1 :
世界@名無史さん :
05/03/03 17:05:48 0
2 :
世界@名無史さん :05/03/03 17:14:55 0
ハンガリーの爵位って買えますか?
3 :
世界@名無史さん :05/03/03 17:15:46 0
2げとー。 前スレでは西洋の爵位や位階を中国の五等爵で表記するのが そもそもの間違いではないか?という話だったね。
4 :
世界@名無史さん :05/03/03 17:17:47 0
>>2 ハンガリー王を名乗っている人がいないので、現在では買えないと
思いますが・・・。
しかしハプスブルク家次期当主はまだ継承権を放棄していなかったと思います。
ひょっとすると、そちらからなら可能かも知れませんね。
6 :
世界@名無史さん :05/03/03 17:34:25 0
>>6 私はハンガリーが専門ではないので正確性に欠けますが。
ハプスブルク家が放逐されて、王のいない王国になったあと、摂政として
政権を握ったホルティが人気取りの為に、爵位を乱発したという話を聞きます。
また、元々の貴族の人達も共産主義政権崩壊後の今となっては
伝来の爵位を名乗る人は珍しくないと思いますが・・・。
それが例えばイギリスのように公式に権威を持っているか、という事とは
また別な話なわけで。
法的な権限は失われてしまっても、血統がもたらす権威は保持している貴族の
子孫はヨーロッパには普通にいるようで。
8 :
世界@名無史さん :05/03/04 10:22:55 0
創作ですが、カリオストロ大公国にはカリオストロ伯爵、グランドフェンウィック大公国には マウントジョーイ伯爵がいます。 このようにモナコやリヒテンシュタイン、ルクセンブルクに、臣下のための爵位は存在したり するのでしょうか? ついでにスペイン・ポルトガルの爵位ってどうなってるんでしょう? スペインはイギリスみたいに旧国単位で別の爵位が有るのでしょうか?
9 :
世界@名無史さん :05/03/04 18:41:49 0
イギリス、フランス、ドイツなど主要国の貴族一覧ってないんでしょうか? イギリスは公爵一覧だけならネット上にもあるんですが、フランスやドイツの場合は 公爵だけでも数が多すぎて、日本語で読める一覧は存在しないんでしょうか? 日本の大名一覧や旧華族一覧みたいものがあれば非常に便利なんですが・・・
10 :
世界@名無史さん :05/03/04 18:48:54 0
森護『英国の貴族 : 遅れてきた公爵』大修館書店,1987
>>8 存在します。
封建制度は純粋に二者間の関係であるので、主人の爵位とは本質的に別問題です。
つまり皇帝・諸侯・爵位を持つ陪臣で例えてみると
諸侯が持っている爵位は皇帝と封建関係にある貴族というカテゴリの中での優劣で
あって、陪臣に対しては君主でしかないわけです。
スペインやポルトガルは専門外なので正確な所は分かりませんが
スペインは連合王国という体裁のイギリスと違って
合邦しているので、スペイン貴族なのではないでしょうか?
12 :
世界@名無史さん :05/03/05 21:22:36 0
@過去スレは、普通ではもう見られないのでしょうか。特別なものを入れないと。 A貴族の一覧は、社交界の必需品だと思いますが、 かならずしも、一般に公開出版されているとは思いません。 しかし、外国にも、怪しげな名簿屋があり、そこで入手できると思います。
13 :
世界@名無史さん :05/03/05 22:25:32 0
実際、フランスやドイツの公爵ってどれくらいの数なんでしょうか? 日本の公爵と比べると、べらぼうに多い印象があるんですが・・・
国際名誉勲章委員会の話って試した人居る? 限りなくガセっぽいんだが。
グランドフェンウィックは良くできたほら話でしたな。 そういえばHonorSystem改革についてブレア政権があれこれやってますが、どうなることやら。
もう既出でしょうか? 英国の貴族制度はなんとなくわかったのですが イタリアの貴族制度がよくわかりません。 漠然と「デ」が付いている姓が貴族なのかと思っていましたが コジモ・デ・メディチなどは単純に「メディチ家のコジモ」という意味ですよね? 詳しい方、ご教授願います。
18 :
世界@名無史さん :05/03/15 23:55:39 0
>>17 イタリアと一口にいっても、メッテルニヒの言った通りに地理的名称に過ぎず
地域差が非常に激しい地域。
特に教皇領を境界として、北と南ではガラっと変わる。
また教皇領も名目上は皇帝の封建下に入っていたり、いなかったりと時代によって曖昧。
ローマきっての名門、オルシーニ家やコロンナ家は封主無しの貴族だった時代も長かった。
19 :
世界@名無史さん :05/03/16 00:10:09 0
>>18 ローマ元老院から続く家柄ってば、いまイタリアでいるの?
>>19 ローマは専門外なので、伝聞の話になりますが。
ハンニバル戦争で活躍し、ローマの盾と呼ばれたクィントゥス・ファビウス・マクシムスの
の後裔がイタリア貴族として現存していると聞いた事があったような。
21 :
世界@名無史さん :05/03/16 00:29:34 0
>>20 ありがとうございます。
ヨーロッパ系最古に近いかもしれませんね。
まさか、アレキサンダーの子孫もいないだろうし。
22 :
17 :05/03/16 00:37:49 0
>>18 ありがとうございます。
では北と南のイタリア貴族の爵位とは
どの様違っているのでしょうか?
時代としては十四〜十五世紀頃と区切ればどうでしょうか?
ちなみにメディチはコジモの代に爵位を受けそうになったが
断ったとの逸話がありました。
この時代、爵位を授けるのは法王庁なんでしょうか?
お手数ですがご教授頂ければ幸いです。
23 :
世界@名無史さん :05/03/16 18:57:02 0
>>22 北イタリアはランゴバルド王国滅亡後は一貫してゲルマン系の影響を受ける。
南イタリアはランゴバルド系諸侯国とビザンツ系諸侯国が拮抗。
両者の争いの傭兵として活用され、両者を併呑したノルマン系諸侯は名目上の
封主として教皇を仰いでいた。
またシチリアはビザンツ→イスラム→ノルマンという経過なので
イタリアとは切り離して考えるべき。
24 :
17 :05/03/18 12:23:19 0
>>23 お答えありがとうございます。
では北イタリアでもベネツィアの爵位は誰が授けたのでしょうか?
またシチリアで十二世紀の神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ二世は
ノルマン系にあたるのでしょうか?
ヴェネツィア貴族はヴェネツィア共和国政府が与えていた。 てかヴェネツィア貴族は、本当に「貴族」って訳していいのかね? 領地を持ってるでもなし、特権は参政権ぐらいだし、 称号もMesserだし。
ローマ元老院議員にちかいかもしれませんね。 しかし「元老」なんてすさまじい迷訳だよなあ。 ローマ「元老院」ならいまの米国議会も同義語だから元老院と訳さなければ。
27 :
17 :05/03/18 15:29:23 0
マジョーレ・コンシーリオでしたっけ? ベネツィアの政治の中枢議会 たしか元首(ドージェ)と言えども 議会の承認得ないと動けなかったんですよね ここが爵位を授与してたんでしょうか?
>>24 シュタウフェン朝ですので、ドイツ系です。
しかし彼はシチリア生まれのシチリア育ちなので、過酷な搾取をする侵略者という
シュタウフェン朝への一般イメージでは語られず、ナポリ・シチリア(特に後者)にとっての
最後の理想的君主として語られる事が多いような気がします。
その点では、ノルマンやドイツといった枠組みで判断するわけにもいかないのかも知れません。
トリポリ伯国の君主には誰が爵位を与えたの? あとなんで王国を名乗らなかったの?
30 :
世界@名無史さん :2005/03/24(木) 23:22:09 0
>>29 最初っからエルサレム王国を宗主とした封建体制を築くという
プランが出来てたから。(大分もめたけど)
>>30 THX!
じゃトリポリ伯は特に誰からもらった爵位ってわけじゃなくて
今後の国際秩序を鑑みて自称したってことか。
>>26 氏
元老院議員senatorやら元老院senatusは、
語源的には形容詞senex(老いた)から来ているので、
必ずしも誤訳だとは思われませんが。
言葉の意味は時代と共に移り変わりますから、致し方ないかと。
日本でも若いけど老中って呼ばれていた人がいるしね
34 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 21:08:00 0
35 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 21:48:40 0
周の五等爵って、最近はどういうふうに思われているんですか? 自分の理解だと、西周には五等爵はなかった、春秋時代については有無両説あり。 みたいだけど、どんな状況なんですか?
36 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 21:54:53 0
貴族や国王や皇帝関係の話題は良く出てるのにここが過疎ってのもさびしい。 よってあげ。
>>35 春秋思想家の夢想した理想的制度、もしくは会盟の際の席次決定の必要性により発生
が有力な説では?
38 :
世界@名無史さん :2005/04/13(水) 22:39:52 0
>会盟の際の席次決定の必要性により発生 すると春秋の記載順が爵位の順でないのはなぜだろう? 覇者クラスの晋侯・斉侯が宋公より上だったり、楚子が陳・衛・蔡侯より上なのはともかく、 許男は曹伯や多くの子爵より上、子爵より下の伯もいた。 あるいは記載順は序列と関係ないのだろうか?
39 :
世界@名無史さん :2005/04/30(土) 22:45:32 0
ヨーロッパの貴族の家名や家系を詳しく知ることのできる本ってない? 日本史なら大名や華族の一覧や家系図が載ってる本があるけど、そういう本。
40 :
世界@名無史さん :2005/05/01(日) 01:28:25 0
紋章辞典だろうな、そういうのに便利なのは。
イギリスならDebrett'sとかBurke'sとかの100年以上 改訂・出版されているのがある。 他国も相応のものがあるのでは。 一冊で全ヨーロッパとなると死ぬほど膨大なものになりそう。
42 :
世界@名無史さん :2005/05/03(火) 10:31:36 0
フランスの貴族で、日本で言えば島津とか伊達とかに匹敵するような大諸侯の家系ってどこ?
>>42 例えるのは難しいが、あえて前提でいえば…
・ロアン家
・アルブレ家 といったところかな。
・モンモランシー家
・アルクール家
・ロシュショアール家
・フォワ家
・グラモン家
・ビロン家
なども思い浮かべたが、
家系が長続きで辺境の大領主というイメージから
上の2家を推します。
あ、家系が現在まで続くという点は考えていません。
そうすると絞られすぎてイメージと合わなくなってしまう。。
初めて相手の親に挨拶に行った。 義父「ところで君インターネットで2ちゃんねるって知ってる?」 俺 「え?は、はぁ知ってますけど・・」 義父「ウチの家族は誰も2ちゃんやらなくてねえ、話が合わないんだよ いやーよかったよかった、おみやげサンクスコ、ビールドゾー それでは今日から漏れがオマイの義父になるワケです。」 地獄のような2時間がはじまった(´・ω・`)・・・・ つづく
コピペ元教えれ。おもしろそうだ。
46 :
世界@名無史さん :2005/05/10(火) 19:33:59 0
age
47 :
世界@名無史さん :2005/05/18(水) 00:34:06 0
オランダの爵位に伯と男しかないのは何故?
>>47 王制が発展するのが遅かったから。
つまり王を頂点とした貴族達の序列を確定する作業があまり急がれなかった。
よって爵位も古来よりの官職的な色彩の強いままに移行したと考えられる。
EUになってから貴族はどういう立場になるんですか? 地方の名士くらい? ビスマルクの子孫は欧州議員に立候補するらしいけど あとハプスブルクのおっさんは議員だっけ
>>49 ただの由緒ある金持ち。ひょっとすると税金や歴史の重みに耐えかねて
金もなくなってる家門も珍しくない。
でも貴族は貴族。ヨーロッパは階級社会だから、やっぱり成金とは違うみたいだね。
ヨーロッパは階級社会なの?断言してるけど イギリスドイツくらいじゃね? フランスは違うっしょ!!! そう信じたい
52 :
世界@名無史さん :2005/05/18(水) 01:44:22 0
ロシアの公爵は辺境の大領主っていう感じなの? それともただの官僚や軍人として出世した人なのかな?
>>51 英国に比べれば、ドイツもフランスも全然階級社会じゃないよ。
ドイツにもフランスにも貧乏貴族から金持ち貴族まで多数生き残っているけど、
日本で旧華族や士族の家柄が尊重を受けるレベル。
英国が相変わらず根強く階級が残っているのは、
敗戦経験がないからだと思う。
フランスは数十単位の名家が国の主要産業を牛耳ってたと思う。 もっとも貴族と比べると、新興のブルジョワ階級だけど。
ドイツには確かユンケルとか言うのがあったな 地方の地主だっけ? ヒンデンブルグとかビスマルクとか
東プロイセン奪還
奪還しても住人はほとんどロシア人になってる罠
プロイセン人以外はプロイセンもシュレジエンも蛮族の土地と思ってる罠。
59 :
世界@名無史さん :2005/06/01(水) 01:39:52 0
ユンケルは貴族の公達という意味では?
ユンカーだろ。ユンケルじゃ薬
>>60 単なるドイツ語の音読の問題だろ。
Junker
最近のドイツ人はrを柔らかく発音する(口蓋垂音)傾向があるので、
「ユンカー」に近いが、語尾のrを巻き舌ではっきり発音すれば「ユンケル」になる。
62 :
世界@名無史さん :2005/06/09(木) 01:02:14 0
フランスのVavasseur〔陪臣〕について教えてください。
すみません、質問です。 宮中伯というものの扱いについて教えてください。 歴史の本などを読むとたまにでてくるのですが、説明がなくて気になって夜も眠れません。 「宮中」とついているからには何か特別な扱いなのでしょうか? あと「方伯」というものについても気になります。 歴史にまったく詳しくないので初歩的な質問かもしれませんが、よろしくお願いします。
65 :
63 :2005/06/09(木) 12:53:42 0
>>64 あわわ自分でも調べたつもりだったのですが……調べ方が悪かったようです。
詳しく書いてあって他の疑問も解消されそうです。
レスありがとうございました。
まぁ、これが完全に正しいかというとそうでもないんだけど。
>>51 >フランスは違うっしょ!!!
>そう信じたい
なんだよ、これw ベルバラの読みすぎか?
フランスの特権階級への権力集中はすごいぞ。
五等爵って発祥とかあるの? 中国でも奇しくも、五等爵でやってるし… 将棋とチェス・マンジとハーケンクロイツみたいに、元があるような気がするんだが…
>>67 オマケに今もれっきとした階級社会だったりするし。
>>68 中国の話は知らないが、別にヨーロッパは五等爵じゃないよ?
