164 :
世界@名無史さん:2009/07/22(水) 19:48:22 0
景泰帝は殺されたの?
>>163 端宗って船が転覆してその後病死じゃないか?
陸秀夫と一緒に入水したんじゃなかったっけ?
船が転覆して死んだのは張世傑だったような気がする
スマソ。
陸と一緒に死んだのは端宗の弟か・・・
168 :
世界@名無史さん:2009/07/27(月) 13:38:16 0
>>161-162 明代の西方との関係を示す書物には、許進の『平番始末』がある。
『平番始末』は15世紀末のハミ(哈密)の争奪をめぐる明朝とトゥルファン
(吐魯番)の事件を記した書物で、撰者の許進は甘粛巡撫のときに哈密を
攻略したトゥルファンのスルタン・アフマドを撃退し、この書物をつくった。
ほお〜
170 :
世界@名無史さん:2009/07/31(金) 00:11:52 0
171 :
世界@名無史さん:2009/08/12(水) 12:20:34 0
>>168 内陸アジア、中央アジアと明朝のつながりを示す資料には次のものもある。
「西域諸国」『辺政考』(1547年)、
「西域土地人物略」・「西域図略」『陝西四鎮図説』所収(1616年)
両方とも内容は明朝の西方交易の公式拠点であった嘉峪関にはじまり、
西端の魯迷城(「ルームの町」、イスタンブル)にいたる行程記風の
漢文記事と絵図で、そこに登場する300近くに達する地名は、中央アジアから
西アジアにいたる、ステップとオアシスに広がる交易拠点を指している。
ソースは、
堀直「草原の道」歴史学研究会編『世界史とは何か』(講座世界史1)
東京大学出版会 1995年
ほお〜
173 :
世界@名無史さん:2009/08/17(月) 16:27:53 0
大木康『中国明末のメディア革命』(刀水書房)を読んだ方はおられますか?
読んだ感想をお願いします。
174 :
世界@名無史さん:2009/08/21(金) 13:09:52 0
>>171 陸路を通って明にまで至ったイエズス会の宣教師って、
いなかったっけ?
175 :
世界@名無史さん:2009/08/22(土) 23:27:05 0
弘治帝は名君扱いされてるけど、他の皇帝に比べて相対的にマシに見えるって部分が大きいな。
北宋の徽宗も明の皇帝なら中の下くらいだろうし。
国滅ぼしたんだからそれはないだろ徽宗
さすがに明の皇帝のほうがマシ
弘治帝はバカ息子の教育に失敗したなw
仕事一筋で息子のことを顧みない親父
そんな親父に愛想つかして、親父が死ぬと好き勝手やりたい放題の放蕩息子
取り巻きの悪い友達のおかげで、更に悪事がエスカレート
極めて現代的な悲喜劇ですな
178 :
世界@名無史さん:2009/08/28(金) 11:14:15 0
>>174 ペント(ベネデット)・デ・ゴエス(鄂本篤、1562〜1607)。
イエズス会によりインドに送られたが、ムスリム商人が語るカタイやハンバリクが、
はたして中国や大都(北京)を指すのか、というインド副王やゴア大司教の関心に
応えて、1603年アグラから中国へ向かった。アクバル大帝から紹介状や路銀の援助も
得て、アルメニア人同行者とカブールを経てシルクロードを横断し、長城の西端にある
嘉峪関に達した。陝西省の粛州で、北京からリッチが派遣した中国人イエズス会士、
鐘鳴礼と対面し、まもなく病死した。
179 :
世界@名無史さん:2009/09/02(水) 14:33:01 0
>>178 >ムスリム商人が語るカタイやハンバリクが、
>はたして中国や大都(北京)を指すのか
16世紀ともなると、ヨーロッパでの中国の呼び方は「シナ」だけに
なってたんじゃないの?
180 :
世界@名無史さん:2009/09/04(金) 02:13:03 0
>>175 洪熙帝・宣徳帝も相対的にマシって感じなのかねえ・・
英宗も別に暗君て訳じゃないと思うけどな
182 :
世界@名無史さん:2009/09/04(金) 05:56:12 0
明ってなぜあれだけ安定して続いてるの?清もそうだけど。それまで中国って
結構バラバラの時期多かったと思うんだけど。
大航海時代がどうのと言うスレで東アジアが海洋進出できなかったのは
明が安定しすぎ→朝鮮日本も長期政権みたいで争いがなかったと言う
影響もあったのかも知りたい
>>182 明の時代の日本は、南北朝〜戦国だぞ?
