746 :
世界@名無史さん :2007/11/02(金) 18:45:05 O
忖度してください!
747 :
世界@名無史さん :2007/11/02(金) 18:46:58 0
>>744 当たり前だろ。歴史学は社会科学であり、科学は徹頭徹尾、万人が共通に認識
し得る「事実」を対象とする。事実を離れた思考を「妄想」という。
妄想に対しては、脳内神経伝達物質の異常として、同じ科学としての精神医学
が対処する。
>>747 そゆ事言うと、史学=疑似科学厨が来るぞw
ま、内容的には概ね同意だが。
>>744 ここは世界史板だからねえ。
それを許しちゃうと世界史板の意味がなくなってしまう。
世界史板は「学問・文系」カテゴリだし、明示されていなくてもそこは最低限のルールだと思うよ。
>>744 だれも貴殿に対して、「出て行け」という権限はもっていませんよ。
現実に、そのような強制力は、ここの管理人しか持っていません。
もしよければ、私の以下の愚見も参考にしてください。
■
>>133 …護教本位による歴史ルールの改ざん。
■
>>351 …所属教派と史的イエス。
■
>>584 …護教という大義の下で発展した“詭弁”。
■
>>586-587 …護教家(宗教板住人)の不可解な思考パターン。
■
>>593 …歴史的人物の公平な評価。
■
>>674-675 …荒唐無稽な聖書物語。
■
>>708 …他の神話とイエス神話の天秤への掛け方。
史学において、研究対象への思い入れ(ポジティブであれネガティブであれ)は、「過去の出来事を再現する」という最終目標を曇らせることがあります。
イエスを愛するがあまり、あるいは一神教の報復を恐れるがあまり、懐疑や批判にひるむことがあるなら、それは歴史研究者失格でしょう。
歴史において、信仰心や迷信的恐怖が、史学のルールを越えたり変えたりすることがあってはならないのです。
もし、歴史において信仰本位のルールが顔を出すなら、それはもはや史学ではありません。
それは“神学”です(神学科では
>>27 のような、使用済みティッシュ並の価値しかない、論文が書ける)。
神学の領域内での議論を楽しみたいならば、やはり宗教板がおすすめです。
あそこには、イエスへの期待で胸を膨らませた熱心な信者たちが撒き散らす、あやしげな歴史観で埋め尽くされています。
「革命家イエス」、「民衆とともに歩いたイエス」、「小作農解放運動家イエス」の呪縛から解かれるつもりのない人も、宗教板に行くことをオススメします。
こういう風に勧めるのは、別に、貴殿のような人を排除したいと思っているからではなく、その人自身にとって快適だと思うからです。
私としては、どんな信条を持った人も、この場で発言する機会があると思います。
むしろ、それが、こうした掲示板の醍醐味ではないでしょうか?
貴殿には、出来る限り、留まってもらいたいと思います。
>>744 「信仰に基づいて思ったことを書くな」、とは誰も言いませんが、
反対に、信仰に基づいて思ったことを書く"必要"も一切無いでしょう。
学問の場において、そうすることの意義は全くありませんよ。
"有害"とまでは言いませんが、明らかに、"無益"です。
752 :
世界@名無史さん :2007/11/03(土) 03:36:05 0
>>751 歴史学が、そこまで正確な歴史事実の再現を行う目的は何か、ということも、
常に念頭に置く必要がある。これは社会科学だけでなく、すべての学問にも
通じること。
>>714-715 欧米人の押し付けがましさというのはキリスト教からきているのでしょうか?
