1 :
世界@名無史さん:
中国の軍事史は古代と三国時代ぐらいしか話題にならないので立ててみた。
兵制、戦術、武器防具の変遷などについて語ろう。
楊家軍 岳家軍
4 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 15:56:25 0
5 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 17:40:59 0
>>1 古代から近代までまったく進化なんてしてません。
よって終了。
6 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 19:28:05 0
羊馬城と月城とかあったね
7 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 19:48:14 0
戦術つ〜ても、サルフ戦でのやられようを見てると
脱力するわな
ヌルハチが凄すぎるというのもあるんだが、「最後の東洋的社会」の
狩猟部族より何百年も進歩した火器部隊がああも無残にやられたんじゃ
軍事史いくら語ってもしょうねないと言える
>>7 銃ったって近代の連発ライフル銃とか出てくる以前は
クロスボウでも代わりが務まるような使い方だからなあ。
もうちょっと先の時代ならジュンガル部ですら火器を装備してたし
負けて恥ずかしいほど技術力の差はないと思うけど。
1世紀前だったらロシアだってタタール人に
モスクワ焼き払われてる時代ですよ?
9 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 23:03:28 0
シナの中世から近世を語るのかな?
西洋史だと封建軍→国王の傭兵軍→国民軍みたいな流れがあるけど
シナは時代ごとにどういうトレンドだったのかよく分からないね。
教えてエロい人。
10 :
世界@名無史さん:2005/07/31(日) 23:18:03 0
半分はモンゴルや女真の軍制の話題になりそうなw
12 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 01:17:36 0
ミンガンとモクンとか八旗制とか。
13 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 12:15:30 0
>>7 >>8 外人が書いた本でサルフの戦いについて
「残念ながらこの時代の火器はたいして効果的な兵器ではなかった。
二百年後のプロイセンでもマスケット兵が50ヤード先の標的を狙って
命中率はたった6割だった」
とかコメントしてた。
14 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 13:12:03 0
支那の軍事史
1 各地に盗賊の親玉が群雄割拠
2 盗賊の中で最強の集団が天下統一 配下の盗賊を正規軍にする
3 太平の世で軍の質が低下 各地で反乱が勃発
4 1に戻る
15 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 13:36:57 0
春秋戦国時代は、国民軍が存在してた様だが、
漢楚の戦いは、完全に傭兵(食い詰めた農民、浮浪者、無法者)が
主体になってる。故に郷土軍を多く持ってた楚の項羽は強かった。
漢の時代は、各軍閥の私兵が主体。つまり封建領地の軍。
三国志は、完全に傭兵同士の争い。
晋以降は、北方の遊牧民族が常に優勢なので、この騎馬兵達は
ある意味、国民軍だ。
唐は初め封建軍だけど、じょじょに各軍閥の私兵による傭兵軍が主体。
明は封建軍。清は少数の満州族の国民軍が中核の軍隊。
中華民国は、実質各軍閥による傭兵軍。
日中戦争時は、国民&共産党ともに傭兵軍。これはまるっきり
ドイツの30年戦争に近かった。略奪は中国側の傭兵の方がひどい。
共産党政権樹立でようやく国民軍が成立した。
結論から言うと、中国は春秋戦国時代が一番先進的だった。
この頃、斉、燕、晋の北方諸国は、コーカソイドの王国だったとの説も
あるので、紀元後の漢民族と比べて大幅に優れてるのは当然かもしれない。
春秋戦国時代に「国民」と呼べるような存在があったのか?
17 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 15:50:26 0
18 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 16:28:31 0
明の「武備志」に載ってる甲冑を見ると、唐の時代からほとんど発展してないような気がするのは俺だけだろうか。
19 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 17:05:03 0
主要な城郭の防御力は凄いんだけどな
19世紀のアヘン戦争以後でも、当時の戦列艦が主砲の水平射撃を
1時間以上浴びせても、びくともしなかったそうだ
何せ城壁厚が平気で15mから30mあるらしいから
コンスタンティノポリスの城壁の比では到底ない
封建軍って何?
21 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 20:37:43 0
>>8 >>13 当時の火器の限界は充分判ってるんだけど、
塹壕も掘り、防御用戦車も使用してたのに、
徒歩立ちの満州兵にその戦車をひっくり返されて、
揚句は鉄騎に踏み込まれたその不手際ぶりが、何気に
旧日軍の高級統帥に似ていて、チュンコォ不憫(藁
22 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 20:42:20 0
床|・∀・)
23 :
世界@名無史さん:2005/08/01(月) 21:05:46 0
統万城だっけな、「土を蒸して城を築く、錐を刺して一寸入らば、
即ちその工人を殺す」五胡十六国の時?
築城技術も軍事史に入るよね
24 :
世界@名無史さん:2005/08/02(火) 01:48:39 0
>>7 まあ、ヌルハチは騎兵の栄光の最後を象徴する人だろうな。
袁崇かんに火器で怪我させられ死んだのも象徴的ではある。
>>7 その以前に「碧蹄館の戦い」で明の騎馬兵が鉄砲でボコボコにされといて、なお、だもんな。
学習能力がないというか、東洋的停滞というか。
中国は火砲の歴史は古いけど攻城砲止まりで他国みたいに野戦で大量集中投入するという発想がなかったんだろうか?
26 :
世界@名無史さん:2005/08/02(火) 14:14:25 0
>>25 明軍は野戦でけっこう火砲使ってたらしい。
仏朗機を荷車に載せて散弾撃ったり、あと一斉発射銃とか。
漢民族の兵制は基本的に3つあったと思う。
徴兵制 一般の農民から広く徴兵する(
>>15で国民軍といってるのはこれのことか?)
傭兵制 志願兵を募集する
軍戸制 一般民衆と別の、世襲の軍事義務をもつ軍戸から兵を取る
北方の騎馬民族の場合は、家畜の世話は女と奴婢にまかせて
壮丁が全員騎馬戦士として戦う。いわば部族皆兵だ。
南方の苗族や壮族の軍団もいたと思うけど詳しくは知らない。
五胡十六国 軍戸制+匈奴などの部族兵
隋唐 徴兵制 のちに傭兵制+節度使の家兵
宋 傭兵制
元 軍戸制+遊牧部族兵
明 軍戸制 のちに傭兵制
清 世襲の八旗兵+緑営(傭兵制)
こんな感じかな? 突っ込み待つ。
30 :
7:2005/08/02(火) 20:17:11 0
>>25 >中国は火砲の歴史は古いけど攻城砲止まりで
こういうことらしいですね
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1120655663/l50 "学校の図書館に去年からあったんで読んだけど。
「火器についての包括的で体系的な研究書」というよりは
「なぜ火薬が発明されたのは中国なのに火器が強力な武器に進化したのは西欧だったのか」
という疑問を答えようとした本だ。
結論からいうと「西欧は遊牧民の脅威にさらされていなかったから」。
何じゃそりゃと思うかも知れんが読んでみると非常に説得力がある。
旧大陸(と周囲の島々)のあらゆる地域の火器使用について検討しているので
とても参考になる。"
まだその意味は完全には判らないけどw
31 :
7:2005/08/02(火) 20:18:49 0
つうか、個人的には毛唐どものほうが野蛮だっからと思いたいのだがw
32 :
7:2005/08/02(火) 20:24:10 0
つうか、もっと個人的には何人かが書いておられたが、防御施設発展の
軍事史を教えてほしい シャンハイクァン防御複合体の形成過程とか
ペイチンの外城、内城、皇城、紫禁城の入れ子構造の心理学とかw
33 :
7:2005/08/02(火) 20:42:18 0
34 :
世界@名無史さん:2005/08/03(水) 16:31:01 0
>>29 そういう軍制の変化の背景に、どういう社会経済的要因があったのか含めて
説明してもらえるとありがたいんですが。
欧州のように封建社会から絶対王政みたいなわかりやすい流れがないので
時代ごとの制度をみても何がどう違うのやら。
35 :
世界@名無史さん:2005/08/03(水) 20:20:37 0
>世襲の軍事義務をもつ軍戸
それって、ピョートル以後のロシアで多くの貴族に引退するまで
課せられた軍役義務に似てるんだろうか?
中国では五代以後、世襲貴族が完全に没落したから、世襲軍役を
課せられた軍戸というのは一体どういう性格の集団なんだろ?
36 :
世界@名無史さん:2005/08/03(水) 21:17:55 0
>>35 これのことじゃ?
