1 :
世界@名無史さん:
このスレは世界史の人物を数値化して、それを肴にあれこれ議論しようというスレです。
指標としてテンプレも設定してみました。
各能力値の説明
【指導】 組織を纏める能力。指導者のイメージ。
【戦術】 戦術指揮。前線指揮官のイメージ。
【戦略】 国家戦略・軍事戦略。戦略家のイメージ。
【内政】 政策・行政。官僚のイメージ。
【政略】 謀略・調整・保身。政治家のイメージ。
【人望】 文字通り。カリスマ、あるいは人格者のイメージ。
4 :
世界@名無史さん:04/06/26 00:20
キリスト
【指導】100
【戦術】0
【戦略】100
【内政】0
【政略】0
【人望】100
>>1 はすべての数値が1
>>2 はすべての数値が2
>>3 はすべての数値が3
……
>>1000 はすべてのパラメタが1000
さぁ、1000取りを目指せ(迷惑なのでsage進行で)
6 :
世界@名無史さん:04/06/26 00:25
能力値の基準
0=最悪に無能。
1=とても無能。
2=無能。未経験者の方がましなレベル。
3=苦手。未経験者もこのレベル。
4=凡庸。席を埋めているだけ。
5=大過なく勤まる。
6=有能な人材。
7=国内では一流の人材。
8=国を代表する実力者。
9=時代を代表する天才。
10=世界史を代表する天才。数世紀にひとり。
100段階にする意味を感じないので、10段階にしてみました。
7 :
世界@名無史さん:04/06/26 00:27
宮本武蔵
【指導】0
【戦術】0
【戦略】0
【内政】0
【政略】0
【人望】100
光栄かよ。
11 :
世界@名無史さん:04/06/26 00:34
久々だな、このスレ
失敗のパターン
0=馬鹿で重要なときに最悪の選択。
1=未経験で重要なときに最悪の選択。
2=有能だが重要なときに最悪の選択。
3=馬鹿で重要な選択に関われない。
14 :
( ・∀・) ◆FsvkjxguSE :04/06/26 00:49
HAHAHA!
おまいら元気にしてたKANA!
漏れが書いてやるからリクエストSIRU!
気が向いたら書くYO!
>>14 まずは「( ・∀・) ◆FsvkjxguSE 」を数値化してみてくれ。
ハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)
【指導】 8
【戦術】 8
【戦略】 6
【内政】 7
【政略】 7
【人望】 8
17 :
世界@名無史さん:04/06/26 00:57
ヒトラー、ムッソリーニ、毛沢豚、フォシュ、ルーデンドルフ
18 :
世界@名無史さん:04/06/26 00:58
>>15 HAHAHA!
漏れはまだ生きてるし、歴史に残ることもしてないじゃないKA!
19 :
( ・∀・) ◆FsvkjxguSE :04/06/26 00:59
>>17 HAHAHA!
じゃあ毛行こうKA!
楽しみに待てYO!
>>18 >>1 より
【指導】 組織を纏める能力。指導者のイメージ。
【戦術】 戦術指揮。前線指揮官のイメージ。
【戦略】 国家戦略・軍事戦略。戦略家のイメージ。
【内政】 政策・行政。官僚のイメージ。
【政略】 謀略・調整・保身。政治家のイメージ。
【人望】 文字通り。カリスマ、あるいは人格者のイメージ。
どこにも「死んだもの限定」「(歴史に残るような)実績による評価」とは書いていないじゃない。
イメージでいいんだよ。「あ、なんかできそうな奴」と思わせる感じ。
21 :
( ・∀・) ◆FsvkjxguSE :04/06/26 01:02
>>20 生きてる香具師は何やらかすか分からんから書きにくいんDAYO!
毛沢東が1976年シボンと1949年シボンじゃ評価が違うDARO!
22 :
世界@名無史さん:04/06/26 01:10
皇考
【指導】 2
【戦術】 3
【戦略】 7
【内政】 7
【政略】 3
【人望】 9
>毛沢東が1976年シボンと1949年シボンじゃ評価が違うDARO!
だから数値化には意味がない、という意図で言っていたんだが。
24 :
世界@名無史さん:04/06/26 01:12
100だと付けにくい。16でやらないか?
25 :
世界@名無史さん:04/06/26 01:13
26 :
世界@名無史さん:04/06/26 01:24
22の解説
【戦略】【内政】は、資料によれば、国内でも有数。
【戦術】【政略】は、無縁と思われ。
【指導】 は、どうも自分の役割の悪化に盲目だったようだから。
【人望】 は、未だに国外で連呼されているため。
27 :
( ・∀・) ◆FsvkjxguSE :04/06/26 04:06
毛沢東(1893-1976)中国共産党主席
【指導】9(1958年以後は3、1972年以後は1)
その折々に合った人材登用を行い、組織手腕は一流。
弱小共産党を率いて国民党を打ち破り、中華国家を再び大国に押し上げた。
しかし、1958年以後は改革にことごとく失敗してしまう。
指導力を失うとカリスマに依存するようになり、国家を無秩序に陥れた。
1972年以後は運動をコントロールしきれなくなり、
文革派と実務派の間を揺れ動いて政治を混乱させ続けた。
【戦術】5
共産党が小さかった頃は指揮を取ったこともあるが、力量はそこそこ。
その勝利のほとんどは前線指揮官というより、
後方で全軍を統括する軍事指導者としてのもの。
【戦略】9(1949年以後は4。1957年以後は1)
抗日戦期は強大な日本軍との戦いを回避して組織拡大に動き、
国共内戦では清新な民衆の味方という共産党像を打ち出して、
民衆の支持を失っていた国民党を圧倒するなど、名と実を変幻自在に使い分ける戦略家であった。
軍事理論でも卓越し、ゲリラ理論は世界中の共産ゲリラの手本となっている。
しかし、新生中国が安定すると理想に走って現実的な視点を失う。
本来は個人崇拝を嫌っていたが、大躍進で指導力を失うと個人崇拝を悪用するようになり、
扇動政治家に転じて文革を引き起こすことになった。
28 :
( ・∀・) ◆FsvkjxguSE :04/06/26 04:07
【内政】4(1955年以後は1)
経済に疎く、現実を無視した観念論に走る傾向がある。
ソ連風の重工業化を進めようとしたが難航。
独自路線に転換してからは経済を破綻させてしまい、
文革期で統治機構や教育まで破壊してしまった。
【政略】9
二度失脚したが、二度とも以前に勝る権力を握って復活。
数多くの陰謀に関与し、百戦錬磨の政敵をことごとく打ち倒す。民衆扇動にも巧み。
文革期は扇動能力と政治力を駆使して最高権力を握り続けた。
【人望】9
複雑かつ冷酷な人柄でありながら、人をひきつける魔力を持っており、
周恩来ほどの理性的な人物にも盲目的な忠誠を誓わせ、
劉少奇のように徹底的に苦しめた人物にも憎まれることが無かった。
また、建国後は土地改革によって利益を得た農民層の絶大な支持を得て、皇帝視される。
多くの失政を行ったせいで失脚したのに人気は衰えず、やがて民衆の支持を背景に復活。
文革で国家を破滅に導いたが、四人組に非難が集中。
最後まで絶大なカリスマを誇った。
HAHAHA!
待たせたNE!>おまいら
感想をドシドシ送ってくれYONA!
30 :
世界@名無史さん:04/06/26 04:27
>>28 【戦略】行き当たりばったりなだけじゃん。
抗日戦期は強大な日本軍から逃げ回り、国共内戦では勝手に自滅した国民党に勝利。
9=時代を代表する天才。ありえない。戦略家の部分はそのまま愚民代表だと思われ。いない方がマシ。
張学良が居なかったら、毛沢東の手元には何も無かっただろう。
32 :
世界@名無史さん:04/06/26 05:49
在日中国人?マオイスト?
ヒトラーはわたしがやっちゃおう。
指導・10
戦術・9
戦略・6
内政・9
政略・10
人望・10
以上は最盛期基準。
34 :
世界@名無史さん:04/06/26 06:16
【ビスマルク】
指導・9
戦術・?? モルトケは9以上
戦略・8
内政・9
政略・9
人望・9
【劉邦】漢の高祖
指導 7 項羽との戦いに何度負けても、組織が崩壊しなかった。
戦術 2 項羽と100戦して99敗し最後に1勝したなどといわれるように前線指揮は苦手。
後に匈奴の冒頓単于を自ら討伐に向かったが、屈辱的な和議を結んでいる。
戦略 8 絶体絶命のピンチであった鴻門の会を見事に切り抜け、命をつなげ、
辺境の蜀の地で力を蓄え、東進を成功させた。
内政 5 秦の制度を継承した部分も多い。秦の失敗を反面教師に一族や功臣を諸侯にした。
政略 6 韓信を初めとした異性の王を除き、一族で固め、後の憂いをなくした+
晩年寵愛した戚夫人の子供を王位につけようとしたが失敗−
人望 10 人格者ではなかったがなんとなく人に好かれるところがあり、ショウカ、張良などの
有能な人材が次々に集まった。
>33
伍長殿は最盛期でもそんなに数値高くないって。
指導・9 ナチだの軍部だのをよくまとめた。
戦術・3 伍長だから
戦略・4 伍長だから
内政・3 自身はタイシタコト無し
政略・8 自身イメージの使い分けをしている節が。ハイドリヒ等も逆らわない実績
人望・7 カリスマあれど人格者ではないからなぁ。
例の直感・戦争経済は政略にまとめてみますタ。
内政はナチ優先で現場指導部が混乱した為低下。また戦争末期に至るまで戦時体制に以降しなかった(できなかった?)ため
ゲームなら・・・
『著作』政敵にカリスマのレベルを低下させることができる。自身は身分・レベル等が下がる
『死守指令』規定ターン行動力ゼロ・指令発布時の兵力の内有る割合が必ず規定ターン間残存する。
『眼力』一時的にランダムなデータが操作される。まれに自身に不利な数値が発生する事も。
37 :
世界@名無史さん:04/06/26 07:52
曹操
【指導】90
【戦術】80
【戦略】80
【内政】85
【政略】50
【人望】70
>>36 ヴァーバリアン…じゃないや、ババリアの伍長殿を侮ってはいけません。
素人軍人の分際で世界の半分を敵にまわして互角以上の戦いが出来たポテンシャルは評価すべき。
絨毯爆撃とか、市街地に爆弾どっかんとか、狂気の電撃作戦とか
相当なもんです。
人望パラメータはカリスマ性を含めて判断しました。
特殊能力としては上にあげた戦闘技能の他に
迫害、虐殺、演説、家系図調べなどがあります。
事実上第二次大戦のラスボスです。かなり覚悟して戦ってください。
弱点・英には甘い。英で開始した場合、「ソ連に援助」で有利に戦えます。
39 :
世界@名無史さん:04/06/26 08:55
織田信長
【指導】100
【戦術】100
【戦略】100
【内政】80
【政略】80
【人望】0
マッカーサー将軍、 ジミー・カーター元大統領、クリントン前大統領
>>30 >>31 HAHAHA!
計画通りに事を進めるのも戦略だけど、与えられた状況を最大限に利用するのも戦略SA!
無能な香具師は運が転がり込んできても、生かせないからNA!
蒋介石がコケたところで、毛が広い中国を独り占めできるとは限らなかったからNE!
でも、世界に喧嘩を売った伍長殿や、世界の半分に君臨した鉄の人と比べると、
国内再統合と中共建国しか実績のない毛の実績はなんとも見劣りするNE!
指導力9は与えすぎだったかもNE!
そういうわけで変更SA!
【指導】8(1958年以後は3、1972年以後は1)
【戦術】5
【戦略】9(1949年以後は5。1957年以後は1)
【内政】4(1955年以後は1)
【政略】8
【人望】9
>>32 HAHAHA!
悪事をするにも、能力は必要SA!
大きな暴力団の創設者だって、能力は必要だからNE!
カンベンしてくれYONA!
42 :
( ・∀・) ◇FsvkjxguSE :04/06/26 17:39
>ヒトラー
漏れ基準でやってみようKA!
説明は省くYO!
ヒトラー (1889〜1945)ドイツ帝国総統
【指導】9
【戦術】3
【戦略】9(1939〜1941は7、1942以降は3)
【内政】5
【政略】9(1939以降は8)
【人望】10
年とともに能力が低下するから、短期決戦が吉DANE!
開戦すると戦略と政略が落ちるから、電撃戦で押し切ろU!
チャーチルとスターリンは絶対降伏しないから電撃戦が通用しなI!
気を付けようNE!
おまいが連合国側なら、正面から戦っても勝ち目ないZO!
指導力・戦略9のヒトラーが育てたドイツの精鋭は世界最強SA!
イギリスかソ連をぶつけて、時間を稼GE!
消耗&ヒトラーの能力低下を待って、欧州にヤンキーを上陸させYOUNE!
>>41-42 時代ごとに能力変化させるのはツマラン。人の人生を無理やり固定化するのがこのスレ。
やり直しを要求する!
46 :
世界@名無史さん:04/06/26 18:37
>>34 ビスマルク以上の戦略家がこの世にいるのか?
【戦略】 国家戦略・軍事戦略。戦略家のイメージ。
ついでに我がヒトラーの数値
【指導】9=突撃隊を切り捨てて、軍に忠誠を誓わせるとは見事。
【戦術】6=電撃戦を採用
【戦略】2=最悪の2正面作戦。しかもソ連一国にも勝てず。国を滅ぼした奴に戦略の才能は無い。
【内政】6=いい意見を取り入れるのも才能
【政略】10=数世紀にひとり。伍長からなんと総統に。
【人望】10=数世紀にひとり。
48 :
同士諸君。この排他的な左翼どもを撃滅せよ:04/06/26 18:58
毛沢東
【指導】7=独特な共産党組織の創造に成功。
【戦術】8=ゲリラ戦で逃げ延びたのは見事。
【戦略】3=残念ながら大前提の共産主義で、国家戦略がズタズタ。せいぜい党戦略までの才能だった。
【内政】0=世界でも最悪。
【政略】10=誰も逆らえない地位に君臨
【人望】9=功績を積み重ねて、有名人。
>>42 戦略には、当然、富国強兵などの国家経営、戦略外交を含まないと。
軍だけの戦略は事実上、戦術。
せんりゃく 【戦略】
〔strategy〕長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法。
戦略の具体的遂行である戦術とは区別される。
能力値の基準
0=最悪に無能。
1=とても無能。
2=無能。未経験者の方がましなレベル。
3=苦手。未経験者もこのレベル。
4=凡庸。席を埋めているだけ。
5=大過なく勤まる。
6=有能な人材。
7=国内では一流の人材。
8=国を代表する実力者。
9=時代を代表する天才。
10=世界史を代表する天才。数世紀にひとり。
100段階にする意味を感じないので、10段階にしてみました。
>>45 ゲーム的に考えて、大躍進後の暴走毛沢東の能力で、
中共建国して再分裂しないようにするところまでできるかって問題がNE…。
文革末期のヨボヨボ毛沢東が長征したら即アボン確実だしSA…。
カンベンしてくれYO!
>>50 漏れは軍事戦略は、政治や外交を無視してできないと思っているから、
軍事戦略も戦略に入れているYO!
戦争で勝つ能力を戦略、戦闘で勝つ能力を戦術という解釈SA!
いくら戦闘で勝っても、戦争で勝てるとは限らないからNE!
毛沢東もヒトラー(の独ソ戦の途中)も、軍の力だけで押したとは思っていないYO!
蕭叔達
【指導】5
【戦術】8
【戦略】5
【内政】7
【政略】5
【人望】7
前半生と晩年のギャップがあり過ぎてこんなもの。でも後半生があるからこそ
好きな歴史上の人物の一人です。
>>16といい、文才とか学問の項目があればも
う少し見栄えがよいのですが。
54 :
世界@名無史さん:04/06/26 19:57
>>46 浮かばないね。
じゃ、国家戦略を10でFA。
>>53 梁武帝タソの評価は難しいNE…。
前半生はもっと指導力あるんだけどNE…。
前半生と後半生のギャップが大きい香具師は、
どっちをデフォにするか、足して2で割るか迷うね。
ゲーム的に歴史どおりのことが確変ナシでできるような能力にしたいンだけどNA…。
>>56 私も符永固とか武媚娘とか、詰めが甘くて最後にやられたようなのが好きでして。
>>57 人生をざっと見て感じたのですが・・・特定の数値に違和感がおありでしたらどうぞ。
いちいち字面を並べてみたところで、批判が出れば意味はありませんのでわざと
何も書きませんでした。
小倉優子
【指導】9
【戦術】7
【戦略】8
【内政】8
【政略】10
【人望】12
>>55 そんなゲームはないんだけどSA!
当時の状況や敵味方の強さを考えて、どういう能力にしたら、
同じぐらい頑張れるかってことKANA!
>>60 いや、部下の能力で、補完できるゲームならいいじゃん。で、キリが無さそうなんで、もう言わない。
62 :
世界@名無史さん:04/06/26 21:42
朱元障
【指導】9
【戦術】7
【戦略】8
【内政】10
【政略】10
【人望】7
63 :
世界@名無史さん:04/06/26 21:48
ナポレオン I
【指導】10
【戦術】9
【戦略】7
【内政】8
【政略】8
【人望】8
>>63 ナポレオンは、内外に敵多かったよ。
【政略】は、普通以下4だろ。自分でも認めてる。婦人達の話を聞けばよかったって。
だからタレーランにやられたい放題にされる。
【戦略】も戦闘で勝って、ほとんどの戦争に負けたって気がするが。ちょっと低めにしてあるのかな?
スペイン、イギリス、ロシア・・・
65 :
世界@名無史さん:04/06/26 23:29
質問ですが【戦略】の定義がよくわからないです
>>1 外交ってことですか?
それとも軍参謀の作戦能力ってことですか?
【指導】と【政略】の違いもよくわからん。
67 :
世界@名無史さん:04/06/27 01:45
青氏はおらぬか
68 :
世界@名無史さん:04/06/27 01:45
>>64 ナポレオン I
【指導】10
【戦術】9
【戦略】7 ※後に失敗をするが、一応大帝国を築けたから。
【内政】8
【政略】7 ※少し下げた。皇帝にまでなったことを評価。
【人望】8
>>68 戦術がめっちゃ優れていれば、
戦略がかなり低くても大帝国つくれるっていうのはどうだろ?
モンゴルみたく。
70 :
世界@名無史さん:04/06/27 02:27
>>69 たしかに初期のモンゴルとか項羽の楚は戦術能力が大きかったと思うが、
ナポレオンはそれだけじゃないと思う。いろいろやったじゃん。
モンゴルとてチンギス=カンはあらゆる手を使っている。
まあ、戦術レベルの勝利で、戦略レベルどころか、政治レベルでの勝利を得た事例も、
長い歴史には少なくない。桶狭間とかもそんな感じじゃないかな。
73 :
世界@名無史さん:04/06/27 02:41
>>72 つまり、【戦術】能力が高ければ、【戦略】能力が無くても帝国は造れるよね。
ナポレオン
失敗ーエジプト侵攻
失敗ー英国上陸
失敗ースペイン侵攻
失敗ー英国封鎖
失敗ーロシア遠征
失敗ーオーストリア、プロイセンの解体
失敗ー再起
こんな人間を一流の戦略家というのはどうかと、勝手に思っているわけで。
75 :
世界@名無史さん:04/06/27 03:24
>>71 たしかに極悪非道、降伏しない相手を皆殺し、無敵の強さ、ってイメージ
を浸透させて、戦わずして降伏ってのもかなりあったみたいだね。
戦わずして勝つのは最良の戦略だよなぁ。戦っても勝つんだけど。
>>70 後期のモンゴルは、戦略があったとはとても思えない。
イチャモンつけて、ぶっ潰していた。最後のほうはイチャモンをつけていたかも怪しい。
77 :
世界@名無史さん:04/06/27 03:47
ええぇえぇ?!
みんな戦術と戦略がごっちゃか逆になってない?
戦術が勝れてるよりも戦略が手堅い方が長期的に見ると勝つよ。
例にでた項羽と劉邦も最終的に戦略に優れていた劉邦陣営が
勝ったことだしいいんじゃないですか。ただ戦術レベルでも
超一流クラスなら一時的に戦略が粗雑でも帝国を作れるということで
80 :
世界@名無史さん:04/06/28 00:44
>>79 ぶっちゃけ、張良と韓信がいれば劉備も天下取れたと思う
83 :
世界@名無史さん:04/06/28 01:07
>>80 項羽は、戦略能力1かな。范増の戦略を使いこなせないし、 黥布盗られるし。
>>78 けど必ずしも、そうだとは断定できないんだよなあ。
戦術レベルの一戦で、戦略レベルでの有利どころか、
勢力の勢いが一気に逆転した事って少なくないし。
そういう人が歴史をつくり、英雄と言われて名を残すんじゃないかな?
項羽が劉邦を討ち取れた戦闘も結構あるしね。
呉起
【指導】7(宰相にまでなってますから、国を代表するで問題ないかと、ただ足元を何度か掬くわれているので減点)
【戦術】9(後世まで名を残し生涯一度も負けてないといわれてますので)
【戦略】9(楚を大国にのし上げました)
【内政】7(文武を統率するのが宰相ですからねえ、門閥貴族を廃して実力主義に変更されたり色々されてます)
【政略】6(後ろ盾を失った段階で失脚してしまったので、このレベルかと、ただ複数の国に取り入りどこでも厚遇されたのは無視できない)
【人望】7(兵士からは大変人気がありました)
86 :
世界@名無史さん:04/06/28 01:33
↑青がいたら怒っていただろう
87 :
世界@名無史さん:04/06/28 01:34
項羽
【指導】3 四面楚歌じゃ、高い点は無理。
【戦術】8 かなり有能。ただグーデリアンやフリードリヒ大王に比べたらぜんぜん。
【戦略】1 范増と韓信と陳平が居ても駄目だった。張良が入っても天下は取れないだろう。
素人の方がかなりマシという評価。捲土重来しろよ・・・
【内政】3 未経験者と同じ。焼くことと、殺すことしか知らんぽい。
【政略】2 人との調整なんて知らん御人。
【人望】8 楚の将軍の血筋、実力と名声で、人を惹きつけた。
88 :
世界@名無史さん:04/06/28 01:37
>>86 なんだかんだあのころは、青を初めとして良コテが一杯いたからね。
数値付けも気合入ってたし
>>88 コテは大変だから、みんな消えたのかな。
題烏江亭 杜牧
勝敗兵家事不期
江東子弟多才俊
包羞忍恥是男児
捲土重来未可知
勝敗は兵家も事期せず
羞を包み恥を忍ぶは 是れ男児
江東の子弟 才俊多し
捲土重来 未だ知るべからず
青氏は最後のほう一つの能力に7行ぐらい使ってたからな。
>>90 金日成と昭和天皇を数値化した伝説のコテだからなw
【戦術】
10=新戦術を引っさげて世界情勢を混乱させた奴等。
グーデリアン、フリードリヒ大王、ナポレオン、チンギスハン、マンシュタイン、ジューコフ、
【指導】
10=意味不明な教義で君臨し、死んでもその指導が狂い咲きしてる奴等。
キリスト、マホメット、仏陀、マルクス、レーニン、毛沢東、モーゼ、
コーエースレは力作が多かったから、保存してる人がいたら、まとめてうpしてほしいもんだ。
95 :
世界@名無史さん:04/06/28 03:29
【戦略】と【内政】の境も曖昧になってきました。。。
【戦略】 国家戦略・軍事戦略。戦略家のイメージ。
【内政】 政策・行政。官僚のイメージ。
>>95 コーエースレの指標
【統率】組織を纏めあげ、強固にする力。また、そのために組織を改編し、造り上げる能力。
【武力】戦術・戦域級での戦闘指揮能力。
【知力】問題への正しい理解・判断能力。先見の明。戦略眼。意志力。
【政治】己の描いた方策を実現する能力。内政、外交、謀略の能力。
【魅力】利害抜きで人を引きつける力。人望。
統率が指導、武力が戦術、知力が戦略、政治が内政と政略、魅力が人望に該当すると思えば分かりやすい。
単に政治が内政と政略に分れただけで、ほとんど変わらないと思われ。
ちなみに政治に付いては、コーエースレの末期に謀略と内政を分けるかどうかで激しくもめて、
特殊能力で外交とか謀略とかの特徴をつけることに決まった経緯があるから、
能力値区分はこのスレのテンプレのほうがはっきりしている。
97 :
世界@名無史さん:04/06/28 06:09
【戦略】【知力】問題への正しい理解・判断能力。先見の明。戦略眼。意志力。国家戦略・軍事戦略。
【政略】【政治】己の描いた方策を実現する能力。内政、外交、謀略の能力。謀略・調整・保身。
まだ曖昧だと思う。
戦略が、先見の明(国家戦略、軍事戦略)
政略が、調整能力(外国との交渉、謀略)
でいいのかな。
98 :
世界@名無史さん:04/06/28 06:10
「外政」はどうですか?
99 :
世界@名無史さん:04/06/28 06:28
>>98 新しいパラメーターかな?97の方がスッキリしてる気がする。
>>81 わたしがヒトラー数値化で戦術・9、戦略・6にしたのはここを考慮に入れています。
電撃作戦はいまだから
「当たり前」
に思えるのであって、ヒトラーとグデーリアンが確立するまで誰もやってません。
補足すると、電撃作戦は一般で思われている程スマートな作戦ではないです…。
101 :
世界@名無史さん:04/06/28 07:39
昭和天皇数値化ネタは駕籠真太郎が
「印度で乱数 特別篇」
でやってましたね(笑)
103 :
世界@名無史さん:04/06/28 08:15
104 :
世界@名無史さん:04/06/28 08:21
>>100 電撃戦ってスピード重視の「戦術」だと思うけど。
電撃作戦ってのは何だろう?
そうじゃなくて、もう昭和天皇ネタは個人的にいいやと(笑)
駕籠真太郎がやったのはオウム事件前後だったかな。
わたしが2chに来たのは一年程前なので、昭和天皇ネタが2chでやられたのがいつか知らないんですよ。
激しくスレ違い。失礼。
106 :
97=87:04/06/28 09:12
>>101 劉邦
指導 9 恐ろしく人使いがうまい。適材適地。
戦術 3 人任せ。周りが居なかったら多分下手。
戦略 7 人任せ。先見性というか判断が良い。良狗もちゃんと烹てる。黥布に戦略で圧勝。
内政 4 人任せ。たった三章の法といいながら、ちゃっかり秦の制度を継承だが、本人の案で無いし。
政略 8 交渉はマル。利や土地を捨てて人を得る献策を、選択できる。老獪。張良には負けた。
人望 7 好かれる人。ただ狂信者が無さそうなので、控えめ。むしろ人使いだと思う。
47、49も訂正の必要無し。
青は猛無理だから騎兵とか蘭太郎とかおらんの。
数値付けのレベルが著しく下がってる。
110 :
世界@名無史さん:04/06/28 09:28
項羽は指導力があるが、内政・外政は共にダメな上、人望もないから失敗した。
劉邦は指導力はないが、人望があって部下に恵まれていたから成功した。
一般的にはこんな感じですけど。どうでしょうか?
111 :
世界@名無史さん:04/06/28 09:33
前のコーエースレでは魅力の100候補に劉邦、武力は韓信と項羽で95を
争っていたね、そこにハンニバルを加えて。ハンニバル論争は面白かったな。
このスレにもよく名前が出てくる永遠の青はどちらかというと韓信より項羽
の武力が優れているという立場だったかな。彼は劉邦の数値化もしたような
気がする。コーエースレみてぇなもう一度。
112 :
世界@名無史さん:04/06/28 09:35
113 :
世界@名無史さん:04/06/28 09:37
>>112 おおー一瞬でw。ありがとうございます。
話題の劉邦、項羽の論評も白熱してますね
114 :
世界@名無史さん:04/06/28 09:37
【指導】と【人望】ってだぶるとこあるよね。。。
ヒトラーはけっこう戦略家としてもなかなかで、挟撃を避けるためにフランスを先に叩くとか、ソ連に対して戦闘準備が整っていないときは不愉快でも妥協するとか、なかなかどうして優れています。
彼の敗因は「人種」ですね。
彼が「同じアーリア人」と規定したイギリスに対し繰り返し講和を呼び掛けたり
(チャーチルが講和するわけないのにねぇ)
混血を恐れてユダヤ人・スラブ人を虐殺したり。
(対ソ戦で投降、スターリンとの戦いを志願したスラブ人を兵士として採用するのが早ければドイツが勝利した可能性は高い)
スラブ人に関して補足すると、ズデーデンドイツ人とスラブ人の間には日本と韓国・北朝鮮の比ではない確執があります。
ヒトラーの戦略の評価すべき点・評価できない点は他にもありますが
あまりヒトラーネタばかりだと嫌がる方もいるでしょうからこのへんで切り上げます。
(リクエストがあればやります)
あと、チャーチルは実は「並の上」程度で、下手するとそれ以下です。
チャーチルに関しては意外と実像を知らない方が多いと思うので後で数値化しておきます。
>>87と近いと思う・・・。ただ気合入ってるなー。
352 名前: 世界@名無史さん 投稿日: 03/05/28 23:59
項籍 前232〜前202
【統率】28
(たくさんの優秀な配下に次々と逃げられている。
彼は人を使うのは全く上手くなく、ほとんど自分の力に頼ったので、統率力は低い。)
【武力】98
(3万で56万を打ち破る。28騎で数1000を殺すなど化け物的。
個人的武勇も超越しており、用兵能力も天才的。 敗北があるので100は与えられないけど、超人的であったのには間違いない。)
【知力】31
(鴻門で劉邦を殺さなかったり、陳平の「反間の計」によって范増を追い込んだりするなど、頭のいい人間には見えない。
彼が領土拡大できたのはすべて武力によるもの。)
【政治】15
(戦争ばかりで、政治面では全く何もしてない。 それ以前に政治タイプの人間ではない。)
【魅力】81
(優しい人格で部下から慕われていた。
彼が裏切られたのは、魅力の欠如ではなく、統率の欠如。
残酷だった点を差し引いてもこれくらいはあるだろう。)
「項羽が中国統一していたら」って思うとゾッとするよ・・
初めての数値化投稿なので滅茶苦茶でスマソ
118 :
世界@名無史さん:04/06/28 09:50
次スレで呉起の政治に青が9とかつけて大論争になったんだよな。
>>110 指導高いと言う話で私と一致。青は中国専門って言ってるから嬉しい。
404 名前: 永遠の青 ◆V9k1yZSe4M 投稿日: 03/05/30 02:01
>>391 劉邦の「将の将」たる器量は、統率力でしょう。
彼の魅力が高かったら、恩賞を弾まなくても、固陵で韓信・彭越は来ていたはずです。
利で人を釣る指導者のことを、魅力的な指導者とは言いません。
あと、統一後の粛清は、劉邦の能力によるものはほとんどありません。
韓信が王位を剥奪されたのは陳平の、殺害されたのは蕭何と呂后の策略です。
彭越が殺害されたのは、呂后の策略。
趙王張敖が王位を剥奪されたのは、
あまりの劉邦の傲慢ぶりに激怒した趙の重臣達の暴走がきっかけでした。
韓王信が匈奴に降ったのは、匈奴に包囲されて進退窮まったからです。
臨江王共尉、燕王臧荼、淮南王英布は、いずれも武力で打倒されています。
120 :
世界@名無史さん:04/06/28 10:07
まぁ青も絶対視されていたわけではないし、なによりもうこないから
青の話はもういいんじゃね。良コテではあったし、インパクト強いから
わかるのだが。マイナーな人物もキボンヌ
>>97 戦略=計画・方針を立てたり、理解する能力、政略&内政=実務能力でいいのでは?
戦略だけ高い人=ブレーン。実務面ではなく、考えることで指導者をサポートする人。
大局的な見地からの分析や方針策定に長けているが、実務能力はいまいち。
政略だけ高い人=視野の狭い策士。汚れ仕事や利害調整で指導者をサポートする懐刀。
大局は理解できないが、政治利害を調整するセンスに優れる。
内政だけ高い人=専門バカのテクノクラート。デスクワークや現場指揮で指導者をサポートする人。
大局観や政治利害の調整には疎いが、決められた方針を実行に移す能力に長けている。
>>100 電撃戦を採用する方針を考えるのが戦略、電撃戦を戦場(大本営に有らず)で指揮するのが戦術。
ヒトラーの電撃戦は戦略に入れた方がいいと思う。
>>106 負けのほとんどは、相手が強すぎるか、戦力が少なそうな時。
充実した戦力を有し、相手が非常識に強い相手の時以外は順当に勝っているので、
本当に可もなく不可もない戦術家だったのだと思う。
連続&長文スマソ
>>110 項羽は戦局が有利でも、人使いのまずさで部下にボロボロ逃げられている。
自分がいないところでの楚軍はさっぱり勝てないので、軍を組織するのも下手っぽい。
たぶん指導力はない。
戦略の欠如を全部戦場でひっくり返せるくらい超絶した戦術家だったから、
部下に逃げられる&敵に切り崩されるスピード<戦果を上げるスピードである限りは、
勢力の拡大を続けられるが、どこかでつまずくとあっという間に瓦解する。
劉邦は史記の記述を見れば分かるとおり、かなりアクが強くて嫌な性格。
しかも、意地汚くて傲慢という評判が鳴り響いていた。
韓信や陳平の話では、項羽の方が人に好かれる性格だったらしい。
劉邦は人の使い方がうまかったから、性格が嫌でも将来性がありそうと見込んで
人が付いてきたのではなかろうか。
どっちかってえと指導力の分野と思われ。
>>114 部下に好かれてても、トップに立つと組織を混乱させるだけの人もいるし、
部下に嫌われているのに、トップに立つと豪腕をふるって組織を発展させる人もいる。
前者は【指導】が低くて、【人望】が高い人。後者は【指導】が高くて、【人望】が低い人。
123 :
世界@名無史さん:04/06/28 15:32
土耳古のとーちゃん
【指導】 7
【戦術】 7
【戦略】 7
【内政】 7
【政略】 7
【人望】 7
>>115 ヒトラーは戦略家としてはかなりのものだと思う。
敵を潰す順番を心得ているし、政治的判断もおおむね妥当。
成否に関わらず、打つべき手は全部打っている。
軍事戦略は疑問符が付くところもあるが、同じようなミスは他の指導者もやっているし、
手持ちの戦力の少なさを考えれば、ヒトラーが決定的に劣っていたとは言えないと思う。
最後に残ったイギリスとソ連が想像を絶するほどしぶとかったのが敗因で、
ヒトラーがアフォというより、スターリンとチャーチルをほめるべきだろう。
イギリスとの講和に付いては、ソ連と同時に事を構えたくないし、
戦局が有利な時点で一旦講和しておきたいというのは無理のない考えだと思う。
ドイツの国力で二正面作戦は苦しい。
領土的野心が大きくて、戦力も温存しているソ連と、
領土的野心が無くて、大陸で負けまくったあげくに本土が攻撃を食らっている英国では、
後者との妥協が成り立ちやすいと考えるのが普通ではなかろうか。
アーリア人がどうこうと本気で言ってたのではなく、純粋な計算の上だったと思う。
また、ナショナリズムと人種主義が当たり前の時代に、
もともと植民地だったわけでもない土地の異人種の忠誠心を信用するのは、
あまり常識的な考えではない。
コーエーの国取りゲームとは訳が違う。
チャーチルは至らないところも多かったが、優れた指導者であったとは思う。
英国の指導者がもっと腰の弱い人物、強腰でも求心力の無い人物なら、
早い時点で英国民の士気は地に落ちていたのではなかろうか?
彼が偉大な宰相と評価されるのは、
苦しい戦況の中で決してドイツと妥協せず、国民に闘志を吹き込んだということに尽きる。
その一点しかないが、その一点だけでも凡庸な宰相に出来ることではない。
文句言うばかりだとアレだから、数値化に参加する。
とりあえず夜に漢楚やるから楽しみに待て。
お粗末極まりない
>>126 たぶん解説が少ないからかな。うまく突っ込み入れないと、誰も教えてくれないよ。
>>124 我が闘争では、英仏とは戦わない予定だったのにね。
光武帝 劉秀
【指導】 8
行き当たりばったりで一軍を率いることになったが、その後破竹の勢いで天下を纏め上げる
当の本人は茫洋とした性格で指導者というイメージを抱かせなかったが、多士済々の名臣迷臣を
非常に上手く使いこなし、人材層の厚さは歴代王朝創始者の中でも一二を争うかと思われる。
また、指導力と関係はないかもしれないが、統一後に功臣粛清がなかったことでも
非常に高い評価を受けている。
【戦術】 9
武勇という言葉とは無縁な青年時代を送っていたが、昆陽の戦いではなぜか突然単騎突入を決行し、
百万を称していた新軍を数千で撃破している。
また、皇帝となってからも陣頭指揮を執るなど、戦場では項羽をも見紛う猛将へと豹変するようだ。
【戦略】 8
統一前はおよそ戦略性が見えず、始終四方を敵に回していたにも拘らず、驚異的な軍事能力で
天下を統一した。
統一後は消極策をとったが、相次ぐ暴政と戦乱で疲弊していた国内事情を考えれば
最も妥当な方針だったのではないか。
また、匈奴に対する戦略も見事。とにかく、統一後は本当に良い意味で「柔」の人であった。
【内政】 8
戦略の頁で述べたことと重複するが、奴隷制の撤廃や徴税の緩和、屯田制の強化などで
疲弊した民力の回復に努めた。また、他にも大学制度や大規模産業の奨励など、様々な政策で
国力回復を図った。
【政略】 7
もともと警察官になって偉くなり、町のマドンナと結婚して幸せな家庭を築くことが最大の夢であり、
出世欲も性欲も、全く人並み程度だった。また、一軍の大将になったのは兄が死亡したからであり、
皇帝になったのも即位しなければ身が危うかったからのことであって、積極的になりたかったのではない。
そんなわけで、謀略でもって政敵を蹴落としたり、保身のための非常手段をとるというようなことは
ほとんどなかった。しかし、そういう手段を用いずとも皇帝の地位にまで上り詰めたのはある意味実力か。
【人望】 8
多くの名士がその下に集ったが、歴史上の偉人特有の威厳や大器を示すようなエピソードは少なく、
身分も県令の三男坊であり、外見もヒゲが立派だったこと以外には特に常人離れしたものはない。
どちらかというと、常に謙虚で穏やかな常識人であり、温和な親しみやすさで人に接するタイプであった。
>>128 えらく優秀な男だな。欠点が無いぞ。あっ失敗してないのか。
>>130 正直、9とか10をつけたかったけど、
>>6をみると
>9=時代を代表する天才。
>10=世界史を代表する天才。数世紀にひとり。
とあって、偉大な凡人劉秀に「天才」という言葉は似合わないと思い、だいたい8にしておきました。
あと、
>>87を見ると項羽の戦術が8なので、劉秀の戦術も8止まりで良いかと。
132 :
121 ◆3DTcp49FlQ :04/06/29 02:49
つーわけで数値化挑戦っす。
陳平 漢丞相・曲逆侯
【統率】5
劉邦の懐刀としての仕事が長く、組織を率いる仕事は左丞相になってから。
呂后専制時代はほとんど政務を執らなかったため、丞相として働いた期間は短かった。
文帝との問答に見るように、宰相たる姿勢を良く理解していたようであるが、
在任期間が短かったこともあるが、国政の場で何をしたかのエピソードはなく、
可も無く不可も無い務めぶりだったと思われる。
【戦術】6
楚軍時代は指揮官畑を歩いていた。
討秦戦や殷の反乱討伐で功績を立てている。
指揮官としては有能な人だったらしい。
【戦略】6
戦略を練るのではなく、目先の状況を打開する策を立てるタイプの策士だが、
決して視野が狭かったわけではなく、劉邦の足を踏んで韓信の離反を防ぐなど、
大局を理解する能力も人並み以上に備えていた。
133 :
121 ◆3DTcp49FlQ :04/06/29 02:50
【政略】9
人間の心理を突いた策を出して、劉邦の難局を何度も救った。
功臣粛清、呂氏誅滅など多くの陰謀に関わり、ことごとく成功させている。
保身にも巧みで、何度も失脚の危機にあったが、無事に切り抜けた。
漢に仕える前に二度失脚しているが、陳平の保身の巧みさ、淡白な性格を考えると、
保身を考える前にやる気をなくしてしまい、さっさと見切りをつけたものと思われる。
【人望】3
人に嫌われたり、讒言されると言ったエピソードが多く、
「知恵が回りすぎて、ひとりでは任せられない」と劉邦に評されるなど、
あまり人望を得られるタイプではなかったようだ。
ずけずけと物を言う性質で、淡白すぎるところがあったので、
実際目の前にいると、すごく付き合いづらそうである。
しかし、兄、張氏、魏無知など、理解してくれる人はとことん援助してくれているので、
付き合い下手だが、深く付き合うと味わいのあるタイプだったと思われる。
陳平を使いこなすのは難しいだろうなー。
中国の田沼意次。
>>131 劉秀の指導力は十分に時代を代表するレベルと言っていいと思われ。
人使いもうまいし、粛清しなければいけないような人間は冷遇して反乱に追い込む(彭寵)か、
降ってきても最初から起用しない(樊崇、李軼)で力を与えないようにしている。
皇帝としては完全な独裁者で、強力なリーダーシップを発揮し、天下を太平に導いた。
幾度か信頼した部下に背かれているのはマイナスだが、それを補って余りあるだけの実績はある。
劉秀は当時では最強レベルの将軍だが、
隗囂あたりにけっこう苦戦してたし、他にも苦戦は少なくない。
項羽と似たタイプの戦い方をするが、項羽ほど無敵ぶりを誇ったわけでもない。
戦術は8で妥当だと思う。
戦略・政略・魅力に付いては同意。
内政は独裁君主として、後々の時代まで良い影響を残す治績をあげたのだから、
時代を代表するレベルの9でもいいように思う。
とんでもない能力になってしまったが、軍の指揮やら、戦争指導やら、国政やら、
あらゆる仕事を超一流にこなしてのけたのだから、これぐらいはあっていいと思う。
天才と言えるタイプではないが、これだけの業績はそこらの天才にもなかなかできるもんじゃないから、
天才レベルの実力者と呼んでも一向に差し支えないのではなかろうか。
まずい、内政を設定し忘れた。
陳平
【内政】4
内政を担当する職に就いた経験が少なく、
呂氏誅滅後に政務を執るようになってからも、
文帝との問答以外の内政に関するエピソードは出ていない。
内政面では影の薄い陳平だが、劉邦は彼に実務能力を期待したのではなく、
策略を立てる能力で皇帝を補佐することを期待したのだと思われる。
>>134 陳平はこの手の策士には珍しく、かなり線が細い性格。
疑われてると感じたらすぐに辞めようとするし、
自分が汚い策略を立てたことに引っ掛かりを感じることもあった。
結構扱いにくい性格だが、信じてくれた人には義理堅いので、
一旦心を開けば絶対の忠誠を誓ってくれると思う。
田沼は人付き合いが良くて、結構人脈が広かったらしい。
小姓から側役畑を歩いて老中まで引き立てられた人なので、
上司にとっても、相当使いやすい人だったような気がする。
(意次のような実力派の政治家と比べるのは良くないが、
宦官が権力を振るったのは、「官僚や貴族より使いやすかったから」という面が大きい)
137 :
世界@名無史さん:04/06/29 06:08
劉邦は人望がなかったが指導力が抜群だったので部下に良い人材が多く集まった。民衆・農民も集合した。
↑ということは人望があったといことじゃない?
個人としての魅力がなかった、ならすっと飲み込めるが。
人望は結果的なものを含んでると思うんだよね。違うかな?
あんま高い数字ばっか並んでるのもなんだかな。
もっと微妙なマイナー人物もきぼん
斉のビン王と孟誉君はどのくらい?
というか、あの二人が揃った時は、斉は当時戦国最強だったんだけど、
これってどちらの功績によるものなのかな?
彭徳懐
【指導】 4=普通の人民?
【戦術】 7=朝鮮戦争において、米軍の東西戦線の間隙を見抜き(壬申倭乱と同じw)、
近接、夜襲による包囲殲滅戦術で緒戦に勝利、米軍を押しまくるが、
米軍に携帯食料の量を見破られ、火力防衛、逆攻勢の戦術により、敗勢に陥る。
しかし、モグラ戦術によって、20km級の坑道を掘り、米軍を食い止め、引き分けに持ち込む。
柔軟な用兵を高く評価。投入兵力と犠牲者が多い事はマイナス。
【戦略】 5=林彪も辞退した朝鮮戦争の司令官を引き受け、米軍を食い止めたのは立派。しかし、
基本的に受身の戦争であり、評価しづらい。
その後、米国との戦争経験から、中国軍の近代化、正規化を推進しようとし、毛沢東に
「ブルジョワ階級の党内での代弁者」と嫌われる。さらに林彪に「軍事クラブをつくって
軍隊のっとりを画策、ソ連に内通した」などと批判され左遷され、組織改革に失敗。
だが主張は正しい、というか当たり前か。
【内政】 4=組織改革は命令されてやったわけでは無く、結果も無いので、評価無し。
【政略】 3=左遷後、さらにあの姚文元に糾弾され、文革開始。営巣で5年の訊問と拷問。癌だったが
早期入院できず病死。栄光の元帥から、悲惨な末路に。死後無実となる・・・。
朝鮮の英雄に多いパターン。戦地の選択を間違えたか?
【人望】 4=普通、というか不明。誰か弁護してやれよな。(弁護すると死ぬかな。)
朝鮮戦争において彭徳懐は、こう呟いたと言う。
「黒い雪だ。・・・これが現代戦争なのだ。」
東條英機 (手直し歓迎)
【指導】 6=「戦陣訓」は、結構、効果的だったのでは無いだろうか。本人が最も力を入れた所だろう。
【戦術】 4=特に談無し。部下の評価は良かったようだ。
【戦略】 3=石原いわく「君には無理だ、君が首相で居る限り日本は勝てない。君の退陣以外ありえない。」
「東條は何も考えていないのだから、話にはならない。」
きっと何も考えず黙々と、戦争支援をしていたのでは無いだろうか。
【内政】 7=統制派として軍の派閥を解体。共産主義顔負けの統制経済を実現。
優秀な官僚である事を示す逸話は多い。
更に次官の兼任の陸軍航空本部長として海軍航空の山本五十六と競争したようだ。
(海軍に勝てるわけないけど)
【政略】 2=陸軍次官になったのは板垣より律儀で真面目だから。首相になったのも、律儀で真面目だったから。
そして、交渉の成功談がまったく無い。海軍、参謀本部、石原、米国、重臣。全て失敗。
【人望】 5=忠臣としての評価は高かったようだ。敗戦前ならこんなものだろうか。
軍事法廷での証言。
「責任は全て私にある。」
東條が得意気に次官会議で、陸軍新鋭機の性能を語ると、山本五十六が一言
「ホホウ。えらいね。君のとこの飛行機も飛んだか。それはエライ。」
143 :
世界@名無史さん:04/06/29 15:52
>>121 【戦術】劣勢をひっくり返す能力
【戦略】優勢を整える能力
が判りやすいと思う。
ナポレオンやヒトラーは、戦術で強引に、劣勢を優勢にした気がする。
毛沢東、ドゴール、チャーチル、劉邦は、戦略と思うけど、どうだろう?
>>139 斉・ビン王 田地
【指導】3
(表面上は)最盛期の王として君臨したが、背面服従の蘇兄弟や悼歯を重用したり、
滅亡寸前の劣勢を盛り返した達子に対して報奨金をケチるなど、ボロが出ると凄まじい。
【戦術】3
この時代の君主全般に言えることだが、王自ら戦地に赴くといったようなことはほとんどなかったのでは。
燕軍が斉都・臨シに攻め込んだ際には、真先に逃亡した。
【戦略】5
巧みな外交戦略で周辺諸国を切り取り、斉を秦と肩を並べる二大勢力にまで成長させたが
征服地に確固たる支配体制を敷かず、高圧的な態度で押さえつけていただけの観がある。
楽毅らに攻め込まれた際、あれだけの大勢力がいともたやすく崩壊してしまったことを考えれば
お世辞にも有能とはいえないのでは。
【内政】4
上記したように、傲岸不遜な態度であったために支配地の人民から嫌われていたことは大きなマイナス。
ただ、彼を弑逆した悼歯は非常に評判が悪く、斉の旧臣が立ち上がったときには多くの群集がそれに
共鳴したという点をもって、オマケの「凡庸」とした。
【政略】5
巧みな謀略で燕を崩壊させたことは評価に値するが、本人の発案かどうかは不明。
上手く使いこなせば有用この上なかったであろう劇薬・孟誉君とは常にギクシャクしていた。
【人望】3
傲岸不遜な性格。支配地住民には忌み嫌われた。奮闘した家臣に恩賞をケチる。
しかし、内政の頁で書いた逸話から、+1
斉の領地が広がったのは、この人個人の野望のためでしょう。
このひとほど功績と人物としての能力が一致しない人も珍しい・・・・かも?
>>137 「勝ちそう」「得になりそう」と思えば、嫌われてる奴にも人間は付いてくるもんなので、
結果として人が集まったということと、人望は関係ないと思う。
勝ち負けや損得と関係無しに、人格的に人をひきつける能力が人望と思っている。
劉邦は(亭長時代の子分を除くと)人格より、損得勘定で人をひきつけてるっぽい。
>>138 今晩、盧綰をやる。
希望通り微妙でマイナーで、ついでに華々しい活躍も少ない香具師だ。
>>140 朝鮮戦争後の事跡しか無いのがちょっと不満。
こっちでも評価付けてみていいだろうか?
あと、東条も時間があったら挑戦してみる。
横から参加。これの方がしっくり来そうだな。
カエサル
【指導】 9(部下の叱咤激励が非常に上手く、元からの部下には
裏切りと言えるほどのものはない)
【戦術】 9(連敗がなく、勝つべきところでは全て勝っている)
【戦略】 10(ローマを五百年間延命させた男にはこの数値しかない)
【内政】 9(政策的に極めて有能。ただし実施については死後の部分も大きいので-1)
【政略】 8(途中の政治危機は乗り切るも、暗殺されたのでこの程度かと)
【人望】 10(当時から人気があり、後世への影響も非常に大きかった)
東郷平八郎
【指導】9
【戦術】9
【戦略】7
【内政】5
【政略】6
【人望】9
>>148 おお!納得の【戦略】10
どこに文句つけよう・・・。人間を超えてる。カイゼル・・・
>>149 こっちは、能力高すぎ。老醜の東郷。戦術の秋山。洩れ、あんま知らんのだよなー。
151 :
世界@名無史さん:04/06/30 00:28
獅子心王、ジョン(英)、フィリップ2世、リシリュー(仏)、ミカエル8世(ビサンツ)、
フリードリヒ大王(プロシア)、アルフォンソ賢王(スペイン)、
サラディン(クルド)、テムジン、オゴタイ、章宗(金)
153 :
世界@名無史さん:04/06/30 02:03
154 :
121 ◆3DTcp49FlQ :04/06/30 02:49
盧綰 漢の燕王
【統率】4
太尉(国防大臣)の地位として、位階の上では軍のトップにいたが、
実質は劉邦の話し相手であり、軍部の最高指導者としての活躍は無かった。
その後燕王に封じられ、五年間統治したが、
どのように国政を指導したかは記録に残っていない。
凡庸な指導者だったのだろう。
【戦術】4
史書に残っている武功は、彭越の梁攻略作戦の援軍と、臨江王共尉討伐の二つ。
どちらでも戦果を上げているが、前者の作戦では本紀に記述があるだけで、
自分の伝記の中では参加したことすら記されていない。
どうも、作戦に参加したというだけで、一緒に戦った彭越や劉賈ほど活躍しなかったようである。
後者の作戦では、かなり苦戦している。
戦上手では無さそうだが、大きな失敗もしてないので、
戦術能力は十人並みと思われる。
【戦略】3
行き当たりばったりの二股外交で燕を存続させようと図ったが、
あっさり露見してしまい、かえって討伐の口実を与えてしまった。
戦略は不得手だったようだ。
155 :
121 ◆3DTcp49FlQ :04/06/30 03:32
【内政】4
燕王になるまで、内政に関わる職に就いた経験は無い。
どのように国を治めたか記録も残っていないので、
軍人上がりとしては、ごく普通の為政者だったのだろう。
【政略】2
劉邦にもっとも信頼された腹心だったが、
二股外交の露見がきっかけで疑われるようになり、
対応を誤り、最悪の事態を招いてしまった。
目先の問題を処理する能力は、無能と言っていい。
【人望】6
漢は盧綰軍に加わった人々にも寛大な処分をしていたので、
処分を恐れて逃げる必要はなかったのだが、
それでも盧綰には一万の兵が従っていた。
人望はわりとあったようだ。
>>154 見事に平凡だ。劉邦の清涼飲料水といったところかな。
劉邦の人使いの妙を象徴する人かも。近侍は有能だと良くない事多いからな。
157 :
121 ◆3DTcp49FlQ :04/06/30 06:05
>>148 【指導】9 内乱の一世紀を終結させ、多くの優れた人材を登用してローマの統治・軍事組織を確立。
【戦術】0 軍事的才能は皆無。自ら指揮を取った戦いは全部負け。
【戦略】8 拡張政策の限界を悟ると、防衛重視政策に転換し、帝国の国境線を確立した。
【内政】10 内政がこの人の本領。50年の治世でローマ帝国の基本となる諸政策を作り上げた。
【政略】9 政治闘争では無類の強さを誇る。共和制の建前を守りつつ、絶対的な権力を手中に。
【人望】8 カエサルが死んだ時は無名だったのに、瞬く間に民衆の支持を獲得。
人気に押し上げられる形で執政官の地位を得た。
能力がインフレ気味だが、カンベンしてくれ。
数世紀レベルの影響力を残した指導者というのは、これぐらいあってしかるべきだと思う。
この人はわりと失敗も多いが、功績で相殺できるレベルだろう。
ルフスの裏切り、親衛隊の創設、晩年の被害妄想などはどう評価すればいいのだろうか?
>>157 答えは「オクタヴィアヌス」だね。そんな難解なジョークされても。
晩年やばい奴は、指導者の資質を疑うけどなー。
毛沢東、東郷、ピウスツキ
>>158 スマソ。157は
>>153だった。
晩年までしっかりしている指導者はそうそういるもんじゃないから、
全盛期にでっかい仕事した香具師は、優れた指導者ってことでいいんじゃね?
失敗は誰でもするもんだが、成功はなかなかできるもんじゃない。
歴史的人物は減点法より、加点法で評価した方がいいと思う。
>>144 サンクス。
やっぱ孟誉君の手柄なのかな(具体的になにをしたのか知らないけど)
彼が去ると同時に、連合軍に攻めこまれ、あっと言う間に崩壊してしまったし。
燕を事実上併呑し、宋を潰し、領土を一気に拡大した手腕は中々だと思ってたんだけどね。
それゆえに、敵を多く付くってしまったんだろうけど。
161 :
世界@名無史さん:04/06/30 12:54
うーん。初代カエサル、二代目オクタヴィアヌス
この豪華さはさすがにローマ帝国だな
10段階で進めているうちはコーエースレクラスの力作は出ないだろうな
>>160 おい、
>>144のどこを読んだらそういう意見が出るんだよ。
あまりに滅茶苦茶すぎて笑ったぞ。
>>160 孟嘗君が「賢」とされたのは、3000人の食客を養って国際的に名声のある大貴族だったから。
彼がビン王のために立てた目立った功績は、秦討伐ぐらいしか史書に記されていない。
>彼が去ると同時に、連合軍に攻めこまれ、あっと言う間に崩壊してしまったし。
諸国は斉の隙を虎視眈々と伺っていたので、
「孟嘗君ほどの有力者が逃げたのだから、斉の内部はガタガタに違いない」と見て攻め込んだと思われ。
小国の君主並みの領土を持ってて、しかも国際的有名人が他国に亡命したら、
そりゃインパクトでかい。
ビン王の覇業は、宣王以来の遺産によるところが大きいと思う。
彼自身機を見るに敏で、敵国が弱ったところを巧みに突いている。
外交・軍事戦略に長けていたから勢力を広げられたが、
統治者としての器を欠いていたせいで、保ちきれなかったのではないだろうか。
>>161 初代と二代目が続けて有能、もしくは二代目に有能な宰相or摂政が付いてないと、
統一王朝は長続きしない。
オクタヴィアヌスのポジションにいた人が無能だったら、ローマ帝国は早い時期に崩壊していたと思う。
>>157 概ねそんなものかと思う。ただ、戦術0はちょっと低すぎのような気もするが。
プロイセン国王フリ−ドリヒ二世
【指導】9 反乱はほとんど起きていない。七年戦争を戦い抜いたのは、ほとんどこの能力。
【戦術】7 無能ではないが、結構負けてもいる。
【戦略】8 総合的に見て有能だし、結果を見越す先見の明もあるが、9にするには詰めが甘い。
【内政】9 ほとんど無視されてるような気もするが、宗教的寛容や法律の整備、国内の開発、
不作/豊作時の対応など、業績は高く評価されていい。
【政略】6 特に外交において、読み間違えがかなり多い。
【人望】8 国内的には人気があったし、国際的にも後半はそこそこ人気があったようだ。
>>165 軍備はフリ−ドリヒ一世がほとんど整えた。
というか、相手より優勢な戦力を整えた事【戦略】はほとんど無いんじゃ?
