銃・火砲の世界史

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907世界@名無史さん:2006/11/01(水) 20:56:38 0
どこのパラレルワールドだよ
908世界@名無史さん:2006/11/01(水) 21:41:04 0
906の脳内ワールドです
909世界@名無史さん:2006/11/11(土) 00:27:03 0
火砲の発達によって歩兵の土木作業が増えた
910世界@名無史さん:2006/11/18(土) 18:30:11 0
http://www.youtube.com/watch?v=jEArQu_53SI
フリントロックはやっぱり発射不良が多いのだろうか
911世界@名無史さん:2006/11/18(土) 21:10:06 0
確実性という意味ではマッチロック(火縄)の方が上だったみたい
912世界@名無史さん:2006/11/18(土) 23:22:22 0
>>910
湿気の多い、日本じゃ尚更流行らなかった訳だw鎖国時代にオランダから結構もたらされていたと思ったけど。
火打ち石式も。
913世界@名無史さん:2006/11/18(土) 23:38:15 0
清では出回ってたのかな、フリントロック
914世界@名無史さん:2006/11/19(日) 12:08:59 0
阿片戦争〜太平天国の乱までは 清軍も天国軍も、ともに主力は火縄式滑腔銃だったようだ。

阿片戦争に従軍した英軍は火打石式だったが、広州上陸後に三元里付近で豪雨に会い 火打石式が使えない状況で地元民に包囲攻撃されている。

雨に対する耐性は雷管式の登場でかなり改善されたが、黒色火薬自体の湿気/雨への弱さは改善されず、ニトロセルロース系無煙火薬の登場まで湿気/雨対策は戦場の最重要課題だった。
ベンガル太守も東インド会社軍との決戦前の一雨によって破れ、湿気/雨対策の脂が元でセポイの乱も発生した訳だが...
915世界@名無史さん:2006/11/19(日) 12:16:44 0
まぁ、火打石だから一発で火がつくのは難しい気もする。

鎖国時代、銃を実用していたのは狩りのときだけだし
不発が少ない上に発射時にブレが少ない点で
火縄式のが実用的だったらしい。
雨天時に撃てないという欠点も雨なら猟に行かなきゃいいわけでw

清はどうなんだろう。上の理屈で考えれば
しょっちゅう戦争している状態でないとなかなか
普及しないような気はするんだが。
916世界@名無史さん:2006/11/19(日) 14:03:15 0
火薬が湿るのが痛い
917世界@名無史さん:2006/11/19(日) 14:07:26 0
西欧では、ほぼ全数がマッチロックからフリントロックに変わっている。
日本ではフリントロック機構は伝わったが、ほとんど採用されなかった。
原因は、入手できる火打石の性質で、発生する火花の量が日本産の
火打石では確実に着火させるに不十分で、不発が多かったため。
918世界@名無史さん:2006/11/19(日) 16:29:18 0
>>915 清も成立初期にはいろんな所に外征に出てたけど、相手は周辺の弱小民族ばっかで清軍が大量に装備してた炮で圧勝してた。
(東方進出を始めたばかりのロシア人にも勝ってる)

しかし、日本と同じで国内と辺境が安定してからは、武器の積極的な開発は止まり、もっぱら学問としての軍事理論だけが発達した。

その間に清人兵士の官僚化が進み、阿片戦争では歩兵が贅を凝らした輿に乗って戦場に来て、隊列を組んだ途端に英軍の弾幕射撃に瞬殺されるありさまだった。

これを見た中国人の多くは清軍の弱体化と清朝支配の脆弱さを見て取り、三元里での英軍襲撃や太平天国の乱へとつながって行く。
919世界@名無史さん:2006/11/19(日) 16:31:02 0
明人重馬 清人重炮
920世界@名無史さん:2006/11/30(木) 03:23:27 0
歴博の火縄銃展行った人いる?
921世界@名無史さん:2006/12/02(土) 00:45:19 0
フリントロックでは雨の日は撃てないわけだが、、、
パーカッションと勘違いしてないか?
922世界@名無史さん:2006/12/02(土) 02:48:18 0
>>918
清では軍事理論についての著作もあまりないような・・・
明に鳥銃や紅夷大砲が入ってきた頃は「練兵実紀」などが書かれたけど
923世界@名無史さん:2006/12/02(土) 09:33:59 0
>>921
つか、誰もフリントロックが雨天に使えると主張していなのだが?
924世界@名無史さん:2006/12/02(土) 09:42:48 0
>>921は何に対してのレスなのかはっきりせよw
925世界@名無史さん:2006/12/02(土) 11:35:15 0
管打ち式/パーカッション式も小雨の中でも射撃できるといったレベル。
全身びちょ濡れになるような豪雨の野営では、再装填は非常に困難。
とはいえ、敵も事情は同じなので、銃剣が重要な武器となる。

