霍去病って軍事的な才能っていうより
武帝に個人的に気に入られて精鋭を率いさせてもらったから
連勝できたって感じがしないでもない
45 :
世界@名無史さん:2005/11/15(火) 23:58:55 0
そういや司馬遷と同時代を生きた人なんだよなあ。
三戦厨房なスレだな
47 :
世界@名無史さん:2005/11/21(月) 18:09:12 0
47
霍去病って何で人気あるんだ?あんな嫌な性格なのに。
衛青はちと卑屈だが、まだこちらのほうが共感できる。
49 :
世界@名無史さん:2005/11/21(月) 23:10:29 0
そうか?
50 :
世界@名無史さん:2005/11/22(火) 19:48:32 0
つまり霍去病は信長で衛青は家康みたいな性格だったから、
人気によるその差が出たのだと思う。
戻太子の乱後は衛青の名誉も削られたのかな?
52 :
世界@名無史さん:2005/11/26(土) 07:20:18 0
霍去病の方が華があってよいな
挙げた功績で言えば彼と並ぶ人間はいなかったし
まぁ、武帝に最高の兵士と装備を与えられてたのも大きいのだろうけれども・・・・
それにしても空腹で死にかけた兵士がいるってのに、武帝から送られてきて、食べ切れなかったご馳走を捨てるなんて
だから罰があたって夭折したんじゃないか
今頃地獄で永久の苦しみを受けている最中だろう
全ては霍光のおかげ
>>11 亀だか霍光は美男子
ヒゲが美しかったらしい。
55 :
世界@名無史さん:2005/12/18(日) 00:10:40 0
老上単于様が55ゲット
56 :
世界@名無史さん:2005/12/18(日) 02:29:28 O
57 :
世界@名無史さん:2005/12/18(日) 08:52:24 0
この二人が死んだ後は、遠征もふるわくなったなあ
老上単于のフルネームは稽粥。
んで、武帝の時代には老上単于こと稽粥の子の軍臣単于の時代。
有史以来侵略をしたことは無いそうなのでこの2人はいなかったことに
61 :
世界@名無史さん:2006/01/22(日) 18:17:59 0
万里を径り沙漠を度り
君が命を受けて匈奴に奮う
矢刃砕け刀尽く
老母已に死せり
恩に報ぜんと欲すと雖えど
将た何処にか帰せん
62 :
世界@名無史さん:2006/02/05(日) 22:52:30 0
歴史家一族に育った班超は、張騫にあこがれて西域行きを志願したそうだね。
霍去病の戦果は誇大宣伝の一面がある。
64 :
世界@名無史さん:2006/02/06(月) 04:31:26 0
班超の方が霍去病より凄いね
65 :
世界@名無史さん:2006/02/06(月) 19:26:37 0
>>52 ナポレオンもロシアから敗走するなかで毛布に包まったまま馬車に乗って
旨いもんたらふく食ってたあげく、途中で敗軍離脱して本国へ帰った。
これが超人クオリティー
チンギスハンは片足が棺桶に突っ込んでいる状態で西夏攻撃の陣頭指揮を執り、
死に際にはカラホト城の皆殺しを遺言している。
ナポレオン自身も自分はチンギスハンには及ばないと述懐していたらしいが。
67 :
世界@名無史さん:2006/03/02(木) 23:16:16 0
69 :
世界@名無史さん:2006/04/12(水) 08:29:13 0
age
70 :
世界@名無史さん:2006/04/28(金) 00:20:31 0
老上単于様が70ゲット
71 :
世界@名無史さん:2006/04/28(金) 00:35:48 0
軍臣単于は匈奴の癖に弱い
72 :
世界@名無史さん:2006/04/28(金) 01:43:15 O
お前は呼韓邪単于を知らない
73 :
世界@名無史さん:2006/05/14(日) 00:19:04 0
王昭君カワイソス・・・
sage
75 :
世界@名無史さん:2006/06/17(土) 10:58:19 0
月例保守に上がりました。
76 :
世界@名無史さん:2006/07/26(水) 15:28:52 0
王昭君はむしろ幸せなヒトじゃないか
あっちですごく尊敬されたし
そうそうキモメンエンペラーに首輪付きで飼われるより
マッチョな遊牧民に死ぬまで犯されるほうが気持ちいい。
78 :
世界@名無史さん:2006/08/05(土) 18:48:04 0
牛牧の民マサイの屈強な戦士が
>>77を迎えに参上したニガ
79 :
世界@名無史さん:2006/08/27(日) 10:34:28 0
どっちの一族も皆殺しになったわけだが・・・
あれ三族だっけ?