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%9C%E5%85%B5%E5%88%B6 >府兵制以前に行われていたのが兵戸制である。これは特定の家に対して永代の兵役義務を負わせる者で、
>その元は魏の曹操が黄巾党の残党30万を配下に入れた青州兵である。その後、兵戸制は南朝・北朝に受け継がれ、
>南朝では文治重視をして武を軽視する考え方から兵戸の没落を招き、宋代に崩壊していた。
>しかし北朝では鮮卑の持つ尚武的な気風から兵戸の地位は慨して高く比較して長い間保持されていた。
>北魏での兵戸は鎮と呼ばれ、特に首都平城を北の柔然から守る六鎮の地位は高く、領土の統治権も持っていた。
後期明軍の話が出てたので参考のために
戚継光「練兵実紀」にある対モンゴル戦のための部隊編成
(というか洋書からの引き写しです)
歩兵
歩兵の基本的な単位は12名の分隊である。分隊は2種類に分けられる。
1つはマスケット兵の分隊で、分隊長、10名の銃手、伝令からなる。
もう1つは"殺手"の分隊で、分隊長、10名の様々な近接兵器をもった殺手、伝令からなる。
同種の分隊を3つ合わせて37名の小隊になり、3つの小隊がさらに112名の中隊を構成する。
マスケット兵の中隊は合計で90挺のマスケット銃をもつ。
4つの中隊が449名の大隊を構成し、2つの大隊(マスケット兵と殺手)で899名の連隊になる。
3つの連隊が2699名の旅団(323名の士官、2160名の兵士、216名の伝令)を構成し、
1080挺のマスケット銃と216張の弓をもつ。
騎兵
騎兵の基本的な単位もまた12名の分隊である。
騎兵の分隊には分隊長、多様な武器を装備した10名の兵士(マスケット銃2挺、火槍2本、
三叉の槍2本、槍2本、メイス2本。何名かは同時に弓矢を携帯する)、そして伝令がいる。
騎兵も歩兵と同様に分隊、小隊、中隊、大隊、連隊、旅団に組織される。
戦場での騎兵旅団は2699名から2988名にまで増援され、1152張の弓、432挺のマスケット銃、
60門の虎蹲砲(軽量の野戦砲)をもつ。
大量の銃と火砲が配備されていることから、これらは騎兵というよりむしろ竜騎兵、
騎馬で移動する歩兵であったようである。
車兵
車兵旅団の戦車(防御用のワゴン)にはそれぞれ10名の分隊2個が配置されている。
分隊長、御者、2名のラバ追い、6名の砲手からなる第1の分隊は、戦車のところで
2門の旋回砲を操作する。
分隊長、4名のマスケット兵、4名の近接武器をもった兵士、伝令からなる第2の分隊は、
戦車に乗るか、またはその周囲で戦う。
2つの戦車が小隊を構成し、2個小隊が中隊、4個中隊が大隊、4個大隊が連隊、2個連隊が
旅団となる。旅団にはさらに別の17台の戦車が付属し、その内8台は"大将軍"と呼ばれる
大型砲が搭載され、残りの9台には太鼓や火箭やその他の物資を積んである。
合計で、3109名の車兵旅団は145台の戦車と、8門の大型砲、256門の旋回砲、
512挺のマスケット銃を装備している。
40 :
世界@名無史さん:2005/08/03(水) 22:16:29 O
兵戸は一般には被差別民で、奴隷兵士とでもいうべき存在だったらしい。
逃げられないよう刺青を入れられるなど、「なんとしても逃れられない」ものだったそうな。
曹操など後漢末の群雄が流民なんかを兵士として駆り立てたのが始まりという。
それまでは徴兵制。
41 :
世界@名無史さん:2005/08/03(水) 23:01:43 0
死以外の解放は望み薄の徴兵制
金の切れ目が縁の切れ目の傭兵制
被差別民が"選ばれちゃう"軍戸制
「仕事といえば駆け足ばかり 飯といえばもやし汁ばかり
たまに清郷に出かけると聞くと、皆の相好がくずれたものだ」という
無辜の農民に襲い掛かって拷問しお宝を搾り出す事だけを生業とする
中華民国軍閥兵士の生態は中国4000年の伝統だったんだろなぁ・・
42 :
世界@名無史さん:2005/08/03(水) 23:14:30 O
少なくとも古代の徴兵制度については盛大に誤解しているなきみ
43 :
世界@名無史さん:2005/08/03(水) 23:58:03 0
>>42 ごめんね、馬鹿で
他の誤解について教えて欲しい
44 :
世界@名無史さん:2005/08/04(木) 23:05:09 0
とりあえず傭兵制がおこなわれるのは貨幣経済が発展した時代だろう。
軍戸制は農業人口の減少と関係があるような気がするけどよく分からない。
45 :
世界@名無史さん:2005/08/05(金) 00:43:18 0
南宋や金の軍隊について語って
46 :
世界@名無史さん:2005/08/05(金) 09:10:46 0
>>44 貨幣経済の発展が、傭兵制に不可欠な要素でもないだろう。
食い詰めた浮浪者にとっては、兵糧で食をつなぐだけでもメリットはあるし、
都市を陥落させた際の略奪で一財産作れるし、軍団を撃破した時も
敵の所持品を分捕れる。
世情不安の社会ならどんな時代でも、傭兵制はポピュラーだ。
47 :
世界@名無史さん:2005/08/05(金) 12:58:15 0
>>46 それは王朝交代期か欧州の30年戦争あたりのイメージでは。
統一王朝下での傭兵制は、農民や屯田兵からの徴兵がうまく機能しなくなった時期に
余剰人口を金で雇って軍隊を維持するものじゃないかと。
48 :
世界@名無史さん:2005/08/05(金) 15:10:21 0
>>37-39 そんなヨーロッパ諸国とガチで戦えそうな軍隊もってて狩猟民族に滅ぼされた中国人ていったい・・・
49 :
世界@名無史さん:2005/08/05(金) 15:12:41 0
50 :
世界@名無史さん:2005/08/06(土) 00:32:45 0
それは直接要因でしょ
51 :
世界@名無史さん:2005/08/06(土) 01:19:10 0
南明政権を倒したのも、清に寝返った連中だったな。
清軍が最後まで突破できなかった、
山海関や其の近辺の防御システムを具体的に知りたいな。
52 :
世界@名無史さん:2005/08/06(土) 23:15:58 0
山海関は、渤海とその西方の山脈に挟まれた、もっとも狭い隘路に
建築されました。
山海城を中心拠点とし、その両脇に北翼城、南翼城がありました。
さらに渤海の岸には、海からの攻撃に備える寧海城がありました。
これら4つの城は長城で結ばれてます。
山海城の前面には、満州側に大きく張り出してる東羅城が作られました。
これが防衛のポイントです。攻城側にとって、この郭が最もやっかいでした。
長城の上には、大型の紅夷砲、小型のフランキ砲、日本伝来の火縄銃が
配備されました。それは長城に取り付く女真軍に容赦なく浴びせられました。
中でも外側に張り出した東羅城からの側面射撃は、攻城側にとって
大きな脅威でした。長城の海側の舳先にも大砲が取り付けられ、海上から
侵入する敵に砲弾を打ち込みました。
53 :
世界@名無史さん:2005/08/06(土) 23:40:42 0
>>52 築城体系が一目で分る鳥瞰図か地図を
リンクしていただけないでしょうか?
検索してもなかなか見つけられなくて・・
山海関・詳細マップ
△△△ |
△△△ 東羅城 囲城 |
△月城 ■ ■ 入海石城
=▲====■===■===■=======■==■ 渤海
△△△ 北翼城 山海城 南翼城 寧海城 |
△△△ |
55 :
世界@名無史さん:2005/08/06(土) 23:52:35 0
本でしかないんですよ。しかもスキャナもないですし・・・
56 :
世界@名無史さん:2005/08/07(日) 00:37:47 0
>>52 サンクス。
こんなに手が込んでたのね。
こりゃ陥落しないわけだわ。
57 :
世界@名無史さん:2005/08/07(日) 01:12:05 0
ありがとう、少し思い出した
20世紀になるまでは、複合城郭システムとしては、
間違いなく空前絶後の防御施設ですね
「歴史群像」みたいな鳥瞰図が欲しいな
58 :
世界@名無史さん:2005/08/07(日) 08:17:59 0
東羅城を見ると、大阪城の真田丸を思い出すな
59 :
世界@名無史さん:2005/08/07(日) 12:46:39 0
「して、出丸は?」
「はっ、真田丸にございます。大御所様」
「なに! 真田とな・・」
超巨大馬面として、ここに最優秀最強の戦闘力を終結したんだろね
60 :
世界@名無史さん:2005/08/08(月) 11:59:43 0
城壁に出丸を作るのは、非常に優れた防御法だね。
出丸を避けて城壁を攻めると、出丸からの側面攻撃をくらい
出丸を囲もうとすると、城壁からの側面攻撃をくらうので、
正面からしか攻めざるを得ず、やっとの思いで出丸の壁を突破して
占拠しても、そこに城壁からの攻撃が浴びせられる。
攻城側にとって、これほどイヤなものはあるまい
61 :
世界@名無史さん:2005/08/08(月) 16:39:35 0
イタリア式築城術の角の部分みたいなもんか
宋の軍制をまともに説明した本とかない?
殿前司、侍衛親軍は副都指揮使くらいまでしか出ず、地方では都総管〜都監クラスで終わり。
その下がよくわからん。
63 :
世界@名無史さん:2005/08/09(火) 12:34:41 O
宋の軍制なら石井仁先生に聞きなよ。
64 :
世界@名無史さん:2005/08/09(火) 12:42:33 0
小岩井弘光「宋代兵制史の研究」とか?
読んでないから内容はよく分からんが・・・
65 :
世界@名無史さん:2005/08/10(水) 00:46:56 0
中国の騎兵ってランスチャージとかやってたんですか?
偃月刀とかポールアームを両手で振り回してるイメージしかないんですが。
あまり組織性がなかったんじゃないかなあ・・・
67 :
世界@名無史さん:2005/08/10(水) 02:34:36 0
>>65 >中国の騎兵ってランスチャージとかやってたんですか?
馬具の発達がそれを可能にしたと同時期に出現したよ。
「馬策」って武器があったよ。
肩にかける紐帯付き騎馬槍の事ね。
>>64 その本読んだけど、基本的軍制抜きでいきなり詳細やってるからさっぱりわからん。
基本的軍制を自明のことだと思ってるんだろうか?
唐の府兵制や清の緑営などはかなり一般的に知られてるからいいけど、宋の軍制はそれほど一般的じゃないと思う。
70 :
世界@名無史さん:2005/08/11(木) 15:39:33 0
>>69 ちらっと読んだけど牢城がどうとかやたらとマニアックな内容だったような・・・
>>71 しかも前提知識となる基本軍制がどこにも書かれてないから全然わからん。
73 :
世界@名無史さん:2005/08/12(金) 12:47:00 0
74 :
世界@名無史さん:2005/08/12(金) 13:36:22 0
DVDで「水滸伝」見たけど宋代の甲冑ダサかった。
個人的意見なのであしからず
「三国演技」の甲冑はカッコイイ
特に官渡の戦いでの曹操陣営
厳密にはこの甲冑が登場するのは南北朝かららしいが
金代と清代初期は同じ部族だけどまたちょっと違うのかしら
宋っていうと歩人甲か
76 :
世界@名無史さん:2005/08/12(金) 16:22:23 0
77 :
世界@名無史さん:2005/08/12(金) 17:40:32 0
>>76 カンフーハッスルで琴の音攻撃で
飛び出してきた幽霊戦士に似てる
三国志演義の鎧って、
南宋の時代のものではなかった?
79 :
世界@名無史さん:2005/08/15(月) 12:05:31 0
>>76
これもダサイっすね。
>>78
南宋でしたか。
こういう映画は、どれくらい時代考察してんでしょうか。
世界史の資料集に載ってた岳飛像はゲームに出てくるような
鎧でした
80 :
世界@名無史さん:2005/08/15(月) 12:09:36 0
>>76
これもダサイっすね
>>78
南宋でしたか
ちなみに世界史の資料集に載ってる岳飛像はゲームに出てくるような
鎧でした
81 :
世界@名無史さん:2005/08/18(木) 07:34:58 0
紀元後の中国の歴史を一言で述べるなら、北方の遊牧民族と南方の農耕民族の争い
となるけど、やはり万里の長城は、防衛よりも馬の足止めの為に作られたのでしょうか?