湿気や水を気にせず火器が使用出来るようになるのは、19世紀末の金属薬莢に無煙火薬が入ってから。
それまでの長い期間、野戦司令官にとって雨は最強の敵だった。
(今でも嫌な相手だが、敵の航空支援が途切れる期待をもてたりするので嫌な部分ばかりではない)
926世界@名無史さん:2006/12/02(土) 20:45:41 0
火器以前の弓兵にとっても弦が水を吸って伸びるから雨は天敵だったとか
927山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/12/02(土) 21:48:50 0
我が国では、弦だけではなく、竹と木を接着しておき弾力性を増した弓が問
題となる場合、製作するにあたって雨露で狂わないような秘伝を伝える、複
合弓ではなく、あえて丸木弓を使用するなどしていたようです。
928世界@名無史さん:2006/12/02(土) 23:01:01 0
投石サイコ〜!
929世界@名無史さん:2006/12/03(日) 09:55:56 0
>>927
朝鮮でもその問題は深刻だったようですね。
騎馬民族式の動物の骨角や腱を竹や木のコアに張り合わせた弓を使っていたので。
威力を高めようとするとプレッシャーに耐えられず破損するおそれがあった。

湿潤な土地では乾燥した土地よりも複合材の弓の性能は落ちるんだろうか。
江南の軍隊が倭寇と戦ったときの記録でも「こちらの矢が倭寇に当たっても
ヘラヘラ笑って尻を叩いて挑発してくる」とか書いてあるので威力は弱かったらしい。
一方文禄の役で北方辺境守備の明軍と戦った武士の残した記録では
「唐人」の弓は朝鮮のものより張りが強いと書いている。

そういえば真偽は定かではないけど、インドのムガル朝が北方へ侵攻して
ある部隊が村で略奪していたとき、タタール人の女一人が現れてムガル兵の
弓の射程外がら矢を放ってきたので部隊が全滅したとか・・・
930山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/12/03(日) 12:59:56 0
>929
古代には丸木弓を使用していたものが、やがて外竹弓(平安後期)→三枚打
弓(鎌倉)→四方竹弓(室町)→弓胎弓(戦国)と進化していった訳ですが
、平安中期の刀伊の入寇時に鹵獲された弓は動物の腱も使用していたらしく
、威力が高いもので遠方から飛んできて日本側の盾を貫通したそうです。
当時は丸木弓しかなかったこともあり、印象に残ったのでしょう。

>インドのムガル朝
ベルニエの『ムガル帝国誌』ですね。噂話の類だったようで、嘘とも本当と
も言い難い。
931山野野衾 ◆CXSSL1llHI :2006/12/03(日) 13:08:11 0
ああ、それと弦楽器は雨が降ってくると弦が伸びてしまうのでピンと張って
いたものを休めていましたが、多分弓でも同じようにしていたと思います。
赤穂浪士の討ち入りの際には、浪士側が突入後警戒して弓の弦をまとめて切
ってしまったそうですが、これは臨戦態勢に入っていたからでしょうか。
北野たけし版『座頭市』で、わざわざ雨が降り出してから三味線の稽古を始
めたのには、違和感がありました。
932世界@名無史さん:2006/12/09(土) 08:35:45 0
赤穂浪士の討ち入り時は乾燥した冬季だったので張ってても大丈夫でしょう。

吉良屋敷は迷路と障害物を組み合わせた小型の城塞だったようですが、防御の備えも半端ではなかったようです。

火縄銃が装備されていなかったのは、緊急防戦時には役に立たないと割り切ったからかもしれませんが、熟練した浪人がいくらでも雇えたので弓を主力に出来たのかもしれませんが...
933世界@名無史さん:2006/12/10(日) 09:37:52 0
934世界@名無史さん:2006/12/17(日) 21:39:24 0
>>930
三人張りの弓は威力がすごいが。
戦国期まで、三人張りの弓とか使われていたのかな?
935世界@名無史さん:2006/12/18(月) 01:59:18 0
弓道やっている身から言わせてみれば
麻弦は伸びやすいから引くとき以外は外しておくのがデフォ

でも普通は合成弦でも外すけどね
936世界@名無史さん:2006/12/18(月) 17:36:51 0
>>932
「入り鉄砲に出女」
937世界@名無史さん:2006/12/18(月) 18:59:26 0
お!山野さん、珍しか〜
938世界@名無史さん:2006/12/22(金) 21:08:41 0
皆さんすごい知識の持ち主ばかりですね。
読み落としたかもしれませんので、ちょっと教えて欲しいのですが、
幕末を除き、大砲、石火矢、フランキ、大鉄砲などの弾は
炸裂したんですか?もし炸裂しないなら攻城戦でなく
野戦での効果は本当にあったんでしょうか?
関が原では陣地戦に持ち込む意図があったという説もありますから
戦備として持っていた程度なのかも知れませんよね。
そのあたり、どうなんでしょう。