戦略はこのスレでは「知力」の代わりだから。単に軍事方面だけのことじゃなく、
国家戦略も含むと
>>1でもなっている。
・・・やっぱり「戦略」は「知力」に戻した方が良くないか?
広義での戦略は政略も絡むし。こういうのが出てくるたびにいちいち説明するの面倒。
「知力」って「戦略」より曖昧な気がする。史上で有名な人間に「知力」や「先見性」が
低い奴ってそういないと思われ。世界史板の住人は【戦略】の定義が少しおかしい。
【戦略】長期的・全体的展望に立った闘争の準備・計画・運用の方法。
簡単に言うと、戦場に到着する前に、どれだけ有利な状況を整えられるか。
つーか1に逃げられると困るな・・・。辞典で決めないか?
>>140 彭徳懐 人民解放軍元帥・国防部長・副総理
【指導】7 300万の大軍の総司令官として、朝鮮戦争を指導。
その後、国防部長として陸・海・空軍の近代化を進めた。
【戦術】7 八路軍創設以来、武勲は数限りない。
苦しかった時代の共産党軍を支え、武勇を讃える詩を毛沢東から送られるほどであった。
国共内戦では林彪、劉伯承に次ぐ武勲を挙げている。
【戦略】7 単なる戦上手ではなく、優れた戦略的視点も備えた軍人。
朝鮮戦争では圧倒的な火力を誇る国連軍を、人海戦術で対抗。
一時は総崩れになったが、持久戦に持ち込んで体勢を立て直し、休戦直前には大攻勢に打って出ている。
戦後は人海戦術(人民戦争)を放棄して、火力の増強に転換した。
成果を上げた戦術を放棄する柔軟性は立派。
【内政】4 西北局第一書記、政治局員、国務院副総理を歴任しているが、
いずれも軍部の有力者として与えられた役職である。
強い指導力で有能な部下を動かすタイプであり、官僚的な能力はあまり無かったようだ。
【政略】3 直情径行の豪傑。言いたいことをずけずけ言い、「張飛のような男」と評された。
毛沢東の権威が強くなったからも、決して主席と呼ばず、対等意識を持ち続けた。
このような性格は、陰謀渦巻く中国政界で生きるには不向きで、
高崗・饒漱石事件では生き残っているが、廬山会議で失墜した。
【人望】7 上におもねることもしなかったが、下におごることも無かった。
民衆にも気さくに接し、人気のある将軍であった。
彼が大躍進に疑問を持ったのは、農民の話を聞いて同情したことがきっかけだったと言う。
ずれた。
>>140 彭徳懐 人民解放軍元帥・国防部長・副総理
【指導】7 300万の大軍の総司令官として、朝鮮戦争を指導。
その後、国防部長として陸・海・空軍の近代化を進めた。
【戦術】7 八路軍創設以来、武勲は数限りない。
苦しかった時代の共産党軍を支え、武勇を讃える詩を毛沢東から送られるほどであった。
国共内戦では林彪、劉伯承に次ぐ武勲を挙げている。
【戦略】7 単なる戦上手ではなく、優れた戦略的視点も備えた軍人。
朝鮮戦争では圧倒的な火力を誇る国連軍を、人海戦術で対抗。
一時は総崩れになったが、持久戦に持ち込んで体勢を立て直し、休戦直前には大攻勢に打って出ている。
戦後は人海戦術(人民戦争)を放棄して、火力の増強に転換した。
成果を上げた戦術を放棄する柔軟性は立派。
【内政】4 西北局第一書記、政治局員、国務院副総理を歴任しているが、
いずれも軍部の有力者として与えられた役職である。
強い指導力で有能な部下を動かすタイプであり、官僚的な能力はあまり無かったようだ。
【政略】3 直情径行の豪傑。言いたいことをずけずけ言い、「張飛のような男」と評された。
毛沢東の権威が強くなったからも、決して主席と呼ばず、対等意識を持ち続けた。
このような性格は、陰謀渦巻く中国政界で生きるには不向きで、
高崗・饒漱石事件では生き残っているが、廬山会議で失墜した。
【人望】7 上におもねることもしなかったが、下におごることも無かった。
民衆にも気さくに接し、人気のある将軍であった。
彼が大躍進に疑問を持ったのは、農民の話を聞いて同情したことがきっかけだったと言う。
【朝鮮戦争の評価】
朝鮮戦争で兵を使い捨てるような用兵をしたことを非難されているが、
火力の差がある以上、犠牲覚悟で戦うのは止むを得なかったと思う。
人海戦術はあまり褒められたものではないが、
あれだけ犠牲を出しておいて最後まで戦争を継続できた指導力、
唯一のアドバンテージであった数を最大限に生かす戦い方を選んだ戦略は、
十分に評価してよいと思う。
【書き忘れ】
朝鮮戦争での彭徳懐は、総司令官として戦争全体を指導する役割だったので、
戦場での強さを表す【戦術】ではなく、全軍を統率する【指導】と戦争全体を動かす【戦略】の範疇に入れた。
>>167 戦略の方がすっきりしてていい。
「先の大戦で、早くから日本の敗戦を予期していたが、有効な手をなんら打てなかった」
という類の人間にまで、高い能力を付ける気にはならない。
あと、テンプレで見た限り、政略は純粋に根回しや謀略の能力っぽい。
超一流の人物になると、戦略も政略も一流だが、そういう人だけが歴史に出てくるわけじゃない。
優れた戦略家だが、陰謀だの根回しだのには疎かった(あるいは手をつけなかった)人もいるし、
長期的な戦略を考える視野はないが、根回しには長けていた人もいる。
そういう人を表現するにはちょうどいいと思う。
>>166 大王は始まった時点から圧倒的に不利だったから、
戦場に立ってからも不利だったが、もともと持ってたものが相手より圧倒的に少なかった。
同じ舞台に立てるぐらいまで差を詰めて、
いろいろもぎ取ったんだから、十分立派と言えるのではなかろうか。
>>168 【戦略】
1 戦争に勝つための総合的・長期的な計略。
2 政治・社会運動などを行う上での長期的な計略。「販売―を立てる」
[補説] 具体的・実際的な「戦術」に対して、より大局的・長期的なものをいう。
大辞泉より。
174 :
世界@名無史さん:04/07/01 02:37
>>173の【戦略】
競争ごとには全て「戦略」という言葉が適用できてしまうから漠然とした意味ですね。
ところで、
>>171の
>【戦略】7 ・・・・・人海戦術で対抗。一時は総崩れになったが、
> 持久戦に持ち込んで体勢を立て直し、
> 休戦直前には大攻勢に打って出ている。 戦後は人海戦術
> (人民戦争)を放棄して、火力の増強に転換した。・・・・・・・
の部分って戦術ではないですかね?
現場での用兵術という段階よりは大局的な推移ではありますが・・
>>174 大局での戦い方を考えるのが戦術、現場で応用するのが戦略だと思ってる。
176 :
世界@名無史さん:04/07/01 03:02
>>175 逆だよね。174に同意。戦術の採用だけで、戦略家として高評価するは微妙。
そうするとグーデリアンが最高級の戦略家にもなって、違和感感じる。
戦略家としての評価は国家戦略>軍事戦略だと思う。
>>176 すまん、書き間違い。
大局での戦い方を考えるのが戦略、現場で応用するのが戦術だよ…。
なんでこんな小学生レベルの間違いするかな…orz
178 :
世界@名無史さん:04/07/01 03:30
外交+内政が戦略ってことでFA?
>>178 こんな感じかな。
0=最悪に無能。
1=とても無能。
2=無能。未経験者の方がましなレベル。
3=苦手。未経験者もこのレベル。
4=凡庸。席を埋めているだけ。
5=大過なく勤まる。
6=有能な人材。 (先見性必須、将軍でもOK、軍令レベル)
7=国内では一流の人材。 (戦争準備必須、軍政レベル)
8=国を代表する実力者。 (外交戦略必須)
9=時代を代表する天才。 (国家戦略の勝者)
10=世界史を代表する天才。数世紀にひとり。
>>171 人望が跳ね上がったなー。ok
政略で死んだのに、3(苦手)で済ますと、0とか1とかつける人がいなくなると思う。
指導4→7か。
指導に関するものって何だろう? 離反、演説、組織誘導・・・
【指導】
(1)ある意図された方向に教え導くこと。
>>168 先見の明がない指導者なんて幾らでもいる。ブッシュジュニアに先見の明があったら
イラク戦争なんて起きないだろう。
暴君とされた理由がどこにあるのか、単にバカだっただけなのか、
人望や指導力が低かったから部下がついてこなかったのかというのも分析できるし。
>>178 だったらむしろ「戦略」はいらないような気が。
外交は「政略」の範疇だと思うから。実際、外交上手い奴は保身も出来るし。
しかしそうなると、カエサルみたいなグランドデザインのあった指導者と
なかった指導者(例えばポンペイウス)の能力差が付けがたい。
現実に対処する能力と、グランドデザインを描く能力もまた違うし。
>>182 彼の場合、プロイセンをオーストリアと対等な存在(列強)にするという意味での
グランドデザインは、当初からかなり明確にあったと思う。
目的としてのグランドデザインね。戦争はそれ自体があくまで手段だから。
そしてその路線が、後の(オーストリア抜きでの)ドイツ統一に結びつく。
もちろん紆余曲折はあるわけだが、この辺の影響力はやっぱりでかい。
指摘されたような失敗は、政略と戦術でかなり減点してるつもりだ。
184 :
世界@名無史さん:04/07/01 21:16
バヤジット一世
【指導】 8
【戦術】 10
【戦略】 10
【内政】 6
【政略】 5
【人望】 6
【運】も入れない?
時の運も実力だろ。
ここでハンニバルを再評価ですよ
187 :
世界@名無史さん:04/07/04 00:05
age> 織田信長 <age
【指導】 9
【戦術】 9
【戦略】10
【内政】 9
【政略】 9
【人望】 2
【技能】や【アイテム】を入れてもいいかな?
能力自体は低くても功績があった人とかを評価するために。
>>184 バヤズィット1世は英雄だが、さすがに戦術・戦略10はないと思う。
力で押しすぎるところが命取りになったから、
戦術9で戦略、指導はもう少し低くなるのでは?
>>186 コーエースレでは荒れたよな。
不世出の名将か、言われるほど大したもんじゃないか。
ザマの敗北をどう評価するかで、180度評価が変わるからな。
>>187 日本レベル?
>>188 能力が低くても功績を上げれた場合
1.敵の能力がもっと低かった
2.頼りになる上司or部下がいた
3.状況が有利だった(誰かがそういう状況を作ってくれたか、敵がミスした)
4.文明の差がありすぎた
技能はあってもいいかもしれないが、アイテムはどうだろうか?
「日本レベル?」という御意見がありましたが、確かに高すぎる気が。
織田信長
【指導】6→浅井を始めとして、裏切られた回数も多い。油断も目立つ。
【戦術】7→800人程度を率いていた頃から指揮をとる機会多し。器用。
【戦略】7→意外と勢いに任せて戦うような真似をしていないが、裏切られて手こずる事多し。
【内政】8→近世への道を切り開いた。
【政略】7→旧勢力か否かというより、逆らえばつぶすといったところ。
【人望】6→朝倉宗滴も注目した人使いの上手(但し国内に何人かいるというレベル)。
191 :
世界@名無史さん:04/07/04 19:37
信長はもっと高水準だって!
では、戦略と政略を一つづつ上げておきますか。
指導も+1。でも、>179の基準からいえばこれでも相当なものですよ。
しかしうまい設定を設けて下さったものです。実に分かり易い。
194 :
世界@名無史さん:04/07/04 20:53
>>191 信長厨ハケーン
高水準と思うなら、根拠示せ。
ま た 数 値 化 ス レ で す か
家でゲームでしててくれない?
三国志の続編でたみたいだよ
日本の戦国時代の有名な武将は、決して中国の動乱期の英雄や、
欧州中東の英雄に決して劣らないと思うけど、
比較対象がないので、数値がつけられない気がする。
近世以前は世界史板で無理に数値化しなくてもいいと思うんだけど。
あの三人も荒れたよなあ。
功績的には信長+秀吉+家康=カエサル+オクタヴィアヌスだと思うが。
秀吉の小田原戦までがカエサルで、それ以降+家康がオクタヴィアヌス。
でもって関ヶ原がアクティウムと思う。
「どっちが強い?英雄大戦スレ!」とか立てたら荒れるでしょうね。
家康あたりじゃアホらしくてほとんど相手にされないでしょうが、カエサル
とアレクサンドロスあたりじゃ微妙過ぎる(?)。
>197
家康とオクタヴィアヌスの内政・政略・戦略は拮抗したものでいいかと。
片やローマの平和、片や近代化前の徳川250年。時期と「世界史」への影
響は前者が圧倒的な大きさを誇りますが、徳川の太平も凄い。
地域だけ見るとスケールが違い過ぎるので、反発も出るでしょうが。
家康じゃ叩かれるだろうな、つか俺が叩く。
大体、江戸幕府の特徴の一つである「鎖国」は、必ずしも
家康が意図していたものではないんだよね。
管理貿易だという者もいるが、日本人の出国が禁止されたことに違いはない。
いずれにせよ、あれは秀忠・家光の路線だ。良きにつけ悪しきにつけ、
そこは家康の評価から外さないといけないだろう。
やっぱ前のコーエースレみたく100を最高にした方がいいよ。
10段階なんかじゃ、事細かな所まで評価出来ない。
>>199 暫定ですが、どうぞ。計画性の面から、私は信長・秀吉より高く評価しています。
徳川家康(1542〜1616)
【指導】8→武田と戦い、羽柴と戦い、失脚せずに天下人にまで上り詰めた。
【戦術】8→武田・朝倉・羽柴と常に劣勢で合戦に臨んだ。
【戦略】8→生涯敵と向き合い、最終的には打ち勝って生き残った。
【内政】8→武家諸法度、禁中並公家諸法度などを発布。金銀山の開発も進めた。
【政略】10→信長の死後、蔭に日向に戦っていた秀吉の下で重職に就き、
秀吉の死後は圧倒的勝利を収め、豊臣氏滅亡まで達成して大往生。
徳川幕府は15代264年間続き、その間ほとんど戦闘無し。
【人望】5→味方からの信頼は厚く、豊臣氏滅亡についても当初からの予
定では無かったともいう。が、流石に印象が悪すぎるか。し
かし勝ち組とはそういうものかも知れない。
家康は保守的な人間と思われがちです。しかし三浦安針のような外国人を
登用して洋風船を建造させたとか、大砲を用いたとかいう点も考慮した方
が良いのではないかと。信長の様に何度も裏切られた訳ではなく、息子の
事だけ心配して死んだ秀吉とも違って遺言を遺した時も意識は明瞭。
漏れ版信長
【指導】6 人使い8+組織固め4÷2
【戦術】7 戦上手な武将だと思うが、結構苦戦が多い。快勝と惨敗の差が大きすぎるので、ムラがあるかも知れない。
【戦略】8 実は忍耐の人。勝機を辛抱強く待ち続け、必勝の態勢を整えてから決戦を仕掛けるのが彼の真骨頂。
【内政】8 勝つための準備を惜しまない信長は、基盤作りも惜しまなかった。
【政略】8 謀略を多用。戦場の駆け引きより、戦わずして自壊させることに長けていた。政治宣伝もうまい。
【人望】4 カリスマらしきものはあまりなかったらしく、恩賞と恐怖で家中を統制せざるを得なかった。
>>196 どのレベルの人と比べるかによると思うが、
「大帝国を築いた」とか、「数百年にわたって文明圏全体に影響を与えるような業績を残した」レベルの人と、
武田信玄や毛利元就を比べるのは、さすがに無理があると思う。
>>197 信長+秀吉がカエサル、家康がオクタヴィアヌスに相当するのではなかろうか。
あえて例えるなら、だが。
>>198 封建制は荒れやすいので、250年も平和を保ったのは立派だとは思う。
外敵に悩まされ続けた代わりに地中海に君臨した超大国ローマと、
外界との関わりを断って地域大国に留まった代わりに平和を保った徳川幕府の、
どっちをよしとするかによって評価は別れるだろうが。
>>203 うーん。それなら家康+(秀忠+)家光=オクタヴィアヌスという気が。
上でも述べた通り、鎖国は家康の政策ではないし。
対して敗戦の結果とはいえ、オクタヴィアヌスはほぼローマの対外防衛政策を規定した。
政策自体の良し悪しは脇に置いて、その影響度のみで計るとね。
>>202 家康に独自のグランドデザインがあったんだろうか?
政策的には、まさしくほぼ秀吉路線の引き継ぎに見える。
戦略は7が適当かと。他の数値はそんなもんだろうがね。
生き残って天下取ったのも政略の力が大きいだろうし。
信長の人望についてですが、気にいられていた人間には信奉されていた気も。
それでも4が妥当かもしれませんが、本能寺の変の時の、
「矢代勝助・伴太郎左衛門尉・同正林・村田吉五、厩より切り出、枕を並て討
ち死す。中にもこの勝助は、奥州者にて隠れ無き馬の上手也けるが、汝は他
に異なり、退かじと云者ありけれども、あざ笑て尋常に討死しけるとかや」
という『甫庵信長記』の逸話は好きです。
ただ案外迂闊な気もしますね。「縁者」とも「家来」とも考えていた浅井長政に
裏切られた時にはなかなか動こうとしませんでしたし、荒木村重も割と信頼
していたようですから。
『信長公記』は浅井の裏切りの時に、「是非に及ばざるの由にて」と記していま
すが、本能寺の変もいつ起きていてもおかしくなかった。
僅か十騎ばかりで即座に移動する大胆さが逆に魅力であったとも言えますが
、実際に命を失っては仕方が無い。
>>204 >家康に独自のグランドデザインがあったんだろうか?
>政策的には、まさしくほぼ秀吉路線の引き継ぎに見える。
大大名の上に乗っかっていた政権を、鉢植えのような移封によって磐石のも
のとし、朝廷も将来的に押えられるようにした・・・改良型ですかね。
>>202 んじゃ胸をお借りして。
【指導】7 人使いが下手というほどではないが、新規雇用の柔軟性に問題性があり、
生涯三河以来の手札のみにて、勝負を繰り返したのはあまり誉められたものではない。
家臣も大久保はや本多のように対立したりと、7以上は無理、6でもいいかも。
【戦略】8 若いときを除けば、期を見るに非常に敏、電撃的な甲斐信濃攻略など、その手腕は高い
忍耐力もあり、常に冷静な冷静な判断力を保持していた
【戦術】6 信玄には負けるし、その後の勝頼にも押されまくり、
姉川などは家康の軍で勝ったようなものだが、相手があの時期の朝倉では評価が低い、
当時を代表する一線の武将に黒星があればいいのだが、小牧長久手も勝ちとは言えないのでこれ以上は難しい。
【内政】7 国内の産業振興などは大久保長安の発案などが大きいが、それを認め推進したのは彼。
【人望】5 初期では一向一揆に手を焼き、本多などの有力家臣が宗教に走ったり、人たらしの秀吉に石川を取られるなど、
どう評価しても、当時ですら人気があったとは言えないし。今に至っても人気はない。
残した功績は偉大だし、影響も負の面が多いが、結果を残したという意味では偉大だ。
だが本人にそれだけの能力があったとは言えない、唯一当時としては一流だったのは、
戦略(私の場合政略、外交とほぼ同義)という一番重要な数値
チャンスがないときは、後継ぎを殺すほどの忍耐を見せ、チャンスとみるや、
大胆に行動するさまは、各地方の有力大名と互角、いや越えているかもしれない。
>>206 秀吉も丹羽や佐々とか移して潰しているから改良とは言えないのでは?
>秀吉も丹羽や佐々とか移して潰しているから改良とは言えないのでは?
全国規模の計画には移せないままでしたから。唐入りより前に国内でやる事
があったでしょうに(萩焼や有田焼が好きだからいいか)。
戦術は最低7は欲しい気が。あの状態で信玄に勝てたら真の天才でしょうし、
小牧・長久手に至ってはあれ以上は・・・。善戦でしょう。
ところで、【政略】が抜けてらっしゃいますよ。
家康自身についていえば、「針をも蔵に積むような細心の蓄財をし、合戦の時
には玉をも砕くような大胆な使い方をする仁」でしょうか。
金を派手にばらまいたというような話はさておき、人生において地味と大胆を
使い分けて勝利した人ではないかと。元々は宗祇による北条早雲評ですが。
しかしこんな事を書いていると、アレクサンドロス3世やカエサルが三方ヶ原
や小牧で家康と同じ立場だったらどうしていたかという妄想が湧いて来ますね。
これはこれで楽しい。
>>208 あ、わたし政略を戦略にいれました。というより私の中では戦略は戦術に近いものではなく、
政略にこそ近いものだからです。分けていたら、どちらも8ですかね。
当時としては随一とは言わないまでも、かなり高い数値ではないかと。
関が原での寝まわし、天下を問った後の、豊臣恩顧の大名潰しと、なかなかの手腕だと思いますので。
戦術は善戦したとは思いますが、当時の有力武将は、寡兵で大軍を破っている人や、
生涯負けなしの人は少なくないので、それほど高い数値は上げられないと思います。
氏康は8倍はある大軍に勝ってますし、元就も5倍はある敵軍に勝ってます、
九州の話はかなり誇張があるそうですが、竜造寺(あれは鍋島かな)、島津など、
いずれもかなり凄いものがあります、そういう人達を8や9にするのもちょっとどうかと思うので、下げました。
それに城攻めになると下手糞ですしね、大坂や信濃攻略での真田とかかな、
戦上手で知られる信玄でさえ、箕輪攻めで、五回も失敗しているのもみると、
それほど城攻めが難しい事は分かってはいるんですが。
>>210 大坂はかなり効率良く落とした方だと思うのだが。
あのクラスの城が力攻めで落ちる訳でもあるまいし。
大体、信濃の真田は秀忠だろ。
でも結局は戦争以外の謀略だからなあ。
秀忠のは関ヶ原前で、
>>210が言ってるのは秀吉と対決する前だから時期が違う。
戦術の評価を上げるには厳しいと思う。
上の方見てると戦略と政略の範疇で色々問題起きてるみたいだし、
やっぱり戦略を知力に戻して政略残した方がすっきりすると思うけどなあ。
>>209 >あ、わたし政略を戦略にいれました。
成る程。
>氏康は8倍はある大軍に勝ってますし、元就も5倍はある敵軍に勝ってます、
戦国期の兵力にさほど詳しい訳では無いのですが、少なくとも川越合戦での
兵数には誇張があったようです。よくて五倍。
それに城を目標に攻めて来た場合や、厳島合戦のように誘い込んだのとでは状況
が異なるのではないかと。浜松城と吉田郡山城の地理的条件も比較するには厳し
いですし、元就が尼子相手に篭城した時には大内の援軍も期待出来ました。
>信濃攻略での真田とかかな、
どうも関ヶ原合戦前に秀忠が足止めをくらったのは真田のせいではなく川の増
水によるものであった様で、苦戦云々は信濃攻めの時の話のようですね。
ところでその以前の信濃攻めですが、家康が直接指揮をとっていたでしょうか。
こんな事を言っても評価は上がりそうもなく、この辺で切り上げた方がよいか
もしれませんが。
ここは日本史板ですか?
>>208 二人とも背水の覚悟で決戦を挑んだと思う。
>>209 >あ、わたし政略を戦略にいれました。というより私の中では戦略は戦術に近いものではなく、
>政略にこそ近いものだからです。
謀略や調整のうまさと、大局を見る能力は違う。
近視眼な謀略達者というのもいるし、大局では良い判断をするが謀略に疎い人もいる。
>戦術は善戦したとは思いますが、当時の有力武将は、寡兵で大軍を破っている人や、
>生涯負けなしの人は少なくないので、それほど高い数値は上げられないと思います。
寡兵で大軍を破れるのは、大軍の側に隙があった場合がほとんど。
厳島合戦も河越合戦も、敵軍の統率が乱れていた。
そこに付け込むのはも能力のうちで、そういう相手を寡兵で破るのも名将でないと出来ないが、
隙が無い大軍相手なら、名将でも善戦以上の戦いは出来ない。
勝敗の数だけでなく、誰を相手に戦ったか、どんな規模の戦いをしたかを考慮しないと、
戦術能力は評価できない。
216 :
121 ◆3DTcp49FlQ :04/07/06 19:15
>>210 >大阪の陣
難攻不落の大要塞に篭った10万の大軍。しかも物資を無尽蔵に持ってる。
こんな城を半年で落としたんだから、鮮やかな手腕とは言うかもしれないが、
戦下手とは口が裂けてもいえないな。
規模の小さい城塞を攻めるのに、何年も掛かるなんて良くあることだが。
>真田攻め
1585年の上田攻めのことを言いたいんだろうが、
あの時の徳川軍司令官は大久保忠世と鳥居元忠だぞ。
>>212 前の時も結構能力値の基準がぶれてて、
すっきりしたのは最後のスレになってからだった。
時間が経てば慣れるんでないか?
>>214 リクエストしてくれたら、できそうな人をやるよ。
>>207 とりあえず、突っ込ませてもらう。
>人使いが下手というほどではないが、新規雇用の柔軟性に問題性があり、
>生涯三河以来の手札のみにて、勝負を繰り返したのはあまり誉められたものではない。
今川遺臣、武田遺臣とかは無視ですか?
「中途採用は中枢には入れてもらえなかった」と言うのは無しな。
家康が最も重用した井伊直政は今川遺臣の出身だ。
長篠の英雄で、初代京都所司代になった奥平信昌は、武田から徳川に鞍替えした三河豪族。
他にも家康の代に取り立てられて活躍した人物はいくらでもいる。
>家臣も大久保はや本多のように対立したりと、7以上は無理、6でもいいかも。
家臣団内部の対立はあって当たり前。
ナポレオンも元帥同士の対立に悩んだし、
(ダヴーとベルナドットの対立は特に深刻で、ベルナドットがダヴーの援軍要請をシカトしたことすらあった)
明の朱元璋の功臣劉基と胡惟庸も激しく対立した。
特に天下を治めるほどの大組織になれば、個性的な人や我が強い人も多いから、
感情的な対立も生じやすくなる。
また、重臣の下にも多くの人が付くことになるから、
自然と派閥が生まれ、利害の対立も出てくる。
対立させないのではなく、対立しても国家の運営をそれで破綻させないのが、指導者の力量。
>当時を代表する一線の武将に黒星があればいいのだが、小牧長久手も勝ちとは言えないのでこれ以上は難しい。
10万対1万5千、しかも相手の総司令官は秀吉という絶望的な状況で、
前衛軍を撃破して、信雄がケツをまくるまで生き残ったというのは、十分な戦果だと思うがどうだろうか?
>>207 いいたい事はわかる。その上で
1の構想通り、戦略家、政治家としての評価をすると、
両方8でいい気がする。
戦略をしっかりと据えて無理はしてないし、交渉は極上。
家康は運が悪くても、大老筆頭として生き残る人物だと思う。
>>213 事実確認を少々。
>氏康
川越の八万は誇張ですが、6万五千あたりはほぼ確実です。
氏康の部隊が八千ですから、約八倍と判断したんですけどね。
綱成が三千で篭っていたそうですから、それを含めても6倍ってとこではないかと。
それに油断に乗じてという記録はないですね、夜襲だったとか、講和を申しこんで騙まし討ちとか色々想像されてますが、
実際それを補足する史料が残ってないんです。というよりでないといくらなんでも、この兵力差で負けるわけがないからそうされているというのが大きいです。
>元就
吉田郡山城の篭城戦は二人の違いがみれていいと思うんですけどね。
厳島の方は、誘いこんだのは戦略(というか調略か)の手腕ですから、戦闘とはいえませんけど、
実際四千で二万の軍勢を、それも決して無能な武将ではない陶を打ち破ってですから。
>>217 総司令官っていっても、秀吉の部隊を打ち破ってではないので、池田ならまだいいんですが、秀次なのがどうしてもね。
兵力差も秀吉軍八万、家康二万だったと思いますよ。
前線に投入したのは確かに一万五千程度ですし、秀次隊2万への奇襲は一万程度ですけど。
それをいったら秀吉も大半は前線に投入してませんし。
>>216 >大阪城
これはどちらかといえば、謀略ではないかと思うんですけど。
>あの時の徳川軍司令官は大久保忠世と鳥居元忠だぞ。
それは失礼いたしました。
>今川遺臣、武田遺臣とかは無視ですか?
まともに厚遇されたのは井伊くらいだと思うんですけど。
それに井伊直正自身は、今川に使えていませんし。
奥平は家康の長女と結婚しているから厚遇されたんじゃなかったっけ?
それにあれは一次的に武田に臣従しただけの気が、もともと武田譜代ってわけでもないし。
本多正信と似たいような経緯ではないかと。
多くの今川や武田の遺臣の多くは、水戸などの親藩に飛ばされてますから厚遇されたとは言い難いかと。
>派閥
だいたい同意です、私の場合は、だからこそ派閥をあまり容認すべきではないという意見なんです。
流石に明の朱元璋のように片っ端から、リストラしろとはいいませんけど、あまり残していていいものじゃありません。
本人は指導できても、秀吉のように次代でアウトになってしまう例も多いのでね。
220に名前出てきた朱元璋、誰かやって。
世界史板での荒らしがすごいね。
やっぱ日本人は荒氏になってしまいますかね。
以後出きる限り自粛します。
>>220 >だからこそ派閥をあまり容認すべきではないという意見なんです。
家康の場合見事に制御しきったじゃん、
減点の要素にはならないと思うが。
225 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 11:59
226 :
世界@名無史さん:04/07/11 21:13
228 :
世界@名無史さん:04/07/11 23:41
エーリッヒ・フォン・レヴィンスキー・ウント・フォン・マンシュタインってつおい?
>>228 強い。このスレの基準なら、戦術・戦略両方8は確定。
戦闘力ならいくつくらいかな?
232 :
世界@名無史さん:04/07/13 09:29
じゃあ白善Yってつおい?
徳川家康か、我慢強いってとこで越王コウセンを思い出させるな。
彼は晩年はかなりあれだが、家康はあまりそんなとこがないのがいい。
日本の戦国時代でいえば、毛利元就となんとなく被る。
二大勢力に囲まれた、小勢力、だが忍耐強く頑張り、策謀を駆使し、
最後に勝利を勝ち取った。嫌らしく、そして凄いやつ。
最も俺は毛利元就を押すけどね。元就を一回り小さくしたら家康かな。
234 :
世界@名無史さん:04/07/28 23:55
世界統一に最も近づいた男達。
オゴタイハン、モンケハン、クビライハン。
亀レスごめんなさい。
>>124 ん…勝ちを拾えるところで感情に流されてスラブ人を使わないのはやはりアウトです。
スターリンは独ソ戦が劣勢と見るや収容所送りの将校を恥も外聞もなく駆り出してます。
イギリスと講和を結ぼうなんて全然利に適ってないしなぁ。
ダンケルクで追い詰めたときイギリス軍を逃がしたのは明らかなミス。
降伏してない相手はためらわず纖滅すべき。
モスクワ陥落一歩手前で石油を抑えるために兵力を分散してしまったあたりも減点対象。
>>233 元就−計略+戦術的能力=家康
って感じかと。
諸葛孔明
【指導】9
カリスマ亡き後の蜀漢を厳正な統治で良く保った。その統治能力は貞観政要にも
小国の宰相ながら国を良く保った例としてあげられている。
【戦術】7
小説で描かれる虚像とことなり、セオリー重視の堅い采配をする人だった。
第一次北伐における魏延の長安強襲策を退けるなど大敗もないが、
大勝も得られないタイプの将帥だった。ただ孔明の死後、司馬仲達はその
陣立てをつぶさに調べて「天下の奇才なり」と感嘆したと言われている。
【戦略】7
補給を十分に整えて、負けがたい体勢を整えて戦う正統派の戦略家だったが、
いかんせん国力の差はいかんともしがたかった。
しかし数倍の国力の相手と連年戦って遂に敗北らしい敗北はなかった。
また劣勢とみると即座に退く潔さをもっていた。
【内政】9
連年軍を動かしたがついに国を疲弊させることがなかった。また信賞必罰の
政治で国内を平穏に保った。
【政略】7
呉と結んだり、上庸の孟達を寝返らせるなど対魏二正面作戦を演出しようとした。
ある程度の効果はあげるが、決定打とはなっていない。
着眼点は間違っていなかったが相手が悪かったのである。
【人望】7
カリスマらしきものはあまりなかったようであるが、高い地位にあっても
貪ることなく、その死は政敵にも惜しまれるほどの人柄だった。
238 :
世界@名無史さん:04/08/17 01:23
全体的にお気に入り人物の採点甘すぎ。
客観的に見てると、1〜2ポイントは引いたほうがいいと思う。
7もあったら、実際相当優秀じゃない?
>>236 どうかんがえても、戦術能力は元就が上だ。
家康はかなりへタッぴ。
野望は上かと>家康
内政と統率も上でいいかな。
>孔明
戦に勝つよりも負けない戦を行なう事が遥かに困難な事を忘れてはいけません。
孔明の数値はもう少し高くてもいい気が。
指導はもっと下げるべきでは?>孔明
7いや、6でもいいかも。
適材適所がまるで駄目。
劉備が集め、育てた人材を使っているだけだし、
劉備が止めてたバショクの起用で大失敗した。
魏延と楊儀の対立を放置しているし、
姜維は孔明が作った、関中軍を好き勝手に動かし、蜀を滅亡させた一人だし。
君主の教育もなっとらんよ。
ホント彼はナンバー2で終わるべきだったと思う。
>孔明
漫画板は最初の数巻しか読んでないです。
贔屓の引き倒しではなく、
手堅い戦略、負けない戦術、
戦況を的確に把握する能力は評価すべきかと。
劉備は個人的に無能の極みだと思っているのですが
上の方で指摘されている通り どう言うわけか
優秀な人材を見抜く能力は卓越していた気がします。
それ以外で見るところはありませんが。
>>237 さすがにそれは高すぎだと思う。
諸葛亮でその能力なら、統一王朝の創業皇帝や宰相はえらいことになりまつよ。
漏れ評価諸葛亮
【統率】7
連年成果の少ない遠征を繰り返したのに、国内をまとめきった手腕は見事。
ただし、人材配置がうまくなかったこと、
厳格すぎたために死ぬまで南中地方を安定させられなかったことなどは減点材料
それでも小国の指導者としては有能な部類。
【戦術】7
実は自分が陣頭指揮を取った戦いではほとんどミソを付けていない。
戦場での用兵には自信があると劉巴に語った通りの実力で、当時では一流の将帥と言って良い。
北伐の失敗は、国力の差を覆す戦略を立て得なかったことが原因。
【戦略】6
臨機応変の将略に欠けると陳寿に指摘されたとおり、手堅すぎる戦いをしたために、
魏の主戦級部隊が出てくると、地力の差がモロに出てしまい、
たちまち前進できなくなるというごく当たり前の結果に落ち着いてしまった。
誰が見ても必要と思われるような手は絶対打つから大きな破綻は来たさないが、
思い切った手を打てないために大きな成功も望めないタイプ。
【内政】8
劉備存命中は兵站の最高責任者。法律制定でも中心的な役割を果たすなど、本来は行政畑の人。
丞相になると厳格な法治を敷いたが、公正に運用したために四川では恨みを買うことは無かった。※1
少ない国力を最大限にやりくりし、成果の無い出兵を繰り返しても、
財政難&反乱祭りのスパイラルに陥ることは無かった。
小国の指導者としては最高級と言って良い。
【政略】7
赤壁では最大級にヤバい交渉をまとめ、調整能力の高さを示す。
劉備が死ぬと、共に後事を託された尚書令(宰相格)の李厳を棚上げして独裁体制を確立。
以後も多くの高官を粛清して権力を強化。
清濁併せ呑む器量には欠ける人だったが、必要なら汚い手を使うことにはためらいの無い人だった。
【人望】8
連年成果の無い出兵をして民衆に負担を強いた独裁者、しかも厳格で融通が利かない性格と来ると
激しく憎まれる以外ありえないのだが、清廉・公正な姿勢を貫き通したため、民衆に敬愛された。
粛清された人々も諸葛亮の死を知って嘆いたほど、その人格は高く評価されていた。
死後は民衆に祭られるようになり、世論に押されて国立の廟が立てられる事になった。※2
その人望は国を代表すると言って良いだろう。※3
※1
締め付けを嫌う異民族の多い南中では怨嗟の的となり、死ぬまで安定させられなかった。
この辺りは公正過ぎて融通が利かなかったゆえの失敗と思われる。
※2
蜀漢と言う国はとかく功臣の顕彰に不熱心な国で、諡を贈られた人物は12人。
しかもその多くがが死後かなり経ってからの追贈である。
元勲は漏れなく、うまくすれば普通の高官クラスでも死んですぐに諡をもらえる魏と比べると、格段に厳しい。
加えて、個人の廟を立てて祭ってもらえるのは諡をもらうよりずっとハードルが高い。
そんな蜀で民衆に押されて廟まで立ててもらえたんだから、
諸葛亮の廟を立てろと言う世論は相当強かったことを示している。
(ちなみに最初は劉禅が難色を示し朝議で却下されている)
たぶん四五天安門の時の周恩来や
六四天安門の時の胡耀邦並みに人気が盛り上がっていたんだろうと思われる。
※3
四川ぐらいの人口・面積なら欧州や中東の中小国一国に匹敵するから、
蜀漢は地方政権ではなく、独立国家とみなした。
>>236 毛利元就は局地戦では家康より派手に勝っている。
>>238 テンプレを見る限り、7で国内で一流って基準だから、
トップでは無くてもトップレベルってクラスだと思う。
>>239 やばい負け方はしてないし、負けてもしょうが無いと思われる時にしか負けてないので、
戦下手ではないと思う。
家康のように勇敢さと精鋭で勝負するタイプの武将は、
項羽クラスに突き抜けてないと、確変を起こしにくい。
>>242 劉備が育て、集めた人材は夷陵の前後にごっそり消えている。
諸葛亮時代後期になると、主力はほとんど諸葛亮時代に起用された人材になっている。
小粒な人材ばかり登用したとか、明らかにその仕事に向いてない奴を配置したとか、
失敗も少なくないのは事実だが、なんだかんだ言って後期の蜀を支えた
費イ、蒋エン、馬忠、ケ芝、王平、張翼、董允といったメンツを起用したのも諸葛亮だし、
その辺で収支決算はプラスをにしても良いのではなかろうか。
>水銀
>戦に勝つよりも負けない戦を行なう事が遥かに困難な事を忘れてはいけません。
負けない戦いに徹したのは諸葛亮でなくて司馬懿。
諸葛亮は結構奥深くまで攻め込んでるし、司馬懿を戦場に引きずり出そうと頑張ってるし、勝つ気マンマン。
蜀漢は勝たなければ地力の差でジリ貧になるから、
わざわざ攻め込んどいて負けない戦いに徹するヒマなど無い。
>劉備は個人的に無能の極みだと思っているのですが
>上の方で指摘されている通り どう言うわけか
>優秀な人材を見抜く能力は卓越していた気がします。
>それ以外で見るところはありませんが。
無能者が一回群雄の座から脱落したのに、返り咲きを果たして皇帝自称できるまでになるほど、
戦乱の世というものは甘くない。
あれだけあちこち渡り歩いて、途中離脱を繰り返していたら、
普通は信用無くして誰にも相手にされなくなるもんだが、
いつもどこかしらの群雄の世話になってるところから、
相当に立ち回りがうまいと言うことも分かる。
劉備は戦下手と言われてるが、本来は武勲でのし上がった軍人。
まともに戦って負けたのは曹操、高順、曹仁、陸遜の四人だが、
いずれもこの時代では一流といわれた名将。
派手に負けてはいるものの、普通な武将に負けたというわけでも、
圧倒的な戦力だったのに引っ繰り返されたというわけでもない。
曹操配下の夏侯淵、王忠、蔡陽らを破っているので、
「名将には勝てないし、負け戦を逆転することも出来ないが、普通の武将には普通に勝てる」程度の
有能な武将だったと思われる。
劉備は人を見る目を除いても十分に有能だし、
乱世で栄達できるだけの人物ではあったと思う。
>>245 劉備が無能だというなら、貴方は傭兵団を率いて諸国を漫遊して、
1代で皇帝に伸し上がってください。
なお俺は曹操と五分の人材だと思っている。
>249
ちょっと言葉足らずでした。
テンプレの比較基準ってのは
普通の農民とかってわけじゃなくて、少なくとも歴史に名を残した人物
限定だよね。
それなのに「時代を代表する天才」をポコポコつけちゃってもいいものなのか。
特に日本史厨、中国史厨にその傾向多いような。
諸葛亮だったらこんなもんじゃない?
【統率】6
【戦術】5
【戦略】6
【内政】8
【政略】6
【人望】7
>>252 歴史に名前が出てくる人間(学者・芸術家除く)の大半は、
地位が高くかつ名前の残りそうな場面に居合わせた連中。
だからテンプレの「未経験者」や「凡庸」、「大過なく勤まる」ってのは、
「歴史に名を残した優れた人物」じゃなくて、
「歴史に名前が出てくる普通の将軍・政治家」を比較基準に考えてた。
>>250 新野で、夏侯淳にも勝っているよ。
あと正史の夏侯淳は名将とは言えないだろうけど、夏侯淵は名将といっても差し支えないと思うけど、
法正と黄忠の功績もあるから、全て彼に帰すわけにはいかないけど、彼が名将なのは変らないかと。
そして関中攻防戦では最終的に、大軍の曹操本体自らおも、押し返し、関中を奪いとったわけだから、
曹操にも一応勝っていることにならんかな。
>>249 たぶん俺の貴方では意味が違うな。
242の意味は、登用も含まれる。だから、
>費イ、蒋エン、馬忠、ケ芝、王平、張翼、董允
彼等は劉備時代に集められた人材ではないかと、蒋エンは孔明のとりなしとはいえ、
生前からも高い地位だったし、(サボりは問題だけどさ)
張翼なども、決して地位は低くないし、王平や馬忠はそれなりに評価されているかと、とくに馬忠
そしてケ芝こそ劉備の抜擢じゃないのか?
費イ、董允は孔明の抜擢でいいと思うけど。
>>254 その二つの例は微妙だったからあえてあげんかったが、
あげていいなら劉備も名将レベルと言ってかまわんと思う。
>>255 漏れの定義での登用ってのは、初仕官じゃなくて、
(持ち回り人事では無しに)大臣または側近クラスの地位に引き立てて、
重要な仕事を任せるってこと。
劉備存命中の官位
費イ−太子庶子
蒋エン−尚書郎
馬忠−漢昌県長
ケ芝−尚書
王平−牙門将軍か裨将軍
張翼−江陽県長
董允−太子洗馬
この中で劉備存命中から大臣クラスだったのはケ芝、
劉備に才能を認められたという描写があるのはケ芝と馬忠。
目覚しい業績をあげていた人物は一人もいない。
一方、費イ、蒋エン、董インは諸葛亮に引き立てられたという記述がある。
あとの4人も歴史の表舞台に出てくるのは諸葛亮による抜擢、
あるいは諸葛亮に大任を与えられてからなので、
諸葛亮に登用された人物としても良いと思う。
やはり定義が違ったみたいだね。
俺の場合は、任官に近い。
あと功績を残した後、抜擢されるのは含めない。
人を見る目じゃなくて、信賞必罰にそれは含まれるからね。
あくまで人材登用。
そして適所適材は、、、そうケ芝の蜀呉同盟締結の時の起用みたいなものかと。
四相というかーーこの場合三相になるかーーは孔明の抜擢で文句はない。
あと王平は抜擢されたというより、結果的に実力をみせただけじゃないのかな?
あの時の王平の手腕は素晴らしいし、昇進されるのは当然かと。
陳毅 (1901〜1972)人民解放軍元帥・外交部長
【統率】6
国民党軍の奇襲で全滅し、司令官を失った新四軍を短期間で再建し、精鋭部隊に育て上げる。
人を動かすのもうまく、国共内戦では常勝将軍粟裕に実戦を委ね、
自らは軍の統率に専念するという方式で勝利を上げている。
【戦術】7
3万の国民党軍を5千で破るなど多くの武勲をあげ、中共軍の最も苦しい時期を支えた名将。
最大の山場である国共内戦では粟裕に実戦指揮を委ねて軍の統括に専念していたため、
同格の林彪、劉伯承、彭徳懐に比べると見せ場が少ないのだが、
一流の指揮官と呼んで差し支えないと思われる。
【戦略】5
自分で状況を動かすタイプではないが、おかしな判断をして間違いを犯すこともない。
一軍の指揮官、国家の首脳としては水準。
【内政】6
本来は軍人だが、占領行政の手腕を買われたのか、建国後は文官に転身。
上海市長として、戦乱で崩壊した上海再建に尽力し、
細かいところまで目を配る施策で「人民の市長」と讃えられた。
【政略】7
ゲリラ戦期には農村工作で多くの成果を上げ、一軍人の枠を超えた力量を見せる。
外交部長として、ソ連との訣別後の外交を主導。
周恩来と共に積極外交を展開し、第三世界諸国に影響力を広げて、
非合法政権扱いされていた中国の国際的地位を大きく向上させる。
文革では四人組を厳しく批判して追放されたにもかかわらず、
北京で病気療養を認められるという異例の扱いを受け、天寿を全うした。
【人望】7
剛毅果断な一方でユーモアセンスに富み、誰とでも分け隔てなく付き合ったので、
近寄りがたい人物が多かった中共幹部には珍しく、庶民に親しまれた。
民衆を苦しめて宴会を開いている悪徳役人を懲らしめたり、
自分をつるし上げに来た紅衛兵の集団をジョークで笑わせて場を和ませるなど、
その人柄を伺わせるエピソードも多い。
>>235 悪いが全部後付けにしか聞こえん。
赤軍将校はスターリンに対する忠誠心は期待できなかったが、
ソビエトという国家に対する忠誠心は期待できた。
スラブ人はもともとドイツ国民じゃないのだから、
ドイツ国家に対する忠誠心は期待できない。
それにスラブ人捕虜はスターリンに反感があったから参戦を申し出たわけで、
「圧政を敷くスターリンを倒せば良し」と言う彼らが、
スターリン打倒後にスラブ人国家が地上から完全消滅し、
ドイツ人の生活圏にされてしまうことを承服できるだろうか?
あと、イギリスとの講和に固執したのは、第一に
イギリス国内で「ドイツと妥協してソ連に対抗すべき」と言う意見がかなり根強かったから。
大陸から追い落とされるなど黒星続きのチャーチルが発言力を落とし、
対独宥和派が優勢になり講和が成立する可能性があった(ように見えた)。
第二にヒトラーは大陸に領土を持っていない植民地帝国のイギリスを倒しても、
あまりうまみが無いと思っていたから。
ダンケルクでイギリス軍を殲滅できなかったのは、イギリス軍がドイツ軍より頑張ったからだ。
後付けで歴史を語れば何でも自分が正しいように思えるが、
アホだから間違いを犯したというのと、何を選んでも失敗を避けられない状況にいた、
やるべきことはやったのに選択肢を選んだのに相手が一枚上手で出し抜かれたというのを混同しないように。
260 :
世界@名無史さん:04/08/21 01:33
メシ食ってくる。陳毅書いてて楽しかったから、帰ってきたら江青やる。
出だしは最低で1が逃亡したスレなのに、何故か知識豊富な香具師が集まって・・・
262 :
世界@名無史さん:04/08/22 02:07
江青(本名は李進) (1913〜1911)中国共産党政治局員
【指導】2
権力者の信任を受けて権力を握った策士タイプの政治家であり、
政府や軍の組織を動かした経験は無い。
十全大会以降は毛沢東の威を借りて党の実権を握るが、
その間も権力闘争しかやっていなかったので、能力がある無い以前に、
まともに国家を指導する気がなかったと思われる。
【戦術】3
軍を指揮するどころか、軍人ですらない。
【戦略】1
権力欲を満たすためだけに文革を煽り立て、ただの破壊活動にしてしまう。
ほどほどのところで終わらせようとしていた毛沢東を引きずる形で
文革を継続させ、権力と引き換えに国家を破壊させてしまった。
視野の狭い権力亡者の典型である。
【内政】3
内政実務に携わった経験は無い。
実際にやればひどいことになりそうだが、
失敗やらかしたわけでもないので減点しようが無い。
【政略】8
毛沢東の意思の代行者として文革を扇動し、中国全土を熱狂の渦に巻き込んだ。
また、多くの実権派の幹部を粛清し、失脚に追い込む。
毛沢東死後にあっさり失脚しているが、この手の人物は後ろ盾がいなくなるとおしまいなので、
まあ一国を代表するレベルと言って良いと思われる。
【人望】2
性格の悪さ、人望の無さを表したエピソードは山ほどあるので割愛するが、
文革時代の圧制の象徴と捉えられていて、
第一次天安門事件では「江青打倒」のプラカードを掲げたデモ隊が
天安門広場を埋め尽くしたと言えば、その不人気ぶりがうかがえるだろう。
263 :
世界@名無史さん:04/08/22 03:33
≪あとがき≫
>陳毅
みんな数値が8や9ある「誰もが知ってる英雄」しか書かないので、
「英雄ってほどじゃないしそんなに有名じゃないけど、生きてた頃は一流だった」人物を
書いてみたかった。
英雄が一人で歴史を動かすんじゃなくて、
こういう人たちが英雄と一緒に戦ったり、時には負け役になったりして
歴史が出来てるんだぞってことです。
>江青
「実務は全然出来ないけど政争に強くて野心が大きいから権力握って国をダメにする」という
歴史には良く出てくるタイプの人。
政略がとても高いので権力者の懐刀に徹するなら優秀な謀略担当になれるのですが、
それで我慢できずに最高権力を望むと癌と化します。
江青も最初は文革のスポークスマンとして起用されましたが、
国政の実権を握ろうとして勝手に暴走してしまいました。
持て余した毛沢東は周恩来やケ小平を使って加熱した文革を収束させようとしますが、
年のせいで意志が弱くなってて、ひきずられてしまったようです。
なお、この手の人物は実務が出来ないので「一番えらい人との個人的関係」以外の権力基盤が無く、
後ろ盾が死ぬと軍隊か官僚機構をバックにつけた別の権力者にあっさり消されてしまいます。
264 :
世界@名無史さん:04/08/26 04:41
周恩来 (1898〜1976)
字は翔宇。中華人民共和国国務院総理、中国共産党政治局常務委員。
【指導】7 国務院の人選を一手に引き受け、中国を支えた行政官僚集団の基礎を作る。
【戦術】3 共産党草創期は自ら部隊を率いて戦ったが、見るべき戦果を上げていない。
【戦略】4 現状認識・先見性は卓越しているが、保身を優先して上司に追従する傾向が強かった。
【内政】7 卓越した行政能力で中央集権体制の確立に貢献。文革期は無政府状態の中で行政機構の崩壊を防いだ。
【政略】9 戦後の国際政治をリードした筋金入りの策士。国内においても多くの政争、謀略を主導した。
【人望】8 清廉潔白な人柄で民衆に熱烈に愛され、多くの外国人も魅了した。
日本留学、五・四運動参加を経て、フランスで共産党に入党。
遵義会議では毛沢東を支持して、指導権確立に貢献。
その後は毛沢東の片腕となり、対外折衝に活躍した。
西安事件では第二次国共合作を成立させ、共産党壊滅の危機を救う。
中華人民共和国成立後は国務院総理に就任。内政・外交に手腕を振るった。
特に外交での功績は大きく、アジア・アフリカ諸国やアメリカと接近し、
米中ソの三極構造を作り出して中国の国際的地位を大きく高めている。
文革期は林彪・四人組の攻撃を受けながらも失脚を免れ、
混乱の収拾、迫害された人々の救済に力を尽くした。
晩年は毛沢東主義の行き詰まりを痛感して近代化路線を提唱したが果たせず、
彼の死後に最高指導者となったケ小平の手によって実現されることになる。
265 :
世界@名無史さん:04/08/26 05:14
≪あとがき≫
現代中国では最も人気のある政治家だが、最も評価の難しい人物でもある。
大躍進や文革の収拾に尽力して多くの人を救ったとは言え、
どちらも国務院を掌握する彼が賛成しなければ実行できなかった。
ケ小平は「毛沢東に従って心と違うことをしなければ周恩来は生き残れなかったし、
人を救うことも出来ないから止むを得ず従ったのだ」と語っているが、
周恩来には毛沢東に従う以前から上に弱いと言う欠点があり、
紅軍の最高指導者だった頃にコミンテルン派の方針が誤っていると
薄々感じていながら従って多くの死者を出している。
遵義会議でも本来は敗北の責任を追及される側にいたはずなのに
毛沢東派が有利と見るといち早く自己批判を行い、毛沢東の信頼を得ている。
一日二十時間働いたと言われ、裏切り者の処刑やチベットでの民族浄化のような汚れ仕事も
容赦なく行った仕事熱心ぶりと合わせて考えれば、
「保身に巧みで上には絶対に逆らわないが、自分の出来る範囲では絶対に手を抜かない」という
ある意味理想的な官僚像が浮かび上がる。
だから保身を優先して毛沢東を止めようとせず、
出来る範囲で最善を尽くそうとしたから毛沢東が苦しめた人々を救済すると言う
矛盾しているように見える行動をしたのだろう。
周恩来は目先の問題を解決すること、実務を取り仕切ることではこの上なく有能であったが、
官僚に徹しすぎて独立した一人の指導者として毛沢東と向き合うことができなかった。
稀代の外交官、策士、能吏にして忠誠篤く、専制皇帝の腹心であるにはこの上ない人物だが、
主君だけでなく国家全体の利益を考えなければならない宰相としては明らかに精彩を欠いた。
266 :
世界@名無史さん:04/08/27 00:40
どなたかナチスドイツの外務大臣リッベントロップお願いします。
267 :
世界@名無史さん:04/08/27 05:01
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(1893〜1946)
ドイツ帝国外務大臣
【指導】4 外務大臣だが、実質的にはヒトラーが外交部門を掌握するために置かれた代理人だった。
【戦術】3 元軍人だが、大軍を指揮した経験は無い。
【戦略】5 独自の構想も持っていたが、ヒトラーの戦略を実行に移すのが本領であった。
【内政】3 内政には関与していないため、内政能力は未知数。
【政略】6 政権獲得工作で活躍。平時外交で華々しい活躍を見せたが、戦時外交はあまり成功しなかった。
【人望】5 政財界に強力な人脈を持ち海外にも名を知られた名士だったが、党内では嫌われた。
第一次世界大戦に従軍して陸軍中尉にまで昇進。
戦後はワイン販売で成功し、パーペンの引きで政財界に人脈を広げて行く。
ナチスが台頭するとパーペンからヒトラーに乗り換えて保守政治家や財界人への工作で活躍。
入党後は高い交渉能力と海外での人脈を評価され、外交顧問となる。
ヒトラー直々の命令を受けて外務省の頭越しに対外交渉を展開し、
ヴェルサイユ体制切り崩し、日独伊三国枢軸形成で大きな功績を上げる。
党歴が浅いのに最高幹部に連なったために党内での人望が無く、
ヒムラーの後ろ盾を得て保身を図った。
1938年には外務大臣に就任して頂点を極めたが、戦争が始まってからは失敗が多くなった。
ヒトラー外交の成功とともに浮かび上がり、失敗とともに色あせていった感がある。
敗戦まで外務大臣の地位を保ち、ニュルンベルグ裁判で死刑判決を受けて処刑された。
日ソ独伊四国にスペイン、フランスを加えた大同盟構想を抱いていたが、
独ソの利害対立から実現を見ることは無かった。
>267
早速ありがとうございます
>>265 中共祭りグー。毛沢東に潰された逸材とかいないかな?
