【Rouml;misches】神聖ローマ帝国 【Reich】
695 :
世界@名無史さん:2009/05/11(月) 19:55:38 0
ドイツ王とイタリア王を兼ねた人物→(即位)→神聖ローマ帝国皇帝
イタリア王という概念は19世紀まで続いた
ドイツ王の概念はそれより早い時代に消滅したはず
つまり東フランクが有名無実になって実体どころか名(概念)も滅亡した
別にポーランド王でなくともよいが、帝国外のポーランド王やハンガリー王などと
帝国内の王国の王との違いはこう考えるとすっきりする
*帝国外の王→ケーニッヒ・in・どこそこ王国
*帝国内の王→ケーニッヒ・von・どこそこ王国(・in・神聖ローマ帝国) ←in以降は言わずもがなだから省略されている
ドイツ王・イタリア王・ボヘミア王は「帝国内の王」でOK?
ところで、ネーデルラントはいつからドイツとは区別して考えられる
ようになったんだろう。
>>696 ドイツ王・イタリア王・ブルグント王とボヘミア王は違うだろう。
後者は基本的に王号を許された諸侯に過ぎない。
まあ、結局皇帝=ボヘミア王だった時期の方が長いが
ネーデルラントとスイスはウェストファリア条約で帝国離脱するまでは一応ドイツだろう。
最大の疑問が解決されている!
inとvonの違いなんて高校でちゃんと教える世界史の先生いないもんな
目からうろこが落ちた
そもそも、ドイツという地域が発生したのがかなり後代なわけで、ドイツという地域の王が「帝国」内に存在するわけがない。
ドイツ王という言葉の当初の意味は「民衆の王」だし、それと同義であったローマ王も「ローマ人の王」。
つまり、どちらも、ローマ帝国に所属する人々の王、という意味になる。
従って、ドイツ王というのは、まず帝国があって、その君主である、という意味があるわけで、皇帝が帯びた他の王号とは次元が異なる。
要するに、某学会の名誉会長は民衆の王であるが、そういうことだな。
インスティテューションとしての王国の君主としての王ではなく、民衆の王。
西フランクではカロリング朝が987年まで続いたので、この王朝の下での東西
再統合の動きも一部に生じたが、東の分国の支配者たちは、フランケン公コンラートを
自分たちの王に選び、東フランクは西と分かれて別の道を歩む。
もうこの時期には、西フランクと東フランクの違いというものが意識されるように
なっていたんだろうか。
国家とは領域のことか人々のことか
ローマ帝国に人々が所属するのではなくローマ人の集合体がローマ帝国なんだと思うが・・・
「神聖ローマ帝国」という名称が公式に用いられるようになるのは13世紀半ば以降で、
それまでは単に「帝国」(インペリウム)と呼ばれていた。
中世人の感覚では、天国が唯一神によって治められているのとまったく同様に、
現世もただ一人の皇帝が治め、全世界の教会はただ一人の教皇が治めるべき
ものだったから。
>>702 今更そんな初歩中の初歩の質問するなら世界史板に来るな
いちいち相手するの面倒くさい
596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/11(月) 12:04:27 ID:pfgCvDaV
ポーランド王って神聖ローマ帝国皇帝から見れば格下だわな。皇帝と王ではね。ははは。
597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/11(月) 19:16:50 ID:Ydm4UwTb
688 :世界@名無史さん:2009/05/11(月) 12:58:38 0
ローマ教皇&神聖ローマ皇帝
|
ドイツ王&ポーランド王
えーとですね、神聖ローマ帝国というのは決してドイツではなく、
ドイツ王国をそのなかのさまざまな国家の一つとして含めた帝国、結局はローマ帝国なのです。
帝国内のドイツの王とイタリアの王を兼ねた者が神聖ローマ皇帝に即位するのが習慣だったのです。
帝国内の領域にあるドイツ王国と、帝国外にあるポーランド王国は同格、そしてポーランド王はドイツ王とは同格です。
598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/12(火) 03:11:57 ID:WmN5FjzO
うん。意味わかるよ。でも、選帝侯たちから選ばれれば皇位に就けるわけじゃね。イタリア王なの?
