> 共和制とは言っても実態は都市貴族が権力を独占し、平民は産業も無いので傭兵出稼ぎ。
歴史を通してみれば、そういう「共和政」のほうがむしろ普通だろう。
共和政と主権在民をセットにしたフランス革命は、まさに世界史の新しい時代の始まりだったんだね。
フランス革命って初め立憲君主制目指してませんでしたっけ?それをルイがアホやらかしてサヨ暴走、でナポレオンがそれを収拾したと
>>285 >中立とは言っても山岳地で交通の便も悪く産業も無く周辺諸国が欲しがらなかったから。
スイス南部のザンクト・ゴットハルト峠はドイツ〜イタリアへの交通路。
神聖ローマ帝国にとって、ローマとの交通路として重要な土地だったんでは?
実際、ハプスブルグ家が誓約同盟初期の頃に重騎兵隊編成して攻め込んでます。
289 :
世界@名無史さん:2005/06/06(月) 23:51:32 0
>絶対王政の権化みたいなブルボン王朝を最後まで支え、
フランス革命を潰そうとしたんだよな…
金の切れ目は縁の切れ目は、ノーマネー、ノースイスと言うらしいと
何かで読んだ。旗色が悪くなっても金さえ払えば寝返らないが、金を
払わないと旗色が良くても縁切れになると。
バチカンのガードが、スイス人衛兵なのもそうしたことに由来するらしい。
>平民は
産業も無いので傭兵出稼ぎ。現実は辛いな・・・。
ハイジのおじいさんも出稼ぎ傭兵だったしな。
しかし、スイスが平和的な中立国だという奴は最近はさすがにいなくなった。
国民皆兵、各家庭に自動小銃が置いてある世界有数の軍事武装国家。
対戦中はナチスの金庫と連合軍への武器供給で立ち回ったしたたかさ。
中立を維持するには、脳みそと筋肉を使わねばならないというよくも悪くも
現実的なサンプル。
290 :
世界@名無史さん:2005/06/07(火) 12:38:06 0
>>289 バチカンの傭兵がスイス人なのは、サッコ・ディ・ローマのとき、
イタリア人傭兵はみんな逃げたのに、スイス人傭兵は最後まで戦ったからだ
ときいたけど。
291 :
世界@名無史さん:2005/06/07(火) 16:04:36 0
292 :
世界@名無史さん:2005/06/07(火) 16:05:02 O
「キャロル・ジュネの手記」に出て来たオヒューロルって傭兵だっけ?
293 :
世界@名無史さん:2005/06/07(火) 16:06:02 0
295 :
世界@名無史さん:2005/06/07(火) 16:06:16 0
いや衛兵とかですらなくて使用人だったろ
>>293 それははっきりしないんじゃなかったっけ?
297 :
世界@名無史さん:2005/06/07(火) 16:08:15 0
>>292 それってミントル事件の全貌が書いてあるんだよね?
298 :
世界@名無史さん:2005/06/07(火) 16:08:51 0
オヒューロルとゾネスが恋仲(雄×雄)
んで主人が当たり前だけどその二人を切る
ジュネがゾネスに惚れてた
あとはそんなよく把握してない
あぼーん
>>297 それはメンセル事件w
ミントル事件は(ry
オヒューロルの料理は美味いって、妹が言ってた。
303 :
世界@名無史さん:2005/06/09(木) 20:49:49 0
マルシェウモール!
304 :
世界@名無史さん:2005/06/12(日) 20:43:21 0
ttp://www2.asahi.com/special/iraq/TKY200505110182.html 自ら戦地に赴く理由は? イラク拘束で関係者の反応
神戸出身の38歳の男性は89年から6年間、仏外国人部隊の「第2外国人
落下傘部隊」に所属した。日本では陸上自衛隊の第1空挺団で、団長賞を取る
ほどのエリートだった。でも、なぜか「足りひん(足りない)」と思った。
所属部隊の日本人は10人前後。接した日本人の3分の1が自衛隊出身だった。
アフリカ・チャドでクーデターが起きた際、銃弾が飛び交う戦闘に遭遇した。
初めは恐ろしくて仕方がなかった。威嚇射撃をした。「2、3日たったら
慣れた」
除隊後、世界各地の大規模プラントなどで警備対策要員になる人もいる。
こうした仕事をあっせんする会社も英仏にはある。日本に帰る人は少ないと
いう。
305 :
世界@名無史さん:2005/06/12(日) 21:47:20 0
306 :
世界@名無史さん:2005/06/14(火) 07:55:22 0
ミントル事件ってどういう事件?