270 :
世界@名無史さん:04/08/27 23:17
>>269 盛り上げようと頑張ってるんですが、
切り札のつもりで周恩来投下しても反応がさっぱりで落ち込んでました。
あと、これだけの長文書いといてなんですが、
これまで書いた江青、陳毅、周恩来の文は評価をやり直してみたいと思ってます。
>毛沢東に潰された逸材とかいないかな?
@完全に政治生命を絶たれた
A四人組や林彪との対立ではなく、明確な毛沢東の意思で失脚させられた
B失敗より功績の方がはるかに大きかった
の三点からすると、彭徳懐と劉少奇が筆頭でしょうね。
他には賀竜(人民解放軍元帥、国務院副総理)、黄克誠(人民解放軍総参謀長、中央書記処書記)、
周小舟(湖南省書記。元毛沢東の秘書。自殺)、陳毅(人民解放軍元帥、国務院副総理、外交部長)などがいます。
271 :
世界@名無史さん:04/08/27 23:35
アル=マリク・アッ=ザーヒル・ルクヌッディーン・バイバルス・アル=ブンドゥクダーリー
الملك الظاهر ركن الدين بيبرس البندقدا
al-Malik al-Zāhir Rukn al-Dīn Baybars al-Bunduqdārī
1223年頃 - 1277年のマムルーク朝の第5代(第4代)スルタン(在位1260年 - 1277年)。
マムルーク朝の国家体制を固めた事実上の創始者。
【指導】 10
【戦術】 10
【戦略】 9
【内政】 7
【政略】 8
【人望】 10
アラビア文字の「al-Bunduqdārī」の「rī」が落ちてる。
>>267 ヒトラーも晩年は逆に彼のいいなりだったと聞いたけど、どうなんだろ。
最初はただの操り人形だったのかな?
>>270 中共って日本人受けしないからか、独米ソに比べて有名じゃ無いから・・・。
話について行けないけど、ROMは楽しいよ。
劉少奇も詳しく知らないけど、
公衆の面前で、毛語録を暗唱させられた人だね。(泣)
275 :
世界@名無史さん:04/08/28 18:44
>>274 どもです。楽しんでくれるならがんばりまっす。
既出の三人分書き直したたら劉少奇か毛沢東やります。
独はともかく、米ソの人はコーエースレでもほとんどみたことないですね。
いつかやってみたいです。
276 :
世界@名無史さん:04/08/28 19:36
と思ったら、よその掲示板でコーエースレの続きみたいなことやってるの見つけました。
コーエースレで書いた時の方がぶっちゃけやりやすかったんで
そっちでやろうかどうか迷ってもいます。
自分的には特殊能力で特定の分野だけ上げたり下げたりするのもおkだった
コーエースレ末期が一番やりやすいです。
277 :
世界@名無史さん:04/08/28 19:52
連レススマソ。
コーエー式なら
周恩来 【統率】77【武力】36【知力】65【政治】84【魅力】88
特殊能力≪対外戦略≫対外戦略限定で知力+20≪外交交渉≫外交交渉限定で政治+10
江青 【統率】22【武力】29【知力】15【政治】47【魅力】20
特殊能力≪政争≫政争限定で政治+40
陳毅 【統率】65【武力】71【知力】56【政治】69【魅力】72
評価理由は割愛しますが、こんな感じになると思います。
青タンのような熱い文が書ければいいんだけどなあ。
ここはログ保存にでも使ってちょーだい。
URL貼ってってー。
>>279 ttp://history.ten.thebbs.jp/1079576521/ 漏れが難しいと思ってたのは周恩来の【戦略】を考える時でした。
間違ってるのは完全に分かってたけど、止められなかったと言うのは戦略のマイナス材料になるのか。
(大躍進は途中まで反対してたけど、ビビって取り下げた。文革も内心反対してたのは後々の行動から明らか)
それで戦略を減点するとしたら、冷戦期の外交を動かした戦略家周恩来をどう表現すればいいのか。
上司である毛沢東の能力を減点して、「上が横暴だったから周恩来は従うしかなかった。周の戦略は優れていた」とするか、
「主君を補佐し切れなかった周は戦略に優れていたとはいいがたい」とすればいいのか。
周の人間的な弱さを数値で表現すればいいのか、「性格の問題」で片付けて
能力には反映させない方が良いのか。
大いに迷うところです。
280 :
世界@名無史さん:04/08/28 21:30
281 :
97 ◆.Ufk/3nqtY :04/08/31 01:54
【モンケ・ハーン】
モンゴル史上、世界制覇に最も近づいた四代目帝王
44歳で即位。数ヶ国語を話し、ユークリッド幾何学をはじめ東西の学術、文化に通じていた。
父は、モンゴルの正等後継者であるトルイ。次弟フレグ、三弟クビライ、末弟アリク・ブケ。
【指導】3
東征クビライが雲南を奪い、宋の実力を考え、今の北京あたりで長期戦を企画し
東路軍を整えていた所、クビライを更迭、自分が雲南の前線に出ばる。クビライ
の代役にタガチャルを起用するが、タガチャルは謎の撤退。激怒した帝王モンケ
はこれを更迭し、クビライを再起用。そんな事をしていたため、当然四川で本軍
が突出、更に宋の山塞と四川の暑夏に苦しみ、疫病で急逝した。有能な部下に仕
事を任せきれないようでは、指導者としては完全に失格。
【戦術】8
東は父トルイの元で三峯山の決戦に従軍、西はトルイ家を率いてバトゥの西征に参陣。
広大なモンゴル全土で彼以上に有能な人間は、数える程か?
【戦略】8
恐ろしく有能な弟達を抜擢、クビライを東に、フレグを西に振り分け、さらに征西
の一環としてサリノヤンにはインドを狙わせた。ほぼ完璧な国家戦略と配置だと思
われる。しかし短期決戦を望み、
クビライを更迭、四川に本軍、ウリャンカダイを大理経由で華南へ、クビライに
北から宋を攻めさせるという性急な戦略案は、まさに命取りになった。
【内政】8
中央集権体制を標榜。
華北、中央アジア、イランの三大属領に対する中央統制の強化、
ルースィから西蔵までの人口調査と税収の洗い直しまで行った。
【政略】5
血筋、能力からして、モンゴル全土に敵無し。
そのうえ盟友バトゥとは、母従弟。よって、政略の才能を見せる場所は無かったようだ。
帝位に就いたとたんに即位に反対したオゴディ、チャガタイ両家を大粛清してた。
【人望】6
粛清でモンゴル伝統の内部寛容の概念を破壊し恨まれた。
どうも性急で、極端な性格だったようだ。
282 :
97 ◆.Ufk/3nqtY :04/08/31 01:57
【長兄モンケの急逝】
イランを出発し、暗殺教団とバクダードを陥落させ、怒涛の勢いでエジプトに
迫っていた次男フレグは、マルムーク朝にとって運命の旋回をした。
(その後フレグウルスとジュチウルスが対立し、征西は完全にストップする事になる。)
クビライは、急遽本拠に戻って帝位を狙うより、敵陣を北進突破する
ウリャンカダイ軍を救出する事によって強大な東征軍を手中に収める事を優先した。
本拠を任されていた末弟アリク・ブケは、帝位に着いた。
しかし実力者である二人の兄を無視したその帝位は、まだ定まっていなかった。
(感想。資料少ないので、ネタ本そのマンマっす。)
283 :
世界@名無史さん:04/08/31 02:05
>>281 お久しぶりですな。
この能力だと急激な拡大は出来ても、あっという間に崩壊しそうだ…。
クリルタイで勝ったことを考えると、政略はもっとあっても良さげだが…。
文句言うばかりでもなんだから、漏れも後で投下してみる。
難しい人を書くと疲れるから、やりやすい漢楚から始めてみようかと思う。
>>283 ネタ本借りてこないとキツイよね。
そのうち、残る世界覇王候補だったオゴタイとクビライもやる。
Wikipediaみたら、長兄モンケ様、雀の涙だった。
同じモンゴル関連だから
>>271には、もっと解説して欲しかった。
クリルタイは、
バトゥ(ジュチ)モンケ(トルイ)幼子タガチャル(東方三王家)
VS
故グユグ派(オゴタイ)(チャガタイ)
で、
バトゥと東方三王家がグユグの即位に怨恨があって、
正統な血筋、実力を兼ね備えたモンケを押した。なんかモンケの政略が見えてこない・・・。
でも西征の時にバトゥとグユグの対立時に、モンケはバトゥ派だったから、
かなり有能でもいっかな。
【モンケ・ハーン】
【指導】3
【戦術】8
【戦略】8
【内政】8
【政略】7
【人望】6
>>258 便利そうな能力だな。右腕に欲しい一本。
>>262 国の末期にいそうな政治屋。
>>264 戦略はありそうな・・ないような・・・
でもやっぱ低めかな。自我が無いって事で。
287 :
世界@名無史さん:04/08/31 06:33
劉邦 (BC257〜BC195)漢帝国初代皇帝。諡号は高祖。
【指導】9
戦力に勝る項羽相手に敗北を重ねたが組織力の差で粘り続け、ついには勝利を収めた。
部下の能力を引き出す力量はきわめて高く、片田舎の平民や小役人でしかなかった子飼いの中から
王侯将相の才ある人物を登用し、癖の強い外様を巧みに操縦。
将としては平凡であったが、将の将として非凡な力量を発揮した。
建国後に異姓王粛清への恐怖から何度か大きな反乱を起こされているが、
それを差し引いても、十分に時代を代表するレベルと言って良いと思われる。
【戦術】5
項羽に負けまくったことと、英布との戦いで圧倒的に優勢だったのに重傷を負うほど苦戦したこと、
冒頓に惨敗したことで戦下手のイメージを残しているが、
どの相手もこの時代屈指の戦上手であり、これをもって無能とするのはいささか酷だろう。
反秦戦争期は秦軍相手に勝ったり負けたりを繰り返していること、
陳キ、韓王信、臧荼には親征して勝っている事から、
将軍としての力量は水準程度に備えていたと思われる。
【戦略】7
陳キ戦では自ら戦略を立てて勝利に導く。
建国後の功臣粛清策も帝国の安定を考えれば、妥当な戦略だったと思われる。
疑心暗鬼から韓王信を匈奴に降伏させてしまったあげく、
判断を誤って冒頓単于に敗北したのは手痛い失策だった。
過ちも犯したが、押さえるべきところはちゃんと押さえ、張良の補佐が得られなくなってからも
建国直後の多難な時代を自らの戦略で乗り切っていることから、一流レベルの7とする。
288 :
世界@名無史さん:04/08/31 06:33
【内政】3
挙兵から死に至るまで内政を蕭何に委せて、軍を率いて前線で戦い続けた。
実務にはほとんどタッチしていなかったようなので、未経験者レベルの3とする。
【政略】7
共に挙兵するはずだった沛の県令が裏切った時は、矢文を射込んで民衆の決起を促して無血開城させた。
鴻門の会では巧みな演技で危機を乗り切り、韓信の軍を二度もまったく抵抗されずに奪っている。
建国後は次々と異姓王を取り潰していった。その老獪な手腕は当時でも一流の部類に入ると思われる。
【魅力】6
沛では若者の顔役。おおらかさと気前の良さで多くの人を集め、特に関中の民衆に人気があったが、
傲慢で礼儀に欠ける面があったために誇り高い人物や教養人に激しく嫌われていた。
皇帝になってからあまりの傲慢さに腹を立てた人々に命を狙われたぐらいである。
アクが強すぎて好き嫌いの激しく分かれるタイプだったのだろう。
「漢王の下に集まるのは恩賞目当ての欲張りばかり」と陳平に揶揄されたように
人格ではなくて損得勘定で人をひきつけるタイプだったため、圧倒的な信望を得るには至らなかった。
289 :
世界@名無史さん:04/08/31 08:13
言わずと知れた漢の建国者。戦争に弱いと言うイメージがあり、実際に大して強くないのだが、
挙兵から死ぬまでずっと前線で指揮を取り続けた生粋の武人である。
農家に生まれたが、家業が嫌いで遊び人をやってた。
壮年になると「いつまで経ってもフラフラしてちゃいかんな」と思い始めたのか
役所に就職して見習いを経て亭長(保安官)に就任。
他の役人を公然と馬鹿にし、タダ酒飲み放題で、県令(市長)の開いた宴会に嘘を付いて潜り込み、
剣を振り回して遊んでる途中に子分にケガを負わせて警察沙汰になったりと、遊び人時代と変わらず自由に生きていた。
若い頃に咸陽で始皇帝の行列を見て「男ならあんなふうになってみたいもんだ」と言っていたが、
好き勝手に生きてるおっさん公務員の彼を見て「あんなふうになってみたいもんだ」と思う人もいたであろう。
死ぬまでそのままだったら愉快な人生だっただろうが、天は彼に試練を与えた。
人夫を咸陽に送り届ける任務に失敗してしまったのである。
秦の法律は無闇に厳しくて、ちょっとしたことでもすぐ死刑になった。
劉邦の失敗も法律では死刑に該当するので、帰ったら即死刑である。
劉邦は逃げた。それが戦塵の中を疾駆する人生の始まりであった…。
290 :
世界@名無史さん:04/08/31 08:44
逃亡時代の劉邦にはカリスマを演出するために後から取ってつけたような
うさんくさいエピソードがたくさんあるのだが、とりあえず無視する。
大切なのは、劉邦が逃げていつの間にか盗賊のボスになってたことである。
この頃はちょっとしたことでも死刑になったので、法に触れて逃げてる人間がたくさん居た。
生来の親分肌からか劉邦はそういう連中のボスとなり、数百人を擁するまでになった。
ちょうどその頃陳勝の乱が起こり、呼応しようと思っていた沛の県令は
劉邦を援軍に呼んだが、気が変わって城門を閉じてしまう。
はしごを外された形になった劉邦は「県令を殺せ」と言う檄文を城中に飛ばした。
これに呼応した民衆は蜂起して劉邦を迎え入れ、沛も秦に反旗を翻すこととなった。
蕭何と曹参を始めとする沛の有力者連中は失敗したら後が怖いので劉邦を指導者に推薦。
最初は嫌がってた劉邦だったが、しつこく頼まれたので指導者になり、沛公(楚制での市長)を称した。
はなから腰が引けてる有力者連中に担がれて、反乱軍の指導者になった劉邦。
かなりいやなシチュエーションで乱世に乗り出すことになった彼はどうなるのだろうか…。
291 :
世界@名無史さん:04/08/31 09:21
沛県を管轄する泗水郡はさっそく討伐軍を送り込んできたが返り討ちにし、
軍を進めて郡守(知事)を敗死させた。
上々の滑り出しであったが、雍歯が反乱を起こしてからつまずいてしまう。
細かいことは省略するが、ここで苦戦しまくった劉邦は
雍歯攻めの兵を借りるために楚の項梁の傘下に入ることになった。
楚の将軍となった劉邦は項羽と組んで秦軍との戦いで功績をあげ、
項梁が死ぬと懐王によってトウ郡長(知事)に任命された。
あまり高い地位でないように感じるかもしれないが、当時の秦の郡の数は三十六。
漢代以降の郡太守と比べると圧倒的に管轄区域の広い重職である。
40半ばまで一介の保安官(態度が悪いのでたぶん出世の見込み無し)だった男が
わずかな間にここまで成り上がったのだから、大出世と言って良い。
そんな彼に空前の大任が与えられる。
「函谷関に入り関中を平定せよ。最初に平定したら関中の王にする」
かつて関中の中心地たる咸陽まで人夫を引率するのに失敗した彼であるが、
今度はその時とは比べ物にならない大軍を連れて行かなければならない。
果たしてうまくやれるのだろうか?
292 :
世界@名無史さん:04/08/31 10:02
途中で何度か苦戦したものの、武関から関中入りを果たした劉邦はついに秦を降伏させた。
劉邦は亭長時代に果たせなかった咸陽入りをようやく成し遂げたのである。
前は見返りのない仕事だったが、今回は関中王と言うビッグな成功報酬付きだった。
報酬の差が結果の差につながったのであろうか。
感無量の劉邦は宮殿に入った。名犬、駿馬、財宝、美女…。
それらを見た彼は宮殿に滞在しようと思った。さすが俗物である。
しかし、堅物の樊カイと張良が「こんなところにいたら堕落する」としつこく止めるので
一切手を付けないで帰っていった。
関中王内定を確信した劉邦は有名な法三章の布告を出し、人気取りに務める一方で
函谷関を閉ざして「関中は俺のもんだから他の奴は手をつけるな」と言わんばかりの行動に出た。
それを聞いて不愉快だったのは、ずっと秦の主力軍と戦ってきた項羽である。
彼は40万の大軍をもって函谷関を破って関中に進入した。
劉邦の兵力は10万。しかも、劉邦と項羽では戦争のうまさが違う。
亭長から郡長まで駆け上り、王位も目の前だったのに…。短い夢だった。
293 :
世界@名無史さん:04/08/31 10:52
総攻撃を覚悟してたが、数々のラッキーが重なって和解の話し合いが持たれる事になった。
劉邦が土下座して謝罪すると項羽はあっさり許してくれた。
しかし関中王にはなれず、論功行賞では僻地の漢中に飛ばされた。
最初は結構な人数が付いてきてくれたが、
あまりに僻地なので嫌になって逃亡者続出。将軍クラスが何十人も逃げ出す有様だった。
残った連中はいつも望郷の歌を歌ってていかにも辛気臭い。
僻地とはいえ王になったのだから、大好きな女も酒も心ゆくまで満喫できるはずなのだが、劉邦も鬱屈していた。
関中王の地位がよほど未練だったようだ。
そんなある日、蕭何が逃げ出したと言う報告が入った。
「失敗したら後が怖いから」と言う理由で劉邦に指導者の地位を押し付けた男なのだが、
そのわりには良く働いてくれていた。いつも戦場に出ている劉邦にとっては、
後方でケツを拭いてくれる人材が無くてはならない。
劉邦の落ち込みようは凄まじく、両手を失ったかのようであったと言う。
戻ってきた時、蕭何は一人の男を連れ戻してきたと言った。
その男が、運命を変えた。
294 :
世界@名無史さん:04/08/31 11:21
男の名は韓信。良く知らない男だが、蕭何がうるさく言うので大将軍に任命することにした。
会ってみるとなかなか切れる男で関中に侵攻する戦略を提案してくれた。
劉邦の野望は再び燃え上がった。
山東で田栄や陳余らが反旗を翻した気を見計らい、
韓信を総司令官として関中に侵攻すると、
最強の将軍だった雍王章邯を撃破し、瞬く間に関中を平定した。
劉邦自身が軍を率いた時とは比べ物にならない鮮やかな手際である。
勢いに乗った漢軍は関中を出て河南・殷・韓を平定し、
天下の諸侯を味方に付けて五十六万の大軍を集めて楚に向けて進軍を開始した。
折りしも項羽軍主力は斉の反乱鎮圧で釘付けになっており、
本拠の彭城はガラ空きである。
関中どころか、天下が転がり込む絶好のチャンスだ。
漢軍はあっさり彭城を攻略したが、主力を斉に置いたまま
三万だけ連れて戻ってきた項羽にこれまたあっさり負けてしまい、
味方に付いてた諸侯もあっさり離反した。
天下の夢は一夜にして崩れ去り、苦しい戦いが始まった。
数値化するのはいいけど、
古代中国の人物なんて、資料の記述も怪しいし、
かなり美化されてる面があると思うけど。
296 :
世界@名無史さん:04/08/31 12:09
何度も子供を馬車から捨てると言う最悪に情けない逃げっぷりを晒した劉邦であったが、
戻ってくると軍を立て直して項羽支配下の梁に侵攻した。
その一方で楚軍最強の将である英布を離反させ、韓信に西魏を攻めさせた。
自ら指揮した梁侵攻は失敗したが、英布離反工作と西魏討伐は成功を収めて楚の勢力を大きく削いだ。
特に韓信に別働隊を率いさせたことは漢楚の戦いを決する決め手となった。
劉邦率いる本軍は苦戦を重ねたが、韓信の遠征軍は趙・斉を併呑し、
同盟軍である梁の宰相彭越は神出鬼没の行動で項羽軍を疲労させていった。
項羽の圧力をもろに受けた主戦線での戦果はイマイチだったが、
他の戦線が次第に楚を圧迫するようになり、
韓信軍や彭越軍の攻撃で後方を脅かされた項羽軍には
劉邦と対峙する余裕が無くなり、遂に和睦することになった。
漢の本軍はさほど強くなかったが、他の方面で勝ち続けたおかげで
初めて楚の譲歩を引き出せたのである。
逆に言えば、多方面戦略を採用し、他にもいろんな工作をして
ようやく楚に圧倒されないところまで持ち込んだわけで、
項羽率いる楚軍主力の強さはマジすげえとしか言いようが無い。
297 :
世界@名無史さん:04/08/31 12:42
長い戦いの末に講和条約を結び、ようやく関中の領有を項羽に認めさせることに成功した劉邦だったが、
張良と陳平に「今が楚をぬっ殺すチャンスですよ」と唆され、項羽軍を襲撃した。
講和条約を破って疲れ切った敵軍を襲撃というとんでもなく汚いマネをやらかしといて、
それで負けてしまうと言う信じがたいぐらいみじめな結果に終わった。
来るはずだった韓信と彭越が来てくれなかったからであるが、
この二人は「実は俺らのほうが軍功多いじゃん。俺らがいないと劉邦ダメじゃん」と言う事に気付いてて、
「もっと分け前よこせ」と思っていたので日和見決め込んだのである。
張良の進言を入れて二人の領地を増やすとすぐにやって来た。実に分かりやすい奴らだ。
そして「これなら本当に劉邦が勝つかも」と思った諸侯が雪崩を打って参陣してきた。
楚の大司馬(軍事長官)周殷まで寝返った。
垓下で韓信率いる漢の前衛軍30万と項羽軍10万が決戦。
項羽軍は韓信の直率軍10万を撃破したが、数の暴力の前に力尽きた。
烏江で項羽は自決し、劉邦は楚を平定。天下の覇権を手中にした。
298 :
世界@名無史さん:04/08/31 13:41
覇権を取った劉邦であったが、彼には新たな戦いが待っていた。
内政は蕭何に任せれば構わないが、人事はそういうわけには行かない。
項羽に勝つために領地を大盤振る舞いしすぎたので、
能力はあるけど忠誠心の怪しい連中が大国の王になってしまった。
功績を上げた将軍たちも封侯しなければならない。
次々と異姓の王を粛清し、後釜に皇族を据えていった。
粛清への恐怖から反旗を翻す者は、自ら軍を率いて討伐した。
こうして長沙以外の国はすべて皇族の治める王国、あるいは郡となった。
論功行賞では古参やお気に入りを優先して封侯して他の連中は後回しにしたり、
あまり軍功の無い盧綰を燕王にしたり、かなりえこひいき爆発なのだが、
それでも何とか終わらせた。
冒頓単于に惨敗して、弱腰外交を強いられたり、
蕭何を粛清しようとして止められたりと、汚点が無いわけではないが、
それでも、漢を安定した統一国家として次代に残すことに成功した。
怠惰に生きてた遊び好きの中年男が、成り行きから反乱軍を率いることになってしまい、
大して戦争強くないのにしぶとく戦場に立ち続けて天下取っちゃって、
その後も勤勉に親征してたのはとんでもなくドラマチックな人生だと思うよと締めくくっておく。
ここは数値化スレなのではないかと聞いてみる
>>漢を安定した統一国家
その後すぐ反乱が起こるし、
漢を本当の意味でも安定させたのって文帝あたりじゃないの?
英雄とかあんまり出てこないから地味ではあるけど。
>>299 人物評交じりの抄伝みたいのを書こうと思ったんだが、
なまじ手元に史記があったせいで熱が入りすぎた。スマソ
今後は1レスで済むよう努力する。
302 :
世界@名無史さん:04/08/31 14:00
>>300 んー、呂后時代は皇族や重臣は結構死んだけど、
国家としては凄く平和で安定してた時代だったよ。
>>302 呂后の時代っていうか呉楚七国の乱を言ったつもりだったんだが。
>>301 いやいや、面白かったよ。青とか昔のコテハン達だって沢山書いていた訳だし…。数レスくらい何ともない。
>>303 呉楚七国の乱は景帝の時代だぞ。劉邦の死後41年経って起きてる。
すぐとは言いがたい。
>>305 ごめん、知ったかだった。
七国の乱は景帝の時だった。
そういえば、呂后の乱で次の皇帝選ぶとき、
外戚が大した事無いから選ばれたんだっけ?文帝。
ただ、どうも劉邦って少し持ち上げられてる気がするんで、
ちょっと反論してみただけ。
>>306 >外戚が大した事無いから選ばれたんだっけ?文帝。
そうだよ。
>ただ、どうも劉邦って少し持ち上げられてる気がするんで、
>ちょっと反論してみただけ。
秦の統一はヨーロッパを無理やり一つにしたようなもんで、
ちょっとでも気を抜くと元の小国分立時代に戻るのは当然。
歴史も陳勝の乱以来そういう方向に流れていたが、
再統一して諸国の王を皇族と入れ替えていって、
中国は一人の皇帝の下に統合されてるのが当たり前って概念を固めたのは
十分に大した業績だと思うぞ。
>>288 劉邦は、自分で政府改革などはできないだろうけど、
内政の善し悪しは、正確に判断できる気がする。
310 :
世界@名無史さん:04/09/01 21:08
フセイン・ビン・タラール(ヨルダン国王 在位1953−1999)
【指導】9 祖父の暗殺、父の廃位という困難な状況の中で、若干16歳で即位。
周囲は王政の存続を危ぶんだが、いつ分裂してもおかしくない
ヨルダンを巧みにまとめ上げ数十年に及ぶ治世の間巧みにヨルダンをまとめ上げ続けた。
【戦術】6 祖父の暗殺直後、周囲の重臣が逃げ散る中、暗殺者を単身追跡するなど胆力は抜群。
英国の士官学校で教育を受けたこともあり軍事的な識見もそれなりに高いと思われる
対イスラエル戦では連戦連敗。だが、相手が悪すぎると言うことで大きな減点対象とはしない
【戦略】7 変わり身の早さから、定見が無いようにも思われるが、その実、明確なビジョンをもって国家の舵取りにあたる
【内政】8 産油国でもないヨルダンを経済発展させた手腕は流石の一言。
その在位中、ほこりっぽい田舎町に過ぎなかった首都アンマンは人口百万を越え、
高層ビルが林立する近代都市に成長し、三分の二を越えていた文盲率は15%にまで低下した
【政略】8 祖父アブドゥラの露骨な拡大政策の結果アラブ世界で孤立気味だった、
ヨルダンの対外関係を改善し、のみならず、宿敵イスラエルとの和平も実現した。
晩年には中東和平にも熱心に取り組んだがこれは実らなかった。
【魅力】9 お忍び好きの気さくな性格でしられ、宮殿の一部を孤児院として解放するなどの逸話で有名。
ベドウィン、パレスチナ人を問わずその人望は極めて厚く、その葬儀には人口の6分の1にあたる100万人
が参列した。
>>310 厨といわれるかもしれんが曹操を数値化キボン。
解説付きで読んでみたい。
だれか越の范蠡おねがい
トゥルイウルス:モンケ@(帝)ーアリク・ブケ@(帝)ークビライ@A(帝)(簒奪)ーテムル(帝)ーカイシャン(帝)
ジュチウルス:バトゥ@ーベルケ@AーモンケテムルB
チャガタイウルス:粛清@ーアルグA(簒奪)ー内紛ーバラクB(簒奪)ー内紛ードゥア
オゴディウルス:グユグ(帝)ー粛清@ーカイドゥBー内紛
東方三王家(テムジンの兄弟):オッチギンータガチャルAーナヤン
フレグウルス(新興ウルス):フレグ@Aーアバカ
@モンケの盟友とモンケの粛清
A幻のクリルタイメンバー(ベルケ、アルグ、フレグの相次ぐ他界により消滅)
Bタラスの会盟メンバー
【カイドゥ】
モンケが粛清したオゴディ・ウルスを復活させ、バラク(チャガタイ)と共にクビライに反抗した。
【指導】8
一枚岩でないオゴディ・ウルス、アリク・ブケの残党、反クビライの武将、傀儡ドゥア(チャガタイ)を
纏め上げた。しかし、クビライの死後、アリク・ブケの残党、反クビライの武将はテムル(元)に帰参。
所詮は反クビライ連合だったとも言える。
【戦術】9
・バラク(チャガタイ)の遺児連合に常勝し抵抗を挫折させる。
・元内のシリギの乱を黙殺したが、ナヤン(東方三王家)の乱には介入、ついにクビライと決戦する。
しかし、実際は73歳のクビライが一ヶ月でナヤンを倒したため、本拠へ総退却した。
・クビライ死後、帰参者に耐えかね、テムル(元)との史上最大のモンゴル会戦を選択する。
テムル(元)は、元の「北方王国」カマラ、「西方王国」アーナンダ、「東方三王家」を投入、さらに元の
「中央軍」を甥のカイシャンに率いさせた。カイドゥはドゥア(チャガタイ)との連合軍であり、
西方のジュチ、フレグ・ウルス以外の全ての勢力が集結した。
各所で遭遇戦が起こり、カマラを壊走させたが、テムルの甥カイシャンに盛り返され、勝機を掴めなかった。
ドゥア(チャガタイ)が膝に矢を受け遁走、カイドゥも手傷を負い撤退、その傷が元で一年のち他界した。
【戦略】7
タラスの会盟を主催し、バラク(チャガタイ)に紛争地の3分の2を、残りをモンケ・テムル(ジュチ)
と分け合う。譲歩ではあるが、バラクを西の新興国のアバカ(フレグ)を攻撃させ、東への干渉を無くす
意味がある。と同時に、事実上のクビライ(元)牽制となり、オゴディ・ウルスの復権を図ったのは見事。
「カラ・スゥ平原の戦い」のアバカ(フレグ)の大勝利によってバラク(チャガタイ)が没落するとそれ
を暗殺?し、中央アジアの盟主となった。運もあるがオゴディ・ウルスの立地条件から考えてベストの戦略。
しかし結果的に、モンゴルの世界制覇戦略に引導を渡した。
【内政】5
不可無し。
【政略】9
オゴディの第4子の長子と血筋は良いが、主流では無い。そこからオゴディ・ウルスを掌握。最も脆弱
な立場でのタラスの会盟の主催、そしてバラク亡き後のチャガタイ・ウルスを内紛に乗じて侵食、傀儡
ドゥア(チャガタイ)を建てアリク・ブケの残党と反クビライの武将を受け入れ、中央アジアに一大勢
力圏を出現させる。
【人望】6
チャガタイ・ウルスを乗っ取ったあたりから、人望は望めない。オゴディ・ウルスは、カイドゥの死後、
ドゥア(チャガタイ)とカイシャン(元)に潰され、歴史から名を消した。
曹操
【指導】9 人材登用で失敗はまず無い。
【戦術】9 官渡の戦いは見事。曹操のハイライトかと。
【戦略】7 官渡の戦い後は、20年間も最大勢力なわけだが一気に行けない所に限界を感じる。
【内政】8 国力を飛躍的に向上させたとは言えない。取り締まりが得意か?
【政略】3 呉蜀を切り崩せなかった。そもそも後漢で失脚している。無能の下に付くと我慢できない?
【魅力】5 無能な者への嫌悪、意に沿わないものは寵姫でも処罰した。能力のわりに嫌われる人。
范蠡
【指導】6 たぶん優秀だが、実際に指導者となっていない。
【戦術】9 新兵器でもない限り、負けないだろう。
【戦略】8 中国統一戦略は、立てられなかったようだ。
【内政】8 後に豪商になっているという噂。国を任せ続けても大丈夫か。
【政略】10 呉王を騙し、越王にさっさと見切りをつける。遣りたい放題。
【魅力】9 最終的に仙人になる。余人へのアピールは抜群だと思われ。
曹操の【戦術】は評価できないな。
基本的に数で勝つタイプだし、赤壁で負けてるからなー。
9→7へ。
321 :
世界@名無史さん:04/09/04 02:16
>>320 官渡では10倍の軍勢を破ってますし、
赤壁は疫病のため撤退したという説もあります。
8くらいはあるのではないでしょうか。
>>321 確かに赤壁の敗北は疫病が主な原因ですが、
基本的に多数で少数を撃破するってのが曹操の基本戦術だし、
7で妥当では?
323 :
世界@名無史さん:04/09/04 03:29
>>315-316 ハイライトになるような戦いがあまりないハイドゥに
戦術9与えてもいいんだろうか?
中央アジアでは無敵だったが、元朝との直接対決ではあまり戦果が無い。
戦場での強さより、政戦両略の巧みさでフビライに対抗したように思うので、
戦術と戦略の数値を取り替えてもいいんではないだろうか?
>>318 配下に優れた人材がいて、当人の能力もこれなら天下を取れてもおかしくなかったと思うんだが。
何が足りなくて彼は天下を取れなかったんだろう?
>>319 越を強国にして呉を倒すまでが范蠡の仕事。
目標達成するとさっさと引退しちゃった人に中国統一戦略を期待するのは酷かと。
あと范蠡は将軍だったが、越の主力の総司令官は句践で、
兵を指揮してあげた戦功として范蠡の名前が残っているのは呉の太子友を撃破した時だけ。
春秋戦国の名将のように直接戦いを指揮した記録より、献策した記録の方がはるかに多いので、
参謀総長的役割だったっぽい。
戦術9はやりすぎかと思う。
あと、越の内政を仕切ってたのは大夫文種。
范蠡は「軍事では種は自分に及ばないが、政治では自分は種に及ばない」と語っている。
参考にして再評価ヨロ。
>>322 曹操は不思議な人で、少数で多数を破ることもあれば、
多数で少数に勝てないこともある。
あと、多数で少数を撃破するのを基本にしてたわけではなくて、
少数でも平気で戦いを仕掛けている。
漏れ的には戦術は8で良いと思う。
>>323 >何が足りなくて彼は天下を取れなかったんだろう?
曹操には北方異民族を警戒し続けなければならないという損な役回りがあった。
支那だけで考えれば、早期に南下して十分天下を取れただろうね。
>>324 曹操が天下取れなかったのは、
北方異民族の警戒もあったでしょうが、
主な理由は当時の中国の人口不足が原因だと思いますが。
>>324 でも、秦も東漢も隋も唐も宋も北から南に攻め込んだけど、
背後を遊牧民族に脅かされてはいたよな。
>>323 范蠡については、だいぶ訂正して良いと思う。他の人に任せます。
カイドゥの【戦術】は、なにせモンゴルだから。他の国との差別化により増した感じ。
+1、2のアドバンテージがあるかも。カイドゥの【戦略】は、あまりに狭視野。
ハーンへの道も、国土増大の道も見えない所、もっと下げても良いかな。
曹操の最大チャンスはやはり赤壁でした。長江の渡り方に、戦略、戦術的問題が
あったと思われ。あと官渡から8年後というのはペースが遅い気がする。
>>327 モンゴル修正はいらないんでないかと。
チンギスの名将たちも騎兵の力だけで戦ったわけじゃなく、個々の戦術能力自体も優れていた。
あと、モンゴルが無敵だったのは優秀な指導者が輩出したところによるところが大きく、
指導者がダメになってくるとともに勝てなくなった。
他国を圧倒したモンゴルの強さは
前期は「優れた指導者が輩出したから、兵士たちの結束も強くなった。首脳部の戦略も良かった」
中期は「指導者の質に加え、国力でも圧倒できた」で良いんでは?
大ハーン直轄領のウズベキスタンむしり取って、反フビライのモンゴル部族も従えちゃってるから、
しっかり国土増大してるじゃん。
カラコルムに二回進軍してるから、モンゴル取ったら漏れが大ハーンって考えてたんじゃね?
展望を持って動いてたのは反乱からマーワラーアンナフル領横領、チャガタイウルス乗っ取りで明らかだし、
その先を狙うには手駒が少なすぎたように思う。
>>328 カイドゥには外征してほしかったな。そうすれば戦術家としても名を馳せただろうに。
【カイドゥ】
【指導】9
【戦術】7 華々しい戦果が無い。
【戦略】8 大ハーンに迫ったけれど、クビライの領土拡大と比較すると成果、能力が物足りない。
【内政】5
【政略】9
【魅力】6
失敗。
>>315-316>>329の訂正
【カイドゥ】
【指導】8
【戦術】7 華々しい戦果が無い。
【戦略】8 大ハーンに迫ったけれど、クビライの領土拡大と比較すると成果、能力が物足りない。
【内政】5
【政略】9
【魅力】6
331 :
世界@名無史さん:04/09/05 02:37
上杉謙信の数値化をお願いします。
上杉謙信
【指導】3 内乱が結構多い。後継者も決められず。
【戦術】8 語るに及ばず。
【戦略】3 全体的構想が見えてこない。
【内政】6 配下の武将に遠征費を貸して、儲けていたらしい。高利貸しの才があった?
【政略】3 逃亡なんかしてる。
【魅力】8 私利私欲の無い人だから、魅かれただろう。
范蠡 数値化ありがとございました。
334 :
世界@名無史さん:04/09/05 17:51
>>332 私利私欲の無い人だから人が引き寄せられるってのは変だ。まったく根拠が無い。
上杉謙信に私利私欲が無いってのはもっと変だ。私利私欲に塗れた根拠がたくさんあるから。
あと、戦術項の評価8ってのも一論議してみたいところ。
理由が「語るに及ばず」というのも不思議なんで。
普通「語るに及ば」ないほどだったら10とか9、それか3以下でしょ。
このスレでは
>7=国内では一流の人材。
>8=国を代表する実力者。
となっている。
確かに謙信は戦国期を代表する武将だが、世界史レベルの名将でも結構辛口に採点されるこのスレで、
日本の一地方を統一できただけの謙信に8をつけるのはどうかと。
具体的な戦歴を列挙して見ても、8レベル達するほどのインパクトが無い。
第四次川中島の戦いは普通に勝ててないし、関東遠征は略奪目的でマジメにやったとは思えないし、
唐沢山城救出劇はウソっぱちだし、手取川の戦いは、七尾城陥落の報を受けて退却していく敵軍を追撃して駄目押ししただけ。
あの武田信玄とガチンコで勝負して致命的敗戦が無く、近隣諸国に大いに勇名を馳せた点は「さすが」と思わせるが、
毛利元就や武田信玄、信長・秀吉・家康ら同時代人に比べて、一大決戦においての驚異的強さが感じられない辺り、
やはり「国内では一流」レベルの7が妥当ではないかと思うのだが、どうかな。
なんか毛利元就ってえらい評価されてますね。
個人的にマイナーな武将なんですが。
そんなにすごかった人なんですか?
毛利元就の数値と薀蓄が読んでみたいです。
>>334 一般的序列だと、謙信=信玄>家康>秀吉=信長かと。
謙信はまともに領地拡大していないから、地方統一程度しかないのはしょうが無い。
しかし戦国日本で1、2の順位に居る事は間違いない。
むしろ信長や信玄は戦略と内政で対抗してたかと。
【魅力】はわからない。
日本史はそろそろ終りに。
毛利元就
【指導】6 特に問題無し?
【戦術】8 厳島の戦いは、芸術的らしい。
【戦略】8 弱小勢力から、大内、尼子を潰し、北九州を狙う。有能。
【内政】3 領地拡大に追われ、内政改革に全く手をつけてなかったため、本能寺の直前は財政がガタガタだった。
【政略】8 陶の反乱を黙認したあげく、主君の仇として討ち取った。内応もうまい。
【魅力】3 吉川、小早川乗っ取りなど、悪名轟く。
訂正
毛利元就
【指導】6→5 子供は優秀だが、結局滅亡寸前まできてた。
【戦略】8→7 地方政権だしな。
>>338 いや家康が信玄を尊敬してたからネ。家康が8なら謙信も8。
家康が7なら謙信も7かと・・・
>>336 >>337 時代が違うじゃん、死後10年はたっているぞ、
ついでに地方政権だけど、国高は死ぬ直前は、従属大名をふくめれば、150〜200はいく、
織田と並ぶ大大名だと思われ。大内氏から受け継いだ大陸との貿易利権と、山陰の鉱山、瀬戸内の貿易は侮れない。
また彼の戦略、政略は、当時でも群を抜いていると思いが。似たような立場でも家康程度だったら、途中で100%死んでる。
あと厳島は戦術ではなく、戦略ではないかな?だから戦術はもっと下げるべきかと6、7ぐらいかな?
あれは戦場についた段階で決着はほぼついていた。(それでも兵力差は4、5倍あるけどね)
>>332 関東で人狩りをしていた、餓え過ぎ謙信に内政能力はないだろ。
国内は一揆と内乱が頻発していた、とても内政能力が高いとは思えない。
2か3が妥当。
287から298まで書いた者だが、時間が無くて次の伝記が書けない。
やるなら項羽をやるつもりだが、戦術10付けるつもりでいる。
意義がある香具師は今のうちに言っといてくれ。
あと、長文書きがトリップ無しだと分かりにくいから、コテ付ける。
俺は文句はない、中世以前の中国史で彼以上の戦術能力がある人って、あとはせいぜい白起ぐらいか。
1発屋でいいなら、結構いるんだが。
343 :
世界@名無史さん:04/09/05 23:04
>>342 呉起先生に一票。
中国史の中世とはどの時代を指すの?
私のついた教授は明以前は全て古代と曰っていた記憶がある。
>>341 項羽は、劉邦との比較でかなり誇張されてる部分あるから、
10つけるなら、具体的な工夫や、当時ではありえない発想部分を添えて、
説得力をつけて欲しい。
有名人だから、伝記は要らないと思われ。
マイナーな人なら欲しいけど。
>>97タン
時間が無くて評文が書けないが、漏れがかるーく付けてみる。
曹操
【指導】5
人を見る目は優れているが、兌州大反乱や官渡戦役では景気良く寝返られ、
官渡で主力を失った河北軍の司隷北部侵攻や、体制が完全に固まっている時期の関羽の荊州侵攻でさえ州郡が動揺し、
内応者が相次ぐ有様であった。人材登用8+統制力3を足して2で割って端数を切り落とす。
【戦術】8
当代きっての用兵家とされ、黄巾、呂布、袁術、袁紹など自分より優勢な要素が多かった敵を破る。
ただし、大軍同士の戦いはあまりうまくないらしく、孫権、蜀奪取後の劉備には思うように勝てなかった。
【戦略】6
190年代後半から河北平定にかけての戦略の読みは冴え渡っていた。
ただし赤壁以後は劉備・孫権に振り回され気味だった。
あと、肝心なところでのポカがやたらと多いので、ある程度頭の回る相手には分が悪かったようだ。
【内政】6
済南の相時代は腐敗構造を断ち切り、峻厳さで知られた。
屯田制の導入、能力本位の人材登用などで優れた内政家と言われるが、
官渡戦役では自分の方が兵力が少ないのに、先に兵糧が尽きるというミスをやらかしている。※
統治下に入って長く経ったはずの地域でも政情不安定な地域が多くあったことが
曹操配下の文官の伝記には散見しており、努力はしたけどなかなか成果が出なかったようである。
【政略】8
外交交渉に長け、董卓残党や白波軍が活用できなかった帝威をこれでもかと言わんばかりに振り回し、
敵対勢力の懐柔や名士の支持を集めることに成功した。
何度もクーデターを企てられるがその度に切り抜けており、統制力の無さを政略で補っている感がある。
【人望】5
意外にも曹操個人を慕ってたと思しき人材は少なく、
ブレーン陣の多くも荀イクの人脈と錦の御旗に釣られて集まってきた人が多い。
特に民衆に慕われたと言うわけでもなく、個人的な求心力はイマイチであったようだ。
※良く言われる「疲弊した中原と戦乱の被害が少ない河北」という構図はウソである。
袁紹伝注で、沮授と田豊は「河北は連年の出兵で疲弊している」と語っている。
エルウィン・ロンメル
【指導】7
独創的な対戦車戦術を戦場で編み出し、部隊に実行させ成果を挙げるなど、
自部隊に関する指導力は優秀だった。劣勢な戦場で部下に不敗を信じさせた。
【戦術】9
敵軍に比べて数分の1の戦車戦力と劣弱な航空支援でアフリカ戦線を2年に
わたって保持し、時には連合軍をギブアップ寸前にまで追い込んだ。
グーデリアン上級大将と並ぶドイツ二次大戦時の双璧といえる戦術家。
(マントイフェルもこの二人と並ぶかもしれない)
【戦略】6
ただの戦馬鹿ではないが、アフリカ戦線、ノルマンディーと2回にわたって
敵の攻勢時に部隊を留守にするなど失点もある。
【内政】4
内政に携わったことがないため評価の仕様がないので凡庸レベルとする。
【政略】4
ヒトラーにしばしば支援を要求するも、かなえることができなかった。
またヒトラー暗殺事件に関与するが露見して身を滅ぼしている。
ただし、いずれも特に劣悪といえるほどの条件とは思えない。
【魅力】8
敵軍にも魔術師の如くおそれられた。反乱に連座したときも、
その名声をはばかって極秘に服毒自殺した後国葬をもって
葬られた。
[略伝]
あまり軍人とは縁のない家庭に生まれる。フランス攻略戦で戦車部隊を率い、
グーデリアン元帥と並ぶ功績を挙げ一躍英雄となる。その後イタリア支援のため
アフリカ戦線に赴き劣勢な戦力にもかかわらずしばしば敵を破る。
その戦術の変幻自在ぶりは「砂漠の狐」と言われて恐れられた。
最後は連合軍の物量の前に追い込まれ、ヒトラーに増援を嘆願にいくが、
その間にアフリカ戦戦は破られてしまう。
ノルマンディー戦後ヒトラーに疑問を覚え暗殺計画に関与するが露見して、
服毒自殺を強いられた。しかし国民的に人気の高いロンメルであったので、
その真の死因は秘匿され国葬を以て葬られた。
>范蠡
【指導】4 全権任され型のナンバー2ではなく、勾践の相談役に徹した。
【戦術】5 将軍だが実戦で勝った記録は一度、それも留守部隊相手なので、たぶん指揮官としては普通。
【戦略】8 会稽の敗北の際に降伏を勧め、一時は中原に覇を唱えた大国呉を22年がかりで滅ぼして恥をすすぎ、越を覇者とした。
【内政】3 「文種に及ばず」と自ら語っており、内政にはタッチしなかった。商才と内政は別だと思われるので評価に入れない。
【政略】8 呉への徹底した恭順姿勢を演出して警戒心を削ぐ。事が成ると勾践の疑心を避けるために出奔して身を全うした。
【人望】8 越時代の評判は不明だが、出奔後は行く先々で民衆に慕われ天下に名声がとどろいた。後世にも明哲保身の君子と慕われた。
ちなみにあまり有名じゃないが、文種もかなりの凄腕。
国政を取り仕切り呉に対抗できる国力を付けたり、呉の大臣伯ヒを買収して会稽の降伏交渉を取りまとめたり、
穀物を借りて呉の警戒心を確かめる策を立てたりと、范蠡にも劣らない功績を残している。
なんとなく范蠡の高評価に彼の功績が含まれてるような気がしたので書いとく。
352 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/06 01:10
>>342 史記の扱ってる範囲内での候補と言えば白起、呉起、楽毅、王翦かな?
ただ、呉起は「こいつは文句なしに名将」と言える相手を破ったり、
でっかい戦いor「どう考えてもお前負けるだろ」な戦いで勝ったわけじゃないので10は難しいと思う。
楽毅は五カ国連合軍を率いているので、戦術よりは指導力で大軍を良く纏めたと言った方がよさげ。
王翦は戦略と指導力により長じているタイプと思われるので、これも除外。
比較するなら白起以外にいないと思う。
それでもなお項羽を押したのは「どう考えてもお前負けるだろ」な戦いを何度も制しているのと、
念入りに劉邦のブレーン陣がいろんな策略を仕掛けて全部ハマってて、
「ブッ潰す」以外に有効な対応が出来なかったのに、やられるまで4年も掛かっているところ。
つまり、不利な要因が多すぎるのに勝ち続けたところを評価した。
あれは政略に入るのではないかと。>353
>>345 >具体的な工夫や当時ではあり得ない発想
鉅鹿では劣勢だったが背水の陣を敷いてから秦軍の補給路を強襲して救援に来た章邯を撃破し、
食料の供給を絶って王離軍を壊滅させている。
彭城では3万の兵で早朝に西の方角(劉邦軍が通ってきた道の側)から奇襲を掛けるという
最大限に敵の恐怖心を煽る工夫をして56万の敵を壊走させている。
榮陽攻めでも補給線を絶って劉邦を孤立させ、
陳平の奇略で城を逃げ出さざるを得ないところまで追い込んだ。
戦術の歴史を塗り替えるようなことはしてないが、
人間の心理、補給の重要性を戦術レベルで利用する手腕においてこれ以上なく長けていて、※
かつこれ以上なく勝ちまくった点においてこの数世紀では最高峰にいると思われるので、
10を付けてみようと思った。
※戦略レベルではまったく利用できていないが…。
>>237 あれは戦術よりは策略だと思う。
長狄では気を抜いたせいで苦戦してるし、
それ以外には普通に城を一個取ったぐらいの戦績しかない。
一発屋に戦術10はやれん。
>>237タン
朝っぱらから悪いが、グデーリアンは元帥じゃなくて上級大将だよ。
細かいところで文句つけてスマソ。
作戦と戦術がごっちゃになっている気がする。
>>358 目の前の戦闘に勝つための作戦は戦術に入るんじゃないか?
戦略レベルでの勝利を、戦術レベルの勝利で覆せる人こそ、
戦術10に相応しいと俺は思う。
だから項羽は十分にその資格があると思う。
スイスイの戦いは、ほんと凄いと思う。
その時の将軍がアレだけど、それでも普通勝てるような状況じゃない。
斉攻略中に首都を落とされ、事実上挟み撃ちの状況で、
兵力も誇張があるとはいえ、10倍をかるく越える。
>>360 つまり過去のコーエースレに出てきたプロコプ最強ということでよろしいか?
プロコプってのもな
もちろん軍事的な天性の才能があったことは否定しないが、
それでもあの場合はプロコプよりも
ドイツ諸侯のドキュソぶりのほうが特筆に価する。
ド素人ジャンヌ・ダルクに勝てないイングランド騎士軍にも通低しているが、
伝統を壊すのは屈辱だと、意固地に通用しなくなった旧来の戦法に拘って負け続ける。
まあ貴族のやってる戦争なんてのは、我々の感覚で言う恒例のお祭りみたいなもんだからな。
363 :
世界@名無史さん:04/09/06 21:24
しかし、そうは言っても幾らなんでも勝ちすぎじゃないか?
彼の場合。
>>335 雑談スレにでもその内書き込んでおきましょうか?>毛利元就の列伝
毛利元就や、北条氏康などは、もっと評価されてもいいよな。
(北条家の大河はまだか!)
結果だけをだしたら武田信玄や上杉謙信よりは、数値的には高くなると思われ。
とくに武田は江戸時代に美化された可能性が高い。
日本の戦国時代は、島国の内乱と言ってしまえばそれまでだが、
人口などから考えても、中国の中原の争いや、近世以前の欧州とさして変らないと個人的に思っている。
そういや、よく信長あたりと比べられる、チェーザレでてきたっけ?
誰か数値挑戦してくれないかなあ、ファン多いし結構高めになるかな?
>>363 確かに一方的にすぎて異常なほどの戦歴だが、
しかし鬼なのはプロコプ、というよりはむしろジシュカの建設したフス派軍そのものだ。
事実フス派軍は、プロコプに指揮されていない部隊ですら常勝無敵だろう。
日中戦争に限れば、数の上では圧倒的に優勢な中国軍相手に、
日本軍は約50戦してほぼ負けなしだ。
では支那派遣軍の司令官等は、世界史的にも有数の評価を与えられるべきかどうか。
同等以上に強力な敵と渡り合って初めて、用兵家の真価は試される。
フス派軍の敵は、事実の通りフス派軍自身。
それで勝ち続けることができれば、やっぱりプロコプだったといえるんだがね。
>>364 山野さんの毛利評価読みたいです!
ぜひぜひお願いします!
>>365 チェザーレは難しいなあ。活動時期が短すぎるから、失われた可能性に点数を付けるかどうか。
ただし、漏れの予想としてはオヤジともども長生きしても、いいところでスペインが立ちふさがるか、
フランスに手のひら返されるかしそうな気がするんだが。
>>366 一度だけプロコプはフス派軍と戦ってるよ。
完全に敵に先手を打たれて四面楚歌と言う状態。
それでも優勢に戦いを進めてたけど、途中で一部の部隊が敵に寝返って戦死。
戦闘中の裏切りじゃあどんな名将でも勝ちようが無い。
ジャンヌ・ダルク (1412-1431)
【指導】7 半ば惰性で戦い続けていた百年戦争末期のフランス軍全体を一人で奮起させた。
【戦術】4 イギリスのロングボウ部隊と正面から戦わず奇襲・夜襲で撃破するという、平凡かつ常識的な戦術。でも勝てる。
【戦略】3 「敵と戦って勝つ」以上のビジョンがあったかどうか。
【内政】1 未経験者である以前に、そもそも読み書きできなかった。
【政略】3 頭自体は悪くなかったが、シャルル7世に使い捨てにされたあげく魔女の汚名を着せられて処刑。
【人望】9 文字通りカリスマだけで歴史を変えた人。
電波とか実は性同一性障害だったとか言われてる聖女様。
人望以外はもっと低くてもいいかもしれないけど…?
>>357 あ!間違えた。
349ではちゃんと書いてるのに350では元帥になってた・・・。
>一度だけプロコプはフス派軍と戦ってるよ。
悪いけど前からそのことを言ってるんだが。
さらにいえば、リパニは戦端が開かれた時点では、
そこまで不利な状況だったわけじゃない。
ここで結果が出せなかったから凡庸だなんていうつもりは毛頭ないが、
もちろん結果が伴わなければ評価はできない。
プロコプが優れた軍事指導者だったことはあくまで前提にして、
その上で史上屈指の名将なのかどうかという杓子定規ではな。
裏切りに関しては関ヶ原の戦いを例にだせば、
ドイツ人軍事顧問メッケルのいうように、
純軍事的には初手から西軍側の戦術指導は東軍を圧倒していたわけだ。
さらに戦端が開かれて以降も、まあ四面楚歌みたいな状況で、
中盤までは西軍本隊が優勢に戦いを進めていた。
しかしこれをもって光成は戦下手だったなんていうやつはいないだろうが、
家康に比する名将だったなんて話も聞かないだろ。
だから負けっぷりがよかったなんてのは詭弁の類だな。
>>371 三成は通算勝利数が少ないからな。
あのレベルの戦いを他でもしてて、通算勝利数がもっと多かったら
三成は家康に比肩する名将って言えるんだけどね。
373 :
世界@名無史さん:04/09/07 02:31
>>332 上杉謙信ありがとうございました。
俺的には戦術10なんですが、あんまり詳しくないんですよ。
実際は8くらいなのかな。
374 :
世界@名無史さん:04/09/07 03:05
>>373 どう頑張っても8だろうな。
戦術10ってのは項羽やアレキサンダーのレベル。
つまり、間違ったことしまくってても(アレキサンダーはそういうわけではないが)
戦場で敵をぶっ殺すだけで天下の一つや二つは取れてしまうような男どもだ。
謙信がそれほどの男かどうか、胸に手を当てて良く考えてみろ。
そして世界史の教科書読め。
以上
>>372 家康もそんなに戦上手と言えないからなあ。
関が原でも毛利一門が動いていたら、勝敗は決していたし、
確実に裏切るまたは動かない保障があるわけでもないのに、あの布陣をしたのは愚か。
あと大坂夏でもね。
>>373 正直日本史、いや戦国史レベルでも10いかないと思われ。
生涯戦に明け暮れていたし、有力豪族の離反などで、(7回も離反をした人もいます)国内は混乱しまくりだったのに、
最終的には、越後佐渡能登越中のほぼ全域、加賀上野の一部、東北にも版図を広げたのだから、
決して無能とは思わない、それどころか、全国有数だろうが、あくまで有数だと思われ。
関東の覇権は北条が奪い、信濃も奪還できずと、有力大名には負けないまでも勝てないという結論になる。
376 :
世界@名無史さん:04/09/07 09:23
>>375 七回も離反しといてそのたびにノコノコ戻ってくるのを想像すると笑える。
ここまで来るとギャグだな。そんな危険人物さっさと殺せよ。許すほうもどうかしてる。
>>367 では、今月中にでも。空気を見て許されるようならばこちらのスレに。
378 :
世界@名無史さん:04/09/07 13:44
>>375 家康は小早川の裏切りにかなり確信に近いものを持っていたと思うよ。
だからこそ、なかなか裏切らないという状況に苛立った、
というかあわてたのだと思う。
まあ、その点状況判断に甘い面があったとはいえるかも知れない。
しかし、あそこで小早川が裏切りを迷ったのは、
むしろ、三成の土壇場での引き止め工作をほめるべきではないかと思う。
まあ、結局無に帰したわけだけど。
>>372 三成は家康以上の兵力と陣形を揃えたのだから、戦略的には匹敵するかも。
政権側と言っても、小大名なわけだし。
380 :
世界@名無史さん:04/09/07 23:20
>>379 このスレ的に言えば戦略が勝ってたから有利な体制を整えられたが、
政略で劣ってたから切り崩されてしまったって事になるんだろうな。
日本の戦国時代と世界の戦を比較するのって難しいな。
家康に圧勝した信玄が、世界ではどの程度か・・・。
島津あたりだと9か10だと思うけど。
光成はね、可哀想に魅力が激低いんだと思うね。
もう戦略とか政略とかを遥かに超越して低かった。
ああ、島津強いね。
釣り野伏せとか、技術的にはナポレオンのやった囮戦術なんて児戯にも等しい。
もう戦場芸術といえる域だよな。
384 :
273desu:04/09/08 00:25
ナポレオンの特徴は当時の主流であった横陣に対して散兵戦を伴う縦陣の採用、
砲兵の機動的な運用、三兵戦術の確立など革命的なものが多く。
また火力優勢の時代の中で騎兵を巧妙に運用した。
フランス革命によるナショナリズムの昂揚、兵力の増大などを差し引いても
総合的に見て日本に彼に匹敵する将帥がいたとは思えない。
あえて挙げるなら東郷平八郎程度?