19世紀のフランスでは共和派の一部が「文明化の使命」などといって植民地
帝国主義を主張しましたが。
フランス国内で教育改革や政教分離政策をとったジュール・フェリーが、
「優等人種には劣等人種を文明化する義務がある」と演説したのだから
驚いてしまう。
16世紀頃のスペイン・ポルトガル侵略に、キリスト教は多いに役に立ってますよね。 前もって送り込んだ宣教師が国情を探り、目星がついたら軍隊がなだれ込む。 ヨーロッパの主要な地域が、キリスト教を国教としてまとめ上げ、 国がその利用価値を高めたれたのは、 やはり一神教という部分は大きいのでしょうか。
755 :
世界@名無史さん :2007/11/03(土) 18:51:49 0
>>744 書き込んでいいけど、ここは宗教板ではないからいろいろと反応があるでしょうよ。
まあ、信者が書き込む内容もある程度参考にはなるけど、イエスの復活だの贖罪だのということを書き込めば、学問板だから批評は起こるし、論理的な説明をしなければならん。
>>753 帝国主義時代における「文明化の使命」と称された「押し付け」は、その背後の目的と動機によって理解されるべきでしょう。
それは、「帝国支配の達成」です。
これを最大の目標に置いているために、必然的に、その手段として「押し付け」が付きまとうのです。
では、西洋諸国はどうやって、自分たちの主権を、原住民に押し付けてきたのか?
そこで颯爽と登場するのが、キリスト教伝道師(宣教師)たちです(
>>754 )。
宣教師たちの布教の目的は、必ずしも、原住民への精神的な充足感を補ってやることではありませんでした。
彼らの最大の任務は、原住民の改宗というキリスト教化を通して、"侵略者の支配体制の基盤を整備すること"でした。
キリスト教思想の本質というのは、「キリストの独裁体制」への服従であり、改宗とは、その体制に組み込まれることを意味します。
「キリスト教の本質は、愛である」とか「新たな人間理解である」とか言われますが、それは完全なる誤解です。
そもそも、キリスト教はその最初期から、一種の社会運動の特色をもっており、権力のあり方に強い関心を寄せていました(
>>310 )。
だから、キリスト運動の最古の断片の一つに「独裁者としてのキリストへの屈服」という概念が現れているのは、驚くべきことではないのです(
>>204 )。
まあ、ですから、聖書とキリスト教を布教するとは、キリストの独裁体制への服従というイデオロギーを刷り込むこととイコールなのです。
これは見方を変えれば、「押し付け」以外の何物でもないでしょう。
このイデオロギーに原住民をドップリ浸からせるために、宣教師たちは、現地に学校を創設するなどして、受け入れ態勢を整えるわけです(
>>97-99 )。
このあざといやり方は、しばしば「文明化」という言葉で表現され、カモフラージュされてきました。
下に続く。
>>756 のつづき。
しかし、キリスト教思想への洗脳だけが、宣教師らの任務だったのではありません。
既述のように、彼らの任務は、さらに進んで、侵略者の支配の整備によって完遂されるのです。
>>335 のような服従を要求するキリスト教は、為政者側にとって、原住民を隷属させるいい道具になったのです。
宣教師らは、為政者への忠誠の確認という、別のもっと重要な任務をもっていたのです。
ピサロに随行した宣教師などは、その重要な任務を見事に果たしております(
>>217 )。
こうした、キリスト教と権力との結びつきは、コンスタンティヌスの時代から始まっています。
その時代にキリスト教は、帝国支配の片棒を担ぐ運命を選び、以後、その運命に身を委ねてきたのです。
しかし、その運命は、初期クリスチャンが、社会を批判し、理想の権力のあり方を模索した時点で始動していました。
誤解してはいけないのは、キリスト教の歴史は、個人の純朴な宗教的熱心で始まったのではないということです。
それは、理想の社会の建設を目指した"人々の"社会実験として(空想的ではあるが)始まったのです。
彼らが思い描いたのは、キリストという一人の王によって支配される世界でした。
一人の王とは、つまり、独裁者であり、そして一神教です。
前者は政治的用語であり、後者は宗教用語ですが、意味するところはほとんど変わりません。
では、その理想の支配体制を実現する力が彼らの手に渡ったとき、彼らはどう振舞うでしょうか?
