【三国志正史スレッド 巻八】

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929世界@名無史さん:2006/04/12(水) 18:09:45 0
>>926
そこ読んだら貂蝉の記事の下の方に、闖字麾下の女統営の高秀英が黄河や長江を跨いで
南北に転戦し、英武は世を盖うとかかいてある。李自成の部下に支那人が大好きな女英雄が
いたことになっている。演義なんてものもこうして生成されたんだろう。
930世界@名無史さん:2006/04/12(水) 21:04:59 0
>924
陳到はともかく、輔匡らは、事跡が不明過ぎるからねぇ。
夷陵にくっ付いて行っただけだから、戦歴豊富とは言えないような・・・。
ちなみに輔匡は李厳の補佐官でなく、人事序列が李厳の次ぎくらい、って事かと。
陳到は、北伐人事で李厳の指揮下に入ってる様だけど。
931世界@名無史さん:2006/04/12(水) 21:15:02 0
夷陵ではほとんど無名な奴が総司令官だったな。
参加した武将もほとんど無名な将軍ばかりだし。
932世界@名無史さん:2006/04/12(水) 21:20:42 0
>926
北伐の最終目標は中原回復だったかも。
ただ、それがすぐに可能ではないから、第一段階として、隴西以西を確保する。
そうなれば、涼州は分断されるんで立ち枯れになり、比較的容易に奪取できるかもしれない。
その結果、>>928氏の指摘してる部分も加味されるかもしれない。

蜀漢が隴西を奪取し、涼州が魏・本国と分断されれば、魏側も涼州を見捨てる訳に行かないから、隴西に遠征軍を送る事になる。
そうなると、魏側は、自領防衛・維持のためなのに、軍を「遠征」させる、ってハメになる。
実際の戦況でも、隴西で魏・蜀が衝突した際、魏側も兵站の維持に苦労してる。
隴西を確保している状況でも、兵站に苦労してるのに、それが「遠征」になったらもっと困難になるだろう。
蜀漢側は迎撃すれば良く、史実の苦労はかなり解消されるかもしれない。防衛の方が比較的容易なのは戦史が教えてくれるところ。

その後、隴西以西を維持して、蜀漢の統治を行き渡らせる事が出来れば、関中盆地にも蜀漢の影響力を及ぼす事も可能になるかもしれず、関中を弱体化できるかもしれない。
そうなれば、関中盆地を蜀漢の版図に組み入れる事も可能かもしれんし、益州1州のみと言う脆弱な状況からも脱する事も可能だろう。

↑の所が諸葛亮の第一次北伐から祁山の役くらいまでの構想かな、と推測してるんだが、どうだろ?
長くてすまん。


933世界@名無史さん:2006/04/12(水) 21:28:18 0
>>932

概ねそうんなところでしょう。
祁山あたりの麦を目当てにしていたみたいだね。そうすれば長期持久戦も可能
とうわけだ。
934世界@名無史さん:2006/04/12(水) 21:29:56 O
>>931
無名なのが従軍したんじゃなく、
敗死したから無名で終わったんじゃまいか
935932:2006/04/12(水) 21:33:41 0
>933
祁山の麦で、長期自給が可能だとは思わないけど、隴西に橋頭堡を築くくらいまでならアテにしてたかもしれんね。
あくまで、隴西以西の確保が、長期自給の前提になるかな、と。

実際、隴西以西を確保しても、数万の兵力を長期に駐留させる事が出来たかわからんが。
ま、現実は隴西確保どころか、国境付近をうろついてたに終始しちゃったけどね。
そんでも、街亭で失敗しなければな、とは思ってしまう。
936世界@名無史さん:2006/04/12(水) 21:35:59 0
>934
それにしても、登場した瞬間に戦死だからねぇ。戦歴豊富とは・・・。
実際の所、益州平定や漢中戦役で活躍はしたんだろうけど記載が全く無いからなぁ。
937世界@名無史さん:2006/04/12(水) 22:11:59 0
>>936