82 :
世界@名無史さん:2005/08/18(木) 16:31:30 0
>>81 ちゃんと城壁になってた部分は防御の役割を果たしてたみたいですが。
場所によっては柵だけとか烽台が連なってるだけだったり。
万里の長城の東端の山海関は
>>52のように天下の堅城なわけだしね。
84 :
世界@名無史さん:2005/08/18(木) 19:54:38 0
>>75 歩人甲は鋼鉄の板を鉄の釘でとめて作った鎧で、重さが50キロもあり、
平地では重騎兵ともまともに戦えたそうです。
中国の鎧は他にこんなのがあった気がします。
・紙甲・・・紙と布で作った鎧
・皮甲・・・皮の鎧
・鎖子甲・・・小さな鉄環を繋げて作った鎧、つまり、鎖かたびら
・綿甲・・・厚手の綿の布地に鋼鉄の板を植え込み、それを銅の鋲で
とめて作った鎧
>>84 「世界の武器防具・中国編」もってるので知ってるよ
でも、わざわざ書いてくれてありがとう
このスレの住人ならこの本はお勧めかもね
86 :
世界@名無史さん:2005/08/19(金) 22:33:11 0
東アジアって西洋やイスラム圏に比べるとなぜかチェインメイルがあまり普及してない。
元の色目人部隊は使ってたらしいが。
87 :
世界@名無史さん:2005/08/20(土) 13:25:04 0
むしろ西方の軍隊はなんであんなに鎖帷子ばっかり着てるのか、そっちの方が不思議
88 :
世界@名無史さん:2005/08/20(土) 18:35:01 0
>>86,
>>87 もともと鎖子甲は西方由来のもので、中央アジアのソグド人の唐への朝貢品
の中にあったそうです。
>>88 ソースをお願い。
ソースあれば説得力アリで信じます
>>89 >>88じゃないが、唐の時代に存在したってことは、文献に記されているらしい
ただ、クルド人の朝貢品ってことは、はじめて知った
>>90 うんうん、そうなんだよね、ソグト人の朝貢っていうの初耳なんだよね。
だから、出典史料なりそういう解釈をした書籍なりを
示してくれると嬉しいよね。
ボクも読みたいし。
92 :
世界@名無史さん:2005/08/21(日) 12:26:22 0
>>91 「文明の道2巻〜陸と海のシルクロード〜」でそんなことが書かれていたと
思うのですが。
94 :
世界@名無史さん:2005/08/22(月) 14:48:21 0
"Oriental Armour"って本でも「唐の鎖子甲はサマルカンドからの朝貢品」とか書いてた。
宋代の「連鎖甲」ってのもチェインメイルだったらしい。
95 :
世界@名無史さん:2005/08/22(月) 21:04:40 0
鎖子甲って、防御性能はどうだったんだろう?軽量で動きやすそうなのは
想像できるけど、刀や槍、弓矢に対してはどのくらい強かったのかなあ?
96 :
世界@名無史さん:2005/08/22(月) 21:49:10 0
チェインメイルは斬撃には強いけど、槍や矢などの突き刺す攻撃には弱い。
中国ではクロスボウや彎弓のような強力な飛び道具が早くから使われていたので
あまり普及しなかったのでは?
97 :
世界@名無史さん:2005/08/25(木) 17:22:29 0
>>96 鎖かたびらは剣による攻撃に対しては強いが、穴ボコだらけだから当然
弓矢には弱い。だから、その弱点を補うために紙と布で作った鎧である
紙甲や皮でできた皮甲と一緒に使っていたそうです。
98 :
世界@名無史さん:2005/08/25(木) 18:47:28 0
>>97 それはロシアやビザンツの軍隊でもそうだな。
向こうはラメラーの胴衣とかを着けてることが多いが。
ところで中国にはキルト縫いの防衣ってなかったのか?
中央アジアあたりではポピュラーだったらしいが。
99 :
世界@名無史さん:2005/08/25(木) 22:38:37 0
>>98 >中国にはキルト縫いの防衣ってなかったのか?
あるよ
100 :
世界@名無史さん:2005/08/25(木) 23:39:29 0
綿襖甲がそうだっけか。
101 :
世界@名無史さん:2005/08/28(日) 12:44:45 0
清の八旗兵なんかは19世紀頃まで綿甲を装備してたようだが
そうすると綿甲が最強ということになるのか?
test
103 :
世界@名無史さん:2005/08/29(月) 21:35:38 0
>>101 後期の清軍が着ていた綿甲は一種の制服で、内側に装甲が施されておらずペラペラだったらしい。
清朝末期の、太平天国の乱で湘軍や淮軍が出てくる頃にはもう鎧は着てなかったのでは。
湘軍や淮軍も最初の頃は刀や槍で戦ってたらしいけど。
105 :
世界@名無史さん:2005/08/31(水) 18:25:53 0
>>101 綿甲は金属の硬さと布のクッション力で刀や槍による攻撃に対してはもちろん、
弓矢や銃火器に対しても強かったようだ。故宮博物院には黄色い布地に刺繍を
施した豪奢な乾隆帝の綿甲があります。
106 :
世界@名無史さん:2005/09/01(木) 18:39:02 0
元寇の軍隊ってほとんど革のコートしか着てないように見えるが
108 :
世界@名無史さん:2005/09/06(火) 15:20:51 0
>>15 古代に一種の国民皆兵があったからといってそれが先進的だというのは後知恵だろう。
春秋戦国の軍隊が冒頓単于の匈奴と戦っても勝てるとは限らない。
それに中国の軍制はナポレオンやフリードリッヒ大王と対抗するために発達したわけではない。
109 :
世界@名無史さん:2005/09/06(火) 16:33:57 0
110 :
世界@名無史さん:2005/09/06(火) 23:39:49 0
>>109 中国は中国なりの条件のなかでベストを尽くしてきたということ。
実際、明末の状況なんかをみても、軍事システムの欠陥というよりは
政治的な混乱のせいで国防に失敗するパターンが中国には多いと思う。
111 :
世界@名無史さん:2005/09/08(木) 14:50:45 0
太平天国革命のとき清軍も太平軍も官職を大盤振る舞いしている。
清は記名提督だけで8,000人。当然総兵、副将あたりはもっと多い。
一方の太平軍も王だけで2,700人もいたらしい。
日本ではこういう話はあまり聞かない。ケチなのか?
ポストや恩賜のばらまきは本来やるべきではない手段の一つよ。
地位に伴う権限や責任は空文化しかねないし、
ひいては政権そのものの権威が喪失する。
中国史上でも、これをやれば必ず諫められるし、
実際、その後に破滅を招いた例はある。
114 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 15:00:52 0
太平天国って政府首脳からして
「万歳を名乗っていいのは俺だけだ」
とかで争ってて面白いよね。
115 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 16:02:36 0
日清戦争の時に、清の敗因として
清軍は密集陣形しかできない。
なぜなら分散陣形をすると兵が逃亡するから。というのがあって。
中国では昔から大軍団の兵制しかできないんじゃないかと思う。
116 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 16:17:10 0
>>115 中国でも全時代通じてそんなにモチベーション低かった訳じゃないでしょう。
密集陣ばかりだと偃月刀とかああいう類の武器は使えないしね。
でも中国だと督戦隊とかはかなり歴史が古そうだが・・・
117 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 16:49:35 0
王朝も世代を重ねると、軍も貴族化して
囚人兵や徴兵を前線に立たせるようになって
次第に大軍団、密集陣形しかできなくなってくるんじゃないか?
そして、遊牧民とかに強力な軍団が生まれて、機動力で大軍団を撃破。
新王朝を設立。
その王朝も世代を重ねると、また貴族化の繰り返しのような。
支那は軍の貴族化というより、王朝初期に軍事を担っていた階層が没落して
軍が機能を果たさなくなることが多い。
119 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 19:02:40 0
日清戦争の清軍ってどんな感じだったのか
詳しい人解説キボン
満州八旗は軍隊としては使い物にならないので
李鴻章の北洋軍が主力。
装備は太平天国時代と五十歩百歩。
いまだに連弩を使ってたらしい。
123 :
世界@名無史さん:2005/09/09(金) 20:34:32 0
ふと思ったけど中国が日本に艦隊よこしてくる時って
唐、元、清と大抵北方民族系の王朝だよね。
唐が日本に艦隊派遣したっけ?
>>124 白村江と、戦後2000人の使節を送ったときじゃないの?
敵艦に向かって女物の尿盥をかざした・・・ってそれはアヘン戦争か
>>113 管領職や○○守、○○介なんてのを乱発してないか?
128 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 19:12:44 0
129 :
世界@名無史さん:2005/09/12(月) 12:05:58 0
金の鉄騎兵の画像うpきぼん
韓国の歴史漫画みたいなインチキ臭い絵だな
132 :
世界@名無史さん:2005/09/13(火) 19:42:30 0
133 :
世界@名無史さん:2005/09/14(水) 00:08:09 0
>>123 唐は出身は北方系かもしれんが、漢化している。
それから現在の中国を建設した毛沢東は湖南出身だから南方系。ケ小平は四川。江沢民は上海。
元寇の主力も漢人と高麗人だった。
モンゴル人は士官クラスだけ。
136 :
世界@名無史さん:2005/09/19(月) 03:09:55 0
白村江で倭・百済連合が勝てた可能性はある?
>>136 十二分にある。なんせ、倭・百済連合軍のほうがずっと数が多かったらしいし。
138 :
世界@名無史さん:2005/09/19(月) 18:28:54 0
>>137 日本書紀には唐の艦隊に左右から挟み撃ちにされたと書いてあるけど
数で優勢な側がそんな風に包囲されるんだろうか?
地形的な問題もあったんじゃないか?
船の大きさはどうだったの?
数で圧倒していても、日本の船は小さそうだし。
>>140 3次に分けて計4万人以上派兵したわけで、それなりの大きさの船を
使っていたのは間違いないかと。
唐の船と比べての比較でないと意味無いし・・・
唐軍がいわゆる軍だったのに対して、日本側は地主というか豪族というような人々の寄せ集めで指揮系統がはっきりしていなかったような気がする。
>>142 唐は百済には海路侵攻したとはいえ、基本的にそうそうまともな海軍
はもっていないはず。船は伝統的に海運国家の倭・百済連合軍のほうが
上の可能性大。もっとも、日本の船は白村江以降急速にダメダメになって、
遣唐使では遭難続出したわけだけど。いくら多少危険な南島路や南路に
なったからといっても、あんまりにも遭難しすぎ。新羅船のほうがはるかに
安全なんだものなぁ。
>144
白村江で、日本は優れた造船技師達まで一緒にあぼーんしちゃったの?
ソースって有るんですか?
146 :
世界@名無史さん:2005/09/21(水) 14:03:22 0
そういえば唐の海戦って白村江以外に聞いたことないな。
というか中国王朝全般にいえることか。
>>144 新羅は陸伝いの安全なルートで中国に行けたからでないの?
>>147 船自体も新羅船のほうがはるかにしっかりしていた。
唐代は国営の水軍よりも民間の貿易船の方が優れていた。
当時、アラビア海までの航海も可能だったし。
ジャンクができたのもあの辺の時代だっけ?
153 :
世界@名無史さん:2005/09/25(日) 20:51:18 0
>>151 ジャンクが発達したのは黄巣の乱でアラビア人の船がいなくなってからだとか。
160 :
世界@名無史さん:2005/09/28(水) 20:54:55 0
シナだと河で艦隊戦やってることが多いような。
三国志の赤壁の戦いは実際は元末の鄱陽湖の戦いがモデルになったらしいですね。
海戦する敵が居ないし。
162 :
世界@名無史さん:2005/09/29(木) 20:16:31 0
163 :
世界@名無史さん:2005/09/29(木) 23:18:23 0
明の官軍が倭寇に勝ったときは陸で叩いてることが多いみたいだね。
鄭和の航海のとき、東南アジアで海賊と戦ってたような。
和冦が和請う
165 :
世界@名無史さん:2005/10/03(月) 18:21:27 0
日清戦争だかのとき、敵の戦艦に向かって全裸のババアを立たせたとかいうのは本当ですか?
アヘン戦争じゃなかった?
