【Rouml;misches】神聖ローマ帝国 【Reich】

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1世界@名無史さん
王国、公国、共和国、司教領や修道院領が入り乱れ、都市同盟や騎士同盟が相争い、
さらにイタリアの諸勢力と複雑に結びついて何がなんだか分からん状態になっていた
中世のドイツを語ろう。
2世界@名無史さん:05/03/08 13:55:22 0
フリードリヒ二世までの北イタリアって教皇派と皇帝派に別れて血みどろの内乱ってイメージ何だけど、
都市国家として皇帝派についてた地域じゃなくて、皇帝の直轄領として統治されてた地域って大体いつごろ
皇帝への臣従をやめたんですか?
3世界@名無史さん:05/03/08 13:56:24 0
名前だけはかっこいい――ということ以外、
神聖ローマ帝国について俺が語れることは何もない。
4世界@名無史さん:05/03/08 14:30:29 0
アウグスブルク家
違うな
ハプスブルク家
5世界@名無史さん:05/03/08 14:37:40 0
>>2
13世紀の中頃かな? 14世紀初めの地図をみるともう滅茶苦茶になってるけど。
ttp://www.euratlas.com/big/big1300.htm
6世界@名無史さん:05/03/08 15:16:04 0
「イタリア王国」ってウェストファリア条約までは名前だけ残ってたとか。
7世界@名無史さん:05/03/08 18:00:26 0
神聖ではないし、ローマ的でもない。そもそも帝国ですらない。
8世界@名無史さん:05/03/08 21:22:24 0
>>7
ヴォルテール乙!
92:05/03/09 00:15:54 0
>>5
素晴らしいものをありがとうございます。
なんかもう四分五裂って言葉がこれほどふさわしいのもなんというか。
北イタリアだけでなくて東欧、ルーシ方面もなかなか分裂してますが、
チュートン騎士団が頑張ってるのが目に見えて興味深いです。
10世界@名無史さん:05/03/09 00:31:40 0
>>5
いやあ、ほんとうにいいサイトを教えてくれてありがとう。
変遷を見てるだけでも楽しいねえ。
11世界@名無史さん:05/03/10 00:26:45 0
神聖ローマ皇帝を語るときはカール大帝からはじめるべきでしょうか?
それともオットー大帝からはじめるべきでしょうか?
12勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :05/03/10 01:05:52 0
>>11
ヴォルムス協約で区別するのが自然ではないかと私は思っています。
この前後で皇帝の性格は明らかに変わっていますので。
13世界@名無史さん:05/03/18 20:06:49 0
どうしてフランケン公っていなくなっちゃったの?
14世界@名無史さん:2005/03/29(火) 17:24:30 0
>>12
世俗任命権は皇帝にあったから、
ヴォルムス協約は決定的じゃないでしょう。
フリードリヒ二世の一連の皇帝弱体策が全ての原因。
15世界@名無史さん:2005/03/30(水) 20:07:40 0
1520年、教皇レオ十世は、60日以内にルターが自説を撤回しなければ破門する、という威嚇状=教皇告書を発表した。
この年も暮れようとする12月10日の朝、教授・学生・市民達がウィッテンベルク市東門の外側に薪に火を付けて、
教会法規集やエックの著書などを次々に火の中に投げ込んだ。最後にルターがガウンの下から教皇告書の写しを取り出
して、焼き捨てた。この事件のニュースはすばやく各地に伝わり、全ドイツが反ローマ熱で湧き立った。
16世界@名無史さん:2005/03/30(水) 20:11:55 O
名前は最高にかっちょいいんだけどねぇ。
17世界@名無史さん:2005/03/30(水) 22:17:54 0
神聖でもなく、ローマ的でもなく、そもそも帝国ですらない。
18世界@名無史さん:2005/03/30(水) 23:07:06 0
室町幕府の中期以降の様相に似てて仕方ない。規模も仕組みも全然違うけど、
いくら勅令出しても守らぬ諸侯達、一応は尊重されているが実権はそんなに
無い、止めても私闘を止めない諸侯達。
そのうち王を無理やり名乗る奴も出てくるわ・・・。最後にはコルシカ人に
してやられ自然消滅的に滅亡(したわけじゃないけど)・・・。
17世紀以降の皇帝になぜか漂う無気力感が足利将軍してて好き。
特にウィーン攻囲時に、敵前逃亡しちゃった芸術大好き皇帝レオポルト1世が
素敵。
19世界@名無史さん:2005/03/31(木) 07:47:48 0
>>18
んなこたーない。
皇帝から司法権が完全に分離してただけ。
皇帝が私闘を止めることは出来ないが、紛争解決手段としての帝国はちゃんと機能してた。
17世紀以降ドイツで一度も宗教戦争が起こらなかったのはなぜだと思う?
20世界@名無史さん:2005/03/31(木) 09:18:39 0
宗教戦争に飽きたから。
21世界@名無史さん:2005/03/31(木) 12:31:43 0
>>18
確かに雰囲気は似てるなぁ。ただ、皇帝は室町将軍と違ってオーストリア(ハンガリー)
や国外に別に領土を持っていたし、自前の軍隊ももっていたから将軍よりは
はるかに実体のある権威がある。
22世界@名無史さん:2005/03/31(木) 12:48:57 0
権威で言えば足利将軍程度、実力で言えば徳川将軍程度というか。
23世界@名無史さん:2005/03/31(木) 13:30:11 0
>>19
17世紀以降ならヨーロッパではもう宗教戦争やってないんじゃない?
ユグノー戦争だってナントの勅令で終結してるし。
24世界@名無史さん:2005/03/31(木) 13:40:56 0
>>23
>>19もやってないと書いてるわけだが・・・
25勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/03/31(木) 13:43:45 0
>>14
カノッサの屈辱も含めて、皇帝の政治的な勝利に終わったという見方もあります。
少なくとも、ドイツに限っては任命権を事実上守る事が出来たのは氏のご指摘の通りですし。
しかし、やはりこれより後の皇帝が司教杖を持つ事は無くなり、古代ローマ以来よりの
皇帝観は激変していると思います。古代の皇帝制の完全な終焉と考えても良いのでは無いかと。

そして始まった中世の帝国は>>19の決定を定めたマクシミリアンの帝国改造運動で
決定的な打撃を受け、かろうじて残っていた帝国理念はウェストファリア条約で「死んだ」
とするのが私の考えです。それ以降の帝国は既に連邦制を強く意識していると考えるのが
妥当かと。
26世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 18:34:19 0
ミニステリアーレンて奴隷なんですか?
27世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 19:00:57 0
うーん、奴隷ではないんじゃないかな。
日本には一族郎党という言葉があるが、この「郎党」に相当するものと
考えていいと思う。
不自由身分ではあるが、社会的地位はそんな低くない。
28勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 22:24:53 0
>>26
奴隷ではありません。奴隷は主人の“物”と見做されるのが通例なので。
(外人でない場合は人として見做されたそうですが)
保護者の保護権力に属していた不完全な自由人といった層が中心だと思われます。
これが土地に緊縛された農奴と、領主館での勤務を義務付けられた使用人に大別されるとして
ミニステリアーレンは後者から発生しました。
領主が権力を握る程に、使用人に委託される業務の幅は広がり、使用人の裁量権が大きくなり
最後には一個の封建貴族と化してしまったのがミニステリアーレンです。

皇帝は臣下の封建化に対抗する為に、ミニステリアーレンを積極的に活用しました。
それにより彼らの社会的地位は著しく向上したのですが、結局新しい封建臣下を生む事になってしまったと。
29世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 23:39:40 0
はっきり言って日本史のどの時代にも似てない
そもそも神聖ローマ帝国に「天下獲り」なんていう発想はないからね
30世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 03:42:43 0
世界史の何かを日本史の何かに例えて説明しようとするとほぼ間違いなくうまくいかない
31世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 01:07:46 0
というか日本人は選挙王制とか選帝侯、等族という概念を理解出来ないんじゃないのか?
32世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 01:12:59 0
籤引将軍。
33世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 01:19:38 0
>>32
違うなぁ
34世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 01:21:36 0
日本人は理解できない、ってことにしちまうと、日本で西洋史を学ぶのは
無意味だってことになりかねないと思うんだが。
35世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 01:35:20 0
自国史だって前近代を理解するのは相当に困難だぞ。
36世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 03:23:20 0
というか、自国民が理解できなくて他国民が理解してる
ってこともあるぞ。
37世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 04:20:17 0
>>36
たとえば?
38世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 10:15:29 0
西ゴート王国では、選挙王制は王の暗殺&王国の不安定化を招いたなあ。
39世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 10:22:23 0
神聖ローマ帝国でも、暗殺はあんまりないけど、やはり不安定化の一要因と
なってる気はするね。
40世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 10:38:52 0
>>39
そんなことはない。当初はドイツの王権は比較的強力だった。
封建制導入後辺りでフランスとくっきり明暗が分かれた感じがする。
41世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 10:54:34 0
当初は、でしょ?
42世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 11:06:57 0
神聖ローマ帝国の場合、選挙王制だけでなく、分割相続制も長く続いた。
43世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 20:50:55 0
>分割相続

カール四世の金印勅書で選帝侯の相続分割は禁止されたはずだが
44世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 21:19:20 0
>>43
分割相続されるのは原則、自有地のみ。
封は一括相続が建前だった。軍役負担が出来ないからね。
だから内部で長子を立てての分割が行われた。
45世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 21:24:52 0
>>39
暗殺えら有りですやん

皇帝(或いはドイツ国王)そのもので言うと

・ハインリヒ1世(捕鳥王) 
暗殺説がある

・フリードリヒバルバロッサ 
十字軍遠征中、小アジア南東部・キリキアのサレフ河にて沐浴中に溺死したと言われるが
暗殺説もある

・ハインリヒ6世
毒殺説あり

・フィリップ 
娘の結婚問題でファルツ宮中伯によって暗殺される

・フリードリヒ2世 
息子のコンラート4世によって枕で窒息死させられたという説がある

・アルプレヒト1世 
甥のヨハンによって暗殺される(シラーの戯曲「ヴィルヘルム・テル」にも記述されている)
世にいう1308年のヴィンディッシュ河畔の凶行事件
46世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 21:58:16 0
>>45
確実なのが2件しか無いじゃないですか。
権力者の急死に暗殺説は付き物かと思いますが。
特にフリードリヒ2世なんぞ、暗殺されたならばマンフレートの出番があるわけ無いですし。
47世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 22:57:01 0
ジョバンニ・ヴィッラーニの年代記にも描かれていたぐらいだから事実だと思うんだけどね >フリードリヒ2世暗殺説
48世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 23:25:51 0
ジョバンニ・ヴィッラーニが現場にいるなり利害関係者から情報をもらってた
わけであったりするわけじゃないんだしさ。
当時からそういう噂があった、程度じゃないの?
49世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/05(火) 00:11:07 0
ドイツ王が神聖ローマ皇帝になるというのは社長が会長(CEO)になるようなものか?
ドイツ王とは別にローマ王というタイトルもあるわけだがこれはローマを支配する
王という意味なのか?
50世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/05(火) 00:21:27 0
うーん、皇帝がいないときのドイツ王は最高権威者だし、ドイツ王は皇帝になってから
ドイツ王位やローマ王位を帝位継承者に譲るわけで、ちょっと >>49 の言ってるのと
イメージがずれる気はするね。

ローマ王というのは、地理的概念じゃなくて、ローマ人の王の意味だったらしい。
西ローマ帝国を継承してるという建前に対応するタイトルだったんじゃないかな。
51世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/05(火) 00:24:35 0
もっとも、ドイツ王というタイトルが最初から実際にあったわけじゃなくて、
フランク王のことじゃないかとか、他国から地理的概念を元に呼んでた
だけじゃないかとかいろいろ議論もあるようだね。

誰か本当に詳しい人プリーズ。
52勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :エジプト暦2329年,2005/04/05(火) 00:42:24 0
>>51
東フランク王国ではなくて、あくまでドイツ王というタイトルの話であれば。

ドイツ王国という記述が最初に見られるのは『ザルツブルグ大年誌』の919年に
関する記述で、バイエルン公アルヌルフがドイツ王国内で国王に戴冠したと書かれています。
(この記述が後世の贋作であるという説もあるようです)
ただ問題なのは、このドイツが一体どの程度の地理的概念なのかが良く分かっておらず
あくまでバイエルンだけの国王だったのでは?という見方も出来るという点です。

これに対して選挙によって国王に選出されたという記述があるハインリヒ1世は
「フランク人・アラマン人・バイエルン人・テューリンゲン人・ザクセン人の合意によって王に選ばれた」
という記述が『レギノ年代記続編』に見られるようですが、こちらには『ドイツ』という
名称が国名でも民族名でも使われていないという事です。
彼の側近の記録においてもドイツという言葉よりは、各部族がいちいち挙げられている事から
ザクセン的な部族意識が強かったのではという見方が強いようです。

そしてアルヌルフ・ハインリヒはどちらの即位が早かったのかという問題や
どちらが正統でどちらが対立なのかなどという問題があるようなのですが
一般的にはハインリヒ1世統治下にはドイツ王国という枠組みがはっきりと
し始めたという風に考えて大きな間違いは無いようです。
53世界@名無史さん:2005/04/05(火) 22:45:33 0
よくわかんないのだけど皇帝の称号はカール大帝からでフランク王はその前の
メロビング王朝からだろ
で、ドイツ王はフランク王国から分裂した東フランク王の後継だし
じゃ、ローマ王は一体誰からなんだよ?
起源はロタールの王国からか?
それともベレンガールとかいう中フランク王国を治めたおっさんからか?

質問ばっかりですまん
54世界@名無史さん:2005/04/06(水) 18:51:11 0
ttp://www.tatsachen-ueber-deutschland.de/2417.99.html
後世においては、コンラート1世の就任(911年)をもって、東フランク王国
からドイツ帝国へ移行したと位置づけられている。ただ、当時の王の正式称号は、
その出自から「フランク王」であり、後に「ローマ王」となった。帝国自体の
名称は、11世紀からは「ローマ帝国」、13世紀からは「神聖ローマ帝国」、そして
15世紀からは「ドイツ民族の」が付加された。
55世界@名無史さん:2005/04/06(水) 18:52:58 0
ttp://www.yamada-kj.com/history/his_zatsu/emp_r.html
神聖ローマ帝国の皇帝は7人の選帝候の選挙によって選ばれることに
なっていた。これは1356年にカール4世が定めたもので、後にこの勅書
はヴェンツェル4世によって豪華彩飾写本に仕上げられている。
1519年の皇帝選挙は、フランスのフランソワ1世とハプスブルク家の
スペイン王カルロス1世との争いとなり、より多くの金を使ったカール
が選出された。
選ばれると“ローマ王”の称号になり、法王から冠を授けられて
“皇帝”を名乗った。
56勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/04/08(金) 13:48:07 0
>>53
帝権とドイツ王権との間に見られる結合の意味で。
ドイツ王は皇帝戴冠への期待権と持つという形で表されており、オットー1世の頃から
はっきりと存在していました。
これはオットーの後継者が皇帝概念の強化の為にローマ法を利用しようとした動きと合わさって
ますます強化され、ザリエル朝時代(1040年)にはrex Romanorum(ローマ人の王)という
タイトルが名乗られるようになりました。
57世界@名無史さん:2005/04/10(日) 21:56:11 0
age
58世界@名無史さん:2005/04/11(月) 13:41:40 0
カスティーリャ王アルフォンソ10世は、彼の母親が神聖ローマ皇帝であった
ホーエンシュタウフェン家の出身であったことを理由に、フリードリヒ2世の
後継者になろうとしたことがある。
このもくろみはローマ教皇に拒絶されて頓挫。
59世界@名無史さん:2005/04/11(月) 19:28:19 0
大空位時代のもう一人の雄、コンウォール伯リチャードは一体どういった経緯で
神聖ローマ皇帝になろうとしたのかな?
60世界@名無史さん:2005/04/11(月) 20:20:08 0
>>59
教皇インノケンティウス4世が、イングランド王ヘンリー3世が敬虔な人物で
教皇に対して従順だったため、弟のコーンウォール伯リチャードに目をつけた
のだとか。
61世界@名無史さん:2005/04/11(月) 20:25:44 0
選定侯を多く輩出してたライン河流域の諸侯は対フランスなども
あって伝統的に親イングランドだったってのもあるかと。
62世界@名無史さん:2005/04/12(火) 01:15:23 0
チューリンゲン方伯ハインリヒ・ラスペ→ホラント伯ウィレムの系譜は
正式な皇帝とは認められていないのですか?
63世界@名無史さん:2005/04/12(火) 01:46:19 0
10c頃存在したブルグンド王国について詳しく教えてください。
いろいろ調べても日本語で書かれた本には出てきません。
64世界@名無史さん:2005/04/12(火) 02:33:06 0
ブルグンド王国、アルル王国、フランシュ・コンテ、ブルグンド公国

確かにこの辺はややこしいな
何が何やら訳わかめ
65世界@名無史さん:2005/04/12(火) 12:22:31 0
>>63
【逝き先は】ゲルマン民族大移動【自分で決めろ】 スレで聞いたほうが
早いのでは?
66世界@名無史さん:2005/04/12(火) 12:24:17 0
ttp://www.ms-win.com/~sekaishi/euroa4.htm
ブルグンド族:オーデル川流域から中部ガリアへ
(1)ライン川中流に定住(406)。後に王国を建設し(413)、首都をウォルムスに定める。
(2)フン族により、王国は崩壊(437)。再び移動を開始。
→「ニーベルンゲンの歌」にその悲運をうたわれる。
(3)南下してローヌ川、ソーヌ川、レマン湖を結ぶ地域に入る。
→ブルグンド王国を建国(443)、首都をジュネーヴに定める。
(4)従来のアリウス派からカトリックに改宗(516)
(5)フランク王国により併合され、その王国は滅ぶ(534)。
67世界@名無史さん:2005/04/12(火) 12:28:22 0
125 :世界@名無史さん :2005/03/24(木) 20:19:43 0
ブルグンド族は、グンドバッド王の時代にフランク族のクローヴィスに敗れて
アリウス派からカトリックに改宗。
グンドバッド王は弟二人を殺していたが、そのうちの一人キルペリクは、
クローヴィスの妻クロティルダの父親だった。
末弟のゴデゲシルはブルグンドに従属するジュネーヴ公国を所有していたが、
兄を裏切ってクローヴィスのもとに馳せ参じ、後に兄グンドバッドによって
惨殺された。
グンドバッドの子シギスムンドは先妻(東ゴート王テオドリックの娘オストロゴト)
の間に生まれた息子シギリックを後妻のコンスタンティアに唆されて殺した。
後にシギスムンドは王妃と二人の子と一緒に、クローヴィスの子らの命令で
深い井戸に生きながら埋められた。
68世界@名無史さん:2005/04/12(火) 12:33:55 0
ttp://nekhet.ddo.jp/people/gibichung.html#sigismund
歴代ブルグンド王一覧表
69世界@名無史さん:2005/04/12(火) 18:18:41 0
>>62
ウィレムは対立王だったコンラート4世の死後に実権を掌握してる。
>>63
検索くらい汁!!ブルゴーニュスレが存在してる。
70世界@名無史さん:2005/04/13(水) 00:04:04 0
>>68

>>63は10世紀のブルグンド王国と言ってるのだが・・・
71世界@名無史さん:2005/04/13(水) 00:07:49 0
>>69
【中世の秋】ブルゴーニュ公国【マイナー?】 のことだね?

これは14世紀〜15世紀頃のブルゴーニュ公国のことで10世紀頃のブルグンド王国とは
地理的にも血縁的にも全く異なるのでは?
72世界@名無史さん:2005/04/13(水) 01:45:07 0
ブルゴーニュスレにブルグンド王国のことも出ていたと思うが・・・。
73カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/04/13(水) 12:34:46 0
「ブルゴーニュ/ブルグンド」がつく国名
(1)ブルグンド王国(413-534)
(2)ユーラ・ブルグンド王国(888-933)
(3)キスユラ・ブルグンド王国(879-933)
(4)ブルグンド王国(933-、(2)と(3)が合併して発生)
(5)ブルゴーニュ公国(898?-1361,1363-1477)
(6)ブルゴーニュ伯領(「フランシュ・コンテ」、981-1477)

>>63氏が聞きたいのはこのうち(2)(3)(4)ですね。
(2)は東西フランク王国がともに混乱していた時期に、ユラ伯のルードルフ1世がユラ山脈以北のブルグンド地域を統合して成立。
933年にキスユラ・ブルグンド王国を併合、(4)に繋がる。
(3)はイタリア王ルートヴィヒ2世の娘婿ボゾーがアルルを中心に建国。アルル王国とも呼ばれる。
イタリア王位を主張して何度もイタリアに干渉した。933年にユーラ・ブルグンド王国に併合された。
(4)は家系は(2)と繋がっているが、アルルに首都をおいたためアルル王国とも呼ばれる。
1032年に国王ルードルフ3世が死去したとき、生前の取り決めにより王位はドイツ王コンラートに相続され、
以降はドイツ王がブルグンド王を兼ねた。

(2)-(4)の王たち
888-912 ルードルフ1世
912-37 ルードルフ2世 1世の息子。イタリア王922-26廃。933アルル王国を併合
937-93 コンラート
993-1032 ルードルフ3世 断絶
74世界@名無史さん:2005/04/13(水) 23:35:43 0
イタリア王ルートヴィヒ(ロドビーゴ)二世って確か西ローマ皇帝になった人だよね。
ルートヴィヒ・デア・バイエルンが四世と言われるのは初代がカロリング家のルイ敬虔帝
で二代目が彼で三代目がカロリング家(東フランク王)のルートヴィヒ幼童王がいたから
だよね?
75カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/04/14(木) 23:48:55 0
はい、そのルートヴィヒです。875年に彼が死んで、イタリアのカロリング家が断絶、
その後も西フランクのシャルル禿頭王や東フランクのカールマン、カール3世肥満王がイタリア王になるんですが、
やがて東フランクでは庶子ゆえに継承権を持たなかったケルンテンのアルヌルフが台頭して王位を奪取、
西フランクではノルマン人の襲撃を受けて混乱、という状況に至って、
両カロリング家の勢力がイタリアやブルゴーニュに及ばなくなり、
それで本来継承権を認められていないはずの女婿の家系から王位を称する人が何人も出ることになりました。
イタリア史ではフリウリ辺境伯ベレンガリオがイタリア王を称した888年から、オットー1世がイタリア王になる963年までを、
「独立イタリア王国時代」と呼ぶようです。
76世界@名無史さん:2005/04/15(金) 19:11:53 0
>>62

ちゃんとした系図の本だと、Heinrich RaspeもWilhelm von Hollandも
「対立王」として認められているね。

ドイツ王国の「王」と神聖ローマ帝国の「皇帝」の違いも結構曖昧だな。
選帝侯が選ぶのはあくまでも「王」だし、アーヘンやフランクフルトで行った
戴冠式は、「王」としての戴冠式。
皇帝の戴冠式はローマで教皇によって行われるものであり、
今日「対立王」と呼ばれている方が正式に皇帝になったこともある(Otto IV)。
また、実はマクシミリアン1世を最後に神聖ローマ帝国の滅亡までの300年間、
正式に「皇帝」としての戴冠式を行った人はいない。

ttp://www.tacitus.nu/historical-atlas/regents/germany/germany.htm

まあ1500年前後以降は国名もSacrum Imperioum Romanum Nationis Germanicae
(ゲルマン民衆の神聖ローマ帝国)に変わったわけだし、皇帝になるためにローマでの
戴冠式を踏まなくても良い別の国家になったとも言えるかも知れないけど。
77勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/04/15(金) 20:06:34 0
>>76
1338年にレンスで開かれた選定侯会議において、選挙された国王は
即ち皇帝であり、もはや教皇の認可を必要としない事が決定されました。
これは1338年に成立した帝国法の中で明示されています。
これによって選ばれた国王はもはや『選挙された皇帝』と見做されるようになりました。
これがマクシミリアン1世以降の正式称号『選挙されたローマ皇帝』に発展すると
もはやローマでの戴冠は完全に重要な問題では無くなったようです。
ですから選出後に行われる戴冠式はもはや皇帝の戴冠式と言って良いかと思いますが。
カール5世が中世最後の皇帝と称されるのは、そうであるにも関わらず二回目の戴冠式を
行ったという事は大きいかと。
78世界@名無史さん:2005/04/15(金) 22:51:36 0
>イタリア王

また訳のわからない用語がでてきた・・・
ローマ王とどう違うんだい?
79カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/04/15(金) 23:38:39 0
ローマ王というのは>>54-55によればイコールドイツ王(東フランク王)ですよね。
イタリア王というのは中フランク王のことです。
王位継承はこんな感じ:
818-44 ロタール1世(ルートヴィヒ1世敬虔王の長男)
844-75 ルートヴィヒ2世(ロタール1世の長男、イタリアのカロリング朝断絶)
875-77 シャルル2世禿頭王(ロタール1世の弟、西フランク王840-77)
877-80 カールマン(シャルル禿頭王の甥、バイエルン王876-80)
880-87 カール3世肥満王(カールマンの弟、アレマニア王876-87)
888-924 フリウリ辺境伯ベレンガリオ1世(ルートヴィヒ1世敬虔王の女系の孫。916年皇帝戴冠)
 889-94 スポレト侯ヴィドー(対立王、ロタール1世の妹の子)
 894-99 スポレト侯ランベルト(対立王、ヴィドーの子)
 900-05 ロドヴィゴ(対立王、ルートヴィヒ2世の娘の子、アルル王ボゾーの子)
 922-26 ブルゴーニュ伯ロドルフォ(対立王)
926-48 アルル侯ウーゴ
948-50 ロタリオ3世(ウーゴの子)
950-63 イヴレア侯ベレンガリオ2世(フリウリ辺境伯ベレンガリオの娘の子)
 950-63 アルドゥイーノ(共治、イヴレア侯ベレンガリオの子)
で、961-64年のオットー1世のイタリア遠征でベレンガリオ2世とアルドゥイーノが廃位され、
以降は皇帝が兼任。
時代とともに名前だけの王位になるから、いつ無くなったのかはよくわからないけど、
いちいち廃止するとは思えないから、神聖ローマ帝国消滅までは存続したと思われ。
80世界@名無史さん:2005/04/16(土) 02:27:27 0
先生!何度説明されても「ふぇあふぁっすんぐ」の概念が実感としてわかりませーん!
81世界@名無史さん:2005/04/16(土) 15:23:08 0
>>76
最後にローマで戴冠式を行ったのは、
マクシミリアン1世の父のフリートリヒ3世ですな。
マクシミリアン1世は1508年に自ら皇帝を名乗った最初のドイツ王
(タイトルとしてはローマ王)です。

>>77
1338年の布告が出たのはルートヴィヒ4世の時で、
その後アヴィニョンの教皇によって破門され、対立王カール4世が担がれています。
マクシミリアン1世の時代まではドイツ王と皇帝を区別した方が良いのでは?

>>79
取りあえず帝国としてはイタリア王を1801年まで名乗っていますが、
出回っている歴史地図では1500年までには北イタリアを神聖ローマ帝国の枠外に置いています。
イタリア王国はいわば自然消滅で、歴代英国王がフランス王を名乗ったのに近い状態だと思います。

何時を以てイタリア王国が消滅したかですが、多分ドイツの管区制を整え(1500年)、
自ら皇帝を名乗り(1508年)、「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」を正式国名として採用した
(1512年、類似の国名は父王フリートリヒの時代から公文書で使用されている)
マクシミリアンの即位(1493年)を以てイタリア王国の消滅とするのが一般的なのでしょう。
82世界@名無史さん:2005/04/16(土) 20:21:32 0
>>81
イタリア王国は帝国の滅亡まで存在したよ。
称号にも残っているし、書記官長職はケルンの大司教が保有していた。
ただ元々、ドイツ国王が兼ねる皇帝位に服属する他の王国という形であったので
「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」はこれを端的に表現したに過ぎないと考える事も出来るでしょ。
実効支配云々はフリードリヒ2世までだろうけど。
もっといえばシュタウフェン朝の滅亡時をもって手を離れたと考えるべきかなぁ。
83世界@名無史さん:2005/04/16(土) 22:08:03 0
>>82

1801年のルネヴィル条約で北イタリアにおけるフランス傀儡の
チザルピーナ共和国の独立をオーストリア側が承認しており、
神聖ローマ帝国・ドイツ王国の立場からのイタリア王国の存続は1801年まで
8483:2005/04/16(土) 22:14:08 0
×ルネヴィル条約
○リュネヴィル条約

に訂正

チザルピーナ共和国はナポレオンが1797年に北イタリアに建国した国で、
オーストリアは一度1797年のカンポフォルミオ条約で独立を承認したが、
1799年にロシアとの連合軍でイタリア北部を占領。
でも1800年になってナポレオン軍が再び北イタリアを占領し、
1801年のリュネヴィル条約で再度の独立承認。
1802年にイタリア共和国となり、1805年からブオナパルト家のイタリア王国
85世界@名無史さん:2005/04/16(土) 22:38:01 0
歴代皇帝がどんなにイタリア王を名乗ってようが、
今日の歴史地図では15世紀末〜19世紀初頭の北イタリアは、
神聖ローマ帝国の範図の外に置かれているし、
北イタリアの各諸邦もオーストリアに宗主権を認めていなかった。

ただ、18世紀末の北イタリアのどっかの国は、
選帝侯の地位を求めて工作に走ってたらしいな。
86カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/04/17(日) 09:51:26 0
>>81-85(イタリア王国について)
すいません、「いちいち廃止するとは思えないから、神聖ローマ帝国消滅までは存続したと思われ。」というのは、
称号としてのイタリア王位の話です。
実効支配支配というか、国家機構の存在に関しては15世紀頃には有名無実化したということでいいと思いますが、
いつまで「イタリア王」という称号を名乗っていたのかに興味があります。
ナポレオンのイタリア支配のことは考えてませんでした。

ちょっとした疑問なのですが、
イタリア王への戴冠はイタリアのどこかで行ってるはずですよね?
ということは、マクシミリアン以前は、皇帝が空位である時期にはイタリア王も空位だったということなんでしょうか。
それともドイツ王選出とともに勝手に名乗ってた?

