1 :
世界@名無史さん:
正史に沿って三国時代を語るスレです
3 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 15:00:35 O
陳到について教えてください。
スレ立て乙
>>3 名声・位階が趙雲に次ぐ忠勇の士。以上。
5 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 17:41:24 O
そんなに凄い名将なの?
なんでここに来たの?三戦板があるじゃない
7 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 18:03:16 0
てううん
8 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 18:33:47 O
句扶も謎の名将だよな。
9 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 19:20:32 0
魏延に嫉妬した孔明のせいで負けてしまった
10 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 19:37:31 0
>>9 それがこのスレの見解としてもいいとおもうね。
前スレで結論が出るまで議論もしてるし。
自演乙w
孔明とか書いてる時点で拒否反応でるわw
>>9 何で孔明って字で書いてるのに文長とは書かないの?
15 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 20:00:13 0
姓は孔 名は明 字は臥龍なのだ。
水滸伝だっけ?
17 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 20:09:31 0
つか、孔明は孔子さまの御子孫でしょ?
魏延って本当にダメな名前だよな
延は字の長と対応してるんだろうけど
魏文長と氏字で書くと魏の文帝を長らえたまえ、的なお名前に…
19 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 20:15:55 0
それを言うなら劉備、劉禅のほうが。。
20 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 20:39:41 0
蜀の西征大将軍の魏延が、奇襲作戦とも言うべき進攻ルートを提案し、まず魏軍の長安を守っていた西安将軍の夏侯楙を叩くという事であった。
夏侯楙は、魏延に言わせれば臆病で軍略に疎いというのだ。
次に長安に残るのは、督軍長史や京兆太守といった文官だけであるから、米倉を襲ってそれで我が軍を養い、東方の魏が反撃するのは二十日以上かかるので、
その間に丞相将軍の孔明と合流するという奇抜な作戦であった。
>>20 コピペじゃねーか
もういいから三戦板に帰れよカス
22 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 20:49:50 0
長安は昔から食糧難にしばしば落ちいった土地ではあるけど、米蔵というか食料庫はあっただろうな。
地面にでっかい穴を掘って穀物を流し込んでおくやつ。
23 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 21:01:18 0
法正がいれば・・・
24 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 21:03:32 0
陳倉って名前もきっとそういう穀物倉から来ていたのだろうと妄想する。
>>22 当時の食料庫は「邸閣」だよ
魏延の策にも出てくる
高床式の倉庫だろうか
厨流入が著しいな。さながら五胡の中原侵入だ
義倉は臣民のためのものになるのかな?
28 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 21:25:47 0
秦の時代もそうだったけど、後の唐の時代にも穴蔵式穀物貯蔵庫は活躍してるね。
さすがに益州では高床式でないと穀物が腐ったとおもうけど。
29 :
世界@名無史さん:2008/12/13(土) 21:27:56 0
黄土高原ならではの方法だろうけどね。
なんか自閉症っぽいヤツが紛れ込んでるな
>>22 昔からというのがいつのことだか解らないけど、
前漢の長安は人口が集中しすぎて渭水盆地の生産力では賄えなくなり、
中原から食料を漕運する必要がでてきた。
そのために都水官などが置かれ、黄河や渭水が灌漑されて漕運された。
後漢の京が洛陽に置かれたのには、長安での赤眉の跋扈などと共に
山東の発展と関中への輸送の不便があったからではないかとかなんとか。
そういえば「邸閣」って魏側の魏略にしか出てこないね。
魏書には他にも出てくるのに。
>>32 どこと比べての「しか」なの?
諸葛亮は斜谷に邸閣を作ってる
ぶひぶひ〜
36 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 04:10:15 O
関中の人口が集中して云々の話しは、唐代以降の話しでなかった?
唐の場合は、山東からだけではなく、江浙からの水運。
煬帝の運河を通っての輸送ね。
一時、皇帝が待ちきれず洛陽に幸した話が有名だけど。
当時の女性武将では誰が一番強かったの?
正史では王異かな
というか他に戦闘で活躍した女がいない
41 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 15:50:16 0
>>9 劉備は関羽・張飛・魏延みたいなクセのある将軍が好み。
諸葛亮は趙雲とか王平みたいな真面目で組織型将軍が好み。
関羽・張飛・魏延はみな性格上の欠点が身の破滅を招いた。
趙雲や王平は名声はそれ程ではなくても、趙雲は死後に諡号を追贈され、
関羽や張飛等と同等の評価を受け、王平は無学ながら漢中総督にまで昇進し、
興勢の役では曹爽の軍勢を撃退する大功を上げた。
42 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 16:08:38 0
劉備は苦労してるから孔明より人間の内面見る目があった
諸葛は性格は割合まともだがやはり士大夫
三戦行けカス
三戦に参戦
45 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 16:21:54 0
馬謖起用し大敗してる時点で分かる話
ニワカage厨は三戦で勉強してこい
幼稚なレスが増えたな
劉備が後漢末に高く評価されたのは第一にその武勇と信望だが、
盧植に学び孔融に評価され陳登と交流を持ち劉表・許劭と座談する
一端の士人だった。
劉備は(関羽・張飛は別格として)魏延のような武人を引き立て、
盧植・陳登・諸葛亮など関係のある士人は癖のある人物が多いが、
一方で既に名声高いホウ統を腹心に迎え、
厚重と評価された趙雲を一貫して幕府の抑えに配置するなど
人事には高いバランスがある。
諸葛亮時代の高官は、九割が劉備に信用された者達。
諸葛亮は彼らに助けられ、時に苦労させられながらも、
蒋エンを初めとする朝廷を運営できる次世代の人間を育成抜擢した。
馬謖の例はそれが失敗に出たものだろう。
劉備と諸葛亮の人事起用の差は軍閥時代と蜀漢朝廷時代とに求められる
能力の質の差であって、必ずしも二人の好みの差ばかりではないね。
49 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 17:31:04 0
劉備は張コウを恐れたように人を見る目は士大夫の机上の軍人孔明よりあった
またそういう出鱈目を言う。張コウ伝さえ読んでないのが丸解りだな
52 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 17:53:17 0
孔明が有能ならなんで馬謖を先鋒に使ったん?
魏延の策を否定し自分は大失敗ってw
それじゃ魏延があいつの下じゃ俺の10分の力は出せないと不満もつのは当たり前
失敗したら有能ではないのなら、歴史上に有能な人物は皆無と言うことになるが、
それが
>>52の論旨なのかね?
>>52 なに齧ってここにカキコした?肥三国志の武将ファイル?
55 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 18:09:09 0
軍事(笑)
>>55 持論を展開するなら筋道を立てて。
誰かに反論するのなら論点を抑えて明瞭に。
諸葛亮が(軍事に?)有能だと言ったレスは新スレになってから無いから、
>>52は誰かへの反論ではないのだろう。
あなたの考えを起承転結を考えて文章にすることに務めましょうね。
>>55が軍事史のどれほどを知っているのか、非常に興味深い。
ぜひ、明示してもらいたいものだ。
西洋史や日本史に飛ぶのはなしな。
そもそも文化圏も、国家体制も違いすぎるから。
59 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 18:25:36 0
シナ人は笑えるなw
60 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 18:45:50 0
諸葛亮が重用した蒋苑、費偉、董允、王平、馬忠、ケ芝、張翼、姜維
といった人物達は蜀を支える重臣として活躍した。人材投与で失敗したのは
馬謖の事例くらいだろう。
一方の劉備は諫める黄権を左遷して対呉戦線から
外し、蜀への帰路を無くしてしまい、将来を嘱望された馬忠を蛮族への宣撫工作
に使って失い、諸葛亮の副として指名された李厳は諸葛亮の足を引っ張り続けた。
馬謖の例ばかりがクローズアップされるが、実は劉備の失敗で失われた人材も多く、
その投与も必ずしも上手いとは言えない。
黄権は呉征討の副将。長江の南北で指揮を分担した起用が正しい。
馬良(馬忠じゃないだろ)も能力を信任しての派遣。
両者が失われたのは敗戦のためであり、起用の過ちではない。
自分の足を「引っ張り続けた」人間を北伐の兵站管理に任用するほど諸葛亮は馬鹿じゃない。
「補給の失敗」に至るまでは、李厳の上昇志向と丞相府への集権体制を望む諸葛亮の間に
考えの違いがあった程度で、明瞭なほどの対立は無かった。
馬謖が独り立ちしたら、北伐は馬謖に任せて自身は成都に引き篭もるつもりだったんだろうな。
そうすれば命削ってまで自ら兵率いて遠征に行く必要もなくなり、過労死する事もなかったかもしれない。
あの敗戦はある意味致命的だったのかもしれないね。
63 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 20:30:12 0
>>61 馬良に関してそうなんだが、
黄権に関しては魏への備えでなかったか?
意に反するから主戦場から離したという感じだと思うよ。
諫言を受け入れなかったことを後悔したかこそ、
黄権の蜀に残った家族に危害を加えなかったのだろう。
64 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 20:49:26 0
劉備も夷陵の時はふ習とかという
無名の将軍に指揮を任せて失敗している。
損害の度合いからすると劉備の方が酷い。
65 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 21:07:13 0
魏延は勇将にすぎない。
自分が煙たがられてるのに、諸将が自分が諸葛亮の後継に望むと
考えたこと自体が浅はか。まして朝廷が魏延に北伐続行をさせること
など考えるはずがないことも読めなかった。これが魏延の限界だろう。
というか劉備を持ち上げてるのは武将ファイルかじったニワカだけでは?
スルーすればいいやん。馬鹿なんだしw
ヒマだからだよ。
それ以外のいい話題があれば、自然と淘汰されるよw
68 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 22:14:48 0
つかあれだね。
正史スレといいながらみんな諸葛亮の話題しかしないのだね。
いいから三戦帰れよ。
>>63 呉攻めに反対したのは前々からだよ
張飛などの死後とはいえ、それまで黄権は側近だが古参諸将に比べて格が落ちる地位だった。
それをあえて鎮北将軍という高位に任命して長江の対岸を任せている。
劉備は四ヶ月に及ぶ対陣で長江南岸を占めつつ武陵の蛮族を呉軍への包囲網を絞めようとしていた。
その間、北岸が疎かなら呉がそこに目を付けないはずが無いし、
実際先主伝には黄権が呉軍と対峙したという記事がある。
自分としては、主戦場で主君の命を受けて働くよりも、そこから離れて独自の判断が必要な
場所を任せられる方が重要度と必要な資格が高い、むしろ抜擢だと認識している。
>>68 ?意味が分からないな
諸葛亮は正史に出てこないとでも言うの?
72 :
世界@名無史さん:2008/12/14(日) 23:53:36 0
>>71 そういう意味ではない。
しかしやたら魏延や諸葛亮のネタに食いついて延々と盛り上がるのが不思議で。
正史にはもっと他の話題もあるでそ?
それで盛り上がらないというのが、ね。
不思議なんだ。
>>72 ネタを振って先導する力の無い人間がそれを言っても虚しいね
74 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 00:02:36 0
つか。ネタ振る人間がだれもいないでしょ、ここ。
>>74 そういうセリフは平原侯の話に食いついてから言え
つーか正史読んでないのバレバレだし書き込むなよ
正史読め、正史読めとか抜かす割には出してくる結論は偏見と妄執に満ち満ちているしな。
>>77 ある論を偏見妄執と看做すのはあなたの史観だよ。
少なくとも具体的な何かを指して偏見妄執と断じることさえできないのなら、
あなたの言葉は無力無益。
おまえらいい加減ギエン>ショカツ厨に釣られすぎだ。
ギエンを持ち上げてショカツリョウを貶すだけでつり放題なんだから
本当はギエンのことなんてどーでもいいんだろ、自演でギエンを貶すくらいだしな。
80 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 00:43:13 0
魏延かわいそうだな、無能な上司を持った典型ですな・・・
>>79 すまんね、何度も何度も無謀な突貫を繰り返す新兵さんを見るのがちょっと感動的でな
しかしそんなに熱くなるなよ。
>>80みたいな一発釣り屋を呼ぶから
では正史スレらしいネタの振り直し
a.曹叡が平原侯だったことがあるとする説の難点
1.魏志文帝紀・明帝紀にその記述がない。
2.昇降の時期やきっかけが不明
3.太子が廃された場合、王に徒されるのは普通の成り行き。
4.閻纉伝の「師友文學」はいずれも郡王の官であり、県侯にはない(はず)。
b.曹叡が平原侯だったことはないとする説の難点
1.実際、カン丘儉伝、何曾伝、閻纉伝と異なる出典に「平原侯」の記述がある
2.侯だったことは「ない」と証明するのはそもそも困難(論理学的には不可能)
a-3には補足がいると思う。
漢魏代、太子は東宮にいて、独自の官属を有した。
王となって外に出されるのは、後継者競争からの大きな後退、或いは脱落を意味する。
実際、漢順帝など、「太子廃為王」の憂き目に逢った人物は複数確認できるので、
曹叡が長子であるにも拘らず黄初三年に王に封じられた時点で、相当の苦境に陥ったと理解できる。
つまり、カン丘儉伝、何曾伝、閻纉伝の「平原侯」が全て「平原王」だったとしても、
前後の脈絡に矛盾は起きない。むしろその方がすっきりする。
ここで閻纉伝の記述が問題になる。
「及至明帝,因母得罪,廢為平原侯」
これが「太子廢為平原侯」の意だとするなら、曹叡は曹丕の死の直前まで太子にはなっていないはずだから、
これは閻纉が上奏向けに史実を簡略化して言ったものになる。長子だったけど県侯?まで落とされたことを「廢」と表現したわけだ。
「平原王廢為平原侯」の意だとするなら、平原王から侯に落とされた時期と理由を突き止める必要があるだろう。
あー、待てよ
明悼毛皇后伝には「黄初中,以選入東宮,明帝時為平原王」とあるな。
すると曹叡は初め太子かそれに準ずる扱いを受けていたが、
黄初二年六月に甄后の罪に連座して平原侯に落とされ、
三年三月に曹彰曹植らの地位を改めた際に王まで戻された、
という筋立てはありうるのか?
>>82 a-1
そもそも、文・明紀に見えないことだけでは論拠にならない
それは「武帝紀には書いていないから赤壁の戦いは無かった」という主張と変わらないから
a-2
書いていない以上、明確な根拠を持って言うことはできないね
ただ、明帝紀注魏略によると、文帝が郭皇后に明帝を育てさせたが、実母が殺されたことで明帝はかなり不満であり、文帝も京兆王を後継ぎにしようと考えたらしい
つまり
明帝母死亡→郭皇后に養育される→廃嫡?
というワンクッション置いた流れがあった
そこに明帝の爵位を乗せると、
斉公→明帝母死亡→平原王→郭皇后に養育される→廃嫡?(→平原侯?)
ということになるのではないだろうか
a-3
貴方も指摘してるように、すべて平原王の方がすっきりするのに、複数「平原侯」記述が存在する
一ヶ所程度なら誤記の類だろうが、三国志・晋書双方に出ているとなると単なる誤記以上の何かを想定せざるを得ないと思う
仮に、文帝が明帝を実子と認めることさえ保留していたとすれば、敢えて侯にまで格下げする理由はある
a-4
これはなんとも言えない。廃されたけれど師友文学を置いて教導したお陰で立派になりました、という内容だから、通常の官制を超えて特に置いたとしても矛盾するようなことではない
(間違いなくそうだとも言えないが)
ここに限らず、どうも曹叡関係には隠されていること、改竄されていることが多そうで困る
>>83 ああ、なるほどね
でも、どちらにしろ不思議なことに、文帝の世子なら文帝が即位した時点で明帝にももう封爵は必要ないんだよな、本来
文帝自身がそうだったように
斉公になっている時点で、純粋に世子としては扱われていないんだよな
>>84-85 そもそも斉公だったというのは考えに入れ忘れていたな
難点を挙げたのであって論拠にはしてないよ。
公正を期しているだけでどちらかに組みしているわけではない
曹叡に関して「隠されていること、改竄されていることが多」いというのは
他には何があるだろう?
おそらく陳寿が元にした史料または史書の不備遺漏なのだろうけど、
曹叡の汚点(?)を意図的に隠すような動機はこの場合ありえるのだろうか。
太子に立てられなかったのは曹丕と甄氏の問題であり、
曹叡本人の資質言行には問題が無かった(とされている)のに?
87 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 06:04:14 0
呉壱は戦功のある武将で、
車騎将軍という高位にまで昇った。
加えて外戚でもあるのに、何故伝記が残らない?
88 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 07:33:10 0
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/kokusi_koush.html 『華陽国志』では劉禅即位後に爵位が上がったのは、
李厳、趙雲、費観、魏延、呉懿等だな。趙雲はこの時は征南将軍、短期間に
鎮東将軍に昇進。魏延と同等に引き上げられ、逆に魏延は230年まで昇進
することがなかった。
魏延の出世ペースが遅くなった大きな要因は李厳。
李厳は蜀のbQであり、226年の段階では前将軍。他の将軍をこれ以上に
昇進させることは不可能であった。古参とは言え、追い抜いたと思っていた
趙雲が第一次北伐直前には同等の地位まで上がってきた。しかも、偽装進軍
とは言え、別働隊を任せられるなど、常に諸葛亮の直卒下にされた魏延は劉備
在位の当時に比べると実質権限が削られた。
諸葛亮は北伐開始以後は常に漢中に駐屯し、防衛時の指揮も諸葛亮が握っていた
と思われる。名位は確かに上がったものの、その権限は呉懿や王平と変わりない
程度だったと思われる。
『魏略』の記事は信憑性に問題がある記事が多く、第一次北伐前の魏延の策も本当
かは疑わしい。歴戦のベテラン将軍にしては相手を嘗めすぎているのも魏延が考えた
策としては疑問。正史『三国志』には常に1万の別働隊を望んだとある。そこには
得に綿密な作戦を立てたとの記事もない。諸葛亮死後の子供じみた魏延の行動を観察
すると、綿密な作戦計画があったというよりも、実質権限が削られた不満と自分で采配
を振りたいという単純な欲求だったと思われる。
もし、魏延が綿密な作戦を立てられる人物だったなら、最後の北伐時に諸葛亮の体調が
思わしくないことは知っていただろう。諸葛亮死後の行動も計画したはず。もし魏延が
諸葛亮の遺言通りに殿で撤退したら身の安泰は計れたはずだし、北伐の続行を望むなら
後主に許しを請わなくてはならない。諸葛亮死後の魏延の行動は場当たり的であり、し
かも計画性がない。こうした行動を見ても魏延を総司令官として北伐するなど博打以上
に危険な賭としか言いようがない。
89 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 07:49:13 0
>>72 前々スレッドで過疎化してたスレッドを活性化させたのが私。
そん時はやたら蜀や戦争の話しになると、すぐにスレ違いと言いだして
話題を止める人がおり、スレッドが過疎化してしまった。
そこで多くの人が食いつきやすい『蜀志』の話題をふりまくった。
そうしたら次第に参加者が多くなり、スレッドが活性化した。前スレッドを
立てたのはこの私だ。前スレッドでは自然に話題が出るようになった。
『三国志』に関心をもつきっかけになったのは、『三国志演義』や吉川英治の
小説『三国志』であろう。だから関心も蜀の人物や戦争に関して。こいつは仕方が
ないと思う。正史から逸脱した話しでなければ問題はないはず。他の話題を振っても、
話しが続かないならそれだけのことでしかない。学術研究の場というわけではないの
で仕方ないだろう。
妙に潔癖なヤツがいると荒れるね。
>>89 このような中身の無い長文とageが魏延厨の特徴です
住民の真摯な反論にも耳を貸さず、一方的に詭弁をまくしたてるだけなので
荒らしと大差ありません
皆様にはスレの品質維持のためにもどうか徹底した無視をお願い申し上げます
92 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 11:25:51 0
三国時代の地図見てたら気がついた。
諸葛亮は最初から間中を平定しようとなんて思ってなかったな。
もっと西方を領土化することを目論んでいたのだろう。
93 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 11:32:52 0
関中西方を平定して拠点を作り、
漢中からも出兵して二方向から関中を奪取する計画だったのだろう。
キ山、陳倉、五丈源の出兵はほぼ関中と西方を切断する作戦の一貫だな。
今更かよw
まったく今更だが、一次、四次や姜維による祁山方面の出兵はそれに当たるとしても、
二次の陳倉・五次の五丈原はまったく別だよ。こちらは長安へ大軍を通せる最短ルートだ。
同じには語れない。
96 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 16:40:33 0
陳創や五丈源から東進するのではなく、
そこを押さえとして西方を平定する狙いでは?
二次と五次の共通点は、呉が大軍を動かし、魏の兵力が東方に取られている時期だということ。
そういう好条件でもなければ、雍州駐屯軍に加えて洛陽から一月程度で到着する大軍を相手に侵攻する
兵力は蜀漢は動かせなかったのだろう。
その好条件に合わせて最短ルートを取ったにも拘らず、魏の主力を抑えながら悠長に西方平定する
理由は無いし、そんな力は兵力的にも時間的にもないと思うよ。
もし西方に振り分けられた魏の主力を破ることが出来た後なら、長安は丸裸なのにわざわざ西進する理由はない。
98 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 17:44:11 0
法正と魏延がいれば孔明のような戦を知らない士大夫が指揮を執ることもなかった
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. ∧_∧
(´・ω・)
/ \
__| | | |_
||\ \
||\\ \
|| \\ \. ∧_∧
. \\ \ ( ) ほかに言う事ねーのかよサル
. \\ \ / ヽ
. \\ / | | .|
. \∧_∧ (⌒\|___/ /
( )つまんねーんだよお前 ∧_∧
_/ ヽ \ ( ) ギャハハ泣かすなよオメーら
| ヽ \ / ヽ、
| |ヽ、二⌒) / | | |
100 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 17:48:06 0
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄V ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. ∧_∧
(´・ω・)
/ \
__| | | |_
||\ \
||\\ \
|| \\ \. ∧_∧
. \\ \ ( ) ほかに言う事ねーのかよサル
. \\ \ / ヽ
. \\ / | | .|
. \∧_∧ (⌒\|___/ /
( )つまんねーんだよお前 ∧_∧
_/ ヽ \ ( ) ギャハハ泣かすなよオメーら
| ヽ \ / ヽ、
| |ヽ、二⌒) / | | |
ここ学問板だぞ。恥ずかしくないのか
103 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 18:08:22 0
>>97 呉が魏軍に大勝し、尚かつ荊州や陽州の北部を奪取でもしない限りは
関中に大きく侵攻というのは無理だろうな。
104 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 19:10:05 0
諸葛亮って籠城戦はした事有るのかな。
敵の領土を攻めとる以上、反攻時の籠城戦はつきものと思うのだが。
さっと逃げ帰ってる印象が強い。
苦手だったのか、ハナから領土の拡大は目的ではなかった、か。
隴西の片隅や渭南で諸葛亮が城や陣地に篭ったら
魏は遠巻きに傍観するだけだよ。攻める必要がない。
そうこうするうちに兵站が切れる。
篭城戦をしたことあるのかと言ったら、多分ないだろうね。
記録に残らない小競り合いで魏が諸葛亮の陣営に
軽く攻撃を掛けたようなことはあったかもしれないが。
106 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 19:32:20 0
それはそうだね。
107 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 20:00:38 0
蜀の防衛は秦嶺山脈の要害を先に占拠して敵の平地への侵入を防ぐというのが
基本システムだったみたいよ。こいつは姜維伝や王平伝にその記載がある。魏延が
漢中総督の頃からそうだったみたい。要害を先に占拠して隘路で足止めをして、
モタモタしているうちに長期戦に持ち込み撤退に追い込む。
実際に230年の曹真の侵攻も進軍に難渋し、しかも長雨で結局は撤退しているし、
244年の曹爽の侵攻も王平が先に要害を占拠したことにより魏軍を撤退に追い込んだ。
少ない兵力で防衛するには有効なシステムだったみたいだ。
先に占拠というより、山脈内や近くに中小の砦を重ねて構築しておき、
盆地に入れさせないという方針だね。
姜維はその守備線を下げて平地の二城に兵力を集中させた。
逆撃して大勝を見込めるという上言だったが、鍾会あっさり突破されることになった。
この守備線を下げた分の剰余の兵力は姜維の北伐軍の損耗補充に当てられたと
よく言われるけど、その記述ってどこにあるっけ?
109 :
董卓:2008/12/15(月) 20:23:02 0
最近やっと正史・夏侯尚伝読み終わったわ。
110 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 20:29:27 0
>>108 具体的な記述はないね。
ただ、その建議が出されたのは姜維が段谷で大敗後の話。
多くの将兵を失った後の建議だから、そういった推測がされるのだろう。
事実そうだったのではないだろうか。
111 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 20:42:47 0
>>108 守備軍を下げてしまうと、時期によっては漢中の農作物を敵に渡してしまう
可能性があるよね。興勢の役ではそれを心配して王平・劉敏は平地への侵入を
断固として阻止したわけだし。
鍾会軍も漢城・楽城を陥落はさせてはいない。
撤退の相談までしたくらいだった。まあ、敵に大勝する可能性はあるかもしれないが、
国内を荒らされる危険性もある。良くも悪くも姜維の性格が出ているよ。
>>109 当然だよ。日本人が作った人工言語なんだから。
福沢諭吉もはじめはカナ漢字交じりの表記を普及させようとしたんだけれど五十音は彼らには難しすぎて教えられなかった。
そこで諭吉の弟子である井上角五郎が母子音あわせて半分以下の二十四種類で済む(そう。アルファベット26文字より少ない)ハングルを考案したんだ。
これによって世界一知能の低い朝鮮人と(むろん朝鮮人同士の間でも)言語による意思の疎通が可能になった。
もっともそれで話が通じるかどうかになるともう一段高いハードルがあるようだけど。
113 :
董卓:2008/12/15(月) 20:50:42 0
何故にハングル文字の話になる!?112よ!!
114 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 20:50:45 0
いったいなんじゃらほい?
