漢魏の制度を語る2(官職中心?)

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1世界@名無史さん
うっかり埋めてしまったので、急遽立てました。
2世界@名無史さん:05/03/03 19:49:31 0
とりあえず、最後あたりの質問をコピー
735 :世界@名無史さん :05/03/03 12:03:30 0
漢代には有価証券取引法に該当する法律が既にあったって聞いたけどマジ?
どんな法律ですか?

736 :世界@名無史さん :05/03/03 16:33:43 0
校徒・操士って何する役目?操士は運転手のような気がするけど。

737 :世界@名無史さん :05/03/03 19:20:26 0
大漢和辞典からメモしたノートだと、兵卒(秦)としか書いてなかった。
それだと上造以上の卒となにが違うのかよくわからない。

738 :世界@名無史さん :05/03/03 19:23:47 0
後漢当時の、戦車・武器・甲冑が見れるサイトとかってありますか?
無論発掘品のやつを
3世界@名無史さん:05/03/03 19:52:25 0
忘れてた
前スレ漢魏の制度を語る http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1080833431/
4世界@名無史さん:05/03/03 19:54:29 0
一応続き

 司馬懿は文帝が魏王を継いだとき河津亭侯に封じられ、241年には封万戸子弟11人
列侯となり、更に2万戸に加増、死の直前に安平郡公(五万戸)に封ぜられたが固辞して
いるうちに病死しました。二代目司馬師は自身の功績で長平郷侯に封じられ、武陽侯(最
終的には四万九千戸)に進んでいます。
 三代目(師の弟)昭は父の功績により新城郷侯に封じられ、258年晋公(八郡)に封
じる詔が下ったが固辞し、無爵の子を列侯にすることののみ受けています。その後も二度
に渡り晋公冊封を固辞し、蜀征服後の263年にようやく晋公(十郡)になり、翌年に晋
王(二十郡)と進んでいます。後に晋王は皇帝の実父燕王より上位に位置づけられ、同時
に王妃を王后、世子を太子と改めています。
 四代目炎(晋の武帝)は、祖父の功績による北平亭侯、元帝擁立時の功績により新昌郷
侯に昇爵、更に父昭の晋王即位に伴い晋王世子、続いて太子と進み、父の死に伴い晋王を
継いでいます。晋王国は魏王国同様、丞相以下の官を置いていました。

 魏晋革命の寸前に五等爵制が施行され、開国郡公・県公、開国郡侯・県侯、開国伯、開
国子、開国男の下に県侯・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯の散侯が有る体制に成ったようで
す。公乗以下の下位の爵は魏一代は存在していたようです。

 この五等爵は概ね五品官以上に五百人以上ばらまかれたそうで、三公クラスは司馬付孚
の公の他は侯、司馬昭の兄弟は侯(例外らしい)・伯・子に封じられています。
 ちなみに三国志列伝にはこの五等爵の封爵の例が見られますが、ほとんど子爵です。
 まお郡公は五千戸、男爵で四百戸という基準があったようで、郡侯で千六百戸、県侯で
千四百戸の例があります。
5世界@名無史さん:05/03/03 19:55:08 0
呉・蜀
 細かいことはわかりませんが三国志には王(皇族)、侯・郷侯・亭侯等が散見され、基
本的には後漢の制度にならっていたのだと思います。

 蜀では劉備・劉禅の子は王、劉禅の弟劉永の子が侯(県侯?)、臣下は侯(県侯?)・
郷侯・亭侯・関内侯に封じられています。初期には諸葛亮が武郷侯・張飛が西郷侯、と県
侯はいなかったようです。しかし諸葛亮の死後は県侯がかなり多くおり、爵位の安売りが
始まった感があります。

 劉備が封じた二子(劉禅の弟)は、魯王・梁王と国号ですが、劉禅はそれぞれ甘陵王・
安平王と郡?王に改め、自分の子供達も同様にして伝統的国号の王を封じていません。こ
れにはなにか意図があったのでしょうか?

 李厳と劉エン(王+炎)は同時期に都郷侯であったようです。また都亭侯・中郷侯・西
郷侯も、時期はずれるかもしれませんが複数見られます。他に記録の不備なのか、爵名が
存在しないのか単に亭侯に封じたとのみの記載も散見されます。
 このあたり、通常の○○郷侯・亭侯となにか違いがあったのか疑問です?
 他に捕らえた異民族の指導者を邑侯にした例がありますが、これは爵位でしょうか?

 呉でも列伝に○○侯・○○郷侯・都郷侯・○○亭侯・都亭侯・関内侯と後漢同様の爵が
普通に見られます。なお孫権が呉王の時期にすでに封じられた侯が見られますが、これは
独断でしょうか?一応魏に奏上しているのでしょうか?
 戸数がわかるのは張昭の一万戸くらいですが、これは特例でしょうか。

 また少なくとも初期には王は皇子のみで、王の子は嫡子であっても侯にとどまるようで
す。なお孫一族、外戚は縷々列侯に封じられました。
 孫権は晩年に至までは、皇子すらあまり王封じなかったようですし、一族、外戚を侯に
封じることにも消極的であったようです。
6世界@名無史さん:05/03/03 19:55:41 0
 権臣孫リン(糸+林)を誅殺しようとして逆に廃位された孫亮は、会稽王さらに侯官侯
降封されました。また同じ孫権の子斉王孫奮は、諫言した傅相らを殺したため庶民におと
されましたが、後に章安侯に封じられました。

 四代目孫晧は273年従来の二王を改封と同時に九王を建て、更に278年・280年
に各十一王を封じています。そして最初の二回には王ごとに三千の兵士が給されています。
 仮に三度目も同じことを実施したとすると、死亡者がいるにしても三十人近い王で九万
人近い兵力になり、滅亡時の二十三万人に対して多すぎる気もします。

 呉侯は孫権の兄孫策の爵であったことから、本来嫡流で有るべきものに与えられる特別
な意味がある爵のようですが、それだけに事件に巻き込まれることが多いです。
 まず孫策の子孫紹が当初呉侯、後上虞侯に改封なり、跡を継いだ息子孫奉が孫晧の時代
に誅殺されました。次いで最初の皇太子孫登の死後、その次子英(長子は既に死亡)が呉
侯に封じられましたが、権臣孫峻を除こうとした疑われて自殺しています。最後に呉侯に
なったのは、兄皇太子孫和を陥れたものの自分も自殺を命じられた孫覇の嫡子孫基ですが、
孫和の息子であった孫晧が即位すると弟共々爵を剥奪され地方に監禁されました。

 やや疑問な点が、三国志孫休伝に見える永安元年十月の詔で数人が侯に封じられていま
すが、張布の永康侯を除き、孫恩・孫拠は県侯、孫幹は亭侯、董朝は郷侯とのみ有ります、
これは記録の不備なのでしょうか?それとも呉には封地を限定しない県・郷・亭侯があっ
たのでしょうか?一つ考えられるのは董朝以外の三人は、後に三代目皇帝孫休に誅殺され
る孫リンの弟で、一族皆殺しになった上孫一族から外されているという言うことです。

 呉は遼東の公孫氏を燕王に封じています。実際には独立勢力とはいえ、呉では異姓の王
は絶対的なタブーではなかったのでしょう。
7世界@名無史さん:05/03/04 18:45:38 0
侯の位は、土地の名前がつくものではないんですか?
万戸侯とか、博望侯(大月氏のところへ行った香具師が封じられた爵位)とかは
地名ではありませんよね?
8世界@名無史さん:05/03/04 21:36:33 0
基本的には地名です。
最初は県の名でしたが、前漢末以降郷(県の一部)や亭(郷の一部)のことも有るようになり、
県侯・郷侯・亭侯と言う後漢では序列になりました。
万戸侯とは領地が1万戸有る侯の意味で、爵名そのものでは有りません。
侯の中では相当大きい方です。
博望侯は例外らしいですが、博望と言う地名があったと言う説もあるようです。
他に票騎将軍に従って活躍したので従票侯と言うのが有るようです。
9世界@名無史さん:05/03/04 22:36:11 0
日本史板の幕府スレに張ってあったんですけどマジですか?

>古代中国の制度でも大将軍や車騎将軍などは自分の政治機関(幕府)を持つことが
>出来るとされているし、大将軍が政府だった実例はいくらでもある。
10世界@名無史さん:05/03/05 10:47:59 0
将軍が幕府を持つことが出来たのは本当ですが、幕府は本来将軍を補佐する事務局であり
政治を行うための機関では有りませんでした。
しかし実態として大将軍や車騎将軍が実権を握ることは良く有ったようです。
これらの場合は通常領尚書事又は録尚書事となっています。

三国時代以降に成ると将軍の数が加速度的に増えていき、当然価値も下落します。
南朝では現代で言えば尉官程度の将軍、果ては下級官吏に与える肩書きだけの将軍、
一兵卒に与える勲章的な将軍等が出現し、これらは当然幕府など持ちません。
11世界@名無史さん:05/03/05 11:00:29 0
府主である将軍が実権を握れば当然幕府も政治に関わることになりますが、
それは制度的なものではないと言うことです。
それとその場合でも江戸幕府とかと違って政府は別にちゃんとあり、幕府は内閣官房か
総理秘書官のような働きをするものだと思います。
12世界@名無史さん:05/03/05 19:04:25 0
漢代でも幕府って名前だったの?
知らなかった……
幕府も相国とかと一緒で唐名だったんだ…
13世界@名無史さん:05/03/06 12:43:56 0
人いねぇぇぇ!
戻ってこおーい
14世界@名無史さん:05/03/06 14:11:48 0
1、地方の単位で一番上の「州」が最初にできたのはいつで、
その頃は州はいくつあったんですか?
2、州の上にさらに何かできたのはいつですか?
3、また現在の「省」はいつからですか?

初級の質問ですみません。
15世界@名無史さん:05/03/06 15:39:54 0
漢書百官志によると漢武帝の元封5年始めて部刺史を置き、州を監察することを司らせた、
定員は13名(ただし後漢だと別立ての司隷を含めて13州でもう一つが不明)等と有ります。
もっとも同じ場所の直前に、漢では丞相が史を派遣して諸州を監督させたとの記述も有り、
区分としての州はそれ以前(もしかすると秦の統一以後)あったのかもしれません。

それ以前の周の時代には全国を9州に分けたとも言われ、九州は全国を指す意味もあった
が、実態は定かではないですし、制度的には後世に直接つながるものでもないです。

州の上は三国時代あたりに都督を置いたのが最初でしょう。

省の方は元が置いた中央政府の出先機関の中書行省が元です。
16世界@名無史さん:05/03/06 15:46:03 0
参考までに前に別のスレに書いたもの(落ちてました)のコピー


 古くは春秋時代に県と呼ばれるものはありましたが、後の県と違い大夫の領地的意味合
いが強そうです。その後行政区画となって以後は、現代に至まで常に住民に直接接する最
下級地方官庁有り続けているわけです。


 上大夫に県・下大夫に郡を与えたという話しもあるので、当初は郡は辺境に置かれ県よ
り格下だったとの説もあるようです。その後辺境部で面積が広大であった郡が発展するに
従い、その内部に県が置かれるようになり、郡県制が成立という説ですね。
 当初は県の権限が強く、郡は監督及び軍事管区といったものだったようですが、次第に
民政官としての色彩を強めていきます。
 その後郡の上に州が置かれ、更に細分化が進んだんだことにより存在価値を失い随代に
廃止されます、玄宗のころに州を郡と改名したり、宋の州には郡名が有るものがあったり
します。清代においても雅称として知府を太守と称することがあり、当時の府は郡相当と考
えられていたようです。


 漢代に観察区域として置かれたのが最初、これも次第に民政官化するとともに細分化さ
れていきます。ただし郡と異なり、かなり後まで出先機関的性格が強かったようです。
 その後いろいろと沿革はありますが清のころには府が通常の行政区画となり、州は例外
的存在に成っていたようです。といってもかなりの数の州が存在するのですが。
 省直属の直隷州(県を管轄)は府に準ずる存在、府に属する散州(県を管轄しない)は
大きな県と言った趣でしょうか。
 なお人民共和国では少数民族の自治州が存在。
17世界@名無史さん:05/03/06 15:47:18 0

 本来は唐代に国都等特別な州を府と称するようになり、その後徐々に重要な州が府とさ
れていきついには州に変わり中間行政区画となりましたが、民国で廃止されています。
 明以降の府は元の総管府が元かもしれません。


 漢の頃は県のうち、異民族が居住するものでした。
 唐初に自然区分に従って全国を10道に区分、後にこれを区分に臨時に地方巡察の使を
派遣したり、監察担当の按察使を置いたりしています。
 その後15道に増やすとともに、行政の指導監督にあたる採訪処置使を置いています。
 更に観察処置使に改名される頃から、民政長官の実を備えるようになったようです。
 その後は節度使の管轄を道と呼ぶようになり43にも達しました。
 更にその後明代に復活しています。(宋・元の路の系譜をひいているような気がします)
 明の道は布政使・按察使の配下の左右参政・左右参議、副使・僉事が省内を分担して観
察するもので補助機関はありません。
 清初は参政道・参議道・副使道・僉事道の別がありましたが、後に全て道員に統一されて
います。 また任務によって海関道・河道・勧業道・巡警道・糧道・分守道・分巡道・撫治兵
備道等いろいろあったようです。
 民国では府が廃止され中間行政区画となっりましたが、人民共和国では廃止されました。


 宋代に広域観察区域として置かれ、路としての長官は不在です。
 転運使(財政)・経略安撫使(軍事)・提点刑獄使(司法)等が個別に置かれていました。
 なお転運使の路と経略安撫使の路は区域が違っている場合があります。
 ただし後に転運使が路の実権を握り長官格になるっていくようです。
 元代になると路は明白に行省と府州の中間行政区画になります。
 明では廃止されています。
18世界@名無史さん:05/03/06 15:48:05 0

 元代の行中書省が元で、その頃は半独立状態といえるほど権限が強いです。皇帝の元
で中央政府である中書省と並立している感じですね。
 出先機関として路・府を管轄する宣慰使司がありました。
 明初、と言うか革命当時に行中書省を設け、後にこれが省と成りますが、独裁的な太祖
は省の長官を置かず、都指揮使(軍事)・左右布政使(民政)・按察使(司法)を、分置
しています。
 その後監察官である巡撫や軍政官の総督等が置かれるようになり、清代になると総督又
は巡撫が省の長官として正式に置かれることになります。
 ただし総督は最大四省を受け持ち、総督と巡撫が同時に置かれる省もあります。
 でまあ、原則的にはこの省が元代まで続いているわけです。

その他
 まずは庁。清代に新開地に置かれ、省直属の直隷庁と府に属する散庁がありました。
 基本的には県を管轄することは無いようで、県同様の最下級地方行政区画です。

 録事司、元代に置かれた官庁で、路治の都市を独立させると言う、その前後に例を見な
い中国史上でもユニークな制度です。

 鎮とか城とか、北魏の時辺境に置かれた軍政管区、鎮は後に州に改められることもあり
ます。鎮は五代の鎮将の駐屯地で、宋では県レベル以下の小都市だったりします。

 軍&監、宋代に置かれたもので軍は軍の駐屯地、監は鉱山地域。州に準ずる存在で、
軍は県を管轄することがありますが、監は県を管轄しません。

 王国&侯国・邑、漢代にあったもの、当初は独立性が強く王侯が自分で治めていたが、
後には王国は郡、侯国は県と実質的に変わらなくなります。なお邑は公主(皇女)の領地
で県と同格です。

 他にも金や宋の砦とかいろいろ有りますけど、以下は省略。
19世界@名無史さん:05/03/06 15:48:29 0
 大きさの順で並べると、省(行省)・道・路・府・州・郡・県&庁。ただし設立当初の
大きさで言うと省=道=路=州。
 つまり、一番基本になるのが県(庁&散州)でその上の中間行政機関が郡・州・府、更
にその上で監督するのが州・道・路、最上位が郡・州・道・路・行省・省。
 おおざっぱな変遷、郡県の二段階制(秦・漢書)→州郡県の三段階制(漢〜随初)→州
県の二段階制(随〜唐初)→道州県の三段階制(唐)→路州(府)県の三段階制(宋・金)
→行省・路・府又は州・県の四段階制(元)、省・府又は州・県の三段階制(明)→省道
府(州)県の四段階制(明・清)→省道県の三段階制(民国)→省県の二段階制(人民共
和国)でしょうか。
 実際にはそのまた中間(都督府とか総管府、都尉府、散府、節度州・観察州・防御州等)
があったり、中間とばして上級機関直属があったりと例外だらけでややこしいです。

 また基本的に、徐々に細分化されていき中央の目が行き届きにくくなる→臨時で監察官
を派遣→いつしか常設化し広域観察区域化→いつの間にか行政区画化するとともに細分
化→以後その繰り返し(時に中途半端な存在になった中間機関を廃止)、と言う流のような
気がしますね。


道に関して補足(平凡社アジア歴史事典)
 明の分守道=布政使の属で財政担当、分巡道按察使の属で司法担当、他に事務を分掌
する督糧道・河工道等有り。
 元の道、行省内部を適宜わけた宣慰使司の管轄を道と称した。また御史台・行御史台に
属する粛政廉訪使の監察区も道と称した。両者の管轄区域は一致しない。
20世界@名無史さん:05/03/06 19:54:27 0
元の中書行省、世祖フビライの至元元年8月中央中書省の官僚を臨時的に出張させたの
をかわきりに、様様な段階をへていつに間にか出先機関化し、いつしか常置機関となった。
そして結局23年に正式の官制が定められ、24・5年ごろには中国本土のほぼ全土にわた
り約10の行省が設けられることになった。

明は当初元の制度に従ったが、洪武9年行省を廃止し、軍事の都指揮使司、民生・財政の
承宣布政使司、司法の提刑按察使司を分立させることになった。

その後必要の都度臨時的に派遣されていた総督や巡撫が、清になると省の正式な長官
となることになった。ただし総督は数州を治めることがある。
21世界@名無史さん:05/03/06 20:02:14 0
元〜明の話は遠慮していただきたいのだが……
22世界@名無史さん:05/03/07 03:48:24 0
州については最初の十三州から徐々にふえていきましたが、
いつごろなんという州がどこに分置されたかその沿革を詳しく教えてください。
とくに江南に興味があるので
益州・荊州・揚州・交址の4州の範囲のその後だけでもいいです。
23世界@名無史さん:05/03/07 20:21:52 0
ひょっとして三国志に出てくる博望波が
張逸の封じられた土地なのでは?
24あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/07 20:47:58 0
>>22
南北朝くらいから州はどんどん細分化してゆき、その全データをここに載せるのは
大変な作業とスペースを費やすことになります。
歴代の正史の「地理志」を丹念に調べるしかないでしょう。
譚其驤編「中国歴史地図集」(地図出版社刊)を見るのも手っ取り早いかもしれません。
これも何巻もある本ですけど。
25おぎまる ◆JJi5gOTcvk :05/03/07 21:08:51 0
お久しぶりのおぎまるです。