167 :
世界@名無史さん:2005/10/04(火) 15:27:47 0
>>165 陰門陣で検索したら出てくるかも。
軍事史というより民俗学の話題のような気もするが。
168 :
世界@名無史さん:2005/10/04(火) 17:13:56 0
Λ_Λ
<=( ´∀`)< 高仙芝マンセー
170 :
世界@名無史さん:2005/10/05(水) 16:22:53 0
>>169 実吉達郎『中国妖怪人物事典』
相田洋『中国中世の民衆文化 : 呪術・規範・反乱』
あたりに記述があったかと。
>>166 阿片戦争のときに清の大砲は撃っても届かないのにイギリスの砲はやたらと命中。
そこで清の将軍はイギリス軍が陰門陣をおこなっているに違いないと思って
婦人用の便器を集めてイギリスの戦艦に向けたと・・・
172 :
世界@名無史さん:2005/10/08(土) 03:16:44 0
で、ババアはなんの意味があるの?
イギリス艦ははるか遠くから砲撃してましたが。
176 :
世界@名無史さん:2005/10/11(火) 17:17:50 0
>>172 女性器には不思議な力が秘められているものさ。
ゲルマン人だって下丸出しの女性が戦場に来てたはず。
海戦といえば呉の楼船なんて有名だけど、その技術は伝わってたのかな?
元寇のときの「千料舟」も楼船みたいなもんか
179 :
170:2005/10/12(水) 17:56:39 0
180 :
世界@名無史さん:2005/10/13(木) 20:15:46 0
清朝創立いらいの陸軍(八旗・緑営)はほとんど軍事的価値はなく、太平天国の乱の鎮圧に際して新設された勇軍・練軍の
二種の軍隊が一応の戦力をもっていたが、それも多くは定員にかけていた。日清戦争開戦時の兵力三十五万、開戦後の募集兵を
加えて約九十八万の兵力と称されたが、そのなかには未熟な新募兵が多く、かつ広大な領土に散在していて、運輸上の不便も
あって、実際戦場にでることができたものは、そのうちごくわずかであった。しかも、前にものべたように、これら勇・練二軍を
主力とする清国軍は北洋大臣李鴻章の指揮下にあり、いわば李鴻章の北洋(直隷=河北・山東・奉天の三省)支配の根源をなす
軍事力であって、中国全体の防衛にあたるというより、李鴻章の支配を維持するための私的な性格をまぬがれない軍隊であった。
だから、その士気においてもおとり、戦闘にあたっての指揮官のあいだの不統一もあいついでさらけだされ、近代的な統一国家の
軍隊としての性格をいちじるしく欠いていた。かつまた、装備の点でも、日本軍が日本人の体格に適した軽快な村田銃(一八八四年
村田砲兵中佐によって改良されたもの)で統一されていたのに対して、清国軍の兵器は種類きわめて雑然とし、いちじるしい場合には
一営(部隊の単位)中でも、数種を混用する有様であった。清国軍の小銃の大部分をしめたのはモーゼル銃であったが、その他にも
レミントン・グラー・スナイドルなどの小銃がまじり、さらに刀・槍・旗・幟などをもつだけのものもあって、戦闘員五〇〇名の
一営で、実際に銃をもつものは、役三〇〇にすぎないという状況であった。
中塚明「日清戦争の研究」より
183 :
世界@名無史さん:2005/11/22(火) 23:35:38 0
籐編みのヘルメットは現代でも華南や東南アジアで現役だよね。工事現場とか。
「戦略戦術兵器事典 中国古代編」に褌一丁で籐編みの胴鎧と兜を装備した
台湾原住民のイラストがあったな。
185 :
世界@名無史さん:2005/12/24(土) 20:25:33 0
各王朝内での変遷はあるけど、
各王朝を跨った軍事史の研究あまりないのかな?
土地制度や税制、官僚制度の研究は沢山あるのにね。
>185
欧米だとMedieval Chinese Warfareとかいった本を書く人がいるけど
日本の支那学者はあまりそういうのが好きじゃないのかも
山崎清一「明代兵制の研究」
鍾相・楊葵の乱で使われた外輪船って動力は何だったんですか?
189 :
世界@名無史さん:2006/01/20(金) 14:45:13 0
age
190 :
世界@名無史さん:2006/01/21(土) 17:54:48 0
>188
人力で足こぎだったっけ?
飛輪船は轆轤を回して漕いでた。
ソースは「モンゴルの残光」w
192 :
世界@名無史さん:2006/02/01(水) 23:15:33 0
193 :
世界@名無史さん:2006/02/01(水) 23:33:32 0
194 :
世界@名無史さん:2006/02/02(木) 20:06:35 0
中国軍事史をやってる学者って誰がいる?
David Andrew Graffとか
中国じゃないけど、「鉄砲と戦国合戦」などの著者の宇田川武久は
李氏朝鮮の兵器についての論文をいくつか発表してる。
197 :
世界@名無史さん:2006/02/10(金) 17:09:42 0
416年、東晋の劉裕が率いる北伐軍は、後秦の本拠地である長安に向かって黄河を遡行。
後秦の同盟国であった北魏は数千の騎兵にこれを追わせた。
劉裕は700の兵を北岸に上陸させ、100台の荷車を半月形に並べて防御陣地を築いた。
さらに劉裕の部下の朱超石が2000人と100張の大弩(バリスタ?)を率いて上陸。
1台の荷車に20人の兵と1張の大弩が配置される形となった。
戦闘が始まったとき、寄せ手の魏軍は増援部隊をえてすでに3万騎を超えていた。
朱超石はまず威力の弱い弓矢を放って魏軍を油断させ、馬槊(ランス)を構えた騎馬隊が突撃を
しかけてくるところへ大弩と弓矢を一斉に放ち、撃退するが、魏軍にとっては微々たる損害であった。
そこで朱超石は数千本の矟(これもランスの一種)を3〜4尺に切らせた。
それを一人の兵が保持し、背後からもう一人の兵が大槌で魏の騎兵に打ち込んだ。
大槌で叩き込まれた矟は一本で数人の魏兵を刺し貫いたという。
この攻撃によって魏軍は大勢の死傷者を出して潰走し、2700人の晋軍が3万を超える魏軍を
破ったのであった。
軍事史というか各王朝の甲冑に興味のある俺ですが
↑この頃の北魏の騎兵は異民族丸出しの格好ですか?
朝廷とかの服装とか礼儀作法とかは・・どうだったんでしょうか?
199 :
世界@名無史さん:2006/02/16(木) 21:59:41 0
>>198 当時だと両当甲、筒袖鎧、明光鎧あたりですかね。
ものの本で拓跋の貴族の再現図を見たことあるけど、ソグド人みたいな衣装でした。
キジル石窟の壁画とか参考にしたらしいですが。
200 :
世界@名無史さん:2006/02/16(木) 22:58:21 0
200ゲット
>>199 ご丁寧にありがとうございます。
そういえば筒袖鎧、明光鎧は鎧マニアの方のサイトで見た事はありましたわ。
202 :
世界@名無史さん:2006/03/02(木) 17:10:47 0
よその掲示板で読んだ話だけど、五胡十六国や南北朝時代の騎兵は非常に重装備だったらしい。
人も馬もラメラー装甲で覆われて、しかもこの頃鐙が導入されたので馬上での戦闘を安定しておこなう
ことができるようになり、西欧騎士のように騎槍突撃をしてたそうだ。
でも唐代までにそうした重騎兵は廃れてより軽装の騎兵に取って代わられてしまった。
なぜかというと重騎兵の脅威に対抗して歩兵が密集陣を組んで戦うようになり、さらに逆茂木や荷車による
野戦築城術が発達して騎兵の突撃を阻止できるようになった。
また高速で移動する軽騎兵を攻撃することができず、結局何の役にも立たない兵科になってしまったという。
>>203 それはよくわからない・・・
軽騎兵の時代が続いたので重騎兵に対抗するノウハウが失われて
重騎兵の有効性が復活したのかな?
岳飛は歩人甲と斬馬刀で武装した重装歩兵隊で
金の鉄浮図を撃破してたが・・・
205 :
世界@名無史さん:2006/03/07(火) 09:28:22 0
というか契丹や女真族はあんな甲冑をつくる鉄をどこで手に入れてたのか
昔のモンゴルは鉄不足で骨の鏃を使ってたらしいが・・・
>>205 当時モンゴルの北部やシベリアは、鉄の一大産出地なんじゃなかったっけ?
モンゴルの時代の、巨大な製鉄所の跡があったとか。
その辺は白石典之「モンゴル帝国史の考古学的研究」が詳しい。
秦漢時代の馬はポニーだったけど、
晋〜隋の重装騎兵時代の馬は大型化してたのかな?
209 :
世界@名無史さん:2006/03/08(水) 21:19:56 0
>>206 突厥は製鉄業に通じていたし、『集史』の中にあるモンゴル族の伝説には、
モンゴル族の祖先が、巨大なふいごを使って周囲の鉄山を溶かして、
居住地を広げたというものがあるし。
五胡十六国時代の冉閔が乗ってた「朱龍」は大型種だったのかな?
漢武帝が求めた汗血馬とか、河西回廊で調練されていた軍馬とかは大型ではないのかな?
>>206 >>209 メルキト族のいたバイカル湖南方、アルタイ山脈の北麓、キルギスのいた
ケムケムジュート地方などに鉄産地があったようですね。
まだやってるの
215 :
世界@名無史さん:2006/03/30(木) 10:09:37 0
がんばれ
216 :
世界@名無史さん:2006/03/31(金) 19:54:27 0
ここってモンゴル軍の話はおk?
218 :
世界@名無史さん:2006/04/16(日) 16:50:57 0
金の謀克+猛安。
219 :
世界@名無史さん:2006/05/02(火) 21:02:39 0
朝鮮では紙でできた鎧を使ってたらしいですけど、どんな物だったんでしょう?
ハン板あたりのネタじゃねえの?
紙甲はあるよ。どんだけ普及したのか知らんけど。
もともとは唐で作られたんじゃなかったかな。
222 :
世界@名無史さん:2006/05/03(水) 13:24:43 0
経費節約に属国の下級兵士に着せてたのか?
紙つってもぺらぺらじゃなくて三センチくらい厚さがあって
木綿とかの布も使われてたから投射武器には有効だったみたい。
接近戦だとダメだろうけど。
唐の徐商が作った紙甲は強力な矢も防いだとか。
主に軽装の歩兵(弓、;弩兵)用として宋や明でも使われてた。
224 :
世界@名無史さん:2006/05/03(水) 14:56:40 0
まじレスすると
元軍の騎兵が着込んでいたものもそれに近い。
矢による戦いを前提にしてあり、
軽量で補修性にも優れていた。
225 :
世界@名無史さん:2006/05/03(水) 19:27:19 0
雨降ったら重そう
それでも普通の鎧より軽いのかな
和傘みたいに
表面に油を塗ってたんじゃないか?
228 :
世界@名無史さん:2006/05/05(金) 14:17:59 0
そういえば
水に浸した布は弾丸も跳ね返す(というより懐柔する?)って聞いたことがあるな。
それと同じなんだろうか?
230 :
美麗:2006/05/05(金) 16:53:03 0
チャンコロの捏造史なんか語ってもねw
↑偽者?
