1 :
KYK :
2006/01/28(土) 13:50:39 0 激動のヨーロッパにおいておよそ八百五十年の歴史を刻み、後世に様々な遺産を遺した一大帝国である神聖ローマ帝国の 衣鉢を継ぎ、ナポレオンの時代からヨーロッパにその歴史を築いて旧体制の象徴として一目置かれながらも、僅か百十数年で その歴史に幕を降ろしたハプスブルク家の帝国・オーストリアの歴代の皇帝について語ろう!
2 :
世界@名無史さん :2006/01/28(土) 13:53:23 0
,,-'二ニ,゙'''-、 r― 、 ィ-i,,,,`'i r― 、 ./ .ヽ ゙l i. フ ノ ヽ、_ノ´ | ,i'゙ .ヽ...ノ .l ! ./ .゙''''''''''''"´ 'ヽ _ r‐、 .r-、 | |__ / ./ / ./''''''''l ./゙゙゙゙゙´ ヾヽ,ヽ ゙ヽ .i ゝ | i- ゙̄'''‐、 / / 〈r'" ./ l i,,,ノ ゙ー'" ! ./ | .| .\. ) ./ / ,ノ| ./ / / / | | `゛. / ''''''''''''" | ._/ / / / l゙ │ !----------′ ┴'''" ┴'''". `ー~
歴代皇帝は4人 フランツ1世 1804-1835 フェルディナント1世 1835-1848 フランツ・ヨーゼフ1世 1848-1816 カール1世 1916-1918 (皇太子オットー)
4 :
世界@名無史さん :2006/01/28(土) 15:09:10 0
初代皇帝フランツ1世は最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世でありナポレオンの義父としても有名。フランス革命で処刑されたマリー・アントワネットは彼の叔母にあたる。 そして歴代皇帝の中でおそらく現代においても大衆にも、もっともよく知られているであろう人物がフランツ・ヨーゼフ1世。神聖ローマ帝国の皇帝も含めてハプスブルク家の 君主の中でもっとも長く在位し、もっとも長く生きた。エピソードも数多い。皇后エリザベートは欧州稀代の美妃と称えられた。 最後の皇帝となったカール1世は第一次大戦でなんとか平和的な解決を果たそうと方法を模索するも、結局敗戦による帝国崩壊の責任をとらされて異国の島に追放され、その地で 没した。後に教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。皇太子である長男のオットー氏は現在ハプスブルク家の当主の座にある。 そして歴代皇帝の中でもっとも影の薄いフェルディナント1世。在位年数はカール1世よりも長いがメッテルニヒ宰相の傀儡といわれ、虚弱だったため在位半ばで甥のフランツ・ヨーゼフ1世に 帝位を譲ることになった。皇帝としての資質には恵まれなかったが温和な好人物であった。
マリアテレジア以外しらねー
1821年帝国宰相に任命された外相メッテルニヒがウィーン体制を 指導したのは有名であるが、一方で内政を完全に把握できていたのかは 議論を要する。1835年フランツ1世が亡くなるまでは、この保守的で小心な 皇帝のためにメッテルニヒは多くの「正統主義」的な行政改革を止められた。 この両者の関係はルイ13世とリシュリュー枢機卿に似ているかも知れない。 メッテルニヒの権力の源泉はあくまでフランツ皇帝の信任によるものである。 皇帝没後フェルディナント1世が即位するが彼は一般にメッテルニヒの傀儡と 言われるが実際そうではなく(皇帝としての資質に恵まれなかったのは事実) メッテルニヒの意図とは裏腹に皇族(ナポレオン戦争で有名なカール大公や 三月革命のドイツ摂政で貴賤結婚で有名なヨハン大公)の巻き返しで Ministers State Conference (Ministerkonferenz 大臣会議、あるいは内閣と 訳すのが適当かも知れないがここでは『摂政会議』としておこうか)が設置される。 この摂政会議は皇帝を議長席に置くもののルードウィヒ大公(フランツ帝の弟)を 事実上の議長とし、フランツ・カール大公(フランツヨーゼフ帝の父)、メッテルニヒ、 コロヴラート伯をメンバーとするもので形式上1848年12月フランツ・ヨーゼフ即位まで オーストリア政治の最高機関であった。
>>7 つづき
フランツ・アントン・コロヴラート・リーブシュタインシュキー伯(1778−1861)は
山川の世界各国史にも出てこないのであまり訳書以外ではお目にかかれないが
1828年以降 Staatsrat(国会としておくが内閣が存在しないので行政府の機能もある)の
支配的人物として政治・財務部門を掌握したボヘミア出身の貴族・官僚である。
彼が摂政会議のメンバーとなったことからもその権勢の大きさはメッテルニヒには
無視できないもので、また短期間だが三月革命メッテルニヒ失脚後首相を務めている。
ただ摂政会議によりメッテルニヒの権限が制約を受けたのは事実だが
メッテルニヒは依然として警察・防衛・外交に関して実権を握るオーストリアの
第一人者であることは否定できない。
メッテルニヒをまるでヨーロッパを支配したかのように過大評価するのは禁物だが
三月前期においてオーストリアを代表して英仏以外のヨーロッパに対して
ロシアの軍事力を背景に強い影響力を保ったことは事実である。
「ヨーロッパを支配したことはあるかもしれないが、オーストリアは一度だって支配
できなかった」とメッテルニヒは言ったが、なるほど彼は反動オーストリアの代表として
自由主義者から嫌われていたが国内での政治基盤はそれほどでもなかったと言える
かもしれない。
>>6 皇帝じゃない、というツッコミの方が先だと思いますが。
>>9 つづき
なぜ宰相メッテルニヒに対してコロヴラートが大きな権力を持ったのかというと
帝国の深刻な財政状態がある。1811年帝国は破産宣言しているが、その後
1848年まで国庫歳入のうち国家債務の利子返済支出がおよそ30%、また
軍事予算がおよそ40%であった。オーストリア帝国陸軍は20世紀以降の
列強の軍備拡張時代までロシアに次ぐ規模を誇っていたが、財政的な問題で
長期間の動員は不可能であった。どうもメッテルニヒは金銭感覚に乏しかったようで
この状況下にあってもフランス七月革命に対してロシア抜き(ロシアはポーランドで
動乱があった)で干渉しようとしたりしたが失敗、三月革命でもロシア無しでは
ハンガリーの動乱は鎮圧できないくらい軍隊は荒廃していた。
ここから無理やり皇帝の話にもっていくが
フランツヨーゼフ帝が相続した帝国も財政的危機から軍隊は荒廃し士気は低かった。
彼の治世前半、彼の意を含む戦争がいくつかあってそれがすべて敗北に終ったのも
至極当然のことで、それ以降の帝国改革(立憲化やハンガリーとの妥協)もこの財政と
軍事力の弱さに起因している。まあこのフランツヨーゼフの妥協のために大戦前列強との
軍備拡張に遅れをとったのだが・・・
まあオーストリアが列強では二流国家でしかなかったと考えれば仕方のないことだったか。
・・・と、ぐちゃぐちゃと訳分からんこと書いたがスレ趣旨としては 皇帝について語るのか?ハプスブルク家スレと被るような気もするが。 広くオーストリア帝国(1804-1918)について語るっていうんならネタは あるだろうけどどうも中欧近現代史系スレはなかなか伸びないからなあ。
>>4 大昔のことのように思えるけど、まだ帝位を失ってから一世代なんだね。
14 :
ぼーやん :2006/01/28(土) 18:10:05 0
>>7 フランツ・ヨーゼフ一世の父、フランツ・カール大公についてはこんなエピソードがあります。(うろ覚えなので部分的に間違ってるかも)
ある日、一人の農夫がウィーンのはずれにある茶屋に訪れ、外のテーブルで春の日差しを浴びながら農作業の疲れを癒していた。するとよく見ると少し離れた席に
恰幅のいい老人が一人座っている。ちょうど話し相手が欲しかった農夫は老人のすぐ隣の席に座って老人に話しかけた。
農夫 「ちょっとよろしいですか。」
老人 「ええどうぞ。」
農夫 「今日も天気がよろしくて結構なことですな。ところでお見受けしたところご老体は中々の気品を
備えておいでですな。もしかしてご老体は上流階級の家柄の方なのでは?」
老人 「ははは、まぁ確かにそうなりますかな。ただ、家の方は息子に全てまかせておりますので。息子も
その立場ゆえに中々こうやって私のように外で一人で気楽に茶をすするわけにもいかないようで。」
15 :
ぼーやん :2006/01/28(土) 18:10:55 0
>>14 の続き
農夫 「ほう、さようですか。息子さんは一体どんなことをされておいでですか?」
老人 「長男は皇帝を務めております。」
農夫 「は・・・・・??皇帝・・・・・・・ですか?」
老人 「ええそうですよ。」
農夫 「えっと・・・・ではご次男はおいでですか?もしおいででしたら何をなさっておいでで?」
老人 「次男も皇帝をしております。」
農夫 「で、で、ではお父上は何を?」
老人 「むろん皇帝ですよ。」
16 :
ぼーやん :2006/01/28(土) 18:11:27 0
>>15 の続き
農夫は小馬鹿にされてるのかそれとも老人が思い違いかもうろくしているだけなのか
とにかくどうしていいかわからず動揺し、やけくそ気味になりながら質問を続けた。
農夫 「え、え、じゃ、えっと、あ、あなたお兄さんは?あなたのご祖父は?ご祖父のお兄さんは?ご祖父の父上は?」
老人 「みーんな皇帝!」
農夫 「・・・・・・・・・・・・・・・・そうですか・・・・・・・・・・・では・・・・・・あなたも皇帝?」
老人は感慨を噛み締めるように一呼吸おいてから答えた。
老人 「いいえ。 私だけが皇帝ではないのですよ。残念ですがね。」
そう、この老人こそフランツ・カール大公その人である。確かに彼の長男はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世、
次男はメキシコ皇帝マクシミリアン一世、父はオーストリア皇帝フランツ一世(神聖ローマ皇帝としては二世)
兄も同じくオーストリア皇帝フェルディナント一世、祖父は神聖ローマ皇帝レオポルド二世、祖父の兄も神聖ローマ皇帝であるヨーゼフ二世
曽祖父も神聖ローマ皇帝であるフランツ一世。確かに彼一人だけが皇帝ではないのだ。このエピソードはもちろん作り話ということだが
彼の心情や境遇を的確に表現した話しといえるかもしれない。
>>16 フランツヨーゼフは誕生と同時に未来の皇帝として教育されたが
これはその時点でフランツ・カール大公を帝位から除外したものではなかった。
フランツ・カール大公の除外はもちろんメッテルニヒのいう「正統主義」からは
論外であるし、これはゾフィ大公妃ら宮廷グループがどうあがいても曲げられない。
一方ゾフィ大公妃は夫である大公よりも息子を帝位に就けたかった。
幸い「立憲君主」であるフェルディナント1世は邪魔になっていたし退位を申し出ていた。
フランツ・カールを飛ばすことに唯一反対しそうなメッテルニヒはすでに失脚、
結局12月2日にフランツヨーゼフは「神の恩寵」により即位。
何か微妙にフランツ・カール大公が飛ばされたことの説明にはならんなあ。
独裁者ヴィンディシュグレーツと首相シュヴァルツェンベルクがそれこそ「傀儡」として
過去に縛られない青年君主を欲したと考える方が妥当かな?
日本でいえば草壁親王が、父は天皇、母も天皇、嫁も天皇、息子も天皇、 娘も天皇、いとこも天皇、孫も天皇。でも本人は天皇じゃない。 みたいなもんかな。草壁親王は若くして死んだからちょっと違うか。 (できれば一行空けはやめていただきたいなと…
スレ違いだけど… 父=天武天皇 母=持統天皇 嫁=元明天皇 息子=文武天皇 娘=元正天皇 いとこ=弘文天皇 孫=聖武天皇 伯父=天智天皇 祖母=皇極、斉明天皇
フェルディナント1世のエピソード。 退位の際ヴィンディシュグレーツは皇帝が革命について批判があると 予想していたらしいが皇帝はフランツ・ヨーゼフの髪をなでながら 「神の祝福がありますように。勇敢でありなさい。神がお守りくださいます。何も心配ありません」 と言って歴史から消えた。 再び現れたのは1866年プロイセンにプラハ占領されたとき。 プラハで余生を過ごしていたフェルディナントは 「余でもこれと同じようにできただろう」と述べた。 どういう意図で述べたのかは各人の想像に委ねます。 1、フランツ・ヨーゼフの皇帝としての無能を皮肉った(敗戦なら自分でもできるぞ) 2、逆の意味で皇帝の無能を皮肉った(今のオーストリアに負けることの方が難しいぞ) 3、何にも考えずにとりあえず言ってみた(余はうどんが食べたかったぞ)
21 :
世界@名無史さん :2006/01/29(日) 14:18:01 0
★★ 古代朝鮮人は、日本に移住していない ★★ 朝鮮人は、古代のカラ半島南部にあった、志良岐・任那・久多良は 朝鮮人の国だったと 信じ込み、 「半島の国々から、古代日本に多くの朝鮮人が移住し、半島や大陸の輝かしい先進文化を伝えた」 と、主張する。 だが、こういった説は妄想に基づく妄言である。 朝鮮人が古代日本に移住したという事実はない。 朝鮮人は、古代日本に一人も移住していないのである。志良岐・任那・久多良は 倭人の国だった。 また、この三国と古代日本の文明レベルは同程度であり、半島に『輝かしい先進文化』なるものは 存在しなかった。高句麗の文化も日本と同じレベルだったのだ。 先進文化ウンヌンという話は、 日本人に対し優越感を持ちたい朝鮮人の妄想が生んだ フィクションである。 そもそも、日本列島にもカラ半島南部にも、紀元前から、長江以南の越地方から多くの越人(倭人) が移住しており、日本列島とカラ半島南部の倭人は、紀元前から日常的に交流していたのだ。 つまり、『同一の文化』を共有していたのだ。だから、古代ヤマトとカラ半島南部で、文化水準の レベルに差があった、などということはありえない。ふつうに考えれば分かることである。 たしかに、古代ヤマトもカラ半島南部も、大陸文化の影響を受けてはいる。 しかし、ヤマトとカラに文化的影響を与えたのは、越地方の越人(倭人)と帯方郡の漢人であって、 朝鮮人ではないのだ。古代朝鮮人は『先進文化』を持っていなかったのだから、ヤマトやカラに 文化的影響を与えるわけがないのだ。無いものは与えようがないではないか。
22 :
世界@名無史さん :2006/02/08(水) 01:58:08 0
オーストリア外交のみならずこの時代(48年以降WW1までは)には あまりビスマルクという個性ある政治家がいたドイツ以外の欧州各国史は 人気ないね。もっとメッテルニヒとかも語られてもいいと思うのに。 ということで1804−1918まで帝国を代表する皇帝・外相の概説をとりあえず記しておく。
オーストリア皇帝フランツ1世(1768−1835、在位1804−35) 【系譜】父は神聖ローマ皇帝レオポルド2世(トスカナ大公として啓蒙専制君主の 実績をあげ1790年帝位を継承。しかし92年に死去)。母はスペイン王カルロス3世の娘 マリア・ルドヴィカ。 【業績】フランス大革命で伯母マリー・アントワネットのいるブルボン王家を救うべく 対仏大同盟(失敗)。1795年ポーランド最終分割に参加。1804年フランス皇帝に対抗して オーストリア皇帝を自称。ナポレオン戦争の経過でティロルや北ガリツィア、アドリア地方を 喪失。三帝会戦敗北により1806年ライン同盟成立を受け神聖ローマ皇帝を退位。 1809年メッテルニヒを登用して親仏政策を採り皇女マリー・ルイーズをフランス皇后にする。 ナポレオン敗北後は一貫して「改革」に断固反対しメッテルニヒをも困らせたという。 専制君主として崩御まで君臨したが「凡庸」という批判はともかく、あくまで「優柔不断」で メッテルニヒも「オーストリアを支配できなかった」と言われるほど。とにかく保守的な皇帝で あったらしい。事実彼が皇帝である間、メッテルニヒの望んだ行政の「正統主義」的改革すら 実現されなかったということである。 【家族】妻は4人。ヴュルテンベルクの王女エリザベート、両シチリアの王女、マリア・テレジア、 モデナ公女マリア・ルドヴィカ、バイエルン王女カロリーネ・アウグスタ。 このうち二番目の皇后マリア・テレジア(彼女とは二重の従兄妹にあたる)との間にのみ子供があり (夭折を除く)フランス皇后マリア・ルイーゼ、次の皇帝フェルディナント1世、ブラジル皇后レオポルディーネ、 フランツ・ヨーゼフの父フランツ・カール大公、サレルノ公妃マリア・クレンティーナ、ザクセン王妃カロリーネなどの 子供がいる。
オーストリア皇帝フェルディナント1世(1793−1875、在位1835−1848) 【系譜】父はフランツ1世、母はスペイン王カルロス3世の娘 マリア・ルドヴィカ。 【業績】「三月前期」のウィーンの皇帝。精神薄弱か何かは分からないがとにかく 統治能力を欠いたのは事実のようで1836年には「摂政会議」が設置され実権は 持たなかった。三月革命において「立憲君主」を宣言するが反革命勢力の巻き返しで 1848年12月に退位。以後プラハで引退した。 【家族】妻はサルディーニャ王女マリア・アンナ。子供はいない。 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830−1916、在位1848−1916) 【系譜】父はフランツ・カール大公(フランツ1世の子)、母はバイエルン王女ゾフィ。 【業績】真相は不明だがヴィンディシュグレーツ侯、宰相シュヴァルツェンベルク公、 あるいはゾフィ大公妃を中心とする宮廷グループの策謀により「神の恩寵による」 専制君主として即位。1851年大晦日勅令により「専制君主」たることを宣言。 シュヴァルツェンベルク公死去後宰相を置かず多くの国政に関与し、イタリア戦争で 惨敗を喫する。以降オーストリア立憲化などの譲歩を示すがドイツ主導権をめぐる 争いに敗れてハンガリー指導者との「アウスグライヒ」を1867年締結。その後も 帝国の「外交権」「軍事権」を保持しつつもライタ以西(オーストリア)とハンガリーに おいて「外見的立憲君主」として様々な干渉を加えて帝国の維持に尽力。また一方で 1907年にはオーストリアで普通選挙を導入。彼もまた非常に保守的な君主であったが それなりに多民族国家統合の象徴として機能していた面(特に軍隊)は否定できない。 晩年は従来に増して規律を持って事務的に国務を遂行するようになったが皇位継承者 暗殺事件にも大した悲劇を感じるでもなかったというエピソードも。大戦中崩御。 【家族】妻は有名なエリーザベト皇后(バイエルン王の縁戚で母ゾフィの姪)。 皇太子ルドルフ大公のマイアーリンクの悲劇は日本でも有名。この他のも皇帝は長生きの ためかメキシコ皇帝マクシミリアンや皇后、皇太子なそ身内に不幸が多かったのも有名。
オーストリア皇帝カール1世(1887−1922、在位1916-18) 【系譜】父はオットー・フランツ・ヨーゼフ大公(フランツ・ヨーゼフ皇帝の甥でサラエボの 悲劇皇位継承者フランツ・フェルディナントの弟)で母は両シチリア王女マリア・アヌンチアータ。 【業績】皇位継承者フランツ・フェルディナントの貴賤結婚により彼の子孫の帝位継承権が 放棄されたため将来の帝位継承者の地位が確立され、またその婚姻はフランツ・ヨーゼフ帝からも 歓迎されたという。サラエボ事件により帝位継承者となり、さらに1916年29歳で即位。 事実上ドイツの支配下にあった帝国再編に尽力するがハンガリーの抵抗など容易ならざる 諸問題で挫折。1918年4月のオーストリア単独講和「シクストゥス書簡」事件も失敗してドイツによる 支配、ハンガリーの独自政策に敗北。結局敗戦により「国事放棄宣言」を発して退位、スイスに亡命。 その後二回のハンガリー復位事件は失敗、スイスも彼を追放してポルトガルのマデイラ諸島で貧困に あえぐという不名誉な形で没した。2004年列聖(なんでなんだろうねえ)。 【家族】ブルボン・パルマ公女ツィタの間にオットー大公(後の欧州議会議員、ドイツ選出)など多数。 ツィタ皇后の「王朝意識」(簡単に言えば王権神授説か)が彼の政策に与えた影響は大きいとか。 なおオットー大公、その子カール大公(欧州議会にオーストリアから選出)は帝位継承権放棄。 ほかの子孫にはまだ帝位継承権を放棄していないものもいる・・・と記憶している。 だんだん面倒くさくなってきたから一番書きたかった外相についてはまた後日・・・
追記、まあ文献はいろいろ使ったがカール1世のところなどは 江村洋氏のを記憶している限り用いたから誤りもあるかも。 主観入っている部分も多いからよかったら好き勝手に訂正していってください。
27 :
世界@名無史さん :2006/02/08(水) 21:11:43 0
28 :
世界@名無史さん :2006/02/09(木) 02:29:25 0
えーと続いてオーストリア帝国の外相およびその実績について
簡単にまとめたいと思います。確かに内政面でオーストリア・ハンガリーは
面白いことも多いのですが、列強の中のオーストリアという観点からは
特に67年アウスグライヒ(ハンガリーとの妥協)以降「帝国宰相、宮内大臣にして
外務大臣」である外相が事実上皇帝とともに帝国を代表すると考えるからです。
(主要参考文献S.ベラー『フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国』、A.J.P.テイラー
『ハプスブルク帝国1809-1918』、A.スケッド『ハプスブルク帝国興亡史』といずれも邦訳あり。
あと江村氏の著書、および山川の『ドナウ・ヨーロッパ史』、そして
ttp://www.aeiou.at/aeiou.encyclopオーストリア人物事典も参照しました )
>>28 乙ではあるが、資料のレベルを見るに自分で読んだ方が速いね。
春厨の中ではマトモな部類なんだろうけど、読めば分かる知識の羅列はやめれ。
○コベンツル伯Cobenzl(1753-1809、在任1804.8.11-05.12.25) ブリュッセル出身(当時はオーストリア領南ネーデルラント)の外交官。 1779年ペテルスブルク公使などを歴任し97年カンポ・フォルミオ条約を締結。 この条約はヴェネツィア・ジェノヴァ両共和国は消滅、オーストリアは ダルマティアを獲得。1800年ハプスブルク帝国の外相に就任。 01年マレンゴの戦い(00年)に屈してリュネヴィル和約でカンポ・フォルミオ条約を 再確認した。なお在任中三帝会戦、プレスブルクの和約。 ○シュタディオン伯Stadion-Warthausen(1773-1859、在任1805.12.25-09.10.4) マインツ出身(神聖ローマ帝国マインツ選帝侯領)の外交官、政治家。 ストックホルム、ロンドン、ベルリン、ペテルスブルク公使などを歴任。 15年には蔵相を務める。なお在任中フランツ2世の神聖ローマ皇帝退位、 09年の第5次対仏同盟戦争などがある。 ○メッテルニヒ公Metternich(1773-1859、在任1809.10.8-48.3.13) コブレンツ出身(トリール選帝侯領の中心都市)の外交官、政治家。 1795年カウニッツ伯(マリア・テレジアの外交革命を担った宰相)の孫娘と結婚。 01年ドレスデン(ザクセン)、03年ベルリン公使、06年駐仏大使。対仏協調路線を とり皇女マリア・ルイーゼとナポレオン1世との婚姻を成立させる。その後反ナポレオンに 転じて14、15年ウィーン会議を主催してヨーロッパに「メッテルニヒ体制」を確立。 ドイツ、イタリアにおいてハプスブルク家の利益権を確立。21年宰相Staatskanzeler兼任。 七月革命においては33年ムニホヴォ・フラディシュテ協定によりロシアとの保守的協調を 得てバルカンの現状維持を確認。36年フェルディナント1世の摂政会議の永久会員。 46年クラクフ併合(メッテルニヒ正統主義の原則から外れるとの批判も同時代人からはあり)。 三月革命で失脚、英国へ亡命。51年帰国してフランツ・ヨーゼフ帝の政治顧問となる。
>>29 そうか、じゃあメッテルニヒ終ってキリもいいのでこのへんで失礼します。
長々と失礼しました。
個人的には正直このへんの時代はメッテルニヒ外交からビスマルク外交と
欧州外交史の華と思うのだが現状語るスレがなさすぎて・・・。
まあオーストリア外交について述べるだけなら前掲書を読めば終る話、
「じつのところ、二重帝国時代のハプスブルク帝国の外交政策にかんしては、
ほとんど議論の余地がないのだが」(A.スケッド)なんで止めておきます。
比較的関心が高いであろうww1についてもオーストリアについては語ることは
ないだから、まあやむを得ないかも知れません。
32 :
世界@名無史さん :2006/02/09(木) 20:13:12 0
>>29 いや、別にいいだろ。まだ50レスにも達してないし、スレのテーマ自体がかなり限定的
(オーストリア帝国そのものが比較的短命で皇帝も四代で終わっている)だから裏知識や隠れ
エピソードをメインにしてスレを満たすのは正直かなりきついと思うぞ。とりあえず悪質な煽りや
荒らしとか以外ならいいんじゃないかと。でもスレのテーマに深くこだわらずもうちょっと範囲を
拡げて語ってみてもいいかもしれんな。個人的にはエリザベート皇妃の裏話や皇妃の生家である
ヴィッテルスバッハ家にまつわるエピソードなんかも知りたいな。
一生懸命書いてる子が非史学科であると信じたい。 でも卒論に平気で江村さん使う子いるからなぁ・・・。 読み物としてはとっても面白いんだけど。
エリザベート皇妃の裏話 洗髪に三時間かかった。 実はかなりの甘党
ま、ハプスブルクスレで足るスレではあるな。 特化して語るほど住人がいるわけでもないし。
>>33 自分としては教育系の社会科教育専攻、西洋史所属だからまあこの程度で
充分なんですね(個人的には独英語をもうちょっと学んでレベルアップしたいのですが)。
流石に卒論でも江村さんのは使えないのは分かっています、まあうちの大学では
許されそうな空気なのはどうかと思いますが(すみません、愚痴になってしまいました)。
でもハプスブルクに興味を持つ上では江村氏のは面白い読み物ですね。
しかし自分はスレ主(つまり1)じゃないから何ともいえないが正直で
>>35 の言うとおりハプスブルク家スレで足りる内容だとも思います。
せっかく好きなオーストリア系のスレ立っているからカキコしただけなんで・・・
みなさま何かご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。
そして改めてハプスブルク家だけでない、オーストリアというマイナー分野にも
精通している方が多くいらっしゃることに感銘を受けました。
このままではスレの私物化を行いそうでしたのでご忠告には感謝しております。
スレ汚し失礼しました。今後も質問・疑問があれば快く答えていただければ幸いです。
重ね重ね申し訳ありませんでした。
一番哀れなのは間違いなく最後のカール一世だろうな。 歴代皇帝の中で彼ほど不憫な人物はいなかった。 まあ嫁さんと皇太子以下子供達の多くが長命だっていうのが せめてもの慰みかもしれん。
38 :
世界@名無史さん :2006/02/21(火) 12:04:56 0
オーストリアハンガリー二重帝国時代が一番好きだな。 帝国主義の時代に堂々列強として君臨した帝国。 存続していれば独仏に並ぶ国力を持った国として存在してたはず。
>帝国主義の時代に堂々列強として君臨した帝国 これは無い。当時は既に青息吐息。 20世紀を生き残ったらEUの軸のひとつになったかも知れないというのが同意だけど。
というか、ハプスブルクの覇権が崩壊したがゆえの 帝国主義的群雄割拠状態という理解もできると思う
それは流石に無理と思われ。
確かにオーストリア帝国は神聖ローマ帝国の崩壊が必至となった状況を鑑みた フランツ二世が苦肉の策で生み出した国家だろうしなぁ・・・
苦肉の策というより、めんどくさいものをほっぽり出して家領に引きこもった ってイメージだなあ。
44 :
世界@名無史さん :2006/03/11(土) 05:42:45 O
皇妃エリザベートは170センチ、50キロ、ウエスト50センチの体型を保つ為に ミルクと生肉の血、果物を食事に用いたが、食べるときは沢山食べた。 乗馬は競馬並。
45 :
世界@名無史さん :2006/03/11(土) 16:56:26 0
>>39 ・クリミア戦争での対ロシア宣戦布告
・ボスニア・ヘルツェゴビナ併合
・セルビアへの最後通牒
この3つが無ければ生き延びたかも。
フランツ!!
47 :
世界@名無史さん :2006/03/26(日) 14:03:23 0
ヨーゼフ?
48 :
世界@名無史さん :2006/03/29(水) 13:36:02 0
,. -‐-‐ "´゙ヽ、 ノ; ; *; ; ; ; ; ; ;.゙`ヽ、 . ri!; ; ; ; ; ; ; ; ; ;*; ; ; ; ヽ { ; ; ; ; ; ;;; ; ; ; ; ; ; ; ; ; *ヽ {; ; ;.,,..ノ,' ,,,、; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ヽ ヽ { `ヽ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;.} ',{、__ _ ヽ; ; ; ; ; ; ; *`} }. "忝` }; ; ; ; ; ; ; ; ; ノ | ,' (::::) ); ; ; ; ; ;} ', ヽ-゙ ノ‐'; ; ; ;*; ;', ', `== ノ ,'; ; ; ; ; ; ; ; ;.', ヽ , '´ }; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;} <オーストリアの歴代皇后スレにしなさいよ。 `T ̄ 。 。-‐',; ; ; ; ; ; ; ; ; ;{ / 。 ゚ ー=', ; ; *; ; ; ; ;} /。 ゚ ヽ; ; ; ; ; ; ; ;{ {;;)゚,. "´ ', ; ; ; ; ; ; ; ', / ', ; ; ; ; ; ; ; ;', / ' , ',; ; ; ; ; ; ; ; ヽ / ', ゙}; ; ; ; ; ; ; ;.ノ r〈,,. rrrハハハハュュ、 ; ', ; ; ; ; ; ; ;.{ ,..(".:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.゙゙゙ーハハュュ、. ', ; ; ; ; ; ; ;} },. '"´.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:."゙゙゙}; ; ; ; ; ; ; { ,r‐'".:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:`゙ヾ.:.:.:.ヽ _ ; ; ; ;}
49 :
アウグステ皇后 :2006/03/29(水) 15:35:43 0
私はドイツ帝国皇后よ!
50 :
世界@名無史さん :2006/04/09(日) 14:12:12 0
50ゲット
51 :
世界@名無史さん :2006/04/09(日) 16:21:16 O
メキシコ皇后よ。
Gott erhalte Franz den Kaiser Unsern guten Kaiser Franz!
Franz I. Ferdinand I. Franz Joseph I. Karl I.
,. -‐-‐ "´゙ヽ、 ノ; ; *; ; ; ; ; ; ;.゙`ヽ、 . ri!; ; ; ; ; ; ; ; ; ;*; ; ; ; ヽ { ; ; ; ; ; ;;; ; ; ; ; ; ; ; ; ; *ヽ {; ; ;.,,..ノ,' ,,,、; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ヽ ヽ { `ヽ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;.} ',{、__ _ ヽ; ; ; ; ; ; ; *`} }. "忝` }; ; ; ; ; ; ; ; ; ノ | ,' (::::) ); ; ; ; ; ;} ', ヽ-゙ ノ‐'; ; ; ;*; ;', ', `== ノ ,'; ; ; ; ; ; ; ; ;.', ヽ , '´ }; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;} `T ̄ 。 。-‐',; ; ; ; ; ; ; ; ; ;{ / 。 ゚ ー=', ; ; *; ; ; ; ;} Kaiserin Elisabeth Von Osterreich-Ungarn 1837−1898
,r'三ミr= 、 彡 '" ミヾ、ミ 、 、 ,rイ ′ `ヽ、' 、| ミヽ ノ| リ ヽ'、ミ| |ミ', 从ノ,,r-、 ,ィ=‐-、 | i'|リ. |! ,イノi| -エアi l: -iコゝ川l |ヾ;| ノ斥ノ| ~l l:: ⌒ 人ワ !卞 、 仆'ソi li| 、'__ ゞ、 ノイ lヽ、 ) 冫X^N、ヽ ノ小ヽ r 'ル、ヽ、\ヾ、 y^NZ^N'、'" ̄ ̄` ,,ノイノズ、ヽ\ヽノ ノ川リ¬n、 イソ'⌒`ヽ 、)乃 ヽノ /`''' '" `r、 ,、-‐'゛ / ノ \ /,,,、π'''"^"'ァ、,,,, / \ /'" ノノ // "' -、 / ヽ ナ・メンナ[Philippe Na Mennar] (1633〜1693 フランス)
_ _ _ ,.r''´ ; ヽ、 ,ri' 、r-‐ー―'ー-、'ヽ、 r;: r'´ ヽ ヽ (,;_ 、 l ::::i 'i、 r'´ i' _, _,.:_:::i il! ヾ ,r -';! '''r,.,=,、" ::rrrテ; ::lr )) ! ;、 .:::;! `´' :::. ' .::i: ,i' `-r,.ィ::i. :' _ :::;:. .::::!´ .l:i. .__`´__,::i:::::l r-i. 、_,.: .::/ !:::;::! ::.、 .:::r,! l::::::::ト __` 二..-',r'::::-、 l;::i' l:  ̄,.rt':::::::/ ` -、 ,r' ´ ヽr'ヽr'i::::::::;!'´ r '´ rミl:::::::::;!'` く:」 i' `ー' ヤ・メロッテ[Johann Ja Melotte] (1743〜1821 ドイツ)
,.r''-'''""'''ー-、_ 、r゛" "'''' -=、,. ヾ''、 ,r' .:'r ;::::ヽ ri' :.:::::ミ.:::::::::::i . l :,:::::ミ::::::::::::i . l ..::::::l::::::::::::l ,ljii;;;,,,__ ; :,__,,.-_=_、ミ、::::::i;:::::::;r.、 . r'´(て)ヾ,_j' '´`='ヽー.'::::::::::.r' i i l、  ̄ ,ノ .:::ヽ _,ノ ..:::::::::::! l/ . !  ̄ :' ::::::.. .::::::::::::::! '! l ヽ,_;::::::,:',_、 .::' .:;'::':i_,/ ! r';"';';;;;,'':::;'';;::.:ミ.、::r ':;:r:::! Y;;';.r‐'''‐'‐'':;';;:ミ ..:ミ:'::::'::::l 、 'ヾ ",:,:';:: 、ヾ、 ミ、ミ:;:::::::;r' l:::ヽ ミ'; ::';;:;:;:.,、:、;.、 r'- '´ ,:'::::::::` ヾ'"!r;,'l;;rヾヾ''" /:::::::::::::: / ヾ'/ _,.-/´:::::::::::::::::::: '--,-r'l__,r '´ /;:::::::::::::::::::::::::: テラカナシス1世
てすと
てすと
おっはー
/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ、`‐-..,,_、_, , , /,,..-==ー- 、,,:::::::::::::::::::::::::::ヽ::::::::::::::::::::::::ヽ ,彡巛川冫ミミミ ヽ:::::::::::::::::::::::ヽ::::::::::::::::::::::::::::l ミノ `ミミヽ、:::::::::::::::::::、::::::::::::::::::::::丿 / _ ,,,,_ ミミヽ、:::::::::::::::::::ヽ;;:ヽ:: / .l"゛゛ :;_,,_ ゙゙` ミミ\:::::::::::::::::::::ヽ;;;:li ゞッ冫 '='-`゙'' ミミミ,ヽ::::::::::::::::゙li;;;:::l 〈,./ ,, `゙"" . : . ミミミミ;;ヽ、::::::::::l;;; ノ i(_ ⌒) ゝ. ,;:. : : lii彡‐、ミヽ:::::::リ- ' ソ _ ̄ `ー "" ノノ彡 /彡ぃ:::ノ ゞ二`‐、 ,: ,/川ll.l.i‖l〈 ゝニ´-'' /川l l llll |/ i . : ; : :: :: 彡ノ/川ミ ヽ、_ ,,, -''-、:: :: : :ノノ川l l|ミミ `i; ;: : ::: : : : ノノ川 l l iミ | : . : . : : . : . : : . : .ヽ、 _,,..-''゙´´ ̄ ̄ヽ . : . : .: . : . : . : . :ゝ=ー -- 、 初代オーストリア皇帝 フランツ一世(神聖ローマ皇帝としては二世) (1768−1835)
/::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ、`‐-..,,_、_, , ,
/,,..-==ー- 、,,:::::::::::::::::::::::::::ヽ::::::::::::::::::::::::ヽ
,彡巛川冫ミミミ ヽ:::::::::::::::::::::::ヽ::::::::::::::::::::::::::::l
ミノ `ミミヽ、:::::::::::::::::::、::::::::::::::::::::::丿
/ _ ,,,,_ ミミヽ、:::::::::::::::::::ヽ;;:ヽ:: /
.l"゛゛ :;_,,_ ゙゙` ミミ\:::::::::::::::::::::ヽ;;;:li
ゞッ冫 '='-`゙'' ミミミ,ヽ::::::::::::::::゙li;;;:::l
〈,./ ,, `゙"" . : . ミミミミ;;ヽ、::::::::::l;;; ノ
i(_ ⌒) ゝ. ,;:. : : lii彡‐、ミヽ:::::::リ- '
ソ _ ̄ `ー "" ノノ彡 /彡ぃ:::ノ
ゞ二`‐、 ,: ,/川ll.l.i‖l〈
ゝニ´-'' /川l l llll |/
i . : ; : :: :: 彡ノ/川ミ
ヽ、_ ,,, -''-、:: :: : :ノノ川l l|ミミ
`i; ;: : ::: : : : ノノ川 l l iミ
| : . : . : : . : . : : . : .ヽ、
_,,..-''゙´´ ̄ ̄ヽ . : . : .: . : . : . : . :ゝ=ー -- 、
初代オーストリア皇帝
フランツ一世(神聖ローマ皇帝としては二世)
(1768−1835)
>>61 の生没年がずれたorz
_,. -= '' ー-、_ r '´ 、 -,、 / ヾミ、 ヾ ミ:::ヽ、 /ー、 -―-、ヾ ミ::、:::::ヽ r.rj'.:::: ;._、 ; ;! ,: ヾヾ::::::::::i /r'.::::::::.`┴'`; .: ヾ:::::::::::::::::l . i (.:::::.. :. :. 、 .::: ヾ,..=、:::::::! / ; ` ‐' : ,:: :r::: ::!i::::/ l 、__ ::. : ..:: :. r':::ノ /::i' l ゝ-- `:. ..::::: :::. .:: /ヾ! ヽ ::. .::::::: .:::: .::' ´ / ヽ:::::::::::::::::::::::::::::::::: ' _,._='i ヽ:::::::::::::::::::::::::::;-,='::':::::::::i. ヽ::::::::::;::- ',r::'::::::::::::::::::::::ヽ 第二代皇帝 フェルディナント一世 (1793−1875)
, -―-- _ ,r ' 三- _ ミ 、 r' i ` ゛ ‐-、 ミ、 ,i' ミ _,. `ヾ ミ / 'i , -‐ ` ミミ 'i ,i' ;r'"'''__,;:ir_ミl,,;! ゝ ナ -、_r'r tテ l-‐!;rtt l_ヽ i .: `ヾ l ´ / ヽ 、l / ! r':l -‐ ' i ̄.T . ヽ ヽ  ̄ ヽ ! `ヾl、 .:' ー ニ入 il ,i! 、 ´ , i;:!__ /:l l ` _ -'-ノr':::::::::::::-. _,.-::::::::::l. ヽ_ _, ‐'´ /::::::::::::::::::: :::::::::::::::;!rヘ -―-ニ 、 i:::::::::::::::::::::: :::::::::::::r' !_ ,.r ´ ヽ !::::::::::::::::::::::: 第三代皇帝 フランツ・ヨーゼフ一世 (1830−1916)
,.-‐───-、、, ,r'"´ , ;:, ;: ,:;, ;:, :,;:;:;:;;\ / ; .; .:.:; .; .; .;: ;;:::ヾ / .; ;: ;:;: :; :; :;:;:;:;:゙, / ,,..__ ,, ... .: .: .: .: ;; ;:;;;! l ,,,,_ -ーー─ - 、、 .: .:. :; ; :; ;:;| ,' '"´ ̄  ̄ ``''' . :.: :.::;::;:;;;;! j、、、,, 、,,、zニニ'''ー-,、 _,,, ィ⌒ヽ r'⌒ヾー.イYニ、ヽ、,,、、z=='''"´ .:;;< 7 〉 {{`=ン}='リr゙ー'-`i|"´ .:.:.:.::::j_ソ/ / >‐ イ ヾ_,,ノ .:.:.:::::.:.:ーイソ i il ,,,.;;:;;:.: .、 .:.:.:::::::::/^Y´ \ゞ=''iiiii!!!!!:; ;:`ヾ .:.:.:.:./ .:.:::! V>---‐ ''"⌒ヾ!.:.:.:./ .:.:.:.:.:.| ̄`¨`ー- ゙,`二ニニ´ /.::/ .:.:.:.:.:.:.:./\ ハ ノ/ .:.:.:.:.:::::::/ \ / >---‐''"´ .:.:.:.:.:::::::::::/ \ / /:.:.:.:. .:.:.:.:.:.:.:.::::::::::::::/ /\ 第四代皇帝 カール一世 (1887−1922)
,-─‐ 、 / iiii i ヽ、、 /ゞ、i!llllliii川//ヽ、 /ミ〃 〃彡ヽ lミミ 彡彡} lミミ,r‐-、 ,,r─、 彡彡ll| iミミ ィェx ,rェt 彳彡! ', .: 9}" ! ::,、,、 l_丿 ', _,_ /、 rゝ = ノi!ヽト、 -{;ヽ` ー─ " /;/: : \ /: : : |;;;\ /;;;;/: : :/: :\ /: : : : : :│;;;;;;\/;;;;;;;;/: : :/: : : : :\ フランツ・ヨーゼフ一世妃 エリザーベト (1837−1898)
スレを荒らすな
68 :
世界@名無史さん :2006/05/09(火) 10:58:27 0
自演乙
69 :
世界@名無史さん :2006/05/09(火) 16:32:51 O
ハプスブルク家の特技 子作り
>>69 ハプスブルク家は多産家系みたいだな。
たとえばマリア・テレジア夫妻の間には十数人の
子供がいた。
子作りと結婚で天下を獲った一族だものな
72 :
世界@名無史さん :2006/05/27(土) 14:17:35 O
フェルディナント1世とテレジアの息子レオポルトもひとりの妃相手に16人産ませている レオポルトの場合は他に愛人相手にプラス1人 産ませる方もすごいが産む方もすごい
日本の皇室も見習ってほしいものだ。
74 :
世界@名無史さん :2006/05/30(火) 21:49:25 0
75 :
世界@名無史さん :2006/06/02(金) 13:36:01 O
無理やり愛無き結婚させられ、無理やり人工授精で子供を作らされ、次の子供ができないと一方的に非難される雅子さんカワイそう まるっきり人身御供だ
76 :
世界@名無史さん :2006/06/19(月) 20:22:57 O
フランツ・ヨーゼフはあまりにも保守的 もう少し妥協的であれば帝国は多少延命しただろう
77 :
世界@名無史さん :2006/06/20(火) 22:18:51 0
,. -‐-‐ "´゙ヽ、
ノ; ; *; ; ; ; ; ; ;.゙`ヽ、
. ri!; ; ; ; ; ; ; ; ; ;*; ; ; ; ヽ
{ ; ; ; ; ; ;;; ; ; ; ; ; ; ; ; ; *ヽ
{; ; ;.,,..ノ,' ,,,、; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ヽ
ヽ { `ヽ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;.}
',{、__ _ ヽ; ; ; ; ; ; ; *`}
}. "忝` }; ; ; ; ; ; ; ; ; ノ
| ,' (::::) ); ; ; ; ; ;}
', ヽ-゙ ノ‐'; ; ; ;*; ;',
', `== ノ ,'; ; ; ; ; ; ; ; ;.',
ヽ , '´ }; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;}
`T ̄ 。 。-‐',; ; ; ; ; ; ; ; ; ;{
/ 。 ゚ ー=', ; ; *; ; ; ; ;} <
>>66 /。 ゚ ヽ; ; ; ; ; ; ; ;{ あんたは5000円札の樋口一葉でしょ。
{;;)゚,. "´ ', ; ; ; ; ; ; ; ', 私の名を騙るのはやめなさい。
/ ', ; ; ; ; ; ; ; ;',
/ ' , ',; ; ; ; ; ; ; ; ヽ
/ ', ゙}; ; ; ; ; ; ; ;.ノ
r〈,,. rrrハハハハュュ、 ; ', ; ; ; ; ; ; ;.{
,..(".:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.゙゙゙ーハハュュ、. ', ; ; ; ; ; ; ;}
},. '"´.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:."゙゙゙}; ; ; ; ; ; ; {
,r‐'".:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:.:`゙ヾ.:.:.:.ヽ _ ; ; ; ;}
78 :
世界@名無史さん :2006/07/03(月) 02:13:03 0
>>76 難しい問題だなあ。
オーストリアが列強として生き残るにはハンガリー、マジャール人貴族との妥協が必要だったし
帝位継承者フェルディナント大公や外相エーレンタールの考えた三重帝国も非現実的のような気も。
もちろん列強である必要がなかったと言えばそれまでだけどハプスブルク王朝としてはそうもいかない。
まあアウスグライヒ初期のボヘミア懐柔が上手くいけば少なくともライタ以西では連邦主義的な
帝国になったかも知れないがハンガリーがあれじゃあなあ、あそこに皇帝(国王)は介入する意向は
1905年(だっけ?)のハンガリー危機までなかったわけだし、またそれ以降もないわけだ。
ところで「ハプスブルク帝国崩壊は不可避だったのか?」という帝国史研究の最大のテーマについて
みなさんはどう考えます?
