体験者に聞く太平洋戦争(第二次世界大戦)

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301296
>>298
ありがとうございます。
祖母の記憶力が凄くて、当時の学校長の給料が月400円だったそうです。
祖父、祖母は仙台大空襲も生き延びていて、祖父は面白い人で
焼夷弾の破片を拾っていたので家にあります。
302世界@名無史さん:03/10/13 17:20
うちの爺さんは、(とても小さな地方の)造船所で働いてたから、徴兵免除。
青蛙(あおがえる)と言う特攻用の魚雷艇の廉価版みたいのを作ってたと言ってます。
303世界@名無史さん:03/10/13 17:21
訂正
特攻用の魚雷艇の廉価版みたいの

魚雷艇の特攻用廉価版みたいの
304世界@名無史さん:03/10/13 17:36
今、100歳の人って戦時中42歳なんだよね。
それでも私の倍近く年取ってるのか。
なんだかなぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
305世界@名無史さん:03/10/13 18:15
ちょっと間の抜けた話で、しかもちょっと不謹慎なのでアレなんだが、祖父から聞いた話。

祖父は福岡から朝鮮半島へ、後方の空港での整備士として行ったらしい。
整備士でそれも後方だから実戦の経験は全く無し。血を見ることも少なかったそうだ。
物資も食料も全然問題なくて、むしろ潤沢にあったらしい。
よく現地人と毛布とか時計とか、なんかいろんなものを、朝鮮焼酎(どぶろくだっけな)や餅と交換したといってた。
祖父の口から朝鮮や中国の人への文句とかが出てくるかな、と思ったがそんなのは全然なくて、中国人の商人なんかとは一緒に宴会やったこともあるらしい。
かなり紳士的だったみたい。もちろん非戦闘地域だったからだろうけど。

で、終戦になって、いろんなものを山ほど持って引き上げようとしたら、日本への船に同情した人たちの身なりや痩せ方がすごい。
そういう話は聞いてたらしいが、実際目にした時は驚いたそうで。
んで祖父は、「うちは実家が農家だから、とりあえず帰れば何でもある。みなさんで分けてください」
と、持って帰るつもり荷物を全部周りの人たちにあげちゃったそうだ。
実家に帰った時持っていたのは、煙草2箱と焼酎1本w
んで実家帰ったのはいいが、実家にも本当に食べるものがなにもなくて、腰を抜かしたらしい。
必死でやりくりしながらなんとか食べ物をかき集めて家を守っていた祖母もその話を聞いて腰を抜かした。
持って帰ってこいよ、と。

血なまぐさい話や悲惨な話をよく聞くし、私もむしろ心のどこか(不謹慎ながら)でそう言う話を期待して祖父から聞いたのが、この話。
祖父は非常に幸運な一例に過ぎないと思うし、こういう例は少なかったんだとは思う。
でも、一口に戦争、といってもいろいろあるものだ、本当に。
306世界@名無史さん:03/10/13 23:58
>305
間の抜けた話かもしれないけれど
人の良さそうなおじいさんですね。
307世界@名無史さん:03/10/17 06:05
>305
ええ話やね〜
心が温かくなったよ。
中国人、朝鮮人、日本人の関係について改めて考えさせられる一文でした。
308世界@名無史さん:03/10/17 17:24
うちの母の話し。

飛行機(B29?)が爆弾を落しに来ると、あっちこっちから大砲を打ち上げたそうな。
で、当たると火と煙をはきながらゆっくりとクルクル回って落ちてくるそうだ。
落下傘が降りてくる方向を見ながら走って行くと飛行兵が居る。
みんな周りに集まってくるけど、誰か判らない人が近ずくなと言うそうです。
そのうちに軍が来て飛行兵は連れて行ってしまうそうです。

飛行機が落ちると回りの人は急いで落ちた所に行って軍が来ないうちに
部品とかを拾って帰ったって母は言ってました。
拾う人は記念品みたいな感じで拾いに行ったみたいです。


309世界@名無史さん:03/11/02 17:30
やばい・・・このスレ・・・2chイチためになる・・・
310世界@名無史さん:03/11/02 23:00
大叔父さんはサイパンで玉砕した部隊から捕虜となって生還。
戦後は一切仕事をせず、かといって遊び暮らすこともせず、
30年ほどただだらだらと生きて亡くなったそうです。

祖母(妹)は「あの人は生きてるのが馬鹿らしくなっちゃったんだろうねえ」と
言っていました。
311世界@名無史さん:03/11/04 16:27
輸送船に乗っていた、お爺さんが話してくれたこと。
深夜に出航して海上で日が昇る。
敵潜水艦の監視をしながら航行すると突然船が振動して大きな音がする。
誰かがヤラレタと叫んだ。
急いで船内から甲板に出ると船の前付近に船員が集まって来ている。
どうやら船前部に食らったらしい。
船内に戻ると多くの船員が走って前部船底に向っている。
誰の大声か判らないけど、船倉に向えと叫んでいる。
お爺さんも前部船底に向う。
向う時に「とうとうきたか」「これで死ぬのかな」と思いながら向った。
前に近ずくと廊下が水びたしだ。
その先には大勢で扉を閉めようとしてるけど扉の向こうから水が噴出している。
大勢でもなかなか閉まらない。そのうちに足元が水のせいで滑りだす。
なんとか閉めて甲板に出ると前の船倉を見ると船倉が水没している。
助けに来る船が来るまで不安でどうしようもなかったと話してくれた。
二回目の攻撃が無くてよかったと。




