【天守閣】日本の城と世界の城【城郭都市】

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>>197
>北京城より狭いかどうかは論点になっていない。

? 御土居が広すぎるって理由で防御目的じゃないって言ってるんだから
それならもっと広い北京城の城壁は防御目的あってはいけないって事になるじゃないか。


>当時の京を考えても農村まで含まれている。

それがどうした? 他の総構えでも農村含んでる場合もあるぞ。
農村含んだ総構えは防御目的じゃないってか?


>聚楽第で集中して防御も出来、洛中の寺院も要塞化しており陣城のように扱える。
わざわ御土居を築造する必要性がない。

総構えの存在意義そのもを否定する理屈だな。
その理屈だと他の城でも総構えは存在しないってことになるぞ。
それじゃ戦いが起こると権力者や侍が生き残っても町が破壊されるじゃないか。
>>197
>その場合は、上記で既に指摘されているが、樹木ではなく芝生で表面を保護している。
>また、土塁の斜面を滑りやすくするために滑りやすい草を植えたりするのが通常。
>また、富田林の土塁に関しては、土塁に竹を植えたとは述べられていない、
>土塁と竹と並列して述べられていることから、別の防護の施設と通常読み取られる。
>また、逆茂木にするなら、土塁の上部にはしない、土塁の「麓」か斜面にするもの。

お前は土塁を知らなさすぎ。富田林の竹が土塁と別だなんて苦し紛れなこと言いすぎ。
例に挙げた2点はほんの一例に過ぎない。お前は今から城巡りの旅に出るべきだ。
近世の石垣の城でも土塁部分がある所も多い。そこを見て来い。
和歌山や富田林と同様に多くの場合樹木が植わってるから。
もう一点だけ例示。土塁部分を良く見てね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Aizu_Wakamatsu_Castle_air.jpg
>>197
>京の御土居には上部も竹で覆われており、武者走りが存在しない。

竹の凄まじい増殖力をお前は知らなさすぎ。
環境問題にも関心を持つべきだ。竹の増殖・侵食が環境問題になってるくらいだから。
土塁の「上部」に植えようが「麓」に植えようが、竹ってのはすぐに増殖して生えてなかった部分にも進出するんだよ。
人の通行が出来ないほど密生してるなら、有事に備えて事前に伐採するか、有事になってから伐採するか、どちらかになるだろう。


>京の御土居には櫓の遺構がまだ発見されていない。
>発見されて無い以上、無いと判断するしかない。

だから何? 他の城の総構えでも櫓は殆ど無いと既に述べているが?
他の城の総構えも櫓がないから防御目的じゃないってか?
>>197
>また、御土居の出入り口には総構にもある筈の虎口など防護施設がなされていない。
>周辺の総構の山科を囲んだ土塁には、出入り口には必ず虎口などがなされている。
>>198
>総構である根拠に全くならない。出入り口の遺構は残っており、
>それを考察しても虎口などがなされていない。
>そもそもそのような構造がなければ、総構としての機能はなくなり、

虎口っていうのを桝形や馬出しのようなものが備わった堅固な物をいってるのかな。
でも総構えの出入り口は割と簡単な門だけで済ませてるところも多いよ。
それに江戸の総構えだって殆ど軍事的な用をなさず、単なる出入り口にすぎないところもある。でも江戸の総構えが防御目的じゃなったなんて言ったら笑われるよ。

>そのような大規模な土木工事をするくらになら、既存の寺社を
>あらためて要塞化をして整理する方が合理的。

応仁の乱の被害を少しは考えてみてください。
町衆のことも少しは考えてあげてください。
>>198
>江戸時代には変容したところで、豊臣時代の御土居が総構であることの根拠とは全く関係がない。
>江戸時代に政治的意義が変化しても、豊臣時代の御土居が総構でなかったとしても全く問題がないからである。

豊臣時代の御土居が町を守る施設でないなら一体何?
単なる水害対策の堤防?
同時代の小田原や大坂や伏見などの状況をみると
この時代は町を堀と塁壁で防御するのが流行りとなっている。
その流れからして防御目的じゃないなんていうのは不自然すぎる。
206世界@名無史さん:2007/10/03(水) 02:39:53 0
>>197
ちょっと横レス。
横レスになるので、>>191からの議論とは完全にはかみ合わないが。

まず、シティーウォールの中にかなり広大な田畑・農村部が含まれるのは、
世界中でごくありふれたこと。というのは、城壁は簡単には伸縮不可能だが、
都市は、社会情勢により、そんなことはおかまいなく急激に膨張したりするので、
計画的な都市壁建設の場合、大抵はかなりの余裕を持って建設される。
台湾の台北の都市壁など、市街地で一杯になったのは蒋介石統治下。

それから、見逃されがちだが、織豊政権期の京都では、
戦国時代に築かれた上京・下京の、真正のシティーウォールといえる惣構が
統一政権により破却されるようになっていた。
その機能的代替として、御土居が建設されたと考えるのはごく自然なこと。
上京、下京、禁裏前町などからなるモザイク状の中世都市が、
統一された「都市・京都」に統合されるのだという、秀吉の都市計画を
誰の目にも明らかに示すための建築物として「統一惣構」が造られたのだと考えられる。
シンボル的な意義もあるが、あくまで惣構は惣構。つまりシティーウォール。
西欧の都市壁にしても、とりわけ首都のそれは多分に象徴的な意義がある。
207世界@名無史さん:2007/10/03(水) 03:13:50 0
付け足すと、戦国時代、土一揆やら武将の軍勢やらに頻繁に晒されて、
自らの力で惣構を建設した特に下京の町衆にとっては、
統一政権が出てきて、
「おまえら、今日から惣構破却汁」と言われても、普通は納得できない。
いくら「刀狩をしたから大丈夫」「俺が守る。寺を塞にするから無問題」と言われても
富を握る都市民として、防御本能が働いて心理的に抵抗するのは当然のこと。
その状況で、京都を改造するという政策意志を持った秀吉が、
巨大な「京都統一惣構」を築くことは、まったく当然のことだろう。
江戸の御朱引のような抽象的な線引きだけで、
俺は江戸っ子だとホルホルできるような天下泰平の社会状況ではない。