答えは明白です。
だから「押し付け」は必然なのです。
758 :
世界@名無史さん :2007/11/03(土) 22:45:30 0
ユダヤ教に選民思想があることは広く知らされてる。
キリスト教にも、選民思想の臭いを感じる。
布教によって非信者を引き込もうという点はユダヤ教との大きな相違であっても、
信者/非信者の扱いの差があるのは明らか。
新約聖書を読むと、それが書かれた時代には確かに選民思想が少数派で迫害されていたキリスト教徒を支えていたのは感じられる。
とはいえローマの国教になり多数派になると、それは意識の底に沈んだ。
しかし、異教の土地との接触に際して、また、キリスト教徒が少数派の国では、潜在していた選民思想が浮上してしまう。
聖書作者が、現代のキリスト教徒が、「キリスト教にはユダヤ教と違って選民思想はない」と言っても、
ユダヤ教との比較においてであり、異教への蔑視感覚を捨て去ることはできない。
「非信者も神に救われている」「どの宗教における神も上位では、ひとつの神につながっている」
といったカトリックの物言いも布教のマーケティングでしかないわけで。
それこそ、
>>712 のようなもので。
個人的には選民を前面に出してくるユダヤ教の潔さの方が好きだな。
キリスト教の選民思想は誰でも採れる大衆性のあるものだけに厄介だし。
759 :
世界@名無史さん :2007/11/03(土) 23:16:46 0
選民思想と寛容は別問題だね
>>758 >聖書作者が、現代のキリスト教徒が、「キリスト教にはユダヤ教と違って選民思想はない」と言っても、ユダヤ教との比較においてであり、異教への蔑視感覚を捨て去ることはできない。
私もそう思います。
キリスト教の、建前としての「平等主義」と、実態としての「差別主義」については、
>>404-406 で意見されています。
聖書学者らは、一神教への熱心から生じる残虐行為を批判することがありますが、聖書そのものや、聖書の神そのものに問題があることを指摘しません。
特に、新約と初期キリスト教への批判は回避されます。
彼らは、「本質的には…である」というお決まりの文句を用いて、聖書の中の都合のいい箇所だけをツマミ食いして、聖書そのものが孕む問題をはぐらかすのです。
元凶は、聖書やキリスト教にあるとは言わないのです。
少し前に、私は、PHP新書から出たばかりの、原理主義をテーマにした本を読みました。
表紙には、「キリスト教・イスラーム・ユダヤ教の真実と虚像」という副題が踊っており、批判的な読者を惹き付けていました。
3人の著者らも、それぞれの宗教の名の知れた専門家で、かなり突っ込んだ批判が展開されることが期待されました。
ところが、内容では、それらの宗教の「虚像と真実の乖離」についての批判は回避されていました。
ものの見事に、旧約、新約、クルアーンへの直接的な批判はかわされているのです。
聖書(正典)への批判、一つの神への批判がスッポリと抜けているのです。
例えば、ユダヤ教原理主義の元凶は、明らかに、旧約の民数記や申命記など、モーセ五書にあるはずなのに、
その本で取り上げられていたのは、ユダヤ教徒がタナッハに含めない『マカバイ記』だったのです。
なぜ肝心要の、五書とヤハウェを叩かないのでしょう?