訳す時に意図的に中国なんかの五等爵に当てはめたんでしょう。
イングランドだったらエクスワイヤーも入れるべきだろうし・・・。
>>68 中国でも周の時代、実際には五等爵は使われてなかった……というスレだかレスがどっかにあった。
真偽の程は分からんが。
>>68 欧州各国の貴族の爵位を、日本語訳するときに中国の五等爵の
名称を借りただけだよ。だから、とくにドイツとかみたいに爵位が
めちゃくちゃたくさんあると、「辺境伯」「城伯」「方伯」とかみたいに
意味不明なことになってくるわけで。
それと、「まんじ」とハーケンクロイツって同源なの?
ここらの知識はまったくないけど、
仏教徒として、いや過ぎるのだが…
>>71 >「まんじ」とハーケンクロイツって同源なの?
同源 ググればワラワラ出る。
情報には虚実があるので
74 :
世界@名無史さん :2005/06/13(月) 23:50:28 0
他のスレでも聞いたんですが、、、 フランスでは,デュッケ(公),マルキ(侯),コント(伯), ヴィコント(子),バロン(男),シャトラン(城主),ヴァヴァスール(陪臣), シュヴァリエ(騎士)などのタイトルがあったらしいのですが、これらの位置関係 を教えてください。
まず何時の話かという事をはっきりさせてから書こう。
76 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 05:55:24 0
>71 同源。近代の極々一時期に某政治団体の紋に使用されたのは 仏教徒としても不幸に思うし、ハーケンクロイツそれ自体に 悪い意味があるはずもない、ということは声を大きく主張する必要があるかも。
77 :
世界@名無史さん :2005/06/14(火) 06:03:45 0
そういうことを声高に主張する池沼なんていずれ共産主義かなんかに走って 自爆するからどうでもいいだろ。
ハーケンクロイツはヨーロッパの古い貴族の家紋にしてるところはいくらでもあるので べつにナチスが初めてでもない。 日本の日の丸も、明治のころ、それを登録したばかりのとき 「太陽旗とは、なかなかいい意匠だ」と、欧州の新興国が使用許可を求めたと聞く。 そういえば韓国の旗は日本に似てるね。
国旗の話はスレ違いだし、荒れそうだから止めとこう。
>>78 太極旗は太陽をデザインしているから、円形という点が似ているだけだと思うんだが…
あの国旗は、俺には昔のペプシのロゴに見える。
>>70 五等爵だったとか何とか主張した孔子は周の史官でも何でもなかったんだから
自分が知ってる爵位だけを全てと思い込んでた可能性はある。
実際の収入はともかく、周代の場合一応五等爵。 周は五等爵ではなかったと主張する人の根拠は、その旨の金文がいまだに 出土していないところなんだよね。
>>63 >64氏が挙げられているページに補足なんですが、オットー諸帝の時代には
部族大公に付随して宮中伯管区が設けられ、大公への監視の役割も持っていたようです。
時代を降るに連れて、ライン宮中伯を残して無くなってしまったようですが。
久々にのぞいたらレスが。
歴史方面は興味はあるんですが疎遠なので足が遠くて申し訳ありません。
>>66 なんとなく歴史小説からくる妄想レベルの知識しかなかったので
これだけでも充分勉強になったつもりだったのですが…鵜呑も危険ってことですね。
こういった制度関係は本当に難しいです。
勉強になります。
>>84 おお、そうなんですか。
ライン宮中伯あたりは小説などでもよく出てきますよね。
やっぱり歴史的にも相当要職といった感じの扱いだったのでしょうね。
小説とかいってなんかもうわたしレベル低くてすみません……
興味がでてきましたし、これを機にいろいろと知識を付けていこうと思います。
ありがとうございました。
86 :
くれ君 :2005/06/25(土) 16:22:38 0
ビスマルクによるドイツ帝国は、連邦国家ですが、爵位はどうなってたんでしょうか。 <1>ドイツ皇帝による爵位の授与はあたんでしょうか。 はやいはなし、ビスマルクやモルトケなどに。 それとも、彼らはプロイセン公国の爵位だけだたでしょうか。 <2>連邦を構成する市(かつての帝国都市)の支配層の場合、 独自の爵位はなかたということ?あるいは、ハプスブルク=ローマ皇帝からの爵位があたとか。 <3>バイエルン王国など、各国での爵位は、以後どんな扱いに。。。。 <4>統一過程で滅した国(プロイセンに併合でしょうな)の国の貴族や爵位は、どうなたですです。
87 :
世界@名無史さん :2005/06/25(土) 16:30:37 0
>>74 どこのスレで聞いたのれすか? 位置関係も大事れすが、誰から授与されたかも気になるよ。 とくにドイツでは、皇帝からもらた場合(帝国で認められた場合)と、 領邦君主からもらた場合あるし。 フランスでは、王は、仏王だけだから(おっとナバル王がいた?)。 各侯爵様・伯爵様は、その家臣には、爵位(タイトル)は与えなかたか。 あるいは色々与えるにはあたえたが、 「伯爵」とか「男爵」とか、王の直臣のようなタイトルは使用しなかたか。 (それで総称して陪臣と呼んでいる。あくまで総称??) だれか、教えてくだされ。
質問する前に日本語の勉強をきちんとした方が・・・。 それから過去ログや前スレなんかも一読してから、まだ疑問があるなら質問しよう。 多分、ほとんどそれで解決するから。
>>85 >ライン宮中伯
たぶん「プファルツ選帝侯」というとぴんと来るのでは?
「プファルツ」は「宮中」という意味で、本来地名にあらず。
>>86-87 なんでこのひと撥音便表記しないのだろう……?
90 :
世界@名無史さん :2005/07/05(火) 18:44:39 0
陪臣ですが、これは又家来という意味ですね。ここまでは常識か。 伯爵などの爵位は、正式なもので、叙爵証にも記載されるでしょ。 呼びかけにも、「○○伯爵!」と呼ぶでしょ。 宛名にも、付けることができるでしょ(手紙や招待状や)。 陪臣は、無理でないかと思うね。これは、又家来を呼ぶ、講学上の呼び方でないかなと。 ノルマンディー公の傘下の又家来と、 パリ伯の家来の又家来では、呼び名が違うると思う。 「クレシーの領主」とのみ称する大貴族は、爵位はないけど、陪臣ではないし。
91 :
世界@名無史さん :2005/07/05(火) 19:37:29 0
>>38 あなたの言われているような疑問を解説するのが儒教の公羊学です。
春秋左氏伝にも一部解説している箇所がありますが、爵位が高くても、
会盟に遅刻したり、誠意が乏しかったりすると下に記載されたりします。
岩波文庫の春秋左氏伝を一度読んでみてください。
>>90 いつの時代の話をしてるのかがよく分からないんだけど・・・。
陪臣というけれど、組織化されるのは後代の話で
中世高期まではたまたま自分の封主が誰かと封建関係を結んでいるというだけの話で。
>>90 皇帝の陪臣であるザクセン公と、フランス王の家来であるノルマンディー公が同じ「公」であることについて。
教皇の陪臣であるノーサンバーランド伯と、フランス王の家来であるアンジュー伯が同じ「伯」であることについて。
……(ry
>>93 何が言いたいのかがよく分からんが。
ザクセン公は帝国諸侯だから、直臣だし。
というか、爵位制度が出来上がるのは12世紀以降に王権が強まってから。
そこら辺を区別して考え直してみよう。
95 :
93 :2005/07/07(木) 07:19:38 0
>>94 ザクセン公は元々ドイツ王の封臣でしょうが。
「陪臣」なんて概念無意味だよといいたいだけ。
96 :
世界@名無史さん :2005/07/09(土) 18:30:18 0
ドイツもそうだが、、、(cf >>86) スペインのような国では爵位はどうなってるんだろ。 カステリアの爵位や、バルセロナ系の爵位やいろいろあるだろうが。 イタリアはどうなんだろーか。 サボイア系の爵位もあろうが、 滅ぼしてやったナポリ王国系の爵位保持者の待遇や、 敵国オーストリアから授与されてた爵位の取扱いもあるだろうし。
97 :
世界@名無史さん :2005/07/09(土) 19:02:47 0
ナポレオン体制下での爵位もあるかも。 スペイン王国、ナポリ王国、イリリア地方
>>95 ゴメン、ますます意味不明なんだけど・・・。
ドイツ王=神聖ローマ皇帝って理解できてる?
ドイツの帝国諸侯はドイツ王の戴冠式の時に、レーエンを授けてもらう儀式が行われるわけで。
>>95 ドイツ史ではヘールシルト制に代表される等族国家の形を取るようになったので
陪臣(国王=皇帝と直接の封建関係にないもの)という概念は非常に重要だと思いますが。
100 :
93 :2005/07/10(日) 06:37:38 0
100げと。
>>98 そんな常識知ってるって。
神聖ローマ皇帝が自分の臣下であるドイツ王のタイトルを兼ねているわけでしょう。
だからザクセン公は皇帝にとって(ドイツ王として)臣下であり、同時に(皇帝として)陪臣でもあるわけよ。
>>99 ここで問題としているのは
>>90 の「ノルマンディー公の傘下の又家来と、
パリ伯の家来の又家来では、呼び名が違うると思う。 」という妄想についてなんだが。
ややこしいこと言わずにフリートランド侯とかいっとけばよかった……
帝国等族かどうかで確かに扱い違う国だもんな、ドイツ。
101 :
98 :2005/07/10(日) 15:13:01 0
>>100 神聖ローマ皇帝とドイツ王の間には主従関係なんて無いよ?
何を勘違いしてるかは知らないけど、神聖ローマ皇帝はドイツ王のみが期待権を持つタイトル。
言ってみればドイツ王に聖性が加わったのが神聖ローマ皇帝。
(皇帝が自分の息子を共同統治者として、国王に選出することはあるけど、この場合の両者を結ぶ絆な
レーエン的なものではなくて、家内法)
102 :
98 :2005/07/10(日) 15:27:30 0
追加 だから、ドイツ王の直臣=皇帝の直臣なんだよ。ドイツ以外の地域は 色々と例外があるけれど。 マインツ大司教なんか、ドイツ王が皇帝になっていようがいまいが帝国宰相でしょう。 帝国諸侯のシルトには、国王が皇帝になっているかどうかは関係ないよ。 実質上でも名目上でも彼らはドイツ王の直臣であると共に、皇帝の直臣でもある。
103 :
93 :2005/07/11(月) 10:54:14 0
くだらん突っ込みだったけど、これはこれで面白くなってきたのかも知れない。
いやでも、なあ、そもそも「主従関係」ってなんなんだ。
>>101-102 >この場合の両者を結ぶ絆な
>レーエン的なものではなくて、家内法
言われてみればそうだった。普通「主従関係」って言えばレーエンの問題になる。
でも封の授受がない=主従関係にないと言っていいものかどうか。
ドイツ王は皇帝に従う義務はなかった、のか。
>だから、ドイツ王の直臣=皇帝の直臣なんだよ。ドイツ以外の地域は
>色々と例外があるけれど。
しかしザクセン公の封の授受はドイツ王から行われるよね?
彼の封主は皇帝ではなくドイツ王なんではない?
>マインツ大司教なんか、ドイツ王が皇帝になっていようがいまいが帝国宰相でしょう。
私が想定してたのはシュタンフェン以前なんだけど……
だいたいマクシミリアン以降は「ドイツ王が皇帝になってない」という仮定が成り立たないし、
諸侯自身もドイツ王と皇帝を区別してないみたいだし。
ボヘミア王の立ち位置って面白いな。
例えばプシェミスル・オタカルはドイツ王の封臣じゃない。なら彼はルドルフに従う義務はない、のか?
(結局彼は「帝国」への反逆に問われたわけだけど……)
>>103 シュタウフェン朝以前からマインツ大司教は帝国の大書記長を務めてた。
これは帝国宰相の前身になる。
またボヘミア王もドイツ王の封臣。彼がドイツ王即位の時に名誉の奉仕を
行っていることからも確実ですよ。
>>104 正確な期間は忘れたが、マクシミリアン以降200年近くの間、
ベーメン王はドイツ王の選挙と戴冠式には立ち会っていない。
理屈としてはドイツ王国国外扱いだったから。
史料集によっては、ベーメン王を選帝侯から省いているのもある。
もっともいつの間にか献酌長官として復帰している。
だから結論としては、「かなり曖昧」
>>98 帝国末期には、ドイツ王は皇太子のタイトルに成り下がっている。
選挙で選ばれるドイツ王は未来の皇帝。
またマクシミリアンよりも前は、教皇によって戴冠を受けたもののみが皇帝であり、
戴冠を受けていないドイツ王もたくさんいる。
>>105 マクシミリアンというのはマクシミリアン1世の事でしょうか?
とすると、それは単なる誤解です。ベーメンはハプスブルクの家領になっていたので
ベーメン王はハプスブルク家の当主、すなわちドイツ王に即位している本人なわけです。
もっともオーストリア帝国時代には、フェルディナント1世が皇帝退位後もベーメン王位を保持していましたが。
さて中世の話になりますが、選定という概念が定着してから選定侯の数が7人に定着するのには
紆余曲折がありました。ドイツ語最古の法典である『ザクセンシュピーゲル』では
作者の思惑からベーメン王が選定侯から外されています。
しかし実際にはコンラート2世の選挙時から世俗諸侯の筆頭として選挙に参加しています。
ベーメンは当初、公国扱いでしたがドイツ王国内に留まりながら王国に昇格していますので
ベーメンを王国外とするのは、ちょっと無理がある話だと思います。
次に後半の皇帝概念についてなんですが、皇太子のタイトルというよりは共同統治者としての
指名なのです。これはザクセン朝の頃から存在する慣習で、皇帝(国王)の指定する息子を選挙する事は
諸侯の誠実義務でもありました。ドイツ王国(神聖ローマ帝国)は最後まで世襲王制にはなりませんでした。
神聖ローマ帝国という国家は、イタリア王とブルグンド王を兼ねているドイツ王が帝冠を授けられて
成立した国家です。ですから宗教上の権威は別として、マクシミリアン1世(帝国法では1338年に既に成立)以前から
国王≒皇帝という事は言えるわけです。
>>106 に追加です。
ドイツ王の即位式というのが、共治王(皇帝の息子)の事であれば
父親の代わりに特使が派遣されていると思います。
>>103 家内法の範疇なので、子供が家長である父親に従う事は義務です。
これは皇帝とか国王といったような職制とは関係のない分野での話な訳で。
ですから皇帝である父に共治王である息子は従う義務が存在します。
また皇帝になるとドイツ王から退くという誤解をされているようですが
皇帝になってもドイツ王位は保持し続けます。(子供は共治王)
なのでドイツ諸侯は国王の封臣でもありますし、皇帝の封臣でもあります。
しかしシュタウフェン朝までのドイツの諸侯は、彼らの果たすべき誠実義務は
あくまでもドイツ王国内に留められるべきであるという主張をした事があり
詭弁に等しい考え方ではありますが、そのような意見は存在していた事はあります。
108 :
世界@名無史さん :2005/07/11(月) 18:56:34 0
>>103 煽るつもりは毛頭無いんだが、皇帝→ドイツ国王→帝国諸侯(→は主従関係)
という構図は存在しない。だから93の言ってるザクセン公は皇帝の陪臣なんて事も無い。
だから当然の指摘で、くだらないつっこみじゃないんだけど・・・理解できてる?
