漢魏の制度を語る

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1怨霊 ◆NRtIkON8C2
両漢から三国時代あたりまでの官僚制度やらなにやら、諸々の制度を皆で語りましょう。
2世界@名無史さん:04/04/02 00:32
2ゲット。

こちらで建てましたか〜。
まぁ、自分もこっちの方が荒れなくて良いかもと・・
3怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 00:34
>>2
それも無いとは言いませんが、
前漢の制度を語りたいので。

詳しい方の降臨、そうでもない方の質問、その他色々お待ちしてます。
4怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 00:49
ネタを振ります。

漢書百官公卿表上の順番で。


丞相(相国)
一言でいうと宰相。「天子を丞けて万機を助理するを掌どる」
相国は丞相の上位互換。
漢で相国になったのは蕭何、曹参、呂産、董卓くらいか。
でも呂産や董卓の場合は少し問題あり。
漢では呂后時代や武帝の一時期に左右丞相を置いています。
5世界@名無史さん:04/04/02 01:21
後漢や三国だと左右丞相ないんですかね?
6世界@名無史さん:04/04/02 04:14
あぁ、移転ですか。
おめでと。
7怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 08:14
>>6
ありがとう。でも移転とはちょと違いますよ。
前のところは前のところで残ってますし。そことは別の趣旨と思っていただければ幸いです。

>>5
後漢は三公がほとんどですからね。
三国時代にはいずれにも丞相はいましたが、左右丞相はいなかったようですね。
前漢でも左右丞相の時代の方が珍しかったようですし。


前漢では蕭何が初代丞相となり、後に相国に。
曹参が次に相国となり、死後左右丞相として王陵と陳平が就任、という順番ですから、
最初は丞相は1名でした。
漢においては、左右丞相というのは建国の功臣などのパワーバランス等のために最高位を分置した、
臨時的な措置だったのでしょうか。
8怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 08:31
ちなみに、前漢でもう一回だけ左右丞相が復活します。
それは武帝後期、劉屈釐の丞相就任の時の事です。(漢書66劉屈釐伝)
詔によれば、丞相府を二つに分け、左丞相を劉屈釐とし、右丞相には「天下遠方之選」、
即ち天下より賢人が現れ見出されたらその者をあてる、というつもりだったとか。

これは多分、武帝の甥(兄である中山王勝の子)である宗室劉屈釐を丞相にする事への
抵抗、違和感を緩和する効果があったであろう事と、
(当時は宗室の要職就任は制限されていました)
周公旦と太公望といった、「優秀な親族(宗室)と在野から見出された賢人」という
古代におけるある種の理想的な組み合わせにしたかったのではないかと推測します。
9怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 22:39
劉屈釐の左丞相就任が宗室の賢者だった周公を意識してのものだとしたら、
大変皮肉な結果になりました。
かの有名な戻太子の乱を、長安内戦により破った官軍の司令官が彼だったからです。
周公旦も、実の兄弟を討伐しています。
こんなことまで劉屈釐は周公と同じになってしまったのです。
10怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/02 23:28
丞相の官庁は「丞相府」といい、ここに数多くの属官が働いています。
丞相の副官が長史(秩千石)2人です。
また、それとは別に丞相付きの行政監察官として司直(秩比二千石)がいます。
司直は各官庁(九卿、太守)を監察弾劾をしたようです。
この強力な監察官が丞相付きになっているのが、漢代宰相の特色かもしれません。
116:04/04/03 02:33
>7
あっちで以前聞いたネタなんだけれど、
こんなの見つけました。

雲南・東南アジアに関する漢籍資料
ttp://www.lit.nagoya-u.ac.jp/~maruha/kanseki/index.html
12怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/03 13:22
>>11
ありがとう。こういうのってなかなか重宝しそうですね。
その方面の話では、徴姉妹とか孟獲とかについて
当地では現在どのように捉えられているかが気になるところですね。


丞相司直について。
司直は、漢書84テキ方進伝によれば、
もう一つの監察官である司隷校尉さえも弾劾しうる存在であり、
朝廷全体を監視するような職だったと考えられます。
(司隷校尉も司直や丞相自身を弾劾しています)
これが丞相直下にあり、皇帝直下の司隷校尉とほぼ同格になっているのです。
(テキ方進伝によると、当時、司隷校尉の「位」は司直の下であり、
 また会議の類の際には、司直と司隷校尉が中二千石の前に座って
 丞相・御史大夫を迎えたという)
行政監察という点では丞相司直の地位の高さと職の重さは相当なもので、
それはひいては当時の丞相の職務と権限の重大さと無関係ではないでしょう。
13怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/05 00:11
誰も見ていない予感。でもいいか。

丞相についてはまだまだ話はあるけど次。
太尉。
丞相と同じく「金印紫繻」なので丞相と同等か。
「掌武事」というものですが、実のところ実際に何をしていたのかよく分からない。
何故なら、置かれていた時期の方が圧倒的に少ないから。
百官表では武帝建元2年に省いたとあるけど、それまでも何度か消えては復活しています。
で、問題はここからで、百官表ではその後に武帝元狩4年に大司馬を置くという記事が続いています。
ということは、前漢前期の太尉=武帝が置いた大司馬?
14世界@名無史さん:04/04/05 01:04
見てますよ。

易性革命って見方で行くと
漢って東西ともに立ち枯れって感じがするのですが
そうなった要因になり後に改められた制度って
思いつきますか?
15怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/05 23:00
>>14
前漢においては丞相。
後漢においても丞相。
・・・かもしれません。

正確には、前漢末から新への時代は丞相制度から三公制度への移行期で、
新の官制もその中で産まれたものと理解できます。
王莽は当時の禅譲待望論の潮流に乗った面が大きいとも思うので、
必ずしも制度面は主要因ではないように思います。
(丞相が王莽簒奪の要因というのは半ば冗談です)

一方、後漢末は前漢末以来の三公制度が丞相制度に復古した時代でしたが、
丞相としての行政権と軍事権、録尚書事としての皇帝権への容喙、
全て備えた曹操によって王朝にとどめを刺されました。
これもまた時代の流れだったにしても、三公制度をやめた途端にこのザマ、とも言えないこともないのではないでしょうか。
16怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/05 23:23
このザマ、ったって丞相復活自体が曹操肝煎りでしょうけど。
ただ、何故「丞相」なんて200年ぶりの官を持ち出したのか。

(前漢の丞相を復活させてしまえば
「(太尉≒大将軍+司徒+司空)×2/3」
くらいの権限が集中するからです。    多分・・・
権限の固まりです。
17世界@名無史さん:04/04/06 02:38
権力の集中が主原因ですか・・・
三晋みたいなもんなんでしょうか。

前漢の初期には丞相制度も
うまくいっていたようなのですが、
結局だんだん汚れて行くんでしょうね。
話題を止めてまで回答いただき
どうもでした。
18怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/06 08:20
>>17
前漢末も、三公制度を無にする「宰衡」などの一連の王莽による権力集中がありました。
丞相だから悪いのではなく、権力の一極集中が問題なのでしょうけど、
丞相は制度どおりに運用されると十分すぎるほど権力が集中するのだと思います。

前漢初期などに丞相制度で上手くいっていたのは、
そもそもやるべき仕事が少なかった(=権限自体が少なかった)ことや、
皇帝による監視がそれなりに機能していたから、ということだと思います。
19怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/07 08:26
太尉と大司馬。

漢書百官表で太尉の条に大司馬も載っていると書きました。
しかしこの時の大司馬自体には官属はなく、将軍に冠する一種の加官、称号の類だったようです。
実際のところは、驃騎将軍霍去病を大将軍衛青と同等にするために、両者に大司馬の号を与えた、というのが始まりです。
(漢書霍去病伝)
なので、単なる「大司馬」ではなく、「大司馬(大、驃騎などの)将軍」と、
将軍位と一緒になって初めて意味を持つ、おそらくは将軍筆頭、総司令官、とでも言う意味合いの号と思われます。
それまでの太尉が武事を統轄する職だったと思われますので、大司馬将軍も同様の職分を持っていたと言えるでしょう。

しかし、太尉はこの大司馬将軍に全て吸収されて廃止されたとは考えられていなかったようです。
何故なら、漢書循吏伝、黄霸伝によれば、丞相黄霸が宣帝に外戚の史高を太尉にしたらどうですか、と進言しているのです。
それに対し宣帝は、「太尉の官をやめて丞相に兼任させているのは、武をやめて(偃武)文を興すためである」といい、将帥の人事は俺の仕事だから口を挟むな、と叱責します。
(但しこの史高は後に大司馬車騎将軍になります)
なんと、太尉の職は丞相が兼任しているというのです。
しかしその一方で将帥としてはまた別に大司馬将軍を置いているのです。
20世界@名無史さん:04/04/08 00:21
武帝さえ居なければ
もっとすっきりとした
体系だったんでしょうなぁ。
21怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/09 00:23
もしかして見てる人って俺含めて2,3人?まあいいか。

>>20
それはそうなんでしょうけど、
理由はともあれ業務量の増大に伴って色々新設や改組せざるをえなかった、
という面が大きいと思います。
武帝がやったというよりは時代がそうさせた、という感じでしょうか。


太尉と大司馬将軍。
この両者についてですが、太尉は丞相が兼任だとすると、
一方で太尉と等号で結ばれる事もある大司馬との関係はどうなるのでしょう。
これは私見ですが、本来の太尉の職掌の内、
総司令官としての職は大司馬将軍に受け継がれ、
文書事務などの面は丞相府で管理した、という感じなのではないでしょうか。
例えば、軍の人事とか、給与事務とか、恒常的に続く業務については、
常置の官ではない将軍ではなく、常置の丞相が統括した方が好都合という訳です。
そうだとすれば、太尉→丞相でありながら太尉→大司馬将軍という図式が成り立ちます。
よーするに太尉の職掌は二分された、という仮説です。
226,11,14,17,20:04/04/09 02:24
二人ぼっち・・・
寂しいですね。

私は貴君ほど詳しくはないので
質問しながら応援してます。
23怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/09 08:29
>>22
一人はさすがに寂しいので、今後もよろしう。


次は御史大夫。
御史大夫は丞相の副とされ、三公制度においては三公の末席、司空となります。
御史大夫は丞相と比べると少し地位が下がり、「銀印青綬」(比二千石以上の印綬)です。
副官として丞と中丞の二つのポストが置かれています。
御史丞(中の付かない方)は御史大夫の純然たる副官と思われますが、
御史中丞はそうではありません。

中丞は殿中の蘭台をオフィスとして「図籍秘書」を掌り、
公卿の上奏文を受けて取次ぎ、文面点検やその弾劾をし、
部刺史と侍御史を統轄しました。
24怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/11 09:31
御史大夫について。
前漢においては詔は皇帝から御史大夫に下され、そこから丞相に送付され、
そこから九卿や郡太守へと送られるのです。
御史大夫なんざ通さずに丞相に直接渡せばいいんじゃないか、とも思うのですが、
こうなってます。

これは、一つには御史が皇帝(王)の側近、秘書的存在として発展したという経緯が影響しているといわれます。
後の尚書のようなものです。
また、より現実的な理由として、前述のように蘭台が御史大夫(中丞)所管であることもあるかもしれません。
蘭台で詔の管理記録等をしたとすれば、丞相より前に通過しないと記録に差し支えます。
(改竄等を防ぐには、誰の手も加わる余地の無い時点で記録しないといけない)
25怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/12 08:23
御史大夫について。
御史大夫が具体的にどんな仕事をして丞相の副として機能していたのか、いまいちよく分かりません。
ただ、時として丞相とは別に職務怠慢を責められたりしているので、丞相とは別の独立した職務を持っていたのは間違いないでしょう。

そして、武帝より後の時代ではほとんどの場合は御史大夫から丞相に昇進するのが通例になっており、
丞相の仮免、待合室的なポストであったのは明らかです。
当時の官僚は、太守から九卿を歴任し、御史大夫となり、丞相となるのがスタンダードな出世コースでした。
26世界@名無史さん:04/04/12 19:16
>>1
こっちで建てましたか。まぁ、それが無難でしょうね。
あまり書き込めるほど詳しくないけど、ROMってますわ。
27怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/13 08:22
>>26
正直今まだ寂しいので、指摘でも質問でもいつでもお待ちしてます。


御史。
御史大夫の下にあるのが御史です。
御史には二つ有り、御史大夫の下で働く御史と、御史中丞の下に付く侍御史があります。
侍御史は臣下の上奏などの中の非違を調べて弾劾したり、
朝会などの際に儀礼、規則違反などを見つけて弾劾したりします。
侍御史、御史中丞といえば後の時代では監察官の代名詞ですが、
それは漢におけるこれらの職務が継承されたものなのです。
28世界@名無史さん:04/04/13 19:46
久しぶりに中央研究院のサイトを見てみたら華陽国志とか読めるようになってたけど




ひょっとして俺が気づかなかっただけで前から読めた?
29怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/13 20:13
>>28
ほんとだ。
すごい、漢官も揃ってるし文献通考や元典章や大宋詔令集まで!
傷寒論とかも。長編もあるし・・・。知らんかった。前からありましたっけ?
30世界@名無史さん:04/04/13 20:58
たぶんこれまで有料だったのが無料公開になったんだと思われ。

うれしいけどぜんぜん読めねぇな、こりゃ・・・
31怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/14 00:17
>>30
なるほど。
検索できるのですか。現役時代にこんなのあったら楽だったかな?


太傅。
天子の傅役。
前漢では呂后時代の王陵、審食其、
そして王莽政権下で孔光がそれぞれ丞相または大司徒から遷った例と、
王莽自身が孔光の後任となったのみの筈です。
「位三公上」(漢書百官表)と、位の上では丞相以上と思われますので、
丞相の事実上の左遷、またはセミリタイア状態の長老格を就けるのには丁度良かったのでしょう。

後漢では皇帝が即位すると太傅が置かれて録尚書事を兼任し、後見人のような役割を果たしたようです。
意外にも(?)、これは王莽がその由来と思われます。
王莽は太傅、大司馬、領尚書事の官と職を持ち続けたのです。
後漢の太傅、録尚書事は、大司馬相当の将軍職を外戚が担った他は、王莽の時と似ています。
32世界@名無史さん:04/04/14 01:12
審食其・・・空閨の穴埋め男。
3328:04/04/14 01:20
今、見たら読めなくなってる。。。
34怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/14 08:23
>>33
付費使用とか書いてますね。

>>32
審食其は肉体関係はどうだったかはともかく、
呂后が死ぬと太傅に祭り上げられ、呂氏誅滅から僅かの間だけ丞相に復帰しているんですよね。

少なくともその頃は、丞相から太傅になるのは実権を奪うことに他なりません。
(漢書王陵伝参照)
唯一実権を持っていた太傅王莽の場合は、大司馬と領尚書事の実権であって、太傅のそれではなさそうですし。
それに対し、後漢では太傅が必ずしも単なる左遷先でもないらしいのが興味深いです。
35怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/15 08:18
後漢の太傅も録尚書事の職の方が重要なんでしょうけどね。
ただ、それにしても太傅の扱いが前漢と後漢で全く違うのが面白い。

で、太傅の仲間として太師、太保、少傅がありました。
位としては太師、太傅、太保、少傅で、これを四輔と称しています。
賈誼によればこれらは周制であり、太師は太公望、太傅は周公、太保は召公が就いたのだとか。
常に周公旦になぞらえられた(させた)王莽がずっと太傅であったのは偶然ではないでしょう。
36八作 ◆144/FHQQQQ :04/04/15 17:29
おお、こちらでしたか
37怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/16 08:20
>>36
いらっしゃい。よろしう。


四輔は平帝の時に現れたもので、幼帝を補佐するという名目で生まれたものでしょう。
そして、もう一度董卓が太師になっています。
太師は太公望が就いたとされるのですが、董卓は自らを太公望になぞらえようとしたのでしょうか。
38偶然見つけた。:04/04/17 00:57
邪魔するよ。名誉職だよね。師も傅も。

>>25に関しては首相と内相(総務相)の関係が説明しやすいと思うが。
浅い知識ながら。
39世界@名無史さん:04/04/17 01:33
いきなしすんませんが、蜀科ってどういう法律だったん?気になって飯が食えない
40怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/18 00:22
>>38
首相と総務相ですか。
正直ピンと来ない気もしますが、かといってどう説明すればいいのか明言できないです。

むしろ皇帝の官房長と宰相といった関係だったんですよ、元々は。
ただ元々であって、前漢後半までそういった関係がある程度でも維持されたのかどうか・・・。

太傅等については、太傅そのものには実権が無いに等しいのは間違いないと思うんですが、
漢では単に名誉職だった時期が意外と少ないですからねぇ。
後漢では幼帝の後見人としてある意味重要。

>>39
蜀科というと、三国時代の蜀におけるものですか?
三国志伊籍伝によれば、諸葛亮、法正、劉巴、李厳、伊籍によって定められたそうですが。
中身についてはよく分かりません。
諸葛亮伝で伝える「諸葛氏集目録」に「科令」なんて項目があるので、この辺に収録されていたのかもしれません。
流民や東州兵、そして豪族といった、今までの漢律では(たぶん)対応しきれない対象のために、
当時の政情に合わせた政令のようなモノだったのではないでしょうか。
41世界@名無史さん:04/04/18 15:35
うおー、ありがとう怨霊さん!!あー、でも諸葛氏集ってたしか残ってなかったような・・・(泣)
42世界@名無史さん:04/04/18 17:38
凄い、やっと官職スレみっけ。
万歳三唱、大いに応援します。
本日図書館で晋書から隋書までの職官部分をコピーしてもらってきて、
帰った早々覗いてみたらここを発見。
本日は大ラッキーデーです。
しかしうちの県立図書館、二十四史を国際国流室とかに置いてるから
今まで存在を気が付かなかったですよ。
43怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/18 22:50
>>41
残ってないでしょうね。少なくとも残ってると聞いたことないです。
何か知ってる人いたら教えてください。
そもそも、まとまった形で当時の律令が丸々残ってたら超級の史料です。
将来出土資料として何か出てくるのを願うくらいしかないのではないでしょうか。

>>42
県立図書館にあったのは中華書局版ですか?
官職部分をコピーとのことですが、相当の枚数だったでしょう。すごいッスね。
私は現在宋書まで買っとくんだったと後悔してます。
44怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/19 00:48
次。
前後左右将軍。「前後左右将軍」と、漢書百官表に実際に書いてあります。
なんと、漢書百官表には将軍の説明はこの前後左右将軍しかありません。
兵及び四夷を掌る、とのこと。
他の将軍はどこいったのでしょう?

大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍が将軍では上から4つ。
これらの筆頭にはさらに大司馬が付きます。
ということで、これらの説明は大司馬=太尉の項目に吸収されたのかも。
他の将軍は基本的に臨時の官なので説明の対象にならなかったか?
45世界@名無史さん:04/04/19 20:58
>>44
大、驃騎、車騎、衛、前後左右以外は雑号将軍ではなかったかな。
46世界@名無史さん:04/04/19 21:14
>>43
中華書局です。
宋書の女官部分含めてA3とA4で37枚370円でした。
唐以降はページ数が多そうななので、
一回に一冊づつコピーしてもらうことになると思います。
漢文はちんぷん漢文ですけどね。

漢の将軍等武官については「秦漢法制史の研究」「秦漢隋唐史の研究」
あたりでしょうか。

衛尉が中大夫令に改名されたのは疑問です。
衛士の長と大夫の長共通点がない。
47怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/20 00:36
>>45
続漢書職官志によればそうですね。
私が今紹介してる前漢では雑号将軍という語があったかどうか不明ですけど。
印象で言うと、ただの「将軍」がまずあって、
総司令、上級の将軍としての大、驃騎、車騎、衛、前後左右がある、と言う感じ?
で、「将軍」だけだと誰が誰だか分からないので任務などを表す色んな号を付けて呼ぶようになった、と。
それが将軍号のインフレ傾向と共に「雑号将軍」は価値が下落していったのでしょうか。

>>46
唐以降はすごい数ですよね。たとえば宋史では数百ページ。全部合せれば。

衛尉の中大夫令への改名については正直よく分かりません。
大夫は郎中令の所管の筈ですし。
あるいはその当時は大夫が衛尉所管だったのかもしれませんけど、あくまで推測ですし、
おっしゃるように宮門の衛兵と議論を掌る大夫の関係性が問題ですね。
ただ、各地から来る献策者を衛尉所管の公車司馬門などで(待詔公車という)皇帝からの返答、お召しを待たせる、
という事がしばしばあったようなので、衛尉と議論は無関係でもないのかも。
いや、これは妄想に近かったですが。
48世界@名無史さん:04/04/20 02:59
ちんぷん漢文ですけどねぇ?
オイオイ・・・

と反応だけしておこう。
規制解禁記念カキコ
49世界@名無史さん:04/04/20 20:08
このころの官職の職掌は良くわからないですね。
則天武后や玄宗の改名は単なる改名みたいですが、
このころは職掌自体が変更になってる感があります。
字面から現代の感覚で考える職掌と実際の職掌に全く関連がない場合もありますし。

将軍、楚は上将軍、漢は大将軍この当たりの変化も興味深いです。
50怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/21 00:38
>>48
気づかなかった。
DIONですか?

>>49
>字面から現代の感覚で考える職掌と実際の職掌に全く関連がない場合
これは確かにありますね。
主爵中尉を改組してどうして右扶風になるのか。
大鴻盧と典属国をわざわざ分置するのは何故か。
・事と大長秋はどう違うのか。
言い出すとキリがないですけど。

楚官はまるで詳しくないですが、項羽の時代の楚系の官と秦・漢官はどうも体系からして違うような印象が。
詳しい人教えて。
5148:04/04/21 01:13
>50
DIONです。

項羽と劉邦について
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1056173684/l50


#宰相と丞相と大元師の地位とかの役割教えてくれ!
なんて話が出ていましたので、
こちらの宣伝貼っておきました。
52世界@名無史さん:04/04/21 01:18
三国志などの役職名の順とか載せているサイトないですか?
53怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/22 08:27
>>51
大元帥とか言うとまったく別の時代のものを連想する人が多いかも。

>>52
憶えているのはないッスね。どこかにあるかもしれませんが。
三国時代なんかは官職の変遷がけっこう激しいし、不明な点も多々あるように思われますので、しっかりしたのはなかなか作るのも難しいかもしれません。


将軍。
前後漢とも、基本的に将軍は出兵の時に任命され、任務終了すると将軍位も返上します。
漢書百官表の「常置せず」、続漢書百官志の「事訖われば皆罷める」、というのはそのことです。
いわゆる大司馬将軍は昭帝即位以後はほぼ常置でしたが、これはそもそも出兵を前提としていないようなので例外でしょう。
54怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/23 00:27
奉常、というか太常。

「宗廟礼儀を掌る」とのこと。
これが九卿トップに来ているあたり、当時の祭祀の重要性を窺わせるかも。
名称は奉常から景帝中6年に太常に改めたんですが、
これって「奉」と「泰」の字形が似ていて、
なおかつ「泰=太」(意味、音とも。漢ではこの二字は通用する)だってんで
「奉常→泰常→太常」になったんじゃないだろうかと思ってしまいます。

前漢では列侯が就任するという慣習(?)があったらしいです。
それでいて「宗廟の瓦が強風で飛んだ」(昭帝の時、当塗侯魏不害)なんてけっこう理不尽な理由で罷免されたりします。
なかなか気苦労多くて大変な官だったんじゃないでしょうか。
ヘタすりゃせっかくの列侯位まで危ないですし。
55於プ羅 ◆LIXoOON5OQ :04/04/23 00:49
それは神祇官みたいなモンなの?
56世界@名無史さん:04/04/23 01:50
三公だって似たようなもんだし。
57怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/23 08:29
>>55
そうなのかもしれませんが、どうも他のどんな官に似ている、という表現がしにくい気もします。
太常の下には太楽、太祝(祠祀、廟祀)、太宰、太史、太卜、太医(後漢では少府に属す)、博士(長を博士僕射、後漢では博士祭酒という)といった属官があり、
前漢中期までは三輔近辺の皇帝陵県の県令まで太常に属していました。
天文・記録の官である太史、学識をもって仕える博士、さらには医局の長である太医まで含まれているように、
漢の太常の占める位置はかなり大きかったように思います。

>>56
罷免理由のことですね?
確かに三公がしばしば天変地異を理由に罷免されたというのと、理不尽と言う意味では似ています。
ただし、三公の場合は、天が天子に下した譴責に対し、実際の国政担当者として責任を取らされた(実質はともかく名目としては)のに対して、
太常の場合は不可抗力の事故であっても、それが宗廟・祭祀関係であれば不敬=職務怠慢だからという理由でのクビというところでしょうから、
さすがに三公のそれとは比べ物にならないと思います。
58世界@名無史さん:04/04/24 02:42
>57
三公ってそのために復活させたという説は本当かな?

年金という義務を怠っていた者が
大臣をやっていられる日本は
良い国なのかなぁ・・・
59怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/24 23:09
>>58
その説については知らないので詳しく教えてください。


太常。
属官として、雍の五畤その他を管轄、警護する官なんかも含まれていたようです。
漢書郊祀志によれば五畤は白青黄赤黒の五帝の祠があるところで、
それがあるのが右扶風の雍県でした。ここには五畤など303の祠があったそうで、(漢書地理志)
秦徳公がここを都とした事に始まるのだそうです。
そのほか、長安にも各地の祭祀を行う祠が建てられています。

これらの祭祀は元々は七国で行っていたものでしょうが、秦、漢が統一したことでその祭祀もまた秦、漢の皇帝の職務になったのでしょう。
そして、その各地の祭祀を皇帝から委任されているのが太常、ということになります。
太常の職務とは、皇帝の祖先祭祀関係のほか、こういった各種の祭祀全体の管理運営だったのです。
60世界@名無史さん:04/04/25 23:45
突然ですいません
高校の時に授業でさわりを教えてもらった
「塩鉄論」を探しましたが見つかりませんでした。
でもあの時代に塩専売とか専売解禁論者と対決する官僚とか
描写しているのはすごいと思いました。
6158:04/04/26 00:21
>59
どこで読んだか忘れたので
思い出したら書き込みます。
って、学者の著書とかでは
無かったはずなので
さほど期待しないでください。
62怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/26 00:26
>>60
原文でしたら「中華文化網離線閲覽」などで見ることが出来るようです。
中華書局から出版されていますし。
和訳は東洋文庫(平凡社)から出ています。
現在入手が容易かどうか分かりませんが・・・。
63怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/26 00:55
>>61
了解です。期待しないで待ってます。


太常。
太常属官といえば博士もいます。
博士は元は四百石、後に比六百石。長として博士僕射(後漢では博士祭酒、六百石)がいます。
博士は五経の有力学派ごとに立てられたらしいです。
さらに、武帝の時に博士の下に博士弟子が置かれ、徭役を免除して学問に専念させ、優秀な者は官僚として取り立てようというものでした。
博士弟子は50人から始まり、前漢末では最高3000人。
経書を学ぶ者が増加していくのはこういった事情によります。
64怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/26 08:32
博士弟子の増加が経書を学ぶ者を増やしたのか、
経書を学ぶ者が増加した事で博士弟子の員数を増やしたのか。
考え出したらキリが無い?


郎中令。
「宮殿掖門戸を掌る」官。宮殿内の警護です。後で出てくるであろう衛尉、中尉とは警護する場所が違います。
宮殿内の警護は「郎」が行うので、その長官即ち「令」ということで郎中令。
武帝太初元年に「光禄勲」に改称。
郎は、宮殿の門戸を守り、あるいは外征時には「車騎を充たす」そうです。
車・騎ということは、歩兵にはならないということで、指揮官または騎兵のようなエリート部隊になるということでしょう。
郎は親衛隊であり、エリートなのです。
郎になるのは前漢では推挙または「任子」によるものがほとんどの筈で、特に任子による供給が目立つかもしれません。
任子とは高級官僚の親がその子弟を郎にできるというもので、この制度のために前漢では親が官僚になると子も官僚、という流れが生まれました。
当時、官僚になれるほどの知識を得られる経済力と師を揃えられるのは官僚くらいだったのでしょう。
(子への教育を自分または部下にやらせる事ができる)
65世界@名無史さん:04/04/26 20:04
どの本だったか忘れましたけど、
漢の官僚は比二百石と百石の属吏の間で奏任官と判任官に相当するような格差があり、
その壁を越えるには皇帝の私的家臣の性格を持つ郎となる必要があったとされています。
つまり属吏から直接上級官にはなれない。
一方最下位の郎中でも比三百石と同じ本に書いてあったりもします。
すると三百石級の県長、署長以上はそれで良いとして、
二百石級(下級の丞,県尉等)の任用はどうなっていたんでしょう。
まあ武官の屯長(比二百石:小隊長級?)などは下士官級から直に昇進したのかもしれませんけど。
66世界@名無史さん:04/04/26 20:32
郎中令はそのもずばりの誤解の余地のない名称ですが、
光禄勲は意味不明瞭でどういう意味で名づけたんでしょうね。
67怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/26 22:37
>>65
私が知る中でおっしゃるような事が書いてあるのは宮崎翁の「九品官人法の研究」かと。
結局、キャリアとノンキャリ、または中央と地方の関係ってのは現代日本でもあまり変わらないということなんでしょうか。

>>66
漢書百官表の注、応劭によれば「光者「明」也。禄者「爵」也。勲、功也」との事ですが・・・。
(如淳注によると勲を門番としてますが、顔師古に従っておきます)
「明爵功」→「爵・功を明らかにする」?
郎中令が持つ、65氏の言うような官僚の昇進というか爵位の上昇に関する機能を言い表したのでしょうか?
私も正直言ってハッキリした事は言えないです。他の方々のご意見も聞きたいところ。
68怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/27 08:31
>>65
下級の官吏の昇進なんてのは私はよく分かりません。
出土資料から分かるのかもしれないですが不勉強なもので・・・。
誰か教えてください。


郎中令または光禄勲。
宮殿内の警護を掌る光禄勲ですが、属官としては大夫、郎、謁者とあり、
官名を見ても分かるように全てが衛兵ではありません。
大夫という、「顧問応対」(続漢書百官志)や使者となることを職務とする、
通常の業務には携わらない皇帝のスタッフ職もまたここに属しています。
大夫は比二千石(光禄大夫)から六百石(諫大夫、前漢は八百石)まで取り揃えており、
ポストの空席待ちや、左遷先としても機能していたと思われます(続漢書によれば定員は「無員」ですし)。
69世界@名無史さん:04/04/27 20:44
筑摩の「漢書列伝選」や平凡社の「漢書・後漢書・三国志列伝選」の巻末の職官表では、
郎中は比二百石となっていますね。
ちくま学術文庫の「漢書」百官公卿表では比三百石ですが。

秦の時代だったかもしれませんが郎中以外に、
外郎だか散郎だかも存在していたと言う記述を見たことがあります。
あるいはこれは比二百石だったのでしょうか?

また中郎(比六百石)、侍郎(比四百石),郎中の三職、
身分によって任用が違うとかあったのでしょうか?
それとも初任は原則郎中?

中大夫から改称された光禄大夫が比二千石、大中大夫が比千石、
名称から言うと上下が反対ぽいですね。
後世は逆転してますけど。
70怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/28 00:18
>>69
漢書百官表、続漢書百官志ともに郎中は比三百石みたいなんですけどね。
何か他の典拠か研究があるのでしょうか?

漢書恵帝紀には、「外郎」という語が出てきます。
これはどうやら(漢書補注より)「中」に対する「外」と解釈するようで、
禁中にいた(と思われる)「中郎・郎中」に対してそれ以外の郎ということのようです。
これはあくまで恵帝期の話で、おそらくその後色々と郎についても変遷を経ているのだと思いますが。

漢の初期では、初任官としての郎は単に「郎」としか書かれなかったりしているようなので、
どの郎になったのかといった事は正直私には分かりません。

光禄大夫と太中大夫ですが、光禄大夫は中大夫が改称したというより、
一旦中大夫が廃止されて新たに太中大夫の上に光禄大夫が置かれたという感じなんでしょうね。
71怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/28 00:47
光禄勲というか郎中令。

中郎の長、指揮官が「中郎将」です。五官中郎将、右中郎将、左中郎将(比二千石)の三つがあり、
これらの郎を合せて三署郎なんて言います。
一番有名な五官中郎将といえば曹丕ですね、関係無いですが。
また郎中の長が「郎中将」です。車将、戸将、騎将(比千石)の三将があります。
前漢では、どうやら郎中と中郎は所属自体が違うみたいですね。

後漢では郎中将は廃止されて中郎将に合わせられ、中郎将が中郎、侍郎、郎中全てを率いています。
72怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/28 08:31
郎について。

漢書百官表、続漢書百官志によれば、郎は四種類。
議郎(比六百石)
中郎(比六百石)
侍郎(比四百石)
郎中(比三百石)
合計千人にも及ぶそうな。

また、それとは別に「期門」、平帝=王莽時代以降は「虎賁」がありました。
皇帝に付き従う郎であったようで、武帝初期に置かれ、これも千人にも及びました。
この虎賁郎にも虎賁中郎将が置かれます。
虎賁郎は子が父の後を継ぐような制度だったようです。
されに「羽林」。これも皇帝に付き従う郎。
(他の郎は宮殿の警護が職務であり、必ずしも皇帝の側にいるとは限らない)
これは武帝末期に置かれ、戦争孤児を養育して軍事教育を施した者と、
北辺の六郡良家子を抜擢した者(董卓がそうでした)とで構成されたようです。
これにも羽林中郎将が置かれ、その下の郎は「羽林郎」(比三百石)。
なお、羽林は騎兵が中心だったようです。
73世界@名無史さん:04/04/28 19:54
 職官表について、漢書列伝選(三木克己訳:初版1992年ただし訳者は1972年逝去)の
方は参考資料についての注記なし。
 漢書後漢書三国志列伝選(本田済編訳:初版1973年)の方は漢書百官公卿表をもとに
通典、通考を参照して作成と書かれています。
 どちらも特に注記がないので訳者が作成された表だと思います。

濱口重國氏著の「秦漢随等史の研究」によると、後漢の虎賁郎は虎賁中郎(比六百石)、
虎賁侍郎(比四百石)、虎賁郎中(比三百石)、節従虎賁(比二百石)の四段階に別れて
いました。(後漢書百官志より)
 更に隊長格の虎賁僕射、虎賁陛長(共に比六百石)が有り。
 なお羽林郎は比三百石一本。

 臨時代理的存在の守長、守尉、守丞等は、郡の掾史(属官)から任用さていたようです。
 この場合治績を上げれば、太守の推薦で他郡の正規の長、尉、丞等に任命されることも
あったのでしょうか?
 まあ太守の推薦を受けた掾史は、郎の方の人材供給源でもあったわけですが。

 比二千石以上が親任官、比六百石以上が勅任官、比二百石以上が奏任官、百石以下が判任官といったイメージがあります。
 すると同じ郎でも中郎はいきなり勅任官?

 ところで郎って千人もいて普段はなにをしてたんでしょうね。
 使者とかも務めたようですが、親衛隊員にしても給与の割に人数多すぎな気が。
 尚書郎とかは本来は出向だったようですから、そう言う風に出向した人もいたんでしょうけど、おそらくそれも半分にもなりませんしね。
74怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/29 19:10
>>73
さて、郎中が比二百石という典拠はどこなんでしょうね。
羽林郎が一種類しかないというのは、羽林の成り立ちを考える上で興味深いです。
羽林は騎兵によって構成されていたようで、
(漢書百官表には「羽林騎」という表現があるし、続漢書百官志には羽林右騎、左騎とある)
皇帝の護衛としても虎賁その他とはこの点で違っていたのかもしれません。

細かいことかもしれないんですが、「守」というのは「臨時代理」というよりは「見習い、試行期間」という感じだったようです。
それがはっきり現れるのが前漢の三輔で、まずは「守」付きの三輔に就けられ、
(官秩などは元の官のものだったようです)
一年経って問題が無ければ「真」になる(官秩などが本来のその官のものとなる)という制度だった筈。
そしてこれは三輔のみの話ではなく、広く郡県のポスト等で行われていた制度でした。
ということで、郡の属官から守丞等になった場合も、まずは就任していたポストで正規の官秩になるのでしょう。
他の郡というのはちょっと記憶にありません。

官秩と任官ですが、郎はそもそも就任する方法が特殊なのでなんとも言い難い気がします。

郎は普段は衛兵でしょう。
五日に一日の割合で「洗沐」といういわば有給休暇があるので、輪番の交代制だったと思われます。
また漢書楊ツ伝には、郎は病休あるいは私用での休み一日ごとに文房具を自費で買って供出するということになっていたとあり、
金持ちの郎は仕事に行かず金で休みを買っていたということだったそうです。
(なお、それを司馬遷の外孫楊ツが改革した)
こういった状態からも分かるように、千人といっても常に千人が職務にあったわけではないのでしょう。
75世界@名無史さん:04/04/29 21:00
後漢の守官について
濱口重國氏著の「秦漢随等史の研究」によると
(1)守令等は勅命官の資格をもたない者を仮に任じた。
(2)そのままでは何年在職しても真官にはなれない。
(3)郡太守により任命された。
(4)郡内の人が任用された。ただし該当の県の出身者は通常排除された。
(5)真官の令等は郡内の人間は任用されなかった。
と言うことのようです。
なお試守官は例えば四百石の県に三百石格の人を任命する時に使ったようです。
76怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/29 22:14
>>75
むむ。そうでしたか。これは失礼。
三輔やら太守やらのレベルでの「守」とは違うのでしたか。
共通するのは「守」がより低い官秩(資格)しか持たない状態からより高位の官に就く場合ということでしょうか。
濱ちゃんとかお持ちでしたらこれからも色々修正や補足お願いします。

真に臨時代理なのは「行○○(事)」ですね。
他の官にある者が、不在(欠員、病欠、出張その他)の者に代わって上奏、決裁などをするものです。
臨時ですので基本的にはその場限り。
77怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/29 23:35
衛尉。

厳密には未央衛尉と言うべき?
皇太后宮である長楽衛尉、離宮である建章衛尉(長安の西)、甘泉衛尉なんてのもあります。
「宮門衛屯兵を掌る」(漢書百官表)のだそうです。
光禄勲(郎中令)との違いは、守るのが宮殿の中か外側の門か、という事でしょう。

但し、単なる武官という訳でもなく、公車司馬令などは独特の職務を持っています。
それは、彼の管轄である公車司馬門は、吏民の上奏、貢献、皇帝からの徴などの際に必ず通る場所で、
それらを管理するところであるということです。
そのため、公車司馬令の丞には諱に詳しい者を選ぶのだとか。

その他、北宮、南宮の衛士令、左右都候なんてのも衛尉に属します。
面白いのは左右都候で、宮殿を巡回する剣戟の士を掌り、
更には皇帝が臣下を逮捕する際に使われるのがこの左右都候配下の剣戟の士なのだそうです。
(続漢書百官志)
78怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/30 00:41
衛尉。

衛尉は前漢では二十二の屯衛(候、司馬といった隊長格が置かれていた)を管轄し、
後漢では七つの宮門(平城門、蒼龍門、玄武門、北門、南掖門、東門、北門(二つある?))
を管轄したようです。

なお、衛尉は前述のように離宮や皇太后、太皇太后宮(長楽宮、長信宮)にも置かれました。
これらは皇帝の(未央)衛尉と違い常置ではないですが。
79怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/30 08:26
衛尉は景帝時代に「中大夫令」に一旦改称し、後にまた衛尉に戻したといいます。
前に話題になりましたが、そのあたりの事情はよく分かりません。
景帝や武帝の官名改称の時期ともずれていますし。

太僕。

車馬を掌る。具体的には、皇帝の乗る車の御者から、軍用の馬の養育、管理、更に後漢では兵器の製作も担当したようです。
実際に皇帝の御者になるという関係からか、太僕になるのは皇帝と特殊な縁故がある者が多く、
また在任期間が比較的長い傾向があるようです。
(少なくとも前漢では。例えば武帝の時の公孫賀は33年在任し、しかも後任は息子)
前漢では辺郡に36箇所の牧場を作り、そこで30万頭の馬を生産していたそうです。
(漢書百官表注引漢官儀)
80世界@名無史さん:04/04/30 20:05
大僕と言えば配下の家馬令=?馬令も不思議ですね。
 家馬令の方は皇帝の私馬を司る、?馬令の方は葡萄酒造りとかどこかで読んだことがあ
りますがよく分かりませんね。
 衛尉の部下の旅賁令も走り使いとか書いてあるけど意味不明?


 大庭脩氏の「秦漢法制史の研究」第5章「漢の官吏の兼任」によると、
1 守官とは、某官心得ともいうべきもので、卑秩(又は卑位次)の官職にあって高秩(又
 は高位次)の職を兼ねる兼任である。それは唐時代の守官の卑位高職の意味と相似たも
 ので、兼任者の選任は慎重に行われた。
  それに対して行官とは、某官事務取扱というべきもので、秩次等による兼任の原則は
 見出し難く、したがって唐時代の行官の高位卑職の意味は、全く看取されず、兼任者の
 選任は便宜的であるように思われる。

2 守官の置かれた官には本務者がいず、したがって守者は制度的には自己の本官と、守
 官の二官を一人で兼ねているが、行官の置かれた官には本務者がおり、一時不在の場合
 が多かったと思われる。
 とあります。

 結局守官とは、資格の足りない人が本官を持ったまま本務者が欠けている上級の官の事
務を執ることのようです。
 その場合本採用を前提とした試験期間の場合も有れば、あくまで代理にとどまることも
ある。三輔太守の場合等は前者に当たり、県の守令等の場合は後者に当たる、と言ったと
ころでしょうか。
 
81世界@名無史さん:04/04/30 20:08
 御史大夫の官秩って万石でいいのでしょうか?
 御史大夫の棒級が丞相等より一段低いことは間違いないのですが、官秩が区分されてい
たかどうかが疑問です。
 週間朝日百科世界の歴史12「紀元前の世界、焦点3帝国・完了・軍隊」収録の「帝国
と官僚:東北大学助教授山田勝芳氏」では万石を公(丞相・大将軍)と上卿(御史大夫)
にわけています。
 上から公・上卿・中二千石・真二千石(前漢後期:大郡太守)・二千石・比二千石・千
石・比千石・九百石(名称のみ存在)・八百石(前23年廃止)・比八百石(前23年廃止)
・七百石(名称のみ存在)・六百石・比六百石・五百石(前23年廃止)・比五百石(前23
年廃止)・四百石・四六百石・三百石・比三百石・二百石・比二百石・百石・比百石・斗
食・佐史の順。

 比較国制史研究序説(柏書房)収録の中国古代専制国家論(渡辺信一郎氏)では、
万石・中二千石・二千石・比二千石・千石・比千石・八百石・比八百石・六百石・比六百
石・五百石・比五百石・四百石・四六百石・三百石・比三百石・二百石・比二百石・百石
・斗食・佐史
 うち比千石・八百石・比八百石・五百石・比五百石は前漢のみとなっています。

 比較すると九百石・七百石は名義だけなので無視するとして、後漢での比千石の存在?
比百石の存在?御史大夫の官秩が議論のある点でしょうか。

下級官吏の嗇夫等には有秩と斗食の別が有るようですが、有秩は斗食の上二百石の下のようです。
 有秩とは百石級の別称のようですが、百石以上が本来の秩だと言う意味でそう呼ばれたのでしょうか。
 あと秦代で武功によって五十石の吏に任命されるとか言う話をどこかで読んだことがあ
りますが、この場合の五十石は斗食ないし佐史に相当するんでしょうかね。
82怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/04/30 22:48
>>80
トウ(手偏+同)馬令の事ですね。
家馬令からトウ馬令への改称は、もしかすると馬匹の管理を公私一元化し、
仕事のなくなった家馬令に馬酪(葡萄酒ではなく馬乳から作る飲料です)作りをさせた、というのが実態かもしれないですね。
いや根拠はないんですが。
なお、トウ馬令での馬酪作りに、楽府廃止により余剰した楽団員を当てた、なんて話もあります。
(あるいは楽団員は盲人なのでそういった単純作業に当てた?)
旅賁令は衛尉の守る門と門、もしくは門と宮殿の間の取り次ぎ、伝令あたりでしょうか?

大庭氏のその論文は憶えがあります。というか基本的にはそれに拠って話してました。
(記憶頼りでしたが)
でも「守」については私不十分だったようでスイマセン。

>>81
山田先生らが何に拠ったのか分からないので何とも言いがたい面もありますが、
漢書百官表の注、臣サン(王賛)の引く「茂陵書」によると御史大夫は中二千石だそうで。
傍証としては、漢書百官表の御史大夫の条によれば、大司空に改組された時に「禄比丞相」となっています。
つまりそれまでの御史大夫は丞相より下の禄であった=万石ではない。
あと続漢書百官志によると「郷置有秩、三老、游徼」「有秩、郡所署、秩百石、掌一郷人」となっており、
「有秩」とは下級の吏(百石)の官名そのものですね。
秦代の話は私は知らないので賢者を待ちましょう。
83怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/01 11:24
太僕について。

後漢では河西の六郡での馬生産(辺郡六牧師エン令)が軒並み廃止されるなど、
太僕はかなり機能を縮小されています。
これは後漢の軍事力に相当な影響を与えた筈で、前漢の自前の騎兵を万単位で揃える動員力は過去のものとなったと言って良いでしょう。
これは経済面、民政面から見たプラスの意味での軍縮という面と、
国家の統制力などの減退により前漢のレベルを維持できなくなったから、というマイナスの面があるように思います。
思うに烏丸、鮮卑、羌などの伸張、跋扈を許したのは後漢の軍事面での弱体化によるところが大きかったと思うのですが、
その後漢の弱体化を如実に示しているのがこの太僕の縮小ではないかと思います。


関係無いですが、衛尉に長楽衛尉があったように、太僕にも中太僕という皇太后のための太僕がありました。
これは純然たる皇太后の御者でしょう。石顕の左遷先ですね確か。
84世界@名無史さん:04/05/01 11:33
トウ馬令、一太郎で打ってた分を張り付けしたら?になってしまいました。

外郎、学研歴史群像シリーズ33「項羽と劉邦」収録の「漢代の兵制」によると、
著者の静岡大学助教授(当時)重近啓樹氏は厳耕望氏の「秦漢郎吏制度考」により外郎存在派のようですね。
統率者としての外郎将の存在も想定されているみたいです。

どこで読んだか忘れたんですが確か商子に千石之令は護衛兵百人、八百之令80人、
以下七百之令70人、六百之令60人と言う記述つがあるようです。
すると秦には少なくとも七百石は存在したようで漢の七百石・九百石は秦の遺制なのでしょう。

千石・比千石・九百石・八百石・比八百石・七百石・六百石・比六百石・五百石・比五百石・
四百石こう並べると、確かに多すぎるので廃止されたのでしょうが、
奇数の秩が廃止されているのやはり偶数の方が切りが良いということでしょうか。
また九百石より比千石の偉そうだ言うことがあったかもなどと思います。
85世界@名無史さん:04/05/01 11:46
有秩
大庭脩氏の「秦漢法制史の研究」第四章漢の嗇夫によると
士吏、候長、嗇夫等の下級官吏には官秩に有秩と斗食の別があり、
公的性格の強い文書では有秩士吏、有秩候長、有秩嗇夫と、
斗食と区別して書いたと推定されています。
で郷有秩は郷有秩嗇夫の略、つまり郷嗇夫のうち有秩のものをそう称したようです。
86世界@名無史さん:04/05/01 20:56
太子舎人(後漢書によれば二百石)は任務的には郎に準じたようですが、
任用的にも郎と共通点があったのでしょうか?
あるいはこれが県尉あたりの人材供給源かもしれませんね。
87怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/02 00:36
>>84
>外郎将の存在も想定
ありえないとは言い切れないでしょうけど、「想定」ということは根拠は特になし?

官秩については、やはり多すぎるのは面倒というか省略したんでしょうね、多分。

>>85
>有秩
そうでしたか。重ね重ね補足ありがとう。
そういえば続漢書でも「其郷小者、県置嗇夫一人」という文が有秩と並置されていますね。
嗇夫の中でも官秩が大きい(「有秩」に該当する者)が有秩とよばれた、という事でしょうか。

>>86
どうでしょう。それについては私にはよく分かりませんが、規模という面で正直ムリがあるように思います。
(続漢書の注によれば十三人ですから、県尉の人材供給源といえるほど人材がいないのでは)
88怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/02 15:44
廷尉。

裁判、刑罰を掌る。
ここが他の九卿と違うのは、副官として「丞」がいないこと。
その代わりに「正」と左右「監」、左右「平」がいました。
「正」「監」は秩千石と九卿の丞と同じ。
廷尉だけが特殊なのは、その職掌や成り立ちと関係あるのでしょう。
というのは、「尉」という名称にも表れているように軍事的な官から由来しているようなのです。
そして、「正」「監」というのは、前漢で将軍の監察として存在したらしい「軍正」「監軍御史」などと名称が共通します。
こういった将軍に置かれる監視役が形を変えたものが廷尉の副官(?)ではないでしょうか。

廷尉は具体的には皇帝の勅命による獄事(詔獄)の取調べから刑罰の上言までを行い、
また郡国での裁判で決定できないものを決定する(言獻)ことを主な職務としました。
後漢では「監」「平」を一名とし(左だけ残した)ています。
なお、廷尉平は宣帝地節3年に置かれたものです。
89怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/02 16:13
廷尉。

廷尉は景帝中6年に一度「大理」と改称されています。
しかし同時期の他の改称と違い、武帝建元4年に廷尉に復しています。
このあたりの理由が良く分かりません。
なお、哀帝が元寿2年、おそらく三公制を中心とする官制改革の中でまた大理に改称しました。
後漢では一貫して廷尉だったようですが、曹操の魏国内では漢と区別するためか大理と称していたようです。

景帝、哀帝の時は、「尉」という明らかに武官系の名称でありながら兵を領しているわけではないというあたりが、「尉」という名称を排除する方向に向かったのでしょうか。
中尉は改称して衛尉は改称しないとか、なんだか良く分からないですけどね。
90世界@名無史さん:04/05/03 10:51
廷尉=大理は大庭先生によると治粟内史→大農令→大司農とならんで、
いわゆる九卿の中で国家的な使命を果たす官庁ですね。
あとは少なくともな成り立ちの上では皇帝個人に奉仕する宮内的官庁。
王莽がどうして作士などと改名したのか疑問です。
周礼になどありましたでしょうか?
あと廷尉は付属官庁がない(令長がいない)のが特徴ですね。
91世界@名無史さん:04/05/03 15:30
>>87
外郎将
本文では書かれていないのですが附表に
 郎中令ー中郎将ー中郎
    −郎中将ー郎中
    −(外郎将)ー外郎
とあります。
外郎将は外郎の存在を前提に、中郎・郎中に将が存在する以上、
外郎にも将があるのではないかと推定されているのでしょう。
あくまで一般向けの本ですから、
この文章だけではこれ以上のことはわかりませんね。
92怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/03 22:45
>>90
大庭先生の論文(著作)にそういったことが書いてあったような記憶ありますね。
「作士」ですが、ちらと調べた限りでは尚書や史記五帝本紀で舜がコウ陶について「汝作士、五刑有服」(史記より)と言っているようです。
それに対し馬融によれば(史記集解、尚書の注でしょう)「獄官之長」とのこと。
ここからでしょうか?

>>91
確かに「外郎」なるものが中郎、郎中と別に存在している以上は同様の制(将がいる)である可能性は否定できないですね。
ただ、それがその後どうなったのかが気になるところです。
あくまで仮定ですが、外郎が期門へと改組されたのでしょうか?
93怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/04 00:47
典客。

後の大鴻臚。職掌は現行漢書百官表では「諸帰義蛮夷を掌る」なんですが、帰義蛮夷だけだとすると典属国との違いが・・・。
で、実は資治通鑑13巻、漢紀、高皇后8年の条では「掌諸侯、歸義蛮夷」となっていたりします。
(はるか昔に私も参加した読書会で話題になったです)
これなら分かりやすい。続漢書では「掌諸侯及四方帰義蛮夷」となっていて、まさにこれ。
というわけで、漢書の本文はおそらく脱字があるんですね。
具体的には、諸侯王や帰義蛮夷(内地に住んでいる漢に従属した蛮夷。)、それと郡国邸の管理なんかをしたようです。
94世界@名無史さん:04/05/04 18:28
典客→大行令→大鴻臚
属官が行人令→大行令
ややこしいですね。

鴻とは声、臚とは伝えることで、鴻臚は伝声引導の意味と
中国歴代職官辞典(日中民族化学研究所編:国書刊行会発行)にありましたが
なにか古典の方で出典があったのでしょうか?
それ以前のそのものず張りの官名に比べてわかりにくいですね。

職掌について後漢書では、「掌諸侯、四方歸義蛮夷」となっていますね。

>大庭先生
 「秦漢法制史の研究」「図説中国の歴史(講談社)」などでそう書いておられます。
95怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/04 22:49
>>94
鴻臚の字義は、漢書百官表の応劭注が「鴻とは声、臚とは伝えること」となってますね。
景帝、武帝の時の改称は古典からの典拠が明確でないような気がしますが、出典はどうなんでしょう?

大行への改称の方が理由とか(官名の)意味とかはっきりしなくて興味ありますね。
ついでに言うと行人→大行って何をする官だったのでしょうか。
どうも諡を奏上したりしてるみたいですけど。
96世界@名無史さん:04/05/05 14:34
大鴻臚
王莽の改名は典楽、楽は礼に通じるとの思想があったとは言え大胆な改名ですね。
あと大○○、大○令って官名が実に多いです。
97怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/05 22:47
>>96
景帝の時は「大農令」「大行令」と大○令で、
武帝の時は「大司農」「大司馬」と大○○ですね。
王莽の改称も単に周礼に沿ったというだけでもないのかもしれませんね。先行研究とかあるんでしょうか。


大鴻臚。
成帝河平元年、大鴻臚に典属国が編入されます。
典属国は「蛮夷降者」を掌るもので、正直大鴻臚の「帰義蛮夷」という職掌との差異が分かりにくいですし、ある意味当然の改組かもしれません。
属官には行人(後に大行)、訳官、別火とあるんですが、訳官以外は何をやるところだったんでしょうか?
98怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/06 00:40
宗正。

皇室=劉氏(宗室)の管理を掌る。
漢では宗室劉氏を官庁を作って管理していました。
これが優遇なのか、それとも警戒なのか、微妙なところかもしれません。
続漢書百官志によれば、毎年宗室の名簿(親族関係などを記載したらしい)を郡国の上計の際に提出することになっていたらしいです。
宗室の具体的な優遇措置としては、これも続漢書によれば、宗室でコン刑以上の犯罪があった場合に場合に宗正に報告し、宗正は上奏して処分を決定することになっていた、ということだそうです。
そのほか、徭役や賦税免除もあったかもしれませんが根拠忘れました。
調べます。それか知ってる人教えてください。
99怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/06 08:26
宗正。

漢書平帝紀(元始5年)によれば宗室とは高祖劉邦と楚元王交、呉頃王喜(仲)の兄弟の子孫で、前漢末で「十有余万人」とのこと。
(だとすると嫁がスープをケチったという長兄の子孫は数に入れられていないのでしょうか。それとも単に子孫が続かなかったのでしょうか)

また、漢書文帝紀より宗室の優遇措置を発見。
「復諸劉有属籍、家無所与」(前4年)
「復」とは「復除」、徭役免除です。宗室の「属籍」に入っていれば、その家は徭役を免除されたということになります。
(税は別だったと思われますが、詳細確認中)
100世界@名無史さん:04/05/06 20:27
制度とは直接関係ないのですが、劉邦には親戚(従兄弟とか叔父)はいなかったのでしょうか?
明の太祖の場合は家族崩壊した貧農出身ですから親類など出てこなくても当然ですが、
劉邦は一応中農クラス以上のはずであれだけ出世すれば親類の5人や10人しゃしゃり出てきそうな気がするのですが。

大○○
 単なる農令や司農、司農令でも意味の上では問題ないと思いますが、
 わざわざ大をつけるのは「皇帝の」の意味を強調したいからでしょうか?
 最も太僕は諸侯王国にもありましたけどね。

あと大と太の使い分けはあったのでしょうか?
 大将軍、大行令、大司農、大長秋等
 太守、太倉令、太僕、太尉等
 基準がさっぱりわかりません。
101怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/07 00:09
>>100
漢書では、荊王劉賈は劉邦のイトコ、燕王劉澤はマタイトコということになっています。
しかし史記では「諸劉、不知其何属」(荊王賈)、「諸劉遠属」(燕王澤)と、どちらも正確な親族関係不明です。
これはどう解釈したものでしょうね。
他の「諸劉」は楚漢戦争で滅んだりちりぢりになったのか、そもそも劉太公は一代でそれなりの財を築いた根無し草で親戚は少なかったのか。
また漢書になると急に(?)親族関係が明らかになるのは、
「どんな関係かも分からないヤツが王になっているのは、宗室劉氏以外は王にしないという祖宗の法に反する恐れアリ」
などという判断からなのか。

大○○について、極端な仮定ですが、「農令」なんかだと「農県の県令」(いや、そんな県はないですが)と誤解される可能性があります。
「大○」令とすることで、「大」が付くから県ではなく中央官庁だな、みたいな区別がついたのかも。
大司馬、大司空はまさにそれですね、そういえば。

「大」と「太」ですが、どうも簡牘資料なんかでは「太」の点がなかったりしてるようですし、
(そんな詳しくないのでツッコミ歓迎)
筆記レベルでは大した差ではないのかもしれません。
102怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/07 08:30
宗正。

宗正属官としては、都司空令、
(罪人をつかさどるそうなので、宗室の犯罪者を取り扱うのでしょうか。後漢に廃止)
公主家令・門尉、
内官(実は何をするのか良く分からないです。字からは皇帝の内向きの事をしたような印象ですが・・・)
がありました。

あと、宗正といえば宗室劉氏しか就任できなかったらしい事も特徴ですね。
少なくとも前漢はそうでしたが、後漢も同じでした?
103世界@名無史さん:04/05/07 21:00
内官長
 小竹武夫氏の漢書百官公卿表の翻訳の注では尺度を掌る。
 前出の本田済の前漢職官表では度量衡を司るとあります。
 どうして宗正の部下なのかよく理解できません。

農令
 たしか辺境の屯田長官である農都尉の部下に
農令、農長、農司馬があったような気がします。

宗正
 王莽は秩宗(太常)に併合、あまり宗室対策を重視していなかったのか?
 そのわりには宗室に爵位をばら撒いてますけど。

劉氏
 どうも近い親類には碌な人物がいなかったのかもしれませんね。
 漢書功臣表にも数人の劉氏がいますが劉澤以外は系譜の明記がないようです。
 賜姓された項氏も混じっていますし。
 それと後漢での宗室の範囲はどこまでだったのでしょうか?
 中山王の子孫が宗室であれば、劉備が本当に子孫かどうか本来は議論の余地はないはずですね。

104怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/07 23:47
>>103
内官について、それは漢書律暦志の
「度者、分、寸、丈、引也、所以度長短也。・・・職在内官、廷尉掌之」
が元のようです。度量衡の「度」ですが、しかしこれでは内官は廷尉の下にあることになり、なんかオカシイ感じです。
また、史記李斯列伝には「(趙)高曰、高固内官之廝役也」 とあり、「内官」を皇帝の内向き(あるいは宦官そのもの?)のような意味で用いているようです。
同じく史記孝景本紀には「左右内官」を「大内」なる謎の官に置いたとあります。
ますます「内官」の正体が分からなくなりました。

農令については知りませんでした。ただ文献では確認出来なかったので、典拠か何か分かりましたら教えて欲しいです。

宗室対策云々というより、宗正自体がそもそも独立した官庁にするほどの仕事だったのかどうか、と言う面もあるかもしれませんね。
新で言うところの秩宗の一部門程度の職務だった、というのは言いすぎか。

漢初、劉邦の血族、劉賈、劉澤、元項氏以外の劉姓として、
東茅侯劉到(高祖の時)
平都侯劉到(恵帝の時、上とは同姓同名の別人のはず)
陽信侯劉掲(呂氏を滅ぼす時の典客、文帝の時)
あたりが見つかります。というかこれくらいしか見つけられませんでした。
(漢書高恵高后文功臣表より)
いずれも、少なくとも劉邦らとの血縁関係は明記されていないですね、確かに。

宗室が何世代経っても「属籍」に入っていたのかどうか、が問題かもしれません。
天子の廟でさえ七代後には破壊されるのですから、宗室も世代を重ねると諸侯王や列侯以外は籍がなくなってしまいそうな気もします。
この辺は調べているところです。何かご存知の方教えてください。
後漢はどうなんでしょうか。まだ確認してないです・・・。
105世界@名無史さん:04/05/08 20:20
農令等は残念ながらどこで読んだのか思い出せません。
確か居延漢簡を元に漢代の辺境制度についてかかれた本だったと思うのですが。

大内
 平凡社の史記の翻訳では「内史を左右に分ける」となっています。
 底本が違うのでしょうか?

 中華書局版は「以大内為二千石」「置左右内官、属大内」で、
 注釈が集解:い(偉の人偏のない字)昭曰「大内、京師府蔵」
 索隠「主天子之私財物少内。少内属大内也」とあります。

大庭脩氏の「秦漢法制史の研究」第四編第四章漢の嗇夫によると
漢書丙吉伝に少内嗇夫なる官が載っています。
顔師古の注ではえき(手偏に夜)庭の府蔵を司る官であるようです。
大庭先生ではえき庭八丞の中に少内丞がいてこれが上司ではなかったかと推測されています。     

「岩波講座世界歴史5帝国と支配」所載の「中国古代の法と社会(飯尾秀幸著)」
で紹介されている秦代の制度(湖北省雲夢県出土の睡虎地秦簡による)では、
県内の銭布を収納管理する県少内または府中と称される官がありその責任者は少内嗇夫といったようです。

あとどこで読んだのか思い出せないのですが、秦に大内、少内という倉庫があったとか読んだ覚えもあります。
どうも大内、少内とは秦に由来する倉官のようですね。

宗室
 明・清だと犯罪を犯して籍を抜かれない限り末端でも最低位の爵奉国中尉(明)、奉恩将軍(清)をもらえたようですが、
 漢代はそこまで甘くなかったのか?
 新から後漢への移行期の混乱で宗室が淘汰された可能性は高いですね。
 ところで劉備も劉秀も武帝の異母兄弟の子孫ということになってます。
 劉備の出自は?マーク、宣帝の出自を疑う人もいます。
 さて、劉秀の方は本当に疑う余地もないのでしょうか?
 それと更始帝の後漢における位置付けってどうなんでしょうね? 
106怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/08 22:27
>>105
農都尉属官についてはありがとう。できる範囲で私も調べます。

大内と内官ですが、平凡社の件は見ていないので何とも言えません。
本文の方ではいきなり「大内」なる官が出てくる感じですね。
この大内、少内、少府なんかについては山田勝芳先生が論文を書いていた筈です。
ご覧になったのもそれかもしれませんね。
もし見ることが出来たら紹介します。

宗室について、漢ではハッキリした優遇措置としては復除、あとどうやら郎官への任官などへの便宜もあったようです。
(後漢書劉焉伝)
ただ、一方で三河(河東、河内、河南)太守になれない
(漢書劉キン伝、劉キンは河内太守になるところをそのために五原太守に遷された)
などの制限もあったようですし、官僚などとして生きていくにはイイ事ばかりでもなかったのかもしれません。
とはいえ、当時復除を受けられるというのは結構な特典だった筈で、あるいは南陽の劉氏一族の繁栄にも一役買ったのかも。
更始帝について、後漢書劉玄伝によると光武帝は更始帝の子三人を列侯とし、長子に更始帝の祀を奉じさせたとのことです。
劉盆子に与えた措置(趙王の郎中)と比べると格段の違いですね。当然といえば当然ですが。
107怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/08 23:24
ところでこのスレ見てるのは私と105氏の2人?

治粟内史。

「穀貨を掌る」(漢書百官表)。
丞二人ということなので、もしかすると穀担当と貨担当に分かれてたのかも。
景帝後元年に大農令、武帝太初元年に大司農に改称。
おそらく少府と並び、漢において変遷や新設部門などが多い所でしょう。
名前以上に、武帝の頃にその地位や機能が激変したと思われます。
108世界@名無史さん:04/05/09 01:13
ROMですがおります。はい。
109世界@名無史さん:04/05/09 01:39
一応見てはいるんだけれど・・・
110怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/09 11:32
むむ、もし私のせいで入りにくくなっているのならゴメンなさい。
やり方が良くない?


大司農。
漢書百官表によれば属官は以下のとおり。
太倉令
均輸令
平準令
都内令
籍田令
斡官長
鉄市長
郡国諸倉農監
都水官長
郡国塩官、鉄官
捜粟都尉

(続漢書百官志にはこの他に導官令、廩犠令があります。
 後漢では均輸、都内、籍田、斡官、農監、都水、捜粟都尉が廃止され、郡国塩鉄官は郡国の所管となったようです)

均輸、平準は武帝時代の新設。
また塩官、鉄官は言うまでもなく専売の担当官で、各地に置かれていました。
(漢書地理志に、所在する県に「有塩官」「有鉄官」と記載されています)
斡官はどうも輸送の担当のようですね。
都内って、もしかして大内と関係あるのでしょうか。
111世界@名無史さん:04/05/09 12:10
わたしが基本的知識に欠けるくせに細かいところにこだわるのが原因でしょうか?
わたしは過去の受け売りだけで突込みどころ満載のレスを見ればおわかりのとおり、
専門教育など受をけてないただの官職マニアです。
恥も外聞もなく書き込んでますので、皆さんも何か書いていただければと思います。
居候の分際で言うことではないのですが。

都内
 ちくま版の漢書百官公卿表では、注に「天子の銭を蔵することを掌る」
 平凡社版の前漢職官表では「都の貯蔵米を司る」とあり、
 どちらにしても倉庫関係の官のようです。
 都は大に通じるようですから御説のとおり確かに大内と関係あるのかもしれません。
 二千石つまり九卿クラスの独立官庁から大司農の部下に降格されたというところでしょうか?

漢書食貨志で桑弘羊がなったとされる治粟都尉、これの正体も不明ですね。
捜粟都尉の誤りとも言われていますが。
同じく大司農中丞、大司農丞の誤りでしょうか?

前に書いていた秦代の五十石の話はここにありました。
「岩波講座世界歴史5帝国と支配」所載の「秦漢帝国と豪族(重近啓樹著)」
「韓非子」定法編に記す「商君の法」によれば、
斬首一級で爵一級を得たものは五十石の官秩の官吏に、
斬首二級で爵二級を得たものは百石の官吏に、各々就任する権利を持つそうです。

また秦では二百石以上の長吏は主に君主側近の家臣としての郎や庶子から充当されたとも言われています。
「戦国官僚制の一性格」(「新版中国古代の社会と国家」岩波書店:増淵龍夫著)参照
112世界@名無史さん:04/05/09 12:18
実は今のシリーズが終わったら
参加しようと列挙が終わるのを待っている。

でも、今の流れも資料になるんで
それはそれで良いんじゃないかな。
間に入りづらいけれど
意義のないことではないし。
113月舟宗誡 ◆udCC9cHvps :04/05/09 19:53
招かれざる客はここにいるぞ!

高度かつ専門的過ぎて突っ込みようがないから見てるだけだけど。
軍編成なんかを期待しつつ。
114世界@名無史さん:04/05/09 21:16
軍編成ですか。
「漢帝国と辺境社会」(籾山明著:中公新書)によると木簡から復元される編成は
校(軍尉)ー部(司馬)ー曲(候)ー官(五百将)ー隊(士吏)ー什(什長)ー伍(伍長)
とか都尉ー司馬ー千人ー五百−士吏ー騎士(辺郡の騎兵隊)などが復元されるようです。

学研歴史群像シリーズ33「項羽と劉邦」収録の「漢代の兵制」(重近啓樹著)では
幕府(将軍)ー部(校尉、司馬)ー曲(軍候、千人)ー屯(屯長)ー隊(隊率)ー什(什長)ー伍(伍長)

司馬の次に仮司馬、軍候の下に仮候が置かれることもあったようです。
各段階の兵力は本によっていろいろでよくわかりません。
秦代の屯は50人、2屯を百将が指揮、10屯+護衛兵50人を五百主が指揮、
二五百主が護衛兵100名で五百主二名を指揮というのが「商子」にあるようです。
なお屯長の配下に什長、伍長有り。
115八作 ◆144/FHQQQQ :04/05/09 21:49
難しすぎてROM
116怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/09 21:59
>>111
いや、私こそ専門家などではないですし、本来ならチェックすべき先行研究などについてフォローして頂いているので大変ありがたく思ってます。

都内については史記孝景本紀との整合性を考えるとそういった仮説をしたいですね。
治粟都尉については捜粟都尉の誤りで良さそうですが、
大司農中丞については、大司農丞が2人なので一方は「中丞」だったのかも(御史丞と中丞と同じように)。

五十石、また庶子の件についてもありがとう。ドラゴン氏の研究でしたか。

>>112
列挙は漢書百官表に基いているので、まだ続きます。
正直誰かがネタを持ってくるのを待っていたようなものなので、良かったらお考えの件について始めてもらってもいいんじゃないかと。
今やってるのは平行するなり、後に回すなりしてもいいですし。

>>113
別に専門的な事を書かずとも、ネタフリや感想でもよろしく。

>>114
軍制は、辺境なんかは居延漢簡なんかの研究がずいぶん蓄積されているので結構わかるようですね。
将軍の命令系統については続漢書百官表が詳しいでしょう。
117怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/09 22:22
>>115
リロードしてなかったです。
難しいというか、私が説明などを省きすぎているというのもあるでしょうか?