キリスト教への批判も、大分腰が引けており、新約そのものへの言及はほとんど回避されていました。
キリスト教原理主義の元凶は、明らかに、新約のキリスト像であるにもかかわらず、です。
その本を率直に読んだ私の感想は、「これぞまさに護教!」であり、学問的批判の精神に欠けていました。
副題とは裏腹に、それら3人の著者が読者に披露したのは、一神教の「真実」ではなく「虚像」のほうだったのです。
761 :
世界@名無史さん :2007/11/04(日) 00:25:41 0
メキシコのグアダルーペ寺院は、動く歩道まで設置されているそうで、 一番人気の観光スポットだそうだ。巡礼の目的地でもある。 メキシコ全土からカトリック信者が集まってくる。 もともとは、ここに聖母マリアが現れ、インディオの男に、ここに教会を 建てるようにと言ったことから始まる。彼らは教会を建て、そして自分 たちと同じ肌の色を持つ聖母像を祀った。とのことだ。 この話を聞いて私は、ここに現れたメキシコ人の不幸を思った。 メキシコはもともとアステカであった。アステカの神は、人間の犠牲を 要求する無慈悲な神である。アステカ人はスペイン人に攻め立てられ たときに当然この神に多くの人間の犠牲を捧げ、アステカをスペイン の手から救ってくれと祈ったに違いない。 しかし、アステカの神にいくら犠牲を捧げても、アステカの神は救って くれなかった。アステカはスペイン人によって滅ぼされたが、その時に アステカ人はアステカの神を捨てたのではないか?その結果か、 メキシコのスペインからの独立運動の時には、グアダルーペの聖母 が独立のシンボルにされ、独立軍の旗に描かれたと言う。 何故このとき、アステカの神を持ち出さないで、敵国スペインの神を 持ち出したのだろう。多分、それほどアステカの神は一般のメキシコ人 の人気を失っていたのだとしか思えない。敵国の神を自分たちの神に 借りてこざるを得なかったメキシコの人達の不幸を私は思う。アステカ の神はアステカを見捨て、アステカ人はアステカの神を見捨てた。 そしてその時、頼れるものは、憎い敵の神しかいなかったのである。 先日、テレビでグアダルーペの聖母を見た。そこに出てくるメキシコ人 信者の顔には、純粋な聖母への信仰が溢れているように見えた。 或いはアステカの神は為政者のための神であって、一般民衆に とってはただ恐ろしいだけでご利益の薄い神だったのかもしれない。
762 :
世界@名無史さん :2007/11/04(日) 00:52:06 0
>>761 アステカ人は、ほかのインディオから嫌われてたんでしょ
守護聖人って、60年代までフランスやイタリアで職種や地域単位でいたな
みんな土俗信仰がカトリックに吸収されたもの
>>753 世界を一つとして捉えるキリスト教の世界観は、もしかしたら彼らのあつかましさの由来かもしれません。
それは
>>423 の、宇宙の中心としてのイエス像が関係していると思います。
また
>>211-212 、
>>327 の救済史・終末史観ともいえる歴史観も関係しています。
一なる神が無から世界を創造し、それとともに時間が始まり、そして一なる神の救済(あるいは滅び)でもって世界が終わる、
という彼らの空間的・時間的概念は、全世界のキリスト教化という"おせっかいやき"の起源だと言えるでしょう。
人間は本来は楽園(創世記のエデンの園)で無垢に暮らしていたが、罪によって汚されてしまった、というキリスト教史観は、
カントなどによって、「理性への目覚め」とか、「自然にあるがまま」という風に変容させられました。
それはキリスト教的な楽観主義であり、潜在的に「楽園」と「神の王国」への期待が込められていたのです。
人類史の始まりを幸福の起源として、そこから、また再びそこへ立ち返るための旅が始まる、という史観は、マルクスにも見られます。
だからこそ、キリスト教ドップリの正教会でも、マルクスに傾倒することが出来たのです。
過剰なまでの理想主義と、おせっかいな人類解放の使命感は、そうした歴史観の産物かもしれません。
ヨーロッパ中心主義も、押し付けがましさの典型ですが、これも遡ればキリスト教です。
ヨーロッパを一つの枠組みとして捉え、その枠組みの中の人々を「同胞」とみなすことができたのはキリスト教のお陰です(
>>406 )。
