武士と騎士 どっちが強い 3戦目

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794702:2005/03/26(土) 02:30:38 0
>>787
イルハン朝からティムール朝、これにサファヴィー朝も含んで良いと思いますが、
騎馬兵が使う武器は、ランスというか普通に「槍(ニーゼorルムフ)」と呼んでいました。
イルハン朝時代の史書には記述される頻度の順から言いますと、弓矢、刀、槍ですが、
近接戦闘で物を言ったのはまずは弓矢であり刀ですが、絵画資料を見る限り実際には
史書にあまりでてこない鎚矛(メイス)のほうが槍よりも携帯武器として使用頻度が
高いように見受けられます。

敵を追撃するときも刀を振るったり槍で刺突したりあるいは鎚矛で打ち付けたりしています。
しかし槍での攻撃が描かれる頻度は時代が下るにつれて減少しているようにも見えます。
ティムール朝では戦闘場面で使われる武器は弓矢と刀に次いで鎚矛(シェシュポル、ピヤーズィー)が
格段に登場頻度が増し、史書の記述でも王族や部将が奮戦する場面で「刀を振るう」についで
多い表現は「鎚矛を振るう」であって、槍の使用例は影を潜めていってしまっています。

トプカプサライ・アルバム載録のイルハン朝ないしジャラーイル朝時代に描かれた『シャーナーメ』の一場面。
武装が格段に詳細に描かれている。使われている槍が長いことがわかる。
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures1/im19.jpg
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures1/im20.jpg
ティムール朝時代の戦闘場面。真ん中の人物が鎚矛を振るっている。
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures2/ul71.jpg
795702:2005/03/27(日) 00:04:43 0
>>788
> ホントに佐口透先生の訳注がないと厳しいところも多いですね。
> それと訳注で日本の研究について紹介している点も凄くイイで
そうですね。ドーソンの邦訳は初版が刊行されてからもう40年近くたって日本における
モンゴルやイスラム関係の研究蓄積が格段に上がりましたが、佐口先生が果たされた業績
は今でもその価値はまったく色褪せていません。

ドーソン自身の原注にもハンガリー側のモンゴル襲来について「ヴァラードの教会参事官ロジャー」
の体験が載せられてますがヴァラードって、ブラショフかと思ったらナジ・ヴァラード=
オラデアの事だったんですね(汗 http://www.tabibito.de/balkan/joradea.html

フリードリヒ2世がハンガリー側の行動についていろいろ非難していますが、バトゥの西征前後の
ハンガリーの状況についてハンガリー王家自身の情報が欲しいところです。

ポーランド側の史料、どもです! 紹介された>790をさらっと目を通し
てみました。ドーソンの引用と比べるとやはり記述はやや詳しい感じですね。日付は問題ないです
がポーランドの地理に詳しくないので地名がちょっと厳しいかな。(汗 あと人名もか(汗 
リーグニッツ関係の原史料は15、16世紀に集中しているんですか。ハンガリーもポーランドも当時欧州では
けっこうな大国だったはずなので、バトゥの西征から200年もあるからハンガリーと同じく
ポーランドも王家なり修道士なりの同時代史料がありそうな気がしますが・・・さて(汗
796702:2005/03/27(日) 00:05:24 0
>788
おお、ロシアの年代記は戦時中に邦訳が出てたんですね。これも紹介どもです!
なるほど、ロシアの年代記にもハンガリー侵攻の記事があるんですね。『集史』をみるかぎり、
ルーシ諸国の征服場面では「町を包囲し攻撃した」「占領した」とだけあって具体的にどのように
攻撃したかは出ていませんね。

フレグ西征軍の場合、バグダードの包囲戦の時に、
「投石機(マンジュニーク)の石と矢と数瓶分のナフト(石油)を打ち込んだ(字面通りだと「注ぎ込んだ」)」
とありますが、バトゥの場合はどうだったんでしょうね。当時のロシアの都市は中東や中央アジアの
諸都市から比べるとかなり小さかったらしいので、それが数千から数万規模で攻囲されたらその恐怖
たるや想像を絶したものがあるでしょう。(サマルカンドやダマスクスなど主要都市でも2〜4平方km以上が殆ど)

破城鎚じたいはそれこそアッシリアの頃からありましたし、アッバース朝時代から研究がされてたよう
なので中東では珍しくなかったでしょうが、ロシアでは珍しかったのかもしれません。投石機の記述は
モンゴル側にもありませんでしたが、もしかしたら、ルーシ攻略戦ではルーシ諸都市は防備が貧弱すぎて
弓矢や破城鎚だけで事足りたので、投石機の類は出番がなかったのかも・・・?

