2 :
世界@名無史さん :2007/05/21(月) 21:45:54 0
神聖ローマ帝国初代皇帝オットー1世が2getだ!!!!
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
/\ /\ /皇\/../
/ /\ \(´∀` )./
())ノ__ ○二○二⌒/../
/ /||(二ニ) (___/../ 几l
γ ⌒ /|V||彡Vミ/⌒_ノ二二ノl0
l| (◎).|l |((||((゚ )/⌒/||三三三・) || (´⌒(´
__ ゝ__ノ  ̄(___) ̄ ゝ__ノ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(´⌒(´⌒;;
マヌエル
>>1 世へ ギリシャ人の皇帝必死だな(ワラ
ティベリオス
>>3 世へ 先代にクーデター起こして先々代にクーデター起こされてんの(ワラ
コンスタンティノス
>>4 世へ 戦闘力はブルガール人>>>越えられない壁>>>ギリシャ人であることが確定したな(ワラ
ミカエル
>>5 世へ カラファテスって(繋ぎ)いいあだ名ですね(はぁと
ヨハネス
>>6 世へ 戴冠おめでとう。トルコ人に感謝しとけよ(ワラ
ヨハネス
>>7 世へ 確かトルコ人にコンスタンティノープルあげようとしてなかった?随分気前がいいんだな(ワラ
ミカエル
>>8 世へ 見事な策略だな。ギリシャ人の本領発揮だな(ワラ
3 :
世界@名無史さん :2007/05/21(月) 21:54:01 O
>>1 乙。いままで総合スレがなかったのが不思議な位だ。
>>2 センスなさ過ぎ。
せめてシメオンとかにしとけよw
>>1 鮮やかなスレ立て乙!
約束の報酬だ( ・∀・)つ @オボロス
7 :
世界@名無史さん :2007/05/22(火) 03:56:43 O
2ゲットがオットーか…
同じオットーでも孫の3世ならこのスレと親和性が高そうだがな 彼がもし長生き出来たら、その後の歴史はどうだったかと妄想するのも楽しい
10 :
世界@名無史さん :2007/05/23(水) 01:42:41 0
ぼくはコンスタンティノスage
11 :
世界@名無史さん :2007/05/23(水) 02:56:26 0
ビザンチン皇室慈善舞踏晩餐会 at 目黒雅叙園
12 :
世界@名無史さん :2007/05/23(水) 03:05:19 0
ブルガリア人殺し
>>11 そんな恐ろしい晩餐会行きたくねぇよ
クーデターやら暗殺やら、兄弟殺し、幽閉で済めば良い方なんてとこだろ?
>>4 オボロス ってどんな貨幣なの?ノミスマとは違うの?
>>13 変な野心やクーデターをたくらまなければ、
またはそういう人物と関係を持たなければOK
というかクーデターや王位争いで負けたほうは
悲惨な目にあうというのは東ローマだけではない
問題は皇位継承の決まりが元老院、市民の支持を得たもの というアレクサンドロスの「最も強きものが」的なあいまいな ものだったから争いが頻発したということだ
ただ、それが農民出身の皇帝を出すような社会の流動性を産んでいたのも事実。 後期になると貴族同士とか皇族同士の争いになって、国政の混乱しか産まなくな ったが。
不勉強で2世紀のローマ帝国までしか知らないんだが、 ビザンツ時代の末期まで身分の流動性は保たれてたの? 個人的にはディオクレティアヌス〜コンスタンティヌス1世までには、 自作農は死に体になって小作農化したような感があるんだけど こと農地に限って言えば、歴代皇帝は領主の土地所有を制限したし、 バシレイウス2世などは不当な財産などの没収もしてるよね? 年代が降って皇帝への登極の条件として貴族層からの支持が不可欠なものとなってからは、 あまり貴族に強く出る事ができなくなったと聞くし それと唐帝国みたいに官僚層と貴族層(高級官僚含む)の抗争はあったのかな? 質問ばかりでスマソ
>>18 不勉強過ぎ。せめてウィキペディアの「東ローマ帝国」「テマ制」の記事位読ん
でからおいでなさい。
>>18 不勉強は言いすぎとしても、おれも19と同じくとりあえずウィキペディアをお勧めする
>>唐帝国みたいに官僚層と貴族層(高級官僚含む)の抗争はあったのかな?
中期では首都の文官貴族と軍事貴族の対立はあったよ
>>11 それは「帝国と慈善」を買う金があれば焼肉食えるってことかw
>>22 叙々苑と間違えたんだろ。
まあ、確かに「帝国と慈善」を買う金があれば、結構良い物は食えるが。
東ローマの始まりはいつから? コンスタンティヌス大帝がコンスタンチノーブルに遷都してからでok?
27 :
世界@名無史さん :2007/05/24(木) 17:23:27 O
繁文縟礼 周辺諸国使節が、マンガナ宮殿で皇帝に謁見する時は、「いと高き黄金の玉座に座したもう、大皇帝陛下」と、マンダトールに対して呼び掛けなければならなかった。
コノンがレオーンに名前を変えたのは 皇帝になってから?
30 :
世界@名無史さん :2007/05/24(木) 18:39:06 0
>>24 目黒雅叙園ですよ、ググッてみてね
「ビザンチン皇室日本大使」デヴィ夫人が催した慈善舞踏晩餐会
売上5700万円−経費2000万円=寄付150万円
残りはどこに消えたのかわかりません
>>26 特に明確な決まりはない。
そもそも「東ローマ帝国」だの「ビザンツ帝国」だのは後世に考えられた概念で
あって、当時の帝国政府や住民はあくまでも古代からのローマ帝国が継続してい
ると考えていた。
>>27 バルバロイは黙ってろw
>>30 ちょwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
俺も勲章欲しいwwwwwwwwwwwwwwwww
デヴィ夫人てビザンツ皇后てな感じがする人だよね、売春婦からでも皇后に
なれた国だし
それと聖ヨハネ勲章とと聖ジョージ勲章てなによwwwwwwなんで英語なんwwww
>>だいぶ笑わせてもらいましたwありがと
ビザンツの「ローマ人」とはコンスタンティノポリスやアナトリアに 住んでいたギリシャ語の話者であって、ペロポネソスに住んでいた ギリシャ語話者は首都民から「ギリシャ人」と呼ばれた。 自分たちもラテン語を忘れてギリシャ語をを話しているんだが
>>33 それは古代ギリシャからの信仰を保持してた人でしょ。
ペロポネソスでも正教徒ならローマ人じゃなかったっけ?
ペロポネソスは属州という感覚でしょ
>>25 イサウリア朝の最初の時もそんなもんじゃない?
>>37 あの頃はまだシチリアとかラヴェンナとかがあった。
皇帝の地位のあまりの不安定さ(実質88人中33人惨死)!
帝国統治の要諦たる「ローマ法大全」で、既に皇帝の立場に対するぶれ=矛盾が見える。
皇帝像の極端な荘厳化とそれに対する反動(「ストラテギコン」や「エパナゴゲー」等が時代をまたいで著される)。
↑
これって、ローマ的な合議(民主制?)と、東方的の君主制が混在することから来る構造的な不安定さ?
>>16 >>17
40get!
>>39 後期になると血統重視になるけどね。
不安定なようで、千年持ってるから凄いんだけど。
>>39 「元老院、市民、軍隊による推戴」という建前と、絶対的な君主制。
強大な権力の割に地位の不安定な皇帝。キリスト教と古代ギリシャ文化
の伝統…ビザンツの歴史は矛盾に満ちている。それが面白いんだけどね。
>>41 >>42 成る程、要因はともかく、矛盾・不安定さを内包しつつ、これ以上ないくらい芸術的な外交戦略によって長らえる。
帝国の魅力は、奥が深いですね。
自分はまだまだ、エトネーですわ。
外交というがそれほど特別なことをしているか? 敵対勢力の背後の勢力と同盟を組むとか、 第三勢力に敵対勢力をぶつけるなど。 アケメネス朝時代から現在に至るまで、どこの国でも 当たり前にやっていることでしょ? それに千年間同じ皇帝だったわけじゃないから それにいつも外交を重視しているわけでもないし
外交に頼っているという(批判的な)評判は 十字軍によって広がったイメージ
中期までは常備軍である中央軍とか、強力な海軍を持っていたしね。 十字軍時代になると傭兵頼みになってるから、フランクのバルバロイども がその時の印象を広め過ぎただけだろ。
>>中央軍 タグマタ?
はぁ、ごめんなさい。 「芸術的な外交」って思ったのは、皇帝を家父長とする、プネウマ的擬制家族秩序が、周辺諸国に持続的に機能していた時代の話です(コンスタンティノス七世の舅ロマノス一世が、ブルガリアから祖父と呼ばれてたように)。 文化的な下地を考えたら、中華より成功してたんではないかと。 一貫性という点では、ペルシア皇帝ですら「神とともにある朕らの兄弟」だもんね。
>>47 井上浩一先生とかは、タグマタを「中央軍」って訳してるね。
塩野七生先生にビザンツ帝国の物語を書いて欲しいな。 ローマ帝国の跡継がビザンツ帝国だから、題名は続ローマ人の物語黄金のビザンツ帝国、と言う題名で、塩野七生先生お願いします。
塩野はキリスト教化されて以後の「ローマ帝国」には興味ないでしょ。 ビザンツなんてある意味キリスト教原理主義国家だし。
>>50 氏
塩野さんは、第四回十字軍を肯定的に解釈していたような記憶があります。
コンスタンティノープル市内のヴェネツィアの居留民が十字軍側に立って
ビザンツ側を苦しめ、戦闘が終って降伏した後、十字軍側は当時の慣習に従って、
コンスタンティノープル市内を3日間の略奪を実行、
その時、ヴェネツィアの居留民たちも一緒に略奪と破壊に狂奔しました。
そして、ハギア・ソフィア大聖堂に立てこもった市民や聖職者たちは
殺戮され総主教の座は汚された事など、戦争だから当然という解釈でした。
塩野さんのハズバンドはイタリア人ですから、徹底してイタリア人の
視点から見ているのだと思います。
塩野女史はイタリアが好きなんでしょ? ギリシアの事は書かないと思う コンスタンティノープルの陥落もイタリア人の係わりで書いている様に見えるし
>>ビザンツなんてある意味キリスト教原理主義国家だし。 中世にあった国はみんな原理主義か?
>>50 ローマ人の物語XIIを読んだ?
「ローマが首都ではない国はもうローマ帝国ではない」
「東ローマはローマ的ないいものを早々に失った」
原理主義ってのは教典の本旨を絶対視することだが
>>38 ウマイヤ朝にアナトリアの大部分を占領され
首都も包囲されていたのでイタリアとの連絡は
断たれていたんじゃない?
>>50 カエサル狂いの塩婆なんかイラネ。
あの妄言婆さんのせいで学術的にローマやビザンツを研究してる人は迷惑してる
はず。まあ、塩婆は映画字幕における戸田奈津子みたいなもんだ。
>>56 そういう意味ではルターとかの方が原理主義だな。
塩婆見ると、第二次大戦〜現代日本の諸問題にはやたら批判的な癖に、 外国の不都合は平気でスルーするウヨサヨや馬鹿女と同じものを感じる。 そんな俺は超重装騎兵クリバノフォロスとかカタクラフトとか大好き。
>>28 レオーンてあだ名じゃない?
「ハザロス」「ブルガロクトノス」と同じようなもんで
>>55 子宮でカトリック史観を感じるとそんな結論になるんだろうなw
ローマが皇帝の権力強化と一元的に政治の求心力を高める
辺りからこそ歴史のダイナミズムが始まるんだけどな。
>>52 と言うか典型的なカトリック史観で辟易するわけだよ。
>>51 それは寧ろカトリック史観にこそ言えるものだよ。
塩野はカトリック史観でもなんでもないだろ…。 キリスト教のせいでローマ的なものは滅びたって言っているのに。
ま、いずれにせよ塩婆にビザンツを語る資格はないということでFA? というか、古代ローマを語る資格もない気がするが。 問題はあの婆さんの害毒が蔓延していることだ。
>>61 カトリック視点といういうよりヴェネツィアより
塩野さんは東海大学に居たことがあるんだってね そのわりに、東海系の表記はしてないな。塩野さんが東海大学系の表記をしたビザンツの本をだせばそれが一気に定着しそうだ…
もう塩婆さんはいいよ
>>65 いい加減にしろ馬鹿
塩婆は不要だと言ってるだろ、カス
俺は複雑な気持ちだ、彼女が書けばビザンツをしる人が多くなるだろ? でも多くなった人達は間違った知識を植え付けられとるかもしれない
塩野スレも荒れてるみたいだ ここでも塩野の話題はやめとこう
>>68 彼女の勘違いビザンツ観を撒き散らされたら迷惑。
古代ローマだけだって迷惑だし。
塩野はNGワードだな
>>47 イコノクラスムで有名なコンスタンティノス5世だが
中央軍を編成したということはあまり知られていない
>>31 西ヨーロッパ側がローマ帝国本流を名乗りたいとき存在自体都合が悪かったしねw
>>52 略奪?マジで?
メフメト二世なんて「イスラムの教えに反して」略奪を(多分強引に)やめさせたってのに(´・ω・`)
>>74 藻前は今までフランク人どもの蛮行を知らなかったのか?
>>74 ヴェネツィアの四頭の馬は、コンスタンティノポリスからの略奪品の一部ですよ。
>>74 メフメト2世は「三日間の略奪」は許したよ
たしかカタロニア傭兵団に加わってたはず
80 :
世界@名無史さん :2007/05/28(月) 09:18:47 O
>>79 可能性はあるでしょう
ユスティニアヌス時代にはラティカと呼ばれるカフカスの端っこ領有してたし
中央公論社から出た「第四の十字軍」はすごく面白かった。 当時のコンスタンチノープルの雰囲気とかよく描写されてたよ。
82 :
世界@名無史さん :2007/05/29(火) 00:41:54 0
俺はビザンツが復活すると思う なぜかそう思う
ふと思ったが、イタリアではローマ帝国崩壊後も共和制志向の都市が多く残って ルネサンス期に活躍したが、同時期のギリシアでは民主制の伝統を残した都市なんて殆ど 存在していなかったように見えるが、それは一体どうしてなんだろ?単純に置かれた状況の違いか?
レオーン3世が帝位についた時は ヘラクレイオスが帝位についた時より 危機的状況だったのでは?
>>83 バルカンのギリシャ都市はスラブ人に占拠されたか
(スラブ人に取り囲まれたか)
ビザンツの一部になったか
アナトリアもビザンツ領
ヘレネス全域が破壊される中でスパルタも押し流された。 スパルタはローマの搾取のせいで、もはや自前の戦士や軍により守られることもなく、 我らの共同体を破滅に導くあらゆる出来事の中で 裏切り者や(ローマ人など)征服者の歓心を熱心に惹こうとする支配者どもにより放棄されたのだった。 紀元5世紀の歴史家 ゾシムス『歴史』 紀元396年に西ゴート族によるスパルタ破壊の記録。
>>ルネサンス期に活躍したが その頃のバルカン、アナトリアにあったギリシャ都市は セルビア、オスマン、ビザンツ領といった帝国領
89 :
世界@名無史さん :2007/05/29(火) 08:44:07 0
>>78 オスプレイ・メンアットアームズの本によるとカタロニア傭兵団の一員だったMuntanerという人は
アラン人を「東方で最良の騎兵」と書いており、1301年に5千〜8千名がトラキアに入植し
土着民の中で最良の兵士より2倍の給与を得ていた。
弓矢で戦う軽騎兵だったようです。
キプチャク汗国軍のアラン人部隊は重装騎兵だったとかどこかで読んだ気もするが・・・
検索してたらMuntanerの自伝の英訳がネット上にあった。
614ページもあるので開くときは注意。
ttp://www.yorku.ca/inpar/muntaner_goodenough.pdf
本日で、滅亡してから554年経ちますた。
中世が終わってからまだそれしか経ってないとは
近代という時代が終わるのはいつのことになるんだろうな。
93 :
世界@名無史さん :2007/05/29(火) 18:43:48 0
マヌエル2世の著作類、岩波文庫辺りで邦訳出版してくれないかな。 「あるペルシャ人との対話」読んで見たい。
>>92 > 近代という時代が終わるのは
もう終わっているのかもしれないぞ。
近代・中世の区別は切りがないから止めよう。
ったく、554回忌だというのに瑣末な議論を! まあ、ある意味ビザンツらしいけどな。
>>96 >>近代・中世の区別は切りがないから止めよう。
それと瑣末なのがビザンツらしいって?
>>96 中世と近代の区切は?というのは
学者の間でもちょっとした論争になっている
ビザンツ軍事史
そしてこれ以降、海上においてはビザンツが完全に優位に立つようになったし、
陸上のイスラームのビザンツ領侵入は、多くが、征服目的ではなく、小規模な略奪目的のものとなった。
両国の間には、ようやくある程度の均衡が成立したと言える。800年頃の両国の歳入が、
15倍以上の差をつけてイスラームが勝っていることを考えると、ビザンツの軍管区制は
国防組織として、見事に機能したと言える。
http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2004/041001.html >>800年頃の両国の歳入が、15倍以上の差をつけてイスラームが勝っていることを考えると
この時のイスラム勢力って主にイベリアの後ウマイヤ朝とイラクのアッバース朝だよね?
15倍以上の差をつけていたイスラム勢力ってアッバース朝かな?まさか両方というわけじゃないよね?
>>両方というわけじゃないよね? ○両方の領土を合わせて
息子の目潰して皇位簒奪したエイレーネーが聖人扱いなのは何故?
>>99 素直に読めば直接的に対峙した相手との比較だよな。
宗教で特別なことをしたとは思えないヨハネス3世(政治的には名君)が聖人で 敬虔なキリスト教徒であり、アトス山修道院の許可を出した ニケフォロス2世が聖人ではない所を見ると 聖人認定とは中の人の意向が深くかかわるのだろう
>>99 同じイスラムでもレオーンの時はウマイヤ朝。
800年にビザンツと対峙したのはアッバース朝だよな。
>>97 宗教論争で、傍から見てると瑣末にしか見えない議論が多かったから
だろ。ビザンツ好きにはすぐ分かるネタだな。
>>101 井上浩一先生の『世界の歴史11 ビザンツとスラヴ』くらい読もうよ。
>>104 ニケフォロス2世は聖職者に清貧を求め、修道院の大土地所有を制限した
からね。教会受けが良いはずがない。
>>105 アッバース朝から分裂したアグラブ朝なんてのもある
日本ビザンツ学会ですら瑣末な議論に囚われている
>>104 ヨハネス3世は夫婦そろって慈悲深かったらしいぜ。
慈悲深い→教会に土地をいっぱい寄進→おまいは聖人だ
って感じか?
でも当時の状況でそんな余裕あったのかな? 協会領は非課税だろ?
>>109 ギリシャ語の表記問題とかね。
もともと関西と関東で仲悪いらしいし。
学界の代表和田先生、副代表井上先生というのも「たすきがけ人事」っぽ
いし。勿論お二人とも実績のある学者ではあるが。
>>106 瑣末っていえば、皇帝の偶像化に重要だった、コンタキオンに詳しい人いないの?
>>109 ウイキではアラブ人の日本語表記で結構もめている
>>教会に土地をいっぱい寄進 本当にやったの?
言ってしまえばルターの新教と旧教の問題も瑣末である
言ってしまえば天皇の万世一系論も瑣末である
言ってしまえば天動説と地動説の議論も瑣末である
宗教論争って利権争いだろ イコノクラスムなんて偶像論争の皮をかぶった 宗教勢力と政治勢力の権力争い、財政争い。
言ってしまえば宗教論争はみんな瑣末である
瑣末な議論ばっかりしていたのに1000年も生き延びたというのが謎だ。 もっと早くに滅んでいても不思議はなかったが。
>>114 ニカイアを発展させたが協会に対してなにか貢献があったとは思えない。
エイレーネーの頃とヨハネス3世の頃とは、教会の中の人も感覚も政治状況
も違うということだろう。
>>122 瑣末ではないんだよ。宗教論争と見せかけて
政治・経済の利権が絡んだ紛争だったということが多い
>>122 国会ではわけのわからない、瑣末なことばかり
議論しているように思うが。日本は滅んでいないだろ。
誰かコンスタンティノスのブルガリアに対する9回の遠征の詳しい内容教えて テレツに勝ったアンキアロスの戦いが有名だけどそのほかの遠征の実態が知りたい。
乾隆帝の十全武功のような「勝利宣言したけど実態は敗戦、苦戦ばかり」じゃないよな?
128 :
世界@名無史さん :2007/05/30(水) 13:03:33 0
池乃めだかの得意のギャグ ボコボコにされといて「今日はこれくらいで勘弁してやる」
>>83 氏
>>単純に置かれた状況の違いか?
