1 :
世界@名無史さん :
05/03/02 14:48:02 O ぶっちゃけ勝てたと思う?
17世紀の陣立 長沼流では、銃・弓・士(持鑓)・鑓(長柄を持つ足軽)・鼓・隊長・旗・馬の順。 最後に並んでいる馬は、前方に居る「士」の乗っていたものでしょう。 北条流・越後流では長柄と持鑓の順が逆になりますが、馬が最後なのは同じです。 永禄12年(1569)、武田家の陣立(括弧内は指揮・管理者) 当主直属の旗本足軽衆(鉄砲衆)→徒弓衆(城和泉守以下10人)→ 馬之衆(原隼人・山形勘解由ら2人。馬之衆は騎乗者を一括したもので、「小姓共馬」も確認出来る) →代々之旗(岩手能登守)→長鑓衆(荻原豊前ら2人) →各鉄砲(志村又左衛門ら2人)→持鑓(廻奉行の水上・西山の2人) →馬三疋(荻原馬丞)→馬鎧・指物・甲30手(武藤三河守) →側近と医師数名→押太鼓卅本→毛鑓・廿人衆→大太刀・長刀持ち→鑓と手明を両脇に従えた信玄 →親類衆卅騎・小姓衆廿五騎・御牢人衆廿騎・近習八十騎+今井肥前守ら4人 →同心50騎(桜井与三)・内之者(大井将監) 単語や指揮官については、よく分からない点も多く、正直提示するだけしておいて、 御質問には答えられません。 いずれにせよ、鉄砲・弓でまず攻撃を加え、敵が至近距離まで迫った時点で脇に逃れて 鑓を通し、後は各自が器量次第で戦った点は同じです。 当時の日本は鉄砲大国だったから世界最強だったという意見がたまに見られますが、こ の時代は鉄砲は、暴発はともかく不発が多く、敵に止めを刺した矢や鑓の存在も軽視出 来ません。現代社会の「鉄砲」のイメージが強いと、過大評価しがちになりますが。
無理
一国にならまあ余裕で。
ポーランドぐらいなら勝てそう。
6 :
世界@名無史さん :05/03/02 16:01:24 0
スペインにでも普通に勝てるよ。動員兵力が違いすぎる。
船で負ける。銃の性能で負ける。 明には勝てるが当時世界最強国のスペインが相手じゃ手も足も出ない。
当時はまだ欧州のほうが格上だったんじゃないのか?
9 :
世界@名無史さん :05/03/02 17:13:27 0
>>5 近世以前のポーランドは強国だったんじゃないか?
10 :
世界@名無史さん :05/03/02 17:18:07 0
日本が船団を仕立てて、イベリア半島やグレートブリテン島に攻め込むとしたら、 惨敗でしょう。そもそもヨーロッパまで行き着けるかどうか。 イスパニアやヴェネツィアが船団を仕立てて、日本に攻め込むとしたら、 撃退は可能だろう。 インドや、中央アジアあたりを戦場にして、フランスや神聖ローマ帝国と ガチで戦うなら、どうだろう?
11 :
世界@名無史さん :05/03/03 01:59:07 0
スペインが世界最強国って持ち上げすぎじゃない? オスマントルコや明の方が明らかに強いでしょ。
12 :
世界@名無史さん :05/03/03 02:00:18 0
そもそもスペインは日本にケンカ売ったら勝ち目なさそうだから交易で留まってたんだし。
13 :
世界@名無史さん :05/03/03 02:06:17 0
欧米の学者だったかが、日本が鎖国しなければインド辺りでイギリスと
激突していたという予測をしていて、第二次世界大戦は400年遅れの
衝突と言っていた、という話を読みました。誰の話を読んだか覚えて
いないので、ソースは出せません。
だから、
>>10 さんのインド辺りという条件で、イギリスやフランス
と一国相手なら引き分けまでは行けるかも。
>>11 レパントの海戦
まあ陸戦ならまだオスマンに分があったと思う。
日本とスペインの戦いと言われてもどんな状況か設定してくれないとなんともいえん
もしスペインが日本に軍隊を送り込んで占領しにきたという仮定での設定なら
議論の余地がなく日本の勝利ですよ。
しかし日本がスペインに攻め込む場合は仮定できない。
日本の航海技術ではとても地球の裏側に辿り着くことは出来ない。
15 :
世界@名無史さん :05/03/03 02:29:50 0
武田騎馬軍団vs1930年イタリア軍 どっちが勝つか?
16 :
世界@名無史さん :05/03/03 02:50:34 O
>>14 多大な犠牲を払ってもいいからともかく数隻拿捕できりゃ
得意の技術模倣で艦隊作れるのでは。
ついでに鉄張ってさ。
17 :
世界@名無史さん :05/03/03 06:08:55 0
信長新記読めば良いんじゃない?
>>16 船があれば航海出来る訳では・・・。鉄板については、ノーコメント。
19 :
世界@名無史さん :05/03/03 18:37:58 0
>>11 オスマンはともかく明はヘボイでしょ。
オランダ相手に防戦一方で終わったわけだし。
20 :
世界@名無史さん :05/03/03 18:44:38 0
スケールのでかさからスペインには勝てる国はなかった。 それは素直に認めるべき。
>>14 プレヴェザの海戦も考慮しないと不公平じゃないかね?
それにキリスト教連合軍はスペインだけじゃなくてヴェネチアもかなりのシェアを占めてる。
レパント敗戦後もオスマン艦隊は5秒で回復。方やスペイン海軍はイギリス海軍に破れ没落。
とてもスペインがオスマンより強いとは・・・
22 :
世界@名無史さん :05/03/03 18:47:32 0
23 :
世界@名無史さん :05/03/03 22:55:00 0
>>21 アレ?
レパントではヴェネチアやイタリア都市はオスマン側じゃなかったけ?
24 :
カウニッツ :05/03/03 23:04:38 0
1から歴史を勉強することをお勧めします。。。
25 :
世界@名無史さん :05/03/04 17:35:46 0
同時代における日本の鉄砲は威力、生産性、保有数において世界トップですが 西洋諸国の方が火器の威力で勝ってるという論拠はどこにあるのでしょうか? また、当時欧州の海戦が白兵戦中心で、「やあやあ我こそは〜」で戦っており スペインの軍船は砲門が船首に一門あればいいほうで、ほとんどの船が大砲を 装備してませんが優秀な軍艦でしょうか? 当時の欧州は強国というよりは、弱いものいじめしかできない卑劣なイメージ しかないのですが
ちょっと信頼できるか自信のない数値だけど20世紀初頭の研究者ゾンバルトのあげた数値。 1548年にイギリスの艦艇が装備していた大砲の総数。2087門。 1538年にスペインが一人の商人から買った小銃の数は一万五千丁。 1586年にベルン市がズール市から買った小銃は2500丁。 1588年にイギリス艦隊と戦ったスペイン艦隊が装備していた武器の量。大砲2431門。小銃8000丁。 1600年にデンマーク王が一人の商人から買った小銃は6000丁。 各国が保有した武器の総数はないんだけど、上の数値は個別の契約書とか支払い台帳が根拠となった数値みたい。 だけど目安にはなるよ。 以下想像。 スペインとかは銃砲の購入を毎年行っていたみたいだし、複数の商人から銃を購入していたみたいだから 総保有数は数万レベルだと思う。 デンマークも同じで複数の商人から購入していたみたいだから数万レベル、 ベルン市みたいな国じゃなくて都市も武装していて数千丁レベルの銃を保有していたと思われます。
27 :
世界@名無史さん :05/03/04 18:32:10 O
しかしフィリピンにはどれだけあったかな?
スペインとかオランダが世界一の大国だったことがあるって見方はやっぱり西欧中心な見方に染まってるのは否めないね 技術や社会構造の進行度などはともかくもはともかくも、 彼らの時代はまだ所詮ユーラシアの諸強国には未だ太刀打ちできず、間隙を縫って弱い所を征服してたに過ぎん 欧州の諸国が本当に「列強」というべき世界に比しても圧倒的な力を持ち出したのは18世紀の半ば辺りからじゃないかね 第二次100年戦争あたりの英仏はもう世界の強国といってもいいのだろうが
1587年4月、ドレイク率いる帆船団がカディス港を襲撃した時には、スペ イン側のガレー船12隻が出動していますが、大砲5門を搭載したガレー船は、 32門を搭載した帆船に切り抜けられています。 しかし、これを教訓としたものか、1588年にいざ動員されたのは・・・ ガレオン船等大型船 65隻 貨物船ほか 25隻 小型船 32隻 オール付帆船 4隻 ガレー船 4隻 大砲を乗せた船124隻、一隻あたりの平均が9門となっております。 イングランド側は、172隻で平均が11.5門。 もっとも、当時の海戦での大砲の命中率はかなり低かった事は、皆さんご存知の通り。 イングランド船が思う存分スペイン船に弾を撃ち込めたのは、相手の弾薬が欠乏し、 鉄砲弾や白兵戦による死者も出始めてからの事であったそうです。 日本の鉄砲ですが、大阪冬・夏の陣で鉄砲が弓矢の代わりに採用されている例も見え る事を、命中精度の改良により、「名人」をさほど必要としなくなった為だと解釈する 研究者がいます。平戸のオランダ商館を通じて、輸出もされている。 ただ、「同時代における日本の鉄砲は威力、生産性、保有数において世界トップですが」 と まで言っていいのかどうかは分りません。
30 :
25 :05/03/05 01:03:27 0
>>26 最初に、提示いただいた資料の【1588年英国艦隊と戦ったスペイン艦隊】が
俗に言う【アルマダ艦隊(無敵艦隊)であること】を確認しておきます。
また、【アルマダ艦隊は英国本土制圧を想定した陸軍であり、海軍ではないこと】
も確認させていただきます。
なお、1588年のアルマダ艦隊の構成は、水兵8050人、陸兵18973人、従者450人で
ガレーの漕ぎ手を入れて水増しして【戦闘員27473人】に医師62人、修道僧180人。
【小火器8000挺】であることも確認しておきます。
31 :
25 :05/03/05 01:37:31 0
1569年女王エリザベス治下のイギリスはフランス侵攻の際動員できる 【イギリス全体の兵隊】と武器の数を総点検しました。 その集計数は、【兵数24000人】【鉄砲6000挺】でした。 (ソースは『Lindsay Boynton著 The Elizabethan Militia』) その5年前の1584年【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺隆信】が 島原方面で有馬・島津連合と対決した際率いた軍勢は【兵数25000人】 【鉄砲9000挺】でした。 すなわち、【欧州最強のスペイン(動員兵数27473人、鉄砲8000挺)】や、 【エリザベス治下のイギリス(全体の兵数24000人、鉄砲6000挺)】では、 【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺(兵数25000人、鉄砲9000挺)】 にさえ及ばないことがわかります。 同時代における日本の鉄砲は威力、生産性、保有数において世界トップですが 何か異論はありますか?
32 :
世界@名無史さん :05/03/05 02:46:44 0
戦国期の地球上で最強の国家は、 やっぱりトルコじゃないの? ついでに、史上、バルカン半島の統治に最も成功した国家も、 オスマントルコでは?
33 :
世界@名無史さん :05/03/05 02:53:17 0
25が「スペイン船は大砲積んでない」発言をスルーしている件について
25が「1538年にスペインが一人の商人から買った小銃の数は一万五千丁。」をスルーしている件について。
35 :
世界@名無史さん :05/03/05 13:52:45 0
>>34 スルーもなにも史実だよ
当時、世界の鉄砲を一手に扱うジンジゲートが存在していた。
そいつは一人の商人であるが十万丁を保持していて、世界を裏から操っていた。
近代のビルゲイツという異名もあったし
36 :
世界@名無史さん :05/03/05 16:23:12 0
>>32 スペイン=世界
オスマン=地中海(東半分のみ)
明=朝鮮・ベトナムなどの弱小国
鎌倉時代〜戦国はアジア全体で西欧の勝ち。
なんていうか文明の発達の次元が違う。
日本人として素直に認めるべきこと。
俺だってもちろん白人なんか大嫌いですよ。
37 :
世界@名無史さん :05/03/05 18:01:49 0
>>36 世界って、、、スペインが領有してたのは未開のアメリカ大陸が大部分だろ。
欧米信仰もそこまで行くとキモいよ。
38 :
25 :05/03/05 18:05:15 0
>>33 レパンドの海戦でのスペイン艦隊の主力であった一般的なガレー船の話です。
ガレー船は構造上多数のオールがあったため両舷に大砲を配置されておらず、
わずかに数門の大砲が船首部分についていればいいほうでした。
アルマダ艦隊が陸軍である点を確認したのは、提示された資料の大砲が海戦
用と陸専用のものと区別がつかないことを確認する意図があったのです。
なお、ガレオン船については
>>29 氏が正しいようです。勉強になりました。
スペインやフランスの船は、マストや帆を狙って航行不能にした状態での白兵 戦(鉄砲含む)を、イングランドの船は敵の船自体の沈没を志向したそうです。 日本も、朝鮮出兵では切り込みを得意としていました。 しかし、上部に刀錐があった亀甲船相手では、それは難しかった様です。 なお、慶長の役の諸戦で亀甲船は壊滅していますが、李舜臣はそれでも戦況を 優位に進めていました。 あまり言うと、スレの趣旨ほかで面倒になるので止めておきますが。
戦国期の日本はルネッサンス期のイタリアに似ている……… 気がしないでもない
41 :
25 :05/03/05 18:24:03 0
>>34 資料のソースが不明で数字自体が疑わしいため、アルマダ海戦以外の資料はあえて
無視しました。15000挺とはどこからでた数字なんでしょうか?
>>26 >>35 論拠なく空想で数字を水増しする考え方には賛成できません。
>>36 良い病院を紹介しましょうか?
科学的な考察のできない人間が学問板にいるとは…。
日本の一弱小地方領主にすら欧州一国の兵力に劣っているのに、世界最強であると
主張する方がいることは驚きです。
戦国期 オスマン帝国>>ムガル帝国>明>>>>日本=サファヴィー朝>>スペイン>>他
43 :
25 :05/03/05 18:29:46 0
わかりやすいように訂正 一国の兵力が、 日本の一弱小地方領主にすら兵力で劣っているのに、 世界最強であると主張する方がいることは驚きです。
>>43 スペインは最盛期で10万近くの兵力を動員できたとも聞いたけどね(それでも同時期の日本にはかなり劣っているが)。
それ以外の国はそれでも間違いないね。
欧米人は体格がいいからな ローマ人、西ゴート人、イスラム人、ノルマン人の血筋を引き日の沈まない帝國をつくったイスパニア帝國は最強といわないまでも強いと思う
ローマ人は体格良くない 知性により構築された文明
47 :
世界@名無史さん :05/03/05 18:38:13 0
>>42 ムガル帝国を過大評価です。
オスマン帝国>明=ムガル帝国>日本≧サファヴィー朝>スペイン≧イギリス
フェニキア+ローマ+ゴート+イスラム+ノルマンという人種ならば当時の日本人で勝つのは難しい>体格
戦国時代の日本人って小さかったんだっけか? でかいころもあったんだよね。近代化以前にも。
50 :
25 :05/03/05 18:53:06 0
なお、1609年にスペイン国王は、太平洋方面総督に対して 【日本と戦えばスペインが負けて国の恥になるから戦うな】 という趣旨の勅令を出しています。 (ソースはAntonio de Morga著『 Sucesos de Islas Firipinas』) 318ページ参照
51 :
ナポレオン ◆vYVYAtFe0o :05/03/05 18:55:42 0
銃砲って銃と砲は別物なんだが…。 「倭に鳥銃あり」と言われた朝鮮出兵の時だって、 明軍の大砲に散々に撃ち据えられているでしょう。 関が原のときも大砲は両軍あわせて5門くらいしかなかったはずでは?
52 :
世界@名無史さん :05/03/05 19:01:04 O
一口に戦国期といっても、時期によってえらく違いそうだが。 鉄砲伝来前ならあっさり凹られそう。
明の大砲ってポルトガルから輸入していたものでしょ? 清のヌルハチも寧遠城の戦いの時、ポルトガル大砲で傷つき温泉で傷を癒したが、病にかかってこの世を去ったとあるが
逆に鉄砲伝来後なら鼻歌まじりにボコれる。
>>25 そんなにムキにならないで、怖いよ。
私は正直言って日本が最強とかヨーロッパが強いなんてことに関心はないよ。
関心があるのは数値とその数値を導くのに使った史料と、導く方法くらい。
私の知ってる限り、欧米の文献でも日本が戦国期極めて強大な軍事国家だってことになってるから。
ジェフリー・パーカーの軍事革命なんかは邦訳も出ていてよく知られてるけど、
パーカーと対立ばかりしているジェレミー・ブラックでさえ日本についてはパーカーと意見が一致している。
ちなみに二人とも信長の三段撃ちとか、武田騎馬軍団みたいな話を信じてるみたい。
16世紀のイギリスは「軍事革命の周縁」とか呼ばれて貧弱な軍事力しか持っていなかったって見られてるね。
大久保先生なんかは16世紀のイギリスを丸腰国家なんて皮肉ってる。
この時代だとフランスかスペインが第一に上げられる。
16世紀の最大動員兵力はパーカーによるとスペインが約15万名で、フランスは8万名。
16世紀これを越える動員を行ったヨーロッパの国はない。
日本はパーカーによると30万の兵員を動員したっていうからこれを信じるなら、
動員兵力はスペインを凌駕しているね。
ただ、ブラックによると同時期のオスマントルコも30万動員できたっていうから、同じだね。
今回の参考文献は以下(ページ数は忘れた)。
clifford rogers,the military revolution debate,1995
ジェフリー・パーカー,長篠合戦の世界史,同文館,1995
jeremy black,cambridge illustrated atlas warfare renaissance to revolution,cambridge,1996
大久保桂子,ヨーロッパ「軍事革命」論の射程,思想881,1997
前回のは。
ゾンバルト,戦争と資本主義,論創社,1996
15000丁の根拠はゾンバルトによると購入契約書だね。同じ年に他の商人から10000丁買う契約も結んでる。
アルマダの装備していたのはゾンバルトによると艦砲ってことになってる。根拠はアルマダの装備品の記録だって。
ちなみにゾンバルトの数値がどこまで信用できるものかは前回も書いたけど裏を取ってないから分からない。
>>55 戦国武将・秀吉が人生をかけておこなった朝鮮の役(文録慶長の役)ですら15万人なんですけど
57 :
世界@名無史さん :05/03/05 19:16:51 0
小田原攻めは20万人 30万人でも総力を注いだら不可能ではなさそう
オスマン最強ということか?
少なくとも第二次ウィーン包囲の敗北(1683)までは力関係はオスマン>欧州全体
バルバロッサには手も足もでない欧米人
61 :
ナポレオン ◆vYVYAtFe0o :05/03/05 19:23:20 0
ちなみにパーカー『長篠合戦の世界史』(何度見ても酷い邦題だ)によると、 レコンキスタの際、1482〜1492年、 カトリック両王が使った攻城砲は180門。 1544年、フランス・オランダ国境の15のフランス軍要塞は、 大砲1012門を保有。 1552年、カール5世のメッツ攻囲軍は5万5000人。 1558年、アンリ2世がフランドルに展開したフランス軍は5万人。 1629年、オランダ軍のスヘルトヘンボス攻囲軍は12万8877人。 1632年、ロシア軍のマスケット銃は1万7400挺。
62 :
ナポレオン ◆vYVYAtFe0o :05/03/05 19:27:55 0
あちゃー、にゃあにゃあさんの後ではなんとも間抜なレス。 ま、具体的データの提示と思ってみてください。
弱小国は軍事力を誇張するのが世の常じゃない?
64 :
世界@名無史さん :05/03/05 20:28:52 O
映画梟の城でポルトガル人「堺の鉄砲は世界一ね」っという描写がでてくる
65 :
世界@名無史さん :05/03/05 20:42:46 0
>>37 中国厨ってなんでやたらをマンセーするの?
救えねえよ。馬鹿が。
66 :
世界@名無史さん :05/03/05 20:48:54 0
>>37 つーか戦国期の日本が西欧より上なら
なんで西欧で先に産業革命が起こったの?って思っちまう。
関が原の戦いでは鉄砲を沢山持ってたらしいけど
ちょうどその辺りから西欧に対しておいあげを始めて今にいたるでねえの?
あと戦国期の中国やオスマン帝国ってまるきり領土だけの後進国ですから。
西欧がこれより上回ってたのは事実なんだから素直に認めろよ。
鉄砲や大砲だって西欧が先立っただろ。
日本や中国で室町幕府や明なんてのが栄えてた頃、西欧ではすでにガリレオ・ガリレイ
やコペルニクスなんて人が活躍してた。
また戦国期には恐ろしく正確な地図も作られてた。
それを無視してまでなんで中国をマンセーしたがるかがわからん。
中国が先進国だったのは唐〜宋までだろ。
>>51 小西行長軍が渡関ヶ原の合戦で来した大砲(フランキ)を使用しておりますが、
何門あったのか未だに分りません。
1580年代には、九州で大友宗麟、加藤清正、小西行長が大砲を使用して
おり、関ヶ原の合戦前後には、西国で城攻めや城側の防戦に使用されていま
すが、野戦でさほど活躍するまでには至らなかった様ですね。
上にも述べた通り、日本の鉄砲はマラッカ製のいわば二流品(?)がもとであ
った様ですし、数以外に具体的な性能について考える必要があるでしょう。
大砲・鉄砲・馬の運用法、軍制等を無視して武器だけでは語れませんし。
>小西行長軍が渡関ヶ原の合戦で来した大砲(フランキ)を使用しておりますが、 文章再編時におかしな事に。 小西行長軍が関ヶ原の合戦で大砲(フランキ)を使用しておりますが・・・で。
69 :
世界@名無史さん :05/03/06 00:01:06 0
兵力がなんぼあっても海軍力がゼロに近いのではどうにもならん
70 :
世界@名無史さん :05/03/06 01:32:02 0
>>65-66 >>37 は中国や日本なんて一言も口に出してないわけだが・・すごいねこいつの被害妄想は
ていうかお前、このスレでもずっとがんばってるけど昔に他スレでも西欧マンセーして暴れてたろ?
論破されてしまいには農業国のローマ・ペルシア・中国はショボいとかテンぱった言って引かれてたよな
イタくて目立ってたからからすぐわかるんだが
イスパニア帝國の前身アラゴン王国とカスティリア王国は農業国です。
ローマの遺跡と土を盛っただけのしょぼい古墳を見比べると、 日本なんてたいしたことなさ杉。
73 :
世界@名無史さん :05/03/06 08:56:45 0
74 :
世界@名無史さん :05/03/06 09:01:36 0
>>72 あたりまえだろ。
文明発達の次元が違いすぎ。
秀吉は落ち目だった明にすら勝てなかったんだよ? そんな日本が欧米列強に勝つなんて難しいんじゃないかな?
76 :
世界@名無史さん :05/03/06 09:37:35 0
日本にとって栄光の時代とはどう考えてもここ1世紀のみ。
この時期はオスマントルコとサシで勝負できる国はヨーロッパには無かったが。
秀吉敗北のあと、家康や家光あたりが体制を立て直して、もう一度明を攻めてたとしても、ヌルハチみたいな活躍は難しいんじゃないかな?
つーか疑問なんだが、何でスペインやらオランダやらは 日本を植民地にしてやろうとか思わなかったんだろう。 やっぱたいした資源とか無かったから?
この時点ではインドやインドネシアを制圧する段階で、極東まで大規模な軍事行動をとれるだけの力はなかった。 もっともそんな軍事力があったなら、真正面からオスマントルコを撃破していただろうが。
82 :
世界@名無史さん :05/03/06 17:46:12 0
>>66 ガリレオは宗教裁判で地動説を撤回させられ、
コペルニクスの地動説学説は死後発表したため、
わざわざ墓を掘り出して遺体を火刑に処されています。
結局、地動説学説はコペルニクスの死後100年を経過してから認められており、
生前に【活躍】した時期はありません。
83 :
世界@名無史さん :05/03/06 18:27:02 0
>>66 産業革命がなぜ起きたのかについては多くの議論が交わされており、
現在も明確な回答はないのですが、私見を述べさせていただきます。
植民地から集めた原材料を加工するには英国は人口が少なすぎたのでしょう。
清、オスマンなど人口の多い国であれば、わざわざ機械製造して利用するよりも
労働力を集めた方がずっと簡単で信頼性が高かったため、
機械を利用する産業革命に到達できなかったのだと思われます。
産業革命は18世紀後半であり、議論されている戦国期よりも200年近く後なので
スレ違いなのですが、一応回答。
しかし、大航海時代からいきなり産業革命に飛躍して欧州を賛美とは痛いな。
小学生の教科書みたいな理論に失笑しています。
84 :
世界@名無史さん :05/03/06 18:35:05 0
>>80 当時の欧州を過大評価してはいけません。
マカオやデイウのような中継地があるからといって
その地域を手中に収めたわけではないのです。
その理論では、中華街がある国はすべて中国領というようなものです。
>>75 いや、その頃は欧米もまだ列強といえるほど大したことはなかったから。
明に勝てなかった日本でも十分勝てる。
>>75 朝鮮での敗北は明に勝てなかったと言うより、どちらかっつうと後年の日本お得意の兵站線の崩壊によってってイメージが強いが。
相手が弱かったのに加え、焦土戦術と貧弱な内陸部のインフラによって部隊の進撃に策源地からの補給が追いつかず飢餓と病気で勝手に自滅。
これがどこまで信頼できるリストか分からないけど、ブラックの上げる世界の列強。 1500年次 欧州:スペイン、ポルトガル、ロシア、ポーランド、ヴェネティア、フランス 中東:オスマントルコ、ペルシャ、マムルーク インド:デリースルタン 極東:明 アフリカ:ボルヌ、ソングハイ、アデル アメリカ:インカ、アステカ、マヤ 1600年次 欧州:スペイン、ポルトガル、ロシア、ポーランド 中東:オスマントルコ、ペルシャ インド:ムガール 極東:明、日本 アフリカ:ボルヌ、モロッコ、エティオピア、ムタパ
ブラックの記述は欧州に関しては信頼できるけど、他の地域についてはかなり怪しいそうです。 ちなみにブラック博士は最近欧米で流行ってる軍事革命論の大家なんだそうです。 ジェフリー・パーカーと並び表されるって感じで、 「長篠合戦の世界史」を見る限りではパーカーもかなり対抗意識を燃やしてるみたいです。 ちなみに兵力の例を挙げると。 1519から21年にかけて行われたコルテスのアステカ征服の際にコルテスに味方した現地人の同盟軍が20万で、 アステカ帝国軍の兵力もこれに匹敵するとか。合わせると40万。 1526年のパーニパットの戦いでは1万5千のムガール軍が対するラージプート軍8万を敗る。 1530年頃にオスマントルコがオーストリア方面に投入した兵力が30万。 1578年にモロッコに侵攻した2万のポルトガル軍が7万のモロッコ軍に敗北。 1581年にムガール帝国は5万の兵力を動員した。 1587年に秀吉が九州征服に投入した兵力が30万。 そういうことで兵力勝負はアステカの勝利です。おめでとうアステカファンの皆様(冗談です)。 冗談はさておき問題はブラックの上げるこれらの数値がどこまで信頼できるのか?です。 今の私には判断できそうにない.... jeremy black,cambridge illustrated atlas warfare renaissance to revolution,cambridge,1996,pp.11-32
最強論争が始まったみたいだけど敵意が募るばかりで不毛だと思うよ。 それよりもスレタイ通りに平和りにデータを積み上げてた方が、精神衛生上いいと思う。 (それとも釣り合戦?)
90 :
世界@名無史さん :05/03/06 19:58:16 0
>>31 >その5年前の1584年【日本ではやっと一国を治めていた竜造寺隆信】が
>島原方面で有馬・島津連合と対決した際率いた軍勢は【兵数25000人】
>【鉄砲9000挺】でした。
出典は?
91 :
世界@名無史さん :05/03/06 20:01:29 0
当時スペイン(ポルトガル)はあの絶対王政の最盛期 世界でいち早く絶対主義を確立し、軍制も官僚的に整備され、世界的にもいち早く近代化されている だから強い海軍を保持でき、世界各地を征服できた。 対して日本軍はどうか。 戦国時代を経験し、兵の練度は高かったかもしれないが、軍制はまさに中世の封建体制そのもので 軍は領主の私兵。装備も規律もてんでばらばらで非統一的。 海軍にいたっては言わずもがなで、九鬼家など海戦に精通した領主もいたにはいたが殆どが10万石以下の小大名。 大大名なんかは、そういった小大名の指示に組み込まれることを嫌って、殆ど指示に従わなかったという。 だからこそ、海賊に毛が生えた程度の李朝海軍に敗退するわけだよ。 これではとてもスペイン海軍とは戦えない。 さらに致命的なのは スペインは完全に国王を中心に軍の統制が権力一本化されているのに対して、豊臣政権は所詮領主連合で封建体制から脱皮していないこと。 日本軍は日本一丸となって戦うわけではなく、日和見する大名もいるし、殆どの大名は、日本国の領土拡張などより御家大事であること。(そもそもその時の戦国大名に、ネイション概念があったかも疑問だが) スペインは国力の100%の力を発揮できると期待すれば、日本はせいぜい50%くらいか? まあ、例えるなら「火力が増したイタリーやドイツの都市同盟軍」というのが実情ではないだろうか。 漏れは、小早川マンセー、秀吉マンセーの戦国オタだから日本軍の当時の武力を高く評価している方だけどこの程度。 火力や武力はイタリーやドイツの都市同盟のそれとは比較にならんと思うけどね
92 :
世界@名無史さん :05/03/06 20:01:54 0
日本の一弱小地方領主= 竜造寺隆信が9000挺 信長が長篠の戦いで1000挺(3000挺?) どうしてこんなに違うのかな?
>>87 >>アメリカ:インカ、アステカ、マヤ
正直ここら辺って数以外の装備体系や戦闘陣形みたいな戦術の面ではどうなんだ?
なんか部族間でのどつき合いなら兎も角、ユーラシア大陸の他民族との戦争では如何なものかってイメージを受けるんだが・・・。
94 :
世界@名無史さん :05/03/06 20:24:48 0
スペインとかだと「テルシオ」陣形・方陣?があったようですが、 日本は、ああいったのはあったの?
95 :
世界@名無史さん :05/03/06 20:41:10 0
>93 「新大陸では」強豪だったって事だろ。 戦術は、戦の前に神に祈ったりいけにえを捧げたり、まあ色々
>>94 雑兵物語なんかで鑓先を揃えて叩くべし〜みたいな記述や長柄鑓なんつう隊列戦闘を前提にした武器があるので基本的な隊列戦闘はしていたのは間違いない。
それよりも大規模かつ複雑なものに関しても戦国〜江戸時代に書かれた戦術書には様々な陣形がのっていたはず。
なお軍板辺りに行くと、書物の陣形は中国からパクッたもので実際には使われてはいない!根拠?屏風の絵は陣形組んでないじゃん!・・・みたいな陣形否定派の人も若干名いる。
>>88 >1587年に秀吉が九州征服に投入した兵力が30万。
日向路から15万、肥後路から10万と言われています。
これでも多少の誇張は考えられると思いますが。
なお、当時は兵力全体の内、純粋な戦闘員は約三分の一であったともいいます。
>96
正直なところ、実際に陣形が使用されていた事に懐疑的になるのも納得出来る
点もありますね。○○の陣が使われた、という戦闘の方が少ない。
川中島などについても、『甲陽軍監』以外にまともなソースがあるのか・・・。
98 :
世界@名無史さん :05/03/06 21:57:36 0
学問と国力を同列に語られてもねえ・・・。
100 :
25 :05/03/07 00:20:34 0
>>90 ソースはMurdoch著『History of JapanU』の220ページ。
101 :
25 :05/03/07 00:28:30 0
>>92 【長篠の戦いでの鉄砲3000挺による三段撃ちのソース】は、
後日に面白おかしく書かれた寓話【信長記】であり、歴史的信憑性の薄い。
また、【長篠の戦いでの鉄砲1000挺とするソース】は、
正史『信長公記』であるというが、これも虚構であり、
断片的な数字があるにすぎず、【『信長公記』に正確な数字の記述ない。】
102 :
世界@名無史さん :05/03/07 00:36:52 0
>>25 >Murdoch著『History of JapanU』の220ページ。
二次だよね。一次史料は?
103 :
世界@名無史さん :05/03/07 01:12:46 0
通史みたいなタイトルだなw
104 :
25 :05/03/07 01:17:06 0
>>92 しかし、Turnbull著『Samrai』によれば、
【長篠の戦いにおける織田・徳川連合は兵数38000人】であり、
その内の【鉄砲部隊は10000人】だという。
同書によれば、【その内の鉄砲隊精鋭約3000人を主力に武田騎馬部隊を鎮圧した】という。
これは『信長公記』の断片的に記述されている数字の合計、
信長精鋭鉄砲隊500人+徳川弓鉄砲隊2000余に近い。
また、『信長記』の三段撃ち戦法が寓話であっても、
一人歩きしていた3000挺という数字の論拠ではないかと思わせる記述である。
105 :
世界@名無史さん :05/03/07 01:19:18 0
ポーランド軍のウィングド・フッサールと最盛期の信長軍とを戦わせたらどっちが勝つだろうか? ポーランド軍は武田軍みたいにいきなり騎兵突撃をしていたわけでなく、 突撃する前に相手部隊を混乱させる長弓、鉄砲、大砲をを備えた部隊も持っていたから 長篠の戦いみたいに簡単にはいかない うーん、やはりポーランドが人数と火力で信長を圧倒するだろうな
106 :
世界@名無史さん :05/03/07 01:27:10 0
当時の日本の軍船が弱いという意見が多いようだけど、どうなんだろう。 信長は、鉄張りで大砲を備えた軍船を世界で始めて発明している。 日本人は昔から、外国の技術を導入すると、40年ほどでその国を上回る技術を 持つ傾向があるらしい。 例えば奈良時代頃に中国や朝鮮から伝わった銅の溶着技術、明治時代にフランスから 伝わった製糸の技術、イギリスから伝わった綿紡の技術などは、40年ほどでそれぞれの 国を追い越し、世界一の技術や生産量を持つようになった。 戦後の自動車やエレクトロニクスもそういった傾向が見られる。 特に戦国時代の鉄砲生産はその傾向が顕著だった。最初は種子島に流れ着いた たった二丁の鉄砲を模造し、やがて独自に改良を重ね、命中精度や雨天対策などで 外国産を大きく上回る性能を持つようになった。戦国末期は堺だけで一日に15丁、 つまり年間5千丁の鉄砲を作っていた。それが日本の6割程度というから、日本全体では 年間8千丁にも達し、日本一国でヨーロッパ全体を上回る量だったのは間違いない。 関ヶ原の合戦の時は日本全体で10万丁はあったと推定されているが、当時の フランス王の軍隊は1万丁程度。当時の日本の鉄砲は量、質ともに世界一だった。 しかも単に鉄砲を作るだけでなく、鉄砲を使った戦術に関しても、信長の三段構えや 鈴木の組み撃ち鉄砲、伊達の騎馬鉄砲隊など、様々な戦術が編み出された。 軍船に関しては、確かに当時の日本は海戦よりも地上戦の方が多かったから、あまり発達 してなかったし、大砲も発達してなかった。 しかし、いざヨーロッパに挑む事になり、軍船や大砲の必要性を感じたなら、当時の日本人なら 独自にそれらを改良、生産し、やがてはヨーロッパを上回る量、質、戦術を編み出したんじゃ ないかと思われる。
>ポーランド軍は武田軍みたいにいきなり騎兵突撃をしていたわけでなく、 武田「騎馬軍団」は、現在では無かったとする説が有力かと。 当時は騎乗者に歩兵数名が同行するものでしたし。 というか、誰も>2は見てらっしゃらないとOTL。
>106 突っ込みどころが最低三つはありますが、多分釣りだろうから、言いませんよ。 しかし、まるで『国民の歴史』の様な・・・。
109 :
世界@名無史さん :05/03/07 01:33:05 0
>突っ込みどころが最低三つはありますが どうせ戦術の実在云々だろう。
110 :
世界@名無史さん :05/03/07 01:37:37 0
Murdoch著『History of JapanU』 Turnbull著『Samrai』 なんで全部外人の本なの……。
たしか武田の騎馬隊と違って伊達鉄砲隊は実存してた可能性が高いんじゃなかったっけ?
まちがった。伊達の騎馬鉄砲隊だった
>>105 >長篠の戦いみたいに簡単にはいかない
戦の素人の我々でさえそう考えるんだから、戦慣れして独創性の信長なら
すぐその事に気付き、長篠とは違った新しい効果的な戦法考えるでしょ、普通。
114 :
25 :05/03/07 01:57:10 0
>>55 私は客観的で具体的な資料の数字を比較して、
【欧州諸国が最強であったとすることはやぶさかでないこと】を一環して主張しています。
どちらが強いとか、どちらが最強とかいいましたでしょうか?
むしろ、87で主観性の強い資料を引用してまで格付けしているのは、
あなたの方ではないでしょうか?
しかしながら、88に至っては酷いとしかいいようがないです。
殺した側が殺された側の数字を水増しして水増し報告することは当たり前であり、
そこまで信憑性がない資料を引用しながら、科学的データの比較を口にするとは…
それとも断片的で信憑性の薄い資料を妄想で肉付けする姿勢を指摘したことが
よぽどお気に触ったのでしょか?
115 :
世界@名無史さん :05/03/07 01:57:58 0
大陸じゃ騎兵が強くなけりゃ、戦に勝つのが難しいのでは?
>>113 そんなこと言っても、同時代のポーランド軍団も戦い慣れしてるよ
兵站一つ取ったって信長の経験はせいぜい数百キロに対して、ポーランドは数千キロだから
定期的に立つね、この種のスレ
113で言いたかったのは、ポーランドと信長どっちが強いかでなく、少なくとも 不利と分かってるのに長篠と同じ攻め方するような馬鹿な真似はしないでしょって事でつ。 信長ならまたなんか新しい攻め方考えるでしょ。
>>117 「武士と騎士 どっちが強い」スレ
「ニポ-ン武士 VS エングランド騎士 」スレ
とかね。
動員数で見れば日本が圧倒的。あっちの神様は一人しかいないが、 日本には八百万の神がおわす。
ところで戦国末期、シャムに行って活躍した山田長政の話は創作らしいけど、それでも 一応、東南アジアに行って出世した日本人は実際にいて、それが山田長政の モデルになってるとかいう話も聞いた事あるんだけど、実際のとこどうなの? 戦国の日本で培われた戦のノウハウを活かせば、東南アジア辺りでは敵無し だったのかな。
122 :
世界@名無史さん :05/03/07 08:14:09 0
>>116 ポーランドなんて山がちで多雨な日本の戦場は未経験。
日本で戦えば日本が有利だしひらけた大陸で戦えばポーランド有利ってことだろ。 戦闘機対竹槍ならともかくこの議論は不毛だと思われ。
126 :
世界@名無史さん :05/03/07 12:15:54 0
装備がどんなに良くともスペインの近代化された絶対王政の軍隊に、中世の封建領主軍が勝つことはありえないよ 日清戦争がいい例。清国は当時日本よりはるかにいい装備をしていた
127 :
世界@名無史さん :05/03/07 17:57:49 0
清が日本に負けたのは単に清王朝の敗北というより 「中華文明の敗北」と言う言葉のほうが良く似合う。 それまで日本なんざ完全に格下だったんだもんな。 唐が中華文明の全盛期とすると明・清はその「残りかす」。 今の中華人民共和国は「なれの果て」だ。
128 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:00:51 0
>>126 近代化されたスペインってのは何世紀あたりのことを指してるの?