>>85
>北イタリアのどっかの国
正直サルディニアしか思いあたらんのですが。
87世界@名無史さん:2005/04/17(日) 15:12:03 0
>>86
ドイツ王(皇帝)がイタリアやブルグントの諸王国に対してのフォークトを兼ねる
という形で結合していたので、戴冠式は無いと思われ。
ドイツ以外の諸侯は皇帝とインペリウムを通して結合しているに過ぎないから。
ザリエル朝以降、ドイツ王=ローマ王が成立した後は特にそうだろう。

サルディニアは帝国諸侯等族への参加運動を繰り広げて、これに成功したのは知ってるが
選帝侯位も欲していたのは知らんかった。
88世界@名無史さん:2005/04/18(月) 10:15:08 0
15世紀までパヴィアとかミラノで一応イタリア王としての戴冠式を行っていたらしい。
戴冠式を最後に行ったのはジギスムント帝で1431年のミラノ。
それ以降は一度もイタリア王の戴冠式は執り行われていない。

本によっては1801年ではなくて、1648年でイタリア王国の消滅としていたり、
結構いい加減のようだ。

イタリア王の選出方法はどうなんだろう?
ハインリッヒ2世の時は、対立王イヴレア辺境伯アルドゥイーノが選出されていたりするし。
コンラート2世の時も対立イタリア王が擁立される動きがあったようだし。
89世界@名無史さん:2005/04/18(月) 11:03:38 0
と思ったら、1440年2月2日にフランクフルトでドイツ王としての戴冠を受けた
フリートリッヒ3世は1452年3月19日にローマでの皇帝戴冠と同時にイタリア王として戴冠され、
1519年1月28日にフランクフルトでドイツ王としての戴冠を受けた
カール5世は1530年2月24日のボローニャでの皇帝戴冠の2日前に
イタリア王戴冠を行ったとするサイトがあった...

ttp://www.heraldica.org/topics/national/hre.htm

でもこれによるとジギスムントは1431年にミラノで皇帝とイタリア王の戴冠を同時に
執り行ったことになっている。手元の本では、1431年にイタリア王、2年後の1433年に
同じミラノで皇帝戴冠となっているんだが...
まあ「リストは不完全」とか書かれているし。

ジギスムントは、「北イタリア領内で」戴冠式を行った最後の王
ということに訂正。

9089:2005/04/18(月) 11:51:54 0
よく見たら「ドイツでの戴冠」は、選挙によって国王に選ばれた日の間違いでした。

カール5世の場合、1519年にフランクフルトで国王に選ばれ、
翌年1520年にドイツ王の即位式をフランクフルトで執り行い、
1530年に教皇とボローニャの地で和解して、皇帝・イタリア王としての
戴冠式を執り行う。

ということは、マクシミリアン1世の後も教皇によって戴冠された皇帝もいたのか...
てかどうやらこちらが「最後に教皇によって戴冠された皇帝」らしい。

ジギスムント ... 最後に北イタリアでイタリア王の戴冠式を行った皇帝 (ミラノで)
フリートリッヒ3世 .... 最後にローマで戴冠式を行った皇帝
マクシミリアン1世 .... 最初に教皇の手を借りずに自ら皇帝を名乗った皇帝 (ケルンで)
カール5世 ... 最後に教皇の手で皇帝となった皇帝 (ボローニャで)
91世界@名無史さん:2005/04/18(月) 20:42:52 0
帝国の下にドイツ・ブルグント・イタリアの王国があるのではなく
皇帝を兼ねるドイツ王の下に他の二国があるという構図。

それからカール5世は選挙された時に皇帝を名乗っているよ。だから皇帝戴冠で間違ってはいない。
教皇からの再度の戴冠を受けたのは、彼の信仰心と教皇との和解のアピールでしょう。
92世界@名無史さん:2005/04/20(水) 06:13:45 O
そういえばローマ帝国に女帝はいたの?
93世界@名無史さん:2005/04/20(水) 07:15:46 0
いない。
94世界@名無史さん:2005/04/20(水) 09:27:50 O
一人いたと思ったけど。
95世界@名無史さん:2005/04/20(水) 09:51:18 0
誰?
96世界@名無史さん:2005/04/20(水) 10:18:02 0
マリア=テレジアは、1745年まで、
Kaiserin des Heiligen Röomischen Reiches 神聖ローマ帝国女帝
を称していたが、結局諸侯の承認は得られなかった。
1745年以降は、
Römische Kaiserin ローマ皇后
という形で地位を認められ、
皇帝とドイツ王の地位は夫君が継ぐことになった。

なお、
Königin von Ungarn ハンガリー(ウンガル)王国女王
Königin von Böhmen ボヘミア(ベーメン)王国女王
は認められた。

東ローマ帝国の場合、797-802のエイレーネー(カール大帝即位の口実の一つになる)と、
テオドラ(1055-1056)、エウドキア=マクレンボリティサ (1067-1068)などの女帝がいる。
97世界@名無史さん:2005/04/20(水) 10:19:20 0
× Röomischen
○ Römischen
98世界@名無史さん:2005/04/20(水) 21:50:36 0
つまりマリア=テレジアの父、カール6世がだした国事勅書(プラグマティック・ザンクチオーン)
の女子相続権が領邦諸侯に認められずこれが原因でオーストリア継承戦争が勃発したんだな。
ところで何故このときハプスブルクとは全く関係のないヴィッテルスバッハ家のカール7世が
皇帝になったんだろうな。
99世界@名無史さん:2005/04/20(水) 21:59:10 0
純粋な列強の取引。バイエルンは伝統的にハプスブルク追随だったのを
引き離す為の代償と言える。過去の王家との血縁も深いし。

世襲領の女子相続については大特許状もあって問題なかったんだけど
他の相続者を排除しての単独相続が問題だった。皇帝不在にもなっちゃったし。
もしもマリア・テレジアが男子であったら・・・と考えてしまう。
バイエルンとの合邦は実現していたかも知れない。
100世界@名無史さん:2005/04/20(水) 22:08:33 0
カール7世の妻は、二代前の皇帝ヨーゼフ1世の娘でマリア=テレジアの従姉妹。
マリア=テレジアの父カール6世は、ヨーゼフ1世の弟。
長男筋かつゲルマンにおける女性の王の否定の立場からは、
カール7世にも一応分がある。強引だけどな。
結局次の皇帝はマリア=テレジアの夫のフランツ1世なわけだし。

ただ彼がフランクフルトかどこかで王に選ばれ戴冠を受けている頃には、
すでにバイエルンがオーストリア軍占領下にあり、結局異国の地で
寂しく没することになるんだよな。

マリア=テレジアはこの時の恨みを忘れず、後にバイエルン継承戦争で
バイエルンの併合を試みる。バイエルンはプロイセンとオーストリア両軍の兵士
によって畑を荒らされ、「じゃがいも戦争」とも呼ぶらしい。
結局バイエルンは列強の均衡策の中何とかヴィッテルスバッハ家で血筋を保つ。
ナポレオン戦争ではバイエルンはフランス側について大幅な領土獲得に成功する。
101世界@名無史さん:2005/04/21(木) 00:22:05 0
いや、だから最初からカール6世も娘を皇帝になんて思ってないって。
最初から婿であるフランツを選出させるつもりだった。
国事勅令はあくまでもハプスブルクの家内法だから。
(ハプスブルクの影響力の大きさで国際問題になったわけだけど)
102世界@名無史さん:2005/04/21(木) 12:26:48 0
オーストリア辺境伯って元々バイエルン公家の臣下だったんだろ?
103カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/04/21(木) 23:25:16 0
>>102
違いますよん。
オーストリアは王にたてついたバイエルンからドイツ王が切り離して作った領邦で、
どちらもドイツ王の臣下。
104世界@名無史さん:2005/04/23(土) 04:16:05 0
>>103
バルバロッサからはバイエルンの領地の一部を貰っただけなの?
それともバイエルンからの独立も含むの?
105勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/04/23(土) 11:41:27 0
>>104
完全な独立です。帝国諸侯(等族)として新設したわけですから。

1156年のハインリヒ獅子公との和解の条件として、フリードリヒ1世は
彼にザクセンとバイエルンの両大公領の保有権を獲得する代わりに
バーベンベルク家が強化・拡大していたマルクグラーフ領オーストリアと彼らが拡大していた東部辺境の自有地に
バイエルン大公領の一部を合わせて新たにオーストリア大公領を新設しました。
106世界@名無史さん:2005/04/23(土) 15:26:52 0
>>105
あくまでも翻訳上の問題だけど、全部公爵領と呼ぶべきでは?
107世界@名無史さん:2005/04/23(土) 17:43:14 0
>>106
マルクグラーフは公爵じゃないぞ?(辺境伯とか方伯だっけ?)
というか、この時点では爵位じゃないから公領は正しいけど、公爵領では間違いだ。
108世界@名無史さん:2005/04/23(土) 18:16:16 0
フェーメ裁判について詳しい本がありましたら教えてください。
109世界@名無史さん:2005/04/23(土) 18:53:15 0
オストマルクって確かバーベンベルク家のヤソミルゴットの時代に
オーストリア公に昇格したんじゃなかったっけ?
110世界@名無史さん:2005/04/23(土) 19:09:07 0
>>107
いや、自分はHerzogを大公と訳しているのを、公爵にするべきと書いただけで、
Markgraf (辺境伯)を公爵と訳せと書いたつもりじゃなかった。
言葉足らずですまん。
オーストリアの場合、GroßherzogやErzherzogの訳で問題になるから、
大公・太公はHerzogの訳に使うべきでない。

あと自分で書いておいてなんだが、、「公爵領」も「公領」の方が
しっくりくることは認めるが、爵位じゃないというのはどういう意味?
Herzogが単なる族長でなくなったメロヴィング朝以降は、
Herzog、Grafの家柄の出発は王からの爵位付与によって始まっているし、
例え各諸侯がドイツ王に従っていなくても「爵位」と訳して構わないと思うが?
111世界@名無史さん:2005/04/23(土) 19:34:31 0
>>110
そういう意味で公と大公と区別する人が居る事は事実だけれど
Erzherzogは太公とまた区別して使用する人も居るよ。
残念ながら統一規格なんてどこにも存在していない。
公と部族大公はまた違う起源でもあるし。

またメロヴィング以降の貴族の家柄がどこまで辿れるかというのも
カロリングまでの混乱期や、またカロリング末期からの混乱期で
構成層は非常に変動している。
また役職以外から誕生した自称グラーフの問題も絡んでくる。
(これを再び国王を頂点とした国制に組み込むのが中世前期〜盛期のテーマのひとつ)

少なくとも中世の封建制に基盤をおく貴族に対して、爵位を使用するのは適当ではない。
112世界@名無史さん:2005/04/23(土) 20:27:36 0
Stammesherzogに対して「部族大公」という訳語を使う限りは問題ないが、
Herzogに対しても大公という訳語を使うのは問題あるだろ。
当時のバイエルンは部族大公または公ではあるが、大公ではない。
特にオーストリア公は部族大公では無いわけだし。

「オーストリア公」自体は爵位付与によって発生したが、
「オーストリア太公」に関しては捏造で発生した地位だから、
確かにこの時代全般に対して「...爵」という訳を使うのは好ましくないかも知れない。
ならいつの時代以降のAdelstitelに対して「...爵」という日本語訳を使うべきか、
それともそもそも「...爵」なんて日本語訳はドイツ史においては極力使うべきでないのか。
どうなんでしょう?
113世界@名無史さん:2005/04/23(土) 20:44:13 0
>>112
オーストリアは地域大公だよ。部族大公への対抗措置として性格が色濃い。
厳密に区別するべきなのかも知れないけれど、それよりも帝国諸侯等族かそうでないかが
重要であった時代であるから、そんなに過敏に反応する必要もない。
ヘールシルト制を考える上では位階はあまり重要ではないので。

というか伯にしろ、公にしろ、この時代では世襲だけれども、まだ役職的色彩が強かった。
封と自有地が厳密に区別されていて、後者がまだ豊富に存在していたから。
爵位となると、完全な王の優位の元での宮中貴族かな?

公か大公かは筆者や訳者、あるいは研究者のポリシーに任されているのが現状。
114113:2005/04/23(土) 21:03:05 0
厳密に区別する必要がないというのは、Herzogへの訳語として公か大公かという事。
部族大公と地域大公は勿論、厳密に区別する必要がある。
それから不正規な起源をもつ称号大公や大公同等の人々(Herzogsgleiche)が登場してくるわけで
とてもではないけれど、イギリスにおける紋章院のように中央権力が完全に位階を掌握しきれていない。
115世界@名無史さん:2005/04/23(土) 21:56:38 0
なら爵位という言葉が研究者によって
ほぼ一定の定義を与えられているのか疑問だ。
地域大公の地位を与える行為を爵位付与と呼ばないのか?
てか普通にTitelとかtitleに対する翻訳が爵位じゃないのか?
あと地域大公はドイツ語でTerritorialherzogらしいが、こっちは完全に学問上の用語だね?

とりあえず、18世紀以前のドイツ史では...爵という訳は間違いということね。
ケースバイケースによって爵位付与を経ている場合と経ていない場合が
ごっちゃになっているから、...爵という訳は極力避けるべしと。
確かに公、侯という言葉は良く目にするけど、
公爵、侯爵という言葉は余り見かけないような気がする。
19世紀以降のビスマルク、メッテルニヒ侯爵はOKだが、
リヒテンシュタイン侯を始めとする10のFürstentumの支配者は
侯爵とか公爵とかと訳すべきではない。

しかしこうなってくると、イタリアも統一前のフランスもアウトだな。
イングランドだって、薔薇戦争期には相当爵位の混乱があったけど、
...爵という翻訳がプランタジネット朝以降の英国史で出てくるのは慣例という解釈でいいのか?
116世界@名無史さん:2005/04/23(土) 22:11:48 0
何を怒ってるのかは知らんが、それが通例。
中世西洋史を勉強すると、最初に徹底されるのが公≠公爵だと思うんだけど。
中世の頃の貴族は爵位じゃないよ。宮中序列なんて中世にはほぼ存在しなかった。
いや、洗練されていなかったというべきだろうか?
封として授けられているか、上級裁判権を有しているか、というような所で
区別するべきなのではないだろうか?
爵位を付与するのではなくて、封を授与するわけだ。
偉そうな事を言っておいてなんだが、自分は中世後期や近世は専門外なので。
117113:2005/04/23(土) 22:26:25 0
というか爵位を付与する結果としての領土を得るわけではなくて
領土(裁判権)を授けられる結果としての称号(役職)を与えられるわけ。

例えば、公と辺境伯の間には役職的違いはあっても、簡単に公が上位と言えるわけではない。
等族概念がドイツ史ではそれよりも重要で、称号自体は簡単に自称していたりする。
それはフランスやイングランドにおいても同様だけど、イングランドは他の二国と違って
イングランド本島全域が王の土地と確定されていたので区別するべきかも知れないね。
(イングランドは門外漢なので確答できない)
118世界@名無史さん:2005/04/24(日) 00:04:04 0
要するに大公(Hrrzorg)、伯(Graf)は日本史でいうところの大名、小名みたいなもんだろ。
格の違いはあれどともに殿様ということで。
119世界@名無史さん:2005/04/24(日) 00:48:20 0
と単純に割り切れればいいんだけど、公よりも強大な伯もゾロゾロいたりする。
だから中世では称号に優劣を考えない方が良いかな。
120世界@名無史さん:2005/04/24(日) 03:11:18 0
シュタウフェン朝の滅亡まではHrrzorgは大公と訳した方がしっくりくるような気がする。
ヴぇルフェン家とその後のヴィッテルスバッハ家ではドイツ史における比重の大きさが
違いすぎるから。(ヴィッテルスバッハ家が小さいというわけではないが)
121世界@名無史さん:2005/04/28(木) 01:49:09 0
というか俺はGrafはカロリング朝時代に地方に派遣された役人が土着化して
一円的支配を行った貴族で一方、Herzog の方は地方の有力豪族が中央政府
からの支配から免れ自立化した貴族という風に習ったぞ。
122カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/04/28(木) 10:33:04 0
しかしGrafがHerzogに任じられる例もあるわけで、言い切るのは危険という気も。

>>104-105
976/78年にバイエルン大公のハインリヒ2世喧嘩公がオットー2世に反乱して、
オーストリア辺境伯領とケルンテン大公領の分離を強いられました。
このときからオーストリアはドイツ王直属の封土ではないかと。

しかしケルンテンはHerzogなのにオーストリアはMarkgrafなんですね。なぜだろう。
123世界@名無史さん:2005/04/28(木) 17:14:52 0
国王直属のGraf と Herzog の任命によるGraf との間に何か差があったのですか?
いわゆる宮中伯といわれる人は国王直属のGraf と解釈してもいいのですか?
124世界@名無史さん:2005/04/28(木) 18:53:16 0
>>121
Herzogって自称して、そのまま認められてしまう場合も多々あったので。
>>122
そもそも東方守備の為の城砦が起源だったから。
Markgrafは軍隊移動に必要な道路を都市内に確保する為に、害がある建物を撤去する事が出来るなど
軍事司令官としての色合いが濃いし。
ケルンテンはどこの部族だったか忘れたけど、部族大公系だったと思う。
>>123
差があるも何も帝国諸侯と陪臣の差ですよ。へールシルト制はドイツを考える上で非常に重要です。
125世界@名無史さん:2005/04/29(金) 18:12:06 0
ケルンテンは確かフランク族だったと思うが・・・
126世界@名無史さん:2005/04/29(金) 19:48:44 0
帝領イタリアでは、中小都市が皇帝側につくことが多かったのですか?
ミラノなどの大都市は、中小都市を圧迫したみたいですけど。
127世界@名無史さん:2005/04/30(土) 18:51:27 0
>>126
皇帝がドイツにいる内は、皇帝派。
皇帝がイタリアに来ると、反皇帝的な動向が目立つようになる。

かといって教皇にも靡きたくないって感じ。
128世界@名無史さん:2005/05/02(月) 17:42:18 0
カール四世の金印勅書を詳しく解説している本とかないですか?
菊池良生氏の現代新書の2冊を読んで興味わいたんで読みたいんです

一般に選帝侯の特権が広く認められたとか二重皇帝がなくなったとか
帝国諸邦の領邦国家化が確定的になったとかっていう解説が多いけど
結構(英文全文を斜め読みするに)内容濃いから他にも意義があるようにも
思えるんですが
129世界@名無史さん:2005/05/03(火) 09:56:39 0
>>128
「ドイツ中世後期の政治と政治思想―大空位時代から『金印勅書』の制定まで」 池谷文夫著
「ルクセンブルク家の皇帝たち―その知られざる一面」 鈴本達哉著

金印勅書そのものに就いては少し古いけど
直井淳著「カール四世の黄金印文書について(一)(二)」:『史学雑誌』第六十五巻 第4・5号(1956)
が参考になると思います。
130世界@名無史さん:2005/05/03(火) 19:38:04 0
>>128
細かいけど二重国王ね。
あと金印勅書なら西洋中世史資料集に全訳があったと思う。(部分訳だったかも)
131カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/05/06(金) 13:43:32 0
>>124-125
部族大公でしたか。するとポーランドやボヘミアと同じ?

>>130
部分訳ですねー。
全訳やってる暇人はいないものか。
132世界@名無史さん:2005/05/06(金) 17:04:20 0
>>131
カロリンガーによる役人派遣を経ていると言う点で区別され得るんじゃないかな?
ボヘミアなんかは原始的な部族大公のままじゃなかったっけ?
133世界@名無史さん:2005/05/09(月) 22:27:15 0
>>129-130 サンクス
西洋中世史資料集探してみます

134世界@名無史さん:2005/05/14(土) 17:55:03 0
あげるぞ。
135世界@名無史さん:2005/05/19(木) 23:50:40 0
>>108
英語でよければアメリカのwikiに結構詳しく書いてある。
ttp://en.wikipedia.org/wiki/League_of_the_Holy_Court
136世界@名無史さん:2005/06/08(水) 02:36:52 0
さげるぞ。
137世界@名無史さん:2005/06/08(水) 13:18:38 0
ageるぞ
138世界@名無史さん:2005/06/12(日) 17:17:41 0
ブルゴーニュ公は帝国議会に出席したり、皇帝に臣従礼を取っていたのですか?
帝国領土を持っていたから、ふと疑問に思いました。
139世界@名無史さん:2005/06/13(月) 23:00:38 0
ブルゴーニュ公はフランス王に属するタイトル。
神聖ローマ帝国に属していたのはブルグント伯領で、こちらは臣従義務を
免除されてた。多分、既出。
140勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/06/13(月) 23:11:28 0
>>122
オーストリア辺境伯管区は独立こそしましたが、管区内に土地を与えられた
貴族の多くはバイエルンの出身でした。なので、初期〜中期は非常にバイエルン公の
影響力の強い管区です。
分離もバイエルンに対しての懲罰というよりは、東方政策のテコ入れという色合いがより濃いような。
この時にオーストリアに土地を与えられたミニステリアーレンは国王起源かどうかで
現在も論争が続いており、管区内での辺境伯の権限は防衛面のみに限られていたという説が今の所は強いようです。
141世界@名無史さん:2005/06/13(月) 23:14:35 0
>>139
ブルグントは自由伯領だから臣従義務がないんだっけ?
142世界@名無史さん:2005/06/15(水) 02:24:45 0
>>141
自由伯の意味は帝国諸侯の臣従義務確認の儀式である
封土授与の執行が免除される特権を有する伯だっけかな。
この封建の儀式は形式的だがこの時代非常に重要な封建義務
らしく、これが1276年のドイツ王ルドルフによるボヘミア王オットカル二世の
帝国追放処分の大義名分になったりしている。

自由伯の経緯やその特権は誰かエロいひと補説してください。
143カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/06/15(水) 12:02:37 0
>>132
カロリング時代にケルンテンってあったんですか?
てっきりバイエルンからの分離新設だと思いこんでました。

>>140
レッヒフェルトからハンガリーのキリスト教化という文脈で理解した方がいいということでしょうか。

……つーことは、実は喧嘩公は思ったよりきつい懲罰を受けてたわけではないのか。
144世界@名無史さん:2005/06/20(月) 21:16:51 0
あげてみよう。
145世界@名無史さん:2005/06/26(日) 23:15:50 0
ドイツ騎士団とシュマルカルデン戦争を学ぶいい本はありませんか?いっぺんにじゃなくて別々でもいいからあるていど詳しいもので
146世界@名無史さん:2005/06/26(日) 23:57:02 0
ドイツ騎士団についてなら、このサイトに書かれている文献を
当たればいいと思う。

ドイツ騎士修道会
ttp://www1.neweb.ne.jp/wb/kaname/dord/dord.htm
147世界@名無史さん:2005/06/27(月) 16:13:57 0
ありがとうございます。シュマルカルデンについてもご存知の方はお願いします
148世界@名無史さん:2005/06/27(月) 21:04:46 0
まずは自分で調べたら?シュマルカルデン戦争は決してマイナーな問題では
ないから、本なり論文なり出てくるだろうから。
149世界@名無史さん:2005/06/28(火) 14:55:50 0
ドイツ騎士団なら、「北の十字軍」は良書じゃない?
150世界@名無史さん:2005/06/28(火) 18:46:11 0
>>シュマルカルデン同盟戦争
ここのサイトで諸侯の領土と紋章を頭に入れた上で、片っ端から本を読む。

Die Linische Katze
ttp://homepage.mac.com/linstedt/linische/main.html
151世界@名無史さん:2005/06/29(水) 17:21:26 0
阿部謹也もドイツ騎士団の本書いてた。
152147:2005/07/12(火) 14:34:44 0
遅くなって申し訳ありませんがおしえてくださってどうもm(_)m
153世界@名無史さん:2005/07/18(月) 23:07:32 0
age
154世界@名無史さん:2005/07/21(木) 07:14:37 0
すいません、古代ローマではトイレに行くのはマナー上、良くないとされていて
貴族の家なんかでは、子供の頃からおしっこ我慢する訓練をしていて
一日一回くらいしかトイレに行かなかった、みたいな話を聞いたのですが
本当でしょうか?
155世界@名無史さん:2005/07/21(木) 11:11:23 0
聞いたことないなあ。
古代ローマのトイレは間仕切りがなかったから、みんなで連れションならぬ
連れウンコに行って楽しく政治談議してた、とかなら聞いたことあるが、それは
154の言う話とは正反対の文化を想像させるね。

ところで、完全にスレ違いだな。
156世界@名無史さん:2005/07/21(木) 13:44:19 0
そうですか、どっかでそのような話を聞いたのですが
記憶が曖昧なので、違う国だったかもしれません。
スレ違いでしたか、すみません。
157世界@名無史さん:2005/07/21(木) 16:06:53 0
>>154
古代ローマの宴会では、宴会途中で尿意を催したら、
使用人に溲瓶を持ってこさせ、寝ながらしたとかいうから、
むしろその逆だ。
158世界@名無史さん:2005/07/23(土) 17:44:02 0
12〜13世紀のイタリアで神聖ローマを支持した勢力ってなんて言うの?
ググッテも出てこなかったよ。
159世界@名無史さん:2005/07/23(土) 18:37:55 0
>>158
皇帝党(ギベリン)
160世界@名無史さん:2005/08/03(水) 21:15:20 0
age
161世界@名無史さん:2005/08/07(日) 01:28:53 O
新しいローマ法王を決めた奴らを何ていうんだっけ??
162世界@名無史さん:2005/08/07(日) 15:11:19 0
>>161
教皇選出会議
163世界@名無史さん:2005/08/07(日) 17:19:12 0
聖工学院
164世界@名無史さん:2005/08/07(日) 21:21:25 0
フリードリヒ2世は、「コンスタンティヌスの寄進状」に疑いを持っていた
ふしがあるが、この時代には誰も彼の疑問に耳を貸さなかった。
165世界@名無史さん:2005/08/07(日) 23:42:34 O
>>162それを、あっちの言葉なのかな??何かニュースでカタカナ表記で言ってたんだけど思い出せなくて
166世界@名無史さん:2005/08/07(日) 23:51:21 0
>>165
コンクラーベ
167カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/08/09(火) 06:59:28 0
「決めた奴ら」は枢機卿じゃないですかね。
168世界@名無史さん:2005/08/21(日) 23:06:54 0
ガイシュツ or スレ違いだったらすいません。

素朴な疑問なんですが「ドイツ」という概念/王国/地名/民族名って
神聖ローマ帝国時代からあったのでしょうか。

というのもフランスの方は西フランク王国が大体そのまま国家を
形作って国名の由来もフランクから来てる(たぶん)のに対して
ドイツは東フランク王国→神聖ローマ帝国となり、どうもナポレオンに
解体されるまでドイツという言葉が出てくることが無い気がするのです。

歴史上「ドイツ」という言葉が登場したのはいつだったのでしょうか?
169世界@名無史さん:2005/08/21(日) 23:21:04 0
ドイツ国民の神聖ローマ帝国
170世界@名無史さん:2005/08/22(月) 01:48:35 0
16世紀以降の神聖ローマ帝国の正式国名は、
「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」

ラテン語では、Sacrum Imperioum Romanum Nationis Germanicae
ドイツ語では、das heilige Römische Reich Deutscher Nation

皇帝は、まずドイツ国王の選挙で選ばれた後に、皇帝となる。
但し、初期の頃からその王国を「ドイツ王国」Regnum Teutonicumと
呼んでいたかどうかは曖昧。「ドイツ人たちの王」Rex Teutonicorumよりも、
「ローマ人たちの王」Rex Romanorum, Römischer Köonig
が国王の正式タイトルとなっていたし、初期の頃は「フランク人たちの王」
とも呼ばれていたらしい。

未確認だけど、多分ドイツ語でDeutschという表記が公文書に登場するのは、
15世紀末以降。それ以前はラテン語で、ドイツに相当するTeutones, Germanium
等の表記が公文書に使われていたと思われる。
171世界@名無史さん:2005/08/22(月) 01:50:36 0
↑訂正

×Köonig
○König
172カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/08/22(月) 10:35:12 0
東フランク王に「ドイツ人王」というあだ名の王がいますね。

山川の『ドイツ史 1』によれば、テウトニアという地名が登場し始めるのは9世紀頃のイタリア。
アルプス以北のゲルマン人の住む土地を一括して呼んだものらしい。
そして、この他称がドイツで用いられるようになるのは11世紀頃。

919年の国王選挙(ザクセン朝の成立期)にバイエルンで王を称したアルヌルフが「ドイツ人の王国」という名称を使ったという文書があって、
学界で論争になったことがあるらしい。
結局、それ以外に「ドイツ王国」という呼び名は12世紀まで出てこないうえ、その文書が不完全な写本だったので、
「ドイツ王国」という名称はもっと後世のものだろうと決着した。

ということは、ドイツ人の、少なくとも支配者層が「テウトニア」という他称を自分のものとし、
「ドイツ王国」Regnum Teutonicumという名称を使い始めたのは、恐らく12世紀頃からなのでしょう。
そして大空位時代以降は神聖ローマ帝国が「ドイツ国民の〜」と呼ばれるようになる、と。
173168:2005/08/23(火) 08:26:41 0
いろいろレスありがとうございます。
不勉強ですいません。

>>「ドイツ王国」Regnum Teutonicum
これは「チュートンの王国」ではないのでしょうか?うろ覚えなのですが
11世紀〜12世紀頃のチュートン領はドイツよりもっと北方の後の
プロシアあたりだと思ったのですが、違いましたでしょうか?
174世界@名無史さん:2005/08/23(火) 09:45:47 0
>>173
チュートンとはドイツ民族を指す言葉。
君が言ってるのはチュートン騎士団領のことだと思うが、
これも普通はドイツ騎士団領と言う。

元々はゲルマン人の一部族であるテウトニ族のことだが、
そのうちドイツ民族を指すようになった。
175世界@名無史さん:2005/08/25(木) 03:16:32 0
Teutoni→Deutsch
176世界@名無史さん:2005/08/25(木) 14:45:07 0
>>172
あまり参考にならないかも知れませんが・・

サラディンが生きていた前後の12世紀後半から13世紀はじめのアラビア語史料
などは神聖ローマ皇帝フリードリヒ・バルバロッサや孫のフリードリヒ2世のことを
「アル=マリク・アル=アールマニーヤ」(アールマン(=ゲルマン)の王)と呼んで
いますから、少なくとも十字軍時代の後期には中東ではこの地域を「ゲルマン」人の
住む地域だと認識していたことが伺えますね。
177世界@名無史さん:2005/08/28(日) 14:03:33 0
そういやフリードリヒ・バルバロッサが第3回十字軍でビザンツ領を通ったとき
彼とビザンツ皇帝が「皇帝と名乗っていいのはオレだけだ」と両方とも言い張って
あやうく戦争になりかけたらしいですね。
178カラジチ ◆mWYugocC.c :2005/08/29(月) 12:11:14 0
>>176
アールマンというのはフランス語のアルマーニュみたいに、アレマン族から来てるんでしょうか
179世界@名無史さん:2005/08/29(月) 21:23:34 0
アールマニーヤってローマのことかと思ってた。
180世界@名無史さん:2005/08/29(月) 23:28:05 0
>>178
その際にビザンツと対立してたセルビアやブルガリアの王がバルバロッサに
対コンスタンティノープルの共同作戦を申し出た。
バルバロッサは聖地に行きたかったのでその話を蹴って結局小アジアで溺死。
181世界@名無史さん:2005/08/31(水) 10:27:16 0
おまいら、ウプレカス伝を知ってますか?w
ttp://www.nijiura.com/niji/src/1125319645368.jpg
182世界@名無史さん:2005/09/05(月) 23:50:36 0
左上のコンスタンティヌス、左中央はアウグストゥスか?
右中央がペリクリスか。
後は分からん…
183世界@名無史さん:2005/09/13(火) 23:04:02 0
hage
184世界@名無史さん:2005/10/04(火) 19:26:48 0
hoge
185世界@名無史さん:2005/10/17(月) 11:12:54 0
俺も名前はかっこいいと思う。
ようはドイツのこと?
186世界@名無史さん:2005/10/17(月) 16:28:44 0
神聖ローマ帝国とフランスってどちらが強かったの?
187世界@名無史さん:2005/10/17(月) 19:35:28 0
>186
中世後期からフランスが中央集権化したのに対し
ドイツはどんどん訳のわからない状況になっていった。
188世界@名無史さん:2005/10/17(月) 19:52:16 0
少なくとも普仏戦争までドイツ側がフランスに勝ったことは無いな。

あ、一応プロイセンがナポレオンにとどめ刺したが
神聖ローマとは特に関係ない。
189世界@名無史さん:2005/10/17(月) 20:22:36 0
>>188
確か10世紀頃に東フランク王国が西フランクに勝ったことはある
カール5世ってフランソワ1世にイタリアで勝ってなかったか?
>>187
ドイツは領邦単位で中央集権化していった
190勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/10/17(月) 20:33:36 0
>>185
簡単に言うと、帝冠を戴くドイツ王がイタリア王やブルグント王を兼ねるという政体です。
時代によって領域は変化していますけれども、ドイツ王が常に重心であった事には変わりありません。
191世界@名無史さん:2005/10/18(火) 11:52:45 0
>>188

近世のブルボン朝時代のフランスには負け続けだが、
それ以前は勝ったり負けたりを繰り返していた。
まあどこまでが「フランス」か「ドイツ」かなんて曖昧だけど。
192世界@名無史さん:2005/10/18(火) 16:16:38 0
フランスも一時はハプスブルク家のドイツとスペインに挟まれててやばかった。
193世界@名無史さん:2005/10/18(火) 19:09:31 0
>>192
そう考えるとスペイン継承戦争って大きな意味があったんだね
フランスにとっては。けど得たものと失ったもの、どっちが大きかったんだろう?
194勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/10/18(火) 20:34:03 0
>>193
一般にルイ14世の対外進出の失敗例として挙げられていますが
南仏とアラゴン王国は歴史的に関連が深かったので、ハプスブルクが王権を
確保していた時代が不自然だったという考え方も出来ると思います。
またブルボン王家にとっては幸運だったのではないかと。
スペインでは現在も王位を確保できているわけですし。
195世界@名無史さん:2005/10/19(水) 01:32:41 0
国がまとまってりゃフランスの優越は動かなかった。
(前近代は概ね、人口≒農業生産≒経済力≒軍事力の等式が成り立つ。)
これが中世から19世紀にいたる西欧の基本構図。
(東アジアでの中華帝国の位置にやや似ている。両国で中華思想が発達したのも偶然ではない。)

ところがビスマルクのドイツ統一でこの構図が決定的に変わる。
1870年以降100年のヨーロッパ史の中心課題はドイツ問題(でかくなりすぎたドイツをどうするか?)だった、
・・・とJ・ジョルも言っている。
196世界@名無史さん:2005/10/19(水) 03:53:44 0
そういえばシャルルマーニュ、カール大帝って、何語を話していたんだろう?