兼任すべきはローマ王じゃないの?元の出自が辺境伯と言う家柄でも選ばれればローマ皇帝じゃね。
このシステムの恩恵に預かれるのはゲルマン人だけなのだろう。ポーランドは最初から枠外なんじゃね。
706 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 11:19:38 0
596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/11(月) 12:04:27 ID:pfgCvDaV
ポーランド王って神聖ローマ帝国皇帝から見れば格下だわな。皇帝と王ではね。ははは。
597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/11(月) 19:16:50 ID:Ydm4UwTb
688 :世界@名無史さん:2009/05/11(月) 12:58:38 0
ローマ教皇&神聖ローマ皇帝
|
ドイツ王&ポーランド王
えーとですね、神聖ローマ帝国というのは決してドイツではなく、
ドイツ王国をそのなかのさまざまな国家の一つとして含めた帝国、結局はローマ帝国なのです。
帝国内のドイツの王とイタリアの王を兼ねた者が神聖ローマ皇帝に即位するのが習慣だったのです。
帝国内の領域にあるドイツ王国と、帝国外にあるポーランド王国は同格、そしてポーランド王はドイツ王とは同格です。
598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/12(火) 03:11:57 ID:WmN5FjzO
うん。意味わかるよ。でも、選帝侯たちから選ばれれば皇位に就けるわけじゃね。イタリア王なの?
兼任すべきはローマ王じゃないの?元の出自が辺境伯と言う家柄でも選ばれればローマ皇帝じゃね。
このシステムの恩恵に預かれるのはゲルマン人だけなのだろう。ポーランドは最初から枠外なんじゃね。
変身できる方(=ドイツの諸侯の方)が変身の可能性のない方(ポーランド王)よりも伸び代(しろ)が
あって人生楽しそうだ、とザクセン王やバイエルン王が自慢しそうな希ガス。
707 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 12:00:05 0
1,オーストリア帝国
2,プロイセン王国
3,ザクセン王国
4,バイエルン王国
5,ハンノーファー王国
6,ヴュルテンベルク王国
7,バーデン大公国
8,ヘッセン=カッセル選定侯国
9,ヘッセン=ダルムシュタット大公国
10,ホルシュタイン公国
11,ルクセンブルク大公国
12,ブラウンシュヴァイク公国
13,メクレンブルク=シュヴェリーン大公国
14,ナッサウ公国
15,ザクセン=ヴァイマール大公国
16,ザクセン=ゴータ公国
17,ザクセン=コーブルク公国
18,ザクセン=マイニンゲン公国
19,ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国
20,メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国
21,オルデンブルク大公国
708 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 12:00:21 0
22,アンハルト=デッサウ公国
23,アンハルト=ベルンブルク公国
24,アンハルト=ケーテン公国
25,シュヴァルツブルク=ゾンデルスハウゼン侯国
26,シュヴァルツブルク=ルードルフシュタット侯国
27,ホーエンツォレルン=ヘッヒンゲン侯国
28,リヒテンシュタイン侯国
29,ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国
30,ヴァルデック侯国
31,ロイス侯国(兄系)
32,ロイス侯国(弟系)
33,シャウムブルク=リッペ侯国
34,リッペ=デルモルト侯国
35,リューベック自由市
36,フランクフルト自由市
37,ブレーメン自由市
38,ハンブルク自由市
39ヘッセン=ホンブルク地方伯
>伸び代(しろ)が
>あって人生楽しそうだ、
伸びしろだなんて、珍しい発想だなぁ
学歴コンプの常套句じゃんw
東大に入りたくて入りたくて、どうしても高嶺の花だったんだね、悔しいんだね
自分個人のルサンチマンをポーランドにぶつけんなよ、と思う
710 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 22:13:40 0
質問なんですが、帝位と王位の代数(?)って一貫して数えるものなんでしょうか?
それとも分けて数えるのでしょうか?