思うに民主制の基盤としては経済的に自立した都市市民階層の繁栄が必須ではないでしょうか。
室町時代末期の京都で富裕だった町民は戦乱の続く京都を脱出して堺の町を作り自治を得ました。
彼らはある面「信仰の自由を求めて」の逃避行だったようです(町人階級に法華衆が多く、比叡山や一向宗徒からの抑圧から逃れる為のようです)。
その背景には堺の町衆たちが、傭兵を雇うだけの経済的基盤があったとされています。
ルネサンス期のイタリア諸都市国家も経済的に自立した都市市民階層の繁栄があり彼らが市民自治の担い手でした。
ビザンツ帝国の衰退期、当然ですが帝国傘下の諸都市国家も経済的疲弊しており、その背景の一つには中小自作農の没落とテマ制の崩壊があり、その点を経済史的に追求して行くと、ビザンツ史の別な側面が見えてきてとても面白いです。
>>119 大土地所有者だった修道院を弱体化させるため、という説もあるしな(今のアト
ス山でもそうだが、イコン製作は主に修道院で行われている)。
>>129 堺は自治と言うより、当時機内を支配した三好氏の権力に密着した都市。
堺において三好氏は「堺幕府と言うべき権力機構を作っていた。
>>114 そこからは俺の予想
でも、それ以外考えられなくない?
穴馬で実は奇跡を起こしてたってのもあるが?
スレの速さに驚いた
今がマケドニア朝あたりだな 今からはぐだぐだ〜回復〜ぐだぐだ てな感じて縮小していくだろ だってビザンツスレだし
>>114 そのときの聖人を決める人は愛国心が強い人で
教会云々より政治手腕を称えて聖人にしたということなんじゃない?
>>128 もしかして実際の遠征もそんな感じだったんだろうか
>>137 バルバロイって「言葉がわからない人間」という意味だよ
それと少々のことで目くじらを立てるのはやめたほうがいい
>>138 ビザンツのことを悪く言う奴は蛮族扱いなのが、前スレからのデフォ
そんなデフォあったっけか?
>>126 オストロゴルスキーにも、尚樹本にも、「ビザンツ帝国とブルガリア」
にも書いてない。もしかすると記録自体が少ないのかもね。
144 :
世界@名無史さん :2007/05/30(水) 23:20:40 O
>>143 そうだね、オストロゴルスキーの帝国史の方が若干詳しいぐらいだった。
ビザンツ帝国とブルガリヤに載ってると思ったけどさらりとスルーしてた
145 :
世界@名無史さん :2007/05/31(木) 02:27:55 0
ビザンツで銃・火砲が最初に用いられたのはいつ頃でしょうか? 自分が知ってる例は1453年の首都防衛だけなんですが・・・
>>83 歴史の発展の仕方が違ったから。
古代都市国家の点在から面の支配としての諸都市国家の融合への結果が中世ビザンチン帝国で、
ローマ法と官僚制度と皇帝制度をイデオロギー的にキリスト教で補完して政教の融合と言う形で長命した。
つまり多様な地域の支配の必要から政体としての共和制から君主制へ移行した。
これは衆愚政治や寡頭政治に対する懸念或いは経験からとも言えるかもしれない。
もともと多神教から一神教に改宗した時点で、一元的な政治的求心力の
必要性が共和政と言う選択肢を放棄させ、皇帝における政治と信仰の融合が生まれた。
イタリアでは立体的な偶像の肯定が顕著で(特にマリア像)、これはローマ人以外の
入植してきた多神教的で偶像崇拝に慣れた民族の改宗や支配の手段として。
つまり政治の多元性はそのまま信仰の多元性と被っていた。
この理由は信仰が政治のイデオロギーの役割をしていたから。
そして西欧の政教の二元論もこの延長から生まれる。
バチカンが守ってきたローマ的なるものとゲルマン的なるものが融合しなかった。
もともとフランク族等広義のゲルマン民族はラテン人ともギリシャ人とも違い、多元的な政治を
好むような気がする。典型的なものは領邦国家ドイツ。
>>129 帝国と慈善によるとビザンチン経済の悪化はパンとサーカスが寄進による年金と祈りに変化し
農業からの税収が落ちたせいだと言う。
>>121 それは法律論争が瑣末なのと似ているし、ビザンチンではそれがまた重要だった。
信仰の論争とは法制度の解釈そのものと言える。これが西欧より厳格に
行われたのがビザンチンだろう。例えばイコンの容認の程度はそのまま皇帝の権威の程度、
勅令の法的な効果、と言うことにも成り得た。
この点日本では、天皇制度における天皇の権威の程度が、
戦前の勅命や戦後のお言葉やその影響が、キリスト教の影響も大きい明治神道の創出
や強化と平行していたと言う類型で理解できる。
例えば軍人勅諭は勅令の一種として理解でき、憲法施行以前の日本の軍事制度の
根幹の一つとなった。これが天皇の勅諭と言う形式をとった理由は神道の権威により
軍人の道徳律或いは規則として機能させようしとしたから。これはビザンチン皇帝の発した勅令と
何等違いはない。ビザンチン法制度を直接受け入れたドイツ法をまねた明治政府が天皇制度を
強化しようとしたのは偶然ではないと思う。
現代の日本は分権化と言うことで、多分多元的な信仰が復権普及し、
明治神道の歴史を遡及するような変化が起こると思う。これはビザンチンの歴史の
遡及とも言えるのかもしれない。
ビザンチンをよりよく知りたいのなら人間よりも制度の変遷に注目した方がいいと
思う。ローマ法の影響は世界にも絶大なものがある。
Tit. 4. Concerning the constitutions of the Emperors.
1. Ulpianus, Institutes, Book I.
Whatever the Emperor has decreed has the force of law; since by a Royal ordinance which was passed
concerning his sovereignty, the people conferred upon him all their own authority and power.
(1) Therefore, everything which the Emperor decrees by a letter over his signature,
whether he decided after examining it or did so without judicial consideration or ordered it
by means of an edict, has the force of law; and these are what we generally designate constitutions.
(2) Among the latter there are some which are special, and are not to be employed as precedents;
for whatever the Emperor has granted to anyone as a reward of merit, or where he inflicts a penalty,
or relieves a person in an unusual way, this does not extend beyond the party in question.
http://web.upmf-grenoble.fr/Haiti/Cours/Ak/ 日本の天皇の権威と法律や憲法の効果の関係は実態的には歴史と伝統(慣例)だが、形式的には
ドイツ法典の起源ローマ法典の以上の部分からだ。現行憲法の天皇の法律の公布に関してもそうだ。
これでまた日本史の話を展開する馬鹿が出そうだな。
>>146 >もともとフランク族等広義のゲルマン民族はラテン人ともギリシャ人とも
>違い、多元的な政治を 好むような気がする。
ビザンツ領に侵入してきたスラヴ人はどうだったんだろ。
>>151 ギリシャ人と同化したか
自分の国を建国したりした
(ブルガリア、セルビア)
>>153 周辺民族に対する蔑称なのには変わりがない
>>154 変わるよ。バルバロイは「言っていることがわからないもの」
という意味の以外の何者でもない。
マヌエル2世はなぜ神聖ローマ帝国と戦争したの?
テマ→民兵 タグマ→皇帝直属の軍隊 という感じ?
159 :
世界@名無史さん :2007/05/31(木) 13:45:20 O
>>158 過去スレの終りの方に詳しい人がレスってたよ
>>156 それは古代ギリシャの場合だ。
ビザンツの場合「ローマ人」は、それ以外の諸民族より上という認識。
野蛮人ってギリシャ語でなんていうの?
ビザンツでのローマ人とはトラキア、アナトリアのギリシャ語を話すキリスト教徒
ブルガリヤつながりでブルガリヤの同人誌かった奴はこのスレに居るのかと聞いてみる
携帯だからHP貼れなくてスマン 第一次ブルガリヤ帝国に関する同人誌らしい
そこはキエフ・ルーシの歴史も出してたな。 ビザンツ史の同人誌って聞かないな、そういえば。誰か出す奴いないかね?
ブルガリア人・アルメニア人 「ねんがんの どくりつを たっせいしたぞ (ヨハネスが死んで)」 バシレイオス 「ころしてでもうばいとる」
>>126 アンキアロス以外は大きな戦闘はおこらず
ブルガリア領内の略奪、破壊といった程度だったんじゃない
東ローマ皇帝マヌエル1世、漢武帝、ムガール皇帝アウラングゼーブ、イングランド王ジョン欠地王、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、フランス王ルイ9世、フランス皇帝ナポレオン3世 共通点。積極的に外交交渉、戦争を行ったが 失敗して国力を疲弊させたか国家を破滅させた。
ルイ9世の戦争は十字軍ぐらいでしょ。 それだったら弟のシャルル・ダンジューの方がいい
>>172 ユスティニアヌスが入ってないのはおかしい。
>>174 >>国力を疲弊させたか国家を破滅させた事で
ユスティニアヌスを172に入れるとしたら漢の武帝とともに
強運だった点で、他の連中を凌駕しているような気がします。
質問ですけど、今現在本屋で注文して買えるビザンツ史関連の本で これはお薦めというのを紹介してくれませんか? ちなみに現時点で自分の本棚には中央公論社のビザンツとスラヴがあります。
>>177 純粋にビザンツ史じゃ無いけど、中央公論社の「第四の十字軍」面白かったよ?
幻影の世界帝国はもう売ってないのか
井上浩一先生の著作は大半が絶版だからな・・・
>>177 尚樹啓太郎『ビザンツ帝国史』(東海大学出版会)\16,800
和田廣『史料が語るビザンツ世界』(山川出版社)\3,675
大月康弘『帝国と慈善 ビザンツ』(創文社)\9,975
ミシェル・カプラン(井上浩一監修)『黄金のビザンティン帝国』(創元社)\1,470
ポール・ルメルル(西村六郎訳)『ビザンツ帝国史』(白水社文庫クセジュ)\999
ピエール・マラヴェル(大月康弘訳)『皇帝ユスティニアヌス』』(白水社文庫クセジュ)\999
益田朋幸『世界歴史の旅 ビザンティン』(山川出版社)\2,940
尚樹本は頭の中で中世ギリシャ語と慣用形が変換できれば、かなり役立つ。高いけど。
『史料が語る-』は値段の割りに読み応えあり。『帝国と慈善』は値段に応じたレベルの本。
『黄金の-』は安いし、手に入りやすいし、図像も多いしお得。井上先生の監修だし。
文庫クセジュの2冊は値段が安いので、買っても損はないかも。
増田先生はビザンティン美術の専門家。写真が多くて、現地へ行きたくなる。
あとは、
ジョン・フリーリ『イスタンブール―三つの顔をもつ帝都』(NTT出版)\3,150
かな。ビザンツ皇帝かたオスマンのスルタンまで、とにかく歴代皇帝のエピソードが多い。
もちろん『ビザンツ帝国とブルガリア』とかもお勧めだけど。
ビザンツが全盛期の時は世界の富の3分の1と言われたのは本当ですか?
>>182 氏
>>世界の富の3分の1
今日のアメリカ合衆国が『世界の富の3分の1』を独占・支配していると言われることが多いですね。「『世界の富の3分の1』を独占・支配している」という表現は、世界一の帝国だったことを自負していたという比喩的意味でしょう。
かなり誇張もあるかもしれませんが、繁栄の絶頂期にコンスタンティノポリスを訪れたアラブの旅行家は「金色に輝いていた」と記述していたぐらいです。
繁栄の絶頂期は「黄金のマケドニア王朝時代」(9世紀〜11世紀前半)でしょう。
バシレイオス1世が開いたマケドニア王朝(867年-1057年)の時代には政治・経済・軍事・文化の面で発展を遂げるようになっていました。
彼の治世で東ローマ帝国は全盛期を迎え、政治面では中央集権・皇帝専制による政治体制が確立し、それによって安定した帝国はかつて帝国領であった地域の回復を進めています。
また文化の面では、東欧地域へ正教の布教を積極的に行って今日のロシア正教の基盤を、このころ整えたのではないかと考えられています。
そして、文人皇帝コンスタンティノス7世の下で古代ギリシア文化の復興が進められこれを「マケドニア朝ルネサンス」と表現する歴史家もいます。
軍事的には、10世紀末から11世紀初頭の3人の皇帝ニケフォロス2世フォカス、ヨハネス1世ツィミスケス、バシレイオス2世のもとで、北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服して、東ローマ帝国は東地中海の大帝国として復活して行きます。
さらに、経済的には東西交易ルートの要衝にあったコンスタンティノポリスは人口30万の国際的大都市として繁栄をとげます。
世界不思議発見でミストラがちょっと出た
>>183 最近,ビザンツがらみでアラブにも興味が出てきたから,
コンスタンティノポリスを訪れたアラブの旅行家名を,
気が向いたらでよいから書き込んでくれ.
183じゃないがイブン・バトゥータ
ローマ帝国より ビザンツ帝国や神聖ローマ帝国の方が語呂がいい
>>187 感謝です.
>>183 >>北シリア・南イタリア・バルカン半島全土を征服
>>東地中海の大帝国として復活
だけじゃなくて一時期,聖地エルサレムの支配すら回復しているよ.
このことはクリスチャンにとって大きな意味を持つとおもう.
>>ALL
自分はビザンツは専門じゃなくて日本法制史というマイナーな学問を志す若輩者.
でもビザンツ史と周辺のアラブ史やトルコ史,東欧・ロシア史って面白いなぁ.
特に様様な危機的局面での国家社会のリーダーたちの生き様が,
生き生きと浮かび上がってくる.このゾクゾク感はすごいと思った.
ここに来ているビザンツ史を志しているみなさんはがんばれよ^^
希望としてはアンチビザンツ的な塩野(塩野ファンの人ごめん(_ _))
なんか蹴飛ばせる歴史小説家が将来,出て欲しい!
>>185 そういえば世界不思議発見ってビザンツやらないよね
ナバラ王国もやらないね。 60分枠じゃグルメやちょこっと古跡を紹介したぐらいで終わりそうだし。
>>189 つ [第4回十字軍]
最初からエルサレムはどうでもよくてカトリック以外(正教含む)消えることが
栄光への道だと信じてたということかと
だから外交交渉で聖地回復なんてもってのほか
第一回十字軍ではエルサレムにいた正教も殺されたんだったな
>>農民出身の皇帝を出すような __ /;;;;;;;;;;;;;\ /;;:::::::::::::::::::::::\ ∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋ L::;;,__ ..:::ゝ //;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;ヽ / ;;;;;;;;:::::::::::;;;;;;;;;;;;;::::::::;;;;; ヽ /j/三三三三三三三三三三ヾ l::||:::: |l / ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| r┤ ト::::: \___/ || / \_/ ヽ:::. \/ ,ノ | _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__ | _)_ノヽ\ ハ // / ヽ ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ 呼んだ?そういえば払林は、わが中華の地に朝貢に来たことがあったな。
後期ビザンツにも朱元璋のような名君がいればな・・・ パラエオロゴス朝なんか親子喧嘩の繰り返しだし 末期は単なるギリシャの三流都市国家に落ちぶれ果てた。
>>196 さっぱり読めん。
誰か概略だけでもいいので教えて下さい。
しかし当時のシルクロードは北元とティムールに押えられていたのに
よく使者がコンスタンチノープルまで行けたものだ。
>>183 スレ違いだが、
世界のGDP総計443848億ドルのうち、124550億ドルが米国のGDPだから
米国に関しては比喩でもなんでもなく事実
まぁ在外資産とか込みで計算するとG7で9割ぐらい独占してるが
あまり除かないのですが、エトネーの方がよいかも。 どなたか、アスパルについて、詳しくて惚れてる方いませんか?コンタキオンを曲解して、地上に於ける皇帝の権威に結び付ける過程、面白いんだけど。 ゼノンの時代、利用され処刑されましたね。
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202 :
バルバロイ :2007/06/04(月) 06:19:17 O
>>201 時代はズレますが、ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』をお読みになってはいかがでしょう。遠因がわかるかも。
203 :
ベリサリウス :2007/06/04(月) 06:44:45 0
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>>203 BGMはユーミンのダウンタウンボーイ?もっと分かりやすい方が。
>>195 スレ違いだけど、洪武帝
って、いつから名君なの?
206 :
世界@名無史さん :2007/06/04(月) 07:59:08 0
ビザンティンの皇女アンナ・コムネナが第一回十字軍のころの手記で クロスボウのことをシャンクルと呼んでまさに「悪魔の武器」と書いてるんだが それまでビザンティンにはクロスボウがなかったつーことになるんかね
>>192 >>193 NHKの特集番組で見たのだけど(たぶん去年),
エルサレムにある黄金のモスクに先祖代々聖職者として勤務している方の
第1回十字軍占領期の先祖からの伝承を紹介していた.
その方によると,
「所用があってエルサレムをたまたま離れていた先祖はエルサレムがキリスト教徒(厳密にはカトリック)に占領された」
「自分の勤務するモスクに辿り着くと内部は死体の山だった」
「ひざまで血の海に漬かってモスク内を歩かなければならなかった」
という伝承が代々に渡り伝わって居るそうだ.
十字軍は手当たり次第にエルサレム市民を虐殺したようだ.
十字軍を冷徹に分析して行くと西欧社会の本質を知ることが出来そうだね.
>>206 ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%82%A6 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると
クロスボウは、
>>諸説あるが、東洋から伝わった技術により大きく発展したとも考えられている。
ということだたら、中世ビザンツのギリシャ人が知らなかったのかも知れない。
ウィキペディアは便利だね^^
西欧でも弩の軍事利用が復活したのは12世紀ぐらいだ。 ピクト人とかは狩猟用に使ってたりしたらしいが。
ごめん(_ _)
>>207 を加筆訂正します(_ _)
「所用があってエルサレムをたまたま離れていた先祖は,エルサレムがキリスト教徒(厳密にはカトリック)に占領された(ことを知り,慌ててエルサレムに戻った)」
「(しかし)自分の勤務するモスクに辿り着くと内部は死体の山だった」
>>207 西欧では、中世どころか近世になっても、抵抗して陥落した都市を略奪
するのは当たり前だったからな。
>>210 世界史板で日本近世史の話をするけど(_ _)ごめん(一応,日本法制史が専攻なので)
大坂夏の陣で徳川方は,大坂を徹底的に略奪し非戦闘員の大坂市民数万を虐殺し破壊し尽くした後,大阪を再建.
>>西欧社会の本質を知ることが出来そうだね.
の前言を撤回(_ _)
洋の東西を問わず歴史を知ることで人間社会の本質に迫ることが出来そうだと思う(_ _)
順調にビザンツから脱線中。 ビザンツって、そんなにネタないのか?
なぜビザンツ人は『ローマ法大全』をギリシア語に翻訳しようとしなかったん でせうか。
>>214 13世紀,亡命ビザンツ人法学者たちがイタリアのボローニャ大学でローマ法の体系的知識を伝えた.
そこからヨーロッパ全土にローマ法の体系的知識が伝播したと言われている.
ということは中世初期では,ラテン語の知識も当然ヨーロッパで一番だったと考えられる.
またビザンツ人たちはローマ帝国を自称していたからローマ文化そのものであるラテン語も正統後継者として受け継いで行かんとしたのではなかろうか?
>>213 ごめん,207(自分)みたいな門外漢が来ているから(_ _)
つい甘えてしまった.これから書き込みを自粛するね(_ _)
>>214 ギリシャ語翻訳もあったんだけど
なくなってラテン語だけが残ったとか
そういうものなんじゃないの?
>>またビザンツ人たちはローマ帝国を自称していたからローマ文化そのものであるラテン語も >>正統後継者として受け継いで行かんとしたのではなかろうか? やはりラテン語やローマが首都でないとローマ帝国とは見なされないんだろうか
( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄) ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄) ( ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ / \ / ヽ l::::::::: | |:::::::::: (●) (●) | キタイとの途中にあるインドとは |::::::::::::::::: \___/ | 何か接触したりしなかったの? ヽ:::::::::::::::::::. \/ ノ
>>214 >>216-218 レオーン6世の時代に「バシリカ」という、ギリシャ語に翻訳、改訂した法典が
出ている。
ただ本来はラテン語がローマ帝国の言語、という観念だけは残っててコンスタン
ティノス7世はヘラクレイオスによる公用語変更を「父祖の言葉を棄てた」と
書いている。
あと、都市ローマについてはコンスタンティノポリスは「新ローマ」だから別に
関係ない。
アラブ人は翻訳が非常に好きな民族だが、ローマ法はイスラーム世界にぜんぜん 伝わらなかったんだろうか。 あと、中世ロシアにはアリストテレス哲学やローマ法とくに『学説彙纂』が 入ってこなかったらすぃ。
>>219 分裂や興亡が激しいのでどこと関係持ったらいいのかわからん
>>212 > 非戦闘員の大坂市民数万を虐殺
それは聞いたことが無いけれど、どういう資料が残っているのですか?