232 :
世界@名無史さん:2006/05/05(金) 23:54:12 0
>>224 モンゴル兵は矢による負傷を軽くするために
絹の肌着を身に着けていたらしいね。
233 :
世界@名無史さん:2006/05/06(土) 00:14:55 0
戦前の漫画に出てくる支那兵(たぶん軍閥系)は背中に番傘と青龍刀を襷クロスに
しょってるけど、あれってリアルな装備だったのか?
民国時代、直隷派軍閥の曹棍麾下に「苗刀営」という
陰流を基にした刀術で戦う部隊があったね。
>225
元は一時期高麗に火薬を供給していた。倭寇対策のためだとかで。
237 :
世界@名無史さん:2006/05/20(土) 22:09:43 0
高麗で自製したことはあったんだろうか?
238 :
美麗:2006/05/21(日) 00:37:46 0
中国の軍備はすべて中央アジアや欧州のパクリですよ
しっかり両足を乗っけるための鐙は中国発って話があったな
240 :
世界@名無史さん:2006/05/21(日) 08:20:57 0
>236
崔茂宣って役人が元人から製法を聞き出して作ったらしい。
>238
あと南方の山岳民や日本の影響も多少ある。
>239
たしか漢人は馬に乗るのが下手だったので片側にステップをつけたのが起源だとか?
241 :
世界@名無史さん:2006/05/21(日) 17:12:37 0
悪漢族は乗馬もセクースも下手糞ですよ
>南方の山岳民や日本の影響
具体的には?
日本の影響といえば明清時代の倭刀があるな
南方の影響は藤甲とか?
244 :
世界@名無史さん:2006/05/22(月) 01:48:35 0
呉鉤刀とか。
「中國古代軍戎服飾」って本に明代のヤオ族の戦士の絵が載ってたけど
木製のスケールメイル、マントを着てターバンを巻き佩刀を腰に下げた姿だった。
245 :
世界@名無史さん:2006/05/23(火) 13:12:42 0
アチャン族は刀作りのうまい集団として、雲南の諸民族に名がひびいている。
タイ族も、チンポー族も、リス族も、ワ族も、みなアチャン人の鍛冶屋集落へ、
自分らの使う刀を求めに出かけてゆく。
アチャン刀は、明代に漢族から製法を得たという言い伝えがあるが、日本刀に
形のよく似た、ソリのある長刀と、鋭利な短刀の大小からなる。この刀は、雲南
山地の部族社会の戦士にとって大事な武器であった。
村松一弥『中国の少数民族』p188〜189
大小を用いるというのが興味深い。
苗族のように日本人のような顔立ちをしてたりして
247 :
世界@名無史さん:2006/06/01(木) 02:50:07 0
248 :
世界@名無史さん:2006/06/01(木) 07:29:06 0
チンポー族がいるならマンコー族とかコーマン族ってのはいないのか?
マンコー って人名であったよね。
251 :
世界@名無史さん:2006/07/02(日) 21:36:13 0
252 :
世界@名無史さん:2006/07/07(金) 19:23:23 0
明代の江南では苗族や壮族など山岳民が補助兵として用いられていた。
壮族の「狼兵」は獰猛さで恐れられていて、王陽明が一般人への被害を恐れて派兵を止めさせたほど。
元末にも楊完者率いる「苗軍」が江南で暴れまわったことがある。
253 :
世界@名無史さん:2006/07/09(日) 10:12:23 0
>>245 大小というか、中央アジアの騎馬民族はたいていサーベルのほかに
落馬した敵にとどめを刺す短剣も装備してるよ。
脇差よりは短いけど。
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
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! ! -=ニ=- ノ! <なあ、正史板作った方がいい
/´⌒´ \`ニニ´/´^ヽ⌒ヽ
/ ィ , ̄ ヽ , )` `ヽ
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ノ ,,,ノ Y´゙ )
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ヽ、__ ヽ.ー ,,,@,,, ノ ソ、
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レ イミ.ニニ⊃リ
,ゝ ,ノ `ー−' ヽ ノ
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(。mnノ `ヽ、_nm
>>240 足懸りにするための輪ならインドの方が早い。
中国なら最も早くて東晋だけど、インドは紀元前2世紀の例がある。
257 :
世界@名無史さん:2006/08/19(土) 04:46:31 0
>>252 苗族は清末まで大反乱を繰り返したもんなあ。
あの粘り強さはどこからくるんだろう。
壮族が一度倭寇と戦ってるけど負けてたな。
260 :
世界@名無史さん:2006/08/20(日) 23:09:20 0
>>258 うむ、全国から凶悪なのが集まってくるわけだな。
>>260 梁山泊じゃないんですから
そういや梁山泊のモデルの一つになったのは太行山で
盗賊まがいの連中が金軍を相手にゲリラ戦をしていたとか
262 :
世界@名無史さん:2006/08/25(金) 13:56:10 0
ルイス・フロイスはスペインと日本の武器や軍制の比較を書き残してるけど
中国についてそういう事を書いた南蛮人はいなかったんだろうか。
フロイスは中国いってないから
264 :
世界@名無史さん:2006/08/25(金) 17:06:19 0
別にフロイスでなくてもいいんだけど。イエズス会士とか。
フロイスの「日本史」で朝鮮で戦った明軍の様子が載ってるよ。
「彼らの鉄砲は、無数の弾丸を放っても一人も死ななかった」とか書いてて笑える。
明に鉄砲があったというのがまず初耳だ。
267 :
世界@名無史さん:2006/08/26(土) 17:12:27 0
大砲に関しては亜細亜の中じゃ先進国ですぜ。
>>266 中国の土着の銃器はトリガーのない差し火式の銅銃だったけど(李氏朝鮮で使ってた勝字銃筒もそのタイプ)
火縄銃も万暦の三大征の以前に伝来してた。
持ち込んだのはポルトガル人とも辛五郎という倭寇だともいわれてるらしいが。
でも銃身を青銅で鋳造してたので暴発しやすく日本軍相手には苦戦したそうだ。
そういや「シナ大王国史」だったと思うが、明軍の演習を見たジェズイットが「このような軍隊が士気旺盛なら
容易に全世界を征服するであろう」とかやたらと持ち上げてたような。
269 :
世界@名無史さん:2006/08/27(日) 11:27:26 0
いくら最新式の銃があったとしても使う人間が中華方式で
強制的にかり集めてきた農民兵なんだからどうしようもない。
大量に動員した兵士に形ばかりの劣悪な装備を支給して
督戦隊で脅しをかけながら戦わせるのが中華のやり方。
そのような軍隊が少数精鋭の女真族や日本に負けたのも
ある意味必然といえる。
270 :
世界@名無史さん:2006/08/27(日) 13:54:51 0
当時の明軍主力は家丁のはずだけど。
家丁こそ少数精鋭なんだけどな。
>劣悪な装備
祖承訓が朝鮮に連れてきた騎兵は重装甲で日本の槍や刀が通じなかったらしいが。
というかなんで「秀吉の朝鮮征伐の考察」スレに書かないの?
>>270 貴重な精鋭を朝鮮なんかにレンタルするか?って話ではないの?
275 :
世界@名無史さん:2006/08/28(月) 12:38:35 0
>272
ルイス・フロイス「日本史」第3部にそういう記述がある。
あと下瀬七兵衛頼直「朝鮮渡海日記」の碧蹄館の戦いのくだりでも
「唐人」の装備について似たようなことを書いてる。
>274
ヒント: 仮道入明
277 :
世界@名無史さん:2006/08/28(月) 23:45:44 0
その重装甲の鎧というのは鄭成功の鉄人隊が着てたのと同じようなタイプか?
日本の甲冑を参考にしたらしいが
「朝鮮渡海日記」での明軍の描写
大明國しゆこしらへの事面には赤きとろめんを仕り候て裏にはくろかねを二寸四方ほとに切り候て
くさり付候ながき道服のやうに候甲もくろかねを白くみかき候て着候小手もくろかねにて矢も不立候
刀共にて候少もきれず候武具の事候鐵砲玉口三ッ明にて筒三ッを一ッにはり合わせ候一度にも
三度にも自由にはなし申候半弓も朝鮮のよりははりつ能く矢の箙木にて候叉刀は三尺はかりのも
二尺四五寸ものありさきは剣のやうに仕候馬の大きさけしからず候男もけしからず大き候上衆も
けしからずおぢ被入にや日本にてもかはとの働は稀成よし其沙汰候何も武邊つよき唐人かと上衆も
手ををかれ候や
裏に黒鉄をつけた道服のようなものというのは恐らく綿甲だろう。
「甲もくろかねを白くみかき候て着候」というのは↓のような鉄製のラメラーアーマーかな?
ttp://chinese-armour.freewebspace.com/images/swordpolearm.jpg (嘉靖帝と近衛騎兵)
あと旧式火器の「三眼銃」も言及されているようだ。
>仮道入明
「正史」には無い所謂「野史」の部類に入るのだろうが、万暦期には「秀吉漢人説」というのが明では一般的に流布していたようだ。
大雑把にこれを解説すると「平秀吉(豊臣秀吉)は元々は漢人で、倭寇に参加して功を立て、最終的に『日本国王』となった。そして日本の兵を以って明を滅ぼし、自らを中国の皇帝にしようとして兵を挙げた」というもの。
つまり、明側では「朝鮮を征服する為に挙兵した」のではなく「明を滅ぼす為に挙兵した」という認識を持っていた事になる。
明は大規模な倭寇ぐらいにしか考えてなかったとか司馬遼が書いてたような。
まあ司馬遼だからはっきりしないけど。
281 :
世界@名無史さん:2006/08/31(木) 16:31:53 0
家丁ってのはあれだ、高級将校が貧農や犯罪者を金で雇った私兵で、格言の「よい鉄は釘にならず、
よい人は兵にならず」ってのを地でいくような存在。
むしろそんな連中に頼らなければならなかった明の衰退ぶりを象徴してるといえる。
なるほどな。
秀吉の撤退後、ほどなく遊牧民族風情に国滅ぼされてるしな。
283 :
世界@名無史さん:2006/08/31(木) 17:38:57 0
李如松の家丁が、碧蹄館戦で身を挺して如松を守った話は泣ける。
284 :
世界@名無史さん:2006/08/31(木) 18:55:45 0
age
別にあげる必要はないんじゃw
家丁は所謂一を以て十に當る、摧鋒、陥陣の士なり、というように当時の軍隊の中では精鋭でした。
平時は敵地の奥深くまで偵察行をおこない、戦闘では先鋒になって戦った。そのために中央政府にも
戦力として認められ、サラリーが出てました。
もともと辺境の危険地帯に派遣された将領の使用人なので、適性のある志望者は出自を問わず入れていた。
だから民間の腕自慢の他にも脱走兵やら無籍者やらモンゴル人やら多彩な顔ぶれだった。
そいつらは将領と主従関係であったうえに、有能な者は指揮官に引き上げられ、将領の苗字を名乗ったり
婚姻関係を結んだりして擬似的な家族関係を持ち、家臣団のように組織された。
この辺は唐の節度使に似てる。
有名どころでは李如松の副将だった査大受や、袁崇煥に殺された毛文竜なんかも家丁出身。
当時、軍事関係で身を立てたいと思ったら辺将の家丁になるぐらいしか道はなかったと思われる。
正規戦力の衛所軍では下級将校や兵卒の階級は世襲だったので。
287 :
世界@名無史さん:2006/09/01(金) 17:28:17 0
うむ
288 :
世界@名無史さん:2006/09/01(金) 19:32:33 0
関寧鉄騎!!