個人的にはナポレオンでも戦術10点はやれぬと思っているのですが・・・。
385 :
世界@名無史さん:04/09/08 00:43
386 :
世界@名無史さん:04/09/08 01:02
どうでもいいが、ネッケルほどの軍人が布陣図を眺めただけで勝敗を判別したとは思えない。
387 :
世界@名無史さん:04/09/08 01:06
>>371 なるほど、そう言われれば確かにそれも一理あるか。
388 :
273desu:04/09/08 01:18
>>385 私的には確実に10点といえるのは
・マケドニアのアレキサンダー大王
・東ローマのユスティニアヌスに仕えたベリサリウス
くらいでしょうか。
しばしば名前が挙がってる項羽も候補にはいると思いますが。
前述の二人に比べると実績面でやや落ちるような気もします。
>>364 まあなあ。デビュー戦のトゥーロン攻囲戦の手際一つみても、
運用面でも天性の軍事的才能があったのは間違いない。
でもな、宿敵ネルソンには負け続け、モスクワ行って負け、ワーテルローで完敗。
彼の非完全性というか、戦歴をみれば実践段階での戦術的欠陥が目に付きすぎる。
でも革新的な部隊編成を確立したので戦術最高レベルです。
ってのは、なんか違うんじゃねぇか?そもそもここでいう戦術ってのは、そんな問題なのか。
すこぶる強いが、ネルソンには戦術だけ劣ってる。ってほうが、
むしろナポレオンにはシックリくるんだがな。
ネルソンが天敵だった…と言うだけで、ナポレオンはやはり評価すべきでは?
当時のフランスの海軍力も考慮すべきだと思うし。
あ、水銀は出入り禁止だよ。
ごめん先に言えばよかったね。
393 :
273desu:04/09/08 02:25
>>389 ロシア遠征の失敗は戦術面の敗北と言うよりは兵站=戦略の失敗という面が
大きいのではないでしょうか。
ワーテルローに関してですが、当時ナポレオンはプロイセンとイギリスに対する
二正面作戦を強いられており、各個撃破に出てリーニーでは
理想的な中央突破でプロイセンを破り、
ワーテルローでもウェリントンを敗北寸前に追い込みましたが、
破れたはずのプロイセン軍が体勢を立て直して合流したことで勝負が決まりました。
ともに戦術面は及第以上であり戦略面での失敗と劣勢が響いているのではないでしょうか。
同意。
ナポレオンは寧ろ戦略面での失敗が目立つ。
行き当たりばったり気味なのが常に否めない。
戦術が高かったからこそ…と考えると、戦術の失敗を戦略で取り戻す事はできてもその逆はない
と言う「定石」を考えた場合
引っ繰り返した部分がある
「例外」ナポレオンの戦術は9ないし10で問題はないのでは。
>>394 クソコテの癖に良コテのナポ氏を批判する気か?
いつからそんな偉くなったんだ
>>384 散兵戦と縦陣の組み合わせはフランス革命軍の基本戦術。
最初の考案者はギベールだ。
砲兵の機動的な運用も上に同じ。
フス戦争の時代から砲兵の機動的運用は試みられているが、
ナポレオンの使ってる形を思いついたのはギベールで、戦術として確立したのはフランス革命軍。
三兵戦術のはしりは16世紀のマウリッツ、完成形はグスタフ・アドルフ二世。
ナポレオンは先人の遺産を天才的に運用してみせた人物であって、
彼が全部一から考え付いたわけじゃない。
ナポレオンが軍事的天才であることは否定しないが、
持ち上げるあまり先人の功績も全て彼のものにするのはどうかと思う。
>>388 トハチェフスキーとヤン・ジシュカも入れようか?
項羽の実績のことは、も少ししたらタンと書いてやるから待ってろ。
>>389 新戦術を考案するってのまで戦術に含めることはないと思う。
そしたら軍人として実績はあまり無いけど、新戦術を考え付いた理論家が戦術高くなってしまう。
あと、ネルソンにトラファルガーで負けたのはヴィルヌーヴだ。
ナポレオンは提督じゃあないぞ。
>>393 >>394 ロシアは戦略ミスだと思うな。
けっこうナポレオンは戦略ミスで負けが込んでいるが、
それでも勝ち続けた香具師が世界史には何人もいる。
戦略で失敗しても、戦場での勝利で強引にひっくり返すレベルでないと
戦術10は難しいだろうなあ。
398 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:40
項籍※一般には字の羽で知られる(BC233〜BC202)西楚の覇王
【指導】2
戦場では無敵、礼儀正しく仁愛ある性格で諸侯や礼節を重んじる士の人望を集めたが、
人使いのまずさから離反を招いている。敵する者は皆殺しにして恐怖で押さえつけようとしたが、
押さえ付けるどころかさらに反乱がひどくなり、統制力の無さを示した。
項羽のいない戦場での楚軍はあまり強くなく、組織作りにも長じていなかったようだ。
【戦術】10
反秦戦争初期は城攻めで苦戦したりもしているが、その後の武勲は空前絶後である。
鉅鹿では諸侯の軍が恐れて手を出せなかった秦の主力を孤軍で打ち破って、
秦優位の戦局を一戦で覆し、諸侯を服従させた。
覇王となってからも連戦連勝。論功行賞の失敗から諸侯の離反を招いて完全に孤立してしまったが、
劉邦率いる諸侯連合軍56万を3万で打ち破り、その武威を恐れた諸侯は再び項羽に従った。
一戦で項羽が天下を覆せたのは敵に恐怖心を植え付けて戦意を喪失させる戦術に長けていたからである。
数え切れないほどの戦略的ミスを犯し、謀略工作にもハマりっぱなし、
敵に後方を脅かされて疲弊してもなお、自ら立った戦場では勝ち続けた。
最後は負けてしまったが、戦場での強さだけであれだけ総合力で負けてる相手に優位を保ち続けられたのは、
彼の強さがそれだけ飛び抜けていたからである。彼が最強でなければ誰が最強なのだろうか。
【戦略】3
戦場では常に敵を圧倒したが、戦場の外を考えることには長じていなかった。
また、感情や目先の利で短絡的に行動することが多く、降伏した秦兵の反乱を恐れて皆殺しにし、
復讐心を満たすために咸陽で乱暴狼藉を働いたために、関中の民心を失ってしまった。
論功行賞では共に関中に入った者ばかり優遇して諸侯の反感を買っている。
懐王が邪魔になると殺害して反項籍勢力に大義名分を与えてしまった。
斉では反乱軍を皆殺しにして鎮圧したが、怒った民衆が蜂起して泥沼化させてしまった。
補給線の重要性は理解していたし、反乱や敵軍への対応も早く、戦略眼が無かったわけではないが、
短絡的過ぎる性格が全てを台無しにした感がある。
399 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:40
【内政】2
武一筋に生きた彼にふさわしく、彼の伝記には内政に関することは一切書かれていない。
西楚、江南などの後方領域でどんな統治をしていたのかは不明。
ほとんど前線に張り付いてたから、彭城で留守してた宰相項佗あたりが仕切ってたんだろう。
斉や関中などでの占領行政はかなりひどかったので、そこを差し引いて無能レベルとしとく。
【政略】5
「戦うことはあなたには及ばぬが、策をめぐらすことでは私の方が上だ」と宋義に評されているが、
その宋義を殺してから勅命と偽って軍を乗っ取っているので、あまりあてにならない。
関中に入ってから懐王を棚上げして上将軍なのに王の専権事項である論功行賞を仕切ったり、
武力を背景にしているとは言え権力争いでは頑張っている。
また、この手の人物には珍しく誰かに利用されると言うことも無く、立ち回りはそれなりに出来たようだ。
しかし、劉邦、張良、陳平といった一流どころには手玉に取られているので、
可もなく不可もない程度の力量しかなかったのだろう。
【人望】5
部下への愛情が厚く、病気になると涙を流して自らの食事を分け与えた。
また、紳士的な態度から、気骨ある人物や礼節の士を多くその下に集めたと言う。
離反した陳平や韓信も項羽の人格は高く評価しているので、相当な人格者だったようだ。
楚の民衆にも慕われていたらしく、最後に烏江の亭長(保安官)が助けてくれようとしたり、
項籍死後にも江東や魯が抵抗したりしている。※
その反面で残虐な行動も多く、民衆を失望させる行動も多かった。
劉邦と違う意味で好き嫌いが激しく分かれそうなので足して二で割って5にする。
※灌嬰列伝によると、灌嬰が江東平定を指揮したらしい。
400 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:41
これまた世界史板のみなさんにはお馴染みのお方。
リーマン向けの本とか広く浅く歴史を紹介してる本では
名門出のエリートやらボンボンやら言われているのだが、
実際はガキンチョの頃に両親を亡くして、人殺しやらかして逃げ出すようなヤクザな叔父に育てられると言う
お涙頂戴系の番組に出れそうなハードな幼少時代を過ごしている。
そのせいかひねくれた性格に育ち、叔父項梁が字を教えようとすると
「字なんざ名前が書けりゃ十分なんだよ」とほざき、
剣術を教えようとすると「一人しか相手に出来ないなんてツマンネ。大勢を相手にする方法教えろ」とほざいた。
普通ならシカトするかブン殴るところだと思われるが、
項梁もサツの厄介になったり人殺したりする人種なので
感覚が普通の人と違うのか「おおそうか。根性があってよろしい」と兵法を教えた。
項籍も最初は熱心に勉強してたが、「要点が分かったからもういいよ」と投げ出してしまった。
本当にどうにもならないクソガキである。
始皇帝の行列を見た時の「あいつに取って代わってやる」と言う言葉も
項梁は内心「根性あるじゃん」と思ったらしいが、
自意識過剰なアホガキが「あんなアフォでも総理大臣なれるならなんて俺だってなれるぜ」と
ほざくのと同レベルでしかない。
ドキュソがドキュソを育てるとロクなことにならないという不変の真理を
2000年の時を越えて今に伝える司馬遷は偉大な歴史家である。
401 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:41
食いもんのうまい呉で育ったせいか、項籍は巨漢のマッチョに育ち、若者連中に恐れはばかられた。
たしかにあの性格でマッチョなら近づきたくないだろう。少なくとも漏れは道で会ったらUターンする。
24歳になったある日、会稽郡守(知事)は陳勝の反乱に呼応して反乱を起こそうとした。
秦の官吏があちこちで反乱軍に殺されてるので、殺される前に自分も反乱軍になっちゃおうと考えたのである。
そこでいつのまにやら町の名士になっていた項梁に相談したのだが、
項梁はドキュソなので項籍に郡守を殺させて郡を乗っ取り、自分で反乱を起こしてしまった。
役人連中が「何ごとだー」と一斉に雪崩れ込んで来たが、項籍は何十人か殺して黙らせてしまう。
この時の武器は剣だったらしいが、剣術を学んでいない項羽が怪力だけでそんなに殺せるもんなんだろうか。
それともストリートファイトをこなしてケンカ剣術でも身に付けたんだろうか。歴史は黙して語らない。
項籍は会稽郡守を自称した項梁の副将となり、城を攻め落として敵兵をみんな穴埋めにしてしまった。
初陣から敵皆殺しとはさすがである。そして、ここから彼のビクトリーロードとキリングロードが同時に始まった。
402 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:41
項梁が懐王を立てて本格的に対秦戦争を始めると、項籍は劉邦と組まされてあちこちを転戦。
三川郡守李由を戦死させた。この人は左丞相(宰相)李斯の息子で呉広相手に奮戦した勇将である。
大殊勲をあげた項籍の元に悲報が入ってきた。項梁が秦の名将章邯に敗れて戦死したのである。
項籍は劉邦と相談して兵を引き、首都彭城に戻ると新たに上将軍(総司令官)に任命された宋義の副将となり、
章邯に攻められている趙の救援に向かった。
ところがこの宋義という男が曲者で、趙救援を命じられたはずなのに一向に動こうとしない。
高みの見物を決め込んで、軍の食料が乏しくなって将兵が飢え凍えているのを放置し、
その一方で息子を斉の宰相に就けて送別会を盛大に開くと言う有様だった。
腹を立てた項籍は戦略、倫理の両面において文句の付けようが無いほどの正論で宋義を非難。
翌朝、謀反の濡れ衣を着せて宋義を殺害して指揮権を奪った。
このクーデターを懐王はしぶしぶか納得したのかは不明だが認め、正式に上将軍になった項籍は趙救援に向かった。
この時趙王が篭城する鉅鹿城は秦の王離に包囲され、章邯が補給路の防衛に当たっていた。
王離軍の勢いは盛んで、援軍に来た諸侯の軍はビビって遠くから眺めているだけ。
趙の大将軍にして城中で防衛戦を指揮する宰相張耳の大親友である陳余でさえ救援要請をシカトする有様。
すべてから見離されたかに見えた鉅鹿に項羽が降り立った時、伝説が幕を開けた。
403 :
世界@名無史さん:04/09/08 12:42
英布と蒲将軍率いる前衛部隊を秦軍にぶつけて手ごたえを確かめた項籍は
全軍を率いて黄河を渡ると船を壊し、食糧を三日分だけ残して棄て、背水の陣を敷くと章邯に襲い掛かった。
退路も食糧もない楚軍にとって生き残るには、目の前の秦軍を破るしかない。
兵力では負けていた。章邯は名将だった。しかし、項籍の、そして楚兵の必死の覚悟は秦軍を圧倒した。
章邯は敗北して退却。補給路を絶たれて孤立した王離軍は楚軍の強襲を受けて壊滅した。
絶対勝てないと誰もが確信していた思っていた秦の主力軍が壊滅し、
絶対落ちると誰もが確信していた鉅鹿が救われるのを目の当たりにした諸侯は
項籍に臣下の礼をとって、その指揮下に入った。
その後も章邯に連戦連勝し、遂に降伏させた。
陳勝呉広の乱を鎮圧し、諸侯の軍を粉砕して無敵を誇った秦軍主力はここに潰え去ったのである。
若き武神の誕生であった。
404 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:43
関中へ進軍を続ける項籍軍であったが、途中で問題が持ち上がった。
秦の降伏兵が秦に恨みを持つ諸侯の兵にいじめられ、不満を持ち出したのだ。
いくら降伏兵とはいえ、20万の大軍である。反乱を起こされたらとんでもないことだ。
普通なら「おいおい、あんまりいじめるなよ」と諸侯の兵をたしなめるか、
降伏兵を慰撫して不満を抑えるところであるが、項籍は英布と蒲将軍と相談してみんな殺すことにした。
もしかしたら兵糧が無かったのかもしれないが、
それでも降伏してきた相手を20万も殺すというのはとんでもない暴挙である。
今なら国際法廷に訴追される可能性もあるが、そんなものはないので殺すと決めたらためらう必要は無い。
英布の鮮やか過ぎる手並みによって一晩で20万人を殺し尽くして穴埋めにした。
そんなこんなで函谷関までたどり着くと既に劉邦が関中を占拠していて、関門を閉ざしていた。
劉邦は肩を並べて戦った同僚であるが、それでも長い苦労の果てにたどり着いた先で
「お前ら来るな」と言わんばかりの態度を取られて笑って許すことなどできるわけがない。
普通ならそれでも「お前さあ、それどういうつもりなの」という使者ぐらい送るところであるが、
果断即決の項籍は即座に関門をブチ破り、劉邦を攻撃する準備を進めた。
「もう殺す」項籍の心は決まっていたが、叔父の項纏が「いきなり殺すのは良くないよ」と言ったので、
言い分だけは聞いてやることにした。
405 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:43
実際に会ってみると劉邦は土下座して謝った。
この頃の項籍を知っている韓信は「礼儀正しくて慈愛に富んだ人」と語っている。
あのクソガキぶりからはどうやってそうなったのかは想像も付かんが、良い事である。
見限って飛び出してきた奴にまでそう言われるってことは、本当に項籍はいい奴だったんだろう。
そんな項籍が20歳以上のオヤジに土下座されて「すいません。全部私が悪いんです」と言われて、
「許さねえ。ぶっ殺す」と言う気持ちを持ち続けられるはずもない。
あっさり許して「じゃあ一緒に飲みましょうか」と劉邦を誘って宴会を開いた。
范増のジジイが「殺せ」としつこく言ってきたがシカト。
自分に敵認定した奴には容赦しないが、そうじゃない奴にはとことん優しい。それが項籍だと言う男なのだ。
だから、父祖の国楚を滅ぼし、一族を離散させた秦には容赦しない。
咸陽に入ると憎い秦人どもを殺しまくり、秦王嬰を殺して秦の宮殿を焼きはらい、奴らの財宝も全部いただいた。
思い出したように懐王に秦を滅ぼしたことを報告すると
「関中に最初に入った人を関中王にするって言ったからその通りにして」と言う返事が返ってきた。
もちろん聞いてやる気は無い。いくら許したとはいえ、一番激しく戦った自分を差し置いて、
劉邦が関中王になるなど認められない。て言うか、戦ってない懐王があれこれ言うのも認めたくない。
「だって、俺が戦功一番だから発言権も一番に決まってるじゃん?」
かくして項籍は最高指導者であるはずの懐王を無視して論功行賞を始めた。
406 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:44
処分に困ったのは劉邦である。関中王にしたくなんかないが、
しなければ「懐王の言う通りにしなかった」と文句を付ける奴もいるだろう。
そこで范増に相談して旧秦領の辺境である巴・蜀・漢中を与えることにした。
厳密に言えば関中じゃないが、「そこも旧秦領だから関中だよ」と言い張った。
さすが范増、年の功である。本物の関中の王は三分して章邯ら旧秦軍の将軍に与えることにした。
おそらく「俺楚王になりたいから関中王になれないけど、
あの三人なら言うこと聞くから関中も事実上俺のものだよな」と言ったところであろう。
他にも鉅鹿以来一緒に戦ってきた連中や戦功の多い連中を王に立てた。
戦功が無いのに王をやってる奴は領土を削った。楚に非協力的だった奴は封じなかった。
自分が楚王になるのに邪魔な懐王は義帝の称号をやって追い払おうと思ったが、
生きてられると面倒なので思い直して殺した。
項籍は自立して西楚の覇王を名乗り、27歳にして頂点を極めた。
407 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:52
だが、こんな俺様人事を項籍は認めても世間が認めるはずが無い。
非協力的だったせいで放置された田栄は斉を乗っ取り、陳余に兵を貸して趙を乗っ取らせた。
しかも彭越を動かして西楚の領地である梁で反乱を起こさせた。
漢中に閉じ込めた劉邦は関中を力ずくで併合して、さらに東に進軍してきた。
劉邦と彭越に軍を差し向けたがどっちも破れてしまう。
苦境に陥った項籍のもとに劉邦から「関中が欲しかっただけで背く気はないです」と言う書状が送られてきた。
さらに斉と趙が楚と本気でやる気だと言う情報(実は劉邦サイドの流した偽情報)が流れてきたので、
劉邦放置で斉を討つ事に決めた。
項籍自ら出陣すると田栄はあっけなく破れ、落ち伸びた先で殺された。
田栄は死んだが、斉と言う国そのものが許せない項籍は、
降伏した兵士を皆殺しにし、町村を焼き払って徹底的に斉を懲らしめた。
怒った斉の民衆は蜂起し、田栄の残党も挙兵。
項籍は反乱を潰して回ったが、潰しても潰しても立ち上ってきてきりが無い。
そこへ劉邦が諸侯を糾合して56万の大軍で彭城へ向かっていると言う情報が入った。
斉に張り付いている主力を動かせば、斉は反乱軍の手に落ちる。
項籍はこの危機を乗り切るため、驚くべき決断をした。
主力の指揮を諸将に任せて3万だけ率い、彭城に向かったのである。
408 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:52
主力を動かせば斉は反乱軍のもの→主力は動かさない
俺が少数の兵で行く→兵が少ないけどまあ勝つだろ
実に合理的な計算だ。早朝の奇襲。斉から動けないと思っていた項籍が、
自分達の来た西側から攻撃を仕掛けてきた。
この信じがたい事実に劉邦軍は完全に混乱し、ひたすら逃げた。
項籍は徹底的に追いかけて、徹底的に殺した。
恐慌をきたした劉邦軍の将兵は逃れるようと川に飛び込んで、次々と溺死した。
劉邦に付いた諸侯は骨の髄から項籍の恐ろしさを思い知らされ、再び項籍に付いた。
斉は項籍のいない間に反乱軍の手に落ちた。主力を残してるのに負けるとはふがいないことだが、
斉の新王田広は楚に従ったので、結果オーライであったと言えよう。
これで劉邦との戦いに専念できると言うものである。
榮陽に陣取った劉邦軍の補給路を断つと、劉邦は榮陽以西に退くと言う条件で和睦を申し出てきた。
「その辺までくれてやってもいっかあ」と思ったのか項籍はこの話に乗ろうとしたが、
范増が反対したので取りやめにして榮陽を包囲した。
しょっちゅう目の前に立ち塞がってきた目障りなオヤジともこれでおさらばだ。
そう思っていた。
409 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:53
楽勝ムードだった楚軍の中に妙な噂が広まり始めた。
項籍の腹心である范増、鍾離眛、竜且、周殷らがいくら功績を立てても王になれないので、
漢に内通して楚を滅ぼして王になろうとしていると言うのである。
項籍は噂を信じた。彼は礼儀正しくて部下にも優しい好青年だが、ケチと言う欠点があった。
果断即決を旨とする彼であるが、恩賞を与えるとなると惜しくなってしまって、
散々迷ったあげく与えなかったりすることもあったのだ。
功績のわりに恩賞をあまり与えていないと自覚がしていたので、噂には真実味があった。
疑心暗鬼になっている彼のところに、劉邦に送った使者が戻ってきて
「范増が劉邦に内通の使者を送っている疑いがある」と報告した。
「范増のジジイはクロだ」と確信した項籍が范増の権限を取り上げると、引退を申し出てきた。
危険分子が自分から消えてくれると言うのならありがたいことなので許可した。
すっきりした気分で榮陽を包囲していると劉邦から「食料が尽きたので降伏する」という使者が来た。
これで全てが終わった。楚軍の誰もがそう思った。
しかし、降伏してきた劉邦は替え玉で本物は遠くに逃げていた。
いつまで項籍はこのオヤジに振り回されるのだろうか?
410 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:53
正面から勝てないと思ったのか、劉邦は最近行動が怪しかった英布を背かせたり、
田栄と組んでた彭越を動かして梁で暴れまわらせるなど、後方かく乱に出た。
英布は竜且に潰させたが、彭越は本当にうざかった。
放置しとくと補給線を脅かされるし、項籍以外の将軍だと勝てないから、
定期的に叩きに行かないといけない。
その間に劉邦は勢いを取り戻し、劉邦を叩くと今度はまた彭越が勢いを取り戻す。
そうやって劉邦と彭越に振り回されてる間に、劉邦軍の韓信が趙を平定して斉に侵攻してきた。
斉が劉邦陣営の手に落ちると楚本土がヤバいので、竜且を送って斉を応援させたが惨敗。
斉王となった韓信に使者を送って懐柔しようとしたが受け入れられず、
韓信軍の灌嬰が楚本土に侵攻してきて次々と城を下している。
しかも彭越に補給線を絶たれてしまい、食料も尽きた。
窮地に陥った項籍のもとに劉邦から和議の使者がやってきた。
鴻溝を境にして天下を二分すると言うもので、前回申し込まれた和議よりは条件が悪かったが、
事情が事情なので飲むことにした。
引き上げていく途中にいきなり劉邦軍が和議を破って襲撃してきた。
当然撃退したが、弱い癖に卑怯と言うどうしようもない連中である。
※鴻溝は榮陽より若干東にあるので、その分西側にいる劉邦の取り分が多くなる。
411 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:53
しばらくすると何があったのか、和議直前よりえらいことになっていた。
英布が旧領を取り返して再び王となり、腹心の大司馬(軍事長官)周殷が劉邦に寝返ったのだ。
そして、劉邦、韓信、彭越と一緒になって攻め寄せて来たのである。
韓信率いる30万に対し、項籍率いる兵は10万。しかも食料は尽きている。
それでも項籍軍は奮戦して韓信の直接率いる部隊を破ったが、そこで力尽きた。
自ら指揮した戦いで敗れたことの無い項籍の初めての敗北であった。
陣地を包囲する劉邦軍の中から楚の歌が聞こえるのに驚いた項籍は、
楚は全て漢に下ったと勘違いして大いに悲しみ、あの有名な歌を歌って涙を流した。
もはや戦場に立ちさえすればどんな苦境でも乗り切れる段階でなくなったことを悟ったのだろう。
気持ちは良く分かるが、大将がメソメソするのは良くない。
そんなことしたら部下もメソメソしてしまうからだ。
上下共にメソメソした楚軍は完全に戦意を失って一斉に逃げ出し、項籍も800人の兵を率いて逃亡した。
412 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/08 12:54
執拗な漢軍の追撃の前に一旦はこれ以上逃げ切れないと観念して、
「これは天が俺を滅ぼそうとしてるんだ。戦いに弱くて負けたわけじゃないって事を諸君に見せてやる」と言い、
28騎で数千の敵に三度突っ込んで敵将を斬り、大勢の敵兵を殺して
「大王のおっしゃるとおりです」と部下に言わせて死に花を飾ったのかと思えば、
今度は烏江から江東に渡ろうとして「生きる気あるじゃん」と思わせといて、
烏江の亭長(保安官)に「今のうちに逃げてください」と言われると、
「恥ずかしくて今さら江東に帰れないよ」と爽やかに笑った後、
追いついてきた敵軍に突っ込んで、最後は知り合いに「お前に首やるよ」と言って自刎している。
結構矛盾に満ちた行動であるが、逃げながら「生きて再起」と「死に花飾る」という
二つの選択肢の間で揺れ動いていたのだろう。
今となっては分からないが、あれだけやらかしといて
「天が俺を滅ぼすんだ。俺のせいじゃない」と言って爽やかに死んでいった項籍は
正直言ってロクな奴じゃないが、歴史書の中に留まっててくれる分には
こういう奴のほうが面白いということだけは確かだ。
劉邦の指導力、蕭何の行政能力、張良の戦略、陳平の謀略、韓信・彭越の用兵が
総がかりで無いと倒せなかったほどに圧倒的な強さを誇った項籍は、
男の、いや項籍は嫌がるだろうが漢(おとこ)のロマンを体現した存在として、
2000年の時を越えて我々の心をひきつけるのである。
おれは思うがままに邪悪であったぞー
は、果てしなく長い
まあ、問題ないべ。こんな感じで文章を読むのも趣味として歴史を楽しむ大人だけの遊びなのだから
自演乙。
荒らしにも等しいな。
>>398 正直、ここの住民はアンタが長々書いてることぐらい全部知ってるから、
もう少し(というか大分)省いていいと思われ
前の劉邦といい、これといい・・・・・
ちょっと長すぎ。
最近古代中国にハマったとか?
>秦の宮殿を焼きはらい
これ、最近本当は無かったとか調査報告されてなかったっけ?
その後どうなったか知らないけど。
さすがにマナー違反だな。
文章は実に味があって面白いと思うのですが(w)。
毛利元就、今原稿を書いているところですがこれもかなりの長文になりそう
です。特に元就個人よりも海賊衆の描写に力が入り過ぎたような・・・。
(正直なところ、「歴史」として見ればそちらの方が面白いので。)
山野氏は別格。
一人で1000迄書いてもよいよいよいよい。
キチンと裏打ちされた内容のよいレスだからな。
長い評伝も嫌いじゃないが、でも程ってもんがあるよな。
それに読んでみても、数値化にあまり関係のないような挿話が多すぎる。
もうちょっと要約して、ある程度簡潔にしたほうがよっぽど纏まりがでるし、
評伝としても面白いものになると思うが。
>>418 跡地を地質調査しても焼き払われたような痕跡がみつからなかったらしいな。
織田信長の叡山焼き討ちにしても、今では似たような調査結果がでてるし、
勝者を正当化するために、敗者の非道な行為というのは粉飾されて伝わるのが常なんだろう。
面白く読んだが、どっかにアップしてリンクしてくれれば良かったかもね。
はっきり言ってそれはオナニーだよ(げん)
おれも長いの考えようかな
一人で一スレ使い切るくらいの
>421
有難う御座います。一週間以内には御用意出来るかと思われます。
>422
>織田信長の叡山焼き討ちにしても、今では似たような調査結果がでてるし、
少なくとも横川は焼けていなかった様ですね。西塔・東塔はともかく。
山野さんの毛利すげー楽しみだな!
俺もわくわくしてくるよ。
尾道で育った俺としても、水軍は超たのしみ。
そういえば高校の時、因島から来る奴の半分は村上だったな。
ひとクラスに村上は3人はいた。
今考えればあいつらは水軍の子孫だったんだな。
超萌えだ。
しかし言わないのがお約束なんだろうが、
史記なんかを史料として信頼するのはイカサマじゃないのか。
28騎にしても、項羽の一人で数百人斬りにしても、
絶対にありえないファンタジーの世界だろ。
幕末最強の剣豪といわれる千葉周作は、
少しでも腕に心得のある三人以上に襲われれば、
どんな剣豪でも絶対に勝ち目が無い。逃げるしかないといってるが、
史記には一人で数十人から数百人ぶっ倒したなんて記述が、
度々まことしやかに出てくるもんな。いわゆる白髪三千丈の類なんだろうが、
それにしてもインフレのし過ぎだろう。少年誌漫画じゃねえんだからさ。
>史記なんかを史料として信頼するのはイカサマじゃないのか。
ケースバイケース。
史料の活用法をもう少し勉強されたし。
史記は普通に一級資料だろ。
荒唐無稽な記述も当時そう記録されていたり、あるいは噂されていたり、伝えられてたりしたわけで。
さらに深く見れば、そう記述した司馬の意図を見出したりと、幾らでも価値のある記述と見ることが可能なんだが。
まあ、何十万の敵軍。誰が数えたんだと小一時間。
中国は知らんが、日本は一応軍勢のかぞえ方のコツがあったな。
>>420 別につまらない文章じゃない。
評伝をつけるのいいけど、スレ違いだし、なにしろ長文すぎ。
せいぜい2〜3スレくらいにまとめるのが妥当なのでは?
>>429 史記は確かに一級資料だと思う。
が、なにしろ紀元前に書かれたやつだし、
中国の資料特有の誇張や前政権を悪く書く特徴があるから、
このスレで扱う資料としてはどうか?って感じでは?
といいつつ自分もスレ違い長文で失礼。
んなこと言ってたらどんな資料も使用できん。
資料はアクティブに読み取れ。
2〜3スレに跨る評伝は流石に長すぎると思った。
2〜3レスではない。
脅 威 の 1 6 連 カ キ コ だ !
16かよ。
クソ文章の癖にさすがに長すぎだろ。
山野文とかならいいけどな。
>>376 上野の有力豪族なので、切れません。
その豪族北条氏っていうんですが、小田原の後北条氏との間を行ったり来たり。
>>384 >>388 >>393 このスレの237だが昨日書いた上記のレスの名前が273になっていた…。
人の名前を騙ってしまったことを謹んでお詫びいたします。
なんか山野信者が自演しているなあ。
はっきりいってスレの歩みは遅々たるモンだし、別に良いのでは。
逆にプレッシャーかけているだけなんじゃないの。
山野マンセーはウザイけど。
>>417 そのうちマイナー人物の長文を書いてくれると期待してる。
山野は普通に良コテだろ。
マンセーもなにも人気コテだ。
そうだ。山野は良コテだ。人気コテだ。我々の導き手、彼方の岸へと放たれた憧れの矢だ。
山野万歳!!!
>>417 そうだな。小説書くんじゃないしな。
>>418 >最近古代中国にハマったとか?
いや、10年選手の中国史好きだが。
文章書きの方に最近ハマった。
>これ、最近本当は無かったとか調査報告されてなかったっけ?
焼かれたのは阿房宮じゃなくて咸陽にあった宮殿の方らしいね。そっちには焼かれた跡があるそうだ。
>>422 >それに読んでみても、数値化にあまり関係のないような挿話が多すぎる。
ここが数値化スレってことをすっかり忘れてたよ。今後は数値化メインで行く。
>もうちょっと要約して、ある程度簡潔にしたほうがよっぽど纏まりがでるし、
>評伝としても面白いものになると思うが。
ここまで来ると評伝じゃねえなとうpしてから思ったので、今度こそ評伝部分は1レス以内に収める。
昔の青みたいのを書いてみたかったが、漏れが書くと評伝じゃなくて小説になっちまう。
>>436 原稿に書いたのを打ち込んでうpした。
紙でこれなら短編なんだが、掲示板だと想像を絶する長文だな。
うpしてから気付いて真っ青になった。
>>441 漢楚を書いてるのは史記持ってるから書きやすいってのと、能力値を付けやすい人物が多いから
こういう人物にはこういう数字を付けるという自分の中での基準を作るため。
有名どころやり切ったら本当にやりたい時代やる。
このレベルの長文はさすがにもうやらん。
漏れの場合は数値化部分でも2レス使うことがあるから、掲示板レベルではそれでも十分長文だ。
言い訳ついでに投下。今回は短いぞ。
項梁 (?〜BC208)楚の武信君
【指導】7
夫役や葬儀での働きぶりから人間の能力を見極め、蜂起すると適材適所に人を配した。
8000の兵を率いて西進すると各地の反乱軍が傘下に入り、一挙に6、7万に大軍に膨れ上がるが、
混乱させること無くまとめあげて、強大な軍勢を作り上げる。
【戦術】6
一度は秦の名将章邯を破り、その後も慢心が起きてしまうほど勝ち続けた。
なかなかの戦上手だが、秦軍が兵力を結集して反攻に出てくると奇襲を受けてあえなく戦死した。
【戦略】4
平時から秦に反乱する準備を進め、時が来ると見るや会稽郡守を殺して挙兵して江東の支配者となる。
そこまでは深慮遠謀に基づいていたが、その後の計画は立ててなかったらしく、
偽の援軍要請を受けて西進し、援軍要請を出した(ことになっている)反乱軍の盟主陳勝が死んだことを知ると
途方に暮れて会合を開いている。楚王を立てた後は秦軍と戦うが、勝ち続けて慢心を起こしたために敗北した。
【内政】5
どのような政策を行ったのかは不明。占領統治の様子も分からない。
凄い善政を敷いたわけでもないが、凄い悪政を敷いたわけでもないようだし、
内政を取り仕切ったブレーンがいる様子もないので、可も無く不可もないとしておく。
【政略】6
会稽郡守(知事)殷通を信用させておいて暗殺し、まんまと郡を乗っ取る。
楚王を立てると大軍を擁する将軍陳嬰に宰相の位を与えて都に留めて棚上げ。
なかなかの政治力の持ち主である。
【人望】7
人を殺して逃げてきた街で多くの人に尊敬されて名士となり、
郡守という大臣クラスの高官にもヤバい相談を持ちかけられるほど信頼された。
淮水を渡ると、付近の諸軍が先を争って配下に入り、8〜9倍の大軍に膨れ上がった。
彼の強い求心力が一度は失敗に終わった反秦運動の火を再び燃え上がらせたのである。
447 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/10 08:47
≪略伝兼あとがき≫
楚の名将項燕の子。項籍の育ての親。
人を殺して逃げてきた呉で官民の信望を集めて、夫役や葬儀を取り仕切る町の名士となった。
会稽郡守が陳勝の乱に呼応して挙兵しようとした時に相談を受けたが、
その場で殺して会稽郡守を自称し、江東の支配者となった。
陳勝の使者を自称する人物に出兵を促されて西に進むと、
淮水一帯の反乱勢力が傘下に入ってきて、大軍を擁することとなった。
その後、楚の王族を王に立ててポスト陳勝を狙っていた秦嘉を粉砕してその勢力も吸収。
この頃は陳勝に従う気だったらしいが、その死を知ると范増の進言を入れて楚王を立て、
自らは武信君を名乗って名実共に最大の反秦勢力となった。
斉を救ったのを皮切りに秦軍との局地戦で多くの勝利を収めると、
秦軍を軽く見るようになり、反撃に出た秦の名将章邯の奇襲を受けて戦死した。
しかし、彼が重用した項籍、劉邦、英布らは反秦の志を受け継ぎ、遂には秦を打倒するのである。
活躍した期間は短く、全ての反秦勢力を一本化するには至らなかったが、
消えかけた反秦闘争の火を再び燃え上がらせた人物であり、後世に残した影響は絶大である。
>>446 血筋さえ良ければ、人望と人材配置だけで結構なんとかなるな。
>>448 あの当時は食い詰めた人たくさんいたから。
450 :
237:04/09/11 02:05:52
近代最高の参謀
へルームート・フォン・モルトケ(1800-1891)
【指導】7
参謀総長就任後、部制を取り入れ、鉄道部を設置するなど組織改革に努めた。
世界に冠たるドイツ参謀本部の礎となった人であるのは間違いない。
【戦術】8
対デンマーク戦争で戦線が膠着すると、第一線に就任し見事な手際で勝利を
収める。本質的には戦略家であったが軍事に関しては死角のない人であった
と思われる。
【戦略】10
ドイツの国土は地形上要塞を構築して守ることは難しいことを見抜いており、
鉄道を有効に敷設することで、必要な時に必要な箇所に兵力を集中する、
動員力に主眼を置いた。その計算は図にあたり普墺戦争・普仏戦争での
勝利につながった。普墺戦争は7週間で集結させ、普仏戦争でも短期間で、
ナポレオン三世を捕虜にすることに成功するのである。
【内政】5
内政は未経験ではあるが、彼の明晰な頭脳と常識的な性格を考えると
並以上の仕事はできたと思われる。
【政略】6
政略は当時のプロイセンには専門家のビスマルクがいたので陰にかくれて目立た
ないが、セダン・メッツ・パリの攻略戦では圧力をかけつつ敵の自壊を待つ
作戦に出て見事に成功している。政略面でも端倪すべからざるものがあったと思われる。
【人望】6
34年間も参謀総長の要職にあり続けたことと、かなり若い時期に
侍従武官に選ばれたことなどを考えると、かなり魅力的な人物だった
のではないだろうか。
451 :
237:04/09/11 02:07:04
[略伝]
父はデンマーク将校、母はプロイセンの旧家出身であった。少年の頃のプロイセンは
ナポレオンに敗北してボロボロになっていた頃であったため、当初デンマーク軍に入るが、
後にプロイセンの士官学校に入りなおしている。その後トルコ駐在、侍従武官などを経て
1857年に参謀総長代行、1858年に参謀総長に任命される。大規模な組織改革を
行いドイツ参謀本部の礎を築き、また鉄道網を整備し動員力に主眼を置いた軍事改革に
力を入れた。これらにより対デンマーク戦争、普墺戦争、普仏戦争での完勝を演出し、
世界最高の参謀として知られるようになった。
要塞というハードに頼るのではなく、早くから軍隊の機動的な運用に重点を置いた発想は
見事という他はない。第二次大戦の電撃戦に匹敵する発想ではないだろうか。
文章能力やスケッチにも優れていたと言われ、ローマ帝国衰亡史の翻訳まで手がけたと
いう逸話がある。彼の弟子であるメッケルが日本陸軍の恩人であることもよく知られている。
晩年数度にわたって引退を表明するが、引き留められて、88歳に至るまで34年間にわたって
参謀総長であり続けた。
宰相ビスマルクとは、本来性格的には合わない面があったようだが、政治に容喙しない、
軍人としての本分をわきまえた人物であったため、深刻な事態には至らなかったようである。
452 :
237:04/09/11 02:11:52
誤記訂正
>>450 【誤】34年間も参謀総長の要職
【正】30年間も参謀総長の要職
>>451 【誤】34年間にわたって参謀総長であり続けた。
【正】30年間にわたって参謀総長であり続けた。
453 :
237:04/09/11 02:15:25
誤記訂正その2
>>450 【誤】へルームート・フォン・モルトケ
【正】へルムート・フォン・モルトケ
名前を間違えるとは耄碌したわい・・・。
>>451 ビスマルクと合わないとしたら、数値から見ると政略と戦略の軽重あたりかな。
正直あの時のドイツは反則。
ちょっとそれには首肯いたしかねるな。
秋山は史上最高の参謀だ。
秋山真之自演乙。
秋山よりも児玉
460 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/12 13:56:28
陳勝 (?〜BC209)張楚王
【指導】2
部下に大きな権限を与えて仕事を任せるタイプであったがまったく統率できておらず、
平定した土地で自立してしまう部下や、勝手に主将を殺して指揮権を握る部下も現れた。
酷吏の朱房と胡武を腹心として信用したため、諸将と信頼関係を築くことが出来なかった。
張耳と陳余は「陳王は讒言に耳を貸す人」と評している。
指導者の器に欠け、せっかく集まった人材や兵力を使いきれなかった。
【戦術】5
挙兵するや秦の県城を次々と攻め落とす。多くの人々が呼応して勢いがあったとは言え、
寄せ集めの兵で城を攻略していったのだから、軍事的能力はそれなりにあったと思われる。
王になると将軍に戦いを任せて陳に引きこもり、章邯率いる秦軍が迫ってくると久々に出陣したが敗北した。
【戦略】5
多方面に軍を展開して作戦を進めていったため、2、3か月で函谷関以東の地の大半が反秦勢力の手に帰した。
各地を攻略する一方で秦都咸陽攻略を視野に入れた大作戦を展開し、主力軍は函谷関を突破し、
別働軍も南陽から武関に進入(劉邦の関中入りと同ルート)を試みるところまでいった。
陳勝の戦略は気宇壮大でビジョンもはっきりしている。方向性も決して間違っていない。
しかし、あまりに手を広げすぎて自分が統制できる範囲を越えていた。
秦が組織的な反撃に出てくると完全に戦線が崩壊して敗死した。
いろいろ批判されている張楚王即位は、楚の名門である項梁ですら陳勝に従おうとしてたぽいところや
江北の旧楚領が陳勝になびいていたこと、ほとんどの反秦勢力が陳勝を盟主と認めていたところから、
仮に陳勝が楚の王族を王に立てたとしても大して変わらなかったと思う。
461 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/12 13:56:51
【内政】4
王になってからは後方にひきこもっていたので、後方支援や内治をやってたと思われるが、
具体的になんかやったと言う記述は無い。たった5か月しか王やってないから仕方がないが。
それほどひどいことしたと言う記述もないし、誰かに政治を委ねたって記述もないから凡庸ってことにしとく。
【政略】5
策略をめぐらして900人の兵を我が物とし、反秦反乱の火蓋を切った。
勝手に趙王になった武臣(黒幕は張耳と陳余)との交渉では完全に手玉に取られ、
相手の要求をすべて飲まされたあげく、こっちの要求は何一つ通らないと言う結果に終わった。
一般庶民(3程度)には通用しても、プロの策士相手には通用しなかったのだろう。
【人望】8
最初は人望を得られないことを心配して、人気の高い秦の太子扶蘇と称したが、
一旦挙兵すると雪崩のように兵や人材が押し寄せ、いつの間にか本名で王になってしまった。
その後も反秦分子をポンプのようにガンガン吸い上げ、
貧民上がりであるにもかかわらず反秦勢力の間では圧倒的な信望を誇った。
462 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/12 13:58:54
≪略伝兼あとがき≫
元小作人。辺境警備の兵として徴集されたが期日までに現地に行けなくなってしまう。
こういう場合秦の法律では死刑なので、「殺されるなら名をあげて殺された方がマシだ」と
盟友呉広とともに他の兵たちを煽って反乱を起こす。最初は900人から始まった反乱だったが、
どんどん参加者が増えて楚の旧都陳に付く頃には数万の大軍にまで膨れ上がった。
陳勝が張楚の王を称すると、各地で反秦分子が次々と決起し、陳勝に呼応した。
多くの郡県を手中にした陳勝は周文に大軍を与えて秦本土攻略を命じる。
周文は函谷関を越えて帝都咸陽に迫ったが、秦の名将章邯に敗れて戦死。
河南で秦軍と対峙していた呉広軍は内紛の果てに敗北し、
趙に遠征した武臣軍、梁に遠征した周市軍は独立し、
有力な軍のほとんどを失った陳勝は章邯に敗れた後に御者に殺されてしまった。
挙兵から5か月で敗北したが、その5か月の間に挙兵した人々はその後も戦い続けて、遂に秦を滅ぼした。
馴れ馴れしくしてきた古い知り合いを殺してからは側に人が寄り付かなくなったというエピソードが残っており
「うまく時流に乗った小者に過ぎないんじゃないの?」という疑問も無いわけではないが、
それでも短期間でこれだけ多くの人間を結集して歴史の流れを作ることは常人になしえるものではない。
政府が腐り果てていて民心が離れきっている時に反乱を起こしても、
力量の無い者が反乱を起こしたらすぐに潰されてしまうのがオチである。
陳勝には明確に秦を倒す意思と強烈な求心力があった。
それゆえに多くの人を集めて天下の大乱を引き起こしたが、集まった人々を使いこなす指導力に著しく欠けていた。
仮に秦に章邯がおらず、周文が咸陽を落として秦を滅ぼしたとしても、
いずれはより指導力のある誰かに取って代わられ、結局はさきがけ以上の存在になれなかったと思われる。
>>448 旧王族や旧貴族なんて腐るほどいるけど、
人望があって人材配置のうまい人は血筋の良い悪い関係なく滅多にいるものじゃないよ。
血筋が良くてもその中から自力で頭角を現した人はそれなりの実力者だよ。
陳勝と細川元首相がどうにもだぶる・・・・・
>>457 すまなかった。史上最高の参謀だな。
>>462 挙兵5ヶ月で鎮圧ってことは、
紀元前の交通事情考えると結構短期間のような気がするけど・・・・・
ということはやっぱり「うまく時流に乗った小者に過ぎない」と思うけど。
466 :
237:04/09/12 23:13:38
秋山に関しては、秋山より上級の参謀連が明治の男らしく、
謙虚な人々で人に功を譲っていたら、いつの間にか全て
秋山の功績ということになってしまったという話を聞いたことがある。
頭の切れる男ではあったらしいが、神話化され過ぎたふしがある。
>>466 そうなんだ。
それに奇行の数々が神格化に拍車をかけたのかも。
でもまぁ、スタートが貧乏士族の子供で日露戦争の参謀までになったし、
かなりの人とは思うけど。
確かにその話ならどっかで見た事がある。
早逝した秋山に、後々皆が功を譲ったとかいうあれね。
もっとも、上司の島村速雄参謀長が功を誇らない性格だった点から憶測しただけの、
根拠の無い推論以上のものではないんだがね。
なにこの本?
寄せられたレビューでいきなりボロクソなんだけど。
一応著者は
海軍兵学校卒業後
空母瑞鶴乗り組み等を経て
海軍兵学校教官
防衛庁戦史研究室長
防衛大学校教授を歴任した人物です。
ユーザーレビューは個人の主観が入るものなので何ともいいようがないです。
(レビューした人物の資質も不明であるし)
スレ違いなので、この件は打ち止めにします。
>海戦史上空前の勝利の通説をくつがえす誰も書けなかった「丁字戦法」の真相!
えらい筆勢、すさまじい自賛ぶりだな。
この本の見所は、丁字戦法は事前に策定されていた。とかいうことらしいが、
少しでも歴史を知る者にとっては、連合艦隊がT字戦法の事前演習を何度も繰り返していたことなんて、
意外でもなんでもない周知で自明の常識なんだけどね。
なるほど、当たり前のことを「新発見だ!」とか強弁してガキを騙す本つーわけか。
どうせ「バルチック艦隊が対馬に現れると主張したのは秋山や東郷じゃなく、島村速雄その人だ!」とか、
鬼の首でも取ったかのように書いてあんだろうな。
馬鹿馬鹿しくて見る気もしね。
秋山自演乙。
474 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/13 19:10:41
蕭何 (?〜BC193)漢相国・〔賛β〕侯
【指導】8
劉邦はほとんど前線に張り付いていたので後方の全権を委ねられ、
六国時代の秦に匹敵する版図の実質上の統治者であった。
苦戦続きだと民衆が動揺してもおかしくないのだが、
蕭何の治める関中はまったく動揺せず、強固な兵站基地として機能し続けた。
帝国建国後も常に親征している劉邦の代わりに後方を固めた。
【戦術】2
宰相は国を治めつつ軍を指揮するのがこの時代では当たり前だったが、
蕭何は一度も軍を指揮した記録が無い。天下統一後も群臣から戦功が無いことを指摘されている。
【戦略】6
咸陽に入ると金銀財宝を貪る他の諸将を尻目に、秦の行政文書を押さえた。
彼の手に入れた文書は軍事・行政の両面で劉邦軍の勝利に大きく貢献。
建国直後の不安定な時代に未来のためを考えて、独断で壮麗な宮殿を造った。
帷幄で謀を立てる功は無かったが、その未来を見据えた考えは漢の勝利に大きく貢献した。
475 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/13 19:11:09
【内政】10
劉邦が項籍と戦うようになると、ガンガン前線に兵士や食糧を補給して負けまくりの劉邦を支え、
法律制定、行政区分、戸籍調査にも辣腕を振るい、八面六臂の活躍を見せた。
天下が定まると秦の法律を元にして新しい法律を制定し、
後に「蕭何はしっかりした法律を作り、曹参は欠けることなく守った」と民衆に讃えられた。
彼の名は管仲と並び、名宰相の代名詞とされた。
【政略】5
猜疑心の強い主君の下で絶大な権力を持っているという微妙な立場にありながら、
なぜか自分の立場が危ないと考えることは無かったようである。
いつも人に指摘されて言われた通りにして、劉邦の警戒を解いている。
保身は一応考えているみたいなのだが、警戒心と言うものがまったくなかった。
韓信の反乱を策略で防いでいるので、謀略にはそれなりに通じていたようだ。
【人望】7
長年関中を治めていたので民衆の信望が厚く、劉邦から警戒の目を向けられるほどだった。
わざと評判を落とるような真似をして疑いを解いている。
保身には疎かったが、いつも指摘してくれる人が出てきて疑いを免れた。
牢屋にぶち込まれた時も弁護してくれる人がいて助かった。
劉邦が仕事で咸陽に行く事になった時は餞別を多めに出してるし、
高く評価した韓信が逃亡した時は仕事を投げ出して追いかけている。
仲の良くない曹参を自分の後任に推挙してもいるので、たぶん誠実公平な人だったのだろう。
たしかに劉邦よりずっと人に好かれそうだし、人望が大きくなるのを恐れるのも理解できる。
476 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/13 19:11:41
≪あとがき兼略伝≫
劉邦の同郷の人。沛県の役人から泗水郡の役人になった。能力を見込まれて中央に推薦されたが辞退。
この頃は劉邦のことを良く思っていなかったようだが、仕事で咸陽に行く事になった時は餞別を多めに出している。
陳勝の乱が起きて沛の県令が民衆に殺されると、劉邦を指導者に立てた。
自分が指導者になろうと思えばなれないこともなかったが、失敗するとヤバいので劉邦を担いだらしい。
沛公(楚制での市長)になった劉邦は蕭何を丞(助役)に任命し、実務の責任者にした。
咸陽に入ると金銀財宝には目もくれず秦の行政文書を接収。
漢中王になった劉邦の下でも丞相(宰相)となり、韓信の才能を見出して強引に大将軍に任命させる。
劉邦が遠征に出ると本土の内政を完全に委任され、兵站から民政まで幅広い分野を総括した。
前線で軍事・外交を取り仕切る劉邦と、後方で内政を取り仕切る蕭何という二頭体制はこの時確立する。
劉邦がいくら負けても再起できたのは、蕭何がガッチリとバックアップしてくれたからだった。
後に王衛尉(宮城防衛司令官)が言ったように劉邦を見捨てて自立しようと思えばできる立場だったが、
蕭何はまじめに仕事してこまめな報告を心がけていた。
劉邦は天下を平定すると、群臣の反対を押し切って蕭何を功績第一とした。
その後も外征に明け暮れる劉邦に代わって新帝国の内政固めに力を付くしている。
韓信の反乱を未然に防いでからは、功績が大きくなりすぎて露骨に劉邦に警戒されるようになったが、
そのたびに人に助けられて天寿を全うした。
他の功臣が劉邦の軍中で功を立てたのに対し、軍中以外全てを仕切っていたのが蕭何だった。
劉邦と並び立つ指導者であり、劉邦と蕭何の二人が漢帝国の建国者である。
>>462 本人は5か月で死んだけど、残党は楚で活発に活動してて、秦に占領された陳を奪還している。
本人が死んでも残った連中が戦ってたら鎮圧されたとは言えないと思う。
>>474 書きもしないで文句をいうことを許してください。
長すぎ。
略伝いらないと思うんだけど。
もしくは数値化の部分をもっと簡潔にするべき。
長文ならマイナーどころ希望。有名どころは知っている場合が多いし・・・・
このくらいならいいんじゃないかな。
流石に誰でも知っている有名人で10レスくらい使われたときは、あきれたけど。
このくらいがベストと思う。
「毛利元就」の史料代に一万円以上かけてしまいましたが、確かに誰でも知っていそ
うな事を書く必要はありませんし、逆にマイナー過ぎても意味がありませんね。
著名な事実は出来るだけ簡潔にし、マイナー戦は箇条書きにします。
有田・青山・厳島辺りは詳細に。
山野の本気は見たい。
個人的に細かい長文は読みたい。
hitomiも悪くはない。ただ中身の割に長さがあるので叩かれているのだろう。
皆濃い文章ならいくらでも読むだろ?