少府。
「山海池澤の税を掌り、以って共養に給す」。
漢では、農作物のいわゆる年貢や人頭税、資産税は大司農に入り国家財政に組み入れられ、
一方で「山海池澤の税」は少府に入り皇帝の個人資産となります。
少府はその皇帝の個人資産の管理と、皇帝の私生活的部分を担当します。
属官も色々ありすぎ。尚書(秘書)、太医(御典医)、楽府(楽団)、胞人(料理人)などや、宦官関係など。
118112:04/05/10 00:05
>116
今だと単なる質問になりそうだから
少しは自分で調べてみます。
119怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/10 00:52
>>118
質問もそこから話が広がればいいのですし、もし気が向いたらいつでもどうぞ。


少府、というか三独座。
後漢では尚書令、御史中丞、司隷校尉が三独座と呼ばれる要職だったわけですが、
後漢においてはこの内二つ、尚書令、御史中丞が少府の下についています。
しかしこれは続漢書の表現を借りると「文属」、書類上の所属というだけで現実には皇帝直属だったようです。

尚書は令(千石)と尚書僕射(六百石)、尚書六人(六百石)と、その下の侍郎、令史らによって構成されます。
しかしこの後漢における尚書は前漢成帝の時に改組された後のもので、それ以前の尚書は皇帝の文書保管係程度の、少なくとも枢要な職ではなかったようです。
後漢の尚書は直接的には前漢で武帝と宣帝により重用された中書謁者令、即ち中書令などの中書宦官に由来するのです。
成帝(というよりは大将軍王鳳か)は宣・元帝の時に実権を握っていたと思われる中書を解体し、その職務を新たに尚書に任せたのです。
120世界@名無史さん:04/05/10 20:14
少府
 大庭先生によると属官がやけに多いのが特徴、丞も6人存在。
 武帝の時期に水衡都尉が分離したと考えられています。
 ビザンツ帝国の国家財政長官と皇室財政長官が並立、日本の大蔵・内蔵などを思い浮か
べて興味深いです。
 家政機関の原初カオス的存在で、ここから太僕等様々な官職が分離していったの想定も
なされています。

尚書郎
 「中国政治制度の研究」(山本隆義著:同胞社)では漢初の段階でも王命の起草を司っ
た推定されていますが、後漢の制度で類推されたようで積極的根拠はないようです。
 また尚書は戦国期秦では丞相に、統一時代は少府に属したようで、本来の任務は上奏の王(皇帝)への取次と推定されています。
 漢初の尚書郎は大唐六典や漢旧儀等によると、四人で匈奴單于営部、羌夷吏民、戸口墾田(民曹)、財帛委輸(謁者曹?)等を分掌したようです。
 なお前漢では尚書令史から尚書郎への昇進ルートがあったが、光武帝の時に反対があっ
て改められたようです。(「九品官人の研究」宮崎市定著:中公文庫版有り)
 なお尚書令史は三公、大将軍等の掾属(比四百石〜比二百石、長官が自由任用できる属
官)とならんで郎を経ずして二百石以上の長吏と成りうる官でした。

農令等
 中公新書「漢帝国と辺境社会」(籾山明著)によると、居延農=部農、左農、右農等が
存在し、全体として張掖農都尉の配下にあったとされています。
 これらは塩鉄論園池編に言う北辺の田官とされています。
 部農の下には部農第四長等番号で呼ばれる属官が存在しています。
 また左農。右農が更に前後左右に分かれていました。
 部農第四長、左農右丞が居延漢簡に有り。
 おそらく農令・農長は上記各農の長官、農司馬は農都尉の副官でしょう。
121世界@名無史さん:04/05/10 20:15
軍制
 王莽の制度では大司馬5人、大将軍25、偏将軍125、裨将軍1250、校尉12500、司馬37500、
候112500、当百225000、士吏45万、士1350万と定められています。
 州牧を大将軍、郡の率正・連帥・大尹(旧太守)を偏将軍、属令・属長(旧郡都尉)を
裨将軍、県宰(旧県令)を校尉に任命したそうです。
 もちろん人数は非現実的ですが、序列的にはこんなものかと。
 推測ですが校尉=県令(2203県)とすると制度の1/5弱の人数で帳尻が合いそうです。
 校尉の指揮下の司馬以下士までが1146人と言うのはまあ現実的な数字ですし。
 ちなみに後漢の中央5営の校尉の配下は700から1200人程度です。
 おそらく実際は偏将軍と裨将軍が太守(125郡)と都尉ですからせいぜい1対2でここ
で調整がきき、その下は制度上の人数の1/5と言ったところではないでしょうか?
 それでも280万人以上ですが、パートタイムの兵まで含めれば有り無い数でもないかな
と思います。

 自分が知っている漢・三国の軍制について参考になりそうな本、真面目な研究書から三
国志マニア向けまでいろいろ。
 前出ですが大庭先生の「秦漢法制史の研究」、将軍、中郎将、校尉について詳しいです。
 同じく前出の濱口先生の「秦漢隋唐史の研究」、この時代の軍制一般の情報多数です。
 大庭先生の本で学生社の「親魏倭王」(将軍等について詳しい)&「木簡」(辺境の組
織など)は一般向けなので比較的安価で手に入れやすいと思います。
 十数年前に徳間文庫から出ていた長澤和俊先生の「敦煌」&「桜蘭王国」(晋代の辺境
屯田の組織についての記述あり)、なお元はちくま、角川が発行。
 学研「歴史群像グラフィック戦史シリーズ戦略戦術兵器事典1中国古代編」、通典、商子、尉繚子等に基づいて古代の軍編成の説明があります。
 新紀元社「三国志軍事ガイド」(篠田耕一著)、まあ題名のとおりの本です。
 徳間書店「三国志全人名辞典」(「中国の思想」刊行委員会編著)、巻末の主要関連官職
一覧に各種将軍についての解説があります。
 これも前出の中公新書「漢帝国と辺境社会」(籾山明著)、辺境の軍制いろいろ。
 平楽寺書店「六朝史研究政治社会編」(宮川尚志著)、第9章に南北朝期の中下級武官
(軍主、隊主等)についての考察があります。
122世界@名無史さん:04/05/10 20:16
【古代の軍の編成いろいろ】
 通典、後漢から三国時代又は三国時代よりややあと六朝期か?の2説があります。
 5人で列(伍長)、10人で火(火頭)、50人で隊(隊頭)、100人で官(官長)、200人で
曲(曲候)、400人で部(司馬)、800人で校(校尉)、1600人の長が裨将軍、3200人の長
が将軍。
 なお官以下の指揮官の名称は、参照した本に出典が明記されていなかったので不正確か
もしれません。
 商子は前記のとおり。
 尉繚子、戦国末の兵制のようです。
 歩兵五人で伍長、10人什長、50人で属長、100人で伯長(閭長)
 六韜、5騎に長、10騎に吏、100騎に率、200騎に将
 周礼、5人で伍(伍長、身分は下士)、25人で両(両司馬:中士)、100人で卒(卒長:
上士)、500人で旅(旅帥:下大夫)、2500人で師(師帥:中大夫)、12500人で軍(軍将:
卿)
 ちなみに、太平天国がこの編成を採用しています。

 三国志軍事ガイドでは曹操が制定したと言われる「歩戦令」をもとに、軍(将軍)ー部
(校尉、司馬)ー曲(部曲将、部曲督)ー隊(都伯)ー什(什長)ー伍(伍長)
 軍の下に部以外に独立部隊の牙門(牙門将)、騎(騎督)が所属することもあります。
 と言った軍制復元されています。

 また晋代はの牙門将の下に副牙門将・散牙門将、部曲将の下に副部曲将・散部曲将がいたようです。
123世界@名無史さん:04/05/10 20:38
なにか今回は流れから外れるような話が多くて申し訳ありません。
124月舟宗誡 ◆udCC9cHvps :04/05/11 00:06
軽い気持ちで書いたら、凄いことになってるね。
保存しとく。とくに>>114>>121-122、感謝する。
125怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/11 00:42
>>120
少府は皇帝の秘書からお遊び、符節から食事、武器から離宮まで、とにかく何でもあり状態ですからね。
そう言えば、漢書循吏伝の召信臣伝によると、少府属官の太官(湯官、導官と並ぶ皇帝の食い物係)では昼夜火をくべて暖め、温室野菜を作っていたらしいです。
しかも年間数千万銭を費やしていたとか。召信臣が廃止したんですけどね。

尚書と中尚書(中書)については色々な研究があったように記憶していますが、全てをチェックは出来ないので私なりに纏めて述べることになるでしょう。
あと、せっかくなので問題なければ領尚書事、録尚書事についても近いうちに触れます。

農都尉関係についてはより詳細なものをありがとう。

>>121,122
その王莽の軍制は地皇元年、王莽政権がやばくなってきた頃に出された詔でのものですね。
なんでも前後左右中の五大司馬を置いたりしたとか。
1/5だとすると、丁度大司馬が1名だとするとピッタリな数字だった事になりますね。

研究書等の紹介、大いに感謝します。これはかなり参考になるかと。
126怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/11 09:53
>>125補足。
廃止されたのは太官ではなく、太官での温室野菜栽培です。
後漢では湯官(名前から推測できるように酒など飲み物の係)は太官の中の一部局となり、導官(皇帝の食べる穀物を精米する)は大司農属官になったようですね。
なお、後漢では水衡都尉が廃止されて職は少府に編入され、一方で「山澤の税」自体が大司農(=国家財政)に移管されるなど、少府は大きな変更を経ています。

尚書と中書。
尚書は皇帝の文書係にして秘書で、詔を実際に起草するのはこの官の仕事です。
文書係というのは、尚書が詔などの保管もしていたらしいのです。(漢書潅夫伝)
「こういうのを書いといて」と皇帝に言われてそのとおり詔を作ったり、皇帝が一々全部考えるのがめんどくさい場合に代わりに考えたりするというものと言えるでしょう。
この官が次第に機能を強化され、宰相化(漢よりあとの話ですが)していくのは、皇帝が本来直接にするべき仕事が増えて、その分尚書が皇帝から仕事を任せられる部分も増えていったということでしょう。
一方、中書は漢においては中尚書、即ち宦官の尚書です。
宦官しか入れない禁中で皇帝が政務を行う場合に、尚書に代わる文書係、秘書、そして尚書と皇帝の間の文書のやり取りや伝令をしたのでしょう。
司馬遷がそうであったように、宮刑を受けた元官吏などで特に優秀な者などが就任したことと思います。
禁中に篭って政務を行うことが多ければ中書もまた活躍の場が多くなるのは当然の流れで、武帝後半期と宣帝、元帝の時代はそういった時代でした。
127怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/11 11:35
尚書と中書。
そんな中書にメスが入るのが元帝の後、成帝の時です。
彼は(というよりも大司馬大将軍王鳳というべき?)中書宦官として権力を振るった石顕を左遷、
同時に中書を廃止(中書謁者令を中謁者令と改称し、「中尚書」としての機能を無くした)し、
おそらくはそれまで中尚書が果たしていた機能(皇帝の側近、秘書)を尚書がそのまま引き継げるように尚書を強化したのでしょう。
それが漢書百官表に「成帝建始四年、更名中書謁者令為中謁者令、初置尚書、員五人、有四丞」という文の実態だというのが通説と記憶します。
(違っていたらどなたか訂正等お願いします)

では、「領(録)尚書事」と尚書、中書の関係はどういうものだったのでしょうか。
これは少なくとも私が学生だった頃は学会でもまだ微妙に論争していた気もしますが、
ここでは見た限りの研究を元に私の愚考を述べておきます。

「領(録)尚書事」、少なくとも前漢の「領尚書事」は、武帝死後に幼帝昭帝が即位した事から始まります。
霍光が「領尚書事」となり、上官桀、金日テイがその副になったと言います(漢書昭帝紀)。
その仕事は、漢書霍光伝に「(霍)光時休沐出、(上官)桀輙入代光決事」とあるように何かを決裁、決定するものです。
何を決定するかというと、霍光伝による上官桀、燕王旦、桑弘羊らの霍光排除の陰謀の中で、上官桀らは霍光の休みを見計らって、燕王の名による霍光を弾劾して燕王入朝を願う上書を上りました。
ということは、霍光が出勤していたらこの上書は上手くいかないという事です。
また、これはその子霍禹らの時代ですが、
「又故事諸上書者皆為二封、署其一曰副、領尚書者先発副封、所言不善、屏去不奏」(漢書魏相伝)
「時霍山自若領尚書、上(=宣帝)吏民得奏封事、不関尚書、群臣進見独往来、於是霍氏甚悪之」(漢書霍光伝)とあります。
これを見るに、領尚書(事)は「封事」以外の上奏文の副を皇帝より先に見て、「不善」な上奏をいわば握りつぶす事ができたのです。
先の霍光排除の陰謀の時、霍光が居てはこの領尚書事の権限で燕王名の上書が握りつぶされる恐れがあったので、霍光の居ない時を狙ったのでしょう。
そして、「封事」だけはそれを受けず、皇帝がその上奏文を最初に見ることが出来たと思われます。

続きます。
128怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/11 22:55
ダラダラと書いていてスミマセン。万が一興味持った方や意見等がある方がいたらよろしく。

続き。
領尚書事は上奏文のチェックをした、更には握りつぶすことが出来ました。
これこそが領尚書事本来の機能でしょう。
領尚書事が置かれたのは決裁権者が幼帝しかいない(臨朝称制する皇太后もいない)状態でした。
領尚書事は、この明らかに上奏文のチェックをするべき者が不在という危機的状況に対応するためだったのではないでしょうか。
つまり、皇帝の代わりに上奏文の内容を吟味したり意見を述べたりイチャモンつけたりするのが仕事、ということです。おそらく。
言い換えれば皇帝の代理人または後見人、あるいは摂政でしょうか。
(なお、前漢の領尚書事はほとんどが皇帝の外戚ですし、後漢の録尚書事(の一人)は太傅でした)

で、こういった機能は幼帝でなければ本来必要ないのでしょうが、
宣帝の時代にも領尚書事霍光に「関白」することとなった故事があったのと、
皇帝の政務の増大により上奏文のチェックを一部なりとも任せることに皇帝としてもメリットがあったために、
(真に秘密とすべき上奏は封事とすれば良いのだし)
それ以降は領(録)尚書事が常置のものとなったのでしょう。

尚書と領尚書事の関係に続く。
129怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/11 23:14
尚書と領尚書事の関係。
皇帝の秘書、側近である尚書と、上奏文の決裁を事実上皇帝に代わって行うに等しい領尚書事は、一旦切り離して考えるべきだと思います。
尚書の強化発展は皇帝の権力拡大と密接な関係にありますが、
領尚書事の誕生とその常置化は、むしろ皇帝の大権の一つである上奏文決裁を臣下に一部分であれ与えてしまう行為ですから、
皇帝にとっては諸刃の剣でしょう。

また、宣帝の時の中書の職務の一つとして、封事を領尚書事が見る前に取ってくる、というのがあります(漢書霍光伝。霍山の恨み言の中)。
これ自体はパシリみたいなものですが、中書宦官が皇帝に密着した秘書官的存在であったことが伺えます。
と同時に、領尚書事は何らかの制限がなければ皇帝の権限を侵す危険性を孕んでいたということでもあるでしょう。
(後漢において録尚書事が「参録尚書事」と太傅と太尉など複数で行われているのは分散して危険を避けているのではないでしょうか)
130世界@名無史さん:04/05/11 23:33
 大変興味深いのですが、領尚書についてはあまり突っ込めないので、尚書の分曹についてなど。
 後漢書の本文では常侍曹(主公卿事)、二千石曹(主郡国二千石事)、民曹(主凡吏上
書事)、客曹(主外国夷狄事)の四尚書が成帝時に置かれたとされています。
 しかし注釈によると三公曹(主断獄)で五曹あったとされています。
 通典は四曹+僕射で尚書五人との説のようです。
 このあたりの整合性をとろうとした研究もあるようですが良く覚えていません。
 ところでなんで断獄担当が三公曹って名称なんでしょうね?
 民曹も職掌と名称があっていない感じです。二千石曹は二千石が地方長官の別名だから
いいんでしょうけど。

 同じく後漢書(中華書局版)の注釈だと尚書郎は当初守尚書郎、その後年功で尚書郎、
尚書侍郎と昇進したようです。
 なお「中国政治制度の研究」(山本隆義著:同朋社)では、同じ漢書の注釈を引いての
守尚書郎中とされていますが、そうなっている本もあるのでしょうか?

 漢書にみる王莽の制度では、百石が庶士、三百石が下士、四百石が中士、五百石が命士、
六百石が元士、千石が下大夫、比二千石が中大夫、二千石が上大夫、中二千石が卿とあり
ます。
 なぜか二百石がなし、廃止か単なる脱漏か?

参考図書など
 同朋社出版「アジアの歴史と文化1中国史ー古代」X漢帝国の発展(執筆者冨谷至)
 一般向けの概説書で漢の官制について簡便に記されており、前漢の職官表があります。
 参考文献として大庭先生の「秦漢法制史の研究」などが上げられています。
 また参考文献としてあげられている本で、題名から見て興味深そうなものなど。
 森鹿三「東洋学研究 居延漢簡編」同朋社出版1975
 福井重雄「漢代官吏登用制度の研究」創文社1988
 永田英正「居延漢簡の研究」同朋社出版1989
 宇都宮清吉「中国古代中世史研究」創文社1977
 好並隆司「秦漢帝国史研究」未来社1978
131怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/12 00:28
>>130
尚書各曹についてはどうもよく分かりませんね。
思うに、続漢書本文、劉昭が注に引く漢旧儀や蔡質漢儀などは、それぞれ想定する時代が微妙に違うのかもしれません。
もちろん単純に記録に混乱があるだけかもしれませんが。

尚書郎が「守」から真になるというのは前に出た前漢の三輔等の「守」と同じですね。

王莽の時、既に五百石は廃止されている(成帝陽朔2年)ので、そっちもおかしいといえばおかしい。
もしかすると、「百石(以下)」と、以下(以上?)を意味としては補うべきなのかも。
132怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/12 00:42
尚書とか少府も興味深いですが次。

中尉。
京師(長安/洛陽)の巡回警備。属官が「候、司馬、千人」と、完全に軍事組織の体。
武帝太初元年より執金吾。
後漢ではかなりの部分を省いています。
かの光武帝劉秀もハァハァするほどの見目良い官だったようですね。
光禄勲は宮殿内、衛尉は宮殿の門、中尉は宮殿の外側を守るという訳です。
133怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/12 08:26
太常から執金吾までは中二千石。
次からは二千石の官です。

太子太傅、太子少傅。
その名のとおり、皇太子の傅役というやつです。
属官は門大夫、庶子、先馬(洗馬)、舎人その他。
皇帝の諸官庁を模したような構成になっています。
なお、続漢書百官志では太子太傅は中二千石で少傅は二千石で、属官は太子少傅に属し、太子太傅はスタンドアローン状態です。
134世界@名無史さん:04/05/12 20:02
 前述の「中国政治制度の研究」の注釈を見ていたら、「漢官儀巻上」に武帝が尚書4名
を置き、成帝が三公曹(主断獄事)を加えたと有るようです。
 なお武帝が置いたのは、常侍曹(主丞相御史事)、二千石曹(主刺史二千石事)、戸曹
主庶人上書事)、主客曹(主外国四夷事)の四尚書とされています。
 名称と職掌にやや異同が有りますね。

 「中国古代帝国の形成と構造」(西嶋定生著:東京大学出版会)を読んでいましたら「漢
書」恵帝即位の條に中郎・郎中・外郎に爵を与えた旨の記述があるようです。
 西嶋先生は、外郎は他に見えないが、蘇林の注によると散郎のことであるとされ、郎中
より官秩が低かったと推定されています。
 また中郎・郎中・外郎は、「史記」秦始皇帝本紀二世皇帝の條にある三郎に相当するものとも推定されています。
 なおちくま版の漢書の注では、三郎(中郎・郎中・外郎)の一つ散郎と同じ、職事官に
対し閑散な官位、とされています。
 それと同じ恵帝即位の條によると尚食・宦官は郎中に、謁者・執楯・執戟・武士等は外
郎に準じて爵位を与えられており、そこから何となく当時の序列がわかるのでは?
 まあ外郎=?散郎はどうも郎中より格下なのは間違いないようですが、正体はよく分か
らないと言うところですね。
 蛇足、この本にも秦の武功による五十石の吏への任官の話が載ってました。

 職掌はよく分からないのですが、王莽のころか後漢に尚書大夫と言う官があったようです。
残念ながらメモは残しているのですが、どこで見たものか思い出せないのですが。
 なにかいろいろ話を蒸し返してすいません。
135世界@名無史さん:04/05/12 20:03
中尉
 濱口先生の「秦漢隋唐史の研究」によると、本来は北軍つまり長安防衛軍司令官である
共に、他郡の郡尉に相当する内史の在郷兵を率いる官であったようです。
 つまり官名の意味は中央の尉ですね。
 また武帝親切の中塁校尉は、北軍の監察官との推定です。
 ちなみに南軍司令官の衛尉は、地方直轄郡(王国を含まない)から選抜された衛士を率いていました。
 なお南北の称は駐屯地の位置によったようです。
 また後漢になると制度の変更等で五校尉の兵を北軍と呼ぶようになります。

 武帝の時中尉を執金吾と改名、以前北軍の司令官であったものの、新設の三輔都尉が直
接郡兵を指揮することになります。
 後漢では郡兵の廃止にともない洛陽警備長官に変化しており、部下は糸是騎200騎、持戟5
20人。(漢官儀による)

 光武帝、夢は大きく、でも実行は堅実にと言った人物像でしょうか?
 ただし陰麗華との10歳の年齢差を考えると、ややロリコンの気あり?
 古代ローマなら正常(親子くらいの差はざら)だったんですけどね。
 平和な時代なら本当に執金吾になって陰麗華と結婚、そつなく任務をこなしすぎて列伝
さえ残らなかったりして。
 後任者あたりの列伝に比較としてちらっと名前が出てくるくらいかも。

 ところで光武帝は平帝の跡を継いだとの認識だったのでしょうか?
 また更始帝は王として祭られたのでしょうか?淮陽王がそれでしょうか?
136世界@名無史さん:04/05/12 23:20
中尉の配下で謎の官寺互令
本田済氏の前漢職官表では獄官
冨谷至氏の職官表では各官庁担当、意味不明です?
ちくま版漢書の注では治水官、これはあるいは次の都船令の説明との誤植かも?
見事にばらばらで訳わかりません。
都船令も各々治水官、水上警備、治水官、正体不明です。

王国の中尉
 前漢の王国には都尉がいたようです(木簡だったか印章だったかが出土していたかと)。
 まあ当初の王国は複数の郡からなっており、郡守=太守がいるのですから当然ですね。
 おそらく都尉は支郡の司令官で中尉は内史郡の司令官(中央軍司令官)兼王国軍曹司令官でしょう。
 その後の分割で王国が一郡になると、当然都尉は消滅し中尉が単独の司令官になったのでしょう。
137怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/13 00:35
>>135
そういえば南北軍の事がありました。
ところで中尉が北軍の司令官だという濱ちゃん説って、どのあたりが根拠でしたでしょうか。
申し訳ないことに忘れてしまいました。できれば誰か教えてください。

光武帝は、平和な時代なら列伝に載るかどうかアヤシイでしょうね。
また、光武帝は世代の関係から元帝を父世代としてそれを継ぐものとして処理され、成帝以降は傍流扱いされたようです。
後漢書張純伝に光武帝の時のその議論が載せられ、
元帝以上は「洛陽の」高祖廟、成帝以下は「長安の」高祖廟において祀るよう決められています。
後漢は光武帝以下の脳内では、
高祖〜元帝→光武帝 と継承されたことになったのです。

更始帝の祭祀は良く分かりませんが、子孫が列侯になっているので、
更始帝も列伝では特記されていないので同じ列侯格での祭祀だったんでしょうか。
138怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/13 00:47
>>136
寺互、都船、ともによく分かりませんね。
漢書注も、「如淳曰漢儀注有寺互都船獄令治水官也」とあるだけです。
どこまでが漢儀注なんでしょうか。
「漢儀注有寺互」と「都船獄令治水官也」で分ければ、都船(獄?)令は「治水官」ですが・・・。
(寺互については説明していない事に・・・)

王国内の郡都尉ですか。そういえば出土資料からは景帝以前から郡尉を「都尉」と読んでいた例があったとか。
139怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/13 08:29
将作少府。
「宮室を治めるを掌る」(漢書百官表)。宮殿などの建築、管理といったところでしょうか。
景帝中6年より将作大匠。「少府」では紛らわしかったのか?

・事。
皇后、皇太子の家を掌る。
皇太子の家ということでは、
率更令(続漢書によれば光禄勲のような職)
家令(同上大司農、少府)
僕長(同上太僕)
中盾長(中尉に似るか?)
衛率長(衛尉に似るか?)
廚厩長(続漢書「車馬を主どる」なので太僕?)
となっています。後漢では太子少傅の下に門大夫などと一緒に属していますが、前漢では別でした。
140世界@名無史さん:04/05/13 23:08
>元帝の跡を継いだ
 元帝の男系子孫は平帝をもって絶えていたわけですからいろいろ都合が良かった?
 宣帝の子孫の方はまだ居たようですが。
 王莽政権は簒奪者として否定するとして、王莽の元号は認めていたのでしょうか?
 それとも平帝の元始の年号が光武帝即位まで続いていたことにしたのでしょうか?

淮陽王
 全然根拠ではないのですが、角川の「新字源」の付録の中国文化史年表の新の欄に淮陽
王の項目があり、更始元年と一致していて、その次が後漢、光武帝、建武となっています。
 それでもしかして更始帝は淮陽王に追封され諸侯王の格式を持って葬られたのかなと思
っただけです。
 どうもこのあたりに粘着してすいません。

中尉が北軍司令官
 濱口先生の「秦漢随唐史の研究」第1部第5「前漢の南北軍に就いて」によると、武帝が
期門、羽林、七校尉等の特殊部隊を創設するまでは、中央で軍と言えるものは衛尉配下の
衛士部隊と中尉配下の部隊だけであった。
 そして衛尉配下の部隊が南軍と称されたことが諸説一致で確実な以上、残る北軍は中尉
の部隊しかあり得ないと言うことのようです。
 南北の称は衛尉の庁舎が長安西南の未央宮に有り、中尉の軍は北部に駐留していた為だとの推定です。
 その根拠としては、衛尉については、前漢百官公卿表「衛尉」の條の顔注に「漢旧儀云、
衛尉寺、在宮内」
 中尉については史記呂后本紀八年「周勃等が呂氏一族を誅する」の條、漢書第六十七胡
建伝「胡建が監軍御史を誅する」の條等をあげられています。
 なお期門、羽林、七校尉等の特殊部隊については続く同章及び第六「両漢の中央諸軍に
ついて」で考察されています。
141世界@名無史さん:04/05/13 23:10
史記に見る漢楚抗争期&漢初の官爵
 張蒼が任ぜられた計相→主計、財政担当大臣らしいのですがその後との繋がりが不明。
 韓信が任ぜられた治粟都尉、主計将校のようなものらしいですが、桑弘羊が任ぜられたものとの関係はどうでしょう?
 どこで見たか忘れましたが虎賁令、虎賁県の令と訳されていますが虎賁部隊が存在した
可能性はないでしょうか?
 王莽も元始五年宰衡の時に虎賁三百人を与えられていますね。
 職志、旗奉行らしいです。
 郎中騎将、同じ官であるように思われる騎郎将との関係は?改名でしょうか?
 特将、別将又は副官のたぐい?
 中謁者、取次役のうちでも親近の官でしょうか?
 符璽御史、御史大夫の配下、諸侯や将軍の任命時の割り符を扱うらしいです。後の尚符
璽郎中と関係があるのか?
 隊率、隊帥とも、一隊の長とされています。
 連尹、戦国楚の高官、弓矢を司るとも。
 車司馬、戦車隊長?
 騎将、騎長、騎千人将、右騎将など、まあ騎兵隊長のたぐいかと?

列伝に見る爵位の昇進?の実例
 国大夫=官大夫(第六級)→列大夫=公大夫(第七級)→上間又は上間爵=公乗(第八級)か?
 →五大夫(第九級)→卿→封(賢成君)封ずる意味か?封という爵か?→重封(増封の意味か?
 、重封と言う爵だとの解釈もあり)→列侯(臨武侯)
 武功をあげた列侯本人の官が郎中というのは少々不可解?

 七大夫=公大夫(第七級)?→五大夫(第九級)→執帛(楚の爵?)→執珪(楚の爵?)
 →爵・封(滕公)→列侯(昭平侯)
 これを見ると封は後の関内侯に相当するのかもしれません。

取り止めがないですね。申し訳ない。

142怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/14 00:29
>>140
元帝の後を継いだことにしたのは、光武帝が成帝と同世代に当たる、というのが一番の理由でしょう。
宗廟は原則世代ごとに並べているので、成帝以降と光武帝以降の関係が極めて怪しくなります。
あと別段王莽の元号などを否定するような動きは無かったように思いますが、知っている人居たら教えてください。
少なくとも元始がずっと続いていたことにしたりはしなかったと思いますが・・・。

資治通鑑では表題で更始帝を「淮陽王」として表記しているので、新字源はそれの引き写しなんじゃないかと邪推します。
更始帝がどんな礼で葬られたか、どうもハッキリ分からないですが、淮陽王としてなんですかね。
資治通鑑では(光武帝が与えた)最終的な爵位である淮陽王と称しただけではないでしょうか。
「更始帝」は諡や廟号ではないですし、何より彼は帝位を退いているので。

南北軍についてありがとう。
実際には史記、漢書ではイマイチ衛尉や中尉が南北軍の司令であったというのがピンとこないような気がしたもので。

>>141
漢初や楚の官は正直まるでわかりません。
「虎賁令」は調べたら史記絳侯周勃世家でした。なお漢書周勃伝では「襄賁令」です。
また漢書成帝紀注によると臣サンは漢初「中謁者令」で、武帝の時代に「中書謁者令」になり、成帝の時にまた「中謁者令」に戻った、と説明しています。
本当かどうかはともかく。
143怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/14 00:45
・事続き。
>>139に書いたのは皇太子の家。皇后のは別に官があります。
中長秋以下、おそらくほとんどが宦官でしょう。
その後、成帝鴻嘉3年に廃止されました。
おそらく皇后部門は後述の大長秋に併合され、皇太子部門は太子少傅に合わさったのでしょう。
また皇太后宮の管理として長信(長楽)・事というのもありましたが、景帝中6年に・事→少府に改称。
「長楽少府」などというようになりました。
なお、(太)皇太后宮には衛尉もありました。
144怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/14 08:22
将行。
漢書百官表本文にはどんな官かの説明が無い謎の官(?)。
注、応劭によれば「皇后卿」。皇太子の官属が太子太傅と・事に分かれていたように、
皇后の官属も将行と・事に分かれていたのでしょうか?
就任者は前漢では宦官、士人両方あったとのことですが、後漢では宦官のみ。
景帝中6年に大長秋に改称。
大長秋と・事に分かれているのは後に不合理と感じられたか、成帝鴻嘉3年に・事を廃止して皇后部門は大長秋が全て管轄するようになりました。
145世界@名無史さん:04/05/14 20:46
将行
 確かに謎?諸先生方もほとんど触れられていません。
 後漢書によると秦の官だそうですが。
 大長秋の前身と言っても、御史大夫→司空程度のつながりしかないかも?

秦の官について
 「岩波講座世界歴史3中華の形成と東方社会」において、
 秦簡資料をいち早く活用した秦史研究の大成として、林剣鳴の「秦史稿」「秦国発展史」、
 秦資料集成として馬非百「秦集史」中華書局が紹介されていました。
 こう言う本を読むと正史で正体不明な官の職掌などがわかるのかもしれません。

太子先馬、洗馬と改名
 後漢書本注には職は謁者のごとき、と言う一方で太子の前導威儀。
 漢官によると郎中から選抜したようです。
 改名の意味が不明、後世にはなぜか文学担当、どこでどうなったものやら。

太子中庶子・庶子・舎人各々六百・四百・二百石(後漢書)
 後漢書本注によると各々侍中・中郎・郎中の如し。

ところで諸侯の家臣として門大夫、庶子、行人、洗馬、家丞があり、太子のものと良く似ています。
まあ同じ家政職員だからでしょうか。

将軍について一つの疑問
 後漢書本注に見える将軍の属の従事中郎、職参謀議とされていますが、
本来はお目付け役として派遣されたのでしょうか。
 三国時代の参軍や宋の通判のように。
 どうして郎なんだろうなと考えいて思いついただけですけどね。
146世界@名無史さん:04/05/14 21:03
元帝の件、王莽の元号、淮陽王等回答ありがとうございます。
明の永楽帝は甥の元号を抹消しちゃいましたが、
このころはまだそこまで元号にこだわりがなかったのか?
光武帝が現実肯定主義だったのか?はてさて。
147怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/15 00:39
>>145
将行についてはどうなんでしょうね。そもそも由来が不明な感じ。
改称前の方が由来不明ってのはなかなか無いですよ。

秦官については、やはり文献資料が限られているので出土資料が鍵でしょうね。
なのでその辺詳しい人が来るのを祈ります。

先馬と洗馬ですが、この時代はサンズイの有無くらいははっきりいって変更の内に入らないかもしれません。
改名についてはそれほど問題になるようなことでもないかな、と思います。
また皇太子の官と列侯の官が同じということですが、これは確かにそうですね。同じ構成です。
列侯も皇太子も天子のコントロールの下で食い扶持貰っているという点で同じだって言う事でしょうか?

将軍の下の「郎」従事中郎ですが、なるほど、と思いました。
お目付け役まで期待したかどうかはともかく、あえて将軍に人事を一任するのではなくて中央からの派遣にした、というのはそれなりに意味があるのかも。

>>146
現実肯定というか、当時はまだそういった考え方が無かったのかも。
(武帝は後から元号を決めてますが、改元自体はしていたと思われますし。)
むしろこだわりが無いのではなく、元号を重くみていたからこそ軽々しく扱わなかったのかもしれませんしね。
元号抹消なんてのは五代にも見られた話でしたし、後漢末、西暦189年は改元の嵐で、最後には最初の元号に戻したりしてます。
しかし
148怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/15 00:44
しまった。最後の方は変えようとしてたら送信しちゃいました。
後ろ2行は無視。

元号ですが、後漢末には確かに元の元号に戻そうなんて話は出てますが、過ぎ去った元号を復活させようとまでしたかどうか。
元が改まるという事を不可逆的なものと感じなくなってくるというのは、天譴や祖宗の霊などを(本心では)恐れなくなってくるのと同じような気がしないでもないです。
この辺はあくまでも感想ですけど。
149世界@名無史さん:04/05/15 17:50
将行
 大修館書店の大漢和辞典によると
 @行列を取り締まる役目(韓非子 内儲説上)
 Aの方では漢書をひいて「皇后侍従長、後大長秋と改名」とか書いてありました。(文面は不正確)

字面からは@の方が理解しやすいのですが、直接関係が有るのかないか?
あったとしたらどう職務が変化したのでしょうか?

年号
 武帝が始めて元号を定めてからさほど時代がたっていないので、
まだ伝統が浅く余り深い意味がなかったのかなと単純に思ったのですが、
確かにおっしゃるとおり重大視したからこそ変えなかったと言う方が説得力ありますね。
150怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/16 00:08
>>149
将行ですが、その意味の1、「行列を取り締まる役目」ってのが元でしょうかね。
でも韓非子の方とか全く見てないし、はっきり言って何ともワカランです。

元号についてですが、漢では改元が先にあって区別するための元号という感じもしますね。
元号が立てられてからも、改元だけして新たな元号を立てていないというケースがありましたから。
(武帝の後元年。もしかすると光武帝の中元も同じかも)
とはいえ、少なくとも改元はそれなりに重い意味をもっていたと思うのです。暦を支配しているという事ですし。


典属国。
大鴻臚でも触れましたが、「属国」を管轄。「蛮夷降者を掌る」(漢書百官志)。
蛮夷には「降者」と「帰義」があり、管轄が違っていた、という事になるでしょうか。
成帝河平元年に大鴻臚に併合。
151世界@名無史さん:04/05/16 20:22
漢書によると典属国の管理下にあったらしい属国都尉、典属国廃止後は大鴻臚の管理下に移ったのでしょか?
大庭先生の復元された元康5年2月11日付の詔書は、太守から属国都尉あてに伝達されています。
すると少なくとも連絡網の上では太守の下にあったことになり、あるいは太守の監督下にあったのかもしれません。

改名マニア?王莽の官制改革
 大司農→義和→納言、大鴻臚→典楽、大理→作士、少府→共工、太常→秩宗、水衡都尉→予虞
 これに新設の大司馬司允、大司徒司直、大司空司若の三公の三司卿(位は孤卿)を加えて九卿。
 光禄勲→司中、太僕→太御、衛尉→太衛、執金吾→奮武、中尉(執金吾とだぶり、中塁
校尉との説あり)→軍正、これに新設の太贅官(乗輿・服御を担当、後武器も担当)を加
えて六監(位は上卿)。
 前漢の九卿クラスのうち上記枠組みから外れたのが宗正、大長秋、将作大匠、・事。
 宗正は秩宗に合併としても、大長秋、将作大匠、・事はどこに消えたんでしょうね?

流から外れますが古代の軍制について
 講談社「中国の歴史1原始から春秋戦国」によると、「管子」(管仲著とされるが、実
際は戦国から漢初のものらしい)に斉の三国五鄙の制というものがあるそうです。
 まず斉の国内を国都と郊外にわける。
 国都は士の郷15と商工業者の郷6、このうち士の郷を三分して5郷からなる国にわける。各国は国君と二人の卿が統率。
 なお、商工業者の郷は三分したか国君が掌握したのか不明?
 郊外は東西南北と国都周辺の五つの鄙にわけ、行政上は属と呼ばれ、全て国君が掌握。

 国(長官は元帥、5郷)=軍(軍の単位、10000人)、郷(郷良人、10連)=旅(2000人)
 連(連長、4里)=卒(200人)、里(里有司、10軌)=小戎(50人)、軌(軌長)=伍(5人)

 属(長官は大夫、10県=9万家)、県(県帥、3郷=9千家)、郷(郷帥、10卒=3千家)、卒(卒帥、10邑=300家)、邑(司官、30家)
 すると国都は士30000戸(10000戸×3国)、商工業者12000戸(2000戸×6郷)計42000戸
 郊外は農民45万戸(9万戸×5属)総計492000戸、1戸5人とすると人口246万人となります。
152怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/16 21:57
>>151
連絡手段を考えると、文書事務上は太守府から属国へ渡すしかないでしょうね。
わざわざ典属国から直接属国へ送付するのは不合理の極みですし。

王莽の改革ですが、この改革は実のところ前漢末期、成帝、哀帝の時代から続く一連の改革の流れの上にあると思います。
はっきりいってやり過ぎには違いないと思うのですが、王莽だけの思いつきなどではないのです。
で、細かい事を言うと大司馬司允、大司徒司直、大司空司若は新設とは言い難いでしょう。
大司徒(丞相)司直は武帝以来の官ですし、哀帝の改革によって三公にそれぞれ「司○」が付けられる体制になっています。
王莽の三司はその継承です。
確かに「中尉」は不思議ですね。中(塁校)尉ってのはナルホドという感じです。
・事はもう廃止されてますが、大長秋、将作大匠は思うに太贅官か共工あたりに合併されたというあたりじゃないかと思います。

その斉の三国五鄙の制というのも興味深いですね。
郡県制の原型みたいな部分がありそう。
153怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/16 22:33
水衡都尉。
武帝元鼎2年新設。上林苑を管轄・・・なんですが、それだけでは済まなそうです。
漢書食貨志によれば、水衡に塩鉄を司らせようとした、楊可の告ビンなどで上林苑の財物が多くなり、水衡に上林苑を管轄させようとした、との説明があるのです。
また、同じ頃に鋳銭を「上林三官」で独占することとしています。
どうもこの時代を読み解く鍵の一つは「上林」なのかもしれません。

鋳銭については、水衡新設の元鼎2年では、
まだ五銖銭の独占鋳造前のはずですが、塩鉄専売は始まっていたはずで、
水衡はまずその管理運営と絡んでいたのかもしれません。
また、上林苑は単なる庭ではなく、水戦の演習地になったともいう昆明池なども作られ(元狩3年)、ある意味では国家的なプロジェクトとして整備された側面もあったのかもしれません。

まとまらなくなってしまいましたが、とにかく水衡はこの時代に始まった鋳銭独占、塩鉄専売と密接な関係にあったようなのです。
154怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/16 22:51
鋳銭に関係する「上林三官」とは、おそらくは(史記平準書注集解より)水衡都尉の属官にある、「均輸」「鍾官」「辯銅」でしょう。
但し漢書百官表によると「鋳銭」(この名称の属官は無いので上記の三官のことか)は最初少府に属していたそうです。
ということは、上林三官は当初少府に置かれ、それから水衡都尉の所管に移されたということでしょうか。

なお、上林苑は長安の南西方面に広がり、先に挙げたように昆明池などがあります。
色々な物産を供給し、皇帝のために消費されるのです。

この皇帝の私的な財産を管轄する官(少府、水衡)に鋳銭と塩鉄が置かれたらしいというところが、鋳銭と塩鉄の持つ意味合いを示しているような気がしますね。
ただし塩鉄は後に大司農=国家財政に編入されますが。
155怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/17 08:18
水衡都尉は王莽の時にも予虞と名を変え、九卿の一つに数えられています。
しかし後漢になると姿を消しました。
これは、本来の職掌である上林苑がもはや皇帝の庭や離宮として機能しなくなったというのが大きいでしょうが、後漢において財政が大司農に一本化されたらしいこととも無縁ではないと思います。
なお、山田勝芳氏「貨幣の中国古代史」によると、後漢の鋳銭は郡で行われたといいます。鋳銭という水衡の機能は地方に委譲されたのです。

また、続漢書百官志では武帝が置いた水衡都尉は秩比二千石とされています。
あるいは、漢書に見える二千石というのはどこかの段階で秩が上がったあとの話なのかもしれませんね。
156世界@名無史さん:04/05/17 20:34
水衡都尉の本質については知識不足でとても語れませんので枝葉末節。
 上林令の下には8丞12尉有りと補佐官が非常に多いです、業務繁忙?
 なおこの場合の尉は大場先生によると単なる三等官の意味らしいです。
 史記&漢書の張釈之列伝によると上林苑には虎園(動物園?)があり上林尉の下役に虎園嗇夫がいたようです。
(前出の大場先生の著作より)

 水衡都尉配下のシュウ濯令、船官らしいのですが官船の管理あるいは製造を担当したのでしょうか?
 同じく六厩令、そう言う官名なのか六つの厩令なのか?
 ちくま版漢書百官史は後説のようですが、具体名として上げられているのが未央、騎馬、承華、大厩等、
太僕配下の諸厩と一致、または良く似た名前が多いです。(根拠は不明)
 あるいはそこから騎馬の提供を受けている出先的存在なのか?このあたり謎ですね。

 ところで水衡都尉ってどうして都尉なんでしょう?
 どうも漢代の官名はなぜ武官名なのか良くわかないものが多いです。
 単に武力を背景とした威圧による強制を意図しているだけなのでしょうか?
157怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/18 00:41
>>156
上林苑は皇帝の庭園ですので、それの管理人は一種の武官(だから都尉)なのでしょう。
丞、尉の多さは、単純に広さ故ではないでしょうか。

またその配下の輯濯令などの水、船に関係ありそうな官は、おそらくですが一つは鋳銭に関係する輸送(水運)、あとは昆明池などがあるのでそこに関与する(武帝の時に水戦の教練をしたように)のではないでしょうか。

「六厩令」はそういう官名でしょう。
「属官有上林・(この間6官)・六厩、辯銅九官令丞」と全部で9官属列挙する一つが「六厩」ですから。
「六つの厩令」だったら14官になってしまいます。
「六厩」は太僕の管轄でもあるのですが、これは太僕が管理する軍馬や公用の馬と、水衡の六厩令が管理する皇帝が私用する馬と、両方を同じ六つの厩舎で育てていたということでしょうか。
158怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/18 08:22
六厩ですが、考え直してみるとやっぱり六つの厩舎ごとに別に令がいるかもしれないなあ、と思いました。
太僕では別に令長がいたようですし。


内史。
京師、すなわち長安を治める官です。やることは基本的には郡太守と同じです。
太守と言わないのは、内史の管轄が郡県を置く前の秦の領域、直轄地であったということではないでしょうか。
郡は被征服地であり、内史は征服した側の本拠地であるとも言えるかもしれません。

内史は漢書百官表によれば景帝2年に左右に分かれたといいますが、漢書地理志では武帝建元6年に左右に分かれたとしています。
百官表(下)の表では、景帝の時の左右内史は景帝元年の「左内史チョウ錯」のみであとは武帝建元4年の右内史鄭当時まで「内史」です。
これを見ると、左右へ分かれたのは武帝の時と考えた方が良さそうに思えます。
159世界@名無史さん:04/05/18 20:23
内史
 さてどうして首都近郊の長官が内史と称されたのでしょう?
 漢では王国の首都近郊の長官も、帝都近郊の長官と同じ内史です。
 他に内史と言えば治粟内史。
 内史とは字面から言うと秘書的な意味でしょうか?
 直轄地の管理を秘書に任せた?
 治粟内史の方はそこから財政担当官が分離したのか?
 なぜか石田三成を思い出したりして。
 また王国の方の内史は国の民を治めることを司ることが職掌とありますね。

なお漢書では内史は周の官で秦がそれを受け、治粟内史は秦の官とあります。
周の官を受けたと言うことですが、周礼では記録官とされていますが、どこまで信用していいものやら。
そもそも実際にあったのやら、なにをやっていたものやらよくわからないのが実際のところでしょう。

話は変わって王莽は三輔を六尉郡に分け各々大夫を置いています。
京尉、師尉、よく(立+羽)尉、光尉、扶尉、列尉の6郡です。
160世界@名無史さん:04/05/18 20:32
なにかごちゃごちゃと書きましたが、改めて読み返すとなんだかなにが言いたいのか不明確。
おかしなものを書いて申し訳ないです。
つまり言いたいことは、内史がどうして京師長官なんだろうという疑問だけですね。
161怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/18 22:40
>>159
あくまで、これは私の妄想気味の推測ですが・・・。
内史について、「首都近郊の長官」と考えると由来がわかりにくいのではないかと思うのです。
ではどう考えるかというと、「拡大前の秦全体の行政官の一人」というところではないでしょうか。
内史の「史」はおそらく「御史」の「史」と淵源は同じじゃないかと思います。
領土拡大前の秦の国主にとって、後の三輔とは領土全体。
で、その領土は国主が治めますが、国主は民政部分を国主の側近(「史」)の一人に任せたのではないでしょうか。
これが「内史」。そして、農政をさらに分離したのが「治粟内史」。
(側近・秘書でありつづけたのが「御史」)
こういう成り立ちと考えられないでしょうか。
余計に分かりにくくしてしまったかもしれませんが・・・。
162怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/19 00:29
主爵中尉。
三輔より先にこちらを紹介。「列侯を掌る」(漢書百官表)とあり、
どうやら後に大鴻臚管轄となる列侯は最初は主爵中尉所管だったようです。
また景帝中6年に主爵都尉に改称。
そこで終わりなら「尉」が付くことくらいしか謎は無いんですが、問題は、武帝太初元年に右扶風として三輔の一つとなる点です。
何故、列侯を掌る官が内史の一つになるのでしょうか?
(列侯についてはおそらくこの改組と同時に大鴻臚に移管されたのでしょう)
163怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/19 00:52
三輔。
太初元年の改組で、左右内史だったものが三分され、京兆尹、左馮翊、右扶風の三輔となりました。
漢書百官表によれば一応こういう変遷だそうです。
右内史 →京兆尹
左内史 →左馮翊
主爵都尉→右扶風

一方、漢書地理志によると、
京兆尹は
塞国(項羽が封じた)→渭南郡(高帝2年)→内史(高帝9年)→右内史(建元6年)→京兆尹(太初元年)
左馮翊は
塞国(項羽が封じた)→河上郡(高帝2年)→内史(高帝9年)→左内史(建元6年)→左馮翊(太初元年)
右扶風は
雍国(項羽が封じた)→中地郡(高帝2年)→内史(高帝9年)→右内史(建元6年)→右扶風(太初元年)
という変遷をそれぞれたどっています。
ここには主爵都尉は全く言及されず、主爵都尉は太初元年より前は内史の長官ではなかったことが分かります。
主爵は、太初になって急に治民官に組み入れられたのでしょうか。
そうだとすると、ほとんど別の官に変わってしまったのではないかとも思うのですが、なんで主爵→右扶風という関係が記載されるのでしょうか?
わかりません。
また、漢初は内史が郡だったというのも少々興味深いですね。
164怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/19 08:27
三輔。
もう一つ分からないのが、内史における都尉です。
漢書百官表、主爵中尉の条には元鼎4年に三輔都尉を置いたとあるのですが、
これは地理志によると左輔都尉(左馮翊)、右輔都尉(右扶風)で、
京兆尹は漢書宣帝紀、「京輔都尉(趙)広漢」の注によれば京輔都尉がそれにあたるようです。
しかし、元鼎4年にはまだ三輔は成立していなかったのでこの時に「三輔都尉」というのも不思議ですし、
もう一つ、百官表によると中尉の属官に「左右京輔都尉」があるのですが、これと京輔都尉の関係が不明です。
そして、三輔都尉が置かれる以前、内史に郡における都尉相当の官はあったのでしょうか?

これらについて一応推測してみます。
諸侯王国においては中尉が都尉相当ですので、漢の内史においても中尉、もっと言えば左右京輔都尉が内史全体にとっての都尉に相当したのでしょう。
これが元鼎4年まで。
で、元鼎4年に中尉所管の左右京輔都尉を、左右内史所管の左輔・右輔都尉に再編。
ここで一旦中尉属官の左右京輔都尉は廃止されたかもしれません。
そして太初元年、内史が三分されたと同時に左輔・右輔・京輔都尉と対応する都尉が置かれ、名称上は「京輔都尉」が復活した。
こういった変遷と考えたのですがどうでしょう。
漢書、続漢書の中尉・執金吾の条の左右京輔都尉の説明とは少々食い違うのですが・・・。
165世界@名無史さん:04/05/19 19:59
主爵中尉→主爵都尉→右扶風
 大庭先生は「公家と武家」思文閣出版所載の「漢代の貴族」において、高祖の功臣であ
った列侯の多くが絶えて列侯に関する職務が減少したことが、職掌変更の原因と推定され
ています。
 ところで中尉から都尉への名称変更も意味深です。
 本来爵は武功により与えられるものだったようですから、爵位関係事務が中央軍司令官
である中尉の職務の一部だったとしても不思議ではないです。
(軍最高長官の太尉でも良いのでしょうが、業務繁忙の故か、権力の集中を嫌ったのか?)
 そして業務過多につき中尉から別れたのであれば、主爵中尉とは納得のいく官名ですね。
 それが都尉に変わったことの意味はなんなのでしょう?
 このころの都尉には郡都尉、農都尉、関都尉、属国都尉、騎都尉、奉車都尉、フ(馬+付)馬都尉、
水衡都尉、捜粟都尉、治粟都尉(捜粟都尉の誤りとも)等があります。
 結構任務もばらばらで単に比二千石程度の武官の称として使っているようにも思われます。
 そうであれば、逆に中尉の称を嫌って(特別な意味を持つことを嫌った)の為の改名か
もしれませんね。
 それにしても主爵都尉から右扶風、本当に両者に関係があったことを疑いたくなるほど
ダイナミックな職務変更ですね。
 それで諸侯のことは以後大鴻臚が担当、以後はお客様扱い?

三輔都尉
 ちくま版漢書の「元鼎4年改めて三輔都尉を置く」とあり、三輔都尉の注に原文二輔都尉、三輔都尉の誤りかとあります。
 そのことからふと思いついたのですが、もしかすると当初は左右の二輔都尉(又は左右京輔都尉)であり、
三輔成立後に京輔都尉が新設されて、三輔都尉になった可能性はないでしょうか。
 二輔都尉段階では中尉の属、三輔成立後は各々三輔の属(軍事的には以前執金吾の属か?)に変わった。
 つまり左右輔都尉(又は左右京輔都尉)は各々左右内史の兵を率いていたと言う考えです。
 まああくまで脳内妄想で、なにも根拠はないんですけどね。
166世界@名無史さん:04/05/19 20:26
先ほどの書き込みはなにか意味が通ってないような気がして、もう一度考えを整理してみます。
 内史の軍はもともと中尉が指揮していた。内史と中尉には明確な統属関係はない。
 内史が左右に分かれたのに対応して左右京輔都尉が置かれたが、その所属は中尉であった。
 三輔の成立に伴い左右京輔都尉が京輔都尉、左右輔都尉に再編された。
 この際三輔都尉と三輔との間に統属関係があったかどうかは不明。
 漢書では三輔都尉は三輔の項目に書かれてはいるが、三輔と都尉との関係は明記されていない。
 なお郡尉=郡都尉は郡守=郡太守を補佐することが明記されている。
 あるいは三輔は通常の太守とことなり軍権がなかった可能性もあるのかもしれません?
 まあその可能性は低いでしょうが。
167世界@名無史さん:04/05/19 23:09
もう一度考えを整理し直してみました。
 史記孝景本紀、景帝の2年(前155年)大内を左右に分ける。
 漢書百官公卿表、景帝の2年内史を左右に分ける。
 漢書地理志、武帝の建元6年(前135年)内史を左右に分ける。
 この三つの記事の整合性をとると、景帝の2年に左右に分けられたのは大内、建元6年
に分割されたのは内史と言うことでしょうか?

 また漢書百官公卿表、左右京輔都尉の尉・丞・兵卒は中尉に所属。
 同、武帝の元鼎4年(前113年)に改めて二輔都尉(三輔都尉か?)を置く。
 同、武帝の太初元年(前104年)右内史を京兆尹、左内史を左馮翊に改める。
 同、同年、主爵都尉を右扶風と改め、内史の所轄する西方の地を治めた。左馮翊・京兆
尹とともに三輔を形成し各二丞有り。
 漢書地理志、京兆尹は前代秦の内史、高祖元年(前206年)塞国に属し、2年渭南郡
に改める。9年再び内史、武帝の建元6年(前135年)分割して右内史とし、太初元年
京兆尹に改名。

それでそのあたりをまとてめてみたのが下記のとおりです。
 当初一応制度が固まって以降は内史が首都圏の民政、中尉が軍政を担当していた。
 最初期の塞国だの渭南郡だのころは不明だが、高祖9年以降はその体制と推定。
 武帝の建元6年(前135年)に、内史を左右に分ける。
 この時中尉の配下に左右京輔都尉を置き、各々左右内史の軍政を管轄したと推定。
 更に中尉がその上から両都尉を統括したものと推定。
 武帝の元鼎4年(前113年)左右京輔都尉を左右輔都尉に改めると共に、左右内史の
配下に移管したと推定。
 武帝の太初元年(前104年)内史が三輔に再編成されたとき、それに対応して右輔都
尉を京輔都尉と右輔都尉に分割し三輔都尉になったと推定。

 あるいは元鼎4年都尉のみ先行して三分したものでしょうか?
 つまり、右内史配下の部都尉として京輔、右輔の二都尉が置かれた可能性もあり。
168怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/20 00:07
>>165‐167
いやあ、ホントになんだかかんがらがってきますよね、三輔と都尉。
主爵については、確かに武功と爵の密接な関係を考えればその「主爵」と「中尉(都尉)」という組み合わせは納得できます。
しかしやっぱりこれがどうして右扶風になるのか分かりません。
主爵都尉を廃止して空いた元主爵庁舎を右扶風の庁舎にしたとか、その程度かと思ってしまいます。

あと漢書百官表の主爵都尉の条にある「三輔都尉」ですが、
これ、実は本によって異同がある箇所でして、「二輔」となっているのと「三輔」となっているのとがあります。
漢書補注によれば銭大昭は「三輔」説(京輔と左右輔で三輔だ)、対して王先謙は「二輔」説(京輔は中尉属官にでてる)なのです。
私ははっきり言ってどっちを取ればいいのか判断しかねます。
「二輔」だとすると、左右輔は左右内史→左馮翊・右扶風の属で京輔だけ中尉→執金吾の属だ、ということになると思うのですが・・・。
「三輔」ならそれはそれでツジツマが・・・。

167でおっしゃるように、
最初は中尉属官の京輔都尉、内史分割と前後して京輔都尉も左右に分け、三分の時にそれに合わせて京輔都尉を置いた、というところでしょうか。

合理的な解釈が正しいとも限らないですが、ツジツマ合わせとしてはこんな感じでしょうか。
169怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/20 00:29
で、漢書百官表によれば二千石の官は以上。(太守は後出)


護軍都尉。
秦官とあるので漢書によると秦からあった事になります。
(陳平がなった護軍中尉がそれかもしれません)
武帝元狩4年に大司馬(将軍)に属するようになりました。
(なおこの年は大将軍衛青、驃騎将軍霍去病に大司馬の号が加えられた年です)

そもそも何をする官なのか、というのが問題ですが、
その名前や、陳平の事績などに見える「護軍」の意味合いなどから考えると、
軍監のような感じじゃないかと思います。

なお、護軍都尉は先に挙げた丞相の属官、丞相司直と並ぶ官という面もあったようです。
前漢末の三公制の元では司直、護軍、司隷が並びますので。
詳しく言うと、三公制を最初に施行した成帝綏和元年に、三公の大司馬の属官として丞相の属官司直と並べられ、
三公制を再開する直前の哀帝元寿元年には「司寇」と改称、更に施行直後の平帝元始元年には「護軍」とまた改称しています。
司直、司隷が共に監察弾劾の官であったことを考えると、護軍(司寇)も軍を対象とした同種の官と推測できるのではないでしょうか。
170怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/20 08:31
司隷校尉。
武帝征和4年の新設。
「巫蠱を捕らえ、大姦猾を督す」(漢書百官表)ためのものであったとされます。

背景として、漢書武帝紀によれば征和元年に「巫蠱起こる」とあり、翌年には巫蠱がらみで時の丞相公孫賀が獄死。
続いて公主などの巫蠱も発覚、更に皇太子が巫蠱の嫌疑をかけられるに及んで皇太子の反乱が勃発しました。
また、その戻太子の乱を鎮圧した丞相劉屈釐もまた巫蠱で要斬されています。
巫蠱とは対象に危害を加えるための呪術であり、人形を土に埋めるなどのやりかたがあったようです。
(呪いのわら人形みたいなものでしょうか)
漢書戻太子伝によれば武帝は周囲がみな巫蠱、呪詛をしているとして特にこの件を厳しく追及させたそうで、皇太子が追い詰められて反乱したのもそのせいのようです。
しかしながら土中から発見された人形が誰によるものかなどを判断するのは困難なはずで、後には武帝も「巫蠱の事多く信じられず」と気付いたようです。
要するに、すべてではないにせよ騙りや自作自演の疑いが濃厚、ということです。

話を戻すと、司隷校尉は皇太子の反乱後、おそらくはまだ巫蠱の追及が厳しかった時期の新設です。
(漢書劉屈釐伝によると、征和3年に巫蠱取り調べが厳しかったとされているし、漢書車千秋伝でも車千秋が丞相になった征和4年以降にも武帝が巫蠱を厳しく追及、摘発させていたことがわかる)
巫蠱の取調べ、更に場合によっては断罪まで行い得る存在として、司隷校尉には「節」と1200人もの奴隷(徒)が与えられました。
皇太子のように、追い詰められた容疑者が暴発することへの対処の意味合いもあったでしょう。
171怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/20 22:44
司隷校尉つづき。
司隷校尉は漢書百官表によれば、「後其の兵を罷める」とあるので、
どこかの段階で1200人の兵(奴)は撤廃されたと思われます。何時か分かりませんけど。
そして、「三輔、三河、弘農」を監察するようになった、といいます。
この「三輔、三河、弘農」とは、漢書地理志によれば部刺史の州に属さない郡であり、
また同時に(前)漢にとっては中枢部とでも言うべき郡でした。
(劉氏は三河の太守になれないなど、普通の郡とは少々違う扱いだったらしいです。
だからこそ部刺史の範囲から外れたのかもしれませんが)

実際には司隷校尉は「百官以下及び京師近郡の法を犯せし者を察挙するを掌る」(続漢書百官志)、全官僚を対象とする監察官として機能しました。
漢書蓋寛饒伝、諸葛豊伝には「刺挙避ける所無し」といった表現がありますし、
更に漢書匡衡伝には司隷校尉王尊が丞相匡衡を劾奏したことが記されています。
位人臣を極めた存在である丞相さえも、司隷校尉の弾劾し得る対象であったのです。
172世界@名無史さん:04/05/20 23:20
護軍あれこれ
 武帝の元光2年、御史大夫韓安国を護軍将軍に任命し匈奴の誘致襲撃を計画。
 この時の護軍将軍は他の将軍との関係を考えても総司令官、少なくと監督的立場にはあ
ったと推定されます。
 この場合は将軍自らが護軍の任に当たっていますが、大司馬配下の護軍都尉の場合は大
司馬に代わってその権限を行使するものなのでしょう。
 晋書や宋書の記述を見ると、曹操が政権を握った段階で護軍が置かれ、後に魏の時代に
なってから護軍将軍・中護軍(護軍将軍と職務は同じで任官者が資格不足)と改められた
ようです。
 この時の護軍将軍・中護軍は主武官選とあり、人事担当のようです。

 他に地方駐留の護軍や安夷護軍・撫夷護軍(帰服のてい(低ーイ)族を管理)もあり、
蜀には前後左右中護軍、呉には左右中護軍があります。(どちらも正確な職掌は不明)
(ちくま版「正史三国志」巻末の三国官職表による)

 また蜀では、蜀史李厳伝注に引く「諸葛亮公文上尚書」によると、都護、軍師、監軍、
領軍、護軍、典軍、参軍の序列があったようです。
(歴史読本93年4月号所載の「三国時代の軍事制度」石井仁)
 その後晋の時一度省かれて、再置後は禁軍司令官に変わっています。
 また、スレ違いになりますが、唐の左右神策軍には各々護軍中尉・中護軍各1名が置かれ、
これは先祖帰りして軍の監察官のようです。(新旧唐書)

司隷校尉
 補佐官がなぜか従事、掾でもいいと思うのですが、あえて別にしたところになにかしら
意味があるのでしょうか?
 また比二千石の高官なのになぜか次官がいません。漢書に次官が明記されていないのは
護軍都尉も同じですが、こちらは後代には長史・司馬がいます。

将作大匠の行方
 漢書王莽伝下に、地皇3年正月に廟を繕治したとして、都匠仇延を邯淡里附城(関内侯
に相当)に封じたとの記事があります。
 あるいはこれが将作大匠の後身かもしれません。(ちくま版漢書の訳者小竹武夫氏の説)
173怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/21 08:30
>>172
>総司令官、少なくと監督的立場にはあった
そうなのでしょうね。護軍は、まさに監督的立場だったのだと思います。
というか、そういう用語、用法なのでしょう。
三国頃の護軍も、監察、監督的な立場だったかもしれません。
(もっとも、刺史がそうであるように監察から指揮官へと変質していたのかもしれませんが)

都匠は王莽伝、地皇3年正月ですね。知りませんでした。ありがとう。
顔師古によれば「都匠は大匠なり」とありますし、これが将作大匠の後身だという可能性は高そうですね。

司隷校尉。
確かに漢書百官表によれば他の校尉(城門校尉とか)には丞、司馬が付きますが、護軍と司隷には明記されてません。
あくまでも推定ですが、司隷の場合は兵を撤廃された時点でそういった副官が廃され、刺史と同じような構成になったのかもしれません。
護軍の方は良く分かりませんが・・・。
174世界@名無史さん:04/05/21 21:06
太と大、少と小
 「岩波講座世界歴史5帝国と支配」所載の重近啓樹著「秦漢帝国と豪族」に
 尹湾漢墓簡トク(讀がごんべんでなく片になっている字)に記された成帝期の東海郡の吏員表が掲載されています。
 その中で太守は大(太)守、属官の少府嗇夫が小(少)府嗇夫と記されており、
 おそらく簡トクの原文は大守、小府となっていたと思われます。
 確かに前に言われていたように厳密な書き分けはなかったのかもしれません。

 同じ表からもう一点、東海郡の都尉の官秩は真二千石になっています。
 ちなみに太守のほうは不明です。
 こはあるいは当時の都尉個人の資格かとも思ったのですが、定員表らしいので定制のようです。
 一般に郡都尉は比二千石と認識されていますが、実際には例外もあったのでしょうか?

 参考文献にあがっていた西川利文「漢代における郡県の構造についてー尹湾漢墓簡トクを手がかりとして」
 仏教大学文学部「文学部論集」81 1997年あたりを読むとその疑問が解けるのでしょうか?

 もう一つ、当時の東海郡太守府の属吏の定員は25名ですが実際は93名いたようです。

次官がいない
 あるいは監察官系は独立で任務を遂行する官であり、次官は置かれなかったのかもしれません。
 あとは侍御史とか部刺史とか、この二者には統率者としての御史中丞はいますが。
175怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/21 22:37
>>174
尹湾漢墓ですか。その吏員表は講義か何かで見た憶えがありますね。
中身はもう忘れましたが。
「大」と「太」あたりに限らず、この時代の字は音、意味、形が似ているのを結構通用していたようです。
基準とかそういうのは分からないですけど、印象としては・・・。

東海郡都尉の官秩ですが、実際は郡の大小か何かで変わっていたと見るべきでしょうか。
よく分からないですけど。
尹湾漢墓関係を本気で勉強するんだった・・・。

司隷などの次官ですが、監察官というくくりというのは確かに考えられなくもないかも。
独立した官庁などを構える存在ではない、という感じ?
176怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/22 11:31
司隷校尉。
司隷校尉は武帝死後に巫蠱に限らない常設の監察官として機能したように見受けられますが、
他の監察官などと大きく違うのが、「節」の存在でした。
天子の代理人の証とでもいうべきもので、「節」の下において出す命令は「詔」であったという事が知られています。
(漢書諸葛豊伝、侍中許章に命令した件)
司隷校尉には「天子の使者、代理人」とでもいうべき由来と、おそらくはそこから天子への直属という意識があったのではないかと想像されます。
この「節」は元帝の時に(上述の諸葛豊の時)に回収されるのですが、天子の直属だという意識や実態はその後も司隷校尉の側にも、官界全体にも残ったのではないでしょうか。

なぜここで天子の直属というのを強調するかというと、当時漢には丞相司直という天子の直属でない監察官が居たからです。
そして、司直と司隷はほぼ対等のライバル関係だったらしく、朝会の際には中二千石の前にいて丞相・御史大夫を迎えるという形だったそうです。
(漢書テキ方進伝。なお、位は司隷は司直の下だったという。テキ方進は司直として司隷2名を弾劾罷免しており、両者の激しい争いが見て取れる)

宰相の下に付く監察官と天子直属の監察官がほぼ対等で張り合ったりする(しかも宰相の側が勝利している)というあたりに、
当時の権力構造の一端のようなものが見えるような気もします。
気のせいかもしれませんけど。
177世界@名無史さん:04/05/22 20:18
ネタがないので、流れを無視して武功爵の話など。
 漢書食貨志にみる武功爵は、第5級官首、第7級千夫、第8級楽卿ですが、平凡社東洋
文庫の「漢書食貨・地理・溝洫志」では下記のとおり11級まであげられています。
 根拠が書かれていないのですが、なんでしょう?
 下から第1級造士、第2級閑輿衛、第3級良士、第4級元戎、第5級官首(見習官に任命)、
第6級秉鐸、第7級千夫(第9爵の五大夫に準じて正式任用)、第8級楽卿(ここまで購入可)、
第9級執戎、第10級政戻庶長、第11級軍衛
 なお実際は第9級以上も購入できたらしいです。
 また12級以上も有ったのではないかと言う可能性も有るようです。

 爵位と似ている名前(造士、良士、政戻庶長)もあれば似ていない名前もありますね。

>当時の権力構造の一端
 それを嫌って内廷に権力を集中させようとしたのでしょうか?
178怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/22 21:34
>>177
私がやってる事についてなら、どんどん流れを無視して結構です。
武功爵の全容は、漢書食貨志の注、臣サンが引く「茂陵中書」によるものです。
この「茂陵中書」(茂陵書とも)は官職などが記されたものらしいんですが、私はそれくらいしかわかりません。
十一等以上あるかも、とは顔師古の指摘ですね。
武功爵自体ははっきりいって詳しくないですけど、なんでわざわざ二十等爵と別のものを作るのか意図が理解できません。

>それを嫌って内廷に権力を集中させようとしたのでしょうか?
私の理解ではそういう感じです。
あえて付け足せば、皇帝がより独裁的に支配する体制の構築にとって、丞相は強すぎ、皇帝の発言力はまだまだ弱いのです。
司隷校尉をはじめとする官の変遷は、少しずつでも皇帝の元に権力を集中し、政務を行う機能を強化するための動きだと言えるのではないでしょうか。
179世界@名無史さん:04/05/23 15:19
>武功爵の全容
 ああやっぱり注ですか、手元にある食貨志の資料が東洋文庫だけだったので
多分そうだろうとは思ったのですけど確認が取れなかったんです。

>二十等爵と別のもの
 位階と勲等の関係のようなものでしょうか?
 それで仮説1、庶民でも持っている下級の爵より、もっと価値のあるものを
作りましたよ。
 さあ皆さんどんどん買ってくださいよ。ということでしょうか?