まあ、関羽・張飛・馬超・黄忠・趙雲・魏延よりは格下の武将ばかりだろうな。
参加した将軍の中では尚寵が出師表で出てくるくらいかな。呉班、寥化、輔匡
あたりは名将とは言い難い人物かも。蜀にとって痛かったのは黄権と馬良の二人
を失ったことだろうね。二人は後も蜀に存在していれば諸葛亮の良き補佐役とな
ったと思う。黄権がいれば李厳がbQになることはなかったでしょ。それまで李
厳はそれほど重きを置いていなかった感じだし。夷陵での有能な人材喪失が相対
的に李厳の地位を押し上げたのだろう。
938世界@名無史さん:2006/04/12(水) 22:42:28 0
>937
馬良は、その後も存命なら、すんなり丞相長史ってトコだろな。
第一次北伐で、留府長史を誰にするかで揉める事もなかった、って程度かと。
まぁ、優秀な人材であることには変わりは無いが、諸葛亮の負担が少々軽くなる程度で。

李厳と黄権を比較すると、劉備存命中も、引き立てられてるのは李厳かな。
黄権が偏将軍の頃、李厳はすでに興業将軍で、益州では重要な郡である建為太守。
黄権は劉備の数多くの有力・優秀ではあるが、幕僚の一人に過ぎないけど、李厳は重臣の一人で、漢中戦役の頃には比較的高位な将軍である輔漢将軍を加えられてるし。
黄権の方が、俺も有為な人材だとは思うけど、夷陵後に蜀漢に留まっていたとしても、李厳より上に行くとは考えにくい。
939世界@名無史さん:2006/04/13(木) 01:03:00 0
蜀は陳寿が敢えて評価を抑えてるから正史から
実力なんざ分からないよ。
940世界@名無史さん:2006/04/13(木) 09:51:13 0
ならツガン読めや
941世界@名無史さん:2006/04/13(木) 11:55:28 0
陳寿が記した三国の歴史書物は、結局東晋のときに支那国史として採用されたのか、
それともずっと後になってから24史のひとつとして採用されたのか、それによって事実に
近いか遠いかある程度見当がつくはずなんだが。
942世界@名無史さん:2006/04/13(木) 12:20:51 O
940と941のあまりな見当違いっぷりは見てて逆にすがすがしいな
943世界@名無史さん:2006/04/13(木) 12:36:51 0
スパーツガン
944世界@名無史さん:2006/04/13(木) 12:44:24 0
すがすがしい、か。 釣ったつもりが…
945世界@名無史さん:2006/04/13(木) 12:45:40 0
ハコをかぶって地方へ飛んでいく旧法派
946世界@名無史さん:2006/04/13(木) 12:53:59 0
司馬さんは劉秀をあまり評価しない
947世界@名無史さん:2006/04/13(木) 13:10:47 0
倭国の遼に及ばない方じゃないよな?
948世界@名無史さん:2006/04/13(木) 19:06:44 0
>>930
賛を見るに輔匡、劉邕は荊州時代に臣従し、益州入りに随行し、平定後に前者は巴郡、後者は江陽郡の太守に任じられている。
また費観の賛を見るに輔匡らは都護の李厳の護軍となってたようだから補佐的立場にあったとみても差し支えないんじゃないかな?
949世界@名無史さん:2006/04/13(木) 20:04:49 0
>948
随行した後、太守になったけれど、どんな戦歴があったかは不明でしょ。
輔匡の夷陵くらいじゃないかな。

費観の賛でも、李厳が都護、護軍の輔匡は李厳に次ぐ、年齢・閲歴で・・(略)、って事で「李厳の護軍」では無いでしょ。
ただ単に李厳の性格の強さを強調する事例に持ち出されてだけで、李厳指揮下って訳じゃぁないと思うよ。
950世界@名無史さん:2006/04/13(木) 20:16:51 0
>>949
巴郡と江陽郡の位置、中都護の意味、李厳の任地を考えると諸葛亮の幕府ほどではないにしてもそれに準ずる関係にあったと見てもいいと思うけどな。
951世界@名無史さん:2006/04/13(木) 20:34:14 0
李厳はそんなに有能だったのかな?
伝記を読むとそれ程でもないんじゃないかという感想しかないのだが。
軍人として有能だったのか、文官として有能だったのかも定かではな
い。烏合の衆の反乱の鎮定くらいしか事跡がないんだけどね。
952世界@名無史さん:2006/04/13(木) 20:34:24 0
>950
ハッキリ言えないけど、輔匡らの巴郡・江陽太守だった時期が不明な訳で。

