体験者に聞く太平洋戦争(第二次世界大戦)

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1世界@名無史さん
幸いなことに体験者の人々は生きておられるので、
今のうちにいろんな話を聞いておいたほうがいいと思うのですよ
いいとか悪いとか善悪論ではなくて
当時の雰囲気をききたい
戦争に出た人でも銃後の守りについた人でもかまいません。
そんな人たちに聞いた情報を交換しませんか?
2世界@名無史さん:03/02/21 20:53
グラス最強 
3世界@名無史さん:03/02/21 22:33
うちのじいちゃんがジャワで中尉をやっていたよ
自決の仕方とか学校では教えてくれないようなこと教えてくれる
男らしい人です
4世界@名無史さん:03/02/21 22:57
シベリア帰りのうちのじいちゃんは戦争については
何も言いたがらなかったから僕も聞けなかった
じいちゃんはもうしんでしまっていないんだけど
僕が覚えているのはいつかテレビかなんかを見てたときに
(多分ソ連崩壊の頃だったと思う)
いつもは温厚なじいちゃんがはき捨てるようにいった一言
「ロスケは嘘つきだ」
・・・あの時少しでも話を聞いておけばよかった
5水 ◆rDhngbng2E :03/02/21 23:14
うちのじいさまは海軍の学校に行ってたが月給8円もらってたとか言ってたな。
6山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/21 23:15
うちの祖父は回りの人間がバタバタ倒れて行く中で雪を包んだ雑巾を絞った
水を飲んで生き延びたそうです。日本語で悪口を言っても分かってしまい、
ぶん殴られたとか。家に帰ったら母親に「幽霊だ」と言われた。
(本気ではなく呆然として呟いたそうです。)
7山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/21 23:19
1945年8月6日、呉の実家に居ると外で物凄い音がしたので村中の人間
がそうしていた。キノコ雲が見えたことは言うまでもありません。
話をしてくれた女性は少し前まで広島市内の陸軍の被服工廠(現存)に居て
その日も友人と広島に遊びに行く予定であったとか。
8tantei:03/02/21 23:20
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9山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/21 23:21
7の一行目の後半に「外に出てみると」を入れて読んで下さい。
10世界@名無史さん:03/02/21 23:23
家の爺さんは兄弟が多くて小学校しか出てなかったけど、勉強イパーイして
大刀洗の陸軍飛行学校に幹部候補生としてはいったよ。
九州帝大の教授が講義をしてたらしい。小学校しか出てないから
数学についていくのが難しかったって、よく話してくれる。あと、漢文の先生が
とてつもなく訛ってたとか。当時とったノートとか、航空操典なんかだと実家にあるよ。
終戦の時に、やけになって飛行機の計器に使ってたアルコールを抜いて、
それを水で薄めて飲んだとか。元気なうちにいろいろ聞いとこう…
11:03/02/21 23:27
うちのじいちゃん、中国に行った
中国人のこといい奴ばかりだったといってた
終戦を中国で迎えたんだけど、戦争が終わったら仲間だみたいなカンジで
言われて、心が広い(大人)って、いってた
朝鮮人のことは、本当にひどい連中だってさ
12山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/21 23:30
原爆投下の時印刷工場に務めていた人から聞いた話では、社長に呼び出され
て社長宅の前で話していたら急に吹っ飛ばされた。社長宅が熱線を防いでく
れたそうです。
13とてた:03/02/21 23:36
去年亡くなった祖父ですが…、
徴兵免除でした(体は物凄く丈夫でしたが…なんでも同世代が大勢いたとか)。

戦時中も、それなりの熟練工だったらしく、徴兵はされませんでした。
祖母曰く「それなのに、色々言われた」とか。

まぁ、祖父母の話は「馴初め」がドラマチックだったりしますが…。
戦前の話なのでsage。
14軍事板でも書いたが:03/02/21 23:45
うちのじいちゃんは満州に駐屯し、終戦時は福岡
とにかく内地の部隊は武器が不足していたらしい
玉音放送聞いたんだけど何言ってるかわかんなかったらしい
周りの人から説明聞いて皆落胆してるのをみてやっと理解したみたい
ロシア、中国、朝鮮人は嫌いらしいです、アメリカには憎悪は無いといってた
15山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/21 23:48
うちの祖母曰く「朝鮮人は食う仕事も無いのにどんどん渡って来ていた。来
ても汚い仕事しかやらされなかったのにそれでも来ていた。」
16世界@名無史さん:03/02/21 23:54
うちのじいちゃん、田舎者なんだけど、大正デモクラシー世代だから
どうも今の民主教育みたいな影響があるんだよね。兵役を務めたはず
なんだけど、「天皇陛下万歳なんて言って氏んだ奴はほとんどいない」
とか「皆、おかあさんと言って死んでいった」とか常々言ってました。

近所のおじいさんに、赤紙が来たけど(1945年の春)。現住所から、か
なり離れた場所にいるし、都会は皆空襲で焼け野原…。このまま逃げ
ても大丈夫だろうと、無視を決め込んだ強者もいました(w
17世界@名無史さん:03/02/22 00:03
母方の祖父は、消防署勤務だったため徴兵免除だった。
伯父(父の兄)は、南方(ガタルカナル付近)で戦死。

父は、中学校の校庭で銃剣道の練習をしている最中に
玉音放送を聞いたそうな。
放送を聞いた後は、もうこれで(銃剣道の)練習をしなくて済む、
と思ってホッとしたそうな。練習があんまり好きじゃなかったらしい。
また、大きくなったら海軍に行きたかったそうな。セーラー服に憧れたらしい。
18世界@名無史さん:03/02/22 00:04
うちの祖父は台湾に通信兵として行った。
戦争のことは知らなくても良いことだと語りたがらなかった。
聞いたのは、空襲時にすぐ後ろにいた同僚が機銃掃射で死んだ話のみ。

曾祖母は蒸し器を国に徴収され、
蒸しパンが作れなくなったと怒っていたそうです。
その蒸し器は、飛行機になったのか戦艦になったのか・・・
19世界@名無史さん:03/02/22 00:11
>>1
おじゃまひまふ。
うぉおおおー なんて感心なスレなんだ!
日本国も捨てたもんじゃない。
この武士道の廃れた世に、うぅううう・・(感涙);

そうなんだ。
きみたちのおじいちゃんおばあちゃんは、
ミュージアムであり、ライブラリでもあるのだよ。
みんな、まる子と友蔵になって、継承しようじゃないか!なあ。
20山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/22 00:14
地味な生活誌というか民俗的な話ばかり聞いていてあまり派手な話は聞いて
ないのが残念(?)。でもこれも大切ですよ。
21世界@名無史さん:03/02/22 00:16
うちのじいさんは補給部隊として蘭印(インドネシア)に行ったそうだ。
そのときのことをまるで海外旅行かキャンプに行ったかのように楽し
そうに話していた。オランダ人の置いていった自動車を乗り回して上
官にぶん殴られただの、捕虜とトランプで遊んだだの、現地の人の井
戸掘りを手伝っただの、本当にてめえ戦争に行ってきたんかいと突っ
込みいれたくなるほどだった。
22銀行員:03/02/22 00:20
私の祖父は妻子のいる銀行員だったのですが徴兵されてシナに行きました。
専ら北支でゲリラの掃討に転戦し、その後南に行き、終戦は揚子江
辺りで迎えたそうです。
よく言っていたのは、
自分は、運命論者であると。弾丸がかすめたことが何回かあったそうですし。
爆弾で吹き飛ばされて半月ほど意識不明になったこともあったそうです。
偶然とはとても思えず何か決められたことがあるような気がする。
とのことでした。
23世界@名無史さん:03/02/22 00:24
21続き
ちなみに、連合国の軍隊の特徴をまとめると、
アメリカ・・・・・・相当にやんちゃなイメージがあったそうだ。
イギリス・・・・・・騎士道邁進しているやつが結構いたらしい。
オランダ・・・・・・ある陣地を日本軍が攻撃しているとき、防
衛側の蘭軍はめちゃめちゃ弾を打ってきたらしい(って言う
か狙ってすらいなかったそうな)が、しばらくすると撃って
こなくなったんだと。何か次の攻撃の準備でもしとるんかい
なと思って警戒していたら、白旗が揚がったんだそうな。
弾が切れたからだったらしい。
24世界@名無史さん:03/02/22 00:34
うちの爺ちゃんは戦争行ってないけど、飛行機の訓練受けてたから
機の風防が当時30万したとか、そんな話が多かった。
25銀行員:03/02/22 00:37
戦争そのものについてのエピソードは、
掃討戦をしていたとき思い輜重を担いで延々と歩かされたこと。
北支は、禿山ばかりだったこと。
夜間とかに周りから狼煙があがるのが、実に気味が悪かったこと。
上官から体罰の類は受けなかったこと。
日本軍が到着した際、ゲリラの拠点はもぬけの殻であることが多かったこと。
その際、拠点は焼き払ったこと。
敗戦後、捕虜収容所に入れられたこと。
そこでの生活は、1日1食で何もやることがないので、退屈と空腹で大変だったこと。
また、通訳に使っていた朝鮮人軍属が、その収容所で祖父の上官を
”おまえ等みたいな敗戦国民じゃないぞ”とかいって暴行を振るったこと。
等です。
26アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :03/02/22 00:41
父は終戦時には未成年だったし、祖父は年取りすぎて戦争にはいっていない。
伯父は戦死してしまったし。
士官学校出の義理の伯父が二人いましたが、一人は亡くなったし、もう一人は
ボケ老人でして。
話聞いてりゃ良かったと思うけど、職業軍人はつきあいにくい。
27世界@名無史さん:03/02/22 00:51
>>20
いやそれが大事なんだって。

なんか戦争中って悲惨!ってイメージあるけど、悲惨は悲惨なりに
「暮らしてた」はずなんだよ。
そういう声が全然残ってないのよ。
「戦争ダメ!絶対ダメ!日本悪人!ごめんなさい」
という教育ばっかりでさ。

誰か見たことある人いるかな?戦後すぐに進駐してきたアメリカ軍の
撮ったカラーフィルム。
焼け落ちた東京に、モンペ姿の人々が歩いてるんだけど。
モンペって、案外カラフルなのな。みんなそれなりに清貧にお洒落で。
心象的に、グレーやセピア色でダークな感じだった。
目からうろこがぽろぽろ落ちたよ。
28世界@名無史さん:03/02/22 01:49
やたらめったら悲慘な話をする奴は、斜に構えて聞かないと
何を言っているのかわかりかねるところがある。ストーリー
メイクされたものを全身で感じるのよな。

あと、本当に悲慘な体験をした人って寧ろ語りたがらない。
聞きかねる雰囲気を感じる。当然だわな。言い出すと思い
出してしまうのが怖いからだろう。

爺ちゃん婆ちゃんと付き合うことが多い商売をしている
私の体験です。

それ以外の人は、結構愉快痛快に話をする事が多い。
29世界@名無史さん:03/02/22 01:58
恩師に、中学を卒業するとき、会いに行った。
二時間くらい話したんだが、途中でなぜだか戦争の話になって…
その先生は旧帝大出身で、戦時中は大陸で騎兵の偵察隊をやっていたらしい。
話の断片から推理するに、恐らくは士官だったのだろうと思う。
部下の性欲処理、が一番頭を悩ました問題だったらしい。
だから、村落等に偵察に入る前に、必ず「お前ら一発抜いていけ」と指令を出したんだそうだ。
「負けた戦争だから、子供たちには話したくない。はじめて話した」と言っていた。

当時、70過ぎてたその先生は、英語もネイティブ並で、
BASICでプログラムを組むのが趣味というなんともすごい人。

今はもう亡くなったけれど、あのとき、話をきけてほんとうによかった。
30世界@名無史さん:03/02/22 01:58
知人の父親という人がこんな話をしていた。
彼は軍属ではなかったが陸軍機の整備をしていた。
軍属へ入ることを希望したけれど
「それならお前、南方にいかにゃならんぞ」
と言われ、止めてしまったとか。
そんな彼、こんな話をしていた。

戦闘機を別の基地へ回送することになったのだが、
搭乗したパイロットが驚いた。計器が殆どないのだ。
「燃料計は?」「着けるまでの燃料は積んであるからいらんだろ」
「コンパスは?」「周りの景色を見ればわかるだろ」
「油圧計は?」「無理なことしなけりゃ大丈夫。いつも乗っているだろうが」
ってなわけで、パイロットは渋々飛んでいきましたとさ。

いや陸軍って怖い所です(by 松本零士)
31世界@名無史さん:03/02/22 02:13
これは私の父の話。
近くの海軍の飛行場で勤労奉仕をしていたそうです。
どういうものかというと、掩退壕(飛行機用の防空壕のこと)作りや
滑走路の穴凹埋めです。敵機が来たら退避、去っていったら再び
作業と、その繰り返しだったそうです。

「飛行場には紙や竹で作った張りぼての飛行機を置いててね、
敵さんに弾を使わせようとしていたんだろうけれど、敵さんも承知
だったらしく、見向きもせんかったよ」

と言って笑っていました。
32世界@名無史さん:03/02/22 05:16
体験者なんてもう生きてないだろ。
「こうききました」とさえ言えば捏造し放題だな(w
33世界@名無史さん:03/02/22 08:06
>>32
おまえ、うちのじいちゃんを殺すなw

うちの母方のじいちゃんは、海軍の学校の教官だった
(その縁で、戦後、町の教育委員会の長になってる)
生徒に教えた話ばっかで、直接の戦場体験とかは無くて、
悲惨な話とかは無かったな。

父方のじいちゃんは体が弱く、大工の棟梁だったこともあって、
終戦直前まで召集されず、福岡で本土防衛任務に逝った所で終戦
34世界@名無史さん:03/02/22 08:36
>>27
その口調・・・・あなたはもしや、反サヨ先生ではありませんか?
35世界@名無史さん:03/02/22 09:45
悲惨じゃない話を書き込んだけど…悲惨な話もあるよ。俺のおじさんは、
どうやらレイテ島で逃げ回って、終戦の日のほんの数日前に、餓死したん
だよね。あと数日なのに…。
36山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/22 10:10
>27
それがあいにくと狐に化かされたとか、鎌鼬は恐いとかいう話ばかりで。
>32
八十歳以上なら十分聞けるでしょう・・・。
37世界@名無史さん:03/02/22 17:01
ここは良スレだ!
ウチのじいさんは徴兵されシナに行ったんですが、「旅行に行ったみたいなもんだ」と言っておりました。
隊のメシを作る役だったらしく、上官の目を盗んで食べた目玉焼きがうまかったそうです。
南方に行かされるのとはえらい違いだな・・・
38世界@名無史さん:03/02/22 17:46
おもろい
地味に良スレ

うちのばぁちゃんは空襲があると屋根に上って落ちてきた焼夷弾を
シャベルで遠くへ放り捨ててたそうだ
いや、非難してくださいよw
3938:03/02/22 17:46
○避難
×非難
でした
40世界@名無史さん:03/02/22 19:00
うちの爺さんは、色々なところ転々としたみたいだ。
シンガポール、ジャワ にいってガダルカナルにも行ったって。
そこから引き上げで日本に帰国途中 輸送船5隻のうち4隻
が潜水艦にやられて、じいさんは残りの1隻に乗ってて助かったらしい。
乗ってる間は生きた心地してなかったって
ほんと生きてて良かった〜って涙流して 語ったよ
41世界@名無史さん:03/02/22 19:06
図書館に戦争体験談みたいなのが置いてあってさ
戦争時の体験談を詳しく書いてたな。。体験しなければココまでの事は
書けないすごい事たくさん書いてた

42山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/22 19:13
うちの父の田舎は空襲対策に建物疎開をやったのに一度も空襲されなかった(笑)。
ただ20キロほど先の工業都市の空襲を終えた米軍機が川に余っていたらしい焼夷弾
を一発落としていっただけ。
43T・S:03/02/22 20:11
ウチの死んだ爺さまは、関東軍防疫給水部の林口支部にちょこっといたそうな。
それからいつ頃かは知らないけど南方に転属。
フィリピンだかマレーシアだかどっかで終戦。
イギリスの兵隊が来る前に、日記みたいなのを書いていた手帳類をみんなで燃やしてしまったとか。
手記とか残っているような話をぼちぼち聞くけど、どうも爺さまの話を聞くと、みんなつけていたっぽいね。
ついでにイギリスの兵隊がきてまず最初にやらされたことは、穴を掘らされて馬こか殺して埋めることだったとか。

……頭がハッキリしているときはあれこれ地名つきで語ってくれてたものだけど、その時はこっちが小学生なものだから、さっぱり覚えていないんだなぁ……。
44世界@名無史さん:03/02/22 20:24
うちの祖父母は親戚に農家が多かったとかで、親戚から送られてくる
食料が多く、食い物がなくなった末期でも丸々と太ってたそうな(w
ただ近所の子供の中にはお湯に雑草浮かべた食事を取ってる子がいたらしい。

出征はしなかったらしいので
戦争体験っつーと空襲で死に掛けた話ばかり聞かされます。
(当時から東京在住)

空襲の最中は瓦屋根の家のそばは危ない
(瓦が爆風で舞い上がって散乱する、当たるとそれだけで死ねるらしい。)
布団や戸板を被るのはだめ
(爆風で吹き飛ばされやすくなる上に火の粉で引火する。)
食べ物は他人から見える所に置いちゃだめ
(すぐに盗まれる)

などなど。
45世界@名無史さん:03/02/22 23:38
大叔父は赤犬を食ったそうだ。
だんだんと犬が減っていったと言っていた。

父親は、遠くを飛ぶB29を竹槍持って追っかけたとか。
46世界@名無史さん:03/02/22 23:45
うちの母方のばあさんは「こりゃ日本は負けるな」と戦争初期から思って
いたそうな。やはり大正時代に教育を受けたから、洗脳教育を受けなかっ
たからみたい。熊や狸が平気で出るような、むちゃくちゃ田舎で、どこ
からそんな情報得たんだろうと思っていたら、ばあさんの家を改築する
際に床下をみたら、結構昔の新聞とか読んでいたみたいなんだよね。
47山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/22 23:46
戦後すぐの話ですが、隣町で焼き出された呉服屋の主人が寺に居候していたことが
あったそうです。そんなある日隣村で農家の軒先に吊してあった玉葱が盗まれると
いうことがあって、呉服屋に嫌疑がかかった。
憤慨した彼は己の身の潔白を訴えた遺書を残すと上等な着物を着て池に身を投げて
死んだそうです。
48世界@名無史さん:03/02/23 00:04
>>46
戦前でも「日米戦になったら日本は勝てない」というのはごく普通に言われて
いたことだよ。
その手の事が書いてある戦前の書籍はたくさんある。
49アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :03/02/23 00:04
母は、戦争中、空襲で危ないと親戚から勧められて、母親と(私の祖母)姉と妹の
4人で、博多の中心部から郊外に移っていたんですが、空襲で丸焼け。
元住んでたうちは、皮肉なことに無事だったとか。
家族は皆逃げられたけど、6月で蚊帳をつっていたので猫を助け出せなかったのが
いまだにトラウマです。
50世界@名無史さん:03/02/23 01:50
うちのじいちゃんインドネシアで終戦迎えて
捕虜になった。することないんでつり針ばっかり作ってたら
ものすごい数になっちゃったらしい

帰国する時船から富士山が見えたときには思わず涙したそうな
51世界@名無史さん:03/02/23 02:57
うちのじいさまは落下傘部隊にいたらしい
戦犯で長いこと巣鴨プリズンにいれられた。とのことだが、
ボケきって話が聞けない。
52名無し:03/02/23 04:05
>36
狐に化かされた話し、僕も聞きました。舞鶴勤務の時、海軍の訓練でチームに
分かれて登山競争したそうなんだけど(足裏を保護する為に靴底に小さい石鹸を
入れてたそうです。)、下山の道が分からなくなったとか。
すると真っ暗闇の山中に色白の別嬪が立っており、道を尋ねると無言で方向
を指したので、謝辞を述べてからその方向に下山して行くが一向に着かない。
明け方にようやく麓に出れたのですが、全くの正反対方向で、程なく、隊員の
一人が、狐の泣き真似をするように「コンコン」と叫び出したらしいんです。
一同冗談に思って笑っていたそうですが、それが止まらなくなり、ついに
その隊員は発狂。そのまま病院送りとなり、使い物にならなくなったそうです。
53世界@名無史さん:03/02/23 04:28
軍事版のスレ

お前らのジーちゃんの戦争体験 その2
http://hobby.2ch.net/test/read.cgi/army/1036647391/
54世界@名無史さん:03/02/23 04:43
うちの祖父母は中国に住んでいたそうだ。
日本が負けた後はソ連兵に一個所に集められたそうだ。
夜になるとソ連兵が女の人を物色しにやって来るので
みんなで話し合って犠牲になってもらう人を決めたそうだ。
他にも聞いたけど、この話だけ強烈に覚えている。
55世界@名無史さん:03/02/23 06:05
>>54
見方をちょいとひねれば、日本人の卑しさが良くわかるね。
56世界@名無史さん:03/02/23 06:09
>>48
小泉政権発足前から小泉があんな公約守れるわけ無いし、
自民党を壊すなどできっこない。

と言われましたが、つい最近まで支持率80%超え。
あの時代となんら変わって無いわけで、それを政府の責任と言ってるのも
なんら変わって無いわけで。
57世界@名無史さん:03/02/23 06:26
祖父は若い頃は満州で馬に乗っていたが、戦時中は白紙召集で工場で働いてたそうな。
爆撃のあと、戻ってみると電線に死体がブラ下がっていたという話を散々聞かされた。
「(昭和)天皇は戦後すぐに責任を取るべきだった」と言っていたのが印象に残っている。
自民党派でアンチアカな中日好きの名古屋人という普段は保守的な人なんだけれど。
 
ばあちゃんはリアルタイムで玉音放送を聴いたが、特に何も思わなかったと。
58世界@名無史さん:03/02/23 07:33
>>55
そんな話なら世界中にあるんだが・・・
59山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/23 09:43
>52
こっちは肥だめ風呂と狐憑きと神隠しです。
60世界@名無史さん:03/02/23 09:47
ちょっと流れと違う話。
通っていた空手道場の館長は元特高警察。
その訓練方法を聞いたことがある。

三方を、何本ものしならせ糸で結ばれている
竹に囲まれている場所に立つ。
その竹には個々に人が付いていて、
誰が糸を切り竹がこちらに向かってくるか解らないが、
瞬時に反応する訓練をしたらしい。
61日本@名無史さん:03/02/23 11:37
知り合いの音楽愛好家の方の話で、まだ若いので内容が戦地ではないですが..

戦時中(昭和18〜19)でもクラシックの販売の力の入れ様は相変わらずで、
どこのレコード屋のショーケースのいい場所にビクター専属の
木琴演奏家の平岡養一のアルバムがあった。
ニッチクがマーラーの9番を売り出したときは当時としては特大のポスター
が貼りだされたそうで、空襲で焼けるまで貼ってあったそうです。

別の方、戦時歌謡に詳しい..なぜか
学校の放送室(ラジオ室といってた)の担当の先生が、レコードマニア
だったので毎月の新発売の戦時歌謡を大量に買って、放送室でチェックして
朝礼で流してたそうです。そのため戦時歌謡をとてもよく覚えておられます。
疎開先の学校はアンプなどはあるものの、レコードは少ししかなかったそうです。
62世界@名無史さん:03/02/23 11:55
うちのばあちゃん、
満州でロスケの兵卒にレイプされかけてロスケの憲兵に助けてもらった

満州でチョンとチャンコロが押し入ってきたとき雇っていた
満人の飯炊きが武装して追い返してくれた

じいちゃん
今から八路軍が移動する。ついては使えそうな男と若い女をかっぱらいにくるから
今日はどっかに隠れてろって丁稚で使っていた満人が教えに来てくれた
じいちゃんが引き上げ待ち部落じゅうに知らせた教えたおかげで
かっぱらわれたのは家においてあったものだけで済みましたとさ
63世界@名無史さん:03/02/23 15:36
技師だったから松代大本営を作ってたっていってたよ。
戦後は、若いときにサヨク活動してたから赤狩りにあって戦中より悲惨だったらしいが。
64世界@名無史さん:03/02/23 15:47
>>57
>自民党派でアンチアカな中日好きの名古屋人という普段は保守的な人なんだけれど。

保守的ではあるけれど尊王派ではなかったってことじゃねえの?
6514:03/02/24 17:33
>>33 このレスを見ていたらあなたの御爺様について
もうちょっと詳しく御聞かせ願いますか?
まさか、東北出身ですか?

うちのじいちゃんも福岡で終戦だったので…
6633:03/02/25 01:49
>>65
えっと、私の母方の祖父母も父方の祖父母も
静岡出身です。

正確には父方の祖父は
静岡で召集されて、福岡まで移動した所で終戦だと
聞いておりますので、もしかしたら実際はもっと遠くまで
行く予定だったのかもしれないです。

何れにせよ、あなたのお爺様や、他の方々のように
実際に戦地に立った事はないと聞いております。
でも、福岡ですれ違っているのかもしれませんね。

そういう経緯なので、父方の祖父からは
あまり戦時の話は出ないですね。
その前後の体が弱かった頃の貧乏時代の話ばかり出てくるw
67世界@名無史さん:03/02/25 02:11
日本が負けたって聞いて慌てて北朝鮮から闇船に乗って南朝鮮に逃げてきたら
今度はGIに…とはよく婆ちゃんが語る話。北朝鮮が住みやすかったっぽいのがおもしろいなー。
じいちゃんは炊事班でまぁ怖いことは何もせずにすんだ、とのこと。
68世界@名無史さん:03/02/25 02:33
本人の発言なので真相は不明ですが、
うちの爺ちゃんは近衛兵をやってたらしいです。
中国で撮影した戦車の写真を山のように持っていました。
(実家にあるので、アップできませんが)
母の話によると、昔は夜中に悲鳴と同時に飛び起きることが何度もあったそうです。
人を殺す夢を見たとか、一度だけそうもらしたことがあるようです。
二十年ぐらい前にうちの爺さんに戦地で命を助けられたという人が
やってきたが、爺さんはほとんどまともに相手をせずに帰って
もらっていた。戦争の話をするのがかなり嫌だったみたいだ。
そういう爺さんの態度を見ているととても戦争の話をしてくれ
とは言えなかった。そんな爺さんも五年前に死にました。
69:03/02/25 05:44

福井県は武生市の話をしましょう。

この町は古くは国府が置かれ、江戸期には後に野口雨情に
「二万石でも武生は城下」
などとよくわからない褒めだか貶しだかわからない文句で謡われた町。

大したものは残ってないのですが、それでも古い町並みが残っております。
それは街中が空襲に遭わなかったから・・・

と言われますが、実は遭ってます。

福井市が大空襲を受けた日。
空襲警報が鳴り響き、皆が電気を消しカーテンを閉め、空を覆いつくす
B29を息を殺して見送りました。
やがて地平の向こうに赤々と燃え上がる町。
「ああ、福井がやられてる・・・」
やがてもう一度空襲警報が響き、B29が帰っていきます。
皆はまた閉め切って息を殺して、時が過ぎるのを待ちます。
70:03/02/25 05:45
ところは変わって武生郊外の西尾という暢気な集落
ここでもやはり、皆が窓を閉め切って、B29の天高い轟音を聞いていま
した。
ところがそこはやっぱり人間です。「うぉ〜見てみたいな」と思う奴がいます。
田舎の郊外の農民、危機感もありません。
そーっとカーテンの隅を開きました。


さすが米軍、その灯りを見逃しません。
ついでに焼夷弾が余っていたのでしょうか、後続のB29が一発だけ、
本当に一発だけ落としたのです。

そしてさすが米軍。その焼夷弾はなんとその家に的確に命中。
村人総出で消火にあたり、延焼は免れました、死人もいません。

しかし、武生市は確かに空襲を受けました。
・投下数、一発
・被害、全焼一軒
71出会いNO1:03/02/25 05:54
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72世界@名無史さん:03/02/25 15:46
職場が病院なので戦争体験は良く聞きます。
でもあまり若い人のまえでは話したがらないですね。
談話室に爺さんたちがたまってて、「おたくはどこ行きました?」
って話してる。
そこに仕事さぼり会話に参加してます。
最初は「若い人にはなしても」って言われたけど、
「便衣兵ってほんとにいたの?」とか質問したら「若い人がなんでそんなこと
知ってんの?」ってかんじで話するようになった。
シンガポールで海に半日浸かってたとか、売薬やっててこっそり薬売ってた
とか、マッカーサの悪口とか。
73世界@名無史さん:03/02/25 16:32
漏れの爺さん、陸軍少尉で歩兵隊の隊長だったらしいが、
親戚の海軍少将に「陸軍やばい」と言われて
そのコネで内地の海軍でなんかを教える役目になったそうで、おもろい話はきけなかった。

親戚の海軍少将だった爺さんは何年か前に死んだけど、
いい人だった。
話はあんまり聞かなかったが、真珠湾では現地指揮をとってたらしく、
アルバムに入ってた真珠湾での生写真をくれた。
こういうスレをみるともっと話を聞いておくんだったと後悔するよ。
7414:03/02/25 16:36
>>33 ありがとうございました
福岡と聞いて「まさか!」と思ったんですが、勘違いでした…
もしかしてこのスレに出てきたじいちゃん達の中に同じ部隊にいた人が
いるかもしれないですね。
75世界@名無史さん:03/02/25 20:25
近所の駄菓子屋のおじちゃんは、インパールの生き残り。日本に帰ってきたとき
には、皮と骨になっていたそうだ。死んじゃったけど、駄菓子屋は最後までやっ
てた。戦争の時の話を聞くと「俺は通信兵だったから、モールス信号を打つ必要
があるので、重たい物を持たなくてよかったが、他の奴らは…牟田口の馬鹿野郎!」
なんて言ってました。
76世界@名無史さん:03/02/25 21:40
漏れの叔父が、満州警察に所属していた。
理由は、「兵隊になりたくないから」だったそうだ。
で、終戦後の引き上げで、4人いた子どものうち、
2人が亡くなったとか。
叔父は今も存命(90歳超えてる)で、数年前までは
年に1回くらい中国に行っていた。
個人的には叔父がラストエンペラー、その弟の溥傑と
謁見したのかどうかが知りたかったりする。
77世界@名無史さん:03/02/25 22:38
母方の祖父、海運会社の社員で
開戦時アメリカにいてそのまま抑留。
1942年2月生まれの伯母は
戦後、やっと帰ってきた祖父に初めて会った時
「このおぢちゃんだれ〜?」とかほざいて
祖父はかなりショボーンだったらしい。


その後まもなく、伯母には妹が二人できた。
78世界@名無史さん:03/02/26 00:27
>>77
そりゃ、初めて会うんだから、
そんな反応だろうなぁw
79世界@名無史さん:03/02/26 15:10
母方の祖父は、そこそこ名の知れた仏師。
戦時中は仏様を造る際に使う糊にも不足していたようで、
ご飯を炊く時には釜の中に麦を敷き詰めた後、
配給の米を真中に集めて炊き、それを集めて糊を作っていたそうです。
おかげで母は、その当時麦飯しか食べられなかったそうな。

父方の祖父も同じように米を集めて炊かせていたそうですが、
それは自分だけが白いご飯を食べるため……
えらい違いだ(w
80世界@名無史さん:03/03/01 00:10
保守
81世界@名無史さん:03/03/01 00:36
農業やってたから食うにはまったく困らなかった。もしも、ということもあるかも知れんので、山と田んぼは大事に持っている。
82世界@名無史さん:03/03/02 05:11
婆さんに唯一聞いた話では、
近所のとある一家は関東大震災のときに傘持って逃げたらしい。
東京空襲のときも傘持って逃げたらしい。

傘が好きだったのだろうか。
83世界@名無史さん:03/03/02 10:26
うちの死んだ祖父はインドネシアで炊事をやってたらしく、
ある日は、鳥のモモを二千人分よういしてたらしい・・・・
今とは違うが当時はインドネシアは日本で生活するよりよかったらしい。

本当だったのかな?
84ファシスト文学士:03/03/02 11:55
オレの亡くなった父は、昭和20年春旧制中学卒業後軍属として将校待遇。
その年の8月召集され二等兵。でも終戦(?)で命拾い。そのときが人生で
一番太っていた非国民です・・・
85世界@名無史さん:03/03/02 12:02
すでに亡くなった父方の祖父は、徴兵後とんとんと昇進して少尉で除隊。
戦争が激しくなり、終戦直前に召集された。もちろん少尉で。招集後す
ぐに、トラックいっぱいの米や缶詰などを山のように家に持ってきたらし
い。終戦間際の最悪の頃でも、あるところにはあったそうな。
86あやめ:03/03/02 13:28
叔父の話
「昭和20年5月29日の横浜大空襲で住居(借家)が丸焼けになった
警報解除後に帰宅してみると焼け跡には何も残ってない
当時主食として配給される雑穀や芋などを粉食加工するのに重宝していた
石臼もボロボロになっていたが、唯一完全な原型を留めていたのは便所の
キンカクシだけで情けなかった、あいつは一度焼いてあるもんだからな
避難する時いつも何事にも気の回らないオヤジ(あやめの祖父)が盥を共同
水道の下に置いて水を出しっ放しにしたまま逃げた
お陰で水道の鉛管が熱で潰れずに済み長屋の衆は大助かり、うちも貴重な
盥が燃えずに残った
関東大震災の時もオヤジは井戸に戸板で蓋をして避難したので水が火事の
灰なんかで濁らず変な物も投げ込まれずに済んだと長屋の皆に感謝された
そうだ」
変な物うんぬんは当時「朝鮮人が井戸に毒を投げ込む」というデマが流布
されてたためだそうです
87世界@名無史さん:03/03/02 13:39
んじゃ、俺のじいちゃんの話も。

当方埼玉在住。埼玉県の中央からやや北に行ったところです。
埼玉県北部の熊谷市から、南東に10キロちょっとぐらいですね。まあ、よくある田舎町。
で、終戦の直前(一日か二日前だったなかな? 曖昧でスマソ)に熊谷市が空襲されました。
俺のじいちゃんはその時の話をたまにしてくれるんですが…

じいちゃん(当時15歳)は空襲の様子を、家の目の前にある土手に上って見ていたそうです。
熊谷に親戚の家があったから、心配になって見に行ったんだとか言ってましたが…
…もうね、アホかとバカかと(じいちゃんスマソ)。
あのなじいちゃん、熊谷が空襲されてる最中に土手なんかに上るなよ。
空襲だよ空襲。町の上空は敵機の進路の近くなんだよ。家の者は全員閉じこもってるっつーのに。

「さすがに立ってらんなかった。土手の草むらの中に伏せてたよ」とか言ってましたが、
そんな時に家から出ること自体間違ってるような。勇気があるのか無茶なだけなのか
(多分後者でしょうw)、すげえことをしたもんです。
8887:03/03/02 13:43
じいちゃんの視線の先、熊谷の空は明るくなってました。炎の赤に加え、B29が落とす
照明弾の白光も混ざり、昼間のようだったとか。
爺:「たくさんの焼夷弾が落ちてくのがはっきり見えた。雨が降るようにサッサッサッサッと。
   あの光景はホントに……きれいだったなあ。」
…きれいだったんかい!(まあ、その後「こう言っちゃ不謹慎だけど」と付け加えてましたが)

でもポカーンと見ているだけでは済まなかったらしく、
爺:「たま〜に熊谷行く途中のB29が、頭の上の方で旋回して行くのな。あれは怖かった。
   割と高空を飛んでたんだろうけど、見つからないかどうかハラハラした。
   B29はでかく見えるし、ほんとに怖かった。」

(((((((゚д゚;))))))ガクガクブルブル
まあ、幸いにして見つからずに済みました。じいちゃんが機銃掃射くらったりしなくて
ホントに良かった。
8987:03/03/02 13:45
翌日。熊谷が焼け野原になっているとは子供でも予想がつきます。
向こうの親戚の安否が心配だ。それに祖父は旧制熊谷中学の生徒、被害にあった
友人もいるに違いない。
爺:「それでだ、おじいちゃんは熊谷まで様子を見に行ったんだ。自転車に乗ってな。」

…やってくれます。空襲直後の街にチャリで乗り込むとは。
もっとも、じいちゃんが行かねばならぬ理由もあった。六人きょうだい(男4、女2の下から二番目)でしたが、
・長兄は海軍で家にいなかった。 ・次兄はちと体が弱い。それ以上に慎重派。
・末弟はまだ消防。女子供に危険なことはさせられない。
という訳だそうで。でも真相は自分から立候補したんだと思われます。
むしろ親とか周りが止めるのも聞かずに出て行ったようです、他の兄弟の話では。

で、じいちゃんは焼け野原へ足を踏み入れました。焼けた建物がいまだに燃えくすぶり、川には多くの死体。
駅近くの倉庫に貯蔵してあった缶詰は、熱でみんな破裂。女学校の校庭ではいくつも棺桶を作っていた。
でもじいちゃん、恐怖はそんなに感じなかったらしい。それよりも虚脱感のようなものを感じていたとか。
親戚にはその日会えなかった(家が焼け、家人も見つからなかった)ものの、後日無事だと分かりました。
でも市内に住んでたじいちゃんの同級生が亡くなったそうです(一度は避難したが、教科書を取りに家へ
戻ったところ、焼夷弾の直撃をくらったとか……合掌)。

こんな俺のじいちゃんは今でもまだ元気です。性格も(おそらく)当時と変わってない。
ヘタレな孫には、貴方のような真似はとてもできません。
90世界@名無史さん:03/03/02 15:16
ウチの祖父は酔うとすぐに
「露助め!」とか言っていたな・・・
あと「ブストラ」(?)とも言っていたな?
確か戦中に行った樺太の現地語だと言っていたけど
意味は教えてくれなかった・・・

何 で す か ブ ス ト ラ っ て ?
91山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/03/02 15:20
うちの先祖はほとんど農家で、そうでなくても菓子屋をやっていたので食べるもの
には不自由しませんでした。砂糖は戦時中でも配給されていた。
また芋などの他に(田舎なので)松茸をやたらと食べさせられたそうです。
92ファシスト文学士:03/03/02 19:04
取引先に中支戦線にいた帝国陸軍将校がいる。
その人の話によると、当番兵は塩と豚の脂身を絶やさずにしていたそうだ。
その二つがあれば、即席チャーハンができるとのこと
今でも軍隊で教わった体操をして自転車に乗り、街を往来する元気者。
93世界@名無史さん:03/03/03 18:44
漏れのじーちゃんは関東軍の輜重兵で、満州で終戦。シベリアに抑留された。
捕虜は一日こうりゃん飯一杯だけで、そのままでは飢え死にするから、
ロシア兵の食料(じゃがいも)をちょろまかす方法ばかり考えていたとのこと。
戦友の半分が飢えと寒さで死んだから、今でもロスケが大嫌いで、
あの国だけは信用してはイカン、が口グセです。
94bloom:03/03/03 18:51
95世界@名無史さん:03/03/05 13:25
かれこれ30年も前に聞いた、中国戦線で戦った人の話。

その人の最初に戦ったのが徐州近くの都市の争奪戦。その都市の名前は聞いたが今は忘れた。

守りは固いと聞いて、充分な準備をして日本の部隊は城下にせまった。
ところが小競り合いが城外であっただけで守備隊からの反応は無し。
おそるおそる城門を入ると、守備兵はいない。逃げたと思われる。

代わりにあったのは、幾千とも知れない数え切れない死体。
中国人同士が殺し合ったとしか考えられない。
生存者を見つけて何があったのか聞いたけど誰も答えない。
部隊長はその死体の埋葬をすることに決め、城外の空き地を掘って埋葬した。

しかし戦場でも見たことのない死体の山、気が変になる。

3人が組んで作業をする。
死体に対して敬礼、もっこに乗せてひたすら運び、穴掘り担当の掘った穴へ埋葬し、
再び敬礼して土をかぶせる。
気が変になると、この敬礼ができなくなる。で、その人は2〜3日休養する。

これを1週間ほど繰り返していたところへ、名高い徐州戦への加勢命令が来たので
埋葬作業は終わり、その城下を離れた。
96世界@名無史さん:03/03/05 13:36
>>93
>>あの国だけは信用してはイカン、が口グセです。
禿同です。漏れの婆ちゃんもそれが口癖です。
「ロシアはねえ、条約を破って日本に攻め込んできたんよ。
あの国だけは(以下略)」
お年よりはみなロスケが嫌いなようでつ。
あともうひとつ、戦争の話になった時の婆ちゃんの口癖
「女学校の校長先生がねえ、朝礼の時に必ず『イタリアはすこぶる弱い!』言うんよ」
97世界@名無史さん:03/03/05 14:28
漏れのばあちゃんは大連に住んでた。
仕事で北京行の列車に乗っていたところ、
乗り合わせた軍人に敗戦の事実を聞かされ、
急いで引き返したとのこと
9897:03/03/05 14:40
印象に残っている話としては
〇敗戦後、中国の人(満人)が食料をたくさん
もってきてくれた。ばあちゃんがお礼を言うと、
満人の人達はニコニコ笑いながら「代金」といった。
〇進駐してきたソ連軍。将校は貴族のように礼儀正しく美しかった。
(女性将校も見かけたとのこと)
しかし兵士は、入れ墨をいれた囚人兵で、恐ろしく野蛮だった。
武装解除のため日本人の家に入ったソ連兵。
そのとき目覚まし時計が鳴ったら
兵器と勘違いしたソ連兵は
目覚ましに一斉射撃を加えたとのこと
99世界@名無史さん:03/03/05 16:27
>>28
藤本義一が「あの戦争は悲惨だった」という人は内地や戦闘がない場所にいて
黙っていたり、淡々と戦争を語る人は最前線の悲惨な場所にいたと書いてたな

うちの職場に大正15年生まれの人がいて、福岡の太刀洗航空隊にいたらしい
整備兵だったけど、ろくに飛行機がなくて、滑走路の穴埋めにこき使われたと
100世界@名無史さん:03/03/05 17:44
うちの祖母は広島で原爆にあいました。
当時叔母の家にいたらしい祖母は、学校へ行こうと玄関にいたところ被爆。
あと少し早く家を出たら死んでいたと思われます。
扉や家と一緒に吹っ飛んで、その後何とか逃げ出したそうです。
呉に向かって逃げたと言っていました。
辺りは本当に地獄のようだったとか。原爆資料館などの絵は誇張でも何でもないらしいです・・・怖。

その時の記憶が強すぎる為だと思いますが、戦争話を聞こうとすると思い切り顔をしかめられます。
当時の生活とか聞いてみたいとは思うのですが・・・^^;
101世界@名無史さん:03/03/05 21:46
>>96
満州からシベリア帰りのうちのじいちゃんもだ
ロスケは嘘つき!といつも言ってた
でも中国人は素直で正直だとも言ってた・・・

一 体 ナ ニ を し て き た ん で す か ?