代数って言葉で合ってるかわかりませんが、
初代皇帝とか五代目皇帝とかって意味ではなく、
フリードリヒ○世とかカール○世とかっていう名前の後につく数字のことです。
一貫して数える場合、
なぜフリードリヒ美王をスルーして大愚図が3世なんでしょうか?
分けて考える場合、
なぜルドルフ2世は2世なんでしょうか?
詳しい方お願いします
>>710 フリードリヒ美王はドイツ王だけど神聖ローマ皇帝じゃないじゃん
大愚図はフリードリヒという名前の皇帝では数えて3人目だから皇帝として3世
そうやって数えるんだよ
ドイツ王≠皇帝
だよ
712 :
世界@名無史さん:2009/05/12(火) 23:19:13 0
>>711 >>710でも書いたんですが、
だとすると、なぜルドルフ2世は2世を名乗っているんでしょう。
ルドルフ1世はドイツ王ですが、帝位はついていないはず。
>>712 ルドルフ1世はローマ教皇は認めてなくて戴冠させてないけど、ドイツ人的には皇帝扱いだったから
自分の知ってるのではお隣のポーランドでもミェシュコ○世は
1世がキリスト教世界の正式な王様(Rex)じゃなくて公(Dux)
しかしヨーロッパではミェシュコ1世は1世で定着している
ドイツで「レグヌム・テウトニクム」(テュートンの王国)という言葉が使われる
ようになったのは11世紀に入ってからのことだった。
14世紀半ばには、単数形の「ドイチェラント」よりも、複数形の「ドイチェ・
ランデ」という言い方のほうがはるかに一般的だったし、中世を通してみても、
時代によって「レグヌム・アラマンナエ」「レグヌム・ゲルマーニアエ」
「レグヌム・テウトニカエ」「レグヌム・ローマーノールム」など異なる呼称が
広く使われ、一貫して一つの名称が長く使われることはなかった。
フランス人はいつまでドイツを「アレマニア」扱いなんだろね。
「チュートン」の方がまだしも納得行くんだが。
ホーエンシュタウフェン朝がめっちゃ好み。
ドイツからイタリアまで制圧する勢いで行動しながら、最後の悲惨な滅亡の仕方は酷い。
コンラート4世、マンフレディ、コンラーディンで終わりじゃなくて、幽閉されたまま死んだ一族がエンツィオを筆頭に何人もいる。
アラゴン王家がシャルル・ダンジューに一撃食らわせたのでちょっと溜飲が下がるくらいだね。
あとイタリア最凶の僭主エッツェリーノ・ダ・ロマーノも如何にも梟雄って感じで格好いい。
日本だと高師直みたいな感じ。
>>717 いつまでって一度ついた名前はずっと変わらんだろ
ロシアもずっと中国を契丹扱い
世界中がマジャールをフン族扱い
>>719 いや、ドイツW杯での表記に違和感持ったんだよ。
せめて「ゲルマニア」表記は出来ないもんかと。
「キタイ」の方は知らんが、ハンガリーはそれと分かる表記になってるんじゃないの?
スペイン語でもドイツはAlemania
ポルトガル語もAlemanha
デンマーク、スウェーデン、ノルウェーではTyskland
音は近いか。
ポーランド、チェコ、ハンガリーだとネーメトだのニェムツィだの・・・
ロシア語では一般名詞ではあくまでゲルマニヤで、ネーメツ(原義はバルバロイとほぼ同じ)は悪口としてしか使わないのだが
niemcy = nie miec = no speak
俺らスラブ人の言葉が喋れない馬鹿=ドイツ
ロシア語のнемцыは古い時代にはゲルマン系以外にも使われたことがあるとか
724 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 14:29:22 0
725 :
世界@名無史さん:2009/06/02(火) 22:13:21 0
流れとはまったく関係ありませんが、
イタリア政策のせいでドイツ統一、あるいは中央集権化が遅れたっていう意見、主張、書き方ってどうなの?