……
http://members.jcom.home.ne.jp/diereichsflotte/History/KanVSKyodo.html 霍去病
霍去病(かくきょへい)は、衛子夫の姉の衛小児の子供で、
匈奴と戦うために生まれてきたような人物である。
少年のころから宮中に出仕しており、君寵を受けた。
このため、彼は、叔父の衛青とは逆に、傲慢で思いやりに欠けていた。
自分の食料を兵士に与えるという発想は無く、
強行軍で疲れた兵士に蹴鞠場を作らせて興じていたという。
しかし、頭脳明晰である点と古来の兵法に基づかない点では、叔父の衛青と同じであり、
後者においては、それ以上であった。
あるとき武帝が孫呉の兵法(孫子と呉子の兵法)を示そうとすると、
即座に
「方略の何如なるかを顧みるのみ!
古の兵法を学ぶに至らず。
(顧方略何如耳! 不至学古兵法。)」と言ったという。
霍去病が、上にあるB.C.125年の戦役に従軍したのは、わずか18歳のときであった。
衛青麾下で、騎兵800を率い、本隊よりも数百キロ前方まで進出して、
偵察と掃討を行い、2000名を殺害した。
これにより、霍去病は軍功第一とされ、冠軍(軍功第一)侯に封じられた。
B.C.121年、霍去病は驃騎将軍に任じられ、
河西回廊を制圧しシルクロード交易の利を匈奴から奪い返すために、
一万の兵を率い、隴西より出撃した。
休屠王を襲い、焉支山を経由して、渾邪王を破り、その王子を捕らえ、酒泉にまで至った。
匈奴軍は約8000人の損害を出したが、漢軍の損害はわずかなものだった。
しかし、霍去病の進軍が直線的過ぎて、大部分が戦禍を逃れており、
河西回廊における匈奴の勢力はいまだ健在であった。
このため、同年の夏、再び攻勢を発起した。
当初の予定では、公孫敖が河西回廊の正面を突き、
霍去病が武威・居延を経て河西回廊の裏口から攻撃をかけ、
挟撃するということになっていたのだが、
公孫敖が道に迷ってしまったため、この作戦は破綻した。
しかし霍去病は単独による作戦決行を決意した。
休屠王と渾邪王の部族は、酒泉より約15キロのところに集結し、
東側を、漢の攻撃に備えて警戒していたが、西側は無防備で、
霍去病は捕虜・戦死あわせて30000以上の戦果を上げた。
単于に出頭を命じられた渾邪王は、敗戦の責任をとらされることを恐れ、
部族ごと漢に投降した。
霍去病は捕虜・戦死あわせて30000以上の戦果を上げた。
単于に出頭を命じられた渾邪王は、敗戦の責任をとらされることを恐れ、
部族ごと漢に投降した。
霍去病は、土壇場で降伏をためらった8000名に突撃してこれを殺害して、
この降伏を成功させ、領邑7000戸を加増された。
かくして、河西も漢の支配下に加えられたのだった。
なお、この戦役においては、"飛将軍"李広と、かつて西域に派遣された張騫とが、
河東方面に攻勢をかけていたが、合流できず、李広の軍などは半数の損害を受けて敗北した。
霍去病の強さの秘密は、まず、精兵を優先的にまわされていたことである。
人によっては、このために霍去病が勝利をあげつづけたことを当然だと考える人もいるが、
これは誤りであり、精兵がいれば必ず勝つということは無く、
かつ、あのような鮮やかな戦果を必ず挙げることができるというものではない。
霍去病の強さの秘密のもう一つは、古来の兵法に基づかないことである。
砂漠という特殊な状況における思考には、
中国の地における戦いで築き上げられてきた古来の兵法では対応できないところもあった。
霍去病の強さの秘密のさらにもう一つは、機動力の高さである。
彼は、兵士の装備を軽量化し、輜重を置き去りにして、
食料は略奪して奪い、強行軍しつづけた。
このため、霍去病の部隊の機動力は、匈奴軍の機動力をも上回っていた。
霍去病は衛青と同じ扱いとされるようになって、名声は大いに衛青を上回り、
かつて衛青を取り巻いていた人々は霍去病につかえるようになった。
88 :
世界@名無史さん:2006/10/10(火) 23:25:36 0
90 :
世界@名無史さん:2006/11/12(日) 01:03:58 0
91 :
世界@名無史さん:2006/11/21(火) 23:34:26 0
中国英雄板の霍去病と名乗る厨房が激しくうざいのだが・・・
>>91 霍去病と名乗るコテは世界史板にいないのでお引取りを
雑談は雑談スレかコテハンスレでお願いします。