307 :
世界@名無史さん:2005/06/20(月) 00:12:23 0
ビザンツ帝国では、テマ(軍管区)制が衰えるにつれて、外国人傭兵の割合が
増えていった。
皇帝の警護にあたるヴァリャーギ親衛隊は有名だが、そのほかにもペチェネグ人、
クマン人、セルジューク・トルコ人、ブルガリア人、アラン人、ノルマン系
イタリア人、ヴェネツィア人、ユダヤ人、アラブ人など、ありとあらゆる
民族出身者がいた。
ビザンツ帝国を防衛する立場なのに、ビザンツ帝国と対峙して封土を勝ち取る…。
オスマン帝国も本来はソユト軍管区を防衛していたビザンツ帝国臣民だったよね。
309 :
世界@名無史さん:2005/06/20(月) 01:00:26 0
>>308 傭兵たちは、給料が支払われない場合、敵側に寝返ってビザンツ領を
略奪する、なんてこともよくあったみたい。
トルコ系諸民族は軽騎兵、フランク人やノルマン人は重騎兵、
ロシア人やヴァイキングは歩兵、アングロ・サクソン人やデーン人は
ヴァリャーギ親衛隊になることが多かったようです。
一方、セルジューク朝やオスマン朝も、ギリシア人、グルジア人、
アルメニア人、フランク人、セルビア人などを傭兵として雇っていました。
310 :
世界@名無史さん:2005/06/20(月) 01:34:44 0
ノルウェーのハーラル苛烈王は、若いころヴァリャーギ親衛隊の一員だった。
オーラフ2世が1030年のスティクレスタズの海戦で戦死し、ノルウェーが
クヌート大王の王国に帰属することになると、ハーラルは故郷を離れて
キエフ公国へ亡命し、そこでヤロスラフの親衛隊の指揮を引き受けた。
その後彼はビザンツへ向かい、皇帝ミカエル5世の親衛隊の首領に出世した。
彼はこの間、ユーフラテス河畔とシチリア島でサラセン人と戦い、
1040年ごろにはアテネの反乱を鎮圧し、その後イェルサレムに巡礼する。
ビザンツに戻った彼は皇帝一家と不仲になり、ノルウェーへ帰って
マグヌス善良王と権力を分割する。
逆に、ヘイスティングズで敗れたハロルド・ゴドウィンソンのハスカールの中には、
ウィリアム征服王に対して二度と武器を取らないことを誓約した後、
ビザンツに渡ってヴァリャーギ親衛隊に入ったものが多数いたらしい。
John Godfrey,"The Defeated Anglo-Saxons Take Service with the Eastern Empire",
Proceedings of the Battle Conference on Anglo-Norman Studies 1(1978)
1066年の戦役は、中世の、しかも辺境の島国の話にしては、えらいスケールがでかい。
312 :
世界@名無史さん:2005/06/25(土) 11:44:43 0
NHK総合 6月26日(日)
午後9:00〜
“戦争”請負人
〜イラク・民間軍事会社の実態〜
313 :
世界@名無史さん:2005/07/01(金) 22:22:29 0
314 :
世界@名無史さん:2005/07/03(日) 23:09:39 0
191 :世界@名無史さん :02/12/21 21:26
ブワイフ朝以前の10世紀前半のダイラム人・ギール人傭兵隊長の活動 柴山 滋
10世紀前半のイラン北部の地域はアッバース朝カリフの権力が
衰退し,様々な地域の利害関係者が互いに競いあった,
イラン史上の「ダイラム人の幕間」と呼ばれる時期であった。
9世紀末にエルブルズ山脈西部の山岳民であるダイラム人と
その麓のギーラーンの農耕民であるギール人の大部分は,
アリー家のハサン・アル・ウトルーシュの宣教に応じて
イスラームに改宗し,タバリスターンとグルガーン地方の
アリー家国家の再建に協力し,917年のハサンの死後は宗教の
影響が薄まった国家を建設した。この地域は935年以降,
ブワイフ朝によって統合されていくが,その前段階で
活躍するのが,リーリー・ブン・アル・ヌウマーン,アスファール・ブン・スィーラワイフ,マーカーン・ブン・カーキー,マルダーウィージ・ブン・ズィヤールの4名のダイラム人・ギール人の傭兵隊長である。
リーリー・ブン・アル・ヌウマーンについては,多くのことが
知られているわけではない。彼はハサン・アル・ウトルーシュ