「トレブシェット」という言い方が気に入らない管理人さんですか(w 気持ちは分からなくも
ないですが、それにしても「カウンターウェイトタイプ」ではかえって意味というか形状がまるで
想像できないと思いますが、どうなんでしょう?(w 
797702:2005/03/27(日) 00:09:15 0
>>793
そうそう、山野さんにちょっと伺いたいんですが、以前どこかのスレで
鎌倉にやってきた大食僧のお話をされていましたよね?
それの詳細について教えていただければと思いますが・・・
798山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/27(日) 23:48:41 0
>797
講談社の概説書『日本の歴史10・蒙古襲来と徳政令』(筧雅博)に、金沢
貞顕の書状が紹介されており、
多宝寺の訴の事、昨日、評定候て、ことごとく寺家、理を得候き(すべて寺
家側の申し立てが認められました)。大食僧、定めて悦喜候か。
と書かれています。『旧唐書』以降の例や当時の大陸との興隆からしても、
おそらく中国に土着して禅僧として来日したアラブ系の人物だったので
あろうと。詳しい話をお伝え出来ず、申し訳ありません。
10世紀以降、アラブ人商人たちは福建に集団で居住していました。
それ以前には新羅人商人たちの集住もあり、三井寺の守護神である新羅明
神も、彼らの信仰が伝えられたのではないかといいます。
なお、本の方は帯に短し襷に長しで、碌に出典も記していない出来の悪い
ものですから、買う必要は全くありません。
799例のにゃあにゃあ ◆9IIO2KvSgc :2005/03/28(月) 18:27:32 0
>>794
この図、戦いの様子が分かり易くてイイです。
みんな槍と剣と盾。弓がない....目立たないだけか。
斬り合ってる場面では剣が多いみたいですね。騎士と似ている気がしてくる。
弓は持ってるけど殆ど使ってるように見えないし。
史書だと弓矢、刀が主流ってことですね。ここから見ると武士に似てる気がする。
西欧側だと下になります。
15世紀のフロワサールの年代記と、
14世紀の大フランス年代記(最上段の4つ)のミニチュアールです。
http://www.bnf.fr/enluminures/themes/t_1/st_1_02/a102_002.htm
図をクリックすると拡大図が出ます。

リーグニッツの史料については同時代史料がないみたいなんです。
リーグニッツに関しては西欧側史料の信頼性が低い気がしてならないです。
15世紀以降の史料ばかりで大半がポーランドの聖職者が書いたもの。著者の半数以上がクラクフ大学出の人なんです。
全員同じ情報をもとに書いたんじゃないかと....それが何かわからないと不安が
フリードリヒ二世の書簡からポーランドにモンゴルが来たのは間違いないのでしょうが、その規模がどうにもわかりません。

ハンガリー王自身の情報というと何かあるのかな。
マシュー・パリスにあったのはフリードリヒ二世の書簡と、
1243年にハンガリーの近くへ行ったボルドー大司教の書簡、ぐらいですね。
まだどちらの書簡も全文は読んでないのでどの程度の情報が潜んでいるのかはわかりませんが。

攻城戦の記述は多いですが、特殊な武器の類は出てきませんね。
ロシアの年代記のモンゴルのハンガリー攻撃のところはたった三行です。
簡単にまとめると、モンゴルはサヨ川の戦いでハンガリーを敗り、ドナウ川まで追撃した。3年間ハンガリーに留まった。
こんな感じです。
800山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/28(月) 19:50:54 0
>798に続けて
鎌倉時代中期に成立した辞書『塵袋』に、大食が国名に由来する音階とする説
が見られ、層抜・琵羅(ハラ)・記施・麻嘉の諸国が紹介されています。
同じ国名は南宋の地理誌『諸蕃誌』にしかなく、何によったか不明。

>799
いいですね。気になった点をいくつか。
・高所から石を投げつけている場面がある。
・馬上の騎士に矢が放たれているが、鎧を貫通しているらしい。
・倒れた相手、ないしは倒れ掛かった人間を短剣で刺している。
・両軍が向き合い、矢を放っている箇所では、盾で防いでいる(盾に矢が刺さっている)。
・川の中での騎士の一騎打ち。後方では剣を交えているが、槍を持った者も。
・斧やハルバードもちらほら見られる。 ・切られた首も描かれている。

それと、雑談スレでお呼び出しです。あなたのお力が必要ですので、どうか御協力を。
801例のにゃあにゃあ ◆9IIO2KvSgc :2005/03/29(火) 17:57:06 0
おまけです。
バイユーのタペストリー
ttp://www.sjolander.com/viking/museum/bt/BTbig.htm
1250年のフランスのミニチュアール
ttp://www.caama.ca/images/imagemac.html
12から13世紀のドイツのミニチュアール
ttp://www.hausarbeiten.de/faecher/hausarbeit/lim/19775.html

>>800
この絵が15世紀に描かれたことと、14世紀の出来事を描いたせいだと思います。
14世紀中頃までには歩兵を中心とした殺し合いに戦いは変化してましたから。
ただ、上のおまけで見付けた図を見ていて思ったのが、13世紀でも死の描写が意外に多いです。

図に限らず、14世紀以降の年代記でも矢により多数が死んだとかいう話が多く現れます。
これらの図や年代記の記述から従来は弓の力が過大に評価されて
騎士の最高の鎧もポンポン打ち抜くみたいな説も出てきました。
近年に入って実際に当時の武器を再現して実験が行われるようになって評価が変化したみたいです。