312世界@名無史さん:03/11/05 01:06
>>310
それは今で言う戦争PTSDだね。
ベトナム戦争でアメリカに大量発生して社会問題になってから
認識されたから、当時は怠け者だって言われたみたいだね。

>>311
凄い、助かったんですね。

313世界@名無史さん:03/11/05 17:36
>>312
お爺さんの船は沈没しませんでした。
ただ、穴が開いてるので通常航行出来ないので助けの船に人員と
多少の積荷を移動しないと駄目なので助けの船が来てくれないと
そこから移動出来なかったと。
助けの船が来て人員と積荷を移動して、助けの船が現場を去る時に
お爺さんは助けの船に向って頭を下げたそうです。
頭を上げた時、周りを見渡すと甲板に出てた人がみんな下げていたそうです。
(後日、ヤラレタ船は無事、港に入りましたと聞きました)

314世界@名無史さん:03/11/05 20:52
ウチのじーさん終戦時、12〜13才。
なんでも学校で戦地に送る軍馬の世話をしていたそうだ。
たまに学校に来る少尉さんにあこがれていたらしくいまでも当時の少尉さんのことを
話すときバッチリ敬語になる。かっこよかったらしいよ。
んですっかり自分も戦争に行く気になってたら終戦。
おわってよかった〜。行ってたらきっとつっこんで死んでただろうな。
315世界@名無史さん:03/11/08 02:09
親父は防空部隊、八王子上空が哨区で、都心はぼ〜っとあかく光ってた
らしい。酸素マスクが凍った息の水分で気を失ったこともあるそうだ。
316世界@名無史さん:03/11/08 22:15
小学生のころに聞いた話なのでうろ覚えでスマソ

父方の祖父は砂浜で(輸送船で上陸後?)戦闘機の機銃掃射が手にかすめたと。
傷を見せてもらいましたがたいして大きくない。
ホントにちょっとかすめただけなんだろうね。良かった。
その後上官を殴り内地へ送り返されたとか。
捕虜を殴れと言われて抵抗したらしいが何故?

母方の祖父は職業軍人。
フィリピンにいたらしい。
その後インパール作戦に動員されたが無事?生還。
よく帰ってきてくれました(涙

上記の2名とも亡くなりました。
ご苦労様です、本当にありがとうございました。

ちなみに父方の祖母は「馬鹿をみた、馬鹿をみた」これしか言わねぇw
オヤジは線路をアメ公の戦車が輸送されるのを幼いころに目撃したとか。
M1だっけかな?
317世界@名無史さん:03/11/08 22:16
318世界@名無史さん:03/11/09 00:46
うちのジーサンは満州→シベリア。
中華料理が大層気に入ったらしく、いろいろ教えてもらったみたい。
子供の頃、よく水餃子作ってくれたよ。
酔っ払うと捕虜時代の話を始めるね。
ロスケはスキーがへたくそだとか、ボルシチ作った話とか。
食い物の話ばっかだw
319世界@名無史さん:03/11/10 01:53
じいちゃんはずっと内地にいたので助かった。
だがじいちゃんの弟は砲兵で日中戦争の時匪賊討伐で戦死した。
昭和15年でまだ戦死者も多くなかった時期だったから盛大な葬式だったらしい。

あと親戚が戦艦大和に乗って菊水作戦に参加したが生き残ったらしい
320世界@名無史さん:03/11/18 00:28
面白い記事ですね。
小水に目が覚めて眠れなくなってしまったんでパソコンをつけたんですが
こういう記事が世界史掲示板にあるとはしらなかったです。

当方は終戦時に長門に配属されてた者です
階級は大尉で、終戦昇進で少佐でした。
レイテで端鶴乗り組みでしたが、配属された幼顔の搭乗員達が
ほとんど帰還しなかった事を覚えています。
あと、攻撃中も沈没の時も不気味なくらいにおついていて
「貴様は残るのか?」
「ああ、やっぱり死ぬことにするよ」
などという奇怪な会話に、私も危うく艦内に残りそうになりました。

また機会があればここに参上したいと思います
321世界@名無史さん:03/11/18 00:46
>>320
お〜〜
ついに現役軍人だった御方の光臨か!
まだおられますか?海兵何期ですか?
322世界@名無史さん:03/11/18 00:49
70期です。
同期にレイテ特攻に参加された関大尉がおられます
323世界@名無史さん:03/11/18 00:54
>>322
すごいなぁ・・・いま80歳くらいですよね?
海兵の生活ってどんなんだったんですか?
324世界@名無史さん:03/11/18 01:03
記憶が年の為あいまい・・・とよく言われますが、
年をとればとるほど若き日の記憶が鮮明になるもんですね。