そしてヨーロッパを世界の中心におくことができたのは、聖書のお陰です。
聖書は持ち運びに便利であり、それは"動く神殿"として機能しました。
聖書のあるところ、そこに自分たちの歴史の起源があり、そこに世界(宇宙)の中心があったのです。
>>763 思うに、「アレクサンドロス大王がギリシアの進んだ文物を東方世界にもたらした」という、
我々日本人にはどうも腑に落ちない(?)歴史解釈も、キリスト教由来のヨーロッパ中心主義の産物かもしれません。
>>764 キリスト教圏でも、そんな歴史解釈してんのは不勉強な連中だけだよw
766 :
世界@名無史さん :2007/11/04(日) 07:58:48 0
>>765 不勉強でない君が一度やってごらん〜〜、あはははは・・・ヽ(^。^)ノ
ヘレニズムって日本人と欧州人たちが異常に信奉してる変な概念らしいね。 実態が曖昧でなにを指しているのかもわからないのに。 白人なら「無から発生した古代ギリシャ文明を基にすべての近代文明を 生み出した」って思うのも分かる。彼らはそういう人たちだからだ。 だがなんで日本人がアレクサンドロス三世の半ば伝説化した遠征や 英雄譚を、あたかも自国の歴史のように誇らしげに語るのか? まったく理解不能だ。名誉白人とは醜いものだ。
>>763 欧米の傲慢さはプロテスタントの「〜であるべき論」の影響なんじゃ
ないかなあ。決して妥協と調和を許さず、ただひたすらに敵を作って世界中に
決闘を挑んで止まないあの気質はプロテスタントとカトリックの対立そのもの。
「選民思想」自体はどの国にもあるでしょう。 世界一と言っていいほど宗教に熱心なインドは かなりの選民思想保持国家で、インド教徒以外の ありとあらゆるものを見下している。 支那にはかつて大国だったという俗に言う「中華思想」が あって、自分たちより強いもの以外(あるいはそう見なした ものたち)を見下す。欧米のそれ以上に酷い 民族差別主義がある。 問題なのはなぜキリスト教徒だけがそういった選民思想に対して 批判的なのか?ということでしょう。
>>757 >それは、理想の社会の建設を目指した"人々の"社会実験として
>(空想的ではあるが)始まったのです。
人間社会をつくりかえることができるという西洋人の考え方はここからきて
いるのかね。
フランス革命でもロシア革命でも人々は政治によって社会や人間は全面的に
改造可能だと信じ、それを実行した。
>>770 その点に関しては、
>>763 の人間観が関係していると思います。
しかし、ここでは、あえてその起源を初期のキリスト教運動と関連付けてみたいです。
人間というのは、元来的に社会を形成する動物であり、その活動の大半は社会的関心に基づいているといえると思います。
ですから、キリスト教に属すと属さざるとにかかわらず、人々は、きっかけさえがあれば、社会の改革を求めるのではないでしょうか?
そして、キリスト教というのは、まさにその元来的・普遍的な社会的関心の中から生まれたということです。
ヘレニズム時代からローマ時代にかけて、諸民族が入り乱れる混沌とした世界にあって、「自分たちは何者であるのか?」という問いが人々につきつけられました。
それへの応答の仕方は、土地や時代によって様々でしたが、ローマ時代のパレスチナでは、キリスト教(イエス運動)という形をとって現れたのです。
では、新たな共同体のための垣根をもうけ、"自分たち"を"他の者たち"から区別するものは何か?
そのために必要となってくるのが、独自の歴史であり、独自の支配形態、独自の規範です。
この要素は、新たな共同体形成には欠かせない道具です。
ですから、民族は独自の神話を持っているのです。
キリスト教徒も例に漏れず、自分たちのための歴史、自分たちのための王を想像します。
そうすることによって、彼らは、混沌とした社会の中に、別の社会を形成することが出来たのです。
そのための方法として、彼らは、ユダヤ人たちの歴史を自分たちの起源を語るものとして拝借することにし、そしてイエスを自分たちの王であると想像したのです。
これにより、彼ら独自の世界観が形成され、こうして、新たな共同体が創造されました。
大袈裟に言ってしまえば、彼らは、キリスト教という新たな民族を作るために、独自の神話を作り上げたのです。
彼らの歴史の始原となったのは、他でもないイエスです。
