326 :
世界@名無史さん:
ロシアの沿海州の高校歴史教科書は沿海州初の国家として渤海にかなりの
ページを割いている。沿海州南部にはいくつもの城砦址がある。
クラスキノ城砦址は面積13.6ヘクタール。土塁と濠に囲まれている。
粟末靺鞨の一部と高句麗人の一部が中核となって周囲の靺鞨を統合して成立
したことや階級性の社会制度、農業中心で牧畜も行ったことや手工業も発達
したこと、中国に大規模な留学を行ったことや日本と交流があったこと、
シャーマニズムや仏教が普及していたことなどに触れている。
滅亡の章では20年ほど遼と争った末に滅亡(926)、傀儡国家東丹を置いたが即反乱、
その後も揉め続けたので約2/3の渤海住民は遼に強制移住、1/5は朝鮮に逃亡。
残りの沿海州を含む北方、東方の住民(13%ほどということになるか)は
相対的な独立を保ち、遼に不定期に朝貢したとある。
女真・金についてもかなり詳しく触れている。黒水靺鞨が10世紀から女真と
呼ばれるようになり11世紀後半に完顔部によって統合、遼を滅ぼし(1125)
北中国全域をを支配して多くが移り住み、住民の構成は中国人87%、女真人10%
、その他3%。沿海州は金の辺境でウスリースクなどに金時代の城砦址がある。
渤海から多くの文化を引き継いだことに触れている。
1234、モンゴルにより金は滅亡するがその少し前に蒲鮮万奴により東夏[
(東真、大真,1215-1233)が満州東部、朝鮮北部、沿海州中南部に建てられる。
短期間の国ながら沿海州を中心地域の一つとしていたことからそれなりに
取り上げている。やはり城砦址がいくつもあるとのこと。
>>308 >6)中国の朝鮮族自治区はほとんど19世紀以後の移民が多く高麗時代の移民ではない。
なお、高麗時代の北境は間島(現在の延辺朝鮮族自治州)の南側の
豆満江に達していない。韓国教科書でも移住は北境が豆満江に達した
後のこととされている。
高麗の北境は王建時代(9XX年代前半)に100kmほど北上、9XX年代末に鴨緑江河口に
達する。ざっと2〜3万平方kmといったところか。このラインで遼と何度も戦争になり、
千里の長城が作られた。11XX年代初頭、一時長城外への拡張が図られたが
すぐに撤退。この後、拡大したのは13XX年代、元の衰退期に鴨緑江中流域〜
咸鏡南道あたりまで。ほどなく李朝となる。
>>326 大真。君号は「天王」年号は「天泰」だったかな?
後に国名を東真に改めた。
蒲鮮万奴は女真人だと思うので、渤海人の歴史とはいえないが。
>>327 高麗の直轄領土についてはそのとおりだけど、
高麗王はモンゴルの征東行省の長官も兼任していて満洲を支配していた。
高麗がモンゴルの属国だった時期に、
高麗人は一時、満洲に広がっていたはず。
高麗滅亡後、李朝は内向して満洲から手を引いたため、
満洲在住の高麗人は半島に戻って李朝に帰化したり
現地の中国人に同化吸収されて消滅したけど。
そいえば東丹の移転先、渤海人を移したという遼陽は瀋陽の近く、
管轄範囲やな。渤海人も一部は金と一緒に華北に行ったろうけど
ここにも残ってたのかな。高麗人とどう付き合ってたかは知らぬが。
何にせよ明の遼東鎮長城はこのあたりも鴨緑江下流域も囲い込んで
漢人地域としてたし渤海人も高麗人も漢化したのかねえ。
東丹国ができても各地で反乱やまず、支配下の渤海人をとりまとめて遼陽に
移ったとたん、上京流泉府を中心とした王弟大某(最後の渤海王大煙饌の弟。
名は不詳)と、西京鴨緑府を中心とした大光顕(最後の渤海王大煙饌の世子。
つまり王太子)が二大勢力となった。前者(後渤海)が後者を併合して、
できたのが定安国。大光顕は失脚して高麗に亡命。
定安国(≒後渤海)滅亡後は、渤海人は満州で女真に同化される者と遼陽の
都市民となる者に二分された。遼陽の渤海人はその後も興遼国とか大渤海
とか建国して独立してる。金の時代には遼陽が渤海人の中心地。
とはいえこの時代(金)の渤海人はアイデンティティーはともかく
すでに文化的にはほとんど中国人。日本国内にたとえれば
渤海人=平安貴族、女真人=鎌倉武士、みたいな関係。
金の時代、渤海人は女真貴族の中の門閥みたいなものになり
女真の漢化の推進力となり、女真族の王族貴族ともろともに漢化して
いった。女真族の場合は漢化してない満州の女真族という後背地があった
が、渤海人の場合、完全に都市民になっており、中国文化の担い手としての
売りしかかなったのではないか。モンゴルがフビライの時代になって
中国文化への蔑視をやめたことと、渤海人の急速な消滅は関係があるだろう。
渤海人の中に「女真族の中の文化貴族」から「遼東中国人の中の文化貴族」
へとアイデンティティーの横滑りが起こったと考えられないだろうか。