海兵の生活世間の想像とは異なって
別段今の学校と特に変わるところはありません。
ただ、教わっていることが海軍に関する事だというところです
殴られた事も何度かありますが、そう四六時中殴られると言う事もありませんでした
あと、あまりに横暴な上級生徒様に数人がかりで深夜逆襲に参上する事もありましたね。
325世界@名無史さん:03/11/18 01:06
リベンジかよwww
後が怖いなオイ
326世界@名無史さん:03/11/18 01:12
当時の校長先生、確か草鹿任一中将か新見政一中将か不鮮明なのですが
今考えても気持ち悪いくらいに温厚な方で、こうした問題が発覚しても
よかよか、で解決していた様な記憶があります。
327世界@名無史さん:03/11/18 01:18
       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       | 通報しますた!
       \
          ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                   ∧_∧      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         ∧_∧     ( ´Д` )    <   軍板に通報しますた!
         ( ´Д` )   /⌒    ⌒ヽ    \_______
        /,  /   /_/|     へ \
       (ぃ9  |  (ぃ9 ./    /   \ \.∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        /    /、    /    ./     ヽ ( ´Д` )<  憲兵に通報しますた!
       /   ∧_二つ (    /      ∪ ,  /   \_______
       /   /      \ .\\     (ぃ9  |
      /    \       \ .\\    /    /  ,、    ((( )))  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     /  /~\ \        >  ) )  ./   ∧_二∃    ( ´Д` ) < 通報しますた!
     /  /   >  )      / //   ./     ̄ ̄ ヽ    (ぃ9  )  \_______
   / ノ    / /      / / /  ._/  /~ ̄ ̄/ /   /    ∧つ
  / /   .  / ./.      / / / )⌒ _ ノ     / ./    /    \   (゚д゚)シマスタ!
  / ./     ( ヽ、     ( ヽ ヽ | /       ( ヽ、   / /⌒>  )  ゚(  )−
(  _)      \__つ    \__つ).し          \__つ (_)  \_つ   / >
328世界@名無史さん:03/11/18 01:20
ぜひこちらも御一読下さい。

あなたのおじい様の戦争体験をおしえて その2
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1061964556/l50
329世界@名無史さん:03/11/18 01:22
ありがとうございます
330世界@名無史さん:03/11/18 01:24
関大尉ってどんな人?すごい人なんだよね当然 (・∀・)ニヤニヤ
331世界@名無史さん:03/11/18 01:25
うちのじい様は

フィリピン諸島のさらに南にあるハルマヘラ島なる島にいたらしい
空襲で足がなくなった戦友の話などを聞かされたなぁ
普段はしゃべろうとしなかったが、酒が入ると結構話してくれた
今も元気でぴんぴんしてるが、なまじっか自分が戦争についていろんな事
を知ってしまったので子供の頃のように無邪気に話を聞けなくなっ
たきがする
332世界@名無史さん:03/11/18 01:26
>>327
>>330
もし本物の軍人だったらお前ら人間として最低だな。
よっぽど悲しい人生しか歩んでないのか?
333世界@名無史さん:03/11/18 01:28
332に同意。
334世界@名無史さん:03/11/18 01:31
関氏についてはあまり触れ合う機会はなかったのですが
外出の時にあぶれてしまって、何気なく入った当時の喫茶店で
ひたすら女性の店員と話されていた事を覚えていますね。
聞き耳をたてて(失礼!)みると、住所をひたすら聞きたがっていました
今で言うところのナンパになるのでしょうか?
あと、校内での振舞いもそんなにほめられた事ではなかったようでね

正直申し上げれば、最初に突入を知ったときは
真剣に新聞の誤植を疑った、大変死者に失礼な私でしたね。
335世界@名無史さん:03/11/18 01:31
ここは静かにお話に耳を傾けようではありませんか。
336世界@名無史さん:03/11/18 01:34
関〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!
337世界@名無史さん:03/11/18 01:35
誤植を疑うな(汗
338世界@名無史さん:03/11/18 01:35
関大尉は新婚さんだったんですよね・・・。
339世界@名無史さん:03/11/18 01:38
>>330
どうやら軍神じゃないみたいだな。よかったね目論見がハズれて(´,_ゝ`)プッ
340世界@名無史さん :03/11/18 01:39
つまり関大尉も、普通の若者だったんですね・・・・・。
何だか特攻出撃の際の話や戦後の話と、大変に対照的で少し悲しい気が。
341世界@名無史さん:03/11/18 01:43
ほかの事も聞きたい・・なんでもエエんで
342世界@名無史さん:03/11/18 01:50
そうですね・・その関氏本人がよく食事中に五月蝿いとの罵声も無視して
話していたのは、「世界は殺し合いをしてるのに、日本だけはポーカーをしてる
恋愛だって女に刺されるご時世なんだからいい加減に殺しあう覚悟が必要」と言われてましたね
当時の私はよく理解できませんでしたが、おそらくは世界が全体戦争・総力戦に向かう風潮で
日本だけが部分戦争、要するにスポーツ戦争するのは危険だといいたかったのではないでしょうか?