フランスかドイツ訛りのラテン語を話していたのか?
フランス語の元となるラテン系の俗語を話していたのか?
それともオランダ語に繋がる低地フランク語を話していたのか?
ライン川中流域のドイツ語に繋がる高地フランク語を話していたのか?

史料とかあるのか気になるけど、どうなんだろう?
197世界@名無史さん:2005/10/19(水) 19:47:46 0
カールはドイツ語話してた
西ゲルマン語の東フランク方言を話してた可能性がたかいらしい
俗ラテン語とラテン語は理解できたが
文字は読めなかった

フランスは中世から強国だったけど
圧倒的に強かったのは17世紀だけだな
198世界@名無史さん:2005/10/19(水) 23:23:45 0
ナポレオン忘れてた
199世界@名無史さん:2005/10/20(木) 19:31:52 0
英ウィキを読んでたら13世紀にも「ライン同盟」があったのを初めて知った・・・
都市同盟だけど。盗賊騎士に囚われたオランダの女王を救出したりしてたらしい。
200世界@名無史さん:2005/10/20(木) 20:19:39 0
13世紀のオランダに女王がいたことを初めて知った…
201世界@名無史さん:2005/10/20(木) 20:28:08 0
>200
Queen of Hollandと書いてあったがよく分からん。
202世界@名無史さん:2005/10/20(木) 20:54:27 0
当時だとホーラント伯かなあ。Queenってのはよくわからんが。
203世界@名無史さん:2005/10/20(木) 20:59:00 0
あ、ホラント伯ウィレム2世は1247年からドイツ王(ただし自称)だね。
すると、彼の妻エリザベートはQueenと呼べなくもない、かな。
でもQueen on Hollandではないよなあ。
204世界@名無史さん:2005/10/20(木) 21:48:01 0
>>197
東フランク方言って、要するに今日の標準的な高地ドイツ語に繋がる
言葉ということでいいのか?
205世界@名無史さん:2005/10/21(金) 00:20:14 0
>>204
そうだね
残ってるフランク時代のラテン語の文献で 
ゲルマン語の季節の単語の呼称を説明する部分があるんだけど
それは東フランク方言で書かれてた
ただ北フランスのフランク人の間では西フランク語が話されてた
西フランク語は低地フランク語と東フランク語の中間ぐらいの言葉
206世界@名無史さん:2005/10/21(金) 00:47:37 0
こんな感じでいいのかな?

Low German
低地フランク→オランダ語・フラマン語
低地ザクセン→狭い意味での低地ドイツ語

Middle German
高地ザクセン→標準ドイツ語の基礎の一つ (ザクセンの方言)、ルターの聖書訳
東フランク→標準ドイツ語の基礎の一つ (ケルン〜ファルツの方言、フランクフルトの言葉)
西フランク→ルクセンブルク語、モーゼル川流域〜マインツの方言

Upper High German
アレマン→アルザス、シュヴァーベン、スイスの方言
バイエルン→バイエルン、オーストリアの方言、及びイタリアに点在するキンブリア方言
207世界@名無史さん:2005/10/21(金) 14:52:27 0
>>203
このページですが
ttp://en.wikipedia.org/wiki/Robber_Barons

>In 1255, the League captured Rietberg Castle and rescued the Queen of Holland,
>an operation funded in large part by the city of Worms, Germany.

とりあえず1255年のことらしいです。
208世界@名無史さん:2005/10/21(金) 15:26:08 0
>>207
すると時期的にはつじつまがあうね。
209世界@名無史さん:2005/10/21(金) 20:13:14 0
Children of Otto Braunschweig-Luneburg and Mathilde Brandenburg are
 vii. Princess Elisabeth of Braunschweig-Luneburg (b.1241)

The Baron of Rietberg had kidnapped the wife of the King of Holland.
The Rhine League , funded in large part by 500 silver Marks from the City of
Worms , captured Rietberg Castle and rescued the Queen of Holland in 1255.
210世界@名無史さん:2005/10/22(土) 02:04:51 0
正確には「都市同盟」Städtebünde

「ライン都市同盟」は2度形成されている。

1254-1257 Rheinischer Städtebund
1354-1648 Vereinsstädte im Elsass
1381-1389 Rheinischer Städtebund
1388-1450 Schwäbischer Städtebund
211世界@名無史さん:2005/10/23(日) 20:52:13 0
>>209
上段の人が問題のクイーンですか?
212世界@名無史さん:2005/10/24(月) 23:05:31 0
>>211
ttp://nekhet.ddo.jp/people/holland.html
ホラント伯ウィレム2世の奥さんだね。
213世界@名無史さん:2005/10/27(木) 19:22:39 0
>>212
サンクス!
214世界@名無史さん:2005/10/27(木) 19:56:52 0
だから最初からそう書いてるじゃん…
215世界@名無史さん:2005/11/06(日) 11:36:07 0
神聖ローマ帝国そのものの研究者ではないが、
深いかかわりのある江村洋がなくなったらしい。合掌
216世界@名無史さん:2005/11/08(火) 01:46:52 0
亡くなったのか。
思えばあの人のハプスブルクから近代中欧史に興味持ったからな。
合掌
217世界@名無史さん:2005/11/15(火) 18:55:46 0
ローマ帝国は神聖ローマ帝国の事をなんと呼んでいたの?
ドイツ王国?
218世界@名無史さん:2005/11/15(火) 18:56:38 0
その「ローマ帝国」はどのローマ帝国?
219世界@名無史さん:2005/11/15(火) 19:59:35 0
俗に言う東ローマ
220世界@名無史さん:2005/11/17(木) 10:04:37 0
あげ
221世界@名無史さん:2005/11/17(木) 19:31:48 0
さげ
222世界@名無史さん:2005/11/17(木) 21:57:26 0
>>217
フランク王国
223世界@名無史さん:2005/11/17(木) 22:16:55 0
十字軍の頃のイスラムの記録では、ビザンチン帝国とその人々はローマ
(ルーム)と呼ばれ、十字軍の連中はフランク(フランキ)と呼ばれていた。
おそらく、>>222の指摘のとおり、フランクと呼ばれていたものと思われる。
224世界@名無史さん:2005/11/17(木) 23:42:11 0
>>223
厳密に言うとちょっと違う。
アラビア語では欧州勢力のことを「イフランジュ」(افرنج ifranj)とか
「フィランジュ/ファランジ」(فرنجfiranj/faranj)と呼んでいた。
「ファランク」( فرنكfarank-)はこれのペルシア語形。
「ファランキー」(farankī/farangī)はその形容詞形になる。

サラディンの生きていた前後13世紀初頭くらいの史料によれば、
イングランド国王リチャード1世を
الملك الانكترal-malik al-inktar と称し、
フランス国王フィリップ2世を
الملك الفرنسيسal-malik al-faransīs と称し、
神聖ローマ皇帝フリードリヒ一世を
الملك الآرمنal-malik al-ārman と称している。

「ファランジ」(فرنجfaranj)というのは、
これら欧州からの十字軍軍団やエルサレム王国などの十字軍勢力などを
包括した総称のようなものと考えて良いだろう。
225世界@名無史さん:2005/11/18(金) 00:25:25 0
>>222
なろほど。ローマ教皇が勝手に与えた称号は無視って感じですな。
226世界@名無史さん:2005/11/19(土) 01:18:40 0
>>222
フランク王国も神聖ローマ帝国も一緒くたにフランク王国なのかえ?
227世界@名無史さん:2005/11/19(土) 01:20:41 0
>>225
ローマ司教が勝手に
228世界@名無史さん:2005/11/19(土) 08:29:53 0
神聖ローマ帝国って、一応西ローマ帝国を引き継いでいるのか?
229世界@名無史さん:2005/11/19(土) 09:00:13 0
教皇が皇帝を任命したから神聖、皇帝の概念を諸民族を統治する者
であるとしたのがローマ、だから建前としては引き継いでいる。
まあカエサルが聞いたら爆笑するだろうけど、ロシア帝国のツアーリ
と同じ。
230世界@名無史さん:2005/11/19(土) 10:52:42 0
実は「ツァーリ」というのは「カアン」のロシア語訳で、
「(東)ローマ皇帝(の後継者)」という意味あいは後づけだったりする。
231世界@名無史さん:2005/11/19(土) 23:17:16 0
ツァーリはカエサルのことだろ
232世界@名無史さん:2005/11/19(土) 23:21:29 0
ブルガリアの皇帝もツァーリを称した
233世界@名無史さん:2005/11/19(土) 23:45:20 0
>>231
語源はそうだが、「ハン」の意訳にも用いられた。
234世界@名無史さん:2005/12/09(金) 23:10:41 0
保守
235世界@名無史さん:2005/12/25(日) 22:40:24 0
ミネルヴァ新刊の『西欧中世史事典U』
項目は「帝国」「皇帝権」で全くの専門外なのですが読んでいて面白いですね
236世界@名無史さん:2005/12/31(土) 23:15:09 0
age
237世界@名無史さん:2006/01/01(日) 13:17:14 0
あげ
238世界@名無史さん:2006/01/01(日) 18:15:53 0
実況スレ

栗山千明 の エジプトミステリー ◆ 1
http://live22x.2ch.net/test/read.cgi/livetx/1136106077/
239世界@名無史さん:2006/01/02(月) 02:18:38 0
カール5世はザクセン選定候モーリッツの裏切りさえなければ、かなり神聖ローマ
帝国の再統一に近いところまでいったような気がする。
240239:2006/01/02(月) 16:05:17 0
すいません選定候→選帝候です。
241世界@名無史さん:2006/01/07(土) 07:15:41 0
訂正するなら「候」の字も直せよ
天候気候かっつうの



「侯」の字だろうが
242世界@名無史さん:2006/01/07(土) 11:19:06 0
しかも「選定侯」でも間違いではない、と。
243世界@名無史さん:2006/01/07(土) 12:14:43 0
神聖ローマ皇帝のフレデリクス2世(フリードリヒ2世)は
男女両色を愛でたと、よく云われますが、実際に彼の枕席に侍った
男性の名前や素性は分かって居るのでしょうか?


244世界@名無史さん:2006/01/07(土) 15:52:10 0
ネーミングセンスがいいよね
神聖ローマ帝国だなんて
かっこいい
245世界@名無史さん:2006/01/07(土) 16:07:09 0
神聖でもなければ、ローマでもなく、帝国でもない。(ヴォルテール)
246世界@名無史さん:2006/01/07(土) 19:26:51 0
「ドイツ国民の」とかついちゃったりするから、もう意味がわからん。
247世界@名無史さん:2006/01/08(日) 05:15:14 0
「三位一体の王国」
248世界@名無史さん:2006/01/08(日) 19:46:13 0
さてこれもお約束のネタですが・・・・



自由民主党=自由でもなければ民主的でもなく政党ですらない
249世界@名無史さん:2006/01/17(火) 02:59:29 0
前段はともかく、政党ですらないってのはどういうことだ?
250世界@名無史さん:2006/01/30(月) 01:41:33 O
今、菊池良生の『神聖ローマ帝国』読んでる。
ハインリッヒ4世と奥さんのベルタの関係に
激しく燃えた。
251世界@名無史さん:2006/01/30(月) 01:41:39 0
自由民主党とは合議制の国権の最高機関で唯一の立法機関です
はい
252世界@名無史さん:2006/01/30(月) 16:50:35 0
>>248,251
そういうネタは該当板でやれ
253世界@名無史さん:2006/01/31(火) 16:06:20 0
>>250
具体的にはどーゆー関係ですか!
ハインリヒ4世て確かもう一人奥さんがいたよね。
254世界@名無史さん:2006/02/01(水) 00:52:45 O
>>253
ベルタは最初の奥さん。
話を要約してみると…


ハインリッヒ4世は、父であるハインリッヒ3世の死後、
わずか6歳という幼さでドイツ皇帝に即位した。
彼の母親、アグネスは、なんとかしてこの幼帝を
諸侯たちの手から護ろうと頑張ったのだが、
その努力も虚しく、結局、ハインリッヒ4世は
諸侯たちの権力争いの道具としていいように使われてしまう。

ハインリッヒが16歳になったとき、諸侯たちは、
マインツ大司教に縁のあるプリンセス、
ベルタを妃として、彼に一方的に押しつける。
この結婚に納得できるはずもなく、ハインリッヒは
ベルタを遠ざけ、彼女を嫌いぬいた。
諸侯会議で、婚約の解消を必死に訴えたほどだった。
しかし、このベルタこそ、ハインリッヒの最良の伴侶となったのである。

彼女は孤立無縁の状態にあったハインリッヒの
唯一の理解者となり、夫をしっかりと支えていった。
ハインリッヒもやがて、彼女の献身ぶりに気付き、
夫婦二人三脚で、ローマ教皇や諸侯たちに
立ち向かっていくことを決意する。


てな感じ。要約下手でスマソ。
255世界@名無史さん:2006/02/01(水) 11:36:58 0
いい話だ。
いい話なのに、なんでハインリヒはもう一人奥さんを娶ることになったんだろ?
ベルタたんが先に死んだのかな?
256世界@名無史さん:2006/02/01(水) 15:26:00 0
>>255
持参金目当て
257世界@名無史さん:2006/02/01(水) 16:42:27 0
神聖ローマ皇帝は理念上西ヨーロッパ全域の皇帝ということになっていたのだろうか?
258世界@名無史さん:2006/02/01(水) 17:09:10 0
領域というよりは、キリスト教の守護者といったイメージの方が強調された。
259世界@名無史さん:2006/02/01(水) 18:10:45 0
そもそも、西ヨーロッパって概念があったのかどうか。
260世界@名無史さん:2006/02/01(水) 18:17:09 0
あるよ。西洋世界=教皇の守備範囲といった所か。
261世界@名無史さん:2006/02/01(水) 22:01:34 0
東方はローマカトリックじゃないしな
262世界@名無史さん:2006/02/02(木) 10:42:45 0
いや、時代により変化するんだけど、カトリック世界って、バルト海沿岸〜リトアニア〜オーストリア〜ハンガリー〜アドリア海、と、そこまで広がってるわけで、東も西もねーだろー、と。
263世界@名無史さん:2006/02/02(木) 13:50:07 0
>>261
ビザンツ式でも教皇の主権を認める帰一教会があるから問題なし。
ドイツ北欧も後にルーテル教会が広まるけど問題なし。
264世界@名無史さん:2006/02/02(木) 21:10:08 0
>>263
ルーテル教会が生まれる頃には既に西欧という概念確定してるので。
やはりビザンツ帝国の勢力圏内とカール大帝の勢力圏内では東西という概念はあった。
でも積極的に東が強調されてくるのは十字軍前後ではないかと思う。

オストマルクが神聖ローマ帝国における東の辺境だってのは有名だろ?
265世界@名無史さん:2006/02/06(月) 07:57:51 0
「理念上」は全世界の皇帝なんじゃない?
266世界@名無史さん:2006/02/12(日) 12:05:39 0
神聖ローマ帝国は強力な中央集権国家のイメージがあるが、
実際は違うんだって?
267世界@名無史さん:2006/02/12(日) 12:17:08 0
どこでそんな大間違いのイメージを・・・・・・
268世界@名無史さん:2006/02/12(日) 13:58:49 0
三百以上の部族連合体を総称して神聖ローマ帝国と称したんでしょう?

269世界@名無史さん:2006/02/12(日) 14:29:41 0
>>267が言っているのは

「神聖ローマ帝国は強力な中央集権国家のイメージがある」ってのが
大間違いのイメージで、そんなイメージをどこで植えつけられたんだ?

ってことじゃないのかな。
270世界@名無史さん:2006/02/12(日) 16:52:27 0
>>265
違うよ。東の皇帝の存在は認めてるから。
時によりけりだけれども。
271世界@名無史さん:2006/02/12(日) 18:50:45 0
誰か「中世の「ドイツ」」読んだ人いる?
http://www.junkudo.co.jp/detail2.jsp?ID=0106168447

「西欧中世史事典」と比べてどう?

あと、カロリング朝と、神聖ローマ帝国の初期(フランケン朝)くらいの
政治史関連史料ってどんなものがあるの? 皇帝たちの伝記とかはどの史料にもとづいて
いるんでしょうか?
272世界@名無史さん:2006/02/12(日) 20:34:49 0
カロリング朝末期〜中世初期にかけては史料がロクに残ってない。
だから貴族の来歴なんかを確定させるのは非常に困難、というか不可能かも。
同時代に生きた聖職者などが残した伝記、法令の断片などが史料のほとんど。
273世界@名無史さん:2006/02/13(月) 22:44:42 0
結局古本屋で半額で売っていたので、「中世の「ドイツ」」買ってしまいました。
ドイツ史は素人なのですが、2005年11月にでたばかりの8500円もする本が、4500円とは。。。そんなに
ひどい本なんでしょうかね。まだ読みかかったばかりですが、「ドイツ」という名称がいつ登場するのか、しつこく細かく探求
されていて、割と面白いです。イタリアでドイツを指していた、「テウトニクス」という語が、ドイツ本国に受け入れられていく様や、
カール大帝の時代やオットーの時代にドイツがどのような自称、他称だったか、など参考になります。
シュタウフェン朝は「シュヴァーヴェン人」に基づいていたことも始めて知りました。
また、巻末に史料一覧がついて、960年頃の書かれた「サクセン史」、1085年頃に書かれた、「アンノの歌」
フルダ年代記、ヴィーポ「コンラート2世伝」、「ハインリヒ2世伝」「皇帝年代記」など様々な史料の目録が掲載されていて便利です。
274世界@名無史さん:2006/02/13(月) 23:28:02 0
馬鹿なこときくようで恐縮ですが、
ひょっとして、

ザクセン=サクソン
ザリエル(フランケン)=フランク
ドイツ=テウトニ=チュートン=ジュート
シュタウフェン=シュヴァーベン=スエヴィ

すると、ゲルマン民族大移動を担った幾つかの有名民族が、そのままドイツ人を
構成したということに。 
とすると、疑問が。
1.アレマンニ族とチュートン人が王朝を取れなかったのはどうして? 早く滅んだから?
 部族的に弱かったから?
2.バイエルンって、民族移動期は何人だったの?ひょっとして、アレマンニ?
王朝
275世界@名無史さん:2006/02/13(月) 23:35:11 0
バイエルン=ババリア
276世界@名無史さん:2006/02/13(月) 23:58:14 0
アレマン人が現代まで残っていることをはじめて知ったよ。
http://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/erz-106.htm
277世界@名無史さん:2006/02/14(火) 00:22:54 0
カール大帝伝の翻訳サイトも発見。探してみるといろいろあるね。
http://www.medieviste.org/archive/magazine/silva08.html

上記大帝伝によると、バイエルン族は、カールの時代タシロという王に率いられて
結構勢力があったが、カールに敗れたとのこと。
278世界@名無史さん:2006/02/14(火) 07:25:04 O
関係ないが戦国時代来日した宣教師は、当時の日本の政体を
神聖ローマと同様のものと理解していたらしい…
279世界@名無史さん:2006/02/14(火) 07:57:05 0
>>274
ジュートはドイツじゃない。
アレマンニってシュヴァーベンとイコールじゃなかったっけ。
280世界@名無史さん:2006/02/14(火) 10:38:47 0
>>278
だいたいそんなもんという気もする。
281世界@名無史さん:2006/02/15(水) 22:06:30 O
実は、正確に建国・滅亡年がわかっている国のなかで、一番長いのが、神聖ローマ帝国。
282世界@名無史さん:2006/02/15(水) 23:16:02 0
>>277
負けたってか圧力に屈して、家士になった。
が、部族大公制は後に復活と。
283世界@名無史さん:2006/02/16(木) 04:45:36 0
2週間前にラインラント・プファルツ州のシュパイアー(Speyer)という町に行ってきました。大聖堂(Kaiser Dom)の地下には11世紀から12世紀のかけての何人かの皇帝のお墓がありました。
284世界@名無史さん:2006/02/16(木) 14:12:18 0
>>281
神聖ローマ帝国の建国を何時と見なすかなんて、
研究者次第だと思うが。

285ブッダ:2006/02/16(木) 18:44:20 O
現在の高校教科書では、962年、オットー1世が建国したとされている。つまり少なくとも日本国内においては、この数字が最も信頼すべき数字といえるのだ。
286世界@名無史さん:2006/02/16(木) 18:46:44 0
先週のTBSの世界遺産でフリードリヒ二世の建てた城の特集の中で
パレルモにある棺が開けられていた。
287世界@名無史さん:2006/02/16(木) 18:52:03 0
962年はオットー1世が皇帝の戴冠を受けた年であり、
建国というのはおかしいんじゃないか?
288世界@名無史さん:2006/02/16(木) 19:50:29 0
政体が完成した時期ならハインリヒ1世の王位就任を各部族大公が承認した年じゃね?
289世界@名無史さん:2006/02/16(木) 21:28:55 0
どちらにしても正確な年が分かっている事には変わりないだろう。
290世界@名無史さん:2006/02/16(木) 22:19:08 0
それを言い出したら、ローマ帝国も紀元前27年から1453年まで続いたとみなせるじゃんか。
291世界@名無史さん:2006/02/16(木) 22:19:44 0
どれを取るかで揉めてるので、確定できないというのが正しい。

というか東ローマの方が長いと思われ。
292世界@名無史さん:2006/02/16(木) 23:17:36 O
東ローマは395年に成立、一見1453年まで続いたように思われるが、実は途中で一時的にラテン帝国に滅ぼされているので、やはり正確には神聖ローマ帝国よりも短い。
293世界@名無史さん:2006/02/16(木) 23:22:02 0
神聖ローマ帝国って気がついたら事実上消滅してましたっていう風にしか見えないんだけど
294世界@名無史さん:2006/02/16(木) 23:39:17 0
>>293
そうでもないよ

>>292
その前半は「神聖ローマ」とは誰も呼んでいなかったわけだが。
295世界@名無史さん:2006/02/17(金) 00:03:32 0
このように年号と国家の存続に拘る人ってなんだか非現実的。。。。
そもそも「東ローマが395年に成立」という命題は、あくまで後世の歴史家の
都合なわけだが。1100頃のフルトルフによる年代記では、ハインリヒ7世を
アウグストゥス以来87代目の皇帝としている。

「フランク帝国」というのも歴史学上の概念で、当時の連中は、フランクの帝国などとは
微塵も考えていない。あくまで「ローマ皇帝」。で、オットーは、カールの子孫に引き継がれていた
皇帝を復興しただけ。

コンスタンティノープル陥落を扱った小説や映画があったとして、その中で
「こうして1158年間続いた帝国は滅びる日がこようとは」なんでセリフが登場しても
違和感ないのではないか、と感じてしまう。

もひとつ言うと、日本の天皇家は延々と続いているわけだが、どのように定義する
のだろうか。神聖ローマも末期は、天皇家のようなもんだろ。
こういうことを議論してもはじまらないと思うけど。

中国人が東ローマの歴史書を書いていたとしたら、王朝交代ごとに史書を分け、
時代を区分していたに違いない。

こういう歴史学習のために便宜的にもちいられている概念に拘るのは
主客転倒ではないだろうか。

296世界@名無史さん:2006/02/17(金) 00:11:28 0
もひとつ言うなら、カールの帝国は、「フランク帝国」などと誰も自称他称しておらず、
「フランク王国」や「ランゴバルド王国」の国王であるカールが、皇帝でもあっただけ。
で、その皇帝とはローマ皇帝なのだから、歴史学上の用語にしても
「フランク帝国」よりも「西ローマ帝国」とするのが妥当に思う。

オットーの帝国も、「神聖帝国」とか自称し始めるのは、大分あと(バルバロッサの頃だっけか?)
なので、それまでは「西ローマ帝国」とする主張もあっていいと思う。
ただ、オットーの帝国は、その後継者がやがて、「神聖ローマ帝国」と名乗ることから、
遡って、最初から「神聖ローマ帝国の成立」というようになった経緯もあり、
「西ローマ」と呼ぶか「神聖ローマ」と呼ぶかは甲乙つけがたい主張になると思うが。

ついでにいうと、東ローマは、その長い歴史上、当初は、「ローマ皇帝」だったと思うが、
途中で、「ギリシャ人の皇帝」、最後の方は「ギリシャ人の王」と、「当時」言われていた。
だから、ビザンツ帝国を「ギリシャ帝国」と読んだ方が妥当なように思う。
297世界@名無史さん:2006/02/17(金) 01:24:37 0
>>292
神聖ローマ帝国も、かなりの時期に皇帝がいなかったりする。
298世界@名無史さん:2006/02/17(金) 01:40:48 0
>>296
ギリシャ人の王や、皇帝は他称、あるいは便宜的に認めたものであって
自称では最後までローマだったりするわけだが。
299世界@名無史さん:2006/02/17(金) 06:48:26 0
オーストリア大公オットー(1912年生)は是非神聖ローマ帝国復活を
目指してほしい。
300世界@名無史さん:2006/02/17(金) 06:57:36 O
299
同感。
301世界@名無史さん:2006/02/17(金) 10:07:18 0
そのために長年EUの建設と拡大に貢献してきたのだよ。

つか、せっかくだから新設される大統領職にでもしてあげればいいのに。
302世界@名無史さん:2006/02/17(金) 18:15:17 0
ていうか大いらない。統領だけのほうが萌える。
303世界@名無史さん:2006/02/17(金) 22:36:37 0
「偉大なるカール様」とか呼ばれるようになったらヤダw
304世界@名無史さん:2006/02/18(土) 22:22:27 0
ドイツの母体となった民族は、サクソン、バイエルン、シュヴァーベン(アレマンニ)、フランクの
4民族だそうですが、ペンギンブックスの中世史地図を見ていたら、
230年の地図からカールの侵攻まで、フランク、サクソン、アレマンニ、ババリア族が
ほぼそのままの定位置にいます。神聖ローマ成立後も、これらの民族はなかなか統一されず、
ザクセン語を話すザクセン人、などと分かれています。
そこで疑問なのですが、何故彼らは、700年もありながら、「王国」を成立
させることができなかったのでしょうか。少なくとも400年以降では、ゴート人や
フランク人は「王国」となっています。
ザクセン王国、ババリア王国、として、神聖ローマなんかつくらなかったほうが
色々な意味でわかりやすく、やりやすかったように思うのですが。
305世界@名無史さん:2006/02/18(土) 22:25:56 0
あといくつか疑問が。
1.現代ドイツの州では、ザクセン州よりも、ニーダーザクセン州のほうが、
もともとのザクセン人の故地に近いように思うのですが、何故に現在の州の配置となっている
のでしょうか。
2.アレマン人は、なぜ途中からシュヴァーベン人と呼ばれるようになったのでしょうか。
3.ザクセンやババリアは現在でも州があるのに、フランクとなると、都市名だけになり、
シュヴァーベンになると、州名も都市名もなく、なのに、神聖ローマ成立時、すでに名前がでてこなく
なっていたチューリンゲン州があるのは何故なのでしょうか?
ご存知のかた折られましたた、お教えください。
306世界@名無史さん:2006/02/18(土) 22:28:14 0
それにつけても おやつはシャルル
307世界@名無史さん:2006/02/18(土) 23:42:27 0
オットー氏は帝位継承権放棄してるから
その息子のカール氏が皇帝なり大統領なりになるべき。
308世界@名無史さん:2006/02/19(日) 01:51:53 0
>>305
アレマン族は、古代ローマ時代はもともそスエビ族(即ちシュヴァーベン)の一派だった。
ローマ帝国崩壊後は、フランス語におけるドイツの別称になるほど有力な部族となった。
だからアレマン≒スエビ≒シュヴァーベン。