129 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:04:57 0
プライドばっか高くていつだって日本人に優越を持ちたいけど実力がともなわない。 日本では一番嫌われるタイプの人間。 それがチャンコロ。 本当に実力があった時代に威張るのはよし。 でも衰えてる国の人間に限って「学ぶ」ことをしなくなっちゃうんだよな。
130 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:07:49 0
日本が本当に強い時代ってここ20年だろ。
131 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:08:28 0
もし今、エウロパやタイタンに知的生命がいて、それが地球の1世紀レベルの文明だとしても、 地球から乗り込んで行って征服するのはむりだな。
132 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:11:33 0
朝鮮は古代から中世にかけての時代は日本に高度な文化や技術をもたらしてくれたのだが、 近代に入って西洋文明を取り入れることに遅れ、自らがいつのまにか後進国化していたことに気づかず、 日本に対していつまでも兄貴面していたわけだ。
133 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:12:17 0
>>130 今はかなり強い時期だけど昔からずっと地域大国レベルの力はあったよ。
134 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:16:08 0
135 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:31:49 0
>>134 バカ言え
別に朝鮮の肩もつわけじゃないが、
仏教伝来、農業技術、鉄器、建築技術など、古代日本が朝鮮から得たものは大きい
それは認めなくてはいかん
朝鮮憎しが昂じて盲目になるな
136 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:35:00 0
>>135 古代の技術ばかりだね。
中世な近世のものはないの?
137 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:38:49 0
>>126 装備ではないならお前にとっての近代軍隊の定義とはなんだ?
絶対王権化=近代化ではない。むしろ、アジア的専制君主化だ。
もし、日本の戦国時代と同時期の16世紀以降スペインに近代軍が確立していたなら
なぜ、17世紀の30年戦争の主力が(ベーメン人の)傭兵部隊なんだ?
また、近代的な軍隊が負けないなら、
なぜ、1896年にイタリア軍はエチオピア現地人に完敗したのだ?
138 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:43:49 0
>>135 美味しいジュースを飲んだときに、ストローに感謝する人はいないよ。
139 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:47:18 0
>>136 日本は中世から近世にかけては圧倒的に中国の影響が強くなる
日本の航海技術が上がって中国と直接接触するのが大事業ではなくなったからだ
140 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:47:51 0
>>135 別に通り道になっただけじゃん。
遣唐使だって朝鮮通ってないし。
>>126 1960年代のベトナムはアメリカより近代的だったの?
142 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:49:09 0
>>139 中世・近世って武家社会の時代だよ。
歴史に関して無知すぎ。
まず古代・中世・近世がいつにあたるか勉強して来い。
143 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:53:57 0
55で 【「軍事革命の周縁」とか呼ばれて】 【貧弱な軍事力しか持っていなかった 】 【丸腰国家】の 16世紀イギリスに敗北したスペインが 87で 【世界の列強 】に入る矛盾
144 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:54:47 0
>>142 鎌倉幕府開府あるいはその前の清盛の時代をもって中世の開始とする
中国と直接接触するのが以前の遣唐使のような大事業ではなくなった
そうすると中国の文物が日本に大量に流入するようになった
あなたが無知クンですね
近世に見られる中国の影響って、具体的にはどんなところに現れているの?
146 :
世界@名無史さん :05/03/07 18:54:53 0
ていうか欧州の時代区分を日本や他の地域にも当てはめようとするのがまずおかしい
結局、中世以降の朝鮮の影響や、近世以降の支那の影響はほとんどないってことで。
149 :
世界@名無史さん :05/03/07 19:07:25 0
>>93 私もアメリカ諸国の軍隊ってどんなものか知りたい。
たしか下のスレによるとバットに黒曜石の刃を付けたみたいな黒曜石の剣とか、毛皮と綿で作られた鎧とか、
下っ端は半裸で、飛び道具は弓矢と槍投機があって、精鋭部隊はジャガーの戦士団と鷲の戦士団で、
1軍団八千人とか、正規軍と民兵組織があるとか、地方の防衛拠点が実は手薄だとか、
インカ、アステカ、マヤを合わせて総人口は九千万人とか、首都の人口は三十万とか。
我が名はクワゥテモク
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1047477929/l50 >>97 そうすると1587年に秀吉が九州征服に投入した兵力が最高25万。戦闘員は8万くらい。
ってことになりますね。
あと長篠の戦いは武田騎馬軍団が織田の三千丁の鉄砲による三段撃ちで負けたって話になってますが、
実際はどんな感じなのでしょうか?(特に兵力)
>>2 を見る限りだと、鉄砲を過大評価しすぎって気もします。できましたら解説お願いします。
オスマントルコとアステカの数値の信憑性を知りたい。
オスマントルコに関してはブラック博士よりは信憑性が高そうな本によると1532年に動員された兵力は戦闘員10万含む15から20万。
イェニチェリ12000、アナトリア兵30000、ルーメリイ兵16000、騎馬隊20000、タタール兵15000、大砲300門。
問題はこの数値の根拠が年代記などの信頼性の薄いタイプの史料なのか、行政文書のような信頼性の高いタイプの史料なのか?
アンドレ・クロー,スレイマン大帝とその時代,法政大学出版局,1992(org.ed.1983),pp.111
>>114 もう少し穏やかに話すことはできない?
James Murdoch, history of Japan vol.1-3,Kobe Japan : Office of the "Kobe Chronicle", 1903
Stephen Turnbull ,1977-2000に著書多数、オスプレイのシリーズ本が多い気がするけど?(どれ?)
題名がSamraiというのはないけど、題が単にSamuraiで副題付きのだと
The samurai : a military history ,1977
Samurai : the warrior tradition,1996(オリジナルは Samurai warlords,1989)
どれも一般向けの概説書って性格のものだね。これらだとブラック博士の本とあまり変わらないよ。
日本語の資料の方がいいと思う。これらよりは日本の研究書の方が信憑性が高いんじゃないかな。
少なくてもパーカー「長篠合戦の世界史」の日本の部分の注釈には日本の書籍があるよ。
それから何かの本の注釈からソース名を抜き書きしてるみたいだけど、実際に参照している本の名前を教えて?
参考文献名と書式からすると邦訳本だね。間違いだったらごめんね。
後は
>>31 の文をもう一度読んでよく考えてみて(それとも釣り)。
>>143 1回の海戦でどうこう言われても何とも。イギリスがスペインを征服したわけじゃないし。
152 :
世界@名無史さん :05/03/07 19:34:29 0
>>144 がんばって教科書調べたね。いいよ。
でも中世・近世での中国からの影響は極めて少ない。
だから君の意見は「残念」だよ。
153 :
世界@名無史さん :05/03/07 21:08:52 0
>>148 ならいつまで漢文習ってんだ?
はやく止めればいいじゃん。
結局、小倭國は神聖中華帝國の文化的支配圏の一部であることが小倭國政府によって証明された。
>>145 朱子学とか陽明学では。
あと士農工商の身分制度
明治維新まで極東の最貧国でしょ、日本って。 よくここまで上り詰めたモノだ。
なにを基準に最貧国なんだ。
三十年戦争時のスウェーデン軍は大陸に18万の軍を展開していて、 グスタフ・アドルフが直率していた野戦軍はそのうちのごく一部に過ぎなかったって 某板で見かけたんですが、事実ですか?
>>135 いやあ、古代は評価するけど中世以降は正直停滞気味だと思う、あの地域は。
>>144 >あなたが無知クンですね
・・・・・。
中国からの影響を無視出来る訳でないという意見には同意出来ますし、朝
鮮半島がただの通り道とも思いませんが、これは・・・。
>>150 正直、示威行為としても25万人でも多い気がするのですが、とりあえず
25万人としておきたいと思います。
長篠の合戦については、私も『信長公記』や『三河物語』ぐらいしか読んでい
ないのですが、鉄砲だけで決めたというより、柵の中に出たり入ったりし
ながら長鑓も活用してなぶっていた様です。
戦闘のみの敗北というより、武田としても何時までもいられなくなって撤
退したというのが、本当のところかもしれません。
詳しい研究所が手許にありませんので、近年の研究成果については、また
明日にでもご報告申し上げます。
>>135 さらに原始時代に遡れば土器等の技術は日本列島から朝鮮に・・・
>詳しい研究所 無論、「研究書」の間違い。 当時の鉄砲についてですが、暴発はともかく不発が多いものであり、連射も 出来ない事から、一斉に放つ事は基本的に御法度でした。 17世紀後半の戦場指南書『雑兵物語』にもその旨記されており、撃った後は 長鑓に道を開けて、その後は各自器量次第で戦う様にと述べられています。 戦場ではその後下馬した士が手鑓を用いて一騎打ちで相手を倒して首をとる 点や、周囲の士分・武家奉公人による主人の補助が強調されています。 身分制社会の理念も反映されているのでしょうが、鉄砲の役割を過大評価す るべきでは無いでしょうね。 ヨーロッパの銃器とその種類・性能・活用法も考慮する事無く、やみくもに 日本の火縄銃の数を述べ立ててもあまり意味は無いでしょう。 絶対数から言えば、鉄砲も人も日本の数が多かった様ですが、それなら数が 多い国が一番強いという、至極当たり前で、なおかつつまらない結果が出る だけになってしまいます。
アウラングゼーヴの時代にムガル帝国を訪れていたフランス人医師ベルニエは、 『ムガル帝国誌』の中で、10万20万というムガル帝国軍は羊の群れの様に統 制がとれておらず、小銃や大砲で武装してはいるが、コンデ公ルイ2世かテュ レンヌ子爵がいて、2万5千人の兵を率いていれば、鎧袖一触に出来るであろ うと述べています。 主観や誇張もあるでしょうが、軍制というものも考えるべきかと。
164 :
世界@名無史さん :05/03/08 00:20:55 0
>>154 いや明時代くらいまでは習ってるし、Z会の参考書には清時代の官能小説が載ってたよ
>>155 絵画や陶芸、易学なども影響を受けているね
165 :
世界@名無史さん :05/03/08 00:22:10 0
戦国日本最大の資産家となった秀吉でも、朝鮮さえ支配できなかったんだから 同時代のヨーロッパ列強に勝てるはずないだろ みんな冷静になれよ
侵略されたら、撃退できるんじゃねえの?
167 :
世界@名無史さん :05/03/08 01:13:00 0
>>165 相当しつこいねこいつは
この時代からヨーロッパは強かったという脳内前提があるから話し合うのは無理だろうね
どっかで朝鮮に攻める時、どこどこに攻めますと書いて 秀吉の許可を求めてから攻めるって聞いたけどこれは 真偽のほどはどうなの?教えてエロイ人
169 :
世界@名無史さん :05/03/08 12:23:14 0
>>91 >>97 『スペインは国力の100%の力を発揮できる』
『日本はせいぜい50%くらいか? 』
『なお、当時は兵力全体の内、純粋な戦闘員は約三分の一であったともいいます』
なぜ、発揮できる数字とか純粋な戦闘員とかいって資料の数を数字を操作するの?
論拠となるソースは?また脳内?
>>150 『そうすると1587年に秀吉が九州征服に投入した兵力が最高25万。』
『戦闘員は8万くらい。』
なぜ、論拠のない妄想で操作された数字を真に受けるの?ネタ?
170 :
世界@名無史さん :05/03/08 12:47:20 0
>>156 明治維新からいきなり近代化したんすか?
171 :
世界@名無史さん :05/03/08 12:47:25 0
>>91 >>126 によれば、『装備は関係ない。』
>>163 によれば、『兵力差は関係ない。』
2ちゃんねる風にいえば、
アフォのすくつ、だな
172 :
世界@名無史さん :05/03/08 12:49:00 0
>>167 じゃあ何かが原因で突然パワーアップしたの?
それってすごいよ。
>>156 知能障害にもほどがある。19世紀初期に日本のGDPは世界7位ぐらいだった。
ちなみに明治維新・産業革命が起こっても西欧諸国の産業革命による経済成長の勢いとは比較にならず 日本経済の世界に占める相対的地位は江戸時代後期よりむしろ後退していた。 19世紀初期は清が圧倒的な経済大国で、それに次ぐインド、かなり離れて日本、イギリス、フランスなどがどんぐりの背比べをしているという状況だった。 日本のシェアが増大しはじめるのは第二次大戦直前辺りからで、戦後になってから本格的に成長する。
175 :
世界@名無史さん :05/03/08 15:43:21 0
>>174 こういう歴史観もありですよ、と。
そういうわけですね。
かなり突込みどころ満載なわけだが反論しても勝負なんかつかないので止めた。
176 :
世界@名無史さん :05/03/08 15:47:34 0
まあ一つっこんどくわ。 19世紀前半に圧倒的な経済大国であった清に対して わずが40年でイギリスはアヘン戦争で大勝利するほど圧倒的な国力をつけたと。 その40年の間に造船技術を天と地ぐらいにつきはなしたと。 イギリスが自分よりはるかに強いムガル帝国をあっさり植民地化したと。 西欧文明の成長力ってどんなだよw
>>174 だとすると、幕末にロシアとドンパチやってももっと余裕で勝てたわけですね。
国富=経済力の話をしてるのに技術だどうのだの要ってるのも頭悪いし、 わずか40年だの言ってるのもバカだし。 事実産業革命・近代化を成し遂げた国家にとって、前近代国家を経済的に抜くのなんて40年なんかむしろ長いくらいだろ。
180 :
世界@名無史さん :05/03/08 15:59:50 0
別スレのぐぐってぐぐって厨と同じ人ですか? 自分の言葉で俺の言ったことを論破してくれ。
>>179 産業革命・近代化を成し遂げた国が多くないのは何で?
182 :
世界@名無史さん :05/03/08 16:05:10 0
>>179 前近代国家を経済的に抜くのなんて40年なんかむしろ長いくらいだろ。>>
まず文章が矛盾してる。
近代国家が前近代国家を「抜く」なんておかしい。
お前のいう「経済力」とは?
どういうものを「経済力」と?
前近代国家が近代国家より上回ってるものなどたいしたものなのか?
国富がない国が国富のある国を40年で植民地化できるのか?
>>179 >前近代国家を経済的に抜くのなんて40年なんかむしろ長いくらいだろ。
長いとか短いとかは、なにかと比較しなければ結論は出ませんが、
何と比較して「長いくらい」と思ったのですか?
>>31 事実誤認も甚だしい。
当時の龍造寺家は大友家を粉砕して、九州のうち五州までを支配下に置いた大大名だぞ。
世界史板だからって、誰もつっこまないのか・・・
>>162 >撃った後は 長鑓に道を開けて、その後は各自器量次第で戦う様にと述べられています。
鉄砲と長槍はセットですか。まったく欧州と同じだね。
>>176 まったく突っ込みになっていない。
戦争の勝敗と経済力の大小は限定戦争の時代にはあまり関係がない。
現代でも、例えば中国のGDPはカナダを上回っているが、中国はカナダより先進国だとは言わないだろ。
185 :
世界@名無史さん :05/03/08 17:12:59 0
>>184 戦争の勝敗と経済力の大小は限定戦争の時代にはあまり関係がない。>>
とすると経済力のはるかに小さいはずのイギリスが
はるかにでかいはずのインドをあっさり植民地化したのは一体何なんだ?
小国が大国を植民地化するのか?
お前の言う「経済力」とは一体何なんだ?
「国力」とは関係ないのか?
「限定戦争時代」といってるにもかかわらず「現代」のことを例に出すのはなぜ?
すまん。やっぱつっこみどころ満載。
>>185 >とすると経済力のはるかに小さいはずのイギリスが
>はるかにでかいはずのインドをあっさり植民地化したのは一体何なんだ?
イギリス軍がムガールの軍隊より強かったから。
>小国が大国を植民地化するのか?
戦争は常に大国が勝つわけではないから当たり前。
>お前の言う「経済力」とは一体何なんだ?
>「国力」とは関係ないのか?
経済力は普通は国富とか、国内総生産なんかをさす言葉だろ。
ちなみに「国力」とは・・・国のもつ軍事力や経済力、および文化程度などを総合した力。国の勢力。(大辞林)
>「限定戦争時代」といってるにもかかわらず「現代」のことを例に出すのはなぜ?
「戦争の勝敗と経済力の大小は限定戦争の時代にはあまり関係がない。」 というのは
>>176 の2、3行目、
「現代でも、例えば中国のGDPはカナダを上回っているが、中国はカナダより先進国だとは言わないだろ。」
というのは
>>176 の4行目にそれぞれ対応した回答です。
文化や科学技術、経済的にははるかに進んでいる先進国であるイスラム諸国を 蛮族の軍隊である十字軍が蹂躙したこともあるしな。
189 :
世界@名無史さん :05/03/08 17:54:49 0
>>162 >撃った後は 長鑓に道を開けて、その後は各自器量次第で戦う様にと述べられています。
胡散臭い学者ジェフリー=パーカーらが
【近代軍制の父】と傾倒する【グスタフ=アドルフの戦法】は
【一斉射撃後抜刀して全軍突撃】ですから戦法的にあまり差がないですよね。
このスレに寄生してる例の欧厨は産業革命以前から欧州の経済力が中国やインドより上だと思ってる厨房。相手にしないほうがいい。
俺欧厨。 ヨーロッパは15世紀ごろから世界の大国ぞろいであることは論を待たない。
どうでもいいけど造船技術や航海技術が進んでただの主張するのはいいけど(事実だと思うし)、 ドサクサにまぎれて経済力などでもあらゆる点で一番だったって言ってるのが電波ってことだよ。 理解できますか? 欧州があらゆる面でトップに立つのが完成したのは産業革命が起こってからですから。
長篠の合戦については、藤本正行先生や鈴木震哉先生が考察してらっしゃい ますが、おおよその所を記しておきましょう。 なお、鉄砲の数については建勲神社本『信長公記』に一千挺とあり、池田文庫 本には三千挺とありますが、池田文庫本は「三」の字を新たに書き足したもの です。近世の軍記物の数字に影響され、半可通が「訂正」したらしい。 厳密には「一千挺ばかり」であって、太田牛一もよく把握していなかった。 建勲神社本は、長篠合戦について記した箇所について言えば古態を留めてい るものと考えられます。 次に両軍の数についてですが、 武田軍 1万5千+後方の長篠城攻めに七将 織田軍 3万 徳川軍 7千弱 織田・徳川軍は、両軍から2千ずつを割き、鉄砲「一千挺ばかり」とは別に、五 百挺を与えると、別働隊として武田の後方の砦を攻めさせ、更に包囲されて いた長篠城も解放させています。 徳川からは酒井忠次が、織田からは馬廻(親衛隊)の四将が参加している事 からは、意気込みのほどが伺えますね。
194 :
世界@名無史さん :05/03/08 18:05:56 0
合戦の経過についてですが、やや信頼性の劣る『甲陽軍監』には、一隊の内七 八人を除いて下馬して鑓を持って突撃したと記されていますが、藤本先生は、 平坦な場所で馬を下りる必要は無いという理由で、全体に広げて考える必要 は無いと主張してらっしゃいます。 しかし、下馬戦闘が増えていたのは事実ですので、素直に受け取ってもよい でしょう。 おそらく、「馬塞之為柵」に注目されたのでしょうが、これも追撃を防ぐ為の ものであったと考える事が出来ます。 長篠の合戦に参加していた金盥の老人(史実ではありませんが)も、『三河物語』の 中で、騎乗は追撃に用いるのがよいと述べている。 波状攻撃を仕掛けて来た武田軍に対し、織田・徳川軍は守りに徹し、鉄砲を放 ったが、たとえ直接死に繋がらないにせよ、銃声が鳴り響き、鉄砲玉が飛び交 う状況は、相手を動揺させた。 そこに長鑓、弓矢が打って出て、実際に死者を生み出し、柵の中に引っ込んだ。 こうした事の繰り返しの中で、武田側は指揮官の被害を増やし、更に後方に別 動隊が出現した事もあって、戦の庭から引き上げたのでしょう。 武田にも五百挺ほどの鉄砲があった様ですが、活用出来ませんでした。 なお、鉄砲を交代で(列は作らない)撃つ事自体は既に行われており、馬の行動 を妨げる為に柵を設けるという事も、当時はよく見られました。 新戦術としてもてはやされる様になったのは、後世になってからでしょう。 大規模な柵を築いた面では、珍しい光景が現れたと言えるのでしょうが。
197 :
世界@名無史さん :05/03/08 18:22:36 0
は 古代の軍隊に毛が生えた程度の朝鮮水軍にボロ負けした日本がスペインに勝てるわけ無いって スペインはインカ帝国を300人足らずの兵で滅ぼした
>>197 司令官が死んでるのに「勝った勝った」ですか?w
キ印につける薬無し
200 :
世界@名無史さん :05/03/08 18:29:46 0
司令官が死んだなんて勝敗にはあまり関係ない。。。。
敵側には大国明がバックについてる上に一時は首都を含んだ全土まで占領したんだからボロ負けなんてことはないと思うけど。
>>201 朝鮮が第二次大戦で日本にボロ勝ちしたと思い込んでるのと同じだろうな。
203 :
世界@名無史さん :05/03/08 18:35:57 0
明は当時衰退した弱国だよ 朝鮮は単独で日本軍を破った。
釣りはいいから
205 :
世界@名無史さん :05/03/08 18:42:37 0
206 :
世界@名無史さん :05/03/08 18:58:00 0
長篠の戦いでは織田・徳川連合は鶴翼の陣を布いた後に >196の記述に見られるような一斉射撃と後退を繰り返す ヨーロッパにおけるカラコール戦術に近い形で武田軍を撃破した。 尚、これは信長自身が苦しめられた根来衆の鉄砲戦術でもあった。 三段撃ちは後年の脚色とされているが、正史「信長公記」には 1554年村木砦において類似の手法で連続射撃を行った記述がある。
>206 >三段撃ちは後年の脚色とされているが、正史「信長公記」には >1554年村木砦において類似の手法で連続射撃を行った記述がある。 「鉄砲取りかへ取りかへ放させられ」て狭間を撃たせた時の事ですか。 時間のかかるものを交代で撃たせる事自体は何も難しい発想ではなく、特異 な行動とは言えないというのが、現在の一般的な評価の様ですが。 厳密に言えば、ここで行われたのは交代射撃であって、整然と三段に分けて 各自に撃たせるのとは異なります。 射手に次々と鉄砲を手渡したものの様ですが。
>>163 軍制などの比較なんかも出来ればベストですね。
こういう話は範囲を拡大していった方が面白そうですから。
兵力物資だけじゃなくて、個々の兵器の性能とか、戦術とか。
強い弱いは別にして。動員兵力はその国の国力を示す一つの指標だと思っています。
鉄砲、大砲も性能はともかくとして数がたくさんあると言うことは
それを整える為の体制がそれなりに整っていた事になると思うので、
これも一つの指標になると思います。
軍事革命論でも軍事費と兵力の増大が重要なファクターと見られていました。
戦争が長期化大規模化したことで戦争で必要とされる兵員と物資の量が飛躍的に増大し、
国家は国制を整え統制を強める必要に迫られた。
或いは国家の国制が整い統制力が高まったことにより、
動員可能な兵力と利用可能な物資の量が飛躍的に増大したから、戦争が長期化大規模化した。
軍事革命論では国家の形成と戦争の関係を、上記二つのどちらかのパターンで見ていました。
ただ、動員兵力についてはそれが一時的なものか、
恒久的とは言わなくても数年スパンに到る長期間のものかというのも重要な要素に見えます。
問題は山野様も再三指摘されている通り、記録された兵力には誇張が多いというところです。
>>196 解説ありがとうございます。
兵力と経過を読んでると、大軍がよく防御された陣地に籠もり、
劣勢の軍を引き込んで叩いたって感じに見えますね。
念の入ったことに別働隊で後方を脅かすことまでするなんて。
鉄砲の数は織田・徳川が1500丁と、500丁。
動員兵力は37000と15000。
鉄砲の交代射撃はリチャード1世のクロスボウの交代射撃と同じようなものっていう風にも見えてきました。
新戦術というよりも自然発生的に従来からやって来たこと何じゃないかって気がします。
それと参考文献としては以下のものでいいでしょうか?(特に初心者向けとしては)
鈴木眞哉,鉄砲隊と騎馬軍団 : 真説・長篠合戦 ,洋泉社, 2003
藤本正行 ,信長の戦争 : 『信長公記』に見る戦国軍事学,JICC出版局, 1993
>>206 >>162 によると一斉射撃は御法度。
>>196 にも一斉射撃と後退という話ないみたいに見えます。
鉄砲を撃ってから、次に長鑓、弓矢が出撃して敵を柵の中へ引き込み、敵の損害を増大させる。
こんな感じに見えますね。
とりあえず朝鮮人は消えろよ んで首釣って死ね
李舜臣はゲリラ戦術で日本の兵站線(補給線)を断つことに集中したが故の勝利だと思うなあ。 どちらにしろ、島国で海運能力に欠けるって現状じゃ他国に攻め込むのは辛いってことじゃないだろうか。 もし仮に中国大陸に政権樹立して、そこで戦争行為を行ったとする。 それでも結構きついんじゃなかろうか。満州国の例を出すのは相応しくないだろうが、 焦土戦術に近い戦術を取られ、伸びた兵站線を叩かれる、という大陸国家の戦い方に日本の軍隊が対応できるとは正直考えづらい。 さらにさらに仮定して、補給線もばっちり、完璧な武装で欧州の軍隊(ほぼ同数)と戦ったと仮定すると、騎馬の運用で日本がやや不利と見たほうがいいと思う。 織田信長のように騎馬のみの遊撃部隊を戦局を読んで投入出来る武将がいれば話は変わってくるが・・・ おそらく、兵器の技術差は状況から見て大きくないと思われるし、そうなると戦略・戦術面がより重視されてくるから予想の難易度は高いと思う。
212 :
世界@名無史さん :05/03/08 23:31:48 0
>兵器の技術差 朝鮮軍は亀甲船やロケット弾なんて凄い兵器をもっていたが
>>209 >念の入ったことに別働隊で後方を脅かすことまでするなんて。
鎌倉〜戦国時代の篭城戦は、普通は城を枕に討ち死にする前に開城or逃亡し
ているものでしたが、逆に言えば守り通す事で忠義が示されました。
しかし、ここでは長篠城が、城の大半を占拠されながらも篭城を続けており、
鳥居脛衛門の命懸けの脱出もあって、早々に解放する必要があった様です。
城を守る奥平信昌は家康の娘婿であり、松平一族も城に入っている。
奥平氏は、信玄死後に徳川に寝返った経緯もあり、無事では済まされない。
>新戦術というよりも自然発生的に従来からやって来たこと何じゃないかって気がします。
同意です。
>参考文献
・・・よくご存知ですね。仰る通り、それが一般にも分り易いかと。
なお、戦闘員が兵数の三分の一に過ぎなかったという説は、近世の陣立書か
ら立てられたものですが、参考に挙げておきました。
高木昭作「『秀吉の平和』と武士の変質」(『思想』721号、1984年)参照。
>211
>織田信長のように騎馬のみの遊撃部隊を戦局を読んで投入出来る武将がいれば話は変わってくるが・・・
おお、そんな例がありましたか。
それにしてもなんで最近、信長の三段撃ちが実在しなかったという鈴木眞哉の説を 鵜のみにする人が多いんだろう。 あれはあくまで鈴木一個人の見解で、定説として決定づけるほど確証のあるものでも ないんだけどなぁ。 「鉄砲と日本人」も「鉄砲隊と騎馬軍団」も結構、理論が破綻してたり自己矛盾が 見られる。
>戦国日本最大の資産家となった秀吉でも、朝鮮さえ支配できなかったんだから 日本は朝鮮には圧勝して、あっという間に朝鮮半島を席巻してるよ。 その後、明が朝鮮を助けに来たり、食料が不足した事もあって手こずり始める。 朝鮮で強かったのはイ・スンシンの水軍だけ。そのイ・スンシンも、日本軍が 退却するとき調子にのって深追いしたら島津にやられたから、その後日本が 攻めれば朝鮮は制圧できたと思われ。 日本は秀吉が寿命で死んだ後、朝鮮の進攻から手を引いたけど、もしその後も 秀吉の後を次いで進攻を続けていれば、どうなってたか分からないよ。
あと、秀吉じゃなくて信長だったらもっと容易に朝鮮を制圧できたという説もあるね。 秀吉は自分が百姓出身だったわりには、いざ出世してからは百姓など身分の低い者を 活躍させるのを嫌った。 それに対して信長は海賊の九鬼や百姓の秀吉など、身分が低くても実力のある者は 積極的に活用していった。 行った事もない朝鮮付近の海を攻める場合、信長だったら倭冠などを雇用して 効果的に攻めたと思われ。
欧州と日本の戦力を比較すると言っても、なかなか公平な比較って難しいよね。 どっちが相手の敵地に攻めていくかでも、かなり優位性が左右されるだろう。 欧州の人は海や平原で、日本人は山河が細かく入り乱れる地形で戦う事を前提に 戦法を発達させてきたわけだから、行った事もない相手の敵地に攻めたら、 攻めて行く方が圧倒的に不利だろう。 日本人は朝鮮相手に苦戦したというけど、むしろ敵地であれだけ善戦したのは 凄い事なんじゃないかという気もする。
219 :
世界@名無史さん :05/03/09 09:05:15 0
>>186 イギリス軍がムガールの軍隊より強かったから。>>
「経済力」が弱い国が強い国を植民地化するの?
戦争は常に大国が勝つわけではないから当たり前。>>
戦争とは常に大国が勝つものです。極一部の特別例を除いてね。
自分の意見に自信をもつのはいい。
でも「嘘」をつくのはよくない。
経済力は普通は国富とか、国内総生産なんかをさす言葉だろ。>>
ちなみに「国力」とは・・・国のもつ軍事力や経済力、および文化程度などを総合した力。国の勢力。(大辞林)>>
「国の勢力」の無いほうがあるほうを植民地化するの?すごいよ。
「経済力が強い=国力の強い」国が
「経済力の弱い=国力の弱い」国に植民地化される理由を教えてほしい。
220 :
世界@名無史さん :05/03/09 10:24:37 0
>>217 朝鮮軍は3ヶ月で全滅。
明軍に撃退されただけ。
鉄砲をかなり持っていたが人海戦術にはかなわなかった。
要するに明末期にはすでに日本の方が中国より文明的に上回っていたと。 出なきゃベトナム戦争の時の南ベトナムみたいなことしないよな。
>>219 池沼か?基本的に日本語を理解していないとしか思えない・・・
223 :
世界@名無史さん :05/03/09 11:44:58 0
彼が正しい日本語を見せてくれますよ ↓
>>214 「三段撃ち」の否定は、最早鈴木氏に限った問題では無い様ですが。
>「鉄砲と日本人」も「鉄砲隊と騎馬軍団」も結構、理論が破綻してたり自己矛盾が
この点を指摘されるのであれば、それはそれで結構な事ですが、何が悪いのか
を仰って頂けない事には、議論が成立しません。
そもそも、誰も鈴木氏の著書からは引用しておりませんが(参考にはなる)。
>>216 憶測で物を仰られるのはどうかと・・・。信長を神聖視し過ぎてらっしゃるのでは。
李舜臣の評価についてはひとまずおいておきます。
>>213 まあ、言いたかったのは欧州諸国との技術差だったのだが、言葉足らずでスマソ。
ロケット弾に関しては寡聞にして知らないが(火箭のことを指してるのかな)
亀甲船に関しての私見。
後の海戦の主流となるように亀甲船の戦闘目的は艦首の衝角(ラム)で敵の船体の横を穿ち、
それから敵船に乗り込んで戦闘を行うというものでした。
日本の主力戦闘艦であった安宅舟は小型でスピードを出すために船底がV字でした。
そのため、大砲の艦載は船体の安定と耐久性の問題で不可能だったらしい。
一方、朝鮮水軍の亀甲船・板屋船はもともと内海での運用を想定して設計されており、
スピードよりも安定性を重視するために船底は平底でした。
引いてみれば、これにより、艦船の大型化・大砲の艦載が可能になったのだと思います。
船体の強度・火力という面で日本軍を上回ったのみならず、内海という地の利を最大限生かす「鉄甲船」
それが、亀甲船だったのだと思われます。
>>219 まず、経済力=国力、という固定観念を捨てなければなりません。
その図式が成り立つようになるのは、兵器が近代化され、兵制が制定された近代以降です。
たしかに、近代以降の戦争は経済力の差が如実に現れるようになりました。
が、それ以前の時代においてはむしろ国力=兵役人口という時代が長く続きました。
帝国主義の時代というのは、そのバランスが一気に崩された時代だと思っていただくべきではないかと。
その時代に生まれた植民地がそれまでの所謂「大国」であったのはそのためだと私は思います。
近代化された軍隊とそれまでの軍隊を実力差以前に機械力の差で大きく上回るというのは言うを待たない事実ですので。
残念ながら、その時代については例としてそぐわない、というのが私の意見です。
226 :
世界@名無史さん :05/03/09 12:43:21 0
鉄甲船て存在したの?
>>226 それが本願寺攻めで使用された日本の鉄甲船ならば、私と存在したと思います。
無論、現近代の戦艦のように分厚い鉄鋼を装備したものではありません。
あのとき作られた鉄甲船の目的は、毛利水軍の焙烙矢玉に耐えうる不燃性を持った戦闘艦でした。
そのため、不燃性を得るために必要になる鉄甲の厚さは非常に薄いものだったと考えています。
しかし、鉄砲で武装したその鉄甲船も安定性に欠け、内海以外での運用は不可能であったと思っています。
228 :
<丶`∀´> :05/03/09 12:55:54 0
>>225 まあいろいろな面白い歴史観があるというわけですね。
229 :
世界@名無史さん :05/03/09 13:02:44 0
>>225 国力=兵役人口>>
ワロタヨ。
いいよ。いろんな考えの人がいるのは悪くない。
けどこれはちょっとひどすぎやしないか?
>>225 >経済力=国力、という固定観念を捨てなければなりません。
だな。じゃないと十字軍国家がパレスチナ一体を支配できるわけがないしな。
500人程度のロードス島騎士団が、オスマン朝の喉もとの小島で長く存続した
ことも説明ができないよな。
結構重要な要素として、ナショナリズムがあります。 ムガールがイギリスにぼろ負けしたのはナショナリズムの欠如が上げられます。 これはどういうことかというと、インドの諸藩は自分の利益のみ考え、インドがどうなるかという考えは存在しませんでした。 そのため、隣でイギリスが暴れても俺には関係ないからシラネーヨとか、いがみあっている諸藩の片方と結んだりして一つ一つ各個撃破してゆける状況でした。
232 :
世界@名無史さん :05/03/09 14:24:44 0
第二次世界大戦時には日本はナショナリズムはいらんほどあったよな。 でも負けた。 経済力の差。次元が違いすぎた。
233 :
世界@名無史さん :05/03/09 14:30:30 0
なんだか良くわからんが帝国主義時代の経済力はアジアが上だった、と。 そして「経済力と国力」ははっきり「別」と。 では国力で欧州がアジアを上回ったのはいつ?
>>232 もちろん経済力の差もあるだろうが、アメリカのナショナリズムも相当なものだったからね。
逆にベトナム戦争では、経済格差は日米の差以上だったが、アメリカ国民は冷め切っていて
総力戦などとても行えなかったが、ベトナム人は激しいナショナリズムに燃えていた。
236 :
世界@名無史さん :05/03/09 14:53:42 0
帝国主義時代って19世紀半ばから20世紀前半までだよな。 もうその頃はヨーロッパの経済力が抜けてただろうよ。 しかし産業革命が起こる以前(19世紀初期)まではまだ中国やインドの方が西欧の諸国より経済力は上回っていた。 アジアとやらいう杜撰な括りは使わんが。
237 :
世界@名無史さん :05/03/09 14:54:06 0
>>235 すると主な要素は別にあると。
それは何?
238 :
世界@名無史さん :05/03/09 14:58:57 0
>>236 オスマントルコがヨーロッパを押してた時代はトルコが上だった。
それはわかる。
でも中国やインドが上回ってたのには納得できない。
だって朝鮮戦争時、日本軍を追っ払ったとはいえ明のほうが明らかに
兵力も武器も弱いだろ。鉄砲も無いし大砲も無い。
江戸と北京を比べてもはるかに江戸のほうが文明的だし。
俺はあの頃から日本が中国を抜いたとおもっとるんだが。
日本より下なのに欧州より上?
>>235 だな。
戦力比較っつうからには、軍事力が主体にならにゃいかん罠
戦力は国力の一部である軍事力の一部なんだから。
240 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:01:37 0
>>238 何度言ってもわからないみたいだがアンタってなんで経済力と軍事力や技術力などを混同して語るんだろうね?
ひょっとしてわざと言ってるんだろうか。釣りですか?
241 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:04:57 0
>>240 わかったわかった。
つまり19世紀前半はアジアが経済的に上だったんですね。
その上で『「軍事力と技術力」を混同して考えるのはだめだい!!!』
てことは軍事力と技術力は欧州が上だった、と。
ではお前のいう「経済力」とは何?金じゃないの?
242 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:06:01 0
>>238 あと一言。西欧を神聖不可侵の至上の地域という前提で脳内にインプットしている限りは
アンタの主張は永劫相手にされることはないよ。議論がハナから食い違うんだから。
経済力(GDP)でいうと、産業革命が起こるまでは西欧の一国のGDPは中国などとは近くにもならず、日本とトントン。
243 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:06:47 0
>>238 俺も、日本や欧州より上だと思うが。
モンゴルは軍事的には圧倒的だったけど、華北を占領する前の経済力は大したことない。
245 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:10:10 0
>>242 そういう「俺の議論は正しいんだぜ!!!」みたいな言い方何とかならない?
246 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:10:31 0
>>233 に対して
>>236 が経済力に関してのレス。
それに対して
>>238 が兵力だの武器だの経済とは全く無関係なトンチンカンなレス。
自分の可笑しさが理解できますか?