益州平定前後(益州平定の後とあるから、平定直後くらいの人事だろう)に巴郡太守だとすると、214年頃で、李厳が都護になったのが223年頃。
さらに江州都督を兼任した時期は226,7年で、それまで巴郡太守と言うのは長すぎると思う。

輔匡の伝記(賛)では、巴郡太守のあと、建興年間(223年〜237,8年)には鎮南将軍に遷ってる。
兼任したとも考えられるが、兼任なら「〜将軍を加えられる」だろう。

劉備の漢中王、蜀漢成立、後主即位、北伐と大規模な人事異動が行われているから、輔匡らが太守だった時期が214年〜219年頃だったとすれば、李厳が都護兼江州都督になった頃には替わってると考える方が自然だと思う。
しかも、費観も巴郡太守になった、とあるからね。
多分、輔匡→費観と言う太守人事かと。
953世界@名無史さん:2006/04/13(木) 20:38:01 0
954世界@名無史さん:2006/04/13(木) 20:40:38 0
>951
軍人と文官と分けるのはどうかと思うけど、5千ほどで異民族も含まれる数万を蹴散らすのは大したもんだよ。
劉表・劉ショウ時代から県令・長で有能と評されてるし(特に州都の県令も勤めてる)、諸葛亮も北伐前に、その事務処理能力を激賞してる。
行政面でも実務能力は相当あったんだろう。
ただ、蜀漢の人材の中では、って感じだと思うが。
955世界@名無史さん:2006/04/13(木) 20:55:28 0
>>952
李厳の中都護就任は223年。
任地は永安。226年に江州(巴郡)に陣営を移す。
その際に「護軍の陳到を留めおいて永安に駐留させ、すべて李厳の支配下においた」
」。
輔匡、劉邕についてはいつまで巴郡・江陽の太守だったかは不明。
だが費観が223年までには巴郡太守になってるので輔匡はほどなく転じたと思われる。
また夷陵の戦役で戦死した程畿は賛では江陽太守とあるので劉邕もその頃までには転じたと思われる。
ただし注には程畿が江陽太守に任じられたのは劉璋時代であるようなので、最後の官職ではなくたんに生前中の最高位(?)であるだけかもしれない。
趙雲が征南将軍とされてるように。
956世界@名無史さん:2006/04/13(木) 21:03:01 0
補足として彭羕が江陽太守に左遷されそうになった折に馬超に不満を漏らしてその件で処刑されてる。
時期的に220年前後と思われる。
957952:2006/04/13(木) 21:12:35 0
>>955,956
詳細な解説、ありがとうございます。
彭ヨウが左遷されそうになったのは法正が健在だった頃の様なので、214年〜220年までの間ですね。
958世界@名無史さん:2006/04/13(木) 21:25:45 0
李厳が黄忠と一騎打ちしてたのは幻ですか?
959世界@名無史さん:2006/04/13(木) 21:57:46 0
>958
演義のお話です。
実際のトコ、李厳は劉備と交戦してないかも。
劉ショウの命令で、出撃したけど、一戦も交えず降伏した可能性もある。
960世界@名無史さん:2006/04/13(木) 22:00:34 0
むちゃくちゃ初歩的な質問ですけど、正史のほうの三国志って日本語訳で読めるものって出てますか?
961世界@名無史さん:2006/04/13(木) 22:01:26 0
演義では諸葛亮は李厳を陸遜に劣らぬと評価していたけど
実際は政敵として見ていたんじゃない?
北伐の際の兵糧輸送の件も無理難題押し付けて失脚に追い込んだように
見えなくも無い。
962世界@名無史さん:2006/04/13(木) 22:18:11 0
李厳に政治力があれば孔明の死後すぐ復権しとる。
963世界@名無史さん:2006/04/13(木) 22:24:17 0
>>960
ちくま。文庫が入手しやすい。全8巻各1,500円。
964世界@名無史さん:2006/04/13(木) 22:30:08 0
>961
既出だが、輸送失敗が原因で失脚したんじゃないよ。
天候不順で輸送が無理、ってを諸葛亮に通告して撤退を勧め、諸葛亮もそれを承諾して撤退。
これだけなら、李厳は全く問題無い。