シュヴァーベンは、シュタウフェン朝崩壊後に小さい領土に分割されてしまい、
更に宗教戦争のごたこだやスイスの独立に巻き込まれ、
ナポレオン時代にバーデンやヴュルテンベルクに全部分割されてしまった。

フランケンは歴史的にドイツの中心部で、低地部が現在のオランダになり、
高地部は、ファルツ(宮中伯)領やケルン・トリーア・マインツなどの大司教領が占めていまった。
というか、10世紀頃には既にフランケン公領は肩書きだけのものになってしまった。
その他の高地フランケン地方(ニュルンベルクなど)は、ナポレオン戦争のごたごたで、
南部諸邦に併合されてしまった。

309世界@名無史さん:2006/02/19(日) 02:00:29 0
>>308訂正
×もともそスエビ族
○もともとスエビ族

ザクセンにせよバイエルンにせよ、神聖ローマ帝国崩壊時にまとまった
政治体制を持っていたため、プロイセン時代もドイツ帝国の諸邦として存続し、
現在の州のもとになった。

310世界@名無史さん:2006/02/19(日) 02:05:18 0
>>305
1.はロシア(ルーシ)発祥の地が現在ウクライナと呼ばれているのと同じような事情かと。
311世界@名無史さん:2006/02/19(日) 03:31:05 0
フランケンなんて州作ったら住民が全員フンガーって叫んでるように思われるだろw
312世界@名無史さん:2006/02/19(日) 05:31:41 0
>>308
ありがとうございます。だいたいわかりました。
アレマンとスエビは時々によってどちらかの名前が用いられたということですね。

現在もアレマン語、バイエルン語、ザクセン語などの方言があるのですね。

ところで、チューリンゲン族はどうなったのでしょうね。ちょっとGoggってみましたが、
なかなか情報がない感じですね。
313世界@名無史さん:2006/02/19(日) 06:57:57 0
オットーは1961年にオーストリア帝位を放棄しているからその息子カルルにも帝位継承権はないと思う。そうでもなかったらオーストリア共和国内に住めないのでは。
 ハプスブルク家の家長という地位は継承されるだろうけれども。
314カラジチ ◆mWYugocC.c :2006/02/19(日) 10:44:45 0
>>308さんの言ってる「フランケン」ってロートリンゲンじゃありませんか?
まあどっちもフランク人の住んでたところですけど。

私の理解では(自信なくなった)、フランケンとはマイン川流域を指す言葉。
今ではバイエルン州ですが、それは>>308さんの仰るように、ナポレオン戦争でバイエルンに併合されたから。
今でも「バイエルンフランケン」とか呼ぶこともあるようです。

>1.現代ドイツの州では、ザクセン州よりも、ニーダーザクセン州のほうが、
もともとのザクセン人の故地に近いように思うのですが、何故に現在の州の配置となっている
のでしょうか。
1180年にヴェルフェン家のハインリヒ獅子公がフリードリヒ・バルバロッサに敗れてザクセン公位を追われたとき、ザクセンは3つに分割されました。
エルベ川から東はヴェルフェンと争ったアスカニアー家に。
エルベ川とヴェーザー川の間(ニーダーザクセン)はヴェルフェン家に。
ヴェーザー川以西(ヴェストファーレン)はケルン大司教に。
で、「ザクセン公」のタイトルはアスカニアー家が保持し、これが周り回ってマイセン辺境伯のヴェッティン家のものになります。
このヴェッティン家領が現在のザクセンです。

>チューリンゲン
チューリンゲン人はカール大帝の討伐を受けてその領域を大幅に減らしました。
(その故地にフランク人が送り込まれて成立するのが「フランケン」です。)
しかしその後もチューリンゲンにはチューリンゲン方伯が置かれます。
このチューリンゲン方伯、1247年にマイセン辺境伯のヴェッティン家に吸収されて消滅しました。
しかし完全に消滅したわけではなく、ザクセン=ヴァイマール公を初めとするヴェッティンの分家によって支配され、
これらが「チューリンゲン諸侯」と呼ばれました。彼らの領土が現在のチューリンゲン州というわけです。
315世界@名無史さん:2006/02/19(日) 14:54:53 0
>>314
なるほど。そうだったんですか。ありがとうございます。
316世界@名無史さん:2006/02/19(日) 16:53:36 O
バイエルンは現在のドイツ国内でも一風変わった地方と見られ
ているそうですが、具体的にはどのあたりが「変わってる」と思わ
れているのでしょうか。
317世界@名無史さん:2006/02/19(日) 17:03:27 0
まずカトリック。
318世界@名無史さん:2006/02/19(日) 18:42:33 0
ドイツでプロテスタントとカトリックは人口的にほぼ拮抗しているはずだ。
319世界@名無史さん:2006/02/19(日) 19:09:42 0
ローマ教皇領ってのは形式的には神聖ローマ帝国の一部だったんですか?
320世界@名無史さん:2006/02/19(日) 19:55:59 0
>>319
ザクセン朝後期からそういう主張が為された。
実際の所は時代によりけり。
321世界@名無史さん:2006/02/21(火) 01:31:56 0
>>316
というか、旧ローマ帝国領が、基本的にカトリック圏

個人的に思うに、カトリック圏では俗ラテン語がしばらく通じたので、
ラテン語聖書が一部識字者に読めたかもしれない。翻訳なしに、
そのまま僧侶が聖書を読んでにして、庶民がだいたいわかったかもしれない。
と思う。

旧ローマ帝国外では、ゲルマン語だけだったので、ドイツ語訳の聖書ができるまでは、
みな僧侶の言うことをだまって聞くしかなかった。だから原典に帰るルターの主張が
受け入れられたのでは。
322世界@名無史さん:2006/02/21(火) 11:13:10 0
>>321
>というか、旧ローマ帝国領が、基本的にカトリック圏

えーと、ローマ帝国の東半分は…
323カラジチ ◆mWYugocC.c :2006/02/21(火) 18:31:36 0
ドイツのうちで、って話じゃないですかね?
324世界@名無史さん:2006/02/21(火) 19:05:40 0
おお、かなり納得した。
325世界@名無史さん:2006/03/11(土) 01:43:59 0
>>320
>実際の所は時代によりけり

どう見積もっても中世のドイツがイタリアを実効支配していたのはホーエンシュタウフェン朝までだろうな。
のちにハプスブルクのオーストリアが北イタリアとローマ周辺を支配することがあったけど
それは神聖ローマ帝国とは少し文脈が異なるからね。
俺自身の解釈としてはコンラート4世の遺児コンラディンがタリアコッツォの戦い(1268年8月23日)で敗れた
時点でドイツのイタリア支配は終了したとみる。
326世界@名無史さん:2006/03/11(土) 02:02:09 0
>>278
ドイツにしろイタリアにしろそしてわが国にしろ英仏のように早くから中央集権的
国家を創出できなかったのが前の大戦に敗退した大きな原因だったような気がする。
ドイツでは神聖ローマ皇帝を、イタリアにおいてはローマ教皇を、そしてわが国では
鎌倉末期において親政を行おうとした南朝天皇家をそれぞれ蔑ろにした結果が国家統一
を遅らせた原因なんだと思う。
諸侯たちが強大な王権のヘゲモニーを嫌った結果この三国は英仏とは異なる国家統一の
道を歩まねばならなくなったといわざるをえない。
ドイツではホーエンツォレルン家によるドイツ統一、イタリアではリソルジメント、そして
わが国では明治維新、これらは全て19世紀になってからの出来事だ。
常識的に考えて英仏百年戦争を起因に14・15世紀には既に中央集権国家を創出していた
イギリス、フランスに対してこられの国々が戦争で勝てるわけがないのである。
327世界@名無史さん:2006/03/11(土) 02:14:46 0
その理屈だとアメリカ合衆国は戦争に勝てない。
328世界@名無史さん:2006/03/11(土) 02:28:54 0
>326
厨そのものの歴史観だな。
グレートブリテン島内がイギリスとして統一されたのは18世紀以降(厳密に言うと今でも統一されていない)し、
ロシアは国家連合の域を出たのはスターリン以後だよ。
ついでに言うと江戸時代の日本は通貨統合が行われ、統一された政治・商業言語が存在し、経済統合の点ではフランスより進んでいた。
329世界@名無史さん:2006/03/11(土) 19:36:24 0
>>327
アメリカ合衆国は強大な権力をもつ大統領制があるから例外。
神聖ローマ帝国の領邦とアメリカ合衆国の州との大きな違いは
前者は嫌々神聖ローマ帝国に属しているのに対し後者はアメリカ
合衆国に喜んで属していることである。
330世界@名無史さん:2006/03/11(土) 19:57:22 0
>>329
比較が無意味である事は確かだけど、神聖ローマ帝国の諸邦が
帝国に所属する事を嫌がっていたなんて事はありませんが?
諸邦の権力の源泉は、帝国内に留まっていた事で発生してるから。
331世界@名無史さん:2006/03/11(土) 22:28:28 0
>>326
フランスに対しては勝っただろ
332世界@名無史さん:2006/03/15(水) 01:52:45 0
日本の道州制は神聖ローマ帝国の領邦をお手本にすべき

・領邦は関税自主権を有す
・領邦は流血裁判権を有す
・領邦は貨幣鋳造件を有す
・領邦は外交権を有す
・帝国からの離脱は領邦の裁量
333世界@名無史さん:2006/03/15(水) 14:37:06 0
>>332
なんで?
334世界@名無史さん:2006/03/15(水) 23:20:57 0
>>332
貨幣鋳造権なんてあったっけ?
335世界@名無史さん:2006/03/16(木) 00:25:48 0
>>334
最初はレガリアだったけどね。後代は持ってた諸侯が増えた。
336世界@名無史さん:2006/03/23(木) 00:33:47 0
祝一周年!
337世界@名無史さん:2006/03/23(木) 02:34:03 0
>>305
つーかアレマンはアレマーニュ(仏)でジャーマニー(英)だからドイツだわな
338世界@名無史さん:2006/03/24(金) 00:31:34 0
>>337

フランス語のアレマーニュAllemagneは、アラマン族に由来し、
下二つに比べればかなり新しく生まれた名称。

英語のジャーマニーGermanyは、ケルト系言語の「隣人」Gairに由来し、
ラテン語(Germanus)経由で広まった。

民族としての意識が生まれたのははるかに後のことだが、
自称のドイチ Deutsch(e)はもともとは「人々」を意味する漠然とした単語で、
ラテン語ではTeutonと記述された。英語の「オランダ人・語」Dutchも同源。
339世界@名無史さん:2006/03/24(金) 00:58:01 0
仏語の Allemagne はアルマーニュと読むんじゃないか
340世界@名無史さん:2006/03/24(金) 09:47:10 0
>>338
Deutschはイタリア側からアルプスの北を呼ぶのに使われたのが初めで、元々は自称でもなければアラマンよりも古いわけでもない。
>ラテン語ではTeutonと記述された。
Teutoniじゃないのか。
341世界@名無史さん:2006/03/29(水) 22:46:19 0
神聖ローマ帝国を語るときは800年のカール大帝の戴冠から語るべきだよね。
じゃその場合962年のオットー大帝の戴冠は一体どういった意味があるのだろうか?
ドイツ民族による神聖ローマ帝国の誕生を意味するのか?
342世界@名無史さん:2006/03/29(水) 23:37:07 0
全然違うよ。
343世界@名無史さん:2006/04/02(日) 10:21:28 0
>>341
神聖ローマ帝国はカロリング帝権が消滅した後に生まれた全くの別物。
当時の人々の意識としてはローマ帝国の正統な後継者という意味があった。
だから歴代の皇帝は正統なイタリアの支配者としてイタリア政策を推し進めた。

ドイツ民族との関係でいえば、皇帝をドイツ王に限定した意味がある。
344世界@名無史さん:2006/04/02(日) 16:27:34 0
え、そうなの?
オットー1世はカロリング家末裔のベレンガーリョ2世をやっつけて一介の
ドイツ王に過ぎなかったのが帝位と結びついたんだろ。
345世界@名無史さん:2006/04/02(日) 17:12:24 0
神聖ローマ帝国の一部(?)のイタリア王国の成立っていつなんでしょう?
中フランク王国が何時のまにか呼び名が変わった?
346世界@名無史さん:2006/04/03(月) 23:51:45 0
>>345
イタリア王国の呼称が生まれたのはリソルジメント以降の話でしょ。
中世のイタリア半島はローマ教皇領を中心にそれぞれの共和国や君主国、
教会領にわかれており「イタリア王国」というものは存在しなかった。
しかしながらオドアケルやベレンガーリョ二世などは「イタリア王」を名乗った。
しかし彼らが支配した国は「イタリア王国」ではなく「オドアケルの王国」や
「フルウーリ公国」という国だった。
347世界@名無史さん:2006/04/04(火) 04:41:23 0
神聖ローマ帝国には名目的にイタリア王国とブルグント王国があったのを知らんのか。
確かケルン大司教がイタリアのErzkanzlerだったはず。
348世界@名無史さん:2006/04/04(火) 07:47:24 0
346は神聖ローマ帝国というものを全く知らないんだな
349世界@名無史さん:2006/04/22(土) 03:45:29 0
hosch
350世界@名無史さん:2006/04/22(土) 07:38:48 O
カールは教皇に利用されて皇帝にさせられた
オットーは攻められていた教皇を助け自らの意志で皇帝になり、さらに重要なのはドイツ国内での司教叙任権を教皇に認めさせたこと
世襲制で反乱を起こしやすい世俗諸侯に対し世襲の許されない聖俗諸侯は代が替わるたびに皇帝の信頼する人物を任命できるため
オットーは欧州で暴れていたマジャール人を鎮圧しただけでなく、度重なる反乱を起こしていた弟を支援したフランス王を破りパリまで達した
ただオットーの悪い点は反乱を起こす者たちをすぐに許してしまうこと
先の弟もフランス王も許してしまった、かつてのカールの領域を回復できたチャンスだったのだが
351世界@名無史さん:2006/04/22(土) 10:55:20 0
346じゃないが、イタリア王国という統治機構をもった実態は存在しなかった。
ただイタリア王というタイトルがあったので誤解を招いている。
ブルグントはまた別。
352世界@名無史さん:2006/04/22(土) 18:40:48 0
>>351
ロンバルディア同盟が独立するまでは、
ローマ帝国に帰属するイタリア総督の統治機構がありましたが何か?
353世界@名無史さん:2006/04/22(土) 18:58:32 0
てかこのスレを1から読めば、>>346みたいなことは書けないだろ。
354勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2006/04/22(土) 19:14:38 0
久しぶりにスレが活性化しているようなので、私もひとつ。

>>346
イタリア王国の名称が古い物である事は過去ログを参照して貰えれば分かりますので
話題になっている統治方法、あるいは統治方法について。
中世のイタリア王国は952年にオットー1世が旧ランゴバルド王国の版図を“イタリア人の王”として吸収した事に始まります。
皇帝戴冠までの彼の称号は“フランク人及びイタリア人の王”だったので、ドイツ王国とイタリア王国は同君連合の形で結合されていたと言えるでしょう。
当時、イタリアはマジャール人の侵入をグラーフ制が防げなかった為に司教による都市支配が他の地域より早く成立しました。
この司教に対する都市の反発が各地で自治的な都市国家の誕生を促し、イタリアにおける帝権は両者の上に乗っかるという形になりました。
(帝権と教皇権の対立、あるいはロンバルディア同盟の反旗といったのはこの時代です)

この曖昧な支配権はシュタウフェン朝時代、特にフリードリヒ2世の治世において劇的に変化をします。
彼は教会国家を含めた全イタリアを皇帝の代理人と長官の下に置き、一定の行政制度を作り出す事に成功をしますが
彼の急死に伴い、皇帝を頂点とした全イタリアという制度は再び瓦解してしまいます。
結果、彼が各都市に派遣した下級官吏が独自に支配権を拡大させ新しい都市君主へと変貌を遂げていきました。
355世界@名無史さん:2006/04/22(土) 19:33:34 0
フリードリヒ2世は母方からシチリア王位を継いでイタリア統一を目指した。

フリードリヒ2世の死後は本国ドイツ王国も瓦解していく。

356世界@名無史さん:2006/04/22(土) 19:33:48 0
イタリア総督ということは皇帝の統治機構であって、イタリア王国として
固有の統治がなされてたわけではない。
357世界@名無史さん:2006/04/22(土) 19:51:51 0
>>356は神聖馬鹿だなwww

王国という名の行政単位って意味を理解できないんだなwww
頭悪すぎカワイソー
358世界@名無史さん:2006/04/22(土) 20:53:44 0
>王国という名の行政単位
形容矛盾
359世界@名無史さん:2006/04/22(土) 21:12:23 0
全然矛盾していない。

「王国」といっても主権国家である必要はない。

いずれにせよ>>346の認識は間違い。
360世界@名無史さん:2006/04/22(土) 21:15:45 0
とにかくイタリア王国という概念はあったんだよ。
イタリアの都市国家、あるいは諸侯はドイツ王ではなくドイツ王が兼ねるイタリア王に対して
封建関係を結んでいたのだから。
361世界@名無史さん:2006/04/22(土) 21:20:26 0
16世紀中頃以降のイタリア王国の立場は微妙だけど

イタリア王としての戴冠式も、1530年のカール5世のボローニャが最後だし、
ヴェストファーレン条約ではスイスとオランダの主権が承認されたし。
362世界@名無史さん:2006/04/22(土) 21:38:33 0
イタリア王国という概念があることは否定してないんだよ。
空洞化してるってだけ。
363世界@名無史さん:2006/04/22(土) 21:40:04 0
別スレで書いたけど、実際に皇帝、ドイツ王(ローマ王)、イタリア王、ブルグント王(アルル王)、
およびベーメン王としての戴冠式を全部執り行ったのは、カール4世だけ。

1346年7月11日 レンズ=アム=マインにてカール4世, 5選帝侯によりローマ王に選ばれる(対立王)
1346年11月26日 ボンにてカール4世の国王戴冠式
1347年9月2日 プラハにてカール4世, ベーメン王カール1世として即位
1347年10月11日、皇帝ルートヴィヒ4世, 狩猟中の事故で死去
1349年1月30日 選挙によりフランクフルト=アム=マインにてギュンター, ローマ王に選ばれる(対立王)
1349年5月24日 ギュンター, ローマ王を辞退
1349年6月17日 再選挙によりフランクフルトアンマインにてカール4世, 再びローマ王に選ばれる
1349年7月25日 アーヘンにて再びカール4世のドイツ国王戴冠式
1355年1月6日 ミラノにてカール4世のイタリア国王戴冠式
1355年4月5日 ローマにてカール4世の皇帝戴冠式
1363年6月15日 プラハにて息子ヴェンツェル, ヴェンツェル4世として戴冠式(共治王)
1365年6月4日 アルルにてカール4世のブルグント国王戴冠式
1376年6月10日 レンズ=アム=マインにて息子ヴェンツェル, ローマ王に選ばれる(共治王)
1376年7月6日 アーヘンにて息子ヴェンツェルのローマ国王戴冠式
1378年11月29日 カール4世死去
364世界@名無史さん:2006/04/22(土) 21:41:26 0
>>346=358は過去の歴史も現代感覚(人権意識)で話したがる日教糞の犠牲者か

ローマ皇帝兼イタリア王が代官として任命したイタリア総督が長の行政機構があっても、
イタリア王国という概念を認めないとはねえ

>>358は日本帝国に天皇はいても帝はいないから形容矛盾だとか、
インド総督がいたから、ヴィクトリア女王を皇帝とするインド帝国はなかったとか言い出しかねないな
365世界@名無史さん:2006/04/22(土) 21:43:08 0
>>362
だから当初は空洞化もしていないと言っているだろ
フリードリヒ2世などはイタリア全土を概ね実行支配していた
366359=361=363:2006/04/22(土) 21:44:25 0
どうも3人以上の人間がいるようだ。

>>346>>348は別人だろ。

イタリア王国が帝国末期には完全に空洞化していたのは事実だし。
367勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2006/04/22(土) 21:51:15 0
詳しい話は>>354を見ていただければ分かるんですが、簡単に要約しますと
フリードリヒ2世が今までに無い形に整備した支配体制が、頂点(皇帝)が崩れてしまった為に
北イタリアは有力都市が勢力圏を分け合うという情勢になったのです。
ちなみにシュタウフェン朝以前のイタリア王国は旧ランゴバルドの版図と同義と思ってください。

が、それまでに至るまでイタリア王国という概念はしっかりと存在していましたので
>>365さんの言われる通り、>>346さんの認識は正しくない点があります。
368359=361=363:2006/04/22(土) 21:53:47 0
自分で何を書いているんだ... orz
>>366は、「>>346>>358は別人だろう。」に訂正。

ついでにどうも4人ぐらいいたのかな?
久々にこのスレが活性化しているな。
369 ◆qPyLATyd9E :2006/04/22(土) 23:32:45 0
北イタリア・中部イタリア
BC23-476 (古代)ローマ帝国 (西帝)直轄
476-493 (中世)ローマ帝国 宗主下 イタリア王オドアケル
497-552 (中世)ローマ帝国 宗主下 東ゴート王国
552-568 (中世)ローマ帝国 直轄
568-774 ランゴバルド王国
774-843 フランク王国
843-869 中部フランク王国
870-962 イタリア王国(カロリング朝断絶後875-は分裂状態、951-(東)フランク王同君)
962-1796 (神聖)ローマ帝国イタリア王国(ホーエンシュタウフェン朝断絶後1254-は分裂状態)
1797-1805 (第一)フランス共和国 宗主下 イタリア共和国(-1802チザルピーナ共和国)
1805-1814 (第一)フランス帝国 宗主下 イタリア王国
1814-1859 オーストリア帝国ロンバルド=ヴェネト王国
1859-1946 イタリア王国(-1861サルデーニャ王国)

メルセン条約で中部フランク王国が北部領域を失って、(中世)イタリア王国が成立し、
ホーエンシュタウフェン朝断絶まで実態が存在し、
ナポレオンによってイタリアが征服されるまで名目上は続いた。
370世界@名無史さん:2006/04/23(日) 12:15:40 0
1000年頃のイタリアって、北に神聖ローマ領、南に東ローマ領があったわけだが、ローマ市民とかはどう呼んでいたんだろうね?
371世界@名無史さん:2006/04/24(月) 14:48:52 0
地名としてのイタリアは古代からずっとイタリアのままだろ。
372世界@名無史さん:2006/04/24(月) 18:55:34 0
>>371>>346が早くも復活したのか?

要約すると「神聖ローマ領、東ローマ領をどう呼んでいたんだろうね? 」だろ。

373371:2006/04/24(月) 18:58:15 0
>>372
いや、別人。
で、俺の誤読だったか、すまんすまん。
374世界@名無史さん:2006/04/24(月) 22:55:54 0
ルートヴィッヒ敬虔帝の兄弟のピピンがイタリオ王になってるよ。
375世界@名無史さん:2006/04/25(火) 02:41:23 0
>>370
ドイツとビザンツじゃないか?
376世界@名無史さん:2006/04/25(火) 16:10:29 0
>>375
神聖ローマ帝国の版図に含まれる北イタリアはドイツ王が支配してるんじゃなくて
ドイツ王が兼ねるタイトルであるイタリア王、もしくは皇帝の支配下というのが建前。
377世界@名無史さん:2006/04/25(火) 16:14:31 0
皇帝領とギリシャ領、とかかな。
378世界@名無史さん:2006/04/25(火) 21:20:18 0
>>375-376
ドイツとは呼ばないかも知れないがフランクと呼ばれたりはしただろうな
379世界@名無史さん:2006/04/26(水) 15:39:18 0
神聖ローマ帝国に関連したいい書籍ってありますかね
380世界@名無史さん:2006/04/26(水) 15:52:44 0
とりあえずは、講談社現代新書「神聖ローマ帝国」
381世界@名無史さん:2006/04/26(水) 15:59:26 0
ありがとうございます
382世界@名無史さん:2006/04/26(水) 19:11:10 O
ホーエンシュタウフェン朝、特にフリードリヒ2世に限定するならば
『騎士の時代−ドイツ中世の王家の興亡』
フリードリヒ・フォン・ラウマー著
法政大学出版局

著者は昔の人なので読みづらいと思いますが、日本語で読める同時代が書かれてあるの本の中では一番詳しいと思います
ただ古い本なので入手はきわめて困難だと思います
383世界@名無史さん:2006/04/26(水) 19:14:43 0
>>379
「ローマ帝国衰亡史」は当然読んだんだよな?

>>380
中途半端な羅列で中身糞だったけど?
384世界@名無史さん:2006/04/26(水) 23:16:50 0
いかにも三戦住人のような喧嘩腰ですね(^^)
385世界@名無史さん:2006/04/26(水) 23:22:20 0
「ありますかね」も「だよな? 」も同レベルですねえ。
386世界@名無史さん:2006/04/26(水) 23:28:50 0
>>380
そういうなら、糞でない書籍をすすめたらどうだい。

>>379
日本語で読める神聖ローマ帝国関連の本は、ハプスブルクを除くと多くは無いが、
前期神聖ローマ帝国なら、通史よりも専門的だけど、

「中世の「ドイツ」―カール大帝からルターまで」
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「西欧中世史事典〈2〉皇帝と帝国 MINERVA西洋史ライブラリー」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4623039307/ref=cm_aya_asin.title/249-0823353-8138716?%5Fencoding=UTF8

とかがある。価格が高いので、380がやっぱおすすめ。
387世界@名無史さん:2006/04/26(水) 23:50:06 0
ただラウマーはちょっと資料が古いのと、ドイツ帝国の滅亡と重ね合わせて
叙情的に描いているので、歴史資料としては不適当かも知れない。
が、その分面白いよ。
388世界@名無史さん:2006/04/27(木) 17:46:16 0
ラウマーのって今でも普通の本屋に売ってるっけ?
389世界@名無史さん:2006/04/30(日) 08:12:25 0
>>380
菊池良生は読みやすいし多作な人だけど、
専門じゃないから読み間違いとか学界の趨勢反映してないところとかがままある。
帝国改造期以降なら、
『神聖ローマ帝国 1495-1806』
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4000270974/qid%3D1146352283/249-8239054-2975556
というのが簡単な研究史とか制度とかまとめてあってお勧め。安いし。
390世界@名無史さん:2006/04/30(日) 12:22:19 0
>>389
1495って何の区切りか教えてたもれ?
391世界@名無史さん:2006/04/30(日) 12:31:46 0
マクシミリアン1世の時代ですね。
392世界@名無史さん:2006/04/30(日) 13:05:51 0
マクシミリアン1世の即位は1493じゃないの?
393世界@名無史さん:2006/04/30(日) 13:45:59 0
ヴォルムス帝国議会も知らない馬鹿ばっかりなのかw
394389:2006/05/01(月) 07:56:42 0
1495は>>393氏のいうとおり、ヴァルムス帝国議会の始まった年。
言い換えれば帝国改造が始まった年。
帝国改造の結果どういう制度が生まれたのかについては、長いし多いんでぜひその本読んでみて。
395世界@名無史さん:2006/05/02(火) 23:46:56 O
ラウマーの本、昔どっかの図書館にあったんだが、思い出せない
396世界@名無史さん:2006/05/03(水) 01:24:19 0
147 名前:世界@名無史さん :2006/05/02(火) 23:29:34 0
>>146
ポーランドがイタリア文化やフランス文化の劣化コピーというなら別に反論しないが。

これこそポーランドをドイツ人の手工業をはじめ都市経済を反映させていった結果を無視し、
スラブ人を開花していった歴史を無視するものだ。 かの国の文字をラテン文字にし、同じスラブのロシアのような
キリル文字、当時のアジア的、モンゴル的ーロッパの文明に仲間入りできたのも当時の神聖ローマ帝国が
国家として認めた結果だ。 

劣化コピーというより、それこそポーランドはより西欧的であって欲しいという、妄想的なポラックヲタの
単なる幻想にすぎないことは明らかだ。
397世界@名無史さん:2006/05/03(水) 07:14:05 0
「モンゴル的」と「ーロッパ」の間の文章が抜けてないか?
398世界@名無史さん:2006/05/03(水) 08:35:32 0
最初の文から意味不明だろ。
399世界@名無史さん:2006/05/03(水) 20:24:05 0
大体言いたいことを推測はできるが、ポーランドって神聖ローマ帝国の一部になるのが嫌で
教皇庁に働きかけて王国にしてもらったんじゃなかったっけ?
400世界@名無史さん:2006/05/03(水) 23:10:53 0
400ゲット
401世界@名無史さん:2006/05/05(金) 21:31:58 0
経験的に言って、てにをは のおかしい文章を見かけたら、キチガイが書いてると思っていい。
402世界@名無史さん:2006/05/05(金) 23:44:11 0
ハインリヒ7世死後のシュタウフェンとヴェルフェンとの争いで
帝国の権限が切り売りされたのが痛かったなあ。
後10年長生きしていたら世襲帝国が完成していたかもしれないのに。
403世界@名無史さん:2006/05/09(火) 04:10:26 0
>>379
亀レスですが・・・

386氏や389氏の紹介しているものも、良いと思う(尤も、ハインツ・トーマスの本は
極めて専門的な論文集だけれども・・・)。それらの文献への付け足し、ということで少し。

@山本文彦,『近世ドイツ国制史研究―皇帝・帝国クライス・諸侯』,北海道大学図書刊行会,1993年.
A渋谷聡,『近世ドイツ帝国国制史研究 等族制集会と帝国』,ミネルヴァ書房,2000年.
B永田諒一,『ドイツ近世の社会と教会』ミネルヴァ書房,2001年
C伊藤宏二,『ヴェストファーレン条約と神聖ローマ帝国 ドイツ帝国諸侯としてのスウェーデン』,
  九州大学出版会,2005年.