あまりにも現代の感覚で当時を見すぎじゃない?最近読んだドイツ史の本2冊に連続で同じような事書いてあったからイラってきた。
どうなの?と言われても、「ドイツ」と言う単位で考えればそのとおりだろ。
ただ神聖ローマ帝国はドイツと言う単位を超えた国家だっただけの話で。
事実だから仕方ない。
当時の人々に「統一されたドイツ」という概念自体がなかったのも事実だろうけどさ。
>あまりにも現代の感覚で当時を見すぎじゃない?
現代というか、19世紀的発想やね。
ドイツ国民主義史観。
というか、イタリア政策をしないで、どうすればよかったの?が抜け落ちてるよな。
フランスのように中央集権化!なんて簡単にいうけど、むしろドイツの各諸侯が猛反発起こして独立したかもしれんしな
730 :
世界@名無史さん:2009/06/03(水) 00:09:24 0
中世に皇帝でいるためにはイタリア王に就くことが必要条件だったからな
イタリア王でまずローマの権威を持って、次にドイツ王で庶民の王の地元の実質的な権力を持って
それではじめて名実共にローマ皇帝を名乗れる
皇帝名乗るのやめて「ドイツ王」で満足しとくとかの選択肢はなかったのか。
どうしても「皇帝」の称号がないと不便だったのか。
イタリア王を名乗らないとローマ教皇から皇帝としてのお墨付きがもらえない
教皇から皇帝としてのお墨付きがもらえないとそれ以外に何も紐帯がないから各領邦に分裂してしまう
ドイツ語でさえも当時は統一おらず方言の分化があまりに大きく、
出身地方が異なる人同士では時にまったく通じないほどだったから
ドイツ語は紐帯にならない
分裂すると困るんか?
「いつ」「誰にとって」という点について話をしてるのかを明確にしないと話は噛み合わないままだよな。
イタリア政策を遂行していた諸皇帝にとっては、各領邦がある程度自立していることは当たり前のことであって、そんな彼らに命令できる立場を確保することが必要だった。
だから、イタリア政策に深入りしたから統一が遅れた、とかいうのは皇帝たちにからすれば意味不明の批判だろうね。
でも、教皇領の併合も俗権の聖権に対する優位の確立も不可能な情勢でイタリアに手を出しても不毛なのは後世から見たら自明のこと。
何故かフランスの王権は教皇の権威を踏み躙っても痛いことにならなかった。
シチリアとナポリを領有しイタリア北部も制圧して史上最もイタリア政策の完遂に近付いてたホーエンシュタウフェン家のフリートリヒ2世ですら成功しなかったのは周知の通り。
当時誰もこれが実現不可能な政策だと想像してもみなかったのかね。
>>734 てことは、10-11世紀に帝国が物凄い勢いでポーランドに攻め込まれて
かなりの領土を奪われたの知らないだろ?
自分の気に入らない奴が皇帝になったことでブチ切れたポーランドが帝国に介入したやつ
結果として一時的にポーランドのほうが国力も領土も神聖ローマ帝国より大国になってしまった時期
その当時は下手すりゃ外国に分割占領されかねない状態だった
フランスが出てきたころには教皇の権威は既に・・・
739 :
世界@名無史さん:2009/06/18(木) 20:48:19 0
740 :
世界@名無史さん:2009/06/20(土) 00:50:42 O
フランスだってかぺー朝の最初は王権よわかったのに何が明暗分けたの?
アルビジョア十字軍と百年戦争。
三十年戦争でハプスブルク家が勝ってればその後の歴史はかなり変わっただろうな。
742 :
世界@名無史さん:2009/06/20(土) 12:50:45 O
三十年戦争=五代十国=薔薇戦争=ユグノー戦争=戦国時代 でいいの?
743 :
世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:22:16 O
≫742
その流れでいくと、ハプスブルグの直系は戦争中断絶するな
744 :
世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:32:43 0
古代ローマにわんさかいた池沼&サイコパスみたいなやついるの?