ちなみに半島のかたがたについては聞いたことないですね
102世界@名無史さん:03/03/07 16:15
中国戦線で戦った父方の祖父の話では南京大虐殺はなかったとのこと
母方の祖父は沖縄で米軍と戦って失明しました。
103世界@名無史さん:03/03/07 17:13
なんでアメリカ本土に空爆しなかったの?
104世界@名無史さん:03/03/07 17:29
>>103
アメリカにはサイパン島やグアム島に基地を置けたが
アメリカ西海岸には日本軍が分捕って基地を置けるような適当な島が無いんだよね。
105ファシスト文学士:03/03/08 21:32
中島飛行機の富嶽をもってすれば米本土爆撃も可能と・・・
試作機の試作の段階だったけどね
106世界@名無史さん:03/03/09 03:26
>>105
仮に実現したとしても、一式陸攻みたいに敵の弾食らったら
すぐ火がついて撃墜されまくったんだろうな
護衛戦闘機なんかつけられないし
107世界@名無史さん:03/03/11 18:41
うちのおじいちゃんは落下傘部隊でした。
乗っていた飛行機が海に墜落したことがあって、
必死に泳いで、助けに来てくれた船の辺りまで行ったけど
弱っている人から引き上げるもんだから全然自分を引き上げてくれない
だから、わざと溺れたふりをして助けてもらったとか。

他にも色んな話あったけど、
「おじいちゃんは優秀でかっこよかったんだぞ」みたいな話が
多かったから、話も誇張してると思う。今84歳。
「アメリカが日本を救ってくれた」と・・アメリカマンセーみたいです。

一方おばあちゃんは、戦争で前夫を亡くして、実の娘とも離れちゃった
せいもあってか、戦争の話は絶対にしない。
108世界@名無史さん:03/03/11 18:56
父の親戚(祖父の兄弟か、もっと遠縁かも)はアジアで橋を架けたらしい。
正確には、その前の測量する人とか。

泳ぎが上手かったそうで上官が川に流されそうになったのを助けたとか。
で、なんか礼をするとか言われたが、その人がすぐに戦死して、何も無かったってさ。
109山崎渉:03/03/13 13:01
(^^)
110世界@名無史さん:03/03/16 15:30
age
111世界@名無史さん:03/03/16 17:12
子供の頃、祖母の家で「開けるな」と言われていた戸棚の奥にある坪を開けたら、白い粉に混じって黒く焼けた骨が入っていた。
祖母に詳細を尋ねたところ、いつもの陽気さは消えうせていて、泣くまで怒られた記憶がある。
うちの村は米軍の上陸地点(沖縄です)で、集団自決も起きてるので、いまだ恐ろしくて詳細は聞けない。
分かっているのは祖母の一家は兄と祖母を残し全滅していることだけです。

また、祖父の弟は回転魚雷に乗って特攻。
命は取り留めたものの、片腕を失いました。
去年あっさりとなくなりましたが、さすが元帝国軍人だけあって、迫力のある人でした。
そんな人ですが、法事のたびに米軍の悪口を言いながらも、最後には「餓死を免れただけでも、アメリカーには感謝せねばならん」といつも言ってました。

主義や思想など、命のかかった場面ではさして意味はない…そう思わせる重たい言葉です。
112世界@名無史さん:03/03/20 20:06
>>14で思い出したが、俺、その玉音放送のmp3持ってるよ。
マジで何言ってるのかわかんね。
113世界@名無史さん:03/03/21 13:09
今回のイラク攻撃について話してたら爺ちゃんが戦争体験について微妙に語ってくれたんだが
その内容がえげつなくて鬱になった。

フィリピン(だったかな)の前線基地に弾薬やら米やら全部まとめて置いといたら
そこ空襲されて全部あぼーん。
「素人でもまとめておいたら危ないってこと分かってたのに」とかグチってた。
かすかに残った食料や煙草は隊長達が全部持っていってしまって
兵隊たちには何にも支給されなかったんだと。
そんな感じだから配給途中に米がこぼれたりしたら兵隊達は必至こいて拾ってたんだけど
それを見た隊長連中は「恥ずかしいことするな!」・・・。
「どっちが恥ずかしい奴だよゴルァ!」と兵隊達は怒ってたらしい。

あといつかの正月にさらさらおかゆに梅干1個ついた御飯が支給されたけど
「いまだにそれよりおいしい物食べたことない」と言ってた。
兵隊連中はみんな泣いて食ってたとも。

んで終戦になって帰る時隊長が将校を一人一人呼び出して、
それに爺ちゃんも呼び出されたんだけど、その時言われた言葉が
「実家に帰ったら羊羹でも送ってくれ」
・・・人間って悲しいなぁ、と鬱になってしまったよ。
爺ちゃんはその言葉に対しては今でも怒ってた。

爺ちゃんは前線にいたみたいだから気を使ってしまってなかなか戦争については聞けないけど
1回くらいは詳しく聞いとこうかと思う。
114世界@名無史さん:03/03/21 13:23
誰かお前らのじーちゃんPCの前に座らせてくれー
うちのじーちゃんは九州の小倉で海軍にいたらしいが
聞く前というか全然、興味無かったから聞く気も無かった。
そうしているうちに亡くなってしまった(´Д⊂グスン
今になって少し後悔。
115中華@名無史さん:03/03/21 13:28
ここまで何の疑問も無く読んで、名スレだとも思ったけど、
ふと、これって世界史では無いのでは?とオモタ(w
116世界@名無史さん:03/03/21 13:33
>>115
世界史住民も兼ねているので、ひとこと。
あちらには、のー天気かつ無責任な忌戦論者がいるので、荒らされる恐れあり。
戦争の意味をより深く知っているこの板でこそ良スレでいられると思われ。
117世界@名無史さん:03/03/21 14:10
うちのジー様はなぜか赤紙がこなくて兵隊にとられなかったらしい
バー様の話だと家長だったからとか、真偽不明なことを聞かされた

で、田舎のせいか戦中よりも終戦後の方がきつかったらしい

引き上げの人のせいで借家をおんだされて、土間の納屋に一家5人で住んだとか
イキナリ配給が減って穀倉地帯に住んでいるのに闇で食品を買いにいったとか
見ず知らずの農家のおばちゃんに「この先で検問やってるからこれもってお帰り」と
うりをもらった話をきかされました

118世界@名無史さん:03/03/21 14:13
>>113
ぜひ、聞いといたほうがイイ。
生で体験した世代はもう居なくなりつつあるから、それを聞いて覚えておくのも
ジイ様に対するある種の孝行になると思われ。
119世界@名無史さん:03/03/21 15:39
ウチのジーちゃんは漁師だったが、徴兵されると陸軍配属になるから死ぬというので海軍に志願したらしい。南方の島(詳しい名前は忘れた。スマソ)の
飛行場に配属され、米軍の空襲の後は魚がたくさん死ぬのでそれを食ってたそう。でもウンコに群がるような奴は食わなかったって力説してた。小学校のときに死んだからもう10年
以上まえになるがあのころは毎晩この手の話をしてた。二式大艇の魅力を語ってた。でもハリウッドの戦争映画は嫌ってた。
120世界@名無史さん:03/03/24 17:03
中学生だか高校生の頃、学校の宿題で祖父と祖母に戦争の話を聞いて
それをレポートするというのがあった。
いつもは優しい祖父母が、「そんな話を聞きに来たのか」ってとても
不機嫌になってしまったのを思い出す。

祖父の兄さんは満州(?)でスパイまがいのことをやってたらしい。
でも知ってるのはそこまでで、その人が具体的にどんな任務に
ついてたのかは聞けずじまい。
祖父母もつい最近連れ添うように亡くなりました。
121世界@名無史さん:03/03/24 23:38
今日祖母におそるおそる聞いてみたけど、意外に喋ってくれるもんなんだね。
そこまで悲惨な経験してないからかもしれないけど結構誰かに聞いて欲しいもんなのかな、と思った。
長かったから箇条書きだけど

・祖母は女学校の教師だったんで生徒をいわゆる学徒動員に逝かせてた。
・福岡・大村の味の素工場爆撃された跡地でみんなが味の素含む物資拾ってた。
・大村のどこかの病院の入り口に爆弾落ちて医師、看護婦、患者ほとんど死亡。
 祖母はその時防空壕にいたから助かったけど衝撃で穴が崩れた。
・長崎に原爆落ちたとき諫早にいたけど、ピカっと光ったので外に出てみたら物凄い煙(きのこ雲)が見えた。
・太平洋戦争前までは物資には何も困らなかった。一番きつかったのは昭和17〜22年ぐらい。
・米も野菜も芋も洋服も裁縫道具も本当に何もなかった。今考えるとあれは何だったんだというくらいなかった。
・天皇陛下マンセーだったのは事実。会話に「天皇」という言葉が出ただけで背筋伸ばしてた。
・アカ狩りの記憶もある
・出征する兵隊達に「生きて帰れ」じゃなくて「名誉の戦死をしてきてください」と本当に言ってた。
・戦後は農家の親戚から米をおみやげに貰っても闇ゴメとして警察にタイーホされたから
 おにぎりにして家に持ち帰ってた。

ちなみに祖母は今でも教育勅語を朗読できた。
天皇陛下マンセーの歌も歌えた。びびった。
122世界@名無史さん:03/03/25 00:03
ttp://www5.ocn.ne.jp/~fobasan/

こんなのはどう? 結構面白かったよ。
123うちの一族の話:03/03/25 00:53
【父方爺さん】
 第一次ノモンハン事件に上等兵として従軍。肩・太ももを打ち抜かれる。
 2日かけて草原を這いずって帰陣。爺さんの部隊はその後の戦闘でほぼ全滅したらしい。
 内地に送還後、名誉の負傷ということで伍長に特進したようだ。
  その後、当時住んでいた大阪で内地勤務。大阪空襲で全財産を失う。
 空襲後、祖母さんが防空壕から出てきたら目の前にたまたま夫の爺さんが立っていた。
 そのときほど、二人の愛が高まったことはなかったようだ。 カッコよすぎ…
  それから台湾防衛 九十九里浜敵軍上陸阻止 など上層部の戦略ミス部隊に配属され、
 軍曹だか准尉にこれといったこともなく昇進。
 満州に新兵を送る途中、朝鮮半島で終戦。そのまま満州に行ってたら…
 あの戦争の中ではラッキーと言えるのかもしれない…

【母方爺さん】
  大学生で学徒動員。覚悟を決めたら経済学部ということで主計部へ。
 防空壕の中で簿記・会計をやっているうち終戦。逆に太って帰ってきたらしい。
 ラッキーだった。が…
 父方の爺さんはノモンハンで、戦友のほとんどが死んだトラウマで戦争の話をしなかった
(私は祖母や残ってる資料から調べた)が、母方の祖父は本人の責任ではないが、自分だけ安全な所で居られたことがトラウマになっているようで、戦争の話はいっさいしない。祖母が戦時中の話をしようとするととても不機嫌になる。
【大叔父】
南方で兵員輸送船とともに、サンゴ礁のなかで永眠しておられる…
【大伯父】
南方の戦線で手榴弾を投げようとしたところ、暴発。右手を失うも無事?帰還。

皆さん、ご苦労様でした(T△T)
124世界@名無史さん:03/03/25 00:54
うちのばあさんは東京大空襲のとき25歳、四谷に住んでいた。
焼夷弾が振る中、命からがら高円寺まで逃げ出したけど、
その途中瓦礫のそこここから蝋人形みたいな人間の手足が突き出してたってさ。
夜でも、火の照り返しで真っ白く見えたそうな。

そのころのばあさんとほぼ同い年になりつつあり、奇しくも前にばあさんが住んでいた場所に近い
曙橋に今住んでいるけど、そんなことがあったなんて信じられんなぁ…
125世界@名無史さん:03/03/26 04:56
父方の爺様は戦前アカだったので(←学生の癖に)戦争になったら最前線に送られると思い
雲行きが怪しくなった辺りで今の電気通信大に入り通信技師となったそうだ。
でも結局重油輸送の輸送船に乗せられたとかで、もっとあぶねえじゃん!!状態に。
子供の頃新宿辺りの川で釣りをしたとかなんとかいう話はよく聞いたが、戦争のことはあまり話さなかったな。
126世界@名無史さん:03/03/26 10:27
127山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/03/26 13:01
うちの祖母は記憶力がとくに記憶力がいいわけではありませんが歴代天皇を
ちゃんと(124代。今上除く。)言えました。
128世界@名無史さん:03/03/27 18:15
うちの父方の爺さんは身長が低い為、兵役を免れたそうな。
学校の教師で、地元の名家の次男坊だった関係で、あまり悪くは言われなかったみたいだけどね。
戦後、大江健三郎の高校時代に国語を教えていたというだけで
大江健三郎を育てた人と地元では言われている。
だけど、漏れの生まれる前にはもう死んでいるので、戦争の話は知らない。

母方の爺さんは、満鉄の某駅の駅長だったそうな。
だから、婆さんが語る8月9日はいつもソ連の満州侵攻の日だったなぁ。
家族みんな連れて一目散に引き上げてきたらしい。
だからシベリアにも連れて行かれずに済んだ。
隣の駅の駅長は、最後の日本人を送り届けるまで帰れないと言い残して
そのまま帰らぬ人になったのに。
その駅長夫人は漏れの下宿先の近くに住んでいて、
たまたま出会って今お世話になっているのも人の縁ですね。
帰国後に産まれたのが母だから、戦争に負けなかったら漏れは産まれてないんだ。
母方のばぁちゃんも去年他界。じいちゃんは漏れが5歳の時に亡くなったから
あまり知らないけどね。

大伯父は、運動神経が良く、
中学卒業時に職業野球と某大学野球部からスカウトされるくらいの人だったらしいけど
見世物にされてまで野球をしたくないと職業野球を断り、
勉強をしたくないと大学も断って仕事をしていたら
召集されてフィリピン南方で玉砕。

死んだ人は妙に美化されるね。
真偽のほどはわからないけどね。
129 :03/03/29 22:51
うちの親も戦争体験者だけどあまり話してくれないよー。
食べ物にはすごく執着してるんで、言わなくてもなんとなく分かるけど。
130A123    :03/03/29 23:47
 母方の祖父は病気のため徴兵されなっかったが、祖父の兄は、徴兵され戦死しました。
母にとってつらい思い出なので、それ以上のことは話をしませんでしたし、聞くこともできません。

 母は昭和16年の生まれで、物心ついたときには戦争が終わっていたので戦時中のことはあまり覚えていませんが、
終戦後、祭りの時にはアコーディオンを弾いた傷病軍人の方がお見えになっていたことは覚えています。

 戦後、恩給制度が整備されてからは、お見えになる傷病軍人の方が減ったときいてます。


 
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132山崎渉:03/04/17 09:53
(^^)
133山崎渉:03/04/20 04:49
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
134世界@名無史さん:03/04/25 17:51
今生き残ってる連中はようは負け犬だろ?逃げ回ってたから生きてたに決まってる。本当に勇敢なやつはまず最初に死んだはず。
135世界@名無史さん:03/04/25 18:07
≫130
むかし、お祭などによく見たアコーデオンで♪此処は御国を何百里・・・♪なんて
やってた連中の中には、商売でやってる人間が多かったとか。何でも、盛り場
などには親方がいて、白装束から松葉杖、所属部隊の名が入った看板一式などを
貸して、その日の実入りから借り賃を受け取っていた。
136世界@名無史さん:03/04/26 10:42
>>134
アホか
137世界@名無史さん:03/04/26 11:19
祖母さんが言ってたよ。
祖父さん(海軍)の船が帰ってくるたびに、子供ができて大変だったって。

当時、子供だった俺には意味不明だったが、今ならわかるよ(w

そんな祖父さんは二等駆逐艦「松」から戦艦「伊勢」までいろんな船で戦い。
ソロモン海で撃沈されたときには、波に揺られながら救助されるまで、ウイスキーの小瓶をちびちび舐めていたこともあったそうな。

次にいなか帰ったら、もっと話を聞いてみよう。
138h:03/04/26 11:25
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139世界@名無史さん:03/04/26 11:37
うちのおじの一人は、ニューギニアで死んだ。
突撃前に、爪と髪の毛が送られてきた。
駅で、小学生の「海ゆかば」の合唱の中、駅に遺骨箱が帰ってきた。
オジの母親が遺骨箱を家で開けたら、入ってたのは石ころ一つ。
泣いて怒って、投げ捨てたそうだ。

もう一人のオジは、地主になるといって、満蒙開拓団へ。
小便の凍る大地。どうやったのか中国人の農地の地主となる。
ソ連参戦で無一文で帰国。実家に居場所なく、人生が変わってしまった。

祖父は背が小さく。徴兵免除。「金玉なし野郎」と、近所の地主老人に
隣組の会議でいじめられた。

もう片方の実家は、祖父が死亡。長男が中国戦線。祖母と少年だった父が農地を守る。
夕方、畑で祖母は次男の父に「満州どっちだ」と聞き、長男を呼んで泣いていた。マジ、泣ける話。
食料配給は一番最後。地主が掠め取ってた。祖母が殴りこみ。
「女だと思って甘く見るな。ワレ!」かっくいい!

近所のジジイは、兵隊に食料や備品を送る倉庫の仕事。
戦後に「砂糖もタバコも捨てるほどあった。戦争は良かったなぁ」と、のたまわり、
今も近所全員の恨みをかっている。
140世界@名無史さん:03/05/10 23:15
電信隊だった祖父がいます。
高等小学校しか卒業していないので、まわりが大卒だらけで
肩身が狭かったそうです。大卒以外は、同じ部隊には百姓が2人いただけとか。
(入隊前の数学の試験で、一次関数は分かったが二次関数はわからんかったらしい)

中国の奥地にいましたが、地元の中国人とは交流があり、
大卒の兵隊は彼らと漢文(筆記)で会話していたそうです。
祖父が軍から支給された菓子(?)かなんかをとっておいて、
中国人の子供をあつめて配ってやったりすると、
その親からお返しを貰ったりもしたそうです。

あと、どこかの大使館に突っ込んで
祖父が部屋部屋を開けて確認しているとき、
ある部屋に女の人がかたまって震えていて、
またあんまり綺麗な人ばかりだったので、
そのまま扉をしめて報告しなかったそうです。

また、突入前には「絶対略奪はするな」と言って、
突入後も調べられたとか。
141世界@名無史さん:03/05/10 23:38
漏れのじい様は化学者だったので海軍少尉か中尉で
盤台山のあたりの化学プラントで火薬などの調合、生産してたそうな
でも末期の空襲なんかでタコつぼに隠れたら手が飛んできてびっくりしただの
、メチルアルコールをこれもアルコールだからといって仲間と飲んで偉い目に
あったとか 薬品中毒になってかなり危険だったとか Etc。。 
もっと聞いとけばよかったなぁ。。。
142世界@名無史さん:03/05/10 23:59
いわゆるアカの人の体験談も聞きたいなあ。
戦時中の共産主義者無政府主義者・・
143世界@名無史さん:03/05/11 00:22
>>142
聞いたところで、絶対に嫌な体験を針小棒大にして語るに決まってる。
聞くだけ無駄。
144世界@名無史さん:03/05/11 02:16
>>143
いや、戦前の共産主義者に対する弾圧のすさまじさは
戦後とは比べ物にならない。
そんな中でも共産思想をもっていた人は
戦後のファション的思想とは全く違う信念があると思うんだよね
だから聞いてみたいなあ
145世界@名無史さん:03/05/11 22:53
漏れの知り合いのおばあさんの弟は、20代の頃、戦時中特高に捕まったらしい。
そして、拷問を受け、一日で総白髪になったそうだ。
その髪の毛は黒くなることは無く、戦後も廃人同様だったそうだ。
どういう拷問かはさすがに聞けなかったけど。
146山崎渉:03/05/21 22:31
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
147山崎渉:03/05/28 15:43
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
148世界@名無史さん:03/06/01 23:28
age
149世界@名無史さん:03/06/01 23:32
うちのじいちゃんは海軍だったらしいけど、
工場でジュラルミン朴ってタバコの箱作った
とか言ってた。
150山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/01 23:39
>145
確信犯かもしれませんが・・・一晩でなることは有り得ないそうです。
151アマノウヅメ ◆4cna7XPsQo :03/06/02 00:00
>>150
でも、よく聞く話ですよね、恐怖のあまり1日で髪が真っ白になったっての。
マリー・アントワネットとか、ルイ15世暗殺未遂のダミアンとか。
何か根拠があるんでしょうか?
私も最近白髪が出始めたけど、抜いてみると、根元から白いのと途中から
白いのとあります。恐怖や苦労のためじゃなくて、歳のせいなんですが。
152山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/02 00:05
>151
抜けた後真っ白・・・というのは見たことがあるのですが、すぐに黒髪
が変わるということは無いそうです。
153世界@名無史さん:03/06/02 08:41
2chは戦争世代のためにあるのかもしれない
PCつかえるなら、黙々と書き込まれることを希望します
154アマノウヅメ ◆4cna7XPsQo :03/06/02 09:33
>>153
団塊の世代はパソコン恐怖症が多いのですが、その上の年代の方は仕事に
関係なくて力まないせいか、意外に使えるそうです。
しかし、2ちゃんねるは世間の評判がどうも・・・
155あやめ:03/06/02 10:55
ポオの「大渦巻」の主人公も白髪になっちゃったんじゃなかったかしら
小説だから何とでも書けるけど
156世界@名無史さん:03/06/02 12:03
うちのじいちゃんは広島に原爆が落ちたあと救援物資とかを持って
学校の仲間とともに広島に救援にいったそうだとか。
157あやめ:03/06/02 12:40
父は総領であったし体格も劣っていたためか徴兵されず、勤めていたインド系
貿易商が大東亜戦争のため帰国したので、軍需関連アパレルに転職した程度で
戦時体験みたいな話は殆どしませんでした。イギリスびいきのハイカラ人間で
妻(つまり母)がカソリックという家庭で、軍人には好感を持ってなかったし。
すぐ下の弟(つまり叔父)とは物心ついてからは祖母の葬式で一度あったきりで、
母と戦時中の話をしたのを傍で聞いたところでは、神田の紙器業者の職人して
勤めてた時、藤沢の軍用機部品工場に徴用され2年ほど働いたら今度は赤紙が
来た、兵隊検査が丙種だったから来ないと思ってたら敗色濃厚で障害者以外の
20台男性は根こそぎ入営、高射砲兵としてスマトラ北部に配属された、既に
完全に戡定されてる地区なので戦闘はなかったが、1度だけ空襲があって至近
弾に見舞われたのは怖かった、敗戦でシンガポールの捕虜収容所に入れられた、
ここは楽だったが食い物が満足でなかったので、英軍の倉庫に食料を略奪する
仲間の尻について行き、衛兵が追ってくるすきに別の奴がかっぱらって来てた、
5年後に復員できた、といった内容でした。
だいぶ後に祖母から聞いたとこでは無事に帰ってこれるかどうか心配で、近所の
コックリさんに見てもらったら大丈夫だと言われ気が休まったとのことでした。
158あやめ:03/06/02 13:23
この叔父の下の叔父が今あやめが居候してる家の主なので、戦時中の話は
専らこの末の叔父から聞かされてます。以下は末の叔父の話
俺はちびで筋力がなかったので戦時中の皆が勇ましいこと言ってる時代は
肩身が狭かった、将来お前は何になりたいなんて質問では大抵の奴が陸軍
大将だの海軍大将だのという中で、俺がそんなこと言ったら余りにも嘘っ
ぽいので、将来は科学者になって「世界無敵弾」や「見えない飛行機」みたいな
兵器を発明しますなんて答えてた、これは両方とも山中峯太郎の少年向け
軍事冒険小説に出てくる新兵器のことなんだが、何が無敵弾なのかというと
宇宙人が日本の科学者にくれた超硬度の物質で造った弾丸だってわけだ、
見えない飛行機に至ってはもっとお笑い草で、透明な物質で造った機体で
敵に視認されないんだという、馬鹿みたいなアイデアなんだが当時の俺は
まじめに感心してた、山中峯太郎は陸士出身の小説家で軍事知識はあった
かもしれんが科学知識はこんなレベルだった、当時の少年倶楽部に小説を
連載してた人でも海野十三(うんのじゅうざ)はかなりまともな科学情報を
書いてた、「火星兵団」なんてのは結構おもしろかった、これは少国民新聞
連載の火星人の地球侵略物だ、彼の「火」という小説の中に太平洋の孤島に
建設されたアメリカの秘密基地に忍び込んだ新聞記者と少年が、発覚して
追い詰められた際に新聞記者が手に持ったビンを振りかざし「これは原子を
破壊する装置を内蔵している、これが破裂したら膨大なエネルギーが発生し
こんな島なぞコッパミジンだ」とハッタリかまして窮地を脱しようとする
場面があって、俺は原子爆弾というものの存在を初めて知ったもんだ。
末の叔父の戦中談は随時レスすることにします。
159世界@名無史さん:03/06/07 19:51
俺の爺ちゃん炊事班で横浜行ったらしい。
160わが名はバブリエル!:03/06/07 20:09
世界無敵段=劣化ウラン弾
見えない戦闘機=ステルス戦闘機

そうか、アメ公の奴、日本のパテントを盗みやがったな!!!!
161世界@名無史さん:03/06/07 20:18
俺の爺ちゃんは、厚木基地で終戦まで特攻隊が乗って行く飛行機の整備をしてた。
橘花を初めて見た時「何じゃこりゃ!?」と思ったらしい。

終戦後は国鉄で青函トンネル掘ったとか。

うむむ
162直リン:03/06/07 20:20
163世界@名無史さん:03/06/10 18:20
当時の日本の主要都市みたいな所以外の本土空襲ってなかったの?
日本海側って空襲受けたの?
164無料動画直リン:03/06/10 18:22
165世界@名無史さん:03/06/10 22:06
あやめ早くきてよ。
166山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/10 22:16
>>163
長岡も福井も富山も空襲を何度も受けていますが・・・。
167世界@名無史さん:03/06/10 22:23
>>166
新潟も空襲受けたような・・

168世界@名無史さん:03/06/10 22:24
朝鮮って空襲うけたの?
169山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/06/10 22:26
170167:03/06/10 22:34
>>169
知らなかったよ・・
171世界@名無史さん:03/06/11 10:41
>>169
京都犠牲者少なすぎ。
172世界@名無史さん:03/06/11 11:39
http://www.ismusic.ne.jp/hmika/JAPAN-JAZZ-2.htm

戦後直後の東京からのラヂオ放送です。当時テレビはありません。唯一の
娯楽でした。
173世界@名無史さん:03/06/11 12:10
 戦時中は報道(ニュース)管制ガ牽かれ、周波数も中波のみ590ヘルツ
1500ヘルツ間のみしか聴取できず,サイパンからの対日放送はジャミング
で聴取不能。又航空機からの索敵を避ける為、同一出力で放送協会が単一波
でながすのみ。一日3-5時間程度。戦後もWVTRとの2波のみで>>172を聴取。
 受信機も真空管3又は4球しか国民には許されませんでした。
 今貴方のパソは発振 何ギガですか? 使用されてるLSIは真空管に換算すれば
何本ですか?
174世界@名無史さん:03/06/11 12:33
>>173
>受信機も真空管3又は4球しか国民には許されませんでした。
それを持ってりゃ立派なもんだよ。
175世界@名無史さん:03/06/11 14:37
父方の祖父は按摩で、一家引き連れて満州へいっていたそうです。
戦争末期には祖父も戦争にかり出され、終戦後シベリアへ送られそう
になったところを命からがら逃げ出してきたそうです。
(走行中の列車から飛び降りてコウリャン畑に紛れて逃げ切ったそうな)
残された父たちは、戦争が終わっても直ぐに日本に返してもらえず、
生活していくためおはぎ等をつくって売っていたそうです。
中国人達に場所代を求められましたが、なぜかお金ではなく作っていた
おはぎ、それも食べかけのものをわざわざ持っていったとのこと。
ソ連兵が駐留していましたが、とりあえず未成年だった父達には
危害は加えられなかったそうです。ただ、伯母のオモチャの時計を
(オモチャとわかっていて)とって喜んでいたとか。
子供時代を満州で過ごした父は(終戦以前の)その頃のことを結構話して
くれたのですが、終戦以降の事はあまり話したがりません。
とくに引き揚げ時のことには口が重く、今でもよくうなされて飛び起きたり
していることから、やはり辛い事があったんだと…
176世界@名無史さん:03/06/11 19:37
日本人に狙撃兵って居たの?
177世界@名無史さん:03/06/11 20:56
家の死んだじいちゃん制帽もやる帽子屋やってたのだが、
赤紙が来て盛大に送り出されたものの、その2〜3年ぐらい前に伝染病に
かかってたので地元に送り返された。
で、そのまま地元に帰るのはあまりにバツが悪いから、
別府の温泉で数日間いた後戻ったらしい。

戦後は宇佐の飛行場に進駐した米兵に、
軍の倉庫からかっぱらってきたと思われる牛肉の塊と交換で
刺繍をした帽子を作ってたとのこと。
それをよく商店街の人におすそ分けしてたらしい。
178とりあえず心情右翼は氏んどけ:03/06/12 03:25
この間野坂昭如がテレビで言ってたよ。
戦況が悪化して満州の関東軍の精鋭を台湾や南方戦線にどんどん引き抜いたので、ロシア侵入時の関東軍は張子の虎。
軍人はこのことを良く知っていたので、高級将校は飛行機でわれ先にと逃げたそうだ。
その後を一般の兵隊、官僚が逃げて一般民衆は一番後に残されたそうだ。
悲惨だったらしい。
先頭切って戦うべき兵隊が真っ先に逃げるなんてこれもれっきとした戦争犯罪だと思う

179世界@名無史さん:03/06/12 03:30
野坂昭如氏は、ホロコースト見直し論者の西岡昌紀と木村愛ニを
熱烈に応援していた人ですが、「マルコポーロ」廃刊事件が起きると、
途端に逃げ出した人です。自分も逃げ出したのに、関東軍の将校が
逃げた事を言えるのかなあ。(藁)

野坂氏は、善人だし、ほたるの墓は好きだけですが、
こういう所は、余り感心しません。残念ですけれど。
180世界@名無史さん:03/06/12 04:55
>>178
>戦況が悪化して満州の関東軍の精鋭を台湾や南方戦線にどんどん引き抜いたので、ロシア侵入時の関東軍は張子の虎。
>軍人はこのことを良く知っていたので、高級将校は飛行機でわれ先にと逃げたそうだ。
>その後を一般の兵隊、官僚が逃げて一般民衆は一番後に残されたそうだ。
>悲惨だったらしい。
>先頭切って戦うべき兵隊が真っ先に逃げるなんてこれもれっきとした戦争犯罪だと思う

んーと、こういう風な話がもっともらしく流れていますが、
これは正確ではないです。

日本軍が張子のトラでスッカラカンというのは、本当です。
したがって、あらかじめ立てておいた計画である、
満蒙国境付近でのソ連の足止めは不可能でした。
そこで、人口の90%が集まる地域まで軍を撤退させて、
この90%の集まる地域を、実際に停戦までソ連の侵入から守っています。
虎口要塞なんかが有名ですね。
http://ww3.tiki.ne.jp/~jcn-o/framepage5.htm

よく、聞かれる、日本軍が住民を捨てて逃げたというのは、
この90%から外れた開拓団の人たちです。
この人たちは国境で守ってくれるはずの軍が守ってくれず、
自分達の足で逃げることになります。
また、ソ連に追いつかれて、降伏をしなかったために、
長野の開拓団などは全滅しています。
実は、うちのじっちゃん一家もここからかえって来ました。
これは、軍事板のじいちゃんの戦争スレで書いたので割愛します。
181世界@名無史さん:03/06/12 09:22
>>178
敵前逃亡でつ。
182世界@名無史さん:03/06/14 12:50
このスレ、最近知りました。書き込みがないようなのでうちの父の話を。
父は昭和18年、15歳の時、陸軍少年飛行学校へ入校。太刀洗飛行場で10ヶ月
訓練を受け、その後、インドネシア/ジャワ島のマラン飛行場にある練成
飛行隊へ配属されました。
当時、インドネシアは結構生活状況がよかったみたいです。というのも、
オランダ軍が簡単に降伏したので大量の物資が残されたままになっていた
らしく、父曰く「訓練の合間に氷を浮べたアイスコーヒーを飲んでいた」
「食事にカレーライスがよく出た」「食後チョコレートが配られた」
「シャワー設備があり石鹸は山のようにあった」とのこと。これらは搭乗員が
優遇されていたということもあり、他の人達は多少状況が違っていた
かもしれませんが、他の地域よりはかなりよかったようです。
だから>>83さんのお祖父さんがいっていることは本当だと思います。
また、「インドネシアは米軍の侵攻ルートからはずれていたので攻撃は週に
1・2回、爆撃機が定期的に爆弾を落としていくだけ」といっていたので戦場
という緊迫感はあまりなかったような印象があります。
訓練は当初こそ射撃訓練をしていたそうですが、後半は専ら体当たりの訓練
ばかり。実戦経験はないといっていましたが、一度だけ実弾を積んだ九七戦で
哨戒飛行をしたことがあるといっていました。
183世界@名無史さん:03/06/14 12:57
>>182のつづき
終戦間際、沖縄出撃のため、数班に分かれ、飛行機、鉄道を乗り継いでジャワ
から九州の飛行場へ移動。途中、東京で終戦となり、引率の上官が本部に
命令を受けにいったところ「蜂の巣をつついたような状態で話にならん。
取り敢えず、各自自分の本籍地近くの飛行場に行ってそこで命令を受けるように」
と言われ、九州出身者二人、超満員の汽車で佐賀の飛行場へ。そこでも状況は
同じで「自宅待機」と言われ、そのまま実家に帰って来たとのことです。
写真数枚と飛行帽、防火頭巾、銃剣は実家にあります。飛行服は戦後、物が
なかった頃、ペンキ屋に貸したらペンキで汚されたので捨てしまったとのこと。
軍刀はないのか、と聞いたら「あれは私物だから貧乏人の子は持っていなかった」
といっていました。
戦後は警察予備隊(保安隊?自衛隊の前身)の試験を受けようとしたらしいのですが
母親に反対され、百姓するがいやで大工をやっていました。
4年前、ガンで他界。生前、知覧の特攻記念館に行ってみたいか、と聞いたこと
があります。戦時中の話をよくするので当然行きたい、と言うと思っていたら
あまり興味を示さなかったのはちょっと以外でした。(単に鹿児島まで行くのが
面倒くさかっただけかも)。
毎年、8月15日正午、いつも欠かさず一人離れて黙祷をしていました。
184世界@名無史さん:03/06/14 15:53
>>182,183
うん、良い話をありがとうございます。
185世界@名無史さん:03/06/15 09:19
私の叔父は日本郵船の船員で戦前内南洋通いの船にいましたが、戦争とともに
海軍軍属になり、軍人、弾薬、食料などを各島に配給してました。昭和18年暮
トラック島でアメリカ潜水艦の魚雷を受けました。5000トンの船が沈むまで
ものの一分とはかかりませんでした。併し2000人程の乗船者で助かった人は
7人はいたそうです。もう一人の叔父は広島で原爆にあいました。叔母従兄弟3人
は即死でしたが、叔父はたまたま宇品に出張で、免れたのですが放射線後遺症で
20年ぐらいで若くしてガンで死亡しました。中学の同級生は東京で3.10
の空襲に会い隅田川で溺死しました。3月8日に50人ほどいたクラス員が11日
になると来てた生徒は15人ぐらいでした。今でも小学校の同窓会があると、戦争
で受けた火傷の跡を見せ合います。
186とも:03/06/15 09:40
187世界@名無史さん:03/06/15 10:27
>「敗戦の翌年の2月、ソ連兵が日本軍の捕虜を連れて引き上げると、
>入れ代わりに国民党が共産軍と戦うために入ってきて、またしても戦争です。
>大勢の日本女性が殴られ、仕方なく妓女にされました。
>私は国民党軍の師団長に脅迫されてとらわれの身となり、乱暴されました。」
>(「女たちの太平洋戦争?T」 朝日新聞社)

>「列車は臨時停車し、そのたびに八路軍兵士が復員者の携帯している貴重品などを強奪する。
>・・・そして、彼女らは兵士に列車から引き降ろされて、
>・・・連行されたところは元の天津で、『妓女戸』と呼ばれる慰安所であった。
>彼女たちはここで約2年、八路軍兵士のために、日夜働かされた・」
>(富沢繁編「女たちの戦争よもやま物語」光人社)

188世界@名無史さん:03/06/15 15:13
>>185
ああ、それは大変な話ですね。
自分は家族に戦死者がほとんどいないので、貴重な御話となります。
(叔父が戦死したが、母は戦後生まれなのでよく解りません。
 祖母もそのことを話すのはイヤだったみたいです。)
ありがとうございます。
189182:03/06/15 17:23
少飛会より送られてきた写真集に掲載されていた投稿文より

生と死の間で  椿 恵文(十四期)

・・・・・・・・
部屋にはいってきた井上少尉は、ふるえをまじえた大声で、「隊長殿よりの御
指示、空勤者はそのまま聞け・・。本隊はいよいよ第一回目の特攻隊の命を受
けた。諸子はいずれも志願したいことと思う。選抜の関係上、ただ今より各人
五分おきに隊長室に行き、特攻隊、賛否を隊長殿に申告すること。順は、第一
中隊より、終り。」
息もつかずに、一気にそれだけのことを言い終ると、じろりとわれわれの顔を
見渡し、くるりと踵をして、次の部屋に向かった。
・・・・・・・・
何か別の世界の出来事のような感じで、現実がこのような形で、同じように自
分の身に迫って来るとはいままで少しも考えていなかった。心のどこかに敵の
軍艦に飛行機もろともおのれの肉体をぶっつけるという自殺行為をやる先輩達
の考え方にはとても理解し難い気持ちが心の隅に残っていた。だが、今それが
突如自分自身の問題となったのだ。もはや冷静な批判などできない黒い死の手
を差し延べられたような感じであった。私はどうしていいかわからなかった。
・・・・・・・・
190182:03/06/15 17:28
189のつづき
・・・・・。私の本心は「死にたくない」であった。私も軍人であり、特に飛
行機乗りを志願している以上、死を考え、死を覚悟していることは当然であっ
た。だが私は自殺に似たようなことでは死にたくなかった。敵機と渡り合って
そのために死ぬのは本望である。これまでも敵機と撃ち合うとき命が惜しいと
思ったことはなかった。それに、もう一度内地の土を踏むことができるなら、
夢にも忘れられない、なつかしい母のいる内地の上空で、敵機と渡り合いなが
ら死にたかった。私はこのまま特攻隊で死ぬのはいやだ。
そこで私は内地の「防空戦隊にまいりたいと思います」と、隊長に言おうとよ
うやく決心をつけた。
するとまたその決心をひるがえすような、考えが頭をもたげてくる。
意気地なし、卑怯者!、嘲笑を頭から浴びせかけられそうな気がする。それは
恥ずかしい。恐ろしいことであった。
・・・・・・・・
やがて私の番がまわってきた。私は立ち上がった。さすがに隊長室に向う足は
重かった。ノーと、強く決心したつもりであったが心の動揺は隠しようがなか
った。
「椿、まいりました」
191182:03/06/15 17:36
190のつづき
隊長室にはいった私は、こう言うのが精一杯であった。私の視線は、隊長片山
大尉の鷲のように鋭い視線に合うと、思わず射すくめられたようになった。僅
かの沈黙が耐えられなかった私は、
「特攻隊、志願したいと思います。」と言ってしまった。
何ということであろう。私は今まで考えてもいなかった言葉が、突然私の口か
ら反射的に出てしまったことに驚いた。
・・・・・・・・
私は自分をあらゆる形容で罵倒したかった。自室に帰った私はなおも苦悩はつ
づき、平静を取り戻すことができなかった。
耐え切れなくなった私は、そっと隣の戦友に声をかけた。
「どうした貴様は」
聞いてみても仕方がないことかもしれないが、聞かずにはいられなかった。
「おれか、おれは志願したよ」
彼は吐き捨てるようにそう言った。そのうち方々で同じような話がはじまった。
驚いたことに、一人残らず志願したということがわかった。私は思わず、ホッ
とした。よかった!私一人が志願しなかったら今頃、反対にどんなに心を苦し
めているだろう。まさか全部が特攻隊になることもあるまい。私はいくらか気
持ちが楽になり、さき程の深刻な苦悩が馬鹿らしくさえ感ぜられるのであった。
(終り)
192世界@名無史さん:03/06/19 21:41
>>191
うむ、なんか実感がこもっていますね。
特攻隊の選抜は関係者に聞くと、ベテランは温存し、
使えないと判断されたやつが行かされたみたいですね。
「そんなにキレイなものではなかった」と整備員が言っていたそうです。
ここらへんが実情でしょうか。
少年兵だと、全員がベテランである可能性が少ないので、
特攻要員になると思われます。
193世界@名無史さん:03/06/24 02:15
私が子供の頃プラモでグラマンF6Fヘルキャットを作っていたら
部屋に来た母親が「これこれこれだよー」と大声で言う。
母が言うには昭和20年の夏に小学生だった母達は学校の帰り機銃掃射を受けた
そうです 農業用水の土管の中に逃げ込み助かったと言ってました 
「フグみたいな格好で紺色で羽にサッポロビールのマークがついてた」と
興奮して話しました。なお暑いのでパイロットの上半身は裸だったのがわかった
そうです
194世界@名無史さん:03/06/24 15:52
・母方の祖父
富山在住。現在80歳。
戦時中は満州配属。
小さいときに「ピストル撃ったの?」と聞いたら
「いや〜算盤はじいとった」と言っていたから事務方だったのかな?
戦争のことを聞くと、ちょっと聞かれたくないような顔をするので
あんまり突っ込んで聞けないんだよな…
戦後は専売公社(今のJTB)に勤めてたそうだ。
「昔は仕事の時間、麻雀ばっかりしてた。のんびりしてて楽しかった。
 ある日、煙草の倉庫に行ったら箱がごっそり消えていた。
 誰か横流ししちゃったんだろうねえ」
………おじいちゃん。
農家だったからか、食べ物にはそんなに不自由しなかったようだ。
195世界@名無史さん:03/06/24 15:58
194余談 戦後メインなんでsage
・父 
現在63歳。東京大田区在住。
父の父親は工場(軍とも取引があった)の社長だったので
徴兵はされなかったとのこと。
叔父は海軍で蒼龍に乗っていたらしい。
自分は家庭がある程度裕福だったので、飢えはしなかったが
小学校の頃の友達が皆大変だった。

「近くの川でザリガニを捕まえて殻を剥き、エビだと言って大人に売りまくった」
と言ってました。
「食べれない友達がいっぱいいたんだよ。」とのこと。
196世界@名無史さん:03/06/24 17:38
母の実家は愛知県三河地方
戦災でなく実は大きな地震で焼け出されてる
けっこう死んだらしいが戦時中ってことでまともに救援もなかったらしい

実は戦争以上にこっちのがきつかったらしい。
197世界@名無史さん:03/06/24 18:43
81歳の祖母。福岡。

戦時中は女工としてかり出されてた。
工場の監督は軍人だったけど、空襲で軍人さんが死ぬことはなかったそうだ。
一番早く情報を手に入れて、真っ先に防空壕に逃げるから。
防空壕にも頑丈なのとそうでもないのがあって、祖母は頑丈な方に入れたけど、
守衛さん(だったと思う)は許可されたなかったから、どさくさに紛れて頑丈な方に入ってきてた
って話しを聞いた。
198世界@名無史さん:03/06/24 19:33
>イラク派遣の自衛隊に重武装案…政府が検討

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20030624ia04.htm

>政府が、イラク復興支援特別措置法案の成立後に自衛隊をイラクへ派遣する場合、
>対戦車砲や装甲車などで重装備させることも視野に検討を進めていることが24日、
>明らかになった。隊員の安全に万全を図るのが目的で、
>具体的には60式自走106ミリ無反動砲などの使用も検討されているという。

ネタじゃありません。
本当に読売オンラインの記事に載っています。
199世界@名無史さん:03/06/24 20:22
俺の父方の祖父、故人だが、戦場でちょっとした手柄をいくつかたてて
勲章を貰ったそうだ。その手柄の内容。

敵の戦列と自軍の戦列との丁度中間ぐらいに、味方の通信兵の死体があったらしい。
その通信兵が持ってる文書?だかなんだかを、なんとしても回収せにゃならん、と
いうことで兵隊が一人ずつ順番に取りに行かされたそうな。んで、みんなその死体
のあるところまではたどり着けるんだけど、荷物を回収してこっちへ戻ってこよう
としたときに撃たれて死んでしまった。そして、祖父に順番が回ってきた。
祖父も、通信兵の死体のところまではたどり着けた。しかし、普通に戻ろうと
すれば背中から撃たれてしまう。そこで祖父は、そこにあった味方の死体を背負っ
て、それを盾にして無事もどってきたそうだ。
人によってはひどいやり方だと思うだろうけど、俺はこの話を聞いて祖父を尊敬
してる。
200199:03/06/24 20:43
後もう一個、敵兵と混戦状態になって、銃なんか撃てる状況じゃなくて
銃剣使っての殺し合いになったときの話なんだそうだが、上官が敵兵に
殺されかけてるのを見つけたんだと。
それで祖父は、その上官の背中側から上官もろとも敵兵を串刺しにしようと
したらしい。どーせ殺られるんだから、利用したれってな感覚なんだろうか。
ぶっちゃけ、人間二人もいっぺんに突き殺したりできるのか怪しいが、
興奮してたんだろうな。そしたら、上官が偶然足を滑らせその場に倒れ
ちゃったおかげで、うまく敵兵だけを突き殺したんだと。んで、その上官を
助けたってことになったそうだ。その手柄と、先述の手柄を評価されて
勲章をもらったそうだ。

