1 :
世界@名無史さん:
現在の中国人の姓に「姫」という文字は全く見当たらないようですが
春秋戦国時代に大勢居たであろう周の国姓「姫」姓は、その後どうなったのですか?
秦漢以後、たえて見ないのはなぜですか?
虐殺されたのでなければ、憚って改姓でもしたのですか?
それも全員が?
2 :
世界@名無史さん:04/04/28 21:59
2ゲトー
>>1 >秦漢以後、たえて見ないのはなぜですか?
いますよ。周子南君について調べてみて。
4 :
世界@名無史さん:04/04/28 22:16
宮城谷昌光センセがこだわりそうなテーマですな。
5 :
世界@名無史さん:04/04/28 22:19
秦の国姓「エイ」なんて、むちゃ難しい字だ。忘れたけど、商王室の
姓も、現代にはほとんど見られない姓だった気がする。
周さん魯さん鄭さん呉さん唐さん蔡さん燕さん衛さん
みんなもとは姫姓だろうな
楚は、、、
かけない。
ビ姓だったかな。
8げっと
>>7 「ビ」姓、漢字はこうだよね。
―|||―
|
――十――
|
――十――
|
| 「羊+棒一本」で「羊が鳴き声を上げる」の意味からだそうな。
姓と氏の問題だよな。上代の姓のほうを称さなくなっちまった。
『三国志』によく出てくる公孫氏も姫姓だったと聞いたことあるんだが。
11 :
世界@名無史さん:04/04/29 14:50
>>10 「公孫氏」は文字どおり公の孫を呼ぶものですから、いろんな出自の公孫某がいる
わけです。
例の商鞅は衛の庶孫だったので衛国内にいた当時は公孫鞅と呼ばれていましたが、
秦に仕えた時点で秦の人からは出身国を冠して衛鞅と呼ばれることになりました。
彼は秦の改革で成果を挙げたので封邑として商という土地を貰ったことから商鞅と
呼ばれるようになったのです。
春秋時代の諸侯の宗族では公の子は「公子某」と名乗り、その子は「公孫某」と
名乗り、その子の代には祖父の字(あざな)から取って氏とするのが普通でした。
13 :
世界@名無史さん:04/04/29 18:36
14 :
世界@名無史さん:04/04/29 20:05
NHKスペシャルで農民の「姫」さんが登場しているのを
見た記憶があります。たしかオルドスあたりで、村人の
多くが「姫」姓だったような。
元々周王室って殷の西の蛮族みたいなもんだったんだし遠い親戚とかなのかもね
16 :
世界@名無史さん:04/04/29 21:13
>>15 当時の感覚から言って「中国人」だったかどうかは非常にあやしいですな。
「史記」の「周本紀」と「武帝本紀」や「漢書」の「武帝紀」によると漢の武帝が
泰山に封禅しようとした折に、河南で周の後裔を探索したところ、孽子(庶子)筋の
嘉という人物を発見しました。この血筋は衛君の一族らしく周王の嫡孫ではないと
思われます。そして衛が魏の附庸同然となってからは魏に仕え子南侯に封ぜられ、
嘉はその子孫と思われます。武帝は彼を子南君に封じ周の祭祀を奉じさせました。
彼の一族が周の「姓」の姫を氏として称するようになったのは、この元鼎四年から
始まったことです。「漢書」の「外戚恩澤侯表」には元封四年には姫置が子南君を
嗣ぎ、次いで昭帝の始元四年には姫當が嗣いだのですが、宣帝の地節三年には家丞を
殺したことから棄市の刑に処せられました。元康元年には當の弟で嘉の孫となる
姫延年が嗣ぎましたが、元帝の初元五年に周の承休侯に進封され位は諸侯王の次と
されました。承休は潁川郡に所在します。建昭三年には姫安が嗣ぎ成帝の陽朔二年に
姫世が嗣ぎました。永始二年には姫當が嗣ぎ綏和元年には進爵して承休公となり、
平帝の元始四年には鄭公に進みました。王莽の時代には章牟公に封ぜられました。
「漢書」の「王莽傳」には姫當を姫黨に章牟公を章平公に作っています。姫當は
既に出ていますので姫黨が正しいのでしょう。天鳳元年には姫常が嗣ぎ後漢の建武
二年には光武帝から元どおり周の承休侯に改封されます。同五年には姫武が嗣ぎ
同十三年には承休公に進爵します。これ以後の継襲は不明です。恐らく三國から
五胡の乱くらいまでには絶えてしまったのでしょう。
18 :
世界@名無史さん:04/05/01 10:29
当時の姓というのはどの階層までもっていたのですか?
例えば諸侯クラスと庶民が同じ姓でも同族として
婚姻(この場合妾か)はタブーしされていたのでしょうか?
始皇帝の母親が趙姫っていうのは
趙国出身の娘くらいの意味ですよね,多分。
姓はなかったのかな。
>>17 その後の事ですが、後漢書光武帝紀と続漢書百官志によれば、
光武帝の建武13年2月に周承休公姫武が衛公に改められます。
(続漢書では名は常、漢書外戚恩沢侯表によれば武)
その後、衛公は晋の武帝泰始7年(晋書武帝紀)にも名が見え、おそらくその間は継続していたと思われます。
しかし晋書成帝紀、成康2年10月に成帝は衛公・山陽公が戦乱で絶えた事を述べて後継を探せと詔しているので、
あやめ氏の言うように西晋末の乱で一度は絶えたようです。
20 :
世界@名無史さん:04/05/01 16:07
夏王朝や殷王朝の姓はなんですか?
21 :
世界@名無史さん:04/05/01 16:24
檀君朝鮮(단군조선) BC2333-BC1122 桓姓(환성)解氏(해씨)
箕子朝鮮(기자조선) BC1122-BC194 子姓(자성)箕氏(기씨)
衞滿朝鮮(위만조선) BC194-BC108 姫姓(희성)衞氏(위씨)
樂浪郡(악랑군) BC108-313
新羅(신라) BC57-935 朴氏(박씨)→昔氏(석씨)→金氏(김씨)
高句麗(고구려)→高麗(고려) BC37-668 高氏(고씨)
百濟(백제) BC18-662 扶餘氏(부여씨)
渤海(발해) 698-926 大氏(대씨)
後百濟(후백제) 892-935 甄氏(견씨)
後高句麗(후고구려)→摩震(마진)→泰封(태봉) 894-918 金氏(김씨)
高麗(고려) 918-1392 王氏(왕씨)
朝鮮(조선) 1392-1897 李氏(이씨)
大韓帝國(대한제국) 1897-1910 李氏(이씨)
22 :
世界@名無史さん:04/05/01 16:35
>20
殷は「子」氏。殷滅亡後も周朝のもとで宋として生き残り、その間「覇者」にもなった。
夏朝の諸侯として勃興し、夏朝滅亡後自らが天子となり、
天子の座を追われた後は再び諸侯として生き残り、子氏は1,000年以上繁栄したのか。
23 :
世界@名無史さん:04/05/01 16:52
殷の「子」は、「氏」なの「姓」なの?
24 :
世界@名無史さん:04/05/01 18:03
>23
姓だと思う。
怨霊さん有難うございました、「後漢書(+續漢書)」はこれから調べるつもりで、
書庫から持ってきてはいたんですが一手間省けました。
さて「晉書」ですが「劉聰載記」と「石勒載記」に姫澹という人物が出てきます。
また彼は「魏書」の「穆帝序紀」や「穆帝長子六脩傳」や「衛操傳」にも見えます。
ところが「晉書」でも「劉琨傳」では箕澹に作っていて、「資治通鑑」もこちらを
採用しています。しかし呉士鑑・劉承幹著の「晉書斠注」は敦煌石室本の「晉紀」も
姫澹に作っていると指摘していて、強ち箕澹が正しいとも決めかねるようです。
そこで姫澹の経歴ですが上記諸文献を綜合すると、晉の征北將軍の衛瓘(蜀が魏に
滅ぼされるところに出てきますね) の牙門將で代郡出身の衛操の同郷かつ同僚で、
拓跋氏の宗室の郷親であったそうで、どうも漢の承休公の縁戚ではなさそうです。
彼は衛操と共に代に帰国し拓跋猗他に仕え、勇績を著わして信義將軍を授けられ
樓煩侯に封ぜられました。
永嘉六年に晉の平北将軍・并州牧の劉琨は漢の劉聰を討とうとして逆に本拠の晉陽を
奪われてしまいます。劉琨は代公の猗盧に救援を要請し猗盧は子の六修と兄の子の
普根に將軍の衛雄・范班・姫澹を先鋒とし、自らも二十萬の衆を率いて晉陽に向かい
漢の中山王の劉曜を汾東と藍谷に破り、劉琨のために晉陽を奪還したうえ馬牛羊を
各千餘匹に車百乘を遣り、姫澹と段繁を留めて晉陽を戍もらせ帰国しました。
その数年後に代では六修が猗盧を弑し普根に誅される内乱が起こり、不安を感じた
姫澹は劉琨の子で代に人質となっていた劉遵を始めとし、晉人・烏丸三萬家と馬牛羊
十萬頭を率いて劉琨の下に投じました。琨は大いに喜び親しく平城に赴いてこれを
撫納しました。
建興四年に石勒から攻められた楽平を新附の晉人を率いて救援しようとした劉琨を、
姫澹は「この連中は長らく異域に暮らし明公の徳にまだ懐いていません、もう少し
時機を待ちましょう」と諫めましたが、琨は聴き入れず澹を先鋒として歩騎二萬を
率いて向かわせます。石勒は疑兵を山上に設け軽騎を出して迎撃し偽り敗走して
伏中に誘い込み、前後から姫澹を挟撃して大いにこれを破りました。劉琨は為す
術なく幽州に走り段匹テイ(石偏に單)に頼ります。姫澹は石勒の将の孔萇に追われ
桑乾で戦死しました。
>>23 子は「姓」です。序に言うと夏の「姓」は姒です。
28 :
世界@名無史さん:04/05/01 21:36
>>13 「屈」は王族が封ぜられたできた家ですので氏ですね。
そうです。本家の楚王室は「姓」は羋ですが熊氏です。金文などでは酓氏と
なっています。
30 :
世界@名無史さん:04/05/01 22:13
あやめまだ居たのか。
姫氏はこの後も時々著われます。明代くらいまでは史書に見かけます。
32 :
世界@名無史さん:04/05/01 23:25
斉の場合は、「姜」が姓で、「呂」が氏ですか?
そのとおりです。但し実際に使用するシーンはなかったようです。
前すれにも書きましたが國君に対し天子が呼びかける場合は國名を名に
冠したもののようです。また齊の家臣が神様にお祈りする文句の中で
主君の靈公を「齊環」と呼んでいる例もあります。しかし呂某などと
名乗った事例は見当たりません。田齊や三晉の君主も自分の氏は当然
承知していたと思われますが、田某とか魏某とか呼称していたとする
記録は残っていません。
唯一の例外が楚で「史記」の「楚世家」を見れば判るように、熊麗を
始め歴代の君主が「熊某」と名乗っていたように記載されています。
金文でも酓章とか酓カン(干の下に心)とか書いています。酓は飲と
同じ字ですが恐らく熊と通仮して同音であったと考えられます。なぜ
楚だけがこのような風習だったのか不明です。
近現代はともかくとして、時代的には「姜子牙」よりも「呂尚」の方が正しい使い方なのでしょうか?>あやめ先生
35 :
世界@名無史さん:04/05/02 07:49
田斉の姓って何?
36 :
世界@名無史さん:04/05/02 07:51
漢以降の王朝には姓はないの?