雑談スレ、トーナメントの件ですね。
802山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/29(火) 18:17:09 0
>801
>近年に入って実際に当時の武器を再現して実験が行われるようになって評価が変化したみたいです。
日本でもやらないといけませんね。もっとも、大鎧一領作るのに一年かかりますが・・・。

>雑談スレ、トーナメントの件ですね。
ありがとうございます。是非、ジョン様と愉快(?)な仲間達を!
803世界@名無史さん:2005/03/29(火) 18:42:23 0
>バイユーのタペストリ
槍を逆手に握ってる騎士がいるけど、古い時代はあんな持ち方だったんだろうか。
それとも単なるジャベリン?
804世界@名無史さん:2005/03/29(火) 19:28:02 0
>>802
ttp://www.rakuten.co.jp/yoroi/117807/140029/
これ射るのディスカ?
805702:2005/03/29(火) 20:07:13 ID:0
>>798,>>800
レスありがとうございます!  今度その『日本の歴史10・蒙古襲来と徳政令』 を借りるなりして
当該箇所を確かめてみたいと思いますが、帯に短し襷に長しとはまた手厳しいご意見ですね(w
その「大食僧」の名前がわかるとどこら辺の出身か推測できるんですが、それだけでは何ともですね〜。 

京都栂尾の高山寺方便智院に、慶政上人の遺物として、毛筆で墨書されたアラビア文字のペルシア語文が
伝わっているそうでして、それとその鎌倉の「大食僧」と混同していました(汗

「大食」とアラブ人、イラン系の人々についてちょっと説明させてもらいますと、
自分の知ってるかぎりでは、イスラム時代以前の中国方面の交易は泉州などの南方のものでも元々、
ソグド系の商人達が交易路を開拓していたやに聞いています。いわゆるキーシュ商人などがペルシア湾岸
を基点にインド方面や東南アジア、中国南部との通商に従事していました。イェメン方面などの南アラブの
商人達もインド以東まで交易圏を延ばしていたかはちょっと忘れてしまいました(汗

サーサーン朝時代の徹底的な宗教弾圧で仏教がイラン以西に進出できる機会は完全に奪われていたようなので
仏教がアラブ人に伝播することはなかったと聞いています。「大食」とは、元々サーサーン朝時代にイラン・
イラクに隣接していたアラブ系のターイー族に由来する言葉で、彼らアラブ人をペルシア人たちは「ターイーの」
という意味で「タージークorタージー」と呼んでいたことに由来すると聞き及んでいます。
アラブ征服時代にイラン・中央アジアにアラブ人とイスラムに改宗した人々が増え始めたため、彼らを中央
アジアのアラブ系やイラン系のムスリムたちを指して「タージーク」というようになりました。 唐朝にウマ
イヤ朝やアッバース朝から派遣された人士を「大食」と称したのは、ソグド系かサーサーン朝系の人々が呼ん
でいたムスリムの他称「タージークorタージー」をそのまま唐朝の側でも流用していたためと考えられます。
806702:2005/03/29(火) 20:18:33 0
>805の続き。
13世紀以降で「タージーク」といいますと、すでにイラン・中央アジアの住民は殆どムスリムになっていまして、
トルコ・モンゴル系の遊牧民の対義語としてイラン系の(とくにイスラム的教養のある)定住都市民を指して
「タージーク」と称するようになりました。

そのため鎌倉時代で「タージーク」といった場合、ムスリムであることはほぼ間違ありませんが、現地の中国人や
日本の留学僧にイラン系とアラブ系の区別が出来たかは難しいかもしれません。もっとも「大食」がすべて
当時の中国や日本でムスリムを指していたかどうかもちょっと分かりません(汗 
しかし、イブン・バットゥータの『旅行記』に泉州にいた人士のニスバ(出身地名)をみると「イスファハーニー」
とか「タブリーズィー」などイラン系の名前が目立って多いように思われます。中国方面のムスリムの動向に
ついては全然詳しくないので何とも言えませんが(汗

>層抜・琵羅(ハラ)・記施・麻嘉 
確か何かの論文で、「層抜」はサマルカンド、「琵羅」はブハーラー、「記施」はキシュの事だという解説を
見た覚えがあります。「麻嘉」は〜・・・ちょっとまた忘れました(大汗 メルヴあたりだったか?(汗
ちなみにキシュは別名シャフリ・サブズ「緑の町」と呼ばれ、あのティムールの生地でもあります。
807あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 20:51:25 0
>層抜・琵羅・記施・麻嘉 
石田幹之助さんの「南海に関する支那史料」によると
層抜はザンジバル、琵羅は「諸蕃志」の原文では弼琶囉でベルベラ(ソマリランド)、
記施はキシ(ペルシャ湾内)、麻嘉はメッカということです。
808世界@名無史さん:2005/03/29(火) 20:54:15 0
>ムスリム
元朝の色目人の中に「ムスルマン」て種族がいたような気がするけど
あれはタジクとまた違うんでしょうか。