109 :
93 :2005/07/12(火) 08:56:58 0
言葉足らずで申し訳ないな。
>>108 「くだらない突っ込み」というのは
>>93 ね。気を悪くした人がいたならスマソ。
>>104 >シュタウフェン朝以前からマインツ大司教は帝国の大書記長を務めてた。
>これは帝国宰相の前身になる。
うわ、そうなのか。てっきり金印勅書あたりで生まれた慣例だとばかり……
>>106 なにが誤解なのかよくわからないよ? というかなぜハプスブルクのボヘミア王の話がでてくるのかさっぱり……
>マクシミリアン1世(帝国法では1338年に既に成立)以前から国王≒皇帝という事は言えるわけです。
「≒」と「=」は違うよね。
もし彼らが皇帝の封臣であるなら、皇帝が即位するたびに封の授受を行ってなきゃいけないんじゃないの?
>ですから皇帝である父に共治王である息子は従う義務が存在します。
ではヴィッテルスバハのルートヴィヒ(1314-47、皇帝戴冠1328)にハプスブルクのフリードリヒ(共治王1314-30)は従わなくて良かった?
おかしいな、そもそも「陪臣」なんて考え方ねえだろよ、という突っ込みだったはずなのに……
110 :
98 :2005/07/12(火) 11:39:12 0
>>109 ドイツ王が皇帝に戴冠されるという理念、理解できないかなぁ?
だから封の授受はドイツ王の即位時に行うだけなんだが。
すなわちドイツ王の封臣は自動的に皇帝の封臣でもあるわけ。
ドイツ王と皇帝の理念はザリエル朝の頃から、融合し始めていたから(ローマ王というタイトル)
この両者を厳密に分けろというのは難しい話。
皇帝に戴冠していない国王でも、統治する国家は帝国なわけで。
これまでで理解できなきゃ、概説書を読み直せとしか言いようがないよ。
ヴィッテルスバハのルートヴィヒに対するハプスブルクのフリードリヒは共治王ではなくて
対立王。両者は真正なドイツ王の座を争う対等のライバルだから、従うわけもない。
共治王と対立王は概念が全く違う別物なので、両者を混同しないことが重要。
ついでにいうと陪臣という概念は封建王政が導入された国ではどこでも重要だよ。
111 :
世界@名無史さん :2005/07/13(水) 00:11:27 0
>>106 Peter Truhart著
"Historical Dictionary of States - Lexikon der historischen Staatennamen"によると、
Regnum Boemiaeは、ラウジッツ、モラヴィア、シュレジエンを含み、
1471-1708年の間、"kein Teil des Reiches"と記載されている。
これらの地域には、1708年以降もReichkreiseが置かれていない。
また、同書の"Kurf"urst"の項目によると、B"ohmenが選帝候であったのは、
1471年までで、1708年-1806年復帰と書かれている。
以下のURLの説明によると
ttp://www.wissens-center.de/cps/rde/xchg/SID-3E37E062-E5429789/wic/hs.xsl/SL3220153.html "B"ohmen schied seit den Hussitenkriegen bis 1708 aus"
「フス戦争以降1708年までベーメンは(Kurf"urstから)除かれていた」
これらの説明を総合すると、オーストリア太公は18世紀初頭まで、ベーメン王の形では
国王選挙に参加していなかったように読める。
112 :
105 :2005/07/13(水) 00:18:13 0
113 :
世界@名無史さん :2005/07/14(木) 22:15:43 0
素人で悪いんですが、こういう風に考えられますでしょうか。 東フランク王(=ドイツ王) 東フランク王と対等な王としてブルグンド王(これはアルル王?)とイタリア王が位置する(双方とも、旧フランク王国系)。 東フランク王と対応な王として西フランク王が位置する(旧、フランク王国系)。 東フランク王の封臣として、ボヘミア王が位置する。 東フランク王と対等な王として、ハンガリー王が位置する。ポーランド王が位置する。。。。 対等な王として、シチリア王、ナポリ王が位置する。
>>111 これはお恥かしい。こちらでも調べてみた所、ベーメン王は1471-1708年の間
選定侯会議には出席していないという事を確認しました。
適当な事を書いて申し訳ありません。
ただベーメン王が選帝侯会議から除外されていた事は事実でも、選帝侯資格を
剥奪されたかどうかについての確認は取れませんでした。
またベーメン王国の帰属についても同様で、ドイツの統制外に置かれた事は
事実でも、完全に分離していたという記述は見えませんでした。
ここの辺りは自分でも調べてみるつもりですが、もしも史料などありましたらご教授下さい。
>>113 東フランク王とイタリア王やブルグンド王の関係は時代によります。
ドイツ王がこれらを全て兼ねるようになると、ドイツ王がこれらを兼ねると表現はされても
イタリア王やブルグンド王がドイツ王を兼ねるという事はありませんでした。
115 :
世界@名無史さん :2005/07/15(金) 12:33:27 0
ヨーロッパ諸国で最も旧い家系は何家なのでしょうか? もちろん、あやしげな系図上の仮冒もありましょうが、 分かる範囲で御答え下さい。 よろしく。
116 :
世界@名無史さん :2005/07/15(金) 22:59:31 0
zabi家です
117 :
世界@名無史さん :2005/07/17(日) 17:46:05 0
ヨーロッパ諸国で最も旧い家系は何家なのでしょうか? もちろん、あやしげな系図上の仮冒もありましょうが、 分かる範囲で御答え下さい。 よろしく。 誰も答えられぬとな?
百回位、過去ログを読み直すと良いよ。
119 :
世界@名無史さん :2005/07/17(日) 18:11:30 0
公王について説明してください。
121 :
世界@名無史さん :2005/07/18(月) 09:28:18 0
ヨーロッパ諸国で最も旧い家系は何家なのでしょうか? もちろん、あやしげな系図上の仮冒もありましょうが、 分かる範囲で御答え下さい。 よろしく。 誰も答えられぬとな?
戦前の日本の制度を英訳しようと思っても訳し分けられないよ。 天皇、皇太、親王、王もまあいい。 問題は李王家の王、公だ。 王世子をCrown Princeとして、王をPrinceと訳したら 即位とともに格下げされるみたいで変だ。 さらに公爵をPrinceと訳そうものなら目も当てられない。 どうすりゃいーのよ?
123 :
世界@名無史さん :2005/07/18(月) 15:45:57 0
ヨーロッパ諸国で最も旧い家系は何家なのでしょうか? もちろん、あやしげな系図上の仮冒もありましょうが、 分かる範囲で御答え下さい。 よろしく。 誰も答えられぬとな? なれば何処のスレで返答が可能か?
125 :
世界@名無史さん :2005/07/18(月) 19:22:13 0
>>122 翻訳のお仕事でも?
でなければ、仕方ないと諦めてください。
本朝だけでも変ですから。
華族って、本当は、清華家のことでしょ。
摂家筆頭の近衛としては、「華族筆頭と言われても・・・」だし。
外国の爵位の日本語訳も変ですよ。
イギリスのバロネットを卿と訳してるけど、卿とは公家の中でも上位の上位のはず。
バロネットのような郷紳・田紳と同じなんて、乱暴すぎだし。
いまさら手遅れですね。
126 :
93 :2005/07/19(火) 07:05:05 0
>>110 いや実際にどうなってるのかは理解しているつもりなんだけどさ。
>ドイツ王が皇帝に戴冠されるという理念、理解できないかなぁ?
>だから封の授受はドイツ王の即位時に行うだけなんだが。
>すなわちドイツ王の封臣は自動的に皇帝の封臣でもあるわけ。
これがそんな馬鹿な、って思うわけよ。
だってカルマルでもポーランド−リトアニアでもイベリア半島諸国でも良いけど、
王国Aの国王が王国Bの国王に戴冠したからといって、A王国の封臣がB王の封臣になるわけじゃないでしょ。
……俺が理屈にこだわってるだけなんだろうけど。
>ヴィッテルスバハのルートヴィヒに対するハプスブルクのフリードリヒ
共治王だったはず……
127 :
世界@名無史さん :2005/07/19(火) 09:14:25 0
>>123 いや、そんな馬鹿なと言われてもそれが事実だから・・・。
ドイツ王位と神聖ローマ皇帝位は切り離して考えるべきタイトルではないから。
というかね、杓子定規に考えてもしょうがないのよ。
エルサレム王国やイングランドのように、諸制度が意識して導入されたわけじゃなくて
自然発生的な面が多いから。
理屈で考えるのははっきりいって意味が無い。
128 :
127 :2005/07/19(火) 09:20:13 0
この場合の自然発生的ってのは、統一した方針に基づいていなかった位に解釈して。 それから共治王の話だけど、これは国王が諸侯に要求して自らの後継者を選挙させた 存在だから。統治時期がかぶってるからって全てが共治王ではないよ。
129 :
世界@名無史さん :2005/07/20(水) 02:46:41 0
>>126 ,128
フリードリヒ3世とルートヴィヒ4世は、
対立王Anti-K"onig(1314-1325)かつ共治王Mit-K"onig(1325-1330)。
ルートヴィヒが単独王だったのは1330-1346年までで、
1346-1347年に再び対立王時代を迎える。
1314年10月19日、フランクフルト近郊のザクセンハウゼンにて、4人の選帝候により
フリードリヒ3世がローマ王に選ばれる。翌日同じフランクフルトの郊外にて、
5人の選帝候によりルートヴィヒ3世がローマ王に選ばれる。
1314年11月25日、フリードリヒ3世はボンにてケルン大司教による国王戴冠式を行う。
同日、ルートヴィヒ3世は、アーヘンにてマインツ大司教による国王戴冠式を行う。
1322年9月28日、ミュールドルフの戦いによりフリードリヒが捕虜となり、
実質ルートヴィヒの天下となる。
1325年9月5日、和解により共に互いを王として認めることになる。
1327年1月6日、ミラノにてイタリア王の戴冠式を行う。
1328年1月17日、アヴィニョンの教皇ヨハネス22世の反対を押し切り、
ローマで皇帝の戴冠式を行う。
1330年1月13日、グーテンシュタインにてフリードリヒ3世死去
1346年、アヴィニョンの教皇クレメンス6世、ルートヴィヒ4世の破門と廃位を宣言
1346年7月11日、レンゼにて、ベーメン王ヨハン、ザクセン公、
マインツ・ケルン・トリ ーア大司教の計5選帝候により、
ベーメン王の息子カール4世がローマ王に選ばれる。
1346年11月26日 ボンにてカール4世の国王戴冠式(対立王)。
1347年初頭 カール4世、ベーメンの王位を継ぐ
1347年10月11日、ルートヴィヒ4世狩猟中の事故で死去
130 :
129 :2005/07/20(水) 02:51:26 0
↑うっかりルートヴィヒ「4」世と書くべきところを、ルートヴィヒ「3」世と書いてしまった。 ベーメン王、イタリア王、及びアルル(ブルゴーニュ、ブルグント)王の関係について、 いくつか書きたいことがあるが、ちょっと明日まとめて書き直す。
>>129 フリードリヒ美公(3世)はミュールドルフの会戦でルートヴィヒに完敗して
三年間幽閉されていたので、王位を断念して、ルートヴィヒの選出を承認する事を
認めようとさえしていた。
結果的にフリードリヒは王号を認められたけど、それはあくまでも形式的なものであって
主眼は彼の名誉を傷つけない事に置かれてた。
彼はドイツ王としてはフリードリヒ3世だけど、通常はドイツ王フリードリヒ3世といえば
彼の子孫であるマクシミリアン1世の父親を指す事からもこれは明らか。
だから本来の共治王の概念と同一に考えるべき事例ではないと思うが。
>>131 自分は93ではないので、そう突っ込まれても困る。
ただ、共治王の事例としては不適切だということには同意。
1356年に金印勅書を出したカール4世の称号に関する略歴をまとめるとこんな感じになる。 1333年 カール4世メーレン(モラヴィア)辺境伯(-1378)となる。 1346年7月11日、レンズ=アム=マインにてカール4世、5選帝侯によりローマ王に選ばれる(対立王)。 1346年11月26日 ボンにてカール4世の国王戴冠式。 1347年9月2日 プラハにてカール4世、ベーメン王カール1世として即位。 1347年10月11日、皇帝ルートヴィヒ4世狩猟中の事故で死去。 1349年1月30日 選挙によりフランクフルト=アム=マインにてギュンターがローマ王に選ばれる(対立王)。 1349年5月24日 ギュンターがローマ王を辞退。 1349年6月17日 再選挙によりフランクフルトアンマインにてカール4世が再びローマ王に選ばれる。 1349年7月25日 アーヘンにて再びカール4世の国王戴冠式。 1355年1月6日 ミラノにてカール4世のイタリア国王戴冠式。 1355年4月5日 ローマにてカール4世の皇帝戴冠式。 1363年6月15日 プラハにて息子ヴェンツェル、ヴェンツェル4世として戴冠式(共治王)。 1365年6月4日 アルルにてカール4世のブルグント国王戴冠式。 1376年6月10日 カール4世の息子ヴェンツェル、ローマ王に選ばれる(共治王)。 1376年7月6日 アーヘンにてヴェンツェルの国王戴冠式。 1378年11月29日 カール4世死去。 つまり、カール4世は、ドイツ王(ローマ人の王)、イタリア王、 ブルグント王(アルル王)、ベーメン王という四つの王位全ての戴冠式を執り行った 最初で最後の王ということになる。
134 :
世界@名無史さん :2005/07/21(木) 01:36:37 0
イタリア王国の王位をドイツ王が兼ねるようになるのは、951年以降。
途中イタリア人の対立王が立つこともあった。
最後に王国内で戴冠式を行ったのはジギスムント帝で、1431年ミラノ
(これは
>>111 の本に書いてある)。
フリードリヒ3世は1452年3月19日にローマで皇帝戴冠の際にイタリア王の
戴冠式を行っている。
またカール5世は、ボローニャで2度目の皇帝戴冠を受ける2日前の1530年2月22日に
イタリア王の戴冠式を行っている。
これ以降は一度もイタリア王の戴冠式を行っていないようである
(単に自分の情報不足で、実は誰かが行っているかも知れない)。
公式にイタリア王国が消滅したのは、1801年のリュネヴィル条約で、
イタリアにおける共和国の成立を認めた。
ただ、一般の史料集では、16世紀後半の段階でイタリア王国を神聖ローマ帝国から
排除している。カール5世の頃の地図では、排除している地図と
排除していない地図があるが、これはカール5世の戴冠式を重視するか、
それとも、『ドイツ国民の神聖ローマ帝国』Sacrum Imperium Romanum
Nationis Germanicaeという名称が正式に採用された1512年
(1483年かそれよりも前から文書には出てくる)を重視するかに拠ると思われる。
135 :
世界@名無史さん :2005/07/21(木) 01:51:20 0
一方ブルグント王国が帝国に組み込まれたのは、1033年から。 既にシュタウフェン朝の時代から、分裂傾向にあったが、 フリードリヒ2世の死後は、完全にブルグント公国などが支配する地と化す。 一応カール4世は、戴冠式をアルルで行ったが、カール4世が亡くなる1378年、 ブルグントの地をフランス王家に割譲し、実質ブルグント王国は終焉する。 しかしながら正式にブルグント王国が消滅するのは、1482年のアルル条約。 (>111の本だと、ブルグント王国が消滅する年号として1456年だったり 1481年だったりを採用しているが、この辺の違いはよく分からない。) なおトリーア大司教は、金印勅書にて「ガリアとアルル王国の大宰相」 Erzkanzler f"ur Gallien und Arelat (archicancellarius sacri imperii per Galliam et regnum Arelatense) またはブルグントの大宰相というタイトルに収まっているが (正確には1043年後頃には既にこのタイトルが使われていたらしい)、 ブルグント王国消滅後もこのタイトルを保持していたようである。
136 :
世界@名無史さん :2005/07/21(木) 02:14:49 0
なお、1512年以降、ブルグントはドイツ国内の帝国クライスという形で
行政区として存続する。
さて、問題のベーメン王だが、1289年から国王選挙に参加している。
金印勅書により、Erzmundschenk (Erzschenk) 献酌長官の最高職Erzamを与えられる。
ttp://www.yale.edu/lawweb/avalon/medieval/golden.htm (英訳)
ところが、1471年から1708年までベーメン王は国王選挙には参加していない。
それに関して以下のような説明があった。
ttp://www.heraldica.org/topics/national/hre.htm The status of the king of Bohemia was controversial for a long time, because he was not
(necessarily) German; on the other hand, he was the Butler of the Empire,
and one theory founded the right to elect the Emperor on holding one of the four high offices.