なお、この祖父は帰国後、その抜け目ない性格を活かしてなのか知らんが、
ゼロから商売を始めてそこそこの料理旅館をのこして逝った。
祖父を越えるような男にはなかなかなれんだろうなー、なんて思う。
201日本兵も便衣:03/06/24 21:06
太平洋戦争末期の沖縄戦で日本軍が、住民を装ったり、現地の若者を案内役にしたりするなど、
「軍民一体」の作戦を行った実態が、米国立公文書館で公開された秘密文書からわかった。文
書を見つけた林博史・関東学院大教授(現代史)が分析した。

 「実施要領」によると、日本軍が兵士に出した指示の中に「服装も話し方も現地住民のように見
せかけよ。あらかじめ住民の服を借りろ。方言を流暢(りゅうちょう)に話す若い兵を1人、各部隊
に割り当てよ」「攻撃の案内として現地住民を連れて行け」とある。

林教授によると、沖縄戦では、壕(ごう)に隠れていた民間人が夜間になって外に出て、米軍の
一斉射撃を受けた例などが報告されている。林教授は「住民を作戦に利用しながら、守るという
姿勢が軍側には欠けていたことを示すものだ」としている。 (略)

http://www.asahi.com/national/update/0624/005.html
202世界@名無史さん:03/06/24 21:41
>>198

>隊員の安全に万全を図るのが目的で、
>具体的には60式自走106ミリ無反動砲などの使用も検討されているという。

すごいなあ。いつになったら訂正されるんだ?
203世界@名無史さん:03/06/24 22:01
なにがおかしいの?
204世界@名無史さん:03/06/24 22:19
ウチのじいさんもジベリア帰り。
魚の缶詰を作らされてたとか何とか・・・。
氷で出来た橋を渡って工場に通ってたって。
ロシア人は5つまでしか数えられないから、
五人一組で班を編成していたとか聞いた。
ウチのばあさんは愛媛出身なんだけど、
原爆の時は対岸の愛媛県まで光るのが見えたそうな。
205世界@名無史さん:03/06/24 22:41
>>203

60式って「1960年制式」つうことは、43年前の兵器なんですよ
206世界@名無史さん:03/06/24 22:54
>>205
びっくり。
207世界@名無史さん:03/06/24 23:59
>205
60式106mm無反動砲は今でもバリバリの現役ですが、何か?
http://combat1.hp.infoseek.co.jp/60SHIKI.htm

ちなみに念のため、43年前の兵器といっても制式化されたのが43年前というだけで
製造はちゃんと最近です。
208世界@名無史さん:03/06/25 00:02
最近っつっても20年以上前だけどな。
209世界@名無史さん:03/06/25 00:15
>>207

重量8トン、最高速度55km/h、105mm無反動砲、初速500m/sec、搭載主砲弾数10発、装甲6〜14mm、乗員3名

AK47でも蜂の巣にされるブリキの棺桶だよ。
210世界@名無史さん:03/06/25 00:20
どつきあいは軍事板でせい
211世界@名無史さん:03/06/25 00:23
それ以前に60式はかなり貧弱
無装甲で搭乗員が露出しているので、
イラクみたいなところでは危険だと思う。
212世界@名無史さん:03/06/25 07:57
# 米軍、サイパン島からの謀略放送(1010キロサイクル)開始
# (全国)【特別】12月26日:謀略放送に対抗するため日本放送協会は「防圧放送」を実施。

* 各中央放送局および太平洋沿岸の主要放送局、臨時放送所を動員
* 雑音放送を最大33カ所から発信した。
213世界@名無史さん:03/06/25 08:05
雑音放送てのは所謂ジャミング、今でいうアラシに対抗する 管理者の
削除忍ですな。なにしろ空襲から避難するのに皆さん真っ先にラジオ
抱えて にげました。ユイ一の情報源でこれが頼りでした。
214世界@名無史さん:03/06/26 01:14
>>194
JTB?
215世界@名無史さん :03/06/27 15:02
うちの父方の祖父母の話です。

祖母の兄弟の場合
兄1人は中国戦線に3回徴兵。
騎馬兵で、馬が身代わりになってくれた事も。

弟2人は終戦後に負傷、そして死亡。
遺留品は石と名前を書いた紙だけ。

祖母の姉は8月27日に満州で家族4人全員自決。
ソ連兵に捕まるぐらいなら、との自決だったらしい。

祖父は体が弱くて甲乙丙に全て落ちましたが、
仙台に住んでいたため仙台大空襲に遭遇して、
目の前にいた中学校の先生の頭に焼夷弾が命中し、
脳漿と眼球が飛び散るのを目撃。
東京生まれで、関東大震災も生き延びた結構すごい人です。
216世界@名無史さん:03/07/06 18:48
保守。
217_:03/07/06 18:50
218世界@名無史さん:03/07/06 19:28
お気に入り集 ☆
http://pleasant.free-city.net/
219世界@名無史さん:03/07/06 19:41
なんか親戚のことらしいが、郵便局で働いてた人が、空襲警報聞いても
防空壕に入らず、バケツもって局舎に立て篭もり、燃えてる建物をバケツ消化に成功し、
感謝状もらったとか。ちょっと凄いと思った。
220世界@名無史さん:03/07/06 19:48
私の祖父の兄はインパール作戦に参加し最初のうちに負傷し、
トラックで後方に運ばれたそうです。
実はそれが後方との最後のトラックとなり
彼の友人はじめ、同じ部隊だった人はそのあと全員戦死あるいは行方不明に
なったとしんみりと語っておりました。
221世界@名無史さん:03/07/06 19:58
沖縄のお年よりたちは
日本軍が赤ちゃんを殺し、住民虐殺し、スパイと決め付けて殺し、
食料を奪い集団自決を強要したとみな言っています。
日本軍が史上稀に見る悪鬼羅刹のごとき軍隊であったことは確かでしょう。
222世界@名無史さん:03/07/06 20:02
>>221
そうですね。
223世界@名無史さん:03/07/06 20:10
ガマで若いおかあさんが兵隊さんに強要されて赤ちゃんを
殺されたらしいね・・・。
なんて酷いことを・・・
224世界@名無史さん:03/07/06 20:24
>>223
ひどいですね。
225世界@名無史さん:03/07/07 05:16
>>222,223
ワラタ。
226世界@名無史さん:03/07/12 00:16
「第二次世界大戦が日本になにをもたらしたか」と聞かれたら
あなた達はどう答えますか・・・・・?
227世界@名無史さん:03/07/12 00:37
>>226
「勝てない戦争はするな」
「上官が無能だと下々が苦労する」
「いかなる組織も官僚が支配する」
228世界@名無史さん:03/07/12 00:44
>226
外からの圧力でしか変われない日本を
大きく変えてくれた歴史上初の決定的な国家の敗戦。

ただし、国内外に与えた代償が
あまりにも大きかった事を忘れてはいけない。
229世界@名無史さん:03/07/12 01:02
沖縄で兵隊らがえらそうにふんぞりかえってみんなの食べ物を
うばっていったってみんないってる。
何しにきたんだ!
230世界@名無史さん:03/07/12 01:05
>>229
本土防衛の時間稼ぎ/すなわち捨て石に
231世界@名無史さん:03/07/12 01:17
>>221
そういう「みんなは〜と言ってます」という話は
ここでは要らねえんだよ。
一次情報だけ語れや。
232世界@名無史さん:03/07/12 01:21
うちのばあさんは、大連にいて家の窓から
日本軍の行進・中国軍の行進・ロシア軍の行進
を全部見たそうです。
中国軍とロシア軍は歌いながら行進していたとか。
曰く、中国軍も歌はうまかったけどロシア軍は輪唱
になっていてすごくうまかった。とか。
233世界@名無史さん:03/07/12 01:23
日本は沖縄から人々のいのちをうばったんだね・・・。
234世界@名無史さん:03/07/12 02:08
チョンが捏造を垂れ流すスレはココですか?
235世界@名無史さん:03/07/12 07:05
↑嫌韓コヴァはけーん

前から、2chの韓国嫌いな方々がどういう人たちなのかというのに興味があったんですが、その欲求を満たしてくれる素晴らしい資料に出会いました。
http://www.medianetjapan.com/2/14/government/protestdemo/img/0207.jpg
http://www.medianetjapan.com/2/14/government/protestdemo/img/0111.jpg
※直リンクすると見られないのでコピー&ペーストしてください
(韓国人のノービザ導入を反対するデモ〜日本海、竹島合同オフ〜からそのデモの写真)
 ええと、これは秋葉原のエロゲーの行列の写真でしょうか? 「インドア国粋主義者のオフ会」という言葉が脳裏によぎりました。
236世界@名無史さん:03/07/12 09:00
空襲で防空壕に非難したけど、落ちてきた爆弾の音が凄かったわー

って言ってた今年90のばあちゃん。
そういや、俺親族がどうなったかって何も知らなねぇや。
盆に帰ったとき、もうちょっと色々聞いておこう。
237世界@名無史さん:03/07/12 09:07
>>232
なんか、すごい話ですな。
日本・中国・ソ連と統治者が変わったと言う事ですもんね。
238山崎 渉:03/07/12 12:36

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
239世界@名無史さん:03/07/12 20:12
うちの父方のじいちゃん。

海軍の戦闘機乗りで准尉まで叩き上げたけど、
戦闘中の負傷で前線からリタイヤ。
以後は本土で特攻隊の教官になり、終戦を迎える。
玉音放送の後、「全機特攻」を叫ぶ大尉だか中尉だかを射殺。
上には自決と報告して、敗戦のドサクサに紛れて罪を免れたらしい。

死後に出てきた手紙や書類や勲章、
葬式に来たじいちゃんの元部下の話とかを知って、初めて知った。
じいちゃんは、父ちゃんにもおれにも戦争の話は全然しなかった。
飛行機とは全然関係ない仕事に就いて、穏やかに定年を迎え、静かに死んだ。

あまりに多くのものを戦争で背負ってしまったじいちゃんは、
戦後の日本をどう眺めていたんだろうか?
何を思って、沈黙を守り続けたのだろうか?
今さらだけど、何も聞けなかったのが悔やまれる。

特に宗教やってるわけでもないじいちゃんが、
毎朝般若心経を唱えていた理由を厨坊の時に聞いたら、
「わしゃあ悪さばかりしてきたけん、仏さんに許してもらわなんといけんのじゃあ」と言われ、
( ̄△ ̄;)エッ・・?って感じで意味が分からなかったけど、
やはり死んだ戦友や、自分が育てた特攻隊員への供養だったんだろうか?
240世界@名無史さん:03/07/12 20:28
ようはアジアの人々を無残に殺しつづけたことが戦後日本の
贖罪意識であり、われわれが反省しないければならないという
ことだ。
しかしイラクへの自衛隊派遣によって戦前に時計の針がもどり
つつある。
原爆で死んでいった人たちや沖縄の人々は日本の誠意を草葉の
影で注視しているのを忘れてはならない
241kazu:03/07/12 20:29
☆頑張ってまーす!!☆女の子が作ったサイトです☆
       ☆見て見て!!
http://yahooo.s2.x-beat.com/linkvp2/linkvp2.html
242世界@名無史さん:03/07/12 22:35
>>240
失せろ反日チョン
243英霊へ敬意を込めて:03/07/13 00:12
私の祖父は陸軍の電波探知機(レーダー)の開発を行っていたそうです。
当時の祖父は、頭が良い事で有名だったようで近所の医者から養子にくれ
と言われる程だったそうですが、おりしも当時は戦時下。赤紙に応えて軍
に入隊。友人数人と一緒に徴兵されたそうです。時期的には、陸軍がガダ
ルカナルからの撤退を開始した頃だと聞いています。当初は、南方に派遣
される歩兵部隊の補充要員としての訓練を受けていたそうですが、顔見知
りの将校に才覚を認められて上京。畑しかないど田舎の研究所でレーダー
開発をしていたそうです。友人の多くは、祖父の部隊転出直後に南方に送
られてフィリピンで戦死したそうです。(祖父が友人達の戦死の報に触れ
たのは、終戦から半年後の事だったそうです。)そんな祖父も実戦部隊へ
の移動命令が出ましたが、輸送船とレーダーの機材が間に合わなかった事
が幸いして、実戦に出ることはありませんでした。
しかし、私の家の多くの親戚は士族(武士の家系)としての誇りを持った
者が多く居たために青年男子のほとんどが志願して将校となって実戦に赴
き戦死しました。平均年齢は20代中頃の者がほとんどです。
先の戦争の実像を知らない者は、ただ日本を貶して『侵略』だの『軍国主
義』だのと好き勝手に言いますが、戦死した将兵の多くには家族や大切な
人の為に死んでいったのです。戦後に生まれて平和の中で、のうのうと生
活してきた私達に彼等を批判する権利があるのでしょうか?確かに過去の
出来事かもしれませんが、少なくとも死んでいった者達には相応の敬意を
払うのが礼儀ではないでしょうか?批判するだけでなく、同じ事を二度と
繰り返さない様に犠牲者達の事を思いながら考えていきましょう。
244世界@名無史さん:03/07/13 01:56
>>243
ブサヨにそんなことできるだけの脳ミソがあるわけないだろう。
ヤシらの思考回路は全面肯定or全面否定しかできないんだから。
245世界@名無史さん:03/07/13 16:05
>>240
どうたて読み?
246世界@名無史さん:03/07/13 22:36
>244
おまえなぁ…
そんなふうに他者への中傷に亡くなった方を引き合いに出すのが
正しいことだと、本気で思っているのか?
247笑い話:03/07/13 23:25
母方の祖父から面白い話を聞きました。戦争末期に祖父は、家の近くの陸軍飛行場
で臨時の整備員をやらされていたそうです。そこである晩に敵機が来襲。敵戦闘機
は物量に物を言わせて、機銃弾を雨あられと振りまいたそうです。そんな時に、一
人のテンプラ(特操と言われた即席の操縦者)が血気に逸って戦闘機に搭乗して離
陸。しかし、離陸直後になんとエンジンがもげた!?飛行機はエンジンが無い状態
で胴体着陸・・・。パイロットは足を折って病院送り。原因を調べてみると、エン
ジンを載せてた土台の金属が疲労して腐っていたとの事。だが、その飛行機は工場
から送られてきたばかりの新品。祖父が言うには機体にアルミ箔みたいな金属を使
ってれば負けるのは当然との事。
そんな祖父も現在は、自分が昔勤めていた飛行場の跡地で田んぼをやってます。
248世界@名無史さん:03/07/13 23:36
>>246
それはお互い様。勝手に戦犯扱いしたり、
捏造してまで罪を被せたりしてる連中には
言われたくないセリフだな。
249n:03/07/13 23:37
◎無修正画像をご覧下さい◎2日間無料です◎
http://endou.kir.jp/betu/linkvp2/linkvp.html
250世界@名無史さん:03/07/13 23:39
>248
お互い様って、つまりあれですか、相手がやってりゃ自分もやっていいと。へぇー。

> 勝手に戦犯扱いしたり、捏造してまで罪を被せたりしてる連中
私はそんなことした覚えはありませんが?
勝手に「 勝手に戦犯扱いしたり、捏造してまで罪を被せたりしてる連中」扱いしないでもらいたいね。
251世界@名無史さん:03/07/14 03:15
>>247
わっはっはっ、なんか安心できる話ですな。
飛行場が空襲を受けて、
パイロットが飛び立ってすぐに撃墜と言う話は良く聞きます。
真珠湾でも何機か撃墜されていますね。
また、酒井三郎さんと同じ部隊のエースパイロットも撃墜されています。
あれほど無念な事はないだろうなと思います。
252世界@名無史さん:03/07/14 14:12
>>240
朝鮮系日本兵がひどいことをやったらしいよ。
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/korea/1055312776/
●過去の検証!極悪日本兵、実は朝鮮人だった!●
253_:03/07/14 14:23
254世界@名無史さん:03/07/14 14:36
>>90
にあるブストラって何?
気になるけどググっても出てこないよ。

ロシア語かな?
255山崎 渉:03/07/15 12:31

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
257世界@名無史さん:03/07/22 17:13
小学生の頃、塾の先生に聞いた話。
終戦の日の午前中、帽子をかぶらずに外を歩いていたら上官に咎められてぼこぼこにされた。
その後、玉音放送で戦争が終わったのを知ると、その上官の部屋に殴りこんで復讐を果たしたそうな
258世界@名無史さん :03/07/24 18:02
小学生の頃に公園でエアガン撃ってたら、
散歩してたじいちゃんが撃ち方教えてくれたよ。
モーゼルって言ってたから中国戦線に行ってたっぽい。
もうちょっと詳しく話聞いとけばよかったなぁ。
259世界@名無史さん:03/07/24 19:35
祖母の父がその太った体を利用して、
着物の中にヤミ米詰めて、
警官の目をかいくぐったらしい。
260世界@名無史さん:03/07/31 22:27
保守。
261世界@名無史さん:03/08/01 22:42
>>259
うん、なんかそっちの方が下手な戦場にいるより大変だったかもね。
食べ物を確保するって、大変だからね。
     ∧_∧  ∧_∧
ピュ.ー (  ・3・) (  ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
  = ◎――――――◎                      山崎渉&ぼるじょあ
263世界@名無史さん:03/08/02 03:22
大学の時の友人がガンにかかった。
何回か見舞いに行ったが卒業してからは地元に帰るのでそいつのところへ挨拶しに行った。

そして半年後、夏休みを利用してそいつんとこへ行ったが、ほぼ虫の息状態。
元気なときはかなり太っていたが、体中やせ細っていて骨と皮しかない状態だった。
酸素マスクで「呼吸させられている」と言った方が良い状態で、その瞬間床にヘタリ座り込んだ。正視できなかった。

その数時間後、電話でそいつの死を知った。

264世界@名無史さん:03/08/07 07:10
また……この季節が来たか……
265世界@名無史さん:03/08/14 02:34
じいちゃんにいろいろ聞いてきました
なんか志願して学校でてジャワに行ってたんだって
で、人はうったことないそうです(食い物泥棒に威嚇射撃したことはあるらしい)
行きも帰りも船も沈まず
捕虜にはなったけど変な容疑にもかけられず終戦二年後に無事生還
でね、じいちゃんの舞台のいたところは結構食料があったらしく
飢餓にもならなかったみたい(食い物なくなったらその辺に生えてる実を食ってたそうな)
幸運だったんだろうね、多分
266世界@名無史さん:03/08/14 03:14
>>250
>お互い様って、つまりあれですか、相手がやってりゃ自分もやっていいと。へぇー。

やっていいに決まってるだろ。聖人君子気取りかよテメーは。
そんなのが美徳だとでも思ってるのか?変な勘違いするなよ。
実社会にでりゃ嫌でも思い知らされるだろうからね、ボクチン。
267世界@名無史さん:03/08/14 03:50
266番台、スタートしました!
268ちんこ成長薬:03/08/14 04:08
269世界@名無史さん:03/08/14 04:45
私の祖父は戦争末期に海軍に徴兵されたものの、内地の軍港での勤務にまわされ、
それほど危険な目には合わなかったようです。ただ一度、飛行場で肉体労働させ
られてた時に米軍機の機銃掃射に晒されたらしく、仲間とともに近くの竹やぶに
逃げ込んだとのこと。しかし白い作業服を着てたせいで米軍機からよく見えたよ
うで、次々に撃たれはじめたらしい。体の大きい兵隊が蜂の巣にされて目の前で
殺されたという話は何度も聞かされました。その際、米軍機の機銃の弾が近くの
岩にあたって、そのかけらが足の脛にめり込んで負傷。米軍機が去った後、上官
にナイフで弾をえぐり出してもらい(激痛どころの痛みではなかったらしい)、
病院へ送られたとのこと。

あと、思い出深いのは、飛行場に日本の戦闘機が無数においてあったらしく、ま
だ日本も戦える、と思って近づいてみたら、木製の飾りだったという話。敵機の
目をごまかすためか、囮だったのか、国民をだまくらかす為だったのか…。事実
かどうか未だにわかりませんが、どなたか同じような話聞かれた方いらっしゃい
ませんか?

戦後、祖母と結婚して伯父を生んだ頃、下宿先の家主が一方的に立ち退きをせま
ってきて、行く先の無い祖父は破れかぶれで裁判に持ち込み、裁判官に浪花節で
家族を路頭に迷わせないでくれと訴え、見事家を勝ち取ったとか。細かい事情は
知らないが、その家主というのが半島系のひとで、死ぬ前まで三国人がどーのこ
ーのと時々愚痴をいってました。

幼い私を前にしてよく祖父が言ったのは、「もう少し戦争続けてれば日本は勝っ
てた」というのと、「戦争で兵隊が死ぬのはしょうがない。でも一般の人間が死
ぬのは悪いこと」というものでした。前者は強がりでしょうが、当時の一般的な
愛国心のかけらを垣間見たような気が、子供心に感じられました。
270世界@名無史さん:03/08/14 09:29
私の父の体験です。

時期は多分終戦に近かったと思いますが、小学校に集団登校してる途中の畑の真中で
コルセアに機銃掃射を受けたらしいです。
子供の目でも逆セル型の翼と見えたのですから、この操縦してた糞アメ公には
撃ってる対象が子供達とわかっていたはずです。なんとも鬼畜な行為ですね。
蜘蛛の子を散らすように逃げたおかげか、幸い皆、無事だったらしいです。
271世界@名無史さん:03/08/14 14:47
朝鮮鉄道に勤めていた祖父は二回徴兵されたが、いずれも支那事変だった。
すぐ隣の人が撃たれたりしたこともあったようですが、所属は兵站部隊だったみたい
です。
とにかく歩かされたそうで、そこで中国大陸のすさまじいまでの広さを思い知った
とか言ってました。

しかし祖父の弟(大叔父)はインパール作戦で戦死したとのこと。後に作戦の全容を
知り、その苦労を思うと…(;´Д⊂)
272世界@名無史さん:03/08/14 19:47
大陸で特務機関にいた、って人から聞いた話だけど、
なんでも2.26事件で死刑になったはずの連中、

「あいつらみんな生きてたなあ」

だそうです。
273@@:03/08/14 19:51
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274世界@名無史さん:03/08/14 20:27
>>272
馬鹿者!!
それは特務機関の常套手段、「偽情報」と言うものだ!!
275世界@名無史さん :03/08/14 22:12
知り合いの人の話です。
何処の所属かは聞いてないですが、中国のかなり奥地で新四軍と戦っていたため、
終戦の情報が伝わらずに何年も戦闘を続けていたが、
奥地過ぎて補給が無くて両軍が同じ井戸を使っていたらしい。
そのうちにお互いに仲良くなり、殺しあうのが馬鹿らしくなって戦闘終了。(帰還は昭和27年)
命を賭して戦っただけあって、ものすごい親友になり
ちなみにその人たちは現在中国軍の将軍クラスになっているそうです。
中国軍の人達とは今でも仲が良く、その人は中国物産店を経営してます。
兵隊やくざのモデルになった人とも友達だそうです。(父が会いました。)
276世界@名無史さん:03/08/14 22:50
 漏れの父方の祖母(80くらい)ですが、漏れが現在住むことになる田舎町で畑仕事をしているとき、頭上をB29がゆうゆうと通過していったそうです。
 また、地元の小中学校に若い兵隊が営舎として使用していましたが、玉音放送を聞いた彼らが「戦友たちの死は何だったんだ」と泣いていたのを見たそうです。
 漏れの家族や親戚は体が弱い人ばかりだったので、一人だけ満州に行きました。
 母方の祖父です。背丈が足りないので免れていましたが、終戦の一か月前に赤紙が来ました。船で満州に渡り、現地で部隊を編成しました。(続く)
277世界@名無史さん:03/08/14 22:56
新四軍というのはアメリカ装備の国府軍(蒋介石軍)なのだが、雲南で日本軍と
戦ったあと、国共内戦のとき長春の防衛にまわされて、中共軍の兵糧責めにあった
あげく、降伏してそのまま中共軍に改編された。
「現在中国軍の将軍クラス」というのはもちろん中共軍の事ですが、それは上記
のように降伏のしかたがうまかったので優遇されたのです。
278世界@名無史さん:03/08/14 22:57
でも朝鮮戦争で使い捨て。
279世界@名無史さん:03/08/14 23:01
(続き)で、祖父は暗算が得意だったそうなので、擲弾筒部隊に組み込まれ、

 そこで終戦。

 そんな祖父ですが、戦後、建設会社で鉄骨を担ぐ作業をし(夏になると肩に塩の固まりができるくらい)
 背骨を痛め(レントゲンを見ると背骨が真っ黒)
 最初の2年は座る程度でしたが、それから12年間は寝たきりとなり、漏れが2歳のときに亡くなりました。

 じいちゃん、もっと生きて欲しかった(涙)
280世界@名無史さん:03/08/15 00:28
明日で大地の子が終わります。
281世界@名無史さん:03/08/15 00:44
戦後の話ですが、父方の祖母の実家は割と大きな料理屋をやっていて、
近くに駐屯していたイギリス軍の将校がたまに飲みに来ていたそうです。
そのイギリスの人は、来るたびに抱えるほどのチョコレートとキャンディを持ってきて、
最初に女将をしていた曾祖母に多く渡して、その後にも祖母や芸子さんたちにも
両手一杯のチョコレートとキャンディを「ママさん、ママさん」と言ってくれたそうです。

祖母は、
「礼儀正しくて、話し方も丁寧だったよ。
 なかなかの育ちの人だったんだろうし、いい人だったね。」
と話してくれました。なんだか救われるような話です。
282世界@名無史さん:03/08/15 04:39
うちのジーサンはシベリアにいたらしいんだが、とにかくソ連が嫌いだった、あんまり
くわしく話してくれないんだが、共産主義者は簡単に裏切るから信用するな!と
酔っ払った時によくいってた。ただ死の直前に仏壇に入っている髪の毛二束を一緒に
燃やしてくれ、と言って「何コレ?」と聞いたら、シベリア抑留中に死んだ戦友の
ものだ、といわれた。家族も空襲で死んでいて渡す人がいなかったそうだ。
誰か一人でも生き残って日本へ帰ろう、と約束したんだそうだ。結局じいさんだけが
生き残れたそうだ。遺品も何もなくて遺髪だけをこっそり隠してもってたそうだ。
283世界@名無史さん:03/08/15 08:10
今の日本は売国奴やら在やらだらけ……
英霊も草葉の陰で泣いてるよ……
今日の東京の豪雨はそんな英霊達の涙雨だ
284世界@名無史さん:03/08/15 08:31
おれのじぃちゃんはずっと北海道にいた
ラッキーだった
285世界@名無史さん:03/08/15 08:34
いや、危なかったんじゃねーか?
ロシアがもう少しなんかしてたら……
286世界@名無史さん:03/08/15 09:48
>>285
あーあそれはいってた。ソ連に北海道占領されてたら悲惨だったなぁー
という話は何回か聞いた。
それも(結果的に占領されなかった のも含めてラッキーだったとかいってたよ。
287山崎 渉:03/08/15 18:16
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
288世界@名無史さん:03/08/17 20:28
>269
> 飛行場に日本の戦闘機が無数においてあったらしく、ま
> だ日本も戦える、と思って近づいてみたら、木製の飾りだったという話。
それは米軍の空襲よけの擬装用ですな。
でも米軍はすっかり知っていて、実機だけを攻撃してデコイは完全無視だった
なんていう証言もあります。
289世界@名無史さん:03/08/31 15:19
age
290世界@名無史さん:03/09/26 06:40
中国戦線に行っていた親戚のじいちゃんが言ってたけど、
銃剣戦で相手の腹部を刺した時は簡単に刺さったみたいです。
胸部のときは軍服が分厚いのもあって足を掛けて引き抜いたと。
291世界@名無史さん:03/09/27 15:30
>>290
似た話で、刺さったまま抜けないときは、一発撃てば抜けるという話を
体験者の方がしていました。
そういう状況って、敵が目の前だから、やらなきゃやられるから、
イヤだ、なんだ言ってられ無い見たいです。
もう、生きるために必死だったって。

292世界@名無史さん:03/09/28 02:03
293世界@名無史さん:03/09/30 17:02
>>291
その話もしていました。
上記の話も、納屋の捜索の時に向こうも入ってきてしまったらしいです。
最初の頃は冷酷にならざるをえない現実に耐えられなくて
兵舎を抜け出して泣いていた事もあったそうですが
やはり慣れとは恐ろしいもので、当時の写真を見た父曰く
「あの感情の消えた光の無い目は、殺し慣れた殺人者の目だ。」と言っていました。
294世界@名無史さん:03/09/30 21:37
>>293
なんか、じいちゃんは本物っぽいの話だけど、
とーちゃんの話で嘘っぽいオチが付いちゃったね。
295世界@名無史さん:03/10/01 07:36
>>294
ちょっと誇張してしまったので、ですね。
あとは、中隊で犬猿の仲だった兵士と殴り合いを2〜3回やったら親友になり、
さらに出身が同じ市内だったので、生涯を通じて最高の親友だったみたいです。
映画の設定って体験者から聞いたのか、と改めて認識しました。
296世界@名無史さん :03/10/12 16:13
直接戦争経験とは違いますが、僕の父親は昭和21年生まれです。
その父が生後半年頃に高熱が出て(のうきょう、という病気らしいです。)
ほとんど助からないと診断されたのですが
医者に「ペニシリンがあれば何とかなるかもしれない。」と言われ
探したら、同じ市内の旅館にアメリカ軍から購入した乾燥ペニシリンが2つほど
残っていたらしく、それを当時¥4000で譲ってもらい、そのおかげで助かりました。

父は高熱の影響で片目が見えないですが、まったく普通に暮らしています。
祖父も体が弱くて徴兵されませんでした。
この出来事のおかげか、兄弟3人を亡くした祖母もアメリカに好意を持っています。
(N○Kの朝ドラと似たような話ですが、実話です。)
297世界@名無史さん:03/10/12 18:54
インドネシアで戦った人の話はないだろうか?
298世界@名無史さん:03/10/13 02:19
>296
当時の4000円と言えば相当なもんだろうが、
そのお金を惜しんでいたら君もいなかったんだねぇ。

そう思うと、岩手の救急医療の不備で
子供を亡くしたのって重いことだなぁ。
すれ違いスマソ。
299世界@名無史さん:03/10/13 09:01
戦闘機に追いかけられ、逃げ回ったがミサイルが腰に直撃。
腰に手を触れるとヌルっとした感触が手に広がり、死を覚悟した。
しかし、よくみると腰につけた水筒が破裂していて、
血だと思ったものは水だったそうだ。

もし本当に直撃していたら俺は存在しない・・・
今俺がこの時代この場所にいるってすごい確率だなって思ってしまった・・・
300世界@名無史さん:03/10/13 09:02
× ミサイル
○ 銃弾
301296 :03/10/13 17:14
>>298
ありがとうございます。
祖母の記憶力が凄くて、当時の学校長の給料が月400円だったそうです。
祖父、祖母は仙台大空襲も生き延びていて、祖父は面白い人で
焼夷弾の破片を拾っていたので家にあります。
302世界@名無史さん:03/10/13 17:20
うちの爺さんは、(とても小さな地方の)造船所で働いてたから、徴兵免除。
青蛙(あおがえる)と言う特攻用の魚雷艇の廉価版みたいのを作ってたと言ってます。
303世界@名無史さん:03/10/13 17:21
訂正
特攻用の魚雷艇の廉価版みたいの

魚雷艇の特攻用廉価版みたいの
304世界@名無史さん:03/10/13 17:36
今、100歳の人って戦時中42歳なんだよね。
それでも私の倍近く年取ってるのか。
なんだかなぁ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
305世界@名無史さん:03/10/13 18:15
ちょっと間の抜けた話で、しかもちょっと不謹慎なのでアレなんだが、祖父から聞いた話。

祖父は福岡から朝鮮半島へ、後方の空港での整備士として行ったらしい。
整備士でそれも後方だから実戦の経験は全く無し。血を見ることも少なかったそうだ。
物資も食料も全然問題なくて、むしろ潤沢にあったらしい。
よく現地人と毛布とか時計とか、なんかいろんなものを、朝鮮焼酎(どぶろくだっけな)や餅と交換したといってた。
祖父の口から朝鮮や中国の人への文句とかが出てくるかな、と思ったがそんなのは全然なくて、中国人の商人なんかとは一緒に宴会やったこともあるらしい。
かなり紳士的だったみたい。もちろん非戦闘地域だったからだろうけど。

で、終戦になって、いろんなものを山ほど持って引き上げようとしたら、日本への船に同情した人たちの身なりや痩せ方がすごい。
そういう話は聞いてたらしいが、実際目にした時は驚いたそうで。
んで祖父は、「うちは実家が農家だから、とりあえず帰れば何でもある。みなさんで分けてください」
と、持って帰るつもり荷物を全部周りの人たちにあげちゃったそうだ。
実家に帰った時持っていたのは、煙草2箱と焼酎1本w
んで実家帰ったのはいいが、実家にも本当に食べるものがなにもなくて、腰を抜かしたらしい。
必死でやりくりしながらなんとか食べ物をかき集めて家を守っていた祖母もその話を聞いて腰を抜かした。
持って帰ってこいよ、と。

血なまぐさい話や悲惨な話をよく聞くし、私もむしろ心のどこか(不謹慎ながら)でそう言う話を期待して祖父から聞いたのが、この話。
祖父は非常に幸運な一例に過ぎないと思うし、こういう例は少なかったんだとは思う。
でも、一口に戦争、といってもいろいろあるものだ、本当に。
306世界@名無史さん:03/10/13 23:58
>305
間の抜けた話かもしれないけれど
人の良さそうなおじいさんですね。
307世界@名無史さん:03/10/17 06:05
>305
ええ話やね〜
心が温かくなったよ。
中国人、朝鮮人、日本人の関係について改めて考えさせられる一文でした。
308世界@名無史さん:03/10/17 17:24
うちの母の話し。

飛行機(B29?)が爆弾を落しに来ると、あっちこっちから大砲を打ち上げたそうな。
で、当たると火と煙をはきながらゆっくりとクルクル回って落ちてくるそうだ。
落下傘が降りてくる方向を見ながら走って行くと飛行兵が居る。
みんな周りに集まってくるけど、誰か判らない人が近ずくなと言うそうです。
そのうちに軍が来て飛行兵は連れて行ってしまうそうです。

飛行機が落ちると回りの人は急いで落ちた所に行って軍が来ないうちに
部品とかを拾って帰ったって母は言ってました。
拾う人は記念品みたいな感じで拾いに行ったみたいです。


309世界@名無史さん:03/11/02 17:30
やばい・・・このスレ・・・2chイチためになる・・・
310世界@名無史さん:03/11/02 23:00
大叔父さんはサイパンで玉砕した部隊から捕虜となって生還。
戦後は一切仕事をせず、かといって遊び暮らすこともせず、
30年ほどただだらだらと生きて亡くなったそうです。

祖母(妹)は「あの人は生きてるのが馬鹿らしくなっちゃったんだろうねえ」と
言っていました。
311世界@名無史さん:03/11/04 16:27
輸送船に乗っていた、お爺さんが話してくれたこと。
深夜に出航して海上で日が昇る。
敵潜水艦の監視をしながら航行すると突然船が振動して大きな音がする。
誰かがヤラレタと叫んだ。
急いで船内から甲板に出ると船の前付近に船員が集まって来ている。
どうやら船前部に食らったらしい。
船内に戻ると多くの船員が走って前部船底に向っている。
誰の大声か判らないけど、船倉に向えと叫んでいる。
お爺さんも前部船底に向う。
向う時に「とうとうきたか」「これで死ぬのかな」と思いながら向った。
前に近ずくと廊下が水びたしだ。
その先には大勢で扉を閉めようとしてるけど扉の向こうから水が噴出している。
大勢でもなかなか閉まらない。そのうちに足元が水のせいで滑りだす。
なんとか閉めて甲板に出ると前の船倉を見ると船倉が水没している。
助けに来る船が来るまで不安でどうしようもなかったと話してくれた。
二回目の攻撃が無くてよかったと。




312世界@名無史さん:03/11/05 01:06
>>310
それは今で言う戦争PTSDだね。
ベトナム戦争でアメリカに大量発生して社会問題になってから
認識されたから、当時は怠け者だって言われたみたいだね。

>>311
凄い、助かったんですね。

313世界@名無史さん:03/11/05 17:36
>>312
お爺さんの船は沈没しませんでした。
ただ、穴が開いてるので通常航行出来ないので助けの船に人員と
多少の積荷を移動しないと駄目なので助けの船が来てくれないと
そこから移動出来なかったと。
助けの船が来て人員と積荷を移動して、助けの船が現場を去る時に
お爺さんは助けの船に向って頭を下げたそうです。
頭を上げた時、周りを見渡すと甲板に出てた人がみんな下げていたそうです。
(後日、ヤラレタ船は無事、港に入りましたと聞きました)

314世界@名無史さん:03/11/05 20:52
ウチのじーさん終戦時、12〜13才。
なんでも学校で戦地に送る軍馬の世話をしていたそうだ。
たまに学校に来る少尉さんにあこがれていたらしくいまでも当時の少尉さんのことを
話すときバッチリ敬語になる。かっこよかったらしいよ。
んですっかり自分も戦争に行く気になってたら終戦。
おわってよかった〜。行ってたらきっとつっこんで死んでただろうな。
315世界@名無史さん:03/11/08 02:09
親父は防空部隊、八王子上空が哨区で、都心はぼ〜っとあかく光ってた
らしい。酸素マスクが凍った息の水分で気を失ったこともあるそうだ。
316世界@名無史さん:03/11/08 22:15
小学生のころに聞いた話なのでうろ覚えでスマソ

父方の祖父は砂浜で(輸送船で上陸後?)戦闘機の機銃掃射が手にかすめたと。
傷を見せてもらいましたがたいして大きくない。
ホントにちょっとかすめただけなんだろうね。良かった。
その後上官を殴り内地へ送り返されたとか。
捕虜を殴れと言われて抵抗したらしいが何故?

母方の祖父は職業軍人。
フィリピンにいたらしい。
その後インパール作戦に動員されたが無事?生還。
よく帰ってきてくれました(涙

上記の2名とも亡くなりました。
ご苦労様です、本当にありがとうございました。

ちなみに父方の祖母は「馬鹿をみた、馬鹿をみた」これしか言わねぇw
オヤジは線路をアメ公の戦車が輸送されるのを幼いころに目撃したとか。
M1だっけかな?
317世界@名無史さん:03/11/08 22:16
318世界@名無史さん:03/11/09 00:46
うちのジーサンは満州→シベリア。
中華料理が大層気に入ったらしく、いろいろ教えてもらったみたい。
子供の頃、よく水餃子作ってくれたよ。
酔っ払うと捕虜時代の話を始めるね。
ロスケはスキーがへたくそだとか、ボルシチ作った話とか。
食い物の話ばっかだw
319世界@名無史さん:03/11/10 01:53
じいちゃんはずっと内地にいたので助かった。
だがじいちゃんの弟は砲兵で日中戦争の時匪賊討伐で戦死した。
昭和15年でまだ戦死者も多くなかった時期だったから盛大な葬式だったらしい。

あと親戚が戦艦大和に乗って菊水作戦に参加したが生き残ったらしい
320世界@名無史さん:03/11/18 00:28
面白い記事ですね。
小水に目が覚めて眠れなくなってしまったんでパソコンをつけたんですが
こういう記事が世界史掲示板にあるとはしらなかったです。

当方は終戦時に長門に配属されてた者です
階級は大尉で、終戦昇進で少佐でした。
レイテで端鶴乗り組みでしたが、配属された幼顔の搭乗員達が
ほとんど帰還しなかった事を覚えています。
あと、攻撃中も沈没の時も不気味なくらいにおついていて
「貴様は残るのか?」
「ああ、やっぱり死ぬことにするよ」
などという奇怪な会話に、私も危うく艦内に残りそうになりました。

また機会があればここに参上したいと思います
321世界@名無史さん:03/11/18 00:46
>>320
お〜〜
ついに現役軍人だった御方の光臨か!
まだおられますか?海兵何期ですか?
322世界@名無史さん:03/11/18 00:49
70期です。
同期にレイテ特攻に参加された関大尉がおられます
323世界@名無史さん:03/11/18 00:54
>>322
すごいなぁ・・・いま80歳くらいですよね?
海兵の生活ってどんなんだったんですか?
324世界@名無史さん:03/11/18 01:03
記憶が年の為あいまい・・・とよく言われますが、
年をとればとるほど若き日の記憶が鮮明になるもんですね。

海兵の生活世間の想像とは異なって
別段今の学校と特に変わるところはありません。
ただ、教わっていることが海軍に関する事だというところです
殴られた事も何度かありますが、そう四六時中殴られると言う事もありませんでした
あと、あまりに横暴な上級生徒様に数人がかりで深夜逆襲に参上する事もありましたね。
325世界@名無史さん:03/11/18 01:06
リベンジかよwww
後が怖いなオイ
326世界@名無史さん:03/11/18 01:12
当時の校長先生、確か草鹿任一中将か新見政一中将か不鮮明なのですが
今考えても気持ち悪いくらいに温厚な方で、こうした問題が発覚しても
よかよか、で解決していた様な記憶があります。
327世界@名無史さん:03/11/18 01:18
       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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       (ぃ9  |  (ぃ9 ./    /   \ \.∧_∧  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
        /    /、    /    ./     ヽ ( ´Д` )<  憲兵に通報しますた!
       /   ∧_二つ (    /      ∪ ,  /   \_______
       /   /      \ .\\     (ぃ9  |
      /    \       \ .\\    /    /  ,、    ((( )))  / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     /  /~\ \        >  ) )  ./   ∧_二∃    ( ´Д` ) < 通報しますた!
     /  /   >  )      / //   ./     ̄ ̄ ヽ    (ぃ9  )  \_______
   / ノ    / /      / / /  ._/  /~ ̄ ̄/ /   /    ∧つ
  / /   .  / ./.      / / / )⌒ _ ノ     / ./    /    \   (゚д゚)シマスタ!
  / ./     ( ヽ、     ( ヽ ヽ | /       ( ヽ、   / /⌒>  )  ゚(  )−
(  _)      \__つ    \__つ).し          \__つ (_)  \_つ   / >
328世界@名無史さん:03/11/18 01:20
ぜひこちらも御一読下さい。

あなたのおじい様の戦争体験をおしえて その2
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1061964556/l50
329世界@名無史さん:03/11/18 01:22
ありがとうございます
330世界@名無史さん:03/11/18 01:24
関大尉ってどんな人?すごい人なんだよね当然 (・∀・)ニヤニヤ
331世界@名無史さん:03/11/18 01:25
うちのじい様は

フィリピン諸島のさらに南にあるハルマヘラ島なる島にいたらしい
空襲で足がなくなった戦友の話などを聞かされたなぁ
普段はしゃべろうとしなかったが、酒が入ると結構話してくれた
今も元気でぴんぴんしてるが、なまじっか自分が戦争についていろんな事
を知ってしまったので子供の頃のように無邪気に話を聞けなくなっ
たきがする
332世界@名無史さん:03/11/18 01:26
>>327
>>330
もし本物の軍人だったらお前ら人間として最低だな。
よっぽど悲しい人生しか歩んでないのか?
333世界@名無史さん:03/11/18 01:28
332に同意。
334世界@名無史さん:03/11/18 01:31
関氏についてはあまり触れ合う機会はなかったのですが
外出の時にあぶれてしまって、何気なく入った当時の喫茶店で
ひたすら女性の店員と話されていた事を覚えていますね。
聞き耳をたてて(失礼!)みると、住所をひたすら聞きたがっていました
今で言うところのナンパになるのでしょうか?
あと、校内での振舞いもそんなにほめられた事ではなかったようでね

正直申し上げれば、最初に突入を知ったときは
真剣に新聞の誤植を疑った、大変死者に失礼な私でしたね。
335世界@名無史さん:03/11/18 01:31
ここは静かにお話に耳を傾けようではありませんか。
336世界@名無史さん:03/11/18 01:34
関〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!!
337世界@名無史さん:03/11/18 01:35
誤植を疑うな(汗
338世界@名無史さん:03/11/18 01:35
関大尉は新婚さんだったんですよね・・・。
339世界@名無史さん:03/11/18 01:38
>>330
どうやら軍神じゃないみたいだな。よかったね目論見がハズれて(´,_ゝ`)プッ
340世界@名無史さん :03/11/18 01:39
つまり関大尉も、普通の若者だったんですね・・・・・。
何だか特攻出撃の際の話や戦後の話と、大変に対照的で少し悲しい気が。
341世界@名無史さん:03/11/18 01:43
ほかの事も聞きたい・・なんでもエエんで
342世界@名無史さん:03/11/18 01:50
そうですね・・その関氏本人がよく食事中に五月蝿いとの罵声も無視して
話していたのは、「世界は殺し合いをしてるのに、日本だけはポーカーをしてる
恋愛だって女に刺されるご時世なんだからいい加減に殺しあう覚悟が必要」と言われてましたね
当時の私はよく理解できませんでしたが、おそらくは世界が全体戦争・総力戦に向かう風潮で
日本だけが部分戦争、要するにスポーツ戦争するのは危険だといいたかったのではないでしょうか?