産業革命以前は人口と、それを養う食料生産力が全てとは言わないが多くを占めていた。 産業革命と共に工業力という概念が出てきて、より早く強大な工業力を持った国が強国となった。 植民地経営はハイリスクハイリターンorローリターンであり、植民地云々で西洋国家が強国だったとはいえない。 動員数、食料自給率等等からみてやはり日本のほうが上。
248 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:12:42 0
>>246 ヽYvV/
,; ⌒ヽ、ノ `ヽ、,,r'⌒ヽ
( ( ) ノ' 'ヽ ( ) ) ホジホジ
ミ / ,-=・-、 -=・-、ミ'´
,;彡 .,,..rー''´(Ciと'⌒^^ヽ、
彡 / .).ヽ ヽ (プ
彡 人 ,ノ⌒) ト、 ヾ
彡彡 ヽ ヽニソ ノ`、 `ゞ
/彡ミミ彡``ヽ ー/シミシ シ ゙ヽ,
/ ヽ 、 ` ー- イノ ` 、 ミ `ミ
/ ` ヽ-ィ ヽシ ミ
..| _ヽ ノ ヽ ヽ 彡
.| /,ィ'"⌒`'-;,._ ` ) ,,;シ'´
..| ``'-;,._ FIGHTERS i^'"
ミ、 \| <(Ω)>|| |
 ̄`゙ミ、_,,,,,,;;彡ヽ,,, ヽ YY_ノ ノ
`、ソノノ;, ) /
249 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:15:33 0
>>247 全くそのとおり。近代以前にまで経済力=兵力・軍事力みたいな概念を持ち込む奴がいるから頭が痛いんだよ。
あまり口汚いことは言いたくないが、正直疲れる。
アホがいるなぁ
251 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:18:30 0
>>249 お前自分の馬鹿さ加減が理解できるか?
お前の馬鹿な違憲を延々と聞かされるこっちも疲れるわ。
252 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:19:42 0
>>249 死ね。
┏┓
┏━━━━━━━━┓ ┏━━━━┛┗━━━━┓
┃┏━━┓┏━━━┛ ┃┏━━━━━━━━━┛
┃┗━━┛┗━━┓ ┃┃ ┏┓ ┏┓
┃┏━━┓┏━━┛ ┃┗━━┛┗━┛┗━━┓
┃┗━━┛┗━━┓ ┃┏━━┓┏━┓┏━┓┃
┃┏━━┓┏━━┛ ┃┗━━┛┗━┛┗━┛┃
┃┃ ┃┃ ┃┏━━━━━━━━━┛
┃┗━━┛┗━━━━┓ ┃┃┏┓ ┏┓ ┏┓
┗━━━━━━━━┓┃ ┃┃┃┗━━┓┃┗━┛┃
┏┓┏┓┏┓┏━┓┃┃ ┏┛┃┃┏━━┛┃┏━━┛
┃┃┃┃┃┃┃┏┛┃┃ ┃┏┛┃┃ ┏┓┃┃ ┏┓
┏┛┃┃┃┃┃┗┛┏┛┃ ┃┃┏┛┗━┛┃┃┗━━┛┃
┗━┛┗┛┗┛ ┗━┛ ┗┛┗━━━━┛┗━━━━┛
253 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:19:56 0
>>251 じゃあこのスレ見んなよw
君が消えるだけでこのスレは極めて平和になるはずなんだが。
>>241 アジアとか広すぎてよくわかんないんですが。
どこのこと言ってるの?
255 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:22:09 0
>>352 このスレは君の意見にそぐわないことをいったら片っ端から排除ですからね。
256 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:27:04 0
ってか「平和」ってどんなん? お前と似たようなアホと馴れ合うことっすか?
258 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:32:53 0
>>254 アジアがどこかもわからんのか。
さすが無知。
>>251 =
>>252 ?
まずは、経済力・軍事力・技術力・国力などの言葉の意味を辞書で調べてから出直して来い。
取り合えず皆sageるように。 このスレは沈降させる。
261 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:36:59 0
>>259 辞書並みの知識をもってるお前に教えてほしいな。
>>259 わざわざ突っ込んでやんなよ・・・p
裸の王様ヲチが面白いんだから
263 :
世界@名無史さん :05/03/09 15:39:21 0
>>261 俺には辞書並みの知識なんてないよ。
だからこそ、
>>186 でわざわざ辞書から引用してやったんだろ。
その他の基本的な言葉の意味くらい自分で調べなさい。
人権擁護法=言葉狩り=2ちゃん書き込み規制 Λ_Λ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ <=( ´∀`) < 生粋の日本人である僕が人権擁護法で差別と叫ぶ。 ( ) │ それで目障りな2ちゃんねらーの野郎を訴えて | | | │ 裁判でぶっ飛ばしてやるニ・・・ぞ! 〈_フ__フ \__________ この法律には「差別的言動禁止規定」が含まれている。 外国人犯罪やハンナン食肉偽装事件を批判する正当な言論は2ちゃんねるにある。 これは、その2ちゃんの書き込みした人を次々に罰する法律だ。 在日外国人などがヒステリーを起こして「差別だ」として叫ぶと、 書き込んだ人をもう好き勝手に弾圧できるようになる。 第三条 何人も、他人に対し、次に掲げる行為その他の人権侵害をしてはならない。 二 人種等の共通の属性を有する不特定多数の者に対して当該属性を理由として 前項第一号に規定する不当な差別的取扱いをする意思を広告、 掲示その他これらに類する方法で公然と表示する 行為 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ↑これ「2ちゃんねるでの在日外国人批判書き込み」という意味 みんなの2chがカスどもに取り上げられようとしています。 力を合わせて敵をやっつけよう みんなの力が必要です。 お願いします。 頼みます。
266 :
世界@名無史さん :05/03/09 16:26:32 O
1 フライパンで玉葱を飴色になるまで炒め、一口大に切ったじゃが芋、人参を加 え、よく炒めます。 2 鍋に水、コンソメを入れ、沸騰したら1を加え、アクを取りながら煮ます。 3 小麦粉、カレーパウダー、クミン、コリアンダー、クローブ、ナツメグを炒め、 焼き色がつくと2のスープを加え、ルーを作ります。 ダマにならないように注意して下さい。 4 塩、胡椒で味を調え、唐辛子、ガラムマサラ、チリパウダーで辛さを調整し、 よく煮込んで下さい。 5 焼いた牛肉を加え、お好みでヨーグルトを入れたら完成です。
267 :
世界@名無史さん :05/03/09 18:47:41 0
>>238 1604年、オランダ東インド会社は、中国大陸との貿易拠点とするため澎湖諸島を占領したが、明の将軍沈有容に退けられた。
1622年、再びオランダが澎湖諸島を占領したため、明朝は軍を向け、オランダ人を駆逐しようとした。
1624年、ついにオランダは澎湖諸島からの撤退を余儀なくされ、台湾本島に移った。
当時の台湾は明の領土とみなされてはいなかったためこれを黙認したという事実もあり、
明は、スペインから制海権を奪ったオランダ海軍程度であれば十分勝利する実力を有していることになる。
>>264 広辞苑で「国力」って調べてみてくれ。
面白いことがのってる。
これで「一要素」ってのは嘘だったことがわかったな。
だから「嘘」はよくないっていっただろ。
明は大国。それは間違いない。軍が弱い。それは間違い。 弱いのは宋であり、十分大国としての兵力は持っている。ティムールと比べるのは酷。 戦争ばっかりしてる遊牧新興国家と、農牧国家では比べ物にならない。 兵の質は日本が勝ってるというが、一人で百人殺せる奴ばかりだろうか。違うなら結局明が上ということになる。 中国が遅れを取るのは清の乾隆帝からの腐敗と保守から。それ以前は十分大国だったと言える。
今の中国だって十分大国だよ。 「大きい国」だからなw
>>270 強国と言えば満足かな?
要らぬ揚げ足取ってないでもっと有意義な事を言って欲しいもんだね。
>>271 いつ明の話をしましたか?
笑えるねお前。
273 :
世界@名無史さん :05/03/09 19:12:27 0
>>269 同意。
中国の衰退が決定的になったのは清代。
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| | 次でボケて!!! | |________| ∧∧ || ( ゚д゚)|| / づΦ
うひゃー、凄いことになってる。60スレ以上なんて。荒れてる。
落ち着くまで待った方がいい?
>>224 藤本氏の本を読んでみました。鈴木氏の本は色々と事情が重なり、読めなかった。
ついでに3000丁で三段撃ちを主張していた下の本も読んでみました。
二木謙一,長篠の戦い,学研,1989
桑田忠親,新編日本合戦全集4,秋田書店,1990,pp.138-172
桑田忠親編,日本の合戦5,新人物往来社,1978;井上鋭夫,天下布武,pp.253-300
従来の本は基本的に旧参謀本部の「日本の戦史−長篠の戦い」で構築された戦いの像に従ってるみたいですね。
旧来説が検証もされずに鵜呑みにされてきたって現象は欧州中世史でもよくみられました。
後は藤本氏や鈴木氏の説が出た後に両氏の説を批判した論考が出ているかどうかってところですね。
私は見つけられませんでした。なにかあれば教えてください。
国力。これの算出は難しいですね。というよりどうやって算出すればいいか見当もつかない。
16世紀の欧州の国家の場合、国力を一つの方向へ集約できるほどの体制は出来てない。
国家総動員が出来るような中央集権的な国家へ向かって国家体制を整えていく途上にある時期ってことみたいだから。
私の見た限りでは動員可能な最大兵力、武器の量(鉄砲、大砲、軍艦の数、火薬の量などなど)、政府組織の年間収支、人口などで
国力を評価するって方法が多いような気がする。
問題は断片的な記録になら信頼性の高い数値もあるけど、
それらから総数を算出する段階で主観が入って信頼性が損なわれていくことが多いってことかな。
それと政府組織の収支で評価する場合、その国の貨幣単位で算出することになるけど、
欧州の国同士ならある程度変換比率が分かっているからいいけど、
日本とか中国が相手となると、どう変換していいのか分からなくなる。
後は落ち着くまで様子見してます。
277 :
世界@名無史さん :05/03/09 19:36:28 0
>>212 ロケット/火箭は 公式な鉄砲伝来以前から日本に伝わっている。
安定棒のついたロケット花火の巨大版みたいな火箭は、粗悪な硝石でも使用できる利点があったが、モノを粗末に出来ない日本人には火縄銃が心性に合っていたようだ。
現在でも当時と同じ巨大な火箭を打ち上げるお祭りが伝承されている。
(タイやカンボジアにも全く同じロケット祭りがある)
http://www.geocities.jp/umadayone/ryusei.html http://mirukashihime.cool.ne.jp/image/yosida10.JPG 戦場における火箭が最も活躍した記録が残っているのは、18世紀 インド マイソール藩王国vsイギリス東インド会社の戦い。
整列して進軍するイギリス側にインド側が火箭を打ち込み、着地と同時に振り回される安定棒でイギリス兵が多数撲殺された。
ほぼ同時期の欧州でも火箭は砲と一緒に多用されたが、1812年の米英戦争で火箭使用されている際の光景が合衆国国歌の歌詞“the rockets’red glare”という部分に記されている。
防衛研究所に保存されている西南戦争の資料によれば、日本陸軍が諸外国から購入した各種兵器の中に火箭も含まれているそうな。
もしかしたら西郷さんも火箭の噴射炎を見たのかもしれない。
278 :
世界@名無史さん :05/03/09 19:43:25 0
>>211 日本の武将は本国宛に「槍は全くいらないから、銃と大砲を送ってくれ」と手紙を書いているのですから、
騎馬はまったくいらなかったのではないでしょうか?
豊臣・徳川最初で最後の激突である小牧長久手では突撃を戒め、地雷を仕掛け、馬坊柵を作り、塹壕を掘り、射撃を繰り返す姿があります。
長篠以降の戦争において、騎馬突撃は戦場の華ではなく被害を拡大する愚策だったあったようです。
>>238 要するに大航海時代中期(スペイン・オランダ時代)までの西欧内の覇権国なんかはまだ
ユーラシアの大国のご機嫌をうかがって無難なところを占領する程度の力しか持ち合わせてなかったんだよ。
>>278 なるほど。日本人にとっては戦いというのはそうであったのかもしれませんね・・・・・・
おそらく、地形の違いと馬の品種の違いが地域差を産んだのだと愚考します。
ヨーロッパのように平原での合戦というのは例として関ヶ原の戦いが挙げられますが、
関ヶ原も丘陵地帯が多いので平原とは純粋に呼べないかもしれません。
日本での騎馬は馬上戦闘を行わないことはもちろん、歩兵の延長線上として扱われていますし。
むしろ、日本の軍隊は騎兵が存在しなかったと考えるべきでしょうか。
そのために密集陣でなく散開陣が主流であったと考えることも出来ます。
そもそも、殆どの軍団が混成で、長篠の戦いのように鉄砲を集中的に用いたのは珍しいことだったようです。
そう思えば、ある意味世界で始めて塹壕戦を行ったのは日本人なのかもしれませんね。
朝鮮ではかなりの攻城戦が行われたためにそういった内容の手紙が送られたのでしょうか
なんにせよ、やはり戦う地域の性質によってかなり変わってきますね。
ヨーロッパのような平原地帯だと欧州側有利、日本のような山岳・河川地帯だと日本が有利なのでしょうか
国力がどうの経済がどうのは
>>276 が結論ってことで終了。
>>280 馬の品種については欧州馬だって、17世紀にアラブと交配するまではあまりよくないだろ。
ところで、日本では馬上戦闘が行われていなかったって通説なのか?
>278さん ノエル・ペリンの「鉄砲を捨てた日本人」は面白い本ですが、 あんまりあれを信じ込まないほうがいいですよ。 長篠以後でも、島津義弘や真田信繁など騎馬突撃を行って一定の 戦果を得た司令官も結構いるようです。軍記物をどこまで信じるか という問題も有りますが… 島津は長篠流の馬防柵を厳重に作り、塹壕戦を行った宮部善祥坊軍 相手に勝利したらしい記録も一応はあります。かなり苦しかったようで 宮部側の記録では島津を破ったことになっているようですが、 戦国末期の合戦が第一次世界大戦並の塹壕戦ばかりだったというペリンの説は 今の所チト信じがたい。 ただ、最近古戦場の発掘・調査が頻繁に行われていて、 藤井尚夫氏などの調査によれば関ヶ原にも 東軍西軍ともに土塁をつみ、陣地をこしらえた形跡があるようですから ペリンのいうことも今後実証されるかもしれません。
>>282 体重はアラブ馬と変わらないか、あるいはより重かった。
ただ、全体的にずんぐりしていて、アラブ馬に比べると足が遅かった。
>『鉄砲を捨てた日本人』 あれをソースにする人間が、意外と多いので困ります・・・。 『古事記』の稲藁に始って、柵や逆茂木を組み、馬の妨害とする事は、古くか ら見られました。 治承〜寿永の頃に「城」と言えば、恒常的な施設では無く、臨時に構えられた 野外陣地を指しています。川に逆茂木や網を張るのも同じ類。 馬は柵一つでも動揺するもので、飛び越えられるのが名馬とされました。 雪山で戦う時には、沓を履き、雪で土手を作り、木の枝で覆い、大木を数本倒 すといったやり方もありましたが、こうしたゲリラ的なやり方が、南北朝時代 以降には増加しています。 別に戦国期特有の現象でもありません。 >ところで、日本では馬上戦闘が行われていなかったって通説なのか? 南北朝時代から次第に下馬する様になり、戦国期には下馬が大半となります。 皆無かどうかはさておき、下馬が志向されたというのは有力な説です。 騎射に代って馬上打物が増加したという論者もいますが、これもどんな状況 で行われていたのか、まだ検討する必要があるでしょうね。 戦場まで集団が馬で移動して、そこで下馬したという話もある。 211氏のお話のソースが知りたくてお尋ねしたのですが、ご返答を頂いて おりません。まさかどこぞの小説では無いでしょうが。
>>276 >後は藤本氏や鈴木氏の説が出た後に両氏の説を批判した論考が出ているかどうかってところですね。
私もこの時代には疎いのですが、鉄砲関係だと宇田川武久先生のお名前が、
よく出て来ます。その周辺にこの手の話がよく出て来ますよ。
ただ、どちらかと言えば藤本・鈴木説に好意的だったかと。
287 :
世界@名無史さん :05/03/10 00:43:48 0
胴太貫は馬の足払いから
288 :
世界@名無史さん :05/03/10 01:05:49 0
>>280 >ヨーロッパのような平原地帯だと欧州側有利、日本のような山岳・河川地帯だと日本が有利なのでしょうか
日本でも決戦は平らな開けた土地で行なわれていたんじゃないの?
それに例えばポーランド軍は河川や湖沼で入り組んだ広大な湿地帯を楽々と踏破してロシアを攻略しているよ。
山城ならヨーロッパ各国の山岳地帯にもいくらでもあるし、例えばドレスデン郊外のケーニッヒシュタイン城はそれこそ凄い。
延慶本『平家物語』では、源義仲が、「平地での合戦は馳組戦となり、大軍有利」 だという理由から、隘路に平家を誘って倒しています。 確かに、関ヶ原の様な例もありますが、決戦といっても規模による。 (義仲の戦を何の「決戦」と見做すかは、難しいところですが) 全体としてはあなたの仰る事にも一理ある訳ですが、地理や気候に合わせた 順応ぶりで多少の差は生じるかと。 現時点で、史上の具体例となると返答に窮しますが。
日本の気候に特化した例としては、軍陣での丸木弓の併用が挙げられるでしょう。 合成弓の方が、弾力があって飛距離がある訳ですが、膠が湿気と高温で解けてし まう事に備えて、丸木弓も使用されていました。 欧州の弓の構造や接着についてはとんと存知ませんし、このスレで俎上に上げら れているのは16世紀の様ですが、ささいな事が重大になるという参考に。 16世紀時点では、まだ弓矢も使用されていた事ですし。
>>286 宇田川武久『鉄炮と戦国合戦』吉川弘文館
2002年11月1日(第一刷発行)で、2002年8月(あとがきの日付)
においては、『信長公記』の記事を引用し、
「3000梃もの鉄炮を保有して応戦した。……(中略)……
3000で立ち向かった。人数を三段に備え、……」
としてそのままで、
「この時期になると、敵味方ともに1000から数千梃の鉄炮
を戦いに投入したのである」
と、軽くまとめてしまい。特に疑問も、異説があることについて
言及していません。
なお、鉄炮の普及の実態を明らかにするために、すでに『東アジア
兵器交流史の研究』を著わして結論したが、この著作においては、
「鉄炮と密着した炮術と炮術師の動向を探ることが、いちばんの早道と
思うので、あらためてここで再検討したい。これが本書の意図である」
として執筆したそうです。
>>288 日本の合戦(野戦)は、山に本営を置くのが多い気がする。
>291 宇田川先生ではなく、その本に論評を加えてらっしゃった方でした。 ・・・誰でしたかね。関先生だったか。
朝鮮征伐でさ、明軍の人海戦術に負けたとかの意見があるけど。 朝鮮に派遣された明軍って最大でも二十万を決して超える事がないっていうか、多くても日本側の倍程度だぞ。
295 :
世界@名無史さん :05/03/10 12:50:37 0
朝鮮では明の大砲にやられたんだろ。日本には種子島の巨大版の大筒しかなかったからね。 東アジア有数の軍事大国同士が、辺境の朝鮮半島で激突したおかげで、周辺少数民族だった満州族に軍事的影響を与え「明人重馬 清人重炮」のきっかけになった訳だけど。
16-17世紀の欧州では、軍事財政がボトルネックとなって軍事行動に障害をきたす事例が多いように思いますが、 戦国時代の日本ではその辺どうだったんでしょうか? あるいは、戦国大名の軍事財政に関する学術的な研究というものはあるのでしょうか?
297 :
世界@名無史さん :05/03/10 19:37:57 0
戦国大名は農閑期の百姓をアルバイト歩兵にしたので元祖 国民軍と言えませう。
298 :
世界@名無史さん :05/03/10 19:41:47 0
16 :世界@名無史さん :05/03/10 19:11:30 0 なに、簡単なことでさ。 アメリカが現在の日本をレイプするついでに、 朝鮮日本もレイプしただけのこと。 アメの愛人が二人もいると互いに夫の「夜の権利」を巡って遭い争う。 そこにつけこんで両者とも中悪くさせてるのさ。 その愛人の子供がタッグを組んで、夫に向かってきたら嫌だろう? \________________________________/ V ∧__∧ ________ <丶`Д´>/ ̄/ ̄/ ( 二二二つ / と) | / / / |  ̄| ̄
>>297 ヨーロッパじゃ農民を徴発して兵にはしなかったの?
朝鮮の役の日本軍は分散配置されてて、数は互角でも戦略的には各個撃破されやすい形になってた。 まあ個々の戦場では戦術レベルで殆ど勝って撃退しちゃったので、明軍の攻勢も頓挫したんだけど。 明快な戦略が欠けてたのが敗因でしょう。実際日本軍各部隊が合同して、たとえば敵野戦軍の撃滅を 目指したとかいう作戦は殆どない。あっても受身。
301 :
世界@名無史さん :05/03/10 20:38:33 0
>>戦術レベルで殆ど勝って撃退しちゃったので そしたら敗退せんだろw
>>301 戦術で撃退して相手の攻勢は頓挫させたけど、戦略的に敵を攻略するビジョンがなかったので
逆に攻勢には出られなかったんだよ。防衛はできても攻撃はできなかった。
304 :
世界@名無史さん :05/03/10 21:02:13 0
>>303 防衛が出来る=負けない
実際には負けてるじゃん、防衛出来なかったんだろw
何だ、ただのイチャモン坊主か。相手して損した。
>>304 戦線膠着で講和したのであって、半島南部の防衛には成功している。
307 :
世界@名無史さん :05/03/10 22:05:41 0
↑上記のやりとりを要約すると、 1. 朝鮮征伐時の日本軍には戦略的な視点での作戦を立てる能力が欠如していた 2. 日本軍は分散配置されていた 3. 日本軍では食料が欠乏していた(注: 耐寒装備もなかった) 4. 日本軍には大型の砲が無く、明軍は砲を装備していた 5. 明軍の攻撃能力は低く個別の戦闘では日本軍が優勢だったにも関わらず、上記の原因で日本軍は敗退した。 何も目新しい噺はなかったみたいだね。
308 :
世界@名無史さん :05/03/10 22:05:42 0
スペインにとって代わりつつあったオランダが台湾を清に凹られた敗残の鄭成功に奪われたが。
309 :
世界@名無史さん :05/03/10 22:08:27 0
↑オランダを撤退させた前に鄭成功は清に敗れていたっけ?
310 :
世界@名無史さん :05/03/10 22:15:35 0
清の攻撃を支えきれなくなって大陸の拠点を放棄し潰滅する前に洋上へ脱出。 清軍相手よりオランダ軍の方が与しやすいと判断し台湾のオランダの拠点 ゼーランディアを攻略。
311 :
つか :05/03/10 22:30:49 0
>1 何世紀のいつぐらいの日本と欧州か、もっとはっきりしろや。 世界レベルで一世紀間の各国の国力は大幅に変動してるからな。 それぐらいわかれよ。
とりあえず、ナポレオン戦争(1805-1815)時代までの欧州の国際通貨は、ターリー。 さて、どこの国の通貨だ?w
313 :
世界@名無史さん :05/03/10 22:51:25 0
314 :
世界@名無史さん :05/03/10 23:31:54 0
ゴート札
>296 >あるいは、戦国大名の軍事財政に関する学術的な研究というものはあるのでしょうか? 「戦争経済」については、久保健一郎先生がよく書いてらっしゃいますよ。 ただ、正直なところ私は碌に読んでおりません。御自分の目でお確かめを。
316 :
世界@名無史さん :05/03/11 12:59:35 0
>>299 >297に代わり回答
本格的な農民徴発の実施は30年戦争時のスウェーデン以降です。
徴兵制の実施をもって軍事改革と近代軍隊の成立を提唱する学者もいます。
しかし、その理論では中国では古代に近代軍隊が成立したことになります。
317 :
世界@名無史さん :05/03/11 13:21:05 0
各国の事象を比較する際には必ずといって良いほど、 各地では各地の良さがあり、比較は無意味という趣旨の発言をする方がいます。 そんな方に日本が誇る偉大な歴史家宮崎市定氏の見解を紹介します。 比較文化論の反対者は、個性は個々で探求すべきもので、 他と比較することは無意味で個性を埋没させかねないというが誤解である。 比較することで消滅する個性は個性ではない。 比較・分析した上で残る個性こそが個性である。 類似の事象を比較し、その相違点と類似点を分析・判断することが 科学的研究・学求である。(宮崎市定全集より)
318 :
世界@名無史さん :05/03/11 14:27:45 0
>>214 同意。
三段撃ちを否定して、隊列や軍制の不存在を主張している方がいるようですが、
中国では古い時期から、発射に時間のかかる弩の運用について、三列交代射撃を紹介しています。
三段撃ちはこの手法を鉄砲に応用しただけで、同様の戦術が存在したと考えるのは必然でしょう。
319 :
世界@名無史さん :05/03/11 14:39:25 0
三国志なんて100万人動員してたんだから 魏が最強だな
321 :
世界@名無史さん :05/03/11 15:08:13 0
>>318 長篠の三段撃ちは3000丁x10発位まで。あんまり連射すると種子島の火蓋に煤がこびりついて重くなり、銃身も加熱してしまうので 水で冷やす必要が出てくる。
とはいえ、3万発も連射されたら冊の全面には弾幕が張られたのと同じ。無防備な騎馬突撃ではひとたまりもなかっただったろう。
武田軍の騎馬隊が壊滅した後、待機していた徳川軍が攻勢に出て武田軍を殲滅した という進行だった模様。
322 :
世界@名無史さん :05/03/11 15:40:04 0
323 :
世界@名無史さん :05/03/11 17:19:53 0
>>318 あんまし関係ないけど、秦の始皇帝が出て来る"HERO"という映画で、ひとつの城市に矢を雨のように撃ちこむシーンがあったが、実際のところ あんなに大量に打ち込めたんだろうか?
勿論、映画ではCGだったが...
>320 そんなん言いだしたら 隋なんか公称300万人動員してるだろ。
アケメネス朝もそれくらい動員してたな ヘロドトスだったか誰かの言によると
鈴木氏の本でも鉄砲の連続撃ちが完全に否定されてるってわけでもないよ。
1000人づつ横隊を作り、順番に撃つという形態が否定されているだけだよ。
それの代わりに数名のチームで連続射撃をしたんだろうってこと。
一つ方法として弾込め係と、撃つ係に別れて撃つって感じかな。
>>320 >>324-325 なら。
1066年のヘースティングの戦いに参加した兵力は120万。
1241年のリーグニッツの戦いに参加した兵力はハンガリー40万で、モンゴル60万。
1314年のバノックバーンの戦いに参加したイングランドの兵は30万。
(ここは半分冗談ですよ。数値は同時代史料や少し後の年代記、19世紀頃の推定値などから)
>>88 のアステカの兵力40万を主張するのは無理そう。無難なところで7万から10万ってとこみたい。
327 :
世界@名無史さん :05/03/11 20:54:09 0
>>326 アンコールあたりに一億とかとか1兆とかwものすげえ数の戦いなかったか?たしか
328 :
世界@名無史さん :05/03/11 21:43:33 0
一つの戦いで100万とか300万とかはたぶん総動員数のことを言ってるのだと思う。
>>291 正
宇田川武久『鉄砲と戦国合戦』吉川弘文館
2002年11月1日(第一刷発行)、2002年8月(あとがきの日付)
誤
宇田川武久『鉄炮と戦国合戦』吉川弘文館
2002年11月1日(第一刷発行)で、2002年8月(あとがきの日付)
1.本のタイトルは「鉄砲」、本文は「鉄炮」
2.あとがきにかいているわけではありません
アケメネス朝のギリシア遠征は500万強だったはず。
源頼朝の奥州征伐が、28万騎VS17万騎となっていますが、多過ぎです。 薩摩にまで(西国は二軍)動員をかけていたにせよ、半分でも多いでしょう。 承久の乱の、東国だけで19万騎というのをまともに信用している人がたま に日本史板にもいますが、これもお話にならない。 13万を越えたという文永の役での動員も、実際は一万足らずでした。 弘安の役でも、その二倍かそこいらだったかと。蒙古側も怪しい。
ネタ披露合戦ですか。
まず訂正です。すんません。 >283 >長篠以後でも、島津義弘や真田信繁など騎馬突撃を行って一定の いやー、某スレで山野さんに叱られてしまいました。 騎馬に乗ったままで突撃する事はまあ、ないっす。 島津の史料にも真田の史料にも騎馬で突っ込んだとは書いてないです。 単純な間違い。失礼しました。 >294 本当かどうか知りませんが、日本側史料『常山紀談』には 李如松軍には李氏朝鮮軍まで加わって30万人余だったと 書いてあります。同書は江戸中期の岡山藩士湯浅常山が 古老たちに聞き書きしたり調査した内容を「できるだけ 聞いた通り」に書いたもので、学界では一定の評価 (江戸中期成立の俗書だが、著者が生真面目な姿勢で 取り組んでいる為資料価値はそこそこある)を受けているものです。 余りきちんとした根拠がある数字ではなく、古老が勘違いした 内容が伝承されているだけのような気もしますが、一応御参考までに。
>中国では古い時期から、発射に時間のかかる弩の運用について、三列交代射撃を紹介しています。 それは是非ソースが知りたいですね。是非ご教示を。 >三段撃ちはこの手法を鉄砲に応用しただけで、同様の戦術が存在したと考えるのは必然でしょう。 うーん、それも乱暴な結論のような気もしますが。 浅野裕一氏によれば、平安期に大江家では「中国の兵法はそのままでは 日本にあわない」という考え方になり、かなり兵法の受容には 日本的な変容が見られるようです。古代中国に三列交代射撃が 仮にあったとしても、それを日本人が応用しようと考えるか どうか、そこが先ず疑問ではないかと。
>>333 >李如松軍には李氏朝鮮軍まで加わって30万人余だったと
実際の明軍は、全体で5万人もいなかった筈ですが、ソースが手許にありません。
ただ、島津が明・朝鮮軍20万を打ち破ったとされる泗山の戦いに関する論文を以
前読んだかぎりでは、島津8千に対し、明34500・朝鮮2200であったとか。
『常山紀談』は面白い本で、戦国期に関する逸話も多いのですが、ソースが不明な
ので、嘘とも真とも言えないのが残念です。
>浅野裕一氏によれば、平安期に大江家では「中国の兵法はそのままでは
菅江両家と新興の藤原三家で文道を独占的に世襲する様になるのは院政期からで
すが、『奥州後三年記』で有名な大江匡房の時代からでしょうか。
当時の兵法書とされるものに『闘戦経』がありますね。
336 :
世界@名無史さん :05/03/12 16:19:04 0
337 :
世界@名無史さん :05/03/12 16:39:57 0
>>333 ないと言ったり、あると言ったり大変ですね
「〜はない。」と、否定してパフォーマンスで耳目を集める
自称歴史家鈴木 真哉の見解を信じるなんて…見識を疑います。
338 :
世界@名無史さん :05/03/12 16:56:36 0
337 名前:世界@名無史さん :05/03/12 16:39:57 0
>>333 ないと言ったり、あると言ったり大変ですね
「〜はない。」と、否定してパフォーマンスで耳目を集める
自称歴史家鈴木 真哉の見解を信じるなんて…見識を疑います。
\______________________________/
O
ムクッ ∧ ∧
(゚д゚ ):. _ きょ・・・今日は悪夢を
r'⌒と、j ヽ よく見るわけで
ノ ,.ィ' `ヽ. /
/ i!./
(_,. //
く.,_`^''ー-、_,,..ノ/
>>326 >1241年のリーグニッツの戦いに参加した兵力はハンガリー40万で、モンゴル60万。
リーグニッツの戦いのヨーロッパ軍はシレジア公ヘンリクを総大将に据えて、
シレジアとその周辺にいたドイツ人やポーランド人の貴族とその領民が連合したもの。
ハンガリー人じゃないよ。
>>323 中世イングランドでは重装騎兵が突撃する前に
ロングボウで矢を雨あられのように敵陣に飛ばして、敵の隊形を混乱させた。
ともかく戦国期(15-17世紀)の日本とは時代が違う。
342 :
世界@名無史さん :05/03/12 17:21:03 0
「馬を入れる」「総懸」「総乗」と騎馬突撃を表現する記述は「宗長記」「毛利家記」と 事欠かないが、騎馬突撃がないとはいかがなものか。 「信長公記 巻14」で公家に騎馬の統制についてデモンストレーションしてみせているが カタフラクトのように下馬する重装騎兵であるならば、そこまでの技量は必要だろうか? また、騎馬突撃がないならば、関ヶ原での島津軍は下馬→突撃後、追手が迫っているのに わざわざ馬をとりにかえり、追っ手がかかる度に下馬と騎乗を繰り返したのだろうか?
343 :
世界@名無史さん :05/03/12 17:26:24 0
戦国期日本の突撃(長槍を持つ足軽と一緒に抜刀して突撃)と 同時代のヨーロッパの軽装歩兵の馬足とランスによる突進力を利用した騎馬突撃とでは 形態が全然違うな。
344 :
世界@名無史さん :05/03/12 17:26:52 0
もし、騎兵戦法自体の存在を否定するならば、 馬上筒や騎兵用に長さの調整された槍はなんのために作られたのか? オーパーツとでもいうのだろうか?
345 :
世界@名無史さん :05/03/12 17:28:39 0
346 :
世界@名無史さん :05/03/12 17:37:03 0
川中島の合戦で車懸で強襲に成功した上杉軍が わざわざ相手の手前で下馬して突撃する姿も見もの。 もちろん追撃を受けているのに、乱戦の中で全軍乗馬後に逃走。
347 :
世界@名無史さん :05/03/12 17:41:21 0
>1241年のリーグニッツの戦いに参加した兵力はハンガリー40万で 40万もいなかったんだろ実際。多くて数万程度だったんじゃないか?たしか
348 :
世界@名無史さん :05/03/12 17:50:55 0
>>336 と釣ったつもりになった困った厨房が申しております。皆さん何か一言ドウゾ。
349 :
世界@名無史さん :05/03/12 18:22:52 0
火薬の原料の一つである、硝石はどうしていたの、輸入に頼っていたの? 産地があったら、その産地をめぐる戦いがありそうだけど、有名な戦い でそういった話は聞かないようだけど何で?
床下から採取した
慶長の役最末期は明軍の総数は10万は超えてたはず。質は悪かったが。 文禄のときは祖承訓と李如松両軍合わせても5万を超えないくらいだったけど。
戦国期と行っても期間とお国事情・経済力etcでさまざまでしょうが、 武田・上杉の軍法では、総大将が兵を動員する場合、各侍大将にたいし 大まかな動員人数の取り決めはしてますが、彼らがどんな部隊をどれだけ 集めるかは、自由だったようです。 信玄は動員武将に対して、なるべく鉄砲装備してとか騎兵がたくさんみたいな 書状を出してたのが現状です。 これでは騎兵の性格な戦力数が動員されてみるまで解ら無いわけで、 西洋の30年戦争時に見られるような騎兵部隊による戦術を確立するのは 難しいのではないでしょうか。 もっとも西洋でも30年戦争時分で、大規模騎馬突撃が出来る国は限られていた みたいでさらに組織として有効活用出来るのはさらに100年ほどまたなくちゃみたい ですが。
353 :
世界@名無史さん :05/03/12 18:50:00 0
硝石は東南アジア(蝙蝠/海鳥の巣から採取)からの輸入に頼っていたので高価だったが、安定供給されていた模様。 中世の欧州では便所や墓場の土などから採取していたようだが、日本でもやってたのかな? 鎖国で国内の軍事バランスが安定したのは、硝石と水銀の輸入を幕府が管理したおかげで、火薬の製造と金/銀の精錬が幕府に握られたためらすぃ。
354 :
世界@名無史さん :05/03/12 19:49:45 0
>>353 日本でもやってたね。厩や便所、床下から硝石とってたってね。
確か藤堂高虎(←相当曖昧)だったか誰かが、覚書か何かに書き残してた。
戦国終了期の日本では、硝石の採り方について書き残してた武将は結構いるよ。
ヤッパ買うと高かったのかな?それとも品がなかったのかな?
南蛮貿易に積極的だった大友宗隣なんかは 硝石の独占契約を むすんで敵対していた毛利の硝石輸出に牽制かけてたけど、 効果あったのでしょうか?
>>339 ごめんなさい。
別のスレでリーグニッツ、リーグニッツって叫びすぎて間違えちゃった。サヨの戦いね。
>>336 うん、釣られちゃった。けど、その一連の流れは
>>332 ってことだよ。
それに年代記史料の数値を鵜呑みにするなんて今時ないよ。
なら比較的新しい推定値。
1066年のヘースティングの戦いに参加した兵力は1万5千。
1241年のサヨの戦いに参加した兵力はハンガリー6万で、モンゴル10万(これでも多すぎる気がする)。
1314年のバノックバーンの戦いに参加したイングランドの兵は1万7千。
兵力の算出法は色々あるけど、どれが一番いいって方法はないみたい。
算出法の一例。
ヘロトドスによるとクセルクセスの遠征軍は陸海軍併せて5,283,220人。
だけど、一日に全軍で消費される水と食糧の量と輸送部隊が輸送可能な物資の量、
へレスポント海峡を渡河するのにかかった時間から兵力を算出する試みが行われていて、
それによると、輸送用の駄獣17万頭、輸送要員8万、歩兵4万千、騎兵4千3百名になるみたい。
ただし、これは物資が水と食糧だけって想定だから、実際にはもっと少なくなる。
海軍はヘロトドスによると約四千隻だけど、
サラミス海戦前にペルシャ艦隊が停泊したバレーロン湾の広さから停泊可能な船の数を算出した結果によると
艦艇数が三百隻を上回ることはないってことらしい。
中井義明,クセルクセスの遠征軍の規模,西洋古典学研究37,1989,pp.12-22
357 :
世界@名無史さん :05/03/12 20:33:00 0
>>354 >>355 信長の鉄砲3,000丁の火薬もすごいけど、鉄砲3,000丁x(本番用10発+練習用5発)x10gの火薬=450Kg≒300kgの硝石と鉛弾を調達して来た堺の商人はもっと凄い?