One view was that the king of Bohemia's vote was meant to be the deciding vote in case of
an even split of the other six.
The Sachsenspiegel did not include him as an elector, but the Schwabenspiegel did.
It took the Golden Bull of 1356 to settle the matter definitively.
The king of Bohemia did not attend the elections after Wenceslas in the 14th c.,
and in the 17th century was not present for the deliberations, until 7 Sep 1708,
when Bohemia was admitted again as a full member of the Electoral college.
ベーメン王の地位は長らく曖昧であった。というのは王は必ずしもドイツ人ではなかったが、
一方で帝国の献酌長官でもあったからだ。そこで、四大宮内官の一つの地位を占めているからこそ、
皇帝を選ぶ権利があるという理屈が成立した。またベーメン王の投票は、
他の6票が割れた時の決定投票を意味するという解釈もあった。
ザクセンシュピーゲルではベーメンを選帝侯として認めなかったが、シュヴァーベンシュピーゲルでは
認めていた。1356年の金印勅書になってようやくこの問題が解決した。
14世紀のヴェンツェスラス以降ボヘミア王は選挙に参加しなかった。
また17世紀の間は配慮のため参加しなかったが、1708年の9月7日に再びボヘミア王は
選挙人の世会員として再び認められた。
137 :
世界@名無史さん :2005/07/21(木) 02:30:39 0
ピーターH.ウィルソン著「神聖ローマ帝国」という本によると、
ベーメン王国が王国のクライスに属さなかった理由として、
「なぜならベーメンは、破壊的なフス派の本拠地であり、
またベーメン王国という形で独自の君主制を発展させていたからである。
また、一五二六年にベーメンはハプスブルクの世襲財産となったが、
クライスに属さないことは、ハプスブルクの利害にかなっていたからである。」
と説明している。
とまあベーメンが、元々ドイツ王国に所属していたことは確かだが、
ベーメンが王国となった後もドイツ王国に所属していたかどうかについては、
そう明記した本には出会っていない。
>>111 の本では、少なくとも1471年以降はベーメン王国を
ドイツ王国と別個の存在として扱っている。
138 :
世界@名無史さん :2005/07/21(木) 03:26:38 0
モンテネグロ(ツルナゴーラ)が王号を獲得した経緯について教えてください。
>>137 クライスってのは帝国改革運動で新たに成立した地理区分だから
(もっとも領邦高権に遮られてしまったが)
クライスに属さない=ベーメンとしての単位で残るということは
そのままベーメンが帝国内に属していた事の証明になると思うんだが。
>>139 ベーメン王国が帝国内に属していたとしても、それがドイツ王国の
下部組織であったことを示すわけではない。
クライスが設定されなかった地域は、独立紛争地域であったスイスとオランダ、
一部の帝国騎士団領、ベーメン王国とその属領(ラウジッツ、モラヴィア、シュレージエン、)、
そして帝国イタリア王国の領域。
『ドイツ国民の神聖ローマ帝国』Sacrum Imperium Romanum Nationis Germanicae への改名で
神聖ローマ帝国≒ドイツ王国になったとしても、『ドイツ王国』Regnum Teutonicumとともに、
『イタリア王国』Regnum Italiae は形式上存続している。
>>140 ドイツ王がイタリア王やブルグント王を兼ねるというのが、不変的なスタイルだから。
だからイタリアやブルグンドは帝国内であっても、ドイツ王国の諸侯(帝国諸侯)ではない。
ベーメンはドイツ王(皇帝)の封臣だよ。
実質的に支配から離れていた時期があっても、名目上は常に変わってない。
帝国イタリアはドイツでないし、代表を議会に送っていないから問題外。
ベーメンはクライスに属さず、独自に代表を選出できたって事だよ。
帝国騎士団というのは誤解に繋がる訳し方でしょう。
帝国騎士によるアイヌングだから。
まず訂正なんですが、
>>102 のコンラート2世は4世の誤りでした。
>>136 まずベーメン王が保持していたシュンクの官職ですが、これはザリエル朝期から
既に獲得していました。金印勅書はこれを再確認したに過ぎません。
またザクセンシュピーゲルの選定者にベーメン王の名前が漏れているのは
これがザクセン地方の部族法を集める事を目的とした私法集だった事に起因します。
(公式に法典として権威を獲得したのは14世紀に入ってから)
編者のアイケと彼に編纂を命じたグラーフはザクセン部族の出身ですが
彼らにとってみると、ベーメン王はドイツ人ではないという事だったわけです。
>>140 ベーメンを帝国イタリアと同列に扱うのはどうかと思います。
帝国イタリアが神聖ローマ帝国の一部である理由は、皇帝たるドイツ国王が
イタリア国王を兼ねるという形を取っていたからです。(シュタウフェン朝以降は名目上に過ぎなくなるわけですが)
そしてドイツ国王(後には=皇帝)を選挙できるのは、ドイツ王国の諸侯のみであったと。
帝国改革運動によって、領邦からクライスへと帝国の区分を変えようとしたという文脈の場合
帝国というのはドイツ王国の事を指します。クライス制の移行の範囲に、そもそもイタリアは含まれて居ません。
ベーメンや帝国騎士のアイヌングがクライスの区分に含まれなかったのは政治的交渉の結果であったと考えるべきかと。
(ではブルグンドはどうして編入され得たか、というのは近世ドイツは門外漢の私では手に負いかねます)
143 :
世界@名無史さん :2005/07/23(土) 18:01:09 0
>146 ベーメン王が保持していたシュンクの官職: シュンクって何でしょうか。 領邦からクライス: 領邦とクライスの違いは何でしょうか、というか、クライスとは何? アイヌング: なんですか。 と、恥を忍んで訊きます。
144 :
93 :2005/07/24(日) 09:21:30 0
ちょっと来ない間にすごく流れてる……ここ、来てる人多いんだなあ。
>>131-132 正直すまんかった。他に一族ではないのに共治という例が思いつかんかったんで。
突っ込み方が間違ってたんだよな。
問題は、
「家族法による結びつきであるからといって、皇帝とドイツ王は主従関係にないといえるのか?」
だった。
さて、それはともかく。
>>143 クライスというのは、1500年に始まった帝国の制度で、
対トルコ戦の際の兵員と軍事費の供出とか、治安維持の際の基礎を担った。
具体的には帝国全土を10(1500年当時は6つ)にわけて、クライスごとで会議を持ち、兵員・軍事費の割り当てなんかを決める。
ただ、クライスによってその行動の活発さは様々で、弱小諸侯が多いうえにフランスの拡大に晒されていたシュヴァーベンなんかは活発に活動したけど、
自力でなんとでもなるような大諸侯はあまりクライスを重視しなかったらしい。
>>144 主従関係なんてないよ。主従関係を託身の関係と見做すなら
家内法の範疇なのにわざわざ設定する意味がない。
惣領制という例外があるが、これは邦の分散を防ぐ為の方法だったわけでね。
146 :
世界@名無史さん :2005/07/30(土) 21:06:02 0
そうですか、クライスって6くらいあって、 その中に複数の領邦があったのか。 諸侯によっては、飛び地があって別々のクライスに関係したのも居たかもですね。 クライスの例の一つは、シュワーベンですね。クライス設定については 歴史的な経緯も重視したと思いますが、ほかにどこでしょうか。
148 :
世界@名無史さん :2005/08/01(月) 14:52:20 0
ヨーロッパ諸国で最も旧い家系は何家なのでしょうか? もちろん、あやしげな系図上の仮冒もありましょうが、 分かる範囲で御答え下さい。 よろしく。 誰も答えられぬとな?
保守
150 :
世界@名無史さん :2005/08/20(土) 20:56:39 0
辺境伯とはマルクグラーフのことらしいのですが、 マルクとは辺境という意味ではないよね。 誤訳だよ。
151 :
世界@名無史さん :2005/08/20(土) 21:06:10 0
ベーメン王が保持していたシュンクの官職?ってなんですか
>>144 最近はあまり誰もきてないですね。
>>142 シュンクってなんですか。トンヌラ様お願い!
>>150 Mark1 f. -/- マルク(ドイツの貨幣単位)
Mark2 f. -/-en 1(歴史用語)国境地域、辺境 2(ラグビー)タッチ [語源Marge,Marke]
Mark3 n. -(e)s/ 1a)(植物学)髄、髄質部 b)(解剖学)骨髄 2a)果肉 b)果肉のピューレ
Mark4 (男性名)マルク
独和辞典にはMarkで「国境地域、辺境」という訳語が挙げられているけど。
153 :
世界@名無史さん :2005/08/21(日) 19:23:50 0
>>151 シェンク Schenk (ムントシェンク Mundschenkの短縮形)
フランク帝国では、食糧・酒類の管理をする宮内管
神聖ローマ帝国では、諸侯世襲の名誉職の1つ
154 :
世界@名無史さん :2005/08/21(日) 19:43:36 0
Erz"amter 最高職 神聖ローマ帝国で儀式の際に帝国諸侯によって執行された四官職 Erzchenk 大シェンク( (Grand Cup-bearer 献酌侍従官)) ベーメン王 Erztruchseβ 大トゥルフゼス (High Steward 家宰官) ライン宮中伯 (-1623, 1706-1714) 、バイエルン公 (1623-1706, 1714-) Erzmarschall 大マルシャル (Grand Marshal 主馬頭) ザクセン公 Erzk"ammerer 大ケメラー (High Chamberlain 侍従官) ブランデンブルク辺境伯 後に追加されるのが Erzschatzmeister 大シャツマイスター (High Treasurer 財務官) ライン宮中伯 (1648-1706, 1714-1777)、ハノーファー公 (1710-1714, 1777-) また、マインツ、ケルン、トリーアの大司教は、それぞれドイツ、イタリア、ブルグント のErzkanzler (High Chancelor 帝国宰相)という役についていた。
155 :
世界@名無史さん :2005/09/04(日) 13:44:15 0
age
>>150 マルクが精力的に設置されたのは国境地帯。特に東部の辺境。
だからマルク=辺境という風になった。
誤訳でも何でも無くて、むしろ名訳の部類。
157 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/09/25(日) 20:31:11 0
このような古くからの由緒あるスレが廃ってしまわないように保守
158 :
世界@名無史さん :2005/09/26(月) 23:09:37 0
貴族ネタも最近ネタ切れ気味だな。
159 :
勇者トンヌラ ◆CSZ6G0yP9Q :2005/09/30(金) 21:20:26 0
>>143 シュンクに関しては既に説明がされているようなので、アイヌングについて。
アイヌングとは自由意志による誓約や契約自体、またはそれによって作られた団体の事です。
宣誓共同体などがその代表例でしょうか。
アイヌングは自由意志の下にひとつの強力な政治勢力を作り出す為に、諸侯からは
警戒されましたが、諸侯もまたこれを多く利用しています。
例えば平和を誓ったりするのもアイヌングなわけで。
161 :
世界@名無史さん :2005/10/23(日) 15:45:30 0
ドイツじゃ辺境伯はMarkgrafでFürstとは別物ですよね。 国と時代で事情が違う予感。イングランドのMargraveはどんな感じなんでしょう。
>>162 イングランドの事例、例えばチェスター伯なんかは
辺境伯というよりはパラディン伯であるように思う。
ドイツの辺境伯は初期には軍事権のみの職制だったけど、チェスター伯は
王権の代行者という性質があったような気がする。
×パラディン ○パラティン 性質はともかく、チェスターはCounty Palatineと呼ばれている。
チェスター伯についてなのですが パラティン伯(Count Palatine)はドイツ語でいう所のPfalzgraf、つまり宮中伯です。 調べた所、イングランド史では王権伯と特に訳すみたいですね。 ただイングランドでは全体が王領地とされた上で、封として諸侯に与えられたわけですから 王領地の代官として設置されたドイツの宮中伯とは性質が違うのかも知れません。 主任務がウェールズに対する防衛任務という辺り、確かに辺境伯のようなニュアンスも感じますし。 (ザクセン朝時代の宮中伯が部族大公への抑えとして設置されたという事を考えると、共通していると考えるべきかも知れません)
英国史でthe Palatinatesと言うと、 チェスター伯領以外にも、あとダラム司教領とランカスター公領があるね。 (こっちは対スコットランド) ただ英国史にはthe Marchesというのもあって (the Marches of Wales=ヘリフォード伯領、シュルーズベリ伯領等) (the Marches of Scotland=ノーサンバランド伯領等) これは語源的にはそのまま「辺境伯領」ってことなんだろうけど、 いまいちPalatinatesとの違いがわからん。 王権からの軍事的・司法的な一定程度の自立性という点では、機能的に等価な存在に見えるんだけど。
>>161 そんなに大きな間違いとは思えないけど?