個人的にビスマルク体制を崩壊させた1908年ボスニア併合が大きいと思うんだが。
もちろんこれにはドイツの政策転換も大きいがメッテルニヒ時代からのバルカンにおける帝国の
トルコ保全政策の転換、ロシアとの勢力均衡政策の新機軸もあるわけだしなあ。
まあそれ以前からのドイツのバルカン、近東進出も帝国にはかなりの脅威ではあったかな。
しかし何故今更教科書ではww1を協商vs同盟で説明するかなあ。
実質ww1は局地戦争で終る可能性もあったわけだし(セルビアにオーストリアが負ける可能性もあるが)
三国同盟では伊墺は潜在的に未回収国土、あるいはバルカン問題で対立しているわけだし
三国協商でも英国は大陸戦争には可能ならば参戦したくはなかったはずだろう。
まあ独墺関係が微妙だった時期にサラエボ事件でドイツがウィーンに白紙委任したのが間違いだったんだろうが。
追記:別にフランツ・ヨーゼフの支持者ではないが立憲君主としては67年以降理想的な君主だったような。 内政にはほぼノータッチ。まあ外交と軍事の大権こそ手放さなかったが皇帝・国王がどこまで関与して いたかは微妙ではないか。まあライタ以西の内政については皇帝もかなり影響力を保持したが ドイツ皇帝ほど内外の諸問題に干渉した事件はないわけだし… 良くも悪くも妥協以後はウィーンは貴族的な官僚機構のなかの皇帝だったのだろうな。 カール1世の世界最後の王朝外交なんてナンセンスな事件に比べれば保守的であっても フランツ・ヨーゼフはまだまともな立憲君主だったんではないか、少なくともアウスグライヒ以後は。
>協商vs同盟 とはいっても当時の大国が協商・同盟でまとまっちゃって、紛争に対する柔軟な対応が出来なくなっていたのも事実かと。 あとそれに代わるわかりやすい説明があるわけでもない、というのもあるんじゃないか。 「協商対同盟、でも伊墺はバルカンでの対立があったからイタリアは協商側についた」ぐらいで妥当な気もする。 個人的には「汎スラヴ対汎ゲルマン」という考え方の方が気になるかな。
>>78 実際には皇帝は皇太子の暗殺者の引渡しを拒むセルビア政府に対するごく
慣例的な報復行為のつもりで宣戦布告を行ったわけだが当初の予想とは裏腹に
規模が激しく拡大して第一次世界大戦となり結局は帝国の崩壊を招いてしまった
わけなのだから本当に歴史というものは皮肉なもんだ。
>「汎スラヴ対汎ゲルマン」という考え方 これってさらっと教科書には書かれているけど微妙な表現だよなあ。 汎スラヴはまだ説明不可能ではないが(近東進出へのロシア政策として) 汎ゲルマンって少なくともオーストリアには当てはまらんような。 多少スレ違い気味だが3C政策vs3B政策も微妙。 単にドイツ帝国のオスマン利権確保に過ぎないだろう。 もっともこれは独墺関係にとってはドイツの東方進出は深刻な危機だけどね。 一般にオーストリア外交への軍部の干渉はドイツほどないし政策担当者もほぼ貴族。 共通外相・蔵相に何人かいたマジャール貴族はともかくライタ以西のドイツ系貴族は 皇帝と同じくどうも民族イデオロギー的なものを感じないんだがなあ。
>>78-82 ”帝国主義国家は植民地を巡って戦争をするのが必然”とか”軍事同盟が2つあったら戦争になる”とかの前時代的な考えが幅を利かせているからでしょ。
84 :
世界@名無史さん :2006/07/16(日) 15:06:25 0
生き残っていたらイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペイン 等と同格以上の国でW杯なんかも開催できてウィーン五輪なんかも行われてただろうね。 オーストリア、ウィーンが歴史の表舞台から埋もれてしまったことが惜しい。 ヨーロッパ人も後悔している人は多いだろう。オーストリア、ハンガリー、 チェコ、スロバキア、スロベニア当たりが再連邦国家になる可能性は0だろうか?
>>83 ”帝国主義国家は植民地を巡って戦争をするのが必然”ってのはまあ前時代的っていうか
マルクス主義の考え方だな。まあ必然とまでは言わなくとも実際局地的には植民地戦争は
あったわけだが確かに戦争は帝国主義イデオロギーの結果ではないわな。
ただ”軍事同盟が2つあったら戦争になる”ってのは前時代的かも知れないが七月危機では
かなり現実的だったように思える。実際局地戦で終るはずの戦争が同盟を維持するがために
大陸戦争、世界戦争へと発展していったわけだから。
オーストリアは同盟国ドイツの白紙委任を得たからセルビアとの局地戦を狙っていたのか、
あるいは対露戦争までは考えていただろう。
まさか世界戦争に発展するとは当局は狙っても考えてもいなかっただろうなあ。
総動員=戦争ではないしボスニア危機のようにロシア・セルビアがドイツの最後通牒に屈すると
でも考えていたんだろうか?
>>84 ウィーンはそれでも魅力ある帝都の面影を今日に残しているぞ。
再連邦国家の可能性は西欧(EU)が中欧にまで進出してきた時点でナンセンスじゃない?
それに英仏独はともかくイタリア、特にスペインは19世紀でも今日で「大国」ではないな。
何をもって「大国」「列強」とするかは議論があるが19世紀欧州では英仏独露墺が五大国だろう。
イタリアはその地位を得たかった。スペインはそのとき何をしていたっけ?
「もし」生き残っていたら……フランツ・フェルディナントvsマジャール貴族の国内問題でボロボロに。
彼の均衡ある三元主義が実現するには南スラヴ人は少なすぎるし、結局セルビアを併合せんことには…
ただあの大公、人気はないが一貫して戦争による民族問題、バルカン問題解決には反対だったんだよな。
好戦家コンラートを皇帝に推挙した人間とは思えん。
そういえばサッカーのユーロ2008は オーストリアとスイスの共催だな
87 :
世界@名無史さん :2006/07/16(日) 18:18:56 0
オーストリア、ハンガリー共催の方が萌えたけどな。仲悪いのかな。
88 :
世界@名無史さん :2006/07/17(月) 10:00:52 O
オーストリアとハンガリーは仲悪くないでしょ ハンガリーとルーマニア ハンガリーとクロアチア ハンガリーとスロバキア は歴史的に見て人悶着ありそうだが 特に一番目は現在もあまり仲良くないのでは?
89 :
世界@名無史さん :2006/07/17(月) 10:52:06 0
第一次大戦前のヨーロッパの地図が好きだ。 イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、スペイン の六大国が丁度良くまとまってる。 オーストリア分割反対。アイルランドの独立いらね。ポーランドは旧ドイツ領を返せ。 アルザスのとんがり部はフランスでよい。
90 :
世界@名無史さん :2006/07/17(月) 10:59:14 0
そもそもオーストリアとドイツ本国が別の国っていうのが不自然だろ。 単に王室の都合で別の国になってただけなのに。
>>89 同じだ。でも、ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリアにはいらないと思う。
ベネルクスはオランダが統一していた方がいい。
スウェーデン・デンマーク・ノルウェーはスカンディナビアで統一。
>>90 ベルリンとウィーンは結構違うと思うよ?
ドイツはプロテスタントが多数派だけど、オーストリアはバリバリカトリックだし
政治の中心だから発展できたベルリンと文化の面で大きく花開いたウィーンでは
やはり違うと思う。それと、アンシュルス後でもドイツ人がオーストリアの人々を
格下に見ていたことでオーストリアの民族意識が生まれたのは皮肉だな。
92 :
世界@名無史さん :2006/07/17(月) 23:47:14 0
93 :
世界@名無史さん :2006/07/18(火) 02:29:56 0
後トルコも東欧に復活してほしい。
〜‐. _―'' ̄ ̄| ノルウェー┌─┤ -〜 / |スェーデン -〜 | | / ヽ _,,_ | /ヽ/ ,| 大西洋 / / デンマーク /\ ヽ ~) 〜- . r \___,,/ ̄ ./ -〜__/ | フ ̄ ̄ / ゝ大英帝国 オランダ \ ロシア帝国 〈 ) / ̄ベルギー | 〜‐ > / / ̄ | ドイツ帝国 \_______ ~―─_/ | | オーストリア| __j ̄ / ̄ ̄ ̄\___/ ハンガリー | ヽ フランス | スイス | 帝国 ./ | \_ _ / ̄ ̄ ̄|__,,,___/ ___ | ― 、_|_ ̄ | セルビア|ルーマニア  ̄~\ / ̄\__ ノ~  ̄\ \ |アルバニア | 〜- ) | ̄ ( 地中海 \ ヾ ヽ ブルガリア> __,,,,,ー'~ |─, スペイン | 〜 \ イタリア ヽギリシア < オスマン・トルコ帝国 | │ ノ 〜- \ \ /_/ \
>>92 古い地図だね。バルカン戦争前だから、ブルガリアが自治公国だ。
アルバニアも独立していないし。
あと、コルシカ島はイタリアに統合されるべきだね。ティレニア海の周りが
全てイタリアになる。
でもトルコはヨーロッパにいらないなあ。民族紛争が絶対起きるし。
>>94 フランスがナポレオン時代になってる。
96 :
世界@名無史さん :2006/07/19(水) 00:56:09 0
ヨーロッパ列強の皆様 + おまけ1 ∧_∧ ../ ̄ ̄\ ∧ 、 (゚゚゚゚゚゚゚゚゚゚゚) /____\ ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ /⌒\ | ̄ ̄| ( ’∀’) |/.( `∀´)\| ( -∀- ) (゚∀゚ ) (・∀・ ) (-∀Θ) (゚ー゚ )おまけ? ( ) ( ) ( :│: ) (゚゚ノノ゚゚) (ノノ .♀) ( /+) ( )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ England France Austria-Hungary Russia Italy German Ottoman
97 :
名無しさん@お腹いっぱい。 :2006/07/19(水) 01:00:15 0
>>91 バイエルンとかの南ドイツとは一緒になれたと思うけどな。
実際、同じカトリックだし、バイエルン王家とは何度も結婚してたし。
カトリックの南ドイツ+オーストリアとプロテスタントの北ドイツというのが
(北ドイツ連邦だけがそのままドイツ帝国になる感じで)
実は宗教的に一番きれいな分け方だったんでないかという気がする。
>バイエルンとかの南ドイツとは一緒になれたと思うけどな。 これを一番恐れていたのがビスマルクで普仏戦争は オーストリアを除くカトリック・南ドイツを北ドイツ連邦に加盟させるための戦争でしょ。 実際71年憲法ではビスマルクはバイエルンとヴュルテンベルクに大幅な特権を認めているし 後のあの「文化闘争」とやらでも事実上敗北している。 この間外交的攻勢をかけたのがアウスグライヒを成立させ国内を安定化させたオーストリア。 南ドイツへの覇権は諦めていなかったし外相ボイスト伯も積極的に動いていた。 普仏戦争へも当初フランス側での介入を考えていたようだがドイツ民族主義的な自由派内閣と 皇帝の威信が強まりアウスグライヒが壊されることを恐れたハンガリーが反対して介入せず。 まあ介入されないようにビスマルクは普墺戦争で寛大な講和をしたわけだし 仮に介入していたら帝国の寿命は50年縮まっていたかもしれんがね。 ww2戦後もオーストリア・南部ドイツのカトリック諸州合同の動きが国際的にあったようだが… フランスと比較して「強い」ドイツが大陸に存在するためには南ドイツは必要不可欠だったんだろうな。 あとはオーストリア・ロシアとの強固な同盟、英国との協調、これを全てぶち壊したカイザー。 まあそのカイザーのおかげでロシアとの間に弱小な緩衝国家が多数生まれて オーストリア出身でバイエルンに基盤を置いた伍長が暴れまわれたってのは何とも皮肉なことかな。
Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Läander und die Läander der heiligen ungarischen Stephanskrone
誤植orz Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone
オーストリアとドイツって永久に合併を禁止されてるらしいね。 そんな事まで決める権利が誰にあるんだという感じがするが。 当事者同士が合併したがっても駄目だなんて、敗戦国とはいえあんまりな 決まりだと思うが。
>>91 ウィーンを文化都市としちゃうのは何だか。
政治的に重要な地位に長年あってこそ文化も花開いたわけだし。
>>98 99も指摘している通りだし、バイエルン公家とオーストリア大公家の通婚は
直接、両国民の親善意識にあまり寄与してなかった。
というかそういう分裂は誰も考えてなかった。ドイツ部分の増大はアウスグライヒにも悪影響を
もたらすと考えられていたし。
104 :
世界@名無史さん :2006/07/20(木) 09:34:32 O
ドイツ関税同盟で経済的統一を成し遂げたプロイセンに一日の長がある?
105 :
世界@名無史さん :2006/07/21(金) 01:28:31 0
ルドルフが自殺せず帝位についていたらどうなっていただろうか? フランツ・フェルディナントが皇太子にならなかったかもしれないから 暗殺されることもなく(もしくはされても戦争にならない?)、第一次大戦が 起きなければ帝国は崩壊することもなかっただろうか。 皇位継承者が自殺なんかするからやはり滅んでしまったのであろうか。
>>77 の小生意気な嫁を懲らしめてやりたいので誰かゾフィー大公妃の
AAキボン
>>90 民族が1つの国を作る方が不自然な罠。
そしてヨーロッパはEUの重みが増すにつれて各国の重みがなくなり、各国は分裂方向に向かってしまっている。
カタルーニャ、バスク、ガリシア、スコットランド、北アイルランド、ワロン、フランドル、フリースラント、
バイエルン、パダーニャ、コルシカ、ブルターニュ、ラングドック、スコーネ、フェロー・・・
特にスペインの分裂傾向が全国的に酷い。
>>98 ところが南ドイツのなかでヴュルテンベルクだけプロテスタント、北ドイツの中でラインラント一帯とミュンスターがカトリックな罠。
あれだけの大騒ぎを起こしたプファルツがいつのまにかカトリックなんですが……
>>105 ルドルフ大公の心中事件は実は大きな問題だわな。
まあルドルフ自身当時は自由主義にかぶれていたわけで皇帝とは対立するが
これが後年即位したときどう現実と向き合ったかはIF論もここでは甚だしいから置いておいて。
古いヨーロッパの王朝原理を信奉していたフランツ・ヨーゼフにとって事件は痛手だっただろう。
いくら実際は我侭で自由主義にかぶれた(皇帝にとっては)出来が悪い息子であっても、
帝国と王朝を子孫に相続させたいがためにこれまで自分の信念に反して帝国改造を行ってきたのだから。
それが皇太子の死で、あの気に入らない甥っ子のためにこれまで犠牲を払ってきた事になってしまうわけだ。
この後皇帝は目的と行動原理を失って、ただ帝国の存続だけを目的に生きていたようなもんだ。
制度上も実際も最高権力者である皇帝が「模範的な官僚」になっては困るわけで…
彼の死後、皇帝は依然として最高権力を持ちながらただ惰性で帝国政務にあたっているだけになってしまった。
もう何の改革も行われないし、またそのエネルギーも失ったかのようだ。
一個人のスキャンダル以上に政治家フランツ・ヨーゼフのこのような意欲の低下を考えれば
帝国にとっては大きな痛手を与えた事件だったかもなあ。
幸いにも同じ専制君主ながらもロシアの宮廷よりは「自律」した皇帝であった故に王朝は自滅こそしなかったが。
ついでに妄想すればフランツ・フェルディナントが帝位を継承していたら? まずハンガリー国王には戴冠しないと明言しているから1867年以前の ハンガリーの騒擾に逆戻りするのかねえ。 この場合皇帝に忠実な共通軍隊はハンガリー議会をU計画で武力制圧するだろうけど ハンガリー独立戦争みたいにハンガリーも気骨がないからその後の展開は全く読めないな。 あの反動的で狡猾な大公のことだから三重帝国構想も潰してロシアみたいになったんだろうか? 大公派はそれなりに大きかったから宮廷の掌握は簡単だっただろうが帝国は果たして…
111 :
世界@名無史さん :2006/07/26(水) 00:17:37 0
オーストリア=ハンガリー帝国を崩壊させる必要はなかったような。 イギリスみたいに一つの国家の下にオーストリアやハンガリーやチェコ などがあるような形態にしといた方が総合的に見て得策だったと思う。
>>110 フランツ・フェルディナント大公が無事即位してたら・・・・帝国はどうなっていたのだろうか。
いずれにしろ、帝位継承者となった頃から大公には不穏な影がまとわりついていたような
気がしてならない。おそらく皇帝の大反対を押し切ってまでホテク家の娘と身分違いの結婚を
果たした辺りから歯車が狂い始めてたんだろうね。フランツ・フェルディナント大公の妻・ゾフィーにしても
皇帝をはじめとするあくまでハプスブルク家にふさわしい家柄との縁結びしか望まない
守旧派の人々からは疎まれ、子供の帝位継承権も認めてもらえず、挙句には暗殺という最期を
遂げる羽目になるのだからまさに踏んだり蹴ったりだったわけだが、まあ愛する夫と心中できたのが
せめてもの救い(?)だったのかもしれない。
>>111 崩壊させる必要はなかったし1914年にも1917年にも列強は勿論のこと
バルカン諸国も国内のあらゆる民族が崩壊なんて望んでいなかった。
イタリアやルーマニア、セルビアは帝国の領土の一部が欲しかっただけ。
(だいたいイタリアとユーゴスラヴ運動は敵対関係にあるわけだ)
ドイツ人はベルリンに支配されたくなかった、チェコ人は大ドイツが脅威だった、
マジャール人は大ハンガリーが単独ではロシアの脅威に対抗できないことを知っていた、
クロアティア人は王朝に忠実で何よりセルビア人が大嫌い、スロヴェニア人はイタリアが脅威、
ポーランド人はドイツやロシアの同胞よりも恵まれていることを知っていた、
スロヴァキア人は極めて教権的な保守主義者、ウクライナ人もツァーリ支配を望まなかった。
ムスリムはハプスブルク支配で特権を得ていたし、ルーマニア人やセルビア人も教養階層は少ない。
1914年に緒戦で敗退したときに単独講和しておけば普通に帝国は発言は落ちても「大国」として存続しただろう。
ベルリンの統制下にある1917年ではもう遅すぎたわな。
まあとりあえず戦争をしたかったのがウィーンだったんだから自滅といえば自滅。
ただ戦争したかったなら「もっと早い時期に」といったコンラートの台詞も分からんではない。
ただバルカン戦争時は欧州列強はどこも協調・会議による事態収拾という路線だったからなあ。
結局の所は民族自決なんて絵空事を押し付けたウィルソンが一番の悪者。
まあウィルソンを動かしたロビイストはガリチア、ブコヴィナや 上部ハンガリーからの移民だってことを考えると結構微妙かもね。 マサリク一人が動き回ったところでどうにもならんだったろうし。 まあマサリクを弁護すれば伝統的なボヘミア王冠でもツァーリズムへの信奉でもなく あくまで現実主義的だったってことか。 彼が「独立チェコのフランツ・ヨーゼフ」になってしまったのは東欧の現実だな。
116 :
世界@名無史さん :2006/07/30(日) 20:56:51 0
ところでこの国がハプスブルク帝国なんて名乗ってた時期はあるの? 正式国名といったら何になるのだろう?(時期によるだろうけど)
フランツ1世の即位後=オーストリア帝国 フランツ・ヨーゼフ1世の時代から俗に言う オーストリア・ハンガリー帝国 多分こんな感じ。
一番正式なのはこれだろ↓ Die im Reichsrat vertretenen Königreiche und Länder und die Länder der heiligen ungarischen Stephanskrone
ドイツ語読めないので日本語に訳してくれ。
120 :
116 :2006/07/30(日) 21:19:41 0
>>117 即レスどうも
つまりハプスブルク帝国なんて名乗ってた時期はないですよね?
なのにそう呼ばれることがあるのは何故だろう?
オーストリア・ハンガリー帝国なんてしてしまったからだろうか?
それがなければ普通にオーストリア帝国だけだったように思うし。
世界史的にはカール五世の頃のスペイン&オーストリア時代を ハプスブルク帝国と呼ぶ学者も居るが 少なくともハプスブルク家の方からそう名乗った形跡は無い。 ちなみにオスマントルコのスレイマン1世は外交書簡で カール五世の事を 「汝スペインの主カールであろう」と素っ気無くあしらっている。
帝国議会において代表される諸王国および諸邦 ならびに神聖なるハンガリーのイシュトヴァーン王冠の諸邦
ハプスブルク帝国というかは便宜上のものだな。 「帝国議会において代表される〜」なんていちいち言ってられないし 1867年でもってオーストリア帝国からオーストリア・ハンガリー帝国になるのは帝国改造の一環。 1804-1918年をひとつの連続した独立国としてとらえるならばこれ以外に言いようがない。 当時は国内では共通の呼称としては宮廷メンバーは「君主国」と呼んでたような。 ライタ以西をオーストリアと便宜上呼ぶのもややこしいが何ともかんとも。 ライタ以西をオーストリアと訳したい時はハプスブルク帝国とするのが無難かなあ。 外国の国号てのは難しくてドイツ第二帝政だって正式にはカイザーライヒではなかったからねえ。
>>116 実質的にハプスブルクの世襲だった神聖ローマ帝国を「ハプスブルク帝国」と
言うこともあるけど、関係ないか。
マスコミが大立者やその一族が政財界を牛耳ってる状態を指して 「ロックフェラー帝国」とかっていうのと同じノリでそ?
ちなみに オーストリア帝国 でググると22400件。 ハプスブルク帝国 で30000件 オーストリア・ハンガリー帝国 で39600件。 オーストリア帝国が一番少ないなぁ。
A.E.I.O.U.
やっぱり近代以降、カール6世、マリア・テレジアやヨーゼフ2世の改革で 諸領邦の統合が計画されてからが1918年までの「帝国」の出発点だろうから 継続性を考えて用いる場合はハプスブルク帝国、君主国が妥当なんだろうかなあ。 「ハプスブルク家の諸王国、諸領邦」が1804年に形式的に「オーストリア帝国」になっただけだし。
ハプスブルク帝国って1804年以前の神聖ローマ帝国内外のハプスブルク家領を指して使うだろ。
そうかなあ。 1804年にフランツがオーストリア皇帝に戴冠してからも 家領総称をハプスブルク帝国と使ってもそんなに問題ないような気もする。 実際邦語・邦訳文献は(売り上げ伸ばすためかもしれんが)研究書でも 普通にハプスブルク帝国って使うからなあ。 二重制の説明が面倒なだけかもしれないけどウィーンの支配者層の意識は 1918年までハプスブルク家の帝国・家領なわけで特に問題ないような。 オーストリア帝国(1804-67)、オーストリア=ハンガリー帝国(1867-1918)と 分けると王朝の連続性や二重制が単なる帝国改造だったことの意味を損なうように思える。 三重制がよく提起されたように二重制は恒久的なシステムじゃなかったはずだっただろう?
>>124 ドイツ語じゃK. u. K(カーウントカー)って言い方も見かけますね。
Kaiserich und Königlichだったか。つまり「皇帝にして国王の〜」っていう。
あとDonaumonarchie(ドナウ君主国)とか、Doppelmonarchie(二重帝国)とか
>>132 これもまたK.K.(皇帝・国王の〜)とK.u.K(皇帝にして国王の〜)で揉めとったからなあ。
最終的にはいつかの軍事アウスグライヒ関連法案通過のためK.u.K.に妥協したっけか。
帝国をハプスブルクの王朝国家とみるかハンガリー王国との連合とみるかで変わるから
やっぱりあまり表記には統一性ないなあ。
日本じゃどうも墺太利洪牙利帝國と呼んでいたかも…だが、古い新聞調べないとどうにも。
フランツ・フェルディナント大公は来日したことがあるはずだから手がかりにはなりそう。
そもそもの話題からずれているけど政府の正式な外交文書じゃあ何と表記したのかなあ。
何となく急に話題転換、皇帝フランツ1世と宰相・外相メッテルニヒの関係について。
「欧州を支配したことはあるが、オーストリアは一度だって支配できたことがない」と
メッテルニヒは述べたらしいが(結構彼の発言には矛盾も多いのだが)そこまで皇帝権力って
大きなものだったのかねえ。メッテルニヒの行政改革にフランツは常に難色を示したようだし。
まあ彼は内政家というより外交官だから財政考えずに結構政府の財務官僚と対立したようだが。
The Australian Imperial Force
135 :
世界@名無史さん :2006/09/10(日) 14:03:41 0
オーストリア帝国の復活を祈願してage
帝国の復活というかオーストリアにおいて君主制の復活ってありえるんだろうか? 昔の帝国と呼ばれていたころのオーストリアはハンガリー他チェコスロバキアや 一部のバルカン地域も統治下においていたほどの国力と土地を有していたけど 現在のオーストリアにはそのころの威光なんて見る影も無いしなあ・・・・ 万が一復活を果たしたとしてもなんとか王号を名乗れる程度の立憲君主国に とどまるんじゃなかろうか。
欧州議員やってる帝位継承者オットー大公(ドイツ選出)と その長男カール?大公(オーストリア選出)は請求権放棄しているね(このへんうろ覚え)。 だからこそ二人ともオーストリア共和国に入国できたわけで。 ww1戦後のオーストリアは貴族を示すvonを名姓の一部とすることを禁じたくらい共和的だった。 まあ請求権の放棄はツィタ皇后が猛反対したとか、オットー大公もww2では米国などで運動していたみたいだが。 ハンガリー王冠とボヘミア王冠の放棄の件は知らないが 前者はカール1世(ハンガリー王として4世)復位事件で正式に議会で廃位されているし(これは国法として合法)、 後者は歴史的ボヘミア諸邦とチェコスロヴァキアの継続性を否定している、てかフランツ・ヨーゼフも カール1世自身ボヘミア王には即位すらしていないしな。 まあつまりハプスブルク王朝復古は無理というわけだ。 1918年に作り出された国民国家を王位の請求権から考えると ハプスブルク帝国が王朝と諸邦の国法と歴史をアイデンティティとした国家だってことがよく分かるな。 特にww1戦後処理の大ハンガリー王国構想とか政体とか歴史的な国法抜きには考えられん。 反対にチェコはマサリクが国法から脱皮していたこと(民族主義的だったこと)が外交的勝利となったか。 まあそのチェコの歴史的権利を否定し、国法を護る貴族層を壊したのもハプスブルク王朝だったわけだが。
138 :
世界@名無史さん :2006/09/20(水) 19:34:47 O
あとはブルガリアのシメオン元国王のように政党を作るか既成政党の党首になって選挙で勝利して内閣首班首相になるしか政界復帰はないな
139 :
世界@名無史さん :2006/09/20(水) 19:44:13 0
フランツ・ヨーゼフはなんでセルビアに宣戦しちゃったの? この人の長い治世で最後にトチって、王朝を崩壊させちゃったんでしょ。 この失敗がなければ、よしんば諸民族が独立したところで、 ハプスブルグ王朝は存続したと思われ。
>>137 いっそ、復古ではなくナポレオン式に無理矢理皇帝を名乗ればよい。
まあ、韓国では李氏朝鮮の末裔を立てて帝国にしようって動きもあることだし、 まるっきり不可能ってこともないと思われ。
>>139 他国の政府系テロリストに皇太子殺されて何もしないなんてあり得ると思うのか
まして当時は今よりも遥かに国家の威信や名誉が重視された時代だぞ。
そしてオーストリアはもちろん、フランスも英国もロシアもドイツでさえ、元首・政治家・軍人から市民まで、この戦争が世界大戦につながるなどとは夢にも考えていなかった。
世界大戦が起こってからも、民族自決を言い出したウィルソンでさえ、二重帝国が崩壊する/させようとは考えていなかった。
でもまあ宮廷グループの外相ベルヒトルト・参謀総長コンラートら好戦派にとっちゃあ セルビア開戦の口実求めていたから渡りに船だったのも事実だよなあ。 皇帝なんてこの時期完全に「模範的な官僚」で皇太子夫妻暗殺にも感慨を示さず。 王朝の威信なんて実際は恰好の大義名分だったと言えば言いすぎかなあ。 外相の最後通牒なんて主権国家セルビアとしては受諾が100%不可能な内容だし 外相夫人の手記による「セルビアがまさか受諾しないか夫は心配で眠れませんでした」なんて凄い内容だ。 そして同盟国ドイツがバルカンに関してオーストリア側に白紙委任するのはこれが最後の機会と考えられた。 当時近東・東方問題に関しては独墺同盟は二次のバルカン戦争の戦後処理の大国会議などをめぐって 破綻寸前で七月危機がなければ二国同盟更新せずとベルリンに通告するつもりだったって言うんだから。 ドイツの白紙委任はカイザーの王朝への威信の重視と二国同盟堅持のためだったんだろうかねえ? 普通に考えればボスニア併合危機みたくオーストリア軍の総動員でセルビア脅迫、ロシアの部分動員で対抗、 ドイツの威嚇でロシア・セルビア両国への最後通牒をロシアが受諾って感じが理想的に考えうるシナリオで 最悪でもオーストリアとセルビア二国の局地戦、独墺VS仏露の大陸戦争ぐらいまでしか考えられない。 戦争責任とかは事後的で好きじゃあないがWW1の戦争責任論を考えればベオグラードの反オーストリア扇動、 ベルリンのウィーンへの異例の白紙委任、ドイツを刺激したツァーリの総動員、それを受けたドイツ参謀本部の ベルギー侵犯と色々あれどウィーン宮廷の威信のための徹底した対セルビア脅威論が大きかったのかもねえ。 かつての欧州最大の陸軍国がセルビア一国にドイツの支援がなければ対抗できない帝国も堕ちたものだが。 三重帝国構想のために慎重派だったハンガリー首相ティサでさえ宣戦従い、皮肉なことに反戦派皇太子はいない。 ボスニア危機でベルリン体制が崩壊、会議による六大国の協調・調整ができなくなったことの責任は 間違いなく帝国にあり、その上帝国は領土的に得るものなし。時代は違えど「欧州情勢は複雑怪奇」だよなあ。 皇太子が一度目のテロで重傷を負った護衛の見舞いに行かなかったら歴史は全く変わったんだろうか…
追記 ベオグラードが今日で言えばテロ組織である黒手組を支援していたのは間違いないが ウィーン共通外務省に皇太子暗殺計画があることを警告しているのも事実なんだよなあ。 ベオグラード外交筋が失念していたのかどうかは知らないが不幸なことにボスニアの管轄が 共通財務省だったこと、皇太子夫妻にとって危険が予知されながら久々の晴れ舞台として サラエヴォに閲兵に行ってセルビア人を刺激して老いた皇帝への対抗心を示したことetc 帝国議会なんて全く機能せずウィーンでは皇帝派VS皇太子派の政争、ウィーンとブダペシュトとの抗争。 WW1の事後処理は東欧に小ハプスブルク帝国を量産しただけで全く無意味というか大失敗だったけど 帝国にそこまで幻想を抱くこともどうかと思う。得ることない戦争で事態を打開しようなんていうのが 王朝国家の限界だったのかねえ。帝国改造もあれ以上の民主化も現実的ではなかったわけだから。 ただあのフランツヨーゼフの支配する帝国に多くの臣民が打算もあったけれど忠誠を抱いていたのもまた事実。 宮廷・官僚・軍隊・民族を問わずほとんどの臣民というすべてのレベルで結局王朝国家的思考なんだろうか。 何か言いたい事が多すぎて支離滅裂になってしまったな。長文スマソ
145 :
世界@名無史さん :2006/10/09(月) 21:40:33 0
この数年日本人研究者のオーストリア帝国の研究書籍増えたなあ。 ボヘミア・アウスグライヒやバルカン戦争における帝国外交、墺土外交論文集など。 ほかに何か新しいの(訳書も可)出ていない? しかしどれもこれも面白いがネタとしてはマイナーな分野を扱っていて凄いねえ。 自分なんか近代オーストリア史やります、て教授に言ったら「辺境史は邦語史料少ないよ」と 「辺境」扱いされてしまったが(ウィーン外交が辺境ってどんな価値観だよ)。 趣味書や小説の類は多かったけれど細かい政治史を真面目に研究されている学者が 増えたのは嬉しい限りだ。内容への論評はちょい「木を見て森を見ず」なところもあって 突っ込みたいところもあるけど、通史か王朝史しかなかった時代を考えれば良い時代になった。 このスレ的には『フランツ・ヨーゼフとハプスブルク帝国』(S・ベラー)が邦語じゃ一番参考になるかね?
146 :
世界@名無史さん :2006/10/11(水) 00:26:30 0
>>143 >>144 当初の思惑はともかくとして、
結果論としては、対セルビア宣戦が、ハプスブルグ王朝倒壊に進んだことに、
異存はないでしょう。
フランツ・ヨーゼフは、限定戦争で決着すると、楽観してたんですか??
147 :
世界@名無史さん :2006/10/12(木) 00:32:59 O
ベルヒトルト外相はかなりの段階まで戦争によらず協調外交によりバルカン問題を処理しようとしていた 第1次バルカン戦争で生じたスクタリ問題はどうにか6大国会議により処理されたが 第2次バルカン戦争では三国同盟側に引き込もうとしていたブルガリアを助けるため、軍部がセルビアに軍事介入しようとした しかし同盟国のドイツ、イタリアは冷淡だった 特に独首相ホルヴェークはハプスブルク帝国の軍事介入に反対し、アドリア海に進出する恐れのないセルビアの国土拡大はやむなし、ブルガリアの弱体化やむなし、ドイツはバルカンにさほど興味がないと回答 ドイツはルーマニアが同盟側から離脱することと欧州大戦化を恐れていた 結局、ハプスブルク帝国の親ブルガリア政策と仏露の扇動によりルーマニアがセルビアと同盟しバルカン戦争に参戦 6大国勧告やハプスブルク帝国単独による再三再四の抗議にも関わらずセルビアはアルバニア北部から撤退せず 1913年10月の最初のセルビアに対する最後通牒に至る しかし協商側にはもちろん同盟側の独伊にも事前通告しなかったため各国は不快感を強めた(特にイタリア 結局のところベルヒトルトは対セルビア戦を限定作戦にすることを望んでいた
148 :
世界@名無史さん :2006/10/12(木) 01:42:51 O
ハンガリー首相から帝国宰相になったアンドラーシや20C初頭のハンガリー首相ティサのマジャール人官僚や アウグスライヒ下で特権を得たポーランド人官僚のポトツキー墺首相やゴルコウスキー帝国宰相は 基本的にデュアリズム(二重君主制)支持者でトライアリズム(三重君主制)に絶対反対 対外的には領土不変、現状維持、反露。 三重君主制は相対的にハンガリーの地位を下げ、領内の非マジャール系民族を刺激してしまうからだ 特にアンドラーシは1871年墺首相ホーエンヴァルト、墺農商務相シェフレの具体化していたボヘミアとの和協による三重君主制案を潰した 三重君主制支持者は他に1906-12年帝国共通外相のエーレンタールと皇位継承者フランツ・フェルディナント エーレンタールはボスニア・ヘルツェゴビナを併合して南スラブ王国を作ろうとした危険思想の持ち主 フランツ・フェルディナントはハンガリー領内のみならず墺領内のスラブ人も視野に入れた多重君主制支持者であったが 民族主義に理解を示したのではなく、あくまで帝室存続のための多重君主制支持の保守主義者である
149 :
世界@名無史さん :2006/10/13(金) 01:55:13 O
皇帝フランツ・ヨーゼフは普墺戦争後、ナポレオン3世と結び対プロイセン報復戦争を意図していた それはナポレオン3世の失策により皇弟マクシミリアンをメキシコで失ってもその考えを捨てず 普仏戦争になっても変わらず閣僚に押しとどめられるほどだった 当時の帝国宰相ボイストはかつて普墺戦争時ザクセンの宰相であったため、祖国をプロイセンに奪われたため当初の想いは皇帝と同じであった しかしながら日がたつうちに次第にナポレオン3世が虚栄心の強い野心家であることを知り、信頼に値しないことを悟って180度転換し対プロイセン友好政策をとるようになった このボイストがアンドラーシとともにボヘミア和協を葬り去った人物である 彼はパラツキーが唱えリーゲルが継承したオーストロ・スラブ主義をロシアの唱える汎スラブ主義と同一視したためリーゲルと墺首相ホーエンヴァルトが妥協したボヘミア和協をアンドラーシとともに潰したのある
>>146 「結果論として」が前提ではない議論だったような。
ドイツが白紙委任しなければ戦争はなかっただろうし最後通牒が受諾不可能なものには
ならんかっただろう。
>>147 が指摘しているように二回のバルカン戦争ではセルビアに
最後通牒を送って、かつ動員をしているが戦争には至らなかった。
もちろん結果論としてボスニア事件からの七月危機が帝国崩壊に繋がったことは異存ない。
しかしそれはもう翌々日からオーストリアの問題ではなくドイツとロシアの問題かなあ。
あと皇帝がこの時期外交大権を保持していたものの積極的に行使していたかは疑問。
まあ歴代外相が皇帝の意に沿う行動をしていたこともあるが(外相批判のコンラート罷免事件など)。
>>148-149 マジャール人やポーランド貴族が「対外的には領土不変、現状維持、反露」であったのは事実だけど
ホーエンヴァルトの三重君主制(ハンガリーを除くオーストリアでのボヘミア王冠への妥協)と
エーレンタールやフランツ・フェルディナント大公の三重君主制(ハンガリーを含む帝国改造)を
同次元で扱うのはどんなものかねえ。あと支配層のご都合民族主義はウィーンもマジャール人も同じでしょう。
もちろんいずれにしてもマジャール人が様々な「特権」に基づき猛反発しただろうことには異存はないが。
結局帝国は「これ以上バルカンにおいて新しい領土を得る余裕はないというメッテルニヒ以来の結論」に
したがってその枠内で帝国改造を試みた、そして現状維持派と保守的改造派が存在した、ただそれだけでしょう。
前者が皇帝とマジャール人、ポーランド貴族。後者が皇位継承者を中心としたグループ。
レンナーが批判するように宮廷内の政争だが普選以降ポーランド貴族の相対的地位が低下していたら
どうなっていたものかねえ。ライタ以西の帝国改造なしに帝国議会は機能しませんでした、が正解だろうけど。
訂正 サラエボ事件だったな。凄い恥ずかしい間違いだ。 あと帝国崩壊阻止の可能性としては早期単独講和という手もあるが… 実際コンラートをしてドイツを「新たなる敵」と言わせるんだから無理か。
152 :
世界@名無史さん :2006/10/14(土) 18:04:21 0
>>150 >ドイツが白紙委任しなければ戦争はなかっただろうし最後通牒が受諾不可能なものには
ならんかっただろう。
この点なんだけど、結局、オーストリアサイドとしては、
「ドイツがバックについてる以上、ロシアも、
いくらセルビアの同盟国とはいえ、対オーストリア全面戦争には、
踏み切らないだろう」
て、いうこと??
皇帝自身はどう考えてたんだろ。
どのみち、当時のオーストリアでは、皇帝のゴーサイン無くして、
戦争には踏み切れないでしょう。
>>152 苦悩しながらも宣戦布告のサインはしたようだ。ただしそれはフランツ・フェルディナント大公
暗殺犯の身柄引渡しを拒み続けるセルビア政府に対するおそらくは形式的ともいえる報復
的処置によるもので当の皇帝自身もまさか世界的な大戦にまで発展するとは思ってもいなかった
はずだ。
154 :
148 :2006/10/14(土) 21:40:06 O
どうしても字数制限があるので言葉少なく誤解を招いたことはお詫びする 付け加えるとシェフレは1848年バーデン革命に参加した亡命社会改革者 (余談だがバーデン革命がプロイセン軍に鎮圧され大量のバーデン人がシェフレ同様亡命するが、その一人が南北戦争中、北部の合衆国国務長官になったカール・シュルツ) シェフレはアンドラーシと論争になった時、当時2院制だったハンガリー議会の貴族院を廃止すべきではと痛いところついている オーストリアとハンガリーは二重帝国といっても連邦でなく、国家連合 墺首相はもちろん皇帝兼国王、帝国宰相もハンガリーに対し両国共通閣議で提言以上のことができない それ以上は内政干渉になってしまうから そこに二重帝国の弱点があるね 但し、提言でも効くときはあるみたい ハンガリーはティサ首相がトランシルバニアの自治行政を停止し、普通選挙法を拒否するなどマジャール化を展開し 20Cに入ると同君連合を名目化しようとする独立党がハンガリー議会で多数を占め、ハンガリー軍に配属される将校全てをマジャール人にしようとした その時、墺でも導入されようとしていた普通選挙導入を指差したところ独立党は手のひらを返したように体制維持派に変貌した
155 :
世界@名無史さん :2006/10/14(土) 22:14:48 O
二重帝国にとっての悪夢は露が露領ポーランドからガリツィア外周を回り南の腕がルーマニアorブルガリア〜セルビア、モンテネグロを抜けアドリア海に抜けるいわゆる“鉄の環” これは伊にとっても脅威だった 一方露にとっての悪夢は墺がボスニア、ノヴィ・パザール、マケドニアを通りサロニカに抜けること ボスニア占領は露のベッサラビア併合と代償にライヒシュタット及びブタペスト協定で露と合意し、露の鉄の環は当面阻止できたわけだが 墺軍部には バルカン戦争時、アルバニア北部スクタリ占領に固執するモンテネグロ制裁の 対モンテネグロ戦争計画の“M”計画 セルビアがモンテネグロを支援した場合の両国制裁の 対セルビア・モンテネグロ戦争計画の“B”計画 露がガリツィアに侵攻した場合ないしはその危険が迫った場合の 対露戦争計画“R”計画が考えられていた 独は墺が単独で“M”計画はやむなしとしたが、バルカン戦争時にセルビアに侵攻はたしなめていた ロシアにもガリツィア侵攻作戦案は存在していたらしいが とにかく英を引き込み、反露政策を採ろうとしたが、英が消極的なため、結局は対露協調政策をとらざるを得ず、墺露両国とも相互不信ながら協定を何回も結んでいる
>>154-155 眠たいので一言だけ。
まず内政面。
国家連合は言い過ぎ。共通外交・軍事が存在して皇帝・国王がこの大権を決して放棄しなかったのを
忘れてはならない。ハンガリーにおいては事後的な否定的拒否権はもちろん全ての政府提出法案に対する
事前審査権を有した国王はある意味オーストリア以上に専制君主足り得た。
1905年前後の危機における首相指名に関してフランツ・ヨーゼフがどのような役割を果たしたかを再検証してほしい。
もちろん基本的にハンガリーに「領邦としては余りに広範な自治と国王の不干渉」が存在したことは事実。
次に外交面。
ロシアにおけるポーランド支配が磐石でない以上墺露関係がポーランド問題で緊迫化することはない。
もちろんオーストリア軍部にいわゆる“R”及び“B”計画があったことは事実だけれど。
時系列がそのレスでははっきりしないが1908年ボスニア危機までは墺露関係は一応小康状態と考えた方が無難。
二重帝国にとってのロシアは少なくとも1908年までは相互に潜在的脅威であったことは認めるが
基本的には双方ともに軍事的な処置よりも外交的処理が適切と考えていた。
これが他の欧州列強含めたベルリン体制の基軸だからね、バルカン戦争後も一応列強協調は機能していた。
英国との協調で言えばアルメニア問題で地中海協定が失効したのが大きいかな。
これ以前は「四国同盟」と言われる英独墺伊の対仏同盟だったが英独外交により破綻。
それでも英国は二重帝国に対しては露仏同盟ほど敵対関係にはなかったね。
ずいぶん長い一言だなおい
眠たかったんだ、勘弁してくれ。
148氏は内容は細かくてその部分は正確なんだろうけど
どうもオーストリア外交史や二重帝国の両半国関係なんかの事実や価値判断には誤解が多いような。
例えば
>>154 の最終段落なんかはオーストリアとハンガリーの普通選挙騒動の時系列が逆じゃあないか?
もう一度通史的なスケッドやテイラー、ベラーなんかを読み直して確認した方がいいような…
いらぬお節介だったらスマソ
mage
オーストリアの日本語表記変えたらしい
ttp://www.austriantrade.org/japan/our-office-in-tokyo/ja/ Osterreich 日本語表音表記 の変更について
残念ながら、日本ではヨーロッパに位置するオーストリアと南半球のオーストラリアが混同され続けております。
この問題に対し、大使館では過去の文献などを参照し検討を行った結果、Osterreichの日本語表音表記を 「オーストリー」 と変更する旨、ご連絡差し上げます。
大使館よりのご案内をPDFファイルにて添付いたしますので、ご高覧下さい。
暫くの間はオーストリアとの併記が行われますが、徐々に「オーストリー」の名前は日本の皆様の間に浸透し、定着していくことと存じます。
皆様のご理解とご協力をお願い申し上げます。
2006年 10月 東京
これはひどい
そんなバカな
オーストリー・ハンガリー帝国…舌かみそうだな。 まあ一般の書籍や研究書は今後もオーストリアでいくだろうけど。
何と言うか、一種のAusgleich(妥協)なのかな・・・?
165 :
世界@名無史さん :2006/11/17(金) 21:17:16 0
スペインもイスパニアに戻さないと。
てか、アメリカ人がAustraliaとAustriaをよく間違えると聞くな。 どうせならエーステライヒにしちゃえばいいのに。
167 :
世界@名無史さん :2006/11/19(日) 14:56:33 0
オーストリーなんて中途半端に変えるくらいなら、エスターライヒでいいのいにな。
心の底から同意 語尾を「ア」から「ー」に変えるだけ、みたいなことしたって 語幹の部分で混同されてるんだから意味ない気が猛烈にするぞ 人々が「オーストラリー」とか言い始めたらどうしようと 余計な心配までしてしまうではないか
169 :
世界@名無史さん :2006/11/19(日) 20:11:25 0
正確にはエスターライヒだろ。 イタリア・フランスみたいに純粋に言語表記しろ。
ネーデルラント エスパーニャ スオミ マジャルオルサーグ エラス イースランド チェスコ ツルナゴーラ シュチパリア レッツェブルグ エーラ ザ・ユナイテッド・キングダム・オブ・グレートブリテン・アンド・ノーザン・アイアランド
171 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 01:47:58 0
>>168 語尾を変えただけで語感はけっこう変わるもので、
良し悪しは別として、妥協案としてはよく考えられていると思った。
173 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 18:14:05 0
いまでこそ、オーストリアという国名に違和感を感じなくなったが、 子供の頃はオーストラリアとごっちゃになっていた。 小学生の頃、歴史マンガの第一次大戦勃発のあたりを読んだときに、 「オーストラリアの皇太子?」と不審に思った記憶ありw
174 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 18:58:59 0
ハプスブルク家における「皇太子=ルドルフ」と 「皇位継承者=フランツ・フェルディナント」の違いを教えて下さい。 原語からして違うのですか?