>>205
それは実は微妙だよね。織田豊臣徳川(および彼らの家臣)の、
便宜的に「愛知系武将」と呼ぶことにするが、彼らは、惣構に関しては、
城の縄張りに際して微妙な中間的な立場だからね。
信長は、全面惣構は嫌がる傾向がある。
家康や譜代は、武家地だけ厳密に囲み、町方地域は外に出すのが基本。
秀吉は、微妙にふらふらしていて、囲む場合もあれば、
重要な家臣居住域だけしか囲まない場合(秀吉期の大坂など)もある。
208世界@名無史さん:2007/10/03(水) 08:49:25 0
>>201
>それならもっと広い北京城の城壁は防御目的あってはいけないって事になるじゃないか。
?。広いかどうかの論点は、当時の都市部だけでなく農村部も含まれているかどうかどうかの点だ。
ただの「広さ」を論点にしていない。

>農村含んだ総構えは防御目的じゃないってか?
農村部を含んだ総構はない。

>それじゃ戦いが起こると権力者や侍が生き残っても町が破壊されるじゃないか。
時と場合と状況で、総構にして面で防御した方が良いか、寺院を要塞化して点で防御した方が良いが分かれる。
当時から洛中の寺院は要塞化しており、そのまま点で防御した方が効率的。
必ずしも総構が効率的な状況とは限らない。
寺院を要塞化をしたわけではないが、近江は総構にせずに、各地に砦を築き点で防御している。

>お前は土塁を知らなさすぎ。富田林の竹が土塁と別だなんて苦し紛れなこと言いすぎ。
土塁と樹木と一緒だと、苦し紛れなこと言いすぎ。
土塁のことを全く理解してはいない。
また現在ある復元土塁や残存土塁や模型も考証がしっかりしたものとは限らない。
土塁は多くの場合、表面を防護するために芝生など草を貼るが、樹木は植えない。
残存土塁が樹木が生い茂っているのは、管理されず放置されていたから。
残存土塁が当時を伺わせるとは限らない。
209世界@名無史さん:2007/10/03(水) 08:56:08 0
>土塁の「上部」に植えようが「麓」に植えようが、竹ってのはすぐに増殖して生えてなかった部分にも進出するんだよ。
だから、土塁に竹なんて植えないのが普通。
せめて麓に植えて、繁殖したら伐採するかのどちら。
そもそもそれくらいのことは池沼でなければ分るものであり、
説明はわざわざしない。

>他の城の総構えも櫓がないから防御目的じゃないってか?
櫓がある場合が多い。また櫓がなくても、出入り口に虎口など施されているのが通常。

>でも総構えの出入り口は割と簡単な門だけで済ませてるところも多いよ。
そんなところはない。虎口の代わりに総構の水堀に出入り口のところの橋を
木製にして有事に簡単に焼き払われるようにしている。
寄せ手を守り手側が意図した侵攻路に誘導するように縄張りを張るのが通常。
意図した侵攻路以外は侵攻できないように木製にして焼き払えるようにするのが普通。

>応仁の乱の被害を少しは考えてみてください。
町衆のことも少しは考えてあげてください。

軍事面と費用対効果面を少しは考えてみてください。
210世界@名無史さん:2007/10/03(水) 08:59:02 0
>豊臣時代の御土居が町を守る施設でないなら一体何?
不明。当時の総構からして先述の通り構造が不自然。
物流の統制目的で、出入り口を限定したかもしれないし、
洪水対策かもしれない。
もっとも、今後の発掘如何で櫓の遺構が現れたり、虎口の遺構が現れたりすれば、
総構説も裏打ちはされるだろうが、現時点では仮説は立てられてもなんとも言えない。
211世界@名無史さん:2007/10/03(水) 09:09:20 0
>>206
実際には農村部は含まれないのが現状。
そんな実例は僅か。
そもそも城壁を移動、修築するのは高コストであり、
都市域を制限する意味が合いもあるので、
特に欧州では余程の軍事上要衝で都市城壁が要求される場合でなければ、
城壁は廃れて行ったりしている。

秀吉の都市計画と総構との関連性は全くない。
当時として象徴として考えられていた傾向を示すものもない。
軍事上要衝であれば、洛中では寺院を要塞化すれば済むもので、
大坂など台地など高台を利用して総構を建造したり、
東京のように川や運河を利用して堀で総構を建造できる余地は少ない。
事実、江戸時代の二条城もさほど軍事面を考慮した縄張りになっていない。

>富を握る都市民として、防御本能が働いて心理的に抵抗するのは当然のこと。
都市民が防御本能働いたからといって、総構とはならない。
堺のように環濠が施されていて総構にはなっているが、
補助的なもので、軍事的な後ろ盾を常に考えておかなければならない。
堺ならば、三好氏など。
都市民の真骨頂はそういった後ろ盾を財力を駆使して生き延びた権謀術数。
212世界@名無史さん:2007/10/03(水) 13:03:26 0
和歌山城の総構は、主な防御機能の施設は川を利用した堀だろう。
土塁は内側で補助的なものだろうな。
そもそも復元模型も江戸時代のものを想定しているならば、
太平の世なので管理せずに荒れるに任せて木が生い茂っただけかもしれない。
実際そのような土塁も多いし。
幾年か経てば潅木くらいは荒地で生い茂るし。
もっとも、総構の土塁を臨戦態勢で常に維持管理すると莫大なコストが掛かるだろうし。
213世界@名無史さん:2007/10/03(水) 19:20:23 0
御土居が防御目的じゃないって言ってる人は釣り師、ネタ師の類で、
本人もホントは防御のためと思ってるだろ。

まぁ適当に釣られてあげてもいいけど。
214世界@名無史さん:2007/10/03(水) 20:17:49 0
御土居が防御目的だって言ってる人は釣り師、ネタ師の類で、
本人もホントは防御のためと思っていないだろ。

