F樽
樽ルート
204 :
世界@名無史さん:2006/12/11(月) 01:40:03 0
エフタルってそもそも何語の表記なのよ?
中国だとエンタツ?
アチャコモナー
206 :
世界@名無史さん:2006/12/11(月) 02:49:12 0
ロ厭ロ達
これも出せるぜ
嚈噠
日本語表記の「エフタル」は
ギリシア語「Έφθαλίτοι」から。
209 :
世界@名無史さん:2006/12/25(月) 01:00:39 0
ギリシア語「Έφθαλίτοι」って何という書物に記されているの?
それとも碑文かなんか?
中央アジアでギリシア文字はいつ頃まで使用されていたんかな?
210 :
世界@名無史さん:2006/12/25(月) 18:48:57 0
エフタルのような拠点、領土が不安定な国家は
維持するのが大変だったんじゃね?
アフガンを拠点にした帝国はけっこうあるような
>209
エフタルのギリシア語表記は現地周辺に残る文書や碑文ではない。
ビザンティンでの記録。メナンドロスが記した突厥使節マニアクの
ビザンティン訪問記などにこの表記がある。
>210
そもそもエフタルは中央集権国家の体裁をなしていなかった。
封建国家のような雰囲気もあるが、ガンダーラのテギンをはじめ
あちこちでテギンや領主が勝手なことやってたんじゃないかな
(王を裏切って突厥に寝返ったカトルフォスはそんな領主の一人)。
よくわからんコインがあちこちで勝手に鋳造されてたみたいだし。
パンジャーブのフーナ(トーラマーナ&ミヒラクラ)に至っては
エフタル本体とどういう関係であったのかすらわかっていない。
213 :
世界@名無史さん:2006/12/26(火) 01:52:45 0
突厥が東ローマに使者を送ってたんだ〜。
用向きは何だったの?
214 :
世界@名無史さん:2006/12/26(火) 09:32:47 O
突厥使者“イランって邪魔だね”
東ローマ官僚“そうだね、あいつがいるからセリカ(中国)と商いできないんだよね”
突厥使者“じゃあ、ルート変えてみる
ちょっと北のルートに”
東ローマ官僚“いいねえ
それと繭ちょうだい”
突厥使者“いいけど 値が張るよ”
東ローマ官僚“いいよ”
突厥使者“サンクス じゃあね”
東ローマ官僚“バイバイ”
215 :
世界@名無史さん:2006/12/26(火) 16:38:15 0
イランってのはササン朝?エフタル?
エフタルの諸侯であったカトゥルフォスが妻をエフタル王に寝取られた。
頭に来たカトゥルフォスは西突厥のディザブロス(イステミ)とササン朝を
そそのかしてエフタルを挟撃させた。これが当たって563〜4年頃
エフタルは滅亡。
その後、西突厥がアヴァールを攻めようとした際に、カトゥルフォスは
ディザブロス(イステミ)を諫めたため嫌われ、ササン朝に身を寄せる。
西突厥の使節ソグド人マニアクがササン朝を訪れ絹貿易交渉を行ったが、
このカトゥルフォスがコスロー王にあることないこと吹き込んで、この交渉を
二度に渡り潰した。西突厥は怒って交渉相手をビザンティンに切り替える。
こうして568年、ビザンティンと交易・同盟関係を求める西突厥の使節
マニアクがビザンティオン(コンスタンティノープル)を訪れた。
217 :
世界@名無史さん:2006/12/26(火) 21:50:00 0
ソグド人研究には東ローマの文献も当たらないといかんのか・・・
奥深いな〜。
218 :
世界@名無史さん:2007/01/11(木) 00:21:22 0
エフタル人ってすごく体臭臭そう
220 :
世界@名無史さん:2007/01/13(土) 03:41:30 0
エフタルってバクトラが首都だったの?
221 :
世界@名無史さん:2007/03/06(火) 00:25:03 0
バルフだろ
222 :
世界@名無史さん:2007/03/09(金) 00:11:31 0
222ゲット
223 :
世界@名無史さん:2007/03/11(日) 22:53:21 0
遊牧民も定住するのか
するよ
遊牧民は風呂はいらないしな
226 :
世界@名無史さん:2007/04/23(月) 22:47:43 0
宗教についてはどうだったんだろう。
マニ教かゾロ教あたりを受け入れていたとか?
ミヒラクラは仏教を弾圧したんだよね?