彼が、時間と宇宙の中心であり、始まりであり、こうして、イエスを中心とした歴史と世界が創造されました。
この神話を共有する者たちが、まさしくキリスト教徒という民族であり、そこに領土と国民が伴えば、キリスト教国家となるのです。
>>771 のつづき。
福音書の各書、および新約聖書は、こうした社会形成の過程を跡付けるものであり、同時に、キリスト教の神話そのものとなっています。
いうなれば、聖書は、混沌とした社会の中に新たな共同体をつくるマニュアル、レシピ、台本なのです。
だから
>>141 >>144 >>150 のようにキリスト教が歓迎されるのは、驚くべきことではありません。
またアメリカ人が新大陸に新たな共同体を作るときに、聖書が台本として機能したのも、至極当然のことです。
アメリカ大統領が、就任時に聖書に手を置くのは、そこに彼らの神話と起源が詰め込まれているからです。
このようにキリスト教への参入は、新たな民族への参入であり、新たな歴史、新たな支配体制への参入を意味するのです。
しかし注意を要するのは、その新たな社会形成は、それ以前の社会の否定と破壊を伴うということです。
キリスト教もその例に漏れません。
「始まり」という楔を歴史の流れに打ち込んでしまうと、それ以前は混沌の時代として闇に葬られてしまいます。
ですから、キリスト教徒が、イエス誕生以前の時代を、否定的に捉え、せいぜい予型としてしか評価しないのも頷けます。
彼らのユダヤ教に対する評価がそれを端的に示しています。
この時代観から、BC(before Christ)、AD(in the year of Our Lord)という年号が生まれたともいえるでしょう。
また、独自の神話に属さない者たちは、よそ者として排除され、否定されます。
キリスト教徒たちが、異教徒や異民族をそのように扱うのは、彼らが独自の歴史と世界を持っているからなのです。
このように、キリスト教をキリスト教たらしめているそれぞれの特徴(=本質ともいえる)は、実は、社会形成という万人共通の関心から生まれたともいえます。
それは創造的な活動でもありますが、同時に破壊的でもあるのです。
773 :
世界@名無史さん :2007/11/04(日) 14:13:28 0
774 :
世界@名無史さん :2007/11/04(日) 16:31:17 O
>>767 > だがなんで日本人がアレクサンドロス三世の半ば伝説化した遠征や
> 英雄譚を、あたかも自国の歴史のように誇らしげに語るのか?
そこにロマンを感じるからさ
19世紀に盛んになる“科学的”人種論もキリスト教社会でなければ 生まれなかったのかも。
>>767 酷い場合だと、「アレクサンドロスは世界人類という概念を抱いて、東方世界に乗り出し、なんちゃらかんちゃら…」ということも言われたりします。
まるで、「アレクサンドロスは意識的に平等主義を抱いて、東方世界を文明化した」といわんばかりです。
「アル中の青二才の暴君」は、こうして、「ユニヴァーサリスティックな大志を抱いた哲学者」へと押し上げられたのです。
今でこそ、こうした盲目的な賛辞は見直されていますが、最近までは、多くの人は、そうイメージしていたのではないでしょうか?
こうした英雄的評価には、おそらく、キリスト教的なイエスのイメージと伝道のイメージが重ねられていると思います。
>>775 その動機が何であったかを調べれば、そこにキリスト教の影響が見られるかもしれません。
もちろん、キリスト教的人間観への反発から生まれたということもできますでしょうし。
戦国時代に日本にやってきたイエズス会の宣教師は、日本人のことを ネグロ(黒人)と罵倒している。
>>777 異民族・異人種への蔑視は、人間本来のもので、これをキリスト教由来とするのは行き過ぎだと思います。
ただ、キリスト教は、決してこれを乗り越えさせることは出来ませんでした。
キリスト教も聖書も、平等主義(これの是非は別ににして)には何の貢献もしていません。
むしろ、聖書は、つねに差別主義者に味方していたのです。
よく引き合いに出されるのは、奴隷貿易です。
聖書やキリストの教えは、それに何の疑問も差し挟んできませんでした。
その証拠として、残されている奴隷船長の日誌の冒頭の多くは、聖母マリアへの賛美の言葉で書き出されているそうです。
なんとも、つれない聖母です。