私もまさに彼の言うポーカー派(!?)でマリアナ陥落や、レイテ陥落後も
まずいよね、とまるでTVゲームの調子が悪いくらいの気持ちでした。
でも、本土に戻って来てようやくボケていた自分を情けなく思いましたし
正直こんなものは最早戦争にあるまいという感情の方が大きかったです
343世界@名無史さん :03/11/18 01:52
>>342
あの戦争を始めるに至った陸海軍、政府、外務省上層部やマスコミに百万回聞かせたい言葉ですね。
ある意味、今の日本にも通用する言葉かもしれませんが・・・・・貴重なお話を有難う御座います。
344世界@名無史さん:03/11/18 01:53
とりあえずアメは鬼畜でファイナルアンサー?
345世界@名無史さん:03/11/18 02:02
>>343
でも別段僕は当時の上層部には恨みはないんですよ
戦争の責任なんてもにはどこにもないですし、
あるならそれこそ赤子も含めて一億国民皆が背負うべきものでしょうが
それはわが国に限ることではなくシナも米国も同じでしょう。
率直に言えば、お人よしだったのでしょう。
陸軍は逆に身の程知らずの極みともいえますしね。
346世界@名無史さん:03/11/18 02:03
とりあえず海軍様(仮称)はセルキャブつけなされ。
347世界@名無史さん:03/11/18 02:06
こりゃモノホンだな。騙りにしちゃ真摯すぎる
今夜はこのあたりで引き上げいたしますね。
紹介された方の記事にも明日うかがってみます。
349世界@名無史さん:03/11/18 02:23
>>348
ありがとうございませた。
ぜひまたお話を聞かせてください。
350世界@名無史さん:03/11/18 02:25
なんか軍板でさっそく自作自演が発生してるぞオイ(汗
351世界@名無史さん:03/11/18 02:27
海軍兵学校についてのHPです
http://www2b.biglobe.ne.jp/~yorozu/hyoushi.html
70期の名簿もありますよ
なつかしい名前があったりするんじゃないでしょうか
>>351
ありがとうございます。
>>350
??
353世界@名無史さん:03/11/18 02:32
>>352
いや、貴方様の名前を騙る不逞の輩が現れたので名前の後ろに
半角#・・・・ってもう付けらてらっしゃる(汗
354世界@名無史さん:03/11/18 02:32
>>344
単に反米がしたいなら他所の板に行けば?
355世界@名無史さん:03/11/18 02:38
海兵七十期(自称は)軍ヲタヒッキー
356世界@名無史さん:03/11/18 02:41
>355
まぁ、トリップをすんなり使ったり、
こんな時間まで起きていたり
歳の割に元気で革新的な人ではあるが
間違ったこと言ってるわけじゃなし
そう騒ぐなや。
357世界@名無史さん:03/11/18 03:08
まぁモノホンにしてもこんなとこに出没してるジジイなら
どうせ当時の席次もたいしたことない
中佐くらいで予備役になる軍人だったんじゃないの?

家族にも聞いてもらえないから、顔も見えん奴等に話そうってか?
358世界@名無史さん:03/11/18 04:03
>>357
坊主、お前の話よりは遙かに貴重な話なんだからいいではないか
お前の話は家族も2ちゃんねらもまともに聞いてくれないだろう?
ろくでもない人生を歩んできたお前が卑屈になってしまう気持ちも
わからんでもないが雑魚は雑魚らしくしていたほうがよいぞw
359世界@名無史さん:03/11/18 04:06
アラシハホウチシル
360357:03/11/18 04:08
すいませんでした。
361世界@名無史さん:03/11/18 05:58
皆様おはようございます。そしてはじめまして。
七十期の先輩がご記入なされたのを見て、
これまで閲覧するだけでした海兵七十五期の私も奮起して初投稿いたします。
ここのスレツドにおられます諸氏は武勇伝を聞かせたいところなのですが
まことに申し訳ございませんが実際に私は戦場に出たわけではなく、在校中に終戦を迎えてしまいまして
実際の所は戦後派に部類されてしまう人種です。
しかしながら海兵終戦時の騒動でしたらある程度は記憶してますので、
あまり文献の少ない終戦騒動下の海兵でしたら私に可能な限り御質問にお答えしたいと思います。
私と同年代の物でも機関科や技術畑に進んだものはコンピュータに詳しいものも多い模様ですので
以外にこの掲示板にも老兵が居られるのではないでしょうか?
もし居られましたらぜひご参加願いたいところであります。
また、知識豊富な若者の多い掲示板ですので
こちらの記憶不鮮明から誤った事を申してる場合はぜひ指摘していただければ幸いです。

それと375氏に一言、
君のお年は幾つかわからないけれど、おそらくは私より御若いと推察して
一言申し上げたいと思います。
自分の人生を全否定されるというのは悲しい事なんだよ?
七十期の御先輩が何を思われてここに登場なされたのかはわからないけれど
いくらなんでもその物言いはあまりにかわいそうな気がするよ。

七十期の先輩へ
ところで先輩は終戦少佐との事ですが、七十期ご卒業で終戦少佐と言うことは
席次はクラスヘッドだったのでしょうか?それと何か特陽な武運に遭遇されたのでしょうか?
362世界@名無史さん:03/11/18 06:16
>七十期ご卒業で終戦少佐と言うことは