229 :
世界@名無史さん:2007/06/16(土) 00:25:38 0
230 :
世界@名無史さん:2007/06/17(日) 02:26:53 0
フンザは、その名の通り、エフタルの末裔かもしれない。
フンザの語源はブルシャスキ語の「矢(hunts)」の複数形 huntse だ
と地元では言われてるらしいがあんまり説得力はない。今のところ語源は
不明。
かといってフーナ or エフタル起源を思わせる伝承もないし、今のところ
特に積極的にフーナと関連づける理由はない。
232 :
世界@名無史さん:2007/06/17(日) 07:29:32 0
>>231 矢の複数形でありますか、とりあえずは、騎馬民族に関連がなくは
ないようですな。
北方の「匈奴(ヒュンヌ)」とか「フン」とか「フーナ」は
「人」という意味の自称らしいけど、フンザのブルシャスキ語では
そういう言葉はない。
「男・人」=sissで全然関係なさそう。むしろ「数字の1」=hunで、
これは「人」と結びつく気配は今のところなし。
地名のHUNZAは「数字の1」と関係ある言葉なのかもしれない。
234 :
世界@名無史さん:2007/06/17(日) 21:46:57 0
ブルシャスキー人は、バスク人やチェチェン人のようなイワユル原住民、
それとも、パンノニアのマジャール人やアナトリアのトルコ人のように、
イワユル外来者でしょうか。
月氏やエフタルにも関連があるのでしょうか。
235 :
世界@名無史さん:2007/06/17(日) 21:51:20 0
236 :
世界@名無史さん:2007/06/18(月) 03:26:22 0
>>233 ブルシャスキー人は、オセチア人や小月氏のように、遊牧民だったものが、
山岳地帯に追い込まれたものでしょうか。
それとも、バスク人やチェチェン人のようなイワユル山岳民族なのでしょうか。
フンザの話を続けてもエフタルには結びつかないから、こっちで答えるよ。
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1107859162/l50 【パキスタン・バングラデシュの歴史】
一つだけエフタル/フーナの話をしとておくと、カラコルム・ハイウェイ
沿いでは、サカ王モガ(マウエス)やクシャン諸王の碑文が見つかっていて、
これら王朝の支配が及んでいたことがわかっている。
エフタル/フーナの碑文は発見されておらず、史料でもエフタル/フーナ
領とははっきり記されていないが、すぐ近くまでは確実に支配していた
から、カラコルムにも支配が及んでいたのは間違いないだろう、
といわれている(少なくとも敵対している様子はない)。
238 :
世界@名無史さん:2007/06/24(日) 17:28:14 0
「魏書西域伝」や「洛陽伽藍記(宋雲行記)」などに、エフタルの
既婚女性は角のついた帽子をかぶっている、とある。
実はこの帽子、アフガニスタン・ヌーリスタン(カーフィリスタン)の
バシュガル渓谷に住むカティ人の間には19世紀末まで存在していた。
イスラム化によって消滅してしまったが、かぶっている姿は古い写真に
残っているし、現物も数点博物館に残っている。
http://www.chart.ac.uk/chart2001/papers/noframes/witek.html Wlodek Witek(National Library of Norway, Oslo)
With Camera to India, Iran and Afghanistan: Access to Multimedia
Sources of the Explorer, Professor Dr. Morgenstierne (1892-1975)
この帽子が「ヌーリスターニーがエフタルの後裔である証拠」とまでは
言わないが、なんらかの関係がある証拠ではあるだろう。
特に「エフタルの原郷はバダフシャン(モンゴル高原出身ではない)」
という説にはかなり有力な証拠。
239 :
世界@名無史さん:2007/06/24(日) 17:30:27 0
カラコルム〜ヒンドゥクシュの諸民族の中に、ギリシア人、月氏、サカ、
クシャン、エフタル、突厥などの血が混ざっているのは間違いないだろうが、
「そう推測できる」というだけで、これといった証拠が見つからないのが難点。
特に言語資料がほとんどないのが痛い。
スレとはちょっとずれるが、「ギリシア人の血」については近年面白い研究がある。
http://hgm2002.hgu.mrc.ac.uk/Abstracts/Publish/WorkshopPosters/WorkshopPoster11/hgm0533.htm HGM2002 Poster Abstracts: 11. Genome Diversity POSTER NO: 533
Investigation of the Greek ancestry of northern Pakistani ethnic groups
using Y chromosomal DNA variation
これは「先祖はギリシア人」という伝説を持つ3つの民族、パシュトゥーン、
カラーシャ、ブルショについて、ギリシア人に特有な遺伝子の有無を調べる
という調査研究。
結論は、パシュトゥーンには少し混じっている、カラーシャについてはよく
分からない結果で結論は保留、ブルショには全然ない、というものだった。
以前ティムール朝史についての本を読んでいたら
「バダフシャンの諸王(Shahs of Badakhshan)」
というのが出てきたけど、エフタルと関係あったり
するんでしょうか?