大阪方が堺で虐殺したのは知っているのだけれど。
>>220 ビザンツではローマ法が忘れられたとか、活用されなかったというのは単なる
デマということか。
>>213 無いよ話題なんて
だいたい歴史が長いから同じビザンツ好きでも後期が好きな奴と初期が好きな奴とでは話が合わん
>>223 「雑兵たちの戦場」に少し記述がある
>>パラエオロゴス朝なんか親子喧嘩の繰り返しだし
やっているうちにバルカンはセルビアのものになってしまった
「ローマ人とセルビア人の皇帝」だっけ
お前の青臭いレスはウザかったが、別に自粛せんでも良いぞ 法制史が好きなら「ビザンツ法 断片 」 てな感じの高い本に確か七、八世紀頃の法律が載ってたぞ その本は俺の知るビザンツ本の中で一番分厚かった
>>152 ブルガリアやセルビアの国制はやっぱビザンツを縮小コピーしたような感じ
だったのかね。バルカンはローマ・ビザンツ支配の時期が長かったし。
>>146 ドイツが他の西欧の国に比べて分権的な傾向が強いのは、あの地域の大部分が
ローマ帝国の直接支配を受けなかったからではないかなんて考えてしまう。
素人の思いつきスマソ。
>>224 ちょいと前に上がってたビザンツ関連の本にも、普通に書いてあること。
ローマ法の保持は正統なローマ帝国として、むしろ重視されていた。
誰がそんなデマ撒き散らしたのか、知りたい位だ。
>206 ソレナリオンとやらの正体が気になるが あれはクロスボウではなかったんだろうか
>>231 例によって西方のご先祖さま達のおかげじゃない?
>>231 塩野七生『ローマ人の物語]X ローマ世界の終焉』
だが、『ローマ法大全』自体は、ユスティニアヌスが統治していた東方では活用
されずに終わった。ラテン語で書かれていたからである。ローマ人が作ったの
だから、彼らの言語であるラテン語で書かれていたのも当然で、また、実際の
編纂にかかわった四人のギリシア人の法律家も、法律が専門である以上はラテン語も
達者であったはずである。ところが、もはやビザンチン帝国と呼ばれるのが適切な
東ローマ帝国で普及していたのは、ギリシア語のほうであったのだ。つまり、
『ローマ法大全』は、ユスティニアヌスが訴えたかった相手には、言語の壁の
おかげで通じなかったことになる。
この不幸に、さらに時代の激変という不幸が重なる。『ローマ法大全』が完成
して百年しか過ぎていない七世紀、ペルシア人を倒したアラブ人によって、
ビザンチン帝国の大部分はイスラム化するのである。キリスト教国家にとっても
有効なローマ法は、イスラム教を奉ずる国々にとっては有効でないのかという
ことになるが、この問題は、イスラムの専門家にゆずるしかない。
>>234 元凶は塩婆の妄想か。
婆さんはさっさと大好きなカエサルとチェーザレ・ボルジアのいる世界に行っちまえ!
こんな糞文章を通す編集者は、よほど世界史を知らないアホなんだろうな。
七生かわいいよ七生
>>232 テュルクの「ナーワク」、朝鮮の「片箭」と同じで
弓を臨時にクロスボウにするためのものじゃ?
>>206 悪魔の兵器とまで言うとは
クロスボウは当時のセルジューク、
アラブ、ビザンツの飛び道具より
強力だったんだろうか
>>205 名君かどうかは知らんけど
英雄であろ事は間違いないよな。
アンチヒーロー寄りっぽいが。
↑どういうタイプミスだよ… . .... ..: : :: :: ::: :::::: :::::::::::: : ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: Λ_Λ . . . .: : : ::: : :: ::::::::: ::::::::::::::::::::::::::::: /:彡ミ゛ヽ;)ー、 . . .: : : :::::: ::::::::::::::::::::::::::::::::: / :::/:: ヽ、ヽ、 ::i . .:: :.: ::: . ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: / :::/;;: ヽ ヽ ::l . :. :. .:: : :: :: :::::::: : ::::::::::::::::::  ̄ ̄ ̄(_,ノ  ̄ ̄ ̄ヽ、_ノ ̄
242 :
世界@名無史さん :2007/06/04(月) 21:23:58 O
ビザンツとブルガリアやセルビアとの関係は中国の五代〜宋と遼金西夏のと似ていると思う。
ビザンツが唐に使者をだしたことがあるって聞いたことがある
>>240 バシレイオス2世も、どっちかっていうとそんな感じだな。
>>242 たしかに。ただ、ビザンツは宋と違って文官よりテマの長官や、タグマタの司令官の方が地
位が高いし、軍事力もそれなりにあった。
>>126 これぐらいは知ってるかもしれないけど少し調べたよ。
テレツ汗がアンキロスの戦いの後の反乱で死亡した後のブルガリアは、親ビ
ザンツ政権と反ビザンツ政権とで頻繁に支配者の交代が起こったが、ビザンツ
は事態が自身に不都合になると武力介入を行った。
772年テレリグが支配者になるとブルガリアは立ち上がりビザンツに牙をむいた。
そこで、コンスタンティノス5世は773年の春、大遠征軍を組織し、763年に
二重攻撃の戦術(艦隊と軍団を同時に使った戦術と思われる)を再び用いて
和平交渉の受諾を汗に強要することができた。
同年10月、テレリグ汗はマケドニア地方に侵入しようとしたがその試みも皇帝軍
により迅速かつ安易に打ち破られた。
この度重なる戦争はブルガリアに永続的な和平を強要させるほどではなかったが、ブルガリア王国を非常に弱体化させ、
軍事力を削ぎ、国家機能を麻痺させた。
テレリグでさえ内紛のためビザンツ宮廷に亡命するありさまだった。
長文スマン
ワリャーグ親衛隊ってグルカ兵みたいだ
>>246 乙。
これの参照元は尚樹先生の『ビザンツ帝国史』かな?
>>248 「ワリャーグ」という読み方を初めて見た。
>>246 > ビザンツは事態が自身に不都合になると武力介入を行った。
この辺はローマ帝国時代と全く同じ行動律だな。こういう伝統は継いでいたんだねえ。
>>249 オストロゴルスキーの方の「ビザンツ帝国史」を参照しました。
>>204 「私らしく」w
>>203 心配要らないw名君と言われて自省録までかいたアウレリウス帝も
外征に明け暮れた挙句、女房は浮気性、息子は淫乱ww
哲人皇帝の家族にして、これだww
挙句は陣中で没。
ローマ人の人生とはそういうものだwww
家族に恵まれて有能な皇帝って居るのだろうか?
>>253 そういえば、軽く上げただけでも、
バシレイオス2世
父は早くに死去、母は愛人に騙されて流刑
ヨハネス2世
母と姉が廃位を企む
とかだな。
講談社から出ている「興亡の世界史」シリーズで『イタリア海洋都市の精神』と いうのが出る予定だけど、イタリア諸都市とビザンツとの関係も書くのかな。
>>255 なんかあんまり期待できなそう。
シリーズそのものが、ビザンツそのものをスルーしている時点で終わってるな。
>>255 ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサの利権争いのネタで出てくるかもしれないが
>>253 ユスティニアヌスとテオドラはあれはあれで仲は良いのかなあ。
ローマ以外の皇帝でもあんまり思いつかんな…光武帝のところは仲良かったらしいけど。
259 :
世界@名無史さん :2007/06/06(水) 00:50:38 O
モレア専制公国に詳しい人いないの? ミストラッー スパルタァー
wikiのモレアス専制公領の項目より詳しい知識の持ち主ってどのぐらい居るのやろ。
261 :
世界@名無史さん :2007/06/06(水) 01:13:23 0
本職かよほどのマニアぐらいじゃね?
>>モレア専制公国 トレビゾンドとどっちがマイナーかな?
モレアのほうがマイナーだと思う
まぁ比べるならエピルスとかアテネ公国とか
265 :
世界@名無史さん :2007/06/06(水) 06:07:04 O
エピロス(エペイロス)に関してはランシマンが少し書いてるから少しわかるけ ど、特にシチリア国王マンフレディとの関係とかペラゴニアの戦いとか興味深い が モレアはビザンティン帝国末期には帝都よりも文化的中心地になったというから 興味を引くが、なかなか詳細がわからないからね
>>260 Wikipediaのモレアス専制公国を書いたのは本職らしい。
>>265 もともとの記録が少ないらしいからね。
専制公ですら、人物像がよく分からないのがいるし。
「バシレウス」の項目なんて他国語版と比べたら結構変わってるよな。
>>267 だって、あれを書いたのは「ビザンティン帝国同好会」の管理人だし。ビザンツ
マニアが書けば、ああなるだろ。
ノートでは「古代、近代の用法について加筆して下さい」みたいなこと書いてる
けど、未だに加筆なし。
近所の私大の図書館にChronicle of Moreaという本があったんで 開いてみたら本当に全部ギリシャ語の原文だった。 誰が読むんだこれ・・・
270 :
世界@名無史さん :2007/06/06(水) 14:21:30 0
院生とか教授じゃね?
そっち系の院はなかったと思うが・・・教授か
題名は英語で中身はギリシャ語か 表紙で俺にも読めるかなと期待持たせて中身で突き落とすって感じの本だな
>>モレアはビザンティン帝国末期には帝都よりも文化的中心地になったというから そうか、今のトルクメニスタンや北朝鮮のような軍事独裁的で文化不毛のスパルタの地が 中世では文化的中心地になったのか
274 :
世界@名無史さん :2007/06/06(水) 16:07:36 O
??? 意味がわからん
専制公っていかにも恐怖政治やってましたみたいな名前イメージ悪杉 名前だけで同時代だと普通の国とたいした変わらないよね?
>>274 モレア専制公があったペロポネソスは古代ではスパルタ領だった
とかいう意味だろ
>>272 それで思い出したんだけど、コンスタンティノス7世が書いた『帝国統治論』は、
タイトルだけラテン語だったらしい。
>>273 古代スパルタとモレアス専制公領じゃ時代が違いすぎるからなー。
古墳時代から現代と同じぐらいに年数が経っているわけで。
>>275 despotが専制君主の代名詞みたいになったから
それが日本語訳に影響したのかと思ってたけど
それとも元々そういうニュアンスがあったのか
詳しい人解説キボン
>>279 の見解であってると思うけど。もともとは帝位継承者に皇帝の呼び方の一
つを爵位として与えただけだし。
中国史専攻の俺にはビザンツの共同皇帝制がイマイチ理解できない。
デスポテースってラテン語のドミヌスに相当する単語?
共同皇帝ってシステムは血統による相続が確定的で無いなかで考えだされた 良いシステムだと思うよ。 ローマからの伝統で帝位は分け合えるからね、世界的にみたら珍しいのだろうか?
285 :
世界@名無史さん :2007/06/07(木) 23:44:54 0
>>284 すごく珍しいと思うよ。
だから「天下三分の計」というのがいつまでも語り継がれるわけで。
>>だから「天下三分の計」というのがいつまでも語り継がれるわけで ↑の意味が自分には分からない 共同皇帝とゆうのは平等に権力を分け合ったり、テトラルキアとは違うよ 後継者(息子であっても)を共同皇帝にして地位を固めさせたり、簒奪者 が権力の正当化のために正当な後継者を共同皇帝にしたりと色々な形があって そのときどきで違う、帝位に三人いたりした時もあった。
ローマの歴史的には最高指導者が複数いる、って言うのは 異常事態ではないわな。共和政時代も執政官は2名だったし。 そういえばイタリアの共和制諸都市も、最高権力職を複数制にしているところが 殆どだったような。
ちくま文庫版のギボンを読んでいたら「正帝」(アウグストゥス)と「副帝」 (カエサル)という訳語を使っていた。
290 :
世界@名無史さん :2007/06/09(土) 02:14:12 0
井上浩一先生が東ローマ帝国の研究でソコソコ有名とはしらなんだ・・・・ 先生、一般教養のレポートでAくれてありがとうございました 夜中にママチャリで帰宅する姿はある意味、ものすごい存在感でした チラシの裏でした
>>290 >>ソコソコ有名
ビザンツ好きで井上浩一先生知らんなんてもぐりだぞ
最近はあまり本を出しておられないが日本を代表するビザンツ研究者だぞ
>>先生、一般教養のレポートでAくれてありがとうございました
夜中にママチャリで帰宅する姿はある意味、ものすごい存在感でした
そんな人なのか、何か、実際の話を聞くと驚きがある。
とりあえず、290に嫉妬した
>>290 井上先生はソコソコどころか、
>>291 の言うように日本屈指のビザ
ンツ学者だぞ。
>>291 「ビザンティン帝国同好会」の管理者にメール出しちゃうような
人だからな。大阪市大の院生の人から話を聞いた事あるけど、気
さくなお人柄らしい。
『ローマ法大全』をギリシア語訳した『バシリカ法典』は、9世紀のビザンツ帝国の 現実とはずれていたが、ビザンツ人は法と現実のずれを法解釈や注釈でしのいだ。 日本国憲法に対する日本人の態度みたいだなw
ビザンツ人って言い方どうも気に入らないな。 ローマ帝国が分裂してからずっと続く国なんだから 普通にローマ人でもいいじゃない。 それともローマが首都でイタリア半島を有していない国は ローマ帝国とは認められないのか
後世が便宜上名づけているだけだよ
中世ローマ帝国という呼称は穏当とも思うけど、でもなにかぴんとこないなぁ
>>289 「正帝」(アウグストゥス)と「副帝」(カエサル)
この概念は共同皇帝の地位をあらわす物じゃないだろ
カエサルなんて爵位化するし
ギボンはビザンツについてはあんまり良くないからな・・・
>>294 ギリシャ人とかギリシャ人の皇帝とか書かれるよりビザンツの方が良いだろ?
中盤あたりからギリシャ人意識も持つようになったし
実はビザンツと関係が深いグルジア
一方東グルジアでは、9世紀に、 Tao-Klarjeti侯国のカルトリのErismtavari
であるアショト・バグラトゥニがアラブに対して蜂起した。アショトはKlarjetiを中心に、
Tao, Kola, Artvani, Shavshetiをアラブから解放し、ビザンツ皇帝の支援のもとで
支配権を樹立し、ビザンツ皇帝から、Kuropalate(クロパレテス)の称号を受けた。
10世紀後半、ダヴィド3世は、アラブからの解放を更に進めた。ダヴィドは、
ビザンツのバシレイオス2世と、コンスタンティヌス5世を支援し、特に
979年のBardas Sclerus の叛乱鎮圧に協力したことで、ヴァン湖に至る
幾つかの州をビザンツより受封された。
http://heartland.geocities.jp/zae06141/georgia1.html
>>294 コンスタンチノープルことノヴァ・ローマ(新ローマ)が首都だしね
いやいやあれをローマだなんて認めてたまるか!ということになったら昔の名前ビザンティウム
15世紀初頭のスペイン人の旅行記とか読むと もうその頃ギリシャ人はイスタンブールと呼んでたらしいですね
>>303 今のギリシャの地図はどうなんだろう?
ちなみに、WWTの時の英国の対トルコ遠征軍の名前は「コンスタンチノープル遠征軍」
身内からも名前変えろと言われたそうだ
>>ダヴィドは、ビザンツのバシレイオス2世と、コンスタンティヌス5世を支援し、特に 979年のBardas Sclerus の叛乱鎮圧に協力したことで みんな突っ込まんけど、明らかにコンスタンティヌス8世の間違いじゃね?
>>305 バシレイオス2世はギリシャ語慣用形なのに「コンスタンティノス」じゃ
ないのは、ちょっとイラつくな。
>>304 ギリシャ語版Wikipediaのイスタンブルの記事は、昔の名前のままだな。
「イスタンブル」って呼ぶ気はないらしい。
ギリシャ国営のオリンピック航空のサイトの就航地案内も、英語版では
Istanbulだけど、ギリシャ語版はあくまでも"Κωνσταντινούπολη"になっ
てる。
>>306 突っ込むところはそこかよw
言われるまで気付かなかったw
ギリシャ語wikiのコンスタンティノープルの項が寂しかった気がするのは
俺だけかw
まぁ306みたいにギリシャ語読めんから良く判らんが・・・・
スラブ諸国ではイスタンブールをまだツァーリグラードと呼んでいるらしい
コンスタンティノポリスとイスタンブールって 日本のことを日本人はニホンと呼ぶが英語圏はジャパンと呼ぶのと同じようなものじゃないの? 上で上がったグルジアも現地語ではサカルトヴェロというらしい。
>>309 ちょっとニュアンスが違う気がする。
確かにギリシャではフランスのことを未だに「ガリア」って呼んでたりする
から、古代からの呼び方を残している傾向はあるけど、ことコンスタンティ
ノポリスについては「あれは本来我々のもの」という意識が残ってる機がす
る。
サハリンのことを日本じゃ樺太と呼んでいるのと似たようなものか
よく「東ローマは敵対勢力(例えばブルガリア)に外交によって別の第三勢力(例えばマジャール、クロアチア)をぶつけていた」と言われるが これはビザンツ側からの一方的な見方のように思える。 第三勢力は何も慈善事業でビザンツの敵と戦ったわけじゃない。 「敵の敵は味方」というやつで、共通の敵を倒すために「第三勢力」の方から東ローマに同盟を持ちかけたことがあったかもしれない。 報酬目当てで同盟結んだこともあるだろうし。もしかしたら勢力拡大のためにビザンツを利用しようとして同盟を結んだこともあったかもしれない。 第三勢力側から見て「夷(敵対勢力)をもって夷(ビザンツ)を制す」つもりで同盟を結んだこともあったかもしれない。
>>当時の国際都市だった長安、バグダード、コンスタンティノポリスで世界の富を3分割する勢いだったのではないかなぁ。 コルドバも追加
>>312 そりゃ当たり前だろ。メリット無いのに同盟結ぶ訳ないし。
お互いに相手を利用しようとしているのを、上手く操ったからビザンツは
すごい訳で。
>>上手く操ったからビザンツ と思っているのはビザンツだけで 実際にいいように使われたのは ビザンツのほうだったということが
>>316 は何が何でもビザンツを悪く言いたいバルバロイ
だからバルバロイというのは「言葉が通じない」 という意味であって野蛮人というのではない
アールバート「ではシメオン討伐に力を貸していただけるのだな?」 レオーン「こちらも邪魔に思っていたところだ」 レオーン(どこの馬の骨とも知らん異民族が) アールバート(シメオンを片付けたら次はこいつだな) アールバート・レオーン(利用されているだけとは知らずにめでたい連中だ)
>>319 は、ビザンツでは「ローマ人」以外は野蛮人扱いなんだから結局「バルバ
ロイ」も野蛮人なのだということが分かってない夷狄。
>>319 『角川 世界史辞典』P753より
バルバロイ barbaloi[ギリシア]
古代ギリシア人が異民族を呼んだ呼称。本来はわけのわからない言葉を
話す人々の意味であったが、ギリシア人(ヘレネス)の民族意識の昂揚
とともに、この語は野蛮な民族という軽蔑的な意味合いを強め、ペルシ
ア人やその他の異民族に対して使われた。
少なくともヘレニズム時代以降の「バルバロイ」は「野蛮人」の意味と
考えていいかと。
ちなみに、この項目を書いたのは東海大の篠崎三男先生だから、文句が
あるなら俺じゃなくて篠崎先生に言ってね。
バルバロイってペルシャ人にも使われているんだが いっとくけど「すべての道はペルセポリスに通じる」 という言葉を残したのはギリシャ人。 「ペルシャの伝令は距離や天候が悪くとも遅れることはない」 と称しているのもギリシャ人。 イランの建国者であるキュロスの伝記も書いてあるのもギリシャ人 けっしてペルシャ人は野蛮人と言われていないが バルバロイと呼ばれている。なぜか。言葉が通じないからだ。 バルバロイから発生した英語のバーバリアン(こっちは本当に野蛮人という意味) のイメージが強いんじゃないか?
だからバルバロイってのは「言葉がわからないもの」 と言う意味を持つ以外の何ものでもない ギリシャ語で野蛮人を意味する単語はバルバロイではない
織田信長、毛利元就、武田晴信なんて東ローマ的な人間だね
クリミアゴート族で東ローマの傭兵になったり 政府高官になった人っていないの? ビザンツ帝国の影響で正教も多かったんでしょ
330 :
世界@名無史さん :2007/06/11(月) 10:58:34 O
バルバロイはネタだよ そんなに熱くならんでも… 悪意を込めて呼んでるわけじゃ無いし…
いわゆるガイジンとかも普通に外国人という意味だが ガイジンが外国から悪い意味でとられるのと似たようなものだろう
野蛮人 英語→バーバリアン イタリア語→インチビレ でギリシャ語で野蛮人ってどういう音なの?