 仮説2、商人は爵をもらえなかったとの説もあります。
 その場合、商人のための爵として別系列にしたとの考え方もできるのでは。
 従来の爵の保持者には、あれは別系統であなた達の爵の価値は落ちていません。
 と説明したと言う考え方ですね。

 なにやら思いついたことを適当に書いては見ましたが、どちらも余り
説得的ではないですね。

 従来の爵位は、基本的には年齢が高いほど高爵になるようなものでした。
 通常男子に一律に一級が与えられ、一生のうちに何度か昇爵の機会がある。
 例外として吏員が二級を与えられることも有りました。
 また庶民は八級の公乗(六百石以上の高官は9級以上)が最高で、
公乗の保持者が爵をもらう機会があると子孫にその権利が移ったようです。
 従って爵の上下が年齢による社会の秩序を表現したと言う意味合いもあり、
金持ちだから爵が高いと言うものでもないわけです。
 ただ爵を民間で売買できたと言う話もありますが、
その場合に九級の五大夫以上になるほど買えたのでしょうか?
 爵の売買についてはひとまずおき、あるいは政府はその社会的秩序を
崩したくなかったのかもしれません。 
180世界@名無史さん:04/05/23 20:14
>>178
無知な質問になるのですが、ということは、皇帝の権威の増減で
司隷と司直の均衡が崩れたり、という事はなかったのでしょうか?
181怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/23 21:33
>>179
武功爵についてですが、なるほど、二十等爵は制限があるんでしたね。
その制限(官、民、商人)を外した、またはそれとは別の区分にした、というのはありそうな話かもしれません。
官民間の爵の壁を崩さずに、売買爵の効果をを最大限にしようとすると、別のものを作る、という結論になった?

>>180
先に紹介した、司隷と司直の弾劾合戦(漢書テキ方進伝)と司直の勝利は、まさに均衡が崩れたことを意味すると考えてもいいのかもしれません。
皇帝の権威というのは、前漢あたりはまだ発展途上と思うのです。
182怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/23 21:50
司隷校尉。
司隷校尉は成帝元延4年に廃止されます。
理由は特に詳述されていませんが、
先の司隷・司直の政争の当事者の一人だったテキ方進が丞相になってからの措置であることなどを考えると、外朝(丞相以下の行政側)が主導したものであったのではないでしょうか。
あくまで推測ですが、「丞相司直が官僚の監察弾劾を行うから司隷はいらない」という理由ではないかと思うのです。
しかしこれは皇帝の手から官僚統制の一手段が失われるに等しく、これが通ってしまうところを見ると、当時は丞相主体の政治体制だったと考えられます。

これが覆るのが哀帝即位直後でした。
この時は「司隷」だけで「校尉」を外し、大司空に属するものとされたそうです。
(これで丞相司直、大司馬司寇、大司空司隷と三公に監察官が揃った)
皇帝直属ではないので微妙ではありますが、すくなくとも由来からすれば皇帝の使者とも言われる監察官を復活させたのは、哀帝の独裁政治志向の表れかもしれませんね。

そして、後漢では司隷校尉が復活。三独座と言われる極めて特殊かつ重要な地位を占めるに至ります。
前漢最後の独裁君主哀帝の方針が生き延びたと言えるのかもしれません。
183怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/24 00:44
八校尉(前漢の)。
城門校尉。京師の城門の屯兵を掌ります。
中塁校尉。北軍塁門内外と四城を掌ります。
(現行漢書百官表では「西域」となっているのですが、漢書補注によれば「四城」だろうとしています)
屯騎校尉。騎士を掌ります。
歩兵校尉。上林苑の門の屯兵を掌ります。
越騎校尉。「越騎」を掌ります。越人の騎兵です。
長水校尉。宣曲というところに駐屯する、「長水」という胡の騎兵を掌ります。
(胡騎校尉。その名の通り、池陽というところに駐屯する胡の騎兵を掌ります。不常置)
射声校尉。「待詔射声士」(狙撃兵か)を掌ります。
虎賁校尉。軽車を掌ります。戦車部隊ですね。

八校尉と言われますが、これは胡騎校尉を除いた8つでしょうか。
いずれも中央軍の指揮官ですね。どれも武帝の新設。
184怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/24 08:20
後漢の諸校尉。
城門校尉。場所が洛陽になっただけでやる事は前漢と同じ。

屯騎校尉。
越騎校尉。
歩兵校尉。(上林苑とは関係なく歩兵を率いたか?)
長水校尉。(烏丸騎を主どったとのこと)
射声校尉。
続漢書百官表によればいずれも「宿衛の兵を掌る」とあります。
率いるのは前漢同様に、屯騎は騎兵、といったように分かれたのでしょう。
中塁校尉と虎賁校尉は消えています。
虎賁については、戦車の地位低下のようなものと無関係ではないでしょう。射声校尉に併合されたそうです。
中塁校尉は、その北軍を掌る職掌が北軍中候に引き継がれたと言われます。

北軍中候。
六百石。五営(上の五校尉)を監督しました。
官秩が低いのですが、これは太守と刺史の関係に似ているかもしれません。
185世界@名無史さん:04/05/24 08:32
>>1
あ、こちらに建ててたんですね、乙です。
カキコする知識は無いので、楽しみにROMってます。
186世界@名無史さん:04/05/24 20:31
>八校尉
 本田済氏の前漢職官表及び大庭先生の説は城門校尉を除いて八校尉。
 濱口先生は中塁校尉を特別の存在と考えておられるので、屯騎から
虎賁までの七校尉と言う表現を使用されています。

前漢の八校尉、後漢の五校尉の秩
 前漢は二千石、後漢は比二千石となっていますが、大庭先生は漢書の
皆二千石は比二千石の誤りで、前漢の時から比二千石だったと推定され
ています。

>五校尉
 濱口先生の「秦漢隋唐史の研究」第七光武帝の軍備縮小と其の影響
第五節五校尉の置配に後漢初の校尉の変遷がかかれています。
 それによると後漢初名目的存在であった七校尉が廃止され、諸将軍
の私兵が五校尉に改められたとの説のようです。
 ぎょう(暁の編が馬)騎将軍→屯騎校尉、 青巾左校尉→越騎校尉
他の三校尉の沿革は不明。
187怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/24 21:27
>>185
ご意見その他お待ちしてます。

>>186
おっと。そのとおりですね。
当該部分には顔師古が「中塁以下の八校尉」だと注を付けていました。
カッコ書きした「胡騎校尉」は唯一不常置なので別物と数えてしまいました。
漢書百官表をよく見ると、城門校尉の条は独立して属官(司馬)がすぐ後に紹介されているのに対し、
その他の八つをまとめて「凡八校尉皆武帝初置、有丞、司馬」となっているので、
漢書の「八校尉」は中塁から虎賁ですね。
失礼しました。訂正します。

なお、これは余談ですが、漢書刑法志には「至武帝平百越、内増七校」という一節があり、
ここから七校尉(そこの注、晋灼によれば中塁から虎賁(不常置の胡騎除く)まで)を設置したのは、
武帝が越を征服した元鼎6年以降ということになります。太初元年ですかね、これも。

八校尉の官秩、なるほど。「皆」は「比」の誤りですか。「白」が字の下に付いちゃったんですかね。
後漢の変遷も面白そうですが、正直なトコ詳しくないのでいずれ・・・。
188怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/25 08:27
北軍中候。
詳しくないながらも、晋書職官志よりその後について少し紹介。
後漢末の曹操政権下で中領軍が置かれ、「禁兵を掌る」(三国志夏侯惇伝附史渙)ものでした。
魏では領軍将軍が置かれて五校尉等を司り、晋では中軍将軍、中領軍、北軍中候、中領軍と改称を重ねています。
ただ、魏晋では晋書を見る限りでは護軍と領軍の関係が入り組んでいて分かりづらいですが・・・。
後漢末には北軍中候は姿を消したのでしょうか。消したとすれば、それがいつでどんな理由だったのか気になります。
このあたり詳しい方等のご意見などをお待ちします。

西域都護。
加官であり、騎都尉や諫大夫をもって加えられる官であるとのことです。
これは宣帝の時の事で、地節2年に鄭吉が「護ゼンゼン以南道」(ゼンゼン=[善β]善。楼蘭のこと)にされたことに始まります。
(漢書鄭吉伝)
その後、鄭吉が車師国を破ったことで西域の西北道も「護」するようになり、そこで初めて「都護」とされたのです。
(神爵2年ころ?)
189世界@名無史さん:04/05/25 19:43
>西域都護。加官であり、騎都尉や諫大夫をもって加えられる官
 西域都護の下に西域副校尉(比二千石)があります。
 騎都尉(比二千石)はまあよいとして、諫大夫(比八百石、後漢では六百石)
の部下で比二千石というのは少々不思議です。
 また神爵3年サ(沙に草冠)車の地を開いて都護の下に屯田校尉を置いています。
 元帝初元元年戊己校尉を車師前国に置く、大庭先生は部下の候が比六百石である
ことから、比二千石と推定されています。
190怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/25 23:02
>>189
確かにそれは不思議といえば不思議。
でも、官秩ではなく、中央派遣である事が重視されたんだろうな、と思います。
副校尉はむしろ副官としての有能さが求められたのかな?

戊己校尉。
189氏の言ったように、元帝初元元年に置かれました。
実際には「戊校尉」と「己校尉」がいたといいますが、どうなんでしょう。
実際に出てくるのは「戊己校尉」で一名のようにも思えますが。

戊己校尉は車師、西域都護は亀茲にいました。
戊己校尉はあるいは対匈奴を主眼とし、都護は西域全体を見張る、というような分掌があったのかもしれませんね、地理関係から考えると。
191怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/26 00:29
190に補足。
戊己校尉ですが、後漢書西域伝を見ると「戊校尉」が存在しています。
しかし普段から戊と己で別人が就任していたかどうか微妙な気がします。
おそらくは「戊」部と「己」部という、管轄領域の別として戊と己が使われたのでしょう。
後漢の戊校尉ってのは、思うに「己」部を支配していない状態なんじゃないかと。
推測ですけどね。
なお「戊己」という名称については、十干の中で戊と己だけが東西南北に位置しないことから名称となった、
あるいは中央に位置するために西域の中央にいて四方を鎮撫するからだ、という説があります。
(漢書百官表注)

奉車都尉、フ(馬付)馬都尉。
武帝が置き、秩比二千石。奉車は皇帝の車(乗輿車)を、フ(馬付)馬都尉は皇帝の車につき従う副え馬を掌ります。
どちらも皇帝の側近ではありますが、業務としては要職とはいえないでしょう。
なお、余談ながら、武帝死後にはこれらの官に就いていた者たちが幼帝の後見人になりました。
192怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/26 08:29
加官。
前漢独特とも言える制度がこの加官です。
これは基本的には他の官にあるものに与えられるもので、官とは言いますが一種の資格を表すものと考えたほうがいいでしょう。
侍中、中常侍。
これを持つ者は禁中に入ることができます。逆に言えば、これらの加官がないと禁中には入れません。
どちらも、禁中で皇帝のお世話役をするものでしょう。
宋書百官志では、前漢では皇帝の衣服、虎子(おまる)や痰壺といった物を扱っていたといいます。
諸曹(左右曹)。
「尚書の事を受ける」(漢書百官表)とのこと。これはおそらくですが詔や上奏文の取次ぎをするということでしょう。
もしかすると、尚書から中書へ引き渡す(禁中に入る)といったことかもしれません。
諸吏。
「法を挙げるを得る」(漢書百官表)とのこと。これもあるいは禁中などの取り締まりなのかも。
散騎。
騎して皇帝の車に付き従います。
給事中。
顧問応対を掌り、主に大夫、博士、議郎といった学官や論議の官から選ばれます。
中黄門。
黄門に給事します。これも禁中で仕事するということですが、位は将大夫(郎将や大夫?)以下だそうですから、官位が低い者に与えられるのでしょう。
193世界@名無史さん:04/05/26 20:57
加官
 秦の制度とはされていますが、同じ運用だったんでしょうかね?
 後漢では秩禄の有る官になったりしています。
 左右曹、光禄勲の配下で二千石ですが旧有と言う表現なので、いつしか
廃止されたのでしょう。
 侍中、少府の配下で比二千石、取りまとめ役の侍中僕射または侍中祭酒が
いたこともあります。
 中常侍、同じく少府の配下で千石後比二千石、なぜか後漢では宦官の職に、
有名な十常侍ですね。
 黄門侍郎、六百石、掌侍従左右、給事中、関通中外。及諸王朝……。
職務の中に給事中の文字が。 
 中黄門、宦官の職で比百石後比三百石、掌給事禁中。前漢とのつながりが
どの程度有ったものでしょうか?
 
 少し気になる官職として、史記李将軍列伝にでてきた武騎常侍(八百石)、
秩禄が有るところを見るとこれは本官でしょうか?
 三国蜀の散騎はなぜか隊長になっています、曲長、屯将の下、武騎よりは
上位らしいです。
194怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/26 22:59
>>193
ご指摘のように、前漢の加官は後漢では九卿等の属官(文属=書類上の所属)でした。
また、おっしゃるように左右曹は後漢中に廃止、給事中も宋書百官志によれば後漢では廃止されていたとしています。
そして後漢では無かった散騎は、魏において中常侍と合体して散騎常侍になりました。
(三国志文帝紀、延康元年)
後漢では、もと加官であった官が整理され、しかもどこかの所属とされており、加官は無くなったとも言えます。
但し、上述のように「文属」とされた官もあり(侍中など)、それらは実際には皇帝の直属とされていたと思われます。
後漢ではおそらく加官制度を排除し、いわばスリム化を図ったのでしょう。
しかし皇帝側からの侍中のような側近官の需要は高く、前漢で使われていて失われた加官を復活させるなど、時代が下るにつれむしろ増えていったというところでしょうか。

武騎常侍ですが、漢書司馬相如伝注顔師古によれば六百石とのことです。
史記李将軍列伝の「八百石」は李広らが特別扱いされたことを示しているように思われます。
また宋書百官志によると「車駕游猟、常従射猛獣」とあり、後漢から晋までは廃されていたとのこと。
漢書百官表には載っていない謎の官です。加官かどうかわかりませんね。違う気もします。
195世界@名無史さん:04/05/27 00:02
百官公卿表に出てこない武官あれこれ
 騎校尉(宣帝紀)節を持し烏丸の兵を護す。後の護烏丸校尉?
 ギョウ(暁の編が馬)騎都尉(李将軍列伝)後にギョウ騎将軍に昇進。
 強ド(奴の下が弓)都尉、強ド将軍から格下げになったもの。
 護田校尉、どこで見たか忘れました。農都尉や屯田校尉との関係が不明です。
 横海校尉、横海将軍の部下?
 執馬校尉・駆馬校尉、大宛遠征の際の良馬選定役。
 転校尉、軍糧の輸送を担当。
 票(女+兆)校尉、独立騎兵部隊長?
 伏波司馬、伏波将軍の部下?
 楼船候、確か出土の印綬が有ったはず。
 どうも将軍配下の校尉・司馬・候に将軍の名称を冠することがあった模様。

騎都尉李陵の部下に校尉有り、この当時は将軍になる資格が不足だと都尉?
将軍の部下が校尉?
196怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/27 00:47
>>195
校尉、司馬、候なんかは、将軍の下に付く場合、他の将軍の命令下のものと区別するために「○○校尉」(○○は将軍名)といった呼称が使われたのでしょう。
また、必ずしも統属関係ばかりでもないみたいですが、やはり将軍>都尉、校尉という関係ではあったのでしょう。
校尉なんかは将軍と同じで臨時の官などが多かったのではないでしょうか。

ところで、
>騎校尉(宣帝紀)節を持し烏丸の兵を護す。後の護烏丸校尉?
は常恵のことだと思いますが(漢書宣帝紀本始2年)、これは「兵十五万騎。校尉常恵持節護烏孫兵」と切った方が良さそうです。
理由は漢書常恵伝では、「漢大発十五万騎・・・(略)・・・。以(常)恵為校尉持節護烏孫兵」とあるからです。
197世界@名無史さん:04/05/27 01:09
そろそろだれてきた?
198怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/27 08:34
>>197
どうでしょう。自分ではわからないですが・・・。

>>193の武騎常侍についてもう一度見直してみたんですが、
史記李将軍列伝で李広が就任したとされているのに対し、漢書李広伝では「為郎騎常侍」となっています。
これは師古注では「郎」となり、「騎常侍」であった、という意味に解しています。「武騎常侍」ではなくなっているのです。
漢書に従うと、確かに散騎、あるいは中常侍といった加官を想起させる表現ですね。
郎にして「騎常侍」であった、ということですから。
しかし史記に従うと「秩八百石」と、武騎常侍であったことにより官秩が上がったと考えられますので、加官とはまた別のものであったと思われるのです。
私が先に引いた宋書では武騎常侍という官があったとしていますが(漢書司馬相如伝にも記されている)・・・。
漢書百官表などに記載されていないのは、武帝期にでも整理されて消えてしまったということなんでしょうか。
なんか分からなくなってきました。
199怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/27 10:21
前レスを訂正。
>しかし史記に従うと「秩八百石」と、武騎常侍であったことにより官秩が上がったと考えられますので、
武騎常侍であったことにより官秩が上がった、というよりも、「武騎常侍に官秩が設定されている」というべきだったかも。
また史記李将軍列伝の方では「為武騎常侍」と、別の官になったようにも思えます。
あくまでも印象でしかないんですが。結論は出せないですけど・・・。

加官。
少し例を挙げてみます。
成帝が即位した時、かつて成帝に論語を教えた張禹は
「諸吏光禄大夫、秩中二千石、給事中、領尚書事」になっています。

彼の本官は光禄大夫ですが、その官秩(比二千石)ではなく中二千石として優遇されている事になります。
光禄大夫自体は論議を仕事とする人材プール的なもので、おそらくは日常業務に忙殺されるような存在ではないのでしょう。
この張禹がそうであるように、加官を与えられて禁中での仕事に従事したり使者となったりということも少なくなかったと思われます。

そして加官として諸吏と給事中の二つが入っています。
諸吏は「尚書の事を受ける」との事ですが、注目すべきは彼が領尚書事でもあったことでしょう。
この二つは何らかの形で関係していたのではないでしょうか。(元帝の時の周堪や、張禹の後の孔光などもそう)
具体的なところは想像ですが、領尚書事により上達される上奏などを皇帝より先に点検、あるいは事実上の決裁をしたあと、その上奏等を皇帝の元へ引き渡し、あるいは詔を受けるまでを全て行うためには諸吏が必要になるのではないでしょうか。
つまり上奏を禁中に運ぶ(または禁中から受け取る)には禁中に入らねばならず、加官による禁中に入る資格が必要だったのではないかということです。
そして給事中は「顧問応対」即ち皇帝に助言、意見をするもので、加官が必要という事は禁中でのことでしょう。
具体的には皇帝が実際に上奏の決裁や詔の発布などをする際に意見を出したりということでしょう。
給事中が無いと、諸吏の資格で禁中に入って文書の授受をしても、皇帝の意思決定には関与できないのです。
(領尚書事にしても事前審査のようなものと思われ、最終決定はあくまで皇帝によります)
張禹はその資格も付けられており、上奏の事前審査に加えて皇帝の最終決定の際にも相談を受けたのでしょう。
200怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/27 10:46
なお、張禹の時は大司馬大将軍王鳳とともに領尚書事だったのですが、大将軍王鳳の方には加官がされていないようです。
実際、王鳳は政務に追われて終始皇帝のそばにいるわけにもいかなかったでしょうが、このあたり興味深いですね。
しかも、成帝即位当初はまだ中書令石顕がいました。
張禹は王鳳と共に石顕を抑える立場だったのでしょうか。

似た事例として、元帝の時は車騎将軍史高、前将軍蕭望之と光禄大夫周堪が領尚書事だったのですが、
蕭望之と周堪は石顕らと争い、禁中の給事中劉更生(劉向)、侍中金渉と共に中書宦官追い落としを図りましたが、この時は史高が石顕についていたことなどが影響し、失敗しています。
侍中や給事中といった加官は、中書宦官との政争を考える上での一つのキーワードなのかもしれません。
201世界@名無史さん:04/05/27 20:55
騎校尉
 なにかの本で見たのですが、確かにただの校尉の方が正しいようですね。
 失礼しました。

人材プール
 漢代には大夫等の顧問官のたぐいの種類が非常に多いと言う印象を受けます。
 後代の翰林院のような性格もあるのでしょうか?
 また中郎将にも無任所のもの(7歳の中郎将有り)があり、大夫より格上の人材が
任じられたようです。

内朝関係
 列侯は特進ないし奉朝請の資格を与えられると内朝に入ることが出来たようです。
 前漢末以降校尉は外戚高官の子弟等皇帝の信任厚い人物が任じられることが多く、
選挙などで九卿に准ずる扱いを受けることが多くなったようです。

訂正1件
 元の本がわからないのですがメモを見ると楼船候は戈船候の間違いで、
印影は候が侯になっていました。
 これは印章なので画数の少ない字を使ったのでしょうか?候と侯も混用?
202世界@名無史さん:04/05/27 20:57
騎校尉
 なにかの本で見たのですが、確かにただの校尉の方が正しいようですね。
 失礼しました。

人材プール
 漢代には大夫等の顧問官のたぐいの種類が非常に多いと言う印象を受けます。
 後代の翰林院のような性格もあるのでしょうか?
 また中郎将にも無任所のもの(7歳の中郎将有り)があり、大夫より格上の人材が
任じられたようです。

内朝関係
 列侯は特進ないし奉朝請の資格を与えられると内朝に入ることが出来たようです。
 前漢末以降校尉は外戚高官の子弟等皇帝の信任厚い人物が任じられることが多く、
選挙などで九卿に准ずる扱いを受けることが多くなったようです。

訂正1件
 元の本がわからないのですがメモを見ると楼船候は戈船候の間違いで、
印影は候が侯になっていました。
 これは印章なので画数の少ない字を使ったのでしょうか?候と侯も混用?
203世界@名無史さん:04/05/27 20:59
二重になってました、申し訳ないです。
204怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/27 22:35
>>201
人材プールってのは、一概に言えないかもしれませんが、昇進待ちの連中を溜めておくんでしょうね。
次にどの官に行くってのが流動的な分(九品官人法と比べ)、どうしても昇進すべきなのに弾かれたとか、転出先が無いとか、そういう者が少なくなかったのかな、と。
中郎将は後漢末のインフレから価値下落の流れが印象的。あの辺のは無任所というかなんでもありですよね、なんだか。

位特進、奉朝請
どちらも漢では官職とはいえないものですね。
本来の意味としては、位特進は列侯が朝会などでの座席の順位を「特進」させるもので、
奉朝請は本来官職の無い列侯は就国しなければならないところを、京師に留まり朝会などに参加する許可、資格というところでしょうか。
これは加官ともまた違うものですね。内朝官の一環なのかどうか微妙な気もします。

> 元の本がわからないのですがメモを見ると楼船候は戈船候の間違いで、
>印影は候が侯になっていました。
> これは印章なので画数の少ない字を使ったのでしょうか?候と侯も混用?
私も見てないので断定などは出来ないですが、戈船将軍というのも漢書武帝紀元鼎5年に見えます(帰義侯厳)。
その「候」の印なのでしょうか。
「列侯」の「侯」字だとすると、「戈船」という地の列侯が居てその印ということでしょうか?それは苦しいかな。
205怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/28 00:13
爵。
いわゆる二十等爵です。字義は主に漢書百官表注より。
0 士伍
百官表には無いですが、爵を奪われるなどして無爵になると「士伍」と呼ばれたようです。
漢書景帝紀、景帝前元年に「奪爵為士伍」という表現がありますし、表などにも散見されるのでおそらく行政用語なのでしょう。
1 公士
「士卒とは異なる」という意味があるそうです。
2 上造
「命を上に成すこと有るを言う」とのこと。
3 簪ジョウ
馬飾りのことを言うらしいです。推測ですが元は馬を扱う資格か何かだったのかも。
4 不更
「更卒」にはならない、即ち徭役の対象にならない、というのが本来の意味らしいです。
でも漢でもそうだったのかどうかは分かりません。
5 大夫
6 官大夫
7 公大夫
「列位従大夫」だそうです。大夫は大夫でも、光禄勲のところの大夫とは全然ランク違いますけど。
8 公乗
「其の公家の車に乗るを得るを言うなり」とのこと。まさにここから官僚の世界ということでしょうね。
206世界@名無史さん:04/05/28 02:19
>198
んじゃ、もう少し見ています。
207怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/28 08:19
>>206
語りたいことやご意見などありましたらよろしく。

二十等爵続き。
9 五大夫
なんで官大夫、公大夫の上が「五大夫」なのか良く分かりません。普通の大夫より尊位であることを示しているそうですが。
10 左庶長
11 右庶長
「衆列の長」のことだそうです。人々(士卒)を率いる存在だということでしょうか。あるいはもとは指揮官の官名だったのでしょうかね。
12 左更
13 中更
14 右更
更卒を指揮するという意味だと顔師古は解釈しています。
15 少上造
16 大上造
「上造」は2番目なのですが、少が付いた方が上位になるのは不思議な感じ。
上造を主どる存在だという意味だそうです。
17 駟車庶長
庶長の中でも「駟車」=四頭立ての戦車、馬車に乗る者。駟車に乗るというのはステイタスだったんでしょうね。
18 大庶長
庶長の最も尊い者。
19 関内侯
列侯が全国各地の封地に就国するのに対し、関内侯は関内=秦・漢にとっての首都圏に居住する、という意味。
逆に言えば封国に行かない=統治することまでは出来ないということ?
20 徹侯
通侯、列侯とも。徹は武帝の諱。列侯については後述します。
208世界@名無史さん:04/05/28 19:47
爵位
 どこで見たのか覚えていないのですが、秦?(肝心なところをメモしていない)では七
爵の七大夫以上が高爵で、六爵・五爵が軍吏卒、一から四爵が庶民の爵と言うメモを残し
ていました。
 七大夫はおそらく七級なので七大夫なのでしょうが、それだと五大夫が九級なことの説
明が付きませんね。

 やはり漢代の爵については、西嶋定生氏の「中国古代帝国の形成と構造」がはずせないでしょう。
 以下の文章のかなりの部分はその本の受け売りです。

 関内侯は秦のころは倫侯(倫は「のたぐい」とかの意味らしいです)と称したようです。
 自己の関内(勢力下)にある侯の意味(牧野巽氏の説)とも。
 関内侯は什伍の制に編入される点は庶民扱いですが、一部例外を除き漢初から世襲可能
だったようです。
 食封は有るのが通常で、列侯より少ない方にシフトしている(個々の礼では逆転有り)
ようです。
 いろいろな意味で諸侯(諸侯王と列侯)と大庶長以下との中間的存在のようですね。
 ちなみに王莽は附城と改名

 庶長は将軍職だったらしく、本来大庶長は大将軍、左右庶長は左右将軍の様なものとの説もあります。
 あるいは、駟車庶長は車騎将軍に相当したのかもしれません?(これは勝手な思いこみ)
 また大少上造は秦では大良造、良造だったようですが、大良造庶長、良造庶長だったと
いう考えもあるようです。(御説と同じですね)
 また左右中更についても、左更庶長等だった(つまり左庶長以上は全部庶長)のではな
いかという考えも有るようです。
209世界@名無史さん:04/05/28 19:49
ちなみ宮崎市定先生は、良は古代ギリシアの市民のようなもので、郎は本来良であった。
また字義的には卿は郷を代表する良だったのではお考えだったようです。(九品官人法の研究)
 すると公士は士待遇で、上造=良造以上が本来の士だったのかもしれません?
 良=郎だと大良造庶長、良造庶長は、郎中令・中郎将・郎中将のようなものかも?
 ただ西嶋氏は、上造のみを率いる部隊長は考えられないとの説です。

 「商君書」境内編による守屋美都雄氏の研究によると、公士が軍職の操徒・校士に上造
〜不更が卒に、大夫〜公乗が屯長・将・五百主・二五百主に五大夫以上は大将に相当と成
るようです。(やはり上造以上が一人前?)
 なお秦には正卿・客卿の爵も有ったようです。

 公士から不更までの四等が士、大夫から五大夫までの五等が大夫、左庶長から大庶長ま
での九等が卿扱いとされるようですが、漢代では随分大夫も価値が落ちたものです。

前出の大庭先生の「漢代の貴族」より
 後漢では列侯の中に都郷侯・郷侯・都亭侯・亭侯が生じたようです。
 魏では王公侯伯子男(司馬氏と宗室のみ)、県侯・郷侯・亭侯・関内侯(通典職官封爵)
 その下が名号侯(爵十八級)・関中侯(十七級)・関外侯(十六級)・五大夫(十五級)
すべて虚封(魏志に引く魏書)
 この四級は漢の大庶長以下五大夫までの十級に相当か?(守屋美都雄氏の説)

余談
 宣帝紀を見ていたらもうやけに賜爵の記事が目立ちます。
 それでやたらに庶民に爵をばらまいた理由で、珍説を思いつきました。
 当時は方の執行が厳しかったようですが、厳密に適用しすぎて納税者がみんな牢の中、
あるいはもっと酷くて墓の下では困ります。
 その為に爵をばらまいて、合法的に贖罪させることにしたとか。まあ冗談です。
210世界@名無史さん:04/05/28 19:55
 公士は公(国の君)=諸侯の士という説もあるようです。
 つまり王の士ではないということでしょうか?
211世界@名無史さん:04/05/28 19:59
戈船候以外の同じ本から拾ってきた官名だと思われるもの
 中車司馬、中騎千人、大官長丞、長信私丞、長信宦丞、中宮謁丞、中塁右尉など
 掌貨中元士、○○道令・長・丞、○○国丞、衛校長、○○邑丞

なんの本だかメモしていませんが漢のころの官名らしきもの
 部士吏・守宰尹(宰尹?の守官)・造史(確か卒史の改名、王莽)・関嗇夫・関佐(関嗇夫の補佐)・
部従事・府司馬・尚書大夫・督郵掾・左右部後曲候・左右部後曲候丞(県丞級で三百石〜二百石程度?)・
軍守司馬(軍司馬の守官?)・倉守丞(倉丞の守官?)・都吏・督郵書掾・応募士・従事佐

これもどこの本で見たのか記録してませんが、前漢の王国にあった官名
 営司馬、中司空、都尉、太僕、中侯、司馬、侯、騎千人、営司空
 やはり王国の官制は中央と似ているんですね。

 雄山閣「中国古代の社会と集団」兪偉超著・鈴木淳訳には漢から十六国にかけての伝世
品の印象が紹介されています。
 騎千人丞・千人督・文徳左千人・校尉左千人・折衝猥千人・校尉千人・侵騎千人

 百官公卿表とかと幾分違っていたりくわしかったりする名称がありますね。
 やはり班固の時代には既にわからなく成っていたことも多いんでしょう。
 繰り言ですけど、史記に百官志があったらなあと思います。
212世界@名無史さん:04/05/28 20:00
漢書西南夷両粤朝鮮伝、西域伝にみる官名
 昭帝の始元2年、軍正王平と大鴻臚田広明が益州を破る。この時の軍正はどういう官で
しょう?
 成帝の河平年間、大将軍王鳳が金城郡の司馬陳立を別の郡の太守に推挙。丞・長史以外
に司馬のいる郡も存在したのでしょうか?
 後に左曹衛将軍・護軍都尉となる。左右曹は左右単独?
 元鼎5年、帰義粤侯二人を戈船将軍、下瀬将軍とする。帰義侯のはしりでしょうか?
 元鼎6年、伏波将軍の校司馬蘇弘南粤王建徳を捕らえて海常侯となる。ちくま版漢書の
注では元校尉で現司馬とありましたが、よく分からない官名?です。
 また南粤には県監、県令、郎官、独自に任命した侯等がいたようです。
 長羅侯恵をを遣わして3人の軍校を率いて赤谷に屯田させる。校尉のことでしょうか?
 他にも列校とか大校と言う用語もあるようです。
 己校の兵を移して姑墨に駐屯させる。やはり戊校尉と己校尉で一応組織は別れていたのでしょうか?
 烏孫の小昆彌(副王?)末振将を殺したキュウ(合+羽)侯難栖を堅守都尉にする。
 車師前王が都護司馬に殺害された。西域都護の司馬の略称でしょうね。
 王莽の建国2年、広新公甄豊を右伯とし、西域に出す予定。これを車師後王が西域の太伯と表現。
 戊己校尉刁護が司馬丞韓玄、右曲候任商に塁壁を完了させる。この言い方だと戊己校尉
の部下のように受け取れますが、司馬丞は名称からは都護司馬の部下のように思えます。
 なお、ちくま版漢書では戊己校尉比六百石説のようです。
213世界@名無史さん:04/05/28 20:20
西域諸国の官(漢魏の制度から外れますが)
 ゼン善国、輔国侯・卻胡侯・ゼン善都尉・撃車師都尉・左右且渠・撃車師君各一名、訳長二名
 且末国、輔国侯・左右将・訳長各一名
 小宛国、輔国侯・左右都尉各一名
 精絶国、精絶都尉・左右将・訳長各一名
 ウ(手偏+于)彌国、輔国侯・左右将・左右都尉・左右騎君各一名、訳長二名
 于テン(門の中に眞)国、輔国侯・左右将・左右騎君・東西城長、訳長各一名
 皮山国、左右将・左右都尉・右騎君、訳長各一名
 蒲犂国、侯・都尉各一名
 大宛国、副王・輔国王各一名
 莎車国、輔国侯・左右将・左右騎君・備西夜君各一名、都尉二名、訳長四名
 疏勒国、疏勒侯・撃胡侯・輔国侯・都尉・左右将・左右騎君・左右訳長各一名
 尉頭国、左右都尉・左右騎君各一名

 烏孫国、相・大禄、左右大将二名、侯3名、大将・都尉各1名、大監2名、大吏1名、
舎中大吏2名、騎君1名
 姑墨国、姑墨侯・輔国侯・都尉・左右将・左右騎君各1名、訳長2名
 温宿国、輔国侯・左右将・左右都尉・左右騎君・訳長各2名
 亀茲国、大都尉丞・輔国侯・安国侯・撃胡侯・卻胡都尉・撃車師都尉・左右将・左右都尉・左右騎君・左右力輔君各1名、
 東西南北部千長各2名、卻胡君3名、訳長4名
 烏塁(ここは国は付かない)、城都尉・訳長各1名
 尉犁国、尉犁侯・安世侯・左右将・左右都尉・撃胡君各1名、訳長2名
 危須国、撃胡侯・撃胡都尉・左右将・左右都尉・左右騎君・撃胡君・訳長各1名
 焉耆国、撃胡侯・卻胡侯・輔国侯・左右将・左右都尉・撃胡左右君・撃車師君・帰義車師君各1名、
撃胡都尉・撃胡君各2名・訳長3名
214世界@名無史さん:04/05/28 20:25
 烏貪シ(紫の下が言)離国、輔国侯・左右都尉各1名
 卑陸国、輔国侯・左右将・左右都尉・左右訳長各1名
 卑陸後国、輔国侯・都尉・訳長各1名、将2名
 郁立師国、輔国侯・左右都尉・訳長各1名
 単桓国、輔国侯・将・左右都尉・訳長各1名
 ホ(浦に草冠)類国、輔国侯・左右将・左右都尉各1名
 ホ(浦に草冠)類後国、輔国侯・将・左右都尉・訳長各1名
 西且彌国、西且彌侯、左右将、左右騎君各1名
 東且彌国、東且彌侯、左右都尉1名
 劫国、輔国侯・都尉・訳長各1名
 狐胡国、輔国侯・左右都尉各1名
 山国、輔国侯・左右将・左右都尉・訳長各1名
 車師前国、輔国侯・安国侯・左右将・都尉・帰漢都尉・車師君・通善君・郷善君・各1名、訳長2名
 車師後国、卻胡侯・左右将・左右都尉・道民君・訳長各1名
 都合50国(官名をあげられていない国は省略)、訳長・城長・君・監・吏・大禄・百
長・千長・都尉・且渠・当戸・将・相より侯・王に至るまでが漢の印綬をおび、都合37
6人ともあります。

 個々の国を見ると当戸・百長は具体的にはあがっていないようですね。
 将・都尉はともかく、侯・君の官名が多いです。あるいは世襲だったのでしょうか?
 官名が漢側の翻訳なのか、諸国側の自称なのかも気になるところです。
 また同じ輔国侯・訳長でも、現地語は別だったかもしれませんね。
 具体的官名では、輔国侯・国名+侯は宰相的な官、撃or卻○○侯は軍司令官でしょうか?
 また撃胡○○はともかく、撃車師○○が多いのが気になります。車師国は周辺諸国から
そんなに警戒されていたのでしょうか?
 亀茲国に大都尉丞が有りますが、どこかで晋の守侍中大都尉亀茲国王とか言うのを見たことがあります。するとこの時点で既に大都尉だったのでしょうか?あるいは匈奴の方の
大都尉でしょうか?
 そういえば匈奴側も南将軍とか烏賁都尉とかいう官名も出ていました。
 どこかに僮僕都尉(匈奴側の西域都護?)と言うのも出ていましたね。
215世界@名無史さん:04/05/28 20:29
 流れは無視するは、やたらに大量に書くは、スレタイから外れるわで
申し訳ないです。
216怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/28 23:35
>>215
いや、流れは気にせず。スレタイからは外れてないと思いますし。
多いので少しずつレス。

>>208‐210
爵についていろいろありがとう。正直なところ、西嶋センセにはかなわんすよ、この分野については。
で、西嶋センセは爵と軍制の関連性を述べていたんですよね?忘れてしまいました。

後漢では確かに侯にも県侯、郷侯、亭侯がありました。
三国時代ですが、三国志劉放伝の劉放と孫資が見事に爵位を一段ずつ上がっていて見てて面白かった。
関中侯→関内侯→亭侯→郷侯→県侯(孫資)

確かに宣帝は結構授爵が多いですねぇ。連年だったりしますしね。なんなんでしょう?
217怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/28 23:50
>>211
班固は、知らなかったというだけでなく、知ってたけど記録するほどのことと思ってなかった、というのも多いんじゃないでしょうか。
現代日本の歴史を記述する際、総理大臣について説明しても地方公共団体の一般職員の事はまず記述しないでしょう。
そういう感じかなと。まあ、今になってみるととても残念なんですけど。

「千人」は漢書百官表でも中尉属官などに見えるのですが、武官系の体系には多分大体は入ってた官だったんでしょうね。

「軍正」、これは漢書胡建伝によれば、当時の軍法に「軍正は将軍に属せず、将軍に罪過あればそれを上奏する」というものがあります。
正に軍監でしょう。師古注によれば南北軍それぞれに置かれていたとのことです。

郡の司馬ってのは都尉の属官でしょうかねぇ。

また南越の官ですが、「監」の存在など、秦制が保存されていた形跡があります。
開祖趙佗は秦の官僚でしたから、彼は秦制をそのまま南越統治の法としたのでしょうね。
218怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/29 13:40
>>213-214
漢書西域伝など、西域や匈奴にも「都尉」やら「相」やらといった官名が見えますね。
しかしこれはどういうものなのでしょう。
1 当地での呼び名を意訳したもの。(匈奴のはこれだと思いますが・・・)
2 漢により任命(追認)された時の名称。(西域の漢に服属した諸国ではこの形式?)
どちらかなのかとは思うのですが、どっちなのか。もしくは他の理由によるものでしょうか。
匈奴にしても、漢人が政権に参画したり、後には服属したり、と漢側の文化、制度を受け入れる余地があったようですから、あるいは漢風の官名を使っていた可能性もあるのでしょうか。
219怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/29 13:57
列侯。
金印紫綬。小さくとも封地は一応は「国」であり、中央からその「国」を事実上統治する「相」が派遣されます。
「相」は丁度県における令・長と同じです。
列侯にはその他、家丞、門大夫、庶子がいます。
相が封国の治民官であるのに対し、家丞以下はおそらく列侯の私的な面を取り仕切り、あるいはサポートするのでしょう。
(太子に対する家令や門大夫、中庶子と同様でしょう)
なお、前漢では丞相と太常はほとんどが丞相でした。これは二十等爵における民爵・官爵の区別に通じるところがあるのでしょうか。
それなりの政治的地位に立つにはそれなりの身分が必要、というところなのかな?
220世界@名無史さん:04/05/29 21:09
ゼン善国の官制
 長澤和俊著「桜蘭王国」によると、スタインの発見したカローシューティー文書(インド系の言語)や、同時代のものと思われる漢文文書で復元される2〜4世紀の官制は、次
のようなもののようです。
 ただこの本の初版が出てから40年以上、加筆修正された徳間文庫版からでも十数年が
たっていますから最近の研究はどうなっているんでしょうね。

漢文
 丞相、功曹(上級書記?)、郎中(書記)、都伯(地方長官チョジボー?)、都水(治水長官)、
督田掾(農業監督官)、監倉史・監食掾・監量掾・倉曹掾・倉曹史(以上徴税担当?)、
主簿・録事掾(以上書記関係)、行書(飛脚)
 軍事関係として、将軍、軍謀(参謀)、安西和従事(西域懐柔の官)、督戦車(戦車隊長)、
兵曹史(主計官)、医曹(軍医)

 晋守侍中大都尉奉晋大侯親晋と書かれた木簡があります、多分親晋ゼン善王?
 また疏勒・亀茲・焉耆・于テン(門の中に眞)も同様のようです。
 守侍中大都尉は魏代に車師後王も任じられたようです。
 ゼン善郡尉(都尉?)とか書かれた封泥も有るようです。
221世界@名無史さん:04/05/29 21:11
カローシューティー文書(職掌はよく分からないが、序列は署名順位で判明とのこと)
 キツァイツァ、最も高位の官で全てを総覧(漢文の丞相でしょうか?)
 カラ、王子がこの職に就く高官、王子の称号?
 オーグ&グスラこれに次ぐ高官、グスラは隣国のホータンにもあったらしいです。
 キュヴァライナ、グスラに次ぎ地方長官チョジボーより高位。
 コーリ、王牧の役人
 チョジボー、地方長官、以下は地方官
 トームガ&アプス、次官クラスなのでしょうか?
 ソータムガ(地方徴税主任)、アゲータ&ヤトーマ(穀物等の徴収)、ツァムギナ、
サダヴィダ(首都への税の輸送)等、いづれも徴税官
 タスチャ&ヴルヤガ&チャムクラ、小役人
 クラーセムチ、村に置かれる役人らしいのですが?
 
ついでに同じ本&同氏の別の本から三国以降の西域経営
 魏志文帝紀によると黄初三年戊己校尉を置いています。
 また晋書地理志によると、戊己校尉は涼州刺史の配下のようです。
 晋代になるとゼン善に屯田しているようです。
 西域長史を長官に、文官に功曹、督郵曹、戸曹、吏曹、倉曹、督田、監量、水曹、監倉、
客曹、簿曹、監蔵、辞曹、兵曹、医曹、鎧曹、賊捕曹等の諸曹があり、各曹に掾・史・少史・
吏等が存在したようです。
 他に官房ともいうべき門下があり、主簿をトップに、枢録事掾、録事掾、録事掾佐、奏曹掾、
書史、門下掾、簿書、行書等が存在。下役(卒クラス)に伍百、鈴下、馬下等が有り
 他に散職の従掾位・従史位もいました。
 武官としては、司馬を頭に将、統軍、督戦車、兵等がいたようです。
222世界@名無史さん:04/05/29 21:14
 ちなみに晋の郡国は五千戸未満で職吏50人、散吏11人、五千戸以上63+21人、
一万戸以上69+39人、各文学掾有り。
 県は三百戸未満18+4人、三百戸以上28+4人、五百戸以上40+8人。
 県官は令又は長をトップに主簿・録事史・主記室史、門下書佐・幹・游徼・議生・循行・
功曹史・小史、廷掾・功曹史・小史・書佐・幹、戸曹掾史・幹、法曹門幹、金倉賊曹掾史、
兵曹史、吏曹史、獄小史、獄門亭長、都亭長、賊捕掾といった構成のようです。


列侯は金印紫綬
 前漢後期では、公(丞相・大将軍)が金印紫綬、御史大夫以下比二千石までが銀印青綬、
千石以下比六百石までが銅印黒綬、五百石以下比二百石までが銅印黄綬、百石・比百石が
半通印(サイズが半分)
 後漢末(曹操の制度)では、諸侯王が金印赤綬、諸国貴人・丞相が金印緑綬、公侯・将軍
が金印紫綬、以下は上と同様。
 どうも親魏倭王は列侯クラスらしいです。
 後代(南斉)のことになりますが、坂本義種著「倭の五王」でも、周辺諸国王は国内の
王より一段下の郡公・郡侯クラスの待遇だとされています。
223世界@名無史さん:04/05/29 21:15
 大庭先生の「親魏倭王」(学生社)によると、親魏倭王の沿革として次のようなものが
あるようです。
 後漢の安帝の永初3年烏桓の大人戎朱カイを親漢都尉に任命。(後漢書烏桓伝)
 順帝の永建元年車師後国の八滑を後部親漢侯に。
 建安年間に曹操が鮮卑の大人厥機の子沙末汗を親漢王に立てる。(魏書烏丸鮮卑東夷伝)
 親魏車師後部王の存在を推定。(魏書烏丸鮮卑東夷伝に引く魏略西戎伝から)
 東部鮮卑の人段匹テイ(石+単)の父務勿塵が親晋王とされ、遼西侯に封ぜられていま
す。(晋書段匹テイ伝)
 晋の大興3年元帝が向弘等の夷王を親晋王として朝服を賜う。(南斉書東南夷伝)
 古印の印譜に親晋テイ(低ーイ)王、親晋羌王が有り。

昔のメモ帳見ていたらこんなのがありました。
 代田長、守馬丞、守農令、左右農左右前後丞
 どうも農令のタネはこれだったようですが、困ったことに題名をメモしていないです。
 別の本からのメモ、発弩嗇夫、道嗇夫、司空佐史、徒食(斗食?)、部佐、倉嗇夫
224世界@名無史さん:04/05/29 21:22
うーんかなり漢魏からはなれた気もしますね。

>前漢では丞相と太常はほとんどが丞相でした
 ほとんどが列侯でした、の間違いでしょうか?
225怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/29 21:44
>>224
あっ!そうです。オバカな間違いを・・・。

>>220-222
西域関係、本当にありがとう。疎いもので。
晋頃といっても大いに参考になるはずです。
西域の下部組織は太守や将軍府に似てますね。当然と言えば当然かもしれませんけど。

金印というか印については、また後ほど。
ただ、鼻の形状一つにも決まりがあって、確か匈奴は馬だかラクダ、で海側だと海産物、というようになっていたそうですね。
226世界@名無史さん:04/05/30 20:10
「親魏倭王」より、魏志倭人伝に見る率衆中郎将、率衆校尉について
率善の記事
 其の官に魏率善邑君、帰義侯、中郎将、都尉、佰長あり。(魏志韓伝)

似たもので率衆の記事
 遼西の烏丸都督で率衆王護留等が衆五千人を率いて降伏。(魏志毋丘倹伝)
 親漢都尉戎朱カイが烏丸校尉に従って鮮卑を撃ち、率衆王になる。(後漢書烏桓伝の注に引く魏書)
 袁紹が使を遣わして遼東属国の率衆王頒下、烏丸遼西の率衆王トウ(榻の編が足)頓、
右北平の率衆王汗廬維を単于に拝した。(英雄記)
 他にも後漢書の南匈奴伝・烏垣伝・鮮卑伝にも同様の記事があるそうです。
 永元七年鮮卑大都護蘇抜カイが率衆王になる。
 四夷は、国王、率衆王、帰義侯、邑君、邑長あり。皆丞あり。郡県に比す。(後漢書百官志)
 つまり率衆王は単于や国王より下のようです。また別の記事で率衆侯・率衆君等も出て
きているそうです。
 率衆とは文字通り衆を率いて中国に帰順したことをあらわす称号で、率善もそれになら
えば中国に帰順しようとする善なる四夷を率いる意味ととれます。
 しかし大庭先生は率には循(したがう)との意味もあり、善に循うの方が正しいのでは
とのお考えです。
227世界@名無史さん:04/05/30 20:13
 1966年韓国慶尚道から出土した、晋率善カイ(さんずいに歳)佰長
 1956年内蒙古涼城県、晋烏丸帰義侯・晋鮮卑帰義侯とともに出土、晋鮮卑率善中郎将(銀質駝鈕印)
 晋率善韓佰長
 大谷大学禿庵文庫コレクション
 魏率善テイ(低−イ)邑長・魏率善鮮卑仟長(ともに駝鈕(つまみ)銅印)
 魏率善胡仟長(駝鈕及び熊鈕銅印)
 魏率善テイ佰長・魏率善タン(イ+炎)佰長(ともに駝鈕銅印)
 晋蠻夷率善邑長(蛇鈕銅印)
 晋率善胡仟長・晋率善テイ仟長・晋率善臾仟長(ともに駝鈕銅印)
 晋烏丸率善佰長(駝鈕(流の下に金)金銅印)
 晋匈奴率善佰長・晋率善胡佰長(ともに駝鈕銅印)
 晋蠻夷率善佰長(蛇鈕銅印)
 民族名が二文字の場合は率善の前、一文字の場合は率善の後に来るのが原則らしく、従
って倭人がもらう場合は魏率善倭仟長に成るはずらしいです。
 なお沿革として、漢の場合には漢率善胡佰長・漢率善テイ佰長が記録に残っているようです。

 晋烏丸帰義侯(2.2×2.3a)・晋鮮卑帰義侯(2.2a四方)、ともに金印駝鈕
 晋鮮卑率善中郎将(2.1×2.15a銀印駝鈕)
 禿庵文庫所蔵の親晋王印(2.41×2.49a金印亀鈕)

 なお中国古代の印については、やはり栗原朋信氏の文献を中心とした研究がやはり基礎
知識となるんでしょうね。(「文献にあらわれたる秦漢璽印の研究」とか)

 先回の書き忘れ、大庭先生は親魏○○王は小国を支配下に置く、地域覇権国王の称号で
はとお考えのようです。
228世界@名無史さん:04/05/30 20:31
>鼻の形状一つにも決まりがあって
 なにか鈕は西が駱駝で南が蛇のようです。亀は北?東?どちらでしょう?
 確か岩波の世界史の本で栗原先生?が古代中国のサク封制度とかについて
書いておられたような気が……外客臣とか外賓臣とか。
 その中で印綬についても触れられていたような?
 ?ばかりでたよりのない話ですね。今度図書館で確認してみるか。

>西域の下部組織は太守や将軍府に似てますね。
 後になりますが高昌国などは将軍府を元に国の官制を組み立てています。
229怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/30 20:44
>>226-227
率善はおっしゃるように続漢書百官志に「率善王」がありますね。
「四夷国王、率善王、帰義侯、邑君、邑長」との順になっているので、率善王は帰義侯の上に当たるということでしょうか。
王、侯、君、長と、漢内部とは違いますが四夷の君主にもランクがあったわけですね。

あと、鼻じゃなく「鈕」でしたね。227の印を見ると、印の材質はやはり漢の官僚・諸侯と同じようにランク付けされていたようですね。
栗原先生の研究は、見た気もしますが忘れているので、そのあたりヨロシクという感じです。

ところで、これは当て推量というやつですが、魏になって親「魏」という王朝名を冠する名称が出てくるのは、三国が並立していることと関係あるのでしょうか?
考えすぎかな。それとも、漢にもあった?
230世界@名無史さん:04/05/30 21:20
>親「魏」
 前出の安帝の永初3年の親漢都尉、順帝の永建元年後部親漢侯ときて、
建安年間に曹操が鮮卑の大人厥機の子沙末汗を親漢王ですから、確かに
王に採用したのは曹操かもしれません。
 政権基盤が弱いといろいろ工夫するんでしょうね。

>四夷の君主にもランク
 史記の西南夷列伝を見ても王侯とそれ以外の君長(一般名か?君と長の別があるか不明)
のランクがあったようですね。
 あと光武帝のころに朝鮮半島の部族長を邑君にしたことがあるようです。

>印の材質
 名称からみて邑長・仟長・佰長はおそらく六百石未満の小吏、邑君が
千石か六百石でしょうか?邑長、邑君はもっとランクが上でしょうか?
 邑長千石クラス?邑君比二千石ないし二千石とか。

間違い発見
>魏志倭人伝に見る率衆中郎将、率衆校尉について
 率衆じゃなくて率善ですね。
231怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/30 22:37
>>228
そういえば、どこかで方角によって違うと見たような気も。

>>230
む、失礼。親漢王もいましたか。でも曹操政権か。
なんというか、王朝のアイデンティティの揺らぎみたいなものを感じ取るのは変でしょうか。しつこいようですが。


諸侯王。
漢書百官表によれば金璽レイ(緑)綬。「璽」と、印の呼び方からして違います。
職掌については言うまでもないでしょう。
属官は、もともと漢とほぼ同一だった筈。
しかし、有名な呉楚七国の乱以降属官を削られ、自主的な行政権を事実上奪われます。
(漢書の景十三王伝などに、そんな中で生き残りを図ったり自暴自棄になったりする諸侯王たちの姿が見えます)
232世界@名無史さん:04/05/30 23:57
平凡社東洋文庫「東アジア民族史ー正史東夷伝」より
(三国志魏書東ヨウ(さんずいに夭)ソ(さんずいに且)伝)
 光武帝6年に楽浪郡東部都尉廃止、県中の渠帥を県侯に任じ不耐、華麗、ヨウソの諸県
はみな侯国にした。
 互いに攻め合って多くは滅び衰えたが、不耐エ(さんずいに歳)侯だけは今に至っても
功曹・主簿・諸曹の官を置いている。(すべてエの人を任命)
 ヨウソの諸部落の渠帥が自ら三老を称するのは県・国の制度を遺しているから。
(三国志魏書エ伝)
 エには大君長はいない。前漢時代以来官には侯・邑君・三老があって下戸を統治している。
(通典弁辰伝)
 光武帝の建武中、廉斯の人蘇馬ィが衆を率いて楽浪郡まで来て貢献。
 光武帝は蘇馬ィを廉斯邑君に冊封して楽浪郡に内属させ、四季ごとに朝謁させた。
 魏の明帝の景初中、明帝は帯方・楽浪の2郡の長官を任命して平定。
 諸韓国の臣智には邑君、それに次ぐものには邑長の印綬を与えた。
 なお通典辰韓伝によると、辰韓の小邑の渠帥のうち大なるものを臣智、以下険側、樊ワ
イ(さんずいに歳)、殺奚、邑借の順とあります。
 と言うことは険側あたりが邑長でしょうか?

諸侯王
 成帝の綏和元年内史を廃止して相に民を治めさせています。
 このころには王国に複数の郡が有ることが無くなっていたようですから、これに関して
は実質は冗官廃止ですね。

ひどく後戻りして衛尉の配下
 屯・衛の司馬・候説、屯司馬・衛司馬・候司馬説、屯司馬・衛司馬・候説等
本によってばらばらどれがただしいんだー!(漢文の読み方って難しいですね)
233怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/31 08:31
>>232
東夷、沃沮が三老と自称というのが面白い。漢はもともと彼らの渠帥を県三老あたりにして統治していたということになります。
逆に言うと、それ以上の官には就けなかった?

衛尉の属官ですが、「又諸屯衛候司馬二十二官皆属焉」(漢書百官表)がその元と思うのですが、「候」「司馬」がそれぞれ存在したと思うので、引くところの2番目は少々怪しく感じます。
参考に手元の中華書局版を見ると「又諸屯衛候・司馬二十二官皆属焉」と標点しており、これは1番目の読み方でしょう。
明確な根拠とは言い難いですが、私はこの中華書局版のように考えていいと思います。

諸侯王。
景帝までは諸侯王の制度は漢と同じで、最初は相国もいました。官僚も原則諸侯王が任命していました。
しかし景帝中5年、諸侯王による統治を認めず、漢が官僚を選ぶようにします。
丞相→相と改称し、御史大夫、廷尉、少府、宗正、博士を廃止、大夫、謁者、郎などを減員。
九卿クラスで残るのは奉常、郎中令、衛尉、太僕、典客、治粟内史、中尉といったあたりでしょうが、景帝や武帝は漢におけるこれらの官を改称する一方で、諸侯王の官名は改めず、区別をつけるようにしました。
要するに、極力諸侯王の官と漢の官がかぶらないようにしたのです。もっともこれはあくまでも諸侯王に対する抑制、差別のためでしょうが。
またおそらく武帝の時(太初元年?)、太僕を僕と改称し、僕と郎中令の秩を千石に減じました。
それ以降の諸侯王の官制は、諸官あるとはいえ、こうなるでしょう。
太傅:もりやく
相:王国全体の統轄、統治≒太守
中尉:首都警護≒太守における都尉
内史:首都近辺の民政≒太守
太守相当が複数ありますが、これは232氏ご指摘のように、本来は複数郡を統治するために内史と相は別の職掌だったのでしょうが、王国が一郡以下の存在になってしまうと、相と内史のやる事が同じになってしまったのでしょう。
そこで成帝綏和元年に官制改革の一環として内史が廃止されます。
234怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/05/31 21:39
諸侯王。
史記曹相国世家によれば、恵帝元年に諸侯相国法を除いており、諸侯王の相国はここでなくなったのでしょう。
また、景帝中5年改正では、御史大夫、少府といった諸侯王の側近官が含まれる官が廃止されており、徹底的に諸侯王から統治権を取り上げようとしたと考えられます。
(言い換えれば、政治に携わらない諸侯王に側近、秘書は要らん、ということか)
また、少府が廃止ということは、諸侯王の財政は(治粟内史?の公的財政へ)一本化されたということでしょうか。

続漢書百官表によれば、どこかの段階までは尚書はいたようですが、「治書」と改称されたそうです。
また、元帝初元3年には諸侯相の位を太守の下とし、
成帝の時(綏和元年?)には太傅が「傅」と改称(太が無くなった)されています。
成帝の内史廃止と合わせて、長きに渡る諸侯王の削弱の集大成と言えるかもしれません。
235世界@名無史さん:04/05/31 23:43
戦国期の秦について書かれた本からの書き抜き発見(題名不明)
 小夫から爵一級までが校徒・操士、爵二級以上不更までが卒。
 小夫は爵がないの者で、漢でいう士伍にあたるのでしょうか?
 職責等不明ながら、校尉・軍御・参乗といった職名有り。
 五百主は短兵(護衛兵)五十人、二五百主=将之主は百人、国尉は千人、大将は四千人。
 千石令は百人、八百令は八十人、七百令は七十人、六百令は六十人。
 護衛兵の数から見て五百主は秩五百石、二五百主は秩千石でしょうか?
 国尉は後の太尉に相当するとの説もあるようですが、その場合それ以上の存在であるら
しい大将は何者なんでしょうね?

漢代の郡の内部組織
 総務官房的部局、功曹(No1)・五官掾(No2)・主簿(秘書兼庶務課長)・督郵
 民政関係、戸曹・時曹・田曹・比曹   財政関係、倉曹・金曹・市曹
 交通駅逓関係、集曹・漕曹・法曹    兵政関係、兵曹・司馬・塞曹・尉曹
 治安担当、賊曹            司法担当、辞曹、決曹
 教育関係、文学

 各曹に掾(部局長)、史(補佐)、守属あり。

 主簿の下に主記室掾史・録事掾史・奏曹掾史・門下掾史・門下議曹・少府があり。
236世界@名無史さん:04/05/31 23:45
各曹について補足
 功曹は郡中の有力豪族が任命されることが多く、人事権を握っています。功曹に限り史
が長官のようです。後の相国ショウ何がなっていたと言うはい沛県の主吏掾も、功曹のこ
と(あるいは前身)だとされています。
 五官、五官中郎将と意味合い的になにか関係があるのでしょうか?
 督郵、三国志で有名な監察官、東西南北部督郵と言うのを見たことがあるので、複数い
るのかもしれません。
 集曹は薪を集めるのが仕事だという説もあるようです。
 司馬、前に書いた「成帝の河平年間、大将軍王鳳が金城郡の司馬陳立を別の郡の太守に
推挙」この司馬かとも思ったのですが、陳立はそれ以前に県令を務めており今更郡の属官
になるとは考えがたいのでおそらく別物でしょう。
 塞曹は魏志倭人伝に登場しています。
 少府は太守の面倒を見る、まあ用人と言ったところでしょうか。

秦の県制(湖北省雲夢県睡虎地第11号秦墓出土の法律文書から復元されたもの)
 令(長官)、丞(次官)、尉、これに次ぐ重要官が司馬(軍馬担当)、司空(土木工事と刑徒を担当)
 下部部局として倉・庫・田・市等が有り、部局長嗇夫と補佐の佐がある。
 県令の補佐として令史と史(書記)、下級官吏として卜(占い担当)・史(暦と日の吉
凶を担当)、司御(御者)等がいる。(史のダブりが謎?)
 県の下に郷があり同様に嗇夫と佐が存在。(郷は県の出先的性格が強いのか?)
 郷の下に里があり、里典と里老があり。
 また一定距離ごとに置かれた交通情報機関の亭にも嗇夫と佐があり。
(学研歴史群像シリーズ33項羽と劉邦下所載の「皇帝の権力、王の力を削ぐ」山田勝芳)
237世界@名無史さん:04/05/31 23:49
河北省望都県の漢墓からの壁画に見る地方下級官吏
 寺門卒・門亭長(ともに門衛)、仁恕掾=案獄仁恕掾(獄官)・賊曹・追鼓掾(鼓を打
って行事の合図をする役?)・辟車伍佰=伍佰(行列の先導)・侍閤(取次)・門下小史(身
辺の給仕役)・主記史(書記)・門下史・門下賊曹・門下游徼=督盗賊掾(捕盗官)・門下
功曹・主簿(書記)・勉労謝史・小史(一部官職名ではないものも含むようです)
 門下は漢代では州郡県の属吏を指し、前漢中期から始まった呼称だそうです。
 後漢の門下五吏は、賊曹掾・督盗賊掾(ともに捕盗官)・功曹掾(人事部長)・主簿(文
書作成)・主記(記録作成)。
 長官出行の時は賊曹掾・督盗賊掾・功曹掾は帯剣して三車を連ねて先導、主簿・主記は
二車に分乗して従う。
 五官掾(総務部長)、督郵掾を置く場合があり、功曹と督郵は地位が高いそうです。
(講談社「図説中国の歴史2秦漢帝国の威容」大庭脩)

あと同じ本によると、千人は三百石か四百石程度らしいです。
秦漢の地方官制について知っている限り書いてみました、
概ね六曹以下しかない唐以後に比べてかなり複雑なようです。
238怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/01 08:30
>>235-237
郡県の内部組織ですか。この辺は出土資料により詳しく分かったところなんでしょうね。
文献では分からない部分も少なくないように思います。

五官、宋書百官志には、後漢では年齢五十以上の孝廉被挙者は五官郎になるとされています。
五官と五十歳、関係あるのでしょうか。
郡の督郵は、続漢書百官志にも「五部督郵」とあるので、複数居て分担して監察したのでしょう。


監御史。
まず面白いのは、漢書百官表では中央諸官と爵を解説してから地方関係に移っているところ。
当時の考え方では、地方はあくまで被征服地であって、いつでも切り離しうるような存在なのだと思っていたのではないか、と妄想してしまいます。
考え過ぎかもしれないですが。

秦では御史が監御史として郡を監察していました。これは劉邦らの挙兵前後などにしばしば出てきます。
蕭何が御史に中央へスカウトされ(て拒否し)たという記事(史記蕭相国世家、漢書蕭何伝)がありますが、この御史は監御史でしょう。
あるいはこのように人材発掘的な側面もあったのでしょうか。
しかし漢では廃止され、丞相が丞相史を派遣して監郡しましたが、常置ではありませんでした。
皇帝側近である御史から、行政府の長である丞相に監察の権が委ねられたというのは、なかなか示唆的です。
239世界@名無史さん:04/06/01 21:08
漢旧儀によると元狩6年段階の丞相の配下の史には、
長史二名(副官:千石)、丞相史40名(四百石)、丞相少史80人(三百石)、
属史162名(百石)があるようです。
240怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/02 00:37
>>239
四百石、三百石がこんなにいるという時点で丞相府の大きさがわかりますね。
そしてそれを統轄する丞相の強大な権力も。
私は、それを解体しようとした(ほぼ成功した)のが三公制度だと思います。

監御史、部刺史。
武帝元封5年になり、部刺史が新設されました。
これが監御史、丞相史の監郡に代わる新たな常設の地方監察官でした。
秩六百石、十三人で一州ずつ分担します。
部刺史は太守より官秩が低いですが、それまでも監御史や丞相史といった、官秩では下位の者が監察していたので必ずしも変ではないようです。
部刺史は六条の詔書に基いて監察し、それ以外は任務外として無視するのが正しい態度だったようです。
(漢書朱博伝)
241怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/02 08:30
部刺史。
六条の詔書は、おおよそ以下のような内容でした。(漢書百官表注より。乱暴な意訳なので間違い等あればよろしく)

1 豪族の類の田宅が制度を超えたり、民を圧迫したりといったことの調査。
2 二千石(太守、相)が詔書や法典・制度を遵守せず、公に背いて私事、利益を優先し、民の生活を侵し収奪して姦を為すこについての調査。
3 二千石が疑わしい獄事を省みず、殺人をそそのかし、感情に任せて刑や賞を行い、それによって民を苦しめ、(陰陽の和を損なって)地異や妖しい事件、噂話が起こる、ということについての調査。
4 二千石の属官任用が不公平で、賢人を用いず小人を寵愛することについての調査。
5 二千石の子弟が二千石の威を借りて勢力を伸ばしたり、子弟だからと二千石が監する業務の利を得られるよう裏で手を回すというようなことについての調査。
6 二千石が公に背いて豪族と癒着し、賄賂などを授受し、律令通りにしないことについての調査。

こうして見ると、部刺史が行うべきとしているのは二千石の業務全体といってよいのでしょうが、特に豪族対策と太守自身の領主化を警戒していたようです。
それだけ太守や相の権限が大きいと言うことなのかもしれません。
242世界@名無史さん:04/06/02 20:21
 漢書では丞相が史を遣わして諸州を督察させた、となっていますが、
元封5年の部刺史設立以前に州があったのでしょうか?
 それとも単なる言葉のあやでしょうか?