37 :
世界@名無史さん:04/05/02 08:52
>36
漢以降は氏素性の知れん香具師が王朝たててるからな。
田斉の祖は陳から亡命者だから[女爲]姓じゃないの
>>35 田齊の「姓」は嬀です。「史記」の「陳杞世家」と「田敬仲完世家」に
依ると、舜が堯の二女を娶って嬀汭というところに居たので嬀を「姓」と
定めたということです。周の武王が舜の後裔を探し出して陳に封じたのが
陳國の初代で、その子孫の詞の子の完は陳の内紛で身の危険を感じて
齊に逃亡したところ、重臣に取り立てられ以後も代々齊の政権中枢に在り
遂には齊を乗っ取ってしまったのです。陳完は齊に仕えるようになってから
田氏を称するようになりました。陳と田の音が近いからとか田という所に
采邑を貰ったからとか説明されてますが、どっちが正しいかは不明です。
>>34 太公望の名というのも結構やっかいな部分があります。「史記」の「齊太公世家」に
「索隱」に引かれた譙周の説では「姓は姜、名は牙、炎帝の裔にして伯夷の後なり、
四岳を掌りて功あり、之を呂に封ず、子孫は其の封に從て姓とす、尚は其の後なり」と
ありますが、「集解」は「文王は之を渭の濱に得て『吾が先君の太公は子を望むこと
久しかりし矣』と云へり、故に太公望と號す、蓋し牙は是れ字にして尚は是れ其の名なり、
後に武王は號して師尚父と爲せりし也 」とあって、一応は望は号で尚が名で牙が字と
理解できますが、普通は太公のような称号の次には名を付けるものだし、師尚父の尚は
「尊敬すべき」という形容詞で固有名詞というよりは尊称とも取れます。また尚父の父は
一般に字(あざな)の下に付けるものですので尚は字ではないかとも解釈できます。
概して春秋より前の人の名を呼称の性格によって切り分けるのには往々にして困難が伴う
場合があります。
>>36 戦国時代の紛乱で普通以下の家柄の人は正確な「姓」の伝承を失ってしまい、
また婚姻制度を支える家族集団の形態も頗る変化を来たしてしまいました。
諸侯や大夫などで春秋以前からの筋目を維持している家系以外は「姓」を
意識することは極めて稀だったでしょう。
漢の高祖は堯の後裔だと称していますので「姓」は祁です。そして晉の士會の
後裔とする系図がでっちあげられたようです。
当時の人の意識にあった劉氏は恐らく周の王家に仕えた重臣の家系であって、
「姓」は姫でした。
これ以後の王朝の始祖もきちんとした先祖からの伝承などなかったので、「姓」は
自家の家系に箔を付ける以上の意味はなくなってしまったのです。しかしどんな
時代にもルーツ探しの要望は絶えず偉い人との結び付きへの希求も尽きないもので、
後世の姓氏関係の書物には大抵「某氏は古代の聖帝誰それの子孫」と書いてあって、
「そうか、おいらは黄帝の子孫だったんだー!」と判るようになってます。
>>14 でオルドスのある村で村民が全て姫という苗字だったという報告は関心を
引かれます。代(山西省の最北部)の出身とされる姫澹の一族と関係があるかも。
43 :
世界@名無史さん:04/05/02 16:04
始皇帝の秦には、「氏」はないの?
趙氏ということは「史記」の「秦始皇本紀」に明記されています。
たしか「淮南子」にも「趙政」とあったように記憶します。
「淮南子」に「人間訓」に「秦王趙政は天下を兼呑して而かも亡ぶ」
「泰族訓」には「趙政は晝は獄を決して夜は書を理む」とあります。
漢初には始皇帝が趙という苗字だったことは常識だったみたいです。
47 :
世界@名無史さん:04/05/02 17:44
48 :
世界@名無史さん:04/05/02 19:09
>>44-46 有り難う。
ついでに「夏」「殷(商)」「周」や春秋戦国の諸侯の姓と氏もできる限り教えて下さい。
49 :
世界@名無史さん:04/05/03 00:28
>>41 春秋時代から婚姻規制は崩れていたけどね。特に晋の公室は酷い。
50 :
世界@名無史さん:04/05/03 01:16
怨霊発見!駆逐します!
>>50 ここはお前の来るところではない。
三戦板へカエレ!
52 :
世界@名無史さん:04/05/03 19:53
>>21 >檀君朝鮮(단군조선) BC2333-BC1122 桓姓(환성)解氏(해씨)
>箕子朝鮮(기자조선) BC1122-BC194 子姓(자성)箕氏(기씨)
>衞滿朝鮮(위만조선) BC194-BC108 姫姓(희성)衞氏(위씨)
この辺の姓って本当なの?
なんか中国の殷周なんかと同じみたいだけど。
衛満は中国人だから本当でしょうが…
そういえば、朝鮮半島の「姜」って苗字は
どういう素性の連中?山東からの流れ者?
55 :
世界@名無史さん:04/05/03 21:46
怨霊の臭いがするぞ
56 :
世界@名無史さん:04/05/04 00:00
衞滿は苗字から考えて衞國の公族の後裔であろう、そして衞國の先祖は
周の武王の周の武王の同母少弟だから当然に「姓」は姫であろう、という
推定からでしょう。
「周の武王の」がだぶっちゃった、何でだろう
鶴の恩返し
60 :
世界@名無史さん:04/05/04 20:32
じゃあ仮に実在したとして、箕子が子姓なのは根拠あるの?
箕子が殷の紂王の親戚で周の武王によって朝鮮に封ぜられたことは「史記」の
「宋微子世家」に出ています。殷の王族だから「姓」は子なんです。
殷の姓が「子」だというのは古伝に「子○」と
いう人物が多いことから出た憶測説。
実はこの「子」は王族であることを表わす称号。
・・・という説があったと思うが、如何?
殷の「姓」が子というのは従来の古典解釈による説です。近来の甲骨文研究の
成果から殷の貴族は王子の子孫たちから構成される「多子」族が中核をなし、
彼等は「子某」と称されていたことから、殷は子姓と認識されるようになったと
思われます。
65 :
世界@名無史さん:04/05/05 03:26
陳勝は単に、「陳の人間」というほどの意味だったと思われ
66 :
世界@名無史さん:04/05/05 14:11
「王」姓の人間は、どっかの王族末裔ということですか?
67 :
世界@名無史さん:04/05/05 18:32
王氏はいろんな系統があってある本には数十の源緒があるとか書いてありました。
家柄がやかましかった六朝の時代に陽夏の謝氏と並んで第一級の名家と称された
瑯琊の王氏は、周の靈王の子の子晉が父から廃されて庶人となり山東に移住した
後に、土地の人民から周王の家族であるということから王家と尊崇されたので、
王を氏としたということです。周王の血統ですから「姓」は姫というわけです。
夏・殷・周・秦・漢と先祖調べをしてきましたので漢を奪った新の王氏についても
述べておきましょう。「漢書」の「元后傳」と「王莽傳」によると王莽は黄帝の
後裔と称していたようです。黄帝の「姓」は姚で八世の子孫が舜ということです。
舜の「姓」が嬀であることは前のレスに既に書きました。そしてその後裔が周で
陳公となり更に田齊の王となった経緯は
>>39を参照してください。田齊は王建の
代に秦に滅ぼされてしまいました。建の孫の安は項羽から濟北王に封ぜられ
漢の世になって国を失ったのですが、齊の人たちから「王家」と呼ばれたので
王氏を称することにしました。安の孫の遂の子の賀は魏郡の元城に移住します。
賀の子の禁は法律を学んで廷尉の史つまり裁判所書記官となりました。宣帝の
本始三年に禁は政君という娘を儲けました。彼女こそ元帝の皇后となり元城の
王氏一門に栄華を齎した元后その人です。王莽はこの元后の弟の曼の子という
わけなのです。
王莽は即位すると姚・嬀・陳・田・王の五氏は同族であるから宗室であるとし、自分の
出自の元城の王氏とは相互に嫁つぎも娶とりもしてはならないと命じました。但し
王氏であっても元城を本貫としない者は除外されます。また陳崇という人物を封じ
統睦侯として春秋の陳國を継がせ、田豐を世睦侯に封じ田齊を継がせています。
王莽の妻は王氏なんですよね・・・
>王氏であっても元城を本貫としない者は除外
これに該当していることになっていたのでしょうけど。
71 :
世界@名無史さん:04/05/06 00:35
貴族姓は唐滅亡⇒宋の頃、ほぼ消滅して中国は完全科挙社会に?
よって、その頃「姓」は完全消滅?
72 :
世界@名無史さん:04/05/06 00:36
貴族制は唐滅亡⇒宋の頃、ほぼ消滅して中国は完全科挙社会に?
よって、その頃「姓」は完全消滅?
「姓」は漢代で完全消滅といってよいでしょう。「氏」と混同して溶解して終ったのです。
「氏」に寄生して保存されたと言うべきかもしれません。
74 :
世界@名無史さん:04/05/06 14:52
日本と中国の、古代における「姓」「氏」の異同はいかなるものでしょうか?
中国の「姓」は氏族もしくは部族の名称。
「氏」はそのサブグループ(領地、官職名などを自称)。?
日本の「姓」は朝廷から地位を認められた豪族に与えられた称号。
「氏」は氏族の名称。
「苗字」は、「氏」のサブグループ(領地、官職名などを自称)。?
ということでしょうか?
75 :
世界@名無史さん:04/05/06 14:55
高貴な女性のことを「姫」という漢字で表すのは、
もともと周王室の公主を指していてためですか?
「周囲」「周辺」という言葉は、
周が天下であったためですか?
76 :
世界@名無史さん:04/05/06 15:53
耶律という姓の中国人は残っていないの?
>>74 大雑把に言えばそんなとこですが、歴史的な形成過程から説かないと誤解を
生ずる惧れもありますので、もう少しあとに纏めて書きます。
>>75 前段はそう解してよいでしょう。
後段は逆でしょう。たしか宮崎さんの書かれたものに周の国号について論じた
ものがあったと記憶します。見つかったら報告します。
>>76 いるかもしれませんよ。「趙銭孫李」(上海古籍出版社刊)という漢民族の姓氏
文化について書いた本の著者は何と完顔紹元という金王室の後裔かと思われる
名の人でした。もちろん現代人です。
78 :
世界@名無史さん:04/05/06 17:39
二文字姓は必ず非漢民族末裔
79 :
世界@名無史さん:04/05/06 17:48
安は全員、安息国=パルティアから来た人間の末裔。
馬はマホメットで、全員、渡来したイスラム教徒の末裔。
80 :
世界@名無史さん:04/05/06 17:51
元を滅ぼした明が、
胡語、胡服、胡姓、胡人同士の婚姻(漢族との婚姻を強制)を禁じたらしい・・・
>>78 とも限りません。古代には複姓が多く見られます。
>>79 全員ということはないでしょう。
前漢に既に馬姓はいますよ。
学生時代に留学生に「淳于」姓の人がいたのを見て少しうれしかった。
83 :
世界@名無史さん:04/05/06 19:11
中国の古代国家の「韓」と、朝鮮半島の国家・民族を表す「韓」とは、何かの関係が有るのですか?
84 :
世界@名無史さん:04/05/06 19:15
古代中国では、
「士」(=古代都市国家ギリシャ・ローマでいう「市民」に当たる)
でない一般民衆には姓が無かったのですか?
> 二文字姓は必ず非漢民族末裔
司馬、欧陽、諸葛、公孫あたりを無視して
そんな軽率なこと言っちゃダメよ
86 :
世界@名無史さん:04/05/06 21:41
そういえば、項羽の項氏って残ってるのかな?
楚だけの珍しい氏なのか?
ちょっと思い浮かんだのは墨林居士と号して書画に巧みだった明の項元忭
(たしかこういう字の名だったと記憶)くらいですね。でもたぶん今もいると
思いますよ。
88 :
世界@名無史さん:04/05/06 23:30
姫鵬飛
って言う外務大臣がいたよ。
丁度日中国交正常化時の外務大臣で日本では田中角栄首相の時ね。
その後彼は中日友好協会の会長なんかをやってたはず
>>84 大分昔になりますが「古代の庶民には氏がなかった」「いや有った」という
論争がなされたように記憶します。詳細忘却。
南宋の鄭樵が著した「氏族略」に「(夏商周)三代以前には……氏は貴賎を別つ
所以なり、貴き者は氏有り、賎しき者は名有りて氏無し」と説明しています。
戦国時代くらいには庶民でも皆な氏を称していたのではないかと考えますが、
奴隷は無かったかもしれません。
91 :
世界@名無史さん:04/05/07 14:12
周王室は最後どうなったのですか?
象徴天皇みたいになっていって、最後に廃されたのですか?
>>91 秦に滅ぼされたんですが。
天皇というより、足利氏みたいな感じかな?
93 :
世界@名無史さん:04/05/08 01:04
>>91 戦国時代の紀元前370年頃、後継者争いに三晋が介入したために
東西に分裂、(王号は西周のみが保持していたと思う)
その後もなんだかんだと土地を削られ続け、35代顕王のころまでは
一応の権威はあったが諸国が王号を名乗るようになるとそれも失われ、
周囲の国のご機嫌を伺って細々と生き延びるようになる。
で、37代タン王の時、秦にケンカを売って大敗、王は無条件降伏して
土地と人民を全て秦王(昭襄王)に献上する。(人民の多くは東周に逃げたとも言われる)
この時点で王朝としての周は滅亡したと言われる。
いわば亡命政権、あるいは残党とも言える東周はわずかその数年後に秦に滅ぼされる。
ここに周は完全に滅亡。(このときは荘襄王、呂不韋コンビの時代)
公族は皆殺しにはされなかったようだが、秦末の混乱期に
周が再建されなかったところをみると、もはや国としての力も命脈も完全に失ったようだ。
94 :
世界@名無史さん:04/05/08 02:27
周という姓の人は周王室末裔ということ?