一般向けではないけれども、帝国国制史をめぐる現在の学会動向を忠実に
反映してるのはこの辺りの本じゃないだろうか。

叙任権闘争期の『帝国』については、トーマスの本をお訳しになったお二人の論文を
読むといいと思う。特に三佐川先生の論文はネット上で公開されているから入手が容易だし
(ちなみに‘regnum teutonicum’という語をめぐる問題については、このお二人がお書きになった
ものを外して議論することは出来ないと思う)。

あとは、山川の『世界歴史大系 ドイツ史1』が、帝国の問題に限らず、ドイツ史一般にとっても、
やっぱり未だに必読の文献だと思う。
404403:2006/05/09(火) 04:23:59 0
あと、古いものになるけれども・・・

ミッタイス=リーベリヒ, 『ドイツ法制史概説 (改訂版)』, 創文社,1971年

は座右に置いておいて欲しい、と思う。
405世界@名無史さん:2006/05/10(水) 22:39:21 0
>>403
三佐川亮宏論文によると、ハインリヒ4世1106年迄は、
ローマ帝国=フランク王国+イタリア王国+ブルグント王国で、

ハインリヒ5世以降は、自称はローマ帝国=ローマ王国+イタリア王国+ブルグント王国で、
他称がドイツ王国なのね。
406世界@名無史さん:2006/05/10(水) 23:07:30 0
その場合
  ローマ王国(自称)=ドイツ王国(他称)
ということになるのか?
407世界@名無史さん:2006/05/10(水) 23:13:05 O
ビザンティンも自称ローマ帝国だけど西欧人はギリシャ人の帝国と呼んでいたような
408世界@名無史さん:2006/05/10(水) 23:26:43 O
誰が言ったか神聖でなく ローマ的でもなくそもそも帝国ですらない
409世界@名無史さん:2006/05/10(水) 23:35:52 0
ヴォルテール
410Caesar ◆CaesarBk/Q :2006/05/10(水) 23:46:51 0
>>406
ローマ=カトリック教皇の戴冠を受ければローマ皇帝、
受けられなければ自称ローマ王=ドイツ王。
411世界@名無史さん:2006/05/11(木) 01:07:32 0
>>410
それも時代によって異なるよ。
412世界@名無史さん:2006/05/11(木) 01:46:05 0
>>406
他称ドイツ王国=自称ローマ王国(ドイツ)+イタリア王国の実行支配地域+ブルグント王国の場合も多かったと思われ
413世界@名無史さん:2006/05/11(木) 16:37:38 0
>>412
フランス人やイタリア人は北イタリアやブルグンドをドイツ王国とは呼ばなかった。
適当こいてはいけない。
414世界@名無史さん:2006/05/11(木) 17:04:06 0
当時の北イタリア人が地元を呼ぶ場合はランゴバルディア?
415世界@名無史さん:2006/05/11(木) 18:34:46 0
>>413
勝手にフランス人やイタリア人にするなよ。
東ローマから見れば一纏めにチュートニックだろうが。
416世界@名無史さん:2006/05/11(木) 19:46:07 0
結論:他称なんて括りは不可能ですよっと。
417世界@名無史さん:2006/05/11(木) 21:42:58 0

「中世の「ドイツ」―カール大帝からルターまで」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4423460610/ref=cm_aya_asin.title/249-0823353-8138716?%5Fencoding=UTF8

によると、ローマ帝国(自称)=ドイツ王国(イタリア人の一部の人が故意に(神聖)ローマ帝国を貶めるために用いた他称)
という論証をしている。
418世界@名無史さん:2006/05/11(木) 22:41:53 0
オットーのお父さんがドイツとか言い出すからややこしいんだよな。
419世界@名無史さん:2006/05/12(金) 19:00:13 0
ヒトラーも(新しい)ローマ帝国と名付ければ良かったのにな
420世界@名無史さん:2006/05/12(金) 19:12:11 0
ムッソリーニがマジ切れするだろ、それ
421世界@名無史さん:2006/05/13(土) 01:42:36 0
>>420
しない。69代目アウグストゥスは、東ローマのイレーネから、
フランク人のカールに継がれ、オットーを介して、ローマ皇帝の
正統は、神聖ローマに継がれたとされているから。

でも、神聖ローマに「ドイツ人の」と入った時点に、イタリアンの付け入る
すきがあるかも。
422世界@名無史さん:2006/05/13(土) 07:49:50 0
>>421
正統が神聖ローマに次がれたとされていること自体と、
ヒトラーがローマ帝国復活とか言いだしたらムソリーニが切れるかどうかとは別問題だし、
そもそも正統だろうがなんだろうかムソリーニがそう思っていなければなんの意味もない。
423世界@名無史さん:2006/05/13(土) 18:09:31 0
>>421
その69代目というのはどういう風に数えているのか教えて下さいな。

第15代アントニヌス・ピウスまでは簡単だけど、
ルキウス・ウェルスを数えるのかから分からないのでorz
424世界@名無史さん:2006/05/14(日) 00:32:43 0
>>422
すまん。69代というのは、別のところで出てきた話で、ちょっと今確認しきれない。
で、11世紀ドイツの、教会教師アダム・フォン・ブレーメンは、ハインリヒ3世をアウグストゥスから90代目としているとのこと。
「ハンブルク教会史」という史料を残している。
また、12世紀の修道士フルトルフは、「年代記」の中で、ハインリヒ4世を、87代目、としているのだそう。
詳しくは、両者の史料を見ないとわからない。なお、この話の出典は、
417の「中世のドイツ」
425世界@名無史さん:2006/05/14(日) 09:47:54 0
重なってるのを片方だけカウントして数えたら70をちょっと超えた。
426世界@名無史さん:2006/05/14(日) 11:54:50 0
一寸か?
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_Roman_Emperors の太字だけ数えても
テオドシウス1世で79代になってしまったぞ
軍人皇帝を相当省くのだろうけど、意味不明だな
427世界@名無史さん:2006/05/14(日) 17:09:23 0
Marcus AureliusとLucius Verusのような共同皇帝は共に16代目として数えるとか?
428世界@名無史さん:2006/05/14(日) 17:28:02 0
238年のゴルディアヌスは3人いるけど、古代・中世の資料では、単一の人物だと、
混同されていたらしい。
429世界@名無史さん:2006/05/14(日) 18:31:36 0
それ以前に記録抹殺刑にされたネロやドミティアヌスは数えられるのか?
共同皇帝も数えない気がする

04 クラウディウス
05 ウェスパシアヌス
06 ティトゥス
07 ネルウァ
12 コンモドゥス
13 セプティミウス・セウェルス
14 ヘラガバルス
15 アレクサンデル・セウェルス

カールで69代なら、こんな感じじゃないか?

46 ゼノン
61 ティベリオス3世
62 フィリピコス・バルダネス
68 コンスタンティノス6世
430世界@名無史さん:2006/05/14(日) 22:01:40 0
間も考えてみたが省き過ぎたみたいだOrz
さっぱりわからん

23 ゴルディアヌス3世
24 フィリップス・アラブス
25 デキウス
26 トレボニアヌス
27 ウァレリアヌス
28 ガリエヌス
29 クラウディウス・ゴティクス
30 アウレリアヌス
31 タキトゥス
32 プロブス
33 カルス

34 ディオクレティアヌス

35 コンスタンティヌス1世
36 コンスタンティウス2世

37 ウァレンティニアヌス1世
38 グラティアヌス
39 テオドシウス1世

40 ホノリウス
41 ウァレンティニアヌス3世
42 マヨリアヌス
43 リビウス・セウェルス
44 アンテミウス
45 ネポス
431世界@名無史さん:2006/05/16(火) 02:25:59 0
9世紀のペルシアの史書では、テオドシウスの次をホノリウスとアルカディウス
として、そのままアルカデイゥスの血統だけ書いている。
つまり、西ローマは認識されていない。この史書は、ビザンツの史書か、
または、イスラムが征服した東ローマ領のにあった史書を利用した
筈なので、恐らくビザンツにおいては、東の血統となったのでしょう。

で、西欧では、古代の知識の多くが失われ、後世イスラムやビザンツから
逆輸入したものと考えると、ビザンツが正統となっている皇帝系列でいいものと思われる。
結局カールも、ネポスやアウグストゥルスの後継ではなく、
イレーネを通じて帝権が移った、とされているわけだし。
432世界@名無史さん:2006/05/16(火) 07:24:02 0
そもそも王権と支配地が錯綜している欧州に、第○代国王という考え方はあるのか、という疑問。
433世界@名無史さん:2006/05/16(火) 09:38:55 0
>>432

錯綜しているからこそ、自分の正当性を何らかの形で
担保するものが必要になるんじゃないかなあ。
そこで出てくるのが、こういう系図の「偽造」なのでは。
434世界@名無史さん:2006/05/16(火) 10:37:00 0
>>431
西欧というかローマ教皇レオ3世は、イレーネを皇帝と認めず、シャルルマーニュを皇帝とした。

それから、ネポスは東ローマが承認した皇帝だが、ロムルスは承認していない。
西欧ではロムルスを認めているかは知らないが、
どちらにしてもネポス又はロムルスの後、西ローマ皇帝位がゼノンに返上され、
ゼノンが全ローマの皇帝となったと考えるのでは?
435世界@名無史さん:2006/05/20(土) 00:38:37 0
神聖ローマ帝国のはじまりは800年12月25日カール大帝の戴冠とするのが自然だろ
436世界@名無史さん:2006/05/20(土) 08:16:29 0
金印からでねーの?
437世界@名無史さん:2006/05/20(土) 11:59:54 0
最短は金印勅書1356-ウェストファリア条約1648だが、
普通はオットー大帝962-フランツ2世退位1806だろ
最長はBC753(745)-1806
438世界@名無史さん:2006/05/20(土) 12:31:46 0
最短は金印勅書        →確認
普通はオットー大帝戴冠     →神聖ローマ帝国のドイツ化
800年12月25日カール大帝戴冠  →はじまり
439世界@名無史さん:2006/05/20(土) 15:33:41 0
シャルルマーニュはローマ人の皇帝(南イタリア、バルカン、エジプト、小アジア他)、フランク人の王(フランス、ドイツ)、ランゴバルト人(北イタリア)の王だから、神聖ローマ(ドイツ、北イタリア)の始まりではないだろ

少なくともドイツ人でフランク王国を神聖ローマと同一視する奴は知らない
440世界@名無史さん:2006/05/21(日) 20:28:30 0
>>439
現在のドイツ人としては、そうかもしれないが、11〜12世紀のドイツ人としては、まだ、「神聖ローマ帝国」
という概念がなかったけど、「ローマ皇帝」のいる国として、
カールの皇帝とザクセン・フランケンの皇帝を同じ同一視していたと思うよ。
441世界@名無史さん:2006/05/21(日) 22:35:48 0
>>439-440
説明するのが非常にかったるいが、帝国観は時代によって大きく変化している。
ザリエル朝期にはシャルルマーニュを帝国の先駆者として大きく取り上げたが
シュタウフェン朝時代にはそれは下火になって、代わりにカエサルがクローズアップされてくる。
ザクセン朝時代はカロリング家はまだカロリング家の血統を継ぐ家門が複数あったので余り強調されなかった。
442世界@名無史さん:2006/05/21(日) 22:38:30 0
オットー三世はカール大帝をリスペクトしてアーヘンのカイザードーム(ユネスコ世界文化遺産)を
作ったんじゃなかったっけ?
従って紆余曲折はあったけどオットー(リウドルフィンガー)朝はカロリンガーの後継王朝という
風に認識されていたと思う。
ところでフランクフルトのレーマーには「皇帝の間」というものがあってそこには歴代神聖ローマ皇帝の
肖像画が掲げられているらしいけど誰からはじまってんの?
オットー大帝? その父のハインリヒ鳥刺し王? それともカール大帝?
ドイツへ行くことがあったらどちらも行ってみたいなあ。
443世界@名無史さん:2006/05/21(日) 23:25:58 0
>>442
ザクセン朝も前期と後期じゃ大きく変わります。
通常、後期はザリエル朝と連続して語られる事が多い。
444世界@名無史さん:2006/05/22(月) 00:38:02 0
>>442
カール大帝から始まって、スポレート公を挟んで
神聖ローマのフランツ2世まで計52人っぽ。
445世界@名無史さん:2006/05/22(月) 00:45:49 0
>>444
やっぱりね。
52人じゃオットー大帝からのスタートじゃ多すぎると思ってた。
じゃ(神聖)ローマ皇帝の系譜はシャルルマーニュの戴冠からはじまるといっても過言じゃないね。
446世界@名無史さん:2006/05/22(月) 00:46:53 0
>>442、443
この肖像画はそれぞれいつ書かれたものなの?
カールとか、オットーとかが、ほぼ同時代にかかれているなら、もっと
歴史書や美術書に掲載されているかと思うので、それはないかと
おもうが、同時代資料に近いのは、どの代からなんでしょう?
447世界@名無史さん:2006/05/22(月) 02:02:54 0
ローマ皇帝
800-814 カルロ・マーニョ フランク王
814-840 ルドヴィーコ1世 フランク王
840-855 ロターリオ1世  中フランク王
855-875 ルドヴィーコ2世 イタリア王
875-877 カルロ2世 西フランク王
881-887 カルロ3世 フランク王

891-894 グイード イタリア王(スポレート公)
896   ランベルト イタリア王(スポレート公)

896-899 アルノルフォ 東フランク王
901-915 ルドヴィーコ3世 プロヴァンス王

915-924 ベレンガーリオ1世 イタリア王(フリウリ公)

962-973 オットーネ1世 東フランク王


全員歴代神聖ローマ皇帝として肖像画があるの?
448世界@名無史さん:2006/05/22(月) 11:49:48 0
>>445
だから時代によって変わるってのが正解なんだって。
始祖が誰に置かれるかの変化だけで一本論文書けちゃうテーマ。
449世界@名無史さん:2006/05/22(月) 12:56:18 0
このへんが神聖ローマの捉えがたいところで、わからないから、関心と議論の的に
なるんだろうね。でも多くの国が近代的意味の国民国家でも、民族国家でも
なかったので、神聖ローマのありかたは、寧ろ国民国家的視点に流れやすい
先入観に対して、反対例の典型として、活用でき、有用かと思う。
450世界@名無史さん:2006/05/22(月) 13:28:49 0
皇帝はドイツ諸侯よりもオーストリアが一番多いの?
451世界@名無史さん:2006/05/22(月) 13:59:02 0
神聖ローマ帝国のあったうちは、オーストリア大公もドイツ諸侯の1人でしたが。
452世界@名無史さん:2006/05/22(月) 21:41:06 0
要するに神聖ローマ皇帝っつうか西ローマ皇帝の復活という事態は古代ローマ帝国の
正統後継国家である東ローマ帝国(ビザンチン帝国)に対し危機を感じたローマカトリック
教会がフランク人やザクセン人にお墨付きを与えたということなんだ。
ローマ教会に関してはそのフランク人やザクセン人に先行してランゴバルド族や東ゴート族
がいたのだが彼らにはそのような特権を与えていなかった。
どうしてそれがフランク人やザクセン人の族長を西欧世界の皇帝位にまで高めたのかという
ことが大きなテーマになってくると思うのだが。
453世界@名無史さん:2006/05/22(月) 22:10:02 0
>>452
大きいテーマでも何でもない。
ランゴバルド族や東ゴート族は東ローマを正統な皇帝として認めてたから
カトリックも何ら手を打てなかっただけの事。
ところで何が“ようするに”なの?
シャルルの戴冠は対東ローマではなくて、カトリックが自衛の為に先手を打ったんだけど。
454世界@名無史さん:2006/05/22(月) 22:16:42 0
単純な疑問。
歴代神聖ローマ皇帝で名君と呼べる人は誰々でしょうか?
455世界@名無史さん:2006/05/23(火) 00:10:02 0
>>454
オットー大帝・・・・・始祖だから
フリードリヒ1世・・・国内の反対勢力を一掃しイタリア半島を治めたから
フリードリヒ2世・・・シチリアはじめ南イタリアに勢力を拡大したから
ルドルフ1世・・・・・中興の祖、ボヘミアの王オタカルを破ったから
カール4世・・・・・・金印勅書
ジギスムント・・・・・帝国改革したから ハンガリーの王となり東欧への影響力を得たから
マクシミリアン1世・・ブルグンド公家と姻戚関係を持つことで中欧を支配したから
カール5世・・・・・・スペインの王も兼ねることにより大帝国を築きあげたから
456勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2006/05/23(火) 00:51:32 0
>>454
神聖ローマ皇帝としての業績で名君かどうかを判定する事は大変に難しいと思います。
>>455氏が何人か挙げられていますが、ほとんどは自家の利益の為の行動で
帝国が何か利益を得たわけではないからです。
457世界@名無史さん:2006/05/23(火) 01:00:25 O
フリードリヒ2世はシチリア国王としては名君
458世界@名無史さん:2006/05/23(火) 13:43:16 0
>>455のなかに神聖ローマ皇帝じゃないやつが一人いるぞ!!!
459世界@名無史さん:2006/05/23(火) 16:59:42 0
>>458
あのな、別に教皇による戴冠は必要条件じゃないぞ。
460世界@名無史さん:2006/05/23(火) 17:20:07 0
>>459
それはマクシミリアン以降のことで、
ルドルフ1世は皇帝に即位していないとみなすのが普通だと思うが。
461世界@名無史さん:2006/05/23(火) 17:59:09 0
>>460
残念無念。ドイツ諸侯共通のコンセンサスとして“皇帝は教皇の戴冠が必要”なんてのが
形成された事は一度もない。教皇の戴冠が一種の宗教的権威を帯びてた事は事実だけどね。
あれは常にローマ側が一方的に主張してただけの話で、両者の力関係によって変化し続けた。
462勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2006/05/23(火) 18:03:35 0
>>460
彼は情勢が許さなかったせいで戴冠こそしていませんが、大空位時代を終わらせた皇帝として見做されるのが普通です。
そもそもルドルフ1世が選出された選挙自体、教皇の要請によって行われているわけで
戴冠していないという事は彼の権威を何ら損ねる物ではありませんでした。
463460:2006/05/23(火) 18:24:49 0
>>461-462

例えば下のサイトを始め、手元の詳しい系図にもルドルフについては「皇帝」とは書かれていない。

ttp://www.derhistoriker.de/mittelalter/99+Struktogramm_Roemisch-Deutsches_Reich_bis_1519_big.pdf

そりゃ実質ルドルフが支配者であったことは認めるが、
実際にルドルフがカイザーやインペラトールを名乗ったことは無いのだろ?
簡略化した系図や歴史書ではルドルフを皇帝としてカウントしているけど、
ちょっと詳しい本では、ルドルフを皇帝と呼称することを避けているじゃないか。

ちないに>>458で茶々を入れたのは自分じゃない。
464世界@名無史さん:2006/05/23(火) 19:24:09 0
>>463
何も言わずに勉強をやり直せ。
君は“中世の皇帝概念”を理解できてないようだから、下手に資料読んだって逆効果。
ルドルフは、別に彼に限った話ではないがimperaturaを備えていた。
適法な選挙は選出された者にこれを与えるとされていたから。
465世界@名無史さん:2006/05/23(火) 19:42:44 0
ルドルフ1世が皇帝じゃないと言い出したらザリエル王朝のコンラート2世も
皇帝じゃないということになっちゃうぞ。
466世界@名無史さん:2006/05/23(火) 20:00:41 0
>>464
国王選挙で選ばれた者に帝国の支配権を与えるとしたのは、
Rhenseの布告以降の話だろ?

>>465
コンラート2世は皇帝どころか、イタリア王、ブルグント王としての即位式を行っている。
皇帝の戴冠式を行っていないのはコンラート3世と4世
467世界@名無史さん:2006/05/23(火) 20:12:15 0
>>466
違うよ。ドイツ国王(という言い方も語弊があるが)がイタリアやブルグントの王位を兼ねているのが
“帝国”だから、その領域の支配権は国王に選出されれば自動的に与えられた。
その権利の事をimperatura、即ち皇帝的支配と呼ぶわけだ。
(的が付いてるから皇帝じゃないよ、とかくだらない事は言うなよ、単なる訳語なんだから)

教皇の戴冠が必要という理論は、1202年に出された教令を曲解して作り出したものに過ぎない。
468世界@名無史さん:2006/05/23(火) 20:20:26 0
限られた知識しかないくせに断定的に言い放てるおまえらは素敵w
469勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2006/05/23(火) 20:22:11 0
>>466
レンスの選定侯会議が出した結論は、国王を多数決の原理で選出し、教皇は
そこにいかなる形でも介入する権利を持たないという事です。
帝国の支配権云々は言及されていません。
そもそも帝国の国制上、皇帝と国王の権利に違いはありません。
ザクセンシュピーゲルでは両者は同一の存在、同義語として扱われていますよ。
470世界@名無史さん:2006/05/23(火) 22:12:29 0
皇帝といっても別にフランス王やイングランド王に対して影響力があったわけじゃないからな。
ドイツとイタリアの限られた地域にしか影響力を持たなかった皇帝なんだよ彼らは。
フランスやイングランドのような西欧諸国は国王を中心とする中央集権化が進みつつあったから
皇帝はその地においてますます影響力を失い自ずとオーストリアとかハンガリー、ベーメン、
ポーランドなど東欧に向かわざるをえなくなったんだな。
471世界@名無史さん:2006/05/24(水) 00:38:46 0
皇帝戴冠を神聖ローマ皇帝の在位年として書いてある本があるけど、
それをみると、結構神聖ローマ帝国へのイメージすら変わってきちゃうから不思議。
戴冠を在位年の定義と仮定すると、
コンラート3世、ハインリヒ7世、ルドルフ1世、アルブレヒト1世、ヴェンツェル、
アルブレイトA世などが皇帝ではないことになる。

で、「戴冠」の、政治上の影響力がまったく0だったかというと、そういうこともなく、
ある意味駆け引きの道具だった側面もあり、神聖ローマ皇帝の実質と、形式の話の議論は
奥が深いといえる。戴冠している皇帝としてない皇帝では、後継者含め、政治の局面に
おいては、意味のある差異となることもあった。

とはいえ、ドイツ王=皇帝の権力だったわけではないが、ドイツ王の称号だけで、
実質皇帝、というのは何人もいたと思う。
権力の大きさ
472世界@名無史さん:2006/05/24(水) 00:47:31 0
レンゼの布告のラテン語原文を見つけたが、確かに

(2) 多数決でローマ王に選出された人物はローマ皇帝となるということ
(3) ローマ教皇の不介入

については述べているが、某日本語の解説書に載っていたのとは違い、
皇帝の支配権については述べてはいないな。
ttp://www.erlangerhistorikerseite.de/quellen/rw_frame.html

国王選挙に関するザクセンシュピーゲルは、変な低地ドイツ語でいまいち読めないが、
七選定侯の名前がすでに羅列されていて、koningeを選ぶと書いてある。
ttp://www.erlangerhistorikerseite.de/quellen/rw_frame.html
473世界@名無史さん:2006/05/24(水) 00:53:04 0
474世界@名無史さん:2006/05/24(水) 01:06:39 0
>>467
そのimperaturaという単語の初出はどういう文献なんだ?
とりあえず手元のラテン語の辞書には載っていなかった。

(動詞impero「命令する」の活用語尾は除いて)
475世界@名無史さん:2006/05/24(水) 01:51:52 0
>>471
皇帝に戴冠しなくても後継者指名は出来るぞ。オットー1世なんかその好例。
選挙前の公約で後継者指名権を放棄したかどうかが肝。
つまりあくまでも国王or皇帝対他勢力との力関係で全ては決まる。
近代のように国制が確定してる国家を想像するとドツボにはまるから注意。
つかそこまで戴冠に拘る必要はない。皇帝戴冠の政治的駆け引きをテーマにしない限りはね。
というわけで
>ドイツ王=皇帝の権力だったわけではない の意味が分からない。
皇帝とドイツ王の実質的な権限には何ら違いは無いぞ。

>>474
学部時代の研究ノートを引っ張り出して見た。
imperatumの活用で皇帝の支配、統治権を意味する用語。
ドイツ帝権やると出て来るから、ミッタイスにも載ってる筈。
中世の国制か王権の項を探せ。
476世界@名無史さん:2006/05/24(水) 01:53:30 0
次に挙げる対立王たちはどうなの?

ルドルフ・フォン・ラインフェルデン
ザルム伯ヘルマン
下ロートリンゲン公コンラート
オットー4世(ヴェルフェン家の)
ハインリヒ・ラスペ
オランダ伯ウィレム
フリードリヒ3世(美王)

皇帝になった奴いる?
477世界@名無史さん:2006/05/24(水) 01:59:48 0
教皇による戴冠によって皇帝になる、なんて公式がクローズアップされたのは
叙任権闘争の教会側勝利に始まる教皇権の絶頂期〜金印勅書位のもんで実に短い。
だから戴冠してないから皇帝じゃない、なんて論理は実態知らないだけとしか言えないよ。
研究者はそれを分かった上で宗教的権威が与えた影響を探るというテーマに基づいて議論してるので
ちょっとかじっただけだと勘違いする罠。
478世界@名無史さん:2006/05/24(水) 02:35:26 0
>>477
>叙任権闘争の教会側勝利に始まる教皇権の絶頂期〜金印勅書位のもんで実に短い。

ルドルフ1世にせよ、>>475に含まれる大部分が、その時期に当たるぞ。

あとimperoの未来分詞形ならともかく、imperatumの格変化にimperaturaはない。

479世界@名無史さん:2006/05/24(水) 08:28:21 0
皇帝即位に教皇の関与が必要なくなったのはマクシミリアンの時代から。
それ以前は選挙で選ばれてもローマ王でしかない。
でも、ローマ王と皇帝の権限の違いはなかった。
480458:2006/05/24(水) 09:28:56 0
相変わらずよく釣れる話題ですね。
481世界@名無史さん:2006/05/24(水) 10:20:58 0
>>471
結局のところ、本人が皇帝と名乗ったかどうかでは?

例えばルドルフ1世が皇帝と名乗ったのなら皇帝で良いだろうし、
ローマ王と名乗ったならローマ王、ドイツ王と名乗ったならドイツ王でしょ。

実質的な権限には何ら違いはなくても、カエサルは独裁官で皇帝とは呼ばないでしょ。
482世界@名無史さん:2006/05/24(水) 11:44:49 0
>>478
簡単に言うと既出だが、それが固定観念になった時代なんて無いって事。
選挙された君主は皆、例外なくアウグストゥスの称号使ってるよ。
あとはそれを誰が認めるかという問題になってくるだけの話で帝国法で何かが決まってたわけじゃない。
だからオットー1世から連綿と神聖ローマ皇帝は存在していた事になるわけ。
>>458は半可通だな。
483世界@名無史さん:2006/05/24(水) 23:11:38 0
>>482
それを言うならシャルルマーニュから連綿とだろ
484世界@名無史さん:2006/05/25(木) 12:24:02 0
シャルルマーニュからだと連綿とはいえないよな。
途中何度も断絶してるし。
485世界@名無史さん:2006/05/25(木) 20:20:29 0
>>482
中世っていうのは儀式が大事な時代だぞ。
アーヘンでの戴冠式によってローマ王になり、ローマでの戴冠式により皇帝となる。
486世界@名無史さん:2006/05/25(木) 22:41:02 0
>>485

アーヘンとローマは固定ではない。

あとマクシミリアン以降は(カール5世の2度目を除き)教皇を呼ばずに戴冠式を行っている。
487世界@名無史さん:2006/05/26(金) 01:18:59 0
そこでドイツ国民による神聖ローマ帝国(Heiliges römisches Reich deutscher Nation)の誕生なんですよ。
488世界@名無史さん:2006/05/26(金) 02:20:48 0
ttp://www.dmgh.de/dmghband.html?bsbbandname=00000442&frameaction=bandansicht
オットー1世は国王選挙で選ばれて死ぬまで466の公文書を残している。
国王に選ばれた936年以降最初の10編の公文書を読んでみると、文書の冒頭は
Otto divina favente clementia rex.
Otto divina faaente clementia rex.
Otto divina largiente clemetia rex.
Otto dei gratia rex.
Summe divinitatis nutu disponente Otto rex.
Otto divina annuente clemencia rex.
Otto divina propiciante clementia rex.
などで始まり、
Signum domni Ottonis serenissimi regis.
Signum domni Ottonis invictissimi regis.
anno domni Ottonis serenissimi regis I;
で〆ている。つまり国王と称している。
489世界@名無史さん:2006/05/26(金) 02:25:03 0
961年8月15日に登場する233番目の公文書で、初めて

Otto fivina favente clemencia imperator augustus.
Signum domni Ottonis (M.) piissimi imperatoris.

と称しているが、961年12月3日の234番目の公文書では、再び
Otto divina favente clementia pius rex.
Signum domni Ottonis (M.) invictissimi regis.
に戻っている。

ローマで皇帝戴冠式を終えた962年2月13日の235番目の公文書では、
Ego Otto dei gratia imperator augustus 〜.
Signum domni Ottonis serenissimi imperatoris 〜.
と皇帝を称している。以降は、

Otto divina favente clementia imperator augustus.
Signum domni Ottonis invictissimi imperatoris.

Otto divina favente clemencia imperator augustus.
Signum domni Ottonis imperatoris serenissimi augusti.

Otto divina favente clementia rex.
Signum domni Ottonis serenissimi regis.

など、国王、皇帝の称号を交互に使っている。
490世界@名無史さん:2006/05/26(金) 02:28:19 0
ttp://www.dmgh.de/dmghband.html?bsbbandname=00000455&frameaction=bandansicht
皇帝の戴冠を受けなかったコンラート3世の場合、298編の公文書を残している。

国王に選ばれた直後の最初の公文書(1129年7月14日ミラノ)では
Ego cunradus dei gratia Romanorum rex augustus.と皇帝を称しているが、
すぐにロタールの軍門に下り、しばらくの間文書が残っていない。

再びコブレンツで国王に選ばれた後の、二つ目以降(1138年4月8日)の文書では、
Cunradus divina favente clementia Romanorum rex secundus.
Signum domini Cunradi Romanorum regis secundi.

Conradus divina largiente clementia rex Romanorum II.
Signum Conradi Romanorum regis secundi.