?
>>282 漢人風情に滅ぼされてるね。
しかし、反乱によって国を滅亡させることができるというのはすごい。
日本など所詮は武装地主内での権力闘争に過ぎず、大多数の平民は無関係。
こんなだから愚直に規則を守ることを良いことだと勘違いしたり、「お上が何とかしてくれる」という愚かな考え方がはびこることになったんだ。
釣り乙
そういやヌルハチの頃の満州族の軍隊について読んでたら
綿甲のことを「10枚から20枚の綿布を重ねて矢を通さないようにしたもの」
とか書いてたんですが、普通は綿甲って布地の裏に鉄札を貼り付けた鎧
じゃないんですかね?
>>291 一応マジレス。
そのお上への信頼っていうのが成り立つってことは、日本の為政者がかなりな善政を行ってた証拠なわけで。
それが世界に類例のない治安の良さを実現したし、国家への帰属意識を生んで大戦での異様な粘りにつながってる。
>>290と
>>293は同じ事を語ってるだけだな。
というか二人とも天保〜幕末にかけての日本史を調べてみると面白いよ。
日本で全国的な反乱・国家崩壊が起きなかったのは住民が従順だったからでも
為政者が善良だったからでもないということが分かる。
それこそ水滸伝的な世界がある所にはあったからね。
流民が都市部に流れ込んだりとか、百姓の暴動で渡世人や博徒が先頭に立って
名主の屋敷に木砲をぶち込んだりとか、逆に百姓が民兵に組織されたりとか
そういうことが実際に起きてたから。
政権交代が易姓革命のような形をとらなかったのはシステムの違いが大きいだろう。
295 :
294:2006/09/10(日) 21:02:16 0
296 :
世界@名無史さん:2006/10/03(火) 09:06:44 0
フアン・ゴンザレス・デ・メンドーサ 『シナ大王国史』 第二部第一巻
ビレイ(巡撫)はこの日からエスパニャ人たちに何度か見物に出かけることを許可し、そして一行を
特別に歓待することを部下に命じた。そのひとつは、月の初めの何日かにわたって全国内でいっせいに
おこなわれる習慣になっている閲兵の儀式に一行を連れて行ったことで、これはまことにたいへんな
見ものであった。
この閲兵は市の城壁に接している広場で次のようにしておこなわれた。およそ二万名の槍兵(ピケーロ)
と火縄銃手(アルカブセーロ)がラッパと太鼓の音にあわせてじつに機敏に行動した。まず合図と同時に
進軍隊形をつくり、つぎの合図では密集隊形となり、そのつぎの合図では火縄銃隊が本隊から散開して
整然と射撃をおこない、ふたたびもとの位置にもどった。これが終了すると槍隊が散開してまことに巧妙に
目標に襲いかかった。その有様を見てエスパニャ人たちは、この軍隊が世界のどの軍隊よりも優秀であり、
もしもかれらの士気が旺盛で、その訓練と兵員数と同様に優っているならば、容易に全世界を征服する
ことができるであろう、とおもったほどである。
↑16世紀半ばの福州での記録だそうだが、ピケーロってパイク兵のことだろ?
何でいきなりパイク&ショットの編成になってるんだ?
297 :
世界@名無史さん:2006/10/09(月) 22:03:37 0
やれやれ
?
299 :
世界@名無史さん:2006/11/10(金) 22:27:21 0
月例屠城に上がりました。
300 :
世界@名無史さん:2006/11/10(金) 23:44:36 0
300ゲット
ここだと屠城なのかよw
中国史上弓の名手は大勢いるが銃の名手ってのは聞いたことないな。
303 :
世界@名無史さん:2006/11/29(水) 14:33:04 0
「海上の戦いに特別な戦術というものはない。大きな船が小さな船に勝ち、大きな銃が
小さな銃に勝つ。船の多い側が船の少ない側に勝ち、銃の多い側が銃の少ない側に勝つ」
と16世紀の明の武将・兪大猷は断言している。
白村江の戦いでは唐の艦隊が数で優る大和朝廷の艦隊を包囲して勝っているのに
その後900年でおそろしく退化してしまったようだ。
当時の唐の艦隊は、和船よりかなり巨大だったんじゃなかろうか。
ま、実際のとこはわからんけど、生みからの遠征ができてたんだから舟もでかかろう。
そうだとすれば、明時代の大将の言ってることは、大まかには当たってるな。
朝鮮の役のときも「倭人は鉄砲を使うがこちらは大砲、負けるはずがない」とか断言した武将がたしかいた
実際は明軍も火縄銃は使ってたらしいが
306 :
世界@名無史さん:2006/11/30(木) 14:27:24 0
>>304 白村江の戦いはよく知らんからWikiを見てみたけど
唐は7000人が170隻に分乗してたから一隻約40人?
日本側は29,000人が1000隻だから一隻約30人か。
>>305 宋応昌なんかは
「説者謂、倭之鳥銃、我難障蔽、倭之利刀、我難架隔。然我之快鎗、三眼鎗及諸神器、豈不能当鳥銃」
とかいってたらしいですね。実際に戦ってみる前の話ですが。
白村江で倭・百済の兵力が上だったというソースは? ウィキ以外で
>>307 とりあえず、お前がwikiとwikipediaの区別もつかない知能障害者ってことは理解できた。
309 :
世界@名無史さん:2006/12/02(土) 02:34:26 0
「三国史記」に日本側の艘数
「日本書紀」に唐の艘数が書いてある
唐・日本は遠征しているからそれなりの大きさの船だと思うけど
現地の百済は普段生活で使っている釣り船クラスも合わせてカウントしているような気がしますが。
民衆がが避難に使ったり、輸送任務などで現地徴発船も入ってる可能性があるし
韓国の国立博物館で三国時代の船があるそうだけど
一人漕ぎの胴がふくらんだカヌーみたいな船らしい。
遣唐船なんかは2本マストでそれなりの大きさだったようだけど。
白村江に限らず釣り船クラスでも戦に参加するもんなのか?
>>312 日本、中国などの史料や兵書でも大将クラスが乗るのは大型船だけど、数人乗りの小型船も記述されている。
日本だと物見船、中国だと艇、先登、赤馬とか種類もいろいろあったみたい。
小型戦は、敵に見つかりにくく、小回りも効くので偵察・連絡手段としてや、
奇襲戦(泳ぎが得意な人間がそっと敵に近づいて潜り、船底に穴を空けるとか敵船に上がって戦う)など使われ方も載っている。
314 :
世界@名無史さん:2007/02/14(水) 14:20:08 0
>>314 あー、電波を感じますな。
北宋時代に編纂された=北宋時代の軍船を描いたものって決め付けているところが。
武経総要は当時の最新軍事技術のみを書いた書物じゃないよ。軍事に関する百科事典みたいなもの
現代の百科事典に書いてある400年前の説明(関が原くらいだな)が現代の技術を基準に書いてあるか?って考えればわかりそうですが。
(1)引用されている絵は唐のものではない
(2)唐の時代の船と(1)の時代の船は構造が違う(1だけだと、全然進歩してないなら唐の船も同じ構造ってことになるから)
って2点をきちんと説明出来ないと。
>>315 常識では380年も経てば大きく技術は変わる。
中国が進歩の無い化石のような国家で、常識に反して唐の時代の船と北宋時代
の船が変化してないことをキミが説明出来ないとな。
は?
>>315 工エエェェ(´д`)ェェエエ工工
北宋時代の『武経総要』の船が、380年前の唐初期の船を描いてるってかーーーーー!!
いや、そこで思考停止しちゃマズいだろ世界史板住人として
>>319 >北宋時代の『武経総要』の船が、380年前の唐初期の船を描いてるってかーーーーー!!
今現在売っている本で、軍事に関する絵やCGが載っているとして
・昔のものをそのまま載せている(信長などの肖像画とか、合戦の屏風図)
・現在までの長い間の研究をもとに想像図や復元したもの(安土城など現在では失われたものを根拠があって描いたもの)
・現在存在しているもの(自衛隊の戦車を撮影した写真)
があるだろ?
戦車の写真をもとに戦国時代の戦争を説明したらそれは間違っているが上の2つの例は間違っていない
(研究結果が間違っているということはある)
そもそも、例のNHKのCG批判している人は北宋時代と唐で軍船にどんな変革があったと思ってるの?
大きく変わったといえば火薬使用だけど、それはNHKのCGには出ていない。
巨大な船で遠征したのは、早くは三国時代(呉から遼東や台湾)などで実例があるんだが。
純軍事に限らないと秦の徐福とか。
途中寄港も出来ない遠距離を数千人レベルの人がどうやって移動すると思ってるんだろう?
>>321 隋代ですら大運河を大船が行き来してたわけだからな。
>>321 だから〜 『武経総要』の船が同時代の技術を載せたのじゃなくて
遠い昔の技術を載せたって根拠は?
>>321 唐初期〜北宋期は相当造船技術や航海技術の進歩があったはずだぞ。
例えば、遠洋航海には欠かせない羅針盤が使われだしたのも北宋時代だし。
羅針盤を使った遠洋航海の開始によって、本格的な外洋船が建造され、
造船技術が発達したわけだし。
しかも『武経総要』の絵とCG船がどれだけ大きさが違うか。
誇張するにしても普通2割り増しとか3割り増しとかでしない?
あれ体積比だったら確実に100倍以上だぞ!!www
>徐福
そんな消息不明になった人を出さないでくれw
てゆうか、あのCGを肯定する人の気が知れない
船の大きさはともかく(絵と比較してどうするw、文章記述があるだろ)
宋代にあんな古典的装備はないだろうなw
>>322 運河を行きかう船じゃ黄海横断するの無理じゃね?
>宋代にあんな古典的装備はないだろうなw
そうか? じゃ宋代はどんな装備だ
宋代の船は車輪がついた外輪船じゃなかったか?
>>329 工エエェェ(´д`)ェェエエ工工
宋代は外輪船艦隊の時代?
存在したかどうかはともかく、標準的なものではなかっただろ<外輪船
>>329 宋代の船の記述はは明代の資料に書いてあるものだから捏造、とか言いそう。
『武経総要』に唐初の技術だとの記述がない限り、書かれた時と同時代の技術の記述と見るべき。
>>321の
>今現在売っている本で、軍事に関する絵やCGが載っているとして
今のこいうのだって、「いつの時代の物」とか明記してるだろ。
誰か『武経総要』持ってるやつがいればいいんだが
元寇で外輪船は使われなかったよね。
なんでかな?
外洋では使用不可なのかな?