>>741 それ以前に特定の一門が皇帝位(或いはドイツ王位)を独占して領邦諸侯を完全に屈服させるってのが不可能だった(領邦の独立意識が強過ぎた)のが大きいんじゃないのかな。
フランス王位を簒奪しようって諸侯はいなかった(疑わしいのはブルゴーニュ侯くらいだけど、それも王家一門)ってのが大きな違い。
まあそれほどフランス王位なんて飾りにしか見えなかったわけだけど。
フィリップ・オーギュスト辺りから劇的に王家の支配領域が増えた(逆にフランス・イングランドのアンジュー王国が崩壊した)ことで一気にフランス王権が強化されたんだよね。
三十年戦争の原因だった新旧両教徒の対立は遡ればベーメンのヤン・フスとかヴィッテンベルクのマルティン・ルターみたいに真面目な信徒のローマ・カトリックに対する反抗とそれに対する諸侯・民衆の支持があったのも政治的には痛かったね。
神聖ローマ帝国という虚構がこの過程で完全に崩壊した。
>>744 古代ローマでは近親交配と鉛中毒(他の原因もあり得る)でイカレたのばっかだろ。
ティベリウス、カリグラ、ネロ、コンモドゥス、カラカラ、時代下ってコンスタンティヌス1世とその息子たち。
これに匹敵する皇帝なんていないだろ。
神聖ローマ帝国で一番どうかしてた皇帝ってプラハのルドルフ2世だろ。
それも「変なものに興味を示す」って程度だからね。
30年戦争は一時皇帝軍がドイツ制覇に近いところまでいったんだけどな
>真面目な信徒のローマ・カトリックに対する反抗
これはちがう
でも説明しないよ
まちがった歴史を間違ったまま覚えていてほしいから
748 :
世界@名無史さん:2009/06/23(火) 00:07:27 0
30年戦争時の皇帝軍の優勢を覇権と言うならば、
カール5世の時代が遥かに覇権に近い。
カール5世の時代を覇権と言うならば、
シュタウフェン朝の時代の方が遥かに覇権に近い。
覇権の品格
カール五世ってスペイン国王カルロス一世のイメージが強いよな。
ドイツにいたのはほんの数年間だったし。
>>750 カール5世って治世の間領土内を巡回してて殆ど定住してないみたいだが。
>>752 カール大帝以来、皇帝は巡回するものだった、と思えば、
ある意味由緒正しい。
754 :
世界@名無史さん:2009/06/26(金) 16:15:55 0
アルヌルフがケルンテン根拠地にしたのとか、
ザリエル朝のゴスラーとかルートヴィヒ敬虔帝のフランクフルトとか、
代替わりに宮廷が移るのは多々あるが、
皇帝個人があれほど巡回したのはカール5世ぐらいじゃないか?
宮廷で思い出したが、
小学校の時初めて神聖ローマ帝国の存在を知ったんだけど、
フランス王国はパリ、イングランドはロンドンってちゃんと首都が書いてあったのに、
神聖ローマ帝国だけ書いてなかったのがすげえ不思議に思ってたわw
あれも中央集権が遅れた証か
>>754 当時ロンドンやパリが「首都」ってのも間違いだけどな。
>>755 いや間違ってねーだろw
何世迷言言ってるんだ?
757 :
世界@名無史さん:2009/06/26(金) 17:58:35 0
758 :
世界@名無史さん:2009/06/26(金) 18:03:04 O
くだらない首都定義論争の予感
「首都」って言うのかどうかは知らんが、「国王の根拠地」ではあったよな。
ドイツは領邦毎に有力な都市があったし「帝国都市」ってのもあった。
ハプスブルク領の根拠地はヴィーンだったしプロイセンの根拠地はベルリンだったが、国民国家としてのドイツには永らく「首都」と呼べる都市はなかっただろ。
国民議会が開かれたフランクフルトなんて良さそうなもんだけど、ハプスブルクにしろホーエンツォレルンにしろ東方に私領を獲得した家系に力があったんでフランクフルトは西に片寄り過ぎてるって感じがあったんじゃないかね。
あと「ドイツ王家」が特定の一族に纏まらなかったのも影響してるんじゃ。
ホーエンシュタウフェン家の話読んでも「シュヴァーベンが本拠地」って以上のことはまず出て来ない。
あれだけ強大な王家なんだから立派な王宮があっても良さそうなのに。
760 :
世界@名無史さん:2009/07/01(水) 18:33:22 0
>>759 そうなんだよ、おれもそこが前々から疑問だったんだ。
儀式を行う都市を細かく定めたカール4世の金印勅書にすら「首都」の概念が無い。
>「ドイツ王家」が特定の一族に纏まらなかったのも影響してるんじゃ。
これは確かに大きいと思う。
けれど、俺はローマの存在が大きかったんじゃないだろうかと思う。
当時の人たちがローマに抱いていたイメージは半端じゃないからなぁ。
西ローマ帝国の首都が違うとか、教皇領とか色々突っ込み所はあるんだが・・・
どうだろう?