 太守の権限は、交通通信手段が発達しない時代地方長官の権限は絶大です。
 しかもまだまだ法治より人治が優先する時代ですからね。
 同様にローマの総督も絶大な権限をもって属州民に対峙していたわけですが、
こちらはそれを牽制するのに裁判を使い、漢では監察官を使う。
 このあたりの東西対比が面白いところです。

 漢書には御史中丞は部刺史を監督し、侍御史を所管とあります。
 わざわざ用語を変えてある以上、部刺史は御史中丞に属してはいないのでしょう。
 部刺史が太守を監察するように、監察されるだけなのでしょうか?
 また牧に改称された後も監督関係は続いていたのでしょうか?
 どうも漢書の記事だけでは良くわかりませんね。
243怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/02 22:32
>>242
言葉のあや、の可能性が高いのでしょうが、州もしくは州に該当するような分担はあっても不思議でもないかもしれませんね。
御史中丞、確かに部刺史は「督」、侍御史は「領」としていますね。
あくまで推測ですが、部刺史は御史とも違う皇帝の使者格として扱われたのかも。

秦、漢初は特に(太)守が広大な面積を統治するので強力な存在でしたが、それだけに皇帝側近=御史による監察が不可欠だったことでしょう。
漢初に監御史さえやめたというのは、皇帝の大権という点で考えると少々微妙じゃないでしょうか。
漢初は極めて分権志向が強い時代だったのでしょうか。

州牧時代の事は確かに疑問ですねえ。ただ、御史中丞は後漢に至ってむしろ強化されているので、州牧への改組とともに御史中丞の独立化が図られたんじゃないかと妄想します。
244怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/03 08:34
部刺史。
漢における州は以下のとおり。
并、エン、豫、荊、揚、冀、幽、青、徐、益、交、涼
ここまででは実は十二しかないのですが(刺史は十三人)、前漢ではこれとは別に「朔方刺史」がいたので、それを合わせて数えるのかもしれません。
もしくは司隷校尉が監察する部分も含めるのでしょうか。
(但し、「十三人」としているので、刺史が十三人いたことになるはず)
後漢では外十二州+一州(司隷校尉)としているようです。

続漢書百官志によれば、刺史は八月に部するところの郡国を見回り、囚人が冤罪などでないか点検し、長官たちの成績評価をしたそうです。
また、年に一人茂才(秀才)を挙げるのも任務だったようです。

なお、成帝綏和元年に、何武・テキ方進によって秩真二千石の州牧制が施行されました。
この目的は重大な職務に当たる刺史が太守らより官秩がかなり下であることを重く見、同等にしようというものでした。(漢書朱博伝)
(また、名称上は書経など経典に合わせようとしたようです)
刺史が推薦した太守は九卿にもなるし、敵対すれば弾劾すればいい、というように太守との関係が官僚の秩序からみて逆転してしまうのが問題と思っていたようです。
一方から言えば、刺史の権力が強くなっている現状があり、それを追認しようとしたのかもしれません。
245怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/03 22:04
州牧制を施行した何武らは儒者(テキ方進は劉キンの左伝の師)であり、一方の朱博は任侠的な性格で、小吏からの叩き上げという違いがあります。
これは、改革により復古的な官職、制度の確立を図ろうとする儒者を中心とする勢力と、武帝・宣帝ころの法家的体制を墨守しようとする勢力、と色分けできるかもしれません。
そして、成帝半ば以降は明らかに前者の改革派が優勢であり、王莽の一連の制度もこの線上にあると言えるのではないでしょうか。

州牧制は三公制と並んで、いわば改革の目玉の一つであったらしく、反対派朱博が丞相になった時には合わせて撤回されています。
しかし哀帝親政期の元寿2年に三公制とともに復活。以後、光武帝建武18年まで州牧は継続しました。
(王莽政権下でも牧が見える)

また、刺史制に戻した朱博の漢書の伝には、「本来は刺史の職掌(監察対象)ではない事柄について刺史に上言しようと群がる吏・民」という描写があります。
これは、この時代(成帝頃)には刺史が監察権限外(上述の詔書六条)を超えた事について口を挟む事が珍しくなかった事を示していると思われます。
州牧制は、こういった実態に官秩を合わせようとする、ある意味では妥協策だったのかもしれません。
246世界@名無史さん:04/06/03 23:02
 後の刺史=牧には属官として従事史がありますが、創設当初の六百石の時もいたのでしょうか?
 なにか、二千石の牧になった時以降のような気もしますが。

嗇夫いろいろ(大庭先生の「秦漢法制史の研究」を中心に)
 一番有名なのが郷嗇夫で郷の長官。郷の代表者的性格が強いという説と、あくまで官僚
としての面が強いという説が有るようです。
 なお本来は農夫の意味で官名に転じたらしいです。
 虎園嗇夫、上林苑に属する動物園の主任と言ったところです。
 少内嗇夫、掖庭(後宮貴人を司る)の府蔵主任だそうです。
 暴室嗇夫、掖庭の監獄管理主任、上司は暴室丞と考えられます。
 廐嗇夫、漢書田廣伝に出てくる県吏、序列的に守尉の下尉史の上らしいです。
 公用旅行者に車馬を給する官で、居延漢簡にも廐嗇夫・廐令史が出て来ています。
 廚嗇夫、公用旅行者に飲食を供する官で、おそらく県吏です。
 傳舎嗇夫、居延漢簡にある公用旅行者のための宿泊施設の管理人で、これも県吏です。
 庫嗇夫、倉嗇夫、居延漢簡にある倉庫の主任です。倉と庫の違いは確か収めてあるもの
の違いだったかと、確か倉が穀物で庫がそれ以外だったと思います。
 米田賢次郎氏の「漢代の辺境組織」、藤枝晃氏の「漢簡職官表」を参照とのことです。
 関嗇夫、関の事務主任らしいです。
 市嗇夫、漢書何武伝、県吏で租の徴収を担当していたようです。
 また百官志大司農條にひく漢官によると、洛陽市長の部下にも百石嗇夫が十三人存在し
ています。
 宗・祝・卜・史官の嗇夫、漢書王莽伝によると王莽が宰衡になった際に以上の各官を置
き、各々に嗇夫・佐を設けています。
 園陵・帝廟・侯廟の嗇夫、後漢書城陽恭王伝・蓋延伝によるとこれらにも置かれている
ようです。
247世界@名無史さん:04/06/03 23:11
 工官の嗇夫、漢代の漆器・銅器の銘文に各種出てくるそうです。
 蜀郡西工官に蜀西工長等が有り、長・丞・護工卒史・守令史・嗇夫・佐・以下工人の順
で署名されています。
 他に右工(右校か?)の嗇夫、考工の属官で護・佐・嗇夫・掾の順で署名し、右丞が責
任者、供工の属官で護・守嗇夫・掾の順で責任者が右丞又は左丞、寺工の属官で護・嗇夫
・掾の順、右丞が責任者(いずれも長官は令)などが有るようです。
 考工繕作府嗇夫などもあります。
 以上の考工・供工・寺工を三工官とも推定されています。
 
 命令系統は概ね令(長)ー丞(尉)ー嗇夫ー佐となり、掾・令史も地位的には嗇夫より
上級のようです。
 ただ令史から転任してきた例もあるようなので、官署によって違うのか、ほぼ同格なの
かもしれません。
 また卒史・督郵(ともに抜擢らしいです)、候官の士吏(功労を積んでのもの)等に転
ずる実例があるそうです。
 また嗇夫には有秩(百石)と斗食の別があり、有秩嗇夫は印綬を与えられていました。
 大きさ半分の半通印(又は小官印)と言うやつですね。綬は青紺らしいです。
 なお下士官級の士吏や候長にも有秩と斗食の別があったようなので、このあたりはほぼ同格かもしれません。
 それに対して卒史や掾は通常百石の官とされる(ただし公府の掾は四百、三百石級)
ようなので、やはりやや上位なのでしょう。

 ちなみに初期赤眉軍の役職名は上から三老・従事・卒史ですね。
 ついでに護工卒史、王莽の時期には護工史、後漢では護工掾の例があるそうです。
 護軍の護と同様に工人を監督する官らしいです。ただの護は現場監督でしょうか?
248世界@名無史さん:04/06/03 23:14
それ以前の嗇夫
 大嗇夫又は県嗇夫、戦国期秦代の県令相当官らしいです。
 官嗇夫、秦代の官らしいです。
 吏嗇夫、大漢和辞典に載ってました。戦国時代の官で吏の取締役らしいです。
 人嗇夫、同じく人民の取締役らしいです。
その他メモが出てきた嗇夫
 民嗇夫(上の人嗇夫と同じものらしいです)、邑嗇夫・道嗇夫(確か邑や道の長官)、県邑嗇夫(県嗇夫と邑嗇夫の総称?)

 少々話が変わりますが、前漢の時には掾・卒史・嗇夫・尉史・令史・属史・守属・佐・
史・佐史・従事・候史・曹史・書佐等とヴァリエーション豊富だった属官が徐々に掾・令
史・属・史・佐・従事等に収斂していくのが興味深いです。
 ちなみに漢旧儀によると、令史は令の吏、丞史は丞の吏、尉史は尉の吏だそうです。

なにやらメモが出てきた漢代前後のものらしい官名とか
 横海候、おそらく横海将軍配下の軍候。
 軍曲候、曲候=軍候とかの同類でしょうか?。
 監市掾・督烽掾・学官掾史、おそらく字面で想像できるとおりの官でしょう。
249世界@名無史さん:04/06/03 23:16
振り返ると最近下級官吏の話ばかり書いていますけど、いいのでしょうか?
250世界@名無史さん:04/06/04 01:28
おっ!参加のチャンスか!?
もっと下層の話なのですが・・・
251怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/04 08:25
>>246-249
嗇夫の話、ありがとうございます。
私はこれまで百官表メインでして嗇夫のような存在はあまり詳しくもないので、大変興味深いです。
>>250氏ともども、下級官吏の話は歓迎です。
嗇夫ってのはどういう存在なんでしょうね。下級なのはわかりますが、小間使いレベルなのか、小官ながらもれっきとした官僚のはしくれなのか。

州従事ですが、漢書朱博伝には州従事と思われる「老従事」がいますので、前漢の州牧制以前から従事はいたようです。
ただ、後漢の従事のような分掌だったのか、官秩・地位がどのようであったのか・・・。

軍曲候は、続漢書百官志、将軍の条にある「部の下に曲有り、曲に軍候一人有り、比六百石」というものでしょうか。
軍候と同一のものという事ですかね。
252世界@名無史さん:04/06/04 23:03
 従事の話について、ご教示ありがとうございます。
 嗇夫についてですが、本来はそれなりに独立性の強い官職だったように思います。
 実例的に小規模官庁の長官や、部局長にしても有る程度独立性がある責任者のような印
象があります。
 その点で書記に過ぎない令史や、独立官庁の長たることがない掾とは違いがあるのでしょう。
 宮崎市定先生は名著「九品官人法の研究」の中で漢代の官庁を軍艦に例えておられます
が、三公が戦艦・九卿や太守が巡洋艦・諸令長が駆逐艦、その例えでいくと嗇夫は哨戒艇
とかそんなところでしょう。
 また前に書きましたが秦の県には倉嗇夫・市嗇夫等が有ったようです。
 すると長官である大嗇夫又は県嗇夫との名称の類似が気になります。
 もしかすると本来倉や市等の独立性が強く、県はそれを監督するだけのものだったのか
もしれません。

 前に書いた西域の屯田等に関する長澤和俊氏の本は、雄山閣出版「桜蘭王国史の研究」
でした。
 比較的最近の本ですが、非常に分厚い上にとにかく高いので公立図書館等でお読みなっ
た方がよいでしょう。

 同様に前に書いた漢代の郡の内部組織についての種本は、学生社「古代史講座4古代国
家の構造4」収録の「中国古代国家の構造」増淵龍夫著でした。
 厳耕望氏の研究が元のようで、前に説明に付け加えると、門下議曹は太守の謀議に参ず
る、少府は太守の財政を司る、記室掾史〜門下掾史は文書を司るとありました。
 また県の下部組織もやや小規模ながら同様だそうです。
253世界@名無史さん:04/06/04 23:06
 学生社「古代史講座5古代国家の構造5」収録の「秦漢帝国の軍事組織」米田賢次郎著
 題名は秦漢帝国となっていますが、主に漢の制度について要領よくまとめられています。
 ただし昭和37年発行の古い本ですが。
 またことに居延漢簡をもとに辺境の制度について詳しいです。
 都尉府、長官・都尉、副官・丞・尉(城尉)、武官・司馬・千人・百人、文官・掾・曹
史・卒史・属・書佐
 候官(別名塞・隊・官)、長官・候(比六百石)、副官・尉(塞尉:二百石)、武官・士
吏、文官・令史・尉史、百名前後。
 候(別名部)、長官・候長、補佐・候史、いくつかのスイを支配、候自体は候長・候史
・スイ長の他スイ卒10名程度、支配地域の南端に位置。
 スイ(隊の下に,、、、)、長官・スイ長、3〜5名で3名の例が多い。
 給与の額、候3000銭、尉2000銭(以上長吏)、候長1600銭、士吏1200銭(以上有帙)、
佐史900銭、令史900銭・480銭、尉史600銭、スイ長1100銭・900銭・600銭、書佐360銭
 屯田の責任者は農都尉、その下に農令が有り、庫令・県令と対等で秩六百石前後と推定。
 農令の下部組織は現時点では不明と有ります。(前出の右農右丞などでしょう)
 倉が食料貯蔵庫、庫が武器庫ともあります。(各令長有り)
254世界@名無史さん:04/06/04 23:07
 前出の籾山明氏の「漢帝国と辺境社会」ではやや異なっています。
 都尉府、長官・都尉、副官・丞・尉(城尉)、武官・司馬・千人・五百、文官・掾・曹
史・卒史・属・書佐(佐)
 候官(別名塞・障・官)、長官・候(障候比六百石)、副官・尉(塞尉:二百石)・丞(不
常置?)、武官・士吏(二,三名文書作成も担当)、文官・掾(一,二名)・令史(三名前
後・王莽は造史と改名)・尉史(尉の書記で四名前後、令史より下位)。吏員以上が百名
前後でその下に戍卒が二,三百人。
 候(別名部)、長官・候長、補佐・候史(一名)。
 スイ(隊の下に,、、、)、長官・スイ長。他スイのスイ長が兼任する助吏がいることがあ
り、スイ長の識字能力に関係するとの推定も。

 給与の額、候6000銭3000銭、尉2000銭(以上長吏)、候長1800銭・1600銭・1200銭、
士吏1200銭、令史900銭、尉史600銭、候史900銭・600銭、スイ長900銭・600銭

 都尉府の武官の最下級が米田氏は百人、籾山氏は五百となっています。
 百人は五百の誤りか?しかし三国志に百人督なる官が有るそうなので、まんざら間違い
とも限らないかもしれません。
 また王莽の制度で候の下位・士吏の上であった当百と関係があるのかもしれません。
255250:04/06/05 05:58
>251
下級官吏でもないから
もう少し待とう。
256世界@名無史さん:04/06/05 23:50
ここを見ている人って何人ぐらいいるんでしょうね?
10人くらい入るのかな?
257怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/06 00:09
>>252-254
嗇夫ですが、なるほど哨戒艇というのはなんとなく分かるような。

居延漢簡、懐かしいですね。候官と候は紛らわしいなあ。

ところで給与の額ですが、漢は半銭半穀と言われる(続漢書百官志参照)ようですが、その額は「半銭」に当たるのでしょうか。それとも全額なのでしょうか。
続漢書注では延平年間(AD106)、六百石で「月銭三千五百、米二十一斛」だそうですが・・・。

>>255
おっと失礼。官吏ではなかったですか。期待して待っとります。

>>256
何人いるんでしょうね。15人くらい?根拠はないですけど。
258怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/06 00:31
太守、都尉。
太守は郡の長官。都尉は郡太守を佐けて「武職甲卒」を典どる、とのこと。
太守はもと「守」、郡守といい、都尉は「尉」、郡尉といっていました。
景帝中2年にそれぞれ「太守」「都尉」に改称しています。
これはおそらくある種の権威付けであると同時に、「尉」は県尉との区別がつかないおそれがあるためかもしれません。

太守の副官は丞、そして辺郡(辺戍のある郡)には長史(軍事担当)がいて、その下に各「曹」がある、という構成です。
>>235あたりで既によくまとめられています)
都尉は端的に言えば郡兵の長官で、丞が置かれ、その下には>>254の「都尉府」で書かれているような属官がいたようです。
259世界@名無史さん:04/06/06 11:34
 漢書匈奴伝を見ると、少なくともある時期以降の匈奴への使者は、通常中郎将と副校尉
の組み合わせのようです。
 これは副校尉と言う官名なのか、副使である校尉なのかよく分かりません。
 記載順から見て侍中謁者・長水校尉より格上のようです。
 また漢書には西域都護を城郭都護、西域副校尉を副都護と記されているところがあり、まだ制度が固まっていなかったのか、あるいは異称でしょうか?
 匈奴伝には車騎都尉なる官も出ており、車騎校尉なら車騎将軍配下の校尉なのでしょう
が、はてどういう性格の官なのでしょう。
 さらに副光禄大夫などもあります。副は衍字でしょうか?
 都護校尉、都護と校尉か?都護の校尉=西域副校尉か?
 弐師将軍李広利は匈奴の捕虜になる少し前に、護軍将軍を遣わして匈奴と戦わせています。
 この場合の護軍将軍は、おそらく雑号将軍(当時そう呼んだかどうかはともかく)だっ
たのでしょう。
260怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/06 22:31
>>259
副校尉ですが、西域のそれを含めて、「副」である校尉、じゃないかと思います。
根拠というほどのものはないのですが・・・。
校尉ってのはどうも色々なのがあるようですねえ。

「副光禄大夫」ですが、これは漢書匈奴伝の
「馬宏者、前副光禄大夫王忠使西国」だと思うのですが、これは「光禄大夫王忠」の「副となって」(副は動詞)という意味なのではないかと考えます。
同じく、漢書匈奴伝の「城郭都護三十六国」は、どうやら揚雄の上言内の表現のようですね。
これが正式名称だったのかは微妙ですね。「城郭の都市三十六国を都護する官」みたいな意味合い?
もちろん、元々はそういう名前だったという可能性なんかもあるかも。
261怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/07 08:29
太守。
続漢書百官志によれば、太守は
「賢を進め功を勧め、訟を決し姦を検す。
 常に春を以って主る所の県を行き(めぐり)、民に農桑を勧め、乏絶に振救す。
 秋冬は無害吏を遣わして諸囚を案訊し、其の罪法を平らかにし、殿最を論課す。
 歳尽きれば吏を遣わして計を上り、并せて孝廉を挙げること、郡口二十万ごとに一人を挙げる。」
という仕事をしたそうです。
結局のところ、民を治めるのは直接的には県令・長の仕事であり、太守はそのまとめ役として県の監督、成績評価、そして裁判・獄事の適正化が職務として認識されていたようです。
計を上る、すなわち上計は決算書のようなものでしたが、それを中央政府で検査するときにその「計」を持っていく上計吏に訊問するため、上計吏には太守の懐刀的な実力者が選ばれたそうです。
また、「無害吏」とは、どうやら当時(秦・漢)の行政用語だったらしく、単に「害がない」というよりは、不正をしない、清廉である、というような意味を持っていたようです。(漢書蕭何伝)
262世界@名無史さん:04/06/07 23:44
 太守に限らず上級官庁は基本的に監督権しかないのが漢代の制度のようですね。
(九品官人方の研究第二編第一章漢代制度一斑より)

 前に触れた栗原朋信氏の内臣・外臣・印章等の話は、「岩波講座世界歴史4古代4」収
録の「漢帝国と周辺社会」でした。
 印章自体については、同氏の「秦漢史の研究」吉川弘文館収録の「漢帝国と印章」に詳
しいようです。(残念ながら最寄りの図書館には無かったです)

 まず内は王国制と郡県制がしかれ内臣である官僚・王侯はもとより、一般庶民に至まで
漢の礼・法を奉ずる分子。
 それに対して外は漢と直接関係がある君主だけが漢の礼・法を奉じ、その支配下では民族独自の礼・法が行われる外臣の国だそうです。
 また徳をしたって朝貢するだけの地域も外に当たります。
 ただし現実には内外の中間、外臣と朝貢国の中間もあったそうです。

 後漢書光武帝紀によると光武帝が奴国王に印綬を与えています。
 それで1784年に筑前の志賀島で発見されたと伝えられる「漢委奴国王」の金印がこれ
と思われるわけですが、蛇紐で文末に印又は章の字がないのは一般外臣の王に賜る印の通
則から外れているそうです。
 一般外臣の王印は、亀紐で上に漢の字を冠し下に印又は章の一字が存在すべきものだそ
うですが、これは外臣と非臣属の朝貢国の中間として遇されたためだろうとのお考えです。

 武帝が東越王余善を滅ぼした時、東越の建成侯・衍侯・将・左将等を侯に封じています。
 建元4年南越が親漢政策に転じた時、南越の丞相に銀印を内史・中尉・大傅にも印(お
そらく銅印)を与えているそうです。
 すると丞相が二千石クラス、他は千石クラスでしょうか?やはり内地の王国に比べると
待遇が低め?
 中途半端ですが今日はここまでです。
263怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/08 08:14
>>262
>太守に限らず上級官庁は基本的に監督権しかない
これがいわゆる宮崎センセの軍艦説ってことでしょうかね。

>「漢委奴国王」の金印
そう、これの不思議な点は、「漢委奴国王」印であって「漢委奴国王印」ではないところです。
皇帝の璽以下、普通は最後に「璽」「印」という字が印文に入るようなのですが、件の印にはないんですね。
どう解釈すべきなのでしょうか。

ところで、これは思いつきですが、南越に与えた印というのは、もしかして南越で今まで使っていた印からすると格下げだったということはないでしょうか。
南越は秦制がベースのはずで、丞相なんかは金印だったんじゃないかと思うのです。
「内諸侯に比するを請う」とあるので、内地諸侯王とほぼ同格だったとは思いますが。
諸侯王相は内地も銀印かな。

あと、私の>>261のレス内「無害吏」ですが、清廉というよりは、法を守りつつも民をむやみに損なうことのない、バランス感覚に優れた吏、というような意味としたほうがよかったかも。
どうも漢書注釈者間でも意見の分かれるところのようなんですが・・・。
ただ、おそらくは一種の行政用語として、獄事なんかを調べさせるのに適した官吏として認識されるものだったのでしょう。
264怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/08 22:30
太守、都尉。
太守に対して都尉は軍事、警察力を司るというところですが、こちらは後漢、建武6年に廃止されています。
(続漢書百官表、後漢書光武帝紀)
これは民の兵役その他の負担を大いに軽減したでしょうが、一方で郡統治を弱体化させることにもつながったことでしょう。
というより、おそらくは前漢末以来の支配の緩み、弱体化を追認し、中小自立農民を個々に支配する体制から豪族が皇帝と民の間に挟まる体制への移行を示す契機という感じでしょうか。

但し辺郡には都尉(と属国都尉)を残し、また賊がいる場合には都尉を臨時に設置することもあったようです。
また羌の跋扈が始まると、右扶風都尉や京兆虎牙都尉を置いたそうです。

続漢書郡国志を見るに、属国都尉は辺郡の「属国」を領したようですが、属国内は一応服属した異民族の自治権が認められたと思われるので、属国を統治するというよりは監視する意味合いが強かったのでしょう。

また、漢書地理志を見ると、辺郡では明らかに都尉が複数置かれています。
中部都尉、西部都尉といった方角や、「主騎都尉」(安定郡)といった名称で区別されたようです。
なお、都尉の治所は都尉の数に関わらず、郡太守とは別に設けられていたようです。
265世界@名無史さん:04/06/08 23:30
「漢帝国と周辺社会」の続き西南夷関係
 益州永昌郡の境外(東北ビルマ)のタン?(手偏に單)国王雍由調が和帝の永元7年使
者を使わしてきて金印紫綬を与えられています。
 その後永寧元年には大秦国の奇術師を献じて漢大都尉の印綬を贈られています。
(すると西域の亀茲国王はやはり漢大都尉だったのでしょうか?)
 永元12年蜀郡境外の白狼楼薄の夷王唐カイ?(糸+會)が種族17万口を率いて内属
し、金印紫綬を与えられています。
 永初2年青衣道の夷邑の長令田が境外の夷種31万口を率いて内属し、奉通邑君の爵を
与えられています。

西羌関係
 元鳳4年昭帝は范明友を羌騎校尉に任じ、羌種の王・侯・君・長を率いて益州の乱を平
定させています。
 神爵2年叛徒の巨帥先零羌の帰義羌侯の楊玉を切り、金城属国を置き護羌校尉に監督さ
せています。
 永平元年焼当羌のテン(さんずいに眞)岸が狄道の護羌校尉(初置は武帝の時か)に来
降し、帰義侯に封じ、漢大都尉に任じられています。
 元初2年零昌羌の号多が争いに破れて7千人余りを率いて護羌校尉に帰順、侯の印綬を与えられています。
 同4年当(門の中に眞)羌の楡鬼を、功によって破羌侯(続漢書郡国志金城郡の条に破
羌城がありここに封じられたのか?)に封じ、効功種羌の号封は零昌を刺殺した功により
羌王に封じられています。
 延光元年焼当羌の麻奴が三千戸余りを率いて漢陽郡に降伏し、金印紫綬(王か?)を仮
綬されています。
 建武十三年広漢郡境外の白馬羌の楼頭らが種人5千戸余りを率いて内附したので、光武
帝はこれを帰義君・長としています。
 永元元年蜀郡境外の大ショウ羌の造頭らが種人五十万口余りを率いて内属したので、和
帝はこれを邑君・邑長として印綬を与えています。
266世界@名無史さん:04/06/08 23:31
西域関係
 亀茲国は王と夫人が漢の印綬をおびた上に、夫人は漢の皇女の称である公主を名乗るな
ど衣装等を含めて漢風を採用しています。
 王莽は王の印綬を回収して侯に格下げしています(天に二王なしが理由)。

匈奴関係
 外民族で王爵に相当する地位の者が漢の内臣になるときは、一級下がって列侯になるそ
うです。
 なお外臣の王と列侯はともに金印紫綬だそうです。
 甘露二年呼韓邪単于が帰順し自ら入朝したさいは、客礼を用い、席次は諸侯王の上で黄
金璽綬「匈奴単于璽」(漢の字がないのは外客臣なため)を与えています。
 王莽は客礼待遇を下げて、一般外臣並に近い「新匈奴単于章」と刻した印綬を贈ってい
ます。
 それにより離反を招いたため、15単于を立てたり、匈奴単于を降奴服于と呼びかえた
りもしています。

 西南夷のテン(さんずいに眞)が帰降したので漢はその地に益州郡を置いたが、テン王は再びその民に長たらしめ王印を与えています。
 発掘されたテン王印は蛇紐で「テン王之印」ですが、内臣の王なら金璽で紐はタク(上
から士+わかんむり+石+木)駝で「テン王之璽」、外臣の王で有れば亀紐「漢テン王之
章」になるそうです。つまり内外の中間的性格の為そうなったらしいです。

 また南越王は初め外臣とされていますが王璽を受けています、大国であるため一般外臣
より高い待遇を受けたようです。
 その後に内臣諸侯王に比せられていますが、それまでは一般外臣と客礼をもって遇せら
れる匈奴単于との中間的存在だったようです。
267世界@名無史さん:04/06/08 23:35
>都尉が複数
 辺郡の都尉の場合、豆太守というか半独立的存在のようにも見えますね。
 楽浪郡など特に。
268怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/09 08:28
>>265-267
こうして見ると異民族対策にも色々とあるのだと思いますね。
呼韓邪単于の入朝時は「臣」を称するものの名を言わずともよく、また拝しなくてもよいとされたようで、まさに客礼だったようですね。
新の「新匈奴単于章」に対しては、匈奴は自ら「これじゃ臣下と変わりねーだろ」と文句を付けてますので、匈奴側も自分たちが客礼で遇されているということをよく理解し、だからこそ従っているんだと考えていたようですね。

辺郡では、おそらくは内郡よりも軍事の比重が重かったでしょうし、属国など太守の統治が直接及ばない部分も多かったでしょうから、相対的に軍事を司る都尉の権限は強かったでしょう。


関都尉、農都尉、属国都尉。
関都尉は「関」の都尉。函谷関とか玉門関とか。後漢では廃止。
「関」は閉鎖して敵の侵入を防ぐという軍事的な意味と、通る者を誰何し、許可証を持つ者だけを通すという役割とがあったようです。
(玉門関などは砂漠にあるから通らなくても内地側へ移動できるが、ここを通らないと正規に帰還した事にならないんだ、と説いたのは冨谷先生だったでしょうか。)
農都尉は続漢書百官志によれば辺郡に置かれて屯田の農事を司るのだとか。後漢に残ったのかどうか?
属国都尉は降伏した蛮夷を「属国」として住まわせていたのを司るもので、これは後漢にも残っています。どうも、郡のように治民するようになっていったらしく(蛮夷が漢化したのか?)、むしろ権限が拡大したようです。
269世界@名無史さん:04/06/09 23:30
「漢帝国と周辺社会」またまた続き
漢と隣対国の関係
 文帝時代の匈奴は隣対(敵)国であり、漢の君主は匈奴に対して皇帝ではあっても天子
ではなかったそうです。
 なお匈奴の方は天子と称していますが、漢側が認めているわけではないようです。
 武帝の時代になると漢側が自らを天子と認識するようになりますが、匈奴側が認めてい
るわけではありません。
 宣帝の時代(呼韓邪単于の時)になると漢側を天子と認め、臣と称する(ただし特別待
遇として名前を言わなくても好い)など明らかに漢側が上位になるようです。

烏孫について
 当初は昆莫(王)は漢の使者を拝して武帝からの賜物を受け取る以外は、隣対国である
匈奴と同様の礼であったようです。
 つまり隣対国である匈奴と外臣になった匈奴との中間に当たるようです。
 また武帝が嫁がせた公主が右夫人、匈奴の女子が左夫人となっています。
 なお烏孫は終始漢を天子と認めているようです。
 宣帝の末年漢は大小昆莫をたて、両者へ印綬を与えています。
 のち元帝の初年に大吏・大禄・大監へ金印紫綬を与えて、昆莫の権威を高めさせたそう
です。
 当然少なくとも大昆莫はそれ以上の印綬(金璽?)を授けられたはずともあります。
 また昆莫と言う独特の王号を認めているのは外臣中の特例だそうです。
 この時期には外客臣匈奴と一般外臣との中間、南越王と同列ともあります。
270世界@名無史さん:04/06/09 23:54
忘れ物:漢側の内外秩序認識
 内臣・外臣・外客臣・絶域の朝貢国・隣対の国にわけて考えていたようです。
271怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/10 08:22
>>269-270
漢書匈奴伝によれば、文帝頃は漢からの文では「皇帝敬問匈奴大単于無恙」と書き出しています。
漢が「皇帝」だけなのに対して匈奴は「匈奴大単于」と、匈奴という号を冠している分だけ漢より下に扱っていたようです。
匈奴からも「天所立匈奴大単于敬問皇帝無恙」とこちらも「漢」の号をつけていませんでした。
(後に中行説によって付けるようになった)
匈奴がそのあたりに疎かったからかもしれませんが、微妙な差が付けられてはいたようです。
皇帝なのか天子なのか、というあたりは良く分からないです。


県令、長。
言うまでもなく県の長官です。一万戸以上を令(千石から六百石)、未満を長(五百石から三百石)と言います。
属官としては丞と尉(四百石から二百石、県令、長に応じて変わるのでしょう)。
漢の支配統治するのが県
列侯の封土とされたのが国(令、長ではなく相といいます)
皇太后・皇后・公主の領地とされるのが邑(湯沐邑というやつですね)
県の中でも蛮夷がいるところを道(現代日本の「道」はこれを裏で踏まえているのでしょうか)
といいました。
272世界@名無史さん:04/06/10 21:28
さてそろそろ列挙もおしまいですね。
それはそうと県丞、実は最も寿命の長い官名かも?
秦のころから清末まで、五代から宋初にかけての中断はありますが、
これだけ長く使われたのはあと尚書・侍郎・郎中等極少数です。
しかも多少職掌に変化はあれど、民に直接接する地方官庁である県
の次官と言う本質は変わっていませんからね。
入れ替わりに民国で県長が復活したのが皮肉です。
県令・州牧は李自成が皇帝になっていれば復活のチャンスがあった。
今回は余談ばかりですいません。
273世界@名無史さん:04/06/10 21:39
>>271
北海道とか東海道などの「道」を指しているんでしょうか。

道の字には路の意味のほかにもいろんな意味を持つ文字でした。
そのなかに「方向」という意味もあります。蛮夷のいる方向、と
捕らえるならば、おそらくその通りかと。
274世界@名無史さん:04/06/10 22:25
すごいスレッドですね。
みんな研究者?
275怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/10 23:54
>>272
県丞、そうなんですか。全然知りませんでした。
それは面白い。
漢の官制は後の時代よりは憶える事少なくてイイと思うべきなのか、後の時代の方が資料とか残っててイイジャンと思うべきなのか・・・。

>>273
北海道の「道」、扱い上「県」と同格に語られるのになぜ一つだけ「道」なのでしょう。昔からそれが不思議でして。
それとは別に、漢で蛮夷のいる県を「道」と呼ぶ理由も不明ですね。何故でしょうか。
有名なところでは蜀の「厳道」とかあります。

>>274
他の方は知りませんが私はただの地方公務員。宮崎市定氏っぽく言うと胥吏。
276怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/11 08:26
県の下部組織。
(このスレ>>236その他にもあります)
漢書百官表によればだいたい十里に一亭。亭には亭長があります。
これが劉邦がやっていた亭長でしょう。
盗賊を捕らえるのが仕事だそうです。警察署のようなところなのでしょうか。

十亭に一郷。で、続漢書百官志注では「十里一郷」という表記もあったりして混乱します。
「里−郷−県」のラインと「亭」がつながらない。「十里一亭」はもしや距離の単位としての「里」で、行政区画ではないのでしょうか。
色々研究があったはずですが確認してないのですいません。
郷には三老、有秩、嗇夫、游徼があります。
郷三老は「教化」を司ります。
有秩についてはこのスレ>>81あたりをご参照ください。
郷嗇夫は訴訟事を聞き、賦税を収めるのが仕事。
游徼は交番の警官みたいなものでしょうか。巡回して賊を防ぎ禁ずる仕事。
277世界@名無史さん:04/06/11 20:15
県令・州牧の復活未遂
 平凡社東洋文庫「中国民衆叛乱史3」(谷川道雄、森正夫)によると、李自成政権の官
名に次のようなものがあります。
 節度使・防御使(総督・巡撫に相当?)、直指使(御史か?)、六科諫議大夫(給事中)、
州牧(知州)、県令(知県)、結構復古調ですね。
 また六部を六政府と称したり、初期には上相国・左輔等もあります。
 ちなみにもう一方の雄張献忠政権の方には左右丞相があります。

県丞
 同朋舎出版「宋代官僚制度研究」梅原郁著によると、970年に定められた県の官制は、
千戸以上が県令・主簿・県尉、千戸未満は県令兼主簿・県尉、四百戸未満は主簿兼知県事
(この場合の知県事は後の知県(事)とは異なり県令より資格が下です)・県尉、二百戸
未満は主簿兼県尉で、県丞はありませんでした。
 どうやら五代の間に廃絶していたようです。まあ県令自体仕事がなかったようですから。
 1026年、「国都開封等では主簿・県尉が差出し外にあることが多く、県事に支障を
来す」ということで、幕職官の県令クラスを県丞に任命したのが宋代県丞の初例です。
 その後、繁忙でかつ1万戸以上の県を中心に置かれていきますが、最終的にはよほど重
要でないでない県以外には置かれたようです。
 その後金史・元史(ともに中県以下はなし)・明史・清史稿(ともにない県もあり)に
も県丞の存在は明記されています。
 それと南北朝の頃はもしかして廃絶していた時期もあったかもしれません。
278世界@名無史さん:04/06/11 20:17
 相棒の県尉の方は明以後廃止、ただし雅称として典史(未入流(九品のうちにはいらな
い)の司法警察等担当官:おそらく最下級文官)を県尉と呼ぶことはあったようです。
 中公文庫「唐の行政組織と官僚」礪波護著によると、宋(南朝)の頃には二品の県(宮
崎市定先生の「九品官人法の研究」によると六品県令の県:当時六品を二品、七品を三品
と、四品繰り上げて呼ぶ習慣があった)以外の県の県尉を廃止しているそうです。
 その後の梁・陳では史籍に具体例がないそうですし、県丞も同じ運命かも?
 隋の煬帝は県尉を県正に改名、戸曹と法曹に改名、これが唐代に再び県尉になりますが、
以後は県の六曹を分掌する州の参軍に相当する官に成ります。
 従ってそれ以降は二名以上置かれる場合はその一名はいわば財政課長だったりして、治
安担当官とは限らないわけです。なお一般に治安担当が末席のようです。
 唐代では上県および四千戸以上の中県は県尉二名、中県以下は一名ですが、実例を見る
と定員以外に置かれることも多く、更に員外尉や尉員外同正さえいたそうです。
 五代の時期では藩鎮(節度使等)が置く鎮将が県の仕事を奪ってしまい、主簿や県尉を
欠くことが多かったそうです。(多分県令のみ肩書き用に存在していたのでしょう)
 その為宋で再び置かれた県尉は、純然たる治安官に変わっていました。

道について
 直接的には古代日本の道(単なる地方区分だが時期により観察使・節度使・鎮撫使等が
置かれた:唐の道の影響が強いと思います)からとったのでしょうが、影響を受けたのは
清の道(府・直隷州と省との間に位置する監督機関のようなもの)かもしれません。
 なおまず1869年に北海道開拓使が置かれ、82年に開拓使廃止、札幌・函館・根室
の3県と官業統括のための北海道事業管理局が置かれました(3県1局制度)。
 その後86年に事務円滑化(局と県のなわばり争いがあったようです)のため北海道庁
が置かれ、99年の北海道区制とともに県は廃止されたのだと思います。(家の平凡社世
界大百科事典ではそこが不明確)
279世界@名無史さん:04/06/11 20:17
唐の道
 唐初に自然区分に従って10道に区分、後にこれを区分に臨時に地方巡察の使を派遣し
たり、監察担当の按察使を置いたりしています。
 開元22年(734年)に15道に増やすとともに、行政の指導監督にあたる採訪処置使
を置いています。
 乾元1年(758年)観察処置使に改名される頃から、民政長官の実を備えるようにな
ったようです。
 その後は節度使の管轄を道と呼ぶようになり43にも達しました。

清の道
 直接には明の道の継承でしょう。(宋・元の路の系譜をひいているような気がします)
 明の道は布政使・按察使の配下の左右参政・左右参議、副使・僉事が省内を分担して観
察するもので補助機関はありません。
 清初は参政道(従三品)・参議道(従四品)、副使道(正四品)・僉事道(正五品)の別
がありましたが、後に全て正四品の道員に統一されています。(ちなみに知府は正四品、
後に従四品)
 なにやら任務によって海関道・河道・勧業道・巡警道・糧道・分守道・分巡道・撫治兵
備道等いろいろあったようです。
(平凡社世界大百科事典&東京創元社東洋史辞典&清史稿より)

 今回は漢魏から完全に外れてますね、すいません。
 わたしは受け売りばかりのレスでバレバレなとおり、研究者どころか大学史学部とも縁
がないです。高校では世界史を選択しましたけど。
 まあ好きで好きで本を読みまくっただけですね。
280怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/11 21:15
>>277-279
県尉や県丞にもなかなか歴史があるんですねえ。
私なんか、漢しか知らないので県丞なんて大した事ない官という印象しかなかったですよ。

道については、上にも書きましたが漢くらいしか知らない私が見ると北海道もそう見えてしまうんですよ。
偶然同じになっただけ、ってことですかね。
281世界@名無史さん:04/06/12 08:45
>>280
当時の政治家官僚は漢文の素養がありましたから、漢の道のことを思い浮かべたかもしれませんが、
直接的には古代日本の東海道・南海道等から発想した命名だと思います。
282世界@名無史さん:04/06/12 08:46
うわー!下でまったりしてたのにうっかり上げてしまいました。すいません。
283世界@名無史さん:04/06/12 21:04
>十亭に一郷。で、続漢書百官志注では「十里一郷」という表記もあったりして混乱
 宮崎市定先生の全集第3巻「古代」収録の「中国における州集(本当は難しい時です)落形態の変遷について」
によると
 十里一亭(漢書百官公卿表、続漢書百官志補注、宋書百巻志)
 十里一郷(続漢書百官志補注所引風俗通)
 十亭一郷(漢書百官公卿表、宋書百巻志)
 実態的には平均値で、前漢では一郷=4.5亭、後漢では一郷=3亭。
 郷も亭も都市国家の流れをくむ小都市で同じ性格、それに対して里は
都市内部の人工的行政区画とお考えのようです。
 県も郷も亭も都市としては大小の差はあっても同じ物で、郷の中心に
なる亭が郷、県の中心になる郷=亭が県(=県城)という説です。
 そして十里一亭、十里一郷、十亭一郷というのは厳密なものではなく、
その程度ということなのでしょう。
 もちろんこれにはいろいろ異説があるようですが、個人的にはこれが
正解だと思っています。
284怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/13 01:22
>>281
公務員のくせに疎くてお恥ずかしい限りですが、北海道以外の地域って道が置かれたんでしょうか。
まあ実際には北海道の下に県が置かれたりしたようで、実際県と同格ではなかったようですが。
当時の公文書なりでそのあたり詳しくわかるのでしょうか。でもこれはスレ違いですね。

>>283
おお、思い出してきました。的確簡潔な説明ありがとうございます。
宮崎説については原典に当たってないのでこれ以上のコメントは出来ないですが、都市国家の時代であることを意識するとそういった解釈が妥当だと私も思います。
「十里ごとに亭(郷)が一つある」ではなく、「一亭(郷)の中に里が十ある」ということでしょうか。
285世界@名無史さん:04/06/13 09:29
図書館に「明治官制辞典」とか言う本があるのを見たとがあります。
スレ(板?)違いでしょうが、参考までに。
そう言えば戊辰の時には○○道鎮撫総督とか置かれていましたね。
286怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/13 11:52
>>285
ほう、それも興味深い。はっきり言ってその辺全然知らないので、いつか私も勉強します。

>>283の郷と亭の比率は、漢書百官表、続漢書郡国志(と注)に記載されている数から割り出したものでしょうか。
前漢(末期?)
県・道・国・邑 1587
郷 6622
亭 29635
県等と郷は1:4.2、郷と亭は1:4.5(小数点第2位で四捨五入)。

後漢(県等は順帝頃、郷・亭は永興元年)
県・道・国・邑 1180
郷 3682
亭 12442
県等と郷は1:3.1、郷と亭は1:3.4(小数点第2位で四捨五入)。

この辺については、むしろ郷、亭の減少が目に付きますね。半減です。
しかし人口は漢書地理志による、平帝の時と思われるものが59,594,978人、続漢書郡国志による順帝の時のものが49,150,220人。
さすがに半減はしてません。
ということは、郷、亭の人口密度はむしろ高まった?戦乱を経て郷、亭が相当淘汰されてしまったのでしょうか。
287世界@名無史さん:04/06/13 20:44
 国史大事典で五畿七道をひいてみました。
 東海道ー現在の東海道+三重・南関東、南海道ー和歌山・淡路・四国、西海道ー九州。
他の山陰道・山陽道・東山道等も同じ感じで、古代日本における道(どう)とはまさに道
(みち)そのものだったのでしょう。
 国史大事典や東京堂出版「明治官制辞典」(朝倉治彦著)を見ると、札幌県等3県は明
治19年北海道庁設置にともない廃止、函館・根室両県は支庁になったが正解でした。
 従って地名としての北海道の中に3県が存在したことはあっても、行政庁としての北海道の下に県があったことは無いようです。
 ただし函館県だけは明治2年7月8日の開拓使設置の歳に函館府から函館県に改めら
れ、同年7月24日に廃止されるまで存在していました。
 たった半月ほどですが、今と違って情報伝達が難しい時代、住民の中には函館県の存在
に気が付かなかった人もいたかもしれません。
 あと、函館府当てに申請をして県から突き返され、県当てに直して申請して、また突き
返されたなんて悲喜劇があったかもしれません。

 なにかスレ違いの話題ばかりなので、大修館書店の大漢和辞典より
 道の意味の中に「くに」蛮夷の住む国と有り、引用に「道、国也(黄雅 釋詁四)」と
ありました。
 図書館で「漢代都市機構の研究」(佐原康夫:汲古書院)なんてものを見つけました。
 目次を見ると「戦国時代の府・庫」とか「漢代郡県の財政機構」、「漢代の官衙と属吏」
「居延漢簡月棒考」等生唾ものの本ですね。

>郷と亭の比率は、漢書百官表、続漢書郡国志
 前掲の宮崎先生の本の引き写しですが、先生のソースは多分それだったと思います。
>戦乱を経て郷、亭が相当淘汰
 それは非常にありそうな話だと思います。城壁がないなど中途半端な存在が淘汰されたのかも。
288怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/13 23:04
>>287
おお、色々教えていただいてありがとう。
なんだか北海道のあたりは色々複雑みたいですね。それだけにこれはこれで面白そう。


吏の印綬。
皇帝は璽。
諸侯王は金璽レイ綬。(緑色)
丞相、前後左右(おそらくそれ以上の将軍も)将軍は金印紫綬。
御史大夫以下、比二千石以上は銀印青綬。
比六百石以上は銅印黒綬。
比二百石以上は銅印黄綬。(成帝綏和元年から哀帝建平2年まで、県長、列侯国相は黒綬)

ただし、大夫、御史、博士、謁者、郎は官秩に関係なく原則として印綬はありませんでした。
これはおそらく、これらはいわゆるスタッフ職であり、上意下達の命令系統の埒外にあり、印綬の必要が無かったからでしょう。
(これらの中でも長官にあたる僕射や管理責任がある御史の治書、尚符・璽者は印綬があったです)

また、たしかこれは居延漢簡の論文で見た気がするんですが、官の印綬を持たない小吏などは、私印を使用する事もあったようです。
(これは典拠も不明なうろ覚え情報で申し訳ない)
当時は現代日本とは別次元でハンコ社会だったようです。簡牘を封印するのに印は必須ですから。
289怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/14 22:18
さて、漢書百官公卿表を元に順に官職を紹介してきましたが、一応最後まで行きました。
官職自体はまだまだ語るべきことも分からないことも多いですが・・・。

さて、>>112の方など、終わるのを待っている方々もいらっしゃるようですし、何か語ることなどありましたらお願いします。
290世界@名無史さん:04/06/14 23:02
お疲れ様でした。
とりあえず昨日書いた「漢代都市機構の研究」より
漢の工官
 河南工官ー令・丞、属官に作府嗇夫・作府佐・護工卒史・工・守工
 頴川工官ー令・丞、属官に掾・令史・作府嗇夫・作府佐・護工卒史・護・工・守工

戦国時代の府系統の機構(青銅器に刻印された官名等から)
 府の原義は宝蔵貨賄の処、庫は車馬兵甲の処(「礼記」曲礼下 鄭注)
 戦国燕に右府尹有り、宮廷で王に供される器物を納める財庫の長官か?
 魏に上官・下官が有り、属官として各々に冢子が存在。封君のもとに私官があり冢子同
様の属官に視事が存在。君主の食生活に供される青銅器を管理する官か?
 県の下にも上官・下官有り。
 府嗇夫(下官配下の府の嗇夫?)、配下に冶吏有り。

 雲夢秦簡によると秦に大内・少内が有り。
 大内は首都の財庫で、廃棄処分になった官有器物や官給衣服の管理を担当。
 少内(府とも)は県における財庫の管理者、官吏から弁償金を取り立て、民間から奴隷
を買い上げる歳の支出も担当。

 各国にはいずれも府系統の機構があり、その中で王の財庫を司った官として、楚に大府、
趙・韓・秦には少府があった。

戦国時代の庫系統の機構
 韓、鄭令(首都長官)ー司冠ー各庫工師(左庫・右庫・武庫等)ー冶(冶尹)
 各県にも左右庫有り。邦庫嗇夫、大官上庫嗇夫・庫吏などが存在
 趙、相邦(宰相)ー大工尹ー邦左右庫工師ー冶、県令ー上下庫工師ー冶
 魏、邦司冠ー庫工師ー冶、県令ー左右庫工師ー冶
 秦、相邦(丞相)ー首都及び周辺諸県工師ー丞ー工
         ー寺工ー丞ー工
 なお戦国時代の軍事都市は、金蔵の府、食糧倉庫の倉、兵器庫の庫を備えるべきものだ
ったようです。
291世界@名無史さん:04/06/15 00:35
今の中国語で「川」といえば四川省を指します。長江流域では川を「江」「水」の字で示し、
黄河流域では「河」「水」の字を使います。大雑把ですが。
で。
地名というか、おおまかに日本語で言う「道」は「路」の字を使います。道では主に、
道の意味としては、火車道(=線路)、水道などに用いますねね。あとは道理とか、道
教とか、しゃべるの意味だとか。
この辞書の中には、歴史上の行政区域:唐代の十道、清末で省の中におかれた、
などの説明があります。古語辞典には方向の意味もあります。
という日本語との微妙なニュアンスの差を示してみました。

とここまで書いてみたものの、板違いなネタをいつまでも引きずって申し訳ない。

292123:04/06/15 01:00
待っていたと言うほどでもないんですけれどね。
一気に方向性が変わってしまうかなと思って
控えていました。

今日は時間無いから簡単にいきます。
気になっているのは中国の奴隷制。
中国には奴隷は無いという説もあり
気になったんです。
三国志にも奴隷階級出身と言われている人も出てくるし、
戦国期にも淳于コンがいるわけです。
って、例が少ないですね。

とりあえず、漢の時代の奴隷制はどうだったのか?
って事に興味があります。
細かなことは次の週末に自分が見た本とか調べ直します。
293世界@名無史さん:04/06/15 01:02
あぁ、意味不明だ。
つまり、奴隷といっても
階級が固定していないんじゃないか?
クンタキンテ(古い)なんかのイメージと大きく違うなと
感じているわけです。
294怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/15 22:29
>>290
漢以前は詳しくないので(詳しくないことばっかりですが)大変参考になります。
府、倉、庫の違いとか、なかなか面白い。
そして漢にもあった「大内、少内」。これはいつどういう経緯で変遷していったのでしょう?

>>291
私としては、漢当時の「道」の用法が気になります。
説文解字では「所行道也」とあり、正直よくわかりません。
これがどうして蛮夷の混じる県のことになるのやら。

>>292-293
漢の奴隷。こういうのも興味ありますね。
丞相だの将軍だのといった雲の上はいくらでも話の種があり、ある意味ありふれてますが、奴隷とかはなかなか面白そう。
期待してますー
295世界@名無史さん:04/06/15 23:36
「漢代都市機構の研究」第2部第2章「漢代郡県の財政機構」より
財庫の名称
 府、文書の蔵なり。(説文解字(以下同じ)9篇下)、宝物庫とも。
 庫、兵車の蔵なり。(同)、本来は兵器庫だが財貨や器物の倉庫も庫という。
 蔵(本来は草冠なし)、善なり。(3篇下)、良いものはしまって置くから蔵の意味。
 閤、扉を止める所以のもの。(12篇上)、扉のストッパーの意味から棚に転じる。
 内、入なり。(5篇下)、入れることから入れる場所をも指すようになる。納戸のよう
なものとも。

 前漢初の大内(京師の府蔵)は、武帝のころに都内に改称された推定されています。
 後漢になると大司農の財庫は庫ないし帑蔵と呼ばれ、内は用いられなくなるそうです。
 大内・少内・少府などはお蔵役やお納戸役のような即物的な官名で、中央・地方・官位
の高下を問わず存在とも言われています。

漢の郡県の財政部局
 倉曹は穀物庫を管理。田租の収納と官吏への食料支給を担当。
 金曹は算賦・市租等貨幣による税の収納と、官吏への給与支出を担当。
 諸曹の部局分けは前漢後期に定着していき、各曹に掾・属以下令史・書佐などが置かれ
ているそうです。
 また倉曹や金曹は長官の側近グループである門下に入れず(地位が低い)、その為か文
献資料に余り具体的な職務の記述が無いそうです。

旧居延漢簡にみる辺境の組織
 候官、長官は候(比六百石)、補佐官丞・尉各一名、士吏(百石)三名、令史三名、尉
史四名(いずれも斗食)、障卒十名程度。(五鳳四年の例)
 庫令史(庫担当の令史?)、庫掾(県の会計係?金曹掾史に相当?)

 障卒の職務分担は直符(倉庫などの当直)、吏養(炊事当番)、馬下(厩番)、守園(菜
園耕作)、治計(帳簿係?)、守邸・守閣(共に倉庫番)

 王隆の「漢官説解」によると、小官嗇夫の代表例として倉・庫・少内の嗇夫をあげてい
るそうです。
296世界@名無史さん:04/06/15 23:44
郡県の少府など
 蕭吉の「五行大義」に劉向の「洪範五行伝」をひき、前漢末ごろの県の官制を十干十二
支(十干が諸曹、十二支がその下役)に割り振って解説したものがあるそうです。
 十干、甲(倉曹)共農賦、乙(戸曹)共口数、丙(辞曹)共訟訴、丁(賊曹)共獄捕、
戊(功曹)共除吏、己(田曹)共群畜、庚(金曹)共銭布、辛(尉曹)共本使、壬(時曹)
共政教、癸(集曹)共納輸
 十二支、子(伝舎)出入敬忌、丑(司空)守将斑治、寅(市官)平準売買、卯(郷官)
親事五教、辰(少府)金銅銭布、巳(郵亭)行書駅置、午(尉官)馳逐追捕、未(厨官)
百味悉具、申(庫官)兵戎器械、酉(倉官)五穀備蓄、戌(獄官)禁訊具備、亥(宰官)
閉蔵完具

 少府は諸曹より格下で長官の手許金(交際費のようなもの?)や調度類を管理し、長官
の御者である御吏=駆吏?同様に長官の意志次第で省いても良いものだそうです。
 なお責任者は少府史で身分は低いが長官の側近です。
 共官掾史(供官の略)、厨房の責任者だそうです。

>>292、古い本ですが、学生社「古代史講座7古代社会の構造(下)」
収録の「中国古代奴婢制の再考察」西嶋定生著なんか参考になるかも。
まあ既に読んでおられるて、余計なおせっかいかも知りませんが。
 確か史記とかで確か大奴だか監奴とか、見たことがありますね。
297世界@名無史さん:04/06/16 01:57
>294
期待されるほどネタ無いです・・・
298野暮屋:04/06/16 20:35
>>57
 後漢も含むなら、罷免理由に限らないかと。
三公はいずれも郊祀儀礼に絡む役職を併せ持っていますから。
後世で言う有司摂事も、後漢で既に行われていたようですし。

>>77
 単に「衛尉」と言ったらそれは皇帝の衛尉であり、
これと区別するために「長樂衛尉」と名付けているとすれば、
「未央衛尉」と呼ぶのは冗長では。

>>100
 分異の制、什伍の制により氏族が解体されていたから、
とか言うだけ言ってみたり。

>>102
 後漢も同様、劉姓だけのようです。陰皇后紀の集解を参照されたく。
299世界@名無史さん:04/06/16 22:08
「漢代都市機構の研究」第二部第3章「漢代の官衙と属吏」
この章はもう滅茶苦茶面白いです。すごすぎて簡単に書けません。
とりあえず注から、掾は本来は役職名で卒史の地位で部局主任なら掾だったようです。
つまり卒史と掾とは別の概念のようですね。
それにしてもこの本は本当に近来まれな高著ですね。
300怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/16 22:55
>>295,296,299
「漢代都市機構の研究」、私もかなり気になってきました。いつごろ出版されたのでしょう。
最近なら、書店で探してみます。

>>297
まあそう固く考えず、気が向いたらお願いします。

>>298
おお、はじめまして、でしょうか。お話ありがとう。
他の所にもツッコミ、その他色々語っていただければ幸い。
宗正について情報ありがとう。後漢書集解、入手したら確認します。お恥ずかしながら持っておりませんので。
未央衛尉と言ったのは、現に最低でも一箇所、そういう記述があるからです。
(史記李将軍列伝、漢書李広伝)
もっとも、長楽衛尉との対比であえて未央と特記したのかもしれないので、確かに正式名称かどうかは微妙でしたね。
301おぎまる ◆JJi5gOTcvk :04/06/16 23:46
コテハンスレで挨拶したおぎまるです。怨霊氏のお誘いがあったので来ました。
ここのスレ、勉強になるのでずっとロムらせてもらっています。

>奴隷
趙翼の廿二史箚記からの受け売りで恐縮ですが、王莽の頃には
市場で奴婢の人身売買を行い、光武帝がいわゆる「奴隷解放の詔書」を下した時に
市場での人身売買を廃しています。王莽の頃にはかなりの奴隷が居たようで、
光武帝が繰り返し奴隷解放を命じているのもこのせいらしいですね。
302怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/17 08:27
>>301
おお、さっそくありがとうございます。今後もよろしく。

前漢末以降の情勢としては、綏和2年6月、哀帝は奴婢、田宅所有の制限を課しました。
施行を3年後としたようですが実際には行われなかったようです。(漢書哀帝紀、食貨志)
王莽もまた即真直後、始建国元年4月に田宅、奴婢売買を禁じています。(漢書王莽伝、食貨志)
これも後に撤回されており、現実にはこれらの政策は奴婢売買を禁じることが出来なかったようです。
光武帝による解放令は、戦乱で奴婢化した人を対象とするというだけでなく、それ以前から漢の懸案事項であった奴婢政策の一環という見方もあるのかもしれません。
303世界@名無史さん:04/06/17 23:15
>>300 佐原康夫「漢代都市機構の研究」汲古書院で2002年2月15日発行です。
 なお著者は1958年生まれと、まだまだこれからの活躍が期待できそうな方です。
 更にここの叢書にはなにやら楽しそうな題名が目白押しです。

「秦漢財政収入の研究」山田勝芳著
「中国古代の家と集落」堀敏一著
「魏晋南北朝時代の民族問題」川本芳昭著(北魏の特徴的な官職についての記述がありました)
「秦漢税役体系の研究」重近啓樹著
「漢魏晋史の研究」多田狷介著
「春秋戦国秦漢時代出土文字資料の研究」江村治樹著
「漢帝国の成立と劉邦集団」李開元著
「中国古代の集落と地方行政」池田雄一

このスレとは時代がずれますが、
「周代国制の研究」松井嘉徳著
「明代建文朝史の研究」川越泰博著
「明清官僚制の研究」和田正広著等も楽しそうですね。

第2部第3章「漢代の官衙と属吏」より
 和林格爾漢墓(後漢期)の壁画に見える官職、墓主は護烏垣校尉のようです。
 服の色が灰色が上級、褐色が中級、黒が下級職員らしいです。
 金曹・倉曹・閤曹・塞曹・功曹・左右倉曹・尉曹・左右賊曹などがいたようです。

 望都一号漢墓(後漢末期)の壁画
 門亭長・寺門卒、門下功曹主簿・主記史主簿、門下功曹〜門下史、追鼓掾、門下小史、
賊曹・仁恕掾、侍閤・小史(ともに取次役)、辟車伍伯(供回り)等が描かれています。
304世界@名無史さん:04/06/17 23:16
 文献に見える官職、まずは中央官庁
 丞相府、武帝期で司直(比二千石)、長史二名(千石)、史二十名(四百石)、少史八十
人(三百石)、属百人(二百石)、属史162名(百石)、漢旧儀(平津館叢書)
 事務部局としては、地方官の人事を担当する東曹、府内の属吏の人事を担当する西曹が
ありますが、当然他にも有ったのでしょう。

 太尉府(後漢)、東西ニ曹掾(比四百石)の他、戸曹(戸籍・税務)・奏曹(上奏文作
成)・辞曹(訴訟処理)・法曹(郵駅)・尉曹(転運)・賊曹(警察)・決曹(司法)・兵曹
(軍事)・金曹(金銭出納)・倉曹(食糧)の各曹が有り、掾は比三百石。
 おそらく司徒府や司空府も同様。

 前漢の丞相府及び後漢の三公府で府主の執務室と属吏の事務室の間の門を特に黄閤と称
し、後漢の太尉府では黄閤主簿が諸曹からの文書の処理に当たっていました。当然他の府
にも存在していたと思われます。
 また取次役の閤下令史(後漢の太尉府に存在:前述の侍閤に相当か?)も存在。なお門
の開閉は蒼頭(召使)が担当していたようです。
 また百石以下の小吏は丞相に直接目通り出来なかったそうです。
 武帝時代の丞相公孫弘は東閤を開き賢人を招いて謀議に参加させたそうです。そう言え
ばどこかで東閤祭酒とかって見たことがあります。筆頭顧問という感じでしょうか?

 地方官庁、まずは太守府、長官及び次官等は朝廷が任命し出身地方には赴任しない。そ
れに対して府の属吏は長官が任命する地元出身者です。(この原則は都尉府・県も同様)
 功曹(人事担当)、五官掾(属吏の規律担当)、督郵(属県の監察担当)、主簿&主記室
史(諸曹の文書をまとめる)、以上が郡の右職。
 これ以下の組織は大きさや地方の実情に応じて異なるそうです。
 諸曹の職階は掾・史・書佐など。幹部級は二百石程度の場合があり、河南尹などは例外
的にそれ以上の場合もあったと書いておられますが、今までの自分の知識だと功曹でも百
石だと思っていましたのでその点が疑問です。
 まあ県はともかく郡の場合六百石の丞の下が百石以下というのは、間があきすぎて多少
疑問が有ったんですけどね。
305世界@名無史さん:04/06/17 23:16
 後漢書注の漢官の河南尹「十二人百石」を「十二人四百石」に改められているようです。
 同じく洛陽令のほうで「十三人四百石」と有りますから、これからの類推でしょうか?
河南には百石卒史が二百五十人もいるようですし。
 ただ気になるのは、同じところで洛陽令千石、丞三人四百石、考廉左尉四百石、考廉右
尉四百石と有り、次官と属吏が同じ秩というのは少々納得がいかないところです。河南の
方はともかく、洛陽の方は二百石か三百石の誤りではないのでしょうか?

 一応引用
 河南尹員吏九百二十七人、十二人(四)百石、諸県有秩三十五人、官属掾史五人、四部
督郵吏部掾二十六人、案獄仁恕三人、監津漕渠水掾二十五人、百石卒史二百五十人、文学
守助掾六十人、書佐五十人、循行二百三十人、幹小史二百三十一人
 洛陽令秩千石、丞三人四百石、考廉左尉四百石、考廉右尉四百石、員吏七百九十六人、
十三人四百石、郷有秩・獄史五十六人、佐史・郷佐七十七人、斗食・令史・嗇夫・仮五十
人、官掾史・幹小史二百五十人、書佐九十人、循行二百六十人
 郷有秩と獄史がセットだったり、秩である斗食と職名である令史・嗇夫が一緒になって
いたりして、分類の基準が不明です。

 門の開閉を担当する蒼頭(召使)が光武帝と対立していた太守を殺害した後のまんまと
逃亡し、光武帝に不義侯に封ぜられたことがあるそうです。
 そんな怪しげな県(郷・亭?)名が有るのかどうか知りませんが、この封号には光武帝
の嫌悪感が表れているとお考えのようです。
 なおこのことは閤の中がある意味長官の私的空間であり、属吏は本来立ち入れなかった
ことの証拠でもあるようです。

 賊曹や決曹などの司法関係の曹を後曹と呼ぶことがあったようです。このことから諸曹
の配置に一定の基準が有ったと推定されています。
 閤には閤下書佐・直符史等と呼称される当直の書記が控えており、太守の指示で書類を
作成したそうです。

 まだ興味深い話がたくさん載っていますが、長いので今日はここまでです。
306怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/17 23:39
>>303-305
毎回おつかれさまです。
さっそくの研究書関係情報ありがとう。食指が動くラインナップですねぇ。高そうだけど。
山田先生は収入篇の次に支出篇を著すつもりだと聞いた気がしますので、それにも期待してます。


>また百石以下の小吏は丞相に直接目通り出来なかったそうです。
これ、漢には直接関係無いけど、自分の事を思うとなんか分かるというか。
私も首長に決裁をもらう事なんてありえん卑職なわけで、自分は小吏なんだなあ、と自覚する瞬間。

>なおこのことは閤の中がある意味長官の私的空間であり、属吏は本来立ち入れなかったことの証拠でもあるようです。
これは皇帝の私的空間には皇帝の属吏=官僚たちが本来は入れないというのと同じですね。
しばしば言われる事かもしれませんが、当時の太守とか中央官庁の長ってのは、ある意味小皇帝という感じなのかも。
307世界@名無史さん:04/06/17 23:54
書き忘れ、県の廷掾は郡の五官掾に相当する職だそうです。
 洛陽令の下、左右尉にわざわざ考廉出身に限定してあるのが興味深いです。
 なぜか丞の方は注記がないですし、3人もいるのが特例的ですね。
308世界@名無史さん:04/06/18 23:29
続です。
 漢代属吏の職務等級としては掾・属・史・書佐に別れているようです。
 掾・令史・佐・史・嗇夫・有秩等の属吏の等級は戦国秦の恵文王4年の紀年を持つ瓦書
に既に見られることから起源は商オウ(革+央)の変法にさかのぼると推定されています。 始皇帝の統一直前の頃の秦の県では令史が犯罪捜査の陣頭指揮や報告書の作成にあたり、官嗇夫がかけたときに令史は職務を代行できるが佐・史は出来ないそうです。
 令史が主任クラスで、史は19歳程度で任ぜられる初任の職、佐はやや年かさの壮丁が任
じられたようです。

 同時期の部局としては、司馬(軍事治安担当)、司空(強制労働者管理)、倉・少内(と
もに財政機関)等と、厩・工室などの付属機関に別れています。
 また学室と呼ばれる研修所があり、ここで書類作成技術等を伝授していたようです。た
だし秦代では学生は史の子弟限定。
 なお漢では17歳以上のものに試験をして、9000字以上を覚えているものを史の有資格者
としています。

 漢初では郡県の部局は法的には固まっていなかったようですが、功曹・主簿・五官掾等
の郡の右職は宣帝のころから確認できるようです。

門下(側近)の諸職(宣帝のころから現れるようです)
 門下督・門下賊曹(警察任務の賊曹とは別)、ともに長官のボディガードです。
 議曹、職名としては文学卒史や掌故か?、後漢では門下議生、顧問的存在のようです。 門下小史・門下書佐、下級の秘書?
 門下掾、門下の筆頭格で郡の大儒が任命されることが多い。
 またこれらとは別に長官の私的従者である舎人がいるわけです。

 江蘇泗洪県曹廟出土の県令の側近グループを描いた画像では、下記のような配列になっ
ており、長官官房としての門下をあらわす典型的なものだそうです。
 県令の右脇が(鈴下)・主簿・(門下干)・(小史)・書佐4人の順、()内は小さく描か
れており、下級の職と思われる。
 左脇が(騎吏)2人・功曹・(五白)2人・賊曹・游徼・主記・門下史四人・行亭掾の
順、こちらも()内は小さい。

 なにか今までとりとめもなくダラダラと書いてきましたけど、ちゃんと総合すれば秦漢
期の下級官吏の職階や組織についてかなりわかるかと。
309世界@名無史さん:04/06/18 23:30
比二百石以上への昇進
 一般に郎を経ることが条件とされていますが、後漢書をみるだけでも太尉府の掾属二十
四人は比四百石から比二百石です。
 明記されていませんが司徒府の掾属三十一人(三十人とも)、司空府の掾属二十九人(二
十四人とも)も当然比二百石以上でしょう。
 また後漢の時期には事実上常置されていた将軍府の掾属も比二百石以上でしょう。
 他には尚書令史十八人、後に二十一人が二百石、更に郡県の上級属吏が比二百石以上と
なると、なにか郎を経ない昇進は例外とは言い難い気がします。
 後漢の場合はかなり通常の昇進ルート?
310怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/19 00:55
>>307
これは大した事ではないですが、孝廉出身の洛陽尉といえば曹操を思い出しますね。

>>308-309
>また学室と呼ばれる研修所があり、ここで書類作成技術等を伝授していたようです。ただし秦代では学生は史の子弟限定。
これとは違うかもしれないですが、漢書酷吏伝の厳延年伝によると、厳延年は父が丞相掾で、彼は丞相府で「法律」を学んだそうです。
属官の子弟限定だったかどうか分かりませんが、前漢武帝頃にも学室もしくはそれに相当するものが丞相府にあったようです。
こうして、この時代は吏の子は吏(の勉強ができた)、高級官僚の子は高級官僚(の登竜門たる郎に任子によって就任できた)、というような身分の固定化があったということでしょうか。

郎はどこまで出世に必須の官だったのでしょうか。再検討の余地があるのかもしれないですね。
311世界@名無史さん:04/06/19 20:33
 根拠はないのですが、おそらく属吏出身者は一部の例外を除き比二千石の壁を
破れなかったのではないでしょう。
 一般的に郎出身者より長吏になったときの年齢が高齢でしょうし、県令止まり
くらいではないかと。

爵位
 奴婢・商人(本人のみならず子及び孫も)・元商人・犯罪を起こし罷免された
官吏・職人(医師を含む)は爵位をもらえなかったようです。
 ローマ帝国では医師は市民権を与えられたこと比べて技術者軽視の感をうけます。
312野暮屋:04/06/19 21:01
>>300
 半ばお気づきのようですが、御無沙汰しています、ですね。
三戦板時代にも似たようなことをしてた者です。
専門が後漢寄りなので、趣旨に添えるか微妙なのですが
今後もたまに立ち寄らせていただきたく。
 未央衛尉、典拠あったんですね。こちらがうかつでした。
宗正について補足しますと、『後漢書』中に見える宗正は
一カ所を除き全て劉姓、ただ陰皇后紀のみ「宗正吉」とあり、
集解は韋昭『国語』注の「漢宗正用ゥ劉」を根拠に「劉吉」と推測します。
「宗正は劉姓のみ」と言ってほぼ問題ないかと。

>>104
「毀」という字は、礼では「のぞく」「取り去る」という意味で使われます。
「毀廟」とは、廟を破壊する、のではなくて
「祭壇から神主を取り下げてその祭礼を絶やす」だけのことです。
まあ、実際にブチ壊しちゃう場合もあるんですけど。
313世界@名無史さん:04/06/20 12:24
「左伝」昭公7年条
 楚の芋尹無宇(その後に無宇とのみ称されているので、芋尹は官名か?)の言葉に、
「王の臣を公、公の臣を大夫、大夫の臣を士、士の臣をソウ(白の下に十)、ソウの臣を
輿、輿の臣を隷、隷の臣を僚、僚の臣を僕、僕の臣を台」と言うのがあるそうです。
 なお楚には○尹と言う官が散見され、また台は逃亡して収監されたもののようです。

 士以上は良いとして、ソウ以下はどこまでが庶民でどこからが賎民階級かよくわかりま
せん。まあ実際にここまで下が有ったとも思えませんが。
 おそらく下の方は10段階にするためにこじつけたような気がします。
 公は諸侯のこととして、卿が抜けているのは、卿は大臣職で身分的には大夫に包摂され
ているからでしょう。確か概念上では上大夫=卿だったはずです。
 漢よりかなり前ですが参考になれば。

 漢代の資料に出てくる蒼頭と言うのも、下僕のたぐいではあるようですが、家内奴隷な
のか召使いなのかよくわかりませんね。

 相二千石、史記の五宗世家(武帝の兄弟の話)に出てくる用語です。国相または郡守を
指す、またはその総称のようです。
 趙王彭祖は相二千石の失言を記録し、脅迫して自分の思い通りの政治をさせようとしたようです。脅迫に屈しない場合は朝廷に報告して処分させています。
 このため趙では二年と務まるものがおらず(良くて刑罰、悪くて死刑)、まともな政治
をする相二千石はいなかったそうです。
 同様に膠西王端は、自分の思い通りにならない相二千石を告発ないし毒殺し、逆に膠西
王に従う相二千石は朝廷から処罰され、殺傷されたものが非常に多かったとあります。
 どうもこういう話を読むと呉楚七国の乱の後も、やりようによっては王の権力は未だに
大きかったようにも思えます。
314怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/21 00:28
>>311
犯罪と爵位について、大赦は爵位を持ちうる資格を復活させたのでしょうか。
また逆に、爵位の外に置かれる商人その他は、民に爵を与えるという機会にも全く恩典を受けなかったのでしょうか。
思いつきですが、少々気になったり。

>>312
おお、その節はお世話になりました。
宗正や廟について、ご教授ありがとう。
毀廟は廟ごとぶっ壊すかと思ってました。

>>313
蒼頭、奴婢、その他何が奴隷で何がそうでないのか。整理してみないとなあ。
武帝時代の諸侯王はバラエティーありすぎでおもしろい。ほかにも凄い人たちが揃ってますね。
どうも金はまだそれほど困ってなかったようで、中山王のように放蕩の限りを尽くしたような人もいますね。
共通するのは、明らかに前時代とはレベルの違う諸侯王締め付けになんらかの反応を示している点。
実力でなんとかしようとしたヤツ、諦めて放蕩に走った?ヤツ、完全にふてくされたヤツ、色々。
315292:04/06/21 02:40
週末に自分の調べた事を
まとめるとか書いていたけれど
バタバタしているうちにこんな時間・・・
既に、より詳しいことが書き込まれているし
傍観者に戻ります。
スマソ。
316怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/21 08:30
>>315
それは残念。また何か話題なり調べた成果なりがあればよろしく。

奴婢。
漢書哀帝紀、綏和2年の詔で、諸侯王以下吏民までの名田(私有田)、奴婢所有制限が公布されています(施行はまだ。実際には施行されなかった)。
この時、それと一緒に「賈人不得名田・為吏」という一文があります。
どうやら、賈人は吏になることも名田を得ることもできなかったようです。
また「官奴婢五十以上、免為庶人」ともあります。
奴婢にも官有と私有があったようです。何がどう違うのかわかりませんが。
317世界@名無史さん:04/06/21 23:01
 魏は皇族に力を与えないようにしていますが、晋はその反動が出ています。
 また南朝では皇子が都督として地方に駐留しており、宋の孝武帝・南斉の和帝(傀儡で
すが)・梁の元帝等その力で帝位につく例もまま有ります。元帝の弟の武陵王等失敗例も
有りますが。

 ところでかなり後世ですが、明は燕王(永楽帝)の叛乱(成功)、その第2子漢王の叛
乱(失敗)の後、宣徳帝により相当な締め付けが行われていますが、それでもその後も正
徳帝の時に安化王・寧王の叛乱が起こっています。
 その後も明末の時期に後の前三藩(南明)の一人隆武帝(唐王)は、唐王だったときに
李自成の乱鎮圧の為に自力で数千人の兵を集めています。
 なお勝手に兵を集めた罪で王位を廃された上に投獄されるのですが、そのお陰で李自成
軍に殺されずにすみ(代わりに跡を継いで唐王になった弟が犠牲に)、南京政権崩壊後に
即位することになったわけです。
 もっとも結果的には清軍に殺されるために生き延びたようなものですけど。
 
 このような例もありますから、締め付けが強まることが時代の趨勢だったのは当然としても、もしかして魏の対皇族政策はかなり突出した特異なものだったのかもしれません。
 先進的すぎて失敗した例のうちかも?
318世界@名無史さん:04/06/22 00:33
晋が独特なんじゃね?
319怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/22 08:27
>>317,318
あくまでも私の考えですが、魏が諸侯王に対して厳しかったのは間違いないですが、前後の時代と比べて突出した、または先進的に過ぎたのかどうか、という点については疑問を感じます。
というのは、漢は目立って締め付けてはいなかったにしても、諸侯王に軍事や政治にほとんど関与させず、飼い殺していたという点では魏と似たように見えるからです。
言い方を換えれば、魏は漢の対皇族、対諸侯王政策を引き継いだのではないかと思うのです。
むしろ、漢と魏の政策を晋が大転換したと考えられるのではないでしょうか。
(晋のように皇族(諸侯王)に軍事権等を与えるのは宋などでも行われたようですので、晋が独特だったというよりは晋から変わった、という感じではないでしょうか)

魏での対諸侯王政策は、監国使者による監視(三国志陳思王植伝など)や、頻繁な転封、そもそも封地が微小であるなど、確かに漢と比べても厳しい印象はあるのですが、漢でも皇族は爵位や経済面で優遇しても政治、軍事面ではむしろ警戒したように思われます。
また魏では諸侯王をギョウ(業β)に置いて国に就かせなかったのですが、これは司馬懿が王リョウの乱を鎮圧した後のことであり(晋書宣帝紀、王リョウは反乱時に近くにいた楚王彪を擁立しようとした)、それまでは封地に赴いてはいたようです。
320世界@名無史さん:04/06/22 23:31
 三国志武帝紀にひく魏書によると、名号侯(18級)・関中侯(17級)は金印紫綬、
関内侯・関外侯(ともに16級)は銅印亀鈕墨綬、五大夫(15級)銅印環鈕墨綬、すべて租税をはまず、旧来の列侯・関内侯とあわせて6級とあります。
 関内侯・関外侯がともに16級である点、銀印でなく銅印である点が疑問です。むしろ名号侯・関中侯が銀印青綬かも?
 14級以下の存在も疑問、仮に五大夫の下がない場合、なにをもって五大夫を15級と
称したのでしょうか?
 武帝紀には代郡の烏丸族の行単于が来朝との記事も、単于代行?