まぁ適当に釣られてあげてもいいけど。
215世界@名無史さん:2007/10/03(水) 20:43:07 0
まあ確かに、今時御土居が防御目的だなんて言っている奴初めてみたよw
216世界@名無史さん:2007/10/03(水) 21:42:33 0
>>211
おまえ、実際のヨーロッパの城壁都市の古地図や絵図を見たこと無いだろw
日本の社会科地図帳にのっているストラスブールのような、特殊な例しか頭に無いようだなw
1576年のアーヘン、1538年のバーゼル、1567年のブリュッセル、1571年のケルン、
そして極めつけは1569年のローマ。どれもこれも都市城壁の中にかなり広大な農地がある。
ローマに至っては、城壁の中で市街地は半分にも満たない。
さすがに欧州の都市でもローマは特殊だが、まさに当時の京都と
比較するにふさわしいのが当時のローマといえるだろう。
古代の都市領域の記憶が残っていて、それをなぞるように市域が区切られている。
御土居も、平安京左京の記憶と、室町時代の北辺に伸びる上京の意識が、
さらに大きく囲われる形で御土居の区画となっている。
217世界@名無史さん:2007/10/03(水) 21:56:47 0
それに、おまえは寺寺寺寺寺寺寺寺言っているが、
武家にとっての砦としての寺と、中世町衆にとっての寺は意義が全く違うんだが。
武家にとって守るべきものは城の本丸。極端な話、ここさえ守れればいい。
だから、寺や町家や武家屋敷でさえ、極論すれば塹壕のようなもので、
敵にとって少しでも邪魔になればいい。邪魔物は重層的なほうが効果的なので、
一点で破られれば終わる壁や堀よりも、寺の敷地のほうが有効だ。
だが、
町衆にとって、守られるべきは、まず各々の自宅と倉と財産。
しかも町衆は一人ではないし、下々が犠牲になれば済むピラミッド組織でもない。
惣構の中にある寺社は、寺内町でなく京都であっても、例えば革堂や六角堂のように
有事の際に集まり、軍議や抵抗の拠点となる最終防衛拠点。
仮に寺だけ守られても、肝心の町家群がアボンしてしまっては、町衆にとっては全く無意味。
だから、「寺を沢山まわりに配置したので、柔構造で守られますよ」と言われても、
「守る」という定義が武将と町衆で異なるのだから、安心などできるはずがない。
218世界@名無史さん:2007/10/03(水) 23:45:25 0
難攻不落すぎる城郭模型

リアルすぎる模型で定評のある小林工芸から、9月下旬に発売予定なのがこちらの「姫路城」。
部品の総点数は約1864点。
木製・金属製部品を合わせた総重量は実に約9キロ! 完成までの参考時間が約250〜300時間というのもうなずける重厚さです。
石垣には「木質粘土」、屋根瓦には「神代タモ材」を使用。
よく分からないですが、すくなくとも住んでいる部屋で使われている素材よりも高級な気がします。

気になるお値段は、13万6500円です。姫路城の他にも、金閣寺や平等院鳳凰堂なども。
内部に安置されている仏像まで、ちゃんと入っていますよ。
http://www.gizmodo.jp/2007/09/post_2306.html
http://www.xn--yetq6bz6p0j2a.com/home/image2/himeji.jpg

■ 1/100 姫路城
・木製部品 約1700点
・金属部品 ソフトメタル 71点
・エッチング(銅板) 93点
・総点数 約1,864点
・重さ 約9kg

・特徴 
・一番の特徴は石垣の質感を「木質粘土」で表現し、子供から大人まで誰でも簡単に、
楽しんで石垣を積み上げる事が出来ます。(昔の職人が築いた石垣を想像しながら築いて下さい。)

・屋根瓦は「神代タモ材」を使用し「神代」のいぶし銀の様な色が瓦の重量感を醸し出しています。

・大天守閣、渡櫓、西・乾・東の小天守閣、水の一門〜六門、「へ」の門、台所、地階まで忠実に再現しています。
小林工芸
http://www.xn--yetq6bz6p0j2a.com/
御土居が広すぎるから防御目的じゃないって?

高天神城攻防戦において、徳川方の付け城に対して、武田方が総攻撃をかけ玉砕している。
この時、徳川方の付け城は堀と土塁で築かれており、土塁1間
(1.8メートル)につき侍一人づつ配備されていた。『三河物語』
つまり土塁1間につき侍一人で防御可能なのである。
京都御土居の総延長は22.5km。
計算では12500人あれば防御可能となる。
豊臣政権の聚楽第存在期間、京都は強大な統一政権の中枢であり、
市中には12500人を軽く超える何倍もの駐留兵力が存在し、
御土居は十分に防御可能だった。
御土居が広すぎて守れないなどということは、少なくとも聚楽第
存在期間(つまり御土居建設期)ではあり得ないことだ。
竹が植わってるから防御目的じゃないって?

城郭関連の本を読むと「蔀」と呼ばれて城外から城内を見通され
るのを防ぐために樹木が植えられていたとある。
当時、攻城戦では攻撃側が高楼を築いたり土を盛って築山を築いて、
高所から城内を掃射し、無力化して突入する方法がよく取られていた。
竹木による「蔀」はこうした攻城戦法を防ぐ有効な手段となる。

実際に竹林や森林に入って外を見てみると判る。外からは竹林や森林
の内部は極めて見えにくい。しかし、意外と竹林や森林の中から外は
見えてしまうのだ。
最近の戦争のおけるゲリラ戦でも、ゲリラが森に潜んで待ち伏せし、
外に接近した敵部隊に打撃を与えるといった戦法がしばしば取られている。
こうした戦法が成功するのは、外からは竹林や森林の内部は極めて見
えにくい。しかし、意外と竹林や森林の中から外は見えてしまう
という性質のためである。
竹木の植樹による「蔀」は城内側から城外側を見通す妨げとなるよりも、
むしろ城外側から城内側を見通す妨げとなるのだ。
竹木の土塁への植樹は、土塁を森林化するものであり、これは土塁に
拠って守備する側にメリットをもたらすものとなる。
例えば郡山城総構西部の土塁には松が植えられ並木を形成していた。

44 大織冠馬場筋【武家地 8】
http://www4.kcn.ne.jp/~suizan21/page022.html#lcn009
◆御土居(おどえ/訛)の松
 図中に見える御土居には城郭西部総構の植え物として“御土居の松”
が植えられていた。郡山のシンボルとして歴史上や景 観・風致の上か
ら総構を取り巻く松の木は広く市民に愛されていたのである。

48 大織冠馬場通【武家地 12】
http://www4.kcn.ne.jp/~suizan21/page022.html#lcn012
往時の外堀は幅7間から13間、土 居の高さは3間から3間半で、また
、延宝の図(前出/1678-9)に見る大織冠地区の土居一帯には松の木が
植栽されて並木 を形成していた。「大和名所図会」(寛政3年(1791)刊)
に紹介されている“大織冠松”はこの辺りにあった名所と推察され、郡 山
城総構のなかでも大織冠丘陵と松並木の景観はことに雄大無比を誇っていた
のである。

たとえ自然発生により木が生え始めたケースがあるとしても、
それはなにも怠慢で伐採しなかったのではなく、意図的に残されたのだ。
京都の御土居に竹が植えられたことは防御側を有利にするものであり、
御土居の目的が防御でることを否定する理由には全くなら無い。
櫓がないから防御目的じゃないって?