>22さん
州の置かれた歴史は禹がみずから開いたという禹貢九州まで遡るんです。
十三州は既にかなり整備された後の形態で、史記夏本紀の禹貢九州、
呂不韋の『呂氏春秋』、戦国末成立と思われる『爾雅』には原始的な
形態の州が登場します。宮崎市定博士がこの九州に関しては整理を試み
られていますが、どうも戦国諸国一国ずつをそれぞれ一つの州として
置き換えたのが始まりのようですね。創始者は厳密には不明です。
初学記に引く輿地志によれば創始者は周公旦だというのですが…
本当なんでしょうかねえ。
ご質問の荊州・揚州は春秋末には既にあったのではないかといわれています。
冀州(晋)、エン州(衛)、青州(斉)、徐州(魯)、荊州(楚)、
揚州(越)、予州(周)、雍州(秦)、幽州(燕)が春秋時代末の
九州だったようです。これが最古の形態らしい。
その後、名称が変わったりしたようですが、幽州が消えて梁州が入り、
冀州(晋)、エン州(衛)、青州(斉)、徐州(魯)、荊州(楚)、
揚州(越)、予州(周)、雍州(秦)、梁州で一応の確定を見ます。
益州は禹貢九州、呂氏春秋、爾雅ではいずれも「梁州」で、
唐の徐堅の初学記によれば前漢平帝の時に梁州を益州と改めたと
いうことです。交址刺史も平帝の時置いています。
26おぎまる ◆JJi5gOTcvk :05/03/07 21:18:19 0
おお、あやめさんとかぶってしまった。

えー、手元の徐堅『初学記』の州郡部にざっと州の変遷が載ってるんですが、
全部写せるようなものではないです。ハンパじゃないです。
前半部分(周公旦九州〜平帝十三州)まででも結構史料に混乱が有り
(詳しくは宮崎市定『史記を語る』岩波文庫参照)、大変なんですが、
北魏孝文帝がいっしょーけんめい開拓した後が激増で、どうしようもない。
北支那だけで四十六州というのは何がなんだか…
初学記を見るのが一番早いですよ。
27世界@名無史さん:05/03/07 22:31:30 0
なにか書いているうちに書き込みがありましたが、一応書いたので張って置きます。
種本は岩波文庫の「支那通史上中」

 古の冀の地を冀・幽・并(雍州の東北含む)の3州とし、雍州の西境を涼州とし、梁州
を益州に改め、交趾州を新設、他に?(エン)・青・徐・豫・荊・揚で12州ということ
になっています。まあ古の九州とやらの存在は怪しいわけですが。
 なお王莽は古の九州に戻しており、この逆を考えればよいのでしょう。

 またこれ以外に、三輔・弘農・三河(河内・河南・河東)は、以上の州とは別に司隷校
尉に属しています。
 従って、冀・幽・并・涼・益・交趾・?・青・徐・豫・荊・揚と司隷を合わせて、実質
的には13州です。
 ところが実は上の12州に対して武帝の時に初めて置かれた刺史は13部定員13人と
なっており、どうも朔方が含まれていたようです。

三国から西晋による統一まで
 魏は、司隷・冀・幽・并・涼・青・?・徐・豫の全域と荊・揚両州の北部を領有。漢の
三輔と涼州の東部で雍州を置き、涼州の南部を秦州として13州となります。
 呉は、荊・揚・交(交趾)3州を領有、後に交州の北部を割いて広州を設置しました。
 蜀は、益州のみ、後に東北部を割いて梁州を置いています。
 晋は、蜀を併合し禅譲を受けた後、幽州の東部を平州とし、益州の南部を寧州としてい
ます。呉を併合した後、司隷を司州と改め、呉の豫・荊両州を併合しました。従って、司
・雍・秦・涼・并・冀・幽・平・青・?・徐・豫・荊・揚・交・広・益・梁・寧で19州
と言うことになります。

西晋
 荊・揚を割いて江州を置き、荊・広を割いて湘州を置き、計21州となります。
28世界@名無史さん:05/03/07 22:31:55 0
東晋
 青・?両州は徐州に寄寓、司・豫両州は荊・揚に寄寓、涼・并・幽・平州は置かれなか
ったそうです。また青・?両州の回復した時、冀州を青州に寄寓させています。
 また、広陵(徐州の郡)を南?州、京口(揚州の晋陵郡の郡治)を南徐州、姑熟(揚州
の丹陽郡の一部)を南豫州としました。


 荊・江を割いて郢(エイ)州を設置、広・江を割いて越州を置きました。


 荊・益を割いて巴州を置き、青・冀・北?は徐東に寄寓し、合わせて23州となりまし
た。なおその内訳は、揚・南北徐・南北?・青・冀・豫・南豫・司・雍・秦・梁・荊・巴
・益・寧・江・郢・湘・広・越・交となります。

六朝時代の北方
 前秦の盛時で21州、関西の雍・涼・秦・梁・益・寧、河南の豫・荊・?・青・徐・揚、
河北の并・冀・幽・平は晋の旧名どおり、司州を晋・洛二州にわけ、雍州の一部を持って
司隷を置き、秦州から南秦州を分置し、涼から河州を分置しました。
 つまり、雍・涼・秦・梁・益・寧・豫・荊・?・青・徐・揚・并・冀・幽・平・晋・洛
・司隷・南秦・河州で21州となります。
 
北魏(孝文帝期)
 河北の13州が、司・肆・并・汾・懐・相・定・冀・瀛・幽・安・平・営。河南の13
州が、光・青・南青・斉・済・?・徐・東徐・豫・洛・陜・荊・郢。関西の12州が、夏
・華・雍・岐・?・秦・南秦・梁・益・河・涼・沙。以上でしめて38州となります。

 この後は南北両朝とも急激に増加し、北周末で華北だけで211州、南朝の方も梁で1
00を超えたらしく、統一後の唐ではついに300を超え、概ね320から360程度で
推移することになります。
29世界@名無史さん:05/03/08 09:31:05 0
しかしここもあやめさんが出没されるようなスレになったか。
30世界@名無史さん:05/03/08 10:13:41 0
>>29
割とどこにでも湧いてるイメージがあるが。
31世界@名無史さん:05/03/08 11:40:00 0
つーか、新スレになってから人少なくね?
あと辞書か何かの丸まるコピペは必要な時以外遠慮してもらいたい。
容量の無駄
32世界@名無史さん:05/03/08 12:23:12 0
某王とか某々侯とか是非日本に導入して欲しいね。
33世界@名無史さん:05/03/08 12:23:56 0
各官庁は、都城内に置かれていたのでしょうか?
それとも天文官や執金吾とかは規模を必要とするために洛外にあったとか。
34あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/08 13:10:53 0
>>32
日本では平安時代には藤原不比等など摂関や太政大臣になった人が、死後に
諡号と國公の封号を贈られてます。
藤原不比等 文忠公 淡海公(近国・大国)
藤原良房  忠仁公 美濃公(近国・上国)
藤原基経  昭宣公 越前公(中国・大国)
藤原忠平  貞信公 信濃公(中国・上国)
藤原実頼  清慎公 尾張公(近国・上国)
藤原伊尹  謙徳公 三河公(近国・上国)
藤原兼通  忠義公 遠江公(中国・上国)
藤原頼忠  廉義公 駿河公(中国・上国)
藤原為光  桓徳公 相模公(遠国・上国)
藤原公季  仁義公 甲斐公(中国・上国)
35世界@名無史さん:05/03/08 13:42:48 0
>>34
一応、固定は外してくれない?
前スレで怨霊とかいう荒らし固定が入ってきて荒れた経緯があるんで…
36世界@名無史さん:05/03/08 19:31:22 0
>>34
板違いの話題になるんです申し訳ないんですけど、
不比等の時は確か封戸5000戸があったと思いますが、
あとは虚封でしょうか?
37世界@名無史さん:05/03/10 12:26:46 0
大将軍府ってそんなに権限持ってたっけ?
外威が名誉として就任した事はあるけど、大将軍が反乱起こした事象はないはず
38あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/10 13:12:27 0
>>36
不比等の場合は確か生前に職位との関連で与えられた封戸と思います。
その他の人は薨去に際して國公を贈られたものですから、恐らく封戸などは
付帯していないと思われます。
39世界@名無史さん:05/03/10 14:23:54 0
>>38
糞固定はきえろ
40世界@名無史さん:05/03/10 14:36:24 0
>>34
日本にもあったんだね。
考えてみれば天皇−王がいてその下に何もないというのも変だよね。
41世界@名無史さん:05/03/10 15:27:36 0
あやめは「スレの話題に合ってるかどうか」より「自分の知識をひけらかせるかどうか」が
優先なんだから、出てきたらもうどうしようもないよ。
42世界@名無史さん:05/03/10 19:06:57 0
つーか藤原の話は日本史板でやれよ
43世界@名無史さん:05/03/10 19:35:38 0
16 :世界@名無史さん :05/03/10 19:11:30 0
なに、簡単なことでさ。
アメリカが現在の日本をレイプするついでに、
朝鮮日本もレイプしただけのこと。
アメの愛人が二人もいると互いに夫の「夜の権利」を巡って遭い争う。
そこにつけこんで両者とも中悪くさせてるのさ。
その愛人の子供がタッグを組んで、夫に向かってきたら嫌だろう?
\________________________________/
        V
       ∧__∧   ________ 
      <丶`Д´>/ ̄/ ̄/ 
      ( 二二二つ / と) 
      |    /  /  /  
       |      ̄| ̄
44世界@名無史さん:05/03/11 07:30:22 0
どなたか前スレお持ちの方いらっしゃいませんか…?
一週間ばかり来られなかったら次スレに移ってしまって
しかも前スレ落ちてしまっているようでして。
とても楽しみにしているスレなのです。
743でログ取得終わってしまっているので
それ以降、お持ちの方がいらっしゃいましたら
是非ともお譲り頂きたく思います…
よろしくお願いします
45世界@名無史さん:05/03/11 08:35:35 0
>>44
>>743が最終です。
46世界@名無史さん:05/03/11 12:15:41 0
別駕って州刺史の属官?
官品と秩禄はどんくらいですか?
47世界@名無史さん:05/03/11 12:39:27 0
>>46
属官。南北朝時代はあくまで長官が任命するものであって皇帝や吏部が任命するものではなかったから品級なし。
唐代には品級あり。確か五品くらいだったと思う。「シナ通史」に載ってるよ。
48世界@名無史さん:05/03/11 14:54:55 0
漢魏の時代であれば、権限はともかく制度上は百石級の属吏にすぎません。
宋のころになると、>>47氏の言われるとおりにあいかわらず官品はありませんが、
実際には都督府の長史に准ずる存在になっており六品相当と見てよいでしょう。

唐の別駕は隋の地方制度改革で一度消滅したものの復活ですから、
一応は別物と考えるべきだと思います。
なお旧唐書によると、唐では上州従四品下、中州正五品下、下州従五品下となります。
49世界@名無史さん:05/03/11 18:32:04 0
勘違いの訂正、下州は従五品上が正しいようです。
5044:05/03/11 21:46:52 0
>>45
ご教示どうもありがとうございます
51世界@名無史さん:05/03/11 22:22:01 0
後漢書衛颯伝の「王莽時、仕郡歴州宰」の州宰ってのが別駕だと
思うんだけど、違うかな?
郡に仕えて州の役人になるってのも少しおかしい気がするけど・・・
52世界@名無史さん:05/03/12 00:47:09 0
九品官人法にも従とか正ってのあるんだ
53世界@名無史さん:05/03/12 08:36:26 0
正従上下はどうも北方(北魏か?)の発案らしい。
南朝では、梁の初期までは正従がないらしい。
梁については18班が正従九品と称されていた可能性はある。(宮崎市定氏の説)
最後の陳は正従の別はないらしい。
54世界@名無史さん:05/03/12 08:43:04 0
>>51
後漢書が書かれた頃の感覚だと、中央が直接任命せず地方長官に任命権がある地方の
属官のことを郡職、その履歴を郡歴とか称することはあったのでは?
王莽ないし後漢時代にはそう言う表現はなかったとは思うけど。
55世界@名無史さん:05/03/12 18:55:12 0
将軍府の中で、独自の府が設置できるのはどこから?
大将軍府とか車騎将軍府とかがあると聞きましたが
56世界@名無史さん:05/03/12 19:34:17 0
独自の府って言うのは独自の名前の府ということでしょうか?
基本的に漢の将軍は全て府は持っています。
それで他の将軍と区別するために○○将軍の府は○○将軍府と呼ばれたと思います。
魏晋の時代になると将軍もインフレ状態で五品クラスの下級の将軍になると、
府自体存在したものかどうか怪しげです。
特にその中でも牙門将軍や偏将軍・ヒ(ネ卑)将軍あたりの定員のない将軍になると、
多分府などなかったのではないでしょうか。
その後の南朝(宋あたり)の八品将軍になると、まず府はなかったでしょう。
さらに梁の流外将軍なんかの場合、府があったら逆に驚きます。
57世界@名無史さん:05/03/12 19:40:43 0
>>51
王莽政権下では県の長官(令長)が県宰と改称されています。
だとすると、県の長官が県宰で州の属官が州宰って言うのは、
少々違和感がありますね。
58世界@名無史さん:05/03/13 00:07:42 0
うむ〜、衛颯は下層の出身で州刺史にはなってないと
思うから、別駕もしくはその下役あたりだと思うんだけど・・・
大漢和だと州宰は州刺史と出てくるんだよな〜。
59世界@名無史さん:05/03/13 21:35:28 0
『爵位制度の変遷』 晋以後
 スレちがいになりますが続きです。さすがに隋以降はいくらなんでもあれなので、まあ
少しは関係有りそうな南北朝までだけにしておきます。一応一部は漢(劉淵の漢、成漢)
・魏(北魏・東魏・西魏)の制度には違いないですし。と言訳しておきます。


 王は宗室が封ぜられ、大国(一万〜二万戸:三軍兵力五千名)、次国(五千〜一万戸:
二軍三千名)、小国(五千戸:一軍千五百名)の別がありました。後に県王(当初千戸、
後三千戸)が設けられています。
 魏末に新設された五等開国爵は、郡公(一品:五千戸)、県公(一品:千八百戸)、郡
侯(二品:千六百戸)・県侯(二品:千四百戸)、伯(二品:千〜千二百戸)、子(二品:
六百〜八百戸)、男(二品:四百戸)となるようです。
 散侯は、県侯(三品)、郷侯(四品)、亭侯(五品)、関内侯(六品)、関外侯(七品)
で、官品相当の礼遇を受けるのみだそうです。開国の県侯と散爵の県侯が併存しているの
がややこしいですね。またここには出ていませんが後述のように関中侯も存在したようで
す。官品は七品だったのでしょうか?

 開国爵の保持者本人が起家(初めて官に就くこと)の際は、五品の員外散騎侍郎に任じ
られる特例があったようです。なお王の子弟は三品・四品、通常の貴族は最高で初任六品、
多くは七品です。

 晋書百官志によると、王国には師(後司馬師にはばかり傅と改名)・友・文学及び郎中
令・中尉・大農の三卿以下の国官が置かれました。また王国の守は内史と呼ばれました。
 王に対してはしばしば就国令が出されていますが、これは原則ではなく都で官職に就い
ている王もよく見られました。また地方に出る場合でも、大兵力を置いた重要地域の都督
となることも多かったようです。
60世界@名無史さん:05/03/13 21:37:49 0
 大国・次国の初代王の庶子は公、二代目王の庶子は侯、三代目(以降?)の庶子は伯に
封ぜられました。同様に小国五千戸以上の初代王の庶子は子、小国五千戸未満の初代王及び初代公侯の庶子は男に封じられました。
 公の制度は小国王に準じ(一軍千五百名?)、侯は五千戸未満の王同様に一軍千名(千
五百または千百とも)を置き中尉がそれを指揮したようです。伯以下いは兵は置かれませ
んでした。ところが公国は中尉なしと同じ晋書百官志に有り、矛盾があります。どちらが
正しいのでしょうか?
 なお同様に侯国は大農を欠き、伯以下は更に簡略化されています。

 ところで上記の兵力や国官等について、晋書を見る限りでは宗室とは限定されていない
ようですが、臣下の公侯も軍を持てたのでしょうか?その点は疑問です?

 初期では前述の規定を適用して、傍系皇族では嫡流以外は公・県公等だったようですが、
政変の影響かどんどん王・郡王が増えていったようです。
 西晋末の混乱で殺された王一時に数十人にも及んだと言われ、あるいは百人にも達した
のではないのでしょうか?もっとも罪を犯して県侯・亭侯に落された王も見られますが。

 晋は一族を冷遇した魏を反面教師として王に大きな権力を与え(自前の兵に加えて、上公
・三公級の高官に任ぜられることもありました)、一方貴族を懐柔するためか盛んに爵を与
えたようです。
 上述のように王は正規の制度でもそれなりの規模の軍を持ち、統一後の軍縮で失業した
軍人が流入したため実際には更に多くの兵力を抱えていたようです。これが八王の乱の原
因の一つとなったようです。

 晋朝成立後の封建では、司馬氏の内、司馬懿とその兄弟の子孫だけが王(郡王?)に封
じられました。魏末に五等爵に封じられていた貴族の内、晋にとっての功臣は爵を一級程
度進められ、三公は公爵となったようです。

 武帝の弟斉王攸の庶子寔(武帝の甥)は、長楽亭侯から父への優遇措置として北海王に
封じられました。父自身の武功で得た由緒のある爵とは言え、五等爵でさえないわけで、
初期では近親であってもこういう例が多かったのでしょうか?
61世界@名無史さん:05/03/13 21:39:55 0
 武帝が病に倒れると年長の皇子を都督に任命し、同時に任地に合わせてその封地も変
えられています。
 武帝死後実権を握った楊駿は、人心収攬の為に爵をばらまきました。天下の人々に一級、
葬儀の参列者には二級爵を進め、二千石以上の官僚は関中侯に封じられました。
 楊駿が打倒された後、汝南王も人気取りのため爵位を大盤振る舞い、督将の侯になるも
のが1081人にも上ったそうです。この侯は五等爵を意味するのか、散爵の県・郷・亭
侯を含むのか?それとも関外侯以上なのでしょうか?