そういやジョチウルス方面にも「べセルメン」てのがいた気がする・・・
809あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 20:58:19 0
「諸蕃志」は宋代における海路による諸国について記述したものなので、
サマルカンド・ブハーラ・キシュ・メルヴなどではありえないのです。
810山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/29(火) 21:25:23 0
>806
ご丁寧に、ありがとうございます。しかし、あの慶政がですか。
『江談抄』に波斯(ペルシャも指したが、ここはマレー)語が出て来たので、
そういう事もあるでしょうが。『宇津保物語』にも、インドシナ半島方面
らしき波斯国が出て来ますね。
今想像されているよりも、古くから海路を通じた交流は盛んだった筈です。
811あやめ ◆C0.O2CxIMg :2005/03/29(火) 22:24:33 0
宋の周去非の「嶺外代答」に波斯國のことが出ていますが、ペルシャではなくアチェの近辺の
パセの音訳と解されています。
812702:2005/03/29(火) 22:35:17 0
>>799
おお、参考になりそうなミニアチュール沢山ですね。13〜14世紀の写本ではクロスボウが目立ってますね。
十字軍の影響か写本の描かれたころは盛んに使用されていた証拠でしょうか? バイユー・タペストリーを
改めて見ますと騎射する人物が何人かいますね。これは気付きませんでした。

イスタンブールのトプカプサライ博物館のHPで調度良い絵があったので貼ってみました。画像がやや粗いことと
暗い色のせいでちょっと分り難いですが、>784のim19.jpgとim20.jpgに描かれている人物はほぼ全員右腰に
弓袋に入れた弓をぶら下げてますね。『集史』やティムール朝時代の史書にもよく乱戦中に「顔を射られた」
という記述を目にするので、絵で見るよりは近接戦闘でも弓が使われていたと思われます。しかし、『集史』や
後代の『バーブル・ナーマ』などでは近接戦闘で弓の弦を切れて困る場面もありますので、馬上の白兵戦では
刀か鎚矛が主流だったのでしょう。絵の題材が『シャーナーメ』という英雄叙事詩の類ですから、そこら辺は
考慮しないといけないかもしれません。何よりim20.jpgで頭や胴体が真っ二つにされている人物がいますが
戦場とはいえこれはさすがに無いでしょう(w

自分もどことなく騎士よりは騎馬武者の合戦図に似てるなと思いました。ティムール朝時代のほかの写本には
騎馬武者よろしく鞍のうしろに取った敵方の首をいくつもぶら下げてる騎馬兵のすがたも見受けられます。
(これが見つからない(汗)

それにしても14世紀のミニアチュールとフロワサール年代記では画風が全然違う・・・(w
813世界@名無史さん:2005/03/29(火) 22:59:36 0
>799
リーグニッツの戦いでポーランド側はペタことバイダルの支軍に壊滅させられたらしいですが、
『集史』では>760で紹介したようにバイダルの軍は
> 「オルダとバイタルは右翼からイラウート地方(?)を通過、アーニードバルズ(?)率いる軍隊と交戦しこれを破った。
としか書かれていません。
この「イーラーウウート地方 ولايت ايلاووت vilāyat-e 'īlāwūt 」や
「アーニードバルズ آنيدبرز ānīdbarz」なる人物に
ついてポーランド側と照合できるかどうか・・・もっとも↑の綴り自体写本ごとに
違うようなのでそこからして問題ですが。自分もモンゴル軍がポーランドに来たことは
恐らく間違いないでしょうが、ポーランド側に言う大会戦的なものだったかは疑わしく思えます。
バトゥの本営軍と合流するためさっさとハンガリー入りしたのかも知れませんがこれとて確証が今一。
それにしてもたった3行ですか。やはりロシアでハンガリーの状況を知るのは厳しいですね(w 
自分もハンガリーやポーランドの事情やドーソンかヨハネス修道士の記述で知る程度ですから何ともです。


ロシアもハンガリーもポーランドも、モンゴルの侵攻そのものは決定的な出来事だったのに肝心の原史料が
情報として確かなのか確認しづらいとはなかなか歯がゆいですね。うーん今度ハンガリースレで聞いてみようかしら。

ちなみにモンゴルの鎚矛は柄の先が腰のあたりまであるかなり長い物を使っていたようです。
ttp://www.ee.bilkent.edu.tr/~history/Pictures2/ul43.jpg
814702:2005/03/29(火) 23:54:03 0
>>807,>809
> 層抜はザンジバル、琵羅は「諸蕃志」の原文では弼琶囉でベルベラ(ソマリランド)、
> 記施はキシ(ペルシャ湾内)、麻嘉はメッカ
アチャー orz 全然見当違いのこと書いてしまいましたね(汗 それにキシュはキシュでもキーシュ島のキシュでしたか。
この島についてはバットゥータの『旅行記』を完訳された家島彦一先生が専論を書かれていましたね。
ともあれ間違いを訂正していただいて有難うございます(汗 うろ覚えの知識でカキコしないよう以後気を付けねば。