>>330 匿名希望の掲示板で書きたい放題だから
手につけられるなくなることが多いのよ
>>333 一橋の渡辺金一、大月康弘の両先生は「エトネー」を使ってるね。
>>291 >>292 専攻は中国の宋代なんだけど、ここのスレを見ていてビザンツ史に興味を持ち
井上浩一著、「ビザンツ帝国」(世界歴史叢書 、岩波書店)を図書館で読んだ。
井上浩一先生は後進を育てようというお気持ちが行間に滲み出ているね。
井上先生の他の著作も読み始めたよ^^
>>324 中期ビザンツの社会の活力の高さ
納得するよ、とても面白い社会だね。
>>337 良い本を読んだね。
あれは復刊して欲しい。
すみません訂正です。
×井上浩一先生は後進を育てようというお気持ちが行間に滲み出ているね。
〇井上浩一先生の後進を育てようというお気持ちが行間に滲み出ているね。
>>338 同意します。
ビザンツ人は言語がギリシア語だから、西欧よりも新約聖書を理解できる人が 多かったんだろうか。
>>340 都市部では市民でも読み書き位は習ってたらしいから、読めた人は多かったはず。
342 :
世界@名無史さん :2007/06/12(火) 12:52:05 O
アラブ世界で『コーラン』を読める人の数が多いのと同じか。
中世で識字率が高くても意味があるの?文官ばかり増えても意味がないじゃん 中世という戦闘社会で文化度がたかかったゆえにビザンツは中世を乗り越えられなかったんじゃ?
>>344 中世でも何でも、つーか、むしろ戦闘社会ならよりいっそう情報の伝達が大切。
識字率の高さは戦術戦略レベルで圧倒的な優位をもたらす。
ビザンティン帝国が隆盛をきわめた理由の 1 つにはローマ、ギリシア、ゴート、中東での戦争経験から 学びとったノウハウを集めて運営していた、優れた軍隊の存在がある 将校は軍事的な歴史と理論の教育を受けた。ビザンティン軍は、ほとんどの場合数のうえで劣っていたが、 優れた戦術と統制のとれた行動によって、訓練を受けていない敵側戦士の大群を圧倒した ↑はAOEUの説明文、多分間違ったことは言ってない。 ただ、将校が教育を受けたと言う話は聞いたことが無い、俺のイメージではビザンツ軍人は個人で教養として 歴史書や戦術書を読む必要があり、そうすべきとされていた、って感じ。 士官学校みたいな感じのものがあったって話聞く? あったらあの時代にすごいことだ!
バルバロイ→ベルベル(人)→バーバリアンなんじゃね?
>>344 はゲームと実際の歴史の区別が出来てないDQN
>>345 士官や将校クラス以外はあまり関係無いだろ。
屁理屈言える兵士よりよく歩く兵士の方が重宝しただろ。
352 :
世界@名無史さん :2007/06/13(水) 05:01:42 0
>>344 はフランク人、最近、十字軍関係の本読んだからわかる
イスラーム研究者が、ビザンツ皇帝は司法・行政・立法など国政のあらゆる面で 最終の決定権をもつ絶対君主であった。これに対してカリフは、たとえ「神の代理」 であっても、イスラームの教義やシャリーア(法)の分野に介入する権限はもたなかった ことが特徴であると書いていたが、実際のところはどうだったんだろ。
名実ともに「アウトクラトール(自身の支配者)」って所だな。
それだけの権力を持ちながら、あっけなく失脚したり、教会と妥協を余儀なくさ せられたりしてるところが、ビザンツの面白いところなんだよな。
1400年前の東ローマ帝国の金貨を発掘
新華社総合:中国の考古学者が、東魏時代(西暦534〜550年)の王女の墓から
東ローマ時代の金貨2枚を発見した。専門家は、「この金貨は、1400年前、
東魏と東ローマ帝国の間の交流が盛んだったことを示す証拠だ」としている。
墓碑の銘文によると、この墓に埋葬されているのは東魏時代の茹茹族の王女で、
550年に死去したとされている。この墓のある北朝墓群は中国北朝時代
(西暦386〜581年)の東魏・北斉の王陵区にあり、134の墓がある。1990年代より、
全国の重点保護単位に指定されている。
http://news.livedoor.com/article/detail/3093217/
東魏(宇宙大将軍侯景様の出身)と西魏は、北魏が分裂してできた国だけど どれも自称は「魏」だったという。 西魏や南朝の梁や陳とのどうだったんだろ
>>359 は訳の分からないことを言ってるから、正真正銘のバルバロイ
よそ者は消えてね
ガイジンはイラネー
知恵遅れは出て行け
中国とビザンツが交流あったのは知っているが ギリシャ古典や東方正教が唐宋時代の中国に無視されたのは 単に中国の知識人に受けなかったから?
なにしろ唐で受けたのは東西教会両方から異端の景教(ネストリウス派キリスト教)だもんね
>>367 368です。ごめん、かぶってしまった<(_ _)>
>>西魏や南朝の梁や陳とのどうだったんだろ 東魏と何かしらの交流はあったようだから 南朝や西魏とも接触があった可能性はあるだろう。
よそものは出て行け
>>312 そうかも知れないけど、マジャールやスラヴには字がなかったから、
ビザンツの外交相手がどういう意図を持っていたかわからない。
それらとの外交関係は当然ビザンツ側からの視点からでしか見られない。
>>358 間にササン朝やエフタルとかがいたのによくそんな硬貨が伝わっていたな
モスクワのイワン・カリター(財布公)の巧妙な外交はビザンツから学んだのかなw
>>375 あれは巧妙な外交というよりもキプチャク=ハン国に上手く摺り寄っただけだと思うが。
モスクワ公家ほどせこく地道に領土を広げる手腕があればビザンツも・・・
その頃のビザンツはバルカンではセルビアに圧され 小アジアではオスマンに圧され 肝心の王室は内紛ばかり・・・
フリードリヒ1世がセルジューク朝をマヌエル1世にけしかけた いわゆる夷を持って夷を制す外交戦略もビザンツ外交から学んだのかなw
ビザンツ外交が別に特別な(狡猾な)ものではなかったんだろ
あくまで単なる王、もとい汗であるキプチャク=ハン国君主を 「皇帝」と呼んでいたルーシの連中はよく分からん。 しかも建前上、ローマ皇帝を最上席に置いている正教徒の癖に。
>>381 弱かったんだから仕方ないよ
ビザンツ皇帝も最後はそんな感じだったじゃん
>>382 最後のコンスタンチノープル攻防戦では
ビザンツ側が僅か七千…
対するオスマン軍は水陸合わせて十五万…
ブルガリアのシメオンがコンスタンティノープルを攻略して ビザンツの皇帝になっていたら面白かったのに
「ブルガリア語が公用語のローマ帝国」が誕生していたかもしれん
ブルガリアやドイツの君主が皇帝を名乗る事を認めたっていうけれど 公文書で「バシレウス」とか「アウトクラトール」とか呼んでたんだろうか…。 普段は単に"rex"とか呼んでたような気がするが。
国内向けにはそれでも構わないけど問題は外交文書でしょ
>>381 どうでもいいが後にロシア皇帝がクリミア・タタールへの書簡で
「東西の帝王」とか称したら「西には神聖ローマ皇帝がすでにいる」
と突っ込まれたそうだ。
>帝王 パーディシャー?
391 :
世界@名無史さん :2007/06/15(金) 12:07:07 0
さすが、わかってらっしゃる。クリミア・ギレイの歴史認識は侮れぬ。
「パーディ」ってどういう意味? 「シャー」は言うまでも無いけど。
>>392 ウィキペディアに載ってるから、そっちを見たほうがいいよ。
ここではスレ違いだ。
>>355 教会に対しては絶対的な権力は持っていなかった。
以下wikiの皇帝教皇主義より抜粋
東ローマ帝国においては皇帝と教会共にどちらかに従属するようなことがなく、
時に緊張をはらみながらも「キリスト教ローマ帝国」の支配層を形成していたというべきであろう
ツィミスケスの例からもわかるが総主教は強かった
イサウリア人だってローマ皇帝になったんだ。 ブルガリア人が皇帝になってもいいはずだ。
>>シメオン まぁとりあえず茶でも飲んで落ち着けや、冠かぶせてやるからよ。 お前も懐かしいコンスタンティノープルをぶっ壊したくはないだろ? その後 皇帝?婚約?なに言ってんだ? かかってこんかい!皇帝はアルメニア人て決まってんだよ!
>>396 どうせ親や先祖がアルメニア人ってだけで生まれは東ローマ国内だろ
アルメニア語を離せないだろうしアルメニア教会も侵攻していないだろうし
399 :
世界@名無史さん :2007/06/16(土) 10:19:27 0
Wikipediaのトップの[秀逸な記事」が「東ローマ帝国」age
アルメニア王国と東ローマの関係は アイルランドとイングランドに似ている
シメオンが皇帝になっていたら ローマの奪還だってできただろうに
402 :
世界@名無史さん :2007/06/16(土) 12:02:38 0
WIKI、WIKIっていつからここはWIKIで検索して知ったかするスレになった
>>402 Wikipediaに書いてある程度のことさえ質問するバカがいるからだ
>>375 >>379 ビザンツから権謀術数外交を学んだのはヴェネツィア、ジェノヴァなどのイタリア
海洋都市国家なのでは。
>>404 ビザンツ外交なんて似たようなことはみんなやっている
別に特別なことはしていない
東ローマの外交と一口に言っても 長い歴史の中で外交を行う中の人も変わっている 外交が下手な人も当然いたわけで
シメオンは首都をいきなり攻めずに バルカンやアナトリアを制圧して足場を固めてから コンスタンティノポリスの攻略を行うべきだった
ヴェネツィアの貴族たちはコンスタンティノープルに子息を留学させ、娘を ビザンツの豪族と結婚させることに誇りを感じていた。
ノミスマ金貨って古銭として買えないかな? ビザンツファンとして一枚欲しいんだが。悪鋳前のやつならいつの時代でもいいので 全部博物館にしかないんだろうか
>>409 たぶん売ってるんじゃないか?
確か個人で収集してる人がいたはず。
コンスタンティノープルの漢字表記は「君士坦丁堡」
>>411 日本では「伯林」とか「紐育」みたいな表記で、「君府」ってのがあったはず。
ビザンツがオスマンに対して生き残るチャンスはなかったのでしょうかね?
414 :
世界@名無史さん :2007/06/18(月) 23:46:33 O
いっぱいあった けど全ていかせなかった
>>413 ミカエル8世の時にアナトリア制圧された時点でゲームオーバー
ということでチャンスはなし
>>413 ルーム・セルジューク朝が強国だったらとか・・・
無理か
ビザンティンがアルモガバルスを雇ったときはアルモガバルスが小アジアのオス マン軍を次々破り、都市を解放していったが ビザンティンがアルモガバルスを裏切ったために逆に怒ったアルモガバルスがバ ルカンのビザンティン領内にネオパトリア公国とアテネ公国を建国し、かつての 雇い主のカタルーニャ王ペラ3世に献上した
アルモガバルスって何で強かったんでしょうね。 ジャベリン等を装備した軽装の山岳民だったようですが。
>>ビザンティンがアルモガバルスを裏切ったために逆に怒ったアルモガバルスがバ アルモガバルスがギリシャ人だろうと帰順したトルコ人だろうと見境なく襲って略奪したからだ
単純に傭兵の代金でもめたんだろう ミカエル8世の頃にもトルコ系の傭兵たちが 支払いが滞ったことが原因で脱走したことがある
スイス傭兵もそうだが 強い傭兵は金や物にもがめつい
>>413 ステファン・ウロシュが完全に東ローマ帝国を制圧して皇帝になっていたらチャンスがあったかもしれない
>>413 ステファン・ウロシュが完全に東ローマ帝国を制圧して皇帝になっていたらチャンスがあったかもしれない
二分越しの連投とは珍しいものを見せて頂いた
>>359 「東ローマ帝国」「ビザンツ帝国」と後世で呼ばれながらも
自称が「ローマ帝国」だったこととよく似ているな
>>413 司祭たちをねじ伏せてカトリックの優位を認めていたら
もしかしたら長続きしたかもしれない。
セルビアやイタリアの圧迫が強まぅた恐れもあるが。
>>426 ひょっとして数百年延命できるのが確定したとして
それが先にわかってたとしても
さすがにそこまでしようと思ったかな?
司祭をねじ伏せるのは可能でも 民衆をねじ伏せるのは不可能だったのでわ。
信仰心は民衆より司祭のほうが強いでしょ
あまり変わらなかったんじゃないか 同じ正教であるブルガリアやセルビアと対立している時期が多かったし カトリックも一枚岩というわけでもない
同じ宗教を信仰したとしても 援助を受けられたかどうかは微妙だったと思う カトリック同士で争うこともあったし 後年だがフランソワ1世のようにオスマン帝国と同盟を結ぶ者もいるし
432 :
世界@名無史さん :2007/06/21(木) 10:04:56 0
コンスタンティノープル周辺の造船施設が接収されて オスマン海軍の発展に寄与したらしいけど 末期でもある程度の造船能力は残ってたんですかね。
いや末期のビザンティンはヴェネツィア、ジェノヴァなどイタリア諸都市に海軍 力、海運を全面的に頼っていたよ ビザンティンはこの頃には財政難で海軍艦船どころか帝室の結婚式にすら、金銀 の食器を出せず、鉛鉄、安価な陶器の食器を使用したぐらいだ
帝冠でさえ、借金のカタに取られてたらしいし、末期は悲惨そのもね
借金滞納でベネチアに拘留された皇帝もいたな。 確かヨハネス5世だったっけ?
そんなんでよく最後の皇帝が乱戦の中に切り込んで氏ぬ気になったな もし漏れがそこにいたら何とかして逃げ出す方法考えようとするわ(で結局間違いなく無様晒すとw)
素直にメフメト2世に無抵抗に降伏しておけば モレアス専制公領安堵されて、そこで細々とパレオロゴス王朝続いたかもね。
>>436-437 それが「ローマ皇帝」としての最期の意地だったんだろうな。
割とコンスタンティノス11世は日本人ウケするよね。
皇帝は抵抗する気満々だったけど肝心の国民が東西教会合同に猛反対して 「ローマ帝国?そんなもの氏らねーよ」状態だったんだけどね。 それでも皇帝としての誇りをまっとうしたコンスタンティノス11世に敬礼。
コンスタンティノス11世はビザンツ最後の英雄だからね。 よりによっても、オスマン帝国が立ちはだかってなければ、 ある程度の勢力回復は成し遂げたかもしれないのに。
使える兵力から言って大差があったからな〜 コンスタンティノープル篭城の際に総兵力7千と聞かされた時の皇帝の心中はいかばかりだっただろうか。 塩野の小説はマホメット2世の表記を我慢すればそこそこ楽しめる良書。
しかも職業軍人より義勇兵の方が多かったという罠。
パレオロゴス王朝の軍主力は傭兵だったからな。 何せ初代のミカエル8世自身二ケーア帝国・ルーム=セルジューク朝に 傭兵として仕えていた家系。
>>441 塩婆はローマ帝国の歴史を歪曲したフランク人どもの手先
>>441 ありゃ小説だよ、小説。作り話だよ。
坂の上の雲で日露戦争を語るようなものだよ
あの戦いのことを知りたいなら
イギリスの学者が書いた「コンスタンティノープル陥落す」
を読んだほうがいいよ。
ヴラド・ツェペシスレでは コンスタンティノス11世はジョンと似ているという評価だった やることなすことが裏目に出ている所がそっくりだという
バシレオイス2世のあだ名、「ブリガリア人殺し」は 漢字表記では「保加利亜人屠夫」! うーむ、猟奇的!
>>446 ランシマンね。
>>447 置かれた状況が違いすぎろ。
あの状態じゃ、誰が皇帝でも滅亡は避けられまい。
どちらかというと、ジョンに近いのはマヌエル1世じゃないの?
>>443 コムネノス朝時代からすでに傭兵が主力では
451 :
世界@名無史さん :2007/06/24(日) 02:02:03 O
ランシマンはビザンティンを贔屓のひき倒しだから読んでると引いちゃうよ
「ビザンツ帝国とブルガリア」もいい
オスプレイのConstantinople 1453ってのもある。読んだことはないが。
ブルガリアではバシレイオス2世のことをなんて教えてるんだろうな 民族の敵、冷酷無慈悲な侵略者てな感じかw
質問だけど、ラテン帝国の専門書でお勧めのてある? アマゾンで調べたら専門書自体稀少だったもので
456 :
世界@名無史さん :2007/06/26(火) 03:20:13 0
>>441 「東ローマ帝国には興味無し」と言ってる割に、良書を書いている不思議。
あの本は面白かった。
後世の人間が中華的に呼び名を付けるなら コンスタンティノープルに遷都した時点で 「東ローマ帝国」だよな。 でもそれだと分割後の呼称に困るので 実際には「ギリシャ帝国」とかになるんだろうけど。
そういや「ギリシャ皇帝」と書いてバシレオスとルビを振ってる本があった。
>>441 塩がひいきしているヴェネツィアがいやに目立って
さらに傭兵部隊の主力であるはずのジェノヴァが軽く見られて
やっぱり小説は小説だなと思ったよ。
一応駆けつけたがオスマン軍の砲列に阻止されて接近できなかったんだよな>ヴェネチア軍
>>458 もうデタラメもいいところだな。
「バシレオス」って何だよ。
「バシレウス(中世読みではヴァシレフス)」と人名「バシレイオス(同
ヴァシリオス)」がごっちゃになってるのか?
>>456 あの頃の塩野女史はベネチアとオスマントルコが主な興味範囲なので
コンスタンチノープルの陥落もその範疇。
463 :
世界@名無史さん :2007/06/30(土) 03:23:23 O
クダラン! 2chの書き込みとはなんたるかを知らないゴミどもへ ・掲示板での議論は、議論ではなくただのオナニーなのであって、健全な議論はほぼ不可能だと気づけうじむし。 ・誰かが「断言」したとしても、事実が奴の言う通りになるわけではないので、慌てるな厨房。 ・誰かが自分の書き込みに対して中傷したとしても、お前が傷ついている訳ではない事を思い出せカス。 ・いきなりスレの流れを無視した書き込みがあるのは、システム上「自然」な事だと知っておけ切れたナイフ。 ・そして2chという場所は「少々荒れる」ぐらいが「健康的」である証なのだよ元親父の排泄物ども。 ・長く特定のスレにいるからといって住民権は発生しない事ぐらい分かれ万年負け犬。 ・匿名掲示板というのは、全ての奴らの発言力は平等なので、仕切ろうとする方が特殊状態だと知っておけ骨髄反射。 ・自分と違う意見があるのは、「当然」なのだ。世の中はお前中心で回っているわけでない事を分かれ体は大人心は子供。 ・どうしても自分の言っている事が正しいと広く世の中に知らしめたいなら、リアル世界でせいぜい頑張れ夢見がちなだけのボンクラ。 思い出せ!! お前らはただのクズだ!いつ死んでも誰も困らない程度のうじむしだ! そうだ!お前はただの数十億いる中の一人にしかすぎないのだ!! キサマの腐った「もっと僕を見て!僕を見て!」という「寂しい自己顕示欲」を満たしたかったら リアル世界でもっと頑張れ!!! と厨房が申してみました。
464 :
世界@名無史さん :2007/06/30(土) 05:04:26 O
グラタン?
グラダナ?
オレはエビがいいな
ベリサリウスがいたら陥落しなかったかなあ〜
468 :
世界@名無史さん :2007/07/01(日) 01:55:13 0
今小アジアに住んでいるトルコ民族はアジア系民族らしいけどその割にはヨーロッパ的な顔の人が多いように思うのですがもともと住んでいたギリシア人と混血しているのでしょうか?
469 :
世界@名無史さん :2007/07/01(日) 02:43:38 0
>>468 ギリシア人ともブルガリア人ともペルシア人ともアラブ人とも混血してる。
トルコ人は混血よりも現地人がテュルク支配の下で文化的にトルコ化した面が 強いんじゃなかったっけ? 実際同じテュルクの末裔でもイラン東部のトルクメンは全然顔立ちも言葉も違うし。
>>468 位置を考えれば欧州人的な顔になっているのが
自然でしょう
大半はアナトリアの人がトルコ化しただけだろう
トルコも東の方はモンゴル人顔が多いな。
474 :
世界@名無史さん :2007/07/05(木) 14:56:05 0
栄光あるビザンツスレで延々とトルコ人の混血云々を語るのはスレ違い。
475 :
世界@名無史さん :2007/07/05(木) 15:53:39 0
少々ビザンツ帝国から逸れるやも知れませぬが・・・ 「自宮僧」に就いて教えて下さい。 キリスト教のオーリゲネースが自らを去勢した史話は たいそう有名ですが、過日あるドイツ語の書物を読んでいると、 アンティオケイアのレオンティオス(のちエルサレムの主教、257没) や、ポワティエのヒラリウス(「350年没」と記載アリ)、 さらにはエジプト人マカリオス(本名・シュメオーン、330〜390) 等もまた、「自宮僧であった」という記述に遭遇しました。 がしかし、その典拠となる文献名が掲載されてないので、俄かに 鵜呑みに信じてよいものか否か判断がつき兼ねています。 彼等は皆な自分で去勢したキリスト教徒だったのでしょうか? 博識なる方々、是非とも御教示の程、よろしく願い上げます。
エジプト失陥後のビザンツは食糧をバルカンのみに依存していたのかね?