ドイツは王家がまとまらなかったのと同時に、
王/皇帝を担う家も有力諸侯の域を出なかったのが大きかったと思う。
>>759 名目的には戴冠式行うアーヘンか?
カール4世は敵対勢力を恐れてアーヘンでは戴冠しなかったが
アーヘンはフランスに近過ぎるもんな。
中世ドイツって今よりかなり西に寄ってたからベルリンやヴィーンのような有力な都市が見付からなかったんだよね。
もしイタリアを征服してたら当然ローマを首都にしただろうけど。
764 :
世界@名無史さん:2009/07/05(日) 13:31:10 0
一応は連続性のある後継国家ビザンツとはほど遠く、
さらにカロリング家もとっくの昔に断絶
伝統は選挙王制で事あるごとに対立王が乱立
思想上の首都ローマは教皇権の支配下
ハプスブルク家が出てくるまで長くても100年程度で王朝が断絶
首都を定められないって条件ばっかりそろってるな
ハプスブルク家がもうちょい早く出てくればウィーンが帝都ってことで納まったかもしれないけど、
ハプスブルク家の時代はもう領邦化が進みすぎて、結局ウィーンも帝国の首都じゃなくて
オーストリア大公領の首都以上のものにはなれなかった
あとまあ、帝国教会政策の破綻でドイツ西部はやたら教会領が多かったとかな
766 :
世界@名無史さん:2009/08/29(土) 23:10:48 0
神聖ローマ皇帝はイギリス王やフランス王に比べて異名が少ない気がする。
オットー大帝・フリードリヒ赤髭王などの他に異名があったら教えて。
ハインリヒ1世捕鳥王とかハインリヒ2世聖王とかハインリヒ3世黒王とか?
フリートリヒ2世も「大帝」って呼ばれることあるけど。
768 :
世界@名無史さん:2009/08/31(月) 19:13:00 0
>>767 そういうヤツです。
もし良かったら由来なども教えて下さい。
>>766 だからさ、地域各国の君主たちの代表に過ぎないから
>>766 既に
>>767が書いてるのとかぶるけど、
コンラート1世若年王、ハインリヒ1世捕鳥王、オットー1世大帝、オットー2世赤王、
ハインリヒ2世聖王、ハインリヒ3世黒王、フリードリヒ1世赤髭王、
と、こんなもんかなあ。
有名じゃないのを掘り出してきたらもうちょっと増えるかもしれない。
フリードリヒ3世美王
772 :
世界@名無史さん:2009/09/02(水) 00:25:50 0
結構異名あるんですね・・・全く知らなかった。
捕鳥王ってどういう由来があるんですか?
色も何か理由があるんですよね?