>>810
慶政上人が中国に留学中、イラン系の人物に出会って一筆詩文を書いてもらったらしいです。
彼自身は「南無阿弥陀仏」などと書かれているだろうと思っていたようですが。自分も故足利惇氏先生の
著書で存在を知りまして、これを実検された羽田亨先生の論文を偶然見ることが出来ました。
毛筆で書かれたペルシア語文とはなんとも珍しいと思った次第です。
ttp://66.102.7.104/search?q=cache:N_CaQHLr2BcJ:dion.oem.melma.com/mag/65/m00010265/a00000996.html

>>811
この説は初めて聞きました。南方の「波斯國」の話は聞いたことがありましたが、
「パセ」=「波斯國」ですか。なるほど、これで合点がいきました。
815世界@名無史さん:2005/03/30(水) 00:07:41 0
>>808
> 元朝の色目人の中に「ムスルマン」て種族がいたような気がするけど
これは恐らくイスラム教徒を意味するアラビア語のムスリム(muslim)に
ペルシア語の複数辞(-ān)がついた「ムスリマーン」に由来する物でしょう。
「イスラム教徒たち」という意味で「クリスチャン」というのと同じで何か部族的な名前では無いでしょう。
多分彼らイラン系ムスリムの自称だと思われます。

> そういやジョチウルス方面にも「べセルメン」てのがいた気がする・・・
これはちょっと分かりません。(汗 どこで書かれた情報なのか教えていただければ何か分かるかもしれません。
816世界@名無史さん:2005/03/30(水) 03:45:11 0
817世界@名無史さん:2005/03/30(水) 12:52:00 0
えーと、「武士と騎士のどっちが強い」という話に
モンゴルがどう絡んでいたんだっけ? 
818世界@名無史さん:2005/03/30(水) 13:01:37 0
まとめると、

      モンゴル  騎士  武士  ムスリム  勝点   得失点
モンゴル    −   勝   負    負    3     −2
騎士      負   −   ?    引分   1     0
武士      勝   ?   −    ?    3     +1
ムスリム    勝   引分  ?    −    4     +2

ということですか。
819世界@名無史さん:2005/03/30(水) 14:04:19 0
とはいえ韓国兵や南宋兵が主だから
実質モンゴルに勝ったと言えるかどうか
820808:2005/03/30(水) 14:07:44 0
>>815
>べセルメン
ぐぐってみたらこんなページが
ttp://www.ozturkler.com/data_english/0007/0007_03_03.htm

Besermens

Besermens is a small Tatar group that lived among Udmurts.
Some of Besermens who were 10 thousands of people according
to the census 1926 joined the Nukrat Tatars. Today, Besermen
people live in the city of Slobod connected to the province
of Kirov and in some districts of the Republic of Udmurt.

ヴォルガ・タタール人の分派みたいですね。
あの辺はブルガールの時代からイスラムが栄えてたので
ムスルマン→ブスルマン→べセルメン
みたいに呼ばれるようになったんでしょうか。
お騒がせしました。
821世界@名無史さん:2005/03/30(水) 18:21:16 0
>>819
同意!
822例のにゃあにゃあ ◆9IIO2KvSgc :2005/03/30(水) 18:34:13 0
>>802
日本でも実験してもらえると面白くていいですね。
鎧全体を再現する必要はなくて一番強い部分だけでも実験できると思います。
西欧の実験だと、以前Krt様も書いていましたが、
鎧の一部分だけを再現してそこに打ち込んで実験しているみたいです。

>>803
当初はタペストリーにある持ち方だったみたいです。投げ槍ではないみたいです。

>>812
モンゴルも槍や剣を使うことはあっても基本的に弓が主武器ってことですね。
これまで見た感じだと日本、モンゴル、イスラームと騎馬兵の多くは弓使いが多いみたいに見えます。
西欧でも12世紀頃までは少しは使われていたみたいだし、
1250年のフランスのミニチュアールにも馬上で弓を撃とうとしている騎士が描かれているし、
馬上では意外に弓が使い易いのかもしれません。
騎士みたいに主要な武器が槍や剣というのは特殊な部類って気がしてきます。

イーラーウウート地方やアーニードバルズなる人物となるとわからない。
年代記史料の話の流れから無理矢理当てはめるしかないかも。
ハンガリーに関してはボルドー大司教の手紙にもあるていど記述があるみたいですから、
また機会があったら確認してみます。

>>817-818 強いとかはもう殆ど関係なくなってます。
だいたい12から13世紀頃の各地域の戦士階層の違いとか、
共通点を見付けて遊んでるって感じです。
それでモンゴルは西欧の人々からどんな感じに見えたのかなとか、逆はどうか、
どのように対戦したのかなってことを調べて、話し合っていたって感じかな。
823山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/03/30(水) 19:11:46 0
>馬上では意外に弓が使い易いのかもしれません。
日本の弓は、騎乗して使うにも関らず長いままでしたが、握り手が下の方に
あるので、案外馬上でも使用し易いといいます。
なお、この特徴は南方系のもので、古くは『魏志』東夷伝倭人条にも出て来る
歴史のあるもの。同書には、上が長く下が短かったとあります。