安定してたのはせいぜい足利義満の南北朝統一から〜足利義教暗殺までの50年ほどだ。
争いまくり
184 :
世界@名無史さん:2009/09/08(火) 12:21:22 0
>>179 そうでもない。
オルテリウスの「世界の姿」(『世界の舞台』初版〔1570〕所収)の
地図の東アジアの部分には、長江周辺とおぼしきところにシナ(China)があり、
それと北方の内陸部のモンゴルの間にカタイオ(Cathaio)の地名が記されている。
185 :
世界@名無史さん:2009/10/04(日) 01:49:28 0
朱全忠と朱元璋って姓と成り上がりって点は共通してる末路は正反対だな
>>184 俺も多分その地図を見たことがある。
別なもの(地図)が目当てだったからチラ見だったけど。
187 :
世界@名無史さん:2009/10/08(木) 22:00:39 0
>>182 強力な異民族がいなかったからじゃないの?
最終的に満州族の清に滅ぼされたわけだし。
188 :
世界@名無史さん:2009/10/08(木) 23:03:00 0
・・・・・・。
日月
192 :
世界@名無史さん:2009/12/19(土) 23:57:41 0
永楽帝の滅十族は最悪だけど、方孝孺も最低だな。
素直に永楽帝の言う通りに即位の詔を書いておけば悲劇は起きなかった。
193 :
成化帝:2010/02/25(木) 22:49:02 0
おっす、おら朱見深!
俺思うんだけどさあ、女って三十路過ぎてからのほうがよくね?
なんつーかさ、母性愛ってやつ?
ぺたじーにとはいい酒が飲みたいねぇ。
マンコ妃、じゃなくて万貴妃たん (;´Д`)ハァハァ
木嶋佳苗たん (;´Д`)ハァハァ
194 :
世界@名無史さん:2010/03/03(水) 21:15:40 0
>>192 それをしたら建文皇帝に不忠になってしまう。
195 :
世界@名無史さん:2010/03/03(水) 22:41:44 0
>>192 江戸時代初期の朱子学者、浅見絅斎の『靖献遺言』には、
楚の屈原から明の方孝孺まで、不遇にあっても臣としての
君主に対する節義を曲げなかった中国の8人の遺文が集められ、
その略伝および論評が記されている。
198 :
世界@名無史さん:2010/04/09(金) 18:44:01 0
は?明スレで朱元璋の話すると依存症になるのか?w
201 :
世界@名無史さん:2010/04/11(日) 11:05:20 0
いい加減、朱元璋以外の明代の人物を取り挙げないものかね?
王守仁、文徴明、唐寅、仇英、張居正、マテオ・リッチ、徐光啓、李之藻、
董其昌、李贄など、明代の著名人はいくらでもいるだろう。
その中で恐妻家ではない人物が何人いるのかね?w
203 :
世界@名無史さん:2010/04/20(火) 23:14:03 O
>>202 そんな時はレスすんなって、嫁に言われておりますですっ!
張献忠で
シャー
シャー
シャーレン
シャー
206 :
世界@名無史さん:2010/05/11(火) 14:40:15 0
もし建文帝の代わりに朱棣が二代皇帝になっていたとしても、首都は結局北京に移っただろうか?
北京に移らなかったとしたら、金と南宋のように、
モンゴルと南明のようなかんじになるかも。
>>206 太祖のころ西安に遷都する計画もあったようだし、結局遷ったんじゃないだろうか
永樂帝は北京に愛着もあるだろうし、
>>207のように、北に睨みを利かせるという点でも北京の方が便利
それに南京が首都だと、経済・物流が江南だけで完結してしまう
自分もその辺よくわかってないのでとんちんかんな事言ってるかもしれない。
詳しい方頼みます
209 :
世界@名無史さん:2010/05/30(日) 11:52:00 0
むしろこの時代は華北・江南の格差より、現在のように沿岸部・内陸部の格差が深刻化していた時代ですよ
210 :
世界@名無史さん:2010/05/30(日) 12:02:21 0
北京に遷都などするから、現在の民は水不足で苦しむんだ!
あんな乾燥地帯で数千万の民を養うなど、どだい無理!
老舎の小説読んでたらあの辺でも砂嵐やスコールみたいのが普通に起きてるんだよなあ
212 :
世界@名無史さん:2010/08/16(月) 01:57:12 0
>>209 確かに唐王朝崩壊以降の中国はシルクロードより海上交易の重要性が上になったな
発展する主要都市も殆ど沿岸部になり逆に古都の長安や洛陽は完全に衰退
華やかな仏教美術やペルシャ文化が栄えた時代は終わった・・・死ね
明は元の後継王朝ではないの?
勿論、元はモンゴル族であり征服王朝であり、明は漢族であり漢族王朝復興だからそういう意味じゃ違うだろうけど、しかし明は宋に戻ってないような気がする
元の後を受けて明は永楽帝が海から艦隊でアラビアやアフリカまで国威を掲揚してるし、また漠北にいたモンゴル族をも服従させているが滅ぼしてはいない