神の前での市民の平等を訴えたトマス・ジェファソンも、奴隷を有していました。
さらに興味深いのは、奴隷制度に関する南部と北部の論戦における、聖書の引用例です。
周知の通り、南部は奴隷制度擁護派で、北部は反対派だったわけですが、聖書を盾にして上手く立ち回ったのは南部の方だったのです。
両者の新聞記事や論文、演説などを読み比べると、北部側が聖書から論証することに難儀しているのが分かるのだそうです。
日本に布教しに来たイエズス会も奴隷貿易の上に成り立っていました(
>>384 >>392 >>396 )。
日本イエズス会士が奴隷貿易の売買に積極的に参加していた証拠は、会計簿に載っているそうです。
当時のローマ教皇は世界中の"異教徒の"奴隷の売買を公認し、その利益を財源としていました。
秀吉は、日本イエズス会に「どうしてお前らは、日本人を奴隷にするのか?」と詰問していますが、それは当を得ているのです。
つまり聖書は、人道主義者の味方にはなりえず、つねに差別者の側に立っているということです。
ですから人道主義者が、差別撤廃を訴えるときには、聖書から離れなければなりませんでした。
それはちょうど、同性愛擁護派が、聖書を用いることができないのと一緒です。
仮に百歩譲って、聖書が差別主義ではないとしましょう(そんなことはないのですが)。
だとしても、聖書は差別撤廃には何の役にも立たないのです。
まさしく、三文の価値もありません(
>>648 )。
779 :
世界@名無史さん :2007/11/04(日) 18:39:14 0
>>778 神の前の平等とは、「信者間」に限定されているということですね。
>>779 そうですね。
神の前の平等とは、キリスト教信者の間での平等であり、一見平等主義に見えますが、結局は排他主義なのです(
>>406 )。
それの平等は、皆が平等に、キリスト教支配に膝をかがめることによって実現されます。
その内実は、映画『300』の(あくまで映画の)クセルクセス王が要求している臣従と、ほとんど変わりありません。
市民革命後のアメリカは、たしか、信教の自由を認めているはずですが、それはキリスト教を前提としています。
アメリカは歴史の浅い国で、よく「王室を持たない劣等感を持っている」と揶揄されます。
だからこそ
>>772 のような仕方で、国を建設する必要がありました。
彼らの歴史は、土着の王室によって保証されるのではなく、神への熱心によって保証されるのです。
そうした正統性を訴えることによって、土着民を排除することが出来たのです。
アメリカ人を一つにまとめているのは、「神(キリスト)への信仰」です。
初期のアメリカ人は自分たちを「神の選民」だと見なし、新大陸と西部への進出を「出エジプト」に譬えました。
新大陸は「約束の地」であり、アメリカ人は、「新しいイスラエル」だったのです。
そしてアメリカ建国は、神の民による地上の王国の建設という、社会実験でした。
それは
>>771 の初期キリスト教徒の社会実験の系譜に連なるものです。
そのため彼らの心の内には、自分たちは信仰によって純粋培養された選民だというエリート意識がありました。
それで、自分たちに属する文化を、他より優位に置く傾向があります。
神の側にいる、という自負心が、歪んだ優越感を抱かせてしまいました。
その結果、彼らは自分たちへの同化(キリスト教化)を要求し、他宗教、異文化、異人種を冷笑したのです。
キリスト教による見掛け倒しの平等主義と博愛主義に騙されるべきではありません。
>>767 国籍民族を問わず人は、ビッグな男に憧れを抱くものではないか?
無関係な世界宗教に取り込まれて「神の使徒」視までされてしまう男は
他にはなかなかいないと思われる。
+両刀遣い+現代の競走馬にも名前が使われる愛馬
ここもポイントが高い。
欧米人の場合、有色人種がキリスト教に改宗しても、決して相手を対等の 存在とは見做さないと思うが。
>>781 競走馬を繰るバイセクシャルなイエス=アレクサンドロス大王ということですか。
あるいは、去勢された(セックスシンボルを除かれた)アレクサンドロス大王=イエスとも。
新約のイエスをアレクサンドロスに持ち込んだり、アレクサンドロスを新約のイエスに重ねたり…。
西洋人の間では、二人の英雄像がエコーして、イメージが増幅してしまっているんじゃないですかね?