それと、戦国期の馬上戦の事ですが、今『常山紀談』を読んでおります。
近世の成立で、内容も玉石混交ですが、戦国期の逸話が数多く収録されている。
下馬戦の例が多い事は、以前おぎまる氏も他スレで指摘された事ですが、それ
以外に、馬上で鑓を交え、或いは刀で打ち勝ったという話もあります。組討も。
ただ、多くは敵と向かう際にはまず下馬しており、主流はこちらでした。
中村一氏に到っては、根来勢と戦う為に城を出た後、逃げる事を考えるなと馬
を全て城に返して戦っています。馬上戦が必要でなかったという事でしょう。
以前申し上げた通り、馬は専ら追撃に使用されましたが、逆に言えば逃亡にも
不可欠であったという事です。
今一つ吟味が必要なソースですが、参考までに。
また、騎馬隊というものはありませんでしたが、騎乗者のみでの移動は時折見
られます。戦場での活用を考えたものではなく、緊急時の移動が目的でした。
824世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/03(日) 19:39:42 0
今度の寄居北條まつりで西洋剣術野試合とかくるから、武士と騎士の戦いが再現できるんでない?
誰か行く奴いる?入るなら日本刀で西洋甲冑が切れるか試して貰うようにチャレンジしてもらいたいね。

http://www.bushinavi.com/event/hachigatajyou/hachigata2005/zenyasaitirasi.jpg
825世界@名無史さん :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 14:10:36 0
そのあと武士の鎧にハルバートに耐えられるかチャレンジしてもらおう。
Sporranはでるのかね
826702:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 20:34:32 0
>>822
このところ、ムンキズの『回想録』とジュバイルの『旅行記』を読んでいます。
サラディンの軍団には軍人というか騎士いうかの種類が二つありまして、一方をクルド人やアラブ人、
ベドウィンといった自由民の騎士を「ハルカ」騎士と称し、もう一方がいわゆる「マムルーク」、
奴隷として中央アジアから購入されてきたトルコ系の奴隷系軍人たちでした。

古くは新アッシリア帝国の頃から中東では騎射の伝統があったといわれていますが、本格的に騎馬兵が
騎射の技術に習熟するようになったのはセルジューク朝、マムルーク朝、そしてイルハン朝やジョチ・ウルス
といったトルコ・モンゴル系の諸勢力が抬頭するまさにこの時代からといわれています。

ムンキズはシリアのシャイザル市の領主の家系でして、当然マムルークではありません。初めてムンキズの
『回想録』を読んで非常に興味深く読んだのは、ムンキズたちムスリムの騎士達がつかう騎乗用武器で
第一に語られるのが「槍」の存在であることです。突撃して敵を槍で突いてうち破ることがもっとも
名誉な軍功として幾度も語られています。大槍や投げ槍の存在も述べられていますが、鎖帷子や敵の
胸板などを槍で刺し貫くことが騎士としての武功としてそれぞれの逸話が語られていました。
剣も出てはきますが馬上よりは徒歩での白兵戦の場面のようで、弓はほとんど触れられません。

マムルーク朝時代の写本やイルハン朝、ティムール朝時代の史書などでは、弓矢のが戦闘での必要不可欠
な存在としてまずあり、そこに刀や鎚矛の記述が続くのが普通なのですが、それとは全く印象がことなり
大変に驚かされました。これはもしやするとムスリム騎士は西欧の騎士と似た戦法だったのかも・・・?
827702:エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 21:11:45 0
>>822
当時のポーランド領の有名な都市というと、ウラティスラフとかクラクフとかが思い浮かびます。
イーラーウウート、文字の綴りを他の文字とある程度組み替えればあるいはウラティスラフと・・・やはり
無理がありすぎですね(汗 ハンガリー王ケラル( klr )がハンガリー語で「王」を意味する「キラーイ」
に由来するらしいことはペリオが唱えて以来最有力説になったようですが、このアーニードバルズ('nydbrz)も
人名ではなくて何か誰かの役職名だったのかもしれません。仰るとおりここまでいくと無理矢理
つじつまを合わせるようなやり方になるのは仕方が無いかも知れませんね。

>797
やっと講談社の『日本の歴史10・蒙古襲来と徳政令』(筧雅博)の紹介された箇所を読んでみました。
しかしながら、著者の「世代を経て中国南部のアラブ系の住人が仏教に帰依した云々」というような主張には
首を傾げてしまいました。たしかに「大食」という単語を西方のムスリムを指す固有名詞としたのは『旧唐書』
が最初ではありますが、それが元代でも通用する用語だったのか、鎌倉時代の日本ではどうだったのか、
そもそも「大食僧」が本当に仏教徒だったのかなど疑問がかなりありますが・・・
著者はそこら辺を立論しないでさらっと済ませたのがかなり気になりました。当時はムスリム関係は「回回」
だったようですからなぜ「大食」だったのかとか他にもありますが。(汗
828山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 21:59:02 0
>>827
悪書だと申し上げたのは、諸説を挙げている割にはソース・論文の類をほと
んど挙げていない事によるものです。
巻末に挙げられた参考文献も限定されたもので、文書もどこから引っ張って
来たのか書いてくれれば確認のしようもあるのに、それも無い。
あれでは、書かれている事が妥当なのかどうか、さっぱり分かりません。
829山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :エジプト暦2329年,2005/04/04(月) 22:02:34 0
ただ、>>800の『塵袋』の例を見る限りでは、あの文書が書かれた時代には
大食が地名・国名として知られていました。
記した方も相当博学な人物です。もっとも、現代の認識とはずれがあった
可能性も否定出来ませんが。
830世界@名無史さん:2005/04/05(火) 17:25:36 0
>>826
中近東古来の騎兵戦術というとやはりイラン起源のものなんでしょうか。