>>110 ありがと。
しかしそうだとすると、その通説(?)はちょっと考え直す必要がありそうだな。
額面通りの守備が盆地内に敷かれたのなら、従来より多くの兵力が必要になりそうなもので、
剰余が生まれたとは考えづらい。
しかも同時に守りを固めたという七城は散水沿いから武都に及ぶ地域のようで、
これは魏が秦嶺を迂回して南下してくる危険を本格的に姜維が意識し始めたことを示すだろう。
なおさら北伐軍に兵力を回す余裕があったとは思えなくなる。
そうすると、それ以後の姜維の北伐も(焦りは無論あったにせよ)地位保全ための無謀な侵攻とばかりは
見做せなくなってきそうだな。
116 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 21:30:44 0
>>115 人によっては、単に兵員不足で防衛線を下げたのではなく、
前方に諸陣営を配置する経済的余裕が無くなったからと言う人もいる。
陣営が前方にあれば少なからず物資は運ばなくてはならず、その人員を
使う費用も必要。度重なる戦役の疲弊で前線を維持できなくなったから
という見方もある。
>>116 しかし、新たに漢中から遠方の七城の守備を固めている。
武都の辺りでは自給自足が出来たのかもしれないが。
単に防衛線を下げたのではなく、
漢中の真北を下げることで西側を強化したように見えるな。
118 :
世界@名無史さん:2008/12/15(月) 22:24:43 0
>>102 馬鹿にされてますぞ
24 名前:無名武将@お腹せっぷく :2008/12/15(月) 21:52:15
>>1を馬鹿にして息抜きするためのもんだろ? 違うの?
119 :
世界@名無史さん:2008/12/16(火) 06:19:57 0
>>117 実際の侵攻では難なく突破されてるジャン。
それに姜維自身は踏中にいた。おそらく数万の軍は保持していたはず。
現実的には防衛強化というよりも、遠征軍の欠員補充だったでしょう。
120 :
世界@名無史さん:2008/12/16(火) 09:44:32 O
末期政権では防衛システムも機能しなかったというべきか。
姜維の軍が外部で屯田してるのも異常自体。あれで至るところが手薄となったのでは?
121 :
世界@名無史さん:2008/12/16(火) 13:35:13 O
何で段谷の戦いは大敗になったの?
約束を破ったやつがいたから
123 :
世界@名無史さん:2008/12/16(火) 18:33:02 O
何で軍を二手に分けたのだろ?
>>119 不十分だった。見込みが甘かった。
それだけだろう。
少なくとも記録から窺えるのはね。
125 :
世界@名無史さん:2008/12/16(火) 19:06:40 O
遅れたきたやつは処罰されていない。
天候などの仕方がない理由での遅延だったのだろうか?
処罰されていないという確証も無いでしょ
127 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 00:39:10 0
袁孫、字は陶末。
知ってる人がいるかな。
しらんなあ、というか
孫という名はあるのか? 陶末って字も馴染みのない語感だし
129 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 00:44:43 0
漢の武帝の頃の発明家だったらしいのだけどね。
出典よろ
少なくとも漢書や史記の検索には出てこない
その話がなんで三国志正史スレででてくるんだ?
132 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 00:49:28 0
普通にぐーぐるで献策してみそ。
したけど?
136 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 01:07:46 0
武帝に原始的な映画を見せた話とかが本には載っているね。
荒らし目的でもスレが伸びるならおk
痛いコだけど全レスで構っちゃうオレカコイイ!
138 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 01:19:34 0
>>137 たしかにあんたかっこいいよ。
サインちょうだい。
トーマス・エジソンか。なんでエディスンって言わないんだろうね。
…まあスレ違いか。無視してくれ。
140 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 10:09:11 0
>>126 約束の期日に間に合わなかった胡済は特に処罰されなかったみたいよ。
例の防衛線を下げる建議があった時も漢中総督の地位だったみたいしね。
あの建議は段谷戦の後の話。魏の侵攻時には名前が出ていないので、侵攻
時には既に死去していたかもしれない。
141 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 17:00:27 0
ケ艾伝を読むと、
最初は祈山に向かった。ケ艾の備えが出来ていたので
安南に向かった。要害の地を占拠しようと争ったが勝利を得られず。
やむなく謂水を渡り山に沿って上ケイへと向かったとある。
なんか作戦計画がかなり変更になっているみたいだ。
胡済と上ケイで落ち合うという作戦も、当初から予定されていたもの
ではないかもしれない。敵に備えが出来ているのを見たら、諸葛亮な
らサッと退却したのかもしれないが、功名心が強い姜維は作戦計画を
場当たり的に変更してまで進軍した。前年に魏軍に大勝しているの慢
心もあったかもしれない。
胡済の別働隊も急遽編成を命じられたのかもしれない。
しかも一方的な期日指定。もし胡済が命令違反で軍の出動を遅らせて、
それが原因で敗北したのなら処分されているはず。それがないのは
相当に姜維の作戦に無理があったからだろう。
142 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 17:42:45 0
魏延の統率限界は数千人程度だろう。
万を超える大軍を指揮するのはにはキャパが狭すぎ。
143 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 19:07:11 0
姜維が王径に大勝した時は魏軍は五桁の戦死者をだしたが、
ビクともしない。姜維が段谷で大敗した時は四桁戦死者。蜀は大打撃に
なった。蜀の方が戦死者が一桁少ないのに影響が全く違う。これが
国力の差か。段谷の戦いは将官が二桁戦死とのことなので、実戦指
揮官が多く失われたという質的打撃も大きかった。
144 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 19:14:49 0
魏延の才に嫉妬した孔明
145 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 19:16:07 0
蜀の人口は100万近く
魏は400数十万
呉は230万あたり
慎太郎で勝てるな。
147 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 20:05:02 0
大敗した時のリスクは蜀は非常に大きい。
夷陵の敗戦後は南方が反乱してても、しばらくは軍事行動できなかった。
諸葛亮がダメだと見ると素早く撤退するのもここなんだよな。
大きな損害を出すと数年は軍事行動に支障がでてしまう。
姜維は段谷で大敗後も遠征を何度もしたので国が滅亡した。
おそらく馬謖の街亭での敗戦よりも段谷の方が損害が大きかっただろう。
諸葛亮は大きな損害を出す前に兵力を温存し、次のチャンスを待った。
148 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 20:11:06 0
>>145 この人口は戸籍に載っている人口ということかな?
戸籍に載ってない人を合わせるともっといそうな気がするけど。
戸籍に載ってないということは徴税徭役に取れないという意味だから
国力を知る重要な指針になる
山林亡命の徒は国力には還元しない。
逆に、内憂の種だし、うまくすれば外敵に対する自警や抵抗を
組織することもあるが、体制や法にのっとったものでない以上
不確定要素すぎる。
だいたいどの時代も、そういった逃戸の対策に腐心するのが常。
151 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 20:21:01 0
実際に劉しょうが蜀をおさめていたといっても実際に支配下においていた人民はわずかだった。
劉表の荊州もそうだっただろうね。
劉備が入蜀したあとに実際に人民を支配するまでには長い年月がかかった。
152 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 20:21:56 0
仮に『魏略』に掲載されている魏延の策を用いて長安攻撃隊が壊滅したら、
蜀には大打撃だっただろう。段谷の戦いも数千の戦死者でかなりの打撃だったし。
第一次北伐は作戦自体は打倒でしょう。街亭の守備を魏延か呉壱だったらよかった
という感じでしょう。魏延を使いたくなかったら、主将を呉壱、副将を王平にし
たらベスト。
>>151 その代わりに民を実質的に支配していた豪族たちを味方にしていた
自衛か自分にも利益が還元される戦なら豪族は兵や物資を出すから、豪族を上手く使えれば支配する人口以上の力を発揮できる
異民族も同様
154 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 20:31:33 0
赤壁後に雷緒という謎のリーダーが逸民集団を率いて劉備の下に加わっているね。
>>153 豪族に供出はさせていただろうけど、蜀はそんなに益州豪族を上手く使っていた
感じじゃないね。上手く使えばその分発言力を高めることになってしまうわけで、
蜀漢政府はむしろそれを抑えることに腐心したと思う。
逆に呉は部曲と国に与えられた兵を合わせて前線に駐屯している豪族の頭が
多くいたし、豪族以外の将にも兵を世襲させて世兵制の祖になったね。
156 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 20:41:44 0
呉の南方の地なんか山越とかが多く住んでいたんだよね?
原始人ではなく米食ってたんでしょ?
>>155 蜀は敵勢力下の豪族や異民族を使うのが上手だったね
魏の統治に不満があったからだろうけど
米は蛮民の食い物だよ
当時の中原の風流からすると
159 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 20:46:26 0
呉も雲南の孟獲を背後でそそのかしてたんだっけ?
160 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 20:46:50 0
益州にはホウ義という豪族もいなかったけ?
蜀の高官にはならなかったな。法正、呉壱、李厳なんかも元々は外来者だし。
益州出身で高官になったのは黄権、馬仲、王平くらいかな?
161 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 20:51:30 0
黄権、黄承彦、黄蓋、黄忠。
なんか長江流域には黄氏族ってのが多くいたんだな。
黄河ではなくて長江なのに。
162 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 20:52:37 0
黄祖ってのもいた。
163 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 20:57:09 0
中原では粟飯の方が上等と考えられていた時期があったらしい。
稗、粟は水呑百姓の食い物というイメージの日本人には。。
ホウ義も益州ではなく河南の人。劉焉の家と代々交流があった。
劉焉の劉範らと馬騰らが長安で李カクに反乱したときに、
劉焉の孫達を連れて脱出した。
その功績もあり劉璋にも重んじられたが、のちに不仲になる。
劉備に帰順して、馬超・許靖らと共に劉備陣営トップ3の一角になってるよ。
まあ実権は殆どなかっただろうけど。
165 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 21:10:53 0
王平も漢中の人だよな。
蜀の支配層に蜀出身者が少ないのは、日本が支配していた時代の朝鮮や満州に駐屯する日本軍人に朝鮮人や中国人がいないのと同じ
同じという、その内容はなんだ?
同じと言われてもわからんw
確かに
>>163 当時の品種と栽培方法に寄るんだろう。
麦も漢代では「辺鄙な土地でも作れる穀物」だったそうだ。
実際麦はアルカリ性の土壌に強いようだが、
栽培方法が粟より未発達であまり実りがよくなくて
上田では作られなかったのかもれない。
米はすでに粟などの陸作より上の播種量があったようだけど、
まあ黄河や渭水流域では米は作れないから
見慣れないものへの偏見がかなり混じったのだろう。
慣れた味とか料理方法の差もあるだろうし。
台湾の方が例えとしてスマートだと思うが・・・
171 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 21:35:24 0
米って字そのものがもともと粟のことだったんだってね。
粟米と稲米って言ってたらしい。
>>170 確かに日本帝国は内地を失って朝鮮に居座った亡命政権ではないからな
174 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 21:52:36 0
蜀のなかの虫って言うのが蚕だった(?)と言うくらい、蜀錦=絹織物が昔からの名産品だったらしいね。
だれかの言う通り、馬超姜維、そしてホクバツってシルクロード確保が目的だったのかもね。
175 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 22:05:04 0
>蜀の支配層に蜀出身者が少ないのは、日本が支配していた時代の朝鮮や満州に駐屯する日本軍人に朝鮮人や中国人がいないのと同じ
B・C級戦犯遺族の訴えは全て嘘なのですねw
陸大出身の旧日本軍将校で、朝鮮戦争の際最優秀と称された韓国軍将校は実は日本人だったのですね。
全面的に同意します。
176 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 22:23:58 0
中国の歴史見ると功臣は皆潰されるね、必要なくなると殺される
中国人の出世意識ってどうなんだろうな?
孔明や関羽のようなのが称えられるのはよくわかる
一極的な国家意識ってのが現代よりかなり希薄だからね。
この時代の士人たちのかなり強い倫理感として、
自分の家を保ち繁栄させ名を残すというものがある。そのために命を懸けたりする。
だから機会があればどこまでも昇ろうともする。
勿論それだけじゃなくて、美徳のあり方がかなり多様な時代だよな。
178 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 22:34:26 0
中国に限った話でもない気がする。
179 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 22:42:18 0
>>177 学問ある奴は当然功臣潰しの歴史を知ってるわけだろ?
韓信も劉邦に捕らえられた時やはり「走狗煮られる」と言ってるし
180 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 22:45:09 0
>>178 少なくとも日本の歴史で、もう不要だからといって功臣があっさり殺される事はないだろ
有名なのは義経ぐらいか
功臣がみな殺されるわけではないが
要は(力を持ちすぎた)功臣が消されるだけで
182 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 22:55:35 0
日本だったら処刑されても本人のみだよね。
日本人が一番戦闘的だった戦国時代なんかは復讐されないように妻、子供まで殺したけど。
でもそういう事をした信長秀吉ってやっぱ非難されてしまう。
でも中国って九族皆殺しなんてことを平気でするよね。
183 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 23:01:14 0
>>181 だから出世すんの怖いと思わんのかね?
漢の三傑なんて張良以外全員殺されかけたし、張良でさえ子孫は不敬罪で領土没収されてる
劉邦でさえ劉氏以外は王につけるなと言ったのに、死後は妻の呂氏一族に権力握られ劉氏は殺された
みんな俺は大丈夫と思うんだろ。
今も昔も東も西も結局同じ事繰り返してるし。
「賢者は世を辟く」という言葉もまたあってだな。
乱世や乱君に身を危険に晒すのであれば、避けて一身の安全を保っても良いとされる。
乱世で出世を選ぶ人間は逆に功業を樹立することを願った者達。
粛清の歴史を幾ら知っていたとしても、自分のほどほどラインを
予め見極める能力を持った人間なんてそうはいないよ。
張良はその極少数例の一人だ。
186 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 23:06:57 0
中国ってさ。
春秋戦国のころって実にさまざまな姓があるよね。
見た事が無い様な漢字がいっぱい出てくる。
だけど今の中国ってほとんどが劉さん、王さん、趙さん、。。
限られてるよね。
一族皆殺しで消え去っていった氏族が多く有ったんだろうね。
187 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 23:11:52 0
麻生なんて首相に成らなければ「出来る政治家。」で終われたのに。
あほう首相といわれてもトップには立ちたい。
そういうものなんだろうな。。
でも皇帝権力がよほど強くないと功臣を族滅できないよな
粛清されるだけ勢力を張ってるということは
その時点で既に有力氏族と大なり小なり姻戚になってるわけだから
下手すると全体に災いの種を蒔きかねない
189 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 23:26:39 0
>>185 張良は危険を避けたのにその子供は領地没収だぞ
しかも不敬罪というなんくせ臭い理由で
国を支えるくらいになれば責任も義務も巨大なものになるからな。
国に対しても一族に対しても。危険だからってそう簡単には飛び降りられないよ。
長の君主に対する忠も未練もあるだろう。
直言して敢えて殉じる人間もいるわけだ。
中国では、特に古代は宗族の連結が非常に強かったから、親兄弟で争うのはとても不名誉なこととされた。
まあ実例はいくらでもあるけど。
だから「謀反したら三族皆殺し」というのは効果的な威嚇刑だし、報復を防ぐにも有効だった。
日本では逆に、武士の発祥の時代から戦役に親兄弟が別の陣営に付くのがよくあった。
(別に情が薄いわけではなくて、どっちが勝っても一族が生き残るためだった気がする)
そんな風に生まれた文化では連座はあまり有効ではないし、処世の長所を削ぐことにもなるから
発展しなかったのだろう。
>>189 そこまでは張良の能力の及ぶところじゃないよ。仙人じゃないんだから
192 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 23:32:25 0
蕭何なんていなきゃ劉邦は野垂れ死にしてたろうに、晩年の蕭何は自分で領地与えたりわざと私財溜めて自分の評判落としたりそれでも牢獄に繋がれたり苦労してる
劉邦の幼いころからの親友である盧綰でさえ劉邦に攻められ匈奴に亡命せざる得なくなった
193 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 23:34:52 0
>>187 別に麻生は失敗しても首一族殺されるわけでも財産没収されるわけでもないぞ
>>193 アホが混ざってるだけなんだからほっとけ。
196 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 23:39:06 0
>>194 むし大功上げて生き延びた重臣ってだれ?太公望以外知らんのだが?
197 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 23:42:41 0
麻生さんは、自分に程よいところで身を引くなんてことはむつかしいね、という一例。
>>196 いや、だから?
功臣の族誅が多いから何なの?
わーちゅうごくってなんてれっとうなぶんめいなんだろー
とか感歎すべき?
歴史板からご退去ください。
199 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 23:44:43 0
伊インとか。范レイとか。
200 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 23:45:31 0
>>198 だからなんで潰されるの知ってるくせに出世すんの?
201 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 23:46:47 0
>>199 ハンレイは伝説臭いが越から逃げ出したやん
潰されるからと誰も出世しなかったら、都道府県知事だけで軍事外交やるはめになるよ。現代日本でたとえると。
誰かがポストを埋めるんだ。責任感と野心を持ってね。それだけ。いつでもどこでも同じだよ。
>>200みたいな考えの人間しかいなかったら経営難の会社からは幹部が一夜で全員夜逃げしてしまうよ。
それではそもそも人間の歴史が生まれないじゃない。
203 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 23:55:53 0
>>202 日本じゃなく中国の事聞いてんだが?
中国では功たてても一族郎党皆殺しにされるという歴史があるのに何で功たてるの?
韓信も当然そういう先例を知ってたわけだし、知ってたくせに楚王としてのうのうと暮らし
いざあわてて反乱起こそうとしたが既に遅し状態だったわけで
スレに沿って三国時代で言うと、魏に列伝されている曹操の功臣で怪しい死に方をしたのは荀ケだけ。
生き残り:潰された比率30:1ってとこかな。于禁も含める?
蜀では劉エンくらいか。劉備にやられたわけではないね。
呉は結構たくさんいるけど。ま、これはね。
>>203 おいおい大丈夫か? こんなたとえ話どこの国でやっても同じだよ。
>潰されるからと誰も出世しなかったら、省の委書記だけで軍事外交やるはめになるよ。中華人民共和国でたとえると。
以下同文
206 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 00:03:35 0
荀イクなんかは自分個人の栄達よりも、曹操を通じて社会に自分の理想を実現する事が目的ではなかったのかな。
光武二十八将で誅殺された人間はゼロだねえ。まあ戦没したり武人なので戦後要職に付けなかった人間も多いけど
208 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 00:11:36 0
三国時代はまだ乱世だから武将が必要なわけで、シバイなんて何度も疑われてるし
逆に反乱起こして成功させたが
司馬懿を疑ったのはライバルの曹爽だからねえ
西晋の何曾や杜預は殺されてないねえ
ま、自分の狭い知識だけで全てを判断しちゃいけないって事だな
インテリぶりたいヤツほどこんな釣りによく引っかかる。
そんなこというなよ。分け隔てなくでいいじゃない
213 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 00:31:42 0
>>204 他国との争いが無くなってないからね、三国時代は
魏が統一してたら粛清の嵐だったんじゃない?
>>213 効を挙げて出世する前にね
まあぶっちゃけ、
>>213には悪いがこういう話は楽しいんだよな。
普段思いも寄らぬ基礎的な事に風穴を開けて、自分の頭に風を通しておく作業。
人間の普遍性とまでは言わないまでも、共通則を言語として再確認したり、
意外な見落としを把握したりする。
こういう断面を無数に切っておくことで、具体的な事例を見るときに
新たな光を当てられたりするんだ。
216 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 00:46:08 0
>>206 そこまで理想を追い求める人間ではなかったと言っていいだろう
荀郁も荀郁で私欲、目的があって行動してるよ
易姓革命も一つの理想形なんだよな。
その理想の成就と、歴史に残る自分の名声を同一線上に見ても別に変なことではないが、
曹操がどの時点からその革命の意思を荀ケに見せ始めたかなんて記録に残らないし、
荀ケが実際にはどのように曹操を炊き付けたのかももはやわからない。
劉邦の功臣ってぎょうさんおるけどほとんど粛清されてないじゃんw
馬鹿なの?死ぬの?w
220 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 04:09:35 0
韓信、張良、ショウカ、英布、彭越、盧綰、韓王信、樊会と功臣は殺されるか追われてます
221 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 06:16:51 0
>>172 主に諸葛亮・姜維の北伐は祈山周辺の麦目当てだったと思う。
222 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 06:17:38 0
魏延は暴れたいだけだった。
223 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 07:29:31 0
>>220 後漢末の人らのなかの聖王像は光武帝だぜ。
光武帝はどうだったかをもっとよく考えな。
225 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 10:08:48 O
敵前で麦を刈り取るという話しがあったな。
>>220 張良、蕭何、陳平、曹参、盧綰、周勃、王陵、灌嬰
陸賈、夏侯嬰、張蒼、叔孫通、劉ビ、劉交、他多数
主だった連中だけでもこんなにいる
基本的に功臣でも粛清されない数の方が圧倒的に多い
狭い知識で考えるのは止めた方が良いぞ
227 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 19:49:25 0
皇帝「賢者に問わん。非常に大きな功績を立てた臣下がいる。されど功績があまりに大きすぎて私の力では充分に報いることができぬ気がする。何をもって報いれば良いだろうか?」
賢者「さすれば 死 を賜いなされよ。古来より定まっておりまする。」
皇帝「さすがにそれは。。他の方法は無いだろうか。」
賢者「他の方法? ございます。皇帝の位をかの者にお譲りなさい。それだけの功績はありましょう。」
228 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 19:55:06 0
賢者「さすれば陛下の側に死が訪れる事になりましょうが。。」
日本語でおk
230 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 20:15:37 0
こういう献策がなされた例は数多く有る。中国では。
皇帝が報いきれないほどの功績を立てた臣下が王朝一つにつき何人出るというんだw
韓信でも足りないよ
>>230 ほお、じゃあその数多くある実例のいくつかを出してみろよw
233 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 20:20:36 0
根性のまがったやつばっかだな、ここ。
これはまた痛いやつが来たな。
235 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 20:22:48 0
答えられなくなると関係ない事で文句をつけ出す・・・
典型的厨房だなw
漢で、「皇帝の地位を譲る」に値する功績を立てた臣下って、誰がいるだろうな
情勢や皇帝との力関係を完全に無視しても霍光、曹操か
蜀漢も含めたら諸葛亮も入るかな
238 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 20:29:15 0
オレはお前みたいにそばに本棚をおいていて、本にしおりをいっぱいはさんでる人間ではないし。
だが、功臣に死を賜う というのは歴史ではよくあることでしょう。
そりゃ3000年の歴史を100ページくらいに纏めた概略本でも読めば「よくあること」に見えるだろうな
皇帝の数よりは遥かに少ないだろうが
曹操は力関係ではそうだけど、功績としてなら違うなぁ。
>>238 そんなんいいから、実例を出してくれって
数多くある献策なんだろ?w
>>241 おいおい、無茶言うなよ。
厨房君が想像でしてるお話なんだから実例なんか出せるわけないってw
243 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 20:36:46 0
>>239 歴代の皇帝の数に匹敵するほども例があるとは思わないけれど。
死を賜うまではゆかずとも左遷はあるだろうし庶民に落とされる事なんかもあるでしょう?
卑近な例で言えば企業内でも、二代目社長と創業からのやり手社員とかの間でこういうことは数多く有るでしょう。
>>240 後漢皇帝にできなかった中原の回復を成し遂げ、建安24年の安定をもたらしたというのは十分でないか?
裴松之の弁ではないが、収拾する者が誰もいなければ漢朝は戦乱の中に打ち捨てられ、
禅譲どころではなく消え去っていた可能性も十分ありうる。
>>243 しっくりこない例は多いだろうな。別にそこを否定してるんじゃない。
「二代目社長と上手く行かないのが解りきってるのに会社の創業に手を貸す社員なんてありえなくね?」
と言い続けてるんだよ、キミは?
>>243 そんなんいいから献策の実例をだせって
無いなら無いと間違いを素直に認める事も必要だぞ
247 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 20:42:13 0
>>245 いや。
おれは227以降の書き込みであってそれ以前の「二代目社長と上手く行かないのが解りきってるのに会社の創業に手を貸す社員なんてありえなくね?」 的なものはオレの書き込みではない。
別の意見が有るでしょう。
>>243 お前もう消えたら?
その程度じゃ世界史板は無理だよ。
あとsageろ
上げ厨くんは趙匡胤でも調べてみることをお勧めするよ。
250 :
世界@名無史さん:2008/12/18(木) 20:43:48 0
>>246 無いわけではないよ。
今すぐに具体的にいわれてもこまるだけ。
>>247 はあ、別人さんでしたか。
じゃあ
>>227の文を挙げて、何を主張したいの? 昨日の人の援護以外で。
>>250 ひとつも実例のストックが記憶になく、なんで「ある」って断言できるの?死ぬの?
>>250 スゲーなw
ある意味お前の存在がジョークだわw
>>250 よし、話の落着点が見えたな。
>>250が具体的個別的な例証を挙げて当スレの議論を司会できる
十分な材料をそろえてくるまで、この議事は延期と致します。
解散。
こうなったら
>>248の意見が正しいな。
消えた方がいいわ。
賜死って、たしかに国に功ある将相に与えられるが
その前に、なんらかの罪が必ずあるでしょ。そこを無視しちゃいかん。
その罪が作られたものか、敗績によるものか、というのも考慮しないといかんし。
よっぽど知らないと、実例など出せないし、実例を知っているからこそ
多くあると言えるのだがな。
>>254 その場合「数多くある」という部分も例証する必要があるね。
まあ結論は実例も知らずに「数多くある」とか言っちゃう
>>250プギャーて事で終了
でも馬鹿が来ると途端にレスが伸びるよね
見てて思ったんだけど今日の上げ厨も昨日のと同一人物にしか見えない・・・
前スレから一緒だろ。
そういう証拠の無い事を言うのは我々の精神に反しはしないか?
精神とは?
我々って誰?
精神に反するって?
またフルボッコな流れだねw
つーかアゲ荒らしは、サゲも使ってるだろ。
明らかに環境を悪くしてスレの連中を貶めるのが狙い。
我々=世界史板住人
精神=(大方は趣味の範囲とはいえ)史学的な論証考察の精神
だな、俺的には。262や他の住人がなんというかは知らんが
ふむ。上げ厨と同じ穴に入るな、という警鐘だな。
もういいじゃん。
厨房君に構うのは止めにしないか?
いや、違うよ。
ただ、いつまでも厨房に構ってやるのも勿体無いと思ってね。
結局、実例も出さずに逃げちゃったんだし。
なんか三戦にも勝る幼稚な流れ
実例あげろを連呼するヤツには自分で調べてみようという気はないのかね
>>273 sageを覚えてみたところで文に頭の悪さがにじみ出てるぞw
>>273 いくらかストックあるけど、教えてやる気にはならんし、そもそも説明責任は言いだしっぺにある。
276 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 19:34:07 0
諸葛亮は蒋苑を後継にと後主に上奏していたが、
あれはいつ頃からだったんだろうか?