358 :
世界@名無史さん :05/03/12 20:42:31 0
>>357 >戦国時代の日本は間違いなく大国だったからね。
>ハンザ同盟の全貿易額の3倍の金が、瀬戸内海の風待ち港ひとつで動いていたなんていう話すらあるし。
確かに日本でも便所や床下の土から硝石を取ることは行われていた。 明和三年(1776)に青木安左衛門が残した「塩本記」には硝石製造法が詳述されているが それによると年数四、五十たった家の床下、便所、馬小屋の土からかき集めた土を 水にとかし、灰汁を加え、上澄みを取って煮詰めることで粗製の硝石を得る、という のが当時の標準的な硝石製造方法だったらしい。 だが幕末ともなると洋書からの知識で、より効率的に硝石を作る方法が知られていた。 それは、魚のはらわたや動物の糞などを腐らせたものに土と石灰をまぶして作る、 フランス流のやり方で、これだと二、三年で硝石が作れたらしい。 天保八年(1837)に「伊豆防備意見書」においてこの方法を指摘した江川太郎左衛門は 伊豆では魚も石灰も硫黄も採れるので火薬の製造も容易であることを論じている。 とはいえ、日本国内でも長期的な生産システムによって相当量の硝石を製造していた 藩があった。それは意外なことに、あの平和で文化的なイメージの強い加賀前田藩で ここでは藩内における犯罪者の流刑地でもあったほどの奥地、現在では合掌造りでも 知られる五箇山において、半ば秘密裏に硝石製造が行われていた。
361 :
Krt :05/03/12 21:16:18 0
即ちここでは百姓は米の年貢を免除され、代わりに硝石を年貢として御用硝石煮屋へ 収めていたのである。その作り方は、文化八年(1811)に赤松源則が「陽精顕秘訣」で 書いたところに拠ると、雑草、なすの木、木の葉の類を雨露のかからぬ所に積み重ね 人尿で少し湿らせ、蚕の糞をまぶしうまや肥やしのようにする。次に家の椽の下を 一尺、二尺、掘り、この肥やしと細かくふるったその土とを交互に積み重ね床板の上 まで仕込む、というもので、夏に仕込めば翌夏には硝石ができる、というものだった。 ただ研究によると、実際にはこの方法では良質の硝石を得るためには七、八年かかる らしいのだが、その後は毎年産出可能になるという。この五箇所から御用硝石煮屋 までの道は地元では密かに塩硝街道と呼ばれていたそうで、十六世紀末〜十七世紀 初頭に始まったこの五箇所の硝石製造は、なんと明治二十年代まで続いたという。 国内におけるその他の主な硝石製造所は、幕末に薩摩藩が作った鹿児島の谷山製硝場 あたりが纏まった記録の残っている場所だそうで、ここは島津斎彬が石川確太郎に オランダ書を学ばせて作ったものなのだが、なかなかの生産性を示したという。 だがそのせいか、ここの硝石を原料とする鹿児島火薬製造所は西南の役に先だつ 明治十年一月、真っ先に私学校生徒に襲われることになったのである。 参:奥村正二「火薬から黒船まで」岩波新書 :吉田信宏/大西正夫「火薬が心臓を救う」ダイヤモンド社
362 :
世界@名無史さん :05/03/12 21:23:15 0
>>360 >>361 へ〜x15連発w
加賀100万石ってのが意味深だね。幕府の隠密にもバレなかったのかな。
バレたら謀反容疑で取り潰し確実だねw
363 :
世界@名無史さん :05/03/12 21:31:38 0
>実際の明軍は、全体で5万人もいなかった筈ですが、 まあ、実際はそんなもんでしょうが、日本側の史料だと何故か 軒並み数が多いんですね、多分統制がとれていてダーッと 押し出してくるので人数を数える役の侍(そういう役があるんですね、 老練な武者を選んで斥候を行わせていたそうで)が実数よりも 多い数を考えているんじゃないかと思いますが。若しくは戦功の水増し 申告ではないかなあと。 >『奥州後三年記』で有名な大江匡房の時代からでしょうか。 当時の兵法書とされるものに『闘戦経』がありますね。 ズバリそれです。書き込みも『闘戦経』からの引用です。 >342 原文の引用を見ないと、なんとも言い難いですね。 総懸はそもそも騎馬突撃の用語じゃないしなあ。騎馬で侍が突っ込んでいる と実証できる史料があれば、話は別ですが… >「信長公記 巻14」で公家に騎馬の統制についてデモンストレーションしてみせているが 私が持っている陽明文庫本信長公記巻十四では、お公家さんの前で綺麗な 服を来てパレードしただけみたいに読めますね。合戦と関係が有るのでしょうか。 あれが騎馬突撃の根拠になるとは思えませんが、池田家文庫本当たりでは 描写が違うのですかね。どう騎馬突撃と関係が有るのか、説明していただけると ありがたい。後、関ヶ原の島津義弘軍の構成はどうも徒歩主体みたいなんですが、 騎馬に乗ってましたかね?
常山紀談巻二十に島津義弘の関ヶ原での退却の模様が書かれて居ますが、 「島津豊久は義弘の馬に寄り添っていたが…討ち死にした(馬に乗って 突撃したとは何処にも書いていない)」 「島津軍は折り敷きて(馬から下りて座りこんで) 鉄砲を打ち、島津が「あれは井伊だ、打て」と命じたところ、 朝鮮から島津が連れ帰って来た(おそらく帰化人の) 松田ナニガシの鉄砲が井伊直政に当たり、井伊は落馬した」 と、しか書いてないのですが。 ちなみに、同書には大坂夏の陣で伊達軍が騎馬に乗った侍を訓練して 鉄砲を撃たせ、敵が驚いたところを「馬の首を揃えて忽乗り破」ろうと思って 専用の部隊らしきものを編成したが、真田軍の徒歩の部隊が 「座っていたところから立ち上がり槍を揃えて一丸と成り、 念仏を唱えながら突っ込んできたので」 「伊達軍はひとたまりもなく敗れた」と、騎馬突撃をやろうとしたらしい けれども失敗したケースがかかれて居ます。 その他の箇所でも「大久保彦左衛門は馬から飛び降り、槍を構えた」 などと、下馬して戦っている話なら色々有りますが騎馬で突っ込んだケースが 大変乏しい。伊達家は突撃隊をこしらえようとしてかなりがんばっていた ようですが、上記の如く失敗しています。戦国時代の騎馬突撃は無理と 考えるのがやはり妥当ではないでしょうか。
>>349 硝石どころか、真鍮(亜鉛の国産化は明治から)も良質な鉄も主に福建から
の密輸品でしたよ。自前で調達出来なかった不備と見るべきか、この時代
から国際交易が盛んだったと評価するかは、それぞれでしょうが。
騎馬突撃については、私は「馬の重量と速度の利用による、集団への突入」は
考え難いとしているのであり、中世の騎射やそれに伴って必要とされた馬術
を否定した事は、一度もありません。
ただ、鑓が史料上に現れる南北朝時代になると、下馬戦闘が盛んになったの
は事実であり、これは山中に逃れて戦う野伏などを対象とした対ゲリラ戦が
必要とされる中での事ではなかったか、また本来馬から下りた方がより行動
が自由になる(それまでは主に身分標識)のではないかと言われています。
>馬上筒や騎兵用に長さの調整された槍はなんのために作られたのか?
「馬上筒」の使用例を知りたい所ですが、馬上からの発砲は別に否定するもの
ではありませんよ。ただ、鑓の士はやはり下馬して戦っています。
『甲陽軍監』には一隊あたり七八人を除いて下馬していたとありますが、おそ
らく指揮官は騎乗したままであったのでしょう。
僅かながら、馬に乗った者同士で戦った例や、馬に乗った者を倒した例もあ
ります。
ただ、騎乗はあってもそのまま突入したとは考え難いというか、少なくとも
戦闘において騎乗を有効に利用していたという事は無さそうです。
なお「騎馬軍団」は無かったものの、騎乗した者たちだけが少人数で移動して
いた事もあったとだけ付け加えておきます。
>364
>ズバリそれです。書き込みも『闘戦経』からの引用です。
ああ、やはり。しかし戦前には何度も刊行された様ですが、今はマイナーも
いいところで、正面から扱った論文を見た憶えもありません。
まあ、山野さんが前におっしゃるが如く、常山紀談は 真偽不明の野史ではあるんですが、聞き書きというところを 尊重して、まあ、騎馬突撃の有無を調べて見ると以下のごとき結果ですね。 これをどう見るかというところですが。 巻11 ・竹中重治が「馬から下りて戦う時馬副(うまぞい)の 人が続かない時もあるのだから高い馬を買わず安い馬を買って 乗り捨てるべきだ」と主張。 ・騎馬武者が二人敵に襲われた時、一人は馬に乗り逃走、 もう一人は逃げ切れず馬から下りて戦った。 巻12 ・上杉入庵が新発田治長と戦った時、敵が攻めてくるのを予測して 馬から下りて待機させ、槍衾を作って新発田治長を討ち取った。 ・一柳直盛は岐阜攻めの時、河を渡る時は馬に乗り、 その後馬を下りて腰掛に座って槍を構えて敵を待った。 ・野一色頼母が馬に乗ったまま指揮をして居たが、討ち取られた。 ・島津の軍の話し。詳細は前記の如し。 巻13 ・黒田家と大友家が戦った時、馬に乗っていた黒田軍の武士が 「敵が必死なので」下馬して突撃した。 ・同じ戦いで、大友家の吉弘加兵衛が馬に乗ったままで敵に切りかかったが 落馬させられ討たれた(一説として記載) ・南條元琢が馬から下りて敵と戦った ・前田慶次が馬から飛び降りて敵と戦った ・伊達政宗が馬に乗ったまま敵と戦った …どうも下馬して戦うケースが普通のようで、馬に乗って戦っている人の方が 少ないですね。吉弘のケースは馬から下りて戦った話の後に「一説では 馬に乗ったままで戦っていたようだね」とあるもので、厳密な例は伊達の 一例だけ。しかも突撃した描写が無い。
>366 >また本来馬から下りた方がより行動 が自由になる(それまでは主に身分標識)のではないかと言われています。 やはりそういう説がありましたか。上記の如く「馬から下りて戦う」 ケースだと、馬から下りる理由がかなりそれで説明できますね。 「敵が必死だったので馬から下りた」という黒田家の武士の 話もそれで理解できますね。前田慶次はわざわざ同僚から 「馬を下りろ」と言われて飛び降りて居ます。 後、河を渡る時に馬に乗っていたほうがよかったようで、 一柳直盛は河に「馬で乗り入れ」た後で下馬して戦闘体制を 取って居ます。>342の「馬を入れる」という表現は 単に馬で敵陣へ移動したことを示すだけで、その後に大抵下馬しています。 まあイレギュラーなケースで敵陣へ馬で移動した後馬に乗ったまま戦う ことはあるでしょうが、これを騎馬突撃とは言いがたい。 >ああ、やはり。しかし戦前には何度も刊行された様ですが、今はマイナーも いいところで、正面から扱った論文を見た憶えもありません。 そもそも戦後になってから出版されて居なかったような… 論文も無いですね。
>後、河を渡る時に馬に乗っていたほうがよかったようで、 延慶本『平家物語』には、川を渡りながら騎射を行うこつが記されていますが、 浅瀬を見つけて追いかけて来る歩兵は、ここでは明らかに遅れています。 敵を目前に控えた渡河で騎兵が先行する例は、珍しくありません。 >そもそも戦後になってから出版されて居なかったような… まだ背表紙の綺麗な本がどこかにあった様な。探しておきます。
370 :
Krt :05/03/12 23:04:19 0
>>362 それが不思議なことに、一応幕府には「秘密」だったとされているんだけれど、
上記赤松の本には堂々と加賀藩の硝石培養法として書いてあるんだそうな。
なんらかの事情で一種の黙認状態だったんだろうか。
>>363 戦国時代の硝石は輸入品だろうと奥村は言っている。硝石国産化に関する事項が
文献に表れるのは慶長年間になってからなんだそうで、慶長中頃から平戸、長崎の
貿易品目からは硝石の文字は次第にかげをひそめるんだそうだ。
もっとも上記の加賀硝石は江戸時代以前の文禄年間から作られているというから、
奥村が言うように、朝鮮戦役の際、(明人から)硝石の製造法を学んだ人がいる
のではないか、というのは当たっているかもしれないね。
竹中重治の「馬から下りて戦う時馬副(うまぞい)の 人が続かない時もあるのだから高い馬を買わず安い馬を買って 乗り捨てるべきだ」という主張は石井進氏の見解 (騎馬武者には馬の会添えが付いて出陣する)とも符合しますし、 戦場でわざわざ下馬したのかという疑問の解説にもなって居ます。 竹中の主張にはわざわざ著者湯浅常山のコメントが付いていますが、 「竹中の主張は尤もで、武士は皆こうすべきだ」的な賞賛です。 馬から下りて戦うことが基本とされていたようですね。 ちなみに、積極的に騎馬突撃をやろうとしていたように常山紀談では 書かれている(上手く言った形跡が無いけど) のは伊達家ですが、著者の書き方が騎馬突撃に否定的で、 「伊達政宗が馬上で戦った後、後もう少しで討ち取られそうだった と敵から後で馬鹿にされた」 「伊達軍は騎馬鉄砲を訓練したが少ない真田の徒歩武者に負けた。 伊達軍は30人中29人まで討ち取られた」と、何故か 騎馬戦闘の後常に否定的な話を書いています。伊達の戦い方は 特殊であり余りよくないとされていたのではないかと。 ちなみに、騎馬鉄砲という話の根拠は実は常山紀談の当該箇所を 除き無いようです。他に例が見当たらないので試験的戦術だったのではないかと思われ。
372 :
世界@名無史さん :05/03/13 00:04:47 0
>>366 南蛮鉄ってやつね。あれはバラスト代わりに持ち込まれたようだが。
しかし真鍮も輸入ですか。日本は世界有数の産銅国で蘭印との交易の主体だったのに。
もしかすると石炭火力を使えた大陸産の方がメチャ安価だった可能性もあるね。
あと馬上筒は日本版のカービン銃だったとされている。しかし単純に馬上から射撃するという使い方は無かったんじゃないかな?
なにしろ筒先が馬の耳の直ぐ横だから、放った途端に馬が制御不能なほど暴れただろう。
明治になって洋式騎兵科が導入されるが、彼らは騎乗している場合には槍=銃剣付きの騎兵銃を使うか、拳銃を使用した。
しかし、実際には高速移動できる歩兵部隊といった要素も強かったようで、日露戦争では騎兵が塹壕を掘って機銃でロシア軍と戦ったりしている。
>馬上筒 私も実際にどこまで使用されたか分からなかったので、使用例をお尋ねした次第。 そもそも、どこまで普及していたのか。放ち方は正面に限ったのか。 鉄の生産について『日本一鑑』は、当初は福建産の鉄が多かったが、現在ではシャ ム産が多く、これは日本鉄がもろい為だと述べています。 勿論、国内で優秀な製鉄が行われていたのも事実ですが、地域によっては輸入し た方が都合の良い事情があったものと思われます。
374 :
世界@名無史さん :05/03/13 02:25:55 0
>>373 馬上筒については「馬に乗って運べる鉄砲」といった使途だったのではないかと思われます。
芥砲という握って発射する携帯拳銃がありましたが、これは携帯しての護身よりも騎馬の蔵に複数を挟んでおいて敵中で下馬して接近戦で使用するのが本来の目的でした。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/tokeido/kaihou-65.jpg 日本国産の鉄材は、豊富な木材資源に恵まれたおかげで、古来からの たたら製鉄が主流で品質的にはスポンジ鉄塊でしたので、鍛造による精錬が不可欠でした。
中国では早くから石炭による製鉄が始まり、欧州も14世紀には石炭製鉄が始まっています。
この時代から日本刀でも南蛮鉄を使用したものが数多く作られています。
比較して見ると、やはり南蛮鉄の方が いろいろ有利だったように思えます。
>>374 >比較して見ると、やはり南蛮鉄の方が いろいろ有利だったように思えます。
具体的になにがどう有利なの?
376 :
世界@名無史さん :05/03/13 10:54:39 0
377 :
世界@名無史さん :05/03/13 14:37:18 0
>>375 スポンジ鉄塊からの鍛造による精錬では不純物の除去が難しく、非常な手間(トンテンカン)と時間と木炭が必要になります。
その点、南蛮鉄は既に精錬が終了した鉄塊の状態で輸入されていますので、次の製品に加工するまでのステップが大幅に短縮できます。
>>376 国産の銃器に用心鉄(引き金の周りのわっか)が付き始めるのは、幕末に洋式銃器の流入とコピー生産がはじまってからの模様。
それまで用心鉄が不要と思われていたのは、使用直前まで装填を行わないのが普通だったからかも知れない。
尚、日本で洋式銃器のコピー生産を始めたのは、下記の通り
a.長崎警護に就いていた佐賀藩
→フェートン号事件がきっかけ
b.徳川斉昭の下で尊皇攘夷思想の発信源だった水戸藩
→英船漂着事件がきっかけ
c.琉球経由での密貿易を資金源に殖産興業政策を進めた薩摩藩
→大陸での阿片戦争の詳細を知ったのがきっかけ
このうち、水戸藩で製造された洋式短銃は、桜田門外の変での井伊直弼暗殺に使われ、参加者の子孫がいまでも保存している。
>>377 南蛮鉄は製鉄の工程で鉄を溶融するので、不純物を豊富に含んだ銑鉄ができる。
それに比べてたたら製鉄は鉄を溶かさずに還元するんで、そもそも不純物の濃度が低い。
379 :
世界@名無史さん :05/03/13 15:04:45 0
日本の話ばっかだな。 同時代の西洋列強はどうよ。
380 :
世界@名無史さん :05/03/13 15:15:25 0
>>377 鉄を溶融すると比重の違う不純物(スラグ)が浮いて来るので除去しやすくなります。
木炭たたら製鉄のスポンジ鉄塊は不純物が大量に含まれているので 鍛造による精錬が必要になります。
>>380 いや、鍛錬で除去する不純物の大部分は炭素やガス元素なんだよ。
溶融しなければ炭素やガス元素の固溶は劇的に少なくなる。
382 :
世界@名無史さん :05/03/13 15:19:51 0
18世紀の大英帝国こそ最強 ネルソンやペルーといった海軍きっての英雄もいたし。
383 :
世界@名無史さん :05/03/13 15:23:40 0
>>380 南蛮鉄は単に精錬後の鋼を輸入しているだけ。
精錬の大変さは、溶融製鉄でできる銑鉄からの方が上。
溶融製鉄で製造されて鉄は精錬が必要ないとでも思ってる?
18世紀で世界最強の国は清だな
385 :
世界@名無史さん :05/03/13 15:43:26 0
>>380 は製鉄の基本的なところがわかっていないと思う。
386 :
世界@名無史さん :05/03/13 15:55:26 0
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1057085264/ 地域 西欧 日本 中華 印度 東欧 その他
1750 18.2 3.8 32.8 24.5 5.0 15.7
1800 23.3 3.5 33.3 19.7 5.6 14.6
1830 31.1 2.8 29.8 17.6 5.6 13.1
1860 53.7 2.6 19.7 8.6 7.0 8.4
1880 68.8 2.4 12.5 2.8 7.6 5.9
1900 77.4 2.4 6.2 1.7 8.8 3.5
1913 81.6 2.7 3.6 1.4 8.2 2.5
1928 84.2 3.3 3.4 1.9 5.3 1.9
1938 78.6 5.2 3.1 2.4 9.0 1.7
1953 74.6 2.9 2.3 1.7 16.0 2.5
1963 65.4 5.1 3.5 1.8 20.9 3.3
1973 61.2 8.8 3.9 2.1 20.1 3.9
1980 57.8 9.1 5.0 2.3 21.1 4.7
(単位%、世界=100%)
(出典)Paul Bairoch, "International Industrialization Levels, 1750- 1980,"
Journal of European Economic History 11, 1982, pp.269-334
ほれ。1750年代でも西欧全体でも工業力のシェアは未だこの程度だ。このスレでしつこく食い下がってた厨はどこにいった?
387 :
世界@名無史さん :05/03/13 15:56:37 0
1820年時点と1992年時点での経済大国上位10カ国
http://homepage.mac.com/naoyuki_hashimoto/iblog/C1570102516/E1814576371/ GDPの世界総計に占める割合(%) 人口の世界総計に占める割合(%)
1820 年
1.清** 28.7 35.5
2.印度* 16.0 19.6
3.仏蘭西 5.4 2.9
4.英吉利 5.2 2.0
5.露西亜 4.9 4.2
6.日本* 3.1 2.9
7.墺太利 1.9 1.3
8.西班牙 1.9 1.1
9.亜米利 1.8 0.9
10.普魯西 1.7 1.1
上位10カ国合計 70.5 71.7
世界総計 100.0 100.0
1992 年
1.亜米利 20.3 4.7
2.中華共 12.9 21.4
3.日本* 8.6 2.3
4.独逸* 4.9 1.5
5.印度* 4.2 16.2
6.仏蘭西 3.7 1.1
7.伊太利 3.4 1.1
8.英吉利 3.3 1.1
9.露西亜 2.9 2.7
10.伯剌西爾 2.7 2.9
上位10カ国合計 66.8 54.9
世界総計 100.0 100.0
388 :
世界@名無史さん :05/03/13 15:58:44 0
一口に工業と言っても、生産品によるだろ。 インドなどは綿、中国は絹や陶磁器が主流だろ。 ヨーロッパは鉄製品や機械じゃないか?
389 :
世界@名無史さん :05/03/13 16:52:17 0
>>377 装填はしておいて発砲直前まで安全装置をロックしておけばいいんだと思う。
安全装置を解除するのに一瞬時間が掛かるの欠点かな。
390 :
世界@名無史さん :05/03/13 16:55:25 0
>>387 日本の戦国期のスレだから、その時代つまり15世紀から16世紀のデータはないの?
>>388 だろだろって同意求めるんじゃない馬鹿。
言い出したなら確固たる自信持って家
>>388 1820年だぞ?イギリスやフランスも軽工業中心。
蒸気機関を利用した機織機で、清やインドより低品質な綿布を作ってた時代だ。
蒸気機関車だって1814年に発明されたところで、軍艦も帆走。
>>387 これ購買力評価だな。
購買力評価には、通貨高の国が少なくなり、人口の多い国ほど大くなるという欠点がある。
395 :
世界@名無史さん :05/03/13 22:26:31 0
396 :
世界@名無史さん :05/03/13 22:53:06 0
>>395 製鉄と精錬(製鋼)の違いが分かってないのかな?
あなたの書いてるのは製鉄。
自分で「鍛錬」と書いていながら、鉄鉱石から銑鉄を作る製鉄と
混同してるでしょ?
鍛錬(精錬)とは炭素量のコントロールが最重要目的。
まじで、ネットでかき集めた勘違いを書かないでくれよ。
397 :
世界@名無史さん :05/03/14 01:40:41 0
>>鍛錬で除去する不純物の大部分は炭素やガス元素なんだよ との事ですが? まさか鍛錬で鋼の炭素量をコントロールすると思ってるんじゃないですよね?w お言葉はそのままお返ししますよww
398 :
世界@名無史さん :05/03/14 08:21:58 0
>>297 鋼中の炭素固溶量をコントロールしてるよ。
鍛練が結晶粒のコントロールだけだと思ってるの?
それと製鉄後に精錬行程なしで鋼が作れる南蛮鉄とやらはすごいですね。
現代の製鉄技術をも凌駕するオーパーツですか?
399 :
世界@名無史さん :05/03/14 08:24:40 0
>>297 それと当然ながら鋼中窒素などのガス元素の量もコントロールしますよ。
400 :
世界@名無史さん :05/03/14 11:56:45 0
↑妄想乙w
401 :
世界@名無史さん :05/03/14 12:04:24 0
九州の大名たちは独自に貿易をしていたので、他地域の大名に比べて技術力は高かったかもしれないな
403 :
世界@名無史さん :05/03/14 12:45:44 0
>>374 明治以降の近代になり日本は国威発揚のため日本刀の製造を試みるが、日本刀の原料となる玉鋼はたたら製鉄でしか
精製できないため、わざわざ鳥取でたたら製鉄を再興した。(「玉鋼及踏鞴現状概要」倉田 七郎)
日本刀は玉鋼を庖丁鉄で包んで初めてできるのだ。
近代の精製技術で精製した鋼でさえ日本刀は作れなかった。
ましてや当時の欧州の製鉄技術では日本刀は作成できないのは当然。
鋼の性質を無視し、先入観だけで論争するな。
そもそも、たたら製鉄は生産性が低いから廃れたのであって、品質的には近代の西洋より高いのだ。
404 :
世界@名無史さん :05/03/14 12:56:44 0
>>373 「稲富流鉄砲伝書」河上茂介著には騎乗走行中の射撃方法が、
「武道芸術秘伝図会」一勇斎国芳著には馬上と騎馬退却中の射撃方法があります。
405 :
世界@名無史さん :05/03/14 13:13:03 0
オスマンのイェニチェリやナポレオンのドラグーン騎兵のような形態が経常化し、 騎兵が廃れるのは必然か。 騎馬部隊の存在がドンキホーテ的騎士道精神のアダ花か、欧州の後進性の証明か。
>>404 半裸で描かれたあれの事ですか。
しかし、戦場で使用した例がまず無いので・・・。
近世の武芸としても、それほど普及していたとも思えないのですが。
407 :
世界@名無史さん :05/03/14 14:37:40 0
いや、反論になってるだろ。
409 :
世界@名無史さん :05/03/14 16:51:00 0
>>283 乃ち空壕二重を山前に穿ち、数千人をしてこれを守らしめ、塁を起し柵を植て、以て諸軍を頓す。(中略)軍営数十里に弥亘す。
参議、楼櫓に上り、塹柵を望見し、笑つて信雄に謂って曰く、「彼、尊公の長篠の策を襲ぐ。豈に我を以て勝頼に比するか」と。
乃ち令を軍中に下し、擅に進むを禁ず。
正史「徳川氏正記」の小牧・長久手戦いには塹壕を掘り守りを固め、長篠の二の舞を踏むまいとする両雄の描写がある。
410 :
世界@名無史さん :05/03/14 17:05:41 0
日本側の資料が合戦の仔細な描写が少ない点をつき、あげ足取りに終始する幼稚な議論に食傷気味。 持論を論拠に引用し、論理構成を行う手法は自著を資料に引用する三流歴史家のようで見苦しい。
戦わずに済んだから、 比較するほど強かったという妄想が膨らむ。
412 :
世界@名無史さん :05/03/14 17:42:42 0
>342の「馬を入れる」という表現は 単に馬で敵陣へ移動したことを示すだけで、その後に大抵下馬しています。 まあイレギュラーなケースで敵陣へ馬で移動した後馬に乗ったまま戦う ことはあるでしょうが、これを騎馬突撃とは言いがたい。 敵陣を騎馬で蹂躙した時点で広義の突撃が成立してないか? その後の馬に乗ったままかどうかは関係ないし
>>409 既に申し上げた通り、野外陣地の構築自体は古くから行われており、長篠の
柵も珍しいものではありませんでしたが、ここでは柵と鉄砲・長鑓・弓矢の
併用によって消耗を誘う狙いがあったのを見抜いたという意味で、
>「彼、尊公の長篠の策を襲ぐ。豈に我を以て勝頼に比するか」
と想起されているのでしょう。事実とすればですが。
しかし、頼山陽の「徳川氏正記」を信頼出来る「正史」と言って良いのですか。
>412
「馬で敵陣へ移動」と書いてあるのが、どうして「騎馬で蹂躙」になるのですか。
>>386 その論文をざっと見てきたけど、1750年と19世紀辺りのデータの論拠史料や算出方法がよく分からなかった。
1860年までと以降だとデータの算出方法が違うみたい。
1860年までは繊維産業(主にコットン)と、鉄の生産量を比較し、それ以降には化学産業(ケミカル)を加えたとなっている。
技術水準だとか製造方法の違いなどは一切無視。
なんか19世紀から始まったヨーロッパの産業の急激な発展を示そうとしたみたいに見える。
その表は世界全体に占める各国の生産高の割合を示す値。
415 :
世界@名無史さん :05/03/14 22:12:48 0
>>410 >日本側の資料が合戦の仔細な描写が少ない点
何処の国の資料が仔細な描写が多いの?
416 :
世界@名無史さん :05/03/15 11:42:47 0
>413 既に申し上げた通り、野外陣地の構築自体は古くから行われており、長篠の 柵も珍しいものではありませんでしたが、ここでは柵と鉄砲・長鑓・弓矢の 併用によって消耗を誘う狙いがあったのを見抜いたという意味で、 >「彼、尊公の長篠の策を襲ぐ。豈に我を以て勝頼に比するか」 と想起されているのでしょう。事実とすればですが。 >278 長篠以降、塹壕で防備を固めて火器主体の消耗戦が行われたという見解 >283 事実と論拠に対する反論 >409 論拠となる資料の提示 といった一連の流れが読めていれば>413のような重複の見解をしたり顔で述べないはずですが ニ ホ ン ゴ ワ カ リ マ ス カ ?
>>283 に対しては、
>>285 で既に異議を申し立てております。
その事に気付いてらっしゃらなかったと思ったのですが。
つまり、「長篠以降、塹壕で防備を固めて火器主体の消耗戦が行われた」と
主張してらっしゃる訳ですか。
私としては、野外陣地の構築自体は以前から行われており、鉄砲の交代射
撃(三段撃ちではない)も存在した中、長篠の様な情景は大なり小なり展開
されたものであって、長篠の目立った点は、それが戦場全体に展開された
事にあったのではないかと、考えているのですが。革命とまでは捉えてお
りません。
長篠の戦法が新戦術扱いされる様になるのは『甫庵信長記』以降で、以後
『総見記』などでイメージが広まりますが、「徳川氏正記」というのも長篠
が特別扱いされる様になってから成立した書で、今一つ信用出来ません。
>両雄の描写がある。
これだけでは、どういう意味で反論されたのか、分り難いですよ。
あなたに限らず挑発的なレスが目立つ様ですが、一行レス、?の多用、ソー
スのみの貼り付けでは、貼り付けた人間には自明の事であっても、読んだ人
には言わんとするところが分り難い点が残ります。
無論、受け手も理解しようと努力する必要がありますが、徴発しているばか
りでは、相手は理解しようとする前に、嫌気がさしてしまいます。
もう少しおだやかにお話になった方が、双方の利益にかなうと思うのですが。
小牧・長久手の経過については、私も調べておきます。
しかし、なんでまた『日本外史』を引用なさったのですか。
理屈で適わなくなると徴発。そして人格攻撃。 厨房の常套手段。
419 :
世界@名無史さん :05/03/15 18:43:11 0
>>418 ○挑発
×徴発
やはり日本語から入ったほうが良いのではないでしょうか?
>>419 なんか、すっごく煽って欲しそうだから言ってあげる。
詭弁の特徴のガイドライン
14:細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
「犬って言っても大型犬から小型犬までいる。もっと勉強しろよ」
421 :
世界@名無史さん :05/03/15 19:07:21 0
ホロン部 部員心得 その1:事実に対して仮定を持ち出す その2:ごくまれな反例をとりあげる その3:自分に有利な将来像を予想する その4:主観で決め付ける その5:資料を示さず自論が支持されていると思わせる その6:一見関係ありそうで関係ない話を始める その7:陰謀であると力説する その8:知能障害を起こす その9:自分の見解を述べずに人格批判をする その10:ありえない解決策を図る その11:レッテル貼りをする その12:決着した話を経緯を無視して蒸し返す その13:勝利宣言をする その14:細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる その15:新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
日本外史はそもそも正史に対して外史(野史)と称しているわけですね。
いうなれば非公式の書ですし、平将門と藤原純友が延暦寺で会談した
という話(フィクションらしい)を史実としてとりあげたりしていますから、
史料的価値は殆ど0ですね。長篠の項目も
小瀬甫庵の信長記(大久保忠教が事実と違うといって
批判しており、学界では史料価値低とみなされている)を
更に小説風にした織田真記がソースなので、殆ど
論議の対象にならないのではないかと。
後、引用された箇所を見ると日本外史には楼櫓(やぐら)を構えたかのように
書いてありますが、日本外史以前の書で史料価値の高い信長公記、
絵画史料『長篠合戦図屏風』、発掘調査結果など、いずれも
櫓を構築した痕跡がありません。念のため信長公記巻八の現代語訳を
貼っておきます。
ttp://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho11.html
すいません。長篠じゃなくて小牧長久手の戦いでしたね。 どっちにせよョ襄は徳川実記とか見てないからあんまり当てにならない んですけどね。小牧長久手は本当に史料が無くて、 古文書を除くと徳川実記と三河後風土記とェ政譜位しか 良質なものはないですかね。甫庵太閤記では史料にならないし、 太田牛一のたいかうさま軍記のうちは小牧長久手を扱っていたか どうか。こういうとき大日本史料が手元にあると助かるんですが…
>平将門と藤原純友が延暦寺で会談した 室町時代に『将門純友東西軍記』で広まった説ですが、『大鏡』に既に見られ、 単なる結託であれば、当時から囁かれていた様です。 もっとも、各の動機や事情や時期を考えた結果、現在では有り得ないとい う結論に落ち着いていますが。 少なくとも、『扶桑略記』ほかに無い話を堂々と載せた時点でアウトです。 (院はこれに関する薀蓄で受かった様なものなので、自信があります(w)
各々の場合の感想 「実は結託していた」・・・・・なんだしょうもない。 「連絡もないのにタイミングが一致」・・・・・なんだか不思議 ワクワク
>連絡もないのにタイミングが一致 律令体制が崩壊し、所謂「王朝国家」へと移行しつつあった時代です。 中世をこの時代から始める人もいますが、地方政治は軍事動員も含めて受領 に一任され、上がりさえあればよいという状況に移行し、地方では私的武力 を備えた私営田領主たちが勃興していました。 将門は桓武天皇から数えて五代目の子孫。純友は関白の従弟の子で、若い頃 は共に官人として奉仕していたものの、親の官位が子供に影響し、それが固 定化される様になっていた時代には、高位は望めませんでした。 そこで、彼らは血統に見合う高位を求め、己の武力を活かした賊討伐によっ て論功に預かろうとしたものの、結局認められず、暴走したという事です。 とはいえ、最終目的はどちらも政府への帰順による昇進だったのですが、政 府側は彼らが想像していたよりも強硬で、遂には追討されてしまいました。 皮肉な事に、彼らが求めていた地位は彼らを追討した面々とその子孫たちに 受け継がれていくのですが、己の武力を過信していた将門とは異なり、追討 に成功した軍事貴族たちは、中央の爪牙となる事によって勢力を拡大して行 く事となります。
将門たちの蜂起が、一時的なものとはいえ勢いを得たのには、受領と対立し ていた郡司を始めとした現地の勢力の不満もありましたが・・・ それはさておき、不思議を取り去るのが史学ですので、一般向けにはあまり 面白くなく、一部の人間には実に面白い結論となります。 要するに、将門や純友という個人がいなくても、誰かが蜂起していた筈とい える時代背景が存在していたという訳です。 なお、当時は「兵」と呼ばれる事が多く、「武士」という用語が定着するのは十 一世紀後半になってからの事で、私営田領主から、農業経営を離れて遠征可 能になった在地領主へと転身と遂げたという事を考えても、厳密な意味での 武士の誕生は、この時代より2世紀近く後の事になります。 白河院による院政が1086年に始り、時代は中世へ・・・。
429 :
世界@名無史さん :05/03/16 19:13:50 0
スレ違いな書き込み続くな
>将門や純友という個人がいなくても、誰かが蜂起していた筈といえる時代背景 そういう民衆の感情のうねりとか、時代の風をあれこれ考えるほうが 不思議で面白いじゃないですか。 実は話し合いで結託していたら、自分的にはちょっと興ざめなんです。
>429 発言内容は事実ですが、ネタが無いので史学系の雑談に興じているというの が本当のところです。 確かにあなたの発言にも一理あるので、その点はご寛恕頂きたい。 ただ、これは皮肉でも煽りでもなく、本心でお尋ねするのですが、御自分の 意にそぐわないのであれば、代ってネタ振りをなされば済む事では。 なんでわざわざレス一つを消費して、一行しか書き込まれないのか、教えて 頂きたいのです。それこそ無益でしょう。 また、他の某スレもそうですが、まさか戦わせてみる訳にもいかないので、 成立過程などの歴史や文化面での比較を挿入してみるのも、一興かと。 >430 あなたもどうやら「一部の人間」の様ですね(笑)。 この板の人間では、寧ろ多数派でしょうが。
ネタ振りでもしておきますか。 日本では近世を通して火縄銃が主流で、「ピストル」なるものは菅江真澄も 記しており、秀吉の小田原在陣中に火打ち式銃が持ち込まれていた事が確 認出来るにも拘らず、火縄式からの切り替えは近代まで持ち越されました。 19世紀には火打ち式も空気銃も鋼製弩も開発する技術がありましたが、 なかなか量産には至らず。 その理由についてはまた申し上げる事として、16世紀(も長いですが)時 点での欧州における鉄砲の形式はどの様なものであったのでしょうか?
>鉄砲の形式 種類や使用法、主に同時代の鉄砲評と言い換えます。 既に出ているレスから判断する限りでは、日本同様鉄砲を放ってから槍・刀 で切り込んでいた様ですが。
434 :
世界@名無史さん :05/03/17 00:14:21 0
>>432 日本で銃器の進化が火縄式のまま止まってしまったのは、同時期の欧州のような大規模な戦争が無く 銃器の進化が促進されなかった事に尽きるだろう。
火縄式に比して火打石式は発射時の振動が大きく命中精度が悪いという事もあったようだが、横列一斉射撃がメインの場合 それほど大きな差ではない。
しかし、雷火式が伝来するや一挙に日本中で普及しているので、日本での狙撃の役割を再考する必要があるかもしれない。
>火縄式に比して火打石式は発射時の振動が大きく命中精度が悪いという 日本の場合、よくもわるくも「道」にしてしまい、大量かつ迅速に放つ事より も、個々人が正確に放つ事に傾きがちで、命中精度の低い者に関心が至らな かったともいいますね。 既に出て来ている稲富流もそうですが、職人・達人技といった個人技に拘っ て、大量生産・物量を軽く見る風潮があった様な気がします。 質より(単純かつ合理的・圧倒的)量で押されると、つらいものがありますが。 国民性という曖昧なもので論じる事には危険性も伴いますが、ドイツやアメ リカなどの志向と比較してみても、面白いかもしれません。
銃剣の登場は、18世紀初め頃。(スペイン継承戦争時) スレタイ的には除外される武器になるか。
437 :
世界@名無史さん :05/03/18 00:21:36 0
一般的に銃の発火機構はマッチロック(火縄式)→ホイールロック(歯車式)→フリントロック(火打石式)
→パーカッションロック(雷管式)の順に発展を遂げたとされている。
しかし、これは大きな誤解である。雷管式以前の発火機構は各々一長一短あり、一直線の発展ではない。
火打石式を最初に欧州で大規模に導入したのは30年戦争時のスウェーデンであるが、
これは他の方式より火打石式が優れていたためではない。
当時の歯車式は機構が複雑で量産に不向きであり、価格も非常に高価であり導入が難しかった。
一方、火縄式はスウェーデン本国に火縄の原料が不足していたために導入できなかったのだ。
しかし、直接火種を使い着火する火縄式に比べて火打石式は大変不発が多かった。
また、
>>434 氏の書込みのとおり命中率が悪く、『撃てない、当らない』の二重苦であった。
1621年ヴァルハウゼンは火打石式銃を『廃棄すべき遺物』と酷評し、火縄式銃への早期切替を
具申している。
438 :
世界@名無史さん :05/03/18 00:41:52 0
1807年アレキサンダー・ジョン・フォーサイスが発明した雷管式は雷酸第二水銀(Hg(ONC)2)の化学反応を利用したため
火打石式の不発の可能性が軽減し、火種が不要で火縄式の携行の不便さを両方解決した画期的な発火方式であった。
したがって、
>>432 氏の疑問である『火縄式から火打石式へ移行しなかった理由』は、
『火縄式に比べ、火打石式が兵器として信頼性が低かったため』です。
>>434 氏の疑問である『雷管式だけが日本で普及した理由』は、
『雷管式が旧来の問題点を全て解決した優れた機構であったため』です。
439 :
世界@名無史さん :05/03/18 01:26:46 0
>435
日本の場合、よくもわるくも「道」にしてしまい、大量かつ迅速に放つ事より
も、個々人が正確に放つ事に傾きがちで、命中精度の低い者に関心が至らな
かったともいいますね。
なぜ、
>>435 氏はこのような見解を抱いたのでしょか?