 一時帝位を簒奪した趙王倫を打倒した斉王・成都王は九錫(成都王は辞退)を、河間王
は三錫を加えられました。また武将の内五人が公に封じられ、五公と称されたそうです。

 禅譲した魏の皇帝は陳留王(一万戸で宗室の上国同様)に封じられ、天寿を全していま
す。その他済北王曹志がケン城県公等魏の諸侯王は降格されました。ところで漢の献帝が
即位前に陳留王だったこととなにか関係があるのでしょうか?
 ちなみに漢の後裔山陽公、蜀の劉禅の安楽県公(死後は子供が後を継いでいます)はそ
のまま、周の子孫は衛公、孔子の子孫も魏に引き続き宗聖侯です。
 呉の一族孫秀は皇位を窺っていると孫晧疑われて晋に亡命、会稽公に封じられました。
 また呉の後主孫晧は降伏後帰命侯に封じられ、太子が中郎、王であった子が郎中に任
ぜられるにとどまっています。なぜかこちらは劉禅より待遇が悪いですね。

 北魏の祖拓跋猗廬は、西晋の懐帝から大単于・代公に、最後の皇帝憫帝から代王に進
められました。また前涼の祖張軌は憫帝から西平公に封じられました。

 武帝即位時に民に爵五級(漢では三級が最高だったようです)が与えられていますので、
少なくとも西晋のうちは従来どおりに民爵が存在していたのだと思います。まあ先例にな
らい形式として与えていただけで、既に漢の時期のような社会的な意味や、免罪の特権等
は無かったのかもしれませんが?
62世界@名無史さん:05/03/13 21:41:47 0
東晋
 表向きの基本的な制度は西晋と変わりがないのでしょうが、王の位置づけなどは実際に
は相当変化していたのでしょう。なお、司馬一族西晋末の混乱で元帝(琅邪王睿)の子孫
以外は、一部の系統を除きほとんど消滅したようです。
 なお東晋では初代以来の由緒のある琅邪王から帝位に就いた例が数例見られます。

 一時洛陽を回復し皇帝を取り替え、最後は簒奪寸前までいったらしい桓温(父は東晋初
の叛将王敦を撃って万年県男、ただし爵位は兄が次いでる)が、洛陽回復の功績で南郡公
と言う例が有ります。その後桓温は簒奪を目指して皇帝の廃立を行い、この時廃された皇
帝は海西公に封ぜられています。
 また桓温は成漢を滅ぼし、その最後の皇帝は帰義侯に封じられました。

 桓温の末子で跡を継いだ桓玄は、南郡公に加えて予章郡公・桂陽郡公(一人で三公爵
を兼ねる例は他に有ったでしょうか?)となり、更に魏晋の先例にならい楚王(十郡)→楚
帝と進みましたが後の宋の武帝劉裕に敗北死しています。
 この時、廃位した安帝を平固王に封じるとともに、桓氏一族を封建、逆に東晋の功臣の
子孫の郡公の爵を下げるか、封邑を削っています。

 元帝は、西晋の衰退時に遼東・遼西方面を掌握した鮮卑の慕容カイ(まだれに鬼)を、
大単于・昌黎公(後遼東郡公)に封じました。カイは更に燕王を求めましたが、東晋内部
での協議中に死亡しています。
 その後反対論を押し切って、呉の公孫氏に対する燕王を先例に、カイの跡を継いだコウ
(皇+光)は大単于・燕王、世子儁は左賢王・燕王世子に封じられました。
 魏の跡を継いだ晋としては、魏の文帝が孫権を呉王に封じた例の方が、正統王朝ではな
い呉の例より先例として相応しいような気がしますが、後に孫権が帝位に就いてしまった
のが不吉で適当な先例ではないと思われたのでしょうか?
63世界@名無史さん:05/03/13 21:43:27 0
 ?族の揚盛は仇池に本拠地を置き仇池公に封じられました。
 高句麗王は高句麗王・楽浪公に封じられました。
 鮮卑の乞伏熾盤は河南王を自称し、後に秦王と改称しましたが、東晋に入朝し隴西公に
封じられました。
 これらの例を見ると、どうも少なくとも初期の段階では異民族の首長に王号を与えるの
に消極的で、なるべく公に止めたかったようです。

 後の宋の武帝劉裕は、桓玄を打倒した後まず予章郡公(一万戸)に封ぜられ、その後宋
公(十郡)に封じられ位は諸侯王の上とされました。その三年後に宋王(二十郡)に進爵
しています。その後、魏の子孫である陳留王ら二百七十人の晋の重臣の強要の形を取っ
て帝位に就くことになります。
 この時点まで陳留王が続いていたのは結構驚きですが、この経緯からいって少なくとも
この時の陳留王本人は宋朝でもそれなりの待遇を受けたものと思います。


 礼志を見ると、皇太子・諸王は金璽亀鈕チュウ(糸+重)朱綬、郡公は金章玄朱綬、郡
侯は金章青朱綬、長公主・公主・封君・諸王世子・県郷亭侯・関内・関中名号侯は、金印
紫綬、郡公侯世子・関外侯は銀印青綬と、関中名号侯が見えますが、これは関中侯と名号
侯なのか?関中名号侯と言う一つの爵なのかどちらでしょうか?
 なお百官志の方に見える官品表は相当省略されているようで、爵位関係は県郷亭侯・関
内侯のみしか見えません。基本的には晋の制度を継いでいるようです。

 礼志には、王国中尉(銀印青綬)、王公侯諸雑署令長・王郡公侯中尉(銅印墨綬)等が
散見され国官も存在していたようです。どの程度実態が有ったのか不明ですが。
 王国中尉と王中尉がだぶっているのが不審です。

 文帝の第六弟義宣は、文帝即位とともに竟陵王(食邑五千戸)、後南ショウ(言+焦)
王に改封、孝武帝即位に尽力した功績で南郡王(一万戸)に改封。
 文帝の第六子誕は、広陵王(二千戸)、後隋郡王、更に竟陵王に改封。
 この時期の王で食邑一万戸と言うのはよほどの厚遇でしょうか?
64世界@名無史さん:05/03/13 21:45:18 0
 西域の西涼の君李キン(音+欠)は、涼公を自称し宋から酒泉公に封じられました。
 西涼は冊封を受けた直後に北涼の沮渠蒙遜に滅ぼされましたが、宋は沮渠蒙遜を張掖
公に封じて冊封体制内に位置づけようとしました。その一方北魏からも涼王に封じられてい
ます。なお沮渠蒙遜の死後、その子牧ケン(牛+建)は河西王に封じられています。もっ
とも同時に北魏からも河西王に封じられていますが。

 吐谷渾の阿犲は澆河公に封じられ、その死後弟慕カイ(王+貴)は隴西公に、更にその
弟思延は隴西王、後に河南王に封じられました。
 また422年仇池公を武都王に進封しています。

 最後の晋帝は零陵王に封じられ、名目的にはそれなりの待遇を受けましたが、直ぐに殺
されています。これ以後はこれが慣例になるようです。

 後の斉の高帝簫道成は、父が武功により得た爵晋興県男を継ぎ、自身叛乱鎮圧の功績
で西陽県侯に昇爵しました。その後政府の実権を握り斉公(十国)、同年中に斉王(二十郡)
翌日天子の旗を立て、王世子を太子としました。

南斉
 百官志によると、諸王師・友・文学、国官に郎中令・中尉・大農の三卿他有り。公侯に
は郎中令の一卿のみが見られます。
 輿服志には、太子(金璽亀鈕朱綬)、諸王(金璽亀鈕チュウ(糸+重)朱綬)、郡公(金
章玄朱綬)、侯伯(金章青朱綬)、子男(金章素朱綬)、公世子・長公主・公主・封君(金
印紫綬)、侯世子・公侯夫人(銀印青綬)、郷亭関内侯(?印墨綬)が見られます。

 宋の最後の皇帝順帝は汝陰王に封じられましたが、直ぐに殺されています。また斉に功
労があるものと、特に配慮された3家を除き、封建諸侯120人が国を除かれました。
 なおこの点は、晋宋交代の時も同様だったようです。
65世界@名無史さん:05/03/13 21:46:48 0
 二代武帝の死後従兄弟の西昌侯鸞は、宣城郡公、宣城王と進爵し、禅譲同様の手続き
を踏んで後に即位しました。
 しかし明帝の子は乱脈の君主であり、為に斉の遠い一族である後の梁の武帝蕭衍は帝
の弟南康王を推戴して兵を興しました。この時南康王は父の例にならい、皇太后の令によ
り宣城王(十郡)に封じられ、後に帝位に就いています。
 一方廃帝は、バイ(シ+倍ーイ)陵王、更に東昏侯に降封の後殺害されました。

 翌年正月蕭衍は梁公(十郡)に封じられ百司を置いています。その翌年梁王(二十郡)
に進爵した後帝位につくこことに成ります。


 隋書百官志上には、五等諸公(開国公?)の位は視三公、開国諸侯の位は視孤卿、開
国諸伯の位は視九卿、開国諸子の位は視二千石、開国諸男の位は視比二千石、公以下
に相・典祠令・典書令・典衛長を置くと有ります。

 同じ梁の官品表には、皇弟皇子国郎中令(五班=従七品相当)、皇弟皇子国大農・嗣王
国郎中令(四班=正八品相当)、皇弟皇子国中尉・嗣王国大農・蕃王国郎中令(三班=従
八品相当)以下の国官が見え、少なくとも郡公・県公までは同様の国官が有ります。

 武帝の子兄弟は王(追封含む?)、甥は王または侯に封ぜられているようです。従兄弟
の子供で郷侯(散爵?)に封ぜられた例もあります。

 斉の最後の皇帝和帝は巴陵王に封じられましたが、直ぐに殺されています。
 また北魏末の動乱で、北魏一族の北海王は梁に亡命、魏王に立てられ北伐を行いまし
たが、失敗して敗死しました。

 宕昌王梁弥機は、隴西公・宕昌王に封じられましたが、印象は金章だったようです。
これは諸王の金璽に対して一段落ちる郡公・郡侯なみの扱いと言うことになるようです。
 つまり異民族の王は国内の王より格落ちで、開国公・侯爵と同レベルになると言うこと
のようです。
66世界@名無史さん:05/03/13 21:48:05 0
 北朝から亡命してきた将軍侯景は、叛乱を起こした後の548年表面上武帝と和解、河
南王に封ぜられました。更に550年漢王(二十郡)に封ぜられ、禅譲を受け帝位につき
ましたが、552年には敗死しています。

 後の陳の武帝陳覇先は、長城県公から呉興郡公を経て557年陳公(十郡)に封じられ、
陳の百司を置きました。そして翌月には陳王(二十郡)に進み、早くもその3日後には禅
譲を受けています。


 隋書百官志上に見える陳の官品表には、封王世子(第三品)、嗣王・蕃王・郡公・県公
等世子(第四品)、侯世子(第五品)、子男世子(第六品)とあり、世子に官品が有るの
は特徴的に思えます。
 同表には、皇弟皇子国郎中令・大農・中尉(第八品)、嗣王国郎中令・大農・中尉、蕃
王国郎中令・大農(以上第九品)等が見えます。

 爵位自体は、郡王(第一品)、嗣王・蕃王・開国郡県公(第二品)、開国郡県侯(第三
品)、開国県伯(第四品、視中二千石)、開国子(第五品、視二千石)、開国男(第六品、
視比二千石)、湯沐食侯(第七品)、郷・亭侯(第八品、視千石)、関中・関外侯(第九品、
視六百石)と有ります。
 湯沐食侯は、旧県侯(散爵の)でしょうか?開国県侯と紛らわしいので改称されたので
しょうか?また関中・関外侯は見えますが関内侯は見えません、これは消滅でしょうか?
脱漏でしょうか?

 梁の最後の皇帝敬帝は江陰王に封じられましたが、直ぐに殺されています。

南朝を通じて
 各王朝初代初代についてみると帝位に就く前、劉裕は予章公から宋公・宋王に、蕭道成
は竟陵公から斉公・斉王に、蕭衍は建安公から梁公・梁王に進号しています。つまりこの
時代の国公は公爵の中でも特別なものだったようです。
 また爵称の大枠は、民爵の消滅?以外は晋以降南朝歴代を通じて変化がないようです。
67世界@名無史さん:05/03/13 21:49:26 0
 宋以後皇子等を都督に任じ地方に駐留させる制度が盛んに行われ、王府が発達するこ
とになります。なお王は、正王(皇弟・皇子)・嗣王(皇弟・皇子の世子)・皇弟・皇子の
庶子・蕃王(それ以外の王)の四段階に分かれるようです。ただし正王と嗣王以外は取り
扱いはほとんど変らないそうです。

 どうも個人的には南朝における爵位は存在感が薄いように思えます。爵位を継いでいる
家が当然嫡流なのでしょうが、結局経済的な特権と若干の就官時の有位を除けば、門地
二品であることこそが重要であり、爵位の有無は社会的にはさほど意味を持たなかったの
ではないでしょうか?なにか六朝貴族制について書かれた本でも、官職や教養・収入に比
べると爵位は重要視されていないようですし。
 もっとも中国の場合、どの時代も爵位と貴族はあまり関係ないのかもしれません。

五胡十六国
 この時期の君主の称号として特徴的なものに天王が有ります。天王は通常皇帝と異なり、
大漢天王・大趙天王等、国号を付して呼ばれます。
 天王の后は、王后・皇后・天王后・天王皇后、太子は太子・皇太子・天王皇太子と呼ば
れ、諸子は王に封じられる場合と公・郡公に封じられる場合がありました。
 また、皇帝の敬称陛下・自称朕、王の敬称殿下または大王・自称孤に対して、天王は敬
称が陛下・自称は朕と、皇帝に準じています。

 帝位に就く前に天王と称することが多いのですが、生涯天王にとどまる場合もあります。
 結局のところ天王とは、なんらかの理由で皇帝を名乗るのをはばかられるときに採用し
た、皇帝より一段劣る支配者の称号のようです。

 後趙の石勒が天王位に就いたときは、世子弘を太子と為し、その子宏を大単宇となし秦
王に封じています。石勒はその後帝位に就いた後死亡しましたが、甥の中山王石虎が魏
王・丞相を経て、弘を廃して天王に即位しました。なおその際には、親王を郡公に下し、藩
王は県侯に下しています。

 西晋の懐帝は漢(前趙)の会稽郡公、愍帝は同じく懐安公に封じられましたが、相次い
で殺されています。また、五胡十六国の戦乱で蜀漢の子孫はほぼ全滅しましたが、劉備の
次男劉永の孫劉玄一人が生き残り蜀に亡命、成漢の李雄に安楽公に封じられています。
68世界@名無史さん:05/03/13 21:50:57 0
 前涼の三代目茂は前趙に服属し、涼王に封じられました。その後の当主は、なぜか涼王
と西平公(西晋から封じられた爵)を、ほぼ交互に称しているようです。
 石勒は前趙から平晋王に封じられ、前趙に帰順した群盗で公に封じられたものもいます。
 石虎の子は秦公(石虎生存中)、義陽王・新興王(石虎没後)等に封じられています。
 
 前燕は前秦に滅ぼされ、最後の皇帝は新興侯に封じられています。
 前燕は後の後燕の成祖慕容垂の呉王をはじめとして皇族を王に封じたほか、高句麗王を
高句麗王・楽浪公に封じています。
 後に後燕は高句麗王を遼東・帯方二国王に封じています。
 桓玄の乱の際に益州の参軍が刺史を殺害して東晋から自立、後秦に通じて蜀王に封じら
れましたが、すぐに劉裕に滅ぼされました。
 この時期の独立勢力の中には王はもちろんとして、略陽公・扶風公等、公を自称したも
のがみられます。

 上記のように、少なくとも一族や従属勢力、周辺民族の首長を王公等に封じることは一
般に行われていたようです。列伝や碑文を見ればその他の爵位も存在自体は確認できる
んでしょうが、実態まではよくわからないんでしょうね。

北魏
 魏書官氏志によると、天賜元年(404年)九月に伯男を廃止して王公侯子の四等に改め
たようです。この時、王(比第一品)は大郡に、公(比第二品)は小郡に、侯(比第三品)
は大県に、子(比第四品)は小県に封じられています。
 それ以前については、いつ頃から五等爵の制度があったのか不明です。
 皇子及び異姓の元勲を王に封じ、以前の王は公に降爵、公以下も爵を下げていますが、
人数的には王10名、公22名、侯79名。子103名だったそうです。
 同年十二月王公侯子に臣吏を与えています。大郡王二百人、次郡王・上郡公百人、次郡
公五十人、侯二十五人、子十二人で、統率者として典師が置かれました。

 官氏志に太和中とのみ記された官品表には爵位は見えませんが、王家尉(従第七品中)
・王家吏(従第九品下)が見られます。
69世界@名無史さん:05/03/13 21:52:05 0
 なお魏書高祖紀太和十年(486年)の条に五等爵と言う言葉が見えるので、孝文帝の初
期には伯・男が復活し、再び五等爵の制度が置かれているようです。
 この時点までの制度では、封爵の特権としては子孫の任官が有利なことと、国吏がいる
ことだけで食邑は無かったようです。為に爵位が繁授される傾向もあったようです。
 例えば遷都の際に、部族民の子孫の内の失業者二千余人に、爵(散爵?)を与えたこと
があるそうです。

 孝文帝は親政開始後、封爵の制度を改革して食邑の制度を設けようと考えたようですが、
その為には従来の爵位を整理する必要がありました。
 その為太和十六年(492年)に、従来の爵を一ないし二等引き下げることを行いました。
 そすいておいて太和十八年(494年)に食邑制が実施されました。と言っても実際に与
えられたのは名目上の食邑の一部で、王は半分、開国食邑の特典のある公は1/3、侯
伯は1/4、子男は1/5に止まったようです。
 また、従来同様に開国でない散爵も依然として存在していました。

 この時の改正で王は宗室のみに改められ、従来存在していた異姓の王は原則的に公に
下げられました。特例もあったようですが、それも本人限りで、子孫襲爵の時に公に下げら
れました。後に孝荘帝が母后の兄を郡王に封じようとしたが、本人が王は異姓が就くべき
地位ではないと断わったそうです。

 王は皇子を親王、皇孫を始蕃王、皇曾孫を二蕃王、皇玄孫を三蕃王と称し、妻は全て妃
と称したそうです。なお王には散爵はないのですが、親王は二千戸、始蕃王は千戸、二蕃
王は五百戸、三蕃王は三百戸と世代を経るごとに食邑が減っていったようです。この点は
公以下も同様だったようです。

 魏書官氏志の太和二十三年(499年)の制では、王・開国郡公(第一品)、開国県公・
散公(従第一品)、開国県侯(第二品)、散侯(従第二品)、開国県伯(第三品)、散伯(従
第三品)、開国県子(第四品)、散子(従第四品)、開国県男(第五品)、散男(従第五品)
の他、異民族専用らしい帰義侯・率義侯・順義侯・朝服侯が見られます。
70世界@名無史さん:05/03/13 21:53:07 0
 同様に皇子郎中令(第六品上)、皇子大農(従第六品上)、王公国郎中令・皇子中尉(第
七品上)、王公国大農(従第七品上)、皇子常侍(従第七品)、侯伯国郎中令・皇子侍郎(第
八品上)、王公国中尉(第八品)、侯伯国大農・皇子上中下将軍・皇子中大夫・王公国常
侍(従第八品)、子男国郎中令(第九品上)、王公国侍郎・侯伯国中尉(第九品)、皇子典
祠令・皇子学官令・典衛令・王公国上中下将軍・王公国中大夫(従第九品上)、子男国大
農(従第九品)の国官も見られます。
 これを見ると皇子とそれ以外の王に差があったようです。

 なお郎中令・大農・中尉・常侍・侍郎・上中下将軍・中大夫・典祠令・学官令・典衛令
等の国官の制度はは南朝にならったようで、王朝によって他にも様々な官が置かれたりし
ています。また当然ですが、爵位が下がると各官の官位が下がり同時に簡略化されます。