前に何かで読んだ話では、イラン人のカタフラクト騎兵をビザンツがコピーして
それがさらにフランクに伝わって騎士になったとか・・・うろ覚えですが。
831山野野衾 ◆a/lHDs2vKA :2005/04/06(水) 00:37:24 0
騎射の起源と言えば、やはり法隆寺の「獅子狩文錦」にも描かれているパル
ティアン・ショットでしょうか。名前からしていかにも。
日本でも『日本書紀』の時代から騎射芸があったので、ヨーロッパでなかな
か見られないというのは、不思議な気がします。

しかし、それとは異質な槍使用とは、興味深いですね。
832世界@名無史さん:2005/04/06(水) 20:19:45 0
今、ビンボー・バトルで軍事ヲタが出演してますが、皆さんお知り合いですか?
833世界@名無史さん:2005/04/12(火) 18:37:49 0
アルメニアの年代記等。モンゴル関係の記述が結構ある。
ttp://rbedrosian.com/hsrces.html
834702:2005/04/12(火) 20:44:50 0
>>819
おお、うpどうもです。アルメニアの同時代資料についてはあまり詳しくないですが、
小アルメニアことキリキアの王ヘトゥム1世はグユクとモンケの治世にカラコルムまで
来朝して臣従の誓約をしており、モンゴル帝国によってその所領を安堵されています。
このアルメニアの歴史家ヘトゥム Hethum Patmich はヘトゥム1世の甥と目されており、
1307年にフランスのポワティエにおいてフランス語による口述で『東方世界史(Le flor des la
Terre d'Orient)』を編纂しています。

ガンジャケツィのキラコスはヘトゥム1世のモンゴル宮廷来朝に随行しのちに『ヘトゥムの
大カン宮廷への旅行記』という書を残しているようですね。うーん他は初めて名前を聞いたかも(汗
他にも12世紀のアルメニアの歴史家というとシュテファン・オルベリアンなどもいるようですが、
ドーソンの紹介以上には利用されていないかも知れません。
835702:2005/04/13(水) 00:44:10 0
>>831
反顧して騎射するいわゆる「パルティアン・ショット」は既に紀元前の
スキタイの頃からあったらしいことはギリシアの壺絵から確認できるようですね。
「パルティアン・ショット」という言い方はやはりローマ帝国側がいった言葉なんでしょうか?
モチーフとしてのパルティアン・ショットは仰った法隆寺の「獅子狩文錦」はじめ、同時代の
サーサーン朝やソグド地方の文物の絵柄としてポピュラーだったようですね。

銀器などに見られる騎馬像でも槍で突撃をする絵柄がよく見られますが、
槍での突撃らしい絵柄はソグドや突厥、遠く高句麗の壁画でも見られるモチーフの
ようでして、やはり騎馬遊牧民でも槍の使用や突撃は一般的だったのかも知れません。

>>830
サーサーン朝の騎馬軍団の戦術については存じませんで、これは自分も勉強せねばなりません(汗
ただ、イスラム勃興期の歴史をみると、騎馬軍団が戦局に多大な貢献をしていることが分かります。
例えば625年ころのウフドの戦いでは、預言者ムハンマド率いるメディナのムスリム軍は左翼の弓兵が
メッカ軍の野営地を襲おうと戦列を離れ、結果そこを急襲され敗退しています。

ここでムスリム軍を潰走させたのはメッカ側の右翼騎馬軍団を率いていたハリード・ブン・ワリードで、
メッカ軍が3000頭を率いていたのに対し彼は騎馬部隊200騎を任されていたと言われています。のちに
彼はイスラムに改宗しアラビア半島統一やヤムルークの戦いでシリア獲得など、アラブ征服で多大な貢献を
果たしています。ハリードは騎馬部隊の機動性を生かした攪乱戦法を得意とし、ウフドやヤムルークでの
勝利を果たしています。
836702:2005/04/13(水) 00:46:49 0
>825の続き。