アナトリアは穀倉地帯じゃなかったっけ?
パンとサーカスは終わったけどな
ごはんと演芸
480 :
世界@名無史さん :2007/07/08(日) 19:37:39 0
481 :
世界@名無史さん :2007/07/09(月) 01:51:12 0
シリアをササン朝ペルシャに盗られたとき、ときの皇帝だか将軍は 「シリアよ、さらば!」と絶叫して嘆いたという。 しかしシリアってそんなに豊かな土地だったの? ナイルに潤されるエジプトはともかく、シリアがそのように豊かには見えない。
>>481 それはヘラクレイオスがイスラム軍に敗北した時に言った「シリアよさらば!敵にとり、なんとよき国であろうか・・・。」だな。
シリアは古くからのギリシア殖民都市も多かったし。通商上も重要な地域だよ。豊かだったのはウマイヤ朝が
シリアのダマスカスの首都を持ってきたところからも明らかでしょ?
483 :
世界@名無史さん :2007/07/09(月) 02:19:25 0
>>462 「ローマ人の物語」の最後に、付録みたいに付けても良いかも。
あれこそ真の「ローマ帝国の滅亡」なんだし、西と違ってドラマチックだし。
ヘラクレイオスですか。ペルシャから取り戻したばかりの交易の要衝を奪い とられたのですから、嘆きもするでしょう。 >ササン朝ペルシャに盗られたとき ペルシャにとられたのを奪回した直後、アラブにとられた際の台詞です。 エジプトも危うくなる。現にとられてしまいましたし。 キリスト教五大本山(いつから言われだしたのかわかりませんが)のイェル サレム、アンティオキア(交通の要衝でもある)、アレキサンドリア(図書 館はすでに衰退していましたが)も、これらの地域にありましたからね。 それに、「シリアよさらば。汝は敵にとってなんとよき土地であることか」 でしょう。ペルシャに続いてアラブが来てしまったという意味では。 いくら払ってもとりに来る。泣きたくなったでしょうね。 この辺は、最近flashスレで取り上げられていますよ。
485 :
世界@名無史さん :2007/07/09(月) 05:56:53 0
>>481 ナセルの時代にエジプトとシリアがアラブ連合を組んだよね。
あれが崩壊した原因は「シリアの富がエジプトに奪われている」
というシリア人の不満から。
おそらくバース党政権でなければ今頃はアラブ世界でも有数の
豊かな国になってたんじゃないかな。
いわゆる「豊かな三日月地帯」の中心もシリアだし。
豊かな三日月地帯というのは環境破壊が進んでいなかった昔の話だ 今中東で一番豊かなのは 植林やりまくってるイスラエルだろう
>シリアの富がエジプトに奪われている アイユーブ朝あたりからずっとだな 途中からまたコンスタンティノープルの支配下になったが・・・
マケドニア朝の時は奪回するチャンスがあったけど、バシレイオスは西に目を向け過ぎたからなぁ あの頃の国力ならシリアやエルサレムも奪回できただろうに
でもシリア=砂漠ってイメージは昔からあるよね? これはどっからきたんだろう?
ヒント:シリア=イスラム教国=アラブ諸国=砂漠
シリアは高原のイメージ
492 :
世界@名無史さん :2007/07/10(火) 00:09:42 0
ムルツプロスとは何者ですか?
493 :
世界@名無史さん :2007/07/10(火) 00:25:32 0
シリアよ、さらばってカッコイイね。
>>493 同意
帝国にとって永遠にさよならだからなおのことカッコよく感じる
ttp://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20070712_100542.html 預言者ムハンマドがローマ皇帝に宛てた手紙が発見?
2007年07月10日付 Jam-e Jam紙
【文芸部】アラブ首長国連邦在住のあるイエメン人家族が、預言者ムハンマドが
〔イスラームへの改宗を呼びかけるために〕東ローマ皇帝ヘラクレイオスに宛てて書いたと言われる、
千年以上も前の手紙の写本を保管してきたと主張している。
メフル通信によると、専門家たちは東ローマ皇帝ヘラクレイオス宛の預言者ムハンマドの手紙を、
千年以上前のものと推測しており、これは信頼できる資料や最新の科学技術によって証明されている。
さまざまな通信社が伝えるところによれば、預言者ムハンマドのローマ皇帝への手紙の実物は
ヨルダン中央銀行や、イスタンブール・イスラーム博物館に保管されているとされるが、
しかしそれでもなお、この手紙は千年以上前に預言者によって書かれたローマ皇帝宛の手紙の現存する唯一の写しであり、
イスラーム世界全体でも他に例を見ないものである。
この手紙は、縦31センチメートル、幅20センチメートルである。
専門家によると、これはパピルスに、この時代特有のインクを使って書かれており、
この種の紙を使った手紙は、ヘジュラ暦300年(西暦900年頃)以降には書かれていないということだ。
この手紙は、あるイエメン人家族の家宝として伝えられてきたものであり、何世紀も前から、代々このイエメン人家族によって保管されてきた。
ドイツとエジプトの専門家による調査によれば、この手紙は少なくとも千年以上前からあるもので、
またベルリン国立図書館アラビア語写本部門のクリヤ博士とケルン大学教授でベルリン博物館アラビア語写本部門担当のディエム教授、
そしてエジプト図書館のアドルフ・グロフマン教授は、この写本はヘジュラ暦2世紀から3世紀の間(西暦8〜9世紀)に書かれたもので、
ローマ人たち自身が紛失を恐れて保管してきたものだと発表した。
2007年07月10日付Jam-e Jam紙
http://www.tufs.ac.jp/common/prmeis/data/jam/2007_7_10_j1_shiramine.pdf
499 :
世界@名無史さん :2007/07/14(土) 02:07:33 0
手紙はなに語で書かれていたんだろうな。 まさかムハンマドがラテン語を操れたとか?
500 :
世界@名無史さん :2007/07/14(土) 02:48:19 0
ムハンマドは文盲で母語のアラビア語すら書けず、大天使ジブリールに (コーランを)「読め!」と命令されたときも「私は字は読めません」と答え、 「そうか、じゃあ俺が読み上げるから暗誦しろ」と言われたんじゃなかったっけか。
>>500 古今東西、商人が読み書き出来ないわけ無いだろ。
502 :
世界@名無史さん :2007/07/14(土) 23:58:07 0
コンスタンティノポリスの住人は日常どんな食生活を送っていたのでしょうか?
503 :
世界@名無史さん :2007/07/15(日) 00:32:37 0
つ口述筆記⇒ギリシャ語に翻訳し代筆
ピクルスのジュースとか
糞が詰まった腸詰めがあったらしいぞ
>>502 主食は小麦(パン)で後は地中海産の海産物。
507 :
世界@名無史さん :2007/07/19(木) 15:18:45 0
ゲルマンとは違って、イカやタコに対する忌避はなかったろうね。
焼き魚にして食べただろうが、日本のように刺身にして食べたかは知らん。 でも当時の欧州では間違いなく食事に関して進んでいたのは間違いない。
ロ-マ帝国期の贅沢なご馳走に、ウツボを開いて魚醤とハチミツを混ぜたタレつけて焼いた ウツボの蒲焼があったそうだが、ビザンツではそれはまだ食べられてたのかな?それともキリスト教になった時点で ヨーロッパの連中と同じく「魚は断食日に仕方なく食べる二級食材」ってモノになっちゃったのだろうか? あのへんは魚も豊富に獲れそうだが。
食事の話題ついでに当時のギリシャワインは西欧のそれと比べて かなり違うものだったそうだ。 ニケフォロス2世の頃にビザンツを訪問した神聖ローマの使者が 「石灰くさくてとても飲めたものじゃない」と書き残している。
そう言えば、ローマの時代もさほどではないけど、ビザンチン料理ってものもいまいちイメージわかないな。 どんなもの食ってたんだろ?今のトルコ料理みたいなものなのかな?
去年辺り放送したNHKのビザンツ帝国の特集番組の中で
十字架の刻印押したパンを食べるシーンがあったな。
>>511 羊・牛肉を多用しているトルコ料理はビザンツでは食べなかったと思う。
ローマ以来の伝統である小麦と海産物中心かと思われ。
ローマ人の食事と言うと、毎日硬いパンと豆の塩スープって言う、おっそろしく不味そうな印象がある。
>>510 リュートプラントの報告は、自分が冷遇された腹いせに書いたやつだから、あて
にならん。
「聖フィラレトス伝」に勅使をもてなすごちそうに鳩とかレンズ豆とかを出した
、っていうのが書いてあったのを井上浩一先生の講義録かなんかで読んだ記憶
がある。
あと、首都の大宮殿には古代ローマ式に寝そべって宴会をするための建物があったらしい。
517 :
世界@名無史さん :2007/07/20(金) 20:19:57 0
>>509 食についての禁忌が無かったからキリスト教の布教は順調だったわけで、
多分、魚食文化は続いていたでしょう。現代のギリシア人も魚好きだし。
因みに、ビザンツでは魚醤も使い続けられていたようだよ。
上に出てきたリュートプラントが「魚から作られたまずいソース」と書いてる。
518 :
世界@名無史さん :2007/07/21(土) 00:03:06 0
確かに、オークの実を豚に食わせて太らせ、その肉を大事に食っていたゲルマニアの民に 「豚食うな!」は「死ね!」と一緒だものね。
519 :
世界@名無史さん :2007/07/21(土) 02:23:43 0
ビザンツ時代からあるギリシャ正教の修道院に留学されたビザンツ研究家の著作には、くたくたに茹でたパスタ、胡瓜とニンニク入りのヨーグルト、マッシュドポテトにタラコを練りこんだもの、そのままの生玉ねぎ、などを固いパンと一緒に食べる食事だったようです。
520 :
世界@名無史さん :2007/07/21(土) 03:07:16 0
奴隷をウツボの池に放り込んで餌にすることも。
521 :
世界@名無史さん :2007/07/21(土) 04:32:20 O
牛乳だけで育てたエスカルゴ
外国人もタラコ食べるんだね。
>>510 『黄金のビザンティン帝国』P143によると、ワインにシナモンとかの
香辛料を入れてたみたいだね。
>>514 同じく『黄金のビザンティン帝国』P163のよれば「雄羊や子羊、ひな
鶏や鳩、極上のワインなど」が勅使のおもてなしに出たらしい。
>>516 これか。長椅子は19って書いてあるけど。
ttp://www.byzantium1200.com/akkubita.html わざわざ古代ローマ風の宴会場がある辺りが、ローマ帝国の継承者
を自認していたビザンツらしい。
>>519 >>522 タラモサラダはムサカと並ぶ現代ギリシャ料理の代表的メニュー
だからね。でも、ビザンツ時代はジャガイモはないよな。
あと、修道院の食事は当然質素だから、修行僧の食事で日本料理を
理解することが出来ないのと同じことになるよね。
524 :
世界@名無史さん :2007/07/21(土) 10:23:13 0
確かにその通りですが、ビザンツ時代の具体的食事内容を示す資料が少ない事を考えると比較的昔ながらの食事風景を保っているであろう古修道院の食事形態のなかにビザンツ時代の食生活の雰囲気が垣間見えることもあるのではないでしょうか?
526 :
世界@名無史さん :2007/07/21(土) 13:40:25 0
ジャガイモ伝来以前のタラモサラタは、ふやかしたパンの中に魚卵を混ぜ込んだものだったようだ。
>>526 日本食の基本が「米をどう食うか」って事なのと同じように、
向こうの食事も「パンをどう食うか」って所から料理を考えて行ったんだなあ。
>>523 トウモロコシとかジャガイモとかは注意が必要な食材だったね、タラコに注目してスルーしてしまった。
魚のフライも会ったみたいだね。
古代ローマみたいに料理書とかは残って無いんだろうか
529 :
世界@名無史さん :2007/07/21(土) 23:47:15 0
ちなみに、「タラモ」とは鱈子のことではなく、魚卵全般のこと。 ギリシャでは、ボラか鯉の卵を使うとか。
マグロとかカツオ、塩漬けの鯖もあったみたいだね。 無論、刺身で食べたのでは無いだろうけど
我々は
>>1 が何故このようなスレッドを立てたのかという
疑問を解決するため、
>>1 の故郷であるダマスカス郊外の寒村に向かった。
「まだ我がユスティニアヌス大帝の治世にこんなところがあったのか…」
思わず口に出てしまった言葉を同行した兵士に失礼だと咎められた。
小人が住むような小さな家、ツギハギだらけの服を着る農夫たち、
そして土着の小官吏達は身なりのいい我々を監視する様に見つめている。
ゲルマン民族だの、ローマ法大全だの、パンとサーカスだので
浮かれていた我々はローマ帝国の現状を噛み締めていた。
ボロ屑のような家に居たのは老いた母親一人
我々を見るなり全てを悟ったのか、涙ながらに
「うちのバカが申し訳ありません」と我々に何度も土下座して詫びた。
我々はこの時初めて
>>1 を許そうと思った。
誰が悪い訳ではない、この村の貧しさが全て悪かったのだ。
我々は母親から貰った干葡萄を手に、
打ちひしがれながらコンスタンチンノポリスへと帰路についた。
私は帝都で
>>531 の書いた時代錯誤の妄想の産物を読んだ。
しかし、お世辞にも褒められたものでないこの物語に対して、
不思議と怒りは湧いてこなかった。
それは、私が彼の今の境遇に対して同情を禁じえなかったからだ。
彼はペルシャ馬か、二、三枚の金貨を払って軍隊に加入することも、
修道士となり、祈りと禁欲を貫いて魂の救済を人々に与えることもできなかったのだ。
その挙句、嫉妬に狂い、罪を犯してしまった。
私は、慈悲深き主の許しと信仰篤き皇帝陛下の慈悲が彼にも与えられ、
彼が自らの罪を悔い改めることを祈っている。
>>530 つい最近まで、金角湾で鯖釣ってフライにしてサンドイッチかなんか
にして売ってたくらいだから、帝都近辺で十分魚は採れたんだろうね。
でも、帝都でマグロなんて採れたのかな? 内海にマグロはいたのか…
535 :
世界@名無史さん :2007/07/23(月) 01:16:00 0
Theにっぽん人とか言う本で読んだような気がするが 昔はレヴァントへ行くと大物のマグロが馬鹿みたいな値段で売っていて 日本人が買い付けに行ってたとか。 あの辺の人間にはたいして価値のない魚だったのか。
すいませんAgeてしまいました
欧米でマグロの価値が向上したのは近年の事だしね マグロに限らずモロッコ近海では対日輸出向けのタコもあんまり捕れなり、 たこ焼きなどの値上げを招いたのは記憶に新しいな タコの場合、他国の需要が高まった訳ではなく、ただの乱獲なんだろうけどさ 欧米ではイタリア人くらいしかタコは食べんだろうし
>>534 今でもスペインやシチリアではマグロ獲っておるがな。
でも、帝都の江戸前ってマルマラ海じゃない? そのマルマラ海は内海でしょ、内海にマグロは居るのかな?
黒海もマルマラ海も地中海も、みんな内海だ。
島の多い海域は海底域の地形が複雑だから大型回遊魚にはキツイだろうな
なんか「地中海世界の漁業を語るスレ」になってない?
ビザンツスレらしい流れで結構じゃないか。 かく言う俺はトルコ料理が好きだけどね。 ビザンツ期の食生活についての史料(市民の日記など)があれば 更に盛り上がると思うが寡聞にして読んだ事ない。
544 :
世界@名無史さん :2007/07/24(火) 11:11:12 0
黒海の海水には酸素が無いので漁業は殆ど無理。
庶民の食卓はビザンツ幻影の世界帝国にちらっと出てきたような・・・
>>545 ピクルス、ヨーグルト、パン、ワイン、マグロ、カツオ、塩漬けその他のサバ、
臓物肉の煮込み、腹肉、白パン、ソーセージ、ヴラフ・チーズ、塩漬け肉、
オムレツなどが出てくる。
>ヴラフ・チーズ どのようなものでしょうか。今のルーマニアあたりでも残ってたりするのかな。
ビザンツの食卓は暗黒中世野蛮ヨーロッパと違い洗練されていたのだといいんだが ちょっと無理あるけどもともとはローマの遺伝子継いでるわけだし・・・ まあ庶民の食事はどこでも悲惨だろうけど
いまのギリシャ料理はトルコ由来なんだろ ビザンツの食文化はどこに消えてしまったんだ
トルコに受け継がれたのでは。
ギリシャには、ナスとトマト、ミートソースをオーブンで焼いた「ムサカ」という美味い料理がある。 トルコにも同じものがある。しかしこのことをギリシャ人に言えば猛烈に怒る。 ギリシャコーヒーとトルココーヒーは全く同じ。 しかしこのことをギリシャ人に言えば怒る。
トルコとギリシャの間には色々あるからね・・・ 気持ちはわからんでもない
トマトはビザンツにはなかったな
訪れたラテン人が食事について何か書き残してたりしないんでしょうか
555 :
世界@名無史さん :2007/07/26(木) 19:49:10 0
>>554 第一回十字軍に参加した貴族・騎士が書き残している。
食事の際にスプーンやフォークを使うとか初歩的なものだけど。
556 :
世界@名無史さん :2007/07/26(木) 20:38:48 0
トマトは新大陸起源だからな ムサカもイタリアあたりから伝わったんだろ・・・トルコに
ムサカを検索したらウィキペの記事が真っ先に出てきたが・・・ オスマン帝国の版図に満遍なく広がってるんだな。 というか >関連事項 >映画『アタック・オブ・ザ・ジャイアント・ケーキ』(1999年、ギリシャ、監督:バノス・H・コートラス) >UFOの怪光線で巨大化したムサカが次々に人を襲う、というB級映画。 何だよそれw
栄光高きビザンティンで野蛮なトルコ料理などもっての外。 とヨハンネス8世陛下が仰りました。
教皇の三重冠よりトルコ人のターバンのほうがましとも言うな
仮に東西教会合同に民衆レベルで賛成して成功しても ニコポリスの戦いの二の舞になって余計滅亡の可能性が高くなる。 要はあの時点のビザンツに生き残る道は皆無だったという訳で。
>>560 あの状態じゃ、滅亡を何年か先に延ばすのがやっとだろうな。
562 :
世界@名無史さん :2007/07/30(月) 17:43:47 0
日本の世界史だと1453年の滅亡くらいしかテストに出てこないビザンツ。 だが、それがいい。
降伏すれば名目上は存続出来たんだろうけどな。 まあ"1453年ビザンツ滅亡"という歴史の上での認定は変わらずって処か。
仮に降伏していればオスマン朝治下で準王族並みの待遇受けたかも試練。 或いは禍根を断つため族滅されたか。
小アジアの隅にあったニケーア帝国はたいした軍事大国でもなかったが 同じような場所からスタートしたオスマン朝はいつの間にか大軍を組織してるのは何故だろう
>>565 有能なリーダーの下に集合する騎馬民族の風習が上手く働いたんだろ。
いやそもそも人口が少なかったら集合するも何もないだろうし
帝国のアナトリアでの衰退は昔から始まっていたし、バルカンでもブルガリアにおされていたのが原因でしょ。 オスマントルコにとっては有利な状況だったよ
>>568 トルコ人ごろし皇帝が出れば小さいうちに潰されてたかもね
そういう意味じゃブルガリアはコンスタンチノープルを攻めるのを急ぎすぎたのが運の尽き?
素直にモレアへ放逐されてれば パレオロゴス朝が現代まであったかも?
オスマン・ベイリキが勢力を拡大できたのはビザンツ領に隣接していたからという話を以前読んだような。
>>571 降伏したトレビゾンド帝国最後の皇帝も、結局処刑されてるからなぁ。
574 :
世界@名無史さん :2007/08/01(水) 22:20:58 0
ビザンツ帝国滅亡直前のコンスタンティノポリスの人口はどれ位だったのでしょうか?首都陥落直前期には領土的・経済的には既に滅亡したも同然だったと思うので 田舎の寒村並の哀れな状況になっていたことが想像されますがどうでしょうか?
>>574 たしか四万から七万くらいだったはず。
零落したとはいえ、ルネサンス最盛期のフィレンツェが七万だから、それなりの大都市だったのでは?