誰か、『去勢されたアレクサンダー大王』とかいう題で、それについて論じた本を書いてくれませんか?
キリスト教の本質=帝国主義ということでいいですかね? 一切の隔絶や断絶を許さない。すべての独立した存在を、大いなる全体へと 統合しなければ気が済まない。ローカリティが否定され、ひとつの ジェネラリティへと統一されていく。いまだ手つかずの領域を探しだして 人の手によって加工する。空白が忌み嫌われ、そのすべてに人間が手を 突っ込む。
主イエスキリストの愛と平和祝福が主の御名のより来た人々に行き届きますように 主イエスキリスト祝福感謝 私の生活を邪魔する者へ主の愛が流れ行くように今すぐ
人権というインチキ思想も最初は「キリスト教同士」の紳士協定みたいなものだったんだよ。 その後ジョン・ロックがうまい意味のすり替えをはかり「人間誰しもが守る道徳」のような 概念にしてしまった。
どなたか、
>>394 について解説できる方います?
わたしはゼンゼン分からないのですが、このスレに適切な話題だと思います。
ぜひ、その時代のキリスト教についても詳しく知りたいものです。
>>768 プロテスタントは、その「〜あるべき論」(理想主義)が高すぎて、カトリックに比べ、寛容さに欠け、冷徹で頑固だとも言われますね。
アメリカのエリート意識もプロテスタント由来でしょうか?
聖書学の分野においても、プロテスタント系学者の、カトリックに対する思い上がりがちらちら顔を覗かせます。
「目糞が鼻糞を笑う」とはまさにこのことだと思います。
まあ、こういうことを言うと、「いやカトリックもあーだこーだ」という論客が飛び込んでくるので、あらかじめ優劣をつけるつもりは無い、と断っておきますが…。
実際、カトリックがとりわけ寛容だとも重いませんし。
せっかくなので、キリスト教徒と思われる
>>744 と
>>786 の方にお聞きしたいのですが、
「キリストによって救われる」、とは具体的にどういうことを言うのでしょうか?
「救われる」という言葉を別の言葉に置き換えて、説明していただけませんか?
宗教板と違い、学問板には、クリスチャン的感覚に不慣れな者が多いと思うので、専門用語なしでお願いします。
790 :
744 :2007/11/05(月) 07:26:06 0
>>789 >「キリストによって救われる」、とは具体的にどういうことを言うのでしょうか?
バカな事ばかりして死亡プラグ立ってたDQNな俺に仕事と嫁さんを与えてくれた。
真面目に生活する道を与えてくれた。
俺は板違いな人間ですので問いかけないでくださいね。
バカな俺はついつい書き込んでしまってスレの方々の気を悪くしてしまいますので。
791 :
世界@名無史さん :2007/11/05(月) 08:08:45 0
>>790 >バカな事ばかりして死亡プラグ立ってたDQNな俺に仕事と嫁さんを与えて
>くれた。真面目に生活する道を与えてくれた。
そのことと、2000年前に死んだイエスとは、何の関係もないね。
嫁さんや仕事は、イエスに関係なく皆得ているのだがw。
クリスチャンのいう「救い」とは、「自己欺瞞」のことではないのかな。
信仰によって得られる救いとか心の平安とかは一切無視な訳ね。 ふ〜ん。
793 :
744 :2007/11/05(月) 08:59:08 0
>>791 たぶんあなたみたいな事書く人がいると思いましたよ。
まあ、本人がそう信じてるんだからそれで良いじゃないですか。
何で突っかかって来るんですか?
794 :
世界@名無史さん :
2007/11/05(月) 09:37:49 0 >>793 現代の社会は、基本的に「現実性・合理性・科学性」によって形成・維持されて
いることを忘れないでください。皆があなたのようなことを言い始めたら、社会
は崩壊しますよ。
人間が独りでは決して生存できないから、共同体を形成して生きているのです。
共同体においては、「何でも信じればよい」という訳には行かないのですよ。
大人であれば、それくらいの社会性は身につけてください。