キュロスはバビロン虜囚からユダヤを解放したとしてユダヤはメシアと見なしているが。
元リュディア王の進言でキュロスはマッサゲタイへの遠征を敢行、
女王トミュリスの息子を酒宴に誘いこれを捕らえ、恥じた息子は自害、
トミュリスはキュロスに撤退を勧告するがキュロスはさらに進軍、
マッサゲタイの奥深くまで進軍したところを待ち伏せにされペルシャ軍は壊滅、
キュロスも戦死し、トミュリスは
「私は生き永らえて戦勝を得たが、所詮は我が子を謀にかけて葬った
そなたの勝ちであった。さあ、約束通りそなたを血に飽かせてやろう。」
とキュロスの首を刎ねて戦死者の血の海に沈めた。
これをユダヤや西欧は東方アジア蛮族の王の名君キュロスに対する傲慢な蛮行としているが
ヘロドトスは母親の息子の敵討ちとして一定の理解を示ししている。
カザフに大きい墳墓がたくさん残っているサカ族って、スキタイ系?
ペルシャも遠征したんだよね
>>943 イラン系遊牧民の西部の集団がスキュティア地方に進出してギリシャ人に「遊牧スキタイ」と呼ばれた
東部の集団は「サカ」と呼ばれた
945 :
世界@名無史さん:2008/12/16(火) 22:08:11 0
>>942 キュロスは、トミュリスと結婚して、マッサゲタイを帝国に併合しようとしたが、
トミュリスの息子が自殺してしまい、失敗してしまったとされる。
キュロスの計画通りならば、スキタイを含めたすべてのイラン人を統一する事への
第一歩となった可能性がある。
アケメネス朝によりスキタイ諸族が統一されたのならば、匈奴らに各個撃破される事
が避けられたであろう。
>>944 ありがとうございます。
サカはスキタイと同系だったんだ。
あの墳墓が、朝鮮経由で伝わって、日本の古墳になったのかも。
>>946 スキタイはギリシャ語の呼び方で、この単数形はΣκύθ、
このθは無声音で発音しなかったりするから、実際はΣκύと聞こえる
サカは中国語の呼び方で、塞克
中国語から見ると、Scythに漢字を当てる際最後の子音thを端折ってΣ塞、κύ克としている
Σκύも塞克もほぼ同じ発音
>>946 伝わったとしても朝鮮経由ではないと思われる
日本の古墳と朝鮮の古墳では日本の古墳のが多様性に富み
朝鮮にはむしろ日本から伝わったというが今の主流
949 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 13:03:37 0
サカと最初に名付けたのはペルシャ人では?
サカ族は傭兵してもペルシャ側で戦った時もある。
ダレイオス1世の時は貢物をする立場。
950 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 13:26:49 0
>>スキタイを含めたすべてのイラン人を統一
非現実的だったのでは?
サルマチアはスキタイと同族で最初友好関係にあったが、
重装騎兵戦術を確立させた後は敵対し、スキタイを滅ぼした。
遊牧民と言っても、草原を放浪しているのではなく、良質な牧草を求めて、
同族間でも抗争した。いかがでしょうか?
951 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 13:38:33 0
>>あの墳墓が、朝鮮経由で伝わって、日本の古墳になったのかも。
朝鮮経由かどうかには議論の余地があります。
しかし、日本の古墳は騎馬民族起源であることは確かでしょう。
>>946 スキタイとサカロウライとギリシャ人は、アレクサンドロスの遠征以降、両者を区別するようになった。
953 :
世界@名無史さん:2008/12/17(水) 18:02:03 0
>>942 キュロスがトミュリスと結婚するつもりだったと言う事は、トミュリスの息子
とキュロスの死に、カンビュセスが関与していた可能性がありますな。
カンビュセスからダリウス1世への王位継承の過程も、捏造が疑われていますが、
こちらの方も怪しげでありますな。
ダレイオスはサカ族の居るカスピ海沿岸からではなくギリシャ諸都市のある
黒海沿岸からスキタイへの遠征を行っている。
従属していたとは言え同じ遊牧民同士の戦いになってしまうと
サカ族はスキタイ側に寝返ることを危惧したのかもしれない。
マッサゲタイはスキタイをカザフステップから追いやったというほどの強力な集団で、
如何にペルシャ帝国とは言えども簡単に従属させられるようなヤワなものではない。
キュロスは、その強力な集団をそっくりそのまま、配下に加えたかったのでしょうな。
後年、アレクサンドロスがロクサナとの結婚により、インド遠征に必要な兵力を増強
した事に似てますな。
マッサゲタイは騎馬軍団としてはスキタイより強かったが
西方に追いやられたものの黒海北岸で地固めをして農耕民を支配下におさめ
国力を増強したスキタイに次第に主導権を奪われたようでダレイオスの頃には
完全にスキタイがコーカサス・カスピ海沿岸の支配権を握っていたみたいだ。
>>945 イラン民族という概念はない
スキタイの遊牧民は遊牧民としてのアイデンティティ
ペルシャ人はペルシャ国民というアイデンティティ
民族意識さえ無い
よって統一の可能性は0
>>958 バビロニアやリディアと同じく征服すれば、統一は可能ですな。
後のイスラム世界も武力征服によって形成された。
この地域の定住民と遊牧民を統合し得たのはモンゴル帝国、ティムール帝国と遊牧民側の勢力で
ペルシャのような定住民側の勢力が遊牧民を統合することは無かった
アケメネス朝時代のペルシャ人は、ティムール朝時代のトルコ人らに近い生活様式
だったとされる。
ペルシャ帝国の都市文明は、エラム人、バビロニア人、アラム人、フェニキア人、
ギリシャ人など非イラン人らに担われていたとされる。
>>960 農耕民はステップなんかに住みたくないからな
遊牧民の地域に進出したがるわけがない
>>959 ないね
そもそも統一の動機、理由がない
>>960 単純に飽くことなき領土拡大、世界征服願望が動機になるのでは?
