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エッセネ派は、当時の祭司王朝、つまり、ハスモネ家(あるいはマカマイオス家)への不承認を表
明するために荒野に隠棲した宗派だ。ハスモネ家はゲリラ戦士であるユダス・マカバイオスの子孫で、彼
はその2世紀前、シリア皇帝に叛旗をひるがえした。ユダスが戦死すると、弟のヨナタンが跡を継い
だ。後に彼は大祭司となり、王朝を築いた。正統派ユダヤ教は激怒した。というのも、大祭
司はアロンの末裔でなければならないからだ。そこで彼らは反対派である(ファリサイ派)を作っ
た。
だが、(義の教師)を名乗る預言者に率いられるエッセネ派はさらにその上をいき、死海の洞
窟の近くの砂漠にあるクムランに自らの共同体を作った。彼らは天幕に住み、洞窟を倉庫代わ
りにしていたらしい。それから2000年近く後、多くのエッセネ派文書が洞窟で発見され、「死
海文書」として知られるようになった。
ロマスとナイトは、イエスもまたエッセネ派であり、彼の弟ヤコブが(義の教師)の称号を受け継いだと
いう、広くささやかれている仮説を受けている。イエスはローマ人に対する叛乱を試みた後に処
刑され、祭司たちはヤコブを神殿の城壁から突き落とし、石打にして殺した。だが、皇帝ウェス
パシアヌスが息子のティトゥスとともに紀元66年のユダヤ人叛乱の鎮圧に乗り出すと、エッセネ派は死ぬ
まで戦い抜くことを決意し――そしてロマスとナイトによれば――彼らの最も貴重な文書を神殿
に隠した。
ほとんどのものがこの戦いでしに、ティトゥスは神殿を徹底的に破壊しつくして、その財宝を
ローマに持ち帰った。だが、隠された文書があるという伝承はどうしたわけか生き残り――後
ほど解説――キリスト教会が聖地奪還のために十字軍を呼集すると、その伝承を受け継ぐもの
たちはその機会に乗じ、失われた文書を取り戻そうとした。
騎士たちの一人ジェフロワ・ド・サントメールは、ランベールという老いた学者を知っていた。現在で
は「ランベール・ド・サントメール」と呼ばれるこの人物に、彼は、1119年ごろに文書の一部を
送ったらしい。その証拠は、ランベールが現在、(天上のイェルサレム)と呼ばれる図像の書写で知ら
れていることだ。ここには、フリーメーソンリーの基本的なシンボルのすべてが登場する――
2本の柱、3つの定規とコンパス――メーソンリーがヨーロッパに設立されたのはその5世紀の後のこと
だというのに。
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ロマスとナイトの指摘によれば、(天上のイエルサレム)(あるいは〈新しきイェルサレム〉)は、エゼキエルの幻
視に基づくもので、死海文書にも登場する。彼らの仮説はあまりにも複雑すぎて、ここで
簡単に要約するわけにはいかないが、その結果はこうだ。「〈天上のイェルサレム〉の巻物の発見
から明らかになったことは,、、、、、、、、、、テンプル騎士団に伝わる秘密は、彼らが発見した古代
の文書に記されていたのであり、そしてその文書は、ナザレ教徒(すなわちクムランのエッセネ派)
がそこに隠匿したものだったのである」。
もしもこの文書が、神殿の地下で発見されたものであるなら、フリーメーソンリーがエッセネ派に知ら
れていたということの確証となる。そこでロマスとナイトは、イエス時代のパレスティナに目を向ける。
そして次々に重要な事実が見つかった。
まず第一に、(キリスト教徒の知るナザレの人イエスと、彼の同時代の人々が知るイエスとはまっ
たく別の人物だったということだ。実際、イエスの時代にはナザレという町は存在していなかっ
たのだ。だからイエスは、「ナザレ派のイエス」と呼ばれていたのであって、「ナザレ人のイエス」だった
のではない。
このナザレ派というのは、ユダヤ教の清教徒といってよいだろう。彼は、厳格な菜食主義者
で、動物の生贄を拒絶し、モーセの霊感を認めない。シャル・ギュニベールは「彼らはある意味でエッセ
ネ派に似ていた」というが、ロマスとナイトは彼らこそがエッセネ派であった、と説得力豊かに論じて
いる。
ロマスとナイトは、ナザレ派が今もイラク内部に「マンダヤ教」として生き延びている事を知った。彼
らはキリスト教徒なのか?いや、まったく別物だ。彼らの献身はイエスに対してではなく、その従
兄弟である洗礼者ヨハネに捧げられているのである。イエスに対する評価は極端に低い――彼は