ただ、「なんで撤退したのか」と諸葛亮を難詰した上、部下に責任転嫁して殺害しようとしたり、さらに、後主に「偽りの撤退で、敵を誘き寄せる作戦です」と嘘の上奏をしたのが問題。
特に偽上奏は大問題だろうね。

965世界@名無史さん:2006/04/13(木) 22:36:24 0
まあ、李厳にしてみれば孔明においしい所持っていかれて
ばっかだったからな。
何か足引っ張ろうとしてもおかしくない。
966世界@名無史さん:2006/04/13(木) 23:08:46 O
趙雲の官位に関しては、演義か正史か忘れたが漢中王即位時に費詩が関羽を諭した時の【韓信と曹参・夏候嬰の話】の様に、馬超・黄忠・魏延に二心を抱かれないように高位につけ裏切る心配がないと信頼していた趙雲には我慢してもらったんジャマイカ。
967世界@名無史さん:2006/04/13(木) 23:22:31 0
>966
費詩の話は、劉備と関羽の関係の特別さを強調するためであって、黄忠らの忠誠心云々の内容では無かったと思うが。
ま、趙雲も特別組の方で、我慢してもらった、ての同意だね。
968世界@名無史さん:2006/04/13(木) 23:57:04 0
>>963
どうもっ。
969世界@名無史さん:2006/04/14(金) 06:02:37 0
黄忠・魏延は荊州以来の家臣だから譜代の家臣と言えるかもね。
まあ馬超は外様もいいところだろう。正史でも自分の身の安全に危惧を感じていた
とう記述があったね。自分自身もそんなに信頼されていないことがわかっていたと
思う。武将の信頼感では

関羽・張飛・趙雲>>黄忠・魏延>>>馬超という感じだろう。
970世界@名無史さん:2006/04/14(金) 06:20:02 0
>>962

李厳は劉備に高く評価されていたから諸葛亮も持ち上げていたし、回りもそうだったのだろう。
でも実際は有能ではあっても傲慢で厄介者家臣だった。だからだれも復活させようななんて思わ
なかった。諸葛亮の足を引っ張ろうと思ったけど、失脚して冷静に考えると自分の後ろ盾は諸葛
亮しかいなかったことに気がついたのでは。
971世界@名無史さん :2006/04/14(金) 13:41:35 0
本来北伐は実績から言って李厳が行うはずだった。
でも諸葛亮は後方支援に回してしまった。
それで不満が溜まって→爆発→不正→解雇
こんな流れですよね?
972世界@名無史さん:2006/04/14(金) 14:42:06 0
ほぉ。 李厳に北伐の意思があったの?
歴史的にみて隴西攻略は、よっぽど相手国に異変なり混乱なりがなければ、成功した軍閥の例をみないように思うのですが。
諸葛亮の実績は(不発に終わりますが)大したものと思いますが、まさか李厳の戦略案とか?
973世界@名無史さん:2006/04/14(金) 19:15:18 0
>971
李厳の職務は、劉備臨終の頃から中都護として国内守備。
この劉備の人事にプラスして、北伐の後方勤務が加わった、ってとこ。

後方勤務の重要性は古来から変わらんし、行政官僚から立身した李厳も充分承知してたろう。

不満は待遇面だろう。蜀漢の事情を考えればかなりの好待遇だったと思うが、実権のある州刺史(あるいは牧)、開府あたりが欲しかったんだろ。
蜀漢じゃぁ無理だと思う。
974世界@名無史さん:2006/04/14(金) 19:48:27 0
蒋苑は後方勤務で諸葛亮から評価されて後継者に抜擢されたからな。
李厳も真面目に職務に励んでいれば良かったのだが。結局、天下国家よりも
私利私欲で行動したから身を滅ぼしたといえるだろう。
975世界@名無史さん:2006/04/14(金) 22:58:24 0
李厳って劉璋政権ではどの程度の待遇だったの?
976世界@名無史さん:2006/04/14(金) 23:07:08 0
メン竹守備にあたってたから結構高い地位じゃね?
977世界@名無史さん:2006/04/14(金) 23:09:20 0
成都の令 劉備が攻めて来ると護軍に任命して綿竹の守備をまかせたとある。
978世界@名無史さん
黄色と黒は勇気の徴ですか?