Cunradus divina favente clementia rex Romanorum III.
Signum domini Cunradi Romanorum regis tertii.(1138年の途中から3世を称する)
などと称し、以降一度も皇帝を称していない。
491世界@名無史さん:2006/05/26(金) 02:42:48 0
ttp://www.dmgh.de/dmghband.html?bsbbandname=00000452&frameaction=bandansicht
ハインリヒ4世の場合、皇帝の戴冠を受ける前のアグネス摂政時代、

Hinricus IIII imperator et Agnes imperatrix 〜.

で始まる文書を残している。このほか、『国王かつ皇帝』などと書いた文書も残っているが、
皇帝として戴冠を受ける前のハインリヒ4世のサイン入りの文書は残っていないようである。
492世界@名無史さん:2006/05/26(金) 02:52:38 0
ttp://www.dmgh.de/dmghband.html?bsbbandname=00000464&frameaction=bandansicht
大空位時代のホラントのヴィルヘルムの場合は、

Wilhelmus dei gratia Romanorum rex semper augustus.
Wilhelmus dei gratia Romanorum in regem electus semper augustus.

などと常に、ローマ王かつ皇帝を称している。
493世界@名無史さん:2006/05/26(金) 03:12:26 0
てか、ハインリヒ・ラスペも一生懸命皇帝を称していた。

Heinrich dei gratia Romanorum rex semper augustus
Heinrich dei gratia Romanorum rex et semper augustus universis Christi

ttp://mdz1.bib-bvb.de/~db/bsb00000448/images/index.html?seite=11
コンラート2世の場合、皇帝戴冠を受けるまでは、
Chunoradus divina favente clementia rex.
Signum domni Chuonradi secundi (M.) regis invictissimi.

Chunradus divina favente clementia rex.
Signum domni Cvonradi regis (M.) invictissimi.

Chuonradus divina favente clementia rex.
Signum Chuonradi secundi invictissimi regis. (M.)

コンラート2世がローマで戴冠式を挙げた直後の72番目の公文書(1027年3月28日)で、
初めて皇帝を称している。

Chuonradus divina favente clementia
Signum domni Chvonradi serenissimi imperatoris augusti. (M.)

以降は大体ローマ皇帝というサインが大部分。
Signum domni Conradi (M.) Romanorum invictissimi imperatoris augusti.
494世界@名無史さん:2006/05/26(金) 03:18:09 0
大空位時代以前の他の皇帝の公文書も、
Monumenta Germaniae Historicaのサイトから読めるが割愛。
残念ながらルドルフ1世以降の公文書は収録されていない。

こうやって並べて見ると、政治的に余裕のある皇帝は、
皇帝の戴冠を受けるまではimperator augustusを称さないが、
政治的に余裕のない皇帝は、さっさと皇帝を自称しているように見える。
495世界@名無史さん:2006/05/26(金) 18:18:47 0
Otto divina favente clementia rex.

神聖な加護を受けた寛容な王オットー?

何処の王とは書かないのね?
496世界@名無史さん:2006/05/26(金) 21:23:00 0
コンラート3世の競争相手だったロタール3世の場合、
ttp://mdz1.bib-bvb.de/~db/bsb00000454/images/index.html?seite=32

Ego Lotharius divina favente gratia rex.
Signum Lotharii serenissimi regis.

Ego Lotharius divina favente gracia Romanorum rex.
Signum Lotharii gloriosissimi et serenissimi regis.

Lotarius tercius divina favente clementia Romanorum rex.
Signum Lotarii tertii Romanorum regis.

皇帝の戴冠式を行うまでは、王、またはローマ王を称していた。

1132年の不明の日付に出た44番目の公文書で、初めて皇帝を名乗ったことになっている。

Lotharius divina favente clementia Romanorum rex augustus.
Signum domni Lottharii tertii Romanorum regis invictissimi.

だが、その後の公文書では48番目まで総て王rexを名乗っている。

ロタールは1133年6月4日に皇帝としての戴冠を済ませたが、
1133年の不明の日付に出た49番目の公文書では、皇帝を名乗っている。

1133年7月10日の50番目の公文書では、
Lotharius divina favente clementia tertius Romanorum inperator augustus 〜.
Signum domni Lotharii dei gratia tertii Romanorum imperatoris invictissimi semper augusti.

以降131番目の公文書まで、ずっとアウグストゥスを称してる。
497世界@名無史さん:2006/05/26(金) 21:25:32 0
取り合えずミネルヴァ書房から出ている「西欧中世史事典U」を読め。
全てはそれからだ。
498世界@名無史さん:2006/05/26(金) 23:34:21 0
このスレ勉強になるなぁ。
499世界@名無史さん:2006/05/27(土) 10:03:01 0
>>497
そんな良い本だったっけ?
ドイツ語の国史を何か読んだ方が手っ取り早いよ
500世界@名無史さん:2006/05/27(土) 22:33:20 0
ドイツ語の本が読めるくらいだったら、ここで質問なんてしてないよ。
いやな奴
501世界@名無史さん:2006/05/27(土) 23:53:04 0
取り合えずドイツ語、ラテン語、イタリア語を学べ。
全てはそれからだ。
502世界@名無史さん:2006/05/28(日) 09:35:56 0
史学科の現役なら独語はもちろんのこと場合によっては羅語の学習は
必要だと思うが西洋史の他の分野に比較して不当にもこの時代はあまり
日本では紹介されていないような気がする。
それなりにこの分野に関する日本人研究者はいるのだが専門書や訳書の
少なさを鑑みるとどうも彼らの怠慢であるように思えて仕方がない。
503世界@名無史さん:2006/05/28(日) 11:07:29 0
興味ない人の西洋史

古代ローマ終焉

暗黒時代w

中世ローマ滅亡とルネサンス

大航海時代(絶対王政〜革命)

産業革命と世界大戦


誤った人のドイツ史

ゲルマン大移動

無人地帯w

プロイセン(1)

ドイツ帝国(2)

第三帝国(3)
504世界@名無史さん:2006/05/29(月) 10:54:35 O
自分は史学科中退でドイツ語もバイトが忙しくてまたもにやらなかったからな
でも初歩のドイツ語で専門的な歴史文献読める?
読めたとしても和訳に時間かなりかかるでしょう?
505世界@名無史さん:2006/06/02(金) 23:47:51 0
「神聖ローマ帝国ーッ」名前の響きではNO,1じゃないか
506コヨーテ ◆Coyote7ZPM :2006/06/03(土) 00:23:26 0
レディオヘッドの歌詞に出てくることは内緒だ
507世界@名無史さん:2006/06/03(土) 11:51:49 0
素人というか無知無学の徒は、
神聖ローマ帝国は教皇庁の前身で、ムッソリーニによって滅ぼされたくらいに思っている
508世界@名無史さん:2006/06/03(土) 18:55:33 0
>>神聖ローマ帝国は教皇庁の前身で、ムッソリーニによって滅ぼされたくらいに思っている

さすがにそんなむちゃくちゃなやつはいないだろ。
509世界@名無史さん:2006/06/03(土) 19:10:43 0
>>507という無知無学の徒がいるじゃないか。
510世界@名無史さん:2006/06/05(月) 12:51:45 0
中世ドイツでフェーデの有名な例ってどんなのがありますか?
511世界@名無史さん:2006/06/05(月) 23:15:05 0
>>510
シュタウフェン家とヴェルフェン家の闘争なんか有名。
というか中世だと十字軍以外にフェーデじゃない闘争探す方がメンドい。
512世界@名無史さん:2006/06/06(火) 06:50:59 0
無知無学の徒は神聖ローマ帝国なんて知らないさ
ムッソリーニを知ってるかも怪しい。
イタリアの隣はロシアだとか、平気で言うぞ
513世界@名無史さん:2006/06/06(火) 06:53:47 0
「神聖ローマ帝国」ってスペースオペラかロボットアニメの敵役か?
なんて思ってたりして。
514世界@名無史さん:2006/06/06(火) 07:06:57 0
>>511
ありがとうございます。
なんか「シカルのフェーデ」のようなご近所レベルの殺し合いが
ほとんどかと思ってました。
515世界@名無史さん:2006/06/06(火) 21:37:01 0
アニメ「銀河英雄伝説」なんか明らかに神聖ローマ帝国を意識しているからな。
登場人物のルドルフ大帝なんてまさにそう。
516世界@名無史さん:2006/06/13(火) 03:10:32 0
あれ第三帝国だろ
517世界@名無史さん:2006/06/15(木) 12:44:51 0
第3帝国だったらルドルフ大帝ではなくてアドルフ大帝になると思うが・・・
518世界@名無史さん:2006/06/21(水) 04:23:37 0
人種政策とかはモロにナチス
519世界@名無史さん:2006/07/08(土) 18:46:02 0
月例叙任に上がりました。
520某研究者:2006/07/20(木) 10:31:20 0
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4886299121/249-9765373-2022736?v=glance&n=465392
カルロス5世が
平和を望んで居たと言うのは
事実なのかどうかだが
イタリア戦争は侵略戦争では
無い訳だろうか

プロテスタント弾圧等も
戦争を回避する為の
物なのかどうかだが
最終的に和解はして居る
訳だろうか

カルロス5世もその気に成れば
仏を完全に打倒出来たかも
知れぬが
此れをやらなかったのは何故なのだろうか

仏を倒せば
仏から独等のプロテスタントへの
支援も止まるかも知れぬし
欧州の混乱は終息出来たと言う
可能性も有る訳だろうか
521世界@名無史さん:2006/07/20(木) 11:06:24 0
倒すってゲームじゃないんだからwww。
522某研究者:2006/07/20(木) 18:22:44 0
http://www.amazon.co.jp/gp/product/488202988X/249-9765373-2022736?v=glance&n=465392&adid=0EC7E22GPDYBS9AN4WP4&camp=243&creative=1615&link%5Fcode=as1
フェリペ2世も悪役では無いと言う
意見も有るだろうが
能力的にはカール5世同様に
問題が有った訳だろうか
523某研究者:2006/07/20(木) 18:23:58 0
エリザベスやドレークが
プロテスタントを弾圧し
植民地から収奪をした
人間を倒した善等と言う解釈は
矢張りどうなのかだろうが
524某研究者:2006/07/20(木) 18:33:53 0
プロテスタントを認めれば
オランダ独立も無かったかも知れぬが
英の略奪は続いただろうから
英国攻撃は不可避だったのかも知れぬが
オランダが妨害せねば英海軍に勝てたのか
どうかだが
525世界@名無史さん:2006/07/20(木) 19:05:42 0
>>521
某研究者って電波のような長文レスの割に内容が薄い事が特徴のコテ。
スルー推奨。
526世界@名無史さん:2006/07/30(日) 11:43:19 0
13世紀のモンゴル侵攻の際にロシアやポーランドの難民が
ザクセン、チューリンゲン、マイセン地方に流入したらしいけど
その後どうなったんだろう?
527世界@名無史さん:2006/07/31(月) 13:44:08 0
高級豚肉として王侯の食卓に上りました。
528世界@名無史さん:2006/08/28(月) 22:52:34 0
age
529世界@名無史さん:2006/09/09(土) 12:27:15 0
13世紀には民族主義はないから
530世界@名無史さん:2006/09/17(日) 01:43:15 0
【イスラム】ローマ法王「聖戦(ジハード)批判発言」問題 「謝罪が不十分」と反発続く トルコは因縁の法王訪問拒否の動きも
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1158424487/l50
ベネディクト16世が法王に選ばれる前の枢機卿時代、トルコの欧州連合
(EU)加盟に反対したことも、今回のトルコの激しい反応の背景にある
ようだ。

5 :名無しさん@6周年:2006/09/17(日) 01:37:29 ID:KEF0Ojut0
トルコ訪問する前に東ローマ帝国皇帝の発言を引き合いに出して
イスタンブールを奪ったオスマントルコの批判したら怒るにきまってるだろ
アホかこの教皇

531世界@名無史さん:2006/09/23(土) 13:15:39 0
〓■金槌を持ってマリヤ像を一瞥する■〓
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1148106206/1
532世界@名無史さん:2006/09/23(土) 18:14:04 0
神聖でもローマでも帝国でもない国
それが神聖ローマ帝国。
533世界@名無史さん:2006/09/24(日) 01:59:29 0
>>532
しかしそれゆえに神聖であり、ローマであり、帝国であった。
534世界@名無史さん:2006/10/16(月) 22:31:28 0
age
535タキトゥス:2006/10/18(水) 02:08:42 O
蛮族ゲルマーニー人ごときがローマを名乗るとは僭越な!
536世界@名無史さん:2006/10/18(水) 14:00:04 O
ドイツが地名に過ぎないならやはりあれはユニット名なのかも。
537世界@名無史さん:2006/11/07(火) 22:46:55 0
age
538世界@名無史さん:2006/11/10(金) 13:23:16 0
16世紀のドイツについて書いてある本があったら何でもいいので教えてください。
539世界@名無史さん:2006/11/14(火) 17:59:35 0
どういうレポート書くの?
540世界@名無史さん:2006/11/14(火) 21:43:31 0

>538

今、俺が読んでいる本。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/406149712X




俺にも何かお勧めして下され

541世界@名無史さん:2006/11/15(水) 13:24:48 0
「ドイツ傭兵の文化史」も16世紀でしょう。
ランツクネヒトの盛期って15世紀末から16世紀後半だよね?
542世界@名無史さん:2006/11/15(水) 14:18:13 0
入門書としてはこれがいいと思う。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4000270974/
543世界@名無史さん:2006/11/16(木) 17:51:37 0
挿し絵がいっぱいあるやつがいいね
544世界@名無史さん:2006/11/17(金) 01:10:32 0
>>539
レポートじゃないんですけど、大航海時代・・・というか戦国時代当時の
世界各国の状況に興味が沸いたので。
>>540-542
ありがとうございます。
「宗教改革の真実」から読んでみます。
545世界@名無史さん:2006/12/18(月) 23:00:58 0
age
546世界@名無史さん:2006/12/27(水) 00:52:16 0
タシロ
547世界@名無史さん:2007/01/13(土) 04:32:36 0
有名:田代
ガノタに有名:タシロ・ヴァゴ
歴史オタにもマイナー:バイエルン部族公タシロ3世
548世界@名無史さん:2007/02/02(金) 13:53:59 0
スレ違い質問だけどage

講談社現代新書「神聖ローマ帝国」これ読んだんだけど、P51のザクセン朝成立の部分の記述に
「こうしてカロリング家とは縁もゆかりもないどころか、そもそもフランク人ですらないザクセン人が
王朝を開くことになる。」とあるけど、じゃあユーグ・カペーはカロリング家に縁があるの?フランク人なの?
詳しい人教えて
549世界@名無史さん:2007/02/02(金) 14:27:27 0
>>548
ユーグ・カペーの妻はカロリング家。縁は一応ある。
つっても、ハインリヒ1世は母ちゃんがカロリング家なんだから圧倒的に縁もゆかりもあるわけだがな。
550世界@名無史さん:2007/02/02(金) 22:04:42 0
てことは『神聖ローマ帝国』は正確無比というわけでもないってことか。けっこう面白かったからいいけど。
551世界@名無史さん:2007/02/02(金) 22:36:00 0
俺も読んだけど、勢いにまかせて割と適当なことを書いてる部分も散見された。
まあ、確かに面白かったし、流れを掴む分にはいいんじゃね?
552548:2007/02/03(土) 14:41:05 0
>>549
レスありがとう
553世界@名無史さん:2007/02/05(月) 13:41:21 0
菊池良生さんの問題点は、ここ最近のドイツ史の動向をまったく抑えれてないこと。
たぶんこの人帝国改造とか知らないんじゃないか?
面白いし読みやすいだけに残念……
554世界@名無史さん:2007/02/26(月) 11:33:04 O
森進一の騒動をみてカノッサの屈辱を思い出した
555世界@名無史さん:2007/02/26(月) 14:57:49 O
その時、余程の事がなければローマにいなければならないはずの教皇は
愛人のマティルダの居城のカノッサで逢い引きしついた
(余談だがマティルダの夫は妻と教皇が密通していることを言いふらし
教皇の刺客に暗殺された)
それに皇帝ハインリヒ4世はこれからドイツへ戻り、教皇に猛反撃している

これが森氏との違い
556世界@名無史さん:2007/02/26(月) 15:00:34 O
>>555
引きしついた→引きしていた
557世界@名無史さん:2007/03/02(金) 01:10:41 0
962年から1806年までの通史かよ。
そんなもん詳しく書ける歴史家っているのかね?
あちらでもG・バラグラフなどがいるけど専門は近代以降の人やからね。
帝国改革などは少なくとも中世後期から近世にかけての専門家で法制史
に詳しくないと書けんよ。
中世後期の帝国改革に詳しい現役の歴史家なら池谷さん辺りだと思うが
果たして彼がそんな962年から1806年までの長きに渡るドイツ史の通史を
書くかなあという問題なんだな。
菊池さんって人は専門分野もよく知らないのだがこのような通史をよく
書かれたと思うよ。
558世界@名無史さん:2007/03/06(火) 11:12:42 0
つまり菊池はよくやってるが岩波ヨーロッパ史入門の『神聖ローマ帝国 1495-1806』を読んでおけってことか?

いやねえ、確かに菊池良生は歴史が専門じゃないんだよ。新書の紹介によると文学が専門らしい。
でもそれは言い訳にならんだろ。金取って本出してるんだから。つまりプロなんだよ。
帝国改造とはいわないまでもヴェストファーレンを死亡診断書とか言う戦前歴史観のままじゃ、ちょっとな。

通史を書いたのはすごいと思うし、確かに菊池さんの本は読みやすくて面白い。
専門の歴史家ってクソみたいな文書く人いるしな。
でも面白いからこそ、もうちょっと最近の歴史学ふまえてくれよと思うわけよ。
559世界@名無史さん:2007/03/06(火) 12:21:10 0
ま、上見たらキリがないってことで
560世界@名無史さん:2007/03/09(金) 22:04:50 0
>岩波ヨーロッパ史入門の『神聖ローマ帝国 1495-1806』を読んでおけってことか?

近世以降を専門にする人ならお勧めかも知れないが中世をやっている人にとっては正直あまり興味のないところなんだな。
中世ドイツ史を専門とする先生は日本にも何人かいるんだけど法制史、経済史、宗教史などといったように専門化して
この時代をトータルに研究するという人があまりいないんだよな。
この帝国の各王朝の血統原理や選挙王制を研究する専門家がいると面白いんだけどな。
561世界@名無史さん:2007/03/09(金) 23:05:10 0
ま、帝都は選挙で変わっても、聖都はローマですからな。
562世界@名無史さん:2007/03/11(日) 20:54:43 0
皇帝、貴族は血統が重視されますが、教会にそんなものはありませんからな。
563世界@名無史さん:2007/03/15(木) 22:29:20 0
保守
564世界@名無史さん:2007/03/16(金) 05:15:15 0
>>562
教皇位も長いことローマの名門貴族の持ち回りだったがな。
565世界@名無史さん:2007/03/16(金) 19:57:23 0
つーか、各地の司教以上の聖職者は殆どが貴族出身じゃなかったっけ?
566世界@名無史さん:2007/03/24(土) 22:43:31 0
そうです
567世界@名無史さん:2007/03/26(月) 13:38:17 0
>>560
中世ドイツを知るのにいい本ってご存じありませんか。
『神聖ローマ帝国 1495-1806』も面白かったけど、ホーエンシュタウフェン朝や大空位時代をもっと知りたい。
568世界@名無史さん:2007/03/26(月) 17:35:03 0
「騎士の時代」(法政大学出版局)でも読んでおけ
569世界@名無史さん:2007/04/01(日) 00:15:40 0

ニューヨークのブルックリンにオデッサと呼ばれる地域がある。ロシアン・マフィアの
集住する地域で、彼等の多くがウクライナの南端オデッサ出身であり、 故郷の名を
冠してそう呼ばれている。彼等は石油密輸に従事する石油マフィアである。

ロシアン・マフィアの故郷、黒海を望むオデッサの町では、所々で古代ローマの
詩人の詩を刻んだ石碑に出会う。海洋都市、古代ローマ帝国の船舶が寄港する
ローマの衛星港湾都市としてオデッサが繁栄して来た事が分かる。

フランスの古語にロマン語という言語がある。ロマン語で書かれた物語をロマンス
と呼び、現在では恋愛小説の代名詞となっている。このロマン語を話すロマン人を
英語読みでルーマンと呼び、ルーマンの作った国をルーマニアと呼んだ。

ロマン語を話す人々を古くはラテン語でア・ロマンと呼び、彼等が香水を良く使う事
から「香り」の事をアロマと呼ぶようになる。このア・ロマン=アルマンの作った国が
英語読みでアルメニアになる。 アルメニアもルーマニアも、フランスの東方への
植民地であった事が分かる。

1917年、ロシア革命で滅ぼされたロシア帝国はロマノフ王朝であった。
ロマン人の国ロマノフは古代ローマ帝国を引き継ぎ復活させるという意味であった。

フランス・ルーマニア・アルメニア・ロシアのロマノフを結んでいたのは古代ローマ
帝国を復活させようというロマン人のネットワークであり、オデッサにあったローマ
帝国の詩人の石碑は、オデッサがこのロマン人のネットワークの一環として貿易
の要になって来た事を示していた。

古代ローマ帝国は東・西ローマ帝国に分裂した後、早々に西ローマ帝国は滅び
分裂し東ローマ帝国はビザンツ帝国として生き残る。一方ローマ帝国の皇帝と
激しく対立したローマの富裕貴族は、イタリアのベネチアに自分達だけの帝国を
作り上げる。自分達が対立していたローマ皇帝の末裔ビザンツ帝国には一緒に
住めないという形になる。
570世界@名無史さん:2007/04/01(日) 00:16:55 0

当初ベネチアはビザンツ帝国の出先機関としてビザンツの行う地中海貿易を担い、
地中海の警備を担当する。しかし地中海貿易で豊かになったベネチアは銀行業
で莫大な富を蓄え、遂に敵であったオスマン・トルコと組みビザンツ帝国を滅ぼす。

ここにローマ帝国ロマン人に寄生しながら、最後は寄生主を裏切り滅ぼした
ベネチア金融業と、ローマ帝国ロマン人との怨念の関係が決定的となる。
このベネチア金融業の中核にいたのがユダヤ人銀行家であった。

ローマ帝国の衛星都市として栄えてきたオデッサは、またユダヤ商人の商業都市
としても栄えて来た。オデッサのユダヤ商人。その背景にはローマ帝国とベネチア
帝国の因縁の対立という歴史があった。

オデッサの公立図書館で古い資料を漁っていると、黒海最大規模の港湾都市
オデッサの港を整備したのが石油企業オクシデンタルであると古い公共工事の
出納帳に記載が出て来た。

環境保護を訴えるアメリカの元・副大統領アルバート・ゴアの会社オクシデンタルが、
米国の敵国であったソ連の石油をこのオデッサの港から密輸していた。そのために
ゴア一族は自分の手でオデッサの港を整備していた。

オクシデンタルの会長アーマンド・ハマーの父は、オデッサ生まれでオデッサ育ちの
ユダヤ人であった。オクシデンタルはこのオデッサの代表的ユダヤ系企業として、
ロマノフ王朝の後継者ソ連の石油に寄生して来たとも言える。

このゴアの密輸石油を、オデッサ港から運び出していたタンカー企業ラファルジュ
の弁護士が、次期大統領候補ヒラリー・クリントンである。

石油、鉱物資源マフィアのマーク・リッチ等とゴアが弁護士を共有してきた歴史的
背景には、オデッサ出身のユダヤ系ロシアン・石油マフィアと全く同じ石油密輸
ビジネスをゴアが行って来た事から来ていた。次期大統領候補ヒラリーも同類である。
571世界@名無史さん:2007/04/07(土) 05:38:38 0
なにこの電波
572世界@名無史さん:2007/04/09(月) 03:17:43 0
>>530
オスマンじゃなく聖戦批判だろ
573世界@名無史さん:2007/04/09(月) 21:18:19 0
関係ないことだ
574世界@名無史さん:2007/04/26(木) 08:58:22 0
         ____         
       /      \        
      /  ─    ─\  バチカンに通報してやったお・・・
    /    (●)  (●) \               
    |       (__人__)    | ________    
     \      ` ⌒´   ,/ | |          |  
    ノ           \ | |          |  
  /´                 | |          |  
 |    l                | |          |
 ヽ    -一ー_~、⌒)^),-、   | |_________|   
  ヽ ____,ノγ⌒ヽ)ニニ- ̄   | |  |    
575世界@名無史さん:2007/04/29(日) 18:15:58 0
やべwwwwww
テラパルパティーンwwwwwww
576世界@名無史さん:2007/05/23(水) 23:52:19 0
保守
577世界@名無史さん:2007/06/17(日) 00:19:52 0
保守
578世界@名無史さん:2007/06/30(土) 01:45:29 0
皇帝党参上
579世界@名無史さん:2007/07/15(日) 19:51:54 0
神よ!この過疎っぷりはいかなる思し召しによるものでしょうや!
580世界@名無史さん:2007/07/19(木) 00:26:22 0
フリードリヒ・バルバロッサ期のドイツ諸侯の事跡・外交関係について
書かれた研究書はないものでしょうか?
581世界@名無史さん:2007/08/23(木) 17:33:05 0
古代ローマ帝国の中心地はローマから移動してるけれど、
後代の神聖ローマ帝国の皆さんがローマに拘ったのはなぜ?
582世界@名無史さん:2007/08/23(木) 18:01:27 0
教皇庁があったから。つーか神聖ローマ帝国の中心地がローマであろうとしたことなんかあったか?
583世界@名無史さん:2007/08/23(木) 18:07:42 0
神聖ローマ帝国は、ローマって言うよりもイタリア支配に拘った、って感じだな。
当時のヨーロッパの経済文化の最先端地域だしね。
584世界@名無史さん:2007/08/23(木) 18:16:48 0
イタリア支配というか北イタリアの裕福な都市を強請りに。
585世界@名無史さん:2007/08/23(木) 18:16:49 0
教皇庁を神聖ローマ帝国内に招くという案は無かったのかな?
586世界@名無史さん:2007/08/23(木) 18:23:40 0
「戦う聖職者」スレより

77 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 2007/07/01(日) 10:07:12 0
こういうのもOKだったわけだな

ttp://www.deremilitari.org/resources/pdfs/arnold.pdf

「同様の調子でStade Annalsは、次回の遠征において上記のマインツ大司教クリスティアンが傭兵部隊を率いて
ロンバルドとトスカーナの住民を殺戮し、ボローニャ、フェッラーラ、ラヴェンナ、アンコーナを攻囲、陥落させる
ことによってイタリア全土に多大な恐怖を与えたと記している。ボローニャの攻防戦において、この血に飢えた高僧は
甲冑に身を包み馬に乗って、3つの角をもつ槌矛で9人を殺したと記録されている。司教の秘書の一人であった
ブレーメンのHenry(ハインリヒ? ヘンリク?)は、彼が岩を取って、恐らく捕虜であったと思われる28人の著名な
イタリア人たちの歯を打ち砕くのを目撃している」
587世界@名無史さん:2007/08/30(木) 00:02:54 0
>>585
先にフランスにやられてしまった
588世界@名無史さん:2007/08/30(木) 00:15:03 0
アヴィヨンはぎりぎりフランス国内じゃなかった気がするが。
589世界@名無史さん:2007/08/30(木) 09:48:04 0
ぎりぎりもなにもブルグンド王国内だから

……神聖ローマ帝国内じゃないか!!!!
590世界@名無史さん:2007/08/30(木) 12:09:08 0
んな有名無実の王国名だされてもw
591世界@名無史さん:2007/08/30(木) 23:02:54 0
いやまあ、それでも名目上はアヴィニョンの東のドーフィネとかプロヴァンスも教皇庁が来る前は名目上神聖ローマ帝国だったんだぜ
592世界@名無史さん:2007/09/04(火) 08:38:37 0
シャルルダンジューがブルグンド王国切り離そうと画策したという話もあったな
593世界@名無史さん:2007/09/11(火) 23:38:21 0
諸王家が交代する当時のドイツじゃ、なにをやっても駄目さ
594世界@名無史さん:2007/09/23(日) 15:16:36 0
ホーエンシュタウフェン朝の頃ならば教皇庁を移す事が出来ただろうか?
595世界@名無史さん:2007/09/23(日) 16:16:20 0
ルクセンブルク家のジギスムント帝にまともな後継者がいれば。
とりあえずローマに引き摺り戻して教皇を一人にしぼるとこまではできてたんだから。
596世界@名無史さん:2007/10/02(火) 11:28:51 0
そもそも、なんで教皇庁をローマから移す必要があったのだろう。
聖座はローマのままで、教皇自身をフランス人なりドイツ人にするだけでよかったはず。
アヴィニョンに移した仏王って誰だっけ。
597世界@名無史さん:2007/10/17(水) 19:49:03 0
端麗王フィリップ
まっアヴィニョン捕囚の間、教皇はフランス人で占める事が出来てたわけだが
598世界@名無史さん:2007/10/18(木) 00:32:27 O
皇帝あっての教皇
教皇あっての皇帝

どちらかが弱体化してしまうと何れ他方も弱体化してしまう運命共同体
実際、1254年〜皇帝の大空位時代を経てから教皇権力も暫くしてから弱体化する
後にアラゴン国王なんか教皇に破門されてもへとも思っていない
599世界@名無史さん:2007/10/18(木) 21:38:04 0
カール4世なんか教皇のローマ帰還を援助してるよね
まぁ自身の権威付けの為なんだろうが
いっその事プラハにでも連れてくればよかったのに
600世界@名無史さん:2007/10/21(日) 11:32:12 0
600
601世界@名無史さん:2007/10/22(月) 21:02:27 0
>>598
>1254年〜皇帝の大空位時代を経てから教皇権力も暫くしてから弱体化する
むしろ教権の衰退の方が早いんじゃないか。
帝権追い出すためにフランスにべったりになったのが教皇の大チョンボだと思う。
602世界@名無史さん:2007/11/04(日) 21:04:04 0
>>598
どっちかが衰退したから、両者ともに衰退したというより
両者の権威の基盤が国家という枠組みを超えた所にあって
中世も半ばを過ぎてくると、国家という概念が強調されてきたから
結果として皇帝と教皇が持っていた権力が喪失されていったんではないかな?
603世界@名無史さん:2007/11/24(土) 13:55:51 0
【海外/イタリア】ローマ建国伝説遺跡発見か ロムルスとレムスがオオカミから乳を与えられた洞穴
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1195602863/

イタリアの考古学者グループは20日、紀元前8世紀半ばのローマ建国の伝説に登場するロムルスと
レムスの双子兄弟がオオカミから乳を与えられたとされる洞穴を発見したと発表した。地元メディア
などが伝えたもので、ローマ市内のパラティーノの丘にある古代ローマの初代皇帝、アウグストゥス帝
(在位紀元前27年−紀元後14年)の宮殿近くの地下に、貝殻や色づけされた石で飾られた空間が
見つかったという。

http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2007112100087

http://afp.google.com/media/ALeqM5hZ7EgQKQALT24aWTikyG0KWJ5G1A?size=m
604:2007/12/23(日) 10:57:24 0
>>595フス派やら兄ヴェンツェルとの対立やら色々問題を抱えていたジギスム
ント帝じゃダメだろう。彼に男子がいたとしてもボヘミヤの統治で手一杯だっ
たはず。
605世界@名無史さん:2008/02/02(土) 03:42:10 0
質問なんですが、
フリードリヒ美王って、フリードリヒ3世ですよね??
じゃあ何で大愚図の方のフリードリヒは4世ではないんでしょうか??