英国やイタリアなどの侯爵marquessとドイツの辺境伯Markgraf (margrave)が
外交上同格扱いと言いたかっただけなんじゃないの。
現に神聖ローマ帝国下でMarkgraf扱いの北イタリアのいくつかの国は、
同時にイタリア史ではmarcheseの侯国扱いだし。
国によって公侯伯の日本語訳が変わるということを指摘するべきとは思うけど。
帝政末期のドイツの侯 Fürst (prince)は、議会への参加権を保証するものであって、
リヒテンシュタインのような「侯」オンリーの称号だと、
Markgraf, Pfalzgraf, Landgraf, Burggraf等々の特殊伯よりも地位が低い感じがする。
ところがprinceは、英国やスペインでは公dukeよりも地位が高い「大公」レベル。
現在だとリヒテンシュタイン「公」国なんて訳がまかり通っているし。
>166 以下私の理解。 Palatinatesは自前の行政機関や司法機関を持ったミニ王国。 Marchesはそれ自体は緩衝地帯で、その中にチェスターなど Palatinatesも含まれる。 ヘリフォードとかシュルーズベリーは自立はしてはいるが無法地帯。 自分の身は自分で守る世界。 あとEarl of Marchというのもいたりする。
>>167 辺境伯は一個の領邦君主、侯爵は単なる宮中貴族。
双方を同じ土俵で比べられる考える事がそもそもおかしい。
“外交上同格”なんて概念は存在しない。
princeとdukeを比べるのも適切じゃない。起源が違うんで。
前者はやはり一個の君主。Fürstと並んで中世史では諸侯と訳す事が多いけど。
ところで北イタリアのMarkgrafってサヴォイアの事か?
170 :
世界@名無史さん :2005/10/26(水) 04:52:36 0
>>169 英国史やフランス史の「侯爵」とドイツ史の辺境伯は同格ではないが、
イタリア史の「候」とドイツ史の辺境伯は同格
北イタリアで、帝国の枠内でMarkgrafを名乗り、イタリア語でmarcheseを名乗っていた国は、
16世紀以降に限れば、
Mantova (1432-1540, duxに), Monferrato (1040-1574, duxに),
Saluzzo (1142-1588, Savoiaに併合), Masserano (1547-1578, principeに),
Massa (1442-1663, duxに), Concordia (1596-1710, Miranolaに併合),
Finale (1564-1713, Savoiaに併合), Comacchio (1708-1725, Modenaに併合)
Savoiaは、1003-1313の間はcomes (Graf), 1313-1417の間はprincipe (Fürst), 1416-1720の間はdux (duke)
このようにイタリア史では、Fürstと同格のprincipe及びMarkgrafと同格のmarchese
双方に「候」という日本語訳を当てはめているという現実がある。
171 :
世界@名無史さん :2005/10/26(水) 05:12:27 0
>>169 ついでにdukeとprindeだって、国によって事情が違う。
英国ではprinceといえば、prince of Walesだけで、他の宮中貴族の公爵dukeより格上。
スペインでも同様。フランスにはprinceに相当する貴族はいなかったが同様。
でもイタリアの場合は、principeを称していたミニ国家は、最盛期には100を超えていたし
明らかにdux公を称する国が数も少ないし格上。
ドイツも、称号としてFürstのみを称していた地区はいずれも小さい地域であり、
Herzog公よりも格下。(議会への参加権を示すReichsfürst「帝国諸侯」とか、
領主司教などはちょっと違うけど)
ロシア史末期の knyaz (prince)だと単なる宮中貴族の「公爵」。
てか、結局のところ日本語の問題に終始する。候爵と候の区別だって、
個々の国の事情を知らなければ断言できないわけだし。
>>171 イタリアの場合、dukeとprinceは起源が違うんだよ。
前者はビザンツ系で、後者はランゴバルド系。
伝統が違うんで、一律に比べられると思う方が可笑しい。
サヴォイア系がなぜduxを改めて使用したか、この点は非常に興味が湧いてくるな。
ドイツの場合、Fürstは新しく新設したの。元々は貴族全体を指す言葉だったわけ。
Fürstには侯なんて意味は当初無かったんだから、principeと同格なんて発想ができるわけないだろうに。
日本語の問題というより、現地の史料の変遷を調べないと分からない問題なんだな、これって。
ロシアの場合は皇帝が有力貴族を組み従える事に成功したが故の宮中貴族化なわけで。
これはフランス史なんかにも言える事だけれどね。
>>170 いわゆる一般的な訳語である五等爵と、各国史に出てくる諸官職のすり合わせというのは
歴史を勉強すると、一度は誰でもぶつかる問題ですよね。
既にこのスレでも書いたかと思いますが、中世史では称号には余り意味がありません。
例えばノルマンディー公ですが、文書にdux、marchio、comesのどれもで表現されていたと思います。
現在の一般的な爵位制度のように、厳格な宮中順序を確立する為には
中央権力が強力である必要があるわけですが、中世にはこれがなかった為に
古来からの官職を名乗ってみたり、新しく称号を作ってみたりと自称する事も多々ありました。
イングランド史は専門外なので余り詳しく書けないのですが
prince of Walesはウェールズの君主の称号ですから、訳語が同じ公でもdukeと比べるのは無理があるかと。
イタリアにおけるmarcheseも侯ではなく、辺境伯と訳すべきではないかと思います。
これが時代が下り、官職制が薄れて中央権力の元で一個の宮中貴族の爵位となったものを侯(爵)と呼ぶのが適当です。
イングランドといえば、
>>169 氏の挙げられたEarl of March、日本語ではマーチ伯と訳されていますが
marchが辺境という意味であるので、『辺境の伯』と理解する事が出来るかと。
更にイングランド史でのthe Marchはスコットランドとの国境線を意味するそうですので
スコットランドとの国境防衛に従事する特殊な官職であったと解釈する事が出来るかと思います。
(この辺り、語彙以外は実際に調べたわけではありませんので、間違っていたら申し訳ありません)
ところでふと思ったのですが、欧米の貴族制度に五等爵をあてた人というのは誰なんでしょう?
“これが時代が下り、官職制が薄れて中央権力の元で一個の宮中貴族の爵位となったものを侯(爵)と呼ぶのが適当です” の官職制という意味ですが、考えてみるとこれは不適当ですので修正します。 官職としての性質が薄れて、封建制に移行したわけですから。 ですので、“領邦君主としての実権が薄れて”位に考えて貰えれば。 ただイングランドは大陸における官僚制の断絶というものが無い、もしくは ある程度の残滓を留め続けたという話ですので、やはり各国の事情に照らし合わせる必要があるのは 言うまでもないようです。
175 :
世界@名無史さん :2005/10/30(日) 00:03:23 0
>>171 フランスでは下級貴族でもprinceを名乗ってたそうだけど。
>>175 というよりは、ある程度以上の貴族たちが互いに呼び合うときに使ってたようです。
ドイツ語のFürstと同じですね。
どちらも序数の「1」が語源ですので、それぞれの領地における「第一人者」という意味しかないのだと思います。
>>173 >更にイングランド史でのthe Marchはスコットランドとの国境線を意味するそうですので
単にthe Marchだけだったらむしろウェールズとの境界領域を指す。
178 :
世界@名無史さん :2005/11/06(日) 04:43:31 0
>>42 >>43 ローアン家はオーストリアに残ったし、本人たちももはや
オーストリアの名家としてのプライドのほうが高いですよ。
179 :
世界@名無史さん :2005/11/06(日) 08:50:34 O
中世のイギリスやフランスに准騎士って身分があったような。
180 :
世界@名無史さん :2005/11/28(月) 21:21:58 0
age
欧州最高の貴族はイングランド筆頭公爵家であるノーフォーク公ハワード家?
違います。そもそも“欧州最高の”なんてランク付け自体が不毛極まりない。
183 :
世界@名無史さん :2005/12/09(金) 22:16:40 0
あげ。
184 :
世界@名無史さん :2005/12/12(月) 20:08:36 0
サウジとかの部族長は西欧にいくと貴族で通じますか? インドの藩王の地位は国王ですか、領邦君主扱いですか
>>184 ムガール皇帝位の由来はモンゴル大汗の地位の継承なので皇帝待遇、
よってビクトリア女王もインド皇帝を名乗った、というのが西欧世界の一般的解釈ですので、
インドのマハラジャの地位は皇帝の封下の王ということで大丈夫でしょう。
「藩王」という日本語も同じ解釈に立った訳語と考えられます。
アラブの部族長の地位は微妙ですね。
王位やスルタン位のように世襲の地位として確立してるわけでもなさそうですし。
多分「貴族」にはあたらなそうな感じですね。
上記訂正。 念のため調べてみたら英語ではマハラジャのことをprinceと称していたようです。 すると待遇的には「太公」ということになりますね。 まあrajaの語源はラテン語rexと同じで「王」ですから、 自分ではkingを称したマハラジャもいたかもですが。
187 :
世界@名無史さん :2006/01/07(土) 06:54:32 0
オランダの爵位に伯と男しかないのは何故?
188 :
世界@名無史さん :2006/01/07(土) 20:29:56 0
ブランデンブルク辺境伯であった、 ホーエンツオレルン家の当主は、プロイセン公も兼務した。 でも、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公領は別々であったと思う。 プロイセン王国に昇格したのは、プロイセン公領だと思いますが、このときも、 ブランデンブルク辺境伯領は別個であったと思う。 その後、ブランデンブルク辺境伯は消滅したんでしょうか。プロイセン王国へ併合となったんでしょうか。 とすればいつでしょうか。
189 :
世界@名無史さん :2006/01/08(日) 01:17:28 0
>>188 1806年前後に併合消滅でしょ
同時期にバイエルンが大量併合して王国に昇格しているし
神聖ローマ帝国解体と同時にプロイセン王国内部の名目的な辺境伯領にでもなったんだろう プロイセン王はMarkgraf von Brandenburgの称号は使い続けたがKurfürstは使わなかったようだ。
清の爵位の英訳ってあるんですか? 公爵から男爵までは良いとして、親王はprince?king? 郡王は?ベイレや貝子は?鎮国公・輔国公は? 軽車都尉以下は?
eunuch
193 :
世界@名無史さん :2006/02/03(金) 23:59:09 0
age
シュタイフには爵位がない
195 :
世界@名無史さん :2006/02/04(土) 15:33:03 0
軽車都尉は准男爵、リッターかな?
196 :
世界@名無史さん :2006/02/25(土) 20:43:58 0
197 :
世界@名無史さん :2006/03/07(火) 18:27:49 0
シュタイフって日本の下級官人の諸大夫のことか?
198 :
世界@名無史さん :2006/03/12(日) 11:58:17 0
公爵 デュラン(デューク) 侯爵 マーキス 伯爵 カウント(アール) 子爵 ヴィカウント 男爵 バロン であってますか?
199 :
世界@名無史さん :2006/03/12(日) 23:20:52 0
デュランって何語?フランス語でもduk デュークだし、 ドイツ語ならHerzog ヘルツォーク とりあえず、英音発音を重視するなら viscount ヴァイカウント marquess マークェスまたはマークィス。 マーキースと発音しないこともないが、標準的でない。
200 :
世界@名無史さん :2006/03/12(日) 23:40:54 0
遅レスだけど
>>171 >ドイツの場合、Furstは新しく新設したの。元々は貴族全体を指す言葉だったわけ。
>Furstには侯なんて意味は当初無かったんだから、principeと同格なんて発想ができるわけないだろうに。
16世紀以降の神聖ローマ帝国自体が公文書でprincipeに対するドイツ語訳として
F"urstを使っている。同様にmarcheseに対してはMarkgraf。duxに対してはHerzog。
1500年以降の北イタリアのprincipe/F"urstの例は:
Monaco (1524-1641), Masserano (1598-1767), Corregio (1616-1636), Piombino (1624-1801)
201 :
199 :2006/03/12(日) 23:43:17 0
失礼 フランス語だとdux デュークね。
202 :
199 :2006/03/12(日) 23:44:40 0
じゃねえわ、duxはラテン語で、ducがフランス語!
>>200 この場合のprincipeは一定ランク以上の貴族と考えれ。
具体的な階級ではない。
>>199 野暮を言って済まんが、ducはデュックと発音するのが近いのでは?
デュークは英語でしょ。
>>200 だからFurstが独自の階級として認識されるようになったのは後代なんだけど。
16世紀ってもうヘールシルト制が完成してるから。
もうちょっと文章力つけようよ。
205 :
世界@名無史さん :2006/03/13(月) 16:23:38 0
俺の称号ニートだけど、お前は?
207 :
世界@名無史さん :2006/03/14(火) 01:06:31 0
>>204 F"urstがprincipeと同格だと言っているのは、もちろん帝国内にF"urstという制度ができてからのことだよ。
>>203 例えば北イタリアのMasseranoの場合、1381年以降、神聖ローマ帝国領内のGrafを称している。
但し自分の土地では、Conte, Comesではなくて、Signoriaを称していた。(Signore Sovrano di Masserano)
1506年11月27日に、Reichf"urstの称号を与えられる。
もっともクライス所属の帝国諸侯ではないため、同時期に称号を与えられた
いくつかのドイツ国外の「帝国諸侯」と同様に、帝国会議には一度も参加していないと思われる。
1547年8月5日に、Marchese Sovrano di Masseranoと称号を替えている。
ドイツ向けにはMarkgraf。
1598年8月3日以降は、Principe Sovrano di Masseranoを称している。
領地の名称は、Il Principato di Masserano (The Principality of Masserano)。
ドイツ向けにはF"urstで、以降1767年にSavoiaに併合されるまで、侯国を称し続ける。
徴税権も処女権もない貴族なんて滑稽ですな
>>207 北イタリアは理念上、神聖ローマ帝国に属してたので別に何でもないんじゃないの。
ただ、そこから“イタリア史の「候」とドイツ史の辺境伯は同格”と解釈するのは間違ってる。
イタリアといっても北と南じゃ全く起源が違うし、ひとまとめにするのは無茶がありすぎるから。
別に侯国と訳するのは勝手だけどね。
211 :
世界@名無史さん :2006/03/28(火) 11:16:52 0
age
212 :
世界@名無史さん :2006/03/28(火) 17:52:30 0
princeってのは爵位制度外の豪族みたいなもんなのかね?