175 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 19:12:00 0
ルドルフはフランツ・ヨーゼフ帝の嫡子だから「皇太子」だが、 甥っ子のフランツ・フェルディナントは貴賎結婚をしてたから、 「皇太子」の称号をもらえなかった。 フランツ・フェルディナントの子供は、母親が王族ではないので、 皇位継承権がなく、カール1世が後継ぎになった。
176 :
世界@名無史さん :2006/11/20(月) 19:20:47 0
>>175 皇太子の称号を貰えないけど
フランツ・フェルディナント本人に限り皇位継承権はあったので
「皇位継承者」ということですね。
>>174 >>175 でも述べられてるようにフランツ・フェルディナント大公は
自身の結婚問題について皇帝をはじめハプスブルク王家に真っ向から
対立して王家との関係は険悪になってしまい、皇太子には違いないのだが
皇太子と呼ぶのは憚られるということでちょっとした侮蔑の意味で帝位
継承権を持っているにすぎない大公、つまり帝位継承者と呼ばれるに
留まった。
フランツ・フェルディナント大公とは対照的にカール1世の場合は 配偶者のツィタがハプスブルク家に似つかわしい家柄(ブルボン・ パルマ家)の娘だったので老皇帝の喜びようは相当なものだったという。
179 :
世界@名無史さん :2006/11/21(火) 09:30:20 O
別に侮蔑の意味なんてねーよ 勝手に解釈してんぢゃねーよ ただ単に立太子されてないだけだろ
煽りか?事実だからしょうがないだろ。侮蔑どころか本当は廃嫡されてたって おかしくなかったんだぞ。フランツ・フェルディナントは皇帝から王冠と ゾフィーのどちらかを選べといわれてどちらもいただきますと答え、王家の 感情を大いに害した。要するに王家を侮辱したんだよ。そういうゴタゴタとかも あって人々は皇太子と呼ぶのを避けたんだよ。それと皇位継承者ってのは 単にそう呼ばれていただけであってフランツ・フェルディナントはれっきとした皇太子だ。 お前こそ勝手な解釈するな。
無知で申し訳ないが「皇太子」なる称号はハプスブルク帝国にあったの?
神聖ローマ帝国時代は乱暴に言えば皇太子格が皇帝生前に選出された「ローマ王」で
皇太子とか立太子とかいう概念、ないし公的な儀式は中欧にあったのかなあ。
普通に帝位継承順位第一位である大公が「帝位継承者」だっただけなのでは?
あと
>>180 氏。廃嫡も何も不幸にもフランツ・フェルディナント大公以外に適当な継承者は
いなかったのも事実。老皇帝晩年の彼の政治的影響力考えれば「どちらもいただく」ことが
できたのを熟知した上での宮廷における政治的な駆け引きだったようにも思えるんだが。
イギリスの「ウェールズ公」みたいな、次期皇帝はこの称号!っていう称号があって、フランツ・フェルディナントはそれになれなかったと理解してたけど違うのかな? 少なくともローマ王位はないよね。
Kronprinzって皇太子のことですよね。
>>183 ですね。少なくともルドルフ皇太子には文字どおり皇太子(Kronprinz)
の肩書きが添えられてるようですが・・・・フランツ・フェルディナント大公
の場合はとにかく事情が複雑でなんとも曖昧な感じですね。
185 :
世界@名無史さん :2006/11/27(月) 22:32:18 0
>>180 >それと皇位継承者ってのは
>単にそう呼ばれていただけであってフランツ・フェルディナントはれっきとした皇太子だ。
>お前こそ勝手な解釈するな。
だからフランツ・フェルディナントはkronprinzの称号を持ってねーんだよ
馬鹿か お前
それと侮蔑って言葉好きみたいだが、
辞書で引いたことあるのか?
お前 無知ひけらかすのもいいけど
日本語勉強してから来いよw
>>185 ソースかなんか示してから言えカス。それと少しはさげろやボケ
>>186 ハプスブルク帝国1809〜1918年:オーストリア帝国とオーストリア=ハンガリーの歴史 / A.J.P.テイラー著 ; 倉田稔訳
又はハプスブルク帝国史 : 中世から1918年まで / ゲオルク・シュタットミュラー [著] ; 丹後杏一訳
あとオーストリア皇太子の日本日記なんか見ても皇太子の表記はない。
オンラインでのソースがほしいならドイツ語版ウィキなりに行ってみろ。ないから。
まー これ以降レスはないだろうな 大言壮語野郎は否定されると切れるか逃げるかだから。
あ 言っとくけど オーストリア「皇太子」の日本日記ってのは邦訳だからなw そこソースに皇太子だった皇太子だった言われても困るよw
189 :
世界@名無史さん :2006/11/28(火) 17:27:24 0
>>187 ああ、機会見つけて読んでみるよ。それと大言壮語ってのは大げさだな。
自分はただ、感情的なすれ違いもあって「皇太子」の呼称を避けたという事実を
言ってるんだが。お前が勝手に否定してるからどうしようもないだろw
だが、確かにwikiによるとお前のいう通りフランツ・フェルディナントはKronprinzの
称号は持ってなかったようだな。認めるよ。だが慣例上でも彼が「皇太子」と
呼ばれなかったのは前述したとおり感情面の問題も大きい。彼は王家のみならず
市民にさえ嫌われていたほどだしな。
しかし言うとおりにソースを示してsageてるお前も結構素直なやつだな。
ただの煽り厨かと思ったがちょっと見直したよ。というわけでこの話はひとまずここで終わりだw
そろそろこの辺で離脱させてもらうw
191 :
世界@名無史さん :2006/12/02(土) 09:25:23 0
長文ウザス
192 :
世界@名無史さん :2006/12/02(土) 09:42:16 0
>>191 このスレは通りすがりだが、長文レスは世界史板の華。
まともに読めないヴォケは1行レスがデフォの他板で遊んでろやW
193 :
世界@名無史さん :2006/12/02(土) 10:34:45 0
あまり長すぎる長文は、ただの字の塊。
価値のある長文レスなら大歓迎なんだけどなあ。
長文だろうが長文じゃなかろうが価値のあるレスならそれでいいよ
確かシュテファン・ツヴァイクが回想録かなんかでフランツ・フェルディナント大公は ウィーン市民に人気が無かったとか書いていたような気がする。 オペラハウスへ行啓した時の市民の反応とか書いてたような記憶がある。 その彼が暗殺されるや一国の大事として「セルビア憎し」になったのは 彼の持つ地位がそうさせた?或いは悲運に同情が集まったのか それとも政府のバルカン半島政策の為の単なる煽動?
>>196 身分の低い皇太子妃の扱いがあまりにも惨かったから
同情が集まったんじゃないか。
(妻ではなく女官として扱われ、お墓も皇太子とは別々)
フランツ・フェルディナント大公もウィーンのカプツィーナ霊廟じゃなくて 生前に用意していた下オーストリアのアルトシュッテッテンの墓所に ゾフィーとともに埋葬されたんじゃないの? 王侯の暗殺なんてのはこの時代には珍しくないからなぜか激昂したウィーン世論と開戦は別問題。 まあ戦争なんてのは爆弾抱えたロシアでもそうだったように初めは民衆は燃えるもんだ。 実際両半国で立憲制を採りながら世論や民意が一切外交・軍事に介入できない制度が 二重王国の特徴であり欠陥でありまたある意味でいい機能をしたのかなあ。 帝国はハンガリー特権階級とウィーンの宮廷貴族の連合政権みたいなもんだからねえ。 ハンガリーの反対がない以上宮廷の意思が帝国の意思になる。 この場合はセルビアを叩きたかった宮廷官僚にはいい「いいがかり」が作れたことで積極的。 でも彼ら宮廷貴族が民衆を扇動できたのかは疑問で民衆がどうであろうと戦争したでしょうね。
199 :
世界@名無史さん :2006/12/18(月) 09:47:24 0
オーストリアとドイツ帝国の第一次世界大戦前の地図は興奮する ドイツの怪しく伸びる東プロイセンとシュレジェン オーストリアの腹のようなバルカン領土 欧州自体が一番輝いてた時だもんね
200 :
世界@名無史さん :2006/12/29(金) 15:15:18 0
講談社学術文庫『オーストリア皇太子の日本日記』を読んだんだが
オーストリアも日本と不平等条約結んでたんだな、知らなかった。
ちなみに蒸し返すつもりはないが大阪毎日新聞のサラエヴォ事件急報では
「墺国皇嗣フェルジナンド大公」と記されているな。
皇帝誕生日(8/18)に横浜かあ。で、この日に鹿鳴館で晩餐会って洒落てるねえ、日本も。
日記には皇帝への美辞麗句を並べているが後年は皇帝誕生日の度に複雑な心境だったろう。
しかしフランツ・ヨーゼフは長生きしたなあ。
>>199 あの腹のうち自分のものにできたのがボ・へ二州だけってのも複雑だけど。
確かに大戦前夜は欧州が一番輝いていた時期かも知れんなあ。
>あの腹のうち自分のものにできたのがボ・へ二州だけ むしろあれ以上拡大してスラヴ人を抱え込む気はオーストリアにはあまりなかった。 そもそもドイツ人が多数派になれてないのにこれ以上スラヴ人抱え込むのは、帝政を不安定にするだけ。 まあフェルディナント大公みたいな対バルカン強硬派もいなかったわけじゃないけど。
フェルディナント大公は対バルカン強硬派かなあ。 どっちかというと対ハンガリー強硬派(反二重制)だと思うけど。
203 :
世界@名無史さん :2007/01/04(木) 04:07:19 0
マリアテレジアとフリードリヒ大王って結婚話があったな。 実現してたらどうなったんだろう。
ハプスブルクの旧領はバイエルンやザクセンと山分け という条件でもなければ実現しなさそうな。
あの話カトリックとプロテスタントの壁を考えるとまあ無理な話しだし それ以上にスペイン継承戦後の国際情勢で英仏から「マリア・テレジアは欧州の 『大国』の君主との婚姻は認めない」と約束しているからまあ微妙かと。 ifが許されるならマリア・テレジアの教権主義とフリードリヒ大王の現実主義の不和で 子孫ができずハプスブルク家断絶、結局オーストリア継承戦争…なんてオチもあるかもしれない。 フリードリヒが主導権握ればヨーゼフ二世のような中央集権主義に走って破滅したかもしれないが マリア・テレジアの啓蒙主義改革が反プロイセンを動機としている以上何とも言えないかなあ。 大ハプスブルクの継承者と軍事国家プロイセンの夫婦どちらが主導権握るかで まったく違った未来になっただろう。そのときロシアやフランス、そして英国はどうするかねえ。 継承戦争も七年戦争もないし欧州の地図や歴史が全く違った方向に進んだことは確実だろう。 もっと後世の話になるとカウニッツの抜擢がなけりゃメッテルニヒもでてこないからなあ。 下手すりゃ仏革命やナポレオン戦争や「国民国家」思想も…さすがに歴史の発展を否定しすぎかな。
206 :
205 :2007/01/08(月) 02:49:21 0
ふと考えてみればこれってより優位な状況での1914年だよな。 どのみち神聖ローマ帝国解体を経なけりゃならんが普墺「大ドイツ」が 十八世紀半ばに成立し、まだ緩衝国家ポーランドが存在して大国ロシアも成長中。 トルコとオーストリアの国境は「海よりも安全」と言われてきたから英仏蘭西連合でも この「二国連合」を倒すのは不可能かも知れん。特に英仏財政は逼迫しているし。 問題は夫婦不仲による断絶かあ… まあフリードリヒもマリア・テレジアも「ドイツ史上最高のライヴァル」だからこそ 好かれるんだろうけどねえ。
207 :
世界@名無史さん :2007/02/08(木) 22:01:37 0
保守
保守
209 :
世界@名無史さん :2007/02/25(日) 18:39:58 O
ハプスブルク家はカトリック以外の宗教・宗派とは婚姻しないはずだが
結局フリードリヒ大王が改宗を拒否して婚姻は成らず、だったかな。 宗教問題でハプスブルクが折れるわけにはいかんからなあ、ヨーゼフ2世ならともかく。 まあカトリック皇族・王家以外との婚姻が認められず大公妃の確保には苦労したがなあ。 しかし宗教問題でいえばフランツ・ヨーゼフの政教条約はなんだったんだろうねえ。 ハプスブルクの教権主義といえばそれまでだが結局ドイツ人自由派に妥協して破棄しているし。 まああの時期の皇帝の現実との妥協姿勢が帝国安定に寄与したことは否定できないな。 事実皇帝が自由派と断固戦えばオーストリア版「文化闘争」の危機だったわけだし。
211 :
世界@名無史さん :2007/03/12(月) 00:57:53 0
三月革命前夜age
212 :
世界@名無史さん :2007/03/12(月) 17:04:57 0
なんかセルビアの凋落を見ていると ハプスブルクが戦争以外の解決策はないと恐れた南スラヴ問題って 何だったんだろうなあ、と思ってしまう。 百年前の今頃は豚戦争の真っ最中。 同盟国ドイツが豚の市場をセルビアに提供していた頃だ。
ヨーゼフ二世は何で三婚しなかったんだと思いますか?
まあ帝位継承者をはっきりしておきたかったのと(継承戦争の記憶はまだあるだろうから) はじめの皇妃に上回る女性がいないと思ったのか。 後者だとしたらまさに現実よりも理想を追ったヨーゼフ二世らしいが。 啓蒙専制君主の典型といわれるだけあって王家の第一の仕事(子作り)に興味がなかったのか? 甥は多いから政治に集中したかったのかも知れんが。 別にカトリックは三婚を禁じてなかったよなあ(フェリペ二世が四人結婚しているし)。 あまり詳しくないがイヴァン雷帝の正教は多婚にうるさかったように記憶しているが。
>>214 レスdです
ヨーゼフ二世がいまいちどういう人だったのか判らなくて気になってるので…
継承をはっきりさせるという線だとすると、弟を疑いつつも甥は信頼してたんでしょうか?
たらればだけども、兄弟姉妹の殆どが同系との婚姻の中で
ドイツ方面の人と結婚してたらハプスブルクにも違う歴史があったのかなとか
最初の妃の妹が婚約破棄して皇妃になってたらスペインの歴史も変わったのかなとか
その最初の妃もスペイン王妃になってたら長生き出来たのかなとか色々考えてしまいます
いや、兄弟仲は悪かったわけではなく、ただ三婚してまで子孫を残す気がなかったのでは? あるいは候補者を探している間に1768年以降レオポルドに子どもが次々と生まれたから それも大きいのかなあ。どうもイザベラと比べて他の女性に対する評価は低かったみたいだし。 まあマリア・ヨーゼファが1767年に亡くなったときには、まだ愛すべき前妻イザベラとの 間のマリア・テレジア大公女(1770年没)が生きていたもののヨーゼフも若かった(26歳)から 三婚がなかったことはまあ合理的に説明するのは難しいなあ。 マリア・テレジアの結婚政策は確かにブルボン家一辺倒な感は否定できない。 ドイツ方面との婚姻はバイエルンくらいしか適当な家もないわけで難しかったのかねえ。 ハプスブルク一族内での婚姻も当時は不可能なわけだし宗教の壁もあるからなあ。 ただ、もう近代に片足を踏み入れた時期だから残念だけど歴史はそうは変わらないと思うよ。
ハプスブルク家って近親婚とかで精薄が多かったって本当ですか
精神薄弱のことか、辞書見るまで何か分からんかった。 これと近親婚の関係は母体数が少ないから何ともいえないけれど スペイン国王のカルロス2世、オーストリア皇帝フェルディナント1世は 統治能力を欠くと言われることが多いなあ、生殖能力も欠いたようだし。 ただハプスブルクの近親婚じたいは非常に多いのでこの二者の例をもって ヴィクトリア女王の血友病のような明確な遺伝的な因果関係を求めることは 危険ではないか、と思われる(フェルディナント1世の同母姉弟はフランス皇后、 ブラジル皇后、摂政会議終身議員の3人があり彼らには何らの問題も認められない)。 またフェルディナントも退位での発言を見る限り白痴である、とまでは言えない。 敬虔な皇帝で、少なくとも儀式はこなせるレベルだったようだ。
フェルディナント1世は統治の面に関しては特に芳しい点はなかったようだが 温厚な性格で善良な人柄だったようだ。 甥のフランツ・ヨーゼフ1世も伯父のそういったところに好感を持っていたようで シシィとの結婚後に早速妻を伴って伯父夫妻に会いに行って敬意を表している。 ちなみに彼は虚弱体質ともよくいわれるが実は結構長生きだったりする。(1793〜1875) まあ彼の話題については父親や甥に話題が集中するせいか取り上げられることが 極端に少ないのが残念といえば残念なところではあるが。
220 :
世界@名無史さん :2007/04/11(水) 08:25:39 0
>>217 文字通り「精子が薄い」かと思った・・・
221 :
世界@名無史さん :2007/04/11(水) 08:38:15 0
>>215 むしろ、兄弟仲がいいから、無理に結婚せず
相手側に託したんじゃないか?
この兄弟は思想が違うだけで、仲が悪いとは思えん。
222 :
世界@名無史さん :2007/04/13(金) 09:48:13 0
huuum・・・・
>>219 フェルディナント1世は良くも悪くも三月前期の保守的かつ小市民的王権の
象徴のようなもんだからなあ。次のフランツ・ヨーゼフのように血塗られた帝冠という
汚点もないし三月革命でもメッテルニヒ退陣は叫ばれてもフランスと異なり
帝政そのものは打倒の対象にはならなかった。
「統治能力のない」フェルディナントの治世にメッテルニヒの権勢が徐々に
失われていったのは興味深いね。逆に世界史では最後の神聖ローマ皇帝くらいにしか
語られないフランツ1世の権力の大きさがよく示されている。
結局メッテルニヒは欧州は統治できても帝国は統治できなかったんだなあ。
どこかヴィルヘルム1世=ビスマルク体制に似ている要素があるねえ。
224 :
世界@名無史さん :2007/04/14(土) 00:07:31 0
225 :
世界@名無史さん :2007/04/14(土) 21:51:08 0
なぜ墺洪帝国の総合スレが無いの?
実質的な総合スレと思っていいよ
( ^ω^) ぅうむっ。
過疎ってるけどねw
オーストリア・ハンガリーて余り語ることないんだよなあ。 帝国崩壊の諸要因って汎ゲルマン主義、南スラヴ問題、ハウスマハト論などが あげられるけど時代遅れのものや見当違いのものが多くて。
230 :
世界@名無史さん :2007/04/16(月) 09:30:15 0
帝国としては110年あまりだけど 中東欧が平和な形で纏まっていたのは意義があるね ドイツ・ロシアに挟まれていた地域の小国も 墺洪帝国の一部になることで一方的に侵攻される心配が無くなった
>>230 まあ国内の独立運動ないし民族運動の過剰評価には自分は懐疑的だが
イタリア、セルビアやルーマニアの国外からの煽動の脅威があったことは否定できない。
帝国内でもドイツ民族主義がオーストリア部分の議会制度を形骸化させたのは事実。
まあ中東欧にある意味において政治的、社会的、経済的な恩恵を与えたのは事実だが。
問題点はその「纏まっていた平和」を崩したのが他ならぬハプスブルクだったことじゃない?
233 :
世界@名無史さん :2007/04/17(火) 09:39:16 0
上層部が暢気だった まだ皇帝のほうが考えてた
>>233 皇帝ってフランツ・ヨーゼフ?
あの皇帝は暢気じゃあないだろうけど官僚のお手本のような人。
考えていることはこれ以上帝国の内政外交を変化させないこと、だろう。
235 :
世界@名無史さん :2007/04/18(水) 09:54:56 0
貴族的外交官て戦争起こさないためにいるのにね
236 :
世界@名無史さん :2007/04/18(水) 17:58:59 O
ここは「オーストリア」の歴代皇帝を語るスレです。 オーストリアの歴代皇帝はフランツ一世、フェルディナント一世、フランツ・ヨーゼフ一世(オーストリア・ハンガリー成立前まで)の三人です。 神聖ローマ帝国歴代皇帝、歴代ローマ王、およびスペイン王、諸領主、帝政後の現代のハプスブルク家関係者についてはスレ違いです。 あくまで「オーストリアの歴代皇帝」である、フランツ一世、フェルディナント一世、フランツ・ヨーゼフ一世の三人のみを語ってください。
>>236 それだとネタがかなり限定されるので拡大解釈してハプスブルク家や
帝国及びその時代に関する話題も含めて語ってもよろしいのでは
>>236 せめて「長い19世紀」(仏大革命からww1まで)のハプスブルク帝国は
許容範囲だろう。つまりフランツ1世からカール1世の統治時代の帝国について。
てか二重制以降は「オーストリアの皇帝」は存在しないのか?
だいたいアウスグライヒをもって時代区分するのはどうかねえ。
皇帝フランツ・ヨーゼフ伝を書いたS・ベラーはイタリア統一から大不況までを
「自由主義の時代」と区分して、帝国改造はその一環としているが。
カール1世だってオーストリア皇帝だ。 フランツ1世以前の皇帝も、オーストリアの(神聖ローマ)皇帝だから問題なし。
240 :
世界@名無史さん :2007/04/19(木) 09:40:18 0
二重帝国時代も含めるのが正常
>>236 は、二重帝国成立後の皇帝は
オーストリア=ハンガリー皇帝
だといいたいのだろうか。
242 :
238 :2007/04/19(木) 23:51:11 0
>>239 フランツ1世以前はまあ本スレハプスブルク家の人々が
あるからいいんじゃない?さすがにフェリペ2世やフェルディナント1世の話題は勘弁。
もちろんヨーゼフ主義の影響などはハプスブルク帝国に強く残ったから
それに関連して話題にする過去のは個人的にはOKだと思う、対トルコ戦の影響とかね。
二重制以降も帝政崩壊まで含むのが妥当。アウスグライヒは帝国改造であり転換期ではない。
皇帝列伝だけなら江村さんの本読めば充分。
というわけで1804-1918の「オーストリア皇帝」に関連した話を続けよう。
まあアウスグライヒ以前でもウィーン会議、皇帝とメッテルニヒの関係、メッテルニヒとコロヴラート
の確執、潜在的なロシア・ドナウとの対立、三月革命、バッハの軽騎兵、ソルフェリノの敗戦、
帝国改造の模索と話題がないわけじゃあないけど。
243 :
世界@名無史さん :2007/04/21(土) 00:05:45 0
オーストリアの皇帝をemperor in Austriaと解釈すれば問題なし
おっと、emperorsだな
246 :
世界@名無史さん :2007/04/21(土) 22:47:25 0
まぁ、ハンガリーも内政的に支配側へ回る権利を得たという だけだよね、違いは。時代的に、国民感情は変わったかもしれんけど
247 :
世界@名無史さん :2007/04/22(日) 02:16:40 O
みなさん重大事項を見逃しています。 このスレのタイトルは「オーストリアの歴代皇帝を〜」です。 オーストリア皇帝ではなく、オーストリアの皇帝です。 すなわち オーストリア皇帝という地位の保持者ではなく、オーストリアという国の皇帝、ということです。 オーストリア・ハンガリー成立後も含まれると言う意見もありますが、オーストリア皇帝の地位はもっていても、国自体はオーストリア帝国ではなく、オーストリア・ハンガリー帝国なので、 カール一世については完全にスレ違いです。 また神聖ローマ〜についてですが、オーストリアが皇帝の直轄領であっても、皇帝の位は神聖ローマ帝国という国のものです。 神聖ローマ時代のオーストリアはオーストリア帝国ではなくオーストリア大公領です。 神聖ローマ帝国スレもハプスブルクスレもあるんですから、そんなに語りたいならそっち行ってください。
屁理屈をほざくな
こんな馬鹿げた話に付き合うのも何だが
>激動のヨーロッパにおいておよそ八百五十年の歴史を刻み、後世に様々な遺産を遺した一大帝国である神聖ローマ帝国の
>衣鉢を継ぎ、ナポレオンの時代からヨーロッパにその歴史を築いて旧体制の象徴として一目置かれながらも、僅か百十数年で
>その歴史に幕を降ろしたハプスブルク家の帝国・オーストリアの歴代の皇帝について語ろう!
という
>>1 のスレの主旨を考えれば1804-1918年のハプスブルク家の帝国および
歴代皇帝について語ると解釈するのが常識的。
その関連でヨーゼフ主義や帝国外交、アウスグライヒ体制、サラエヴォ事件などを
語ってはならん、というスレを読んでいない方がいらっしゃるなら全部とはいわないが
>>1 程度は読んでいただきたい。それでもなお「オーストリア帝国」1804-67年の皇帝3人の
話題のみ限定と主張されるなら、まずその話題を振って頂きたいもんだ。
少なくともこのスレでは三月革命、あるいは二重制以降の話題が多く
しかもこれまで誰もスレ違いとは言わなかったぜ。
まあヨーゼフ二世三婚問題あたりはスレ違いだろうけど。
何か煽るわけでないが君の意見は『ロシア史』という本でソ連の話はNGと言っているようなもんだ。
そういえば重大事項を見逃していた。 「オーストリア帝国」が成立した後も「オーストリア大公国(領)」がなくなったわけではない。 オーストリアが「帝国」だったことは、厳密には歴史上一度もなかったのでは・・・?
>>250 まあドイツ連邦も神聖同盟も「オーストリア皇帝」の資格で参加していたし
フランツ1世時代はまだまだハプスブルク家の私有財産程度の認識だったかも
知れないが「ライヒスターク」「ライヒスラート」の概念から「帝国」あるいは
統一されたハプスブルク家の「帝国」という認識はあったと理解するのが妥当では?
メッテルニヒ時代でも行政機関は「ライヒ」「シュタート」を名乗っていたし
その帝国を統一された「国家」とは認識していたんだろうね。
252 :
世界@名無史さん :2007/04/22(日) 21:33:52 0
>>250 ええっと、正式な称号として「オーストリア皇帝」は存在したけど
正式な国号として「オーストリア帝国」は存在しなかった、と?
254 :
世界@名無史さん :2007/04/23(月) 09:38:31 0
、φ('A`)ウボアー
255 :
世界@名無史さん :2007/04/23(月) 11:17:57 O
屁理屈こくやつ嫌い 嘘つくやつもっと嫌い
ヨーゼフU世の事でレスしたいんだけどこの流れ… うーん。
>>256 著しくスレ違いってわけでもないし別に構わないと思うよ。
それにどうせ過疎ってるし
>オーストリアが皇帝の直轄領であっても こんなこと言ってる時点でオーストリア史知らないのは確実故無視してOK
259 :
世界@名無史さん :2007/04/24(火) 09:39:23 0
ぅうむっ
260 :
世界@名無史さん :2007/04/25(水) 06:07:22 O
もしフランツ・ヨーゼフが事故などで急死し、嫡男のルドルフが皇位継承したら フランスのクレマンソーに親近感を持ち、仏露との同盟を企図し、更に極端な反 独反ビスマルク主義者のルドルフにより第1次世界大戦は回避できただろうか それとも政情混乱を招いただけだろうか
261 :
世界@名無史さん :2007/04/25(水) 09:46:07 0
ろてつもなく複雑になりそう
262 :
世界@名無史さん :2007/04/25(水) 17:05:02 O
>>258 直轄 直接に管轄すること
何が間違ってるんですか?
日本勉強してからこいよ
263 :
世界@名無史さん :2007/04/25(水) 22:19:36 0
( ^ω^) おっおっおっ
>>262 悪いが
>>258 の方が正しい。
今日の「オーストリア」の領域とオーストリア帝国成立以前の
あるいはアウスグライヒ以降のオーストリアの定義を再確認して欲しい。
あと神聖ローマ帝国の帝権とハプスブルク家領の支配権の共通性と差異についても。
てゆうかルドルフ1世からのハプスブルクの歴代皇帝について語っているわけじゃない、
スレ読み直して欲しい。
>>256 ヨーゼフ主義はメッテルニヒから帝国崩壊まで影響を及ぼしているしOKじゃない?
彼が基礎を築いた官僚制度は帝国崩壊まで色々と議論があるだろう。
265 :
世界@名無史さん :2007/04/26(木) 00:13:57 O
>>264 とりあえずスレの読んでから言ってくれないか
266 :
世界@名無史さん :2007/04/26(木) 09:23:06 0
スレの読んでから?
267 :
世界@名無史さん :2007/04/26(木) 14:30:43 0
スレを読んだうえでいおう。 オーストリアではなくオーストリーと言え。
268 :
258 :2007/04/26(木) 14:47:27 0
そこかよ
>>262 オーストリアは皇帝の直轄地じゃない。ハプスブルクの世襲地。
だからもしハプスブルクが皇帝でなくなっても、ハプスブルクの当主はオーストリアを領有する権利を持っていた。
マリア・テレジアが好例だな。あの時別にバイエルンのおっさんがオーストリアを支配したわけじゃないだろう?
オーストリアという、「偶然」歴代皇帝が世襲してきた土地と、選定されてきた皇帝の位とはまったく別もんだ。
だから「オーストリアの歴代皇帝」というと神聖ローマ消滅後としか考えられなくなる。
というのはドイツ史でもう腐るほど常識だからこのスレ経ってからずっと突っ込まれているわけだが。
ハプスブルクスレも別にあるしなあ。
バイエルン家の皇帝がオーストリアも支配する という展開もありえた。
270 :
258 :2007/04/27(金) 09:22:07 0
展開によってはな。 それも皇帝になったからオーストリアではなく、マリア・テレジアよりも相続の優先権があると主張しての「相続」。 この問題においてもオーストリアは世襲地と理解されている。
271 :
世界@名無史さん :2007/04/27(金) 09:34:28 0
272 :
世界@名無史さん :2007/04/27(金) 12:42:34 O
スレ立てた人
>>1 はオーストリアの皇帝即位から百十数年と言ってるから
第1次世界大戦までが範囲でいいんでねぇの
くだらん定義の問題だけでいい加減つまらないよ
273 :
世界@名無史さん :2007/04/28(土) 00:53:39 0
( ^ω^) ぅうむっ。
274 :
世界@名無史さん :2007/04/28(土) 13:50:51 O
カール1世は列福されたんだっけ? よくわからんけど。
>>272 問題はどこからかなわけだが……?
場合によっては重複だっつうの
>>278 カール1世は第一次大戦を終わらせようと彼なりに色々と手を尽くした
らしい。そういうところが評価されたんじゃなかろうか。
よくわからないけど。
カールの列福の件だけど手元にある史料には理由なしに 「列福された」としか述べられていないな。 列福には奇跡を1つ以上為したことが必要なんでその条件は満たしたのだろう。 もっとも殉教の場合は奇跡は要さないがカールの場合「殉教」とは言えまい。 何かフリーメイソンとか怪しさ満載のサイトだが「奇跡」と「英雄的諸徳」は以下の通り tp://www.oct-net.ne.jp/~kusubook/misc/aus01.html >ヨハネ・パウロ2世はカールの仲介に帰せられる治癒を奇跡と認定する文書に署名した。 >それは両足の炎症と激しい苦痛に苦しんでいたポーランドの修道女、 >マリア・ツィータ・グラドウスカの治癒である。 個人的には敬虔なカトリック教徒であったハプスブルク家の最後の皇帝であったことに 加えて、ヨハネ・パウロ2世がクラクフ近郊出身という事情も関係あると思う。 ヨハネ・パウロの父カロルはハプスブルクの退役軍人らしい。
281 :
世界@名無史さん :2007/04/30(月) 00:22:09 0
あげ
282 :
世界@名無史さん :2007/05/01(火) 09:37:05 0
1806〜1918
うむそれが正解。(正確には1804年建国になるのかな?)
284 :
世界@名無史さん :2007/05/02(水) 09:26:47 0
中央ローマ帝国
>>221 ヨーゼフは弟のこと嫌ってなかったかもしれないけど、
レオポルトは兄のこと嫌ってたみたいな感じだけどなぁ。
複数の本で、手紙や日記にそういう記述があるって読んだけど。
自分で書簡集読んだわけじゃなくてカッコわるいけどさw
286 :
世界@名無史さん :2007/05/03(木) 00:40:03 0
( ^ω^) ぅうむっ。
>>285 レオポルト2世は兄と違って芸術には興味がなかったみたいね
( ;∀;)
289 :
世界@名無史さん :2007/05/04(金) 09:38:49 O
レオポルト2世はフェルジナント1世、マリア・テレジアと同様、子作りには無 類の能力を見せた なぜかこの3人の子供は16人 しかも1人の妻(夫)に まあレオポルトの場合は別に愛人に1人産ませているが
290 :
世界@名無史さん :2007/05/04(金) 23:23:18 0
@@@@
291 :
世界@名無史さん :2007/05/05(土) 15:22:54 0
中欧帝国
オーストリア・ハンガリー帝国の再興ってありえんのかね。 せめてハンガリー王国だけでも復活してほしいが。
293 :
世界@名無史さん :2007/05/05(土) 20:48:54 0
どうせ復活するなら二重帝国で
あげ
295 :
世界@名無史さん :2007/05/06(日) 00:53:27 0
>>292 欧州自体が独仏の強国を中心にしたクラブだからね。
その中で強国ができるのは望まれんだろ。儀礼的な帝国なら
更に不要
>>295 じゃあスペインは例外ってことになるのかな
297 :
世界@名無史さん :2007/05/06(日) 01:31:06 0
>>295 歴史在る旧植民地帝国はそれだけの事でしょ。
旧植民地諸国に囲まれる同窓会の老いた元恩師
>>296 スペインの王政復古はフランコ体制下において決定されていた事項。
まさかフランコ直系の保守官僚層や軍部、いやスペイン以外の諸国も
フアン・カルロスの急速な民主化など想像だにしなかっただろう。
まあスペインじゃ1931年まで現国王の祖父が国王をやっており、国土も
本国に関しては17世紀のスペイン継承戦争以降変化がない。
そして西欧では産業革命や近代化の最も遅れた国家の一つ。
欧州統合の過程においても独仏が危険視するほどの国家ではなかったな。
>>292 自分はハプスブルク史や三月前夜から二重制、解体に至る帝国史が好きだが
今更、帝国復活や「大ハンガリー」復活が国際社会のためになるかね?
ロシアに対しては旧東側諸国が旧欧州との緩衝の役割を担っているし
欧州統合の流れから考えればそこに独仏に匹敵する国力がある多民族連邦が
存在すれば、逆に独仏の影響力云々はともかくも東欧の勢力均衡考えるとどうかな?
現実的かどうかをあえて無視しても再興はあり得ない。
オーストリア・ハンガリーが王朝によって人為的に形成された国家であることを
知っていれば再興はどう考えても不可能。
大ハンガリー?ようやく沈静化しつつある西部バルカン諸国(旧ユーゴ)で
もう一回内戦を引き起こしたいのかね?
君主制そのものは否定しないがハプスブルク君主制による多民族のドナウ国家の
国際関係を抜きにした歴史的役割は1867年、そして1918年に終わったんだよ。
独仏に対抗し得る欧州国家が必要であるとしても、それはおそらくかつて「欧州五列強」と
されたオーストリア・ハンガリーの役割ではないだろうね。
>>298 まあスペインは本当に例外中の例外だろうからなあ。第二共和制が内戦で
崩壊してなければ今でもおそらく王政復古はなかっただろう。
フランコ独裁体制の確立と総統フランコの王政復古への意思によって復古の道が開かれ
そして現国王の徹底した民主化推進が今日のスペイン王政を安泰にしている。
おっとこれ以上はスレ違いだな。つまり現実的にはどう考えてもハプスブルク帝国の
再興はありえないし望むべきものでもない。幻想は幻想のまま、あくまで古き良き
時代の郷愁であると割り切って語るべきだということでよろしいかな?
本題から外れるかもしれませんか訊きたいことがあります。 クリミア戦争の裏でオーストリアがドイツ統一戦争を挑んだら勝ち目はあったでしょうか?
>>300 ドイツ諸侯の動向、イタリア問題を抜きにしても
クリミア戦争中のオーストリア軍の動員能力(ドナウ二公国占領後、
戦争継続中にもかかわらず財政難のために動員解除)を考えれば
100%とは言わないが能力として不可能。
ていうかクリミア戦争の裏、というがオーストリアは当事者の一国だよ。
そして敵意ある中立政策により「ロシアを裏切る」という外交政策の大転換の一場面。
302 :
世界@名無史さん :2007/05/06(日) 19:04:19 O
>>300 当時のアウグスライヒ以前のドナウ帝国はまず積極的対外戦争に打って出るのは
不可能に近いと思いますね
ヴィンディシュグレーツ
ラデツキー
イェラチッチ
ハイナウ
という48〜49年の内戦を勝利に導いた将帥は健在なれど
まだその内戦や46年のクラクフ蜂起失敗から数年しか経っておらず
帝国士官の第2、3、4のグループのマジャール人やチェコ人、イタリア人の恨みは
まだ冷めていないし、クラクフ蜂起の失敗させたルテニア人(ウクライナ人)を
恐れて、かつて彼等を酷使していたポーランド人は怯えていた
帝国に忠誠なのはドイツ人の保守主義者と反マジャールのクロアチア人と反ポー
ランドのルテニア人のみであること
次にドイツへの侵攻はプロイセンは勿論、バイエルンをはじめドイツ諸邦の抵抗
は熾烈を極めるだろし、30年戦争の再来になるかも知れない
英仏露との関係も悪くなることはあれ、良くなることはないだろう
最後には財政的に軍全体の近代化に遅れていることを挙げることができる
304 :
世界@名無史さん :2007/05/07(月) 01:00:02 O
アウグスライヒ→アウスグライヒだった スマソ
305 :
世界@名無史さん :2007/05/07(月) 01:26:39 0
オーストリアの西側をザクセンとバイエルンに押さえられてるのが痛いなあ。 もしドイツ中部の小国と直接国境接してれば、いくつか平和的に併合できたかもしれない。
306 :
世界@名無史さん :2007/05/07(月) 06:42:04 O
ドイツの中小諸邦がオーストリアに平和的に合邦することは絶対にありえない 新教国家群はもちろん バーデン公国のように民主主義的傾向の強い国がメッテルニヒの保守主義をほと んど継承した墺宰相バッハのもとに屈すると思えないし それにプロイセンを中心に統一されたドイツ関税同盟のもとで既に経済的利便性 や鉄道網拡張による利益を中小諸邦は享受している それが今更、発展途上の農業国で鉄道敷設も私企業や外国資本によるオーストリ アの配下になる必然性が丸っきりない もし、オーストリアが侵攻したらプロイセンには勿論、英仏に救援を求めること は必至だし、第一、現状維持を歌ったウィーン会議の裁定をオーストリア自ら破 綻させることにより国際的信用も失墜するだろう
307 :
世界@名無史さん :2007/05/08(火) 09:50:20 0
正統主義の旗手だもんね
平凡な結論だが、帝国が生き残るには三十年戦争でドイツの徹底的な再カトリック化を 達成するしかないということだな。
自分はそこまで遡らなくてもハプスブルク帝国存続は可能だと思うぞ。 宗教改革と三十年戦争はどのみち対仏関係から不可避だったわけだし。 スレの主旨に沿って1815年以降に限って言えば、帝国の崩壊は ボスニア危機(ボスニア併合とブルガリア独立)においてトルコ保全政策を放棄したこと この一点に尽きるんじゃないかな。 これでバルカン諸国はもちろんバルカンで利害の対立するロシア、バルカンでの伝統的友好国英国、 バルカンに野心がある同盟国イタリアを敵にまわしたばかりかドイツにも不信感を与えている。 まあ決定打はバルカン戦争かな、ブカレスト講和から欧州の列強支配が極度に弱まってしまい 結果的に軍事力に拠らない列強であるオーストリアの地位低下を招いた、と。
310 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 09:37:45 0
トルコ保全政策?
311 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 22:38:44 O
アウスグライヒ以降の二重帝国の外交政策は諸外国、特にバルカン諸国の動向で帝国共 通外相が正反対に政策転換するなど自ら危機を招いた感が大きいです ・共通外相ボイスト(1866-71、帝国宰相兼任67-71) 普墺戦争前旧ザクセン王国首相 当初、親仏政策、皇帝と共に対普報復戦争企図 70'マクシミリアン横死等、仏に不信感→親普政策転換 71'墺首相ホーエンヴァルト、ボヘミア和協による三重帝国案推進 反汎スラブ主義者のハンガリー首相アンドラーシ、皇帝に讒言しホーエンヴァルトを辞任させる ・共通外相アンドラーシ(1871-79帝国宰相兼任) 南スラブ民族主義を警戒 領土現状維持 反露親土政策 73'親土政策放棄 墺露協定(73'6)、三帝同盟(73'10) 76'ライヒシュタット協定 オスマントルコ崩壊後 墺→ボスニア・ヘルツェゴビナ(BH)獲得 露→ベッサラビア獲得 セルビアのBH取得阻止を約定 77'露土戦争→サンステファノ条約 墺→オスマントルコが完全崩壊していない事と露軍のブルガリア駐留批判、国際会議開催 主張→露、墺の裏切り批判 78'ベルリン会議 露の大ブルガリア建国に不信感持ったルーマニア、セルビア、墺に接近 79'独墺同盟
312 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 23:08:29 O
>>311 の続き
・帝国宰相ターフェ(1879-95)
共通外相ハイメルレ(1879-81病死)、カールノキ(1881-95)
ターフェはカトリック、保守派、スラブ人との提携推進
80'ガリツィア自治権付与
82'プラハにチェコ人民族大学設立
選挙法改正
外交では
81'ビスマルク、露をなだめ→第2次三帝同盟
セルビア親墺政権、墺と同盟条約
83'ルーマニア親墺政権、墺と同盟条約→独墺同盟に参加
→墺の外交的成果あがる
85'ブルガリアのバッテンベルク侯、反露政策開始、東ルメリア統合宣言→セルビア、対ブルガリア宣
戦→セルビア大敗→墺、外交努力によりセルビア崩壊回避
86'ブルガリア、宮廷クーデター
墺→セルビア拡大阻止の為の大ブルガリア支持
露→反露大ブルガリアに反対
(ベルリン会議での墺露の対ブルガリア政策の逆転)
→セルビア、ルーマニアの対墺不信
→ビスマルク、墺にバルカン東半を露の勢力範囲であることを認めるよう説得するが、
カールノキ拒否
87'三帝同盟更新に墺、ブルガリア規定要求→露拒否
→親英政策に転換
87'英伊と地中海協定
313 :
世界@名無史さん :2007/05/09(水) 23:43:29 O
>>312 の続き
・帝国宰相パデーニ(1895-97更迭)
共通外相ゴウコウスキ(ポーランド人1895-1906)
英伊→対土強硬政策
墺→対露積極防衛
相互の意図に差異
新バルカン政策へ転換
>アルバニア独立→伊のバルカン進出阻止、セルビア、モンテネグロのアドリア海進出阻止
>ノヴィ・バザール西部確保
97'クレタ反乱→墺、ギリシャを抑制しようとするが、英、同調せず
97'3-4皇帝、ゴウコウスキ訪露
対露協調政策に転換
→墺露協定→英との絆切れる
・共通外相エーレンタール(1906-12病死)
三国同盟堅持、対露協調政策
1908'BH併合
(占領時はBH管理はBH駐留軍の指揮権含め共通蔵相管理下)
セルビア、反墺王権成立
親ブルガリア政策によりルーマニア反墺強める→独、ルーマニアの三国同盟離脱を墺に懸念伝
える
墺、セルビアから家畜禁輸(豚戦争)→独が禁輸分の家畜購入しセルビアを助ける
→墺の外交政策裏目に
11'伊土戦争
反伊主義者の帝国参謀総長コンラート、対伊予防戦争を皇帝に強く上奏(07'から対伊
予防戦争を上申)
皇帝とコンラート会談
コンラートの執拗な予防戦争主張に激怒、“好戦派”とコンラートを罵倒し参謀総長解任
軍事総監に降格(12'復帰)
このように墺の外交政策は迷走しバルカン戦争後のスクタリ問題で墺の孤立は確定的に
なる
>>311-313 ホントにコロコロ外交方針変わってるな。
同じ皇帝の治世とは思いがたいくらいだ。
で、その皇帝は外交方針について何も言わなかったのかな?
イタリアと戦争する気はなかったようだけど、バルカンに関して黙っていたんだろうか。
>>315 帝国の生き残りのためには仕方なかったのかもね。
こういった多民族国家はいかに統治が難しいかが伝わって
きそうだ。
317 :
世界@名無史さん :2007/05/10(木) 05:46:31 O
>>315 皇帝は民族主義自体をあまり理解してなかったか、または軽視していたように見
受けられます
つまり等しく各民族は朕の臣民なりと
ボスニア・ヘルツェゴビナに関してもただ単に59、66年にイタリアへ領土割譲した失地の代替
地と思っていたらしいです
従って併合を求めます
軍は違った見解でBHの併合を求めました
軍は伝統的に
オイゲン公路線(対バルカン進出策)
ラデツキー路線(対伊進出策)
というのがあり、勿論前者の路線でセルビアのアドリア海進出阻止、セルビアの対海進出
をエーゲ海に向けさせる
つまり露領ポーランドとブルガリア、セルビア、モンテネグロの露の両腕によるアドリア海進出
彼等の言う露の“鉄の環”阻止が念頭にあったようです
しかしオーストリアと対等国家になったハンガリーはただでさえクロアチア等南スラブの民族主義
に苦慮していたことと三重帝国樹立によるハンガリーの相対的地位低下阻止のため、新たなスラブ人地区の領域編
入に反対し、結局、併合でなく“占領”に落ち着き
共通大蔵省がBHを管理することになり、軍も共通陸軍、墺・ハンガリー両国防軍にも
属さない共通蔵相指揮下のぼBH駐留軍という第4の陸軍誕生という奇怪な事態と
なったわけで後の軍参謀総長コンラートの苛立ちが生まれることになります
>>308 むしろ逆だろ。三十年戦争前後でプロテスタント容認できなかった国はその後ことごとく衰退してるじゃないか。
319 :
世界@名無史さん :2007/05/10(木) 06:22:27 O
皇帝は先に述べたように参謀総長コンラートでの会談で激怒したように コンラートの度重なる対伊予防戦争案要求に対しエーレンタールの三国同盟堅持を支持を明 確にしており、伊から“先制攻撃”を受けない限り伊と戦争状態にしないと言明 していました コンラートは先のオイゲン公路線とラデツキー路線両方を選択したいという想いがあり、同時 にオスマントルコは伊のバルカン進出阻止になるという考えもあり、伊土戦争におけるオスマン トルコ支援名目の参戦は彼にとっては一石二鳥の絶好の好機でした 彼は伊が必ずアルバニアへ勢力圏拡大を行うだろうと考えており、同時にトリエステ、ティロル の対伊積極防衛を想定していたようです コンラートは経歴上での戦闘経験は78〜82年のBH出兵による対ゲリラ戦経験しかなく、 本格的戦争によりどのような結果を招くか思慮が浅かった感があります それとは別に独が墺の政策転換に振り回されている感も強いです 従来、独は3B政策なるバルカン進出策を有していたという意見がありますが、実際 は独はあまりバルカン政策に興味もないし、介入したくないのが本音で、むしろ苦 労して三国同盟側に編入したルーマニアの離脱とバルカンでの戦争勃発を阻止したいため 豚戦争介入と墺のB計画(対セルビア先制攻撃計画)に反対しました
320 :
世界@名無史さん :2007/05/10(木) 07:55:00 O
あと露が墺の意図に関してどの程度察知していたか奇妙なエピソードを一つ 1908年8月墺はBH併合のアンタント(了解)を露に取ろうとしていました しかし奇妙な事に露の現外相のイズヴォルスキが“たまたま”ボヘミアのカールスバートで保 養していました しかも同地には“偶然”にも仏のクレマンソーも保養中でした 墺共通外相エーレンタールはウィーンにいた駐露大使(後の共通外相)ベルヒトルトを派遣し書 簡をイズヴォルスキに手渡しました 実は当時のボヘミア駐留の墺第8軍の軍参謀長は1908年(-13年)から任命され、後に 有名になるレードル将軍です レードルは長年に渡り露に墺軍の軍事機密を流していた張本人であり、事件(レード ル事件)が発覚した1913年に自殺しています
( ;∀;) イイハナシダナー
322 :
世界@名無史さん :2007/05/12(土) 09:58:02 0
アウステルリッツあげ
323 :
世界@名無史さん :2007/05/13(日) 00:57:45 0
エスタライヒ=ウンガルン=ボスニア=クロアート=スロヴェーン帝国
324 :
世界@名無史さん :2007/05/13(日) 20:15:20 0
却下
なんでボスニア、クロアート、スロヴェーンなんだ? ボスニエン、クロアティエン、スロヴェニエンだろ
326 :
世界@名無史さん :2007/05/16(水) 10:07:19 0
現地風
327 :
世界@名無史さん :2007/05/17(木) 09:27:11 0
またまたご冗談を
328 :
世界@名無史さん :2007/05/18(金) 09:41:33 0
旧墺洪帝国の領域は、人口が既に減少しはじめているらしい
またまたご冗談を
330 :
ヤノシュ :2007/05/21(月) 09:33:12 0
保守
「オーストリアにカンガルーはいません」 「オーストラリアにヒトラーはいません」
332 :
世界@名無史さん :2007/05/21(月) 12:27:07 0
コアラのマーチ
333 :
ヤノシュ :2007/05/22(火) 10:02:43 0
___ ./ \ .| ^ ^ | | .>ノ(、_, )ヽ、.| <あまり私を怒らせないほうがいい __! ! -=ニ=- ノ!___ /´ ̄ ̄ .|\`ニニ´/ `ヽ { .|__  ̄ ̄ヾ } i;;',,, r---イ /|,、_,, ,',;:',i .l;';',;,, } /;\ / ヽ / ,;,;;',;l .|;;',;, } ./;;;,, \ / ;;;;;;ヽ ,,;;','i i;',, / /;;,',';; ノ--, ',',;;::',',゙i ,,';';i i;,'; /./,',',';;" / \ ',',',;;,'i ,;',i / / i 、 / ヽ ',;::'、| \ ヽヽヽヾ丿 〈 ヽ'' {//// ```` ト, i | 、 i´´´ |',',;; } ! ',',;;i |,','、 / ヽ',',','|
きんもー☆
金毛騎士団
336 :
世界@名無史さん :2007/05/24(木) 09:32:23 0
337 :
世界@名無史さん :2007/05/25(金) 00:25:20 O
きんもー
338 :
世界@名無史さん :2007/05/25(金) 23:31:08 0
(♯^ω^)ビキビキ
なにこのスレ
340 :
世界@名無史さん :2007/05/27(日) 18:10:55 0
一次世界大戦以前の日墺関係って どうだったの?