の息子達に仕えた指揮官の一人であった。彼はハサンの義理の
息子で,かつ後継者であるハサン・ブン・アル・カーシムに
より,920年にグルガーンの代官に任命された。921年,
ハサンはダイラム人・ギール人に略奪のはけ口を与えるために
リーリー指揮の下,当時サーマーン朝の配下にあった
ホラーサーンに派遣した。彼はダームガーンを占領し,
さらにニーシャープールとメルブまで手中に入れたが,
サーマーン朝の大軍によりトゥースに追い込まれ,敗死した。
「風魔の小次郎」の飛鳥武蔵と伊達総司は傭兵なんですよ。
戦争の犬たちの傭兵はいい傭兵だったな
317 :
世界@名無史さん:2005/08/14(日) 17:24:04 0
hosyuage
318 :
世界@名無史さん:2005/08/14(日) 23:43:31 o
ハイジのおじさんもスイス傭兵として派兵され頭がおかしくなってしまったという設定らしい
319 :
世界@名無史さん:2005/09/13(火) 00:58:25 0
中国史における傭兵なんてどうだろう。
321 :
世界@名無史さん:2005/09/13(火) 03:41:16 0
太平天国を鎮圧したのは傭兵だよね。
322 :
世界@名無史さん:2005/09/13(火) 19:30:00 0
>>320 ヨーロッパ史に出てくる傭兵のコンパニーのようなものは中国ではあまり聞かないね。
地方軍閥はみんな傭兵みたいなもんだろ
つかむしろ正規軍と傭兵の境界があいまいだというべきか
日本の足軽の給料ってどんなもんだろう。
325 :
世界@名無史さん:2005/10/05(水) 19:41:09 0
326 :
世界@名無史さん:2005/10/14(金) 23:44:40 0
江戸時代の足軽の俸給は
幕府では、
与力(戦国時代なら足軽組頭クラス)で130俵〜200俵前後。
同心では十五表二人扶持〜30俵2人扶持。
これだけでは食っていけないので内職をしていた。
平時には幕府の仕事も少ないので、内職が本業となっていた。
諸藩の足軽は、幕府の与力同心より少なかったが物価などから考えるとそれほど差はなかった。
また組ごとに俸給が支払われ、そのなかで分配されるのはヨーロッパの傭兵とにてるかも。
327 :
朱由檢:2005/10/14(金) 23:54:04 0
>>326 江戸時代の与力は給料の比較事例にもってきちゃダメだってば…。
328 :
世界@名無史さん:2005/10/15(土) 00:07:27 0
江戸時代の足軽は、戦国・安土桃山時代の規模をそのまま縮小したようなものらしい。
先手組(前線部隊)と御手組(本陣詰め)があって、御手組の方が俸給がいい。
幕府の親衛隊ともいうべき小十人組は、格が御目見え級であるのに俸給が100俵しかなく生活が最も苦しかったとか。
一方、町奉行所与力同心は付け届けや礼銀によって旗本よりリッチだった。しかし、卑しい身分とみられていた。
329 :
朱由檢:2005/10/15(土) 00:14:07 0
傭兵の給料といえば、ハプスブルグ家はよく踏み倒してるよね(藁
傭兵への給料未払いはカルタゴが滅亡した理由にも数えられるほどタブーなのにね。
>>328戦国・安土桃山時代には、1万石につき平均250〜300人
豊臣・明智にいたっては、500・600人の動員力があったのに、
江戸時代は、平均100人しか動員力がない。
331 :
世界@名無史さん:2005/10/15(土) 00:33:58 0
現在でも最強はグルカ兵だろ?
332 :
朱由檢:2005/10/15(土) 00:49:06 0
戦争は戦争が養う〜と、30年戦争時で暗躍したユダヤ系財閥と中小傭兵団。
そして、ワレンシュタインとの黒い関係とかってまだ出てないのかな。
333 :
世界@名無史さん:2005/10/15(土) 02:55:13 0
334 :
世界@名無史さん:2005/10/15(土) 15:13:22 0
グルカ兵が最強ってどっから出てきた話なん?
帝国主義時代からいわれてた話か。
戦国期の足軽は当人が死ねばそこで雇用関係終了。家族が離散しようが
しった話じゃないが、幕末期は当人が死んでもお家の為って事で家族は扶持
がもらえる。動員力に差がでるのはここいらの所為かな。