 文帝紀、いきなり、五官中郎将・副丞相への任命記事有り。副丞相は官名?それとも丞
相に副たりが正しい?
 いずれにしても、丞相の副にしては五官中郎将は格が下過ぎるような?単に建前上は丞
相府内で司直の上席くらいのことなのでしょうか?
 黄初元年、漢の諸侯王を崇徳侯に、列侯を関中侯に取り立てる。
 同三年、諸弟を王に封じる。封王(最初に位についた王)の庶子(跡継ぎ以外)を郷公
とし、嗣王の庶子を亭侯、公の庶子を亭伯とする制度を定める。

任城陳蕭王伝・武文世王公伝にみる封国の戸数
 侯5000→10000→公→王→子が跡を継ぎ2500→罪があって500→3000→4400
 王3500、その後ことあるごとに半減→跡を継いだ子の代に加増後で990
 王2500、王数度の加増後で2700、王2500、公数度の加増後で1900
 王数度の加増後で4600、王数度の加増後で5500、王数度の加増後で4700
 王数度の加増後で3400、公数度の加増後で1900、王数度の加増後で3400
 王2500→1000→2500→3000→取りつぶし→子を取り立て→後に加増で2500
 侯数度の加増後1800、公数度の加増後1900、王数度の加増後3400、王数度の加増後5000
 王2100→3000、王数度の加増後3500、王数度の加増後6200、王数度の加増後4500
 王数度の加増後4500
 どうも公侯は2000戸未満、王は例外を除き2000戸から5000戸くらいが標準でしょうか? 県王とか県公という封号も見られますね。
321怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/23 00:30
>>320
五官中郎将、これはちょっと謎めいていますね。
丞相に副たる、ではないかと愚考しますが、いずれにしてもなんで五官中郎将なのか。
(三国志武帝紀では「置官属、為丞相副」。「副丞相」という名称ではなく、丞相の副、丞相に副たる、でしょう)
仮説としては、皇帝により近くに置いて内朝側を監視させるためのもの、というところでしょうか。
中郎将は光禄勲の下ですから、殿中が勤務先になります。
丞相府と比べ、より皇帝に近いところにいて、しかも兵を率いる事のありうる存在として、中郎将があえて選ばれた?
ということで、丞相府とは別の、独立したオフィスも与えられた事実上の新設官が曹丕の五官中郎将のようです。
322怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/23 23:10
「公」について。
爵位としての「公」ですが、前漢では王莽の「安漢公」が最初かと思っていたら、周承休公、殷紹嘉公(綏和元年)の方が早いらしいですね。
そして新は五等爵の中に「公」を位置付け、後漢初期では諸侯王の下位の諸侯としてあったようです(初期に王→公へ「降」すという表現がある)。
しかし「公」は王莽がそうだったように、「周公」を想起させる特殊な位置付けの爵位だったのではないでしょうか。
(後漢初は新制に引きずられて「公」が多くいた?)
そしておそらく、「魏公」曹操もまた、「王の下位に当たる諸侯」という名目的な地位と、「周公や安漢公のような天子の一歩手前の存在」という裏の意味とを持った、なかなかに興味深い称号なのではないかと思います。
323世界@名無史さん:04/06/23 23:28
>>322とつながりが悪いですが、魏の爵位について自分なりに整理してみました。
 上から王・県王・公・県公・郷公(ここ以上は原則皇族のみ)・県侯・郷侯・亭侯・亭
伯、以上が広義の諸侯でしょうか?まあ県王・県公が独立した爵位かどうか疑問ですけど。
 また燕王等の1文字国名(伝統的国名)の王と、2文字国名(郡名?)の王との間に制
度上の格差があったのかも疑問です?
 それと諸侯の下が名号侯・関中侯・関内侯・関外侯・五大夫の順なのだと、個人的には
そう理解しています。

 スレの趣旨からは余談になりますが、五胡十六国の時期に皇帝でなく天王を名乗った君
主がしばしば見られ、その場合通常なら王に封ずるべき諸子諸弟を公にすることが良くあ
ったようです。もちろん自身は天王のまま王を封ずる場合もありましたが。
324怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/24 08:03
>>323
亭伯は三国志文帝紀、黄初3年に見えるものですね。(「公之庶子為亭伯」)
この時点で公、侯、伯まであったということで、晋の五等爵の内上3つは魏初には揃っていたんですね。
まあ五等爵自体が古制ですから、それを参考にしたら揃うのが当然でしょうけど・・・。

王の格差ですが、王の中でのランクとしては大抵は旧国名の方が上位だったのかもしれませんが、制度的に何か違いがあったのかどうか。
余談ですが「東武陽王」という三文字の国名がありますね(魏文帝の子、東武陽懐王鑒)。

それにしても、魏の王公の封地の戸数は前代から比べるとかなり減ってますね。
というか、前漢初期では列侯でも数千戸もらっていた者も少なくなかったですから。
これは単に魏が諸侯を冷遇していたからなのか、それとも封建することのできる戸数自体が減少していたからなのか。
325世界@名無史さん:04/06/24 23:55
女官とか(漢書、三国志、晋書)
前漢
 側室はなべて夫人(細かいランク付けなし)で、女官に美人・良人・八子・七子・長使
・少使の称号有り。
 武帝がul・ケイガ(ケイは女偏に頸の偏だけ、ガは女+我)・ヨウ(人偏に容)華、
充依を追加。
 元帝が昭儀を追加し、すべてで十四級になった。(今まで出てきたのは十一級、残り三
級の成立時期不明)

 昭儀、位は丞相になぞらえ、爵は諸侯王に匹敵
 ul、上卿になぞらえ、列侯(第二十爵)に匹敵
 ケイガ、中二千石になぞらえ、関内侯(第十九爵)に匹敵
 ヨウ華、真二千石になぞらえ、大上造(第十六爵)に匹敵
 美人、二千石、少上造(第十五爵)
 八子、千石、中更(第十三爵)
 充依、千石、左更(第十二爵)
 七子、八百石、右庶長(第十一爵)
 良人、八百石、左庶長(第十爵)
 長使、六百石、五大夫(第九爵)
 少使、四百石、公乗(第八爵)
 五官、三百石
 順常、二百石
 無涓・共和・娯霊・保林・良使・夜者、百石(百石は全部で一級と考えて十四級か?)
 上家人子・中家人子、有秩・斗食(上家人子が有秩で中家人子が斗食?)
 良テイ(女+弟)、皇太子の側室

 百石(又は比百石含む)=有秩のはずですが、百石と有秩が併存、さてどういうことか?
326世界@名無史さん:04/06/24 23:57
王莽=新
 和嬪・美御・和人(各一名)、位は公爵になぞらえる。
 嬪人(九人)卿になぞらえる、美人(二十七人)大夫になぞらえる、御人(八十一人)
元士になぞらえる。
 また公主を任と称しています。ついでに皇太子にならなかった息子(三男)を王とせず、
辟(国君)にしています。その後いつの間にか王に封じているようですが。

魏(王国)
 王后(后であるところが問題?)、その下が夫人・昭儀・ul・ヨウ華・美人。


 文帝が上述に貴嬪・淑媛・脩容・順成・良人を追加。
 さらに明帝が淑妃・昭華・脩儀を追加し、順成を省く。
 太和年間夫人の位を淑妃の上に引き上げる。夫人以下で十二等。

 貴嬪・夫人、皇后に次ぎ、相当する爵位なし。
 淑妃、位は相国に相当、爵位は諸侯王に対比。
 淑媛、位は御史大夫、爵位は県公(これによるとやはり県公の爵は有るようです)
 昭儀、県侯   昭華、郷侯  脩容、亭侯  脩儀、関内侯  ul、中二千石
 ヨウ華、真二千石  美人、比二千石  良人、千石

晋(武帝が漢魏の制度を採ったと有ります)
 貴嬪・夫人・貴人、(三夫人)位は三公になぞらえる。
 淑妃・淑媛・淑儀・脩華・脩容・脩儀・ul・容華・充華、(九嬪)位は九卿になぞら
える。
 美人・才人・中才人、爵は千石以下になぞらえる。
 中才人の方が才人より下というのがやや不思議ですね。通常は反対の場合が多い(太子
中舎人・太子中庶子と太子舎人・太子庶子等)ですから。

 ところで急に話は変わりますが蜀書にでてくる大尚書、これなんでしょうね?
327怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/25 00:36
>>326
後漢の女官が無いようですので一応分かる範囲で書いておきましょう。
後漢書皇后紀によると、後漢は皇后、貴人、美人、宮人、采女しかなかったそうです。
しかも皇后と貴人しか定期給がなかったようなのです。
(その下は臨時給だけだとか)
前後の時代と比べてとんでもなく質素ということになりますが、どうなんでしょう。

大尚書、私はよくわかりません。尚書令とかなんでしょうか?どうも晋にもあったようなんですが・・・。
328世界@名無史さん:04/06/25 23:30
 後漢の分どうもありがとうございます。手持ちの資料では不明だったのものですから。
 それと前回の訂正、種本は晋書でなくて宋書后妃伝冒頭でした。
 昭儀以下無涓までが十四等で、その下に共和以下が有りと言うことのようです。無涓と
共和の断層がよくわかりませんが。
 なお皇太子には妃・良テイ(女+弟)・孺人があり。

参考までに劉宋
 最初期、才人・中才人を省く他は晋制を採用し、貴嬪・夫人・貴人(三夫人)、淑妃・
淑媛・淑儀・脩華・脩容・脩儀・ul・容華・充華、(九嬪)、美人
 世祖孝建三年、夫人・脩華・脩容を省く。貴妃を置き(位比相国)、貴嬪の位を比丞相
に進め、貴人(位比三司)とで三夫人とする、
 脩華・脩容・脩儀の代わりに昭儀・昭容・昭華を置くとともに、中才人と充衣を置く。
 太宗泰始元年、淑妃・昭華・中才人・充衣を省き、脩華・脩儀・脩容・才人・良人を再
置する。

 同三年貴人を省き貴姫を置き、昭華を再置。同時に淑容・承徽・列栄を増置。
 貴妃・貴嬪・貴姫が三夫人、淑媛・淑儀・淑容・昭華・昭儀・昭容・脩華・脩儀・脩容
が九嬪、ul・容華・充華・承徽・列栄を五職(斑亜九嬪)、美人・才人・中才人の三職
を散役とする。
 このころはめまぐるしく変わっていますが、徐々に唐代の原型が出来てきたようです。

 五胡十六国時代、前趙か後趙で上左右皇后の三皇后+左右貴嬪を置いたことがあります。
なにか政略結婚の為らしいですが。

北魏、充華有り。
隋、九嬪中に順儀・順容・順華有り。
329世界@名無史さん:04/06/25 23:33
ついでに唐
 貴妃・淑妃・徳妃・賢妃(以上正一品)
 昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛(以上九嬪:正二品)
 ul(正三品)・美人(正四品)・才人(正五品)、各九名(以上二十七世婦)
 宝林(正六品)・御女(正七品)・采女(正八品)、各二十七名(以上八十一御妻)
 以上の総称が妃嬪。

 皇太子の方は太子妃の下に、良テイ(女+弟)・良媛・承徽・昭訓・奉儀等。
 諸親王、王妃の他に孺人等。

更に余談
 皇帝の叔母が大長公主、姉妹が長公主、娘が公主、皇太子の娘が郡主、親王の娘が県主。 一品官及び国公の母と妻が国夫人、三品官以上の母と妻が郡夫人、四品官の母と妻が郡
君、五品官(勲官三品含む)の母と妻が県君、勲官四品の母と妻が郷君(魏代に○○郷君
有り)。
 なお母の場合は郡太夫人、県太君等太の時を加え、乳母等本人の功績で封号を与えられ
る場合もありました。

 宸妃、則天武后が皇后になる前に新設してなろうとした妃で、貴妃の上です。
 天后、則天武后が夫の高宗の称号を皇帝から天皇に改めると同時に皇后を改名、皇后よ
り対等性が強い(天皇とその后と言うより、天の皇と天の后)と思われます。
 まあ王莽の仮皇帝同様に、即位への里程の一つでしょう。

 則天武后の主導によると思われる高宗期の後宮改革
 貴妃以下を全て廃止し、代わりに賛徳(正一品)二名、宣儀(正二品)四名、承閨(正
四品)五名、承旨(正五品)五名、衛仙(正六品)六名、供奉(正七品)八名、侍櫛(正
八品)二十名、侍巾(正九品)三十名を新設。
 説教臭かったり事務的な名称で、承旨・供奉などは宋代では枢密院の事務官だの下級武
官とかに名称が使用されています。
 玄宗のころだったか淑妃・徳妃・賢妃を恵妃・麗妃・華妃に改名、いつの頃だか明妃と
言うのもありました。
330世界@名無史さん:04/06/25 23:35

 眞宗の時、昭儀の上に従一品の淑容・順容・婉儀・婉容を置く、淑儀の上に貴儀を置く。
 宋初、国夫人・郡夫人・郡君・県君が存在。

多分宋代の改訂
 郡君を淑人・碩人・令人・恭人に、県君を室人(後更に宜人)・安人・孺人に改める。

さらにおまけとして百官志に載っている金の内命婦
 元妃・貴妃・淑妃・徳妃・賢妃(以上正一品)
 昭儀・昭容・昭媛・修儀・修容・修媛・充儀・充容・充媛(以上九嬪:正二品)
 ul(正三品)・美人(正四品)・才人(正五品)、各九名(以上二十七世婦)
 宝林(正六品)・御女(正七品)・采女(正八品)、各二十七名(以上八十一御妻)

 その後貴妃の下に眞妃を、淑妃の下に麗妃・柔妃を追加し、徳妃・賢妃を廃止。ulの
下に麗人を追加し、才人とともに正三品。順儀・淑華・淑儀(以上正四品)を追加。
 この場合美人が消えたのか、正三品に昇格か、正四品に据え置きか不明?あるいは才人は正五品のままで、美人が正三品に昇格か?
 こうしてみると後代でも余り代わり映えがしないようです。
331世界@名無史さん:04/06/25 23:37
更に調子に乗ると、確か元代に元妃・大妃・側妃・庶妃がありました。
 明代までは美人が存在。
 明の外命婦は、夫人(一・二品)、淑人(三品)、恭人(四品)、$l(五品)、安人(六
品)、孺人(七品)です。
 公妻・侯妻・伯妻の用語が有ったようです。(琉球王の側室は王夫人(身分上)・王妻
(身分下)、第二夫人を王継妃とも)
 清代には皇貴妃・貴妃等が有り。

 劉宋・唐・金等については後宮分科の職名等も有る程度わかりますが、さすがに打つの
が面倒くさいです。
 本当に余談の余談ですが、李氏朝鮮の女官・外命婦の制度も中国にならったものです。
細かい点は違いますが、全体的にはそっくりです。

 今回は「制度通」(岩波文庫)、「中国歴代職官辞典」、「大漢和辞典」のメモ、「宋書」、「武則天」
講談社、元が不明の昔のメモ等を参考に書いています。
 スレ違いの話題を長々とすいません。
332世界@名無史さん:04/06/26 00:04
 書き忘れ、確か晋のころに郡公主・県公主・郷公主・亭公主を置いたのが、
郡主・県主の走りだそうです。
333怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/28 00:46
すごいッスね。私は漢しか大して語れないので・・・。

>>325
昭儀ですが、これは元帝が寵愛した傅氏、馮氏を格上げするための措置だそうです。
(其の儀を昭かにする、との意味だとか)
その時の皇后は王氏。例の元后です。
で、傅昭儀は哀帝の祖母、馮昭儀は平帝の祖母と、面白い事に全員皇帝に連なっています。
また例の成帝の皇后趙飛燕の妹も昭儀となって寵愛されていたり、哀帝の時は董賢の妹が昭儀になっていたりと、どうも昭儀は第二皇后的な特殊な地位のように思われます。
思うに、皇后を立てた後に「皇后にしてやりたいなあ」と思うような寵姫を遇するのに使われていたのではないでしょうか。
(といってもそもそも全部で上に挙げた4人しかいませんが)
334怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/28 08:26
>>326
そういえば今になって気付きましたが、前漢では諸侯王の正妻は「后」、すなわち王后なのですが、後漢ではどうも「妃」、王妃と言っているようですね。
「妃」は前漢では皇太子の正妻の号(漢書外戚伝、史良テイ伝、>>328参照)ですから、諸侯王の正妻の号は皇帝と同等(后)から皇太子と同等(妃)へと、多分格下げされているんですね。
こんなところにも、後漢の諸侯王の地位が前漢より低かった実例が見られますね。

なお、曹操の魏国において「王后」と称するのは、魏国は「漢初諸侯王之制」を使うことになっていたからでしょう。
(三国志武帝紀、建安17年)
魏国は建てられた当初から、他の諸侯王とは制度上も明らかに違った存在だったのです。
335世界@名無史さん:04/06/28 21:09
前漢では諸侯王の正妻は后、後漢では妃、皇太子は妃
 確かに格下げのように思えますね。ただこの場合皇太子妃であるところがや
や気にかかりますが、これは皇太子はあくまで後継ぎにすぎず一人前の君主で
はないためでしょうか?
 あるいは皇太子のままでは外に出て王となった兄弟より、ある意味では格下
だったのか?
 ちなみに漢和辞典を見ると后は本来あなと口からなり、尻の穴(尾篭な話で
すが)の意味で、転うしろ、借りて君主、きさきの意味らしいです。
 妃のほうは女とつれあい(配)からなり、連れ合い、妻、きさきの意味があ
るようです。

坂本義種著「倭の五王」教育社
 この本にスレの時代よりやや後ですが、印章に関する制度がのっていました。

「宋書礼志」
 一品・二品・三品将軍、金章紫綬
 四品・五品将軍、銀章青綬
 八品将軍、銅印(刺史・太守に任命されると青綬を仮された)

 皇太子・皇太子妃・諸王、金璽朱綬
 郡公、金章玄朱綬
 郡侯、金章青朱綬
 大将軍・凡将軍位従公・驃騎将軍・諸大将軍・四安将軍・竜驤将軍、金章紫綬
 諸王太妃・諸王妃・諸王世子・県侯・郷侯・亭侯・関内・関中名号侯、金印紫綬
 郡公侯太夫人・郡公侯夫人・郡公侯世子・関外侯・領護軍・四中郎将、銀印青綬
 四軍将軍・寧朔将軍・五威将軍・鷹揚将軍・凌江将軍・諸軍司馬、銀章青綬
 護匈奴中郎将・護羌夷戎蛮越烏丸西域戊己校尉・宣威将軍〜裨将軍(刺史・郡守兼任)、銅印青綬
 州刺史・公府長史・郡国太守相内史、護匈奴中郎将&護羌夷戎蛮越烏丸西域戊己校尉の長史司馬、銅印墨綬
 王公侯諸署及び公主家丞・北軍中候丞、銅印黄綬
336世界@名無史さん:04/06/28 21:10
「南斉書輿服志」
 太子、金璽朱綬
 諸王、金璽クン(糸+重)朱綬
 郡公、金章玄朱綬
 侯・伯、金章青朱綬
 子・男、金章素朱綬
 公世子・王太妃、金印紫綬
 侯世子・郡公太夫人・郡侯太夫人・郡公夫人・郡侯夫人、銀印青綬
 郷侯・亭侯・関内侯、銀印墨綬
 将軍、金章
 諸領護将軍・中郎将・校尉・郡国太守・内史、四品・五品将軍、銀章
 諸府長史、銅印

北魏(出土品)
 冠軍将軍印(亀鈕)・懐州刺史印(鼻鈕)・高城侯印(亀鈕)

 どうも王公侯の跡継は世子、王の妻は妃、公侯の妻は夫人のようです。さて伯以下はど
うだったんでしょうね?
337世界@名無史さん:04/06/29 23:54
「後漢書輿服志」によると、
 前駆の伍伯は公8人、中二千石・二千石・六百石4人、四百石〜二百石2人

 太子・諸侯王、金印赤綬亀紐
 長公主・天子貴人、金印赤綬(加特)、公主も同様か?
 諸国貴人・相国、金印緑綬
 公・侯・将軍、金印紫綬
 九卿・中二千石・二千石、銀印青綬
 尚書僕射、銅印青綬(注にひく漢官)
 千石・六百石・四百石長・三百石長、銅印墨綬(注にひく東観書では三百石長は黄綬)
 四百石・三百石・二百石、銅印黄綬
 百石、青紺綬
(注にひく東観書では県国令長は千石でも黄綬)

 同じく東観書では、千石の丞尉は四百石、六百石の丞尉は三百石、四百石・三百石の丞
尉は二百石
338怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/30 01:00
漢の諸侯王対策。

あまり流れを読まずに前漢の諸侯王対策について多少。
高祖の時に異姓諸侯王を禁じたのは漢書王陵伝などに見えますが、その後、漢はご存知のように代々諸侯王を抑圧する政策を取っています。
呂后は斉など大諸侯を分割して自分の血族などに与え、文帝もまた斉などを分割しています。
(当時はおそらくいきなり直轄領化は出来なかったんでしょう)
景帝の時に行われたのが有名な晁錯の諸侯王削地。削っても削らなくても反する、という開き直り気味の政策(漢書呉王ビ伝)はその通りとなりました。

その後、例の諸侯王の制度改変があり、武帝の時には推恩の令が下されます。
これは説客主父偃の献策によるもので、諸侯王にその子弟を領内に封侯させるのを許す、というものでした。
これが漢書王子侯表に記される劉氏の列侯達の由来で、これにより諸侯王が直轄する領地、戸数は減り、その分勢力が減退する、という訳です。

また同じく武帝の時、淮南王安らの謀反事件後、左官の律、附益の法も設けられたと言います。
これらは実態不明のようですが、左官は諸侯王の官を皇帝の官よりも左=下に扱うもので、附益は法に背き諸侯王に与する者により厳しい罰を与えるというものだと言います。
それ以外にもしばしば諸侯王の末っ子をその諸侯王の領土内に分家させるなど、着々と諸侯王の弱体化は進んでいきます。
339怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/06/30 08:33
諸侯王対策続き。

推恩の令や諸侯王家の分家により、前漢後半には諸侯王の封地はかなり減っています。
漢書地理志によると、諸侯王国はいずれも県の数、戸数、口数いずれも小さい郡程度しかなく、かつての数郡にわたる封地を持っていた姿は見る影もありません。
成帝の時に内史が廃止されたのも当然でしょう。
また、諸侯王相の席次が(おそらく太守の前から)太守の後ろとされたというのも、このあたりの事情を反映しているのでしょう。
(漢書元帝紀、初元3年)

後漢も、諸侯王対策は大きくは変わらなかったようで、明帝の時の東平王蒼(驃騎将軍となった)の方が例外でしょう。
たまにおいたをする者も現れているようですが、前漢初期のように世間を騒がし、海内を揺るがすような事件を起こすだけの存在ではなかったようです。
340怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/01 21:48
さて、ここらでふと思いついたので、漢書郊祀志より、前漢の祭祀について。

漢の祭祀は、高祖が白・青・黄・赤の四つの上帝祠に黒帝祠を加えたことに始まり、また同時期に秦の祠官を呼んで祭祀を復活させたり、「公社」を県ごとに建てさせたりしています。
なお漢は当初、劉邦挙兵の時の白帝の子である蛇を殺した赤帝の子という話からか、赤を尊んでいます。(秦は黒)
この辺、この時点で五行思想などとどう関係していたのかは正直分からないので、ご存知の方の解説をお待ちします。

漢は天下を統一すると、劉邦挙兵の時に祀った「蚩尤」を長安で祀るほか、各地の巫にそれぞれが仕える神々を祀らせています。
色々あるので全部は紹介しませんが、南山巫が「秦中」を祀っており、秦中とは二世皇帝なのだそうです。
なんでも「彊死」したためにタタリをなすからだとか。
后稷を祀らせるようになったのはさらにあとで、2月と臘の時に里の「社」で祀るようにさせたとか。
陳平が肉を切り分けた時の「里中社」というのは、このことでしょうか?
(当時はおそらく秦ですが)
ある種、共同体での祭祀、謝肉祭とかそういった感じでしょうか。
341世界@名無史さん:04/07/01 23:33
まるきり流れを考えずにちくま版「三国志」から魏の官など
 相国(一品)、建安18年丞相、同21年相国、黄初1年司徒、甘露5年相国に改称。
天子を助けて万機を治める。
 蜀にも丞相があり(非常に有名ですが)、呉は一時左右丞相を分置しています。
 改称とありますが、丞相と相国はともかく、司徒は歴朝かなり性格が異なります。例えば序列に置いて、丞相と相国は通常太尉の上とされていますが、司徒は太尉より格下のよ
うです。
 このあたりは政治的問題があっての改称でしょうか?この時代はまだ属人的性格が強いですね。

 中衛将軍・驍騎将軍(ともに四品)、どちらも相国府の属官で、蜀・呉には存在しない
ようです。単独の官としては通常の四品将軍と同じ扱いだったのでしょうか?

相国府の属官の続き。
 軍師祭酒(軍祭酒・軍謀祭酒)・中前後左右軍師・軍師、以上全て五品。蜀は中前後軍師有り、呉は左右軍師(三公の兼任)・軍師有り。
 司直、黄初以後は置かず、呉にも存在。
 左右長史(六品)、蜀・呉は長史有り。
 留府長史、丞相出征時の留守役、黄初以後は置かず。蜀にも有り。
 行軍司馬、黄初以後は置かず。
 左右司馬(六品)、兵を司る。咸煕1年左右にわける。蜀は司馬が有り。
 従事中郎(六品)、謀議に参与する、蜀にもあり。
342怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/02 00:45
>>341
相国と丞相と司徒。

まず整理しておきたいのは、建安18年の丞相、21年の相国は漢王朝の諸侯であるところの魏国のそれであり、甘露5年(実際には施行されていないはずですが)の相国は魏王朝全体の相国であるという点です。
同じく、黄初元年の司徒は禅譲による魏の王朝化を受けた処置であり、王朝としては司徒が相応しいと考えていたことがわかります。
政治的問題というか、三公制度は前漢末期にそれなりの政治的必要性があって丞相御史制度から改革されて生まれたものであり、むしろ丞相(相国)がいる方が異常事態なのです。
それに対し、一応は封建諸侯である魏国の宰相については、「漢初諸侯王の制」では丞相、相国であって三公ではありません。

同じ魏でも、このように丞相・相国・司徒の重みはかなり違ってくるように思います。
また、甘露5年の相国への改称というのは間違っているのではないかと思います。
三国志高貴郷公紀、元帝紀によると、このとき相国を与えられるところだったのは大将軍司馬昭ですが、司馬昭は一貫して固辞しており、魏の相国にはなっていないようです。
また、司徒も別に改称・廃止等されておらず、その時点では司徒鄭沖ですし、その後は鍾会が司徒になっています。
魏王朝では基本的に三公制が維持されており、司馬昭の相国就任は征蜀中の景元4年10月で、しかも司徒は廃止されていないようなのです。
(上述のように鍾会が司徒にされている)
343世界@名無史さん:04/07/02 23:26
相国府の属官の続
 主簿(七品)庶事を取り仕切る、黄初より前には主簿祭酒(長期在任者)があり。
 参軍(七品)黄初より前には参軍祭酒(長期在任者)があり。
 宮崎市定先生の名著「九品官人法の研究」によると、本来は文字通り軍事に参与する参
謀であり、将軍の相談相手として中央から派遣されるものであり、将軍の属僚ではなかっ
たそうです。
 そのため府主たる将軍に対して属僚の礼をとらなくても良かったのですが、魏晋交代期
の前頃からは純然たる属僚となったようです。
 実例として、将軍に従わなかったために後の晋の武帝に解任された参軍があります。
 このあたりの経緯は宋の通判と似ていますね。

 西曹属(七品)この曹に掾はなし。
 東曹掾(七品)西曹・東曹ともに府内の人事担当。
 戸・金・賊・車・鎧・水・集・法・奏曹掾属、騎兵掾属(七品)
 倉・戎・馬・媒曹属、散属(七品)
 記室(七品)秘書
 門下督
 舎人(九品)府内のことを司る。

「九品官人法の研究」に基づく漢魏の制度変遷
   後漢           魏王国          魏
 三 太尉(建安13年廃止) 太尉(延興元年設置)  太尉
 公 司徒(同上)       司徒(同上但し未補人) 司徒
 他 司空(同上)       司空(同上但し未補人) 司空
    丞相(建安13年設置) 丞相→相国 
    御史大夫(同上)     御史大夫
                大将軍          大将軍
344世界@名無史さん:04/07/02 23:28
「九品官人法の研究」に基づく漢魏の制度変遷
    後漢          魏王国         魏
 九 太常          奉常          太常
 卿 光禄勲         郎中令         光禄勲
    衛尉          衛尉          衛尉
    太僕          太僕          太僕
    廷尉          大理          廷尉
    大鴻臚         大鴻臚         大鴻臚
    宗正          宗正          宗正
    大司農         大農          大司農
    少府          少府          少府
    執金吾         執金吾         執金吾

 基本的には禅譲とともに王国独自の名称を後漢の名称に戻しているようです。
 大理だけはなぜか後世ポピュラーに。

 「三国志軍事ガイド」と言う本の巻末に「通典」をもとにした魏の職官表があります。
それによると諸侯王・公侯伯子男が一品、県侯が三品、郷侯が四品、亭侯が五品です。
>黄初三年、諸弟を王に封じる。封王(最初に位についた王)の庶子(跡継ぎ以外)を郷公とし、嗣王の庶子を亭侯、公の庶子を亭伯とする制度を定める。
 嗣王の庶子の亭侯と五品亭侯、公の庶子の亭伯と一品の伯の関係が不明?
 また文官及び爵位に二品が欠けているのは何故なんでしょうね。

 それと「通典」見てみたいです。最寄の図書館にはないんです。残念。
345世界@名無史さん:04/07/02 23:30
>>342
いろいろご教示ありがとうございます。
どうも王朝交代期の制度変更は複雑でなかなか面倒なものですね。
346世界@名無史さん:04/07/03 23:08
 太傅(一品)天子を善導する名誉職、魏初より存在。長史・司馬・従事中郎(以上三職
六品)以下の属官有り。蜀では漢中王の時に存在、皇帝即位後は置かれない。呉にも存在。

 太保(一品)天子の教育補導に当たる名誉職。魏末に置かれた。長史・司馬・従事中郎
(以上三職六品)以下の属官有り。蜀・呉では置かれなかったらしい。

 太師が置かれなかったのは董卓の印象がわるかったためでしょうか。

 大司馬(一品)軍事の最高職で三公の上位。軍師(五品)、長史・司馬・従事中郎(以
上三職六品)以下の属官有り。蜀・呉にも存在し、呉では一時左右大司馬を分置。

 大将軍(一品)反逆者討伐の任に当たり、太尉より上位。軍師(五品)、長史・司馬・
従事中郎(以上三職六品)以下の相国同様の属官有り。蜀・呉にも存在し、蜀では一時右
大将軍を分置。

 以上の相国から大将軍までは秩上公で三公(太尉・司徒・司空)より上位。

 太尉(一品)軍事の最高責任者。軍師(五品)、長史・司馬・従事中郎(以上三職六品)
以下の属官有り。蜀・呉にも存在し、蜀では非常置。

 司徒(一品)政治を司る。軍師(五品)、長史・司馬・従事中郎(以上三職六品)以下
の属官有り。蜀・呉にも存在。

 司空(一品)官吏の不正取締に当たる。軍師(五品)、長史・司馬・従事中郎(以上三
職六品)以下の属官有り。蜀では置かれなかったらしいが、呉には存在。
347世界@名無史さん:04/07/03 23:09
 儀同三司、三公と同じ格式を与えられる加官。蜀・呉にはなかったらしい。漢末に呂布
が任じられた儀同三司が元でしょうか?と思いましたが、「晋書職官志」によると殤帝の
延平元年に既に車騎将軍儀同三司が置かれていますね。
 大庭先生の「秦漢法制史の研究」をみると更にそれ以前章帝の時、車騎将軍儀同三司が
存在するようです。(宋書百官志)
 本来は位が三司に次ぐ三号(驃騎・車騎・衛の三将軍)に加えて、斑を三司と同じくす
るもの、つまり斑同三司だったようです。
 もっとも当初はあくまで三司(太尉・司徒・司空)と儀を同じくするという待遇のよう
ですが、後世のいつかの時点で官名になったようです。
 後漢では輔国将軍儀比三司と言うのも有り(漢書皇后伝)、儀同三司よりやや格落ちの
ようです。

 特進、功労・徳行ある諸侯に与えられる加官で、位は三公の下。蜀には有ったが、呉に
は無かったらしい。

 光禄大夫(三品)功労有る高官に与えられる名誉職で位は三公に次ぐ。一時左右を分置
したが、元に戻した。加官の場合が多かったようです。蜀・呉にも存在。
 漢では光禄勲の属官だったはずですが、いつの間にか属官どころか格上になっているよ
うです。なお後世でも文散官の最上級として使用されています。
348怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/04 21:54
>>343
宮崎翁に瑣末な突っ込み入れることになるので恐れ多いのですが、一応。
魏王国の制で、延康元年に太尉、司徒、司空の三公が魏に置かれたが太尉(カク)だけが任官され、司徒・司空は空位だったというのが宮崎翁の説明のようなのですが、
三国志文帝紀、黄初元年11月(禅譲直後)を見るに、魏の相国を司徒、御史大夫を司空に改称しており、魏王国には司徒、司空が存在していたことはないと考えるべきではないかと思います。
魏王国には太尉、司徒、司空の三公があったのではなく、漢初のように、相国、太尉、御史大夫が存在していて、司徒と司空は存在していなかったのです。
また、他の中央官庁を禅譲とともに改称するのは、それまでの名称が原則として「漢の諸侯王の官名」であり、「王朝の官名」ではなかったためでしょう。
例えば、当時の感覚では、「郎中令」は「光禄勲」より一段落ちる感じがしたのではないでしょうか。

>>346
太師は、晋では景帝と追贈された創業の君の一人、司馬師の諱のため使われなかったそうですね。
(魏末もかな?)
他の王朝ではよくわかりませんが。

呉の司徒、司空は孫皓時代ですね。呉の官制は偉そうな官位がインフレ気味で、どうもよくわからないですね。
349怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/05 08:32
>>340の漢の祭祀続き。

漢の文帝時代、次第に祭祀関係が整理されていきました。
例えば、災いを天子に代わって引き受けるという秘祝が廃止されたり、豊作で余裕があるからということで祭祀の際のお供えを増やしたり壇を広げたりしています。

しかし、この時期で最大の祭祀関係事件といえばやはり五行と上帝関係でしょう。
当時、かつて秦のエリート(御史)だったことがある丞相張蒼は漢の律歴関係を統べ、漢を水徳(黒)としていました。
どうやら、五行相克などの思考が当時はなされていなかったようです。
(漢書張蒼伝によると、高祖が秦の年首である10月に霸上に至ったから、漢も秦と同じ水徳だと理屈付けていたらしい)
それに対し、魯人公孫臣なる人物が漢は土徳(黄)であると主張。
張蒼の排斥にも関わらず、その翌年に「黄竜」が現れたこともあって公孫臣ら土徳説がイニシアチブを取ります。
(なお、漢書賈誼伝を見るとその前から賈誼が漢の土徳説を文帝に述べていたらしく、文帝は元々土徳派だったのかもしれない)
350世界@名無史さん:04/07/05 23:53
 官品と秩の関係は、一品・二品は万石、三品は中二千石、四品・五品は二千石、六品は
千石、七品は六百石、八品は四百石、九品は、三百石・二百石と言うのが概ねの基準のよ
うですが、例外も多くあります。
 中郎(比六百石)・侍郎(比四百石)・郎中(比三百石)は全て八品。
 県長・諸侯国相(ともに三百石)は八品。
 光禄大夫(比二千石)は三品、太中大夫(千石)は七品。
 上公・三公の掾属(比四百石〜二百石)は全て七品。
 太学博士(比六百石)は五品。
 太子舎人(二百石)は七品。
 尚書令(千石)・尚書僕射(六百石)・尚書(六百石)は全て三品。
 尚書左右丞(四百石)・尚書郎中(四百石)は七品。
 中書監令(ともに千石)は三品。秘書監(六百石)は三品。
 御史中丞(千石)は四品。
 郷三老(百石)は八品、郷嗇夫(百石)は九品。
 などがあり、場合によっては秩と品の逆転現象が有りますが、官品が昇進して秩が下が
る場合などどう処理していたのでしょうか?
351怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/06 00:01
祭祀続き。

文帝は土徳説以外にも、おそらくそれと無関係ではないけど別の話として、上帝=五帝を祀る「郊」、上帝=五帝を祀る五帝廟といった制度を整えます。
五帝廟は雍にある五畤のようなモノを渭水のほとりに作ったものらしいです。
更には改元をし、また巡狩、封禅も考えていたらしく、文帝は上帝を祀ることに始まり、最終的には始皇帝の衣鉢を継ぐつもりだったように思われます。
(そして文帝の計画は最終的には武帝が完成させたといえるでしょう)
それらの計画の立案者の一人と言えるであろう望気者、新垣平の失脚により文帝はそれら(土徳説への変更、封禅など)への情熱を失ったと言いますが、一方ではこれは当時における守旧派が文帝自身をはじめとする改革派を押さえ込んだと言う構図なのかもしれません。
あくまで推測、いや妄想ですが。

祭祀、律歴の改革路線を止めた後、文帝、景帝の時代は祭祀関係では何事もなく推移したようですが、これは改革を放棄したのではなく、おそらくは体制が整うのを待っていたのでしょう。
景帝は官制などではむしろ武帝のさきがけとなる改革を進めていますし。
352怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/06 08:20
>>350
その秩は後漢のものでしょうか。
そういえば九品官人法の官品の元で俸給はどうなっていたんでしょうね。
秩と品の逆転現象ですが、最初の施行時の事なら、新たな官品が優先されたんでしょう。
もともと、漢の官秩の元でも、同じ官秩でも明らかに要職であるもの、時代とともに実質的な地位が上下したものは多いですし。
新たな九品によるランク付けで、それまでの実質的な地位が官品という形で明らかになった、というところなのではないでしょうか。

>>347
そういえば、確かに光禄大夫は後世まで生き残ってますね。
もともと純然たる光禄勲の属官という感じでもないようなので、実務に携わらない官の最上級のものとして、時代を降るとむしろ地位が向上していった、というところなのでしょうか。
353世界@名無史さん:04/07/06 20:33
>呉の官制は偉そうな官位がインフレ気味
 上大将軍なんてのまでありましたからね。
 なお唐で羽林軍や十二衛の上将軍の方が大将軍より上位なのは、上大将軍の略だからのようです。
 呉の場合は人材不足と豪族寄り合い所帯のせいか、ことに属人的性格が強いように思います。
 中書令に資格がたりないから中書丞とか中書僕射などと言う例もありますし。

 余談です周において司徒は本来司土、司空は本来司工で、各々土地の管理と調査、と戸籍を担当していたらしいです。
 諸侯の国にも司土・司工は存在し王の司土・司工と同じ職掌でしたが、王のものと統属関係はありません。
 その点で軍事上の必要から統属関係のあった司馬とは異なります。
354怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/07 23:05
祭祀続き。

武帝は文帝以上に祭祀や鬼神に興味があったようです。
特に祭祀関係では、「泰一」を祀り始めたことが挙げられます。
泰一は「天一、地一、泰一」の「三一」の一つで、その中でも最高位の神であるようです。
泰一祭祀を建言した謬忌によれば五帝は泰一の輔佐のようですから、当時の考えでは最高神というところでしょうか。
秦の始皇帝が「皇帝」号を定める際には、「天皇、地皇、泰皇」がいた、という文がありますが、「泰皇」と「泰一」はもしや同一の存在なのでしょうか?
その辺詳しい人教えてください。

で、武帝は謬忌の言葉に従って長安の東南郊に祀るようにしました。
あるいは最終的には「泰」山を祀る=封禅への道を開くためには「泰」一を祀るべきだという考えがあったのかも。
と、これは適当なことを言ってしまいました。

そして、順番としては逆のような気もしますが、上帝、泰一に続いて后土の祀を始めています。(元鼎4年)
これで天・地・泰の祭祀が整備されたことになるのでしょうか。
355怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/09 00:36
祭祀続き。

封禅には色々と手続きが必要だったらしく、特に漢書郊祠志を見ると南越征服が必要条件だったらしく書かれています。
平勢氏だか誰かが言っていた気がしますが(うろおぼえですいません)、「帝」を名乗るものを全て滅ぼす必要があったのかもしれません。

封禅の儀式そのものは秘密とされたらしく、詳しくは伝わりません。
しかし、まず斉へ巡狩して斉の神々をまず祀っているように、おそらくですが色々な準備や、より下級の存在から祀りはじめるといった順番があったのかも。
また「登封泰山」(漢書武帝紀)などとあり、封とは漢書注応劭によると「壇」を作り、その上に「封」をするものらしいです。
また刻石を立て、「天に礼を尽くしてるよ。全国が郡県になったよ。夷狄もみんな貢物にやってくるよ。人民が栄えているよ」といった内容の文を刻むそうです。
これから考えると、四夷を屈服させることはもちろん、中国内の諸侯王も潰していくことが封禅には必要だったのかもしれません。
そして酒(玄酒)と生魚をお供えしたそうです。
なお、儀式はどうやら泰一の祭祀に似たものだったとか。
これが「封」。
「禅」は別の儀式で、泰山を降りてから梁父で行われたもので、后土を祀る礼のようだったと言いますので、どうやら地を祀るものであったようです。
356怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/09 22:53
祭祀続き。

武帝が整理、拡充した結果、皇帝が行う天地の祭祀は、このようになりました。
 甘泉の泰畤=泰一
 河東の后土=地
 雍の五畤=上帝(五帝)
これらは後述するであろう改革まで続きます。
なお甘泉はこの時期かなり拡大され、しまいには長安にも比肩する規模と機能を誇るようにさえなったようです。
余談ながら上計を甘泉で収受したということもあり、あるいは長安を本拠とする丞相府を始めとする外朝に対して、いわば頭越しの政治を行おうとするものだったのかもしれません。
357怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/11 22:02
>>347
少々遅レスですが。
特進、前漢後半には存在し、宣帝の時の許皇后の父許広漢が最初の例のようです。
347氏の言うように列侯に与えられる資格のようなもので、加えられた者を見ると外戚や皇帝の師、元丞相といった、タダの列侯以上の存在です。
皇帝に特別な縁故があって特に優遇、または引き立てたい(しかし官職は与えられない)という者に与えられた、というのが実情のように思われます。
また漢書テキ方進伝には、ある案件について「中朝、特進列侯、将軍以下に下す」事を願う、という建言があり、特進が(単なる列侯とは別に)特に朝政に与る場合がありえたようです。
特進という名称自体は席次を特に進められる、というところではないかと思うのですが、席次が上ということは政治の場での発言力も上である、という意味合いがあるのかもしれません。

>>353
魏もインフレ気味で、晋はさらにインフレが一気に進んでいるように思います。
それと比べると、三公なども揃っていたかどうか怪しい蜀は規模の小ささ故か官位のインフレは起こっていなかったのでしょうか。
358世界@名無史さん:04/07/11 23:19
>>350
>その秩は後漢のものでしょうか
清代に作られた「三国職官表」を元に今鷹真氏が作成された、筑摩版「三国志」
巻末の職官表から拾ったもので、一応魏の秩禄のはずです。

>>356
>頭越しの政治
祭祀関係はよく知りませんので黙ってみていましたが、そう言う風に考えると
興味深いですね。

>>357
>蜀は規模の小ささ故か官位のインフレは起こっていなかったのでしょうか。
前に書いた右大将軍の他、右ヒョウ(馬+票)騎将軍も置かれているようなので、
小さいなりにインフレ現象はあったと思います。
また三公はともかく、下のほうでもかけている官が多く、制度的に不備であった
のだとも思います。

晋の八王ならぬ八公揃い踏み(太宰・太傅・太保・太尉・司徒・司空・大司馬・
大将軍)、ほとんど新並ですね。新は確か十一公でしたっけ。
359怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/13 08:16
>>358
>清代に作られた「三国職官表」
そうでしたか。魏の時の官秩や官品、三国志では滅多に分かるような記述がなかったように思ったもので。

頭越しの政治ってのは思いつきですが、祭祀の再編が官制の改革や新設と平行して行われている感があるのは、やはり何か関係があるからなのでしょうか。

蜀の車騎将軍とか驃騎将軍を左右に分けるのは、インフレなのかデフレなのか、という感じも。
確かに蜀は官が揃っていたのか分からない(というより揃っていないと思われる)という点が興味深いですね。

あと、新の十一公は、爵位としての「公」(太師安新公王舜など)の事を言っているようですね。
(漢書王莽伝、始建国元年)
360世界@名無史さん:04/07/13 23:47
 漢書王莽伝第六十九中によると、太師・太傅・国師・国将の四輔(上公)、大司馬・大
司徒・大司空の三公、更始将軍・衛将軍・立国将軍・前将軍の四将で十一公
 当初の時点では各々が公爵に封じられていますから十一公爵の意味で十一公と称したの
でしょうが、後任者の爵位は伯爵(大司馬武建伯厳尤を免職し、後任は降符伯董忠)だっ
たりします。
 また、同じ巻で「十一公士が諸方に別れて農業養蚕を勧め、四季の政令を頒布し、もろ
もろの様式を考察した」旨の記述がありますので、四輔・三公・四将の公クラスの総称と
して十一公と称することもあったのだと思います。
 なお十一公士とは十一公の士(つまり掾)だと解しています。
 同巻「七公と六卿の号にみな将軍の号を兼ね称せ」、この場合の七公は四輔と三公のよ
うです。ちなみに六卿は三孤を除く九卿でしょう。

 また国師公・国将公と言う表現も有ったようです。

 一つ疑問な点、なんで前将軍だけ四将のうちなんでしょうね?
361怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/14 08:28
>>360
ありがとう。そうでしたか。
私は十一公のその後のことなどまで見てなかったです。失礼しました。
確かに前将軍は前漢でのイメージからすると少々格落ちに感じますね。
どうなんでしょう。単にその当時の将軍位では上から4番目だったから?
よくわかりません。

祭祀続き。
これは祭祀とは少々異なるかもしれませんが、武帝は暦と上ぶ色の改正も行いました。
これは文帝の時の賈誼、公孫臣の主張に沿ったものと思われます。
武帝太初元年の改正により、今まで十月歳首だったものを正月歳首とし、赤色から黄色を上ぶように変えました。
また、数は五を基本とし、例えば官の印章を「丞相之印章」(漢書武帝紀注より)といったように五文字になるように作るようにしています。
これにより、漢の徳は「黄徳」と定められたことになります。
362怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/20 08:25
少々間が空いてしまいました。

祭祀続き。
甘泉の泰一、汾陰の后土については、3年に一度皇帝自ら郊祀し、泰山は5年に一度修封(封を修繕?)することになっていたそうです。
実際にはそう定期的でもないようですが、確かに武帝はしばしば甘泉や河東汾陰に赴いて祀っています。

それに対し、武帝を継いだ幼帝、昭帝はついにそれらの祭祀をみずから挙行することはなく、長安から出ずに死んだようです。
また、その次の宣帝も、自ら甘泉、河東に行ったのは即位してからずいぶん経ってからです。
政治面から考えるとそれは霍光による専権体制が崩れて以降の話であり、霍光の元では両帝とも長安から出してもらえなかった、ということになります。
宣帝は霍光死後、霍氏を排除して以降は武帝のようにしばしば甘泉、河東に行幸しており、当時としてはそれが皇帝が本来なすべき仕事だったということになるのではないかと思います。
363怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/20 23:57
祭祀続き。

宣帝は親政後、五嶽(泰山、泰室、潜山、華山、常山)、四トク(河、江、淮、済)祭祀を整理しています。
それぞれ持節の使者が代理したらしく、これらの祭祀は本来は皇帝が行うべきものだったのでしょうか。
宣帝はさらにその他にも様々な祭祀を始めており、このあたり武帝そっくりかもしれません。

その宣帝を継いだ元帝は甘泉泰畤、河東后土、雍五畤を祀るという基本路線を守っていたらしく、その点では特筆すべきものもないのですが、元帝の時に皇帝の宗廟改革問題がまきおこっています。
364怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/22 08:28
祭祀続き。

前漢皇帝廟制度の変遷については、何故か(改革に絡んだからでしょうが)漢書韋玄成伝に詳しいです。
それによると、漢では高祖が諸侯王の都に太上皇廟を立てさせ、また後には太祖(高祖劉邦)廟、太宗(文帝)廟世宗(武帝)廟を、それぞれ行幸したことのある郡国に立てさせています。
廟は祖先祭祀のためのものでしょうが、当時は必ずしも祖先祭祀のためとはいえない「廟」が各地に立てられていたことになります。
またそれとは別に、京師でも皇帝陵ごとに廟を立てているため相当な数に上り、廟や寝、園に供えるお供え物やら衛士やらがものすごいことになっていた、といいます。
そしてまた、「天子七廟」という廟制から考えると、元帝の頃には廟主の数が七を越え、廟主を交代しなければならなくなっていたのです。
(高、恵、文、景、武、昭、宣の七帝に加え、高祖の父である太上皇と宣帝の父である悼皇も廟に加えており、9人になっている)

前置きが長くなりましたが、元帝以降に起こった廟制議論は、
1 本来の礼制に合わない郡国廟制度の改廃
2 廟等の経費削減
3 「天子七廟」により廟主から降ろす皇帝の選定
という三つの別々の目的があったと言えるでしょう。
一見するとどうでもいいようなことをくどくどと言っているだけのようにさえ見えるかもしれませんが、当時増加していた儒者系官僚にとっては思想上の大問題ですし、それ以外に経費削減という極めて現実的な問題も絡んでいたようなのです。
また、そもそも悼皇を廟に入れるべきか、などといったデリケートな問題も含まれていたようです。
そして何より、当時の祖先崇拝への意識を考えると、皇帝の祖先について議論するのですから、当時は単に位牌をどうするか、というどころではない大問題だったと想像されます。
365怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/23 08:32
祭祀続き。

元帝のとき、時の御史大夫貢禹が恵帝、景帝廟の「毀」、即ち廟主から降ろす事と、郡国廟の廃止を進言します。
なおこの貢禹は口銭徴収開始年齢引き上げや、長楽宮、甘泉宮等の衛卒削減などの立案者でもある儒者(公羊伝)です。
彼は本格的な議論前に死にましたが、元帝は永光4年に郡国廟廃止について議させました。
結果、時の丞相韋玄成らは廃止すべきと結論を出し、奏可して決定されました。

それから数ヵ月後、続いて宗廟についても同様に議するよう詔が下されます。
それにより整理されたところでは、まず当時は四廟+創始者等の廟最大3(こちらは代を重ねても廃止しない)を立てるべきだとの考えが一般的だったらしく、新しいほうから4つを残して全て廃止すべし、との意見がでました。
丞相韋玄成らは高祖(太祖)だけが後者に該当し、太上皇、恵、文、景まで廃止すべしと言っています。
しかし、一方で文帝を太宗として、高祖同様に永続させるべきだとの意見も大司馬車騎将軍許嘉らからだされましたし、廷尉尹忠は武帝を世宗としてやはり永続すべしと言います。
また、皇帝ではないのに皇帝廟に入っている皇考(宣帝の父、悼皇)廟の廃止を主張するものも少なくありませんでした。
要するに意見が分かれたのです。
366世界@名無史さん:04/07/23 20:48
 はるか後代の明の頃でも「大礼の儀」なんてありましたね。
 兄弟の後を継いだ嘉靖帝が皇位につかなかった実父を皇孝(父)とし、
名目的に養父となる前々皇帝弘治帝を皇伯父とする呼称上の簒奪を行い、
それに反対した官僚を弾圧した事件。
 確か宋代にも似たような事件がありましたし、李氏朝鮮でもあったようです。
 松平定信が関わった尊号事件も性格が似ている感じがします。
 実際に説が対立する場合もあったのでしょうが、どうも実際は反対派を蹴
落とすために政治的に利用されたことも多いような印象を受けます。
367怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/25 00:37
正直どれも良くは知りませんが、宋代のといえば濮議ですね。
仁宗のあと、英宗が濮王の子から後を継いだことによるもので、実父濮王の扱いについての政争ですよね。
これなんかは政治的に利用された面が強そうですねえ。

前漢では宣帝の実父、史皇孫と、哀帝の実父、定陶共王、さらに平帝の実父、中山孝王と、実父が皇帝でなかったことがあり、毎回騒動の種になっています。
史皇孫は悼皇、定陶共王は共皇として廟を立てられました。
哀帝は成帝の子として皇太子にされながら、即位後に約束を反故にして実父を追尊しました。
平帝の時は、事実上王莽政権下であったため、王莽は厳重に実父関係者と平帝の連絡を絶ってその手の動きを封じましたが、そのために王莽の長男らによる謀反事件「呂寛事件」が起こっています。
368怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/25 22:12
祭祀(宗廟)続き。

>>365の丞相韋玄成らの上奏は、こういうことです。
残す4廟:武、昭、悼皇(皇考)、宣
別格として永続:太祖(高祖劉邦)
廃止:太上皇、恵、文、景

そして、おそらく許嘉らは丞相案に、さらに別格として文帝を加え、太上皇、恵、景の3廟を廃止にすべし、という主張でしょう。
意見が割れたことを重く見たのか、元帝は1年ほど結論を先送りしました。
しかし1年して元帝は太祖廟、太宗(文帝)廟を永続とし、その他の対応を考えるべしとの見解を示しました。

ここで面白いことに、丞相らはそれに対して、太祖・太宗廟を永続させ、5つの廟に皇帝を配するべし、と言っています。
それまでは親廟は4廟といっており、普通の廟は4つと考えていたようなのですが、なぜか1つ増えてます。
で、景帝、武帝、昭帝、皇考、宣帝の5廟を残す、との結論をだします。
どうも、皇考廟の措置については先送りしたというのが真相のようですが・・・。
で、太上皇と恵帝廟は廃止とされました。

武帝を「世宗」とする案は採用されませんでした。
この辺ちょっと面白い。当時は武帝はそれほど特別扱いされていなかったということでしょうか。
369怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/27 08:28
祭祀続き。

また宗廟に続き、寝園にも改革が加えられました。
全ての寝園を廃止すべしとの声もあったようですが元帝は同意せず、とりあえず孝文太后(文帝の母薄氏)と孝昭太后(昭帝の母趙氏)の寝園廃止が提言され、裁可されています。
おそらく、両名は正式に皇后に立てられていないためでしょう。

しかし、先に行った郡国廟廃止について、丞相が韋玄成から匡衡に変わった後、元帝やその弟楚王が廃止について先祖達から怒られる、という夢をみたという事件が起こります。
これにより元帝は復活を考えたらしいのですが、丞相匡衡は強硬に反対しました。
夢で政策が大転換しそうになるというのはいかにも古代という感じもしますが、それだけ先祖(祖宗)の霊とか天譴とかいったものが素直に恐れられる時代だったというところでしょう。

なお、高祖ら祖宗に祷を奉ったりしたものの元帝の体調不良が改善されなかったとのことで、一部寝園の廃止については後に復活しています。
しかし郡国廟については廃止が堅持されました。
おそらくですが、行政サイドとしては郡国廟廃止が最優先で、寝園復活は妥協の産物だったのでしょう。
また、最終的には武帝も世宗として永続される廟の仲間入りを果たしています。
370怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/28 00:19
祭祀続き。

丞相匡衡の時に元帝が崩御しました。
丞相匡衡らは、せっかく病気が治るのを期待して寝園を復活させたのに効き目なかった、と言い、改めて幾つかの寝園の廃止と、元帝が宗廟に入ってきたことによる景帝廟廃止を提案し、裁可されました。
この時点では、太祖(高祖)、太宗(文帝)、世宗(武帝)、昭帝、皇考、宣帝、元帝の七廟ということになります。

なお、この丞相匡衡は長安南北郊(後述)の進言者であり、高名な詩経学者でした。
韋玄成ともども、儒者の列に連なる者が中心になって宗廟や祭祀を改革しているのです。

成帝の時代は、宗廟については大きな変化はなかったと言えるでしょう。
しかし、成帝が廟主になると、大問題が発生します。
371怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/28 08:21
祭祀続き。

成帝が崩御し哀帝が即位すると、当然成帝を宗廟の主としなければなりません。
そこで宗廟の廟主を変更しなければならなくなるのですが、完全に別格とされた太祖・太宗と違い、武帝については意見が分かれていたのは上述の通りです。
そして、この時こそ普通にいくと武帝が廟主の座から追いやられる位置にいました。
そこで群臣の議論の結果、二つの意見が出されました。
一つは多数意見と思われる、武帝はあくまでも太祖・太宗ではなく、廃止されるべき五廟の一つであるから、どんなに功績があっても廃止すべきだ、という意見。

そしてもう一つは、太僕王舜、中塁校尉劉キン(音欠)の意見です。
この意見は、今までの宗廟に対する考え方自体を変えてしまうものでした。
彼らの説は、「宗は無数なり」というもので、要するに「○宗」は幾つあってもよく、天子七廟の数え方に「○宗」は入れなくて良い、というものだったのです。
それまでは、永続させるのが2廟の説と3廟の説があったようですが、いずれにしても全部で七廟までに収まるようにしていたので、この新説はその「全部で7つ」という一種の固定観念を破壊してしまうものだといえるでしょう。
結論として彼らは武帝の世宗廟は廃止するべきでない、と言い、哀帝はそれを裁可しています。

思うに、この劉キンらの「天子七廟」解釈こそが後の時代の「○宗」乱立を生んだのではないかと思いますが、いかがでしょう。
372世界@名無史さん:04/07/28 22:18
祭祀については書くべき知識がありませんので黙って見ていますが、
興味深く読ませて頂いていますので続きまってます。
373怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/29 08:14
>>372
そう言っていただけると幸いです。
私も特に詳しい訳でもないので、より詳しい方の教えを受けたいところです。

祭祀続き。
平帝の時代、即ち王莽の時代、宣帝の父、悼皇廟を「本義に乖繆す」として廃止、また孝文太后、孝昭太后の陵の廃止がなされています。
廟制については、王莽は元始4年に宣帝廟を中宗、元帝廟を高宗と尊び、「○宗」を二人追加しました。
まさしく哀帝の時の議論どおり、「宗は無数なり」という状態となったのです。
(ご存知の方も多いでしょうが、その説を述べた劉キンといえば王莽の腹心として有名ですね)
374怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/30 08:00
祭祀続き。

宗廟についてですが、実は王莽により立てられた中宗、高宗は後漢でも継承されています。
(後漢書孝安帝紀、延光3年に「二祖六宗」=太祖、世祖、太宗、世宗、中宗、高宗、顕宗、粛宗という表現がある)
またそれを見ても分かるように、後漢でも「○宗」は増えており、「宗は無数なり」という劉キン説が捨てられていない事がわかります。
哀帝が少数派であったはずのこの説を採用したのは慧眼だったということなのでしょうか?
375世界@名無史さん:04/07/30 14:10
まったりsage進行もいいですが、余りに沈みすぎたので、たまには教養age。
376怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/07/30 21:39
祭祀続き。

話が前後しますが、前漢の祭祀を考える上での大問題の一つかもしれない「長安南北郊」について。
これを議案として出したのは、先に宗廟問題でも出てきた成帝の時の丞相匡衡です。
これは要するに今まで甘泉と河東で行っていた天地の祭祀を、長安で行いましょう、というものです。
真意は、おそらくですが財政的な問題が大きかったのではないでしょうか。
長安で祭祀が出来れば行幸やそれに付随する費用が浮きますから。
そういった現実的な側面を儒者系の官僚が思想的に補強あるいは言い訳した、というのが真相なのかもしれません。
そして、そういった行財政改革を思想的に裏付けられるからこそ、儒者官僚勢力はこの時期に大躍進した、なんてのは流石に妄想が過ぎますか。
377おぎまる ◆JJi5gOTcvk :04/08/01 22:21
わたしは制度史の門外漢なので意見を余り述べられないのですが、
このスレは興味深く拝見しております。
スレを読んだなかで気になることを述べます。

>335さん
>ちなみに漢和辞典を見ると后は本来あなと口からなり、尻の穴(尾篭な話で
すが)の意味で、転うしろ、借りて君主、きさきの意味らしいです。

この語源の説明は清人朱駿声の『説文通訓定声』によるものですね。
彼が道端で放尿していたあかんぼうを見て思いついたのだそうです。
ただ、朱説は「おしりのあながなぜ君主の意味になるのか」という
言葉の意味の変遷に対する説明が非常に弱く(単に読み方が変わっただけだという)
尾篭な語を貴人を表す名詞にしてしまった理由が全く説明されて居ません。
わたしは誤りでは無いかと疑って居ます。
尚、后は諸橋轍次によれば尸と口の形声字で、尸(かたしろ)すなわち
神の言葉を伝える代理人(私見では口は神の言葉を伝える意味ではないかと)
を表し、神を祭ることが君主の権限であったから君主の意味に用いる、
後の意味は音通であるとしていますが、こちらの説の方が論理に矛盾が無く
より正答に近いのではないかと思います。
378怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/03 08:28
>>377
ありがとうございます。今後も何か補足等ありましたらお願いします。
后の字義については専門外ですが、おっしゃるような神の代理人的意味が本義だとすると、今私が紹介している前漢の時代はそういった感覚が実感として残る最後の時代という感じがします。