フランツ・フェルディナント大公夫妻が来日したり してるし良好だったんじゃないかな。
オーストリア系の金羊毛騎士団は、ハプスブルク家の当主オットー氏が 現在の団長(総長? 総領?)らしい。
345 :
世界@名無史さん :2007/05/28(月) 09:06:02 O
>>344 現在は名誉職で実際収支とかないんだろうね
346 :
世界@名無史さん :2007/05/29(火) 09:27:15 0
( ^ω^) ニーット
言うな・・・・・
348 :
世界@名無史さん :2007/05/30(水) 21:30:06 0
先祖の名前に寄生して(ry
349 :
世界@名無史さん :2007/05/31(木) 00:54:50 O
なんか急激に質落ちたねこのスレ
だね。スレの住民が入れ替わったのかな
この板の質が急激に落ちた気がする
352 :
世界@名無史さん :2007/05/31(木) 09:45:43 0
過疎っておる
353 :
世界@名無史さん :2007/06/01(金) 09:31:30 0
プラハって一番綺麗な街じゃね?
>>353 そのへんは個人の価値観だからあれだけど
確かにウィーンとブダペシュトが世紀末の都市改造で変わったのに対して
プラハは帝国内では中・近世の雰囲気をよく残しているとは言われるな。
ボヘミア・アウスグライヒが成立していたらそんなことはなかったんだろうけど。
確かにプラハはヨーロッパの古きよき時代の面影を 色濃く残した美しい街だもんな。もちろんウィーンも。
356 :
世界@名無史さん :2007/06/01(金) 23:47:16 0
プラハ、ヴィーン、ブダペシュト、プレスブルク
357 :
世界@名無史さん :2007/06/02(土) 22:21:53 0
( ^ω^) オウフェン
チェコなまりのドイツ語は聞きやすい
359 :
世界@名無史さん :2007/06/04(月) 09:41:28 0
そうかね?
360 :
世界@名無史さん :2007/06/04(月) 10:11:48 0
( ;∀;) イイハナシダナー
362 :
世界@名無史さん :2007/06/05(火) 14:52:14 O
どこが?
363 :
世界@名無史さん :2007/06/06(水) 09:36:42 0
361をマジメに受け取ってもしょうがない
364 :
世界@名無史さん :2007/06/06(水) 14:42:51 O
プラハって一番きれいじゃね? そうだとは思わない… 行って見たらわかるはずだけど物凄く綺麗すぎて 不気味すぎた…
365 :
世界@名無史さん :2007/06/07(木) 00:57:04 O
>>364 ルドルフ2世の都なんだから、不気味な位でちょうどいい。
366 :
世界@名無史さん :2007/06/07(木) 14:11:53 O
ルドルフ2世のコレクション見てみたい
367 :
世界@名無史さん :2007/06/07(木) 15:00:55 O
ウィーンの美術史美術館に、残ってるものがかなりあるよ。同じようなビザールなもんなら、フィレンツェの銀器美術館にいっぱいある。
オーストリアのイタリア統治ってどんな感じだったのかね?
(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル な感じ
>>368 ヴィスコンティの「夏の嵐」を見ると、イタリアから見たオーストリア支配の一面が見られるかも。
オーストリアの青年将校があまりそれらしく見えないのが残念ですけど。
371 :
世界@名無史さん :2007/06/08(金) 22:40:57 O
1848年初頭の在伊ハプスブルク軍司令官ラデツキー配下には歩兵61個連隊があっ た 12個連隊→オーストリア人 9個連隊→マジャール人 6個連隊→チェコ人 10個連隊→南スラブ人 24個連隊→イタリア人 から成っていた 3月サルディニアが蜂起したとき11000人のイタリア兵は脱走、敵側に走った ラデツキーはサルディニアが決起した時、イタリア兵の脱走はある程度予想はし ていたが、ラデツキーを悩ませたのは残留した10000人のイタリア兵であった またハンガリー、チェコ、ウィーンで革命が進行中であり、マジャール人、チェ コ人連隊とオーストリア人連隊の一部は信頼がおけなくなった ラデツキーは革命前、ミラノのイタリア人貧民に対し、46年のガリツィア蜂起を 吹聴していた (46年クラクフを中心にポーランド人貴族が独立蜂起をしたが、ポーランド人貴 族により過酷な搾取を受けていたガリツィアのウクライナ人農民が逆蜂起し、か つて彼等が受けていた虐待を報復し、ポーランド人貴族の独立蜂起は頓挫した) イタリア人貴族は“ガリツィア計画”を恐れたが、イタリア人農民はイタリア人 貴族よりオーストリアがより大きな悪と意識していた
よかった。ようやくスレの質が回復してきた
373 :
世界@名無史さん :2007/06/09(土) 03:47:49 O
・クラクフ蜂起について 1846年初頭、パリにあったポーランド民主協会ヴェルサイユ中央委員会は元中尉 のミエロスワフスキーをまずプロイセン領だったポーゼンに派遣 次いでミエロスワフスキーは2/21〜22にクラクフで国民政府を組織し、一斉蜂起 と農民に対する封建的義務廃止を一方的に宣言した しかしつい昨日までシュラフタ(ポーランド人中小貴族)による過酷な搾取と虐 待を受けていたウクライナ人農民はそれを信用しなかった 彼等は保証なき怪しげなポーランド人貴族の空約束の自由より帝国の寛大な緩や かな束縛の方を選択した、クラクフのポーランド人貴族の叛乱に呼応し、クラク フ東方タルノフ県でウクライナ人農民が一斉に逆蜂起し、当地のかつての無慈悲 なシュラフタたちに対し彼等がかつて受けた行為を主人に報復した ポーランド人貴族の画策はもろくも崩れ逃亡したミエロスワフスキーはプロイセ ン当局に逮捕された
374 :
世界@名無史さん :2007/06/09(土) 04:32:36 O
(373の続き) ・ガリツィア蜂起時のガリツィアの中心都市リヴィウ(リボフ) 蜂起の前夜、リヴィウの叛乱側ポーランド人貴族の指導者ザヘルスチェフスキー将軍は居城グトフ 城で舞踏会を開催した 叛乱ポーランド人側はコチリヨンという舞踏を行う際に招待したオーストリア軍の上級将校たち を絞殺しようと計画した しかしウクライナ人(オーストリア名ではルテニア人)農民からポーランド人の不穏な動きを知ら されていたオーストリア軍の上級将校たちは皇帝親族が急死し喪中で出席出来ないこと を伝えた しかしそれに納得できなかった叛乱側の貴婦人ナリシェウスカは誰でもいいからオーストリア 人を殺せと皆をけしかけ、たまたま通りかかったオーストリア軍の軽騎兵の一人を捕え 縛り上げて居酒屋に連れ込み、大鉤から吊した縄に頸を巻きつけ、吊そうとした しかしこの時、逆蜂起したルテニア人農民たちによるグトフ城攻撃が始まった 慌てたナリシェウスカは縄をちゃんと縛らず吊したため、軽騎兵は幸運にも地上に落下 し、ほどけ助かった 農民軍に呼応しベネディク大佐率いる皇帝軍がザヘルスチェフスキーの叛乱軍を攻撃 ルテニア人達は居酒屋にも乱入し、ポーランド人貴族の婦人達は犯され、主人達は次々 首を大鎌で斬られたり、壁に大釘で打ちつけられたり、ズタズタに引き裂かれた
375 :
世界@名無史さん :2007/06/09(土) 04:45:29 O
当時のリヴィウは人口5万人の小都市であってが都市は二つのグループに分かれ対立し ていた 一方は親皇帝派のオーストリア人、ルテニア人、ユダヤ人で他方は反皇帝派のポーランド人であ る そんなリヴィウの当時の警察署長はレオポルト・フォン・マゾッホ 後にマゾヒズムの語源となる作家レオポルト・フォン・ザッヘル・マゾッホの同名の父である 作家マゾッホはこの時10歳でかなりこの事件は彼に強い影響を及ぼした 彼は終生、ルテニア人とユダヤ人に対し好意的でポーランド人の傲慢さを批判した
376 :
世界@名無史さん :2007/06/09(土) 15:25:42 O
・ラデツキー元帥の略歴 1766年ボヘミアで生れる 1784年軍入隊 1788-89年対土戦に参戦 司令部付将校 1796年少佐昇進 1799年イタリア派遣軍に配属―以後対ナポレオン戦に従軍 1800年ドイツ派遣軍に転属―胸甲騎兵連隊長 1805年少将昇進 1809年第5軽騎兵連隊長 1813年参謀本部に配属 1815年オーバーライン軍参謀長 1816年騎兵師団長 1829年大将昇進 1831年ロンバルディア・ヴェネト王国軍司令官 1836年元帥昇進 1850-56年ロンバルディア・ヴェネト王国総督 1858年ミラノで死去
377 :
世界@名無史さん :2007/06/09(土) 23:46:37 0
>>372 どーでもいいが、2ちゃんのスレに
学術的な質を求めてもしょうがないと思うが・・・・
オーストリア帝国が、第二次世界大戦まで存続していたら チェコの戦車技術を独占できたのに・・・・
379 :
世界@名無史さん :2007/06/12(火) 09:44:36 0
どこの誤爆だw
381 :
世界@名無史さん :2007/06/14(木) 09:36:21 0
>>378 無理じゃないかなあ。
当時日本政府が手本としたのはプロシア。
普墺戦争の時には榎本武揚がプロシア側で見学してる。
昭憲皇太后が手本としたのもエリザベート皇后ではなくてプロシア
のアウグスタ皇后。
戦争負傷者見舞い、女官たちと熱心に包帯製作してたらしい。
一行目と二行目以降のつながりがさっぱりわからんのだけど、アンカー間違い?
フランツヨーゼフ時代もうすでに斜陽の帝国。 軍隊の装備も時代遅れ、ハンガリー王戴冠式もスイス大使に 知性にそぐわない時代錯誤の趣味の悪い仮装行列と失笑されていた。 次代の皇帝もあまり政治能力にも秀でていなかったし、 閣僚にもめぐまれず皇后の親族の干渉を招いていたし。 富国強兵政策を推し進めていたプロシアをよそに歴史から退場せざるを えなかったと思う。
そうだろうか シュトラウス、クリムト、エゴン・シーレ、シュニッツラー、マゾッホ、フロイ ト、メンデル 興味深い文化人を輩出しているのはこの時代だし
かなり退廃的な風潮だったのでは。
>>384 ハプスブルク帝国が斜陽だったという論はちょい古いかな。
例のハンガリー王戴冠式は理性や知性の問題ではなく
マジャール人に対する王冠の神性の問題だろうし。
1914年時点では欧州六列強の一を占めていたし決して「没落に運命づけられた国」とは
言えない、てのが今日の帝国史研究の修正主義的論調、てか主流だな。
個人的にはこの修正主義は懐古趣味じみた点があって好きじゃないんだが。
この修正主義者たちが帝国を「ポジティブな教訓」とするのは戦間期の「諸民族の牢獄」史観への
反動にしか見えないし、勢力均衡において必要性を論じるのも後付けだしなあ。
そして欧州と帝国を壊したのはほかならぬハプスブルクだからねえ。
もっとも同時代人が「華麗なる没落」と考えていたのは事実だが
ww1以前、帝国は少なくとも内部から崩壊する可能性はなかっただろう。
ウィーンは超民族政党の議会と安定した官僚内閣、対ハンガリー関係も1907年以降好転。
経済成長でも同時代の欧州諸国ではドイツに次ぐ数値を残しているし。
まあフランツ・ヨーゼフの晩年の、特に「最愛の陸軍」に対する保守性と
ボスニア併合における外交当局の拙速(ロシアとの関係断絶)が帝国を
ドイツに追従するしかない「二流国」としたのは否定できないね。
ハプスブルク家はどこで選択を間違えたんだろう? 世界大戦がなければ建て直しができたのか? フランツヨーゼフが神の頭脳をもっていれば建て直しができたのか? ピルニッツ宣言でフランスに喧嘩を売った時点で没落が決定したのか?
フランツ・ヨーゼフがあまりにも保守主義者だったからじゃないか 陸軍が装甲車を導入しようとした時、馬が怖がるから駄目と拒否したエピソード は有名だが
ナポレオンに敗退したあたりからやばくなってきたのではない? あいかわらずお家芸の結婚政策でお茶を濁して国家の危機に対して まともに対策をたてず血統主義で凝り固まっていた。 フランツヨーゼフの即位だって不人気な父親では人心を掌握できないってことで 飛ばして即位してるし。
391 :
世界@名無史さん :2007/06/15(金) 09:31:03 0
オーストリアよりイタリアとかスペインのほうが やばかったんじゃねぇの?
オーストリアとハンガリーの関係って日本と韓国北朝鮮みたいな関係?
ハンガリーは中世にはオーストリアよりよっぽど大国だが
スロヴァキア人はチェコ主導の三元主義案が浮上したときは頑なに反対したのに、 戦後になってチェコスロヴァキアに加わったのは何故だろうか。
>>388 自分は最終的には1908年のボスニア危機だと思うな。
ここで英国・ロシアと決別し完全に独墺二国同盟に依存するようになったのは痛い。
ただww1がなかったら二国同盟解消の可能性も否定できないなあ。
皇帝の能力云々はもっともだが個人の資質に頼るのはちょい危険。
ドイツ第二帝政がいい例で権力が適度に皇帝とマジャール人に分散されていたのが
平時では良かったのだろう。結果論だがマジャール人か皇帝・帝位継承者の誰かが
危機のたびに外交当局や軍部が唱えた主戦論を抑えたわけだし。
普仏戦争はアンドラーシが、ブルガリア危機はカールノーキが、セルビア予防戦争論は
皇帝が、バルカン戦争はフランツ・フェルディナントが、そしてww1でもティサが最後まで
戦争に反対している。
早期に戦争をすれば有利だったかもしれないが何せ欧州大陸は40年間も長い平和の中に
眠っていたからなあ、大陸での戦争は列強の介入が予想されるから帝国単独では苦しいだろうし
ドイツも消極的だし、かえって早期に崩壊した可能性がある。
>>382 そのエリザベート(シシィ)についてなんだが・・・
シシィはすごくハンガリーを愛した人だったから今でもハンガリーではシシィは
愛され続けているが、(彼女の国葬の際、彼女の銘文が「オーストリア皇后」のみ
だったことにハンガリーが強く抗議して「並びにハンガリー王妃」の銘文が後から
急遽加えられたそうな)オーストリアでは特に人気が高いわけでもないらしいからなあ。
皇后としての国事をしょっちゅうすっぽかしてたもんだから式典や行事は皇帝一人で
こなすことも少なくなかったみたい。旅行ばっかりして自分たちのことはなんとも思っちゃいない、
とオーストリア国民には映ったんだろう。彼女が暗殺されたときはオーストリアでも
深い悲しみに包まれたがそれは彼女に対してよりもむしろ最愛の妻を喪った皇帝に対する
同情の想いからだったようだ。
まあバイエルンの山奥で自由奔放に駆け回ってた少女を堅苦しい儀礼やしきたりの
デパートのようなハプスブルク家に迎えること自体そもそも無理があったんだろうけど・・・・・
397 :
世界@名無史さん :2007/06/16(土) 00:10:33 0
>>394 軍事力の問題じゃないの
帝国崩壊後の東欧なんて総当りで戦争してたようなもんだし
399 :
世界@名無史さん :2007/06/16(土) 18:44:50 O
スロバキア人? 三元主義に強硬に反対したのはマジャール人だよ スロバキアはハンガリーの支配下であったからスロバキアにとっては三元主義体 制移行すればクロアチア人の自治要求も強くなり、ハンガリーの支配体制が揺ら ぐから好都合になる
400get!
401 :
世界@名無史さん :2007/06/17(日) 20:33:14 0
経済力では チェック人>>>マジャール人
政治力では マジャール人〉〉〉チェック人
チェック人て初めて聞く。どこら辺の人?
いわゆるチェコ人
405 :
世界@名無史さん :2007/06/18(月) 09:29:57 0
チェック・オ・スロヴァキア オは接続詞
違うだろ。 幹母音だろ。
ありがとうございます。 ひとつ賢くなりました。
408 :
初歩質問ですみません :2007/06/18(月) 16:43:32 0
大公ってのは、普通はプリンスとなるところが、この家は大公ですね。 @オーストリア皇帝になっても、大公のタイトルは保持しているのでしょか。 Aトスカナ国を継いだ人もいましたが、この人たちも、その息子も大公でしょうか? Bメキシコ皇帝がいましたけど、大公のタイトル保持してたでしょうか? でメキシコ皇妃は大公妃のタイトルあったでしょうか。 Cメキシコ皇帝の子供は大公のタイトルあったでしょうか?
409 :
世界@名無史さん :2007/06/18(月) 16:47:17 0
ハプスブルク家だから大公なのか、 オーストリアの君主の家だから大公なのか、です。 ☆オーストリア継承戦争で、バイエルンの君主が皇帝を名乗りましたが、 ついでに、「大公」なども名乗っていたんですか。 ☆バイエルン王の息子たちは、プリンスたちですが、「大公」と名乗っちゃったですか。
410 :
大公について: :2007/06/18(月) 16:55:33 0
オーストリー継承戦役で結局、 ハプスブルク家がハンガリーやボヘミアだけになったら、 その辺がはっきりしただろう。
411 :
世界@名無史さん :2007/06/18(月) 16:57:02 0
ハプスブルクの王子(大公)たちのなかで、 内オーストリア公という人がいたようなんですが、これは通称でしょうか。 正式なタイトルでしょうか。 また、アルプス大公というのはどうなんでしょうか。
>>408 とりあえず私見ですが。
@地位が変わるので消失されると思います。
A持っていました。この為大公があまりにも多くなりすぎて
大公の称号の権威の低下まで懸念されました。
Bマクシミリアン大公はメキシコ皇帝としてよりもオーストリア大公
としての方がどちらかというと一般的な感がありますがメキシコ皇帝に
なる際にオーストリアの帝位継承権を放棄しているのでおそらく大公の
地位も放棄したと思われます。シャルロッテ皇后も同様かと。
C彼らは子供はいなかったと思いますが(養子はいたようですが)これは
どうなんでしょうね?
>>409 Erzherzog(英語名:Archduke)は確かハプスブルク家一門の者のみに
与えられる称号だったと思います。
ハンガリー王マーチャーシュが一時期オーストリア獲得したときはどっち名乗ってたんだろ。
>>412 やっぱりArchdukeだよねぇ?
今読んでる本にレオポルト(2世)のこと"Grand duke of Tuscany"って書いてあって
何か変だなぁと思ってたんだ・・・。
>>414 Archdukeはオーストリアのみ。トスカナ大公はGrand dukeであってる。
同一人物が兼ねてても全くの別物。
>>414 ハプスブルク家には神聖ローマ皇帝レオポルト2世とその甥に当たる
トスカーナ大公レオポルト2世の二人がいます。
そして実は神聖ローマ皇帝レオポルト2世もまたトスカーナ大公レオポルト2世の
二代前にトスカーナ大公の地位についているので(トスカーナ大公としての名は
レオポルト1世)実にややこしいのです。
その本の人物がどちらのレオポルト2世を指しているのかはわかりませんがどちらで
あってもトスカーナ大公(Grand duke of Tuscany)で合っているということになります。
オーストリア皇帝になってもオーストリア大公であることに変わりは無いと思うが Von Gottes Gnaden Kaiser von Österreich, Apostlischer König von Ungarn, König von Böhmen, Dalmatien, Kroatien,...の後に、 Erzherzog von Österreich, Grossherzog von...と続くはず
>>416 自己レス。二代前じゃなくて三代前ですね。エリザ女大公を飛ばしてました。
>>417 なるほど。消失することはないわけですね。
考えてみればオーストリア大公というのは帝国の元首として重責を担う
皇帝と違って純粋な名誉称号でしょうから退位や剥奪という概念のない
一生涯のものなんでしょうね。勉強になりました。ご指摘感謝。
>>418 なんか王位爵位について思いっきり勘違いしてる気がするが。
オーストリア帝国について勘違いしているのではないかと
帝国議会において代表される諸王国および諸邦ならびに神聖なるハンガリーの イシュトヴァーン王冠の諸邦について勘違いしているとな!?
>>411 内オーストリア=シュタイアーマルク&ケルンテン&クライン。
Erzherzog(Archduke)はルドルフ4世が大特許状を捏造して作り上げたオリジナル称号だから、
ハプスブルク家以外には存在しない。
またGrossherzog(Grand Duke)も「大公」と訳すけど完全別物。
ヴュルツブルクとかトスカナとかは外来で条約や結婚政策でハプスブルクに取り込まれたGrand Dukeだよ。
>>418 そもそもオーストリア大公っつーもんはオーストリアそのものの支配者が帯びる称号、というか本来役職であって。
423 :
世界@名無史さん :2007/06/19(火) 10:28:25 0
424 :
世界@名無史さん :2007/06/20(水) 09:52:54 0
(> <)きゃー
425 :
世界@名無史さん :2007/06/21(木) 19:28:40 0
>>415 そのため太公という表現を使う人がいる。 >>422 太公(エルツヘルツォーク)が、内オーストリア公(ヘルツォーク)を兼任したのか。 >>412 悲劇皇位継承者フランツ・フェルディナントは、太公ですが、 彼の奥方は、太公妃ではなかった(なんとか公爵夫人?、否なんとか女公爵か?)と記憶します。 >>412 当然 悲劇皇位継承者フランツ・フェルディナントと奥方の間の子は、太公の資格はないはず。
426 :
世界@名無史さん :2007/06/21(木) 19:40:24 0
二桁台のところみると、江村氏の本は史学科では低い評価のようですが、 確かに江村氏は読み物的な本がいっぱいでていますが、 どういう点で評価低いのでしょうか。 原典にあたっていないこと? 思い込みとかで、埋めているところが多いとこ? 私は史学科出身でないので、念のため教えてください。
427 :
世界@名無史さん :2007/06/21(木) 19:44:57 0
大公は、プファルツ大公の焼き直し。大特許状とい偽文書がプファルツ大公を作った。 1:どういう過程で、プファルツが落ちて、単なる大公となったのか? その後、皇帝(ハプスブルク出身)が、大公を正式に認定したので、手前味噌だろうがなんだろうが合法化。 「プファルツ大公」位でなくて、「大公」位として認定した。 2:プファルツ大公の方が格好いいのに残念とは思わなかったのか。 大特許状に従えば、プファルツ大公となるはずだし、不思議に思う。
428 :
世界@名無史さん :2007/06/21(木) 19:52:38 0
下記のことばについてどう思いますか。 @オーストリア帝国はなかったという250のコメントは正しいんでしょうか。 Aオーストリア大公国という領邦は存在したのでしょうか? 大公と名乗る一族の家族領が存在しただけで、オーストリア大公国は存在しなかったのではないでしょうか。
429 :
世界@名無史さん :2007/06/21(木) 20:02:58 0
カール6世は苦労して国事詔書を作ったが、その中身は? ◎ハンガリー王位、ボヘミア王位、そのほかもろもろ王位は女が継いでも問題ない。 ●オーストリア領も、もともと、オーストリア辺境伯領で、女が継いでも問題ない。 ・・・・・ここまではあっているよね。 神聖ローマ皇帝の位は、選挙だから、世襲ではない。また、女は付けない。 ☆カール6世は、神聖ローマ皇帝に女がつけるようにした?わけではない。 ★カール6世は、娘の婿に、選挙で投票するよう、選挙権者に頼んだ、ということだよね。
430 :
429 :2007/06/21(木) 20:05:39 0
ロートリンゲン家のフランツは、「大公」になったんだが、 これは例外的な措置だと思う。 これは、国事詔書の一部か、? でなければ、どこで決めたんだか? よろしくお願いします。
431 :
世界@名無史さん :2007/06/21(木) 20:22:56 0
三つの質問 <あ>貴賎結婚について、左手結婚という俗称があるが、これはなぜ? <い> ハプスブルク家では、いつから貴賎結婚について定められたのか? <う> どこまでの家なら、貴賎結婚に触れないのか? 追伸:貴賎結婚の子供だと、太公になれず、すると、オーストリア皇帝になれない? また、ハンガリー王にもなれない? ボヘミア王にもなれない? そんなことはないと思います。単に、ハプスブルク家の正式メンバーになれないだけだと思います。 ハプスブルク家は、オーストリア皇帝もハンガリー王もボヘミア王も、 ハプスブルク家の当主が継ぐと思っているかもしれませんが、 ハプスブルク家の庶子であっても、また、どっかの馬の骨であっても、 その国に継承権ルールにあっていればよいのです。
なんかちょっと見ないうちに随分スレ進んでる。
>>414 >>415 ありがとうございます。
SaxonyとかBavariaとか英語読みの地名だけでも、違和感を感じていたので
字面の違和感と混同したかもしれません。
そういえば、メキシコ皇帝マクシミリアンの養子は、
確かメキシコ第一帝政(1822-1823)のアグスティン1世・デ・イトゥルビデの孫2人
子孫はまだ残ってる
>>428 1、神聖ローマ帝国解体〜アウスグライヒまでは存在した
2、今のオーストリア北部一帯が上下(Ober/Nieder)オーストリア大公領
>>431 フェルディナント大公とゾフィーの貴賎結婚の場合、
子孫の皇位継承権を放棄することが、枢密院で決定された結婚を赦す条件。
帝国の国家機関の会議で決定され、フェルディナント大公自身が署名した、皇帝の勅語によるもの。
ただしハンガリー王国は別
フェルディナント大公の子マクシミリアンは依然ハンガリー王位継承権第一位だったが、
ロートリンゲン大公の肩書きと引き換えに、
カール皇太子がハンガリー王となるのを承認した。
但しロートリンゲン大公の肩書きを得る前にドイツもオーストリアも崩壊してしまったのでマクシミリアンはロートリンゲン大公になったことはない 彼の肩書きはホーエンベルク公
いろいろ読み漁ると宗教がカトリックで 国王の娘か公爵令嬢とかなり限定されてた。 エリザベート皇后は婚約時父方の祖母の母方の血筋が 上級貴族の出ではないとあげつらわれバッシングされたらしい。 が、彼女の肖像画がウィーンに届いてバッシングがやんだらしい。 今でもどうやらその基準が守られているらしく、 何年か前新聞で詳しいことは知らないけど直系の子孫がドイツの 公爵令嬢と結婚したって載ってたよ。
ハプスブルク家で汽船結婚は田舎の郵便局の娘とか 秘密結婚したり、皇籍を離脱したり、ぼちぼちあったみたい。 ただ、いずれも皇位継承者ではなく、黙認されていたみたい。 皇太子が汽船結婚したのはフェルディナンドだけ。 ちなみに彼の弟も平民の大学教授と結婚する際籍を抜き 名簿からも抹殺され一般市民として生きたらしい。 この人の話はまったく出回ってないんだよね誰か詳しい話が載ってる 本しらないですか?
ごめん、大学教授の娘とです。(笑)
>>435 その辺の血筋って、もともとフランツ・ヨーゼフの母のゾフィーが結婚相手として想定してた
エリザベートの姉のヘレネも同じだよね? 姉妹なんだから。
ということは、予定通り姉と結婚していても、同じバッシングを受ける可能性はあった。
当然ゾフィーもそれは承知の上だったはずで、いくら母親同士が姉妹だからって
何でその辺を考慮しなかったんだろう?
>>438 えっと確かゾフィー大公妃は姉が王妃をやっているプロシア王女が
第一候補だった。
けど、オーストリアをつぶしたいのに縁組なんぞされては困る
ビスマルクの横槍で破談された経緯がある。
フランツ・ヨーゼフもこのプロシア王女だったかは忘れたが
実際外国の宮廷に出向いて一目ぼれした美人王女に求婚したが断られている。
ゾフィー大公妃は上流階級で評判の悪いマクシミリアン公爵の娘ヘレネを見合いさせてのは
他に候補がいなかったから。
ゾフィー大公妃の末の妹ルドヴィカ公爵夫人は姉に対して絶対服従てきな態度だったという。
エリザベートのの「不出来」さについて何度も詫び状のような手紙を出してたみたいだ。
>>429 に関してなんだけど。
>◎ハンガリー王位、ボヘミア王位、そのほかもろもろ王位は女が継いでも問題ない。
ハンガリーは女王が立ったことがある。
アンジュー家のマリア 在位1382-85,86-95。
だから女王が即位できなかったわけではないと思う。
(その後に女性の継承が禁止されたのかも知れないけど。)
>●オーストリア領も、もともと、オーストリア辺境伯領で、女が継いでも問題ない。
こっちはどうだろう? ドイツの領邦は女性による継承が認められないのが普通。
ただオーストリアは女系の継承が例外的に認められていたらしい。
それを利用してプシェミスル・オタカル2世がバーベンベルク家の生き残りの老女との結婚を理由にオーストリアを奪取した。
(で、ルドルフ1世の討伐を受けて無効にされた。)
国事詔書で重要なんは、本来優先権のあるカール6世の兄ヨーゼフ1世の娘たちよりもマリア・テレジアの継承権を優先させたことじゃないか?
>>430 ロートリンゲン公フランツが「トスカーナ大公」になった話なら、ポーランド継承戦争。
この戦争でロートリンゲン公領はフランスに占領された。
で、戦後、1738年のウィーン条約で、オーストリアの推すアウグスト3世がポーランド王となる代わりに、
フランスの推すスタニスワフ・レシチンスキがロートリンゲン公になり、
ロートリンゲン公フランツは断絶していたトスカーナの大公位を得た。
あとは有名どころで皇太子ルドルフの娘エリザベートが フランツヨーゼフに泣きついて、下級貴族のの軍人と貴賎結婚離婚。社会主義者の 農民と再婚して赤の皇女と呼ばれる。 ハプスブルクじゃないけどエリザエート皇后の兄が爵位を弟に譲って ユダヤ人の女優と結婚。本人も眼科医として活躍。
>>441 いや、つーかそもそもって話なら百年戦争のあたりでフランスでサリカ法の条文拡大解釈した継承法ができるまでは女系相続は普通だったかと。
特例だったのは女性当主。ルクセンブルク伯とか。
>>426 江村氏の本は別に悪い本ではないよ。ただメジャータイトルが新書なんで
読み物としては面白いけどちょっと軽いかなあ、という認識。
ハプスブルク家を概観するには充分なレベルだと思うけどねえ。
>>427 プファルツ伯って普通に多くあった称号だけれどプファルツ大公となると
ハプスブルク一人だからねえ、大公もハプスブルク固有の特別な称号だし
単に特別な称号を二つも並べる必要性が薄かったのでは。
あとはプファルツ伯が宮中伯なら皇帝位を独占したハプスブルクには
プファルツは不要な形容になるんではないかなあ。
ハプスブルク一門すべて(領邦君主でないもの)が「親王」のような意味で
大公号を帯びるのは16世紀後半、帝位がハプスブルクに定着してからだし。
プファルツがライン宮中伯固有の称号のようになるのはいつごろだっけ?
>>441 国事詔書の意義は確かに継承順位の明確化だね。
第一にカール6世の子孫(まだ調印段階では出生前だが)、
第二に兄ヨーゼフ1世の子孫、第三にレオポルド1世の子孫。
どうもヨーゼフ1世生前(スペイン継承戦争時)の王位に関する相互協定、
特にヨーゼフ1世の子女の優先権規定の排除も目的の一つだろう。
一番の理由はもちろん継承問題の解決だろうけどね。
このときは後に重要視され、また評価される
「諸領邦の一体にして不分割不分離の確認」は余り問題にならなかったみたい。
実際、後世に意味を為したのはハンガリー、ボヘミアにおけるハプスブルク王位を
その国法に沿って最終的に確立させたことだろうけどこの時点ではまだトルコと
ハンガリーをめぐって攻防が続いているからなあ。
特に二重王国時代のハンガリー王国の帝国における地位の一部はこれを根拠としているから
後世にはアウスグライヒ法と並んで憲法的意味でも重要になったね。
>>436 フェルディナント・カール大公ですか
彼は1911年にハプスブルク家から追放されて、南チロルに住んでたみたい
1915年にミュンヘンで死んでるし翌年に奥さんも死んどる
sage
448 :
世界@名無史さん :2007/06/25(月) 09:25:34 0
ウィーン=プレスブルク大都市圏が 構成されなかったのが不思議
>>448 ウィーンの市域拡大の遅さと二重制による交通の阻害、これ以上の説明は出来ないな。
まあプレスブルクのハンガリーにおける歴史的地位を考えたらマジャール化は
あってもウィーン化(極端に言えばドイツ化)はハンガリーが認めんだろう。
一番の要因は河川と距離(直線距離で約50q)。京阪間が約40qだけど
京都が大阪大都市圏かと言われれば微妙なことろだし歴史的背景も大きいだろうねえ。
450get!
今現在のハプスブルク家の子孫の構成が知りたいです。 特に嫁の出自、宗教を詳しく。 宜しくお願いします。
( ^ω^) ?
dat回避age
>>444 >プファルツがライン宮中伯固有の称号のようになるのはいつごろだっけ?
ザクセンとライン以外の宮中伯の末路は知らないんだけど、
ザクセン宮中伯は13世紀まで残ってた。
1247年にマイセン辺境伯がザクセン宮中伯位を獲得して、
1423年にザクセン(・ヴィッテンベルク)公位を獲得している。
だから1432年頃までには消滅してるんだろう。
455 :
454 :2007/06/30(土) 11:12:23 0
失礼。 ×1432年頃までには消滅 ○1423年頃までには消滅 でも15世紀だとこういう場合は領邦の称号を帯び続ける気がするなあ。 帯び続ける場合と一方がもう一方に統合される場合とあるみたいだけど、 どう違うんだろう。
厳密な違いは定義できないでしょうな
457 :
世界@名無史さん :2007/07/02(月) 11:24:14 0
あげ
>>442 19世紀後半の最後の前近代的君主国家の皇帝として
極端なまでに自らを律して皇帝の神性をつくろうとしたのに
身内にはロクな人間がいないのも不幸だったなあ。
まあフランツ・ヨーゼフの宮廷が時代遅れだっただけだが。
それでもカール1世夫妻のように王権神授説を間違っても持ち出さない、
歴史と政治で妥協できたのは消極的ながら彼の才能なのかもねえ。
460 :
世界@名無史さん :2007/07/05(木) 09:40:23 0
むしろあの時代になっても王権神授説をマジメに持ち出すほうがおかしい
>>460 まあ、ある意味あの時代のオーストリア皇帝には
それにすがるしかなかったのかも知れんがな。
今日我々が帝国についてそこまで悲観的でないと考えても
同時代人は「絶望的だが悲観的ではない」(だっけ?)と
考えていたわけだし。
463 :
世界@名無史さん :2007/07/06(金) 09:45:50 0
末期の帝国は哀愁がありますな
465 :
世界@名無史さん :2007/07/10(火) 09:35:12 0
中欧の人たちの感情として、 ドナウ連邦をつくることに抵抗はあるんかのう
>>465 別にその地域に共通の象徴があるわけでもないし
EUがあるんだから抵抗以前の問題かと思うが。
それ以前にそんな運動があるのかい?
おおかたラヨシュにでもなりきったつもりで書いているんでしょ。
468 :
世界@名無史さん :2007/07/12(木) 09:33:36 0
誤爆乙
むしろオメ
かわいそうです。
472 :
世界@名無史さん :2007/07/14(土) 10:28:33 0
宗教改革や農民戦争の頃になるとフリードリッヒ3世が平和を愛する名君だったとか 言い出す人もいたそうですね。
冷戦崩壊まで自由主義諸国(特に米国や東欧亡命者)で ハプスブルク帝国こそ民族の共生を実現できた理想的モデルだとしたのと似ているな。 いまじゃあEUの先駆者扱いする「修正主義」が帝国史を蹂躙している。 戦前の研究がウィルソン主義やレーニン主義の民族自決主義に偏りすぎたのも問題だが 70年代以降の研究がハプスブルク帝国をその反動でか高評価するのも歴史を見ていないよな。 いったいどこをどう見ればハプスブルク帝国が民族の協調を実現できたのかと。 オーストリアでは皇帝の信任にのみ基づく官僚内閣が民族代表の議会を混乱のたびに停止したし ハンガリーはいうまでもなくマジャール人エリートのマジャール至上主義だ。 まあポーランドが独露と比較して優遇されていたしオーストリア部分では民族の同権が謳われ ハンガリーでもクロアティア人に一定の自治を与えていたから「諸民族の牢獄」とは言わないけどね。 まあ帝国末期にフランツ・ヨーゼフの大衆からの視線が変わっていたのはそうだろうな。 かつては「血塗られた帝冠」に飾られた絶対君主と見られていたのに。
474 :
世界@名無史さん :2007/07/14(土) 22:04:21 0
あの時代に絶対を素でやっていたのは 欧州ではロシアぐらいでしょ?
まだイヴァン雷帝なんかも大貴族の勢力を抑えようとしていろいろ苦労してたらしい。
貴族といえばポーランド
477 :
世界@名無史さん :2007/07/15(日) 19:41:39 0
ポーランド貴族やハンガリー貴族は騎兵将校のイメージが強い。
東欧では王権の衰退とジェントリの台頭、マグナートの寡頭への流れは ポーランドやハンガリーで顕著だな。 ジェントリ、マグナートといった貴族(中間搾取層?)の数的な多さも似ている。 ただハンガリーがポーランドと異なるのはジェントリが再び権力を取り戻したことか。 まあハンガリー独立戦争のときと違ってハンガリー・ジェントリも帝国末期には 単なる政治的エリートに過ぎなくなったがね。 チェコが早い時期に民族の政治的エリートを失ってドイツ人の影響から 民族ブルジョアが台頭したのとは大きな違いだな。 まあチェコ(ドイツ圏)とハンガリーを同列で扱うのは間違っているんだろうが。
479 :
世界@名無史さん :2007/07/16(月) 15:45:46 0
ハンガリーはチェコより独自性があるよね
480 :
世界@名無史さん :2007/07/16(月) 22:14:12 0
>>454 プファルツを宮中と訳して、宮中伯というのは、どうなんだろうね。
皇帝直轄領(そのうちで、特に重要度の高い場所)の代官のような存在ではないかと思う。
代官というより、郡代という感じ。
481 :
世界@名無史さん :2007/07/16(月) 22:17:53 0
434殿。 フェルディナンド太公(エルツオーク)の 奥さんは、ホーエンベルク公夫人(ヘルツオークイン) 息子たちは、ヘルツオークということで。
482 :
世界@名無史さん :2007/07/16(月) 22:20:10 0
>>477 それはあんたがそういう絵画を見たからでしょ。
騎兵将校の軍服を着て、馬上でポーズをとっている歴史画とか肖像画を。
483 :
世界@名無史さん :2007/07/16(月) 22:20:22 0
481に修正(自分で修正でスマン) 奥さんは、 ホーエンベルク女公爵(ヘルツオークイン として、「HerOwnTitle」かな)
484 :
408 オソレスごめん :2007/07/16(月) 22:29:00 0
>408 :初歩質問ですみません:2007/06/18(月) 16:43:32 0 >大公ってのは、普通はプリンスとなるところが、この家は大公ですね。 >Aトスカナ国を継いだ人もいましたが、この人たちも、その息子も大公でしょうか? トスカナ国の君主としては、グランドデユークで、その息子は、プリンスだと思います。 ハプスブルク家は継ぐまではそういうタイトルであったと思います。 ただ、この国をハプスブルク家が継いだので、 君主もその息子も、 Archduke も保有したんだろうなぁと思いました。 000000000000000000000000000000000000 女帝マリアテレジア(正確には、皇后)ですが、ヘルツオークイン(女大公)として生まれ、死ぬまでそうであったと思うんですが、 彼女の旦那が、ヘルツオークになったのは特例だと予想してます。 大公の配偶者が大公妃(ヘルツオークイン)になるのは普通みたい(根拠は知りませんが・・・知りたいなぁ)ですが、 大公女の配偶者が大公婿?(ヘルツオーク)になるとは珍しいと思いますので。
485 :
世界@名無史さん :2007/07/16(月) 22:33:52 0
>>441 ポーランド継承戦争は、よく知らなかった。当時は、国民とかいう意識もなかったと思うが、 ロートリンゲン公国の住民は何語を話したんだろうか、フランス語か? また、ロートリンゲン公国の貴族・領主たちも、君主がブルボン家に変わってどうだったんだろう。 フランツにくっ付いていった貴族もいるだろうけれど(領地がなぁ)。 そして、フランツの兄弟や従兄弟たちは(また、父や母親たち=父は死んでいたかもしれんが)、ロートリンゲンに残ったんだろうか。
>>485 ロートリンゲン公国はすでに何度かフランスに支配されていた。
フランツ・シュテファンの祖父や父もその間オーストリアでハプスブルク家に仕えていた。
ロートリンゲン公国を最終的に手放した時点で、フランツ・シュテファンの身内は
・母エリザベート
ロートリンゲンの小領主として残留・・・ブルボン=オルレアン家出身だからか?
・弟カール・アレクサンダー
マリア・テレジアの妹と結婚、オーストリア軍の司令官やネーデルラント総督を務めた
ぐらい。父はすでに死んで代替わりしていた。
叔父はいたが死んでいたし、司教位に就いていて子はいなかったようだ。
487 :
世界@名無史さん :2007/07/17(火) 02:09:06 0
>>484 ヘルツオークインじゃなくてヘルツォーキンでよくない?
Herzoginのことでしょ?