 宣武帝の永平二年(509年)、封爵による初任官の制度が定められました。これは同じ爵
位でも、皇室の同姓と一般鮮卑人、漢人で付ける官位が異なっているものでした。
 同姓は、公が正六品下、侯が従六品上、伯が従六品下、子が正七品上、男が正七品下
 鮮卑は、公が従七品上、侯が従七品下、伯が正八品上、子が正八品下、男が従八品上
 漢人は、公が従八品下、侯が正九品上、伯が正九品下、子が従九品上、男が従九品下

 見てのとおり漢人は相当不利ですし、あまり爵位のありがたみはありません。もっとも
一流の名家はその家自体の権利としてもっと良い官(七品級)に任官できるので、この制
度を利用するのは成り上がりの家系だったようです。

 北涼の沮渠蒙遜を涼王に、その子牧ケン(牛+建)を河西王に封じています。もっとも
沮渠蒙遜・牧ケンともに、宋からも同時期に冊封されていますが。
 高句麗王は遼東郡開国公(正一品)・高句麗王に封じられました。
71世界@名無史さん:05/03/13 21:53:53 0
 北魏末の最高実力者璽朱栄は、叛乱鎮圧の功績で博陵郡公、さらに太師になると食邑
七万戸に封じられました。その後太原王(封二万戸)で計9万戸となり、大丞相になると一
万戸を加増して太原国邑十万戸となりました。最終的には天柱大将軍に成ったとき二十万
戸に加増となりましたが、孝荘帝に誅殺されました。
 その後璽朱一族は孝荘帝一族を殺戮した後、新たに擁立した皇帝を廃位、新帝は皇帝の
称号を避け、帝とのみ称し、璽朱栄に相国晋王を賜り九錫を加えています。

 更に璽朱度律は禅譲を受けた後に、高歓(北斉の始祖)を渤海王に封じましたが、高歓
は璽朱氏に叛し孝武帝を擁立、太師となり世襲定州刺史(封戸十万)に至りました。
 高歓と関係が悪化した孝武帝が逃亡した後、新帝を擁立した後高歓は病死しましたが、
死後斉王(九錫)を送られました。
 高歓の跡を継いだ長子高澄は大丞相等の官職は継いだものの、渤海王を辞退し太原公
に止まりました。その後斉王に封ぜられるところでしたが、これも固辞しています。
 高澄の死後、弟の高洋は斉郡王(一万戸)に進み、同年中に斉王(五郡十万戸→二ヶ月
後十郡二十万戸)に進みましたが、その後直ぐに禅譲を受けました。

 一方北周の始祖である宇文泰は安定郡公に封じられていますが、王爵は辞退しています。
泰の病死後泰の甥中山公宇文護が実権を握りましたが、泰の嗣子覚は周公に封じられ、そ
の後に禅譲を受けて天王に即位しています。
 また西魏の時点で、重臣(実際は北周の重臣)である柱国大将軍・大将軍は、(西魏の)
皇族諸王を除いてのきなみ開国郡公に封ぜられたようです。

北周
 国公(正九命=正一品相当)、侯(正八命=正二品相当)、伯(正七命=正三品相当)、
子(正六命=正四品相当)、男(正五命=正五品相当)の五爵があったもようです。
 また諸侯の属官として、公の孤卿(正四命=正六品相当)、公の大夫・侯伯の孤卿(正
三命=正七品相当)、公の上士・侯伯の大夫・子男の孤卿(正二命=正八品相当)、公の
中士・侯伯の上士・子男の大夫(正一命=正九品相当)も有ったようです。
 多分通典を元にしたのだと思う表が、岩波文庫「支那通史中巻」なる本に付いてました。
72世界@名無史さん:05/03/13 21:54:30 0
 初代天王の覚が一族の実力者宇文護に殺された後、覚の庶兄寧都公が護により天王に
擁立された後帝位に就き、この明帝も殺された後、弟の魯公が皇帝(武帝)となっています。
 その後武帝は弟衛公直等と謀り晋公護を誅殺しました。

 北魏の恭帝は廃位後宋公に封じられましたが、直ぐに殺されています。
 また武帝は北斉を滅ぼし、後主を温公に封じました。
 隋の文帝楊堅の父楊忠は北周朝では、陳留郡開国公から隋国公(邑万戸、別に竟陵県
千戸を食邑としその租税を収むるを得る)に進封されており、文帝はそこから隋王(十郡)
に進んでいます。隋のほかにも柱国大将軍・大将軍は、唐朝の先祖李虎が隴西郡開国公
→唐国公、趙貴が南陽郡開国公→楚国公、宇文護が中山郡開国公→晋国公となったよう
に、概ね国公に成ったようです。
 これらのことから、どうも北周初期には王は居なかったのではないでしょうか?
 また、散爵が存在したのかどうか不明です。

北斉
 王・郡公・県公・県侯・県伯・県子・県男・郷男の八開国爵と、郡公・県公・県侯・県
伯・県子・県男の六散爵がありました。
 開国爵は郎中令・大農・中尉以下の国官(爵位の上下により官品、人数が異なる)を置
くことが出来るほか、食邑を給されてその邑の調の一定割合が収入となりました。その割
合は王で三分の一、公で四分の一だそうです。しかし実際には、食邑を与えられたのは
一部だったようです。

 なお隋書百官志中に見える官品表によると、王(第一品)、開国郡公(従第一品)、散
郡公・開国県公(第二品)、散県公・開国県侯(従第二品)・散県侯・開国県伯(第三品)、
散県伯(従第三品)、開国県子(第四品)、散県子(従第四品)、開国県男(第五品)、開
国郷男・散県男(従第五品)となっています。
 また同表によると、皇子郎中令(第六品)、皇子大農(従第六品)、皇子中尉・王公国
郎中令(第七品)以下の国官が見られます。
73世界@名無史さん:05/03/13 21:55:35 0
 関係ないですが隋は北周から譲りを受けた割に、百官志に北周の制度が無いのは不思
議ですね。まあ制度的には復古が行き過ぎた北周とは断絶している面が強くて、どちらか
というと北斉の制度を継いで居るんですが。

 東魏の孝静帝は中山王に封じられ臣としない礼で遇されましたが、実際は厳しく監視さ
れた上に一家そろって殺されています。また魏の宗室中気骨があり邪魔になるものも相次
いで殺されました。
 美陽公(元魏の済陰王)は、高氏の婿になった彭城王を罵倒したかどで殺されています。
 なお魏朝の封爵は原則として降爵されましたが、北斉朝に功績があるもの、南朝及び西
魏から帰順したものは例外とされています。

 どうも長文でしかも読みにくい上に内容なしですいません。
74世界@名無史さん:05/03/13 22:12:33 0
いや、十分おもしろいよ。
75世界@名無史さん:05/03/13 23:07:01 0
で、どっから引き写したの?
76世界@名無史さん:05/03/13 23:27:40 0
侯景は、都督六合諸軍事を称していたけれど
これは軍隊に関わる部署が六つあって、その全てを統括するという意味なんでしょうか?
ということは、軍隊に携わる機関は六つ?
77世界@名無史さん:05/03/14 00:06:34 0
六合=宇宙=天地=世界の意味でそ。
78世界@名無史さん:05/03/14 00:44:49 0
宇宙大将軍といい、宇宙大好きだなあw
79世界@名無史さん:05/03/14 19:07:38 0
車騎将軍って、護衛以外の時はなにをしていたの?
80世界@名無史さん:05/03/14 20:02:14 0
護衛って言うのがよくわからんけど、本来的には戦争がないときは将軍は置かれないもの
だった。すると当然ながら平時はすることがない。
とは言え、前漢の後半以降は大概外戚の大将軍か車騎将軍がいて、尚書を統括、政治の
実権を握っていたりしたそうだ。それで腹心が右将軍が多かったらしい。
後漢では主に外戚が大将軍となったほか、車騎将軍が短期間に数人置かれた程度らしい。
 以上大庭修氏の説の乱暴な要約。
 詳しくは創文社の「秦漢法制死の研究」か学生社の「親魏倭王」あたりを読むこと。
 前者は高くて手に入りにくいかもしれないけど、後者は一般向けだから比較的安いし、
図書館あたりにもあるのでは。
81世界@名無史さん:05/03/14 20:26:26 0
一般市民のうち中国人より日本人のほうが絶対に、古代中国の識学度は高いだろうなww
82世界@名無史さん:05/03/14 20:58:19 0
>>75 タネ本(参考のみで書くのには使ってない本を含む)

思文閣出版「公家と武家」(95年10月1日発行)所収の「漢代の貴族」大庭脩著
 同   「同」             「門閥貴族から士大夫官僚へ」笠沙雅章著
教育社「倭の五王」坂本義種著」(81年9月20日発行)
東京大学出版会「中国古代帝国の形成と構造」(61年3月25日発行)西嶋定生著
 同     「秦漢隋唐史の研究」(66年9月30日発行)濱口重國著
中央公論社「中国古代国家の支配構造」(87年10月10日発行)伊藤道治著
京都大学学術出版界「中国中世史研究続編」(95年12月25日発行)所収の
 「北斉の恩倖について」横山裕男著
白帝社:中国歴史人物選「西晋の武帝司馬炎」(95年4月8日発行)福原啓郎著
ちくま学芸文庫「漢書」(97年12月10日1巻発行)班固著:小竹武夫訳
 同     「正史三国志」(93年7月7日8巻発行)陳寿著:裴松之注:小南一郎訳
岩波文庫「支那通史上・中」(38年9月1日上巻発行)那珂通世著:和田清訳
中公文庫「劉裕」(89年12月10日発行)吉川忠夫著
 同  「九品官人法の研究」(97年11月18日発行)宮崎市定著
講談社「中国の歴史」(旧版)(74年6月10日一巻発行)
 同 「図説中国の歴史2秦漢帝国の威容」(77年1月15日発行)大庭脩著
創文社「秦漢法制史の研究」(82年2月28日発行)大庭脩著
学生社「親魏倭王」(71年12月5日発行)大庭脩著
平楽寺書店「六朝史研究 政治社会編」(56年3月20日発行)宮川尚志著
風間書房「六朝貴族制研究」(87年2月28日発行)中村圭爾著

中華書局「漢書」百官公卿表、「後漢書」百官志・輿服志、「晋書」職官志・輿服志
  「宋書」百官志・礼志、「南斉書」百官志・輿服志、「魏書」官氏志、「隋書」百官志
83世界@名無史さん:05/03/14 21:35:42 0
おい、見づらいぞ。
長文は止めれ。
84世界@名無史さん:05/03/15 00:54:51 0
侯は県まで?
州候はないんですか?
85世界@名無史さん:05/03/15 00:58:15 0
あとは郡侯とか。
あと、公の位を贈呈されたのは曹操だけでしょうか?
ちなみにこの公は春秋でいう(五等爵がなかったかは別として)公爵に該当するんですか?
86世界@名無史さん:05/03/15 08:29:43 0
中国史では州侯と言うのは知っている限りではないです。
エジプト史のほうの用語で、世襲化した州知事を州侯と呼ぶことがあるようです。
また爵位としての州伯はないようですが、ごく一時的に東西州伯を置いて全国を二分して
支配されるような例がどこかにありました。確か西晋の混乱期だったかな?
それと清末の少数民族の反乱政権で東西南北伯侯言うのもありましたね。
87世界@名無史さん:05/03/15 08:41:37 0
エジプトも郡県制?
88世界@名無史さん:05/03/15 09:32:23 0
まあある程度以上の大きさの国なら、普通町や村より大きい地方区分はあるでしょう。
で封建制以外の場合ならそれを州とか県・郡・郷とか訳すのが普通。
エジプトの場合は通常その区分ノモスが州、長官(時期によっては領主)が州知事(州侯)と
訳されるってことです。
ちなみにノモスはギリシア語らしいです。原語でなんと言うかはよく知らないですが。
89世界@名無史さん:05/03/15 09:52:44 0
>>81
確かにそうかも。でも中国も経済的に豊になれば変わってくるんじゃないかな?
ただ日本人の場合、漢文はともかく漢字には拒絶反応ないから、韓国人や欧米の人よりは
中国史にとっつきやすいと思う。とりあえず官職制度とかは絶対に。
90世界@名無史さん:05/03/15 12:26:27 0
皇帝から下級校尉までの職業表みたいなのない?
○○は△△の下に置かれてその職務に携わっていたみたいな
91世界@名無史さん:05/03/15 14:04:31 0
そんなもんあったらこっちが欲しい。って言うか随喜の涙もんよ。
大先生でも職務がわからない官はたくさんあるし。
92世界@名無史さん:05/03/15 14:45:14 0
>>85
 既出ですが、曹操以前の公としては、成帝の時殷紹嘉侯(殷の子孫)、周承休侯(周の
子孫)を公に改めたのが、制度としての公の初例のようです。その後殷紹嘉公を宋公、周
承休公を鄭公(王莽伝では衛公になっている?)に改めてもいます。
 王莽が安漢公になったのはこの後ですが、これについては、どうも王莽の爵は新都侯の
ままであり、それに号として安漢公が加えられたもののようです。
 更に前漢末摂皇帝の時期に、列侯の内高いものを侯伯、それに次ぐものを子男、関内侯
を附城としています。その後三男安を新挙公、四男臨を褒新公にそれぞれ侯から進号、こ
れは公爵のようです。すると安漢公も同時かそれ以前に爵になっていたと思われますが、
どの時点で号としての公が爵としての公になったのか不明です。
 曹操以後はこれが先例になって大抵禅譲の際は公→王→皇帝となっています。

 また曹操の公は王莽の安漢公を意識しているとは思いますが、むしろ王に変わるものと言
うか、王に准ずるもののようです。後代の解釈は公爵だとおもいますが。
 やはり「劉氏以外を王とせず」の壁があるので、王になる前にワンクッション置いたのでは
ないでしょうか?
93世界@名無史さん:05/03/15 14:49:40 0
>>86
天地会だったかトン族のどちらかだね。姜英芳だっけ王だったのは。
東西南北+伯+侯。

>>91
特に宋の官職表欲しいな。複雑怪奇でさっぱりわからん。
94世界@名無史さん:05/03/15 15:24:20 0
じゃあ俺たちで職業表作って見ようよ。
ネタ切れぎみだし、今後の活性化につながるかもしれない
95世界@名無史さん:05/03/15 16:42:44 0
>>84同じ爵位なら国・郡・県・郷・亭の順で上位で、爵には州は使わないようだ。
州伯は通常旗頭の意味で使われている。

国王(王)、本来王は全て国王(国王と呼ぶかどうかはともかく)だったが、明以降は親
 王と呼ばれる。
郡王、どうも西晋から始まるらしい、清まで存在。
県王、魏で○○県王がいたが、上級の王と区別される制度としての県王は西晋が最初のよ
 うだ。唐までは有ったが、宋ではない。五代のうちに消滅したのだろうか?
国公、曹操の魏公が最初だと思う。南朝・北魏までは、簒奪寸前、あるいはそれに準ずる
 最高実力者又は前王朝の嫡流等等用の特別な爵だったようだ。北周で重臣にばらまいて
 からは重みが薄れたが明まで存在。清では宗室(及びそれに準ずる者)用の鎮国公・輔
 国公は居たが、○国公(魯・唐等の国名)はなくなった。
郡公、魏以降明初まで存在した模様。初期の公は通常郡公か?
県公、魏で生じたようで宋まではあったが、金・元ではない。王莽関係の公は県公?
郷公、魏一代のみで王の庶子等。
96世界@名無史さん:05/03/15 16:43:07 0
国侯、三国志で魏に見られるが、郡侯だろうか?漢書をみると西域諸国の宰相級?が安国
 侯・輔国侯と称されているが、これは漢側が与えたものか?また爵なのだろうか?官な
 のだろうか?
郡侯、魏が最初か?以後南朝では概ね存在したようだ。北魏ではごく短期間存在していた
 らしい。隋唐以降は無かったようだが、金で復活した後は、元を経て明初まではあった
 ようだ。
県侯、侯は本来全て県侯だったようだ。宋までは存在。
郷侯、事実上の郷侯は前漢からあったが、郷侯という表現が出来たのは後漢、制度として
 は魏かららしい。北魏にはなかったようで、南朝までで消滅。
亭侯、郷侯同様。
邑侯、蜀で異民族の首長に与えた例がある。邑君・邑長は漢代以降例があるが、邑侯が爵
 なのかどうかは不明?
郡伯、金が1197年に県伯から改称、元の制を受けて明初まではあったらしい。
県伯、王莽の五等爵を除くと魏末の伯から、金で消滅した後も宋にはあった。宋の滅亡で
 消滅。
亭伯、魏一代のみ存在。公の庶子が封じられたもの。
県子、王莽の五等爵を除くと魏末の子爵から、明初まではあったらしい。
県男、県子同様。
郷男、北斉一代のみ存在した。

 一般に一部の例外を除くと始まりの時期ははっきりしない。実態が先にあって後から制度
化されるためか?