祭祀続き。
長安に南北郊を作り、そこに甘泉・河東の天地祭祀を遷すという丞相匡衡の議案に対し、反対したのは外戚の大司馬車騎将軍許嘉ら8人。
どんな肩書きの8人かわかりませんが、その時の集議の賛成者50人に対して劣勢でした。
さらに、賛成者の中には外戚である右将軍王商(のちの丞相)のほか、儒者として高名な師丹(匡衡の弟子)やテキ方進(春秋の大家で劉キンの師匠、のちの丞相)などもいました。
輔政者である大司馬大将軍領尚書事王鳳は集議に加わらなかったのでしょうか。
(輔政が皇帝の代理、摂政だとすれば、皇帝の諮問に応じる形の集議に参加するのは筋違いと言うことなのかもしれない)
成帝は多数意見であった長安南北郊を裁可し、また、秦より受け継いだ雍の幾つかの祭祀の廃止も裁可しています。

匡衡らはその他「礼」にない祭祀の整理を進め、各地の祭祀683箇所のうち475箇所を廃止すべきと言っています(裁可されている)。
なかなか大胆な祭祀制度の改革であり、当時はさすがに反発、抵抗も少なくなかったでしょう。
前にも言いましたが、当時の儒者系官僚は基本的に急進的とさえいえる改革派だったのです。
379怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/04 08:33
祭祀続き。

しかしながら、匡衡がのちに罷免されると、祭祀改革に対する反動が始まります。
変異の発生や、成帝自身が後継ぎに恵まれない(生まれるのだが育たない)といったことから、成帝は甘泉・河東祭祀等の復活を考えます。
ここで面白いのは、復活を命ずる詔が成帝自身からではなく、彼の母である皇太后王氏(王鳳の兄弟、王莽の伯母のいわゆる「元后」)からの詔という形を取ることです。
皇帝自身で一旦決定した以上、皇帝が前の決定を覆す訳にはいかなかった、ということでしょうか。
しかしながら長安南北郊を期待する声もまたあったらしく、ついに成帝が自らの継嗣無きまま崩御すると、今度は皇帝の意思に従う、と皇太后はまた長安南北郊の復活を命じています。

このあたり皇帝の極めて個人的な事情で左右されている部分がなきにしもあらずですが、当時は天人相関説全盛期であり、祭祀をしっかりしなければ責任者たる皇帝に災いがあるかもしれない、という意識があったと思われますので、ある程度は仕方の無いことなのかもしれません。

次の哀帝の時代、哀帝の病状が芳しくない時に、方術師の類が呼び寄せられ、各地の祭祀等もかなり復活されたようです。
しかもまた皇帝の健康のため、と甘泉・河東祭祀をまた復活するという太皇太后王氏(さっきの「元后」)の詔が出されます。
当時は哀帝の実の祖母、傅氏が強い影響力を持っていた時代で、彼女らが守旧派とつながり成帝末期になされた官制改革も覆されている時代ですので、あるいはこの措置もそういった守旧派によるものだったのかもしれません。
380世界@名無史さん:04/08/04 19:50
>成帝自身が後継ぎに恵まれない
 綱吉の生類哀れみの令みたいな話ですね
381怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/06 22:17
>>380
確かに似ているかもしれませんね。考え方みたいな面が。
まあ成帝の時も哀帝の時も、守旧派と改革派の綱引きによって政策が左右された面もあったんじゃないかとは思いますが。
いずれにしろ、天子や宰相の失政に天やら祖先神やらが譴責を下す、という世界観のようですから、我々の感覚では捉えづらい部分もあるんじゃないかと思います。
上では省いてますが、実は宗廟の制度について論議する事自体が禁止されていたようですし。
382怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/10 08:14
祭祀続き。

前漢における天地の祭祀については、王莽の時に一応の決着を見ます。
王莽は平帝元始5年に、丞相匡衡の長安南北郊制度に戻す事を建言、当然裁可されています。

そしてこの王莽の時の南北郊制度が、後漢にも引き継がれています。
続漢書祭祀志によると、後漢光武帝の時に洛陽に「郊」を作るとき、「元始中故事」に依った、というのです。
宗廟制度と同様に、ここでも王莽が大きな役割を果たしていたことになります。
383怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/14 17:20
さて、別の事も語ってみましょう。
前漢末の官制改革について、愚見を。

前漢末の官制改革は、上で私がうだうだ書いていた祭祀制度改革と同様に、主に儒者系の官僚が主導した面が強いと思われます。
しかしもちろんそれが全てではありませんが。
この時期の改革は最終的にはほとんどが後漢にも引き継がれており、新という中断こそありましたが、新たな時代に対応する制度改革だったと評価できるのではないでしょうか。

まず、改革の沿革について。

前漢末の改革で大きなものといえば、やはり三公制ではないでしょうか。
ここでも既に紹介したとは思いますが、もう一度。
これは成帝綏和元年に施行されたもので、副丞相である御史大夫を大司空、大司馬将軍を単なる大司馬として丞相と合わせて同格の三公とし、その三人をいわば国政の最高責任者とするものです。
丞相はそのままですが御史大夫は格上げされ、また将軍の筆頭というべき存在であった大司馬将軍は、大司馬として官僚機構内の位置を再確認した、というところでしょうか。
もちろん、それに伴っておそらくは職務分担も再編され、事務移管などもあったことでしょう。
現代日本で例えば総理大臣を2名にするとか言ったらそれなりに大事件になるであろうというのと同じで、この時も漢の重大事件だったと思います。

さらに、三公制はそれだけで独立した改革ではないという面もあります。
同年には部刺史制を州牧制に改称していますし、前年には司隷校尉が廃止されています。
この時代は、改革の時代だったのです。
384怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/15 00:25
改革続き。

この綏和元年の三公制施行の際の当事者達を紹介します。改革の意味や流れを理解する助けになるかもしれないので。

丞相:テキ方進
彼はこの時在任8年目という長期政権です。
彼はかつて丞相司直として辣腕を振るった人物ですが、同時に小吏から身を起こした苦労人の大学者でもあります。
春秋穀梁伝、左氏伝と、星暦天文とに通じており、こちらの分野でも只者ではありませんでした。
しかし一方で政治家としても弾劾によりしばしば外戚王氏系の者を放逐するなどの切れ者ぶりと、官制改革を進める手腕とを兼ね備えていたようです。

大司馬驃騎将軍:王根
かの外戚王氏(成帝の母王太后(元后)の一族)です。
彼は王太后の弟で、成帝即位当初の大司馬大将軍王鳳以来、大司馬将軍は常に王氏が就任していました。
しかしどうやら王氏は最初の王鳳とその次の王音、最後の王莽以外はあまり優れた人物とは言い難かったらしく、彼にはワイロをもらって哀帝の立太子を手助けした、という話が伝わっています。

御史大夫:何武
彼の就任翌月には三公制が開始しています。
彼もまた儒者であり、郎の時代からテキ方進とは交友があったそうです。
要するにテキ方進派であり、また州牧制の施行を建言するなど、改革派であったと言えるでしょう。
もしかすると、三公制施行も彼が無関係ではないのかもしれません。(漢書にそう明記されている訳ではないですが)
385世界@名無史さん:04/08/17 17:09
大司馬驃騎将軍
これって驃騎将軍と大司馬を兼ねているって事?
あるいは驃騎将軍は役職ではなく身分?
386怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/18 08:14
>>385
これについてはこのスレ>>19あたりで書いています。
これが正しいかどうかという問題はあるんですが・・・。

改革までは、大司馬は称号か加官のような存在と思われ、役職といえるのは将軍の方でしょう。
(改革後の三公の一つとしての大司馬や、魏などに見える大司馬などとはまた違います)
漢書霍光伝によれば、右将軍から大司馬(将軍はつかない)にされた霍禹は、今まで持っていた右将軍の兵や官属を取り上げられ、位はあっても兵や官属を持たない名誉職にされてしまったと記録されています。
(宣帝が彼を干そうとした措置。これから、大司馬だけでは兵の指揮権や職務を持ち得なかったことがわかります)
387世界@名無史さん:04/08/18 20:31
大司馬って旧日本軍の元帥(階級上はあくまで大将で名誉称号)みたいですねage。
388怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/19 08:18
>>387
お恥ずかしながら旧日本軍の階級制度の方はよく分からないんですが、
>階級上はあくまで大将で名誉称号
を見る限りは大司馬と似たようなものだと言えると思います。


改革続き。
この時の改革によってどのような変化があったのでしょうか。

丞相はそのまま。
大司馬将軍(この時は大司馬驃騎将軍)は、将軍を外した上で官属を置いて三公の一つとして改組。
御史大夫は大司空と改称し、丞相同様に就任者を列侯に封じ、俸給も丞相、大司馬に合わせた。

これにより、
丞相
大司馬
大司空
という三公制となりました。
ここで気になる事の一つは将軍を外した事で軍事権が取り上げられたのかどうかということでしょう。
正直なところよく分からないのですが、代わりの筆頭将軍が置かれていないようなので、軍事権自体は大司馬が掌握した可能性も否定できません。
(皇帝直属とした、という可能性もあるかもしれませんが)

また注目すべきは、三公とは言っても同格ではなく、丞相が名称など上位に置かれたらしい点です。
これは、当時の丞相テキ方進の政治的実力への配慮や、逆に大司馬となる外戚王氏の発言力が低下していたというあたりと無関係ではないと思います。
389怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/22 21:29
改革続き。

この時の官制改革は、三公制だけではありません。
全て同じ目的とまでは言えないにしろ、ある程度の方向性を持つ一貫した改革だと考えるべきでしょう。
さらに言えば、これまで私が語っていた祭祀制度、宗廟制度の改革ともある程度は関連しているかもしれません。

同時期の他の制度改革と呼べるものには、以下のようなものがあります。

・司隷校尉廃止(元延4年)
・部刺史から州牧への改称、増秩(綏和元年)
・諸侯王内史廃止(綏和元年)
・県令・県長を全て黒綬へ(綏和元年)

少なくとも下3つについては、三公制と同年の施行ですし、上の司隷校尉廃止は前年。
では、これらはそれぞれどういった目的を持つ改革だったのでしょうか。
390怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/23 08:27
改革続き。

司隷校尉廃止については、このスレ>>182あたりで私自身が言及していますが、廃止の理由については明記はされていません。
しかし、そこで書いたように、丞相司直との職務面での競合、政争が影響したのではないかと考えます。
表向きには冗官廃止と言えますし、実際には監察官の一元化を図り、また生臭い政治的な面としては丞相の元へ権力を集中させる効果が期待できます。
(丞相司直は健在であったため、司隷校尉廃止により丞相司直ひいては丞相の権力・重要性が相対的に増大する)
漢書テキ方進伝を見ると、どうも成帝頃の司隷校尉は外戚王氏に近い立場の者が少なくなかったようにも思え、王氏と丞相の政治闘争の結果がこの廃止だったのではないかと勘ぐってしまいます。

また、州牧制と諸侯王内史廃止は、漢書何武伝に何武とテキ方進の建言だとあり、三公制ともども何武の企画立案だったことが分かります。
そして彼はこの時の御史大夫であり、また丞相テキ方進とは駆け出しの頃からの旧知の仲であったとされており、どれも当時の丞相の側から出された政策であったことが分かります。
諸侯王内史の廃止はこれこそ冗官廃止(諸侯王領の削減により相と内史の職務が重複し、分置する必要がなくなっていた)と思われますが、
これはこれでそれなりの高官のポストを削減するのだとは言えるでしょうし、企画立案した丞相側のそれなりの政治力を物語ってはいるかもしれません。
391怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/26 08:07
改革続き。

この時の改革の中でも、>>389の一番下「県令・県長を全て黒綬へ」というのについては少々解説を。
印の材質、綬の色は官僚のランク等によって区別されており、
比二百石以上で比六百石未満では銅印黄綬
比六百石以上で比二千石未満では銅印黒綬
です。
そして県令・県長の官秩は、令は六百石から千石、長は三百石から五百石までとされております。
そのため県長は本来銅印黄綬なのですが、今回の改革によって県長も全て銅印黒綬に格上げされたことになります。
権限や俸給が変わったわけではないのかもしれませんが、多少なりとも県の長官の権威を増し、優遇する措置だといえるでしょう。

あえて言うなら、微妙な措置とはいえ、県という漢の支配体制の基本ともいえる組織の引き締め、支配の強化につながるものなのではないでしょうか。
となると、州牧制と実はセットで企画、実行された政策だったのかもしれません。
392怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/29 23:55
改革続き。

州牧制については、>>244>>245を参照してください。
繰り返しになるかもしれませんが補足すると、
当時の郡県の支配体制の弱体化に対応しようとする面と、
官界の秩序を再編しようという面があるのではないかというところでしょうか。

部刺史で問題なのは、官秩が低い=官歴の浅い刺史がより高級な太守を監察、指導、弾劾するという官僚の秩序からすると逆転現象が起こることです。
しかしこれは、部刺史が官秩は低くても皇帝により近いのに対し、
太守は皇帝から離れて好き勝手する可能性のある、時に皇帝から睨まれる存在だという、
皇帝からみた遠近というもう一つの官界の秩序に依っているのでしょう。
しかしそれを敢えて崩すというのは、皇帝による支配にとってはかならずしもプラスではないのではないかと愚考します。
官僚の秩序があまりに堅固になりすぎると、皇帝がつつく隙間がなくなってしまいます。

部刺史が身分は下でも皇帝の側近だという意識があればこそ、太守は刺史の向こう側の皇帝を恐れるのではないか、ということです。
州牧が太守と同格または上位になってしまったら、太守にとって州牧は上司というだけで、皇帝の威光を感じなくなってしまうのではないでしょうか。


これは少々妄想じみてしまいましたが・・・。どのみち誰も見てないか。
393世界@名無史さん:04/08/30 12:10
>>392
そんなやさぐれんでも……俺は見てますよ。
細々でも続けてもらえるといい。
394世界@名無史さん:04/08/30 13:04
>>392
逆じゃないかな?
刺史が太守の権限を侵さないようにさせる為の措置だと思う。
軍隊で言うところの憲兵。
太守が悪いことをしなければ何の権限も持てない形じゃなかろうか?
395怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/08/31 08:14
>>393
いやあ、見ていただける人がいれば、続けますよ。
ただ、私のペースも落ちたとはいえ10日以上前から私独りだったものでつい。
何かご意見やネタがあったらお願いします。

>>394
確かに、私は「何故刺史が後に領主化していったか」というあたりから発想していたかもしれません。
少々勇み足だったかも。
元々の刺史があなたの言うところの
>太守が悪いことをしなければ何の権限も持てない形じゃなかろうか?
という性質のものだった筈で、それが揺らいできていたからこそ州牧制により引き締め、監察官としての本分を再確認させる・・・という意味合いもあったのかもしれませんね。

漢書朱博伝には、刺史の巡察に対して本来管轄外である事についてまで訴え出る人が多かったらしい事情が記録されています。
(そのエピソードは実は朱博を困らせようとする部下の策略だったりするのですが、多分そういう管轄外の訴えなんかも実際あったんでしょう)
刺史は前漢末頃、州牧制前の段階で太守の上級行政官化が始まっていたようです。
州牧はそれを追認してしまうようなものだったのか、それとも抑えようとするものだったのか。
どっちでしょうね。
396世界@名無史さん:04/08/31 19:48
先週から読ませて頂いてます。
ネタを投下できりゃ良いのですが
まだまだ勉強中なんで
ひっそりと応援するに留めてます。

397世界@名無史さん:04/08/31 21:26
見てはいるんだけれど
正直着いていけない・・・
もうちょい平易な話題も欲しかったり・・・
398怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/09/02 08:27
>>396
それはどうもありがとう。
私が今している事とは別に質問、意見などあればいつでもどうぞ。

>>397
どういった話題がいいんでしょうかねえ。良かったらその辺教えていただければ善処します。

改革続き。

成帝の時の改革についてまとめると、こういう傾向が見られるように思います。

・儒者官僚による企画、立案、施行
丞相テキ方進、御史大夫何武といった企画した政権担当者は儒者です。
儒者が改革者であったというのは、後の王莽時代にもつながる事ではないでしょうか。

・外朝側主導で、外戚、皇帝側近といった内朝側勢力の弱体化
刺史、司隷校尉といった皇帝側近監察官の改組、大司馬将軍の三公化は、内朝を一つの勢力としてみた場合には弱体化ではないでしょうか。
この時の改革は外朝(丞相)主導であり、王氏に代表される内朝はむしろ風下に立たされた感があります。

・支配体制の再編、引き締め
曲がり角を迎えた漢の地方支配体制を多少なりとも改革再編し、再建しようとしていたのでしょう。
この頃、各地で反乱などが起こっており、豪族勢力の伸張や中小自立農民支配の揺らぎなどに、いくらかでも対処しようとする部分が含まれているように思われます。


儒者による支配体制引き締めのための改革という点では、王莽が新において作った諸制度に通じるところがあるように思うのですが、どうでしょう。
399世界@名無史さん:04/09/04 19:53
寂しいからage
400怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/09/06 08:24
改革続き。

成帝時代の改革については、次の哀帝の時代、一旦は守旧派朱博政権になって三公制、州牧制などは元に戻されます。
しかしこの時は哀帝の祖母傅太后が実権を握っていた時代で、哀帝自身はむしろ改革派でした。
(傅太后は当時の政権担当者たちが改革派であったため、それらを排除して政権を握るため非主流派だった反改革派を利用したのでしょう。)

哀帝は傅太后死後に、おそらくは自分が主導する形で三公制を復活させています。
この三公制は「丞相」の号を廃止し、大司馬を筆頭に置き、またかつての丞相司直に当たる官を三公全てに置くという、より三公を平均化した制度でした。

大司馬 ・・・司寇(三公制再施行前年に護軍都尉から改称)
大司徒 ・・・司直
大司空 ・・・司隷(哀帝が綏和2年に復活させた)

これにより名称上は前回のような丞相の優越が解消されたと考えられますし、直属監察官も三公全てについているので、機能上もより平均化されたと考えられるのではないでしょうか。
401世界@名無史さん:04/09/08 23:10
岩波書店「木簡・竹簡の語る中国古代史」冨谷至著より『里と亭について』

「漢書百官公卿表」
 大率(おおむね)、10里1亭、亭に長あり、10亭1郷、郷に三老・有秩・嗇夫・游
徼あり。三老は教化をつかさどり、嗇夫の職は、訟を聴き、賦税を収む。游徼は徼循して
賊盗を禁ず。
 県は、大率(おおむね)、方100里、其の民、稠ならば則ち減じ、稀なれば則ち広ぐ。
郷亭も亦た之の如し。

「漢官旧儀」
設けるに10里に1亭、亭長・亭候あり、5里に1郵、郵間、相い去ること2里半。

「漢旧儀」 
設けるに10里に1亭、亭長・亭候あり、5里に1郵、郵人、間に居る。

 従来は、この場合の里が里程なのか、面積なのか、集落なのかが不明で、どの解釈を採
るかによって、郵亭の理解が全く異なったものなっていたわけです。

『新出資料』
江蘇省連雲港市尹湾漢墓出土の「集簿」(漢代東海郡の行政組織の記録)
 県邑侯国48県18侯国18邑二其24有城(土+侯)郡官二
 郷百七十□百六里2544正2532人
 亭688卒2972人郵34人408如前
 界東西551里南北488里如前
 県三老38人郷三老170人孝弟力田各120人凡568人
402世界@名無史さん:04/09/08 23:11
湖北省江陵張家山漢墓出土「二年律令」中の郵亭の制度に関する「行書律」
 10里ごとに1郵を置く、南郡の江水以南から、索県の南水に及ぶ地域は、20里ごと
に1郵、1郵には12室、長安の広い郵は24室、警事の郵は18室、古くなり使用でき
なくなれば、撤去する。
 代替地に田宅があり、子供がいる戸口が含まれておれば、それらを減少させてはならな
い。
 郵人に制書、急書を伝達させる時、用役を免除し、他の用事をさせない。
 治安が悪いと所、国境に近いところで、郵を置けないところには、門亭卒、捕盗に配達さ
せる。
 北地、上、隴西の諸郡は、30里に1郵、険しいもしくは狭い土地で郵を置けないとこ
ろは、適宜処理して設置してもよい。
 郵には各の席を具え、井戸と石臼を備えておく、吏が公用で出張し、従僕がいない場合
には、郵が食事を用意する。従僕がいる場合には、食器等を貸与し、いずれの場合も給水
の便を提供する。

 以上から「漢旧儀」、「漢官旧儀」の里とは里程であり、面積や集落ではないという解
釈が導き出されるようです。
 また同じ「二年律令」の264簡には、10里置1郵および、20里1郵とあるそうで
す。10里に1郵を置くと言うところからもこの場合の里は距離の単位と考えられるよう
です。なお資料によって間隔が異なるのは、時代又は場所の違いと言うことのようです。
 ちなみに亭と郵の違いは、警察機能を持った郵が亭と言うことのようです。

>従僕がいない場合には、郵が食事を用意する。従僕がいる場合には、食器等を貸与し、
いずれの場合も給水の便を提供する。
 従僕が食器等を運んで食事も準備したのでしょうが、食材はどうしたんでしょう?
403世界@名無史さん:04/09/08 23:13
 同じ本ですが、書籍と手紙は早くに紙に置き換わり、戸籍等のフォーマットのある帳簿
類はかなり後代まで竹簡であり続けたようです。
 おそらくは東晋初期の戦乱で西晋以来の戸籍が焼失し、再建のさいに紙に変わったもの
らしいです。通典食貨史によると328年以降の戸籍は紙であったようです。
 木簡と竹簡は本来用途が異なり、竹が生息しない辺境部でのみ木簡が帳簿類に使用さ
れたとも。

 また魏晋のころの皇帝直筆の詔は青紙に書かれたようですが、これは漢代には詔が書
かれた竹簡を青布で包んで封印したことから移行したものらしいです。
404怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/09/10 08:11
>>401-403
その本は私も一応読みました。全部は憶えてないですけど・・・。

>漢代には詔が書かれた竹簡を青布で包んで封印したこと
これにまつわる小ネタ。もしかすると冨谷氏の著書にもあったかもしれませんが。

漢書丙吉伝によると、
辺郡に異民族の襲撃等があった場合、そのことを伝える緊急の文書「奔命書」は赤と白の袋(嚢)に入れていたそうです。
その派手な色のお陰で、中身を見なくとも奔命書だと分かり、最優先で処理するようになっていたということでしょう。
(丙吉伝では、部下が奔命書の嚢を見てあらかじめ異民族襲撃を知ったお陰で丞相丙吉は異民族襲撃に早く対策を立てた、という話が見えます)

また、漢官儀などによると密事の上奏文(封事)は黒い袋だったとか。

簡牘の時代においては、それを入れる袋の色も重要な情報を含んでいたようです。
405怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/09/13 08:16:42
>>400の改革続き。

この哀帝による新たな三公制は、王莽時代を経て後漢に至っても継承されたと見ていいでしょう。
後漢では司直他の監察官は廃止され、名称は
太尉、司徒、司空
の三公となりましたが、基本線は哀帝の時のものが維持されたと思われます。
(今度は丞相でなく太尉が名称上特別扱いされた、という点はありますが)

この後漢の制度は後漢末まで変わらずに使われ続けており、儒者、哀帝、そして王莽による三公制は、基本的には時代に対応した制度だった、といえるのではないでしょうか。
406怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/09/16 08:17:14
改革というより革命。
前漢末、王莽の簒奪より前に、哀帝は自ら再受命する、と言い出します。
そのプロデューサーである夏賀良、李尋ら(漢書李尋伝)は、
皇帝の病気や後継ぎが生まれない事、災異の続発などは、
漢の命が既に期限切れであるのに更新していないからだ、と説きます。
それを採用した哀帝は建平2年に再受命を宣言。
「陳聖劉太平皇帝」と称し改元、漏刻を120刻みとし(今までは100刻み)ます。

これは大臣の反発を受け、哀帝の病状に改善が見られなかったこともあって、
1月ほどで撤回され、企画者夏賀良らは不道により処刑されました。
しかしながら、このような「漢の命数は既に尽きている」という思想自体は、王莽の時まで残ったのだといっていいのではないでしょうか。
(言い方を変えると、この思想は彼らだけでなく、当時の比較的ポピュラーな考え方だったのかもしれないということです)
その意味で、この再受命事件は大変重要な意味を持っています。
407世界@名無史さん:04/09/17 09:26:59
興味深いからageときます。
レスつけるほど知識はないけど。
408怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/09/21 08:11:13
>>407
質問なんかでもあったらお願いします。
分かる事なら私が、そうでなくてもいつかここを見た賢者が答えてくれるかもしれませんし。
409怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/09/21 23:51:52
前漢末改革について少し。

上に書いた哀帝の再受命事件でブレーンとなった夏賀良、李尋は、成帝末の丞相テキ方進の弟子と故吏でした。
一方、王莽政権を思想的、学問的な面から支えたと思われる劉キンですが、彼の左氏伝の師匠こそ丞相テキ方進です。
そして、テキ方進といえば外戚王氏を権謀の限りを尽くして追い落とし、三公制などの改革を進めた丞相です。

哀帝の再受命と、王莽の簒奪と、そして三公制などの諸改革は、丞相テキ方進と全てが関わっているのです。
この人物の影響の元、これらの前漢末の政治的事件は展開し、最終的には漢そのものの命脈を断った、などというのは言いすぎでしょうか。
王莽はむしろテキ方進の影響に乗せられたのかもしれません。
410世界@名無史さん:04/09/22 19:55:19
テキ方進と王莽
うーむなにやら恵美押勝と道鏡とか信西と清盛の関係みたいですね。
なんだか字だがと国が変わっても人間同じようなことしてるなあ。
411世界@名無史さん:04/09/23 16:54:22
三国志の本文と注の字数について記した論文か本って無い?
412世界@名無史さん:04/09/25 10:58:21
高島俊男氏著の『三国志 きらめく群像』(ちくま文庫)の中でちょっとだけ
ふれられていましたよ。
413ニセクロ:04/09/26 21:12:13
>>1
怨霊氏、ここでしたか。やっと見つけました。三戦板ではお世話になりました。これからじっくり読ませていただきます。

>>all
三戦板の方でタマに書込んでる者です。たぶん名無しでの発言になるかと思いますが皆さんよろしく。
414怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/09/26 23:35:00
>>410
私の場合
>恵美押勝と道鏡とか信西と清盛の関係
の方に説明が欲しい感じですが、国が変わっても人間同じようなこと、ってのはそうなんでしょうね。
でも、それならそれで漢ではどんな形で同じような事が展開されたのかが気になるわけです。

>>411,412
私はその辺は知らんかったのでありがとう。

>>413
ご無沙汰しております。こちらこそお世話になりました。
9月下旬になってそろそろ首が回り始めましたか。
今回は漢、特に私のホームグラウンド前漢が中心になっているかと思いますが、なにかご意見等ありましたらおながいします。
415おぎまる ◆JJi5gOTcvk :04/10/01 23:50:32
>ニセクロさん

ホームページをいつも拝見しておるものです。
2ちゃんねるも見ているんですね、ちと驚いた。
後漢書訳しておられる方でしたっけ?
和刻本後漢書(汲古書院のやつ、渡辺氏の訳本ではない)や
恵棟の後漢書集解などを
神保町で購入すると楽で宜しいですよ。
416世界@名無史さん:04/10/02 00:39:34
あの後漢書の訳って岩波からでてる奴とどっか違うの?
417怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/10/02 02:31:57
>>415
私、後漢書集解は持ってないです。漢書のは持ってるんですけどね。

なお、ワタシもニセクロ氏のHPを見ている者の一人です。
前に別のスレで初めて来ていただいた時にはそれはもう嬉しかったですよ。

>>416
岩波の見たことないんで私からは説明出来ませんが・・・。
話は違うんですが、岩波のは続漢書部分が訳されていないという不穏な噂は本当ですか?
むしろ続漢書(志)の方が重要な位じゃないかと思うのですが。
418413:04/10/04 21:16:44
>>416
それは本人が答えるべきなんでしょう。
つことで答えますと、自力で訳してます。何が違うかというと、訳のレベル。
漏れの訳はもうしっちゃかめっちゃか。レベル的にいうと、お話にならないのです。
岩波のは見たこと無いのですが、自分で訳してれば自分の訳の低レベルぶりは自ずと分かるので。

あと、底本がちがう。紙のものでなく、シニカの漢籍電子文献で提供されてるのを使ってます。
ttp://www.sinica.edu.tw/ftms-bin/ftmsw3

他に訳し方が漢文文法に従わないで、原文の字を出来るだけ残して訳してるとか(それは訳なのか?)
とかありますが、それは枝葉かと思いますのでこれで。
419世界@名無史さん:04/10/05 14:38:38
>>417
「志」は省かれてますな。
ttp://www.iwanami.co.jp/moreinfo/008861+/top4.html

>>418
そこまでいうなら訳文を公開する前にもう少し漢文法を学ぶべきではないのかな。
ちょっと見せてもらったけど、高校生向けの受験参考書にも書いてあるような事項すら
理解できていないような訳が見受けられるよ。
420世界@名無史さん:04/10/05 20:42:30
実際に読んでる奴いないのかよ

岩波のはそもそも和訳してない。訓読だけ。それも本文のみで李賢注は参考に引くのみ。

汲古のは本文・李賢注ともに訓読・和訳あり。志も出す。
しかしまともに校正してないらしく、妙な文章が混ざりがち。

中身確認したこともないってのはまずいだろ、いくらなんでも
421世界@名無史さん:04/10/05 21:45:44
通りすがりの外野だが・・・・

>>419
そこまでいうなら、おまいのように漢文のできるやつが訳を公開してくれんかなぁ。

ど素人としては、白文の漢籍なんて読みこなせねぇし、白文そのままじゃ大変だから、
無理を承知で訳して公開するんだ。

玄人がサボってるから素人が苦労してるのに、その言い草はないだろ。
422419:04/10/06 19:23:49
>>421
はぁ、「通りすがりの外野」さんですか。「その言い草」ってどういうこと?

「玄人がやらない(やれない)ことを素人様がわざわざやってくださっているのだから、批判など
もってのほか」ってことなんすか?ネットで公開している以上、批判を受けるのは当然だし、
「じゃあおまえがやってみろ」ってのは感情的に過ぎやしませんかね。

それとも「受験参考書にも書いてあるような事項すら理解できていない」って表現が気に
食わなかったのかな?別にいいがかりじゃなくて、訳文を読んだ上での素直な感想なんだが。
実例を一つ挙げようか?『後漢書』竇武伝から。

原文「妻子衣食裁充足而已.」
訳文「妻子の衣食は充足するを裁てば而して已めた.」

なぜか「而已」を接続詞「而」と動詞「已」に分けて読んでいるけれど、これは「而已」二字で
「のみ」と読む限定の文末助詞。これは手元の学参「中野のガッツ漢文」・「宮下の漢文
ダイジェスト」いずれにも載っている、受験生レベルの知識。

また「裁」を動詞と解しているので、「充足するを裁てば」という意味不明な訳文が出てきて
いるけれど、「裁」を手元の「新字源」で引いてみると、「わずかに」という意味が載っている。
さらに「漢辞海」で引いてみると、副詞として「やっと、かろうじて<数量や動作がある範囲に
限定されることを表す>」とある。これは文末助詞「のみ」とうまく対応する。

よって正しくは「妻子の衣食、わずかに充足するのみ」→「妻子の衣食はなんとか足りている
だけという状況であった」となる。

このありさまでは「訳者は受験生レベルの文法知識もなく、日本語用法に引っ張られて
漢和辞典すらろくに引いていないな」という感想を持たれてもしょうがないんじゃない?
423世界@名無史さん:04/10/06 20:56:18
とりあえずもちつけおまいら。

421、
建設的な批判なくしては向上も無いから、とりあえず419=422の意見は意見として受け止めろ。

419=422、
たしかにここは2ちゃんだし、おまいの言い分は正しいが、そう無暗に煽るな。
折角落ち着いた雰囲気の良スレなんだから。

 一応院生やってる、まがりなりにも玄人側から言わせてもらうと
翻訳という仕事は実に割に合わないんだ。
翻訳100ページと論文30ページがあったとして、業績として評価されるのは論文の方。
だから翻訳にかける手間暇があったら出来は悪くとも論文書かにゃならん。
単位取るための演習で訳したのが上手く小冊子にでもなってくれりゃまだいいが
まかり間違って本になったところで、下作業は全部院生、印税は全部教授の懐行き。
正直単位も業績も関係無しに、金にもならん趣味で翻訳なんぞやってられん。
2ちゃんでサボってるヒマがあるんだから漏れも言い訳にもならんが
玄人だってそうそうやれといわれてもよーやれんわ。

だから、中身が拙かろうが、やる気があるってだけで漏れはニセクロ氏を応援したくなるね。
てゆーか419=422、実はおまいとておまいなりに、応援したつもりなんだろ?
424怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/10/06 22:20:19
>>418
訳は継続するのはキツイと思いますよ、私も。
継続していると言う時点で賞賛に値すると思います。
レベルうんぬんは、我流ながらも続ければ次第に上がっていくでしょうし、研鑚を欠かさなければ。
研鑚とか無縁のいいかげんな私なんぞに言われても複雑でしょうが・・・

>>419
ありがとう。そうですかやはり省いてましたか。

>>420
後漢書は中華書局しか持ってないヘタレなもので・・・。

>>421-423
423氏の言うとおり落ち着きましょう。ここが良スレかどうかはともかく。
私も423氏の意見に賛成ですね。
私もたまにここでやる訳らしき文は結構いいかげんですから、422氏の話は耳が痛いッす。

正直訳をやるよりは自分で注を付けた方がまだ楽。
私は漢書の注釈ノートを30冊(で止まっている)作りましたが、訳を作る気力は起きそうにないです。
425怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/10/06 23:05:10
空気を読まずに改革話。

漢の哀帝は即位直後の綏和2年6月に限田その他をの改革を行っています。
限田は有名でしょうが、その他の細かい改革もなかなか面白いと思います。

・斉の三服官等の「綺繍」をやめさせる
・任子令廃止
・誹謗詆欺法廃止
・30歳以下の掖庭の宮人を出嫁させる
・50歳以上の官奴婢解放
・郡国が名獣を献上するのを禁止
・三百石以下の吏の俸給を増額
・残賊酷虐な吏を監察し、退けさせる
・「赦前往事」を取り上げるのを禁止
・博士弟子の父母が死んだ場合、3年の忌引(寧)を与える

ほんと細かいものばっかりなんですが・・・。続く。
426通りすがりの外野:04/10/07 22:10:13
はあ・・・

>>425
そのまま通り過ぎるはずでしたが、せっかくのネタフリのところ、またお邪魔しますよ。
「通りすがりの外野」=ニセクロ氏と勘違いしてトチ狂ってる誰かさんがちょっとあれなんでね・・・

その誰かさんはなんて書いたのかね。こうだよ。

>そこまでいうなら訳文を公開する前にもう少し漢文法を学ぶべきではないのかな。

公開する前に漢文法を学べ、逆から読めばそれは、

『漢文も知らんやつが、訳なんか公開するな』

ってことだろ。でそのあと、ニセクロ氏を受験レベル以下と決め付けてる。つまり、ニセクロ氏は“漢文をしらんやつ”だというんだから、三段論法で、

『ニセクロは、訳なんか公開するな』

ってことになるんだよ。

素人が苦労してやって出した成果に対して、公開を停止しろとは何たる言い草だ。いったい貴様何様のつもりだ!

ってことさ。

>>423
おまえももちつけ。

建設的な批判?
頭をたれて『レベル的にいうと、お話にならないのです。 』、『自分で訳してれば自分の訳の低レベルぶりは自ずと分かるので。 』といっている相手に対して、『おまえの漢文は受験レベル以下だ』というのが建設的批判かね?

こんなのは、ただのイジメだよ。
427419:04/10/07 22:45:08
>>426
雑談スレ行こうか。そもそも自分は職官志翻訳の下調べしててこのスレ見つけたんだ。
ついいつもの煽り癖が出てしまったがこれ以上ここで続けるのはあれだからね。

ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1092653865/l50

こっちにレスを書いとくよ。
428通りすがりの外野:04/10/07 22:53:14
>>427
書かなくていいよ。もう続ける気はない。
ばかばかしいからね。

あまりに、ニセクロ氏が気の毒だったんでつい口をはさんだだけさ。
429怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/10/11 22:06:29
なおも空気を読まずに続き。というか終息してましたか?

斉の三服官については、元帝が儒者の貢禹の言に従って減らしたことがあるなど、今までもいわば贅沢なものとして認識されているふしがあったようで、さらに言えばおそらくは儒者がその削減・廃止を推進したのでしょう。
今回の廃止も、この元帝の時のそれを受けてのものだとすれば、儒者の推進の下に実施されたと考えられるのではないでしょうか。

そして任子令ですが、これは二千石の官に3年ある者は兄弟か子供を郎に推薦できる(というか郎にできる)というものでした。
おそらくはこの制度のお陰で「万石君」、即ち一族で5人(以上)の二千石が同時に存在するという家を前漢ではしばしば見かけたのだと思われます。
しかしこれは確かにエリート候補生のはずの郎が才能や徳行でない要素によって任用されるということだといえるでしょう。

もっとも、前漢では官僚の子弟はその官僚やその部下から吏としての勉強を教えてもらえたようで、
官僚の家でもないとそもそも高級官僚になれるような知識等を得るのも大変だった、と思われるので、
ある意味では任子は合理的だったのかもしれません。

むしろそこに変化が現れるのは、儒学を学びその知識で栄達した新たな官僚たちの出現ではないでしょうか。
必ずしも財力や親兄弟による吏学の教授を経ていない彼らとしては、任子はむしろエリートポストを2世のボンボンに独占されるという不満のある制度でしかなかったのではないかと思うのです。
それが儒者による任子制度廃止の理由となったのではないかと思うのですが、どうでしょう。
430怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/10/16 22:57:20
終息ではなく絶息だったのかもしれません。

続き。
誹謗詆欺法についてはどんな法なのか正直よく分かりませんが、おそらくは政治批判などを「誹謗」「詆欺」として罰する法ではないかと思われます。
これを廃することは、一面では現体制批判などの道を開く可能性もあるのでしょうが、
一方で皇帝や為政者の度量を示す側面もあったはずで、
さらには、秦以来の法家的支配からの脱却(=儒家的?)とも言えるのかもしれません。
(劉邦が関中に入った時の話からすると、秦には「誹謗せし者族す」という法があったらしい)
431hitomi ◆EN.thU0KcA :04/10/17 21:34:57
哀帝は結構やり手だよな。改革をビシビシやってるし、外戚と官僚の勢力も見事に押さえ込んでいる。
自分の力量に頼りすぎて、子飼いをほとんど育てなかったから、
死後に政治路線を否定されて、いたずらに混乱を引き起こした暗君扱いされてしまったんだと思う。
432怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/10/18 00:33:26
>>431
私も哀帝については貴方と似たような捉えかたをしています。
彼は、皇帝としての個人的な力量という意味では漢でも1、2を争うのではないでしょうか。
子飼いを育てなかったというのは、彼の腹心が董賢くらいだったことを思えばおっしゃる通りでしょうね。
彼は王莽らによるクーデターに対抗できなかったわけですから。
もっとも、育てる時間が無かったとも言えるかもしれませんが。
また、政治的には王莽以降に哀帝は否定されたのかもしれませんが、
政策自体は王莽政権に引き継がれたといっていいのではないかと思っていますがどうでしょう。
433永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/10/22 06:44:42
>>432
意地悪な言い方をすると、哀帝は手足程度の人間しか必要としなかったから、
さほど能力の無い(哀帝期の存在感の無さと、哀帝死後のあっけない失脚から判断しました)董賢を
重用したとも考えられます。つまり、イエスマンしか必要としていなかったのではないかと。
434おぎまる ◆JJi5gOTcvk :04/10/24 21:50:44
>政治的には王莽以降に哀帝は否定されたのかもしれませんが、
政策自体は王莽政権に引き継がれたといっていいのではないかと思っていますがどうでしょう。

わたしもそう思います。
故西嶋定生氏は、前漢の晁錯や賈誼といった法家風儒家の政治方針が
王莽に多大な影響を与えたという説を唱えておられましたが、
哀帝も晁錯→賈誼路線の有能な継承者とすべきなのかもしれませんね。
外戚を押さえ、官僚を抑えるやりくちは韓非の力説するところですが、
哀帝もまた韓非の徒であったのかもしれません。
家臣も一族も全く信用しないのも韓非流です。

余りにも下がりすぎですね、挙げておきます、
スレがダット落ちしかねない。
435怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/10/25 00:37:55
>>433
おお、お久し振りです。お元気でしたか?またお会いできて嬉しいです。

董賢については、本人の能力についてはおっしゃるように何とも言いようが無いですね。
哀帝臨終時に託された璽綬を、帯剣して宮中に入ってきた王コウになすすべなく奪われてしまっています。
(後漢書張歩伝)
彼については所詮は若造でしかなかったということなのかもしれません。
しかし哀帝については十代の諸侯王時代から既に頭角を表すほどの才能を示しており、こちらはむしろ早熟の天才という感じだったのかもしれません。
それだけに、本人は優れた補佐役を必要としていなかったのかもしれません。
それが死後の大転換へとつながってしまったのかも。

>>434
なるほど、晁錯、賈誼との関係ですか。
哀帝は武帝・宣帝に倣おうとしたという話からも、法家的であったことは間違いないでしょう。
哀帝は確かに大臣も外戚もあまり信用せず、時に強引、苛烈とも言える方法で統御しようとしています。
(丞相王嘉下獄死の件などがそうだと思います)
王莽はそんな政治方針を儒家という色で本質は変えずに塗り直したという感じ?
436永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/10/25 21:30:18
>>435
哀帝は若くして外戚・官僚をことごとく押さえつけたわりに、強力な補佐役の影が見当たらないんですよね。
ワンマン大王の始皇帝でさえ、李斯という優秀な懐刀がいたし、
武帝も数多くの優秀な人材をとっかえひっかえ使っているんですが。
想像を絶するワンマンな人だったんじゃないかと思います。
誰も信じなかったから、誰からも嫌われて、肯定的な評価を残してくれる人がいなかった。
若くて在位期間が短かったから、「若様のおイタ」扱いされてしまったと。
これで20年ぐらい君臨していたら、嫌いを通り越して、一種の怪物として畏怖されたんでしょうけどね。
437怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/10/29 23:45:28
>>436
制度改革とからめてみましょう。

哀帝にそれらしい補佐役がいないというのはその通りだと思いますし、若きワンマン皇帝だったのでしょう。
ただ、哀帝の政治路線そのものは成帝後半期に丞相テキ方進率いる儒者系大臣によって確立されたものであり、哀帝もそのレールに乗っていただけだった、とは言えないでしょうか。
その路線とは外戚(=王氏)の排斥と、いわば行財政改革、豪族層の抑制、といったあたりでしょうか。
私は哀帝の能力と実績双方を高く評価しているのですが、それと同時に儒者官僚の影響力も強かったと思っています。

哀帝については班固がその能力を高く評価し惜しむ賛辞を述べておりますが(漢書哀帝紀賛)、
私も彼が(おそらく)病身のために長生きできなかったのを惜しみます。
生き続けていたらどうなっていたのかなあ、と。
哀帝もまた匈奴単于来朝のジンクスに負けてしまったのでしょうか。
438怨霊 ◆NRtIkON8C2 :04/11/07 22:12:43
ずいぶん間が空いてしまった。

少しだけ。
あくまで私の理解ですが、成帝末、哀帝期、そして王莽時代と官制改革が続くのですが、
これらは前漢の支配体制の揺らぎになんとか対応しようという面と、
新たに政権の中枢に座るようになった儒者が、法家よりはより儒家的な体制への変革を進めようとしたという面とがあるように思います。
王莽のやり過ぎな改革路線も、この両面をどこまでも進めていった結果ではないかと思うのです。
そして、その改革が歯止めがかからず突っ走ってしまったのは、
これまでなら儒者の改革路線と対立する立場だった外戚が、ここに来て改革を進める側に立ったからではないでしょうか。
もはや、歯止めをかける者が居なくなってしまったのです。
439怨霊 ◆SHUZENU4Yk :04/11/07 22:13:23
しまった旧トリップで書いてしまった。
これからはこっちってことで。
440怨霊 ◆SHUZENU4Yk :04/11/15 21:27:45
ちと、いやかなり久し振りなので別ネタ。たいした話じゃないですが。

前漢の制では、官僚の出世コースの終点にあるのは間違いなく丞相です。
なにしろ、本来なら得ることなんてまずありえない列侯の印綬を身に帯びる事ができる数少ないチャンスです。
皇族やら外戚やらの仲間入りです。
県令、太守を歴任して九卿となり、いよいよ丞相が見えてきた高級官僚たちがこの位を血眼になって求めたであろうことは想像に難くありません。

史記張丞相列伝の補に、そんな当時の実情が生々しく描かれています。
「御史大夫になった(=次は丞相)者は、心中では丞相がくたばるのを願っている」
「讒言その他足の引っ張り合いで失脚させ、代わってやろうとする」
(かなり適当な意訳。ツッコミ歓迎)
また、陳万年のように時の丞相丙吉にゴマをすって御史大夫となり、息子陳咸に馬鹿にされたなんて者もいました。
まさに生き馬の目を抜く出世争い。

その一方、たまに御史大夫とかを経ないでいきなり丞相になる者もおり、こっちはそんな出世争いをしている官僚たちから大いに妬まれた事でしょう。
そういう人物は大抵はワンマン皇帝の鶴の一声だったり、皇帝の後見人などによるある種の意図を持った異常な人事なのですが。
(武帝の頃に多かった。また、王鳳専権期には2代続けて御史大夫を経ない丞相が生まれている)

またどうやら「外戚は丞相にしない」という不文律があったらしく、馮奉世や王音はこのために丞相への道を閉ざされています。
(ただし王商のような例外もいる)

こういった悲喜劇が起きたり、いろんな不文律などがあるのも、丞相というのが前漢では名実ともに国を取りさばく宰相だったから、ということなんじゃないのかなあ、とか思いますがどうでしょう。
441世界@名無史さん:04/11/19 00:24:32
講談社の新しい中国の歴史「ファーストエンペラーの遺産」をチラリと立ち読み。
印章とか下級官吏の登用について多少記事がありました。
やはり方角によってつまみの形が違うようです。

宰相というのも時が経つほど地位が低下する傾向があるようです。
その象徴として対面して席につき政務を報告相談していた宰相が、
皇帝の前に立って報告するようになったりもしてます。
 五代あたりで宰相といっても実質書記官長レベルに下がったも
地位低下のきっかけかも。
 明初に宰相は廃止されてますしね。最も実質的には復活しますが。
ただ宦官のトップが実質宰相だったりしますからねえ、地位の低下は
否めないでしょう。
442永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/11/23 21:25:36
>>440
>こういった悲喜劇が起きたり、いろんな不文律などがあるのも、
>丞相というのが前漢では名実ともに国を取りさばく宰相だったから、
>ということなんじゃないのかなあ、とか思いますがどうでしょう。
西漢の丞相は官僚の最高位ではあっても、国政全般を取りさばけるポストだったのどうかは疑問です。
西漢の皇帝は親政する皇帝が多く、皇帝権力は絶大でした。
名丞相と呼ばれる人の多くは、皇帝の補佐役として名声を博しました。
また、西漢の権臣は外戚や皇帝の側近出身者が多く、
丞相と言う地位を名分に、権をほしいままにした人物はいません。

国家の最高指導者というより、実務の最高責任者と言ったほうが適切であるように思われます。

>その一方、たまに御史大夫とかを経ないでいきなり丞相になる者もおり、
>こっちはそんな出世争いをしている官僚たちから大いに妬まれた事でしょう。
>そういう人物は大抵はワンマン皇帝の鶴の一声だったり、
>皇帝の後見人などによるある種の意図を持った異常な人事なのですが。
漢書の百官公卿表を見ると、武帝期の丞相人事は異常ですね。
あと、西漢末期は将軍や九卿から丞相に昇る人が出てきて、政治の混乱ぶりが伺えます。
443世界@名無史さん:04/11/24 02:07:08
丞相って後漢では何で置かれなくなったん?
444永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/11/24 02:25:38
>>443
独裁傾向の強い光武帝は、臣下が権力を持つことを好みませんでした。
そのため、三公を並立させ、丞相のようなナンバー2を作らないようにしたと思われます。
445怨霊 ◆SHUZENU4Yk :04/11/24 21:17:11
>>441
時代と共に宰相ってものが、段々と能動的性格を失っていき、と同時に地位が低下していく、というような感じなんでしょうか。
皇帝独裁の徹底と表裏をなすものなんでしょうね、そのような宰相職の地位低下は。

>>442
確かに、実務の最高責任者というのが妥当なのかもしれませんね。
少なくとも、国家の最高指導者ではないですね。
とはいえ、当時は

皇帝が諮問→
丞相・御史・九卿が実際に案文を作る→
皇帝に報告→
皇帝が決裁し、詔として発布

という形で国政が決まっていくのが通常だったようですから、実務とはいえ丞相らの判断、裁量に任せられる部分も大きかったように思います。
皇帝が決定権を持つのは間違いありませんが、実務担当が考えてくれないと動けないという面もあったのではないでしょうか。
これが変わっていく契機が、中書や尚書といった政策秘書の設置・強化だったのかなあ、と愚考します。

また、丞相という地位で権をほしいままにした人物として、私は成帝後半のテキ方進を挙げたいのですが、どうでしょう?

>>443-444
一応これも横からですが私見を述べさせてください。
丞相は前漢で既に廃止されており、後漢はそれを継承した、という面もだるのではないでしょうか。
もっとも、後漢が継承した理由は青氏のおっしゃるようにナンバー2を作らないという政策的な側面が強かったのでしょうけど。
なお丞相を廃したのはかの若き独裁君主哀帝であり、王莽、光武帝は彼の政策をこの面では継承したのだと思います。
446世界@名無史さん:04/11/25 16:00:31
三国志正史スレッドで聞いた質問なんですが中央軍に属している典軍とか監軍はどんな職務があるのですか?
447キノピオ狩り ◆mariObZWEo :04/11/30 21:42:42
>◆SHUZENU4Yk
もうこのスレに来ないでくれよ
頼むから

【三戦板】この先生きのこるには【新きのこ】
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1101612124/
448怨霊 ◆SHUZENU4Yk :04/12/01 19:51:52
>>446
少々間が空いてしまいましたが・・・。
正直なところ私の浅い知識では十分に説明できないかもしれませんね。
また後日多少は紹介できる点もあるかもしれませんが・・・。
どうも、三国時代における典軍、監軍には時代と国によって色々と違いなどもあるようですね。
魏、呉、蜀それぞれで似たような意味合いでも職掌や階級などには違いがあるようです。
また、魏・晋の監軍などは中央軍に限ったものではなく、軍団ごと、方面ごとに置かれたようなもののようですね。
(征蜀監軍、徐州監軍などといったように)

より詳しいことは、詳しい人の降臨を待ちましょう。
449446:04/12/03 19:21:10
そうですか・・・
では、虎賁中郎将と羽林中郎将の違いはなんですか?
450世界@名無史さん:04/12/03 23:48:11
>449さん
>虎賁中郎将と羽林中郎将の違いはなんですか?
これも先ほどの監軍と同じく、なかなか難しい質問ですが、
分かる範囲内で答えます。

・虎賁中郎将
周の武王が殷の紂王を討った時に率いていた勇士部隊「虎賁」
(トラのように勇猛であるから名づけられたという)に由来する官職。
執兵送従(平たく言えば皇帝に従う兵を統率する武士)を任務とする「虎賁郎」
を統率する中郎将の職。前漢平帝の元始元年に新設された。
(以上漢書百官表などにより大幅に意訳)

・羽林中郎将
虎賁に次ぐ官で、戦死した兵士の遺児に武芸を仕込んで皇帝に従う兵とする
「羽林騎」を統率する中郎将の職。前漢宣帝が創設。

こんな感じですか。

451世界@名無史さん:04/12/04 15:13:49
そんじゃ、虎賁中郎将>羽林中郎将でいいの?
452世界@名無史さん:04/12/06 23:21:30
『羽林と虎賁』
 漢代では虎賁の方が羽林より格上のようですが、中郎将同士にはっきりとした上下関係
があるかどうかはよくわかりません。なお羽林と羽林孤児は一応別物のようです。
 あと、前漢の虎賁校尉と虎賁中郎将、どうして同じ名前を使ったんでしょうね。
 以下手持ちの本からの乱暴な抜粋など。

【期門、羽林、羽林孤児等】
 武帝期に郎中令の配下に期門僕射(期門の長)、羽林令(羽林の長)を設置。
 宣帝期に羽林中郎将を羽林の長とし、平帝の元始元年に期門を虎賁と改め、虎賁中郎将
を設置。
 期門は定員なしだが、最盛時は千名程度。天水等六郡の良家から勇壮にして騎射に巧
みな物を選抜。
 羽林は期門同様及び三輔の良家の子弟から採用。
 期門の本来の職掌はは狩猟の際の護衛兵。
 羽林は本来建章宮付の天使の私兵である建章営騎であったが、期門と同様の任務に従
事するようになり羽林と改名された。
 羽林孤児は羽林官に付設されたもので、戦死者等の遺児のうち生活困窮者を扶養し、成
長後に兵士としたもの。
 いずれも一般兵より待遇は上であり、期門は郎官に準じ、羽林はそれに次ぎ期門へ昇進
することもあった。

後漢の建武の中頃以降の状況。
 光禄勲の配下に虎賁中郎将(比二千石)が置かれ、その下に虎賁中郎(比六百石)虎賁
侍郎(比四百石)、虎賁郎中(比三百石)、節従虎賁(比二百石)の四階級が存在。
 更に隊長格の左右僕射、左右陛長(各々比六百石)が存在し、時期により増減はあると
思われるが定員は千五百名程度。
 光禄勲の配下には羽林中郎将(比二千石)も置かれ、その下には羽林郎(比三百石)の
一種のみ。
 他に同様に光禄勲の配下に羽林左右監(六百石)があり、羽林左右騎(左八百騎、右九
百騎)を統率。
453世界@名無史さん:04/12/06 23:22:27
 羽林、虎賁は光武帝の元従兵士の他、前漢同様六郡良家子弟の武芸に優れるものを採
用。
 羽林左右騎は五校尉の配下の兵士から優秀者を選抜。
 また羽林孤児も依然として存在したようです。
 後漢における職掌は宿衛、儀仗にかわり公的な性格が強まっているようです。
(東京大学出版会:濱口重國著「秦漢隋唐史の研究上巻」第6両漢の中央諸軍について)

 武帝の時に外出時の護衛として期門騎(秩比千石の期門僕射が指揮)が置かれ、平帝の
元始元年に虎賁郎と改め、比二千石の虎賁中郎将が統率。
 武帝の太初元年建章営騎を置き、後羽林騎と改称。また、戦死者の遺児を羽林官で引き
取り訓練したものを羽林孤児と名付けた。
 これらを羽林郎と称し、当初羽林令が支配していたが、宣帝の時から中郎将又は騎都尉
が監督するようになり、羽林中郎将(比二千石)と称した。
 なお漢書霍光伝に光の次女の婿任勝が諸吏中郎将羽林監として出てくるのが、後の羽
林中郎将と思われる。

(創文社:大庭脩著「秦漢法制史の研究」第四部第三章漢の中郎将・校尉と魏の率善中郎
将・率善校尉)

三国時代
 魏では光禄勲の配下に虎賁中郎将(比二千石、五品)が置かれ、その下に虎賁中郎(比
六百石、七品)、虎賁侍郎(比四百石、七品)、虎賁郎中(比三百石、七品)、節従虎賁、左
右僕射、左右陛長は不明、廃止か?中郎将の補佐に司馬(七品)有り。
 蜀は魏同様、呉は不明。
 同様に羽林中郎将(比二千石、五品)、司馬(七品)羽林郎(比三百石、八品)
 蜀は羽林左右都督、呉は羽林督
 羽林左右監(六百石、五品)も存在し羽林左右騎を統率。
 蜀は羽林監、呉はなし。
 また騎都尉(比二千石、六品)が羽林従騎(詳細不明)を統率。
(ちくま学芸文庫:小南一郎訳「正史三国志」三国職官表)
454世界@名無史さん:04/12/06 23:23:00
おまけ
 前漢末の安漢公王莽は、元始四年上公・宰衡となり外出の際に期門二十人・羽林三十人
を従えることを認められています。続いて同五年九錫を加えられ虎賁三百名が置かれてい
ます。更に簒奪直前居摂元年十二月に虎賁以下百名と衛士三百名を与えられています。
当然隊長等もいたのでしょうが詳細は不明です。
 なお居摂3年(初始元年)に、期門郎張充ら6人が王莽を脅迫し楚王を皇帝に立てよう
として失敗して誅殺されています。
 これは虎賁の誤りか、通用していたのか、その時期改名されていたのか、あるいは並立
していたのか不明です。
(漢書王莽伝第六十九上)

【後代における期門と羽林】
 晋書には光禄勲の配下に虎賁中郎将、羽林郎将、羽林左監が見えますが実務があった
のかどうかよくわかりません。

 余談ですが、北魏になると虎賁、羽林の関係がなぜか逆転しています。
 射撃の試験で上等を羽林、中等を虎賁、下等を直従に採用。(九品官人法の研究:魏書
巻二十一上高陽王雍伝)
 和製ミニ王莽藤原仲麻呂が兵衛府を虎賁衛と改名したり、近衛府の唐名を羽林と言うの
はこれの影響でしょうか?まあ唐名の羽林は直接には唐の羽林軍でしょうが。

 典軍、監軍についてはまとまって書かれている書籍等はよく知りません。
 少なくとも蜀については、単に高級将校の序列(都護・領軍・軍師・監軍・護軍・典軍
・参軍の順らしいです)をあらわすだけで職掌は大して差がないようにも思えます。これ
についてはもう少し調べてみたいです。
 魏における典軍、呉における監軍の存在の有無はよくわからないですね。
 ただ南斉の公府倉典軍・庫典軍・車厩典軍・馬典軍等があるようですので、魏でも存在
したのかもしれません。(九品官人法の研究より)
455怨霊 ◆SHUZENU4Yk :04/12/07 00:20:48
私からは多少関係する小ネタを。

漢の武帝が既にある郎のほかに期門を置いたのは、
漢書百官表の服虔説によれば武帝のお忍び(微行)と関係があるようです。
要するに武帝が長安城下に出かける際の護衛として置かれた、ということです。
それまでの郎は殿中の警護が任務であり、宮殿外は任務外と言うわけで、他の官を新設したというところでしょうか。

また羽林の前身とされる建章営騎の属する建章宮は未央宮とは別の離宮であり、武帝は晩年こっちの方が好きだったようです。
これも、郎が未央宮警護を任務としていることろから、建章宮警護を任務とする部隊を別に設ける必要性があって置かれたのかもしれません。
456世界@名無史さん:04/12/07 00:39:16
怨霊のHNの由来を教えて。
457世界@名無史さん:04/12/07 10:58:22
昔は音量だった気がする
458世界@名無史さん:04/12/07 13:13:34
何度も質問して申し訳ないが、別駕従事や治中従事って太守より、権力がある?
459キノピオ狩り ◆mariObZWEo :04/12/07 21:28:31
>◆SHUZENU4Yk
本当きのこるスレに来るなよ。
460怨霊 ◆SHUZENU4Yk :04/12/07 22:40:50
>>456
去年、世界史板某所にて名無しで書いていたところ「怨霊」と呼ばれまして。
妙に気に入って使ってます。
しかし最初は>>457氏の言うように「音量」「温良」「ウォン・良」とか適当に使ってましたが、三戦板の制度スレを立ち上げてからは「怨霊」にしてます。
よく「音量」をご存知で。

>>458
郡太守と別駕・治中従事の権力を比べるのはちと難しいかもしれません。
従事は州のトップ(刺史、牧)の属官、スタッフであり、一郡の長官である太守とは職掌などが違うからです。
現代で言えば、県の副知事や政策秘書やらと市町村の首長の権力を比べるようなもの・・・じゃないでしょうか。

三国時代なんかでは州牧・刺史が任地にいない場合も多く(劉備とか)、
そんな時は治中従事などが居留守役として州の政務を取り仕切っていたんじゃないかと思うのですが、
そんな場合なら従事は事実上州牧代理と言えるのかもしれませんが・・・。
(三国頃で言うと荊州牧劉備の治中従事潘濬とか)
これもあくまで代理としても権力ですし。
461世界@名無史さん:04/12/07 23:22:24
『監軍・典軍等』
 学研「歴史群像シリーズ17三国志上巻」所載の「検証・三国時代の軍事力」桑田悦に
よると、呉の中央軍(中軍、前後軍、左右軍)に各護軍・領軍・典軍・軍司馬有り。
 蜀の中央軍では中軍、前後軍に護軍・監軍・軍師・領軍・都護・典軍、左右軍に護軍・
監軍・都護有り。
 おまけとして、建安元年(196年)の民屯の組織(一部他書から補っています)
 典農中郎将・典農校尉(屯田校尉)ー典農都尉(屯田都尉)ー典農綱紀(主簿?)・典
農功曹・農司馬・掌犢人・守叢草吏。中郎将(二千石、六品)・校尉(比二千石、六品)
は太守に相当、都尉(六百ないし四百石、七品)は県令相当。各司馬(八品)有り。
 なお軍屯の場合は度支中郎将・度支校尉ー度支都尉(各司馬有り)となっており、秩録
・品位は典農と同様です。

 歴史読本1993年四月号「特集三国志七人の軍師」所載の「三国時代の軍事制度」石
井仁より、蜀では都護・軍師・監軍・領軍・護軍・典軍・参軍の七等級の武官職有り。
 蜀志李厳伝に引く「諸葛亮公文上尚書」に見える官名、()内は将軍号等。
 中都護(使持節・驃騎将軍、江州都督)・中領軍(督中部・将軍、成都留守)・中軍師
(車騎将軍)・前軍師(使持節・征西大将軍、領涼州刺史)・中監軍(督左部・揚武将軍)
・前監軍(征南将軍)・中護軍(偏将軍)・前護軍(偏将軍)・左護軍(篤信中郎将)・右
護軍(偏将軍)・護軍(奉義将軍)・中典軍(討虜将軍)・中参軍(昭武中郎将)・参軍(建
義将軍、偏将軍、裨将軍、武略中郎将、綏戎都尉)

 魏の中軍(五校、中塁、武衛等)には指揮官として中領軍、諸将の監督・武官の選挙を
担当する中護軍が有り。同じ職務で地位が高い場合は領軍将軍・護軍将軍と称されました。
 地方軍にも征蜀護軍・征呉護軍・地方名?+護軍等があり、また都督の補佐に軍師が派
遣され、護軍(参謀・指揮官として活動)が置かれることも有りました。
 蜀では中央五軍(中前後左右)に、指揮官・副指揮官・監察官として軍師・監軍・護軍
・典軍等が置かれています。更に参謀として参軍が置かれることもありました。
(新紀元社:篠田耕一著「三国志軍事ガイド」)
462世界@名無史さん:04/12/07 23:23:04
 護軍や都護以外は後漢本来の制度ではないようですが、三国で共通した官名が見られま
す。参軍のように後漢末の混乱期に生まれたり、模倣されることもあったのでしょうか?
 いずれにしても、都護は統べ監督する、領軍は軍を統べる、監軍・護軍は軍を監督する、
典軍は軍を司る、参軍は軍事に与るの意味で非常に即物的です。
 やはり軍事政権なのでわかりやすさが望まれたのでしょうか?