「ポツダム少佐」とも言いますね。
おはようございます。361氏につきましては始めまして。 海兵七十五期という事は身も蓋もない言い方をすれば
卒業年で海軍が潰れたせいで、「しごかれ損」に見舞われた世代になりますな。
終戦に関して生徒側で何か騒動はなかったんですか?外からの騒動であれば
自分の記憶では呉に所属する潜水艦の何隻かが血気にはやる将官によって事実上の抗命宣言を
行い、兵学校生徒に決起を促したと記憶してるのですが、結局彼等はどうなったんですが?
多感な時期に自分達の存在意義を全否定される様事態に遭遇するのはある意味我々よりも大変だっと思いますよ。
自分なんかはその頃は長門の艦上で相当冷ややかな態度でしたし、別段悲しくもなく
むしろ快適とも言えた生活に終わりが来ることの方がよっぽどに悲しかったという
当時の仕官達が心の底でこっそり思ってい事をおくびにもなく部下にも言ってましたね。
おかげで部下からの終戦参りに遭遇せずにすみましたが・・
私の席次はクラスヘッドなどとはまさに無縁でしたし、357氏のおっしゃられるとうり
平和な時代なら多分少佐昇格で予備役編入でクビですな。後続の貴方がどのような理想で入校したのか、その意は存じませんが
自分などは正直な話「惰性」という二文字がまさに的確だったのでしゃないかと思いますので、
ひょっとすると、当時なら猥雑な仕官として後輩から軽蔑された存在なのではないでしょうか。
今になって分析すると、入校前後に発生した陸軍の行動将校の反乱や、完全に右によった世論を
相当冷ややかな思いでみてましたし、兵学校入学も単純に実家に最も近いからと言うのが理由でしたんで
入校時の作文は「入校理由」を書くのに相当四苦八苦した記憶があります。
364海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/18 09:40
ただ、私の頃の海軍はこの様な燃え上がらない場違いな男でも
職務を正確随意に遂行すれば特にとがめられる事もなかったと言う、
当時としては大変リベラルな一面を持っていたので大変すごし易かったですね
ただ、やはりステレオタイプの海兵生徒とは限りなく異質な存在と言えたので
兵学校に関してはおそらく貴方の方が真っ当な証言ができますよ。
自分の話だとどいつもこいつも相当いいヤツ等の集う場所だったと誤解を与えかねないのでね。
ただ、戦況の推移に関しては(今日分析される様な危機感を抱かなかったという、問題はありましたが)
結構冷静に分析していた自信はございますんで、戦闘に関する事なら
ある程度はお答えできるのではないでしょうか?
365海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/18 09:46
ここに居られる若い方々にまず申したいのは当時の人間は
別に異惑星人でもなく、今の貴方がと何も変わらぬ若者であったことです
目上の者に「キレる」者もおりましたし、駅前の大衆商店(今日のコンビニエンスやスーパ)の
入り口に纏わり付くものもたくさんおりました。
ただ、個人主義者でも自信の行動に責任を持てる、持たねばならないという雰囲気が
今とは唯一異なる点ではなかったかと思います。
この点に関してはたった一点ながら、きわめて大きな一点であると思います。
366世界@名無史さん:03/11/18 09:49
  ∧_∧
 ( ・∀・) ドキドキ
 ( ∪ ∪  
 と__)__)
367世界@名無史さん:03/11/18 09:54
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
七十期様、卒業さてからはどこに配属されたんですか?
368世界@名無史さん:03/11/18 10:00
>>363
「終戦参り」ワロタ!!今の「卒業参り」とまったく同じですね。
>>365
>ここに居られる若い方々にまず申したいのは当時の人間は
>別に異惑星人でもなく、今の貴方がと何も変わらぬ若者であったことです
戦時中を生きた人々に対しては、ともすれば神格化しそうなほどの思いを
持ってしまいがちなのですが、うむむ、そう言われれば確かにそうなのですよね。
369海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/18 10:16
367氏、一時呉工廠に配属の後に空母鳳翔、後大和配属、5日間ですが戦艦伊勢に出張していた時期もあります。
18年の(時期は忘れてしまいましたが)武蔵に配属になって当時のGF司令部とトラックにいきましたが
同期の中でも相当に転任の多い奴だと参謀長に言われた記憶があります。
なんでも転任は多いものは浮つきやすいから気をつけなさいといわれましたね。
(当時の参謀長は故宇垣中将だった筈です)
いずれも海軍兵学校も快適だったんですがそれを上回る快適さでしたね・・
送る手紙送る手紙、やれ飯がうまいだのエアコンに隔世の隔たりを感じるなど
書き込みすぎたせいで、検閲に引っかかって横須賀の検閲将校と思わしき陸軍中佐から
「何しに軍人になったのか!」と便箋20枚近いお叱りを受けたこともありますね。
370世界@名無史さん:03/11/18 10:21
大和武蔵・・・うらやましい。
大きかったんだろうなぁ・・
伊勢は居住性が悪いと悪評が高いですがどうだったんですか?
371世界@名無史さん:03/11/18 12:36
凄い・・・

海兵出身のお二方に野暮を承知で申しますが、
何らかの手記か何かをお書きになっては?
これはあの戦争に参加した方全てに当てはまると思いますが、
たとえ戦史に残るような重要証言ではなくとも、当時の
雰囲気や裏話など、当の本人にとっては大した経験ではなくとも、
我々にとっては非常に貴重な歴史そのものです。
今すぐ本になるとは限りませんが、100年後には当時を知る
貴重な文献として残るかもしれません。
372世界@名無史さん:03/11/18 21:18
若輩者ですが先輩方のお話はとても為になります。
ありがとうございます。
373世界@名無史さん:03/11/18 23:24
>>369
うお、2ちゃんでこのような方に出会えるとは!!