ちなみに琉球が自国の制度を明側に説明するときに、王子・按司・地頭等?を元侯・郡侯
・邑侯・郡伯・邑伯と称していたらしい。
97世界@名無史さん:05/03/15 18:07:51 0
国王
国侯

郡王
郡侯

両者の違いが分からん。
与えられた領地の大きさは同じでも、王と呼ばれたり侯とよばれたりするわけ?
98世界@名無史さん:05/03/15 19:32:12 0
重要なのは王か公か侯かであって、国・郡・県等の違いは同じ爵の中での序列に過ぎず、
国郡県の言葉自体にはたいした意味はない。
郡王とか郡公と言っても丸々一郡を領有するわけではないし、第一隋の改革で郡が廃止
された後も郡王は存在している。
つまり郡王>国公、県公>郡侯であり、極端に言えば、国王=一等王、郡王=二等王、
県王=三等王、国公=一等公、郡公=二等公、県公=三等公と考えても良いと思う。
99世界@名無史さん:05/03/15 19:36:11 0
>郡王とか郡公と言っても丸々一郡を領有するわけではないし
飛び地とかもあったってこと?
詳細キボンヌ
100世界@名無史さん:05/03/15 19:58:10 0
つまり郡王とかでもせいぜい小さい県程度の領地しかないことが多いと言うことです。
時代によって違いますが、後代になるほど小さくなる傾向があります。
県男など通常三百戸くらいのことが多いようです。
さらに言うとそれも名目的になり実収は数分の一。
後には、○○県開国侯、食邑千戸、食実封三百戸とか実収が表示されるようになります。
宋にまでいたると食実封すらほとんど名目化し、食実封に応じて雀の涙ほど給与に付加金
がある程度になるわけです。
明の親王・郡王は領地がなく、確か親王が1万石、郡王が千石(当初は二千石)と現物
(現金?)支給になります。
101世界@名無史さん:05/03/15 21:48:12 0
>>93
トン族のほうですね。
天地会の大成国(1856〜1861、残党は1863まで)
 鎮南王(後に平ジン(シ+尋)王に改める)以下の平靖王・平東王・平西王・定北王の
五王が有り、その下に定国公・隆国公等の公及び侯がありました。

奉天伐暴滅清復明統領義師定平王(トン(イ+同)族:1862〜1868)
 同王以下盤古王・文徳王等・東西南北伯侯等が有りました。
102世界@名無史さん:05/03/16 03:11:20 0
周公と召公が天下を東西二分して治めたっていう話じゃないのか?
103世界@名無史さん:05/03/16 10:39:39 0
>「奉天伐暴滅清復明統領義師定平王」
長ったらしいけどカッコいいね。
幕末の日本でいえば「討滅徳川回復天皇」といったところか。実際に誰か掲げてたかもしれんね。
104世界@名無史さん:05/03/16 13:01:51 0
>>86の訂正。
確かめてみたら東西じゃなくて南北州伯でしたし、案だけで実施されてませんでした。
八王の乱で趙王倫を打倒した後、成都王を北州伯、斉王を南州伯に任じて、
それぞれの地域を統括し皇帝を補佐すると言う案が出されました。
斉王は当初乗り気だったようですが、長沙王の反対で実現しなかったと言う経緯のようです。
周文王が殷から西伯に任じられたとか、周公と召公の例などは、真偽はともかく先例として
意識はされていたでしょうね。あとは王莽の左右伯とか。
しつこいですけど、どこか別の時代に東西州伯があったような気がします。
105世界@名無史さん:05/03/16 18:24:24 0
>>94
誰か加筆キボンヌ。
ツリー形式で官職を書いた後に、具体的な職務を別行で書きたいと思うが。
とりあえず時代は後漢〜魏辺りで

         皇帝
          ├─丞相・相国
          │
司徒────司空────太尉────(武官)───大将軍


106世界@名無史さん:05/03/16 18:36:59 0
↑いくつか間違えてるし…orz

丞相…皇帝・君主を補佐して国務を執った大臣。戦国時代から設けられた。
司徒…戸籍・教育などをつかさどった。前漢では大司徒、後漢・唐では再び司徒となり、三公の一。
司空…土木・水利などの建築事業をつかさどった。前漢では大司空、後漢・唐では再び司空となり、三公の一。
太尉…主に軍事をつかさどった。国防担当宰相である。前漢では大司馬と呼ばれ、共に三公の一。
大将軍…各将軍の最上位者を意味する官職であり、古くは上将軍と言った。外威のトップが任命され政権を奪うこともしばしば。


絶対間違っているので加筆キボンヌ。
あと石高とかも欲しいです
107世界@名無史さん:05/03/16 21:42:27 0
>>105
とりあえずこのような難事業に手を出した勇気には敬意を表する。
添削などはとても出来ないけど、やや疑問点。
 太尉と大司馬は本当にイコールだったのだろうか?
 司空って本当に土木担当?って言うかそもそも後漢の三公って、本当に具体的
職務分担があったのだろうか?
 上げ足取りみたいで申し訳ない。
108世界@名無史さん:05/03/16 22:10:46 0
>>107
うーん、私自身最近に官職に興味を持ち始めた無学者でして
内容は殆ど辞書を写したんで、ちょっと分かりかねまする。
詳しい人にバトンタッチw
109世界@名無史さん:05/03/16 22:12:46 0
修正します

大将軍の説明のところを
外威のトップが任命され政権を奪うこともしばしば。 ×
外威のトップが任命されることが多く、政権を奪うこともしばしば。 ○
110世界@名無史さん:05/03/16 23:26:13 0
武官は高官は省略。
皇后府や太子府やその他は階級が難しいために断念
出来に自信はなし
名誉職含む、階級別文官表。順序がおかしいと思ったらどんどん修正頼む。

         皇帝
 

          │
          ├相国(漢代、蕭何・董卓以外はなし)
          │
     太傅・太保・大帥(非常置)
          │
          ├─丞相
          ├─司徒
          │                             
        司空──儀同三司                      
          │          ┌博士               
         太常(九卿筆頭)──┴太史令               
 ┌─────┬──┬──┬──┬───┬──┬───┬──┬────┐  
光禄勲    衛尉  太僕  廷尉 大鴻臚  宗伯 大司農  少府 執金吾  将作大匠   
 ├──┬┐      │                 ..│   ....│
羽林 議郎│      ├──┐             .│   ....├尚方令
      ...│    典軍都尉..│             .│    ├太官令
 騎都尉─┤                         │    ├符節令.├典農中郎将
      ...│                         │    └小黄門.├度志中郎将
 諫議大夫┤                         ..└───────┘
 光禄大夫┤
 太中大夫┤
111世界@名無史さん:05/03/16 23:52:00 0
昔から調べようと思ってもどこにも詳しい説明をみたことないんですが
三公の「太傅と太保と太師」って、それぞれ役割の内容はどう違うんですか?
112世界@名無史さん:05/03/17 01:12:24 0
外威って何ですか?
113世界@名無史さん:05/03/17 08:37:45 0
>>111
実際には序列以外に差はないような気がする。設立当初はともかく後代は確実に。
まあ名前自体は、教え育てる師匠、守り育てる傅育者、保ち助ける保助者くらいの意味
からとったとかじゃないかと。

>>112
母方の親類と辞書にはあるが、漢代の歴史用語としての外戚って、
義理の母(前帝の正妻)や祖母(義理含む)の一族を含んでいるようだ。
おそらく幼帝や養子相続が多いからのようだけど。
114世界@名無史さん:05/03/17 09:40:04 0
丞相と相国ってどっちが上?
115世界@名無史さん:05/03/17 09:42:24 0
112 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 05/03/17 01:12:24 0
外威って何ですか?

↑こういった少し調べれば自分で解決できる質問にまで答える
必要ってあるのか?
前スレの終盤から、こういった奴が妙に涌いてくるようになったんだが……
116世界@名無史さん:05/03/17 12:25:04 0
>>111
国書刊行会「中国歴代職官辞典」の太師の項目の説明だと、各々、
太師=天子の師(手本)として天子の知育を担当する官
太傅=天子の行動監督者としてその徳育を担当する官
太保=天子の身体保安に任ずる為その体育を担当する官だそうだが、
それだと太傅の方が格上になりそうな気がするよな、日本人的儒教理解では。
>>114
制度とは変わるものなので、一概には言えないけど、
一般には相国の方が格上と認識されていた。
117世界@名無史さん:05/03/17 12:42:07 0
要領の無駄って意見もあるだろうけど、まあ最初はみんな初心者なわけですし、
一見単純で初歩的な質問もちゃんと調べてみると奥が深かったりしますから、
間口は広く開けておいたほうがいいと自分は思いますけどね。
118世界@名無史さん:05/03/17 15:08:13 0
周のはじめの頃、太公・周公・召公の三人はそれぞれ誰が
太師・太傅・太保だったんだろうね?
119世界@名無史さん:05/03/17 16:29:50 0
>>110
羽林って光禄勲の配下だっけ?
あと、乙
120世界@名無史さん:05/03/17 19:52:27 0
司徒が相国になったり、相国が丞相になったりしたりもあるから、一概には言えないような気もする。
121世界@名無史さん:05/03/17 19:52:54 0
羽林と虎ホンは光禄勲配下、実質的指揮系統は皇帝直属だろうけど。
122世界@名無史さん:05/03/17 20:57:51 0
>>118
太公って太公望呂尚のこと?
太公とは、父又は祖父の尊称で、文王の父(太公)が待ち望んでいた人だから太公望。
なお太公望は太師、周公は大宰らしい。本当にそんな官があったのか不明だけど。
123世界@名無史さん:05/03/17 21:12:27 0
>>122
これ前から、疑問だったんですけど、太公が誰かは、
文王の父、季歴という説と、祖父、古公亶父という説の二つあるみたいなんですけど?
もっと細かくいうと、文王の祖父で古公亶父、文王の父で季歴、武王の祖父で季歴、のどれ?
124世界@名無史さん:05/03/17 21:15:10 0
古公亶父が土地を担保にして金を借りる

ワロス
125世界@名無史さん:05/03/18 14:05:03 0
征西大将軍とか具体的な討伐対象が入っている大将軍職と
何進みたいに名誉職の色合いが強く、特に何にも入っていない「大将軍」は
どっちが格上?
126世界@名無史さん:05/03/18 14:09:02 0
ぶっちぎりで大将軍。特に蜀では。
127世界@名無史さん:05/03/18 14:59:23 0
魏延ごときがなんとか大将軍に任じられてるもんな……
128世界@名無史さん:05/03/18 16:01:02 0
>>125
○○大将軍は、上級○○将軍と考えてよく、大将軍より格下です。
元々大将軍に准ずる存在である衛将軍とかの加大者の衛大将軍なんかは、
やや下程度でしょうか。
>>110
細かいですけど、史記によると曹参と呂王産も漢の相国です。
129世界@名無史さん:05/03/19 17:05:46 0
>>128の後半。
漢書でもそうなっているよ。
130世界@名無史さん:05/03/20 15:21:08 0
臣下の侯と皇族の侯は同格の扱いなのかね?
131世界@名無史さん:05/03/20 17:13:27 0
なぜ呉には謁者僕射が無かったの?
132世界@名無史さん:05/03/20 19:54:57 0
>>130
侯であると言うことについては別の取り扱いを受けたと言うことはないようです。
この点に関して疑問が、皇子は原則王であったようですが、皇孫の場合侯である
のは必ずしも当然ではなかったのではないでしょうか?
例えば中山王劉勝の子供など全員侯足りえたのでしょうか?
漢書王子侯表に見える中山靖王の子は20人、中山王の後継ぎを含めて21名、
120人いたという子のうち半分が女として男子は60人、残る39人は幼児のうちに
死亡したのでしょうか?

>>131
前スレでほとんど同じ質問がありました。で正答とは限りませんがその答え。

蜀や呉は資料の残存状況が魏に比べて悪いから、記録がなくても存在しなかった
と断言までは出来ないように思います。
また組織が小さいために取りまとめ役の必要性が薄かったとも考えられます。
なお○○僕射、○○祭酒は、○○官の筆頭又は取り纏め役だと考えています。
ちなみに呉では中書令の適格者が不在の場合に中書僕射・中書丞等の官を設ける
ことがあったようで、このあたりかなり便宜的なのかもしれません。
133世界@名無史さん:2005/03/21(月) 08:25:59 0
丞相・相国(史記と漢書から拾ったもの、間違い多し?)
 高祖元年   漢王即位に伴い蕭何が丞相に
   2年8月 韓信左丞相に
   3年   曹参仮の左丞相に
   同年6月 韓信相国に
        曹参右丞相として相国韓信に所属
   4年2月 韓信斉王に
   5年正月 高祖皇帝に即位
        曹参漢の右丞相の印璽を返還
   6年   高祖の長子肥が斉王になり、曹参は斉の相国に
   11年   蕭何相国に
 恵帝元年   諸国の相国を丞相に改められ、曹参は斉の丞相に  
   2年7月 相国蕭何死亡
        曹参が相国に
   5年8月 曹参死亡
        王陵が右丞相に、陳平が左丞相に
 呂后元年11月 王陵が大傅になり、丞相としての実権がなくなる
        王陵が辞職し、陳平が右丞相に、審食其左丞相に
   7年正月 呂王産相国に
8年7月 呂后死亡
        左丞相審食其免職
     8月 相国呂王産殺害
 文帝元年10月 右丞相陳平を左丞相に、太尉周勃を右丞相に
134世界@名無史さん:2005/03/21(月) 08:27:48 0
以上により
 高祖元年〜2年8月 蕭何が丞相
   2年8月〜3年 蕭何が丞相(右丞相?)、韓信が左丞相
   3年〜同年6月 蕭何が丞相(右丞相?)、韓信が左丞相、曹参仮の左丞相
   3年6月〜4年2月 韓信が相国、曹参が右丞相、蕭何が丞相(左丞相?)
   4年2月〜5年正月 曹参が右丞相、蕭何が丞相(左丞相?)
   5年正月〜11年 蕭何が丞相
   11年〜恵帝2年7月 蕭何が相国
 恵帝2年7月〜5年8月 曹参が相国
 5年8月〜呂后元年11月 王陵が右丞相、陳平が左丞相
 呂后元年11月〜7年正月 陳平が右丞相、審食其左丞相
   7年正月〜8年7月 呂王産が相国、陳平が右丞相、審食其左丞相
   8年7月〜8年8月 呂王産が相国、陳平が右丞相(丞相?)
   8年8月〜文帝元年10月 陳平が右丞相(丞相?)
 文帝元年10月〜 周勃が右丞相、陳平が左丞相

 相国と丞相が並立すること2回、仮とは言え三丞相の並立が三度あり。
 高祖の皇帝即位以前だが、漢の相国第一号は実は韓信。
 疑問点1、曹参が辞職(右丞相の印璽を返還)するまで蕭何より上席だったのか?
 疑問点2、相国と丞相の関係が不明?
135世界@名無史さん:2005/03/21(月) 08:32:27 0
訂正
×仮とは言え三丞相の並立が三度あり。
○一名は仮とは言え三丞相の並立が一度あり。
136世界@名無史さん:2005/03/21(月) 12:55:55 0
諌儀大夫って、皇帝の気分で廃止されることって多かった?
137永遠の青 ◆pkFA3D428. :2005/03/21(月) 21:43:27 0
漢書高恵高后文功臣表によると、
陳涓が丞相として、斉平定に従軍、
尹恢が右丞相として、淮陽を守備していたようです。
138世界@名無史さん:2005/03/21(月) 22:29:02 0
明帝から霊帝までの皇帝の字って見当たらないんだけど、
皇帝は字が無いの?
139世界@名無史さん:2005/03/21(月) 22:43:44 0
>>138
西晋・東晋や西漢の時代の皇帝は字をちゃんと持っていたりします。
東漢で皇帝の字の記載が無いのは、
持っていてもあえて記録しなかっただけだと思います。
140世界@名無史さん:2005/03/22(火) 08:39:24 0
>>137
すると、劉邦軍事務総長の蕭何以外は、全部単なる武将の格付けなのだろうか?
しかしそれにしても各人の間の序列が良くわからない。
141世界@名無史さん:2005/03/23(水) 00:59:07 0
唐の頃の郡王って、名目だけで実封ないの?
142世界@名無史さん:2005/03/23(水) 18:41:32 0
唐の郡王は、まず皇太子の嫡子以外の子(皇太子即位後は当然親王に昇格)、
また親王の嫡子以外の子のうち特別に封じられるもの(通常は国公)なので、
たいした数がいるわけもなく、けち臭いことは言わずに、ある程度の実封はあったと思う。
実際には安禄山等臣下でも郡王はあったけど、例外であってそんなに数はいないはず。
143世界@名無史さん:2005/03/23(水) 18:42:03 0
皇族の生活費だし。
144世界@名無史さん:2005/03/23(水) 18:53:12 0
>>142
大祚栄は皇族どころか異民族なのに「渤海郡王」に叙されてるんじゃないの?
145世界@名無史さん:2005/03/23(水) 19:58:00 0
独立(半独立)政権の場合は、爵を与えることは政権の承認なので、
食邑とかは関係してこないのでは?
あってもそれこそ名目的なものでしょうね。
146世界@名無史さん:2005/03/23(水) 20:47:17 0
【爵位制度の変遷唐偏】一応順序で隋から

 隋書百官志下によると、文帝の時期には、国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子
・男の九等があり、皇帝の伯父叔父弟・皇子が親王とされ、師・友・文学の他、長史以下
の府官が置かれました。嗣王・郡王についてもやや省略されてはいますが、同様に府官が
ありました。

 王の国官は令・大農・尉以下、公以下にも同様に国が置かれますが、同じ爵位でも保持
する散実官(上柱国・柱国・上大将軍・大将軍・上開府儀同三司・開府儀同三司・上儀同
三司・儀同三司)の差によって、人数や構成に差がありました。
 なお儀同三司の下に大都督以下が有りますが、これらの保持は国官に影響しないようで
す。まあその程度の下位のものは爵に縁がなかったのかもしれません。
 また大長公主・長公主・公主・郡主には、家令・丞以下が置かれました。

 同書の官品表によると、王(正一品)、郡王・国公・開国郡公・開国県公(従一品)、
開国侯(正二品)、開国伯(正三品)、開国子(正四品)、開国男(正五品)が有ります。
 これで見ると散爵は消滅しているように見えますが、先述の部分に散郡公・散県公の名
が見られます。これは散実官を持たない(あるいは大都督以下)ものをこう称したのでし
ょうか?あるいは文帝の時期には散爵が存在していて、煬帝の時期になってから廃止され
たのかもしれません。

 官品表をみると、親王の府官は正規の官ですが、嗣王・郡王の府官と国官は視官でした。

 隋に禅譲した北周の最後の皇帝静帝は介国公に封じられました。介国公は建前上は不臣
の礼とされましたが、北史によると実際には行われなかったそうです。
 北周の一族はほとんど殺されたようです。

 また取り潰した後梁の最後の皇帝は、上柱国に任じられ、リョ(草冠+呂)公(国公?)に
封じられています。同様に滅ぼされた陳の後主は、長城公に封じられました。
147世界@名無史さん:2005/03/23(水) 20:48:08 0
 唐の高祖李淵(先祖は西魏の隴西郡開国公後唐国公李虎の孫)は、父祖の爵唐国公から
唐王(十郡→二十郡→三十郡)に進んでいますが九錫を虚飾として拒絶しています。

 李淵が擁立した代王の他、王世充が擁立した越王(皇泰主)がおり、王世充に譲位を強要
された後国公に封じられましたが、直ぐに殺されています。なお王世充と結んだ群雄の一人
竇建徳は、皇泰主から夏王に封じられています。


 旧唐書・唐書によると、王(正一品・万戸)・郡王(従一品・五千戸)・国公(従一品
・三千戸)・開国郡公(正二品・二千戸)・開国県公(従二品・千五百戸)・開国侯(従三
品・千戸)・開国伯(正四品上・七百戸)・開国子(正五品上・五百戸)・開国男(従五品
上・三百戸)の九等の爵がありました。

 礪波護氏の「唐の行政機構と官僚」(中公文庫)によると、唐の食封制は、地方官と封
主の使いが共同して税を徴収し、食実封の戸数の租税の三分の二を封主に三分の一を国家
に納入する形だったそうです。
 ただし則天武后の前後には規定以上の数の封戸を支配していたそうですが。
 なお五代にはいると間違いなく食実封何戸と明記されていたのですが、この時点で区分
されていたのでしょうか?