検索してもよく分からなかった・・・
>バグラーン近郊のエフタル城塞遺跡はまだ未調査らしいし・・・
うはっ夢がひろがりんぐ
当然、王侯、貴族の墓も見つかってないと
>>240 > 「バダフシャンの諸王(Shahs of Badakhshan)」というのが
> 出てきたけど、エフタルと関係あったりするんでしょうか?
シャイフ・ムハンマドとかシャイフ・アリーとかいう人たちでしょ。
彼らは「アレクサンドロス大王の子孫」を名乗っていたらしい。
いつからそう言いはじめたのかは知らないが、これより
100年前、マルコ・ポーロがバダフシャンを通ったときに
「王族はアレクサンドロス大王の子孫を称する」と書いている
のが一番古い記録だと思う。
しかしそれより逆上ると、10世紀にいたバダフシャン王の名は
'Abu-al Fath al-Yaftaliという名前だった。
バダフシャンの中心地ファイザバードの北にYaftal(Haftal)
という地名が今もあって、Yaftaliという氏族名にもなっている。
Yaftali氏族(タジク人)の有名人は、最近ではブルハーヌッディーン・
ラバーニー元大統領。
このYaftalという地名はエフタルという名と同源ではないか?と
いわれており、「エフタル・バダフシャン起源説」の根拠のひとつ。
バダフシャンがエフタル発祥の地かどうかは結論出ないけど、
エフタル帝国崩壊後、その残党がトハーリスターン〜バダフシャンに
かけてたくさん小国を作って残っていた(一説では27カ国)のは
間違いない。
エフタルの名は、8世紀前半まではトハーリスターン〜バダフシャンに
追えるが、その後消えてしまう。
14世紀のバダフシャン王族シャイフ・ムハンマドたちも、
アレクサンドロスの子孫、というよりはエフタルの末裔である
可能性の方がリアリスティック、と思う。とはいえ、10世紀の王様の
名前くらいしか証拠になりそうなものはないんだけど。
それに系譜がわからないので、10世紀の王家と13〜17世紀の王家が
繋がるのかもはっきりしない。16世紀にバダフシャン王家から
モグーリスターン・ハーン家に嫁いだ姫様シャー・ベガムは「うちは
三千年の歴史がある」と言っている(ならアレクサンドロスより古いん
だけど??)から、まあずっと繋がってるとは思うが・・・。
「アレクサンドロス大王の子孫」話があんまりあてにならないのは
いつものことで、実はバダフシャンの王家は、17世紀にサマルカンド
から来たウズベク人の王朝に変わっているんだが、19世紀になると
こいつらも「アレクサンドロスの子孫」と言い始める。やれやれ。
>>243-246 詳細なレスありがとうございます。
16世紀の3千年前だとインドにアーリア人が侵入した頃・・・w
ウズベク人の王朝ってチンギス・ハーンの血も引いてたりするんでしょうかw
17世紀の中ごろヤフタル部族から迎えられて
バダフシャンに新王朝を開いたヤール・ベクは、
サマルカンドのサイイド(預言者ムハンマドの子孫)
の家系とされているから、チンギス裔ではないようだ。
まあ自称「サイイド」ってやつも「アレクサンドロスの
子孫」同様信用できたもんじゃないけど。
249 :
世界@名無史さん:2007/07/21(土) 20:51:14 0
バダフシャン史については、加藤九祚先生の個人誌「アイハヌム」に
T.G.アバエワ『バダフシャン史概説』の翻訳を掲載する、という
予告があったが、「アイハヌム2004」に掲載されたときには
第1章 地理 第2章 交易史だけで、肝心の第3章 政治史概説 は
誌面の都合で全部割愛されていてガッカリした。
その後も掲載される気配はないが、いつか載せてほしい。
その他では、お馴染みのENCYCLOPEDIA OF ISLAM :
NEW EDITIONのBadakhshanの項(バルトリド執筆)が一番詳しい
から一度読んでみるといいよ。
そうですね。ヤール朝の頃の制度について多少伺えるくらいで。