私もまさに彼の言うポーカー派(!?)でマリアナ陥落や、レイテ陥落後も
まずいよね、とまるでTVゲームの調子が悪いくらいの気持ちでした。
でも、本土に戻って来てようやくボケていた自分を情けなく思いましたし
正直こんなものは最早戦争にあるまいという感情の方が大きかったです
343世界@名無史さん :03/11/18 01:52
>>342
あの戦争を始めるに至った陸海軍、政府、外務省上層部やマスコミに百万回聞かせたい言葉ですね。
ある意味、今の日本にも通用する言葉かもしれませんが・・・・・貴重なお話を有難う御座います。
344世界@名無史さん:03/11/18 01:53
とりあえずアメは鬼畜でファイナルアンサー?
345世界@名無史さん:03/11/18 02:02
>>343
でも別段僕は当時の上層部には恨みはないんですよ
戦争の責任なんてもにはどこにもないですし、
あるならそれこそ赤子も含めて一億国民皆が背負うべきものでしょうが
それはわが国に限ることではなくシナも米国も同じでしょう。
率直に言えば、お人よしだったのでしょう。
陸軍は逆に身の程知らずの極みともいえますしね。
346世界@名無史さん:03/11/18 02:03
とりあえず海軍様(仮称)はセルキャブつけなされ。
347世界@名無史さん:03/11/18 02:06
こりゃモノホンだな。騙りにしちゃ真摯すぎる
今夜はこのあたりで引き上げいたしますね。
紹介された方の記事にも明日うかがってみます。
349世界@名無史さん:03/11/18 02:23
>>348
ありがとうございませた。
ぜひまたお話を聞かせてください。
350世界@名無史さん:03/11/18 02:25
なんか軍板でさっそく自作自演が発生してるぞオイ(汗
351世界@名無史さん:03/11/18 02:27
海軍兵学校についてのHPです
http://www2b.biglobe.ne.jp/~yorozu/hyoushi.html
70期の名簿もありますよ
なつかしい名前があったりするんじゃないでしょうか
>>351
ありがとうございます。
>>350
??
353世界@名無史さん:03/11/18 02:32
>>352
いや、貴方様の名前を騙る不逞の輩が現れたので名前の後ろに
半角#・・・・ってもう付けらてらっしゃる(汗
354世界@名無史さん:03/11/18 02:32
>>344
単に反米がしたいなら他所の板に行けば?
355世界@名無史さん:03/11/18 02:38
海兵七十期(自称は)軍ヲタヒッキー
356世界@名無史さん:03/11/18 02:41
>355
まぁ、トリップをすんなり使ったり、
こんな時間まで起きていたり
歳の割に元気で革新的な人ではあるが
間違ったこと言ってるわけじゃなし
そう騒ぐなや。
357世界@名無史さん:03/11/18 03:08
まぁモノホンにしてもこんなとこに出没してるジジイなら
どうせ当時の席次もたいしたことない
中佐くらいで予備役になる軍人だったんじゃないの?

家族にも聞いてもらえないから、顔も見えん奴等に話そうってか?
358世界@名無史さん:03/11/18 04:03
>>357
坊主、お前の話よりは遙かに貴重な話なんだからいいではないか
お前の話は家族も2ちゃんねらもまともに聞いてくれないだろう?
ろくでもない人生を歩んできたお前が卑屈になってしまう気持ちも
わからんでもないが雑魚は雑魚らしくしていたほうがよいぞw
359世界@名無史さん:03/11/18 04:06
アラシハホウチシル
360357:03/11/18 04:08
すいませんでした。
361世界@名無史さん:03/11/18 05:58
皆様おはようございます。そしてはじめまして。
七十期の先輩がご記入なされたのを見て、
これまで閲覧するだけでした海兵七十五期の私も奮起して初投稿いたします。
ここのスレツドにおられます諸氏は武勇伝を聞かせたいところなのですが
まことに申し訳ございませんが実際に私は戦場に出たわけではなく、在校中に終戦を迎えてしまいまして
実際の所は戦後派に部類されてしまう人種です。
しかしながら海兵終戦時の騒動でしたらある程度は記憶してますので、
あまり文献の少ない終戦騒動下の海兵でしたら私に可能な限り御質問にお答えしたいと思います。
私と同年代の物でも機関科や技術畑に進んだものはコンピュータに詳しいものも多い模様ですので
以外にこの掲示板にも老兵が居られるのではないでしょうか?
もし居られましたらぜひご参加願いたいところであります。
また、知識豊富な若者の多い掲示板ですので
こちらの記憶不鮮明から誤った事を申してる場合はぜひ指摘していただければ幸いです。

それと375氏に一言、
君のお年は幾つかわからないけれど、おそらくは私より御若いと推察して
一言申し上げたいと思います。
自分の人生を全否定されるというのは悲しい事なんだよ?
七十期の御先輩が何を思われてここに登場なされたのかはわからないけれど
いくらなんでもその物言いはあまりにかわいそうな気がするよ。

七十期の先輩へ
ところで先輩は終戦少佐との事ですが、七十期ご卒業で終戦少佐と言うことは
席次はクラスヘッドだったのでしょうか?それと何か特陽な武運に遭遇されたのでしょうか?
362世界@名無史さん:03/11/18 06:16
>七十期ご卒業で終戦少佐と言うことは

「ポツダム少佐」とも言いますね。
おはようございます。361氏につきましては始めまして。 海兵七十五期という事は身も蓋もない言い方をすれば
卒業年で海軍が潰れたせいで、「しごかれ損」に見舞われた世代になりますな。
終戦に関して生徒側で何か騒動はなかったんですか?外からの騒動であれば
自分の記憶では呉に所属する潜水艦の何隻かが血気にはやる将官によって事実上の抗命宣言を
行い、兵学校生徒に決起を促したと記憶してるのですが、結局彼等はどうなったんですが?
多感な時期に自分達の存在意義を全否定される様事態に遭遇するのはある意味我々よりも大変だっと思いますよ。
自分なんかはその頃は長門の艦上で相当冷ややかな態度でしたし、別段悲しくもなく
むしろ快適とも言えた生活に終わりが来ることの方がよっぽどに悲しかったという
当時の仕官達が心の底でこっそり思ってい事をおくびにもなく部下にも言ってましたね。
おかげで部下からの終戦参りに遭遇せずにすみましたが・・
私の席次はクラスヘッドなどとはまさに無縁でしたし、357氏のおっしゃられるとうり
平和な時代なら多分少佐昇格で予備役編入でクビですな。後続の貴方がどのような理想で入校したのか、その意は存じませんが
自分などは正直な話「惰性」という二文字がまさに的確だったのでしゃないかと思いますので、
ひょっとすると、当時なら猥雑な仕官として後輩から軽蔑された存在なのではないでしょうか。
今になって分析すると、入校前後に発生した陸軍の行動将校の反乱や、完全に右によった世論を
相当冷ややかな思いでみてましたし、兵学校入学も単純に実家に最も近いからと言うのが理由でしたんで
入校時の作文は「入校理由」を書くのに相当四苦八苦した記憶があります。
364海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/18 09:40
ただ、私の頃の海軍はこの様な燃え上がらない場違いな男でも
職務を正確随意に遂行すれば特にとがめられる事もなかったと言う、
当時としては大変リベラルな一面を持っていたので大変すごし易かったですね
ただ、やはりステレオタイプの海兵生徒とは限りなく異質な存在と言えたので
兵学校に関してはおそらく貴方の方が真っ当な証言ができますよ。
自分の話だとどいつもこいつも相当いいヤツ等の集う場所だったと誤解を与えかねないのでね。
ただ、戦況の推移に関しては(今日分析される様な危機感を抱かなかったという、問題はありましたが)
結構冷静に分析していた自信はございますんで、戦闘に関する事なら
ある程度はお答えできるのではないでしょうか?
365海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/18 09:46
ここに居られる若い方々にまず申したいのは当時の人間は
別に異惑星人でもなく、今の貴方がと何も変わらぬ若者であったことです
目上の者に「キレる」者もおりましたし、駅前の大衆商店(今日のコンビニエンスやスーパ)の
入り口に纏わり付くものもたくさんおりました。
ただ、個人主義者でも自信の行動に責任を持てる、持たねばならないという雰囲気が
今とは唯一異なる点ではなかったかと思います。
この点に関してはたった一点ながら、きわめて大きな一点であると思います。
366世界@名無史さん:03/11/18 09:49
  ∧_∧
 ( ・∀・) ドキドキ
 ( ∪ ∪  
 と__)__)
367世界@名無史さん:03/11/18 09:54
キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!
七十期様、卒業さてからはどこに配属されたんですか?
368世界@名無史さん:03/11/18 10:00
>>363
「終戦参り」ワロタ!!今の「卒業参り」とまったく同じですね。
>>365
>ここに居られる若い方々にまず申したいのは当時の人間は
>別に異惑星人でもなく、今の貴方がと何も変わらぬ若者であったことです
戦時中を生きた人々に対しては、ともすれば神格化しそうなほどの思いを
持ってしまいがちなのですが、うむむ、そう言われれば確かにそうなのですよね。
369海兵七十期のポーカー派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/18 10:16
367氏、一時呉工廠に配属の後に空母鳳翔、後大和配属、5日間ですが戦艦伊勢に出張していた時期もあります。
18年の(時期は忘れてしまいましたが)武蔵に配属になって当時のGF司令部とトラックにいきましたが
同期の中でも相当に転任の多い奴だと参謀長に言われた記憶があります。
なんでも転任は多いものは浮つきやすいから気をつけなさいといわれましたね。
(当時の参謀長は故宇垣中将だった筈です)
いずれも海軍兵学校も快適だったんですがそれを上回る快適さでしたね・・
送る手紙送る手紙、やれ飯がうまいだのエアコンに隔世の隔たりを感じるなど
書き込みすぎたせいで、検閲に引っかかって横須賀の検閲将校と思わしき陸軍中佐から
「何しに軍人になったのか!」と便箋20枚近いお叱りを受けたこともありますね。
370世界@名無史さん:03/11/18 10:21
大和武蔵・・・うらやましい。
大きかったんだろうなぁ・・
伊勢は居住性が悪いと悪評が高いですがどうだったんですか?
371世界@名無史さん:03/11/18 12:36
凄い・・・

海兵出身のお二方に野暮を承知で申しますが、
何らかの手記か何かをお書きになっては?
これはあの戦争に参加した方全てに当てはまると思いますが、
たとえ戦史に残るような重要証言ではなくとも、当時の
雰囲気や裏話など、当の本人にとっては大した経験ではなくとも、
我々にとっては非常に貴重な歴史そのものです。
今すぐ本になるとは限りませんが、100年後には当時を知る
貴重な文献として残るかもしれません。
372世界@名無史さん:03/11/18 21:18
若輩者ですが先輩方のお話はとても為になります。
ありがとうございます。
373世界@名無史さん:03/11/18 23:24
>>369
うお、2ちゃんでこのような方に出会えるとは!!

不躾を承知でうかがわせて頂きたいのですが、『海兵七十期』と申しますと、
三四三空の 菅野  直 大尉や、「指揮官たちの特攻/城山 三郎 著」で有名になってしまった中都留 達雄 大尉
ともご同期でいらっしゃいますね?
もしよろしければ、このお二方の人となりなどお聞かせ願えれば幸いに存じますが。
(四百人を超える同期生の中、難しいとは思いますが)

また、沖縄特攻へ向かう大和隊と劇的な信号交換を行った、丹羽 正行 氏も、終戦直前に大尉ですので、もしかしたらご同期ですか?
374世界@名無史さん:03/11/19 00:31
良スレage

兵学校出の方とお話しできるとは光栄です。
375世界@名無史さん:03/11/19 09:54
海軍所属の艦艇での外部・外界状況を把握するのはどの様にしていたのでしょうか?
陸軍は、連合国のポツダム宣言を受けた放送をリアルタイムで聴いて、上級司令部へ
「何故返答しないのか?」との問い合わせを多数したそうなのですが、海軍ではまた事情が違ったのでしょうか?
こんばんわ。
一斉射撃を受けたので過去の日誌を探して
実家の方に戻っていました。改めて読んでみると人間関係への愚痴ばかりで
戦局悪化を憂う記述は19年11月以降しかないですね・・(汗)
368氏
ご理解願えれば感謝です。
一例を申し上げますと先話に上げた故宇垣中将などは菓子の食い回りという
今日伝わる話から推察できないような事を趣味にしておりました。
軍事に関する日記は残っていますが、名産菓子を食べまわった事も記録につけていましたよ。
興味は洋菓子にまで達しておりました。
370氏
軍艦伊勢は住み心地が悪かったのですか?私が質問したいくらいですね(笑う)
5日間の滞在で見る限りは、皆住み心地が悪いことを愚痴っているようではありませんでした。
371氏
なるほど。しかしながら、あまり印税を期待できなさそうですね(笑う)
こうして、すぐに返事をするネットワークの世界で話したほうが意義は大きいと思いますよ。
この場所は日本でかなり知的階級の高い方々が集っていると確信して、私もお邪魔しているわけですので
不用意に手記をだして、中途半端な共産主義達(仮称「知識人」)に批判されるよりも
ずっと話甲斐のあるここの方がためになるのではないでしょうか?
377海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/19 23:08
372氏
こちらこそ、現在どのように歴史が若者達の間で解釈されているかを
ご教授願えれば幸いです。
373氏
菅野大尉とお話した記憶があります。
確か敷地隅に展示してある40サンチ砲塔のあたりで
ラグビーの授業の合間にとりとめもなく話した記憶があります。
「海軍兵学校」ではありましたが、実際のところは規則正しい普通の学校でしたんで
とりとめて軍事を議論しあうことは少なかったです。
むしろ、海軍大学ならその限りではありませんが。
丹波氏も記憶にあります。とにかく気障な性格でしたね(笑う)
狂歌や川柳をよく口走っては顰蹙やら賞賛を受けていた記憶があります。
それがゆえにあの一幕を生んだのでしょう。
375氏
当時の艦隊編成および連合艦隊の組織形態を学ばれてみる事をお勧めいたしますが、
とりあえずは私の意見として、各戦隊や艦隊で意見統合を行って、
中央と交信しておりましたので、前線部隊が直接大本営なり軍令部なり
連合艦隊司令部に連絡すると言うことはあまりありませんでした。
(された方も、答える事も少なかったと記憶してます。)
ほとんどの場合はまず旗艦や方面軍司令部などに報告し、それが中央に報告されていましたので
終戦時も各司令官の判断で報告しなかったこともあるのではないでしょうか?
378海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/19 23:13
あと更に中央からの電報を食う司令官もまれにおりましたので
連絡形態や上下関係が陸軍ほど明快ではなかったのではないでしょうか?
海軍は雰囲気と言うものが強く、意見の相違から上官に部下が
文字道理つかみかかる光景はかなりありましたが、特にとがめられることもありませんでした
というのも、全体の雰囲気がその部下に味方していれば掴み掛かられた上官の上官も
その部下の部下をとがめようとはしない風潮があったからです。
陸軍の場合は、ほとんどにおいて全体主義の風潮がありましたので
「上官の命令は恐れ多くも大元(略ス)」
の言葉が絶対でしたが、海軍の場合は別段そういうこともなかったので
あまりわけのわからない命は無視を決め込む事もかなりありましたね。
379海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/19 23:18
更に続けます。
そういうわけから、海軍は上級指揮官になればなるほど、
作戦や戦略に疎い代わりに、人間関係の調整が神業に達する方が
大変多かったです。
之は日本海軍の利点でもあり欠点でもありました。
日露の役はこれが良く働いた好例であり、太平洋戦争はうまく機能しなかったのではないでしょうか?
380世界@名無史さん:03/11/19 23:26
>>379
>そういうわけから、海軍は上級指揮官になればなるほど、
>作戦や戦略に疎い代わりに、人間関係の調整が神業に達する方が
>大変多かったです。

 海軍もそうだったんですか…。良いことを聞かせてもらえました。
しかし、未だに日本はこの弊害から脱していないと思います。
381海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 :03/11/19 23:32
380氏
私は之は悪いとは思いません。
むしろこうであったからこそ日本は発展しているのだと思ってます
ようするに、組織内の人間が高い公共心を持っていれば
この様な組織形態は最高の物ではないでしょうか?
私は敗戦そのものよりも、こういった心の面が失われた今の日本をとても悲しく思いますね。
382世界@名無史さん:03/11/19 23:56
七〇期さま

米内大将、井上成美大将は阿川弘之氏の著作などで非常に高く評価されています。
私も日本を救ったのはこの方々の力が大きいと思います。
これらの方々に限りませんが、個々の将軍などに対する評価などお聞かせいただければ幸いです。
既にお話を伺った宇垣纏将軍のお菓子巡りなど、とても非常に興味深かったです。

それとポーカ派様は、お名前からして、ブリッジの方はお好きではなかったのでしょうか。
383世界@名無史さん:03/11/20 01:00
良スレ期待age
>>382
それは七十五期の方の方が詳しいのでは?
それと七十期の方のHNって、関大尉の言葉だと思うぞ>>342をよんでみれ
384世界@名無史さん:03/11/20 06:38
じいちゃん、お話ありがとうございます。
自分のおじいちゃんは話を聞く前に亡くなってしまったので
こういう話をきけるとうれしいです。
385海兵七十五期:03/11/20 08:15
みなさまおはようございます。
井上中将でしたら七十期氏のおっしゃられるとうり、我々の方が詳しいと思います。
こういう言い方は何ですが、中将本人がおっしゃられていたとうり
「海軍兵学校最後の『まともな』校長」であったと思います。
入学初期の頃は、きわめてリベラルな雰囲気を持たれ
戦闘教本や精神教本を完全否定され、
独自の戦略論を持たれる反骨精神の方と言う印象が強かったのですが
はっきりと偉大なる人物と認識するようになったのは、
在任中最後の2ヶ月間であります。
というのも井上中将は我々の入校から約半年のお付き合いでしたが
昭和19年8月をもって、次官へ転任されております。
19年8月という時期は、6月にサイパンが陥落して事実上の敗北が決定した直後で
その前後から、井上中将は今までの海軍兵学校校長がまず行わなかった様な事を
なされてから、転任なされていかれました。
何かと言いますと、宿舎で枕を並べて夜が明けるまで生徒と話されたり
(当然、その分隊には翌日寝坊したものが続出しましたが、特段処罰はされませんでした)
昼食時に食堂で、生徒とおなじ席に座り食事時間をはるかに延長して
ひたすら生徒の身の上話や猥談などや、またかと思えば
「万が一帝國に敗北が訪れるならどのような形か?また如何に復興するか?」などの話を
などといった海兵の本分を明らかに逸脱したお話を夕食の時間になるまで
ひたすら議論するようになられました。
386海兵七十五期:03/11/20 08:15
今思えばマリアナ失陥以降は明らかに「海軍軍人」ではなく、「政治家」や「実業家」を
養成される様な教育をなされるようになり、驚嘆し今更ながらに尊敬いたしております。
井上中将の在任中最後の2ヶ月間の海兵は明らかに戦後空間を醸し出しており
自分は亡き後の海兵が、どのような校長に率いられようともやがて必ず訪れる、
終戦(敗戦)時に精神までも玉砕精神に染まって、軽挙妄道に走らないように
先手を打たれていたように思います。
生徒の中には敗北主義と議論を吹っかける者もおりましたが、大本営が
隠匿する資料までも閲覧させてもらえましたので、一定期間後には
ほとんどの生徒が最早勝利の見込み一分もなしという現実を理解しておったと思います。
(中にはそのせいで精神衰弱に陥る者もおりました。通例から言うと、海兵ではそういった
『学習続行を行うに不適格なる状況に陥りし者』は情け容赦なく対向にするのですが
井上中将は「殺し合いをするなら退校だが、再建者なら少々軟弱者でも問題ないと」と結局退校には
なされませんでした。)
387海兵七十五期:03/11/20 08:30
七十期氏
おっしゃられますとうり、終戦時に一部潜水戦隊で暴動が発生いたしました。
多少記憶不鮮明ですが、確か16日だと思いますが
『終戦の勅命は肝族の陰謀!皇国は断固聖戦を貫徹せん!』
というような内容のビラを持って伊号潜水艦の乗組員達が決起を促しに参られました、
正直なところ最早戦争遂行が不可能な事は誰の目にも明らかでしたし、
彼らが大騒ぎするその背後に大破着低して大傾斜した重巡洋艦利根や青葉
艦尾が海面に没した戦艦榛名が文字どうり朽ち果てて座り込んでおり
海兵も一部機銃掃射を受けた状態で、正直戦闘する事そのものに我々も
嫌気がさしておりました。大騒ぎする彼らに、最後の校長であられました栗田健男中将が
「後ろにあるクズ鉄を見てよく考えろ!」と一喝され、その日は引き上げていきましたが
翌日に再び参られ、生徒の一部と怒鳴りあいになっておりました。
以外にも我々が終戦を主張した事に驚き、また怒りを感じているようでしたが。
話し合いで解決しそうもなく、一部の生徒は「カッターで乗りこんで実力行使しよう」などとさわいでおりましたが
「最初の実戦が同胞との戦いになるのはまっぴら」という生徒がほとんどでしたので、
結局参加はできないという書簡を渡し、敬礼して見送りました。
記録にはありませんが、一部の艦が停戦後回天で特攻を敢行したのではないでしょうか。
388世界@名無史さん:03/11/20 10:42
>>385-387
おはようございます。
井上中将って自分たちの中では小説の中の硬いイメージの人なので
こういう生のお話を聞けて何よりです。

>正直なところ最早戦争遂行が不可能な事は誰の目にも明らかでしたし、

これはやっぱりそうだったんですね。
話を聞くと「負けた気がしなかった」と言うのと、
「もうダメだ」と言う人がいまして、どちらだったのかな?と思っていました。
無論、場所によっても違う様子ですが。
389武 ◆y9synVxvE2 :03/11/20 14:07
うちの爺さんは沖縄戦前に台湾に運ばれてたすかった。
390山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/11/20 17:06
大和建造に参加して5年前に96歳で亡くなった人・・・の妹に話を聞いたことがあります。
これだけだとしょぼい話だと思われるでしょうが、100年後にはもっとすごいものとされ
ているのでしょうねえ。
391世界@名無史さん:03/11/20 18:48
私の祖父は母方も父方も両方戦死してしまったため、
体験話を直に聞くことが出来なかった。
祖母たちも私がモノゴコロ付く前に両方とも病死してしまったし。
だからこのスレが本当にありがたい。
体験者のみなさまも2ちゃんねるやるんだな、パソコン広まってるんだなって思います。
ご健康に留意してくださいましね。
もう高齢かと思われますし・・・・。

このスレに来ると、孫になった気分で見てます。ありがたい良スレ。

もっとお話聞かせていただけると嬉しいです。
私は介護職についてますが、なかなかそういう話は聞けなくて。
それにしても本当に「ロスケ」って言葉使ってたんですね。
あと花火のヒューって音が焼夷弾の音と同じで怖い、と空襲を思い出す、
などというおばあさんがいました。
392世界@名無史さん:03/11/20 19:22
おお、これは正座して拝聴しなければならんな。

>>379
兵科出身でいらっしゃったと思うのですが、空母と大和のような大戦艦に
乗り込まれていた当時は航空戦力の重要性はどの程度認識されていました
でしょうか?
現在では大艦巨砲主義から素早く転換できなかったとよく批判されて
いますが、私自身は仕方なかった部分も多々あると思います。不躾な
質問で恐縮ですが、当時の方の意見を参考にしたいと存じますので、
よろしく御願いします。

>>385-387
なるほど…。やはり井上中将は凄いですね。私も阿川弘之氏の作品で
初めて井上中将を知りましたので、このようなエピソードは非常に面白い
です。
393世界@名無史さん:03/11/20 20:27
2chねらーの元将校・・・嫌すぎる
394世界@名無史さん:03/11/20 22:07
はじめまして七十期の方。
俺のじいちゃんも瑞鶴に乗ってたんですけど、沈む時に
傾いた甲板に全員集合させられてそこで一人一人に菊の御紋
の入ったタバコが配られてそれを一服してから解散になった。
という話を聞いたことがあります。
この話って本当でしょうか?
ちなみに沈んだ後じいちゃんはしばらく立ち泳ぎをして救助を待
っていると、船が2つ来て助けてくれたそうです。
でもその船のうちの1つは沈められたそうです。
じいちゃんとは今一緒に住んでないのであんまり
話を聞く機会がないのですが、そういうのをじいちゃんから聞くと
すごいリアルで本当に戦争してたんだなぁって思います。
395世界@名無史さん:03/11/20 22:19
傾いた瑞鶴の甲板に乗組員が集合してる写真は見た事がある・・・確かアメリカ側の資料だった
396世界@名無史さん:03/11/20 22:29
>>394>>395

総員上甲板の号令。
軍艦旗、降下。

期せずして起こる、「軍艦瑞鶴、万歳!」



このような一連の写真を見たことがあります。
「丸スペシャル」だったかなあ。


397世界@名無史さん:03/11/20 22:53
>最後の校長であられました栗田健男中将が
>「後ろにあるクズ鉄を見てよく考えろ!」と一喝され、
意外と気骨のある所もあったんですね、栗田中将・・・・・。
398世界@名無史さん:03/11/20 22:57
>>396
軍事板の写真スレでまだ見れるはず。
昨日見たところです。
スレの名前は忘れちゃったや。
39919歳大学生:03/11/20 23:30
スゲェ ここに紛れも無い「歴史」がある。。。
もうすぐ三連休だし実家かえってじいちゃんの話聞いてこよう
400373:03/11/21 00:48
>>377
>海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2さま、レスを賜りまして誠にありがとうございます。
当方には出版物や映像などの資料でしか触れられない事柄を、
文字通り身を持って体験された方のお話は誠に胸に迫る物があります。

>菅野大尉
古い写真に凛々しく写る撃墜王も、やはり良い意味での「普通の若者」であったのですね。

>丹羽大尉
実は、大和隊の沖縄特攻の際、当方の祖父の義弟が駆逐艦・磯風に乗っておりました。
その人は、重油に塗されながら無事に泳ぎきって生還いたしましたが、
当方が子供の頃事故死されてしまいました。
そんな縁もあるので、丹羽氏の当該の手記を興味深く読んだ覚えがあります。
もっとも、丹羽氏自身は、あの吉田満氏の『戦艦大和ノ最後』の該当の個所で、
「・・・カノ瀕死ノ老船団ヨリ、惜別ノ辞ヲ受ケントハ(略」
と書かれてしまい、
『俺の率いてた輸送隊の駆潜艇や輸送艦は全部戦時急造艦で、大和なんかより余程の新造船なのに。』
と思われたらしいですが(w
401世界@名無史さん:03/11/21 01:09
【壮絶】魂を揺さぶられたこの一枚【太平洋戦争】
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1062494036/l50
の39にあります。
402世界@名無史さん:03/11/21 01:15
>>394
のおじい様はこの中におられたのですね。
403世界@名無史さん:03/11/21 15:56
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 様
海兵七十期で前述の三方以外で私の知ってるのは302空の森岡寛大尉位ですが
森岡氏の印象的なエピソードなどはありますでしょうか?
404世界@名無史さん:03/11/21 17:52
片手のひと?
405世界@名無史さん:03/11/21 18:31
海兵、陸士というと当時はどれくらいの偏差値なんだろう
やっぱ今でいう東大、京大クラス?
試験科目とかも知りたい
406世界@名無史さん:03/11/21 20:07
一高とほぼ同じくらい。
407世界@名無史さん:03/11/21 20:09
むずさは一高と同じくらい。それに、
身体検査とかきついらしい。約50倍。
408世界@名無史さん:03/11/21 20:20
すまん、一高ってどのくらいなのかわからんw
今で言う開成みたいなもん?
409世界@名無史さん:03/11/21 20:45
駒場にあったけど今は東大の教養学部になってる。
410世界@名無史さん:03/11/21 20:51
>>408
陸士の席順で大臣になれるかが決まっていましたよ、当時は。
少なくとも末は県知事とかそこらへんではないでしょうか。
日本のブレインになる人を育成する学校だと思えばよいかな。
411382:03/11/22 00:16
七十五期様

井上成美将軍の素晴らしい話をお聞かせいただきましてまことに有り難うございます。
敵性言語として、陸軍などでは忌避されていた英語教育を重視されていたとは伺っておりますが、
兵学校生徒を、再建者としても位置づけて教育をされていたとは・・・。
教育者としても一級の方ですね。
412武藤最強 ◆5Gq56Wc946 :03/11/22 00:52
うるせんだ。珊瑚海で井上が逃げなかったらミッドウェーも
クソもねーし栗田がサマールで逃げなかったらフィリピン
陥落もねぇんだ。顔ぶれ見てみろよ。兵学校長ってぇのは
左遷されるダメ将官の指定席だったんだよ。
413世界@名無史さん:03/11/22 10:02
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2氏
当時は、「勝った勝ったまた勝った!」と戦勝常勝ムードだったらしいですが、それは一般国民だけですよね?
軍内部では緒戦の米英軍弱し!という風潮はどのくらいまであったのでしょうか。


あと、今現在書店で「海軍生活様式http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4924372463/qid%3D1069462842/249-4213201-9060330」という本が出ています。
嘘か誠か、信じがたい内容も多々あるのですが、船内で避妊具が買えたとか、お手に取られてみることをお勧め致します。
戦後生まれの輩が適当に書かれた嘘方便の書籍も多々あり大変憤慨しておられるのでないでしょうか?
414世界@名無史さん:03/11/22 17:35
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2氏

氏が乗艦されていた『端鶴』の写真が登場するフラッシュムービーです。

『名を受け継ぐ者』
http://2next.net/swf/nawouketugu.html

内容的には軍板ですが、氏がこちらで端鶴乗艦の経験をレスされていたので、
こちらに貼らせていただきます。
是非一度ご覧ください。
415世界@名無史さん:03/11/23 02:51
端鶴ってどんな艦? 瑞鶴なら知ってるけど。

七十期氏が騙りだというつもりは別にないけど、
日本の元軍人さんって結構記憶いい加減な人多いよね。
416世界@名無史さん:03/11/23 03:49
>>415
貴様はPCを使用していで一度もタイプミスした事はないのか。

すごいね。
417世界@名無史さん:03/11/23 03:54
>416
アホか。
「瑞鶴(ずいかく)」はどう打ち間違えても「端鶴(たんかく?)」にはならんよ。
418世界@名無史さん:03/11/23 08:03
>>415-417
翔鶴級の幻の三番艦かもしれないじゃないか(w
419世界@名無史さん:03/11/23 11:05
>>417
指摘してあげるにしても言い方ってものがあるだろうさ。
そうちょっと柔らかく言って上げないと反感を感じるだろうね。
IME2000だけど入って無いから、一文字、一文字入れたんでしょ。
そのときに「瑞」と「端」の文字がうろ覚えだったんじゃないかな?
420世界@名無史さん:03/11/23 12:04
手書き入力だったら勘違いして確定してしまうこともあるのでは?

「翔鶴」と入力するのは瑞鶴より手間だよね?
421世界@名無史さん:03/11/23 12:34
厨は帰れ

お前等のせいで先輩の貴重な意見がきけなくなったらどうすんだゴルァ?
422世界@名無史さん:03/11/23 13:50
取り巻きキモイ。
で、偽者だったらどうするのやら。
423世界@名無史さん:03/11/23 17:48
>>422
それはそれでエンターテイメント。
424世界@名無史さん:03/11/23 21:59
それくらいは覚悟の上で匿名掲示板をやっているに100円。
425世界@名無史さん:03/11/23 22:03
>>422
ふ、甘いな。そんなんじゃオカルト板は歩けないぜ。
426世界@名無史さん:03/11/23 22:59
>>422

あんたナイーブ杉!
427世界@名無史さん:03/11/24 01:09
ようするに本物でも偽者でもどっちでもいいということで。

でもそれじゃ、聞く意味なくない?(←注:これは疑問文ではなく修辞的用法です)
428世界@名無史さん:03/11/24 01:57
ええやん。偽者だったら本物の時のシミュレーションで。
それとも意味ないとまずいの?
429世界@名無史さん:03/11/24 15:49
2chで本物かどうか疑いがあるから擁護するなって主張する香具師っていったい・・・
430世界@名無史さん:03/11/24 22:36
かつて、ニフティサーブで海軍予備学生で招集されて、横須賀鎮守府で
終戦を迎えた方の話を読んだことがあります。
書き込みからして本当にそのような体験をされた方のようでした。

海兵の方の書き込みは今回はじめて拝見しました。
よろしければ、オフ会(成立するかどうか分りませんが)で
直接お話を伺えたら、旧海軍に興味がある若輩者として大変ありがたいのですが。

その気はございませんか?
431430:03/11/24 22:39
ちなみに、僕は旧敵国のカナダ人の73歳の知り合いがいましたが、
真珠湾攻撃の時どう思ったか?ということを聞いても、
いつも話をそらされるばかりで、結局、何も話を聞かせてもらえませんでした。
432世界@名無史さん:03/11/25 07:35
あなたのことはともかく

1 昔のことはほじくり返したくない
2 日本(軍)は卑怯だ
3 忘れた
のどれかじゃないかな?
433430:03/11/25 08:11
そのカナダ人は米国が大嫌いで(カナダ人にありがち)、日本、ドイツに対する
戦略爆撃や米軍の中東での軍事行動を非難するメールをよく僕に
送ってくる人でした。(あんまり日本やドイツがWW2でしたことは気に
ならないみたい)

もしかしたら、正面きって日本の真珠湾攻撃を賞賛はできないが、心の底では
「ざまーみろ、アメリカ人」みたいな思いがあったのかもしれません。
434世界@名無史さん :03/11/25 09:56
エアガンの撃ち方を近所のお祖父さんに教えてもらったことある。
「両手で軽く包むように持って、頭上から真っ直ぐ下ろしていって
 標的と照準、目線がピッタリと揃ったら引き金を絞るんだ。引いちゃだめだよ。
 俺はモーゼルを使ってたけど、あれは良く当たったねぇ。
 西部劇みたいな撃ち方をしたってあれは当たらないよ」
と言ってました。若々しい方でした。
435世界@名無史さん:03/11/25 10:23
仙台大空襲に遭った祖父母の話を。
祖父は明治生まれで肺を患っていたので徴兵には遭わずに、
疎開で仙台に住んでいました。祖父母の住んでいた区域は幸い、
焼夷弾が落ちなかったので助かりましたが、隣の区域に焼夷弾の束が落ちたそうです。
が、銀行の金庫室に落ちたので分厚い壁の中で完全に燃えきったらしく、
延焼も無かったそうです。祖母曰く
「中の金やら証券やらは燃えただろうけど、まあその辺一帯の燃えなかった代金
 として考えれば、どっこいどっこいだろうね。」と笑ってました。

祖母が話してくれた焼夷弾の記憶は、
「まず大きな束がB29から落ちてきて、しばらくするとバラバラになってね、
 それが燃えてるから光の雨みたいだったね。それの音が凄かったよ。
 トタンの屋根があるじゃない、あれを竹ボウキで掃いたような「ザァー」って音だったよ。」
祖父は戦前からアメリカの文化が好きだったのと、どこか飄々としていて、
当時まだ珍しかったカメラを持っていたので、特高に目をつけられた事もあったとか。
あと、六角形の工業地帯用の焼夷弾の破片を拾っています。
祖父は空襲に遭った時に、前を走っていた中学校の先生の頭に焼夷弾が直撃して、
眼球や脳漿が飛び散るのを見たそうです。
436世界@名無史さん:03/11/25 15:31
>>434
イイ話だ。昔の両津みたい。
437世界@名無史さん:03/11/26 13:06
海軍兵学校卒業生様はまだかな?
438世界@名無史さん:03/11/26 23:53
 新スレ立てました。

【紙媒体化】大東亜戦争の記憶【計画】
http://bubble.2ch.net/test/read.cgi/middle50/1069605817/

 色々と未熟ですがよろしくお願いします。
439世界@名無史さん:03/11/27 01:03
別海に住んでたうちの祖母ちゃんの話では、終戦後かなり長い間
国後との間では日本の領海なんぞあってなきがごとしで、
夜な夜なソ連の哨戒艇が沿岸ギリギリまで接近しては、
港や集落を探照灯で照射して歩いていたそうだ。
「人狩りに遭うぞ!」といって、夜は誰も外に出ず、
電灯にも灯火管制に使ってた傘を被せたって聞いた。
440世界@名無史さん:03/11/27 01:51
酔ってタクシーで帰宅しマスタ。

タクシーの車中での会話。

ドライバー:日本の平和憲法は世界各国で絶賛されている。
自分:ちなみにどことどこですか? 
   日本にならい、軍隊をもたいないと決めた国はどこですか?
ドライバー:.......


ドライバー:戦後日本が平和だったのは、平和憲法のおかげです。
自分:僕は日米安保があったからだと思いますが、平和憲法を制定するだけで平和になれるのなら、なぜ他の国は平和憲法を制定しないのですか?
ドライバー:......