214 :
世界@名無史さん :2006/03/30(木) 20:52:26 0
英国の爵位保持者の長男はcourtesy titles を 名乗ることができますが、もしもcourtesy titles 保持者が 死亡した場合、courtesy titles はどうなるのでしょうか? 孫や次男がcourtesy titles を名乗る事はあるのでしょうか。 |−【courtesy titles 保持者】−【爵位保持者の孫】 【爵位保持者】−| |−【爵位保持者の次男】
それらの人々がheir apparentかどうかが問題なのでは
孫が名乗ってるよ。嫡出が居る限り、次男坊には回らない。 ノーフォーク公の2,3代前がそんな状態だったと思う。
>>216 214氏ではないですが、ちょっと気になったので質問させてくだちい。(´・ω・`)
複数の爵位をあわせもつ貴族の場合、長男の長男にも、長男よりも下位の
courtesy title が与えられますよね。たとえば Duke of Norfolk の場合、
長男: Earl of Arundel
長男の長男: Lord Maltravers
ですが、長男が亡くなった場合、Earl of Arundel が長男の長男に回ってくる
ということでしょうか? それとも、長男が亡くなっても長男の長男は
Lord Maltravers のままなんでしょうか?
明確なルールがあるわけじゃない。ようは各家の慣習なわけで。 が、普通は上位の爵位を継いで跡継ぎである事を確定させるんじゃないかな?
219 :
世界@名無史さん :2006/04/08(土) 10:57:43 0
英国のナイトはリッター(独)、シュバリエ(仏)に相当するとして ドイツのユンカーに相当する地位って外国にあるの?
220 :
日本@名無史さん :2006/04/09(日) 01:04:52 0
ポーランドのシュラフタは士族? あと、ユンカーってプロイセンやその周辺以外にもいたのかな? ザクセンやバイエルンのユンカーって有り得なさそうだけど。
ユンカーはプロイセンだけだろ。
222 :
世界@名無史さん :2006/04/15(土) 10:55:20 0
ユンカーって貴族の御曹司って意味ですか?
223 :
世界@名無史さん :2006/04/17(月) 09:25:38 0
224 :
世界@名無史さん :2006/05/02(火) 13:02:56 0
age
225 :
世界@名無史さん :2006/05/15(月) 23:09:38 0
『失われた時を求めて』 に出てくる架空の貴族の爵位はこのスレ的に興味深い。 アグリジェント大公とか。 シャルリュス男爵は大公や公爵の称号を3つほど持っているけど ヨーロッパで最も古い男爵名を名乗るといっているけど、 こういう習慣ってあったのだろうか? あるいはゲルマント公爵は父が死ぬまでレ・ローム大公を名乗っている。 (フランスに詳しい方、どうでしょうか)
227 :
世界@名無史さん :2006/06/08(木) 17:03:29 0
現在女性の爵位継承者ってどのくらい?
228 :
世界@名無史さん :2006/06/08(木) 21:15:49 O
>222 ユンカーって昔、土地貴族って習ったぞ。もしくは 地主貴族
>>228 Juncherro(ユンクヘロ)→Juncherre(ユンクヘーレ)→Junker
で原義はJung Herr つまり「若殿」、すなわち侯爵や伯爵の息子のことで、
年少児からほかの貴族の小姓として従軍したり、ドイツ騎士団に属して…
それが後に大農場所有の小貴族を察すようになったもの。
イギリスのYeoman(ヨーマン)もYoung Manがなまったもので
元来は貴族の子弟が、他の貴族の従者として戦場に出ていたのだが、後に土地所有階級を指す語になった。
ということらしいので、時期によって、意味が異なるのではないでしょうか?
ネタ元は渡部昇一の「ドイツ参謀本部」
230 :
世界@名無史さん :2006/07/08(土) 06:45:33 0
231 :
世界@名無史さん :2006/07/08(土) 16:26:28 0
>>225 ヨーロッパで最も古い男爵??
男爵って、中世じゃ、日本でいうところの国人クラスじゃないの??
公侯伯が中央宮廷官職起源か??
232 :
世界@名無史さん :2006/07/08(土) 16:31:09 0
中世フランス(15世紀とか)だと、公と侯の訳が一定してない。 dux=公、侯でいいのかな? 公(侯)と伯、騎士しか中世フランスの爵位ってなかったの?? 副伯というのもでてくるが、これって、爵位というより、官職名??
>>232 「副伯」は「伯」の補佐やらその子息やらが名乗った。
後に爵位として定着。=子爵
> 公(侯)と伯、騎士しか中世フランスの爵位ってなかったの??
中世だと「爵位」って概念が成立してない。
基本的に、それぞれ起源を異にする官職等を称号として用いていた。
234 :
ちょっと投げ込んでおきます。どなたかフォロー願う。 :2006/08/05(土) 15:01:56 0
907 名前:ネトカフェ :2006/08/05(土) 14:51:06 0 >>897、900 んで、 @復古ブルボンでは、ブルボン朝での称号と帝国貴族の称号が混在かな。 復古ブルボンでの称号といっても封土・領主権はもうないでしょうし。 席次はすごいく難しそうですね。別スレかな。 A復古ブルボンでは、ブルボン朝での称号と帝国貴族の称号が混在かな。 オルレアン朝でもそのままで、第二帝政でもそのまま。第三共和制でもそのままだったのか。 廃止は、第四共和制ですか。 B第一帝政ではブルボン朝での貴族爵位は廃止だったんでしょうか。 帝国爵位オンリーだったのかと(プリンス?、コンテ?、バロ?)?
235 :
世界@名無史さん :2006/08/05(土) 15:04:21 0
ヘールシルト制に関する良書は?
236 :
世界@名無史さん :2006/08/05(土) 15:10:01 0
>@復古ブルボンでは、ブルボン朝での称号と帝国貴族の称号が混在かな。 >復古ブルボンでの称号といっても封土・領主権はもうないでしょうし。 >席次はすごいく難しそうですね。別スレかな。 ドイツの第二帝政でも同様かと。 ・ドイツ帝国での爵位(そんなもの作ったのかしらないが)。 ・プロイセン王国の爵位、バイエルン王国の爵位、・・・・・など、構成国の爵位。 ・神聖ローマ帝国起源の爵位(ホーエンシュタウフェン皇帝が、ハプスブルク皇帝がその昔、呉れた?)。
237 :
世界@名無史さん :2006/08/08(火) 15:05:17 0
*********************
>>220 その「士族」の中に、伯爵などを名乗っていた人もいるでしょう。
*********************
238 :
>>日本語で考えてますが(残念ですが) :2006/08/08(火) 15:07:55 0
ポーランド王国の貴族の最高位は、なんだったでしょう。 後のワルシャワ大公国のトップが、大公?となっているのを見ると、「公(DUKE)」が最高かなと。
239 :
世界@名無史さん :2006/08/08(火) 15:15:21 0
ヘールシルト制に関するヒントになるのでしょうか、下のURLは?
ttp://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/episode-83.htm > 位も世襲侯爵に昇進します。
さらに、総理大臣、大蔵大臣、枢機卿、将軍も輩出したそうですよ
@世襲侯爵とは、オーストリア太公国の中の世襲侯爵でしょうか。
A 侯爵領という領地もあるのでしょうか。
Bオーストリア太公国の中で、太公から与えられる領土を持っていたということでしょうか。
C私有地を購入するのではなく、私有地を与えられるのではなく、
領主権も与えるということでしょうか。
240 :
世界@名無史さん :2006/08/08(火) 15:20:03 0
ttp://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/episode-83.htm >リヒテンシュタイン家は、その実力にふさわしく「帝国使節会議」に出席できる身分になりたいと考えました。
が、そのためには主君であるハプスブルク家の版図に入ってない場所に国をもっていなくてはなりません。
そこで一族のヨハン・アダムは、今のリヒテンシュタインのシュレンベルクに目をつけました。
例のモントフォールト家の血筋にあたるホーエンエムス家の伯爵が、
借金で困って「その土地」を売りに出していたのです。
D「その土地」は、オーストリア太公から与えられるという土地ではなかったの?
E 皇帝から与える土地という名目(ローマ帝国内)である必要はあったの。
ぶっちゃけ、どこの土地でもよかったの?
「その土地」も売買には、裁判権、領民が付随していたの。
241 :
世界@名無史さん :2006/08/08(火) 15:37:56 0
[チェコの新政府よるボヘミアの広大なご領地の没収}
ttp://www.onyx.dti.ne.jp/~sissi/episode-85.htm がここに書いてある。
チェコの領土の没収とかいてますが、ご領主さまとしての領土だったのでしょうか。
すると、領主としてのタイトルがあったかもしれません。
これはボヘミア王からの頂いたものでしょうか。
リヒテンシュタインの君主のリヒテンシュタイン君主以外の
タイトルの羅列を見てみたいと思います。オーストリーやボヘミアにもいろいろ関係していたと思います。
242 :
世界@名無史さん :2006/08/08(火) 22:27:55 0
243 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 19:46:04 0
後のワルシャワ大公国のトップが..... 英語で言うと、Dukeの国だ。大公国という訳は誤りか、それとも昔の部族大公制のDukeに拘ったか。 ちなみに、ウエストファーレン国は、王国として成立したし、 クレーブとベルク国は、GrandDuke国として成立させられたかと思う。 なんでポーランドは、Dukeの格に抑えられたんだかなぁ。
244 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 19:55:53 0
帝国会議(使節会議)に出る資格には、建前は、皇帝とほかの既存の会議メンバーの了解がいるのか。 しかし、どさくさで皇帝の了解だけで資格ができちゃったのか。 242さんありがとう。 「そのためには主君であるハプスブルク家の版図に入ってない場所に国をもっていなくてはなりません」てのは、 「帝国会議メンバーのオーストリア太公」の家来という資格にみえてしまい、 皇帝から見て又家来なってしまう。 会議の他のメンバーからみても、彼らの臣下と同格の扱いになってしまうので、 後から、そいう土地を取得したのかと思いました。あっていますか
ポーランドは王国だろ。「公」だったのはワルシャワ公国。
246 :
世界@名無史さん :2006/08/14(月) 23:23:11 0
18、19世紀のハンガリーかポーランドの貴族に関する本ってありますか? 貴族の権力が凄く強かったみたいなんですが、興味があります。
>>244 帝国使節なんて用語は使わないんだけど、どこから持ってきてるの?
ちなみにありがとうから下の文は全く違っている。
リンク先でも関係ないって書いてあるだろうに。
>>243 大公国は誤り。しかし日本語訳するときに誤訳されたのではなく、世界中で誤記されている。
海外のサイトではよくerroneously called the Grand Duchyとかerroneously referred to as the Grand Duchyなどと書かれている
正確に言うと 中韓日の公家と大夫は官僚。(仕事しないのでニート) 日欧は武士制 1. ケーニヒ 王(頭) 2. フュルスト 一位、王子 3. グラーフ 頭、隊長 4. ヘア 武士(ゲル(ヘル)マンは戦士民族の意味)
日本語で書いてくれよ
251 :
世界@名無史さん :2006/09/14(木) 12:50:11 0
日本語で書いてあると思うけど
>>249 グラーフは数学のグラフと同語源で書記官。
253 :
世界@名無史さん :2006/10/06(金) 09:17:21 0
ロイヤルデュークの訳は大公と公爵どちらが相応しいのですか?
王公
255 :
世界@名無史さん :2006/10/08(日) 13:11:48 0
公王
256 :
世界@名無史さん :2006/10/08(日) 13:19:06 0
257 :
世界@名無史さん :2006/10/14(土) 13:36:49 0
大公国、公国、侯国の臣下でも爵位を持つことは あるのでしょうか? あるとすれば、伯爵、男爵といったものなのか? それともリッター、バーバスールといったものになるのか? 教えてください。
258 :
世界@名無史さん :2006/10/14(土) 13:43:38 0
それとフランスの陪臣を意味するVavaseurについて詳しい方 いないですか?
259 :
世界@名無史さん :2006/10/14(土) 14:19:57 0
戦時中、ナチスドイツの駐日大使だった人が、戦後、何かの功績?で リヒテンシュタイン公国の男爵になったと読んだ記憶がある。
260 :
世界@名無史さん :2006/10/14(土) 19:28:54 0
大勲位は皇族がもらうものだが、大勲位をもらったといってナカソネが皇族になるわけではない。 それは外国の要人に大勲位をやったのととおなじレベル ちなみに雅子さんは勲一等 うちの祖父は勲六等
>>257 ヨーロッパの爵位は領地に付随するものだから、
臣下でも、そういう領地を持っていれば爵位を持っていることになる。
基本的なことはwikipediaでも参照してケレ。
263 :
257 :2006/10/15(日) 17:18:00 0
wiki見てきたけど、爵位の序列がしっかりしてる国の方が珍しいと 書いておいた方が良いと思われ。
爵位の序列がしっかりしてないと、 上下関係を推し量る事が難しくなるのでは?
>>266 そこはそれ、本人の個人的な名誉とか権力者への距離とか色々で。
268 :
世界@名無史さん :2006/11/12(日) 01:06:32 0
269 :
世界@名無史さん :2006/11/25(土) 20:23:34 0
国によって、制度が違うので、英国に限定しますけど。 ▼1)たとえば、伯爵夫人と女伯爵は、英語表記で同じですが、 何か区別する表記はあるでしょうか(文章で記載している場合)。 2)呼びかけのときはどうでしょうか。
270 :
詳しい人へ :2006/11/25(土) 20:41:23 0
>>260 教えてください。
位階と勲位はどう違う? 従二位とか勲一等とか。
さらに教えてください。
勲位は廃止になった。功績に上下をつけるのはおかしいから?では、位階はおかしくないの?
政府はどういう理屈を使ったのでしょうか。
思いっきり板違いです。日本史板へいきましょう。
英訳すると親王と王、内親王と女王が同じになってしまうのはおかしいのではないか。
prince within the third degree 親王 prince out of the third degree 王 princess within the third degree 内親王 princess out of the third degree 女王
274 :
世界@名無史さん :2006/12/06(水) 22:28:42 0
>>274 多分だけど公式には全部「Prince」でひとまとめにしてると思う。
というか、今、「王」とか「女王」っているの?
直系以外の親王のお子さんは王や女王だよ。 板違いでスマンが。
今の皇族には女王が5人いる
278 :
世界@名無史さん :2006/12/07(木) 04:27:30 O
>259 ナチスがオーストリアの先っちょに位置するリヒテンシュタインを併合しよーかなって時に ちっちゃいし資源もあんま無いし止めとこーよって言ってくれたお礼に授爵したらしい 俺は伯爵って聞いてたけど
>>275 イギリスの場合は、敬称のランク(HRH or HH)とTheの有無で微妙に違うらしい
* 君主の子(親王にあたる)
HRH The Prince of 名前
例: HRH The Prince Charles, Prince of Wales
* 君主の息子の子(王・女王にあたる)
HRH Prince 名前 of 親の称号
例: HRH Prince Charles of Edinburgh (チャールズ王子の出生時。エリザベス女王即位前なので、王孫の扱い)
* 君主の3親等以上の男系子孫(1917年まで。1917年以降、これらは敬称を持たないことになった)
HH Prince 名前 of 親の称号
>>278 帝国諸侯に過ぎないリヒテンシュタイン侯に授爵権あるの?