絵図によれば、御土居の出入口には何の障害物もなく、当時の城郭で用いられたような侵入者を防ぐ構造が見られないから防御目的じゃないって?

http://rarebook.ndl.go.jp/pre/servlet/pre_ez_detail.jsp;jsessionid=D3662562DDAB193E552C6ADEF6928606
ここの6 和州郡山城図を見ろ。総構に櫓なんて全く無い。
江戸時代に描かれた絵図を見る限り、郡山城総構には計8口が在る。そのうち出入口に門があるのは東から南にかけての3口だけで、残る5口に障害物も侵入者を防ぐ構造も見られない。
(恐らく江戸時代でも簡易な木戸はあったと思う。また増田長盛が郡山惣構を築いたときには門もあったと思う。大坂の陣で郡山城下が炎上したときに焼け落ちてその後再建されなかったと見ている。)
同様に江戸時代に描かれた京都御土居絵図の出入口がないからって、それが御土居が防御目的じゃなかったことにはならん。
御土居は費用対効果が悪いとか、寺社を拠点化したほうがいいとか言うが
本当にそうなら秀吉はそうしただろう。でもそんな風にはしなかったね。
費用対効果が悪いもなにも御土居を実際につくちゃった訳だし。
寺社は防御拠点化するどころか解体・移転して鴨川御土居沿いにズラーと壁状に並べたよな。(寺町)
だいたい、秀吉は高松城や太田城のような攻城戦のたびに水攻め用の
堤防を築いたり、小牧のような野戦で大規模な長塁を築いたりしている。
秀吉は攻城戦や野戦といった一時的な意味しか持たないものに莫大な予算を費やしている。
それを考えると、一度作れば恒久的な効果が見込める御土居の建設がそれほど費用対効果が悪いとは思えない。
224世界@名無史さん:2007/10/04(木) 04:29:17 0
>>198
>総構である根拠に全くならない。出入り口の遺構は残っており、
>それを考察しても虎口などがなされていない。

テメー何出鱈目言ってんだ!

>築造期の御土居堀については不明な点が多い。
>(中略)
>十口の位置すら不明である。
ttp://homepage2.nifty.com/NakamuraTakeo-HP/odoi/odoi03.html
225世界@名無史さん:2007/10/04(木) 09:05:22 0
>>216
それらの地域は都市部だけ。
農村部はごく僅か。

>>217
まったく軍事上の考察が分ってないようだ。
寺に立て篭もってれば済む話だ。
そもそも拠点防護の戦術をお前は分っていない。
他は焼き払われようが関係がない。
守る定義も、基本的に武将と町衆と同じ。

>>219
>御土居が広すぎるから防御目的じゃないって?
誰もそんなことを言っていない。
農村部まで含まれているという指摘はあっても。


>竹が植わってるから防御目的じゃないって?
土塁でも、衾土塁というものがある。
しかし、これは虎口などに使用されたり、主郭にもちいられるなど限定的である。
そもそも、総構には衾土塁は必要がないし、そのような目的の土塁は使用されていない。

>例えば郡山城総構西部の土塁には松が植えられ並木を形成していた。
自然発生のものであったり、>>212氏の理由(コスト面)であったりもする。
しかも、郡山城総構は基本的に水堀で囲んでいるもので、
土塁は補助的なものである。
226世界@名無史さん:2007/10/04(木) 09:08:07 0
>櫓がないから防御目的じゃないって?
>>209参照。櫓がなければ他の施設がある。

>一度作れば恒久的な効果が見込める御土居の建設がそれほど費用対効果が悪いとは思えない
日本の土塁は風雨に荒らされやすい。
また、芝生など貼ればある程度防護できるが、木が生えたりなど
維持するためのコストがある。
高松城や太田城のような攻城戦で応急的一時的に作るものであれば、
維持や補修のコストは度外視してもさほど関係がないだろう。
恒久的な総構にするならば、比べ物にならない維持補修コストがかかる。

>>224
誰も、すべての出入り口が完全に発掘検証済みとは言っていない。
>>210参照。
そもそも史学で「ない」を証明する必要がないわけだから、
出入り口に虎口など防護施設が「ある」というのならば、
発掘等で証明する必要がある。
227世界@名無史さん:2007/10/04(木) 13:12:27 0
御土居防御機能肯定厨には、歴史や軍事の知識以前に
日本語の読解力が無いと思われる。
228世界@名無史さん:2007/10/04(木) 19:16:23 0
端からみてると何か水掛け論になってますよ。

そもそも御土居の建造理由は色々あったんでしょ。
その理由の一つに防御目的はあったかもしれないし無かったかもしれない。
現時点で資料が十分に発見されてない以上、全く「防御目的は無い」とも言い切れないし、
「防御目的(のみ)だ」とも言い切れない、というのは双方分かってて議論してるんだろうけど。

正直、昔から議論されているような「熊本城や姫路城のような複雑な縄張りと、
名古屋城のような単純だけれども大軍が篭れる縄張りとどちらが防御能力が高い?」という
机上の議論を見ているよう。
229世界@名無史さん:2007/10/04(木) 20:15:48 0
>>228
そうかもね。ただ防御目的肯定厨の方は、
江戸時代以後の総構の状況を例等に出しているから、
根拠にもなっていないとは思うがな。
江戸時代なら、>>212さんの言うように荒れるに任せたりすることもあって、
樹木など生えていても不思議じゃないし、
景観のために並木を植えたりすることもあったろう。
まあ、だから直接の遺構発掘など史料が出てこない限り意味が無いと思う。

>「熊本城や姫路城のような複雑な縄張りと、
名古屋城のような単純だけれども大軍が篭れる縄張りとどちらが防御能力が高い?」

前者だろうな。効率的に篭城出来、敵を消耗させていくにはその方が城として妥当。
ただ、大軍があって篭城が出来ればいいものではない。
少数の動員で篭城できれば、それに越したことはない。
230世界@名無史さん:2007/10/04(木) 20:44:44 0
>>229
>前者だろうな。効率的に篭城出来、敵を消耗させていくにはその方が城として妥当。
江戸時代の軍学者はそう見ていたらしいが、近年の研究ではそうも言い切れないらしい。
そもそも当時の設計者が想定した攻城戦の形態や防御思想の違いが縄張りに現れているんだろうけれど。
231世界@名無史さん:2007/10/04(木) 20:51:01 0
>>230
欧州でも基本的に、江戸時代の軍学者と同じ様な縄張り思想だったが。
しかし、欧州では野砲の脅威への対策は考えられてあるが。
232世界@名無史さん:2007/10/04(木) 20:55:23 0
名古屋城は中核の、予定されていた総構え建造が豊臣氏の滅亡により中止された、言わば「未完成の城」だから、
総構えとして完成された姫路城より大軍も篭れないような気が・・・
233世界@名無史さん:2007/10/04(木) 21:08:24 0
>>225
厳密に言うと、衾土塁と言う表現じゃなく蔀土塁だけどな。
確かに、周囲を囲む土塁に蔀土塁としての機能があり、
肝心の出入り口を虎口にして蔀土塁の要素をも含む土塁がなければ本末転倒だが。
(蔀土塁にしたところで、武者走があるのは常だから、
蔀土塁だから木が生い茂って武者走がなくてもよいということにはならないが。)
234230:2007/10/04(木) 21:13:27 0
>>231-232
wikipediaよりコピペ