李厳が失脚前の話なら、bQの李厳を飛び越えての抜擢になる。
結果的には李厳は失脚し、諸葛亮と同年に死去しているので問題にならなかった
が、李厳が失脚せずに存命だったらどうするつもりだったのだろうか?
自分では諸葛亮の後継になれると思い込んでいた楊儀などは閑職に追いやられた。
楊儀は諸葛亮の後継問題に諸葛亮からも、後主からも諮問を受けていないことになる。
諸葛亮の後継に関して知っていたのは、蒋苑・費偉・董允あたりだと思われるが、
その話しが出来上がったのは何時からなのだろうか?
278 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 19:44:43 0
>>275 ストックなんか無いくせに工作するなよ、age廚。
280 :
董卓:2008/12/19(金) 20:03:33 0
お久しぶりでございます。卓でございます。
ここで和むかどうか分かりませんが世間話を一言。
最近すっかり寒くなりましたなあ。
281 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 20:05:34 0
>>276 考えられるのは張裔の後を次いで長吏となった230年頃かな。
>>276 言うとおり、四次北伐の前なら李厳がいるわけなので、
五次北伐の準備中、成都にいる間に上言していたというのが自然なのだろう。
李厳がいなくなった状態で遠征中に自分の身に何かあれば後継者問題が紛糾する。
出征する丞相としては普通の配慮なのだろうが、
それを劉禅以外の人間がどれだけ知っていたかというと…どうなんだろうね。
劉禅の傍に仕えた点で董允を候補に入れるなら、同じく侍中の郭攸之も入れていいだろう。
漢中に供をした人間の中でその件を知っていたのが参軍の費イだけだったのなら、
相当の腹心ということになるな。
輔漢将軍という高位にあって複数の軍を統率し、蒋エンの司馬になるなど
活躍の場を与えられている姜維なども、蒋エンらとなんらかの連携があったのかもしれない。
283 :
董卓:2008/12/19(金) 20:24:42 0
正史ってどこまでが正しいん?勿論本間の記述と嘘の記述があるよな?
284 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 20:38:06 0
>>282 姜維は知っていたかも。
魏延の動静を見張りながら、事実上の殿を勤めている。
それに蒋エンが後に、姜維を涼州の刺使にするように上奏している。
二人に連携があった可能性は高い。
蒋エン、費イ、董允、姜維の四人は諸葛亮の考えを知っていた可能性が高い。
>>283 それに答えられるなら歴史という学問はそもそも生まれてない。
まずあんたはちくま三国志を読むことから始めようか。
>>284 だから郭攸之を忘れてあげないでください
>>283 お前さんは正史の訳本読む前に、概説書読んで
歴史学がどういうスタンスで歴史に接しているか学べよ。
正史は「物語」を書き連ねた本ではないのだから
(っつても、一概にそうとは言えんがな…)
288 :
董卓:2008/12/19(金) 20:48:51 0
283さん。ずっと前に書いたけど、今やっと夏侯尚伝読んだとこやねん。
289 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 20:48:52 0
もし魏延が大人しく殿を勤めて撤退してたら、
その後も漢中総督に留まれただろうか?
私は難しかったと思う。
撤退するなら諸葛亮が存命のうちにも撤退指示は出せたはず。
諸葛亮存命での命令なら魏延も了解したはず。それが諸葛亮
死後に命令に従わなければ放置しろとの指示まで出している
ところを見ると、自分の死後は後継者では抑えがたいので始
末やむなしという意図が感じられる。
楊儀も同様だろう。
軍が無事帰還するまでは指揮を委託したが、軍が無事帰還すると
すぐに左遷状態にしている。この左遷指示も後主が考えていたとは
思えない。諸葛亮が後継者が円滑に政権運営できるようにあらかじめ
考えいたのではないだろうか?
290 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 20:52:40 0
>>286 その人は高官の割には活躍した記述が無いのだよね。
陳寿には定員を満たしていただけと言われる始末だし。
>>288 なんで夏侯尚なのかわからないが、ちくま八巻買ったということなら八冊分の後書をまず読むこと
オンラインの訳文ならどうしようもないが
292 :
董卓:2008/12/19(金) 20:54:06 0
夏侯尚伝読んだところやねん。
293 :
董卓:2008/12/19(金) 20:57:20 0
一巻を読み終わって、二巻の夏侯尚伝まで読んだってことやねん。
294 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 21:00:06 0
>>282 李厳は諸葛亮の後継について知らなかったのだろうな。
>>288 知ってるよ。お前さん中英にもいるでしょ。
ロムかぶってるんだよな…
>>290 活躍したかは殆ど関係ないと思うよ。
皇帝に近侍していれば諮問を受けるし、長史として丞相府の仕事を代行する蒋エンの仕事ぶり
などは諮問に多く含まれるだろう。郭攸之が日常執務にさえ無縁な人間だったとは思えない。
同職の董允が知っていて郭攸之が知らないというのはよほどの機密か派閥違いでなければ考えにくい。
後継者蒋エンの件は外部には漏れていなかっただけで、そこまでの機密というわけではないだろう。
(漏れれば色々と波風を立てるので「密かに」なのだろうけど)
でなければ、諸葛亮と劉禅だけの秘密で近侍にも知らされていないかだ。
>>289 要するに死後の遺命に従い帰還するなら分別があるので恐らく大丈夫だろう。
遺命を無視し自分勝手な行動を取るなら分別が無い人間なので放置。
こういったスタンスだろ。
要するに魏延は分別が無さ過ぎて自ら災いを招いた。
陳寿の評どおりというわけだ。
>>293 そうか時には退屈な記述もあるだろうが引き続き頑張れよ。
298 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 21:10:57 0
>>296 後主はリーダーシップは無い。
皇帝の側近なら知っていた可能性は高いよ。
計画に参与しなくても、外部に漏らさない信頼性があればよいわけだし。
ただ、後主の諮問は費偉と董允の二人だったのでは?
299 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 21:15:54 0
魏延は大人しく撤退していれば功臣として天寿を全うできたかもね。
楊儀の方は帰還後に職務無しの事実上左遷。こっちは外されるのは避けられ
なかったかもな。遠征なければ能力発揮するところがないから。
>>298 リーダーシップが無いのと発言権が無いのとでは天地の差があるよ。
劉禅には発言権はあった。その上でイエスマンに徹していた。
逆に言えば諸葛亮は劉禅の発言権を奪わなかった。
だから蜀漢では皇帝に近侍する侍中などが重要視され、出世する人間が多くここを通る。
限りなく形式に近い状態でも皇帝の実際の認可が出ることが大事だった。
皇帝の意向を直接伺い、言上して修正を図ることができるのは彼らしかいないから。
宦官の黄皓が権力を握れたのも、劉禅の発言力が伊達ではないことを示している。
…というのは最近の三戦板での誰かの受け売りだけど。
郭攸之の件とはあんまり関係ないけどね。
301 :
董卓:2008/12/19(金) 21:31:14 0
297さん。ありがとう。頑張って読み続けるわ。
302 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 22:24:46 0
魏延が謀反にされたのは朝廷が士大夫ばかりだったから
違うよ。魏延が謀反したのは魏延だからだよ。
魏延は謀反したから謀反人にされたんだよw
306 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 22:36:27 0
士大夫って実はいい加減で曖昧なんだよ、容姿が立派とか学問があるとか
確かにその主張はいい加減で曖昧だ
>>302 おいせっかくお前のためのスレが三戦にあるんだから世界史板にくんなよ
309 :
世界@名無史さん:2008/12/20(土) 05:07:55 0
>>303 魏延自身は謀反を起こしたという感覚はなかっただろう。
諸葛亮が死去したら、おれが采配を振るうのは当然という思い込みの行動。
周囲から見れば謀反でしかないけど。本当に謀反なら、軍の指揮権の奪取に
失敗したら、漢中に逃亡せずに魏に降伏しただろう。国内に帰還したら投獄
か殺害されることを考慮していか疑問。周囲から謀反だと思われていたこと
に最後まで気がついていなかったのかもしれない。
310 :
世界@名無史さん:2008/12/20(土) 06:53:44 0
>>269 諸葛亮の後継への諮問とは関係ないが、
魏延と楊儀が互いに謀反を起こしたと上奏したとき、
後主は蒋苑と董允に質問し、二人が楊儀を信じて魏延を疑った結果、
魏延が誅殺されたという事例がある。董允はかなり重大な案件の
諮問を受けていたと推察できる。
郭攸之は何時まで在任してたか不明だな。
311 :
世界@名無史さん:2008/12/20(土) 11:40:07 0
楊儀が帰還後に任命された中軍師とはどんな役職なの?
ググレカス
>>287 歴史の概説書は内容も本によってピンキリだし、良くも悪くも執筆者の個性が
強く出ていることが多いんだよな。
314 :
世界@名無史さん:2008/12/20(土) 19:07:04 0
魏延は事が敗れた後に漢中に出奔、馬岱に追いつかれて誅殺された。
非常に不可解な行動だよ。撤退する蜀の全軍は一旦は漢中に戻る。そんな
ところに帰ったら掴まるのは間違いない。しかも魏延の配下の兵は四散した
後。自分のしたことが朝廷で謀反認定されたとは考えていなかったとしか
思えない。
そうすると魏延はかなりおつむの出来が悪い男という事になるな。
>>314 つまり、少なくとも魏延視点では自分が正しいと思っていたわけだ
魏略の方が正しかったんじゃないのかなあ
317 :
世界@名無史さん:2008/12/20(土) 21:20:09 0
蜀の朝廷ではショウエンだの士大夫が政治の実権握ってるし
魏延は姜維が孤立したのと同じ
自演はもっと上手くやれよw
下げを覚えたage厨がまた来たのか・・・
いや、厨の踊りっぷりはそれはそれで面白い
321 :
世界@名無史さん:2008/12/20(土) 21:42:16 0
魏延「士大夫孔明のせいで、ワシの力の6分も発揮できなかったわい・・・」
魏延「今蜀の全軍を率いて亡き大王の恩に答え魏を撃てるのはワシのみ!」
一方朝廷でわ
士大夫A「聞いた聞いた?われ等の士大夫孔明が死んじゃったらしいっすよ〜はは」
士大夫B「ほんまにか〜、ワイらの出世はどうなるんや?」
士大夫C「孔明なき今、蜀の軍権を握るのは軍人野郎の魏延ですぞ」
士大夫A「あいつは我ら士大夫の言うことを聞かない、それどころか軍権を率いてわれ等を追い払うのでは?」
士大夫B「ホナラわれ等の出世の為に朝敵にしまっしょ〜」
また
>>227の再来かw
お前は先の実例を見つけてくるまで帰ってくんなよw
よくまあ顔をだせたもんだ・・・馬鹿なのかね?
324 :
世界@名無史さん:2008/12/20(土) 22:07:30 0
魏延「ク・・もはやここまでか・・・」
馬鯛「その首ちょーだい」
魏延の脳裏に思い出がよぎった
劉備「わしは将軍に大任(漢中太守)を与えるがどう思う」
魏延「曹操自身が10万の兵で攻めてきたらコレは守るしかありません、しかしながら曹操の副将が10万の兵を率いて攻めてきたら大王の為に皆殺しにします」
魏延「長安を奇襲しましょうぞ!」
孔明「士大夫には士大夫の考えがある(士大夫のワシには考え付かん恐るべき発想じゃクッ)」
いい加減で曖昧な主張しか出来ない厨がいるスレはここでつか?
これはヒドイwww
現在あげ厨君がオ○ニー中ですので生暖かく見守ってあげて下さいw
※ただしエサは与えないで下さい
なかなかの逸材だな。
コテにすれば良いのに。
正直キモイね
324は成りすましじゃね?
331 :
世界@名無史さん:2008/12/20(土) 22:19:10 0
野茂「ここは経験豊富な魏延の兄貴に」
孔明「(魏延に戦功上げさせたらワシが目立たん)先鋒は士大夫のバショク、外れるのは魏延」
ここまで全て私の自演です。
そろそろ釣り宣言か?w
>>330 どうかな?
このスレで諸葛亮を孔明って書く奴は1人だけだからな。
335 :
世界@名無史さん:2008/12/20(土) 22:25:41 0
魏延「はっ!・・・今までのは夢か?明日はいよいよ北伐だが・・・」
劉備「おぬしは死んだのじゃよ」
魏延「だ・・・大王!」
劉備「おぬしの策を士大夫孔明が採用していれば蜀は勝っていただろう」
魏延「う・・・・うぅ(亡き」
劉備「魏延、君が居たあの夏はずっと忘れない」
是非出版してほしいな
337 :
世界@名無史さん:2008/12/20(土) 23:02:23 0
♪ ∧,_∧
(´・ω・`) )) バラライカ バララライカ
(( ( つ ヽ、 ♪
〉 とノ )))
⊂__ )
∪
♪ ∧,_∧
(´・ω・`) ))バーラー ライラ カイカイ
(( ( つ ヽ、 ♪
〉 とノ )))
( __⊃
∪
♪ ∧,_∧
∩(´・ω・`) こっの思いは
\ ヽ、 ♪
〉 とノ
( __ )
∪ ∪
♪ ∧,_∧
(`・ω・´) 止められない!
⊂ ヽ、 ♪
〉 とノ
( _ )
∪ ∪
338 :
世界@名無史さん:2008/12/21(日) 05:36:50 0
>>316 正しくないだろ。
朝廷は遠征軍の司令官を魏延にするなんて許してない。
撤退を拒否して遠征続行をやろうとしたり、撤退軍の行軍の妨害をしたり
すれば謀反とされても仕方がない。しかも漢中に逃亡だからな。
全軍を統率する頭脳は無いといってよいだろう。
339 :
世界@名無史さん:2008/12/21(日) 06:27:47 0
魏延冤罪説は忠臣蔵の喧嘩両成敗でないからけしからんという主張と同じ。
城内で刀を抜けば、理由はどうあれ処罰されるのは仕方がないことさ。刀を
抜いたという事実が犯罪なんだから。喧嘩に刃物を持ち出したら理由はどうあれ
そんなもの持ち出す方が悪い。幕府の裁定は別に間違ってないのさ。しかも
勅使を迎える式典が台無しになった。現代だって喧嘩に銃や刃物で相手に危害を
加えれば、理由の如何を問わず犯罪になる。
魏延に関しても理由はどうあれ、勝手に諸葛亮に代わって司令官になるのが当然と
思い込み、撤退命令を拒否し、撤退する軍の進路を妨害したりすれば、それは謀反
に他ならない。魏延自体は遠征軍の中で官位が諸葛亮に次ぐというだけで、遠征軍
を任せるという許可があったわけでもない。士大夫がどうとかのレベルの話しでは
ない。魏延の頭の悪さが原因の、身から出た錆というべきだろう。
340 :
世界@名無史さん:2008/12/21(日) 06:34:15 0
>>317 姜維の遠征は損害が人的にも経済的にも損失が多く、
国内の政治・経済は顧みない。諸葛亮みたいな政治的配慮が無い。
これも士大夫の支持云々のレベルの話しではない。
魏延厨の主張ってレベル低いよな。
やはり魏延シンパだけに頭が弱いのか…
342 :
世界@名無史さん:2008/12/21(日) 21:04:26 0
蜀は魏延が構築した漢中の守りを姜維が壊して滅んだ
漢中の防備を構築したのは諸葛亮だぞ?
344 :
世界@名無史さん:2008/12/21(日) 21:55:58 O
そうなの?
上げ厨くんは、最近「士大夫」って言葉覚えて使いたくて使いたくてしょうがないんだろうな。
ところで、三国時代は知らんが、この士大夫VS武人の構図って、宋代以降の
軍のトップは文官が担う、というところにも似てる。
ご存知のとおり、「士大夫」というのは、魏晋南北朝隋唐まで政治の中枢だった貴族に
取って代わり、宋代から新たな中国の形を作った存在をさす。
いわゆる唐宋変革では、兵権の分権を行い、そのトップには文官が選ばれ、その文官は
往々にして、というか当たり前ながら「学問」としての兵略しかしらず、実戦に疎かったため
前線指揮官である武人たちの不興をよくかっていた。
「宋兵弱卒」という言葉も、それに由来するところが大きい。
上げ厨くんは、そのあたりの感覚にかなり影響されているのではないか。
346 :
世界@名無史さん:2008/12/21(日) 22:24:32 0
名門意識を高めて後世貴族と呼ばれる階級に変わって行くことになるが、自らは変わらず、「士」「士大夫」と呼んでいた。
貴族階級は、自分たちの地位を保全するために、貴族階級から外れた者たちを「庶」と呼び、激しく差別して排除していた。
ソース元がWikiかw
三国時代は貴族化する直前の時代だけどな。漢代の「士人」は文吏も軍人も含む。
乱世になれば、秦漢・両漢交代期のように下層から伸し上がる「武人」が功を挙げるが、
普通は一代で士人階級に吸収されて消滅する。
そもそも軍事や政治は高度な技術職であって、十分な基礎教育が必要なこと、
「硬直化した机上の軍人」などというのは組織的な選良教育が行き過ぎたあとでなければ
生まれない弊害だということを抑えておかなければいけない。
騎乗の訓練を積むのも軍馬を養うのも金が無ければできないんだよ。
349 :
世界@名無史さん:2008/12/22(月) 10:39:34 0
>>342 >>343 防衛戦で大勝する必要ないのにな。
見方が損害少なく、敵を退却させればそれでよし。
それに国内に侵入させ、住民を拉致されたり、穀物を奪われたり
したら大変。そこら辺を姜維はどう考えていたのだろう?
>>345 科挙に受かった受験エリート様は戦争では役立たずか
詩の勉強ばかりしてる奴よりは歴史オタの方が有用そうではあるな
351 :
世界@名無史さん:2008/12/22(月) 15:32:16 0
>>349 蜀滅亡時の魏の侵攻では関所の城がさっさと降伏したところもあったな。
>>350 五代時代だけど、『左伝』マニアが、後周世宗を苦しめている。
官は尚書駕部員外郎というバリバリの文官。
魏延は忠臣だという結論に達したな
354 :
世界@名無史さん:2008/12/22(月) 16:03:08 0
魏延は頭が悪いという結論に達したよ。
>>353 そいつは論破されると勝利宣言するDQNだから構うな
今度は上げ下げ逆転かw
357 :
世界@名無史さん:2008/12/22(月) 17:18:59 0
将軍としての能力は魏延よりも王平の方が上だろ。
猛将としてなら魏延のが上かも分からんね。
確かに大局的な将軍としては王平のが実績が大きいが。
王平の進言は正確だし、張郃と互角の勝負を演ずる名将だからな。
359 :
世界@名無史さん:2008/12/22(月) 17:54:53 0
諸葛亮も魏延の勇猛さは評価していた。
別に冷遇していたわけでもないし、それなりに昇進もさせていた。
一軍を任せる才覚の評価では王平の方を評価していたように思う。
張郃を撃退するし、漢中総督として興勢の役では魏軍撃退の大功を
あげている。諸葛亮の見る目は確かだった。
魏延が漢中を守っていた時期は魏からの目立った侵攻は無かったし、
230年の曹真の侵攻も諸葛亮が漢中にいた。それに長雨で侵攻中止だった。
相手に隙を与えなかったから、有能な将軍ではあったのだろう。でも野戦の
方が得意なのかなと思う。
360 :
世界@名無史さん:2008/12/22(月) 17:59:51 0
呉壱は伝記が残ってないけど、
230年には魏将・費ヨウを撃破している。
魏延に次ぐ勇将という感じかな。
361 :
355:2008/12/22(月) 18:09:42 0
魏延の昇進は「それなり」ではないんだよな。
諸大将軍は、光武帝と共に中興を成し遂げた二十八将ら以来、
後漢を通してほとんど使われていない古い官だ。
位階は恐らく公と卿の間。
蜀漢王朝は魏延を耿エンや岑彭と同級に扱ったことになる。
363 :
世界@名無史さん:2008/12/22(月) 19:54:24 0
蜀の官位はこんな感じだろ。
四鎮大将軍>四征大将軍>四方将軍>四鎮将軍>四征将軍
輔漢将軍や鎮軍将軍はどの程度の地位かわからん。
どうも普通の四征将軍はあんまり官位が高いと言えないみたいだ。
すんごい初歩的なこと聞いていい?
曹操とか諸葛亮とか関羽って実在の人なの?
三国志として知られてるエピソードはどの程度信憑性があるの?
遺跡とか、証拠が確認されてるの?
>>364 君は実在の人物だと、どのように証明する?
>>365 そういわれても…
遺構とか他の記録物とか、多面的立体的に検証して行くしかなさそうだけど。
それそれ。
よくわかってるじゃないですか。では、健闘を祈る。
つまり、はっきりとは証明されていない… と?
いや、君が千年後の未来に、自分がいたという証明をどのようにして、
未来の人にさせるのかと思い、屁理屈こねたまでです。
確実な証明なんてできるのかな?
どの程度の信憑性があると考えられているかを訊ねたのであって
確実な証明とか、聞いたつもりはありませんよ?
頭どうかしてませんか?
まず
>>364は自分が存在していることを我々に証明してみなされ
なんでココで聞くの?スレタイ読めてますか?
頭どうかしてませんか?
はっきり言わないとわからんかな…
人に聞くのではなく、「自分で調べ、考え、理解せよ」が結論。
374 :
世界@名無史さん:2008/12/22(月) 21:22:59 0
「はっきりと証明」と「確実な証明」にどれだけ差があるのか疑問だが・・・
同意
364は自分で何言ってるか理解できてないに100ガバス
厳しい世の中ですね
んー
つまりここには知識のある人がいないってことですか?
いや、言外の意味を理解できない子供が紛れ込んでいると思う。
人生経験が足らないんだろうな。
DQNを相手にする人はいない、の間違いじゃないの?w
自分の質問に答えて貰えないと文句をつけるような人だしw
>>378,379
黙りなさい。
自分の見解も出せないものに、他人を語る資格はありませんよ。
381 :
世界@名無史さん:2008/12/22(月) 22:52:25 0
はっきり言って三国志は魏延以外偽
>>380 それはせめて、話題を出した方が自分の見解を示してからいうことだな。
「なぜあなたは三国時代の人物の存在を疑わしいと思ったのか?」
義務を果たさずに逆ギレしているだけだよ、あなた。
で、「三国志」の成立は三世紀末。
当時から見て直近の過去である『二世紀末から三世紀に掛けての歴史書』
と名乗って架空の人物の出鱈目を書いたのだとしたら、1700年に渡って批判を受けずに残るはずがない。
「三国志」に対しても、「三国時代」に対しても、その存在を語っている書は散逸したものも含めると
三桁に達するだろう。それらの全てが同一の虚構のソースに基づくとは歴史学的には普通考えられない。
他、無数の遺構、石碑、墳墓などから発掘された一次史料。
歴史学的に考えて、「三国志」に示されている諸人物や事件の「実在」は、
疑う余地がないほど高い蓋然性を持つといってよい。
後先になったが、問いに答えたのであなたの「義務」を果たしてくれたまえよ。
384 :
世界@名無史さん:2008/12/22(月) 23:09:36 0
>>382 そんな事言われても困るブヒw
具体的な例は思いつかないだけだブーww
世の中は厳しいブーwww
面スレーなここ
386 :
世界@名無史さん:2008/12/22(月) 23:27:24 0
,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,
/": : : : : : : : \
/-─-,,,_: : : : : : : : :\
/ '''-,,,: : : : : : : :i
/、 /: : : : : : : : i ________
r-、 ,,,,,,,,,,、 /: : : : : : : : : :i /
L_, , 、 \: : : : : : : : :i / 自分の見解も出せないものに、他人を語る資格はありませんよ。
/●) (●> |: :__,=-、: / <
l イ '- |:/ tbノノ \
l ,`-=-'\ `l ι';/ \ 380(24・男性)
ヽトェ-ェェ-:) -r'  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
ヾ=-' / /
____ヽ::::... / ::::|
/ ̄ ::::::::::::::l `──'''' :::|
天に唾してしまうのは、その結果が想像できない単細胞だから
自分の言った言葉の道理をわきまえていないのも無理からぬこと。
だいたい、他人の見解というが、婉曲に伝えているだろうに。
わからない? そうか、でもそれ以上教える義務はない。
正直スルーできない連中のほうに問題がある
遊んでるだけだろ
391 :
董卓:2008/12/23(火) 13:56:31 0
ほっといたらいーやん。わけ分からんこという奴は。
392 :
364:2008/12/23(火) 20:11:54 0
>>382 答えてくれてありがとう。
素直に感謝するよ。
元レスにも初歩的と書いたが、ふと興味を持って聞いてみただけなので
いま自分自身の見解というものは特にない。
というか、おそらく半分程度は史実なのだろうと漠然と思ったが、どうしてそう思うのかと
問われて答えられる材料がない。
なにしろろくなメディアも無い時代の歴史書をどこまで信じてよいのやら、ぶっちゃけ無理でしょう
あの広い大陸のあちこちでの物事を正しく記録するなど。
というわけで一般的認識というものを伺ってみたまでです。
やや荒れてしまったことは詫びます。
邪魔しました。
メディアが発達したからといって、「正しいこと」が正確に伝えられるとは限らないよ。
そこの意味がそもそもわかってないんじゃないか。
まぁ、えらそうにいえば、もう少しばかり歴史関連の本を読んで得心いくように
したほうがいいと思う。
世の学者さんたちが、どのようにして「より正確な」事柄を分析しているかも含めて。
毎日のアメリカ版記者がむちゃくちゃな日本人像を
長く報道していたという事実が発覚し謝罪したばかりなのにな。
歴史というより世の中をもっと知った方が良いかも知れんね。
メディアが発達して比較的検証も容易になった現代でさえそんなことが起こる。
… 素直に考えるとこうだと思うのだが。
今も昔も政治の都合で事実は曲げられ伝えられる。
知識を積むという事が心を大きくするという事につながってゆかないのは悲しい事ですよね。。
こいつは1人で何いってんだ?w
触れてやるなよww自分に酔ってんだろww
この流れを自演と思えるってキモいな
つか。ここって董卓ともう一人ぐらいしかいねぇスレだろ。
403 :
世界@名無史さん:2008/12/24(水) 05:54:06 0
ってことはおまえは董卓だなw
確かにそうなるなw
俺もいるんだが・・・
406 :
董卓:2008/12/24(水) 17:55:48 0
今仕事から帰ったわ。疲れた〜。一体何の話ししとんの?
