穴を開け
て太い縄を通し、一日中かけ声をかけて労働にはげむ。また、好んで泥棒すると
いう記事がある。
辰韓・弁辰はそれぞれ十二国だが、雑居しており、二十四国あわせて「大国は四、
五千家、小国は六、七百家、すべて四、五万戸」であるとしている。王がいて、
城郭都市があり、礼儀を知っていて、行く者が出会うと、みな立ち止まってみちを
譲る」と記している。
これだけ読めば、馬韓が文明化するのは、帯方郡の遺民を吸収して百済王朝が成立
した後、4世紀後半以降ということになりそうだ。
870 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 23:10:57 0
新資料をもってきましたよ。
日本建国の驚くべき史実
応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった
「応神天皇=昆支=倭王武=ヤマトタケル=八幡神=大国主命=スサノヲ、すべて同一人物である」と著者は主張する。
日本で最大級の古墳といえば、仁徳陵(大阪府堺市堺区大仙町)。二番目に大きいのが仁徳陵から東へ14キロメートル
にある応神陵(大阪府羽曳野市誉田6丁目)。この二つの古墳に埋葬されているのは兄弟であり、仁徳陵の被葬者は弟の
余紀、応神陵に埋葬されているのが兄の昆支である。二人は百済の蓋鹵王(即位455年〜没475年)の弟である。仁徳陵
は全長486メートル、応神陵はわずかに小さく全長425メートル。前方後円墳の形もほぼ同じで、築造年代も10年と違わ
ない。
一、二位と争う日本最大の古墳に、なぜ、百済から渡来した二人の王子が埋葬されているのか、その秘密を解き明かした
のが本書である。
在野の古代史研究者の石渡信一郎の研究をうけて、加羅と百済から渡来した新旧二つの朝鮮渡来集団による古代日本
国家建国の驚くべき史実を明らかにする。
序章 本当にあったこと
第1章 五つの金石文
第2章 百済から渡来した王子昆支
第3章 倭の五王「讃・珍・済・興・武」
第4章 墨田八番鏡
第5章 隠された蘇我王朝
第6章 アマテラス誕生と「日本」
終章 終章 蘇我入鹿の「差別名」を考える。
古代朝・日関係史に関心のある人にとっては謎解きの喜びが味わえる。(林順治著)
http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/06/0906j0511-00007.htm
871 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 23:36:25 0
ウリナリとんでもなんとかw
外国人参政権はまず無理だな・・・
872 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 23:42:42 0
「石渡信一郎の研究を受けて」ってとこが笑えるね。
873 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 00:17:29 O
応神と仁徳の墓に百済人が入ってるのがデフォになってるあたり電波が強すぎる。
しかも応神とスサノオとヤマトタケルが同一人物って、いくらなんでもまとめて在日認定し過ぎ。
874 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 00:30:21 0
騎馬民族説の焼き直しにしては御粗末w
875 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 00:35:52 0
>>855 もしかしたら、南九州(または東九州)の勢力が畿内の勢力に加勢したということを
寓意するのかもしれないね。ただまあ、神話解釈は何とでも好きなようにいじれるか
ら、想像するだけにしといた方がいいと思う。個人的にはw
>>870 確かに驚くべき電波だ。韓国に行けばきっと文学博士になれるね。
877 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 00:51:14 0
878 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 00:56:35 0
主な著作が全部「三一書房」w
韓国の新聞社ではまともな方だといわれる朝鮮日報ですらこれだ。こんなのを特筆大書して
大々的に紹介する新聞社って何なんだろうな。まともな研究家のまともな研究を取り上げた
ことがあるんだろうか。さすがに笑ってばかりもいられないような気がしてきたよ。
880 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 01:03:01 0
江上波夫もビックリってとこかw 江上も、本当は自分の説が成り立ちようも
ないことを知っていたんだろうな。あまりに反響が大きすぎて、引くに引けな
くなってしまったのではないだろうか。罪な話だ…
881 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 04:07:05 O
朝鮮新報は北朝鮮(総連)の新聞ですよ。
普通の人はそんなに歴史に興味がない。
興味があってもかたよってるし、小説や映画漫画などの歴史フィクションが好きといった程度でしょう。
私もそうです。
骨董屋が朝鮮の壷をありがたがるので、なんとなく朝鮮の方が昔はすごかったのかなという漠然とした思い込みと、
差別はよくないということで、朝鮮にもこんな良いところがあったんだよという優しい教育と、
朱子学に影響された人の宗教がかった主張のせいで
随分と歴史の研究は回り道をさせられていると感じる。
883 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 06:58:22 0
あらそう
>>314 >天孫降臨神話は、朝鮮半島から沿海州にかけて同種の神話が存在している。
出典は?
チョンの妄想はもうかんべんな
886 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 15:13:18 0
昆支がスサノオってのはどうして? 宮殿でクソでももたらしの?
887 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 15:13:59 0
もらしたの?