同じハプスブルク家でも、
ルドルフ1世と2世の例を考えてみれば
ローマ王と皇帝とで区別してるようにも思えないし、
対立王であってもちゃんとローマ王として即位していたのに…。


それと、幼童王の方の4世がいるのに
なんでルートヴィヒ4世はルートヴィヒ5世ではないのでしょうか??

ロタール3世やカール4世とかの例を考えると、
〜○世って数えるのはフランク時代も含めてると思うのですが、
ルートヴィヒ4世とかは例外なんですかね??
606世界@名無史さん:2008/02/03(日) 21:35:51 0
俺、頭の出来が悪いから、
○○○n世とか、しっかり覚えていないんだよねえ

そういうのしっかり覚えている人、尊敬するなあ
607世界@名無史さん:2008/02/05(火) 23:38:10 0
マルチですみません。
中世ヨーロッパでは神聖ローマ帝国とカトリック教会は
どんな地位(位置づけ?)だったんですか?
そしてどんなふうに変化したんでしょうか
608勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2008/02/06(水) 20:14:54 0
>>607
中世といっても長いのですが、中世高期になるまでは
神聖ローマ帝国の版図に入っていない地域においても皇帝を賛美する礼拝が
教会で行われていました。
ドイツ王国という点では明確な版図があるのですが、理念上皇帝は
カトリック教会の保護者であり、これがある程度の実効性を持っていた時代が中世です。
609世界@名無史さん:2008/02/07(木) 13:04:50 0
>皇帝を賛美する礼拝

もしかしてイスラムの金曜礼拝のフトバで支配者の名を読み上げるように
会衆の前で定期的にやったりするのかな
610:2008/03/15(土) 16:53:16 0
保守
611世界@名無史さん:2008/05/04(日) 23:52:00 O
保守
612世界@名無史さん:2008/05/05(月) 00:19:45 0
>>605
〜世は特定の地位にあった同名者に序数を付け区別するもの
だから神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世は
自ら作ったオーストリア帝国では皇帝フランツ1世となる

フリードリヒ美王はオーストリア公1世・ドイツ王3世
大愚図のフリードリヒはオーストリア大公5世・神聖ローマ皇帝3世
称号の昇格だけの場合は通算される
613世界@名無史さん:2008/05/05(月) 16:42:27 0
>>607
教会が皇帝を任命して
皇帝が教会を保護する

もちつもたれつ

カトリック世界では教会の保護者として
「教会を保護する皇帝は立派です」という感じで皇帝賛美が行われた

皇帝の宗教的権威が通じなくなったのは
アヴィニョン捕囚で教皇に失礼なことをしたあたりからかな?
614世界@名無史さん:2008/05/05(月) 17:25:06 0
神聖ローマ皇帝の宗教権威が通じなくなったのは、ハプスブルク=ロートリンゲン朝になってから、戦争で
フランスやらプロイセンやらにボロ負けするようになってからだぞ。
615世界@名無史さん:2008/05/11(日) 20:58:24 0
よくヴェストファーレン条約以後は300近くの領邦が事実上独立したって記述を見るけど、
その300の領邦が詳しく書いてあるサイトか書籍しってる方いませんか?
616世界@名無史さん:2008/05/11(日) 21:03:11 0
617世界@名無史さん:2008/05/11(日) 21:50:00 0
>>615
ウィキで検索したら、有名どころの領邦の歴史は大体つかめるぞ。
618世界@名無史さん:2008/05/12(月) 06:50:44 0
619世界@名無史さん:2008/05/13(火) 19:28:19 0
>>613
アヴィニョン捕囚の加害者誰だか分かってる?
620世界@名無史さん:2008/05/15(木) 03:02:51 0
>>619
加害者は姉妹都市の宇都宮だよ
621世界@名無史さん:2008/05/15(木) 07:14:48 0
>>616
thx 学生だから6000円近い本買う金ねーけど
大学の図書館探してみるよ!

>>617
有名どころなら20〜30ぐらいはウィキに乗ってたね。
もっと知りたいって欲が出ちゃったんですよ。

>>618
英語ウィキはきがつかんかった!
日本語版より充実してるみたいっすね。
英語は単位落として再履修なるぐらいヘボイけど
エキサイト翻訳使ってみますよ!


みんなありがとう
622世界@名無史さん:2008/06/26(木) 22:15:18 0
>>65
Friedrich der Schoene ことフリードリヒ美王は最初ルートヴィヒ四世に対する
対立国王(正式な王ではない、のちに共同統治者となる)だったからじゃないかな?

一方東フランク時代の Ludwig das Kind ことルートヴィヒ幼童王は東フランク国王には
ついたがローマ帝にはついていない。(父王アルヌルフの後を継いで西ローマ皇帝の地位
についたのはルートヴィヒ三世盲目王、恐らくバイエルンのルートヴィヒ四世はこの盲目王
の次にルートヴィヒと名乗る皇帝だったから四世になったのだと思う)
623世界@名無史さん:2008/07/29(火) 14:26:11 0
>>621
そこでPCの辞書使って自分で訳していけば
数年で英語の歴史論文読めるくらいの英語力は付くだろうに
624カラジチ ◆mWYugocC.c :2008/07/30(水) 14:26:29 0
>>622
まとめさせて。

・ルートヴィヒ
皇帝1世 = フランク王1世 ルートヴィヒ敬虔王、在位781-840、皇帝戴冠813,816
皇帝2世 = フランク王2世 在位850-875、敬虔王の長男の長男
皇帝3世 盲目王、 在位901-905、イタリアの対立王
フランク王3世 幼童王 在位876-882、ザクセン王
フランク王4世 在位900-911 ケルンテンのアルヌルフの子、東フランクのカロリング朝最後の王
皇帝4世 = ドイツ王5世 ヴィッテルスバハ家、在位1314-46、皇帝戴冠1328

・フリードリヒ
皇帝1世 = ドイツ王1世 赤ひげ 在位1152-90、皇帝戴冠1155
皇帝2世 = ドイツ王2世 シチリア王の人 在位1196-97,1211-50、皇帝戴冠1220
ドイツ王3世 美王 在位1314-30
皇帝3世 = ドイツ王4世 大愚図 在位1440-93、皇帝戴冠1452

むしろ問題はルドルフ世をなぜ2世呼ばわりか、だと思うんだけど。
・ルドルフ
対立王 ルドルフ・フォン・ラインフェルデン 在位1077-80
ドイツ王1世 1273-91 ハプスブルクの最初の人。皇帝戴冠せず
皇帝2世?= ドイツ王2世 在位1576-1612
このひと、ドイツ王としてもボヘミア王としても2世だけど、皇帝としては1世だと思う。つか神聖ローマ皇帝でルドルフはこの人だけ。
まあハプスブルクの始祖と混同するから2世なのかもしれんけど。
625話題ずれてるんで 1マス下げます:2008/08/16(土) 23:05:38 0
  閑話休題で一言

   神聖ローマの中で争いがあり、領邦が併合されたりするじゃないですか、
   このとき、そこの領主は、帝国諸侯から格下げで陪臣になるんでしょうか。
   オーストリアに併合されれば(宗主権みとめるとかも)、帝国諸侯の位は維持ですか。

   ナポレオン戦争の際も、その後のウィーン体制でも、領邦は減っています。
   
   陪臣になったか、逃亡して終わったか。領土のない帝国諸侯となったか?
   
626世界@名無史さん:2008/08/18(月) 23:24:04 0
ボヘミア王とドイツ王の関係って、
ナバル王とフランス王の関係、スコットランド王とイングランド王の関係に似ている。
627世界@名無史さん:2008/08/20(水) 00:53:37 0
>>624
ルドルフ1世は戴冠こそしていないが大空位時代を終わらせた実質皇帝
として扱われている。即位していない曹操を武帝と呼ぶようなもの。
ハプスブルク家当主のルドルフは以下のとおり。
後に帝位を戴冠したドイツ王はローマ王と呼ばれる。
 
ブライスガウ伯ルドルフ1世(?〜1063)
ハプスブルク伯ルドルフ2世(?〜1232)
ハプスブルク伯ルドルフ3世(?〜1249)

ハプスブルク伯ルドルフ4世(1218〜91)
→ オーストリア公ルドルフ1世=ドイツ王ルドルフ1世 (神君)
 
オーストリア公ルドルフ2世(1270〜98)
オーストリア公ルドルフ3世(1281〜1307)=ボヘミア王ルドルフ1世
オーストリア公ルドルフ4世(1339〜65) (建設公)(大公を僣称)
 
オーストリア大公ルドルフ5世(1552〜1612)
=ハンガリー王ルドルフ=ボヘミア王ルドルフ2世=ローマ王ルドルフ2世
→ 神聖ローマ皇帝ルドルフ2世
628世界@名無史さん:2008/08/20(水) 06:08:33 0
全然、知識の無い分野だから、
頭を整理するために このスレを開いたんだが、やっぱり判らない。
「何かグダグダだったようだ」というビフォー状態から、
「やっぱりグダグダだったんだな」というアフター状態に成長したよww
629カラジチ ◆mWYugocC.c :2008/08/20(水) 15:26:47 0
>>627
やはり始祖を1世扱いなんですかね。

>即位していない曹操を武帝と呼ぶようなもの。
それはおくり名だから違うでしょう。
>後に帝位を戴冠したドイツ王はローマ王と呼ばれる。
これは初耳なんですが、本当ですか?
ドイツ王とローマ王は別段区別なしに使われているように思うのですが。
630世界@名無史さん:2008/09/05(金) 14:30:22 0
>>627
曹操よりはカエサルのほうが近いんじゃないかな
631世界@名無史さん:2008/09/08(月) 00:14:57 0
>>627
アウグストゥスなど、古代ローマの堂々たる歴代皇帝がそんなの聞いたら激怒するだろうな
632世界@名無史さん:2008/11/16(日) 11:46:51 0
>>627
ドイツ王とローマ王はカラジチの言う通り、≒の称号だよ。
ローマへの監督権を強めようとしたザリエル朝がことさらに強調しはじめて
定着した称号がローマ王だから。
633世界@名無史さん:2008/11/19(水) 05:35:06 0
神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサのことが詳しくわかる本はないでしょうか?
634世界@名無史さん:2008/11/27(木) 22:51:39 0
age
635世界@名無史さん:2008/11/30(日) 08:42:38 0
アホみたいに宗教戦争やってないでモンゴルの侵略からポーランドとハンガリー救ってやれよ・・・・まぁーオゴタイが死んだおかげで本当助かったな馬鹿どもめ
636世界@名無史さん:2008/11/30(日) 09:55:30 O
1241年ノイシュタットの戦い
モンゴル軍が現在のオーストリア北西にあったノイシュタット城を包囲
神聖ローマ皇帝兼シチリア国王フリードリヒ2世は子エンツォ率いるドイツ諸候・シチリア王国連合軍を派遣
連合軍はモンゴル軍を撃退し、ノイシュタット城の解囲に成功する
637世界@名無史さん:2008/12/01(月) 22:35:34 0
フリードリッヒ・バルバロッサが
最高の名君扱いされてるのはなぜ?
イタリア遠征とか失敗してるし
そこまで高い評価な理由を誰か教えてください。
638世界@名無史さん:2008/12/02(火) 12:31:04 0
成功失敗はともかく、皇帝かくあるべし、というイメージを体現していたからではないか。
639世界@名無史さん:2008/12/02(火) 21:50:05 0
ローマ=カトリック教会の盛衰について
フランク王国・ビザンツ帝国との関わり、十字軍の影響を交えて教えてください。
640世界@名無史さん:2008/12/02(火) 21:52:14 0
>>637
クロニクル程度しか出てこない、しかもたいした業績は残していない中世の人間が最高の名君だとかいわれるのは、
17−18世紀のロマン主義の時代にドイツ人が自分で歴史を歪曲して、こいつを美化したため

641世界@名無史さん:2008/12/02(火) 23:09:50 0
なるほどそうなんですか。>>640さんありがとうございます。

つづけてすいませんが誰かバルバロッサさんの凄いところを教えてください。
さすがに最高の名君とかは誇張だとしても
下地がなければ美化はできないし、中世の数多の皇帝達の中で彼が
ここまで崇拝されたのもそれなりのものがあったからでしょうし。
彼の名君たるゆえんはどこにあるのでしょうか?
誰かお教えくだされば幸いです。
642世界@名無史さん:2008/12/02(火) 23:43:17 0
>>641
確かにイタリア政策の失敗や行軍中の溺死は有名であるけど。
ドイツ王国の混乱を収拾し、ポーランド王国やボヘミア王国を傀儡にし、
第3回十字軍ではアイユーブ朝を相手に勝利する等、
それなりの「名君」としての実績はある。

しかし、彼が神聖視された一番の要因は彼自身の容姿にあるだろうと思う。
643世界@名無史さん:2008/12/03(水) 00:32:32 0
>>642
おお!
なにやら凄そうな実績ですね。ありがとうございます。
やはりそれなりの実績はあるのですね。

容姿というと赤い髭が有名ですけど、そんなに美しかったのですか?
聞いてばかりですいません。
644世界@名無史さん:2008/12/03(水) 01:03:18 0
バルバロッサのやったことといえば、ヴェルフェン家のハインリヒ獅子公の追放とかもあるな。

つーか、ボヘミアが王国になったのってフリードリヒ2世の時代じゃなかったっけ?
645世界@名無史さん:2008/12/03(水) 02:13:59 0
シュタウフェン家の最後って悲惨だよな。
それに比べて、ヴェルフェン家は勝ち組だ。
646世界@名無史さん:2008/12/03(水) 09:33:07 0
>>643
美しいのではなく、珍しかった。
647世界@名無史さん:2008/12/04(木) 01:04:31 0
>>642
ポーランドに対しては傀儡にしようと考えて王に推したクラクフ大公が失脚したんじゃなかったっけ?
グニェズノ大司教座の大司教とこの大公の兄弟親戚が、大公をポーランドから追い出して、自分たちで新たに大公を立てた
それでバルバロッサがポーランドを支配しようとした企みは頓挫したはず
648世界@名無史さん:2008/12/06(土) 15:40:25 0
>>644
少ししらべましたけどハインリヒ獅子公はすごい人みたいですね。
彼を失脚させたのは普通にすごいと思います。
>>646
そうなんですか。赤毛ってヨーロッパでは珍しいのでしょうか。
赤毛のアンとか赤毛のエリクとか聞きますが。
649世界@名無史さん:2008/12/06(土) 17:04:48 0
あまりにありふれていてもあだ名にはならんと思う
650世界@名無史さん:2008/12/06(土) 17:43:23 0
シュワルツコフなんてありふれた黒髪ってことだぜ。
651世界@名無史さん:2008/12/08(月) 04:06:58 0
ゲルマン人の間で黒髪がありふれてるとでも?
652世界@名無史さん:2008/12/08(月) 14:58:33 0
つーか、同名が山ほどいるから適当な身体的特徴で区別するわけだよ。
渾名だけで呼ばれるわけじゃなくて、本名と渾名のセット。
653世界@名無史さん:2008/12/09(火) 00:51:55 0
>>651
ありふれてるぞ。金髪はもっと北の人種の特徴。
654世界@名無史さん:2008/12/31(水) 02:14:46 O
この前習ったばかりだが名前負け杉ワロタwww
イタリア政策www
655世界@名無史さん:2008/12/31(水) 15:14:14 O
シュタウフェン朝の断絶で死んだ帝国。
オーストリアのハプスブルク−ロートリンゲ朝は自分の領地の経営だけだったし
656世界@名無史さん:2009/01/01(木) 01:52:42 0
ドイツ王の基盤ができていなかったのに、世界帝国なんて夢見たからだよ。
そこらの遊牧民族と同じ行動原理。
657世界@名無史さん:2009/01/01(木) 07:51:29 0
ドイツ諸侯はお互いの足を引っ張ることしか考えてないから、結果死に体の帝国だけが残った。
658世界@名無史さん:2009/01/21(水) 12:37:23 0
独逸(Deutschland)の語源を調べてたんだけどさ
誰か詳しく解る人いるかい?
専門別なのに無駄に時間掛けてしまったorz

俺が調べたところでは独逸の学者間でも由来については侃々諤々らしいってとこまでは判った
一応ほぼ確定的な事実を列記すると
ラテン語でtheodisucus(民衆の)という形容詞から
アルプス以北に居住している人をlinga theodisca(民衆の言葉)を話す人々ってな感じで使っていたらしい
それを叙任権闘争期において教皇側が、皇帝側を卑下して指す言い方でrex teutonicorum(民衆の王)と使ったらしい
これが次第に名詞化してteuto→deutschになっていったらしい

因みにそれ以前だと東フランクには西ほどの纏まりが無いからただ単にrexと文書に記すだけで
西フランクと対等に和平を結ぶためのボン条約(921?)のときだけ唯一rex francorum orienta(東フランク王)とした事例がある程度らしい

てな感じで実体性のない東フランクって名前から段々「民」って意味の言葉が地域名化していったのが「ドイツ」みたいだねぇ
中央集権、民族主義も遅れたのは名前からして既に一体性が無かったからなわけだ

俺が調べられたのはここら辺まで、さらに知ってるお方情報plz
659世界@名無史さん:2009/01/21(水) 13:37:43 0
>>658
俺も詳しくないんだけど、補足的な感じで。

ドイツ語、即ちlingua teodiscaは既に8世紀にはそう呼ばれていたことが
わかってるんだけど、東フランクでは言語はこの「民衆語」で共通だったけど、
集団として機能するのは部族単位だったから、彼らをひっくるめて指す
言葉はなかった、というのは685の言う通り。

というわけで、ドイツはまず言語名として成立して、それを使う集団
としてドイツ人が定義されて、そのドイツ人が住む場所として地域と
してのドイツが定義された、という感じ。

で、Deutschlandという言葉の成立は、17世紀以降になる。
それ以前はdas teutsche Landだから、「ドイツ人の土地」と言ってる
だけで固有名詞になっていない。
660世界@名無史さん:2009/01/22(木) 01:14:06 0
なるほど
teutonicorumに定冠詞dasを付けてdeutscheか
ふむふむ、なるほどなるほど
661世界@名無史さん:2009/01/25(日) 20:10:45 0
するってーと、Das Deutschlandは「おみおつけ」的な言い回しということになるわけかい?w
662世界@名無史さん:2009/01/25(日) 23:10:18 0
教えてください。

16世紀末、ルター派の民衆は自分たちのことをなんと呼んでいたのでしょうか?
新教とでもいっていたのでしょうか?

また、カトリック側はルター派をなんと呼んでいたのでしょうか?
663世界@名無史さん:2009/01/26(月) 11:36:05 0
>>662
16世紀末だとルター派が既に自称として使われていたはず。
カトリックからは「ルター派の異端」。
664世界@名無史さん:2009/01/26(月) 14:46:53 0
>>663
ありがとうございます!
665世界@名無史さん:2009/01/27(火) 11:52:29 0
ルター自身が宗教にしか興味なくて保守化したのが許せん
宗教が生活に影響することを知りながら、いざ民衆が政治的に急進化したら「俗世は知らん」だもんな
こういう人間を扇動家と言わずしてなんて言うんだよ
聖界にしか興味がないならそもそも地上に降り立つなと言いたい
400年前の人間に何を滾ってるのか俺もわからんがこいつは嫌いだ
666世界@名無史さん:2009/01/27(火) 13:08:03 0
いや、民衆からローマ教会のくびきを解き放った結果がドイツ農民戦争で、
これを踏まえてルターは依然として教会が必要だと考えて領邦教会の
設立に奮闘したわけで、「俗世は知らん」ってこたないだろ。

本人が当初は全く意識してなかったとはいえ、扇動家であったということは
間違いないけどね。
667世界@名無史さん:2009/01/27(火) 23:39:28 0
打ち殺せ、刺し殺せ、絞め殺せ

炭鉱夫だか農夫だかの出身なんだから、農民の味方でもよかったのにね。
668世界@名無史さん:2009/02/01(日) 15:03:42 0
単純にルターの「二王国論」からすれば、
行き過ぎた信徒より、そいつらから善きキリスト教徒を守るための世俗の罰の方が大事だったんでしょ。
669世界@名無史さん:2009/02/06(金) 15:22:23 0
新晴雨
670世界@名無史さん:2009/02/06(金) 17:13:03 0
>>659
その「民衆語」も統一した言語があったわけではなかったからね
なんとなく互いに似ていて、エルベ川より東に住んでいるヴェンド人(スラヴ人)諸部族の言葉とは
どうも違うから、たぶん民衆語それぞれは互いに同じ系統の言葉なのだろうという程度の認識はあった
671世界@名無史さん:2009/02/06(金) 17:15:23 0
>>666
>民衆からローマ教会のくびきを解き放った結果がドイツ農民戦争

その認識はイデオロギー臭すぎ
672世界@名無史さん:2009/02/07(土) 00:41:29 0
まあイデオロギー云々を別にして、ドイツ地域がローマ教会から相当な搾取されていたのは間違いない。
いくら扇動したって、その扇動を受け止めるだけの実態が無ければ、火は燃え広がらないよ。
673世界@名無史さん:2009/02/07(土) 07:35:22 0
>ローマ教会のくびきを解き放った結果が

解き放ったどころか、現実はその後カトリック教会が「対抗改革」で自己浄化に成功したのに対し、
ドイツ人は集団心理でさらに自分たちを新教会とそれをあやつる王侯貴族の奴隷にしたから、
解き放ったというのはイデオロギー臭いわ。
674666:2009/02/09(月) 01:57:14 0
うーん、イデオロギー的な意図を込めたつもりはなかったのだが、
なんかくだらん論争を起こしてしまって申し訳ない。

人は常に何かに縛られているもので、それは教会だったり
法だったり専制だったり自由思想だったり時代精神だったり
するわけだが、たまたま当時のドイツではそれがローマ教会だった、
と言いたかっただけなのだ。
675世界@名無史さん:2009/02/18(水) 18:49:04 0
みんな趣味と暇つぶしで書き込んでるんだからくだらなくないよ
過疎スレだし話題さえありゃどーでもいいだろw

まぁ>>666的な「解放」には確かにイデオロギー的な意味がこもってるね
というより宗教的側面が強すぎってことを皆言いたいんだと思う
実際にドイツ農民戦争で農民が主張したことは封建制の打破であってルター派云々なんてのは出汁に使われてるだけだしね
宗教的な解放をルターは求めてたけど
農民自身は経済的な解放を求めていたわけだ
676世界@名無史さん:2009/03/04(水) 19:30:04 0
【ギベリン】叙任権闘争【ゲルフ】
http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/whis/1236153348/
677世界@名無史さん:2009/03/05(木) 18:22:04 0
678世界@名無史さん:2009/03/10(火) 22:02:54 0
帝国の範囲? 

こまけぇこたぁいいんだよ!!
そこらの王が皇帝を仰げばみんな帝国なんだよ。
まあ欲を言えば聖地まで地続きでみんな服属させてーよ。
あと東方もな。

ま、俺らの子孫がへぼ過ぎたらドイツ語喋ってる連中だけ
になっちまってドイツな帝国なんだよ とかなるかもな。ガハハ!
679世界@名無史さん:2009/03/10(火) 22:06:42 0
神聖でローマで帝国なんだぜ!
680教皇:2009/03/11(水) 02:29:37 0
神聖ってことは俺のナワバリだよな!
681世界@名無史さん:2009/03/11(水) 03:21:43 0
12世紀にローマが取れてただ単に「神聖帝国」だった時期があるけど、
なんかあったの?
682世界@名無史さん:2009/03/11(水) 10:49:32 0
ローマが取れて、というより、その前は単に「帝国」だったんだよ。
683世界@名無史さん:2009/03/11(水) 11:36:37 0
>>682
その前は「ローマ帝国」だよ。
684世界@名無史さん:2009/03/11(水) 11:44:06 0
まあラテン語とドイツ語の公文書で国名食い違ってる時期もあるしな。
685世界@名無史さん:2009/03/12(木) 16:11:13 0
たしかにローマだの神聖だの呼称は大事だが帝国は帝国なんだ。

帝国がこの世に二つも三つもあるなら別問題だが、まさか東方の
蛮族が帝国とか抜かすことなど神が許されない。

西方の王国と同等とういうこともありえない。

もちろん我らの父のいる天上と肩を並べようなどと思わない。

帝国は帝国以外の何物でもない。それ以上でもそれ以下でもない。
686世界@名無史さん:2009/03/25(水) 00:40:16 0
>>683
その前はフランク王がローマ皇帝に戴冠してるってだけ。
ローマ帝国の復活というわけじゃないよ。
687世界@名無史さん:2009/05/11(月) 12:20:12 0
596 名前: 名無しさん@お腹いっぱい。 投稿日: 2009/05/11(月) 12:04:27 ID:pfgCvDaV
ポーランド王って神聖ローマ帝国皇帝から見れば格下だわな。皇帝と王ではね。ははは。
688世界@名無史さん:2009/05/11(月) 12:58:38 0
ローマ教皇&神聖ローマ皇帝
       |
  ドイツ王&ポーランド王

えーとですね、神聖ローマ帝国というのは決してドイツではなく、
ドイツ王国をそのなかのさまざまな国家の一つとして含めた帝国、結局はローマ帝国なのです。
帝国内のドイツの王とイタリアの王を兼ねた者が神聖ローマ皇帝に即位するのが習慣だったのです。
帝国内の領域にあるドイツ王国と、帝国外にあるポーランド王国は同格、そしてポーランド王はドイツ王とは同格です。
689世界@名無史さん:2009/05/11(月) 17:10:49 0
えーと、ドイツ王国というのはいつどこにあったんですか。
690世界@名無史さん:2009/05/11(月) 18:18:17 0
>>689
東フランク王国→ドイツ王国、なのでは?
691世界@名無史さん:2009/05/11(月) 19:09:57 0
>>690
その「→」の意味を明確にして欲しいんだけどね。
東フランク王国が名前だけ変わったもの、という趣旨で言ってるの?
それとも、東フランク王国が崩壊してその主要な一部がドイツ王国という国家になったと言ってるの?

俺の認識では、ドイツ王国という国家が成立したことはないんだがね。
ドイツ王というタイトルとポーランド王というタイトルが同格だっつー主張自体は受け入れられないこともないが、存在もしないドイツ王国とポーランド王国が同格というのは無茶だろう。
692世界@名無史さん:2009/05/11(月) 19:11:45 0
東フランク王国=ドイツ王国
イタリア王国同様、のちに実態のなくなった、概念上の国家
概念はずっと残って、神聖ローマ皇帝は、ドイツ王とイタリア王を兼ねた者が即位するのがしきたりになった
693世界@名無史さん:2009/05/11(月) 19:13:10 0
国家というのは概念と実体の両方あるのが普通だが、ドイツ王国やイタリア王国も実体が消えて概念だけが残ったように、
神聖ローマ帝国もついには概念だけの国家になってしまって、滅亡した
694世界@名無史さん:2009/05/11(月) 19:26:03 0
神聖ローマ帝国存在中にドイツ王がイタリア王を兼ねなかった例はあるのか?
自称としてのドイツ王という称号はザクセン朝末には消滅するのだが、それでもドイツ王国という概念は存在したのか?
ドイツ王という称号の消滅後は、それと同義とされたローマ王という称号は帝位継承権者の称号となるのだが、その場合、ポーランド王と同格のドイツ王というのは何のことを指しているのか?
695世界@名無史さん:2009/05/11(月) 19:55:38 0
ドイツ王とイタリア王を兼ねた人物→(即位)→神聖ローマ帝国皇帝

イタリア王という概念は19世紀まで続いた
ドイツ王の概念はそれより早い時代に消滅したはず
つまり東フランクが有名無実になって実体どころか名(概念)も滅亡した

別にポーランド王でなくともよいが、帝国外のポーランド王やハンガリー王などと
帝国内の王国の王との違いはこう考えるとすっきりする
*帝国外の王→ケーニッヒ・in・どこそこ王国
*帝国内の王→ケーニッヒ・von・どこそこ王国(・in・神聖ローマ帝国) ←in以降は言わずもがなだから省略されている
696世界@名無史さん:2009/05/11(月) 20:13:27 0
ドイツ王・イタリア王・ボヘミア王は「帝国内の王」でOK?