殷や商という姓の中国人は居ないの?
95 :
世界@名無史さん:04/05/08 02:31
周富徳 真ん中の字だけなぜか訓読み
96 :
世界@名無史さん:04/05/08 03:27
↑
既に日本国民?
王貞治も下の2文字とも訓読みだからどうだっていいじゃないか
98 :
世界@名無史さん:04/05/08 07:24
>ここに周は完全に滅亡。(このときは荘襄王、呂不韋コンビの時代)
始皇帝の親父(どちらが親父かはさておき)も結構武断的なんだな。
荘襄王は治世が短くあんまり治績が目立たないけど。
99 :
世界@名無史さん:04/05/08 08:39
↑
儒家はその不敬行為を糾弾したの?
>>98 >始皇帝の親父(どちらが親父かはさておき)
いい表現だな。
東周恵公が秦に滅ぼされたのは、確かに秦の荘襄王の元年だが、
洛邑を併合した昭王の政策をそのまま引き継いだ感じがする。
前々王の引いたルートをなぞるだけなら武断的と言い難いかと。
秦の歴史を見ると、昭王とその曾孫の始皇帝の業績がデカク見えるよ。
102 :
世界@名無史さん:04/05/09 19:27
>>93 周滅亡時に
九鼎を水に沈めたのは
周室自身ですか?
それとも秦軍ですか?
103 :
世界@名無史さん:04/05/09 20:23
>101
昭王が超長生きで(在位60年を越してたな)、息子が1年、孫が3年の
在位では業績を残すのに時間が無さ過ぎる。
つーか秦の天下統一は昭王が引いた既定路線で、曾孫の始皇帝もそのルートをなぞっただけとも。
ただ、天下統一の形態が六国の王を臣下として秦王がその上に皇帝として君臨するわけでも
六国の王を廃して換わりに秦の皇族を王として配するわけでもなく、強力な中央集権制を敷いたのは
始皇帝の独自の発想とは思うが。
104 :
世界@名無史さん:04/05/09 20:55
郡県制は、既に戦国七雄全ての国内で施行されていたのでは?
>104
そうだとすると戦国四君は
存在できなかったんじゃないだろうか?
業績について一言。在位期間が長い事も業績のひとつだと思うよ。
短命で終わったのは流石に運が悪かったとしか言いようがない。
郡県制はまだ一部の地方に実施されてた程度に過ぎない。
さすがに全ての国にはなかった。まばら状態で存在したと考えていい。
始皇帝の偉大な所は、一部にしか実施されてなかった郡県制に着目して
統一後に全国規模で採用した事かと。保守的な君主には無理だと思うよ。
始皇帝は国同士は大勢が決着してたからまあ普通だとしても国内を完璧に押さえ込んだ手腕が凄いと思う
108 :
世界@名無史さん:04/05/10 03:07
↑
「完璧」じゃないよ。
3代で滅んだ。
秦が存続して腐儒どもを完全アボンできていたら、中国は科学が発達していたのに
109 :
世界@名無史さん:04/05/10 03:12
始皇帝は押さえ込んだ
その後の後継者がヘボかっただけだろ
111 :
世界@名無史さん:04/05/10 04:50
秦の王族は全員あぼーんされたの?
>111
あぼーんつーか、後継者争いのうちに全員あぼーんって感じだったなぁ。
宦官とタッグを組んだバカ息子が、兄弟姉妹全員殺しちゃったんだよね。
んで、そのあとバカ息子もあぼーんされちゃったから、目ぼしい王族は
いなくなっちゃった。
113 :
世界@名無史さん:04/05/10 12:55
「楚」という姓は無いのですか?
皇子を各地の王に封建しておけば、
誰かが在地勢力に担がれて生き残ったかもね。
可能性は低そうですが。
それで再分裂、その方が東アジアのためには良かったも。
で今頃EUばりに統合を進めていたりして。
115 :
世界@名無史さん:04/05/10 15:24
広大な内陸部に塩を流通させ、
東西に流れる大河を治水するためには中央集権が必要だったとか?
116 :
世界@名無史さん:04/05/10 23:07
女ヘンの姫が姓と言うとことは、
古代中国では女系相続だった?
>>116 商の始祖の契(だったっけ?)や周の始祖の棄(后稷)の誕生は感精神話だから、
その可能性が高いと思われます。
119 :
世界@名無史さん:04/05/11 01:59
ある音に「女」をつけて姓を表すことが多いだけでしょ。
嬀、娰、姞、嬴、姜などは姓号にしか使われない字。
女偏だけで女系相続と断定するのは無理だと思うけど。
姫姓は、周の始祖・后稷の名「棄」の音を取って姓号とし、
同音の「姫」で表した、とか、稷(きび)を意味する「臣(い)」
(実際の字形はちょっと違う)に女偏をくっつけて姓号とした、
という説があるがよくわかっていない。
めぼしい王族・・・嫡孫が居たじゃん。
さらに先祖にされてる黄帝が姫水(どこかわからない)で
育ったから「姫姓」を名乗った、というのは戦国時代に
できた話。
『大戴禮』の系図上では、
黄帝−少昊−虫喬極−帝嚳−帝摯・帝堯・契・后稷
122 :
世界@名無史さん:04/05/11 02:53
姓も女偏ゆえ女系相続?
123 :
世界@名無史さん:04/05/12 07:31
中国の姓は、もともと出身地の地域集団・血縁集団だったの?
古代中国の都市国家の城内には、1ないし数個の支配氏族が居て、
それが「姓」だったのですか?
現在も一つの姓だけで構成されてる村は珍しくないですよ。
太古からの伝統的な習慣ですね。妻を娶るときは族外婚になる訳だし。
地域集団=血縁集団が姓になります>古代中国
村の規模が大きくなって、他の地域の部族と連合しながら発展して
次第に邑ができます。後世周囲を城壁で囲むようになったのが国。
だから、邑や国は少数の豪族で寡占支配するパターンが多い。
日本の場合は地域集団が血縁集団に必ずしも繋がらない。
125 :
世界@名無史さん:04/05/14 05:59
疑問
昔は漢字書ける人が少なかったのに、どーして漢字の姓名をつけることができたんでしゅか?
同じ発音だったら、別の漢字の姓名で書き表してしまうこともできたんではないですか?
>>125 どんな集落や邑内でも、文字を書ける者も読める者もいると思うけど?
>>125 だから秦と趙みたいなのがあると思うんだが
128 :
世界@名無史さん:04/05/14 22:22
>>126 でも、当時の中国語は(漢字が多すぎて)ラテン語やギリシア語より難しかったわけだから
読み書きできる人は、(過半の時代では)数人に一人くらいしかいないわけです。
数人に一人の識者を連れてこなければ、同姓同名が判別できないなんて不便ですね。
129 :
世界@名無史さん:04/05/14 22:27
>>127 でも、小声で言われたらよく判らなかったりで
やはり大層不便だったはずです。往時の人にとっても。
そういえば、魯迅は中国の後進性の原因を漢字にあるとし
毛沢東は、漢字よりもローマ字を中国の常用字にしようとしたそうですけど
実現しなかったとのことです。
130 :
世界@名無史さん:04/05/14 22:30
日本でも六助と禄介、五平と吾兵のようなパターンがあったと思うが。
>130
そりゃ、漢字と漢語を導入したから起きた問題じゃないか。
問題の起源は中国発。
132 :
世界@名無史さん:04/05/14 22:59
>秦と趙みたいなのがあると思うんだが
↑すいません。これってどういう意味ですか?
>>125 心配無用。漢字発生時に使われた太古の漢字は今よりはるかに少ない。
現在使われてるのは、王朝が生まれてから作られた物がほとんど。
同じ発音なら同じ字が当てられる。むしろ違う字で同じ発音になる方が珍しい。
128が言ってる「当時」は有史以後のことを指してると思われ。
134 :
世界@名無史さん:04/05/15 17:57
>>133 >128が言ってる「当時」は有史以後のことを指してると思われ。
簡単な漢字を用いた初等中国語の読み書きは多くの人ができたでしょう。
しかし、あの複雑な膨大な漢字を8割から9割がた自在に操れるような方は
秦から清末に至るまで至って少なかったと思いますよ。
>むしろ違う字で同じ発音になる方が珍しい。
現地の人にも不便極まりなかったと思いますよ。
僅かな発音の違いから意味を分別しないといけないなんて。
異音同義、同音異義なんてこともあるから、○○&××の会話筆談説みたいなのができたんだと思う。
136 :
世界@名無史さん:04/05/15 18:10
だから、中共は識字率を高めようと簡体字を作った。
どうにもならないくらい複雑な漢字が山のようにあり
それが、中国の文化の発展を妨げていた。
しかも、日本語などと違ってあちらでは全て表意文字だけで読み書きするから
漢字を書けないと著しく表現力が低下する。
137 :
世界@名無史さん:04/05/16 01:06
せっかく注音字母を考案したのに最近はあまり使われていないな・・・
138 :
世界@名無史さん:04/05/16 01:43
日本語には、表意文字と表音文字がある。
文章を作成するにあたって、漢字をド忘れすれば、平仮名・片仮名で代用できる。
中国人は、漢字忘れたらどうするんだ!!!???
教えてくれ!!
140 :
世界@名無史さん:04/05/16 03:49
>>133 そうだね。
中国語は声調言語だから、漢字が複雑化する以前の古代だと、声調も含めて発音が全く同じという漢字はあまりないはず。
141 :
世界@名無史さん:04/05/16 03:50
むしろ、声調言語だから区別できていた漢字を、声調がないのに取り入れてしまった日本語や韓国語のほうが同音異義語に苦しむわけだが。
>138
必死で思い出すんだろう。
143 :
世界@名無史さん:04/05/16 04:27
世界各地の華人のパスポート
ローマ字表記バラバラ
144 :
世界@名無史さん:04/05/16 04:29
>138
ピンインか?
145 :
世界@名無史さん:04/05/16 04:36
>138
知り合いの中国人(湖北省出身の技術研修生)がいうには、
漢字ど忘れしたらピンインで代用すると言ってた。
もちろん正式文書じゃなくて、メモ程度の走り書きの場合だけど。
146 :
世界@名無史さん:04/05/16 05:44
台湾の場合は、あのへんな発音記号みたいなの使うのだろうか?
>>132 秦と趙は今では発音もちがう別の文字だけど
古くは発音が同じだった(先秦上古音)ってことだろ
ちなみに秦氏と趙氏はともに「贏」姓だけど、
秦・趙・贏の3文字はすべて古くは発音が同じか
少なくとも似ていた可能性が高い。
148 :
世界@名無史さん:04/05/16 20:30
朱元璋も劉邦も貧家の親が、もとからそんな偉そうな名はつけられていなかったと思われ
農民の子は、ただ単に「三(3男)」とか「季(末っ子)」というような名前しかついていなかったらしい。
中国朝鮮女性には名前そのものが無かったというが本当だろうか?
「三娘(三女)」とでも呼んでいたのだろうか?
でもベッドの中ではどう呼んでいたのか?
「阿三」とでも呼んでいたのか?
劉邦は「劉あにぃ」とかいう意味じゃなかったか?
150 :
世界@名無史さん:04/05/16 21:06
平安時代の日本より凄い
151 :
世界@名無史さん:04/05/16 21:14
朱元璋の初名は朱重八。
152 :
世界@名無史さん:04/05/16 21:16
父親は劉太公、父上ぐらいの意味、母はオウ(婆さん)
長兄は伯(長男)、次兄は仲(次男)、本人は季(末っ子)
なぜか弟だけ交と言うまともな名前。
普通こう言う場合四男が季で三男は叔なのが疑問。
邦は出世してからつけてもらった名前らしいです。
まあ庶民は男女問わずまともな名前がないこともあったのでしょう。
女性は確かに名前が泣く嫁入り先では姓で呼ばれたらしい。
で姫姓の高貴な女性が行くと姫と呼ばれ、いつしか高貴な女性を意味するようになった。
これはローマでもにたようなことがあって、同じ氏族の女性は叔母も姪も姉妹もみんな同じ名前。
ユリウス氏族の女性は全部ユリアとか。
いつ頃までそうだったかはよく知りません。
父 曰 太 公 ,母 曰 劉 媼
つーかそもそも名前なんて適当でいいわけだろ、
前近代では人間というのは近代的個人ではなく
共同体の一部にすぎないわけだから、名前なんかどうでも
どこの誰かは皆に自明の理として明解にわかられてるわけだから
警察の捜査にもたいして障害にならなかった。
江戸時代の日本だって庶民レベルじゃ似たような情況だよ。
「名のある人物」なんて表現がどんなに重いか現代人にはわからなく
なってるけど、名前が固定してるというのは社会的に高い地位に
ついてる人だけ。あとは有象無象でゴミみたいなもんだよ。
つかさ、世界的にみて、姓はもちろん
ファミリーネームを持っていない
人口ってのはどのくらいになるんだろうか?