888 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 16:06:22 0
朝鮮半島南部にもともと倭人の集落があったのか、
元から集落はなく日本列島にあった政権の支配力が及んで後に移住したのか、
政治的な軍事的な影響力だけだったのか
なぜ滅亡したのかがきになるでやんす
890 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 19:17:02 O
普通に「白村江の戦い以降(前後)に消滅した」でいいと思うんだけど。
891 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 19:35:06 0
「曇りなく 高天原に 出でし月 八百万代(やおよろずよ)の 鏡なりけり」
「あまのはら ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」
勘違いしている人が多いようだが、高天原というのは「大空」という意味であり、「海外」と
いう意味はない。八百万の神々が棲むところだから貴いわけで、皇室は天空から降臨した神々
に連なる系譜だから貴いと『日本書紀』の編者(天武天皇)は言いたいわけです。それを生煮
えの合理主義で、地上のどこかだろうとするから間違いが生じる。騎馬民族説なんかも、その
系統に属するものです。空から降りてくるもんだから、降り立つ先は霊峰なわけで、古代には
古代なりの筋を通しているわけです。白村江の戦いに敗北して半島への干渉政策をやめ、壬申
の乱に勝利して国内では絶大なる権力を握った天武天皇の真意は、大和王権が確かに土着の政
権であり、皇室はその正統な支配者であって、また神聖な神々が生んだ島じまから成る日本と
いう国は、神聖な土地だということなわけです。汚れたスサノオからしても、木が少なく魅力
がない、それが新羅なわけです。それなのに、『日本書紀』の神話を根拠にして、『日本書紀』
が史実だとして記していることを批判したり、否定したりしても、無駄な努力という以前に無
意味だし、学問的姿勢としても間違っているのです。外国の文献や考古資料で立証できないな
ら、それは元々そんな事実がないと考えなくてはならない。それを、神話の御都合主義的解釈
で乗りきろうとするから、新しい伝説、それも誰も信じやしない自慰的な伝説を1つ創作するだ
けなのです。
>>890 そこまで下りはしないでしょ。
『欽明天皇紀』あたりに記される任那滅亡で消滅
と考えればいいかと。
893 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 22:44:07 0
>>889 「倭府(日本府)」が一種のエリアを対象するものでなく、機能による分類であるとしたら、
それは軍事的なものではないか。伽耶の要請によって派遣した軍団であり、「将軍府」のよ
うなものであったなら、戦況によって移動することもありえただろうし、地位協定ではない
が、伽耶の事情によって所在や規模を変えたこともありえただろう。当時のことゆえ、倭国
から兵糧が届くことはなかっただろう。平時には農作業をおこなう一種の屯田兵的なもので
あった可能性もある。百済の領域にもたくさんの倭人が住んでいたようだ。それが、やがて
倭済同盟につながっていき、百済の領域で倭の将軍が没した時につくられた墓が全羅南道の
前方後円墳ではないだろうか。ところで、韓国内の前方後円墳は破壊が進んでいると耳にし
たが本当だろうか。
>>893 >韓国内の前方後円墳は破壊が進んでいると耳にしたが本当だろうか。
ご心配にはおよばない。彼らの「国史」を執筆するときやTVの特番があるたびに
ちゃんとそれまでなかったところに復活しているから。
さすがは半万年の超大国だ。w
>>892 半島人のことだから、倭人大虐殺したんだろうなあ・・・・
なぜ衰退したのかなあ。縄文弥生古墳と営んできたものが。
白村江でダメ出しだされたのは間違いなく、それで半島に二度と日本的な物が復活出来なくなってしまったんだけど、
欽明の頃は外来の文化・インドと北方遊牧民と中国文化が混ざった新しい文化が日本に流入してきた頃だから
それに負けちゃったのかなあ
政府の保護がうけられなくなったから衰退したんだろ
安土桃山期に海外に進出して形成された日本人街が
鎖国と同時に、幕府が庇護しないわ、海外渡航禁止
されるわで、どんどん現地の文化に飲み込まれるわ、
衰微していくわで散々だったじゃないか。
白村江以降の倭人村落も同じ運命が待っていた
それだけの話だよ
白村江以降はわかるんだよ。戦争でまけたからね。
でも衰退はそれ以前から始まっていたでしょう?
政府の庇護がなぜなくなったのかー庇護出来ないような状況に何故なったのか?
国内問題なのか、外圧なのか。いろんな条件・状況があったんだろうけど、
例えばこんなのがあったよ、これはこんな背景があってこういう選択をしたんだよってのを
誰か教えて下さい。
899 :
世界@名無史さん:2009/05/13(水) 11:18:59 0
それが誰もわからないから侃々諤々の議論になってるんだが
900 :
世界@名無史さん:2009/05/13(水) 11:19:19 0
>>896 鉄だろ。
半島南部は鉄の供給源だったから強く関わってたけど、
日本国内で鉄が自活できるようになったら、
さほど拘る必要がなくなったんじゃないの。
901 :
世界@名無史さん:2009/05/13(水) 12:29:50 0
次スレはいる?