初期は歩兵が主体だったようですが、アラビア半島が統一されメソポタミアの征服などでアラブや
南メソポタミアの軍馬が獲得されるにつれ、ムスリム勢の戦術は次第に変化していったようです。
637年にメソポタミア南部のカーディスィーヤの戦いでアラブ軍3万5000はサーサーン朝軍の33頭の
戦象部隊と戦っていますが、このとき正面突破を敢行したアラブ騎馬部隊1000人はサーサーン朝軍の
中央軍戦象部隊13頭に対して下馬して剣と槍で交戦したようです。この頃にはアラブ側も千騎規模の
騎馬軍団を投入できるようになったことがわかります。正統カリフ・ウマルの時代には全土から軍馬が
徴発され、640年のアムル・ブン・アースのエジプト征服のころには征服軍1万のうち殆どが騎馬部隊
だったようです。

アラブの征服というと駱駝に打ち跨って半月刀を振り回しているイメージがありますが(w
そもそも曲刀が中東で一般化するのはモンゴル時代以降のようで、この頃は両刃の剣が主流であり、
勿論駱駝も投入されていましたが、 アラブ征服軍の主戦力は騎馬部隊に早くに移行していた、という
のが実際のところのようです。

十字軍時代以前の中東での騎馬戦術については、剣や槍で戦ったことが述べられていますが、
具体的にどう戦ったのか知るにはムンキズのような報告はとても貴重です。

「パルティアン・ショット」の画像としては有名なもの一つ。16世紀ころのもの。
ttp://www.sfusd.k12.ca.us/schwww/sch618/Art/archer.jpg
サーサーン朝時代後期の銀器。パルティアン・ショットよりも初期に見られぬ鐙が描かれていることの方が重要か。
ttp://www.georgetown.edu/faculty/millwarj/website%20images/A53.jpg
837世界@名無史さん:2005/04/13(水) 16:26:27 0
パルティアの騎兵を解説してるページ発見
ttp://www.parthia.com/parthia_horses_burris.htm

The Parthians also adopted the Scythian bow, a double curve weapon ideal for horseback.
The original Persian bow was a single curved weapon that was used by footmen. The Persians
themselves seemed to prefer using spears when mounted since it did not require as much
skill to kill a lion.
838世界@名無史さん:2005/04/13(水) 16:55:01 0
>>836
アラブの直剣てこれですよね
ttp://www.albasrah.net/maqalat_mukhtara/arabic/1204/tarq_271204.htm

昔読んだMedieval Warfare Source Bookとかいう本ではアラブの軍隊は
槍や剣で戦う騎兵と徒歩の弓兵からなると書いてありました。
ササン朝では騎馬弓兵を用いたがその戦い方は定位置からものすごい速さで
連射するもので、のちのグラーム兵もそうした戦術をとっていた。
ヒットアンドランを繰り返し敵を衰弱させるトルコ人の戦術とは異なっていた。
・・・とかいう話でした。うろ覚えですが。

パルティア人もカンネーの戦いでヒットアンドランをやってたけど・・・
839世界@名無史さん:2005/04/14(木) 07:55:32 0
>>838
これは片刃ですね。むしろ両刃の剣かと。
新紀元社の『武器甲冑図鑑』にアラブの剣の変遷図がでてました。
840702:2005/04/14(木) 22:21:10 0
>>838
おお、刀身は古そうですが、これだけでは何とも言い難いですね。柄が取って付けたような感が否めないのは
写真の主役の人を考えるとご愛敬のうちでしょうかね(w サーサーン朝の戦術となると記録者はローマ
か東ローマ、あるいはシリアあたりの修道士たちでしょうか。当時のローマ側の対ペルシア戦役について
の年代記を邦訳で読めたらばと思いますが・・・ 定位置からの騎射というのは日本の騎馬武者を連想させますね。

歴史書やハディースなどのアラブ征服時代の箇所をみますと、歩兵が弓を持っていたいたことや
騎馬部隊が槍や刀で戦ったことがわかります。しかし馬上で弓を使ったかはまだ確認していません。
ムハンマドが弓矢を能くしたことはハディースでも述べられてることでして、当時アラブ社会では都市民と
遊牧民を問わず弓術が盛んだったようです。今は遊牧民以外弓矢は奨励されてるんでしょうかね。
841702:2005/04/14(木) 22:21:46 0
>>839
こんなサイトを見つけました。
ttp://users.stlcc.edu/mfuller/turk/TopkapiArms2.html
トプカプ・サライ博物館蔵のアッバース朝の刀剣が出ています。画像が重複しているところも
あるのであまり良いとは言えませんが、上から1〜6枚目までが恐らくアッバース朝のもののようです。
片手用の両刃の剣であることが見て取れます。刀身の丈も書いてくれれば完璧なんですが・・・

ついでに同じサイトに出ていたマムルーク朝とサファヴィー朝の刀剣もひとつ。
ttp://users.stlcc.edu/mfuller/turk/TopkapiArms.html

しかしさすがはトプカプ・サライ、二股の剣があるとは(w
842702:2005/04/14(木) 22:24:11 0
>>839
>新紀元社の『武器甲冑図鑑』にアラブの剣の変遷図がでてました。
できればそういう図が載っているサイトも見つけたかったんですが、残念。(汗
843世界@名無史さん
>二股の剣
ズルファカール(アリーの剣)も先が二股だったとか・・・