 皇帝の兄弟・皇子は親王、皇太子の子は郡王、親王の嫡子は嗣王、それ以外の子は原則
は郡公だが特恩で郡王、嗣王・郡王の嫡子は国公、国公と郡公はそれ以降嫡子が世襲する
ようです。国公・郡公の庶子は無爵でしょうか?
 則天武后に対して叛乱を起こした高祖の第11子が韓王、その子が黄国公、太宗の第8
子が越王、その子が琅邪王(郡王?)と言う例があります。
 なお例外的でしょうが臣下でも郡王(中宗の時の張柬之の漢陽王以下5人等)は有りま
した。国公以下は臣下でも普通に与えられたようです。

 皇帝の伯母・叔母が大長公主で正一品、姉妹が長公主、娘が公主でともに視正一品、ま
た皇太子の娘が郡主で視従一品、王の娘が県主で視正二品です。なお王の母妻は妃です。
 高官の母妻を国夫人・郡夫人・郡君・県君・郷君で母には太の字を加えるそうです。
148世界@名無史さん:2005/03/23(水) 20:48:45 0
 王府には傅(従三品)以下の教育補導官、長史(従四品上)以下の府官が置かれました。
別に親事府・帳内府に典軍(正五品上)以下の武官もありました。
 また親王国には令・大農・尉・丞等、公主邑司には令・丞・主簿等の官がありました。

 宋史職官志に引く唐の制度は、王食邑五千戸、郡王・国公三千戸、開国郡公二千戸、県
公千五百戸、県侯千戸、伯七百戸、子五百戸、男三百戸で上記とやや違います。

 高祖李淵が擁立した後譲りを受けた隋の恭帝は、国公に封じられた後殺されています。
 安禄山は謀反を起こす前に東平郡王に封じられています。

 唐末の黄巣の乱を鎮圧した後の後梁の太祖朱全忠は東平郡王(安禄山と同じなのが意味
深です)に封じられ、やがて梁王に進封されましたが辞退して東平王を受けています。も
っともその後梁王(食邑九千戸:食実封六百戸)に封じられました。このころには王国公
国の存在が、形式上の意味もなくなっている感があります。
 その後二十一軍を持って魏国と成し、魏王に進封し九錫を賜ることになり、官印が送付
されましたが、朱全忠は朝廷の煩瑣な儀式を嫌いそれを受けませんでした。

 また李克用が晋王になった他、李茂貞が岐王、王建が蜀王、揚行密が呉王、銭鏐が越王
となっています。

 唐の服属国渤海は、まず初代王の父が則天武后から震国公に封じられた経緯からか、始
祖祚栄は震国王を自称しました。その後玄宗から渤海郡王の冊封を受けています。これと
同時に世子大武芸は桂婁郡王に封じられていますが、この時だけの特例のようで、以後の
世子が郡王に封じられることはないようです。大体が世子が父と同じ郡王というのが不自
然なので、そのせいでしょうか?
 なお3代目国王は中途で渤海国王に進封されましたが、4代目王は渤海郡王だったよう
です。ところが5代目国王はまた渤海国王と、安定してないようです。
149世界@名無史さん:2005/03/23(水) 20:49:09 0
おまけの渤海
 唐の制度を真似たようです。日本への使節の肩書きに開国公・開国子・擬開国男が見ら
れ、当然侯伯もあったのだと思われます。
 擬が付くのは散爵なのか?第二級の意味でしょうか?不明です。
 また王の嫡子を世子または副王、他の王子は王子と呼ばれたようです
150世界@名無史さん:2005/03/23(水) 22:30:18 0
>>148
「震国」とか「圭婁郡」とかは、渤海郡の中か近隣にある地名ですか?
151世界@名無史さん:2005/03/24(木) 13:09:39 0
異民族の族長にも、開国○○が贈られるの?
あと開国ってどういう意味でしたっけ?
152世界@名無史さん:2005/03/24(木) 15:54:41 0
>>151
名目だけじゃなく実際に封ぜられるという意味だけど、丁度宋の節度使〜刺史に「正任」と「徭郡」とがあったものの、どちらも現地に赴任するわけじゃないのと同じようなものだったらしい。
153世界@名無史さん:2005/03/24(木) 16:26:33 0
在地に赴かずに都で政務を行う制度をなんていうんだっけ?
守護と守護代みたいな
154世界@名無史さん:2005/03/24(木) 18:46:08 0
>>151
>>152さんの言うとおり実際に食邑があると言う意味、ただし隋で開国爵のみになり、
宋では開国と言う名の散爵になっている。おそらく唐末五代にかけて名目化した模様。
>>153
日本の制度では遙任、基本的にはこう言う用語は輸入品だから、
多分中国もそれでいいはず。

しかし最近スレタイから随分外れてきたなあ。
気が早いけど次スレは「中国の制度を語る」とでもすべきなのか?
155世界@名無史さん:2005/03/24(木) 19:22:46 0
>>150
 平凡社東洋文庫「東アジア民族史2正史東夷伝」井上秀雄他訳注に所収の「旧唐書渤海
靺鞨伝」によると、渤海靺鞨の祖大祚栄は元高(句)麗の別種であったが、その民を東方
に連れて行き桂婁の故地を守備した。と有り。注によると、桂婁は高句麗の五部の一つで
王を出したものだそうです。
 なお桂婁の故地を守備したとは、後に世子大武芸が桂婁郡王となった為そう称したの
か?あるいは高句麗の首都のあった桂婁の名を称したのかは不明だそうです。

 その後大祚栄は自立して振国王(汲古閣本:武英殿本では震国王)となっています。
 また注に、震とは「易経」周易説卦伝によると「帝出乎震」とあり、震とは東方を意味
するようなので、震国とは東方の国と言う意味であろうと有ります。

 その後唐の睿宗は大祚栄を渤海郡王忽汗州都督に封じ、玄宗は大祚栄の死後世子桂
婁郡王大武芸を渤海郡王忽汗州(渤海の領土を忽汗州とする)都督に封じました。
 また大武芸の死後、玄宗は世子大欽茂も同様に渤海郡王忽汗州都督に封じています。そ
の後欽茂は渤海国王に改封されましたが、第六代国王大嵩リンは渤海郡王に止まってい
ます。その後第七・八・十・十一代王は、渤海国王忽汗州都督に封じられています。

 同書所収「新唐書渤海伝」によると、渤海は元粟末靺鞨で高(句)麗に附属していた、
姓は大と有ります。
 その後則天武后の時に契丹が叛乱を起こしたのに乗じて、乞乞仲象(注によると契丹系
酋長)と靺鞨の酋長乞四比羽や高句麗移民とともに、太白山東北を確保。則天武后乞乞
仲象を許国公に乞四比羽を震国公に封じてその罪をゆるそうとしたが、乞乞仲象が拒否し
たため殺され、乞四比羽(既に死亡)の子大祚栄は逃走、自立して震国王を名乗っています。
156世界@名無史さん:2005/03/24(木) 19:23:12 0
 東方書店の「渤海史」朱国忱・魏国忠著によると渤海は元漢代の郡名(河北省滄州付近)
であり、当然靺鞨とは関係なかったが名目上その地に封じられたものだそうです。
 ただ音声学によると靺と渤は同じ母音、鞨と海は同じ子音を持ち、唐代の人はその為に
渤海郡王に封じたのかもしれないのだそうです。

 また同書によると大武芸の世子大都利行は桂婁郡王に封じられています。この大都利行
は大欽茂とは別人のようです。なお欽茂は桂婁郡王に封じられなかったようですが、この
あたりの理由は不明です

 震は東方を意味するということですが、同時に封じられた許は、今の河南省許昌県に当
たるそうであまり関係がありません。だとすると、震国公の段階ではそう言う意図は無か
ったのでしょう。大祚栄は東方を意識していたかもしれませんが?
157世界@名無史さん:2005/03/24(木) 23:41:46 0
おまいらスレ違い。
158世界@名無史さん:2005/03/25(金) 18:45:44 0
制度と関係ないけど少帝恭・弘って本当に恵帝の子じゃないの?
まあ文帝の子孫(以後の前漢・後漢の全皇帝)の立場的には、
そうじゃないとやばいんだろうけど。
159世界@名無史さん:2005/03/25(金) 21:07:16 0
>>158
不明。晩年の恵帝は心身を病んでたらしいので、
子供をまともに作れる状態だとは思わないが。
いずれにせよ、権力を握った元勲と文帝側近集団に公式否定されたら、
「劉氏の子じゃない」と否定するしかない罠。
160世界@名無史さん:2005/03/25(金) 21:23:08 0
恭はまだ実子っぽい。
弘は適当に呂氏の赤ん坊を皇帝に立てたっぽい。
161怨霊 ◆SHUZENU4Yk :2005/03/27(日) 01:07:53 0
お久し振り。新スレ乙です。

>>158
少帝なんですが、私、1人目の諱「恭」っての典拠がわからないんですよ。
どなたかご存知の方いませんか?
史記や漢書(注含む)では見た記憶ないんですが・・・。

1人目の少帝は実子じゃないでしょうか。
私の記憶では呂氏の子とは書いてなかったと思ったので。
162世界@名無史さん:2005/03/27(日) 10:05:18 0
>>161
来るなカス
163世界@名無史さん:2005/03/28(月) 10:34:15 0
>>161
おひさしぶり。
……っていうか、これまで書き込んでなかったわけ?
164世界@名無史さん:2005/03/28(月) 19:51:32 0
辞典の類や概説書の名前はのきなみ恭になってるけど、確かに典拠はなんだろう?
あと弘の方は2回改名してるんですよね。
165世界@名無史さん:2005/03/29(火) 12:08:59 0
>>161
少帝については同意、恵帝の子でも落胤に近い扱いだったのでは?
166世界@名無史さん:2005/03/29(火) 12:36:10 0
封じられた王は陪臣を雇うことは可能なの?
王の下にいる著名な官職とかありますか?
167あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 12:57:47 0
>>163
この問題については前に書いたことあるので再録します。

少帝恭って何物?
1 名前:世界@名無史さん 投稿日:2001/08/15(水) 12:09
恵帝の子供なの?


3 名前:あやめ 投稿日:2001/08/15(水) 14:57
この問題については是非とも一言なしではおられません。
惠帝の崩後に立った皇帝の素性については、衆訟紛々として千古の
疑案というべきもので追々書くつもりですが、その前にこの皇帝の
名前を日本の多くの書物が「恭」としているのが甚だ不審です。
史記にも漢書にも彼の名は記載されていません。日本の東洋史学者
諸先生はこの「恭」をどこから拉し来たったものでしょうか。
(続く)
168あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 13:00:33 0
(続き)
高祖の名の「邦」も史記漢書に出てきませんが、ともかく後漢末の
荀悦の「漢紀」が出所ということは判明しています。でも「恭」の
方は出所不明です。
ところが日本で出版されてる概説書の付録や歴史便覧といった本の
中では例外なく「少帝恭」という人物がいたことになっています。
高名な漢代史の専門家先生の著述でも同様です。
さすがに支那の学者の著書にはこんな初歩的間違いは出てません。
日本の学者のものでも那珂通世の「支那通史」の付録の世系表には
「少帝某」と表記しています。那珂博士はちゃんと原資料に従って
…というか原資料が頭の中に格納されてて、間違えようがないんで
しょうね。
(続く)
169あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 13:02:20 0
(続き)
ところがその後の先生方はそんなニッチな仕事に精力を注がない、
既存の類書を引き写して能事了れりとしちゃってるんでしょうか。
想像ですけど「少帝某」が引き写しの過程で、魯魚の訛を生じた果
「少帝恭」になってしまったのじゃないかしら。
支那の学者はそんな過ちは犯さないと言いましたが、近時世に出た
柏楊(「醜い中国人」の著者)の「中国帝王皇后親王公主世系録」
(友誼出版公司刊)では、前漢の前少帝の姓名を「劉恭」としてます。
もしこれが台湾人である著者の日本書籍の踏襲であるとしたら(蓋然
性高し)、日本の先生方も随分と罪作りだと思います。
皆さんハンドブックの類は鵜呑みにせず(してねーよの声あり)に、
必ずオリジンを参照しましょう。
(続く)
170あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 13:06:55 0
26 名前:あやめ 投稿日:2001/08/18(土) 19:23
それではスレの主題に戻りましょう。
以下のレスでは惠帝の次に立った漢の天子のことを、敢えて誤表記を
改めず「少帝恭」と書きます。「晒し上げ」ってとこかしら(藁)
そして「少帝恭」の次に立てられた少帝弘についても、併せて考える
こととします。
先ず「少帝恭」と少帝弘に関する基本的文献記載として、「史記」と
「漢書」の記事を書き下しにして少しづつ書いてゆきます。両書をお
持ちの方ウザッタイかもしれないけど、我慢してね。
(続く)
171あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 13:11:04 0
(続き)
「史記」の「呂太后本紀」
(孝惠帝の)七年秋八月戊寅、孝惠帝崩ず。…九月辛丑葬むる。太子位
に即いて帝と爲る。元年、號令一に太后に出づ。…太后呂氏を王とせ
んと欲し、先づ孝惠の後宮の子彊を立てて淮陽王と爲し、子不疑を常
山王と爲し、子山を襄城侯と爲す。…二年、常山王薨ず。其の弟襄城
侯山を以て常山王と爲し、名を義と更たむ。
宣平侯(趙王張耳の子の敖)の女の孝惠の皇后爲りし時に子無し、詳(い
つ)はりて身ごもること有りしと爲して、美人(後宮の姫妾の位の一)の
子を取り之に名づけ、其の母を殺す。名づくる所の子を立て太子と爲す。
孝惠崩じ太子立ちて帝と爲る。
(続く)
172世界@名無史さん:2005/03/29(火) 13:13:24 0
(続き)
「史記」の「呂太后本紀」
(孝惠帝の)七年秋八月戊寅、孝惠帝崩ず。…九月辛丑葬むる。太子位
に即いて帝と爲る。元年、號令一に太后に出づ。…太后呂氏を王とせ
んと欲し、先づ孝惠の後宮の子彊を立てて淮陽王と爲し、子不疑を常
山王と爲し、子山を襄城侯と爲す。…二年、常山王薨ず。其の弟襄城
侯山を以て常山王と爲し、名を義と更たむ。
宣平侯(趙王張耳の子の敖)の女の孝惠の皇后爲りし時に子無し、詳(い
つ)はりて身ごもること有りしと爲して、美人(後宮の姫妾の位の一)の
子を取り之に名づけ、其の母を殺す。名づくる所の子を立て太子と爲す。
孝惠崩じ太子立ちて帝と爲る。
(続く)
173あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 13:14:05 0
27 名前:あやめ 投稿日:2001/08/18(土) 19:27
「史記」の「呂太后本紀」記事の続き
帝壯となり或るとき其の母死し眞の皇后の子に非ざるを聞き、廼(すな)
はち言を出だして曰く、「后(呂太后)安(いづ)くんぞ能く吾が母を殺し
て而かも我に名づけしや、我未だ壯ならず、壯ならば即はち變を爲さん」
と。太后聞きて之を患ひ、其の亂を爲さんことを恐る。廼はち之を永巷
中に幽し、帝は病甚だしと言ひ、左右も見みゆるを得ること莫し。太后
曰く、「…今皇帝病久しく已まず、廼はち失惑昏亂し、嗣を繼ぎて宗廟
の祭祀を奉ずる能たはず、天下を屬(ゆだ)ぬる可からず、其れ之を代へ
ん」と。群臣皆な頓首して言はく、「皇太后天下齊民の爲に宗廟社稷を
安んずる所以を計ること甚だ深し、群臣頓首して詔を奉ぜん」と。帝位
を廢せられ、太后幽して之を殺す。
五月丙辰、常山王義を立てて帝と爲し名を更ためて弘と曰ふ。元年と稱
さざる者は太后天下の事を制するを以て也。
(続く)
174世界@名無史さん:2005/03/29(火) 13:14:10 0
26 名前:あやめ 投稿日:2001/08/18(土) 19:23
それではスレの主題に戻りましょう。
以下のレスでは惠帝の次に立った漢の天子のことを、敢えて誤表記を
改めず「少帝恭」と書きます。「晒し上げ」ってとこかしら(藁)
そして「少帝恭」の次に立てられた少帝弘についても、併せて考える
こととします。
先ず「少帝恭」と少帝弘に関する基本的文献記載として、「史記」と
「漢書」の記事を書き下しにして少しづつ書いてゆきます。両書をお
持ちの方ウザッタイかもしれないけど、我慢してね。
(続く)
175世界@名無史さん:2005/03/29(火) 13:14:48 0
(続き)
高祖の名の「邦」も史記漢書に出てきませんが、ともかく後漢末の
荀悦の「漢紀」が出所ということは判明しています。でも「恭」の
方は出所不明です。
ところが日本で出版されてる概説書の付録や歴史便覧といった本の
中では例外なく「少帝恭」という人物がいたことになっています。
高名な漢代史の専門家先生の著述でも同様です。
さすがに支那の学者の著書にはこんな初歩的間違いは出てません。
日本の学者のものでも那珂通世の「支那通史」の付録の世系表には
「少帝某」と表記しています。那珂博士はちゃんと原資料に従って
…というか原資料が頭の中に格納されてて、間違えようがないんで
しょうね。
(続く)
176世界@名無史さん:2005/03/29(火) 13:15:36 0
>>163
この問題については前に書いたことあるので再録します。

少帝恭って何物?
1 名前:世界@名無史さん 投稿日:2001/08/15(水) 12:09
恵帝の子供なの?