それはないな。
>>900 半島情勢に拘った理由は、鉄の算出だけが目的ではなく、自国への逆侵攻を防ぐ
安全保障策の一面もあった。
日本書紀によると、あの敗戦後で半島の橋頭堡を喪失した後、天智政権は急遽対馬、大宰府から瀬戸内にかけて
水城を建設し、対馬には防人を置き、狼煙台を設置している。
明らかに唐・新羅の侵攻を恐れての処置でそれまでの政策が一変している道理になる。
国内の鉄の調達自由で半島情勢にそれほど拘る必要がないのなら、敗戦直後の国防政策の大転換は
説明しづらい。
自分の意見では白村江以前も半島内の村落を維持しようと図ったが、周辺国家に圧迫されており
維持が難しくなりつつあったのではないだろうか。
わずか数年前に改新がおこり、国内の権力体制が大きく変化した。
もしかすると、あの事件が半島での前線にも何らかの動揺あるいは決裁権の混乱などがうまれ
その隙をつかれて新羅の百済に対する軍事活動の活発化を許す要因となり、白村江へとつながって
しまったのかもしれない。
北朝が盛大になってきて半島諸国もその影響をうけてきたのかな。
日本でも北朝文化・仏教の移入は聖徳太子の頃、蘇我氏によってなされたが、
そのあと国粋的な反動がおこって、
蘇我氏を排斥する大化の改新がおこったと。
で、その結果半島、北朝とのパイプをきってしまったのかもしれない。
と妄想しますた
てか太子の頃はもう隋だな。
縄文人は船に乗って日本にやってきて一部は半島まで達して、列島と半島の縄文人は
交流を続けていたというのは事実?
対馬まで行けたら半島南部まで行くのはむしろ九州本土へ戻るより楽だと思う。
906 :
世界@名無史さん:2009/05/13(水) 19:27:35 0
縄文時代ではなく縄文人というくくりならそうでしょう。
少なくとも日本列島には北方系(ブリヤート)と南方系(東南アジア)*蝦夷除く
の縄文人がいたはずで九州に土着した一部の南方系縄文人が朝鮮に渡っても何ら
不思議ではない。
907 :
世界@名無史さん:2009/05/13(水) 21:21:54 0
北朝なんて言われてるが
鮮卑と漢族は別物じゃん
代〜唐は同一民族
908 :
世界@名無史さん:2009/05/13(水) 21:30:14 0
>>902 >国内の鉄の調達自由で半島情勢にそれほど拘る必要がないのなら、
>敗戦直後の国防政策の大転換は説明しづらい。
半島にそれほど拘る必要がないのから、防衛ラインを変えたんじゃないの。
もちろんそれ以前から半島なんてどうでもいいというわけではないだろうが。
何も矛盾しないと思うが。
>>908 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%9D%91%E6%B1%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 663年、日本は百済に味方して朝鮮半島で唐・新羅連合軍と戦ったが大敗した(白村江の戦い)。
当時称制を執っていた中大兄皇子は、唐・新羅がさらには博多湾から大宰府に攻め込むことを想定し、万一の場合に備えて翌664年に水城を築かせた。
翌665年には北九州から瀬戸内海沿岸にかけて大野城、基肄城、長門城などの古代山城(朝鮮式山城)を築かせた。
667年には都を内陸部の近江大津宮に遷した。
その翌年の正月に中大兄皇子はやっと即位した(天智天皇)。
とあり、水城構築の背景には安全保障上の並ならぬ懸念があったことが記されている。
665年に唐の朝散大夫沂州司馬上柱国の劉徳高が戦後処理の使節として来日し、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。
この唐使を送るため、倭国側は守大石らの送唐客使(実質遣唐使)を派遣した。その大使らは、唐の高宗の
泰山封禅儀式の際に唐に対しての臣従を誓ったとされる。
この際(665年もしくは671年の両説有り)に、2000名の唐の軍隊が倭国に進駐したとされる。唐との戦後処理については
様々な見解があるが、いずれにしても倭国がその和平条件を受け入れたことは確かである。
天武期以降に編纂された日本書紀には天智政権の戦後処理の講和条件の仔細について詳述されてない。
が、百済と高句麗が滅んだ当時の国際情勢ではかなり不利な交渉であったのは間違いないだろう。
急速な国防体制の転換政策および首都移転は改新後の新体制に、多大な国費増大負担をうみだした。
ここまで高い代償を払うぐらいなら半島への関与を続けた方が利にかなう。
しかし、今まで揚げて来たように、用明天皇の頃にあったとされる任那滅亡前後の頃から、半島への関与が難しくなり、
白村江で敗戦を招くまで、半島での倭国を取り巻く状況は年々圧迫されていたのだとみるべき。
910 :
世界@名無史さん:2009/05/13(水) 22:59:06 0
白村江で敗戦を招くまで、半島での倭国を取り巻く状況は年々圧迫されていたのだとみるべきだろうし、
白村江の後、九州北部に防衛ラインを貼るね。
だから何なんだ?