あんたの話
408 :
董卓:2008/12/24(水) 20:59:48 0
俺自作自演したことないぞ。リアルに。
いじってるだけだから、気に病まないよう
410 :
とうたく:2008/12/24(水) 22:11:00 O
何なんそのいらんいじり。別に気に病んでないし。
412 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 07:23:54 0
劉備は関羽・張飛・魏延みたいなクセのある猛将が好きだよな。
その他にも法正・李厳・寥立みたいな才能はあるけど性格に問題有りの人間。
法正以外は性格的欠点が身の破滅を招いている。
諸葛亮は性格的破綻の少ない人物を重用している。
趙雲・王平・呉壱・姜維らの武人達や蒋エン、費イ、董允、馬忠、ケ芝、張翼
みたいな直言をしても、他人を害するようなことが無い人達。
諸葛亮下の文武ナンバー2は魏延と楊儀ですが
>>412 その論法でいけば、諸葛亮が幕下に加わったことと、丞相になったことは奇跡的だな。
415 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 09:12:03 0
>>413 楊儀に関しては最初から得意分野以外の重用を考えていなかっただろ。
遠征が無ければお払い箱だったわけだし。最初から後継は蒋エン。
魏延は謀反を起こさずに大人しく撤退していれば、漢中総督の地位は
確保できたとは思う。
416 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 09:20:25 0
法正も諸葛亮時代だったら破滅したかもね。
何せ権力で恨みを晴らしていたわけだし。いつか復讐されるよ。
黄権と法正が共に諸葛亮時代に残っていたら、重用されるのは黄権の方
でしょ。法正は良い時期に死去した。
417 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 11:31:56 0
>>413 総合bQは李厳だっただろ?
魏延・楊儀が勘違いしたのは李厳が失脚し、俺がbQと思い込んだから。
真のbQは蒋苑だった。そこら辺の話しを何も知らない二人は勘違いパワー
を発動して破滅しました。
>>412 ちょっと単純化しすぎな気もする
馬忠、呉懿は劉備だって評価してるし、孔明にとっての魏延、法正もそう
王平、蒋エン、ケ芝だってある意味くせあるし。
419 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 14:27:38 0
馬忠は臨終間際に劉備と面会したくらいだからなあ。
呉懿は外戚だったけど、劉備時代はそれ程高位に上がったわけでもない。
王平等とかはクセという程でもないしょ。欠点は誰にでもあるし。
身の破滅を招くほどではなかった。
三戦に帰ってください。
421 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 14:57:25 0
雑談しかできない奴よりマシだろ。
蜀の話しをしている連中の方が数倍まともな話しをしている。
422 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 15:02:43 O
たしかにその通りだよな。
嫌なら他に話題をだせよ。
自治厨なんてのは荒らしの同類だ。
相手しなくていいよ。
なんかひどい自演を見た気がする
王平を例に挙げれば、たとえ性格に多少の難があっても、公的な場での
余計な自己主張がないわな
それでいて与えられた任務をそつなく及第点以上こなせる人間ってのは
どんな組織にも執政者にも重宝な存在だよ
極端な事をいえば、ハンデも寒門って一点だけかもしれんね
426 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 16:42:06 0
王平は鎮北大将軍まで出世し、多くの軍功を上げた。功績では関張馬黄趙の創業期
の名将にも劣らないだろう。231年の北伐では、魏延ですら諸葛亮の直卒下だった
のに、王平は別の軍営を任せられている。魏延は王平に追い抜かされそうな焦りと嫉妬
を感じていたかもしれない。
427 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 16:49:54 0
自分が反逆認定されるほどの行為をしたのに、
気がつかない程の頭の弱い将軍が諸葛亮と別の道から兵1万を率いたい
なんて、流石に認められるわけないよ。魏延に任せなくて正解だ。
劉敏の経歴ってどんななんだ?
429 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 18:07:03 0
劉敏は零陵軍泉陵の出身。
同郷の蒋エン共に名を知られたらしい。
途中の事跡は全く不明。王平と共に漢中のおさえとして赴任。
曹爽の侵攻軍を防ぎ止める功績をあげ、雲亭候に封じられた。
430 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 20:31:32 0
劉敏は生年没年共に不明。
興勢の役では活躍したが、それ以外の活躍はパッとしなかった感じか?
ま、伝記が残っただけでも凄いのだろうが・・・・・・・・
何回同じ話を繰り返すんだよ・・・
432 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 20:54:26 0
だったら話題だせよ!
433 :
世界@名無史さん:2008/12/25(木) 21:01:22 0
陳到が活躍したという史料はないのですか?
ゲームで活躍させてれば?
劉敏てそんなに既出だったのか。ログ見ないで質問してすまん
テンプレに必要なのかな…
ココは世界史板だから荒らしまがいの無理やりなネタ振りなんていらんだろ
タダでさえ三戦板があるのに世界史板にスレ立てしてるんだから、必要以上に目立たないように正史の話限定でやってたのに
妄想話ばかりで脳内三国志にしか興味がない奴は三戦でやってくれ
世界史板で盛り上がってるスレのが少ない品
いったん落としたほうがよくね。
あまりに酷過ぎだ。
話題が無いなら立てなければよろしい。
440 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 02:35:42 0
別に妄想話なんてしてないのでは?
気に入らない話題だとバカみたく暴れて話しを止めようとする。
まるでだだっ子。
みっともないですね。
悪あがきだな
442 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 02:51:15 O
王平は字が読めないのに、軍事以外はどんな仕事してたのだろ?
陳到はテンプレに入れて欲しい。ネタも無いのになんでこんな多いんだ
どっかで陳陳到到連呼してる奴でもいるのかね
444 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 04:18:15 O
無視すればよいだろ。
イチイチ問題にして、気に入らないと騒ぎ立てるやつが一番うざい。
ネタが無けれ話題など続かない。
参加したく無ければ、参加しなければよいだろ?
445 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 05:47:17 0
陳到は『華陽国志』とかにも記述はないのですか?
446 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 06:36:05 0
『華陽国志』にも226年に永安督となり、亭侯になったとしかない。
趙雲・魏延・呉懿・尚寵は223年に亭候になっていることを考えると、
陳到は格下的扱いだったかもしれない。
ネタが無いのに妄想で論点をずらして無理やり話題づくりする必要は無いよ>age
ageるとスレが目立つ→
>>440のような妄想馬鹿を呼ぶ の無限ループなんだよ
ageなくたって世界史板だからそうそう落ちないし
449 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 13:37:48 0
>>446 格下というのはあたりかもね。
伝記も残らなかったし・・・・
古くから仕えているのにかわいそう。
450 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 17:47:21 0
『水経注』という書物に諸葛亮と諸葛謹との間の書簡引用され、
第一次北伐で囮軍の趙雲・ケ芝の軍の撤退後の様子が書かれていると
書いてあると聞きました。この書物は信憑性はあるのですか?
451 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 17:48:21 0
すみません。
書いてあるという言葉が重複してしまいました。
「水経注」は大陸全土の川の流れと、その流域の城や建築物などのことを記した有名な本。
ところどころ他の文献などから引用を行ってるので、
信憑性は引用元によってまちまちなんじゃないかな。
水経注持ってるから何巻に書いてるか分かったら調べてみるけど?
三国志集解の趙雲伝への注の記事だね
先に二人が撤退するときに赤岸の閣道を百里に渡って焼いたとある。
この閣道の梁は一頭が山腹から、一頭が水中から伸びていて、
今は大水なので急には安んじるを得ずうんたら。
…が。水徑注の褒水の項ってどこにあるんだろう?
ざっと見て渭水の巻には無いようなんだが。
水徑注には他にも諸葛亮の手紙の引用はあるが、出典の明記はない模様。
可能性が高いのは諸葛氏集だろうか?
趙雲の撤退の時の話は巻二十七沔水上にある。
「前趙子龍退軍、焼壊赤崖以北閣道縁谷一百余里、其閣梁一頭入山腹、其一頭立柱于水中。
今水大而急、不得安柱、此其窮極、不可強也。」
これが諸葛亮の諸葛瑾へ送った手紙からとある。
どこから入手した手紙かは書いてないけど、恐らくは
>>453の言う通り諸葛亮集だろうね。
諸葛亮集ならば、陳寿が実際に蜀にあった書簡の類を載せたんだろうから、
信憑性は比較的高いと思う。
まぁ、諸葛亮集であるとは書いてないけど。
趙雲撤退の話は、同様に沔水上にもう一つあるけど、これは趙雲別伝からの引用なので、
裴松之の注釈とは別の史料というわけではない。
455 :
世界@名無史さん:2008/12/27(土) 05:37:36 0
>>454 『趙雲別伝』のどの部分からの引用なんですか?
456 :
世界@名無史さん:2008/12/27(土) 06:37:01 0
>>454 >>453 趙雲は桟道を焼いて追撃の手を切って退却したわけか。
曹真の大軍の追撃を防ぎながらの撤退の苦労が伝わってくる話だ。
この時の趙雲は損な役回りだな。
457 :
世界@名無史さん:2008/12/28(日) 08:54:26 O
撤退戦は難しいからな。
458 :
世界@名無史さん:2008/12/28(日) 13:12:00 0
『太平御覧』という書物にも諸葛亮・謹兄弟の書簡が引用されていると
聞きましたが、どんな内容の書簡なんですか?
459 :
世界@名無史さん:2008/12/28(日) 13:54:52 0
なぜage厨は自演ばかり
461 :
世界@名無史さん:2008/12/29(月) 06:16:06 0
桟道は壊れたら蜀が修理するのかな?
桟道を修復している時に魏軍に襲撃されたりして。
462 :
董卓:2008/12/29(月) 13:13:07 0
あんな狭いところで襲撃できないだろ。
ワロタ
確かに襲撃しようとしてもわらわら進んできて(たまに落ちたりしながら
奇襲にならんね
464 :
世界@名無史さん:2008/12/29(月) 16:25:43 O
工事している人には武装兵が襲撃してくるだけで脅威だぞ。
銃剣抱えて突撃みたいなの想像してると思うけど、
当時のメイン火力は弓矢だよ。
三国志に出てくる人ってまともな名前持ってるけど、この時代の農民とかって
どういう名前だったんだろう。
時代は違うけど朱元璋も元は、重八って名前だったし、そういう名前の人いなかったんかな?
○太公、○媼、○伯、○仲、○叔、○季
469 :
世界@名無史さん:2008/12/29(月) 17:53:01 0
父の名はじいさん、母の名はおばば、子は兄ちゃん、真ん中のやつ、末っ子。
二番目とか三番目とか呼ばれてたんだよ。
秦漢の出土史料なんかから考えると、普通に名前持っててその名前で呼ばれてたんだと思うよ
諱で呼ぶのは父母ぐらいではなかったかな?
世間は諱を避けて、字とか通称で呼ぶのが習慣だから諱が後世になかなか伝わってないということではないでしょうか。
父母でも諱でなんて呼ばねえよ。あからさまに敵意を剥き出しにする時くらいだ
楽進と李典、どっちが優秀?
陳寿が楽進のほうが優秀だとはっきり言ってるわけで…
実績も楽進のが上だし疑う理由が無いかと
>>474 じゃあ父母は子をどう呼ぶの?小字→字?
1号、2号、3号・・・
>>475 鉄砲玉から補給部隊までこなす若き俊英と、前線指揮が得意なベテラン
それぞれに長所があり単純に比較できるものでもない
>>476 それは楽進の方が活躍時期や最前線が長かったから
早く死んだ李典はその点で不利だけど、それが優秀さに直結するものでもないでしょう
480 :
世界@名無史さん:2008/12/30(火) 16:29:14 O
趙雲と陳到とではどちらが優秀ですか?
はいはい陳到陳到。これで満足かい?
もうそろそろ相手にしないほうがいい
>>477 楊家将ばりに、大郎、次郎、三郎、四郎… でいいんじゃねの?
>>479 早死にしたから実績が少ないのは仕方ない、で済まされると
あなたの考えだと早死にした方が得ですね
485 :
世界@名無史さん:2008/12/30(火) 17:22:02 O
長生きかどうかは問題ではない。
その人物が必要とされる時代と遭遇できるかが問題なんだ。
命長くして恥多し。
李典マンセー
488 :
世界@名無史さん:2008/12/30(火) 20:15:20 0
李典は学問が好きだったみたいなことが伝わっているけど、そうすると文武両道
兼ね備わった名将になった可能性が高いかな。
好きではあったようだけど特には生かせてないかと
30代で県令から太守を歴任し評価された人間のどこを読んだら
「学問を生かせていない」と言えるんだ。
李典は合肥駐屯の時期などでは楽進より格下だろう。
が、おそらく大した家柄ではない出身の楽進に比べれば、
豪族出身で若くして出世コースに乗り既に将軍号を得ていた
李典は、長生して功績を上げ続ければ相当上まで昇れただろうね。
言えるのはそこまで。
どっちが有能、なんて問いは、同じ「将軍」とは言え二人の境遇も
性質も違いすぎて意味がない。
>>484 何言ってるんだ?
どっちが優秀かはわからんと言っただけで、どっちが得かなんて言ってないぞ?
早死にした人間には、可能性だけクローズアップされる、と勘違いしたんじゃない?
生きた人間は、なにかしらの結果を残したが、死んだ人間は「もし〜れば」に
なるからね。
たしかにその論法なら、早死にした人のほうが、後世の評価は高くなるかも
しれないが、生前にその片鱗がなければ、なんとも。
493 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 09:20:26 O
全くの武人だと評価されにくいでしょ。
関羽なんかもそれなりの教養はあった。ちょくちょく名前がでてくる陳到なんて古参の武将だけど伝記が残らない。
早死にが有利なら呉の凌統もすごいぞ。生前に片鱗もあるしな
一応豪族・陣中でも賢に親しみ士に接し、国士の風が有った・孫権にかなり大事にされている
その意味では最強は孫策か。
496 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 13:44:40 0
寥化みたく派手な戦功は無くても、
70歳過ぎまで現役将軍として活躍すれば、
車騎将軍という高位まで出席する人もいる。
付載ではあるが伝記も一応は残った。
この人の場合は短命だったら歴史に名を残したかどうか・・・・・
497 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 13:48:23 0
出席→×
出世→○
498 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 13:56:13 0
魏の楽進は兵隊上がりでしょ?
蜀で言えば黄忠・趙雲・魏延・王平みたいな境遇。
抜群の戦功で出世はしたが、知識人階級からはあまり認められていない。
李典は学問好きということもあって、諸将と功績を争わなくても
ある程度は知識人階級から認められる状態ではあった。長生きかどうか
よりも、知識人に認められる生き方をしたかの方が評価されたのでは?
楽進は文吏出身ですけど
正史読んでないのにこのスレにいるのか・・
501 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 15:43:25 0
>>499 それって記録係だろ?
実質兵隊上がりみたいなものでしょ。
李典とは出自でだいぶ差があるように思う。
李典の叔父さんは食客がいるくらいだから、一族は
それなりの家だよ。
502 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 15:48:41 0
>>494 丁奉みたく晩年の活躍が記録に残る人もいるな。
甘寧とかに仕えていたこるの話しなんて、サラッとしか書かれていない。
70歳過ぎまで現役将軍っていうと最高齢は誰になるんだろう?
ケ艾が成都に到達したときは確実に70超えてたよね
三国時代の軍人で現役最長は呂岱の96歳だったと思う
他に軍人で長寿というと、知ってる限りでは、
田豫が82歳で、柳隠が81歳だったはず
けっこう調べると長寿の人物っているけど、やはりというか官僚・文人に多い
来敏97歳
司馬孚94歳
士燮90歳以上
孟光90歳以上
楽詳90歳以上
高柔90歳
楊彪84歳
向朗81歳
董昭81歳
張昭80歳
鍾ヨウ80歳
程c80歳
基本的に士大夫は70歳をもって致仕するけど、それを過ぎても現役って人物も
多いんだなあ…というか
どこまで正確かは自信ないのでご容赦
505 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 17:03:26 0
丁奉も80歳くらいまで現役じゃないかな?
>504
わざわざ調べてくれてありがとう。
>>504 96歳って恐ろしいな
寿命が延びたっていう現代でも96迄生きるのは至難の技だというのに。
508 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 18:06:58 0
そんな年齢で軍の指揮なんてできるのかな?
かの伏波将軍馬援はだな。。
老いて猶、旺んなり。
>>508 なにも演義よろしく陣頭で馬に跨がって自ら獲物を振るうわけではないし、
指揮官は戦車に乗って判断して指令を下せば軍の統率はできるからね
天蓋が備わっているものもあるから、陽射し対策もとれる様だし
士卒の心をよく掴んで公正な軍規を施行していれば、将が老耄でも
大きな問題はないだろうさ
一瞬、来毎797歳って見えてあせった。
孔明みたいに輿の上に担いでもらうという手も。なんなら担架でもいい。
514 :
世界@名無史さん:2008/12/31(水) 20:28:18 0
魏延は馬に乗れたのかな?
age厨がリアルに気持ち悪いな
>>499 楽進は文吏じゃないよ。帳下吏つまり軍吏で、notシビリアン。
メンヘルだろ
意味不明
卑怯者は相手にするな。
520 :
世界@名無史さん:2009/01/01(木) 06:54:16 0
黄忠はなんで引用の記事が無いのだろ?
今度は単発質問厨のマネか、病んでるな。
522 :
世界@名無史さん:2009/01/01(木) 17:02:50 0
黄忠は名門出身ではない上に後嗣がいなかったから、
子孫が功績を称える記録等を残さなかったからだろう(推測)。
523 :
世界@名無史さん:2009/01/01(木) 20:52:49 0
黄忠は豪族の出身ではないだろうな。
出自が豪族だと伝記に家の話しが出ているし。
この人も兵隊上がりのくちだね。
関羽が老兵と言ったのも故なきことではないと思う。
524 :
董卓:2009/01/01(木) 20:57:58 0
ダンカ〜ンコロッケとって〜(笑)
劉表の時代に既に中郎将、つまり劉表軍最高幹部クラスになっている人間が兵隊上がりとは考え辛いね。
まあ、
>>523の「兵隊上がり」がどの程度の意味なのかよく判らないが。
張遼などは官吏上がりでそれなりの学があったとように思えるが、曹操に下って以降、官歴としては武官専従の道を選んだ。
張飛や魏延のように士人として相応しいとされる教養はなかったが乱世に武功を立てて抜擢された者も多くいた。
まあ、両者の間には無限の段階があり境界線は引けないだろうけど、黄忠は前者に近いだろうね。
>>523 荊楚で黄氏つったら春秋戦国の昔から結構名前出てくるから
実際の力等は不明にしても、昔からの名家な可能性はあると思うけどね
黄忠には黄叙という跡継ぎがいた。
諸葛瞻とともに綿竹の戦いで戦死している。
ここで兵隊上がりとか士大夫層出身とかで盛り上がってるが。。
黄忠にしても張遼にしても個人の武勇で召し抱えられたわけでは無いよ。
それぞれ強力な配下の兵や民を引き連れて帰参したわけだよ。
だから一軍の将として登用されたのであり、彼らについてはあまり出自は関係ない。
関係あるよ。ぶっちゃけ後漢末に「士大夫層」なんてものは存在しないのだから
存在しないのならなおさら関係はないではないか。
後漢末に独自に運用できる一軍を所有できるというのはどういう立場の者か?
>>531 豪族かちょうど太守やってて上手くやった奴か群盗の頭目
魯粛の様に地方の富豪の若旦那が周りの若者をかき集めて兵隊にすることもある。
甘寧の様に湖賊のボスの事もある。
孫堅だってそういうものだったろうな。
>>532 (完全に庶人出身の)群盗の頭目が、丁原や劉表の将として召抱えられたとは考え辛いから、
>>528の論が正しいなら、張遼や黄忠は豪族か少なくとも士人であり、
彼らの出自は彼らの登用と活躍の方向性に決定的な影響を与えたことになる、なあ。
>>533 甘寧は当時の侠客の風俗を精査しなければちょっと不明だが、
孫堅は県尉から官歴を始めて四方の討伐に活躍した「官軍」の有望将校だよ
>>534 黄忠に関しては多分地方豪族だったろうと思っている。証拠は無いがw
中央から派遣されてきた行政官の下で実権を握っていた様な、ね。
張遼も地元の郡の役人をしていたらしいから盗賊の頭目とかではないだろう。
だけど積極的に推薦されて登用されるような階層とは思えないな。
そして彼が重用されたのは呂布の配下の五原の騎兵団をそっくり引き継いで指揮をできる人材だったからだよ。
呂布が強かったというのも個人的武勇もあるだろうけれど配下の騎兵団がとてつもなく強力だったから。
>>537 だからこそ、「階層」というのは後漢末では絶対的な意味を持たないということだね。
建前上、士人名士の条件は品行教養のみ。
大豪族の出身というのは「士人」として世に認められるために極めて有利な条件を幾つも備えては
いるが、「生まれの高さ」というのは「士人」の十分条件でも必要条件でもない。
また、豪族というのは宮廷貴族などと違い、己自身の資力と人脈だけが勢力の拠り所。
盛衰の波が非常に激しい。功績を立てて二千石にでもなれば地元の名士となって子孫繁栄できるし、
なにかの失敗や親の早世であっという間に没落しうる。
宮廷の寵臣・高官なんてものだって、成り上がったのはたかが二代や三代前だったりする。
祖先の功績や知名度によって権勢や出世が保障される貴族階級のようなものを以って
「士大夫層」というものをあなたが想定しているのなら、
漢魏で伝が立てられている人間の半分はそのような階層の出身ではないし、
つまるところこの時代に官に昇る条件である「士人」「名士」というのは、
本質的には「出身」によって規定されるものではなかったということになる。
現代人がすぐに連想する貴族のような階級社会が現れるのはもう少し後のことだよ。
そもそもこの時代はその土地の父老達の同意と支援が無ければ一軍を編成する事もそれを維持することも不可能だった。
(盗賊と成って略奪すれば別だが。
いわゆる賊と言われているものの多くは逃亡民たちの群れだったりするわけだが。)
そのあたりの事情は中央から派遣されてきた行政官であっても、劉備みたいな流れ者であっても一緒。
もちろん、父老たちは馬の骨なんかを信用しないから、担いでもらうにはそれなりの名士であったほうがいいわな。
まったくの一兵卒が一軍の上に立つには逆に引き立ててくれる存在が無ければ難しいだろうな。
>>539 それは時代が違うでしょ
そいつは劉邦から劉秀あたりまでで、隷民を沢山かかえた豪族が各地で幅を利かせていた後漢末は事情が違うよ
>>540 事情が違うならば、後漢末は
>>539のようではなく
どのような時代情勢だったのか論じてくれると嬉しいぞ
見てる者としては
542 :
世界@名無史さん:2009/01/02(金) 06:07:20 0
>>527 黄忠の跡継ぎは伝記には、早逝して跡継ぎがいなかったと書いてなかった?
蜀滅亡直前に戦死したのは、黄権の蜀に残してきた息子だろ。
543 :
世界@名無史さん:2009/01/02(金) 06:28:49 0
>>536 長沙の豪族なら一族の一人や二人はいると思うよ。
跡継ぎがいなくなるようなことはないでしょ。
>>543 南陽なんだが
それに黄柱がどの程度の規模の家族を率いて南に行ったか不明
因みに南陽黄氏には劉備の光録勲という相当重んじられていただろう黄柱がいる。
ざっと検索すると桓帝の時代に抗争で誅された黄武、
李通の父李守(南陽宛城)と親交があったという黄顯などがいるのだが、
「南陽郡」というだけでは大雑把過ぎて何も言えない。
>>543 豪族でも跡継ぎが居なくなって断絶してる例は枚挙に暇がないよ
周瑜なんて地盤から丸ごと孫家に付いてるけど子供二人死んだだけで跡継ぎ無し
546 :
世界@名無史さん:2009/01/02(金) 11:31:56 O
黄忠はせいぜいプチ豪族程度だったのでは?
全く一族の記載が無いのは、たいした家柄でなかった可能性が高い。
中原で有名人だった関羽にしてみれば兵隊上がりと変わらない存在。
私兵がいたとしても、部隊を編成できるほどの数ではなかったのでは?
兵隊上がりという言葉は関羽の方に相応しいだろうね。
もっとも、并州から出奔してきた関羽が本来どのような育ちの人間だったか、も
もはや闇の中だが。
前もどこかで言ったな。同じ人ですか。
兵隊上りというと呂蒙もか。
叔父の部隊にこっそり忍び込み、孫策親衛隊へって感じで出世していったな。
しかも、勉強をして軍師になった
兵隊上がりって言葉の定義がわからない。
550 :
世界@名無史さん:2009/01/04(日) 12:48:35 0
定義を言い出したら名士という定義も曖昧だし、
名声とかいうものも漠然としている。おおよそ、大した家柄出身でないが、
軍功で名を残した人物という感じじゃないだろうか?
劉巴みたいな奴に兵子とののしられそうな奴のことだよ
552 :
世界@名無史さん:2009/01/04(日) 14:48:44 0
蜀だと関羽、張飛、趙雲、黄忠、陳到、王平、句扶といったところか?
馬超は独自の勢力を保持していたくらいだから除外、関羽・張飛も中原の
名士が一目置いているから除外かな。
553 :
世界@名無史さん:2009/01/04(日) 14:49:22 0
>>552 ゴメン、関羽と張飛を入れて書いてしまった。
554 :
世界@名無史さん:2009/01/04(日) 14:53:29 0
趙融はどんな人物だったんですか?
若くして郡の吏兵を任せられた趙雲が大した家柄でなかったとは思えないし、
「兵隊上がり」と言ってもピンキリだろうね。
董卓は烏林郎出身、「良家から選抜される」と明言される近衛騎兵のエリート士官だが、
これでも儒士から見れば兵隊上がりと言えば言えてしまう。
常山っていえばかつての「趙」のどまんなかだよ?