フランツ1世は、マリア・テレジアとの婚姻によってHerzog
になったわけではなく、元々Herzog von Lothringen でした。
ヘルツォーギンだと思う
489 :
世界@名無史さん :2007/07/17(火) 20:01:59 0
>>488 仰るとおりですね。
母音が後に続くので、清音にはなりません。
大変失礼しました。
490 :
もとい (484,408) :2007/07/18(水) 20:30:45 0
000000000000000000000000000000000000 女帝マリアテレジア(正確には、皇后)ですが、Erzherzogin(女太公)として生まれ、死ぬまでそうであったと思うんですが、 彼女の旦那が、Erzherzogになったのは特例だと予想してます。 太公の配偶者が太公妃(Erzherzogin)になるのは普通みたい(根拠は知りませんが・・・知りたいなぁ)ですが、 太公女の配偶者が太公婿?(Erzherzog)になるとは珍しいと思いますので。
491 :
お詳しいですね、さすが。 :2007/07/18(水) 20:37:02 0
>>ロートリンゲン公国はすでに何度かフランスに支配されていた。 >>フランツ・シュテファンの祖父や父もその間オーストリアでハプスブルク家に仕えていた。 ロートリンゲン公国(ロレーヌ公国)は何度かフランスに支配されていたとのことですが、 フランツシュテファンがロートリンゲン公(Herzog )になったのは、どういうわけでしょうか。 彼の父が、ロートリンゲン公であったのではないのでしょうか。また、彼の父はロレーヌ公としては、 フランス王の臣下であり、同時に、ハプスブルク家の臣下でもあったのでしょうか。 それとも、ロートリンゲン公であったときもフランス王に仕えたことはなく、 フランスに領地を不当に抑えられていたという状況という意味(ハプス側の解釈)であったのでしょうか。
492 :
世界@名無史さん :2007/07/18(水) 20:43:57 0
1)フランツシュテファンは、家名をロートリンゲン家というくらいなので、 だいぶ前から、そこの公位を持っていたように勝手に思ってしまう。 どうなのだろう。そもそもこの家の出自は? ただ、ハプスブルク「家」の臣下というより、皇帝の臣下という家柄ではないか(諸侯)と思うんだけれど。 よって、ハプスブルク家の臣下出身のリヒテンシュタインの君主家よりは格がはるかに上ではないかと。
手許に詳しい文献がないからあれなんだが 1.フランツ・シュテファンはハプスブルクの女系を介した同族である 2.フランツ・シュテファンがErzherzogなのかは自分は知らないのだが そうであるならば女性君主との共同統治者としては不自然ではない。 3.ロートリンゲン公国はポーランド継承戦争で正式にフランスに併合されるまでは 帝国諸侯。かつ同戦争において失地の代償としてトスカナ大公国が譲渡される。 これだけで類推してほしい。
フランツ・シュテファンはヴォーデモン家でこの家系は1473年からロレーヌを治めている ヴォーデモン家はメッツ家の傍系でメッツ家は1047年から1453年までロレーヌを治めていた。 女公イザベラを介してアンジュー家に渡った後、ニコラの死によってヴォーデモン家のルネが相続する
495 :
世界@名無史さん :2007/07/20(金) 09:26:14 0
age
独語って発音に地域差があるからムズいわ
497 :
世界@名無史さん :2007/07/22(日) 20:57:57 0
________ ,. ::'"´ ̄::::::::::::: ̄`゛'ヽ、 /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\. ,':::::::::;:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::ヽ, ./::::/:::::/::::::/___/:::::::/::i::::::::::i:::::::', /:::/:::::::/::::::://:::__/:::::::/::/i:::L__::i:::::::::| ┌─┬───── /:::イ::::::/:::::::::/rィて`'!ヽ!::/ |::::i__::::i:::::::::| | |\ . /:::::::i::::::i:::::::::/ ハ リ L,イ''ト,/|::::i::|.. | | \ ,':::::::::::L_::!::ハ::::」 ゝー゛ トソハ/::::!:」 . . | | \__ ::::::::::::::::/::::::/|:::| "" 、 ` ,,|::|::|. | | | ::::::::::::::::::::::/::|::::| 、_____ !::::| | | | :::::::::::::::::::/::::|:::::ト、 || ||「´ ,.イ::::| | | | ::::::::/::::::/::;__|::,!へヽ.、 || ll|,.イ:|::|:::::| ズゾー | | | :::::;':::::::::,. '" く \\ r| ||ト、:|:::|::|::::| | | | :::/:::::/ ⌒ヽ/⌒ヽ.\_T.|| l| !:::|::|::::| ( ) . | | | /:::::/ __,,./ 、 \`ヽ,\ ||| |イヽ|/:: | | | :::;:イ // / ヽ、\ノ、ノ\\ | i:::( ) | | | :/ !/ ト、 ヽ、ソ!「L___\|\> ( ) .| | |__ ハ ト、`'´ ,l | く__,/ ||| |〉 (^ヽ、ヽ, | | / :::ゝ、 ヽ  ̄7 / 「二二二二二i ヽ, |. | | / ::::/::::::::>、___二_レ' i緑のたぬき/ i .| └┴┴┬─── ::::::::::::〈 / ヽ、二二二/ ノイ.ソ ,.p_. r|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄(:::::::) ̄「 ̄
498 :
世界@名無史さん :2007/07/23(月) 21:47:04 0
>>494 それなら、ハプスブルク=ヴォーデモン家が正しいよね。
ハプスブルク=ロートリンゲン家ではなくて。
>>&493 >3.ロートリンゲン公国はポーランド継承戦争で正式にフランスに併合されるまでは 帝国諸侯。
>かつ同戦争において失地の代償としてトスカナ大公国が譲渡される。
メッツ家は1047年から1453年までロレーヌを治めていて、1473年からヴォーデモン家なら、
ブランクの20年は、アンジュー家ですね。サンキュー。
そのときは、ロートリンゲン公爵としては、アンジュー家は、ハプスブルク皇帝の臣下であったってことだ。
499 :
世界@名無史さん :2007/07/23(月) 21:49:17 0
ハプスブルク家としてはロレーヌを失い(フランツとしては失い)、 代わりにトスカナを得た。 しかし、神聖ローマ帝国としては、ロレーヌを失い、それでおわり。 トスカナはあくまでもハプスブルクの私領であって、 帝国領でないのが、気になるよ。
1648年ウェストファリア条約以降のドイツの決定的な分裂を考えれば 「神聖ローマ帝国」よりも「ハプスブルクの私領」の方が優先されるだろう。 ハプスブルクにすればロートリンゲン喪失もトスカナ獲得という代償が得られたならば問題はないし 南ネーデルラントとバイエルンの交換という施策も領域的主権国家として 統一されたハプスブルク帝国という考えでは自然な発想では? 神聖ローマ帝国をハプスブルクの中心的な基礎としているなら 18世紀のカール6世の国事詔書やマリアテレジア、ヨーゼフ2世の集権化は説明できないだろう。 オーストリア世襲領、ボヘミア王国、クロアティアを含むハンガリー王国を中心とした ハプスブルク「国家」としての統一が、アウスグライヒまでの帝国の主要な内政面での課題だったわけだし。
オーストリアの歴代皇帝を語るスレッドなのに、 何で17世紀の話をしてんの?
まあ17世紀のウェストファリア条約は遡りすぎだが 国事詔書やマリアテレジアとヨーゼフの改革は フランツ1世時代やバッハ、そしてハンガリーの官僚制、 国事詔書はアウスグライヒと強い関連があるのだから 18世紀のハプスブルク帝国の政治過程は19世紀のハプスブルク帝国を考える上で重要でしょう。 で、その18世紀の諸改革の前提がウェストファリア条約、すなわち近代欧州のはじまり。 単に1804年以降のハプスブルク帝国だけを見ると「木を見て森を見ず」になるんじゃない? 個人的には19世紀を通じた墺露関係や帝国の統治機構に興味があるから 政治、経済に関わらない、18世紀以前のハプスブルクの人々については該当スレでやるべきとは思うが まあ「オーストリア皇帝」について幅広く考察するのは悪くないでしょう。 だいたい世界史板のスレは脱線も面白いんだし。
キャハハ!必死!!
変なのが来たな
506 :
世界@名無史さん :2007/07/26(木) 09:31:25 0
あげ
507 :
世界@名無史さん :2007/07/26(木) 21:43:57 0
ハプスブルク=ヴォーデモン家で決まりか。 でも、だれも、そうは呼んでいないが。 フランツの実家ではもともと、どう呼んでいたんだろう。 ただこの交換で、ご実家が営々築いてきたロートリンゲン との絆や利権(悪い意味でないのですが、適当なことばがなくて)がパーになったんだ。 総領息子フランツの結婚のせいでね。
508 :
世界@名無史さん :2007/07/26(木) 21:50:25 0
フランス領になったあとのロートリンゲン(ロレーヌ)ですが、 @ロレーヌのデュクという位は、また、ロレーヌ公領というものは存続したんですか。 ただし、ロレーヌ公領はフランス王国の一部になったんですか。 それとも、ロレーヌ公領は、神聖ローマ皇帝への臣従から離れただけですか(そして、とりあえずは、ロレーヌ公領はフランス王国と同君連合になったんですか)。 Aロレーヌ公領はまずは廃止となり、フランス王領のどこかに併合されたんですか。
509 :
世界@名無史さん :2007/07/26(木) 22:09:40 0
ロートリンゲンといえば、エルザスが思い浮かぶ(話が脱線するので失礼)。 エルザスはウエストファリア条約後、フランスの手にわたるんですが、それ以前は、 そのまえは、いったい帝国内でどうなっていたのか。 小領邦が分立(都市も複数それぞれ)ですか。エルザス伯領というのがどこかで聞いたんですが、 これはエルザス全体をカバーする広さがどうかわからず。
ルイ15世の舅がロレーヌ(ロートリンゲン)公になっていたね。 ポーランドから追い出されて。
まず、ポーランド王位を追われてロレーヌに亡命していたスタニスワフ・レシチニスキ
(ルイ15世の王妃マリー・レクザンスカの父)がフランツ・シュテファンから
ロレーヌ公位を譲られた。この公位はスタニスワフ1代限りのものとされ、
スタニスワフの死後、ロレーヌはフランス王国に併合された。
その後、ロレーヌ公位の称号を与えられたフランス貴族がいたと言う話は知らない。
>>507 3代にわたってロレーヌをフランスに占拠されている間に、むしろオーストリア(亡命先)
との絆が深まったかも。
512 :
世界@名無史さん :2007/07/28(土) 23:41:36 0
今思えば、西欧における領土帰属問題って 意外と少なかったのかも
そんなことはないでしょ。 領地争いで戦争はしょっちゅう。
514 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2007/07/29(日) 05:06:18 0
>>507 親父の方が息子をハプスブルクに売り込んでたんだから
結局皇帝位が手に入って血も残って、家名まで残って大儲けだと思うよ。
家名は地名とか城に因んでつけるもんでもあるし
傍系に行けば更にそれが上乗せされてくもんでもあるよ。
本人達がロートリンゲンて名乗ってるんだからそれが正しいと思う。
前調べたら今はエステがついてるみたいだったしね。
フランスはビルパン氏が逮捕されそうになってるけど
今の大統領は移民だって言うし、貴族政治は変わりつつあるのかね。
>>511 居たとしたらフランスの貴族名鑑に載ってるんでないか
王家のもんになってそうな予感はする
515 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう :2007/07/29(日) 08:17:53 0
今の大統領はハンガリー貴族だよ。
領土争いっていっても国家に帰属するもんじゃなくて、あくまで君主の私的財産。 んで先祖代々とかいう意識も薄いのでより有力な領土を得たらあっさりそっちに本拠を移すことも多い。 大体ハプスブルク家にしてから先祖代々オーストリア公だったわけじゃないし。
当たり前でしょ? 国民国家の概念が誕生する前の話をしているんだもの。
518 :
世界@名無史さん :2007/07/31(火) 20:50:30 0
あげ
帝国主義全盛のオーストリア帝国にも植民地を設置する計画があって カロリン諸島がその候補地に目されていたらしいけど、 他にも植民地化しようとしていた地域はなかったのかな? 植民地が作られてもボスニアと同じく大蔵省や外務省の下に置かれそうだがw
まあ、他の列強の食べ残しの地域のために、 わざわざ植民地省を設置するほどではないのはたしかですね。
自分が調べた範囲でのオーストリアの植民事業(19世紀に限る)は 新絶対主義時代の紅海調査(1857)と二重制時代のソロモン諸島調査(1896)、 あと好意的に解釈してマクシミリアン大公のメキシコ皇帝即位くらいかなあ。 どちらかといえば海外での植民基地建設は海軍の関心に拠るところが大きいから 帝国陸軍省の直轄になった可能性もある。 まあ帝国主義を領土分割と考えず市場と資源の確保と考えるならば 陸続きのボスニア・サンジャック・マケドニア・テッサロニキへの進出が妥当。 この場合は大蔵省管轄が妥当だがバルカンの領土分割はマジャール人と英独が 反対するから現実のように経済的進出がやっとだったんだろうね。 それもドイツ資本の前に屈服するわけだが。
522 :
世界@名無史さん :2007/08/01(水) 20:41:44 0
オーストリア=ハンガリーの海軍って、陸軍省の所管だったんだ? やっぱり内陸の国って普通と違うね。 ウィーンの旧陸軍省って、ものすごく立派な建物だけど、 なるほどって感じ。
ドナウ艦隊とアドリア海に配備する艦隊を帝国海軍省が管轄した方が危ないような。 まあ外交政策と軍事政策がフランツ・ヨーゼフの政府に一元化されていたのは 財源の問題を克服できなかったものの妥協としてはよい線だったかなあ。 もっともその皇帝の保守主義が「わが軍の状況は、とうに永久に軍縮を実施している」 と皇帝の「最愛の陸軍」の参謀総長に非難されるに至ったわけだがね。 まあドイツみたいに軍人が帝国内閣を支配することは(制度上の問題もあるけど) ついになかったな。そのかわりに帝国内閣をドイツ軍に支配されたわけだが。
>>500 ハプスブルクとしてはそうでしょうけど、帝国諸侯としてはどうなんでしょうね。
皇帝と他国との条約で領地替えが認められたらたまったものではないと思いますが。
>>509 エルザスは小領邦分立状態だったかと。
このうちヴェストファーレンでフランス領になったのはハプスブルク領のズンドガウその他だけで、
この時点ではエルザスの過半は帝国に留まっています。
中心都市ストラスブールを含む残りの併合は1681年(他国の承認は1697年ファルツ継承戦争の講和条約であるライスワイク条約で)。
525 :
世界@名無史さん :2007/08/05(日) 12:48:14 0
あげ
526 :
世界@名無史さん :2007/08/07(火) 09:24:29 0
1919ワイマール憲法
廃れたな・・・・
528 :
世界@名無史さん :2007/08/12(日) 09:09:45 0
あげ
>>527 まあ近代オーストリアで正直500もレスいくと思わなんだわ。
というわけでこれまであまりネタになってないところで。
メッテルニヒ外交ってどうよ?
メッテルニヒはウィーン会議の主宰者で19世紀前半の欧州を代表する政治家だったわけだが
その評価は19世紀後半を代表する「ビスマルク外交」に比べてあまり話題にならない。
せいぜい「正統主義の反動政治家」というのが一般的評価。
メッテルニヒについて主な論点を整理すると
1)彼はオーストリアの支配者であったのか(フランツ1世やコロヴラートとの関係)
2)彼の政治的関心は西欧か、それともロシアか(1833年のロシア皇帝とのギリシア問題の和解)
3)そもそもメッテルニヒ外交とは何なのか(オーストリアのためか、欧州のためか)
てところかなあ。以下私見。
1については少なくとも内政についてメッテルニヒの権限はそれほど大きくなかった。
2、五国同盟の瓦解以降メッテルニヒ外交の及ぶ範囲は英仏を除くドイツ・ロシア・イタリア。
3、彼はオーストリアよりも欧州秩序を優先したのではないか(ビスマルク外交とは違う、ある意味保守的)
530 :
世界@名無史さん :2007/08/22(水) 01:12:45 0
久々に見たら止まってる。話が尽きないかと思ったけど…。
>>529 メッテルニヒは外交畑だったわけだし、個人としての権力も大きくないよね。
フェルディナンドを皇帝に即位させたときは少々強引に権力を行使したが、
ウィーン3月革命であっさり皇帝に切られたことを見ると、
外から見ると(皇帝を除けば)帝国内の最大権力者の姿だったが、
実状はそんなことないというのが本当では。
またメッテルニヒにとっての一番の関心は、ドイツ問題とイタリア問題でしょう。
ギリシア独立には失望したと思うけどフランス七月革命もベルギー独立も
最終的には容認している。対照的にドイツ・イタリアでの騒擾に対しては
ことごとく妨害し、時として武力で抑えようとしている。
欧州秩序(というか民族主義や自由主義、民主主義)については、
オーストリアのために守ろうとしたのであり、基本的にはドイツとイタリア圏内
での、帝国が持つ地位を維持し続けることが目的ではないかと。
531 :
世界@名無史さん :2007/08/23(木) 22:00:53 0
>>530 ギリシア独立や七月革命、ベルギー独立は「容認」というより
オーストリア財政の欠陥のせいでどうしようもなかっただけでは?
ギリシアはロシアが援助するし、七月革命ではポーランド騒擾だしで
結局メッテルニヒ外交はロシア頼みなイメージがある。
532 :
世界@名無史さん :2007/08/23(木) 22:18:43 0
>>530 いや、1848年革命までの30年間
メッテルニヒが作った秘密警察の威力は絶大でしたよ
ただし権力の源泉は皇帝からの信頼にあった
政治家としては中国における周恩来+康生のようなタイプかと
>>532 じつはあまり秘密警察は大した規模じゃあなかったらしい。
それでも同時代人に恐れられたなら大した人物だけどなあ。
534 :
世界@名無史さん :2007/08/23(木) 23:05:13 O
>>533 規模が小さいってのは近代ソビエトなんかと比較するからであって
当時としては過去に例の無いものだったのでは?
>>534 検閲は厳しい(そりゃあ出版物は規制しやすいから)イメージはあるが
警察規模はウィーン治安維持も含めて600人程度(もちろん大半は一般警察)。
およそ1000通の郵便物に対して「盗み見られた」のは100通が限界だったらしい。
まあ「警察国家」と言われるからメッテルニヒを反動の権化みたく今日でも言われるけど
以外に脆弱だったんじゃあないかなあ。
専任の検閲官は25-50名程度だったし、とてもKGBやCIAとは比べられんよ。
(ちなみに暗号解読の「秘密暗号局」スタッフが48年に22名、ある意味効率がいいかも)
まあその検閲もフランツ1世死後緩和したようだ。
この程度の検閲システムじゃあ自由主義系の雑誌や書物はオーストリアで発行しない限り
隣国からいくらでも入手できるからねえ。
だいたいメッテルニヒは警察と外交は握っていたけど
財務は政敵コロヴラートが握っていたし宮務にも強いわけじゃない。
そして軍部は三月革命とクリミア戦争で露呈したとおり列強では最低レベル。
それでいて同時代人(皇帝一族からベートーヴェンまで)に恐れられていたのは
メッテルニヒの凄さだと思う。
>>530 とは意見は多少異なるけどドイツとイタリアを「あのオーストリア」が支配した外交官だからねえ。
537 :
世界@名無史さん :2007/08/24(金) 05:19:19 0
ルドフル2世、マティアス、フェルディナント2世と続くわけですが、 マティアス以外の2名はイエズス会の教育を受けているのが判っています。 とくにフェルディナントはその洗脳教育のせいで、熱狂的な旧教びいきでした。 マティアスがよく判らないのです。 この人物は宗教的にはどういう影響を受けて来ているのでしょうか?
538 :
世界@名無史さん :2007/08/25(土) 00:03:07 0
あの時代に、1000通の郵便物に対して100通を検閲していたとすれば、 常識的に考えて、CIAの比ではないと思うが。
539 :
世界@名無史さん :2007/08/25(土) 01:31:37 0
>>535 江青のことだと思った?
康生は毛沢東の懐刀だった中国の特務(スパイ)の元締
1976年に死んだ時には党内序列4位まで昇っていた
>>538 あの時代だからこそ可能、てのもあるが
これはウィーン経由の郵便に限った話で
その他の地域・領邦ではそれ以上のことをできる警察組織はないよ。
地方ではそこの警察が一般業務と秘密業務を両方こなしていたが
オーストリアの財政の三分の一が公債利子の返還にあてられた現実を
考えると大した規模は維持できんよ。
(もっともウィーンの秘密暗号局は朝七時から九時までの二時間で
100通を写してもとの開封前状態に戻して郵便局に返した凄腕の連中、
これを召使を含めて22人のスタッフで行っていたんだからそれもまた凄い。
フランツ1世やメッテルニヒは面白いゴシップを毎朝読んで楽しんでいたというから
それもまた変なエピソード)
思想や政府批判、学問的研究の広まりは郵便窃信や検閲によって防ぐことはできないし
これら「警察制度」がそこまで自由主義者を圧迫したわけじゃあない、
まして三月革命の原因ではないだろう。
ウィーンでは発禁の外国作品が世界一広く読まれて、他のどの国よりも広範に流通している、
とはオーストリアのある劇作家の1835年の発言。
まあ「絶大な秘密警察の噂」が革命運動を下火にさせたのもまた事実だけどね。
フランツ・ヨーゼフをハンガリー語で言うと、フェレンツ・ヨゼフ? 他のオーストリア皇帝は?
歴代「オーストリア皇帝」に限れば Ferenc I (1792-1835) フェレンツ1世 Ferdina´nd V (1835-1848) *たぶんフェルディナントでいいと思うんだが… Ferenc Jo´zsef (1867-1816) フェレンツ・ヨージョフ Ka´roly IV (1916-1918) これはカーロイ4世 皇后エリーザベトはエルジェーベト。 ちなみにオーストリアの国事放棄宣言は出されたが ハンガリー王位の請求権は結局どうなったんだ? あれでカーロイ4世はかなり無茶やりやがったからな。
今はHabsburg Ottó氏が名目上ハンガリー王の称号を持っていたのでは? ちなみにFerenc Ferdinándでフェレンツ・フェルディナーンド。
544 :
世界@名無史さん :2007/09/03(月) 09:07:52 0
最後の皇帝フランツヨーゼフの肖像画、80歳の誕生日にベーゼンドルファー者から皇帝に贈られた ピアノ(台座には双頭の鷲が彫られている)エリザベートの婚約時代の美しい肖像画、これらを横浜市会議員の太田正孝先生が 所有している。私はそれを知って先日拝見したが、展示している場所もウイーンの宮殿のようであった。こんなコレクションが 日本のみじかにあるなんてびっくりもしたし感激した。
>>542 >>543 おお、どうもありがとう。もし1922年まで王国が続いていれば、
オトー2世が誕生していたわけか…。
オーストリア・ハンガリーはやはり農業国であったわけだけど、
同時期のロシア帝国より工業力は上だったのかな?
帝国は地理的にも分裂してるよね。カルパチア山脈やら、アルプス系列やら
ウィーンやハンガリーはドナウ水系だけど、ボヘミア盆地はエルベ川だもんね。
そういった障害は工業化を多少なりとも妨げたと言えるでしょう。
それに当時発展していた他の沿岸国に比べて、大きな港に恵まれてないし。
トリエステはウィーンと鉄道で1854年に結ばれたけど、運賃は高くついたそうな。
>>545 経済や広義の帝国主義から帝国外交を考えるのも面白い。
1873年の大不況以降の保護主義で帝国は西部先進地域と東部後進地域の
「織物と小麦の結婚」で事実上自足できていた。
オーストリアはさすがに西欧列強には負けるがかなりの工業先進地域。
外港との鉄道の連結は遅いがドナウ海運へ鉄道を連絡させ、さらにドナウ河口域、
および両海峡の安全保障が為されれば帝国経済に問題はない。
もちろんトリエステやフィウメは重要だがそれにはアドリア海の安全保障も必要だし…
その産業資本の市場をハンガリー、そしてバルカン方面に求めて拡大したのが
19世紀後半のオーストリア経済だったろう。
ここでの問題はそのようなオーストリア資本(あるいは成長しつつあったハンガリー資本)を
代表する勢力が二重制のために帝国閣僚会議に一人もいなかったことじゃないかな。
ボスニア占領はオーストリア資本もハンガリー地主も反対したがアドリア海に海軍を配備したい
帝国陸軍省と失地回復を喜ぶ皇帝の支持で決定したようなもんだ。
ベルリン条約に最後まで反対したオーストリア資本家は二度と内閣を与えられなかった。
皇帝はある程度オーストリア資本と妥協する容易があった(事実それまではドイツ人自由派内閣、
しかも自由主義的なオーストリア議会の「政教条約」破棄にもカトリックの守護者たる皇帝は同意)。
オーストリア首相は帝国閣僚会議の公式メンバーだからそのポストをオーストリア資本が失ったのは
じつにその後の経済・軍事・外交の一貫性の点から言えば問題があったなあ。
セルビアとの豚戦争も保護主義のハンガリー議会の意思と利益を代表するハンガリー首相がいなかったら
どうなっていたことか。
547 :
世界@名無史さん :2007/09/18(火) 04:31:01 0
>>546 ボヘミアは工業先進地域でしたね。あとはウィーン周辺とかチロル地方あたりとか?
ドナウ河口域と言えばルーマニアか。そして両海峡はトルコと。
でもアドリア海の安全保障よりもドナウ・海峡地域の安全保障の方が
簡単とは一概に言えないような…。アドリア海は確かにイタリアがいるけど、
オーストリアは第一次バルカン戦争でセルビアのアドリア海進出や
モンテネグロの過大な拡張を食い止め、そしてアルバニアの国境確定では
最大要求とまでは行かなくても大体においてオーストリアの要求は達成されており、
アドリア海の勢力状況の維持を成功させています。ドナウと海峡の方は遠回りな分、
多くの国の利害に絡むので少々難しい気がするのですが、どうだったのでしょうか。
当時のボヘミアはエルベを伝ってハンブルグからも出港していたそうですが、
アドリア海の港ほど優しくはなかったようです。オーストリアの輸出入では
ドイツと相互依存に陥っていたかと記憶しているのですが、これってオーストリアの
経済に大きく影響あったのかな。でも第一次大戦で多くの国に分かれた後の
オーストリアは悲惨だったなあ、それがアンシュルスへの一時的な高まりを見せたけど。
548 :
世界@名無史さん :2007/09/22(土) 12:24:23 0
>>547 オーストリアの産業構造と政治、対外政策と貿易は二期に分けた方がいいかな。
第一期は大不況から世紀転換期くらいまで
第二期は世紀転換期以降、区別は極めて曖昧だけどドイツ「新航路」と対応させた。
第一期は鉄道の敷設が進行形の時代で
保守的なオーストリア官僚はまだまだドナウ水路を重視していたでしょう。
アドリア海に鉄路で大量輸送することは難しいことが一点、
もう一点は農業国ハンガリーと工業国オーストリアの利害が一致していたこと。
この時期は保護主義政策のおかげで国内資本がバルカンを独占し、外交も現状維持へ。
(オーストリア資本のライバルはまあいない、バルカンでは英国は事実上同盟国、
利害関係者ロシアは工業国ではなかったし資本の進出は露仏同盟以降)
ドナウ河口はルーマニアの三国同盟加入で解決。
海峡問題は現状維持を望む英国の支持がある以上、ロシアに屈することはあり得ない。
第二期はオーストリア資本の成熟期、かつドイツ資本の急成長期。
この時期、仏独の資本がかなりバルカンに投下されている(もちろんロシアにもだが)。
帝国内でもハンガリーへのドイツ資本投下が問題となった時期で
バルカンにおけるオーストリアの退潮は決定的。
バルカンの現状維持が不可能となりアドリア海の勢力均衡は「追い込まれた結果」と見るべきか。
セルビアは海を得られなかったが、オーストリアにとってそれは最小限度の満足に過ぎない。
どのみち最悪の不幸はオーストリア資本が健全に国政に代表されなかったことかなあ。
ドイツ人自由派の暴走が原因なんだが、ここに二重制の構造ではなく運用の問題があるような。
オーストリア(ハプスブルグ家)の歴代皇帝は芸術を愛していて音楽を好んでいたらしいが
>>549 ブルジョアジーの台頭もあるだろうけど
この四人の皇帝と芸術との接点は見えにくいな。
フランツは凡庸、小市民的、フェルディナントは白痴、
フランツ・ヨーゼフは官僚・軍人、カールは短命。
劇場に足を運ぶことはあったみたいだがそれは今の天皇一家が
大相撲を観覧するのと変わらんだろうし。
芸術の世紀末とフランツ・ヨーゼフに何か関係あるかなあ。
http://www.geocities.jp/musichall8541/kenkyuu1.html 珍しくオーストリア帝国についてのサイトがあったので張ってみる。
>>550 啓蒙時代や絶対王制時代のようにお抱えの作曲家や楽団があったとは
言わないが、当時の皇室は劇場やコンサートホールに援助を行っていたそうだ。
当時でもフランツ・ヨーゼフやルドルフ皇太子は女優や歌手などとの関係を
新聞にすっぱ抜かれていたこともあるし、かなり間接的な部分では関わっていたと
言えるのではなかろうか。
オーストリア・スラブ主義などの題材として帝国の鎹となった皇帝を
モチーフにすることはあったかもしれないね。
そのサイトは見たことあった(チェコ関連でだが)。 帝国史の「おわりに」を初めて読んだがどっちつかずだけどまあいい感じだね。 民族自決にも懐疑的だが帝国存続にも懐疑的、まして加藤雅彦氏みたいに 中欧共同体の先駆的価値なんて言わないのはよい。 ウィルソン主義(帝国の滅亡は必然であった)でも 修正主義(帝国は欧州にとって必要であった)でも 修正主義への反動(帝国の滅亡は回避できたが滅亡を決断したのは帝国だ)でもない まあ無難だけど、それだけに概説としては読む価値はあるかなあという印象。 内政・外交とも幅広く扱っているのもいいね、まあ相互の因果関係の内容は薄い気がするけど。
>>105-112 でフランツ・ヨーゼフ帝の崩御が早くて皇太子や
フェルディナントが即位していたら?というIFがあるけど、
個人的には1853年の皇帝暗殺未遂が既遂され、マックスが登極していたら?
というIFも気になる。
フェルディナント・マクシミリアン大公が政界に登場したのは1854年。 妃シャルロッテとの婚姻が57年で後の自由主義的な思想はベルギー王室の影響かな? (シャルロッテはベルギー初代国王レオポルド1世の息女、仏王ルイ・フィリップの孫娘。 皇后エリザベートへの敵意はゾフィのような保守主義というより単なる嫉妬だろうなあ) どちらにしろ1853年での即位では若年かつフランツ・ヨーゼフにおけるシュヴァルツェンベルクのような 人材がない以上、バッハ体制(新絶対主義)の傀儡にしかならんだろう。 その場合クリミア戦争でも外交当局の意向に従って対露断交。英仏接近もできず。 少なくともイタリアでの敗戦の1859年まではほぼ史実どおりだったろうねえ。 その後の帝国改革は行き当たりばったりだっただけにマックス大公の手腕は未知数。
>>554 どうもありがとう!うーん、少し若すぎるのか。しかし、60年代以降なら
違った道を歩んでいたかもしれないってことだね。普墺戦争やアウスグライヒが
どうなっていったかも気になるけど…。
ところで、オーストリア帝国史でハンガリーを中心に扱った書籍は無いかな?
どうもハンガリー史ってハプスブルグ帝国史に比べると、まだまだ盛んに
論じられていない気がするのだけど。
>>555 文庫クセジュの「ハンガリー」が二重制ハンガリーについては語ることがない、
と述べたものだが…
日本ではまだまだ近代ハンガリー史はハプスブルク帝国の「おまけ」のイメージが強いなあ。
帝国崩壊に迫る文献でもかなり注意深く読まないとハンガリーの政治史は見えないねえ。
558 :
世界@名無史さん :2007/11/02(金) 23:21:26 0
ちょっとドイツ語をかじったことがあるんで1815年の神聖同盟条約に続いて プラグマティシュ・ザンクティオンを訳そうと思ったんだが難しいな。 神聖同盟はメッテルニヒが「紙切れ」と言った理由が分かるような 精神主義的で本当に内容がない、という内容だった。 まあこれを背景にロシアを利用したメッテルニヒが凄いんだろうが。
マイヤーリンク事件って結局何だったのかな? 自殺説、他殺説と未だに決着が付いていない感じだけど…。 それともう一つ疑問なんだけど、ハンガリーとクロアチアが結んだナゴドバのように オーストリアとチェコの間でも協定が結べなかったのかな? ダバーニ言語令などは成果の一つかもしれないけど…。
>>559 マイヤーリンクはカトリック教徒の心中が大スキャンダルだから
他殺説が流されたとも考えられるが真相は分からんねえ。
自殺の動機は少なくないし、ルドルフ大公は従弟の帝位継承者みたいに
神経太そうにないし
ボヘミア・アウスグライヒは1871年ホーエンヴァルト内閣で締結が図られたが
ボヘミアの要求の高さ(共通議会へのオーストリア側代議員団への選出権や
財政分担金の件)と外相ボイスト伯とハンガリー首相アンドラーシの巻き返しで挫折。
スラヴ寄りのターフェ言語令などでその後も妥協への模索は続くんだがなあ。
なお1905年にはモラヴィアでアウスグライヒ(モラヴィア邦議会でのチェコ人とドイツ人の
議員数を固定化)が成立している。
帝国諸邦は要求高いよな……オーストリアを踏み台としてしか見てないというか
>>561 「諸邦」という歴史的単位の集合が「帝国」という歴史的かつ政治的単位なんだから
新たに「民族」という政治的単位が生じれば「帝国」からの遠心力は強まるわな。
最も歴史的である政治的単位である「皇帝」すらオーストリアに寄生していたと
見ることもできるんではないか。
まあ皇帝も諸民族も「帝国」の中にあって「帝国」を食いつぶすという点では変わらんか。
遅くなりましたが先日(11月20日)に最後の皇帝カール1世の長男である オットー大公が御年95歳の誕生日を迎えられました。 おめでとうございます。いつまでもお元気で!
>>560 「ナゴドバ」では、確かハンガリー議会に一定数のクロアチア議員団が
選出されることを保証したんじゃなかったっけ。
アウスグライヒの内容に抵触しない限りで妥協できればハンガリーの介入を
招かなくて済んだとおもうのだけど…。
諸民族の中でもイタリア、ルーマニア、セルビア、そしてドイツ人は
同胞の隣国に心惹かれていたので分離要求が高かったのだろうか。
いずれの民族とも19世紀中はそれらの国とオーストリア間で同盟が結ばれて
いたけど、セルビアクーデターやルーマニアの離反など20世紀になると
同盟関係による分離運動の抑え込みができなくなってしまったね。
スロヴェニア人やスロヴァキア人、ブゴヴィナ人は経済的に貧しい地位に
置かれていたので要求が低かったと聞くけどホントかしら?
>>564 ホーエンヴァルトとチェコ民族指導者の「アウスグライヒ」は
後のような言語だけでなく、軍事・財政に及ぶ連邦主義的なもので
帝国(オーストリア部分)憲法の大改正を伴うものだったからねえ。
二重制の既得権者であるマジャール人だけでなく
ボヘミアやシレジアのドイツ人と結んだウィーンの自由派としても認めがたいのだろう。
詳しくは
川村清夫『オーストリア・ボヘミア和協』中央公論事業出版、2005
ボヘミア問題では
帝国においてもポーランドなんかは優遇されていることを考えると
民族主義(ドイツとチェコ)と歴史(ボヘミア王冠)という二つの要素が妥協を難しくしたのだろうね。
モラヴィアでは後年、妥協できているんだから「歴史」が大きいのかなあ。
566 :
世界@名無史さん :2007/11/26(月) 19:38:50 0
後段の諸民族問題で言えば イタリア、ルーマニア、セルビアの諸民族の遠心力は確かに強まっていった。 ただイタリア人は特権階級、ルーマニアやセルビアも大部分がハンガリー王国の 支配下にあったこともあって発言力は小さかったな。 ハンガリーの少数民族(と無産マジャール人)抑圧政策はある意味凄い。 大胆に言えば「ハンガリー国民」がマジャール人と同義になるのは1956年じゃねえか、 と思うくらいブルジョアとマグナートとジェントリの支配体制が強固。 それだけ支配層が厚いのだろう(1890年の有権者は人口比6.3%とかなり高い)。 スロヴェニア人やスロヴァキア人は新絶対主義時代に政府が意図して 反ドイツ民族主義、反マジャール民族主義を煽って独自文化の発展を推奨した歴史があるが 後者は上部ハンガリーの被支配民としてその後は目立った活動もなく(スロヴェニア語教育は禁止)、 前者はドイツ人とイタリア人の圧力から帝国政府・帝国議会を必要としたようだ。 ルテニア人は帝国では最も識字率が低かったしポーランド人の支配下にあった。 ただウクライナとの連携は見られないなあ。ウクライナそのものが反露(反ペテルスブルク)だし。 まあポーランド(ガリツィア)は普通選挙法でも他の地域とは異なる制度を採ったようだし 意見が中央に反映されなかっただけかも知れないけれど。
最初は別に独立なんかどうでも良かったんだと思うよ ただ、なんか独立に燃えていらっしゃるハンガリーに「お前独立運動すんなよ!したら殴るぞ!実力無いんだからな!」って念を押されて しかも隣国で同じ民族の奴が建国して、自分達の事を「やーい隷属民、お前らそんな状態で恥ずかしくねーのかw」って馬鹿にされて 「なんだ手前こら俺達を馬鹿にしてんのかよこんにゃろ独立ぐらい俺達だってしてやんよルーマニア人なめんなボケ!」ってなったんじゃね? 分かりにくい喩えですまん
>>567 あまりトランシルヴァニアのルーマニア人は民族運動に熱心じゃなかったような。
ハンガリーの圧政とルーマニアの煽動は事実としても。
あそこの支配層はマジャール、ドイツ、ザクセンだしなあ。
569 :
世界@名無史さん :2007/12/02(日) 15:17:45 0
エスタライヒ・ウンガルン・チェスカー・フルヴァツカ
J( 'ー,`)し ハンガリーへ げんきですか。いま独立運動してます (`Д) うるさい死ね 独立運動すんな殺すぞ J( 'ー,`)し ごめんね。トランシルヴァニア、はじめて独立運動したから、ごめんね (`Д) うるさいくたばれ、独立運動すんな J( 'ー,`)し さいごの税金、おさめておきました。たいせつに使ってね 地方の統治はしていますか? (`Д) 死ね糞スラヴ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄○ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ o __ ゚ 墺 | 皇 | 帝 | 之 | 墓 | ∴ ('A`) ゴメンヨ, トランシルヴァニア ......... ──┐ ∀ << ) イツカ ルーマニア カラ トリカエシテヤル カラナ........
____ / \ / _ノ ヽ、_ \ / o゚((●)) ((●))゚o \ ほんとはマジャール人の独立国家を作りたいんだお… | (__人__) | \ ` ⌒´ / ____ / \ / _ノ ヽ、_ \ / o゚⌒ ⌒゚o \ でもヨーロッパ列強は大国しか相手にしてくれないお… | (__人__) | \ ` ⌒´ / ____ /⌒ ⌒\ /( ●) (●)\ /::::::⌒(__人__)⌒::::: \ だからオーストリアの中に自治国を作るお! | |r┬-| | \ `ー'´ /
なんだこの流れw ,. -‐-‐ "´゙ヽ、 ノ; ; *; ; ; ; ; ; ;.゙`ヽ、 . ri!; ; ; ; ; ; ; ; ; ;*; ; ; ; ヽ { ; ; ; ; ; ;;; ; ; ; ; ; ; ; ; ; *ヽ {; ; ;.,,..ノ,' ,,,、; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ヽ あ…ありのまま 今 起こった事を話すわ! ヽ { `ヽ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;.} ',{、__ u _ ヽ; ; ; ; ; ; ; *`} 『私は姉と皇帝のお見合いに立ち会ったと }. "忝` }; ; ; ; ; ; ; ; ; ノ 思ったが、皇帝は私を嫁にすると言い出した』 | ,' (::::) ); ; ; ; ; ;} ', ヽ-゙ u ノ‐'; ; ; ;*; ;', な… 何を言ってるか わからないと思うけど ', `== ノ ,'; ; ; ; ; ; ; ; ;.', 私も何を言っているのかわからないわ… ヽu u, '´ }; ; ; ; ; ; ; ; ; ; ;} `T ̄ 。 。-‐',; ; ; ; ; ; ; ; ; ;{ 頭がどうにかなりそうだった… / 。 ゚ ー=', ; ; *; ; ; ; ;} ゾフィー皇太后だとか そんなチャチな原因とは断じて違う /。 ゚ ー=', ; ; *; ; ; ; ;} もっと恐ろしい運命の意思の片鱗を味わったわ…
戦前 / ) ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: / / ::∩::::::::::::::::::::::::::: / / ∧_∧ ...| | ( ( /⌒ヽ < `Д´>// ∧_∧ ヽ ヽ⊂ ̄ ̄ ̄⊃ みんな俺が養ってやるぜ! / セルビア.. ∧_∧ ´ー`) \\(´∀` ) n .∩ ∧_∧ ( ´A `)南チロル ハ \ ( E)|| ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ (丶`∀´) /クロアチア\ ノ | 帝国/ヽ ヽ_// | .| (丶`∀´) ( ´∀`) ( ^ω^) ( ヽ, /ポーランドヽ、/ , // ヽ, | ノ \__/ | .| /ハンガリー ヽ/ ボヘミア ヽ、/モラヴィア ヽ、 戦後 / ) ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::: / / ::∩::::::::::::::::::::::::::: / / ∧_∧ ...| | ( ( /⌒ヽ < ゚д゚ >// ∧_∧ ヽ ヽ⊂ ̄ ̄ ̄⊃ / セルビア.. ∧_∧ ゚д゚ ) \\( ゚д゚ ) n .∩ ∧_∧ ( ゚д゚ )南チロル ハ \ ( E)|| ∧_∧ ∧_∧ ∧_∧ ( ゚д゚ ) /クロアチア\ ノ | 共和国/ヽ ヽ_// | .| ( ゚д゚ ) ( ゚д゚ ) ( ゚д゚ ) ( ヽ, /ポーランドヽ、/ , // ヽ, | ノ \__/ | .| /ハンガリー ヽ/ ボヘミア ヽ、/モラヴィア ヽ、
みんなAAコピペの使い回しがうまいなw
575 :
世界@名無史さん :2007/12/05(水) 09:37:46 0
イイスレダナー
兵士の方は軍隊の中で最も必要な単語(進め!など)をドイツ語で 学んでおけば良かったので、兵舎などで生活している分には 母語を話せていたらしい。連隊の区分けは地域毎だったからね。 将校の間では87年頃ならイタリア語が37パーセントぐらいを占めていたが、 世紀明けにはチェコ語がぐんぐん延びている。どちらでもハンガリー語は 高い比率を占めていたが。将校が複数の言語を解することは少なくなく、 中には三つや四つ以上の言語もこなしていたとか。 兵士の民族別の構成はだいたい帝国内の民族構成と同じようになるよう 配慮していたそうだ。
↑ ここは書籍やウェブサイトで得た知識を嬉しがって披露する場所じゃありません>< ましてや貴方のような厨房の学習ノートや日記帳でもありません><;
>>576 だいたいが大津留さんの本に書いてあることだな。
将校の母語は基本的にドイツ語なんだが
これがドイツ民族主義と結びつかないもんで
ドイツ人貴族支配の名残であるところが二重王国の面白いところ。
ハンガリーもマグナートとジェントリの支配にあったわけだし
結局、帝国官房に民族ブルジョアはついに進出できなかったわけだ。
ドイツ民族って感覚があんまり無いんだろうな あくまで「ドイツ人」であって非ユダヤ人種の中の一つに過ぎないというか
580 :
世界@名無史さん :2007/12/22(土) 23:00:30 0
センター力up はじめからわかる世界史B266ページ図B オースト「ラ」リア継承戦争 orz
>>580 あるあるwwwwwwwwworz
「プファルツ(独)」と「ファルツ(英)」のズレとか、
「プロイセン(独)」と「プロシア(英)」のズレとか、
そんなレベルじゃないよな……ラリアとリアのズレは
その昔、セオドア・ルーズベルトを「S.ルーズベルト」と書いている参考書に出会った覚えがありますな……
イイハナシダナー
ああ、本当にいい話だ
感動しすぎて涙ちょちょぎれちまうぜ
よくわからんが、ローズヴェルトと書くのが正しいと言いたいわけ?
あ、わかった。SじゃなくてCか。
ギャグで言っているんだと思うが、マジレスするとTな
ファーストネームで思うんだが どうしてフランツ・ヨーゼフ1世はフランツ2世じゃないのだろう。 祖父のフランツ1世もフランツ・ヨーゼフ・カール(フランツ・ヨーゼフのフルネームと同じ)だし その祖父神聖ローマ皇帝フランツ1世はフランツ・シュテファン。 どのように皇帝の通り名(?)は決まるんだろうか …と無理やりスレの流れを戻してみよう。
フランツだからってフランツ一世みたいな治世だったら駄目な状況だが かといって神から授けられた洗礼名を変えるのは許されない事である…… じゃあヨーゼフひっくるめてフランツ・ヨーゼフ一世にしようぜ! みたいなノリで決まったんじゃないか?
>>590 しかしフランツ1世はウィーン市民に好感を抱かれていたし
かつ「フランツ」という名には強い王権の正統性がある。
「ヨーゼフ」はあの農民皇帝の面を被った官僚専制のヨーゼフ主義しか
イメージがないんだよなあ。
592 :
世界@名無史さん :2007/12/28(金) 13:36:07 0
>>589 ナポレオンによって神聖ローマ帝国が消滅
神聖ローマ皇帝フランツ1世(アントワネット父)
神聖ローマ皇帝フランツ2世(ナポレオン妃マリールイーズ父)
【ここで、神聖ローマ帝国が消滅したので、オーストリア帝国を作る】
神聖ローマ皇帝フランツ2世⇒オーストリア皇帝フランツ1世
フランツ・ヨーゼフは知らん
593 :
世界@名無史さん :2007/12/28(金) 13:37:51 0
あ、悪い 最初からフランツ・ヨーゼフの話題だったのか
>>591 君はもしかして「善良なる皇帝フランツ」を文字通り「フランツは良い皇帝」って意味で受け取ってんの?w
フランツ・ヨーゼフの「ヨーゼフ」は実際ヨーゼフ2世から取られたんじゃないの。 どこかでそんな話読んだけど。 そうじゃなくて「ヨーゼフ主義」という言葉のイメージしかないってことを言いたいのか?
>>594 もちろんフランツ1世の「デア・グーテ・カイザー Der gute Kaiser」が
ある意味の蔑みや哀れみをもって言われたのは事実だろうけれど
絶対主義にあって小市民的な生活を好んだ皇帝にウィーンっ子は
それほど悪い感情を抱いたのだろうか。
彼は「凡庸」かもしれないが「無能」ではないだろう。
メッテルニヒも皇帝の信任を失えば十二時間と今の地位にいられない、
私はヨーロッパを支配しているがオーストリアを支配したことは一度もない、
と言わしめた人物だからなあ。
>>595 あの時期に多くの大公の名の一部であるヨーゼフってのは自分もあの
ヨーゼフ2世だと思うのだけど、何故ヨーゼフ2世なのかが分からない。
19世紀はじめに、既にヨーゼフ2世は今日のような、ある種の「過大評価」を
されていたのだろうか?
ある本ではヨーゼフ2世こそが「オーストリア国家」の理念を築いたとしているが…
>>589 フランツ・ヨーゼフ1世の場合は、祖父のフランツ1世の名前を継承して
「フランツ2世」と名乗るか、或いは神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世の
「ヨーゼフ」の名前を用いて「ヨーゼフ1世」と名乗るかで考えが分かれたが
どちらも捨て難いし、じゃあいっそのこと両方選んで本来の名前そのままに
「フランツ・ヨーゼフ1世」でいいだろう、みたいな流れで決まったんじゃ
なかったかな。記憶違いだったらスマソ。
>>596 19世紀に書かれた歴史小説を読んだけど、
ヨーゼフ2世は過大評価というか、非常に好意的に書かれていたよ。
没後100年経ってないのにこの礼賛ムードwww と思うくらい。
>>589 通り名っていうか、皇帝として名乗る名前ってことだよね?
最初の1つか2つを取るんじゃないの、と思ったらそうでもないんだ。
レオポルト2世は Peter Leopold II Joseph だそうだ。
真ん中とることもあるんだ・・・
>>598 皇帝として名乗っているわけじゃないけど例えばハプスブルク家の現在の当主のオットー氏
(カール1世の長男)のフルネームは出だしが「フランツ・ヨーゼフ・オットー」で専ら呼ばれている
オットーという名前は3つ目にくる名前だし、オーストリアの兄弟国ともいえるドイツの皇帝
ヴィルヘルム2世もフルネームが「フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクター・アルバート」でやはり
皇帝としての名前に出だし以外の名前を選んでいる。そう珍しいことでもないかと。
600get!