911 :
世界@名無史さん:2009/05/13(水) 23:12:17 0
日本府があったから何なんだ?なかっても倭人は居たわけだし
倭軍も駐留してた分けでしょう。任那日本府どころか百済日本府
もあったんじゃないか?天皇の人質が百済にいたなんで聞いたこ
とないし。任那議論はもういいのではないか?
>>898 一言でいうと、倭が見捨てて、新羅が滅ぼした。
>>910は
>>902と同じ人かな?
ならば、
>半島南部は鉄の供給源だったから強く関わってたけど、
日本国内で鉄が自活できるようになったら、
さほど拘る必要がなくなったんじゃないの。
ここまでの説明で、倭には半島情勢に拘る理由があったが、
半島で拠点が確保できなくなり、最後には敗戦&百済滅亡で
半島から撤退せざるをえなくなった。
今までの対外政策の根本を変えざるを得なくなったと理解できたと
思う。
>>911 >何なんだ?
歴史系の板で、そういう事情に興味がない人が来る事自体がありえない。
そもそも、日本府があるということは他勢力から、倭人村落を保護できる政体が
現地に存在していたという事。府の有無で当時の倭国と周辺諸国の力関係などを
推し量る便となる。
>任那日本府どころか百済日本府
もあったんじゃないか?天皇の人質が百済にいたなんで聞いたこ
とないし。
百済日本府・・・何それw ちょっと主張が目茶苦茶過ぎる・・・。
>任那議論はもういいのではないか?
まずスレタイを見直すべきじゃないかな。君は何に興味持ってきているのかと・・・。
915 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 00:41:58 0
どうして太閤さんの朝鮮征伐のごとく、
「イルボンチョッパリは1000年以上も前からウリナラを侵略したニダ!
謝罪と賠償を要求するニダ!」
という話に持っていかないのだろうか?
そういう煽りは他の板でやってくれ ここでは迷惑だから。
>>900 倭は新羅に「任那の調」をよこせよこせと拘っていたわけですが。
歴史的に見て半島南端部は日本の領地!
朝鮮人が来る前から倭人が住んでた!
だから日本に返還するべき!
919 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 01:58:24 0
>>914 ナショナリズム派にとって本丸は属国百済なので、手前の議論が
歯がゆかっただけで・・・失礼しました。
任那日本府の話題で、中国(宋)の話が
いっさい出てこないから、どうしようもないわなwww
実は、この任那日本府の問題は、
対中国関係が影響しているんだよ。
日本と韓国の二国間関係ではないんだわな。
広開土王碑文でも分かるとおり、日本が半島へ軍事侵攻したことに対して
高句麗が、「半島南部は我々の属国だから
それを倭国が犯すのは不当行為だ!」って批判しているわけで。
では、倭国がその後、何をしたのかというと
中国に朝貢して、倭国が半島南部の軍事を管理する権利をくれと言っている。
この時代、中国の権威が絶大なんだよ。
で、中国は、最初のほうは倭国の要求を無視しつづけているのだが
雄略天皇の要求に根負けして、一応、認めている。
ただ、その場合、中国は百済とは直接的に主従関係を結んでいたから
倭国が半島南部を軍事的に制御する権利は認めても
百済王朝自体を管轄する権利は認めなかったわけで。
つまり、任那論争は、日韓関係ではなく
日中韓満の4者の関係で見ないといけない。
921 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 06:25:08 O
満?
西暦313年、中国の楽浪郡が崩壊、朝鮮半島が中国の管理下から離れる。
西暦369年ころ、倭国が半島へ軍事介入しだし、倭国と高句麗が激しく戦う。
倭国の軍事介入の目的は、楽浪郡消滅後の
半島南部を高句麗との間の緩衝地帯にすること、
そして、伽耶諸国の鉄利権を奪うこと。
倭国は、高句麗から百済を分離し、百済を軍事的に援助。
高句麗が激怒し、倭国と高句麗を中心とした乱世の幕開け。
ちょうど、このころ、倭国は百済にいた楽浪郡の中国移民をまねき、
彼らの漢文で外交文書を作成、対中国外交を活発化させる。
なぜなら、中国との外交には、当時の最新式の漢文が必要だから。
(卑弥呼(モモソ媛命)時代の漢文は旧式になっていて、中国交渉に不備になっていた)
そして、西暦400年代に、倭国が中国外交を活発化させ、
西暦438年に初めて、倭国は中国に朝貢して、朝鮮半島南部の軍事指揮権を要求する。
しかし、中国は倭国の要求をなかなか認めなかった。
何故なら、当時、中国は百済を直接の臣下としていたので、
倭国に百済の軍事監督権まで認めると、中華秩序の破綻を意味したから。
それに対して、倭王武(雄略天皇)が、中国に対して勝手に半島南部の軍事指揮権を宣言。
結局、中国は倭国の要求を認め、それを追認する。
ただし、中国は、
倭国が、伽耶や新羅を軍事的に監督することを認めたが
倭国が、中国と直接的な主従関係があった百済を軍事的に監督することは認めず、
百済の支配領域の旧名である馬韓への軍事指揮権容認という形で
お茶を濁したのであった。
半島南部に前方後円墳が出没するのは、西暦5世紀後半〜西暦6世紀前半だ。
広開土王碑文によると
西暦4世紀中頃から、倭国は、半島へ軍事介入していたと見られるが
その時代には、まだ前方後円墳は、半島には見られない。
しかし、西暦5世紀後半になると、
中国皇帝が、倭国が朝鮮半島南部諸国への軍事指揮権を認めるようになる。
それと時期を同じにして、半島南部に前方後円墳が出没する。
そして、日本書紀によると、倭国が伽耶から撤退したのは、西暦6世紀前半。
この6世紀前半に、半島南部から前方後円墳が消えるのである。
よって、この任那論争においても、日韓2者関係ではなく、
中国を交えた3者関係でみないと、事の本質は見えてこない。
925 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 06:49:08 O
日本史板の方にも同じこと書いてなかった?