不躾を承知でうかがわせて頂きたいのですが、『海兵七十期』と申しますと、
三四三空の 菅野  直 大尉や、「指揮官たちの特攻/城山 三郎 著」で有名になってしまった中都留 達雄 大尉
ともご同期でいらっしゃいますね?
もしよろしければ、このお二方の人となりなどお聞かせ願えれば幸いに存じますが。
(四百人を超える同期生の中、難しいとは思いますが)

また、沖縄特攻へ向かう大和隊と劇的な信号交換を行った、丹羽 正行 氏も、終戦直前に大尉ですので、もしかしたらご同期ですか?
374世界@名無史さん:03/11/19 00:31
良スレage

兵学校出の方とお話しできるとは光栄です。
375世界@名無史さん:03/11/19 09:54
海軍所属の艦艇での外部・外界状況を把握するのはどの様にしていたのでしょうか?
陸軍は、連合国のポツダム宣言を受けた放送をリアルタイムで聴いて、上級司令部へ
「何故返答しないのか?」との問い合わせを多数したそうなのですが、海軍ではまた事情が違ったのでしょうか?
こんばんわ。
一斉射撃を受けたので過去の日誌を探して
実家の方に戻っていました。改めて読んでみると人間関係への愚痴ばかりで
戦局悪化を憂う記述は19年11月以降しかないですね・・(汗)
368氏
ご理解願えれば感謝です。
一例を申し上げますと先話に上げた故宇垣中将などは菓子の食い回りという
今日伝わる話から推察できないような事を趣味にしておりました。
軍事に関する日記は残っていますが、名産菓子を食べまわった事も記録につけていましたよ。
興味は洋菓子にまで達しておりました。
370氏
軍艦伊勢は住み心地が悪かったのですか?私が質問したいくらいですね(笑う)
5日間の滞在で見る限りは、皆住み心地が悪いことを愚痴っているようではありませんでした。
371氏
なるほど。しかしながら、あまり印税を期待できなさそうですね(笑う)
こうして、すぐに返事をするネットワークの世界で話したほうが意義は大きいと思いますよ。
この場所は日本でかなり知的階級の高い方々が集っていると確信して、私もお邪魔しているわけですので
不用意に手記をだして、中途半端な共産主義達(仮称「知識人」)に批判されるよりも
ずっと話甲斐のあるここの方がためになるのではないでしょうか?
377海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/19 23:08
372氏
こちらこそ、現在どのように歴史が若者達の間で解釈されているかを
ご教授願えれば幸いです。
373氏
菅野大尉とお話した記憶があります。
確か敷地隅に展示してある40サンチ砲塔のあたりで
ラグビーの授業の合間にとりとめもなく話した記憶があります。
「海軍兵学校」ではありましたが、実際のところは規則正しい普通の学校でしたんで
とりとめて軍事を議論しあうことは少なかったです。
むしろ、海軍大学ならその限りではありませんが。
丹波氏も記憶にあります。とにかく気障な性格でしたね(笑う)
狂歌や川柳をよく口走っては顰蹙やら賞賛を受けていた記憶があります。
それがゆえにあの一幕を生んだのでしょう。
375氏
当時の艦隊編成および連合艦隊の組織形態を学ばれてみる事をお勧めいたしますが、
とりあえずは私の意見として、各戦隊や艦隊で意見統合を行って、
中央と交信しておりましたので、前線部隊が直接大本営なり軍令部なり
連合艦隊司令部に連絡すると言うことはあまりありませんでした。
(された方も、答える事も少なかったと記憶してます。)
ほとんどの場合はまず旗艦や方面軍司令部などに報告し、それが中央に報告されていましたので
終戦時も各司令官の判断で報告しなかったこともあるのではないでしょうか?
378海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/19 23:13
あと更に中央からの電報を食う司令官もまれにおりましたので
連絡形態や上下関係が陸軍ほど明快ではなかったのではないでしょうか?
海軍は雰囲気と言うものが強く、意見の相違から上官に部下が
文字道理つかみかかる光景はかなりありましたが、特にとがめられることもありませんでした
というのも、全体の雰囲気がその部下に味方していれば掴み掛かられた上官の上官も
その部下の部下をとがめようとはしない風潮があったからです。
陸軍の場合は、ほとんどにおいて全体主義の風潮がありましたので
「上官の命令は恐れ多くも大元(略ス)」
の言葉が絶対でしたが、海軍の場合は別段そういうこともなかったので
あまりわけのわからない命は無視を決め込む事もかなりありましたね。
379海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/19 23:18
更に続けます。
そういうわけから、海軍は上級指揮官になればなるほど、
作戦や戦略に疎い代わりに、人間関係の調整が神業に達する方が
大変多かったです。
之は日本海軍の利点でもあり欠点でもありました。
日露の役はこれが良く働いた好例であり、太平洋戦争はうまく機能しなかったのではないでしょうか?
380世界@名無史さん:03/11/19 23:26
>>379
>そういうわけから、海軍は上級指揮官になればなるほど、
>作戦や戦略に疎い代わりに、人間関係の調整が神業に達する方が
>大変多かったです。

 海軍もそうだったんですか…。良いことを聞かせてもらえました。
しかし、未だに日本はこの弊害から脱していないと思います。
381海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/19 23:32
380氏
私は之は悪いとは思いません。
むしろこうであったからこそ日本は発展しているのだと思ってます
ようするに、組織内の人間が高い公共心を持っていれば
この様な組織形態は最高の物ではないでしょうか?
私は敗戦そのものよりも、こういった心の面が失われた今の日本をとても悲しく思いますね。
382世界@名無史さん:03/11/19 23:56
七〇期さま