東南アジアはファミリーネームがないから
それなりの数にはなるはずだ。
アラブ圏、イラン圏もファミリーネームはないよ。
イラン人なんか見栄っぱりだから「イランにも姓はある」と言い張るけど
詳しく話をきくと親父の名前をファミリーネームにしてるだけ。
158 :
世界@名無史さん:04/05/17 04:55
ホメイニという姓は、ホメイン村に生まれたというのでつけただけだったか?
彼の父はインドからの流れ者ではなかったかと思う・・・
史記&漢書の張釈之列伝(文帝のころの人)を見ると字は季、兄は仲とあります。
この様子だと正式な名前がないのは劉邦一族だけでもなさそうな。
日本とか朝鮮、ケルト、ゲルマンなどは個人名があって後に家族名が生じたように思います。
特にゲルマン系などは同名の人と区分するために地名とか官職名ちかを名乗ったり、
あだ名がついたりして、それを子供が受けつだりしていつしか家族名になったような感が。
今家族名がないところは何らかの理由でそう言う動きが生じなかったんでしょう。
だれそれの息子だれそれが何時の間にか家族名になったところもありますね。
日本の姓は本来天皇家から与えられるもので官職的意味合いもあった。
○○臣とか××連△△首とか。
その後に出来た名字は名乗りで親子兄弟で違うことも多かったが、いつしか継承されるものとなった。
そしてそのうちにみんなごっちゃになって、苗字=家族名となったのでは?
それに対して中国やローマは氏族名がまずあって、
その中で個人を区別するために後で名前が出来たような気がします。
中国だって庶民は必ずしも姓氏がなかったし、名前はさらにいい加減。
古代中国においては、後世へ記録を残すことに大きな意義を持ってたから
姓名が生まれて複雑化したのかもしれんねぇ・・・。
そうじゃないだろ。
春秋以前の貴族層が姓氏をもったのは目前の必要(=宗族制)に
せまられてたから。
それが漢代になってから庶民にも普及したのは儒教を政府がバックアップしたから。
164 :
世界@名無史さん:04/05/18 07:43
陳勝というのは、単に「陳の人であるショウさん」じゃなかったか?
陳に住んでる「渉」さんだよ。
「陳勝」ってのは偉くなってから自分でつけた。
166 :
世界@名無史さん:04/05/18 19:32
「渉」と「勝」は全く同じ発音なのですか?
「陳」などの国名・地名である姓というのは、日本でいう「苗字」に近いものということですか?
「国家」という漢語について。
『論語』の書かれた時代には「邦家」という語だったが、
劉邦が皇帝になったので、以後は、
その名を畏れかしこみ、「国家」に替えたという説を聞いたことあります。
167 :
世界@名無史さん:04/05/18 19:48
>「渉」と「勝」は全く同じ発音なのですか?
「渉」sheと「勝」sheng
少なくとも現代の普通話では違いますね。
古音についてはわかりません。
もしかすると同じなのかもしれない、そうでないかもしれない?
陽城って陳だっけ?
169 :
世界@名無史さん:04/05/18 20:30
>>86 司馬遼太郎の「街道をいく ミンの道」に当時の福建省省長との会見がでてくるが、項なんとかっていったと思う
>>166-167 意味がわからん。なんで渉と勝の発音が同じでなきゃならんのだ?
偉くなったら名前かえるぐらい日本でもあるだろ。
中国人が自分の姓氏や名前を厳格に変えなくなったのは
武帝が儒教政策を広めてから。
それ以前は中国人も気軽に氏や名前を変えていた。
171 :
世界@名無史さん:04/05/18 21:12
流民も多かったから、結構名前は変わったのでは?
水滸伝や金瓶梅見ても、不義密通や、元の郷里を追われ一家離散は
ザラだったようで。
172 :
世界@名無史さん:04/05/18 22:03
名前を変えたとしたら自分でつける「字」のほうでしょう。
親に貰った「諱」を捨てるようなことをしたら孝道に悖り、先祖の加護が
得られなくなりますから、中国人はそういうことは滅多にしないと思います。
173 :
世界@名無史さん:04/05/18 22:23
王子比干
174 :
世界@名無史さん:04/05/18 22:41
>>170-172 近代以前の中国で読み書きのできる人なんて極々一部です。
陳渉なんて、読み書きもできない、当時の圧倒的多数の人間と考えるの自然です。
だから「渉」とか「勝」というのは、音に基づいた当て字の可能性が極めて高い。
これは後世の「農民反乱」等で一躍世に躍り出た指導者とかには、よくある例です。
例えば、漢の高祖劉邦の「邦」は名というよりは、当時の言葉で「あんちゃん」くらいの意味だったらしい。
要するに名前すらもハッキリしない様な下々の出だったわけなんだけど、
流石に偉大な漢王朝の始祖が名無しでは困るから、『史記』にも恰も立派な名前の様に記述しているのです。
尤も、これは司馬遷一流のイヤミだったという説がありますが・・・。
史記陳渉世家によると陳勝・呉広は「陳勝王たる」という帛書を作って魚の中に入れてます。
陳勝・呉広はある程度の読み書きができた、と司馬遷の頃には認識されていたことになります。
同じく史記高祖本紀でも、呂公との一件(「賀銭万」と謁に書いた)や、
そもそも亭長という下っ端とはいえ役人であったことなどから、
劉邦も十分な読み書き能力があったと見るべきです。
彼の実家についても、「生産作業」(史記高祖本紀)があったことが明記されていますし、
劉邦が家に食客を連れてきても一応は食事を振る舞えるだけの余裕はあったのです。
一家を養えるだけの土地や財産はあったのではないでしょうか。
劉邦については、むしろどのあたりに貧乏な家だという根拠があるのか知りたいです。
176 :
世界@名無史さん:04/05/18 23:51
>貧乏な家だという根拠があるのか知りたいです。
貧乏だ何て一言いっとりゃせんがな。
ほんとの赤貧から皇帝になったのは朱元璋くらいのものです。
>そもそも亭長という下っ端とはいえ役人であったことなどから、
>十分な読み書き能力があったと見るべきです。
そもそも亭長なんていう下っ端役人は、ちんぴらごろつきの類とさして変わらず、
歴代王朝の吏といのは得てしてそういうものです。
劉邦が任侠無頼の輩であった事は、周知の通説です。
そもそも十分な読み書きというのは、まともな漢文を読み書きすることをいうのであって、
ちょっとした落書き程度の文書なら、たいして教養の無い人間にでも書けることです。
>劉邦については、むしろどのあたりに貧乏な家だという根拠
これは日本で豊臣秀吉が広めたデマ。
自分の出自の低さから大出世したことを誇るために持ち出したのが原因。
朱元璋も「劉邦は農民の出だが・・・」と語ってるが貧乏とは言及してない。
・・・このスレの175以外に劉邦が貧乏の家だったとは誰も書いてないようだが。
周王室のことを無視して脱線しないでくれ〜。
要するに名前すらもハッキリしない様な下々の出だったわけなんだけど
>>176,177
148あたりから劉邦の家=貧家と想定されているのかと思いましたが、これは早とちりでした。
脱線失礼しました。
「渉」[dhiap]
「勝」[thieg]
上古音だとぜんぜん別の音だと思うけど。むろん推定音価だから
このとおりの保証はないけど、同音であった可能性は限り無く低いだろう。
170の繰り返しになるが、「陳勝」ってのは反乱にあたって
自分でつけた名前だろう。
要するに、亭長程度じゃ名前は分からんと。
182 :
世界@名無史さん:04/05/19 02:40
周王朝は西方から来た異民族
183 :
世界@名無史さん:04/05/20 10:56
184 :
世界@名無史さん:04/05/20 11:18
中国は古代から同姓不婚だったのですか?
遊牧民は従姉妹との結婚がよくあるようですが・・・
185 :
世界@名無史さん:04/05/20 13:20
怨霊発見!!
毎度毎度自作自演乙!
>>1=怨霊です!こいつは似たようなスレを立てた事がある気がする
>>85 遅レスだが、欧陽は異民族でいいのでは。
>>185 いい子だから。一緒に帰ってあげるから、な?
187 :
世界@名無史さん:04/05/21 00:36
188 :
世界@名無史さん:04/05/21 00:54
>>184 姓が違えば、母方の従姉妹でも婚姻可能。同姓だけは絶対不可。
古代から氏族外婚が原則的だったが、時には緩くなったり反動で厳しくなったりと
絶えず揺れ動いてた模様。
遊牧民族はなぜか従兄妹間の婚姻が奨励されてる傾向がある。北アフリカや西アジアは
今でもそう。おそらく、資産の分散零細化防止が要因と思われ。
189 :
世界@名無史さん:04/05/22 16:28
漢字の誤字が、そのまま姓として定着した例あありますか?
全は金の誤字?
190 :
世界@名無史さん:04/05/24 18:59
異体字ならあった記憶が・・・
痛い痔
192 :
世界@名無史さん:04/05/25 16:47
こことか「春秋戦国検討委員会」とか、あやめ氏が去った途端にレベル下がったという印象。
いくらかでも読めるのは怨霊氏のレスくらいか。怨霊ガンバ
怨霊デンパ
194 :
世界@名無史さん:04/05/26 05:02
>>189 「全」と「金」は、音節頭子音や母音については、似ていなくもないですが、中古音以前の中国語では音節末子音が違うので苦しいと思う。
中古音以前では、「全」は音節末が[n]だが、「金」は音節末が[m]になる。
なお、現代語でも広東語・ヴェトナム語・台湾語・韓国語などでは、「金」の音節末は[m]です。
>>192 そういうこと書くと、コテハンが自画自賛レスしてるように思われるから
今度から気をつけたほうがいいよ。
196 :
世界@名無史さん:04/05/26 11:46
197 :
世界@名無史さん:04/05/26 17:23
「金」は満州族と朝鮮族だけ。
「朴」もか?
198 :
世界@名無史さん:04/05/26 17:29
>>197 金聖嘆を忘れたかw 漢民族にもいるよ、金姓。
前漢の名臣金日磾を忘れちゃいかん。まあ彼は匈奴だが。
『漢書』の伝に、「金日磾字翁叔、本匈奴休屠王太子也。」
その賛に、「本以休屠作金人為祭天主、故因賜姓金氏云。」とある。
200 :
世界@名無史さん:04/05/27 01:03
>>196 司馬は役職名から姓になった例ですね。
諸葛孔明の諸葛氏は、昔は葛氏だったのですが
先祖がある土地に移住したとき、その土地に前からいた葛氏と
区別するため諸葛氏に改めたのだったかな。
もともと諸県出身だったので諸葛にしたという話だったと思います。
201 :
世界@名無史さん:04/05/27 01:20
慕容とか拓跋などの鮮卑起源の姓、赫連や呼延などの匈奴起源の姓なんか
は、今でも漢民族の間に存在するの?
鮮卑は元氏や李氏、匈奴は劉氏を称して中国人になっちゃってるだろ
水滸伝には呼延と慕容が登場するね。北宋代まではいたのかな。
>203
水滸伝って宋代の作だっけ?
明代だったかな
206 :
世界@名無史さん:04/05/27 09:47
北宋期に興隆した一族じゃないの?>呼延
小説にでもなってるくらいだし・・・
呼延灼は呼延賛の末裔っていう設定だろ
呼延灼は実在の人物だよ。北宋末の『宋江三十六人賛』に
呼延綽の名前で出てくる(灼と綽は同音)。
×−北宋末
○−南宋末
だった
211 :
世界@名無史さん:04/05/27 16:09
自作自演でも真面目に議論したいなら名無しで垂れ流せばいいのに……
売 名 必 死 だ な
あ、ここまでか…勉強になりました。
回答で抜けているのがあるぞ。
周が、はた秦に滅ぼされる時に黄河に捨てた鼎の件。
秦始皇帝は引き揚げようとして失敗したとかあったな。
213 :
世界@名無史さん:04/05/29 14:03
はたってなんだよ( ´,_ゝ`)
マヌケ
>>213 きよしんはたしんを知らんと言うことはモグリだな
文字で書くなら、わざわざ付けなくても…
晋を口頭で説明するには何て言えばいいだろうか
すすむ
周公って何で周公なんだろ?