そもそも、内陸の河川、運河でも、一般的なのは櫓走船じゃね?
昨日の話の流れを見て、書店でちょっと調べてみたけど
>>336 >元寇で外輪船は使われなかったよね。
学研の歴史群像シリーズの本「図説 中国武器集成」って本に漢と明の時代の水軍のイラスト・説明があった。
明の船には外輪船があったんだけど、河川などでは使われたけど、外洋だと波のせいで外輪の性能が落ちるので
外洋向けではあまり使用されなかったというような説明がついていました。
後、NHKのCGで出ていたクレーンみたいな形で近寄ってきた小型船の上から重量物を落として破壊する武器が
隋が陳を攻めたときの船に実装されていたとの記述もありました。
高さ15mで6基(だったかな?立ち読みだったので)装備と明確に書いてあったから当時の記録に残っていたのでしょう
>>337に続いてもう一つ
吉川弘文館から出ている戦争の日本史シリーズの1巻目に白村江の戦いが載っていて
そこには、例の武経総要の絵が付いていて”唐の”軍船とはっきり書かれていました。
だから、その筆者はあの絵がはっきりと唐代の船を描いていると判断してるんだと思う。
宋代のもので唐代とは形が異なる可能性があるなら”中国側の軍船”とか、絵は”絵は宋時代のもの”って注釈を付けそうだなと。
また、唐側の記録では、唐の船を軍船、日本側の船を舟と表記していて
これは両者のサイズが異なることを表現しているのだろうと推測されていました。
さすがに武経総要そのものはなかったです。w
どっちの本も最近出た本だしそこそこ歴史関係の本が揃っている一般書店ならあると思うので、参考までに。
>吉川弘文館から出ている戦争の日本史シリーズの1巻目に白村江の戦いが載っていて
>そこには、例の武経総要の絵が付いていて”唐の”軍船とはっきり書かれていました。
>だから、その筆者はあの絵がはっきりと唐代の船を描いていると判断してるんだと思う。
その本もインチキという判断でFA。
全然違う時代の絵なんか持ってきちゃダメだろ。
まあ、NHK的には
「他にも同じ事やった奴もいるじゃないか!!」
と言い訳出来るなwww
インチキだという根拠が薄いな
武経総要に同時代のものだと書いてあるのか?
ファイナルアンサーするくらいだから、「宋代に書かれた唐の船」
ではないという確固たる証拠があるんだよな?
315が絶賛発狂中
この季節に楼船なんか海に出したら風で横倒しになるんでない?
五牙だって川船だろうし。
武経総要の絵が「宋代に書かれた唐の船」なんて言ったらそれこそインチキ
で、実際唐の船はどんなんだったの?
>>345 >で、実際唐の船はどんなんだったの?
インチキって言ってる人はそれで証明すんだって思ってるから、
唐代の船と宋代の船の違いなんて調べないんじゃない?
あの絵が唐代の船のものだって言っている人は、あの絵のとおりって話になるし。
347 :
世界@名無史さん:2007/02/16(金) 21:07:38 0
宋代の歩兵が重装歩兵だったんだな
金かかるわけだw
軽騎兵の満州族やモンゴルに負けるわけだ
348 :
世界@名無史さん:2007/02/16(金) 21:10:40 0
三国志に出てくるようなウェディングケーキみたいに段状になったガレー船と
元・明・清のジャンク船の間の過渡期みたいな感じでしょうか?>唐代の船
隋の煬帝の御座船は前者だったような。
>>347 金の重装騎兵に対抗してたらしいですね。
後唐の頃は騎兵中心と思うのですが、
宋が歩兵中心なのは遼・西夏に馬の産地を抑えられたという理由?
華北おさえてるんだから、ある程度の質量の馬は確保できそうに思うんだけど。
それとも何か軍事上の改革があったのでしょうか。
>>350 金国も内蒙古の馬産地を奪われてからガタガタになったような
352 :
世界@名無史さん:2007/02/18(日) 20:09:40 0
>>350 重装騎兵からトレンドが重装歩兵にかわっただけじゃない?
追撃が出来ないから会戦方式で宋が勝ってもどうにもならなかったみたい
>>352 北朝〜隋 重装騎兵
唐 軽装騎兵
宋 歩兵 という流れだったと思う。
北朝時代(北斉と北周)は重装騎兵が正面からぶつかるような感じで戦っていた。
唐の太宗(李世民)が軽装騎兵中心の軍備にして機動力を重視する
宋軍も元は沙陀族の後唐起源の軍だろうから騎兵中心でも不思議じゃないのに
歩兵が中心なのはなんだかなと。
他の十国を攻めるには地形や城攻めのために歩兵も増やすだろうけど、
西夏・遼との戦いでは騎兵が必要不可欠なのは判っていただろうし。
354 :
世界@名無史さん:2007/02/20(火) 09:38:11 0
>>353 >唐の太宗(李世民)が軽装騎兵中心の軍備にして機動力を重視する
そうなんですか?
隋唐の軍隊って徴兵された農民がとぼとぼと高句麗まで歩いていくようなイメージが
いや、詳しくは知らないですけど
まあ唐でも歩兵のほうが多かったことは間違いないけど
全軍の三割くらいが軽騎兵だったし、
騎兵単独での運用もよくあった(李靖が突厥を長距離奇襲したときとか)
ので軽騎兵重視の時代だったといえる
356 :
世界@名無史さん:2007/02/20(火) 17:11:15 0
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
358 :
世界@名無史さん:2007/02/20(火) 20:11:29 0
8世紀西安城内にあった軍隊と突厥の軍って何か違いあったノア?
服装、武器、その他。
361 :
世界@名無史さん:2007/03/14(水) 03:16:09 0
月例屠城に上がりました。
362 :
世界@名無史さん:2007/03/25(日) 17:39:42 0
北方民族の十進軍制というのは結構歴史が古いのかな。
古くは匈奴から、近くは清の八旗にまで受け継がれている。
>350
>華北おさえてるんだから、ある程度の質量の馬は確保できそうに思うんだけど。
燕雲十六州すら奪回できてませんぜw
ある程度の質・量といっても中華内部での抗争なら大差ないでしょうが
本場育ちの馬を確保し続けられない宋にとっては大差でしょう
軍馬としての飼育、短命な馬の数を増やすって
文字通り人も馬も一朝一夕では成り立たないのでマジで大変
>>364 やっぱ遊牧民をまるごと臣下にして国に取り込むしかないわけか。
でもあんまり厚遇すると反乱起こされちゃうし。あ、漢民族の発言力が低下しちゃうから、貢いでるのと同じことか。
稀に取り込むことができた場合
人口の希薄な土地へ一族・氏族単位で移住させてしまうケースもありました
論語に風俗のいい場所とかかれている地が
今や荒んだ場所になっちまった
とかどこぞの士大夫が嘆いています
五胡十六国あたりからの相当な人口移動も背景にありますね
とはいえ地理・社会的要因等から元の生活習慣を維持できずに漢化一直線するか
維持できても、まぁ現在の中華人民共和国の少数民族扱いなわけです
>>366 騎兵部隊として活用するという発想は無かったって事ね?
>>367 >騎兵部隊として活用するという発想は無かったって事ね?
活用例は一杯あるだろう。
服属してきた南匈奴を長城内の決められたところに住まわせるってのは、そこでの防衛力としても期待しているんだから。
唐が沙陀族などを取り立てたのも同じ。
>>366が言っているのは、そういう政策を取っていても、結局は同化してしまうか、少数民族として残るだけで
割拠できるような有力な勢力を維持できないってことでしょ?
明の京営の「三千営」はたしかモンゴル騎兵の軍団でしたな
>>368 なるほど。
でも彼ら遊牧騎馬民族の強さの源は「遊牧」している事にあったから、定住させちゃうとだんだんパワーが落ちて来そうな気もするけどそんなことなかったのかな?
傭兵扱いで常に訓練させてたとか。
>>369 清の八旗との戦いには役立たなかったのね。
>>370 ”決められた地域”(防衛の要地とか、放牧に向いて農耕の邪魔にならない地域)に住まわせるんであって、放牧生活を止めさせたわけじゃないよ。
大抵は放牧に向いた地域にまとまって住まわせて、ある程度族長らによる自治的な支配体制を認める。
遊牧集団の力をある程度(コントロールできる程度)維持させるのは、軍事的・その地域の安定のためにはプラスだから。
そのためには、彼らの生活基盤を壊してはダメなので。
結局は経済的に苦しくなったりして必ずしも成功したわけではない。
(上で管理する漢人官吏がピンはねしたりとか。後趙の石勒が一族離散して、一時奴隷として売られたりとかエピソードがある)
逆に力付けすぎると独立されたり、王朝を滅ぼされたり。
勉強になりますた。面白いな。
373 :
世界@名無史さん:2007/04/24(火) 23:10:24 0
遊牧民族が出自の王朝もその辺を考慮していたのかな?
その点はチンギス・ハンとか、遼とかも初期は指導者自らが遊牧民として模範を実践して見せたりして、考慮していたが、征服して年代が進むにつれて、指導者層の人間が結果的に都市文明に馴染んで、軟弱化して使いものにならなくなったパターンが多い。
元でも清でも末期は漢人の民兵みたいなのが多いな。
376 :
世界@名無史さん:2007/04/26(木) 05:48:43 O
横山の三国志の鎧はダサい
日本の方がかっこいいよね
377 :
世界@名無史さん:2007/04/27(金) 13:43:49 0
本当は宋あたりの具足だっけ?>横山の三国志の鎧
連環画の影響だな
379 :
世界@名無史さん:2007/05/19(土) 21:54:02 0
横山の鎧はいつの時代も同じだからね
時代ごとに違いを説明してるサイトはある?
劉永華の「中国古代軍戎服飾」のイラストを勝手に全部載せてるサイトなら昔あったw
>>380 写真とか図版も全部? 相当な量あるけど
だったらひどいな
>>381 いやカラーイラストだけだけどそれでも商から清までw
明代の遥族の絵はなかったような
383 :
世界@名無史さん:2007/05/21(月) 13:18:20 0
>>382 商のものだと明らかにされている武装の資料なんてあるのか?
三星堆の青銅像とか江西省新干県の墓から発掘された冑とかを元にして書いてある
>>383 自分は詳しくないけど、古代に詳しい人にその本を見せたら
「黄河文明と長江文明の遺物を一つの絵でごっちゃにするな」
とか怒ってた。
▼米国FBIの言論弾圧を弾劾せよ!