926 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 07:02:29 0
古墳て出没するものなのか?
927 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 07:26:08 0
倭王武の上表文は専門家からみてもかなり凝った名文らしいね。それゆえ
宋書倭国伝の編者もそのまま収録したということらしいのだが、倭王に奉
事する文官には並々ならぬ文章の達人がいたことになる。
928 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 09:02:50 0
四六駢儷文
929 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 09:29:09 0
うつだしのう
930 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 09:52:30 0
931 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 09:55:29 0
>>923 >伽耶諸国の鉄利権を奪うこと
奪うではなく、倭が持ってた利権を護ることだと思う。
>>923 >百済の支配領域の旧名である馬韓への軍事指揮権容認という形で
>お茶を濁したのであった。
馬韓(慕韓)については、珍のときから百済とは別に要求してて
済に除正されてるけど?武の時代にはじめて容認されたわけじゃないよ。
百済の代わりに馬韓を認めたとかおかしな配慮があったとは思えない。
>>927 讃が派遣した司馬の曹達とか、雄略天皇に寵愛された史官の
身狭村主青とか檜隈民使博徳などの漢人ぽいブレーンがいたんだろう。
933 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 10:20:06 O
なし崩し的に任那日本府があったかのような議論はすべきではない。
現実問題そのような遺跡は見つかっていないしそもそも任那日本府は遥かな後世になってから
唐突に日本の記録に出てくるもの。それを足掛かりに畿内に土着の政権があったとか縄文時代を過大評価するとか
果ては稲作は日本が朝鮮に教えただとか新羅や百済は日本の属国だったとか
日本人に都合よく話を拡げるのは危険ではないか。日本で土着の政権が自然発生して他国を侵略したという主張は戦前の皇国史観への回帰を思わせる。
まあ、なんにしてもなるべく先入観を排除して
史料に当たるのは当然かと
>日本で土着の政権が自然発生して他国を侵略したという主張は戦前の皇国史観への回帰を思わせる。
こういう話はもう聞き飽きているので。何十年同じこと念仏のように繰り返していれば気が済むんだ。
歴史はどういう経過を辿ったのかという事実に興味があるわけで、皇国史観だとか
そういう先入観やイデオロギーの主張はよそでしてくれ。
936 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 10:50:55 0
>>933 つまり1500年前にはすでに皇国史観があったということか?
【日韓】仏教交流協議会、国民に苦痛を与えた過去を反省しざんげする文章を刻んだ和合共生記念碑を設置
http://takeshima.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1242122156/ 碑は座台を含め高さ3メートル、幅70センチメートルの黒曜石製で、表には曹渓宗総務院長の
智冠法師の手により漢字で「人類和合共生祈願碑」と碑銘が刻まれる。裏には日韓仏教交流協議会の
宮林昭彦会長が作成した文言がハングルと日本語で書かれる。碑文は、百済時代に日本に仏教を伝えた
韓国の役割は大きく、両国親善の原点になるという点を強調した上で、「不幸なことが何度もあり、
特に近世には日本が韓国民に多大な苦痛を及ぼした歴史的な事実に対し、反省とざんげの念を
深くしている」との文章が記される。(以下略)
938 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 12:19:10 O
>>935 戦前に何十年も皇国史観だけ国民に押し付けてきたのは日本政府でしょう。
戦前は天皇家万世一系の史観しか許されなかったしそれ以外の思想を許さない右翼団体がどこの学校にもいた。
任那日本府なんて日帝が侵略してた頃に占領の正当化のために散々発掘調査してなにも出てこなかった亡霊みたいなもの。
それを今さら実在したと蒸し返して日本には昔から優れた文明があったかのように語るのは
戦前回帰以外の何者でもない。学問をイデオロギーの道具にしていたあの頃と同じだ。
939 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 12:25:23 O
>>936 日本書記というのは天武天皇が自己の権力の由来を正当化するために編纂を命じたものなのは常識。
その意味では皇国史観の元祖と言ってよい。
資料価値は認めるがそうした権力者の恣意的な側面を無視して
日本書記に任那日本府という記述がある→日本が朝鮮半島を支配していた。
と解釈するのは学問的な態度とは言えない。
>日帝が侵略してた頃に占領の正当化のために
成る程。お里の知れる発言乙。
941 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 12:38:19 0
>占領の正当化のために散々発掘調査…
してないだろ。当時の技術で、人手で作業したくらいで「なにも出てこなかった」
と言っても「何もなかった」ことにはならない。現に前方後円墳が出ているし。地
表からみて実見できる墳墓でさえ戦後の発見でしょ。馬鹿なことを言ってはいけな
い。
942 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 12:44:28 0
>>933 >現実問題そのような遺跡は見つかっていないし
柱跡がないという意味か?