601 :
世界@名無史さん :2007/12/30(日) 00:23:28 0
うーん、難しいな>名乗り ドイツ圏(北欧には例があったかな)に限った話なんだろうか。 フランスじゃルイ・フィリップ以外思い浮かばないし英国にはいなかったはずだし。 スペインは今のフアン・カルロス1世が初見かなあ。 ドイツ圏に限った話ならタイトル(爵位)の所有なんかとも関係あるのかなあ。
603 :
世界@名無史さん :2007/12/31(月) 12:12:40 0
イギリスの場合でもそうだけど、君主としての名前はファーストネームとは限らないようだ。 現女王の父ジョージ6世もそうだし、チャールズ皇太子も「ジョージ7世」になるらしいし。
>>599 >オーストリアの兄弟国ともいえるドイツ
お前の余りにも寛大な認識に吹いた
普通オーストリアオタはプロイセン系国家を異常に過小評価して
プロイセンオタはオーストリアを馬鹿にしまくるもんなんだが
>>604 お前の脳内評価なんて知ったこっちゃないよw
つーかどっから湧いてきたんだ?さっさと巣に帰れ
>>604 そうなのか!
てっきりチャールズ3世になって断頭d(ry
まあジョージもそんなにいい名前ではないけど…
608 :
世界@名無史さん :2007/12/31(月) 22:37:32 0
609 :
世界@名無史さん :2007/12/31(月) 23:23:03 0
「神聖ローマ皇帝」は教皇とならぶ至高の地位(実態はともかくとして) という語感があるが、「オーストリア皇帝」ってのはドイツの一諸侯という 感じしかしないな。
610 :
世界@名無史さん :2008/01/01(火) 16:33:42 0
諸侯を日本の大名家に喩えるとハプスブルクは島津なイメージ 名目的には「ドイツ」なんだけど、実質は独立した国家でドイツ以外にも手を出してるという
オーストリア皇帝になって選挙代が浮いた。
612 :
世界@名無史さん :2008/01/01(火) 19:45:13 0
神聖ローマ皇帝位が実質的にハプスブルク家世襲となってた時代も 代替わりにはそれなりにカネかけて選帝侯への根回しが必要だったんですかね。
613 :
世界@名無史さん :2008/01/01(火) 19:49:28 0
だから、マリア=テレジアのときにもめたのでは?
マリア=テレジアが男子だったらその後もバイエルン選帝侯の 出る幕もなくハプスブルク家の完全世襲が続いてたんだろうな。 しかしカール6世もさすがにサリカ法典を無視してまで娘に帝位を 継承させる気は無かったようだな。
615 :
世界@名無史さん :2008/01/01(火) 21:03:10 0
マリア=テレジア代替わりしたとき、帝位だけではなく オーストリアやボヘミア等の世襲領まで他家が巻き上げようとして 戦争になったわけだが、もしもハプスブルク家世襲領は全て マリア=テレジアの相続を認めて帝位だけは他家に譲れ、となれば 戦争も勃発せずに、帝位は平穏に他家に譲られ、ハプスブルク(・ロートリンゲン)家に帝位が 戻ることはなかったのだろうか?
仮にも神聖ローマ帝国における最有力家系のひとつだし 平穏に帝位が他家に移ってもなんだかんだで再びハプスブルク家が 帝位に返り咲いていた可能性も十分あるのでは。
自分たちの領地の経営にしか興味が無く、皇帝選挙など皇帝から譲歩を引き出す 材料ぐらいにしか考えてなかった帝国諸侯も、いざフランツ2世が退位すると あわてた。 結果、ドイツの分裂が決定的になり、プロイセン主導で諸侯の主権も 失われていった。
帝国諸侯もまさか帝国そのものが消滅するとまでは考えてなかっただろうから そりゃあ慌てただろうな。 まぁ神聖ローマ帝国崩壊に備えてしっかりオーストリア帝国を建国していた フランツ2世はいうに及ばず、帝国崩壊時にこれ幸いとばかりに王国昇格を 宣言して完全独立を手にしたバイエルンやザクセンの諸選帝侯のような 逞しい人々もいるが。
619 :
世界@名無史さん :2008/01/01(火) 23:25:15 0
>>615 それは絶対に無いだろ
「帝位」が欲しいのは一部のドイツ諸侯だけで
他国にしてみれば「領土」が欲しかったんだから
>>615 ハプスブルク家領は多民族によって構成されており
イギリスやフランスのように国民国家ではないからこの多民族を束ねるには皇帝
位が必要だったのでは
もし単なるオーストリア国王のみの称号なら、特に反抗的なハンガリーが素直に
オーストリア継承戦争や7年戦争に従っただろうか
たとえ実権はなくても皇帝は国王を超越したものとして支配下各民族には意識さ
れていたと思うのだが
>>620 そんなことが成り立つんだったら、
ハンガリー国王などを兼ねる必要はないわけで・・・。
____ / \ / _ノ ヽ、_ \ ほんとはドイツなんかに従いたくなかったんだお…… / o゚⌒ ⌒゚o \ でもオーストリアに見捨てられたらロシアとトルコの脅威がヤバいんだお…… | (__人__) | \ ` ⌒´ / ____ /⌒ ⌒\ /( ●) (●)\ /::::::⌒(__人__)⌒::::: \ だから「ハンガリー国王としての皇帝」だけを認めて好き勝手やるお! | |r┬-| | ドイツはドイツで勝手にドンパチやってりゃいいお、ハンガリーは関係ないお! \ `ー'´ / 、__r―ー-、__,, ヽ((((''''')))ノ <テレジア> ノノj;・ー・八 ハンガリー貴族の皆さん、助けてください! (l゛==''l) みんな敵になっちゃって、このままじゃ私 .く__ゝ この赤ちゃんと一緒に路頭に迷っちゃうんです>< UU
____ / \ / _ノ ヽ、_ \ / o゚((●)) ((●))゚o \ かわいそうなんだお…… | (__人__) | \ ` ⌒´ / ____ /⌒ ⌒\ /( ―) (―)\ /::::::⌒(__人__)⌒::::: \ ハンガリーに任せるお!プロイセンなんて蹴散らしてやるお! | | \ / ____ /⌒ ⌒\ /( ●) (●)\ /::::::⌒(__人__)⌒::::: \ (成功した暁にはハンガリーを優遇してもらうお!) | |r┬-| | \ `ー'´ /
吹いた
625 :
世界@名無史さん :2008/01/03(木) 10:51:01 0
>623 ハンガリーはその目論見に成功してマリア=テレジアはハンガリーを優遇し、 ボヘミアはマリア=テレジアは没落すると踏んで戦争協力に消極的だったため 冷遇されたんだったかな?
626 :
世界@名無史さん :2008/01/03(木) 11:30:04 0
マリア=テレジアはボヘミア王の資格で選帝侯だよな? カール7世が選出された際は誰に投票したんだ? 選挙の際はボヘミア王位も奪われたんだったかな?
__、_、ヽ`ニ、ニ`二、ニ`ニ`、=、=ヾァー:-:ー丶、,、、,,_,.,、 ⌒>\丶\ヽヽ ',!|/〃/ //,. ゙ : ' .: ゙ ,: ゙ ,/ ⌒丶\丶ヽ`、', 《〈 〃ノ/. ' . '_;.,;._ ;.' , ゙ // <フリードリヒ> __\ヽヾ:ヾ_ヾミ[]―‐[〕-''''"~´ 彡 . ゙ .゙〃 ⌒\ ミ|{「己川ロ后叨:.: し___! 彡 ;' . ゙ / う ・ ・ ・ ヾレュ三<´{(厶ニニ-‐、>ヽ ; : . ,゙i ⊂ ,{ {(j } }==Y∠r:ュ.ヾ, く;/^ヽ! c { ト >-<ン ,' ~厂 ̄´`ヽ ,ィ个 } うろたえるんじゃあないッ! ' {〔!厂〈ー‐、 '":::... u } )丿,ハ )|h `-'" / (__/,/ プロイセン軍人はうろたえないッ! . !| 「r三三ヽ J l /⌒l ! l | } ,. ―-| u ,/ 、_,ノj ,r一''"~´) !.ハ ノノ二ニ二! ノ `7〈 / ゝ''"´ __ . | .ハ ヽ-r―‐- ,f 、__// ヽ/-‐''(´ _,,ノ、 _,,.. -ー―ノ / ヽ ゙ー‐ / ! `゙{'′ ノ >‐'''(´_,,/ ー-、 ヽ-r―‐< ,r'゙{:___ノ`ー(、__/ >''"´ 、_,,,,,,,,,,,,,,,}!,,___{ ;' /´ '゙ ̄´ ̄´ 丶イ __ \ r―ー>''"/~"''ーく⌒ヽ._,,ノィ´ `) \ / /7゙ <´ ノ /〈 ><~´ ヽ,/ { ヽr、\ ''" ,. -''"―-ヽ `'ー- 、 // \ \ヽ、`丶、__,,..ィ´}! ,iリ ``丶、 \
628 :
世界@名無史さん :2008/01/03(木) 11:45:19 0
ヨーゼフ1世の娘(マリア=アマリエ)の夫→カール7世 カール6世の娘(マリア=テレジア)の夫→フランツ1世 どちらが正統かといえばヨーゼフ1世がカール6世の兄であるし、 前者の方が正統性が高いと思うがどうよ。
、__r―ー-、__,, <テレジア> ヽ((((''''')))ノ ノノj ・ー・八 シュレジエン返さんとフルボッコにすっぞコラ (l゛==''l) .く__ゝ UU 〃⌒⌒ヽ <エカチェリーナ> i 从 从) ヽ>゚ー゚ν ごめんねー、ロシアも大変なのよー。不凍港欲しいしねー (||∀||) /___ゝ (_)_) ∧S∧ <ルイ> ( ・∀・)◎ [SSSSSS]‖ ごめんねフリードリヒ、俺は別に戦争したくないんだけど / |S (つ ポンパドゥールタソを馬鹿にした男は許せないんだ | /-=-)‖、_ / / ∧ ヽ‖ ゝ / /_)(_)‖ / ビクッ! ∧ ∧ ∧ ∧ <フリードリヒ> Σ(゚Д゚;≡;゚д゚) ( こ れ は 流 石 に や ば い ) / つ つ 〜(_⌒ヽ )ノ`J
> ∧S∧ <ルイ> > ( ・∀・)◎ > [SSSSSS]‖ ごめんねフリードリヒ、俺は別に戦争したくないんだけど > / |S (つ ポンパドゥールタソを馬鹿にした男は許せないんだ > | /-=-)‖、_ > / / ∧ ヽ‖ ゝ > / /_)(_)‖ / なんかいいわこれ
あげ
632 :
世界@名無史さん :2008/01/04(金) 05:46:15 0
>628 戦争に負けた以上はハプスブルク家世襲領は マリア=テレジア・フランツ系が継いでいくんだろうけど カール7世が長生きすれば帝位はマリア=アマリア・カール7世系で 継いでいくことになってた可能性は高いと思う。
皇帝フリードリヒ三世(ハプスブルク家としては五世の方)の時も そんな感じで帝位が転がり込んできたわけだから、前例はあるよな
634 :
世界@名無史さん :2008/01/05(土) 05:30:08 0
>626 皇帝選挙の際のボヘミア王はカール7世。 カール7世自身、選帝侯として2票の投票権を獲得してた。 ボヘミア王位も帝位同様実質的にハプスブルク家が実質世襲していたが、 ボヘミア王も建前上は選挙王制で、このときカール7世をボヘミア王に選出。 一貫してマリア=テレジアを支持したハンガリーは以後ハプスブルク=ロートリンゲン家に 優遇され、ボヘミアは冷遇されていく遠因になる。
ウィーンが占領されたのってナポレオン戦争と普墺戦争とWWIIの3回?
そのかわりWW1では占領された
ウィーン占領って今イチ悲壮感に欠けるね。 王家一党は戦犯として裁かれ、女子は子供に至るまで占領軍による強姦。 宮殿の宝物殿はおろか、博物館・美術館から持ち出される王国の秘宝。 そういう乗ってなかったわけ?
>>638 オスマントルコのウィーン包囲が成功したらそういう状況になってただろうね
640 :
世界@名無史さん :2008/01/06(日) 07:02:47 0
>636 WWTは終戦に至るまでドイツ・オーストリアの領内には一兵たりとも 攻め込まれてないはず。トルコ領内にだって辺境部にロシアが攻め込んだくらい。 WWTでなんでドイツ・オーストリア側が敗北する羽目になったのか いまだによく分からん。
戦争負担に国内が耐えられなかったから+戦争指導者が敗北を確信したから+革命が起きたから 大体、それを言ったらWW2の日本だって本土上陸されてない
642 :
世界@名無史さん :2008/01/06(日) 11:46:25 0
>628 フランツ1世はフェルディナント3世の曾孫にあたる。 カール7世はフェルディナント2世の曾孫。 どっちかっつーとフランツ1世の方が1世代ハプスブルク家に近いか。
>>640 終戦に近い頃になるとオーストリアの軍はマトモに機能してなかった
ブルシロフ攻勢のせいで東部戦線は惨々たる状況だったから、東部では
とりあえず無事でいられた部隊はドイツ帝国の指揮下に入ってたし
しかも連隊ごとに同じ民族同士で固めていたために民族同士の結束も強まって
地方連隊は勝手に独立したりして、地方行政府も独立国政府になってた
唯一の例外はイタリア戦線、少なくともイタリア単独の時は負けるはずが無かったwwwww
あっちに派遣されてた部隊はオーストリア内でも比較的まともだったし、特にイタリア戦線のイタリア軍は
「山頂に陣取ったら高低差がありすぎて銃が使えず、山麓から包囲されて降伏」するレベルだしwwwww
結局イタリアを見かねた英仏が支援、独も本格的な協力体制で墺に肩入れしたけど最後までイタリア軍はオーストリアに入れなかった
カポレットーなんか凄すぎる。
帝政オーストリアとガチで殴り合って負けたのってイタリアだけだよね しかも墺は多方面作戦、伊は墺戦線だけに殆どの兵力を集中してる状況で
イタリアが唯一欧州に誇れた航空機技術ですら、製造会社が多すぎて機種が煩雑だったという悲劇
仏・墺の軍隊の弱さは異常 伊は既に軍隊ですらない
648 :
世界@名無史さん :2008/01/06(日) 21:48:57 0
つーか英独の軍隊が異常に強いんだよな。 で、英独両者が雌雄を決すると英が勝つ。 国土の深度をうまく利用して負けないのがロシアか。
649 :
世界@名無史さん :2008/01/06(日) 22:19:39 0
一線の将校がどれだけカラダ張ってるかが欧州各国の軍の強さに現れてると聞く。 英軍将校:「漏れについて来い!」と兵・下士官の先頭に立って敵陣に突撃。 独軍将校:前線まで兵を率いて行って「突撃!」と命令。 仏軍将校:後方の安全な場所から伝書鳩で「突撃!」と命令。 辺境出身のナポレオンは仏軍に独軍の指揮に近い方法を取り入れて一時無類の強さを誇ったが、 英軍には勝てなかったと。
軍事板に行ってやってくれよ
オーストリアは初代のフランツ1世の時代からこと軍事面においては 栄光とは本当に縁遠いよな。ナポレオンには引っ掻き回されプロイセンにも 惨敗し、第一次大戦でも敗戦して最終的に帝国崩壊に追い込まれている。 芸術の分野では栄えているのに。
戦争は他の奴らにやらせておけ、な家ですから
オーストリアがタイマンで正面切って戦争して勝ったのって ルドルフ一世(対ボヘミア)とマクシミリアン一世(対フランス)と カール五世(対フランスetc...)だけじゃね?あとは全部負けてる気が
全部中世以前じゃんwwwwwwww
英軍:指揮官が兵卒の先頭に立って攻撃、臨機応変な作戦で敵を翻弄して勝利 独軍:指揮官は前線にあって部隊を直接指揮、終始一貫した完璧な作戦で敵を各個撃破して勝利 仏軍:指揮官は後方の安全な場所から伝書鳩で命令、名誉の裏付けを得た猪突猛進で敵を圧倒して勝利 墺軍:指揮官の使うドイツ語の細かい指示が分からない、「突撃しろ」だけは分かるから突撃して敗北 伊軍:指揮官はワインとチーズで一服、酒も女もパスタも無い生活にモチベ落ちまくりで敗北
>>651 むしろ、それで国が持ったことがすごいというべきか
>>652 個々の戦闘では負けてるくせに、何だかんだいって長生き。
ビザンツもそうだけど。
タイマンで戦争するって発想が間違ってるんだよ 同盟組んで皆でボコるのが勝利への近道
>>657 教皇はそれで「皆で寄ってたかってスペイン潰そうぜ!」ってやったら
フランソワがバカすぎてスペイン一国に粉砕されてる件
>>658 あの時の状況が個人的に疑問なんだが、エロ中丸が著書で書いてるみたいに
「息子が人質なのを忘れて誓約破棄した」ってのは本当なの?実際どうだったの?
>>657 ヨーロッパユニバーサリスてゲームを思い出したよw
エロ中丸の本は平気でウソ書いてるもんなぁ ウィーン会議で「ただ一度だけ」の歌詞を「Das ist einmal」とか なんで「Das gibt's nur einmal」がそう聴こえたのか分からんわ
>>658 まぁそれにしてもカールX世はさすがに相手が悪すぎたな。
神聖ローマ皇帝の中でも指折りの名君だったしな。
確かに外交・軍事面では名君だったが、内政面では凡人かそれ以下(借金が多すぎたのが主な理由だが)だったからな…… ルイ14世と同様、カルロス一世とフェリペ二世が後々の財政に物凄い悪影響を及ぼしてるのは確実
658も662も戦争の話をしてるんでしょ
665 :
世界@名無史さん :2008/01/11(金) 21:02:24 0
フランソワ1世って皇帝選挙でカール5世に大きな脅威をあたえたってイメージあるけど 実際の皇帝選挙では7票満票でカール5世が当選したんだよな。
>>665 選帝侯達にしたら、「候補からどれだけ献金を絞り取れるか」が興味の対象なわけで
最初は多額の献金や教皇のごり押しでフランソワに傾きかけたが、すんでの所で
カールが豪商に特権を与まくって借りた選挙資金による多額の献金が送られて
「目的の為には手段を選ばない野心家(=自分達の特権を奪いかねない)で、しかも生粋のフランス人のフランソワ」と
「一応ドイツ人であり、敬虔なキリスト教徒を自称(=教義が足枷となり、自分達に無茶な要求は出来ない)しているカール」
だと都合の良いのはどっちか、ってなったんだろ。献金額は大して違わないし、もしフランソワから文句言われても
献金は違法なんだから「そのような不浄な金を受け取る筈がございません」って知らばっくれれば問題ないし
>>665 それだけフランソワ一世が嫌な奴だったんだよ、きっと
選帝侯って何か金貰うだけ貰って何もしないイメージがある
>>669 お決まりのツッコミしとく
ハ プ ス ブ ル 「ク」 だ ボ ケ
671 :
世界@名無史さん :2008/01/14(月) 17:55:35 0
神聖ローマ皇帝フランツ2世がオーストリア皇帝(フランツ1世として)となったのは1804年、 神聖ローマ皇帝を退位して神聖ローマ帝国が消滅したのが1806年。 この間、「オーストリア帝国」は神聖ローマ帝国を構成する領邦だったの? 神聖ローマ帝国内の諸侯のプロイセン「公」がプロイセン「王」になったのと同じ感覚で オーストリア「大公」がオーストリア「皇帝」に「昇格」したというような考え方でいいのかな?
672 :
世界@名無史さん :2008/01/14(月) 19:27:53 0
この場合、神聖ローマ皇帝フランツ1世がオーストリア大公である自分自身に 「オーストリア皇帝」号を授与したと解釈すべきなんだろうか?
673 :
世界@名無史さん :2008/01/14(月) 20:05:13 0
神聖ローマ皇帝がオーストリア皇帝に衣替えしたわけではなくて、 ハプスブルク=ロートリンゲン家は「神聖ローマ皇帝」という至高の地位を維持できなくなって プロイセン王やバイエルン王らと同格の諸侯にすぎない「オーストリア皇帝」に成り下がったわけだ。
まあ神聖ローマ帝国が形骸化した状況だったとはいえ、皇帝にはまだまだそれなりの権威が 残されていた筈だから、皇帝の権限でもうひとつの帝位を自分に贈ることができたのだろう。 強引っちゃ強引だが。 だから昇格というよりは新しく形成されたオーストラリア帝国の帝位に改めて即いたと 考えるのが妥当かも。神聖ローマ帝国の崩壊を予感したフランツ2世にとっては オーストリア帝国は要するに保険だったわけだ。
675 :
世界@名無史さん :2008/01/14(月) 20:22:48 0
フランツ2世が帝位投げ出したとき、選帝侯たちが他の誰かを皇帝に選出する、 って道もなかったのかな。いっそナポレオンを選出してヨイショするとか。
流石にナポレオンを皇帝に戴くという選択肢は諸侯には無かったと思う。 当のナポレオンが神聖ローマ帝国を解体させた張本人だから本人もおそらく 帝位が贈られても受諾はしなかっただろうけど。 それに元々仇敵であるフランスの皇帝たるナポレオンに神聖ローマ帝国諸侯が みすみす神聖ローマ皇帝の地位なんて与えて欧州における支配者としての権威と 権力地盤を揺ぎ無いものにするなんて有り得ないし彼らにとっては屈辱以外の 何者でもない。
ナポレオン自身もドイツの統治が一筋縄ではいかない事を承知していたからこそ ドイツを直接支配せず、名目上は従来のドイツ有力諸侯が治める国(ライン連邦)にしたんだろうな
>>673 名目上は至高でも、実際はハプスブルク世襲領にしか実権が及んでないが……まあブランドとしては超一流だよな
ハプスブルクの私領を「オーストリア帝国」として独立させてから「神聖ローマ帝国」に従属し(君主は同一人物だけど)、
「神聖ローマ皇帝」は従来の「オーストリア大公領」を継承する「オーストリア皇帝領」の「オーストリア皇帝」を認める、という形なのか?
しっかし封建時代の王朝国家、しかもガチガチの保守派で他民族の共存地域だというのに
共産主義国家や民主主義国家が台頭する時代まで耐え抜いた、ってのは凄いよな……
厳格で煩雑な官僚主義に移行しつつ、(名目上は)最後まで君主の権威を保ち続けたわけで。
フランスは滅亡、イギリスは「君主は飾り」を自称して憚らず、ポーランド・リトアニアは空中分解だしね
679 :
世界@名無史さん :2008/01/18(金) 22:21:01 0
現代人でも「オーストリア皇帝」とか「フランス皇帝」とかになんとなく胡散臭さを感じる。 当時の欧州人にとって「皇帝」といえば西ローマ皇帝の系譜を継ぐ(とされた)神聖ローマ皇帝か 東ローマ皇帝の系譜を継ぐ(とされた)ロシア皇帝だったろう。 「フランス皇帝ナポレオン1世」とか「オーストリア皇帝フランツ1世」なんて 現代人が感じる「中央アフリカ皇帝ボカサ1世」と同様の胡散臭さを当時の欧州の人々は 感じてたのではないか。
>>679 ハプスブルクはそれ以前に物凄い捏造してるだろ、
「Bischof(司教)の上にErzbischof(大司教)があるんだから、
Herzog(公爵)の上にはErzherzog(大公爵)があるべきである」
っていう屁理屈で「大公」を創設・自称してるんだから。
しかも後に他家の貴族がGroßherzog(大公爵)を名乗って余計こんがらかったし
681 :
世界@名無史さん :2008/01/18(金) 22:39:30 0
なるほどなるほど。 「神聖ローマ皇帝フランツ2世」が「オーストリア皇帝フランツ1世」に衣替えしたのではなくて、 「オーストリア大公フランツ1世」が「オーストリア皇帝フランツ1世」に衣替えしたわけですな。 ※ところで、この人物、オーストリア大公としてはフランツ「1世」でいいんですよね? フランツ=シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)はオーストリア大公には なってないと思うのでいいと思うんだけど。。。
>>681 wikipediaの英語版のリストを参照すると確かにフランツ=シュテファンはオーストリア大公(Archduke of Austria)の
地位には即いておらず、あくまでオーストラリア皇帝フランツ1世がオーストリア大公フランツ1世とされている模様。
念の為にそのリストの他のオーストリア大公の序数名表記を確認してみると、例えば彼の先代のオーストリア大公
である神聖ローマ皇帝レオポルト2世は(オーストリア大公としては)レオポルト7世としてリストに掲載されており、
その他の人物を見てもやはりオーストリア大公としての序数名表記に従っているであろうことが窺える。
ここで気になるのはそのリストにおけるフランツ1世のオーストリア大公としての在位期間が1792年から1835年と
なっている点。これが事実なら彼はオーストリア大公とオーストリア皇帝の地位をオーストリア皇帝の座に即いた
1804年から崩御する1835年まで兼位していたことになる。
つまりオーストリア大公からオーストリア皇帝へと衣替えしたのではなく全く別々のタイトルとしてこのふたつの
地位を30年以上同時に保有していたことになるが、これはどうなのだろうか。
自分もてっきりオーストリア皇帝に登位した時点でオーストリア大公の地位は消滅しているものだと考えていたが・・・・・
それにしてもややこしい・・・・・・・
683 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 09:48:51 0
う〜ん。 オーストリア大公領に含まれてなかったボヘミア王国やハンガリー王国、その他諸邦が オーストリア帝国に含まれるものとされている。 けど、オーストリア帝国成立後にこれら王国が廃止されたわけではなく、オーストリア帝国の構成体として扱われている模様。 オーストリア帝国は一種の連邦体制で、その連邦構成体として「ボヘミア王国」や「ハンガリー王国」とかに 並んで「オーストリア大公領」とその首長「オーストリア大公」の地位がオーストリア帝国の時代も存続してたのかな?
>>682 「帝国」という国家体制自体の定義が「複合君主国」みたいなもんだからなぁ
オーストリア大公国、ハンガリー王国およびボヘミア王国の領域に「オーストリア帝国」を建国、
上記三国の主権を徐々に「オーストリア帝国」に移行させていった、とかなんじゃないか?
明治維新の時みたいに少しずつ少しずつ、貴族や聖職者からの反発が少ない程度にゆっくりと
で、大公の称号は「この人はハプスブルク本宗家の一員ですよ」ってのを表すために残しといたとか。
ドイツにしろオーストリアにしろ称号の大好きな国だから、多くて困るって事は無いんだろうね
685 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 12:35:37 0
気になるのは、誰がどういう権限で「オーストリア皇帝」の称号を与えたのかということ。 1.神聖ローマ皇帝としての権限でフランツ2世自身が、オーストリア大公である自分に与えた。 2.ハプスブルク宗家の当主であるフランツ2世自身が、勝手に自称した。 形式としては、どっちなんだろう。
686 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 13:07:03 0
>682 オーストリア皇帝の2代目・フェルディナント1世、3代目・フランツ=ヨーゼフ1世なんかも オーストリア大公位を帯びてたのでしょうか?
オーストリア大公(Erzherzog von Österreich)は普通に存在してるんじゃね? しかも一人じゃなく、皇帝に近い皇族は殆ど名乗ってた気がする。つまり何十人も。 Erzherzogは日本でいう「親王」に値するんじゃないかと思う んでErzherzoginが「内親王」、こうすればある程度説明がつく
688 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 14:39:39 0
大公ネタはどうでもいい。 オーストリア皇帝号が神聖ローマ皇帝からの授与なのか、 ハプスブルク家の勝手な自称なのか教えてくれ。
ていうかsageようぜお前ら
690 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 15:29:17 0
英語やドイツ語で書かれた資料や文献を読みもしないうちから 調べる労力を惜しんで他人に教えて貰おうとする奴に「知る権利」は無いと思うんだよね まあ俺も読めないし、色々と他人に訊いてばっかりだから人の事は言えないんだがw
691 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 15:33:11 0
ハプスブルク家の家長としての立場で「勝手に」皇帝を自称したのなら、 それは僭称でありナポレオンと変わらないな。 自作自演でも、神聖ローマ皇帝としての立場で自らを叙任したのでは?
>>687 オーストリア世襲領の統治者としての称号であるオーストリア大公は一人なんだけど
ハプスブルク家の一員としてのオーストリア大公とは資格が違う。
前者は実権の伴う階級で、後者は一種の爵位。
693 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 17:58:49 0
大公の称号より、皇帝の称号をどうやって世間に認めさせたかの方が気になる。
ハプスブルク家の当主が皇帝位を独占し続けたことで、皇帝の持つ シルトがハプスブルク家に影響を与えてしまった。 これを今更元に戻すとドイツの諸侯国の間で混乱が広がるわけで オーストリア皇帝の自称はすんなり受け入れられた。
>>691 ナポレオンはローマ法王から正式に皇帝として戴冠されている訳だが…
696 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 18:57:44 0
教皇の目の前で、自分で戴冠してたような。
697 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 19:13:44 0
「教皇の権威なんか認めない!」とアピールしたかったんだろうが、 教皇の臨席自体は強く求めた件。
教皇を臨席させはしたが戴冠をはじめ、儀式の進行の一切を自らが 仕切って教皇の面子を潰しちゃったもんだから教皇の怒りを買った。
699 :
世界@名無史さん :2008/01/19(土) 19:25:12 0
フランス革命初期みたいに教会を弾圧してるようじゃ 生産階級である農民が付いてこないと思ったんだろ じっさい王党派一揆の参加者は殆ど農民だし
>>692 オーストリア大公国(大公領)の君主とハプスブルク家一門の
者に与えられる一般爵位とではどちらも「オーストリア大公」だから
紛らわしいな。例えば君主としてのオーストリア大公なら君主大公
とかいう呼び方にでもすれば混乱せずに済むだろうに。
>>685 おそらく1の形式だろうね。いくらハプスブルク家が領邦内における最大クラスの勢力で
あったとしても、神聖ローマ皇帝の座についていなければ幾つもある有力諸家のひとつ
でしかない。
神聖ローマ帝国の存続中に帝国の領域内に新たな帝国を出現させてその帝位を
戴くなんて離れ業はフランツ2世自身が神聖ローマ皇帝だったからこそできた芸当
だったのだろう。ハプスブルク家当主としての権限のみじゃまず無理だったはず。
>>701 >694嫁。ヘールシルトの維持が結局は他諸侯国のメリットにもなってた。
時代が時代だけに、自称でも何でも秩序の維持につながる事が評価されたんだよ。
第一、帝国諸侯の追加ですら帝国等族会議の賛成でしか実現されなかったのに
新たな皇帝号なんて独断で創設できるわけも無く。
全てが曖昧だった中世とは時代が違うんだよ。
ただ、自称したオーストリアとしても別個に権威付けは必要だと思ったらしく
王家の蔵に眠っていた帝冠を改めて取り出してきたりしている。
でも形骸化しつつあったとはいえまだまだ皇帝のブランドはそれなりの 影響力を有していたはずだぞ。家柄云々でどうにかなるものなのか? カール6世が娘婿のフランツ=シュテファンに帝位を継承させる旨の 国璽詔書を発布した時も諸侯の承認を得ていたにもかかわらず、結局は バイエルン選帝侯に帝位が渡っているしな。 カール6世の代までハプスブルク家が何代にも渡って帝位を独占し続けて いたにも関わらずだ。
>>703 国事勅書はハプスブルクの世襲領土を大公女マリア・テレジアに
継承させる旨の内容だよ。
カール6世がフランツ・シュテファンに帝位を継承させたかったのは
事実だけど、こちらは交渉に失敗してしまった。
そもそも何故ハプスブルク家が帝位を独占できたか、と言えば
神聖ローマ皇帝とローマ国王は並存できるという慣例を応用していたから。
皇帝に登極したハプスブルク家の当主が、自身の後継者を国王に指名してもらうべく
選定侯と交渉するわけ。
封主の願いは、道理が通らないものを除けば叶えるべきというのが
封建制度の慣例で、かつハプスブルク家の帝国統治政策は帝国に属していた権限を
諸侯家に移すという家門帝権を地で行っていたから、見返りとして諸特権を与えられる
諸侯にもメリットがあった。
そんな事が何世代か続く内に、本来血縁的とは関係ないシルトである筈の
皇帝というシルトが、慣例としてハプスブルク家と繋がってしまった。
(法的にはハプスブルク家は世俗の帝国諸侯というシルト)
そんな慣例続きできた路線が、ローマ国王に指名し得る男子がいない
カール6世の時代に至って破綻しただけの事。
神聖ローマ帝国解体時には、この慣例が慣習となっていて
皇帝でないハプスブルク家は不自然だったし、皇帝というシルトの消滅は
その下で既得権を持つ諸侯連にも不利益を与える恐れがあったわけで
(フランス革命に対する諸王国の狼狽振りを連想汁)
ハプスブルクの自称がそのままするするっと通っちゃったと見るべき。
705 :
世界@名無史さん :2008/01/20(日) 00:34:59 0
選帝侯は切り崩しが容易だからな……金と利権でどうとでもなる しかもドイツ諸侯はテレジアみたいな帝王教育をまともに受けてない女を信用してなかったし
706 :
世界@名無史さん :2008/01/20(日) 06:59:02 0
>704 神聖ローマ帝国が解体されたから「皇帝でないはハプスブルク家は不自然」と 改めて「オーストリア皇帝」が受け入れられたわけではなく、 神聖ローマ帝国存続中の1804年にわざわざもうひとつの皇帝位が受け入れられたか。 1804年の時点で近年中に神聖ローマ帝国が解体するのは既定の路線として 諸侯は認知していたから「オーストリア皇帝」なるものを受け入れたのか? 約2年間は神聖ローマ皇帝とオーストリア皇帝は並存していた、という点を考察した 論旨の書籍等を見たことが無い。
確かにね。どの文献見ても神聖ローマ帝国解体後にオーストリア帝国が 成立したようなニュアンスで書かれているような希ガス。 おそらく成立時のオーストリア帝国は神聖ローマ帝国解体後の為に急ごしらえで 備えられた即席国家のような体を成してたんじゃなかろうか。 実質的に国家として機能し始めるのは神聖ローマ帝国解体後であり、それまでは 殆ど国家として意識されてない位の本当に名ばかりの存在だったんだろうと思う。
708 :
世界@名無史さん :2008/01/20(日) 08:26:44 0
>707 一般的には、神聖ローマ帝国の方が国家としての体をなしてなくて、 ハプスブルク家世襲領が実質的に「ハプスブルク君主国」として 機能していたと認識されてると思うのだが。
じゃあ神聖ローマ帝国崩壊前のオーストリア帝国は実質的に ハプスブルク君主国として機能してたってこと? で、神聖ローマ帝国崩壊後に本格的にオーストリア帝国として 認知され始めると。
>>707-709 ランデスホーハイトの概念が近世以降のドイツでは現実の政治体制
として受け入れられましたので、既に各諸侯国は独自の国家として
機能しています。
711 :
世界@名無史さん :2008/01/20(日) 12:50:54 0
>>709 それ以前からハプスブルク世襲領は全て独立国家状態だった。ていうか
バイエルンもザクセンもプロイセンも他多数も、主要諸侯はみんな同じ。
神聖ローマ帝国自体は今で言うEUみたいなもんだ
だから世襲領をまとめて帝国に改称したところで国家体制が変わるわけでもなく、
神聖ローマ帝国が健在ならドイツ諸侯の既得権益が失われる事も無いから、
皇帝を自称する事によるデメリットは皆無。むしろオーストリアの安定は
戦乱で揺れるドイツの安定にも繋がるから、メリットの方が多かったわけだ。
折しもナポレオン台頭期、内乱してる暇があったらフランスを倒す必要があったしね
もし18世紀半ばにヨーゼフ二世とかが同じ事をやってたら きっとドイツ諸侯の間で内乱勃発 → 英仏露による軍事介入 だっただろうな……どさくさ紛れに保身に走るフランツの才能凄いわ
713 :
世界@名無史さん :2008/01/20(日) 12:56:40 0
ハプスブルクの すごい 防御力
オーストリア皇帝を自称したのは1804年なんだけど オーストリア帝国という政治体制になったのは1806年からなんだよね。 神聖ローマ帝国は帝国だけど、必ずしも皇帝がいなくても良かった様に オーストリアの皇帝を名乗っても、自身の統治領土が明確である必要は無かった。 第一、名乗ってる本人はローマ皇帝なんだから僭称と訴えるわけにもいかないし。 だから空白の2年間は単なる世襲領で通ってるわけで。
715 :
世界@名無史さん :2008/01/20(日) 13:02:14 0
ナポレオンの すごい 侵攻力 VS フランツの すごい 保身力 結果:フランツの判定勝ち
716 :
世界@名無史さん :2008/01/20(日) 17:11:53 0
で、「オーストリア皇帝」というのはフランツが神聖ローマ皇帝として自分に叙任したの? それとも、そんな手続きなしに「今日からオーストリア皇帝だあー」って勝手に自称したの? 細かいようだが、そういう形式とか手順が気になる。
717 :
世界@名無史さん :2008/01/20(日) 17:18:43 0
>>716 お前その質問しかしないのな
自分で調べる気は無いわけ?何様のつもり?
だから神聖ローマ皇帝にそんな権能ないって。 自称だよ、自称。
プロイセンに王号を与えたのは神聖ローマ皇帝だったのでは?
プロイセンへの王号の授与は、帝国外という地名での授与。 帝国内での昇格には議会の同意がいるので、単に「皇帝が認めたから王だよ」という お墨付きに留まるんだよ。法的根拠は何もない。 意外と何も出来ないのが近世以降の神聖ローマ皇帝。 だけど、戦後交渉と皇帝のお墨付きという事実で認められちゃったわけ。
>>720 いや「戦後」交渉じゃないよ。
スペイン継承戦争でブランデンブルクがオーストリア側につく見返りであって、
実際にプロイセン王に戴冠したのも戦争始まってすぐだし。
>>721 オーストリアとブランデンブルクの間での交渉が
諸侯国の中で通った事言ってんだろ。もうちょっと考えてから書き込めよ。
勿論、帝国内では相変わらず選帝侯で変わらずという前提があったからだけど。
>>721 細かいあげ足取りしてるから漏れもしちゃうけど、プロイセン王だとちょっと間違い。
原語にしないと不明瞭かも知れんが、プロイセンに領土を持ってる王くらいの
ニュアンスだから。vonとinの違いだね。
脱線でスマン。
724 :
世界@名無史さん :2008/01/20(日) 19:40:17 0
プロイセン王は帝国外での領地を有していることでの称号で、 帝国内ではあくまでもブランブルク公とということでしょうか。 (ハプスブルク家当主が帝国外でハンガリー王といっても帝国内では オーストリア大公というように。あ、帝国内でもボヘミア王の 称号はあるか)
今調べてたら面白いものが出てきた。ユトレヒト条約の日本語訳で
#prussiaはフランスとプロイセンの条約。他のドイツ諸侯は条約交渉に参加してないので、
>>720 や
>>722 が言ってるのはこれのことだと思う。
http://www.h4.dion.ne.jp/ 〜room4me/docs/utrecht.htm#prussia
確かにドイツ語ではvonではなくてinなんだけど、フランス語では
ちゃっかりdeになってる。ドイツ語のinに当たるフランス語がないとは考えにくいけど・・・
726 :
世界@名無史さん :2008/01/21(月) 11:57:46 0
>>725 フランス語のdeとドイツ語のvon自体、カバーしてる範囲が結構違うからな
二重帝国が成立するまでの帝国の行政システムは どうなっていたのか良く分からない・・・ メッテルニヒはナポレオン帝国の行政機構を参考に改革しようと していたと言うけど?
うまく説明できないけど (1)フランツ帝時代:保守的で合理的でない弱い官僚制 (2)フェルディナント帝時代:それを国務会議が支配 革命期をはさんで (3)新絶対主義:バッハの強い官僚制 (4)十月憲法時代:保守的連邦制、州の尊重 (5)二月憲法時代:ドイツ人自由派内閣の強い中央集権 (6)二重制時代:帝国官房、オーストリア、ハンガリーの分権 て感じかな。 メッテルニヒは保守的・復古的な州議会に装飾された帝国代表機関と 官僚制による緩い内閣支配を試みたようだがフランツ帝や政敵コロヴラート伯、 あるいはカール大公、ヨハン大公らに阻まれているね。 名実ともに帝国宰相が機能したのはシュヴァルツェンベルク侯の内閣だけだと フランツ・ヨーゼフ帝が回顧している。
>カール大公、ヨハン大公 この二人が曲者なんだよな、兄に似ず有能すぎて困る なまじ戦争に強くて(特にカール)、しかも改革大好き(特にカール)だったりするから余計タチ悪い
まあ大公ら皇族が政治に関与できる部分は小さかったけどね。 皇帝はともかく48年まではやはりメッテルニヒの時代。 コロブラート伯も二人の大公も彼の邪魔をできてもオーストリア政治の主導権は 間違いなくメッテルニヒにあった。 49年、あるいは52年、もしくは59年以降はフランツ・ヨーゼフ帝の主導権が 強いとしてもいいだろうけど皇族が実際問題どこまで関与できたかなあ。 皇帝本人も官僚的な人物だし母親や皇后、まして他の大公らの影響力なんて 微々たるものだろう。 このへんは専制とはいえ帝政オーストリアの強さだとは思う。 皇帝は有能ではないが、常に公的人間であった、良くも悪くも官僚にして軍人。 それ以上でもそれ以下でもない、個性がない。 国政レベルで私的人間たる皇帝の意思が作用したことってあったかなあ、 もちろんオーストリア帝国そのものが「ハプスブルク家の国家」として ドイツ人でもハンガリー人でもその他人民でもなく、 ハプスブルク家の利益のための国家であったという体質には異論ないんだが。 所謂、「王朝国家」論だね。
フランツ時代の場合 フランツ帝:国家第一の官僚@内政権掌握 カール大公:救国の英雄で、先進的な軍事思想家@広告塔(対軍隊) ヨハン大公:真実の愛に生き、自然を愛する秀才@広告塔(対民衆) メッテルニヒ:対外的には「オーストリアの支配者」@外政権掌握、 コロブラート:メッテルニヒが嫌い@財政権掌握 って感じなんじゃね?いやかなり適当だから致命的なミスとかありそうだが
Gott erhalte Franz den Kaiser Unsern guten Kaiser Franz!
>>732 俺は二重帝国になってからの
Innig bleibt mit Habsburgs Throne
Österreichs Geschick vereint!
の方が好き。あと現代ではドイツ国歌なのがむかつく
734 :
世界@名無史さん :2008/01/29(火) 17:22:16 0
まめ知識(というか俺が忘れないためのメモ) &auml; &ouml; &uuml; &szlig; それぞれ全ての文字を半角にして入力すると ä ö ü ß になる
735 :
世界@名無史さん :2008/01/29(火) 17:23:07 0
俺用メモ続き 大文字はそれぞれ &Auml; &Ouml; &Uuml; もちろんエスツェットには大文字は無い
ÄËÏÖÜ テスト、これで全部表示されればウムラウトもトレマもumlって事になると思うんで
お前らオーストリアの話しろよ・・・ ゾフィ大公妃は俺の嫁
じゃあシシィは俺の嫁
だったら赤い皇女エリーザベトは俺の妾
>>742 マウルタッシュって誰?と思って検索したら吹いた
チロルの化け物か
フランツ1世の前半生について、比較的詳しく記述のある本ご存知ありませんか。 評伝の類はamazonで探すとドイツ語しか出てこないようです。 あまり学術的な興味ではないので、読み物的なものでも構いません。 できれば日本語の本がいいです、ヘタレですみませんorz よろしくお願いします。
>>747 ハプスブルク系の書籍で和訳されてる物は非常に少ないし、
元々日本語で書かれているものは解説書や軽い読み物ばっかりで
れっきとした「資料」は殆ど皆無。諦めてドイツ語読め
日本語じゃないけど、意外と資料として役立つのがウィキペディア。 日本語版のウィキペディアにマイナー戦国武将がいるのと同様に、 ドイツ語版にはマイナーなオーストリアの皇帝や将軍、K.u.K.の軍自体についても結構詳しく載ってる。 探すコツは対象ページ(フランツならフランツのページ)の左下にある外国語版一覧から「Deutsch」を選び、 そこからジャンプ機能を駆使して日本語版には無いページに飛ぶこと。ウィキ見るまでベームエルモリとかアルヴィンツィすら知らなかった自分がいる
>>751 機械翻訳使うとかどんだけドイツ語読めないんだよwwwwwwwww
読めないにしても単語を一つずつ辞書で引いた方が正確だしwwwww
ていうかネタとかじゃなくマジで
「機械翻訳は使うな」と忠告しておく。そんな状態だと
いつまで経ってもドイツ語読めないままだぞ?