米内大将、井上成美大将は阿川弘之氏の著作などで非常に高く評価されています。
私も日本を救ったのはこの方々の力が大きいと思います。
これらの方々に限りませんが、個々の将軍などに対する評価などお聞かせいただければ幸いです。
既にお話を伺った宇垣纏将軍のお菓子巡りなど、とても非常に興味深かったです。

それとポーカ派様は、お名前からして、ブリッジの方はお好きではなかったのでしょうか。
383世界@名無史さん:03/11/20 01:00
良スレ期待age
>>382
それは七十五期の方の方が詳しいのでは?
それと七十期の方のHNって、関大尉の言葉だと思うぞ>>342をよんでみれ
384世界@名無史さん:03/11/20 06:38
じいちゃん、お話ありがとうございます。
自分のおじいちゃんは話を聞く前に亡くなってしまったので
こういう話をきけるとうれしいです。
385海兵七十五期:03/11/20 08:15
みなさまおはようございます。
井上中将でしたら七十期氏のおっしゃられるとうり、我々の方が詳しいと思います。
こういう言い方は何ですが、中将本人がおっしゃられていたとうり
「海軍兵学校最後の『まともな』校長」であったと思います。
入学初期の頃は、きわめてリベラルな雰囲気を持たれ
戦闘教本や精神教本を完全否定され、
独自の戦略論を持たれる反骨精神の方と言う印象が強かったのですが
はっきりと偉大なる人物と認識するようになったのは、
在任中最後の2ヶ月間であります。
というのも井上中将は我々の入校から約半年のお付き合いでしたが
昭和19年8月をもって、次官へ転任されております。
19年8月という時期は、6月にサイパンが陥落して事実上の敗北が決定した直後で
その前後から、井上中将は今までの海軍兵学校校長がまず行わなかった様な事を
なされてから、転任なされていかれました。
何かと言いますと、宿舎で枕を並べて夜が明けるまで生徒と話されたり
(当然、その分隊には翌日寝坊したものが続出しましたが、特段処罰はされませんでした)
昼食時に食堂で、生徒とおなじ席に座り食事時間をはるかに延長して
ひたすら生徒の身の上話や猥談などや、またかと思えば
「万が一帝國に敗北が訪れるならどのような形か?また如何に復興するか?」などの話を
などといった海兵の本分を明らかに逸脱したお話を夕食の時間になるまで
ひたすら議論するようになられました。
386海兵七十五期:03/11/20 08:15
今思えばマリアナ失陥以降は明らかに「海軍軍人」ではなく、「政治家」や「実業家」を
養成される様な教育をなされるようになり、驚嘆し今更ながらに尊敬いたしております。
井上中将の在任中最後の2ヶ月間の海兵は明らかに戦後空間を醸し出しており
自分は亡き後の海兵が、どのような校長に率いられようともやがて必ず訪れる、
終戦(敗戦)時に精神までも玉砕精神に染まって、軽挙妄道に走らないように
先手を打たれていたように思います。
生徒の中には敗北主義と議論を吹っかける者もおりましたが、大本営が
隠匿する資料までも閲覧させてもらえましたので、一定期間後には
ほとんどの生徒が最早勝利の見込み一分もなしという現実を理解しておったと思います。
(中にはそのせいで精神衰弱に陥る者もおりました。通例から言うと、海兵ではそういった
『学習続行を行うに不適格なる状況に陥りし者』は情け容赦なく対向にするのですが
井上中将は「殺し合いをするなら退校だが、再建者なら少々軟弱者でも問題ないと」と結局退校には
なされませんでした。)
387海兵七十五期:03/11/20 08:30
七十期氏
おっしゃられますとうり、終戦時に一部潜水戦隊で暴動が発生いたしました。
多少記憶不鮮明ですが、確か16日だと思いますが
『終戦の勅命は肝族の陰謀!皇国は断固聖戦を貫徹せん!』
というような内容のビラを持って伊号潜水艦の乗組員達が決起を促しに参られました、
正直なところ最早戦争遂行が不可能な事は誰の目にも明らかでしたし、
彼らが大騒ぎするその背後に大破着低して大傾斜した重巡洋艦利根や青葉
艦尾が海面に没した戦艦榛名が文字どうり朽ち果てて座り込んでおり
海兵も一部機銃掃射を受けた状態で、正直戦闘する事そのものに我々も
嫌気がさしておりました。大騒ぎする彼らに、最後の校長であられました栗田健男中将が
「後ろにあるクズ鉄を見てよく考えろ!」と一喝され、その日は引き上げていきましたが
翌日に再び参られ、生徒の一部と怒鳴りあいになっておりました。
以外にも我々が終戦を主張した事に驚き、また怒りを感じているようでしたが。
話し合いで解決しそうもなく、一部の生徒は「カッターで乗りこんで実力行使しよう」などとさわいでおりましたが
「最初の実戦が同胞との戦いになるのはまっぴら」という生徒がほとんどでしたので、
結局参加はできないという書簡を渡し、敬礼して見送りました。
記録にはありませんが、一部の艦が停戦後回天で特攻を敢行したのではないでしょうか。
388世界@名無史さん:03/11/20 10:42
>>385-387
おはようございます。
井上中将って自分たちの中では小説の中の硬いイメージの人なので
こういう生のお話を聞けて何よりです。