941がいうように前方後円墳が出てるじゃないか。
それでも不満なら日本製の甲冑もかなり出土してるが。
943 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 14:09:26 0
江上波夫自身は、任那日本府を実在の統治機関と考え、皇室が半島に直轄領を持って
いる根拠として征服王朝説を唱えたわけだよな。もともと外来王朝説にたいした根拠
があったわけではない。単に当時の学問水準では、古墳時代の前期と中期・後期の間
に断絶があったようにみえたというだけにすぎない。それでは不充分に思えたのか、
神話の独自解釈で補強したのだが、考えてみれば、これは形を変えた皇国史観、日鮮
同祖論にほかならないわけなんだね。
944 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 14:36:41 0
>>935 任那論議をイデオロギー闘争の為の道具にしてはならないとは思う。
ただ反韓教育のない日本は反日教育国家の謀略によって本来の歴史を
湾曲させない努力をするべきで、他国に配慮した議論をすべきでない。
よって古墳時代こそが真実の皇国史観があってしかるべき。
945 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 14:40:01 0
は?
>>944 任那論議(に限らず歴史問題)は韓国人にとって明確なイデオロギー闘争。
良識派は韓国人のその理不尽な圧力に必ず敗北する(慰安婦問題のように)。
歴史問題は政治闘争だと心得ないといけない。
まぁしかし任那日本府については中国も認めてくれてるようだし、
そんなものはないなんてホザいてるのはチョンと日本の一部の左翼だけでしょ。
>>679 おれは、神武の出自を筑と豊の王族に帰することがそもそも怪しいと思っているよ
なんらかの関わりがあるとは思うけど。そこらく下っ端役人だったんではないかな
だから、出自をなるべく良く見せようと筑豊から命を受けたということにした。
高千穂峰だって、宮崎と鹿児島の境である霧島山系にある(高千穂市は別な)
筑豊とは離れすぎているだろ?
この地域は熊襲とか球磨と地名がつく地域に近く
阿蘇山周辺であり、本来肥(ひ)の国と言っていい
そして、この地域には南方系の血が強い、日本海側とは別の海洋民の流れがある。
おそらく、神武は筑豊の流れは汲むものの、南方系を糾合してつくった
新たな勢力なのではないかな。
日向って名前も独特だと思うよ。
サルタヒコが伊勢の出っていうのも、南方系のネットワークが太平洋側を広く
及んでいたことを示していると思うし、土佐も南方系の血が濃いよね
神武が畿内に入るまで割と無難に渡航できたのも渡航技術を彼らから
借りたから、とも推察できる。
考古学的に神武東征を裏付けられるような資料って
なにかあるの?
>>927 渡来系でしょ。 あの時代の日本は文字が使われるのは稀。
日本に文字が常用されるようになったのは仏法伝来以降の話だと、隋書倭国伝にある。
952 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 16:43:58 0
>>948 古田説では、背振山地に「高千穂峰」があると言っているね。
953 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 16:47:12 0
>>951 同時代資料を無視して、200年以上も後の唐代編纂の史書の一節だけ絶対視するってのは
何なんだろうねw 本末転倒って言葉知っている? 学問板に来るのやめたらどうかねw
>>953 曹達らの事例みても、上奏文は渡来系のサポートが不可欠。
餅は餅屋だし、スペルチェック、センテンスチェックはネィティブスピーカーに
やらせるのはいつの時代でも常識だろ。
>>953 『隋書』の記述は上のほうでも議論になっていたけど、
一種の誇張表現なんだろう。以前は限られた局面に
おいてのみ文字が用いられていたのが、広い階層に
よって、日常的に使用されるようになったと。
七支刀の銘文などをその論拠にあげるとか?