あと追記だが、どうしても機械翻訳を使いたいなら 「独→日」だと不安定すぎて絶対意味を取り違えたり訳せなかったりするから 「独→英」の機械翻訳で翻訳して英文読んだほうがマシだよ、基本的に
そうだなあ、ドイツ語を初級程度までかじったなら時間はかかるけど 辞書引きながら意訳した方が早い。それか英語ができるなら英語。 特に歴史関係は専門語が多くて機械翻訳では無理。 話をオーストリア皇帝に戻すと確かにフランツ1世の治世前半、 特にメッテルニヒが外相になる1809年以前、あるいはウィーン体制の 15年以前は日本語訳が少ないなあ。 まあ何をやっていたか、と言えばフランスに振り回されていただけなんだが。 その時代を考えてナポレオン関係からアプローチしてみたらどうだろう。 フリードリヒ2世やアレクサンデル1世なんかはオーストリア関連でも 見受けられるし同時代にメジャーな他国があれば日本語でさわることも できるんじゃないかな、もちろん詳しくはないし偏ってもいるだろうけど。 フランツ1世は治世を通じて(ナポレオンとメッテルニヒのせいか) 影が薄いねえ。決して有能ではないが無能でもない皇帝だと思うのだが。 内政を金銭感覚のないメッテルニヒには委ねなかった男だしねえ。 まあ内政改革しなかったためにクリミアの悲劇を招いたわけだが。
国家や民族ってのは攻勢に出ているうちは何も問題無いんだが、 守勢に入ると途端に衰退するんだよな……これまで溜めた物で食い繋ぐと言うか、 モンゴル帝国や大明帝国なんかの退廃期から末期の様子を見たら分かりやすいと思う。 ハプスブルクの場合も中世の間にせっせと婚姻政策(と暗殺による乗っ取り?)で領土を広げ、 以後守勢に入ってからはタケノコ生活のように「損失を最小限に抑える」事に全力をかけてた感じ。 たまたま上手く立ち回って(放棄するタイミングとか)近代まで国体を維持する事だけは出来たけど、 本来なら英仏普露と肩を並べている事自体が時代錯誤なチグハグ国家だったと思うんだ(まあ露もだけど) 末端の各部は普通に機能しているように見えて、でも実は纏めてみると矛盾だらけだから統一出来ない、みたいな。 要するに「改革すれば国が内部から崩壊」「改革しなければ国が外部から崩壊」っていう超絶ジレンマ
1859年から67年までは改革期だと思うがな。 オーストリアが(実際は二流国ながらも)五列強の一にあった力は オーストリアが国家である以上、その支配者が王朝以外にあり得なかったことか。 結局皇帝は誰にも権限を与えなかった。そうしなければ統一オーストリアはない。 ハンガリー人も悪く言われるが結局、不在地主(皇帝)の代理人以上ではなかったし ドイツ人とチェコ人は帝国議会を混乱させ、ポーランド人はどんな政府でも支持し スロベニア人はドイツ人を恐れて王朝を支持し、スロバキア人とルテニア人はただ支配され ルーマニア人は支配者からドイツ系がいなくなっただけの昔ながらの生活、 イタリア人は特権階級、そしてクロアチア人は不在地主(ブダペスト)の代理人… なんだかんだで一部のセルビア人以外の支配はうまくいっていた。 オーストリア問題の解決はオーストリア国家の終焉以外にあり得ないんだが オーストリア国家の終焉は新しい民族問題を呼び… ただオーストリア問題を解決させたのがほかならぬ王朝という皮肉。 王朝国家ゆえに列強オーストリアであったが、王朝国家ゆえに博打に出た、と。 ひとつ評価できるのはどの皇帝も保守的で、有能でなかったことだな。 そうでなければ一列強の外交・軍事でフリーハンドを一人が持つという爆弾国家は 1914年まで存続しなかっただろう。 最後のセルビア宣戦の決定もイニシアティヴは共通閣僚会議だしな。
戦後の「セルボ・クロアート・スロヴェーン王国」を見るに付け、オーストリアもほっとくいたら 「エスターライヒ・ウンガルン・ベーメン・クロアート・セルボ五重帝国」とかマジでやりそうで怖い、あの国はそういう国だ
758 :
747 :2008/02/14(木) 22:59:01 0
>>751 >>752 >>754 ありがとうございます。
しつこくてすみません。皆さん色々書いて下さったので。
フランツ1世はエピソードとしては時々面白いものをみつけることもあるのですが
(
>>751 さんの紹介してくれたサイトや、ナポレオンがマリー・ルイーズを妻にしたがっていると聞いた時の話等)
ウィーン体制の前の治世についてや、皇帝になる前のフランツについて、殆ど読んだことがありません。
ちょっと気になっただけなのですが、少しずつ調べていければと思います。
それでは名無しに戻ります。
オーストリア帝国のような多民族国家は常に民族間の関係に気を配っとかないと いけないから大変だな。現代においても例えばベルギーのような北部と北部の 民族同士の諍いが絶えないような国は本当に大変だと思う。 そういう意味では、ほぼ単一民族国家と言える日本は本当に恵まれてるよな。
760 :
759 :2008/02/14(木) 23:29:26 0
間違えたorz 北部と北部じゃなくて北部と南部ね
その代わり単一民族国家は他民族に対する調整や懐柔や恫喝に慣れてないから 他国との外交や在留外国人に対する扱いが壊滅的に下手な国が多いんだよな 日本とかドイツとか
762 :
世界@名無史さん :2008/02/15(金) 12:19:26 0
朝鮮とポーランドって似てるんだよな 長期に渡る属国としての歴史を持ってるせいで異常に執念深く、 日本やドイツに戦後いつまでも謝罪と賠償を要求して(この辺がチェコや中共と違う) 特権貰っても満足せず、能力も無く努力もしないのに理想だけは異常に高い 唯一違うのは「ポーランドには伝統と歴史があるが、朝鮮にはそれが無い」事だけか
頼むからオーストリアの話をしてくれ
クリミア戦争で対露最後通牒を突き付けたのは誰の責任なんだろうね? 外相?それとも皇帝?あるいは・・・?
>>764 閣僚の殆ど全員がベルヒトルトを焚き付けて書いたんじゃね?
>>765 いやいやクリミアの話でしょ。
ちなみにww1はベルヒトルトら外交当局は積極派で
消極的だったのはハンガリー政府くらいだったはずだが。
ベルヒトルトはバルカン戦争でのヨーロッパ列強協調の挫折から
過激派に「転向」したとみてよいと思う。
で、クリミア戦争だけど外相ブーオルの親西欧政策と
皇帝フランツ・ヨーゼフのロシアとの同盟関係からの自由を考えれば
この両者に責任を押し付けてよいと思う。
ただ、鉄道が整備されていないあの時代にドナウ河口および両海峡を
他の列強に支配されることが列強オーストリアの脅威であったことと
時代がメッテルニヒ流の正統主義から現実主義へと転換したことを
考えると単に個人の責任にして良いかどうかは疑問。
オーストリアにすれば「ニコライの野心が悪い」んだろうけどねえ…
まあメッテルニヒが築いたロシアとの同盟はそもそも無理があったってことかな。
ビスマルク外交が彼の手腕に拠るようにメッテルニヒ外交も個人の才能に拠ったものだ、と。
日本語ウィキ先生ほんと使えないな 戦争当時の内閣のメンバーを調べるだけで英語やドイツ語版使う必要があるってどうよ
オーストリアの歴代閣僚でも百科事典クラスの大物って メッテルニヒ、コッシュート、アンドラーシくらいじゃない? コロヴラートは山川各国史にも出てこないしシュヴァルツェンベルク、バッハ、ティサ父子、 ボイスト、ターフェ、バデニ、エーレンタール、ベルヒトルト、コンラートなんかも 長い19世紀のオーストリア史では重要人物だけど「メッテルニヒ時代のオーストリア」とか 「オーストリア帝国の衰亡」とかの流れでまとめられてしまいそう。 ルエガあたりは微妙かな、レンナーはもちろんだがアードラーもww1後の扱いになるか。 世紀末転換期の非政治家はそこそこ取り上げられるのかな。
>>768 読むのと翻訳するのは別だろ……語学なめんな
俺もドイツ語読めるが、無知な馬鹿の為に訳してやる気は無い
>>769 マジレスすると「メッテルニヒ」だけじゃね?
コシュートやアンドラーシはボイストやパデーニと大して変わらん知名度だよ
あとルエーガーは閣僚じゃないんじゃね?
>>770 アンドラーシはアウスグライヒ、ベルリン会議、独墺二国同盟の
当事者だから閣僚級ではメッテルニヒに次ぐ高知名度かなあ、とは思う。
てかまあメッテルニヒがスバ抜けているんだな。
「ウィーン会議の」と言えば世界史やった人間ならみんな「ああ、会議は踊るの」と
反応してくれる時代を代表する外交官だからね。
ルエガは確かにウィーン市長だね。
772 :
Ryuju ◆RlujhF6VrA :2008/02/18(月) 11:18:54 0
ルエガーはヒトラーに繋がる反ユダヤの系譜で取り上げられてたな。 シュヴァルツェンベルクは1848-49年のフランクフルト国民会議に絡んで、 プロイセン史の本の方でも出てきた。 「もし長生きしていたら、プロイセンによる統一は上手く行かなかったろう」的扱いで。
>>769 メッテルニヒ>>>>>>>>>>アンドラーシ≧コッシュート≧
エーレンタール≧ボイスト≧バデーニ≧ターフェ≧ティサ≧ベルヒトルト≧
コンラート>>>>>>>>>>>バッハ=コロヴラート
くらいじゃね?
オーストリア=ハンガリー帝国の重臣の知名度って全時代通じても メッテルニヒとアンドラーシが突出してるような気がする。 まぁやっぱ一番は(というかダントツで)メッテルニヒだろうな。
英国やフランス、ドイツ帝国のように一流国でないオーストリアじゃあ 革命でもない限りこれら列強との外交でしか人物も評価されない、か。 メッテルニヒは、まあ傑物だなあ。 オーストリア史というよりヨーロッパ史の人物だわ。 しかもオーストリアにはウィーン会議の議長国たる力はあっても ウィーン体制の議長国たる力はもはやなかったのに。 他国の指導者に「サタンの共犯者」「大陸最大の詐欺師であり嘘つき」と 言われながらもオーストリアを「ヨーロッパの必需品」と思い込ませた才覚はやはり 大したもんだ。
>>775 外交官としては空前絶後の天才だが
内政・財政面ではガタガタ……「天は二物を与えず」ってホントだな
メッテルニヒは君主にもいろんな意味で恵まれていたな。 フランツ1世は自分を大いに買ってくれてウィーン会議では 主宰を任され、数年後には帝国宰相の座にも就いた。 温厚で政治的な野心のないフェルディナント1世は終始自分の 後ろ盾(穿った言い方をすれば傀儡)に徹してくれたし。
>>777 単にフランツとメッテルニヒの思考回路が同じだったんじゃね?
「外交」は言ってみれば騙し合いの極致、人間関係の究極形なわけだから
メッテルニヒの性格や思考回路も普通じゃなかったんだとは思う。良い意味でも、悪い意味でも。
ビスマルクなんかもそうだけど、政治家や外交官として優れてる人は大抵人格が常人離れしてるし、
きっと宮廷内の反メッテルニヒの人達はメッテルニヒの性格が個人的に嫌いだったんだろう
外交が天才的だっただけに内政面で失策が目立ったのは極めて残念だ。 あるいは外交手腕が際立っていたが故に内政のマイナス面がより強調 されたようなところもあるかもしれんが。 しかし19世紀オーストリアの数少ない大政治家だっただけに革命で失脚という お粗末な退陣よりも、どうせなら民衆に惜しまれつつ勇退という形で政界を退いて ほしかった。
>>779 >民衆に惜しまれつつ勇退
常識的に考えて無理だろ……だってメッテルニヒって
フランツ二世と並ぶ程のガチガチ保守だったわけで
言ってみれば「有能なフランツ」だぞ
消極的な保守(フランツ)は無変化を望むから民衆の受けも良いが
積極的な保守(メッテルニヒ)は後退を望むから民衆には嫌われるし
メッテルニヒの内政面での失敗ってなんだ? イタリアとハンガリーはメッテルニヒ支配にあった。 そしてイタリアの行政制度は帝国で最も優れたものだった。 ハンガリーも四月法撤回まで目立った抵抗は見られない。 財政はコロヴラートに支配されたが警察はメッテルニヒの支配。 最低限のコストでありもしない「警察国家」のイメージを定着させた。 軍事はロシア頼み。まあこれは財政的に無理なんだが 「恒久平和のための軍備」と言われたオーストリア軍を使わないのは見事。 宮廷は…まあ掌握できてはいなかったな。 あえて失政を挙げれば絶対王政的な中央集権国家を築けなかったことかなあ。 これもフェルディナント即位時に大公連中の巻き返しがなかったら可能だったかも。 まあフランツ1世の保守主義がこれを阻んだ最大の要素だろうな。 17年の覚書が35年まで皇帝の引出しに眠っていたエピソードもあるし。 ヨーゼフ主義の効率的な全帝国規模の官僚制はメッテルニヒの理想だったのだろうけど これは新絶対主義のバッハまで待たなきゃならんかったな。 逆に外交での失策もある。 関税同盟でプロイセンがドイツの主導権を握りつつあったことに抵抗できなかった。 クラクフ共和国の併合は正統主義者メッテルニヒの名声に傷をつけた。 >「有能なフランツ」 上手いこと言うなあ。ロシア大使曰く、 「オーストリアの政策はフランツの性格に基づき、メッテルニヒの気分で動いていた」 メッテルニヒは憎まれてこその人材だろう。
南スラブ主義やスロベニア人とクロアチア人の政治連合は誕生したのに、 チェコスロバキア主義が生まれなかったのは何故でしょうか? 最大の阻害要因は王国と帝国に分かれていたためでしょうか。
783 :
世界@名無史さん :2008/02/23(土) 10:40:08 0
* 、-'ヾ'''ヾ`"''','、、 , _____ _-'" `;ミ、 /:::::::::::::::::::::::::\〜 _-"ミ;ノリ人ノノヘ/リ; `゛゛ ミ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\〜 >ミ/ 'γ、` ミ |:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|〜 了| "~`、 "~"` {,',; ;} 。 |;;;;;;;;;;ノ∪ \,) ,,/ ヽ〜 "7 `⌒` ⌒ }ミ:. { |::( 6∪ ー─◎─◎ )〜 '| / レリ* |ノ (∵∴ ( o o)∴)〜 + i ( }ィ' |∪< ∵∵ 3 ∵> ハァハァ ` ー--- /|` + \ ⌒ ノ ヽ  ̄ / |__ \_____/ `i、-- '´ |ソ: ↑ ↑ 種派 Vガン厨
>>782 その辺は難しいな。
南スラヴよりもチェコの方が進歩的であったのは事実なんだが
結局チェコ人は歴史的なボヘミア(聖ヴァーツラフ王冠の領邦)にこだわったのも事実。
つまりチェコ人は民族主義も重要だが対ドイツ人のために領邦主義が重要だったわけだ。
そういう意味では帝国(ライタ以西)と王国に壁があった。
スロヴァキアは歴史的にハンガリーとは不可分の領土だったわけだし。
更にチェコ人(及びドイツ人)でもボヘミアとモラヴィアで温度差はあった。
逆に帝国史においてはスロヴェニアとクロアティアの連合の方が不可思議だが
(なにせ南スラヴといってもクロアティア・ジェントリはセルビア人を支配したわけだから)
両者がドイツ人、ハンガリー人(あるいはイタリア人)という支配民族に抵抗するという点で
利害は一致しているな。
クロアティア人が帝国・王国にまたがって分布していたのも大きな要因かと。
かといってクロアティアに領邦主義がないわけでもなし、ナポレオンのイリリアが遠因なのかなあ。
南スラヴ主義は帝国史においては大したことではないこと。
仮に三重王国になってもその支配民族は自作農のクロアティア人と地主のムスリムで
小作人のセルビア人との連合は階級的に困難。
言語としては同一民族としてもカトリック・親王朝のクロアティアと有産階級のムスリムとが
内的要因だけでセルビア人と連合するメリットはない。
実際、ナゴドバ以降はハンガリー王国でスロヴェニア、ルーマニアに対してマジャール化が進んだのと同様に
クロアティア王国でもセルビアに対してクロアティア化が進んでいるわけだし。
785 :
世界@名無史さん :2008/02/29(金) 09:38:54 0
コソボ・・・・・
* 、-'ヾ'''ヾ`"''','、、 , _____ _-'" `;ミ、 /:::::::::::::::::::::::::\〜 _-"ミ;ノリ人ノノヘ/リ; `゛゛ ミ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\〜 >ミ/ 'γ、` ミ |:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|〜 了| "~`、 "~"` {,',; ;} 。 |;;;;;;;;;;ノ∪ \,) ,,/ ヽ〜 "7 `⌒` ⌒ }ミ:. { |::( 6∪ ー─◎─◎ )〜 '| / レリ* |ノ (∵∴ ( o o)∴)〜 + i ( }ィ' |∪< ∵∵ 3 ∵> ハァハァ ` ー--- /|` + \ ⌒ ノ ヽ  ̄ / |__ \_____/ `i、-- '´ |ソ: ↑ ↑ コソヴォ セルビア
787 :
世界@名無史さん :2008/02/29(金) 22:11:53 0
* 、-'ヾ'''ヾ`"''','、、 , _____ _-'" `;ミ、 /:::::::::::::::::::::::::\〜 _-"ミ;ノリ人ノノヘ/リ; `゛゛ ミ /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\〜 >ミ/ 'γ、` ミ |:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|〜 了| "~`、 "~"` {,',; ;} 。 |;;;;;;;;;;ノ∪ \,) ,,/ ヽ〜 "7 `⌒` ⌒ }ミ:. { |::( 6∪ ー─◎─◎ )〜 '| / レリ* |ノ (∵∴ ( o o)∴)〜 + i ( }ィ' |∪< ∵∵ 3 ∵> ハァハァ ` ー--- /|` + \ ⌒ ノ ヽ  ̄ / |__ \_____/ `i、-- '´ |ソ: ↑ ↑ セルビア アルバニア
まあコソヴォは「歴史的」にセルビア人が領土を主張するのは分からんでもないが… このスレとして悲しいのはコソヴォ(既にセルビア領)ではなく 帝国の体力の限界が、アルバニア独立ということ「だけ」だったことか。 意地でもセルビアにだけは海港を与えない、アドリア海の勢力均衡というのが 帝国の基本方針だが、どうもボスニア併合以来の外交は(クリミアから普墺戦争までと 同じくらい)疑問符の連続だよなあ。
>>788 エーレンタールやベルヒトルトやヘッツェンドルフなんかを筆頭に、
いろんな意味で「極端な」考えを持った閣僚ばっかりだった気がする
国内の官僚が殆ど同じ利害関係に基づいて行動してた英仏独露と違って
墺には一貫した「国策」が無かった気がする。植民地持たない事にしたのもそういう理由じゃね?
そういや何でオーストリアって植民地持ってなかったの? あのイタリアですら持ってたのに
セルビア王国の首都って本当にベオグラードなの?
オーストリア=ハンガリーとの国境地域にあるんだが…
(サヴァ川の西側(現在のノヴィベオグラードとか)はクロアティア=
スラヴォニアでドナウ川の北がハンガリー)
戦争が起こったらソウル以上にやばい
>>573 セルビアがニダーなのが笑える
792 :
世界@名無史さん :2008/03/01(土) 14:51:57 0
ポーランドとハンガリーもニダーになってるしなw
793 :
世界@名無史さん :2008/03/01(土) 15:01:22 0
>>788 あんたの感覚では、ハルビンは歴史的に朝鮮・韓国の一部なのかい?
コソボが歴史的にセルビア領とかいうのも、600年前にキリスト教連合軍が
オスマン帝国にズタボロに負けた敗戦交渉の場で、セルビアの出した交渉役の
貴族たちがオスマン皇帝を暗殺したことだよ。
その前も後にもセルビアなりスラブ人の国だったことはまったく無くて、
20世紀に入ってからの取り合いでたまたまアルバニア人の領域なものを手に
しただけというのが実情。
>>791 うん、当時のオーストリアから目と鼻の先
だから第一次世界大戦の時は南に遷都して、その上で武装を解いて
「ベオグラードは非武装都市!」って全世界にアピールしたんだけど
既にブチ切れてたオーストリアを止められる筈も無く砲撃を受けて壊滅した
とか聞いた事ある
>>793 スラブ人の凄い所は
全てのスラブ系民族が「俺がスラブのリーダーになる!」って言ってた事なんだよな……
しかも汎スラブに興味無い民族は二重帝国内だけ、という物凄さ
>>791 オスマン帝国の属国だった頃
ハンガリーと戦って奪還したときに首都に定めた、らしい
>>794 ,
>>796 「極限までイスラム圏から遠ざけた」せいで
「極限までカトリック圏に近づいた」わけか
皮肉だな
>>789 マジャール至上主義の突き上げを食らうハンガリーと
帝国議会の混乱で共通法も確定できないオーストリアと
帝国官房との三者の共通の意思を一致させるべき人間(皇帝)が
ビスマルク体制ならば列強と呼ばれるにふさわしい外交権と軍事権の行使に
充分な歳入を得て満足していたのだから…
まあ他の列強もベルリン体制崩壊(欧州の五列強均衡の崩壊)の後の諸政策は
疑問符が付くものが多いんだけど。
>>790 税金が5倍になって役人が100倍に増えて
三つの民族の政治的・経済的・社会的対立を煽って
飾りだけの州議会すら制限選挙でしかも共通蔵相が絶対的拒否権を有した
ボスニア・ヘルツェゴヴィナが植民地でなくて何が植民地なのだ?
まあ、ハプスブルク帝国そのものが植民地主義という学者もいたから
何ともいえないけれど。
>>793 非常に表現が悪かった。
ただ、近代に形成されたセルビア・ナショナリズムにおいてコソヴォは
後の大セルビア主義者の要求よりは重要度の高い民族の土地と
少なくとも彼らは思っていたのでは?
中世にセルビア人がアルバニア人を追放して占拠した「輝かしい神話の土地」なんだし。
アルバニア人にすればたまったもんではないがね、
オスマンに忠実なアルバニアのナショナリズムの形成時期が遅かったこと、
コソヴォとアルバニア本土とでは列強(墺伊)の関心が異なったことが問題なんだし。
>>798 >三つの民族の政治的・経済的・社会的対立を煽って
(゚Д゚)ハァ?
800get!
>>799 オーストリア政府(というより帝国官房)は
セルビア(主に小作農)とクロアティア(主に自作農)を張り合わせ
クロアティアとイスラム教徒(主に地主層)が協力するよう仕向けた。
またボスニア・ヘルツェゴヴィナに限ってオーストリアにもハンガリーにもない
特殊な民族統計(宗教をもって民族を区分する)を用いた。
大規模な軍隊が駐留し、人民を代表する議会はなく、土地改革は為されず
帝国の内政上の問題で経済的・社会的進歩は制限された。
セルビア人は人口の42%を占めながら大官僚制度と税制の犠牲におかれた
(少なくとも、中間搾取がある以上ムスリムやクロアティア人以上に)。
こういうのは英国の植民地支配とほとんど同じだ。
結局、帝国は国外の大セルビア主義者以外に脅威を感じられないまでに
ボスニアにおいて「理想的な」植民地経営を行った。
分割して統治する、これが帝国の植民地経営の実態で民族間対立を煽った事実は否定できまい。
ただ、ちょい本題からずれるけど
当時列強(特にトルコ保全政策を採る英独やバルカンで対立する露)から
警戒されていたようなマケドニアの中心都市サロニキへの進出の野心はなかったと思われる。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ占領如きでアンドラーシの辞任につながった帝国世論を考えれば
軍事的・外交的には可能であっても二重制を採る以上、ハンガリーの帝国における特権が
損なわれるスラヴ人地域への領土拡大は共通閣僚会議の合意が得られないだろう。
ww1開戦のハンガリー首相の条件はセルビアから領土を割譲しないこと、だからなあ。
これがオーストリア帝国主義の限界かな、と個人的には思う。
802 :
世界@名無史さん :2008/03/03(月) 13:25:03 0
それ、「民族の対立を煽る」というより 「民族の対立を最小限に抑える」政策じゃないか? >セルビア人は人口の42%を占めながら大官僚制度と税制の犠牲におかれた 戦後のセルビア人がクロアチア人を弾圧したのも、そういう理由があるのかな
帝国のライタ以西では諸民族と諸階級の妥協が図られ
ハンガリー王国ではマジャール人とクロアティア人のジェントリ支配という
およその民族政策が見られたがボスニアはどうも意図して
バラバラに置いたような気がしないでもないんだがなあ。
もちろん
>>802 のような見方(対立を抑える)もあるだろうけど
ボスニアを管理する共通蔵相が二代続けてマジャール人だった影響を考えると
ムスリムとクロアティア人を結ばせてセルビア人を抑圧した、とも思える。
度重なるハンガリーの尽力でオーストリアが近代国家として国体を維持できてた反面、 度重なるハンガリーの我侭と自己中思考にオーストリアが振り回されっぱなしだったんだよな ハンガリーの他民族抑圧政策に至っては西欧諸国の植民地支配と大して変わらんし
まあハンガリー(クロアティア除く)の影響力は認めるけれど ハンガリーの他民族抑圧ってのは微妙なところかなあ。 正確にはハンガリー・ジェントリによるすべての被支配層の抑圧。 マジャール至上主義による他民族の抑圧に加え 階級によって多数のマジャール人(農民、労働者)も抑圧を受けた。 これでもハンガリーの有権者は列強(普通選挙以前のライタ以西含む)よりも 多いわけだが、その有権者(ジェントリ)は民族的にも階級的にも その他のすべての人民を抑圧している。 これは歴史的背景、つまり「ハンガリー国民」すなわち「マジャール人ジェントリ」 だったことに繋がるのかねえ。 正確には「ハンガリー国民」はマジャール人エリートとドイツ系ユダヤ系ブルジョアか。 要は彼ら以外にマジャール人たることを強制したくせに「ハンガリー国民」たるに ふさわしい財産資格を与えなかったエリート主義の閉鎖性に問題があるってことか。 ハンガリー王国の諸問題は支配層による民族と階級とへの一貫した抑圧にある。 これは植民地支配というより中世社会の残滓かと自分は思う。 ハンガリー・ナショナリズムの形成の担い手がマジャール人エリートだから仕方ないんだが。
ポーランドもそんな感じじゃなかった?
ポーランド貴族はハンガリー貴族と違って ・無駄にプライド高い ・無駄に被害妄想癖がある ・無駄に差別意識 の三拍子揃った奴等だからな…… ポーランド貴族と話をする時は、どんな状況であれ相手を「小さい」とか 相手の妻や娘に対して「広い」とかは使ってはいけないそうだ。暗殺されるらしい。 かつて「奥方様の牧場は広い」って褒めたフランスの外交官が次の日に心臓麻痺で死んだりしてる ポーランド分割で手に入れた地域が比較的狭かったのは救いかもな ハンガリー以上に面倒臭い地域になりかねなかった
貴殿の国のソーセージは小ぶり、とか言おうものなら大変な事になるな
>>807 ポーランド貴族は農民蜂起の後遺症かツァーリズムの脅威か知らんが
アウスグライヒ直後には懐柔されているね。
ドイツ人の少ない地域の支配だからチェコ問題のようなものが
起こりえなかっただけだろうけど。
ポーランドとハンガリーは貴族人口の多さや民族・階級意識の高さは似ている気がするが
ハンガリーのジェントリの方が現実に存在する歴史的大ハンガリーの支配階級として
反ウィーン姿勢が強かったような。
ポーランド貴族は帝国議会じゃあ常に与党、下駄の雪だからなあ。
オーストリアのポーランド統治の成功はドイツとロシアとの比較かねえ。
ポーランドは朝鮮人に似すぎるほどに似てる。 自国で少数派なら無理な反抗や要求は最小限に抑え、 いつか復讐の機会が来たら極悪非道になるのがポーランド人だ
811 :
世界@名無史さん :2008/03/07(金) 14:07:31 0
でも言われてみれば結構似てるな、性格とか歴史とかwww これ以上やると馬鹿が騒ぎ出すから言わんが
韓国にポーランド=リトアニア連合期みたいに繁栄した時代が一瞬でもあったのか?
814 :
世界@名無史さん :2008/03/07(金) 17:23:14 0
>>813 確かに「栄光の歴史」は持ってないなwwwww
まあ結構したたかだし、衛星国としてなら結構発展してるんだが
ポーランドみたいにリトアニア脅して大王国築くのは無理だろ
結論:ハンガリー>ポーランド>>>>>半島
どうしても 半島の話題に持ってきたがる奴がいるな
だって世界史板だし
817 :
世界@名無史さん :2008/03/07(金) 22:08:34 0
世界史板は嫌韓厨(自称)の巣窟だからな
しかしオーストリアのスレに「韓国」って単語は違和感ありまくりだな
日本における知名度が モーツァルト>>>ウィーン>>>マリー・アントワネット>>>>>>>>>>>>>オーストリア なのは泣ける
むしろ モーツァルト>>>ウィーン>>>マリー・アントワネット>>>>>>>>>>>>>オースト「ラ」リア オーストリア?何それ?
さすがに「オーストラリアじゃない方の」とか 「ウィーン少年合唱団の」とかちょっと世界史知ってる人なら 「サラエボ事件の」とか言えば分ってくれるけど オーストリア単独の知名度は低いよなあ。 こっちも分っているかどうか失礼じゃないように確認したくなるもの。
>サラエボ事件の 「オーストリアの皇太子」って書かれてる事が多いせいで フランツ・フェルディンナントを「皇帝の息子」って勘違いしてる人も多そうだな
>>820-822 手話ちゃんが「私の祖国にはコアラもカンガルーもいない」と
言ったとか言わなかったとかいう話があるが、しょっちゅう
オーストラリアと混同される方としてはやはり複雑だろうなあ。
オーストリア大使館が「オーストリー」への呼称変更を
はたらきかけてきたのも気持ちはなんとなくわかるような気がする。
誰が見ても「オーストリア行ってきたよ」って分かるようなお土産って 「モーツァルトチョコレート」くらいしか無いよな つーかこれは常々気になるんだが、「ヴィーン」じゃなくて「ウィーン」なのは オーストリアの方言でWienをウィーンって読むからだよな? で、確か「ザルツブルク」も方言で読むと「サルツブルク」だったと思うんだが、 なんでウィーンは方言でザルツブルクは標準ドイツ語なんだろうか それともWやSが濁らないのはウィーン訛りだけなのか?
単にザルツブルクがオーストリア方言の範囲外なんじゃね? 高地ドイツ語を日本の「標準語」として、 低地はゲルマン系の音が色濃く残ってギザギザした発音と端的な表現を好み(→東北弁) 高地はラテン系の影響を受けて軟らかく滑らかな音と婉曲な言い回しを好む(→関西弁) って聞いたことあるな。いや今の話題とは関係ないけど。
単純に首都であるウィーンだけ現地発音が定着して、 他の街は標準ドイツ語発音が後になって定着しただけじゃない? 逆パターンだけど、デンマークとかルーマニアとかポルトガルの首都は英語発音で定着してたから、 昨今の現地語表記傾向の中で他のマイナー都市は現地語なのに首都だけ英語で呼ばれてる。
おいお前等、ハプスブルク家が帝国再興するってよ オーストリア議会も全会一致で帝政への移行を決定したそうだ
四月馬鹿
あまりにありえない嘘は面白くないんだよ
最初は面白くないネタでも、周囲の反応で 流れとして面白くなっていくもんだろ?
帝政復古はもちろんネタだけどオーストリアは歴史を大事にするなあ、とは思う。 大津留さんなんかの本でよく見る民族問題に関するオーストリア憲法19条、 じつはまだ現行法だからな。 日本もそうだが「朕は帝国議会の協賛を云々」という前文がのこる法律が いまだ憲法律として残っているのは2度も滅んだオーストリアの歴史を考えると 凄いなあ、と思ってしまう。
まあ実際、日本みたいに”国家の象徴”としてハプスブルクの皇帝を復位させても 別段違和感の無い国だよな、国際的な印象を考えると無理な話だろうけど
どうだろう? オーストリアは旧オーストリア帝国(ハンガリー除く)の法的な継承国家だけど ハンガリーと違ってww1の結果「つくられた国家」だからねえ。 オーストリアやチェコは中世領邦からの断絶があるからハプスブルク家支配の 正統性がないと思う。
×つくられた国家 ○余った部分
ドイツも散々だったがオーストリアほど酷くはねぇよなぁ…… そりゃかつて放棄した大ドイツ主義をもう一度目指したくもなろう。 つーかドイツ系だけの絞り粕がオーストリアだったのである意味必然か? 憲法のドイツとの合邦禁止ってのも馬鹿げてると思うけど。EU化で有名無実か。
>>838 合邦禁止してなかったら確実に合邦してただろうけどな
まあ結局オーストロ・ファシズムが台頭したから状況は変わらんが
むしろWW1後の矛盾しまくりんぐな社会の中で 世界帝国としての体面を保った英仏の二国と 勝ち組として成長できたアメリカの方が異常
>>839 まあ独墺合邦禁止はドイツ弱体化が目的だから仕方ないが
オーストリア社会民主党までもが(だからこそ、かもしれないが)
独墺合邦を前提として共和国を考えていたんだからまあフランスの横暴か。
ウィルソン主義での解体が徹底されたハプスブルク帝国で例外がオーストリア。
旧ドイツ帝国領でない、ドイツ人国家がオーストリアだからなあ。
これが世界恐慌後にはイタリアに接近して独立を守ろうとするんだから分からんね。
結局、ウィーンはベルリンの支配化には入りたくない、てことなのかな。
カトリック文化圏とプロテスタント文化圏て結構な溝があるんじゃないのかな 日本人が思う以上に
>カトリック文化圏とプロテスタント文化圏 帝政期以降のミュンヘンも反ベルリンだからそうなんだろうね。
帝国では民主主義や地方自治って根付いていたのか?
845 :
世界@名無史さん :2008/04/14(月) 18:04:57 0
>>844 民主主義はともかく、地方自治は根付きまくってただろ
WW1の末期に帝国を離反して独立宣言した国の殆どは
帝国の地方政府を新国家の中央政府にしたようなもんなんだから
846 :
あたご :2008/04/17(木) 10:12:43 0
撃沈、というより同意を得た上での処理だよな
>>844 ○ ハンガリー
民主主義:
世紀末段階では人口に占める有権者は以外に多い。
ハンガリー王国議会も長い伝統があり議会における抵抗も可能。
ただ不正選挙と強圧的なマジャール人エリート支配という問題あり。
地方自治:
クロアティアを除いて皆無。
マジャール人によるマジャール人のための大ハンガリー王国。
○ オーストリア
民主主義:
1905年に男子普通選挙、もっとも帝国議会はハンガリーと異なって
責任内閣をつくることは遂になく、困ったときは緊急勅令。
おかげでアウスグライヒの定期的な改定もできず…
地方自治:
一応、邦議会に一定の権限があるが帝国議会に比べれば大したことない。
ポーランドは例外的に自治が認められた。
○ ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
総督による支配。議会はあったけど、まあ植民地だからなあ。
まあマジャール人、少し劣ってクロアティア人とポーランド人のエリートたちは
ある程度自治が認められていたが
王国議会も帝国議会も皇帝・国王の政府任免権や外交・軍事大権には
意思を示せなかったんだから議会や選挙の制度が民主的でも意味がない。
ドミニク・リーベンが現代インドとオーストリア帝国の 比較をやってて面白かったよ。
1914の7月危機を除いて、帝国が最も危険にさらされたのはいつだろうか? 48年革命?プロイセンとの戦争?ボスニア危機? あと、フランス革命とナポレオン戦争中にハンガリーやボヘミアが ウィーンに反抗しなかったのはなんでかね?
>>851 帝国崩壊、という意味なら三月革命。
プラハとウィーンはどうでもいいが(検閲すら容認、緩和を請願するような革命だ)
北イタリア、そして何よりハンガリーがハプスブルク支配を否定した。
ハンガリー独立戦争は国法に基づく中世世界からの自立だけど
帝国における大ハンガリーの喪失は大国たるハプスブルク帝国にとって致命的。
普墺戦争は帝国改造(アウスグライヒ)を促進したくらいだからまだ国力に余裕あり。
更に外相ボイストは普仏戦争まで南ドイツ諸国への工作もしていたくらい。
これはビスマルクの無駄な敵は作らない策によるものだがそれ以降も五列強の一角を
ハプスブルク帝国は占めたわけだし。
ボスニア危機はww1への一里塚だがドイツが支持してロシアを抑えられたから
帝国崩壊の危険性はなかった。むしろ戦争するならこのタイミングという好機。
これを逃したから七月事件に至ったと考えると「見えざる危機」だったのかもね。
後段
ハンガリーは革命の影響を受けたジャコバン派の粛清があったから沈黙。
ボヘミアはマリア・テレジアのオーストリアへの一元化が功を奏したのかな。
ハンガリーはもちろん、ボヘミアですらブルジョア階級、インテリ層(狭義の市民)が
未成熟だったのも大きいと思う。
ハンガリーに至っては戦後まで遂に市民階級は育たなかった。
ウボアー('A`)
854 :
世界@名無史さん :2008/05/12(月) 16:10:38 0
可愛いあの娘とアウスグライヒ
855 :
世界@名無史さん :2008/05/18(日) 08:48:32 0
にちゃんねるで言う「晒しage」。 これは旧来の言葉で類するもので例えるならば「晒し首」などですね。 これはイタい書き込みを衆知に晒す事によって対象を笑いものにしよう というニュアンスなのです。 もちろん富野節で雑談する行為自体が「イタい」と言われるならば 小生これを否定する術はありません。 ただもっとね、「晒す」等という微妙な言葉を使わないでね、例えば 「応援age」 ですとか労わろうとする言葉を使うという気遣い、これは 持ち合わせても 大人として決して損にはなりません。 っていうか老人は大事にしろ!(笑)
>>747 今更で見てるかどうかもわからないけど、
amazon.comで"Francis the Good"で検索すると幸せになれる。たぶん。
英語だから安心汁w
英語だと「善良なフランツ」はそういうのか。
侍従長や女官を輩出して皇室にはかなり近い立場にあったのに オーストリアを見捨てて敗戦の責任も免れすたこら逃げてった リヒテンシュタイン侯爵家が王族としてちやほやされてるのを見ると 何か悲しいような気持ちになる時がある ハプスブルクも傍系がベルギーの王族になったりしてるからいいのかな
>>858 彼らに言わせれば 「自分たちが仕えていたのはハプスブルク家という
王家であってオーストリアという国家そのものに直接仕えていたわけ
ではない」 ということらしい。
だから彼らの理屈としてはハプスブルク家の支配が終わった以上、
いつまでもオーストリアに奉事し続ける義理もないというある種の
ドライな思想だったわけだな。
まあでも最近ではオーストリアとの関係も強化されつつはあるようだが。
オーストリア国内にはリヒテンシュタイン家の広大な領地もあるし
帝政が崩壊したとはいえオーストリアとリヒテンシュタインとの関係は
決して浅くはない。
>>859 それ、全部逃げるための口実だと思うんだよね。
責任放棄して爵位と領地維持するための。
彼らの給料は国から出てて、その国の要職に就いていて
海外公務に随行したりしたのも、国から出てたんだし。
関係が浅くないのは元々あれもオーストリアを構成する領土の一つだったからで
オーストリアが敗戦して独立したけど、こういう無責任な家が他にも乱立してたら
今頃オーストリアはもっと小さい国だと思うと、他国・他家ではちょっと考えられないなあ。
(調べたら他にも居たりして)
オーストリアとリヒテンシュタインって縁組がない(多分)のも過去のせいかと思った。
家同士が親密という訳にはいかないから出会いもないのかなと。
リヒテンシュタインが王族になって貴賎結婚なんて括りがなくなった後もないし。
ちょっと前に憲法改正について長年揉めていたのが侯爵の権利強化で決着した時、
侯爵が国民にウィーンに引っ越すという脅しをかけてるというような記事があって、
失礼だけど蛙の子は蛙、のごとく凄いDQNだと思ってしまった。
ウィーンがお断りって言うんじゃないかとも思った。
未だに国民・領民は二の次で自家が生き残ればって考えの様だし、
そのネタにウィーンを出すのも酷いし。
確か当時の政府高官が言ったような、侯爵家がなければ
国や国民の価値すらないと思い込ませてる所が凄い。
そのままオーストリア国民でいた方が良かったんじゃないかと思うけど
侯爵のお蔭で敗戦国にならずには済んでるんだよね。
それと、侯爵が上記のような事を悪びれず口に出して切り札に使うって事は、
オーストリア国民の間では大して反感はないのかと思うとこざっぱりした国民性だと思いませんか?
国内事情に疎いので国民の心情は判らないけど。
長文レスすみませんでした。
>860 リヒテンシュタインは神聖ローマ帝国の一部ではあったけど オーストリア帝国の一部ではないですよ。 (侯爵位もオーストリアとは無関係です。)
リヒテンシュタイン家が居なくなったらリヒテンシュタインはスイスに併合されかねないが そうするとリヒテンシュタイン国民は税金と無縁の生活とおさらばしなければならない。 まぁそれ以上にタックスヘヴンとして利用している欧州の金持ちがこぞって反対しそうだが。 もちろん、帝政時代と面子が変わらないとも言われるオーストリア財界も。
>>860 リヒテンシュタインは資金洗浄で最近話題になっているけど
あそこの侯爵家の認識はちょっと氏とは違うと思う。
だいたい侯爵家は国庫から一銭(1フラン?)も支給されていないし
ウィーンに逃げるというのもウィーンに侯爵家の宮殿を所有しているから。
チェコの領地についても係争中だったかな、まあこれは国家じゃなくて侯爵家の問題。
あと、現在のリヒテンシュタインの領土は一度もオーストリアの一部だったことはない。
爵位・領土もオーストリア帝国のそれではなく、神聖ローマ帝国が由来。
ライン同盟、ドイツ連邦を経て1866年連邦解体で独立。
ただリヒテンシュタイン家がオーストリアの重臣だったのは事実。
まあww1直後は連合国からはオーストリアの属国と見なされて
経済的にたいへんだったようだ。
連合国にすれば侯爵がウィーンにいるのだからそう思うわな。
神聖ローマ帝国解体以前の話するなら、ハプスブルク世襲領の総称的な意味でのオーストリアなのか、厳密な意味でのオーストリア公爵/大公領のことなのかちゃんと区別してくれ。
領邦国家としてのリヒテンシュタインに限って言えば そのどちらのオーストリアにも属していない。
U計画を実行すれば、帝国改造ができたんじゃないかな。 ライタ以西では民族対立が政界を混乱させるたびに フランツ・ヨーゼフ(と官僚)が政治を執ったというのがね。 それとも老年の皇帝にはそんな無謀はできなかったのか。 ビスマルクとしてはオーストリアが親スラブ的な政権に移行して ロシア・フランスと接近するのを恐れていたんでしょう。 ルドルフもフランツ・フェルディナントも反ドイツの傾向があったから 早死にしたらどうなっていたか。結局ハンガリーとドイツ人官僚に 反対されそうな気もするが。 あと、帝国の解体はあくまでも内的要因?それとも外的要因?
>>866 U計画は伝家の宝刀でしょう。
切ったらそれまでだし、普選で脅しただけでマジャール人エリートは屈したし。
オーストリアは何故ワルシャワ公国に負けたの?
870 :
世界@名無史さん :2008/07/05(土) 22:58:26 0
( ^ω^)??
ワルシャワ公国? ナポレオン時代のポーランド(ワルシャワ大公国)のこと? オーストリアってワルシャワ大公国がある時期って 完全なナポレオンとの同盟国じゃなかったか?