441世界@名無史さん:03/11/27 02:19
>>440
スレタイor流れと何の関係が?
442世界@名無史さん:03/11/27 05:36
酔っぱらいの言動を分析するのに何の意味が?
443世界@名無史さん:03/11/27 09:00
その老ドライバー氏によると、空襲で逃げ回ったりするのは二度とごめんだ。 ということで少しはスレに関連していると思いますた。

氏によると、イラクに自衛隊を派遣すると日本は戦争に巻き込まれるのだそうです。 なんで? と聞いても答えてくれません。

終戦後にいわゆる平和教育を受けて育った世代にはこういう、観念を押しつけてくるタイプが多いような気がします。>土井たかことか。


444世界@名無史さん:03/11/27 09:08
自衛官がゲリラに殺されはするだろうね。
見返りに米国が対北朝鮮で日本に肩入れしてくれるかだな。

ブッシュが落選後イラク撤退もありうる。
米国全体では中東への石油依存度は4割を切ってるはずだ。
445世界@名無史さん:03/11/27 10:55
>>443
それが体験者さんであったならば
それはそれで生の声だから価値はあるよ。
どんな事をしても戦争はイケナイというね。
それが戦後の人であったならば
我々の様に聞きかじりの知識だから意味は無いけど。
軍事板の井上成美スレから来ました。
漏れの高校時代の担任は海兵出身でした。(七四か七五期)
数学を教えておられたのですが、「遅くてもいいから確実に
結果を出せ」(海軍で云う所の「スロー・バッド・ステディー」ですね)
といつも言っておられました。
漏れが「帝國海軍に興味がある」と言うと豊田譲氏の「江田島教育」を
薦めて下さった事も忘れられない思い出です。
447435:03/11/27 11:38
調べてみたら、その父方の祖父の義理の弟さんが
海軍兵学校第65期生だったそうです。
東京裁判をすべて傍聴して、それ関連の本を出版している人だとか。
448世界@名無史さん:03/11/27 12:06
家にはもう戦争体験を語ってくれる人はいませんが、祖父の弟の戦死状況を伝えた
上官から曽祖父に当てた手紙があります。社交辞令的なものかもしれませんが
当時の状況を知る一助になるのではと思います。(判読困難なところ空白)

拝啓

御令息知勝殿には十一月二日北部江蘇省灌雲県鎮頭庄附近の戦闘において
壮烈なる戦死を遂げられ候 国家の 家の  哀痛の極みにて謹みて
お悔やみを申し上げると共に御礼を申上候
頭庄附近の戦闘は近距離激烈なる戦闘にて倍  敵に対して激戦 る遂に
多大の損害を与へて之を撃破せるもので精強なる皇軍にして極めてよくし得る戦闘に御座候
御令息には分隊長として率先勇敢に戦闘を指揮し敵弾雨下の中に立ちて
敵を 撃中不幸にも一弾を腹部に受け遂に名誉の戦死を遂げられ申し候
戦場に屍を曝すは軍人の本懐とは云へ返す返すも残念に御座候
御令息は小沢隊に属して御出征以来常に謹厳誠実中隊家庭の模範たりし
のみならず幾十度の戦闘に於て最も重要なる照準手として正確無比の照準は
小沢隊戦力の中枢で数え切れぬ程の武功を樹立せられ特に昨夏澤 
攻撃における奮戦振りは小官も眼のあたり見ることを得て感銘今に及ぶも深く忘れ難きもの有之候
今や征戦二年有余知勝殿にも下士官に累進せられ小沢隊幹部の一人として戦闘
にね 又隊内薫陶に  一貫精励努力を続けられ候 此の度の出 にお
分隊長として蘇北の戦野に散華せらる 到り申  戦闘状況並に知勝殿戦死
の報告を受け万感胸に迫りて申上る言葉も無 な 赫々たる武勲と御尊父様
を始め御一同様の御心情を偲びつつ御悔み申上候       敬具

             高見部隊 八部部隊長   八部安太

                 ○○(名字)勝治殿 待史

追伸 小沢隊長より色々 持参せるそ  が
    不 のる   御遠慮なく御申越され度
449世界@名無史さん:03/11/27 12:41
443はバグダッドにでも行って一回空襲で逃げ回ってみるべき。
450世界@名無史さん:03/11/27 15:43
旅費出してくれるなら考えるぞ。
451猿山の岩石:03/11/27 16:19
ヒッチハイクで。
452世界@名無史さん :03/11/27 16:32
>>448
こういう戦死の弔電ってプライベートライアンで描かれたように
事務的に「多大な損失」「英雄的行為」を並べるだけなのかな・・・・。
453世界@名無史さん:03/11/27 23:13
>>452
弔電ではないよ、おそらく指揮官の自筆。
指揮官の部下に対する「最後の責任」と幹候校の教官が言ってましたです。
454世界@名無史さん:03/11/28 01:17
>445
うーん、戦後でも昭和20年代生まれの人は実感こもってると思うけどね。
昭和10年代〜20年代生まれの人は安部譲二いうところの
「大人が勝手に始めた戦争で割を食わされた世代」
だからね。
なんか日教組教育のせいだけにしたい人もいるみたいだけど。
455世界@名無史さん:03/11/28 13:27
>>453
現地の指揮官、将校が戦死した隊員の家族に送るやつですね。
456世界@名無史さん:03/11/28 16:49
>>454
割り喰ったの大正10年代〜昭和10年代生まれまでだろ
昭和20年代生まれは対米コンプレックスの塊になって
米国の功績を素直に認められない火病世代
457世界@名無史さん:03/11/29 10:41
>>452
>>453
>>455
448ですがそうです。直筆です。軍事郵便で送られてました。

葬式の時の弔辞もたくさん残ってますが、そっちの方が
軍国的美辞麗句が凄いです。それなりに興味深いですが。
でもみな恐ろしく達筆です。まだ戦争が激しくなる前のためか、
陸軍大臣からのものもありました。
大叔父の遺髪や軍から貰った弔慰金が手つかずのまま残っていたり、
部隊の活躍が載っている新聞の切り抜きがあったり、
60年以上前のこととはいえ、それらを前にすると妙に現実感を感じます
458世界@名無史さん:03/11/29 14:38
>>457さん、貴重な話を聞かせていただいてありがとうございます。
なんというか、「西部戦線異状なし」でも主人公が故郷に帰ってきたら
親や、親戚、先生は戦争賛美でしかもゲーム感覚でしか考えていないってのがありましたね。

そういえば、祖父の遺品の中に配給切手と
リーフェンシュタールが撮ったベルリン五輪の
「民族の祭典」の戦前の小冊子がありました。おもいっきりナチス賛美でした。
459453:03/11/29 15:09
>>457さん、やはりそうでしたか。
そういう物を残しておられると言う事は素晴らしい事だと思います。
大事になさって下さい。

しかし、遺族への手紙というのは定年まで書きたくないです。
本音の話…。
460世界@名無史さん:03/11/30 18:20
海兵七十期さんが来られたら聞きたいことがあるのになぁ。
杉野修一大佐はどんな方でした?
権平中佐、奥田少佐、航海士高島少尉、葛宇特務大尉、なぞなぞ、阿川弘之氏の「軍艦長門の生涯」に出てくる登場人物の生の姿を語ってもらいたい気がするが・・・。神降臨キボンヌ。
461世界@名無史さん:03/12/03 09:12
以前聞いたうちの祖母の話。

それなりに良い家の長男の祖父と、一人娘だった祖母が結婚したんだけど、
祖母が家を継ぎたいっていうんで、祖父が祖母の家に婿養子としてやってき
たんだって。「まだ弟がいるからそっちに家を継がせればいい」って。
勿論周囲は大反対。今なら分かるが60年前だしなぁ。
周りは見合い結婚とか多かったらしいんだけど、良い家と普通の家の子供同
士の恋愛結婚だったから大変だったって言ってた。

ちなみに祖父は意志が強くてよく働く人(というか母曰く「話した記憶があまり
ない」)だったらしい。私が小さな頃亡くなったんだけど、よく可愛がってもらっ
ていたとか・・・覚えてなくて御免おじいちゃん。
462世界@名無史さん:03/12/04 02:21
>461
463世界@名無史さん:03/12/05 01:33
>>461
戦争と何の関係があるのですか?
464世界@名無史さん:03/12/06 01:55
祖父の話(89歳)
警察学校を出て東京で警察の騎馬隊で見まわりをした後
徴兵で今の北朝鮮へ 二年で除隊になり帰国
それでまた徴兵で中国へ
そこで騎馬隊の副隊長で曹長だったそうだ
南京にも行ったことがあるそうだ そこでまた除隊で帰国
その後、満州開拓団に参加(南満州)
経験を買われ 兵錬で教官になったそうだ
そこで終戦 満州から朝鮮経由で帰ってきた
おれの母も満州生まれ
今いろいろ聞き出してます。 
465世界@名無史さん:03/12/06 02:38
戦争っていっぱい暴力振るえて楽しそう。
466世界@名無史さん:03/12/06 04:58
■小泉とブッシュに殺された日本人(外交官2名)の死体映像。

http://a2.v9186a.c9186.g.vm.akamaistream.net/7/2/9186/v0001/reuters.download.akamai.com/9186/t_assets/20031130/JapanBodies1130_WM_BB_cba8a66e16d2ef20ba1b3ff1b166f6f60fdfe2f0.asf?WMCache=0&&s=reuters&c=reuters_television&cb=fr2

(アドレスは長いけど直リンクです。)
●見たらショック受ける人もいると思うけど、見てほしい。目に焼き付けてほしい。

ロイターのインターネットテレビ
http://www.reuters.com
が載せていたストーリミング映像が、どこかのキャッシュに残ったもののようです。

イラク復興だの、国際貢献だの、まやかしの言葉にだまされてなりません。
これは、ブッシュアメリカの、大義なき侵略戦争の尻拭いを、
日本国民にさせている小泉一味の凶行が招いた悲劇の結果です。
どうごまかそうとも、これ以上、アメリカの侵略戦争の片棒を担がせるために、
国民の血を流させてはなりません。

*真実を少しでも多くの日本人に伝えるために、あらゆる関係掲示板に
  転載をお願いします*
467世界@名無史さん:03/12/06 06:18
ひそかに良スレ
468世界@名無史さん:03/12/06 17:06
>>465
釣りをするつもりならもっとうまくやってください。
469世界@名無史さん:03/12/06 19:58
>>466
・・・鶯谷の笠俊商店に行って、ヘルメットとボディアーマー買ってれば死なずに済んだのにな。
実売で二つ合計¥30,000-程度の品なんだが。
470世界@名無史さん:03/12/06 23:25
あのパジェロ、防弾仕様だぞ。
ヘルメットとボディアーマー程度じゃムリだよ。
装甲車とかで無いとあの襲撃は防げなかっただろうね。
471世界@名無史さん:03/12/07 01:42
>>470
ランクルじゃなかったか?
確かにウインドゥは貫通してなかったね
防弾仕様の車のドアを貫通して、更に中の人間を殺傷するんだから、
自動小銃の威力って凄いな
472世界@名無史さん:03/12/07 09:00
>>470
防弾と言っても“軽”防弾に過ぎなかった。
しかしながら、薄いながらも防御鋼鈑を貫通した時点でかなり弾丸の速度は減速してる。
(実際、被弾は全て盲貫銃創)
それならば、ボディアーマー&ヘルメットで十分対処可能。
顔面がはじけるほどの疵を受けたり、肺を片側失う程度の重症は受けるかもしれないが、
命は助かった可能性はある。
(例の“ motorcycle.jpg”の男性も、今では顔の形成手術を受けてちゃんと口と顎があるとの事)
473464:03/12/08 00:46
祖父に聞いてみました
中国にいたのは昭和12年〜13年の間で
基本的は広州の陸軍本部にいたそうですが 上海 南京などにも行っていたそうです。
南京大虐殺の事を聞いたら 「あれはオーバーだよ」と言っていました。

日本軍の規律は非常に厳しかったそうです。
夜、見まわりをしていたら弾薬庫の衛兵が居眠りをしていて
それを上官に報告しようとしたが 報告するとその衛兵は死刑になるだろう
と思い 起こしてあげてその場で注意し上官には言わなかったそうです。

まだまだありますが またそのうち書きます 
474世界@名無史さん:03/12/08 06:25
>>473
桁の増え方がどう考えてもオカシイ中国側の発表信じる香具師など
今時いるのかねぇ…
475世界@名無史さん:03/12/08 17:21
母方の祖母。

終戦直前は女学生で福井の田舎の比較的裕福な自作農の娘だった。
かなりおてんばだったらしい。
もんぺ姿が奨励された時には京都の呉服屋にいって
もんぺを仕立ててもらったそうな。弟も国民服をそこで作ったそうな。
さすがに友禅とかではなかったらしいが、一般的な戦時下イメージとは
ちょっと違うよな。
戦中後も食べ物に関しては困ったことがなかったらしい。
米兵の捕虜の一団がしばらく道路工事みたいなことをしにやってきた
ことがあったそうで、英語の歌とかをみんなで歌って
結構気楽に働いていたように見えたそうな。

ただ、やはり田舎は田舎の悲哀があったらしく、
名古屋の親類の所に遊びに行ってホテルで飯を食ったんだが、
同年代の親戚の子がホットケーキなるものを注文してて、
それをはじめて見た時ものすごくうまそうに見えた、といっていた。
そのせいかどうかしらんが祖母は今でも
バターと蜂蜜たっぷりのホットケーキが好きだったりする。
476世界@名無史さん:03/12/08 17:34
その祖母と結婚する祖父の場合。

滋賀県の山間部の貧しい大工兼炭焼きの家に長男として生まれた。
負けず嫌いかつ強情な性格だが勉強も頑張ったみたいで、
中学に上がり奨学金をもらって宇都宮大の獣医科に進学。
卒業後軍隊に入り軍用の馬やらロバやらの面倒を見ていたそうな。
転属で満州に行かされるとか言う話が出ていた矢先に終戦となる。
実家近くの地方都市の職員になり、いろいろあって祖母と出会い、
公務員時代に作ったコネを使って銀行に金を借り、
ペットブームを見越して開業。酒乱だったが俺にとっては良い爺ちゃんだった。
477世界@名無史さん:03/12/08 17:48
父方の祖母。

北海道南部。東北系の開拓移民の末で、
あまり広くない農地を持った公務員の家に生まれる。
母方の祖母と同じ年なんだが、こっちの祖母は物資不足で苦労したらしい。
石炭が次第に手に入りにくくなり寒くて難儀した話や、
米食うが減ってすいとんを食うようになってすごく嫌だった話などをしている。
兄が鮭を密漁して闇ルートでさばいて糊口を凌いでいたそうな。
女学校には行かせてもらったが母親が若いころ死んで
継母との折り合いが悪かったらしい。
卒業後しばらく事務員をしていたがすぐ祖父と見合い結婚。
478世界@名無史さん:03/12/08 18:11
父方の祖父。

北海道旭川。祖母の先祖と同じ藩の屯田兵の末裔だったが、
その初代屯田兵の男が、旧藩のしがらみを嫌って更に奥地に入り、
幕末時に内職で関わっていた細工屋を旭川で開いたらしい。
祖父の父の代で三代目で仏壇や箪笥を作って職人も雇い、
そこそこ繁盛していたようだ。
ただ、祖父の父は放蕩者だったらしく、店を潰した上愛人に捨てられ、
旧道庁に勤めていた祖父の兄のところに転がり込み、
結局祖父の兄が戦争前後ごろは一家を支えるようになっていたらしい。

祖父自身は兄の家から大学に通い、学徒出陣の対象になり陸軍に入るが、
内地配属中に終戦。よく聞くしごきもそんなにはきつくなかったようだが、
訓練期間中には嫌いな教官がいたらしく、
同期の訓練生とささやかな嫌がらせをしたらしい。
戦後林野庁の職員になった。
479世界@名無史さん:03/12/08 18:20
ちなみに父方の祖父の家系の誰かがシベリア出兵に行っていたらしく、
捕虜にしたソ連の将校から個人的にもらった(タバコと交換したらしい)
銀製のマグカップが実家に現存。
ちょっと薄っぺらいがイングレーブが精緻で結構綺麗。
祖父本人は「露助」にあまり良い感情はないようだ。
480世界@名無史さん:03/12/09 14:46
仙台空襲に遭った祖母の話。
「広瀬川の一面に人間と馬の死体が浮かんでいて、
 焼夷弾の炎で燃えながら流れてたよ。本当に地獄絵図だった。」

祖父は勤めていた会社が全焼して
近くにあった防火水槽に黒っぽい物が浮かんでいたので
持ち上げてみたら焼け爛れた人間の頭部だった。

その祖父は東京生まれで関東大震災も経験していて
火災が鎮火したあとに街中を見に行ったら
死体がピラミッド状に積み重なっていたそう。
どうやら炎に巻き込まれた人々が、他の人や死体の下に潜り込んだためらしい。
そこら中の川や池にも焼死体や水死体が溢れていて
死体を引き揚げても引き揚げても膨れた死体が水底から浮き上がり続けたようです。
481世界@名無史さん:03/12/09 19:34
>>480
ああ、うちのばあちゃんも似たようなこと言ってたなあ
富山空襲で妹が行方不明になって死体ひとつひとつ
確認して歩いたそうだ。後で生きてることがわかったんだけど
当時は必死で怖いとも気味悪いとも思わなかったそうだ
482世界@名無史さん:03/12/09 21:11
>>480

その投稿を見ると書きづらいですが。

私の母の体験。

東京から、石巻(仙台の東北方向)近郊の親戚の家に疎開していました。
ある夜、仙台のほうが綺麗に光り輝いているのを見て、昔見た花火を思い出していたそうです。
ちょうど、それが仙台大空襲の火。
483世界@名無史さん:03/12/13 00:06
じいさんは、終戦時には怪我して入院していたらしい
一緒に入院してた上官は重症で、「地獄のようだ」の一言が心に残ってるらしい
んでもって今日資料集めでマレーの空戦参加リスト見てたら
偶然俺と同じ苗字の奴が・・
名前も知らないが、じいさんの兄貴は飛行機のりだったときいていたので
じいさんに聞いてみたら、俺の兄貴だ、といっていた
昭和19年に戦死した、とも言っていた
名前をぐぐって、
http://www.warbirds.jp/senri/11-1/22/22.htmlも見たので知っていた・・・・
じいさんの兄貴の名前出してもいいけど、(兄弟多いし個人割り出せないだろうから)まあ、とりあえず伏せとく
484世界@名無史さん:03/12/13 00:12
自分には、中国大陸で任務を遂行した軍曹と、シベリアへ抑留された2人の血が流れている。
485世界@名無史さん:03/12/13 00:14
ちなみに、シベリアへ抑留されたのが親戚に2人という意味。
だから、計3人。
486世界@名無史さん:03/12/13 02:45
父方の祖父

20の時徴兵されて青森から関東入りしたものの、配属先が決まらず
横浜の軍需工場で働く事に。戦車のキャタピラとか作ってたらしい。
上司の目を盗んでは仲間と工場の道具で飯盒や鍋を作っては売り払い、
ちょっとした小遣いゲト。
空爆も頻繁にあったが根性で生き残り、結局配属先が決まる前に終戦。
かせいだ小遣いでみやげ物を買いつつ帰郷。

もっとこう、胸躍る活躍をしてくれよ。



487世界@名無史さん:03/12/13 03:11
>>486
平穏でいいじゃん(皮肉ではない)。
胸躍る活躍=危険に身を晒す行為
なわけだし。
むしろ、リアル。生活感がある。
488世界@名無史さん:03/12/13 08:34
そうだよ。祖父が死んでたら>>486の存在はないんだし。
根性で生き残ったお祖父さんに感謝すべき。
そして日本の為に命を散らした人達への敬意も忘れるな。
489世界@名無史さん:03/12/13 09:11
日本ヲタ、必死だなw
490世界@名無史さん:03/12/13 11:19
>>489日本
491世界@名無史さん:03/12/13 14:51
祖父は北海道の名士?(といっても北海道、たかが知れている)の末子だったようだ。
そのおかげで兵役免除され、軍用犬を育てていたらしい。
その頃の陸軍大佐一家と交流があったらしく、軍用機で上海に遊びに行ったと言っていた。
中国人が日本人にスリを働き、それを見た日本兵が拳銃でただちに撃ち殺したのを目撃したらしい。
今はもう亡くなったが、わたしが昔のことを訊ねると半ば惚けていた爺様にその部分だけを繰り返して聞かされた。
祖父は末子にありがちな放蕩者だった。
そのせいで曽祖父の遺産を分けてもらえず、祖母も娘である母もひどく貧しい暮らしを強いられていたらしい。
492世界@名無史さん:03/12/13 23:09
父親に聞いた話だが、祖父は公務員だった。年が行っていたので、徴兵されな
かったけど、終戦間際に徴兵。ただし将校だったそう。少尉あたりだったはず。
将校になったらすぐに家に軍のトラックがやってきて、当時はまず手に入らない
牛の缶詰とか砂糖とかをおいていったそうだ。実際の戦いはしなかったらしい。

母の祖父は近衛師団の軍曹。背が高くて男前だったそうだ。中国にいったらしく、
その後除隊。戦争の話はしなかったけど、もって帰った中国のお金を貰った。
493480:03/12/14 13:41
その祖母に新しく聞いた話。

8月15日の敗戦の玉音放送直後に
狂信的な陸軍将校が仙台市内で「一億総決起」や
「白虎隊」のビラを配っていたそうです。
でも勝ち負けどうこうよりも、皆戦争が終わって喜んでいたので完全シカト。

それに6〜7月位から、仙台に駐屯していた兵士はワラジを履いて
銃がないらしく、訓練用の木銃か農具のようなものを担いでいたらしい。
494世界@名無史さん:03/12/15 09:15
「白虎隊」か・・・
495480:03/12/15 16:32
まあ、要するに自爆テロ的なことを虚しくも呼びかけていたそうです。
496世界@名無史さん:03/12/15 18:45
俺のじいさんの弟の話…。当時早稲田大学生で、学徒動員で海軍に配属に
なり佐世保で終戦を迎えたそうだ。当然負けると思っていたとか。壊れた
船舶とか原爆とかでもう末期状態だった…。
497世界@名無史さん:03/12/16 17:03
>>496
呉でなくてよかったなぁ…
498世界@名無史さん :03/12/19 16:20
祖母に1945年8月15日のことを聞いてみた。
玉音放送どうこうよりも、琴の六段が放送され「平和っていいなぁ」と思ったそうだ。
天皇云々や敗戦もそんなに気にせずにほぼ全員が電気のカバーを外して
窓の紙テープも剥がし、何も気にせずに生活できることを喜んだらしい。
499[萬○歳]嗚呼12月8日:03/12/19 18:04
[萬●歳]嗚呼12月8日、大東亜聖戦開戦記念日!
まだ「百年戦争」のやっと63年目だ!!

[必●勝]サア!タタカイハ、
(・∀・)コレカラダ!!
⊂  〇 )ウチテシヤマン!!!
(( (
⊂ ⊂  )
500悪の連合王国:UK|米|:03/12/19 18:06
500

(´3`)V サインはヴィ!
501世界@名無史さん:03/12/19 20:54
スレ違いだが、雨本国のヒストリーちゃんねるのインタビューで「体験者に聞く第一
次大戦」があった。出演者は90歳以上ばかしw。

「いやぁ機関銃が凄かった」

とかを聞きながら、あんたの話がTVで聞けるほうがすごいよと1人ツッコミ
502世界@名無史さん:03/12/20 15:08
>>498ですが、祖母の弟は183cm以上あって甲種合格して
中国に行ったらしい。そして敗戦まで生き残った。
が、武装解除の為に弾薬を廃棄した帰りにトロッコから投げ出された
医薬品も無い状態だったので、その負傷が元で亡くなった。

祖母の姉夫妻は満蒙開拓団に参加。
いい場所で普通に生活していたが、敗戦後にソ連軍の侵攻によって
子供2人を殺し、夫妻も首を切って一家で自決した。
祖母の出身地(俺も含め、現在も住んでいる)からは
全部で75人の満蒙開拓団がいたが、生きて帰還できたのは2人だけだった。

戦争が終わったのに死ぬなんてバンド・オブ・ブラザースのようでショックだった。
503世界@名無史さん:03/12/20 17:41
祖父さんは軍属だったんだが終戦の日奉天では
軍の倉庫から市内のある場所まで約4キロ兵隊が道の両側固めて
軍人軍属の家族がリュックかついで物資を運び出したそうだ
翌年の帰国まで楽に売り食い生活ができたみたい
504世界@名無史さん:03/12/20 20:24
俺のじいちゃんは終戦を舞鶴鎮守府で迎えた。

戦後暫くは米軍の投下した機雷の処理をしていたそうだ。
とにかく喰うものがなく、毎日松茸喰っていたらしい。
(何故か昭和20年は松茸が大豊作だったらしい)
故にじいちゃんは松茸をありがたがらない。

あ、浮島丸事件は米軍の機雷が原因で、断じて海軍の謀略
ではないと怒ってます。
505世界@名無史さん:03/12/21 04:14
>浮島丸事件
普通に考えて機雷でしょうね。
終戦直後だから暴動やデマを考えて報道規制をしたのでしょう。
それにまだまだ外地では交戦中でしたからね。

http://www.cinemawork.co.jp/uki.html
506世界@名無史さん:03/12/27 08:27
引き揚げ
507世界@名無史さん:03/12/28 05:36
只今、軍板では海軍兵学校70期の元海軍少佐がおられます。
大和、武蔵、瑞鶴に乗っておられ、長門で終戦を迎えられたとのことです。

http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1072443282/
508世界@名無史さん:03/12/28 14:25
>>507
騙りでしょ
509世界@名無史さん:03/12/28 14:59
>>507
あれ。ポーカ派さんは、もともとこのスレの出身?者ではないですか…?
>>508
書かれている内容の具体性(しようとおもえば本人特定できる)からして
本物と思いますが。
510世界@名無史さん:03/12/28 16:32
自分が参加した(らしい)満州でのある小さな作戦の書類を、
じいちゃんがなぜか持ち帰っていた。
(じいちゃんは一兵卒)
その黄ばんだ書類には「目的」「装備」・・・「人馬の損耗」とかいう文字が見えた。
おいらたちが今普通に作成している企画書や報告書なんかと、
あまり変わらんなあとオモタ。
511世界@名無史さん:03/12/28 21:10
今年のコミケの入場者数ってどのくらいだと思う?
46万人だって。
関東軍と互角に戦えそうな軍事力ですな。
512世界@名無史さん:03/12/28 22:36
オタクにさほどの軍事力があるとは思えませぬ。
513世界@名無史さん:03/12/28 22:40
しかも統制全然取れてないし。
514(○±○)宣統帝溥儀です:03/12/28 22:48
終戦間際の寄せ集めの関東軍どころか、満洲事変を起こした石原莞爾の部
隊にさえも、蹴散らされるであろう。(藁
515世界@名無史さん:03/12/29 00:09
関東軍が勝てるわけない。

・ヲタ軍集団----------エロゲ師団------------------------ちよれん連隊
           |                         |-----泣きゲー連隊
           |                         |-----葉鍵部隊
           |                         |-----陵辱部隊
           |                         
           |------アニヲタ師団----------------------デジキャラット連隊
           |                         |-----CCさくら連隊
           |                         |-----十二国記厨房部隊
           |                         |-----りぼん・ちゃお部隊(大きいお兄ちゃん部隊)
           |                         
           |------コスプレ師団----------------------メイド連隊
                                     |-----格ゲー連隊
                                     |-----ネットアイドル部隊                  
                                             |--------盗撮小隊
                                        
516世界@名無史さん:03/12/30 02:50
どこか?ww2の映像とか多く置いているサイトってないでしょうか?
なかなか見つからん!!
517世界@名無史さん:04/01/01 23:38
海兵七十期のポーカ派 ◆ZYEMgbhZg2 殿
海兵七十五期 殿

遅まきながら、拝読させていただきました。
いろいろご事情はあろうかと存じますが、貴重なお話を再びお聞きしたいものであります。

また、本年もお元気に暮らされることをお祈り申し上げる次第であります。




518世界@名無史さん:04/01/02 00:23
>>515
臭い支那あ・・
519世界@名無史さん:04/01/02 01:56
>>517
今、ポーカ氏はこっちの板におられるよ。ちょっと粘着荒らしが居るけど・・
http://hobby3.2ch.net/test/read.cgi/army/1072443282/
520世界@名無史さん:04/01/02 02:28
私の父は、弱兵で有名な「第8連隊」にいたそうです。2年と3ヶ月の軍隊生活で、
戦争が終わったので、助かった思いがしたそうです。2年3ヶ月の間、満州辺りに
約4ヶ月ほどいたそうで、列車の扉を少し開き、手摺のようなところにしがみついて、
小便をしたときに、中国の大地の広さに驚いたと言ってました。遠くの方にある
ものすごい小さな建物が、同じ位置にずうっと何時間も止まっているように見えたそうです。
列車は、ものすごいスピードを上げて進んでいるのは、すぐ傍の景色というか、体に感じる振動等
からも解っているのに、あの小さな建物は、通り過ぎる景色にはならないように見えたそうです。
どこまで行っても同じ画面が続くと、列車が止まっているような気分になるそうだ。恐ろしい
空間があることを知ったといってました。今年80歳になります。中国では、歩いてばかりで戦闘状況に
なったことが無いようです。(今の私が、ここにいるのも、そのおかげですが 何か?)
何かよく解らないうちに内地に戻され、三重で終戦を迎えたといってます。親父の部隊は、本当に
運のよい人ばかりで、ほとんど助かっているそうだ。第8連隊は、ある意味、無敵の連隊ではなかったか?
521世界@名無史さん:04/01/02 03:32
>>520
玉砕命令を出しても逃げ惑って使い物にならなかった
522世界@名無史さん:04/01/02 05:58
うちのじいちゃんは、昭和20年4月1日にアメリカ軍に撃沈された
阿波丸に乗ってて亡くなりました。
安全航行を保障されてた船だったのに・・・
ばあちゃんは、結局その後再婚しないで息子(俺の親父)を育てました。
後に遺品が回収された時、うちの名前が入った指輪が出てきて
ばあちゃんに還されたそうです(TVにも出たとか)
3年前にばあちゃん死んじゃったんだけど、もっと話し聞いとけばよかったなぁ・・・
523世界@名無史さん:04/01/02 10:59
524世界@名無史さん:04/01/02 11:14
俺のじいちゃんの兄さんも中国で戦死したらしい。
本当、戦時中の日本は狂ってたね。
525世界@名無史さん:04/01/02 13:59
日ソ不可侵条約を破棄したソ連軍の侵攻で、北方漁業で財を成していた
私の祖父母(2人とも子供だったが婚約していた)一家は
命からがら樺太から北海道まで漁船で逃げ出したそうです。
当時知り合いだった人たちの半分以上が行方不明だそうで、
二人とも、特に祖母はロシア人が大嫌いです。
それはもう嫌露厨という表現がピッタリなほど・・・。

526517:04/01/03 00:36
>>519
サンクス。了解しました。

>>520
大阪の連隊ですね。
「またも負けたか8聯隊、これでは勲章9聯隊(くれんたい)」とか言う連隊。
良くも悪くも、大阪人の合理精神があったと考えますなぁ。
527世界@名無史さん:04/01/03 00:52
玉砕なんて作戦の内に入らない。
死ぬのは簡単だが、生き残って責任を果たすのは難しい。
528世界@名無史さん:04/01/04 01:29
http://cgi.2chan.net/f/futaba.php?res=284376
http://cgi.2chan.net/f/futaba.php?res=284500

直リンでもかまわん!おまいら!このオサーンとじい様に泣け!!
529世界@名無史さん:04/01/05 01:31
>>528
保存しました。
530世界@名無史さん:04/01/05 01:55
軍板のスレはもうメチャクチャですね
531世界@名無史さん:04/01/05 12:34
>>528
上のヤシが見れないよう
532世界@名無史さん:04/01/06 00:16
>>531
双葉は流れて消え去るからの〜。
533世界@名無史さん:04/01/06 01:40
上のを保存した人、どこかにウプお願いします…。
534世界@名無史さん:04/01/06 18:02
>>533
一応保存してたけど何が欲しいの?
画像?

それとウプるにもどのアプロダがいいのやら…
535世界@名無史さん:04/01/12 04:45
HOSYU
536世界@名無史さん:04/01/22 00:43
帝大在学中海軍予備学生として引っ張られた祖父は
口を開けば「あんな無教養な奴らが戦争を指導してたと思うと、腸が煮え繰り返る。」
って海兵出の士官の悪口ばかり言ってた。
戦後型エリートの無教養ぶりが問題になったときも、
「昔の陸士、海兵の奴らと変わらんな。奴らにあるのは出世主義だけだ。」って言ってた。
旧制高校出の人からはそう見えるのかな・・・
536氏
予備学生でも十分に一級士官だったのもいれば、
適当にウナギ生活で海兵を卒業したどうしようもない阿呆もおりました。
要するに人間性という事なのでしょう。
538世界@名無史さん:04/01/24 22:59
あ、ポーカー様だ。復活祝いage
539世界@名無史さん:04/01/27 00:39
>>537
戦争末期には「少佐以上は全員辞めよ!」と言われていたらしいですが、
末期の腐敗はそんなに酷かったのですか?
540世界@名無史さん:04/01/28 23:40
お国の為に死ぬ気なんかまったくなかったと言います。
少佐以上で特攻戦死は何人おるでしょうか?

上行くと戦陣訓作ったくせに自殺未遂の揚げ句収監されたあの人とか敵前逃亡の富永、部下だけ特攻させた菅原とか・・・・・。
特攻思いついた源田とか・・・。
541世界@名無史さん:04/01/29 02:10
>>540
東條の自殺失敗はある意味不可抗力かと・・・
普通の人と心臓の位置が違ってたらしいし
542世界@名無史さん:04/01/30 03:17
源田は、源田の死後になって某エースパイロットがかなり叩いていたよね。

世界的潮流もそうだったから仕方が無いとは言え、開戦直前に戦闘機無用論を
実施に移し、戦闘機パイロットを思いっきり削減したところで開戦だからねぇ。
開戦しょっぱなから少数精鋭主義になっちゃったのは、ある意味これが原因だ。
他所の国だと、「爆撃機優位論」なのに、いきなり「戦闘機無用論」だもんなぁ。

源田サーカスの紫電改伝説も、嘘八百みたいに書いていたし、その他も諸々。


ところで、特攻を思いついたのは別の人じゃなかったか?
543世界@名無史さん:04/01/30 09:34
544世界@名無史さん:04/01/30 10:21
 戦争の話はあんまりしなかったけど、俺のじいさんは中国戦線に行ったと言ってた。
激戦区ではなかったようで、戦闘の話はあんまりなかった。(剣道の話はよくしてたな)
「昼間に戦闘が終わると中国人の子供が遊びにきたので、漢字を教えてあげた」とか、
「〜(地名忘れた)の人たちは熱くて辛い料理を長〜い箸を使って食べる」
とか懐かしそうに語ってくれたことがある。
 今にして思うと、俺のじいさんにとっては大戦争というよりも
青年期に異国の匂いに触れた思い出って感じだったのかもしれない。
もっと聞いとけばよかったんだなあ・・・ 
545世界@名無史さん:04/02/05 01:48
test
546世界@名無史さん:04/02/07 05:10
age
547世界@名無史さん:04/02/10 12:17
test
548世界@名無史さん:04/02/15 03:31
あげとこう
549世界@名無史さん:04/02/20 23:56
近所に住んでた元貨客船乗組員の人から聞いた話(5年前に聞き取ったメモより)
軍事板にも書いたがこちらにも

その人が乗り組んでたのは600トン余りの貨客船、これが明治時代の蒸気機関船だった
低速で煙突からは黒煙を濛々と吐き出し、船体が不気味に軋む代物 武装は機銃のみ
その人は似たような旧式船や機帆船ばかり数隻で船団を組んで沖縄に向かったものの
煙突から黒煙を吐いてるため敵機群に見つかり、銃撃を受けた
「ドロドロドロ・・・」と機銃が船団を舐めるたびに周りの船が火を発していく
先頭の1000トン級の輸送船は弾薬に引火 轟音とともに火柱を吹き上げ真っ二つに折れた
右側を航行中の機帆船は同じく弾薬が発火したらしく、爆発とともに木っ端微塵になってしまった
その人の船も銃撃を受け、甲板上の構造物や荷物、そして人が目の前でバラバラに千切れ飛んでいった
そして機関部をやられたらしく「ゴォー」という音とともに船室のガラスが破れ
窓やハッチから蒸気が噴き出してきた
同時に転がるように機関室付近の生き残りが飛び出して来たが
全員頭顔が焼け爛れ海坊主のよう 甲板上には手足や内臓が散乱し目も当てられない
そのうちに積荷の弾薬が発火誘爆し手が付けられなくなったので、船長は総員脱出を決意
用意の筏を海中に放り込み、続いて生き残りは皆海中に飛び込んだ
筏に掴まりながら、爆発を繰り返し炎上する各船を呆然と眺めていたという
勿論船団は全滅 暗くなってから赤々と燃える船がやたら美しかったらしい
その人たちの筏は2日後近くの島(名前失念)に漂着 終戦後やっと帰ることが出来た
550♪\[^ム^](○m○)(^■^)/!:04/02/21 00:36
わしもアメ公の戦闘機が、船団、飛行場、港湾、機関車、灯台なんかを攻
撃するガンカメラ映像を持っているが、何度見てもムカつく。
確かに彼等にも「国際法」で攻撃を禁じられた目標があったはずだが、ほ
とんど無差別な感じだな。
たまに助かった人が「米軍も人道的だった」なんて新聞に電波流している
が、誤爆なんて当たり前って感じだな。
学校で「平和教育」がしたいなら、こういう映像も見せるべきだな。
551世界@名無史さん:04/02/21 08:33
>>550
そしてもちろん民間人もね。
石原都知事も子供の頃敵戦に追われたらしいね。
552質問です:04/02/21 09:59
日本の特攻機は戦闘機に爆装したものが多かったのに、突入時に機銃掃射
している場面を見たことがありません。敵の防御力を削ぎながら突入した
方が効果的だと思うのですが、これはいったい何故なのでしょうか?
553世界@名無史さん:04/02/21 10:16
>>552
1.機銃を外している
2.被弾したり過速に陥ってる飛行機を必死で操縦しててそれどころじゃない

この二つかと
そもそも戦争末期の機銃不足は目を覆うばかり
超ベテラン艦爆乗りの山川新作氏が彗星でフィリピンに進出する際の話だが
前方固定銃が最初から付いておらず、「こんな飛行機には乗らん」とダダをこね
色々工面してやっと一機にだけ装着できた・・・こんな感じ
特攻機になんか勿体無くて積めないとでも考えていたのかと
554世界@名無史さん:04/02/21 13:11
>>553
補足
3.すでに操縦者が重傷を負っていて操縦桿握るのがやっと。

合掌。
555世界@名無史さん:04/02/21 22:49
うちのばーちゃんに聞いた話。昭和20年に北海道室蘭がアメリカ艦隊から
艦砲射撃を受けた。俺が色々調べたら大和の砲身なんか作った
富士製鉄(現新日鉄)などの軍需施設を目標にしたらしい。
ミズーリやら混じっていてかなり強烈だったらしい。
当時ばーちゃんは花の17歳、製鉄所近くの配給所で働いていたんだが、
警報がなったので、急ぎ防空壕へ。最初大型の防空壕へ入ろうとしたんだが、
何故か気が変わって、少し離れた小さな防空壕へ非難したんだそうだ。
しばらく友達とガクブルしてたところ、凄まじい轟音がなって思わず
防空壕から飛び出した。すると最初入ろうとした防空壕が艦砲の直撃
を受けて酷いことになっていたそうだ。その時印象に残っているのが、
沢山の札束がパラパラと辺りに舞っていたことだそうだ。

これはあんまり関係ないが、当時の写真みせてもらった。
ばーちゃん、一人だけデカイ(W当時の女で164CMって和田アッコか
ちゅーねん。
そんなばーちゃんの作るカレーライスが大好きです。
556ういろう:04/02/22 00:40
私の祖父は学徒出陣で満州に送られました。戦争も末期でついにソ連軍が侵
攻して来てあちこちで激しい戦闘がおき、もちろん祖父も戦闘で敵兵を撃っ
たり、また逆に撃たれて、足に弾が直撃したりしました(祖父は獣医学校に
いたのでなんとか弾を自力で出すことができたらしいです)。
結局、日本の敗戦が決まると祖父のいた満州方面の部隊はソ連軍に降伏して
シベリアに送られました。いわゆるシベリア抑留というやつです。収容所に
行く途中でかなりの人が倒れたそうです。祖父は近くで倒れた人に持ってい
た角砂糖をあげたと言っていました。
収容所生活はともかく悲惨だったそうです。夜、トイレに行き、戻って来る
ともう自分の寝る場所がなくなる、それぐらい狭い部屋にたくさんの人が収
容されていました。その上、極寒の地で過酷な労働作業ということもあって、
死んでいく人が後を経ちませんでした。幸い、祖父は柔道をやっていたので
体力はあり、なんとか生き延びられました。数年後、帰国の日が来て無事に
祖国の土を踏むことが出来ました。
ある日、たまたま祖父が出かけていたときの事、町内を見知らぬ男の人が、
「○○さん(祖父の苗字)、満州で一緒だった○○さん」と訪ね歩いていた
そうです。後に分かったことですが、この男の人が先に書いた祖父が角砂糖
をあげた人だったそうで、その時のお礼をしに来たのだそうです。
そんな祖父も去年、他界しました。もうこの話は聞けませんが、私はこの話
を忘れません。
だらだらと長文を書いてしまい、すみませんでした。
557山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/02/22 00:41
>>556
いや、いいお話を聞かせて頂きました。
アチキの通っていた中学校の教頭から聞いた話
教頭は昭和20年の夏、新兵訓練で呉で訓練を受けていた。
8月6日、朝の訓練を始めてすぐに轟音がして地面が揺れ、顔を上げると広島方面
からきのこ雲が上がっていて、空が暗くなっていたそうだ。
訓練は中止され、しばらく待機。昼過ぎになって広島に爆弾が落ちて大きな被害
が出ているらしいと言うことで救援活動に向う。
広島市内が見える辺りまで来ると一面の焼け野原であちこちで黒い煙が出ているのが
見えすごい匂いがしていたそうだ。
市内に入ると小隊ごとに分かれ生存者の救出と死体の搬出をすることになったそうだが、
その教頭の小隊はかなり不真面目だったようで、頭が割れて脳みそが飛び散った死体は
拾い集めるのは面倒だからと、トタン板をかぶせて他の小隊に見つけさせるようにした
りしていたそうだ。
印象的だったのが、倒れた電柱の下敷きになった焼死体を見つけた時に電柱を取り除く
と今まで電柱がのってへこんでいた部分(わき腹)がぶーっと膨らみ、慌てて電柱をもと
どおりに戻して逃げたと言う話。
その教頭は直接原爆の被害はうけていないが、爆発直後の被災地を歩き回ったせいで被爆
し、原爆手帳を持っていた。この話を聞いた当時も冬に体調を崩して血を吐いたと言って
ました。
559世界@名無史さん:04/02/22 21:44
母親の話(故人)名古屋の覚王山近辺に米軍機が墜落した。それを聞いて見に行ったそうだ。
現場では、普通の人が、寄ってたかって「米兵の遺体」を棒で突付いていたそうだ。
熱田区の、白鳥橋<今もある国道1号線に架かる橋>には橋一杯に死体が並んでいた。と、其処を
通るたびに話していた。
隣の床屋の主人は、中国で死体を食べたと言っていた。
560世界@名無史さん:04/02/22 21:46
↑味を聞くのを忘れた。W
爺さんから聞いた話。
爺さんは台北の国民学校で教師をしていたが、ある日米軍機が学校に向って
低空で機銃掃射をしてきたそうだ。
校舎の外にいる人がおらず被害はほとんどなかったが、機銃掃射をした米軍機
は余りに低空で飛びすぎたため立て直しが効かず校庭にあったイチョウの木に
翼を接触させ校庭に不時着したそうだ。
そこで爺さんはじめ学校の職員、近所の軍人などが飛行機を包囲し、操縦士を
捕獲した。その時の操縦士の姿はサンダル履きでパジャマの上にジャンパーを
羽織っただけと言うラフな格好でガムをくちゃくちゃ噛んでいたそうだ。
爺さんはそれを見て、日本は負けたな。と直感で思ったそうだ。
その後、その操縦士は憲兵にどこかに連れて行かれたが、数日して学校の雲梯
に吊るされていたそうだ。
無論、559の人がカキコしたようにみんな棒でつついたり叩いたりした、と言う
よりするように強制されたそうだ。
562世界@名無史さん:04/02/23 02:58
うちの爺さんは満ソ国境警備をしていたらしいがソ連軍が怖くて仕方なかったらしいw
こんな装備で勝てるわけねーだろ!!って自分に突っ込みいれまくってたって。
その後台湾二駐留してバナナ食いまくって終戦だって
563世界@名無史さん:04/02/23 06:47
>>552
そもそも機銃射撃をする突入進路と、
特攻の突入進路が違うから。
固定機銃だから前に撃てば当たると言うモノでは無いので、
付いていても撃てる位置からは侵入しない。
確か特攻は低空から進入してどうのこうのって感じだった。
564世界@名無史さん :04/02/23 16:10
うちの父ちゃんは大正15年産まれ
ワシはかなり年取ってからの子供なんだけど
今のうちに、戦争当時の話を聞いておこうと思うんだに
当時、実家は樺太の大泊郡字馬群丹というところにあって
じいちゃんが床屋をやっていた
徴兵で幹部候補生として旭川の駐屯地にいて、腰にサーベル,長いマント
な〜んていでたちで写真見るとかっこいいんだわ、これが
でも肋膜をわずらって病院にいるうちに所属する大隊ガ、アッツ、キスカ島に
・・・んでもしキスカにいたら玉砕してたって・・・今でも時々話してくれる
終戦後は英語がしゃべれたのでアメさん相手に通訳みたいなことをして
当時のビールとか毛布とかもらったんだって
なんせ戦争時は食べるもんがないもんで、一食にジャガイモ2個とか
砂の入った海泡麺とか食べてた
ロスケ、とチャンコロはいまだにキライらしい 笑
565世界@名無史さん:04/02/23 20:59
当年とって50歳。
伯父がサイパン島で戦死したらしい。
祖母が、次いで父が戦没者遺族となり、ずっと「特別弔慰金国庫債券」を受け取ってきた。
父が死んで私が継承する。
しかし、伯父とはこの世を共有していない。
この債券を平成17年まで受け取る権利がある。年額4万円。
いいのかなあ。
566世界@名無史さん:04/02/23 22:10
第二次世界大戦の被害者は、天皇陛下や一般国民。
中には良い政治家も居た。
しかし、加害者であるクソ官僚どもは、アメリカ軍に取り入り、意地汚く生き残り、その子孫ともども今も笑って暮らしている。
しかも反省していないから、今も閨閥を作り、国民を苦しめている。
ドイツは、日本のクソ官僚に当るナチスにちゃんと罪を総括させた。
なぜ、日本は官僚どもを追及しなかったのか?
そのお陰で、支那のバカや朝鮮のクソどもに、被害者である天皇陛下や国民全体が「謝罪しろ!」などと暴言を吐かれて屈辱を耐えている。
しかも、加害者であるクソ官僚の子孫どもが、捏造された罪を勝手に謝罪し、血税をどんどん渡している。
奴らの罪を知る人々は、大戦で命を失い、生き残った人々も高齢だ。
我々は何ができるのか?
未来の日本の為に総括しなければならない。
歴史から正しく学ばなければならない。
反省のないところからは発展は生れない。
567世界@名無史さん:04/02/24 00:39
うちのじいちゃんの話
うちのじいちゃんは中学出たあと大阪湾沿いの造船所に就職した。
(小型ボート型の特攻兵器とか作ってた)
それで給料月30円だったんだって
(当時月15円あれば一人で暮らすのには充分だったらしい。)
それで終戦の日は休日だったので映画館で映画見て、外にでたら
玉音放送が大音量で流れてたって。
じいちゃんは終戦の年の10月に18歳になるからギリギリ徴兵免れた。
ちなみにじいちゃんの親戚は奈良の大地主だったので、
じいちゃんは戦争中白米のご飯しか食べたことないらしい。
そんなじいちゃんでも志願兵で特攻行こうとしたが
男5人の末っ子で、兄貴は全員兵隊に行ってたから
親に「跡取がいなくなるかもしれんからダメ」と
止められたんだって。
ちなみに今も元気でここ3年連続海外旅行行ってます。