名古屋城の縄張は、それぞれの郭が長方形で直線の城壁が多く、角が直角で単純なつくりである。
したがって、姫路城のような複雑かつ屈曲の多い構造を好む江戸時代の軍学者には好まれず、
ある軍学者は実際に「縄張宜しからず」と酷評した。
しかし、現代の城郭研究者からは、次のような意見がみられる。
すなわち、名古屋城が築城された江戸時代初期は攻城戦術・技術が成熟しきっていた時期である。
その時点で、徳川氏が大坂方面に対する東海道防衛の最大拠点として位置づけられる名古屋城を、
あえてこのような縄張にしたことを考慮すべきである。
当時の名古屋城の築城思想が、篭城戦時の防衛の戦略・戦術をどのように企図し、
あるべき篭城戦をどのようにとらえていたかを分析し、判断の材料に加えなければ、
縄張の良否を簡単に断言することはできない、という。
235230:2007/10/04(木) 21:15:07 0
構造は典型的な梯郭式平城で、本丸を中心として南東を二の丸、南西を西丸(にしのまる)、
北西を御深井丸(おふけまる)が取り囲んでいる。さらに南から東にかけて三の丸が囲む。
本丸の三つの虎口のうち南の大手口と二の丸側の搦手口の2箇所には、
堀の内側に二重の城門で構成される桝形があり、堀の外側に大きな馬出しがあって入口を二重に固めていた。
桝形内では通路を屈曲させ、周りを多聞櫓で囲んで通過を困難にしている。
外の郭から土橋を通って馬出しに入る通路には障害となる直線状の小石垣があり、
本丸に背を向けないと通れないようになっていた(西丸側の小石垣は撤去され堀も埋められている)。
馬出しの配置も巧みであって、一部の郭を占領されても本丸には容易に進入できない優れた構造になっている。
また、ある虎口を攻めようとすると、別の虎口から出撃して撃退できるようになっている。
西と北は水堀(現存)及び低湿地によって防御された。南と東は広大な三の丸が二の丸と西丸を取り巻き、
その外側の幅の広い空堀(一部現存)や水堀に守られた外郭を構成した。
さらにその外側には、総構え(そうがまえ)または総曲輪と呼ばれる城と城下町を包み込んでしまう郭も計画されていた。
西は今の枇杷島橋(名古屋市西区枇杷島付近)、南は古渡旧城下(名古屋市中区橘付近)、
東は今の矢田川橋(名古屋市東区矢田町付近)に及ぶ広大な面積をもつはずだったが、
大坂夏の陣が終わると建設は中止になった。これは名古屋築城の目的を如実に物語っている。

まあ実際どうなのかは軍事ヲタじゃないから知らんが。
236世界@名無史さん:2007/10/04(木) 21:58:48 0
>>225
秀吉が集めた東京極(現寺町)にずらりと並ぶ寺に、町衆が立て篭もって、
四条室町や新町方面の旧下京を守れるとでも?


後から回りこまれて終わりだw


城と言う「点」を守るためならば、都市壁は実は必ずしも要らないというのが、
織田信長以来の、上で言う「愛知系武将」の考え方。
徳川家康などは、名古屋城の「幻の惣構」などという話を除けば
江戸にしても基本的には、町方は構の外に出してしまっている。
秀吉も、大坂城惣構では平野町は当初から構の外だ。
だが、町という「面」を防衛する必要がある中世町衆にとっては、
防御線としての「囲み」は極めて重要。
だから、下京にしても寺内町にしても、堀や塁でぐるりと囲まれることになった。
御土居の目的は聚楽第や禁裏防衛というより、京都市域の防衛と考えるのが妥当。
市域の防衛である以上、むしろ逆に純然たるシティーウォールということになる。
まあ1580年代には、多分にシンボル的な意義になっていただろうけどな。
237世界@名無史さん:2007/10/05(金) 07:43:23 0
>>236
まったく防護というものを理解していないな。
後から回りこまれても問題ない。
町衆本人達が助かればいいこと。
そもそも町衆は、権謀術数を第一に防護を考えるもので、
環濠や土塁などはその補助的機能にしかならない。
四条室町や新町方面はほったらかしにしても、
一時的に町衆当人が立て篭もって助かればいいこと。
面で防護するか点で防護するから、地形・情勢など相応に
比較して判断するもの。適当な要塞として使える寺院があればそれで
点で防護するれば済む話。
238世界@名無史さん:2007/10/05(金) 07:47:51 0
>>234-235
名古屋城は総構などは未完成のまま放棄されれいるので、
なんとも言えないが。
名古屋城そのものは、横矢など射掛ける構造にはあまりなっていないのが気がかりだ。
しかし、>>234-235にあるように詳細に検討すれば複雑な縄張りにもなっているので、
効率的な篭城を考慮に入れていたものであると考えられる。
239世界@名無史さん:2007/10/05(金) 08:36:43 0
>>237
秀吉は寺に軍事的要素を持たせたくないから寺院を強制移転させたのではなかったか?
240世界@名無史さん:2007/10/05(金) 19:10:26 0
>>239
全てというわけではないだろう。
事実全て移転は無理だろうし。
浄土真宗の庇護とかあるから、
勢力としては、寺院も手向かわない限りは認めたのでは?
241世界@名無史さん:2007/10/06(土) 00:05:07 0
本能寺は意外と防御能力があったというのが最近発見されたな
242世界@名無史さん:2007/10/06(土) 08:40:24 0
>>241
確か、以前に室町(戦国以後)の公家の邸宅が城塞化していたというような論文を
読んだ気がする。(日本歴史だったかな?雑誌は。)
だから、わざわざ御土居なんてつくる必要があったかどうか疑問だが。
243世界@名無史さん:2007/10/14(日) 11:24:15 0
御土居はどちらかというと「上京と下京に別れた京の町さえも統一した」という、
豊臣秀吉の天下統一の象徴、或いは力の誇示の為に作られたのが本当の目的のような気がするが。
「防御」や「堤防」の意味合いは、あったとしても「ついで」じゃない?
244世界@名無史さん:2007/10/14(日) 12:06:14 0
話をぶった切って悪いが、欧州の大陸の古い町に行くと(特に北イタリアとか)、
現代の近代的な町を歩いていても昔の城郭都市時代が想像できて楽しい