ハインリヒ捕鳥王は、王位に就くまでの趣味が鳥を捕獲することだったからって某書に書いてあった。
原典については知らんけど。
>>772 捕鳥王については、Wikipediaのハインリヒ1世の項に、絵までつけて説明があるよ。
>>759 中世ヨーロッパの宮廷は基本的には勢力圏内を巡回していました。
これはドイツだろうが、フランスだろうが同じです。
ついでにいうと国王も諸侯も変わりません。
領地内の収入を自身の拠点に輸送するインフラやシステム、要は統治システムが
未発達であった為、逆に絶え間なく領域を巡回する事で収入(食料)を確保していたわけです。
ちなみにドイツの王権は王国各地の王領地に壮麗な王宮を建てたり、司教領を設定して
それらをぐるぐる廻っていました。
じゃあ何故、フランスのパリが早くから首都と教科書に載っているのか?ですが
これは単純な理由です。
まずパリですが、中世盛期のフランス王は弱体で掌握している領域も狭いものでした。
その狭い領域内でパリが突出して栄えていたため、自然と国王のいる割合が多くなり
いつの間にか常置になっていったわけです。
金印勅書以降の帝国はもはや独立した王領地がありませんので
家門王権の拠点に宮廷が構えられるわけです。
776 :
世界@名無史さん:2009/11/13(金) 01:18:20 0
777 :
世界@名無史さん:2009/11/13(金) 01:55:17 O
どう考えてもラテン系のフランス人のほうがローマ皇帝にふさわしいとおもうが。そういう考え方はなかったの?
フランク王国はゲルマン国家だったわけで
779 :
世界@名無史さん:2009/11/13(金) 13:23:14 0
フランス語はラテン系だが
王様はシャルルマーニュすなわちゲルマン由来の血の継承
780 :
世界@名無史さん:2009/11/13(金) 14:22:08 0
皇帝家はローマ系統だよ!
えっ
カール大帝はどうかんがえてもゲルマン
そういやフランスドイツで争ってるんだっけか
理念としては800年のカール大帝の戴冠からはじまり
実体としての帝国は962年のオットー大帝の戴冠からはじまる
とみていいんじゃないかな。
バルバロッサ期の帝国の首都はどこになるんですかね。ケルンは大司教の
所有とすると、帝国の大きな収入源はどこから得ていたのでしょうか。
ハンザ同盟からの上納金ですか?
>>785 シュタウフェン朝時代は明確な首都はなくて、帝国各地にポツリポツリと
置かれたカイザープファルツェンという町というか城というか宮殿というか、
まあそういうものが皇帝による帝国支配の拠点だった。
で、皇帝はその各地にあるカイザープファルツェンを必要に応じて移動・
滞在していたって感じ。
帝国というか皇帝の基礎収入ってのは、この各地巡行の過程で都度
徴収する税だったと思うんだけど、その他の収入とかの実際の収入比
とかはよくわかんないな。
詳しい人頼む。
神聖と新生を掛けたネーミンセンスが芳しい
神聖ローマ帝国時代の鎧とか武器とか服装とか
プラハ城のイラストや写真が多く載ってる本やサイトはないですか?
神聖ローマ帝国ってざっと800年ぐらい存在したんだがどのへんの時代だよ。
武装関係なら基本はOsprey社のMen-at-Armsシリーズあたり。
ありがとう。三十年戦争があった時代のつもりでした。
791 :
世界@名無史さん:2010/04/08(木) 23:21:30 0
憧れの国だ
ウィーンもプラハもブダペストもある
WIKIで読んだが帝国クライスって結構機能してたんだな
小さい領邦が大国に飲み込まれず存続したのも納得
793 :
名無A:2010/06/15(火) 17:13:25 0
割り込んですみません。
ハインリヒ3世の「黒王」って異名の由来は何か、どなたかご存知でしょうか?
よかったら教えてください><
794 :
世界@名無史さん:
OKだYO \ WAO / ∧_ヘ
∧_∧ \ ∧_∧ / ∩ / \〇ノゝ
( ・3・) \ ( ・3・) / / //三√
/ \ \ ∧∧∧∧ / / / / ∩
/ / ̄ ̄ ̄ ̄< . ド > / / | |
_(__ニつ/ BJO /< 予 イ > / / /∧_∧ ./ /
|\ \/____/< ツ > / / ・3・)/
─────────< 感. 領 >──────────
∧_∧ドイツだよNE< 土 > 総統は
( ・3・) エェー < !!!! の > 天才に違いないNE
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