もちろん1867年以降は独立国家だし1918年以降は実質的な君主ハプスブルクも
いなくなったから主権国家の君主の栄典大権は問題ないんだろうけど
どうも違和感がある…
>>259 ウィキペディアには駐日ドイツ大使の一覧があったが、流石にどの人かの特定はできないな。
# 2.1938 臨時代理大使 Willey Noebel
# 28.4.1938 特命全権大使 Eugen Ott
# 4.2.1943 特命全権大使 Heinrich Georg Stahmer
>>280 帝国諸侯に過ぎないって、帝国諸侯=領邦君主なので
自身のレーンに由来する爵位を授けるのに誰の許可も要らないんだけど・・・。
そもそもハプスブルク家は全く関係ない話。
>>280 氏は帝国の爵位を勝手に授けたと勘違いしたのかな?
リヒ国内の爵位を授けたってことだよね?
帝国の爵位?そんなもん存在しませんよ。 あるのは階層化された貴族の部会。 それの最上級貴族を帝国諸侯と読んでいるに過ぎない。
いやあ金印勅書で選帝侯が「授爵権」以外の国王大権は手に入れたと 読んだことがあるので「授爵権」ってドイツ世界においては最後の国王大権かと 思っておりました次第で。ご教授ありがとうございます。
>>285 一部正しい。国王大権に称号貴族を創設するというものがあった。
ただこれを受けた所で帝国諸侯に与えられた特権は享受できなかったので
本当に単なる称号。レガリアと呼んで良いのか疑わしい位のもの。
爵位じゃなくて、帝国諸侯に準じた資格って奴ね。
帝国諸侯層への新加入は全ての帝国諸侯の賛同が必要だった。
ブラウンシュバイク候
288 :
世界@名無史さん :2007/01/08(月) 20:36:03 0
西川きよし伯爵 番組では伯爵になってたけど、英語ではLordになってたな。
289 :
世界@名無史さん :2007/01/09(火) 19:22:56 0
>>243 世界中で誤訳されてる。
その誤訳は、歴史学者の文献でなく、
当時の外交文書もですか。なら、それは意識的な誤訳かも。
言語によって、あえて表現を変えて、互いに面子と守ったりとか。
意味がようわからんけども、当時の外交文書でワルシャワが「大公国」扱いされてたのか?
291 :
世界@名無史さん :2007/01/09(火) 19:50:42 0
うーん、 朝鮮の文書では、日本君主は日王だけど、他国の文書ではエンペラーだし。 中国の文書ではベトナム君主は王だけど、ベトナム国内向けには皇帝だったり。 とかね。
292 :
世界@名無史さん :2007/01/10(水) 07:05:01 0
公王の語義と語源を教えて下さい。
293 :
世界@名無史さん :2007/01/10(水) 08:01:24 0
294 :
世界@名無史さん :2007/01/12(金) 02:47:21 0
このスレにシーランド公国の爵位購入した香具師っているの?
稲垣メンバー再び!?ならありそうだw
296 :
世界@名無史さん :2007/02/28(水) 01:13:53 0
熊沢天皇今いずこ・・・
297 :
世界@名無史さん :2007/03/01(木) 04:15:49 O
>296 墓の中
298 :
世界@名無史さん :2007/03/10(土) 22:54:46 0
後継者が即位していなかったっけか?
299 :
世界@名無史さん :2007/03/11(日) 19:59:55 0
熊沢も爵位や官位を売りに出せばいいのに。
300ゲット
301 :
世界@名無史さん :2007/03/22(木) 20:24:12 0
>>259 >>278 >>280-286 リヒテンシュタインのような小国(領邦)が独自の爵位を授与しているとは驚きだ。
一介のフュルスト(侯爵)にすぎないのに、伯爵以下の爵位を自由に創設したり授与できるのか?
302 :
世界@名無史さん :2007/03/24(土) 08:20:43 0
公爵や侯爵は、自分の爵位より下位の爵位を創設して授与する権限があるの?
皇帝の直臣と陪臣で、爵位が同じならば同等なの? それとも爵位自体が全然別物?(帝国騎士>領邦の公爵とか)
304 :
世界@名無史さん :2007/03/30(金) 19:49:48 0
神聖ローマ帝国のグラーフと、バイエルンやザクセンの家臣であるグラーフって、 貴族として同等なの?
神聖ローマ帝国のは知りませんが、ドイツ帝国に置いては、 帝国の王・大公・公爵・侯爵・伯爵が上級貴族だが、 これには統治権を有する元首貴族とそうでない非元首貴族(元領邦君主)の区別有り。 伯爵は統治権をすべて放棄しているらしい。 特に同盟以前に統治権を放棄した侯・伯はたいした特権を有さない。 本来統治権を有さない下級貴族(プロイセンの公爵以下等)、は、 帝国=連邦からは殆ど特権を認められていない。領邦内での特権はそれぞれ異なる。 騎士は本来帝国から直接認められた世襲貴族だが、 領邦の権力集中により一部領邦を除き殆どの特権を喪失している どうも序列として、上級貴族の王・大公・公爵・侯爵・伯爵、 下級貴族の公爵・侯爵・伯爵・男爵・騎士と言う順になるらしい。 以上坂巻芳男著「華族制度の研究」より
306 :
世界@名無史さん :2007/03/30(金) 20:29:49 0
ドイツ帝国のグラーフとバイエルンやザクセンの家臣であるグラーフでは、 同じ伯爵でも別物なのか。 プロイセンやバイエルンの公爵でも、帝国の伯爵より下位というのは面白いな。
結局領邦の君主で有るかどうかが称号より重要だったんだろうな。 つまり加賀100万石も1000石の交代寄合も同じ直参ってのに有る意味似てるのでは? 30俵の御家人も同じ直参だけど領主じゃないからね。
領邦君主は称号に「神の恩寵により」がくっつくからそれだけで そこらの貴族とは根本的に別物のような
309 :
世界@名無史さん :2007/03/31(土) 11:13:36 0
日本にたとえれば、同じ爵位でも 領邦君主=独立の大名・大身旗本(幕府の直臣) 領邦内の貴族=大名の一門・家老級の領主(幕府から見て陪臣、片倉とか諫早とか松井など) ということかな。
厳密に言うと多分違いがあるんだろうけど、 わかりやすい比較としてはそんな感じじゃないのかな。
311 :
世界@名無史さん :2007/04/01(日) 16:51:58 0
ところでロシアって公爵、伯爵、男爵しかないのはなぜ? ウオッカばっかりのんでる奴らは大雑把なのか?
爵位は国によってマチマチじゃあなかった?訳語の問題もあるけど。 オーストリアも(大公、)侯爵、伯爵、男爵だったはず。
ロシアは爵位のない貴族もいて、男爵より名門だったりするんだよね。 公爵は本来的には君主の子孫だからまあ現実はともかく建前上は上なんだろうけど。
314 :
世界@名無史さん :2007/04/01(日) 18:40:32 0
公爵がクニャージで伯爵がボヤールだったかな。 公爵や伯爵の息子は長男であろうが末っ子であろうが、全員父親の爵位を名乗れるので、 貴族の数がムチャクチャ多いらしい。
伯はドイツ式のグラーフ、ボヤールは成り立ちの上では公爵=クニャージに次ぐ貴族だっ たが、爵位ではないらしい。 男爵(伯爵の方かも?)は確かバルト系の貴族であまりいないとか読んだことがある。 成文上の爵位の序列はなくって、爵位で名門か有力貴族かどうか判断できないらしい。
316 :
世界@名無史さん :2007/04/01(日) 20:14:38 0
オランダは伯爵、男爵、ユンカー、騎士しかいないけど 公爵位作ろうと思わなかったのかな?
317 :
世界@名無史さん :2007/04/02(月) 22:52:18 0
王族にオラニエ公がいる。
それはPrinceだろう。 普通公爵といったらDukeじゃないか?
319 :
世界@名無史さん :2007/04/03(火) 08:40:18 0
プリンスには王子という意味と公爵という意味がある。 フランスの貴族でも、プランス(プリンス)の公爵とデュク(デューク)の公爵がいて、 たいへんややこしい。
>>317 しかもオラニエはオランダ国内の爵位じゃないだろ。
あそこってフランス?アルル?
ロシア帝国内におけるハンやバートルなどモンゴル・トルコ系の王侯は貴族として待遇されたのだろうか。
322 :
世界@名無史さん :2007/04/03(火) 12:30:44 0
イヴァン4世か誰かが一時的にツァーリの位を譲った相手がキプチャク・ハンの末裔だった。
確かモンゴル系の公が居たような気がする。
オランジュ公って本来はオランダ王国以前に王家が保有していたタイトルですよね。 イギリスとハノーヴァーみたいに女系になったから分離したってことなのですか?
326 :
世界@名無史さん :2007/04/03(火) 18:38:54 0
シメオン・ベクブラトヴィチ カシモフ・ハン国のハン。初名サイン・ブラト。 モスクワ大公イヴァン4世によって、短期間「全ルーシの大公」とされた。 彼はチンギス・ハンの血を引く名族の出身であったが、カシモフ・ハン国は モスクワ公国(のちのロシア帝国)の傀儡政権に過ぎなかった。 カシモフのハンであったサイン・ブラトは1573年にキリスト教に改宗して ハン位から退き、その高貴な血統ゆえにモスクワ宮廷で重きをなした。 シメオン・ベクブラトヴィチというのはこのとき与えられた名前である。 1574年頃、イヴァン4世は突如モスクワ大公位からの退位し、シメオンに 「全ルーシの大公」という称号を与えてクレムリンの玉座に登らせ、自らは 「モスクワ公イヴァーニェツ」と称して彼のもとに伺候した。
いや別に分離してない。単にオランジュ公国がルイ14世に滅ぼされてフランスに併合されただけ。
ついでに言うとオランジュ公国がフランスに併合された時点ではオランダは共和制でオラニエ=ナッサウ家は王家じゃない。
おおざっぱに言うと公伯男が基本的なもので、侯・子は派生的って理解でOKですか?
>>323 じゃあアルルじゃねえか
>>329 「侯」の原語次第。
Princeを「侯」と訳した場合は×
331 :
世界@名無史さん :2007/04/04(水) 19:51:55 0
>>319 GBには、イングランド爵位、スコットランド爵位、など5つあるらしいけど、
フランスはどうなんですか?
ブルボン王朝系爵位、復古ブルボン系爵位(ブルボン系に含まれるかもしれね)
オルレアン王朝系爵位、
第一帝政系爵位、第二帝政系爵位とかあるかな、
あるいは、第二共和制系もあるかな。
それぞれにまた、デュクとかプランスとか、コンテとか、、、、
332 :
横 :2007/04/04(水) 19:59:59 0
横から失礼 本人が爵位を持つ場合(女伯爵など)と、配偶者が爵位を持つ場合(伯爵夫人) 呼び方は同じかもしれない。ただし、 @正式な呼び掛け名、A書き方(正式な手紙)、B役所の文書・C貴族名鑑? ではどうなんでしょうか。
333 :
世界@名無史さん :2007/04/04(水) 20:06:17 0
英国のサッチャー元首相は自身が一代男爵(女男爵)であるが、 夫のデニス氏が世襲の准男爵なので准男爵夫人ということにもなる。
334 :
世界@名無史さん :2007/04/04(水) 20:10:09 0
スペインはいくつかの王国(および伯国)の連合だが、いつの間にひとつになったんでしょうか。
ロシアの伯爵はピョートル大帝の導入、 ただし当初は「神聖ローマ帝国伯爵」で、神聖ローマ帝国皇帝から拝領すべき物だった。 この時点では新規な物がもてはやされたので伯>公の評価だったが、 やがて伝統有る公が本物の貴族として見直された。 もっとも18世紀になると偽の家系図をでっち上げた成り上がりの寵臣も公爵になるが。 男爵はバルト地方のもの以外は、財務関係者が主であまり尊敬されなかった。 他に外国の爵位を金で買う例もあったそうだ。
それでも、ロシア革命後に、 アメリカの成金たちがロシア貴族と婚姻したがったから不思議だ。
スペインは18世紀でもカスティリアとアラゴンで貴族足りうる基準が異なり、 カスティリアはやたらに貴族(イダルゴ含む)が多かったそうだ。 それでも前の時代に比べれば大幅に減っているそうだが。
>>332 イギリスについては、坂巻芳男著「華族制度の研究」か「同2」に呼び方については細か
く書いてあったと思う。
わたしはあまりその点には興味がないので覚えては居ませんが。
>>332 イギリスについては、坂巻芳男著「華族制度の研究」か「同2」に呼び方については細か
く書いてあったと思う。
わたしはあまりその点には興味がないので覚えては居ませんが。
自立的に爵位制度が成立下のはフランクの流れを引く独仏だけで、 露の公爵とか英の伯爵以外の爵位は概ね独仏からの輸入品、って言うと表現が悪いか、 独仏にならって成立したって考えで良いのかな? 騎士級以下は別として。
342 :
勝手にコピーさせてもらうが(>>214、217) :2007/04/05(木) 21:56:36 0
複数の爵位をあわせもつ貴族の場合、長男の長男にも、長男よりも下位の courtesy title が与えられますよね。たとえば Duke of Norfolk の場合、 長男: Earl of Arundel 長男の長男: Lord Maltravers 332じゃないが、 儀礼の爵位の場合とホントの爵位の場合の呼び方は違うのかな。 父親は、正式には爵位を上から下まで、ノーフォーク公、アランデル伯、、、、と、羅列する? 息子は「アランデル伯」とは呼び名だけで、正式には、何もつかない?