ところで、ネーデルラントはいつからドイツとは区別して考えられる
ようになったんだろう。
697世界@名無史さん:2009/05/11(月) 20:23:08 0
>>696
ドイツ王・イタリア王・ブルグント王とボヘミア王は違うだろう。
後者は基本的に王号を許された諸侯に過ぎない。
まあ、結局皇帝=ボヘミア王だった時期の方が長いが

ネーデルラントとスイスはウェストファリア条約で帝国離脱するまでは一応ドイツだろう。
698世界@名無史さん:2009/05/11(月) 20:37:10 0
最大の疑問が解決されている!
inとvonの違いなんて高校でちゃんと教える世界史の先生いないもんな
目からうろこが落ちた
699世界@名無史さん:2009/05/11(月) 23:37:34 0
そもそも、ドイツという地域が発生したのがかなり後代なわけで、ドイツという地域の王が「帝国」内に存在するわけがない。
ドイツ王という言葉の当初の意味は「民衆の王」だし、それと同義であったローマ王も「ローマ人の王」。
つまり、どちらも、ローマ帝国に所属する人々の王、という意味になる。
従って、ドイツ王というのは、まず帝国があって、その君主である、という意味があるわけで、皇帝が帯びた他の王号とは次元が異なる。
700世界@名無史さん:2009/05/11(月) 23:53:32 0
要するに、某学会の名誉会長は民衆の王であるが、そういうことだな。
インスティテューションとしての王国の君主としての王ではなく、民衆の王。
701世界@名無史さん:2009/05/12(火) 07:17:40 0
西フランクではカロリング朝が987年まで続いたので、この王朝の下での東西
再統合の動きも一部に生じたが、東の分国の支配者たちは、フランケン公コンラートを
自分たちの王に選び、東フランクは西と分かれて別の道を歩む。

もうこの時期には、西フランクと東フランクの違いというものが意識されるように
なっていたんだろうか。
702世界@名無史さん:2009/05/12(火) 07:21:48 0
国家とは領域のことか人々のことか

ローマ帝国に人々が所属するのではなくローマ人の集合体がローマ帝国なんだと思うが・・・
703世界@名無史さん:2009/05/12(火) 08:45:34 0
「神聖ローマ帝国」という名称が公式に用いられるようになるのは13世紀半ば以降で、
それまでは単に「帝国」(インペリウム)と呼ばれていた。

中世人の感覚では、天国が唯一神によって治められているのとまったく同様に、
現世もただ一人の皇帝が治め、全世界の教会はただ一人の教皇が治めるべき
ものだったから。
704世界@名無史さん:2009/05/12(火) 10:48:24 0
>>702
今更そんな初歩中の初歩の質問するなら世界史板に来るな
いちいち相手するの面倒くさい
705世界@名無史さん:2009/05/12(火) 11:18:37 0
596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/11(月) 12:04:27 ID:pfgCvDaV
ポーランド王って神聖ローマ帝国皇帝から見れば格下だわな。皇帝と王ではね。ははは。


597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/11(月) 19:16:50 ID:Ydm4UwTb
688 :世界@名無史さん:2009/05/11(月) 12:58:38 0

ローマ教皇&神聖ローマ皇帝
       |
  ドイツ王&ポーランド王

えーとですね、神聖ローマ帝国というのは決してドイツではなく、
ドイツ王国をそのなかのさまざまな国家の一つとして含めた帝国、結局はローマ帝国なのです。
帝国内のドイツの王とイタリアの王を兼ねた者が神聖ローマ皇帝に即位するのが習慣だったのです。
帝国内の領域にあるドイツ王国と、帝国外にあるポーランド王国は同格、そしてポーランド王はドイツ王とは同格です。




598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/12(火) 03:11:57 ID:WmN5FjzO
うん。意味わかるよ。でも、選帝侯たちから選ばれれば皇位に就けるわけじゃね。イタリア王なの?
兼任すべきはローマ王じゃないの?元の出自が辺境伯と言う家柄でも選ばれればローマ皇帝じゃね。
このシステムの恩恵に預かれるのはゲルマン人だけなのだろう。ポーランドは最初から枠外なんじゃね。

706世界@名無史さん:2009/05/12(火) 11:19:38 0
596 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/11(月) 12:04:27 ID:pfgCvDaV
ポーランド王って神聖ローマ帝国皇帝から見れば格下だわな。皇帝と王ではね。ははは。


597 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/11(月) 19:16:50 ID:Ydm4UwTb
688 :世界@名無史さん:2009/05/11(月) 12:58:38 0

ローマ教皇&神聖ローマ皇帝
       |
  ドイツ王&ポーランド王

えーとですね、神聖ローマ帝国というのは決してドイツではなく、
ドイツ王国をそのなかのさまざまな国家の一つとして含めた帝国、結局はローマ帝国なのです。
帝国内のドイツの王とイタリアの王を兼ねた者が神聖ローマ皇帝に即位するのが習慣だったのです。
帝国内の領域にあるドイツ王国と、帝国外にあるポーランド王国は同格、そしてポーランド王はドイツ王とは同格です。




598 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/12(火) 03:11:57 ID:WmN5FjzO
うん。意味わかるよ。でも、選帝侯たちから選ばれれば皇位に就けるわけじゃね。イタリア王なの?
兼任すべきはローマ王じゃないの?元の出自が辺境伯と言う家柄でも選ばれればローマ皇帝じゃね。
このシステムの恩恵に預かれるのはゲルマン人だけなのだろう。ポーランドは最初から枠外なんじゃね。

変身できる方(=ドイツの諸侯の方)が変身の可能性のない方(ポーランド王)よりも伸び代(しろ)が
あって人生楽しそうだ、とザクセン王やバイエルン王が自慢しそうな希ガス。
707世界@名無史さん:2009/05/12(火) 12:00:05 0
1,オーストリア帝国
2,プロイセン王国
3,ザクセン王国
4,バイエルン王国
5,ハンノーファー王国
6,ヴュルテンベルク王国
7,バーデン大公国
8,ヘッセン=カッセル選定侯国
9,ヘッセン=ダルムシュタット大公国
10,ホルシュタイン公国
11,ルクセンブルク大公国
12,ブラウンシュヴァイク公国
13,メクレンブルク=シュヴェリーン大公国
14,ナッサウ公国
15,ザクセン=ヴァイマール大公国
16,ザクセン=ゴータ公国
17,ザクセン=コーブルク公国
18,ザクセン=マイニンゲン公国
19,ザクセン=ヒルトブルクハウゼン公国
20,メクレンブルク=シュトレーリッツ大公国
21,オルデンブルク大公国
708世界@名無史さん:2009/05/12(火) 12:00:21 0
22,アンハルト=デッサウ公国
23,アンハルト=ベルンブルク公国
24,アンハルト=ケーテン公国
25,シュヴァルツブルク=ゾンデルスハウゼン侯国
26,シュヴァルツブルク=ルードルフシュタット侯国
27,ホーエンツォレルン=ヘッヒンゲン侯国
28,リヒテンシュタイン侯国
29,ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国
30,ヴァルデック侯国
31,ロイス侯国(兄系)
32,ロイス侯国(弟系)
33,シャウムブルク=リッペ侯国
34,リッペ=デルモルト侯国
35,リューベック自由市
36,フランクフルト自由市
37,ブレーメン自由市
38,ハンブルク自由市
39ヘッセン=ホンブルク地方伯
709世界@名無史さん:2009/05/12(火) 13:53:18 0
>伸び代(しろ)が
>あって人生楽しそうだ、

伸びしろだなんて、珍しい発想だなぁ
学歴コンプの常套句じゃんw
東大に入りたくて入りたくて、どうしても高嶺の花だったんだね、悔しいんだね
自分個人のルサンチマンをポーランドにぶつけんなよ、と思う
710世界@名無史さん:2009/05/12(火) 22:13:40 0
質問なんですが、帝位と王位の代数(?)って一貫して数えるものなんでしょうか?
それとも分けて数えるのでしょうか?

代数って言葉で合ってるかわかりませんが、
初代皇帝とか五代目皇帝とかって意味ではなく、
フリードリヒ○世とかカール○世とかっていう名前の後につく数字のことです。

一貫して数える場合、
なぜフリードリヒ美王をスルーして大愚図が3世なんでしょうか?

分けて考える場合、
なぜルドルフ2世は2世なんでしょうか?


詳しい方お願いします
711世界@名無史さん:2009/05/12(火) 22:26:55 0
>>710
フリードリヒ美王はドイツ王だけど神聖ローマ皇帝じゃないじゃん
大愚図はフリードリヒという名前の皇帝では数えて3人目だから皇帝として3世

そうやって数えるんだよ

ドイツ王≠皇帝
だよ
712世界@名無史さん:2009/05/12(火) 23:19:13 0
>>711
>>710でも書いたんですが、
だとすると、なぜルドルフ2世は2世を名乗っているんでしょう。
ルドルフ1世はドイツ王ですが、帝位はついていないはず。
713世界@名無史さん:2009/05/12(火) 23:37:23 0
>>712
ルドルフ1世はローマ教皇は認めてなくて戴冠させてないけど、ドイツ人的には皇帝扱いだったから
714世界@名無史さん:2009/05/12(火) 23:45:34 0
>>713
なるほど そーいう考え方ですか!
715世界@名無史さん:2009/05/13(水) 06:13:09 0
自分の知ってるのではお隣のポーランドでもミェシュコ○世は
1世がキリスト教世界の正式な王様(Rex)じゃなくて公(Dux)
しかしヨーロッパではミェシュコ1世は1世で定着している
716世界@名無史さん:2009/05/18(月) 12:03:17 0
ドイツで「レグヌム・テウトニクム」(テュートンの王国)という言葉が使われる
ようになったのは11世紀に入ってからのことだった。
14世紀半ばには、単数形の「ドイチェラント」よりも、複数形の「ドイチェ・
ランデ」という言い方のほうがはるかに一般的だったし、中世を通してみても、
時代によって「レグヌム・アラマンナエ」「レグヌム・ゲルマーニアエ」
「レグヌム・テウトニカエ」「レグヌム・ローマーノールム」など異なる呼称が
広く使われ、一貫して一つの名称が長く使われることはなかった。
717世界@名無史さん:2009/05/20(水) 03:36:48 0
フランス人はいつまでドイツを「アレマニア」扱いなんだろね。
「チュートン」の方がまだしも納得行くんだが。
718世界@名無史さん:2009/05/22(金) 04:35:39 0
ホーエンシュタウフェン朝がめっちゃ好み。
ドイツからイタリアまで制圧する勢いで行動しながら、最後の悲惨な滅亡の仕方は酷い。
コンラート4世、マンフレディ、コンラーディンで終わりじゃなくて、幽閉されたまま死んだ一族がエンツィオを筆頭に何人もいる。
アラゴン王家がシャルル・ダンジューに一撃食らわせたのでちょっと溜飲が下がるくらいだね。

あとイタリア最凶の僭主エッツェリーノ・ダ・ロマーノも如何にも梟雄って感じで格好いい。
日本だと高師直みたいな感じ。
719世界@名無史さん:2009/05/22(金) 06:52:51 0
>>717
いつまでって一度ついた名前はずっと変わらんだろ
ロシアもずっと中国を契丹扱い
世界中がマジャールをフン族扱い
720世界@名無史さん:2009/05/23(土) 04:50:28 0
>>719
いや、ドイツW杯での表記に違和感持ったんだよ。
せめて「ゲルマニア」表記は出来ないもんかと。

「キタイ」の方は知らんが、ハンガリーはそれと分かる表記になってるんじゃないの?
721世界@名無史さん:2009/05/25(月) 07:02:38 0
スペイン語でもドイツはAlemania
ポルトガル語もAlemanha

デンマーク、スウェーデン、ノルウェーではTyskland
音は近いか。

ポーランド、チェコ、ハンガリーだとネーメトだのニェムツィだの・・・
ロシア語では一般名詞ではあくまでゲルマニヤで、ネーメツ(原義はバルバロイとほぼ同じ)は悪口としてしか使わないのだが
722世界@名無史さん:2009/05/25(月) 11:31:16 0
niemcy = nie miec = no speak
俺らスラブ人の言葉が喋れない馬鹿=ドイツ
723世界@名無史さん:2009/05/25(月) 13:06:43 0
ロシア語のнемцыは古い時代にはゲルマン系以外にも使われたことがあるとか
724世界@名無史さん:2009/06/02(火) 14:29:22 0
神聖ローマ帝国vsミラン

http://www.youtube.com/watch?v=_70jJUWyA5Y
725世界@名無史さん:2009/06/02(火) 22:13:21 0
流れとはまったく関係ありませんが、
イタリア政策のせいでドイツ統一、あるいは中央集権化が遅れたっていう意見、主張、書き方ってどうなの?
あまりにも現代の感覚で当時を見すぎじゃない?最近読んだドイツ史の本2冊に連続で同じような事書いてあったからイラってきた。
726世界@名無史さん:2009/06/02(火) 22:26:21 P
どうなの?と言われても、「ドイツ」と言う単位で考えればそのとおりだろ。
ただ神聖ローマ帝国はドイツと言う単位を超えた国家だっただけの話で。
727世界@名無史さん:2009/06/02(火) 22:46:37 0
事実だから仕方ない。
当時の人々に「統一されたドイツ」という概念自体がなかったのも事実だろうけどさ。
728世界@名無史さん:2009/06/02(火) 22:52:16 0
>あまりにも現代の感覚で当時を見すぎじゃない?

現代というか、19世紀的発想やね。
ドイツ国民主義史観。
729世界@名無史さん:2009/06/02(火) 23:47:19 0
というか、イタリア政策をしないで、どうすればよかったの?が抜け落ちてるよな。
フランスのように中央集権化!なんて簡単にいうけど、むしろドイツの各諸侯が猛反発起こして独立したかもしれんしな
730世界@名無史さん:2009/06/03(水) 00:09:24 0
中世に皇帝でいるためにはイタリア王に就くことが必要条件だったからな
イタリア王でまずローマの権威を持って、次にドイツ王で庶民の王の地元の実質的な権力を持って
それではじめて名実共にローマ皇帝を名乗れる
731世界@名無史さん:2009/06/03(水) 00:30:52 0
皇帝名乗るのやめて「ドイツ王」で満足しとくとかの選択肢はなかったのか。
どうしても「皇帝」の称号がないと不便だったのか。
732世界@名無史さん:2009/06/03(水) 00:33:40 0
イタリア王を名乗らないとローマ教皇から皇帝としてのお墨付きがもらえない
教皇から皇帝としてのお墨付きがもらえないとそれ以外に何も紐帯がないから各領邦に分裂してしまう
733世界@名無史さん:2009/06/03(水) 00:35:25 0
ドイツ語でさえも当時は統一おらず方言の分化があまりに大きく、
出身地方が異なる人同士では時にまったく通じないほどだったから
ドイツ語は紐帯にならない
734世界@名無史さん:2009/06/04(木) 12:25:18 0
分裂すると困るんか?
735世界@名無史さん:2009/06/04(木) 13:26:25 0
「いつ」「誰にとって」という点について話をしてるのかを明確にしないと話は噛み合わないままだよな。
イタリア政策を遂行していた諸皇帝にとっては、各領邦がある程度自立していることは当たり前のことであって、そんな彼らに命令できる立場を確保することが必要だった。
だから、イタリア政策に深入りしたから統一が遅れた、とかいうのは皇帝たちにからすれば意味不明の批判だろうね。
736世界@名無史さん:2009/06/06(土) 03:42:16 0
でも、教皇領の併合も俗権の聖権に対する優位の確立も不可能な情勢でイタリアに手を出しても不毛なのは後世から見たら自明のこと。
何故かフランスの王権は教皇の権威を踏み躙っても痛いことにならなかった。

シチリアとナポリを領有しイタリア北部も制圧して史上最もイタリア政策の完遂に近付いてたホーエンシュタウフェン家のフリートリヒ2世ですら成功しなかったのは周知の通り。

当時誰もこれが実現不可能な政策だと想像してもみなかったのかね。
737世界@名無史さん:2009/06/06(土) 07:33:19 0
>>734
てことは、10-11世紀に帝国が物凄い勢いでポーランドに攻め込まれて
かなりの領土を奪われたの知らないだろ?
自分の気に入らない奴が皇帝になったことでブチ切れたポーランドが帝国に介入したやつ
結果として一時的にポーランドのほうが国力も領土も神聖ローマ帝国より大国になってしまった時期

その当時は下手すりゃ外国に分割占領されかねない状態だった
738世界@名無史さん:2009/06/06(土) 08:28:18 0
フランスが出てきたころには教皇の権威は既に・・・
739世界@名無史さん:2009/06/18(木) 20:48:19 0
次スレからはちゃんと過去スレのリンクを貼っておくように

神聖ローマ帝国の七選帝侯
http://mentai.2ch.net/whis/kako/1012/10128/1012823256.html

神聖ローマ帝国ってなに?
http://piza.2ch.net/log2/whis/kako/956/956585836.html

740世界@名無史さん:2009/06/20(土) 00:50:42 O
フランスだってかぺー朝の最初は王権よわかったのに何が明暗分けたの?
741世界@名無史さん:2009/06/20(土) 03:51:36 0
アルビジョア十字軍と百年戦争。

三十年戦争でハプスブルク家が勝ってればその後の歴史はかなり変わっただろうな。
742世界@名無史さん:2009/06/20(土) 12:50:45 O
三十年戦争=五代十国=薔薇戦争=ユグノー戦争=戦国時代 でいいの?
743世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:22:16 O
≫742
その流れでいくと、ハプスブルグの直系は戦争中断絶するな
744世界@名無史さん:2009/06/21(日) 01:32:43 0
古代ローマにわんさかいた池沼&サイコパスみたいなやついるの?
745世界@名無史さん:2009/06/21(日) 04:19:03 0
>>741
それ以前に特定の一門が皇帝位(或いはドイツ王位)を独占して領邦諸侯を完全に屈服させるってのが不可能だった(領邦の独立意識が強過ぎた)のが大きいんじゃないのかな。
フランス王位を簒奪しようって諸侯はいなかった(疑わしいのはブルゴーニュ侯くらいだけど、それも王家一門)ってのが大きな違い。
まあそれほどフランス王位なんて飾りにしか見えなかったわけだけど。

フィリップ・オーギュスト辺りから劇的に王家の支配領域が増えた(逆にフランス・イングランドのアンジュー王国が崩壊した)ことで一気にフランス王権が強化されたんだよね。

三十年戦争の原因だった新旧両教徒の対立は遡ればベーメンのヤン・フスとかヴィッテンベルクのマルティン・ルターみたいに真面目な信徒のローマ・カトリックに対する反抗とそれに対する諸侯・民衆の支持があったのも政治的には痛かったね。
神聖ローマ帝国という虚構がこの過程で完全に崩壊した。

>>744
古代ローマでは近親交配と鉛中毒(他の原因もあり得る)でイカレたのばっかだろ。
ティベリウス、カリグラ、ネロ、コンモドゥス、カラカラ、時代下ってコンスタンティヌス1世とその息子たち。
これに匹敵する皇帝なんていないだろ。
神聖ローマ帝国で一番どうかしてた皇帝ってプラハのルドルフ2世だろ。
それも「変なものに興味を示す」って程度だからね。
746世界@名無史さん:2009/06/21(日) 11:38:55 0
30年戦争は一時皇帝軍がドイツ制覇に近いところまでいったんだけどな
747世界@名無史さん:2009/06/22(月) 11:45:39 0
>真面目な信徒のローマ・カトリックに対する反抗

これはちがう
でも説明しないよ
まちがった歴史を間違ったまま覚えていてほしいから
748世界@名無史さん:2009/06/23(火) 00:07:27 0
30年戦争時の皇帝軍の優勢を覇権と言うならば、
カール5世の時代が遥かに覇権に近い。

カール5世の時代を覇権と言うならば、
シュタウフェン朝の時代の方が遥かに覇権に近い。
749世界@名無史さん:2009/06/23(火) 06:01:36 0
覇権の品格
750世界@名無史さん:2009/06/25(木) 07:23:22 0
カール五世ってスペイン国王カルロス一世のイメージが強いよな。
ドイツにいたのはほんの数年間だったし。
751世界@名無史さん:2009/06/25(木) 23:05:15 0
>>745
へラガバルスという奇人皇帝を忘れるな
752世界@名無史さん:2009/06/26(金) 04:39:18 0
>>750
カール5世って治世の間領土内を巡回してて殆ど定住してないみたいだが。
753世界@名無史さん:2009/06/26(金) 09:31:39 0
>>752
カール大帝以来、皇帝は巡回するものだった、と思えば、
ある意味由緒正しい。
754世界@名無史さん:2009/06/26(金) 16:15:55 0
アルヌルフがケルンテン根拠地にしたのとか、
ザリエル朝のゴスラーとかルートヴィヒ敬虔帝のフランクフルトとか、
代替わりに宮廷が移るのは多々あるが、
皇帝個人があれほど巡回したのはカール5世ぐらいじゃないか?

宮廷で思い出したが、
小学校の時初めて神聖ローマ帝国の存在を知ったんだけど、
フランス王国はパリ、イングランドはロンドンってちゃんと首都が書いてあったのに、
神聖ローマ帝国だけ書いてなかったのがすげえ不思議に思ってたわw

あれも中央集権が遅れた証か
755世界@名無史さん:2009/06/26(金) 17:18:25 P
>>754
当時ロンドンやパリが「首都」ってのも間違いだけどな。
756世界@名無史さん:2009/06/26(金) 17:48:00 0
>>755
いや間違ってねーだろw
何世迷言言ってるんだ?
757世界@名無史さん:2009/06/26(金) 17:58:35 0
>>755
kwsk
758世界@名無史さん:2009/06/26(金) 18:03:04 O
くだらない首都定義論争の予感
759世界@名無史さん:2009/06/27(土) 06:23:56 0
「首都」って言うのかどうかは知らんが、「国王の根拠地」ではあったよな。
ドイツは領邦毎に有力な都市があったし「帝国都市」ってのもあった。
ハプスブルク領の根拠地はヴィーンだったしプロイセンの根拠地はベルリンだったが、国民国家としてのドイツには永らく「首都」と呼べる都市はなかっただろ。
国民議会が開かれたフランクフルトなんて良さそうなもんだけど、ハプスブルクにしろホーエンツォレルンにしろ東方に私領を獲得した家系に力があったんでフランクフルトは西に片寄り過ぎてるって感じがあったんじゃないかね。

あと「ドイツ王家」が特定の一族に纏まらなかったのも影響してるんじゃ。
ホーエンシュタウフェン家の話読んでも「シュヴァーベンが本拠地」って以上のことはまず出て来ない。
あれだけ強大な王家なんだから立派な王宮があっても良さそうなのに。
760世界@名無史さん:2009/07/01(水) 18:33:22 0
>>759
そうなんだよ、おれもそこが前々から疑問だったんだ。
儀式を行う都市を細かく定めたカール4世の金印勅書にすら「首都」の概念が無い。

>「ドイツ王家」が特定の一族に纏まらなかったのも影響してるんじゃ。
これは確かに大きいと思う。

けれど、俺はローマの存在が大きかったんじゃないだろうかと思う。
当時の人たちがローマに抱いていたイメージは半端じゃないからなぁ。

西ローマ帝国の首都が違うとか、教皇領とか色々突っ込み所はあるんだが・・・
どうだろう?
761世界@名無史さん:2009/07/02(木) 23:51:24 0
ドイツは王家がまとまらなかったのと同時に、
王/皇帝を担う家も有力諸侯の域を出なかったのが大きかったと思う。
762世界@名無史さん:2009/07/04(土) 00:18:55 O
>>759
名目的には戴冠式行うアーヘンか?
カール4世は敵対勢力を恐れてアーヘンでは戴冠しなかったが
763世界@名無史さん:2009/07/05(日) 04:45:43 0
アーヘンはフランスに近過ぎるもんな。
中世ドイツって今よりかなり西に寄ってたからベルリンやヴィーンのような有力な都市が見付からなかったんだよね。
もしイタリアを征服してたら当然ローマを首都にしただろうけど。
764世界@名無史さん:2009/07/05(日) 13:31:10 0
一応は連続性のある後継国家ビザンツとはほど遠く、
さらにカロリング家もとっくの昔に断絶

伝統は選挙王制で事あるごとに対立王が乱立

思想上の首都ローマは教皇権の支配下

ハプスブルク家が出てくるまで長くても100年程度で王朝が断絶



首都を定められないって条件ばっかりそろってるな

ハプスブルク家がもうちょい早く出てくればウィーンが帝都ってことで納まったかもしれないけど、
ハプスブルク家の時代はもう領邦化が進みすぎて、結局ウィーンも帝国の首都じゃなくて
オーストリア大公領の首都以上のものにはなれなかった
765世界@名無史さん:2009/07/05(日) 14:26:48 0
あとまあ、帝国教会政策の破綻でドイツ西部はやたら教会領が多かったとかな
766世界@名無史さん:2009/08/29(土) 23:10:48 0
神聖ローマ皇帝はイギリス王やフランス王に比べて異名が少ない気がする。
オットー大帝・フリードリヒ赤髭王などの他に異名があったら教えて。
767世界@名無史さん:2009/08/31(月) 02:03:14 0
ハインリヒ1世捕鳥王とかハインリヒ2世聖王とかハインリヒ3世黒王とか?
フリートリヒ2世も「大帝」って呼ばれることあるけど。
768世界@名無史さん:2009/08/31(月) 19:13:00 0
>>767
そういうヤツです。
もし良かったら由来なども教えて下さい。
769世界@名無史さん:2009/08/31(月) 19:28:42 0
>>766
だからさ、地域各国の君主たちの代表に過ぎないから
770世界@名無史さん:2009/08/31(月) 20:24:18 0
>>766
既に>>767が書いてるのとかぶるけど、
コンラート1世若年王、ハインリヒ1世捕鳥王、オットー1世大帝、オットー2世赤王、
ハインリヒ2世聖王、ハインリヒ3世黒王、フリードリヒ1世赤髭王、
と、こんなもんかなあ。
有名じゃないのを掘り出してきたらもうちょっと増えるかもしれない。
771世界@名無史さん:2009/09/01(火) 07:23:27 0
フリードリヒ3世美王
772世界@名無史さん:2009/09/02(水) 00:25:50 0
結構異名あるんですね・・・全く知らなかった。
捕鳥王ってどういう由来があるんですか?
色も何か理由があるんですよね?
773世界@名無史さん:2009/09/02(水) 05:05:29 0
ハインリヒ捕鳥王は、王位に就くまでの趣味が鳥を捕獲することだったからって某書に書いてあった。
原典については知らんけど。
774世界@名無史さん:2009/09/02(水) 12:00:53 0
>>772
捕鳥王については、Wikipediaのハインリヒ1世の項に、絵までつけて説明があるよ。
775勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2009/10/11(日) 23:34:27 0
>>759
中世ヨーロッパの宮廷は基本的には勢力圏内を巡回していました。
これはドイツだろうが、フランスだろうが同じです。
ついでにいうと国王も諸侯も変わりません。
領地内の収入を自身の拠点に輸送するインフラやシステム、要は統治システムが
未発達であった為、逆に絶え間なく領域を巡回する事で収入(食料)を確保していたわけです。
ちなみにドイツの王権は王国各地の王領地に壮麗な王宮を建てたり、司教領を設定して
それらをぐるぐる廻っていました。

じゃあ何故、フランスのパリが早くから首都と教科書に載っているのか?ですが
これは単純な理由です。
まずパリですが、中世盛期のフランス王は弱体で掌握している領域も狭いものでした。
その狭い領域内でパリが突出して栄えていたため、自然と国王のいる割合が多くなり
いつの間にか常置になっていったわけです。

金印勅書以降の帝国はもはや独立した王領地がありませんので
家門王権の拠点に宮廷が構えられるわけです。
776世界@名無史さん:2009/11/13(金) 01:18:20 0
EU:「大統領」「外相」の人選作業が難航

 【ブリュッセル福島良典】欧州連合(EU、加盟27カ国)の新基本条約「リスボン条約」で新設される
「EU大統領」(欧州理事会常任議長)と「EU外相」(EU外務・安全保障政策上級代表)の人選作業が
大詰めを迎えて難航している。全加盟国の支持を得られる候補が見当たらないためで、
議長国スウェーデンは絞り込みに苦慮している。

独仏首脳が水面下で調整を進める「密室政治」への批判も噴出している。
http://mainichi.jp/select/world/news/20091113k0000m030090000c.html

神聖ローマの皇帝選びもこんな感じだったんだろうな
777世界@名無史さん:2009/11/13(金) 01:55:17 O
どう考えてもラテン系のフランス人のほうがローマ皇帝にふさわしいとおもうが。そういう考え方はなかったの?
778世界@名無史さん:2009/11/13(金) 01:59:18 0
フランク王国はゲルマン国家だったわけで
779世界@名無史さん:2009/11/13(金) 13:23:14 0
フランス語はラテン系だが
王様はシャルルマーニュすなわちゲルマン由来の血の継承
780世界@名無史さん:2009/11/13(金) 14:22:08 0
皇帝家はローマ系統だよ!
781世界@名無史さん:2009/11/13(金) 14:54:04 0
えっ
782世界@名無史さん:2009/11/13(金) 18:23:56 O
カール大帝はどうかんがえてもゲルマン

そういやフランスドイツで争ってるんだっけか
783世界@名無史さん:2010/01/26(火) 22:49:24 0
理念としては800年のカール大帝の戴冠からはじまり
実体としての帝国は962年のオットー大帝の戴冠からはじまる
とみていいんじゃないかな。
784世界@名無史さん:2010/01/29(金) 00:31:58 0
785世界@名無史さん:2010/02/14(日) 02:25:17 0
バルバロッサ期の帝国の首都はどこになるんですかね。ケルンは大司教の
所有とすると、帝国の大きな収入源はどこから得ていたのでしょうか。

ハンザ同盟からの上納金ですか?
786世界@名無史さん:2010/02/15(月) 00:53:35 0
>>785
シュタウフェン朝時代は明確な首都はなくて、帝国各地にポツリポツリと
置かれたカイザープファルツェンという町というか城というか宮殿というか、
まあそういうものが皇帝による帝国支配の拠点だった。
で、皇帝はその各地にあるカイザープファルツェンを必要に応じて移動・
滞在していたって感じ。

帝国というか皇帝の基礎収入ってのは、この各地巡行の過程で都度
徴収する税だったと思うんだけど、その他の収入とかの実際の収入比
とかはよくわかんないな。
詳しい人頼む。
787世界@名無史さん:2010/02/27(土) 10:58:32 0
神聖と新生を掛けたネーミンセンスが芳しい
788世界@名無史さん:2010/03/05(金) 15:25:37 0
神聖ローマ帝国時代の鎧とか武器とか服装とか
プラハ城のイラストや写真が多く載ってる本やサイトはないですか?
789世界@名無史さん:2010/03/05(金) 18:46:34 0
神聖ローマ帝国ってざっと800年ぐらい存在したんだがどのへんの時代だよ。
武装関係なら基本はOsprey社のMen-at-Armsシリーズあたり。
790世界@名無史さん:2010/03/06(土) 03:12:07 0
ありがとう。三十年戦争があった時代のつもりでした。
791世界@名無史さん:2010/04/08(木) 23:21:30 0
憧れの国だ
ウィーンもプラハもブダペストもある
792世界@名無史さん:2010/04/09(金) 00:22:46 0
WIKIで読んだが帝国クライスって結構機能してたんだな
小さい領邦が大国に飲み込まれず存続したのも納得
793名無A:2010/06/15(火) 17:13:25 0
割り込んですみません。

ハインリヒ3世の「黒王」って異名の由来は何か、どなたかご存知でしょうか?
よかったら教えてください><
794世界@名無史さん
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