>正直なところ最早戦争遂行が不可能な事は誰の目にも明らかでしたし、

これはやっぱりそうだったんですね。
話を聞くと「負けた気がしなかった」と言うのと、
「もうダメだ」と言う人がいまして、どちらだったのかな?と思っていました。
無論、場所によっても違う様子ですが。
389武 ◆y9synVxvE2 :03/11/20 14:07
うちの爺さんは沖縄戦前に台湾に運ばれてたすかった。
390山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/11/20 17:06
大和建造に参加して5年前に96歳で亡くなった人・・・の妹に話を聞いたことがあります。
これだけだとしょぼい話だと思われるでしょうが、100年後にはもっとすごいものとされ
ているのでしょうねえ。
391世界@名無史さん:03/11/20 18:48
私の祖父は母方も父方も両方戦死してしまったため、
体験話を直に聞くことが出来なかった。
祖母たちも私がモノゴコロ付く前に両方とも病死してしまったし。
だからこのスレが本当にありがたい。
体験者のみなさまも2ちゃんねるやるんだな、パソコン広まってるんだなって思います。
ご健康に留意してくださいましね。
もう高齢かと思われますし・・・・。

このスレに来ると、孫になった気分で見てます。ありがたい良スレ。

もっとお話聞かせていただけると嬉しいです。
私は介護職についてますが、なかなかそういう話は聞けなくて。
それにしても本当に「ロスケ」って言葉使ってたんですね。
あと花火のヒューって音が焼夷弾の音と同じで怖い、と空襲を思い出す、
などというおばあさんがいました。
392世界@名無史さん:03/11/20 19:22
おお、これは正座して拝聴しなければならんな。

>>379
兵科出身でいらっしゃったと思うのですが、空母と大和のような大戦艦に
乗り込まれていた当時は航空戦力の重要性はどの程度認識されていました
でしょうか?
現在では大艦巨砲主義から素早く転換できなかったとよく批判されて
いますが、私自身は仕方なかった部分も多々あると思います。不躾な
質問で恐縮ですが、当時の方の意見を参考にしたいと存じますので、
よろしく御願いします。

>>385-387
なるほど…。やはり井上中将は凄いですね。私も阿川弘之氏の作品で
初めて井上中将を知りましたので、このようなエピソードは非常に面白い
です。
393世界@名無史さん:03/11/20 20:27
2chねらーの元将校・・・嫌すぎる
394世界@名無史さん:03/11/20 22:07
はじめまして七十期の方。
俺のじいちゃんも瑞鶴に乗ってたんですけど、沈む時に
傾いた甲板に全員集合させられてそこで一人一人に菊の御紋
の入ったタバコが配られてそれを一服してから解散になった。
という話を聞いたことがあります。
この話って本当でしょうか?
ちなみに沈んだ後じいちゃんはしばらく立ち泳ぎをして救助を待
っていると、船が2つ来て助けてくれたそうです。
でもその船のうちの1つは沈められたそうです。
じいちゃんとは今一緒に住んでないのであんまり
話を聞く機会がないのですが、そういうのをじいちゃんから聞くと
すごいリアルで本当に戦争してたんだなぁって思います。
395世界@名無史さん:03/11/20 22:19
傾いた瑞鶴の甲板に乗組員が集合してる写真は見た事がある・・・確かアメリカ側の資料だった
396世界@名無史さん:03/11/20 22:29
>>394>>395

総員上甲板の号令。
軍艦旗、降下。

期せずして起こる、「軍艦瑞鶴、万歳!」



このような一連の写真を見たことがあります。
「丸スペシャル」だったかなあ。


397世界@名無史さん:03/11/20 22:53
>最後の校長であられました栗田健男中将が
>「後ろにあるクズ鉄を見てよく考えろ!」と一喝され、
意外と気骨のある所もあったんですね、栗田中将・・・・・。
398世界@名無史さん:03/11/20 22:57
>>396
軍事板の写真スレでまだ見れるはず。
昨日見たところです。
スレの名前は忘れちゃったや。
39919歳大学生:03/11/20 23:30
スゲェ ここに紛れも無い「歴史」がある。。。
もうすぐ三連休だし実家かえってじいちゃんの話聞いてこよう
400373:03/11/21 00:48
>>377
>海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2さま、レスを賜りまして誠にありがとうございます。
当方には出版物や映像などの資料でしか触れられない事柄を、
文字通り身を持って体験された方のお話は誠に胸に迫る物があります。

>菅野大尉
古い写真に凛々しく写る撃墜王も、やはり良い意味での「普通の若者」であったのですね。

>丹羽大尉
実は、大和隊の沖縄特攻の際、当方の祖父の義弟が駆逐艦・磯風に乗っておりました。
その人は、重油に塗されながら無事に泳ぎきって生還いたしましたが、
当方が子供の頃事故死されてしまいました。
そんな縁もあるので、丹羽氏の当該の手記を興味深く読んだ覚えがあります。
もっとも、丹羽氏自身は、あの吉田満氏の『戦艦大和ノ最後』の該当の個所で、
「・・・カノ瀕死ノ老船団ヨリ、惜別ノ辞ヲ受ケントハ(略」
と書かれてしまい、
『俺の率いてた輸送隊の駆潜艇や輸送艦は全部戦時急造艦で、大和なんかより余程の新造船なのに。』
と思われたらしいですが(w