古代高句麗帝国を語ろう

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1080年、高麗国王・文宗、日本に名医を求むも断られる。
1116年、渤海人高永昌(在位 1116)「大渤海」を建国、皇帝と称するも金に滅ぼさる。
1125年、金、遼(契丹)を滅ぼす。
翌1126年、高麗国王・仁宗、金の属国となる。以後、満洲・河北(金領)への高麗人の移民はじまる。
1252年、モンゴル帝国による漢人(=旧金朝支配下の住民)の人口調査。
この時、漢人は「漢八種」とよばれ、契丹人、女真人、渤海人、高麗人など八種族に分類。
(つまり13世紀でも渤海人と高麗人(半島人)女真人(ツングース)は厳然と区別)
1231年、モンゴル初めて高麗に侵入。以後、連年侵入。
1259年、高麗国王・高宗、モンゴルの属国となりその太子はモンゴルに赴く。
1263年、高麗国王・元宗、日本に倭冦の禁圧を乞う。
1275年、高麗の領土だった慈悲嶺以北の地をモンゴルに編入。
1278年、高麗の忠烈王、モンゴルの服装に変更。
1302年、高麗の忠烈王、元の朝廷に参内しモンゴル女性と結婚。
モンゴル服属以前は平壌あたりが高麗領の最前線基地だったが、モンゴルに服属して以後は、
歴代の高麗王は、遼東から満州あたりを管轄する(高麗本国も含む)「征東行省」の長官を
兼ねるようになり、高麗人コロニーがこれらの地域に一挙に広がった。
1367年、高麗の恭愍王、日本に倭冦の禁圧を乞う。
1370年、高麗、明の属国となる。
1375年、高麗、日本に倭冦の禁圧を乞うも、その使者はかえって足利義満に逮捕勾留さる。
1380-90年代、高麗は、元明の東北アジア争奪戦のどさくさに紛れ、遼東までを一挙に本国化しようと
はかり、モンゴル側について永楽と対決するため軍団を派遣したが、その軍団の長である李成桂(女真人)
が裏切って明側についてしまい、引き返してクーデタを起こし、王権を則って樹立したのが李氏朝鮮。
1392年、高麗、滅亡。李氏朝鮮の建国。李成桂は明に尻尾を振って、遼東・南満州を放棄、
鴨緑江までの確保で満足したせこい奴。こいつが政権欲に目がくらまず、自分の任務をきちんと
はたしていれば、太祖王建の夢であった高句麗/渤海国の旧領(満洲)を奪取できた可能性がある。