150年前の明日、ナポレオン3世とカブールのプロンビエール会談。 イタリアにおける優位がゆらいできた頃だな。 個人的には世界帝国からの脱落はドイツにおける優位を喪失したことよりも イタリアにおける優位を喪失したことの方が大きいような気がしないでもない。
873 :
世界@名無史さん :2008/07/29(火) 14:17:48 0
ハプスブルクはナショナリズムの影響をモロに食らったというか 「ヴェネツィア人」とか「ミラノ人」だったのが「イタリア人」になって 「イタリア人はオーストリア人とは違うから俺はイタリア王国になる!」 っていうノリになってたし、あれ以上イタリアでの優位を維持するのは無理だろ
>>863 掻い摘んで信長の野望とかのゲーム風に言ってしまえば
「従属」的な状態にはあるが、「臣従」はしてないわけか
ドイツ連邦みたいなイタリア連邦をウィーン会議でつくれなかったのも
痛かったなあ。教皇領、ハプスブルク直轄領、ハプスブルク衛星国、
ブルボン諸国、独立系(サルディーニャ)とあったから難しいだろうけど。
まあナショナリズムはとりあえず1848年革命で抑えこんだから
フランスのナポレオン3世や英国がクリミア戦後に反オーストリアに
なった上にロシアとも敵対してサルディーニャが再戦をふっかけられる
国際環境にしてしまったのが問題かなあ。
てかこういう反ナショナリズムで連携できそうなのがロシアしかいないのに
手を切るんなら英仏ときっちり結ばないとねえ。
>>874 まあナショナリズム無視するとイタリア諸国は尼子家支配の安芸みたいなもんで
ひとり大内(フランス)に毛利(サルディーニャ)が鞍替えしたようなもんか。
フランツ1世 (Kaiser Franz I. 1768〜1835) 初代オーストリア皇帝(在位1804〜1835)。神聖ローマ帝国最後の皇帝 フランツ2世として1806年まで君臨した。宿敵であるナポレオンに神聖 ローマ帝国を解体させられた上に娘のマリー・ルイーズを嫁入りさせられる など手痛い屈辱を味わい、神聖ローマ皇帝としての在位中は災難続きだったが ナポレオン失脚後は敏腕政治家メッテルニヒとともにウィーン会議を主宰して 新しい領土の獲得に成功。帝国の威信をある程度回復させた。 「善き皇帝」として国民に敬愛され、在位も30年以上に及ぶなどオーストリア 皇帝としての彼の治世はまずまずのものであった。 フェルディナント1世 (Kaiser Ferdinand I. 1793〜1875) 第二代オーストリア皇帝(在位1835〜1848)。初代皇帝フランツ1世の長男。 温和で善良な人柄であったことから「善良帝」と呼ばれた。虚弱体質であった ため即位前は皇帝としての務めが果たせるかどうかが危ぶまれたが父帝と 宰相メッテルニヒの強い推挙を受け、1835年に父帝の後を継いで即位した。 温和でおとなしい性格であったため政治はメッテルニヒに任せきりだった。 その後三月革命でメッテルニヒが失脚、その煽りを受けて退位に追い込まれる。 退位後は植物学などに取り組み82歳で没した。
フランツ・ヨーゼフ1世 (Kaiser Franz Joseph I. 1830〜1916) 第三代オーストリア皇帝(在位1848〜1916)。初代皇帝フランツ1世の次男 フランツ・カール大公の子。1848年に伯父のフェルディナント1世の退位を 受けて即位した。68年間の在位はハプスブルク家の君主の中では随一の 長さである。皇后は欧州一の美妃といわれたエリーザベト(愛称シシィ)で彼女 との間に四人の子を儲けた。在位は長いものの、弟でメキシコ皇帝となった マクシミリアン大公は処刑され、息子のルドルフ皇太子は愛人と心中、皇后の シシィとルドルフに代わる後継者だったフランツ・フェルディナント大公は暗殺 されるなどその治世は決して幸福といえるものではなかった。第一次大戦中の 1916年に86歳で死去した。 カール1世 (Kaiser Karl I. 1887〜1922) 第四代にして最後のオーストリア皇帝(在位1916〜1918)。フランツ・ヨーゼフ1世 の弟カール・ルートヴィヒ大公の孫。ルドルフ皇太子とフランツ・フェルディナント 大公の相次ぐ死により帝位継承者となる。第一次大戦中の1916年に即位し、何とか 平和裏に戦争を終結させようと試みるものの、事態をうまく打開できぬまま敗戦を 迎えて帝国は崩壊。それに伴うカール1世の退位によりハプスブルク家数百年の 支配は幕を下ろした。その後、亡命の地であるマディラ島で34歳の若さで死去。 2004年にローマ教皇ヨハネ・パウロ2世によって列福された。 現在のハプスブルク家の当主はカール1世の長男であるオットー氏が務めている。
フランツ・ヨーゼフって877みたいに他の皇帝と同じ行数でまとめると 絶対に治世の話じゃなくて家庭生活の不幸話がメインになるなあ。 専制君主とか頑迷な保守主義者とか陸軍フェチとか失地王とか、 ここまで悪く書かんでも治世に特色のある人物だと思うのだけど。
皇帝はイタリアやドイツで失なわれた領土の穴埋めに、義務感を感じていたんでしょ。 ならば、当時の流行だった海外植民地に結び付かなかったのが分からん。 嫌っていたレオポルド2世はコンゴに広大な植民地を築いたし、ドイツでは産業界が 植民地拡大を望んでいた。ナポレオン三世すら植民地主義をナショナリズムに 結びつけてフランスの栄光を演出したのに。 アフリカとか太平洋の不毛な地域なら手を出せそうなところもあったのではないかな。 年が経つにつれて、どんどん複雑な泥沼になるバルカンに手をつっこむよりは 経済的な実りはごく僅かでも、領土を拡大できる場所を求める方が皇帝も満足できると思うんだが。 そのくせ、ちゃっかり義和団鎮圧に参加したり、中国に租界を保有していたり。 FFの方が海外領土に関心があったらしいのだが・・・。
>>879 海軍や産業界は紅海や南洋などの海外植民地を考えたようだが
結局頓挫しているね。
メキシコも、まあハプスブルク家の野心は否定できない。
まあカール6世の東インド会社閉鎖(国事詔書承認の条件)で
英仏蘭のような植民地建設は不可能だったし独伊のような国威発揚のために
植民地を建設するには共通財政が余裕がないし、で仕方がなかったんだろう。
オーストリアが陸軍国であることも関係あるかな。
バルカンはボスニア併合で植民地を得たけど基本的には
近代日本における朝鮮半島と同じで他の列強に支配されれば
帝国の独立そのものに関わる地域。
実際、ベルリン条約の段階では海軍配備できるダルマティアの後背地としての
ボスニアの統治権とサンジャックの駐屯権を得ただけで(皇帝は併合でないことに
不満だったようだがそれでも領土が増えたことにはたいへん満足したらしいが)
何よりトルコ保全が帝国の利益。
セルビアは衛星国、ルーマニアは同盟国、ブルガリアは反露に転換、
この情勢を維持して三国同盟+英国(地中海協定)との友好で露仏に対し
バルカン半島の勢力均衡を保つことが皇帝と帝国の利益だったんだろう。
つまり現状維持が精一杯だった、と。
ドイツの青島統治時代の統計では二重帝国の人々も極少ないけど住んでいたようで。 清朝末期の中国では外国資本との合弁による銀行が多々あったけど、 ベルギーやノルウェーはあるのにオーストリアが無いのは寂しい・・・。 鉄道建設に参画していたか、清朝への借款も行っていたかどうか怪しいし。 ボスニアは併合の際にハンガリーより、あれだけ反対があったのだから ムスリムを押し立てて傀儡国家を仕立てる案は無かったのだろうか。 あの地域にも中世に王国があったし、あながち不可能では無いと思われるのだけど。 何より帝国にとってのボスニアは地理的な重要性があるからこそで、経済的には 豊かというわけでもないのだから(というか後進地域?)、統治コストを考えればね。 二重帝国が1930年代の東欧に君臨していたら、ナチスドイツの戦略や 第二次世界大戦にどの程度、影響を及ぼしていただろうか? 帝国存続の時点で第一次大戦の終結も、その後の世界情勢も変化しているから この考察には無理があるのは分かっているが、あえて考えてみたい。
>>881 経済的な後進地であることは事実だが傀儡王国は難しいと思う。
ボスニア併合は主権国家である青年トルコの主権に対する野蛮な攻撃と
列強にはとられていたしブルガリアとの共同謀議も列強に疑われた。
傀儡国家をつくってもセルビアみたいに政変で崩れたら終わりだし
ハプスブルクの意思はロシアとのトルコ分割で合意していたと見ていい。
そもそもアンドラーシらベルリン条約時代の帝国官房はボスニア統治も
サンジャック占領もトルコの内政改革(親露ブルガリアを独立させない)の
ためだったわけで、ベルリン会議でボスニアを得たことも意外だったくらい。
二重帝国が戦間期の中東欧に君臨していたら、という問いは分からないに尽きる。
戦争が勃発して数週間で「主敵はドイツ」と軍部に言わしめたくらいだから
帝国がドイツと離れて存続する、例えば早期単独講和などは難しかっただろう。
存続した場合、ハンガリーの優位が強まってますます消極財政になったかも。
ソ連・ドイツの中間にあるハプスブルク帝国はソ連(ロシア)と妥協できない以上
ベルリンと結んだかもね。
「帝国が存続したとしたら、ヒトラーを牽制するよりも支持していたことはほぼ
まちがいない」(帝国史研究者アラン・スケッド)
皇太子だが日本に来てたんだね。
オーストリア皇太子の日本日記―明治二十六年夏の記録 (講談社学術文庫) (文庫)
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数ヶ月前に買ったが帝位継承者フランツ・フェルディナントの 日本訪問そのものはオーストリアの利益になったかどうかは 知らんが(日本は大津事件や将来の条約改正のために重要だったが) オーストリアの海軍力の問題(陸軍好きの皇帝との確執)は 東アジアにおけるオーストリア権益の劣勢の打開、ハンガリーとの共通軍事財政から 「三重帝国」への移行などを考えさせたかも知らんねえ。 まあ帝位継承者フランツ・フェルディナントの将来の展望を知ると過大評価は できないが、当時の日本や彼の人となりを知る上では悪くない。 欲を言えば日本以外の全日程を訳出・刊行して欲しかった。
ルネ・ジロー『国際関係史 1871〜1914年』によれば この時代の金フランに対する各国通貨の平価が 1ポンド=25.221(フラン) 1トルコ・ポンド=22.784 1米ドル=5.181 1ルーブル=2.66 1日本円=2.58 1オランダ・フローリン=2.083 1ドイツ・マルク=1.235 1オ−ストリア・ハンガリー・クローネ=1.05 (イタリア・リラ、ベルギー・フラン、スイス・フランは フランスフランと等価) 国際的な主要通貨が金本位制、あるいは金銀複本位制に依拠しており これらの通貨間では固定平価が維持されていたという。
886 :
世界@名無史さん :2008/10/11(土) 21:53:08 0
マーザーは19世紀末のオーストリアで私生児が40%だったと書き、 ヒトラーの父が私生児だったと述べているけど本当かね? 1860年代のスウェーデンでは性観念が伝統的に「自然に任せるべし」 だったためか、新生児の35%は私生児だったという話しもあるのだけど。
>>886 ちょいスレチかもしれないけど娼婦が公然といた
ウィーンなど都市部でも40%私生児は多すぎないか。
今日なお保守的でカトリックが強い地域だしなあ。
その「私生児」の定義が今とはちょっと違って、教会には届けを出したが、 法律上の手続きは取らなかった家庭の子・・・とかの可能性はないか? いやね、昔、家族史関係の資料で見たんだけど、1950年代後半の 京都の西陣あたりの家庭の場合、1/3が内縁だった。 これは、西陣織の職人の家が多くて、職人だと女性も労働力だから、 ヨソに取られると困るんで、結婚しても法律上の手続を取らなかったため。 まあ、この辺りが変わってきたのは、1960年代前半に健康保険や年金保険の制度ができて、 内縁だと明らかに不利になってきたせいではないかと見ているんだけど、 保守的とかそういう面からではなく、社会制度の不備さから統計上の非摘出子が多かった、 という可能性はないかな?
>>887 ヨーロッパで私生児の割合が高いのは
結婚手続きが煩雑な割りにメリットがないからだと聞いたが。
フランスでもジャン・アレジ夫妻は籍を入れてない。
たぶん、オーストリアも結婚制度が煩雑なんじゃないの?
オーストリアはカトリックだけど今でも公娼制度が残ってるよ。
登録すれば年2回の性病検査が無料で受けられるとか。
もっとも東欧から若い私娼が大量に流れ込んでるので
制度としては形骸化しつつあるそうだけど。
890 :
世界@名無史さん :2008/11/22(土) 21:23:29 0
オーストリアによる少数民族分断支配の道具としてのハンガリー人懐柔政策の結果が オーストリア=ハンガリー二重帝国だったわけだが、ハンガリー人は自分たちの実力だと勘違い 昔のハンガリー人に文化面の実力者がいたのは、オーストリア時代に 他の民族はなかなか高等教育まで受ける機会がなかったからという、単純な理由なのに ブダペストの街並み、あれの原資も、少数民族分断支配政策を採ったオーストリアからの投資 でもそのお金を稼いでいたのはチェコ(モラビア)やポーランド(シレジア)の鉱工業地帯だったんだよね そこから富を収奪して、ハンガリー人を懐柔するのに使った それの残滓である建物などを、ハンガリー民族マジャール民族の栄光とか誇って観光客を呼ぼうとする いいかげんみっともないよ、ハンガリー人・・・
そういえばつい先日最後の皇帝カール1世の長男で ハプスブルク家の現当主であるオットー大公が96歳の 誕生日を迎えられたそうですな。どうかいつまでもお元気で!
いいれす
893 :
世界@名無史さん :2008/11/27(木) 15:41:48 0
1. Gott erhalte, Gott beschütze Unsern Kaiser, unser Land! Mächtig durch des Glaubens Stütze, Führt er uns mit weiser Hand! Laßt uns seiner Väter Krone Schirmen wider jeden Feind! |: Innig bleibt mit Habsburgs Throne Österreichs Geschick vereint! :|
895 :
世界@名無史さん :2008/12/13(土) 12:10:38 0
第一帝国を『神聖ローマ帝国』とするなら、 第二帝国は『オーストリア帝国』、第三帝国は『オーストリア=ハンガリー帝国』の方がしっくりする。
896 :
世界@名無史さん :2008/12/15(月) 05:04:30 0
ウィーンのオペラ座の前の郵便局でロミー・シュナイダーの 切手売ってたが、シシー役者だっからオーストリアでも 人気あるのかな。 同日にプラハに移動したが、ホテルでドイツの SAT1というチャンネル見たら偶然ロミー・シュナイダーが「シシー」役の 連続モノのTV映画やってたが、シシーがバイエルンから川くだりして、 オーストリア国境の町で下船して未来の旦那が迎えに来る描写 があった。 そのとき、オーストリアの楽隊が演奏したのが 今のドイツ国家のメロディだッたが時代考証的に間違えないの?
897 :
896 :2008/12/15(月) 05:25:59 0
自己レスでスマソ。 今調べたら原曲はハイドンが作曲した「神よ皇帝フランツを守りたまえ」 でシシィの夫の祖父に献呈された曲だった。 ついでにベッケンバウアーの切手やシューミの切手も買って ミュンヘンの友達に絵葉書送ったな。
898 :
世界@名無史さん :2008/12/19(金) 14:39:19 0
ハイドンはハプスブルク朝の賛歌として作曲したのに、 ヴァイマル共和政やナチス政権や連邦共和国の国歌となっているのに違和感がありますね。 君主制時代のDeutsches Reichの国歌はイギリス国歌の替歌でしたね。
>>890 さすがにハンガリーを過大評価しすぎなような。
マジャール人ジェントリがハンガリー王国で民族的にも階級的にも
支配的地位にいたのは確かだけどね。
モラビアやガリツィアはオーストリア側だから
あえてハンガリー文化の原資をいうなら上部ハンガリー(スロバキア)や
トランシルヴァニアあたりじゃないかな。
ハンガリーの穀物が帝国の輸出を支えていたんだよね。 二重帝国は他の欧州諸国と同様に、速いテンポの人口増加を抱えていたが 国外移民によって軽減されていた。 けれども、大土地所有者と農業従事者の格差は拡大し 03年クロアチア、07年にルーマニアで暴力的な権利要求の運動が起きている。 それでもやっぱり国内の諸民族はある程度満足していたから、二重帝国に忠誠を誓ったんだね。 マケドニアでトルコ支配下だった住民は人頭税と賦役による農奴的生活から逃れたかったわけだし。 第一次ロシア革命のとき、フィンランドからウクライナ・コーカサスに至るまで民族主義が浸透した。 唯一革命から免れたかに見えたオーストリアは、東の二帝国が動揺するのを、どのように見ていたのだろう。
>>898 オーストリア帝国国家「神よ皇帝フランツを守りたまえ」 は
フランツ・ヨーゼフの即位に際して民族共存をスローガンにした歌詞に変更され
ヒトラーが国歌として採用した際には『我が民族こそが世界最高』みたいな歌詞に変更されてる。
ヒトラーはこの曲が持つ伝統と歴史が欲しかったんでしょう。
ナポレオンが出自を気にしてハプスブルクから嫁を求めたのと同じようなもの。
902 :
世界@名無史さん :2009/01/05(月) 16:59:36 0
ナチス政権以前のヴァイマル共和政の頃からから『世界に冠たるドイツ』はドイツ国の国歌じゃなかったっけ? ナチス政権になると1番の歌詞しか歌われなかったらしいね。
オーストリア帝国国家の歌詞の変遷は先日NHKで放送された ハプスブルク帝国シリーズの第3回フランツヨーゼフの回で取り上げられてたね。 ニコニコ動画で見られるから探してみてね。
904 :
世界@名無史さん :2009/01/07(水) 12:19:41 0
>>898 しかし、作曲はハイドンだろうが、作詞はドイツヴォルフスブルグ生まれのファラースレーベンだし、ドイツ国内のヘルゴラントでドイツの統一を夢見て作った歌なんだから、まあ、ドイツの国家でも良いんじゃないのかなあ。
ちなみに
>>902 さん、「世界に冠たるドイツ」ってのはナチスによる通称で、正式名称は「ドイツ人の歌」とかそんな名前だったと思うよ。
だからワイマールでも採用されたんじゃない?
Deutschland über allesのallesは本来は分断された「ドイツ領邦全体」のことだったはず 誰が「世界に冠たる」にしたのかは知らないが。
906 :
世界@名無史さん :2009/01/12(月) 18:23:27 0
一番の歌詞を読めば ドイツの範囲として マースからメーメルまで エッチェからベルトまで とあり、分断ドイツ統一のナショナリズムを歌いあげた詩であることは明白 現在ではどの地もドイツ国外だが
907 :
世界@名無史さん :2009/01/12(月) 19:21:13 0
>>905 Deutschland über alles
allesは英語のall
英語に訳せばGermany over all
908 :
世界@名無史さん :2009/01/13(火) 05:41:53 0
ホフマン・フォン・ファラツレーベンの詩の二番 ドイツの女、ドイツのワイン 一番と同じくお国自慢 三番 Einigkeit und Recht und Freiheit(統一、正義、自由) これが現在のドイツ連邦共和国の国歌
909 :
世界@名無史さん :2009/01/16(金) 21:19:40 0
>>889 >もっとも東欧から若い私娼が大量に流れ込んでるので
何で「ので」なのかがよく分かりません。
それら外国人娼婦が制度を利用しないということですか。
それとも、利用者が多くなりすぎて、
無料ではやっていけなくなったということですか。
910 :
889 :2009/01/16(金) 22:26:40 0
>>909 オーストリアの公娼に比べ、東欧から来る私娼はオーストリアよりも貧しい国からやってくるので
違法であることは承知の上で、公娼よりも安く数をこなすほうが儲かります。
もっと下世話な話としては、
オーストリア人でも現在では公娼に登録する人がほとんどいないため
現在の公娼の平均年齢は40歳を過ぎているそうです。
どうせ買うならばロシア・ウクライナあたりの二十歳そこそこの女の子のほうがいいでしょ?
日本でも平均60歳を超えるホンモノの芸妓を呼ぶくらいなら
二十歳そこそこのコンパニオンのほうがいいでしょ? という見も蓋もないお話。
911 :
896=897 :2009/01/19(月) 01:50:35 0
レスくれた人ありがとう。 勉強になるわ。 ウィーン辺りだとチェコ国境に1時間、スロヴァキア、ハンガリーにも 近いからEUでシェンゲン発効で検問もなくなった今は、 現地に行く連中多いんだろうな。 チェコの国境の街、ブジェツラフ 行ったときも夜、その手のお姉さん見かけてケコーショックだった。
912 :
世界@名無史さん :2009/02/06(金) 17:22:29 0
>> 世界に冠たるドイツってのはナチスが付けた通称。 Lied der Deutschen(ドイツの歌)が正式名称。 allesは英語でall、weltがworld。だから、直訳すると世界の全てのものの上にあれって歌ってるのは確か。
913 :
世界@名無史さん :2009/02/07(土) 03:08:05 0
>>912 ソースある?
1931年発行の平凡社大百科事典の国歌の項に1922年制定
"Deutschland、Deutschland über alles"として出てる
ホフマンの詩の題はお説の通りだが
914 :
世界@名無史さん :2009/02/09(月) 13:48:05 0
>>913 まず、ファラースレーベンの原稿を見てください(ドイツ史の詳しい本だと大体載ってると思います)。
表題はDas Lied der Deutschen(ドイツ人の歌)となってます。しかし、1841年に作られた後も、ただの替え歌扱いされてました。
なぜなら、曲はご存知のとおりハイドンのオーストリア帝国国歌?、「神よ、皇帝フランツを守りたまえ」だったからです。
もちろんドイツ帝国国歌?は「皇帝陛下万歳」だったのでドイツ自体にも広まることはなかったそうです(これはうちの教授の説)。
で、表舞台に立ったのは、80年後の22年、エーベルト大統領の演説です。これはドイツ政治教育センターbpbのHPに詳しいです。
そこでは「Lied der Deutschen(ドイツの歌)は困難な道を歩むドイツ民族の座右の銘」として紹介してます。
ここで、「紹介」であって、歌うべき国歌として制定されたわけではないとして、ワイマールの国歌ではないとする学者も多いです。
うちの教授は25年版のレコードをもってますが、Lied der Deutschen(ドイツの歌)の題名です。
これが一気に広まったのが、ナチス時代です。この歌を知らなかった奴らも多かったと思いますが、一番の歌詞のみを切り取って、
ホルストヴェッセルの歌とともに「Deutschland über alles」として演奏しました、この時代、二番以降の演奏は禁止されています。
このころのレコード(うちの教授は39年版)は「Deutschland über alles」になってます。
当然ですが、この歌が国民どころか世界中に知られるようになったのは、ナチスがことあるごとに演奏したこの時代ですので、日本でもDeutschland über allesとして認識されてしまったと思われます。
22年当時もそういう愛称を使ってた人もいるかもしれませんが、その辺は分かりません。
長文すいません。
915 :
世界@名無史さん :2009/02/10(火) 09:53:13 0
>>913 俺のはソースないから、
>>914 が一番正確なんだと思うけど、俺は大学で、今の国歌単独だとナチ時代も正式名称はドイツの歌で、これがホルストウェっセルとセットで、ドイッチュラントウーバーアーレスになるって教えてもらった気がする。
まあ、今のドイツではウーバーアーレスを歌うこと自体、禁止されてるし、下手したら補導されるし、素直にドイツの歌でいいんじゃね?
逆に言えば、作詞者がドイツの歌っていってるのを、いつ、誰がウーバーアーレスと言い出したのか、ソースはないんだし。平凡社のほうが変だわな。
916 :
世界@名無史さん :2009/02/11(水) 00:57:30 0
>>914 ,
>>915 ファラースレーベンの詩の題については異論なし
ワイマール時代の1922年に国歌として制定されたのは(政府告示の形で、命令で無い事に注意)
一番の歌詞のみで”Deutschland、Deutschland über alles"の題(その教授すごいねホントかよ)
ナチス時代に統制が強まったのは事実だがこの話とは関係ない
現在のドイツ国歌(三番のみ)の題が”Einigkeit und Recht und Freiheit”である事と同様
前記平凡社の事典には日本、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスの国歌が楽譜とともに掲載されてる
アメリカ国歌としては「ハイル・コロンビア」が載ってる(「星条旗」は確か1931年の選定)
本文では慣行として複数の歌があることも併せて記述されてる
いつの間にこのスレはドイツ国歌のスレになったの? よー分からんが、要するにドイツ国歌の名前でもめてるのか? そんなもん、大使館に聞けば一発やん。 はい、ホームページにドイツ国歌は「ドイツの歌」って紹介されてるよ。 これで解決やね。
>>916 それにホームページではワイマールが第四節も作って、第一節から第四節までをナチスに引き渡した。
ナチスが第一節を悪用したって書いてあるじゃん。
ドイツ大使館よりも、日本の辞書のほうが信用できるの?
いや、戦前の辞書を持ってるって時点ですごいけどさ。
919 :
世界@名無史さん :2009/02/13(金) 05:36:04 0
>>917 ,
>>918 指摘の通りスレ違いだからこれで最後にするけど
在日ドイツ大使館のサイトの中の国歌制定に関する変遷の記述は読んで欲しい(気が向けばだけど)
ハイドンの曲に詩を付けたホフマン・フォン・ファラスレーベンの詩題に関してははっきりしてる
ただ現在の公式(?)見解と歴史的な経緯が一致するかは前記サイトに書かれてるように敗戦後占領軍との兼ね合いで色々有る
ワイマールはともかくナチス時代との継続性をを嫌うのは国民の大多数の合意は有るだろう
現在の基本法でも国旗に関する規定は有るが国歌に関しては連邦法にも無い(確か)
過去の文献を見れば色々有るよ(俺の例はショボイがw)
話を変えて本来の主題に戻ろう
フランツ・ヨゼフの子や甥は君主が持つべき素養(まず公の事、個人的意見だが)が薄いと思えるが・・・
>フランツ・ヨゼフの子や甥 要因1.教育 要因2.素質 少なくとも息子は母親があれでは絶望的なのではなかろうか
まあバイエルンの田舎で自由奔放に育ってきた野生児の少女が どういう運命の悪戯なのか、しきたり地獄のハプスブルク家で がんじがらめの結婚生活を強いられる羽目になってしまったのだから 極度の鬱に陥ってしまったシシィには正直同情を禁じえない。
ウィーンで宮殿とか王宮とか見て回ったけどフランツヨーゼフに同情した
923 :
世界@名無史さん :2009/03/16(月) 06:36:59 0
上げるぞ
>>921 ポッセンホーフェン城を見に行ったときに、初めて彼女に同情した。
こんな解放感に溢れた美しい自然のなかでのびのび育ってきたのなら、
そりゃあウィーンは牢獄に感じられるだろうと。
925 :
世界@名無史さん :2009/03/17(火) 18:45:09 0
( ^ω^)??
926 :
世界@名無史さん :2009/04/01(水) 04:45:56 0
age
927 :
世界@名無史さん :2009/06/11(木) 05:01:02 0
保守
928 :
世界@名無史さん :2009/06/11(木) 07:24:18 0
>田舎で自由奔放に育ってきた野生児の少女 >極度の鬱に陥ってしまった アルプスの少女ハイジかよ
929 :
世界@名無史さん :2009/06/15(月) 00:22:07 0
>>928 それでも子供はいる
母がどうあれ(野生児うんぬんは嘘、ただ子供ぽかったみたい)成人してからの事跡は後継者としては相応しく無い
>>929 >成人してからの事跡は後継者としては相応しく無い
はルドルフ皇太子のこと?
たぶん
Austriae Est Imperare Orbi Universo, Austria Est Imperio Optime Unita, Austria Erit In Orbe Ultima, Alles Erdreich Ist Oesterreich Untertan.
933 :
世界@名無史さん :2009/09/09(水) 21:07:54 0
934 :
世界@名無史さん :2009/09/13(日) 15:18:52 0
-─フ -─┐ -─フ -─┐ ヽ / _ ───┐. | __∠_ / __∠_ / / ̄| / / | / /⌒ヽ / /⌒ヽ /l / | ( | ( | / / l /\ | / \__ _ノ \__ _ノ / \ / \ |_/ __|__ __ l __|__ l ヽヽ | |  ̄ ̄ / -┼─ | | _ l | | / | ─- ├─┐  ̄| ̄ ヽ | | | | | / | | │ ─┴ー┴─ ヽ_ | ヽ__ / ヽ/ | ヽl l l | ┌─┬─┐ ─-- | ヽ | ヽ | _. ├─┼─┤ __ | l | l / ̄ └─┴─┘  ̄ ヽ | | | | ( , l ヽ | し し ヽ__ / ヽ___,ヽ _ノ
アホか。スレの消費速度考えろ
936 :
世界@名無史さん :2009/09/14(月) 19:59:02 0
次スレは999あたりになってからで充分
938 :
世界@名無史さん :2009/09/19(土) 10:54:21 0
_ / ̄<
∠´: : : `V: : : : : : : ヾ、
>>935 >>936 /: : : : : : : : : : : : : : : : :< スレがまだまだ伸びぬと
/: : : : : : : : ; : : : : : : : : : : : ヽ
レi: : : : : : : ハ: : : : : : : : : : : :i たかをくくっておるな!
/: : : : :/__/ \\\: : : : : :|
レイ: : /__,ユ くニ二>、: r-、! 愉快なりっ‥‥‥‥!
レ'V| 二ニ。| .|-=。ニ7 ||に}フ_
ト、`ー- イ } -‐ ' .|ヒ ソ.:7:L_
>:.| ト、 {___} ,. ィ |`´:.:.フ:::::ト 、__
,. ィ Tス| |LヒエエエエLl| |___フ:::::/:/:/:/:7 ァ 、__
,.ィ i´|: |: |: |: |:::ヽヾエエエエシ_」7:::::::::::::/:/:/:/:/:/:/:/:/:7 ァ 、__
/ :|: |: |: |: |: |: |l:::::::`丶、 二 ,. '´::/:::::::::::::/:/:/:/:/:/:/:/:/:/:/: ;ハ:\
/: l :| :|: |: |: |: |: |:\::::::::::::::::::::::::/::::::::::/:V:/:/:/:/:/:/:/:/:/: ;ハ: ヽ 丶
939 :
世界@名無史さん :2009/09/21(月) 13:58:00 0
スイスは歴史的には神聖ローマ帝国内の各地方同士の文化的差異を いくらかでも緩やかにするために、そしてフランス王国、バイエルン、 オーストリア、北イタリア間のパワーバランスを調整するため等に設定された地方が始まり。 後に19世紀半ばにウィーン条約(?)によって正式に連邦国家となり、 同時に永世中立を宣言する。以後現在に至る。 名残としてはそれぞれの州で公用語が違っていること。 それは以前に各地がその文化圏に属していたから。 よってスイス語は無いが、スイス訛りはある。ということ。
940 :
世界@名無史さん :2009/09/22(火) 12:43:44 0
>>939 EUが出来てしまった今となっては
調整する地域が存在する意味はないな。
バイエルンに併合か?
941 :
世界@名無史さん :2009/09/24(木) 23:12:37 0
_ --- ─‐ ,ニニ, 7/ _ -─__ニニ,  ̄ , ─; / /// _. --─__¬ ,ニニ、 -‐ /  ̄ __/ / /__ ,-─ ' _ノノ/ /,.-‐─  ̄ // // /‐ 7 / / ̄ _/_'-- ; ///´ . //_. -─¬ // // / / /  ̄/ / / ノ / /// '-‐, r‐¬_/ // // / / /__ ,-‐' / _ 二´ / /// // ´ ノ '-─'/ /厂 //___ノ / / '--‐'// _// ,-‐ ´_, ,-─' //--_−ニ´--- ─ ' ´ ̄ ̄´ . //~ // ̄ // ノ,/ ̄ // // / '--‐_´/ / --‐_'ノ  ̄ ̄ ´ ̄
942 :
世界@名無史さん :2009/09/27(日) 11:54:55 0
1914年6月24日、オーストリア・ハンガリー帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公は、 ボスニア・ヘルツェゴヴィナ地方で行なわれる陸軍大演習視察のため 当時帝国の外港だったトリエステからド級戦艦「ヴィリブス・ウニーティス」に乗り込んで ダルマチア沿岸部のネレトバ川河口まで行きました。 大公はここで汽船「ダルマト(Dalmat)」に乗り換えて、川に沿って内陸部へと進みました。 サラエボ近郊のイリッツェで陸軍大演習を3日間視察した後、フェルディナント大公はサラエボ入りし、 ウイーンから汽車で来た妻のゾフィーと再会しました。 しかし6月28日に、大公夫妻はサラエボ市街でオープンカーに乗っている時に セルビア人の学生ガブリロ・プリンチップに撃たれて死亡しました。 大公夫妻の遺体はサラエボからネレトバ川へと移され、 そこから汽船「ダルマト(Dalmat)」によって河口へと運ばれました。
943 :
記憶喪失した男 :2009/09/29(火) 11:46:38 0
今日、素敵なことを発見したよ。 ルドルフってのは誰の名前かわかった。 初代ハプスブルク家皇帝の名だ。神君といわれているそうだ。 大空位時代を終わらせるために皇帝に推戴された善人だったんだ。 ルドルフはいいやつだったんだ。よかった。本当に良かった。 おれは時々、ネットで「いっぱいあってな」を名のる。 だから、ルドルフは重要だった。 「ルドルフとイッパイアッテナ」がおれの中で今、ハッピーエンド。
944 :
世界@名無史さん :2009/10/01(木) 05:51:38 0
ハプスブルグ家の初代皇帝ルドルフは選んだ諸侯が思ってもみない辣腕家だった 警戒して次は別家の人物を選んだが早く死んだためにルドルフの子(アルプレヒト)を選らばざるを得なくなった 父と同様政治的能力は有った様だが身内のトラブルで命を落とす その後フリードリヒ3世まで130年ほどハプスブルグ家から皇帝は出ていない
ハプスブルグ家の初代であるルドルフは事実上の神聖ローマ皇帝では あったけどローマ教皇から戴冠されてないから正確にはドイツ王のまま だったんだよね。
946 :
世界@名無史さん :2009/10/03(土) 15:50:41 0
. : .' , ' ,. ' ´ _,,.. -──-- 、.,_ . ' ,. ' ´ , '´ `' 、 ´ i`ヽ , ' `' , く`ヽ / ./ ,.' , , ; , `:、 r、 `'´/∠.. -、 r─--、.,______ ,' ./ ,:' / /! /!. ; i _ンヽ.ヽ r'´__,,..-, / ` ー-、.,_______| .,' / / / `メ、/ | / |. ,'i ! i<:::::::i |  ̄ // i ,' .,' /!,ゝ-‐'-、レ' ! /-!‐ァi !\::::::!_! '、 `ー┐ .| | | // ,'´'i レ',ァ;‐'、,| ,ハ ! ̄ __ ` ̄´ __ .! i ./レ'| ! !_り !l| .!レ'i ,ハ| / /____ | | くヽ. | V| ⊂⊃- `' ノ .!/ | l二´ ,.-‐‐' ,、, l二´ _二`ヽ i .! __________ i .! ! ,.-──‐、┐ ⊂⊃ / / ;┐ ヽ、> ,. -‐─- 、 | | | | .!_| |___________| | : .', .ト.、, ,' `i ノ! ! くノ __| | / ,.-┐「`ヽ.ヽ. / / _| | | ! ハ. i i>,'、.,__________,ノ,. イ /! | ,' ,-、 `ヽ i ! / ,' l i く/ [__.ノ . ', i ,' ', |イ\ `\,___/ !、/ | レ' ヽ! '、'ー'ノ`'´ '、'ー'ン ノ ノ ヽ,.ヘ./'ヽ! !:::::::\ /ムヽ/::::iヽ/ `´ `´ `´ / __ `i::::::::::::`'/ハ':::::::::! ', ./ `ヽ,'i:::::::::::::::`Y´:::::::::::!. i `"' 、.,_ . / /イ:::::::::::::::::::;':::::::::::::! ', `"' 、.,_ ' /`´:::::::::::::::::::::::::::::::::::! ', `"' 、.,_ ,.'ゝ、:::::::::::::::::::::::::::::::::::::! `ヽ、
947 :
世界@名無史さん :2009/10/03(土) 19:50:04 0
1869年、日本とオーストリア・ハンガリー二重帝国(当時)間で修好通商航海条約が締結されました。 2009年は日本と両国との国交が樹立されて140周年を迎える記念の年にあたります。 明治天皇が皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に友好のしるしとして 贈った画帖(当時の絵師による日本の風景や暮らしを描いた100点の絵画が綴じられたもの)が ウィーン美術史美術館に、 同時期に贈ったとされる蒔絵棚がオーストリア国立工芸美術館に保管されており、 本展でこれらが初めて里帰りし、一般公開されます。
948 :
世界@名無史さん :2009/10/04(日) 21:58:17 0
949 :
世界@名無史さん :2009/10/07(水) 21:14:30 0
天皇、皇后両陛下は1日、皇居・宮殿でオーストリアのフィッシャー大統領夫妻と約20分間会見した。 宮内庁によると、天皇陛下は大統領に 「今年が日本とオーストリアの外交関係樹立140周年に当たるということで、 今後、文化や経済などの分野で両国の関係が深まることを希望します」と述べた。 また、陛下は今年5月に秋篠宮ご夫妻がオーストリアを訪問した際の応対に関し、 感謝を述べたという。 両陛下はその後、東京都港区の迎賓館赤坂離宮で開かれた大統領主催の ウィーン・フィルのメンバーによる五重奏団コンサートを鑑賞した。
950 :
世界@名無史さん :2009/10/10(土) 21:32:48 0
みんなで見に行きましょう。
951 :
世界@名無史さん :2009/10/12(月) 17:24:36 0
-─フ -─┐ -─フ -─┐ ヽ / _ ───┐. | __∠_ / __∠_ / / ̄| / / | / /⌒ヽ / /⌒ヽ /l / | ( | ( | / / l /\ | / \__ _ノ \__ _ノ / \ / \ |_/ __|__ __ l __|__ l ヽヽ | |  ̄ ̄ / -┼─ | | _ l | | / | ─- ├─┐  ̄| ̄ ヽ | | | | | / | | │ ─┴ー┴─ ヽ_ | ヽ__ / ヽ/ | ヽl l l | ┌─┬─┐ ─-- | ヽ | ヽ | _. ├─┼─┤ __ | l | l / ̄ └─┴─┘  ̄ ヽ | | | | ( , l ヽ | し し ヽ__ / ヽ___,ヽ _ノ
952 :
世界@名無史さん :2009/10/12(月) 17:48:12 0
まだまだ
953 :
世界@名無史さん :2009/10/13(火) 01:33:14 0
ざっとスレ見返したが、おかしな屁理屈言うやつもいるから、 きちんと次スレには1804年〜1918年って年代表記しといたほうがいいな
おかしな屁理屈?
955 :
世界@名無史さん :2009/10/16(金) 21:50:03 0
_,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,___ ./=--- 、ヾい| | | / / -─ 、三、 l三!  ̄ ̄ ̄ ヾE| !彡 -- 、 ─── ,─ lミ! 世間の大人どもが .F!/\ ̄\三三三/ ̄_, ヘ ',ミ! 本当のことを言わないなら F!´ `'-ニ、 、__ , -' - '"`'.ハ! 俺が言ってやる・・・ , -l=! 二二、ノ L二二_ F/、 | f=E! ニ‐-゚- 7 f ‐゚--‐ニ |;f_!l | |ソ!! __二ニ,' .! ニ二__ |kヒl! Österreich über Alles・・・! ヾ 、!;! -___/! !\_- .!ノノ  ̄| / __ L_ _!___ \ |''" そこの認識をごまかす輩は /!. / -──────--! .|、 生涯地を這う・・・・・・!! /::::!. ヽ二二二ニニニ二ソ /:ヽ /:::::::::ヽ、 ─ /:::::::|-、 _,、-‐ '''"|::::::::::::| ヽ、 , ' .!::::::::::|:::::::`"''- 、 _,,、-‐ '":::::::::::::::::::::|::::::::::::|\ ` ─── '" /|::::::::::|::::::::::::::::::::::`"'''-
誰
957 :
世界@名無史さん :2009/10/19(月) 22:06:07 0
/ー ̄-‐ ̄― '''' } { | ,、‐'´ ̄ ヽ. | .| ,、-'´ ヽ | _,,,,,, ---'''''"| だれだっていいだろ〜〜〜 ,、‐'´ i |  ̄ ̄ _,, ト、 峰子ちゃ〜〜ん。 , 、‐'´ . | ,-‐''丶-、、、、、、 -‐'''"~ `ヽ. ,、‐'´ |{" ,、、-‐‐`'' ̄ ̄ ̄ ̄ ̄/⌒ヽ ''´ | `T";!'┬-、,,,,,,,,,,,、、-,‐''"i~ ヽ. / | / |ノ / ヽ' / ノi.| ヽ / | / ノ |二コ=、,, /´ /ソノノ } / | |/ | ’ 丶 ` ` ノ イ ̄ ノ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ / ̄  ̄ ̄| ,、‐' | `"゛ヽ-'、、、r ' ノ/ / / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ,、‐'" |ヽ ,,, ,ノ`´/1丶、r '´ < ,、-'"~i |r‐「 ̄フイ/ // | `ヽ、 \_________ ,、‐'"~ /i . |〃| /「 」 ̄ ̄ ノ | ~゛`丶 / | '"~ / |\ | /ヽ/ | / | ヽ / | / | ヽ | / / `フ~ーー、― ヽノ | / | |/ /. / \ ノ
958 :
世界@名無史さん :2009/10/22(木) 23:29:10 0
Gott erhalte Franz den Kaiser, Unsern guten Kaiser Franz, Hoch als Herrscher, hoch als Weiser, Steht er in des Ruhmes Glanz; Liebe windet Lorbeerreiser Ihm zum ewig grünen Kranz. Gott erhalte Franz den Kaiser, Unsern guten Kaiser Franz! 神よ、皇帝フランツを守りたまえ、われらが良き皇帝フランツを! 皇帝に長寿あれ、幸運の輝かしき栄光のうちに! 皇帝も行くところ、月桂樹の一枝も栄誉の花輪に繁れり! 神よ皇帝フランツを守り給え、われらが良き皇帝フランツを!
フェルディナント1世って結構長生きだったのに甥っ子に比べて なんであんなに目立たないんだろうねえ
目立たないし、退位させれたけどある意味勝ち組か。 皇帝の財産は死ぬまで保持していたらしいし、 好きな趣味に没頭して奥さんとともに長生きできたからな。
>>960 植物学などに励んでいたらしいね>フェルディナント1世
在位中はほとんどメッテルニヒ宰相の傀儡だったし、
子供も授からなかったけど、趣味に没頭できて夫婦揃って
長い余生を静かに過ごすことができたのを考えると
確かにある意味恵まれていたのかもしれない。
962 :
世界@名無史さん :2009/10/25(日) 10:18:38 0
-─フ -─┐ -─フ -─┐ ヽ / _ ───┐. | __∠_ / __∠_ / / ̄| / / | / /⌒ヽ / /⌒ヽ /l / | ( | ( | / / l /\ | / \__ _ノ \__ _ノ / \ / \ |_/ __|__ __ l __|__ l ヽヽ | |  ̄ ̄ / -┼─ | | _ l | | / | ─- ├─┐  ̄| ̄ ヽ | | | | | / | | │ ─┴ー┴─ ヽ_ | ヽ__ / ヽ/ | ヽl l l | ┌─┬─┐ ─-- | ヽ | ヽ | _. ├─┼─┤ __ | l | l / ̄ └─┴─┘  ̄ ヽ | | | | ( , l ヽ | し し ヽ__ / ヽ___,ヽ _ノ
963 :
世界@名無史さん :2009/10/27(火) 20:58:18 0
■戦艦(前ド級戦艦)「ハプスブルク」 この艦と姉妹艦は、1897〜1904年まで海軍長官&艦隊総司令官を務めたヘルマン・フォン・スパウン提督 (ハウスの師匠)の海軍拡張政策 の折建造された当時世界最小の主力艦であった。 第1次大戦勃発の後の1915年5月23日に、イタリアが対墺宣戦した直後には一時ハウス提督が搭乗し、 翌24日には姉妹艦を含む戦艦10隻 駆逐艦4隻 水雷艇20隻と共にアンコナの砲撃作戦に参加する。
964 :
世界@名無史さん :2009/11/07(土) 22:40:36 0
_________________ィ‐' ̄`ヽ | /7___ ___ |::::::::::::::::ヽ | l7 V――,/ `―‐, / 「| |::::::::::::::::::::\ | 「 | / < | | , ヘ .|:::::::::::::::::::::::::\ | l7 ノ人ゝ </ ヽゝ L'/ .|:::::::::::::f \::::::::} | _「l_ ___ ___ |:::::::::::::| ゝ::::| | '‐l l‐l l‐' `―‐, / `―‐, / .|::::::::::::::ヽ ∨ | | | | | | | | | |ー:、::::::::::ヘ | 'ニニニニ' ヽゝ ヽゝ |::::::::::::::::::::::ヘ_ |_____________________ |:::::::::::::::::::::::::::::::::`丶、 \::::| |:::::::::ィ !{ ハ T tーr 、:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::丶、 ` | |ー--レリル|rfiテ ヽl イテz rr----――― ' " ´ | | ヾN ゞソ ゞソ// | | >:´|、 - ,|`:< | | |::::::::| > イ |::::::::| | | >-、\! !/::,-< | | /´:::::::::::::{二{}二}´::::::::ゝ-、 | | l:::::,:-:::::::://::|ヽヽ::::::::::::::::::! | | /‐'´::::::::,::V:::::!::∨::::::::::::::::::| , ' ニ}く::/::::::::/:::::/|::::::::::::::::::::::::::| | ーjヽ\::::::'"::/ヾ !::::::::::::::::::::::::::| ヽニj } \:/ \ |:::::::::::::::::::::::::::|
965 :
世界@名無史さん :2009/11/11(水) 16:48:09 0
よく、一般向けの本だと、白山の戦いのあと、チェコ人はハプスブルク家によって ドイツ語の使用を強制され、チェコ語は禁止されたなどと書かれているが、 実際にはチェコ語よりも国際的に通用する言葉として、ラテン語、ドイツ語、 フランス語、イタリア語がしだいに優勢になっていっただけなんだってさ。 ハプスブルク家が禁止したのはあくまでプロテスタントという宗派であって、 チェコ語やチェコの慣習まで禁止したわけではない。
966 :
世界@名無史さん :2009/11/14(土) 12:45:11 0
チェコ人達は、仕事に就くため 首都ウィーンに大量に流れ込んだ。 ドイツが出来なきゃ、商売にならなかったんだろうな。
967 :
世界@名無史さん :2009/11/16(月) 19:48:19 0
>>966 ドイツ「語」が出来なきゃ、商売にならなかったんだろうな。
だろ!!!
968 :
世界@名無史さん :2009/11/19(木) 22:01:09 0
クロアチア人達は、仕事に就くため 首都ウィーンに大量に流れ込んだ。 ドイツ語が出来なきゃ、商売にならなかったんだろうな。
969 :
世界@名無史さん :2009/11/22(日) 12:27:21 0
スロバキア人達は、仕事に就くため 首都ウィーンに大量に流れ込んだ。 ドイツ語が出来なきゃ、商売にならなかったんだろうな。
970 :
世界@名無史さん :2009/11/22(日) 12:58:10 0
クロアチアとかスロヴェニアとかは、オーストリアに残ってた方がよかったかもな。 無理に独立するより、その方がよかったんじゃ。
971 :
世界@名無史さん :2009/11/23(月) 22:36:14 0
スロベニア人達は、仕事に就くため 首都ウィーンに大量に流れ込んだ。 ドイツ語が出来なきゃ、商売にならなかったんだろうな。
最後の皇帝カールT世の長男で元皇太子のオットーさんが 先日97歳の誕生日を迎えられましたな。 どうかハプスブルク家の顔として、いつまでも元気でいて ほしいものです。
帝国の民族は当時の政府から見て、次の四類型に分かれる 1、「支配民族」ドイツ人、マジャール人 2、「実質を備えた民族」チェコ人、クロアチア人、ポーランド人 3、「潜在的な民族」スロバキア人、スロベニア人、ルテニア人 4、「リソルジメントに惹かれる民族」イタリア人、セルビア人、ルーマニア人 1はこの帝国で民族問題を握っていた。 2は限られた知識人に限らず、国民国家や固有の言語、文明の存在した栄光、 国民意識を大多数の人々が共有できる民族で、経済的に発展していた。 3は人口も小規模で、経済的に遅れ、「歴史が無かった」 4は政府が恐れ続けた集団である。1860年のイタリアの経験は、 指導者たちの深層に深く焼きついていた。彼らの望みは帝国からの離脱だと考えられた。 11の民族から成り立つこの国では、対立軸がいくつもあった。 南スラブ人の宗教上の分裂は、言うべき言葉を持ち得なかったし、 あるいはユダヤ人のように、進んでマジャール化に加わった少数民族もあった。 社会的分裂や階級の対立もまた、時として民族間対立を忘れさせることもあった。 青年チェコ党のクラマーシュ曰く、 「ゲルマニアの経済的、国家的膨張の道筋で、ヨーロッパ中央部での独立した チェコ国家は、ボヘミアにおける未成熟の政治的子供としか考えることは出来ない」 「我々はオーストロ=スラヴィズムもスラブ人のオーストリアも望まない、ただ スラブ人に対して公平なオーストリアを望んでいるのである」 民族の文明と文化を基盤にした「文化民族」があったとして、文化が「皇帝」を 示すのなら、諸民族がこれに従うことは可能だったかもしれない。 世紀初頭の民族主義者は大衆政党の支持で要求を広げるつもりだったが、国境線を 変更することに関しては、国内からの支持しか当てに出来なかった。
974 :
世界@名無史さん :2009/11/27(金) 19:56:34 0
>>970 1つの帝國として残っていれば
今頃大国だったのに。
975 :
世界@名無史さん :2009/11/29(日) 10:19:09 0
>>970 フュウメを海軍基地、物流基地として使えるけど
トリエストを是非
オーストリアに復帰させたい。
976 :
世界@名無史さん :2009/12/12(土) 23:38:47 0
トリエストの海軍基地って どの位の規模だったんだろう?
977 :
世界@名無史さん :2009/12/13(日) 17:42:16 0
バロック時代の 帝都ウィーンは黄金の都
978 :
世界@名無史さん :2009/12/13(日) 19:32:48 0
ハプスブルクはオーストリアを放棄する代わり、 スロベニア皇帝になればよかったのに。
979 :
世界@名無史さん :2009/12/16(水) 22:38:20 0
人口200万じゃ 良くて王国 へたすりゃ公国レベル。
王国か公国かと人口には何の関係も無いが
981 :
世界@名無史さん :2009/12/17(木) 11:21:19 O
何で周辺国はオーストリアから離れたかったんだろ? 中欧の弱体化はオーストリア解体から始まったし。 周辺国は西側諸国に嵌め込まれたってのもあるみたいだけど。
980超えて24時間以内にレスがなかったら落ちる訳ですが
スレタイも
>>1 もこのままでいいのん
良いと思う。あとは過去スレとしてリンク付けておけば。