確かに欧州の小銃は命中精度を向上する技術を長い期間導入しなかったことは事実です。
しかし、その理由は西欧で多用されたテルシオは銃にとって格好の的であり、
隊列に向かって発砲すれば素人でもあてることが可能で技術が不必要であったからです。
別段大量且つ迅速に発砲することに主眼が置かれたわけではありません。
そもそも戦国時代に鉄砲が導入された理由は訓練が短くて済むからです。
日本では、素人でも距離が目算できる照星・照門や薬莢の先駆である早合の導入は
いずれも新兵の訓練期間の短縮と命中精度向上・速射性の向上を考慮したものです。
戦国時代の槍、弓、鉄砲は小隊単位で運用され指揮官に統制されていたのですから、
個人技に傾倒したという見解は鎌倉的な武士像に縛られた偏見ではないでしょうか。
戦国日本の築城技術って結構高かったのではないかと思うのだがその辺はどうなの? 文禄・慶長の役の時も、明と朝鮮が蔚山倭城や順天倭城を大量の火器を使って 攻めたけど、結局は攻略出来なかったわけだし。 まあ、当時の明とヨーロッパとでは大砲の性能にかなり差があるとは思うが、 会津若松城や熊本城は飛躍的に強力になった19世紀の大砲にも有効だった。 たしか、文禄の役に従軍していたイエズス会士も倭城について「難攻不落」って 書いていたと思う。 それに倭城って工事期間がだいたい2ヶ月ぐらいなんだよね。 戦時中に敵地に短期間で大量に強力な城塞を築く事が出来るというのは、かなり 実戦的な技術だと思うのだが。
441 :
世界@名無史さん :05/03/18 09:01:20 0
日本史の話なんだが、戦国の本願寺の硝石のルートを教えてくれ。
今以てわからん。堺の本願寺系の商人を通じて手に入れていたのか、
>>360-361 のように自前で作っていたのか。ちなみに
>>360-361 の本では、
五箇山で作られたの硝石は朝鮮出兵で朝鮮人から教えられていたものと書かれていたが、
>>439 宇田川武久先生の受け売りという事もありますが、その点についてはまた詳細
に調べてからにしておきます。
しかし、「鉄砲名人」志向というのもまたあったと思うのですが・・・
いや、これは後日に譲っておきます。
>441 その内、判明したら唐突にお知らせします。
>>440 確かに東洋では強いが、西洋の宣教師にしてみれば大砲ならべて連日ぶっ放せば落ちると言ってた。
>>444 島原の乱の時、原城に対してオランダの大砲ならべて連日ぶっ放したけどたいした効果がなかった。
446 :
世界@名無史さん :05/03/18 17:14:26 0
>>444 大型火砲の出現で城の存在意義が失われたのは事実です。
しかし、これは東洋西洋をとわずおきたことであり、
その出展不明な宣教師の発言を西洋式の築城技術の優勢を示す内容ではありません。
イタリアの外交官マキャヴェリも自著の中でどんな堅固な城でも
(オスマン帝国侵攻以降に登場した)大型火砲で撃すれば必ず陥落すると述べています。
なお、J.W.ホールは著書「徳川社会と近代化」(ミネルヴァ書房)の中で
大阪城を検証し「近世でこれほど大規模で堅固な城はない。」と評価しています。
しかしながら、この話題はスレ違いなのでこちらへどうぞ
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1067504381/l50
447 :
世界@名無史さん :05/03/18 17:20:46 0
NHKの番組で大阪城の障子掘を取り上げていたが、悪魔のように狡猾な罠ですな。
>>444 どのみち攻囲側VS救援軍の形になるのは変わりないな
篭城で稼げる時間は短くなったけど。
よく文禄・慶長の役を例に挙げて、日本は明にも勝てなかったとか言っている人がいるけどさ、 戦争なんてホームとアウェイの差がサッカーなんかとは比較にならないほど大きい訳じゃん。 そういう事を一切考慮しないで単純に勝敗だけで強さを決めるのはどうかと思うよ。 当時の技術では海路、兵員や物資を運搬しながら長期間戦い続けるのってかなり大変な事だよ。 例えば、16世紀欧州最強のスペイン軍だってアルマダの海戦の時には陸兵1万9000と 半年分の食料を調達するのが精一杯だった訳だし。 文永・弘安の役の時、当時世界最強だったモンゴル軍だって2度にわたって侵攻しながら、 日本に上陸拠点を築く事すら出来なかった。 その事を考えれば対馬海峡を反対側から攻めた日本軍が7年間も朝鮮半島に居座り続けたのは 当時とすれば凄い事だったのではないかと思うけどね。
>日本軍が7年間も朝鮮半島に居座り続けたのは >日本軍が7年間も朝鮮半島に居座り続けたのは >日本軍が7年間も朝鮮半島に居座り続けたのは >日本軍が7年間も朝鮮半島に居座り続けたのは >日本軍が7年間も朝鮮半島に居座り続けたのは 何を仰りやがってますか
よく、戦国日本の軍隊の戦闘員は全体の3分の1程度と聞くのだけど実際、どうなんだろう? 大阪夏の陣の時の伊達勢はおよそ1万の内、 騎馬628騎、槍1360、弓100張、鉄砲3420挺 これだと5割5部くらいでだけど・・・。
欧州等の大陸国家だと、女子供連れの軍隊が普通。 略奪した女は連れて歩く。 毎日誰かの子供が生まれる。 だから行軍速度は遅いし、軍から離脱する兵士も多い。 軍隊で生まれ育った子供は、斥候や雑用で軍隊生活を覚える。 そして、いつか一人前の兵士になって死ぬか、そうなる前に死ぬ。
>>452 欧州等の大陸国家の行軍速度が遅いってのは言い過ぎではないかな。
まず、大陸国家といってもモンゴルやアラブの遊牧民のようなところもあるし、
ヨーロッパの国でもかなり早い行軍速度を出した例はある。
>軍隊で生まれ育った子供は、斥候や雑用で軍隊生活を覚える。
そして、いつか一人前の兵士になって死ぬか、そうなる前に死ぬ。
これは傭兵のこと? 少なくとも西欧のルネサンス以前では子供が生まれてから成長する程の期間、
軍隊がまとまって組織されることは稀だけど?
スレタイに近い場所と時代だから、ドイツ大農民戦争〜三十年戦争以降をイメージしる。 その後世のナポレオンの軍隊の行軍速度が速かった第一の理由は、兵士全てが独身男性だったから。
>>453 戦役中、軍役中の城内(町)で兵士が囲う女性に子供が産まれ
成長する話はローマの時代に多かったそうだが。
辺境の守りについて、蛮族の女とできちゃって脱走とか。
>>450 上陸が1592年4月12日で撤退が1598年11月26日なんだからほぼ7年間じゃん。
何が問題なの?
457 :
世界@名無史さん :05/03/19 15:48:41 0
日本の侵攻を受けた明は銃の重要性に気付き、日本に対抗すべくその導入に着手した。 明末の趙士禎はその著書『神器譜』の中で種子島(日本式)、制雷銃(西欧式)など世界の 各地から私費を投げうって9種類の最新式銃を収集し、その性能を比較した。 その結果、最も性能の優れた銃として明国で正式採用された銃は「魯蜜銃(ローマ銃)」 すなわちオスマン=トルコ式銃であった。 頻繁に欧州各国往来した時期であり、各国商人が自国の銃を売り込んだであろうに、 よりによってシルクロード経由の「オスマン式」が採用されたというのは大変面白い。
「オスマン式銃」なのに「ローマ銃」と言われていたのも面白いねw
459 :
世界@名無史さん :05/03/19 16:43:23 0
>>451 騎馬武者一騎あたり4人の従者がいたとして、さらに2000人もいるな。
彼らはどうゆう身分の人達だったんだろう?
>>457 どうゆう銃?
460 :
世界@名無史さん :05/03/19 17:46:23 0
>>457 明末だとシルクロード経由よりアチェ(オスマントルコとの強い外交/軍事関係を持っていた)経由の福建ルートじゃないかな?
461 :
世界@名無史さん :05/03/19 17:53:11 0
>>459 趙士禎が入手したタイプは不明だが、昔のフランス外人部隊モノ映画で 砦に向かって雲霞のごとく突撃してくる敵方のベルベル人が持ってたSFチックな火縄銃ではないかな?
462 :
世界@名無史さん :05/03/19 18:07:56 0
欧州の銃は命中率あまり考えてないというが指揮官たちを狙う狙撃兵が ちゃんといたのでそういうことはないぞ。
463 :
世界@名無史さん :05/03/19 18:11:20 0
γ /ヽ ヘ ヽ ヽ (o )' / ヽ ヽ(o ) / / / // /| || | |ヽ | ヽ | | | | | / | | | | | ヽ | | | | | | | | / | | | | | | | | | W|_| |. V V_ V V _ V V| || | | |' /T ̄Т Т ̄Tヽ| | | 〜 v | | |____ノ , ヽ_| | | || / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ν | | //// //// | ノ | <お兄ちゃん達、さくらの経血飲みたいの? | \ > ワ ν | | \_____ ゝ \ /| | ノ | V W _ト ___ イ_ |ノ /v / ̄ ̄ ̄ | |  ̄ ̄ ̄ ヽ | | .| \ / |
>>462 狙撃自体を否定した訳ではありませんので。
狙撃の必要があれば、当然それにふさわしい銃が要求されるでしょう。
しかし、所謂戦の庭では・・・という事でして。
465 :
世界@名無史さん :05/03/20 11:56:52 0
>>460 キプチャク3ハン国の内紛の際、オスマン帝国に派遣されたイェニチェリ軍団が装備していた銃が
中央アジアで有名になり、シルクロードのオアシス都市ハミの内乱でも大きな戦果をあげました。
趙士禎はこのハミ内乱での噂を聞き、取り寄せたと記述しています。
466 :
世界@名無史さん :05/03/20 12:51:13 0
>>459 口径9〜13mm 全長1.3〜2.0m 重量2〜4kg 射程150〜300m
西洋では『テュフェク』と呼ばれ、高い完成度を誇った。
西欧のハークィバスが全長1.3m程度だったことを考慮するとかなりの大型銃。
>>462 西欧の狙撃手は、勘と経験と己の技量に頼った鉄砲名人タイプが主流。
仕官用は別にして一般兵向けに小銃の命中精度向上は図られてはいないみたい。
喧嘩は数だ!ぶっ放せ!が主流。
これは余談だが命中精度を向上させるため、火縄式で砲身内部に溝が彫られた
ライフルも考案されたが、高価なうえに、先込め式なので内部の溝が邪魔して
2発目の装填は困難で乱戦時に役立たずとなり、溝からガスが漏れ威力が激減
するため製造は中止され、ライフル銃は近世のアダ花で終わった。
467 :
世界@名無史さん :05/03/21 01:26:03 0
↑そう、ヤーゲル(猟師)銃と呼ばれたタイプの狙撃用ね。 前装式だと銃身の中の旋条(ライフリング)に弾を食い込ませながら装填するのが大変で、200年近く一般兵士は使用できなかった。 植民地時代の米国では 狩猟/自衛用として長距離での狙撃が可能なヤーゲル型ライフル銃が普及していたが、独立戦争期に入って英国の正規軍と陣形を組んでのマスケット一斉射撃をやらなければならなくなり、不慣れな戦闘に大陸軍は大苦戦している。 再度 英国軍と戦火を交えた米英戦争の頃には、長い銃身内を苦労して弾を押し込まなくても良いように銃身の根元を輪切りにして持ち上げる構造の後装式の元祖のような歩兵銃を装備している。 その後 弾丸のお尻に空間を作って、銃口から装填する時には旋条より小さな直径で、発射時にお尻の空間を火薬が押し広げて旋条にぴったり食い込んでくれるミニエ式とよばれる弾丸が開発されて、軍用銃はマスケットからライフル銃へ交代して行く。 この交代期に当った南北戦争では、両軍ともに将軍達がライフル銃の威力と精度を理解せずに マスケットと同じ陣形&一斉射撃を行ったために、異常な数の戦死者を出す結果となったが...
468 :
世界@名無史さん :2005/03/21(月) 12:38:28 0
経済力の話題が出てたので参考までに…。 【スペインの破産宣告年表】 1575年 破産宣告→北カステリャ商工業衰退 1607年 2度目の破産宣告 1627年 3度目の破産宣告 1647年 4度目の破産宣告 1652年 5度目の破産宣告 1662年 6度目の破産宣告
469 :
世界@名無史さん :2005/03/21(月) 12:49:16 0
次いで人口の話題が出ていたので参考までに…。 【スペインの人口減少】 1596〜1602年 ペスト流行 人口50万人減少 1609〜1614年 モリスコ(イスラム教徒)国外追放 人口30万人流出 ※モリスコはバレンシア地方人口の30%、アラゴン地方人口の20%を占めていたため、 農業人口が激減し、農地は荒廃。 なお、マラノス(スペイン領内のユダヤ人。意味は『豚』。)も同時期に弾圧したため、 国内金融・商業も混乱。
470 :
世界@名無史さん :2005/03/22(火) 15:02:33 0
スペイン絶対王政の絶頂期やヨーロッパ世界の膨張という定義自体が儚い幻想で、 新大陸の富やアジア方面から伝来した文化の急速な流入に翻弄され、 端っこの半島部分に追いやられ、小さく完成していた古い構造自体が揺るがされた 混迷期や黎明期と言った見方の方が正しい感じがする。
471 :
世界@名無史さん :2005/03/22(火) 15:32:46 0
近世のヨーロッパでは数多くの戦術が考案されたというが、テルシオ→ファランクス カラコール→カンタブリア式騎兵術というようにローマ時代には使い古された戦術の マイナーチェンジが多く斬新さはない。 また、当時のヨーロッパ世界とローマ帝国との文化的断絶は明らかであるから カラコールは騎馬民族式騎射術、テルシオも同時代の密集戦術を摸倣したにすぎない ように感じられ、やっと世界水準に到達したように思われる。
472 :
朱由検 :2005/03/22(火) 16:01:53 0
日本は火器の急拡大ばかりが論じられるが、『管槍』の開発は大きいと思われる。 管槍は柄に可動する円筒の握りが付けられており、それを握ったまま槍を前後する だけで鋭い突きが繰り出せる仕組みになっていた。 取扱いが簡単で威力の高く短期間で槍の育成できるため、管槍の登場が集団戦術の 要となる歩兵の質向上につながったことは大きいと思われる。 檢
管槍って実際に戦場で使ってたの? 個人用の武器だって聞いたけど。
474 :
朱由檢 :2005/03/22(火) 16:39:48 0
管槍が広く普及して、標準品になったために 槍名人が「あれは卑怯な武器だ。」と、評し 下衆の武器と断じた出展はなんでしたかね。 調べときますけど、個人から嫌われてたのは確かですね。
475 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 20:45:59 0
当時、世界は日本におそれてキリスト教の広める人に貴族と三秀にいって信長 を殺すなら艦隊を送って力を貸すと秘密の約束があったので、スペインやイギ リスは日本にかなわないから恐れてボスの信長を本能寺で殺そうとしてたので ちゃんと戦っていたら、ヨーロッパは日本に負けていました。マンガに出てい たので間違いありません。
477 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 00:39:10 0
議論は尽くされ結果は出たようですな。 【兵器部門】 豊臣政権≧オスマン帝国>欧州諸国≧ムガル帝国>明 【兵数部門】 明≧オスマン帝国>>ムガル帝国>シマンヅ・ハン国>>スペイン=竜造寺 【国富部門】 オスマン帝国>江戸幕府>明>スペイン 【総評】 オスマン帝国S- 明帝国A 豊臣政権A- ハプスブルグ帝国B
478 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 00:42:44 0
ぶっちゃけ日本側の楽勝 欧州弱すぎ
479 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 01:24:01 0
ぶっちゃけオスマン帝国側の楽勝、日本弱すぎ 鉄砲が伝来したお陰で、戦力が大幅にアップした 状態なのに
480 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 01:26:26 0
日本が世界最強だったかもしれいない時代を持ってきても こんなに弱いとは(≧▽≦)
481 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 01:35:51 0
日本が火縄銃にこだわり続けたのは命中率というが、 ナポレオン時代でも命中率が低いから並んで一斉射撃 していた程度なのだから命中率といっても、たかが 知れているのでは。
482 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 02:25:28 0
>>481 ナポレオン軍が使用していた革命暦]V年式銃には照星・照門がなく、
戦国末期の日本の火縄銃より命中率が低い。
フランスは軍事後進国で火縄銃の全面廃止も1699年になってから。
1815年のワーテルロー戦いでは騎馬突撃を敢行し、
時代遅れな連中だと英国から嘲笑されている。
483 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 02:28:08 0
オスマン帝国S-のマイナスが付いた評価原因はスルタンの暗愚さです。 蛇足ですがオスマン=トルコ帝国財政の収支も 1598年時点で6億アクチェ(現在の貨幣価値で2700億円)の赤字です。 (スペインに比較すれば軽微ですが…)
484 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 02:29:53 0
>483の2700億円を1800億円に訂正
海軍 スペイン>>ポルトガル>イギリス≠オランダ>フランス>ロシア>>>>>>|越えられない壁|>●鮮>>>>戦国期の日本 だな
>>485 ワロタ
ここはすっかりジョークスレになってますね
487 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 09:02:38 0
>>485 逝ってよし。
朝鮮より下なわけねーだろ。
多分ホロン部の工作員。
>>482 騎兵の突撃自体が時代遅れだったわけではない。
17世紀のフランスが軍事的後進国?
冗談はやめてほしい
489 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 12:11:14 0
1598年日本は明との間に停戦協定を取り交わしました。 己の実力を過信し、増長した李舜臣はこれを無視しました。 そして、明の援護を受けないまま(朝鮮単独で)帰路についていた島津軍を 襲撃し、射殺されています。 つまり、李舜臣は停戦協定違反し、帰国中の軍隊を襲撃した。 しかし、返り討ちにあい朝鮮単独では勝てないことを立証した。
490 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 13:24:48 0
>>485 不凍港のない近世ロシア海軍のソース希望
>>481 だから命中率を上げるために数揃えて弾幕射撃やってるんでしょ。
それなら腕に関係なくかなりの命中弾を期待できる。
492 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 14:15:06 0
ナポレオン軍のドラグーンが装備していたマスケット銃(ムスクトン)は 火打石式で、30年戦争時のスウェーデン軍と命中精度に大差がない。 カービン銃にいたっては有効射程20〜30mと射程距離が短く、 当然標準もないため適当にぶっ放していた。
493 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 14:47:20 0
30年戦争時スウェーデン軍に徴兵された兵士が死亡する確率は50%で 徴兵通知が届くことは実質的な死刑宣告と徴兵拒否反乱が頻発した。 この高い死亡率の数字がいかにテルシオという密集戦術が 兵士の使い捨てを前提にした陣形かがうかがえる。 もちろんこのように高い死亡率の軍隊において熟練兵の育成は困難で 欧州ではますます兵士の使い捨てを前提に軍隊を編成された。
494 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 15:14:48 0
海軍力が違いすぎますよねー
495 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 15:39:28 0
>【兵器部門】 >豊臣政権≧オスマン帝国>欧州諸国≧ムガル帝国>明 大砲やら硝石などを輸入に頼っているのに
496 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 15:48:43 0
一つ余談となるのだが、17世紀末フランス国王ルイ14世は
時代遅れなガレー船で海軍を組織し失笑を買っている。
もちろん彼の死後このガレー船団は再編されなかった。
さすがフランス。軍事後進国というよりズレている。
>>494 本当に西欧の方が海軍力は勝っていたのだろうか?
当時の海軍力を示すソースを希望。
497 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 15:57:06 0
>>495 1575年には織田信長が岐阜で大砲の鋳造に成功している。
(「火砲の起源とその傳流」有馬成甫著)
498 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 16:02:51 0
>>482 照星・照門があるから命中率が高いということを示すソースは?
照星、照門ともに固定されていて照準修正もできず、射手が
勘と経験で照準線の「右上」などをねらって撃つので、そんなに
違いがないのでは?
アメリカ独立戦争とかでは、照星・照門があっても並んで一斉射撃
しているし
明治時代に軍事顧問としてやってきた外国人が 関ヶ原での西軍の布陣の記録を見て、 「欧州の最新の理論から見ても完璧な布陣。 こんな完璧な布陣で負けるわけがない。なぜ負けた?」 と、当時の兵法のレベルに驚いた、 と言うのをどこか( たぶん司馬遼太郎 )で読んだのですが、これは事実なんでしょうか?
500 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 16:06:42 0
>>497 日本でも作っているのは知っているが、それでも輸入に頼っている
わけで……。しかも、大砲の効率的な使用がないため?城の構造が
大幅に変化しない。
501 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 16:40:35 0
3000人で編成されたテルシオ陣形における実質兵数は、 最前列の100人+四隅の小方陣の最前列5人×2を加えた110人。 550人で編成されたマウリッツ方陣における実質兵数は、 ハークィバスの最前列が10人×2+マスケットの最前列5人×2に +パイクの最前列25人を加えた55人。
502 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 16:54:07 0
>>499 日本陸軍大学客員教授メッケル(独)が関が原の布陣を見て、
西軍の勝利を確信したという逸話です。
ただし、西軍は勝敗を握る重要な場所にいた小早川が裏切ったため、
敗北したのですから、
そこは東軍の司令官家康の優れた戦略を褒めるべきところです。
503 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 17:02:26 0
>>500 大砲を輸入に頼っているという論拠がないのですが、
当時の日本で使用された大砲の何%が輸入されていたのですか?
よろしければご教授下さい。
504 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 17:05:02 0
硝石も日本で取れたようなこと何かに書いてあった。
>>496 当時の日本の航海技術じゃ海軍力以前の問題だわな
506 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 17:33:31 0
>>504 江戸時代とかでしょ。
戦国時代は、戦国時代の硝石は輸入品だったとKrt氏が書いている
じゃん。
507 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 17:38:58 0
大砲の使用自体が少ないので例がすくないと思うけど。 家康が大阪城を攻撃するために大砲を輸入してたりする。 江戸に入っても、オランダから20門、西国の大名から数門の 大砲を提供させて島原の乱に望んでいる(こっちは借りている)。
508 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 17:43:35 0
大友宗麟は、輸入した大砲「国くづし」とか利用していたな。
>>477 ムガル帝国は弱いよね。
もともと中央アジア争奪戦でシャイバーン朝に敗れたバーブルがしかたなく
インドを征服して建てた王朝だし。
征服されたインド人が異常にだらしないだけ。
17世紀後半にカンダハルをめぐってサファヴィー朝とも戦っているけど
ほとんど勝負にならなかった。
>508 51前後に大砲の話題があります。
511 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 18:01:49 0
>>498 照門・照星のある銃であれば、照門の中心と照星上端とが交差したところに
照準が合いますから
あとは引金を引くだけで素人でも的に当てることができます。
照門・照星のない銃であれば、目安となるものが何もありませんから
勘で誤差を修正しなければならず当然命中精度が下がります。
現在製造される銃で照門・照星がついていない銃は
(散弾銃など一部の例外を除けば)ありません。
512 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 18:01:57 0
大砲を輸入していようといまいと、絶対量が少ないわな。
513 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 18:08:42 0
>>511 照門・照星のない銃は当然命中精度が下がるのは当然分かっている。
しかし、照門・照星のある銃であれば、
>あとは引金を引くだけで素人でも的に当てることができます。
そうしたら命中率100%だなwww
514 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 18:11:58 0
日本の火縄銃の命中率がかなり高ければ、死亡率が跳ね上がる ような気がするし、第一、防御具の構造が変化するような気が するのだが、大きな変化があったのか?
照門を覗かずに撃った云々は、鉄砲名人の逸話にたまに出て来ますね。 いざ戦闘となれば、そんな余裕は無かったでしょうが。 >514 防御性と機能性の高い当世具足が出現し、家康の様に鉄砲で試し撃ち をさせてから着用した例もあります。
516 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 18:22:01 0
>>515 >防御性と機能性の高い当世具足が出現
それは分かっていますが。例えば胸甲騎兵みたいのがいないのではないかと
517 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 18:40:29 0
>>507 大阪の陣において、豊臣方は日本製のフランキを使用したみたいですが
その配備総数ってどれぐらいなんですか?
また、徳川方が使用した大砲の配備数はどれぐらいなんでしょう?
その内の輸入カルバリン砲20門が全体に占める割合って多いのですか?
518 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 18:49:55 0
>>517 総数がわかるような史料はあったかどうかはわからない。
なお、頼っていたというのは、全体の50%を越えていたとか
いう意味ではなくて、輸入していたという意味ね。
519 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 18:51:23 0
カラコール戦術をとるために20mの距離まで接近する前に ドラグーン部隊は全滅する。 きれいに並んで接近する時点で大たわけ。 一列ずつ順番に種子島銃の射程に入ってくる間抜けぶり。
大阪の陣で使用された「大砲」はそのほとんどが「おおづつ」です。 形態としては火縄銃を巨大化したもので、45度以上の仰角を付け て曲射します。 天守閣や館の屋根を打ち抜いて、淀君の居室にまで到達したため 戦術的にはそれほどの打撃力や破壊力はなかったのに、パニック になった淀君が和平講和を主張する原因になったと伝えられてい ます。
521 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 19:04:29 0
照門・照星だけで命中率が決まるわけがないw
522 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 19:07:11 0
>>518 17世紀オランダは日本から輸入した銅を首都アムステルダムまで運んで
使用していたが、
この一例を取り上げてオランダは日本に銅を頼っていたとはいわない。
2チャンネルでは詭弁の類型について分類したコピペがあるが、
その2:ごくまれな反例をとりあげる
(例:「羽の生えた犬が生まれた事例があるが、犬は哺乳類か?」)
に分類される詭弁じゃあないかな?あなたの見解は。
523 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 19:26:25 0
>>522 輸入したり借りたりしているのだから頼っているじゃないwww
50%以上という意味で使っていないといっていだろ。
524 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 19:28:56 0
島原・天草の合同一揆民は益田四郎(天草四郎)を総大将とし、 その下に鉄砲大将・侍大将・普請奉行・などといった幹部を置いて 組織をしっかりと固めましたよね。 鉄砲で武装した37000人の組織されたキリシタンか… 17世紀初頭ならヨーロッパの軍隊より強いだろうな。
525 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 19:29:53 0
詭弁の類型なら、 >照門・照星のある銃であれば、照門の中心と照星上端とが >交差したところに 照準が合いますから >あとは引金を引くだけで素人でも的に当てることができます。 も詭弁だな。照門・照星だけで命中率が決まるような書き方だな。
526 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 19:33:42 0
>>524 37000人が全員鉄砲で武装しているような書き方だし。
これも詭弁か?
527 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 19:35:00 0
>>507 >西国の大名から数門の
>大砲を提供させて島原の乱に望んでいる(こっちは借りている)。
反乱の鎮圧が目的で対外戦争ではないのだから、現地で借りたほうが
運ぶ手間が省けて迅速に鎮圧できると考えるのは当然だろう。
528 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 19:37:14 0
おっ、小手ハンが七誌で人格攻撃に入ったぞ ムキにならないでよ、怖いなあ
ミクロな話題になるが、戦国・欧州の軍馬はどれほど違いがあったのだろう? どこかで日本の馬の体高は145cm程だったと聞いたんだが、 欧州の軍馬はどの程度だったのかな? 中世のデストリアは173cmほどだったらしいが
530 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 19:40:25 0
>>525-526 それをそのように捉えたならそれでいいよ。
読解力が足りないから大量にソース読んでも
本当の理解につながらないわけだな可哀相に
豊臣家は親衛隊(徳川幕府の大御番組に相当)が「御花畑組」という名称だったので滅んだと信じている。 根拠は無い。
532 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 19:50:40 0
>>530 「頼っている」といったら、50%(?)以上だと
勘違いする読解力でガンガレ。
533 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 20:01:11 0
534 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 20:24:17 0
>>529 英国産在来種は概ね大型。
クライズデール種 体高165cm
シャイヤー種 体高170cm
歩き方も動作ものろいが力があり農耕に向いていたが
必ずしも戦闘には適さなかった。
535 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 20:26:57 0
>あとは引金を引くだけで素人でも的に当てることができます。 これも、 総数がわかるような史料はないが、全体の50(?)%を超えて いたとかいう意味ではなくて、命中率が向上したという意味だろ。
536 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 20:29:56 0
参考までに他の品種を挙げると… アラブ馬 体高140〜150cm 足が速く戦闘向き。 蒙古馬 体高130cm 足が速く体力があり戦闘向き。 木曾馬 体高140〜150cm 足腰が強く番場向き。
537 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 20:34:09 0
本当の意味でヨーロッパの戦闘馬が登場したのは アラブ馬が入って品種改良されたアングロアラブ馬以降です。 アングロアラブ馬 体高155〜160cm 足は速く、力も強い戦闘向き。
538 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 20:47:01 0
>>535 だから、50%うんぬんは俺じゃない。
それからお前の理論は屁理屈。
539 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 21:03:40 0
その14:細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
ことが目的で
>>525-526 と
>>532 みたいな理論展開してるんだろ?
50%、50%って俺じゃないのにな。
それから、
>>530 で書いたとおり、本当に
>>525-526 にあるような
誤読をしたならやっぱり読解力ないよ、お前。
540 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 21:10:30 0
その12:決着した話を経緯を無視して蒸し返す 蒸し返すなw。最初から読み直せ。 火打石式が石打ちつける衝撃で照準がぶれるから 火縄式の方が命中率が高いという話は済んだだろう。
541 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 21:29:26 0
その4:主観で決め付ける その5:資料を示さず自論が支持されていると思わせる については失敗したみたいな。 大阪の陣で配備された大砲の総数とそれを示す具体的な資料が提示されて いないし、 比率もわからずに思い込みで日本が大砲を輸入に頼っていたという主観を 押し通しても説得力はないな。
542 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 21:34:53 0
詭弁の類型を総舐めするつもりかよ 偉いな
543 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 22:22:04 0
ヨーロッパが戦力的に勝てる要素ほとんどないだろ 戦国期日本>>(越えれない壁)>>同時期の欧州 戦術・戦略・兵器・国富どれ一つとっても駄目・駄目の田舎国家。 机上の空論で世界を二分割したり、陰湿で暗い地域じゃないか。 ムキになって保護するなよ厨ども
544 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 22:58:39 0
アングロアラブ馬はそれまでの欧州在来種よりも やや小さく感じるかもしれませんが、 足は速いし、丈夫だし、頭はいいしかわいい奴です。
>>534 、536、537(同一人物?)
ありがとう。
クライズデール種やシャイヤー種はかなりの重量級ってことは
良くも悪くもフルプレートアーマーを装備した騎士にはピッタリな馬だ・・・。
中世末期の騎士が異様な重装備化を可能にしたのもこの品種あってのことかな
546 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 23:34:52 0
重くて防御に優れた板金鎧が開発された時期は不幸にして銃器の発達期と同時期でした。 重い鎧は急激に廃れゆき、すぐに在来種のような大型で動きの緩慢な馬は用済みとなり、 より俊敏な馬が求められていたのです。 クライズデール種やシャイヤー種もおとなしくのんびり屋ですが良い馬なのに残念です。
547 :
世界@名無史さん :2005/03/27(日) 23:59:56 0
日本では乗り手を振り落とし、捕手を蹴り殺すほど 気性が荒いほうが良いとされました。 ((( ゚д゚))<ガクブル
生喰(いけづき)というぐらいですからね。創作ですが、鬼鹿毛も有名。 性質が勇猛で、小回りがきき、障害物を飛び越え、耐久力があるのが名馬と されました。・・・もっとも、中世前期に目立つ「名馬」論ですが。 この時代は下馬戦が多いですが、やはり耐久性が求められた事が『雑兵物語』 に出ています。
549 :
世界@名無史さん :2005/03/28(月) 00:39:09 0
>>548 前田 慶次の愛馬「松風」も気性が荒いよね。
さすがに「黒王」みたいな描写はやりすぎだろうが。
>>524 3万7千のうちちゃんとした装備してたやつなんてたかが知れてるだろ
ドイツ農民戦争の農民軍もかなり武装してたみたいだが
551 :
朱由検 :2005/03/28(月) 13:11:37 0
>>473 ごめん、こっちの勘違いでした。鈎槍と勘違いしてました。
552 :
世界@名無史さん :2005/03/28(月) 19:42:14 0
さて、近世の戦力比較において多く方が欧州の海軍力を高く評価しています。 しかしながら、その多くが学校教育で植えつけられた世界を往来する欧州像に 縛られた主観論が専行し、検証が不足しているように思われます。 そこで今回は日本で戦国時代〜織豊時代(1467〜1598年)にあたるヨーロッパと 日本の海軍力を比較検討していきたいと思います。 お前ら語っていいぞ。 吐け 吐いて楽になれ。
553 :
世界@名無史さん :2005/03/28(月) 19:46:57 0
>>552 信長の下にある海軍(九鬼かな?)に鉄鋼船が登場するけど、あれって当時の欧州は木造船の時代だから、防御力の点で飛びぬけていたんじゃないの?
欧州海軍のカルバリン砲撃ち込まれたら沈むのかな?鉄鋼船は。
だから、オスマン朝の海軍が最強だってばw レパントの海戦なんか、ただのラッキーパンチ。 スペイン・アルマダなんか、スコットランドとアイルランドで座礁して壊滅するような航海術だよ。 大砲だってまともに当たらない。 軍人と学者、軍事用の射撃管制コンピュータ使っても、50m先のマトを外すくらい。 (英で実験、実証済み。)
長距離侵攻が可能な海軍そのものが存在しなかったのに 海軍力を語れって言われてもなあ
556 :
世界@名無史さん :2005/03/28(月) 21:00:21 0
■ガレオン級帆船(16世紀末〜17世紀初頭) ヨーロッパの主力帆船。300年以上その姿を変えることなく使用され続けた。 乗員400名(内訳:砲手40名、兵士120名、水夫240名) 全長55m 大砲40門 備考:当初は大砲を積むことで安定性が損なわれていたが、積載量を大幅に 犠牲にすることで補った。この事例に挙げた軍艦として特化したガレオンは 長距離航行に不向きであった。 また、ガレオンは旋回性、機動性共に低く、提督ドレーク(英)がスペインの ガレオン船団を中心に狙ったのはこの船足の遅さが一因ともいわれている。
557 :
世界@名無史さん :2005/03/28(月) 21:05:37 0
>>555 ヨーロッパの国家軍隊が組織的に長距離侵攻を実施した事実はない。
朝鮮の役の旗艦・日本丸 全長 33・79b 1500石積 動力 大櫓100挺 武装 500匁級(砲弾重量1.9kg)の大筒 3〜4門 鉄砲50丁ほど 楯板の表面は鉄板貼り(厚さ2_ほど?) 乗員数 水夫、兵士合わせて180人 安宅丸 日本史上最大のガレー船 全長47.4メートル 幅16.2メートル 2000石積(排水量推定1000トン、満載時で1700トン) 大櫓100挺立て 防火・防食のために船体全体に銅板貼り 武装 大筒5挺 小筒30挺 鉄砲90挺
>>558 安宅船って銅張りされてたんだ(´・Α・`)ヘー
>>559 いやいや、それは徳川が作った超ゴージャス船の「安宅丸」だけ。
通常型の安宅船
全長 平均して20メートルほど
500〜1000石積
楯板は厚さ2〜3寸のクスノキかムクの板
武装 大筒1門 鉄砲30挺ほど
関船 小型快速の軍艦
大型の船で一人漕ぎの小櫓50挺
武装 鉄砲18挺ほど
小早船 連絡・偵察に使われる、櫓数40挺以下の関船
武装 鉄砲8挺ほど
561 :
世界@名無史さん :2005/03/28(月) 21:48:16 0
私からも
>>558 氏の書き込みに便乗させて貰って
日本の軍艦に積まれていた「鉄砲」を補足します。
この鉄砲は通常の鉄砲ではなく、抱え大筒タイプの重鉄砲で、
銃身90cm、口径30〜80mm、射程は800m。
通常弾以外に棒火矢(焼夷弾)や千人殺し(散弾)も使用可能でした。
1591年に秀吉が諸侯に飛ばした檄↓ 「東常陸より西四国九州に至り、北秋田より中国に至る沿海諸国は 各碌10万石ごとに大船2隻を製すべし、その工費は先の半額を与え、竣工後に完納すべし」 で、その一年後には総数700隻あまりの新造艦が竣工したそうな。 なお朝鮮の役に使用された軍艦の総数は、新旧・各種合わせて四万隻との事。
563 :
世界@名無史さん :2005/03/28(月) 22:08:55 0
日本の軍艦に搭載されていた「大砲」の代表格は国崩しで 知られる仏朗機(フランキ)で砲身90〜290cm、口径95mm、 射程は500〜1000mです。 フランキは後装式可動砲で命中精度が高いといわれています。 なお、信長が鉄甲船に搭載した大砲は自国製といわれますが、 その詳細不明です。
564 :
世界@名無史さん :2005/03/28(月) 22:32:48 0
なお、欧州の軍艦でで使用されていた「大砲」の代表格は 「カルヴァリン」(ラテン語で蛇の意)で、 この名称は欧州における小口径の総称だったと言われています。 なぜ、帆船に口径の小さい大砲が搭載されたのかというと、 大口径の大砲では砲撃と同時に台座が壊れてしまったためです。 砲身120〜300cm、口径38〜152mm、射程距離は300〜800mです。 カルヴァリンは前装式固定砲で、射角の変更がきかないため、 砲撃するには敵艦に横付けする必要がありました。
565 :
世界@名無史さん :2005/03/28(月) 22:41:13 0
おおっ!? 意外と優秀だな日本船。
>>554 なんか勘違いしているみたいだけどガレー船主体のオスマン海軍が強かったのは
地中海とか紅海とかの波の穏やかな海で戦った場合のみだぞ。
少なくても外洋での航海技術はオスマン艦隊よりアルマダ当時のスペインの方が
はるかに上だ。(イングランドはさらに上だが)
実際、1538年にオスマン海軍は総計72隻の艦隊でインド西岸にあるポルトガルの
ディウ要塞を攻撃したけど、あっさりと敗退している。
一応、日本にもあった外洋船と言う事で、御朱印船もあげとくよ。
「近海での戦闘には役に立たない」と見なされて、
大船禁造の対象から外されたりしてたけれど
>>563 のフランキのような大砲を積めば、帆走軍艦として十分使えたんじゃーないかな。
(ていうか、朱印船を描いた絵を見てみると、
いかにも「大砲を積んでそうなところ」に窓がついていて、
自衛のために装備してた船もあったっぽい)
角倉船 天竺徳兵衛が乗った京都の角倉与一の船
全長36.36m 幅16.36m 乗員397人(内80人は水夫)
中国式と西洋式の折衷型 船首と船尾に楼閣を装備
茶屋船 茶屋四郎次郎の船
全長45.45m 幅7.82m 乗員数300名余
発行された朱印状の数から、制度確立から鎖国までの32年間に存在した
朱印船の総数は、355隻だったと言われる
569 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 01:04:53 0
>>566 あのな〜、なんか勘違いしているみたいだから教えてやるよ。
オスマン艦隊がデイウ攻略に失敗した原因は【神風】が吹いたからだ。
オスマン艦隊をインド洋沖でモンスーンが襲って、そもそもデイウ港に
到着できなかったんだよ。
571 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 01:14:38 0
元禄元年(1592年)10月10日付けの朱印で、豊臣秀吉は九鬼嘉隆に 鉄甲船の建造を要請しているが、結果として建造しなかった。
572 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 11:09:23 0
スペイン>ポルトガル>オランダ>イギリス>フランス>>>>>>>>>>>> >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> (厚く、高く、硬く、絶対に超えられない壁)>>>>>>>>>>>>>>>> >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>日本
573 :
572 :2005/03/29(火) 11:17:57 0
∠二`-=-'"~<.,,,,,_ ,,=''"~ = ,/ \、i, ,ノ \ ___,,,,__ ___ lイ-=・=-:::::::::´-=・=-, 'l, `ヽ=, \/~ ,/ / ::::::::: `iヽ \::::::::: l, ,,,.-`l <,_ |┌ ::::::( |_| )::::::_ ┐ l, ∠,,_ \ レ/ ┬─────┬ N / \、i, ,ノ ,l, ,/ \┼┼┼┼/ |, | -=・=-::::-=・=-,V / 二二二二、 | | ,イ ,,ノ(、_, )ヽ、,, て,,/ し (_,,. `トェェェイ ' ┌'"| lヾ l, i `ニニ´ / レ| ,, / \_,i-,_,-i_,,/!' \i,_ ,, ,,, , ,/" (/ \) (二二!`ヽ-'''"--'"!二二) あぁ、「マジ」なんだ。わりぃな。 この文を見たとき、おまえは、きっと言葉では言い表せねぇ 「壁」みたいなものを感じてくれたと思う。
>>566 あのーそれって、船の違いでは?