576 :
世界@名無史さん :2007/08/01(水) 22:55:52 0
当時のビザンツ帝国の皇帝一家の食卓はどんなものだったのでしょうか?食事も満足に食べられず 衣服もツギハギだらけの生活をおくっていたのではないかと思うのですが?
577 :
世界@名無史さん :2007/08/02(木) 00:27:02 0
我々は
>>576 が何故このようなレスをつけたのかという疑問を解決するため、
>>576 の故郷であるオスマン領ダマスカス郊外の寒村に向かった。
「異教徒の王、メフメット2世の治世とは所詮このようなものか…」
思わず口に出てしまった言葉を同行した兵士もまた復唱した。
小人が住むような小さな家、ツギハギだらけの服を着る農夫たち、
そして土着の小官吏達は身なりのいい我々を監視する様に見つめている。
ギリシャ火にサラセン人の青ざめた死、ブルガリア人殺しに
浮かれていた我々は異教徒の現状を嘲笑した。
ボロ屑のような家に居たのは老いた母親一人
我々を見るなり全てを悟ったのか、涙ながらに
「うちのバカが申し訳ありません」と我々に何度も土下座して詫びた。
我々はこの時初めて
>>576 を許そうと思った。
誰が悪い訳ではない、この村の貧しさが全て悪かったのだ。
我々は母親から貰った干イチジクを手に、
自己満足しながらコンスタンチンノポリスへと帰路についた。
前半と後半のつながりが無いな
>>577 ビザンツ滅亡前後のシリアは、マムルーク朝領じゃなかったっけ?
580 :
世界@名無史さん :2007/08/02(木) 14:54:09 0
>>576 食事は知らんけど、衣服については目ぼしい豪華品は借金のカタに取られていた。
マヌエル二世も白い喪服を着ていたくらいだし
困窮度は相当なものだったろう。
ティンネフェルト著初期ビザンツ社会、古本屋で3800円でげっとしますた
>>581 羨ましス
でもそれ、初期でもかなり初期のビサンツを扱ってる本じゃなかったっけ?
ちなみに何処でゲットされましたか?
やはり神田?
>>576 マヌエル二世は趣味で白を好んだんじゃないか?まぁ財政がすごく厳しかったのは否定しませんが…
マヌエル二世期のビザンツの財政事情? 自己破産した家庭を訪問して所得申告させるようなものだ。
>>581-582 漏れも持ってるよ
神田神保町の南海堂にはビザンツ関係の古本が多いね。
「初期ビザンツ社会」と「ヘラクレイオス王朝時代の研究」をそこで買った。
>>585 それらの古本屋は地方への通販とかしてる?
南海堂のおっちゃんにしつこくオストロゴスキーの帝国史が無いか聞いてるんだけど いつも無いんだよな… 小宮山書店にも比較的新しいのが少しあったな。 しかし、神田は店が閉まるの早えいよ。そして、本があるとこで煙草すうな!
>>587 客商売の癖に土日休んだりするからな。何を考えてるのか…まあ学生相手ってい
うこともあるけど。
>>586 残念ながらない。
ちなみに密林は結構出物がある。
このスレは東京在住者が多いんだな。 神田の古本屋街、一度行ってみたい・・・ ビザンツ史の良書て一般の本屋に置いてない上にアマゾンでも絶版か品切れ状態。
神保町は世界屈指の古本屋街っていうこともあるけど、近くに正教会の本拠地が あるせいか、ビザンツ、ロシア、正教系の本は結構手に入るよね。 近隣の大学(明治とか)はビザンツ研究者いないけど。
正教会の食事メニュー知りたいな。 ビザンツの食文化の参考になるし。
>>588 神保町って学生相手だったのか?
俺の時はあんな高い本は買えなかった…
>>591 食事とは少し違うが、聖体パンにはイーストを使う
前スレでも話題になったが
>>592 まああの近くに大学が集まっているから、正確には「学生と研究生と教授」相手だな。
密林はボッタだぞ
>>592 ビザンツ本は違うかも知れなが、あの辺りが古本屋街になったのは、近くに大学
が集まっていたからだ。だから、講義のテキストが古本として売られているのを
よく見かける。学生だけじゃなくて研究者も当然いるからな。
ちなみにあそこの三省堂に「在庫僅少」という帯の付いたオストロゴルスキーが
あったのだが、高いので迷ってるうちに無くなった。
後にmixiのビザンツコミュかなんかを見たら、「ビザンティン帝国同好会」の
管理人が最後の一冊を買ったと言っていた。惜しいことをした。さすがマニア、
金に糸目つけないな。
>>596 漏れなんか無くて、図書館で全部コピーしたよ
598 :
581 :2007/08/03(金) 13:03:27 0
>>582 神保町なんてとんでもない、おいらは大阪人です
地元の天牛書店(誰も知らんだろうなw)つーとこで、たまたま発見
ポストローマ期フランク史の研究も売ってたので、同じく3800円でげっと
東京在住でなくてもこまめに古本屋を覗いてると、掘り出しもんは結構あるもんです
内容は仰るとおり、ごく初期にビザンツ史
ユリアヌス帝あたりから、ユスティニアヌス帝の時代くらいまでですね
>>585 ヘラクレイオス王朝時代の研究持ってるのは。うらやましいなあ
これも地元の古本屋で見つけたんだが、値段が高くて躊躇してるうちに、買われてしまってたorz
>>587 オストロゴルスキーは、尼のマーケットプレイスでも10万しますからねえ
自分は何年か前、正規の本屋で定価で買いましたが、それで正解だったようです
599 :
世界@名無史さん :2007/08/03(金) 17:15:59 0
ビザンツ研究で食っていけるのでしょうか?
600get!
>>599 食っていってる人達はいる
でも実際、他の分野と比べて研究は盛んなのだろうか?
602 :
世界@名無史さん :2007/08/04(土) 00:27:04 0
>>599 もしビザンツ、というか歴史の研究で食っていくことを考えてるなら
そういう考え方は速攻で捨てることをお勧めします。
イメージだが日本のビザンツ研究って、結局欧米の研究や新説の 翻訳紹介業って感じがする。あまりクリエイティブなものには思えない。
「イメージだが」「感じがする」「思えない」
>>604 気に入らないなら具体的な反論して下さいな。
607 :
世界@名無史さん :2007/08/04(土) 00:43:38 0
井上浩一氏の著作の中であるエピソードとして日本人が何故ビザンチン研究をやるのかと 欧米の研究者に聞かれて答えに窮したという話があったのですがそれだけ外国において認知度の低い 日本のビザンチン研究に敢えて人生を賭けようという冒険心に富んだ若者が実際にいるのでしょうか?
まずは、
>>603 がそういうイメージを持つようになった理由を書かないと
609 :
世界@名無史さん :2007/08/04(土) 00:52:04 0
まあ、ビザンツのことならこの人に訊け!という感じの モンゴル研究における杉山正明、岡田英弘みたいな キャラ立ちした研究者がいないから>603みたいな印象をもたれるんだろうな。
>>607 Fourteen Byzantine Rulersってプセルロスの年代記の英訳を借りて読んだら
序文で「ビザンツ史というとどうも停滞の代名詞のように思われがちで・・・」
などと愚痴っていた。
>>610 密林みたら一万円くらいのやつと610がよんだ三千円くらいのやつがあるけど内容は違うのだろうか?
>>612 同意。
>>603 は井上先生の『生き残った帝国ビザンティン』とか
『ビザンツ皇妃列伝』とか読んだことないのかなぁ。だとしたら
勿体無い、というか日本のビザンツ研究について語る資格がない、
とあえて言いたい。
615 :
612 :2007/08/04(土) 14:22:02 0
>>614 尚樹もオストロゴルスキーも持ってるよ。
>>613 まぁ何が言いたかったって言うと、それは言いすぎだということだ
NHKの番組には大月先生が出ていたがなんでだろう?
>>617 確かに。だから「あえて」って書いたんだけどね。
大月先生が出てたのは何の番組?
最近は大月先生の活動が目立つよね。
619 :
617 :2007/08/04(土) 15:07:44 0
>>619 ああ、昨年やったハイビジョンのやつか。
監修に大月先生、井上先生、益田先生ほかという超強力布陣だったらしい。
なぜ、これを地上波のNスペでやらないのかと(ry。
「ビザンチン」なのはNHKが決められてる発音がそれだから、っていう理由だろうな。
NHKの発音の規定は昔定めたやつだから、「ティ」は全部「チ」になるらしい。
621 :
617 :2007/08/04(土) 16:47:02 0
>>620 そうなのか、高校講座とかでも「ビザンチン」なのか
高校講座の世界史には取り上げてくれないかもしれんが…
622 :
世界@名無史さん :2007/08/04(土) 19:38:35 0
日本のビザンチン研究学者といえば井上氏位しか思いつきませんが他に見どころのある 研究者はいるのでしょうか?
どうもいまいち地味だよね なかなかおもしろい国なのに 結局は現代ギリシャが大国になってくれなきゃ昔の歴史も脚光を浴びることはないと
624 :
世界@名無史さん :2007/08/04(土) 19:57:27 0
ギリシャ独立の際、コンスタンティノポリスを首都として組み込めなかったのが イタイ。
>>620 益田先生って方は知らないな、どんな研究をしている方?
626 :
世界@名無史さん :2007/08/04(土) 21:31:59 O
>>622 幾らなんでも知らな過ぎです。
日本ビザンツ学会のサイトもあるし、Wikipediaの東ローマ帝国の
記事には参考文献が載ってるし、マニアのサイトやmixiでも本の紹
介があります。それらを見ずに2ちゃんなんかで訊くとは安直過ぎ。
>>621 意外にもNHKの高校世界史講座は1回をビザンツに充ててる。
しかも皇妃テオドラ・メイン。ここでは表記は「ビザンツ」
ttp://www.nhk.or.jp/kokokoza/tv/sekaishi/ >>625 早稲田の益田朋幸先生はビザンツ美術で有名。
一般向けの著書には『ビザンティンで行こう』や山川の『世界歴史の
旅 ビザンティン』など。美術で有名なのは益田先生と浅野和生先生
かな。
>>597 それでいいよなw
なかなか手に入らない本はけっこうあるもんだ。
>>617 >>618 >>619 年金が今の日本のテーマだからだろ。
しかしEUをローマ-ビザンチンに見立てていたがソ連じゃないかと思うんだがね。
あの辺の大月の理解は疑問だな。
ソ連崩壊後にビザンチンやその崩壊の意義を問うのなら意味があるんだけどな。
まとまとりのないEU的な西ローマに対して一応は統一していたソ連のような東ローマと言うイメージが
強いな。
発想の原点は似ているとは思うんだが。所謂普遍主義と言うやつだよな。
いまUHFの放送大学で古代末期の地中海世界という内容でビザンツの
出てたね。
>>628 ソ連の場合ビザンツ→ロシア経由で正教とか文化的な連続性があるから、
そう言いたくなるのは分かるけどね。建前と本音の使い分けとか、高官
の序列とか。クレムリンと赤の広場の関係なんて、大宮殿と競馬場の関
係と似てるし。
ただ、西側ではその例えは散々されてて、ビザンツのマイナスイメー
ジが増幅されてるから、学者としては使いたくないだろう。日本ではロ
シアとかソ連とか言っただけで悪い印象になるからな。
よくロシアはビザンツの継承者のように言われるけど、ギリシャ文化と
言う重要な要素が抜けてるんだよね。ロシアの場合。
>>627 益田先生は美術史の方だったのか。政治史関係の研究者しか知らなかった…
このスレでは井上先生が人気だなw 和田先生とか尚樹先生とかも活発に活動してるのに・…
>>631 井上先生は一般向けの書籍多いし、文章も読みやすいからね。
井上先生の本からビザンツに入った人は多いと思う。先生が気さくな人柄なのも
、評価の高い理由だろう。
>>627 ほんとだ、すごいね。
高校の教科書からも外れてないし、内容が知りたいよ。
ちゃんと、ユスティニアヌスの再征服が
財政に与えた影響を教えているのだろうか?
自分の時は再征服によってローマ帝国が再建されたと習ったよw
634 :
世界@名無史さん :2007/08/06(月) 21:46:00 0
ユスティニアヌス帝の外征によって財政が逼迫し、領民には重税が課せられた。 これが「ニカの乱」の原因だ。 さらに外征により、ゲルマン諸族の手によって繁栄していたイタリア半島の都市は荒れ果て、 ゲルマン民族が心の底では憧れていた「ローマ帝国」のイメージを崩してしまった。 荒れ果てたローマ市の人口はわずか500名だったという。
ユスティニアヌスの頃のビザンツは当時の穀倉地帯だった エジプトやシチリア支配していたから裕福なイメージがあるが 内情は火の車だった訳ね。
636 :
世界@名無史さん :2007/08/07(火) 05:42:41 O
じゃあさ、ユスティニアヌスのローマ帝国再建の歴史的意義は何なの?
>>636 『生き残った帝国ビザンティン』に書いてある。
たぶん図書館には置いてあるだろう。
638 :
世界@名無史さん :2007/08/08(水) 14:59:05 O
>>637 そんなこと何処にも書いてないぞ!
いい加減なこと言うな!
>>638 ユスティニアヌスの時代の後、ヘラクレイオスの手前にちらっと書いてあるな。
あとは同じ井上先生の『ビザンツとスラヴ』と文庫クセジュのユスティニアヌス
でも読めば?
640 :
世界@名無史さん :2007/08/08(水) 23:22:35 0
ビザンチン帝国皇帝、バシレイオス2世は攻め込んできたブルガリア軍を撃退したあげく、1万5000ものブルガリア兵を捕虜にした。 捕虜は百人を一隊とし、99人は両目をくりぬかれ、残りの一人は先導役として片目のみ残してブルガリアに返された。 14850人もの盲人がわずか150人の片目の先導役を頼りに、延々と行列して戻ってくるさまを見たブルガリア王はショックで倒れ、 2日後に死亡。 ブルガリア帝国は体勢を立て直すことが出来ず、ビザンツ帝国に吸収されることになる。 この一件で、バシレイオス2世は『ブルガリア人殺し』のあだ名をもらった。 後に復活したブルガリアの皇帝カロヤン(在位1197-1207)は徹底してビザンツ帝国と戦い抜き、『ローマ人殺し』を名乗ったという。 『ギリシャ人殺し』ではないのね。
>>639 P97か。本当に軽くだけどね。
>>638 はどこをどう読んだのかと…。
>>640 今更何を…ビザンツ人が「ローマ人」を自称していたことなどビザンツ好きの
常識ではないか。しかも「ビザンチン」って…例のNHK表記?
642 :
世界@名無史さん :2007/08/09(木) 02:05:51 0
「ローマ人」はビザンツ人の自称で、他国者は「ギリシャ人」と見なしていたのでは?
後世に精神的な財産を残したのだろうが、再征服は意味の無いものだったんだろうな そういった意味では最後の「ローマ皇帝」として過大評価されている人物でもある
>>642 ブルガリアがもろにビサンツ文化圏でその影響を受けたからでは?
ギリシャ人と言っていたのは西欧諸国だと思う
イスラムはローマ人じゃなかったけ?
>>643 実際に古代ローマ帝国を終わらせてしまった人物だとは言える。だから「最後の
ローマ皇帝」というのは間違いじゃないだろう。
>>644 そう。ルーム・セルジュークの「ルーム」も「ローマ」のこと。
ブルガリアはローマって読んでたんじゃないか?シメオンなんかは、自分がその
「ローマ人」の皇帝になりたかった訳だし。
646 :
世界@名無史さん :2007/08/09(木) 15:15:08 0
ドナウ川北岸のルーマニアの国名語源は「ローマの国」だったな。 あの地がローマ領だった期間は短いが、ローマは憧れだったのか。
文明の栄誉に浴した源流を遡るとローマ帝国というのは ルーマニアやフランス・イギリスも含まれるな。 単に侵略されたと言えなくもないが。
ニダとは大違い!
話は変わるがビザンツ帝国史を自国史として学校で教えているのは ギリシャか? それともトルコか??
>>650 レス感謝。
今のギリシャがビザンツ史を扱っているとは違和感あるが仕方ないか。
>>651 仕方がないも何も、いまのギリシャ人の直接の祖はビザンツ時代の正教徒・ギリ
シャ語話者なんだから、むしろ当然だろう。
653 :
世界@名無史さん :2007/08/09(木) 17:21:43 0
ビザンティン帝国における殺人の対処法について教えてください!!
二ケーア帝国のテオドルス1世はビザンツ歴代皇帝の中で もっと高く評価されてもいい人物だと思う。
>>655 兄とはえらい違いだしね。有能な後継者を選んだ点も評価したい。
ルームセルジューク朝にも勝っているしね。
マウリキウス朝廷→フォカス朝廷→ヘラクレイオス朝廷の流れって 中華だと三つとも別勢力扱いになるよな。
禅譲繰り返した南朝に類似しているな。
トルコではやはり自国史は「突厥」として中央アジアに興り、西進して小アジアにいたり、 オスマントルコが興ってからコンスタンティノープルを攻略した、と教えているの?
>>661 最近ではEUに入りたいから「トルコはビザンツの領土だったからヨーロッパ」
という主張もしてるみたいだけどね。
それを滅ぼしたのがお前らだと小一時間(ry
663 :
世界@名無史さん :2007/08/10(金) 09:50:13 0
>>649 何を意味不明なことを。トルコはビザンツの敵でしょう。
たしかにトルコも領有してたけど、帝国のアイデンティティが
トルコ(アジア)側ではなくギリシャ(欧州)側にあるのは
あたりまえでしょう。
664 :
世界@名無史さん :2007/08/10(金) 10:52:46 0
>>663 その言い方おかしいぞ。
備讃津帝国の時代に、トルコ(アジア)側とギリシャ(欧州)側を、特に区別なんかしていない。
665 :
世界@名無史さん :2007/08/10(金) 10:54:50 0
スラブ人のようにトルコ人をキリスト教徒に改宗させなかったのだろうか? 当初からイスラム国家として固まっていたわけではないだろう。
666 :
世界@名無史さん :2007/08/10(金) 11:02:56 0
備讃津帝国が傭兵として導入したりで セルジュークに占領される前から小アジアブルガリアのトルコ化は進行していたという説があるらしい。 カラマンリ(第一次大戦後ギリシャに追放されてしまう)、ガガウズはキリスト教徒になったトルコ遊牧民の末裔らしい。
667 :
世界@名無史さん :2007/08/10(金) 11:09:55 0
ギリシア的には、アナトリア西岸イオニアはれっきとしたギリシアだろうな。
第1次世界大戦後、ギリシアのヴェニゼロスはビザンティン再興という自らの野 心から旧イオニア地方を占領し、民族浄化を行い、多くのトルコ人を殺害した その後、アタチュルクにより再建されたトルコ共和国軍により反撃され、ギリシ ア軍は駆逐された
古代から栄えた港町、エフェソスは裏山の土壌流出で港が埋まってしまい、 ビザンティン時代には廃れたんだよな。 昭和62年のNHK特集、「地球大紀行」でやっていた。 アンティオキアの街は6世紀に起こった大地震で30万人もの死者を出して廃れた。 あの時代でそんなに人口があったんかいな。
>>670 確か地震があった日の辺りに聖人の誰かの祭りかなんかがあって、巡礼の人達が
アンティオキアに集まってた、というのを読んだ気がする。
「善光寺地震」と同じだな。 江戸時代後期の弘化年間、善光寺御開帳で宿場が大賑わいの時に地震が起きて 信州人はもとより諸国から集まった善男善女、1万人が死んでしまった。 のちに作られた不謹慎な狂歌 「死にたくば 信濃へござれ 善光寺 土葬水葬火葬でもする」
>>672 スレ違いだが江戸時代は優雅だな。こういうのが許容できる国こそ文明国だと思うよ。
>>第1次世界大戦後、ギリシアのヴェニゼロスはビザンティン再興という自らの野心から 列強とトルコ分割のために出兵。しかもヴェニゼロスはその後選挙で大敗 >>旧イオニア地方を占領し、民族浄化を行い、多くのトルコ人を殺害した セーブル条約で決められたのだから何も問題はない 虐殺はトルコがゲリラ戦を仕掛けたのだから当然のこと (平穏だったスミルナのトルコ人は死んでいない) >>その後、アタチュルクにより再建されたトルコ共和国軍により反撃され、ギリシア軍は駆逐された セーブル条約反対を訴えていたケマルを討伐しようとしたのは国王のコンスタンティノス1世
アナトリアやコンスタンティノポリスにいた人たちは「ローマ人」と称したが テマ・ヘラスやテマ・ペロポネソス(ほぼ現代のギリシャに相当)の住民は 中央から「ギリシャ人」と呼ばれていた。
10世紀までのブルガリア軍ってウマイヤ朝やルーシの軍勢より強いんじゃないか?