ラッキーな人だ。
568世界@名無史さん:04/02/24 04:40
横浜に住んでた母の子供のころ空襲にあい、防空壕からでると
首のない人が走っていたんだって〜
569世界@名無史さん:04/02/24 05:11
>>568
ジャミラだろ、それ
570世界@名無史さん:04/02/24 09:52
うちの父方の祖父はルーズベルトが死んだ時
「こりゃ負けるな、なぜなら次の大統領は日本をトルーマンだからな」
と言ったそうです。しょうもない話ですが。
571世界@名無史さん:04/02/29 02:11
test
572世界@名無史さん:04/03/01 15:52
高校生の時のクラスメイトに駆逐艦「天霧」の艦長をしていた親戚(クラスメイトの祖父の弟)がいる奴がいて後日調べて見ると確かにそれは事実だった。クラスメイト曰く「戦後ケネディに呼ばれ訪米したとの事」
そんなクラスメイトの家は祖父、父共に軍人だ。
573世界@名無史さん:04/03/01 16:46
花見弘平艦長閣下ですか。
>クラスメイト曰く「戦後ケネディに呼ばれ訪米したとの事」
その前、上院議員時代にいわゆる「ペンフレンド」になってますな。
574世界@名無史さん:04/03/01 16:48
こんな「ものすごい勢い」は嫌だ4
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/whis/1035827824/ の141
575世界@名無史さん:04/03/03 21:58
うちのばあちゃんは満州で電話会社で働いてた。
男性がいなくて(?)身長が高かったばあちゃんが
男のふりしてソ連兵に会社で応対したそうだ。
開放されたらしいが、「青酸カリ持ってて、いざというときは死のうと思った」
って言ってたなあ。
なんか生きるか死ぬかって覚悟を俺は持ったことないけど、やっぱ
こういう経験をしてるから強いと思う。

予断だが俺の高校は戦時中に修学旅行とかでスキーしに行って軍から怒られたらしい・・
576世界@名無史さん:04/03/04 20:38
うちのじいさんは陸軍で中国いったんだけど、食いモン
うまかったなぁ〜なんてのんきなこといってる。年金で
キャバ通いするし(W
じいさんを学校まで出してくれた兄さんが大和乗り組みで帰って
こなかったそうな。何年か前海に沈んだ大和がTV番組で写ってたけど、
それを見ていたじいさん、まるで別人みたいな怖い顔で見てた。
うちのエロじいさんの中では、戦争終わってないのかもしれない。
577世界@名無史さん:04/03/05 17:22
>>576
前に聞いた話だけど、どこかのもう痴呆出ちゃったおじいさん、
夕食とかの途中に突然、
「そう言えば○○(戦死した弟の名前)はどうした?まだ学校から帰ってないのか?」
とか言い出しちゃって家族を困惑させるらしい。
最初は家族の方(息子の嫁とか)も『○○おじさんは戦争で・・・云々・・・』とちゃんと説明してたんだけど、
次の日の夕方にまた、
「おい、○○(戦死した弟の名前)はまだ学校から帰ってないのか?」
と言うので、家族の方もしょうがなく、
『○○おじさんは今日はクラブで帰り遅いって。』とか言う様になったらしい。
(そう言えばおじいさんは「そうか、今日もがんばっとるのう。」とすぐ納得するので)

とにかく、ついこの間まで赤ん坊の人形を抱いたおばあさんとかも普通に居たしなぁ...。
578世界@名無史さん:04/03/10 01:19
うちのばあちゃんの話(関西)
日米開戦当時s16は物資も十分あって、牛肉だって食べれた(当時鶏肉の方が高い)
s18頃から物不足が感じられて終戦時とか結構な物不足だったらしい
ただ環境が良くてそれほど本当に食うに困る事はなかったみたい
朝鮮人は給料がいいから、内地によくきて、環境が良いからどんどんと内地に呼ぶから
あちこちに普通にいたし、当時日本国民ということで違和感はあんまりなかったらしい
ただ肉体労働やら中心で、給料もそんなには良くなかったが、それでも一杯来たらしい
差別は実際あったというか、一流企業が中卒高卒を雇わない、みたいなもんだろうね
外の食い詰め物や素性がわからないから、日雇いの肉体労働中心だったみたい
でもこれは常識であって差別と言えるのかといえば言えないと思うな
近所にいた朝鮮人とばあちゃんは仲が良くて、風邪を引いたときにはその朝鮮人が
心配して栄養がつくようにと野菜などくれたりしたそうだ
579世界@名無史さん:04/03/10 01:33
とりあえず世間で言われてる朝鮮人差別みたいな空気はあんまり無かった
少なくともばあちゃんの語った戦時の話じゃ、就労とかの差くらいか
ただ差別が無かったとは言えないが地域差もあるしひどいところじゃ
ひどい例もあったんだろうとおもうが、今の日本人にも朝鮮人にも
助け合ってやっていけた時期があったのを知り改心して欲しい
ばあちゃんの仲が良かった人は上に描いたように出来た人だったみたい

嫌韓の言う事も悲しいけどほぼ事実だけど、なんとかして仲良くやっていきたいものだ
戦時みたいな大変な時期でも仲良くやっていけたのにどうして平和になって
仲良くなれなく、揚げ足取りとかやるようになってしまったのかと思うと残念だ
580世界@名無史さん:04/03/10 01:49
追伸
10歳くらいの子供だったころは、戦争は良くないとか
反戦教育みたいな感じに当時の話されたが
(当時小学校の図書室にあったはだしのゲンを読んで
戦争の時の話を聞かせてとせがんだのが経緯で
子供だったのではだしのゲンをまるまる信じていたから
戦争って悲惨だったんでしょ?とか聞いたんだが)
20過ぎて、聞いてみるとそういう説教臭い事は言われなかった
思想とかじゃなく、孫とか家族を失いたくない気持ちで
小さい子供の頃は戦争反対を強調して過去の事はなしてくれたんだろうな
20過ぎれば大人だしそういう善悪じゃない方向で受け止める事が
できるから説教めいた当時の話をしなかったんだろうとおもった

581世界@名無史さん:04/03/10 02:27
結局、嫌韓だ嫌日だと騒いでいるのは両国の一部でしょ。
俺は、ワールドカップのとき一緒に応援したよ。
日本の分まで頑張れとね。

なんかすっきりとしない試合だったけれど
まぁよく頑張ったと思う。
582世界@名無史さん:04/03/10 02:40
>なんとかして仲良くやっていきたいものだ
マジレスすると、これは日本人に言うよりは
朝鮮人に言うべきセリフだよね。残念だと思う
感情も極めて最も、ただもういい加減その段階を
超えつつあることもまた事実なわけなんで(仲良くってより、
もう単に関わりたくないって意味で)、賛否両論のバランスが
どうなるか、それすらあやしいといえばあやしい気もするね。
拉致、日本海、竹島、この辺は100年前なら十分開戦理由に
なってるところだと漏れは思ってたりするんで。

今の民間人レベルのぎくしゃくした感情は、
ほぼ100%戦後の朝鮮人の言動によるものと思われ。にも
関わらず、今後仲良くやっていくために謝らなきゃならんのは
どっちなのか、その辺を普通の朝鮮人がわかってない以上、
仲良くなんてなりようが無い。

いわゆる嫌韓も、W杯を境に激増したんだよね。
あの大会見て「一緒に応援出来た」なんてのは、朝鮮に
なんらかの縁があるとか、洗脳教育受けて育ったとか、
愛読紙が朝日新聞ですとかいう奴じゃなければ絶対に無理。
583世界@名無史さん:04/03/10 02:42
自分でレスつけておいてこんなこというのもなんだけど、
朝鮮ネタは不適切な気もするね、このスレだと。

そもそも2002年W杯なんて、全然関係ないし、第二次大戦に。
584世界@名無史さん:04/03/10 18:04
農村ではそれなりに物資がある地域もあったみたいだね。
うちのばあちゃんは戦時中でも食事に困ったことはなかったと言っていた。
秋にキノコ狩りに行けば山盛りの松茸が取れたそうな。
585世界@名無史さん:04/03/13 00:14
私の知り合いの人は(昭和50年頃)勤めていた工場で腕を根本から落とす事故に遭いました。
激しい性格の人でしたが、会社にも文句も言わず、「この腕は悪いことをした腕。無くなって当然」と周りに話していたそうです。
聞くところに行くと、戦時中、大陸の方に行ってらしくて、たびたび村を襲っては食料などを調達していたそうです。
そんなに武器もなく戦況もよくなくて、村を襲うときは皆殺しにしないと、他のところに連絡されて、こっちがやられるとか。
それで、ある村を襲ったときに、子どもが2人ほど逃げて行くのがわかり、かわいそうなので、一瞬ためらいそのまま逃がした。とか
そしたら、案の定、敵が攻めてきたので肥壺の中に入って隠れて命拾いをしたらしいです。
586世界@名無史さん:04/03/13 00:19
父方は都会に住んでいて、空襲に遭ったそうです。
避難して、遠目に炎上する街が輝くのをみて思わず「きれいね〜」とか言ってしまったとか。
あと、家には天井を貼らなかったらしい。なぜか理由は忘れた。

母方は田舎住んでいたそうです。
周りは農家が多かったそうですが、農家は食料を持っているので、戦中、戦後は、すごく威張っていたそうです。
587世界@名無史さん:04/03/13 00:30
第二次世界大戦っていつどんな戦争ですか?
分かりやすく教えて下さい
588世界@名無史さん:04/03/13 01:03
>587

むか〜し昔、ある所にお爺さんとお婆さんがいました。
二人は戦争をしました。

以上
589世界@名無史さん:04/03/13 12:00
>>588
それ面白いとでもおもっているのか?
590世界@名無史さん:04/03/13 15:27
>>587
第1次大戦で負けたドイツはめちゃくちゃいじめられた。
あまりにもいじめられすぎて、一人のイッちゃった人が現れて・・・
591世界@名無史さん:04/03/13 22:07
>>590
一次ではどことドイツが戦ったの?いっちゃった人って誰?
592世界@名無史さん:04/03/13 23:36
ちょっとスレ違いかもしれないけど大学の図書館の地下に戦争関連の資料本があってなんとなく眺めてたら最後のページに、「我々が経験した悲惨な戦争を絶対に繰り返さないため未来の子供達に贈る。昭和30年寄贈〇〇」と書かれていたのにはなんとなくジワッときた。
593世界@名無史さん:04/03/14 22:48
>>592

そうですね、次は勝つほうにつきましょう。
594世界@名無史さん:04/03/15 01:05
良スレage
595世界@名無史さん:04/03/15 18:10
>>592
(´;ω;`)ウッ…
596世界@名無史さん:04/03/15 22:47
>>585
戦争はきれいごとじゃ済まないのだね
597_:04/03/24 17:54
爺さんの言葉
シナ人の平民は、黙っていれば軍服着てるのは皇軍(日本軍)だがシナ軍(国民党軍)か判別出来なかったと。
少しばかりの中国語で話すとシナ軍(国民党軍)だと思われていたと。
国民党軍が少しばかりの日本語を喋れば誰もが皇軍(日本軍)だと思ったとも。
違うと言うとシナ人はビックリしてたとも言う。
皇軍の戦争犯罪が出始めた頃に爺さんは皇軍がやったのもあるけど、
シナ軍がシナ人にやった犯罪が沢山あると言っていた。
当時、そんなに気にしていなかったが爺さんが亡くなって後は
もっとよく聞いていれば良かったと思う今日この頃。
598_:04/03/24 18:00
ちなみに、上に載ってるように戦時中は食べ物の困る地域と困って無い地域があったそうだ。
都市部は困った所が多かったようだが地方や都市部周辺の農村は困って無かったと。
逆に九州の山奥の農村などは食べ物が不作で困ったとも聞いた。
地域によって差が出てる。
599世界@名無史さん:04/03/27 13:40
良スレだね。

私の中学時代の校長先生は特攻隊の生き残りです。
法政大学在学中のことだそうな。(今はサヨか?法政は?)

5回出撃、5回共敵影発見できず。
そして終戦。生き残ったそうな。

特に感慨深く話されている様子はなかったな・・・
今、どうされているのだろうか?もっと話を聞いとけばよかったな。

川越市立J中学のK元校長先生。お元気ですか?
600NHkが沖縄戦での:04/03/27 15:53
日本軍の女装した「自爆テロ」を取りあげるそうだが、こんなことは国際
法なんかなかった「古事記」「日本書紀」に、ヤマトタケル命がやった戦
法で油断した米兵がアホやねん。それを逆恨みして民間人大虐殺したのも
アメリカ軍だよーん!
601世界@名無史さん:04/03/28 19:28
このスレにも春厨が(つ∀`)
602世界@名無史さん:04/03/28 22:09
わしの父親は海軍の予科練でした。小型潜水艦の乗組員でした。
中学の途中で、予科練に入隊した。奈良→宝塚、と移り、最後に瀬戸内海に移った。
その過程のどこかで、特攻隊に志願した。
そして飛行予科練習生なのに、小型潜水艦の乗組員になった。
「こう竜」というらしい。

計画では、母艦に乗せられ、アメリカ艦隊の近くまで連れて行ってもらい、そこで切り離され、潜航して敵艦に近づく。
そして魚雷発射。
でも、魚雷を発射すると軽くなるので、自動的に浮かび上がってしまうらしい。アメリカ艦隊のすぐそばなのに。
それからまた水を入れて潜航して、自力で戻ってくる…ことになっていたらしいのだが。
どう考えても、無理がありますよね。

体当たりではないが、特攻隊であるとのこと。
予科練に入ってから、志願したらしい。
ばあちゃんは、「親に黙って勝手に志願して」と言っていた。
603コンスル ◆6akkgQyWx. :04/03/28 22:22
太平洋戦争というよりは第二次世界大戦中になってしますのですが、私の祖父は高校を農学校へ行ったこともあって
高校時代に郷里から東京の満州国開拓者の養成施設だかなんだかに農業を教えに行ったとか
604世界@名無史さん:04/03/29 00:04
573氏 上院議員の時から交流が有ったんですか。太平洋戦争の本を読んでいたらクラスメイトと同姓だった人が文中に出てきたので聞くと「それ俺の親戚」と聞いたときは驚いたのを今でも覚えてます。宜しければ天霧の経歴等教えてください。
 
 



605\(^■^ ラ 【卍】\(^■^ ラ 【卍】\(^■^ ラ 【卍】:04/03/29 00:40
ねー見てー見てー●●●☆が立ったー!
皇軍キタ━━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━━
カッコいい!
606世界@名無史さん:04/03/29 11:50
>>604
天霧 特型駆逐艦 昭和5年竣工
昭和18年8月2日、ソロモン水域ベラ湾で米魚雷艇「PT109」と交戦、
船体を直接接触させ、魚雷艇を沈めた。
近代戦で極めて稀な戦例であること、PT109の艇長が後の大統領、
J.F.ケネディ中尉だったことで戦史に名を残す。
映画もあります。「魚雷艇PT109 (1963米)」
で、天霧に話を戻すと、同方面でその後も活躍。損傷して内地に回航する。
昭和19年4月マカッサル海峡で触雷、沈没。
607世界@名無史さん:04/03/29 20:33
608世界@名無史さん:04/03/29 22:51
606、607さん有難うございます。僕の祖父母は4人共健在で聞いた話によると、父方の祖父青年満州開拓団に参加するも体調を崩し昭和19年に帰国。親戚の方が松本連隊の一員としてトラック島に行き帰国後戦記を自費出版しました。
母方の祖父は九州に派兵されて終戦を迎えました。殴られた思い出しか無いとか同じ部隊にとろい人がいてどんどん痩せていったと母に言ったそうです。祖母の親戚は特攻隊、潜水艦(南シナ海で撃沈)の一員で帰って来なかったそうです
609世界@名無史さん:04/03/30 03:05
最近、亡くなった祖父に聞いた話を思い出してみると、
どうやら、台湾かフィリピンで憲兵やってたそうです。
パイナップルが旨かったとか、バナナが旨かったとか、
踊りが楽しかっただとか、嫌な思い出らしきものはなかったそうです。
前線に出てなかったみたいなんで、
そんなもんかなって思ったのを覚えている。

もう一人の祖父は訓練中に終戦したので、出征したことはないとか。
610名無的発言者:04/04/10 15:47
良スレだからあげときます
611世界@名無史さん:04/04/11 02:59
609追加。

法要で機会があったので、祖父の日記を発見。台湾第六部隊所属と判明。
隊歌も載ってました。日記の随所に短歌があって、ちょっとびっくり。
帰国時に、親しかったらしき現地人の名前を挙げて、さらば、懐かしき台湾。
で締めくくり、家に帰ったときには、さぁ○○家(実家)の再興だ!と意気込んでいる。
切り替えが早いなぁ、思ったが、日記の後ろの方にあった、新聞の写真の切抜きに出てきた
東条英機氏全てに墨でバッテンが書かれていた。
じいちゃんの心情はいかばかりか。

どうでもいいけど、昭和天皇陛下とツーショットの故皇后陛下の切り抜き見て、
大いに引いた。
612世界@名無史さん :04/04/11 04:38
死んだ祖父から、軍属で南洋諸島(タラワ島)に働きに行った話を聞いたことがあります。
陣地とか防空壕を作っていた、と聞きました。
コンクリートがものすごい厚くて、どれだけ爆撃されてもやられることはないって、
海軍の人が言っていたそうです。
サラトガ型の空母が来襲して、艦載機の攻撃を受けたことがあると言っていました。
タラワ島は、調べてみると米軍は上陸戦に、相当苦労したそうですね。
たしか、兵役検査のため本土に帰ったので、結果的にタラワ島では命拾いしたかたちに
なあと言っていました。
その後→ソ満国境→マレー(途中で輸送船が雷撃され轟沈、運よく助かる)→ニューギ
ニアの方に行く予定が、船が無いのと、敵潜水艦うようよで中止→英軍と戦闘→終戦
なにぶん昔聞いた話なので、僕の勘違いもあるかもしれませんが。
マレーの時、宣撫班にいた時があると言っていました。
ここを見て、思い出して書き込んでみました。長文失礼しました。
613檀那 ◆z.Nil9i28. :04/04/14 03:28
保守
614MAX:04/04/24 19:35
戦争は、もう、ごめんだよ。
615世界@名無史さん:04/04/24 20:44
東条英樹は英霊という人間は戦争を知らない世代。

彼の命令で動いた人間にとっては100回切り刻んでも許せない存在。

彼は日本のために動いたのでない。体制のために国民を無駄死にさせた。
616世界@名無史さん:04/04/24 20:54
祖父は戦争中は会社の都合でアメリカに居たらしいんだけど、
特別、差別などは受けなかったそうです。
そのせいか、戦争のことを聞いても
「戦争に参加したという意識がない」とのこと。
その祖父はおとつい逝きましたが、苦しまずに逝けたのかな…
617世界@名無史さん:04/04/24 21:11
       /  ̄ ̄ ̄ ̄ \               / \
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   / / \            ヽ      /    /
  / /     \            |   /    /         /\
  / /        `ー 、       |   \    \        /    \
  | .|           ー―-、   |    \    \      /       \
  |  |     U         |   |      \   \ /    /\   \
  |  |        l        \ |        \        /   \    \
 ,^ヽ.|  ,;;_llliiillli_iJ   ,;;iiillIIii_   |/=          \     /       \   ,`
 |i^.| |  <・>’    <・>'   | i | \       /      \       \/
 ヽ | |  ヽ  ̄'/   【   ̄ ,   |_//  \   /    /\   \
  | ||     ̄    ┃  ̄     |_l\   \/    /    \   \
  `-|  U   /  ┃       |   \       /       \   \
    |      | _,__i )   U .|     \   /        /   /
     l      i| ||;|||||||i     |.      \/        /   /
    ヽ、   |||||:|||||||||ll  (  /                /   /
     |\   ̄ ̄二 ̄ ̄ |//^\             /   /
_ ,――|  \       / /   \          \  /
 /    |\  ー――一  /    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\  ` '
/     |  \ _/    /    /           \
     |  /  入   /    /              \
やっぱアメリカはすげえや
618世界@名無史さん:04/04/27 01:11
少し余談になるかもしれませんが・・・
私の父は、若くして戦争に参加してます(私は、父が非常に年を取ってから
の末娘なんです)
父は近衛だったので皇居等にいたそうで、現天皇陛下がご幼少で足こぎの車
に乗って、遊んでおられたそうで、その「きこきこ」って音が聞こえてきて
、聞こえなくなるまで敬礼をしてた等の話しを聞きました。
食事は困らなかったようですよ。
うちに、当時の父が、正装(近衛の)で写った写真があり私の宝となってます。
619おばば:04/04/27 02:32
私のおばあちゃんが言ってますた。
1、関東大震災の時ここ(岡山)もゆれた。。。
2、太平洋戦争の時田植えをしてると大きな飛行機が来て
  撃たれるかと思った。。
ある時某番組でおばあちゃん(私のではないですけど^^)
にアナウンサーがインタビューしてますた。
”おばあちゃん大変なことが起こったんですよ!”
おばあちゃん曰く”なんじゃ、戦争がまたはじまったんか?”
さすが長生きした女性も変化とかすのか。多少のことでは
動じないみたいですた。(これ実話)
620世界@名無史さん:04/04/28 16:34
おばあちゃんは大正6年生まれ。

戦争がはじまった。
当時日本位置高い山は新高山(台湾)だったが
ボルネオにはもっと山がある。
戦争が終わったら遠足にいけると楽しみにしていたそう。

戦前日本の軍国主義の「暗黒」なんて物は
ぜんぜん感じなかったそうだ。
621世界@名無史さん:04/04/28 23:18
>>615
ただの釣りなんだろうけど、東条ってそんな大した人間かなあ。
あの時点でたまたま軍のトップにいた軍人に過ぎなかったんではないか。
622世界@名無史さん:04/04/30 13:19
>>615
というより、戦争が不可避になった状況で「たまたま」首相になってしまったと言った方が良いと思うが?
623世界@名無史さん:04/05/05 23:28
じいちゃんがこどもの頃の話。
ソビエトから逃げてたとき、林のなか
で10〜12歳くらいの女の子が下半身血だらけの裸で
死んでたそうだ。じいちゃんビビッて泣きながら
その場を離れたそうだ。その時はまだこどもで
良くわからんかったけど、兎に角怖かった・・・
とのことだった。
その話を聞かされた漏れは、話のヘビーさでへこんだ。
624世界@名無史さん:04/05/16 19:20
父方の祖父さんは、台湾で警察をしていたらしい
捕まえてきた(容疑名は知らない)被疑者は祖母さんが
逃がしていたとのことで、次の日には誰もいなかったらしい・

母方の祖父さんは徴兵されて歩いてフィリピンだかその辺に行かされた
とか言ってた記憶がある。いつもは何にも考えてなさそうな祖父さんだったが
記念文集みたいなのに寄稿したのの写真の眼光は別人のようだった。

東南アジアの国々が独立できたのは俺たちが戦ったからだと言っていたのを良く覚えている

祖父さんの葬式に何々(忘れた)連隊とかいう花と戦友が形容しがたい表情で出棺を見つめていたのを忘れられない
625第20軍団兵:04/05/17 00:46
うちの母方のバサマの話。

九州の炭鉱地帯の話。
近くの町が空襲を受けた。-->特に何にも感想なし。
機銃掃射の話-->「バリバリ、って音がしてね。瓦がザー、って音がするんだよ。」
機銃掃射、空襲より怖かったみたいです。
626世界@名無史さん:04/05/18 22:02
うちの爺さんは、招集されスマトラ島に行きましたが
偶然にもスマトラ島は激しい攻撃にあわなかった様です。
終戦を迎え、帰ったときにはひどいマラリアに掛かっていたらしいです。
当時の事は、多くを語りません。


いまだビックリするのが、85歳を過ぎても毎日3Km以上あるくように
しているとのことで、元気一杯である事。さすがに生き残るだけの事はあって
体力的にすごいのでしょうね。

ちなみにウチの爺さんの家には内閣総理大臣 海部 俊樹とかいてある
旧対戦中は〜という功労の表彰状が有りますが、皆様のところにもあるのでしょうか?

627世界@名無史さん:04/05/18 22:30
>旧対戦中は〜という功労の表彰状が有りますが
死んだ爺さんの所にきた。
婆さんが「死んだあとにこんなモンもらってもクソの役にもたたんわ」と怒ってた。
628626:04/05/18 22:38
「旧大戦中」でした。
629世界@名無史さん:04/05/19 09:23
終戦後に日本に返らずにインドネシア独立の為に
戦った日本兵が2000人程いたって本当?
なんでなの?
630世界@名無史さん:04/05/19 12:09
それはスレ違いですよ
631世界@名無史さん:04/05/19 12:27
<629
気のきいた図書館で調べたまえ。ただしインドネシア関係では、西嶋、内海なんかの左翼DQN学者は
シャーシャーと嘘電波を出しているので、中島慎三郎氏や宮本静夫氏など元軍関係者の本をお奨めする。
映画「ムルデカ170805」もお奨めだ!
632世界@名無史さん:04/05/20 03:07
ビルマ独立のために戦った旧日本兵も忘れるな!
彼の国の小学校では、日本兵による悪行も
共に戦った日本兵のことも教えているそうな。
また、ビルマに進駐していた旧日本兵が
資金を出し合って日本への留学を支援しているという。
633世界@名無史さん:04/05/20 08:49
>>631 ありがとう本屋6件探したけど見つかりませんでした。
   少しずつ捜してみます。ムルデカは見ました。
   
>>632 ビルマにもいたんだ!! それも捜さなきゃ!

学校では習わない事を2chでは知ることができ感謝してます。
勿論、戦争を美化するつもりはないけど学校では日本軍の悪い
部分だけを習い日常は,戦争の話題には目をそらしてきました。
私の世代の人間の殆どが何が真実で何がウソなのか判断できない
人の方が多いと思います。自分自身で調べ判断し正しい歴史認識
ができるようになりたいと思います。
>>630 スレ違いごめんなさい。
   
634世界@名無史さん:04/05/20 08:51
韓国人や中国人の手先となり、同胞を差別する売国奴を糾弾することが、
われわれにとっての差別解消です。
635世界@名無史さん:04/05/20 09:20
ミャンマーは、民主化が性急だと中国に軍事的にも経済的にも飲み込まれてしまいます。

それに大の英国嫌い。
636世界@名無史さん:04/05/20 13:10

実況スレ

プライベート・ライアン ◆ 前扁
http://live10.2ch.net/test/read.cgi/livetx/1085012028/
637世界@名無史さん:04/05/20 13:23
良スレだったのにな。
変なのが湧いてきてしまった。
638世界@名無史さん:04/05/20 18:14
[北朝鮮の反日教科書]
全く赤色匪賊どもの電波は…抗日一偏倒だな。
こういうヤツラに和田春樹は媚なくてはならんのだから、大変だな。
639世界@名無史さん:04/05/20 18:19
私の大叔父はかの有名な陸軍中野学校出身で、満州でスパイやってたそうです。
大変な秀才で、口癖が「堯瞬なにするものぞ!」だったそうで。ちなみに堯と瞬は古代中国の
伝説上の名君で、ようするに「世界で一番俺様が偉い」と言う意味です。念のため。
640世界@名無史さん:04/05/20 20:13

実況スレ

プライベート・ライアン ◆ 前扁
http://live10.2ch.net/test/read.cgi/livetx/1085012028/
641:04/05/20 20:41
642山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/20 22:59
>639
この板の住人なら「尭」と「舜」は知っているかと。
643世界@名無史さん:04/05/21 01:28
>642
まあ、厨の中の人も混じってるようですし
644世界@名無史さん:04/06/12 02:00
漏れのおじいちゃん 南方に行ったらしいが 戦闘があって仲間が死ぬこともあった
でも、そのうち死体に慣れたと言っていた で最後には投降して捕虜になって飯を運ぶ係りになって、飯をポッケにこっそり詰めて、なんとか生き残ったらしい

父方の祖父は知らないのですが祖父の兄は流れ弾が心臓の上に入り、手術でとることもできないそうです。
だから今もレントゲン写真を撮るとピストルの弾があるそうな  その人元気で 80超えて原付でバリバリ走っているそうです。
645世界@名無史さん:04/06/12 02:13
戦争自身関係ないけど  うちの母方の祖母は「大和」に乗艦したことがあるらしい  
詳しい人なら分かると思うが、大和が港に来たときの記念乗艦?一般人の人が乗れる特別なセレモニーみたいなものかな

ただ詳しく聞いてないので今度聞いてみます。
646世界@名無史さん:04/06/12 02:28
無くなったおじイ様は大日本帝国海軍ですたので、その当時の海軍の写真が
かっちょよく残っています。しかし、彼自身は戦争に行くぞと船にのったとき
終戦となりいけなくて、残念だったそうでつ。
彼の兄弟はガダルカナルでなくなってしまったのか、骨壷に石ころが入ったのを
家族は渡されたそうです(泣)もう一人のおじイ様は一般人(かなりいい家柄)ですたが
押さないときにきいたのでよくおぼえてませんが、どうやら満州に穴掘りに行っていたらしい。
647世界@名無史さん:04/06/12 04:00
>645
大和って一般に知られたのは
戦後じゃなかったっけ?
記念乗船なんてありだろうか・・・
648世界@名無史さん:04/06/12 22:50
>>647
本当かどうか知らんが、うちの祖母は戦前陸奥に乗ったって言ってたな。
大砲がとてつもなくでかいんでびびったって言ってた。
まあ、あれだ。余程な軍国少女じゃなきゃ船名なんて詳しかないだろうし
ばあさん的にはでかいのはみんな大和や陸奥(当時は一番でかかった訳だし)
だと思ったんじゃねえか?
649世界@名無史さん:04/06/13 13:21

実況スレ

NHKアーカイブス ◆ 悪石の海 Uボートの遺書
http://live8.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1087100231/
650世界@名無史さん:04/06/13 22:37

実況スレ

NHKアーカイブス ◆ 悪石の海 Uボートの遺書
http://live8.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1087100231/
651世界@名無史さん:04/06/14 01:54
>648
だから、大和は存在を隠していたはずだ。
まぁ、隠せるようなもんじゃないが
わざわざ公開もしないだろう。
陸奥や長門なら納得する。
652645:04/06/14 02:04
すまそん 話に食い違いがあって
母の職場の同僚の父と大変遠い関係の人が大和の乗員だったという話でした。
653世界@名無史さん:04/06/15 16:55
>>647
まあ、艦艇に詳しくない人にとっては、

  大きい海軍さんのフネ = 大 和 

ですからねぇw
砲の並び/艦橋構造物の並びが近い妙高級だったかもしれませんね。

漏れの物故したばあちゃんも「霧島に乗った。」って言ってましたけど定かじゃないです。
(艦名が具体的なので正しいとは思いますがw)
654世界@名無史さん:04/06/19 00:39
超小ネタ
俺のじいちゃんは、応召して内地でごちゃごちゃやっているうちに終戦。戦後は石屋。
部隊では、捧げ銃の姿勢で整列させられ、少しでも銃が振れると、殴られたといってた。
俺が小2の時に死んだので、ほとんど話しは聞けなかったが、楽しい思い出は
あまりなかったようだ。
で、そのじいちゃんの弟は、志願兵で大陸を転戦。ある日の戦闘では、あまりの敵射撃の
激しさに、当ろうが外れようが、板塀の節穴から銃口だけ出して、とりあえず撃ちまくった
らしい。この弟も死んじゃったので、ほとんど話しは聞けずじまい。
655世界@名無史さん:04/06/20 16:44

実況スレ

NHKアーカイブス 涙で書いたラブレター ある帰郷
http://live8.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1087705720/
656世界@名無史さん:04/06/20 22:36

実況スレ

NHKアーカイブス 涙で書いたラブレター ある帰郷
http://live8.2ch.net/test/read.cgi/livenhk/1087705720/
657世界@名無史さん:04/06/20 22:56
>>648
当時のイロハかるたには「長門と陸奥は国の守り」という
札があったくらいだから、軍国少女でなくても当時の主力
艦である陸奥の名前は知っていると思う。
逆に戦前に大和の名を知っていたのは軍国少年くらい。
658世界@名無史さん:04/06/21 11:06
941 名前:Now_loading...774KB 投稿日:04/05/01 21:35 ID:???
>>927,928

初期の今村均率いる第16軍は住民加担の占領政策を行ったから結構評判はいいわけだ。
逆に本国からは滅法評判悪かった。
で、その人道司令官は「ヌルい」って理由でラバウルに飛ばされる。
で、16軍も半分がガダルカナルに飛ばされ、後にやってきた海軍と25軍は
ひどい収奪を行うもんだから、住民感情は一気に最悪。

敗戦後の日本の本国政府の方針はどうだっていうと連合軍のいうことを聞いて
独立運動を弾圧しろってことだった。
オーストラリア軍と一緒になって独立を弾圧する日本軍を見て、幻滅した
1000人近くの連中は脱走、国民党軍を弾圧した日本軍と戦った。
その結果、日本国軍vs国民党軍+日本人義勇兵っていう変な構図ができあがった訳だ。

確かに日本人はインドネシアの独立のために戦ったが,それは日本国が
戦ったって訳じゃない。
日本では軍歴も剥奪、脱走兵の汚名の元、家族は晒しものさ。

お前らの情報操作のやり方は腐れプロ市民共と全く同じ。
何かを知ろうと思えば全てを知らなければならない。全てを伝える義務がある。

>>932
剥奪されたというのが事実。独立派が日本軍基地を包囲して槍や斧で脅迫し、
武器の引渡しを要求、拒否した場合は殺すというコトがあり、
それに従った連中はその後、対蘭日本軍降伏協定違反としてBC級極東軍事裁判法廷に連行、
274名が処刑された。

他にも鉄橋下に突き落とされたり、民間人(婦女子含む)70名が武器引き渡しの人質にされた挙げ句
全員が虐待死もしくは射殺された。
659世界@名無史さん:04/06/25 03:40
戦争を止めるにはどうすればいいか
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/philo/1088016659/l50
どうか知恵を貸してください。一緒に考えましょう。おねがいします。
660↑巨大な「バカの長城」がソビエトるな!:04/06/25 08:42
アカ馬鹿の西嶋本をもとに書くシッタカ奴!
661世界@名無史さん:04/07/02 13:00
10年以上前に近所の書店のお婆さんから聞いた話。
お兄さんが海軍士官で呉におられたので、戦時中家族で会いに行ったことがあるそうです。
その時お兄さんが
“もうすぐ出陣するが、この戦に負けたら日本はお終いだ”
と言っていたことを良く覚えているそうです。
お兄さんが言っていた戦とは、どうやらミッドウェー海戦のことだったらしく、お兄さんはそこで
戦死されたとか。
お婆さん曰く
“何となく、この戦争には勝てないと皆が感じていたようだったよ。
それに下級士官の兄にまで、次の戦は重要な戦だなんて話が漏れ伝わっているようでは
 いけないよね”
と言っておられました。
日本軍は、情報統制が甘かったという話を何かの本で見聞したことがありますが、戦時中の
情報管理について詳しい人がおられたら、是非とも教えてください。
662世界@名無史さん:04/07/03 04:22
真珠湾だって負けたら日本はお終いだったし・・・
本当に綱渡りな戦争をやったもんだ。
663日日是決戦:04/07/03 07:51
「戦争を直視しよう。それにあの緊張感がいい」橋田信介
664世界@名無史さん:04/07/03 09:43
>>657
大和が完成したのは大戦中だよ。
ついでに言えば戦時中はあくまでも「新鋭戦艦」としてしか発表されておらず
どのような戦艦だったのかは一般国民は知らなかった。
665ツバキ:04/07/03 10:50
昔、国会で中曽根さんと社会党のナントカ委員長が討論したとき、片一方は主計少尉
、かみついてる方は二等兵。まったくかみ合わないのがおもしろかった。 
666世界@名無史さん:04/07/04 17:56
昭和六十三年に起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」で逮捕された
少年四人のうちの一人が、知り合いの男性を監禁して殴るけるの暴行を加え
たとして、警視庁竹の塚署に逮捕監禁致傷の疑いで逮捕されていたことが
三日、分かった。

逮捕されたのは埼玉県八潮市、コンピューター会社アルバイト、神作譲容疑者
(三三)。
667世界@名無史さん:04/07/06 23:10
間宮中尉の長い話
668世界@名無史さん:04/07/07 01:48
それは…
このような者だったかな?
669世界@名無史さん:04/07/07 02:02
私が小学生の時に戦争体験についての作文を書くため、父方の祖父に聞いたはなしです。
メモもないし、それまで聞きづらかったこともあって
その時1度しか聞いたことがないのでうろ覚えなんですが。

祖父は満州大学を卒業して、スパイのような事をしていたそうです。
当時なら機密兵とか言うのかな?偵察用の飛行機に乗る事が多かったそうです。
偵察用の飛行機というのは見つからないようにものすごい高度を飛ぶんだそうです。
しかしろくに気圧に耐える装備がついてる飛行機じゃなかったからものすごく揺れるし
気温を調整する機械なんて付いてるわけないから、痛いくらい寒かったそうです。
670669:04/07/07 02:17
私がふと、「日本は負けるって思ってた?」って聞いてみると
「そりゃそうさ。世界情勢を知ってたなら思うはずだ。」と。
どうやら終戦の大分前にはもう負けるのは確定してたんだそうです。
何年前には、と言ってたんですがよく覚えてないです。3・4年前だったかな。

終戦後、祖父は偵察をしていた事のためかあったのか、
位置で言えば今のロシアにある収容所に収容されたそうです。
ご飯は毎日じゃがいもばっかりで、重労働をさせられ、
所内は伝染病がはやって仲間や祖父もかかり
高熱と下痢の続くつらい日々を送ったそうです。
祖父はその時を思い出すのかジャガイモを絶対食べません。
671世界@名無史さん:04/07/07 02:26
>>670
なるほど。
諜報の方なら世界情勢に詳しくなければ勤まらないでしょうね。

ただ、ネットはおろかTVなども存在しない時代に
日本国内に世界情勢を知る人はそう多くなかっただろうし、
知り得る立場の人もおいそれと現実的なことを発言できなかったことが
最大の問題だったといえるでしょう。

そういう意味では今の日本もつい最近までそれほど変わりない世の中だった。
核武装を考えるべきというだけで閣僚をクビになるとか。
針の向きがが180度違うだけで精神構造は同じ。
日本人が歴史に全く教訓を得ていない証拠だ。
672無知:04/07/07 03:40
ちょっと質問していいですか?
うちのじいちゃん大戦時に天皇を守る部隊にいたみたいでちゃんと、
武道館だがどっかだかの石牌に名前も載ってる。
親戚やら親やらはすごいすごい言うだけで具体的に何がすごいんだかちっともわからん。
もしかなりすごいのなら貴重な人物だと思うので戦争の話を聞いてみてここにカキコしたいと思ってます。
どなたか教えてください。
673世界@名無史さん:04/07/07 04:07
>>672
近衛兵は全国の市町村などからたった一人しか選ばれないエリート。
近衛兵のなごりが今の警視庁で、
今でも全国の警察本部(警察庁)と別格になっている。
674世界@名無史さん:04/07/07 05:40
>>673 それは警視庁ではなく「皇宮警察」
675世界@名無史さん:04/07/07 05:50
皇宮警察のサイト
http://www.npa.go.jp/kougu/toppage.htm
676世界@名無史さん:04/07/07 09:52
俺も大した話聞いてないが
俺の祖父の兄にあたる人が戦闘地は忘れたがそこに行って終戦。
終戦後、終戦間際に戦死したと言われて葬式挙げてたそうな。(遺骨も届いたそうな)
で、奥さんが居たんだが独り身じゃー大変で可愛そうだし(そのとき子供が2人居た)、
親戚一同から再婚の話があがってきてどうするか悩んでた時、
ひょっこりその祖父の兄が帰ってきたそうな。
祖父兄曰く、
戦争が終わったということを知らなかった。
戦闘で捕虜になってやっと日本が負けてたのを知った。
拘留されて数年?(数ヶ月?そこらへんが思い出せん)でやっと日本に帰ってきた。
小説やドラマのような話だけど、身近にあった話。



その後、その届いた遺骨は誰のだ?ってもめたそうなw
(そりゃそうだよな、やっと帰ってきたら自分の遺影があるんだもんw)
677世界@名無史さん:04/07/07 10:06
オヤジ(67)
終戦当時7歳。
戦時中、爺ちゃん・婆ちゃん・兄弟達で近所の人達と一緒に防空壕へ。
その時赤ちゃんだった叔母が泣き出して「静かにさせろ!」と怒鳴られたそうな。
あと、自分が小学生時代にオヤジが聞かせてくれたのは
「(戦争当時)朝鮮人が勝手についてきた」(実際近所にいたのかは聴けなかった)
「パチンコ屋は朝鮮人がやっている」ということ。

かあちゃん(享年60)
終戦当時2歳なので戦時中の記憶無し。
大叔父が水兵さんだった。その時の写真がかあちゃんの実家にある。

父方の爺ちゃん(享年77)
大工。余りにガリガリだったので徴兵検査に不合格。
その事を悔やんで戦争のことは一生話さなかった。爺ちゃんの兄弟も戦争に行っていない。

父方の婆ちゃん(94)
防空壕の話をしてくれたのが婆ちゃん。
現在子供7人・孫16人・ひ孫6人(だったような気が)
678世界@名無史さん:04/07/07 11:33
やはり、瑞鶴の沈没寸前の話しは語りたくないのですね。

それどころじゃないだろうし、あの傾き写真取れたのだって奇跡に近い。
大淀が寄ってきたときはそうでもなかったが、左舷の重量物を右舷に移すって作業も
あんまし意味無しやったし、そうこうしているうちに総員上甲板で、艦内の兵も上がってきたが。

すくなくとも、映画の連合艦隊での瑞鶴の最後は酷すぎ嘘だ。
そりゃ酷かったのは事実だが出来るだけ助ける暇はあったぞ、
敵さんも撃墜したパイロット拾いに来るし。

・・・あの引き込まれる早さは思い出したくない
679\(^w^ ウ [=+=]:04/07/07 12:39
余の帝国を思い出せ!
それでもって、サイパン、テニアン、バラオを日本が統治していたこと知らないで、行くヤツラ大杉。
680世界@名無史さん:04/07/07 14:13

余って・・・(^^;)
681魚。:04/07/09 02:02
漏れの高校で原爆先生というあだ名がついた先生がいた。

その先生は爆心地から100Mぐらいしか離れていない工場で働いていて、仕事の途中で腹が痛くなって休憩所への階段登っている最中に原爆が落下。
んで、吹き飛ばされてそのまま井戸に落下して生き残ったらしい。

つか、爆心地から100Mぐらいしか離れてなかったら吹き飛ばされる前に死んでる気がするのですが、どうなんだろう?