波の穏やかな地中海では、そりゃガレー船の方が有利だし、
逆に波が高い外洋では、帆船のほうが有利。
どっちが優れているとか、造船技術が高いとかの問題じゃない気がする。
当時においては、地中海の覇権って、もっとも大事なものだし。
その技術が高いのは大事なことですよ。
575 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 11:54:08 0
>>566 てか、オスマン朝が大西洋や太平洋でスペインやイギリスと海戦をやるニーズがないよ。
ヨーロッパの海軍と戦うなら、地中海に特化すればいいんじゃないの?
576 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 12:07:37 0
スペイン:オスマン=世界:地中海
577 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 12:12:26 0
スペイン>ポルトガル>オランダ>イギリス>フランス>>>>>>>>>>>> >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> (厚く、高く、硬く、絶対に超えられない壁)>>>>>>>>>>>>>>>> >>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>日本 __,冖__ ,、 __冖__ / // ,. - ―- 、 `,-. -、'ヽ' └ァ --'、 〔/ / _/ ヽ ヽ_'_ノ)_ノ `r=_ノ / / ,.フ^''''ー- j __,冖__ ,、 ,へ / ,ィ / \ `,-. -、'ヽ' く <´ 7_// / _/^ 、`、 ヽ_'_ノ)_ノ \> / / / _ 、,.;j ヽ| n 「 | /. | -'''" =-{_ヽ{ ll || .,ヘ / ,-、 | ,r' / ̄''''‐-..,フ! ll ヽ二ノ__ { / ハ `l/ i' i _ `ヽ l| _| ゙っ  ̄フ.rソ i' l r' ,..二''ァ ,ノ |l (,・_,゙> / { ' ノ l /''"´ 〈/ / ll __,冖__ ,、 > >-' ;: | ! i { l| `,-. -、'ヽ' \ l l ;. l | | ! |l ヽ_'_ノ)_ノ トー-. !. ; |. | ,. -、,...、| :l ll __,冖__ ,、 |\/ l ; l i i | l ll `,-. -、'ヽ' iヾ l l ;: l | { j { |l ヽ_'_ノ)_ノ { |. ゝ ;:i' `''''ー‐-' } . n. n. n l | ::. \ ヽ、__ ノ |! |! |! l | ::. `ー-`ニ''ブ o o o ,へ l :. | / ヽ :..
578 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 12:27:27 0
日本の歴史なんて有史でもカス
579 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 12:59:27 0
つうか、スペインって言うとアフリカに近いってイメージあるんだが・・・ しょぼいイメージ。
>>575 たしかにオスマン朝には大西洋や太平洋に進出するニーズはなかったけど
アラビア海やインド洋に進出するニーズならあったし、実際に試みてもいる。
だが当時は紅海やペルシャ湾の入り口でポルトガルが頑張っていたから
失敗したけどね。
もしオスマン海軍に外洋でヨーロッパ海軍に勝利する力があれば、インドとの
海上貿易を支配する事ができた。
陸路ではインドとの間にはサファヴィー朝があったから、インド洋の覇権を
得ればオスマン朝にとっては地中海の覇権に優るとも劣らない利益があったはず。
581 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 15:04:51 0
>>579 北アフリカは別にしょぼくないけどね。
>>580 ヨーロッパの人はスパイス欲しさにインドまで出向いていったけど、
トルコやアラブの人自身は、ヨーロッパ人のようにスパイスを渇望してたの?
確か外洋じゃイスラム海軍はポルトガル海軍にボロ負けしてたよね 欧州マンセーへの反感から欧州を過少評価したい気持ちもわかるけど 16世紀の欧州は半分は中世に片足つっこんでたとはいえ 技術、科学はかなり進んでいて他文明圏より差をつけていた これは否定できない事実
583 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 15:54:11 0
584 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 15:55:18 0
>>582 そんなに文明差があるのになんでオスマン朝をヨーロッパから追い出せなかったの?
>>584 国がバラバラで強力な権力がなく
ヨーロッパ内で足引っ張りあっててオスマンどころじゃない
それにオスマンだってヨーロッパに近いから
ヨーロッパの高い技術を輸入できる
現にオスマンもバルカン諸国は征服できても
ヨーロッパの先進地域は征服できてない
586 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 16:07:50 0
大航海時代というけど、アフリカを迂回する航路はバスコダガマが開拓するけど、 そこにたどり着くまでにはエンリケ航海王子の時代から長い歴史がある。 けど、実際に長い時間がかかったのは、 アフリカの西海岸の航路を開拓する時。 喜望峰をまわって、東海岸に行くと、東海岸の港には、 イスラム商人にインド商人に中国商人がいた。 喜望峰に到達するまでは苦労したけど、アフリカ東海岸にいったら、 イスラム商人から水先案内人を雇ってインドに即到着。 大航海時代というのはヨーロッパにしてみたらで、 イスラムやインド商人にはとっくに大航海時代に突入してたのかも。
587 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 16:25:19 0
欧厨もオスマン厨も永遠に決着がつかない議論を永遠と・・・
>>586 当時アフリカの西海岸からインドにかけては、かなり交易が盛んな海域だった。
だからポルトガルが進出してくると、交易が富源となっていたマムルーク朝なんかは
海戦でポルトガルに負けてから10年もしない内に滅んでしまった。
もっとも、そのポルトガルも18世紀にはイスラムの海洋国家オマーンに敗れて
制海権を失うのだけどね。
589 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 16:44:33 0
>>585 オスマン朝が輸入したヨーロッパの高い技術って例えば?
15、16世紀のヨーロッパの技術革新は本読むとマジで凄いと思うよ もちろんあの当時にしては凄かったってことだよ ただ当時のヨーロッパは技術は高くても強力な国家が存在しない 国としてまとまりがない スペインはいち早く中央集権体制をひいて強力だったけど圧倒的じゃない 人口は少ないし、経済も他のヨーロッパ資本の経済植民地だった 新大陸の富もすぐに国外に流出してオランダ・ドイツの資本家のところへ消えた 実際、ネーデルラント(オランダ)は新大陸からの富の3倍以上稼いでた オランダ独立してスペインも没落
591 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 16:52:25 0
>>590 国家としてまとまることも文明の一つだと思うがね。
文明が低いから強力な国家を形成できないんじゃないのかな?
>>591 それはとんでもない誤解とゆうか極論だね
ヨーロッパは基本的に一つにまとまるのが嫌い
一つの君主が強大な権力を握ることは好まれない
絶対主義にしたってオスマンや中国の皇帝に比べればかわいいもの
だからどうやってうまく権力を分散させながら国をひとつとして
まとめていくかが近代国家への過程
後、知識の共有が技術を発展させたし、株式会社は財産の共有、リスクの共有
どにかく一人の人間の独占でなくどうやってうまくまとめて共有していくかがポイント
15,6世紀のヨーロッパ文明が他の文明圏に比べて劣ってるってことはないな
この時代に現代の西洋社会の基本になるものがたくさんでてきてるし
593 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 17:19:07 0
>>592 多国に侵略されない統治機構を築くことや国家運営方法論も文明。
付け加えると当時のヨーロッパは中世から近代への移行期で かなり混乱しとった それに社会が混乱してるから文明が低いとはならないでしょ どの文化圏でも混乱期はあるわけだし
595 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 17:25:37 0
>>594 「文明とはなにか?」って問題になるね。
風流には長けてるけど、野蛮人に蹂躙されて滅び去ってしまっては
文明が高いとはいえないし。
596 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 17:44:09 0
統一フランク王国が崩壊してからの西欧は、 イスラムや中国と違って異文明世界からの侵入者がいなかったからね。 一つにまとまる必要が無かったのかも。 カール大帝が西欧を統一したのはイスラム帝国に対抗してのことだし。
まあ15世紀に入ってから欧州が技術革新を進めたのは事実だけどまだ基礎体力がついていけてないからね 物量が圧倒的なオスマンなどには勝てないだろう オスマントルコ>>日本>>>スペイン>他のヨーロッパ
598 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 18:55:08 0
フランス革命以前のヨーロッパの兵隊さんは傭兵さんと言う点も見逃せないんじゃないかな? 出世できるのは隊長クラスから上だし。 出世というか、値段が上がるってだけだけど。 まともな士気があるのはカルトのクロムウェルの軍隊ぐらいだしな。 30年戦争の傭兵なんか規律最悪だし。 1銭切りの織田家の規律なんかとは比べにくいな。 まぁ、ヨーロッパには大陸仕込みの焦土戦術があるしなぁ。
599 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 19:15:35 0
>>588 18世紀どころか、オスマン帝国の太守ウズデミル=ベイが率いる海軍に圧迫されて、
16世紀中盤にはポルトガルは紅海沿岸やアフリカ東岸の支配権を喪失してます。
600 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 19:26:37 0
アルマダ海戦のときにはすでにスペインは斜陽の帝国。
財政も産業も壊滅状態だった。(詳細は
>>468-469 )
すでに産業が破綻していたスペイン(ハプスブルグ朝)は
良質な大砲を鋳造することができず、
アルマダ海戦時にスペイン海軍が装備していた大砲は
1583年に敵国イギリスから密輸したものであった。
よって、スペイン海軍を最強とする見解は妄想。
欧州では科学技術が発展しはじめたというが、科学の基礎となる数学のレベルがどうも・・・。 たしかに、18世紀頃からの欧州の数学の発展は他の追随を許さないものがあったが、スレタイの15〜16世紀はようやく欧州の科学者達が「小数」というものの存在を知りはじめたという時期。 「数学」と呼べる代物ではない。 まだまだ「算数」だった時代なんだけど。
602 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 19:43:14 0
>>600 スペインって国は産業がどうのこうのより、略奪によって国力を伸ばした国といえる。
外国から分捕ってくることしか考えなかったから、後で産業を発達させた
イギリスやオランダに抜かされた。
603 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 19:44:21 0
追い討ち (1566〜1654年のデータ) スペインが新大陸から得た貴金属:1億2100万ドゥカード(6012億4900万円) ネーデルラント独立戦争時の戦費:2億1800万ドゥカード(1兆832億4200万円) →4819億9300万円の赤字 ※1630年以降新大陸の銀山は枯渇し、さらに収入は激減した。
>>601 ただ当時のヨーロッパの数学レベルが低かったとしても
それが技術と直結して実用化されたのが大きいんじゃないかな
マテオ・リッチが明の皇帝の前で明の学者よりも
日食の時間をずっと正確に言い当てた
明の学者は数式の暗記だけで基礎理論は完全に忘れ去られてたらしい
航海技術でも数学の知識はとても重要、当時は時差などもかなり正確に測れた
で、知識の開放は印刷技術の発達が大きい
ルターの著作は1517年から1519年、わずか3年で30万部も売れた
これは当時としては驚異的な数字
東洋の技術は例えば宋代の時計みたいに門外不出だったことによって
忘れ去られたり、一部の人間しか知ることができなかった
ここが大きな違いだと思う
605 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 20:53:47 0
>>600 アルマダ開戦のころだと、英国の経済破綻っぷりの方がひどいと思われ。
606 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 21:01:05 0
>>514 胸当ての形が三角錐にかわった。弾が当たっても左右にそれるように設計されていた。
607 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 21:05:51 0
>>605 劣等国イギリスよりスペインはさらに劣等ということでいいか?
608 :
世界@名無史さん :2005/03/29(火) 23:47:21 0
>>605 アルマダを破って英国の時代が来たんじゃないの?
いや、オランダ
それは海の覇権 大陸ではスペインの次はフランス
611 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 00:26:43 0
中学生レベルの歴史教育も満足に受けてない奴がこの板にいるのか
612 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 00:32:25 0
,:' ,:' / |i | ',', ) / / ,:' ,ィ ノ' | i ', ',', < 少しは学習しろっちゅうねん! _...._,' ,' ,' ,'/>' /}/| ,l. | |ヾ、.) /r⌒'! ! l ,'_/イ∨〃ノ ノ,' ,'.,' `Y⌒! /⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒⌒Y⌒ { / (l ', ||i -,;;=|!ン‐"ノ _ノ/ |/ / // /) 'i ',ヽ、,' ,' .∧!` ヲ".,ィフヾノ'彡‐'ソ,:' ,:r-、 / // //) ∧/|_..イ |ィ彡/ノ゙ -! i i ,' ゙、 : {;:' /´ ´ ノ" , '´ ̄`>=く././// ノ > 、ヽ、´〃 | | | | ヽ { r' ィ # } }:r)‐' '_フ _,,,:::='''゙゙`Vvヽ\| '、 ヽ. ',|!. | ! ,. '´} ̄ヽ > ':---.、 '__ノー'-< _,;;'''' |', ',,:'⌒ヽ,゙!! |!|'.:.:.:.:.j ノ''´ `ー==イ | / `ヾ:' ||', }! ||',_|.!、::;:- ' ´ 、 ヽ.j_/ヽ、 | ! !l | ,.‐''⌒-'''⌒) | \ | ∧ | .l | l .l / < | \__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人_ . //∧' | 〈''! < 間違ったんじゃないもん! ///_ !-'´ /'`) < ちょっと試しに言ってみただけだもん!! -''´ _ノ- ' ) < 世界史にも興味あったし!!
613 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 00:35:37 0
>>604 >知識の開放は印刷技術の発達が大きい
それ以前にヨーロッパ人は文盲のお猿さんだろ
>>613 全員文盲だったらドイツだけで30万部も売れるか
そういうわけで発行部数も出した
30万部刷るのだってやわな印刷機じゃできんよ
くるしまぎれの反論だな
釣りにマジレスしてみたが
615 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 01:09:07 O
十八世紀まで 大砲の技術以外はすべてアジアが優越していたと思っていた俺は。 バカですか?
616 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 01:14:57 0
>>614 ラテン語の教育機関しかない時代に読み書きの基礎教育もない状態で
突然登場したドイツ語を読めるわけがない。
妄想乙 イネ
>>616 ぷっ、お前は中世のドイツ語を知らんのか?
618 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 02:02:54 0
ルター聖書は教会が旗振って購入運動したからな。 話し言葉でない難しいドイツ語は読めないのに無理やり買わされたという人も多い。 当時のルター派は現在の層化のようなもの、ドイツ語聖書は層化のバイブル「人間革命」と思えばいいかもな。
>>618 なんか、すごーく説得力があるような。層化の折伏時代の記憶のある世代ですが。
620 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 02:37:12 0
>>614 わかった、わかった。
陀羅尼経を100万部木版印刷した8世紀日本の印刷技術よりも
30万部しか刷れなかった16世紀ドイツの印刷が劣っていた。
と、こう言いたいわけだな。
>>615 それに航海技術を加えればほぼ間違ってないと思うよ
でもアジアっていうのもどうかと思うけど
誰も書かないのであえて俺が指摘させていだたくが、関ヶ原の合戦のあった1600年当時 世界最強の陸軍国家は、500門の真鍮砲と6万挺の小銃を擁し、オスマン朝の拠点を次々と 攻略していたアッバース1世統治下のサファヴィー朝ペルシアだ。
>>618 中世の時代からバリバリドイツ語は使われてました
お前妄想もいいかげんにしろ
勝ちたいがためにうそ作るな
それに聖書じゃなくてもっと読みやすい小冊子が売れたんだよ
ってか、もっとヨーロッパ史勉強しろ
知識が糞すぎ
ラテン語教育のみってアホかお前
>>620 http://www.toppan-f.co.jp/topics/bfhistory/bf3.html 100万部刷ったとしても文字の大きさも精度もグーテンベルク
のもと大人と子供の差、まぁ、8世紀当時と比べるのもなんだか
印刷技術といっても比べる時期を選べ
ここは15、6世紀がメインなわけで
この写真見ればいかにグーテンベルクの印刷技術が優れていたかわかるだろ
このころ盛んに行われたわが国の活版印刷は、
江戸時代も中期・後期にはほとんどすたれ、
印刷物といえば、木の一枚板に文章を彫りつ けて摺った、
整版ものばかりになりました
一部が技術が高くても全体がこんな原始的なものじゃ話にならん
>>621 それに時計や眼鏡
天文学
オスマンは半分アジアじゃないけどね
>>621 それに時計や眼鏡
天文学、印刷技術
オスマンは半分アジアじゃないけどね
連投した。すまん
竜骨構造の船を持っていれば東南アジア地域を征服できたと思うんだけどな。 なぜ当時の日本人は造船技術に興味を持たなかったのだろうか。
628 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 11:44:08 0
>>623 部数が多ければ活版じゃなくても能率的には問題にならないけどね。
それに日本語の場合は活字はそれほど効率的じゃないし、
なにより現在は活字なんて廃れちゃってるし。
629 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 11:46:59 0
>>627 ヨーロッパの人は、アジアにどうしても欲しいものがあったけど、
アジアの人は、ヨーロッパに欲しいものがなかったんじゃないか?
だから、地球を半周するほどの大航海に耐える船が必要じゃなかった。
無敵艦隊とかいってスペイン弱
631 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 12:58:01 0
>>629 「植民地と奴隷」という、ヨーロッパ人にとって喉から手が出るほど欲しいものがアジアにあった。
アジア人がヨーロッパに植民地や奴隷を求めたという話は聞いたことがない。
よってヨーロッパ人は優越人種。アジア人は劣等人種。
632 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 13:00:22 0
>>631 中東あたりだとヨーロッパ人の奴隷なんて当たり前にいたし、
インドあたりだとアラブ人やペルシア人の奴隷も普通にいたよ。
633 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 13:24:03 0
634 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 13:25:04 0
635 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 13:26:17 0
636 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 13:34:38 0
>>632 中東やインドのそういう奴隷は、単純労働に就いていた無産階級が、だんだん雇い主の私有財産化したもので、
奴隷とはいっても、農奴みたいなもの。
ヨーロッパ帝国主義時代の黒人奴隷や苦力のような、征服によって獲得した労働力とはだいぶちがう。
637 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 15:27:47 0
>>636 イスラム国に捉えられたキリスト教徒の奴隷は、後世の黒人奴隷と
同じような扱いだったよ。家畜と同じ。
トルコ人やスラヴ人等「白人」系の奴隷とザンジュ(黒人奴隷)の待遇はえらく違ったと思うが
639 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 15:44:55 0
イェニチェリはいろいろ特権あったみたいだがなぁ
641 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 16:11:16 0
>>640 そんな例外的な少数の話なら、農場主の愛人として豪勢な暮らしをしていた
黒人奴隷もいるよ。
>>639 イスラム圏でも黒人差別は酷かったぞ。
初期のカリフ朝時代には過酷な肉体労働に使われててほとんど新大陸みたいな感じだった。
それで起きたのが「ザンジュの乱」。
白人奴隷にはマムルークやアタベクになって一国の君主にまで出世する者もいたが、
黒人にそういった例はない。
643 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 16:25:26 0
>>642 ファーティマ朝や後ウマイヤ朝には黒人の将軍や大臣がいたはずだけど。
イスラム圏の白人奴隷で悲惨なのはガレー漕ぎとかだな。 ちなみに近世になって帆船が普及してオール漕ぎ奴隷の必要がなくなったので ムスリムの海賊は女ばかり大量にさらって売るようになったという。 女奴隷に種つけして奴隷を再生産することまでやってたというから これは家畜並みに扱ってた例といえる。
憶測のみで展開される中世ペルシャ王朝史。
647 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 16:37:07 0
>>638 アングロサクソン等ゲルマン系の奴隷も大勢居たよ。
例えばブリタニア(ブリテン)島がアングリアと呼ばれるようになったのは
地中海沿岸諸国に売られたアングル人奴隷のため。
648 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 16:41:50 0
ゲルマン人奴隷はイタリアでも売買されていた
>>644 それはアメリカ人も黒人やインディアンでやってたな。
黒人女に白人男で種付けして生まれた子供を奴隷として売ってたとか。
白黒ハーフは高く売れたらしい。
>>627 日本を統一した徳川家が鎖国して対外進出を封じたから必要なかったんだろ。
それまで保有してた竜骨持ちの船は壊して、今後作る船の大きさまで制限してるし。
651 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 18:26:26 0
>>631 こいつは日本人の癖にここまで自虐的な発言をして何が楽しいんだろうな。
652 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 18:29:00 0
朝鮮人とかが相手だとめっぽう強気だけど欧米相手になると急に及び腰になるヘタレが多いね。
>>648 グレゴリウス1世が「どこから来たのか?」と尋ねたら「アングレ」と答えたと言う
天使のような金髪の美少年奴隷ですか?
654 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 20:05:19 0
>>623 >中世の時代からバリバリドイツ語は使われてました
そこまで言うなら中世にドイツ語で出版された代表的な書籍ってなんだ?
確かにドイツ語は使われていたよ。話し言葉でな。
しかし、話せることと読み書きができることが違うことぐらいは
理解できるんでよな? 土手異能
現代でもサウジのフィリピン人出稼ぎ労働者は奴隷状態なんだよな。 路上で警官に処刑されたりしてるし。
トロバドールとかトゥルベールとかが活躍したフランスなら、例はいくらでもあるけどな。
657 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 21:05:16 0
>>615 当時の大砲なんて、金属の筒に弾入れて火薬に火をつけて飛ばすだけだ。
優れてるとか劣っているとか言うレベルのテクノロジーではないだろ。
658 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 21:11:41 0
>>656 フランスで〜と言ったら、トゥルベールを事例に挙げるつもりだったのか?
吟遊詩人は弾き語りだろ(爆
>優れてるとか劣っているとか言うレベルのテクノロジーではないだろ。 治金学の知識が必要ですし、鬆も無く鋳造するのは大変ですよ。 大砲自体が何で出来ているかという問題もあります。 鉄砲の例ですが、明国の鋳銅製の銃は、連発すると熱をもち、破裂する 可能性も高いものでした。
>>658 吟遊詩人は弾き語りっていう定義あったっけ?
>>627 鎖国するまでは結構、海外技術の取り入れには積極的だったんだけどね。
三浦按針やセバスチャン・ビスカイノからの技術供与でガレオンが三隻作られているし
>>558 の「安宅丸」はその影響か、安宅船のくせに竜骨を持っている。
外洋に乗り出す必要さえあったら間も無くモノに出来てただろう
662 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 21:39:56 0
>>625 天文学はイスラム起源ではないか?
イスラム圏ではさまざまな自然現象を神からのメッセージと捉えており、
教義の理念を補強したギリシャ哲学の影響もあり自然科学が発達した。
特に天体の運行は(そこに神がいると考えられたため)
重要な意味を持ち天文学が誕生した。と、いうのは有名な話。
663 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 21:56:22 0
>>660 吟遊詩人は弾き語りっていう定義あったっけ?
歌手は歌うっていう定義あったっけ?
あったよ、キティたん。
664 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 22:15:36 0
>>659 >優れてるとか劣っているとか言うレベルのテクノロジーではないだろ。
これはある程度のレベルに到達すれば兵器として大差がないという趣旨。
トロバドールを吟遊詩人と訳してるDQNがいるスレはここですか?(大笑
666 :
世界@名無史さん :2005/03/30(水) 23:57:16 0
ギヨーム・ド・ポワチエは弾き語りする旅芸人のようです。
667 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 01:07:54 O
鋳造と鍛造
668 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 16:27:23 0
>>631 君はアジア人なの?劣等人種なの?
時代は違うけどジュチ・ウルスは?
500年ほど前だから人種という意味ではそんなに変わらないだろ?
669 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 16:35:46 0
>>631 奴隷を求めると、なぜ優越人種になるの?
670 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 20:46:33 0
ヨーロッパが兵器の性能面で他の文明国に対して圧倒的優位に立つのは 19世紀以降。 16世紀以降18世紀末まで兵器性能について見るべき改善点はあまりない。
1] 帝国の過去――世界の海へ 大砲装備の木造帆船に始まり、小型砲艦、戦艦、ついには“エアシップ(飛行 船)”――これを持つか持たないかの違いが、世界覇権と国内権力、帝国と取 るに足らない国との間を分けた。ヨーロッパが世界舞台に進出した最初の20 0年間ほど、ヨーロッパの軍勢と敵勢力それぞれが持つ兵器には、さほど決定 的な違いはなかった。命運を左右したのは、船に載せた大砲だった。その後も 長い間、この傾向は変わらなかった。20世紀幕開けのころ、より大きく、よ り強力な“巨砲大艦”すなわち“ドレッドノート(恐いもの知らずの意*)戦 艦”の建造ラッシュの到来とともに、現実的な意味での近代軍拡競争が始まっ たと伝統的に考えられている。 [*日本語表記では「弩級(どきゅう)」と音 訳] スウェーデン人作家スヴェン・リンドクヴィストの著作『すべからく奴ら野獣 を抹殺せよ!』*は、(アフリカを巡歴した現実の紀行を透かして)読者を ヨーロッパの“闇の奥”へ誘う、注目すべき旅行記である。かれはこの本で、 ユーラシア文明世界のなかで野蛮な一角を占めていたにすぎないヨーロッパが、 16世紀の海へ乗りだした瞬間を次のように記述している―― [*'Exterminate All the Brutes' by Sven Lindqvist, London: Granta Books, 1996(スウェーデン語原書からの英訳版)アフリカ旅行記を兼ねた植 民地主義・ホロコースト批判の書。このタイトルはコンラッド『闇の奥』に紹 介された植民地主義者の報告書からの引用句]
「産業革命前のヨーロッパに、外部の世界で通用する産出物などはほとんどな
かった。ヨーロッパ最大の輸出品は、武力だった。当時のヨーロッパ人は、外
部世界のどこからも、モンゴル族やタタール族と同じ遊牧生活の戦闘民族であ
ると見られていた。モンゴル人とタタール人は馬の背から君臨した。ヨーロッ
パ人は船の甲板から君臨した。
「ヨーロッパ人よりずっと開化していた諸国民を相手にしても、大砲はめぼし
い抵抗に遭わなかった。インドのムガール人は、砲撃に耐えられるような、あ
るいは重砲を装備できるような船を持っていなかった……。16世紀のヨーロ
ッパ人は、後進地住民であり、資源にも恵まれなかったが、はるかかなたに遠
征し、殺戮・破壊能力を発揮する武装外洋船だけは独占的に持っていた。ヨー
ロッパ人は、相手方兵器が届くよりもずっと前に、敵を殺傷できる大砲を操る
神々になった」
ttp://groups.yahoo.co.jp/group/TUP-Bulletin/message/293?expand=1
673 :
朱由檢 :2005/03/31(木) 22:20:22 0
>>631 カトリック教会は奴隷制度を非難する立場をとったが、
奴隷制度そのものを否定しなかった。
そのため、中世ヨーロッパでは奴隷は外貨獲得の手段の一つとなった。
14世紀から15世紀にかけて、ヨーロッパ人奴隷はクレタ島を経て、
ヴェネチア植民地、エジプト、南フランス、スペインなどに輸出された。
余談だが、ウェールズ(Weath)人とは奴隷という言葉の意味。
重要なのは ・外洋航海が可能な海軍と呼べる代物が無かった。日本“水軍”では乗り込み海賊戦法だけ。これじゃ話にならん ・炸裂弾、大砲・攻城兵器が無い。国内戦しか知らないので発達しなかったが、対外だと致命的 ・軍制が中世から進歩してない。列強は近代制度 陸でも海でも正規戦だと壊滅するんじゃないかな・・ まあ、地理的に最果てであるのと、最貧国だったから目をつけられなかったけどね(笑)
失礼 名前は671-672です。
>・軍制が中世から進歩してない。 中世から傭兵主体だった欧州のことだよな?
677 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 22:43:52 0
16世紀の欧州列強国と同時代の未開日本の軍制だよ
>>677 大砲ってのは大筒のことで、これは火縄銃の形態を大型化して鉄球を飛ばす兵器でしょう。
鉄球自体は爆発しないので有効な戦力になるのかどうか・・
イエズス会を通して、欧州の大砲(カルヴァリンだったか)を少数導入してようだが
これは別の話。
680 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 23:00:34 0
>>674 >外洋航海が可能な海軍と呼べる代物が無かった。日本“水軍”では乗り込み海賊戦法だけ。
乗り込み海賊戦法主体なのは、1571年レパンドの海戦時のスペインくらいのものだ。
1587年木津川口の海戦では、毛利=村上水軍は石火矢(大砲)とほうらく(手榴弾)で、織田=
九鬼水軍は鉄甲船と大砲で応戦している。
海軍の存在はヨーロッパも含め当時の世界には存在しない。
スペインのアルマダは陸軍護送船団で海軍ではない。
イギリスのドレーク艦隊やオスマンのレイス艦隊は海賊だ。
681 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 23:13:19 0
>>679 とにかく、一度最初から読め。大鉄砲と大砲を区別して説明を加えている。
このスレ住人はカルヴァリンも言及しているが、東アジアの海戦では主流で
あったフランキよりカルヴァリンは口径も小さく、命中率が低い。
さらにカルヴァリンは、固定式で敵船の動きにも対応できない。
ヨーロッパでも海戦では小さい可動式の大砲が主流になる。
682 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 23:23:12 0
>>674 >軍制が中世から進歩してない。列強は近代制度
ヨーロッパが近代軍制に移行したのはナポレオン以降19世紀から。
683 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 23:35:02 0
ヨーロッパで最初に徴兵制度を実施した30年戦争時のスウェーデンでは、 徴兵拒否反乱が頻発し、傭兵に頼らなければならなくなった。 もちろんヨーロッパの優秀な傭兵は、兵糧を現地調達するため戦場周辺の 集落を襲ったため、治安の悪化や人口の減少を引き起こした。 さらに傭兵は命がけで戦うほど仕事熱心ではなく、戦線は容易に崩壊した。
684 :
世界@名無史さん :2005/03/31(木) 23:55:57 0
近世ヨーロッパの傭兵について書いていて思ったのだが、 応仁の乱(1467年)で登場したばかりの足軽と同じ輩だな。
685 :
世界@名無史さん :2005/04/01(金) 00:00:16 0
>>672 なるほど。当時のヨーロッパ人を、遊牧民と同じような武力だけに特化した民族、と認識するのは面白い見方だ。
どこもかしこもそんなもんだよ 国民国家がその時代に完成していると思い込んでいる基地外が一匹迷い込んで、世迷言を喚き散らしているだけ
687 :
世界@名無史さん :2005/04/01(金) 00:04:19 0
>>686 同意。すまん。この手の輩を相手にしてしまった。
688 :
世界@名無史さん :2005/04/01(金) 00:10:39 0
戦国時代は海軍力が弱すぎだよなー
689 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 00:59:24 0
当時の戦力で1590年時小田原城、1598年時大阪城、1636年時江戸城、を完璧に攻略できた国ってどの位? 勿論同時代で考えて。 オスマンなら楽勝?
690 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 01:01:19 0
時・・・次・・・日本語からやりなおしてきます・・・
初めてこの板に来ました エジプト歴ワロスwwwwwwwwwwwwww記念真紀子
>>685 まあエイプリルフールですからいろんなネタがありってことで。
一日間違えとるが。
693 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 01:20:09 0
694 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 01:44:27 0
17世紀欧州の戦争は決戦や攻城戦を避ける傾向にあった。 これは火器の発展より死傷率が高くなった要因が大きい。 城攻めは防御側に有利な位置から砲撃され被害を拡大し、大反抗の契機を与えかねない。 また、決戦は両軍の疲弊を招きパワーバランスを崩し、他国に漁夫の利を与えかねない。 当時はできるだけ博打を避け危険を冒さないようにし、野戦で小競り合いを繰り返して、 トータルバランスで優位に立とうという傾向が強かった。 この傾向が同時期にヨーロッパで遊撃隊的な役割の騎兵(ドラグーン)が相次いで登場する 原因とも考えられている。
>>689 オスマンってウィーン包囲して結局攻略できなかったし無理。
696 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 02:08:14 0
17世紀当時ヨーロッパの大砲は、火薬の分量を間違えると すぐに割れる粗悪品で長期包囲に向かなかった。 当時の欧州最強と呼ばれたオスマン帝国砲兵も同様である。 17世紀に入ると威力よりも携行の利便性を重視されて、 大砲は小型化する傾向にあった。 オスマン帝国の脅威を感じたキリスト教国群は当初大砲を オスマン帝国同様に大型の大砲を鋳造して行くのだが、 これはあまりに運搬に労力がかかるため次第に廃れ始めた。 例えば、 メフメトU世がコンスタンティノープルを陥落時に使用した オスマン帝国の大砲『ウルバン』は有効射程1600mを誇り、 17世紀時点でも最高ランクの破壊力を誇っていた。 しかし、『ウルバン』は重量19000kgもあり、 その運搬には30両の車両と200人の人員と60頭の牛を必要とし、 それでも1日で進める距離はわずか4kmであった。 (第一次ウィーン包囲では途中で運搬を諦められている。)
697 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 02:18:22 0
戦争動員数の確保さえおぼつかないヨーロッパ諸国にとって、 大砲の運搬だけに数百人も投入することはおよそ無理であり、 大砲は次第に小型軽量化して行くのだが、 今度は砲身の肉厚が薄くなり破裂(暴発)の危険性が高まった。
698 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 02:35:00 0
最終的にカルバリンも小型化して行き、その口径は日本の大鉄砲(抱え大筒)と 大して変わらない(場合によってはそれより小さい)大きさになった。 大筒の威力を低く評価する方もいらっしゃるようだが、 同時期の欧州で主力となった野戦大砲も実は大差ないのである。
>>698 大差ないって、弾が炸裂しないのだから欧州の船体にダメージは無いでしょう。
あの時代の日本水軍は大規模な輸送船団だった。船の材質もクスノキ、杉などで
つくられていたので朝鮮水軍程度でも簡単に撃退できた。
外洋船も無い、耐久も格段に劣る、大砲も無い、無い無い尽くしでどうやって欧州“海軍”と戦うんだ?
700 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 09:50:27 0
>>699 船体へのダメージを考えると、破裂するより貫通して船底に穴を空けた方が大きいんじゃないの?