677 :
世界@名無史さん :2007/08/10(金) 21:45:52 0
>>662 でも「ルーム・カイセリ(ローマ皇帝)」と自称したスルタンもいたりする。
オスマン朝にはビザンツの後継国家、という意識もあったのでは。
>>629 正教などのビザンツ文化の影響を受けたキエフ・ルーシの後継国家は
ロシアというよりウクライナの方ではないかと思う
オスマントルコがローマ帝国の後裔を自称したとて、宗教が違うから絶対認められないよ。
正教を信仰していたセルビアやブルガリアが東ローマを征服していればよかったのに
第三のローマはモスクワだよ
中央軍を編成してウマイヤ朝をアナトリアあら駆逐し 天敵のブルガリアに勝利し続けたコンスタンティノス5世は もっと評価されてもいい 聖職者からは汚物のように嫌われたが 民衆や軍部からの支持は強かったらしい
>>683 ビザンツの聖職者って、対イスラムの外交を邪魔したり頓珍漢な要求をしたり民衆先導したり
ろくなもんじゃ無いわな。
>>675 それ、前にもあったけど。根拠は何だか教えて?
日本語の文献にはそういう記述が見当たらないんだよ。
>>682 それ、正教会の聖職者が言ってただけで、当のモスクワ大公自身が
そう思ってたかどうかは怪しいもんだ。モスクワ大公国がローマ的要
素を受け継いだ形跡ゼロだし。「ローマ人の皇帝」には「文明世界全
ての長」「諸王の王」というニュアンスがあったけど、そんな意識あっ
たようには思えないし。
ピョートル1世の頃になると、元老院を作って、インペラトル由来の称
号を使い出すけどね。
>>683 聖像崇拝禁止自体が修道院の力を抑えるためだったって言う説が
ある位だからね。教会のウケは良くないよな。
息子レオーン4世の嫁は、息子の目を潰して簒奪したのに聖像復活
した、ってだけで聖人認定だし。
>>684 一面的に見ちゃダメだろ。
>>680 ローマは最初からキリスト教だったわけではない。
イスラム化したローマ=オスマン帝国、という見方もある
しかしケマル以後、当のトルコでは基本的にこういう見方は否定されている。
トルコ民族主義とは相容れないからな
スレイマンやメフメト2世はルーム・カイセリを名乗ったが ほかのスルタンはどう思っていたんだろう オスマン朝の臣民は自国のことをローマを受け継いだと思っていたんだろうか
アヤ=ソフィア大聖堂のモザイク塗り潰して、何がローマ皇帝じゃ! 聖堂内にゴマンとあった聖遺物やイコンもすべて破棄されたんだろうな。
マジャール人はビザンツと戦ったことってある?
つーかメフメト2世以降のスルタンは、代々そのおっそろしく長い肩書きの中に「ローマ皇帝」が入ってるだろ。 オスマン帝国滅亡まで対外的にも自称してたはずだぞ。
オスマン最盛期の領地はユスティニアヌス帝の領土に匹敵するとはいえ、 キリスト教徒は絶対認めないだろうな。
自称しても誰も認めないという 西欧じゃビザンツもローマ帝国とは認められていないし
>>693 逆にオスマンのスルタンのローマ皇帝号を認めなかったのは西欧(とロシア)くらいでは?
イランもインドも、そしておそらく中国も普通に認めていたと思うぞ。
西欧「ローマ教皇から認められた神聖ローマ皇帝がいるんで間に合ってます」
オスマン帝国があった時代には まだイランもインドも中国もなかったのに どうやって認められているんだよ
>>696 サファヴィー朝とかムガル朝とか明清帝国とか言わないと理解出来ないの?ボク?
ムガル帝国、サファヴィー朝、アフシャール朝、明、清が オスマン帝国を「ローマ帝国」と呼んでいたか ローマの後継国家と認めていたという事例があるのならご紹介いただきたい
>>697 存在していない国を挙げているお前が悪い
百年戦争でフランスから撤退したイングランドの 代々の国王は長い間「フランス国王」自称していたという話を 思い出した
>>693 ゲルマン人やケルト人やそれらと混合したラテン人たちは
ラテン語とラテン文字を使っていない人たちのことを
ローマ人とは思えないんだろう
ギリシャ化したローマ帝国の時代に 初めて接触したスラヴ人、アラブ人、トルコ人は すんなりとローマ帝国と呼んでいたが
>>スラヴ人、アラブ人、トルコ人は それらはラテン語を話していたころのローマ人と接触したことがないからな
オスマン朝は法体系がローマ法と全然違うからな、その時点でローマ帝国にはな れんだろ。 まあ「ローマ人」を支配してたことは確かだが。
ローマ人かギリシャ人が支配していないとダメ トルコ人の支配する帝国は、ローマ帝国とも言えないし東ローマともいえない
コンスタンティノポリスをギリシャに返すのは無理でも、アヤソフィアくらいは返してあげなさいよ。
>>706 おまえ、ルーマニアをナメるんじゃ(ry
トルコ人によるローマ帝国はどうしても違和感がある。 しかし女真族や蒙古族による中華帝国は違和感が無い。 不思議だな。
7世紀にビザンツがバルカン半島を放棄して、北はシチリアから南はエチオピアまで支配する グレコ=アフリカン帝国になるというIFシナリオを見たことがあるw
イワン3聖が最後の皇帝の姪を嫁にしたのは ローマ皇帝を継承したことを宣言するためではなかった?
領土はトルコ人に、血脈はロシア人に引き継がれた
元老院と軍隊と市民から推薦されないとローマ皇帝じゃないと思ってる
血脈で言ったらサファヴィー朝もいけるんじゃないか トレビゾンドだけど
>>しかし女真族や蒙古族による中華帝国は違和感が無い。 それらは金や遼を建てたことはあるが中華帝国って国はないからな
>>709 それはモンゴルやマンジュが中華文明に変わって支配を正当化できる
文化・文明を持っていなかったことが大きい。
ビザンツはローマの伝統を継いでいるとは言え、かつてのローマのように
周囲を圧倒して文明化できるほどの存在では無いし。
スラヴやマジャールとかは影響与えているがね
かつてのローマもパルティア、ペルシャを圧倒したとは・・・・
>>717 携帯からご苦労だなあ。
イスラム世界はビザンツに変わりうる統治体制を持っていたってことよ。
モンゴルやマンジュは、残念ながら他に中華を支配する体制を知らなかった。
それでも支配してグダグダだった大元は、ある意味凄い。
これ以上はスレ違いかな。
>>720 お前はいつの時代の話をしてるんだ?
ヘラクレイオス時代か、メフメト2世の時代か?
>>720 モンゴルの支配体制はそれまでの中華王朝よりはるかに先進的。
大元のあとの明なんて、元の支配体制のそのまんまコピーだぞ?
>>残念ながら他に中華を支配する体制を知らなかった 知らんかったから清も元も新しいやり方をしたんだろう
>>721 トルコによるローマ帝国の話なんだから
メフメト2世以降のオスマン帝国の話だろ。
>>690 ヨハネス2世とマヌエル1世が戦ったことがある
具体的にオスマントルコの統治はどんなんだったん? ビサンツスレの住人だから、俺は当然知らん
ローマ法を基にしていない 宗教はわりかし自由
だれかEU3でビザンツ復興させようという猛者はいない?
肥のチンWPK版シナリオ4のビザンツでプレイするといいよ。 1370年スタートでオスマンを倒すイベントあり。
黒人といえば、EUUACではヨーロッパ側平定してヌビアを外交併合したな・・・
>>707 アヤソフィアがギリシャにとってとても重要なものである事は確かだが、
アヤソフィア・ジャミィの500年の歴史を軽んじていい訳がない。
今、博物館として公開されているんだから、それでいいじゃないか。
変な飛び地ができるのはよくない
>>707 そんなことになったら2chでなお一層ギリシャたたきが激しくなる
いまでもギリシャは2ちゃんねるでは嫌われているのに
下手すれば駐日ギリシャ大使館のホームページにハッキングする奴がでてくるかもしれない
2chで言われることがなんだってんだよ(笑)
738 :
世界@名無史さん :2007/08/14(火) 11:51:13 0
肥はウマイヤ朝と東ローマの百年戦争をゲームにしろ イギリスとフランスのより大規模だぞ
肥よりParadoxに期待した方が・・・ ベリサリウス無双とかヘラクレイオス無双とかならともかく。
無双はまじ勘弁してほしい
741 :
世界@名無史さん :2007/08/14(火) 13:24:49 0
ギリシャモナーの「ヘレー」がいたなぁ。 トルコモナーの「パシャ」に向かって「ヘビョーン」していたなぁ。
何でトルコ首相の結婚式の仲人を ギリシャの大統領が勤めたり ギリシャはトルコのEU入りを支持しているのに 何で日本人はギリシャとトルコを仲がわるいと思いたがるんだろ
ファビョーン .∧_∧ アイゴー! ∧_∧ ∩#`Д´> '') トルコに強く抗議し (´∀` ;) そんな事言われてモナー・・・ ヽ ノ 謝罪と賠償を(ry ( ) (,,フ .ノ | | | .レ' (_(_) ヘビョーン ヾ .88888 ウオー! □ ∩#`Д´)'') トルコに強く抗議し (・Ω・ ;) そんな事言われても・・・ ヽ ノノl| ノ 謝罪と賠償を(ry ( ) (,,つ .ノ | | | .し' (_(_) 博士!我々はヘレーの癇癪をヘビョンと名付けることにしますた!!
教えといてやるがギリシャが一番嫌いな国はアメリカとアルバニアだぞ
スパルタスレ、アレクサンドロススレにも似たようなのがいたが ついにビザンツスレにも現れたか。嫌希厨。
『デヴゲニイの事績』−ロシア語・ギリシャ語写本の比較研究によるアーキタイプ再建の試み−
この作品にはビザンツの当時の状況、風習などが描かれており、
ビザンツ世界における社会的・政治的・文化的状況を知る上でも重要な資料となりうる。
とりわけ、この物語が首都のコンスタンティノープルではなく、
これまで比較的情報の少なかった辺境を舞台にして繰り広げられていて、
地方での生活を反映したものであるという意味においてもその意義は大きい。
ttp://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slav/thesis/ogura.html
>>742 キプロスで派手に戦争(本国支援付きギリシャ系住民vsトルコ本隊)してから
たった30年で民衆レベルまで仲良くなったなんて信じられる?
>>747 その支援していたギリシャの軍事政権(ついでにアメリカも支援)
はとうの昔に崩壊したぞ。
独立派やギリシャ本土から逃れた民主運動家が多数だったキプロスを
無理やり併合しようとした軍事政権が少数のギリシャへの併合派を使って
クーデターを起こしたのが30年前のキプロス事件だ
>>747 30年もたったんだろ?
政治レベルはともかく
民衆の間だったらおかしくない。
>>748 そしてギリシャ系独立派と併合派が戦っていた時に
トルコ系住民保護を目的にトルコ軍が出兵となるわけだ
>>747 逆に聞きたい。国家間の関係ならともかく
何で民衆レベルまで仲が悪いと思いたがる?
ハンガリーやチェコあたり正教でもよさそうなのに
>>752 チェコのあたりは正教の国があったが
ハンガリーに崩壊させられた
ハンガリーがカトリックなのはフランク王国の影響
>>752 >>753 のいうように、あの辺りには大モラヴィア王国があり、キュリロスとメトディ
オスの兄弟が布教に行ったが、後に滅ぼされてしまった。
東ローマはブルガリアやイスラム勢力との戦いでは いつも大体どれぐらいの兵力を投入してたんだろ 万単位はいく?(相手はどれぐらいなんだろ)
>>729 Victoriaの最新パッチならギリシャでビザンツ帝国再建ができるよ。
まあ、俺にMOD作る能力さえあればHoI2でビザンツ復活MOD作るところなんだが。
Paradoxユーザーはビザンツ偏執狂が多いからな・・・
コンスタンティノポリス攻略以前にオスマントルコが首都としていたアドリアノープル、 現在のトルコの都市イディルネは、「ハドリアヌス帝の街」という意味だったんだね。 アドリア海から遠いのに妙な名前だと思った。
ビザンツをEU2からデータ読み取りを繰り返してVictoria、HoI2までやった人いる?
源頼朝でも勝てそうな人物スレで イサキオス2世の名前がジョンと共に挙げられていた件について
ジョン欠地王?
>>760 なんか分かるような気がする。
アンゲロス朝は完全に末期症状を呈してたからな。
それに比べれば、パレオロゴス朝の最後の三人は頑張った方だ。
そういえば、前スレに「アンゲロスブラザーズ」のAAあったよね。
改作とは言えイサキオス2世、アンゲロス3世と言うダメ兄弟がチョイス
されたのにはワロタ。
弟のアレクシオス3世はあれだけ兄や娘婿の足を引っ張りながら 修道院で天寿をまっとうできた分、ラッキーだったのだろう。 しかし神聖ローマに払う金欲しさに歴代諸帝の墓荒らしまでする無能ぶりは大した物だ。
>>738 日本で中世ヨーロッパといえばとかの西欧のあたり
南欧東欧アラブはピンと来ない
だから肥がゲームにすることはないだろう
ビザンツは戦闘以外の部分(外交、策略など)が重要な要素を占めるから、ゲー ムにするのは難しいだろうな。「夷を以て夷を制す」なんてゲームにしにくいし。
766 :
世界@名無史さん :2007/08/16(木) 21:06:15 0
まあ中世は イスラーム=先進国 西欧=発展途上国 だからね。 イスラームは史料文献も豊富だから史実武将に事欠かないが 西欧だと一部の貴族・騎士しか名前が伝わっていない。
>>夷を以て夷を制す どこの国でもやっていることだ 何で東ローマだけが有名になるんだ
>>ビザンツは戦闘以外の部分(外交、策略など) 戦闘でかなわない相手(シメオン)(セルジューク)だとそうだが 力押しで何とかなる場合は押せ押せだけどね(ニケフォロス2世)(コンスタンティノス5世)
>>768 おそらく十字軍の時に西欧が抱いたイメージが
そのまま現代まで続いているんだろう
策略重視か武力行使重視かはその時皇帝や 時代状況によってまちまちだと思うんだよね
>>768 当時の西欧は、余りそういう手を使ってないからじゃない?
後代になれば西欧諸国だって平気で使うようになるけど。
ビザンツの策略って要は金で強者に媚びて弱者に対抗するってことなんだから、 今の日本もやってるし。 しかし、肥のチンWは西欧と日本以外の地域区分がひど過ぎてビザンツではやる気失せる。 やっぱ歴ゲーならParadox様だな。 HoIにも登場してムッソ様に真のローマ帝国とは何か教育した後、 ゲルマンの蛮族と正教を虐げるソビエトの叛徒どもに復讐できるようにしてくれればなあ・・・
>>ビザンツの策略って要は金で強者に媚びて弱者に対抗するってことなんだから、 例えばどの皇帝の時の政策か?アレクシオスかロマノス1世か
>>771 イサキオス2世なんて反乱を越したブルガリアを
直ちに鎮圧しようとしたあたり武力行使派だね
ブルガリアが呼んだクマン族に手痛い打撃を受けてしまい
ブルガリアの独立を許してしまうが
(ブルガリアも「夷を持って夷を制す」政策をやっている)
ルーシ・アラブ・ブルガリアとの戦いまで 「自らの力を使わず金と策略と援軍で切り抜けた」 などといわれたらたまらない
確かによくよく考えてみるとビザンツはほとんど自分で戦ってるよな。 やはり十字軍側の一方的な印象なのか?
>>771 ハールーンと戦うたびに負けて賠償金を支払わされ
ブルガリア討伐に出て大敗して戦死したバシレイオス1世も
策略派というより武力行使派だろう
第一回十字軍のあとで「異教徒と組むギリシャ人」といった悪口を西欧で言いふらした ボエモンはアレクシオスに敗戦したことがよほど口惜しかったんだろう
ボエモン・・・ なんだかジャイアンの歌声みたいな名前だな。
ニケフォロス1世だろ
>>775 イサキオス2世は意外にも親征とかやってるんだよね。
無能で怠惰な馬鹿皇帝イメージがあるけど。
まあ、能力はないから負けたけどね。
>>777 バシレイオス2世みたいに自分で戦うような皇帝でも、ブルガリア側に対して
切り崩し工作とかやってるけどね。
『幻影の世界帝国』でも国是は「戦うわずして勝つ」だって書かれてるし。
>>778 それ、ニケフォロス1世だろ?
項羽や劉秀みたいに 自ら敵陣に切り込んだ皇帝は 流石にビザンツにゃ居ないか?
最後の人は斬り込んだんじゃない?
>>国是は「戦うわずして勝つ」だって書かれてるし。 それ自体が西欧の影響だと思うんだよね 国是っていつの時代からの国是なのか? 共和制からか?軍人皇帝時代からか? 策略か侵攻かは皇帝によって違うと思う
×それ自体が西欧の影響だと思うんだよね ○西欧史観の影響をうけている
>>783 国是だからというより、バシレイオスのように有能だから
そういう工作が出来た、ということでは
「ビザンツはいつも外交で・・・」などと言うからおかしくなる 国を動かす皇帝は何人も変わっている、国家方針は皇帝によって違うもの
マヌエル1世にセルジュークをけしかけたのはバルバロッサであり 中東に出来た十字軍国家も場合によってイスラム勢力と手を組むこともあった ビザンツだけが策略外交とか狡猾なことしている というのは近代の歴史家の偏見
ビザンツの策略って具体的にはフンの西遷とシチリアの晩鍾以外には何がある?
シメオンが相手の時のように 戦っても勝てそうにない相手の時は かなりやっている
>>フンの西遷 これは単に城壁にこもってやり過ごしただけで 策略などといえたものじゃないのでは
アラブ、マジャール、スラブ、ルーシには 結構真正面から戦うことも多いんだよな (敗戦もあるんだが)
西欧だとローマとビザンツは別の国という意識なんだろうな
>>796 西欧に首都がなかったローマ帝国なんて断じて認められないんじゃない?
「ローマ・バシレウス国」を自称してたみたいだけど 帝国とも王国とも訳せるよなw まあ正式な国号は「ローマ元老院と市民」でずっと通してた…んだよね?
大城壁の中に引き篭れるってのがねらー的にポイントだよな。 数からすれば中国の方が凄そうだけど。
>>798 不勉強過ぎ。
ウィキペディアレベルのことを質問するな。
>>
コンスタンチノープル以外に凄い城壁があった都市はないの?
第二の都市のテッサロニキもたびたび攻められたりしてたよね
>>802 いくらでもあるだろ。モンゴルが攻めあぐねた南宋の開封とかすごかったらしいが。
>>804 ビザンツ帝国内での話だろ。
あと南宋はジョウ陽だろ。あそこはハン城と二つの城で結合してるからな。
ま、コンスタンチノープルもガラタとかあったけど。
ヨハネスがザンギー討伐に成功していたら 西欧の見る目が変わっていただろうに
808 :
世界@名無史さん :2007/08/18(土) 00:55:46 0
>>テッサロニキ いつも攻められているイメージがあるな
809 :
世界@名無史さん :2007/08/18(土) 00:59:13 0
>>784 プセルロス年代記によれば、コンスタンティノス8世は敵将の首を取ったらしいぞ、
100%嘘だろうけど
>>809 敵将って言っても外敵じゃなくて反乱軍のだけどな。
中央政府と地方の仲が悪いことが多くね?
>>811 どの辺りの時期を指して行ってるんだ?
日本で言えば古墳時代から室町時代にあたる長さだから、時期によって違うよ。
>>811 普通そういうもんじゃないか?
何処の国でも仲が良かった例が無いじゃん。
テマ制か
ササン朝やアラブ人が東から、フンやブルガル、スラブやセルビアが北から攻めてきたときには、 コンスタンティノープルは城壁で守られても、地方は蹂躙され続けたしな。 コンスタンチノープル奪還した後はニケーア方面は放って置かれざるを得なかったし。
アヴァール族がバルカン半島を蹂躙したんだよな。 あるトンデモ本では、西暦525年だかにあったインドネシアはスンダ海峡での巨大噴火が 世界中に異常気象をもたらしたという。 日本の崇仏派と廃仏派の争いもアヴァール族の侵入も、この異常気象が原因だとか。
>>816 あれはトンデモ本なのか…。今度読もうかと思ってたが
やっぱりコンスタンティノープル以外のビザンツ城塞都市は何回も陥落してるのかな?