939世界@名無史さん:2006/12/22(金) 21:57:32 0
大砲≒大筒には焙烙という炸裂弾が使用できた

石火矢(江戸期以前では前装砲を指す言葉でもある)=家屋などを貫通して炸裂する焼夷弾で、木砲や紙砲などの簡易な発射装置から射出される弾頭を指す言葉だった。

フランキ=東南アジアで模倣製造された欧州型の後装砲の総称。これにも焙烙が使えたが、船舶に搭載しての接舷攻撃用としての用途が多かったので、敵船乗組員殺傷用の木弾が多く使用されていた。
また、ガス漏れ防止の不完全な後装式だったので前装砲よりも低圧で発射された。

大鉄砲=大筒のように各種の弾頭を切り替えて使用する物ではなく、鉄砲より大きな鉛弾や鉄/石等を発射して 打撃力のみで城壁や防盾などを破壊するのが主な用途だった。
940世界@名無史さん:2006/12/23(土) 10:04:31 0
石火矢=フランキ
941世界@名無史さん:2006/12/23(土) 10:13:58 0
ありがとうございます。なるほど、
丸い無垢の金属弾ばかりでなく、
いろいろな種類の弾を使っていたわけですね。
そうすると、近距離では散弾などもあったかも
知れませんね。トルコが使った石の弾は
着弾時砕けて破片が殺傷能力を発揮したとか
海戦では砕かれた木の破片で殺傷したと言う
話を聞きましたので、
田圃の多い日本の田園では
飛ぶような破片も無いだろうし
効果が少ないように思っていました。
942世界@名無史さん:2006/12/23(土) 11:22:58 0
>939
>大砲≒大筒には焙烙という炸裂弾が使用できた
聞いたことないんだが
943世界@名無史さん:2006/12/23(土) 11:33:49 0
日本で最初に火薬兵器が使用されたのは元寇の侵入時で、射出していたのは“回回砲”呼ばれた投石機だったが 弾“てつはう”と呼ばれた陶器製の焙烙だった。
(この後、前装砲が実用化されると中国では“砲”という言葉が“炮”に変わる)

陶器製の焙烙(巨大な金平糖に見えるw)は、内部に火薬と鉄片を詰めた榴弾であり、敵陣に投擲して面制圧効果を発揮する。

こんな物でも大した遮蔽物の無い場所で炸裂したら、相手の陣形は崩れ 戦闘能力は著しく落ちる。

当時の中華文明の軍事力での頂点を示す兵器だったが、日本では火薬原料の硝石が東南アジアからの貿易ルートの扱い商品に乗らず高価だったため永らく普及しなかった。

戦国期に至り刀剣や具足用に台湾や東南アジアからの鹿革の輸入拡大するとともに、硝石の国内流入も拡大する。

また、この時期に実用的な火縄銃がもたらされた事で、日本は世界有数の銃砲生産/消費国に変貌して行った。
944世界@名無史さん:2006/12/23(土) 12:05:53 0
忘れられがち&石火矢の定義が時代によってコロコロ変わる事に起因しているのだが、ロケット兵器も戦国期に流入している。

これはロケット花火の原型というか巨大化した物だが、木製の本体に粗製硝石を原料とする推進薬を叩き詰め、中央に孔を空けて均等に燃焼するようにした物に長い安定棒が付けられている。

これに点火して敵陣に向けて飛ばすのだが、その効果は長い安定棒が敵陣で回転して敵兵を撲殺するというものw

安価で現地調達可能な粗製硝石を使用し、火砲よりも簡単に(手工業的に)製造できるので、粗製硝石の入手が容易な南方地域では19世紀末まで使用され続けた。

現在でも秩父に龍勢花火と呼ばれる農村手製ロケット打ち上げ祭りが受け継がれている。
http://www.geocities.jp/hiko771535/sub3.html
この製造法は世界でも最古の部類に属するものだ。

実際、インドを植民地化していた英軍は、土侯軍によるロケット攻撃で銃隊の密集陣形を崩され敗北している。

また、欧州でも後装式施条砲が出現するまで、ロケットはその派手な存在から戦場の華であり、米英戦争時に作詞された米国国歌にも名前を残している。
(日本では西南戦争時に当時の日本陸軍が大量に輸入/使用している)