なに買ったんだろ、最近で毛利関係で手に入りやすい研究書っていったら
「西国大名毛利氏の歴史」とかかな。
けど、あれは毛利元就だけじゃないからなあ。
というかあれは、戦国時代は地域差は薄く、日本の戦国大名の均一性を主張していたから違うか。
学習漫画「日本の歴史」シリーズ第10巻の毛利元就だな。
>>478 スマン。さすがにこの分量で毎回書き続けるのはしんどいし、
やりたい人物はたくさんいるのでもっと簡略化する。
>>479 マイナーどころをやるための叩き台に歴史的評価が定まっててやりやすい
漢楚を題材にしてみた。正直長文はしんどいので、短くて分かりやすい文章を心がけることにする。
>>482 スマソ。中身にふさわしくもっと簡略にしてみる。
あと、漢楚シリーズは不評なので一旦打ち切って、現代中国いく。
毛沢東、周恩来、劉少奇、朱徳を後で投下する。
486 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/14 13:59:57
毛沢東 (1893〜1976)中国共産党主席
共産主義運動の主流だった都市革命路線に対して農村革命路線を提唱。
農民を組織して勢力を伸ばし、日本、軍閥、国民党等の勢力が入り乱れていた中国の再統一に成功する。
建国後は大躍進政策の失敗によって実権を劉少奇に譲ったが、
穏健な劉の政策に飽き足らずに文化大革命を発動して再び権力の座に返り咲き、中国に深刻な混乱を招いた。
【指導】6 強引過ぎる手法は戦時には大きな成果を上げたが、平時では悪い結果を招いた。
【戦術】6 前線で直接部隊を指揮する地位だった頃は圧倒的に優勢な国民党軍相手に善戦していた。
【戦略】8 共産ゲリラ戦略の最高の実践者。彼の強硬主義と周恩来の柔軟外交の両輪は中国の威信を大いに高めた。
【内政】1 あまりに急進的過ぎる政策で国家に大損害を与えた。
【政略】9 政争、陰謀にかけて右に出る者の無い技量を示した。
【人望】8 山賊からインテリまで幅広い人材を引きつける。民衆の人気も高く、建国後はカリスマ化した。
一世紀にわたって列強の草刈り場だった中国に再び大国の地位を取り戻させた英雄であるとともに、
大躍進政策や文化大革命のような大失政で数千万人の死者を出し、大きな悲劇をもたらした最悪の独裁者である。
現在の中国共産党の公式見解は「功績第一、誤り第二」となっているが、
功罪共に大きすぎるため、歴史的評価が完全に定まるのはまだまだ先のことであろう。
彼の気宇壮大、異常に精力的、強烈な自意識、強引、大事業好きという性格は、
漢の武帝や隋の煬帝と良く似ていて、「性格が建国期向きじゃなかったんだなあ」と思わされる。
>>486 なんか凄く読みやすくなった・・・・・
【内政】1は笑った。確かにそうだ。
というか、彼がいなかったほうが中国人は幸せだったような気がする
しかし今度は随分と大雑把だな。
さすがに政治1ってのはネタのつもりなんだろうが、
釣られたつもりで指摘しておけば、大躍進政策の失敗は毛沢東個人の資質が原因というよりも、
マルクス・レーニン主義自体の欠陥という面が大きいだろう。
そもそも大本のソビエト連邦にしても、似たような農業集団化を推し進めた結果として、
豊穣な穀倉地帯のウクライナですら飢餓が発生するほどの深刻な農業破壊を引き起こしている。
それどころかカンボジアのポル・ポトは、毛沢東の大躍進政策そっくりのことを、
農業の専門家が一人もいない政権(まだ毛沢東のスタッフには農業の専門家が多い)で、
さらに徹底的に極端な形で実行した為に、短期間で農業国カンボジアが大飢餓地獄と化した。
しかもベトナムに侵略されてポル・ポト政権が崩壊するまでこれを続けてたわけだから、
ベトナムがこなけりゃどんな有様になってたか想像すら困難だ。
まだそれと比べれば、大躍進政策を実行して一年足らずで早々と過ちを認め、
潔く身を引いた毛沢東の方が幾分マシともいえる。
彼が政治1ならポルポトは0かマイナスくらいくれてやらないと合わないよな。
それに建国後はカリスマ化したってのはその通りなんだけどね、
個人崇拝に陥るのは中国に限らず、共産党独裁社会主義国家ってのはほとんどそうなの。
ソビエトのスターリンにブレジネフ、北朝鮮の金正日に金日成にルーマニアのチャウシェスク、
キューバのカストロ、アルバニアのエンベル・ホッジャ、ユーゴのチトー等々、
挙げていけばまだまだキリがないが。こいつら全員魅力を最高レベルにするつもりですか。
もちろん魅力が高そうなのもいるにはいるが、
それにしても、これだと共産圏の指導者って似たような奴ばっかになりそうだ。
みんな政治が1で魅力が高レベルっていうわかりやすい奴ばっかに。
>>489 なんていうか、長すぎ。
指摘したいことは分かるが、もっとまとめて書いてくれ。
おそらく、hitomiはあなたが指摘してる事については知っているが、
簡潔にしたから削ったんだろ。
ということで、毛沢東ヨロシク。
>>486 実績・理論ともに素晴らしいから
戦略は9やっても良いと思う。
「遊撃戦論」は後世に残る。
494 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/15 00:13:07
周恩来 (1898〜1976)中華人民共和国国務院総理、中国共産党副主席、政治局常務委員
共産党草創期からの最高指導者。遵義会議で格下の毛沢東を支持し、その指導権確立に決定的役割を果たした。
その後は毛を対外交渉、実務処理の面で補佐。国民政府との折衝や他党派の取り込みで中国再統一に大きく貢献。
建国後は国務院総理となり、新国家建設や国際外交に精力的に取り組む。
特に外交面での活躍が大きく、第三世界の形成や西側との柔軟外交で戦後の国際政治を大きく動かした。
文化大革命の時代は暴君と化した毛沢東に追従する一方で、
林彪、四人組に対抗して混乱拡大を防ぐという綱渡りを演じて、国家の完全な崩壊を防いだ。
【指導】7 新政府作りの人事を主導する。文革の混乱収拾に奔走し、国家崩壊を防ぐ最後の砦となった。
【戦術】4 部隊を率いて戦ったこともあるが、あまり戦果が無い。国民党軍優勢の状況なので同情の余地はある。
【戦略】7 柔軟な外交戦略で国際政治を支配した。状況に流されやすい面があり、出たとこ勝負になる時もあった。
【内政】7 新国家の基盤固めに尽力。その後も毛沢東の介入が無い時に限っては高い成果を上げた。
【政略】9 国際外交からダーティーワークまで、政治工作では並ぶ者がいない。
【人望】8 清廉潔白、公平無私な人柄で中国人民のみならず海外でも広く慕われた。
現在の中国では誤りが大きかった毛沢東と対比される形で高い評価を受けているが、
その一方で「国政の責任者でありながら毛沢東に追従して大躍進や文化大革命を招いた」と言う批判もある。
また、悪名高いチベット侵略の責任者であり、捕虜の思想改造を行うなど、
かなり非人道的な仕事もしており、体制が変わったら突っ込まれること確実な要素満載な人でもある。
状況、仕事の清濁に関わらず最善を尽くすが、上がどんな間違いをしようと止めようとしない周の姿勢は、
ある意味ではとても現実的で正しい選択であると言える。しかし、あまり共感したく無い種類の正しさでもある。
彼が有能なリアリストだったことは疑いないが、功罪のバランスが毛沢東より微妙なため、
その有能さとリアリズムが中国人民を幸福にしたかどうかを評価するにはまだまだ長い年月が必要だろう。
>>489 >大躍進政策
マルクス主義的計画経済に構造的な欠陥があることは事実だが、
大躍進の場合はその範囲を越えて性急過ぎた。
計画経済のエキスパートである周恩来や陳雲らも、当初は「毛沢東の計画は性急過ぎる」として反対している。
その後、周恩来が日和ったために反対した連中は意見を取り下げざるを得なかったが、
共産主義経済しか知らない連中から見ても大躍進が無謀だったのは明らかだった。
ソ連でも膨大な餓死者が出ているが、実のところソ連は外貨獲得のために食糧を輸出しまくっており、
その代わりに反ソビエト色の強い農民層への食糧配給をわざと減らしたために起きたもので、
大躍進のような政策の失敗では無く、故意に見殺したに等しいものだった。
特にウクライナの飢饉は民族浄化の性格が強く、
ウクライナ政府はこれをジェノサイドと認めるよう国連に提訴している。
>ポル・ポト
こいつの失敗は共産主義の失敗ではなく、あらゆる意味で極端過ぎたこいつ自身の失敗。
都市の存在さえ否定し、農民以外の全階層を敵視すると言うのは共産主義どうこう以前の問題。
>毛沢東とポルポトの比較
中国共産党には毛沢東に代わりえる劉少奇がいた。
他にも大躍進の間違いを修正することの出来る人材は数多くいた。
だから一年で止められたが、ポルポトには過ちを修正し得る内部の人材がいなかった。(いても殺した)
純粋に人材層の厚さの違いの問題と思われ。
>>490 個人崇拝をやったかどうかと、実際に人気があったかどうかは別。
人望が無ければ畏怖はされても、敬愛はされない。
毛の場合は個人崇拝が進む前から人気が高かった。
ていうか、人気が突出するようになって個人崇拝に発展した。
大躍進の失敗で権力を無くしてからも、人気は高かったので、
それを利用して学生を煽って文化大革命を引き起こした。
一党独裁国家で個人崇拝が強いのは確かだが、
この場合も元々人気があった人が権力を握ったのでカリスマが強くなりすぎて個人崇拝ってのと、
人気が無い人が権力を握ってカリスマを演出するための手段に個人崇拝を進めたってのと、
2パターンあるので注意。
君が名前を挙げたうちで言うと、チトーとカストロは前者、
スターリン、ブレジネフ、金親子、チャウシェスク、ホッジャは後者だな。
>>493 9にするか8にするか迷ったが、建国後は成功経験に固執しすぎて軍の近代化を妨害したのと、
不必要にソ連との溝を深めたあげく、その軍事的脅威を過大視して過大な軍拡をやったので、
(それでも戦争や戦略外交はうまくやってるが)多少割り引いた。
>>489 スマン。提訴したのはウクライナ教会協議会だった。
ちなみにウクライナはこの件でロシアの謝罪を求めているが、
ロシアは「餓死者が出たのはソビエト全土だからうちが謝る必要はない」と突っぱねてる。
>>490 言い忘れ。スターリンとブレジネフは生前の人気はさっぱりだったが、
現在のロシアではソ連が強かった時代の指導者として高く評価されてる。
hitomiは一時期のスーパー長レスでどうなることかと思ったが(一歩間違えば荒らし…)
文体も落ち着いてきて長文でも読めるようになった。
頑張れhitomi。
個人的には今ならもっと長文でもいいぞ。本気を見せてくれ。
>>499 漏れも。項羽と劉邦、三国志、戦国時代は説明いらんけど、
毛沢東や周恩来なら、10レスくらい使っても良かった。
>>494 ついでにコメントすると、>264とよく似ている。
ああ似ているって事は互いに一般的な数値化に成功しているのだから、誉め言葉のつもり。
毛沢東は三人目だね。
毛沢東
>>41>>49>>486 【指導】8,7,6
【戦術】5,8,6
【戦略】9,3,8
【内政】4,0,1
【政略】8,10,9
【人望】9,9,8
両端がよく似ている。
指導者としての評価にばらつきがあるなー。
502 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/15 14:45:52
劉少奇 (1898〜1969)中華人民共和国国家主席、国防委員会主席、中国共産党政治局常務委員
毛沢東の下で国民党支配地域の地下工作と党務を取り仕切り、ナンバー2の地位にあった。
建国後は党副主席に就任して党官僚のトップに立つ。もともと急進主義者で大躍進も支持したが、
餓死者が続出する惨状を目の当たりにすると現実主義に転じる。
責任を取って退いた毛に代わって国家主席に就任すると、市場主義を取り入れた調整経済政策を採用。
経済の復興に取り組んだが、文化大革命によって失脚して迫害の中で死んだ。
【指導】7 一流のオルガナイザー。国民党支配地域に強固な地下組織を築き上げた。
【戦術】3 軍の政治委員を歴任。ただし、実戦指揮は未経験。
【戦略】6 理想主義者であったが、現実とぶつかった時には現実を優先する柔軟な思考も持ち合わせていた。
【内政】6 近代化政策を推進して一定の成果をあげたが、与えられた時間が少なかった。
【政略】8 地下工作のプロ。毛沢東戦略の成功は彼の工作能力あってのもの。盧溝橋事件の黒幕でもある。
【人望】5 温厚で高潔な人格者ゆえに党内では信頼された。しかし、存在感が薄く広範な人気は得られなかった。
統一前は解放区の党を指導した毛沢東に対して、解放区以外の党を指導。
農民や労働者を共産党の味方に付けた立役者である。その功績は毛沢東に次ぎ、周恩来・朱徳を凌ぐ。
市場主義の論理を取り入れた調整経済政策を進め、近代化を図ったことも高く評価されている。
しかし、経済が回復して行く裏で貧富の差の拡大、幹部の腐敗などの矛盾が噴出しつつあり、
毛沢東の運動に民衆が呼応する土壌も生まれていた。
どうやって中国の近代化を進めていくか、近代化とマルクス主義の矛盾にどう折り合いを付けていくか。
劉は大きな課題に直面していたが、真価を試される前に文化大革命という予期せぬ暴風に吹き飛ばされた。
>>500 毛沢東と周恩来を本気で語りつくそうとすると20レスは使う。
そんな長文書くと漏れがしんどいし、もっと速いペースで数値化したいから簡略にした。
ここで、最強の参謀、秋山真之がでることを祈ろう。
秋山真之自演乙。
506 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/16 00:03:08
朱徳 (1886〜1976)人民解放軍元帥、全国人民代表大会常務委員長
軍閥の将軍だったが、やがて共産党に参加。その後は毛沢東と共に共産党実戦部隊を創設。
草創期からの軍最高指導者であった。抗日戦、国共内戦では総司令として全軍を指揮。
建国後は「建軍の父」と尊崇される一方で軍務から離れ、
国家副主席、全国人民代表大会常務委員長(国会議長)などの名誉職を歴任。
文化大革命で一時失脚したが、返り咲いて天寿を全うした。
【指導】8 個性派揃いの将軍たちを上手くまとめあげ、中共軍に勝利をもたらした。
【戦術】6 軍草創期は苦しい状況の中で戦果をあげる。実戦指揮では彭徳懐・林彪・劉伯承に及ばなかった。
【戦略】5 軍事戦略の指導は毛沢東が担当しており、軍をまとめてそれを実行するのが朱徳の役目だった。
【内政】3 建国前、建国後を通じて内政を担当することは無かった。
【政略】5 党内監察担当書記を経験。文革では林彪派に攻撃されたが、林彪が死ぬとすぐに復帰した。
【人望】7 複雑な前半生のせいか、温厚で謙虚な性格。軍内のみならず人民からも尊敬された。
客家の貧農という最低の階層に生まれ、軍閥の将軍にまで上り詰めたが
アヘンで身を持ち崩すと言う複雑な人生を生きてきた。
そのせいか人をまとめる能力があり、実戦指揮よりも全軍の統括に手腕を発揮した。
国共内戦では彭徳懐・林彪・劉伯承らほど華々しい軍功に恵まれなかったが、
数・装備で勝る国民党軍に中共軍が対抗しえたのは朱徳のリーダーシップあってこそのものだろう。
評価が定まりにくい中国共産党の指導者の中では珍しく、評価のしやすい人物である。
ちなみに遵義会議後に失脚した張国Zに同調して一時分派活動をしたのは無かったことにされてるらしい。
>>497 なるほど。私は絶頂期しか考えてませんでしたわ。
なんか漏ればかり書いてて悪いな。
中共の人物は需要少ないんだろうか。
それでも懲りずに後で投下する。
革命戦争の英雄任弼時、彭徳懐、劉伯承、陳毅を投下予定。
悪くないよ。
しばらくすれば真打も投下されるはずだし。
510 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/16 14:56:54
任弼時 (1904〜1950)中国共産党政治局員、中央書記処書記
十代の頃から共産党に参加し、若くして共産党青年団総書記代理、党中央秘書長、八路軍総政治部主任を歴任。
国共内戦では毛沢東・劉少奇・周恩来・朱徳と並ぶ中央書記処書記として土地改革を担当。
主要な支持層である農民層に土地を分配して基盤を固め、国共内戦の立役者の一人となった。
建国の翌年に病死する。
【指導】5 共産党青年団や軍の政治委員を統括。長征でも兵を統率した。
【戦術】3 軍の要職を歴任したが、実戦指揮官ではない。
【戦略】5 卓越した理論家であるが、戦略よりは実務で毛沢東を補佐した。
【内政】8 戦争と平行して大改革を推進すると言う困難な仕事を成功させる。
【政略】7 共産党創設者陳独秀を失脚に追い込む。土地改革では地主層や富裕層を敵に回さないように腐心した。
【人望】5 現在では英雄と尊崇されるが、個人的な人柄を表すエピソードはあまり無い。
国共内戦時は毛沢東・劉少奇・周恩来・朱徳に次ぐ共産党の最高指導者だった。
日本での知名度は低いが、中国革命の最大の功労者の一人で、
特に土地改革で見せた柔軟な手腕は評価が高い。
内戦中に土地改革を進めて、1億4000万の農民に土地を分配すると言う大事業を成し遂げた。
任弼時が担当した土地改革は中国共産党の政策の中では数少ない完全に成功した政策である。
しかし、もともと体が強くなかったのに激務を担当したせいか、建国の翌年に病死した。
彼が早くに死んだために「人民に土地を与えてくれたのは毛沢東だ」という認識が広まり、
もともと農民層に好かれていた毛の人気がさらに高まってカリスマが突出する引き金となった。
>>508 近〜現代の中国は詳しくないんで
面白いが。
長さもちょうどいいし。
512 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/16 20:02:46
彭徳懐 (1898〜1974)人民解放軍元帥・中華人民共和国国務院副総理・国防部長
元国民党の将軍。北伐で武勲をあげたが、蒋介石を見限って共産党に走った。
その後は共産党の有力な軍事指導者として活躍。抗日戦期は八路軍副総司令を務め、
国共内戦では第一野戦軍を指揮して林彪、劉伯承に次ぐ武勲を挙げた。
朝鮮戦争では義勇軍総司令となり、人海戦術で総合力に勝る国連軍相手に奮戦。
帰国後は軍の近代化を推進したが、盧山会議で毛沢東の大躍進政策を批判したために失脚。
文化大革命で徹底的に迫害されて死亡した。
【指導】7 人命を湯水のように使う戦いをしながら、最後まで戦線を維持し続けた。
【戦術】7 その勇猛ぶりは凄まじく、国共内戦では毛沢東に「彭大将軍」と讃えられるほどの武勇を示した。
【戦略】7 制空権無し、装備も劣り、敵将も有能という苦しい条件で、ゲリラ戦略を駆使して五分に持ち込む。
【内政】5 党西方局第一書記として中国西北部を統治。失脚後は後方基地建設の責任者を務めている。
【政略】2 直情径行の豪傑。自分に正直で誰にも遠慮せず、政治的な駆け引きには向いていなかった。
【人望】6 ズケズケと物を言う反面で分け隔て無く人に接し、兵士や民衆に人気があった。
朝鮮戦争では唯一のアドバンテージである数を生かした山岳ゲリラ戦略で当初は国連軍を圧倒。
国連軍が態勢を立て直すと、空からの攻撃と優秀な装備の前に膨大な死傷者を出すが、
それでも必死に戦線を維持して、38度線の確保という当初の戦略的目的は達成した。
帰国すると国内はゲリラ戦略の勝利に沸き、彭徳懐も英雄と讃えられたが、
彼自身はその限界を痛感して軍の近代化に取り組んだ。
多くの名将が過去の成功経験に囚われて晩節を汚したことを考えると、彭の柔軟さは高く評価されて良い。
その柔軟さが軍事以外では生かされず、失脚を招いたことが惜しまれてならない。
毛沢東は、フランスやソ連留学経験の無い農村派だとか。
ならばフランスやソ連帰りのインテリ共産主義主流派だった人は、どの人?
蕭瑜(読み方わからない)かな?
>>511 そう言ってもらえるとありがたい。
日本人や第二次世界大戦で無いと盛り上がらないのは寂しいが、もう少し頑張る。
劉伯承と陳毅をやったら、今度は文革シリーズに移る。
文革派の大物林彪、康生、江青を投下予定。
実際には文革派の高官、将軍は大勢いるんだが、どれも小粒の政治屋ばかりで、
数値化してもつまらんので、そういう人種の代表として江青を数値化するに留める。
>>513 共産党草創期からの党活動家はだいたい留学経験している。
軍人でも海外留学経験者は少なくない。
毛沢東のようにまったく留学経験が無いほうが珍しい。
だから、留学帰りのインテリは主流派にも毛沢東派にもたくさんいた。
主流派のインテリ指導者を上げるなら、陳紹禹、秦邦憲、王稼祥、周恩来、張聞天と言ったあたりだろうか。
こいつらに蹴落とされた李立三、李に蹴落とされた瞿秋白も留学組だな。
>>515 3Q。
調べてみたら遵義会議が毛沢東時代の始まりなんだね。全然知らんから面白いなー。
党内指導権を握ったのはソヴィエト区に対する蒋介石の包囲網を脱した長征の過程においてであった。
最近発見された陳雲文書によると,1935年1月の遵義会議終了後,博古(秦邦憲)の党と軍に対する実
権が剥奪され,同年3月,周恩来・王稼祥と軍事指揮をとる「3人グループ」を組織してから毛は党と
軍の実権を握った(『瞭望』1984年10期)。1935年の「八・一宣言」以後,闘争の重点を抗日民族統一
戦線の結成に移す。1936年末の西安事件,1937年の日中戦争の勃発をへて,第2次国共合作が実現した。
抗日戦争期,毛は思想的に著しい発展をとげ,『矛盾論』『実践論』『持久戦論』『新民主主義論』
『延安文芸講話』などを続々と発表した。これら毛の革命戦略・思想が党内に浸透したのが1942〜43年の
延安整風運動である。以後,王明(陳紹禹)・博古ら「留ソ派」の影響力は弱まり毛の党内指導権が確立した。
517 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/17 01:33:57
劉伯承 (1892〜1986)人民解放軍元帥・中央軍事委員会副主席・中国共産党政治局員
戦闘中に片目を失ったことから「独眼竜」とあだ名される闘将。抗日戦、国共内戦では多大な功績を挙げた。
特に淮海戦役、長江渡河作戦での武勲は名高く、その戦功は林彪に次ぐ。
建国後は彭徳懐とともに軍の近代化に取り組み、軍事教育制度を整備した。
しかし、ゲリラ戦略に固執する毛沢東、林彪に批判されて改革は頓挫。
文革期には軍の実権掌握を目指す林彪に一時権限を奪われたが失脚には至らず、
政治的に無害な存在だったので天寿をまっとうできた。
【指導】6 ケ小平を初めとする優れた人材を使いこなして勝利を得た。建国後は軍事教育制度の整備を指導する。
【戦術】8 抗日戦ではゲリラ戦を展開して日本軍の背後に解放区を築き、淮海戦役で国民党主力を殲滅した。
【戦略】6 ソ連で参謀教育を受け、長征では総参謀長を務めた。近代戦にも造詣が深い。
【内政】3 行政実務はケ小平に任せ、自らは統括に徹した。
【政略】4 政治局員であったが政治的野心は持たず、政争の枠外に身を置いた。
【人望】6 その闘志と武勲、一軍人に徹する控えめな姿勢から尊敬された。
林彪と並ぶ人民解放軍最高の戦術家だが、あらゆる意味で対照的だった。
政治的な野心が強く、ゲリラ戦に固執し、ケ小平を憎んだ林彪に対し、
劉伯承は政治的な野心が薄く、近代戦に理解を示し、ケ小平を参謀格として重用した。
ケ小平の合理主義を示す言葉として知られる「白猫でも、黒猫でも、鼠を取る猫は良い猫だ」は、
実は「劉伯承同志が言うには…」の後に続く言葉である。
このことからも分かるように劉伯承もまたイデオロギーに囚われない合理主義者だった。
それゆえに同タイプのケ小平と相性が良かったのであろう。
518 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/17 01:35:15
陳毅 (1901〜1972)人民解放軍元帥、国務院副総理、外交部長
共産党軍建軍以来の有力な将軍。抗日戦期は国民党との内輪もめで壊滅した新四軍を再建。
国共内戦時には第三野戦軍を率いて第四野戦軍の劉伯承とともに各地を転戦した。
建国後は上海市長を経て国務院副総理、外交部長となって内政・外交面で活躍。
文化大革命に反対して失脚し、復活することなく世を去った。
毛沢東は葬儀で涙を流してその死を痛惜し、文化大革命の軌道修正のきっかけの一つとなった。
【指導】6 壊滅した新四軍の再建に手腕を振るい、数十万の大軍に育て上げる。人使いも巧み。
【戦術】7 四大野戦軍を率いた他の三人ほど派手ではないが、どんな状況でも堅実に勝利を重ねた。
【戦略】6 軍事においても外交においても、状況にあわせて柔軟に対応する能力を有していた。
【内政】6 初代上海市長となって復興に力を尽くし、「我らの市長」と呼ばれるほどの治績をあげた。
【政略】7 非公式外交に力を入れ、親中国派を増やして中華民国を正統とする国際世論を切り崩していった。
【人望】7 親しみやすい人柄で多くの逸話が語り継がれ、今なお人民に愛されている。
国共内戦を一緒に戦ったのが劉伯承、ケ小平の第二野戦軍、
外交部長としても周恩来の補佐的役割だったので、どうしてもかすみがちになるのだが、
どのポストでも結果を出しており、縁の下の力持ちと言うべき人である。
彼の多才ぶりは政治・軍事にも留まらず、詩作の方面でも発揮され、「詩人元帥」の異名があった。
詩人だけあって言語センスに優れ、「桂林人になれるなら神様になれなくてもいい」
「毛主席は語録271ページで『陳毅は良い同志である』と言っておられます」※
「中国はズボンを履けなくても核だけは作る」などの名言、あるいは迷言を残している。
※毛沢東語録は270ページまで。
519 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/17 16:04:29
林彪 (1906〜1971)人民解放軍元帥、中国共産党副主席、国防部長
劉伯承と並ぶ中国共産党最高の野戦指揮官。抗日戦で最も活躍した共産党軍の将軍だった。
国共内戦においては、共産党の勝利を決したとされる三大戦役のうちの二つ、
遼瀋戦役と平津戦役を指揮し、最大級の武勲を挙げた。
彭徳懐が失脚すると国防部長となり、軍のトップに立って軍の路線を近代化からゲリラ戦重視に転換させる。
文化大革命が始まると、毛沢東の片腕となって実権派打倒に活躍。後継者に指名される。
劉少奇失脚後、空席になっていた国家主席の地位を求めて最高権力への野心を示したが、
毛沢東に拒絶されて立場が危うくなり、ソ連に逃亡する途中に謎の死を遂げた。
【指導】5 軍司令官としては優れた指導力を示したが、軍のトップに立つと露骨な派閥人事で軍を弱体化させた。
【戦術】8 抗日戦から国共内戦にかけて最大級の武勲をあげ、共産党軍最強の武将と讃えられた。
【戦略】6 軍事的見識が高く、毛沢東に多くの助言をした。建国後は持論に固執し、軍の近代化を妨害。
【内政】2 党副主席という国政全般に責任を持つ地位にありながら、政争に明け暮れて国家の混乱を助長した。
【政略】7 文革を推進して毛沢東を神格化する。軍部にあっては古参の将軍を排除し、要職を自派で独占した。
【人望】5 武人らしからぬ陰鬱な性格ゆえに敬愛されることは無かったが、戦争の英雄として尊敬された。
抗日戦期の武勲は誇張されている面が大きいが、その部分を差し引いても、
国共内戦三大戦役のうちの二つを勝利に導いたという武勲は事実であり、人民解放軍最高の名将と言って良い。
しかし、軍の最高指導者となった彼は、過去の名将が陥った陥穽に陥ってしまう。
過去の成功経験に固執し、人海戦術によるゲリラ戦略が近代戦でも通用すると考え、
軍近代化の芽を摘み取ってしまったのだ。
軍司令官だった時代は毛沢東に遠慮無く直言する硬骨な人物であったが、
国家の指導的地位に立つと他人を蹴落とし、毛沢東に媚びへつらい、野心むき出しの行動に出た。
文革を利用して頭角を現した政治屋連中と違い、輝かしい武勲を挙げた英雄であったはずの彼が
このような堕落ぶりを見せたことが残念でならない。
知識不足ですが、参加してみたくなったので・・・。
批評よろしくお願いします。
戚継光
【指導】8 農民を一から鍛え上げ精強な軍団を作り上げた。
【戦術】9 南では倭寇を、北では騎馬民族を撃破した。
【戦略】9 彼が著述した『紀効新書』と『練兵実紀』は、後の兵学の発展に重要な影響をもたらした。
【内政】4 特に逸話は無かったと思うので、可もなく不可もなく・・・。
【政略】3 張居正が死ぬと失脚した。
【人望】7 規律ある軍制で兵達を纏め上げた。
不合格
>>519 林彪なんてゴルゴ13の師匠ってくらいしか知らなかった。
正確には師匠じゃないけど。
>>520 【戦略】を著作で評価しちゃうのはどうかと・・・・・
>>520 山野ってコテハンは毛利元就を書き込むために一万円も資料を買って、文章も一月ほど練ってるぞ。
人間何事も努力だ。頑張れ。
>>520 んじゃ、批評と数値化だけ。
指導力→一方面軍の司令官としては最高級だけど全軍を率いたわけじゃないからねえ。
戦術→明後期では最高クラスの将軍の一人だろうが、戦術7〜8クラスと思われる将軍相手の勝利が無いのと、
戦略的に不利なわけでなく、敵に有名な将軍がいたわけでもない戦役で苦戦しているので9はやれない。
戦略→北辺防衛体制の整備や対倭寇戦のノウハウ確立は高く評価されて良い。でも、さすがに9はやりすぎかと。
内政→同意。
政略→同意
人望→同意
【指導】7
【戦術】8
【戦略】8
【内政】4
【政略】3
【人望】7
批評ってあんた…。
結構独善的なんだねえ。
>>525 結構ってか、独善的だろ。
戦術7〜8クラスって、何を基準ににしてるのかと・・・・・
そりゃhitomi基準だろ?
ちょっと萎えたな。
>>523 あの人は凄過ぎだから見本としてはチョト不適切じゃないか?w
>>525,526
庇う訳じゃないけど、
批評して下さいって言ってるんだからそうでもないだろ。
後、人間主観でしか語れないんだから、
絶対的な基準をこのスレに求めると延々と論争が続くからやめたほうが良いと思われ。
>>524 どういう基準で7〜8とするんですか?
でも数値こんなもんだとおもうけどなあ。戦術8 戦略8ですら過大ってきもする
俺も正直賊徒討伐だけで戦術戦略9はやりすぎかと。
他国を代表する名将や、小勢で圧倒的な大軍(正規軍)に勝利するという展開がほしい。
言っては悪いが7ぐらいじゃないかと。
戦術8、戦略7くらいが妥当じゃない?
ハンニバルで10いかないからな。
基準については、
>>6あたりのテンプレだな。
7で各国の水準が激しく違うとは思うけどw。
漏れは、
戦術7、戦略8くらいでいい希ガス。
>>520の判断材料でしか判断できないんだけどね。(無知なため
著書の影響範囲や、どれくらいの期間影響を及ぼしたかにもよって、
戦略は7〜9って感じだと思う。
あと、人望は規律ある軍隊を纏めたってだけじゃ(そりゃむずかしんだろけど)5〜6くらいじゃ?
とりあえず、
>>6あたりのテンプレを何度か点をつける度に見返した方がいいんじゃない?
どんなに、有能な人であろうと、外国に行く機会がなければ戦術、戦略で8以上はつかないなw。
>>525 批評してくださいって言ってたからねえ。
>>524 >>526 >戦術7〜8クラスの基準
五分かそれ以下の条件下(数、装備、勢いの面)、かつ敵将も決して無能ではないってケ−ス、
あるいは名の残る将はいなかったが強盛で、水準レベルの将軍率いる正規軍なら余裕で圧倒できた軍と戦い続けて
トータルで武勲の方が多かった将軍かな?
そういうのがテンプレの「7=国内では一流の人材」「8=国を代表する実力者」に該当すると思った。
あくまで漏れ基準なので、気にしないでくれ。
>>529 とは言え、強盛な倭寇、モンゴル相手にほぼ常勝だったということと、
当時の明では最強だったって事から戦術は8で良いと思う。
兪大猷が7〜8、劉顕が7あたりかな?胡宗憲は戦略で倭寇を圧倒した面が強いので、
戦術はそこまで高く出来ないかも知れない。
>>521-530 どうもありがとうございました。
知識不足とゆうか、厨査定丸出しでしたね。猛省・・・。
毛利元就(1497〜1571)
【指導】7
家中をひきしめ、芸備の国人領主らを味方につけて勢力を拡大していった。
井上党ほか、あくまでも逆らう存在は容赦なく粛清する一面も。
【戦術】9
厳島の合戦ばかりが有名になっているが、初期の有田合戦や、青山合戦での
駆け引きで見せた技量も相当なもの。初陣以降226戦して、なんと無敗。
「材武(天性の武将としての才)にして、善く兵を用う」とは尼子経久の元就評。
【戦略】8
大内や尼子が健在であった頃、誰が毛利の名を挙げたであろうか。北九州攻
略戦には尼子・大内残党の掃討に追われて失敗したものの、中国はほぼ完全に
纏め上げた。
【内政】6
他の戦国大名レベルか。大きな失点は無かったと思われるが、領国経営の困
難さを考えればそれでも並以上のものがあったといえよう。
【政略】8
芸備での攻略戦はほとんど知られていないが、婚姻と交戦を交えてほぼ失敗無し。
「はかりごと多きは勝ち、少なきは敗け候と申す」と隆元宛書状で自ら述べている。
【人望】4
三子への訓戒状に、「我等子孫と申し候はん事は、別して諸人のにくまれを蒙
るべく候間」、団結せよと記されている通り、汚い手でのし上がった事は本人も自覚していた。もっとも領民や家臣には気を配っていた様で、少なくとも暴君では無かった。敵からすれば七代の仇、味方からすれば一代の名君、といったところであろうか。
【列伝】
『家系と誕生』
毛利元就、幼名松寿丸が生れたのは明応6年(1497)。この4年前に起き
た「明応の政変」によって将軍家の権威は完全に地に落ち、戦国時代が始まっ
たばかりの頃であった。
毛利家は祖先に大江匡衡・赤染衛門夫妻、大江匡房、大江広元らがおり、広元
の子季光が相模国毛利荘を名字の地とした名門であり、元就は十三代後の子孫
にあたる。
大江は氏の、毛利は家の名であり、元就も公式文書では大江元就であった。公
式文書や史書では家名と諱を直結しないもので、北条時政・足利尊氏・織田信
長・徳川家康なども近世中期以降に便宜上使用される様になった俗称である
(今回もそれに倣う)。
大江の血の為したものか、元就自身も和歌を嗜み(歌集『春霞集』がある)、
蹴鞠・能・茶・立花・囲碁・将棋をよくし、『源氏物語』・『古今和歌集』・
『新古今和歌集』・『徒然草』・『太平記』・『論語』・『史記』などを愛読
していた。中でもとりわけ『源氏物語』を好み、連歌にも詠みこんでいたとは、
紹巴の記すところである。
しかし、元就(ややこしいのでこの名で通す)誕生時の毛利氏は安芸国吉田盆
地一帯を支配していたに過ぎず、西には名門大内氏が、北には出雲統一後急速
に勢力を拡大しつつあった尼子氏が周囲を蚕食しつつあり、自立出来ない板ば
さみの状況におかれていた。
『松寿丸から次郎少輔元就へ』
元就の父は弘元といい、母は福原広俊の女であった。父の諱は大内政弘から偏
諱を賜ったものであり、彼の祖父や父が山名氏の偏諱を賜っていたのとは変化
が見られるものの、已然として独立性に乏しいという状況に変わりは無かった。
明応9年(1500)、何を思ったのか弘元は若干8歳の幸千代丸に家督と吉
田郡山城を譲り、自らは多自比の猿掛城に元就を伴って隠居してしまう。弘元
自身も父の急死によって9歳で家督を継いだ経験の持ち主であったが、真意は
分からない。
その6年後、弘元が没して幸千代丸改め興元が名実共に当主となった。興元・
元就の母は5年前に既に病死していた。そして、兄興元も翌年から4年間京都
に在陣する。
多自比領300貫は後見人の井上元盛に横領されてしまい、猿掛城からも追い
出された元就は、亡父の側室であった高橋氏に「取つき申候て」成長した。
15歳の時に次郎少輔元就と名乗る頃まで不遇な幼年期を送ったと、老年期に
回想している。
『江家拾遺』の記す、「天下の主となる事を祈った」云々の故事は13歳の時
の話という。
これでようやく落ち着いた・・・と思ったのもつかの間、5年後に兄興元が急死し
てしまった。まだ24歳の若さであったが、原因は祖父や父と同じ「酒害」であっ
たらしい。
なお元就自身は酒を断ち、長子隆元にもこれを命じて75歳の長寿を保った。
跡継ぎの幸松丸は僅か2歳。元就が家臣の高橋久光と共に後見を勤める事とな
った。時に永長13年(1516)、元就は20歳になっていた。
『西の桶狭間〜有田合戦〜』
翌年、初陣の機会が訪れる。敵は安芸の守護で佐東銀山城(広島市南区祇園町・
現広島経済大学近辺)主の武田元繁。初戦の相手としてはあまり有難くない相
手であったが、山県郡に侵攻し、吉川元経領を犯し、小田信忠の籠もる有田山
城を包囲し、更に元就のいた多自比にも手を伸ばして来た以上、開戦を先延ば
す訳にはいかなかった。
まず元就は、150人を率いて猿掛城下で武田勢600人と交戦。数に任せて
押して来た敵を深田に誘い込み、身動きがとれなくなった相手を攻撃して勝利
を収めた。
この事態に毛利本家は700人を、吉川家は300人を動員。当事者の小田家
は300人を擁していたと見られるが、武田軍は4千人とも5千人とも言われ
る大軍であった。毛利軍は最初に、有田城下の中井出に陣を布いていた熊谷元
直(熊谷直実の子孫)を攻撃し、武田本隊の救援が到着する前に(当然武田に
は牽制を出していた)これを討ち取る。
中井出を占領した毛利軍本隊は一旦南下して、別働隊と武田軍を包囲するかた
ちをとり、又打川を挟んで武田軍の本隊と衝突した。
激戦数刻。武田元繁は後退する毛利軍を総なめにしようと又打川を渡ろうとし
たところで流れ矢に当って落馬・討死し、武田軍は総崩れとなった。
元繁の武将笠摩某の寝返りが勝利に貢献したともいうが、この初陣における活
躍が元就の武名が高めた事は、確かな事であったと思われる。
『毛利の家鷲の羽を継ぐ脇柱〜青山合戦〜』
その後元就は世羅郡・山県郡に転戦し、大永3年(1523)には尼子につい
て大内氏の鏡山城攻略戦にも参加して武名を高めた。その直後に幸松丸が9歳
で病死。円滑に進んだ訳では無かったものの、最終的には元就が毛利宗家を継
ぐ事となった。
この時、元就は不用意に郡山城に入るのではなく、(外面上は)十五人に及ぶ
老臣一同の賛意と要請を受けて後継者となった事としている。
だが、水面下では反元就派が蠢いていた。家督相続からそう日を置かぬ内に、
尼子氏の老臣亀井秀綱らと気脈を通じた異母弟相合元綱が、先の十五人中に含
まれていた坂・渡邊両長門守に担ぎ出されて元就を除かんとしたのである。
結局は間者を通じて逸早く陰謀を悟った元就が先手を打って全員を誅殺するの
だが、この事が後に元就を尼子から離反させるきっかけの一つとなったという。
翌大永4年(1524)、元就は尼子氏の命を受けて佐東銀山城救援戦にも参
加する。ここでは尼子の下に寄せ集められた軍勢が一旦敗れた後、恥を雪がん
として地理に通じた安芸の国衆だけで夜襲を敢行し、見事大内軍を敗走させて
城の包囲を解かせたのであった。
しかし大永5年(1525)頃から元就の心は大内方に傾いて行き、享禄元年
(1528)には家臣の井上新三郎(諱不明)を大内に人質に出した。それで
も已然として尼子とは不即不離の状態を保ち、尼子晴久とは享禄4年(1531)
に義兄弟の契りを交わした程であったが、それから10年以内には完全に断交した。
判断出来る理由は、まず天文6年(1537)に、長男少輔太郎(大内義隆よ
り偏諱を賜って隆元)を人質として山口に送っている事。次により分かり易い
理由として、義兄弟の契りを結んだ10年後に晴久が本気で兵を向けて来た事
が挙げられる。
晴久は当初備後路を通って吉田に向う筈であったが、ここでは元就が婚姻関係
を結んでいた宍戸元源父子と元源の弟隆兼が頑強に抵抗し、尼子軍の先発隊3
千人を寄せ付けなかった為、石見路より晴久自身の率いる尼子の大軍3万人が
侵攻した。
この時経久は石見・備後を固めた後に元就に当る様に説き、その弟久幸も反対
したが、晴久は出陣を強行。久幸は「臆病野州(下野守)」呼ばわりされた挙
句、これに同行した。
対する元就の集められた兵は僅かに2400人。元就の代になって郡山全山に
拡張されていた吉田郡山城には他に城下の百姓5600人がいたが、到底敵い
そうに無かった。
元就は大内に急使を派遣して援軍を請う一方、周辺豪族へ迅速に手を廻した。
その結果、既に毛利に服属していた熊谷信直(元直の息子)、香川光景ら諸豪族
が人質を出して他意無き事を誓い、天野興定は自ら部下を率いて入城した。
宍戸元源も嫡孫隆家を郡山城に入れている。竹原の小早川興景も沼田本家の協力
を受けて竹原から吉田へと向ったが、こちらは尼子軍に遮られて入城出来ず、高
田郡坂に屯営した。
周辺豪族の中でもっとも不安な要素であった武田信実には香川・熊谷を備え
としている。
郡山城周辺の防備も固められ、山谷深林の多い郡山城背面などの柵はわざと
稚拙な作りにし、敵が近づけば号令一下、ただちに土地勘のある伏兵が動く
様にした。
天文9年(1540)9月5日、尼子軍は吉田に侵攻。郡山城から北西5キロ
の地点にある風越山に陣を布いた。
翌日、尼子軍の一部は吉田上村に放火したが、毛利軍は挑発に応じる事なく傍
観した。既に領民の多くは城内に避難しており、この様子を見下ろしながら
「尼子殿は雲客引下して、ずんぎり挽こ、挽こ」などと囃し立てて動揺を見せ
なかったという。
更にその翌日、今度は吉田の城下が放火されたが、この時は毛利軍が出てこれ
を撃退し、敵数十人を倒したので城内の士気は逆に上がった。
十二日には再度放火があったので、元就は多自比川を渡って戦闘。敗走を装っ
て敵を誘い、勝ちに乗じて追撃して来た敵を伏兵と共に撃退。城内からも渡邊
通らが打って出た。
流石に味方の損害も少なくは無かったが、敵将本城信濃守を討ち取っている。
23日、尼子軍は本陣を青山に移した。多自比川を隔てて南西2キロの地点で
ある。これ以後尼子は毛利に対して本格的な攻勢に入る事になる。
移陣を察知した元就は、軍の一部を割いて風越山を急襲させた。その結果、ま
だ運ばれていなかった兵糧や弓などの軍需物資を焼き払う事に成功。加之、十
月半ばには石見国都賀の渡しで尼子の兵糧輸送部隊を襲撃させ、奪いきれなか
った兵糧を江ノ川の急流に投じさせたのであった。
26日、尼子軍の武将湯原宗綱は近隣に駐屯していた小早川興景・杉元相(大
内軍の先発)に兵を向けるが、毛利軍との挟撃に遭い、宗綱は深田に馬を乗り
入れて討死した。
(なお、当時のこうした戦闘で討ち取った首級の数は100を越えなかった様である)
10月11日、新宮党の尼子誠久(14年後、元就の策謀に乗った晴久に父と
共に誅殺される)は周辺に火を放ちつつ、次第に郡山城に肉薄してゆこうとした。
ここで守勢に回っては、せっかく向上させていた士気に関るものとして、元就
は野外戦に持ち込む覚悟を固める。左翼に伏兵500人。後方に敗走時の備え
200人。元就自身は1200人を率い、更に400人を伏兵として青山の後
方にある藪の中に移動させた。
本隊は逆に目立つ様に、堂々と進軍。多自比川を挟んで尼子軍と激突した。
当然、数からいって毛利軍が押される事になる。しかし、尼子軍が深入りした
ところを見計らって1000人近い伏兵が出現。三方からの突然の攻撃に尼子
軍は算を乱し、毛利軍は敵を青山まで追い詰めた後、意気揚々と引き揚げた。
12月3日、遂に陶隆房率いる大内の援軍1万人が到着。その後3度の小競り
合いを繰り返した後、翌天文10年(1541)正月十三日に決戦が行われた。
元就は吉川興経のいた宮崎長尾の陣を、隆房は敵本陣のある青山を攻撃。尼子
詮久を追い詰めた。詮久が虎口を逃れたのは、ひとえに68歳の老将久幸の奮
戦があった為という。
無謀な出兵を諌めて「臆病野州」呼ばわりされた事を不本意に思っていた久幸は、
「曩(さき)に自分を臆病野州と嘲りし者共は我が壮烈な最期を見て奮起努力せ
よ」と言い放つと、その言葉通り大内軍の真っ只中に入って討死したのである。
ここに至って尼子経久は、遂に撤兵を決断。追撃を受けながら雪の積もった山中
を歩く兵の中には倒れる者も多く、江ノ川を渡る際には舟に乗ろうとする者同士
で争いが起き、悲惨極まりない状況が展開されたという。
この年、尼子経久が84歳で大往生。元就は銀山城を落とし、安芸武田氏を滅
ぼした。
天文11年(1542)、今度は大内義隆が国人領主13名の要請を受けて月
山富田城攻めを行なう事となり、元就は出雲国赤穴瀬戸山城攻めを命じられ、
これを落城させた。
だが、月山富田城は義隆の予想していた以上の堅城であった。その内出兵を要
請した国人領主達が寝返り始め、何時の間にか逆に包囲されていた事を悟った
義隆は天文12年(1543)5月7日に撤兵を決断した。敵の中心地から逃
れる事はすこぶる困難を極め、元就自身も窮地に陥り、渡邊通が身代わりにな
ったという。
5月22日、大内義隆は元就父子の無事を賀し、先に尼子方についていた吉川
興経の所領を没収していたものを、8月18日に与えている(この後元就の誓
願によって興経に返還されたというが、結果は・・・)。
『両川体制の確立』
毛利の歴史を語る際には、「両川体制」の確立、即ち元就による小早川・吉川両
家の乗っ取りを抜きにしておく訳にはいかない。
まず狙われたのは、瀬戸内海に面した領地を支配していた小早川氏であった。同
氏は源義仲追討で功を挙げた土肥実平を祖とする名族であり、鎌倉時代に編まれ
た百科辞書的説話集『古今著聞集』にも登場している。
当時の小早川氏は沼田(現三原市)と竹原(現竹原市)に分かれていたが、共に強力
な水軍を擁しており、とりわけ沼田家は「家船」と呼ばれる海上生活用の船を利用
した海民の本拠地であった糸崎を擁しており、海上を睨む以上は無視の出来ぬ存在
であった。
なお家船を利用する人々は、キリスト教宣教師によれば当時北九州にまで分布して
いたらしいが、その生活は長く続いて戦後までは普通に見られるものであった。
最初に手をつけられたのは、元就の姪が嫁いでいた竹原小早川家であった。青
山合戦から帰って来た興景が天文十年(1541)に跡継ぎの無いまま急死し
た為、「小早川家の重臣一同の請願と、大内義隆の奨めがあって、しぶしぶ」
(毛利側の記録による)元就は三男の徳寿丸(後の隆景)を僅か9歳で竹原家
の跡継ぎとして派遣したという。
ところがその直後、「偶然」沼田小早川家でも当主正平が急死し、跡継ぎの又
鶴丸(繁平)が失明してしまったので、隆景色が両家を統一して継ぐ事となった。
「反対論が起きなかったのか」と言われるかもしれないが、心配御無用。隆景が
沼田に入った直後、親毛利派の重臣(どうやって取り込んだのやら)乃美氏によっ
て、繁平派の重臣一同は粛清されたのであった。この後、隆景は居城を高山城か
ら新高山城に移している。
次は吉川家である。大朝を根拠地とする同家は元就の正室の実家であり、藤原
武智麻呂(南家)を祖とする名門であったが、妻が没した天文14年(1545)
以降、本格的な乗っ取り工作の標的とされてしまう(元就と正室は仲がよく、彼女
が生きている内は側室を置かなかった。三回忌の後、合計3人の側室を迎えている)。
当時まだ30歳であった吉川興経は、元就と結んだ叔父経世や重臣森脇祐有によっ
て無理矢理隠居させられ、家督は興経の子千法師をさしおいて元就の次男元春が継いだ。
興経と他の重臣たちは、「せめて吉川領内での隠居を」と頼んだが、「乱行」を理由
に許されず、毛利領内の深川(現広島市)に隠居させられる。そして天文19年(1550)、
失策を正すためという口実で襲撃され、父子ともども自害して果てたのであった。
やっている事は物語に出て来る悪役と何ら変わりはないが、とにかく手に入る
ものは手に入れ、手に入らなければ入るようにする事を繰り返し、元就は脇柱
の確立に成功した。
また同年、横暴な振る舞いの多かった井上元兼の一族30余名を誅殺し、「罪状書」
を公開して家中を引き締めている。こうして、安芸支配の体制は次第に固めら
れていった。
元就は天文15年(1546)に、50歳で家督を長子隆元に譲ったが、引き
続き内より手綱を引き締めていた。
『包ヶ浦から博奕尾峰へ〜厳島の合戦〜』
天文20年(1551)9月、大事件が起こる。政治に情熱を傾ける事を忘れ、
重臣たちに見放されつつあった大内義隆に対し、陶隆房が兵を挙げ、旧主を長
門国大寧寺に追い詰めて自害させたのである。代りの当主には豊後の大友義鎮
の弟晴英を迎えた。
大友晴英は大内義長と改名。隆房もまた、偏諱を賜って晴賢となった。
実は元就は5月には陶より内意を告げられており、天文21年には晴賢の斡旋
で佐東郡を知行しているが、表向きは積極的に味方する事もなく、安芸はもと
より山名氏滅亡後の備後への勢力拡大に腐心し続けた。
不協和音が響き始めるのは、天文22年に毛利・大内軍が備後国で尼子軍を打
ち破ってからの事であるらしい。この戦いで勝利した元就の勢力は備中の三村
氏にまで及んだが、占領した双三郡旗返城を、元就(正確には隆元だが)は己に
帰属する事を求め、大内義長もこれを認めたものの、晴賢は承服せず、配下の
江良房秀を入れたのであった。
天文23年正月、晴賢は石見に侵攻する。同地には故大内義隆に恩義を感じてい
た吉見正頼が未だに抵抗を示していた。この時、元就にも山口下向が求められている。
しかし、家督を継いでいた隆元らはが強硬に反対。評定の結果、毛利は吉見を救援
する一方で安芸国南西部にも手を伸ばし、厳島まで占領する事に成功した。
この知らせを受け、陶がかなりのストレスを感じていたであろうという事は、
想像に難くない。案に相違して吉見はなかなか降伏せず、対陣は長引くばかり。
そこで毛利を討てば吉見も自然降伏するであろうと、宮川房長に兵3千人(後
に7千人に増加)を預け、安芸に向わせた。
この時桜尾城(現廿日市市桂公園付近)に三子と共に居た元就は、西4キロの地
点にある折敷畑に陣を若いた宮川軍に対し打って出た。率いる兵は3千人。
元就は兵力を4つに分散し、自身と隆元は本道を移動して敵の注意を引き、残
りの3隊を密かに3方向に動かして戦端を開いた。適当に相手をした後、本隊
は後退。勢いづいた敵を伏兵が攻撃する事によって勝利を収め、房長を敗死さ
せたのであった。
その後も勢力を拡大し、安芸をほぼ掌中に収めた元就。北九州では大内に駆逐
されていた律令制時代以来の名門小弐氏に誘いをかけて筑豊を占領させようと
した(が、ルイス・フロイスが「細心の配慮と勇気と決断はユリウス・カエサル
にも勝る」と評した竜造寺隆信に破られて役には立たなかった)。
しかし、石見では吉見氏が和議を結び、陶の標的は毛利に絞られつつあった。
そこで元就はまず、決戦の前に出来るだけ敵の勢力を削いでおく策に出る。
弘治元年(1555)3月16日、元就に通じていた江良房栄は、岩国琥珀院で
晴賢の差し向けた弘中隆兼に討たれた。巷間では房栄は無実だったのであり、
その才気を恐れた元就が寝返りの旨を記した書状を偽作して陶に見せたという話
がよく知られているが、事実内通していた房栄が300貫以上の知行を望んだの
で、負担に感じた毛利父子が情報を流したというのが本当らしい。
またこの前年十一月には毛利と通じたとして尼子晴久が一族の新宮党を粛清し
ているが、これは元就の策謀によるものであったとされている。
真偽は定かではないが、元就がこの時期戦う対象を陶に限定したがっていた
のは事実であり、所謂安芸門徒の懐柔策もその一環であった。晴賢は本願寺に対し、
元就と戦うのに協力を求めたが、拒絶されている。
さて、敵の大軍に対して有利に戦うには、大軍を大軍として機能せしめないのが一
番である。その為に元就が選んだ戦場が、占領済みであった厳島であった。
島は東西4キロ、南北10キロ、周囲30キロ。本土との距離は最短で4キロ。
中世より風光明媚で知られ、厳島大明神の双胸とも言われる二つの山が島の大半
を占めている。
まさしく敵を追い込むには絶好の場所であった。まずこの島の北西にある宮尾岡
に、囮として砦を築く。そこを拠点として岩国を攻める・・・と思い込ませれば、敵は
必ず前進基地を築いて逆に安芸に侵攻しようとするであろうと、元就は考えた。
果たしてその狙い通り、周防を出港した晴賢は2万人の兵を率い、9月21日
に厳島の大元浦(現みやじま水族館付近)に上陸する。そして本陣を塔の岡に
定め、宮尾岡を攻めた。
これに対し、元就は4千人を動員していたが、なかなか動けずにいた。小早川
隆景を通じて協力を仰いでいた、「海賊衆としての水軍」を率いる村上氏がなか
なか動かなかった為である。それまで毛利には、児玉氏らによって構成された急
ごしらえの直属の水軍や、一門である小早川氏の水軍が存在したが、ここで更に強
力な援軍を求めたのであった。
では、日本史上の「海賊」とは何か。その事について少々話しておく事としよう。
古くは『日本書紀』に仁徳天皇の時代に討伐された播磨灘の海賊の話が見えている
が、その後も六国史には海賊に関する記事が多く記され、『日本三代実録』貞観4年
(862)5月17日条には瀬戸内沿岸の諸国に海賊追捕が命じられた事が見えてい
る。承平・天慶年間には藤原純友の乱(935〜941)が起き、平将門の乱と並んで
朝廷を震撼させた。
この少し前、承平4年(934)に土佐から帰還した紀貫之の『土佐日記』にも、
阿波・讃岐沖に海賊が出没して恐怖の的となっていたことが記されており、
当時の瀬戸内海にこの手の「海民」が跋扈していた様子が伺えよう。
純友の乱は、ただの海賊の跳梁とした見方が一般的であるが、異見もある。
1,純友は本来官人であり、海賊平定の恩賞(官位)に預かれなかった事に不満があった。
2,9世紀中葉から新羅(935年滅亡)商人の活動に唐(907年滅亡)の商人が割り
込み、10世紀には取って代わる様になる(造船・航海技術の発達による)。その結果、
大陸との交易を朝廷に独占されるようになった「海賊」たちが反発するようになった。
前者は日本政治史の下向井龍彦氏の、後者は東南アジア交易史の生田滋氏の説である。
9世紀の新羅商人・海賊の勢いは相当なものであった。官吏とてそれは例外では無く、
『入唐求法巡礼行記』を記した円仁が847年に帰国する際にも、新羅の清海鎮大使で
あった張宝高の援助を受けている。
当時江南には新羅商人の集住地があり、円仁が勧進した「赤山明神」もまた新羅
系の神格であったという(泰山府君色もある)。円珍の勧請した「新羅明神」に到っ
ては言うまでも無い。後に前者は延暦寺の、後者は園城寺の守護神とされた。源義光
の通名「新羅三郎」は新羅明神の神前で元服した事に因んだものである。
三国間の交易に多大な影響力を持っていたと見られる張宝高が政治的な要職に就
いていれば、新羅にとっての利益になった筈であった。が、結局彼は政争の末暗
殺されてしまう。この事が日本産の金を求めていた唐商人の勢力拡大に拍車をか
け、新羅が海上貿易から締め出される事態を招いたともいう。
高麗を建国した王建も元々海賊紛いの事を行っていた人物であり、彼もまた日唐
間の交易から締め出された「陸に上がった河童」であったとは生田氏の弁。
日本の朝廷と唐商人たちが日本産の金の交易を独占し、それまで頼っていた対
馬産の銀が枯渇していた事もあって、新羅と日本の「海賊」は不満を抱いていた・・・。
もっともこの生田説、当時の朝廷の統制力がそこまで強かったかという点に疑
問符がつくという批判も出されている。
また、交易自体はともかく、唐・新羅・渤海と友好国が相次いで滅亡する中、
この後は貴族階層が外国人に対してアレルギー的な拒否反応を示す様な状態が
近代まで続いた。
天皇が外国人と謁見した例もこれ以降はほとんど見られない。平清盛が後白河
院(退位済み)に宋人を引き会わせた、後醍醐天皇が元の僧侶と面会した等は
珍しい例である。
『源氏物語』の冒頭で臣籍降下前の光源氏は高麗人の相人に面会しているが、
これが「天皇は外国人と直接顔を合わせるものではない」という慣習を含んだ
作者の演出であり、この時点で皇位に就けないことが暗示されていたという指
摘もある。
閑話休題。海賊の話に戻ろう。藤原純友の乱が平定された後も海賊の跳梁は留
まるところを知らず、12世紀に入って成立した『今昔物語集』によれば、已然
として船足の速い小型船を乗り回して船を襲撃する事を瀬戸内海で繰り返していた。
平清盛が歴史上に登場するのはこの後間もなくの事であるが、彼の父忠盛は海賊
を追捕する一方で純友同様彼らを手足として用い、宋国との交易も行っていた。
清盛が安芸守になって厳島神社を崇敬したこと、交易に関心をもって住んでい
た福原に一時都を移した事はよく知られているが、彼の瀬戸内海への関心は父
の存在による処が大きかったと思われる。海賊はまた、海の商人でもあった。
大輪田泊を修築し、瀬戸内海沿岸に知行国を設け、山頂には見張り台を設けた
清盛の瀬戸内海支配の姿勢は、鎌倉時代の北条氏や西園寺氏にも受け継がれた。
さて、これまで見てきた「海賊」の行動は、専ら非合法なものであり、そして
おそらくは非日常的なものであった。海を生活の場とした人々の一部が襲撃
を行う事はあっても、普段は漁業や交易や造船を営んでいた筈である。
史料は少ない。だが、南北朝時代になると、もう少し事情がはっきりして来る。
14世紀の初め、備後国鞆沖の大可島を見た『とはずがたり』の作者二条は、
島を「年老いた遊女の隠棲地」と述べているが、それから約40年後に同地を
訪れた中厳円月によれば、そこには既に「海城」が聳え立っていたという。
『太平記』には、南北朝に分かれて戦った瀬戸内の海賊の船には(所属ごとに)
大小の別があって勝敗を分けていたとあるが、これらを入れる船着場もあった筈。
暦応3年(1340)には熊野の泰地・塩崎両氏が船から警護料を取り立てる代
わりに相応の責任を持つ事を命じられているが、武力と行動力を背景にしながら
海上を治めて通行料を取り立てる姿こそ、元就の時代に考えられていた「海賊」
のそれであった。
最終的に近世への道を開いたのは秀吉の検地・刀狩であったが、後者と同日付
で発布された「海賊停止令」は、周辺海域を通る船から通行料兼警固料を取り立
てる事を禁じたものであり、「海賊」行為というものがどの様に考えられていたの
かを教えてくれている。
日常(しばしば戦闘にも発展したが)における彼らの本分は、海上を通る船からの
取立てにあった。これは海上が彼らの庭であった事によるものと思われるが、峠な
どを通る際に神に供え物をする習慣の延長線上にあるともいう。
いずれにせよ、取立てというやられる方からすればあまり愉快ではない手続きを実
行に移すためには、それなりの実力が要求された。
彼らが海上に立ち塞がる際に利用していた小型の快速船は、「関船」と呼ばれて
いた。この名称はそれがそのまま海上の関所となっていた事に拠るものであるら
しく、海賊自体も当時の記録ではしばしば「関」と呼称されており、沿岸部に現存
する関町などの地名の由来もこの辺りにあるらしい。
『梅霖守龍周防下向記』から好例を挙げてみよう。天文19年(1550)、
記主の乗った船は備前国日比沖で海賊に通行料を求められたが、結局料金の折
り合いがつかず、海賊側が矢を射掛けて来たので水夫たちが「鉄砲」(爆竹状の
武器か。但し10年以内には、陶・毛利両軍が既に装備していた様である)を
使って追い払った。
帰路には竹原沖でも揉めているが、この時は海賊側が船を15隻も揃えていた
ので太刀打ち出来ず、船頭は翌朝まで粘って結局「過分の礼銭」を払って通過を
許されている。
15隻を揃えた海賊側の威容もさることながら、火薬を用いた新兵器を搭載して
いた船にも驚かされる。戦国期に限らず、生きる為の闘争をせねば生き残れない
のが中世という時代であった。
なお行きの船は能島村上氏の進出していた塩飽諸島の船頭のものであったが、
帰りの船は播磨国室の船頭のものであった事にも、対応の異なった理由がある
のかもしれない。
また近世のものであるが、『武家万代記』には、翌天文20年には将軍家への進
上米を積んだ陶(大内)の船が村上氏と通行料を払うか否かで騒動を起こしてお
り、結局三十隻にも及ぶ船団は、三島の村上氏に上下両蒲刈島の辺りで討ち取ら
れてしまったという。
海を日常的に生活の場としていた彼らにとって、海上とは海産物とは異なる富
をもたらしてくれる第二の領地であり、また神武天皇が珍彦に「汝、海の道を
知るか」と問うて以来開かれていた「道」でもあった。そうしたエキスパート
の協力は、島を舞台にして戦うには是が非でも得なければならないものだった
のである。
当時の村上水軍の勢力は、備讃諸島から周防沖にまでの広範囲に及んでいたと
見られている。
当然陶からも村上宛てに協力要請があったが、結果的にはギリギリで村上側の
意志は毛利に傾いた。つい数年前の交戦の記憶があった為とも考えられるが、
主に河野氏に属していた来島水軍の将通総は、「船は一日借りるだけ。勝て
ばなんとかなるし、必ず勝つ。渡る時だけでいい。」と使者が言ったのを、
「船のかりやう面白候条、軍は元就の勝に可成」と言って毛利へ就く事を決
めたという。
9月28日、地御前(現廿日市市)沖に村上水軍の兵船300隻が姿を現し、
9月30日の夜、秋の嵐が追い風と成っていた事を幸運とし、毛利・村上軍
は厳島へ向った。
食料は餅・焼飯・米の入った袋が一つずつで、全部で三日分。夜間の奇襲の
為、合言葉は「勝つ」に「勝つ、勝つ」が定められたという。
全軍は包ヶ浦に上陸。船は即座に返され、兵は勝たねば帰れぬ状態に置かれた。
毛利軍は、そこから博奕尾峰を越えて陶の本陣に迫り、元就は「包」に「博打」
でどちらも「打つ(討つ)」とは縁起が良いぞと、兵を鼓舞した。
一方隆景は兵船を率い、そのまま堂々と敵の眼前に船を停泊させる。誰何され
れば、「筑前の宗像・秋月の援軍である」と堂々と答え、怪しまれなかった。
翌日(当然10月1日)の明朝。まだ白んでもいなかった筈の空の下、元就は
海陸から一斉に攻撃させた。宮尾岡で篭城していた軍も、これに加わる。
陶晴賢は弘中峰房父子の健闘もあってその場を逃れたが、船を見つけられず、
何を惜しみ 何を惜しまん 元よりも この有様の 定まれる身を
という辞世を残して自害した。享年35歳。一方の元就は59歳であった。
その直後から、毛利は周防・長門に侵攻し、今度は竜造寺・大友と組んで、
弘治3年(1557)には大内義長を自害させた。大友義鎮は弟が殺された
にも関らず、一旦は毛利と結んでいる。
この前年には、元就は石見大森銀山を占領しており(1558年になって奪還
されたが)、石見方面にもその力を及ぼしつつあった。
『月山富田城の開城に至る4年と8ヶ月』
元就が名実共に隠居し、隆元に一線を任せる様になったのはこの頃の事である。
だが永禄2年、毛利と大友が北九州で衝突するにあたって、再び出陣。関門海
峡を渡り、門司城を攻めた。これに対し、大友は尼子と結んで挟撃の構えを見
せるが、永禄6年には将軍義輝の仲介によって停戦している。
話は戻って永禄3年(1560)、今川義元が倒れた(当時は信長と言われても
理解されなかったでしょう)この年、47歳であった尼子経久が病死し、22歳
の義久が跡を継いだ。
好機と見てとった元就は永禄5年(1562)7月3日に尼子との決戦の為に兵
を動かした。郡山城に結集した兵の数、今や1万5千人。元就は66歳。
なお、大友氏がこの隙を窺ってまた豊前に兵を進めて来た為、元就は同年9月
隆元に3千人の兵を預け、北九州に派遣している。翌年には和議がなって出雲
へ引き返したが、その途中高田郡で病に倒れ、41歳でその生涯を終えた。
元就は毒殺を疑い(心当たり有り過ぎ)、後に接待をしていた和智兄弟と隆元の
側近であった赤川元保を誅殺させたのであった(後に赤川家は再興を許されている)。
この時は落胆のあまり、一旦は隆元の後に続きそうになったほどであったが、京
から将軍義輝の派遣した医師曲名瀬道三の治療もあってか、回復した。
周辺の諸城を叩き潰し、糧道を断った結果、吉田を出て4年8ヶ月後の永禄9年
(1566)11月28日、遂に尼子義久は月山富田城を毛利元就の前に開いた。
元就は既に70歳。その胸に去来していた思いは、如何なるものであったのだろうか。
『立花城〜大往生へ』
感慨に浸る間も無く、帰国した元就は、村上氏への救援の為伊予に出兵。長曽我
部と戦い、伊予からその勢力を駆逐した。
更に、背後の危険を取り除いた元就は、永禄10年(1567)から12年にか
けて、再び北九州へと兵を進めた。
これに応じて、秋月種実・筑紫広門・竜造寺隆信らが通じた他、「西大友」と呼
ばれていた大友一門の立花城主、立花鑑載や高橋鑑種までもが毛利に対して恭順
の意を示した。
これに驚いた大友義鎮は同11年6月、戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速に3万
人の兵を預けて立花城攻めを行わせる。対する毛利は吉川元春・小早川隆景が
4万人の兵を率いて渡海。
北九州各地で総力戦が行なわれた結果、翌12年閏5月に立花城は毛利の手に
帰した。
しかしそれから間も無く、出雲で尼子勝久・山中幸盛らが挙兵。更に義鎮は、
保護していた大内義隆の従兄弟輝弘を山口に攻め入らせ、大内の遺臣と共に
これを占領させた。
その為毛利は北九州に関る余裕を無くし、急遽講和を結ぶと本州に帰還し、ま
ず大内を、次いで尼子を攻め、これを撃破した。
だが、元就にはもう時間が残されていなかった。元亀2年(1571)、織田・
徳川軍が姉川の合戦に勝利したこの年の6月14日、毛利元就はその生涯を閉
じたのである。享年75歳。
その生涯を振り返ってみれば、「その勢力未だ微弱、尼子・大内等大勢力の間
に介在し、比肩すべき諸豪族の間に伍して、しかも芸備両国に勢力の伸展をは
かつた時代が、殆ど三分の二を占むることに至大な興趣を覚えしめるものがあ
る。」とは及川儀衛門の弁であるが、四分の三世紀に及んだその生は、明日の
為に戦い、戦いの中で生き、戦いの中で終ったのである。(終)
本筋と関係無さそうな背景について述べたものも含めて、全部で37レス。
これで38レスですが・・・おそらく「2ちゃんねる」史上の新記録でしょう。
「書いてもいい」と言われたので、批判は受け付けません(断固として)。
というより、もう燃え尽きたといいましょうか、白髪が増えた気がします。
>>570 大作乙。興味深く拝見させていただきました。
果たしてそんだけ氏とどちらが多かったのだろうか・・・・・
乙でした
>>570 乙です。ただ二人に共通して言える事だけど、数値付けに関連しない略伝になってしまったような・・・
面白いからいいんですけど。w
内政6ですか。高いような気がします。
でも領土拡張が急だったし、それに今川や信玄というお手本が
あった中部勢が、強力すぎたのかもしれませんね。
>573
永禄3年(1560)の広域的な検地は如何。有力農民から正式に毛利家の家臣
となるものが続出し、階層的分断を固定化しましたが。
これ以外な柔軟な対応・支配は寧ろ政略の方につけるべきかもしれませんが、
今川や武田にと比べてそう劣ったものであったでしょうか。
自分としては、「中国地方支配相当」だと思ったのですが。元が小領主だけ
に、適応能力も考えました。世界史的な規模を考えると、5でいいかも。
しかし中部地方と比べて数値に変化する程の差があったとは・・・。
>>574 金の入りが違う気がします。
信玄の開墾や、義元の楽市楽座は、江戸時代の経済的繁栄の中枢かと。
元就の成した「開墾」や市への対策について記したよい本が見つかりません
でした。この点についてはとりあえず保留とさせて頂きます。
調べが間に合わなかったのは私の怠慢ですが。
>>577 存分にどうぞ。あとどうせなんで最後まで、喋っときます。 m(_ _)m
織田は毛利以上の領土拡大を成し遂げていますが、両者の経済力には
圧倒的な差が存在したようです。しかも信長は敵を四方に抱え、
堺や京都も完全な味方と言えなかったと思います。
また江戸時代は、日本各地で驚異的な石高上昇が起こっていますけど、その開墾や治水事業の
お手本になったのは信玄と家康に吸収された家臣団だと思います。
彼らの内政能力は、8くらいあっても良いかと。
>山野さん乙。
できれば参考にした著書紹介してくださいな、私も見てみますんで。
>>578 織田信長は尾張半国(20万石)から、良港ももっていたし、並み居る大名の中ではかなり恵まれた立場じゃないかな.