趙雲って家系的には由緒あるんではないか。
>>552 「兵隊上がり」というのはその人物の来歴を示す言葉だろう。
「有名で一目置かれたから除外」とか訳解らん。
張飛は劉備の旗揚げから付き従い武名高く、名士を尊敬し、
官位は車騎将軍まで昇った人物だが、その来歴から蔑まれて
劉巴に「如何にして兵子と共に語るのか」と言われた。
この時代の兵隊上がりというのはそういうことだろう。
なんだか無理矢理関張と黄忠の差別化に持ち込もうとしてるように見えるな
逆に廬植なんかがどうしてまともに軍隊を指揮できたのか不思議だわ。
559 :
世界@名無史さん:2009/01/04(日) 18:18:39 0
諸葛亮の発言からも、関羽・張飛・馬超と黄忠とでは名声がかけ離れていた
のは察せられる。関羽の反応も最初は諸葛亮の懸念した通りだったし。
趙雲もいわゆる「兵隊上がり」だよね。
趙雲が生きていた当時としては関羽や張飛と並び称せられる人物ではなかった。
『季漢輔臣賛』でも陳到というイマイチ何やってたか不明の人物と並記で出てたり
する。しかし、もっと後の世になると趙雲の評価が急速に上昇していることがわか
る。関羽等が諡号が追贈されたのに対し、大将軍の姜維らが中心になって趙雲に諡
号を追贈しないのは不公平との声が上がる。
著名だから兵隊上がりではない、とする了見がそもそもおかしいと言ってるんだけど。
名声・官位において、馬超>関羽>黄忠>趙雲 くらいだったのは事実だ。
だから関羽は漢中王の四方将軍という名誉ある位階で黄忠に並ばれたことに不快を示した。
が、その宮廷的序列と、士人としての名声・教養の有無は本質的には関係無い。
てか、名声が同列になったら「兵隊上がり」ではなくなるのなら、
関張馬と同列になった時点で黄忠は「兵隊上がり」から除外されることになってしまうんだけど。
関羽だって過去の武名の大小や劉備への貢献の歴史をもって
「わしのほうがえらいのに!」と不満に思っただけで、兵隊上がりだからどうこうと差別なんてしてないし。
562 :
世界@名無史さん:2009/01/04(日) 18:36:46 0
伝教大師最澄は家伝によれば霊帝の末裔だそうだ。
秦氏の末裔?
趙雲の諡号追贈のタイミングが関羽らより遅れたというのは、
蜀漢の時代では、趙雲は劉禅の時代に活躍した廷臣だという認識があったからだろうね。
季漢輔臣賛でもそのような順序に配置されている。これは劉備時代の序列や功績とはあまり関係ない。
魏延が功臣のまま生を全うしていれば、彼もその近辺に含まれただろう。
趙雲の先に追贈があったのは皆劉備の時代に活躍した者達であり、
260年の追贈は先帝の武臣の顕彰という目的の元に行われたものだろう。
世代から言って趙雲が含まれないのは自然なこと。これもまた、生存時の序列とは関係ない。
565 :
世界@名無史さん:2009/01/04(日) 18:51:39 0
秦氏は始皇帝の末裔を称している。
漢氏か。
567 :
世界@名無史さん:2009/01/04(日) 18:56:24 0
最澄は東漢氏(一説には西漢氏)の出。
本当に霊帝の末裔かどうかは分からないが
元々朝鮮の帯方郡に霊帝の子孫を称する一団がいて
彼らが日本に帰化したらしい。
なんでわざわざ霊帝なんだろうね。
569 :
世界@名無史さん:2009/01/04(日) 19:25:25 0
>>564 主旨から外れているのに趙雲も諡号が追贈された。
確かに関羽・張飛・馬超・黄忠およびホウ統は劉禅即位以前に没している。
それが趙雲が諡号を追贈されるのが当然という声が高くなる。主旨も周りか
らも理解されてない感じだな。
主旨が理解されていないから、先帝の流浪時代から仕え、今上の命を救った
功臣に何故諡号を追贈しないのかという世論だったのだろう。
570 :
世界@名無史さん:2009/01/04(日) 20:00:33 0
兵隊上がりという定義なら張嶷がピッタリでしょ。
三国志の編纂者の陳寿もお気に入りだしね。
二十歳で県の功曹からスタートしてるのに?
武勇で名をあげたら兵隊挙がりっておかしいだろ
坂上田村麻呂も霊帝の子孫と自称してたね
573 :
世界@名無史さん:2009/01/04(日) 21:04:41 0
>>571 劉巴みたいな人なら完全に兵隊野郎扱いだろう。
当時の感覚では完全に兵隊上がり感覚でしょ。今だって二等兵から
将官に出世する人なんてほとんどいない。
功曹は今なら市役所の人事課長。
張嶷は武官を兼任したが主に都尉や太守を歴任して出世した。
今まで出た人物の中では一番大外れだろう。
>>569 違うだろ。
主旨から外れているから、わざわざ一年の時間を置いて趙雲を差別化したんだ。
ある日突然に天から関羽への追号の聖旨が振ってきて、
それに対して姜維らが意見した、なんてわけじゃない。
「〜でしょ」を多用するage厨の相手はしない方が無難な気がするよ
>>575 それも拡大解釈じゃないかな?
史書には諡号追贈の主旨なんて書いてはいない。
『趙雲別伝』の大将軍姜維の発言を読む限りは、一連の流れという感じだし。
それなら劉禅時代にも功績のあった人はおり、趙雲だけが対象になるのは
おかしい。趙雲が先帝家臣の中でも古参であることを考えると、劉禅時代の
家臣だからという解釈は不自然だろう。
死んでからの時間も含めると、劉禅時代の臣下の中で、その時点で追号に相応しいとされる人物が
趙雲しかいなかった。というだけのことだろう。
念のため言っておくけど、俺は「生存時の序列とは関係ない」と断っており、
追号のタイミングがずれたことを以って趙雲を格下扱いなどしていないからね。
ただ
>>564のように見れば、生前、季漢輔臣賛、諡号追贈、三国志成立までに見られる
趙雲への評価を、一貫した自然なものに解釈できるだろう、と言うだけだ。
80年ほどの間に別に妙な上がり下がりをしているわけではない。
579 :
世界@名無史さん:2009/01/05(月) 19:05:16 0
先主時代に諡号を追贈されたのは法正だけだったけ?
後主の時代が諸葛亮、蒋エン、費イの宰相を務めた人と
先主時代の武臣の関羽・張飛・馬超・黄忠および軍師だったホウ統。
それと先主から後主時代にかけての趙雲。
あとは番外として魏から降伏してきた夏侯覇と胡麻擂りで寵愛された陳シ。
580 :
世界@名無史さん:2009/01/06(火) 06:08:12 0
魏延も短気を起こさなければ諡号追贈の対象になったんだろうな。
>胡麻擂りで寵愛された陳シ
ちょっと悪意がこもってる気が
582 :
世界@名無史さん:2009/01/06(火) 10:40:35 O
陳寿の記述も国家崩壊の根本原因みたいな書き方だ。
まあ姜維の北伐を朝廷の中でバックアップしてたのは陳シだからそう思う気持ちもわかるが
ただ姜維の北伐は陳シの生きている間は上手く行ってたから、そこに滅亡原因を求めるのは間違いな気がする
陳祗は荊州、益州どちらの出身でもない為、
また費イの後継でありながら、軍事面での階級が低く、階級面で上をいく相手を抑え込めない
その為、劉禅に取り入ったのかもしれない
この際、後宮経由の不正規上奏を押さえる為に黄晧を出世させたのかもしれん
陳祗が存命中も黄皓は黄門丞から黄門令へと一階級あがっただけ
黄門令なら十分に陳祗を迂回した上奏を遮断できる為、黄皓をこれ以上出世させる理由が無くなる
むしろ陳祗はこれ以上黄皓が出世するのを防いでいた感もある
黄皓の中常侍への大出世が陳祗死後だし、黄皓を利用しつつ警戒していたのは確かだろう
陳寿は蜀漢末に散騎侍郎という宮中のど真ん中にいた人物だから、
私怨から諸葛父子を悪く書いた、という話には頷けないにしても
当時の宮廷の高官達への評価はかなり複雑なものになっていると思う。
姜維の北伐について陳祇と論争した師のショウ周はのちに魏への降伏を強く勧めた人物だ。
そのため陳寿らショウ周門下は晋で比較的厚遇されたらしいが、「故国を滅亡させた」
ショウ周やそれに乗じて出世している陳寿らへの誹謗は当然あっただろうし、
「蜀姓」自体が晋代では軽視され続けた。
故に陳寿は自分達の一派と郷里を強力に弁護せねばならない立場にあっただろう。
また、姜維に対して「衆を玩び旅をけがす」と評したものの、その人格・能力をは
弁護しているように見受けられるし、一方で諸悪の根源的な書き方をされる黄皓は
「蜀の長老」に言わせれば陳寿によって責任を帰せられたのだということになる。
宦官は基本的に皇帝の寵愛があって初めて権力を持つ
(唐末期のような宦官集団は別だが)
つまり、黄皓が諸悪の根源とすれば、それを信任しつづけた皇帝にも重大な責任があることになる
劉禅は幼児や権力の全くない傀儡ではないのだから
宦官って去勢してる時点で単にハーレムに住んでる小間使いだろ?
で?
589 :
世界@名無史さん:2009/01/06(火) 20:59:36 0
で八
>>587 それを宦官といわずして何というのか?
身の回りの世話をするということは、それだけ私生活に密接にかかわっており
皇帝などが悩みを漏らしたときに、いい解決案とかなにげなく提案すると
急速に信任を受け、それが昂じて公務にまでその意見を重要視するようになる。
宦官の跳梁跋扈の原因は、ほとんどがコレ。
特に顕著なのは、中唐〜唐末。
>>586 だから陳寿は、劉禅を、小人の諂いに惑わされてからは昏闇となった、と明言しているよ。
この辺り陳寿の「史観」ははっきりしている。
592 :
董卓:2009/01/07(水) 10:46:17 0
荀イクってかなり有能な臣下(朝臣)じゃね?(最近ジュンイク伝読み終わった)
ジュンイクあっての曹操じゃなかったのかな?(過大評価か?)
593 :
世界@名無史さん:2009/01/07(水) 14:09:51 O
何をいまさら。
荀彧って、曹操に協力し見出されて、後漢朝廷に推挙されたんでしたよね。
よく曹操の部下みたいに言われてますが、実際にはそれはちょっとニュアンス
違いますよね。
ま、曹操も後漢朝の臣下だから、当たり前といえば当たり前だが
荀ケは皇帝を傀儡とする曹操政権下での尚書令。
この時点で形式上は曹操の部下ではないが、
他の勢力を押さえつけ皇帝への影響力を維持する役を担う
曹操一派の最右翼というところだな。
>>594 最初は奮武将軍曹操の司馬だから、元々は完全に上司と部下の関係だったよ
それ以降も、普通一旦上司と部下になった関係はその後も影響する(門生故吏)から、事実上は部下と呼んで差し支えないでしょ
尚書令のときにしても、曹操が録尚書事だからね
これも上司と部下みたいなもんだよ
正史の周泰って勇敢であったけど武芸抜きん出てに優れていない感じだよね?
598 :
世界@名無史さん:2009/01/08(木) 19:49:06 0
>>584 どちらかというと董允の後継だろ?
主君を匡正していた董允が死去し、へつらい人間が後を継いだ。
しかも宦官の台頭まで許した。
と、いうのが陳寿の主張。
陳祇が劉禅に諂った、というのは、董允の死後劉禅が董允に対して悪感情を持つようになったという文脈で現れる。
つまり陳寿はここで、同時代の「蜀志」読者に対して董允の擁護を行っているわけだ。
或いは蜀漢末から晋初に掛けて董允に対して「皇帝の意を蔑ろにして専横した」というような評があって
陳寿はそれに対する弁護の必要を覚えたのかもしれない。
いずれにしろ、
・劉禅に取り入り讒言したといっても、黄皓には具体的な「悪事」の記録は殆どない
・黄皓の官位は中常侍であり、重職ではあるが繁栄を極めたとは決して言えない
・蜀漢滅亡の歳には重大な判断ミスを劉禅にさせる要因を作っているが、ミスをしたのは彼一人ではない
・最末期にあっては、二人の平尚書事諸葛瞻と董厥や右大将軍閻宇ら重鎮が黄皓に組している
・陳寿は陳祇や黄皓と対立する側に属した官吏だった
ということを考えると、黄皓や陳祇への陳寿評というのはやや割り引いて見る必要があると思われる。
600 :
世界@名無史さん:2009/01/08(木) 20:11:29 0
つうかさ。
劉禅ひとりが多少美味いものを食ったり、女囲ったり、どんちゃん騒ぎした程度で蜀の経済は傾くのかよ?
程度によってはね。
例えば宮女1000人に良い服を着せ、巡幸の度に大行列を作って近衛まで着飾らせ
避暑地ごとに宮殿を造ったりすれば帝室財政は傾き得る。
でも蜀漢の財政が劉禅のために傾いたとかいう話はあったっけ?
>>600 皇帝がそんなのだと、臣下がそもそもやる気が出なくなる。
政治の対応も硬質になって、柔軟性を欠くため、朝野の活気が乏しくなる
税が不足がちになるから、安易な増税に走り思考停止
官憲の手を逃れるため、あるいは生きるため民は山林亡命する
治安の擾乱により、弾圧策をとると、民衆反乱に火が付く。王朝転覆…
というのが、末期症状のほとんどのパターンなんだが、蜀漢はどうなんだ?
604 :
世界@名無史さん:2009/01/08(木) 21:27:58 0
蜀の経済的疲弊の第一の原因は姜維の成果無き北伐でしょう。
本来なら劉禅が北伐の是非を考えなくてはいけない立場なのに、酒色に
溺れて政治を顧みなかったのは非難されるべき。陳祇・黄皓も当初は姜維が
遠征で外地にいれば、好き勝手にできるので都合が良かったのでしょう。
姜維も戦争ができれば満足で、五月蠅いこと言わない陳祇が朝政を牛耳る
ことに不都合が無かった。姜維は内政に関してはあまり関心が無かったの
でしょう。内政に気を配りながら北伐した諸葛亮とは決定的に違う点です。
しかし、姜維の北伐が労多くして功少なしで国内の経済的疲弊が大きくなる。
特に段谷の大敗後は顕著になる。そうなると、宮廷の奢侈に使う経費も戦費が
圧迫してきます。そうなると姜維が邪魔になってきます。そこに姜維の北伐に
批判的な董厥、諸葛瞻や姜維に取って代わろうと考えていた閻宇が黄皓を利用
して姜維排斥を画策した。北伐を中止させること自体は悪くないのですが、宮
廷の腐敗を正すことが無かったのがまずかった。
結局、劉禅というか皇帝の政治的無関心が招いた必然か…
バカ皇帝でも、臣下に独裁権を確立する偉才がいれば、ひどくはならないだろうが
その場合、いずれ簒奪となり、やはり皇帝はアボンする。
政治責任者は、その責任から目を逸らすと、高い地位ゆえに、どう転んでも
末路は大して変わらない、というのは歴史の教訓だろうねw
ああ、でも劉禅はアレか。
皇帝辞めても、後の南北朝や五代のように、ぶっ殺されなかったんだよね…
魏は、その点寛容だったのかもしれない。
あの時代の君主としては失格だが、
馬鹿皇帝ってほどでもないでしょ。
在位期間の長い皇帝の末期は得てしてあんなもの。
劉禅には殺す価値も脅威もないという判断だろう。
どう考えても敵国に囲われた後の劉禅担いで蜀復興が出来るとは思われえない。
御輿にするにも求心力が無ければ意味が無いからな。
>>607 別に劉禅をバカ皇帝とは言っていない。
(仮に)バカ皇帝でも
としているので。
こうやってみると、バカではないかもしれないが、無責任であることだけは
否定のしようがないな。
長い皇帝の末期があんなもの、ではあれど、それが原因であることには
変わらないと思う。
>>608 世代は違えど、漢献帝も殺されたわけじゃなかったから、国としてそういう
体質でもあったのかとか、軽く思っただけ。
>>606 劉禅を殺さなかったのは司馬氏だから晋が寛容だったんだ
>>605 ここ正史スレなんだけど…
何で劉禅が政治的無関心だったなんていうのか根拠は?
東征を計画するショウエンを力づくで止める叱責の詔を出した劉禅
これを見る限り、少なくとも諸葛亮死後の劉禅は政治的関心もあるし一定の指導力を見せている
613 :
世界@名無史さん:2009/01/08(木) 23:15:24 0
劉禅は在位41年間の内36年間はまず名君、末期の5年だけ政治が乱れたけど民を虐げたり酷い事したわけでもない
名君と呼ばれた孫権や曹叡の晩年と比べると・・・
>>613 まあ曹叡は晩年といっても享年36だから、評判の悪い時期もまだまだ若かった
長寿だったらどんな暴君になっていたのか興味ある
>>612 いや、結局は皇帝権力の低下が招いた亡国じゃないの?
ずっと政治に精力的に関心をもち、臣下を統御していたら…
末期でそれまでのたくわえ全部使い果たした格好にみえるのだが。
大将軍という皇帝以外に抑える者がいない最高官を、宮廷を離れて北に長期駐屯させる慣習を
継続してしまったのが根源に見えるな。
忠誠と成都との連結が強固な間は良いが、皹が入ると掣肘する者がいなくなってしまう。
諸葛亮時代の弊害か。
諸葛亮の死後高官に昇ったのは諸葛亮の故吏や丞相府の中枢にいた者ばかりのせいか、
政軍を一手に掌握する才能を持つ者が作った制度のまま時代に合わせた改革を行えなかったのが
蜀漢政治の特質だろう。
政府中枢で反乱やクーデターが起きなかった驚くほどの強固さと表裏のものなのだろうね。
>>616 >政府中枢で反乱やクーデターが起きなかった
っていうのは、見方を変えると「既に政府の中枢が臣下に乗っ取られていたから」だからねえ
>>617 違うよ。
皇帝に権力があろうがあるまいが、臣下同士で権力争いすればクーデターや反乱は起きる。
後漢も呉も魏もそうやって権臣が交代し続けていったじゃないか。
ていうか皇帝に権力が無い時期がそれが起こる可能性は高い。
>>615 劉禅は政治に関心を強くもってた
だから一時期親政をしようかと言い出した時期もあった
その親政は結局それまで同様の有能な政治家に任せるという方針を変更させてまで実現することはなかったがね
末期は兵糧こそ残り少ないが錦二十万匹、金銀二千斤、他諸々の財宝は山のようにあるし
足りないのは前々からの大敗で失った人的資源くらいなもんだ
これは劉禅の責任ではないよ
劉禅=篤姫
董允に叱られてたのも政治的な主張が無かったのも事実だけどね。
諸葛亮の選んだ人材が消えた途端にたったの数年で国家瓦解か・・・
間接的要因は幾つもあるだろうけど劉禅の責任も大きいよな。
>>621 政治的主張が無かったとはどこから?
まあ確かに白糸みてーだと陳寿に批評されてるけど
陳寿は前述した人がいるようにこの辺の人物評価には色々色が付いたり
逆にマイナス面を殊更強調されてる人がいたりと公正ではないよ
親政志望も立派な政治的主張じゃないか
623 :
世界@名無史さん:2009/01/09(金) 06:24:31 0
劉禅は猜疑心が強くなかったから、孫権みたく家臣を虐殺するようなことな
なかった。ただ、費偉の死去後は国全体をみて方針を決める政治家が存在しな
かった。劉禅も政治能力は無いから空いた穴を埋めることができなかった。
>>619 素朴な疑問だが、それだけ財があるなら、糧秣の買付けをしなかったのはなぜ
ふつう、宮廷に財が集中すれば、国土は疲弊しているものだけど
兵糧だけが足りなくなっているのは、どういう理由なのだろうか。
それと、この時代の敗戦責任が、皇帝にないとはどういう理由?
臣下に任せていても、許可しているのは皇帝なんじゃないの。
臣下が勝手にやったというなら、それは半分謀反のような。
やはり、臣下の統制ができていない=皇帝権力が低下している
とみてとれると思うが。
>>619>>624 「臣下」とか「前々からの大敗」とかではなく具体的に語らないと論は収束しないぞ。
姜維のことだろうけど。
漢中に在る大将軍(や丞相)が代々征伐についてどの程度皇帝の裁可を仰いでいたのかは
精査の必要があるだろうし、征旅の末での敗北はまた別の話だし、その敗戦処理もさらにまた別の話。
個別に検討しないと駄目。
626 :
董卓:2009/01/09(金) 13:41:35 0
荀ケ。
魏が最強
628 :
世界@名無史さん:2009/01/09(金) 14:02:48 0
劉禅は平時なら名君だろうね、君臨するけど統治せず。
江戸期の藩主や長州のそうせい候に似てる、政治は家臣に任せ勤皇派が政権取ってもそうせい、佐幕派が政権取ってもそうせい。
629 :
董卓:2009/01/09(金) 21:47:54 0
周りの環境に左右される人だったらしい。
630 :
世界@名無史さん:2009/01/09(金) 21:56:19 0
長州のそうせい候は、ほとんど自分で政治に口出さない(出せない)が、勤皇派と佐幕派の争いが苛烈になり戦争になると、奇妙な命令を一つ出している。
人を殺すなと。
>>624 降伏時の糧秣に関する記述が「どこの城の糧秣の量なのか」ってのが全く不明なんだが
蜀全体とすれば少なすぎる、というか東部国境さえ維持できない
成都のみの糧秣だと考えれば、蜀は内部に兵力をあまり置いてない(置けない)状況だったという事になる
姜維は涼州で戦ってた時期に現地調達をしていたというから、成都に糧秣がないのも全く不自然な話ではない
糧秣を運輸するよりも金銭、財宝の類を首都から運送して現地で購入するようにしたと仮定すれば
諸葛亮が悩んだような兵糧不足ってのは大分解決しているんだろう
実際、姜維は兵糧に悩んだりはしてない
買い付けをしなかったんでなくする必要がなかった体制構築だったんじゃないかと推測してみる
皇帝の敗戦責任はこの時代一切ない
君主親政が行われていない場合、委任されて実務に当たる奴が全部悪い
というのが古代中国の皇帝の責任だねぇ
だから日食とかで大臣的なポジションの奴が辞めても皇帝は代替わりしない
>>631 姜維は確かに兵糧難に苦しんだという記録は無いけど、それは現地調達をしているわけなのだから、
成都の不自然(?)な備蓄量とは関係ないんじゃない?
劉禅は親政している。だから現代的な意味での「敗戦責任」はあるだろう。
別に蜀漢当時も滅んだ後も、劉禅が何か罰を受けたわけじゃないけどね。皇帝だから。
でも、
>>624の言葉には一応理はある。独裁や強権があったわけではないから、
「全面的に責任がある」とは言えないにしても。
まあ、あまり歴史学的な態度ではないけどね。
>>632 漢中で殖産興業してるわけでもないのに姜維って軍資金にも困ってないんだよ
現地調達も徴収してるわけでなさそうだ(現地民がやたら友好的だし)
となると本国から資金を運び込んでると考えた方がよさげ
陳シが死ぬまでは成都と漢中は緊密ではないにしても疎遠とも言えない微妙な協力関係だしな
>>631-632 どもども。
たしかに、財貨で糧秣を購うというのなら、目から鱗だが
ややもすれば、貨幣経済の促進になる革新的なことなので
多少、慎重にならざるを得ないところですね。
唐末の両税法の施行で、その浸透が顕著になった、というのと
時期がかけはなれているのから…
また自発的な供給というのにも限度がある。軍を養うほどの
生産が、国境にあったかどうか、というところだろうし。
あと皇帝の責任の件ですが、たしかにこの時期では、皇帝に直接
責任を問う姿勢は持ち合わせていなかったかもですね。
後代であっても、内心はどうあれ公言するのははばかられた政治体制だけに。
しかし五胡や南北朝以降ともなれば、どんな判断力の伴っていない子供皇帝でも
死という責任を取らされていたから、ちょっとそう思っただけです。
姜維が羌族に労役させていたとは郭淮だかの言葉にあるけど、
確かに姜維がどうやって羌族を釣ったのかというのは面白い問題だ。
第一に魏は主に羌族を武力で鎮圧しているから、
姜維は逆に自由を約束すれば簡単になびいたとは思うけどそれだけなのか?
>>633 でも本国から資金を運んだなら、成都の「錦二十万匹、金銀二千斤」などがもっと少ない場合に
初めて成都の備蓄量と北伐の戦略を結び付けることができるのであって、
そうでないのだからやっぱりこの二件は関係無いと思うよ。
各論には興味あるけど。
成都には伝統的に長期篭城用の備蓄を置く習慣がなかったとしても不思議ではないと思う。
ずっと安全だったわけだから。北伐の軍需物資は地方から直接漢中府に運んだだろうしね。
また、成都から進発した諸葛瞻がそれなりに持ち出しただろうし。
>>635 三国時代はまだ、「偉い人は国境を越えても偉い人」だからね。
献帝や孫晧や劉禅が厚遇されたのは、蔑ろにするのは非礼、というか
多分ほとんど非常識であり、下手を打つと人望を失う可能性もあったから。
劉備が多くの群雄を渡り歩いて時に警戒されても無事に乗り切ったのも
そういう文化風土だったからだろう。
>>636 まあ、国内から資金持ってって金で糧秣買ってるなんてのは推測の上に推測を重ねた砂上の楼閣同然の与太だからあんま本気にしないでくれ
ただ、金銀に限って言うと2000斤っていうのは国家レベルにしちゃ少ないな
劉備が蜀取った時は関羽、張飛、諸葛亮、法正にそれぞれ金500斤、銀1000斤を与えてる
また徐晃が関羽と対峙した時は関羽の首一つに金1000斤
曹芳が「黄金銀物百五十種、千八百餘斤」を詔勅出してちょっとした公共投資に使ってる
董卓は金2、3万と銀8、9万を蓄えていたというし
鮑伝では「罰金2斤」という話が出る(庶民には二斤でも大金だろうけどね)
これらと比較するとやっぱり蜀滅亡時の2000斤という数字はかなり少ないと思うんだな
これを以って「だから蜀は外で買ってたんだ!」と断言するほど短慮ではないつもりだが
蜀が経済破綻していた可能性と同時に、蜀は資金等を外地に送って現地調達してたんではないか?と俺は思った
砂上の楼閣に屋根一つ追加ってところだね
>>638 さんくす、すごく参考になったよ。
他でとくとくと既成事実のように語ったりする誰かみたいなことはしないから、安心してw
640 :
世界@名無史さん:2009/01/10(土) 09:49:19 O
姜維が防衛ラインを下げたのは、経済的、人的欠乏が理由との説がある。
どうなんだろ?
それらもあるし王経との一戦で殲滅戦術の味が忘れられなくなって
魏を誘引して一網打尽にしたいと考えてる節も見受けられるし
単純なものではなく複合的な要因だと思うよ
642 :
世界@名無史さん:2009/01/10(土) 11:47:03 0
>>637 益州で取れる鉄、塩、絹などの産品を羌族に与えていたのでは?