その後、WW2では鋼製本体と現代推進役とのコンビで搭載できる榴弾重量を劇的に増加させて復活し、榴弾砲以上に効果的な野戦用面制圧兵器として また精密誘導兵器の母体として 現代では火砲以上に重要な存在となっている。
945世界@名無史さん:2006/12/23(土) 14:08:39 0
ロケットについては、アメリカの映画で
(独立戦争だったか?南北戦争だったかな?)
ロケットが派手に飛びまくるシーンを見たことがあります。
ロケット花火の親玉みたいで、長い棒がついていたような
記憶があります。
946世界@名無史さん:2006/12/23(土) 14:47:07 0
独立戦争を描いた「パトリオット」と思われ。
ロケットについては国歌にも詠われてるし。
947世界@名無史さん:2006/12/23(土) 15:26:40 0
↑そう、巨大なロケット花火という形状。
http://www.geocities.jp/hiko771535/katugu.jpg
ちょっと小さくて見難いが、長大な安定棒が付いているためこれだけの人数で運搬する必要がある。

南北戦争の頃に実用化された後装式施条砲の出現までは、ロケットは戦場で砲と並ぶ存在だった。

米国国歌の詩にあるロケットは“And the rocket's red glare, the bombs bursting in air,(ロケットの赤い閃光と空中で炸裂する榴弾が...)”と詠まれている。
948世界@名無史さん:2006/12/23(土) 15:40:58 0
余談だが、関が原戦に向けて家康はオランダからロケット350本を購入していたそうな。
これが使われていたのなら、関が原の光景もまた訂正を余儀なくされそうだが...
949世界@名無史さん:2006/12/23(土) 16:12:05 0
焙烙って陶器に火薬を詰めただけのシンプルな手投げ弾でしょ?
そんなもん大砲から打ったら破裂しておしまいだろうもん。
950世界@名無史さん:2006/12/23(土) 20:03:44 0
細かいことをあげつらうと、「焙烙」とは土器の一種。「焙烙玉」はまんま和製震天雷。

>>949
炸裂時の殺傷力を増すためか、輸送/取り扱い時の損失/事故を防ぐためか、あるいは
火薬の質が向上して金属製の外殻も割れるようになったからかどうかは知らないが、
初め震天雷は陶器製の容器を用いてたが後に金属製のものが主流になる。

無論これは砲(投石機)だけでなく炮(大砲)からも撃ち出されたようだ。
ま、打ち上げ花火が出来る技術があれば震天雷も撃てるだろ。
951世界@名無史さん:2006/12/23(土) 21:14:24 0
津本陽の小説「天翔ける倭寇」の主人公で雑賀衆のボンボンの使う武器が焙烙火矢だったな。
明軍のフランキ砲に直撃させて大被害を与えたりしていた。
952世界@名無史さん:2006/12/23(土) 21:56:33 0
鑑定団の常連、備前焼の手榴弾も焙烙だがね
953世界@名無史さん:2006/12/23(土) 22:38:32 0
信管登場以前の炸裂弾って導火線式でしょ?
ならば、導火線の火が炸薬に到達する前に発射の衝撃や着弾時の衝撃で弾体が割れちゃいけないよね?
弾体が陶器製だと割れて使えないじゃないの?
954世界@名無史さん:2006/12/23(土) 22:57:17 0
焙烙=陶製だったのは投石機(元寇)や手投げ(千早城)の頃まで。
前装砲で使用された焙烙は鋳鉄や鉛や銅の鋳造品。丈夫な和紙で作った花火みたいな焙烙もあった。

野戦での砲撃には榴弾が無ければ無意味。
小学生の頃、高島平近くで出土した秋汎先生大演習の際の砲弾を見たが、ちゃんと導火線用の孔が開いた榴弾だった。
955世界@名無史さん:2006/12/23(土) 23:13:06 0
>>954
>野戦での砲撃には榴弾が無ければ無意味。
んなアホな。密集陣を組む小銃歩兵隊をバウンドする鉄砲弾で轢き殺すのは常道だろ。
ミニエ小銃と後装銃の普及により、密集陣が使われなくなった19世紀後半以降ならともかく。
956世界@名無史さん
>>955 バウンドも有効な手ではあるが、生きていて動きまわる人間によって構成される集団である敵陣を攻撃するには不十分な効果しかない。

しかも前装砲は再装填に時間がかかるので、あまり悠長な攻撃を行っていると、脚の速い敵の騎兵に側面から攻撃されかねない。

早めに敵陣を叩くには榴弾が一番良い。最初に榴弾を集中して叩き込み、生き残りで構成された敵陣が接近して来たら、同じような目に遭った味方歩兵との白兵戦になる。

その間に敵が騎兵を使って来たら、側面の砲に霞弾(ぶどう弾)で反撃しよう。

運悪く味方歩兵が劣勢で敵陣が迫ってきて、味方歩兵の第2陣の出撃が期待できない状況なら、霞弾(ぶどう弾)を撃ちまくって後退する時間を稼いで撤退しよう。

砲を失ってしまったら、その戦線での反撃は永久に不可能になるからね。