尾張は半国でも、他の国一つ分くらいあり、尾張全土で、今川に近い国力がありますしね。
あと、信長は内政が上手かったというより、そういう人物を扱ったという指導に点をあげるべきじゃないかな。
確か、織田の領内の内政を一手に引きうけていた、五奉行みたいな官僚が一人いた、名前出てこないけど。
それにたいし毛利元就は3000貫からスタート。
最初毛利はどんなに頑張っても千程度だったのに、織田は桶狭間でさえ5000も動員しているし。
その国力差は圧倒的かと。
正直織田家の有力家臣レベル。
明智光秀だって、最初から500貫貰っているのに。
>>579 『日本書紀』・『日本三代実録』・『日本紀略』・『今昔物語集』・
『古今著聞集』・『陰徳太平記』・『毛利元就教訓状』ほか、
『瀬戸内の海人たち』@〜A、『毛利元就卿伝』、『毛利元就のすべて』
(新人物往来社)・『毛利元就』(及川儀右衛門版)ほか、
・・・今回は一次史料を参照する暇が碌にありませんでした。とりあえず
引用されたものから取捨選択してみましたが。
サンクス、図書館にあったら私も読んでみます。
流石に一万買えないし。
ま、山口だし、県立図書館までいけばあるでしょ。
こりずに再チャレンジさせていただきます。
足利義満
【指導】8 南北朝の動乱を終結させ、幕府の権力を確立した。
【戦術】5 戦術家というタイプではない。
【戦略】8 指導と同じ
【内政】7 勘合貿易や倭寇討伐などを積極的に行い、北山文化を花開かせた。
【政略】9 有力守護に対する内訌の演出と討伐・南朝に対する皇位継承の空約束など
日本全体を手のひらで操った。
【人望】6 嫡子・義持を筆頭に反発する人間も多かった。
不合格
日本史だったら合格。くらいにしろよ。
世界史の場合、戦術(大内の居た堺攻めなどの指揮も行なっている)・内政
以外は1つずつ削りますか。
586 :
世界@名無史さん:04/09/21 20:20:12
人望6は良くないですか?>義満
どなたかヴァンダル王ゲイゼリックあたり数値化できませんか?
略伝読んだ感じけっこう魅力的な人物なんですけど、評価できるほど詳しくないんで。
自分の子供からも嫌われていたんだから、人望はなかろう。
>>582 【とんち】3 いつも一休さんに負けていた。
趙栄 (1898〜1975)中国共産党副主席・政治局常務委員
康生の名で知られる。抵日戦期に中国共産党初代社会部長となり、特務機関の責任者となる。
スパイ摘発や幹部粛清に活躍。毛沢東の指導権確立に貢献した。
でっち上げ事件を起こして罷免されたが、失脚することなく建国後には山東省政府主席となる。
精神病にかかって一旦引退したが、復帰して反右派闘争で多くの知識人を弾圧。
文化大革命では中央文革小組顧問となり、多くの人を冤罪で殺害した。
情報・宣伝機関と党人事を掌握し、党副主席となって絶頂を極めたが、文革末期に病死。
文革後に「反革命集団の主犯」と断罪され、党から除名処分を受けた。
【指導】6 特務機関創設者の一人。彼の指導のもと、中国の公安は殺人機関としてフル回転した。
【戦術】3 党官僚であり、軍人ではない。
【戦略】4 対ソ強硬派論者として知られる。中ソ対立を煽った。
【内政】4 山東省政府主席を歴任。
【政略】8 ソ連で秘密警察のノウハウを学び、毛沢東の懐刀として幾多の粛清を実行した。
【人望】3 絶大な権力を握ったが、小心者で人望には欠けた。
中国のベリヤとも呼ばれる特務機関のボス。文革の指導者の多くはアジテーターであり、
民衆を扇動して多くの人を迫害死に追い込んだが、
趙栄の場合は権力を使って直接手を下したところに特徴がある。
罪状捏造の手腕では右に出るものが無く、劉少奇の裏切り疑惑を捏造して止めを差したのも彼だった。
だが、血に彩られた経歴とは裏腹にかなり小心な人物で、建国後に精神を病んで長期療養し、
晩年の病床では周恩来に暗殺されると言う妄想に取り付かれ、
周恩来が見舞いに来るたびに取り乱していたと言う。
590 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/09/22 11:32:27
李進 (1914〜1991)中国共産党政治局員
江青の名で知られる。上海で女優活動をしていたが、仕事面でも家庭面でも不遇だった。
延安で毛沢東の愛人となり、不倫の果てに妻となった。
この結婚は周囲の猛反対に遭い、李進に一切の政治活動をさせないと言う条件でようやく認められた。
その後は表舞台に立つことが無かったが、1964に全人代代表(国会議員)となって政治活動を開始。
文化大革命が始まると、中央文革小組第1副組長に就任して文化界での工作を担当した。
他の文革急進派指導者とともに四人組を形成し、政治局員となって権勢を振るう。
文革収拾を図る周恩来の打倒を図ったが果たせず、毛沢東の死後にクーデターにあって失脚。
死刑判決を受けたが、無期懲役に減刑された。服役中に自殺する。
【指導】3 多くの運動を指導したが、扇動しただけで無秩序と混乱を生んだだけであった。
【戦術】2 軍隊を指揮した経験は無い。
【戦略】2 視野の狭い政治屋。持論を通し、権力を追求すること以外の視点が無かった。
【内政】2 実務経験は無い。批林批周運動を起こして周恩来追い落としを図り、国政を混乱させた。
【政略】7 文革急進派として国政の主導権を周恩来と争い、ケ小平を失脚させる。扇動能力にも長けていた。
【人望】2 毛沢東の威光を背景に民衆を扇動したが、彼女個人は強い反感を買っていた。
文革の旗振り役として起用され、民衆扇動、文化破壊などを先頭に立って推進した。
この時代の現人神であった毛沢東夫人ということもあって絶大な権力を振るったが、
毛沢東は李進をあくまで文革イデオロギーの宣伝役としか考えてなかったらしく、
文革後期に国政への野心を見せると、しばしば彼女を激しく叱責した。
現在の中国では大悪人、大野心家と断罪されているが、政治の素人である彼女を起用し、
分不相応な野心を持たせるに至った責任は毛沢東にある。
李進は小者ゆえに、毛の罪悪をまとめて擦り付けられてしまったように思う。
誰も待ってないと思うが次回予告。
中共シリーズ最終章、改革解放の時代。
ケ小平、陳雲、胡耀邦やる。
592 :
世界@名無史さん:04/09/23 12:55:48
江沢 民希望
>>592 引退したばかりだから、現時点では評価付けられん。
返り咲いて何かやらかすことも有り得るしな。
すまん。
チェ・ゲバラきぼんぬ
チュ・パカブラきぼんぬ
596 :
世界@名無史さん:04/09/23 21:00:44
チュ・パカブラ
【指導】1 単独行動が多い
【戦術】7 神出鬼没、決して捕捉されないゲリラ戦の名手。
【戦略】8 吸血生物というインパクトの強い選択により、無用な衝突を避ける。
【内政】2 数は少ないようだ。国内政策の不備によるものか?
【政略】7 尻尾は掴ませないが、確たる存在感をしめしている。
【人望】6 生息地では恐れられるが、全世界的には結構人気者。
俺的に内政は1だと思う。
人望は8はあるのではないか?現在公開中の映画ヴィレッジにも登場したわけだし。
598 :
世界@名無史さん:04/09/28 15:48:18
オスマン帝国のタンジマート改革を主導した
ムスタファ・レシト・パシャの評価が見てみたいんですが、
やってくれる人はいませんか?
599 :
世界@名無史さん:04/09/28 16:06:49
漏れはシモン・ボリバルをキボン
李成桂
【指導】3 子供達の血みどろの抗争を抑えられず。
【戦術】7 女真族の猛将・ナハジュ撃退や倭寇討伐で威名を上げた。
【戦略】6 時代の流れを読む力は十分にあった。
【内政】2 李氏朝鮮の悪しき伝統の創始者。
【政略】3 クーデターを起こし国を乗っ取るも…以下指導と同じ。
【人望】5 兵隊達の支持を受けて王になった。
601 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/10/01 06:12:05
ケ小平 (1902〜1997)中央軍事委員会主席
フランス留学中に共産党に参加した、抗日戦期、国共内戦期は劉伯承軍の政治委員を務める。
淮海戦役、揚子江渡河戦役では事実上の参謀長として戦略立案を担当し、勝利に貢献した。
建国後は中央西南局第一書記・西南軍政委員会副主席を経て、国務院副総理・総書記に就任。
劉少奇と共に経済調整政策を推進したことから毛沢東の反感を買った。
そのために文革中は激しい迫害を受け、二度の失脚を経験する。
毛沢東が死ぬと復権し、文革穏健派の華国鋒を追い落として最高権力者となる。
改革開放路線を押し進め、中国の近代化に力を尽くした。
【指導】8 強力な指導力で不安定な中国をまとめ上げ、改革開放路線への一大転換を成し遂げた。
【戦術】3 実戦指揮官ではない。
【戦略】8 軍の近代化、全方位外交を推進。イデオロギー偏重の安全保障戦略を現実的なものに切り替えた。
【内政】8 文革で疲弊した中国に市場経済を導入し、経済大国への道を切り開いた。
【政略】8 三度失脚して三度復帰。保守派と改革派の間を巧みに調整し、政治の主導権を握った。
【人望】5 巨大な業績で尊敬を集めたが、冷徹に過ぎたために圧倒的な人気を得ることはなかった。
改革開放は行うし、思想の自由もある程度は認めるが、
一党独裁体制を脅かす民主化は認めないというのが彼の政治的スタンスであった。
それゆえに改革開放に反対する保守派、政治改革を望む民主派の双方から突き上げられたが、
持ち前の老獪さと合理主義で乗り切り、改革開放と一党独裁堅持との両立と言う難題を乗り切った。
公人としては冷徹そのもので目つきが怖かったのでハリネズミとか、綿の中に針があるとか言われた。
無口で非社交的だったために付き合いも狭く、ダラダラするのが大嫌いだったが、
スポーツ観戦で興奮しまくったり、トランプを勝つまでやめないなど微笑ましい面もあり、
そこらの頑固親父と根っこの部分では同じだと思われる。
602 :
世界@名無史さん:04/10/01 11:17:50
東条英機
【指導】 4
【戦術】 3
【戦略】 3
【内政】 4
【政略】 4
【人望】 8
【精神力】 10
このスレすごいですね。
なんとなく覗いてみたら列伝の嵐。面白い。
2ちゃんという性格上(抜けてたら荒しが)、また学問としての歴史ですから
正確な記述をせねばならないというお気持ちは理解できますし、
またこの文章を造られるその労力を考えると感謝する他にないのですが・・・・。
それでもあえて一言。だって2ちゃんだし。
列伝に関して、ちょいとばっかしエンタメ要素を入れてくださいませんでしょうか?
感情を推測してぶっちゃける、一行AAを使ってみるとか・・・。
それがここの要素ではないような気もしますし、勝手な意見ですが。
上手く言えませんが、私にとって歴史が面白いのは
人間の行動が今とは違う、また今と一緒な部分をさがすからなのでつ。
「これがこうなってこうなるからこうなる」というのは
理系の人間にとってはどうしてもしょうがなく突き当たる文章なんです。
う〜ん自分が何を言いたいのか良く解らなくなってきましたが
論文じゃないんですし、フザケタ文章を読ませて欲しい。ってことなんですかね?
都合良過ぎですね。逝って来ます_| ̄|○
604 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/10/01 18:49:54
陳雲 (1905〜1995)中央顧問委員会主任
元印刷工。インテリが多い中国共産党の官僚には珍しく、まったく学歴が無い人物である。
抗日戦期は解放区の経済政策を担当。建国後は副総理、財政経済委員会主任。
経済の最高責任者となった陳雲は建国直後のハイパーインフレを克服した経験から計画経済の限界を悟り、
市場経済の要素を盛り込んだ政策を提案したが、党内の反発を買い、
大躍進に反対したために完全に干されてしまう。劉少奇時代になると復帰して、
経済調整政策を推進したが文革で批判され、中央委員以外すべてのポストを剥奪された。
文革終結後は再び経済の最高責任者となり、疲弊した中国経済を上昇気流へ乗せる。
しかし、改革開放が自分の予測を超えて資本主義化の方向に進むのではないかと危惧した陳雲は
行き過ぎを抑える役割に回り、ケ小平に対抗した。
【指導】6 強力なリーダーシップを発揮して全国的な経済ネットワークを構築した。
【戦術】3 実戦を指揮したことは無い。
【戦略】5 大躍進の間違い、改革開放の弊害を進行する以前から正しく指摘している。
【内政】7 調整政策期、文革直後には毛沢東の失政で疲弊した中国経済を立て直した。
【政略】7 改革派との政争では常に優位にあり、ケ小平も彼を無視して動くことが出来なかった。
【人望】7 特定の派閥を持たず、剛直廉潔な人柄で人望を集めた。
全盛期には政治局常務委員と党副主席を兼ね、毛沢東、劉少奇、周恩来、朱徳、林彪、ケ小平と並んで
七大領袖と呼ばれた実力者で、その経歴はケ小平に匹敵する。
それに加えて名望ではケを凌いだため、保守派の象徴的存在となった。
陳雲は中国共産党の中では最も早い段階で計画経済の限界を悟り、市場経済を取り入れようとしたが、
彼はあくまで計画経済の補助的要素として市場経済導入を考えており、
ケ小平のように成長を追及するあまり社会主義を実質的に放棄するような政策には反対だった。
また、経済格差や幹部の腐敗など、改革開放の負の面も正しく指摘している。
「何が何でも市場経済反対」ではなく、「市場経済の部分的導入には賛成だが、やりすぎは良くない」という
陳のスタンスは保守派と言うよりは、穏健改革派と言ったほうが適切かもしれない。
605 :
世界@名無史さん:04/10/01 23:26:43
誰かブッシュ、フセイン、ビンラディんの数値化キボンヌ
606 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/10/02 19:00:19
胡耀邦 (1915〜1989)中国共産党総書記
共産党青年団を指導した生え抜きの党官僚。文革で一時失脚したが、林彪事件後に復活した。
ケ小平が政権を掌握すると政治局入りし、文革の収拾に努力する。
総書記に就任して党務を掌握すると、政務を掌握する趙紫陽総理とともに改革開放政策を推進した。
開明的な若手を結集して保守派長老と対抗し、言論の自由を唱えて政治改革に着手したが、
保守派の抵抗の前に頓挫し、民主化デモが全国で起きた責任を取らされて失脚した。
【指導】7 多くの若手を抜擢。彼が抜擢した人々は現代に至るまで改革開放政策の原動力となっている。
【戦術】3 軍人ではない。
【戦略】6 柔軟な外交姿勢で周辺諸国との友好関係を築き、改革開放に有利な環境を整えた。
【内政】5 陝西省第一書記を歴任。改革開放時代は党務を担当したため、政策にはあまり関与しなかった。
【政略】7 文革派打倒に貢献。改革開放への路線転換に伴うイデオロギー工作でも大きな役割を果たした。
【人望】8 不正を憎む清廉な人物だった。民衆は彼の死を痛惜し、第二次天安門事件の引き金となった。
趙紫陽と並ぶ改革開放時代初期の改革派指導者。ケ小平に「天が落ちてきても趙紫陽と胡耀邦が支えてくれる」と
言わしめるほどの信頼を受けた。民衆は冷徹なケではなく、清廉な胡を改革開放のシンボルとみなした。
胡は硬直化した共産党の体制が経済発展の障害になると判断し、大胆な政治改革を行おうとしたが保守派に阻まれ、
改革が政治面に及ぶことを望まないケ小平にも見放されてしまった。
胡の失脚と、彼を悼む民衆が民主化を要求したことから起きた第二次天安門事件は、
今なお中国に暗い影を落としている。
中共シリーズはこれで完結。次はケマル・アタチュルク時代の二人の人物をやる予定。
608 :
世界@名無史さん:04/10/04 13:06:31
ヨーロッパ中世帝王篇きぼんぬ。
609 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/10/04 20:23:01
エンヴェル (1881〜1922)オスマン帝国陸軍大臣・参謀総長
下層階級の出身。父の職業さえ諸説がある。
軍士官学校を優秀な成績で卒業した後に青年トルコ党に入党し、政権奪取に大きく貢献。
帝国陸軍大臣・参謀総長を兼ね、オスマン帝国の最高軍事指導者となった。
熱烈な親独派だったため、第一次世界大戦では独断でドイツと手を結んで参戦したが、
稚拙な戦略ミスを繰り返したために敗北を招いた。
敗戦後はソ連に亡命し、その後ろ盾で返り咲こうとしたが果たせなかった。
中央アジアを独立させようとしてソ連を裏切ったが、あっさり負けて戦死した。
【指導】2 コーカサス遠征では大軍を捨てて逃亡。切り札ケマルが戦功を立てるのを嫌って主戦線から遠ざける。
【戦術】4 伊土戦争、バルカン戦争では功績をあげたが、敵軍の弱体さに助けられた面も大きい。
【戦略】1 コーカサス征服に固執し、連合軍に脅かされている本土を手薄にする。その他のミスも数え切れず。
【内政】2 青年トルコ党政権に好意的だったアルメニア人を民族主義的理想から虐殺し、混乱を引き起こした。
【政略】5 クーデターでトルコの政権を握る。国政を思うがままに動かしたが、国際政治では通用しなかった。
【人望】8 高潔な人柄で多くの人を心服させる。ケマルやソ連もその人気に惑わされ、実力を過大評価していた。
第一次世界大戦時のオスマン帝国の実質的な最高指導者。ケマルの最大の政敵でもある。
アナトリアからトルキスタンにかけてのトルコ系民族を統一した大トルコ帝国を
建国しようという途方もない夢を持っていたが、それに見合う能力が無かった。
自ら指揮したコーカサス遠征では補給無視の作戦を立てたため、9万の大軍を戦わずして壊滅させてしまった。
それでも大トルコ帝国実現のために大軍をコーカサスに貼り付け、他の地域が連合軍に蹂躙されるのを座視していた。
しかし人気は高く、ケマル政権が危機に陥るとエンヴェルの新政権樹立を望む声が高まり、
列強もエンヴェル復帰を確実視していたという。中央アジアでの人気も高く、現在でも一部で英雄視されている。
夢の世界に生きてたゆえに、多くの人に夢を見せることが出来たのだろう。
伝承とか神話で居たんじゃないか?って、言われてるような人物キボン。
>>603 初期のhitomi氏の評伝はそれっぽかったが。
あまりに長すぎる(かつ皆知っている)ので今の形に。
>>611 しかし、短くしたらレスが全然つかなくなった。
今の方式を変える気はさらさら無いし、叩かれるのもきついが、
認知度の低い人物ばかり投下してると誰も読んでないような気になってさびしい。
レスがつかないのを長さのせいにするなよ。
長くしたからってレスはつけんぞ。
レスはつけてないけど読んでるから。
>>613 いや、長くしたら文句がつくってことでしょw
レスがないのは本人もいってるが知名度低いからだろう。
現代中国のとことかあんまり知らんから勉強になるが
ヘーという為だけにカキコする気になれんしな。
俺は読んでないな。マイナーなのは興味わかんし。
読んでないなんてあえて言う事無いのに、ってかく言う漏れも近代中国は興味無いから読んでないが。
トルコ編は期待してるのだ〜がんがってください。
世界史って言ってもある程度地域とか時代の好みがあるからねぇ
618 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/10/05 18:21:55
イスメット・イノニュ (1884〜1973)トルコ共和国大統領
第一次世界大戦で武勲を重ね、ケマル政権が成立すると西部方面総司令官となり、
寄せ集めのトルコ軍を率いてギリシャの大軍を二度にわたって退けた。
ローザンヌ会議ではトルコ全権代表として参加。オスマン帝国時代に列強に押し付けられた
不平等条約をことごとく撤廃させ、反乱軍とされていたケマル政権を国際的に認知させた。
トルコ共和国が成立するとケマルが大統領となると首相を七期務めて改革を助ける。
ケマルが死ぬと第二代大統領に就任し、改革を引き継いだ。
第二次世界大戦中はギリギリまで中立を守って平和を保ち、終戦直前に連合軍に加わり、
戦勝国に加わるという巧みな外交を見せた。戦後は一党独裁の限界を感じて民主制に移行。
選挙で破れた後は一政党の党首に退き、1960年代には首相も務めた。
【指導】8 ケマルの死後、改革への反発が噴出したが巧みに抑え、内外ともに多難な時代を乗り切った。
【戦術】7 圧倒的なギリシャ軍を二度にわたって撃退。三次攻勢は支えきれなかったが、その武勲はケマルに次ぐ。
【戦略】8 戦場を設定する能力に巧み。第二次世界大戦では見事な日和見戦略で国家を戦火から守った。
【内政】7 ケマルの改革を実務面で支える。ケマル路線を引き継いて近代化を完成させた。
【政略】8 巧みな外交戦術で列強を翻弄し、ことごとく要求を飲ませて新生トルコの国際的地位を確立した。
【人望】5 実務家肌だったため、カリスマに欠ける。民主制下での大統領選挙ではあっさり敗北。
ケマル・アタチュルクの片腕。イノニュの戦いで勝利したため、イノニュ姓を贈られる。
戦争・内政・外交に手腕を発揮した多才な人物で、ケマルを支えた。
その死後は反改革の動きを押さえ込んで近代化を完成させ、世界大戦の時代も平和を守り、
ケマルが望みながらも成し得なかった民主化を達成した。
民主化以降は精彩を欠いた面があり、その権威主義的な政治手法を否定する声もあるが、
ケマルに匹敵する偉大な政治家と言って良い。外国にはケマルの名のみ伝わり、
イスメットの名があまり知られていないのが残念でならない。
プッチ神父
指導 10
戦略 9
戦術 10
政略 10
内政 ?
人望 8
>>619 プッチ神父でそれなら、DIOは全数値20くらい行っちゃうし・・・・・
個人的には
DIO
指導・10
戦略・8
戦術・10
政略・10
内政・?
人望・10
プッチ神父の方が総合的にはやや上かと。
あの・・・水銀燈さんはここ出入り禁止なんですけど・・・。
漫画キャラの評価はよそで。
>>622 そんな忠告を素直に聞くような奴に、こんな電波がつとまる思うのか
聞いたことない名前だと思ったら漫画キャラだったのか。
キモイコテだな。
オタク板にでもひっこんでろ。
>>624 それは忠告ではなく命令と言います。
煽り自演乙。
水銀自演乙。
629 :
世界@名無史さん:04/10/09 12:39:46
まあ今までの水銀燈の悪事を見てきた人間としては、素直に消えて欲しいというのが本音かな。
一見丁寧な口調でレスするが、すさまじく行動が厨房だから…。
トリップつけたまま自演したり、世界史板に徳川幕府スレを立てて、しかも立て逃げしたり、
そのくせ他人には妙に厳しかったり、議論厨でいきなり煽ってスレ荒らしたり、一部コテに
粘着したり、オタクネタばかり書き込んでうざがられたり…。
なんつーか前は擁護していたが、今はそんな気になれん。
とりあえずかなり沈んじゃってるのでageてみる。
hitomiって青だろ?
hitomiは別として、水銀をうざく思う気持ちは分かる。
だが一応コテハンスレにいって続きを書き込んではくれんか?
>>630 青とは全然作風違うと思うが。
少なくとも劉邦、項羽の流れは全然青ではないな。
乙支文徳
【指導】9 高句麗の守護神として兵達をまとめあげた。
【戦術】10 隋の精鋭・百十三万の大軍を破る。
【戦略】9 隋に勝利を収めたのも、その天才的戦略があったからこそ。
【内政】4 実績なし。
【政略】4 同上。
【人望】8 多くの将兵から人望を集めなければ、隋の大軍に勝てるわけが無い。
李舜臣
【指導】10 朝鮮水軍を世界最強まで押し上げた。
【戦術】9 すべての戦闘で海戦に完全勝利をおさめた。その戦果は海戦史上でもずば抜けている。
【戦略】9 日本軍の弱点が補給にあると見抜くと積極的に攻撃をかけ、見事補給路を遮断した。
【内政】4 実績なし
【政略】2 同僚の讒言にあい投獄される。高潔な人物ゆえ保身の術を知らなかった。
【人望】9 朝鮮だけでなく明の将兵からも慕われた。
1年ぐらい前に、最高100で表現した光栄査定スレが
あったはずだけど、何処へ行ったのかな。
李舜臣 のこれはネタか釣りですか?
ひさびさにチャレンジ
霍光
【指導】8 20年あまり、漢の指導者として君臨。漢を全盛期に導いた。
【戦術】3 実戦指揮官ではない。
【戦略】8 武帝の拡張政策に歯止めをかけ、匈奴との和親策を進めるなど民力の回復に務めた。
【内政】8 武帝の残した厄介極まりない赤字・政治混乱を収拾した。
【政略】8 一度も失脚することなく、栄華を極めたまま没した。
【人望】6 性格は謹厳実直。敵も多かったが、皇帝からは信頼されていた。
前漢の政治家。字は子孟(しもう)。霍去病の異母弟。
武帝の信任厚く、武帝が亡くなる時、昭帝の補佐を任される。
その際、武帝は周公旦の絵を霍光に下賜したという(周公旦のように幼君を補佐しろということ)
大司馬大将軍に就任した霍光は武帝の拡張政策に歯止めをかけ、匈奴との和親策を進めるなど民力の回復に務めた。
昭帝の兄である燕王劉旦は皇帝になれなかったことを怨み、霍光を排除して昭帝を廃しようとたくらんだ。
燕王と上官桀(霍光の娘婿・上官安の父。上官安の娘は昭帝の妻)は、昭帝に「霍光に謀反の疑いあり」と告発するが、昭帝は取り合わなかった。
燕王と上官桀は伏兵をもって霍光を暗殺しようとたくらんだが、事は未然にばれ、関係者は全員殺された。(昭帝の妻・上官皇后は無事。廃位もされず)
この頃から霍光も保身の為の策動を始めることとなる。
やがて、昭帝が21歳の若さで亡くなった。
昭帝が亡くなると子がいなかったため霍光は、昌邑王・劉賀を帝位につけた。
しかし、27日で廃し、代わりに民間にいた武帝の曾孫の病巳(宣帝)が帝位についた。
劉賀が廃位された事によって、ほとんど有力な皇位継承者がいなくなったことと、
病巳は民間にいたため無位無官で何の後ろ盾も持たなかったため、霍光にとっては都合がよかったからと思われる。
霍光は引き続き大司馬大将軍として漢の政治を一任されていた。
関白という言葉は、宣帝が霍光に政権を委ねた時、
「霍光が『関(あずか)り白(もう)す』ことにした故事に由来するといわれている。
霍光は宣帝の信頼厚く政務に励んでいた。
しかし、一族の力も強大となり、霍光の妻が宣帝の皇后(許氏)を毒殺し、代わりに自分達の一族の娘を皇后に立てるという事件が発生する。
霍光はこの事件をもみ消すが、彼の死後まで尾ひれを引くことになる、
霍光は漢の指導者として、疲労した国の再建に取り組み、全盛期に導いた前漢屈指の政治家といえ、
その功績は周公旦と比肩できる程の人物であったといえる。
しかし、彼の一族は暴走を続け、結局は宣帝に滅ぼされることになった。
ちょっと長めに書いてみました。
読みにくい文章でごめんなさい。
身内の暴走を生きてる内から止められなかったので、
政略は7で良いような気がする。
死後のことまで面倒見切れるか、ってのはあると思うけど、
政策の継続や発展ということを考えると、後継者選びや体制を固めるのも重要だと思うので。
不合格
>>636 武帝の死後、漢の屋台骨が揺らいでたわけでもないので、その数値は少々やりすぎかと。
極端な政策を中庸に戻した有能な宰相といったあたりが、妥当な評価じゃないかな?
漢の全盛期はむしろ宣帝の時代だし。
ああ、あと霍光は「不学無術」と言われてて、本人の行政手腕はさほどでも無かった様子。
当時の皇帝には有能な人材が多かったから、そいつらに行政を仕切らせて、自分は統括に回る。
つまり、彼の治績は指導力の分野ではなかろうかと思う。
皇帝じゃなくて朝廷ね。
644 :
世界@名無史さん:04/10/13 13:28:01
不合格と一言で切り捨ててやる勇気が必要だ。
645 :
世界@名無史さん:04/10/15 18:09:39
>>637 ずっと昔に読むのを止めてしまった四コマ漫画の結末をこんなところで知ることが出来たよ。
とりあえずそのことには感謝しておくサンクス。
なるほど最後は毒殺ね、最後まで書ききれば神と言われていたのはこういうことか。
果たして書ききったのかな。
646 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/10/15 22:18:30
ウィンストン・チャーチル (1871〜1965)
英国屈指の名門マールボロ公爵家の出身。ボーア戦争で従軍記者として従軍。
捕虜となって脱出したことから英雄視され、その人気を背景に政界に進出した。
進歩派の政治家として活躍し、商相・内相を歴任してロイドジョージの社会改革を助けた。
第一次世界大戦では海相となって精力的で活動したが、ガリポリ上陸作戦の失敗で失脚。
盟友ロイドジョージが首相になると、軍需相に就任。後に空相と陸相も兼ねた。
戦後は植民相となったが、トルコのケマル政権への対応を誤ってロイドジョージ政権崩壊の引き金を引き、
議席も失った。政界に復帰すると蔵相となったが、金本位制を復帰させて英国経済に深刻な打撃を与えた。
1930年代には政界の有力者たちから疎まれ、影響力を持つことが出来なかった。
イギリスとドイツの衝突が避けられなくなってくると、世論は対独強硬派のチャーチルを支持。
チェンバレン内閣の海相となり、やがて首相となった。
フランスが破れ、完全に孤立してもドイツとの和議を拒んで、敗戦に打ちひしがれる国民を鼓舞。
英国がドイツの攻撃に耐えている間にアメリカとソ連を味方に付けることに成功し、ドイツを打ち破った。
戦争が終結すると、総選挙で福祉政策を前面に打ち出した労働党に破れる。
その後首相に返り咲き、西側陣営の取りまとめに心を砕いた。
毀誉褒貶の多い人生だったが、晩年は「議会の父」と尊敬され、国葬をもって葬られた。
647 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/10/15 22:18:58
【指導】8 西欧の大半を征したドイツ相手に孤軍奮闘し、米国とソ連が参戦するまで持ちこたえ続けた。
【戦術】3 ガリポリ作戦失敗後、一時中佐となって歩兵大隊を率いたが、大規模な戦闘を指揮した経験は無い。
【戦略】4 ガリポリでは致命的なミスを犯した。ドイツやソ連の野心を見抜いていたが、終始翻弄された。
【内政】5 若い頃は改革派として活躍。植民相時代は植民地の安定化に力を尽くす。金本位制導入では大失敗した。
【政略】5 二度の選挙落選、総選挙にも負けるなど甘さが目立つ。外交面では米ソに振り回された印象が強い。
【人望】8 戦争で国民を鼓舞して人気を高め、選挙で負けても国民に「この時代で最も偉大な英国人」と呼ばれた。
戦争屋のイメージが強いが、実は内政、軍政面での功績も多い。
ロイドジョージの自由主義的改革、海相時代の軍令部、海軍航空部設立、
戦車開発(陸軍が放置したから代わりに海軍で引き受けた)、
植民相の時代の中東、アイルランド情勢の安定化など、第二次世界大戦以前から強い指導力を発揮している。
第二次世界大戦後の植民地独立による大英帝国崩壊をもって、
チャーチルを「大英帝国崩壊の戦犯」とする意見もあるが、当時の世界では植民地独立は避け得ない趨勢であり、
仮にドイツと戦わずに国力を温存したとしても、世界中を覆うナショナリズムの波に抗することは
難しかったと思われる。戦略面、外交面で米ソに後れを取ったのは事実だが、チャーチルの無能を責めるより、
ルーズベルト(後にトルーマン)とスターリンを褒めるべきであろう。
チャーチルは英国の伝統的な勢力均衡政策を取ろうとしたが、米ソという超大国の出現はそれを許さなかった。
あの情勢で米ソ参戦まで戦い続けたことだけでも、十分に評価してよいと思う。
だからこそ、帝国を崩壊させたはずのチャーチルを英国国民は最高の政治家と尊敬しているのだろう。
しまった。植民地の安定化は指導力の分野だったな…。
まあ、それを差し引いても軍政面を加えて内政は5のままにしとく。
スターリンに比べたら二流以下だけどね。
しまった。生年も間違えた。
>>646の(1871〜1965) は正しくは(1874〜1965)です。
>>633 脆弱な日本の、それも補給船ごときに何度か勝っただけ、討伐軍からは逃げ回り、
それも最後は停戦して退却している日本軍を、
騙し撃ちにして後ろから攻撃をかけているのに、逆激を被って大敗して自らも戦死している人にそんな数値はやれん。
>>651 そこまで低評価することもないと思うが…。「国ごと日本に内通してるんじゃないか」と明に疑われるぐらい
みじめな負けっぷり晒してた朝鮮軍の中では一番頑張った人だと思うぞ。
日本最高クラスの提督九鬼嘉隆にも勝ってるし。
トラファルガーや日本海海戦のように、国運を左右する戦いで勝ったわけじゃないから、
マンセーされすぎだとは思うが。
>>651 同意、指導、戦略、戦術、人望は少なくとも−2していいと思う。
たかが一地方軍の指揮官にすぎないし、勝ったというより負けないようにしてただけだから。
朝鮮海軍は終始沿岸海軍にすぎず、とても世界最強なんて代物じゃない。
たしかに、連戦連敗の朝鮮軍の中では評価できる人物だし、ダメ海軍のあるものを有効活用して、
それなりに戦果を上げてはいる。
人望については、何度も投獄された上最後は一族そろって処刑、東郷元帥の評価発言伝説が無かったら
記録抹消のままだったんだから、無かったようにも見えるがなにぶんあの民族なので多少は割り引いても良いかなと。
>>647 チャーチルの戦略は6〜7ぐらいあげて良いんじゃない?
特に戦後の東西冷戦に至る過程ではチャーチルの果たした役割大きいし。
米、ソ、独相手に落日の帝国を指導してよく頑張ったと思う。
>>633 ジョークだよな?
>乙支文徳
こいつはやばそうになったらさっさと偽りの降伏をして、
勝てそうと見るや襲い掛かるというペテンを繰り返して隋を退けた男。
兵力差を考えたら襲い掛かって勝利を収めたのも立派だし、隋の有力な武将も戦死させてる。
超大国隋相手にこんなことして国を保ったのは現在の朝鮮で言われてるのとは別の意味でたいしたもんだと思うが、
その数値はいくらなんでもやりすぎだ。
>李舜臣
朝鮮水軍は世界最強じゃない。それに李舜臣は最高司令官でもない。
あくまで朝鮮で最も善戦した提督であって、それ以上のものではない。
結論:二人とも優れた人物だが、マンセーしすぎると痛いぞ。
>>647 超大国ドイツの台頭を防ごうとして、超大国ソ連を作り出してしまい、
英国の生命線と言える欧州大陸の勢力均衡政策を失敗させてしまった。
また、ガリポリでの失敗もあるので頑張ったとは思うけど、
米ソの世界戦略に振り回されっぱなしだったから、点を辛めにつけた。
チャーチルの最大の功績はドイツ相手に粘りまくって、米ソ参戦までの時間を稼いだことだと思っている。
米ソの世界戦略に振り回されたのは確かだが、ソ連の台頭はどっちかと言うとちょび髭伍長のマイナス点だと思うんだが。
伍長殿がおかしくなったおかげで、ソ連に対する援助が過剰になってソ連の強大化を招いてしまった節もあるし。
対米政策についてももはや国力の衰退著しい英連邦では、鼻息荒い米国にあれ以上関与は出来なかっただろうからね。
むしろスターリンにころっとだまされてたルーズベルトを見越して反共政策の下準備していたあたりは、プラスに考えて良いと思う。
英連邦の弱体化は第一次世界大戦以来だし、米ソへの影響力が低かったことをチャーチルのマイナス点にするのはちょっと酷なきもする。
hitomiの独善性は水銀に通じるものがあるな。
>>655 緒戦はそのちょび髭伍長にコテンパンにのされてたわけだが。
戦略面に関しては先見性はあったし努力もしたと思うが、
相手がより上手だったせいで結果を出せなかった人のような気がする。
昔のコーエースレなんてもっと凄かったぞ。
どの字、永遠の青、蘭太郎と独善的なコテがうじゃうじゃいたからな。
祭り起こしたにもかかわらず持論変えない奴もいたし。
自分の説に自身もつのはいいんだが、自説がまったくの真実という前提でレスしてるのを見ると
なんだかなと思っちゃうよ。
660 :
世界@名無史さん:04/10/16 20:49:44
661 :
世界@名無史さん:04/10/16 20:54:23
それはコーエースレだから許される。
みんな許してくれてるだけだ。
今はコテ人口が少ないからな…。
あと2,3人コテが常駐したら変わるだろうに。
次スレはコーエー風に戻すか?
>>652 日本の水軍程度に善戦した程度ではねえ、無敵艦隊相手に勝利を収めたのならまだしも。
まあ確かに他の提督は酷いな、日本の艦隊と正面決戦して、艦隊の九割、190隻以上をたった一回戦を失うとか、
どうしようもないやつがいるし、
だけど、せいぜい戦術が7、よくて8だろ。補給鑑ばかり狙い、補給線に少なからずダメージを与えているので戦略を8かな。
けどあれだけ不利な状況で勝った島津に、どんな数字をやれるかと考えると、7が限界かなあ。
あと指導と人望は五もないだろ、誹謗中傷で職を追われているんだからね。
まああそこの官僚は、ほんとどうしようもないんだが、それでもあの数値は高過ぎ。
しょせん一方面司令官にすぎん。戦況をかえるレベルではなく、あくまで土俵際で粘っていただけだな。
李舜臣を適当に付けてみる。
【指導】6 精鋭の水軍を作り上げる。
【戦術】7 若い頃から武勲は数知れず。色んな意味で終わってる朝鮮軍において気を吐き続けた数少ない勇将。
【戦略】8 補給線襲撃を繰り返し、質・量ともに勝る日本軍を大いに苦しめた。
【内政】3 実戦畑一筋の人だったので、内政にはタッチしていない。
【政略】3 李氏朝鮮の悪弊と言って良い足の引っ張り合いに苦しめられ、失脚の憂き目を見た。
【人望】6 部下の将兵には人望があったが、正直すぎる人柄からか同僚や上司には疎まれた。
こんなもんでどうだろうか?李舜臣マンセーの人には悪いが、
本当の意味で国運を担って戦ったトラファルガーのネルソンや日本海海戦の東郷平八郎と比べると、
どうしても見劣りがするな。
>>662 つーかなんでこんな成績表みたいなテンプレになったの?
>>665 三戦板にあった「晋の武将を数値化するスレ」の真似と思われ。
コーエースレで保身・謀略能力と政策能力を同じ政治でくくってしまうという問題があったから、
内政と政略を分ける策としてこういうテンプレを採用したんだろう。
李舜臣
【指導】7 開戦当初の朝鮮軍は武器も無ければ、優れた兵士もいなかった。李舜臣は戦闘を行いながら戦える軍を作り上げていった。
【戦術】8 日本水軍相手に負けなし。
【戦略】5 見つけた敵を叩くという感じ、「補給路を断つ」という戦略をもって行動していたとは思えない。亀船の重要性を早期から説いていたのは評価。
【内政】3 補給が受けられず、屯田してたとか・・・。
【政略】2 讒言で投獄されたので。
【人望】6 部下からの人望はあった。
ついでに
九鬼嘉隆
【指導】4 日本水軍の総大将であったが、他の大名をまとめ上げることは出来なかった。
【戦術】6 織田水軍を率いて各地で戦功をたてる。李舜臣とも唯一それなりに戦った。
【戦略】4 織田家に仕えるなど、それなりの先見性はあった。関ヶ原では少し鈍ったか?
【内政】3 逸話も無いしこんなもんかな?
【政略】4 志摩の有力豪族の娘を妻に向かえ、兵と時間を使わず志摩一円を手中に収めた。
【人望】2 朝鮮の役で彼の支持に従う大名がいなかったのは、石高が少なかったせいもあるが、単純に嘉隆に人望が無かったからだろう。
うげ・・・・。
hitomi ◆EN.thU0KcA 氏がすでにやってましたか・・・。
hitomiはアホだから無視してもよい。
存分に書き込め。
>>657 バルバロッサ以前の伍長は軍政に口を出さず大戦略の策定に専従していたので大変手ごわい相手でした。
だから、チャーチルは蛇蝎のごとく嫌っていたスターリンと組んでまで対抗したわけですが、
バルバロッサ以降は伍長が作戦にまで口を出し始め、独ソ戦は泥沼化、
フランスや北アフリカのドイツ軍が手ごわかったのでそのつもりで出した対ソ支援が結果的に過剰となり、
戦後のソ連の強大化を招いたと、そこですかさず西側をまとめ冷戦の下準備をしたあたり高く評価できると思います。
スターリンは冷酷で有能な官僚ではありましたが、あの戦争指導はあまり高く評価できないでしょうし、
チャーチルが他の指導者たちに大きく劣るようには見えません。
チャーチルが劣る部分があったとしたら、彼自身が言ったように彼が指導した帝国が既に破産した弱体著しい大英帝国だった点でしょう。
李舜臣の補給線襲撃作戦は彼が高い戦略性をもって指導したと言うより、単にほかに取れる作戦が無かっただけなので、
高く評価できるものではないでしょう。
また、彼の戦功の評価は敵対した日本の側の内情も勘案すべきで、
はなから唐渡りは秀吉没まで形だけやっておこう的な日本軍はあまり戦意が高かったとは言えず、
李舜臣の嫌がらせが無くてもさっさと撤退したと思われます。
指導〜戦略がせいぜい6、人望5ぐらいが妥当な線かと
>>670 なるほどねえ。言われてみると戦争指導のミスはスターリンやルーズベルト、
伍長殿もやってるし、チャーチルだけを槍玉に挙げるのは少しやりすぎだったかもしれないな。
色んな本を読んだけど「英国最高の宰相」から「大英帝国を破産させた戦犯」という意見まであった。
崩壊不可避の大英帝国を率いたことに同情しつつ厳しめに書いてみたが、少々厳しく書きすぎたかもしれない。
あれだけの人物なら、成功が多い分、失敗が目立ってしまうからな。
戦略をガリポリ作戦の失敗で引き下げすぎた。
という訳で評価を修正してみる。
【指導】8 西欧の大半を征したドイツ相手に孤軍奮闘し、米国とソ連が参戦するまで持ちこたえ続けた。
【戦術】3 ガリポリ作戦失敗後、一時中佐となって歩兵大隊を率いたが、大規模な戦闘を指揮した経験は無い。
【戦略】6 崩壊しつつある大英帝国を率いて奮闘。米ソを引き込んでドイツを破り、東西冷戦に備えたが限界があった。
【内政】6 若い頃は改革派として活躍。第一次世界大戦では軍政面で大きく貢献。金本位制導入では大失敗した。
【政略】5 二度の選挙落選、総選挙にも負けるなど甘さが目立つ。外交面では米ソに振り回された印象が強い。
【人望】8 戦争で国民を鼓舞して人気を高め、選挙で負けても国民に「この時代で最も偉大な英国人」と呼ばれた。
これでどうだろう?