3 名前:あやめ 投稿日:2001/08/15(水) 14:57
この問題については是非とも一言なしではおられません。
惠帝の崩後に立った皇帝の素性については、衆訟紛々として千古の
疑案というべきもので追々書くつもりですが、その前にこの皇帝の
名前を日本の多くの書物が「恭」としているのが甚だ不審です。
史記にも漢書にも彼の名は記載されていません。日本の東洋史学者
諸先生はこの「恭」をどこから拉し来たったものでしょうか。
(続く)
177世界@名無史さん:2005/03/29(火) 13:16:10 0
(続き)
ところがその後の先生方はそんなニッチな仕事に精力を注がない、
既存の類書を引き写して能事了れりとしちゃってるんでしょうか。
想像ですけど「少帝某」が引き写しの過程で、魯魚の訛を生じた果
「少帝恭」になってしまったのじゃないかしら。
支那の学者はそんな過ちは犯さないと言いましたが、近時世に出た
柏楊(「醜い中国人」の著者)の「中国帝王皇后親王公主世系録」
(友誼出版公司刊)では、前漢の前少帝の姓名を「劉恭」としてます。
もしこれが台湾人である著者の日本書籍の踏襲であるとしたら(蓋然
性高し)、日本の先生方も随分と罪作りだと思います。
皆さんハンドブックの類は鵜呑みにせず(してねーよの声あり)に、
必ずオリジンを参照しましょう。
(続く)
178あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 13:16:14 0
だぶってしまいました
179世界@名無史さん:2005/03/29(火) 13:16:53 0
だぶってしまいました
180世界@名無史さん:2005/03/29(火) 13:20:20 0
27 名前:あやめ 投稿日:2001/08/18(土) 19:27
「史記」の「呂太后本紀」記事の続き
帝壯となり或るとき其の母死し眞の皇后の子に非ざるを聞き、廼(すな)
はち言を出だして曰く、「后(呂太后)安(いづ)くんぞ能く吾が母を殺し
て而かも我に名づけしや、我未だ壯ならず、壯ならば即はち變を爲さん」
と。太后聞きて之を患ひ、其の亂を爲さんことを恐る。廼はち之を永巷
中に幽し、帝は病甚だしと言ひ、左右も見みゆるを得ること莫し。太后
曰く、「…今皇帝病久しく已まず、廼はち失惑昏亂し、嗣を繼ぎて宗廟
の祭祀を奉ずる能たはず、天下を屬(ゆだ)ぬる可からず、其れ之を代へ
ん」と。群臣皆な頓首して言はく、「皇太后天下齊民の爲に宗廟社稷を
安んずる所以を計ること甚だ深し、群臣頓首して詔を奉ぜん」と。帝位
を廢せられ、太后幽して之を殺す。
五月丙辰、常山王義を立てて帝と爲し名を更ためて弘と曰ふ。元年と稱
さざる者は太后天下の事を制するを以て也。
(続く)
181あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 13:21:51 0
>>171 続き)
……(諸呂が誅された直後)諸大臣相與もに陰そかに謀りて曰く、「少帝
及び梁・淮陽・常山王は皆な眞の孝惠の子に非ざる也、呂后計を以て詐は
りて他人の子に名づけ、其の母を殺し、後宮に養ひ、孝惠をして之を子
とし、立てて以て後と爲さしめ、及び諸王と以て呂氏を彊くせんとせり、
…」と。…(代王つまり文帝を立てて天子としようということになって)
東牟侯興居…太僕汝陰侯滕公と宮に入り、前すみて少帝に謂ひて曰く、
「足下は劉氏に非ず、當さに立つべからず」と。…滕公廼はち乘輿の車
を召し、少帝を載せて出づ。少帝曰く、「我を將て安くに之(ゆ)かんと
欲する乎」と。滕公曰く、「出でて舎に就かん」と。少府(宮中入用係の
役所)に舎どる。
…夜有司部を分かちて梁・淮陽・常山王及び少帝を邸に誅滅す。
182世界@名無史さん:2005/03/29(火) 13:33:33 0
>>171 続き)
……(諸呂が誅された直後)諸大臣相與もに陰そかに謀りて曰く、「少帝
及び梁・淮陽・常山王は皆な眞の孝惠の子に非ざる也、呂后計を以て詐は
りて他人の子に名づけ、其の母を殺し、後宮に養ひ、孝惠をして之を子
とし、立てて以て後と爲さしめ、及び諸王と以て呂氏を彊くせんとせり、
…」と。…(代王つまり文帝を立てて天子としようということになって)
東牟侯興居…太僕汝陰侯滕公と宮に入り、前すみて少帝に謂ひて曰く、
「足下は劉氏に非ず、當さに立つべからず」と。…滕公廼はち乘輿の車
を召し、少帝を載せて出づ。少帝曰く、「我を將て安くに之(ゆ)かんと
欲する乎」と。滕公曰く、「出でて舎に就かん」と。少府(宮中入用係の
役所)に舎どる。
…夜有司部を分かちて梁・淮陽・常山王及び少帝を邸に誅滅す。
183世界@名無史さん:2005/03/29(火) 14:00:41 0
>>158>>160「晒し上げ」ってとこかしら(藁)
184あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 14:29:17 0
>>171
「美人の子を取り之に名づけ其の母を殺す」の本文に対する唐の張守節の「史記正義」には
劉伯莊の「諸美人は元と呂氏に幸せられ、懷身して宮に入り子を生む」という説を引いています。
呂氏一族の誰かの子を身ごもって宮中に上がり、分娩して孝惠の子と披露されたというわけです。
劉伯莊は唐の太宗のころの学者ですから、格別これといった有力な史料を持っていたわけではなく、
単なる想像を語っているに過ぎないのでしょう。
185世界@名無史さん:2005/03/29(火) 16:01:47 0
しかし記録抹消刑にされたローマ皇帝の名前もちゃんとわかるのに、
文字の国中国で存在を否定されたわけでもない皇帝の名前がわからない
のっていったい?武帝の末年の丁度100年程前の話しだし。
インドあたりの話なら理解できなくもないけどね。
186世界@名無史さん:2005/03/29(火) 18:04:11 0
糞コテと連投うざい。
URLだけ張れよ糞が
187世界@名無史さん:2005/03/29(火) 19:37:33 0
公子に名前をつける人は誰ですか?
188世界@名無史さん:2005/03/30(水) 14:09:49 0
「いいかい、公子(きみこ)って名前はね、公の役に立てるようにって願いを込めて
お父さんがつけたんだよ」
「へーそうなの。わたし大きくなったらみんなの役に立てるようになるね」
189世界@名無史さん:2005/03/30(水) 16:14:57 0
後漢で有名な流刑地ってどこですか?
やっぱり匈奴や鮮卑の辺りかなあ
190世界@名無史さん:2005/03/30(水) 16:46:36 0
やっぱ南方でしょう。
191世界@名無史さん:2005/03/30(水) 22:11:47 0
前スレで周は五等爵がなかって書いてあるけど、ソースはなんでしたっけ?
では、宋公・晋侯・曹伯・伊子・許男などがあったことについてどう説明をつけるんですか?
192世界@名無史さん:2005/03/30(水) 22:52:28 0
>西周の金文では公侯伯子男の五等爵及び卿・大夫は確認できないそうです。
>いわゆる諸侯相当らしい○侯を△侯に封ずとか、◇侯に領地を与えるとかは有るようです。
>また○伯と言うのも見られますが、これは王や侯の家臣であり、むしろ大夫クラスであるよ
>うです。王から七伯とか三伯率いる民が○侯に与えられるとかそう言う形で登場。
>かわりに侯・甸・男と連称する形で出てくるようです。
193世界@名無史さん:2005/03/30(水) 23:28:17 0
じゃあ国として成立していた伯や子はどうなるの?
194世界@名無史さん:2005/03/31(木) 04:40:40 0
>>191,193
逆に、西周の金文に五等爵が確認できないのをどう説明をつけるのか聞いてみるテスト
195世界@名無史さん:2005/03/31(木) 11:58:47 0
金文に書いてないと立証されないの?
あったことは確かでしょ
196世界@名無史さん:2005/03/31(木) 12:36:39 0
逆に金文に限って言えば、史記に登場する人物・事象の大半が消滅してしまうんだけどな
197世界@名無史さん:2005/03/31(木) 21:23:02 0
>>166
陪臣の定義が難しい(広く取れば任命権があれば陪臣か?)が、下級の従者クラスは当然
雇えたと思う。

【王国の官について】
(前漢)漢書・後漢書
 相国(又は相)→丞相(恵帝の元年改称)→相(景帝の中の5年改称)政務を統括。内
史廃止後はほとんど太守同様。
御史大夫、廷尉、少府、宗正、博士(景帝の5年廃止)
 太傅(王を補佐する)
 内史(主郡を統治)成帝の綏和元年廃止:おそらく王国が一郡のみで構成されるように
なり、相と職務がだぶるようになったための冗官廃止と思われる。
 中尉(軍を統括)王国が一郡のみとなってからは郡都尉同様。
 郎中令(大夫・謁者・郎を統括)武帝以後千石
 太僕(車馬を統括)→僕(武帝が改称)千石
 大夫・謁者・郎
 諸官長丞、具体例はよくわからないが、後漢にある礼楽長・衛士長・医工長・永巷長・
祠祀長等があったのでは?なお景帝の5年に削減されたらしいので、それ以前はもっと多
かったと思われる。
 郡守(太守)県令以下は、中央直属の郡同様に王国に属する郡にも存在している。ただ
し後に王国が削減され複数の郡を持たなくなると、当然太守等の郡官はなくなった。

 その他、史記には景帝の時期に中大夫(斉)・侍中(梁)が見られ、漢書には侍中・郎
中が見える。また漢書には、八子・家人子といった皇室同様の女官名が見える。
 また従官と言うのも見えるが、これは官名か単に近侍の官の意味か不明?

 漢初相国(又は相)・丞相のみが中央任命(もっとも即位前の高祖は梁の相国・韓の太
尉等を任命している)、景帝の5年以降は官は中央任命に変更。ただし、どの程度の地位
までが中央任命に切り替わったのかよくわからない。
 郎中令・太僕以上は当然中央任命だとして、郎はどうだろう?中間クラスは?
198世界@名無史さん:2005/03/31(木) 21:24:46 0
侯国
 食するところの国の令長を相と称する。これは侯と君臣関係にない。
 家臣としては家丞・門大夫・庶子が有り。後漢書によると、他に洗馬・行人が存在。
 その他に家吏(家丞の補佐?)・舎人が居たらしい。

(後漢)後漢書
 相(ほとんど太守同様)二千石
  長史(相の補佐、郡丞同様)
 傅(王を善に導く、礼は師のごとき者で臣下ではない)二千石
 中尉(盗賊のことを司る、本来は郡都尉同様)比二千石
 郎中令(大夫・謁者・郎を統括)千石
 僕(車馬を統括)千石
 治書(元は尚書)比六百石
 大夫(比六百石)・謁者(比四百石)・郎中(二百石)
 礼楽長(楽人を統括)・衛士長(衛士を統括)・医工長(医薬を司る)・永巷長(宦官、
宮中の婢使を司る)・祠祀長(祠祀を司る)以上比四百石

侯国
 相、令長同様。侯とは君臣関係にない。(秩は県の時と同じ)
 家丞(封邑千戸以上のみ)・庶子

(魏)正史三国志付の三国職官表より
 相(五品・二千石)太守同様
 傅・保・友(六品)
 都尉(五品・比二千石)
 郎中令・中尉・大農・司馬(各七品)
 常侍・侍郎(各八品)
 家令(八品)
 諸雑署令(八品)・諸署長(九品)、具体的には不明?
 謁者大夫(九品)

 晋書によると僕を省くと有るので、魏では僕が有ったのかもしれない?
199世界@名無史さん:2005/03/31(木) 21:26:06 0
公国は王国同様
侯国は、相(八品・三百石)県令同様
 以下家令(七品)・家丞・傅・監国謁者・庶子・文学

(晋)晋書
 太守を内史に改め、相・僕を省くと有り、おそらく相を内史と改名した模様。
 傅・友・文学
 三卿=郎中令・中尉・大農
 上軍・中軍・下軍将軍(次国は中軍なし、小国は上軍のみ)
 左右常侍・侍郎
 典書・典祠・典衛・学官令、典書丞
 治書・中尉司馬・世子庶子・陵廟牧長・謁者・中大夫・舎人・典府
 宋書によると典府の代わりに典医丞・典府丞。

公国
 傅・友・文学(これは公国にもあるのか?)
 郎中令・大農・侍郎(中尉・常侍無し)
 典書・典祠・典衛・学官令、典書丞
 治書・中尉司馬(無し?)・世子庶子・陵廟牧長・謁者・中大夫・舎人・典府

侯国
 傅・友・文学(これは侯国国にもあるのか?)
 郎中令のみ(大農・侍郎無し)
 典書・典祠・典衛・学官令、典書丞
 治書・中尉司馬(無し?)・世子庶子・陵廟牧長・謁者・中大夫・舎人・典府

伯・子・男国
 典書以下のみ(郎中令なし、学官もなし)
200世界@名無史さん:2005/03/31(木) 21:27:23 0
(宋)宋書
 郡国太守・内史・相、六品と有り、内史と相の違いが不明?
 王国公三卿・師・友・文学、七品、公?

(南斉)南斉書
 郡県が国になると太守を内史、県令を相と称する。
 王には、師・友・文学が有り。
 国官は、郎中令・中尉・大農が三卿、左右常侍、上軍・中軍・下軍(将軍?)、典書・
典祠・典衛・学官の四令、食官・厩牧長、謁者以下。

公・侯国は郎中令一卿のみ。属官は不明?

(梁)隋書
 郡県が国になると太守を内史、県令を相と称する。
皇弟皇子国
 郎中令(五班=従七品)、大農(四班=正八品)、中尉(三班=従八品)、常侍(二班=
正九品)、侍郎(一班=従九品)、上中下三軍将軍(流外七班)、典書令(流外六班)、典
祠・典衛・学官三令(流外五班)

嗣王国
 郎中令(四班=正八品)、大農(三班=従八品)、中尉(二班=正九品)、常侍(一班=
従九品)、侍郎(流外七班)、上中下三軍将軍(流外六班)典書令(流外五班)、典祠・典
衛・学官三令(流外四班)

蕃王国
 郎中令(三班=従八品)、大農(二班=正九品)、中尉(一班=従九品)、常侍(流外七
班)、侍郎(流外六班)、上中下三軍将軍(流外五班)典書令(流外四班)、典祠・典衛・
学官三令(流外三班)
201世界@名無史さん:2005/03/31(木) 21:28:28 0
汝陰巴陵二王国
 郎中令(一班=従九品)、大農(流外七班)、中尉(流外六班)、常侍(流外五班)、侍
郎(流外四班)、上中下三軍将軍(流外三班)典書令(流外二班)、典祠・典衛・学官三
令(流外一班)

郡公国
 郎中令(流外七班)、大農(流外六班)、中尉(流外五班)、侍郎(流外三班)典書令(流
外一班)

県公国
 郎中令(流外六班)、大農(流外五班)、中尉(流外四班)、侍郎(流外二班)

県侯国
 郎中令(流外五班)皇弟皇子之庶子が県侯の場合は流外六班

王国にはこの他に、廟長・陵長・典医丞・典府丞・執事中尉・司馬・謁者・舎人・中大夫
の官が有る。

公以下は、典祠令・典書令・典衛長
伯子は、典祠令・典書長・典衛丞
男は、典祠長・典書丞・典衛はなし

諸侯で食邑千戸以上は家丞・庶子を置き、千戸未満は庶子のみ置く。

(陳)隋書
内史・相(万戸以上は六品、万戸未満は七品) 
皇弟皇子国郎中令・大農・中尉(八品:六百石)
嗣王国郎中令・大農・中尉(九品:四百石)、常侍(九品)
蕃王国郎中令・大農・中尉(九品:二百石)
202世界@名無史さん:2005/03/31(木) 21:29:26 0
(北魏)魏書
初期
 大郡王臣吏二百人、次郡王・上郡公百人、次郡公五十人、侯二五人、子一二人、各々家
丞に相当する典師が有る。

改革後
 皇子国、郎中令(第六品上)・大農(従第六品上)・中尉(第七品上)・常侍(従第七品
下)・侍郎(第八品上)、上中下将軍・中大夫(従第八品下)・典書令(第九品上)、典祠
・典衛・学官令(従九品上)
 王公国、郎中令(第七品上)・大農(従第七品上)・中尉(第八品下)・常侍(従第八品
下)、上中下将軍・中大夫(従第九品上)
 侯伯国、郎中令(第八品上)・大農(従第八品下)・中尉(第九品下)
 子男国、郎中令(第九品上)・大農(従第九品下)

(北斉)隋書
 皇子国、郎中令(第六品上)・大農(従第六品上)・中尉(第七品上)・常侍(従第七品
下)・侍郎(第八品上)、上中下将軍・上中大夫(従第八品下)、防閤・典書令(第九品上)
典祠・典衛・学官令、斉帥、食官、厩牧長、典医丞、典府丞、執書、謁者、舎人

 王国、郎中令(第七品上)・大農(従第七品上)・中尉(第八品下)・常侍(従第八品下)
・侍郎(第九品下)、上中下将軍・上中大夫(従第九品上)、防閤、典書令、典祠・典衛
・学官令、斉帥、食官、厩牧長、典医丞、典府丞、執書、謁者、舎人、陵長、廟長

 公国、郎中令(第七品上)・大農(従第七品上)・中尉(第八品下)・常侍(従第八品下)
・侍郎(第九品下)、上中下将軍・上中大夫(従第九品上)、典書令、典祠・典衛・学官令、
食官、厩牧長、典府丞、執書、謁者、舎人

 侯伯国、郎中令(第八品上)・大農(従第八品下)・中尉(第九品下)、常侍・侍郎、典
書令、典祠・典衛・学官令、食官、厩牧長、典府丞、執書、謁者、舎人

 子男国、郎中令(第九品上)・大農(従第九品下)、中尉、常侍・侍郎、典書令、典祠
・典衛・学官令、食官、厩牧長、典府丞、執書、謁者、舎人
203世界@名無史さん:2005/03/31(木) 21:29:50 0
(北周)隋書
公の孤卿(四命=六品)、大夫(三命=七品)、上士(再命=八品)、中士(一命=九品)
 下士(不命=流外)
侯の孤卿(三命=七品)、大夫(再命=八品)、上士(一命=九品)、中士・下士(不命=
 流外)
伯の大夫(再命=八品)、上士(一命=九品)、中士・下士(不命=流外)
子男の大夫(一命=九品)、士(不命=流外)

(隋)隋書
親王、師(従三品)・友(従五品下)・文学(従六品上)
嗣王、文学(視正七品)

王国
 令(視従六品)、大農・尉・典衛(視正七品)、常侍(視正八品)、侍郎(視正九品)、廟
長、学官長、食官長、厩牧長・丞、典府長・丞、舎人

公国
 令(視正七品)、大農・尉・典衛(視従七品)、常侍(視正九品)、侍郎(視従九品)、廟
長、学官長、食官長、厩牧長・丞、典府長・丞、舎人

侯伯国
 令(視従七品)、大農・尉・典衛(視正八品)、常侍(視従九品)、侍郎、廟長、学官長、
厩牧丞、典府長・丞、舎人

子男国
 令(視正八品)、大農・典衛(視従八品)、常侍(視従九品)、侍郎、廟長、学官長、食官、
厩牧長・丞、典府長・丞、舎人

 なお上記の公〜男国までは官が上柱国・柱国の場合の例、官が上大将軍以下だと属官
が省略され人数も減る。
204世界@名無史さん:2005/03/31(木) 21:32:08 0
とりあえず晋で原型が出来て以降唐まで大きな偏向はなし。
ただし北周は例外。
205世界@名無史さん:2005/03/31(木) 21:33:19 0
×大きな偏向はなし
○大きな変更はなし
206世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/01(金) 14:19:27 0
清代に明王に封じられたのってだれだっけ?
207世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/01(金) 21:40:36 0
清代の明王ってのは知らない?
李自成は明の最後の皇太子を捕らえて宋王に封じている。
李自成が北京から敗走するときに行方不明。
一緒に捕らえられていた弟二人(定王・永王)は、康熙年間まで生きていたらしい。
仮に清が明王なるものに封じるとすればこの二人が最有力候補だね。
清は明を滅ぼしたわけではなく、明への反逆者李自成を滅ぼしたという建前をとっ
ていたらしく、抵抗しなかった明の宗室にはわりと寛大だったようだ。
旧親王・郡王は捨扶持を与えられ、将軍・中尉は平民にされたと何かで読んだよう
な覚えがある。
もちろん福王・唐王・永明王等抵抗したものには容赦しなかったが。
それと鄭氏の台湾政権には結構明の子孫(○王世子とか)がいた。
鄭氏降伏後も今更殺されなかったとは思うけど。
しかしまたスレ違いの話だなあ。

208世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/01(金) 22:01:31 0
【史記・漢書に見る丞相・相国追加】>>133-134の続きって言うか追加って言うか訂正
 高祖の5年10月?レキ商は燕王藏茶の謀反平定に参加後、梁の相国から右丞相に遷る。
 その後右丞相として上谷を平定。代を攻めた後趙の相国を兼ねる。
 11年7月黥布を撃つときまで引き続き右丞相だった模様。

 高祖の5年10月丞相樊カイ(口會)が兵を率いて代を攻める。(本紀)
 代王陳キを撃っているときに左丞相に遷る。(列伝)10年か11年か?
 高祖の12年燕王廬綰が背いたとき、樊カイ(口會)を相国として燕を攻撃し、燕の丞相
抵をうち破り、燕の地を平定した。
 周勃は相国の身分のまま樊カイに代わって軍を率いて、廬綰の大将抵・丞相偃等を捕
らえて上谷郡の21県等を平定した。
 燕を平定したのは樊カイ?周勃?どちらが正しいのでしょう?