陥落しているからこそ、しまいには都市国家になっちゃったわけで。
テマが整備される前は荒らされていた
テッサロニキのあたりは何度も攻められたが 落ちたのはノルマン軍の攻撃だけだよ
攻撃を受けることがあるが最終的に追い返している 攻撃を受ける=あらされるというなら コンスタンティノポリスなんてどれほど荒らされたことか
>>818 攻撃を受けたことはあるが
陥落して占領されるということはそうそうない
地方の領主が反乱をおこして独立しようとすることは何度もある
「パンとサーカス」のように地方に厳しいのは 首都がローマだった時からの伝統
>>815 地方都市だって大抵はコンスタンティノポリスと同様敵の攻撃をはね返している
末期になるとはね返せなくなって占領されるんだが
コンステンティノス8世以降の軍隊は 外国の傭兵が多くなっている 第一次世界大戦の時のオーストリア軍のように 意思の疎通も困難だったんじゃないだろうか
思わぬところでこんなカキコを発見 13 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2007/08/04(土) 08:12:37 0 「キプロス、ギリシャ、エーゲ海の十字軍城塞」って本では ギリシャを占領したラテン人は土着の職人や建築家によって 城塞を建てたので、単純で時代遅れな後期ロマネスク様式の ものしか出来なかった、などと書いていた。 もうこの頃では築城技術も西欧に抜かれてたんだろうか
ビザンツ建築はアヤ・ソフィアで完成して それ以後は発展していないと建築史専攻の先生が言っていた。
>>830 実際問題として、大規模で新規な建物を作る金の余裕がなくなったんだろうな、アヤソフィアあたりで。
まあイスラーム勃興後は軍事費にばかり金吸い取られて 大規模な工事といえばせいぜいコンスタンチノープルの城壁くらいだしね。
>828 最後の方になると傭兵が正規軍に反乱して国取っちゃったりしてるしな。
>>832 公的建造物よりも私的な教会建築とかが中心だからね。
>>830-831 経済的な問題もあるけど、基本的に伝統を守ることを重視する国だからね。
つーか、重装騎兵とか作るくらいならコンスタンチノープルだけじゃなくて トラキアとかニカイア地域全体を囲う長城を作れば良かったのに。 網目のように城塞を作っていけば帝国ももっと長生きしたんじゃね?
>>835 長城つくってもそれに有力な軍隊もセットにしないと有機的に機能しない。中国のそれを見れば明らかだろ。
それに長城も規模が大きくなればなるほど莫大なメンテの為の人材と資金が要る。
普通に軍隊整備した方がはるかに費用対効果は大きいわな。
837 :
世界@名無史さん :2007/08/21(火) 00:27:28 0
イスラム圏のモスクは、アヤソフィアの建築様式を真似ている、という話があるな。 現にイスタンブールのブルーモスクはアヤソファそのまんま。
>>837 アヤソフィアを真似したのはオスマン様式の「ジャーミー」と呼ばれる格式の高いモスク
渋谷の東京ジャーミーの窓付きドームなんて離れてみるとアヤソフィアそっくり
東方正教会の東京復活大聖堂(ニコライ堂)よりも似ているというw
コリントス地峡を塞ぐ城壁ならモレア専制公国が実際に作ってますが
840 :
世界@名無史さん :2007/08/21(火) 04:22:16 0
ビザンツに入浴の習慣はありましたか? ローマの伝統を受け継いで公衆浴場があったのかな? それとも西側同様に入浴は廃れてしまったのかな?
>829 ヘクサミリオン?
>>840 少なくともコンスタンチノープルには公衆浴場はあったし、オスマンもそれを
維持発展させてる。イスラームも公衆浴場を大切にする文化だし。
843 :
世界@名無史さん :2007/08/21(火) 14:21:00 0
ロシアの原初年代記に、布教にやってきたギリシャ人がバーニャを見て 「裸で木の枝で背中を叩いて苦行している」とか驚く場面があったなw
>>843 今でも南米やフィリピンで似たような事やってるのがいるなあ。
ロシア人のはただの入浴だが
ローマの水道はゲルマン侵入で破壊されてしまったが、 コンスタンティノープルの水道は帝国滅亡まで、さらにオスマントルコになっても 大切に維持されてきた。 浴場を作るにはまず水が無ければね。
パレオゴロス朝末期にはメンテすらままならず まともに機能してなかったとか…。
×パレオゴロス ○パレオロゴス ものすごく嫌なタイプミス(´・ω・`)
オスマン帝国が衰退を始めた頃にも 真っ先にその症状は「公共浴場の水が濁る」 という形になってあらわれたとか
民間用インフラのメンテナンスが滞るってのは、政府に金の無くなり始めた証拠だからな。
ところで、ローマ帝国崩壊以後に浴場が流行らなくなったのは、水道の破壊以外に 「奴隷による無償労働が無くなった」というのがある。 ビザンティン帝国では、浴場の運営はどのように行われていたのだろうか。
852 :
世界@名無史さん :2007/08/21(火) 21:52:32 0
>>851 奴隷制の無かった江戸時代の日本でも、公衆浴場は無事に運営されてたわけで。
何とかなるもんなんでないの?
ところで、ビザンツの人は毎日風呂に入ってたのかな。
853 :
世界@名無史さん :2007/08/21(火) 22:45:04 0
>>853 なぜかURL貼っても反応無いんだよね。そこ。
内容は素晴らしいのに。
855 :
世界@名無史さん :2007/08/21(火) 23:47:18 0
>>853 国内外の基本的なビザンツサイトとウィキペディアの東ローマ帝国の
記事くらい貼った方がいいかもな。
ちょっとサイトやウィキペディア、概説書を見れば分かるようなことまで
ここで訊くアフォが大杉
856 :
世界@名無史さん :2007/08/22(水) 00:49:33 0
857 :
世界@名無史さん :2007/08/22(水) 00:50:35 0
ビザンツはなぜモンゴル帝国の侵攻を受けなかったのか? マムルークが撃退しても、それ以上モンゴルが西進しなかったのは なぜか?
セルジュクトルコが盾になってくれたんだよ。 金が宋の盾になってくれたように。
アナトリアを横断してるうちに本拠地のアゼルバイジャン荒らされたら・・・
860 :
世界@名無史さん :2007/08/22(水) 09:45:49 0
北方はブルガリアが内戦などで盾として機能してなかったので キプチャク汗国軍がトラキアまで攻めてきたりした。
>>759 欧米だとやってる人もいるみたいだが、それくらいの猛者がやったら
Vic終盤には世界征服までやっちゃうような気がする。
>>860 コンスタンティノープル対モンゴル軍も見てみたかったな。
結果はモンゴル軍が包囲するも落とせず退却という感じだろうが
>>862 わからんよ当時のモンゴル軍ひょっとして野戦より城攻めのほうが得意なんじゃね?ってぐらい落としまくってるからね
14世紀になるとさほどでもない。 コンスタンティノープルよりよほど近いクリミアのカッファを落とせずに ペスト患者を投石器で放り込んで帰ったりしている。 ティムール朝軍なら陥落させられるかも知れないけど。
アンカラの戦いの後にティムールがコンスタンティノープル包囲しなかったのは何故?
>>865 ティムールの目的はオスマントルコの撃破、オスマン家に追放されたアナトリアの勢力が彼を頼ったのがことの始まり
>>829 後期ロマネスク様式ってちょうど十字軍の時代の建築だと思ったが
それほど遅れていたわけではないと思うぞ
地方にいた建築家の腕のレベルが中央より劣っていたという話じゃないの
>>865 モンゴルや中央アジアからみたら、もうそれほどの魅力がある都市じゃ
なかったのかもね。
第四回十字軍やラテン帝国の後で財物も失われた状態だったし。
一応同盟相手の国を何で攻めないといけないんだよ
神学論争に煩わされたということは 僧侶の政治に対する影響力がそれだけ 大きかったということなんだろうな
>>867 しかし首都の城壁がそもそも5世紀の建築・・・
>>870 坊主の影響を嫌った天皇が新しく平安京を築いた話や
足利義教が言うことを聞かない比叡山を焼き討ちしたという話を思い出した
>>871 しかし城壁の修復は何回も行われているはず
ビザンチンはギリシャ火は持っていたのになんで石弓は実用化しなかったの? あと、ウルバンがオスマンの前にビザンチンに攻城砲を売り込んだって話は本当なの? まあ末期のあの頃にウルバン砲を実用化しろというのは酷だけど。
>>874 ウルバンが売り込んだのは本当だけど
ほら吹きとみなされた
どうでもいいがビザンチンよりビザンツのほうが響きがいい
>>861 HoIでビザンツコンバートするとなると
研究機関や閣僚はどうなるんだろう
やはり全部架空になるんだろうか
879 :
世界@名無史さん :2007/08/25(土) 11:56:49 O
>>877 PCゲーム板のParadoxゲームスレ見たら、自分でMOD作って研究機関や閣僚を
登録させられるみたいだが。
俺も久々にEU2のビザンツを復興させる作業に挑戦するか。
>>875 個人的には開発費の明細を見て目の玉が飛び出て「こんな金払えるか!!」と
追い出した、と言う説が好きだなw
ウルバンは小型砲の製作で我慢してもらって雇っとけばよかったのにね。
小型砲ならもうすでにあったんじゃ?
まだ努力の跡が見られるジョンより厄介な連中なんだよな
885 :
世界@名無史さん :2007/08/25(土) 18:06:52 0
>>880 そのほうが合理的だな。
どう見ても敗戦必至、という状況ならホラにだって頼りかねない。
少なくとも「実演してみろ」くらいは考えるだろう。
だが、開発費が出せなくてそれが出来なかった。それほどビザンツは衰退していた。
・・・このほうが、話としてはずっとスッキリするよ。
「試しもせずに追い返した」って、そんな馬鹿が何で千年も国を守れたのかと。
中の人間は千年の間に何人も変わっている 同じ人間が千年間ずっと国を動かしているわけじゃない
ベリサリウスが千年間長生きすればよかったのに
無論、盲目の乞食として
金払うつもりがないなら、ウルバンヌッ頃すべきだった>コンスタンティヌス 次にウルバンがどこに売り込みに行くか考えなかったのか? こいつ馬鹿の世界チャンピョンだ!
軍隊のほとんどを傭兵に頼っていた末期ビザンツがそんなことできるわけないだろ。 とはいえ、その前にもカタロニア人傭兵に背かれて、アカイア公国占領までされた例があるがな。
ギリシャ火作った人も最初はアラブ人に売り込んだんだっけ?
>>876 せめて「ビザンティン」だよな。「ビザンチン」って何か古臭い。
って550年前に滅びた帝国の通称に古臭いも何も無いけど。
教科書や概説書、専門書はだいたい「ビザンツ」か「ビザンティン」
だから、「ビザンチン」って書く奴はそういうちゃんとしたものを読
んだことがないド素人か、NHK発音に忠実な人だけだな。
>>883 まあ、前スレで「極悪非道のアンゲロスブラザーズ」AAがあったくらいだし。
イサキオス2世はブルガリアの独立運動に対して親征してたり、いちおう為政
者として何かやろうという気も無かったわけではない。まあ、能力的に全然
ダメだから結局は無駄な行動だったんだけど。
>>889 ビザンツスレでコンスタンティヌスなんて得意げに書いてるお前もどうか
と思うが。
だいたい、もう何やったってあの状況じゃ滅亡がちょっと延びるかどうか
位の影響力しかないだろ。
「ギリシャ人」や東ローマ贔屓の史家がなんて言っても、 イラクリオスより先は残りかすだろ? っていうギボン的なイメージは強力だ。
>>893 確かに、ただそのイメージしか持ってないと確実に笑われるw
ギボン=塩野は高校生までじゃね?
>>895 まあ「私は素人です」って言ってるようなもんだよね。
897 :
世界@名無史さん :2007/08/27(月) 12:15:11 O
>>889 てか、コンスタンティノス11世が馬鹿のチャンピオンならイサキオス2世なんてどうなっちゃうんだ・・・
ウィキの記事読むと徳川慶喜とかと同じパターンに見えるな>11世
しかしビザンツはヘラクレイオスやらテオドロスやら忍耐力のある名君がいっぱいいる
ような気がする。
相変わらず権威の引き下げに一生懸命な人たちですね
>>893 アテネの住民は古代が一番よくてあとは下り坂と考えているらしい
イサキオス2世やアレクシオス4世は有能だろ ムアーウィヤ、シメオン、アヴァール人もビザンツ滅ぼせなかったのに コンスタンティノポリスを占領してビザンツを滅亡させたんだぜw
>>901 それって…
柳沢敦は有能だろ
あの強豪クロアチア代表の一員としてピンチからゴールを守ったんだぜw
って言ってる様なもんだな。
金正日は有能だろ マッカーサーは大量の火力を使っても北朝鮮をつぶせなかったのに はるかに少量の弾薬で北朝鮮を崩壊寸前まで追い詰めているんだぜw
スレがしょぼくなってまいりました
そろそろネタもなくなってきたからな
コンスタンティヌス帝はなんでビザンティウムを新首都に選んだのでしょうな? 他の都市は候補に挙がらなかったのかな。
>>906 他にトロイが候補に挙がってたんじゃなかったっけ?
>>908 あれは「皇帝の嫡出子」という意味だから、帝位に就かなくても関係ない。
日本語版のコンスタンティノス7世の記事にも書いてあったでしょ。
あれの元ネタは根津先生の本だけど。「パンヒュペルセバストス」も根津先生の
本に書いてあるよ。
910 :
世界@名無史さん :2007/08/30(木) 00:00:13 O
コンスタンチノープルの対岸のユスキュダルにはビザンツ以前は 城とかはなかったの?
>>907 トロイが首都になってたらどんな国家になっていたんだろ?
より海洋性が強くなっていそうだけど。
>>910 対岸にカルケドンがあるべ
そもそも、古代ギリシャ時代のビザンティオン自体が「盲目の人々の
対岸に作れ」っていう信託に基づいてビュザスがは建設した、という
伝承があるくらいだ。「盲目の人々」っていうのは「あんな便利な土
地がすぐ近くにあるのに利用しない人たちのことだ」とビュザスが考
えたことになってる。実際にはギリシャ人が来る前にトラキア人が住
んでたらしいけど。
>>911 まあ、トロイを検討したって言うのは、「ローマ人はトロイの末裔」って
いう伝承に基づく逸話だから、本気で検討したのかどうかは分からないけ
どね。
ビザンチウムの地には、金角湾があるではないか。 天然の良港の存在は大きい。
イタリアからギリシャってのも凄いよな。 (現代一般人の感覚からすればトルコかもしれんが)
>>915 コンスタンティノープルは、コンスタンティヌス帝以前はビザンチウムと呼ばれていたのだぞ。
>>915 もしかしてイスタンブールとコンスタンティノーブルも別の都市だと思ってる?
>>916-917 釣られ過ぎ
っていうか、915は「ビザンチウム」っていう表記の仕方が素人っぽいから笑っ
たんだろ。
専門書に「ビザンチウム」はあまり使わないからな。
3B政策とEU2では「ビザンチウム」って出てくるけどね。
>>918 > っていうか、915は「ビザンチウム」っていう表記の仕方が素人っぽいから笑っ
> たんだろ。
「ビザンティウム」とでも書けばいいのだろうか?やたらと「ヴ」を使いたがる厨房みたいな感性だなw
というか煽りだろ。まじになるなよ。
ブルガリアのシメオンはなぜあんなに強かったんだと思う?
じゃあこのスレではビュザンティオン(ギリシア語)にしない?
ツァーリグラードがいいです。 つーか実際にはビザンツの人たちは、コンスタンティノープルなんて長ったらしい名前は使わないで 「新ローマ」もしくはただ単に「ローマ」と呼んでいたらしいね。
ギリシャと呼ばずに現地語読みに近いエラネスとでもよんだら?
今日も爆釣だな
>>923 東ローマ側が政治的に混乱していて
まともに対応できなかった
この流れだと今週中に次スレ移行だな。 しかしビザンツの話題(ネタ)は尽きなくて結構なことだ。
>>926 「スキタイ人」乙
>>927 現代ギリシャ語では「エラーダ」が一般的じゃなかったか?
>>928 ゲームでしかビザンツを知らない素人はよく釣れるよねw
>>929 そりゃ千年もあるし。
中国史なら、五胡十六国から明までに当たるからな。
あ、アンカー間違えた
>>929 じゃなくて
>>930 だ
>>929 アレクサンドロスは貢納金打ち切って、シメオンを怒らせた揚句、自分は死んじゃったからな。
幼い甥っ子や総主教じゃシメオンに勝てない訳だ。
有能なロマノス一世が即位したのは、ビザンツにとっては幸いだったね。
パライオロゴス朝史はマゾ的で好きだ。 内紛の果てに徐々に領土を侵食されていく様がたまらない。
結局「ビザンチウム」が王城の地になったのは金角湾の存在よりも 表記が大事だったのね。 トロイには表記の問題はないものね。
ニケフォロス・フォカス(ニケフォロス2世の祖父)てシメオンと戦わなかったの?
>>934 どこをどう読むとそんな結論が出るんだ?
と釣られてみる。
>>934 トロイアvsトロイヤ
>933
初代クラスが続けて出ればよかったけどね
帝国の滅亡は神の意思なんて一般市民まで思うようになったんじゃどっちみちどうしようもないか
>>内紛の果てに徐々に領土を侵食されていく それだから >>帝国の滅亡は神の意思なんて という絶望的な意識を一般市民まで浸透するわけだ
ニコポリスの戦いで西欧側の援軍が大敗したのが痛いな。
セルビアにテッサロニキを初めとするバルカンの領土を削られていったのも痛かったな
>>935 確か、出撃したけどシメオンの本体と戦えなかったんじゃないかと思った。
相当の年だったろうから途中で死んだか引退したんだろうと思う。
>>937-939 パレオロゴス朝は内紛が多すぎたのが何よりも痛かったよな。
その度に外国の力を使うから、どんどんダメになる。
そろそろ次スレ立てる?
950あたりでいいんじゃね?>次スレ
>>944 まあ、950にしても時間の問題だが。
次スレ立てる人は、国内外の主要なサイトとWikipediaの記事のURLを貼っておくれ。
オタンチン・パレオロガス
970で十分、980でもいいぐらい。 950じゃ埋めに苦労する。
>>942 ローマの伝統から外れようが相続のルールを決めて厳守するしかなかったよね
皇帝継承が荒れる時は荒れることは 古代の五賢帝前の皇帝乱立の時からのローマの伝統
950 :
世界@名無史さん :2007/08/31(金) 12:34:05 O
陥落前のコンスタンチノープルってモスクもあったの?
>>950 陥落前はどうか知らんが、イスラム教徒の居住区は確かにあったはず。
例の第4回十字軍のとき、十字軍兵士がそこのモスクを襲いに来て、逆にイスラム教徒と
それに協力した周辺のキリスト教徒の市民に追い返され、十字軍兵士は怒ってその辺に火をつけて
一帯を消失させる大火事になった、って事件があったな。
コンスタンティノープル強略の原因のひとつになった。
>>947 アルカディウスから皇帝を一人ずつ書いていけばすぐに埋まる、と言ってみる
んじゃ開始 テオドシウス2世
>>953 開始すんな!
お前ら、まだ次のスレタイもきまってないだろ
>>953 次スレも建ってないうちに埋めてどうするんだよ、早漏め!
>>954 【Basileia ton】ビザンツ帝国総合スレ 2【Romaion】
でどう?
【Εν Τουτω】 ビザンツ帝国総合スレ 2 【Νικα】
957 :
世界@名無史さん :2007/09/01(土) 09:00:21 0
アンティオキアってシリア領と思ったがトルコ領なんだね
アウトクラトールってインペラートルと同義扱いだけど 語義的には全く違うよな。
>>958 原義はね。
でも、ラテン語の「インペラートル、カエサル、アウグストゥス」を
ギリシャ語勅令では「アウトクラトール、カイサル、アウグストス」
にしてるんだよね。
次スレたてるの? 人がいなくなったんじゃないか
ネタが無いよな。
スレの交代時にごたごたするのがビザンツクオリティー! いずれ↓みたいのができるかもw 【帝位よこせ】ビザンツ帝国(対立)総合スレ 【こっちが正統】
もう次スレはいらないだろ
もう話題になりえるような話もないし
>>964 すんなり帝位が継がれることもあるだろ
いつも帝位争いがおこるなど一昔前の偏見
970 :
世界@名無史さん :2007/09/01(土) 18:52:41 0
埋め立ていくぞ
いくんか
972
973
974
975 :
世界@名無史さん :2007/09/01(土) 19:00:08 0
もう埋め立てるの… このスレの反省と回顧と展望でたもやろうせ゛
986
【栄光の】ビザンツ帝国総合スレ2【東ローマ】 次スレ名これでいいんじゃない?
お前ら、新スレの2はオットーだけには取られるなよ
てか、立てないのか?
ERROR! ERROR:新このホストでは、しばらくスレッドが立てられません。 またの機会にどうぞ。。。 できなかった。次ぎの人頼む。
乙
999
1000
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。