ごちゃごちゃしてた町並みが大きな道を横切るといきなり綺麗な近代的な
区画になると、「ああ、今の道が昔の城壁跡地か」とか、鉄道とかバスの
ターミナルが明らかに昔の門と付属する要塞後に作られていたり。
地図見ているだけでも結構浮かんでくるので楽しい。歩くともっと面白いけど。

城塞とか言っても、そういうので現在の区画にも残っているようなのは
中世じゃなくて砲戦が主体になって以降の要塞都市のものだけど

逆に古い町でそういう痕跡(円環道路とそれに付随する大きな広場)がないと、
ああ中世以降は完全に没落したんだなとか



日本でも現在の大きな国道の横を走るやけに由緒ありげな家が並ぶ
細い道とか(昔の本街道)、そういうのに気がつくと妙に嬉しい
245世界@名無史さん:2007/10/14(日) 13:23:53 O
う〜ん、東京で江戸城総構跡沿いに張り巡らされた首都高や通りを走っている時に
見附跡などの石垣や土塁を見つけた時のような感覚?
246世界@名無史さん:2007/10/15(月) 00:43:29 0
飯田橋の端の横にある石垣は当時のもの?
いやに綺麗な石組みだが。
247世界@名無史さん:2007/10/16(火) 00:30:54 0
>>246
江戸城牛込見附跡の事?
補修はしてあるかも知れないが、
一応は当時のもののようだけど・・・。
248世界@名無史さん:2007/10/16(火) 01:24:43 0
>>247
なんと!
江戸城を再現してみると、東京はものすごくかっこよくなるかもしれない・・・
249世界@名無史さん:2007/10/16(火) 07:24:48 0
>>248
東京駅八重洲口あたり?の堀も埋め立てられているから完全復活はどうかね・・・
250世界@名無史さん:2007/10/17(水) 15:15:23 0
再現しなくても見附跡の石垣は他にも結構残ってるね。
見附以外はほとんど土塁だったんだろうから
飯田橋や四谷周辺は意外と当時の面影が残ってるかも。
251世界@名無史さん:2007/10/17(水) 18:47:39 0
252世界@名無史さん:2007/10/17(水) 21:17:04 0
最も面影が残ってないのは
南の幸橋御門から虎ノ門通って溜池まで辺りかな。
今は全て埋め立てられてしまってる。
この辺りは石垣だったんだけど。

石垣にしたのは地形が平坦で高低差が少なくて防御が弱かったから、その分
石垣で固めて堅固にしたんどろうけど。
253世界@名無史さん:2007/10/18(木) 00:31:56 0
江戸城の天守閣ってのはとても美しかったそうだね。家光のころの江戸っ子は
それはそれは自慢にしたとか。
254世界@名無史さん:2007/10/18(木) 22:11:17 0
誰に?
外部の人間との交流が盛んだったのか?
255世界@名無史さん:2007/10/29(月) 17:01:07 0
上方衆にじゃない?

ところで江戸城外郭は確かにすばらしい縄張りだが
19世紀に来日した英外交官のオールコックが「大君の都」で記すところでは
英国の軍人が江戸を観察したところ、3日もあれば占領できる、と答えたそうな。

やはり260年も同じ国防体制じゃ刃が立つわけ無いわね
256世界@名無史さん:2007/10/29(月) 17:27:47 0
むしろ3日も持つのに驚き
257世界@名無史さん:2007/10/29(月) 17:51:10 0
>>255
外郭については同じく惣構えのある会津若松城も戊辰戦争の際
まだ近代戦に慣れているとは言えない新政府軍に簡単に突破されてるな。
江戸城程の巨大城郭だと守る側の兵力にもよるだろうけど、
当時の海外の勢力に攻められれば、近代戦に対する対策のされていない
外郭はあの当時でも簡単に突破されてしまっただろう事は間違いない。
258世界@名無史さん:2007/10/29(月) 17:54:04 0
じゃあ函館の五稜郭は簡単に突破できる?
259世界@名無史さん:2007/10/29(月) 18:05:11 0
>>258
五稜郭は外郭ないじゃん。
ていうのは置いといてもあの当時既に時代遅れ。
260世界@名無史さん:2007/10/29(月) 21:08:58 0
よく考えたら五稜郭より会津若松城のほうが長く持ちこたえたんだな。
261世界@名無史さん:2007/10/29(月) 21:26:33 0
会津若松城の場合、降伏せざるを得なかった大きな理由が兵糧不足、
トイレ不足、戦死者の処理だったらしいしね。
開城直前は城内の衛生状態が相当悪かったらしい。

考えてみると、日本の城って長期篭城には向いていないかもしれないかな?
城塞都市の場合、城の敷地の中に田畑を含める事で兵糧の心配も少なくなる?
日本の場合総構えを持っている城でも外郭は内郭である本城と比較すると守りが薄く、
例え外郭の中に田畑があってもそれは攻城側に簡単に占領されてしまい、
兵糧の問題が発生しやすい?
262世界@名無史さん:2007/10/29(月) 23:04:41 0
1人が1年間籠城するとして必要な米は1石。
1石の米を作るのに1反(991.74平米)必要だから1万の将兵が籠城するのに
必要な耕地面積は991.74×10,000=9,917,400平米 すなわち東京ドーム763個分。
小田原城外郭が9kmあったということで郭内の想定面積は6,449,044平米だから
城内すべてを耕地にまわしても城兵を養うのは困難と言うことになる。