ただでは働かないと思う。
>>625 諸葛亮は第一次北伐を前にして『出師の表』を奉っている。
蒋エンは漢水の流れに乗って魏領に攻め込む計画を立てていたが、自身の
病気と反対意見で実行できなかった。劉禅がどの程度意見を言ったかは不明
だが、丞相・大司馬・大将軍がかたち上は皇帝の裁可無しに出兵は不可能だった
のでは?
諸葛亮は成都に蒋エンや董允という腹心を置いていたので、宮廷の反対で
北伐が中止されることは無かった。蒋エンの場合は必ずしも成都の費イと必
ずしも同じ意見でなかったらしく、遠征計画は実行に移されることはなかった。
>>642 ショウエンが計画を断念した最大の理由は皇帝じきじきの反対(叱責)だよ
>>638に関連してだが
前漢では金1斤が銅銭1万銭相当だったという事らしい
銀は金のおよそ1/5
新でもこの相場は大体同じようなものだったそうなので後漢に入ってからもそれ程変わってないと思いたい
三国志の時代は戦乱のみならず金融危機の時代でもあったと思ってるのだが
もしこの金の相場がそれ程変化していないという仮定をした場合(変化してると思うけど)
蜀滅亡時の金銀はそれぞれ2000斤ということなので2400万銭という計算になる
動乱前とは言え、個人で一億銭を支払った曹嵩の例もあり、いよいよもって蜀滅亡時の金銀の少なさが浮き彫りになるな
また劉備が蜀を取った時、四人の功臣へ褒美出した内訳が「金五百斤、銀千斤、錢五千萬、錦千匹」というものなんだが
「金銀各二千斤、錦綺綵絹各二十萬匹」と比べると錦以外の金品の少なさが異常だね
特に劉備が出した銭の量にすら末期蜀の金銀の価値は及んでない
逆に大量に錦が余っているので末期蜀は商品の在庫が大量にあぶれていて資金繰りに困ってたのかもしれない
645 :
世界@名無史さん:2009/01/10(土) 15:38:00 0
>>643 かたちは皇帝の反対だけど、
結局は費イや董允等の反対でないの?
>>644 それはやっぱり戸数=税負担の民衆が不足していることによることも
大きな要因のひとつと考えられるのかな。
プラスして前線への補給と、宮廷の奢侈だけど
実際、劉禅はどれほどの浪費をしたか、というのが問題にならないかな。
浪費を戒めていたなら、本当に前線への用に充てていた可能性は大きくなるし
その度合いによっても、劉禅の評価は断然変わるよね。
…と思ったけど、錦や綺は余ってる可能性が高いのか…
素人まるだしですまんけど、このときの賦ってなにで支払ってたの?
後漢と一緒なら銭等の所謂貨幣だろうな
648 :
世界@名無史さん:2009/01/10(土) 19:42:59 0
国が滅びる最大の要因は財政危機。
やはり蜀もご多分に漏れずでしょう。姜維が如何に現地調達や屯田をしようと、
戦費全てをまかなうことができたとは考えにくい。
面白いことに、姜維は大規模な北伐を実現するために、陳祗という佞臣をなかば
利用しようとし、北伐に反対の董厥、諸葛瞻や姜維に取って代わろうとした閻宇
なども宦官黄皓という佞臣を利用して姜維排斥を実現しようとした。これでは国
はよくならない。
その二人を佞臣と設定したのは陳寿だと(ry
>>646 済まん済まん
携帯から脊椎反射でつい「後漢と一緒なら貨幣」とか書き込んでしまったけど
諸葛亮は秩石制の石高に相当する畑を保有して「この田から十分な恩賞を頂戴してる」と書いていたし
蜀においては後漢と違い貨幣に限らず現物で支給されていた可能性がある
というか、この時期どうにもこうにも穀物価格が全く安定せず、現物支給しないと飯も食えない可能性があるね
三国時代直前には一斛五十万銭を超える事もあったというから、きっと三国鼎立中も何かあったのだろう
(曹丕時代も穀物価格の暴騰があったように)
諸葛亮が持っていたのは封爵の土地ではないかな?
巴蜀の産物は米で、古来から飢饉知らずという安定した気候にあり、後漢末の混乱も比較的軽かった。
劉備の時代に禁酒令が出されているのはおそらく軍糧が足りなかったためだろうけど、
諸葛亮が綺麗に数年置きに北伐を敢行し、飢饉の記録も見えないから、
魏のような経済危機は起きなかったと思う。
財政危機とは別の話になるけど。
>>651 「侯になった」とは言うけど封爵による土地が付随してるかは吟味する必要があるのでは?
と言うか、耕作面積の限られた蜀で封土をやると真っ先に国自体が無くなると思うんだが
653 :
董卓:2009/01/10(土) 22:16:10 0
荀攸。
>>652 それもそうか。封邑の記録がないんだっけ?
蜀漢で郷侯や県侯に封じられた人間の少なさを見ても、
領地を封じたとしても国がなくなるというまでにはならないと思うけど。戸数は多い土地だし。
でも諸葛亮の挙国一致体制にはそぐわないかな。
となると諸葛亮のは私有地か。
655 :
世界@名無史さん:2009/01/11(日) 06:24:26 0
姜維やケ芝はお上の支給のみで、
質素倹約も利殖もしなかったので、家には財産が残ってなかったという
記述がなかったけ?
諸葛亮は特別な功績があったから、多少の私有地はあったと思うけど、
それでも魏の権臣に比べれば極小。その他の高官は基本的には国から貰う
俸禄だったのでは(益州の豪族は除外)?
諸葛亮は普通に荊州から財産を持ってきたり
益州で利殖して蓄えたんだろう。
特別質素倹約の性質ではなかったと思うし、
前線でも軍装せず、「名士なり」との評もある。
高官なら財産を増やす機会は幾らでもある。
諸葛亮の田地は多分それでも少ない方で、
本当に相国の宰相として「それなり」の生活にしか
興味なかったんだろうな。
ごめん、「小国の宰相」だw
>>655 諸葛亮は自身の生活もさることながら、政治的に物凄く質素倹約嗜好
諸葛亮は政治的には非常に倹約というか能率・軍事主義だったが、
自分や他の臣下の私生活をあれこれ問題にしたりはしてないし、
特別に倹約家だったという評もないよ
諸葛亮は「私は成都に桑800株、薄田15頃(けい)を持っています。
これだけあれば子弟の衣食には事欠きませんし、この他に財産をたくわえて陛下の負託にそむくようなことはありません。」
と生前に劉禅に上奏していて、それで諸葛亮没後に実際に財産を調べたら、本当にその通りだったという話がなかったっけ。
宰相という立場を考えれば、十分に質素倹約家だったという感じがする。
史書に質素倹約が美点として書かれるのは
人に施しして死後財産が残らなかったとか
家では妻子が貧窮していたとかいうレベル
>>660 その位じゃないと、北伐続けれないでしょ。
贅沢してたら何言われるかワカラン。
663 :
世界@名無史さん:2009/01/13(火) 08:49:27 0
諸葛亮の陳創攻撃は陳式の武都・陰平の攻撃の支援作戦と書いてある本が
あるけど本当ですか?
正史の『三国志』を読む限りは別の作戦のように感じます・・・・・・・・・
>>663 二つの作戦の間が1ヶ月程度
万単位の軍が1ヶ月で別々の作戦をやってるって言うならそれはそれでいいだろうさ
陳創戦の方が陽動作戦だったのかな?
魏には重要地区ではないが、武都・陰平2郡を奪取したわけだし。
666 :
世界@名無史さん:2009/01/13(火) 18:12:34 0
俺には諸葛亮が丞相に復帰するための二郡平定戦だったように思う。
魏もあっさり放棄したし。
いや多分どちらも本命
ただ曹真による陳倉整備とカク昭の驚異的な粘りで陳倉が落ちなかったから陳倉を煙幕にして二郡を簡単に切り取ったんだろう
魏はこの二郡攻略に全く対応できてない
あっさり手放したというより、攻略に掛かっているという事実に気付きさえしてなかった可能性がある
陳倉が取れれば、武都攻略を急ぐ必要は無かった。
一次二次の北伐が失敗して魏が対蜀の戦争体制に入り
秦嶺山脈の北を魏が自由に通行できる状況だからこそ、
迂回侵攻のルートである武都を急いで固めなければならなかった。
どちらが陽動と言う訳でもない。相補的な関係だろうね。
669 :
世界@名無史さん:2009/01/13(火) 19:06:40 0
どちらかというと、メインは陳倉の方だろうな。
蜀軍の総帥である諸葛亮が指揮した作戦だし。
ただ、他の戦いでもそうなんだが、城攻めは成功する確率は低いんだよね。
諸葛亮もある程度は兵糧の期日内に陥落させられないのは想定内だったかも。
だからといって武都・陰平攻略戦も重要でないというわけでもない。
二段構えの作戦と考えるのがやはり妥当か。
>>667 諸葛亮の軍事的才能はかなり高い。
確かに辺境の郡ではあるけど、二郡も奪い取るなんて三国鼎立後は珍しい
ケースだ。
考えてみれば、演義の異常な奇才ぶりのイメージが無ければ
諸葛亮はそうとうな軍事的才能だとわかるよ。馬謖の失敗が無ければ
天水など3郡は平定してたし、武都・陰平の二軍は平定、231年の
北伐では野戦で司馬懿を撃破、撤退時には名将張コウを討ち取っている。
奇策が無いから軍事的才能が無いという意味ではない。
>>671 でもな、撤退時に敵将討ち取るなんて、奇策中の奇策だと思うぞ。
そんな例はしょっちゅうないし。ないから奇策、つか奇略だと思う。
諸葛亮は陳倉戦でも追撃の将王双を討ち取っている。
司馬懿が「奇才なり」と言ったのも頷ける。
戦果を見れば当時としては最高クラスの戦歴だよ。
674 :
世界@名無史さん:2009/01/13(火) 21:09:17 0
諸葛亮の戦歴は益州攻略時に張飛や趙雲と共に各地を平定、
丞相になってからは南方を平定、北伐では武都・陰平を平定し、
知謀の司馬懿を野戦で撃破、名将張コウを討ち死にさせている。
確かにかなりの戦歴だな。馬謖の抜擢は痛恨の極みだが、大損害
も受けてない。公平に考えれば相当な軍略の持ち主と考えるのが普通だ。
675 :
世界@名無史さん:2009/01/14(水) 00:59:24 O
>>諸葛亮の戦歴は益州攻略時に張飛や趙雲と共に各地を平定、
丞相になってからは南方を平定、北伐では武都・陰平を平定し、
知謀の司馬懿を野戦で撃破、名将張コウを討ち死にさせている。
孔明先生は大好きだが、この程度の戦歴だと中国史全体の中では、二流戦術家と呼ばれても仕方ない気がしてくる
676 :
世界@名無史さん:2009/01/14(水) 01:04:50 0
3郡をはじめに奪えたのは当事魏が蜀をなめきってたからだろ
戦果という点では一寸の領土も取れず無いに等しい
戦績で見ると麹義の方がはるかに輝かしい
趙雲は第一次北伐後は何処に駐屯してたのですか?
>>675 それで二流なら他の時代に手を出し始めたばかりの人が陥りやすい、
三国志に人はいないみたいなことになってしまうぞ。
曹操らと一緒で、超一流ではないが一流ってレベルじゃないかと。
同時代の戦績でみても諸葛亮は上位にくいこまないのになんで一流になるんだか
三者鼎立(三国ではない)以後、蜀滅亡戦以前に
郡以上の規模で他の二国の領土を切り取って永続化させたのは
確かに呂蒙、司馬懿、諸葛亮だけではある
三国志時代には人がいないと言われる所以だな
>>684 逆に聞くが、四川政権で諸葛亮が為した以上のことやれた政権あるいは指導者あるの?
687 :
世界@名無史さん:2009/01/14(水) 21:31:15 O
漢の高祖を知らない白痴がいると聞いて飛んできますた
劉邦は四川に入ってないよ
689 :
世界@名無史さん:2009/01/14(水) 21:44:50 0
孔明オタの特徴
成功は孔明の能力、失敗は部下の手落ち
>>687 項羽の封建的な体制と魏を一緒にしているとは…
>>686 毛沢東なら一流ですな。ただし日本軍がめちゃめちゃにしてたところだけど…
>>688 本人は漢中までしか行ってないけど蜀も版図でしょ
692 :
世界@名無史さん:2009/01/14(水) 22:02:14 O
>>688 史記に巴 蜀 漢中に封じて漢王とするって書いてあるだろ……
実際、成都に根付いた軍閥と、望郷の念が強く封土されて間もない軍閥とではねぇ。
694 :
世界@名無史さん:2009/01/14(水) 22:11:22 O
>>693 なるほど、どうりで晩年の諸葛亮の北伐は形式化していたのですね!
危険を冒して漢中を真北に越える五次北伐のどこが形式化なんだろうか
三戦情報かな?
>>693 桟道を焼き払った軍閥と、子午道などが整備された後の時代の軍閥とではねぇ。
子午道の整備が維持されてたんなら、
魏延が兵站持たずに糧食携帯して奇襲とか言わないよ
桟道を云々言うのは一次北伐で撤退するときに趙雲が焼き払い、
その後修復したりしてるのであまり意味が無い
むしろ比較すべき問題は、蜀漢は魏の本隊を相手にしたが
劉邦は別に項羽の本隊を相手に関中を取ったわけではないということだろう
それでも勿論、秦嶺山脈を越えて関中を取った劉邦と韓信の手腕は
中華の戦史上に特筆されるものであり、諸葛亮が及ぶところではない
というのは確かだろうがね
韓信に諸葛亮が及ぶ、とか言ってるヤツがいたら見たいもんだがね。
大したことないって言ってるほうが多いのじゃないか?
まあ、劉邦の時は肝心な三秦王が秦人から恨み骨髄だったというアドバンテージがあったんだけどね
でも、完全に平定もしないうちから関東に攻め入ってるのでやっぱ凄ェ!
諸葛亮が軍事にも長じていた、と論じていると、
成功した韓信に比べれば大したことないんだよ! 及ぶと思ってんのか!
などと拡大解釈して責め立てる「反論」はよくあるよ
関中を平定して趙や斉を占領して項羽を破って、劉邦に疑われて反乱した後は匈奴に逃げて匈奴でも将軍になって戦ったなんていう怪物に諸葛亮が及ぶと思ってんのか!
諸葛亮は、そのあたりの将軍とかよりは一段上で評価されたないかい?
軍才で、というよりも宰相としてだから、上になるのだけど。
韓信は、白起、衛青らと同列によくあげられる。将軍だからね。
704 :
世界@名無史さん:2009/01/14(水) 23:24:22 0
>匈奴に逃げて匈奴でも将軍になって戦った
誰?韓信じゃ無いし。。。
ろわんのことかな?
706 :
世界@名無史さん:2009/01/15(木) 00:00:12 0
>>702 韓王信とごっちゃにしてるな、まぁ韓王信も軍事能力の高さから劉邦に疑われ匈奴に逃げたが
ところで韓信が宦官だったと言ううわさは本当なのですか?
708 :
世界@名無史さん:2009/01/15(木) 00:07:13 0
>>707 知らん、ほとんど浪人の身分で乱世まであちこちの世話なってたというのが一般だろ
709 :
世界@名無史さん:2009/01/15(木) 00:08:12 O
諸葛亮が超人的な才能で蜀を運営していたことは間違いないが、切り取った領土から見ても軍事面では一流でないことは確かだろう
時勢に恵まれることまで入れて英雄・一流だろう
711 :
世界@名無史さん:2009/01/15(木) 00:11:46 0
>>708 なんかそういう有名なエピソードが有るときいたのですが、ちがうのかもしれません。
>>711 オレも聞いた事がある。その逸話。詳しくは知らないのだけどたしか「韓信のたまくくり」って言うんでは無かったっけ?
714 :
世界@名無史さん:2009/01/15(木) 00:20:13 O
たwwwwwwまwwwwwwくwwwwwくwwwwwwwりwwwwww
715 :
世界@名無史さん:2009/01/15(木) 00:23:09 0
ごろつきの劉邦を旗揚げさせ、韓信の才能を見抜き劉邦に全軍の進退をさせるように説き、韓信が反乱起こす前に呼び寄せ謀殺し、劉邦の度重なる疑いから逃げ切った蕭何が最強
>>710 アホか。
そんな視点で見たいなら三戦におひきとりください。
せめて同世代で語れ。
どうせ、史記(楚漢が主)と三国志くらいしか引き出しに入っていないのだろう?
>>710はおかしいことを言ってるかな?
むしろ当時の人物が置かれた時勢や境遇を考慮に入れずに
歴史的評価を下す考えのほうが「三戦板へお帰りください」だと思うが
>>717 つまり、天下を取れなかった時点で三国時代の人間は全員二流以下と言いたいわけだな
>>むしろ当時の人物が置かれた時勢や境遇を考慮に入れ
て評価してると、あの人とか一流になっちゃうしね。
中国をひとつの統一体制で仕切ることになった原動力と
分立した原動力と、それぞれ考えないといけないんじゃないの?
天下取る=問答無用で偉い、という発想では、ゲームのクリア条件満たす
発想とそう変わらないように見えて、ちょっとちょっとと言いたくなる。
>>698 曹真も子午道から蜀侵攻を計画・実行して、結局長雨で谷の中に長期間
留まることを余儀なくされて撤退した。やはり魏延が提案したという奇襲作戦
はかなり危険な策だよ。
全てが都合良く展開してくれないと成功しないだろうな。
少なくとも、確実に天候にめぐまれること、長安の守将が逃げ出してくれるのは
最低条件。天候が悪くて進軍が遅れれば即アウトだし、守将が頑張って籠城したら
やはりアウト。また、蜀軍本隊の進軍に支障が出た場合でも、奇襲部隊は壊滅の
危険性大。やはり作戦にかなり無理がある。
司馬炎さいきょおおおぉぉおおお!!?
いや。普通に曹操でしょう。最強は。
>>722 閨房にありて精を放ち、王朝崩壊の遠因をなす。
そのことにおいて最強なり。
最凶でしょう。
孟達は新城太守…ああ、この時孟達はまだ魏に属していたわけだから、
「蜀から切り取った」とは言えないか?
まあこれを含めて考えても、主力同士の会戦の末に国境が動いたことが
蜀滅亡の時まで一度も無いのが面白いね。
政治経済的に攻撃側に著しく不利な時代だったこと、
戦場に於いては三国の戦力がかなり拮抗していたことが分かる例だろう。
地理的なことと、それぞれが立脚した国の大義なども。
ただし、その大義を失ったときの崩壊速度はすさまじいものだが。
分裂期と混乱期とでは、やはり根本的に違うんだよな。
729 :
世界@名無史さん:2009/01/16(金) 06:25:40 0
だから諸葛亮の軍事的才能は高いと言ったジャン。
先に有利な地形を占拠できる防衛側が圧倒的有利なのさ。
司馬懿や陸遜でさえも辺境以外は寸土も奪えていない。
特に大国魏は少々局地戦で敗れても領土が奪われることなんて
なかった。野戦で司馬懿を破り、張コウを討ち取るなんてことは
は相当な軍略がないと不可能。
大局に影響は無かったけどな。
北伐で先に有利な地形を占める立場にあったのはいつも蜀漢軍の方だけどね
「軍事的才能」なんて適当な言葉でまとめんでくれよ
732 :
世界@名無史さん:2009/01/16(金) 12:49:15 O
武陰の二郡をとって益はあったの?
隴西侵攻へ橋頭堡として使われている
魏の南進ルートを一つ潰すことが出来た
テイ族の居留地として地誌に記される場所であり以後戸籍化を進めている
734 :
世界@名無史さん:2009/01/16(金) 20:54:11 0
司馬懿も遼東以外では大した戦果はないな・・・・
小国の軍隊率いて司馬懿や張コウと戦った諸葛亮は凄いよ。
>728
人材も三国に上手くばらけたよな。
確かに魏が人材の面でも一番豊富であったが、蜀や呉にも
国家を支えるに足る人材がいた。蜀も諸葛亮が死去しても、
蒋エン、費イといった宰相を務められる人材がまだいた。
呉も賢臣が多くいたし、孫皓という暴君の時代でも陸抗がいた。
蜀・呉とも人材が払底したとたん崩壊が加速した。やはり人は石垣、
人は城なんだね。
『水経注』は本屋で売ってないかな?
あんまり高いと手がでない。金がないからな・・・・・・・
それなりに『三国志』関連の記述があるみたいなので読みたい。
大学生の時に校内の生協でちくま学芸文庫の『正史三国志』全八巻購入した。
いまでも大切に本棚に置いたあるよ。時々読み返したりしている。
739 :
董卓:2009/01/19(月) 17:35:57 0
基本ここに書き込むしてる人ってちくま正史読破した?
正直、読み飛ばし、斜め読みのところも多いよ。
741 :
世界@名無史さん:2009/01/19(月) 19:40:54 0
王平は10字くらいしか知らなかったというけど、
伝記の中で事務をとりさばいたという記述があるけど、読み書きできないで
何をやってたのだろう?
筆記する部下が側にいたんじゃね?
743 :
世界@名無史さん:2009/01/19(月) 20:04:25 0
王平の知っていた十文字って何だったんだろう?
おそらく飯、寝、風呂、酒。。こんなとこかな?
744 :
世界@名無史さん:2009/01/19(月) 20:09:02 0
王・平・子・均の四文字は確定だよ。
何せ自分の姓名字だから。あと6文字は何かだよ。
漢、皇、帝も有力かな。あと自分が辿ってきた官位とか
劉も知ってるだろ。
747 :
世界@名無史さん:2009/01/19(月) 20:18:45 0
官位だと鎮・北・大・将・軍の五文字。
名前と官位で9文字。実際は10文字以上は知ってただろう。
748 :
世界@名無史さん:2009/01/19(月) 20:24:20 0
>>742 それは間違いなくいたね。
書物なんかも読ませてそうだし。
文書も口述筆記させてたという記述がなかったけ?
愛。この一文字さえ知っていればよいのです。
なんてね。
普通なら文字も知らない無学な人は、あんなに大出世しないよな。
魏に残ってたら歴史に名を残すことも無かったし、馬謖の命令無視に
よる敗戦が無ければ、後年の大出世も無かったかも。
王平の軍人としての能力が高いのはもちろんだが、
やっぱ巡り合わせは大事だね。評の通り、必要とされる時代に遭遇
したんだ。
>>750 文字は読めないが書物は他人に音読させてたっつーの
752 :
世界@名無史さん:2009/01/19(月) 21:28:27 0
耳学問でもトップを掴める!ってことだね!
劉裕や朱全忠という後代の英雄が
>>731 本来なら地の利は防御側にあるのが普通なのに、それを逆転して上回る状況を作り出す。
これが軍略の賜物でないならなんだというのかね?
親の名前ぐらいじゃない?残りは
元の姓である可は知ってただろうな。
不毛だな
実際に十文字しか知らなかったわけじゃなく、
それくらい知らなかったって表現なんじゃないのって気はする
そこは万人敵と同じ感じだな。
つまり、十常侍は・・・
続・12人いる!東の長安 西の洛陽
762 :
世界@名無史さん:2009/01/21(水) 09:41:57 O
四天王だって五人いるものだしな
763 :
世界@名無史さん:2009/01/22(木) 06:59:56 0
王平伝読んでいると、
純粋な戦功では関張馬黄趙の五将軍よりも上でねぇ?
764 :
世界@名無史さん:2009/01/22(木) 09:59:04 0
関羽の戦功は劉備が荊州獲得以前のもの。
荊州失陥という失態もしているので、かなりマイナスイメージ。
どちらかというと戦功では張飛の方が上か?
馬超は劉備に帰順した後の戦功は少ない。
あくまでも対外宣伝用の厚遇という感じ。許靖の厚遇と同質か?
黄忠は入蜀時と夏侯淵を討ち取るという大殊勲を上げているから
文句なし。趙雲は劉禅を救った功績はあったが、劉備最晩年でないと
劉禅が後継に決定していなかった関係か、劉禅即位後に評価された
感じか。『趙雲別伝』の記述の信憑性は如何に?
王平は馬謖敗退時に敗軍をよく収容したし、名将張コウの攻撃を撃退。
諸葛亮逝去直後の魏延の反乱で、王平の一喝で魏延配下の兵士は四散、
曹爽の蜀への侵攻も、素早く的確な判断で撃退。確かに戦功と軍人とし
ての能力は諡号追贈の五将軍よりも上回っているかもしれない。
ただ、関羽・張飛・趙雲は劉備が流浪時代から仕え、最も
苦しい時代を支えてきたという忠義・功績は王平の及ぶところ
ではない。
はっきりと上下や優劣をつけられるものでもないと思うが、
さほど遜色ないとは思うな
ただ記録として残ってる戦歴がほぼ防衛戦や守勢というところは面白い
「正史に載ってる戦功」だけで比較すると確かに王平のが上かも
関羽、張飛は流浪時代の功績がほとんど載ってない分ちょっと損な気もするが
群雄時代の功績を含めれば王平より馬超のがぶっちぎりの一位だな
馬超の群雄時代は事跡であって、
蜀漢と劉家への功績ではない。それに、結局は一族の多くを殺害されて、
敗走したことを考えると、陳寿の評の通りで、寿命を全うできた分は
関羽や張飛よりもマシというのが妥当な評価。
劉備流浪時代の家臣は生き延びただけでも凄いとも言える。
その中でも中原で武勇を賞賛された関羽・張飛やっぱ凄いのでは?
>>765 三国鼎立後は守備側が最終的に攻撃側を撤退に追い込むというパターンだから
仕方ないよ。局地戦では攻撃側が勝つケースもあるけど、大勢に影響が出ていない。
771 :
世界@名無史さん:2009/01/24(土) 05:36:30 O
それにしても陳到は何故伝記が無いのだろ?
趙雲伝に付載してやってもよかったのにね。
陳寿に史的流れを構築する上で不要だと思われたからでしょ
774 :
世界@名無史さん:2009/01/24(土) 12:45:30 0
それだけ資料が少なかったんだろう
陳到は劉備が予州時代から随従してたんだっけ?