&h35673周の言うとおりなら、周公でかつ魯公ってことになる。
でも、宗室の国号と同じ国号になるのとか、二つの国主になるとか、
理屈ではどう解釈されてるんだろう
上、しょう周
すまん
221 :
世界@名無史さん:04/05/29 23:24
晋=すすむシン
秦=はたシン
新=あらたシン
清=きよシン
けっこう昔からある呼び名のようです。
222 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/30 00:37
>>212 竜が引き上げさせまいとする様子が、漢代のレリーフに描かれていましたね。
以前全国各地でやっていた「四大河文明展」でも見る事が出来ました。
我が国でも竜が鐘や鼎を好んで船を沈めさせようとするという話は平安時代
から多く、戦国期にも宣教師らが「変った風習」として取り上げています。
管見の限りでは、最初の例は「円仁が唐から持ち帰ろうとした鼎はいくらで
も食物の湧いてくる便利な品物であったが、帰国の途中竜に乞われて嵐を起
こされたので海に投じた」という『日本三代実録』の記述でしょう。やはり
支那起源のようですね。
隅田川の一角にも「鐘ヶ淵」というちょっとした伝説地がある。
『史記』によれば、引き上げに千人を動員して失敗したとのこと。反始皇帝
の立場をとる人々に好まれたようです。
>219
魯より前に、岐山(鎬京遷都前の周都)に領地を
もらったからじゃなかったっけ?
224 :
世界@名無史さん:04/05/30 02:42
>>219 >>223 『史記』魯世家の『集解』には
「太王の居する所の周地を以て其の采邑と為す、故に周公と謂う。」
てあるね。また本文には
「周公旦を小昊の虚曲阜に封ず、是れ魯公為り。」
てあるよ。
けど旦は魯の政治は息子の伯禽に任せてたから
魯公旦とはいわずに周公旦ていってんじゃない?
「周公卒す、子伯禽固より已に前に封を受く、是れ魯公為り。」
て書かれてあるしね。
あと俺が知りたいのは「周公」が本当に周公旦かってこと。
岐山のふもとの周原の地に旦の曾祖父の古公亶父が遷都して以来
その子季歴も文王も「周公」じゃないの?
この時代に明るい人教えて下さい。
商代には周侯だった
226 :
世界@名無史さん:04/05/30 03:16
>>225 さっそくのレスありがとうございます。
しかし改めて疑問に思うことは、今回発掘された遺趾は西周時代のようですが
商代では「侯」であっても、周代の彼らが祖先に「侯」の字を使ったのでしょうか。
例えば
>>224で載せた『集解』でショウ周は古公亶父を「太王」と書き、
司馬遷は古公亶父と、また季歴を公季と書いています。
司馬遷は周代の史料『世本』なんかを利用したと書いてますから
周代に文王はともかく古公亶父や季歴には
「王」とともに「公」の字を使うときもあったと思います。
そりゃあ自称だったら、過去に遡って先祖に「公」だの「王」だのと
美称を与えるのはいくらでもできるでしょう。
武王以前は、リアルタイムでは商からは「周侯」と呼ばれていた(商の卜辞より)。
ただ公侯伯子男という爵位制度が、西周代や商代に厳密にできていたとは思わない。
現に春秋時代でも、金文と『春秋』では諸侯の爵位に矛盾がかなりあるというし。
そういえば、文王昌もリアルタイムでは「西伯」という称号だった(とされている)。
これは侯→伯へ格下げになった、というわけでもないでしょう。
228 :
世界@名無史さん:04/05/30 10:15
周公旦の次男坊が周公の位受け継いだんじゃなかったっけ?
周公黒肩とかいたじゃん、確か
確か「公→侯→伯→子→男」の序列の初見って
『孟子』だと聞いたことがあります。
俺もこの序列が西周や春秋でも通用していたとは思いません。
ただ、その序列が意識された以前も
「公」と「侯」には何かしらの区別があって
商代のリアルタイムでは「侯」字で周の君主を記していても
周代にはこの時期の君主を「公」で表していたのではないでしょうか。
または前漢の南越が、一時期漢に対しては「王」、国内では「帝」を
自称していたように国内外で使い分けていたとも考えられないでしょうか。
話題の遺趾が周代のもののようだからこそ、
上記のような「周公」は本当に周公旦なのか、という疑問を持ちました。
宮城谷ネタで恐縮なのだが、伯=覇で、西伯=西方の覇者みたいなことが書いてあったような気がするんだが、
マジっすか?
>>231 ありがとうございます。
仮説ってほど高尚なものではないのですが
とにかく報告書待ちですね。
最近はそうでもないかもしれませんが
あの国は報告書出すの遅いから・・・
居延新簡でしたっけ?
発掘者が、報告書も出さずに新簡使って論文出したり
他の人の発表に文句付けて、逆に非難浴びたってのは。
以前教授から聞いてうろ覚えなのだが・・・
233 :
世界@名無史さん:04/06/01 04:48
お
>>225-226 その古公亶父の「太王」だが、当時は太公と呼ばれてたのでは?
太公望と言えば有名人だが、呼称の理由が太公が望んだ人物だからだと。
後世に周が天子になってしまったので、太王や文王と贈り改めてもおかしくない。
太公と言えば、劉邦の名前不明の父もそう呼ばれてましたね。
周が五帝の子孫で長い系図があるというのは眉唾と思ってる。理由は、天子になったので
権威を付ける為にもっともらしく継ぎ足しただけで、このような改竄行為は後代の王朝にも
よく見られる。だから、太王より古い先祖には王号が無くても不思議じゃないかと。
歴史の浅い新興辺境国で、商から周侯と呼ばれてたのが実態だと思う。
>>224 >>228 周公旦は魯の領地だけ貰って、自身は成周(洛邑)で東方へ睨みをきかせてたよ。
日本に例えるなら徳川御三家の尾張と紀伊に近い立場。
成周に居て東方諸侯を管理する王族を代々周公と呼んだんではないかと。
235 :
世界@名無史さん:04/06/02 02:54
>>234 宗周は周王が治めて、成周は代理として王の親族たる周公が治めるという形ですか。
鎌倉・室町幕府と同じようなイメージですかね。
宗周 - 鎌倉の北条得宗家- 足利将軍(室町殿)
成周 - 六波羅探題 - 関東公方
> 成周に居て東方諸侯を管理する王族を代々周公と呼んだんではないかと。
「周公」という称号は旦一代きりじゃなかったっけ?
周公旦の子孫(魯公家以外)は明公と称して周の宮廷家臣に
なったというのをどっかで読んだ。
東周時代初期にも周公はいたようだが、別に周公旦の子孫とは限らないんでは?
周公とは国号じゃなくて、王族の単なる職名なのかもね。
そういや、召公というのも西周末期にいたのを何かで読んだ記憶がある。
初めて読んだ時、なぜ燕初代の召公が出てくるのか不思議に思った。
これらは同じようなのではないかな>周公と召公
239 :
世界@名無史さん:04/06/02 12:31
共和元年
召公セキ(大+百百)だったら
西周初期に周公旦とともに
建国当初の周を支えた人物ではないかと思います。
共和時代については、脂、がトンズラした後
(1)周公と召公が共同で執政(『史記周本紀』)
(2)共伯和が執政(『古本竹書紀年』『莊子』)
(3)龢父(共伯?)、師詢、毛公などが順に執政(金文史料など)
どの説が有力なの、最近は?
242 :
世界@名無史さん:04/06/05 16:20
魯侯の策命を受けたのは周公旦ではなく息子の伯禽。
確か書経に策命書が残っているはず。
243 :
世界@名無史さん:04/06/08 00:31
そういや伯禽は何らかの功績があって周公旦とは別立てで魯に封じられたのですか?
それとも親父の代理?
>>236 さんが書いている周王に使えたという周公旦の子孫(明公)と
どっちが周公旦の祭祀を継いだのでしょう?
やっぱり魯公?
244 :
世界@名無史さん:04/06/08 01:05
>>243 伯禽に何の功績もあったはずはないから、周公旦の代理でしょうね。
諸侯の中では魯だけに王の礼が認められていたのだから、伯禽が嫡子でしょう。
魯は山東半島の泰山を祀る役目があったような。
春秋時代は魯の領地内に泰山が含まれてた。天子は泰山を祀る義務があり、
周の代わりに現地を管理する者として魯が封じられたと。
その役目に周公旦の嫡子が推挙されてもおかしくないと思うな。
246 :
世界@名無史さん:04/06/08 14:58
山東半島の泰山より東は東夷だった?
斉を忘れてないか?
248 :
世界@名無史さん:04/06/08 19:25
朝日夕刊(地方は翌朝刊?)で、松丸先生が岐山西周墳墓群に
ついてコメントしてるよ。岐阜の語源が岐山て知らなかった・・・不覚。
>>249 岐阜の岐は岐山だけど、阜は曲阜から取ったんだっけ?
>>251 いや、阜はそのまんま「丘」の意味だから、「山≒丘=阜」で「岐山≒岐阜」ってことだと聞いたが・・・。
いや、遠慮して山を丘にしたと聞いたが
254 :
世界@名無史さん:04/06/20 04:57
> 魯侯の策命を受けたのは周公旦ではなく息子の伯禽。
> 確か書経に策命書が残っているはず。
「君陳」のこと?
これは「成王が周公の子・君陳(金文にみえる「明公」らしい)に
東郊(成周=洛邑)を冊封した」文書だと思っていたけど。
「君陳=伯禽」という説もあるの?
かつては「伯禽」という策命書が『書経』にあったらしい
(『左伝』定公四年で言及されている)が、かなり早い時期に
散逸したようで、書経書序にも項目がない。
256 :
世界@名無史さん:04/07/20 12:50
保全上げ
257 :
世界@名無史さん:04/08/18 01:35
岐阜の由来は、「岐山」と「曲阜」の合成地名。
1567年に織田信長が「井ノ口」を「岐阜」に変えた。
258 :
世界@名無史さん:04/09/02 00:56
中国の地名に似せてつけた地名は
他には無いのですか?
天台山とか天目山といったような山の名前だけでしょうか?
259 :
世界@名無史さん:04/09/02 00:59
耶馬溪は頼山陽がヤマクニダニを改名したものですね。谷の名前はけっこう「漢風に装飾」されたようですね。
町や村の名では岐阜だけでしょうか?
松江
261 :
世界@名無史さん:04/09/02 01:09
平安京(これも中国風地名と言えないこともない)を朱雀大路を中心に東西に分けて東を洛陽、西を長安と名づけた。後、東側に中心が傾いたので、京都を雅名で京洛などと呼び、京に詣でることを上洛といった。
山陽山陰とか北海道とか、甲州信州遠州とか、中国風のネーミングは掘り起こせば結構あるねー。
アッバース朝の都、バグダードの正式名称からパクリますた。
「京都」も雅名のひとつです
日本中世は京都と書いて「みやこ」と読んでました
東京も中国由来の地名と言えるのでは?
264 :
世界@名無史さん:04/09/03 10:40
265 :
世界@名無史さん:04/09/03 10:47
266 :
世界@名無史さん:04/09/03 10:54
宮崎の飫肥なんてのも「肥沃な土地」という意味から採ったんだと思われ
267 :
世界@名無史さん:04/09/03 14:58
漢字化される前の朝鮮地名はわからないの?
【ナラ】地名の歴史【岐阜】スレでも立てたら?
269 :
世界@名無史さん:04/09/03 21:26
ソウルは京城と漢字化される前からの地名です
あほか、文字化されなくたって
口伝で伝わった地名はいくらでも残ってるよ
周王家の話は一切でなくなったから、地名の話は
打ち止めにしない?
272 :
世界@名無史さん:04/09/04 05:03
273 :
世界@名無史さん:04/09/04 06:18
姫姓から分かれた「分家」のような氏は無いの?
ソウル…みやこという意味だから263氏の説明と同じように
漢字表記(色々ある)と対応していないけれど、
「京城」は李朝時代も「漢陽」と共にごく普通に使われた雅名です。
日本が複数ある雅名のなかで、もっとも高尚なものを固有名称化
したにすぎません。冊封国のニュアンスを感じさせる「漢陽」ではなく、
大韓帝国 the Royal Palace の在所を意味する「京城」を選んで用いたのは
明治人の碩学と好意を感じます。
百済の都、所夫里(ソブリ)、新羅の都、徐羅伐(ソラボル)が語源
と考えられています。
ttp://www.isks.org/jhtml/evn/honbu/cyosen3_1-2.htm 昔の同胞,国,首都の名前を通して見た我が民族の単一性−ワイ貊と卒本, 所夫里, 徐羅伐−
社会科学院言語学研究所候補ウォンサ, 教授 柳 烈
275 :
世界@名無史さん:04/09/04 17:54
>>271 あほは藻前w
口伝で伝わった地名をなぜ藻前が知ってるのか?文字化されたからだろうが
277 :
世界@名無史さん:04/09/05 17:33
周姓は周王室の子孫?