>>671 >李舜臣
取れる作戦が他に無かったのに、正面から戦って負けてる他の提督よりは立派だと思うぞ。
できることとできないことを冷静に見定めて、できることに手を付けるのも戦略のうちだ。
>はなから唐渡りは秀吉没まで形だけやっておこう的な日本軍はあまり戦意が高かったとは言えず、
>李舜臣の嫌がらせが無くてもさっさと撤退したと思われます。
その意見には同意。ただ、それでも日本軍は結構頑張ってて、
朝鮮軍は明の援軍に支えてもらってやっと戦線を維持できてる状態だったから、
そんな軍隊の中で気を吐いて戦果をあげた提督としてこの数値を付けた。
別に日本軍を退けた救国の英雄というつもりは無い。
味方から讒言され失職したのを人望があるとは言えないんじゃないのか?
李朝が糞なのは否定できんが、
日本でも秀吉子飼いの文官と武官が対立(近江と尾張という面もあるが)あったけど、
李舜臣クラスほど、軍功をあげた人物を、戦争が終わってもいないのに首にされた人はいない、
(失敗した人は容赦なく領地を改易されているが)かなり嫌われていたのは間違いないんじゃないかな。
出なければ同僚が庇うだろう。みながみな嫉妬したというのは無理がある。
あれでは友軍に協力を求めても、ろくに援助を得られない。
三国志の関羽みたいな奴だったんじゃないかな?
有能だし、功績もあったし、部下には慕われていたが、傲慢で同僚からは嫌われていたって感じか。
>>673 政争での失脚と、人望は別で考えていたつもりだが…。
人望があっても、小人に足を引っ張られて失脚した人はいくらでもいる。
地位が高くなればなるほど、政争と無縁でいられなくなるからな。
李舜臣は人間的に嫌われていたというより、恐ろしく世渡りが下手だったんだと思う。
「もし次スレが立ったら、そのときはテンプレに『李舜臣禁止』って入れようぜ」
と言い出す奴がそのうち出てくるわけだ。
100点満点で評価するとどっちの人物の方が上かで、
不毛な言い合いなる割合が高くなると思うんだよね。
10段階くらいなら、最高クラス、それに次ぐクラス位の分け方だから良いけど、
100段階にもなると一方が98、もう一方が96とかに評価されていたりした場合、
二点低いのはどうしてだ、とかいう議論になりかねない。
両方とも最高クラスって評価ではいかんのかと。
>>李舜臣の能力
安土桃山〜大坂の陣や、明末清初の武将が揃ってから決めたら?
「その辺の時代で、特に優秀な部類に入る武将の一人」であることは間違いないわけで。
>>677 誤) 「その辺の時代で、特に優秀な部類に入る武将の一人」
正) 「その辺の時代で、そこそこ優能な部類に入る武将の一人」
>>676 でもその不毛な言い合いが一番面白かったりするからな
680 :
世界@名無史さん:04/10/17 20:19:39
>>679 コーエースレ時代の呉起祭り、ハンニバル祭り、岳飛祭りは面白かったなw
>>680 基本的に西洋史も東洋史も詳しい人間がいないから、東洋史びいきはハンニバルに点が辛く、
西洋史びいきは岳飛に点が辛かった。
でもなぜかアレキサンダーと項羽とナポレオンはほぼ異論無いのな。
漏れは西洋史びいきだから中国の武将には点が辛い。
なんていうか中華フィルターで1ランク下げな感じ。
だって中華王朝って対外戦異様に弱いんだもん
>>681 青は東洋史びいきっぽかったけど、ハンニバルに甘くて岳飛には辛口だったね。
あとまあ、中華は元気が良い時は対外戦争もそれなりに勝ってるから、
フィルターかけなくても良いんじゃないかな。
>>682 うーん、なんていうか、アジア圏では強いんだけどね、同レベルの世界帝国とやると大体負けちゃうんだよね。
vsアッバース朝、vsティムール朝とか。
その上史書の捏造、改竄、水増が激しいし。
本人たちが言うほどではないからそこは差し引く感じ。
それでも十分高評価な人物はいるけど。
>>683 タラス河畔の戦いはカルルク人部隊の裏切りで負けたから、別に唐軍が弱かったわけじゃない。
ティムール朝とは直接戦ってない。
西洋史びいきは結構だが、東洋史に少しでも触れたいなら基本的な事項ぐらい押さえておけ。
685 :
世界@名無史さん:04/10/18 09:57:00
押さえておけ。
686 :
hitomi ◆EN.thU0KcA :04/10/18 13:39:09
ジェファーソン・デービス (1808〜1889)南部連合大統領
陸軍士官だったが若くして退役し、農場経営を始める。
その後政界入りし、メキシコ戦争では義勇兵大佐として軍功をあげ、帰還後は上院議員、陸軍長官を歴任した。
特に陸軍長官時代には軍備の増強に大きな業績を上げている。
奴隷州の一部が合衆国から独立して南部連合を発足させると、大統領に選出された。
しかし、誤った戦争指導を行い、有力な政治家・将軍とつまらない理由でケンカして信頼関係をぶち壊し、
終始円滑な戦争の遂行を妨げ続けた。敗戦後は収監されたが、2年後に釈放。
農場、保険会社の経営に手を出したが失敗し、不遇な晩年をすごした。
【指導】2 極端に頑固な性格。無能な取り巻きを重用。有能な人物を「気に入らない」という理由だけで冷遇した。
【戦術】4 義勇兵大佐としてメキシコ戦争で軍功を立てたが、旅団規模以上の部隊を指揮した経験は無い。
【戦略】3 自分に軍事的才能があると信じて戦略に口をさしはさみ、戦局を混乱させた。
【内政】5 陸軍長官時代は軍政面で大きな業績を上げている。大統領としては内政に不熱心だった。
【政略】5 議会議員時代は奴隷存続派の領袖として活躍。南部連合の独立を諸外国に承認させることには失敗した。
【魅力】6 知的な紳士で人を魅了する魅力があった。敗戦後は「南部の殉教者」と一部で神聖視された。
南北戦争でリンカーンと戦った南部連合大統領。自分は軍事的才能があると信じていたので、
南部軍最高司令官になりたかったらしい。そのせいか、戦争指導にだけ情熱を燃やし、
いらないことばかりして将軍たちの足を引っ張った。しかも、軍事能力の無いブラッグやポークを重用し、
ジョンストンやボーレガードといった実績のある将軍を徹底的に冷遇した。
こんなアホがトップでも南軍が戦い続けられたのは、南軍に有能な将兵が多かったのと、
リンカーンもさほど軍事に通じていなかったために、
グラントの出現まで能力の無い将軍に戦争指導を任せざるを得なかったからである。
なお、南部連合は末期には猛烈なインフレに苦しんだが、これはもともと南部の経済基盤が脆弱で、
しかも何の準備もなしに独立したために起きた現象であり、デービスでなくてもどうしようもなかっただろう。
687 :
定岡監督:04/10/18 14:03:27
読み返してみて自分の査定能力の無さに恥ずかしくなった・・・。
とりあえず、今までの査定を全体的に修正。
戚継光
【指導】7
【戦術】8
【戦略】7
【内政】4
【政略】3
【人望】6
足利義満
【指導】8
【戦術】5
【戦略】7
【内政】7
【政略】8
【人望】4
李成桂
【指導】2
【戦術】7
【戦略】5
【内政】4
【政略】2
【人望】5
霍光
【指導】8
【戦術】3
【戦略】7
【内政】7
【政略】7
【人望】6
李舜臣
【指導】6
【戦術】7
【戦略】5
【内政】3
【政略】2
【人望】6
九鬼嘉隆
【指導】3
【戦術】5
【戦略】4
【内政】3
【政略】4
【人望】2
>>658-659 自説を曲げないのは、まあ普通じゃないか?
彼らは彼らの思う数値と根拠を書いていたわけで、
それを否定する意見が出たとしても(ソース付だったとしても)
なかなか人の評価は変えづらいわな。特に歴史上の人物と
なれば。結局評者ごとの人物評を聞くというのが面白いわけで。
>>690 それにしても評者が少なすぎる。
hitomiと520だけじゃ盛り上がらん。
692 :
世界@名無史さん:04/10/29 05:36:56
age
>>684-682 俺は東洋びいきで、白起とか100つけるべきだと思っているくらいだが、
岳飛は擁護できんぞ、せいぜい戦術のみ80。
あとは半分もやれん。
694 :
世界@名無史さん:04/10/30 05:56:54
白起は秦の突出した軍事力をバックにしてたからな。
王翦だって常勝、むしろ俺的評価は王翦の方が上だ。
あと岳飛は文弱な南宋で寡兵を率いて戦果を上げてるんだから、
それはそれで凄い。
浪漫や愛国心で必要以上に高い評価をされてる人は多いな。
中国の岳飛、朝鮮の李舜臣、台湾の鄭成功、
日本の東郷平八郎、アメリカのユリシーズ・S・グラント、
ドイツのエルヴィン・ロンメルあたりを、とりあえず挙げてみる。
厳しい味方をすれば、
岳飛は、戦略レベルでは現実的な判断のできないただのウヨ。
李舜臣の活躍というのは、ようするに単なる水上ゲリラ。
鄭成功など清朝の端っこで海賊行為を働いてただけなんだからもっとひどい。
東郷は別に東郷でなくてもよかったし、その後は名将気取りで祖国を亡国へ。
グラントの戦争は両軍の戦力を均等にすり潰していく悲惨な消耗戦に過ぎない。
ロンメルが活躍してたのはエルアラメインで負けるまで。
あの時代に右翼なんて概念はないぞ。
人物評についてはわたしと同意見だが。
ただ 東郷はバルチックを破ったんだから、結果論ですべてを語るのも。
ロンメルの美化に度が過ぎるのはまったくその通り。
ロンメルがうまかったのはゲリラ戦のみ。
そもそも第二次大戦中 冬将軍に兵士ぶちこんだのは実はヒトラーではなくロンメル。
最後の二行は初耳だ。
厳しい味方をすれば、
チンギスハーンは、女を漁るために全アジアを侵略して回った究極のエテ公。
項羽は自分では勝ってるはずだったのに、気がつけば味方は誰もいない超のつくドキュソ。
劉邦、お前が勝ったんじゃない。部下が勝ったんだ。勘違いするな。
ナポレオンはチビのコンプレックスを発散するため、戦争と女漁りに明け暮れた迷惑な厨房。
始皇帝は極秘なはずの出生の秘密が、なぜか全世界規模でバレバレなスキャンダル帝王。
李世民はただのジャンキー。そんなに褒美が貰いたかったか。せこいな。
ハンニバルはイタリア旅行が長すぎてボケた爺。年下に大人気なく啖呵を切ったが軽くいなされダサ。
家康、お前何回クソもらしたよ?
呉起ウザ杉。なにが「あなたは私に勝るか?」だ。図に乗るな。
いま話を聞いてきたんだが、家康は味噌だと言っている。言いがかりはよすんだ
>>698 厳しい見方ではなく単純に観点が違うだけ。
もう少し体裁を整えないとネタにもならんよ?
>>694 国力としみれば、南宋は決して低くないと思うけど。
>>701 そこ、もっと聞きたい。
どうして南宋は強いのか。
703 :
世界@名無史さん:04/10/31 01:37:49
>ロンメルがうまかったのはゲリラ戦のみ。
ロンメルは正規戦しかやってないはずだが。
第一次世界大戦でのアルプス山中での遊撃戦は、ゲリラといっても問題ないと思います。
703がゲリラの要件として、不正規の軍事勢力の存在を挙げるなら、また話は別ですが。
>>702 文弱というが、それだけの文化を維持するにはそれだけ高い国力を要する。
とくに北から膨大な難民がきていたし、南宋も難民を保護か、実は人狩りかしらんが、
積極的に華北になんどか出向いている。
人口や技術などではそれほど遅れていたわけではない。
人口や技術で遅れていないのは皆納得するところだと思う。
銃普及以前には高い国力を持った文明国家が(兵力はあっても)
軍事的には弱いことがままあったわけで。南宋は割とそういう典型的な
「弱い文明国家」的な目で見られがちじゃない。
俺は結構金やモンゴル相手にがんがったと思うけどさ。
つまり秦檜などの講和派は実際に宋を亡国に導いた国賊なわけだ。
無理に屈辱外交などせず本気で金と戦っていれば、
金の打倒は無理だとしても北宋の奪還くらいは不可能じゃない。
まあそれは、日本はともかく中国では最初から通説なわけだが。
いやそこに飛ぶと話がややこしくなるからw
もともとそういう話だろ?
でもさ、南宋て遼に朝貢って言うか金品贈ってて、その遼が金にボコられて
亡国の淵にあるとき遼に侵攻したら返り討ちにあって、
その後、遼を滅ぼした金相手に防戦一方だったって習ったんだけど。
水域が多くて華北の国からの侵略に防戦しやすかったけど、軍事的には
弱体だったって。
だから、いくら軍事力は弱体だったとしても
軍事力以外のじゅうぶん強大な国力を軍備強化に生かしていれば、
金相手でも互角以上に戦えたと言ってるんだろうが。
宋代以降、中国領域というか東アジア経済の中心は華南。
華北なんていらね。華北解放とか言ってる連中はただのウヨ。
金払って戦争しないで済むならそっちの方が得。
歳弊送るのも間違っちゃいねー。
じゃあ、なにを間違ったかっつったら、国内政治と外交。
文治国家には文治国家なりの国防戦略があるわけで、
軍の維持編成のための予算が半分以上賄賂で消えちゃうとか論外。
遼にいらん喧嘩売って負けたり、
金と組んで遼を倒そうとしてほとんど進撃できなかった上、
金相手に盟約破りして折檻されたり、ハッキリ言ってバカ?
つーか人口や技術は高いのに軍事力は弱体、
まさにそれを文弱っていうんじゃねえの?
言ってる事が支離滅裂だな。
>>711 文弱っていうが弱くはないからな。力があっても上手く使えてないだけ。
戦争やめてから南宋が発展するほど金使ってるんだから、
やる気がないわけじゃないんだろうが、無駄に浪費しすぎ。
王安石のような改革や文尊武卑の風潮の是正、
追い詰められてるんならそれぐらいはやれって話だ。
>>712 ハァ?華北がいらないなんて滑稽なクソ発言はネタのつもりかね?
もちろん稲作の発展で華南の農業生産力は飛躍していたが、
それでも本格的に発展するのは臨安遷都以降だ。
まだ当時は北宋時代に著しく発展した開封が経済文化の中心地。
それ以外にも華北には金が中都にした燕京や多くの主要都市に交通路がある。
金だって必要ないものを奪いにわざわざくるかっつうの。
ところでいつ数値化するの?
次スレ。
>>712は華中を華南とまちがってるところがドキュンくさいな。
気付かずにそれにのって華南呼ばわりしちゃってる
>>714もな。
……いや、ひょっとすると両者ともに広州の話をしていたのかもしれん!
そうだな。正しくは華南ではなく江南だ。
ついつられてしまったが、これも己の未熟さだ。
非難は甘んじて受けよう。
香田の数値化きぼんぬ
こうだ
判断:2(危ないところに行きました。小学生以下)
知力:3(ニュージー>ヨルダン>バクダッド蜜入国は出来たみたい)
金力:1(漏れの方が現金持ってる)
親不孝:9(当代きっての親不孝者)
事故責任:10000000(ぶっちぎり)
歴代総理とかどう?
723 :
世界@名無史さん:04/11/04 21:43:23
フリードリヒ大王をお願いします。
どっちのフリードリヒ大王でしょう?
726 :
世界@名無史さん:04/11/05 04:46:37
フリードリヒ二世(プロイセン)
指導・8
戦略・6
戦術・7
政略・7
内政・9
人望・9
だいたいこんな感じかと。
730 :
世界@名無史さん:04/11/05 16:04:24
>>727 ありがとうございました。でも、エピソードとかをつけてほしかったです。
>>724 青の金日成が無い。スレ史上最大の大作だからもう一度読みたい。
〉731 金聖柱の項参照
>>732 わざと本名を表題にして、敬意を持っていないことを示しているわけか。
かなり芸が細かいな。
あのポル・ポトにすらひとかけらの同情を示したのに、
金日成は徹底的に突き放している。
そこらの嫌韓厨とは比較にならんぐらい、
金日成に嫌悪感を持っているのが文章の端々からにじみ出ている。
それなのに能力を高く付けているあたりに改めて青の別格ぶりを感じた。
734 :
世界@名無史さん:04/11/05 19:21:27
>>731 「評者から探す」の項目からのリンク洩れを修正しました。
>>727 個人的にはこんな感じだと思う
フリードリヒ二世(プロイセン)
指導・7 (兵制改革に成功。だが、七年戦争末期には兵に逃亡されたらしい)
戦略・8 (七年戦争では、ほとんどの欧州の強国を敵に回して一応勝利を得た)
戦術・9 (ロイテン・ロスバハの大勝利は当時としては奇跡的なものだった)
政略・6 (七年戦争の外交戦ではマリアテレジアに完敗した感がある)
内政・9 (啓蒙的な政策。戦費を国債に頼らなかった一点を以てしても優秀)
人望・8 (晩年は周辺国にも信頼されたが、個人としては孤独だったらしい)
フリードリヒ二世はフィーリングで少しやってみました。
なにしろラッキーパンチの多い人ですから。
ヒトラーなんかはラッキーパンチを計算して打ってる感じがしますが、フリードリヒ二世は少し違うかなと。
だからこそヒトラーみたいに自滅(わたしにはそう見える)せず済んだわけですが。
どうすごいのか分からない人、孫文をお願いします。
…。
とたんに盛り下がる気分になるなぁ。
ついでに誰もやりそうでやってない(多分)
アレクサンドロス
指導・9
戦術・7
戦略・5
政略・4
内政・5
人望・8
アレクサンドロスははっきり言ってナポレオン・ヒトラーと同種の人間です。
戦術とカリスマが突出してるが戦略が行き当たりばったり。
三人とも理想主義的思想に引きづられてるあたりも同じ。
アレクサンドロスは他の二人と違い墓穴を掘るまでには至らなかったので過大評価されてます。
気にせずどんどん行こうー。
チンギス・ハン
指導・10
戦術・8
戦略・10
政略・10
内政・7
人望・8
チンギス・ハンについては誤解が多いので解説します。
気にせずどんどん行こうー。
アンチが多いね。
自業自得だから同情はしないけど。
アクィラ
水銀の自演。
↓
>>746 俺はすでに無の境地まで達している。
だから、見えない。
まず戦術ですが、チンギスハンがヒトラー(グデーリアン)やナポレオンのように
互いに近代兵器を用いた戦い、と言うのをしていないので慎重に判定してみました。
戦略については凄いの一言。全体像を常に把握して不利な局面では深追いをしない。
日本への遠征は失敗してますが、当時の日本の軍隊(って言っていいのかな)は実は弱くない。
またチンギスハンは朝貢を丁寧に(!)日本に促す文書を送っていて、その面でもかなり慎重です。
遠征失敗は神風のせいとする「通説」が罷り通ってますが、
当時の史料をよく調べると実は時期が微妙にずれています。
「定説」では日本から撤退している最中に「神風」が起こったようです。
(時期が近かった為 日本の宗教家が「霊験」として故事つけたようです)
日本の遠征を晩年までしつこく練っていたのは少しどうかと思いますが…(笑)
後継者選びもきちんと行っており、チンギスハンの政策を比較的うまく引き継いでいます。
(自治や信教の自由など)
本人のみならず後継者に受け継がせている、と言うのはけっこう凄いんじゃないでしょうか。
いつから電波スレになったんだっけ?
754 :
永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/11/07 00:37:44
>>750 何かのジョークなのでしょうか?それとも突っ込んで欲しいのでしょうか?
対応に困っています。
本気でお書きになっておいでなのでしたら、
世界史板よりオカルト板か創作文芸板向きの内容だと思います。
>>754 すみません。古くからのここの住民としては論争になるより、そのままスルーでお願いしたいのですが…。
えらい物事を単純化して考える人なんだなあ・・・
スターリン
指導・10(恐怖政治で抜群の指導力を発揮)
戦術・6(ヒトラーにあっさり出し抜かれる始末)
戦略・10(好機は常に見逃さず。不利になったら粛正対象の将校も戦場にぶち込む。
つまらないプライドに固執しない徹底したリアリスト)
政略・10(権謀術数による粛正の嵐)
内政・5(ソ連を大国に押し上げたとは言え…)
人望・3(レーニンにすら「スターリンは血生臭すぎる」
と後継者対象から真っ先に外されていた)
【指導】9 彼が指導者となった組織は瞬く間に、強大となる
【戦術】8 無敗の名将
【戦略】8 楚を天下一の強国にした
【内政】8 法家政治の導入し、楚を富国強兵
【政略】1 保身能力皆無
【人望】3 兵からは慕われていたが、ひどい酷評もされている
アメリカ大統領はレーガンが最高じゃね?
レーガンが史上最高…(苦笑)
レーガンのスレッドが既にあるのでそちらで主張された方が賛同する方が多いと思われる。
>>733 俺も能力は高いと思うね、息子やディズニ―の孫は兎も角、
親父は中々だと思う。
人格としては糞でゴミで、ヒトラー以下というか奴と比べらたら、ヒトラーでさえ失礼と思っているが、
能力は非凡。
元々彼はそんなに強い地盤をもっていたわけじゃない、パルチザン説だろうが、
ソ連の工作員説だろうが、出自がどっちだったとしてもだ、
その両派を粛清し、さらに親中派など、全ての勢力を粛清し、独裁、いや完全な専制体制を構築した。
これは簡単に出来る事じゃない。
経済政策は失敗しまくりというか、成功らしい成功は一つもないが、
それでも体制は緩んでいない。これは普通あり得ない事です。
近代の独裁政治ってのは、こういった失敗で簡単に潰れてしまう、南米の独裁政権がいくつ潰れたことやら。
彼の目的が国を富ます事だったしたら能力は低くなるだろうが、
このゴミがそんな殊勝な事を考えているわけがないので、
自己保身だけを求めたとするなら、彼は失敗したとすら言えないのではなかろうか。
あれだけ状況が危機的なのに、金王朝が未だに存在しているのだから、その支配力の基盤を作った手腕は高く評価されねばならない。
同意。
久しぶりに青の文章を読んだが、なんだかんだ言って青はすごいと思う。
ところでディズニーの孫は失脚したという噂だが、本当か?
正哲君で本決まり?
ま、正男君の母親がアボーンした段階で、かなり不利だったみたいだが。
・・・・なんだろ、母親の有無で、っつかその前に世襲が当たり前で考えているのがなあ。
ホント21世紀になったんかいな。
まさに金王朝だな。
げっ!名前書いてなかったのかorz
>>758は呉起です。
768 :
世界@名無史さん:04/11/07 03:18:53
>>741 たしかにアレクサンダーは妄想に駆られて突っ走ったかもしれないけど、
その戦術は低くない?戦術は10でしょ。ガウガメラとかで何倍もの
軍をうち破っているじゃん。あと、人望も9はあるよね。
まあ、アレクサンダー=ナポレオン=項羽だよね。
レス無用。
マケドニアは親父さんのフィリッポス二世が地盤を作っているからなぁ。
あと アレクサンドロスは後世にどんどん美化されてるんで人望は割り引いて考えないと…。
こんな変なものが好きなのは私だけだと思っていると、
実は多くの人が好きである。
本当に変なものは誰も好きにならない。
…マーフィーの法則
自分では個性的な趣味だと思っていても、端から見るとそれほどでもなかったりします。
「あなたは決して孤独ではない。その代わり、決して特別でもない。」
…久美沙織『小説を書きたがる人々』
近代軍事学の祖クラウゼヴィッツですら
歴史上最高の将帥と賞賛して止まないアレクサンドロスを二流扱いとは恐れ入る。
しかし、この方は自分のレスが比較の対象外であることを承知した上で荒してるのか
それとも自分のクソ評がいかに恥ずかしいものか自覚してないのか
フリードリヒ二世の下馬評は二人書いてるんだけど
>>727 のあっさりした方がわたしのです。
アレクサンドロス
チンギスハン
スターリン
と読み比べて思ったんだが、アレクサンドロスのわたしの評価は少し厳しいかも。
私情を交えず評価をつけようとしたらけっこう厳しくなった。
(戦術は8でもよかったか?)
スターリンみたいなクズは私情を交えなかった結果
逆に高くなってしまった。
世の中 こんなもんかな。
いま思うと永遠の青氏(本物の方)
に倣ってジュガシビリとか書いた方が気が利いてたか。
何もあんな男の自画自賛の美称を書いてやる必要もない。
うーむ、馬鹿がいる。
ヨシフ・ビサリオノビッチ・ジュガシビリ
だったな。
誰が最初に呼んだかも書こうかと思ったけど資料が見つからない。失礼。
アレクサンドロスの命日はそういえば6/11説と6/13説のふたつがありますね。
みなさんはどっちが信憑性が高いと思いますか?
どっちかと言われても一つしかないと思うが・・・。
今日は暇なので本格的に釣られてみますね。
>戦略については凄いの一言。全体像を常に把握して不利な局面では深追いをしない。
>日本への遠征は失敗してますが、当時の日本の軍隊(って言っていいのかな)は実は弱くない。
>またチンギスハンは朝貢を丁寧に(!)日本に促す文書を送っていて、その面でもかなり慎重です。
日本への遠征を敢行したのは孫のフビライです。
>遠征失敗は神風のせいとする「通説」が罷り通ってますが、
>当時の史料をよく調べると実は時期が微妙にずれています。
>「定説」では日本から撤退している最中に「神風」が起こったようです。
>(時期が近かった為 日本の宗教家が「霊験」として故事つけたようです)
>日本の遠征を晩年までしつこく練っていたのは少しどうかと思いますが…(笑)
文永の役の日本側での記録では「夜が明けると敵の姿が完全に消えていた」とだけあって、
嵐の記述は全く無いそうですね。嵐があったとするのは高麗側だけだそうです。
普通、水軍を引き連れてきた戦の記録を残すなら、戦局を左右する天候の記録も残すのが普通なので、
嵐があったかどうかは今のところ良く分からないそうです。
ただ、この時点で日本軍は敗北して箱崎方面を放棄していたので、戦局不利と見ての撤退では無いように思います。
夜襲を警戒した元軍は船内に兵を引いて、そのまま撤退を決めたそうです。
陸戦では勝ってて制海権も握っているのに、撤退を決めた理由は良く分かりません。
弘安の役では日本軍が海上の元軍(東路軍)に先制攻撃を仕掛け、東路軍を苦戦させています。
東路軍が江南軍と合流して、上陸を計った頃に暴風雨が襲ってきて、戦意を失った元軍は撤退しました。
でも、これはフビライ時代の話でチンギスハンの時代の話ではありません。
>永遠の青氏
仰るとおり。
チンギスハン評でわたしは致命的なミスをしています。
日本遠征を行ったのは孫。
言いわけはしません。
この間違いは我ながらやばすぎる。
スレ汚し失礼。
>>750 >後継者選びもきちんと行っており、チンギスハンの政策を比較的うまく引き継いでいます。
>(自治や信教の自由など)
>本人のみならず後継者に受け継がせている、と言うのはけっこう凄いんじゃないでしょうか。
モンゴル帝国では先代ハーンの遺言だけで後継者が決まるということはありません。
クリルタイでの結果が最優先されます。つまり、多数派工作に勝った者が後継者になれるということです。
三代ハーングユク選出の際はオゴデイ派の監国(摂政)トレゲネの工作でモンケの継承権が覆されています。
四代ハーンモンケ選出の際は、オゴデイ派の監国オグル=ガイミシュの擁立したシラムンと
ジュチを味方に付けたモンケが後継者の座を争い、モンケが勝利しています。
モンゴルの大ハーンの地位は力で決まるものなのです。
オゴデイがハーンに選出された際も、チャガタイ・オゴデイ派とトゥルイ派の後継者争いがあり、
当初はチンギスの所領、軍隊の全てを受け継ぎ、二年間監国の地位にあったトゥルイが優位に立っていましたが、
次第に政治的駆け引きに弱いトゥルイが押されていって、
トゥルイ家の人物をオゴデイの後継とするという条件でトゥルイ派が引き下がったというのが事実のようです。
この後の歴史でのチャガタイ・オゴデイ派とトゥルイ派の確執を見ると、
両派の間に相当の遺恨が残るような出来事があったことが伺われます。
チンギスハンの政策が踏襲されたのは、チンギスハンの功績というよりは、
オゴデイ・チャガタイの賢明さに帰するところが大きいと思います。
いくら有能な創業者が法を定めても、それを踏襲できないか、
盲目的に墨守して国をダメにする後継者のほうが圧倒的に多いからです。
>>770 父がいくら名君だったとしても、アレクサンドロスが引き継いだのはマケドニア一国。
ギリシアの覇権国だったとは言え、世界帝国アケメネス朝に対抗するには、あまりに物量が隔絶していました。
しかも、服属していたギリシアの諸ポリスも離反の機を伺い続けていました。
死ぬまでコリントス同盟の盟主であり続けるだけでも、アレクサンドロスは十分に名君と呼ばれたでしょう。
しかし、アレクサンドロスは当時の交通事情では信じがたいほどの大遠征を成し遂げ、
中央アジアやインドまで足を伸ばしています。
フィリッポスの作った強力な軍隊があったとは言え、あれほどの大征服を実行できたのは、
アレクサンドロスの力量が隔絶していたからだと思います。
あなたの言っていることは、
「大陸軍は革命政府のカルノーが地盤を作っているからなぁ。
あと アレクサンドロスは後世にどんどん美化されてるんで人望は割り引いて考えないと…。」
と言うのと同じです。
カルノーは偉大ですが、カルノーの作り上げた軍隊で
勝利を収めたナポレオンの偉大さが損なわれることもありません。
>青氏
アレクサンドロスについては少し補足。
わたしは
「アレクサンドロスが名君ではない」
とは一言も言っておりません。
これから用事があるので、議論は帰ってから受け付けます。
>>774 このスレの統一された基準が良く分からないので何とも言いがたいのですが、
スターリンに関しては少々過大評価ではないかと思います。
戦略面ではレーニン時代のポーランド侵攻で
ワルシャワ方面のトハチェフスキーに増援を送らなかったことがきっかけで
ポーランド軍の反攻を許し、敗戦の責任者と断じられています。
第二次世界大戦ではドイツの侵攻をまったく予期しておらず、
全然警戒していなかったために敗退を重ねました。
どうも、軍事戦略家としては今ひとつだったようです。
独ソ戦での勝利はどんなに負けが込んでも、決して引かない統率力にあったのではないでしょうか?
そして、東欧の共産化は権謀術数の能力に帰するべきものだと思います。
>>775 偽者認定ありがとうございます。
>>781 今は書きたい人物がいません。
評伝を書くとなれば、一週間から二週間は下調べが必要ですが、
最近はそんな時間もありません。
申し訳ありませんが、このスレでは評論に徹したいと思います。
出掛ける前に一言。
偽物認定してしまいもうしわけありません。
トリップがわからなかったものでね!
あと はじめまして。
まさか貴方とやりあうとは思いませんでした。
コーエースレを見たかぎり人物評価の付け方はわたしと似ていましたし。
さすがにわたしも貴方が相手だと多少本気を出さないと厳しいですな。
…ゆるくねぇな。
挨拶代わりに一発かましときますか。
>>785の文章、おかしくありません?
>>785 申し訳ありません。思い切り中途半端な文章改変をしてしまいました。
正しくは
>あなたの言っていることは、
>「大陸軍は革命政府のカルノーが地盤を作っているからなぁ。
> あと ナポレオンは後世にどんどん美化されてるんで人望は割り引いて考えないと…。」
>と言うのと同じです。
>カルノーは偉大ですが、カルノーの作り上げた軍隊で
>勝利を収めたナポレオンの偉大さが損なわれることもありません。
>>724(まとめの人)
青さんの書いたルドルフ・ヘスが変ですよ
>中途半端な文章の改変
そう言えば聞こえはいいですが、あの文章は致命的なミスでしょう。
わたしは
「世界史の教科書を買え」
とはいいませんが
「うっかり者はお互い様」
と 言わせて戴きます。
わたしは個人的に青氏を高く買っているので、これ以上は言いません。
ただ わたしがアレクサンドロスを低くみていると言うのは誤解。
試しに、アレクサンドロスにやや贔屓目な数値化をやってみましょう。
他はいろいろ視点があるだろうが、戦術8はねーだろと思うが。
旧コーエースレでも武力100候補だし。
指導・10
戦術・10
戦略・9
政略・7
内政・7
人望・9
つかアレキンの戦術7か。ますます有り得んなあ。
んでチンギスが8か。戦術10はいったい誰がなるのかねえ。
つられてるかねえw
はい(笑)
アレクサンドロスの戦術は我ながら低くつけすぎました。
ただ 10段階評価なんで、限りなく9に近い8、限りなく7に近い8が出るのは御容赦ください。
…それでも9にしとくべきだったとは思います(苦笑)
ただアレクサンドロスの数値をわざと低めにつけたのは意味があって、
他の評価対象が評者によりバラつきが出るのに比べ
アレクサンドロスはマイナス部分を無視した評価ばかりだったので。
例としてアレクサンドロスのエジプト進攻を例に挙げてみます。
アレクサンドロスのエジプト進攻はドイツ軍参謀軍事史家
ヨルク・フォン・ヴァルテンブルク伯が痛烈に批判しています。
何故 ダリウス三世を一気に叩き潰さないのかと。
これは事実 的を得ています。
どんどん戦線を拡大して後方の連絡遮断をされたら最悪です。
戦争において補給路や連絡網をぶっ潰されたら終わりなのは常識。
とは言え、アレクサンドロスの泣き所は海軍。
ペルシャ艦隊を先に叩く、と言うアレクサンドロスの戦略は確かに評価できます。
しかし 戦争は時に兵力より機であるのも事実。
この行為が一種の賭けとして側面があるのは否定出来ません。
戦略面で評価できるのは土木技術をキュロス攻略の際に実に効果的に使った事。
また 古代の慣習として
軍事行動を冬季に行わない
と言う事を利用してのエジプト行き。
これだけ取り出せば戦略10は余裕です。
ただ もしダリウス三世もアレクサンドロスのように天才で、逆手に取られていたらどうするつもりだったのでしょう。
ダリウス三世の能力を喝破していたとも取れますが、見くびっていたとしたら致命的だったはず。
結果だけを取り出して評価と言うものは出来ません。
後は皆様が知ってそうな事ばかりなので端折ります。
アレクサンドロスの政略は後継者を上手く残せてないのがかなりマイナスポイント。
内政で評価できるのはアレクサンドリア市の起工。
人望は途中までは文句なしなのですが
例の宮廷儀礼のペルシャ化で反感をかなり買ってしまいました。
ただ 驚嘆に値するのは、女性捕虜に対する扱い。
彼は女性捕虜を凌辱するどころか丁重に扱い、敵であるダリウスですらこれには感動しています。
(逃亡してた宦官が報告した)
これはアレクサンドロスを評価する点で実はもっとも特筆すべき点なのでは
と、個人的に思いますが如何でしょう。
死ぬまで帝国を纏めあげた功績は指導は勿論として、
あとを戦略に帰すべきか政略に帰すべきか。
内政に帰すべきか人望に帰すべきか全部と考えるか。
ここが少し人によって違ってくるのではないかと。
アレクサンドロスの評価はこの辺にしておきます。
800 :
永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/11/09 23:48:37
>>792 高く買っていただいてありがとうございます。
リアルでは最安値しか付かない人間ですので、水銀様のエールを励みに頑張りたいと思います。
>ただ わたしがアレクサンドロスを低くみていると言うのは誤解。
>>741と
>>770を読んで誤解しておりました。これだけ読むとそう思えてしまいました。
日本語って難しいですね。
>>795 チンギスハンの強さは、自身の戦場での強さもありますが、
遊牧民を一つにまとめ上げて強力な軍隊に仕立て上げた組織力の方がより大きいと思うので、
戦術は8でも良いと思います。
スターリンの方ですが、スターリンが戦争でポカをやらかしまくったのは青氏の御指摘通り。
ただ スターリンは第二次大戦中からの戦略をわたしは評価します。
ヒトラーに出し抜かれたとは言え(ちゃんと戦術でマイナスしておきました)
ヒトラーの弱みにつけ込み素早くバルト三国を奪取。
ヒトラー嫌いのチャーチルを上手く利用してドイツに最終的に勝利。
非共産主義者をワルシャワで足踏みする事によりドイツに壊滅させる。
(これは「政略」に入りますが)
無能なアイゼンハウアーを出し抜きベルリンを真っ先に包囲。
終戦間際は日ソ不可侵条約などセオリーとして当然無視、きっちり利益を得る。
スターリンの戦略の才は第二次大戦以降
強敵たるヒトラーを前に急激に発揮された、とわたしは見ます。
802 :
世界@名無史さん:04/11/10 00:03:43
どなたか、ウォルシンガムを評価してください。
途中からお読みになった方の為に。
>>794 はアレクサンドロスです。
804 :
永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/11/10 00:36:49
>>797 イッソスの戦いが終わった後、アケメネス朝の陸軍は小アジア奪還を目指して、
マケドニアの将軍アンティゴノスと激戦を繰り広げていました。
エーゲ海の制海権を握るペルシャ海軍もまた、
マケドニア軍の後方を遮断すべくマケドニア海軍と戦っていました。
既に陸海からアレクサンドロスの後方を遮断する動きが出てきていたのです。
アレクサンドロスがダレイオス捕捉よりフェニキア・エジプト征服を優先したのは、
ペルシア海軍の拠点を奪って後方を安定させようという考えがあったからと思われます。
後方を遮断されるリスクを冒して手持ちの兵力が無いダレイオスを追って奥地の踏み込むより、
ダレイオスが軍を再建している間に後方遮断作戦を潰そうという手堅い戦略だったと思います。
>>799 >後継者
後継資格を持った親族がたまたま居なかったことと、彼の年齢を考えたら仕方が無いのでは?
>人望
占領地の住民の心を掴むのが巧みだったことや、多くの個性ある人材をひきつけたことを考えると、
やはり彼自身には強いカリスマがあったと思われます。
急激な改革をやったら、普通は反感が最初に出てくるものなので、
ペルシャ化で反感を買ったのは人望の減点材料にはならないでしょう。
>帝国をまとめ上げた功績
強引なことをたくさんやっても破綻させず、マケドニアからインドまで遠征した指導力と、
不安分子を消して、在地勢力を取り込んだ政略だと思います。
鋭い意見です。
同時に敵が存在している現実がある以上
弱っている敵を深追いするよりは先にペルシャ艦隊を叩くのは確かに正しい。
しかし、手厳しい見方をすればそもそも後方を遮断される危険性を僅かな確立でも避けるため
策略を練って上手く衝突相手を一国に絞るべきです。
勿論 容易に出来ることではないのは承知。
しかし これが出来る人間こそ戦略10、なのではないでしょうか。
>>805 に関してはたいして意見の違いはありません。
しかしあれだけの大帝国を築き上げた人間は年齢に関係なく
当然 後継者を考えるべき、とするのは厳しすぎでしょうか。
ただ、アレクサンドロスはペルシャ帝国を破った事、
また美談が多すぎるなど
たとえばイエスがそうであるように当時の人望は慎重に判断すべきかと。
後世にまで及ぶかどうかを含めたのであれば同意見。
>>801 >ヒトラーに出し抜かれたとは言え(ちゃんと戦術でマイナスしておきました)
このスレのテンプレを読む限り、戦術はコーエースレの武力に相当すると解釈しました。
ポーランドでのスターリンは南西軍の政治委員(事実上の司令官)、
独ソ戦でのスターリンは国家の最高指導者で、
どちらの失敗も戦場で用兵を誤ったというより、戦略眼の欠如によるものであると考えたので、
さすがにテンプレの「10=世界史を代表する天才。数世紀にひとり」はおかしいだろうと思いました。
>ヒトラーの弱みにつけ込み素早くバルト三国を奪取。
ヒトラーが戦争を始めると見境なく近隣諸国に殴りこんで占領地を広げたあたりは、
他の指導者より頭一つ抜けたものを感じます。
>ヒトラー嫌いのチャーチルを上手く利用してドイツに最終的に勝利。
チャーチルもスターリンを利用して欧州再上陸を果たしたようなものなので、
どっちもどっちだと思います。
>スターリンの戦略の才は第二次大戦以降
>強敵たるヒトラーを前に急激に発揮された、とわたしは見ます。
外交戦略は得意だが、軍事戦略ではそれほど有能ではないというのが私の評価です。
あそこまで負けが込んでいて、戦線を立て直せたのは指導力の分野に入ると思います。
軍事戦略5、外交戦略9と言った所では無いでしょうか?
なるほど、そう見ますか。
わたしはだいたい一年くらい前からの住民なのでコーエースレはこの前のレスで初めて読めました。
(このあたり、青氏と見解の相違が生じているように思えます)
わたしはスターリンの外交戦略は軍事に関連したものも多いので戦略を10としましたが、確かに大戦前のマイナスを考慮すると9か8でもよかったかも知れません。
わたしは先程書いたように第二次大戦以降のスターリンを重視しています。
チャーチルは戦術・戦略ともにミスが多く、ヒトラー嫌いをスターリンに手玉に取られている、と言う印象がやはり拭えません。
また大戦後のイギリスとソ連を考えると、第二次大戦中の軍事戦略を抜きにして
スターリンの外交戦略を語る事はいささか無理があると言うのが個人的見解です。
>>806 >しかし、手厳しい見方をすればそもそも後方を遮断される危険性を僅かな確立でも避けるため
>策略を練って上手く衝突相手を一国に絞るべきです。
そもそもアレクサンドロスはアケメネス朝一国を相手にしていたわけですが…。
当時のエジプトはアケメネス朝領ですよ?御存知ですよね?
>勿論 容易に出来ることではないのは承知。
>しかし これが出来る人間こそ戦略10、なのではないでしょうか。
戦略10と言った覚えは有りませんが…。
>>807 >しかしあれだけの大帝国を築き上げた人間は年齢に関係なく
>当然 後継者を考えるべき、とするのは厳しすぎでしょうか。
厳しすぎです。愛人の子で王位継承権の無いヘラクレスと、
精神に異常をきたしていた兄弟のアリダイオスと、
ロクサネのお腹の中にいたアレクサンドロス4世をどうやって育てたら良かったのでしょうか?
アレクサンドロスは同年代の人物を後継者に出来る近代国家の指導者ではありません。
ある程度年を取った王位継承権者がいないと、帝国の無難な継承は無理です。
それを用意できなかったのは彼の年齢の問題であり、能力の問題ではありません。
仮にヘラクレスかアリダイオスに無理やり後を継がせて、信用できる重臣を摂政に付けるよう遺言したとしても、
短期間で膨張した帝国を取りまとめるのは困難でしょう。
アレクサンドロスの死からディアドコイ戦争までの流れを見れば、
マケドニアの重臣たちが元同僚に従うぐらいなら、
最高権力を狙うか自立しようとするような人物ばかりだったのは明らかです。
実際、アレクサンドロス死後はアリダイオスと、ロクサネの腹の中の子が帝国を継承し、
三人の重臣が最高権力を握る形になりましたが、すぐに内輪もめを起こして暫定政権は崩壊。
残ったマケドニアの重臣たちは二人の王をそっちのけで内戦を始めています。
部下がこんな連中ばかりでは、能力の無い継承者に摂政を付ける案も無理。
誰もが認める王位継承者が成年に達するまで生きるのも無理となれば、どうにもなりません。
勿論 知っています。
しかし一枚岩ではなかったはず。
(一本とか書くべきでした)
>後継者
こっちは泥沼化しそうなんで、出来れば避けたい話題です。
水掛け論になるのは目に見えていますし。
>戦略10
あ、これは青氏へのレスの体裁の形ですが、
寧ろ他にこのスレを見てくださってる方へのレスです。
>>807 >人望
私が人望を考慮する基準は、同時代人の評価のみです。
死後の評価も考慮に入れますが、直接その人物を知っている世代の評価しか、
人望の評価材料にはしません。
>>809 >スターリンの軍事戦略
大祖国戦争の勝利は物量と有能な将軍、スターリンの卓絶した指導力がもたらした勝利であり、
スターリンの軍事戦略の勝利では無いと思っています。
>チャーチル
彼も第二次世界大戦以前は冴えませんでしたが、第二次世界大戦では良くやったほうだと思います。
彼でなければ、イギリスはバトルオブブリテンと大西洋の戦いを戦い抜けなかったでしょう。
スターリンには及ばなかったと思いますが、戦争目的は達成したのですから、十分に優れた指導者でしょう。
チャーチルはソ連とドイツが戦っている間にアメリカを呼び出して、西部戦線で巻き返しているので、
「スターリンを盾にして時間稼ぎして戦争に勝った」という言い方も出来ます。
戦略的ミスをいくつも犯していますが、それはスターリンも同じです。
あと、チャーチルは前線指揮官では無いので、イギリス軍の戦術のミスまで彼の責任にするのはどうかと思います。
>また大戦後のイギリスとソ連を考えると、第二次大戦中の軍事戦略を抜きにして
>スターリンの外交戦略を語る事はいささか無理があると言うのが個人的見解です。
大戦後のイギリスとソ連を考えると、第二次世界大戦以前の国情を抜きにして
スターリンとチャーチルの戦略を比較することはいささか無理があるというのが個人的見解です。
>青氏
わたし まだ御飯食べてないんで揃々 時間区切ってやりませんか(笑)
>チャーチル
彼はヒトラーのイギリス贔屓がなければダンケルクで叩き潰されていたのが目に見えています。
チャーチルに限らず、優れた指揮官・将校をどこにおくかを考えるのは
戦術・戦略の要であるとわたしは考えます。
>>813 >わたし まだ御飯食べてないんで揃々 時間区切ってやりませんか(笑)
それはあなたの都合です。あと、私は(笑)と(苦笑)が嫌いです。よって却下させていただきます。
>彼はヒトラーのイギリス贔屓がなければダンケルクで叩き潰されていたのが目に見えています。
バトル・オブ・ブリテンでも、大西洋の戦いでも、ドイツはこれっぽっちも手加減してませんが。
和平を申し込んだのは確かですが、それが無理と悟るとガンガン攻めてますよ。
アシカ作戦放棄後、ドイツは東に兵を向けていますが、イギリスに手加減したわけじゃなくて、
制空権を得られなくて本土攻略を断念したのと、孤立したイギリス軍に大陸反攻する力が無いと見て、
「攻略も出来ないし、攻めて来れそうも無い相手なら放置」と判断しただけです。
大西洋をドイツの潜水艦隊が封鎖している限り、イギリスは無力化されたも同然でした。
>チャーチルに限らず、優れた指揮官・将校をどこにおくかを考えるのは
>戦術・戦略の要であるとわたしは考えます。
私もそう思います。しかし、人材配置のうまさは
コーエースレの統率力に相当すると思われる指導力に含めるべきではないかと思います。
わたし一応社会人なんで、いまの発言は少しかちんと来ました。
いますぐ打ち切り、じゃなくて、時間区切ってやりましょう、
と言うごく常識的な提案の筈ですが。
(笑)や(苦笑)が嫌いなのも貴方がいつまでも議論を続けたいと言うのも貴方の都合と言うヤツじゃないですかね。
わたしもよく注意されるのですが、言葉使いにはお互い気をつけましょう。
>ダンケルク
ヒトラーが
「同じアーリア人」
と考えたイギリス人と同盟を組みたがっていたのは青氏も御存じではないかと。
ヒトラーは明らかにモルトケを意識してイギリスの追撃を中止したわけですが、結局はそれが仇となり
イギリスを叩くチャンスを失う羽目に。
チャーチルの評価すべきは、飽く迄 ヒトラーに妥協しないと言うのを国民に対しアピールした点など
戦術や戦略より寧ろ指導力として還元されるのでは、と思います。
俺も(笑)や(苦笑)が嫌いだ
>>815 >わたし一応社会人なんで、いまの発言は少しかちんと来ました。
そうでしたか。でしたら、こんな安い挑発には乗らないでくださいね。
少し熱くなりすぎではありませんか?
>(笑)や(苦笑)が嫌いなのも貴方がいつまでも議論を続けたいと言うのも貴方の都合と言うヤツじゃないですかね。
あなたのレスが続いているから、レスを返しているだけなんですが。
体がきついんなら無理しなくてもいいんですよ?
好きな時に書き込み、好きな時に話を打ち切れる。
それが匿名掲示板の良いところではないですか?
>わたしもよく注意されるのですが、言葉使いにはお互い気をつけましょう。
あなたが注意されるのはなんとなく理解できますが、私はあまり注意されたことが無いので考えてみます。
>>815 >ヒトラーが
>「同じアーリア人」
>と考えたイギリス人と同盟を組みたがっていたのは青氏も御存じではないかと。
組みたがっていましたが、情勢が許しませんでしたね。
結局、最初から最後までドイツとイギリスは徹底してやりあってましたね。
>ヒトラーは明らかにモルトケを意識してイギリスの追撃を中止したわけですが、結局はそれが仇となり
>イギリスを叩くチャンスを失う羽目に。
ダンケルクの停止命令には、
1.機甲部隊の損害が大きく、さらなる損耗を恐れた。実際、ダンケルクの地形は機甲部隊の展開に向いていなかった。
2.ゲーリングが空軍だけでダンケルクの連合軍を壊滅できると主張し、陸軍部隊を後退させた。
3.イギリスと講和する余地を残したかった。
以上の三つの理由があったとマンシュタイン回顧録にあります。
イギリスと並ぶ大国フランスがダンケルクの10日後に降伏したことを考えれば、
完全に封じ込まれたイギリスから講和を引き出せるのではないかと考えたのは、
ごく常識的な判断だったと思います。
実際、フランス降伏後のドイツ軍上層部は戦勝ムードが強く、戦争は終わったと考えている者さえいました。
その他にも停止命令にはヒトラー個人の意思だけではない事情も複雑に絡み合っていたのです。
>チャーチルの評価すべきは、飽く迄 ヒトラーに妥協しないと言うのを国民に対しアピールした点など
>戦術や戦略より寧ろ指導力として還元されるのでは、と思います。
指導力については同意です。
戦術については、そもそも将軍・提督じゃないので、評価の対象外です。
戦略については、ドイツを潰すという目的のためだけにできる限りの手を尽くしています。
暗号解読に成功したことを悟られないためにコベントリー爆撃を黙認したり、
アメリカを引き入れたり、大嫌いな共産主義者と手を組んだりするなど、本当に手段を選びませんでした。
戦争後半になるにつれて、手持ちの兵の多い米ソに主導権を奪われていきますが、
それでも第二次世界大戦を連合国の勝利に導いた最大の功績者の一人と言って良いでしょう。
いまのチャーチル評は完全に同意です。
ドイツのダンケルクもほぼ意見は一致していますが、
わたしは3がやはり最大のドイツ(と言うより寧ろヒトラー)のミス、ではないかと考えています。
こうして見るとわたしと青氏の意見は全体的にやはり似ているような気がしてならないのですが。
数値化の際に複雑に複数の能力に絡む指導者たちの行動を
わたしと青氏が違う項目にしばしば入れる為に意見が合わないように見えるだけで。
…すいません、揃々眠気が限界にきてます。
少しむっとする部分もありましたが、わたしは人様の事を言えるコテハンではないので…。
青氏もむっときた部分あったでしょうしね。
青氏さえよければまた議論しましょう。
そして、お互い挑発的になりがちな口調は少し直しましょう。
それでは、おやすみなさい。
>>802 フランシス・ウォルシンガムですか?
エリザベス女王に忠誠を尽くしたのに、全く報われなかった人ですね。
このテンプレだと政略だけが突出して高くなるのではないでしょうか。
強大なスパイ網を構築したことから、指導力も高くなるかもしれません。
,-―――――――――――――――――-.
/ \
| \
| |
l" ジェンキン寿司 .|
ー-―――――――――--------------‐--、/
r‐:':::::::/ ,' ,' ! .l i'"´: : |:.:.:.:.:.:!: : : : :_:ハ ',ヽ
. ',_:、:::/ l l |l ! ',: : : :.|:.:.:.:.:.:|: : : : L_l::', ',r
ノ:,' ,'l | l | l ! ! | `丶; |:.:.:.:.:.::!: : : : : :ハ::ヽ
/:| | ,' | ! .!l| ,'| l l | l ,' ,|. |!´: :.!:.:.:.:.:.,': : : :r ' `¬
/:::,! | ..L.',_ト. |',ト / !./l/├ /¬ ¬、).:: /:.:.:.:./: ::::::::| |:
/:::::ハ.ト 、 ! ..l_ヽヽ\、./ l/"´ l/_∠ | {: : :/:.:.:.:./::::::;:::ノ| !:
ヽ|l ',ヽ \ !,イ `` ト '′ ,イ"´ lヽ ,ハr'^,-ヘ':::::::::}::!| .!:
. | ト、ト.`弋..ン 弋..ン ' | .|/j〈ィ'>》_ノ"!::l ! |:
| l l.|. ', 、 l ! .|:.ヾ ニフ !::l. | |:
| / / | ト、 ,.、 | l| |/ ヽ:| |l !
. | / / | |_.> 、 _..-.、l l ! ! |.! |
l| /,イ _..l l:.:.:.:.:.:.:`丶、 __..ィ´:.:.:.:.:.,' .,'::| | | ! !
>>784 水銀様に触発されたのでしょうか。
信じがたいほどの凡ミスをしてしまったので、突っ込まれる前に訂正します。
>四代ハーンモンケ選出の際は、オゴデイ派の監国オグル=ガイミシュの擁立したシラムンと
>ジュチを味方に付けたモンケが後継者の座を争い、モンケが勝利しています。
↓
>四代ハーンモンケ選出の際は、オゴデイ派の監国オグル=ガイミシュの擁立したシラムンと
>バトゥを味方に付けたモンケが後継者の座を争い、モンケが勝利しています。
なんだか青氏の慇懃無礼ぶりがコーエー時代よりも
拍車がかかっているようなのだが、相手が水銀だからか?
何にせよもうちょっと落ち着いてほしいものだが。
偽者認定されてるのはトリップ変わってるからだろ。
以前のトリップキー晒せばいいのに。
825 :
世界@名無史さん:04/11/10 10:59:02
>なんだか青氏の慇懃無礼ぶりがコーエー時代よりも
>拍車がかかっているようなのだが、相手が水銀だからか?
禿げ胴だな。昔は笑っていたが、今や慇懃無礼ぶりが傍から見ても不快の域に達しているぞ。
まあどっちもどっちだからどうでもいいが。
それよりここに突っ込みたい。熱い議論のさいちゅうに脇から口を出してスマソが・・・
>死ぬまでコリントス同盟の盟主であり続けるだけでも、アレクサンドロスは十分に名君と呼ばれたでしょう。
違うんじゃないか?
特にエクバタナを進発して深オリエント侵攻を始めてからは、マケドニア本国との連絡は非常に不安定になったと
思うんだが。ヘラスの支配維持に関しては世界の果てで戦っている大王よりも、本国に残したペルディッカスや
アンティパトロス(で合っていたかな?)などの重臣たちの努力によるところが大きいと思うんだが。
あとはやはり大王の軍事的名声と、莫大な戦利品の力と、それにヘラス諸国の軍事力の少なからぬ部分が
大王とともにアジアに行ってしまったためではないか。
まあアレクサンドロスは案外ペルシア帝国の「王の道」を使ってマケドニア本国と密接な連絡・指令を維持して
いたのかも知れないが・・・
それにしても、仮にヘラスが反乱を起こしても、現実問題として大王がすぐに大軍を率いて制裁に戻って来られない
以上、アレクサンドロス個人のヘラスに対する政治的支配力をそれほど重視は出来ないと思う。
第一インドから帰ってきたとき、肝心のバビロニア太守までが大王がてっきり戦死したものと思い込んで
公金着服のうえ自立的傾向を示し始めていたっていうんで、大王はまたもイラク一帯で懲罰的軍事行動と
人事の再編成をしなければならなかったほど。ましてや遠いヘラスまで目が配れるものだろうか。
仮に大王に潜在的な政治的才能があったとしても、そもそも奴には「政治をしよう」という
意志そのものが無いとしか思えん。
劉備、曹操、遠紹(←なぜか変換できない)諸葛亮まではいっているけど、
孫家が入ってないね、誰か数値化おねがい。
俺がつけると父兄は兎も角、弟が凄い酷い数値になりそうなんで。
>>水銀燈氏
アレクサンドロスの「人望」値ですが、
アテナイオスの『デイプノソフィスタイ』に、
酔った勢いで、部下を殺しちゃったとの記事は、
考慮に入れられましたか?