『三国志』の注釈にすら陳到の記述はない。
まあ、劉備流浪時代から使えていたというだけで、さほどの戦功・功績は
無かったと考えるのが妥当だろう。
第一次北伐では趙雲、魏延、呉壱といった勇将が参加したが、
陳到は呉に備えた留守役で、李厳の指揮下に置かれている。当時呉は劉備
時代より遥かに友好関係にあり、それほど重要度が高くない役割だと
言える。どうしても北伐に必要な軍指揮官ではなかったし、李厳や尚寵
のような留守の軍事の要でもなかった。
『季漢輔臣賛』で趙雲に次ぐという記述があるが、あくまでも劉備流浪
時代の中では趙雲に次ぐ存在というだけで、蜀漢建国後の相対的な評価と
は違うように思う。後に諡号追贈があった趙雲とはだいぶ評価・名声は
ちがったと考えるべきだろう。
>さほどの戦功・功績は
「紀伝体の史書に残すほどの戦功・功績は」
ね。
季漢輔臣賛の書き方を見る限り、
陳到への評価は蜀漢建国後、諸葛亮時代の武臣として「趙雲に次ぐ」だろうし、
実際それに相応しい地位と要地を任されている。
呉との関係が良好だから要度が高くないとしたら、
江州を守った李厳・トウ芝・羅憲や
呉の西陵に駐屯した陸遜は閑職ってことになってしまうから。
武臣としては趙雲・魏延の両将に次ぐくらいの待遇という感じかな?
李厳は諸葛亮の副、呉壱は劉備の外戚。呉壱もそんなに極端に優遇されていた
という感じではないな。
趙雲>>>魏延>>>>>>チントウ>>その他
だから3番目の待遇を得られたのが真実。
劉備時代は趙雲よりも魏延が優遇されてた感じがするな。
劉備が帝位に昇ると魏延は鎮北将軍になっている。趙雲が征南将軍に
なるのは後主が皇帝になってから。ハッキリした時期は書いてないが、
諸葛亮の南征が終わった前後あたりに、趙雲は鎮東将軍に昇進している。
短期間に魏延と同等の地位になっている。
一方の魏延は230年まで昇進はない。
漢中総督の地位も、諸葛亮が漢中に常駐することによって実質奪われている。
名位は上がっても実権は奪われている感じだ。
一度でいいから劉禅に焦点を当てた小説が読みたい
今の評価だとちょっと不憫な気がするからw
無事これ名馬です。
『蜀志』張嶷伝を読んでたら、注釈に貧しい家の出身だと書いてあったな。
注釈の出典も陳寿の著作。前に兵隊上がりがどうかという論議があったが、
張嶷は兵隊上がりとみなして良いのでは?
本伝にも病気になった時に他人に病気を治してくれるように頼み、頼まれた
人が財を傾けて治療してくれたとある。どうみても豪族出身なんかではないぞ。
後漢はまだ貴族制が定着した時代ではなかった。
貧しい出身でも学問を身に付け認められれば「士」と認められる。
当代の名士達のうち、ヘイ原、管寧、常林、崔林、吾粲などは若いころ
貧窮していた。
士人階級というのものの出身身分は様々で、
豪族、官僚の子弟、爵を持つ者もいればいわゆる寒門の者もいた。
元は名家でも簡単に貧窮し得るし 一、二代で成り上がった家もある。
関羽や呂蒙のように成人してから学問を始めた人間もいる。
豪族出身かどうかは出世に非常に有利ではあるが本質的には関係無い。
兵隊上がりという言葉は史書には無いが、武人とか兵子という語は、
普通、学問や名声なくして武勲だけで昇進した者を言うのだろう。
県吏から太守になっている張嶷は前者に属する。
張嶷は親分肌だったらしいね。
服属しない異民族の長たちを宴会にかこつけて呼び寄せて処刑、だっけ?
わりとえげつない?こともしておられる。
山賊をだまし討ちしても悪ではないだろ。
異民族には結構慕われていたし、見識の高い将軍でもあった。
蜀の良将の1人だ。
>>781 猜疑心が強くなかった以外は皇帝としての資質は凡庸としか言いようがなでしょ。
ただ、諸葛亮・蒋エン・費イを疑わず信任していたし、口うるさい董允でさえも左遷はして
いない。こういったところは賢臣を死に追いやり、二宮の変を生み出した晩年の孫権よりも
ましな気がする。蜀は孫権の晩年から滅亡直前の呉のような凄惨な事件はあまりないのであ
る。
滅亡直前の蜀は黄皓の政治への容喙よりも、姜維の戦果の無い遠征の方が大問題であった感じ
がする。どちらかというと戦争による経済的疲弊の方が滅亡が最大の要因。
斉の桓公っぽい印象があるな。
良くも悪くも臣下の人間次第。
運が良かったのが斉桓、悪かったのが後主、みたいな。
全然ちげぇ
斉桓公は父親の代で周辺諸国を圧倒する国力があった状態で、
それを管夷吾に上手く運用させて覇を唱えられた
周辺諸国に圧倒されてる蜀とは事情がちょっと違う
国力とか状況とかが全然違うのは分かるよ。
ただ、その辺も全部ひっくるめて運が良かった悪かったって言ったつもり。
で、全部任せた家臣次第ってあたりが本人の資質が似てるなと感じるってだけ。
斉桓はうまく運用した、というには最後がアレだしな。
劉禅も運は悪くはないだろ。
諸葛亮を初め賢臣は結構いたんだから。
長い在位の期間にそれらの人材が先に世を去っただけのこと。
793 :
世界@名無史さん:2009/01/26(月) 19:21:16 0
国の最高権力者だからこそ、出来る事ってのが有る様に思う。
劉禅が積極的な人間だったら魏、呉を伐ち従えていたかも。
しかし「そうせい候」だったからこそあそこまで蜀が永らえたともいえるね。
稀代の傑物だったとしても蜀による統一は無いでしょ。
地の利、時の利がそれを許さないよ。
後を見ても蜀呉には荷が重過ぎる。
姜維が守成方針だったら、
もう少し長く蜀が存続した可能性は無いだろうか?
姜維「守成、守成って。。おれに陳到に成れというのか!?」
まあ姜維が263年の時点で漢中にいたら守備兵力も充実していたし、
隴西出兵中に分断されることもなかったので、
その侵攻は防ぎ通した可能性はある。
…が、蜀漢が263年まで持ち堪えたのは、費イ・姜維の20年近くに渡る
隴西切断戦略の賜物だと見方もできるので、難しい話だね。
姜維が本当に引き篭もっていたら郭淮はもっと早く簡単に隴西を平定して
上ケイ・天水付近を中心に兵站を確保し、
漢中を迂回する進入路を整えてしまっていただろうから。
>>796 陳到「私も北伐に参加したかった・・・」
姜維「いや俺がやるよ!」
陳祗、諸葛瞻「どーぞどーぞ」
800 :
世界@名無史さん:2009/01/27(火) 21:26:27 0
姜維の人生、なんと華々しきことよ。
可否は別として。
確かに蜀の華ではある。
ただ、宰相としては能力不足だし、諸葛亮と同じことするのは
自身の才能を超過信したといってよい。
>>797 兵力不足で新防衛システムも機能してなかった感じだよな。
803 :
世界@名無史さん:2009/01/28(水) 20:59:53 0
「大恐慌戦略」
現在、進んでいる金融危機や大恐慌による世界経済の破壊戦略に
ついてです。このやり方、実は三国史に描かれている【赤壁の戦い】で
曹操が見事、ホウ統の計に引っ掛かった【連環の計】現代版です。
つまり、現代の連環の輪は、金融システムと実体経済のグローバル化で、
非常に強固に世界金融と実体経済システムが結ばれてしまったのです。
このように、強固に結ばれた各国の金融と実体経済のシステムは、瞬時に
各国の金融と実体経済に連動するよう構築されていました。そこへ、サブ
プライム問題という最初の小さな爆弾の破裂です。
その時に気づいておればよかったのでしょうけれど、巧妙に張り巡ら
された罠は、皆をしてそうはさせてくれませんでした。これによって、各所に
仕組まれた爆薬は次々と爆発、炎上ー不動産、クレジット、債券、株式、
商業用不動産証券・・ などの金融資産は炎上し、火の手は早く世界中で
繋がれた船(金融会社)はどんどん炎上。物を作る会社(船)が次々炎上、
川底へ沈没して行くでしょう。最後にはCDSの破裂が待っている。
残念ながら今までの動きをみると、この現代の連環の計は、全てを焼き
尽くす位の大きさの爆薬の準備と、火の回りの速さを持っているようです。
用意周到に準備されたこの連環の計から、逃れる術はない。
今できることは、いち早く逃げるのみでしょうか。大被害を覚悟の退却。
曹操はいち早く身の危険を感じ取り、単身逃げ延びて助かりました。
被害状況があまりに大きいために茫然自失し、また火の回りが早く、
逃げ遅れ川底に沈んだ兵士がほとんどでした。・・しかし曹操は賢かった。
今は、皆が逃げないよう、甘言や甘い(オバマ)を希望をチラつかせ、
船から離れないようにしていると感じます。・・
うふふふふw
807 :
世界@名無史さん:2009/01/31(土) 11:44:13 0
>>797 兵站といっても剣閣に抜けずにいた魏軍は一時は撤退を相談する
くらいだった。蜀の経済的疲弊無く、頑強に抵抗されたら幾らか兵站の
目処が立ったところで、撃退された可能性が高い。
ようは防衛ラインを後退させなくてはいけない程経済・人的疲弊が大きかった
こと、大将軍・姜維が軍隊を率いて外地に待避しなくてはいけない、政治の不穏さ
などが重なった為の滅亡。
808 :
世界@名無史さん:2009/02/01(日) 19:03:42 0
>>793 在位が長いとボロが出てくるよ。
孫権なんかも、晩年はとても賢能の臣を使いこなした若い頃の面影はない。
残虐度から言えば劉禅よりも遥かに上。孫権の代で呉が滅亡しなかったから
後世にそれ程悪評が残らなかっただけ。
劉禅は宦官に惑わされ、亡国の君主になったが、
孫権みたいな深刻な国内対立は生み出さなかった。
費イが生きている頃までに崩御していれば、後世の悪評は
無かったと思う。
黄皓は陳寿にはえらい嫌われてるが、悪政を敷いたわけでもないんだよな
寧ろ、ちっとも戦果が挙げられずいたずらに国力を消耗する武闘派達を
抑制しようと腐心して(結果抑制しすぎて)結局その行為が亡国に繋がってしまった気がする
810 :
世界@名無史さん:2009/02/02(月) 07:06:31 0
>>809 魏軍が侵攻する気配があるという姜維の報告を握りつぶしたり
するのは立派な害悪。結局は魏の侵攻への対応の遅れは致命的になったし。
それと、劉禅を遊びに誘うようなことをしたのは、やはり邪としか言いようが
無い。
姜維の外征に反対したのは諸葛瞻等で、黄皓は親しかった閻宇に軍権を握らせる
程度しか考えていなかっただろう。問題は外征に反対なのはよいが、邪な人間を
利用して外征阻止をしなくてはいけなかった点。これは政治が腐っている証拠。
>>810 帝を不安にさせないように、ただただそれだけだったんです><
人間て長い年月を経ると人格も能力も随分と変ってしまうものなんだなって思う
せめて当人が能力の低下を自覚できればかなりマシなんだけれど
>>810 あれだけとりつかれたように外征する人間が言ってることだからねぇ。
政敵でもあるし、黄皓の側としては信用し難かったのもあったんじゃないの。
催促が続いて「そういう手で来たか。」と思ったとすれば無理はないし。
握りつぶすのは論外だと思うよ。
判断するのは皇帝と大臣達なんだから。
黄皓が判断すべきことではない。
中常侍の黄皓に上言を握り潰す権限は無かったと思うよ。
おそらく尚書経由で昇ってきた姜維の上言を、劉禅はまず黄皓に相談した。
黄皓は巫の言葉を信じて「魏は来ない」(姜維の上言は誤りまたは虚偽)と判断して
その報告を「寝かせて」おくようにと進言した。
皇帝への上言は秘事に当たるため、劉禅からの諮問が無かった群臣は
鍾会が関中で出兵準備をしていることを長らく知らず、
攻撃が現実の段階になって初めて知った、ということじゃないかな。
権限通りの運営がされていればの話しだな。
実際は法律上の権限以上のことをしてたから問題だったんだろう。
単なる取り次ぎ役でも、取り次がなければ握りつぶすのとかわらない。
黄皓が法定以上の権限を行使したり、奢侈をしたという話は無いんだよな
中常侍というのは皇帝の最も傍に侍り庶事を掌る職だから、
出入りする情報に対して好みの解釈を皇帝に提示し、助言することが出来る。
それだけでも強い力を持ちえるし、その解釈が姜維や陳寿などにとって
好ましくないものだったから「問題」視され佞臣呼ばわりされたのだろう。
つまり皇帝専属の秘書ですか?
巫の話しを信じて国家を滅亡させたら、
それは佞臣でよしょう。
国を滅ぼすものは敵国でもなく一人の佞臣でもない。
それは党争である。
古代ギリシアのアテネしかり、後漢末しかり。
そして蜀漢の末期もそうであったろう。
黄皓が、後主が。という前に派閥争いが原因だろう。
今の日本もそうだけどね。
巫の話しを信じるって当時じゃそんなに珍しい事でも無いような・・・
中常侍は家令とか執事という方が近いのかな
秘書というと尚書や中書が近いか
宮廷には多くの人員と複雑な儀礼や禁制があって、
仕事と場所によって多くの秘書や顧問を抱えている。
中常侍は後宮の衆事を補導し、顧問・応対・給事を担う。らしい。
>>819 そうだね。それは黄皓の大きな過失であり、
蜀滅亡に至る過ちを犯した代表的な人間の一人だとは言えるだろうね。
>>820 蜀にも派閥争いはあっただろう。
ただ、呉みたいな凄惨な争いでは無かったんだよな。
荊州出身者が優遇されたというが、諸葛亮・蒋エン・費イ
の三代の宰相の時代はさほど派閥争いは無かった。
姜維の時代も、益無き遠征が問題視されたのであって、
涼州出身の姜維が冷遇されていたわけでもない。姜維の外征
が問題視され始めたのは段谷の敗戦以降だろう。
蜀にも派閥争いはあっただろう。
ただ、国を傾ける程の抗争は存在しなかった。
黄皓に発言権を与え台頭を許したのは誰なのだろう。
台頭を許したのは、というならそりゃ劉禅だよ。人事権は劉禅にあるんだから。
初任官の頃は適当に推薦読み流して任命したかもしれないけど、
董允死後の高官への出世は劉禅の覚えがめでたくなければ昇進できない。
国を傾けるほどの派閥争いにならなかったのは劉禅の功績でもあるんじゃないか?
正直呉なんか完全にコントロールが不能になって粛清の嵐になってわけだし
賢明で公平な宰相に政治を任せたのは劉禅の功績とも言える・・・・
828 :
世界@名無史さん:2009/02/03(火) 09:06:38 0
派閥闘争を生み出さなかったのは、
公平な政治を心がけた諸葛亮・蒋エン・費イの功績の方が大きいよ。
ま、彼らに任せた劉禅の功績も結果的にはあるな。
孫権にいたっては自ら生みだし、
殺戮までやってしまった。それにしても、
孫権はわざわざ争いがおこるようなことをしてしまったのだろ?
暴走する権力者を見て庶民は「馬鹿なことを…」と思うものだけど、
人間は環境によって相当変ってしまうってことじゃないのかな
自分も権力持ったら好き勝手やるのかもしれない
にしても孫権の老害ぶりは酷いけど
つーか老いってのは
絶対権力者にとっては
そうとうな恐怖なんじゃねぃの?
自分が間も無く死ぬことが確定していて
自己の権力でどう足掻いてもままならない
権力者であればあるほど
当人の資質を歪めてしまうのでは
>>829 孫権の場合は若い頃に抑圧があったからその反動が多分に含まれてると思うw
832 :
世界@名無史さん:2009/02/03(火) 17:04:01 0
有能な家臣さえいれば晩年の孫権よりも劉禅の方が国は安定するだろう。
蜀にとって不幸だったのは、費イが突然殺されてしまったこと。後継者が
育成・指名されないで姜維に軍権が渡り、成果無き外征が繰り返された。
晩年の孫権は有能な家臣も多々存在したのに、自ら失政で派閥抗争を
発生させた。しかもその裁きと後始末はお粗末な限り。
それでも蜀の方が短命だったのは、国力の問題なのかねえ
国力の差なのか、揚子江と嶮の差なのか、
そうなるのがパターンですね。
魏は水軍の戦いにアレルギーがあったからでは?
鼎立時代は魏には有力な水軍は無かっただろうし。
陸戦で戦える蜀を滅ぼし、益州で水軍を編成・訓練してから
呉を討伐する。
もし曹操が荊州を占領した後、呉に攻撃をすぐにはかけず、
益州を奪っていたら、天下統一も曹操存命中に可能だったかも。
しかし征伐の回数は対呉の方が多いだろうな
単純に展開できる兵力も荊豫揚戦線が圧倒的に大きいだろうし。
837 :
世界@名無史さん:2009/02/05(木) 19:44:07 0
蜀が荊州を保持を続けるには、
関羽以外は誰が適任だっただろう?
諸葛亮以外には荊州で軍事・外交の双方をこなせる人物は蜀にはいなかったのか?
またその話かよ…
関羽以外に選択肢はない。諸葛亮が残ることもありえない。
>>837 孔明はそんな事をさせる為に陣営に招いた訳じゃないしね
荊州という拠点が重要でかつ、周囲が平和ならまた話が別だったろうけどさ
>>840 諸葛亮を平和な場所に置くなんて勿体無い
諸葛亮は政府機能のど真ん中に置くのが正しい使い方だよな。
法制の構築、軍政の監督、行政執行、大軍の統率なんでもござれだ。
荊州は平和な地区じゃなかったろ。
魏・呉・蜀が争う重要地点。
215年頃の諸葛亮では権威と年齢が足りない
席次では関羽の上だったけどさ
完全に独立した指揮系統の州単位の軍権を掌握する任に付かせても
部下が言うこと聞かないよ
>>844 だからこそ三顧の礼を必要としたんだろうな。
三顧程度ではぜんぜん足りないけどね
三顧、三顧っていうけれどあの時代、それなりの人材を確保するには良くそういったことってあったのではないの?
むしろ劉備がいかにしょぼい立場であったかという事ではないかな。
偉い立場の人間が遜って「車を曲げる」のでなければ、美談にならないよ
しょぼい立場の者の腰が低いのは当たり前だから。
礼を尽くして名士を迎えるのは当時の人材招聘の基本であり、
つまりよくあったことだけど、その後、主君の死後まで多大な貢献をし
代が変わっても君臣(つまり劉禅とも)の関係を全うして死んだ例は
中国史上でも少ない。だから諸葛亮という人物は1700年も注目され続けている。
特に、託子の故事はのちのち、権臣に遺命するとき、引き合いにだされたりしているね。
…たいていは裏切られるのだがw
>>847 君主が在野の賢者をじきじきに訪うことは、その時代よくあった。
ただし、その君主一人にとっては一生に一度のこと。
だれでもかれでも何度も同じことやってたらありがたみないっしょ。
荊州時代の劉備は寸土も保有してない劉表の客人でしかない。
余程物好きでないかぎりは、進んで劉備に使えようなんて奇特な人はいない。
劉備にしてみれば、「三顧の礼」で有能な人物が家臣になってくれるのなら、
安いものだろう。曹操の侵攻が始まれば、徐庶なんてサッサと母親が掴まった
ことを理由に逃げ出している。
853 :
世界@名無史さん:2009/02/07(土) 13:10:40 0
劉備が斃死してたら美談でもなんでもなかっただろうな。
後の蜀漢建国があったころこそ光り輝いたエピソードだね。
まさに新興ベンチャー企業の株券みたいなものか。
854 :
世界@名無史さん:2009/02/07(土) 13:33:11 0
劉備があのまま新野で処刑されていたらどうだったろう。
歴史には残らなかったエピソード、または残っていたら笑い話の一つだったろう。
「劉備の三顧」= 無益な事に形式ばることの喩え。
新野時代の劉備は地元の名士や勢力とつながりを持とうと努力していたんだろうな。
諸葛亮獲得もその一環ではないだろうか?
草の根レベルではうまくいって地元民の人気があったようだ。
でも有名どころは曹操侵攻を待ちわびていたんだよな。
その当時の劉備は名士と交流して積極的に人材を集めようとしてた
劉備のいる土地に人々が集まってきて借りてた領土が手狭になった
話もあるので民にはかなり人気があったらしい。
劉備は土地を借りてる状態の客将だけど左将軍豫州牧で劉表より官位が高いわけで、ネームバリューは既に相当なものだよ
そうだよ。劉備はさすらいの貴公子だよ。
207〜208年の頃の劉備なんて名士が使える気になると思うか?
名声と才能があれば曹操か孫権あたりに仕官するよ。名ばかり官位と
皇族の末裔なんて肩書きは基盤があって初めて役に立つもの。
余程腰を低くしてお願いしないと仕官してくれない。
今風に言えば、倒産寸前の零細企業の社長がバリバリのエリートに社員
になってくださいと懇請するようなもの。
いや諸葛亮も徐庶も、能力はともかく当時全然エリートじゃないよ。
しかし劉備は劉表と親しく談論した賓客で中原の英傑だからね。
親交を求めようとする人間は普通にいただろう。
劉表から切り離しても付いていくかとなれば別だろうけど。
荊州の社交界の半分は中原の乱を避けてきた人間の集団なのだから、
207年の段階でわざわざ北へ戻ろうとした人間がそう多くいたとも思えないしね。
話し相手になるのと、
家臣になるのは違うと思う。
劉表政権が磐石なら、その客人の劉備の下で働こうとする人間が少なからずいてもおかしくないよ。
が、荊州の降伏によって、襄陽で劉備と交流があったらしき人物はほとんど歴史の表舞台から姿を消す。
徐庶のように魏で出世できた人物以外は。
劉備の手元に残ったのは、同じく起死回生を図る劉gとその他少し、という程度になってしまう。
その状況からの赤壁の大逆転によって、また人が戻ってくるわけだけど、
一貫して劉備に付いていた諸葛亮が二十代の若さで一気に頭角を現すことになるわけだ。
呉から劉備に鞍替えした奇人もいたね。
荊州でも既得権益を有していた層は曹操の下で保全しようと必死だったよ。
ホウ統、馬良、馬謖、尚朗、寥立や劉禅時代に活躍する蒋エンや劉敏
といった荊州の名士達は劉備が荊州の南部を領有してから出仕した人達だろ?
曹操から命からがら逃げてた時の劉備の家臣は関羽・張飛・趙雲などの武人と
新参の諸葛亮。絶体絶命の状況でも逃げ出さなかったからこそ、劉備は後事を
諸葛亮に全て託したのだろう。
なんか、あまりよく知られてないのかも知れんが、
陳震、魏延、トウ芝、馬良、来敏、羅憲とか、この辺りは劉備が荊州北部から連れてきた連中。
長阪の戦いで足かせになった「衆十余万」ってのはこいつらのこと。
魏延もトウ芝も義陽新野の人。だものね。
羅憲て長生きだったんだね。。
子供の足でとぼとぼ逃避行したのかな。
一部は含まれるかも知れないが、
基本的に襄陽・南陽組が加入したのも赤壁以後だろう。
劉備(と孫権)が荊州南部を奪取したことによって、
襄陽人達が曹操の傘下から大挙して離脱してきた、と史書にある。
870 :
世界@名無史さん:2009/02/07(土) 22:27:03 0
王粲とかカイ越、文聘みたいな大物は曹操のもとにいっちまったが、劉備の人気ってすごかったのな〜。
早めに劉表をぶっ殺して乗っ取りめざしてもうまくいったんではないか?
例えば、
馬良・陳震は、先主領荊州,辟為從事 だから
劉備が荊州牧を名乗ってからの招聘だとわかる。
魏延は以部曲隨先主入蜀 だから、赤壁前後の動向は判らない。
来敏は姉の夫の黄エンに付いて益州入りしており、劉備傘下になるのは益州でのこと。
ケ芝・羅憲も同じく戦乱を避けて入蜀しており、ケ芝はホウ義の知遇を得ている。
羅憲の父羅蒙は広漢太守という要人で、その流れで劉備政権下でも厚遇を受けた。
872 :
世界@名無史さん:2009/02/07(土) 22:31:38 0
赤壁後に劉備に帰順した雷緒がどこに消えたのか不思議なんだ。
雷緒の冒険はここで終わり。以後は幸せに暮らしましたとさ。めでたしめでたし。という事なのかもしれないが。
廖立なんかは赤壁直後だね。
ケ方や輔匡、馮習、張南といった連中も荊州時代の劉備に随って蜀入りしてるね
当然にというか、夷陵の戦役に加わった面子も多くは荊州時代に加わった連中で
占められてるはず
夷陵の戦死者には以外に益州人が多くないかな?
>>871 現代じゃないんだから、単身で敵国に仕官することは基本的にないよ。
そんなことしたら逃亡者か反逆者扱いされて故郷の家族が大変な目に遭う。
土地を捨てて家族ぐるみで移住してるわけ。
来敏は、そうだな。
>>872 雷諸は人を集める財力と人的魅力はあるけど、
宮仕えしたり、軍隊指揮官として能力は無かった人物かもしれない。
本人もそうなることを望まなかったというところか?
現代風に言えば長期投資家みたいなものかな?
出資はするけど経営には参加しない。
それなりに劉備には厚遇されて一生を終えたのでは?
蜀には高官になったのに伝記すら残ってない人がけっこういるかならな。
劉備の外戚だった呉壱や呉班、王平の後に漢中総督だった胡済、たびたび
名前が登場する古参の将軍陳到とかね。
史書というのはそんなもんだよ
魏も呉も史書に残すに足る事績がなければ、
卿くらいでも名前もわからない人物はごろごろしてるだろう
>>847 いや、普通は呼び出して強引に陣営に引き込むのが通例だと思う
それを下手に拒否したら殺されるだろうしね
それに感激した孔明は仕官しようと決心した訳です
通例というほど滅多にある話じゃないなあ
軍閥の力が確立してない群雄割拠期は特にね
陶謙は張紹を孝廉に推挙したにも拘らず拒絶したので投獄したが、
それは汚点として紹介されてる。そんな話が少数見られる程度。
群雄の功臣の圧倒的多数は礼を払って迎えられている。
董卓や曹操のように朝廷の権限を掴んだ場合なら強制もできて、
応じない者を処罰する法もあったみたいだけど
再三の辟召に応じない田疇に、官吏が法に則って処分すべきと進言したが、
曹操は田疇を重んじてそのままにしておいた、という話がある。
馮習という人物はぜいぶん『季漢輔臣賛』では非難されてるな。
敵を軽んじたから大敗したと。
この人が総司令官だったの?