278 :
世界@名無史さん:04/09/05 18:34
279 :
世界@名無史さん:04/09/05 20:24
阜には麓なんてゆう意味はない。普通の漢和辞典引けば、大きな丘とか
土山とか出てる。山ってほどでもない小高い地膨れといったとこだ。
岐阜があるあたりもそんな地形だったんだろう。それで周が興った岐山に準じ
命名したんだ。阜は一般名詞だから信長が孔子廟でも造営したならともかく、
何も曲阜にこじつける根拠も意味もない。
280 :
世界@名無史さん:04/09/05 20:25
阜には麓なんてゆう意味はない。普通の漢和辞典引けば、大きな丘とか
土山とか出てる。山ってほどでもない小高い地膨れといったとこだ。
岐阜があるあたりもそんな地形だったんだろう。それで周が興った岐山に準じ
命名したんだ。阜は一般名詞だから信長が孔子廟でも造営したならともかく、
何も曲阜にこじつける根拠も意味もない。
金華山にはロープウェーあるけど、徒歩で登ったよ。
分岐の入った丘
要するにマ○(ry
283 :
世界@名無史さん:04/09/09 09:08
ひょっとして岐阜の地名は、
美濃守護代表の土「岐」氏と関係があるのかもしれない??(という説は無いのか?)??
284 :
世界@名無史さん:04/09/10 04:05
だから岐阜は「岐山」と「曲阜」の合成地名だって言ってんだろうが。
いつ改名されたかまで記録に残ってるのに、いつまでもトンデモ論を述べるな。
285 :
世界@名無史さん:04/09/10 18:08:23
曲阜は無関係だって言ってんだろうが
>>283 ある。
岐蘇川(木曽川)の岐っつう説もある。
>>284 >いつ改名されたかまで記録に残ってるのに
いつ改名されたかしか記録に残って無いんだが。。。
「岐山」「曲阜」のソース出して味噌w
287 :
世界@名無史さん:04/09/10 21:06:09
(゚Д゚)<ギ…
(゚Д゚)<ギフウ
こうして、岐阜という地名が産まれた。
古事記だか風土記だか思わせる解釈だなあ。
290 :
世界@名無史さん:04/09/11 05:56:46
孔子にムリに絡めなくても、曲阜は魯の首都じゃねーか。
十分知名度あるよ。
魯は孔子で有名になったようなもんじゃね〜の?
知名度は
孔子>曲阜>魯
だと思うが。
>>290 今の感覚で考えるなよ。当時どうだったかは知らんが。
293 :
世界@名無史さん:04/09/11 15:06:39
>当時どうだったか
問題はそこだ、当時もしくは当時からあまり経過してない時点での由来が重要だ。
そもそも信長が岐阜と命名したという最初の史料があるはずだ。そこではどうなってるんだ。
澤彦という和尚がアイディアを出したようだが、恐らく「周の文王が岐山から興った故事に因み
岐山ではいかが?」信「それじゃベタじゃんか」澤「では岐陽では」信「今すこしひねった名前は
ないのか」澤「山に代えて丘という文字の阜では」信「よかろう」といった問答の末に決定と想像。
曲阜なんて話題に上らなかったんじゃないか。
「信長公記」なんかにはどうなってるんだろう?
>>294 『(永禄十年)井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ、』
としか書いてない。
284=290は早く「岐山」「曲阜」のソースだせw
296 :
世界@名無史さん:04/09/12 16:11:55
高宗武帝は、宗が姓何でしょうか?
297 :
世界@名無史さん:04/09/13 02:06:35
魯は、周公旦の国だろ。本人いないけど。
姫姓の国だし、普通に知名度あるぞ。
王朝Aが王朝Bに滅ぼされたとして、王朝Aの王族は迫害されたんだろうが
その後王朝Bが王朝Cに滅ぼされたら王朝Cにおいては王朝Aの王族ってどういう扱いうけたの?
299 :
世界@名無史さん:04/09/13 04:59:10
王朝Aの神に祟られたくないのである程度の待遇はする
王朝A=夏、王朝B=商、王朝C=周・・・なのか?
秦や漢で先王朝の王族の処遇は滅多に聞かないよーな
周では夏や黄帝たちの子孫を探し当てて辺地に封じたりしてるね
>>297 魯のリアルタイムでの中国における知名度
西周時代…姫姓の国だし、あの周公の国だし、超有名。
春秋時代…あ、あれね。思い出したよ。最近パッとしないね
戦国時代…え?どこ?そういえば斉の属国みたいのがあったような、ないような…
漢武帝以後…魯を知らない?DQNは逝けよ
>>297 その辺歩いてる人に聞いてみろよ。知らないから。
せいぜいジャンプで封神演義読んで周公旦の名前だけは知ってる程度だろ。
303 :
世界@名無史さん:04/09/14 01:50:43
>>302 その辺のヤツラはしらんだろうけど、少なくとも
信長は、岐山を知ってたわけだ。
魯や周公旦を知っててもおかしくないよな。
>>298の言ってる事が、
>>300の言うように周のことなら
王朝Aは、杞の国となって存続したし、
王朝Bは、宋の国となって存続した。
曲阜説はソースを出さない限りみんな納得してくれないよ。
社稷とは夏と周の神だが、商の神は敬遠されたのかな?
306 :
世界@名無史さん:04/09/14 15:25:46
「岐山」の方は天下取りに乗り出す信長としては縁起のいいネーミングだが、
「曲阜」にそんなメリットはない。信長が仮に知ってたとしても「天下布武」と
呼号してる彼にとって何の意味も持たない。よって却下!
むしろ大国化に遅れをとった魯だとマイナスイメージで採用しない気がする
>>305 社稷がひとつのくっついた言葉になるのは戦国時代以後では。
それより前はまったく別々の言葉だし、商の神って・・・太陽?
309 :
世界@名無史さん:04/09/15 21:19:36
商の神は商の祖先じゃないんですか?
そういや、町によって祀る神様が違う(太陽神だったり、猫の神様だったり)
するわけですがこういう考えは中国にはないのでしょうか
三皇それぞれを祀る国とか。
310 :
世界@名無史さん:04/09/15 21:26:53
古代中国は原始的宗教国家だろ?
先祖とか自然神とか
311 :
世界@名無史さん:04/09/16 20:36:02
309の太陽神とかの例は古代エジプトの話です。
文字抜けちゃった。もうしくわけありません。
312 :
世界@名無史さん:04/09/17 01:59:33
313 :
世界@名無史さん:04/09/18 18:18:35
殷、周は言語の差異があったの?
314 :
世界@名無史さん:04/09/18 18:56:53
>>313 わからない。
でも、文章なら、通じたはず。
315 :
世界@名無史さん:04/09/19 20:03:55
紙が無いのに?
紙はいらないだろw
317 :
世界@名無史さん:04/09/20 04:01:10
ワロタ。
紙が発明されるのはずっと後だろうが。
商王朝末期と周王朝成立期は、同じ言語だろうな。
というのは周の文字は商の文字を使ってるからな。
文字がなかった周は、商の文字文化をそのまま受けついだ。
318 :
世界@名無史さん:04/09/20 15:25:44
そんなはずは無い。紙は有史以前からあったはずだ。
紙が無かったらトイレで困るではないか?
320 :
世界@名無史さん:04/09/25 22:30:22
周公旦あげ
>>319 表音文字でも融通できる。というか,してる。
322 :
世界@名無史さん:04/09/26 11:59:54
漢字と、エジプトなどの象形文字とは、本質的に機能が同じ?
象形文字が世界中で中国だけに残ったのは何故?
323 :
世界@名無史さん:04/09/26 22:43:00
お揚げ
>>322 エジプトのヒエログリフは基本的に表音文字だよ。
中国が他の地域とちがって長いこと表意文字の文化を維持したのは
他言語社会だから。
325 :
世界@名無史さん:04/09/26 22:58:10
>ヒエログリフは基本的に表音文字
初耳だな。
それに、その理論では
ヨーロッパも多言語だが共通してアルファベットを使ってることを
説明できないよ。
326 :
世界@名無史さん:04/09/26 23:07:51
>>325 ヨーロッパに入ってきたときは、表音文字になっていたから。
エジプトでは、たしかに、初期のヒエログリフは表語文字で、
かなり表音的要素ももっていたが、だんだんと表音文字になり、
デモティックあたりはほとんど表音文字だから、ここから、
アルファベット(いわゆるフェニキア文字とかシナイ文字とか)
ができた、ってことだよね。
中国は多民族国家だけど、中国語(漢語)以外の言語が文字に
なることがなかったところ。
たぶん、中近東は、エジプト(ハム系?)、アッカド、アッシリア
アラム、ヒッタイト、などなどいろいろな言語がそれぞれ象形文字
っぽいのをもっていて、そういう例があると、他の民族も民族語
をもちたくなるんだろうな。
中国では、そういう発想がえられるような、基盤がなかった。
漢語だけ。
327 :
世界@名無史さん:04/09/29 11:51:13
漢字も表音文字ではないの?
328 :
世界@名無史さん:04/09/29 21:29:39
象形文字
>>327 漢文は表意文字でそ。だから標準語しゃべれない人でも読み書きできる。
中国語話せない日本人でも。
>>329 表意文字を使わなくても,文章語は標準語になりえるでしょ。
332 :
世界@名無史さん:04/10/02 14:24:42
漢字には表音文字としての機能もある。
333 :
世界@名無史さん:04/10/02 15:04:04
>>332 表音文字、表意文字といったときに、純粋な意味だけを表す文字
っていうのは、意味の定義からして難しいので、基本的には、語彙
を表す文字として、表語文字といいます。
この場合、語は、音節複数からなることが多いので、普通表語文字
は、一文字で複数音節を表します。日本語における漢字の訓読みは
おおむねこれにあたるわけです。
一方、音節文字というのもあります。人間、単語を区切って発音
する際の発音上区切れる最小単位は音節ですので、音節ごとに
文字にする。
この場合、同じ音節は、語彙上の違いがあろうと同じ文字であら
わされれば、音節文字といえる。日本語のカタカナ、ひらがなは
音節文字です。一方、中国語の場合、古代は語彙そのものも、
多くの場合、一音節であったので、そこに文字があたっていると、
表語文字であると同時に音節文字でもあるような状態になる。
実際、甲骨文字の時代は、同じ音節の語彙は、意味がちがって
も同じ文字であらわされることが多かったので、概ね音節文字と
いえます。
現代の中国語は、音節の数が著しく減ったため、同じ音節で別
の漢字が使われることが多いため、甲骨文字の時代などよりは、
ずっと表語文字に近づいています。
334 :
世界@名無史さん:04/10/08 23:00:00
漢字には象形文字、表意文字、表音文字、すべてある。
335 :
世界@名無史さん:04/11/01 19:01:01
a g e
336 :
世界@名無史さん:04/12/06 12:44:22
「周本記」冒頭にある「姜原たん」ってどんな人?
『史記』周本紀見れるんだったら、そのまんまの人だよ。
有邰氏の娘で、帝嚳の正妃。巨人の足跡に感応して周の祖の后稷を産んだといわれる。
ほかに何を期待してるんだ?
338 :
世界@名無史さん:04/12/07 13:34:23
性格とか能力とか・・・
しょせんは伝説上の人なりよ。残念でしたね。
340 :
世界@名無史さん:04/12/27 18:18:15
ほしゅ
341 :
世界@名無史さん:05/01/09 01:04:57
どんな子宮なんだろう
黄帝も公孫姓説と姫姓説があったっけか。
…その後の話ぢゃなかった。すまそ。
343 :
世界@名無史さん:05/02/06 22:15:52 0
東周の最後の王様(タン王?)って秦に征服されたあと、どうなったの?
┏━┓┃┏━┓ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
┃ │ 我が名は饕餮!彝器に我が尊顔を見出した
● ┃ ● < る者、おそれおののきひれ伏すがよい!
┃ \___________________
346 :
世界@名無史さん:05/03/04 00:02:23 0
なんて読むの?