>>699 徹甲榴弾が登場するのは遥か先の話だが。
702 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 12:42:12 0
>弾が炸裂しないのだから欧州の船体にダメージは無いでしょう。 回答:この時代のヨーロッパの弾も炸裂しない。16〜17世紀当時の ヨーロッパで使用された弾は単純な鉛や鉄弾。 同時期の日本はヨーロッパより硬質で錆びにくい鉛青銅弾を使用。 >船の材質もクスノキ、杉などで >耐久も格段に劣る 回答:日本の船は鉄甲船以外でも金属装甲を施されているものは多く見られ、 防御力は当時世界のトップクラスであった。(資料『全流軍船之図』) >朝鮮水軍程度でも簡単に撃退できた。 回答:朝鮮侵略時は朝鮮が秀吉が当初予想した以上に弱く戦線が急拡大した。 このため、兵站線が延びて兵糧の供給が追いつかなくなった。 九鬼嘉隆は地味であったが重要な輸送任務を忘れて、勲功をあせり、李舜臣を 相手に大事な輸送船団を失うと、ますます兵站線の維持が困難になったことが 苦戦の要因だが、朝鮮侵略で大規模な海戦に至ったことはなく、 李舜臣が海戦で英雄的勝利を重ねて、豊臣政権軍を追い払ったというのは誇張。
703 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 12:55:12 0
>外洋船も無い、 回答:日本の軍船は竜骨が組まれ十分外洋航海に耐える水準。 >耐久も格段に劣る、 回答:装甲が木組み主体で金属補強の西欧船と、 鉄板を貼り付けて金属装甲が主体の和船では日本が優れている。 >大砲も無い、 回答:あった。 どうやって欧州“海軍”と戦うんだ? 回答:欧州に“海軍”が存在しないから確かに戦うのは無理。
704 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 12:57:55 0
>どうやって欧州“海軍”と戦うんだ? 回答:欧州に“海軍”が存在しないから戦うのは無理。
>>699 文禄・慶長の役の時の朝鮮水軍と日本水軍の戦いって、ちょうどベトナム戦争の時の
ミグ21とF4ファントムの戦いに似ているよね。
日本水軍がいろいろな補給物資を搭載して長距離を侵攻しなければならなかったのに
対して朝鮮水軍は沿岸防衛だけに特化すれば良かった。
だから朝鮮水軍って戦闘行動半径がものすごい短いし、戦争が進んで朝鮮南岸の良港を
日本軍に押さえられてしまうと、ほとんど何も出来なくなってしまう。
706 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 20:04:44 0
17世紀日本の戦船は日本、中国、西欧の技術を採り入れた船だった。 2本マストにバウスプリットを持ち、基本構造は欧州船そのもの。 さらにスプリットセールと船尾のラテン帆を持ち、 キャラックに近い全装帆船であったと推測されている。 大きい相違は2本のマストに張る大帆が中国ジャンク式の縦帆になっており、 帆装としては原型のキャラックより使いやすさを重視したのであろう。 船体は全体としては中国式に見えるが船尾はキャラックに近く、 船首水面近くに設けた張出し船楼はキャラックにも中国船にもないもので、 17世紀日本軍船式の独特な櫓で砲撃の利便性と防御性を重視されていた。 ある推定によると総トン数は数百トンと見積もられており、 同時期のヨーロッパ外洋帆船に匹敵した。
そんじゃあ、徳川幕府が膨張主義だっだら欧州と植民地争いしてたかもね。 日本と欧州の軍事史ってなんか似てる気がする。封建制から傭兵制への移行もほぼ同時期だし。
でもあの時期に日本が対外進出していたら、今頃は日本国内に海外植民地の原住民との 大規模な混血集団と差別・権利問題を巡って揉めたり、キリスト教信仰者とイスラム教信仰者が 深刻な対立を引き起こしてたり、生活習慣におけるギャップがやがて血を血で洗う殺戮合戦に なってたりしてる可能性もあるわけで、かつての帝国主義国家が今抱えてたりする問題を見ると、 やはり鎖国はあれはあれで良かったと自分は思うわけですが。
709 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 21:29:55 0
西欧帆船の搭載していた砲弾が木製だった事については、みんなスルーですか?
>>707 幕府が膨張主義を取ったら、各藩がおのおの植民地経営に乗り出して
国内の統一が再び崩れて戦乱に逆戻りだと思います。
それ故の鎖国政策、と言う面も有ったと思うのです。
711 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 21:51:56 0
つうか、日本に傭兵制なんかあったのか? そりゃあ確かに侍の起源は貴族に雇われたガードマンだったりしたが。
712 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 21:55:56 0
>>711 根来衆とか用兵集団じゃん?
伊賀衆、甲賀衆とかも。
>711 15世紀後半になると、ゲリラ戦術に長けた(まともに戦うと正規の武士より は弱かった筈)伊賀衆が史上に姿を現します。 また、後世忍者と呼ばれる様になるこうした面々に限らず、少なくとも遠征 して戦う武士たちの多かった畿内とその周辺には、臨時に雇われて戦場で働 く人々がいました。 本国から離れた地域で戦死・逃亡が相次いだ場合、彼らを雇う事もありまし たが、その為の給金が最優先とされています。 なお、684氏は一条兼良の文をお読みになったのでしょうが、軽装の歩兵 を足軽と呼ぶ事自体は、それ以前から行われていました。 どの点から区別したのかは、よく分かりません。 >侍の起源は貴族に雇われたガードマン 雇われたというか・・・。後に武士の「棟梁」となったのも、一応研究者の間 では「軍事貴族」と呼ばれている4〜6位クラスの面々です。 地位の低さから、諸大夫を貴族と呼ぶべきではないともいいますが。 家人として権門と主従関係を結んで自己の勢力を拡大して行く在地領主とし ての武士がいたのは確かですが、現在の雇用とはまた別ものです。
714 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 22:08:05 0
>>709 えっ!?本当にヨーロッパは木製弾は使ってたのか?
鉛、石までは信用していたが、まさか木はなぁ〜とか思ってた。
715 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 22:19:11 0
平家〜鎌倉時代=騎士 鎌倉時代〜室町時代=騎兵+従者 応仁の乱〜戦国時代=傭兵登場 戦国時代=集団戦術の確立 戦国時代〜織豊時代=兵農分離(サラリーマン化した常備軍登場) 江戸時代=武士の官僚化
716 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 22:21:35 0
このスレは活発で玉石混の2ちゃんねる風でいいな
>>715 細かい点はいちいち申し上げませんが、戦国期の集団戦術も、どうやら基本
は弓・鉄砲を持った足軽、数鑓を持った足軽の後に出て来る騎乗可能な士が
手鑓を持って相手の首をとる事にあった様です。
鑓を持っての集団戦はその前座といった印象が強く、最初から最後まで戦場
に見られた姿かどうかは、少々怪しい。
手鑓が折れても替えがありましたが、それも尽きた場合、手近な数鑓を使用
して戦い、勿論相手の武器を奪って戦う事もありました。
また少数ながら長刀使いもおり、「一番鑓」でいいのかと議論されています。
「二番鑓は御免だ」と言って、鑓を捨てて刀を振るう変わり者もいました。
なお、当時の軍は全体の約一割程度の騎乗者、若党・足軽といった侍、中間
・小者といった介助役の下人、夫などの百姓で構成されていました。
侍の割合は全体の約三分の一。下人は名目上は戦闘に参加せず、直接敵の首
を獲る事よりも、主の補助に回る事で手柄を確保しています。
足軽クラスを士分と見做すかは藩にもより、明治になってから足軽が士族と
なった藩と、そうでない藩が生じています。
718 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 22:51:51 0
>>717 徳川家康は生涯の戦を振り返って、
形式通りに鑓合わせで始まる戦など滅多になかった。
専ら弓鉄砲戦ばかりであった。と、述懐している。
あなたはやや歴史家ソースを鵜呑みしすぎていて、
自分の見解が薄いように思えて残念だ。
>専ら弓鉄砲戦ばかりであった。と、述懐している。 よろしければ、この発言のソースを教えて頂けませんでしょうか。 少なくとも、大坂の陣では組打は稀なものとなり、鉄砲の性能の向上から、 その割合が多いものとなっていますが。 その影響を受けて近世に成立したものか否かで、取り上げかたが異なって 参りますので。 私の方は、藤木久志先生や根岸茂夫先生の著書や論文に拠っております。 『甲陽軍鑑』、『信長公記』、『雑兵物語』は、まあ参考程度に。 弓鉄砲戦中心は、例の鈴木眞哉先生がよく主張してらっしゃる事ですが、 私も中世は時代が遡るほど矢の役割が大きかったものと考えています。 ただ、合戦の規模・形式・戦場によって具体的な形態は変容を見せた筈で、 鈴木先生がよく引用される「矢による犠牲者が多かった」というのも、打物 による疵は致命傷が多かったのではないかという意見がありますので、こ こでは一応手鑓を取り上げました(鈴木氏の反論もありますが)。 矢戦の重要性については、前スレや前々スレで何度もお伝えしたのを、御 覧になられたものかと思われます。 ただ、結果はさておき、その発言一つで結論づけるのも、少々早計かと。
720 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 23:07:10 0
戦国時代の頃は軍艦からの艦砲攻撃が今の空爆と等しいから 海軍力0の日本は欧州に手出しできないっしょ
721 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 23:07:51 0
>根来衆とか用兵集団じゃん? なんだか孫子みたいな兵法家集団とおもわれ
ただ、打物戦が目立って増えるのは南北朝時代からの様ですが(騎射も歩射に移行)、 それでも已然として矢の威力といったものは無視されていません。 戦場で人を傷つけ、時にとどめを刺したのは矢・鉄砲であったが、死に首が手柄 にならない事もあり(南北朝時代から首を手柄とする事が広まる)、その後の戦闘 では、打物(鑓)による一騎打ちが主流となったと考えるべきでしょうか。 ところで、いずれにせよあなたも「数鑓による集団戦」には疑問がおありと見てよ ろしいのでしょうか?
723 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 23:13:02 0
おっと、会話の成立しない馬鹿が一人登場。
>>720 有効射程距離450mしかない世界最弱のヨーロッパのヘボ大砲で狙えるか
バ〜カ
>>720 あの当時の大砲って、鉄の塊打ち出す、投石器みたいなもんだから、
そんなに威力ないよ。
つか国力が違うから、欧州の国々では、一国では日本には勝てない。
>>718 あ〜、俺も何かで読んだことあるな。ソースはわからんが。
「鑓合わせなんて石山合戦のときに一回あったと聞いたことがあるくらいだ」
って家康が言ったんだっけ。
確か鈴木氏の本だったかな・・・。
726 :
725 :エジプト暦2329/04/01(金) 23:20:06 0
ただこの鑓合わせが一騎討ちのことなのかはわからんな。
727 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 23:34:47 0
>>722 徳川家臣・酒井某の軍団編成は、
鑓足軽の編成は鑓30人に騎馬長柄頭1人、
鉄砲足軽72人に騎馬組頭2人で他の資料に目を通しても、
15〜30人の編成+指揮官という編成。
バラバラなら馬で移動して指揮するが必要ない。
勝手な行動した足軽は処刑対象で団体行動重視している
のに団体行動はなかったなんて見解はナンセンスだな。
728 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 23:41:31 0
鑓合わせは最前列の槍衾が鑓の穂先を打ち合わせること。 一騎打ちなんて過去の遺物で、戦国時代末に一騎討ちなどない。
729 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 23:44:38 0
>>722 なんだか同じ論法見たことあるな。
本丸写しするなよ。
730 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 23:46:18 0
>>724 当時ポルトガルが軍艦3隻で簡単に勝てるって言ってたぞ!
731 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 23:51:22 0
>>730 50 :25:05/03/05 18:53:06 0
なお、1609年にスペイン国王は、太平洋方面総督に対して
【日本と戦えばスペインが負けて国の恥になるから戦うな】
という趣旨の勅令を出しています。
(ソースはAntonio de Morga著『 Sucesos de Islas Firipinas』)
318ページ参照
>>726 >確か鈴木氏の本だったかな・・・。
ああ、やはり。比較的見つけ易いので、また参照しておきましょう。
ありがとうございます。
718氏が参照されたのも、鈴木先生の御本でよろしいでしょうか?
>727
>徳川家臣・酒井某の軍団編成は
よろしければ、時期と「処刑対象で〜」の戦場について教えて頂けませんか。
それと、これは私の説明が悪かった。
先に申し上げたのは、個々の武者の例で、主将は足軽集団を動かし、組織的に
各武者の戦闘を援護していました。
言うまでもなく、主将に各武者が内包された形となり、主将が別に直属の足軽
隊を抱えていたものです。
可能なのは、騎乗者と足軽集団を配下に抱えていた主に4千石以上の身。
ただ、騎乗可能な士とそれを「援護」する下人という構成で戦闘が行われたらし
く、足軽が鑓で叩き伏せる事が戦場の大半では無かったという事です。
「集団行動」による戦闘を「集団戦」とされるのであれば、あなたの見解で正しい。
733 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/01(金) 23:58:28 0
ポルトガル、スペインはヨーロッパやアメリカでは威勢がいいが、 世界的には弱小グループだな。 銅も真鍮も大砲も輸入品だが、それを購入する金がないときている。
>>730 ポルトガルの軍艦は核砲弾でも積んでるのか
735 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 00:01:45 0
>>732 脳にスの空いた年寄りなので資料を失念しております。
そちらで見つけていただければ幸いです。
736 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 00:06:49 0
軍艦1隻で江戸くらい破壊できるべ
737 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 00:09:06 0
>>731 スペイン?ポルトガルとの条約で日本へは干渉できないんじゃないの?
>735 ええと、どちらの方でしょうか。 いずれにせよ、自分で探しておきます。
739 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 00:33:30 0
>>738 1580年にスペインはポルトガルを併合しているので、
勅令が出た1609年時点では同じ国ですよ。
740 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 00:36:31 0
しかし、ポルトガルの併合なんて、 中学生レベルの話題をわざわざ言及しなければならないとは、、、
741 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 00:45:46 0
>>730 シナ人倭寇のジャンク船に襲われて度々被害出しているポルトガルが たった3隻で勝てるか? キティかお前は
>>730 スペインの軍艦2隻はタイで山田長政に撃沈されたぞ。
>>730 「長剣2本で武装した兵士が町中にうようよいる国
征服は絶対無理」
とも言われてますな
744 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 11:14:50 0
まあわれわれ凡人は過去の日本の自慢より国民年金の保険料払ってるとか地震被害の募金して自慢してるほうが納得できる
745 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 13:49:21 0
>>717 >戦国期の集団戦術も、どうやら基本
>は弓・鉄砲を持った足軽、数鑓を持った足軽の後に出て来る騎乗可能な士が
>手鑓を持って相手の首をとる事にあった様です。
>鑓を持っての集団戦はその前座といった印象が強く、最初から最後まで戦場
>に見られた姿かどうかは、少々怪しい。
前には騎兵はいなくて馬から下りた徒歩ばかりといったのに、
今度は騎兵が戦場の主役なんだね。
愉快、愉快
746 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329/04/02(土) 13:57:30 0
>745 それは竜騎兵と騎兵の違いだな。
>745 ああ、騎乗資格のある「士」の事ですが、勿論ここでは下馬していますよ。
748 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 15:30:38 0
>戦国期の集団戦術も、どうやら基本 >は弓・鉄砲を持った足軽、数鑓を持った足軽の後に出て来る騎乗可能な士が >手鑓を持って相手の首をとる事にあった様です。 >鑓を持っての集団戦はその前座といった印象が強く、最初から最後まで戦場 >に見られた姿かどうかは、少々怪しい。 >騎乗資格のある「士」の事ですが、勿論ここでは下馬していますよ つまり 「弓・鉄砲」集団→「鑓」集団→下馬した「鑓」上級武士集団 と、なるわけだが、集団戦術は前座で、最後に出てくる上級武士が主役という わけだな。突っ込みどころ満載だな。
749 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 15:45:44 0
「弓・鉄砲」集団が乱戦に後退するのはわかる。 しかし、「鑓」集団が下馬した「鑓」上級武士集が現れたときに 後退する必要があるのか? 競技的色彩の強い鎌倉時代ならまだしも、そんな無意味なことを してどうするんだ? それまで集団戦をする意味がまったくないだろ。
750 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 15:51:31 0
対残存兵力の掃討役とするならば、上級武士の面目がない。 後詰で参加するならば、下級鑓部隊が後退する必要がない。 決戦力として投入されるのならば、上級武士はスーパーマンか?
751 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 15:55:14 0
平安時代〜鎌倉〜室町前期までは騎馬武者は馬上で戦闘したが、
戦国時代は下馬して戦うというのはデフォってのもちょっとどうかと思う。
http://www.sasakijo.com/kiba.htm こういう文書を読むとね。
あと、どの文献かわすれたけど、長巻で馬の足を刈る部隊を関が原で編成していた、
西軍の大名家も確かいたはず。
下馬して戦闘してるなら、馬の足を刈る長巻部隊なんかいらないと思うが
752 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 15:55:51 0
日本の戦国後期の鉄砲保有総数800万丁。 圧倒的に日本軍の勝利。
753 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 15:56:44 0
754 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 16:06:32 0
長篠の戦で戦場を調査した家康が手紙で「(武田は)馬一筋(でくる)」と 予想している。 騎馬部隊自体の存在を否定する人が多いが、突撃部隊ではないものの騎馬 高機動部隊はあったのではないかなとは思う。
755 :
朱由檢 :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 20:36:01 0
少し気になったのですが、ヨーロッパ優位を語る多く資料は 客観的な事象や当時の兵器を比較、検証したものが少なくて、 当時のヨーロッパ人による主観を引用したものが多いですね。 ムガル帝国を見た医者やポルトガル人宣教師とかの手記とか。
756 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 21:32:43 0
l _,,,,,,,,_,;;;;i <いいぞ ベイべー! l l''|~___;;、_y__ lミ;l 逃げる奴は欧州厨だ!! ゙l;| | `'",;_,i`'"|;i | 逃げない奴はよく勉強した欧州厨坊だ!! ,r''i ヽ, '~rーj`c=/ ,/ ヽ ヽ`ー"/:: `ヽ / ゙ヽ  ̄、::::: ゙l, ホント 戦場は地獄だぜ! フゥハハハーハァー |;/"⌒ヽ, \ ヽ: _l_ ri ri l l ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| | / | ゙l゙l, l,|`゙゙゙''―ll___l,,l,|,iノ二二二二│`""""""""""""|二;;二二;;二二二i≡二三三l | ヽ ヽ _|_ _ "l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |二;;二二;;二=''''''''''' ̄ノ /"ヽ 'j_/ヽヽ, ̄ ,,,/"''''''''''''⊃r‐l'二二二T ̄ ̄ ̄ [i゙''''''''''''''''"゙゙゙ ̄`" / ヽ ー──''''''""(;;) `゙,j" | | |
758 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 22:53:58 0
>>757 だ〜か〜ら〜、日本の船も大型に大砲搭載して、
織田信長に至っては艦砲射撃まで行ってるんだってば。
(参考資料:「信長公記 巻七」太田牛一著)
759 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 23:02:22 0
>>757 >これは15世紀のスペインから始まった。
火器と鉄器を知らないアメリカとか、未開のフィリピン以外に
スペインは勝ったか?
弱小国相手に勝ったところで自慢にもなるまい。アホらし杉
761 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 23:12:09 0
762 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/02(土) 23:26:52 0
,. -───-: 、 /::::::::::::::::::::::::::::::::\ / '':::::::::::::::::::::::::::::::''''' ヽ !::::::::::ィ::ハ:::;::::::::::::::::::::::::::! i::|:::i::/l/ i;::ト、:、:::i:::::::::::::::i |::i/レ'-i'' 'ヽi-ヾ,ヽ!:::::::::::::l |::ハ -‐- -─- i::::::::::::::l あかん・・・また、在日や・・・ |::::::l| | | | |::::::::::::::! |::::::ヽ | r---、! l,.!::::::::::::::l l::::::::::::`;'-'=,‐,='r''i~!:::::::::::::::| !:::::::l、::r'"´'. ' l ' i::::::::iヽ:::l i:l、:::|./、_____,l::::;l:/‐'ヽ! '!ヽ;i'>l____,.//-‐'''"ヽ !/ |.VVVVVVVV.lV\!. i | | | l
763 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 00:02:30 0
一神教世界で十六世紀末から十七世紀初頭の日本に対抗できた勢力は オスマン帝国とサファヴィー朝でヨーロッパはカスでいいな。
>>759 スペイン軍は大した損害も無くフィリピン、南米を攻略したのは事実だ。
しかし日本に武力侵攻しなかった理由を軍事的抵抗力だけに求めるのは間違い。
日本は世界の僻地(最終地点なので)であり戦略拠点としての価値が無かった、
また交易品、資源などの経済的魅力に乏しい貧農国であったためそれほど熱心で無かったに過ぎない。
これはまあよい。
主題は戦国期日本と同時代欧州列強(スペイン・ポルトガル)の戦力比較だろ?
>ぶっちゃけ勝てたと思う?
仮に総力戦=全面戦争を行うとしてあの時代情勢から東アジアでの防衛的な戦争と仮定する。
海戦だと艦船の砲撃射程、威力、戦術で西欧艦隊に全く歯が立たないので全滅。
陸だといい勝負になるかもしれん。でも日本兵はバラバラに行動して統制がとれないため
結局大砲で壊滅かな。
島にこもっても、艦砲射撃、砲撃で港湾が破壊され敗北。
両勢力の兵站、戦略性などは考慮外。
異論ある?
レパントの海戦でオスマン軍は敗れていますが… ウィーン包囲も失敗してるし
766 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 00:30:11 0
>>764 考慮外の兵站に尽きるな。
日本に送れる兵力は大きく見積もっても数千。
それじゃマトモにぶつかったのでは話にならん。
キリシタン大名を配下につけて兵員、基地、食糧を供出させる戦略をとれば
勝ち目はあるかもしれんが。
767 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 00:32:46 0
>また交易品、資源などの経済的魅力に乏しい貧農国であったためそれほど熱心で無かったに過ぎない。 オランダは日本から銅を輸入。当時の和銀は世界流通量の3分の1。 お前の無知さは飽きた。
>>766 >キリシタン大名を配下につけて兵員、基地、食糧を供出させる戦略をとれば
>勝ち目はあるかもしれんが。
それは結局日本の内戦だからなあ。
769 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 00:57:19 0
>>764 >仮に総力戦=全面戦争を行うとしてあの時代情勢から東アジアでの防衛的な戦争と仮定する。
>両勢力の兵站、戦略性などは考慮外。
上記の条件で仮に総力戦=全面戦争を行うならば、大兵力と小兵力が戦ったとき、
大兵力側はたいした損害はでないが小兵力側の損害は兵力比の2乗の損害を被ると
するランチェスターの二次法則を適用すれば、兵力の劣るスペインに勝ち目はない。
>>501 を参照いただければわかるようにテルシオの実質参加兵数は3000分の110で、
総兵力の3.66%しか機能しないため、スペインの兵力はより少なくなり勝つ確立が低下する。
770 :
769 :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 01:03:35 0
戦略性を排除すれば、兵力比でスペインの敗北する確立は高い。 優れた戦術と主張するスペインのテルシオ戦術の特殊要件を考慮するならば、 さらにスペインの敗北する確立が上昇する。
欧州は世界の僻地(最終地点なので)であり戦略拠点としての価値が無かった、 また交易品、資源などの経済的魅力に乏しい貧農国であったためそれほど熱心で無かったに過ぎない。 こっちが正解。 「戦国時代末期の日本が欧州の近くにあったら、欧州全土をも征服可能だった。」という意味の事を木村尚三郎先生が仰っておりました。 専門家の間では、既に結論が出ていたようで。
>>764 >でも日本兵はバラバラに行動して統制がとれないため
認識がおかしい、欧州の兵隊は役立たずだから
窮屈で柔軟性に欠ける、布陣なるもので統制とってただけだろ。
773 :
769 :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 01:19:53 0
>海戦だと艦船の砲撃射程、威力、戦術で西欧艦隊に全く歯が立たないので全滅。 スペイン軍が装備するカルバリンの射程距離は300〜800m。 豊臣政権軍が装備するフランキの射程距離は500〜1000m。 ※参考までに抱え大筒(大鉄砲)でさえ射程距離が100〜800m。 射程距離はスペインの負け。 スペイン軍ガレオン帆船の装甲は木。 豊臣政権軍戦船の装甲は板金。 装甲もスペインの負け。 スペイン艦隊の基本戦術は相手の船に乗り込んでの白兵戦闘だが、 和船は総矢倉で、船体の高さが違い乗り込めず、矢倉からの鉄砲や 弓で射殺されるのがオチ。 仮に白兵戦になってもスペインの鈍刀では勝てない。
774 :
769 :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 01:23:07 0
>>772 同意。
ヨーロッパでは兵士の士気が低く、勝手に逃げさせないために密集戦術を
採ったと言う。
775 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 01:23:57 0
>>771 まあ日本の人口は小麦に比して収量の多いコメで支えられていたわけで。
日本がモンスーン圏を離れて欧州の近くにあったら人口も少なかったろうし
軍事力や文化を支えるだけの生産余剰もあったかどうか。
>>772 恩賞に換金できる首級を腰にぶら下げている欧州兵の絵は見たことないし、
国民軍以前の欧州の雑兵はインセンティブ低かっただろうね。
んで、隊列組ませて動かすしかないと。
776 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 01:45:23 0
スペインはパパにお願いして、第8回目の十字軍でも組ま ない限りは勝つみこみがない。 もちろん、十字軍を組んでも各国間の不信感が拭えぬまま、 バラバラに行動して統制がとれないため、負けるわけだが。
レパント海戦の艦載砲の射程は1650mとされているが? ヨーロッパも前はフランキのような後装式だったが技術の進歩により 前装式に移ったんだよ。それと艦載砲は陸の砲よりいいものがつかわれたし。 もっともスペインが短射程というのも間違ってないが船を砲で沈めるための 威力を増大させた結果だよ。イギリスも後にスペインに倣っているし。 アルマダの間違いは陣形からもわかるようにそれまで地中海で行われていたような 古い戦い方を捨てきれなかったからなんだよね。 縦陣でも組んでりゃよかったのに
西洋帆船に匹敵、もしくは上回るぐらいの性能を持つ和船。 それを擁する日本水軍を、完膚なきまでに叩き潰した朝鮮水軍は世界最強?
いつの間に完膚なきまでに叩き潰されたんだ日本水軍
>>771 朝鮮半島すら維持できなかったにも関わらず欧州全土征服って何の冗談だよ オスマン帝国と同盟して挟撃でもするのか?
781 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 02:21:58 0
14世紀までは西欧はカスのような存在だった。 大航海時代幕開けでトップのスペイン・ポルトガルがやっと世界的にも「それなり(中の上・蛮族を打ちのめせる程度)の国」に列した。 17世紀に入ってかなり強力になってきた。それでもオスマンや中華帝国にはまだ一国では太刀打ちできない。 18世紀後半に世界的に圧倒的な地位を占め始める。 19世紀半ばの産業革命で決定的に。西欧=世界 20世紀で周辺(アメリカ・ロシア)にトップを譲る って感じでしょ。
782 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 02:26:08 0
ソ連も一瞬の光芒だったなw アメリカと日本で世界の過半数です。
上の方でポルトガルが軍艦3隻で簡単に勝てるって誰か言ってたけど それは多分1565年のポルトガルのカラック船(船員80人)が平戸で 和船10隻と切り込みようの小船50隻に勝ったから言ってんじゃないの。 もちろん軍艦3隻ってのは誇大表現だしそれから柴田勝家がポルトガル人に 大船と兵1万5千人でも2万両と引き換えにしてもいいといったように その技術を取り入れることを欲してたからずっと多くなろうが。
この話は何年も前に結論でてるよ、日本及び東アジアは西洋を圧倒的に凌駕している。と 何年か前、教育テレビでもやってたし、本も沢山でてるよ。 欧米からも反対意見無いみたいだしね。
>>784 西欧の圧倒的優位は産業革命後の英国が確立したことは承知している。
だが、日本をオスマントルコ、明、ムガールとは同列に扱えないだろう。
672にあるように陸地での戦闘は日本含むアジア勢力は遜色なかったであろう。
だが、海上戦力が著しく弱小。武装外洋船の有無、この差が決定的。
それでもやっぱり海上封鎖されて一方的にやられると思わないか?
戦国期の日本に海上封鎖ですか? 関門海峡や大阪湾でも封鎖するの?
787 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 05:19:15 O
明末期の鄭成功の渡洋進攻は無視ですか?
>>785 海上封鎖するだけの水上戦力が在ったとは初耳
それとも一隻二隻で封鎖出来る性能ってか?
ムガールをオスマントルコ、明と同列に扱ってるのもアレだな。
ちなみにガレオン船は喫水が深いから、浅瀬の多い日本近海を航行するのは危険だよ。 船底に岩が当たってすぐ座礁するのが落ち。 (そうならないように和船は平底にしてあるのだ) 実際そういう船は多かった。 スペインまで行く予定だったのに出港後間も無く座礁した新造艦サン・セバスチャン号、 修理のため浦戸に入港しようとして、その直前に座礁したサン・フェリペ号などなど。
790 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 08:38:07 0
海戦と言うが、日清戦争・日露戦争でも索敵に苦労してる。 敵艦を発見・捕捉するのが難しい。 朝鮮半島の日本の補給路の航路が一定であったのが、 朝鮮海軍に兵站をやられた原因。 索敵の困難なこの時代の海戦はかなり偶然性によって起るか起こらないか、 わからない。 石山合戦みたいに、海上封鎖してるところにくる艦隊を迎え撃つなら、 確実に海戦の発生を想起できるだろうけど、 どこに上陸するかわからないとなると、海戦をやるのは困難だろう。
791 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 12:07:25 0
勝った、勝ったと浮かれているレパンド海戦の結果、 ヨーロッパ側はキプロス島を喪失し、 オスマン帝国による東地中海支配権が確立した。 欧州の戦術的な勝利であったが、戦略的な敗北というわけだ。
792 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 12:11:29 0
政略的にはもう地中海はどうでも良くなってきていて、 大西洋や喜望峰が世界史の焦点になって時代。 その後オスマン帝国は衰退の一途を辿る。
793 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 12:12:42 0
レパンドの海戦は歴史教科書で頻出だが、歴史的な意義はない。 まぐれ勝ちがよっぽど嬉しかったのだろう。 のび太がジャイアンに偶然一杯喰わせたという状況か。
794 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 12:28:44 0
>レパント海戦の艦載砲の射程は1650mとされているが? レパント海戦の艦載砲の射程は1650mとされているが一発撃つたびに 砲撃の反動で台座を破壊して自分の船を壊してしまい、 敵に与える以上の損害を自分たちに与える(まぬけすぎる)ために、 このような大口径の大型大砲は当時使われなくなった。 そして、軍船用にはカルヴァリンのような小型大砲が主流になっていった。 しかし、精錬技術が未熟なうえ、小型したために大砲の肉厚が薄くなり、 火薬の配分を間違うとすぐに破裂し、自分たちに損害を与える結果となった。
795 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 12:38:29 0
>>793 同意。ボロ負けしたプレヴェザの海戦はスルー気味ってのもなぁ・・・
796 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 12:47:47 0
>>793 少なくとも日本にとっての日露戦争くらいの意義はあったろ。
797 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 12:49:45 0
>ヨーロッパも前はフランキのような後装式だったが技術の進歩により >前装式に移ったんだよ。 後装式に技術的な問題点があり、前装砲が主流となったことは事実だ。 しかし、船に搭載している銃眼から砲口だけ出している大砲を想像し、 いつも疑問に思うのだが、 どうやって前装式の大砲に弾と火薬を装填したんだ? 固定した銃眼から一発ごとにはずして、装填して、また固定したのか? もしそうであるならば、一発当り相当時間がかかるな。 また、そうではなくわざわざ船の外に出て、前から装填したのならば、 砲手は危険ではないか? それにこの方法でも、やはり相当な時間がかかってしまうな。 そう考えると、安全な装甲の中でカートリッジを取り替えるだけで装填 できる後装式のフランキが有利だ。
798 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 13:01:32 0
>もっともスペインが短射程というのも間違ってないが船を砲で沈めるための
>威力を増大させた結果だよ。
大型で砲身も長く、口径の大きなキャノンの方が口径の小さなカルヴァリンに
比較すれば威力は高い。
弾が炸裂するわけではないのだから、大口径=高威力だからな。
したがって、
>>777 の見解は誤りだ。
威力を下げても携行の利便性を高めることを優先したこの時代の流れだ。
799 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 13:09:19 0
>>785 回答:当時の欧州に“海軍”が存在しないから比較するのは無理。
800 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 13:39:19 0
海上封鎖されたところで、三つの島それぞれで自給できるし在地の軍事力もあるのが当時。 それに機雷もレーダーもない時代に瀬戸内海の交通を昼夜遮断するには恐ろしい数の艦艇が必要だが。
801 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 13:47:45 0
よく鉄砲が戦国時代を変えたと言われるが、この時期つまり15世紀から16世紀では欧州では飛び道具の主役は鉄砲ではなく弓や弩だった。 鉄砲が本格的に普及を始めるのは発明から百年は経ってからなんだからな それは当時の欧州の弓は実戦において鉄砲を凌ぐ戦力となったからに他ならない 弓といわれると古い兵器でたいしたことは無いように思われるが、欧州で普及していた優秀な合成弓などは飛距離や破壊力が凄く、確実に初期の鉄砲を凌ぐ装備だった おまけに先込め式の鉄砲なんかより、よっぽど連射性が高かった さらに弩に至れば、連射性は低いが弓の三倍の破壊力と飛距離があった。 よく訓練された弓隊を保有していた欧州の国々では鉄砲の導入に消極的だったのは仕方がない。 日本で銃の普及が早かったのは、欧州のような優秀な合成弓が発明されていなかったのでは? そんなことを考えるくらいでね。 よく言われる。当時の日本の銃の総数が欧州全ての総数より上だから日本は世界一の軍事大国だった そんな論理はどうかと思うね。銃がたくさんあったからと言っても当時の銃の性能は上記の通りだからな
802 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 14:02:42 0
>>801 当時の日本の銃の総数が欧州全ての総数より上だから日本は世界一の軍事大国だった>>
確かにねー・・・
自 惚 れ
以外の何者でもない。
803 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 14:12:48 0
十分世界一の軍事大国の有力候補ではあったと思うぞ
804 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 14:25:10 0
下手に旧兵器が発達していると新兵器の導入に遅れを取るという例だな。
805 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 15:00:07 0
日本の方が弓の発達が早かったから早く重装の鎧が廃れた。
すくなくとも軍事的には当時世界有数って事で>戦国日本 徳川が鎖国して対外進出がまったくなかったのでそれ以上はIF戦史になるな。
807 :
朱由檢 :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 18:59:35 0
強大な軍事力を有する国家が、侵略の誘惑を退けて一国平和主義を貫く姿勢は 立派です。 その後の260余年に及ぶ平和な時代を送るわけで少し尊敬します。 徳川家康が苦労の多い人生を送った方だったからかもしれませんね。
アメリカがないから進出するとなれば朝鮮→明。 豊臣政権のとき一度やって失敗してるからやる気にならなかったのか。
809 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 20:26:09 0
810 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 20:58:50 0
徳川家康と大久保利通は実績はすごいのに人気がない...
811 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 21:40:34 0
徳川家康は最近の評価はまあまあでは? 大久保利通は相変わらず人気ないけど、西郷人気もやや下火。
812 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 21:44:11 0
ビジュアル系じゃないからでしょ
813 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 23:51:23 0
秀吉や西郷はビジュアル系ではないのに人気がある。 家康も晩年の肖像から小太りの老獪なイメージしか残っていないが、若い時には“海道一の弓取”と言われた男なのに、三方が原での敗戦後に描かせたムンクの叫びみたいな肖像画しか取り上げられないのは可哀想だw
814 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 00:20:19 0
>>812 大久保は白皙長身の端麗な男。ビジュアル的には、徳川慶喜と同じくらい。
何で人気ないのか分からん。
815 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 00:22:24 0
まあ確かに大久保は男前だよね
816 :
朱由檢 :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 00:23:39 0
へぇ〜、“海道一の弓取”は今川義元じゃなくて、徳川家康なんだ。 勘違いしてたよ。少し賢くなった。
817 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 00:25:43 0
歴史的に島国である日本は世界へ乗り出そうとの気構えがなかった それが盆栽文化と言われる国民の気質を作り出した 単なる夢想だが家康時代に大陸に乗り出し、衰退した明を滅ぼし 清と対峙できる国を作れたなら日本の歴史と国民性はもっと大きな変化があったのではないか そんなことを考えてしまう。 家康時代なら海を渡り、明と戦うことだって決して夢想ではなく可能なことだったのだからな
818 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 00:25:59 0
>>816 どっちも、で正解。
義元が桶狭間で死んだ後は家康がその名を継いだ。
819 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 01:27:27 0
家康が鎖国したのは大正解 おかげで日本は国力を蓄えることが出来た。
820 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 01:29:24 0
鎖国は賛否両論だね
821 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 01:31:22 0
国力を蓄えるという意味では鎖国が正解。 左翼はどうせ世界統一思想とかに影響されてんだろ。
822 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 01:33:18 0
むしろサヨは鎖国を支持する側じゃない?
823 :
朱由檢 :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 01:35:24 0
>>818 あら、そうなんだ。情報サンクス、親切な人。
鎖国といっても、実際は出島から海外の情報は入ってきてたわけで。 完全に世界の流れから隔離されていたわけでもない。
825 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 02:22:43 0
>どうやって前装式の大砲に弾と火薬を装填したんだ? 滑車が下についてるんだよ。 それなりに大きな砲でも5人くらいで問題なく発射できる。時間も大してかからない。 それとフランキの記述って中国人が指とか腕ふっ飛ばしただのが多いし ぜんぜん安全じゃないとおもうが。 砲身の周りに破裂対策にわざわざリングを何重にも巻いたりしてるし。 1600年ごろになると中国人は徐光啓、孫元化とかが西洋の大砲使うよう進言してるし。 技術者を拉致してでも大砲を作らせようとしてる。
>>801 弓が飛距離・破壊力・連射性において初期の火縄銃を凌いでいたというのは日本でも同じ。
だから戦国日本では、かなり火縄銃が普及した後も弓は廃れる事なく併用されていた。
火縄銃が戦場の主役となったのは、弓よりも簡単に数をそろえる事が出来たから。
良い弓兵は育成に何年もかかるけど、火縄銃は短い訓練期間で誰でも扱う事ができる。
戦場は基本的に個々の兵器の多少の性能の差よりも、数の論理が支配する空間だからね。
銃の総数が圧倒的に上回っている以上、野戦ではあきらかに日本の方が欧州より上だよ。
火縄銃でガレアスに立ち向かうのか。 おめでたいやつが多いな。
何を言う。一度上陸させて返り討ちだよ。 海戦すりゃ負けるからな。
みんな詳しいなー。 できればソースも示してくれ。
第二次大戦末期、本土決戦に和弓で武装した狙撃隊を組織しようという 計画が持ち上がったことがあるが、弓道経験者が「数年程度の訓練じゃ 半分も中らんわいボケ」と一喝して没になったという話がある。 どうも弓が強力な武器だと思い込んでる人が多いようだが、少なくとも 日本においては、連射性を生かした弾幕としての用途以外では、弓は 火縄銃にはかなわんよ。
>>828 (日本列島にか?)上陸させたら内陸でのゲリラ戦になる。
そんなもん人口いっぱいいるし、負けないに決まってるだろう。
純粋な戦力比較であれば陸軍だと砲撃兵器以外では日本のほうが上か同等。
海だと圧倒的格差で欧州側に軍配。
>>830 飛距離は弓の方がだし、火縄銃の命中率もどうってこと無いが。
第二次大戦末期、本土決戦に火縄銃で武装した狙撃隊を組織したら
ギャグだろ?