実際には城兵以外の住民もいるから1万人ではきかないだろう。

そもそも耕地があっても戦時下ではまともに耕作できる保証はないし、
耕作できても収穫が年1回だからそれまでに飢えてしまっては元も子もない。

結論としては中国でも日本でも籠城するときは穀物倉などが確保できた状態
じゃないととても長期の籠城には耐えられなかっただろう。

付け加えれば平安城内部には耕地があったが、近世城郭の外郭は
家臣団と都市防備が主目的であり、耕地はないか、あっても雀の涙。
263世界@名無史さん:2007/10/30(火) 00:04:59 0
>>261
会津若松城降伏の最大の理由は、他の奥羽諸藩が降伏して孤立無援となってしまって
勝利の可能性がなくなったから。
そのうえ先に降伏した奥羽諸藩が逆に降伏の説得に来たりしてたくらい。
264世界@名無史さん:2007/11/03(土) 10:48:15 0
援軍の見込みの無い籠城戦なんか無意味だからな。
そこが西南戦争で攻囲戦を耐え抜いた熊本城との違い。
265世界@名無史さん:2007/11/05(月) 02:03:05 0
城の写真ではなく城の模型を集めたサイトか本はりますか?
266世界@名無史さん:2007/11/05(月) 08:12:00 O
はってください
267世界@名無史さん:2007/11/05(月) 08:46:12 0
日本の城は中国のロケット兵器で火を点けられたら終了
http://hk.youtube.com/watch?v=0bpOzW7gihw
http://hk.youtube.com/watch?v=H8QIFvW4d60
http://hk.youtube.com/watch?v=eZTJrs3_0b4
http://hk.youtube.com/watch?v=ZvK6Yb3MGVk
http://hk.youtube.com/watch?v=OS50_Cd9vog

近代以前の日本人は最後までロケットは使わなかったな
268世界@名無史さん:2007/11/05(月) 08:48:35 0
城好きならドイツのザクセン州にあるケーニッヒシュタイン城と、
ポーランドのポモージェ州にあるマルボルク城を見て来い。行って損はしない。
269世界@名無史さん:2007/11/05(月) 09:40:12 0
五稜郭って西洋式の城郭って点ばかりが強調されてるけど、
ああいう星型の要塞って、ルイ14世時代からあったんでしょ。

19世紀中頃では思い切り時代遅れのようでは・・・
270世界@名無史さん:2007/11/05(月) 10:26:12 0
>>267
文禄・慶長の役で明軍は大量の火器を朝鮮に持ち込んだけど、日本式の城を攻め落とす
ことはできなかったよ。

>>269
五稜郭のデザインは接近戦を想定していたらしい。
同時期に函館湾の守りとして弁天台場も建設されてるけど、こちらは同じ西洋式の城郭
でも多角形デザインの要塞。
品川の御台場とかと同じタイプ。
271世界@名無史さん:2007/11/05(月) 15:31:03 0
>>270
大量じゃないよ。当時の大砲やカチューシャ型ロケットランチャーなどは動かすのが大変だからそんなに持ってこない。
272世界@名無史さん:2007/11/05(月) 16:57:34 0
>>271
それじゃあ戦争で役に立たないじゃん・・・
273世界@名無史さん:2007/11/05(月) 19:12:04 0
>>267
>>257-264で思い出したけど、
戊辰の会津戦争ではアームストロング砲ばかりではなく
「焼玉」と呼ばれる一種の焼夷弾のようなものが多量に打ち込まれ、
城内では消火に必死だったらしい。
274世界@名無史さん:2007/11/06(火) 01:03:01 0
>>267
戦国時代に大火矢という噴射式のロケット武器があったけど
信管がない時代だから、ロケット花火のように飛ぶだけ。
心理的な意味しかなかった。

蒙古の「てっほう」は手榴弾だから、大した距離は飛ばないし、
投げかえされる事もある。攻城にさほどの威力はない。
手榴弾のような迫撃砲系の武器は、
平地での歩兵戦・騎兵戦に威力を発揮する。
275世界@名無史さん:2007/11/06(火) 07:55:24 0
>>274
>信管がない時代だから、ロケット花火のように飛ぶだけ。
>心理的な意味しかなかった。

でも槍をロケット花火にしたものじゃなかったっけ?
運が悪いと串刺しにはなるよ
276世界@名無史さん:2007/11/09(金) 00:52:27 0
石炭違法採掘で「万里の長城」崩れる 4人逮捕
2007/11/08(木) 14:11:02更新

  内モンゴル自治区の警察当局はこのほど、同自治区・清水河県で石炭の違法採掘を行っていた4人を逮捕した。主犯格の男は「採掘作業の途中で機械の操作を誤り、『万里の長城』の一部を壊してしまった」と供述している。7日付で新華社が伝えた。

  調べによると、現場では高さが約10メートルある壁が約23メートルにわたって崩れたという。現地の専門家は「崩壊箇所は泥で出来ており、壊れやすかったようだ」と分析した。

  「万里の長城」は1987年にユネスコの世界遺産に登録され、中国政府は2006年に「万里の長城」の破壊などを禁じる保護条例を施行した。しかし全体の9割は適切に保護されていないとされる。(編集担当:菅原大輔)
ttp://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2007&d=1108&f=national_1108_001.shtml
277世界@名無史さん:2007/11/09(金) 21:47:23 0
フィールドの端の見えない壁が壊れたのかと思った
278世界@名無史さん:2007/11/09(金) 22:00:14 0
>>263
官軍の急追を予想もしていなかったため、兵糧の搬入は確かに遅れていた。
ゆくゆくは開城の原因になったかと。
兵糧搬入は士気の低下につながる、という精神論が仇になった。
279世界@名無史さん:2007/11/10(土) 03:02:30 O
>>278
兵糧搬入が士気低下に繋がると考えていたという事は
籠城戦は想定外だったのだろうか。
籠城戦ならかえって兵糧が沢山城内に備蓄されていたほうが
士気が下がりにくいと思うが。

スレ内容から脱線してすまん。
280世界@名無史さん:2007/11/10(土) 19:11:32 0
>>279
会津藩どころか、帝国陸軍でも過剰な装備や物資は士気低下につながる
と考えられていた。命を惜しむ事につながる、とね。
現在でも北朝鮮軍では行われていて「餓えた狼は、満腹の豚に勝つ」
と教えられて、兵士は腹一杯食わせてもらえない。
281世界@名無史さん:2007/11/10(土) 23:27:44 0
苦し紛れにしか聞えないのは根性が無いせいか。
当時、本気でそう考えていたならビックリだお。
282世界@名無史さん:2007/11/11(日) 18:32:45 0
>>280
ヨーロッパ等ではどうだったのだろう?
同じように「過剰な装備や物資は士気低下につながる」と
考えていた指揮官などはいたのだろうか?
283世界@名無史さん:2007/11/11(日) 20:22:46 0
単に貧乏なだけだろ。
過剰な装備や物資の米軍に、飢えた日本兵は惨敗したわけでw
284世界@名無史さん:2007/11/11(日) 20:36:46 0
ヨーロッパは大砲が発達した17cにはもう築城なんて行われていなかった