あれいっておくけど、渡来系の人々がかいたものだよw
あの時代の史書って
日本旧記、百済新撰、百済本記らが一応存在と「される」が、日本書紀の引用に垣間見えるのみで
現存してない。 実在していたかどうかも疑わしい。
七支刀の銘文は百済で刻まれたものでは。
かなり稚拙な文体なのが気になるが、文面から
すれば百済で刻字されたものと考えざるを得ない。
百済三書は「日本」「天皇」とかの後世的な文飾は
あるけれど、実在性を疑うほどの問題はないはず。
958 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 17:48:16 0
>>956 引用史書断片をわざわざ偽造するかね
偽造するんなら一書まるごとだろう
>>958 主張は勝手ですけど、現存していない史書を想像たくましくされてもな。
960 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 18:14:36 0
>広い階層によって、日常的に使用
そんなの日本では江戸時代、朝鮮では日韓併合以降の話だろ。
>>960 べつに庶民にまで普及したというつもりはないw
渡来系の史官が時々外交文書を作成するくらいだったのが、
王侯や他の官人層も記録等のために文章を書くようになった
くらいの意味だよ。
七支刀以外にも金石文は残ってるじゃねーのよ。
稲荷山古墳出土鉄剣銘とか、江田船山古墳出土大刀銘とか、隅田八幡所蔵鏡銘とか。
これらは文面から見ても一概に渡来系云々は言えん。
もし渡来系の人々がこれらの文を刻んだと主張するなら、それを証明できる史料の提示が必要だな。
まあ、そんなものは存在しないんだが。
隋書の記述にしても、現実に仏教渡来以前の文字が残っている以上、記述に誤りがあると考えるのが学問としては普通の態度だよな。
>>961 へー倭の5王が直に残した文物何一つ出土していないというのに、記録のために
文字を残したとまでいうんだw
日本書紀に散見される史書は何一つのこっていないし、
4世紀で見つかった文字らしきものといえば、石上神宮の7支刀の銘文と、
片部遺跡の墨書土器程度の代物しか出土していないだろw
どこをみれば、王侯や他の官人層も記録等のために文章を書くようになったと
思い込めるんだw
964 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 18:58:58 0
というか、4世紀・5世紀の渡来人てのは漢人でしょ。馬韓や辰韓の人たちじゃない。
>>963 4世紀の話はしてない。
「王侯や他の官人層も記録等のために文章を書くようになった」
というのは、『隋書』の「於百済求得仏経始文字」の箇所の解釈だよ。
966 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 19:26:04 O
結論として文字も持たなかった当時の日本人に
巨大な中央政権や海外領土の管理が出来たか疑わしい。
従って任那日本府などはその出自からして後世の創作の可能性が高い眉唾ものということだな。
>結論として文字も持たなかった当時の日本人に
どこをどう読んでそう結論したのかkwsk
968 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 19:31:58 0
しかし、中国の史書には百済には「倭人すこぶる多し」の記述があるし、漢人も多かった
わけだから、コミュニケーションの手段としては漢字だったわけだろ。
>>965 それは百済に仏法をもとめて以降の話だろ
簡単な読み書きはできただろ
金印の時代から付き合いがあるのだから
ただ史書の編纂ができるほど漢文に通じていたかはあやしいな
>>966 いや、だから渡来の史官に起草させた外交文書が残ってるでしょ。
官僚層がコスモポリタンだったのは百済あたりもそうだし。
>>969 そうだよ。それ以前では専門的な文書作成は渡来系に頼るしか
なかったと思うよ。
しかし、倭人伝とかもともと別の官吏が書きためていたものから
抜粋して時の政権に都合のいいように史書に載せるんだろ?
で、官吏が書きためていたものは、王朝が交代する毎に焼き払われ
現在に伝わらないことになる。
つまり、日本もその流儀にならえば焼き捨てていたということになるかもな
これが事実とすれば、官吏がかきためたものというのは王族だけが管理できる
最高機密に属するもので、書写が禁じられていたと言うことができる
しかしさ、官吏が書きためていたものって
下っ端が見聞したものを文官が聞いて書いてまとめるのか
現地に行った者がその場で竹簡などのメモして
帰ってまとめんのかな
日本の場合、天武帝に系統がかわったっていっても
王朝の交代はなかったわけだから、焼き払いはないか
統治機関ということで言うなら、三韓も倭国もルースな機構しか持たなかったわけだ。
にもかかわらず、倭国が朝鮮半島に大軍を発したとか、倭が新羅を服属させたという
記事、百済や新羅が自国の王子・王族を倭に人質として差し出した、あるいは朝貢した
というのは、中国・朝鮮・日本の史書に共通して記載されている。つまり、日本府とは
統治機関ではなくて軍事的な機構であり、朝鮮半島における倭人を統括したということ
ではないだろうか。そうすれば、百済に倭人が多く住み、倭人の墓まであるという事実
と矛盾しない。
975 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 20:09:45 0
誰か次スレよろ。
スレタイ変える?
「任那日本府を考察するスレ」とか
>>973 焚書の可能性はありえる。
天武朝編纂以前の史書だけ都合よ遺失しすぎ
馬子&太子の天皇記や国記も蝦夷が自身の滅亡の共にしたというが、
額面どおり信じてよいものか・・・倭の5王の時代は大乱があったとされ
王朝が交代した可能性が強い万世一系の主張に都合悪い代物は
すべて破却されたのではないだろうか。
天武朝っていろいろとそういう意味でかなりアレな政権だし・・・。
>>968 三国士気にも、新羅の都に倭兵がおしよせたとか、高句麗の大帯郡まで侵されたとあるから、倭の勢力が強いのは
事実。 ただ意思疎通はやまとことばではなく、漢人を通しての通詞が一般的じゃないかな。
日本語と朝鮮語の分化は相当古く、通詞なくして意思疎通はきわめて難しい。
>>974 軍事的な機構といっても、それらしいのは『雄略紀』に一箇所
「日本府行軍元帥等」と出てくるだけで、あとは『欽明紀』の
安羅の代弁者的な外交使節の姿しかない。
>>976 よろしくお願いします。
>>966>>974 というより、文字がなければ国家も海外遠征もできない
なんてことはない。中国の書面主義がむしろ異常。
982 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 21:01:18 O
>>960 律令のころの関東の移籍で農民が書いた文が発掘されてなかったか?