東征直前に殺害された張飛は別にして、馬超・趙雲・魏延といった勇将は
参加していないし、諸葛亮や李厳みたいな重臣クラスも参加がない。夷陵の戦
は蜀二軍部隊みたな印象を受ける。
劉備軍の最大戦力は義勇軍時代から一貫して劉備自身だから。
魏延は漢中、諸葛亮らは成都の抑えとして既に重職にあり皇帝と共に動かせる身分ではない。
馬超はこの年に死去しているから既に病身だったかもしれない。
東征に参加した人員の多くが二軍のような印象を受けるのは、そこで敗亡してそれ以上昇進できなかったからだろう。
史書に残る事績が少ないから当時も二軍扱いだったとは言えない。
むしろ劉備直率の精鋭軍が投入されたと見た方が自然だろう。
夷陵の戦で生き残った主な人物は
尚寵、寥化、輔匡、呉班、陳式といったところだな。
付載ではあるが伝記が残ったのは尚寵と寥化。
尚寵は『出師の表』に名を残し、有能な将軍と劉備に賞賛された。
寥化は蜀滅亡まで生き残った。輔匡・呉班は伝記は無いが一応は高官
に昇進。確かに生き残った人達はそれなりに重んじられているな。
ただ、陳式は陳寿の父という俗説があるくらいで、
大きな戦いに参加した歴戦の将軍だけど生年没と官位が不明。
東征も途中までは成功してたからな。
劉備の側には作戦参謀はいなかったのかな?
夢占いの趙直は凄いよな。
魏延の非業の死や蒋エンの大出世を夢の内容から言い当ててのだから。
何十回も言ってその2回が当たった感じでしょ
郭嘉みたいに
荀攸と郭嘉って似てるね
889 :
世界@名無史さん:2009/02/11(水) 20:03:00 0
>>885 ホウ統・法正が既に亡く、
黄権も別働隊にしてしまった。
諸葛亮が嘆くのもわかるね。
890 :
世界@名無史さん:2009/02/14(土) 19:07:05 0
『太平御覧』『水経注』『華陽国志』の日本語訳本は売ってないかな?
あったら即買いするわ
まあ、訳されても15,000×3とかになるだろうけど
>>892 桁がひとつ違うよ。
間違いなく、ん十万クラスだな
水経注や華陽国志はそんな大分ではないよ。
和訳しても2、3冊で収まるだろう
そっか。それくらいなら、余裕で買えるな。
896 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 00:48:16 0
俺は金が無いから文庫本で出して欲しいよ。
さすがに文庫じゃ商売にならんだろうなあ。
898 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 06:17:56 0
『正史・三国志』の全訳・文庫版が発売されたのは感動したな。
その頃は学生だったから、大学の生協で全巻購入したよ。本棚に大切に
今でも置いてある。
899 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 07:23:10 0
馬超って徐州刺史になって赴任したのかな〜?
900 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 09:38:40 0
呉や蜀は名ばかり刺史が多いのでは?
蜀は益州一州しか支配してないので、益州以外は名ばかりでしょう。
ただ、どうも涼州刺史はその方面への出兵する根拠にはなっていた
ようだ。蜀末期の姜維降ろしの策動の中で、涼州から益州刺史にしよう
とする動きがあった。
ただ、諸葛亮は涼州刺史ではなかったけど、その方面に出兵をしてた。
丞相だと関係ないのだろうか?
遥領は待遇だけ与えられるから
考えてみると、寄生虫(ry
げふんげふん…
>>899 「典略」の記事に遺漏が無くそのまま受け取って良いのなら、赴任している。
鍾ヨウと馬超が郭援を破ったのが202年(もしかしたら203年)のことだから、
徐州は十分曹操の勢力範囲内にある。
その後諫議大夫として許都に移り(刺史の後任は臧覇だろうか)
その後馬騰の入朝と入れ替わりで部曲を率いたということになる。
特に不自然な点は無いかな。
華陽国志って東洋で出てなかった?
大学入試の時に漢文はやってけど、
さすがに読書できるレベルじゃいからなあ。
日本語訳でないと無理。
『華陽国志』『水経注』『太平御覧』の三国志関連の部分だけ
抜粋して翻訳本出したら、少しは売れそうな気もするが・・・・・・・
905 :
世界@名無史さん:2009/02/15(日) 18:37:50 0
太平御覧の訳は全国の学者が集まってやりでもしない限り無理じゃね?
『三国志集解』の日本語訳はあるのですか?
ありません
華陽国志は明徳出版社がやってるよ。
1/4ほど部分のさらに抄訳だけどね
ちなみに先主・後主志は無い
910 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 08:48:40 0
華陽国志は成の国史になる予定だったんじゃない?
『三国志集解』とは何?
そんくらいググれ
華雄は呉字で実は葉雄っていうのが本当の名前、というのが載ってる本だよ
魏延は冤罪だったんですか?
三戦で聞いてきたら?
>>914 魏延に反逆の意識は無かった。
恐らく、楊儀に対する個人的な怨恨によるものだった。
しかし、魏延のとった行動は反逆と見なされてもしかたがない行動を
取ったのは事実。自軍の撤退を妨害する行為は処罰されて当然。
謀反の意志はなくても誅殺に値する。よって冤罪とは言えない。
917 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 20:33:21 0
>>911 曹叡の父は曹丕ではない、と考証してる本だよ
何で李厳はあんなに重用されたんだ?
伝記読むとただ数が多いだけの盗賊に大勝したくらいしか功績がないように
思う。綿竹ではあっさり降伏してる。行政手腕でも何か際立って良い感じも
しない。なんで諸葛亮の副に指名されたんだ?
919 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 21:50:03 0
魏延と同じく劉備に気に入られたからじゃね?
そこそこの才能はあったんだろうし。
920 :
世界@名無史さん:2009/02/16(月) 23:01:47 0
>>918 >数が多いだけの盗賊に大勝
それが大手柄。
当時の蜀は張魯の誘引に失敗して外圧を直接受けるようになってた。
それだけでもキツイのに国内が不安定ではどうしようもない。
李厳が負けてたら益州が曹操の手に落ちることもありえた。
李厳は劉表にも仕え、劉璋の下では既に蜀県令も勤めた有力者で、
劉備に投降した時点で偏將軍だから、既に雑号將軍集団に続く第二グループに位置していた。
重要な武勲を挙げた上に法制に精通した士人であり、蜀科を制定した主要人物の一人だから
趙黄魏ら武人達を追い抜くのは時間の問題だったということだろう。
劉巴の死後尚書令として宮廷の実務決済を取り仕切る地位に至り、
劉備の死後中都護まで昇ったのは、関張や劉巴法正の死後では順当人事ということになる。
922 :
世界@名無史さん:2009/02/17(火) 02:22:58 0
蜀科制定の中心人物の古参の伊籍があんまり重用されていない件
古参じゃないだろ
伊籍は生年没不詳だね。
>>904 >大学入試の時に漢文はやってけど、
>さすがに読書できるレベルじゃいからなあ。
そりゃそうだろw
古い時代の漢文なら意外と分かるもんだぜ
何回も読んでれば素人でも何が書かれてるのか分かるようになってくる
伊籍は昭文将軍だっけ。充分重用されてるよ。
ただ、学者だから政治上の活躍が記録されてないだけの話。
928 :
世界@名無史さん:2009/02/18(水) 02:49:47 0
尚書令の李厳と比べたら重用されてるとは言えないじゃん。
雑号将軍なんていくらでも量産できる。
できないよ。
将軍号は少なくとも太守と同格と思われる。
無秩序に量産なんかしたら最大でも益州と荊州半分しかなかった蜀漢の礼制はひっくり返ってしまう。
臣下の序列の上位に位置する価値を、劉備は伊籍に認めたということだ。
蜀漢宮廷の官位の記録が無いことから、伊籍は劉備の即位まで生きていなかったのかもしれない。
となるとなおさら、伊籍は重臣達が雑号か王の四方将軍でしかなかった時期にトップグループに位置していたことになる。
>>930 こら、マールウェアが検出されたぞw
以前、《冊府元亀》ならまるごとDLしたけど。
>>928 尚書令って実務家だろ。学者さんにそんなことさせんなよ。
学者は学者として扱うのが敬意だ。
ノーベル賞の学者を官庁の事務次官にしろとかって言うか?
そこemule使ってダウンロードできたって、あるサイトに書いてあった
934 :
世界@名無史さん:2009/02/18(水) 23:20:08 0
伊籍が学者ってどこでわかんの?
伊籍って銀河鉄道999にでてきそうだよね。
936 :
世界@名無史さん:2009/02/19(木) 02:58:57 O
伊籍は孫権に使者として派遣されたこともある。
外向もこなす政治家だよ。純粋な学者ではない。
>>921 李厳が罷免されたとき、諸葛亮も周囲が李厳への厚遇ぶりをいぶかしんでいた
と言っているな。劉備の遺言を尊重した結果なんだろうけど、周囲からはちと
いぶかしく思われていたのは確かなのでは?
諸葛亮自身も何時からは不明だが、
自分の後継には蒋エンにするようにと後主に内密に上奏している。
劉備の遺言が無ければ、あそこまで厚遇も無かったのではないだ
ろうか。実際の職務も結果的にはとんでもない結果になったし。
あれは断罪を求める上奏文だから。
李厳がやらかす前の起用の実態を正確に表現しているとは限らない。
漢中の抑えなどは臣下ナンバー2としては至極まっとうな仕事だろう。
寧ろ諸葛亮は開府を李厳に認めなかったりで、
李厳との二頭体制で丞相府への集権が崩れるのを嫌ったようだ。
まあ、皇帝権が弱い時に、外に強力な臣下が二人以上現れたら
分裂抗争一歩手前だろうけどね。
陳震なんかも李厳にはトゲがあると、
諸葛亮に遠回しに忠告している。李厳に次ぐ年齢・官位の人もよせつけない
ところがあったとの記述もある。能力はともかく、性格に問題有りの人物という
感じだったみたいだ。ケ芝みたいな筋が通った剛直さともちがう。私欲の出た
高慢さといった感じか。そのせいか李厳派の人間はほとんどいなかったみたい
だけどね。
あの李厳の事件は、兵糧補給が上手くいかなかったことを隠蔽を意図して
起こしたのではなく、おそらく諸葛亮を失脚させようという意図から起きた
事件だろうな。兵糧補給が困難なのは最初からわかっていたし、困難なことが
わかっているからこそ諸葛亮もすぐに撤退した。
開府を認めなかった諸葛亮に恨みを抱いた李厳が敵前逃亡の濡れ衣を着せて
失脚させようしたものだろう。最初からはめるつもりだった。誤算は諸葛亮が
大事に李厳からの書簡を保管していこと。諸葛亮の方も李厳は危険という判断
はしていたのかもしれない。だからこそ書簡は大事に保管していた。
証拠が無かったとしても諸葛亮を失脚させるなんて無理だろう
少なくとも史書に残る限り、李厳には諸葛亮と争えるだけの徒党が無い。
遠隔の漢中近辺でやりあったところで李厳は政治的にも軍事的にも対抗できない。
外地にいる丞相を蹴落とすつもりなら、首都を掌握して皇帝に詔勅を出させるくらいは
やらないとだめだ。
予めの計画的な策略ではないだろうね。
942 :
世界@名無史さん:2009/02/19(木) 21:01:51 0
蜀が九卿置かなかったのは何故?
中央官制がよくわからん。
あったんじゃなかったけ?
何というか実権があんま無かったという感じ。
確か大尉と司空が無かったような・・・・・・・・
九卿はいる。
名が残るのは光祿勲李厳・向朗・黄柱、太常頼恭、少府王謀など
ただ確かに三公(または上卿)制がよく判らないな。初期は丞相と司徒が並立しているし。
これは両漢時代には無かったことのはずだ。
諸葛亮の死後は、軍事は大将軍(または衛将軍)、行政は尚書事の集中体制だったのだろうね
945 :
世界@名無史さん:2009/02/20(金) 00:57:06 0
三公・九卿がいたのは蜀のごく初期だけじゃないか?
946 :
世界@名無史さん:2009/02/20(金) 01:05:59 0
>>945 少なくとも姜維が蜀入りして以降もあった
一緒に降伏した梁緒らが九卿になってる
947 :
世界@名無史さん:2009/02/20(金) 01:12:26 0
いずれにせよ、名前がほとんど出てこないからまともに機能していたとは
思えない。
卿の職能は主に礼制や宮廷運営。
この当時の政治における祭祀の重要性は各史の礼儀志などを見ればわかるが、
三国志には紀と伝しかないからそれが欠落しているだけ。
949 :
世界@名無史さん:2009/02/20(金) 13:45:40 0
今年から大学の歴史学科でアジア史学について勉強するのですが、
三国志について研究するのはここのスレの方たちは
どう思いますか?賛否両論あるとおもいますが、
アドバイスお願いします。
もし他にもおすすめのテーマがあれば教えてほしいです。
史学科の学生になるなら、「三国志について」なんて言うのはやめましょう。
三国志は一篇の書物の名です。そこに記される時代を言うのなら、後漢末期についてとか三国時代についてなどと言うべきです。
(陳寿著の史書「三国志」の成立や歴史的受容を研究したいというのであれば、勘違いご容赦を)
ここで俺らが話している素人マニア的話題とはまったく関わり無く、中国史の一時代として魏晋南北朝は
一つの立派な、というか当たり前に存在する研究分野で、日本にも研究者が大勢います。
とりあえず教養課程を履修しながら自分が何を研究すべきかゆっくり考えればよいと思います。
中国の古代史についての学問はほぼ書籍学であるのだから三国志を学んでもいいんではないか?
三国志といっても演義とすぐ結びつくわけではないし。
何度も正史を通読するだけでもすげえ発見が有ると思うよ。
952 :
世界@名無史さん:2009/02/20(金) 21:36:28 0
漢代の三公クラスの高官はほとんど九卿を経て昇任してるんだが、
蜀漢の高官には九卿を経由した様子がほとんどない。
これは蜀漢の独自性というか、九卿そのものがなかったとしか
思えない。
孫呉も三公を置いたのは孫皓の代からのようだし。
漢代の外戚や権臣も九卿を経由することはあまりないよ。
蜀漢の権臣も同じく。
尚書や侍中、将軍(漢代なら校尉)を経由するのが出世パターン。
とりあえず、 太常・光祿勳・太僕・大鴻臚・大司農・少府
の六つは蜀書で確認できるな
姜維の同輩や、劉禅の即位後に中級官吏で後に出世した人物、
降伏の使者や姜維への勅命で派遣されているから、
滅亡時まで存在したと見ていいだろう。
955 :
世界@名無史さん:2009/02/20(金) 23:59:50 0
三公は蜀初しかなかっただろ?
蜀の官制はかなり特異だと思う。
三公が廃止されたのは諸葛亮による簡略化の影響だろうが、
全体的に後漢と比べて特異というほどではないかな。
むしろ、大将軍・録(平)尚書事や、衛・車騎将軍のポスト、
行政実務を掌握する尚書、近侍して皇帝に働きかける侍中や常侍など、
後漢の官制を強く意識して踏襲し、後漢に似た弊害も出している。
まあ正当性の主張からして当たり前だろうけど。
958 :
世界@名無史さん:2009/02/21(土) 00:50:45 0
孔明・蒋エン・費イ・姜維と国のトップが大体都を留守にして遠征に
出かけて二重政権構造になってるし、後漢の政治の中心であった三公
九卿がいるかいないか分からない状態になってる時点でかなり特殊。
政治実務の実権は既に後漢代で三公九卿から離れ、
尚書台等の内朝官や外戚が為る大将軍を中心に回っていた。
宰相格が長期間首都を空けるのは蜀漢の特殊な点だが、
丞相府に権限を集中した諸葛亮時代が終わると、
宰相が首都を空けた場合の中央行政を仕切ったのは劉禅と尚書、侍中、常侍など。
皇帝とその近侍が決定権を保持している。
これは後漢と類似しているところだね。
961 :
世界@名無史さん:2009/02/21(土) 03:14:05 0
曹操もかなり長期間司空だったし、楊氏・袁氏などの○世三公の一族に
力があったのは確かだろう。
九卿クラスにはやはりそれなりの影響力を持った人物が多い。
決してお飾りではない。
曹操政権が確立すると、三公九卿制度はないも同然になるけど。
曹操が権力を持ったのは車騎将軍・録尚書事を兼ねたから。
三公経験者の名士的影響力が強調されたのは辟召制によるとされる。
曹操は丞相になると上卿に戻したので、三公がいないのは当たり前。
御史大夫は途中いなかったりもしたが機能している(曹操に都合良く)
確かに漢朝廷の機能は段々骨抜きにされていくようだけど。
実務の実権が移ったことと、お飾りとは全く別。この時代は特に、政治は実務だけじゃない。
蜀漢の九卿がお飾りだったなどとは、史料の少なさから判らないはずだが。
>>962 蜀では九卿はあんまり実権が無かったのは事実では?
政治を動かす程の役職なら、それらの官位の人達の伝記が残っているはず。
新資料発掘がほぼ不可能な時代の歴史学の研究者は
資料解釈の斬新さやレトリックの上手さで勝負するのかな
>>963 後漢期に既に失われつつあった。後漢末から魏晋に掛けてさらに無くしていった。
蜀漢に限らず、これも事実。
有力者の実権を奪うのにも流用されている。朱儁、諸葛誕、張華など。
>>964 墳墓などからの発掘史料があり、気象などの考古学的アプローチがある。
二次史料の史書というのは大きな部分を占めるけど、全てに近くはないよ。
まあ、俺らみたいな素人には殆ど全てだけどね。
小覇王孫策の覇王とは項羽のことなの?
>>941 出世出来るほどの徒党が無いのに、
訳の解らんことする李厳は頭が悪いということだろうか?
>>967 諸葛亮の責任にしたのは能動的な行動ではないというのが当時からの見解だろう。
兵站失敗して追い詰められて支離滅裂になったのであって
徒党の有る無しなんか初めから関係無い。
或いは、四次北伐の失敗の責任を帰せられることになって
過剰反応してしまったというようなことはあるのかもしれないが。
法に則って行った処断だからな。
法の刀で子分の馬謖を泣きながらきり、返す刀でライバルの李厳を葬り去った。
諸葛亮は、魏をつぶせたら九錫うけとっていいと言われてたらしいけど
実は蜀が早晩滅亡するだろうと分かってたんじゃねえの?
劉封への仕打ちなぞをみると諸葛亮が篤実なひとというよりは権謀をもって世に立とうとするひとであることがわかる。
確かに諸葛亮は篤実を売りにしたことは無いが、
自分の利益と直接関わり無い劉封の件を以って「世に立とうとする人」というのは牽強付会
劉封は剛毅であり手に負えなくなりましょう。
だれの手に負えなく成るのだろう??
劉備ではないな。
つまり将来、実権を担う予定の諸葛亮の手に負えなく成るのではないか。
>>975 ちくまか何かにはそう書いてあるの?
原文にはちゃんと「易世之後終難制御」ってかいてあるじゃない。
劉禅が夭折したりして、
その弟達は幼年で即位すると、騒動の元になるかもね。
呉の二宮の変みたく、誰が正当かということをハッキリし、
争いの元を絶っておく必要はある。
劉封が危険というよりも、
劉封とそれを担ぐ勢力が出来てしまうのが危険ということ
だろう。
978 :
世界@名無史さん:2009/02/26(木) 01:01:22 0
乙なんだが、なんで「十四巻」にしてしまうんだ
980 :
世界@名無史さん:2009/02/26(木) 06:49:41 0
>>970 天候や道路の険阻による失敗なら諸葛亮は罰することはないのでは?
やっぱ全力で協力しない何かがあったと見るべきだろう。
諸葛亮は必罰主義だから、失敗に終わったなら責任の所在をどこかに求めただろう。
四次の場合、それが李厳とは限らないけど。「責任を帰せられる」はただの俺の想像だよ。
だからその想像を基にして「全力で協力しない何かがあったと見るべき」とも言えないけど。
李厳伝を読むと、
夏から秋にかけて長雨があり、その為の輸送困難で使者を派遣して
諸葛亮を呼び戻したとある。後に李厳が諸葛亮の死を聞いて、再び
任用される望みが絶たれたことを嘆いて落胆死したほど刑罰に関して
は諸葛亮を信頼していた。正当な理由での補給失敗なら、諸葛亮に
罰せられないと考えるだろう。
それが諸葛亮には補給が足りているのに撤退してきたと驚いて見せ、
後主には偽装撤退で敵を引きつける策などと上奏している。計画的な
陰謀ではないが、単に補給失敗の隠蔽とは違いニュアンスも感じられる。
諸葛亮の刑法を信頼していたのは李厳だけじゃない。
「失敗したのに誰も罰せられないのはなんでだ」と言われるのは、
徳治ではない諸葛亮の統治方針にとって打撃となる。
兵站責任者の降格くらいはあっても不思議ではなく、
李厳も手紙の書面上は自分の責任を認めような書き方をしただろう。
けども実際の場面になって李厳はそれを嫌った、
ないし自分だけが責任を取らされるのを不服に思って
言い抜けしようとしたなら、一応の筋は通る。
逆に、李厳に予めサボタージュや諸葛亮に含むところがあったのなら、
諸葛亮はそのように上言し、陳寿も史書にそう書けば良いだけ。
でもそのような言葉は見当たらない。
それどころか北伐の撤退について、諸葛亮は劉禅への上言で一言も触れていない。
史書に残る限りでは、四次北伐の失敗の評定は李厳の騒動で霧消してしまった感がある。
責任の主体は李厳だけど、諸葛亮もそれに乗じて失敗の責任の所在を
上手く誤魔化したということになるんじゃないかな。
第四次北伐は極地戦では魏軍に勝利している。
補給が続かなかったから撤退したのであり、敗退して撤退したわけではない。
特に諸葛亮の過失はないだろう。
史書からも李厳の補給が続かないという旨を受けての撤退とある。
諸葛亮に含むことがあったのは『諸葛亮集』の中で、出陣の間際に
自分も幕府を開府させて欲しいとか、なんやかんや要求している。
全力でやって失敗しましたという感じではないだろう。
李厳を処罰するためにそういう北伐以前の話をなんやかやと持ち出す必要があった、
しかし北伐中の現行については持ち出すことができなかった以上、
職務中は李厳に怠慢がなかったと見るべきだろうね。
でも、失敗した以上誰かが責任を取らねばならないのが組織という奴で。
986 :
世界@名無史さん:2009/02/26(木) 16:36:06 0
どなたか句扶について御存知の方はおられませんか?
王平に次ぐ功績、功名を持っていたと書かれていますがどういう戦歴の持ち主だったのですか。
それともやはり陳到と同じように略歴のみの人物なのですか。
史書を読むと、李厳の二枚舌が問題にされてのであって、
補給の失敗自体は問題視されていないように思う。
>>986 『華陽国志』にも句扶については簡単な記述があっただけ。
王平と並び称せられたということがわかっているのみ。戦歴は全く不明です。
並び称せられるというのもくせもので、趙雲と陳到は死後の扱いは相当な差
があります。趙雲は死後に諡号を追贈され、関羽等と共に建国の功臣に名を
連ねました。私見ですが、趙雲と陳到が並び称せられたのは、劉備に使えた
時期が同じくらいだったからではと考えています。荊州領有以前なら同格でも、
領有後の功績ではだいぶ趙雲に差をつけられたのではないでしょうか。しかも
趙雲は後主を救うという大きなポイントがあります。
句扶は地道に功績を上げた武将ではあったのでしょう。
ただ、王平のような諸葛亮からの特別な引き立てはなかったのかもしれません。
『蜀志』が劉備の死後は諸葛亮と関わりが深かった人物が列伝として名を連ねて
います。後世の歴史家にとっては王平は重要な人物で、句扶は簡単な記述ですま
せる人物になったのでしょう。ただ蜀王朝の中では本当に王平に次ぐ評価だった
のではないでしょうか。
曹操なんかは自在に法を枉げて多少の瑕瑾があっても用いる価値のある才能はとりたてた。
蜀科はあまりにややこしくて造った諸葛亮にしかどこがどうなっているのかわからなかった。
つまり諸葛亮のしたいほうだい。
>>988 趙雲が征南将軍に任ぜられたのと同時期に陳到も征西将軍、永安都督に任じられてるので
荊州領有後に差がついたというのは微妙だと思う
趙雲はその後昇進し、また降格したので最終的な官位では陳到の方が上かも知れない
死後の扱いが開いたのは同意だけど季漢輔臣賛ではちゃんと2人がコンビ扱いになってるし
私見だが二人に明確に差がついたのは趙雲だけに諡号が贈られてからだと思ってる
やはり後主を助けたのは大きかったようだ
趙雲はすぐに鎮東将軍に昇進している。
扱いは陳到より上なのでは?
陳到が亭侯になったのも趙雲よりも遅い。
降格といっても、敗戦責任は諸葛亮にあり、もともと別働隊の趙雲
が曹真の大軍に敗れるのは仕方がない。しかも大敗せずに軍需物資
を失わず撤退している。無理矢理責任取らされたところも死後評価
が上がった要因だったのでしょう。関羽なんか荊州失陥という大失態
しているのに諡号を追贈されている。
鎮東将軍へは昇進したかどうかはっきりは言えない
原文では「遷」になっておりこれは転任や移動を表す字(ちくまでは昇進したとなってるが)
季漢輔臣賛でも趙雲の官位は最終官位の鎮軍将軍や鎮東将軍ではなく征南将軍のほうになってる
普通こういうばあい最終官位か一番高かった官位を記すものだろう
あと趙雲が降格したため最終官位では陳到がうえだったのでは?と言ってるだけで
別に責任が趙雲にあるとかは言ってないよ
史書を検討すると、
蜀の将軍位は
四鎮大>四征大>四方>四鎮>四征みたいだ。
だから征南→鎮東は昇進と解釈してよさそうだよ。
それと『季漢輔臣賛』では輔匡や劉ヨウなんかも最終官位では
書かれていない。
蜀では鎮が征よりも上だったんだよ
趙雲の他にも張翼とか宗預とかが征から鎮に遷っていて、逆の人はいない
鎮東将軍へは昇進っていうちくまの訳で合ってる
季漢輔臣賛は間違いか何かわからんが
検討すると、と言われても
できれば具体例を挙げてほしい
陳到は鎮東将軍ではなかったのか。
999
1000
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。