野戦築城 土塀や塹壕を用いた要塞建築が主流。同時代の日本の城と比べる

ならば大砲の存在をなによりも考慮しなければならない。西欧において火砲

の装備の過剰、銃器の過剰供給などは寧ろ好都合。火砲の多い軍が圧倒的

に優位だった。大阪の陣でも もはや 築城による篭城戦法は時代遅れと

あきらかだった。がこれを最期に日本は260年の江戸幕府が開かれ、

ヨーロッパのような要塞建築の技術が進歩しなかった。

何世紀も前に作られた城にこもって火砲をあびながら戦った明治時代に

ヨーロッパの野戦築城があれば、戦況も変わっただろう。五稜郭はナポレオ

ンよりまえにフランスいた要塞建築家ウォーパンが考案した

ウォーパン式築城 星型や二重壁を用いた要塞であるが、どちらにしろ時代遅れの

産物だった。ちなみにこのウォーパン式築城はフランスのいたるところに

つくられマリーアントワネットの無駄遣いなど、遥かに及ばぬ多額の負債を

フランスにもたらした。
285世界@名無史さん:2007/11/11(日) 20:37:18 0
↑続き

この要塞郡の建設がフランスを傾け また フラン

ス国民を苦しめた。南にイスパニア 北にハプスブルク これらを敵にした

フランスは大砲 銃器 あらゆる兵器による攻城を防ぐために考案された

要塞建築それがウォーパン建築である。しかも この建築家ウォーパンは、

攻城戦の指揮官として幾十の城を陥落させた。攻城のエキスパートであっ

た。彼は大砲の弾道計算、さらには兆弾の計算までして、壁に着弾させた

大砲の弾をはねかえさせ目標に当てるという、当時神がかり的な指揮をし

ていた。
286世界@名無史さん:2007/11/11(日) 21:01:22 0
>>284>>285
ならば、なぜ欧州の都市は17世紀以降も
城郭都市の形に執着し続けたんだろうな?
兵器の発達と言う同様の理由で、
日本でも江戸初期に入ると実践の戦闘に備えた都市でも
囲んで守る・耐え切るという都市壁的発想は確実に消えていっている。
戦国城郭・城下町の最終世代にあたるのが、名古屋と仙台になるんだが
どちらも惣構の発想とはほぼ無縁。
名古屋には一応未完の構想だけはあったが、
仙台の場合は縦深構造で野戦・塹壕戦をやることが前提で
都市を囲む壁またはその等価物という発想そのものがない。

こんなことを言うと城壁厨と罵られかねないかw
287世界@名無史さん:2007/11/11(日) 22:00:15 0
いや、ウォーパンってだれだよ・・・
288世界@名無史さん:2007/11/11(日) 22:54:11 0
>>286
青葉城が街外れの小高い(といっても結構険しい)丘にあるのは、そういうこと
なのか。広瀬川を堀にしてか。
289世界@名無史さん:2007/11/11(日) 23:06:11 0
>>287
それはさすがに揚足取りだろうw
ヴォーバンと読み替えるのが妥当だな。
だが、>>284>>285は、少々おかしいのではないか?
17世紀に築城が行われなくなったとか、要塞建築が主流とか城と要塞の定義が独自の概念に拠っているようだ。
それに、ヴォーバンの築城は多額の費用が掛かるが、計画的に防衛ラインを構築しただけで不経済と断じるのも不当かと。
ヴォーバンの攻城術についても専門家として高い技能を持ってはいたが、ナポレオンに代表されるような神懸りタイプとも思えない。
ヴォーバンの功績は既存の技術の体系化と多少の発展ではないかと思う。

まあ、最もおかしいのは行間を開けて二倍のスペースを取っているところだが。
290世界@名無史さん:2007/11/11(日) 23:26:16 0
ナポレオンと比べれば確かに天才とはいえないが ウォーパンは
その時代において天才といっても間違いない人材だった。
フランスの財政に影響を与えたのは事実 WIKIにもこうある
ヴォーバン以降のフランスでの要塞築城は必要性に基づいて進め
られたものであるが、国家財政にとっては重い負担となった。
負担は国民が背負わされ、やがてフランス革命につながっていく。
だが皮肉なことにフランス革命戦争では、これらの要塞は旧式化
しつつも、国境の防衛に改めて効果を発揮した。
参照 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%BC%E
3%83%90%E3%83%B3
291世界@名無史さん:2007/11/11(日) 23:28:34 0
鎌倉は城塞都市と言えないでしょうか?
「守りやすそうで守りにくい」とは言われていますが…
292世界@名無史さん:2007/11/11(日) 23:56:18 0
鎌倉は天嶮の要害だが、それが城塞だと言えば語弊があるだろ。

>>290
ヴォーバンの築城に費用が掛かったのは事実だが、財政を圧迫したのは世界規模で軍事行動を起こしていたのが圧倒的に主だろうな。
293世界@名無史さん:2007/11/12(月) 01:36:40 0
そこで「山城の国」

ありゃ京都か
294世界@名無史さん:2007/11/30(金) 06:18:10 0
荒らしとかじゃないけど
多賀城の模型を見ると、しょぼいというか
こんなんで防御は大丈夫なのかと思う
塀は家の塀と同じような作りに見えますが
295世界@名無史さん:2007/11/30(金) 18:27:52 0
なんであんなに防御力低いのかな。
水城や朝鮮式山城が作られた時代より後だから
そうした技術が転用されてもいいと思うんだけど。

あ、別に煽りじゃないよw
296世界@名無史さん:2007/11/30(金) 18:47:04 O
>>293
奈良時代までは「山背」と表記したが、平安京遷都の時に山城に変わったんだから、城郭云々はあまり関係ないのでは?
297世界@名無史さん:2007/12/10(月) 21:38:36 0
>>295
城とは言っても政庁で、何かこう、ほかの防御施設があったのでは?
時代は下るが、八幡太郎を大いに苦戦させた安倍氏の「柵」のようなものが。
298世界@名無史さん:2007/12/11(火) 19:05:21 0
相手が蝦夷ならあれくらいで十分だったんだろうか。
いやでも多賀城、蝦夷に落城させれれてるしな・・・・うーん
299世界@名無史さん:2007/12/11(火) 21:08:43 0
日本人ならではの先天的な軍事忌避(ここでは軍事費用をケチる事)が強かったりして
戦国時代でも城下町をシティウォールで囲うなんて労を惜しんで、
鎌倉や一の谷みたいな天然の要害で安く済ませたがるし
300世界@名無史さん:2007/12/12(水) 17:35:35 0
東山官衙遺跡:国史跡で西辺の材木塀、大溝を確認 避難広場に利用か /宮城
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/history/1184301495/267