「とうてつ」だよ。
聞く前に、漢和辞典引く癖つけろよ。
まぁまぁ。ギスギスすんなよ。過疎スレなのに。
>>346が聞きたい漢字は「彝器」かもしれんぞ・・・
350 :
世界@名無史さん:05/03/17 18:34:32 0
あげとくよん
ロム君だけど
351 :
世界@名無史さん:05/03/17 18:45:01 0
352 :
世界@名無史さん:05/03/20 11:41:48 0
時代ごとに名家えを絶やしてきた中国に比べて、
日本の天皇家は偉大ですね。
周時代の中国なら、国は滅ぼしても祭祀のため一族根絶やしにはしないでしょ。
天皇家が残ったのは、藤原氏以下の権力者がうまかったからと思うけど。
354 :
世界@名無史さん:05/03/20 20:42:03 0
>>352 『宋史』日本伝で太宗が似たようなこと言ってるな。
日本の万世一系がうらやましいって。
隣の芝生は青く見えるってやつだろ。
355 :
世界@名無史さん:2005/04/06(水) 12:41:29 0
356 :
世界@名無史さん:2005/04/26(火) 21:08:52 O
ほしゅ
>>354 日本の天皇家のことを知ってたというだけでもちょと意外な驚き。
仮にも交易してる相手国の国家元首くらい知らなくてどうすんだよ…
王年代記
360 :
世界@名無史さん:2005/05/15(日) 12:29:51 0
孔家が庇護され存続したように、
姫家の末裔も残っていなかったものだろうか・・・
中国で権威のある家系といえば儒教の孔家と道教の張家のみ。
この両家は中国では奇跡的に永続している。
日本的もしくは西洋的な意味で高貴な血筋とか真の貴族と
いえるのはこの両家だけだ。
しかし王や皇帝になるべき家柄と考えられているわけでもないから
ローマ法王みたいな感じなんだろう。代々の王朝から庇護されてるし。
362 :
世界@名無史さん:2005/05/16(月) 16:33:46 0
書き込まないけどフアンなんであげます
363 :
世界@名無史さん:2005/05/17(火) 09:26:11 0
>>361 魏晋時代の漢の劉氏も諸侯王の上でそんな感じだったんが・・・なにせ嫡流が断絶したからな
諸侯王上だから日本でいうと親王より上席の摂関家みたいなかんじか
364 :
世界@名無史さん:2005/05/17(火) 17:47:28 0
失礼 臣と称しなくてよいのだから摂関家より上だな
365 :
世界@名無史さん:2005/06/10(金) 01:36:31 0
そうか?
366 :
世界@名無史さん:2005/07/04(月) 16:05:26 0
age
禅宗第二祖・慧可、俗姓は姫。
368 :
世界@名無史さん:2005/07/24(日) 15:07:57 0
第二祖ってなに?
二番目。五祖までなんか大事にされてるな。
第六祖から分裂したりするからじゃね?
まあ「鉄鼠の檻」から程度の知識だが。
371 :
369 :2005/07/26(火) 16:54:32 0
test
373 :
世界@名無史さん:2005/08/22(月) 01:27:00 0
374 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 22:40:21 0
以前NHKスペシャルで「中国経済に拡がる地域格差」といったテーマで
農村と都市を取材していた回があったが、陝西省の寒村が登場した。
なんと村民の姓が「姫」。乾燥した貧しい村だったが、もしや関係ある・・・だろうか。
地理的にもありえなさそうだが。
村の様子を見る限りはごく普通の村だったが、どうなんだろう。
姫澹、字は世雅、西晋の人。
376 :
世界@名無史さん:2005/10/02(日) 23:21:09 0
>>370 俺も、今、鉄鼠の檻読んでて、その個所読み終わったとこ(笑)
378 :
世界@名無史さん:2005/10/24(月) 21:39:42 0
379 :
世界@名無史さん:2005/10/30(日) 11:50:15 0
突然すみません。
周公旦って、周成王が若い頃やんちゃだったため、数年間幽閉してましたよね・・・?
幽閉を解かれた成王は憑き物が落ちたように、やんちゃは改め、覇気だけ残して活躍、成王と付けられたんですよね。
この逸話、他の人物のことだったかどうか思い出せなくって、どなたかご存知でしたら教えて下さると嬉しいです。
宜しくお願いします。
>>379 それは殷の伊尹が帝太甲を幽閉した逸話とちがうか?
周公旦が周成王を幽閉したなんつう話は聞いたことない。
381 :
379:2005/10/30(日) 13:15:01 0
382 :
世界@名無史さん:2005/10/30(日) 13:40:46 0
383 :
世界@名無史さん:2005/10/30(日) 15:34:00 0
姫様オンリーじゃスレ伸びないね。もう少し話題広く取って喋ったら?
385 :
世界@名無史さん:2005/11/22(火) 01:28:45 0
もうネタ切れだろうな
386 :
世界@名無史さん:2005/12/19(月) 23:25:44 0
387 :
世界@名無史さん:2006/01/03(火) 20:49:45 0
現在の中国の姓別人口の統計なんてどこかにありますかね。
有名な李張陳周あたりはともかく、十位以下まで載っている資料があれば見たいのですが。
388 :
世界@名無史さん:2006/01/25(水) 21:41:29 0
age
呉の太伯の子孫を自称していた我らが先祖は?
390 :
世界@名無史さん:2006/02/18(土) 22:04:14 0
爺A「あんたも姫様じゃろうが、ワシらの姫様とはだいぶ違うのう」
爺B「この子を見てくだされ、ナル様と同じ病じゃ・・・。
ワシらの姫様はこの子を女系の良い姫じゃと言うてくれる。」
爺C「姫様、あの板を見たら悲しむじゃろうなあ・・・。」
爺A「多すぎる種は何も生まぬ。そりゃワシらもちょっとは蒔くがの。」
391 :
世界@名無史さん:2006/02/25(土) 20:01:22 0
1987年に人民日報が「新百家姓」を発表した。
人口で順位をつけると
1.李
2.王
3.張
4.劉
5.陳
6.楊
7.趙
8.黄
9.周
10.呉
10位以下は書ききれないのでパスします。
保全上げ
李王張劉陳 楊趙黄周呉 徐孫胡朱高 林何郭馬羅 梁宋鄭謝韓
唐馮于董蕭 程曹袁鄧許 傅沈曾彭呂 蘇盧蒋蔡賈 丁魏薛葉閻
余潘杜載夏 鍾汪田任姜 范方石姚譚 寥鄒熊金陸 郝孔白崔康
毛邱秦江史 顧侯邵孟龍 萬段章銭湯 尹黎易常武 喬賀頼龔文
>>393 まちがった「載→戴」「寥→廖」
2006年バージョン
李王張劉陳 楊黄趙周呉 徐孫朱馬胡 郭林何高梁 鄭羅宋謝唐
韓曹許鄧蕭 馮曾程蔡彭 潘袁于董余 蘇葉呂魏蒋 田杜丁沈姜
范江傅鍾盧 汪戴崔任陸 廖姚方金邱 夏譚韋賈鄒 石熊孟秦閻
薛侯雷白龍 段郝孔邵史 毛常萬顧頼 武康賀厳尹 銭施牛洪龔
395 :
世界@名無史さん:2006/03/19(日) 00:52:03 0
397 :
世界@名無史さん:2006/04/03(月) 18:23:34 0
保全上げ 4月号
398 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 19:08:50 0
258 :世界@名無史さん :04/09/02 00:56
中国の地名に似せてつけた地名は
他には無いのですか?
遅レスだが、
山形県南陽市
399 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 19:10:44 0
山陰 山陽 厳美渓
400 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 19:17:37 0
燕という市はあるぞ
401 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 19:52:38 0
つばめ ね
太秦
南山
番外編
東京
402 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 19:58:25 0
湘南とか。
403 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 20:10:34 0
かもめの汝南
404 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 20:12:28 0
河北町
河南町
松涛
六麓荘
405 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 20:15:51 0
新羅:金氏
李朝:李氏
はたくさんいるのに
高麗:王氏
はほとんどいないのはどうして?
406 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 20:51:47 0
407 :
世界@名無史さん:2006/04/14(金) 21:07:24 0
生き残った人達も改姓した。
408 :
世界@名無史さん:2006/04/15(土) 00:15:46 0
ドイツも戦後ヒトラー姓の人は改姓したらしいね。
409 :
世界@名無史さん:2006/05/03(水) 01:48:35 0
祝2周年おめ!
410 :
世界@名無史さん:2006/05/21(日) 01:02:47 0
とてもめでたいから次はこのスレで3周年をめざそう!!
祝3周年おめ!
412 :
世界@名無史さん:2006/06/05(月) 21:24:07 0
保全上げ
413 :
世界@名無史さん:2006/06/06(火) 01:54:16 O
>405
田氏とか高麗朝の子孫と称している
414 :
世界@名無史さん:2006/06/06(火) 02:06:38 0
日本最古の姓って何?
今使われている日本人の姓の中で、
もっとも由緒古き姓は?
胸毛
です。
416 :
世界@名無史さん:2006/06/21(水) 09:30:04 0
三輪とかは、古いだろうね。
また、藤原の中にも、改姓しなかった直系があるはず。
>>414 「姓(かばね)」(臣、連、朝臣)じゃなくて、「氏」だよね?
津守氏とか尾張氏とか、神職系の氏が最古だろうなぁ。
藤原は大化改新後だから比較的新しい氏。
418 :
世界@名無史さん:2006/06/21(水) 14:07:25 0
曽我や物部にも直系があるかもね。
落魄しても、全員姓まで奪われたとは限らない。
ttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E6%B0%8F <引用>
紀氏は古代から紀伊国に威武をふるっていた。『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『紀伊続風土記』などの記録によると、
神武天皇が近畿内平定ののち紀伊の国造に封じられた天道根命の直系子孫である。
神話の時代を含めると二千年以上もの長い歳月を経た今もなお日前国懸の神に仕えている。
これほどの古い家系を今に伝えているのは、紀伊国造家のほかは出雲国造家の千家・北島の両家と、
阿蘇神社の大宮司である阿蘇家、宇佐神宮の大宮司である宮成・到津の両家、
隠岐国造家であった億岐家、籠神社の宮司である海部家、熱田神宮の大宮司である千秋家、
住吉大社の宮司である津守家、諏訪大社の大祝である諏訪家(神氏)ぐらいともいわれる。
</引用>
蘇我氏傍流は石川氏に、物部氏傍流は石上氏になってる。
420 :
世界@名無史さん:2006/06/21(水) 22:53:44 0
週建国の地は「岐山」
岐阜県立岐山高校ってのがあったな、そう言えば(こちらは信長がらみだが)
421 :
世界@名無史さん:2006/07/04(火) 20:43:45 0
良スレあげ。
422 :
世界@名無史さん:2006/07/07(金) 07:00:27 0
日本に姫姓(または、そこから派生した苗字)の人っているのかな?
姫の皇子(みこ)→キミ→君→天皇
424 :
世界@名無史さん:2006/07/07(金) 22:38:35 0
ない
ああでも、漏れは卑弥呼はヒメミコだとおもてるよ。
427 :
世界@名無史さん:2006/07/08(土) 01:00:06 0
日本は平安時代「姫氏国」と言う、うわさが広まってたみたい
「日本書紀 私記」に書かれて意るな
428 :
世界@名無史さん:2006/07/08(土) 06:48:30 0
吉備真備の頃からじゃないですか?
野馬台詩だから。
429 :
世界@名無史さん:2006/07/09(日) 21:33:33 0
「野馬台詩」って、中国の文献に載ってるかい?
430 :
世界@名無史さん:2006/08/05(土) 11:41:31 0
大分の耶馬溪は関係ない?
431 :
世界@名無史さん:2006/08/06(日) 14:45:28 0
「耶馬」溪までは、見事にかすってるな。
432 :
世界@名無史さん:2006/08/06(日) 15:46:34 0
>>春秋戦国時代に大勢居たであろう周の国姓「姫」姓は、その後どうなったのですか?