単なる反逆者であり、自分に託された秘密をばらした異端者であるという。
アーコン・ダロールの「秘密結社の歴史」(1961)によれば、マンダヤ教徒とは「古のグノーシス主
義を奉ずるものであり、参入儀礼、法悦、そしてフリーメーソンリーのそれに似ているとされる儀礼
を執り行う」。
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さらに、マンダヤ教徒は特別な握手方を採用し、またその儀礼においては、――フリーメーソンリー
と同様――参入者が死からの復活を模倣する。ロマスとナイトは、これによってフリーメーソンリーの紀元
が17世紀どころか、もっとはるかに古いものであることを示すには十分と考えた、その
説を否定するのは困難だ。
それではここで、彼等の驚くべき、そして非正統的なキリスト教観を見よう。
彼らによれば、イエスは単に博愛だけを説いた説教師ではない。彼はローマ勢力の駆逐を望み、
その為の叛乱を率いようとした。彼の考えは多くの人を激怒させた。
「すべては同じ方向を向いている。イエス、あるいは当時の呼び方でいうならヤホシュア・ベン・
ヨセフは、イェルサレムでもクムランでもひどい嫌われ者だった。彼の計画は彼の一族のそれよりもはる
かに過激であり、クムランの理解を絶していた。すべての証拠が指し示すところによれば、マリア
やヨゼフも含むほとんどの人が応援していたのは、ヤコブだったのだ。」
ロマスとナイトによれば、エッセネ派はイエスと洗礼者ヨハネを二人のメシア、すなわちフリーメーソンリーの基盤で
ある「二本の柱」として受け入れたという。クムランとは、アーチのある入り口という意味で、柱
を繋ぐアーチが神なのだ。
洗礼者ヨハネの死によって、イエスはさらに過激化し、自ら「第二の柱」という従兄弟ヨハネ
の役割を兼任しようとした。これによってクムランは混乱に陥った(強調しておかなくてはな
らないが、ロマスとナイトは、どんな法外な主張をしているときも、きちんと歴史文書を引用し
ている)。イエスは宣教の間(それは一年だけだったが)、信奏者集めに費やしていたが、辺鄙
な場所で説教していたのでローマ人は気にもかけなかった。
それから彼は、行動を起こすべき時だと決意した。王はロバに乗ってやってくるという
預言者ザカリヤの予言を成就させるために、彼はロバに乗ってイェルサレムに入城した。それから彼
は神殿へ行って騒ぎを起こし、両替屋を襲った。その後、近隣のベタニア村に退き、革命の到
来待った。
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、:2008/05/22(木) 08:16:17 0
ローマ人はイエスの人相書きを作った。それは現存しているが、彼を短躯(約4フィート・6インチ・
約137センチ)、禿頭、猫背として描いている。弟のヤコブが先に逮捕され、彼自身も神殿
から谷一つ隔てたゲツセマネで逮捕された。この位置からは、神殿の東門の二本の柱がよ
く見える。両者を繋ぐアーチもだ――新しきイェルサレムの二本の柱、すなわち彼自身だ。
どうやら彼は、自分が逮捕されるとは思っていなかったらしい。彼はまず衝撃を加えた。
それは時を移さずしてユダヤ全域に広まり、彼の旗印の下に人々を結集させるはずだった。
それから、ヤハウェの神佑を得て、2世紀近く前のユダス・マカバイオスと同じことを民のために行お
うとしたのだ。だが、彼はローマ人と、その走狗であるユダヤ権力とを見くびっていた。彼らは
この叛乱を芽のうちに摘もうとしたのだ。
私の古い友人である、傑出したユダヤ人学者のヒュー・ションフィールドは、イエスは十字架上で死んで
はおらず、仮死状態になる薬を与えられたのだと考えている。この件に関する彼の主張は、
「過越祭の陰謀」(1965)で説得力豊かに展開されている。
つまりイエスは33歳で磔刑に処せられ、その死体は特別に誂えられた墓に埋葬された。だ
が、2日後に死体は消えうせ、弟子たちは彼が生きているのを見た。だがその日付に関し
ては議論が戦われている。イエスが紀元前7年の生まれだということはほぼ確実だ。というこ
とは、ミレニアムは実際には1993年だったことになる。
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、:2008/05/22(木) 08:19:46 0