 監軍については都督に準ずる存在として、都督の置かれない地方に置かれた、または都
督出征時の留守役として置かれたと書かれている本もあります。
 なお南朝では都督○○軍事、監○○軍事、督○○軍事の序列がありますが、この時期で
は厳密な区別は無かったように思えます。

 三国職官表によると魏に典軍中郎将が有り、蜀の掌軍中郎将、呉の督軍・輔軍中郎将が
同様の官のようですが、職掌はよくわかりません。

 参考までに旧唐書、唐書によると、王府官に親事府・帳内府(護衛、駆使)の長官・副
長官として典軍・副典軍が有ります。
463永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/12/08 20:56:26
>>458
基本的には郡太守>別駕・治中だと思います。
別駕・治中は、あくまで州刺史・州牧が現地で採用する属僚のトップでしかないので、
朝廷から任命された郡太守の方が格式でははるかに上です。
また、別駕・治中は副官に過ぎませんが、
郡太守は郡の政務・人事・兵権を掌握しており、実権でも上回っています。

>>460
>三国時代なんかでは州牧・刺史が任地にいない場合も多く(劉備とか)、
>そんな時は治中従事などが居留守役として州の政務を取り仕切っていたんじゃないかと思うのですが、
>そんな場合なら従事は事実上州牧代理と言えるのかもしれませんが・・・。
別駕・治中が強い権力を持っていたのは、漢末の一時期だけの珍しい現象であったように思います。
この時代、群雄は州牧・州刺史・郡太守の官位を帯びていることが多かったので、
しぜんとその属僚の権力は大きくなっていきました。
郡太守を自由に任免できる群雄の副官ともなれば、その権力が一時的に郡太守を凌ぐこともあります。

益州治中の彭羕は、劉備の不興を買って太守に『左遷』されています。
また、州刺史すら任免する冀州牧袁紹の別駕田豊は帷幄に連なって謀議に与かり、
治中の審配は袁紹の幕府の事務や、南征軍の後方支援を統括するほどの重鎮でした。
彼らが大きな権力を振るえたのは、別駕・治中という職務の性格よりは、
上位者たる州牧・刺史が、本来の職分を超えた絶大な権力を有していたため、
その影響を受けたのではないでしょうか。
464永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/12/08 21:27:04
>>445
>皇帝が決定権を持つのは間違いありませんが、実務担当が考えてくれないと動けないという面もあったのではないでしょうか。
時には皇帝=側近権力との対決も辞さなかった東漢の儒家官僚と比べると、
西漢の官僚はイデオロギー色が薄く、官僚組織の中で生きていくことに専念した印象が有ります。
その範囲の中で権力を握ろうとしたり、抱負を実現したりしようとはしても、
結局は最高権力に忠実であったように思います。
皇帝・外戚に反発した人物少数ながら存在しましたが、
個人的、あるいはごく一部の少数派の反発に留まってしまった感があります。

>これが変わっていく契機が、中書や尚書といった政策秘書の設置・強化だったのかなあ、と愚考します。
官僚が実務レベルに自分の役割を限定していたために、
最高権力者も官僚を従属させるのが限界で、実務レベルまで力を浸透させることが出来ませんでした。
絶大な権勢を振るった霍光ですら、実務レベルでは官僚に頼らざるを得ませんでした。
(霍光時代は御史大夫→丞相のコースがちゃんと機能しており、
 官僚機構内部の人事制度がちゃんと機能していたことがうかがわれます)

最高権力者が、官僚を従属させるだけに飽き足らず、
実務レベルまで権力を浸透させようと言う動きが、中書や尚書の強化だったのではないでしょうか。
465永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/12/08 21:59:26
>>446
三国時代の場合、同じ職名であっても、国や時代ごとに意味が異なってくるので、
一概に「こうである」とは言いにくいものがあります。

私の乏しい知識を振り絞って答えるならば、
呉に「左典軍」という官職に就いた人物が二人います。
一人は賀邵、もう一人は万ケです。二人とも文官でした。
そして、皇帝の側近畑を歩いてきた人たちでした。
このような人物を配する意味のある軍部の職ならば、
近衛軍の監察役と考えるのが一番適切そうです。

監軍と言う官名は漢末から三国時代においては、
軍の監察役から、実戦指揮官、総司令官まで、さまざまな使われ方をしています。
軍の監察権と指揮権がごっちゃになる傾向は、中国では良くあることなので、
中央軍の監軍は、中央軍の指揮官か、中央軍の監察役。あるいはその両方を兼任している。
この三つのどれかと考えれば、良いのではないでしょうか。
466永遠の青 ◆pkFA3D428. :04/12/08 22:23:49
>>445
>翟方進
王氏の長者が次々と死んで、力が弱まった時期ではありますが、
それでも輔政の任は引き続き王氏が受け継いでおり、一族は栄爵をほしいままにしていました。
翟方進の権力が外朝の以外の場所まで広く及んだとは思えません。
自分の孫(哀帝劉欣)を皇太子にしようと目論んだ傅氏は、
王氏の長者である王根と寵妃趙昭儀に工作して、次の帝位を手中に収めました。
仮に翟方進が専権を振るっていたならば、傅氏は王根と趙昭儀では無く、
翟方進に対して工作を行ったことでしょう。
次代の皇帝を決めうるのは、皇帝本人で無くば、最大の権力を有する人物だからです。

内朝の権力と軍権が王氏の手中にある限り、
翟方進は「外朝の不倒翁」以上のものにはなれなかったような気がします。
467世界@名無史さん:04/12/08 23:15:00
『刺史の属官としての従事』
 後漢書百官志によると、概ね司隷校尉と同様で都官従事がなく、功曹従事を治中従事と
するとあります。
 司隷校尉の条を見ると、都官従事(主察挙百官犯罪者)、功曹従事(主州選署及衆事)、
別駕従事(校尉行部則奉引、録衆事)、簿曹従事(主財穀簿書)、兵曹従事(主兵事)、部
郡国従事(毎郡国一人、主督促文書、察挙非法)
 全て州長官が任命し、秩は百石です。

 どうも当初は治中従事の方が別駕従事より上席だったような気もします。
 本来は二千石の高官である太守とは比較にならないほど下位(戦前の官選県知事と中央
官庁の地方出先機関が採用した職員、とは言え次長クラスだったりする)なわけですが、
実情は怨霊氏が言われるとおりまた別ですよね。
 漢代においても同じく百石の小吏にすぎない郡功曹が、勅任官たる県令長に対して事実
上命令を与えられたことから考えて、官庁というのはそう言うものなのかも知れません。

 三国職官表によると、魏の司隷校尉の属官は都官・功曹・諸曹(簿曹の誤り?)・部郡
・武猛・督軍の6従事。刺史の属官は別駕・功曹・簿曹・兵曹・部郡国・武猛・文学の7
従事となっています 。
 蜀の益州刺史又は牧の属官は、治中・別駕・功曹・議曹・勧学・典学・部郡・督軍の8
従事の他従事祭酒、従事有り。呉の刺史又は牧の属官は、部郡・師友従事の他不明。
 九品官人法の研究を見ると、東晋の頃の別駕は都督の補佐である長史に準ずる存在にな
っているようです。ただし中央任命でない点に変更がないため、官品は与えられていない
わけですが。
 また都督府の長史(六品程度)は多く治所の郡の太守(五品)を兼ね、宋代以降皇子等
が都督となる場合に皇子が年少であれば行府州事として代理を務めています。
 また長史に次ぐ司馬(六品程度)は刺史(四品)に転出することが出来たようです。
468世界@名無史さん:04/12/08 23:16:54
余談:その後の別駕と治中
 隋の官制改革で州の従事等の刺史任命の属官は廃止され、代りに都督府の属官である長史、司馬、参軍(いずれも中央任命)が州の属官となりました。なお同時に郡も廃止され
います
 その後州(刺史)→郡(太守)に改称。
 唐の高祖武徳元年に太守を刺史に改めたとき次官を別駕と称し、高宗即位の後別駕を長
史と改称、上元二年長史の上に別駕を再置しています。
 その後州の上級官である別駕・長史・司馬は有名無実となっていき、宋代に至っては胥
吏の年労者等に与えられる下級官職(正九品)になり、元では消滅したようです。
 その後は府の通判・州判の雅称として使われることはあっても、正式の官職名としては
使用されていません。なぜか府の次官である同知の雅称は司馬で逆転しています。
 治中の方は、元で上路総管府(十万戸以上)に同知(次官)に次ぐ官としておかれてい
ます。なお下路は治中なしで同知と判官のみです。
 明・清では北京・南京等の京府にのみ置かれており、中断期間が長い代わりに別駕より
長生きしたことになりますね。

 何か今更書くほどのこともないのですが、まあ書いてしまったので一応参考程度までに。
469世界@名無史さん:04/12/17 12:03:37
県丞と県尉って現地採用?それとも中央からの派遣?
470キノピオ狩り ◆mariObZWEo :04/12/17 16:43:50
>◆SHUZENU4Yk
もうこのスレに来ないでくれよ
うざいから

【三戦板】この先生きのこるには【新きのこ】
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1101612124/
471世界@名無史さん:04/12/19 09:22:30
>>469
一応中央からの派遣と言う建前になっています。
ただ概説書等みんなそう書いてあるんですが、実態はどうだったんでしょうね?
墓碑銘等を丹念に調べてみると違う結論が出るかもしれません。
472世界@名無史さん:04/12/19 20:23:12
>>471
群雄割拠の時代以外は、中央派遣が守られてた。
郡太守・郡丞・郡都尉・県令・県庁・県尉・県丞のような
人事権が中央にあるポストに、地元出身者が就くことは禁止されていた。
473世界@名無史さん:04/12/20 23:36:03
『県丞と県尉』
 東京大学出版会:濱口重國著「秦漢隋唐史の研究:第三部第六漢碑に見えたる守令・守
長・守丞・守尉等の官について」を見ると、正官の県丞・県尉は中央任命で原則として郡
内の人間は任用されなかったとあります。
 逆に代理官、あるいは心得である守丞・守尉は、上級官等である郡の長官=太守が郡の
属官(太守が通常郡内の豪族を任命)から指名し、必然的に郡内の出身者となります。
 なお、出身県の官に任命することは通常回避されたようです。

 またこの守官任命の理由として、有資格者の不足、あえて地方有力者を任命したと言う
推測をなされています。
 碑文等の実例を当たると守官の例が非常に多いとも言われており、原則としての県丞・
県尉は中央任命であっても実態としては地元出身者に運営が任されていた県がかなり多か
ったと言うことはあったようです。

 創文社:大庭脩著「秦漢法制史の研究:第四編第五章漢の官吏の兼任」を見ると、正規
の県丞・県尉等であっても太守の命令で郡内の任地を移動することがあったようです。
 また、郡の属官から郡内の守官を歴任し上計掾または選挙等で郎官となると言う昇進コ
ーを推測されています。

 これらのことから、どうやら漢代においては中央政府に対する太守の独立性が後代に比
べてかなり強かったように思われます。
474世界@名無史さん:04/12/20 23:36:42
【その他参考】
 県丞、県尉(四百石〜二百石)は、いわゆる長吏(六百石以上を指す場合と二百石以上を指す場合とがあり、この場合は二百石以上)で勅命官と言えます。
 後漢時代の勅命官の任用は郎(比六百石〜比三百石)、公府掾(比四百石〜比三百石)
が主流で、他に太子舎人、羽林郎(比三百石)直言・極諫・賢良・方正その他の人材登用
法、茂才、廉吏、学校卒業、中央官庁の属官(原則百石以下)で積功のもの、特別の詔書
によるもの等があるようです。
 郡県の属官はいずれにも当てはまらないため、正式の県丞・県尉には昇進できなかった
ようです。
(東京大学出版会:濱口重國著「秦漢隋唐史の研究:第三部第六漢碑に見えたる守令・守
長・守丞・守尉等の官について」等から)

 後漢では尚書令史(二百石)から県丞・県尉に進む道があり、章帝の時から五百石また
は三百石の県長に進めるようになった。同様に尚書郎(四百石)は従来は県長へ昇進する
ものだったのを千石の県令に進むように改めた。
(宮崎市定著「九品官人法の研究」より)
475世界@名無史さん:04/12/21 23:59:22
 守官の制度は、長吏は中央任命という原則を守りながらの便法で、東洋的融通無碍の精
神を感じてしまいます。
 実はかなり後代の宋においても似たような例があります。
 科挙に合格したエリートはもちろん、高官の子弟である恩蔭(親の七光り組)も四川等
の田舎には行きたがらなかったため、地元出身者が県官等に任命されることが多く、それ
でも足りずに本来資格がない地元民を摂官として任命することが広く行われていました。
 なお全体としてはポスト不足の傾向があったのが皮肉です。
476世界@名無史さん:04/12/26 17:50:55
郷里から人を推挙する際、「考廉」とか種類が結構あるけど、何種類ぐらい
あるんだ?それと、その種類の解説をお願いします。
477世界@名無史さん:04/12/27 21:35:41
秀才(後漢時代のみ光武帝の諱を避けて茂才と称しています)
 州刺史と三公九卿及びその相当官が毎年各一名?を推薦する制度です。
 魏晋では試験(策を問う)の上成績に応じて六品以下(ほとんどは八品)の官を与えら
れるものとなりました。

孝廉
 郡国の長官は下記のように人口に応じて推薦できるもので、主として郡の属僚が推薦さ
れる制度です。なお前漢では孝と廉は別のものでしたが、後漢では一つのものになり、人
数も増加制度としても恒常化しました。
 概ね人口二〇万人に年一人、人口二〇万人未満は二年に一名、人口一〇万人未満は三年
に一名で、全体で年間約二〇〇名になるようです。
 元々は郡吏に限るものでなく県吏を推薦してもかまわなかったのですが、廉吏が県吏に
限定されたため必然的に郡吏のみとなったようです。
 魏では郡の細分化にともない各郡(一〇万人以上は)年一名となっています。
 魏晋では試験(経義を問う)の上成績に応じて六品以下(ほとんどは八品)の官を与え
られるものとなりました。
 秀才よりやや落ちるものとされたようですが、与えられる官品にはあまり差がなかった
らしいです。
 これは州と郡の差の他、試験内容の差、つまり文学的才能が必要な対策に対して、経義
は凡才でも読書の堆積によって大成できると考えられていた為のようです。

廉吏(西晋以後は良吏とも称しています)
 漢ではほぼ孝廉に相当するもので、孝廉の太守の代わりに三公九卿及びその相当官が毎
年各一名を推薦する制度でした。
 西晋以後は県から推薦されるものに変わっており、尚書令史等比較的下位の官に任用さ
れたようです。
478世界@名無史さん:04/12/27 21:36:23
孝廉等について
 当初は基本的に推薦=任官だったようですが、ある時期以降儒学の試験を受けさせられ
るようになったようです。
 後漢の一時期孝悌・能従政等の科目を増したこともあります。
 また、天子が直接制策により試験をすることもあったようです。
 なお後漢でも廉吏・孝廉に挙げられた後に、四行(質樸・敦厚・遜譲・節倹)に挙げら
れることもあったそうです。

後代の制科にあたる臨時人材登用法(賢良・方正・直言・寒素等)
 魏晋では賢良が多かったようです。
 漢代では主に賢良・方正・直言・極諫の別が有りました。
 その他前漢では文学・高第・行義(有行義・有行)・明陰陽災異・質樸・敦厚・遜譲・
敦樸・孝弟・通政事・勇猛・勇武・有節・治獄平・知兵法(明習兵法・明兵法)・能浚川
疏河・通知逸経等・有大慮がありました。
 同様に後漢では有道徳・明政術・達古今・有道術・達於政化・至孝与衆卓異・幽逸修道
・至孝・篤行・有道・敦厚・質直が有りました。
 それぞれの違いは、字面でなんとなく想像されるとおりのものかどうか不明です。

試経
 太学生に経に関する試験をするもので、合格者は八品官を与えられました。
 漢代では博士弟子に射策(問難)により、甲科は郎中、乙科は太子舎人、丙科は文学掌
故に任官させていた制度が有り、これに相当するようです。
 なお人数は前漢成帝時甲科四〇名、乙科、丙科各二〇名、後漢順帝時甲科五〇名、乙
科、丙科各三〇名となっています。
 また儒学に関係の深い科名に明経が有り、後漢では四〇万人以上の郡国は毎年五名、
以下は毎年三名が推薦され、議郎等に任ぜられたようです。
 前漢では人数も少なく直ぐに任官できたが、後漢では下第のものは太学で学習させ博士
弟子甲乙科員とされています。
 他に明法・治劇等の実際政務に関した科名も有ったそうです。
479世界@名無史さん:04/12/27 21:36:48
上計掾または計偕
 郡の掾・史各1名が帳簿を持って会計報告に都に出て来る制度。このうちから郎や他の
官に任じられることもありました。
 計偕は同様のもので司隷校尉・部刺史の属官が上京するものです。

 他に特例として、名士耆儒を招いて博士・尚書・郎中・舎人等に任ずることも有りまし
た。なお本人に任官の意志がなく山林に退居しているような場合は、礼を尽して招いたよ
うです。

 どうも詳しい方の降臨が無いようですので分かる限りのことを一応書いておきますが、
はっきり言って下記の本の劣化コピー以外の何者でもないです。
 「九品官人法の研究」宮崎市定、「六朝史研究政治社会編」宮川尚志より
480世界@名無史さん:04/12/27 21:38:04
あっそう言えば確かそのものズバリ「漢代官吏登用制度の研究」とか言う題名の本が
あったような。
481世界@名無史さん:04/12/30 23:38:02
最近怨霊さんの降臨がないなあ。
って言うかここも寂れましたね。
482世界@名無史さん:04/12/31 04:09:50
>>481
三戦にいるよ

アルスが亡くなりますた…
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1103988015/l50
483怨霊 ◆SHUZENU4Yk :04/12/31 17:45:30
いやあなんか私から言う事もなかったのと、私の勉強不足・努力不足でして。
ペースは落ちているとしても私なんかいなくてもスレとして機能しているようなので、ならばよし!

話のネタ探してきます。

>>482
そこに限りませんけどね。
484世界@名無史さん:05/01/02 15:58:11
新春からいいスレを見つけた!

私は秦漢史が全然わからない人間ですが、このスレはなかなかおもしろいですね。
勉強になります。

435あたりの哀帝の話は、時代こそ異なりますが、
明の崇禎帝に似ていますね。
二人ともだめになった社稷を立て直そうと努力したものの、
よき側近を持たず、結局は王朝滅亡を止められなかったというあたりがまさに同じです。
485世界@名無史さん:05/01/10 20:59:41
質問があります。
官職で行何々、領何々と表現されることがあります。
このうち「行」は本来の官位よりも下の官職に就いた時(兼務した時?)につけられるようですが「領」はどのような意味があるのでしょうか?
どこどこの太守とかどこどこの刺史といったように地域の長に関する官職に就いた場合につけられることが多いようですが接頭語みたいなもので特に意味はないのでしょうか?
ただこのスレの頭の方で領尚書事などの官職もあったみたいなのでどうも違うみたいですが……
486怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/11 08:21:53
>>485
「行」は「代行」の意味で使われているようです。
本来の官より高位の場合もあったようですし、後漢末では官位が低い者が将軍等となる際に「行○○将軍」などとなっている事例が見受けられます。
「領」は実は今も私はよく分かってないんですが、兼任の場合に付くのではないかと思います。
例えば劉備は左将軍と司隷校尉、予・荊・益州牧を兼任しており、左将軍領司隷校尉・予・荊・益州牧となります。
487世界@名無史さん:05/01/11 12:25:51
>>485>>486
「録尚書事」も「録」+「尚書事」(尚書事を録する)なんでしょうね。
そこで思いましたが、三国時代蜀漢で諸葛センが「平尚書事」になってますが
その時代の彼等の意識として「録」すると「平」がすは
どんなニュアンスの違いがあったんでしょうか?
488世界@名無史さん:05/01/11 13:12:45
蜀末期は尚書関係の序列は一応、

(録尚書事)姜維>(平尚書事)諸葛瞻・董厥>(尚書令)樊建

でいいのかな?
489怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/11 20:21:48
>>487,488
どうも「平尚書事」ってのもよく分からない、というのが正直なところ。
勉強不足でして・・・。

前漢でも于定国と張敞が宣帝の時に平尚書事になっています。
この時は領尚書事霍光が実権を握っていた時代で、張敞は霍光に睨まれたという記録があることから、どこかしら領尚書事の職務と競合する部分があったのかもしれませんね。

ここからは妄想の域ですが、蜀末の場合は漢中に居座り皇帝の大権の一部を握る録尚書事姜維に対し、
親政する後主の補佐役としての平尚書事が諸葛・董といった関係なのかも。
要するに姜維を事実上政務から切り離し、録尚書事に代わる皇帝の決裁補佐役(?)として平尚書事を置いた、と。

尚書令と録・平尚書事は職分の上で根本から違う(少なくとも本来は)、というのが私の愚説です。
位階としては488氏の順番に違いないとは思いますが、統属関係としては一直線に並ぶ存在ではないのではないか、と思っています。

相変わらずまとまりのない話になってしまいましたが・・・。
490486,488:05/01/11 21:24:00
>>489
488ではお礼を忘れてました。すいません。
「行」も「領」も本来の職務以外に兼務してる職務を表してるだけと理解しておけばいいのでしょうか?
「行」と「領」の違いですが「行」は軍関係の官職、「領」は地方長官の場合が多いような気がします。
(領尚書事は別として)
491世界@名無史さん:05/01/11 22:44:13
>>489
なるほど。ありがとうございます。
蜀漢を見ていると、末期はどうも呉のまねっこばかりしているという印象がありまして。
驃騎や車騎将軍を左右二つに割るとか平尚書事を設けるだとか。
平尚書事は前漢で既にあったわけですね。勉強になります。

私も尚書台の首長である尚書令と録尚書事を持つ者の権限は違うと感じてます。
本来なら文書の発布は尚書台を通らないといけないと思うのですが、
録尚書事を有していれば尚書台のやってることをやれるのではないかと。
余りにやばい案件や文書は尚書郎たちが騒いで尚書令のとこで止められるけど、
録尚書事を有していれば自分の手元から勝手に文書を発布できるのではないか?
と考えてました。
録尚書事を有していれば勝手に公文書を発布できるのは凄いもんだと思うのですが
逆にいうと権力者に録尚書事を与えておくことで尚書台はあくまでも独立を保って
仕事ができるんじゃないかとも思います。
492世界@名無史さん:05/01/12 00:38:43
>>491
> 蜀漢を見ていると、末期はどうも呉のまねっこばかりしているという印象がありまして。
> 驃騎や車騎将軍を左右二つに割るとか平尚書事を設けるだとか。

ムダに上層部が詰まってる為、昇進させようにも官職が足りなくなってしまってることも要因なんじゃないですかね。
でも優秀な人材が一杯いるわけでもないw
493世界@名無史さん:05/01/12 20:40:06
蜀に亡命した夏侯覇の死後、彼の車騎将軍の職を左右に分配して張翼らを
任命したのも、昇進しすぎなのかな?
それとも姜維が北伐に従軍する武将を高官に任命し、成都の勢力に
対抗させる為なのか?
494世界@名無史さん:05/01/12 21:34:02
>>493
> それとも姜維が北伐に従軍する武将を高官に任命し、成都の勢力に
> 対抗させる為なのか?

廖化も張翼も姜維に批判的だったからそれはないかと。
右驃騎将軍胡斉、右大将軍閻宇もおそらく諸葛瞻や董厥側だったし。
懐柔の意図はあったかも。
495世界@名無史さん:05/01/12 21:37:49
結局、姜維って自分に賛同してくれる強力な右腕が居なかったんだな。
496世界@名無史さん:05/01/12 21:39:21
素直に前線で指揮のとれる人材が居なかったからじゃないの?
左右にしたのは格式が二人に足りなかったが
他に適任者が居なかったからだと思われる。

この時期は益州閥にそっぽ向かれてるし
497世界@名無史さん:05/01/12 21:48:15
姜維の話題はスレのテーマから外れるが、、、
まあどうでもいいか。。。
498世界@名無史さん:05/01/12 22:27:31
 創文社「秦漢法制史の研究」大庭修著の第四編第五章「漢の官吏の兼任」によると、本来漢の兼官のうち守官は守+官名だが、行・録・領等は本来は行○○事等が定例で事が付
かないのは脱文だそうです。なお行○○事が一般的だったとも。
 また守官は卑秩(または卑位次)の官職にあって高秩(または高位次)の官職を兼ねる
兼任で、兼任者の選任は慎重に行われた。
 それに対して行官は某官事務取扱で秩位次による選任の原則はなく、兼任者の選任は便
宜的あったらしいです。
 なお守官の置かれた官には本務者が存在しないに対し、行官の場合は本務者がおり何ら
かの理由で一時的に職務を取れない場合(公用出張・病気休暇等)に置かれたらしいです。

 同朋舎出版「中国政治制度の研究」山本隆義著によると、前漢時代は領尚書事、後漢で
録尚書事となり、和帝以後幼帝の時は大傅録尚書事が置かれる例となったと有ります。

 徳間書店の「三国志全人名事典」に主要関連「官職」一覧が付置されていまして、そこ
の「省尚書事」の項目を見ると、尚書令の仕事を全面的に代行すると有り、省は「みる」
で他に「領・平・録・視」等もある臨時職で三国ともに置くと有ります。
 また「録」の項目では録は代行の意で例として録尚書事、もとは「領」が用いられたと
有ります。
 なお「守」は兼任または試補、「行」は代行と有ります。

 蜀の場合だと諸葛亮が李平を弾劾するために尚書に奉った文書に、行中軍師・行中監軍
・行前監軍・行中護軍・行前護軍・行左護軍・行右護軍・行護軍・行中典軍・行中参軍・
行参軍、領○州刺史・領長史・領従事中郎等が出てきます。
 また各人の伝にも左右前後中の軍師・監軍・護軍・典軍等の官名が出てきますが、これ
らには行が付く例はないようです。要は大本営における幕僚の序列をあらわすものなので
しょうが、正式の場合には行を付すものだったのでしょうか?
 陳寿の上司に領中書監と言うのも有ります。
499世界@名無史さん:05/01/12 22:28:13
 南朝においては皇子を都督に任命する制度がありますが、年少の場合は都督府の長史が
行府州事(略称行事)として事務を代行したようです。「九品官人法の研究」

 筑摩版「正史三国志」所載の「三国職官表」の説明では、魏では録尚書事、蜀では録尚
書事または平尚書事、呉では録尚書事・領尚書事・平尚書事・省尚書事となっています。
 これらの間に職務の差があったのか、就任者の地位の高下によるのか、どうなんでしょ
うねよくわかりません。

 いろいろな本の内容を紹介しましたが、個人的には本来「行」は一時的な事務取扱、「領」
が一般的な兼任、「守」は試補だったのでは思っています。
500世界@名無史さん:05/01/12 22:29:13
なんだか書いている間に話題が変わっている。
流を切って申しわけないです。
501世界@名無史さん:05/01/13 09:44:26
>>500
元々はこの流れだったからOK
502世界@名無史さん:05/01/13 10:37:37
>>498
そういえば劉備は蜀攻略時には左将軍・行大司馬ですが、劉備の開いた幕府は左将軍府であって大司馬府ではないですよね。
大司馬はあくまで一時的な飾りに過ぎないわけですね。
もっとも左将軍もある意味飾りに過ぎず実質は表してないと思いますがw
503世界@名無史さん:05/01/13 10:41:41
>>498
> なお行○○事が一般的だったとも。

あと姜維のことですが256年、段谷で大敗北を喫したあと自ら官を下げて後将軍・行大将軍事となっておりますね。

>>501
なんかスマン。
504世界@名無史さん:05/01/13 21:29:54
 「九品官人法の研究によると」、参軍には魏代から正参軍と行参軍の別があったらしい
ですが、政府が直接任命すれば正参軍、府で任命すれば行参軍と言うのが本来のようです。
 しかし晋末になると、どちらも政府の任命になり単に資格の上下だけになったようです。
 この場合の「行」は出先の任命と言うことが臨時的便宜的なのでしょう。
 なお、正参軍・行参軍ともに原則として中央任命になると、今度はそれぞれに除授(中
央任命)と板行(府の任命)の別が生じたようです。
 しつこく「行」についてカキコ。
505世界@名無史さん:05/01/13 22:26:15
臨時的便宜的というと
鎮西将軍とかは?
506怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/13 23:34:19
賑わっているのは喜ばしいことです。


録(平、領、省)尚書事ですが、これは「尚書令の代行」ではないと思われます。
尚書令代行や兼任なら「録(平、領、省)尚書令事」となるべきです。
しかし位人臣を極めた大臣が尚書令の属官である尚書だけを代行、兼任するというのも不自然な話です。
これは「尚書の事」という仕事を「録(平、領、省)」していると見るべきです。

で、その内容はというと、漢書霍光伝に見えるように、皇帝が上奏文を決裁するのを代行したり、補佐したりするというものと思われます。
皇帝の幼少時等においては摂政や関白として、皇帝親政時には決裁の補佐役として、それぞれ機能するものと考えられます。
(または、皇帝から実権を奪っている状態)


ところで、代行としての「行」は、後漢末ではどうも「本来なら就任できないキャリアの者をその官に就けるための措置」としても使われているように思われます。
507491:05/01/14 18:08:53
>>498
うわぁ勉強になるなぁ。改めて何も分からないことに気づく日々。

その書き込みを見てて疑問が二つ出てきました。
「守」官の時は本官がいないとのことですが、録尚書事を帯びた者がいるときは
本官である尚書令はどうなるのでしょうか?
>>506
なるほど、本官と別に尚書事を録している者がいたりするのは
幼帝の補佐などで別に摂政している者がいる状態が想定されてたんでしょうね。

もう一つの疑問が録尚書事を帯びる者が複数居た時があったと思うのですが、
尚書令代行という意味あいがあったのだとしたら何かわやな状態になってないだろうか
ってのだったんですが、>>506のように代行というと意味合いが違うのだとすると、
録尚書事を帯びた者が複数いてもおかしくはないことになりますね。

「行」は、
よく皇帝が御幸先で祭祀を行うとき、その場に三公がいないために、
ひまでついてきた九卿の一人に行司空とかにして儀式をやってますね。
あと諸侯王などが死んだ時に封地で葬式を看取らせるときとか、
侍中に節持たせて派遣して行司空とかにして葬式やってますね。
508世界@名無史さん:05/01/14 19:13:35
個人的な考えでは録尚書事は尚書の上置き見たいなものだと思っています。
例えて言えば国税庁長官は存在しているけど、その上から総括するものとして、
国税庁の上に税務担当大臣を置くような感じだと。

「行」は当初は臨時代理の性格が強かったのが、徐々に下位の者が代行する意味合いに
変化していったのだと思います。それでついに唐代にはそれが制度化。
おそらく実際に代行する人が下位の人であることが多かったためでしょう。
やはり上位者は元々数が少ないですし、面倒は下に押し付けたいのが人情。
それと漢代には定まった職務のない官吏がうようよしていたこともあるのでしょう。
509世界@名無史さん:05/01/15 20:22:28
余談ですけど行参軍は行守の制度とは別に隋までは存続。
唐まで生き延びていたら行行参軍ってのが存在することに、ややこしい。
510怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/17 00:25:11
>>507
尚書(台)というのはあくまでも皇帝の秘書です。(少なくとも理念上は)
皇帝による上奏文の決裁や詔の発布といった大権に干渉する権限はありません。
しかし録尚書事はその大権に干渉できると思われ、それは尚書台の長官だからといってできる権限ではありません。
録尚書事というのは「皇帝の代行(事務取り扱い)」とでもいうべきだと思います。
理解する上では尚書という名称にとらわれない方がいいでしょう。

前漢の霍光の事例や魏における司馬懿、曹爽などの例が参考になるのではないかと思います。

>>508
その例えが私の考えにも近いように思います。

漢代では命令文、決裁文には長官と副長官のハンコが必須だったそうで、本人がいないと決裁できず大変困る・・・というのは現代とも同じようです。
というわけで本人が居ない時は必ず代行が立つそうです。
で、長官を代行する以上、普通は代行はより下位の者なのでしょう。
511怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/17 02:03:03
そういえば・・・
蜀の右大将軍って、
大将軍を左右に分けたものなんでしょうか。
それとも右将軍に「大」が付いたものでしょうか。(征西将軍+大=征西大将軍のような)
512世界@名無史さん:05/01/17 06:04:58
>>511
ちくま文庫「三国志」第8巻巻末の三国志官職表によると景耀初年に右大将軍を分置としかないですね。
この年は姜維が行大将軍事から大将軍に復帰した年です。
翌年には驃騎将軍に右驃騎将軍が増置され車騎将軍が左右に分かれます。

また262年には姜維から軍権を取り上げて閻宇を立てようという動きがありました。
よって閻宇の右大将軍も右+大将軍であって右将軍+大ではないと思います。

ただ驃騎将軍もそうですけど左右として設置した記録はないみたいです。
右だけ設置して左を設置しないなんてことがあるのでしょうか?

あと当時の右驃騎将軍は胡斉ですが(左?)驃騎将軍は誰だったのでしょう?
ちょっと気になります。

513世界@名無史さん:05/01/17 19:36:34 ,
○○大将軍の嚆矢は新・後漢交代時の光武帝配下の諸大将軍(雑号将軍)でしょうか?
この場合は大のつかない雑号将軍を指揮する、または上位にあると言う意味があったの
でしょうか?
もちろん分裂戦乱気ゆえの武功によるインフレ状態、また小勢力を味方につけるための
優遇によるインフレ等があったのだろうことは理解しますが。
また、後代の諸大将軍はこれを先例と意識していたのでしょうか?
514怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/18 00:25:49 0
>>512
自己レスっぽくなっちゃいますが、気になってちょっと調べてみました。

閻宇は呉の太平2年(257年)頃の段階で「右将軍」として記録されています。
(三国志朱(施)績伝)
その後、魏の征蜀の時に「右大将軍」として都督巴東となっています。
(三国志霍弋伝注)
また景耀5年(262年)、姜維は「右大将軍」閻宇に軍を取られるのを恐れて成都戻らなくなりました。
(三国志姜維伝)

ということは、閻宇は257年段階で右将軍、262年までに右大将軍になっていることになります。
ここで問題になるのは、
>ちくま文庫「三国志」第8巻巻末の三国志官職表によると景耀初年に右大将軍を分置
の典拠でして、一体どこから来たのか私は分かりません。
もしかして、「姜維が大将軍に復帰したのと同時になった筈だ」というだけでしょうか。
ご存知の方教えて下さい。

閻宇はもしかして257年から蜀滅亡までずっと右(大)将軍だったのではないでしょうか。
姜維の方は一貫して「大将軍」で、左右に分けられたという形跡がありませんし。

右(大)将軍は序列から行けば姜維と同格ではなくても将軍の中ではかなり上位には違いないので、姜維から軍権を引き継ぐに相応しい資格があると言ってよいと思います。
むしろ、大将軍が分置されていたとしたら、征蜀の前に大将軍姜維の軍権取り上げが既に実行されていたことになり、姜維伝の記述(事前に察知したように書かれている)と矛盾するのではないでしょうか。


久し振りに少々電波な推論を。
大将軍分置はなかったのでは?
閻宇は大将軍を左右に分けたのではなく、諸大将軍の一つ、「右将軍」に「大」が付いた将軍位にあったのでは?
傍証として、呉では彼を右将軍として記録している。
景耀年間に彼が大将軍に昇進した記録は見つからない。

異論反論等求む。
515世界@名無史さん:05/01/18 05:30:41 0
>>514
まあ私も絶対こうだと思ってるわけではないのですが……

まず呉書の右将軍閻宇という記述の件ですが単なる誤記である可能性もあります。
例えば蜀書後主伝やショウ周伝などではケ艾に対して大将軍などと記述したりしてる例もありますからその類のものであるかもしれません。
もっとも司馬望や諸葛誕に対しても時に大将軍と表記したりしてますので、この場合の「大将軍」はあくまで形容であって官職を記したものではない可能性も十分にありますが……

また胡斉が蜀書後主伝では鎮西将軍と表記されてるのに姜維伝では鎮西大将軍と表記されてる例もあります。
そうしたブレの範疇と捉えることも出来ます。
同じ蜀書でもこういうブレがあるのですから、元の資料が違う蜀書と呉書ならなおさらです。
ただこれを閻宇の場合にそっくり当てはめると四方将軍の一である右将軍に大が付いたり付かなかったりという話になりますがw
516491:05/01/18 13:01:18 0
>>514
>右(大)将軍閻宇
華陽国志「劉後主志」景耀二年(259年)の条にあります。

ところで華陽国志は尚書令陳祗の没年を景耀二年秋八月としてますが、
三国志の方では景耀元年の年に没したことになってます。
このずれはどういうことなんでしょうか?
517世界@名無史さん:05/01/18 13:40:51 0
>>516
単に元資料の違いか編者の誤解かミスじゃないですか?

例えば「三国志」において(たぶん)初代のライ降ケ方の没年が季漢輔臣賛の陳寿の補足では章武二年となってるのに、
李恢伝では章武元年となってるというような例もあります。
同一史書の中でもこれですから異なる史書間では当然(とは言えないかもしれませんがw)ではないでしょうか?
518世界@名無史さん:05/01/18 19:50:09 0
流から少々外れますが、諸大将軍の乱立は王モウの大司馬5人・大将軍25人のインフレ政策のせいでしょうか?
519世界@名無史さん:05/01/18 20:08:34 0
>>514
ちくま付録「官職表」では「景耀の初、右大将軍を分置」とあるだけで、「初年」「元年」とは
明記してないのよ。「初年」ってのは>>512の勇み足かと。

ちくま「官職表」の元である洪飴孫『三国職官表』の大将軍の欄の蜀部分の原文は、

>蜀 同.建興十三年初置.景耀初,復分置右大將軍.前後居是官者四人.
>  蔣琬○建興十三年,由尚書令遷.延煕元年,出屯漢中,開府.二年,轉大司馬.
>  費禕○延煕六年,由尚書令遷.七年,假節.十五年,開府,為魏降人郭循所殺.
>  姜維○延煕十九年,由衞將軍遷.是年,以段谷之敗自貶為後將軍,行大將軍事.景耀元年,復故.
>右 閻宇○景耀初.姜維傳.

ちなみに『職官表』は右将軍の欄に閻宇を拾っていません。
520世界@名無史さん:05/01/18 20:58:07 0
>>519
たしかに初年ではなく初ですね。
ただ朱然伝と照らし合わせれば元年以外ありえないと思います。
もっとも右将軍と右大将軍が同一であるとすればという条件付ですが。
521怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/18 22:20:41 0
>>515-520
右大将軍については皆さん色々ありがとう。
華陽国志確認しました。
しかし「時南郡閻宇為右大將軍」では私の疑問氷解とはいきませんでした。
分置などかどうかがはっきりしないので。
「その時閻宇は右大将軍だった」と昇進時期と関係なく読める文じゃないかと思うので、
いつから右大将軍なのか断言できないような。
どっちが正解でもいいんですが、どっちが正しいか納得したいものですねえ。

>>519氏、『三国職官表』は持っていないので助かります。
『三国職官表』では閻宇の呉書での右将軍を拾っていないということですか?
呉書では「大」が落ちた形で伝わり、蜀書では本来の名称である右大将軍として表記されているということでしょうかね。

私の中ではいよいよどっちか分からなくなりました。
電波なので皆さんは無視した方がいいでしょうけど・・・。

>>518
他の方も書いてましたが混乱期は何かと官位インフレしがちなんでしょうねえ。
王莽期しかり。
522世界@名無史さん:05/01/19 22:44:13 0
光武帝時代は別として後漢末〜三国時代の○○大将軍の嚆矢ってどれでしょうね?
523世界@名無史さん:05/01/20 00:32:14 0
>>522
征南大将軍夏侯尚では?その次が征東大将軍曹休かな?
524世界@名無史さん:05/01/20 01:22:50 0
曹真の上軍大将軍は…と思って調べたら曹休の後だったわ。
525世界@名無史さん:05/01/20 01:38:40 0
>>524
そう。そして、その曹休の前が夏侯尚なんだ。
意外だろ?
526世界@名無史さん:05/01/20 22:07:24 0
○○大将軍とは○○将軍にしておくには格の高すぎる人を任命する時の呼称で、
地位の高下はあっても職掌は同じ。
また、○○大将軍と○○将軍が併置されることはない。
と言う理解で良いのでしょうか?
527世界@名無史さん:05/01/20 22:22:14 0
>>526
>○○大将軍とは○○将軍にしておくには格の高すぎる人を任命する時の呼称で、
>地位の高下はあっても職掌は同じ。
格の高すぎる人と言うより、普通に階級の違いです。
○○将軍クラスの人と、○○大将軍クラスの人は、最低でもワンランクぐらい違います。
あと、同じ将軍号でも、兼任してる官位、帯びてる都督・監軍・節の資格によって、
職掌が全然違ってきますね。

>また、○○大将軍と○○将軍が併置されることはない。
>と言う理解で良いのでしょうか?
三国時代は無いです。
528世界@名無史さん:05/01/24 21:45:12 0
○○将軍、○○中郎将、○○校尉、○○都尉と同じ名前の武官は結構あったようですが、
単なる階級の差と考えて良いのでしょうか?
それと三国期の将軍って、司令官級の上位の将軍はともかく下級の雑号将軍でも、
府を開き司馬等の属官はいたのでしょうか。
529世界@名無史さん:05/01/25 01:51:53 0
>>528
同じ名前でも、階級は○○大将軍>○○将軍>○○校尉>○○都尉となります。
あと、上位の将軍ほど大規模ではありませんが、
雑号将軍にも幕府はあります。長史・司馬・主簿各一名、参軍二名が配置されます。
530世界@名無史さん:05/01/25 05:13:23 0
閻宇に大将軍になれるような功績あったの?
531世界@名無史さん:05/01/25 05:37:00 0
>>530
難治の地である南中都督を務めて高く評価されたのは、ポイント高い。
閻宇が永安都督になる頃には、蜀は官職のインフレが起きてたから、
本来なら右将軍、鎮東将軍あたりになるところ、
右大将軍を授けられたのではないかと思う。
532世界@名無史さん:05/01/25 08:33:56 0
南中都督を務めたのって他に誰かいる?
張翼・廖化とかを差し置いて大将軍とかは無理じゃね?
533世界@名無史さん:05/01/25 08:52:00 0
>>532
ライ降都督(南中、寧州)
ケ方(-221)→李恢(221-231)→張翼(231-233)→馬忠(233-249?)→張表→閻宇(-258?)→霍弋(ただし副弐都督)
534世界@名無史さん:05/01/25 10:25:21 0
謁者僕射(エッシャボクヤ)という官職は、後漢・魏・蜀にはあったけど
なぜ、呉にはなかったのでしょうか?
535世界@名無史さん:05/01/25 13:18:36 0
蜀や呉は資料の残存状況が魏に比べて悪いから、存在しなかったと断言までは出来ない
ように思います。
また組織が小さいために取りまとめ役の必要性が薄かったとも考えられます。
わたしは○○僕射、○○祭酒は○○官の筆頭とか取りまとめ役と考えています。
ちなみに呉では中書令の適格者が不在の場合に中書僕射・中書丞等の官を設けることが
あったようで、このあたりかなり便宜的なのかもしれません。
536世界@名無史さん:05/01/25 14:15:44 0
>>533
李恢伝によると章武元年(221)にケ方が卒して後任が李恢となったとあるが、楊戯伝の引く
『季漢輔臣賛』の陳寿注にはケ方は章武二年(222)に卒したとある。

また楊戯伝には副弐都督となり建寧太守を兼ねたとある。
537世界@名無史さん:05/01/25 22:49:28 0
>>532
そもそも、方面軍司令官(魏の都督○州諸軍事)クラスのポストで活躍したわけでもない張翼・廖化が
左右の車騎将軍になること自体おかしいんで、ノープロブレム。
538世界@名無史さん:05/01/26 13:01:06 0
>>529
>雑号将軍にも幕府はあります。長史・司馬・主簿各一名、参軍二名

長史・司馬・諮議参軍の各一名、計三名じゃなかった?
539世界@名無史さん:05/01/26 13:40:02 0
>>538
それって幕府なのか?単なる副官じゃないの?
540世界@名無史さん:05/01/26 13:42:22 0
将軍配下の副官なんだから幕府でそ。
541世界@名無史さん:05/01/26 17:25:48 0
>>540
魏では儀同三司を加官されて三公と同じ格式を持って初めて開府の資格が与えられた。
単なる属官と幕府では違うよ。
542世界@名無史さん:05/01/26 19:06:14 0
>>538
雑号将軍の属官は長史・司馬・主簿各一名、正参軍一名、行参軍一名のはず。
543世界@名無史さん:05/01/26 20:18:05 0
三国職官表だと四品将軍は長史・司馬各1名(ともに八品)、正行参軍2名(八品)、主簿1名(九品)
五品将軍は属官不明(このクラスは肩書きだけか)
いわゆる府と単に属官いることとの違いは任命権の有無でしょうか?
そもそも開府と幕府と単なる府、これの関係はどうなっているんでしょう。
その辺の用語をきっちり整理してかからないとわけがわからないですね。

544世界@名無史さん:05/01/26 20:32:08 0
開府は自分で人事権持ってて、それ以下の将軍の属官は、
兵部か吏部が人事権を持ってるんじゃないかなあ。
あと、開府の資格がある将軍は辟召権を持つけど、
普通の将軍は持ってないとか。
545怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/26 23:52:03 0
>>534,535
謁者僕射があったかどうかについては535氏の言うように断言できないところでしょう。
僕射、祭酒ともに筆頭格とでも考えればよいと思います。
漢書によれば「僕射は侍中、尚書、博士、郎皆有り」となっています。
ご存知の方が多いでしょうが後漢では尚書僕射等がありましたので、呉の中書僕射はそこから取った(尚書を中書に変えた)のではないでしょうか。
前漢では博士僕射と言っていた博士の筆頭を後漢では博士祭酒と改称しています。

>>538-544
「開府儀同三司」ですね。
府を開くこと三司(三公)と同じとする、と言う意味と思われます。
私が今参照しているのは晋書職官志ですが(宋書を見るべきかな・・・)、
これを見ても「開府」の「府」と「幕府」はどうも別物のようです。
三国志高貴郷公紀に見える車騎将軍孫壹の「開府辟召儀同三司」のように、三公府のような(おそらく常設を前提とした)府を開き、高級幕僚を辟召できるのが開府儀同三司というところでしょうか。
この辺はもはや晋以降の話が中心になるかもしれませんね。
私が間違っているかもしれないのでご了承ください。
「開府儀同三司」と開府と付かない「儀同三司」が同一かどうかは検討を要するかも。
546世界@名無史さん:05/01/27 00:02:44 0
>>545
開府と儀同三司は違う資格だと思うよ。
開府は「幕府を開く資格」
儀同三司は「儀礼上の扱いを三公と同じくす」と言う意味じゃないかな?
つまり、「三公に次ぐ」とされる特進の一段階上の礼遇。
547怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/27 00:22:16 0
>>546
晋書職官志では「開府儀同三司、漢官也」となってるんですよ。
名前の由来は開府と儀同三司で別々ですが、どうやら「開府儀同三司」で一つとして扱われてるようです。

また、晋書では「不開府」の将軍の下に「置参佐吏卒、幕府兵騎如常都督制」という規定が記されていて、
開府≠「幕府」を開く のようです。
ということで
開府儀同三司=三公格の府を開く なのかな、と思ってみたのですが・・・。
六朝制度史の専門家降臨をお待ちします・・・。
学生時代にもっと勉強しとけばよかった。
548世界@名無史さん:05/01/27 01:57:48 0
難しくてよくわからないのだが。

1)開府と儀同三司はちがう(?)。開府は特進よりも一段上の礼遇。
2)開府と不開府にかかわらず将軍の下は幕府。よって開府の府は幕府ではない(?)
3)儀同三司は「府を開くこと三公と同じ」で、通常の幕府よりも格上の幕府。

ということ?

ところで>>542-543によると
「長史・司馬・正参軍・行参軍各1名(ともに八品)、主簿1名(九品)」
とあるけど、>>538の「諮議参軍1名」ってのは何?
549怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/27 02:14:08 0
>>548
あくまで私の考えとして。


「儀同三司」だけなら特進と同じで、「三公待遇」とでも言うべきものと思います。
「開府儀同三司」は別物かも?

おそらく幕府とは(三国時代以降では)軍の府を指し、行政府としての機能は薄いのでは。
しかし「開府儀同三司」でいうところの府は三公の府と同様の行政府(のようなもの)ではないでしょうか。

格上の幕府というより、三公の府と同等の辟召などを行い得る府ではないかと。

マジメな話、この辺素人同然なので誰か教えて下さい。

諮議参軍は宋書の百官志に出てきてるようですが、三国時代にも実際にあったんでしょうか。
550世界@名無史さん:05/01/27 02:55:53 0
>>549
>1
呂布は董卓殺しの功で開府無しの儀同三司になってる。
それ以前に後漢で儀同三司になった人は二人居るけど、
どちらも車騎将軍だから、もともと開府の資格があるから関係ないね。
魏の劉放と孫資は、それぞれ左右の光禄大夫の時に、開府無しの儀同三司。
王昶は征南大将軍に昇進すると同時に、開府無しの儀同三司。
諸葛誕は鎮東大将軍に就任した時に、開府無しの儀同三司。
ちなみに驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍の儀同三司は、
将軍号自体に開府の資格があるとみなしたから、カウントに加えなかった。

>2
袁紹は檄文の中で、自らを幕府と称してるね。
あと、張昭伝に、張昭は孫権の幕府の事を領したとある。
時期的に幕府=討虜将軍の府のようだ。
あと、朱桓・陸遜は孫権が将軍になると幕府に入ったとある。
二人とも幕府入りが初仕官だから、この幕府は討虜将軍の府だろう。
あと、呂岱も「孫権が事を統べると幕府に入った」とある。
毛カイはエン州治中だった時代に、曹操に天子擁立を勧めて、幕府の功曹になったとある。
天子推戴前だから、奮武将軍か鎮東将軍の幕府だと思う。
州牧の府なら、治中から功曹への昇進は有り得ないからね。
漢末から三国時代まで、幕府と言う言葉は「将軍の府」と言う意味で使われてたっぽい。
551世界@名無史さん:05/01/27 03:15:17 0
孫策・孫権がそんじょそこらの将軍と同じと思うな。
552世界@名無史さん:05/01/27 03:19:00 0
【開府】−かいふ
役所を開設し下役を置くこと。漢の制度では三公だけが府を開き官職を置いたが、
後漢の末になると将軍もこれにならった。

                                    角川書店「新字源」より
553世界@名無史さん:05/01/27 03:28:30 0
>>549
>3
後漢書董卓伝によると、董卓残党が朝政を支配していた時代、
三公と車騎将軍李カクの他に、後将軍郭と右将軍樊稠も開府を許され、
合計で六つの府が選挙を行ったとある。ちなみに、郭と樊稠は儀同三司を加えられていない。
開府の資格を与えられると、三公の府と同じように辟召が出来るようになったらしい。
あと、天子の長安脱出を助けた征東将軍胡才、安国将軍張楊も開府を許されているが、
儀同三司は加えられていない。
あと、建安七年に曹操は西方を安定させるために、
二大巨頭の馬騰を征南将軍、韓遂を征西将軍に任命して、開府を許した。
これも儀同三司は加えられていない。
董卓伝の記述によると、後漢末の開府は辟召の出来る府を開く権限のようだ。

魏で明帝が即位すると、征東大将軍曹休、中軍大将軍曹真、撫軍大将軍司馬懿、鎮軍大将軍陳羣が、
儀同三司無しの開府を許されている。
蜀では劉備が死んだ後に、諸葛亮は開府している。どうやら蜀の丞相は最初は府を持たなかったらしい。
費イ、蒋エンは大将軍になって大分経ってから開府を許されている。
蜀は宰相の地位にすら、開府権が付随していないらしい。
三公が居ないから、もちろん儀同三司もいない。
呉では鎮軍大将軍孫慮が儀同三司無しで幕府を開いている。
魏・蜀の開府は辟召権があったようだ。
また、孫権は開府の権を持っていない討虜将軍の時代から、
幕府に辟召を行っていたが、これは孫権が独立勢力だからできたレアケースだろう。
孫慮の府に辟召権があったかどうかは、良く分からない。

諮議参軍は晋からの登場。三公や高位の将軍の属官。
554世界@名無史さん:05/01/27 03:35:30 0
難しくてよくわかりませんが、とりあえず

開府儀同三司(=辟召権+α)>開府(=辟召権)>不開府(辟召権なし)

なのはわかりますた。
555世界@名無史さん:05/01/27 20:21:04 0
「九品官人法の研究」所載の「通典」を元に作成された「魏晋公府僚属官品表」によると、
一、二品将軍、公の属官は六品の長史・司馬・従事中郎、七品の正参軍・行参軍・エン・属
三、四品将軍、校尉は、七品の長史・司馬、八品の正参軍・行参軍
五品将軍は、八品の長史・司馬とあります。
「三国職官表」の作成者コウイソンは清の人なので通典を参照できたと思うのに、
あえて五品将軍の属官不明としたのはなにか他に資料を持っていたのでしょうか?

開府と儀同三司は本来は>>553氏の言われるように別物でしょう。
それで当初は開府であって儀同三司でないこともあったが、
こう言うものは次第に拡大解釈により価値が下落し開府はほぼ必然的に儀同三司となり、
開府儀同三司と一括して呼ばれるようになったのではないでしょうか。
スレの時代から外れますが西魏〜隋初では開府儀同三司と儀同三司は武官の階級名と化しています。
西魏、柱国大将軍・大将軍・開府儀同三司・儀同三司・大都督・帥都督・都督・子都督
北周、上柱国大将軍・柱国大将軍・上大将軍・大将軍・上開府儀同大将軍・開府儀同大将軍・上儀同大将軍・儀同大将軍・大都督・帥都督・都督
隋初、上柱国・柱国・上大将軍・大将軍・上開府儀同三司・開府儀同三司・上儀同三司・儀同三司・大都督・帥都督・都督
556世界@名無史さん:05/01/27 20:31:59 0
開府、儀同三司、特進、奉朝請等どれもそれぞれに一応の意味(待遇とか特権)
があるわけですが、本質的には実力者や皇帝、太后等の側近等の優遇のために
設けられた肩書きである面が大きいように思います。
従って必然的に人数が増え価値が下落し、最後には乱発され同時に本来の意味を失っていく。
そしてまた新たな実力者のために新しい肩書きが生まれる。
中国史にはそう言う繰り返しの面があるのでしょう。
557世界@名無史さん:05/01/28 20:07:13 0
参軍自体、本来は諮議参軍同様の参謀役としての職務だったが、
人数が増えるとともに分掌が生じ、部局長的存在になったため、
改めて本来に任務を果たすために諮議参軍が置かれたのでしょうか?
558世界@名無史さん:05/01/29 17:29:53 0
大漢和辞典:開府の項にひく参考資料(漢文苦手で書き下しは全くいい加減です)
『通典職官文散官開府儀同三司』
 漢の文帝元年、宋昌を初めて用いて、衛将軍と為す、三司の位に亜す。
 後漢の章帝、建初三年、三司と車騎将軍馬防の班を同じくし、初めて使う。三司の名は
自ずから之に始まる也。
 殤帝延平九年、車騎将軍にケ隲を為し、三司に儀を同じくす。儀同の名は自ずから之に
始まる也。
 魏、車騎将軍黄権を以て、府を開き、三司に儀を同じくす。開府の名は自ずから之に始
まる也。
 漢末の奮威将軍、晋の江右(の時=江西=西晋か?)の伏波・輔国将軍、並びに大を加
え、三司に而(すなわち?)儀を同じくす。
 江左以来(江東=東晋か?)、将軍則ち、四(東西南北)鎮・撫(軍)・鎮(軍)・中(軍)
以上に、或いは大を加える。余の官則ち左右光禄大夫以上、三司儀同を並び得る。
 斉の開府儀同三司は公の如し。
 梁の開府儀同三司は、三公に位が次ぎ、諸将軍・左右光禄大夫の、優れたる者は之を加
える。
 三公と同じ官属を置くのは、晋より以来。
 又三司の儀を開府と同じくする者の如く有るは、羊コ(示+古)に始まる(焉は単に調
子を整える字か?)。
 江左で任ずるは亦多く之有り。
『北史魏大武帝紀』
 開府は辟召を聴(ゆる)す。

一応参考までに。
559世界@名無史さん:05/01/29 21:04:52 0
光武帝の兄が[糸寅]と呼ばれず、伯升と呼ばれるのは何で?
560怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/30 00:41:59 0
開府儀同三司についてはみなさんありがとう。
正直私自身よく分かってなかったんですが色々と勉強になりました。

>>559
漢書で班固が彼へのある種の敬意から敢えて諱での表記を避けたと理解されているようですね。
(二十二史箚記で見たような)
皇帝ではないですが避諱の一種?
561世界@名無史さん:05/01/30 01:31:06 0
>>560
もともと劉秀は劉縯に従って挙兵したから、
劉縯を劉秀の先代とみなして諱を避けたんじゃないかな?

呉書一巻の表題が「孫破虜討逆傳弟一」になってて、
呉の国民が孫策を討逆将軍と呼んでたのと同じような意味。
562世界@名無史さん:05/01/30 02:40:48 0
>>560
漢書じゃなくて後漢書の話なんだが・・・

范曄とかが諱を避ける必要は無いと思うんだがねえ。
それに字で呼ぶのって敬意を示してる事になるのかなあ。
563怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/30 02:46:24 0
>>562
>後漢書
そうでしたか。それは失礼。

諱呼び捨てよりは扱いがいいんじゃないですかねえ。
後漢書ってことは、後漢の時代に作られた後漢書の元になった文でそうなっていたってことでしょうか。
564世界@名無史さん:05/01/30 03:05:46 0
>>563
そうかもねえ。
[糸寅]ってのが誰かの諱とかぶるのかとも思ったけど。
565世界@名無史さん:05/01/30 08:05:18 0
>>563
荒らしは出て行ってくれ。
頼む
566世界@名無史さん:05/01/30 12:13:49 0
>>565
その人なにかやったの?
567世界@名無史さん:05/01/30 13:20:20 0
怨霊が成仏しますた…
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1107017761/

1 :怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/30 01:56:01
義封と婚約しますた。

2 :奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :05/01/30 01:56:49
omedetooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooooo!!!!!!!!!!!!!ぬぬぬん

3 :義封 ◆ONRYO.UJOA :05/01/30 01:58:54
おお!ありがとうございます。
スレタイが素敵

4 :奇矯屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :05/01/30 02:20:41
祝え!
568世界@名無史さん:05/01/30 19:29:16 0
>>564
劉[糸寅]は光武帝・劉秀の実兄
569世界@名無史さん:05/01/30 23:50:05 0
>>568
んな事は分かってるんだよw
誰かの諱とかぶるから字で書いてるのかって事。
570世界@名無史さん:05/01/31 10:28:54 0
怨霊は荒らし固定です。
スルーしてください
571世界@名無史さん:05/01/31 10:44:37 0
板が変わってまで粘着しなくてもと思うんだけども
ここじゃ、知識量が上回る人も多く、普通の描き込みだばかりだと思うのだが

>>570
怨霊乙
572世界@名無史さん:05/01/31 18:38:19 0
皇后・皇太后の自称って何?詔とかで朕と称する事ある?
573世界@名無史さん:05/01/31 21:31:58 0
ちくま版漢書の高后紀第三を見ると呂后は称制二年春の詔で朕と自称してますね。
なお同じくちくま版史記を見ましたが、史記の呂后本紀の方は該当の詔は載ってません。
ただ呂后が先例になるかどうか?一般の皇后・皇太后はどうでしょう?
574世界@名無史さん:05/01/31 21:44:45 0
ちくま版漢書の平帝紀第十二を見ると大皇太后(王氏)も平帝五年正月の称で
朕と称しているようです。
ただ王大皇太后も臨朝していますから、臨朝していない皇太后や臨朝すること
がない皇后はどうだったんでしょう?
575世界@名無史さん:05/01/31 21:53:26 0
詔を下した場合は朕と称するのではないかと・・・
576世界@名無史さん:05/01/31 22:02:15 0
詔を下す=皇帝本人または帝権代理者=朕と自称
ということかな?
577世界@名無史さん:05/01/31 22:39:51 0
そうじゃないかなあと。
皇后が日常的に朕と言っていた可能性もあるけど。
578怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/01/31 23:48:05 0
>>572-577
漢書元后伝なんかでも、皇太后が詔を出す際は一人称として「朕」を用いています。
一方で、同伝では皇太后王氏(元后)は話し言葉としては「我」などと言っているようで、詔以外では必ずしも「朕」ではなかったようです。
575,576氏の言うように詔を出す場合に限り皇帝と同格ということなのかもしれません。

皇后についてはちょっと良く分からないんですが、
皇后が皇帝に上奏文を出す際には、「妾某」(男の場合の「臣某」と同じ)と称している例はあります。
あまり参考にはなりませんが・・・。(漢書外戚伝、孝成許皇后)
579世界@名無史さん:05/01/31 23:53:16 0
皇帝も我という事あるしね・・・
580怨霊 ◆SHUZENU4Yk :05/02/01 00:18:33 0
>>579
皇帝も含め、公式の場以外では必ずしも「朕」を使うとは限らないということでしょうか。
581世界@名無史さん:05/02/01 00:35:50 0
朕は皇帝専用ではない事は確かだね。
582世界@名無史さん:05/02/01 09:20:49 0
>>575氏の言われるとおり、詔を下すという行為の中に、形式として朕と自称することが含
まれるのかもしれません。
口語では皇帝も、信頼する重臣や寵臣に対して親しみを表す意味で、やや非公式な場で
は自称を変えたかも知れませんね。

史記では皇帝即位前の秦王政は、皇帝号を定めるべく臣下に議論させた際に寡人を称し
ています。
家にある漢和辞典では寡は王侯の自称、寡人は侯・侯夫人の自称とあります。
皇后などは寡人と称した可能性もあるのかもしれません。
583世界@名無史さん:05/02/01 09:26:39 0
ギャハハハ、怨霊君は馬鹿ですか?
秦の始皇帝の発行した公式文書(口述をまともたものだが)には
皇帝や朕について言及しているが、朕とはこの世で最も尊い皇帝のみに
許されるものであると断言している。
秦の儀式を受け継いだ漢の外威や親王が、公式に朕と発言することはない。
調子に乗った外威でも、公式文書に朕と記すはずはないはず
584世界@名無史さん:05/02/01 11:44:14 0
書き間違いにツッコムなんて卑劣な行為は禁止ね
585世界@名無史さん:05/02/01 16:14:47 0
>>1が先日立てた糞スレ

怨霊が成仏しますた…
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/hobby5tr/1107017761/
荒らしは死ねよw
586世界@名無史さん:05/02/01 16:23:10 0
>>585
>>567で既出
587世界@名無史さん:05/02/01 16:41:25 0
こう言ってはなんだが、
怨霊さん、ココで書き込む時は名無しに戻ってもらえんかな?
議論自体は読んでいて面白いし感心もするんだけど
質問を含め便利に利用しているスレだから三戦のようになるとな

>>583
怨霊乙
588世界@名無史さん:05/02/01 19:34:38 0
 漢書外戚伝第六十七上の元始元年の王太皇太后の詔でも自称は朕です。
 漢書元后伝第六十八、王莽が摂皇帝となり安衆侯劉祟が叛乱が起こした際の王太皇太
后の感想、王莽が安陽侯舜をして太后から璽を得ようとしたときの返答等では、我と称して
いるようです。
 ところで漢書元后伝第六十八、漢書王莽伝第六十九上によると、哀帝即位の際王太皇
太后は詔を発して王莽を私邸に帰させています。どうもこの詔は即位後に出ているようで
す。また漢書哀帝紀第十一によると、哀帝の即位後哀帝の父定陶恭王は王太皇太后の
詔で恭皇と称されることになっています。
 皇帝の死亡時に皇太子が不在の場合、皇家の家長代理として皇太后または太皇太后
が詔を発して次の皇帝を指名することや、幼帝の時期に臨朝している場合はともかく、即
位後の皇帝親政時の太皇太后の詔にはどういう根拠があるんでしょう。
 平帝時はともかく哀帝は親政なので、太皇太后(おそらく皇太后も同様)は臨朝の有無
に関わらず、詔を発っすることが出来たのでしょうか?
 と思ったら漢書霍光金日テイ(石+探單)伝第三十八を見ると、昌邑王の廃位の場合に
様々な局面で皇太后の詔が出ていますね。
 やはり皇家内部の長幼の序の問題として、皇帝の母・祖母(義理も含めて)にあたる皇
太后・太皇太后は証を発する権限が有るのでしょうか。
 ところで最近出た講談社の「中国の歴史3ファースト・エンペラーの遺産」によると著
者の鶴間和幸氏は、女性でも詔を発するときは朕と詔すると書いておられます。
 ちなみに漢書王莽伝第六十九上によると、王莽は祭祝の辞では仮皇帝と称し、臣民から
は摂皇帝と呼ばれ、自らは予と称することにしています。
589世界@名無史さん:05/02/01 21:08:52 0
だから王氏はまた別な話だろ?
普段の外威が朕と称したソースだせよコラ
590世界@名無史さん:05/02/01 22:21:07 0
>>1が先日立てた糞スレ

怨霊が成仏しますた…
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/hobby5tr/1107017761/
591世界@名無史さん:05/02/01 22:53:17 0
調子に乗った外威=王氏
592世界@名無史さん:05/02/02 06:38:20 0
後漢書馬皇后紀で馬太后が詔で朕と称してると思う。
593世界@名無史さん:05/02/02 12:08:20 0
脳内ソースは結構です
594世界@名無史さん:05/02/02 16:21:18 0
よっぽど特殊な文献に載ってるんなら兎も角、後漢書ごとき
中央研究院で検索かけりゃ二秒で結果出るだろうが

○馬太后
・馬皇后紀「太后詔曰、凡言事者、皆欲媚朕以要福耳……」

○竇太后
・和帝紀「皇太后詔曰…今皇帝以幼年、煢煢在疚、朕且佐助聽政…侍中憲、朕之元兄…
 朕庶幾得專心内位……羣公其勉率百僚、各修厥職、愛養元元、綏以中和、稱朕意焉」

○ケ太后
・殤帝紀「五月辛卯、皇太后詔曰、皇帝幼沖、承統鴻業、朕且權佐助聽政……」
・安帝紀「皇太后詔曰、先帝聖コ淑茂、早棄天下、朕奉皇帝……朕惟平原王素被痼疾……」
・ケ皇后紀「太后賜周・馮貴人策曰、朕與貴人託配後庭、共歡等列十有餘年……」
・ケ皇后紀「永寧二年二月、寢病漸篤……詔曰、朕以無コ、託母天下……」

○粱太后
・粱皇后紀「和平元年春、歸政於帝。太后寢疾遂篤…詔曰、朕素有心下結氣…
 援立聖嗣、恨不久育養、見其終始。……後二日而崩、在位十九年、年四十五、合葬憲陵」

○霊帝竇太后
・段?伝「時竇太后臨朝、下詔曰……朕甚嘉之……」

臨朝下にある太后ないし太皇太后は朕と称することも可能。以上。
595594:05/02/02 16:26:19 0
あ、馬太后と粱太后は臨朝してねーや。

・皇太后の勅書も「詔」と称す
・皇太后も一人称に「朕」を用いる。普通に。

に訂正。
596世界@名無史さん:05/02/02 20:18:29 0
皇太后・太皇太后は皇帝の母ないし祖母の権威として詔を下せたと見てよいのだろうか?
臨朝時は平たく言えば摂政だから当然かもしれないが、それ以外の場合についてはそうと
しか思えない。
すると皇后は原則として詔を下すことはなかったのだろう。当然朕とは称さない。
自称は我、妾などか?

ところで一つ疑問が、漢書霍光金日テイ(石+探單)伝第三十八で、上官皇太后が昌邑王
を迎えにやらせたときは、新帝即位前だが既に皇太后と表記されている。
先帝の死亡で自動的に皇太后となるのか?それとも追記だろうか。
ちなみに廃位までの昌邑王賀は、地の文では王と称され、霍光は陛下と呼びかけている。
なお廃位の詔が下された後には霍光は王と呼びかけています.
597世界@名無史さん:05/02/02 21:47:57 0
つーか普通はいわんだろ。
あたかも歴代漢の皇太后全員が朕と称していたと誤解を招くような
発言するなよカス
598世界@名無史さん:05/02/02 23:07:16 0
「普通」の基準が分からない
599世界@名無史さん:05/02/02 23:08:25 0
普通はいわないっていうソースだせコラ
600世界@名無史さん:05/02/03 00:57:18 0
>>597
勝手に誤解して勝手に怒ってんじゃねぇよ。
601世界@名無史さん:05/02/03 10:05:27 0
今までの話を整理するとこんなところか?
皇太后・太皇太后は臨朝の有無に関わらず、実態として詔を下すことが出来た。
詔を下す際には朕と自称する。
(自分としては最初は臨朝時のみ可能で後に拡大解釈されたのか、最初から権限が
あったのか疑問)

史書に出てくる話し言葉の中では我などと自称している例がある。
これが公式なのか、公式の自称は朕であり砕けた言い方なのかはよくわからない。

皇后が詔を下すことはないようだ。
おそらく朕とは自称しない、自称は我・妾等か?
602世界@名無史さん:05/02/03 14:51:44 0
怨霊さん婚約おめでとう
603世界@名無史さん:05/02/03 20:12:40 0
 漢書霍光金日テイ(石+探單)伝に見える昭帝未亡人上官皇后(皇太后)の詔
 元平元年昭帝没後、皇太后は(皇帝が死亡するととくに手続きも必要なく皇太后となる
のか?)詔を下して、昭帝の跡継として昌邑王賀を迎えに行かせる。
 昌邑王即位後、霍光等の昌邑王が宗廟受け継ぐべきでない行状であるとの上奏に基づき、
諸宮門は昌邑王の群臣を入れてはならないとの詔を下す。
 昌邑王と引き離された群臣の捕縛後、皇太后の詔により新帝(昌邑王)は皇太后の御前
に呼び出される。
 その席での皇太后の詔により、新帝(昌邑王、地の文では王、霍光は陛下と呼称)は廃
位される。
 群臣の奏上に基づき王邸にある廃帝を昌邑に帰し湯沐の邑二千戸を賜う旨の詔を下す。
 霍光等の武帝の曾孫病已(宣帝)を昭帝の跡継とする上奏を許可する旨の詔を下す。

 それと哀帝の父定陶恭王を恭皇と称することが王太皇太后の詔で下されたのは、哀帝本
人が言い出しにくかった為でしょうか?
 何らかの取引あり?
604世界@名無史さん:05/02/05 19:30:30 0
前に話題になっていた印章関係
講談社「中国の歴史3ファースト・エンペラーの遺産」鶴間和幸著に結構興味深い記事が。

 1968年長陵陵邑の位置で発見された「皇后之璽」虎鈕玉璽(2.8a四方)、発見の位
置から恵帝の張皇后の璽か?

 1983年南越文帝(趙胡)の陵墓で発見された「文帝行璽」龍鈕金印(3.1a四方)、「帝
印」蟠龍鈕玉璽(2.3a四方)、漢の皇帝の璽印を模したものか?