983 :
世界@名無史さん:2009/05/14(木) 21:37:41 0
倭の五王は朝鮮半島を経由しないで直接、南朝に遣使したのだろうか。それとも、
百済などを足がかりとして、そこから遣使したんだろうか。「六国諸軍事」の称
号の件は、すでに南朝の冊封下にあった百済の頭越しでおこなわれているようだ
が。
日本書紀が天皇を正当化するイデオロギー史書だってのはそうだけど、
割と日本の敗北も正直に書いてるわけで。
白村江で半島経営をあきらめた後に編纂した日本書紀が、
任那日本府を捏造してなにが嬉しいのかわからん。
もう一度、半島に進出することを正当化するためってなら理解できなくもないが。
実際『日本書紀』に書かれてる任那日本府の姿は
かなり情けないものがあるな
986 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 00:19:12 0
『日本書紀』とはいっても『百済本紀』からの引用というかたちで述されており、
『釈日本紀』には「任那倭宰」の注釈もあるから、『百済本紀』では「倭府」と
あったものが引用書写される際に「日本府」としたものではないか。『日本書紀』
「継体天皇紀」には、509年の条にやはり『百済本紀』を引用して、「久羅麻致支
弥(クラマチキミ?)が日本(倭国)よりやって来て、「任那の日本の県邑」に住
んでいる百済人の亡命者を、3代、4代の子孫に至るまで探し出して、百済に移管
して戸籍に登録した、と記している。亡命者の子孫が3代、4代を経るには、「日
本の県邑」そのものが少なくとも100年以上の歴史を経たものでなくてはならない。
509年の段階から1世紀余さかのぼった年代というと、「高句麗好太王碑文」に記さ
れた、倭軍が朝鮮半島に出兵して百済・新羅を破って臣民にしたたとされる辛卯年
すなわち391年が思いうかぶ。つまり、「倭府(日本府)」「任那のミヤケ」「日本
の県邑」いずれも同じものであり、それは倭軍の兵站基地のような性格のものだった
のではないか。
怪しげな日本語だなw
もう少し人様に読んで貰える文に書き直して来い。話はそれからだ。
>>987 この程度の日本語が理解できない人間が歴史談義w
989 :
986を添削してさしあげるのだ:2009/05/15(金) 06:08:12 0
『日本書紀』とはいっても『百済本紀』からの引用というかたちで述されており、
『釈日本紀』には「任那倭宰」の注釈もあるから、『百済本紀』では「倭府」と
あったものが引用書写される際に「日本府」としたものではないか。
『日本書紀』「継体天皇紀」には、509年の条にやはり『百済本紀』を引用して、
「久羅麻致支弥(クラマチキミ?)が日本(倭国)よりやって来て、「任那の日本
の県邑」に住んでいる百済人の亡命者を、3代、4代の子孫に至るまで探し出して、
百済に移管して戸籍に登録した、と記している。
亡命者の子孫が3代、4代を経るには、「日本の県邑」そのものが少なくとも100年
以上の歴史を経たものでなくてはならない。
509年の段階から1世紀余さかのぼった年代というと、「高句麗好太王碑文」に記さ
れた、倭軍が朝鮮半島に出兵して百済・新羅を破って臣民にしたたとされる辛卯年
すなわち391年が思いうかぶ。
つまり、「倭府(日本府)」「任那のミヤケ」「日本の県邑」いずれも同じもので
あり、それは倭軍の兵站基地のような性格のものだったのではないか。
3代4代たっても馴染んでなかったんだろうか?
百済の風俗と任那とでは随分と違っていたのだろうか。
当時の職業って農民くらいだろう。何してたんだろう。
馴染むっつーかもとから倭人の居住地域じゃん
後漢書やらに出てくる半島南部の倭人の居住地域ってのが任那だったんでしょ?
つーかニンナでもミナマでも変換しないってのはどういうこと?
993 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 08:36:38 0
{皆ま}で言うな
994 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 08:41:19 O
995 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 09:02:28 0
996 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 12:05:19 O
今までの話を総合すると
結局任那日本府なんて存在しなかったって事だな。
ちがうよ
日本<朝鮮
日本人<朝鮮人
日本人はウリナラに降伏しろ
でFA
998 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 12:10:36 0
998ならウヨ死亡、チョン死亡
999 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 12:20:07 0
999
1000 :
世界@名無史さん:2009/05/15(金) 12:21:16 0
1000なら景気回復
1001 :
1001:
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