682世界@名無史さん:04/07/09 11:38
よくそこら辺は知らないが、爆心地から500メートルほどの家にいた人でも全滅してる。
よほど運がよかったんだろう。
おまけにその後長生きしてるなら。
683日本@名無史さん:04/07/09 12:09
このサイト読んだらおもしろかったよ!

http://homepage3.nifty.com/yoshihito/
684世界@名無史さん:04/07/12 17:35
家族で原爆資料館行ってきた。
うちのじいさん(昭和10年生)は当時小学生だったので、小学生が竹やりの練習してる写真の展示見ながら
「じいさんもこういうことやったの?」と聞いたら、
「やってない。俺らはひたすら校庭でかぼちゃやいもをつくってたなぁ…」とのこと。
竹やりの練習は6年生以上しかやらなかったらしいです。

うちは田舎で飛行機も飛んで来なかったし、農家だったんで食料も困らず、
じいさんは直接戦争を肌で感じたことはなかった様。
たまに都会の方から野菜を買いに来る人がいたとか言ってた。
685世界@名無史さん:04/07/12 19:31
 曾祖父さんの弟が満州で商売をしてて、その関係で祖母も満州に行ってた。
満鉄のお偉いさんの家(奥さんがものすごいけち)で行儀見習いしてたけど、祖母は結婚の為に帰国。
曾祖父さんの弟はそのまま終戦まで満州にいた。豪放磊落な人で、使ってる現地人に炊き出しして
ご飯食べさせたりして面倒みてた人で、現地の人に「ジャングイ」と呼ばれて慕われていたそうだ。
日本の敗戦が伝わると、それまで現地人を苛めていた日本人は、現地人が沢山乗った人力車を
裸足で引かされたり、仕返しされていた。曾祖父も八路軍に捕まって殺される所を、世話をした現地人が
庇ってくれて、無一文になってなんとか日本に戻ってきた。

 祖父は大正末に徴兵されて海軍に。横須賀の航空隊で飛行機の整備してたり八雲でオーストラリアまで
行ったりした人だったけど、除隊して戦時中は水力発電所で働いてた。
たまたま人手の足りない部署にいたので戦地には送られなかったけど、本当なら真っ先に出征させられて
戦死してたといつも行ってた。
訓練航海の写真が家に残ってて、戦艦の甲板を高いところから撮った写真とか、当時のメルボルン市内の
様子とかいっぱい映ってたな。全員で撮ってる記念写真では、真ん中に三毛猫(船のお守り代わり?)が
ちゃんといて、しかも嫌がって動くのを周りの訓練生達が押さえ込んでる感じだった。
686世界@名無史さん:04/07/12 22:22
ま、ホントにダークな話は抹殺されるだろうな。きっと。特に孫になんて話さないよな。

俺の父方の祖父は学徒出陣で大和特攻の生き残り。
でも俺が生まれる前にアボーン。.無念。めっちゃ凄い話が聞けただろうに。

母方の祖父は戦争中、小学生だったそうで。学童疎開してたそうで。
「どんな寒い冬の日でも裸足で歩かされた」って話が印象的だな。
687世界@名無史さん:04/07/12 22:24
>>685
その押さえ込んでる写真みたいw すげー微笑ましいな。
688世界@名無史さん:04/07/12 22:28
ああ、あとお婆ちゃんが、糠漬けの糠を食ったとか言ってたけど、ホントかねえって感じ。

あとその人、俺にご馳走振舞いながら、昔はこんな物食べられなかったのにねえ、
とかいびって来るから腹立つんだよな。

689sage:04/07/13 05:39
担任ではなかったが小学校の頃の先生が某沖縄戦司令官の孫だったそうだ。
もちろん先生が生まれる前に死んでるから直接話を聞いてるワケじゃないが、
沖縄戦に関する本を数年前上梓したらしい。
読んでみたいがタイトル忘れた上に確か自費出版だと思ったからたぶん絶版
してんだろうな。


690世界@名無史さん:04/07/13 10:55
牛島貞満氏かな?
障害者教育に熱心な方で、沖縄戦を題材にした絵本の出版に尽力されたらしい。
著者は、中城小学校教諭の金城明美さんらしい。
ttp://www.ryukyushimpo.co.jp/news/970425je.htm
>「沖縄戦を描いた本は多いが、絵本となると少なく、確かな証言に基づいたものはほとんどない。
>52年前にあったことを伝える優れた絵本を東京で出版し、全国に広めたい」
691世界@名無史さん:04/07/13 12:37
うちのじーちゃんはラバウルに行ったそう。
ラバウルでは現地の女の子と遊んで楽しかったと言っていた。
浜辺で見る夕焼けが最高にキレイだったと言っていて
今の家を新築した際にラッセンを飾っていた。
ラバウルの景色とよく似ているそうだ。
692世界@名無史さん:04/07/13 17:03
なんか終戦時らへんの時はスリ等の泥棒が多発していたそうだ。
693世界@名無史さん:04/07/13 17:41
>>685
>曾祖父も八路軍に捕まって殺される所を、世話をした現地人が庇ってくれて・・・
その“庇った”現地人は、恐らく文革でアボーンされたことでしょぅ。
人民内部にいる、日帝のスパイ、とか何とかいう罪状で・・・
694世界@名無史さん:04/07/13 20:29
>>693
必ずしもそうとは限らんだろ
695世界@名無史さん:04/07/15 22:46
693は2ちゃんらしいレスだなw。
696689:04/07/16 09:22
>>690
そのとおりです。ありがとうございます。
つーか卒業アルバムでフルネーム調べて検索しろって話ですよね。
それにしても色々活動してる先生だ。ガキの頃はただ説教長い人
としか認識してなかったけどな。まあ教育熱心って事なんだね。
697188:04/07/18 22:06
最近やっと、じさまのことやことばが思い出される年齢が僕にきました・・・。

私の祖父は4年前になくなりました。

小さい頃よく、じさまはソ連のスパイだったんだって言ってました。

その頃はへぇ〜ってかんじだったけど、いってみれば赤旗とってたな。
天皇がどうとか。満州にいってたんで抑留されての思想だと思います。

家の実家は戦前は呉服屋でそれは裕福にすごしてたらしいです。
その頃の写真は立派な着物すがたの若者や娘たちが親御さんといっしょでした。

30前後でじさまは終戦迎えたんですけど、まだ日本に戻れませんでした。




69830後半です:04/07/18 22:08
最近やっと、じさまのことやことばが思い出される年齢が僕にきました・・・。

私の祖父は4年前になくなりました。

小さい頃よく、じさまはソ連のスパイだったんだって言ってました。

その頃はへぇ〜ってかんじだったけど、いってみれば赤旗とってたな。
天皇がどうとか。満州にいってたんで抑留されての思想だと思います。

家の実家は戦前は呉服屋でそれは裕福にすごしてたらしいです。
その頃の写真は立派な着物すがたの若者や娘たちが親御さんといっしょでした。

30前後でじさまは終戦迎えたんですけど、まだ日本に戻れませんでした。




69930後半です:04/07/18 22:09
やっと戻ってから・・・口下手でしたので家族に戦争の苦労が伝わりません。
戦争時でもまだ裕福だったので、ばさまや子たちは何を言ってるの?って。

もちろん、家業は疎かったから商工会議所なんて仕事やってたけど。
それはそれで立派な仕事だぞ?
今度は俺、戦争でお前らのことを考えて俺にしてみりゃたいした行動でがんばってやって、
結果、シベリアに抑留されて家族に会いたい、生きて帰りたい、歓迎や誇らしげに迎えてくれるだろう。

思っていたんだが・・・。迎えは喜んでくれた、が・・・今の生活が現実になる。
店の仕事はちんぷんかんぷん。そのうち子供らも見る目が変わった。

なんだ!俺を国は評価してよ!戦争にいったんだぞ?
生活は厳しいのはわかってる、負けたんだから。
でも・・・俺たちに・・・やっと帰ってきたんだ・゜・(つД`)・゜・
あのシベリアで・・・寒いのに帰れない同僚にしてあげなければならないことがたくさん・・・。

70030後半です:04/07/18 22:10
酒!・・・飲むか!
忘れるために・・・俺の思いを・・・仲間のことも、忘れさせてくれ酒よ!

50才ぐらいまで、酒乱でした。僕が記憶ある頃は酒・・・止めてました。
家族そうででアル中に対応の病院にいれたそうです。

僕が小学校のとき野球部の練習は毎日見に来てました。他の父兄と一緒に・・・。
>続き

あのやさしい野球好きのじさまは、僕にとって保護者そのものの存在です。

ときおり、戦争のことを6・7才のときに聞きましたがあまり覚えていません。

今ぐらいの年になるとすんごく聞きたいことがいっぱいあるのに


70130代後半です:04/07/18 22:53
今はじさまの気持ちが少しわかるようなきがします。

記憶があるのは、じさまが60才前後からです。50から60まで生命保険の勧誘をやっていました。

そういえば、会社ネーム入りのボールペンがいっぱいあったな。
60才以降のじさま記憶はっきりあります。銭湯によくバイクの後ろにのって行きました。
あがったら、足のつめを番台のおじさんにかりて切ってくれ、りんごジュースや森永マミーなど飲んだ。

野球の練習(小学生の頃)から帰ると足を洗ってくれました。
じさまはいい人そのものです、僕と兄妹には。
でも、じさまは図書館で本を借りて読むのが日課で、たばこも酒もやめ、庭の小さな畑でとうもろこしやさくらんぼの木植え、
ぶどうを育てたりと、なんとなく地味にすごしてました。

86才でなくなりましたが、その2・3年前から老人ホームで・・・・゜・(つД`)・゜・
あの時代にしては背が高く、20代には東京で俳優を目指したなど(5兄弟の末でした)
やっといきざまをちょっと聞いたぐらい。

いっぱい話ししたのに、今、聞きたいことはなにも聞けない過去の自分に反省_| ̄|○

702世界@名無史さん:04/07/18 23:14
>>386
>(井上中将は)今思えばマリアナ失陥以降は明らかに「海軍軍人」ではなく、「政治家」や「実業家」を
>養成される様な教育をなされるようになり、驚嘆し今更ながらに尊敬いたしております。

いい話だなあ。おれは人生の敗北者だけど、元気出してがんばるぞ。
70330代後半です:04/07/18 23:56
WWU以降はじさまたちが棄てられたが、そろそろヒーローまで行かなくてもありがとうって言ってもいいんじゃない?
時代の危機に殉じたんだから、それを無視するのはあんまりだと!

じさまが僕に言えない空気をつくった戦後マスコミや日教組・全教連の悪行は、
じさまが亡くなってみると取り返しがつかない悪行三昧。

恨まれる対象の筆頭かな?

704世界@名無史さん:04/07/19 13:41
漏れの曾爺さんは朝鮮で人買いをやっていた。
朝鮮に渡っては、本土の炭鉱とか工事現場で使う人夫を掻き集めてたんだと。
そのおかげでかなりの財産を築いた。
705旅のもん:04/07/19 20:56
近所の爺さんで、大陸でスパイ?
をしてたらしく、中国人と倭人の顔の洗い方の違いと
乱数表の作り方を教えてくれた。
706世界@名無史さん:04/07/21 15:50
戦時中に徴兵解除されることってあるの?
うちの爺さん中国でゲリラと戦った後、横浜に帰ってきて解散。
そのまま発電所に勤務してたとか言ってたけど。
707世界@名無史さん:04/07/21 22:45
>>703
それはここに来る連中のよく陥る罠。ほとんどは自分達が思い出したくないから
言わないだけ。現に得意げに自分の戦果の話をする爺もそれなりにいる(いた)。
708世界@名無史さん:04/07/28 17:41
おれはもと韓国国籍をもってた在日。今は日本国籍。
じーちゃんと、とうちゃん話。

おれの死んだじーちゃん(母方)在日。
戦時中、日本に連れてこさせられて長崎の炭鉱で強制労働させられてたらしい。
そのときおもったそうな・・
『今に見ておれ日本人め!』
戦後質屋を開店。
その後、金をどうにか工面したい日本人はじーちゃんの質屋に来店。
頭を下げる日本人をみてニヤニヤ。
毎年正月になると孫である俺らに万札握って配ってました。
お金ってすぎょいね。

おれのとーちゃん、被爆者(長崎)。
今も健在で後遺症もなくピンピンしとる。
原爆手帳もっとるから病院代タダらしい。
風邪ひいて病院いっても手帳だせばタダらしい。
おまけに国から補助金をもらってらしい。
この前バイクと車買ったとニヤニヤしとった。。。
まあこういう人もいるんだなあってワロタ

ちょい不謹慎だったかも、スンマソン
709↑¢(@ら@-)ノこんなのがいるってえのに!:04/07/28 17:50
韓国に修学旅行で行って、土下座させられる中高生がフビンだな。
710nanasi:04/07/28 18:56
戦時中、日本に連れてこさせられて長崎の炭鉱で強制労働させられてたらしい。
そのときおもったそうな・・
『今に見ておれ日本人め!』
戦後質屋を開店。
その後、金をどうにか工面したい日本人はじーちゃんの質屋に来店。
頭を下げる日本人をみてニヤニヤ。
711nanasi:04/07/28 18:58
この人どうして朝鮮半島に帰らなかったのだろう?
何故自分の選択で日本に残ったのだろう。
徴兵もされずに戦地に比べたら安全な内地でいたくせに
その様に考える思考回路もちょっと・・・だな。
712世界@名無史さん:04/07/28 19:21
李承晩政権時代は、庶民は大勢飢え死にの状態だったからだろ?
713nanasi:04/07/28 19:30
つまり自己選択で日本に残ったわけだな。
714世界@名無史さん:04/07/28 20:10
今日はの「その時」は再放送ですが、以前見て無い人は是非。

目からウロコですよ。
715世界@名無史さん:04/07/28 20:13
>>708
>>戦時中、日本に連れてこさせられて長崎の炭鉱で強制労働させられてたらしい

その一言でおまえが韓国人(=うそつき)であることが完全に理解できた。
716世界@名無史さん :04/07/29 08:52
717世界@名無史さん:04/07/29 09:09
>戦時中、日本に連れてこさせられて長崎の炭鉱で強制労働させられてたらしい。
刑事犯罪者だったらありうるか?
718世界@名無史さん:04/07/29 09:14
>>706
>戦時中に徴兵解除されることってあるの?
徴兵期間は確か3年のはず。期間満了すれば除隊。
719世界@名無史さん:04/07/29 09:18
720世界@名無史さん:04/07/29 17:14
ごめんな、俺のじいちゃんが10人いたら日本は勝ってたのに
721世界@名無史さん:04/07/29 17:21
ほう。再婚と養子の繰り返しでじいちゃんが9人にもなったのか。
722世界@名無史さん:04/07/29 17:47
>>716
そうなんすか。
だいぶ前に聞いた話やから俺の聞き間違いかもな。
スマン
723世界@名無史さん:04/07/30 08:17
264 :世界@名無史さん :03/08/07 07:10
また……この季節が来たか……

上記に敬意を表し高射砲あげる。
724世界@名無史さん:04/07/30 16:37
>高射砲あげる。
いらない。置く場所無い。
725那須高原の《栗林白岳閣下》:04/07/30 17:48
引き取ってやるから、ワシの『戦争博物館』におくれ!
726世界@名無史さん:04/07/31 18:43
従軍慰安婦は韓国じゃなくて、インドネシアのオランダ人とフィリピン人のほうが
実は問題なんだが、その手の議論はここでは見ないね。
727世界@名無史さん:04/08/02 08:58
なぜに突然、従軍慰安婦の議論が?
このスレは、体験者に聞く太平洋戦争(第二次世界大戦)
728世界@名無史さん:04/08/02 09:01
従軍慰安婦の体験者なんだろ
729世界@名無史さん:04/08/02 09:59
571 名前:☆アジア諸国の反日って何だ? :04/08/01 13:20
◆ASEAN諸国における対日世論調査

日本は「信頼できる」/「どちらかというと信頼できる」(合計)
インドネシア:86%(78, 88)マレーシア:85%(83, 81)フィリピン:81%(76, 71)
シンガポール:81%(63, 63) タイ:67%(82, 66)ベトナム:72%
● あなたの国と日本は「友好関係にある」/「どちらかというと友好関係にある」(合計)
インドネシア:92% (97, 100)  マレーシア:93%(90, 92)フィリピン:90%(89, 83)
シンガポール:96%(87, 91) タイ:89%(98, 94)ベトナム:93%
[●]アジア諸国と我が国とは深い信頼関係にある。
730世界@名無史さん:04/08/02 17:25
戦争は逃げ
731世界@名無史さん:04/08/02 18:39
>>729
戦後のケアが効いたな。
中韓は成立の経緯からして、
反日がナショナリズムの核になってるから駄目ぽ。
732世界@名無史さん:04/08/03 03:01
中国は反日してなけりゃ共産党が崩壊して中国バブルが崩壊しちゃうからあと100年は反日してくれ(笑
とでも言う政治家が欲しい。今崩壊しちゃうと困るのは投資してる世界中の企業だし。
733世界@名無史さん:04/08/04 20:08
ディスカバリーチャンネルで未解決の歴史を見てた。
前半だけだったけど、先制攻撃はアメリカだったとか
やってたなあ。
734世界@名無史さん:04/08/05 10:51
青空のもと帝都上空のB29 bs ゼロ戦の空中戦みたか?
 高度一万メートル悲しくもゼロ戦は木の葉オトシで墜落していく。
ゼロ戦の乗員は、後でしったが、混血児人だった。母はアメリカ人 父は日本人
靖国の英霊として祭られている。君も機会があれば遊就館で是非参館せよ。
735世界@名無史さん:04/08/05 11:05
ゼロ戦=零式艦上戦闘爆撃機 鬼畜米英の戦闘機の1/3の
重量しかなかった。
736世界@名無史さん:04/08/05 12:20
若い方々が、このように過去の話を聞かれるのは大変良いことだと思います。
身近に経験者がいらっしゃれば、是非その経験を聞いておいて下さい。
戦地に出かけた男性だけではなく、銃後を守っていた女性でも、いろいろと
経験しているものですよ。
737733:04/08/06 00:47
>日本の外交交渉は戦争準備完整の為の時間稼ぎであり、
>その上真珠湾で卑怯な騙し討ちをしたということが世界の定説のようになり、
>そのように思っている日本人も多いが、歴史の真実は正しく訂正されなくてはならない。

こういうサイトもあった。
敗戦国は色々と情報が歪曲される物ですね。
738世界@名無史さん:04/08/06 23:59
母方の祖父母→北海道のものすごい田舎で農家
戦争だからといって特別食い物に困るといったことはなかったみたい。
じいさまは身長が足りず徴兵されなかった。
家に居た農業で使っている馬が軍に徴収されたらしく
「あれはいい馬だったなぁ」とじいさまが言っていた。

父方の祖父母は、祖父が行動に問題がある人で毎日酒ばっかり飲んで働かず
酒の飲みすぎで身体がおかしくなり病気が原因で徴兵されず。
そんなこんなで家は極貧。終戦時、父は7歳。
アメリカ兵に戦争孤児と間違われたのか、父と父の兄二人みすぼらしい格好で
アメリカ軍のジープ通過時にボケーと突っ立って眺めていたらいきなり停止して襟首をつかまれ
シャツの背中やズボンのポケットやらモノが入るところ全てに
缶詰やガムを突っ込まれた記憶があると言っていた。
札幌(石狩)にも空襲があったみたいで、その時は燃える燃料保管庫(のようなところ?)を
家の屋根に上って見学。花火でも見ている気分だったそうです。

739世界@名無史さん:04/08/07 08:18
>>738
瀬戸内少年野球団とかみても、田舎の戦争体験ってそんなもんだよな。
あれ?戦争終わったの?みたいな。親戚が何人か戦争行ってもどってこない
くらいなものだね。都市は悲惨。

でもそれがリアル。
740738:04/08/07 11:47
>>739
そうみたいだね。
戦争だなと思わせるものって、甘いものが手に入らなくなったとか
たまに軍が来るから雪に穴を掘って米を埋めて隠しておいたとかそんくらい。
それも野菜やなんかは元々雪の中に埋めて越冬させるから
隠すというよりは「ついでに埋める」って感じだったみたいだし。

しかし昭和21年から年子で子供作ってるあたり
やっぱ緊張していたんだなとも思いましたが。
741世界@名無史さん:04/08/09 19:12
http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/index.html
祖父の硫黄島戦闘体験記
742世界@名無史さん:04/08/09 19:55
とりあえずハチマキが上下逆な事に気がつく位勉強してから出直せ。http://202.239.72.117/12/src/1092039166011.jpg
743世界@名無史さん:04/08/10 17:35
俺の祖父の話
太平洋戦争開戦の時は学生で射的場にいたそうな。感想は「ついにやったか」だったそうで、うれしくはなかったらしい。その後徴兵され、頭がそこそこだったから会計係(?)に編入された。敗戦色が濃くなると、漠然と「死ぬなぁ」と思ったらしい。
祖母の話
集団疎開して、山梨へ。木かなんかを伐る仕事をさせられ、辛かったらしい。皆で玉音放送を聞き敗戦を知る。その時「明日からもう仕事をしなくて済む」とだけ思い、悲しくは無かったらしい。
もう一人の祖母
東京空襲に遭い、眼の前で逃げていた人が焼夷弾に当ったそうだ。以上でした。
744世界@名無史さん:04/08/15 04:31
私の祖父は徴兵され、終戦まで4年間中国へ行っていたそうです。母から聞いた話なのですが、
祖父は腹部に銃弾を受けてしまい、とても一人では歩けない状態でした。
そして祖父の傷は治らないまま終戦を迎え、祖父達の部隊も日本へ引き上げることになりました。
しかし、一人で歩けない重症兵士は移動の際には置いていく事になっていたのでしょうか。
この時、祖父の枕元に毒が用意され、飲むように言われたそうです。しかし、その時
上官が「だめだ!」と止めに入ったそうです。実はその日に日本から、重症の者も
一緒に引き上げてくるようにとの指令が届いたのだそうです。その指令が届くのが1日でも
ずれていたら二人の伯父、母、兄、私の5人はこの世の存在も知らないままだったっ事に
…祖父も今年で90歳になりました。あの時の弾はまだ体の中に残っているそうです。
私は18になったばかりですが戦争を身近に感じた話でした。
長くなってすみませんでした。

745世界@名無史さん:04/08/15 05:00
平成16年例により国民学校(なちおなーる フオーク シューレ)の
同窓会をおこなう。昭和18年卒 終戦時14歳 20名ほど集合。
 陸軍兵長 陸軍上等兵の現存資格保有者もいましたゾ
兵長殿は本土決戦に備えみずから38歩兵銃とともに八王子在隊
 上等兵、15日(今日です)航空隊所属のため、秘密書類償却の
ため命におりガソリン管を放火したトタン右手に火傷、傷痍軍人の
認定をうけるになった。オフで僕に焼けどのアトを見せ、この手が
言うこと きけばなぁ と寂しくわらうのだった。
 火は延々と9月2日(ミズーリ調印)までそこら中で煙をたちのぼらせた。
真実は本当はこの煙のなかにあるのだ。クズドモ捏造なんかスルンじゃねぇ。
746世界@名無史さん:04/08/15 16:41
戦前のニュース映像がネットで検索可能に テレ朝系会社

戦前の貴重なニュース映画をインターネットで検索し、視聴できるサービスを、テレビ朝日系の番組制作会社「テレビ朝日映像」(東京都港区)が、12日から始める。
システムはNTTコミュニケーションズ(千代田区)が開発した。サイト名は「蔵出しニュース映像館」。
検索できるのは朝日新聞が1935〜40年に制作した劇場ニュース映画「朝日世界ニュース」で約1000項目。
朝日新聞社は34年に米国とドイツの映画会社とニュース契約を結び、独自映像を入手した。
ヒトラー総統とチェンバレン英国首相との会見、ドイツとイタリアとの軍事協定締結など国際ニュースのほか、
平沼内閣総辞職や夕張炭坑の爆発、双葉山の連勝ストップなど国内ニュースもある。
利用者は主にテレビ局など放送業界を想定しており、映像を有料で貸し出す。
一般の人も氏名などを登録すれば、ネット上で動画が無料で見られる。
キーワードやジャンルから検索。動画のほか、ナレーションも聞ける。各項目に付けられたキーワードから、別のニュース項目にも移れる。
ナレーションには差別的表現などもみられるが、テレビ朝日映像は「当時の日本の状況を伝える貴重な歴史資料と考え、あえてそのままの形で掲載しました」と話している。

蔵出しニュース映像館
http://kura.tv-asahipro.co.jp/FilmLibrary/main/SystemTopBefore.do
747世界@名無史さん:04/08/15 18:41
長野から満州国更級郷に行った祖母の姉は
黒龍江省のソ連国境付近で1945年10月に
自分の3人の子供の首を絞め、その他の女性と老人と共に手榴弾で自決した。
関東軍はすでに撤退し、終戦の事実も告げられなかったために男性はソ連軍に向かい全滅。
大叔父は教師をしていたので、大叔母達は学校で自決したらしい。
地元では75人が開拓団に参加したが、生還できたのは2人だけだった。

もちろん遺品など残るわけも無く、曾祖母は弔いの為に敷地内に母子地蔵を建立。
余談だが、その母子地蔵に拝んだ夫婦に子供が授かったという
御礼が何件かあり、地元の新聞にも取り上げられた。
748NHK(日本法曹狂怪)よ反省せよ!:04/08/15 19:38
今年の戦争ドキュンメンタリーも全くもってケシカランな!
朝鮮人特攻隊員の遺言を曲解するな!当時の半島同胞の赤誠をそのまま受け取らねばならない。
御民われ〜は万葉集にある歌だゾ。勝手な後知恵で解釈するナ!

占領地の民間人を保護せずに虐殺、餓死をさせたソ連軍の戦争責任は完全にスルーかよ?!

NHKに厳重に抗議する!!
749世界@名無史さん:04/08/15 20:02
>>747
>黒龍江省のソ連国境付近で1945年10月に
 自分の3人の子供の首を絞め、その他の女性と老人と共に手榴弾で自決した。

これはどうして知ったの?
750世界@名無史さん:04/08/15 21:08
http://www5f.biglobe.ne.jp/~iwojima/index.html
祖父の硫黄島戦闘体験記
751世界@名無史さん:04/08/16 08:20
親父は大正15年4月20日生まれ。

で、昭和20年4月に招集され、茨城県北から歩きで宇都宮まで行って入営した。
3ヶ月の軍事訓練を受けて、そのまま宇都宮に配属。
一応商業簿記ができたので経理係になった。調度の仕事だったとか。

しかしあまり仕事はなく、あいかわらず軍事訓練ばかりやっていたそうだが、
上官の朝鮮人伍長がとにかく嫌な奴で、それ以来死ぬまで朝鮮人嫌いだった。

終戦の報が伝わって事務方以外はさっさと帰郷してしまった。
1ヶ月ほどして進駐軍がやって来て、帳簿と在庫品を渡すとき確認したら、
先に帰った連中が勝手に持ち去って在庫が4分の1しかなくて、大急ぎで帳簿を
訂正したそうだ。もちろん自分らの持ち帰る分も隠した上で。

帰る時、恨まれていた上官はほとんど半殺しの目にあっていたそうだ。
752世界@名無史さん:04/08/16 14:25
>>749
生還した2人が遺族を訪ね、その最期を伝えたそうです。
1人は早期に踵を撃ち抜かれて負傷した為に送還扱いになり
もう1人は末期に右目を負傷した際に気を失い、ソ連兵に死体と間違われたとか。
大叔母達のいた更級郷は付近の川がソ満国境だったので最前線になってしまったそうです。
753世界@名無史さん:04/08/16 21:45
うちの親戚は昔、ハワイやらブラジルやらに出稼ぎに行った人が多くて、
中には移民としてそのまま向こうに定着しちゃった人もいる。
第二次大戦後、そんな人の一人が進駐軍と一緒に故郷に帰ってきた。
その人が「戦争が始まると、アメリカの金持ちはみんな国のために金を出した。
でも日本の金持ちはみんな自分の金を奪われまいとして隠してしまった。
だから日本はダメなんだ」といつも言ってたそうだ。
まあ、アメリカ人になっちゃった人の言ったことなんだけどね。
754だって:04/08/17 18:49
アメリカの金持ち≒ユダヤ人
755世界@名無史さん:04/08/17 18:59
日本の金持ちがだしてもたかが知れてるだろ。

なにより命さしだしてる。
756世界@名無史さん:04/08/17 20:15
>>750
戦争小説なんかよりはるかに面白いな
757749:04/08/18 00:04
>>752
レスどうも

俺がこの前デイサービスの利用者(女性)に聞いた話です

終戦のラジオの話し


天皇陛下の声が聞けるということで、どんな声なんだろう
と聞いていたら何だか日本が負けたようなことを言っていて、
あれ、と思っていたらそのままラジオが終わってしまった

どうやら日本が負けたらしいというのでがっくりきた


そんな感想だったようです
758747:04/08/18 15:06
>>757
祖母も似たようなこと言っているよ。
天皇陛下がどうとか負けたどうこうよりも
とにかく戦争が終わってよかったと。

どっちかっつーと玉音よりも、その後の琴の六弾を聴いて感動したとかw
ちょうど灯火管制も解除されて、街の灯が暗闇に浮び上がって綺麗だったそうな。
759747:04/08/18 15:07
って、すまん。
あんまり似た話じゃないな・・・。
760世界@名無史さん:04/08/19 20:16
>>758
思いっきり逆に思えるが
761749:04/08/20 09:21
>>758
ちょっと>>749の書き方では正確ではなかった
その方も開戦の時から負けるだろうと思っていたらしい
それでも何だかがっくりきた、と

その方の話です
その方の兄が戦地から手紙を送ってきたというのですが
例のごとくところどころに墨がぬってあって読めないようにしてあったそうです
でも日に透かしたりして頑張ったら何が書いてあったかわかったと仰ってました

結局その方の兄はそこで戦死したそうです
戦後その部隊で生き残った方(2人しかいなかったそうです)がしらせてくれたと仰っていました
762世界@名無史さん:04/08/20 22:46
 悲しいお話ですね。そのような方の犠牲の上に
今の日本があるのですね。
763《無手勝流師範》:04/08/21 00:23
昭和二十年三月十日、東京大空襲のBー29を一夜にして三機葬った「凄いヤツ」がいた。
その名は《不忘岳》。
何故Bー29が三機も続けて激突したのか今だに不明であるが、
神国大日本ならではの決戦兵器であった。
764世界@名無史さん:04/08/21 00:30
>>763
材質は竹ですか?
765世界@名無史さん:04/08/22 01:10
帝大から学徒動員されたわしは大田区下丸子の三菱重工で戦車をつくっとった。
多摩川丸子橋で試運転中に曲がるとき誤って民間人がひき殺されたが
まあ戦時中のことで見てみぬふりのようなご時世じゃ。その後、
群馬の大田で芋畑を耕しておると、日の丸を付けた4発の大型の飛行機を見た。
あとからわかったが連山が試験飛行していたらしい。6発の富嶽が構想のみだったが、
ダグラスのコピー呑龍や連山はかなり具体的だったんじゃ。
日本も陸軍戦略爆撃隊で米本土を爆撃できれば、いまも冥土の土産じゃよ。
766世界@名無史さん:04/08/22 15:38
>>750
読むのに3時間かかりました
インターネットのホームページを見て泣いたのは、初めてです
ありがとう

ホームページのできが、あっさりしていて、読者にこびてないところもいい
でもCopyrightの表示ぐらいしたほうがいいのでは?
おじいさんが、撃たれて左腕から背中にかけて貫通銃創とやらをうけて、傷口から膿みが出続けて、
でもまだ生きていて、もがきながらなんとかしている状況の描写なんか、いくらでも転用されそうですよ
767世界@名無史さん:04/08/22 20:29
>766
ご意見どうも。
Copyrightね。

768世界@名無史さん:04/08/25 23:06
a
769世界@名無史さん:04/08/31 12:13
俺がバイクでコケて入院してたときの話。
俺は東京近郊のH山でカーブで刺さってしまい、ふもとのY原のでかい病院に
かつぎこまれた。足の骨が折れてたけど、まあたいしたことはなくてギプスはめた後は病室で退屈な日々を送ってた。
そんときに、同じ病室にH山のゴルフ場で受付やってるっていうオッサンがいた。
オッサンは夜な夜な戦争体験を語ってたんだがその中のひとつ。

外地に行ってたときなんだが、同僚に○○○大を卒業したボンボンが
いてよ、いいところの息子で、軍刀は実家に伝わるなんとかっていうすげえ刀を持っていたんだよ。
ヤッコさん、試し切りをしたくてしょうがなくってよ、で、ある晩、町に出て行ってそこらを
歩ってるチャンコロを適当に理由つけてバサーと切ってみたんだ。ヤッコさんボンボンだからよ、
ビビッてへっぴり腰で切りつけたもんで、一撃で死なねえんだよ。そしたらよ、相手のチャンコロは
必死で、刀の刃の部分を素手でしっかり握っちゃってよ、手を離さねえんだよ、ヤッコさんも返り血浴びてよ、
お互い血だらけになって二人でコレモンで道端でもつれてんのよ。まったく馬鹿だよなあ、へっへっへっ。
結局、刀は先っちょが折れちゃってよ、名刀なんて言ってたが、たいしたことねえもんだよな。
家宝の大事な刀が折れちゃってヤッコさんベソかいてたよ、ワッハッハ。

俺は心理的な抑圧をなにも感じずにこういうことを嬉々として話す奴もいるんだ、と驚愕した。
それまで世間で言われている日本軍の悪行に対しては半信半疑だったんだが、少なくとも俺は信じるに至ったね。
770世界@名無史さん:04/08/31 17:01
>>769
『伝家の宝刀』なんて、研ぎ減りしちゃってて使い物にならんのがほとんどだしなw
771世界@名無史さん:04/09/05 06:02
その前に、お前はいくつで、その話はいつ聞いたものなんだ?
創作を書き込むスレじゃないぞ。
772世界@名無史さん:04/09/13 14:36:04
このスレに前にいた、ポーカー殿と七十五期殿は結局本物なのか?
俺は本物と信じたいのだが。
誰か知ってる人いない?
773世界@名無史さん:04/09/13 15:10:28
>>769
戦地体験のある人は最も若くとも今年80歳のはず。「オッサン」か?
774世界@名無史さん:04/09/13 15:32:37
>>661
そのボンボンとやらは兵舎大部屋住まいのようだから、その時兵卒か下士官だろ。
軍刀なぞを持てる身分じゃないと思うがね。
第一、入営に持参できるはずは無し、家のほうも幹部候補生でもなければ家宝を持ち出すことを許さないと思うが?
775世界@名無史さん:04/09/13 15:33:37
なんで>661と書いたのか、この俺め! >>769の間違い。
776世界@名無史さん:04/09/13 16:02:38
内地に居た叔父は、子供の頃遊んでたら、米軍戦闘機に機銃掃射されたらしい。
777世界@名無史さん:04/09/13 16:03:06
しかも笑いながら語ってた。
778世界@名無史さん:04/09/13 18:21:31
うちのばあちゃんも機銃掃射くらってる
田舎道をリアカーだか大八車だかに荷物積んで歩いてたとき、空からすごい音がして、
見上げると爆撃機の編隊。護衛の戦闘機に掃射食らったとか。まあ荷物ともども無事だ
ったらしいが。とにかく隠れる場所のないところで撃たれたので「無事だったのはむしろ見
逃してもらえたのかもしれない」なんていってたな。もっとも直後に町(愛知県岡崎市)は
火の海でしたが。
779☆誤解するなよ☆:04/09/13 18:55:51
いくら戦時下だからといっても、民間人への攻撃は、
国際法違反だということくらいは知っておこう。
軍律裁判を行っていた日本軍は、無差別に敵搭乗員を殺した訳ではない。
780世界@名無史さん:04/09/14 09:05:55
戦後、水戸射爆場の近くで進駐軍の爆撃機が超低空飛行で
海水浴場の客を気絶させ、畑で農作業をしていたかあちゃんを
ひき殺した。
781世界@名無史さん:04/09/18 14:23:19
>>779
機銃掃射の話は、昔お袋からもきいたことがあるな
田舎の広い畑しかないようなところで
アメリカ軍のトムキャットやらグラマンとかが
女の子とかを機銃掃射で追い回して、狙い撃ちしてたらしいよ
練習か、狩りの遊びでもしているとしか思えんと言っていた。
これって、国際法違反なの?
782世界@名無史さん:04/09/18 14:56:26
>>781
当然だ!(#゚Д゚)
非戦闘員の児童を掃射していいわけがないヽ(`Д´)ノ
783世界@名無史さん:04/09/18 15:10:10
>>782
映像とかの証拠が残ってるわけでもないので
もしも、体験者が公の場所とかで、国際法違反を訴えても
だれにも相手されないか、逆に南京がどうのこうのというやつが
でてくるんだろうな

でも確かに民間人への機銃掃射は、原爆みたいに戦争終結を
早めたとかいう大義名分もくそもないな
784世界@名無史さん:04/09/18 15:27:44
米軍機が来たら隠れなさいという話に説得力をもたせるために
米軍は子供を機銃で追い回すとかを大人が子供に言ったらしい。
要するに、早く家に帰らないと人攫いにさらわれますよとか鬼に
食われますよというのと同じようなもの。
ただ、人攫いや鬼と違って現実味があったし実際に間違えて撃たれる
人もかなりの数にのぼるため、米軍が子供と知ってて撃っていたと
勘違いしてる人もいる。

>>778
のおばあさんは荷物を持ってたから軍需物資かなにかと間違われたか?
日本が大八車や牛車なんかで飛行機の部品を運んでたりしてたのは
米軍も知ってるから、それっぽいのは狙われる。

785世界@名無史さん:04/09/18 16:23:47
>>784
 ニヤニヤ(・∀・)
786世界@名無史さん:04/09/18 16:26:39
(・∀・) ニヤニヤ
787世界@名無史さん:04/09/18 17:00:31
>>784
アメリカ大使館
788世界@名無史さん:04/09/18 17:17:13
>>787
なるほど
だとしたらすごいな、アメリカ人って
話がうまいよな〜

でも、アメリカ軍が1兵卒にいたるまで
軍や国のためにだけ、行動していて
しかも国際法を遵守するっていう前提があって
初めて、>>784の話は成り立つところがちと弱いな

常識的に考えて
極東の東洋人なんて、人と思ってないやつらがいっぱいいて
脳みそ筋肉みたいな、ヒコーキ野郎もゴマンといるのが
前提なんだけどな

789世界@名無史さん:04/09/19 22:54:37

>第2次世界大戦勃発の張本人である日本
  _, ._
( ゚ Д゚)

◆政府の平和的核利用4原則 -中央日報社説- [09/19]
http://japanese.joins.com/html/2004/0919/20040919184805100.html


>わが国は過去数十年間米国の同盟国として自由世界を守るため、ベトナム戦争や
>アフガン戦争、イラク戦争に派兵して核拡散禁止条約(NPT)体制を忠実に遂行し
>てきたというのに、非常に不条理で差別的な待遇を受けている。

>特に第2次世界大戦勃発の張本人である日本が、ウラン濃縮はもちろん再処理工
>場までをも運用しているという事実は、われわれのプライドを大きく傷つけている。


ちなみに、

           朝鮮日報(238万部) 保守的右派。毎日新聞と協力関係
           東亜日報(209万部) 保守的右派。朝日新聞と協力関係
これの社説 →  中央日報(206万部) 保守的右派。日本経済新聞と提携。
           ハンギョレ新聞(60万部) 分断民族の統一&民主化、民族主義が理念
790世界@名無史さん:04/09/20 03:54:48
>>784,788
それ以前に第2次大戦中にジュネーブ条約はない。
子供といえども斥候ぐらいできるので、子供を殺すのは当然。

Might is rightは万国共通だし、今までもこれからもずっとそう。
平和哲学や法治国家の秩序に慣れてしまって、
勘違いする正義漢のアフォは今後も登場するだろう。

大事なことは性悪説にたって敵のことを考えること。
それを怠る偽善者は為政者として失格。
791世界@名無史さん:04/09/20 10:27:50
「力」を持ったら、それを使ってしまうのが人間だしな…
792世界@名無史さん:04/09/20 10:59:11
>>790
ジュネーブ条約はなかったかもしれないが
戦争時における国際法ってのは、100年以上まえから
あったんじゃないの?
明治維新の時も、旧幕府や明治新政府が国際法の勉強に
熱心だった気がするが・・・

私のかすかな記憶では、第二次大戦中の国際法でも
武器を持たなくて、軍服を着ていない、一見民間人に見える
人を、無差別に殺していいっていうのは、
その人たちを保護しているはずの軍隊(この場合旧日本陸海軍)の
責任者(司令官等)が、公式に降伏しないで、どこかに逃げて、
その配下の兵隊が軍服を脱いで、民間人の中に紛れ込んで逃げてしまった
ことが確認できた場合くらいだったと思う。
(要は、まわり全員ゲリラの疑いがある状態)

今のイラクはまさしくこれだけど、今の国際法ではもちろん無差別殺人なんてだめ
なんだろうと思う。

ちなみに、南京陥落時もこの状態だったと言われている。
もし無差別殺人みたいなことがあったとしても、
日本軍は当時の国際法には、違反していなかったらしい
793世界@名無史さん:04/09/20 11:19:36
うちの親父は、予科錬で鹿児島で終戦を迎え、
夜、広島を列車で通過したら、焼け野原にいっぱい
青白い光が飛んでいたのを見たと言ってました。
794世界@名無史さん:04/09/20 21:40:00
>>793
それって人魂ってやつ?
795世界@名無史さん:04/09/20 23:22:27
>>715
いや末期には強制徴収はあったそうだ。
俺の地元だが室蘭のイタンキ浜に強制労働で死んだ中国人を大量に埋めた事件がある。
俺のじいちゃんは当時憲兵だった。学校で勉強した日に
本当の話なの?と聞いたところ「本当だ。だけどそんなことわざわざしらんでいい」
といっておりますた。
強制連行の話になるとつくり話オタがでてくるが、当時生きていた人間が
認めてる事例もあるので、気をつけなー。
ただし、南京大虐殺は人数多すぎw
あと慰安婦。父方のじいさんは徐州方面を転戦したそうだが、売春婦は
いたそうだが、組織的に中国女をどうこうっていうのは(じいさんの周り)
では知らないということ。いや、そこらの子娘にムラムラでXXXってのは
やったことあるようだ。オレが炉理なのはじいさんの遺伝だw
796世界@名無史さん:04/09/20 23:24:36
続き
ちなみに中国人事件の慰霊塔あるが、オレはシナ(変換できねぇ、陰謀だ)
おれは嫌い

http://hokkaido.yomiuri.co.jp/tanken/tanken_t020119.htm
797世界@名無史さん:04/09/21 11:13:49
>795
おそらく、あったんだろうな。
白人が東洋人を虫ケラのように思っているのと同様、日本人も中国人を虫ケラのように思っていたのだろう。
ただ、この話は当時侵攻していた中国人の話。
715は併合していた朝鮮人の話。朝鮮人の強制連行の796のような話はあるのだろうか?
798世界@名無史さん:04/09/21 11:24:08
日本人が中国人を虫ケラのように思うより先に
中国人が同じ中国人を虫ケラだと思っていたんだけどな。
799世界@名無史さん:04/09/21 18:31:30
>>798
そりゃそうだがw強制徴収問題とは関係ないべ〜。
それは論旨のすり替えというんでないかい?
中国人が内戦で殺し合いをしようと、後に文革で大量に死人を
だそうと、日本の強制徴収とは別の話。オレは鬼畜度はシナ人のほうが
上と思ってるので、在日とかエセ日本人とかいうなよw強制徴収は
日本の国策に照らして当時は当然だったんだろ。何しろ日本にとっては
植民地戦争やってたんだから。
800世界@名無史さん:04/09/21 18:43:37
Navigator of the Historical term
旧敵国条項 (国連憲章第107条)


国連憲章第107条を指して、一般に「旧敵国条項」と呼んでいる。
その内容は、第二次世界大戦の際、枢軸国だった日本・ドイツ・ルーマニア・
ブルガリア・ハンガリー・フィンランドを対象(イタリアは途中で枢軸国から脱退し、
連合国側に立って日独に宣戦したので除外)に、これら諸国が国連憲章等に違反した軍事行動
(侵略等)を起こした際、旧連合国(アメリカ等)が国連決議等の拘束力に優先して軍事制裁
を課す事が出来るとした差別条項。しかし、戦後半世紀も経ち、日・独等が国連の中でも重要
な地位を占める現状においては死文化条項であり、時勢に合わない事等から、1995年の国連総会
に於いて、同条項の国連憲章からの削除を求める決議が圧倒的多数で採択された。ただし、安全保障理事会
改組問題の難航で、国連憲章の改正に支障を来しており、同条項の削除自体は未だ実現していない。

シナチクが反対してんだよ。
801世界@名無史さん:04/09/23 14:22:05
>>795
慰安婦は、日本人や、朝鮮人は人気があったそうだが、中国人は汚らしくて、
人気が無かったらしい。
中国人の女性は、軍隊がくると、殺されないために、股おっぴろげで、”強姦してもいい
から、殺さないでくれ” と頼む話が、しばしば、体験記などで読める。
802世界@名無史さん:04/09/23 21:50:10
日本女性も進駐軍に股を広げまくったのでそういうのは世の東西を
問うものではないのでしょう。
803世界@名無史さん:04/09/24 06:11:36
>>802
事前にヤラレ役を用意するのも、洋の東西を問わない。
804世界@名無史さん:04/09/24 09:05:47
>>801
公衆便所とか見ても、羞恥心ゼロ
805世界@名無史さん:04/09/24 09:17:54
北京じゅうに散見するたちしょん、脱糞の跡、パンティを見せながら自転車を漕ぐ風景を見ても、羞恥心ゼロ。
806世界@名無史さん:04/09/24 09:49:14
そういえば、シンガポールに、ギネスブックの連続SEXに挑戦した中国系女性いたな。
807世界@名無史さん:04/09/24 09:52:45
♂より♀のほうが疲労度が少ないからな。
808世界@名無史さん:04/09/24 10:56:14
>>806 記録をねらうということは、衆人環視で?
809世界@名無史さん:04/09/24 10:57:05
衆人環視で? → 衆人監視で?
810世界@名無史さん:04/09/24 11:47:33
    |┃三  ガラッ  三
    |┃三     ./"´     ´"γ  
    |┃      /         ./ ヽ    
    |┃     /ノノ ノノノノノノ人ヾ .!     
    |┃ ≡  彡ノノ .,,,,,  ・ ,,,,, .( 川  
    |┃      r |シ/__ヽ./__ヽ !!ゞ:      
    |┃      ! | "ヽ-.ノ| |ヽ-ノ ヽ!ノ 
    |┃      ヽ{ i ,(r.しn)ヽ ノ}ノ 
    |┃       ヾ ヽ/___U__ |Y// < 特攻隊員は自爆テロリストです。
    |┃        ヽ、ヽ´--ノ`iノ|     あれは国家によるテロルでした。
    |┃       _, 〉ヽ '.⌒'ノ/|   
    |┃     __,,ィ' ト `ニニ/:..ノ|ヽ、_ (↑昨日ホントに言ってた)
811世界@名無史さん:04/09/24 12:22:56
木製飛行機でテロw
812\(○m○)/[大○義]:04/09/24 12:57:06
d´m` b ⇒(○m○)

SAPIO(10/13)号《「日本の戦争」の大義》は、我が《正義の枢軸》に適合した企画だ!