カンビュセスはエジプトのみならず、クシュやカルタゴをも征服しようとした。
ダリウス1世は、黒海沿岸のスキタイにまで実際に攻め込んでいた。
>>962 ローマ時代のゲルマン人と中世以降のドイツ人の生活様式が異なる様に、
アケメネス朝時代のイラン人とササン朝以降のイラン人の生活様式は
同一ではないであろう。我が国の縄文時代の頃の昔の事である。
この時代のメディア人やペルシャ人は、まだ半農半牧民であり、
バビロニア人やエジプト人からすれば、好戦的な蛮族であった。
スキタイ系遊牧民は28年間メソポタミア地域に居座っていた。
キュロスやダレイオスの遠征はこの雪辱を晴らす意味合いもあった。
>>963 言うまでもなく、動機があり実行したとしても、全てが成功するわけではない。
フビライは日本を征服しようとしたが失敗したが、同様にキュロスとダリウス
1世らもさらなる征服に失敗した。
>>966 これは昔からよく言われている話でありますが、不可解な言説でありますよな。
スキタイらの攻撃でアッシリアが弱体化した結果、メディアとペルシアが天下
を取る機会が生じたわけだから、スキタイは恩人ではないのだろうか?
アッシリアが万全ならば、メディアやカルデアらの方が皆殺しされたはずだから、
スキタイらはまさに命の恩人だったのではないだろうか?
アッシリアがスキタイに報復すると言うならば、理屈が通るのだが・・・
宋を苛めた金をフルボッコして叩き潰したモンゴルを明が追い出して建国し
その後は執拗にモンゴルに遠征した例えで
宋(メディア)
金(アッシリア)
モンゴル(スキタイ)
明(ペルシャ)
とすれば理解できる。
モンゴル(スキタイ)、契丹(メディア)、金(アッシリア)、宋(カルデア)かな
月氏(スキタイ)、匈奴(メディア)、秦(アッシリア)、周(バビロニア)、漢(カルデア)だろうな
972 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 14:49:54 0
ドイツ人の愛好家(皆さんには評判は悪いが)
がスキタイの弓矢とペルシアの防御盾を復元して、実際に矢を放ってみました。
結果は、防御盾を簡単に貫通しました。強弓のスキタイ人ならばもっと破壊力があったでしょう。
スキタイは少数でも、アウトレンジ戦法でゲリラ戦を展開したので、
歩兵中心のペルシャ軍は大損害を出したのでは。
アケメネス朝ペルシャでは貴族が没落して、騎兵が弱体化していたのでは?