【漢初の相国・丞相改訂版】
 高祖元年〜2年8月 蕭何が丞相
   2年8月〜3年 蕭何が丞相(右丞相?)、韓信が左丞相
   3年〜同年6月 蕭何が丞相(右丞相?)、韓信が左丞相、曹参仮の左丞相
   3年6月〜4年2月 韓信が相国、曹参が右丞相、蕭何が丞相(左丞相?)
   4年2月〜5年正月 曹参が右丞相、蕭何が丞相(左丞相?)
   5年正月〜10月  蕭何が丞相、いつからか不明だが樊カイ(口會)が丞相
   5年10月〜10年? レキ商が右丞相、樊カイ(口會)が丞相、蕭何が丞相
   10年?〜11年? 蕭何が丞相、レキ商が右丞相、樊カイ(口會)が左丞相
   11年?〜12年? 蕭何が相国
   12年?(又は11年中から?) 蕭何が相国、樊カイ(口會)も相国、周勃も相国
   12年?〜恵帝2年7月 蕭何が相国
 恵帝2年7月〜5年8月 曹参が相国
 5年8月〜呂后元年11月 王陵が右丞相、陳平が左丞相
 呂后元年11月〜7年正月 陳平が右丞相、審食其左丞相
   7年正月〜8年7月 呂王産が相国、陳平が右丞相、審食其左丞相
   8年7月〜8年8月 呂王産が相国、陳平が右丞相(丞相?)
   8年8月〜文帝元年10月 陳平が右丞相(丞相?)
 文帝元年10月〜 周勃が右丞相、陳平が左丞相
209世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/01(金) 22:01:58 0
 もしかして高祖12年現在は3人が相国?
 高祖期の相国・丞相って蕭何以外は全部武将の階級?
 他に>>137でご指摘のとおり封侯の表に見える者もあるが時期が特定できない。

【漢初の太尉等】
 高祖の5年10月太尉廬綰を燕王に封じた。
 高祖6年、周勃は謀反を起こした韓王信を撃って功績を建てた。太尉に昇進した。
 高祖の10年、陳キが謀反を起こし、11年冬太尉周勃が太原・代を平定。
 恵帝の6年、太尉の官を新設し、周勃は太尉に任命された。
  高祖の時の太尉と恵帝の時の太尉は別物?

 漢王の3年、御史大夫周苛にケイ(?)陽を守らせた。(漢王即位以来御史大夫)
 周苛が項羽に殺された後(高祖の5年10月?)従兄弟の周昌が御史大夫。
 高祖の2年?灌嬰は御史大夫に任ぜられた。
    3年御史大夫として相国韓信に従い斉を撃つ。
    5年秋、車騎将軍として高祖に従い謀反を起こした燕王藏茶を撃つ。
    6年の韓王信の謀反時、11年の黥布叛乱時も灌嬰は車騎将軍であった。
    10年キン(革斤)歙は騎都尉として韓王信を攻めた後、車騎将軍に遷る。

 どうも御史大夫、車騎将軍も同時期に複数いるようだ。
210世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 15:51:50 0
高祖の代に韓信や曹参が丞相とされたのは虚封であった、と解するのが一般的なようだけど。
211世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 19:43:07 0
>>118
白川静氏によると、召公家の称号が太保、周公の子孫の称号が明公または明保らしい。
明は神明の明で、どちらも最高神官のようなものだとも。
なお太師は本来師氏(軍司令官)を将軍とすると、大将軍のようなものらしい。
その後退役将軍が学官になり、樂をも司どったため、
師に師匠や音楽師の意味が出来たらしい。
212世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 08:23:57 0
周公旦は長く武王の弟と言われていたけど、本当は遠い分家なんだって?
213世界@名無史さん:2005/04/07(木) 22:46:44 0
楚漢抗争期の公って、項羽の魯公(爵は長安侯)以外は、
全部県公(県令)と言う事でいいのだろうか?
214世界@名無史さん:2005/04/08(金) 19:59:57 0
素人質問で恐縮なんですけど、
諌議大夫のような、皇帝の施政に関わるような官職って、
皇帝の実権が無いような魏において、何をしているもんなんですか?
実務無し?

215世界@名無史さん:2005/04/08(金) 20:18:20 0
そう言うときは皇帝の監視でもしてるんじゃないですか。
あるいは遊び相手とか。
216世界@名無史さん:2005/04/09(土) 00:43:02 0
王朗とか、かなりの有識者が着任してたところみると、
遊び相手とか監視って事は無い気はするなぁ…
217世界@名無史さん:2005/04/09(土) 08:44:13 0
話し相手兼お小言(主に生活面)係
「陛下、冠が歪んでおります。服装の緩みは心の緩み」
「陛下、このような淫らな音楽はよろしゅうございません」
「陛下、夜更かしは体に悪うございますぞ」
って生活指導の教師か小うるさい母親かよ、口調だけは敬語だけど。
いやむしろセバスチャンとか執事って感じ。
しかし実権もないのにお小言言われてはたまらんかも。などと妄想。
218世界@名無史さん:2005/04/09(土) 10:38:48 0
形式重視する儒教社会独特のポストだね
219世界@名無史さん:2005/04/09(土) 11:45:41 0
皇帝の名の元で詔勅出す時のアドバイス(言い包め)みたいな
行政側との橋渡しをする役職でもあったんじゃないかな。

話し相手兼お小言係をしながら、
施政者にとって都合の良い方向に、皇帝の認識を誘導するとか。
220世界@名無史さん:2005/04/11(月) 18:45:42 0
わりと閑職?
221世界@名無史さん:2005/04/12(火) 23:15:15 0
wikiの爵位に開国とか付け加えたのこのスレの連中だろwwwww
222世界@名無史さん:2005/04/12(火) 23:37:16 0
>>221
見たけどさ、 漢以前の次がいきなり魏晋南北朝まで飛んでるじゃないか。
このスレの連中だったら、漢代の爵位が抜け落ちてるわけがないでしょ。
223世界@名無史さん:2005/04/13(水) 22:47:07 0
漢書の王莽伝に納言将軍と納言大将軍と出てくるけど
どっちが正しいんだろう?
224世界@名無史さん:2005/04/21(木) 08:11:19 0
この時代、皇帝に目通りを許されるのに最低限必要な官位官職ってあったの?
日本で象に四位が与えられたみたいに…
225世界@名無史さん:2005/04/25(月) 20:33:48 0
過疎上げ
226世界@名無史さん:2005/05/13(金) 08:48:42 0
みんな飽きたんだね
227世界@名無史さん:2005/05/13(金) 09:12:05 0
5年ぐらい前にこのスレの話題と近い内容のスレがヤフー掲示板であったなあ。
228世界@名無史さん:2005/05/24(火) 23:25:00 0
たまにはage。
229世界@名無史さん:2005/06/16(木) 08:05:59 0
白帝社「王莽」東晋次氏age
230世界@名無史さん:2005/06/16(木) 22:50:50 0
「王莽」に一丈の巨漢とか出てきて、ひえー3メートルとか思ったけど、
あの時期だと230センチくらいなんだよね。
なんで長さの単位は後世になるほど伸びたんだろう?
231世界@名無史さん:2005/06/23(木) 23:26:23 0
宦官について質問です。

宦官には独自の地位や序列があったのでしょうか?
また、宦官は皇帝だけがもっていたのでしょうか?例えば身分の高い将軍
や文官なども所持したいたとか。

よろしくお願いします。
232世界@名無史さん:2005/07/07(木) 19:52:46 0
 漢書によると、少府の属に中書謁者(成帝時中謁者と改める)・黄門・鉤盾・尚方・御
府・永巷(武帝時掖庭に改める)・内者・宦者の八官の令・丞が有り、諸々の僕射・署長
・中黄門などは皆これに属するとあり、おそらく主として宦官が任ぜられたと推定。
 また・事の属に中長秋・私府・永巷・食・厩・祠祀・食官の令・長・丞が有り、諸宦官
は皆これに所属したあり、これらも宦官から多く任ぜられたかも?
 大長秋(旧名将行)は士人と中人(宦官)を併用したと有る。

 後漢書では、注で宦者と明記されている官が多々見られる。
 少府の属
  中常侍(千石後比二千石)定員無し、小黄門(六百石)定員無し
  黄門令(六百石)一名、丞・従丞各一名
  黄門署長・画室署長(各四百石)各一名、丙署長(四百石)七名
  中黄門冗従僕射(六百石)一名、中黄門(比百石後比三百石)
  掖庭令(六百石)一名、左右丞・暴室丞各一名
  永巷令(六百石)一名、丞一名
  御府令(六百石)一名、丞・織室丞各一名
  祠祀丞(令:六百石には宦者との注がない、脱漏?)
  鉤盾令(六百石)一名、丞・永安丞(各三百石)各一名(属官の苑中丞以下には宦者の注なし)

 大長秋(二千石:一名:宦者と明記)の属
  大長秋丞(六百石)一名
  中宮僕(千石)一名
  中宮謁者令(六百石)一名、中宮謁者(四百石)三名
  中宮尚書(六百石)五名
  中宮私府令(六百石)一名、丞一名
  中宮永巷令(六百石)一名、丞一名
  中宮中黄門冗従僕射(六百石)一名
  中宮署令(六百石)一名、丞・復道丞各一名
  中宮薬長(四百石)一名
233世界@名無史さん:2005/07/07(木) 19:53:22 0
 漢では将軍等に任ぜられることは原則無かったようだ。有名な十常侍等権勢を握ること
はあっても表向きの高官にはなっていない。列侯の爵を与えられことは度々あったが。

 北魏では、宦官用の官職の官品自体が異常に高かったりするようだ。官職全般にインフ
レ常態でもあるようだが。
 また、通常の将軍・宰相等の職に就くことも普通に行われ、爵位もわりと気軽に与えら
れたらしい。もちろん養子により世襲公認。

 唐では四品の内侍(後内侍監)が最高だったが、玄宗のころから三品の将軍に任ぜられ
るようになり、後には中央軍(神策軍)の指揮権を握ったり、総司令官代理になったりし
ている。
 北宋末だと最高司令官を務め郡王に封ぜられた者さえ居る。

 明では火器部隊の指揮官は全て宦官、監軍としても活躍している。
 中期以降宦官筆頭は事実上の宰相、それも個人的に政権を握ったという者でなく、制度
的に宦官トップの職が事実上の宰相職となっていた。
 なお個々の宦官は皇帝の信任を失えば即失脚、大概末路は悲惨。
 あと宦官ナンバーツーは秘密警察長官。
 ただし、政事・軍事の実権は握っても表向きの職には就いていないようだ。

 清では当初官品がなく康煕帝がトップ級数名を五品にしたのが最初、その後時を経るほ
ど上昇し清末(西太后のころ)には正二品官もいた。
 末期等に側近として権勢を振るうことはあっても、表向きの職に就くことは無かったら
しい。

 どうも明を反面教師にしたらしい清はともかく、北方系の王朝の方が宦官を特別視しな
い傾向があるようだ。やはり家畜を去勢するから?
234世界@名無史さん:2005/07/07(木) 19:56:16 0
清では皇族(親王とか)は持っていたらしい。
皇帝に属するものと名称が違っていたけど。
臣下については少なくとも公式にはもてなかったんじゃないかな。
235世界@名無史さん:2005/07/08(金) 11:02:06 0
鄭和なんかは代表的な軍人宦官か
236世界@名無史さん:2005/08/06(土) 16:20:31 0
237世界@名無史さん:2005/08/31(水) 08:04:31 0
大司馬、大将軍、太尉とかってどのような職権の違いがあったんだろ?
238世界@名無史さん:2005/08/31(水) 09:01:13 0
ノリが違うんじゃない?
239名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 10:30:29 0
【中国史】衛青・霍去病【武帝】【別格】
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/whis/1122787508/l50
240世界@名無史さん:2005/09/28(水) 03:27:09 0
保守
241世界@名無史さん:2005/10/12(水) 19:46:37 0
世界史板ってこんなペースでも落ちないのがすごい。
242世界@名無史さん:2005/10/12(水) 20:52:52 0
学問版はどこもそう
243怨霊 ◆SHUZENU4Yk :2005/10/24(月) 23:22:41 O
>>237
時期によって違うので一概には言えませんよ。
244世界@名無史さん:2005/10/25(火) 07:25:27 0
>>243
一概でなくてもいいから言えよ
245世界@名無史さん:2005/11/06(日) 03:20:00 0

大司馬=太尉(陸相)

 、大将軍(総司令官)

漢がこんな感じ?
246世界@名無史さん:2005/11/06(日) 11:32:45 0
博望ハってあるじゃん?
247世界@名無史さん:2005/11/06(日) 11:33:34 0
ごめん、超誤爆った。
248世界@名無史さん:2005/11/06(日) 12:42:27 0
>>243
最近はさっぱりだけどどうなってるん?
あんま寂れてると訊きたい事も訊き難いんすが…
249世界@名無史さん:2005/12/03(土) 21:22:26 0
250世界@名無史さん:2005/12/04(日) 00:08:20 0
何で建国に功績のあった武将って子孫ダメダメなの?
251世界@名無史さん:2005/12/04(日) 08:50:11 0
延々と優れた人材が出る一族があったとしたらそれは人間じゃなくて人間以上の新生物だ
252世界@名無史さん:2005/12/23(金) 14:25:03 0
age
253世界@名無史さん:2005/12/25(日) 06:07:11 0
ほぼどの時代のどの地域でも当てはまりそうな内容
才能は遺伝しない。
活躍する場がない。
時勢や流れというものがある。
建国に功績があった武将の功績を過大に評価しすぎ、そして
その対比として子孫の評価が過小すぎ。
254世界@名無史さん:2005/12/25(日) 06:33:15 0
>>250
つ 司馬父子@魏

建国に功績のあった武将の子孫が優秀だったら、国を乗っ取る
255世界@名無史さん:2005/12/25(日) 07:46:02 0
建国時に要求される才能と治世で要求される才能は別物だしな
256世界@名無史さん:2005/12/25(日) 12:23:19 0
しそん 【子孫】<

(1)子と孫。

(2)子・孫・曾孫と血筋をひいて生まれる人々。また広く、のちの世代の人々。後裔(こうえい)。
257世界@名無史さん:2006/01/27(金) 17:56:08 0
age
258世界@名無史さん:2006/01/28(土) 11:57:25 0
んで結局職業表作成の話はどこへ飛んでった
259世界@名無史さん:2006/01/30(月) 22:35:35 0
過疎だ・・・
260世界@名無史さん:2006/01/31(火) 02:47:35 0
漢代の武帝の頃の酒の専売制について詳しい方いますか?
色々、本を探して読んでるんですが、塩鉄ばかりで酒の専売についてはおまけ程度にしか扱われていないので…。
どなたか詳細を知ってる方がいたら教えてください。
261世界@名無史さん:2006/01/31(火) 02:49:34 0
>>260
262世界@名無史さん:2006/02/06(月) 09:31:29 0
保守
263世界@名無史さん:2006/02/06(月) 16:51:27 0
三省、六部二十四司、九寺、五監について説明してください。
264世界@名無史さん:2006/02/16(木) 07:55:46 0
ほシュ
265世界@名無史さん:2006/02/20(月) 17:14:39 0
>>263
Let's Googling!
266世界@名無史さん:2006/03/17(金) 16:39:16 0
たまに遊びに来てください

漢帝国の復興を目指すスレ
http://live19.2ch.net/test/read.cgi/ogame/1142507956/l50
267世界@名無史さん:2006/03/18(土) 15:11:40 0
おれは、大尉は警察長官、大将軍は軍事長官なんだと思ってた。
268世界@名無史さん:2006/03/25(土) 19:29:51 0
 
269世界@名無史さん:2006/04/03(月) 15:20:45 0
保守age
270世界@名無史さん:2006/04/26(水) 02:02:57 0
祝一周年!
271世界@名無史さん:2006/05/06(土) 02:07:10 0
1年以上経ってるのにまだ271なんて…orz
272世界@名無史さん:2006/05/07(日) 14:54:44 0
三戦板のとあるスレにいた

ここ放置して何やってるんだろうか…
273世界@名無史さん:2006/05/22(月) 15:35:01 0
まぁ、とりあえず保守
274世界@名無史さん:2006/05/22(月) 17:06:41 0
前ここに書き込んだら「コテ禁止」とかいうやつがいて、偏狭なスレだなと思った。
275世界@名無史さん:2006/05/31(水) 23:14:30 0
276世界@名無史さん:2006/06/22(木) 01:18:19 0
月例任官に上がりました。
277世界@名無史さん:2006/06/26(月) 05:44:32 0
一応、あげとく?
278世界@名無史さん:2006/07/17(月) 22:50:16 0
まぁ、あげとくよ
279世界@名無史さん:2006/08/07(月) 03:31:11 0
郎と侍郎の違いって何か分かる?
280世界@名無史さん:2006/08/07(月) 10:28:04 0
>>266の関連スレは、なんで81でぶち切れたの?
281世界@名無史さん:2006/09/05(火) 03:09:53 0
282世界@名無史さん:2006/10/10(火) 23:35:01 0
中国の歴史に関する娯楽・文学は三戦板のご利用を

http://hobby8.2ch.net/warhis/
283世界@名無史さん:2006/11/01(水) 23:00:07 0
284世界@名無史さん:2006/11/11(土) 19:26:33 0
285世界@名無史さん:2006/12/05(火) 22:56:43 0
あげ
286世界@名無史さん
 lll初代llll   始皇帝   lll皇帝lll 
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1162483866/
【政ちゃん】荊軻【ヌッ殺ス】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1162406458/
▲▲   項羽と劉邦   ▲▲
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161621239/
【項羽】 前漢時代の英雄達総合 【劉邦】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161620217/
【匈奴】大月氏【漢】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1164900413/
もし楚漢戦争時代前後に2ちゃんがあったら
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1162330284/
【項羽】 前漢時代の英雄達総合 【劉邦】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161620217/
【王莽】新〜後漢初【光武帝】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1162029599/
【司馬遷】中国文化に貢献した英雄【朱子】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161678071/
【治世の能吏】 曹操 【乱世の姦雄】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1163313500/
司馬懿はどうしてメジャーになれないのか?
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1161769088/
なんで中国の政権は次々変わるのか
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1162703569/