 1956年出土の「テン(シ+眞)王印」蛇鈕金印(2.3a四方:一寸方印)

 1984年海南省楽東黎族自治県で発見された「朱廬執ケイ(圭+リ)」蛇鈕銀印、前漢時
代のものだが執ケイの爵は漢にはなく、戦国楚か楚漢抗争の時代に由来する爵位。
(吉開将人「印からみた南越世界ー嶺南古璽印考ー」上中下『東洋文化研究所紀要』13
6・137・139、1988−2000年参照とのこと)

 鈕の形はその地方にあった動物が選ばれ、北方・西方の遊牧民なら駱駝か羊、南方なら
蛇がその象徴とされたようです。
 なぜか東方の倭の奴国王に光武帝が与えた印も蛇鈕、当時倭国は南に有ると思われて
いたのか?
「漢委奴国王」蛇鈕金印(2.3a四方)
605世界@名無史さん:05/02/05 19:31:13 0
諸侯王:金璽緑綬亀鈕
列侯・関内侯:金印紫綬亀鈕
丞相・太尉(大司馬)・大司空・将軍等:金印紫綬
外国王:金印紫綬、地方に合わせて鈕は駱駝・羊・蛇等
 金印紫綬の外国王は、西域の蒙奇・兜勒、南方の葉調・タン(手偏に單)、西南では白狼
・蛮夷王唐等

漢廉斯邑君、帰漢里君(文献のみ?)
伝世印、「漢匈奴悪適尸逐王」駱駝鈕銅印、「漢匈奴破虜長」印、「漢帰義胡長」駱駝鈕銅
印、「漢夷邑長」
伝世の封泥「漢青羌邑長」

 1977年青海省大通県上孫家寨後漢末匈奴の墓から発掘の「漢匈奴帰義親漢胡長」駱駝
鈕銅印。
 1953年新彊沙雅出土の「漢帰義羌長」羊鈕銅印
 陝西省で出土の「漢匈奴悪適尸逐王」鼻鈕石印

参考までに保守ネタなど。
606世界@名無史さん:05/02/05 19:52:19 0
>>604-605
ハンコの文面で外国王であっても頭に「漢」がつくのとつかないのがあるのは
どういう違いですかね?
607世界@名無史さん:05/02/05 20:36:59 0
テン(シ+眞)王印、朱廬執ケイ(圭+リ)はおそらく前漢、
漢委奴国王、漢廉斯邑君は後漢(光武帝期)。
前漢のときは漢がつかず後漢でつくようになったのかも。
王莽が「匈奴単于璽」にかえて匈奴に与えた「新匈奴単于章」がはしりかも。
608世界@名無史さん:05/02/06 00:04:03 0
語呂で・・・
609世界@名無史さん:05/02/06 01:41:07 0
>>1が先日立てた糞スレ

怨霊が成仏しますた…
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/hobby5tr/1107017761/
610世界@名無史さん:05/02/06 12:59:25 0
突然の質問で悪いが・・・

征東将軍司馬と征東司馬とか○○将軍司馬と○○司馬の区別がよく分からない。
誰か分かる人いるか?
611世界@名無史さん:05/02/06 13:32:35 0
通常○○司馬は○○将軍司馬の略称と思われます。
それで○○将軍司馬は○○将軍府の司馬(府司馬=次席幕僚)を差すものと思います。
ただ漢初においては、○○将軍配下の部隊長である司馬(軍司馬)を呼んだのでは
ないかと言う疑問が残ります。
○○将軍配下の部隊長である校尉をそう呼んでいる例があるものですから。
また幕僚としての司馬が、いつごろから一般化したのかも良くわかりません。
もっと詳しい方の降臨希望。
612世界@名無史さん:05/02/06 13:54:03 0
あと歩兵校尉等五校尉などの諸校尉に副官として置かれた司馬を、歩兵司馬とか称した
可能性はあるかもしれません。
他に将軍名関係なしの司馬は郡都尉の属官である典兵・禁備・盗賊司馬や、丞相府や
司徒等三公の公府司馬、典農・度支の中郎将・校尉・都尉の補佐官の司馬などが。
あとは侍衛職である殿中将軍配下の司馬とか。
後漢のころ以降は部隊長から軍事関係の補佐官の官名に使われるように変化した模様です。
部隊長である司馬を従えた将軍があまりいなかったせいもあるのでしょうか?
ちょっと疑問、大司馬府の府司馬は大司馬司馬?
613世界@名無史さん:05/02/06 17:13:48 0
戦場における司馬と府で政務をこなす司馬は異なるのか?
614世界@名無史さん:05/02/06 21:34:45 0
司馬って目付的存在だっけ?
615世界@名無史さん:05/02/06 21:37:13 0
後漢末以後は軍権を持たないと権力をもてない時代でもあり、公府の司馬は軍事担当幕僚
といったところ。
実際に兵を率いることもあったでしょうが主務はデスクワーク。
なお部隊長たる軍司馬の方が先行したと思われる。
ここまで書いてから思いだした。
将軍配下の部隊長は本来部校尉で軍司馬はその副官、ただし校尉を置かない部もあり、
その部では軍司馬が部隊長。また別働隊部隊長たる別部司馬もいた。
もともと司馬は軍事関係の職名として使用されていたが、漢のころには千石程度の武官名
として使われている模様。個人的には校尉の補佐官が多い印象がある。
大司馬は例外。
三国時代以降は将軍・校尉の価値の下落に伴い、その部下たる司馬の中にはあまり重要
でないものも出てきた。
616世界@名無史さん:05/02/06 21:44:10 0
例えばだけど太尉府の司馬と征南将軍司馬の軍務だと違いは発生するって事か?
617世界@名無史さん:05/02/07 14:09:58 0
例えとして良いかどうかわかりませんが、同じ参謀という職名でも参謀本部と方面
司令部ではおのずと職務が異なるようなものかも。
太尉府の司馬はむしろ閣僚(准首相級?)補佐官かも。
なんにしても戦乱の時代ゆえに、実際の職務権限の範囲は制度より本人の実力と上
司の信頼度如何ではないでしょうか。
618世界@名無史さん:05/02/07 21:05:47 0
>>614
府主の任命でなく中央政府の任命の場合は、そう言う意味合いがある場合もあったと思う。
ただし、本来の任務が監視役・監察官だったわけではなく、あくまで部下・補佐役。
619世界@名無史さん:05/02/07 21:21:46 0
>617
もっと簡略すると、中央省庁(本省)の課長と地方の出先機関の課長の差かね?
620世界@名無史さん:05/02/08 19:15:54 0
前漢の指揮系統
(校)軍尉ー(部)司馬ー(曲)候又は千人ー(官)五百ー(隊)士吏ー(什)什長ー(伍)伍長
(中公新書「漢帝国と辺境社会」籾山明著:1978年青海省出土の木簡からの推定)

王莽の制度(漢書王莽伝)
大司馬ー大将軍ー偏将軍ー裨将軍ー校尉ー司馬ー候ー當百ー士吏ー士(兵卒)

漢代の指揮系統(後漢書百官志)
将軍ー(部)部校尉ー軍司馬ー軍仮司馬ー(曲)軍候ー軍仮候ー(屯)屯長

三国時代の指揮系統
将軍ー(部)校尉・司馬ー(曲)部曲督・部曲将ー(隊)都伯ー(什)什長ー(伍)伍長
(以上新紀元社「三国志軍事ガイド」篠田耕一著等より)

東京大学出版会「秦漢隋唐史の研究上巻」濱口重國著所収の「第十 魏晋南北朝の兵戸制
度の研究」によると、曹魏から西晋時代の指揮系統は、
将軍ー牙門将・副牙門将・散牙門将ー部曲将・副部曲将・散部曲将ー都伯・什長・伍長
なお散部曲将以上は武官。
なお、蜀では、部将クラスー曲長ー屯将ー散騎・武騎(隊長クラス)だったようです。

平楽寺書店「六朝史研究 政治社会篇」宮川尚志著所収の第九章「南北朝の軍主・隊主・
戍主等について」によると、晋では部曲督(七品)、部曲将(八品)、副・散部曲将(九
品)の官があったが宋以後なくなると有ります。

これらのことを総合すると、どうも部隊長である司馬は、後漢末から三国のいずれかの時
点で牙門将等に切り替わって消滅した模様です。

秩禄等から勝手に推定した前漢の指揮系統
将軍ー校尉ー司馬ー候ー千人ー五百又は屯長ー士吏ー什長ー伍長
候は比六百石、千人は四百石程度らしい、屯長は比二百石、五百は不明、士吏は百石以下
621世界@名無史さん:05/02/08 19:18:51 0
なお史記の記事から、秦末楚漢抗争期の場合はどうも、将、校尉、候、司馬の序列だった
ようにも思えます。(大概校尉、候、司馬の順で記載されている)その場合どうして漢で
逆転したのかが疑問です。

西域都督班超は蘭台令史→郎?→軍仮司馬→軍司馬→西域都護と昇進。
郎→軍候または軍仮候→軍司馬・軍仮司馬と言うのが武官のエリートコースでしょうが、
兵卒→士吏→屯長と進む純粋なミリタリーの昇進コースがなかったかどうか気になりま
す。まあいけてもせいぜい軍司馬どまりでしょうが。
622世界@名無史さん:05/02/11 18:20:43 0
個々の官職の役割とか載ってるサイトって探してもなかなか見つからないし、このスレは重宝してる。


623世界@名無史さん:05/02/13 23:32:17 0
後漢の官僚って硬骨漢が多くない?
やっぱ儒教政策の成果か?
624世界@名無史さん:05/02/15 20:35:28 0
>>623
それも大きいかもしれませんが、各地の有力豪族出身者が
多いから、例えば罷免になっても食ってけるという自信があるのも
大きいのでは。

625世界@名無史さん:05/02/15 21:08:52 0
その割には諫言とかして死罪に処されている人間が多い。
命を懸けて己の正義を貫こうとする姿勢は後漢において
顕著なように思うんだが・・・
626世界@名無史さん:05/02/18 02:58:51 0
呉で諸葛恪以前に太傅になった人っている?
627永遠の青 ◆pkFA3D428. :05/02/18 04:35:01 0
>>626
いません。張昭あたりがなっててもおかしくないんですけどね…。
628世界@名無史さん:05/02/18 15:58:56 0
629世界@名無史さん:05/02/18 16:06:35 0
>>620
「牙門将」ってすごい名前だな。「役所の将軍」といったところか...
630世界@名無史さん:05/02/18 20:03:55 0
役所の牙門は字が違います。
五代宋の頃には牙とガ(行の真中に吾)は通用されていますが。
牙門は牙旗(将軍旗)のあるところの門(つまりは陣営の門)の意味らしく、
本来はそこの守備隊長であったものが独立部隊長に転じたらしいです。
631世界@名無史さん:05/02/19 01:18:06 0
校尉って、各種行政大臣ってほどの位でもないし
かといって警察長官的と説明がされていたがな……
州警察長官のようなもの?
632世界@名無史さん:05/02/19 01:29:18 0
>>631
どの校尉について聞きたいのかな?
校尉の頭に付く単語で職掌が全然違うわけだが。
633世界@名無史さん:05/02/19 06:24:07 0
>>630
>ガ(行の真中に吾)

「国衙(こくが)」で出るよ。
634世界@名無史さん:05/02/19 15:40:54 0
校尉は原義は校(部隊)の指揮官で、兵数から言うと旅団長〜大隊長クラスか?
司隷校尉は既出だけど警視総監ってところ。
前漢の八校尉・後漢の五校尉は、独立近衛旅団長or連隊長(兵数的には大隊レベル)って
ところかな。
典農・度支校尉は屯田部隊長(太守クラス)。
西園八校尉のトップ上軍校尉は軍事指揮権としては大将軍以上とか言われているけど、
官秩の秩序はどうなんだろうか?まあこれはさすがに例外か?
校尉については大庭先生の「親魏倭王」あたりを読むといいかも。
635世界@名無史さん:05/02/21 01:43:09 0
中郎将>校尉でいいんだよね?
636永遠の青 ◆pkFA3D428. :05/02/21 01:51:22 0
>>635
部隊長の階級としては、そうです。
ただし、近衛軍の官職・文官職としては、そうとも限らない場合もあります。
637世界@名無史さん:05/02/21 10:06:19 0
後漢〜三国では同じ部署なら、将軍>中郎将>校尉>都尉>司馬でよいようです。
前漢では校尉と都尉の関係が微妙。
将軍が格下げになって同名の都尉(独立部隊長)だったりする例があり、
騎都尉(李陵)の副官格に校尉がいたりもする。
通常の校尉は将軍配下の部隊長らしく都尉>校尉かも。

ただし部署が変わると同じ局長・部長・課長でも地位が違うことがある(逆転も)のと同様、
A部局の中郎将よりB部局の校尉のほうが上ということはあります。
例えば殿中将軍・中郎将・校尉等は地位が低く、一般の校尉よりかなり下になります。
638世界@名無史さん:05/02/21 10:51:44 0
>>630
日本でいえばさしずめ「旗本」といったところですな。

>>605
漢には20等爵あったけど、第18等級(大庶長だっけ?)以下はハンコもらえなかったの?
639世界@名無史さん:05/02/21 13:35:46 0
なるほど旗本八万騎じゃなくて、本来の意味の旗本ね。
よくわかりませんが、多分公乗以下の下位八等(民爵)にはなかったんじゃないですか。
一般庶民が貰える爵ですからものすごい数が必要ですし。
そもそも爵には職務がないわけで、封泥することもないわけだから、その意味では印綬の
必要性自体がないし。
列侯あたりにあると公的に認められた家臣がいるわけで、その意味では官庁トップと似た面
もあるから必要だろうけど。下のほうは要らないような気も。
あっでも何か身分標章がいるのかな?どうだろう。
640世界@名無史さん:05/02/21 15:30:10 0
官職はあるけど
官位みたいなのはないんですか?
20等爵ってのがそれの代用品なんでしょうか?
ちょっとここら辺の解説キボンヌ
641世界@名無史さん:05/02/21 15:56:45 0
20等爵ではなく、2000石、1000石、600石...というのが官位のようなものだったと思う。
爵位は官職とは分離されてたんじゃないかな。
642世界@名無史さん:05/02/21 16:15:08 0
一応爵の秩序と官の秩序は別のものです。
ただし丞相になると列侯に封じられるとか、
慶事の際に国民に爵が与えれる際に官によって多く爵が与えられるとか、
同様の際に九卿には一定の爵が与えられると言うこともあり、
全く関係ないわけでもないです。
下から9番目の五大夫以上はたしか六百石以上の官にあるものだけに与えられたそうです。
ただし初期にはその原則がなかったらしいですが。
643世界@名無史さん:05/02/21 19:02:54 0
騎都尉って爵位のようなものになったのは唐代?
644世界@名無史さん:05/02/21 19:46:07 0
清では明白に爵位、男爵の下が軽車都尉、その下が騎都尉。
唐では勲位で、ほとんど単なる名誉称号。後になるほど価値が下落。
なにか出土した戸籍では一般庶民が最上位の上柱国(二品)とか持っているし。
制度を定めた当初はともかく、中期以降は物の数にも入らなかった模様。
645世界@名無史さん:05/02/21 20:11:55 0
唐だと上騎都尉は比正五品、騎都尉が比従五品。
階官の方は五品以上が将軍六品以下が校尉(従は副尉)
清の騎都尉は正四品、ちなみに階官だと二品以上が将軍、四品以上が都尉、
七品以上が騎尉、八品以下が校尉。
明のときの校尉にいたっては落ちるところまで落ちて親王府の一平卒だった。
646世界@名無史さん:05/02/22 12:24:03 0
明清代になると階官は殆ど表に出てこないね。
むしろ実職しか意味を持っていないといっていい状態。
647世界@名無史さん:05/02/22 17:06:09 0
東京大学出版会「中国古代帝国の形成と構造」西嶋定生著
によると、爵は編戸の民の男子に普遍的に与えられたようです。
対象年齢もおそらく7、8歳からで、例外は商人とその子孫、罪人、奴隷など。
従って最盛時の人口6000万人として半分が女性で残は3000万人、
非対象者を除いても2000万人は有爵者と思われ、
少なくとも民衆が授与対象の下位八級には印綬など作らなかったのだと思う。
648世界@名無史さん:05/02/23 13:34:16 0
つか、大上造の印とかって発見されてるのか?
649世界@名無史さん:05/02/23 15:31:47 0
清に丞相っていたっけ?
650世界@名無史さん:05/02/23 16:24:21 0
明初に廃止され、基本的に明の制度を受け継いだ清にはいない。
正丞相・又正丞相等太平天国にはたくさんいた。
李自成の大順国には置かれたことがあり、李自成が政権をとっていたら、
近代まで存在していた可能性も有る。
651世界@名無史さん:05/02/24 12:53:43 0
勘違いを発見したので訂正。
李自成の大順国に置かれたのは丞相でなくて上相国でした。
張献忠の方の大順国に左右丞相が置かれたことあり。
652世界@名無史さん:05/02/24 12:58:35 0
すいません、大順国ってふたつもみっつもあるんですか?
653世界@名無史さん:05/02/24 13:46:24 0
どちらも明末の農民反乱軍が作った国(政権)で、
李自成の方は北京大順国、張献忠の方は成都大順国とも区分するようです。
まあライバル国家と言うか。
李自成は1644年一月西安で王に即位した時の国号が大順国、北京を占領後同年4月
清軍に敗退、その後北京に逃げ帰り同月中に皇帝に即位、翌1645年敗死。
張献忠は同年成都を占領した後大西国王を号し、さらに大順と改めたらしいです。
その後11月皇帝に即位したと言う流のようです。1646年敗死。

もう一度訂正上相国は大順の国号を立てる前に置いた官です。
李自成の大学士牛金星を偽丞相と読んでいる資料もあるようで、
この辺通称なのか改名されていたのか、なにせどさくさ政権で資料がなく、
本当のところは良くわかりません。
654世界@名無史さん:05/02/24 13:49:04 0
>張献忠は同年成都を占領した後大西国王を号し
この同年は「李自成は1644年一月……」と同年のつもりで1644年です。
655世界@名無史さん:05/02/24 18:22:31 0
丞相・相国の変遷
 丞相と相国の違いはよく分かりませんが、一般に相国の方が格上の印象があります。
 いつ頃からあったものかも判然とはしませんが、秦王国には相国や左右丞相がありまし
た。なお宋書巻39百官上によると、秦悼武王2年が丞相の初例らしいです。
 漢では当初は丞相高祖の11年相国に改め、続いて右・左2名の丞相(右が上位)、後
丞相1名のみと変遷があり、哀帝の元壽2年大司徒に改めています。
 また漢初は王国にも相国(後丞相)がありましたが、呉楚七国の乱以後は相に改められ
ています。

 その後は曹操が丞相に任じられるなど、簒奪前等よほどの実力者のが丞相・相国に任じ
られる程度で、平常時は置かれなかったようです。
 東晋元帝なども即位前に丞相となっています。ただすべてが即位の前提と言うわけでは
なく、王導・王敦等の最高実力者も任じられることがありました。
 北方諸国では官職インフレで大丞相も置かれました。
 ただ曹操の魏王国には丞相が置かれたらしく、曹操はあまり特別な官と思っていなかっ
たのでしょうか?

 唐では開元年間に一時期左右僕射を左右丞相と改めています。
 宋でも南宋の乾道8年(1173年)左右僕射を左右丞相と改め、これはそのまま滅亡
まで続いています。
 遼では中書令の下に大丞相、左右丞相が置かれたようですが、創文社「遼代官制の研究」
島田正郎著によると、名臣に対する優遇で実務は無かった模様です。

 金では、太宗の天會4年(1126年)に置かれた尚書省に、尚書令以下左右丞相各1
名・平章政事2名(以上宰相)、左右丞各1名・参知政事2名(以上副宰相)が有ります。
 元では、通常中書令(原則として皇太子が就任したらしいです)の下に右丞相各1名・
平章政事2名(以上宰相)、右左丞各1名・参知政事2名(以上副宰相)が有ります。も
っとも時期により尚書省が併置されたり、人数の増減も有ります。
 また中書省の出先である行中書省の内、重要なものには左丞相が置かれています。
656世界@名無史さん:05/02/24 18:23:45 0
 明は当初元の制度にならった(中書令はなし)が、早い時期に平章政事、左右丞・参知
政事は廃止、残った洪武13年左右丞相も廃止されました。
 右左相国→右左丞相→左右丞相→廃止と言う経過を経て、王朝の正規の制度としての丞
相は終焉を迎えたわけです。

 その後は叛乱側で時々使用されています。例李自成の上相国(上相)、張献忠の左右丞
相、太平天国の夏官・冬官・地官等正副丞相等。
 太平天国のものは六部の尚書・侍郎に相当するように思えますが、実体的には単なる部
将の格付けに過ぎなかったようにも思えます。
657世界@名無史さん:05/02/24 20:57:24 0
明清話で盛り上がっている流れをぶった切って悪いんだけど

呉楚七国の乱以降の、前漢や後漢の時に各地に封じられていた王侯は
どんな扱いだったの?都に駐屯?
それとも任国に駐留して、独自に相を置いて政治を行っていたの?
また、三国志や後漢書などによく出てくる「安平候」とか「寿亭候」とかって
どんな身分なんですか?春秋時代の侯爵に該当するんでしょうか?
また○○侯に封じられた人はその土地で、太守とはまた違った政治を行うのでしょうか?
658世界@名無史さん:05/02/24 21:21:13 0
「サン=ジュスト研究会」http://www.kt.rim.or.jp/%7Evulcan/saintjust/
(URLにあるバルカンという文字は、自称画家・長谷川佳子氏(60歳)
が作った自費出版会社/代表取締 兼 社員一名・長谷川佳子氏)
これは私がサン=ジュストを研究するサークルの人間と関わったことから生じた
トラブルの一部始終である。交わした会話のごくごく一部もアップした。
実際のところ、元をたどれば、この研究会のドン(60才女性独身)が、私が
ネットで発表している小説が気に入らない、という個人的感情に端を発している。
恐るべしサン=ジュスト「の」研究会。

根拠もないのに「お偉いさん」だと思いこんでいる人々ほど、扱いにくいものはない。
意見を出し合い、それが自分の意に添わないものであれば、ネチネチ嫌みから始まり
やがてヒステリックな攻撃となる。善意で人が何かを引き受けたら、確認を求めても
気が乗らなければ返事をしない、それでいて相手が思い通りに動かなければ、悪口を触れ回る。
それがサン=ジュスト「の」研究会の実態である。
659世界@名無史さん:05/02/24 22:50:46 0
>>657
>呉楚七国の乱以降の、前漢や後漢の時に各地に封じられていた王侯は
>どんな扱いだったの?都に駐屯?
基本的には領地在住。ただし、皇帝のお気に入りとか、官職に就いてるとか、
政治的な事情で監視が付いてるとか言う場合は、都に居住。
だから、領地在住の諸王の中には、黄巾の乱が起きた時、
殺されたり、捕らわれたり、国を追われたりしたのがずいぶんいる。
陳王劉寵のように軍閥化してて、怖くて黄巾も手が出せなかったというレアケースもあるが。

>また、三国志や後漢書などによく出てくる「安平候」とか「寿亭候」とかって
>どんな身分なんですか?春秋時代の侯爵に該当するんでしょうか?
侯はその冠されてる名前の土地の領主だが、
春秋時代の侯爵よりはずっと地位が低く、荘園主と言った方が良い。
侯にも、県侯、郷侯、亭侯、関内侯の四種類が有る。
身分・格式は県侯>郷侯>亭侯>関内侯の順。

県侯は、県を所領とする身分。
安平侯は「安平県の領主である県侯」と言う意味。
郷侯は県の下の行政単位である郷を所領とする身分。
亭侯は郷よりもさらに下の行政単位である亭を所領とする身分。
「寿亭侯」は「寿という亭の領主である亭侯」と言う意味。
関内侯は領地は貰えず、俸禄と爵位のみを国庫から支給される身分。
660世界@名無史さん:05/02/24 22:52:35 0
>>657
>また○○侯に封じられた人はその土地で、太守とはまた違った政治を行うのでしょうか?
実質上、侯は所領から入る税を貰って暮らすだけで、土地の政治には関与しない。
県侯には、県令や県長と同格の「相」が中央から任命され、
普通の県を統治するのと同じように政治を行う。
県侯と相以下の県吏の間に、主従関係は存在しない。

郷侯、亭侯の政治については記録が無いが、
侯の封土でない土地と同様の統治が敷かれていると思われる。
おそらく郷は有秩、三老、游徼らの郷官、亭は亭長が統治し、
郷侯、亭侯は彼らとは主従関係を結ばず、政治に関与せず、
ただ租税のみを受け取ると思われる。
661657:05/02/24 22:57:32 0
>>659-660
分かりやすい回答ありがとうございます。
候は領地から取れた租税で、暮らしているだけで政治には関与していないとの
事ですが、これは王侯の領地でも同様なのでしょうか?
王侯が土地を治めていても、その領地で独自に政治を築くのは許されていなかったんでしょうか?
662世界@名無史さん:05/02/24 23:06:00 0
十常侍が黄巾の乱以降に授かった、列侯は県候の更に上の位?
663660:05/02/25 01:01:45 0
>>661
あなた、候と侯の区別付いてるの?
候なんて爵位は存在しないよ。
王侯でも同じかと言う事に付いてだけど、侯の事は回答済みだからいいね?
王は郡太守と同格の国相が中央から派遣されて、やはり普通の郡を統治するように政治を行う。
国相以下の官吏と、王の間には主従関係は無い。
王は租税を受け取るのみ。

>>662
列侯は、通常は県侯・郷侯・亭侯の総称。
史書には十常侍は皆封侯されたとあるのみ。
列侯となったと明記されているのは張讓と趙忠の二人だけ。
後漢の大物宦官の中には、県侯に封じられたのが何人もいるんで、
おそらく張讓と趙忠は県侯だったと思われるが、他の連中の爵位は不明。
664661:05/02/25 01:48:07 0
>>663
候はタイプミスです。
なるほど、王の地位もさして侯とさして変わらないのですね。
王なのに主従関係がないって所が意外でした。
ありがとうございました
665世界@名無史さん:05/02/25 01:57:44 0
こうしてみると三国志に出てくる劉表や袁紹なんか、元々派遣されて来ただけの
雇われ領主の分際で、隣国を武力で乗っ取ったり何十年も太守の座に居座ったり
勝手に世襲制にしたりやりたい放題だな
666世界@名無史さん:05/02/25 04:59:49 0
州牧は一代限り(任期もあるんだよね?)の派遣官僚という建前があったからこそ
強大な権限が与えられてたんじゃないかなと。
あくまで建前ですぐ世襲もありになっちゃったけど。
667世界@名無史さん:05/02/25 05:02:58 0
当時の中国人は「そんなの普通に王様(諸侯)じゃんよ」と
尚書閣下から村の子供まで一斉にツッコミ入れてたと思う。
668世界@名無史さん:05/02/25 09:08:33 0
州牧の設置理由ってなんでしたっけ?
669世界@名無史さん:05/02/25 09:22:07 0
漢魏代に公侯伯子男の五等爵の制度はあったの?
魏公とか県クラスの侯はいるんだけど……
670世界@名無史さん:05/02/25 09:45:07 0
太守とか州牧に任期なんてあったか?
671世界@名無史さん:05/02/25 14:41:03 0
漢のときは王、侯、関内侯、大庶長・・・上造、公士。計21等級。
王莽が「安漢公」になっているけど、これは王より上とされていたし、制度上定着したものかどうか...
672世界@名無史さん:05/02/25 14:41:04 0
>>669
漢代にはなし、王莽の新には五等爵&関内侯相当の附城あり。
魏では宗室のみ五等爵があったなにかで読んだことがあるが、子男の実例は知らない。
公侯伯については、魏初文帝紀第二によると、黄初3年3月、封王(最初に封じられた王)
の庶子を郷公、嗣王(二代目以降の王か?)の庶子を亭侯、公の庶子を亭伯とする制度を
設けたとある。
臣下には漢同様に県侯以下が与えられた模様。
673世界@名無史さん:05/02/25 15:20:34 0
新が五等爵を用いたのは、周の制度を模範としたためなのかな?
674世界@名無史さん:05/02/25 15:25:33 0
太守を始めとした文官や、将軍などを始めとした武官のうち
官職と合わせて列侯に封じられるようになるのはそれぞれどの辺りから?
675世界@名無史さん:05/02/25 15:31:20 0
正確には魏末魏晋革命の寸前にすでに五等爵は施行されている。
開国郡県公・開国郡県侯・開国伯・開国子・開国男の下に、
散侯の県侯・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯があり。

また魏には○○県王・○○県公が見られえるが、県王・県公という爵称があったかは不明。
宗室の亭侯と臣下の亭侯の関係も不明。

三国志魏書武帝紀第一に引く魏書によると、初平20年10月、名号侯(18)・関中侯(17)
ともに金印紫綬・関内侯・関外侯(16)銅印墨綬・五大夫(15)銅印墨綬を定める。

西嶋定生氏によると、本来的には関内侯は関内に領地があったと言う意味ではなく、自己
の勢力圏(関)内にある侯の意味らしいです。
もっとも上記の後漢末の制度だとその意味は忘れ去られているようにしか見えませんが。

漢代の列侯の分類
続漢書百官志列侯の条によると、前漢では、奉朝請で長安にあるものは位三公に次ぐ、
特進の位を賜るものは車騎将軍に次ぎ、朝侯の位を賜るものは五校尉に次ぎ、侍シ(示+
司)侯の位を賜るものは大夫に次ぎ、その他は博士・議郎の下にある。
後漢書第六四トウウ伝の章懐太子注に引かれた漢官儀の後漢の列侯の序列では、
特進は三公の下、朝侯は九卿の下、侍シ(示+司)侯はそれに次ぎ、その次が下士・小国侯
676世界@名無史さん:05/02/25 15:57:02 0
>>673
まず周代には実際には五等爵はなかったらしく、どうも全部侯(又は公)だったらしい。
もっとも王莽の時代には最新の研究成果年として周の五等爵は信じられいて、王莽自身は
模倣のつもりだったのかもしれない。
>>674
景帝の後元年に中二千石及び諸侯の相に右庶長の爵が与えられたのが初例では?
以下武帝の元狩元年太子冊立の際に中二千石を右庶長
宣帝地節3年太子冊立の際に御史大夫を関内侯、中二千石を右庶長
元帝初元2年太子冊立の際も御史大夫を関内侯、中二千石を右庶長
また丞相は当初徹侯が任ぜられたが、後に武帝の時に公孫弘が初めて侯以外で任ぜら
れてから、逆に丞相になれば列侯に封ぜられることになった。
王莽は即位後四輔三公四将を11公に封じ、州牧を男爵、郡守附城に封じた。
677世界@名無史さん:05/02/25 16:33:21 0
三国志だと、色んな人を侯に封じているけど
あれは異例なのやっぱり?関羽の寿亭侯とか
678世界@名無史さん:05/02/25 16:59:30 0
やばい、五等爵が入ってから分からなくなってきた。
とりあえず、漢〜魏の侯は侯爵とは関係ないというのはOK?
また、県や郷や亭などの「侯」は「散侯」というのもOK?
679世界@名無史さん:05/02/25 18:42:39 0
>漢〜魏の侯は侯爵とは関係ないというのはOK?
全然無関係とも言いがたいですが、まあ一応関係ないと思います。
>県や郷や亭などの「侯」は「散侯」というのもOK
漢の時代には原則的に実封があり後の開国爵に相当します。
晋では散侯と考えてよいでしょう。
魏では散侯だったとの説があります。(宮崎市定氏の「九品官人法の研究」より)
680世界@名無史さん:05/02/25 19:51:29 0
最近質問ラッシュだね。まあ活性化で良いことです。
681世界@名無史さん:05/02/25 20:26:09 0
開国爵?散侯?
どういう意味だ!!!
ここさえ分かれば、爵位についての形が見えてくる
682世界@名無史さん:05/02/25 21:44:30 0
>開国爵?散侯?
開国爵は実際に食邑がある爵位、散侯(散爵)は名前のみで食邑(収入)はありません。
晋以降南朝では開国爵の男爵の下が散侯の県侯、北朝では公侯伯子男の順で、開国公・
散公・開国侯・散侯……散男の順
ただし、後世(唐あたり)になると開国爵も食邑がなくなり、食実封があるもののみ食邑有り。
例えば食封千戸食実封百戸なら食邑は百戸。
しかし宋代になると食実封も名目化、雀の涙のほどの収入を意味したようです。
683世界@名無史さん:05/02/26 00:32:45 0
皇帝が禅譲をする時に、新皇帝となる人物に渡す
細長い包みはなんですか?
あと、禅譲を指揮するのはどの官職に該当する人なんでしょうか?
684世界@名無史さん:05/02/26 01:32:50 0
>>683
時と場合による。たいがいは宰相かそれに次ぐクラスの大臣が、
行○○(上公・三公クラスの官)・使持節の資格を帯びて、最高責任者となる。
685世界@名無史さん:05/02/26 21:09:08 0
>>683
細長い包みなんてどこで見た?
伝国の玉璽じゃないのか?
686世界@名無史さん:05/02/26 21:26:21 0
禅譲の儀式が終わったら、前皇帝に役人たちは掌を返したような態度をとるの?
むりやり玉座から引きずりおろして、新皇帝に平伏させたりとか、罪人のように
荒々しく引き立てたり、お前呼ばわりしたりとか・・・
687世界@名無史さん:05/02/26 21:48:26 0
>>686
魏帝曹丕は前皇帝に結構いい待遇したよ
688世界@名無史さん:05/02/26 22:07:34 0
>>686
正式な儀式に則って行われた禅譲の場合は、新帝国の貴族(○○公とか○○侯)としての礼遇を受けるのが一般的。
譲位の手順が終わると、元皇帝は新帝に臣礼を取るが、
あくまで貴族としての臣礼なので、元皇帝の面目も最大限保たれるように努力する。
689世界@名無史さん:05/02/26 22:09:27 0
献帝は、禅譲をした皇帝として史上で一番いい待遇だったかもね
皇帝時代の時と同じように、魏から莫大な隠居料をもらい
本来天子のみにしか許されない馬車や、「朕」という一人称を用いる事も許されていたからな。
690世界@名無史さん:05/02/26 22:22:00 0
禅譲とはちょっと違うかもしれんが、辛亥革命後の溥儀も史上一番いい待遇だろうな。
ま、10年ほどで終わったけれど。
691世界@名無史さん:05/02/26 22:53:54 0
「サン=ジュスト研究会」http://www.kt.rim.or.jp/%7Evulcan/saintjust/
(URLにあるバルカンという文字は、自称画家・長谷川佳子氏(60歳)
が作った自費出版会社/代表取締 兼 社員一名・長谷川佳子氏)
これは私がサン=ジュストを研究するサークルの人間と関わったことから生じた
トラブルの一部始終である。交わした会話のごくごく一部もアップした。
実際のところ、元をたどれば、この研究会のドン(60才女性独身)が、私が
ネットで発表している小説が気に入らない、という個人的感情に端を発している。
恐るべしサン=ジュスト「の」研究会。

根拠もないのに「お偉いさん」だと思いこんでいる人々ほど、扱いにくいものはない。
意見を出し合い、それが自分の意に添わないものであれば、ネチネチ嫌みから始まり
やがてヒステリックな攻撃となる。善意で人が何かを引き受けたら、確認を求めても
気が乗らなければ返事をしない、それでいて相手が思い通りに動かなければ、悪口を触れ回る。
それがサン=ジュスト「の」研究会の実態である。
692世界@名無史さん:05/02/26 23:10:07 0
後漢〜魏に、武器の製造を担当していたのは執金吾の管轄でしたっけ?
693世界@名無史さん:05/02/26 23:25:15 0
>>689
宋に禅譲した柴氏じゃないの?
太祖のお墨付きのおかげで、宋が滅びるまで大貴族として厚遇された。

>>692
太僕配下の考工令が製造担当。
執金吾配下の武庫令が管理担当。
694世界@名無史さん:05/02/27 19:44:22 0
当時、一般的な武器は銅剣だっけ?
それとも銅製の矛?
695世界@名無史さん:05/02/27 21:11:56 0
漢献帝(魏山陽公)は諸侯より上の席次で魏の臣下ではない扱いだった。
696世界@名無史さん:05/02/27 21:14:56 0
>>689-690
後周の恭帝じゃないのか?
本人は早世したが皇帝として葬られ、他の一族も宋朝一代にわたり厚遇されたしな。
697世界@名無史さん:05/02/28 09:42:42 0
後漢書とかに、「この年、○○県に鳳凰が飛来した」とか
立派な史書に突飛なことが書いてあることが多いんですが、これは政府の指示なんですか?
698世界@名無史さん:05/02/28 09:59:45 0
身分としての厚遇なら、陳留王になった元帝じゃない?
ただ晋があれだったんで、東晋になってからもただの貴族だったが。
699世界@名無史さん:05/02/28 11:09:55 O
>>697
地方からそういう報告があったから。
地方官の中央へのご機嫌取りか?
700世界@名無史さん:05/02/28 11:41:17 0
そんな虚構の報告をして、興味津々の若き皇帝が巡幸に来たら
どう責任とるつもりなんだろう?
701世界@名無史さん:05/02/28 12:39:22 0
宦官に賄賂をまいて皇帝を足止めすればいいんでは?
702世界@名無史さん:05/02/28 12:46:58 0
>>701
北朝鮮では今でもやっているが、、、
703世界@名無史さん:05/02/28 12:55:48 0
>>699-700
そういった吉兆は皇帝の徳の高さを表すものだから別に文句は言わんだろ。
704世界@名無史さん:05/02/28 15:58:57 0
いや、文句じゃなくて喜んでさ、↓みたいなことってないのかな?
皇帝「なに!?鳳凰が現れただと!?」
文官「ははっ、天も善政を評価している由にございます」
皇帝「すぐに見に行こう!仕度をせい!」
文官「……」
705世界@名無史さん:05/02/28 18:23:43 0
>704
まぁ、色々捏造はできるしね。クジャクの羽を鳳凰の羽だといったりとか。

ありがちなのが、真っ白な動物が出たという吉祥かな。
これは実際にアルビノと言って自然界に実在するものだし。
706世界@名無史さん:05/02/28 18:35:27 0
>>704
「これが陛下が来られるちょっと前まで七色に光っていた玉です。」
「あちらの方へ陛下が来られるちょっと前に鳳凰が飛んでいきました。」
707世界@名無史さん:05/02/28 18:58:20 0
>>706
ワラタ
708世界@名無史さん:05/02/28 21:45:15 0
当時の役所の面積って決まっていたんですか?
あと、首都の外で政務を行っていた中央組織はありますか?
709世界@名無史さん:05/03/01 10:12:11 0
「右庶長」ってそんなに偉かったんだ。
いつ頃か忘れたけど大庶長以下がカネで買えるようになってから下落したのかな。
710世界@名無史さん:05/03/01 12:37:54 0
皇帝の墓所を掘り出す、専門の役職があったそうですが
詳しい方いませんでしょうか?
当時から、墓所を発掘して古代の伝承を調べる習慣があったのでしょうか?
711世界@名無史さん:05/03/01 23:43:28 0
流れを読まずに、
『爵位制度の変遷』 新まで
 二四史&様々な本の劣化コピーの集合体ですが。
殷(商)
 卜辞などで復元されたところでは子・婦・侯・伯・甸・男・方・亜の8種類があったよ
うですが、後代の爵位と同じようなものなのかどうかは不明です。
 なお子は王子、婦は王の夫人、侯・伯は重臣(領地は辺境)、甸・男は農務官、方は外
様、亜は近郊の領主と言った感じらしいです。


 五等爵は実在せず、侯(尊称が公か?)・甸・男の3段階らしいです。伯・子は侯の一
族中の有力者の尊称らしく、爵位ではないらしいです。また男もそれ同様だとの説もある
模様です。また甸・男も官職のようで爵位とは違うようにも思えます。
 一方これとは別に君・卿・大夫・上士・中士・下士の六等の序列があったらしいです。これ
は孟子の説では天子・公侯伯子男の爵位に対する、禄位の序列のようです。

戦国時代
 王の下に君と称する領主が存在したようですが、君が爵称かどうかは不明です。
 また戦国策等に秦以外で関内侯等が見られるそうです。
 このことから秦以外の六国にも、秦のようになんらかの爵位制度はあったのでしょうが、
細かいことは良く分りません。

商君書等から推定される秦の爵
 侯・倫侯・大庶長・駟車庶長・大良造・少良造・右更・中更?・左更・右庶長・左庶長・
正卿・客卿(以上が卿で軍職は大将に相当)・五大夫(大将に相当)・公乗(二五百主)・
公大夫(五百主)・官大夫(将=百人長)・大夫(屯長=五十人長)以上が大夫・不更・
簪ジョウ(衣の冠と下の間に馬)・上造(以上が卒)・公士(校徒・操士)以上が士。
 倫とは何々のたぐいの意味で、関内侯に相当する模様です。
 左庶長以上は、本来全て大良造庶長等○○庶長(将軍)であったらしいです。
712世界@名無史さん:05/03/01 23:44:48 0
 この時代の爵は軍功(敵を殺す)により与えられるものであり、爵を持つと田宅を与え
られ、庶子(従者?)を抱えることを許され、任官資格が出来ました。
 また五大夫以上は税邑を与えられたようです。

楚漢抗争期
 史記には、楚の爵であるらしい七大夫(第七級の公大夫?)・国大夫・列大夫・執帛・
執圭・卿・○○君・○○侯等が見られます。
 実例として曹参は、七大夫→五大夫→執帛に封じ建成君と号す→戚公→執圭→建成侯に
封ず→列侯の爵を賜い平陽侯と称する、と変遷しています。
 樊カイ(口+會)は、国大夫(第六級?)→列大夫(第七級?)→上間爵→五大夫(第
九級)→卿→封を賜わって賢成君と号す→増封→列侯(臨武侯)→列侯(舞陽侯)
 レキ(麗+郡−君)商は、爵を賜り信成君→武成侯?→列侯(タク(シ+琢−王)侯)
→曲周侯
 夏侯嬰は、七大夫→五大夫→執帛→執圭→爵・封を賜り、転じて滕公→列侯(昭平侯)
汝陰侯
 灌嬰は、七大夫→執帛の爵を賜り宣陵君と号す→執圭の爵を賜り昌文君と号す→列侯(昌
文侯)→穎陰侯
 傅寛は、五大夫→卿→封地を賜い共徳君→通徳侯→陽陵侯
 キン(革+斤)キュウ(上が合+下が羽+欠)は、爵・封を賜り臨平君と号す→建武侯
→信武侯
 劉敬は、奉春君→関内侯(二千戸:建信侯)

 これらから序列は、国大夫→七大夫又は列大夫→上間爵→五大夫→卿→執帛(○○君)
→○公→執圭(○○君)→○○侯と推定しました。
 ちなみに最後の列侯・関内侯は劉邦の皇帝即位後の爵です。
 初期の大夫クラス等は実際の任命者は劉邦でしょうが、名目上は楚の懐王(懐帝)の任
命でしょうか?漢王即位後は自分で任命したのかも知れません。
713世界@名無史さん:05/03/01 23:46:14 0
前漢
 侯王・徹侯(列侯・通侯)・関内侯・大庶長・駟車庶長・大上造・少上造・右更・中更・
左更・右庶長・左庶長・五大夫(以上は原則的に六百石以上の官にのみ与えられる)・
公乗・公大夫・官大夫・大夫・不更・簪ジョウ(衣の冠と下の間に馬)・上造・公士
 この下に無爵(第零級爵)の士伍が有ります。
 公乗以下は一般庶民が与えられた爵です。また世襲は関内侯以上です。漢初は七大夫以
上は食邑があったのですが、おそらくこれは戦功ゆえの特例でしょう。
 二十等爵と称しますが侯王以下公士までで、二十一級有りますが、侯王と列侯を合わせ
て諸侯として一等に数えるのだそうです。
 個人的には漢代の爵の大分類は、諸侯・関内侯・大庶長〜五大夫の官爵・公乗以下の民
爵に四分されるのだと思っています。

 侯王は漢初以外は劉氏のみで、当初は数郡数十県に及び中央とほぼ同じ官僚機構を有し
ており、太傅と相国(後丞相)を除く官僚の任命権を有していました。
 しかし呉楚七国の乱の鎮圧後、丞相を相と改め、御史大夫・廷尉・宗正・博士を廃止、
大夫・謁者・郎・諸官長丞等も減員されています。この時重臣の内残ったのが内史・中尉
・郎中令・太僕のみで、残った官僚の任命権も剥奪され、王は単に租税収入を得るだけの
存在に成ったらしいです。
 元帝の時には諸侯王の相は太守の下位に定められました。
 更に相続の際に領地を割いて王子を王侯に封じて王国を細分化したり、金の上納制度の
際に品質に難癖をつけて取りつぶしたりといろいろ圧迫を加えています。

 列侯は封が有り、家臣として家丞・門大夫・洗馬・庶子・行人が有りました。後漢では
家丞・庶子のみ(千戸未満は庶子のみ)です。
 領地は特定地域と戸数を指定する形で与えられ、前漢末以降郷・亭程度の場合が多くな
るそうです。そして県が侯国になるか、県の一部に侯国が置かれると県全体が侯国に改ま
り、県の長官である令・長は相と称されます。この相は職務的には令・長と変らず、侯の
家臣ではありません。単に戸数相当分の租税が列侯の収入となるだけです。
 なお侯国が置かれたのは、原則的に王国内ではなく漢の直轄地だそうです。
714世界@名無史さん:05/03/01 23:47:18 0
 列侯は世襲でありますが、跡を継げるのは原則的に前侯の子供だけで、皇帝の特別な恩
寵に因るほかは孫や弟でさえ継げなかったそうです。
 これは平帝の時に、諸侯王・公・列侯・関内侯について、孫や兄弟の子で養子で有るも
のが居るときは襲封を許されることに改められました。王莽の人気取り政策でしょう。

 列侯は主に軍功による功臣侯、王子が封ぜられる王子侯(全ての王子が封じられたわけ
ではない)、外戚や丞相等が封じられた外戚恩沢侯が有ります。
 ちなみに列侯は元は徹侯と呼ばれていましたが、武帝の名を避けて列侯または通侯と呼
ばれるようになります。

 続漢書百官志列侯の条によると、奉朝請で長安在住の列侯は位三公に次ぎ、特進の位を
賜るものは車騎将軍に次ぎ、以下朝侯は五校尉、侍祠侯は大夫に次ぎ、その他は博士・議
郎の下にあると有り、列侯の中に序列が出来てきたようです。

 関内侯は、列侯と大庶長以下との中間に位置する爵です。関内侯から列侯に昇格したり、
逆に降格しても領地がそのままだったりすることもあり、列侯より領地の戸数が多いこと
もありますが、身分的には列侯と懸絶していたようです。
 逆に下位の爵とは世襲であること、通常は封邑が有ることで区別されています。
 宣帝・元帝が太子を立てたとき、御史大夫を関内侯に封じています。

 爵位の特権としては、五大夫以上は本人のみ傭役を免除されることが有ったらしい他、
爵を引き替えに罪を減免されました。
 この減免にも五大夫以上と公乗以下では取り扱いが異なったようです。また爵三十級を
集めれば死罪が免除になることがありました。
 最高位の諸侯でも二十級なのにどうするかというと、爵は一級単位で売買できるものだ
ったからです。

 なお五大夫以上は通常左庶長・右更等爵名を指定して与えられたのに対し、公乗以下は
通常爵○級(一級から三級)を与えるという形で与えられ、累積していくものだったよう
です。ただしどれだけ累積しても原則として公乗以上には上がれなかったようです。
 その為ある時期以降は、余った分の爵は兄弟や子供に分与することが出来るようになっ
たそうです。
715世界@名無史さん:05/03/01 23:48:55 0
 武功爵は武帝の時に軍費捻出のために作られた爵(一級十七万銭)だとされています。
下から造士(一級)・閑輿衛(二級)・良士(三級)・元戎(四級)・官首(五級)・秉鐸(六
級)・千夫(七級)・楽卿(八級)・執戎(九級)・政戻庶長(十級)・軍衛(十一級)
 第八級の楽卿までは購入可能(特例有り)で、五級の官首は見習官に、七級の千夫(第
九爵の五大夫に相当)は正式官に任用されます。
 他の特権としては、武功爵一級で罪二等を減免されることがあります。
 上は卿に任命されたとの記述から、実際には十二級以上が存在したのでは無いかとの説
があり、また約六十年後の宣帝期に武功爵の保持者が見えることから、一時的な売爵制度
に過ぎなかったのかとの疑問も有るようです。

 謎の爵位「長子爵一級」、筑摩版漢書武帝紀元光元年の条に「天下に赦を下し、民を長
子爵一級賜い……」と有り、注釈に「もと宗室の爵位第四等」とあります。これはなんな
んでしょうね?ひょっとして「民の長子に爵一級を賜い」の間違いでしょうか?原文を確
認しないとなんとも言えないか?

 武帝の時に周の後裔を周子南君に封じ、元帝が周承休侯に進めて諸侯王に継ぐ席次とし
たと各本紀に有ります。単に改称と判断したのか、周承休侯の方は外戚恩沢侯表に載って
ませんが。
 その後成帝は殷の子孫を捜し出して殷紹嘉侯とし、更に翌月周承休侯とともに公とし、
領地は方百里となっています。
 平帝の時には、周公(魯公の系統)を褒魯侯(周承休公との関係はどうなんでしょう
か?)、孔子の子孫を褒成侯に封じています。また同時に孔子を褒成宣尼公に追封してい
ます。この後孔子の子孫は、中断があるかもしれませんし爵は変化しますが、概ね清末に
至るまで爵位を継いでいくことになります。
 その後殷紹嘉公を宋公、周承休公を鄭公(王莽伝では衛公?)に改めてもいます。
716世界@名無史さん:05/03/01 23:50:03 0
 安漢公について、王莽の爵は新都侯のままであり、その後に号として安漢公が加えられ
たようです。また王莽の母が功顕君(二千戸)に封ぜられています。
 更に前漢末摂皇帝の時期に、列侯の内高いものを侯伯、それに次ぐものを子男、関内侯
を附城としています。その後三男安を新挙公、四男臨を褒新公にそれぞれ侯から進号、こ
れは公爵のようです。すると安漢公も爵になっていたと思われますが、どの時点で号とし
ての公が爵としての公になったのか不明です。
 なお宰衡となったときに、諸侯王の上位とされたようです。


 王莽は即位後、四男臨を皇太子にし、三男安を新嘉辟(辟は国君の意味)、長男宇の六
子を公に封じています。安が王でないのは、天に二王なしと言う思想のようです。
 ちなみに辟王は君主、辟公は諸侯の意味があるようです。

 家臣に対しては、重臣の四輔・三公・四将の十一公を全て公爵に封じています。この公爵
には功臣の他、占いで選んだ怪しげな連中も含まれています。これは建国時の特例のよ
うで、後任者は必ずしも公爵ではないようです
 また王氏一族を親疎の別よって侯伯子男に封じ、その娘を全て任(公女)としています。
 天に二王なしと言うことで、諸侯王を公とし、周辺諸国の王も、高句麗王を下句麗侯に
改めるなど、勝手に侯に改めています。
 また、漢の最後の皇太子を定安公に封じ賓としたほか、漢の諸侯王のうちには公に改め
られた実例もあります。その他、古代の天子等や孔子の末裔を公以下に封じ、州牧を男爵・郡守を附城に封じたりもしました。

 後に臨は後烈風の変事の際に符命に従い太子を廃され、統陽義王になり、更にその後に
王莽の暗殺を謀り自殺を強要されました。また同月、新遷王になっていた安は病死してい
ます。天に二王なしの建前はどうなったんでしょうか?
 これで王莽の嫡子は全員死亡したことになり、その為隠していた側室の子を安の名を借
りて公表し、公・任に封じています。
717世界@名無史さん:05/03/01 23:50:58 0
 九廟官制の功績で都匠仇延を邯鄲里附城に封じる記事もありました。これをみると附城
は里に封じられたのでしょうか?

 新では王及びそれに準ずると思われる辟はごく例外的な存在で、公が前漢の侯王に、侯
伯子男が列侯に、附城が関内侯に相当するようです。
 ちなみに公は方百里一万戸、侯・伯は方七十里五千戸、子・男は方五十里二千五百戸、
附城は最大で方三十里九百戸と言うの観念的な制度のようです。

 後漢以後についてはまた後日。
718世界@名無史さん:05/03/01 23:56:27 0
>>710
それは考古学的調査ではなくて、目的は金銀財宝狙いの墓荒しだと思われます。
曹操はそう言う専門の中朗将・校尉を設けたと言われていますが、
政敵による言いがかりらしいです。
もっとも墓荒らしの場合や偶然に見つけた場合に、発掘した墓について知的好奇心から
調査した例もあるようです。
719世界@名無史さん:05/03/01 23:59:56 0
周に五等爵がなかったってマジ?
では、色々な史書に子爵や伯爵として登場してきた春秋の諸侯の立場は?
カクや宗などの公国は、特別な待遇がされていたという伝承は?
楚が子爵に封じられた経緯は?
720719:05/03/02 00:00:33 0
宗→宋
721世界@名無史さん:05/03/02 03:02:47 0
五等爵位は都市国家の規模の大小の差。

しかし子爵は例外的に規格はずれであっても
異民族の君主は子爵までにしかなれなかった。
722世界@名無史さん:05/03/02 09:55:54 0
>>709
本来は庶長は将軍、大庶長は大将軍であったらしいです。
庶長は春秋時代にすでに軍将として見られ、原義は衆列の長の意味だとの説もあります。

>>710
袁紹が曹操を攻める時の檄文に発丘中郎将(墓堀中郎将)・摸金校尉(金探り校尉)を
置いて、梁王の墓を暴き金銀財宝を略奪したと非難されています。
多分墓暴き自体は本当でしょうが、専門官職を置いたは嘘でしょう。
723世界@名無史さん:05/03/02 11:54:23 0
春秋時代、許の国は男爵の国だったと書いてあるのですが
これもなかったって事ですか
724世界@名無史さん:05/03/02 14:03:17 0
西周の金文では公侯伯子男の五等爵及び卿・大夫は確認できないそうです。
いわゆる諸侯相当らしい○侯を△侯に封ずとか、◇侯に領地を与えるとかは有るようです。
また○伯と言うのも見られますが、これは王や侯の家臣であり、むしろ大夫クラスであるよ
うです。王から七伯とか三伯率いる民が○侯に与えられるとかそう言う形で登場。
かわりに侯・甸・男と連称する形で出てくるようです。


おそらく侯一本で、公は本来的には侯(だけでもないようですが)の尊称のようです。

公はおそらく、うちは一般の侯と核が違うと自称したもの、伯子男は逆に貶めて言われたも
のらしいです。
許男については、許侯の分家に許男家があり、あそこはその程度の存在だと貶めたもの
だと言う説もあるようです。子も同様。
春秋の爵位に揺らぎがある(宋子・宋公等)のはそのせいだとも考えられています。
無論単なる勘違い、書き違い、転写ミスの可能性も有りますが。

春秋時代になるとあるいは諸侯の称号に序列が出来たかの制は有りますが、少なくとも
西周の時期にきちんとした五等爵の制度がなかったことは事実のようです。
もちろんそれは西周の諸侯が対等だったことを意味はしませんが。
725世界@名無史さん:05/03/02 17:04:10 0
「長史」も「別駕」も州の刺史の補佐役というか副官みたいなものですよね?
なんで二つあるんですか?それともまったく同じ物の別名?
二つあるとしたら役割などはどう違うんでしょうか?
726世界@名無史さん:05/03/02 18:16:59 0
>>725
別駕、長史は本来別系統の官。
南北朝期だと思うが、別駕−治中という州官系統と長史−司馬という府官系統があった。
府官というのは都督府(将軍府かもしれん)の属官のことで、当時の刺史が都督を兼ねていたから。
多分隋だと思うが、州官、府官の2系統が1本化され、唐代には刺史−長史−司馬−録事参軍以下というようになった。
これは官吏の数を削減することと、州官が中央から任命される官ではなく、地方貴族の就く官だったため中央集権化を進めることを目的としたものと思う。
ただ、別駕だけは官職表を見てもまだ残っているが、やることは殆どなかった筈だ。
ここの学者並の皆さん間違ってたら指摘して。
727725:05/03/02 18:38:16 0
つまり刺史の下に州官系統の「別駕」と府官系統の「長史」が別々に存在したと?
その場合「別駕」と「長史」はどういう役割分担なんですか?

「録事」や「参軍事」は録事参軍とはどう違うんですか?
「司馬」の下なんですか?
728726:05/03/02 18:53:05 0
>>727
刺史兼都督で刺史の部下が州官、都督の部下が府官だから単純に考えれば州官は民政、府官は軍政ということになる。

「録事参軍」「諸司参軍」「参軍」「録事」全部存在する。
唐では上述の順番だ。「録事」は官ではなく吏だったかもしれん。
南北朝期が最も複雑だけど、オレも詳細は覚えていない。
宮崎市定著「九品官人法の研究」を読んでくれ。文庫版がでてるから。
729726:05/03/02 18:58:06 0
追記
「参軍」はその名前からも推測できるように都督府系統の官で司馬より下位。
730世界@名無史さん:05/03/02 19:27:57 0
ちょっとだけ付け加え、
別駕−治中という州官系統は漢の時代から存在。ただし漢魏のうちは百石以下の属僚に
すぎない。この属僚と言う性格は長く続き、南北朝時代を通じて刺史が任命できた。
ゆえに州官系統には官品がなく(中央任命でないから)、隋で廃止された。
唐で長史の上に別駕のみ復活、しかし別駕・長史・司馬共にすぐに冗官化した模様。
あげくに宋になると長年勤めた吏が貰える肩書きになったようだ。

長史−司馬という府官系統は、もともと三公の府や将軍府にあったもの。
南北朝時代では1人が将軍(等級を示すもの)・都督・刺史の3役を兼ねており、将軍・都督
の下に府官がいた。
なお最初は都督自体の府はなく、将軍府の参軍が増員されるだけだった。
また都督には格によって大都督・都督・監・督の別があった。

それと全ての刺史が都督を兼ねたわけではない、重要な州だけで、その他の刺史は軍政
上は都督の指揮下にあった。時代が時代なので事実上は部下。
731世界@名無史さん:05/03/02 20:05:06 0
この頃の石高って、今で言うとどの位の割高?
732世界@名無史さん:05/03/03 09:21:34 0
石(セキ)は本来重さの単位で120斤(約30グラム)
しかし早くから容積の単位として使われるようになり、その場合コク(角+斗)=約20リットル
に等しい。
官秩の石は最初は実際の棒級を示していたらしいが、漢の時代では単に等級を示すもの
になっている。

ちなみに後漢の棒級を穀物立て(実際の支給は銭と混ざる)で示すと、
公(万石)丞相・大将軍        月350石(本来はコクだが石で表現)=年4200石
中二千石 いわゆる九卿       月180石=年2160石
二千石 准九卿クラス・校尉・太守 月120石=年1440石
比二千石 郡都尉等          月100石=年1200石
千石 御史中丞等           月90石=年1080石
比千石 太中大夫等          月80石=年960石
六百石 尚書等             月70石=年840石     
比六百石 中郎等           月60石=年720石
四百石                  月50石=年600石 
比四百石 侍郎等           月45石=年540石  
三百石                  月40石=年480石
比三百石 郎中等           月37石=年444石
二百石                  月30石=年360石
比二百石                 月27石=年324石
百石 郡の属僚の最上層       月16石=年192石
斗食                    月11石=年132石
佐史                    月8石=年96石           
733世界@名無史さん:05/03/03 10:14:48 0
かなり恣意的に解釈すると、中二千石=大臣級、二千石=副大臣・県知事級、比二千石
=次官級、千石〜六百石=局長・市長・副知事級、四百〜三百石=局次長・部長・町村
長・市助役級、二百石=町村助役級、百石=県課長級、くらいだろうか?
734世界@名無史さん:05/03/03 10:45:52 0
大将軍・丞相は月に米7000ℓ分の給料を貰っていたのか。
これは凄いな。

古代中国の報酬は金の混じった米で支払われていたってことだよね?
米問屋(あるいは穀問屋)みたいなのはなかったのかな?
735世界@名無史さん:05/03/03 12:03:30 0
漢代には有価証券取引法に該当する法律が既にあったって聞いたけどマジ?
どんな法律ですか?
736世界@名無史さん:05/03/03 16:33:43 0
校徒・操士って何する役目?操士は運転手のような気がするけど。
737世界@名無史さん:05/03/03 19:20:26 0
大漢和辞典からメモしたノートだと、兵卒(秦)としか書いてなかった。
それだと上造以上の卒となにが違うのかよくわからない。
738世界@名無史さん:05/03/03 19:23:47 0
後漢当時の、戦車・武器・甲冑が見れるサイトとかってありますか?
無論発掘品のやつを
739世界@名無史さん:05/03/03 19:26:02 0
『爵位制度の変遷』 後漢以後
後漢
 基本的には復古主義で前漢の制度を受け継いでいるわけですが、実態に合わせて列侯が
県侯・郷侯・亭侯に分化した模様です。
 また後漢書ケ禹伝の章懐太子注に引かれた漢官儀では、列侯の序列が三公の下が特進・
九卿の下が朝侯・以下侍祠侯・下士小国侯となっています。
 なお二十等爵の大枠は変化が無く、民に爵を授けることも引き続き行われています。

 諸侯王・長公主は金印赤綬、公・侯・公主・封君(女性)は金印紫綬です。

 漢末の曹操の部下の中に都郷侯・都亭侯が多く見られます。そのうちに都亭侯から、○
○亭侯に成ったものが見られ、一般の郷侯・亭侯より格下だったのでしょうか?
 都亭侯は有る連名の上表文に二名が見られることがあり、一時期に複数存在することが
あるようです。多分都郷侯も同様でしょう。

 ちょっと面白いのは、劉備・関羽・張飛が漢から与えられた爵がそろって亭侯だったこ
とです。なお劉備は、諸臣の推挙で漢中王に即位した時に亭侯の印綬を返還しています。

 一方呉の始祖である孫堅は烏程侯に封じられ、嫡子孫策は袁術と袂を分った後に曹操の
推挙で呉侯に封じられました。その弟で後の呉の大帝孫権は建安五年の兄孫策の死後に跡
を継いでいますが、呉侯の爵位は孫策の子息が継いだようです。孫権自身は建安二十四年
にようやく、南昌侯に封じられたようです。
 なお三国志孫策伝に引く魏書によると、孫策は父孫堅の爵を継いで侯と成るはずだった
が、弟の孫匡に譲ったそうです。そんなことが出来たのでしょうか?また同伝に引く江表
伝によると、呉侯に改封となっており、これだと父の爵を継いでいたように思えます。
740世界@名無史さん:05/03/03 19:27:58 0
 三国志武帝紀に引く魏書によると、戦功を賞するために名号侯(十八級)・関中侯(十
七級:以上二級は金印紫綬)・関内侯・関外侯(十六級:銅印亀紐墨綬)・五大夫(十五
級:銅印環紐墨綬)が後漢末に置かれ、従来の列侯・関内侯と合わせて六級になったそう
です。またこの時に大庶長以下左庶長までは廃止になったようです。
 なお、名号侯以下は租税を与えられることはなかったようです。
 爵級が飛んでいるようですが、五大夫以上の官爵は公乗以下の民爵とは異なり、一級ず
つ積み上げていくようなものではなかったので、問題なかったのでしょう。
 もともとほとんど実例が見られない爵も有ったようです。

 曹操はまず費亭侯、続いて武平侯に進み、赤壁の敗戦後封邑三万戸の内二万戸を返上、
しかし内一万五千戸を持って曹植等3名の子を各々五千戸の侯に封じられています。
 さらに建安十八年十郡を持って魏公に封じられ、その後年内に魏国に丞相・御史大夫・
尚書・侍中・六卿を設けました。
 翌十九年魏公の位を諸侯王の上に置き金璽赤綬を授け、更に翌二十年、独断で諸侯・太
守・国相を任じる権限を与えられています。
 そしてついに翌二十一年魏王に封じられました。ちなみにその時の詔では、魏公に封じ
たことを上公に封じたと表現されています。六卿が九卿になったのは王国になってからの
ようです。なお嫡子曹丕が魏王太子とされたのは翌二十二年です。

 二十五年曹操の死に伴い太子曹丕が魏王に即位、同年(延康元年に改元)子である後の
明帝が武徳侯に封じられました。
 なお曹操・曹丕の子は漢朝で概ね列侯(県郷亭)に封じられているようです。


 文帝紀によると、漢魏交代後に前帝を昌邑王に比して山陽公(一万戸)に封じ、位は諸侯
王の上、漢の正朔を行い、上書で臣と称さず、等の特権が与えられました。なお山陽公
の四子を列侯、漢の諸侯王を崇徳侯に、列侯を関中侯に封じました。
 同時に民に爵一級、父の跡継や孝行者等に爵二級を与えています。また明帝も数次に渡
り民に爵二級を与えていますので、魏にも公乗以下の爵はまだ存在していたようです。
741世界@名無史さん:05/03/03 19:29:26 0
 なお崇徳侯とは列侯のうちに含まれるものなのか、あるいは列侯より下位の特別な侯な
のかはよくわかりません。
 ちなみに山陽公が明帝の時に死亡すると嫡孫桂氏郷公が跡を継ぎ、魏一代はもちろん西
晋の時代も受け継がれて、献帝の玄孫の代に五胡十六国の混乱で跡が絶えたそうです。

 同じく文帝紀によると、文帝は即位後に諸君弟を王に封じ、封王(初代王)の庶子を郷
公、嗣王の庶子を亭侯、公の庶子を亭伯とする制度を定めたそうです。
 宗室には公侯伯子男の五等爵があり、臣下は県侯・郷侯・亭侯の散侯のみとの説をどこ
かで見たことがありますが、子・男が実在したのか不明です。

 また文帝は黄色初二年、後嗣絶えていたの孔子の子孫褒成侯に代り孔子の祭祀を継続さ
せる為に、議郎孔羨を宗聖侯(百戸)に封じています。
 同年孫権を呉王に封じ九錫を加えています。更に孫権の長子孫登を万戸侯に封じようと
しましたが、これは呉側で病弱と言うことで断わっています。おそらく、子供の代に臣従
関係を持ち込みたくなかったからだと思います。
 第四代皇帝斉王は廃位後邵陵県公に封じられ四十三歳で死亡。
 第五代高貴郷公の時、亡命してきた呉の一族を呉侯に封じました。

 三国志の皇子の伝をみるとは○○公、○○県王、○○郷公、○○王等が見られます。ま
た后妃伝には、○○君・○○郷君(ともに女性の爵)、○○県公、○○郷公、国侯(郡侯?)
等の外戚用と思われるの爵位がみられます。もっとも亭侯程度の場合も有ったようです。
 県王は、王が多すぎて領地が足りないと言うことで、一時期文帝が王全てを改めたもの
のようです。しかし元々漢で言えば列侯程度の領邑しか無かったわけで、精神的な節約宣
言みたいなものでしょうか?
 そう言うわけで県王・県公が独立した爵称として有ったのかどうかは不明です。
742世界@名無史さん:05/03/03 19:30:47 0
 蜀の後主劉禅が安楽県公(一万戸)に封じられたのは有名ですが、子孫の多くが侯に封
じられ、劉禅の弟と別の弟の跡継は郷侯に、一部重臣も列侯に封じられています。
 遼東の公孫氏は平郭侯(最初は漢代の襄平侯)、続いて楽浪公に封じられています。
 同様に漢中に独立政権を建てていた張魯も、降伏後ロウ(門の中に良)中侯(一万戸)
に封ぜられ、五人の子供全員と一部重臣も列侯に封じられています。

 文帝曹丕と後継者争いしたという弟曹植の護衛兵は老人と子供だけで二百人とか言うの
は極端にしても、一般的に魏の王は警戒されて窮屈な生活だったようです。領地も前漢の
列侯程度のようです。

 武帝曹操・文帝の諸子は文帝即位後しばらく後に○○公(郡公?)、更に後黄初三年に
王(郡王?)に封ぜられています。燕王等の国号の王は特別な存在だったのだと思います。
 ちなみに明帝は黄色二年斉公、同三年平原王になっています。

 王は最大で一万戸(初期のみの例外か?)、ほとんどは五千戸以下で千戸に満たない場
合(それも数度の加増を受けた上で)もありました。
 県侯は司馬氏を除いても一万戸以上(小は数百戸)も有り、郷侯でも数千戸(小は三百
戸)に及ぶものもあり、亭侯でも八百戸程度(小は百戸)も有ります。
 これだけ見ると、名前のみ王で実質は侯ですね。

 諸侯の封邑を割いて、子弟甥従兄弟等を亭侯・関内侯に封ずることが度々行われていま
す。この場合は亭名は記載されていませんが、爵名が無かったのか、編集上記載しないこ
とに成っていたのか不明です。
 この場合の関内侯は、百戸が多い(最大四百戸)ようです。

 列伝を見ると魏では「皇帝が即位すると侯に封じられたと」の表現が多数見られ、文字
通り解釈すると、戦功をあげた場合の他、即位をきっかけに封爵・進爵することもあった
ように思われます。

 司空崔林が安陽亭侯に封じられたのが先例になって、魏においては三公が列侯に封じら
れることが慣例になったようです。
743世界@名無史さん
 列伝では関内侯→亭侯→郷侯→○○侯(県侯)と言う例が多く見られます。
 名号侯以下については、まず廃帝斉王の時期に敵に捕まりながら説を曲げずに殺された
兵卒二名が関中侯に封じられ兵戸から解放された例があります。
 また劉放伝によると魏国の秘書郎となった劉放と孫資は、文帝即位後に各々中書監・中
書令となり、関内侯・関中侯に封じられました。その後そろって亭侯・関内侯、続いて郷
侯・亭侯にと昇進しています。この劉放が一段上にある雁行の形は最後まで続き、最終的
に封邑は千百戸と千戸になりました。
 ただ名号侯・関外侯・五大夫は列伝には例がないようです。

 以上から推定される魏の爵位は、宗室用が王(郡王?)・県王?・公(郡公?)・県公?
・郷公・亭侯・亭伯となり、臣下用が県公?・郡侯?・列侯(県侯?)・郷侯・亭侯、以
上がいわゆる諸侯(二十級)です。
 その下にあるのが、関内侯(十九級)・名号侯(十八級)・関中侯(十七級)・関内侯・
関外侯(十六級)・五大夫(十五級)、とここまでが官爵で、更にその下には漢同様に公
乗(八級)以下の民爵八級が存在していたようです。
 ただ宗室の亭侯と臣下の亭侯との関係はよくわかりません。
 なお魏では爵を官品になぞらえることはまだ無かったようです。

 第二案、諸侯(二十級)・関内侯(十九級)・名号侯の関中侯=関中名号侯(十八級)・
関内名号侯(十七級)・関外名号侯(十六級)・五大夫(十五級)、つまり名号侯とは十八
〜十六級の関中・関内・関外侯の総称と言う考え方です。
 または第三案として、諸侯(二十級)・関内侯(十九級)名号侯(十八級)・関中侯(十
七級)・関外侯(十六級)・五大夫(十五級)だったのかもしれません。

 これは宋書の礼志では、亭侯・関内侯・関中名号侯・関外侯と言う記載順に成っている
こと、関中侯・関外侯が同じ十六級であることがやや不審であること、関内侯が十九級と
十六級でだぶっていることの三点からの推定です。なお十六級の方の関内侯は転記ミスの
ダブリだという説も有り、それに従うと第三案が正答になります。三国志に関中侯の例は
見られるのに、名号侯は実例がないのがやや不審ですが。
 ちなみに晋の官品では、亭侯の下には関内侯・関外侯しか見えないらしいです。