973 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 19:05:28 0
>>972 ダリウス即位時の内乱で、王朝創建以来?のペルシャ貴族らが没落する事はありえたであろうな。
ダリウスが、イエニチェリ的に、非イラン人歩兵らを優遇する事もありえたであろうな。
ダリウスは、後世にダイラムと呼ばれるヒルカニア出身だとされるので、彼の軍は元来歩兵が
多かったのかもしれない。
ペルシャが遊牧勢力相手に勝ったのはサカのションカ王が恭順して来た時ぐらいで、
マッサゲタイのトミュリスに敗れたキュロス、スキタイのイダンテュルソスに敗れたダレイオスと負けが込んでいる。
ガウガメラの会戦でダレイオス3世が戦車で指揮していたのが事実ならば、
ペルシャは伝統に固執し過ぎてていたのだろうな。
スキタイ式弓騎兵とギリシャ式重装歩兵を組み合わせて主力としていれば、
ペルシャは無敵だったのだろうな。
976 :
世界@名無史さん:2008/12/19(金) 21:52:08 0
ガウガメラの戦いでは、スキタイ騎兵はペルシャ軍の左翼で参戦していますが、
ギリシャ歩兵部隊に押し返されます。
スキタイ騎兵も会戦型の決戦では、強さを発揮できなかった。
ペルシャの傭兵化したスキタイは自らの戦法では戦えなかったのかもしれない。
スキタイ自身の戦法は基本として正面戦闘や接近戦を極力避け、
距離を置いて弓と投げ縄で相手をしとめたり、
相手を挑発し追撃させ疲弊したところを叩く戦術を取っている。
978 :
世界@名無史さん:2008/12/20(土) 13:55:59 0
ギリシャ側の記述によると、スキタイには軽装騎兵と少数重装騎兵がいたようです。
ダレイオスの作戦は、スキタイがギリシャの背後に回って、ゲリラ戦をするでは?
しかしスキタイは前線を突破できなかった。この時点でスキタイ騎馬戦法の弱点が露呈した。
これを見たサルマチアが重装騎兵を充実させ、スキタイを破ったと思う。
しかし、ダレイオスですが、
彼はこの重要な位置に、ペルシャ騎兵ではなく、スキタイ騎兵を配置した。
これが、ペルシャ騎兵の弱体化論の根拠です。
ダレはアレキが中央突破を始めるとすぐに逃走する。
ダレはまったくペルシャ騎兵を信頼していない。
>>978 ともに重装騎兵を主力としたサルマチアとパルチアは同族であろうか?
サルマチアの原住地はウラル山脈の南だとされるが、アルサケスらは
かの地からパルチアへ南下したのかもしれないですな。
ダレイオス3世は、即位直前までアルメニアのサトラップだったので、
ペルシャ本国人の忠誠を期待出来なかったのかもしれないですな。
アレクサンドロスの遠征軍はカザフステップではスキタイ・マッサゲタイ相手に苦戦して
シル河で進撃を止めて南方へと方向を変えている。アレクサンドロスが南に去るとこれら遊牧勢力はまたもどってきた。
逃げ水を追うような展開はダレイオスのスキタイ遠征に近いものがある。
981 :
世界@名無史さん:2008/12/23(火) 14:12:38 0
ギリシャの報告では、スキタイは和平を結んで、インド遠征に騎兵を提供したもよう。
スキタイもギリシャ重装騎兵ヘタイロイ戦法を習得したかったのでは?
パルティアってスキタイ系じゃなかったっけ・・・
>>1 中島敦先生の
「狐憑(こひょう)」
という小説を読めば、
おおよそのことは
わかるでしょう。
>>981 スピタメネスの娘アパメとセレウコスが結婚したそうだんね。
キュロスが望んだ事を、セレウコスが実現したみたいだね。
スキタイがサルマートに敗れたのはサルマートの重装騎兵の為だというが、それよりも
スキタイはギリシャの影響で定住化し、遊牧民としての強さを失っていった為に
遊牧民としての剽悍性を保っていたサルマートに敗れたという要因の方が大きいと思う。
中国に侵入した遊牧民が漢民族に影響され弱体化し新手の遊牧民に撃破されてしまうパターンに近いのでは。
そろそろ新スレ立てないと。ちなみに俺は規制がかかっていて無理。
987 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 00:40:09 0
>>658 東ヨーロッパ人種は平面顔じゃないだろ
充分彫り深いし鼻も鷲鼻の人もいるぐらいだし。
顔が丸いのは事実。だから日本人にも比較的好まれる。
988 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 08:53:20 0
>>985 定住化が進んだのはギリシャの影響よりも農耕スキタイ=スラブの影響だろ
むしろ遊牧スキタイはスラブに吸収されて同化して消えたんだろ
989 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 14:44:43 0
Olbia付近のスキタイの村遺跡やNeapolisは明らかにギリシャの影響ですね。
スキタイは完全な遊牧民ではなく、機会があると都市を造り定住しました。
しかし、都市は敵に襲撃されると放棄されました。
農耕スキタイは有能な農耕民で、ドナウ川流域からクリムステップに至るまで
耕地を広げ、小麦、大麦、ライ麦を輸出していた。家畜も豊富、だた豚がいない。
農耕スキタイが遊牧スキタイを受け入れることは、土地の生産力からは可能でしょう。
農耕スキタイがスラヴかどうかは、まだ検討中です。
990 :
世界@名無史さん:2008/12/26(金) 17:33:12 0
皆さんへの提案、このスレは、だれでも見れるように、このあたりで止めて、
新しくスレを開いらいてはどうですか?
ちなみに私はもう書き込みません。