長江河口付近から日本への人々の移住
中国の周代の後半(東周時代:春秋戦国時代=BC771〜BC256)には中国各地に
封ぜられた周王室の王や各地の豪族が独立し、互いに争いを繰り返し次々に淘汰
されていきました。負けた国の王やその一族は、殺されたり奴隷にされたり、あるい
は新天地を求めて韓半島さらには日本まで渡ってきたと言われております。そのよう
な中、春秋時代の末期に長江河口付近では呉と越が争い、越に滅ぼされた呉王夫
差の親類縁者は海に逃げて日本に漂着したと伝えられます。紀元前473年のことで
す。晋書などに「倭人自ら(我々は周の王族で呉国の創始者である)太伯の後(子
孫)であると謂う」とありますが、倭人の伝承を書きとめたものと考えられます。「資治
通鑑」(1084年成立)という中国の史書には、「周の元王3年(BC473)、越は呉を亡ぼ
し、その庶(親族)共に海に入りて倭となる」という記載があるようです。また日本側に
も「新撰姓氏録」の記載など呉から日本への移住を裏づける文献も豊富です。以上
から北部九州の甕棺文化は長江河口地域を追われた呉の人々によってもたらされ
たと考えれば、すんなり理解できるように思います。
433 :
世界@名無史さん:2006/08/07(月) 23:19:48 0
八咫烏,八咫鏡の話
咫というのは、中国(周の時代)の一寸に当たる単位で大きい意味も、八咫烏は
『日本書紀』では頭八咫烏と表記され、頭が八寸もある大きな鳥を意味する。
また足は三本であったという。これは太陽神の使いであるからで、
「太陽には三本足のカラスがすむ」という中国の神話に基づくものであろう。
八咫烏と言えば紀(キ)の国、熊野神宮、周王朝の姓は姫(キ)咫は周の一寸
これはなんか、クサイな!!八咫烏は東方扶桑の木の枝から昇と言う。クサイな。
435 :
世界@名無史さん:2006/08/26(土) 14:12:51 0
>>433 周の武王→陝西省の山地出身 →黄河を船で下って中原攻め→道中、釣りをしていた太公望と出会う
神武天皇→高千穂の山から出発→瀬戸内海を船で進軍 →道中、釣りをしていた棹根津彦(サオネツヒコ)と出会う
436 :
世界@名無史さん:2006/08/26(土) 14:58:39 0
つーか素直に考えれば
ヤマト国のヒメミコだよな
437 :
世界@名無史さん:2006/08/26(土) 21:54:50 0
>>433 紀氏と姫氏は、由来が違うんじゃないの?発音は似ているけど。
それとも、何か関係でもあんのかな?
紀(ji3)、姫(ji1)
438 :
世界@名無史さん:2006/08/27(日) 20:50:21 0
>>435 太公望と出会ったのは武王の父である文王の方ですけど…
つながりが分からん
440 :
世界@名無史さん:2006/09/14(木) 13:00:34 0
その後あげ
441 :
世界@名無史さん:2006/09/25(月) 17:19:11 0
歴史上の中国人で、姓と氏のどちらを名乗っているの?
例えば、曹操や孫権の曹や孫は、姓なの?氏なの?
男性が「姓」を名乗ることはないんじゃない?
「”姫”昌」みたいな表記は通常はなかったはず。
曹も孫も姓ではなく氏。
「姓氏」
444 :
世界@名無史さん:2006/09/27(水) 19:49:48 0
>>442 中国に姓と氏の区別なんてあるの?
私の姓は○で、氏は△である、なんて言っている人を史書中でも見たことがないけど。
中国人における姓と氏なんて、現代人が勝手に作った概念で、
実際には旧姓と新姓が存在しただけじゃないの。
445 :
世界@名無史さん:2006/09/27(水) 19:51:17 0
日本には、確かに両方同時に存在した期間もあったけど。
姓は平で、苗字は北条です、とか。
でも、中国にそんな時代はないでしょ。
「姓と氏の違い」によって、姫は淘汰された、なんていう見方はナンセンスだよ。
なんらかの理由によって、旧姓を新姓に変えた人が多かったので姫姓は激減しただけだよ。
446 :
世界@名無史さん:2006/09/27(水) 22:08:47 0
もともと「姓」と「氏」なんて、
新しい姓と、古い姓以外の何物でもないでしょ。
当初は、古い姓である「姓」しか存在しなかった。
集団が小さい時は、それでも事足りていたが、
人数が増えると、同姓同名が続出した。
そこで、新しい区分けが必要になって、
新しい姓である「氏」が生まれた。
それだけのものでしょ。
勿論、同時に多用されたということもない。
氏がなかった頃は、姓しか使われなかったし、
氏ができた頃は、姓はまったく使われなくなっていたか、
使われても、帝の前とか、余程特殊な席で、飾りとして使われたに過ぎない。
447 :
世界@名無史さん:2006/09/27(水) 22:41:34 0
これについて分かる人いないの?
437 名前:世界@名無史さん :2006/08/26(土) 21:54:50 0
>>433 紀氏と姫氏は、由来が違うんじゃないの?発音は似ているけど。
それとも、何か関係でもあんのかな?
紀(ji3)、姫(ji1)
448 :
世界@名無史さん:2006/09/27(水) 23:56:18 0
音が違えばそこから由来を探すのは無理っしょ
449 :
世界@名無史さん:2006/09/28(木) 00:30:47 0
私の家系は、祖父・祖母四人とも名主・庄屋階級。
武士階級の先祖を持つ人が、羨ましい。
許せない。
将来、家系図を書き換えてやる。
同姓不婚
>>445 少なくとも春秋時代までは姓と氏の両方が存在してたぞ。
女性の名前の方には氏ではなく姓が使われてたし。
>「姓と氏の違い」によって、姫は淘汰された、なんていう見方はナンセンスだよ。
「姫は淘汰された」なんて誰か言った?
453 :
世界@名無史さん:2006/09/28(木) 17:40:48 0
449 :世界@名無史さん :2006/09/28(木) 00:30:47 0
私の家系は、祖父・祖母四人とも名主・庄屋階級。
武士階級の先祖を持つ人が、羨ましい。
許せない。
将来、家系図を書き換えてやる。
↑
日本人にしては、天然記念物みたいな人だな。
454 :
世界@名無史さん:2006/09/28(木) 17:44:06 0
>>1 >現在の中国人の姓に「姫」という文字は全く見当たらないようですが
いるよ。
小学館の中日辞典にはそう書いてあった。
455 :
世界@名無史さん:2006/09/28(木) 23:26:17 0
>>453 今まで、私は格式高い家柄だと思っていたのに。
少なくとも、そう聞かされてきたし、明治・大正・昭和の
親、祖父母、親戚は、確かにそうそうたる顔ぶれだった。
でも、よく調べてみたら、江戸時代には庄屋程度だった。超幻滅。
許せない。
457 :
世界@名無史さん:2006/10/07(土) 09:56:54 0
832 :日本@名無史さん :2006/10/06(金) 14:15:27
シナの山海経によると、殷を建国したのは日本の出羽出身の羌族で、
周を建国した姫氏も日本出身だそうだ。
今の流行は騎馬民族どころか、農耕民族大陸征服説ですよ。
834 :日本@名無史さん :2006/10/06(金) 21:50:19
>>832 >シナの山海経によると、殷を建国したのは日本の出羽出身の羌族で、
周を建国した姫氏も日本出身だそうだ。
それは本当ずらかw?!
458 :
世界@名無史さん:2006/10/07(土) 14:32:51 0
周の最後のタン王ってどうなったの?
前256年、西周君といっしょに秦に降伏して暫くして亡くなった。死因は不明。
460 :
世界@名無史さん:2006/10/11(水) 00:26:15 0
461 :
世界@名無史さん:2006/11/01(水) 00:49:15 0
>>457 羌族がヤマガタ出身って・・・
ダニエル・カールも仰天だなおいw
> シナの山海経によると、殷を建国したのは日本の出羽出身の羌族で、
> 周を建国した姫氏も日本出身だそうだ。
山海経のどこにもそんな話はないよ。
山海経の時代に出羽国なんて無いだろw
シナじゃなくてツナの「山悔経」かもしれんぞ
465 :
世界@名無史さん:2006/11/27(月) 21:17:49 0
466 :
世界@名無史さん:2007/01/13(土) 18:34:51 0
姫鵬飛という中共の要人が実在してるよ
467 :
世界@名無史さん:2007/01/15(月) 19:35:11 0
ニュースなんかでフルネームを漢音読みしたら、ちょっとアレな名前ですね。
ぜひMっ気のある女子アナに読んでもらいたいですね。
468 :
世界@名無史さん:2007/01/16(火) 19:15:33 0
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。三つの足の部分は空洞に
なっており,その部分に水をため,足の上にのせた簀のこ(すのこ)の上に米を
置く。足の間の火で炊く(というより蒸す)と,上にのせた蓋(ふた)の間から,
湯気が立つ。この様子がそのまま漢字になりました。つまり「氣」です(後漢の
『設問解字』による)。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html 古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
このキチガイ、各所に湧いて出てきているな。
470 :
世界@名無史さん:2007/02/27(火) 00:16:40 0
>>466 姫鵬飛外相、7年前に亡くなったんですな・・・合掌。
471 :
世界@名無史さん:2007/03/21(水) 02:14:12 0
>>454 今でも山西省・陝西省一帯には姫姓の集落が各地にあるらしいよ。
奥地には同一氏族が固まって住んでる
473 :
世界@名無史さん:2007/05/05(土) 12:29:14 0
祝三周年、ワンスイ!
test
475 :
世界@名無史さん:2007/07/01(日) 03:00:49 0
姫氏の如く細く長く保守・・・
中国古代の姓では、女兆とか女以とか女吉とか女爲とか好とか姜とか姫とか秦のエイとか
女ヘンの漢字が多かったのに現在では一般的に女兆と姜ぐらいしか見ないな。
姫姓とは関係ないけど
上海のショッピングモール正大広場の総裁が、司徒文聡という人だった。
司徒氏がまだ残っていたのにびっくりした。
>>455 「士・農・工・商」だから身分高いじゃん。
しかも庄屋だったらかなりエライよ。
土地持ってて地元の名士だったんじゃないの。
庄屋だったら苗字帯刀を許されることもあるらしいな
庄屋は偉いな
士農工商の農の頂点付近だろ
下手な御家人よりも偉い場合さえある
姫川とか姫野とか
482 :
世界@名無史さん:2007/08/29(水) 00:28:05 0
中国の姓の由来を簡単に書いた本を読んだけど、
多くが上古〜春秋時代までにどこかに封ぜられた人が
その土地の名前で呼ばれるようになったことが多いらしい。
周の王侯由来の姓もかなりあったけど、子孫がどんどん新しい姓を名乗ったって事?
・周平王の末子姫烈が汝州に封ぜられ、そこでは周家ということで「周」と呼ばれたのが周姓の始まり。
・周脂、の末子姫友が鄭の国に封ぜられて「鄭」と呼ばれるようになった。
・周霊王の息子姫晋が庶民に落とされて琅琊に流され、そこでもと王家の人と
言う意味でその子孫が「王」と呼ばれた。
・周宣王の息子が楊侯になって「楊」姓。
> 子孫がどんどん新しい姓を名乗ったって事?
新しく名乗ったのは姓ではなく氏。
ただし、次第に姓と氏の区別が忘れ去られて今に至る。
姓でも氏でも
男系は男系で継承なのかね
485 :
世界@名無史さん:2007/11/16(金) 14:28:28 0
yes
486 :
世界@名無史さん:2008/03/04(火) 13:47:11 0
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
古代中国では,いわゆる三足土器で炊飯していました。
http://www.hibari.ed.jp/club/ki/ki.html
487 :
世界@名無史さん:2008/05/08(木) 19:29:05 0
新たに氏を名乗った一族は、
姓の使用を禁止されていたのか?
「姫」姓を使用したほうが格式が高いと思うんだが。
高麗の王姓は、サッカーの代表に一人いるね
朝鮮の王姓は殺されたか全姓とかに改名したか元々漢人だったか。
現存してるのは詐称してるだけです
490 :
世界@名無史さん:2008/08/22(金) 03:56:25 0
詐称する価値は残っていたんだな
491 :
世界@名無史さん:2008/08/22(金) 04:22:10 0
詐称はあの国の得意技だ
492 :
世界@名無史さん:2008/08/26(火) 15:50:28 0
・康叔封が庶子を凌人(氷室を管理する役人)に任じたことから、
子孫が「凌」を氏とした
どこの馬の骨かわからぬ劉邦よりも
漢を簒奪した王莽のほうがはるかに由緒正しい家柄。
舜→陳公→斉王→王莽
494 :
世界@名無史さん:2009/02/01(日) 20:37:01 0
age
消えた姓っていうのも結構あると思うんだけど、どうなのかな
例えば悪来なんて人がいたと思うけど、この悪ってのは姓(か、氏)だよね?
>>495 悪来といえば秦の先祖だね。
この場合エイもしくは趙が姓となります。
>>496 どうも、氏ですか
現在中国に「悪」さんはいるのかな
現代中国での「悪」での意味が日本と同じだったら、いなくなってるかもしれないですね
当時は「強い」とかそんなような意味だったようですが
消えた姓や氏があるなら、どうして消えたのか、とか面白そうですね
あるとしたら、九族滅殺されたからとかかな?