米国民主主義に対して第二次世界大戦の戦後審判とはまったく関係なく、新たな主張を行うことにより危険思想保持者と見なし、記事の削除とアクセス禁止による明らかな言論弾圧を行っている。
FBIは、沖縄米軍基地における軍事的弊害説、9.11フリーメイソン陰謀説に対する言論弾圧が認められた。
▽民主主義の国民が防衛理念を含む専門知識に基づいて投票することは有り得ない。
したがって軍事兵器の使用は極めて不明瞭な理由により過ちを繰り返しやすく、軍事的弊害を含んでいると言える。
イラクの軍事支配という中東の混乱により米軍の軍需産業は事実上沖縄にまでこの軍事的弊害を生じさせたのである。
一方、1996年8月28日、最高裁は米軍用地の強制使用手続きをめぐる代理署名訴訟で、米軍基地への土地提供を定めた米軍用地特別措置法は憲法に違反しないという判決を下した。
この米軍用地特別措置法は同盟上の米軍の軍需産業を容認するものであるが、前述した沖縄の軍事的弊害とは、似て異なるものであり、両者を民主主義において憲法上合法とすることは不当な判決であると言わざるを得ない。
▽米国同時多発テロ9.11は、事実上米軍のイラクでの軍事活動を正当化せしめたのであり、数十万の身体障害者を含む戦争犠牲者を齎した。
そして、ブッシュ政権はイラクの民主化に必要な要件を満たしていないばかりか、フリーメイソンの教義に含まれる虐殺思想の終端と軍事経済破綻を防ぐべく水面下での隠蔽工作をしたかの如き示唆を繰り返しているのである。
なぜならば、米国の権威は少数民族を虐殺したことにより維持されてきたからであり、この戦争利権を維持するために大規模なテロ事件を通じて米国民を洗脳する必要があったと言えるからである。
つまり、戦争の可否は国民洗脳により誘導された似非民主主義的な判断に基づくものである。
389 :
世界@名無史さん:2007/06/10(日) 14:23:24 0
五故の前と後では軍事のレベルが違うの?
>>389 よく知らんが鐙が使われるようになったのがその頃だね
391 :
世界@名無史さん:2007/07/10(火) 08:54:10 0
陳瞬臣の中国の歴史はどうなんでしょう
393 :
世界@名無史さん:2007/08/22(水) 02:47:52 0
あげ
394 :
世界@名無史さん:2007/08/25(土) 09:42:51 0
クリス・ハンソンって人が「神臀弩や諸葛弩で武装した部隊が
騎兵の突撃を止めた記録がいくつかある」と書いてたけど
何の戦いでの記録なんでしょう?
宋か南宋あたりの話らしいけど。
395 :
世界@名無史さん:2007/08/26(日) 12:03:15 O
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした
>>379 それを言っちゃほとんどの実写版の考証もデタラメだろ
397 :
世界@名無史さん:2007/10/19(金) 19:13:42 0
あげ
さげ
399 :
世界@名無史さん:2007/12/04(火) 03:45:53 0
あげ
400 :
世界@名無史さん:2007/12/15(土) 14:25:29 0
>>86
>>94
「チェインメイル」という呼称、そろそろ止めにしませんか?
確かに一般化していますが「メイル」という語自体に鎖帷子もしくは編鎖という語意があり、ですからこれをつなげて直訳すると「チェインメイル=鎖鎖帷子」になってしまうというのはよくいわれるところです。
というか、もっといえば「チェイン=ひも状の鎖」「メイル=布状の編鎖」というニュアンスが強いようですからそのままとると、ひも状だか布状だかもよく解らないという事になるかと。
「メイルアーマー」「メイルシャツ」「メイルコート」「メイルフード」「メイルグラブ」「ハウバーク」「ハーフハウバーク」・・・などなどを用途に応じて使い分け、総称としてはやはり「メイルアーマー」でよいと考えます。
401 :
94:2007/12/15(土) 23:17:40 0
知ってますよ。
そもそもネタ元の本にMailと書いてある。
でもチェインを付けた方がやはり通りがいいでしょうし
俺は和製英語は和製英語で別にいいと思ってるので。
>>308 このころからいたんだなWikiって略すな(笑)
403 :
世界@名無史さん:2008/01/08(火) 10:16:33 0
中世から近世の中国の城攻めって、古代にやってたような城壁の下に坑道を掘るという
戦術がみられなくなってるようだが気のせい?
文禄・慶長の役でも攻城梯子や破城槌ばかり使ってるし。
日本式の石垣が坑道爆破で破壊できるのか不明だが、兵を内部に侵入させることぐらいは
可能な気がするが。
404 :
世界@名無史さん:2008/01/19(土) 14:02:20 0
気のせい。太平天国軍もやってる。
>>403 >>404 太平天国の乱では、反乱側に鉱山労働者上がりがいて、そいつらが坑道攻めやったんだと記憶している。
日本の武田家でも金山の技術者を使って坑道を掘らせていたみたいだから
中国でも、普遍的な作戦じゃなくて、それなりの専門知識が必要、で朝鮮にいた明軍にはそのノウハウがなかったってことじゃないの?
もともと北方の騎馬民族を相手にするような地域の軍隊だろうから城攻めのノウハウに乏しかったということではないでしょうか。
406 :
世界史なんでも質問スレッド49から乱入:2008/01/28(月) 22:47:44 0
A1.戦乱に明け暮れた中国4000年の歴史を知るなら分かると思うけど。
人民にすりゃ、家を焼かれ、陵辱され、腐敗官僚に搾取され、虐殺され、餓死してきた歴史さ。
異民族に支配され、内乱に次ぐ内乱で治安も何も無い無法地帯。騙し騙され裏切り裏切られ。
今の中国共産党もやってることは日本人の眼から見れば、相等に乱暴で無茶苦茶だ。
それでも中国人民にすれば昔よりはましというコンセンサスがあるのだ。
上記は「中国で中共独裁が続く理由」の筆者の理解するところだ。
B1.そこに、これをモデルと解釈し「だとそもそも人口爆発→崩壊とか起きないからw」とコメントがついた。
A2.中国の歴史でどこの王朝が人口爆発→崩壊を起こしましたか?
元以降の平和な時期とは具体的にいつの時代ですか? とコメントに反発した。
すると以下のように返信された。
>中国の歴史でどこの王朝が人口爆発→崩壊を起こしましたか?
B2.このページあたりに詳しいですよ。
ttp://www.geocities.jp/cato1963/jinkou996.html >元以降の平和な時期とは具体的にいつの時代ですか?
こんな感じですかね。
14C半ば〜15C初頭 紅巾の乱〜靖難の変(戦乱期、約50年)
15C初頭〜17C20年代 明朝の支配安定期(平和な時期、約200年)
17C20年代〜17C80年代 明末流賊の反乱〜三藩の乱(戦乱期、約60年)
17C80年代〜19C半ば 清朝の支配安定期(平和な時期、約170年)
19C半ば〜20C半ば 太平天国の乱〜国共内戦(戦乱期、約100年)
(中共の支配安定期は50年?)
筆者は「人口爆発→崩壊」を「人口爆発→(王朝)崩壊」と読み、書き込み者の意図を訝ったが、
それは読み違えで書き込み者は「人口爆発→(人口)崩壊」のつもりだったらしい。
そしてA2の2番目の質問の意図はB氏の平和の定義を知りたかったまでだ。
B氏によれば鎮圧された反乱や凶作飢饉があっても平和の時代らしい。
要はB氏の解釈だと王朝の支配が安定していることだけが平和の条件らしい。
そういう定義なら、なるほどA1に反発する理由が理解できる。
407 :
世界史なんでも質問スレッド49から乱入:2008/01/28(月) 22:53:28 0
また以下のようにもコメントした。
A3.中国のは軍隊というより武装掠奪出稼ぎ隊というべき例がまま見られた。
武装掠奪出稼ぎ隊が行軍すると俺も俺もと勝手についてくる無頼の輩が増えて
人数が増えたりした。そんな訳で勝ち目ないなあと思われると、逃亡したり敵に寝返ったり。
凄惨なのは元々野蛮人だから。
これには以下のように返信された。
B3.(途中省略)
王朝交代のたびに過去の例が生かされず凄惨な戦争が繰り返された原因は
略奪があったとか頼りにならないキャンプフォロワーが大勢いたとか
どこにでもあるような話ではなく、やはり中国の他の伝統的問題と同じく
儒教思想と統一王朝の支配に求められるのではないでしょうか。
A4.儒教思想と統一王朝の支配が重要なキーワードだが、これだけでは何がどう求められるのか
説明が無いと全然分からない。
俺はそのB氏じゃないけど
>B氏によれば鎮圧された反乱や凶作飢饉があっても平和の時代らしい。
反乱や凶作飢饉なんて江戸時代にもあったんだけど。
俺もA氏じゃないんだけど天保の大飢饉とかの頃になるともう平和とはいえないのでは?
ぶっちゃけていえば乱世
ぶっちゃけにも程がある。つーか議論が乱暴すぎ。
>>405 坑道戦は穴掘って進めばいいだけだから、そんなに難しいことではない。
ただ時間と労力が半端なくかかるから、大軍で長期の城攻めをする時じゃないと
費用対効果が悪い。コンスタンティノープルのオスマン軍もやっているし、古今東西
普遍的な戦略ではある。
人と時間をかけることができ、相手が堅固な守りの城に篭っていれば自然と坑道戦という
選択肢がでてくる。日露戦争で日本軍もやってたし。
穴掘って真っ直ぐ進むのには専門的な技術が必要だぞ
413 :
世界@名無史さん:2008/03/30(日) 16:24:16 0
h
415 :
世界@名無史さん:2008/05/25(日) 16:39:01 0
>>415 一回自分で穴掘ってみろ。すぐわかるから。
オスマントルコ軍なんかは坑道に吊るした灯りで真っ直ぐかどうかを見極めてたらしい。
418 :
世界@名無史さん:2008/07/15(火) 18:24:37 0
ヨーロッパの軍事史研究をも導入した、中国軍事史の研究ってある?
個人的には、更に中央ユーラシア、印度、イスラーム(つか地中海?)あたりの軍事史をも含めて論じた研究とか読みたいけど
>ヨーロッパの軍事史研究
いわゆるmilitary revolutionとか?
420 :
世界@名無史さん:2008/08/25(月) 19:52:54 0
>>411 日露戦争の時は日本陸軍の工兵隊が弱小で本格的な坑道戦はやってない。
旧日本軍の坑道戦で有名なのは第二次世界大戦の硫黄島の戦いだな。
坑道というより地下陣地戦闘だけど。
日清戦争で清軍の装備の中に連弩まであったとか何かで読んだ気がするけどマジなんですかね。
422 :
世界@名無史さん:2008/08/27(水) 12:48:17 0
>>421さんへ。それとは少し違うが、日露戦争の時だったかなぁ?
(もちろん清は参戦していないが、満州が戦場だったからね!!)
はっきりとは覚えていないんだが…
等身大ぐらい大きい青竜刀みたいな槍を持った清兵の写真を見たことあるよ。
なーに、ヨーロッパの某国では1930年代まで槍騎兵がいたじゃないか。
中国での槍騎兵の全盛期は五胡十六国時代だっけ?
廃れるの早かったんだな
426 :
世界@名無史さん:2008/09/01(月) 23:23:07 0
>>425 そんなことないよ南北朝時代まで主力だった
モンゴルも弓騎兵だけじゃなく槍騎兵も使ってた
要はバランス
427 :
世界@名無史さん:2008/09/02(火) 19:13:53 0
ここは世界史板や
しかし運営も大した考えも無しに、板を乱造するなぁ
>>428 考古学板を作ったあたりからアホ丸出しだからねぇ。