>>832 実際太平洋戦争末期に本土決戦に備えてあらゆる武器の供出が命じられたが、
その中には火縄銃も結構含まれていたというw
834 :
朱由檢 :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 19:23:46 0
海戦における艦砲の話題があるようだけど、近世どころか近代にいたっても、
艦砲は命中率も威力も低い兵器で信頼性はなかったみたい。
1866年リサ海戦で戦力に劣る墺海軍の提督テゲトフは、艦砲は滅多に当らず、
当ったとしてもたいして損害はない。と、確信して体当たり戦術を敢行して、
敵フリーゲート艦をマウスバスト(衝角)突撃で撃退してるよ。
詳細はこちら
http://ww1.m78.com/topix-2/lissa.html
835 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 19:40:22 0
>滑車が下についてるんだよ。 >それなりに大きな砲でも5人くらいで問題なく発射できる。時間も大してかからない。 カルヴァリンは1発発射するのに3分かかったそうだ。かなり時間がかかってるな。 >それとフランキの記述って中国人が指とか腕ふっ飛ばしただのが多いし >ぜんぜん安全じゃないとおもうが。 よく嫁。装甲の内側で装填できるため安全ではないだろうかと書いているのだ。 砲手に危険はつき物だ。 大量に火薬を使用するために砲身が加熱し、船が揺れて大砲の上に転ぶだけでも 全身やけどを負って死ぬ可能性さえあった。
衝角の話は、甲鉄艦の話なのでは?
837 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 19:51:49 0
>砲身の周りに破裂対策にわざわざリングを何重にも巻いたりしてるし。 カルヴァリンは銅線を巻きつけ、木枠で囲み、 その上から鉄線とロープを巻きつけて補強。 さらに木製の枷をつけ、牛革を被せて釘打ちしても破裂した。 >1600年ごろになると中国人は徐光啓、孫元化とかが西洋の大砲使うよう進言してるし。 徐光啓が出てくるということは資料の出典は明末。既に日本は戦国期ではない。 根本的に鋳型で造る明や欧州の粗悪品と異なり、日本は日本刀を製造する技術を応用した うどん張りと呼ばれる技法で製造しているために非常に耐久性が高いのだ。
>>832 おいおい、飛距離は弓の方が上って、どういう根拠だよ。
藻前は和弓の飛距離と有効射程を知ってるのか?
839 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 20:23:38 0
>>837 は和鋼の砲になかった砲金(青銅に近い銅合金)の粘りを意図的に無視しているw
和弓は狙いをつけても当たらないもんな。 弓の癖を覚えたり、長年の感で狙いをつける武器だし。
841 :
朱由檢 :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 20:32:40 0
>>839 ごまかしがないように第三者が答えてあげる。
鉄砲:確実殺傷距離30m 殺傷距離200m 最大射程距離500m
弓 :確実殺傷距離50m 殺傷距離80m 最大射程距離380m
842 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 20:41:20 0
↑熟練した弓の名手が放てばの噺w 鉄砲は誰でも同じ威力が出せて、買うだけで雑兵が弓取並みの戦力となる。
当時の弓は380mも飛ばないよ。 江戸時代の三十三間堂の通し矢競争を経て弓具が飛躍的に発達して、 それからさらに近代の力学的視点からの研究成果が加わって、それで ようやく212間(385m)の飛距離を達成したんだよ? まして50mで確実殺傷って、いったいぜんたいどういう資料を基に そんなこと言ってるわけ?
844 :
朱由檢 :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 21:32:09 0
間違いました。 >841訂正 鉄砲:確実殺傷距離50m 殺傷距離200m 最大射程距離500m 弓 :確実殺傷距離30m 殺傷距離80m 最大射程距離380m
16〜17世紀の大砲の何が凄いかってーと、現代の軍事用コンピュータ使って射撃管制して、丸一日かけても50m先のマト(約5m四方)に当てられらない命中率。
>>844 その30mとか80mとか380mとかにはまだ不満はあるが、まあ我慢の範囲としようか。
射手が全員達人級だという前提ならそれでOK。
847 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 23:40:25 0
鉄砲の欠点は風雨に弱い、連射が出来ない、曲射ができない、貫通力が低い、音がうるさい、 このぐらいか?
和弓の欠点は、命中率が錬度に著しく依存する、鉄砲ほどじゃないにしても 風雨(特に風)に弱い、貫通力と飛距離が排他的、ってところか。
849 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 23:48:56 0
海戦における索敵の困難性を無視するのもどうかと思うが・・・・
850 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/05(火) 00:06:57 0
>>847 日本は防水ケースを使用したため、雨天でも発砲可能。
欧州で多用されたフリントロックの晴天時の不発率は15%。
雨天時の不発率は40%超。
>>848 和弓の一種である丸木弓は湿度に強い。
和弓は威力重視で癖が強い。
バランスも悪いために射手が弓を選ぶのではなく、
弓が射手を選んだことについては同意。
和弓はロングボウ以上にロングボウで世界一デカい。
熟練に時間がかかるには無理もない。
851 :
世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/05(火) 00:24:30 0
>>849 禿同。
さらに言えば、海の状態による潮の流れや季節天候による偶発的な条件に左右されやすい。
海戦自体近代になるまであまり多くない理由もそこにあるな。
もし実際に戦国日本の軍隊と欧州の軍隊が戦ったら、背景社会が米社会か麦社会かの 違いって大きいような気がする。 欧州では例えば三十年戦争とかでも万単位の兵員を動員した軍団は、傭兵達を食わせて いけそうな都市から都市へと渡り歩くのが精一杯で、戦略なんか二の次三の次といった 感じだった。 その点、当時の日本は食料の生産性が高いから、補給にかんしては遥かに少ない制約で 自由に作戦をたてる事ができる。 この差ってけっこう決定的だよね。 戦争にかんしては「素人は戦術を説き、専門科は兵站を語る」という諺もあるし。
>>846 弓での最大射程距離って直接標的を狙うんじゃなくて、
射角をあげて矢の雨を降らすように打つときに出る距離じゃないの?
これならそれなりに遠くまで飛ぶと思うけど。
>>853 それで実測された最高記録が212間(385.5m)なんだよ。
昭和13年の曾根正康氏の記録。
もちろん、それ以前に誰も計ってないところでそれ以上の飛距離を出した人が
いる可能性は否定しないが、これは飛距離を出すための専用の弓、専用の矢、
専用の射法で出した記録なわけで、三十三間堂の通し矢競争以前の弓具・
射法でそれだけの飛距離が普通に出ていたなんで絶対にありえない。
ちなみに、どこか東北のあたりで今でも時々飛距離を競う大会が行われていた
と思うが、100mを越えたあたりが決勝ラインになってたと思った。
855 :
世界@名無史さん :2005/04/05(火) 12:52:28 0
欧州のロングボウは非常に優秀な弓で、200メートルの距離からでも2.5センチのオーク材を貫通する貫通力があった。 これは初期の銃を凌ぎ、欧州で弓が銃にとって代わるのは16世紀の終わりになってからだった。 そして当たり前のことだが、防具と武具の発展は互いに影響しあうものでね。 欧州には優秀な弓隊が存在したことによって、防具はより強固なものが用いられるようになった。 しかもランスを用いた強力な騎馬隊が存在したことで兵は散開しては、叩き潰されるようになり、だからと言って密集していれば強力な弓の獲物にされる。 このジレンマに対応するためには、結局のところ装甲はより重装備になるしかなかったが、その結果、機動力は失われたわけだ。 一方、日本の場合は鎧などの装甲が重装備になるのは、鉄砲の伝来と普及まで待たねばならなかった。 実際のところ。日本の剣術は欧米のように突くことではなく斬ることを主としているだろう。 貫通力で言えば突くことの方が良いのに斬ることを主としているのは、機動力を重視した武器だからだ。 もっとも日本でも実戦でもっとも有効とされた武器は剣ではなく槍だったけどね。 こうした日本と欧州の流れの中で何が言いたいかと言いますと、戦術もやはりそれぞれの歴史や発明あるいは風土によって違いが現れてくる。 日本の風土や歴史の中で発展した装備が欧州の戦いには通用するとは限らないのではないだろうか? そんなことです。
856 :
世界@名無史さん :2005/04/05(火) 13:26:23 0
日本って、今は河川が毎年同じように流れて、道路は縦横に走ってる国だけど、 戦国期は平野は堤を破壊すればすぐに湿地帯になるのがこの国だよ。 欧州の重装騎兵?突撃? 後三年の役で柵に近づけずに狙い打ちされた武者みたいになるよ。
戦場がどこであるかではなく純粋な戦力(スペック)の比較だろ? たとえば、大砲とか銃器、戦術なんかを提示してもらいたいわけだが
858 :
世界@名無史さん :2005/04/05(火) 15:03:50 0
>>857 兵器のスペックの優劣は勝敗にはダイレクトにつながらないから。
859 :
世界@名無史さん :2005/04/05(火) 16:48:19 0
>>857 歴史的に兵器の良し悪しが戦争の決定的な勝因に繋がったことは。フランシスコ・ピサロのインカ帝国侵攻くらいだ。
敵の兵器が予想を遥かに超えて強力なことは、極めて限られた場合であり
多くの場合は敵の装備は予想の範囲内で留まるものだよ。
>>855 モンテーニュの『エセー』に「銃は不確実な武器だから長く使用されることはないだろう」
というようなセリフがあって、この人大丈夫かな(宗教戦争時代のボルドー市長)と
思っていたけど、ボウガンがそれほど確実とは。納得。
862 :
世界@名無史さん :2005/04/05(火) 17:21:45 0
>>860 銃が弓に対して絶対的な武器であるとのイメージは現在の優れた銃に馴れている我々の認識であり。
発明当時ではまた違った意識があったのは仕方がないだろう
銃が弓に対して絶対的な武器となったのは銃身にライフリングが刻まれ、 命中率威力ともに向上した時代。 つまりせいぜい18世紀以降だな。
すると、戦国期、つまり16世紀末の段階だと、 欧州の弓 > 火縄銃 > 日本の弓 ってなところなんでしょうか。
単個の兵器としてなら火縄も弓もそんなに変わらないよ。 一対一で戦うなら弓で火縄銃に勝てないことはない。 むしろ連射率では上でしょ。
867 :
世界@名無史さん :2005/04/05(火) 19:29:41 0
あきれた。
>>855 のような虚実を交えた寓話がまかり通るのか…。
…つぶすか
ロングボウの射手は育成に時間がかかり、イギリス以外で実用化されていない。
イギリス限定の兵器を全ヨーロッパで普及したように描写するのは誤りだ。
寧ろ、取り扱いが容易で威力も高いクロスボウが普及したことの方が与えた影響は大きい。
868 :
世界@名無史さん :2005/04/05(火) 20:26:12 0
重装鎧がヨーロッパで発展した背景は実用性によるものではなく、 儀礼的な意味合いが強い。 重装鎧の代表格であるハイゴシック式やマクシミリアン式は、 装飾が嵩張り攻撃を受け流すことができない実用性に乏しい欠陥品が多い。 また、貴族が早い段階で粛清されたイギリスでは、 重装鎧はほとんど発展しなかった。
>>827 亀だが。レパントで西側が勝った勝因は、
実質的には兵たちが大量に装備したマスケット銃のおかげぞ。
ガレー同士の戦いは接舷戦がメインなのでほとんど陸戦に近く、船の性能は大して関係ない。
870 :
世界@名無史さん :2005/04/05(火) 21:05:00 0
>一方、日本の場合は鎧などの装甲が重装備になるのは、鉄砲の伝来と普及まで待たねばならなかった。 この認識は明らかに誤り。 日本における重装鎧である『大鎧』は室町時代後期に消滅し、 近世ヨーロッパにみられるような重装鎧の衰退段階は既に終了している。 その原因を簡単に3つ挙げるが、欧州のそれとまったく同じ原因である。 @防御の限界:南北朝〜室町時代にかけて弓が飛躍的に発展し、重装甲を無力化した。 A重装の問題:重装甲により下馬時の機動力低下し、かえって不利な状況を招きやすかった。 B戦術の変化:騎射戦術から歩兵戦術に移行。動員兵数が急増。騎兵の天敵、長鑓部隊も登場。
871 :
世界@名無史さん :2005/04/05(火) 22:02:50 0
>>869 嘘を教えてはいけません。
レパンドの海戦における十字軍の勝因は『重装甲』だったためです。
オスマン艦隊はアザプ(海兵)中心であり、海への転落事故に備え軽装でした。
逆に十字軍艦隊は騎士や貴族が中心であり、転落の怖さを知らないがゆえに、
全身鎧を身に纏っていました。
当時の海戦はボーディング(接舷斬込み)が主流であったため、
重装の十字軍が軽装のオスマン軍に比べて有利でした。
十字軍側が華々しい勝利を収めたことは周知の通りです。
レパンド海戦でマスケット銃が十分機能したとは思えない理由は3つ。
@乱戦時に銃を使用することは同士討ちの危険性が高いため。
A乱戦時に揺れる海上で再装填が難しいため。
B天候不順で不発、暴発の可能性が高いため。
872 :
世界@名無史さん :2005/04/05(火) 23:18:09 0
嘘かどうかは主観だと思われ。
873 :
世界@名無史さん :2005/04/06(水) 00:06:37 0
戦国時代の日本では鐘、太鼓、貝、銅鑼などの楽器を体系化して、 巧みに伝令に利用しています。 同時期のヨーロッパの戦場における伝令システムの状況ははたして どのようなものだったのでしょうか? お前らのない知恵絞って騙って下さい。
すれ違いかも試練がおしえてくれ。 和弓ってロング棒と比べたら威力は全然弱いのけ?
うーん、和弓の威力は熟知してるつもりだが、あっちのロングボウの威力を 知らんのだよね… 世界史板なのに情けない漏れ
876 :
世界@名無史さん :2005/04/06(水) 01:56:58 O
70m離れた所からフライパンを貫通するとか 厚さ3mmのやつ オーク材とどっちが強いんだろ? 計算よろしく
877 :
世界@名無史さん :2005/04/06(水) 02:47:07 0
ロングボウはイチイ製で全長150〜180cm。 和弓は竹複合材製で全長170〜180cm。 和弓はたひたすら威力を重視して、飛距離や汎用性を軽視し癖が強い弓。 馬上での運用に主眼を置いて発展したために独特の形状に進化したことも 癖の強さに拍車をかけている。 現存する和弓の最大のものは全長260cmに及び、 常人の腕力で引くことは不可能である。
槍騎兵について疑問が。 中世騎士のランスは突撃時の一回きりの武器なんだよね。 じゃあ、近代の槍騎兵はどうだったの?いろんな本とか見てると腕貫緒がついてるんだけど、これって槍を落とさないためだよな? どんな感じで槍を扱ってたの?
>>871 オスマン側司令官のアリ・パシャは銃撃で倒されてるわけだが…
おまけにキリスト教側は、味方の船ごと大砲で撃つという荒っぽい戦術も取ってたようだし
はたして同士討ちの危険など考慮してたかどうか?
甲冑が有効に働いたというのは同意。
880 :
世界@名無史さん :2005/04/06(水) 22:28:58 0
>>879 はて、どこでそんな虚構を仕入れてきたのですか?
レパンド海戦ではカプダンパシャ(提督)アリ=パシャは捕らえられて
斬首されたのです。
【レパンド海戦の経過】
戦闘は午前10時に始まり、午後4時に終わった。
オスマン帝国の旗艦が捕獲され、
ドン・ジョンの意向とは反対に敵の司令官アリ・パシャは斬首された。
スペインの旗艦のマストにアリ・パシャの首が掲げられたことで、
オスマン帝国側の士気は崩壊した。
Lepantoは 「レパント」がイイと思う おれがいて、 桜の花は まだつぼみなり
882 :
世界@名無史さん :2005/04/06(水) 23:10:50 0
>>878 一度の突撃で壊れるのは競技用のブールドナスと呼ばれる槍で、
通常のランスと呼ばれるものは壊れません。
1683年の第二次ウィーン包囲に突撃したポーランド騎兵を見る限り、
使用方法はほぼ従来どおり。
突撃後はカラベラ(カトラス)で白兵戦に移行した。
二次ウィーン包囲は近世における騎兵突撃で華々しい戦果を挙げた近世の例外。
下記の通り、時代の趨勢は非実用的な騎兵用突撃槍の廃止に傾いていた。
1560年以降デミランサーの突撃槍を段階的廃止、銃へ移行。(英)
1597年にマウリッツが騎兵の槍を廃止し、銃へ再編。(蘭)
刺突武器は敵兵に刺さったまま抜けなくなる危険性が高いため、
馬の機動性が活かせなくなる。
突撃槍は根本的な欠陥を抱えた不良品である。
883 :
世界@名無史さん :2005/04/06(水) 23:14:12 0
>カラベラ(カトラス) 補足:日本刀のように湾曲した刀剣。なぎ払いに適していた。
日本刀は、反っているのであって灣曲していない。 灣曲しているのは、ペルシャやインドの曲刀である。
885 :
世界@名無史さん :2005/04/07(木) 00:50:24 0
>>880 レパントでぐぐったらあっさり出てきましたが。
午後1時半頃、ローマ法皇艦隊の指揮官コロンナが自艦をアリ・パシャの旗艦に横付けして、
小銃で敵艦の甲板を掃射しました。続けてすぐに3度目の斬り込み隊が送り込まれます。
この時にアリ・パシャは額に弾丸を受けて倒れ、突入してきた斬り込み隊員に捕えられてしまいました。
こうしてオスマントルコ艦隊の旗艦は捕獲され、司令官のアリ・パシャはその場で斬首されたのです。
この時点でオスマントルコ艦隊中央隊はすべて潰走してしまいました。
886 :
世界@名無史さん :2005/04/07(木) 01:14:37 0
>>885 こちらの事実把握に甘い部分があったようですね。
非を認めて、そちらの資料を参考に検証してみます。
887 :
朱由檢 :2005/04/07(木) 23:44:42 0
>>873 ヨーロッパにおける楽器による指揮系統の体系化はオスマン帝国の影響が大きく、
その確立は16世紀後期と考えられているよ。
1レジオン(3000〜6000人)に2人の割合で太鼓持ち(!?)が必要とされ、
野営の撤去、行軍、撤退の合図や、突撃、守備、警戒を指示に使われたというから
少し数が少ないと思うけど、一定の機能は果たしたみたいだね。
参考資料:Thoinot Arbeau 『Orchesographie』(1588)
888 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 13:24:11 0
ハンドガンてどれくらいから実戦使用されてたの? 13世紀ぐらい?ドイツ騎士団がポーランドとの戦いに大量に導入したようなしてないような
んなもんあるか。西洋にはイスラムから伝わったから15世紀からだろ
890 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 21:28:53 0
どうでもいいけど鉄砲ありゃ勝てるわけでもなし拠点なんてろくに作ってない相手が攻めて来る理由があるわけでもなし さして航海技術が一朝一夕の模倣でどうにでもなるわけでもなし 何がしたいんだこのスレは
そいつをいっちゃあ おしめえよ!
892 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 21:55:32 0
イスラムから恵んで貰ったばかりの航海技術がそんなに優れてるかね
893 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 22:38:32 0
ヨーロッパ側の不利を悟り 欧州厨が き れ た
894 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 23:29:15 0
西欧の航海技術というが、西欧がまだ半島に閉じ込められていたとき すでにイスラムはインド洋からアフリカ・中国へと所狭しと行き交っていたわけだからね
895 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 23:29:51 0
日本の掲示板だから日本有利になるのはしょうがないだろ 欧米だったら相手にもされないが
けどイスラムはアメリカ発見できなかったな
16世紀には世界一周やらかしたヨーロッパにはいる イスラムにはいない これが技術力の差
訂正 16世紀にはヨーロッパ人は世界一周が可能
899 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 23:33:34 0
そんかわしアフリカ大陸を縦横無尽に闊歩し黒人奴隷を輸入し始めたのも 中国に到達したのもフランク人よりは数百年早い
アラブとアフリカなんてすぐ近くだろうが
航海とはあまり縁がないけど、イブンバットゥータはユーラシアとアフリカを制覇したな。
アラブとアフリカは地続き 黒人奴隷なんてすぐつれてこられる
903 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 23:36:50 0
中国を意図的にスルーするところがまた可愛いね(・∀・)ニヤニヤ 西欧も別にアフリカ遠くないよ(・∀・)ニヤニヤ
904 :
世界@名無史さん :2005/04/08(金) 23:50:47 0
アメリカを「発見した」という痛さに苦笑。 古アジア族のカヌーやノルマンのバイキング船でもアメリカに行くことは可能。
学問板とは思えん
906 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 00:24:42 0
大航海時代の船乗りの凄いところは、みすぼらしい船と原始的な航法で世界を股にかけていた所にあるわけで、 西洋の造船や航法が優れていたと考えるのは間違いだ。 コロンブスやマゼランだって何隻も潰している
907 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 00:34:05 0
戦国時代に来日した欧州商船の沈没に関する記述は数え切れないほど多く、 日本各地の資料館や博物館には欧州沈没船の大砲が陳列している。 ヨーロッパにおける海難事故の割合は70%と大変高く、とても褒めれる航海 水準ではない。
遣唐使以下だな。 時代が違うけど。
909 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 02:54:37 0
イギリス、オスマンの私掠船や倭寇などの人的脅威も大きい。 保険の料率もじりじり上がり、現在に通じる保険会社の原型も登場した。
欧州と世界の航海技術の優劣ではなく、欧州と日本の比較ですからね。 欧州擁護者は欧州が最先進地域だといってるわけではないですよ
でもさあ、16世紀末から17世紀初頭のタイとかでは、日本人とヨーロッパ人とが 競い合っていたけど、軍事的にも経済的にも日本人のほうが優勢だったわけだろ。 日本の航海技術がハンデになったなんて話はあまり聞かないぞ。 朱印船とか当時としては、割と優秀な船だったんじゃないの?
912 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 08:19:16 0
山田長政w
913 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 08:19:44 0
915 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 09:06:56 0
駿河のカゴかき風情が えらい出世したもんだにゃーもw
916 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 11:16:18 0
豚飼いが征服者になる国もある
917 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 11:42:09 0
中国は王朝時代が長らく続いているから、中央の統制が非常に強固だった。 そのため地域間の競争というものが乏しくなった 一方で欧州の方は特に西ヨーロッパでは封建制度が確立したために地域間や国家間の競争が激しく それが欧州諸国を交易や植民地化のための航海にまで駆り立てた。 こうした政治風土の問題が欧州とアジアであったのは事実だろう。 アジア諸国は軒並み失敗させながら日本のみが近代化をこれほどまでに急速に成功させた背景は、日本はアジアで唯一の封建主義社会を確立させていたからだ そんな意見だってあるし
918 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 11:57:17 0
「純粋封建制」か
だからヨーロッパ人が始めて世界一周した だからヨーロッパも航海技術世界一 これが結論 異論は認めない
あと、大砲、鉄砲もヨーロッパで発明された なんでもイスラムにしたがるバカが多いから念のために書いとく
近世ヨーロッパ人が秀でているところは貧乏から抜け出したいゆえのハングリー精神、根性だからね。 ボロ船で世界周航を強引に成し遂げ。
922 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 14:55:15 0
火砲の起源は金。ヨーロッパが「発見」したという虚言に辟易。 「羅針盤」「印刷術」についても同様。 小学生かお前は?
923 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 14:57:41 0
「ヨーロッパ鉄砲紀元説」は「韓国剣道起源説」と同レベル。 オリジナルのない国ほど捏造が多い。
924 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 15:11:23 0
でも鉄砲にトリガーをつけたのは偉大だったと思う
925 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 15:16:07 0
トリガーだと? ヨーロッパではクロスボウと同じ機構のストッパー形式に過ぎない。 トリガーにバネ(弾金)を付けたのは日本の方が先だ。
あの鉄砲と火砲は全然違うものだよ 火砲は中に矢や石などを入れる 日本がなんでもかんでも先立ったらなんで日本は19世紀まで封建社会だったんでしょうね
世界一周、これが全て 全ての反論はこの事実の前ではむなしい 認めたくないものだな若さゆえの過ちというものを
必死
山田長政って・・・w
政治体制と技術は違うでしょう。 その技術によって社会が変革したら政治体制も変わるけどね。 世界一周も必要性でしょう。 宇宙開発、有人ロケットも政治的要因が大きいしね。 いまなら日本でも欧州でも宇宙に人を乗せて行けるが、必要が無いから行かないのと同じ。 だと思うけど、、、
じゃ当時のイスラム諸国は100%世界一周できる技術があったんだな けどそれを100%確証するのは無理 現実、世界一周してないから そいうことをやろうともしない保守的な態度だから どんどん冒険して技術革新進めたヨーロッパにおいてきぼり食らうわけよ 技術以前に意識の差だな
宋の時代にはアフリカまでの航路は確立してたんだけどね。 いまの日本でいうと。 プルサーマル計画と同じでしょ。
実際やったのとやらないとじゃ大きな違いがある
才能があったのにやらなかったじゃ才能があってもなくても同じや
そもそも地球は丸いという概念がないと世界一周できない
それに一番最初にやるというのは何につけても大変なことだ
前例がないわけだからね
>>932 それは、興味深い明以降だと思ってた
けど東アフリカはもともと開かれてたからね
元時代にはマダガスカルまで行ってます
935 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 20:15:12 0
商業上の必要性のあるなしだろ。
936 :
朱由檢 :2005/04/09(土) 20:20:37 0
イギリス私掠船の兵士は怪我をした場合、女王エリザベスから「労災保険」が下りました。 だからこそ、アルマダ海戦では勇敢に戦うことができたのです。
937 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 21:00:08 0
1600年当時の人口が150万人しかいないネーデルラントに負けるようでは スペイン・ポルトガル連合国が日本に勝てないのは当然なんだけどね。
本朝の武将直江は、 息子を戦で喪った老女に閻魔大王宛の手紙を渡し 其の首を跳ね飛ばしました。
保険は船に乗っていた奴隷にも出たのか?女王陛下の保険は 出資者による保険は奴隷にも出たけどね。(損害保険としてね)
941 :
世界@名無史さん :2005/04/09(土) 21:37:17 0
日本の歩兵は戦争で活躍すれば出世できるから一生懸命働くけど、 ヨーロッパはプロイセンのようにユンカーはユンカー、農奴は農奴。 軍隊内部で階層分化しているようでは士気が上がらない。 尻を叩いて働かせるためには工夫がいるからな。
どっちにしても世界一周ってことよ 反論は許さん
ていうか東アフリカの航路は イスラム以前からすでにかなり開拓されてるだろ
944 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 00:33:55 0
945 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 00:36:33 0
論功行賞のシステムも日本とヨーロッパじゃ違うからな。 結構こういう組織形態が中世の戦争の決め手ジャマイカ。 武装なんかも重要だけどさ。
946 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 01:51:15 0
傭兵中心であったヨーロッパの論功システムを論じる必要性がない。
948 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 15:38:27 0
>>946 傭兵中心からくる論功行賞システムと日本のシステムを比較する必要があるんじゃ?
ヨーロッパの傭兵は傭兵隊長と領主が契約する仕組みだ。
働きがいい傭兵団は値段も上がる。
これは論功行賞のシステムだろう。
隊長は作戦立案にも関与するし、実際、戦場では広範な指揮権を持ってる。
まぁ、日本にも傭兵集団みたいな存在はいたが。
949 :
世界@名無史さん :2005/04/10(日) 18:33:11 0
要するに、何一つ良い材料が無い欧厨が、世界一周だとか事実捏造の人格攻撃に出て事実上の終了、と。 ・・・インドの手首塚(ボソ
インディアンとかマヤとかインカとか、モンゴロイドが南北アメリカ大陸にいたんだから みんなみんな、すごい昔にあめりかまで行ってたんだよ。 がんばればみんないけるんだよ。
952 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 04:01:47 0
このスレッドではよく朝鮮出兵の時の事が引き合いに出されるが、 徳川、上杉、伊達、佐竹などの東国大名が参戦していない事を、 考慮に入れなければならないのではなかろうか。 ま、もっとも、大局に影響がなかったのかも知れないが・・・・
>>950 世界一周これ事実
まぁ、頑張って教科書書き換えや
お前一人だけな
世界一周は事実だろうね。マゼランは偉いなあ……って途中で死んでるけど。 では、そういうことで、戦力比較の話に戻ろうか。
当時のヨーロッパってオスマン朝に圧迫されてしかたなく海に活路を求めたんだよな。 しかも、やってる事といえば空き巣みたいにまともな軍隊のいない地域をピンポイントで 占領しただけ。 ようするに弱かったんだよ。
未開人を征服できる程度の力はあったけどユーラシアの文明国と事を構える力はなかったみたいね 18世紀後半ぐらいになるまでは
>当時のヨーロッパってオスマン朝に圧迫されてしかたなく海に活路を求めたんだよな。 圧迫ではないね。 インドとの香辛料貿易で途中にあるオスマン・トルコがマージンとってたから、 直貿をしようとアフリカ大陸南回り航路を開拓したのがポルトガル。 同じくインドとの直貿目的で西回りで行こうとしてアメリカに行き着いてしまったのがスペイン。 トルコとの軋轢で最たるものは、第二次ウィーン攻囲であるが、 攻囲していたトルコ軍に対して、当時ヨーロッパ最強の陸軍国であったポーランドがなだれ込んで蹴散らしてからは、 トルコはしばらくヨーロッパ内部には進出していない。
>>957 実は当時のヨーロッパは未開人に対しても大して強いわけではなかった。
1569年にポルトガルはアフリカのジンバブエ高原を征服しようとして
1000名の部隊を送り込んだが、現地のアフリカ人との戦闘やマラリアで
消耗して結局は失敗した。
その後、交易やキリスト教の布教などで、1629年には何とか現地の王国に
ポルトガルの臣下になることを認めさせたが、アフリカ人が槍や弓に加えて
新たに盾を使うこと覚えると、1684年と1693年の戦闘でボロ負けし、
撤退に追い込まれている。
産業革命以前のヨーロッパ人の戦闘力なんて所詮はこんな感じ。
960 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 20:09:36 0
>>958 だから、オスマン。トルコを打ち破って最短インド航路を確保できてないってことやん。
961 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 20:24:54 0
>>958 「撤退」ではなく「転進」
みたいな事を言ってるぞ、おまい
962 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 20:56:58 0
大航海時代の開始(1492年)と第二次ウィーン包囲(1683年)では、 200年近いタイムラグがある。 武力で圧倒できる実力があるならそんなに待つのか?
963 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 21:07:08 0
>>960 結果的にはそれが欧州の発展につながったわけだが。
964 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 21:57:58 O
このスレは十六世紀のお話でしょ? 誰も十八世紀の話はいらないんじゃない? せめて十七世紀までで止めよう。 じゃないと二十世紀までいきそうだから
オスマン‐トルコ云々よりも イタリア商人の独占に対して海へ出る欧州諸国 なんでないの?
966 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 22:16:58 0
戦国期日本と欧州列強の戦力比較については 戦国期日本>>>超えられない壁>>>欧州(×列強)という結論が出ている あとは1000まで埋めるだけだからな。 約一名必死なのがいるから生暖かい目でいぢっているという流れだ
967 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 22:19:33 0
>>966 それ以上じぶんの白痴ぶりを晒さない方がいいよ。
ご苦労様。
>>962 ロシアはわからんけど、ハンガリーやポーランドといった、
トルコに近い国は、トルコ攻略なんて興味なかったからね。
じゃなぜ第二次ウィーン攻囲のときはポーランドが出てきたかというと、
それはトルコが攻めてきたからであって、
トルコがバルカンへ撤退したあとはそれ以上深追いする気もない。
いや、ポーランドは対トルコ十字軍でヤン3世が頑張っただろw どっちみち兵站が続かなかったし、政治的には王権が強い国じゃなかったからどうにもならなかったけど。 (選挙王制の国だったからな。) 財政的にもどうにか出来るようなものでも無かったけど。
喜望峰なんて大航海時代から2000年前にフェニキア人が到達してるな
971 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 22:47:40 0
最初はコテが沢山集まって良スレになるかと思いきや・・・ とんだゴミスレに・・・やっぱ歴史オタごときじゃあ結論でないわけね。 戦術系はミリタリー板じゃないとダメなわけだという結論が再確認できたスレだった
軍板に似たようなスレがあったけどどうなったのかね
議論というか最初から相手を貶めることが目的の奴がいるからなぁ
975 :
世界@名無史さん :2005/04/11(月) 23:40:23 0
976 :
世界@名無史さん :2005/04/12(火) 00:26:40 0
歴史的に日本では、戦時下での敵兵の虐殺や捕虜の処刑くらいならともかく わざわざ虐殺のためだけに兵を送り敵を根絶やしにしようとしたり、捕虜から民衆まで片っ端から皆殺しにした指導者は織田信長くらいだ。 それは中世以降、日本が異民族との対決に迫られたことが無かったからだろう。 民族間の対立というのは非常に根深いもので、ヒトラーがユダヤ人を抹殺することをユダヤ民族問題の最終解決だと信じたのも無理がないくらいこの問題は長くそして根深く尾を引く。 朝鮮半島と日本の対立が、いまの日本が経験している最大の民族問題と言えるだろうが、その感覚をもっている日本人は非常に少ないな。
>>976 豊臣秀吉も朝鮮の役で一般民衆まで皆殺しにしているよね。
俺としては信長の比叡山焼き討ちや一向宗に対する根切りについては、
彼個人の性格の問題というよりも、戦国時代に非正規軍との戦闘では
相手を皆殺しにするみたいなセオリーがあったのではないかと思う。
徳川家康だって三河の一向一揆や島原の乱に対しては虐殺を行なっているし。
朝鮮の役でも朝鮮正規軍よりも義兵のゲリラ活動の方が問題だった。
もっとも、一般民衆の武装闘争に対して虐殺で対抗するというのは、
古今東西ほとんどの戦史に共通している戦い方だけど。
978 :
朱由檢 :2005/04/12(火) 01:30:48 0
戦国時代において、通常は話し合いで開城するケースが多い中、 織田氏の勢力拡張スピードが速過ぎて仲介役が不在だったことが 屠城に至った大きな要因みたい。 朝鮮侵略時の一般民衆への虐殺は理解できないよ。 戦国時代は女性や子供の首をとることは厳罰対象だったのに そんな基本的なルール違反を率先してやらないはずなのに …不思議
まずゲリラってのが大きいよ ゲリラ戦は敵味方問わずモラルをがんがん下げるから。
というか、一般民衆が積極的に敵対するなら 数が多かろうと何だろうと死んで頂くしかないでしょ。
たとえ女子供でも、徒党を組んで鍬を持って立ち向かってきたら殺すしかないわな。 古めかしい戦を好む西国大名にとっては地獄のような戦場だったろう。
>>977 家康は三河の一向一揆で根切りはやっとらんし、島原の乱は家光の時代だ。
983 :
世界@名無史さん :2005/04/13(水) 06:46:22 0
>>980 一般民衆が徒党を組んで抵抗して来たら、それなりの配慮や譲歩があるのが当然。
軍事は政治の一部であって、民生より優先順位は低い。
そら国内平定戦でやたらと根切りしてまわったら新たな戦力確保できないからなあ。 配慮や譲歩の折り合いがつかなきゃ軍事行動にでるわな。 で、配慮や譲歩で折り合いつくほど痛めつける、もしくは痛めつけられた時点で手打ち。 折り合いつく事なけりゃ根切りにされるってだけ。
>>983 軍事⊂政治、民生⊂政治、軍事≠民生←これは場合によって優先順位が変わるし
一般民衆が徒党を組んで抵抗するのは、軍事であって民生じゃあない。
986 :
世界@名無史さん :2005/04/13(水) 16:42:17 0
民衆の積極的政治関与を検討すれば 必ず出て来る問題だね。 不当だと民衆に判断された政権を打倒、もしくは統治能力を無力化するための民衆の行動を 平和的に実現させるための制度が 直接/間接民主制における投票制度といえるだろう。
987 :
世界@名無史さん :2005/04/13(水) 19:22:11 0
国民国家の概念もない時代に、李氏のゲリラ抗争があったかは怪しい
988 :
世界@名無史さん :2005/04/13(水) 19:38:35 0
国民国家の概念は儒教の影響で欧州にもたらされた。 中韓越は儒教による中央集権/華夷思想で国家を形成していたから、欧州より早く国民国家の概念に近い政体を形成していたといえる。 日本は徳川政権下で儒教思想による国家思想が形成されるが、分権型連邦国家の途を進み、幕末になって国民国家という概念を欧州経由で受容したため、中韓越とは異なる政体となった。
んなもん一揆だろ。
990 :
世界@名無史さん :2005/04/14(木) 05:44:26 0
>>987 支配者に対する反感
異民族支配に対する反感 は有ったでしょう。
それが、農民反乱となって、日本軍を襲撃したのでは、
991 :
世界@名無史さん :2005/04/14(木) 11:34:53 0
>>977 島原の乱では、あの地方の民衆の大部分が参加した反乱だったからな。
他の地域にまで波及しなかったのは、島原の大名のキリスト教徒弾圧を体面とした圧政への反逆だったからだ。
何しろ、藩の規模を無視して幕府に対して過大な分担金を約束していたものだから、領民への負担は激しく他の地域より何割も増しの年貢を納めることを強いていたのだ。
そうして生き地獄があの反乱に繋がったのだ。
それでも結局のところ、向かって死ぬか座して死ぬか、彼らに待っていたのはそういう状況だから、向かって死んでいっただけだよ
992 :
世界@名無史さん :2005/04/14(木) 11:37:41 0
>>988 朝鮮半島の場合は中華思想の影響をモロ受けていたからな
中国の一地方との認識はあっただろうが、民族や独立国としての認識については自ら否定していただろう
前近代的な民族国家の概念が定着したのは、日本の場合は明治維新からだろうが、韓国の場合は戦後の独立からだろ
993 :
世界@名無史さん :2005/04/14(木) 16:58:20 0
島原の乱は、武士としての特権を剥奪されることを恐れた土候(国人)の反乱。 土候が支配する領域の民衆を無理矢理動員したにすぎず、圧政に対する反乱ではない。 明治時代の西南戦争に近い形だ。
994 :
世界@名無史さん :2005/04/14(木) 18:38:04 0
それがたまたまキリスト教の皮をかぶってたって事? しかしキリスト教なんかを旗頭にしたら幕府としては絶対に放っては置けなり、 土人もろとも士候も殲滅される以外道がなくなると思うが。
そういや、「17世紀危機論争」ってのもあったな。 すっかり忘れてたけどw