343 :
世界@名無史さん :2007/04/05(木) 22:01:00 0
で、 このアランデル伯は、 本人の爵位でないので、後継者としての爵位に過ぎない、正式にそれを区別する表現はあるのかなぁ。 本人の爵位の場合と区別する表現があるのかという疑問があるんだが。 次にアランデル伯夫人は、 後継者の爵位名乗り者の配偶者としてのアランデル伯夫人だが。 彼女自身が女伯爵というか、ノーフォーク家の跡取り娘の場合どうなるのか。 (ノーフォーク家で男が居らず、ノーフォーク公位、アランデル伯位が、女性も名乗れるように勅許が出たとして、)
344 :
世界@名無史さん :2007/04/05(木) 22:08:37 0
>>337 HPみたよ。ブルグンドとかアテネとかの爵位授与権もあるのかな。
スペイン貴族には、カステリア王国での爵位とか、バルセロナ伯國の爵位とかのほかに、
いろいろな爵位が授与される可能性があった!のかなぁ。
345 :
世界@名無史さん :2007/04/05(木) 22:13:32 0
King of Castile, Leon, Aragon, both Sicilies, Jerusalem, Navarra, Granada, Toledo, Valencia, Galicia, Majorca, Sevilla, Sardinia, Cordova, Corsica, Murcia, Jaen, the Algarves, Algeciras, Gibraltar, the Canary Islands, the Indias, the Islands & Mainland of the Ocean sea カナリア島王とか、これは領土としてはカナリア諸島か? インディアス王とか、これはどこだろ? 海の島々とメインランドの王とは、どこを指しているのか。 ナバラ王っていうのはスペインナバラを指すのか。 で、ナバラって、フランスナバラと二つ王号があるのか。
>>343 儀礼称号は、Theが付かない。
ノーフォーク公本人はThe Duke of Norfolkだが、その継嗣であるアランデル伯はEarl of Arundel。
あくまでThe Earl of Arundelの称号を持っているのはノーフォーク公本人。
なおこのアランデル伯などといった儀礼称号は法定推定相続人が称するもの。
女子は基本的に法定推定相続人にならない。したがって女子が継承できても、彼女は敬称前は儀礼称号を帯びない…はず。
>>341 イングランドの伯は独自でしょ。
あとでEarl=Countということにしただけで。
>>345 インディアスはアメリカ大陸のことだろ。
ナバラは両国が正統と称しあっているだけじゃなかったか。
それよりセビーリャやコルドバ、ムルシア等々の王号っていつの間に成立したんだ?
レコンキスタ時に征服するたびに戴冠式でもしたんだろうか。
>あとでEarl=Countということにしただけで。 あとでと言うにはだいぶ早くからEarl=comesのように思うが
349 :
347 :2007/04/09(月) 10:46:13 0
>>346 Earlはヘプターキーの末期だかデーン時代には確立してたでしょ。
てかデーン時代のEarlは権力でかすぎて大陸のComesとイコールとは思えないよね。
350 :
世界@名無史さん :2007/04/10(火) 22:05:55 0
333 デニス氏は、準男爵であるとともに、男爵配偶者(女男爵の配偶者)でもある。 なお、エリザベス2は、エジンバラ公爵の配偶者(公爵夫人)でもある(?)
351 :
世界@名無史さん :2007/04/10(火) 23:24:29 0
しかし、デニス・サッチャー氏ってなんの功績で准男爵(バロネット)に叙任されたの? まさか、「鉄の女」宰相の旦那だったというだけで・・・
352 :
世界@名無史さん :2007/04/11(水) 18:33:49 0
どうもそうらしい。 首相引退後のサッチャーに爵位をやったら、議席が上院に移ってしまうので、 政治的影響力を保つため、あえて下院議員にとどまった。 本人に爵位をやれないので、旦那にワンランク下の准男爵をやったそうな。 まあ、サッチャー本人もいまは一代貴族として女男爵だけど。
353 :
世界@名無史さん :2007/04/11(水) 19:09:11 0
354 :
世界@名無史さん :2007/04/12(木) 01:35:48 0
>345 王号の後に続く称号も興味深いよ。ハプスブルク系の称号てんこ盛り。憲法上の正式称号は単にking/queen of Spainで長いのは伝統的称号?みたいだが。 Archduke of Austria, Duke of Burgundy, Duke of Brabant, Duke of Milan, Duke of Athens and Neopatria, Count of Habsburg, Count of Flanders, Count of Tyrol, Count of Roussillon, Count of Barcelona, Lord of Biscay, Lord of Molina,
Wkpdのエデッサ伯国の項見てたら >ボードワンはエデッサの統治者の座に着き、伯爵になったことを宣言した。 >(彼は兄の臣下として、ヴェルダン伯の称号をすでに持っていた。) って一節があったけど、これはヴェルダン伯の所領がエデッサまで拡大したんじゃなく ヴェルダン伯としての権限で自分で自分をエデッサ伯に封じたという意味になるのかな?
自称じゃないか? もっともその後にエデッサはイェルサレム王国の封土になるみたいだが。
357 :
世界@名無史さん :2007/04/17(火) 21:31:21 0
いわゆるキエフ大公ってその他の有象無象の公と違う独特の称号ってあったんですか?
ドイツに子爵がないのは、東フランクに副伯がなかった? 副伯はあったがあくまで職務であり爵位化しなかった?のどちらでしょうか?
A公爵の分家にB伯爵があったとして、A家が絶えたときにB家がA家の跡を継いだりす るけど、B家が絶えたらそのまま?A家がB伯のタイトルを併せ持ったりしないの?
時代とか地域とかにもよるし、場合によるってのが一番でかいとは思うけど。 女系含めてより強い継承権持ってるところがあれば本家でも負けるだろ。 あとは政治力その他次第。
B家の傍系とか女系とかの縁者はなくて最近親がA公爵家の場合のつもりだったんだけ ど、誤解を招くような表現だったかな? 例えばA公爵家の次男坊が王の小姓とかになって寵臣となりB伯爵になったんだけど、跡 を継いだ一人息子に子供が出来ずに後継者が居ないような場合、B家は断絶するのか、A 公爵家がB伯爵のタイトルを併せ持つんだろうか?財産はA家に行くんだろうけどね。 こんな場合日本の華族だと、A家に次男がいればそれが養子になったりするのが通常だけ ど、確か欧州では普通養子相続とかしないよね。
>>361 爵位を与えられた際に継承法も定められているはずだから、それによる。
大抵は受爵者の卑属に継承されるから、さかのぼってA公爵家に爵位が行くことはない。
勅許状を見れと
ああやっぱり普通本家には行かないのか。
>>362 どうもありがとう。
ハワード一門ってのべでどの程度の爵位を集積したんだろう?
>>362 フランス王の分家筋で断絶した家が王家に吸収される例があるよね。
これなんかは
>>359 の例じゃなかろうか。
まあでもこれもその時代の状況とか王家との関係によって起こったんだろうけど。
オルレアン家とかか。
368 :
世界@名無史さん :2007/04/29(日) 16:08:15 0
コンデ家は19世紀に断絶して、そのシャンティーの居城とコレクションの一切は ルイ・フィリップの息子が相続した。
370 :
世界@名無史さん :2007/07/10(火) 21:05:48 0
コンデ、コンティ、アンギャン、パンティエーブルなどのブルボン支族の称号は いまどうなってるの?
371 :
世界@名無史さん :2007/07/10(火) 22:34:43 0
アンジュー公はスペイン王家の分家が自称している。 ↓ フランス王ルイ20世 (アンジュー公、ブルボン公、トゥーレーヌ公ルイ・ド・ブルボン)
372 :
世界@名無史さん :2007/07/14(土) 08:10:41 0
コンデ家の嫡子の称号であるブルボン公も自称してるのか>ルイ20世
373 :
世界@名無史さん :2007/07/14(土) 16:22:48 0
フランスでは 第一身分の僧侶>>>第二身分の貴族 僧侶に爵位は無い
爵位持ちの僧侶はいるな。
僧侶って書くとどうしても仏教やヒンズー教のが思い浮かぶ
376 :
世界@名無史さん :2007/07/16(月) 13:50:17 0
もともと爵位のある貴族が出家したり、 貴族出身の聖職者が実家や親族の爵位を相続したり、 いろんなパターンがあるからな。
377 :
世界@名無史さん :2007/07/16(月) 15:32:08 0
17〜18世紀にザルツブルク大司教 ホーエネムス伯マルクス・ジッティクス 1612年-1619年 ロドロン伯パリス 1619年-1653年 トゥーン伯グイドバルト、枢機卿 1654年 - 1668年 マックス・ガンドルフ・フォン・キューンブルク、枢機卿 1668年-1687年 ヨハン・エルンスト・フォン・トゥーン 1687年 - 1709年 ハラッハ侯フランツ・アントン 1709年 - 1727年 フィルミアン男爵レオポルド・アントン・エロイテリウス 1727年 - 1744年 ヤコブ・エルンスト・フォン・リーヒテンシュタイン-カステルコルノ 1744年-1747年 ディートリヒシュタイン伯アンドレアス・ヤコブ 1747年-1753年 シュラッテンバッハ伯ジークムント3世 1753年 - 1771年 コロレド伯ヒエロニュムス 1803年のサルツブルク世俗化まで聖界諸侯、以後は単に大司教, 1772年-1812年 モーツアルトが1781年に決別する。サルツブルク最後の領主司教。
378 :
世界@名無史さん :2007/07/16(月) 15:35:32 0
フランスの貴族なら、有名なこの人 枢機卿およびリシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシ (Armand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu)
379 :
世界@名無史さん :2007/07/16(月) 22:55:29 0
346さま 本人のタイトルと 配偶者としてのタイトル(この場合は儀礼上ともいうべきかも)はどういう風に区別しますでしょうか。 呼びかけ、手紙での敬称、公式文書など(など=それ以外が思いつかないので)。 マールボロ公爵では、2代目だったか、女公爵も居たと思います。 侯爵夫人と、女侯爵とか(英国ではまれでも、ゼロではないと思われます。また外国人を表現するときもあります)
380 :
世界@名無史さん :2007/07/17(火) 17:49:49 0
381 :
Wikiみたんだが :2007/07/18(水) 20:07:41 0
@Prince of Wales HRH AWife of the Prince of Wales まではわかった。 また、現女王エリザベスが、その昔、 皇太子(皇太女?というのか、知らんが)のときは、Aを使うと思うけど。どう?
382 :
Wikiみたんだが(その2) :2007/07/18(水) 20:13:26 0
BPrincess RoyalCRoyal PeerDRoyal Peeress がよくわかんないので。 Bがあるなら、Prince Royalはいないのかと思う。 因みに、Bてのは、チャールズのお姉さんや妹ということか。 男兄弟はたまたま今いないから、Prince Royalは、Wikiに載っていないのかもしれないが。
383 :
Wikiみたんだが(その3) :2007/07/18(水) 20:16:33 0
Sovereign's son (unless a peer) Sovereign's daughter (unless a peeress) これで、unless a peer とか、unless a peeressとは何か、 「貴族でない」ことか、あるいは、何か爵をまだもらっていないという状況か(次男三男に爵位を与えることあるだろし)。
384 :
Wikiみたんだが(その4) :2007/07/18(水) 20:24:44 0
Royal Peer HRH The Duke of London Royal Peeress HRH The Duchess of London ロンドン公爵ってのは、例えで出てきたのか?初歩的質問失礼するけど。 (Unless なんとか がないので、ロンドン公爵位を持っている?) それと、皇太孫であるSovereign's son's son Prince of Wales's eldest son's eldest son(unless a peer) :HRH Prince John of London 皇太孫の配偶者(妃)である Sovereign's son's son's wife(unless a peeress) :HRH Princess John of London 皇太孫の姉妹たちである Sovereign's son's daughter(unless a peeress) :HRH Princess Mary of London そして、皇太孫の兄弟(つまり弟)は、??? という次第なんだが。
何が判って何が判らんのかわからん。
>>381 Prince of Wales は法定推定相続人である男子の称号。
またこの女性形であるPrincess of Walesは Prince of Wales の配偶者の称号。
エリザベス2世は法定推定相続人(皇太子)になってない。
即位前の称号は、はじめエリザベス王女、結婚後はエディンバラ公爵夫人。
>>382 Princess Royal は国王の長女に与えられる称号。
(ただし持てるのは一人だけなので、先王の長女が存命中は現王の長女に与えられることはない。)
Prince Royal がいないのは、そういう称号を過去の国王が作らなかったから。
Royal Peer は爵位を持っている王子、 Royal Peeress はその女性形。
>>383 「貴族でない」=「爵位を持ってない」だと思うんだが、何か違う?
>>384 Duke of London は例えだね。
チャーチルはロンドン公の爵位を与えられそうになって辞退してたし。
それからそこの例に出てくるジョン王子は皇太孫ではない。
皇太孫の兄弟も皇太孫と同様 Sovereign's son's son だから同様に HRH Prince 名 of 親の爵位の領地名 で称される。
あーそうだ。
本来の疑問だったはずの in her own right と in her husband's right の違いはよくわからんから答えられん。
>>380 だと区別されてるのが男爵夫人と女男爵だけだから、英語の語法では書き分けがないんじゃないかと思うけど。
389 :
世界@名無史さん :2007/09/01(土) 21:10:11 0
>386 いろいろありがとうございます。 >388 かなり変な人のホームページですな。 さて、公爵がDukeとのことですが、もともと戦前の日本の公爵はPrinceだったんでは。 なんで、新貴族制度では、Dukeにしたんだろ。 >All(ロシアに詳しい人) @クニャージって、「戦争と平和」出てくる、たとえばボルコンスキー公爵もかな。 Aこの人たちは、中世ロシアの各公国の君主の子孫なのかな。つまり、ルーリック朝の子孫?
>Prince となると王位継承権、皇位継承権などが伴って来るかと?
>>390 元々公爵は伯爵以下の爵位と違って王族・皇族の縁者に与えられる物だったから。
>389 > もともと戦前の日本の公爵はPrinceだったんでは。 本当はDukeでも不相応だと思うけどね。英国の爵位でPrinceを称するのはPrince of Walesだけだ というのに。
フランスだとprinceはありふれた爵位だけど。
フランスのprinceは爵位ではない場合が多い。 多くの場合王位継承権に対する称号であって、そういう人は爵位は他に持っている。 コンデとモナコはどちらもprinceだが意味合いは全く違う。
396 :
世界@名無史さん :2007/09/03(月) 22:35:47 0
>>389 > もともと戦前の日本の公爵はPrinceだったんでは
違います。戦前の日本では、おそらく現在でも、princeは「王」の訳語として
皇族、宮家の男子が使っていました。
皇族と人臣である華族の区別は重大です。清の貴族制度も、五爵を人臣
貴族用とし、その上に皇族の爵位を設け、英訳のprinceは皇族用ですね。
397 :
世界@名無史さん :2007/09/03(月) 23:30:53 0
近衛公爵や島津公爵の英訳はプリンス・コノエ、プリンス・シマヅで間違いない。
ヨーロッパ各国で統制の取れていないもののどれに当てはまるかなんて不毛違うか
399 :
世界@名無史さん :2007/09/04(火) 20:24:01 0
でも日本の公爵の英訳はプリンスなんだよな。
400 :
世界@名無史さん :
2007/09/08(土) 17:33:23 0 オリバーレス公伯爵