↑\(○m○)/[大●義]諸君、お薦めだゾ!
813_:04/09/25 01:21:46
去年11月に祖父が他界しました。
祖父と祖母が家に来たとき、NHKで戦争の記録番組がやってました。
東条英機が画面に写った時、二人は声を揃えて「こいつは悪い奴だ!」と言っていました。
戦時中のある日、祖父が顔がボコボコになって帰ってきた日があったそうです。
なんでも東条氏が兵士は軍人勅語(?)を暗記しろと突然言い出して、祖父の
班に知恵遅れの兵士が居て覚えられず、連帯責任で下駄で顔の形が変わるまで殴られたらしいです。
814世界@名無史さん:04/09/25 01:28:15
知恵遅れを兵士にすんなよ。
815世界@名無史さん:04/09/25 02:25:36
正しくは
「こいつは(軍人としては出来の)悪い奴だ!」
だろうな。

単なる官僚でしかなかった奴だし。
816とろいつづき:04/09/25 03:14:59
1944年末には彼等日系軍人の一部は特別任務についておりました。
日本語、および日本についてのあらゆる情報を徹底して頭に詰め込む、
終戦後の来るべきアメリカによる日本占領政策の一環としておふたりも
あめ国内の基地において、日本語、及び日本人について勉強に励まれていた
のでした。おかげで今でも日本語が達しゃです。そんなお二人が戦後日本人
と出会った、印象、最初はとても卑屈にみえたそうです。自分たち日系に
対してさえあまりにも腰がひくく、英語が分からない為、白人亜目軍人に
たいしては一層ひどくそううつったそうです。それにたいしてほとんどの
白人ア目軍人は態度がふそんであり、とにかく英語の分からない日本人に
聞くに耐えない罵詈雑言をあびせていたそうです。そういった両者の溝を
うめるのが日系軍人の役目であり、日本全国津々浦々、最盛期にはのべ
3000人近くの日系軍人が通訳として、そして、アメリカ人と日本人の
潤滑油、橋渡しとして、活躍していたそうです。お二人は口をそろえてこう
おっしゃっていました、「日本占領期間中、おおきな暴動などおこらずに
比較的、スムーズに政策が遂行されたのはやはり自分たち日系軍人の存在が
大きかったのではないか、今のイラクを見ているとそう思えてしょう
がない。」と、確かにイラクの占領政策と日本のそれとを単純比較するのは、?ですが、彼等の
その言動にぼくはみょうに説得させられたものです。ちなみに
お二人のうちの一人はジャズドラマーで、日本にジャズをもってきた
オリジネーターのうちの一人です。
817世界@名無史さん:04/09/25 03:20:49
日本人もアメリカ人が日本語わからんのをいいことにバカ
にしてたわけだ。俺の母親、にこにこしながら笑顔で
アメリカ人に罵詈雑言を浴びせたみたいだし。
お互いさまじゃないかと。むしろ日系軍人がいたほうが
文句を日本語でいうことも言えず苦労したんじゃないか?
818toroituduki:04/09/25 04:53:44
あなたの母親の話は知りませんが、日本人の現場責任者がアメリカ兵の
現場監督に平身低頭している光景をなんども見たそうです。
ことばの壁とは、こういった殺伐とした状況ではネガティブな方向に働く
ので、アメリカ人にすれば、当時の一般日本人を相当奇異な目でみていた
ようです。ところで、あなたのレスの”むしろ日系軍人がいたほうが....
ああ、ひとつだけ、アメリカじんがなにも差別意識むきだしで、日本人を
罵倒していたわけではありません。日本人とせっするアメリカ人は末端の人間
ですから、上から、たとえば、この期日までにこの施設を日本人を使って
完成させろといわれたりするわけです。でも、日本人とはコミュニケーション
がとれないので、彼等は工事の進み具合がわからない、自分に託された
仕事がまっとうできるか把握できないので、いらだって、日本人にそれを
ぶつけるわけです、

”と言う部分、意味がわかりかねますが、

ちなみに816はスレをまちがえてうってしまったものです。
スルーしてください。
819世界@名無史さん:04/09/25 06:40:26
まあ当時は降伏=完全な奴隷化って意識だったからな。そこに傲慢とは言え、そこそこの扱いをされれば拍子抜けして妙に下手にでるというか多少卑屈になる気持ちも分からんでもない
820世界@名無史さん:04/09/25 06:45:44
負けるに決まっている戦争しかけたわりには幸運だった。
821世界@名無史さん:04/09/25 06:47:32
>>816-817
イラク人は、英語で切る奴多いからな。
アメリカ人への憎悪が強烈で収まりそうもない。( ̄∀ ̄;;)
822世界@名無史さん:04/09/25 07:29:23
>祖父の班に知恵遅れの兵士が居て覚えられず、
障害何級なんだか、智恵遅れが兵役検査で合格するのかな?
823世界@名無史さん:04/09/25 09:07:42
>>822
当時の検査は、身体の頑健さが中心でしょ?
知能低くても、うかる奴はうかる。
824世界@名無史さん:04/09/25 11:46:04

戦後、国鉄では、アメリカ兵が悪戯して、機関車を乗っ取って乗り回すなどの
事件が多発したが、日本人機関手は文句を言えなかったらしい。
825世界@名無史さん:04/09/25 16:20:54
祖母は終戦のとき未成年でしたが、空襲について教えてくれました。
登下校中に空襲警報が鳴ったらとにかく溝に隠れろとのこと。
だからいつも溝がきれいだったそうです。
祖父(故人)も未成年でしたが田舎にいてB−29など見たことないと
自慢のように語っていました
826世界@名無史さん:04/09/25 23:12:18
日中戦争の話でもいいのか?

今年、戦時中は中国戦線に行っていた祖父が珍しく戦争体験を語ってくれた。
夜間行軍していたら前方に見えていた木のような影が直前に敵の兵士だと分かり、
真っ暗闇の中銃撃戦が突然始まったとか、
中国人の家に押し入って窓の桟の下のレンガを取り外すとそこにお金が隠してあり、
押収して食べ物を買ったとか。
戦後は上海にいた、というので自分も上海は観光で行ったことのある経験から
当時の上海の町並みについて聞いてみると、「ずっと牢屋にいたから知らない」
とのこと。回虫に悩まされて大変だったそうだ。

827佐藤総研:04/09/26 04:01:21
□■ 我が国の安全保障の今後 −米軍撤退と核武装の是非− ■□
http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000102968
http://cgi.mag2.com/cgi-bin/mag2books/vote.cgi?id=0000102968
828世界@名無史さん:04/09/26 04:18:38
20年ぐらい前に亡くなった爺さんからは、シベリア出兵の時の話聞いたなぁ。
あまりに幼い時に聞いた話だから、記憶があまり無いけど、とにかく寒かったらしい。
829世界@名無史さん:04/09/26 05:21:54
歳がばれるが子供のころ「土地の古老」みたいな存在のじいさんが隣に住んでて、日露戦争の話聞いたよ。
830世界@名無史さん:04/09/26 21:36:31
>829

おお、差し支えなければもっと聞かせて下さい。
831世界@名無史さん:04/09/27 13:55:39
そういえば店やってる爺さんがシベリアに出兵して捕虜になったって聞いたな。(今も生きてる
けどなんで九州にいたのにシベリアなんだ?沖縄とかじゃないのか?
832世界@名無史さん:04/09/28 16:07:27
出身地ごとに所属師団は違うけど、色んなトコに従軍するでしょ。
たとえば沖縄戦には旭川の第5師団が投入されてるし、大阪の師団が南方
いったり、、って釣り?シベリアってことは満州の関東軍にでも所属してたんじゃねーの?
833世界@名無史さん:04/09/29 16:37:00
うちの祖父は肺病で痩せていたから甲乙丙丁戊の全てにひっかからずに
「徴兵免除状」を持っていたよ。かなり珍しかったらしい。でも92歳の大往生でした。

曽祖父は日露戦争では砲兵隊所属、軍曹だったらしい。
軍帽と鉄兜の影響で、完全に禿げ上がってしまったそうで。
ある戦闘で武勲を立て、中隊長から特進などの褒章を打診されたが
「老父母が心配なので帰還させてほしい。」と申し出て、2年間繰上げで無事生還。
834世界@名無史さん:04/09/30 02:09:19
大体、激戦地には北海道か、東北、九州の部隊が送り込まれます。
都会の兵士は個人主義的なところがあり、戦況が不利になると、バラバラに
なってしまうらしい。
職業軍人の場合は、鉄兜を被り、汗をかくせいで、禿が多いそうです。
東條英機なども軍人ハゲですね。
835☆(・∀・)ニヤニヤ :04/09/30 07:21:35
\(○m○)/
我が皇軍は、米英蘭の植民地であった東南アジアを[解放⇒独立]こそはすれども「侵略」などしてはいないゾ!
インド領内にアジアの軍隊が進攻した事実は、それだけで歴史的快挙だった!

\[・ム・ ] ‖苗‖
ワシも毛は薄かったが、これは思い切って剃ったからだな。
836世界@名無史さん:04/09/30 08:15:11
>>831
シベリア出兵って1918年から1922年だから、その時兵隊だった人は
少なくとも100歳前後にはなってるよ。それでお店をやってるの?
それは捕虜になってシベリアへ送られたって話じゃないの?
837世界@名無史さん:04/09/30 09:02:14
大正のシベリア出兵の時には捕虜になった日本兵はいないはず。
838世界@名無史さん:04/09/30 09:46:08
>>それは捕虜になってシベリアへ送られたって

大東亜戦争終結時のことを言っているのでしょう。
839世界@名無史さん:04/10/01 16:34:14
日露戦争時でもノヴゴロド県の近くに捕虜収容施設があったそうだが、200人にも満たなかったはず。
840世界@名無史さん:04/10/08 20:31:29
うちの爺さんは97まで生きる丈夫な爺さんだったんだけど、
結核?になってたらしく兵役を免れたそうな。曽祖父が日露戦争の
英雄だったらしく、(勲一等金なんとかって勲章もらったらしい)
地元では責められたりはしなかったそうな。そんな爺さんの戦争体験と言えば、
B-29が飛んできて、慌てて草むらに隠れたと言ってた。なんでもそのB-29
が原爆落としたらしいんだけど、うちって新潟なんだよね。
確か曇っていたせいで広島にコース変更したらしいけど、曇ってたらB-29
肉眼では見れないんじゃ?他にも見たって人いるのかな?
841\d○w○b/ それは恐らく:04/10/08 21:58:12
原爆投下のためのシュミレーションで「パンプキン(カボチャ)」
と呼ばれる大型破壊爆弾ではなかったかと思われるな。
d○±○b 無差別虐殺許すまじ!
842世界@名無史さん:04/10/08 23:33:56
新潟は原爆投下候補地の一つであり、模擬爆弾の可能性は高い。
843世界@名無史さん:04/10/09 01:36:44
ちょいと多板ではデリケートかと思うのですが、このスレは理性的に
進行している様子なので私も。
私の本籍は山陽地方の田舎。祖父は代々の庄屋で、田舎らしく
なしくずしに戦中戦後と田舎の村長の様なものでした。
盆の時期には祖父の家に一族郎党のみならず、近在の人たちも
集まって法事と宴会をするのがならわしだったので、私も東京から
父母に連れられて毎年行っていました。
で、ある年。なぜかその年は酒が入りすぎ、年配の近在の人たちが
戦時中の話を始めました。私は小学生だったのですが、オジサンたちに
気に入られていたので話を聞くハメに。
どうやら、この辺りの人たちは大陸に行った人たちが大半だった
様で、中国の話になりました。(長くなりそうなのでわけます)
844世界@名無史さん:04/10/09 01:46:46
しかし、その内容は小学生の私にはかなり衝撃的でした。
一番印象に残っているのは、人の良さそうなオジサンが、
「坊、知ってるか?銃剣って重いんだぞ。人を寝かしといて(自分が)
立ってこう、ストン、と落としてやるだけで鍔までグッサリ刺さる。」
と語り、周囲が一斉に笑い声を上げたときでした。
それ以外にも、どうやら捕虜を殺したときの話を(あのときは一発で
断首出来なかった、失敗した云々)笑いながらしていました。
また、女性陣が別室で食事の支度をしていたのですが、小学生には
わかるまいと思ったのか、強姦の自慢話もしていました。
845世界@名無史さん:04/10/09 01:52:00
成人してから、親父とその話をしたことがあります。
親父は戦時中に小学生。戦後も、子供の頃からそんな話を聞かされて
育ったそうです。
本当にド田舎なので、あの世代は戦争中に兵隊としてしか村の外に行っていない
んだ。だから倫理観が青年期に戦争の中で体得したモノから変わっていない、
というのが親父の感想でした。親父はそんな土地柄が嫌で、発憤して
勉強し、大学に入って地元を離れたのだそうです。

とまあ、これだけですが・・・
現在の自分の意見を排除しようと出来るだけ当時の気持ちだけを書いたら、
どうも小学生の作文のようになってしまいました。失礼をば。
846世界@名無史さん:04/10/10 18:00:38
以前、NHKのカラー映像での日本の戦前、戦中などの番組があったが、それで見ると
アメリカ軍の戦闘機から撮影された映像では、民間人に機銃掃射を
している映像があったように思ったが。
海岸に居る人とか、漁船なんかに思い切り機銃を浴びせていたように記憶しているが、
誰か見た人はいないか?
847世界@名無史さん:04/10/12 21:25:26
>>846
ガラスのうさぎ
848世界@名無史さん:04/10/14 15:03:07
辺境のド田舎の村に「支那の太郎さん」と呼ばれる、
華僑のラーメン屋さんがいた。普通のおっさんだった。

ある日憲兵がやってきて、支那の太郎さんをどこかに連れて行った。
憲兵にとって支那の太郎さんはスパイに見えたから。

その日以来、支那の太郎さんは村に帰ってこなくなった。
村の人々は、彼は決してスパイではなかったと思っていたが、誰も助けなかった。



祖母から聞いた戦争中の実話。
まあどっかで太郎さんは生きてるかもしれないけど。
(当時の支那って敵国だと思うんだけど、よく日本で商売してたな)
849世界@名無史さん:04/10/14 19:09:12
>>848
・・・王選手のお父さん...。
850世界@名無史さん:04/10/15 14:13:36
>>849
「支那の太郎さん=王監督のお父さん」なの??
851769:04/10/18 00:18:45
だいぶ間が空いたけど悪しからず。

創作と思ってる書き込みがいくつかあるけど、創作ではないよ、この話。
聞いた時期は、昭和の終わりごろ、関東地方で、4月まで雪が頻繁に降っ
た年があったけど、その2月か3月頃だ。

オッサンは当時、65歳くらいだったかな。もう少し上かもしれない。今生き
てれば85歳かもうすこし上だろう。客観的な事実を重ねること、たとえば、
オッサンの名前も辻斬りやった阿呆の名前も記憶にあるからここで記述し
てみれば事実に近づくのかもしれませんがね、それがスレッドの主旨では
ないでしょう?

寒い時期でしたからね、寝巻きに丹前を羽織って、ベッドから降りて、嬉々
として中国人が刀を押さえるしぐさを演じて見せたオッサンを思い起こすと、
とても作り話をしてるようには見えなかったよね。
852世界@名無史さん:04/10/18 19:33:11
父方の祖父(もー他界してるが)は身体検査で出兵してなく、
母方の祖父は戦死。
だから、戦争の話は聞いたことは無いが、父方の祖父に、戦時中の日本国内
の状況、戦後の状況などを聞いてみたことがある。
しかし、祖父は、日本は戦争に負けたのだから、何も言うことは無い。
善い、悪いではなく、負けを認める潔さが昔からの日本人だ、と。
私も言いたい事は沢山有るが、じいさんに怒られそうで言わない。




日本はアメリカには負けたけど、他の国には負けてねーぞ!
853世界@名無史さん:04/10/20 11:16:16
>>851
>>774の話はどうなる?
(アンカー間違ってるから無視か?)
854支那≠敵国:04/10/20 13:01:00
大東亞戦争当時、我が大日本帝国が戦っていたのは、
米英を後盾に抵抗し続ける『中華民国』を称する重慶政権であって、
正義の枢軸たる盟邦・中華民国南京政権は、
昭和十八年一月に対米英宣戦さえしている。
855世界@名無史さん:04/10/20 13:24:02
子供のころ、剣道の先生のそのまた師匠にあたる方に挨拶に行ったとき、真剣の切れ味の話になって、戦争中に東南アジアで捕虜のクビを切りまくった話をされた。クビをはねると、ポーンと高く跳ね上がるらしく、誰が一番高く跳ねられるか、という競争もしていたらしい。

俺は子供だったので話自体はあまりなんとも思わなかった。
が、飯食いながらそういう話をするそのじーさんに恐れ入った。
856世界@名無史さん:04/10/20 14:57:32
>>846
米軍の艦載機のガンカメラ(戦果確認のためのカメラ、銃を撃つと撮影できる)の映像。
よく、当時の回想録に出てくる。 石原慎太郎も食らったらしい。
米兵は大はしゃぎで撃ってますが、パイロットは若者なので、ある意味仕方ないことだ。
ゲームでやったが、気分爽快だった。
ただし、撃ち落されると住民が寄ってたかってぶち殺したらしい。
その様な話がちらほらと出てくる。 間違って日本のパイロットを殴り殺した
という、ブラックな話も出てくるぐらい。
米軍によると、捕虜になって危険な順番は、 住民ー陸軍ー海軍、らしい。
857世界@名無史さん:04/10/20 15:19:49
残忍で凶悪な日本原住民(プ
858世界@名無史さん:04/10/21 08:03:26
軍人は一応自分も捕虜になる可能性があるだけに
それなりに対応するのだろう。やられっぱなしの住民は
そりゃむかついて捕虜を殺すくらいのことは普通にする。
仮に日本軍がアメリカに空爆しまくることが可能で、その
日本軍の爆撃機が落ちてアメリカの住民の捕虜になっ
たとき、丁重に扱われることはないだろう。
859世界@名無史さん:04/10/22 19:10:35
860世界@名無史さん:04/10/23 05:41:04
>>856
あのな、裏話として米軍は昔っからパイロットには興奮剤を服用
させてたの。今でもそうなの。拒否したら地上勤務だし。
よくあることだよ。
861世界@名無史さん:04/11/12 14:27:21
「こんなので戦争に勝てるのか?」と懐疑的な人が多かったようだね。

私の祖父も朝鮮から日本に帰還した時、入れ違いに日本から外国に
行く兵士の貧弱な装備を見て「負ける」と確信したそうだ。

862世界@名無史さん:04/11/12 17:36:55
もうわしは87歳で生きてるの辛いです。
863世界@名無史さん:04/11/24 21:59:40
あげないと
864打通さん:04/11/25 13:38:42
>入れ違いに日本から外国に行く兵士の貧弱な装備を見て「負ける」と確信した

中国チンピラゴロツキ相手なら、侵略暴行のやり放題だったけどな。

平成14年5月、中国のサンフランシスコ駐在総領事が、サンフランシスコ
大学での「日本の戦争記憶問題と対決する」というシンポジウムで演説。
「日本軍は対中侵略で中国人民3500万人を殺した・・・それにもかかわらず
日本の政治家も政府も、口頭でも法的にも謝罪することを一切、拒んでいる
・・・日本政府は犠牲者への賠償支払も拒否した・・・侵略や残虐の記述を
教科書から削除し、また侵略戦争を始めるのではとの懸念がある」と述べた。
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/tyousa02/tushu6.htm
865世界@名無史さん:04/11/25 14:07:39
>パイロットは若者なので、ある意味仕方ないことだ。

へえー。
あなたは事がアメリカ人となると寛容なのですね。
日本のパイロットなら若者でも決してやらなかったですよ。
866世界@名無史さん:04/11/25 21:40:31
>>864
>日本軍は対中侵略で中国人民3500万人を殺した

日本軍sugeeeeeeeeeeeeeeee!!!!!
いやー大笑い
867世界@名無史さん:04/11/27 07:34:24
>853
>661のボンボンとはかなり立場が違うが、俺のオヤジの話。
大戦末期に予科練に入隊したオヤジの元へ、しばらくしてから父親(つまりおれの祖父)が面会にきてくれた。
そのときに軍刀を差し入れしてくれたそうで、オヤジはそれを隊内に持ちこんでるそうです。
もちろん訓練生の立場だから腰に差して歩けるわけではないが、私物扱いとして保管しておくことはできたそうだ。

んでその刀をどうしたかっていうと、近くの竹藪を伐採するときに鎌がわりに重宝したとか・・・・・・
今でもその刀は実家にあるそうだが、俺が「欲しい」と言うと、「怖くてオマエなんかに刃物持たせられるか」と笑われた・・・

あまり関係無い話だったかもしれんな。
868世界@名無史さん:04/11/30 08:27:14
>>856,865
その話を当時のパイロットを最近インタビューしていたよ。
弾が無くなると基地に帰って補給してまた撃つ。
当時のパイロットは泣きながら回想していたよ。
命令だから仕方なかったって。
誰だって人殺しなんてしたくないんだよ。
869世界@名無史さん:04/11/30 09:23:19
3万人だか、30万人、100万人、3500万人、
どれにしてもそれだけの死者を本当に出していたらそれは民族の恥であり、
政府・政権の恥であり、殺された側が何をしていたんだということも
問われるべきものだと思うが。

広島、長崎は原爆を落としたアメリカの残虐非道を追求するのは当然としても、
そこに至るまでの日本政府の責任も現に問うている戦後の歴史であるわけだ。
870世界@名無史さん:04/11/30 09:51:15
大叔父・大叔母の話
農家の4男だった大叔父は、開拓団に入って満州に渡った。
しかし、自分達が入った時は既に立派な農地が広がっていて、これって開拓って
いっていいの?この畑拓いたの誰?と疑問に思ったのだそうだ。
あとから、少し離れた貧しい満人(漢民族)集落の人々の畑だったことを知った
が、まあ日本人は「偉い」んだし、畑は日本人の感覚では桁外れに広かったの
で、少しぐらいただで貰ってもいいんだろうと思い、あまり気にしなかったのだとか。
満人とは普段から付き合いもあり、一緒に作業をしたこともあった。特に女性
たちは日本人の家にお茶に来ることが多く、日中混合の片言言語で会話して
いた。調度品を指差して、「いいな〜いいな〜」と何度も口にし、羨ましそうだった
という。
近くの町に行くと市が立っていて、白系ロシア人や蒙古人も闊歩していた。蒙古
人は物凄くプライドが高かった。

昭和20年8月、ソ連軍が侵攻すると、満人の態度が一変した。日頃満人に
対してきつく当たっていた日本人の家からは、問答無用でどんどん家具が
運び出され、畑も荒らされた。満人と仲良くしていた人に対しては、そんなこと
はなかったそうだが、やんわりと「その家具売ってくれ」と持ちかけられ、安い
値段で引き取られたりもしたそうだ。

その後、ソ連軍がやってくる。大叔父は捕まってシベリアに送られ、大叔母は
2人の子供とともに逃げ延びるが、男の子は途中栄養失調で亡くなった。
その辺の話だけは、どんなにせがんでも教えてもらえなかった。
871世界@名無史さん:04/11/30 11:02:06
>>769,851
日本軍の悪行ではなく、それは個人の蛮行だろう。
恨むべきは日本軍ではなく、そのオッサンで、まったくの筋違い。
872ホッシュジエンの国内ニュース解説:04/11/30 17:47:04
終戦直後の1945年8月、旧海軍の輸送船「浮島丸」が京都府の舞鶴湾で
爆発、沈没し、強制連行された朝鮮人ら500人以上が死亡した事件をめぐり、
韓国在住の生存者や遺族が国に損害賠償と公式謝罪を求めた訴訟で、最高裁第3
小法廷(藤田宙靖裁判長)は30日、原告側の上告を退ける決定をした。原告側
逆転敗訴の2審判決が確定した。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
 彡ミ    ___  __    「戦争被害は等しく受認すべき」では戦争
  |ヽ  /|  ,,,,,,,,l /  / 犯罪人の存在は皆無ですが?
  |ヽ   | | ミ ・д・ミ/_/旦~~ 
  ⊥   |  ̄| ̄|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| 
  凵    `TT | ̄l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l サイバンチョー、ソレ チョット チガウカモ。 ∩(・∀・ )

04.11.30 Yahoo「韓国人被害者ら逆転敗訴確定=国賠償責任否定の2審支持−浮島丸訴訟で最高裁」
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041130-00000640-jij-soci
873世界@名無史さん:04/11/30 19:16:48
しかしコンビニや公園とかにたむろってるカスども見ると、こういう奴らが戦争になるとくだらねえ事やらかすんだろうなって思うね。あ、平和時でもお構いなしか
874世界@名無史さん:04/12/01 09:20:40
>強制連行された朝鮮人ら500人以上が死亡した

もうこの時点でおかしい
875世界@名無史さん:04/12/01 10:05:14
>>874
その事件は謎につつまれたままなんだけど、
引き揚げ朝鮮人の乗った船が謎の爆破・沈没したのは本当です。
多分、機雷に触雷して沈没したのだろうという事です。
これは犯罪というよりは事故の部類の話になりますね。

ttp://www.cinemawork.co.jp/uki.html
876世界@名無史さん:04/12/01 10:24:47
>>868
そうとも言い切れないぞ。
白人は所詮、東洋人なんて虫ケラ程度にしか思ってないのがよくわかる。

http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub2-43.html
877世界@名無史さん:04/12/01 10:36:39
ていうか、当時の連合国に謝罪と賠償を求めるのが筋だろ?
878世界@名無史さん:04/12/01 19:13:37
白人は今だにアジア人は白人にコントロールされるものって意識があるからな。この先も変わらないだろうけど
879世界@名無史さん:04/12/01 19:21:45
くだらん雑談はよせ。スレが汚れる。
880世界@名無史さん :04/12/10 22:33:07
 昔、世田谷のガソリンスタンドで東条英機の孫と一緒にアルバイトをした。
「戦犯」で「刑死」なら家族も当然財産没収で一家離散!
と何となく勝手に思いこんでいたのでかなり驚いた覚えがある。自分の不勉強
さと浅い思考が嫌になった。あまり仲良くなかったので話全然聞いてません。
スマン。ちなみにその人のお母さん(娘だね)父親の手記出版してる。

 当時の参謀本部事情は高山信武著「参謀本部作戦課」ってのでおぼろげに知った。
例)意見対立!!→先送りか折衷案→貧乏気違い広範囲南方戦線すごく悪化

 今とあんま変わらねえ

ちなみに著者の高山と言う人、あの玉音放送の原稿を起案した人らしいです。
では
881:04/12/10 23:02:34
882世界@名無史さん:04/12/16 09:33:22
太平洋戦争のまっただなかでも
軽井沢では東京の超富裕層が
戦時下とは思えないほど優雅に欧米風の生活していたらしい。
883世界@名無史さん:04/12/16 21:22:56
>>880
高山大佐が起草したのは陸海軍に与える詔勅で玉音放送ではない
884世界@名無史さん:04/12/17 01:15:43
うちの爺ちゃん元陸軍士官
最近になって戦時中のことを文に纏めてることを知った
読んでみたらすげー面白かった
ついでに兵学校の卒業アルバムも見せてもらった
誰が誰だかわからなかったが
卒業に当たっての一言に
「ワシントン入城しルーズベルトの首を取る」と
書いてあってビックラこいた
いつも温厚な人だったから余計に。

最近某フェスタで日本刀を差して記念撮影した爺ちゃん
昔軍刀つけてた成果一番様になってってかっこよかった。
こんな226の当日の東京のことを生の目で見て記憶してるような時代の人も
年齢的にもうきついんだろうな、とおもうと
そろそろ悪い意味でもう人波乱きそうな気がする

生き字引きみたいなもんだしね。長生きしてください。本当に。
うちの一族で一番まともな人なんです。
885世界@名無史さん:04/12/17 04:47:24
東条英機って滅九族にされなかったのかw
886世界@名無史さん:04/12/17 06:10:08
うちの爺さんの兄は南方へ行って
それこそ泥水を飲んで命をつないだらしい。
爺さんは背が小さかったので徴兵の審査に合格せず
茨城と福島の境目あたりの勿来で風船爆弾を作っていたらしい。

小学生のときクラスで
「おじいさんおばあさんの戦争の話」集を
作ったことがある。あれはどこへ行ってしまっただろうか。
887世界@名無史さん:04/12/17 06:25:10
近所の住職から昔聞いた話。

戦争も末期だったそうだ。
おそらく1945年の6月の話だったように思う。

あるとき やはりB29の大編隊がやってきて爆撃をしたんだと。
そのとき空襲警報を聞いて、40人ほどの人が
鉄道のガード下のトンネルに逃げ込んだらしい。
ところがその両入り口にひとつずつ爆弾が落ちて
そのトンネルに逃げ込んだ人は全員死んでしまったのだと。

その住職さんのお寺は山にあって、境内のがけに防空壕があったから
空襲警報が鳴ったときたくさんの人たちがそこへ逃げてきたらしい。
爆弾が投下されるとまるで雨のような「ザァーーー」という音が鳴るのだといっていた。

空襲が終わったあと、前述したガード下のトンネルで亡くなった40数名の人が運ばれてきたのだが
(確かうろ覚えだが)体がパンパンに膨れていたのだと。


その話とは別に、空襲の時に、体を守る方法なんてものも教えてもらった。
確か、耳の穴と鼻、口あたりを手でガードし、背中を丸めてお腹をガードするという方法だった。
888悠志郎 ◆Arima/ycuU :04/12/18 05:25:41
私の今年亡くなった祖父がいた部隊の話
フィリピンルソン島の中隊で宣伝部隊
隊長は中尉で明治大学卒の銀行員,二番目は私の祖父で軍属中尉相当官英語の通訳,
副隊長は少尉で旧制専門学校を出たばかりで軍暦無し。 准尉はいなかった…。
下士官トップの曹長は早稲田大理工学部卒の通信技術兵…
こんな部隊に三年間もいてよく生還できたな…
戦闘しろ! って言われても恐らくお荷物だろうな…。
889世界@名無史さん:05/01/06 18:20:33
ほしュ
890世界@名無史さん:05/01/22 14:19:54 0
俺のじいちゃんは満州にいた
終戦後シベリアで抑留された

戦闘の事なんかは何も話してくれなかった
終戦の時は内心ホッとしたが生きて日本へ帰れるとは思ってもみなかったと言ってた
シベリアではとにかく寒さが半端じゃなく便所で用を足すのも命がけだったと言ってた

あと中国人に麻雀を教えてもらったという話も聞いた
朝鮮人のことは「・・・・気難しい連中じゃった」と言ってた
891世界@名無史さん:05/01/26 03:40:06 0
>>890
中国で戦ったおれの親戚も似たようなこといってたよ。
『中国人はそうでもなかったけど、朝鮮人はひねくれた連中だった、付き合いにくかった』
みたいなこと言ってた
892世界史@名無史さん:05/01/26 07:30:36 0
その中国人も共産党の反日政策のおかげでチョン並みに厄介になったね。
893世界@名無史さん:05/01/26 08:35:51 0
中国人はもともとやっかいな存在だったのだよ。
そういう連中だということを知らないで大陸政策をやった結果
今のような反日、反世界人種ができたのだ。
894◇唐突ですが訃報です◇:05/01/26 12:17:14 O
[●]唐突ですが訃報です

[亜細亜の光、日本!]
東京裁判法廷係として四百二十三回もの審理のほとんどを傍聴した
歴史の貴重な証人、冨士信夫元大日本帝国海軍少佐が、
去る二十四日御逝去されました。
謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

|||(-_-;)||||||年賀状を戴いたばかりなのに…無念

空母『飛龍』艦爆乗りだったが、ミッドウェイ海戦には発熱のため不参加で生還。
1945年7月30日、神風特攻第三龍虎隊参謀として米駆逐艦等4隻を撃沈撃破する
海軍航空隊最後の大戦果を挙げた閣下に敬礼!
895世界@名無史さん:05/01/31 09:17:16 0
>>890
俺の婆さんも満州帰り。まったく同じこと言ってた。
中国人はのんびりしてて人がいい人間が多かったって懐かしそうに話す。
韓国人に対しては嫌な顔して話すよ。工場の社長の家に集団で殴りこみとか
来てたらしい。
896世界@名無史さん:05/02/01 02:00:48 0
うちの曾祖父(生きていれば108歳)は、
戦後すぐに駅で朝鮮人の集団に殴り殺されました。
朝鮮人が妊婦さんに乱暴しようとしてたのを注意したらしい。
曾祖母(102歳)は今でも曾祖父の写真を眺めて寂しそうにしています。
897世界@名無史さん:05/02/01 04:29:17 0

戦中、 うちのじいさんは満州で零戦を製造していた工場で働いていた。
ある日重慶に滞在していたアメリカ軍の爆撃機が工場を空襲しにきた。
じいいさん達は以前から軍から指導されていた通り、 町一帯につみあげていた廃
タイヤに火をつけて煙幕をはったらしい。爆撃中、ジイサン 達は防空壕の中っで
『煙幕におおわれた工場を爆撃するのは無理だろう』と思ったらしい。が、爆撃
が終わり外に出てみると、 見事に工場だけが破壊されていた。 あとで分かった
のがアメリカ軍はレーダーを持ち合わせていたんだと。 技術力の差を見せつけら
れた戦争だったとさ。
898世界@名無史さん:05/02/06 05:58:01 0
ハルノートは拡大解釈をしても朝鮮、台湾、
南樺太からの撤退は要求していません。

ハルノートを飲めば原爆も何もなかった。
みんな幸せだった。
899(〇m〇)諸君、聴いてくれ:05/02/06 09:46:34 O
太平の平和を破る春の音

多分「満洲飛行機製造株式会社」奉天工場でしょう。
「零戦」は作ってなかったけれど…
当時の外地では最先端の工場で
九五式中練、九七式戦、ニ式高練なんかを生産していたな。
900世界@名無史さん:05/02/06 10:06:53 0
>>898 切手を貼るノートでも見てなさい。
901世界@名無史さん:05/02/06 17:34:46 0
春の音
902世界@名無史さん:05/02/08 12:50:04 0
>>898
はるのあしおとでもやってなさい
903世界@名無史さん:05/02/10 19:08:45 0
>>894
亡くなられたか・・・・
確か祖父の義兄弟だったな
祖母と家にも年賀状が来てたよ
904903:05/03/02 16:01:57 0
随分前に祖父から聞いた話によると
海軍兵学校67期の人間はほとんどミッドウェーや特攻で亡くなっていた
この方の結婚式では生き残りの将校など、錚々たる出席者だったとのこと

祖父の親戚は海軍関係が圧倒的に多く
終戦間際に轟沈されたイ号潜水艦の生還者もいる
その方は今も健在で翻訳業をしているらしい
905世界@名無史さん:05/03/02 20:32:36 0
台湾沖で沈没した船に乗ってた人に仲間がたくさんサメに食われたって聞いた
906世界@名無史さん:05/03/03 03:48:19 0
パレンバンで将校の運転手をやっていたらしい
帰ってきて共産党員になったが、なんか嫌になって止めたとか。詳細は知らん
907世界@名無史さん:05/03/04 01:17:49 O
爺ちゃんがなくなった後遺品を整理してたら満州で買った田中絹代のプロマイドがでてきた。それを見ると爺ちゃんも好きな芸能人がいる普通の若者だったんだと思えて微笑ましかった。
908世界@名無史さん:05/03/05 03:40:28 O
俺の爺さんは、志願して海軍・航空隊のパイロット(一式陸攻爆撃機)でした。

任務中、搭載チェック済みの爆弾が背中に落ちて重傷を負ってしまい爺さんは入院して、そのまま終戦を迎えたそうです。

終戦後、国から慰労金らしき保障が貰えたんですが、「部隊が全滅してしまい、自分が生残ってしまっただけでも仲間に申し訳がないのに、とてもそんな物は受け取れる気になれない」と辞退したそうです。

当時の写真を見せて貰った事がありますが、機体の側で、当時20歳前後の爺さんが、白いマフラーに皮のパイロットジャケットと装着の落下傘が印象的でした。

パイロットの訓練は、右手が負傷すれば左手、左手も負傷すれば右足、右足も負傷すれば左足で操縦が出来るようにと、足の指先でハサミが使える様になったぐらいに徹底的に叩き込まれたそうです。
909世界@名無史さん:05/03/05 23:07:04 0
一式陸攻ですか。
「一式ライター」というやつですな。
910世界@名無史さん:05/03/06 11:35:37 0
防御力が低いのを除けば結構優秀なんだけどね…
911世界@名無史さん:05/03/06 18:42:35 0
96陸攻も一式並に航続距離長かったと思うんだけど、一式みたいにインテグラルタンク
では無かったんだよね?
912世界@名無史さん:05/03/08 00:57:54 0
高度な長期訓練を施した人材が、予定外の消耗戦により戦争の序盤で消え去ることについて。
913世界@名無史さん:05/03/10 13:24:54 0
次スレは立つのかねぇ
914世界@名無史さん:05/03/11 00:15:39 0
「ガラスのうさぎ」がアニメ化されるそうな。
915世界@名無史さん:05/03/11 12:21:07 0
>>914
萌えか?萌えが入ってしまうのか?
916世界@名無史さん:05/03/14 19:56:53 0
日本は島国で海外体験が圧倒的に少ないと言われてますが、
植民地を持っていた時代、そして戦時中は圧倒的な数の人間が
海外に行ったわけですよね?(好むと好まざるとにかかわらず)
今の商用や留学・海外旅行以上の数の人間だったんじゃないでしょうか。
「山村に住んでたが、あの戦争で初めて世界というものに触れたよ」
という人もいたと思います。
その時の体験が国民性や世界観に影響を与えたということは
ないんでしょうか?
植民地や戦争は悪しきものということで、そのような諸々の感情や
感想も封殺されたんでしょうか?
917世界@名無史さん:2005/03/23(水) 01:04:18 0
遠戚なんだが戦艦榛名の水兵だった方がいた。
一番印象に残っているのはガ島へ三式弾をブチ込んだときの事だと言ってたな。
デカい打ち上げ花火を何百発かまとめて炸裂したような感じだったと。
なんか戦争じゃなくて派手な花火大会みたいな錯覚してしまったそうだ。
918世界@名無史さん:2005/03/24(木) 23:40:54 0
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1111397508/
1 名前:サボリ中@パキュンパキュンパキュンφ ★[sage] 投稿日:2005/03/21(月) 18:31:48 ID:???

「旧日本海軍:伊401潜水艦を発見 ハワイ大海洋研究所」

米ハワイ大海洋調査研究所は20日までに、第2次大戦中、旧日本海軍が建造した大型の
伊401潜水艦の船体をハワイ・オアフ島沖の海中で発見した。ハワイの地元紙ホノルル・
スター・ブレティン(電子版)が伝えた。

同研究所によると、水深約800メートルの海底で見つかり、船体は2つに分かれていたが、
対空砲などはほぼ完全な形で残っていた。

伊401は全長122メートルで当時の潜水艦としては世界最大級。長距離の航行が可能で、
3機の特殊攻撃機を格納。パナマ運河空爆を想定していたが、戦況悪化で実現しなかった。

敗戦で米軍に引き渡された後、1946年5月31日、今回の発見現場近くで魚雷によって
撃沈処分された。(ロサンゼルス共同)

引用元:毎日新聞−共同 http://www.mainichi-msn.co.jp/ (2005年3月21日 14時50分)
http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/america/news/20050321k0000e030033000c.html
919世界@名無史さん:2005/03/25(金) 19:20:06 0
>>918
ほー、伊402も去年五島列島沖で発見されてるよね確か。ソース忘れたけどw
(こちらは『海没処分』だから船体は折れたりしてない筈)

ところで、この場合の艦名って同読むんスか?初心者丸出しで申し訳ないけど(汗
『よんひゃくいち』?『よんまるいち』?
920世界@名無史さん:2005/03/27(日) 22:59:03 0
口の重い祖父(昭和二年生・従軍されず)を
酔わせて話を聞いてみた

「物心ついてから、ずっと戦争が続いていたから
戦争がなくなるなんて、考えもしなかった」

平和ボケの自分、結構ショック・・・
921世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/02(土) 12:20:19 0
【第二次】日本人として何をいう?【大戦】
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/northa/1107017116/l50
922世界@名無史さん:エジプト暦2329/04/02(土) 12:33:04 0
俺の爺さんが守備してた所では川の向こう側でソビエト兵士が歩いているのが
よく見えたって言ってた。満州だけど
923世界@名無史さん:エジプト暦2329年,2005/04/05(火) 00:09:40 O
誰か従軍慰安婦について教えてください。

触れてはいけない話題ならスルーして
924世界@名無史さん:2005/04/06(水) 18:35:24 0
満州から引き上げて来る人の中には どうしてもそこに子供を置いてこなければならない人もいて
いつか会えたとき自分の子供とわかるように耳の一部を噛み切って残してきた人もいたんだって。

925世界@名無史さん:2005/04/08(金) 10:59:33 0
>>923
追軍売春婦ならわかるがな
926世界@名無史さん
うちのじいちゃんの話でも

京都の寺院の末っ子で無類の酒好き、学生時代は浴びるように呑んで道で寝るなんてことは日常茶飯事だった
心臓が弱く徴兵検査で50歳までは生きられないと宣告されたのに合格
友人もベタに醤油一気飲みを敢行するも見事にばれて合格したらしい

何故か諜報関係の部隊(当時の軍制に詳しくないのでスマソ)に配属され旅順へ
祖父いわく食糧事情は良くなかったが飢え死にするほどではなかった
戦場では卑しい奴から死ぬとも言っていた、実際もぬけの空になった中国人の家で月餅を発見し食った食い地のはった同僚が死亡
井戸や残した食料に毒が入れられているのは常識だと

その後戦闘で足を撃ち抜かれ野戦病院ゆき、入院してるうちに終戦し生還
しかし兄弟二人は南方で帰らぬ人に、遺骨も戻ってないらしい
戦後は婿養子に行き税務署の仕事まで世話してもらった、野戦病院で使った薬(『ホルムス』という傷薬)が効くとずっと言ってた
今でも我が家の救急箱の中にはホルムスが

戦争のことはあまり語りたがら無かった
心臓病で入院、術後なかなか麻酔から覚めず夢うつつの世界を彷徨う
どうも若い頃に戻ってたらしく「戦争は嫌だ!」だと叫んだり
見舞いに訪れた親類を憲兵と勘違いして追い返したり、手錠を掛けられたような仕草をしたり

よっぽど戦争が嫌だったらしい、うちの祖父のレベルでこれだから南方に行った人の
苦労は計り知れない

そんな祖父も数年前に数年前に医療ミスで鬼籍に入った
もっと話聞いときゃ良かったと