訂正
『デイプノソフィスタイ』に、→『デイプノソフィスタイ』にある、
>アクィラ氏
その事件などを重視したものであれば
>>741 アレクサンドロス評参照。
こちらはそう言った点を重視してかなり厳し目。
こちらは否定的評価ver.
ただ、戦術は我ながら低くつけ過ぎてます。
あとで8か9にしとくべきだった、と自ら訂正。
水銀燈ってすごいと思うよ。
高卒でそこまで知識つけるのは並大抵じゃないと思う。
おしいのは、所詮知識は高卒どまりなんだよな。
専門でやってない知識ってのがまるわかり。
専門でやってないのにあの知識はすごい。
俺もまっつあお。
歴史を趣味にしている人は多いからな。
高卒中卒でも、詳しい奴は詳しい、いわばマニアみたいなもんだ。
勉強とは捉えてないんだろう。ま、俺もそんな感じ。
高校、いや中学の頃から、歴史は9割切った事ないし、当時からなぜか専門書まで読みこんでいたけど
英語は何時も赤座布団だったよ。
>>829 いや、
>>741は詳しく解説されてなかったように思ったので、
踏まえた上での評価なのか、
どうかが分からなかったので聞いたまでです。
折角、数値化という難行に挑まれてるのに、
根拠の提示が不十分では勿体ないように思いまして。
失礼ながら、少々、説明不足な点が、
貴方の損になっている点もあるように思いました。
(僭越ながら、老婆心より)
すいません、アクィラ氏。
説明不足はマズかったです。
いま 丁度 青氏とわたしの話題が上がっているので違う話題にシフトしない内に
少し青氏に対して言うべき事を言っておきます。
>>837 そもそもが謝られる筋合いのことではないので、
結構ですが...
酔っぱらいコテとしては、
マッタリといかないものなのでしょうか、
とおもいますが。
(結局は、両者とも損するだけだと思いますが...)
(ま、いずれにせよ、出過ぎた真似ですので、引っ込みます)
アクィラ氏、これは罵倒目的ではないし言う必要性があると思います。
わたしが間違ってると思ったら遠慮なく言ってください>ALL
では言おう。
このスレに書き込むな。
841 :
世界@名無史さん:04/11/11 08:16:47
座して氏ね。
>青氏
>>822 わたしのチンギス・ハン評についてはいまは何も言わないつもりでしたが、このレス番で気が変わりました。
コテスレでは嫌味と好意的に解釈されていましたが、ミスの言いわけですよね。
確かにわたしは以前 他者の間違った記述に容赦せず
徹底的にやる様な人間でしたので自業自得と言えばそうです。
しかし 最近は控えてますし、青氏はそもそも初めて会った筈では?。
ひとつ お聞きしたいのですが、チンギス日本遠征のわたしの記述が
「うっかりミス」とは思わなかったのですか?
だとしたら見くびられたもんです。
わたしは青氏に失礼な発言を連発したのでそこは素直に謝ります。
しかし、粘着につきまとわれている状態で
トリップも違う青氏がでてきて攻撃されては正当なものであっても混乱します。
なにしろわたしは以前の青氏の文体すらろくに知りません。
このスレにコーエースレを張りつけてくださった方により
ようやく人物評を読めた状態です。
わたしは高飛車な言い方でよく誤解されますが
議論相手には基本的に敬意を持って接しています。
わたしも落ち度はありましたが、幾らなんでも最後のレスは煽りと言われても仕方がない。
あのレスは貴方の嫌いな「厨」のする発言の類では?
(わたしに言われたくないのは重々承知ですが)
議論をするなら罵倒は極力避けるべき。
P.S.
WWUでわたしが最後の方でわざと隙のある発言をしたのはお気付きでしょうか?
コテスレの厨は一人も気付きませんでしたが、青氏が気付いてないとは考えにくい。
わたしならあの部分はすかさず叩きます。
最後に。
どんな理由であれ今回の対応は感心できません。
批判であれば幾らでも、寧ろ推奨します。
しかし 誤魔化しと罵倒の側面が最後のレスには明らかにあります。
長いわりに中身の無い文章だな。
煽って欲しくないなら「煽るな」の一言ですむだろ。
頭悪い奴ほどよくしゃべる。
隙のある発言ってのは、モルトケじゃなくビスマルクだ!
とかいうツッコミのことか?そんなもんくだらなさすぎて誰もしねーっての
>>844 それ以前に俺は読んですらなかった。
今も読む気はしないが…。
スイギンは
>>842みたいな文章が一番読む気が起きる。
ああいう文章をどんどん書いてくれ。
そして楽しませてくれ。
スイギンはそんなつまらないことですかさず叩くのか?
いや、しかし俺も江南を華南と発言して叩かれた経験があるわけだが。
も前ら、もうちょっと広く心を餅ましょうよ。
こういう誤字気に市内部屋?
致命的だなって思うものはソフトに指摘してさ。
けど、水銀と、青の嫌味の言い合いは面白いのでもっと続けてくれ。
スレが進んでると思ったら、おもしろいじゃねーか、もっとやれ。
でもスイギンのレスは、情報量多いが無駄口も多いから稀に見苦しいぞ。
822みたいなのは感心せんし、むしろスイギンの品位を貶める。
世の中言わん方が良いことも多いからな。
もうしわけありません。
簡潔さをこころがけましょう。
しかし ひとつ言いですか。
>>822は
青 氏 の レ ス で す。
わたしが用意したWWUの引っ掛けの正解。
チャーチル。このトラップが本命。
わたしが
「チャーチルの戦術・戦略は評価できない」
と 言った直後青氏レス。
すかさずチャーチルを具体例をあげて弁護。
その後つけたレスで即座にわたしが言った言葉が
「いまのチャーチル評には完全に同意です」
(笑)
この部分が本命トラップ。
わたしは「いまの」チャーチル評に同意しただけで、
全面的には同意してない。
そして、数値化スレにおいて
わたしも青氏もチャーチルの数値化を実はやっていない!
はっきり言って子供騙しの手なんですが罵倒をする為に批判を行う人は
案外 あっさり引っ掛かります。
青氏が引っ掛からなかったのは
1・完全にわたしを見くびっていてトラップだらけの発言にそもそも気付かなかった
2・そこまではわたしが馬鹿じゃないと思っていた
3・見抜いた
多分 1かな。
わたしとしては議論相手を見くびってかかってくるヤツは
実に足元を救うのがラク。
今回 引っ掛かってないのはどの理由であれさすがですな。
なんだこいつ?
お前ジョジョかなんかの漫画の読みすぎだ。
何時もそんなことしてるのか?友達とかいるか?仕事してるか?
なんだか一日中ネットに張り付いてるようだが、事務か?
854 :
世界@名無史さん:04/11/12 03:33:38
ローゼン見た後だから興奮冷め止まないんだよw
ローゼンって何だ?俺の専門は日本史だから意味がわからん。
>>851 どこが罠なのかいまだに理解できない低脳の俺でも、これだけはわかる。
そんな不誠実なことしてたら誰もレスしてくれなくなるぞ。
857 :
世界@名無史さん:04/11/12 03:47:26
このトラップに引っ掛かっちゃった人はカキコしなかっただけで絶対いる筈。
わたしは目を瞑ってますんで はい 引っ掛かった人 挙手(笑)
わたしと青氏のやりあいが苛烈になるのは意見に大差ないからです。
言うまでもなく意見に大差ない場合の方が
論争は細かい部分で我の張り合いになって性質が悪い。(笑)
あと もひとつの粗語は
(青氏は)「おそらくこのスレをスレタイの違うコーエースレの新ver.して飽く迄 考えている」
であろう、に対し(飽く迄仮説です、違っていたら御容赦を。)
わたしは
「現理由をミ汲むとは言えコーエースレの後裔とは少し言えないだろ。無理がある」
と思っているからでしょう。
もし 本当にこのスレコーエースレの純血の後裔だったら
実はわたしは書くべきではない!
だって わたしは光栄ゲームをやったことないしさ(笑)
>>857 なんだ漫画か…。
てっきりドイツの軍人か何かだと思った。
>>858 俺水銀君のフャンだ。もう最高に大好き。
だから絶対に消えるなよ。今後もずっとこの板でガンガン書き込みしてガンガン活動してくれ。
いつも俺は見てるから。
ほんと水銀君は最高!
>トラップ
文章上は素直に読めば問題がないとすぐ気付く筈なんで
罵倒目的の批判で熱くなっていなければまず引っ掛からない筈です。
頭のよしあしと言うより議論を行う際のスタンスで引っ掛かる。
あまりに青氏のレスが攻撃的に思えたので罵倒と批判、メインの目的が何かをこちらとしては見極めたかった。
アレにあっさり引っ掛かるようなら単にわたしを煽るのが目的、相手にする価値ナシ。
>一日中ネットに
そりゃ こっちの台詞です(笑)
いくらでも反論できるけど言わなーい。
わたしのプライバシーなんて興味ないでしょう。
ただ ひとつ言うなら個人情報をお教えしてもあまり御期待には添えそうもないです…(笑)
>ローゼンメイデンを見て興奮して寝られないんだよ
五月蝿い!おまえみたいなのが一番五月蝿い!
アニメ化されるまで気にも止めてなかった癖に!
(笑)
っと、揃々スレ違いになりはじめたので撤退しますね。
>>861 あほか。名無しをすべて同一人物だと思うな。
みんな仕事しながら書き込んでんだよ。
>>861 鹿銀燈よ、あまり青をおちょくらんほうがいいぞ。
あれでも真面目な男だ。きゃん言わされるぞ。
P.S.
>名無しさんについて
同一人物だとは思ってませんが。
ただ、明らかにモニターに釘づけの方は中には二、三人ばかりいらっしゃるようです。
>青氏に関して
わたしはおちょくった憶えなどありませんな。
青氏が舐めてかかってくれたんで御礼した程度。
それもささやかに。
最近のわたしはこれでも穏健派コテを目指してますんで、一応。
じゃ、落ちます。おやすみなさい。
頑張れ水銀燈。今日も君の勝利だ!
明日も期待してる。今度は山野に勝利しろ!
最後には強敵の汚水と170が待ってるぞ!
まじで俺フャンなんで。
まじがんばってくれ。半端じゃなく。
煽りじゃなくてマジで味方だからな。
自分らしく生きてくれ。
たまに俺が擁護してやる。
P.S.S.
取り敢えず雑談スレで>ALL
スレ違い雑談で悪く言われるのは結局コテのわたしですしねぇ。
あと 山野先生より水氏や170氏が強敵と言うのはふしぜ…いや、御三方とも甲乙つけられないと言う意味です。
って律儀にレス返してると寝られないので、おやすみなさい。
皆様も身体は大事にしましょう…。
>>867 スレ違いなんじゃヴョケが!いい加減にしろよ鹿銀が!
この存在自体が荒らし野郎が!ヴょけにゃしゅ
やれやれここもコテ叩きが横行してるのか
ジョージ・S・パットン (1885〜1945)
アメリカ陸軍大将・第3軍司令官、在欧アメリカ軍司令官
【指導】7
部隊での教練や規律は厳しく一切の妥協はない。
それでいて靡下の将兵には畏怖される反面、強く敬愛もされている。
僻地に左遷される際将軍を見限ろうとした幕僚が一人もいないことなど、
その優れた指導力こそが大兵力での尋常ならざる強行軍を可能とさせている条件なのだろう。
【戦術】7
ただの猪突猛進タイプではない。偉大な猪突タイプである。
シチリア進攻作戦、オーヴァーロード作戦、バルジの戦いと、
将軍の進撃速度の凄まじさは何れにおいても驚異的であり、
戦局への貢献という面でも他の連合軍部隊の追随を許さない。
ただし戦術の特性上、戦果に比例して戦闘損害比率もまた甚大だった点は一考に価する。
それ故か米陸軍省及び欧州連合軍司令部の評価はけして芳しくなかった。
【戦略】5
欧州進攻作戦では兵站面での困難さを無視するかのような急進策を主張している。
独断専行気味ではあるが、それでも堅実な広正面戦略を採用した欧州連合軍司令部のような、
上層部の的確なコントロールの下にあってこそ威力を発揮する将であろう。
また逆にベルリン確保を優先しないなど、戦後を予測できない司令部の政治的無能さに比べ、
将軍は一貫して戦後のソ連との対立を見据えた主張をしており、
国家戦略においては優れた先見性を垣間見せている。
【内政】3
将軍は行動と実践の人である。
人事考課にも「オフィス・ワーク向きでない」とはっきり評されているように、
軍政よりも現場でこそ、将軍の真価は生きる。
【政略】3
出世欲はかなりのもので、けして出世が遅いわけではないが、
傷病兵殴打事件や失言事件など度々問題を起こしてはパッシングされている。
さらに上層部の評価は極めて手厳しいもので、抜群の戦功を上げているにも関わらず、
罷免や閑職に回されるなどの憂き目にすらあっている。
独軍はこれほどの将軍が戦時下に解任されるなど考えられず、
欺瞞工作だと疑わないほどの理不尽な扱いだった。
家柄の良さと功績がやっかまれ、出る杭は打たれているのかもしれないが、
それにしても処世上手といえないことは確かだろう。
【人望】7
米国民の間では軍人の中でもダントツの知名度を誇る。
どれだけパッシングされても、庶民の間では同情や将軍を指示する声が強かった。
ブル・ハルゼー提督しかり、かの国のナショナリティーとしては、
どうもこういった猛将タイプが好きでたまらないのだろう。
ただし人格者としてはどうか。独善的な振る舞い、汚い言葉づかい、
禁止された捕虜の使役等浅慮な行動。自ら問題を呼び込み自省するところがないように思える。
【備考】
「実は、私はナポレオンの元帥だった」
なにも将軍が精神分裂病だったことを証明するつもりはないが、
英アレクサンダー将軍に語ったこの言葉には、パットン将軍の用兵の本質が表象されている。
「戦勝は足にあり」と、20万の軍勢を200マイル2週間で行軍させ、
ダブーの一日90マイルを筆頭にランヌ、ベルナッド、ミュラーの驚異的追撃を、
まだ足りぬとばかりに叱責したナポレオン戦術の骨子を、戦史の専門家である将軍は、
自らの用兵に応用したのではないか。
つまり将軍の猛行軍とは、綿密な洞察の元に立てられた帰納の産物なのかもしれない。
「軍人の運命とは、自らの最後の戦争の最後の戦闘で最後の弾丸を受けて死ぬ事だ」
いい言葉だが、無闇に兵を生贄にささげた観念だといえはしないだろうか。
兵は指揮官の手足ではない。
アイゼンハワーの「個人的信条を部下に押し付けるべきではない」という言葉こそ、
けだし正論というべきだろう。
雑魚登場だ!!
鹿銀てめー何て事言いやがるんだ?
170は十分強敵だろうが!
まあ俺は雑魚ね。雑魚。
鹿はすぐ人をなめるからな。
クワゥテモク おまえもか!
わたしはスレ違い雑談は割と好きなんですけれど
怒られるのは絶対わたし
なんで、雑談スレでお願いしますねー。
もう。火に水、もとい油注いでどーするんですか。
御三方の実力の素晴らしさについては
わたし如きが甲乙つけることなどできないと申しているのです。
誤解を招く事を言うのはやめてください!
穏健派コテ目指して邁進中なんだから。
「武闘派コテ水銀燈」
とはもう言わせません!
多分。
876 :
世界@名無史さん:04/11/12 13:18:38
キモ悪いね。
>>875 水銀燈さん、ノストラダムスについての数値化と評論が読みたいのですが、数値化できますか?
詳しそうなのでよろしければ読みたいのですが…。
878 :
&rlo;水&lro;( ´_ゝ`) ◆TCygujgOWY :04/11/12 13:41:12
まあ俺は雑魚だよ。雑魚。
とりあえず俺を数値化してくれ。
鹿銀とりあえず頼みます。
>>878 ( ´_ゝ`) ◆TCygujgOWY
HP:5000(打たれ強そうだ) EN:50(なんか長続きしなさそうだ
運動性:120(フットワークは軽そうだ 装甲:900(繊細そうだ 移動力:0(2chに張り付いてそうだ
サイズ:M 移動タイプ:陸
地形適応:空− 陸A 海B 宇-
特殊能力:カキコミ(2chに書き込めるぜ)
属性 武器名 射程 攻撃力 気力 消費
格 殴る 1 100 EN10
格 蹴る 1 300 EN20
射 煽る 1-5 500 EN20
− 消える 0 0 120 −(いつでも議論から居なくなれるぜ
格闘90(肉弾戦は得意そうじゃないな 射撃140(口論はそれなりにできるべや 命中181(とりあえず俺は釣られたぞ 回避125(煽りには反応しちゃいそうだ 技量134(クリティカルな一言は言えなさそうだ。
集中 ひらめき 必中 挑発 脱力 煽り
特殊技能:2chブラウザ(多分使ってるだろ
3分くらいかかったぞ。結構大変だった。
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ノノ*^ー^) 川VvV) 从*´ ヮ`) 从*・ 。.・) .┃ ┏━━━━━┓
┃HP 182 HP 168 ..HP 140 HP 125 . ┃ ┃ 金を . ┃
┃MP 59 MP 91 MP 139 MP 143 .┃ ┃ 払うな ....┃
┃ゆ:26 け:20 け:19 そ:25 ┃ ┃ ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┗━━━━━┛
∧∧ ┓
。 / 支\。゚ ┃
゚ (* `ハ´). っ゚
(つ / カネカネキンコ
| (⌒) カネカネキンコ
し⌒
カネカネキンコ
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ シナーが物凄い勢いで走ってきた。 ┃
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┫
┃1:慰める 2:殺す 3:足を引っ掛ける ┃
┃ ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
>>825 それよりここに突っ込みたい。熱い議論のさいちゅうに脇から口を出してスマソが・・・
>死ぬまでコリントス同盟の盟主であり続けるだけでも、アレクサンドロスは十分に名君と呼ばれたでしょう。
征服戦争しないで、父フィリッポスが勝ち得たギリシャ世界での覇権を維持し続けるだけで、
「父の大業を見事に受け継いだ名君」と呼ばれたであろうという意味です。
>特にエクバタナを進発して深オリエント侵攻を始めてからは、マケドニア本国との連絡は非常に不安定になったと
>思うんだが。ヘラスの支配維持に関しては世界の果てで戦っている大王よりも、本国に残したペルディッカスや
>アンティパトロス(で合っていたかな?)などの重臣たちの努力によるところが大きいと思うんだが。
アンティパトロスで正解です。この人はフィリッポスの時代から、
遠征で国王が留守がちだったマケドニア本土の留守を託されていた人物で、
「アンティパトロスがいれば、わしは安心して眠れる」と言わしめたほどの信任を受けていました。
彼の存在を計算に入れられたから、アレクサンドロスは遠征に出られたのでしょう。
>あとはやはり大王の軍事的名声と、莫大な戦利品の力と、それにヘラス諸国の軍事力の少なからぬ部分が
>大王とともにアジアに行ってしまったためではないか。
>まあアレクサンドロスは案外ペルシア帝国の「王の道」を使ってマケドニア本国と密接な連絡・指令を維持して
>いたのかも知れないが・・・
アレクサンドロスは遠征軍とマケドニア本国の連絡を不安視していたらしく、
本国に残したアンティパトロスに外交権も含めた絶大な権限を与え、
母后オリュンピアスとともに留守を守らせています。
この二人はアレクサンドロスの期待に応え、東方との連絡を維持するために並々ならぬ努力をしました。
882 :
&rlo;魚雑た得を水&lro;( ´_ゝ`) ◆TCygujgOWY :04/11/12 20:46:37
>>825 >それにしても、仮にヘラスが反乱を起こしても、現実問題として大王がすぐに大軍を率いて制裁に戻って来られない
>以上、アレクサンドロス個人のヘラスに対する政治的支配力をそれほど重視は出来ないと思う。
アレクサンドロスはヘラスにもまとまった戦力を残したらしく、
しばしばアンティパトロスはアレクサンドロスの命令を受けて東方に増援を送っています。
また、スパルタが大規模な反乱を起こしましたが、アンティパトロスに鎮圧されています。
母后オリュンピアスにも大きな権限を与えて本土に残し、アンティパトロスの権限が突出しない配慮も見せ、
アレクサンドロスはヘラスへのコントロールを保ち続けました。
>第一インドから帰ってきたとき、肝心のバビロニア太守までが大王がてっきり戦死したものと思い込んで
>公金着服のうえ自立的傾向を示し始めていたっていうんで、大王はまたもイラク一帯で懲罰的軍事行動と
>人事の再編成をしなければならなかったほど。ましてや遠いヘラスまで目が配れるものだろうか。
インドからの帰還後、各地の政治が乱れていることを知ったアレクサンドロスは
帝国全土を対象に綱紀粛正に乗り出しました。
バビロニアのハルパロスの造反は、粛清を恐れてのことでした。
ハルパロス事件の事後処理で、オリュンピアスとの対立が頂点に達していたアンティパトロスは更迭され、
バビロンへの召還命令を受けています。
(ただし、命令が実行される前にアレクサンドロスは死んでしまいました)
インド遠征中に帝国へのコントロールを一時失ったことは事実ですが、
一旦帰還するとヘラスも含めた全土を再び掌握するべく動き、コントロールを取り戻しました。
>>825 >仮に大王に潜在的な政治的才能があったとしても、そもそも奴には「政治をしよう」という
>意志そのものが無いとしか思えん。
圧倒的多数派の東方人を支配体制に組み込むべく、強引なペルシャ化政策を推進したり、
東方人の高官や兵士を多数起用しています。
潜在的な反乱分子であるギリシャ兵や、ペルシャ化政策に反対するマケドニア兵を占領地にバラバラに植民させて、
都市建設・占領地防衛に従事させるとともに、遠方に置き捨てると言う一石二鳥の政策を行っています。
また、上に述べたようにインドから帰還すると大規模な綱紀粛正を行っています。
アレクサンドロスの政策はあまりに強引過ぎて、しばしば大きな反発を引き起こしましたが、
帝国を統治しようと言う意思は十分にあったと思われます。
>>827 >アテナイオスの『デイプノソフィスタイ』に、
>酔った勢いで、部下を殺しちゃったとの記事は、
>考慮に入れられましたか?
横レスで申し訳ないですが、私なら考慮に入れません。
どんな残虐行為であろうと、それを理由に同時代の人々からの敬愛を失わなければ、
評価材料にはしません。
>水さん
お久しぶりです。
>蘭太郎さん
お帰りなさいませ。
パットン評、面白く読ませていただきました。
また論戦や人物評を一緒に楽しみたいものです。
>>842 >>851 >>858 >>861 >>864 長文堪能いたしました。
お疲れ様でした。
886 :
アクィラ ◆0fUIPC892c :04/11/12 22:05:22
>>884永遠の青氏
まずは、初めまして。
>>827は、
>>836で水銀燈氏にお答えしているように、
水銀燈氏が付けた「人望値」の根拠を確認するためのレスです。
貴方の「人望値」に対するスタンスは、
上の方で見た記憶がありますので、
存じ上げて居るつもりです。
私、新参ですので、
当スレに暗黙のルールとして、
貴方が採用しているスタンスが定着しているのなら、
申し訳ないのですが、そうでないのなら、
より議論の質を高める方向に、
寄与できはしないかと愚考したまでです。
別に他のスタンスで書く人が居ても、
良いとは思うのですが、どうなのでしょうか。
盛り上がってまいりました
>>887 そんなつまりは毛頭ないのですが、
間違えて挙げてしまったのは、失敗でした。
どうでもいいが読点多すぎじゃないか?
>>878 折角能力つけたんだから一言くらいくれよw。
ところで、アレクサンドロスの話が出てきたので、
最近読んだ、ヒストリエの主人公のエウメネスきぼんぬ。
>>890 いや、ホントお世辞じゃなく面白かったよ
よりによってスパロボとはwww
でもさ、「地形対応」のとこ、「専門」にして
「西洋」「東洋」「日本」「第三世界」で、A、B、C付けるとかすると
あんがいコーエー数値化よりコテハン評価としてはいいかもよ
ほんと面白かったから、ぜひコテハンスレで続きやってくれよ
最後の一言が言いたかっただけだな。
>アレクサンドロス人望値
わたしのアレクサンドロス評はふたつあるわけですが
前者(否定的ver.)の人望値にはもう少し説明がいりますか。
アレクサンドロスの酒宴での失敗はふたつ。
グラニコス戦での恩人クリトス。
酔って宮廷儀礼のペルシャ化を批判し
したたかに酔っていたアレクサンドロスに槍で一突き。
カリステネスも酒宴の席でのトラブルがきっかけで
アレクサンドロスと袂をわかちます。
クリトスを見てもわかるように宮廷儀礼のペルシャ化はやはり反感を買った「マイナス」部分を見過ごせません。
軍内の一部の不満、勲臣パルメニオンと息子フィロタスとその一党が陰謀の嫌疑を受けて処刑。
(正確にはパルメニオンはフィロタスの父だったから追求を受けたわけですが)
あと近習ヘルモラオスを大王暗殺の陰謀で処刑。
前掲カリステネスも大逆の嫌疑に連座で処刑。
ペルシャ人側からの反乱が一度も(!)ないとは言え
本来の味方をこうも処刑しては、死人に口なしとは言え少し人望を割り引くべきかと。
(事実 見せしめ処刑にわたしには思えます)
あと ペルセポリス焼き打ち事件がアケメネス帝国の滅亡の象徴としての意味合いがあったとは言え
これに反感を持たなかった人間がいないとは到底 わたしには思えません。
正史では
「王はただちに後悔した」
とありますが、じゃあやるなよと(笑)
どうもここらへんの記述は伝記作者のアレクサンドロス美化の作為があるように思われます。
またアケメネス帝国滅亡の象徴として、とするにはそれを裏付ける史料が実は足りない。
(合理的解釈ではあるのですが…)
なにしろアレクサンドロスは時代が古いので、評伝は慎重にと判断しました。
「困難な問いに答えるには困難な答えが必要だ」
トラップとか否定的ver.とか、、、水銀は何様のつもりって感じだな('A`)
>>891 ネタで一発だったから、適当ですんだけど、コテハンスレとかでやると、詳しくないから無理ぽ
地形対応、そっちの方が面白かったですね。アリガトン。
なんか、変な言い合いやりだしたころから、
このスレつまんなくなってきたな
>真面目に議論してる方
この前は数値化スレを雑談スレ化させてしまって不快な思いをさせ誠にもうしわけありません。
見苦しい言いわけを敢えてするなら、水銀燈(わたしのコテの元ネタ)がローゼンアニメ版 大活躍の回だったので少し浮かれ気味でした…。
わたしのマズいところはこれからもどんどん指摘してください。
わたしは高飛車なイメージが定着してしまいましたが
わたしは世界史コテの中でも特にあっさり
自分の発言ミスや事実誤認
大ボケのうっかりミスに誤字脱字、あっさり認めてとっとと謝罪してしまう方です。
(暇な方はわたしの過去ログ発言を拾って読んでみてくださいね)
トラップは確かにやりすぎでしたが、青氏に対しては議論に値する相手と思ったからこそ、と言うのはあります。
(青氏、元のトリップ、一度でいいので戻してください。対応に困ります)
数値化スレへの罪滅ぼしと言ってはなんですが、横で見ていると
もう少し明快な「決まり」が必要かと思われます。
わたしがリクエストされたノストラダムス評論は
明らかに釣りと思われたので敢えてスルーしましたが
一部 数値化の項目を置き換えることによって評論が出来るのは事実。
わざと釣られて評伝を書くと言う手もありましたが、飽くまで指導者、宗教家、軍人などを主に取り扱うスレの中にノストラダムスを入れてしまうのはさすがのわたしとは言え如何なものかと思いまして。
少し前のログでエウメネス評を希望してた方がいらっしゃいましたが、これなんかも工夫すればすごく面白いと思うのですが。
話は変わって、わたしが書くのに躊躇うのは
眉唾な伝説や脚色などが多すぎる人物です。
特に聖書ネタとかはやりたくても敢えて控えてます。
「虚構の現実」に目くじらを立てる人はやはりいるでしょうし。
(一人だけが信じていればただの妄想ですが、二人が信じればそれは宗教ですし、
虚構の真実としてそれは意味があるとわたしは思うのですが、独り善がりになりかねないので)
あまり厳しく締め付けるのは個人的にどうかと思いますが、事実上なんでもありになったとき
ネタとしてもつまらないレスは正直(わたしのカキコ含め)シラけさせます。
わたしも反省すべきところが多々ある故、
ここはひとつ簡単にルールを追加して見ては、と言うのがわたしの提案です。
>>897 すみません、ノストラダムスはネタじゃなかったのですが…。
息抜きみたいな気持ちでレスして欲しいと思っていたつもり…。
899 :
世界@名無史さん:04/11/14 13:57:08
ひどいやつだな水銀燈ってやつは スルーするなら黙ってすればいいだろ
折角 穏健派に移行しようとしてるのに 悪者扱い…。
仮にノストラダムスが釣りじゃなかったとして、数値化スレの対象にすると叩かれそうなんですが。すごく。
わかりました、釣りじゃあないと仮定して数値化します。
その代わり叩かれてもわたしは知らんぷりを決め込みますからね(苦笑)
ミシェル・ノストラダムス
文才・4
医術・5
商才・6
政略・6
人望・6
予言・2
占星術を信じていない占星術師のわたしがこのスレで発言しないわけにはいかないな。
世界史板で占星術の話をするなら、ピコ・デッラ・ミランドラの『予言占星術駁論』
"Disputationes adversus astrologiam divinatricem" に触れないわけにはいかないでしょう。
フィチーノが、人間を、星辰の影響下にある存在、すなわち「神」を最上位においた
宇宙的ヒエラルキアの中の「中間物」とみなしたのに対し、ピコは、人間そのものが
「ミクロコスモス」であるとして、宇宙的ヒエラルキアの外部にあると考えました。
ピコによれば、人間はそれぞれの「自由意志」によって星辰の影響から脱し、神や天使、
星辰そのものの意識を持つことさえできる特別な存在ということになります。
占星術は、その人間を構成している性質やバイオリズムを知るための手段にすぎず、
占星術による予言は、必ずしも当たるものではない、としたピコの思想は、優れて
現代的なものであったように思います。
以下に、『イタリア・ルネサンスの霊魂論』(三元社)より、クリステラー(Kristeller)
の見解を引用しておきます。(P100-101)
【『演説』においてピコは、フィチーノをいくつかの点において凌駕している。
……ピコは、人間の普遍性よりもその自由について強調している。人間に宇宙的
ヒエラルキアにおける特権的ではあるが、しかし固定した地位を割り当てる代わりに、
人間をこのヒエラルキアから完全に離して置いている。そしてピコは、人間が自己の
選択に従って、最下位のものから最上位のものまで、いかなる生の段階をも得る
とができると主張している。】
占星術師を否定すると言う事はつまりこれだね、レビ記。
「すべての星占い師らは…殺されるべし」
文才・可もなく不可もなく。
医術・彼がペスト撲滅に一役買ったのは事実ですが
当時の先駆的な医者なら皆使っていた方法を彼は使っただけです。
また古臭い理論にこだわる権威主義的な面もありました。
また時代が時代だから仕方がないとは言え、
彼が顧客に使用を勧めていた化粧品類は
どれもこれも危険物指定の恐ろしい代物です。
商才・当時 普及し始めたばかりの活版印刷をいちはやく取り入れたり、
いまで言う出版社への巧みな著作のアピール、見事な商売人ぶりです。
政略・当時 プロテスタントが台頭しカトリックと激烈な対立を繰り広げたわけですが、
彼はうまい具合に終始どっちつかずの立場を保ち双方との敵対を避けました。
世渡り上手、御見事。
人望・王妃カトリーヌに宮廷に招かれたりするなど、人望はそれなりにあったようです。
予言・見事なまでに外しまくり。
彼が毎年 出版していた占星暦(アルマナック)
には
「あの国とこの国が戦争を起こす」と言う記述がよく見かけられますが、
当時ヨーロッパで戦争はしょっちゅう起こっています。
有名なアンリ二世の死の予言も、よく調べてみると事実との食い違いが多く
また 問題の該当の詩番号(1-35)をアンリ二世の死の予言に故事つけたのは弟子だと言う事も判明しています。
備考・ノストラダムスはお菓子作りは得意だったようで、レシピも残っています。
>>904 間違えました。ノストラダムスじゃなくてダビンチでした。
そう言えば、ノストラダムスは安息香酸の発見者でしたね。
907 :
世界@名無史さん:04/11/14 15:41:58
ワロタw
>>906 水銀に聞いてみたかったんだけど(釣りでも煽りでもないぞ念のため)
水銀って自分のこと頭いいと思ってるの?それともアホだと思ってるの?
なんかレスの端々から「俺って天才だよね!」というオーラを感じるんだが…。
わざわざ律儀にレスをつけてるあたりかなり頭 悪いんじゃないでしょうか、わたしは(笑)
では撤退します。
P.S.
鵡 いとあはれなり
(誉め言葉ですよ)
カストロとゲバラきぼんぬ。
,-――――――――――-.
/ \
/ \
/ \
| |
| |
l" ジェンキン寿司 .|
l-―――――――――------------‐--l、
/ !/ / ! l ! l `\
/ |! l | i| l j | l ! \
/ l | i _,|rt\ {i. / // /! j \
/__ ___ \!、 \_ij,.==ニ \_//ム.._/メ / ヽ
{-─ ‐- =- 、.__,.ト ソミ「〒テr 〒テrz_ ,イ i
\_,.=ニー- 、.._く ` くi.__ `¨´′ , `¨´ ハシr=_, 二二ニ j
r─二ニー-干ーzく fニ_ -┘ _ /
ヽ=ヘ三ニ-\___/\ )、 ,.ヘニ-‐=ニZ_  ̄`
` ー-ュ-─<ニ>_、._ _,.. <ァ'了--= _ `ヽ
/ >トr| `¨ ´ト‐<r'´ ̄ \こ>‐ー '"
ヽ. \__ __,/ \
,. ィ⌒ヽr=、_ _,. -─-ユ.fニ─-、. /_,ノ 数値化なんてどうでもいいの〜
{ // ̄`7トlく⌒ヽ、.\ // `ヽ、
ヽ、_ハ l // / / / !ハ \\ _ノ
/ Nヽ / /| i| ! 〉 }_,L_,. く
/ |ヽ.\/,.イ | | ト、\ /,.イ \
/ j `ー-' / | | | \ / | ヽ
>>911 「鳥は」ですか。無知ですが、それだけに楽しませて頂いておりますよ。
しまった、平仮名にしとけばよかった(苦笑)
>>900 実はコーエー初代スレの黎明期に山野野衾氏が
数値化してたりするんですがね、ノストラダムスw
その後標準となった能力パラメータと若干違う
(統率の代わりに用兵があった。武力は個人的武勇)
のでまとめサイトには入れていませんが。
>山野先生のノストラダムス評
個人的に読みたいのでリクエスト。
(あの方も酔狂な方だなぁ…笑)
>>917 乙です。
山野さんの足利義教がイタリアに留学しちゃってます。(ヴァレンシュタインのが混じってるんだな、きっと)
蘭太郎氏の山本五十六も婦女子を拉致しちゃってるな
山縣有朋
統率8 陸軍、貴族院、内務省をはじめ、各省庁に強固な地盤を作り上げました。
当時伊藤とともに(対立しまくりですが)日本を引っ張っていた。
戦術6 用兵は下手糞と言われるが、俗論党の打倒、幕長戦、北越戦争、西南戦争、日清戦争、
これら主要な戦闘においても、全てにおいて有利に戦っている。ただ斬新な作戦で劣勢を挽回などという事はなく、
優れた手腕は見られない。可も無く不可も無くというところ。
戦略7 山縣の真骨頂、戦闘に至るまでが彼のお仕事。その結果戦術は低めにした。
政治7 政党を一切認めず、憲法すらも停止しろ言ったり、自由主義勢力の最大の敵。
だが彼の見識は確かで、21ヶ条の要求に反対したり、軍の暴走を制止したりと先を見通す目はあった。
魅力2 当時の人からも嫌われており、葬儀は国葬なのに、同時期没した大隈の半分も人が集まらなかった。
石橋が死もまた社会奉仕と書き捨てたのは有名。
また部下の陸軍幹部クラスからも嫌われており、いちいち山縣が口を出すのを嫌っていた。
人を信用せず、全て自分で片付けようとするタイプ。非常に慎重であることも有名。
だからこそ、思い通りにならず、よく過激なことを主張する政党を眼の仇にしていた。
今の日本からみれば、彼の専制とも言える統治方法には多大な問題点があり、
彼の残した方法を悪用して、昭和軍閥が政府を無視して暴走するわけだから、最大の癌とも言えるが、
彼の唱えた方針政策などは正しい、例えば21ヶ条の要求に反対したときには、日中提携論を唱えた。
―近いうちに人種間で対立が起るので、中国と有効関係築き、ただしそれこそが欧米との摩擦を生む可能性があるので、
秘密協定に留め、欧米ともなかも緊密にせよと唱えた、史実は・・・
当時の政党などより遥かに穏健的かつ現実的な立場をとっており、彼が政策を遂行していれば、歴史が変わった可能性は高い。
>>922 戦略、戦術ともに高すぎる。
>6のテンプレを見ればもう一段下げるべきだろう。
6=有能な人材。
7=国内では一流の人材。
ですよね。
国や時代を代表とするほどではなく、大過なく勤まる程度でもないと思いますが。
戦術レベルではなんども功績をあげていますし、失点は少ない。
戦略レベルでは、彼は兵などが専門ですから、日露でもそっちの責任者やってます。
他にも各国の動静を見る目、軍の近代化など、明治期の日本引っ張った一流の人材かと思いますけど。
兵→兵站です。
>>924 戊辰戦争で結構してやられてると思うが。
それに、功績も大きいが害も大きい。
後は、日本史的にみて一流でも、世界と比べるとどうかねえ。
それより、内政と政略は…?
>>926 やられたことありましたっけ?戊辰戦争というと、北越での戦闘ですが、
山縣の作戦で霧に紛れて城を奇襲をしかけあっさり陥落させているし、
これにより食料弾薬拠点を同盟軍は一気失い苦しくなる。
その後、沼地を強引に突破して城を奇襲され一旦城を奪還されたが、奇襲があると同時に城からは撤退させ、
同時に近くの高台を固め、即座に防御を固めている。
また期を同じくして侵攻してきた、同盟軍の本体は打ち破り、
城を奪回した軍は敵中に孤立、翌日には奪還した城を維持できなくさせている。
この作戦の失敗で、同盟軍は戦線を維持できなくなり、崩壊することになる。
(なぜか河井の大失敗を成功と記す人が多いのですけど〉
この結果からみても、国内では一流とまではいえないまでも、十分国内では有能な人材といえませんかね。
>6のテンプレからみてもこのくらいが妥当ではないでしょうか?
>>927 政略は政治に含めました。
内政は、、、忘れてましたすみません。
これといった実績がないので、4じゃないでしょうか。
>>928 >可も無く不可も無くというところ。
自分でこう書いておいて6をつけるのは矛盾というか、
テンプレを理解してないと思われてもしょうがないと思われ
>>929 基準がちょっと高かったんでそういったんですけど、誤解させちゃったみたいですね。
すいませんでした。
931 :
世界@名無史さん:04/11/25 22:43:09
あげとくか
932 :
世界@名無史さん:04/11/25 23:23:40
袁崇煥 (明代末期、山海関の太守)
山海関に「紅夷大砲」を並べ、満州軍を迎撃。
満州軍は散々に討ちのめされ、ヌルハチは砲撃による負傷が原因で死亡。
【指導】 9 彼の軍指揮は芸術の域に達している
【戦術】 9 大砲の威力を理解し、実戦で生かした
【戦略】 6 大局的な戦略思想があったかというと疑問が残る
【内政】 1 内政官ではない
【政略】 2 後の破局(宦官の誣告により処刑される)を考慮し
【人望】 8 部下の彼に対する信頼は鉄のごとし
933 :
世界@名無史さん:04/11/26 05:27:22
袁崇煥って元々は文官だろ?
さすがに内政1ってことはないんじゃね?
つか もし未経験でも3じゃねーのかと
3=苦手。未経験者もこのレベル。
935 :
世界@名無史さん:04/11/26 12:38:06
うるせーな。ファミ通のクロレビでもそうだが最低が3って何だよ。
折角考えてやったんだから文句つけるな。名無しギャラリーの癖に。
だったら自分で書け。
936 :
世界@名無史さん:04/11/26 13:56:08
科挙突破した官僚なんだから本来は内政官でしょ?
司令官はなりゆきでなった感じじゃなかった?
彼の人生を熱く語ったHPがあったよ
937 :
世界@名無史さん:04/11/26 16:14:28
満州族との和平をしきりに提案していることや
腐敗官僚の資金源であった朝鮮との関係にメスを入れるなど
大局的な戦略思想は相当有ったと思われる。
「6」の評価は不当だ。
938 :
世界@名無史さん:04/11/26 18:19:46
>>935 最低が3とはいってない。あくまで未知数なのが3。
内政値1なんて悪政敷いたとかそういうレベルだろう。
貧民から科挙を通って文官として登用された袁崇煥が3以下はないだろうって話だ。
特に寧遠城を強固な城塞にしたてた手腕を評価するべきだ。
俺は5〜6が妥当じゃないかと思うよ。
939 :
世界@名無史さん:04/11/26 18:38:14
政略も無能と切って捨てるのはどうかと思うな。
明朝末期の内部情勢とかも考えると。
そこはむしろあっさり敵の離間にかかった崇禎帝をせめるとこかと。
>>935 >折角考えてやったんだから文句つけるな。名無しギャラリーの癖に。
おまいは932か?この言葉をお前に送ろう「オマエモナー」。
つか、数値化されたものをサカナにうだうだやるスレだと思ってたんだが気のせいだったか?
織田信長
【指導】10
【戦術】7
【戦略】10
【内政】8
【政略】9
【人望】5
あ、ごめん。スレよく見なかったけど、日本人は書かないほう良いんだな
すまんかった
スルーして
いや日本人でも無問題。
……数値は問題だが。
こんなもんでねーの?
織田信長
【指導】7
【戦術】4
【戦略】8
【内政】7
【政略】5
【人望】6
>>943,944
ごめん、俺の中での数値は曲げたくない。そりゃ俺が気持ち入れすぎてるからだとは思うけど。
世界の歴史人物とは比べ物にならんほど、細かく知りすぎてるせいだとも思うけどさ
でもこのスレとしては認められんこともわかってるし、分からせようという気も気力も体力も無い。だから勝手な言い分だが、無かったことにしてスルーしてくれ
もともとよくこのスレを知らずに書き込んだ俺が悪かった。根拠も説明しないくせに書き込んだ俺が悪かった。許して忘れて
ところで総合一位は誰になるのかな
ごめん、俺の中での数値は曲げたくない。
だから俺の中での数値は曲げたくない。
>>949 誰も曲げろといってないから好きにしてくれ
総合トップはやっぱりカエサルじゃないの? 7以下の数字がつく項目があるか?
だから信長だ。
俺の中での数値は曲げたくない。
信長が総合一位だろう。
ごめん忘れて。
>>946〜952
は俺じゃないからね・・
誰もがわかってるだろうし、ネタなんだろうけど一応
出てこんかい、ボサノバ(笑)
ボサノバってなに?
水銀燈っていうコテハンが誤爆したんじゃない?
他スレに同じ書き込みがあったし。
957 :
世界@名無史さん:04/11/27 04:10:20
織田信長
【指導】9
【戦術】6
【戦略】8
【内政】9
【政略】6
【人望】6
俺的な信長。
大をなしたとは言えないが世界史的に見ても一流ないし一流半の人物だったのではない?
958 :
世界@名無史さん:04/11/27 05:13:23
2チャンネル 続・告発します
林郁夫の奥さんは医大時代の同級生らが大量の寛刑嘆願署名を集めていたけど、それも実家が政界にかなり力を持っていたから。
自民党の票田でもある、某団体に凄い影響力があると警察関係者が言ってました。
ですが、それが果たして司法(裁判体)にどこまで影響したかは不明ですが・・・。
ちなみに不起 訴になった石川は警視庁のオウム専従捜査員の間で、実家が後藤田元警察庁長官と非常に懇意だったという話が流布していました。
後藤田のみならず、法務検察官僚とも関係があったそうです。
本人が自供しなかったことを差し引いても、状況証拠は黒いのに不起訴・釈放したのは、警察関係者の間でも色々と邪推されてます。
彼が不起訴になったことに対して、他の逮捕された幹部信者の不満は凄まじいですし、
例の国松長官狙撃事件の捜査過程でも複数の獄中信者が石川の関与を匂わせる発言をしています。
>>957 これを言ったらこのスレの価値は無いかもしれないが、人物の評価なんて評価するところが人によって違うから、
みんな違うのは当たり前
べつに日本人で世界に影響力がなかったので、数値が低くなることはないと思う。
ここででているのも、中国史の人物なんか、ほとんど国内でしか戦ってないわけだし、
その中国は対外戦争にはあまり強くなく、しょっちゅう周辺民族に国土を荒される。
欧州にしても、近代以前は人口は少なく、全土合わせて、中国とほぼ同程度、
面積だってロシアいれないと、それほどでもない。
それを考えれば、日本国内だけとはいえ、それなりの業績をのこした偉人の数値は高くてもよい。
時代限定の英雄は8、国を代表する英雄は9、くらいはあげても問題ないと思う。
ただ世界史板なんで、日本史ネタはあまり嬉しくないというのもまた事実。
>>945 別にええやん、
>>944も
>>957も一つの意見だ。
俺もやってみる。
織田信長
【指導】8 家臣団を纏めるのみならずそれをある程度自由に配置できたという組織力は現代的に見ても評価できる。
【戦術】4 戦術的には大した事はない、「大兵に戦術なし」みたいな勝ち方が多かった。
【戦略】9 常に優位を得られる状態に持っていく能力と「どこを味方につけ」「どこで切り捨てるか」の判断に秀でていた。
【内政】8 元々豊かな地に位置したとはいえ政策でそれ以上の経済力を得他国を圧倒した。
【政略】7 謀略はさほど使用していない、むしろ表の政治的存在(皇室や将軍家など)をうまく使った。
【人望】5 支配される側はカリスマではなく権力(とそれを支える経済力や軍事力)に従った感が強い。
戦略7
くらいじゃあないかな。
信長の場合は政治的に大兵力を動員・統率できる状態を作り出したのであって、
戦略的にそういうことをしたわけではないと思う。
戦略としていうならむしろ秀吉の方ではないだろうか。
政略も5か6ではないだろうか。
この点でも特に優れていたという印象はない。
そう考えると、内政は9でもいいかと思うが、
どうしても日本の人物に9をつけるのは身贔屓なのではないかと思って躊躇してしまう。
>>960 なるほど面積人口ともにヨーロッパと中国は大して変わらないが、
その二つと比べると日本は面積も人口もずいぶん少ないぞ。
というか、国内だけといっても中国は周辺に与える影響が甚大だからね。
東アジア全域に北アジア・中央アジアそれから東南アジアにも。
ヨーロッパの場合も古代はローマ帝国という広範囲に影響を及ぼす大帝国があったし、
そして、中世はともかく近世・近代以降は世界に進出し、まさに世界を制した。
この二つにイスラム文化圏を加えた三つが世界史の中心で、
それ以外の地域はどうしても辺境となってしまう。
そういう地域に生まれて、その後中心地域に打って出たならともかく、
その地域内だけで生涯を終えた者は、
どうしても世界史的には低く評価されてしまうのは致し方ないことではあるまいか。
つか、世界史にも日本史にも精通してる人物がいないわけで、
そのおかげで客観的な比較(相対化でも何でも良いけど)ができないんじゃないの?
実際、日本で封建主義というシステム(?)を生み出したってのが、他国のシステムと比較して、
細かく優劣をつけるってのは難しいんでないの?
と、適当に発言してみる。
>>965 確かに、この板で見かける日本史の人物について語ったレスでは、ほとんどが突っ込みたくなるようなのばっかだしな
しかし逆に俺は、世界史をそこまで詳しくないし・・
自分の知識グラウンドに近い人物ほど、高評価にしてしまうのは仕方ない。なんせ俺にいたっては、信長の戦略10だぞ・・
信玄は5ぐらい、家康は6ぐらい、秀吉も6ぐらい。
影響を及ぼした範囲、っていう論法が良く出るけど、
そしたら例えば
日本の人物はどんなに頑張っても
上限が7で下限が3くらいになり、
中国の人物だとちょっとしたことで
10がついたり1がついたりしなきゃいけないんだよな?
「日本史上の人物だろうが中国史上の人物だろうが下限は1ですが、
日本史上の人物は上限7で中国史上の人物は上限10です」
ってことはないよな?
問題は、2chには世界史板と日本史板が二つあって、
ここは世界史板だという一点にあるのだ。
なぜ日本人であるのに日本史を避け、あえて世界史であるのか。
そこに考えが及べば、
日本の歴史人物が比較的点数が辛くなる必然を、納得できるだろう。
969 :
世界@名無史さん:04/11/28 06:25:48
世界史的影響力で語るとどうしても大国もしくはそれに絡んだ人物のみ高評価が行われないかな?
上に信長が出てたけど彼が世界史的に見れば人物的に小物ってことはないと思うけど。
という俺は日本史と中国史かじった程度の知識なんだけどね。
サラディン(アイユーブ朝の創始者)
指導9 死んだ主君の代わりにイスラム軍を団結させ、十字軍を退けた。
戦術5 攻めたというより守ったのだから。
戦略6 意外に低い。城に立てこもって食料がなくなるなど敵に苦しめられた。
内政6 全体的に政治面ではいい。だが奴隷に甘すぎて死後その奴隷に国をとられた。
人望10 味方だけでなく、敵の十字軍も彼の死を悲しんだ。
忘れてたorz
忘れてたorz
政略8 政治家としても優秀。
>>969 当然大国の生まれてその為に世界史に大きな影響を与えた人物の方が好評を受けるよ。
それは仕方が無いことだ。何しろ他の地域と比べられなければ相対的な評価の仕様がない。
実際私は信長が世界史的に評価できる人物とは思わない、
正直あらゆる国毎に1人や2人は必ずいる
「その国の乱世を終結させた(に導いた)人物」の1人に過ぎないわけだし。
それに、中心かそうでないかを考慮しなくとも、
人口面積ともに段違いに大きな中国あたりを統一した人物の方が、
より大きな評価を受ける方が自然だと思うし。
>>973 国の大小と業績はほとんど関係ないぞ?
エリザベス一世は本州とり小さい島と統一しただけだが彼女の業績が評価に値しないものではあるまい。
975 :
世界@名無史さん:04/11/28 12:03:37
各能力値の説明
【指導】 組織を纏める能力。指導者のイメージ。
【戦術】 戦術指揮。前線指揮官のイメージ。
【戦略】 国家戦略・軍事戦略。戦略家のイメージ。
【内政】 政策・行政。官僚のイメージ。
【政略】 謀略・調整・保身。政治家のイメージ。
【人望】 文字通り。カリスマ、あるいは人格者のイメージ。
能力値の基準
0=最悪に無能。
1=とても無能。
2=無能。未経験者の方がましなレベル。
3=苦手。未経験者もこのレベル。
4=凡庸。席を埋めているだけ。
5=大過なく勤まる。
6=有能な人材。
7=国内では一流の人材。
8=国を代表する実力者。
9=時代を代表する天才。
10=世界史を代表する天才。数世紀にひとり。
976 :
世界@名無史さん:04/11/28 12:05:26
日本史に残るクラス(信長はそうだろう)なら8は付けられる、9以上は困難だがそれはどの世界の住民でもそうだ。
半分冗談の一例
昭和天皇
【指導】 3 何もしていない
【戦術】 3 何もしていない
【戦略】 3 何もしていない
【内政】 3 何もしていない
【政略】 3 何もしていない
【人望】 8 とにかく敬愛を受ける存在ではあった。
>>974 そりゃあ当然小国に生まれても、
他国と渡り合い、特にそれに勝利して世界史に大きな影響を及ぼしたなら評価できるよ。
しかし、その国の中だけで行動しただけでは世界史的な評価は出来ないし、
あまつさえ、その国が比較的小国では到底高評価は出来ない。ってこと。
大正天皇
【指導】 1 軍閥・政治家のおもちゃ
【戦術】 3 何もしていない
【戦略】 3 何もしていない
【内政】 9 大正デモクラシーの火付け役
【政略】 1 利用されてばっか
【人望】 8 とにかく敬愛を受ける存在ではあった。
もう少しまともな例
フィデル・カストロ
【指導】 8 実際に国を纏め上げてアメリカの圧力に抗しうる体制を作り上げている
【戦術】 4 軍事革命の実質的な指揮はゲバラがとっていた、そもそも彼は軍人ではない
【戦略】 7 冷戦を利用して巧みに国際的な地歩を固めた
【内政】 4 キューバの国内経済状態はあまりよいとは言えない
【政略】 7 謀略の印象はあまりないがそれはイメージ戦略が巧みな証なのだろう
【人望】 8 未だキューバ国民の多くが彼を支持している
というか、評価の基準を参照すれば明らかなんだよ。
8=国を代表する実力者。
9=時代を代表する天才。
つまり、その人物が活躍した国が時代を代表するような超大国ならともかく、
そうでないなら、原則的に一つの国の中だけに活動範囲が限られる人物は8が最高で、
9まではいかない。ってこと。
>>978 戦国時代は鎖国などありませんでしたが?
西洋の商人も宣教師も多数来ていましたが?
彼らに植民地を作られる恐れすらありましたが?
>>981 小国で大国の圧力に抗しえて国を維持できれば十分9の評価はつけられると思うが?
>>980 カストロの指導は9だろう。
>>978 それだと、世界を舞台に活躍した将軍Aと、
将軍Aがどうあっても勝てなかったが、小国の将軍にすぎず世界的に活躍したわけではない将軍Bとでは、
Aの方が戦術・戦略が高くなってしまうわけだが……
まあ、個々人が自分の評価を発表し合う場なんだから、そんな突き詰めて考える必要もないか。
>>983-984 大国の圧力に抗したり、
世界を舞台として活躍して将軍と渡り合っていたなら、
その人物も世界史的に影響を与えたと言えるでしょう。
ただ、具体的にいえば信長はそうではなかったってこと。
所詮一国内の争いに・・と言い切るのは、日本の戦国時代には合わない
世界史的に見ても、あれほど国内中であまりの無いような、細かく諸勢力・大名などがにらみ合い、となりの地域に行くのすら辛いのは珍しい
ただ国が荒れているのを終結させた人物、と言い切るのは難しく、難度がまるで違う
>>985 ほほう、では300年に渡ってオスマン朝の圧力に抗し続けたモンテネグロは世界史的に影響を与えたのかね。
>>987 自国の歴史だから詳しく知っているってだけでしょう。
結局のところ
>>961の
>別にええやん、
>>944も
>>957も一つの意見だ。
これが真理なのはわかってるのだが、こうも必死なやつがいると相手したくなるw
>>990 信条で現実を曲げるのはどうかとおもうぞ。
まあクソスレだしさっさとうまっちまえ。
梅
楳
糞梅
1000
以下、日本史ネタ禁止
>>992 いや、事実300年間オスマンの攻撃に耐え続けたなら、
そのことがオスマン朝のヨーロッパ侵攻に甚大な影響を与えたのは間違いないだろ?
戦略的意義がなくスルーされていただけだというなら話は別だが、
それだと、この場合の参考にはならない。
というか次スレなどない
日本史ネタは思い入れが強すぎる者が出てくるからなあ。
1001 :
1001:
このスレッドは1000を超えました。
もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。